足利と新田 その2

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1日本@名無史さん
2日本@名無史さん:03/03/04 21:33
>>1
乙カレー
3日本@名無史さん:03/03/04 23:40
          ,. ‐‐ 、      
        ノ◎┐ヽ  ノヽ     
       ノ(・-・ヽ=ゝ_ソ   義貞退治に向かうぞ!!!    
     ,、ノ=/ ヽヽフヽヾヽ  
     ヽノヽヽ :::::::丿━ゞ)━━━━━=>    
  (⌒=/  /ゝ )ヽ=ヽミミミミミミ>>    
  )))|    /丿  ミミ`   . ノ
 ((( |    〈⊇      ,、(  |
  )) ヽ  丿---|   /  ヽ |
    丿 /く く  ヽ ノ ヽ  `-'    
    ヽヽ  ヽヽ  \\ \  
     ヽヽ  、ノ  ,、」 |,、」 |     
      、ノ    └-┘-┘  
4日本@名無史さん:03/03/05 02:42
誰か義貞の4子のこと教えれ
どっかのスレに「4男義宗の子孫」だとかいうヤツがいたから。
5日本@名無史さん:03/03/05 02:49
四男は貞方じゃなかった?と思ってちょっと調べたら義宗の息子だったね。
6日本@名無史さん:03/03/05 03:10
>>4
尊卑分脈では、義貞の子は義顕、義興、義宗の三人しかのってない。
新田由良氏の系図で、由良氏の先祖を義貞の四男貞氏とするものがあるが、
これはちと怪しい。
「三男義宗の子孫」の間違いじゃない?
7日本@名無史さん:03/03/05 03:15
嶋田義央のことと思われ
8 ◆TX.Dz2qTUo :03/03/05 07:51
ギスケの家系は杣山合戦で滅亡かな?
瓜生一族は朝倉に降ったけど。。
9日本@名無史さん:03/03/05 10:17
「色々な史料」といった曖昧なソース提示は避けること
10日本@名無史さん:03/03/05 11:43
ギスケって脇屋義助か。
義貞だけじゃなく義助も養子説あるんだよね。
11日本@名無史さん:03/03/05 13:22
漏れは義貞が里見から養子に入ったって説は面白いと思ってる。
南北朝の戦いでは、それまで疎遠だったはずなのに、結構里見一族が義貞のために働いているんで。
12日本@名無史さん:03/03/05 15:06
義貞も義助も尊卑分脈では母不詳とか言ってみる
13日本@名無史さん:03/03/05 16:04
>>6
4男義央の子孫だった。ごめんなさい。
福井あたりの豪族の娘とケコーンしたことになってない?
んで、そいつの言い分だと南北朝の騒乱後に義央は死んだけど
そいつの子孫は生き残ったって。ホントか?
14日本@名無史さん:03/03/05 17:05

動物学的な子孫が残っている可能性はいくらでもある

本人すら新田の後裔とは知らずに
15日本@名無史さん:03/03/05 22:12
>>13
それなら、越前で義貞が本陣を置いていた家の子孫かもしれない。
新田一門史という少しあやしげな本では、嶋田義英って名前になってる。
その家の娘と義貞の間に子ができて、その子が義英と名乗ってその家を継いだんだって。
16前スレの700:03/03/05 23:27
有名人の末裔なんてよくあるから、安易に信用しちゃいけないよ。
各地に「平家の落人」「安徳天皇の子孫」がいるけど、眉唾もいいとこ。

ただ、「女系」を無視してはいけない。
意外と婿養子で家が続いてる例は多いから。
17日本@名無史さん:03/03/05 23:43
明治時代、華族になりたい一心で自称「新田義貞の末裔」がわんさか名乗り出た。
18日本@名無史さん:03/03/06 01:32
>>16
前スレの700さん、あなたが書いてた稲村ケ崎突破が学術的に否定されたって話のソースはまだですか?
全然煽ってるつもりじゃないんだけどなぁ。無視しないで呉YO!!
19日本@名無史さん:03/03/06 02:46
>>18
某ニュース系歴史サイトで見つけたんだが、ちょいコピペ。

>新田義貞の鎌倉攻めにまつわる仏法寺(霊山寺)跡が発見された。
仏法寺跡が確認されたのは、鎌倉市坂ノ下の県有地。
地表から50〜60センチ掘り下げたところ南北約70メートル、
東西約30メートルの平場に、寺の掘立柱建物跡や池の跡、
墓域などが発掘された。
鎌倉幕府の滅亡につながる1333年の元弘の乱では、
義貞の浜伝いの徒渉伝説がある一方で、
義貞勢と幕府軍との間で防衛拠点だった同寺を巡るし烈な合戦が
展開されていたとの史料も残されている。
『太平記』では、義貞が稲村ケ崎から太刀を海中に投げ入れると
潮がひき、現れた干潟から鎌倉に攻め入ったとされている。
しかし、室町時代の歴史書『梅松論』や武士が功績を書き記した
軍忠状では、仏法寺をめぐる義貞勢と幕府軍のし烈な戦いを
繰り広げた結果、義貞が霊山崎一帯を支配下におさめたと
されている。

今では、霊山寺攻略説が有力となっている。
2019:03/03/06 02:58
平成13年3月3日付の神奈川新聞の記事らしい。

ttp://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/AB-ISEKI.htm# 元弘の乱 仏法寺
21前スレの700:03/03/06 17:18
>18
スマソ!
新聞にも載ってた(神奈川県の地域版)くらいの記事なので、
たぶん貴兄の居住地でも新聞に載ったと思う。
学術書の参考文献は横浜中央図書館できちんと調べてくるので、待たれたし。
2218:03/03/06 18:16
>>19
おお、ありがとうございます。700さんの言っていたのも、たぶんこれが元でしょうね。
興味深く読みますた

>>21
これはどうもご丁寧に。東京在住だけど、おれ新聞とってないんで全然知らんかったYO
何度もせかしてゴメソね
23日本@名無史さん:03/03/06 19:45
>>19-20
漏れも霊山寺の跡が発掘されたとは知らなかったよ。
記事の紹介ありがとう。

リンク先の記事で言及されているのは、たぶん和田文書の軍忠状だね。
軍忠状によると、鎌倉勢が霊山寺にたてこもって大手の稲村ヶ崎を弓で射るので
(「引籠敵霊山寺大門、射大手稲村崎」)、5月21日に新田蔵人七郎氏義を
大将として霊山寺を攻めたそうだ。
鎌倉の陥落は、この翌日の22日。

軍忠状には、稲村ヶ崎が大手であることが明記されているし、
リンク先の記事を見ると中世には海沿いに「稲村路」が通っていたという。
稲村ヶ崎の徒渉にこだわるわけではないが、
霊山寺を新田方が占拠して「稲村路」の通行が容易になり、そこで潮が引いたので、
鎌倉に一気に乱入できるようになったとも考えられるね。

軍忠状に出て来る新田蔵人七郎氏義は、たぶん綿打氏義。
大館宗氏の甥で、後に金ヶ崎で討ち死にしている。
24日本@名無史さん:03/03/06 23:37
まずはおれも>>19さんに感謝。
ただ、この記事を読む限りでは、これだけで稲村ヶ崎徒渉が無かったとまで言い切るのはどうかなと。
これまでの通説では、新田軍が霊山に攻撃を集中させて北条軍の目をそこにひきつけておく間に、
奇襲部隊が稲村ヶ崎を浜づたいに突破して敵の背後に出、そこから総攻撃、てな感じだったと思う。
この記事は、その霊山で激戦があったことを裏付けるものだとしても、通説を覆すほどのものとは思えないのだが。
もちろん一つの説としては面白いので今後の更なる研究に期待、ってところだろう。
25日本@名無史さん:03/03/06 23:55
新田次郎の小説もそうなっていたな。
稲村ヶ崎を回った別軍の動きで、
動揺した北条軍を義貞が追い落とした。
26日本@名無史さん:03/03/07 00:33
記事にあるように霊山が要塞化していたとすれば、尚更正面からの力攻めだけでは容易に落ちないだろう。
やはり稲村ヶ崎徒渉のような奇襲攻撃に類する動きがあったように思う。
27日本@名無史さん:03/03/07 02:12
>>23に書いた軍忠状では、霊山寺を攻めたことは書いてあるけど
「攻め落とした」とは書いてないんだよね。
軍忠状は手柄を書くものだから、もしも攻め落としていたら「攻め落とした」と書くはず。
書いてないということは、この攻撃では霊山寺は落とせなかったらしい。

梅松論では、鎌倉に攻め込む前に、新田勢が峰続きに陣取ったことが記されているが、
その一方で、稲村ヶ崎が干潟になったので、そこを通って侵入したとも記されている。
なんか、>>24の書いてる通説のほうが妥当に思えてきた。
28日本@名無史さん:03/03/07 02:54
>>27
文書を見てないので断言できないが、軍忠状で重要なのは申請した人物がどんな手柄を立てたかである。
申請人が独力で霊山寺を攻め落とさない限り「攻め落とした」とは明記しない。
29日本@名無史さん:03/03/07 03:52
霊山寺合戦があったからって、
稲村ヶ崎突破を否定できるものではないという考え方には同意。
ただ、霊山寺を陥落したからこそ、
稲村道や稲村ヶ崎突破が出来るようになったんじゃないかな。

>>23
>霊山寺を攻めたことは書いてあるけど
「攻め落とした」とは書いてないんだよね。

和田系図裏書の和田某申状のことを言ってるんだろうが、
「副進一通系図」とあって系図を提出してる所を見ると、
これは軍忠状ではなく、裁判に使用した申状じゃないか?
前後が欠損してるらしいので断定は出来ないが。

この文書の該当箇所には「捨身命戦之間、追落朝敵之条」
とあるので、霊山寺峰は陥落したんだと考えられない?
30日本@名無史さん:03/03/07 23:48
>>28-29
文書の様式をよく知らない上に、文書をろくに読まずに書いたので、
いいかげんなことを書いてしまったようです。
>>29のおっしゃるとおりで、「追落朝敵」と何度か書かれており、
21日の攻撃で霊山寺大門は陥落したようです。

文書を読み直してみると、この文書では「霊山寺大門」と「霊山寺峰」を
区別して書いてあり、霊山寺大門を落としたあと、そこからさらに霊山寺峰に
攻め上って夜戦をしたようです。

発掘で霊山寺のあった場所が確定できて、霊山寺をめぐる戦いの経緯が実地に
検証できるようになったのが、この発掘の大きな成果なんでしょうね。
31日本@名無史さん:03/03/07 23:58
32日本@名無史さん:03/03/08 00:08
要するに問題は、

・霊山を攻め落とすことを目的とした稲村ヶ崎突破(=奇襲攻撃)が、
霊山陥落よりも先であったかどうか

または

・霊山を陥落させたその後で稲村路の踏破(=総攻撃)があったのかどうか

ってことでよろしいですか?
33日本@名無史さん:03/03/08 00:34
>>32
その奇襲だが、霊山を攻め落とすためというより、浜伝いから一気に鎌倉中心部へと突入するためだった、
というのは考えられないかな?
で、突入に成功した新田軍が市街に火を放ち、それを見て動揺した霊山もまた陥落した、と。
これだとほとんど太平記と同じだが(W
34日本@名無史さん:03/03/09 22:15
梅松論によれば、義貞勢が稲村ヶ崎を突破して
前浜の民家を焼いたのは、5月18日。
大塚文書の大塚員成軍忠状にも、この日に大館宗氏勢について、
稲村ヶ崎の車逆茂木を打ち破って合戦をしたと書かれている。
この煙で慌てふためいた鎌倉勢が、必死で防戦して
浜の手の大将大館宗氏を討ち取っている。
この反省からか、鎌倉勢は稲村ヶ崎付近の防御を厚くしている。
石井進先生によれば、22日未明は大潮で、
とても徒歩で突破が出来るような状況ではなかったらしい。
35日本@名無史さん:03/03/09 23:18
大潮は潮の干満の差が最大になる日で、干潮時は他の日よりも大きく潮が引くみたいだよ。
http://www.asahi-net.or.jp/~qk3m-knk/tyoui.htm

上のページによると大潮の時は朝・夕が満潮となるそうなので、
それから6時間程度ずれた深夜と昼間に干潮があるはず。

新田氏義たちが21日の深夜に霊山寺峰で夜戦をしていたなら、
その最中に引き潮になったはずだ。
36日本@名無史さん:03/03/10 01:25
大潮で思い出すのは、やっぱタマちゃんだな。
新田軍が突入する前後に、タマちゃんが鎌倉近海に出没していた可能性も否定できん。
義貞は竜神ではなく実はタマちゃんに祈ってから稲村ヶ崎を渡ったという説もあるほどだ。
37日本@名無史さん:03/03/10 02:53
>>35
その夜が大潮だと知ったうえで、あの龍神に祈るパフォーマンスをやったんだとすれば、新田義貞も相当な役者だな。
実際、大将が祈った後で目の前でみるみる潮が引いていくのを見たとしたら、兵士は勇気百倍したと思う。
神の加護があると思い込ませることが出来ればその軍隊は強い。
逆にいうと、引き潮になったとしても鎌倉勢の警戒は厳重で、突破するには決死の覚悟が必要だったのだともとれる。
38日本@名無史さん:03/03/10 03:51
>その夜が大潮だと知ったうえで、あの龍神に祈るパフォーマンスをやったんだとすれば、

かなり以前からそう言われてるように思いますが
モーセも含めて世界中の同類の話はみんな
39日本@名無史さん:03/03/10 18:53
何故、稲村ヶ崎徒歩を既成事実にしたがるのだ?
太平記にしか書かれていないというのに。
40日本@名無史さん:03/03/10 20:04
>>39
>何故、稲村ヶ崎徒歩を既成事実にしたがるのだ?

思い込み厨だから。伊達遠江守家中が>>35-38に紛れ込んでいると思われ。
41日本@名無史さん:03/03/10 23:44
>>39
氏ぬまでに、いちど梅松論を見れ。
4239:03/03/11 00:01
>>41
読んでるが。
つか、梅松論は稲村ヶ崎に干潟が出来て
新田勢が一気に攻め込んだなどとは何処にも書いていない。
43日本@名無史さん:03/03/11 00:43
>>39,>>40
稲村ケ崎から突入した可能性もあるってことをいってるだけじゃん。
伝説かもしれないし本当かもしれない。
わからない以上、可能性について考えることがなんで既成事実にしたがるってことになるのだ?
44日本@名無史さん:03/03/11 00:47
太平記に書いてあるんだから出鱈目に決まってるよね。
霊山が落ちても、稲村道なんか通らずに山越えしたに違いない。
45日本@名無史さん:03/03/11 12:32
>44
霊山が落ちた後だったら、全軍がわざわざ山越えする必要はどこにも無いよ
通行可能となった全ての通路から総攻撃をかけるのが常識
稲村道だって通ったろうし干潟となっていたなら浜辺も通ったと考えるほうがずっと自然
46日本@名無史さん:03/03/11 15:09
>>44
>太平記に書いてあるんだから出鱈目に決まってるよね。

おいおい、釣りか?
伝説であれ物語であれ、幾ばくかの真実を含んでいることは多い。
まずそれが事実かどうかの検証をすべきだろ。
他の文書や文献をあたるとか現場を発掘して調査するとか、状況から推理することも重要だ。
それらを一切しないで
>出鱈目に決まってるよね。
などと安直な決めつけかますようでは頭の程度を疑われても仕方ないぞ。
47日本@名無史さん:03/03/11 15:50
>>46

マジレスの必要もないと思うけどなあ。(w
48日本@名無史さん:03/03/11 19:25
‥‥そ、そうなのか?(´・ω・`)ショボーン
49日本@名無史さん:03/03/11 20:56
この頃2ちゃんにはやるもの 煽り 逆ギレ 贋ソース
ネカマ ブラクラ カラ騒動 マジレス 低俗 アクセス禁止 
にわか歴史家 まよいもの ショボーン sage進行 カラ威張り 
スレタイ離るる新田厨 ツッコミ入れたる小心者 
追従 反論 前立腺
下克上する中卒厨房 新スレ立てるも沙汰もなく
レスする人なきpart2 きつけぬスキン上の衣.... 
50日本@名無史さん:03/03/11 21:06
>>37
霊山寺の位置にもよると思うが、霊山寺にあった防御施設が新田方の手に渡った時点で、
稲村道の守備勢に横矢を射かけられるようになったかもしれない。
浮き足だったところで新田勢が浜辺から総攻撃をしかけたら、守備勢は総崩れになりそうだ。
51日本@名無史さん:03/03/12 00:18
ところで、皆が言ってる「稲村道」ってどこの道を指しているんだ。
今の134のことをいってるんだとしたら、あの道っていつごろ今の状態になったんだ?
そういうことはきちんと踏まえてるもんなの? > ALL
52日本@名無史さん:03/03/12 15:54
>51
まず>>20の記事を嫁
53日本@名無史さん:03/03/13 01:56
梅松論(群書類従本)
同十八日より廿二日に到るまで。山内小袋坂極楽寺の切通以下鎌倉中の口々。合戦のときのこゑ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。
さしも人の敬なつき富貴栄花なりし事。おそらくは上代にも有がたくみえしかども。楽つきて悲来る習ひ遁がたくして。相模守高時禅門。元弘三年五月廿二日葛西谷において自害しける事悲むべくも余あり。一類も同数百人自害するこそあはれなれ。
爰にふしぎなりしは。稲村崎の浪打際。石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に。俄に鹽干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。
54日本@名無史さん:03/03/13 01:57
梅松論(京大本)
十八日ヨリ廿二日ニ至マデ、山内小袋坂、彩色坂、極楽寺切通シ已下、鎌倉口々ノ合戦、片時モトキノ声矢サケビノコエ絶ル間モナシ。
可哀々々。サシモ草木ヲナビカシケル高時禅門ノ一類、元弘三月(ママ)五月廿二日ニ、葛西谷ニ於テ数百人自害ス。
爰ニ不思議ナリシ事ハ、稲村ガ崎ノ浪打際ハ、石高ク道ホソクシテ、人馬ノ進退難儀ノ所ニ、俄ニ鹽干テ合戦ノ間、併馬場ニナリキ。
55日本@名無史さん:03/03/13 01:57
梅松論の京大本は群書類従本などの流布本とは異なるところが多く、古態を残していると考えられている。
この伝本では、稲村ヶ崎の潮が引いて合戦のあいだ馬場になったと言っている。
これは、浜を通って騎馬で鎌倉に突入できるようになったことを言っているのだと思う。
霊山が落ちた翌日にはもう鎌倉が陥落しているが、このように一気に鎌倉が落ちたのは、
馬を乗り入れることができなければあり得なかったはず。
霊山越えだけでは、鎌倉に馬を乗り入れることはできない。
稲村崎の徒渉・・・というか、騎馬による突入はあったと思うよ。
56日本@名無史さん:03/03/13 15:18
>>31の地図なんかみると、鎌倉は地形的に斜面が多く道も極端に狭いことから>>55さんの言う通り、山越えだけでは大軍の移動は困難で容易に陥落しないと思われる
だけど、もし浜伝いに軍勢が移動できたなら平坦な道をほぼ一直線に若宮大路まで到達できることがわかる
「馬場」という表記もある以上、こちらから相当数の騎馬軍団が鎌倉市街へ一斉突入したと考えるのは理に叶っていると思う
5751:03/03/13 16:46
>>52

2年前に読んだ記事また読まないといけないの???
それから仏法寺の跡の山の上まで行ってきたけど何か??
ハア??
58日本@名無史さん:03/03/13 18:14
>>51
稲村道ってのは江戸時代の2度の地震で埋没して原形をとどめていない、とその記事にあるんですが何か?
134ってのは昭和8年に開通したもので鎌倉時代には存在しない道路ですが何か?
59日本@名無史さん:03/03/13 19:30
>>54
梅松論の京大本って、どこかで翻刻されてるの?
一回読んでみたいんだが。
60日本@名無史さん:03/03/13 22:40
稲村ヶ崎の逸話が太平記に書いてあるということはだ。
南北朝時代、少なくとも伝説として存在していたということだろう?
事実かどうかはともかく、人々がそう信じた真実じゃよ。
61日本@名無史さん:03/03/14 00:13
>梅松論は稲村ヶ崎に干潟が出来て新田勢が一気に攻め込んだなどとは何処にも書いていない。

>>42(=>>39)さんは本当に梅松論を読まれたのでしょうか?
それとも、稲村ヶ崎の逸話を無かったことにしたいあまりに(W
>>53->>54にあるような記述を見落とされたのでしょうか?
62日本@名無史さん:03/03/14 04:31
故意なのか無意識なのかはともかく、ある種の願望が強すぎると、史料を曲解することはある罠。
従軍慰安婦研究者の吉見教授なんてその典型。
63日本@名無史さん:03/03/14 07:16
>>59
昭和39年に、京都大学文学部国語学国文学研究室編、
京都大学文学会発行で出てる。
64日本@名無史さん:03/03/14 10:21
>>58
だから、そういう大幅な地形変化を踏まえて、皆さん話してるの??
っていう疑問を述べただけなんだが?
65日本@名無史さん:03/03/14 19:59
>>64
当時の地形をカンペキに知っているわけではないので、現在の地形を参考にあくまで想像でものを言っているのは確か。
貴兄が当時の地形に詳しいなら、何かおかしなレスがあった場合、具体的に指摘してくれれば有難い。
66日本@名無史さん:03/03/14 20:08
>>63
スマソ。
昭和39年か。
まだ入手できるかな。
古本屋当たってみるか…。
67日本@名無史さん:03/03/14 20:12
>>64
仏法寺(霊山寺)跡に行って来たそうだけど、どのあたりなの?
>>31の地図で、「伝上杉憲方墓」という文字の右側にピークがあるけど、あのあたり?
68日本@名無史さん:03/03/15 00:25
>>38
龍神に祈るパフォーマンスは、モーゼまで溯らなくとも、
九州に落ちる途中で足利直義もやってるんだよね。梅松論によれば。
中世にはありがちな行動だったんだろう。

此度は播磨の灘にて順風なければ。渡海せぬ大事の渡なり。
若此風なくば御浮沈たるべき所に。併仏神の御加護とて
下御所舎利御剣を渡海の間にて龍神に手向て海底にしづめらる。
69日本@名無史さん:03/03/15 02:36
ttp://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b34589487

何これ。
ホンモノ?
確かに足利直義の花押と署名に違いないんだが。
70日本@名無史さん:03/03/15 20:40
千寿王がいるだけで二十数万の軍勢が参集するってのが凄い!
討幕軍・幕府軍併せて五十万以上の軍勢が関東にいたってのも凄い!
古くは頼朝の挙兵にも甲斐源氏や上総広常が二万の軍勢を率い
一般的にいわれる江戸時代の軍役なら80万石の大大名だもんなぁ
甲斐や信濃で80万石かぁ 上総や下総で80万石かぁ
五十万の軍勢なら二千万石かぁ 上洛してた軍勢も加えたら・・・
当時の日本は何千万石あったんだ?w
71日本@名無史さん:03/03/17 14:33
確かにこの時代の軍記ものの誇張ぶりにはまいるよな。
とはいえ鎌倉時代は兵農分離がまだなので、江戸時代の軍役をそのまま当てはめるのもどうかと。
農閑期でさえあれば、相当な動員力も可能だった気もする。
誰か中世期の適正な軍勢動員力を研究した人っていないの?
72日本@名無史さん:03/03/17 15:29
>>70>>71

いまでも組合とかの大会では誇張があるよw
主催者側発表5万人、警視庁発表3000人とかw
73日本@名無史さん:03/03/17 23:14
兵農未分離どころか足軽兵のいない時代>源平・南北朝
鉄砲・長鑓などの軍備もない
この場合、戦国以降に比べて兵数は増えるのか減るのか、どっち?
74日本@名無史さん:03/03/18 05:57
>>73
足軽って名称ではないけど、いわゆる歩兵はいたでしょ。馬回りだっけ?
まぁ大して戦力にはならなかったんだろうけどね。
だからこそあの時代の軍勢表記は「何万騎」といった具合に必ず騎がつくわけで。

75日本@名無史さん:03/03/20 18:47
>>72
東京ドームとか国技館とか・・・
76日本@名無史さん:03/03/22 21:00
>72
反戦デモも主催者発表5万に警視庁発表1万
>74
>必ず騎がつく
上総も武田も2万『騎』ですよ
中世初期の足軽は徒歩(カチ)だっけ。で、=半農兵?
77日本@名無史さん:03/03/26 20:45
吾妻鏡にも出てくる新田義重の上野国寺尾館って、
新田荘説と高崎説があるけど、
一体どっちなんだろう?
78日本@名無史さん:03/03/27 17:24
ファミリーチャンネルでまんが日本史を放送してるのだけど、昨日は鎌倉幕府の崩壊だった。
「有力御家人の新田義貞」とナレーターのお姉さんが言ってたよ・・・
今朝の朝刊みたら、週刊新潮の広告に「フセインは足利尊氏の再来!」って書いてあったよ・・・
79日本@名無史さん:03/03/28 03:02
>>77
寺尾城跡とされているものは、今のJR高崎駅から西南約3キロという地点にある。
中山道を扼す要衝ということで、本拠の新田ではなく、寺尾にたて籠っていたんだろう。

80日本@名無史さん:03/03/28 14:05
東山道だろ?
81あぼーん:あぼーん
あぼーん
82日本@名無史さん:03/03/30 22:09
>>77
漏れが以前働いていた職場のそばでした。
嫌なことばっかりの職場だったけど、興味ある史跡のそばにいられて
ちょっと幸せでした。
83日本@名無史さん:03/03/31 17:43
>>79
新田の地元では、かなり強固に寺尾館=新田荘だと信じてるよ。
その寺尾館跡に、新田義重の菩提寺である
旧大光院があったんだとさ。
今の大光院は徳川家の再建だが。

近年高崎説の方が受け入れられつつあるから、
必死になってるのかもな。
84日本@名無史さん:03/04/02 02:19
>>83
必死とか信じているなんて大袈裟なものじゃなく、単なる勘違いだろ?
寺尾(現永福寺)にも大光院にも義重の墓があったりとか、寺尾も城なら大光院も金山城の近くだったりとか、まぎらわしいのは確かだよ。


85日本@名無史さん:03/04/02 20:49
>>84
勘違いじゃないよ。
新田の寺尾館跡といわれる場所は、
寺井と呼ばれている所で、
寺尾=寺井というわけ。

ただ、幾らなんでも吾妻鏡を写本する段階で
寺尾を寺井と書き間違えないだろう、
というのが新田町史などの見解。
86日本@名無史さん:03/04/07 02:44
>>
義重は母方からの伝領で新田庄以外にも所領を持ってたんじゃないのかな?
八幡とか里見とかはその一部じゃないの?
寺尾もまたしかりで…。
87日本@名無史さん:03/04/08 18:46
>>85
てことは、新田町誌(および新田町の教育委員会)は寺尾=寺井ではないという見解なのに、
新田町民は寺尾館=寺井、と強引に思い込んでいるってこと?
88日本@名無史さん:03/04/08 22:32
町誌、郡誌なんての知ってるのは単なる歴ヲタよりコアな郷土史ヲタ。
多くは町の観光ガイドの歴史。
新田庄がらみは徳川=新田の方が必死。
「徳川発祥の地」はそれなりの観光資源だから。
ちなみに大河やったときの「太平記の里」はすぐに廃れた。
89日本@名無史さん:03/04/10 11:15
>>88
徳川家康が再建した大光院を
新田義重の菩提寺としたから、
新田荘にいなくては具合が悪い、
というのもあるかもね。
ただの我田引水のような気もするけどね。
90日本@名無史さん:03/04/16 03:58
初歩的な質問ですまぬが、そもそも新田荘ってどのあたりまでを指すのだ?
里見や山名は新田荘とは言わんのか?
91あぼーん:あぼーん
あぼーん
92日本@名無史さん:03/04/16 05:02
今日は金閣寺が完成した日
93日本@名無史さん:03/04/17 21:28
age
94山崎渉:03/04/20 02:04
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
95日本@名無史さん:03/04/22 00:23
>>90
ほぼ上野新田郡全域
現在の太田市・新田郡全域+桐生市・深谷市の一部
96日本@名無史さん:03/04/22 01:47
その2になってから盛り上がりに欠けるな
97日本@名無史さん:03/04/22 10:50
98日本@名無史さん:03/04/26 18:34
関東公方age
99日本@名無史さん:03/04/26 22:43
>>95
江戸時代の石高制に換算するとどのくらいに相当するのかな?1万石くらい?
100日本@名無史さん:03/04/27 18:22
公方様に代わって100
101日本@名無史さん:03/04/28 00:40
10〜15万石くらいでないのかな?
しかし、中世の日本は畠作中心の耕地だったのが事実。
利根川支流を利用した灌漑水利もあったが、
荘域の大部分は笠懸野(大間々扇状地)と呼ばれる
稲作不適地帯が占めるのが事実。
笠懸野の田地開発は中世後期以後だったので、
それ以前の土地利用としては、
当然畠作だったと思われる。
102日本@名無史さん:03/04/28 04:43
>>101
なるほど、単に土地の広さだけでは豊かさはわからんものだね。
ただ、義貞の代には太平記で「新田荘には有徳の分限者(つまり豪農ってことか?)が多い」といったようなことが書かれているから、地道な開墾が効を奏し、それなりに裕福な水田地帯になっていたのかも。
一方の足利荘はどうだったのだろう?
広さとか収穫高とか、やっぱり新田荘より優っていたのかな?
103あぼーん:あぼーん
あぼーん
104あぼーん:あぼーん
あぼーん
105日本@名無史さん:03/04/29 00:19
とあるサイトによると、平安時代のどの時期かはわからないけど、上野全体で154,685石
新田に扶植したのは火山で荒廃してた後だから、この数字より低い、さらに数分の一が新田庄
で、半分農民に持ってかれて、さらに国衙と領家(だっけ?)に持ってかれんのかな?
106石橋尾張守:03/04/30 19:01
本日尊氏公の御命日。合掌。
107日本@名無史さん:03/05/02 20:40
>>102
浅間山の噴火によって上野を中心に関東一帯が荒廃した後に、
源義国・義重親子が入植した。
足利荘は藤姓足利氏によって開発された先進地域だが、
荘域も狭く、足利氏自体の所領も少なかった。

有徳者は世良田にいたらしい。

>>105
国衙は関係ないよ。荘園だもの。
鎌倉末期は得宗家の所領だったんだけど…。
108日本@名無史さん:03/05/02 23:27
>>107
>足利荘は藤姓足利氏によって開発された先進地域だが、
>荘域も狭く、足利氏自体の所領も少なかった。

ハァ???
ソースは??
109日本@名無史さん:03/05/08 00:29
110大館佐子:03/05/08 02:35
>>109
おお、左様であった。本日は義貞公が討幕の旗揚げをなされた日じゃ。
お昼の、みのもんための番組で取り上げるであろうのう>「今日は何の日」
111日本@名無史さん:03/05/08 20:25
足利千寿王の世良田での挙兵ってあったんかね?
112日本@名無史さん:03/05/13 04:34
>>111
千寿王なんて鎌倉を脱出できずに頃されてりゃよかったと思うよ。
たまたま無事に逃げ出せた幼児が、軍勢の一番後ろの方で保護されてたってだけで、後からそれをたてに新田の功績を奪いとるとはあまりに理不尽。
他にも足利は手口があざとくてマジで好きになれん。
戦前の皇国史観じゃなくたって、これじゃ人気が無かったのも頷ける。
まぁ、おれが足利で好きなのは義輝くらい。
あとのやつは歴代、英雄らしい爽快さゼロ。陰湿で狡猾でそのくせヘタレばっか。
113日本@名無史さん:03/05/13 19:33
>>112
君は馬鹿ですか?
千寿王がいたからこそ集まった軍勢はかなりいたはず。
それは古文書でも確認されているし、
太平記に登場する三浦太田和義勝は
高一族から三浦に養子に行った人物で、
足利氏の息がかかっていた人物。
新田氏でさえ足利一族と見られてたくらいだから、
新田義貞の功績が大きかったとはいえ、
足利の影響は幾らでも見て取れる。

まぁ、新田義貞は愚直な(悪口ではなく)
鎌倉武士の典型であったとは思うが。
114日本@名無史さん:03/05/14 01:47
>>113
それは、あなたの思い込みです。
115日本@名無史さん:03/05/14 01:48
>>113
おれも千寿王がいたからこそ鎌倉攻めにはあれだけの軍勢が集まったと思ってた口だけど、
足利マンセ〜であるはずの梅松論を読んでから考えが変わったな。
何せそんなこと一言だって書いてないんだから。
書いてあるのは、新田義貞が勅命を受けて一族を率いて挙兵した、
これに次々軍勢が加わって、ついには鎌倉を陥落させたってな内容。
その間、各合戦の主語はほとんどが「義貞」もしくは新田の一族になってる。
三浦義勝なんてのは名前さえ出てこない。
千寿王の名まえが初めて登場するのは鎌倉が陥落した後のはなしで、
それも「鎌倉を落とした戦功は、まぎれもなく義貞であるのに、どういう
わけか、諸将は義貞ではなく次々に千寿王のもとに集まってきた。
これこそ未来の将軍ともなる瑞相である」とかいうちょっとデンパな内容。
千寿王が実は鎌倉攻めの総大将で、実際に兵隊を集める役に立っていたなら、
こんな書き方になるはずないし、むしろそのことを大袈裟にして書くはずだと思うのだが
全く書いていないんだな。これって一体‥‥???
で、かわりに痛感したのは、この時代の綸旨とか令旨、院宣とか
いうものの効力の凄さ。これは今の時代からは想像を絶している。
伯耆の名和なんて、後醍醐帝が島を脱出して頼ってきたというだけで、
屋形を焼き払って船上山に籠ったりしている。
今の価値観だったら、せっかく裕福に暮らしているところに厄介ものが
逃げ込んできて、迷惑な話だ、とかなるはずだろ。
最近は、勅命に対する評価が低すぎると思うよ。
なんてこと書くと、ここではウヨとか言われるのかもしれんけどね。
116日本@名無史さん:03/05/14 01:57
守護クラスの武士が新田の指揮下に入ったのは尊氏と彼らの間である程度話が付いていたからだと思う。
117日本@名無史さん:03/05/14 02:59
>>116
それは、あなたの思い込みです。
118日本@名無史さん:03/05/14 03:45
我が家は足利義弁の子孫です。
119日本@名無史さん:03/05/14 18:24
>>118
上野義弁の家系は捏造が多いよ。
120日本@名無史さん:03/05/14 20:06
>>114>>117
それもあなたの思い込みです。
121日本@名無史さん:03/05/14 22:18
>>120
それはあなたの思い込みです。
122日本@名無史さん:03/05/14 22:37
義貞そのものの兵力は少なくても越後新田、武蔵北部新田や
その関系が合流してそれなりの兵力になったから付いた勢力も多い
と思うが。
123日本@名無史さん:03/05/14 22:40
115は無視かい
124日本@名無史さん:03/05/15 01:26
>>113
鎌倉陥落前の足利氏にそんなに影響力があったかなぁ?
そりゃ御家人の間ではNo.1の力はあったのかもしれんけど、
北条氏にくらべれば全然大したことないわけでしょ。
ましてや4才の幼児が大将ときいて、ゾロゾロ参加者が現れるかどうかも疑問。
もう1つ、千葉氏とか結城氏など、かなり大きな豪族が鎌倉攻めの後も新田氏についているんだよね。
こういう点も、千寿王の存在を過大評価できない理由。
もしかすると、>>115も言うように、勅命の威力こそが実は一番大きかったのでは?
125日本@名無史さん:03/05/15 02:08
承久の乱では殆ど勅命は効かなかったよ。まして、分裂状態の朝廷は西国まで支配し、絶頂期の北条氏と比べようが無いほど無力。
考えてみると北条氏は全盛期にポキッと滅びたんだね。
126日本@名無史さん:03/05/15 02:27
やはりみな土地がほしかったんぢゃよ
平氏と北条氏はそこの部分がうまくいかなかったようだ
平家は権威、権力を追い求めすぎですな・・
北条氏は途中までうまくやっていたようだが黒船が・・・
幕末の島津家と全国的に同様の状況となっていて特に関東ではさらにその傾向がつよかったようぢゃの。
次男坊と三男坊の土地もくれよと・・・
そしてそこを衝かれた・・・西国も北条の権勢がかなり及んでいるとはいえ寺家や荘園、悪党も大分勢力をのばしておったからの・・・
127日本@名無史さん:03/05/15 02:29
黒船は例え>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>モンゴルマンのことだよ
128日本@名無史さん:03/05/19 01:16
>>125
確かに承久の乱では勅命は効かなかったが、北条氏も鎌倉武士も相当動揺していたよ。
北条義時までが、もし天子様自ら前線に立ってこちらに向って来たなら旗を巻いて降参しろ、と指示していたくらい。
勅命が全てと言うつもりは全然無いけど、当時の日本人の精神に与える力というのは現代人の想像を遥かに超えたものがあったでしょ。
少なくとも足利の幼児など比較にならんくらいの影響力はあったと思う。
ちなみに、その足利氏の身内が書いたとされる梅松論でさえ、北条氏を倒したのはひとえに護良親王の武略による、という記述があるくらいで、
これは親王の令旨の威力が実は相当なものであったという証明ではないかな。

129日本@名無史さん:03/05/19 04:49
>>128
そりゃ当然大きいだろ>勅命の威力
だからこそ尊氏は対抗上、北朝の天皇を立てたわけで。
130日本@名無史さん:03/05/19 23:36
>>124
大切なのは土地の安堵。
とすると、新田に安堵されても不安だから、足利を立てたのかも。
131日本@名無史さん:03/05/20 01:48
>>130
それこそ後世の足利氏の存在の大きさから来る思い込み。
あの当時、足利氏にすでにそこまで巨大な権威があったくらいなら、新田氏も千葉氏も結城氏も含めて武家はみんな足利に従って、さしたる混乱にもなってない筈。
曲がりなりにも日本一国が60年間も分裂して争っていたわけなんだから、そんな単純なもんじゃないと思う。
俺は、武家にとっての足利氏は、かつての頼朝以上に単なる神輿に過ぎなかったんでは?って気がしているよ。
132日本@名無史さん:03/05/20 02:36
確かに鎌倉末期に於ける足利氏は、
せいぜい守護級御家人の代表でしかなかったと思う
(それでも北条に継ぐ地位ではあったと思うが)。

ところが、最近の研究で、
足利高氏は大塔宮護良親王などとは違い、
「後醍醐天皇の意思のもと」
恩賞の仲介者として、
元弘の乱の戦功認定などの戦後処理を行っていたことが分かった。
これは後醍醐の実務の代行とも言うべきもので、
新田義貞など比較にならないほど、
足利高氏の権限が大きかったことを示している。
また、この恩賞の仲介を通じて守護クラスの武士とも
関係を密にしている。
事実上後醍醐は建武政権期には
尊氏を軍事責任者と認めていたらしい。
また、鎮守府将軍への補任・参議となったことは、
決して建武政権から尊氏が排除されていなかった
ことも意味する。

つまり、足利氏は元弘の乱における政治的処理
(鎌倉陥落後に細川氏を派遣して
−もっとも派遣そのものは陥落以前だったようだが−
、新田義貞を鎌倉から追い出して、
鎌倉を足利氏の根拠地としたことなど)
に成功し、建武政権期にその地位を飛躍させ、
この時期に武士たちの信頼を勝ち得たことが、
足利氏を単なる守護クラスの武士ではなく、
征夷大将軍になれるほどの地位をもたらしたんじゃないかな。
133山崎渉:03/05/22 02:57
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
134日本@名無史さん:03/05/23 02:32
保守
135日本@名無史さん:03/05/26 18:12
>>132
>ところが、最近の研究で、足利高氏は「後醍醐天皇の意思のもと」
恩賞の仲介者として元弘の乱の戦功認定などの戦後処理を行っていたことが分かった。

具体的なソースきぼんぬ。
まあ確かに、後醍醐としては北条政権を打倒したことにより、少なくとも文保以来の両統迭立を取り止めて、自分の血統のみが正当な皇位継承権を保有できるという、初期の、そして最低限の目的は達したといえるわけだね。
だとすれば、理想はともかくとして、現実に則した政策をとるなら、まずは武家の最大実力者である足利氏に武士団を統率させ、公武和合して政治を進めていく道を選ぶほうが、当面はうまくいくという風に最初は考えたのだとしても、何も不思議はない。
ところが、北条を倒したことで自信を持ち、尖鋭化した一部の公卿や護良親王のような急進論者の突き上げとともに、後醍醐自身が、もしかしたらうまくいくかもと錯覚。
その結果、平安以来の朝廷の旧弊である、源氏と平家を相互に競わせたような「毒を以て毒を制す」的な危険な手段に出てしまった。
つまり、護良(ついで新田)と足利とを対立させ、相互の対立によって生じる利益を朝廷が得ようという目論みだが、これは対立をうまく制御できるだけの実力(武力、政治力、経済力など全て)が無ければそもそも不可能。
その実力が自分らにはある、と後醍醐が思い込んでしまったことが、結果としてかえって世を混乱させてしまった、といえるのではないかな。
136日本@名無史さん:03/05/27 05:40
足利尊氏は北条幕府で実務官僚であった者をかなりの数召し抱えているよね(二階堂某とか)。
建武政府が恩賞問題で失敗したのは、そういった有能な事務能力者に人を欠いていたというのもあったんじゃないかな。
対照的に、足利は流れるように文書を決裁していくことが出来たので、ますます武士の間で評判が上がる。
後醍醐天皇には、北条憎しのあまり旧幕府の人材を生かすという視野に欠けていた気がする。
中先代の乱が起こると、折角帰順していた元北条の武士たちまで斬罪に処してしまったり。
後醍醐って人は、確かにカリスマ性は凄かったんだろうけど、現実を冷静に分析したり認識したりする以上に、
そういう自分に陶酔しやすい人だったんじゃないかと思う。
137日本@名無史さん:03/05/27 17:05
>>135
ソ−スは史学雑誌第111編7号に掲載された、
「建武政権における足利尊氏の立場−
元弘の乱での動向と戦後処理を中心として−」
(吉原弘道)。
この論文は、光明寺残編をもとに
足利が鎌倉幕府からの寝返り以前から
後醍醐と連絡を取っていた、
と論じているなど非常に面白い。

138135:03/05/27 22:01
>>137
ソースありがとうございます。ぜひ読んでみたいです。

>足利が鎌倉幕府からの寝返り以前から後醍醐と連絡を取っていた

確か足利庄は八条女院領に寄進された荘園だけど、その権利は後醍醐天皇が引き継いでいるんだよね。
つまり、立場からいえば足利は後醍醐に任命されてその領地を監督する役人ってことに、形の上ではなる。
そうした関係から、何らかの繋がりが倒幕前から既に出来ていたとしても不思議ではないのかも。
139日本@名無史さん:03/05/28 01:31
ここでも足利についての話題がチラホラ出てきてます↓

源氏と平家について語ろう
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1042231993/401-500

足利尊氏の異母兄高義についての話題がなかなか面白い。
140山崎渉:03/05/28 10:42
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
141日本@名無史さん:03/05/28 11:17
足利高義で検索したらデムパを発見しました
ttp://windbird.hp.infoseek.co.jp/tadayosi/uramenu.htm
142日本@名無史さん:03/05/28 13:12
山崎くん、勘弁してよ。一番下の方にあったよ。落ちちゃうじゃん。もう!
143日本@名無史さん:03/05/28 19:26
>>141
何なんだろ‥‥こんなこと、やっていて楽しいのだろうか?
144日本@名無史さん:03/05/28 22:16
>141
笑  っ  て  い  い  で  す  か  ?
145日本@名無史さん:03/05/28 22:54
>>141

北条仲時に妄想を抱いた801のサイトは確かに以前も見たことある。
でもここまでキビシイのは初めてです。
146日本@名無史さん:03/05/29 17:24
>>141
何じゃこりゃあ!?‥‥脱力w
新撰組ヲタにこの手の輩が多いのは知っていたが、なぜに直義?
BBSにもワラタ。大河ドラマの時代考証がどうたらこうたら、あれはおかしいとかって文句つけてたり。
そんなこと言うなら、あんたらのあの変なイラストはなんなんだよって小一時間(ry
147日本@名無史さん:03/05/29 22:23
>>141は功一等なり。
148日本@名無史さん:03/05/31 14:20
149日本@名無史さん:03/06/01 00:43
148に驚愕・・・・・・。
歴史同人女って、801にするためなら
実際オヤジだとか、そういうことすべて脳内あぼーんできるんだな。
こわくてリンクページ以外見られん。
150日本@名無史さん:03/06/01 03:23
>>148
真田広之と高島政伸と読み替えてしまう俺
151日本@名無史さん:03/06/01 06:04
>149
801って何?893(ヤクザ)なら知ってるけど。
152日本@名無史さん:03/06/01 10:05
>>141以降、次々と暴かれていく足利の闇。
これはもう新田の勝ちか?
153日本@名無史さん:03/06/01 12:37
154日本@名無史さん:03/06/01 22:02
>>153

>まともな絵も描けるんだよ、と言いたかったんですが

いつも描いてる絵がまともじゃないという自覚はあるワケだ。
155日本@名無史さん:03/06/01 22:07
源義国の系統では、足利が嫡流、新田は庶流。
156日本@名無史さん:03/06/01 22:17
>151 21歳以上ならピンク板見てみ。
157日本@名無史さん:03/06/01 23:12
158日本@名無史さん:03/06/02 00:53
義貞は直球勝負の田舎高校投手。尊氏は変化球もマスターした野球名門校投手。
159日本@名無史さん:03/06/02 18:26
>>158
もし尊氏がピッチャーだったら、のっている時はいいが、いざピンチになると押し出し続出。ノミの心臓。
キャッチャー直義(もしくは師直)でやっと人並み。
時には大事な試合の前に失踪事件起こしたり、ひきこもったり。
それでもバックがいいので甲子園出場は果たすが、優勝候補筆頭の重圧に負けて2回戦で敗退。
一方、義貞の方は弱小校でも一人で甲子園に導ける豪速球投手。エースで4番。
キャッチャーはとりあえず真直ぐを突き指せず捕れれば誰でもよし。ピンチになればなるほど燃える炎の豪腕投手。
でも、バック(公卿)に足ひっぱられたり、監督(後醍醐)の無茶苦茶な作戦とかで、ベスト8くらいであえなく敗退。
‥‥こんな感じかな?
160日本@名無史さん:03/06/02 18:38
>>148
>>153
うおおおおお!!!禿しくワラタ
ここまで来ると、ある意味才能かもしれない。絶対に読みたくはないが。
161日本@名無史さん:03/06/02 19:02
>>157

「検索用」があからさま過ぎてちょっとヤだな。
162日本@名無史さん:03/06/02 19:24
>>152
新田の闇もハケーン!!(・∀・)

459 :日本@名無史さん :03/05/29 22:00
やはり新田涼子だ。
美人として人気があったレースクイーンなのには脱糞シーンを頭殺されてその映像を
MXでながされ何万の男にで目撃される。
彼氏にも見られて脱糞女となんか付き合うことができるかと振られる
これ以上悲惨な女もいないだろう。
http://homepage2.nifty.com/monnsuke/nitta%20ryoko.htm
163日本@名無史さん:03/06/02 21:10
全国の足利さん・・・801
全国の新田さん・・・スカ
164日本@名無史さん:03/06/03 01:02
801ヲタのせいで、一気に糞スレ化してしまったな。
165日本@名無史さん:03/06/03 02:21
しかし例の伝頼朝像、伝重盛像が足利兄弟のものならば、
一応やおい的妄想も可能なように思うけどなあ。

漏れ的には高師夏とかやおいネタにちょうどいいと思っていたのだが(w
166日本@名無史さん:03/06/03 17:42
>>157
この漫画、読んだことある。直義の狡賢こそうな顔といったら、801野郎(女郎?)の妄想とは雲泥の違いだったようなw
ああいう人って、何を元に妄想に走るんだろう?
誰かも書いていたように、新撰組ならまだ理解できるんだが(るろうに剣心とか牧瀬りほの映画とか?)
167日本@名無史さん:03/06/04 16:48
>165 それでも十分キモいっつーの。
髭オヤジの兄弟同士でなんか、吐くよマジで。
師夏はかわいいが、相手が考えられないと妄想はされんのでは。
168日本@名無史さん:03/06/04 23:28
しかし尊氏はモーホーなんじゃなかったっけ?
っていうよりもバイか・・・。
169日本@名無史さん:03/06/07 17:58
足利は義満以降、歴代美少年好きが多いが、尊氏や直義にその手の話は聞かないな。
何か逸話でもある?
まあ、もともと精神に異常のある人を輩出しやすい家系なのは確かだが、
あの変態性は、日野家の血が入って来てからより顕著になったと思う。
170日本@名無史さん:03/06/07 20:49
直義はどうか知らんが
尊氏には側小姓みたいな人間で饗庭氏直(命鶴丸)ってのがいたんじゃなかったっけ?

花一揆っていう尊氏が組織した部隊も
いわゆる美少年ばかりを集めた部隊だったと。

ゲイだったかどうかは知らんが疑惑ではあるな。
171日本憂国会:03/06/07 21:02
足利一族は、天皇に叛旗を翻した逆賊である! 打ち首、獄門!
172日本@名無史さん:03/06/07 21:43
直義が室である渋川氏を溺愛していたのは
史料上からも読み取れるね。

尊氏はバイだった可能性はあると思うが、
分かるだけで12人も子供作っておいて
女が苦手だったつーことはあり得ないな。
173日本@名無史さん:03/06/07 22:12
棟梁たるもの両刀極めてこそだったんだろうか。
174日本@名無史さん:03/06/07 22:34
>>170
花一揆の大将が、饗場命鶴丸だね。
花一揆のメンバーは、合戦の時に全員花を付けていたそうだ。
175日本@名無史さん:03/06/07 23:53
その話って本当なの?
山田風太郎あたりの創作じゃないだろうな?>花一揆
176日本@名無史さん:03/06/08 00:02
>>172
尊氏は子供12人もいたのか?
竹若、直冬、義詮、基氏。
この4人しか漏れは知らんぞ。
近松半二の芝居「蘭奢待新田系図」には尊氏の娘が出て来るが、
あれは完全に創作だろうし(大塔宮に惚れてしまう役w)
他の8人についての情報きぼんぬ
177日本@名無史さん:03/06/08 00:19
興国年間に娘が二人夭逝してる。これで6人。
あと6人。
178日本@名無史さん:03/06/08 00:23
>>175
太平記に出て来るよ。巻第三十一の武蔵野合戦のところ。

「三番に饗場命鶴丸生年十八歳、容貌当代無双の児(ちご)なるが、
今日花一揆の大将なれば、殊更花を折て出で立ち、花一揆六千余騎が
真前(まっさき)に懸け出たり。」

児玉党と戦って、ひとたまりもなく敗れて尊氏の陣に逃げ込んだそうだ。
179178:03/06/08 00:29
スマソ。「饗場」じゃなくて「饗庭」だ。
180172:03/06/08 01:08
スマソ。尊氏の子は11人だった。

竹若(?〜1333年5月)。
直冬(?〜1387年・1400年)。
義詮(1330年6月〜1367年12月)。
男子(?〜1334年7月)。
女子(1337年〜1342年10月)。
聖王(1339年〜1345年8月)。
基氏(1340年3月〜1367年4月)。
英仲法俊(1340年5月〜1416年2月)。円通寺開山。
鶴王(?〜1353年11月)。頼子。崇光院女御。
女子(1343年〜1347年10月)。法名了清。直義養女。
女子(1344年〜1346年7月)。

英仲はちょっと怪しいと思うが、
他は信頼できる史料に出てくるよ。
181日本@名無史さん:03/06/08 01:18
しかし殆ど短命なんだな。
それともこの時代の医療的なものを考えたらこんなもんなの?
182175:03/06/08 01:27
>>178
レスさんくす
実は、太平記は楠Jrが死ぬところまでしか読んでいないので知らなかった(恥
こんな面白いネタがあるとは、ヤパーリ全部読むしかないな
183日本@名無史さん:03/06/08 01:45
>>178
饗庭は元々は少弐の家人だったようだが、尊氏が九州落ちした時にでも見初めたのかね?
美貌を武器に、将軍の側近にまで成り上がったってところか。
184日本@名無史さん:03/06/08 01:54
>児玉党と戦って、ひとたまりもなく敗れて尊氏の陣に逃げ込んだそうだ。

花なんか付けるくらいなら、やっぱりもっと強くないとなあ。
勇ましく華麗なのはいいけど、これじゃちょっとカコワルイw
185日本@名無史さん:03/06/08 02:00
>>180
本当にみんな短命だな。まともに成人した方が少ない。
成人した義詮も37、基氏に至っては27であぼーん。
暗殺とか毒殺でないとすれば‥‥病弱?
186日本@名無史さん:03/06/08 07:10
>>180

頼子の生没年は分からないのでしょうか?
あと英仲法俊というのは男性それとも女性?
187日本@名無史さん:03/06/08 07:19
Hで上手いアイコラを発見っ!(*´Д`*)ハァハァ
このコラ上手すぎ!でもワレメはまずいだろ。(*´Д`*)ハァハァ
http://homepage3.nifty.com/coco-nut/
188日本@名無史さん:03/06/08 07:23
>>170
北方謙三の小説(題名忘れた)では尊氏はゲイ寄りのバイということに
なっていて、たしか12〜13歳くらいの饗庭命鶴丸に夜伽を命じる
とんでもないシーンがあった。
189日本@名無史さん:03/06/08 07:43
>>188
日本史板の住人が、北方謙三なんてよく読めるな。
俺は本屋で数ページ立ち読みしただけで買う気が失せた。
あまりのバカバカしさに頭がクラクラしたよ(w
190日本@名無史さん:03/06/08 07:53
>>189
酒も葉巻もやらないくせに、ハードボイルドを気取るニセモノ>北方謙三
きっと喧嘩も弱いに違いない。ま、長淵剛みたいなもんだなw。
191日本@名無史さん:03/06/08 15:23
>>188
言うに事欠いて、北方をネタに語るかよ?
まさか、おまい思い込み厨伊達遠江守家中じゃねーだろうな?
192176:03/06/09 01:31
>>180
うわ、ほんとにこんなにいたのか!‥‥あ、情報どうも有難うございます。
教えて君ですまぬが、これって母親が誰かとかもわかっているのかな?
せめて正室の北条氏(登子)の子供かどうかだけでも教えてほすいでつ。
193日本@名無史さん:03/06/10 20:14
>>180
直冬の没年って不詳では無いの?
まあ、二説の間に13年も開きがあるくらいだから、相変わらず不詳なんだろうけど。
この人物も活躍のわりには謎が多いね。墓とか残っているのかな?
194日本@名無史さん:03/06/10 21:18
>>186
鶴王(頼子)は、1342年頃に生まれ、
没した時13歳程度だったと考えられている。

英仲法俊は禅宗の僧で、男性。
母親は登子ではないらしい。
尊氏の第4子と言われるけど、勿論4子ではない。

>>192
確実に登子の子と考えられるのは
義詮・聖王・基氏・頼子・1342年に没した女子。
他にも登子の子供はいるかもしれないけど、
史料上では確認できない。
竹若の母は足利一族加子六郎の娘で、
竹若と共に討たれた法印覚遍は叔父に当たるらしい。
直冬の母親は尊卑分脈には家女房と書かれている。
太平記では「越前局」とよばれる女房の下に
尊氏が一夜通って出来た子供だと言うから、
この家女房は鎌倉将軍家(守邦親王)女房なのかも知れないね。
195日本@名無史さん:03/06/11 02:39
ところで、大納言足利満詮ってどういう人なの?
兄貴に嫁さん取られたらしいけど。
196日本@名無史さん:03/06/11 03:44
>194
>尊氏が一夜通って出来た子供だと言うから

たった一晩のすけべ心が「命中」したばかりか、その子によって後々あんな苦しい目に会おうとは‥‥
尊氏も因果な男だな
197192:03/06/11 22:41
>>194
乙です。登子だけで5人も産んだなんて、ちょっとビクーリ。
夫婦仲、円満だったみたいだね。
夫が実家を滅ぼしたので、心の底では恨んでいるのかなと思っていたんだけど、
その点は武家の妻として覚悟が座っていたのかな?
198日本@名無史さん:03/06/11 23:28
>>194
家女房=名も無き腰元
199日本@名無史さん:03/06/11 23:45
>>198
根拠は?
200  :03/06/11 23:46
マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その7A
http://natto.2ch.net/mass/kako/1004/10049/1004950940.html

38 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/11/09 19:17 ID:/Jozo2co
フジのスーパーニュースを見ていたら、盗聴、盗撮をしていた。
とにかくレポーターとか、テレビ局の人間と話しをする時は、
カメラやマイクで隠し撮りをしていることを、常に念頭に置くべし。
マスコミをとにかく用心するに超したことはない。
取材を受けて、物がなくなったというのもよく聞く。

39 名前: >38 投稿日: 01/11/09 21:33 ID:qM1FVdrM
蛆は自爆か(W
カミングアウトをするより、盗聴を止めろ
置かれた盗聴機はいつ撤去するんだよ?
そんなことを電波に流されたからって、不安で寝れやしない。

40 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/11/09 22:32 ID:GPVrbaOJ
マスコミ相手にしても仕方ないぜ。まじで自分らの生活を死守する方が大事。
テレビ・ラジオは出来る限り無視しよう。ついつい見聞きするから調子に乗らせる。
今後世の中どうなっていくかわからんのだから、必要な情報のみ入手して身の保全を
図れ。いい加減な娯楽メディアは放っておくべし。
201日本@名無史さん:03/06/12 20:27
>>196

>たった一晩のすけべ心

そういう夜は幾晩もあっただろう。
その女とは一夜限りだったかもしれんが。

まあ直冬みたいなのを生む女に当たった、
というのは凄いと思うけど。
202日本@名無史さん:03/06/12 21:52
義詮を生んだ登子より、その直冬の母の女性のほうが
いい遺伝子持ってたんだろうか。
203日本@名無史さん:03/06/13 00:55
つーか、直冬って本当に尊氏の子供だったんかね?
カナーリ疑わしいから認知しなかったんじゃないの?
204日本@名無史さん:03/06/13 05:05
↑疑わしくないから、身内の直義が罪悪感から引き取ったんじゃないの?
205日本@名無史さん:03/06/13 06:37
>197
尊氏が九州落ちしていた時って、登子はどこにいたんだろう?
鎌倉は危ない罠、北畠軍が通過したし。
かと言って京都に残っていたら人質になりかねないし。
誰か知っている人いる?
206日本@名無史さん:03/06/13 07:48
なんで足利と新田なんだ?
新田はしょぼすぎて足利の足元にも及ばないよ
207日本@名無史さん:03/06/13 08:22
そういえばこの前、あしりと会ったなぁ。
208日本@名無史さん:03/06/14 23:49
>>199
古語辞典で調べろ
209日本@名無史さん:03/06/15 00:24
>>208
はぁ?
将軍家家女房と言う意味もあるっつてんだよ。
女房が必ずしも身分が低いとは限らないの。
210日本@名無史さん:03/06/15 16:49
義貞と尊氏のほうがいいか?
211 :03/06/20 16:47
>>139
>足利尊氏の異母兄高義

尊氏の名が又太郎だから、高義の死後に高氏が生まれたと見るのが
自然だと思うんだけど、どうかな?
212日本@名無史さん:03/06/20 18:24
足利氏の嫡子は代々三郎を名乗ってるから、
太郎あるいは又太郎が何時生まれようが関係ないと思う。
太郎と名乗っている嫡子は家時だけ。
家時は高氏と一緒で北条氏の腹の子ではないよ。

高義が史料に現れる1315年頃には
既に1305年生まれの高氏は11歳だった筈だよ。
213日本@名無史さん:03/06/20 23:39
>>212
ということは、少なくとも3歳以上年上ということなんだ。
214日本@名無史さん:03/06/21 06:41
>>212
>足利氏の嫡子は代々三郎を名乗ってるから

それホント?どこにそんなこと書いてあった?
215日本@名無史さん:03/06/21 18:52
>>214
尊卑分脈。
因みに、足利氏歴代に
「又太郎」を名乗りとした人物は高氏以外にいないはず。
「足利又太郎忠綱」は藤原秀郷流だしね。
216日本@名無史さん:03/06/21 19:52
あのー、スレ違いなのは重々承知なんですが、
南北朝期頃の、藤原秀郷の流れ汲んでる豪族たちって、
少しは同族意識のようなものはあったりしたのでしょうか。
多すぎてバラバラに動いて見えるけど、やっぱ当人たちは
誉れ〜とか思ってたんだろうし。

バーヤバーヤと思ったら怒らんでスルーしてちょ・・・。
217日本@名無史さん:03/06/21 20:34
>>216
確か新田義興を担いでなんかやろうとしたのが、その人たちだった気がする
218日本@名無史さん:03/06/21 21:04
>>216
藤氏一揆がそれだね。
それでも秀郷流が一致団結する、
ということはなかったようだけど。
219日本@名無史さん:03/06/21 21:47
スレ違いだったのに、レスアリガトン!
そうそう、藤氏一揆のことを詳しく調べてて気になってたの。
小山は秀郷嫡流だが、下妻なんかも一応秀郷なわけで。
>217さんのほうのは知らなかった! そこらへんの詳細当たってみるよ。
220日本@名無史さん:03/06/24 23:56
足利義満 足利義詮 足利直冬 足利基氏 細川頼之  
政治98   政治66  政治74   政治75   政治92  
戦闘78   戦闘61  戦闘78   戦闘63   戦闘59  
智謀96   智謀65  智謀73   智謀62   智謀74  
野望99   野望72  野望81   野望64   野望67  
魅力92   魅力71  魅力61   魅力75   魅力68  

221日本@名無史さん:03/06/25 01:30
 細川頼之なら…
 斯波義将&高経
 佐々木高氏
 高師直&師泰
 畠山国清
 もキボンヌ…
222日本@名無史さん:03/06/25 08:14
>>220-221
三戦板でやれよ・・・
223日本@名無史さん:03/06/25 10:07
>>193
直冬1400年(応永7年)没説は、
『武家年代記』『鎌倉大日記』『系図纂要』
『武家年代記』では3月16日卒、
『鎌倉大日記』では3月石見国にて卒、
『系図纂要』では3月11日石見にて74歳で卒、
と書かれている。

対して1387年(嘉慶元年)説は『足利系図』。
嘉慶元年7月2日に卒す、と書かれている。

史料の信憑性から言うなら
前者が正しいのかなとは思うけど。
224日本@名無史さん:03/06/25 19:06
>>217
えらそうな北畠親房にブチ切れちゃった人たちでしょ>藤氏一揆
で、「あんな奴に指図されるくらいなら新田義興を盟主に!」と言い出した。
実際、藤氏一揆を呼び掛けた小山氏の城には義興が匿われていたらしい。
‥‥てことから見れば、あながちスレ違いでもないんじゃない?
225日本@名無史さん:03/06/25 22:09
高師直 高師泰 佐々木道誉 
政治61  政治37  政治93
戦闘100 戦闘87  戦闘75
智謀68  智謀59  智謀97
野望90  野望82  野望95
魅力67  魅力50  魅力88
226日本@名無史さん:03/06/26 05:52
>>224
そうだな
>220,221,225の方がよっぽどスレ違い…いや鼬害だ
227日本@名無史さん:03/06/26 19:44
どうして、斯波、細川、畠山は管領の地位につけたのに、
 同じ足利の血統の仁木や渋川、吉良は管領になれなかったのでしょうか?

 「仁木」は頼章&義長兄弟は中央で1時期活躍してましたが…義長の謀反による失脚が原因?
 「吉良」は奥州探題に就いていた時、観応の擾乱で畠山を破るも、斯波に取って代わられたし…
 「渋川」は征西府追討軍を命じられるも果せず、今川了俊の失脚で九州に進出するも、在地守護に
嫌われて追放され、復帰するも探題という看板を掲げているだけの有様。
 残る「今川」は了俊が細川頼之から九州探題を推され、目まぐるしい活躍で九州南軍を放逐。しかし、
独裁的な振る舞いから在地守護に嫌われ、また幕府も今川家の勢力拡大に脅威を感じて、有無を言わさず、
左遷。しかし、以後鎌倉府を睨む存在として幕府に貢献した。戦国期も乗り切り、戦国大名として生き残る。

 管領家も方でも、斯波は高経と義将。あと家兼系統の奥羽・羽州探題家。
 畠山は、国清、満家、基国、政長、義就。
 細川は清氏、頼之(頼元)、勝元、政元。
 あたりが、全盛期か…
228227:03/06/26 19:56
 同じ足利家諸流で一色家は、四職(侍所所司)でしたね。
 「赤松」は円心・則祐が南北動乱期に尊氏への忠勤振り(尊氏西下時に新田軍を
撃退)
 「山名」は山陰の雄。時氏が直冬軍の統帥だったのが義詮への降伏の条件として
さらに領地を拝領し、義満によって領地を削減されるも嘉吉の変で持豊(宗全)が
大活躍、赤松家の領地を奪い取り栄華を極める。
 「京極」は尊氏、義詮の裏のドン。佐々木道誉の一族。
 そして足利傍流の「一色」…

 同じ西国の雄「大内家」は侍所になれなかったのは何故?
 その他の足利傍流家もそうだが・・・
229227:03/06/26 20:02
 《訂正》
 赤松円心、「則祐」→則村の間違いでした。
 
230日本@名無史さん:03/06/27 00:44
>>227
駿河今川氏は了俊の子孫じゃないよ。
了俊子孫は堀越氏。
231227:03/06/27 00:56
>>230
失礼致しました。
 貞世(了俊)の兄の系譜ですね。<駿河今川家

 しかし、貞世の系統は後北条家からの嫁と家康正室(築山殿)などすごい縁ですね。
232日本@名無史さん:03/06/27 22:16
>>229

円心と則村は同一人物。
233日本@名無史さん:03/06/27 23:25
京極家って、高氏以外で目立った人物っています?
 近江では浅井、出雲では尼子、飛騨では姉小路に地位を奪われたにもかかわらず…
 秀吉の側室という縁から大名に復活…
 他家と比べて最後に出世するとは…
234日本@名無史さん:03/06/28 00:56
京極夏彦
235日本@名無史さん:03/06/28 08:00
京極高数。
室町中期の当主。
六代将軍義教のお陰で当主になれた。
嘉吉の乱で、恩人義教に殉じた。
236 :03/06/28 08:13
●●●マスコミの「盗聴、盗撮」は許されるのか?その9●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1016/10165/1016527634.html

711 名前: ○○○ 投稿日: 02/04/15 04:27 ID:rTJzgZfe
>>378
>複数のネタもとからのコピー&ペーストで出来ているという意味では、
>盗聴ネタを使ってもっと酷いことをしている同業者がたくさんいますよね。
>盗聴者間で広まっている被盗聴者についての様々な個人情報やそこから
>派生している風説から得たインスピレーションを、敢えて既存の作品の
>イメージの型枠にはめ込んでしまうことで、中身が盗聴ネタであることを
>ぼやかし偽装した制作が数多く行なわれている。
4月のドラマを幾つかチェックしているが、この通りの内容なんで、呆れるよ。主
役の見かけは刑事だったり金融マンだったりするが、人物像の正体は、実は、盗聴
ネタ。「盗聴者間で広まっている被盗聴者についての様々な個人情報やそこから派
生している風説から得たインスピレーション」で性格付けをやっている。ドラマで
動かされているのは、どこかの盗聴被害者のコピーだ。気概のない非創作性を支援
するために自分の個人情報が悪用され続けるのは、まったく不本意だ。
237宗全:03/06/28 15:53
 >>235
 高数同様に、義教の家督介入で兄を差し置いて家督を相続できた山名持豊の方が、
 嘉吉の乱から、赤松討伐の搦め手の部隊ながら大奮闘し、結局赤松旧領の大半を獲得。
 この後、管領細川勝元に対抗するまでの実力を付けて、応仁の乱では西軍の総帥。
 明徳の乱で減封されたのを復活させた功は凄い。中興の祖?


238日本@名無史さん:03/06/28 16:20
細川持之や義教お気に入りの赤松貞村は、嘉吉の乱で将軍を見捨ててさっさと逃亡。
239日本@名無史さん:03/06/28 19:41
 >>238
 赤松貞村は満祐討伐で功をあげられず…世間から嘲笑を買う。
 しかし、細川持之は息子・勝元、そして孫・政元が幕府を牛耳る結果に。
240日本@名無史さん:03/06/29 18:28
age
241日本@名無史さん:03/07/04 04:29
新田鬼龍丸age
242日本@名無史さん:03/07/05 13:17
>>241
新田鬼龍丸って誰?
243日本@名無史さん:03/07/05 13:22
>>237

しかし山名は持豊以降がカスで没落。
後代、豊国の娘は秀吉の妾に召し出される始末。
244日本@名無史さん:03/07/12 00:06
新田貞方age
245日本@名無史さん:03/07/15 00:06
福井の爆弾男の家って灯明寺町にあるって?義貞戦死の灯明寺畷でしょ?
246日本@名無史さん:03/07/15 01:06
南北朝の争いの時、山名は何で宗家である新田に従わないで足利についたのかな?
太平記でも梅松論でもそんなに目立った活躍もないわりには、六分の一殿と言われるまでに大きくなったし。
よっぽど要領が良かったのかね?
247日本@名無史さん:03/07/15 01:08
新田義貞の末裔が
浪岡御所で細々と続き
戦国期まで続いていたというのは
本当ですか?
248日本@名無史さん:03/07/15 01:46
>>246
山名は最初から宗家には独立的だった。新田義重が頼朝に従わずにいたとき、里見と山名は父義重に従わずに早くから頼朝に参陣した。
そのため、庶子でありながら直接将軍と主従関係を結び、承久の乱の時にも出陣して恩賞を貰ってるし、宗家が無位無官の時も官位を得ている。
だから同じ一族でも利害が一致すれば協力するけどしなければ離れるという非常にドライな関係になったんだと思う。
249日本@名無史さん:03/07/15 03:10
>>247
浪岡御所は北畠氏
250246:03/07/15 11:07
>>248
レスありがと。
でも、それなら里見はどうなの?
ここに書かれた内容に限っていえば、山名と里見はほとんど条件は同じ。
でも、里見は新田宗家に従ったよね。
二者の行動を分けたものが何だったのかを知りたい。
251山崎 渉:03/07/15 11:32

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
252日本@名無史さん:03/07/15 18:19
age
253日本@名無史さん:03/07/15 19:09
山名時氏の母は上杉重房の娘と言われているから、
足利氏とは非常に近い関係ということになるよね。

また、『山名家譜』によれば、
山名重国の母は足利矢田判官代義清の娘と言われている。
山名義範が新田一族よりも
足利義兼と頻繁に行動を共にしていた、
という指摘もあるから、
この話もあながち間違いじゃないという気もする。

山名氏が新田よりも足利に従ったのは、
むしろ当然じゃないかな。

254日本@名無史さん:03/07/16 11:27
462 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/06/04 19:47

漏れの住んでるあたりは新田氏に嫁いだ相馬氏の化粧料地だよ。
既に衰微していた山名氏の某が代官として住んでたそうだ。
某としたのは地元の歴史の本でも名前を特定できなくて、山名某しか書いて無いんだよね。
南北朝の頃、山名なんとかが「俺は昔は農民みたいなもんだった」と言ったそうだけど、
なるほどなと思った。
255日本@名無史さん:03/07/17 14:12
>>250
里見氏の本拠高林は新田荘内だから、
本宗家に従ったのでは?
256日本@名無史さん:03/07/18 02:15
>>255
山名の本拠も一応は新田荘内だよ。
それと、里見って承久の乱の功績で越後にも所領を得たんじゃなかった?
257日本@名無史さん:03/07/18 02:23
>>255
つーか、義貞が挙兵した頃は、いわゆる新田荘のほとんどが新田本家のものではなくなっていたはず。
2代め義兼の未亡人・新田尼が荘内のほとんどの所領を娘の方の子供(岩松時兼)にあげちゃったんでしょ。
本家の孫である政義はさぞや祖母を恨んだろう。
258日本@名無史さん:03/07/18 17:10
太平記は史学に益なし
259246:03/07/18 19:43
>>253
なるほど、山名は母方のほうで足利と濃い血縁関係にあったってことか。
そういえば義貞の母は里見家の出身って説があるから、
宗家どうのこうのというよりは、母系の繋がりの濃さが
山名・里見両家の帰属がわかれる元となったのかもしれないですね。
260日本@名無史さん:03/07/18 20:29
>>256
山名は群馬県高崎市じゃないのか?
261日本@名無史さん:03/07/18 21:33
山名は荘内にない
262日本@名無史さん:03/07/18 21:58
越後は分家
263日本@名無史さん:03/07/18 22:05
>>257
新田尼が岩松時兼に多くの所領を譲ったのは確かだけど、
岩松時兼が知行していた12カ郷のうち、
新田義兼の所領であったことが確認できるのは6カ郷。
義兼所領13カ郷のうち田中郷は
恐らく岩松時兼弟の田中時朝に譲られたと考えられるけど、
残りは本宗の知行だったと考えられる。
もっとも、本宗の所領には、
鎌倉初期までの譲状には出てこない
由良や八木沼・安養寺・脇屋などの土地もあるから
鎌倉後期の所領の実態は良く分からない。

岩松氏が、得川頼有から所領譲られるなど、
経済的に裕福になっていくのに対し、
新田本宗は政義が自由出家をして
所領を没収されるなどしてるから、
減退傾向にはあったのかも知れないけど。
264日本@名無史さん:03/07/19 23:33
>>263
郷―村の関係はどう考える??
村は郷の地域を細分化して形成されたと考えると思うけど。
鎌倉後期の由良や脇屋は村だよね?
265日本@名無史さん:03/07/25 01:48
>>260-261
頼朝挙兵時に新田義重がたてこもったとされる寺尾城は、
現在の高崎市付近にあり、山名も里見もきわめて近い。
要するに、そのあたりまで当時の新田氏の勢力範囲だったわけだが、
この場合、「山名も里見も新田荘内にあった」という言い方は間違いだろうか?
で、もし間違いならば、何といえば正しいのだろう?
「新田領内」とするのもおかしいような…詳しい人、教えてくれ。
266日本@名無史さん:03/07/26 03:26
>>265
新田義重の勢力範囲、でいいんじゃない?(ワラ
267日本@名無史さん:03/07/26 22:42
>>265
難しいね。郡名から取ってるから。
山名郷は多胡郡の端だから多胡荘の端な気がする。
多胡荘は義賢の勢力強かった所。
268日本@名無史さん:03/07/26 23:36
たこれす
269日本@名無史さん:03/07/26 23:55
>>265
太郎義俊が父義重より与えられた
新田荘鳥山郷・太田郷・牛沢郷・高林郷(岩瀬側水系)
八幡荘里見郷・豊岡郷
のうち、里見郷と高林郷に居館を置いた。
太郎三郎義範は八幡荘山名郷を与えられた。
ともに母は下野権守豊島親広。
因みに寺尾城は八幡荘寺尾郷。

>>267
新田荘域=ほぼ新田郡域と比定。
1108年浅間B災害で新田郡崩壊
1157年新田義重が新田荘下司職(空閑19郷)
1170年新田荘が新田郡全域に拡大(嘉応2年目録)

>>253
山名政氏の妻は上杉重房女
270日本@名無史さん:03/07/27 00:08
>>269
山名は八幡荘ですか。
そういえば山名周辺は南八幡と言いますね
271日本@名無史さん:03/07/27 01:04
>>269
ちょっと待った。
何故寺尾を八幡荘に断言できる?
根拠としては新田荘説と大差ないように思えるんだが?

それから、山名政氏室が上杉重房女というのも、
文応年間(1260頃)生まれの足利家時の母が
上杉重房女だったことを考えれば、
結構無理があるような気がするのだが?
272日本@名無史さん:03/07/27 14:48
>>269
同じ母を持ちながら、義範と義俊に対する父義重の扱いには
随分な差がありますね。
片や山名1郷、片や里見郷など6郷‥‥
この差が、後年の宗家に対する忠誠度にそのまま出たということは言えないかな?
273日本@名無史さん:03/07/28 00:06
>>272
新田一族の本宗家に対する忠誠度?

新田一族はそれぞれ本拠の立地、鎌倉幕府内での地位、
姻戚関係によってそれぞれ異なる。
新田一族のうちで、鎌倉幕府に出仕している御家人は
里見氏・山名氏・新田本宗家で、
更に、岩松氏・世良田氏は本宗家逼塞時
(このとき新田氏を名乗らずに由良氏を号している)に
半分惣領職を獲得して本宗家に変わって幕府へ出仕している。
つまり、新田一族のうちでも山名氏・里見氏・岩松氏・世良田氏は
本宗家からは独立した存在だった。
里見氏(高林郷)・岩松氏(岩松郷)・世良田氏(世良田郷)は
本拠を新田荘内に置いているために、
新田義貞挙兵に参加したと考えられるが、
山名氏は六波羅攻め、鎌倉攻め双方に出兵している。
足利一族との姻戚関係が深いために六波羅へ、
本領が新田荘に近いために鎌倉へ従軍したと思われる。
里見氏は1330年代に当主が出兵に参加した史料もなく(『里見一族』と記載)
里見一族内での指導力も低かったのであろう。
岩松氏は足利氏との関係や、新田本宗家以上の所領を有していたことからも、
当然本宗家に従属することはなかった。
(九州において『新田岩松』一族が南朝方で戦った記述が残るが)
世良田氏はの場合は多少異なる。
いかに本拠に富貴の者が多いからとはいえ、
宝治合戦の連座や所領の分割相続が進行し、
世良田氏そのものは弱体化していたと思われる。
従って、鎌倉末期の新田本宗家の惣領権の指導力は、
由良政義以後に村単位で分出した大館氏・堀口氏・細谷氏・脇屋氏などの一族や、
世良田氏などしか及ばなかったと思われる。
274日本@名無史さん:03/07/28 00:18
>>271
八幡荘と多胡荘は隣接はしているが、
鏑川という河川を挟んでいる。
この川が山名の北を流れているのならばともかく、
(現在利根川右岸の横瀬などは当時利根川左岸で新田荘内だった)
通常河川を包摂して一円荘域は形成されないと思われるが、いかに。
(1108年の浅間山噴火で上野国内の条里制は崩壊していたと思われる)
275日本@名無史さん:03/07/28 00:22
276日本@名無史さん:03/07/28 00:33
>>274
いや、そうじゃなくって、
寺尾が新田荘内だったという説のこと。
新田荘説を完全に否定して
八幡荘だと断定できるだけの史料ってあったか?

個人的には八幡荘の方だとは思ってるけど。
277日本@名無史さん:03/07/28 01:01
>>273
世良田頼氏は宝治合戦に連座したのではなく、
二月騒動だよ。
278日本@名無史さん:03/07/28 03:35
>>276
寺尾は八幡荘だろ
東山道や国衙に近く、
義重母方からの伝領だと考えられているが。
我田引水な論法だろ寺井は。
寺井自体が要害とは思えない。
寺尾=寺の尾(寺の付近)
この場合の寺とは観音山清水寺をさす。
それぐらい地形図や計画図で確認できるだろ?
>>277
新田三河守頼氏は1247年に三河守を罷免され、
1272年に勘気を蒙り佐渡へ配流。
二月騒動の北条時輔への連座を主張したのは豊田武氏。

1322年に頼氏の女浄念(小角女房)が南女塚村田在家を長楽寺へ寄進し、
父の菩提を弔っている。

1247年11月には渕名荘(得宗領)荘政所黒沼某(得宗被官)に
長楽寺住持院豪が庵室領を永代不変として去り渡す
このことから新田荘内に得宗専制権力が及んでいたことがわかる。
279日本@名無史さん:03/07/28 08:45
>>278
『大田市史 通史編』辺りでも読んでくれ。
俺は八幡荘より新田荘が寺尾の地に相応しいと
いってるのではなく、
八幡荘と断定できるだけの史料もないと言ってるだけ。
新田荘寺井が、「寺尾」と呼ばれてた史料もあるらしいんだわ。
新田荘が要害かどうかというのは現代人の感覚だよな?
主観で断定するのはどうかと思うが。

>義重母方からの伝領だと考えられているが。
この説は聞いたことがあるが、
上野介藤原敦基が上野に勢力を扶植していたという史料もないよな。

>新田三河守頼氏は1247年に三河守を罷免され、
世良田頼氏が三河守を「罷免」させられたという根拠は何?

ひめん 0 【罷免】

(名)スル
公務員をその意に反してやめさせること。

世良田頼氏は『吾妻鏡』では三河守辞退後も
「三河前司」として将軍家の側近として供奉してるよな。
「罷免」と言うのはおかしくないか?

世良田頼氏佐渡配流が書かれているのは、
確か長楽寺系図だったよな。
それに1272年は二月騒動の年。
この年、足利一族の渋川義春も佐渡に配流されてるから
(『尊卑分脈』)、これは二月騒動と看做して良いんじゃないかな?
280日本@名無史さん:03/07/30 22:07
ププ 太田市史は我田引水郷土史
281日本@名無史さん:03/07/30 22:23
中世は峰岸さんだっけか?
282日本@名無史さん:03/07/30 22:29
>>280
知ってるよ。
ただ、色々な説を紹介してるから
参照するにはもってこいだよな。
自治体史なんてそんなもんだろ?
283日本@名無史さん:03/07/30 22:31
>>281
小此木輝之じゃなかったっけ?
284日本@名無史さん:03/07/31 00:28
アノ辺の自治体史
新田>太田>尾嶋
尾嶋はマユツバ
新田は能登健・峰岸純夫が(・∀・)イイ!!
285日本@名無史さん:03/07/31 02:16
1980年代後半頃から編纂が開始されたものの中には
客観性が十分あるものもあると思うが>自治体史
四日市市史とか面白いよ
286山崎 渉:03/08/02 01:17
(^^)
287日本@名無史さん:03/08/03 21:42
ププ
288日本@名無史さん:03/08/06 01:21
寺尾は旧義賢の勢力圏。義賢を殺してこの地一体を制圧した義平=義朝勢力
が平治の乱で滅んだから、このあたりが空白になって、どうしても押さえる必要が
あったのではないか解釈もできる。

新田に閉じこもるより、そのほうが梟雄にふさわしいとおもてます。
以上、リハビリでした。
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
 ..iiiiiiiiiiiii》|             :::      |iiiii|
 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
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290日本@名無史さん:03/08/07 17:27
291日本@名無史さん:03/08/07 21:04
 
292日本@名無史さん:03/08/08 01:07
 
293日本@名無史さん:03/08/09 22:33
294日本@名無史さん:03/08/10 01:10
 
295日本@名無史さん:03/08/10 19:19
>288
空白地なんてことないでしょ、平治の乱が終わってから20年以上も経ってるんだから。
まぁそれはともかく、確かに寺尾に籠った新田義重は、義賢の息子である義仲の動向が気にかかっていたろうね。
義仲が「亡父の土地を奪還する」という名目で、上州に進出してくる可能性だって無きにしもあらずだったろうし。

296日本@名無史さん:03/08/11 18:49
>295
>「亡父の土地を奪還する」という名目

そんな名目はこの時代はまだ通用しないだろう。
義仲も頼朝も名目上はあくまで以仁王の呼び掛けに応じて決起したわけだし。
ただ、そのどさくさに紛れて、ということは十分あり得るな。
それを義重が警戒していたってことについては同意。
297日本@名無史さん:03/08/12 21:19
↑ワロタ
298日本@名無史さん:03/08/14 21:16
足臭
299日本@名無史さん:03/08/15 01:42
300日本@名無史さん:03/08/15 12:12
足利家の現当主ってどなたですか?
301山崎 渉:03/08/15 12:16
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
302日本@名無史さん:03/08/15 13:35
健亮
303日本@名無史さん:03/08/17 20:57
新田本宗家こそが源氏嫡流
304日本@名無史さん:03/08/18 21:51
禿同
305直リン:03/08/18 21:52
306日本@名無史さん:03/08/19 05:23
藤姓足利氏や伊豆の新田(仁田)氏についても語ってくれよ。
307日本@名無史さん:03/08/19 09:06
伊豆は無関係だろがゴッルァ!
308日本@名無史さん:03/08/20 02:57
新田刑部大輔義則
309日本@名無史さん:03/08/20 05:29
藤姓足利氏って実在したの?
同じ領地に違う一族が共存していたの?
310日本@名無史さん:03/08/20 07:24
>309
藤姓足利氏は藤原秀郷の嫡流。
源平の戦いで平家方についたため滅亡。
311日本@名無史さん:03/08/20 07:53
山名は新田の分家
山名氏は大きくなっても新田に敬意を持っていたの?

312日本@名無史さん:03/08/20 08:16
>311
持ってるわけないでしょ。
313日本@名無史さん:03/08/20 18:43
分家とはいわないだろ。
314日本@名無史さん:03/08/22 06:22
>313
え、言わんの?じゃぁ何と言えばいい?
315日本@名無史さん:03/08/22 07:36
>314
庶流。
316日本@名無史さん:03/08/22 20:36
傍流
317日本@名無史さん:03/08/23 00:12
御血筋
318日本@名無史さん:03/08/23 21:08
裏切者
319日本@名無史さん:03/08/23 21:16
山名氏は鎌倉時代には門葉(源頼朝の一族)扱いだったけど、新田氏は単なる一介の御家人。
320日本@名無史さん:03/08/24 12:13
源義重は源家の遺老
321日本@名無史さん:03/08/24 18:21
>320は吾妻鏡にある記述だね。
義重が亡くなった時、政子がそう言って頼家の遊蕩を諌め、頼家も渋々それには従った、とかいう話。
まぁ、あの時代にただ一人生き残っていた八幡太郎義家の嫡孫ということで、ある種別格というか、精神的な畏敬はされていたんだろう。
頼朝も晩年には狩の帰途に新田を訪れて逗留したりしているし、不興も徐々に解けつつあったのでは。
もし頼朝が急死していなかったらどうなっていたんだろう?
322日本@名無史さん:03/08/24 20:59
足利氏の対抗馬にされて、北条得宗家に滅ぼされてたんじゃないの?
323日本@名無史さん:03/08/24 21:33
俺は早漏にて候
324日本@名無史さん:03/08/29 23:35
古河公方について語ってください
325日本@名無史さん:03/08/30 07:19
古河公方初代の成氏は足利義成(義政)から偏緯を受けているのだろうか。
当時の幕府と古河公方の関係を考えたら不思議な気もするね。
326日本@名無史さん:03/08/30 08:19
鎌倉前中期の足利潰しの陰謀って何かないかな?
義兼の空物狂とか義兼妻の横死伝説にまつわる説を
まとめた本とか知ってる?
327日本@名無史さん:03/08/30 13:12
>>325
関東公方(古河公方含)で将軍から一字貰っていないのっていないでしょう。
持氏の息子はそうだけど、公方になってないし。
328日本@名無史さん:03/08/30 20:40
>>327

いや持氏の息子義久の「義」は将軍義教の「義」から。
329日本@名無史さん:03/08/30 22:37
>>328
は?
義久が将軍から偏諱を受けていなかったから、
問題になったんでしょうに。
330日本@名無史さん:03/08/31 01:13
そうそう勝手に「義」字を使ったから問題になった。
331日本@名無史さん:03/08/31 02:07
「義」の通字は足利氏では将軍家のみに許されてたのか?
他の氏族では頻繁に使用されてるのにな。
332日本@名無史さん:03/08/31 03:20
>331
たとえば?
333日本@名無史さん:03/08/31 07:01
斯波家。
334日本@名無史さん:03/08/31 11:01
あれはもともと将軍家から貰ったものだよ。
335日本@名無史さん:03/08/31 13:21
今川 一色 吉良 石橋 畠山 桃井 …
336日本@名無史さん:03/09/01 02:54
すべて将軍家から貰ったものだね。
337日本@名無史さん:03/09/01 03:06
佐竹
338日本@名無史さん:03/09/01 04:24
>>331
あれは「義」字を許されていたという話ではなく、
将軍家から一字をもらうという通例を違えたことが問題。
339日本@名無史さん:03/09/01 15:22
結局、持氏が将軍家を無視したから起こった惨劇なワケで。
以降、古河公方を名乗るも正統性はなかったから
掘越公方がやって来たワケで。
340日本@名無史さん :03/09/05 00:09
>>339
古河公方は京都と和解したから、
茶々丸以降は独自に関東公方は送り込まなかったわけだが。
政氏以降だって、将軍から偏諱を受けているだろ?
341日本@名無史さん:03/09/09 01:23
へぇえ
342日本@名無史さん:03/09/12 14:06
徳川の嫡流は岩松氏
343日本@名無史さん:03/09/13 20:53
たしかに
344日本@名無史さん:03/09/19 14:06
四国にあるニッタっていう会社は新田氏直系だっていう噂聞いたけどうそかな
345日本@名無史さん:03/09/20 01:45
うそ
346今東光:03/09/22 16:21
尊氏と新田義貞と、今までの歴史は並べますけど、比較にならぬでしょう。
人物もそうだし、武将としても。
新田義貞なんて戦をして勝ったためしがない。
鎌倉が留守の所をおケツから叩いただけで、あれは戦らしい戦をしとらんのですよ。
これはもう比較にならない。同じ源氏だけど話にならんですよ。
足利兄弟は洗練された都会人で教養がある。
新田義貞といったら栃木あたりから出てきた芋掘り親父といった所だ(藁)
347奈良本辰也:03/09/22 16:25
だいたい格が違っていますね。
足利家は数代に渡って北条氏と姻戚関係を結んだりして
三河・上総一円の守護職ですから
現実的にも新田家とは雲泥の開きがあります。
348日本@名無史さん:03/09/22 18:44
>346
>新田義貞といったら栃木あたりから出てきた芋掘り親父といった所だ(藁)
栃木・・・(藁)
349日本@名無史さん:03/09/22 18:51
芋掘りオヤジ
ワロタw
350日本@名無史さん:03/09/22 19:36
栃木・・・(藁)  そう言うところか<ぷ
351今東光:03/09/22 20:21
僕は栃木へ行っても、新田義貞を褒めなかったもんだから気に入られなかった。
だが褒めようがないんだよ。そんなもの。
都へ来て、お公家さんの女に惚れて戦機を失ったりして・・・。
全然ダメだ。ろくでもない。

しかし尊氏の弟は偉いね。
これは兄貴が殺さずにいられなくなった位、偉かった。
教養はあるし・・・。
352奈良本辰也:03/09/22 20:24
夢窓国師が書いた『夢中問答集』という本がありますね。
直義の問いに答えた本ですが、随分難しい事を聞いていますよ。
あれを読んでいると、大変な教養のあった人だと思いますね。
ある意味では尊氏以上だったかもしれない。
353日本@名無史さん:03/09/22 20:24
新田って群馬じゃないの?
354日本@名無史さん:03/09/22 20:27
新田は勿論群馬。
まあそれはそれとして足利の方が遙かに格上なのは事実。
(これは頼朝挙兵の時、足利がすぐ馳せ参じたのに対して新田はあとで
帰参したため)
355日本@名無史さん:03/09/22 20:31
>>353
俺は対談集をコピペしただけだから・・・。
なぜ栃木なのかはあの世にいる今東光氏に聞いて下さい。
356日本@名無史さん:03/09/22 20:49
直義ありて、尊氏立つ。
357日本@名無史さん:03/09/22 20:50
>>354
おいおい、足利義兼が源頼朝のもとに
参じた時期は分からないぞ。

新田義重よりは早かったけど。
358日本@名無史さん:03/09/22 21:10
足利義兼は北面の武士だった。
359日本@名無史さん:03/09/22 21:21
>>358
義康の間違いだろ?
360日本@名無史さん:03/09/23 06:27
>355
俺はむかし今東光の「東光太平記」っつーの読んだんだけど、すごかったよ、いい加減で。
新田氏を栃木出身だと思い込んでいるのもわかる気がする。
まぁ歴史小説家としては、全然ダメだ。ろくでもない。といったところかw
361日本@名無史さん:03/09/23 06:59
足利は栃木と思っていなかったのかな?まさか、京都の室町出身と思いこみ厨だったとか
362日本@名無史さん:03/09/23 10:10
まあ群馬も栃木もどっこいどっこいの田舎だろうが・・・
363日本@名無史さん:03/09/24 02:51
>>362
でも、これって信長や秀吉は三河出身、家康は尾張出身、上杉謙信は越中出身とか言っちゃうようなもんだろ?
歴史小説を書こうって人間が、こんな初歩的な間違いをするのはエラく恥ずかしいことじゃないか?
364日本@名無史さん:03/09/24 17:53
書こうっていうか書いたんだけどな。
365日本@名無史さん:03/09/24 17:59
>>355
対談の時点で間違えたとしても、活字にする時になおしそうなものだが、
単なる勘違いとかじゃなく、本気で新田=栃木と思いこんでいたんだろ。
奈良本も指摘してあげればいいのに、意地悪いというか‥‥いや、こういうのは突っこまないのが思い遣りなのか?(藁
366日本@名無史さん:03/09/24 18:08
まあ新田義貞がろくでもないのは確か。
367日本@名無史さん:03/09/24 20:14
今東光もね。
368日本@名無史さん:03/09/24 20:21
>>366-367
おまえらより1000兆倍はマシじゃボケェッ!!!
369日本@名無史さん:03/09/24 20:40
>>368
何キレてんの?(p
370日本@名無史さん:03/09/24 20:58
>>368
全然ダメだ。ろくでもない。
371日本@名無史さん:03/09/24 21:35
僕は栃木へ行っても、>>368を褒めなかったもんだから気に入られなかった。
だが褒めようがないんだよ。そんなもの。

全然ダメだ。ろくでもない。
372日本@名無史さん:03/09/25 04:38
いつからここはこんな糞スレになったんだ?
全然ダメだ。ろくでもない。
373日本@名無史さん:03/09/28 11:40
久保田順一『新田一族の盛衰』(あかぎ出版)
って、読んだことある人いる?

確かこの著者って『群馬県史』
にも関わった人だよね。
内容に興味興味があるんだけど。
374日本@名無史さん:03/10/01 12:27
峰岸
375日本@名無史さん:03/10/03 10:13
>新田一族の盛衰
衰の歴史しか無いんじゃないかな・・・
北條=任天堂
足利=ソニー
新田=セガ
鎌倉攻略はメガドラ、サターン初期のセガみたいなもんか?
376日本@名無史さん:03/10/04 06:19
>375
つまらんこと書き込むなボケ
377日本@名無史さん:03/10/04 10:37
>375=スーパーカセットビジョン
378日本@名無史さん:03/10/04 22:47
僕は栃木へ行っても、>>376を褒めなかったもんだから気に入られなかった。
だが褒めようがないんだよ。そんなもの。

全然ダメだ。ろくでもない。

379日本@名無史さん:03/10/08 01:38
新田十六騎党最強
380日本@名無史さん:03/10/08 12:29
ディスクシステム
381日本@名無史さん:03/10/12 03:58
江戸時代、新田義貞の流れを汲むと称するお侍さんたちはみんな身分が
高かったらしいですな。よかったですね、室町時代じゃなくて。
382日本@名無史さん:03/10/12 21:47
>>381
岩松と由良とあと誰?
383日本@名無史さん:03/10/13 07:33
>>382
徳川
384日本@名無史さん :03/10/19 11:32
 源義仲軍に参加していた足利義清は平氏との水島の合戦で戦死しており
旗揚げ当初から頼朝と苦楽を共にした義兼が源姓足利氏の棟梁となった。
 頼朝は義兼の参陣を高く評価しており、自分の妻北条政子の妹を義兼と
結婚させて足利氏を親族同様に扱った。
 本領足利庄をめぐる源氏と藤原氏の争いも、平氏の滅亡によって完全に
源氏に軍配が上がり、これ以降、足利氏といえば事実上、清和源氏の
足利氏のみを指すことになる。
385日本@名無史さん :03/10/19 21:30
>>384
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェー
386日本@名無史さん:03/10/20 00:14
>>384

義清とともに戦死した義長、源頼政とともに討死の義房もいたから、義兼は系図の中では四男。
でも家督を継げたのは、母が熱田大宮司季範の娘で、頼朝と母方の従兄弟同志だったから、
というのも関係しているんでしょうね。
387日本@名無史さん :03/10/20 04:49
斯波高経
足利家貞の子。斯波氏初代。 越前金ヶ崎城で恒良親王、尊良親王、
新田義貞らを高師泰らとともに攻撃し、陥落させる。
後に藤島で新田義貞を倒し、越前・若狭の守護になる。
観応の擾乱では、初め直義方、のち尊氏方につく。
その後足利直冬に呼応したが再び幕府方に復帰。
子の義将の執事就任を巡って佐々木道誉と対立。
幕政を握るが義詮に疎んじられた。
388日本@名無史さん:03/10/22 23:13
>>386
八条院判官代義房(殿上の義清?)、上西門院蔵人義長、足利三郎義兼、嫡男誰ですか〜?
389日本@名無史さん:03/10/23 22:31
>388

義兼は官職名なしですか。
おいたわしや。
でも後世では結果的に嫡男扱い。
他の三人が戦死なのに、一人だけ長生きというのも(゚д゚)ウマー

390日本@名無史さん:03/10/24 21:58
『吾妻鏡』の足利判官代義房は
義清の間違いじゃないのか?
『山槐記』には義清しか見えないし。
義清の子矢田蔵人三郎という説もあるが、
判官代になってることから考えても
これは違うだろうし。
391日本@名無史さん:03/10/25 20:29
>>386
単に兄貴が全部戦死しただけじゃん。
当時流人だった頼朝と母系で従兄弟なことが家督相続に有利に働くかよ。
392日本@名無史さん:03/10/25 21:35
>>391
オマエは多分、育ちが悪いわ。
393日本@名無史さん:03/10/30 19:18
誰も>>373は読んでいないってことで宜しいですか?
394日本@名無史さん:03/10/30 20:58
>>392

禿堂。>>391がもし足利義康の子だったとしても、まず家督は継げまい。
395391:03/10/30 23:15
>>392
流人と女縁で繋がることが家督相続に有利に働くとする根拠は?
そもそも>>386の言う
>家督を継げたのは、母が熱田大宮司季範の娘で、頼朝と母方の従兄弟同志だったから
父義康が死んだ時点で、義兼は4歳。
対して兄義清は、永暦ニ(1161)年頃には、簗田御厨を祖母蓮妙から相続し
二十年後の治承四(1180)年にも、八条院ワ子に仕えて足利判官代として名が見える。
これは、八条院領足利庄をも義清が相続していた、ということの傍証にもなるはず。
これでも家督(嫡男)は義兼ですか?
396日本@名無史さん :03/10/31 00:09
>>395
義清が八条院判官代なのに対し、
義兼は八条院蔵人だしな。
この院蔵人になった時期も、
ひょっとすると治承内乱以降かも知れんし。
397日本@名無史さん:03/10/31 03:01
>>395
嫡男は義清だったと思う。
だが、義清は義仲についていたわけだから、
仮に生きていたにせよ、頼朝の世になったらあぼーんされていた可能性が大きいのでは?
398日本@名無史さん:03/10/31 22:16
>397
当時は母系社会だから頼朝の天下となれば母方の従兄弟ってのも有利になる。
たぶん、実の弟(妾腹)のバカより、母方従兄弟の同族のほうが親密感があったと
思われる。
399日本@名無史さん:03/11/02 06:45
>>391

392ではないが、おまえの言っていることにも無理がないか?
だって「兄貴が戦死した」時期には、頼朝はとっくに一介の流人の立場を卒業して自立してた。

だから
・兄貴が戦死したから消去法で義兼が嫡男となった
・よって頼朝と母方の従兄弟であったことは義兼相続に影響していない

という論法は成り立たないと思うんだが。
400日本@名無史さん :03/11/02 12:19
>>399
頼朝と母方の従兄弟であったことが、
義兼の鎌倉政権おける立場に影響はしても、
相続とは因果関係はないだろ。
401日本@名無史さん:03/11/04 05:40
横レスだが>>400が正しいんじゃないの?
家督と幕府内部での地位とは一応別の次元の話だと思う(まるっきり無関係とは言わんけど)。
例えば、新田氏にしたって、幕府で優遇された山名、里見、岩松、世良田氏などが新田宗家になれたわけではない。
頼朝に嫌われて幕閣での地位が低かろうが、宗家はあくまで新田義重と義兼だったわけで。


402日本@名無史さん:03/11/05 17:14
              _-- ( ヽ、
            /  __\ \)ノ/リ
          /    <__ \ \/ノ
         /   /<__ \ \ ヘ /⌒/ 新田の皆さん、貴殿方さぁ...
         /  〆  └--、ヽ、\ - \ |
         / レ  =ミ=、__/丶  -     〉なんてゆうか...
       / ン/   - =、 > <( \       |
       し/  ミ      / \ミiヽ     {  言葉に説得力がないんだよね。
       リ/   /    ン / ミ 、 、ヘ      ヽ 、
       |    /<.o イ  'ー  / >、      ヘ 天下統一したことのない人間が言う...
     ,.-/|   -=、_/ "|   _∠/  \     ノ \
   /\ \ヽ   ヽ,-\}   ∠ノ      ヾ、 /    \そう、「俺たちこそが嫡流」
 ̄、   \ \\      /___    \/ \(
  \   \ \ > ー-- イ    /  ̄ ̄\_\    ( みたいなものを感じてしまうんですよ。
   .\   \ \   /   ∠       ノ)ヽ、
     \   \ \ 〉    /       / >\
      \   \ `/     /       //ノ
        \   /     /       / / ̄
足利尊氏
職業 征夷大将軍
403日本@名無史さん:03/11/12 01:55
>>373
目次だけ見る限りではさほど新味は無い気もするな。
もちろん中身は読んでいないのでそれ以上のことは言えないけど。
404日本@名無史さん:03/11/16 04:03
>403
久保田順一でぐぐってみたら、幾つか面白そうな論文書いているみたいだが、
問題はこの本にそういったものが反映しているかだろうな。
「新田町誌」の定説と全く同じってんじゃ今更買う必要無いわけだし。
何せ近くの本屋に現物が無いから確認しようがない。
誰が内容知ってる香具師おらん?
405日本@名無史さん:03/11/16 09:40
>頼朝と母方の従兄弟であったことが、
>義兼の鎌倉政権おける立場に影響はしても、
>相続とは因果関係はないだろ。
因果関係大アリでっせ。どの子を跡取りにしたら一族が繁栄するか、
親は考える義務がある。武家に限らず公家・天皇家も同じ。
406日本@名無史さん:03/11/16 10:36
>>406
義清・義兼の父義康は保元二年には亡くなってるわけだが。
この後治承年間まで義清に関する史料はあっても、
義兼の史料は『吾妻鏡』を待たなくてはならないわけだが。
治承・寿永内乱勃発時には、義清は院判官代、
そして梁田御厨の領有を確認できる。
義兼は、院蔵人或いは無官、
足利荘の領有もこの段階でははっきりしない。
よって、本来は義清が嫡子だった可能性が高いわけ。

義清の死によって、義清の子供ではなく、
義兼が嫡流となったのは、
義清の子供が幼かっただろうと言うことと、
義兼が頼朝の側近であるという立場のお陰だろうけどね。
407日本@名無史さん:03/11/16 16:36
>>381-383
山名や里見は?
408日本@名無史さん:03/11/17 03:28
足利義兼って四男なの?
でも、義兼と義康は21しか年齢が離れていないよ。
父親との年齢差が21なのに、義兼に兄が3人もいたというのは、ちょっと辛くないか?

義康 1127−1158
義兼 1148−1199
義氏 1189−1254
泰氏 1216−1270
頼氏 1240−1263
家時 1257−1284
貞氏 1273−1331
尊氏 1305−1358
409日本@名無史さん :03/11/17 06:51
>>408
義兼の生年は、『尊卑分脈』などから
仁平四年(1154)と言われてるんだけど、
1148年という話のソースは?


因みに、義兼を四男とするのは
『続群書類従』巻第111の「足利系図」だけで、
他は大抵義清・義長・義兼の3兄弟となっている。
410日本@名無史さん:03/11/17 07:53
義兼は源為朝の子。
411日本@名無史さん:03/11/17 10:27
>>410
ウチのほうの民間伝承ではそう言われてる
412日本@名無史さん:03/11/17 17:13
>>408,409
>411
ウチってどこですか?
413日本@名無史さん:03/11/17 17:16
the Kitsuregawa
414日本@名無史さん:03/11/17 20:12
>>412
つか、『難太平記』に書いてあるよ。
415日本@名無史さん:03/11/17 20:22
義兼の子孫が足利本家になったのに対し、義清の子孫は仁木・細川氏を開いたものの、
足利一門の中での序列は最下位で、新田流の山名・岩松氏にも劣る扱いであった。
このことは暗示的である。
416日本@名無史さん:03/11/17 20:41
難太平記によると、義兼は狂人のふりをしていたという。これは、一族の有力者を常に
猜疑深い目で見ていた頼朝を誤魔化すためであったことは明らかである。
ただし、その一方で、兄義清の子孫すなわち元来足利家嫡流となるべき人々を家人並みに
遇したところに、足利家を超越する源氏の嫡流としての意識が垣間見える。義朝−頼朝の
系統ではなく、為朝−義兼こそが源氏の嫡流である、狂人のふりをしつつ、義兼は叫んで
いたのであろう。
417日本@名無史さん :03/11/17 21:49
>>416
はぁ…。
頭大丈夫??
418日本@名無史さん:03/11/17 21:56
>>409
系図纂要です。
419日本@名無史さん:03/11/17 23:07
>>399
そうだね。義清が戦死したときには、既に頼朝は罪人じゃないんだよね。
で、義清は死ぬそのときまで、八条院の判官代だったってことはOK?
頼朝が政治的に復権していようが、足利氏の惣領は義清で揺るぎなかった、と。
>・兄貴が戦死したから消去法で義兼が嫡男となった
>・よって頼朝と母方の従兄弟であったことは義兼相続に影響していない
両方とも成り立ってるじゃん。

義清は一応、頼政にくっ付いて、以仁王と決起してんだよね。
以仁王の令旨を推戴した頼朝が、義清を家督から降ろせたかどうか。
420日本@名無史さん:03/11/17 23:33
>>419
義清が家督をついでも、所領を頼朝が義兼に安堵したらどうしよもないが。
土地の支配権ない家督って。。。
421日本@名無史さん:03/11/17 23:46
誰が惣領になるかは、その一族内の自治問題だから、
よほどの不祥事でもない限り、頼朝はツベコベ言えないんだよ。
422日本@名無史さん:03/11/17 23:53
頼朝公にとって大切なのは、1183年の十月宣旨。
以仁王令旨は、義仲も行家も甲斐源氏も持ってる。大した価値はない。
よって、頼朝公からみると、義清が存命していても取るに足りない人物と
映っただろう。
423日本@名無史さん:03/11/18 23:25
>>421
当時は分割相続が基本だから惣領権なんてなかったのでは?
424日本@名無史さん:03/11/19 20:31
>>420
足利庄は八条院領。八条院の猶子が以仁王。
425日本@名無史さん:03/11/20 23:23
家督がダメとなったら、今度は所領の話しに転換か。もういいや。
義兼が嫡男で家督、所領も頼朝から宛がわれたでしょう。
426日本@名無史さん:03/11/20 23:59
自分も足利庄て書いたけど、荘園なんだから足利荘か。
427日本@名無史さん:03/11/21 20:59
一連の議論(?)の中で>>416が一番デムパ度が高くて笑えた。
その方には褒美として、足利省への流罪を賜る。
428日本@名無史さん:03/11/22 01:57
足利と新田の2代目の当主の名がいずれも義兼なのは何故ですか?
あと、のちの徳川氏に繋がる世良田氏の系図に、足利本家の当主と同じ名前(頼氏、家時)が出てくるのは単なる偶然ですか?
429日本@名無史さん:03/11/22 02:17
>>428
自分で調べれば?
俺は知らないんで、調査結果を書き込んでよ。
430日本@名無史さん :03/11/22 02:56
>>428
一族内に同じ名前がいることは不思議なことではない。
自分で名前を決めるわけじゃないからね。

足利頼氏と世良田頼氏とでは、世良田頼氏の方が
遙かに年長だし、足利頼氏は初名利氏で、
北条時頼から偏諱を受けて改名したとされているから、
直接関係はないんじゃないかな。

それと、徳川将軍家は、世良田氏に繋がる系図を
捏造しただけで、直接の繋がりはないはず。
431日本@名無史さん:03/11/22 03:42
http://www.ryomonet.co.jp/p-soft/serada/serada07.html
このサイトによると、世良田家時も足利家時と同様に先祖の遺言に応えられないから自害したらしい。
432日本@名無史さん:03/11/22 09:23
>>425
はあ?
当時は家督なんて意味なし。
武士の命は所領なんだから。
433日本@名無史さん:03/11/22 12:33
そもそもこの時期の一介の板東武者の家に
「家督」などという概念があったのかどうか?
足利義康は義国の「家督」なのか?
議論しても意味なし。
434義康:03/11/22 15:50
俺が生きてた頃はそんな言葉使わなかったなあ・・・
435日本@名無史さん:03/11/22 20:26
>>432-434
バカは書き込むなよ。逝け。
436日本@名無史さん:03/11/22 20:46
>>435
敗者の断末魔か。
437日本@名無史さん:03/11/22 20:54
>>425=435
バカは書き込むなよ。逝け。
438日本@名無史さん:03/11/22 20:55
>>437
425と435は別人です。
439日本@名無史さん:03/11/22 20:55
>>437
いやだね〜
440日本@名無史さん:03/11/22 21:47
>437
どう見ても>432と>433はバカだろ?
441日本@名無史さん:03/11/22 21:48
>>438=439
バカは書き込むなよ。逝け。
442日本@名無史さん:03/11/22 22:17

家督厨が自己崩壊したか。。。
443日本@名無史さん:03/11/23 02:50
>>430
>それと、徳川将軍家は、世良田氏に繋がる系図を
>捏造しただけで、直接の繋がりはないはず。

そんなこと聞いてねーよ!
444日本@名無史さん:03/11/23 03:56
>>430
でも、足利義兼と新田義兼って従兄弟同士で時期的にも同年代だし、かなり意図的なものを感じるね。
445日本@名無史さん:03/11/23 07:18
>>444
俺も初めて系図見た時は「あれ?」と思った。
2つが並んで「義兼」だから、誤植じゃねーか?とかw
こんなに近しい一族同士でこういうことって、ほんとに「珍しくないこと」なのか?
少なくとも俺は知らんが。他に事例があったら教えてほすい。
446445:03/11/23 07:21
ああ、別に「珍しくないこと」とは誰も言っていなかったな。
「不思議ではない」だった。スマソ。
要は、「同名従兄弟は珍しいことだが不思議ではない」ってことか。
447日本@名無史さん:03/11/23 18:59
岩松満純は、新田義宗の子で岩松家の養子に入ったの?
448日本@名無史さん:03/11/23 20:17
>>447
らしいよ
449日本@名無史さん :03/11/23 20:32
>>447
そりゃ家伝だ。
というか、江戸時代に捏造された話。
450日本@名無史さん:03/11/23 23:11
>>449
じゃあ本当は満純は誰の子なの?
451日本@名無史さん :03/11/23 23:28
>>450
岩松満国
452日本@名無史さん:03/11/23 23:33
>>451
でも国史大辞典とかの系図でも養子扱いに成っているよ。
453岩松満国:03/11/24 01:13
皆さんこんばんわ
岩松満国です
ぼくは歴史家の皆さんに謝罪しなくていけないことがあります
今まで黙っていてごめんなさい
皆さんがご存知なように、ぼくは新田荘を概ね管理していました
ただ、ぼくには実はあっても花がなかったのです
そう、ぼくの家は何かというと新田岩松なんです

花が欲しかっただけなんです

あとは…

お察しください……
454日本@名無史さん :03/11/24 06:00
>>453
栗の花ですか?
455日本@名無史さん:03/11/24 06:14
>>449
でも明治時代になってからともかく、江戸時代にわざわざ新田義宗の子であるという系図を捏造する必要があるかな?
岩松の血筋だって充分に名家だろうに、なまじっか嘘を公称してバレる方が怖いと思うんだが。
むしろ、室町時代には反幕府勢力であった義宗の血筋をひいていることを大っぴらに出来なかった、という事情は考えられないかな?

456日本@名無史さん:03/11/24 15:04
徳川=新田詐称
457日本@名無史さん:03/11/26 03:51
>456
詐称と100%言い切れるものでもないと思うが。
足利幕府の時代に新田の末裔だと大っぴらに名乗れなかった、という事情も考慮される必要がある。
さもなければ、曲がりなりにも土豪が旅の坊主如きを娘の婿になどするはずない。
よほどの名家だという確証があったからこそ、婿として迎えた、という考え方だって可能では?
458日本@名無史さん:03/11/26 18:35
>>457
室町時代に入っても、
新田の末裔なんざ幾らでもいるが?
徳川の先祖とされる世良田氏だって、
鎌倉府に仕えた一族がいるわけだから。
そもそも岩松氏が新田宗家滅亡後に
幕府から新田氏惣領のお墨付きを貰って
新田を名乗ってるでしょ。

徳川氏の出自に関しては
『松平村誌』に収められている
「松平氏由緒書」という史料が
最も信憑性があるんじゃないかな。
459日本@名無史さん:03/11/27 01:17
>>458
岩松はもともと足利と新田の混血みたいな家系。
他の新田一族とは同様に語れない。
460日本@名無史さん:03/11/27 01:21
>>457
まあ、とりあえず松平氏は世良田末流を名乗ることにかなりの執着を示しているからね。
少なくとも、祖父清康の時代には世良田氏を公然と名乗っているし。
461日本@名無史さん:03/11/27 04:07
>>458>>459
要するに、新田氏の中で反幕府勢力の旗頭だった義貞の系統(だけ)が世を憚るものだった、と見るべきではないか?
だからこそ岩松満純が新田義宗の子であったかどうかの真偽が問題になる。
それに、血筋でいうなら新田氏は5代目政氏の母が足利義氏の娘。つまり新田政氏は足利義氏の孫にあたる。
その意味では新田宗家も足利氏と混血だし、岩松氏よりむしろ足利の血は濃いといえる。
462日本@名無史さん:03/11/27 20:46
岩松の場合、新田宗家に代わって新田荘の支配者となったのだけど、その支配を盤石にするために、血統的にも新田宗家を次いだという伝説を作る必要があったんだろうね。
463日本@名無史さん:03/11/27 21:38
>>462
だから、それは江戸時代以降の話なんだって。
464日本@名無史さん:03/11/27 23:24
>>461
要は鎌倉時代の人々の意識の中では、多かれ少なかれ新田も本来足利氏の分家の一つ程度の感覚だったってことなんじゃ?
岩松は無論のこと、山名・里見・大館のような新田一族が南北朝分裂後に北朝に属したのも、彼らが自分の家の本宗家は元々足利だと考えていたのなら、納得がいくし、新田を見限る大義名分にもなる。
実際、義貞が鎌倉幕府打倒の挙兵した当初、その第一報を記した京都の公家の日記なんかだと、「足利一門のナントカが挙兵した」みたいな書き方をしているものが多いらしいし。

でも、新田政氏の外祖父が足利義氏だとすると、新田氏にも北条時政の血が入っているわけだから、鎌倉北条氏は完全に身内の裏切りで滅亡したってことになるな。
足利と一緒に京都で寝返った佐々木(京極)道誉も北条泰時の血を引くし。
465日本@名無史さん:03/11/27 23:59
故あらばこそ、こゝに書き置くなれ。
死するに當たり、我より後の子に託す。
我に代はりて天下を取り、遠祖の遺託を成し遂げよ。
我、盛運を思ふや多年。
然れども、我に徳なく、夢むなしく破れ、僅かに家名を守らむがため、一命をなげうつのみ。
我より後の子に託す。
我が意を繼げよかし。
我に代はりて、天下を取れ!
466日本@名無史さん:03/11/28 01:01
岩松氏は、単に礼部家、京兆家の争い。
足利は勢力関係無く岩松利用した。
足利勝利で台頭した岩松京兆家は関東公方に付いた。
義貞がらみで京兆家に取って代わられた岩松礼部家復活させたのは将軍家。
単純な対立じゃ無いだろ。
467日本@名無史さん:03/11/28 01:25
>>464
>新田も本来足利氏の分家の一つ程度の感覚

まぁ、関東から遠い都のお公家さんの感覚ではそうだろうね
新田氏は政義以来無位無冠だし。
地元の関東では当然違っていただろうけど。
468日本@名無史さん:03/11/28 01:41
>>466
足利将軍も6代義教の頃ともなると義貞の血筋云々は2の次になっていたんだろうね。
関東公方との対立をどう自分に有利な事態に持っていくかの方が重要となっていて、誰の血筋であれ(仮に義貞の血筋であろうと)役に立つものなら何でも利用しようという意識になっていたとしても不思議ではない。
義教としては持氏側の京兆家からは家督を取り上げたかった。
そのために対立する礼部系の家純を引き立てた。
469日本@名無史さん:03/11/28 23:53
義貞の祖父・基氏って1324年まで生きてるんだね。
470日本@名無史さん:03/11/29 04:00
>>463
岩松氏は戦国時代半ばに家老の横瀬氏に実権を握られ、その横瀬が由良氏を名乗って、新田義貞の血を引いているとかいい始めた。
横瀬としては、主家横領を正当化するために主家に匹敵する(もしくはそれ以上の)血筋であることを言いたかったのだろう。
一方、主家である岩松も対抗上、自分らも義貞の血筋であると言い始めた。
したがって、仮に系図が改竄されたものだとしても、それは江戸時代以降ではなく、その前の戦国期にはすでに行われていたことになる。
471日本@名無史さん:03/11/29 08:03
>>470
それを言い始めたのが、
由良氏が高家として召抱えられた時
なんだわ。
472日本@名無史さん:03/11/29 10:49
>>470
戦国期の家柄意識では、新田>岩松なのか?
473日本@名無史さん:03/11/29 10:54
足利家時の諱は、やはり源義家を意識しているのだろうか?
474日本@名無史さん:03/11/30 00:50
>>470
でも結局明治維新後、新田岩松家は華族に列したが、由良家は華族になれなかった。
やはり、新田岩松家の場合は新田義貞後裔であろうと元々の岩松家の血筋であろうと鎌倉以来の名族の子孫であることに変わりないが、由良家の場合は明治政府としてもその系図にかなりの疑念を持っていたと言うことだろう。
475金融監督庁:03/11/30 00:59
足利銀行があるのに、なぜ
新田銀行ってないの?
476日本@名無史さん:03/11/30 02:54
>>472
そりゃそうだろう。新田の方が岩松より古い(=由緒がある)。
でなけりゃ由良にせよ岩松にせよ、わざわざ新田を名乗る必要もない。
477日本@名無史さん:03/11/30 02:56
>>471
永禄8年、横瀬成繁は将軍義輝の御供衆に取り立てられ「由良」と称した。
由良とは新田郡の地名で、新田義貞誕生伝説のある台源氏館、由良別所には新田氏の菩提寺・圓福寺もあり、
いわば新田源氏の聖地。
圓福寺の開祖・四代政義から別れた支族がこれを名乗り、上野では知られた名族。
この姓を名乗ることで、自らの家系が岩松と対等であることを主張したとされている。
以後、「新田由良」を名乗り、合戦では「新田」を称して出陣。
これは、他の「北条」「武田」「上杉」らに名前負けしないよう努めたともいう。
‥‥高家になれたのも、一応そうした「実績」が過去にあったからではないかな。
478日本@名無史さん:03/11/30 03:03
>>477
永録といえば、同じ頃、松平元康も朝廷に徳川姓の使用を認可して貰い、正規に「新田氏の末裔」であることを公言しているね。
やはり周囲には、吉良、今川、武田といった名門が割拠していたし、
対抗上、それに匹敵する血筋であることをぶちあげるのは大いにメリットがあったのだろう。
まぁ、氏素性のあやしい戦国大名が、自分も名門であると主張する時の、
便利な一族が新田氏だった、ということなのかもしれない。

479日本@名無史さん:03/11/30 04:17
足利銀行って本社は宇都宮なんだ〜。
480日本@名無史さん:03/11/30 10:12
足利銀行は虫の息
481日本@名無史さん:03/11/30 22:54
>>476
戦国の成り上がり大名にとっては、新田も岩松も名族であることに変わりないと思うが。
482日本@名無史さん:03/11/30 22:59
新田銀行って何でないの?
483日本@名無史さん:03/12/01 01:58
>>474
岩松が華族になれたのは、幕末の当主俊純が上州で新田勤王党を結成するなどして、
官軍に協力的だったからじゃないか?
大名や公卿以外は維新に特別な功績でもない限り華族になれなかったはず。
分家である清水岩松家は最後まで佐幕派だったので士族にとどまっている。

484日本@名無史さん:03/12/01 02:32
>>483
由良家も幕末維新期にいろいろ活動している。
なお、南朝の遺臣の子孫の場合、名和家や菊池家の子孫も華族になっている。
485日本@名無史さん:03/12/01 03:19
http://homepage1.nifty.com/sira/index.html
梅松論と難太平記の現代語訳
486日本@名無史さん:03/12/01 23:00
ニュースで知ったけど足利銀行って破綻してたんだね
487日本@名無史さん:03/12/01 23:13
平成14年まで北チョンに送金してたクソ銀行
         ____
         .|足利銀行|\
         .|ロロロロロロロ| |
         |ロロロロロロロ|  |゙
         .|ロロロロロロロ|; .|           ブレイク!ブレイク!
     ;(⌒〜|ロロロロロロロ|〜⌒);;  ア、アイゴー!! ヽ(゚∀゚)ノ
      (⌒;;⌒;;〜⌒);;〜⌒) <`Д´>         (  )
                   ノ( ノ)       < <
                     く し
488日本@名無史さん:03/12/02 00:08
つか足利氏とは全然関係ないし。
489日本@名無史さん:03/12/02 00:56
まぁ、売国という共通項はあるがな。
490日本@名無史さん:03/12/02 01:17
>489
あと「北朝」も(ワラ。
491日本@名無史さん:03/12/02 02:51
>>490
???
492日本@名無史さん:03/12/02 21:34
明治期の帝国議会で南朝正統論を主張した菊池武夫男爵は、南朝の遺臣の菊池氏の子孫。
493日本@名無史さん:03/12/03 01:09
>>485
篠塚伊賀守についての検証にワラタ
494日本@名無史さん:03/12/03 17:16
新田銀行>>>>>>>>>>>>>足利銀行
495日本@名無史さん:03/12/03 23:03
>>494
新田銀行ってなに?
496日本@名無史さん:03/12/04 00:01
>>477
政義失脚後、朝氏までの本宗家当主は
「新田」を名乗らず、
「由良」を称してるよ。
497日本@名無史さん:03/12/04 02:00
>>496
二月騒動で世良田頼氏が失脚した時点で、新田基氏(義貞の祖父)が新田氏の惣領職を回復していると思うよ。

新田基氏(1253−1324 享年72歳)
498日本@名無史さん:03/12/04 04:25
>>496
そりゃ、単に由良に住んでたから
由良殿とか何とか呼ばれていただけだろ。
確かに「新田横瀬由良正系図」には
政義以降朝氏(同系図では政朝とも記す)
までを「新田由良〜」と記すが
別に新田を名乗っていないわけではない。

世良田頼氏が『吾妻鏡』では
「新田三河前司頼氏」
で登場するのと同じようなものだろ。
499日本@名無史さん:03/12/04 04:47
足利銀行って地名由来なのか?
維新時に旧華族が下賜金使ってこのての事業始めてる例がひどく多いけどさ。
500日本@名無史さん:03/12/04 05:14
>>499
足利武千代は二代目支配人だけど、
創立とは直接関係ないしな。
501日本@名無史さん:03/12/04 05:19
>500
サンクス。
やっぱイメージ的な印象で考えがちだよな〜〜
502日本@名無史さん:03/12/04 22:37
新田銀行は現在の群馬銀行

群馬銀行>>>>>>>>>>>>>足利銀行
503日本@名無史さん:03/12/05 00:50
んじゃ足利銀行も栃木銀行に名称変更すればいいのにね。
504日本@名無史さん:03/12/05 13:16
>>498
由良孫三郎景長妻紀氏
越後守護代 由良入道
由良三郎左衛門、同美作守
由良越前守光氏
由良新左衛門具滋
という人々は横瀬氏と関係ありそうだな。

505日本@名無史さん:03/12/05 13:18
506日本@名無史さん:03/12/05 17:29
>>498
でも、新田基氏の代になって館を由良から世良田に移転しているのに
「世良田殿」とは呼ばれてねーべ?
やはり惣領権の問題がここには絡んでいたような気がするんだが。
507日本@名無史さん:03/12/05 21:15
>>504
そういや、足利氏被官にも横瀬氏がいるんだよな。

>>506
そもそも新田氏惣領が世良田に移り住んだ
事自体が怪しい。
『太平記』の記述では、

新田庄世良田には、有徳の者多しとて、
出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、
「六万貫を五日中可沙汰。」と、
堅く下知せられければ、使、先彼所に莅で、
大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。
新田義貞是を聞給て、
「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ
返々も無念なれ。争か乍見可怺。」

とあるが、ここで使われている「館」というのは、
『新田町誌』第4巻によれば、単に所領という意味でしかなく、
世良田付近をうろついていた、ということであろうと言う。
508日本@名無史さん:03/12/06 02:48
>>507
横レスすまんがちょっと教えて。
「館」が所領という意味なのはどのように実証されているの?
509日本@名無史さん:03/12/06 03:27
新田ってまとまりないね。
一族の大半が最終的に足利方に寝返ってるし。
510日本@名無史さん:03/12/06 03:41
>>506>>507
憶測で書くのを許されたし。
当時、新田荘内で最もひらけていたのは世良田の地だったんでは?
名刹とされる長楽寺もあるし、何より幕府公認の惣領がそれまで世良田氏であった関係から、
当時の人々には、世良田こそが新田荘の中心地という意識が強かったと思われる。
となると、新田基氏が惣領職を回復するのとほぼ同時に館を世良田に移すというのも
あながち怪しいともいえず、状況から見てむしろ自然ではないかと思うのだが、どうだろう。
511日本@名無史さん:03/12/06 07:28
>>509

新田氏庶分流
第1期(12c末):里見、山名、徳川、強戸
第2期(13c初):大島、鳥山、豊岡、世良田、岩松、田中
第3期(13c中):堀口、大館、江田、長岡、鶴生田
第4期(13c末):一井、脇屋、細谷、西谷、安養寺、今井、金谷、谷島、綿打、荒井、牛沢、太田、大井田、泉沢、村田、田部井、寺井、金井、薮塚

この中で足利方についたのは、第1期の山名、2期の岩松、大島、3期の大館(の一部)くらい。
特に新田義貞と近しい第3、4期はほとんどが足利に寝返ってはいない。
第1期でも里見なんかはずっと義貞に協力的だし、義貞没後に帰順はしたが、どちらかというと反幕府色の濃い鎌倉公方に従ったというべきで、寝返ったという言い方は相応しくない。
512日本@名無史さん:03/12/06 08:07
徳川?
513日本@名無史さん:03/12/06 16:52
里見氏について語ろう
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/975767764/l50
スレたってから三年
ようやく533レスになりました
514日本@名無史さん:03/12/06 16:54
↑おめでとう。
515日本@名無史さん:03/12/07 04:14
里見スレみたよ
1年近く唐揚げのみ

唐揚大王ひとりでコツコツがんばったかんじ
516日本@名無史さん:03/12/09 14:05
大河ドラマ太平記では、岩松氏は足利からも新田からも半独立の武家として描かれているな。
517日本@名無史さん:03/12/09 20:24
>>473

「義家」よりも叔父の足利家氏かその子で、従兄弟の足利宗家(むねいえ)の
「家」の一字を拝領して名乗った、言う方が自然。

家時は父頼氏を若くして失い、その時、2歳だった為に祖父泰氏の配慮で叔父家氏
が幕府に代わりに出仕していた。

その為に元服の時に叔父の一字を貰って名乗ったのでは?
518日本@名無史さん:03/12/09 22:11
「時」の字は北条一門の誰かから貰ったのか?
519日本@名無史さん:03/12/10 23:28
>>518殿

特別誰の…と言うのは分からない。ただ、一字偏諱は貰った場合、諱の上につける
のが殆どだから、誰から貰った…という事はない様だと思われ。

強いて言えば、北條氏を嫌悪してた家時の思いだったかとも思う。
520日本@名無史さん:03/12/11 01:22
>>519
>北條氏を嫌悪してた家時の思い

どういう思い?
521日本@名無史さん:03/12/11 02:33
>>519
当時は室町以降のような主従関係による一字偏諱を与えたものではなく、加冠の際の烏帽子親の一字をもらったもの。
その場合は北条時宗(烏帽子親は宗尊親王)のように下になることもある。
522日本@名無史さん:03/12/11 03:52
>>519
嫌悪してたという話は難太平記あたりを鵜のみにした小説家の想像でしょ。
自分だって北条氏の血をひいているわけだし。
523日本@名無史さん:03/12/11 04:03
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069789879/l50
このスレ、三戦板にしてはレベルが高い。
524日本@名無史さん:03/12/11 04:51
>>521
北条得宗家については、泰時(初名:朝時)、経時、時頼、時宗が将軍の偏諱なのは、名前を見ればわかるけど、末期の得宗(貞時、高時)は将軍の偏諱を受けていないね。
それと対照的に、鎌倉後半期の赤橋家の当主(義宗、久時、守時)が3代続けて将軍の偏諱を受けているのは興味深い。
でも、高時の嫡子邦時は、守邦親王の偏諱か?

あと、足利義氏の庶長子で吉良家と今川家の祖となった長氏は、6代執権長時の偏諱なのだろうか?
525日本@名無史さん:03/12/11 04:58
>>522
家時は母が北条女でないため、家督相続予定者ではなかった。
伯父の家氏や兼氏と同じ。母が北条女である頼氏(家時父)が
足利三郎を名乗り(偶然三男でもあった)家督を相続した。
足利家は代々北条氏腹の男子が三郎を名乗って家督を相続する。
尊氏も家時と同じで母が上杉女で本来家督相続予定者ではなかったが
高義の早世によって、貞氏の後継者となった。
家時も、もし頼氏と北条女との間に男子が生まれていたら
その弟に家督は継がれただろう。彼のみが通字「氏」を含まないのも意味深い。
526日本@名無史さん:03/12/11 05:18
>長氏は、6代執権長時の偏諱なのだろうか?

それはないだろう。長氏のほうが年長。1世代違う。
まあ、改名した可能性もなきにしもあらずではあるが。
527日本@名無史さん:03/12/11 05:20
頼氏の死後、その庶兄・足利(斯波)家氏が一時的に家督を代行していたのは事実だと思うが、最終的に頼氏の子の家時を足利の家督と決めたのは、泰氏だよね。
おそらく、家氏に家督を代行させてもその系統を正式の家督とせずに、あえて母が北条氏でない家時を正式の家督としたのは、家氏が北条(名越)時章・教時の甥であるからだろう。
泰氏(1270年没)の晩年は、二月騒動の直前期に当たる。
やはり、得宗家との関係を重視して、名越家と血縁的に繋がる家氏の系統を避けたのだろう。
528日本@名無史さん:03/12/11 05:40
代行ってのは、始めからその流に嗣がせる予定なんて無いよ。
家時が成長するまでの文字通り代行だよ。父親が早世した場合、伯叔父が
代行するのはよくあること。いったん頼氏が嗣いだのに、庶長子の流れに
移るなんてことないよ。名越と関係あろうが無かろうが、そんなことはあり得ない。
しかし、この代行の実績によって、家氏流は後々足利宗家にとって厄介な
存在になったのは事実。
529日本@名無史さん:03/12/11 05:46
>>526
足利(吉良)長氏 1211−1290
北条(赤橋)長時 1229−1264
530日本@名無史さん:03/12/11 05:49
>>525
ここは新田スレでもあるので質問だが、新田氏も足利氏と同様に、鎌倉中期以降は「義」ではなく「氏」を通字にしているが、義貞に至って突然「義」に戻るのは何故?
531日本@名無史さん:03/12/11 06:02
>>529
さんくす。18才ちがうだけですか。
にしても、弟の泰氏は遙かに早く泰時からもらってるわけでしょ。
長時が執権になったのが1257年だから、長氏は47才。
まあ、改名もありえんことではないですが‥‥
これ以前に長氏と記された同時代史料があればいいわけですね。
もし、無ければ別名から長氏に改名した可能性がある。兼氏→義顕のように。
それも面白いですね。長氏の別名ってまだ知られてないんじゃ。
ちょっと調べてみます。
532日本@名無史さん:03/12/11 17:15
長氏の生没年は、確実な史料からは確定できないだろ?
『吾妻鏡』には、1228〜1243(1243年は足利大夫判官として)
の登場だが、
嫡子満氏が上総三郎と呼ばれていることを考えていると、
これ以降に上総介になっていると見ていいんだろうね。

そもそも、長時が長氏からの偏諱を
受けている可能性だってあるよな。
533日本@名無史さん:03/12/11 21:33
>>524
細かいけど泰時の初名は頼時。
朝時は弟。
534日本@名無史さん:03/12/12 00:26
>>532
でもとりあえず、足利義氏(1189年生)の子で足利泰氏(1216年生)の兄だとすると、生年を1211年という説は、大きく外していることはないと思う。
535日本@名無史さん:03/12/12 00:28
>>530
義貞の父の朝兼(朝氏)の時に御家人役を回復していたからだという説がある。
それまでは世間を憚って「義」の字を使用するのを控えていたということらしい。

関係ないけどこんなページがあった
http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/nittakoubou.htm
536日本@名無史さん:03/12/12 01:55
足利(銀行)予備軍
健康な経営に見えるが実態はデンジャー

まさに室町幕府の実態ですな
537日本@名無史さん:03/12/12 01:56
>>535
では、足利は「義」の字を使用するのを何故控えていたの?
538日本@名無史さん:03/12/12 02:35
>>537
北条氏から偏諱を賜ることで北条氏の警戒心を解くため。
結局やはりとゆうか、北条を滅ぼしたのは足利だったけど。
539日本@名無史さん:03/12/12 03:27
俺初心者だから良く知らないけど新田は足利の兄の子孫だから新田義貞は源氏の総本山として義の字を使ったんじゃない?
足利尊氏とか足利は新田の弟分だから新田に遠慮して義を使わなかったんだって。
だけど足利が新田をやっつけちゃったから義満とか義政は義を使うんだとか。
これって友人の歴史ヲタクが言ってたから間違いないよ。
540日本@名無史さん:03/12/12 04:49
>>537
警戒心を解くって要素もあったのかもしれんけど、
単純に、一番の権力者とお近付きになり、そのご機嫌をとっておいて損はないってことが第一じゃないのかね?
結果として足利尊氏が北条に叛いたからって、歴代の足利当主がみんな内心では北条に反感を持っていたのを必死に隠していたっていうのは、
ドラマや小説としては面白いんだろうが、あまり現実的じゃないように思うぞ。
541日本@名無史さん:03/12/12 04:58
ある意味凄いのが佐竹。
新羅三郎義光以来、明治維新に至るまで歴代当主にはすべて「義」がつく。
542日本@名無史さん:03/12/12 05:10
佐竹か・・・。

ある意味凄いのがミノモンタだな。
543日本@名無史さん:03/12/12 08:21
足利義氏の「義」は父親である義兼から?それとも北条義時から?
544日本@名無史さん:03/12/13 00:52
>>543
義兼は、義時よりかなり年上なので、偏諱の可能性は薄い。
義氏なら、義時の偏諱の可能性はある。

ところで、仁木氏と細川氏の祖である義実の名前は、源実朝の偏諱?
545日本@名無史さん:03/12/13 01:43
>あまり現実的じゃないように思うぞ。

執権は所詮、将軍家の家政機関職員。本来他の御家人達より格下。
中でも足利は御家人の中で格はトップ。それが北条如きの下に
つくのは極めて恥。北条と足利は要するに秀吉と家康、あるいは
師直と尊氏同盟武将。旧主の家臣が跡を継ぐと、旧主の同盟者達が
面白くないのは当然。本来自分たちの家臣と同格なのだから。
まあ、北条はよく続いたほう。自分が将軍にならなかったのもあるが。
546日本@名無史さん:03/12/13 02:33
>>545
>本来他の御家人達より格下。

なんで?君は院や摂関家などの家政機関の構成を知らないね。
547日本@名無史さん:03/12/13 03:07
>>546
そりゃ北条も御家人だけどさ、執権てのは家政機関の長じゃんか。
足利で言えば高だろ。お前こそ家政機関の構成知らねえんじゃねえの。
執権てのは政所別当だぜ。ひっくり返っても将軍なんかにゃなれん。
それに対して足利は家柄的には問題なし。実際泰氏は担がれかけたわけだ。
548日本@名無史さん:03/12/13 04:17
鎌倉末期には、それこそ得宗は準公卿の扱いを受けていたわけだが。

>足利で言えば高だろ。
準摂関家待遇であった鎌倉将軍家(後は親王だが)と、
鎌倉時代の足利氏では比較になりませんな。
院や摂関家の家司には、公卿クラスがいるのが
当たり前だったんだが。

>執権てのは政所別当だぜ。ひっくり返っても将軍なんかにゃなれん。
最近では、北条氏は将軍になれなかったのではなく、
敢えてならなかった、とする説もあるわけだが。

>実際泰氏は担がれかけたわけだ。
確かにそういう説もあるけど、事実関係は不明だよな。
実際足利は鎌倉幕府が滅びるまで将軍になれなかったことが
全てを物語ってるんじゃないのか?
549日本@名無史さん:03/12/13 04:35
泰氏が担がれかけたって二月騒動のこと?
普通は二月騒動に足利は無関係という説のほうが一般的だよね。
一昨年の大河で二月騒動に足利が関わっていたようなストーリーにしたのは、すべてドラマ制作者のつくったフィクション。
550日本@名無史さん:03/12/13 12:02
>>547
どんな説を言ってもかまわんけど、もう少し冷静にね。
そのくらいでキレるなんてみっともないですよ。
551日本@名無史さん:03/12/13 12:41
>>544

義兼は義家以来の源氏の通字で、

義氏は明らかに北条義時の「義」の偏諱
552日本@名無史さん:03/12/14 00:20
>院や摂関家の家司には、公卿クラスがいるのが
>当たり前だったんだが。
何ピントのずれたこと言ってんだよ。
それでその家司だった公卿クラスが院や摂関になれたかい。
北条が将軍になるってのはそおゆうことだぞ。
おまえ頭大丈夫? 一回脳味噌取り出して洗浄してきな。

>準摂関家待遇であった鎌倉将軍家(後は親王だが)と、
>鎌倉時代の足利氏では比較になりませんな。
本当にお前ヴァカだな。
別に何だっていいんだよ。
摂関家と家司でも、その家司階級の人間某とその某家に仕える従者でも、
はたまた地主と小作でも。主従関係で従者が下克上する話をしてんだよ。
得宗と内管領だって同じだよ。内管領は実権とっても内管領。
執権は実権無くてもなれるのは北条一族。そおゆう話をしてんだよ。
わかったかい?秀才君。

>敢えてならなかった、とする説もあるわけだが。
それは俺も否定してないよ。それが長続きした原因だろ。
秀吉みたいに無理に身分不相応のことやると潰れるわけだ。

>実際足利は鎌倉幕府が滅びるまで将軍になれなかったことが
全てを物語ってるんじゃないのか?
俺に言わせりゃ足利だから鎌倉幕府滅亡後将軍になれたんだよ。
執権やってたような家じゃなれん。

>そのくらいでキレるなんてみっともないですよ。
わりいな。こおゆう脳味噌つるつるでどおにもしようのないやつと
会話してるとイライラしてくんだよ。
553日本@名無史さん:03/12/14 00:35
>>545
北条も足利も御家人という意味では
鎌倉将軍家の家人なわけで。
その家政機関のトップの方が格上なことは当然だろが…。
554日本@名無史さん:03/12/14 00:40
>>545
>>547
>>548
>>553
将軍家=鎌倉殿=右大将家ってことですな。

555日本@名無史さん:03/12/14 00:50
>家政機関のトップの方が格上なことは当然だろが…。

プ 家司と家人で、家司のほうが格上でつか。
救いようのないヴァカだな。一生ゆってな。
556日本@名無史さん :03/12/14 00:51
>>552
面白いこと言うね。
結局、足利は将軍になった、という事実があるから、
鎌倉時代もこの結果から見てしまいがちだけど、
その辺りの事実関係、鎌倉時代に足利氏がどう見られていたのか、
ということを考えてみる必要があるんじゃないかな。
結果論ではなく、その辺を具体的な史料を挙げながら
語って欲しいね。
そこまで必死に煽るんだから、それくらい簡単でしょ?

自分の書き込みを冷静に見て、周囲からどう見えるか考えてみな。
557日本@名無史さん:03/12/14 01:24
>鎌倉時代に足利氏がどう見られていたのか、
北条にとっちゃ目の上のたんこぶさ。
時には下にも置かないもてなしをしながら、時には真綿で首を絞める
ようなことをする。足利歴代も爆発寸前になりながらも、何とかうまく
やってきたよ。頼氏・家時の死という犠牲はあったが。

おまえこそ悔しかったら552・555に反論してみろ低能
558日本@名無史さん :03/12/14 01:45
>>557
>足利歴代も爆発寸前になりながらも、何とかうまくやってきたよ

その考え方自体が間違っていたとしたらどうよ?
結局それは『難太平記』の記述が元になってる考え方で、
鎌倉時代の足利氏が、必ずしも北条氏に反抗的だったとする具体的史料なんかないよ。
足利義氏は歴代北条政権に友好的だった。
泰氏の出家事件も、真相は分かっていないし、
足利義氏が出家させた、という説もある。
頼氏の死因は、これも全く原因不明。
史料的には、『吾妻鏡』弘長元年の記事を終見とするだけで、
僅かに『近代足利市史』が地元の伝承を引用しながら
事件があった可能性を示唆するだけで、
今のところ何らかの事件に巻き込まれたという説も見たことがない。
家時の死も、霜月騒動との関連性を指摘する説が強いが、
北条時宗没後すぐに没したという史料もあり、
これが事実なら安達泰盛vs平頼綱という図式の霜月騒動とは全く関係がない。

どうよ。君の言ってる事は矛盾だらけじゃないか。
それとも、自分の説が一体何を引用したのか、
ソースを明示出来るかね?

大体、北条の目の上のたんこぶというのも、
随分古い説だな。
559日本@名無史さん:03/12/14 02:05
わかった、わかった。事件の解釈なんてのは人それぞれだ。
あんたがそう思うのは自由。
でね、俺がそもそもキレてるのは546の書き込みのせいなわけだ。

>>545
>本来他の御家人達より格下。
なんで?君は院や摂関家などの家政機関の構成を知らないね。

これに対して俺は547・552・555を書いたわけだ。545以来言ってることは一つ。
北条は足利より格下。両者の関係が俺の言うようだったろうが、
あんたの言うように友好関係だったろうが、その根っこ、根底は
これにつきる。つまり実際に牛耳ってたやつより格上のやつが存在した。
これには異論ないね。
560日本@名無史さん:03/12/14 02:11
もりあがってまいりました
561日本@名無史さん:03/12/14 02:28
>>559
あなたのソースは2つの大河ドラマ「北条時宗」と「太平記」ってことでよろしいか?
562日本@名無史さん:03/12/14 03:13
プ 誤りを認めたくないんで、その話にこだわりますか。

五味文彦『大系日本の歴史5鎌倉と京』(小学館)
「だが法治合戦によって三浦氏が滅ぼされると、北条氏の鉾先は足利氏に向けられ、
建長三年には泰氏が勝手に出家したとして、所領を没収されている。
ここに足利氏の不遇の時代が始まった。」

俺はあんたみたいな専門家じゃないんで、啓蒙書を示すのがせいぜいだ。
ま、しかし俺のような考え方が一時期通説化してたことは事実だ。
最新の研究動向はしらん。あんたのような考え方が通説とも思えんが。

>どうよ。君の言ってる事は矛盾だらけじゃないか。
また俺をキラすようなことゆうね。あんた矛盾て語の意味知ってるかい。
あんたが書いてるのは「真相は分かっていないし、‥‥という説もある。
‥‥説が強いが」、つまり、とも考えられる、ってことだけで、全然矛盾をついてないよ。
ま、否定しないけどね。俺はあんたと違って。そうゆう解釈もあるだろうさ。
ま、一つ分かったことは、あんたがまだ論理構成能力のない若者だってことだ。
それに対してムキになったのは私も大人げなかったな。ただ弁解させてもらえば
546の文章にはカチンときたわけだ。家政機関の研究についちゃ自負があるからね。
とゆうわけで、足利より北条が格下でいいね。
563561:03/12/14 03:44
いや、おれは別人だよ。ついさっき見に来ただけ。
ただ、おれも専門家じゃないけど、読んでいて説得力あるのは>>558の人なんだがな。
君も専門家じゃないんだったら「ああ、そういう説もあるのか」って態度でいいんじゃね?
何か固定観念にガチガチに固まっているように見えるし、それを指摘されただけで喧嘩腰になることもないと思うが。
1つたずねたいのは、中世の武家社会における「格下」とか「格上」っていうのは、
具体的にどういうことを指しているのか説明して貰えんか?
564日本@名無史さん:03/12/14 03:47
んじゃ、これは『吾妻鏡』
宝治二年閏十二月廿八日条なんだが、

今日。足利左馬頭入道正義与結城上野入道日阿。
相論書札礼事。被宥仰両方。被閣之。此事。
去比就雜人事。自足利遣結城状云。結城上野入道殿。足利政所云々。
日阿得此状。投返事云。足利左馬頭入道殿被御返事結城政所云々。
僕卿禅門其憤之訴。申子細云。吾是右大將家御氏族也。
日阿仕彼時。于今現存者也。相互未及子孫。忽忘往事。現奇恠。
爭無誡沙汰哉云々。仍被下彼状於日阿之時。
日阿稱不能費紙筆而献覧一通文書是則右大將家御時。
注為宗之家子侍交名。被載御判之御書也。
彼禅門嚴閣総州與日阿〈于時結城七郎。〉
可為同等礼之由分明也。
右京兆〈于時江間小四郎〉為家子專一也。相州披覧之。
召留件正文於箱底。染御自筆書案文。
被授日阿剰被副送同御自筆消息状。
其詞云。
右大將家御書正文一通給置候訖。被載曩祖潤色之間。
為為家規摸之故也。但御用之時者宜隨命。
且為後日、以自筆。所書進案文候也云々。
日阿還施面目云々。

これの解釈はどうよ。
粘着おっさん。
565日本@名無史さん:03/12/14 10:50
足利義氏は仁治年間に、北条時房が没後、北条泰時が没するまでの1年間、
政所下文に署名しているのが見えるわけですが、
これについてはどう思われますか?
将軍家の家政機関の職員でなければありえない行為ですよね?
566日本@名無史さん:03/12/14 19:11
鎌倉の前半期の足利の当主の妻は基本的に代々得宗家の娘だが、後半期には金沢や赤橋などの得宗家以外の北条一門の娘になる。
ここに、足利家と北条得宗家の関係の若干の変化を読みとることができるであろう。
567日本@名無史さん:03/12/14 20:22
>>566
娘がいなかったのか、それとも血が濃すぎてきて。。。
568日本@名無史さん:03/12/14 20:42
>執権は所詮、将軍家の家政機関職員。

え?執権って幕政機関の職員じゃないの?
569日本@名無史さん:03/12/15 01:00
>>568
だ・か・ら!!!
幕政機関=将軍家の家政機関なんだって。

京都の朝廷が「公」なのに対して、
鎌倉の幕府は鎌倉殿の「私」なんだよ。
その幕府が「公儀」化するのは足利義満の室町殿からなんだよ。
570日本@名無史さん:03/12/15 04:55
>>569
鎌倉幕府の全部と足利幕府の2代めまではずっと「幕政機関=将軍家の家政機関」で、
義満の代以降はそれが「公儀」になる、というのはどういうこと?
何がどう変わると家政機関→公儀になるのかを教えてほすい。
571日本@名無史さん:03/12/15 10:33
>>569
からっつーかだけっつーか。
572日本@名無史さん:03/12/15 14:16
>>569,570
室町殿=日本国王
だったのは義満〜義教。
それ以外の時代の鎌倉・室町幕府は制度上
鎌倉殿・室町殿の家政機関ということ。
鎌倉幕府の政所は前右大将家政所なんだよ。

もっとも、幕府が日本の最高意思決定機関になるのは、
時代が下って江戸幕府から。
これは豊臣秀吉が武家関白だったおかげによるもの。
573日本@名無史さん:03/12/15 14:30
>>545
源頼朝と足利氏が同盟関係にあったと思ってるのか?
その解釈が間違っている。

鎌倉幕府ってのは
棟梁である鎌倉殿と御家人が一対一で主従関係を結んで成立してるのであって、
そこには「同盟」なんていう観念はないんだよ。
つまり、北条氏と足利氏は御家人という意味では対等であり、
幕府内での地位では鎌倉殿の執事という意味で北条氏の方が格上ということ。

ところで、中世でいう同盟は一揆結合(いっき けちあい)ってことなんだけど。
574日本@名無史さん:03/12/15 14:35
>>547
この時代の氏長者は久我氏じゃなかったっけ?
しかも制度的に征夷大将軍=源氏というのはまだ確立される前だろが・・・
575日本@名無史さん:03/12/15 16:07
例えば足利高氏が笠置に出陣したのは誰の命令によるものなんでしょうか。
小説なんかだと高時ってことになるわけなんですが、形式上は誰が高氏に
命令できる立場にいたんでしょうか。
得宗、執権、将軍、天皇といろいろいるわけですが。
識者の方教えてくだされ。
576日本@名無史さん:03/12/15 18:49
>>575
実質的には得宗だが、形式的には将軍の名前で命令を出すんだろ。
577日本@名無史さん:03/12/16 00:00
>>572
だから、それらの違いっていうのは具体的にどこにあるの?ってことを聞いているんだけど。
例えば2代義詮政権と3代義満政権では、どこがどう変わったことによって
「将軍家家政機関」であることを脱却して「公儀」になり得たのか。
そして、7代義勝政権は、どこがどうなってまた「家政機関」に戻ってしまったのか。
‥‥てことを説明してほしいわけ。おながいします。
578572じゃないが:03/12/16 00:22
義詮までは武家の棟梁。
義満は将軍職を義持に譲り、隠居した後も国政を執った。そして日本国王と明が公認したことで、武家のみではなく、公家にも君臨していることを内外に誇示し、「公儀」となった。

簡単に言うといったところ。
今谷明の本なんかにわかりやすく書いてある。
579日本@名無史さん:03/12/16 00:31
どーでもいいが、大阪市に由良内科という病院がある
580日本@名無史さん:03/12/16 00:40
>>575
なんだかんだ言って、やはり日本だけに
評定衆による合議だったんでねえの?
高時は大して政治力に恵まれてないし。

得宗が不在でしかも執権が未成年なんて時でも
ちゃんと政治は動いてたしな。
581日本@名無史さん:03/12/16 00:58
>>580
内管領がいるからだろ。
582日本@名無史さん:03/12/16 01:24
足利進悟氏が今年1月8日、急性心不全で亡くなっていた。
現足利家当主は長男の義弘氏。
ところで現在の新田家の当主って誰なの?
新田義宗直系の子孫になる訳だが。
583日本@名無史さん:03/12/16 01:34
新田恵美かな?
おにゃん子クラブにいたじゃない。
584日本@名無史さん:03/12/16 01:42
>>583
マジレスすると、もう嫁に行って名字変わった
585日本@名無史さん:03/12/16 01:56
新田恵美はAV。
おにゃん子は新田恵利。

新田義宗の子孫という人の家が鑑定団みたいな番組で紹介されていた。
楠木正成の書状があった。北陸地方だったな。確か。
奥富氏の本で義宗の子孫の堀江氏の事を書いた本があった。
義宗の子孫に詳しい方、いませんか?
586日本@名無史さん:03/12/16 04:25
>>578
明の公認って、そんなに大きな影響力あったの?
あの当時の明が軍事的な脅威や圧力を日本にかけていたわけでもないのに‥‥。

まぁ要するに、武家と公家、双方に公然と抑えがきき、
対外的にも国の代表機関となったのを「公儀」というような解釈でいいのかな。
でも、そうなると鎌倉幕府が元の使者と折衝した話はどうとらえればいいのか。
日本を代表して外国と接したんだから、「公儀」ってことにはならん?
それとも、本来なら朝廷の役割だが、その業務を幕府に委託してきた、と考えるべきなのか‥‥
587日本@名無史さん:03/12/16 04:28
>>582
元男爵家の現在の当主は新田陽子さん
588日本@名無史さん:03/12/16 04:41
なんつうか、知識を入れれば入れる程頭が固くなってる感じがするね。
589日本@名無史さん:03/12/16 12:27
>>576, 580
レスどうもです。
出陣命令のために発給した文書なんて残ってないものなんですか。

それと、執権には御家人に軍事的な命令を下す権限はないということ
なんでしょうか。
590日本@名無史さん:03/12/16 13:17
>>589
基本的には、右大将家政所下文とか関東下知状とかだろ。
将軍の御教書が一般化するのは室町期。
591日本@名無史さん:03/12/16 17:32
>>589>>590
要するに体裁はどうあれ、権限はあったってことだな。
592日本@名無史さん:03/12/16 23:52
>>578
本来、天皇より移譲された軍令大権を執行するのが幕府(近衛大将→征夷大将軍)であったのが、
元(高麗)よりの書簡が幕府に取り込まれていた太宰府から鎌倉を経由して京の朝廷へ送られた。
このことで朝廷(特に大覚寺統)の怒りを買い、後の倒幕運動へ繋がった。
つまり、鎌倉時代末は未だ外交権は朝廷にあったとされる。



593日本@名無史さん:03/12/17 00:21
>>585
漏れの家も自称義宗の子孫。モロ怪しすぎ。どうやら戦国末期に滅び行く足利一族主家を見捨てるために捏造したらしい。
594日本@名無史さん:03/12/17 00:55
595日本@名無史さん:03/12/17 01:19
>>590
「関東御教書」正嘉三年二月廿日 (深堀記録証文)

  京都大番役事、自明正月一日至同六月晦日、 随番頭足利三郎(頼氏)之催、可令勤仕之状、依仰執達如件、
    正嘉三年二月廿日    武蔵守(北条長時)(花押)
                相模守(北条政村)(花押)
     深堀太郎(時光)殿
596日本@名無史さん:03/12/17 01:34
上野国新田庄内江田郷(新田伊予守・世良田義政跡)事
 早く高田遠江守相共に、彼の所にのぞみ、去月28日の御下文の旨を守り、  下地を新田治部大輔に沙汰し付けるべきの状、
 仰せによって執達くだんの如し、
   貞治3年11月9日      左近将監(上杉憲春)
        讃岐駿河守(師綱)殿
597日本@名無史さん:03/12/17 03:41
山名時氏の「時」は北条氏の誰かの諱?
598日本@名無史さん:03/12/17 16:10
>>597
通字じゃない?
時氏以外にも「時」の字が着く人物がいるし。
599日本@名無史さん:03/12/17 21:46
>>586
鎌倉幕府も公儀化を指向していた。特に元寇以降は非御家人への動員権などで権限強化。天皇家の分裂も相対的に幕府の権威を上げさせた。得宗専政への反発もあり鎌倉幕府はアボ〜ン。
600日本@名無史さん:03/12/18 01:18
室町殿に成り代わって600
601日本@名無史さん:03/12/18 01:35
>>598
足利将軍とか徳川将軍はむやみに「義」とか「家」を名乗らせなかったけど、
北条得宗家はそのあたり寛容だったのかな?
602日本@名無史さん:03/12/18 01:44
>>601
末期の足利将軍は「義」を大盤振る舞いしていたよ。
戦国期の将軍の偏諱は基本的に献金と引き換え。
で、下の字よりも上の「義」の字のほうが相場が高かった。
徳川将軍も、家康時代には「家」を偏諱として与えた例が結構ある。

まあ、鎌倉期の偏諱はのちの時代のそれとはかなり性格が違うけど。
603日本@名無史さん:03/12/18 03:20
>>602
いや、大盤振るまいでも何でも、とにかく許可なしでは勝手に名乗れないという雰囲気は一応あったわけでしょ。
北条氏の場合その辺りどうだったかのか?ってことなんだけど。
604日本@名無史さん:03/12/18 03:34
佐竹氏の「義」は通字だね。
あれは足利将軍の偏諱ではないはず。
605日本@名無史さん:03/12/18 06:55
>>604
なんせ源氏なんで偏諱を受けなくても「義」はつかえるもんで。
606日本@名無史さん:03/12/18 21:31
>>603
鎌倉時代の偏諱は、室町以降のそれとは根本的に違うってわかってる?
607日本@名無史さん:03/12/18 22:05
あのーそのーもうスレ違いっていうかかなりどうでもいいネタですが、
私が住んでる府中の分倍河原がまんま古戦場で、
駅のロータリーにある新田義貞さんの像も何百回も見てきたんですが、
私はこの地元を称えるべきですよね?






なんか私が住んでるところが当時死体を埋めてたところみたいで、
かなりガクブルなんですが・・・・・大丈夫ですよね?
608日本@名無史さん:03/12/18 23:58
>>607
折れの住んでるところは古戦場どころか江戸時代は処刑場だったところなんだが・・・
609日本@名無史さん:03/12/19 00:19
小塚原か?鈴ヶ森か?
610日本@名無史さん:03/12/19 05:18
>>606
わからない。どう違うの?
611日本@名無史さん:03/12/19 09:31
>>607
分倍河原の戦いって、新田義貞が勝ったっけ?
確か、分倍河原では敗れて、翌日の関戸の戦いで挽回して、鎌倉へ向かったと記憶しているのだが。
612日本@名無史さん:03/12/19 11:24
小手指
613日本@名無史さん:03/12/19 12:10
新田義貞の進攻ルートって、
小手指が原→久米川→分倍河原→関戸→洲崎の順でしょ?
614日本@名無史さん:03/12/19 22:06
>>611
5/15,16の2日間、分倍・関戸河原での激しい攻防があり、
最終的にそこを突破した新田方の勝利(=鎌倉方の敗北)といえる
615日本@名無史さん:03/12/19 22:07
新田義貞の進撃ルート
上野国府攻撃〜利根川渡河〜深谷〜人見〜将軍沢(以上まで新田氏の勢力圏)
〜笛吹峠〜女影〜堀兼〜小手指ケ原(久米川)〜武蔵国分寺〜府中〜5/16分倍河原〜関戸
〜町田〜藤沢(二俣川?〜戸塚?)〜5/18鎌倉包囲〜5/22鎌倉陥落
616日本@名無史さん:03/12/19 23:39
洲崎は今の戸塚じゃなかった?
617日本@名無史さん:03/12/20 16:42
小手指ヶ原の戦い(現・埼玉県所沢市)
久米川の戦い(現・東京都東村山市)
分倍河原の戦い(現・東京都府中市)
関戸の戦い(現・東京都多摩市)
洲崎の戦い(現・横浜市神奈川区)
618日本@名無史さん:03/12/20 18:28
正しくは分梅
619日本@名無史さん:03/12/21 03:41
>>615
5月16日に分倍河原で戦っていて、18日に鎌倉を包囲って、少し速すぎない?
620日本@名無史さん:03/12/21 10:07
>>619
分倍河原からJR南部線で鹿島田で下車し、徒歩で横須賀線新川崎駅だったら
可能かもね。
621日本@名無史さん:03/12/21 16:44
JR束は義貞方だったから十分可能
622日本@名無史さん:03/12/21 19:04
そうなんだ
623日本@名無史さん:03/12/21 19:42
納得すんな
624日本@名無史さん:03/12/21 21:26
>>620
南武線で川崎まで行って東海道線のほうが近いと思うが。
625日本@名無史さん:03/12/21 21:30
JRが寝返った時点で北条に勝ち目はなかったわけだ。
626日本@名無史さん:03/12/22 19:15
>>607心配するな。むしろ誇りを持て。
住んでたところが偶然ちょうど古戦場って羨ましいぞ
627日本@名無史さん:03/12/22 20:38
京急だけは北条方
628日本@名無史さん:03/12/22 20:42
>>627
どうやらそれも違うらしいぞ
三浦氏が寝返ったからな
629日本@名無史さん:03/12/22 21:18
>>607
そう、称えるべきだ。称えていればご利益もある。
逆に、馬鹿にしたり貶したりしたら‥‥どんな恐ろしい祟りがあなたを見舞うかもわからんぞ。

630日本@名無史さん:03/12/24 13:32
>>607
日本の祟り神は丁重に扱うと福をもたらすものです。
菅公をみよ。
631日本@名無史さん:03/12/24 13:46
632日本@名無史さん:03/12/24 20:06
徳川光康
有栖川の再来な予感
633日本@名無史さん:03/12/24 20:27
>>619
マジレスすると、それだけ新田軍が、北条の予測をはるかに超える速さ&強さを示したといえる。
『増鏡』では「わづかなる新田などいふ国人に、たやすくいかでは滅ぼさるべきとおぼへしに」
などと、暗に鎌倉方が事態をそれほど重大視していなかったような記述をしているが、
その手の油断はやはりあったかもしれない。
634日本@名無史さん:03/12/25 01:14
>>620
北条も得宗の実弟である泰家を総大将にした大軍をすみやかにさし向けているわけだし、油断したということではないよ。
だいたい「増鏡」なんて都にいたお公家さんの憶測を書いているに過ぎないわけでね。
状況からみると、鎌倉の防衛ラインというのは河川で防ぐのがせいぜいで、
街道の途中に強固な城塞らしきものも無いため、一旦そこを突破されると、あとはひたすら敗走し、
都市そのものが要塞化した鎌倉に立て篭るほかに方法が無くなった、といったところではないかな?
635日本@名無史さん:03/12/25 05:10
>>633
分倍河原って京王線の駅名になってるとこだろ?
確かに、2万の軍勢が分倍河原から2日で鎌倉へ行くのはかなり驚異的な速さだ。

>>634
てゆうか、関東平野に勢いに乗った敵の大軍が入ってきたら防ぎようがないんだよな。
平野だから、抜け道はいくらでもあるし、街道沿いにだけ防御用の城塞をつくっても無意味だし。
はっきり言って、関東に本拠をおく政権は、基本的に関東に入ってくる前に敵を倒すもとができなかったらおしまい。
あとは、関東地域内に敵となりそうな勢力を残さないことかな。
後年の江戸幕府は、これをきっちり実行したけど。
636日本@名無史さん:03/12/25 09:44
>>635
分倍河原からなら2日で行くでしょう。八王子あたりから鎌倉街道で一本道だし。
637日本@名無史さん:03/12/25 15:23
>>635
半日で行ける。
638日本@名無史さん:03/12/25 20:56
>>635
なる…
ところで、関東平野での大きな合戦ってどんなのが挙げられるでしょうか?

スレチガイ気味でスマソ
639日本@名無史さん:03/12/25 23:15
>>638
鎌倉期に難攻不落といわれた鎌倉が、南北朝〜室町には何度落ちたことか・・・。
640日本@名無史さん:03/12/25 23:58
>>636,>>635
現在の府中街道〜鎌倉街道だから、
615のルートで所沢方面から
分梅河原〜中河原〜聖蹟桜ヶ丘〜多摩〜
町田〜小田急江ノ島線沿いに南下したのでは?

多摩川を越えてから丘陵地帯だから大軍の通行は時間がかかりそうだけど、
当時は騎馬武者中心だから2日でいけるかもな
641日本@名無史さん:03/12/26 01:11
>>635
>関東平野に勢いに乗った敵の大軍が入ってきたら防ぎようがないんだよな。

小田原城は何度も防ぎ切っていますが。
642日本@名無史さん:03/12/26 02:44
>>641
いや、本拠地に乗り込まれないうちに、関東平野内のどこかで迎え撃って撃退するのは、難しいっていう意味です。
小田原城は、結局籠城戦に持ち込んだでしょ。
てか、こういうことがあるから、小田原城をはじめ、関東地方の中世の主要な城は大抵は平野の端につくられていることが多い。
その意味では、大田道灌の江戸城は、平野のど真ん中につくったという点で画期的だった。
643日本@名無史さん:03/12/26 04:25
>>642
要するに平野部での迎撃戦は相手より兵力的に劣っていた場合は不利なので、
結局どこかの要害を拠点に籠城戦に持ち込むほかないってことだね。
鎌倉幕府の場合はそれが鎌倉という都市への籠城だったわけだ。
しかし、これは結果論めくけど、鎌倉幕府も街道の諸処に城でも築いておけば、どこかで新田軍の猛攻を食い止められたんじゃないかなぁ。
少なくとも義貞の挙兵から僅か2週間ちょっとで滅亡してしまうような事態は避けられたんじゃないかと思う。
まぁ、幕府としてはまさか本家本元の関東で、そんな大軍が自分たちに向って攻めのぼって来るなんて事態、ほとんど想定していなかったんだろうけど。
644日本@名無史さん:03/12/26 06:16
>>643
そういった戦国期以降のような防御戦は、当時は想定されていないし
仮にされたとしても実行は困難だろう。
武士の多くは自分の土地を離れて長期の籠城に耐え抜けるほど
兵士としてまだ「専業化」していない。
だとすると、城を構えるにしても
その場所全てが北条氏の所領である必要が生じてくる。
楠や赤松の籠城が成功したのは、そこが彼らの地盤だから出来たのであって
よそ者が乗り込んでいって出来るような簡単なものではない。
…まぁ、そうした様々な過程を経た上で、戦術とか戦法というものも
時代にあわせて変化していく、ってことは確かだけどね。
645日本@名無史さん:03/12/26 18:53
>>644
> そういった戦国期以降のような防御戦は、当時は想定されていないし

想定していたのは西国からの攻撃のみだったんじゃないかな。
平家の富士川の合戦や承久の乱といった過去もあるし、
中先代の乱直後の足利vs新田でも分かる様に、東海道の途中で攻防し、
箱根で決戦をすれば大軍を防げると踏んでいたんだと思う。

鎌倉は関東武士の代弁機関だという奢りはあっただろうね。
646日本@名無史さん:03/12/26 22:05
確かに奥州からの北畠軍の前に2度もアサーリ陥落してるしな>鎌倉
もっとも、2回とも攻められた側がさっさと放棄したって感じだけど。
あ、中先代の時もそうか。いや、正平一統の時もだな。
結局、鎌倉が難攻不落という神話は新田義貞によって覆されてしまったから
その後はそこに立て篭って徹底抗戦するという選択肢は失われたってことか。
647日本@名無史さん:03/12/26 22:27
>646
立て篭っても、下手すると逃げ道無いもんな。
攻め難いかもしれないが、いざとなると脱出するのも困難。それが鎌倉という町。
648日本@名無史さん:03/12/26 22:43
>>647
そういうことだね。
街自体が城と言われる天然の要害・鎌倉なら、籠城戦をやれば、ある程度は持ちこたえることが、場合によっては可能かも知れない。
しかし、鎌倉に籠もるといざというときに脱出できなくなるのも事実。
鎌倉北条氏滅亡以後、鎌倉で籠城戦をしようというものは現れなくなった。

>>645
そうだね。
のちの時代でもそうだけど、関東に対する西からの攻撃の場合は、箱根までで防ぐのが基本。
逆に、敵が箱根を越えたら、鎌倉は保たない。
中先代の乱のあと、後醍醐帝と戦うのを嫌がって、鎌倉で出家騒ぎまで起こした足利尊氏も、尊氏追討の新田軍が箱根に迫ったところで、建武政権からの離脱を最終的に決意するわけだし。
649日本@名無史さん:03/12/26 22:50
そういえば、大河ドラマでは、鎌倉からの脱出を勧める長崎円喜や金沢貞顕に対し、高時が「死んでも離れない」と言って拒否する場面があったな。
結局その後、南北朝〜室町期には、鎌倉に本拠をおく勢力は、敵が迫ると、さっさと鎌倉を放棄するのが常道となった。
そして、最終的に享徳の乱以後、鎌倉は城塞としては完全に機能を失った。
650日本@名無史さん:03/12/27 01:34
大河ドラマ『太平記』第21回「京都攻略」(平成3年5月26日放送)より

円喜「高資、新田が謀反とはまことか?」
高資「はっ」
円喜「国府の孫四郎はいかがいたした?」
高資「不意を襲われて、討ち死にしたとの知らせも。また、川越まで落ち延びたとの知らせも」
貞顕「数万の新田勢が笛吹峠を超えたという知らせもある」
円喜「数万?あの貧乏御家人の新田が?皆、頭がどうかしておるのではないか?新田ごとき、多くて千か二千の数じゃ。こちらから七、八千の兵も送れば済む騒ぎじゃ。
・・・それよりも、京にて謀反起こした憎き足利、近江の佐々木、こたびの新田、皆源氏ぞ!それがいっせいにそろって寝返ったのじゃ。ほかにもおるかも知れん。諸国の源氏が皆寝返るかも知れん。案じられるはこのことぞ!」
貞顕「言わぬことではない。それゆえそれがしは足利は外へ出すなと申したのじゃ。野に放った虎じゃわえ!」
円喜「高資、京の様子はどうじゃ?」
高資「未だ洛中にて謀反の兵との合戦が続いておる由」
円喜「千早の楠木攻めの二万騎はいかがいたした?あれを京へまわせと申したであろう?」
貞顕「六波羅はどうでもよい!京は遠すぎる。それよりも、今、この鎌倉に向かっている新田をまず討つべきであろう。足下に火がついておるのじゃ!」
・・・いや、これは違う・・・これでもない・・・関東図面はどれじゃ!関東図面はどれじゃ!」
使者「申し上げます。ただいま、京・六波羅より火急の使者にござります。京・六波羅は、9日、謀反軍の手に落ちた由にござりまする!」
一同「なにっ!」
使者「都の若様は、もはや態勢を立て直さず、ことごとく討ち滅ぼされたと・・・」

円喜:長崎円喜、高資:長崎高資、貞顕:北条(金沢)貞顕
651日本@名無史さん:03/12/27 04:31
>>648
考えてみれば、あの時東海道を攻め下る新田軍と呼応して、
奥州の北畠軍、更に中山道からも官軍が三方から同時に鎌倉に迫っていたんだよね。
ただ、新田軍の進撃が早かったのとは対照的に、奥州軍の南下が遅れてしまった。
もし、この三つの軍が腹背からほぼ同時期に足利軍を攻撃出来ていたなら、
あそこで足利尊氏の命運は尽きていたかもしれない。
その意味では、後醍醐天皇の戦略は非常にスケールが大きかったけれど、
いかんせん通信手段が限られていた当時のことだから、日程に狂いがでるのも仕方なかったな。
652日本@名無史さん:03/12/27 04:52
鎌倉が主邑にならなくなったのは、一つには
船で攻められればお手上げだったからってのもある。
653日本@名無史さん:03/12/28 02:41

鎌倉は天然の要害だからまだいいけど、江戸ってもし籠城戦やったら、大丈夫なの?


654日本@名無史さん:03/12/28 03:40
>>653
江戸城ってとてつもなくでかいんですけどね。
西は内藤新宿から東は両国橋まで。北と南は忘れたけど、
ともかくとてつもなくでかい。
655日本@名無史さん:03/12/28 04:59
>>653
篭城戦の勝利=援軍が来るまで持ちこたえる
という意味なら江戸城は十分に耐えられると思う。

伊達と上杉が共謀して謀叛を起こしてなんかの間違いで
会津、水戸、白河、宇都宮諸藩の連携がうまくいかず
反乱軍が江戸に突入して江戸城を包囲することになってもいきなり
陥落することはありえない。

「なんかの間違い」ではなく史実のように大政奉還、鳥羽伏見で賊軍になる、
といって経緯で江戸城を包囲されるような状況なら軍事的抵抗を長引かせることは
可能だろうけど政治的にはもう負けが決まったようなものだからあっさり
降伏してしまった。

>>654
東は隅田川をいざ篭城の時には防御線にすることは戦況によっては
ありえたかもしれないけど西はせいぜい外堀を防御線にするのでは?

656日本@名無史さん:03/12/28 06:27
>>655
内藤新宿から赤坂見附あたりまでは、付け城というか、丸になってますよ。
当時は幾重も木戸があり、暮れると通るのも面倒なほど木戸番が立っていました。
御苑あたりや四谷あたりは、攻めるのは大変だったろうと思います。

ま、焼玉使うんでしょうが。
基本的に、多摩川あたりまでが防衛線だったと思われますね>南
んで、綾瀬〜赤羽〜板橋あたりが北の防衛線だったかと思われます。
657日本@名無史さん:03/12/28 07:47
>>646
選択肢から外れたわけではない。
建武二年三月、中先代の乱の前哨戦ともいうべき乱(渋谷・本間一族の反乱)が起きた時は
極楽時口での戦闘で、足利直義&渋川義季の軍がこれを撃退、ひとまず防衛に成功している。
結局は、その時の攻撃側・防衛側双方の兵力差とかによるんだろうが、
物凄い大軍に完全に包囲でもされない限り、鎌倉はまだまだあの時代においては有用な要害だったといえるだろう。
658日本@名無史さん:03/12/28 08:20
>>656
なるほど。外堀の西側も城郭の一部なのね。

でも多摩川や綾瀬〜赤羽〜板橋のラインで戦うとなるとこれはもう篭城戦
じゃなくて野戦のような気がする。
659日本@名無史さん:03/12/29 00:43
東と北は、隅田川が最終防衛ラインだろう。
しかし、西と南は、人口建造物以外に防衛に使えるものはない。
多摩川(江戸城から10キロ以上)じゃ、遠すぎないか?
660日本@名無史さん:03/12/29 05:37
>>658>>659
防御側がどういった戦術をとるのかは、城兵と攻める側の戦力差、士気の程度、また攻めて来る方角によっても様々で一概には言えない。
ただ、なるべくなら本城からできるだけ遠い所で敵を撃退したい、と考えるのは理解できる。
したがって、もし守る側に戦力的な余裕があれば、城外の要衝に陣を布くなり、砦を構えるなり、
適当なところで迎撃しようとするのは、ごく普通の戦術といえる。
野戦→城側不利→籠城戦へ という流れだね。
鎌倉防衛もそうだったし、新しいところでは会津若松もそうだった。
おそらく江戸も徹底抗戦するとすれば、第一に箱根で防ぐことになっただろうな(小栗上野介の案のように)。
661日本@名無史さん:03/12/29 18:47
>>651
「太平記」によると、箱根・竹の下の合戦は新田義貞が連戦連勝の勢いに乗っていたはずなのに、一気に攻め込まず、
三島で暫く滞留したことで足利側に立ち直る余裕を与えてしまった、ってことで批判されているんだけど、実際はどうだろうね?
やはり、箱根という屈指の天険に攻め込む以上、万全を期して奥州軍なり東山道軍の到着を待ち、
彼らが足利の背後及び側面に到着するタイミングをはかってから三者一斉に攻めかかる、という方が勝つ確率は格段に高くなるし、むしろ妥当な作戦だと思うんだが。
662日本@名無史さん:03/12/29 21:20
>>661
だったら三者一斉に攻めなきゃ。
中途半端な判断が仇になったね。
それから、この時期の義貞軍は日和見主義者が多かったから、
裏切りや情勢如何で逃げに投じる者が多かったのも敗因か。
663日本@名無史さん:03/12/30 04:10
>>661
俺もそう思う。
それと、たび重なる勝利で多くの降伏者を受け入れていての戦いになるわけだから、
軍団の再編成もなく一気に力押しに攻め続けるのも危険な賭けだった。
そう考えると、万全を期して大事に行こうとし、結果的に勝利を逸した義貞よりも、
南下の遅れた北畠軍や、抵抗らしい抵抗も無いのにやたら進軍の遅かった東山道軍の責任こそ大きい。
>>662
>だったら三者一斉に攻めなきゃ。
それは結果論。
三島到着の時点では北畠軍や東山道軍がまだ当分来そうもないってことは分かっていない。
そのことを確認するためにだって、ある程度の時日は費やされてしまう。
日和見が多かったというのには同意。
結局、それが三島に長期留まってでも、あくまで三軍揃い踏み攻撃という選択が出来なかった一番の理由。
664日本@名無史さん:03/12/30 18:47
責任の無い立場から敗因を云々するのって、ともすれば安直な「采配」批判になりがちなんだよな。
その意味では、野球とかサカーの監督批判にも通じるものがある。
「なぜあの時Aという作戦をとらずにBをやったのか!」という類だけど
でもAだったら確実にうまくいっていた、という確証も実際のところは何も無い。
ただ、それが永遠に放棄された作戦、選択されなかった手段であるだけに
周囲は「もしもそっちだったら勝てていたかも」という感情が先に立ってしまう。
だから、そっちで失敗していたらしていたで「なぜBをやらなかったか」という批判にも簡単になり得てしまうわけだ。
665日本@名無史さん:03/12/31 03:04
>>663
東山道軍を率いていたのは誰なの?
666日本@名無史さん:03/12/31 03:33
新田軍は、合戦当初より足利軍より少ない兵力で勝利を続けており、その疲労度も実際のところ、かなりあったと思われ。
だから、三島で北畠らの到着を待つという手段を取らずに一気に攻めかかっていったとしても、
足利軍は尊氏の旗本や小山・結城といった北関東の精強な軍団が無傷のまま健在なうえ、
しかも箱根という要害に立て篭っているわけだから、新田方が敗れる可能性はかなり高かったと思う。
もちろん実際にはやってみないとわからんけど、指揮官としてはそういう危惧が生じたとしても無理もない。
667日本@名無史さん:03/12/31 03:40
>>666の続き
だとすると、あくまで三島で北畠の到着を待ちつづけた方が良かったのか、という話になるが
これもまた、数日中に到着する、という確報でもあればともかく、それも無い。
更に長対陣していると、日和見の多い新田軍に動揺が走り、士気も低下してくる。
勢いを取り戻した足利軍が山を下って三島に攻めかかってきたら、これを防ぐのはまず不可能。
てなわけで、味方は待ち続けても来そうもないし、やむを得ず単独で攻撃、ということになったのではないかな。
それにしても、足利方の妨害があった北畠が遅れて来るのはまだ分かるんだが、
東山道軍って一体何してたんだろうね?
矢矧、手越、鷺坂などで合戦ばかりしていた新田軍よりも到着が遅いなんて一体‥‥。
668日本@名無史さん:03/12/31 03:57
>>665
誰だっけ‥‥四条隆資?
>>667
東山道は季節柄、雪道(&山道)を進んで来たから遅くなったんでは?
669日本@名無史さん:04/01/01 00:43
うーん、なるほど。
いいかえれば、北畠軍の到着を遅らせた斯波家長こそが
あの合戦の影のMVPだな。
(表のMVPは寝返った佐々木道誉と大友貞載)
670日本@名無史さん:04/01/01 00:43
鎌倉時代のお侍様を真似て、酒の肴に味噌をなめる新年
671日本@名無史さん:04/01/01 15:19
>>669
道誉の寝返りは、やっぱりわざとなの?
672日本@名無史さん:04/01/02 23:27
道誉ってどうよ?
673日本@名無史さん:04/01/03 01:51
>>671
成りゆきで裏切ったくせに後日「あれは全部計略だったんだよ」と言い張ったんでは?
674日本@名無史さん:04/01/03 02:47
ところで、超亀レスなんだけど、新田荘の領域は石高換算でいくつ??
なんてのがあったけど、確か500町程度じゃなかったっけ??500町だと5000石程度?
一郡で本当に5000石なのかなぁ。。。渕名荘で200町弱だから2000石程度??
どうなんだろ??もちろん、畠も多いだろうし。。。うーーーん
675日本@名無史さん:04/01/03 12:45
>>673
当初足利方だったけど手越で弟が討取られた挙句、本人も負傷して新田に降伏。
その後、箱根ですぐにまた足利に寝返る‥‥うーん卑怯過ぎる。
まぁ、これら全てを計算づくでやったとしたら凄いし
後年の道誉を見ると、その可能性も否定できないんだけど
この時点では単純に二股かけていただけって気もするな。
676日本@名無史さん:04/01/03 18:38
でも結局、足利の一門・根本被官以外の武将で尊氏にもっとも忠実だったのが、佐々木(京極)道誉であることも事実。
677日本@名無史さん:04/01/04 01:02
源義家が戦勝祈願をした地元の八幡様に初詣してきたよ
678明日があるさ by足利泰氏:04/01/04 02:19
足利あるさ 明日がある 若い僕には夢がある
いつかきっと いつかきっと 天下をとれるだろう
足利ある 足利ある 足利あるさ

幕府をおこした奴がいる 幕府に残ったオレがいる
あせることないさ あせることないさ 桔梗にい言いきかす
足利ある 足利ある 足利あるさ

新しい執権は鼻たれ小僧 権謀術数が通用しそう
これはチャンス これはチャンス 陰謀めぐらそう
足利ある 足利ある 足利あるさ

ある日突然考えた どうしてオレはがんばっているんだろう
桔梗のため? 子孫のため? 答えは4代後
足利ある 足利ある 足利あるさ

近頃の若いやつはとよく言うけれど 自分の頃よりだいぶまし
大目にみよう 大目に見よう 幕府が討てないくらいに
足利ある 足利ある 足利あるさ

足利あるさ 明日がある 若い僕には夢がある
いつかきっと いつかきっと 天下をとれるだろう
足利ある 足利ある 足利あるさ

足利ある 足利ある 室町幕府ができる〜♪
679日本@名無史さん:04/01/05 20:06
>>636
5月16日の分倍河原では北条軍とまる一日戦って敗れているんだよ。
そして、その翌日(17日)も関戸で北条軍と戦っている。
その状況下で18日中に鎌倉を包囲するのは、はっきり言って神業。
680日本@名無史さん:04/01/05 22:44
>>679
昔の合戦って勢いみたいなモンじゃん。
ワ〜ッと攻める、ダ〜ッと逃げるみたいな。

分倍河原の後に新田側に援軍が来てなかったっけ?
恐らく鎌倉包囲まで続々と来たと思うんだよね。
つまり新田の主軸自体は身軽で、動く処に反鎌倉勢が
勝手に(?)くっついて来るみたいなカンジだったんじゃないかな?
憶測だけど。
681日本@名無史さん:04/01/06 01:01
>>679
梅松論によると5/14に北条泰家が差し向けられ、5/15の合戦で北条軍が大敗したと記述されている。
しかも「分倍・関戸での戦い」って感じで、分倍と関戸の合戦を区別して書いていない。
これだったら5/18に鎌倉包囲というのも充分あり得る。
>>680
そういうのはあんまりないと思うんだが。
まず、総大将に届け出て着到状を貰わないと後で恩賞にありつけないし
小人数でバラバラに攻め寄せたって各個撃破されるだけでものの役に立たないだろう。
682日本@名無史さん:04/01/06 01:25
>>681
分倍河原ではいったん敗れたが、援軍が続々とやってきたので、翌日多摩川の対岸の関戸で勝利し、勢いに乗ってそのまま鎌倉へ向かったと、聞いたのだが・・・。

そうすると、
5月8日・・・新田義貞挙兵、上野国府奇襲
10日・・・笛吹峠を通過
11日・・・小手指ヶ原の戦い
12日・・・久米川の戦い
14日・・・分倍河原の戦い
15日・・・関戸の戦い
18日・・・洲崎の戦い、鎌倉を包囲
21日・・・義貞が手勢を率いて稲村ヶ崎へ
22日・・・新田軍が鎌倉市中へ突入、幕府滅亡
って感じか?
683日本@名無史さん:04/01/06 02:04
>>681
書き方が悪かったかな?
日毎に膨らむ新田軍だから、分倍河原の敗戦でも容易に合流・再編出来たし、
恐らくは鎌倉を包囲する迄にもその数は膨らんだであろう、という事。
包囲時に初めて合流した勢力もあったんじゃないかな?
これは最初から大軍を組織して進軍するのとは条件が異なると思うんだよね。
684日本@名無史さん:04/01/06 06:08
新田次郎の小説だと、新田軍は一旦は分倍で敗れたものの、その後は敵を油断させるために
広大な武蔵野原野の各地にわざと分散してひそむ。
敵の物見がこの様を見て「新田軍は1度の敗北で散り散りになった」と報告したことから
北条軍は「これなら明日はもう楽勝」とすっかり安心して夜営。
そこへ夜中のうちに軍団を再集結させた新田軍が、朝一番で北条の陣へと突入したので
不意を打たれた北条方は総崩れとなった、という感じで書かれていた。
685日本@名無史さん:04/01/06 09:53
小説の話をされても・・・
686日本@名無史さん:04/01/06 17:32
>>685
俺は太平記をうまく解釈している話だと思うんだけどねぇ。
小説だからって頭から全て否定されても‥‥
どうせ細かい戦術的なことやなんかは確かな資料から分ることなんてあまり無いんだし
可能性としてこういうのもあったんでは、ってことではマズいのか?
それなら、こんなことあり得ないっていう論拠を示してくれや。
687日本@名無史さん:04/01/06 23:33
尊氏"やい、おまいら!!幕府ができますた。室町に集合しる!
後村上"詳細キボンヌ
義満"1392は南北朝合一ですが、何か?
後小松"南北朝合一キターーーーーーーーー
後亀山"キターーーーーーーーーー
後醍醐"南北朝合一程度で騒ぐ厨は逝ってヨシ
尊氏"オマエモナー
義持"--------勘合貿易終了-------
義教"--------勘合貿易再開-------
富子"再開すなDQNが!それより息子うぷキボンヌ
赤松"嘉吉の乱うp
義教"↑誤爆?
義昭"将軍age
義政"ほらよ息子うぷ>富子
↑の弟"息子?降臨!!
義昭"将軍age
義輝"15第将軍ageんな!sageろ
義昭"将軍age
義輝"将軍age厨uzeeeeeeeeeeee!!
朝倉"ageっていれればあがると思ってる香具師はDQN!
細川&三好&松永"弱い将軍がいるのはこの幕府ですか?
義晴"氏ね
義栄"むしろ生きさせて
義昭"将軍age
義輝"義昭必死だな(w

出典
http://academy.2ch.net/history/kako/1014/10144/1014489813.html
688日本@名無史さん:04/01/07 00:58
>>674
近世の石高制と較べてもあまり意味無いような‥‥
農業技術も違うし、経済的な単位も違うでしょ。
同時代の他の荘園との比較なら意味あると思うけど。
689日本@名無史さん:04/01/08 15:23
本日1月8日は足利家前当主足利進悟氏の1回忌です。

新田男爵家は新田の分家ですよね?
新田本家は存在するんですか?
690日本@名無史さん:04/01/08 16:52
そこで新田恵美だよ
オニャン子倶楽部の
691日本@名無史さん:04/01/08 18:00
恵利ではなかったか
692日本@名無史さん:04/01/08 18:17
AV女優
693日本@名無史さん:04/01/08 20:02
http://www.heart.dnc.ac.jp/htjssjsvu0102/2932/sub29321C4XX03348340.html

現在の足利家当主。教授ですな。
694日本@名無史さん:04/01/08 20:11
>>689
新田男爵家は、新田岩松家の末裔。
しかし、戦国時代以降の岩松家の公称では、室町時代の岩松満純は、新田義宗(義貞の三男)の子で岩松家の養子になったことになっている。
つまり、公称の上では、新田惣領家の血も引く。
695日本@名無史さん:04/01/08 22:41
奥富敬之氏の本だったと思うんですが
新田義宗の嫡男、貞方の子孫の事を新田家嫡流で子孫も現存すると
書いてあった様に記憶しているんですが本当ですか?現在どうなってるんですか?
新田男爵家は貞方の弟、満純の子孫と称しているんですよねぇ。
貞方の子孫こそ新田家嫡流になるんでしょ?!
歴史の本を読んでも書いてあるのは義宗あたりまでだからそのあとの歴史が分からない。
ご存知の方、おられますか?
696日本@名無史さん:04/01/08 23:02
全然関係ないけど、荻生徂徠の子孫。やはり儒教研究者です。
>>http://www.yone.ac.jp/kyouiku/gakka/nihonshi/ogyu.html
697日本@名無史さん:04/01/09 07:47
>>695
レスの答えにはならんけど‥‥
だいたい嫡流とかそういうのは
時の権力とか世の中にどう認められているか、という部分が大きいので
仮に新田貞方の直系子孫が健在であれ、世間の認識では
男爵家の方が嫡流ってことになってしまうと思う。
698日本@名無史さん:04/01/09 10:53
>>695
そもそも貞方って実在するの?
本当に義宗の子なの?

一応系図上では由良氏が貞方の子孫になってまかったっけ?
本当は小野姓らしいけど…
699日本@名無史さん:04/01/09 14:50
前出の奥富氏の「上州 新田一族」によれば義宗の子供は
長男貞方、次男満純(岩松)、三男貞氏(由良、横瀬)となっている。

上記3人以外にも諸系図には義宗の子供として宗親、親季、義続、義隆、義陸、行啓など。
これらは信憑性が低いとの事。奥富氏「新田堀江家の歴史」より。

義宗以降ははっきりしないって事なんですかねぇ。
詳しい方の登場お待ちします。
700日本@名無史さん:04/01/09 20:55
奥富さんの著書なんか信じるなよ。
特に新田氏(清和源氏全般だが)系の著書は
俗説をそのまま書いており、
現在の研究レベルからは遥かに遅れている。
はっきり言って全く信用できない。

新田氏系の系図は
千々和実『新田義貞公根本史料』
(後に『新田氏根本史料』として再版)
に大体掲載されている。
ただし、基本的に義宗以降の系図は信用できないのは、
どれも一緒。

実名は不明なものの、嘉慶2年(1388)7月28日に、
「新田殿一族二人」
が京において討たれているが(『常楽記』)、
これが新田義貞の子孫の可能性はあるかもね。
701日本@名無史さん:04/01/10 04:00
>>698
由良(横瀬)家が新田義宗後裔というのは、岩松家以上に信憑性が低いらしい。
明治政府も由良家の系図には、全く信をおいておらず、その結果、由良家は華族に昇格できなかった。
702日本@名無史さん:04/01/10 04:43
横瀬氏はあきらかに小野姓
703日本@名無史さん:04/01/11 01:52
>>700
あっ!
ウチはその子孫です。
704日本@名無史さん:04/01/11 19:12
伊勢原市の堀江医院
705日本@名無史さん:04/01/12 21:50
昭和50年5月22日、福井市藤島神社での新田義貞記念式典に新田氏の
子孫として、伊勢原の堀江家、新田岩松家、石川県の喜多家が招待された
と書籍にありました。
喜多家というのが新田氏の子孫とされている事を始めて知りました。
新田「誰」の子孫なんですか?義宗でしょうか?
だったら信憑性のほどは・・・やはり「?」なんですか?
706日本@名無史さん:04/01/12 22:00
金沢支社の喜多課長が新田義貞の子孫とは・・・
今度五月人形の兜を被らせてみよう。
707日本@名無史さん:04/01/12 23:18
一番ウソ臭くなくて
嫡流に近い新田氏の子孫は何家になるの?
708日本@名無史さん:04/01/12 23:47
岩松とか・・・
残ってるかどうかわからないけど大館とか・・・
709日本@名無史さん:04/01/13 02:57
「喜多家」で検索したところ
「喜多郡に住した新田氏の子孫が能登守護畠山に仕え・・・」
「源氏の名門新田義貞公の末裔で・・・」とあった。
畠山氏は足利一門でしょ。足利一門に新田義貞の子孫が仕えたのかなぁ?
なぜ足利の世に岩松家が「義宗の子満純」を養子にしたのかと同じ様に疑問が。
新田はこの時代天下のお尋ね者だったはず。足利一門がそう簡単に義貞の血を引く者を
養子や家来にするとは思えないし、逆に義貞の血を引いているならそうなるとも
思えないし、やはり家名に箔を付ける為の後世の脚色でしょうかねぇ。
710日本@名無史さん:04/01/13 03:58
>>704
伊勢原市の堀江氏は新田貞方の子、堀江新十郎貞政を初代としている。
家伝によれば「堀江」は貞政の母方の姓とのこと。
新十郎と言うからには他に大勢兄弟いたのかな?
堀江家について書かれた本を持っている。
堀江家にある最古の文書は1547年の北条氏康の書状。1409年の貞方の刑死
以降の新田氏を示す証拠や堀江家の活動伝える資料が約140年間ない。
貞方以前もなく新田の子孫説は家伝、家系図のみ。家系図だけでは信憑性に欠ける。
711日本@名無史さん:04/01/13 05:35
堀江ですらそうなら
現存する新田氏の子孫を自称している家は例外なく胡散臭いってこと?
岩松家も他のよりややましってくらいなのかな?
712日本@名無史さん:04/01/13 08:32
君たちがいま抱いているような疑問は昔なら尚のこと抱かれたろうし
厳しく詮索されたんじゃないの?
何せ現代以上に家柄とか血筋というのが重んじられた時代。
そして、ある意味その厳しい審査をパスしたものが岩松氏、堀江氏、喜多氏である、ともいえるわけだ。
実力ある戦国大名ならまだしも、このクラスで出自を詐称するのは下手すりゃ打ち首でしょ。
家系図だけじゃ信憑性に欠けるとかいっても、それを否定するほどの有力な証拠だって無いわけで。
713日本@名無史さん:04/01/13 09:58
>>712
自称義貞の子孫の方ですか?
714日本@名無史さん:04/01/13 12:09
>>712
一見もっともらしい意見なんだけど、戦国から江戸期で出自の詐称なんかザラ。
そもそも、この時代には誰もが認める名門(戦国なら足利一門)以外、
家柄だの血筋なんて重要視されていなかったよ。それが下克上の世なんだから。
源氏の武田も、鎌倉以来の島津も、素性不明の北条も、単なる「地方の有力大名」。
新田の子孫を名乗ったところで力がなければこれ以下。家柄なんてその程度。
明智光秀が国持ち大名になる以前から土岐氏を自称しても、
信長は打ち首にはしないでしょう? 逆に打ち首になった事例があれば聞きたい。

新田末裔を名乗る意味が無い時期に自称した事が、寧ろそれを実証している様に思う。
足利の力が無くなった戦国期っていうのがポイント。家康が徳川を名乗った後なら
嘘臭いけどね。
系図や代々伝わる家宝の類いが少ないのは、姿を暗ます一族としては当然だし、
後々、義貞以降のものを作り直していないのも高ポイント。
715714:04/01/13 12:24
最後が意味不明だった。証拠を変に偽造していない、って事。

逆に新田がそういう状況だったから、家康が新田傍流を自称(偽証)
出来たんじゃないかな?って憶測もある。
716日本@名無史さん:04/01/13 12:26
>714
じゃぁ「家柄だの血筋なんて重要視されていな」いんだったら、何で後北条氏は
なんで「北条」を僭称したんですか?
「家柄だの血筋なんて重要視されていな」いんだったら伊勢姓で充分じゃん。
717日本@名無史さん:04/01/13 14:09
>>716
北条を名乗ったのは「関東を征する」という思いからで、北条の末裔と
偽ったわけではないでしょ? 実際それで箔がついたワケでもないし。
伊勢姓に思い入れがないとか、出自のコンプレックスはあったかもしれないけど。
718日本@名無史さん:04/01/13 14:10
南北朝時代後期になって新田一族が何かやるっていっても
足利氏としては「ふーん、じゃ、あそこの守護にぶっ殺させろ」程度だったんじゃないの?
新田の生き残りといっても、今だったら金属バット振り回して街中を
走り回るていどのことしかできなかっただろうし。
まぁ、鼻糞みたいな存在だったんだろうけど、室町後期頃、
富裕な農民が地侍になって、先祖を詐称するには
手頃だったのが新田氏だったんじゃないかな。

ttp://www.ishikawa-c.ed.jp/~houdae/jidou/meisyo.htm
喜多家は、伊予国(愛媛県)喜多郡にに住んでいた新田氏の子孫であると伝えられています。
719日本@名無史さん:04/01/13 15:38
由良家(横瀬家)は712番氏の言われる「厳しい審査」失格だった訳ね!
寛政重修諸家譜の「由良」を見れば、
「義貞が四男を新六郎貞氏とし、義貞討死のとき、貞氏六歳にして身を隠し・・」
「・・或は新田武蔵守義宗が長男、故ありて祖父義貞の子と称す・・」
とある。年代考証、年齢考証をしっかりして、最初から義宗の子供とでも
していれば新田子孫合格、明治になって由良男爵だったかもね。
714番氏の言う義貞以降のものを作り直していないというポイントも
得られたでしょうね!
由良家は義宗以降の子孫認定試験のスタート時点でコケた訳だね!
720日本@名無史さん:04/01/13 15:51
以前、鑑定団のようなTV番組で喜多家が紹介されていました。
喜多家にはいまも楠木正成からの書状が保存されていました!
各地を転戦しても新田の子孫を思わせる何らかの証拠の品を保存している事は
何も無いというよりポイントが高いと思う。
721日本@名無史さん:04/01/13 18:29
>>714
戦国時代だって家柄・血筋はそれなりに重んじられていたよ。
そりゃ前時代までに比べれば威力はずっと衰えてはいたけどね。
下剋上にしたって「下」の奴は上を倒す大義名分に物凄くこだわっていた。
主君を倒した後だってその家まで乗っ取るには相当な手間と時間をかけるのが普通。
一旦は幼君をたてたり遠い親戚引っ張ってきて絶えた主家の名跡つがせたり。
そうでもしないと周囲が納得しなかったんだよ。
「実力第一、血筋なんて糞」だったらそんな必要無いでしょ。
722日本@名無史さん:04/01/13 18:57
>>714
>戦国から江戸期で出自の詐称なんかザラ

って書いておきながら

>この時代には誰もが認める名門(戦国なら足利一門)以外、
家柄だの血筋なんて重要視されていなかったよ

と来るのは???
そもそも、家柄や血筋が重要でないんだったら出自を詐称する必要なんかどこにも無いだろ。
723日本@名無史さん:04/01/13 19:36
>>721
下克上とは云え、封建社会というシステム、早い話が縦社会は残っているんだから
それを利用している人間には当然重要視される。但、それは制度の話で家柄とは別。
横の場合にも活きるのが血筋とか家柄じゃない?

江戸期で云えば、家柄の良い外様よりも素性の分からない譜代の方が
格が上だったりする。つまりは家柄や血筋よりも「封建制度」ってのが
大事だったという事。

問題は大名でもない奴が新田を名乗っても、何の影響も無いって事。
名乗ったからって国持ち大名になれるワケが無いし、担いでくれる奴もいない。
つまりは清和源氏の血統は糞の役にも立たない。
ましてや厳しい審査もなければ、打ち首もないよって話。
それが>>714で言いたかった事です。
724日本@名無史さん:04/01/13 19:42
>>722
おや、「家柄や血筋が重要だから詐称した」と言いたいのかな?
ではそれによってどうなったのか教えてよ。
725日本@名無史さん:04/01/13 19:53
>>722
重要でないから詐称出来た、とも言えるな。
箔を付けたいから系図を高い金を出して買っただけ。
726日本@名無史さん:04/01/13 20:05
>725
なら喜連川家は万石未満なのに何で10万石格を幕府から認められたの?
727日本@名無史さん:04/01/13 20:11
>>726
グッドルッキングサイアーインジャパン大賞受賞だろ
728日本@名無史さん:04/01/13 20:14
>>726
喜連川家は秀吉が足利の血統を絶やさない為に存続を保証されたんじゃなかったかな?
詐称ではないよ。
729日本@名無史さん:04/01/13 20:18
>>726
>>714にもあるけど『足利一門』っていうのは別格なんだよ。
そこが新田と違うところ。
730日本@名無史さん:04/01/13 20:23
喜連川家は足利で唯一の爵位じゃなかったっけ?
731日本@名無史さん:04/01/13 20:24
源義国の系統では、足利が嫡流、新田は庶流。これが常識。
732日本@名無史さん:04/01/13 20:59
http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikagaornitta.htm
↑義国流源氏の嫡流は足利か新田か?
733日本@名無史さん:04/01/13 22:04
ウチも自称新田義宗の子孫だ。戦国末期に足利一族である主家が滅亡した。その時、我が誇り高きご先祖は
「ウチは実は新田の子孫だから・・・」と言って主家を見限り、敵に寝返ったらしい。その新しい主家はし
ばらく後に国替えになった。我が誇り高きご先祖は地元に残り、武士身分を捨て、大庄屋となる道を選んだ。
734日本@名無史さん:04/01/13 22:18
>>733
“商店街の店主がスーパーの所為で廃業してそのスーパーに勤めたけど、
近所に大型スーパーが出来たので鞍替えしたまでは良かったが、
隣町店と統廃合して移転しちゃったので地元で年金生活を送った”

みたいなモンだな。
735日本@名無史さん:04/01/13 22:41
喜多━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!!
736日本@名無史さん:04/01/13 22:59
<丶`Д´>ウリは新田ニタ
737日本@名無史さん:04/01/13 23:04
>>736
荷駄隊員、役目大儀。
738日本@名無史さん:04/01/13 23:44
<丶`Д´>新田の発祥はウリナラニタ
739日本@名無史さん:04/01/14 02:04
>>719
幕末に岩松の当主俊純は新田勤王党を名乗り、東山道軍に加って会津藩兵と戦い、その功績によって男爵を授った。
つまり、叙爵の有無は勤王派として活動したか、しなかったかであって、
別に由良の経歴があやしかったからということではない。
740日本@名無史さん:04/01/14 02:04
 
741日本@名無史さん:04/01/14 02:57
>>739
名和や菊池の子孫が爵位を貰ったのは先祖のお陰ではないんですか?
この両家も明治維新の時、俊純のような活動、活躍でもして貰ったんですか?
明治政府は尊皇家の子孫も叙爵の対象にしたと読んだ記憶が・・・。
それ故に由良家もしっかりしておけばもしやと思ったんですが。
安物のネタ本だったのかな?維新前後の歴史には興味があまりないもんで。
すいません。
742日本@名無史さん:04/01/14 10:16
先祖のおかげというか、維新政府が天皇の権威付けの根拠とした
神皇正統記のおかげじゃないの?<名和とか菊地とか
743日本@名無史さん:04/01/15 20:00
家老でも爵位ないのがいるけど、家老ならば貰えるというわけでない?
744日本@名無史さん:04/01/15 22:17
久し振りに「新田堀江家の歴史」を読んだ。
堀江家は15代、18代と他家から養子をむかえ相続させた。
「新田正嫡の血」は女系でつながっているようだ。
親族に男子もいたのになぜ他家から養子なのかな?江戸期と鎌倉、室町期の相続の考え方って
かなり違ってるのかな?男系へのこだわりってどうだったんでしょう?
なぜか男系相続にこだわっている様な私は皇室スレの見過ぎかな?
745日本@名無史さん:04/01/15 22:28
堀江家って新田正嫡なの?
746日本@名無史さん:04/01/15 23:23
私の読んでいる本で、「新田氏関係の諸系図のほとんどが義宗の息男として貞方1人、
或いは、満純と2人という事実によっても貞方の惣領たる事に疑問の余地はない。」
としている。確実、良質な資料ではなく「系図において」貞方が惣領、正嫡で、
その嫡男貞政の子孫だから新田正嫡と書いたわけです。
747日本@名無史さん:04/01/16 00:58
>>741
その菊池や名和の子孫は江戸時代はどういう家だったんですかね?
単に豪農とかその程度なら由良家の方がまだ高貴な気がするんだけど。
だいたい500年も昔の祖先が名和や菊池というだけで爵位くれるものなの???

748日本@名無史さん:04/01/16 01:12
>747
名和はたしか熊本藩士。
菊池は米良氏として交代寄合。
749日本@名無史さん:04/01/16 01:48
>>747
「華族」で検索しました。下記のところが参考になるのではないでしょうか。
http:/wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html

新田や由良、足利(平島)さらに簡単ですが菊池、名和の事も説明されています。
750日本@名無史さん:04/01/16 01:53
すいません。アドレス間違ってました。httpの後//でした。
http//wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html
751日本@名無史さん:04/01/16 19:05
752名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/18 11:01
兵庫県川西市・伊丹市
753日本@名無史さん:04/01/20 03:10
>>723
>江戸期で云えば、家柄の良い外様よりも素性の分からない譜代の方が
>格が上だったりする。つまりは家柄や血筋よりも「封建制度」ってのが
>大事だったという事。

意味不明。
一般的に譜代よりも外様のほうが石高は多いし、官位も高い。
外様が基本的に幕府の役職に就かないことを指してそう言ってるのかも知れないが、
将軍家の家政機関である幕府に元々家臣でない親藩や外様が参加しないのはある意味当然。
754日本@名無史さん:04/01/20 04:00
家政機関キター!
755日本@名無史さん:04/01/20 04:05
>>753
>723ではないが、俺なりに「翻訳」するならば
「江戸期で云えば、血筋の確かな外様よりも素性の分からない譜代の方が
権威が上だったりする。つまりは家柄や血筋よりも「徳川家中心の幕藩体制」っていう
システムの方が大事だったという事」
ってことではないだろうか?
まぁ、どっちにしてもおかしな意見だけどなw
756日本@名無史さん:04/01/20 12:37
>>755=723
わかりやすいねw
757日本@名無史さん:04/01/20 17:32
なんだよ、しょっぱなに「現代以上に家柄とか血筋というのが重んじられた時代」とか
間違った事を抜かした新田厨が今頃暴れているのか?
御苦労なこった。
758日本@名無史さん:04/01/20 18:36
>>757
> 現代以上に家柄とか血筋というのが重んじられた時代
これは間違っちゃいないだろ?

> 厳しい審査をパスしたものが岩松氏、堀江氏、喜多氏である、ともいえるわけだ。
> 実力ある戦国大名ならまだしも、このクラスで出自を詐称するのは下手すりゃ打ち首
こっちは問題あるけどな。
759日本@名無史さん:04/01/21 04:44
例えば、源義経とか範頼なんかが鎌倉にやって来て、
「俺は鎌倉殿の弟です」とか言うわけだけどさ、
そいつが本当にそうなのかってことは、どういうことで見分けたと思う?
何せ、幼い時に別れたっきりで誰ひとり本人の顔なんてわからない。
当然ながら詐称とか偽者である可能性だってあるわけだ。
となると、それを信用させるに足るもの、親の形見とか家宝の類とか書き付けのようなものがあったとは思うんだが、
何を以て認定したのかという肝心な記録は何も残っていない。
しかし、そうした記録が無いからといって、じゃぁ義経や範頼は偽者だったかもしれん、なんて話にはならんだろう。
家系の出自というのも多分にそうした要素があると思う。
つまり、当時それが信用されたということは、当時の人を納得させるだけの
それなりの理由とか信憑性があったということだね。
もっというなら、詐称というんだったら、そのことを証明する有力な物証なり充分な反証なりを示してみせる必要があるんではないかってこと。
760日本@名無史さん:04/01/21 20:52
義経は平泉からやって来て藤原一族の人間を同行していた。
おそらく今日から平泉へ行く時も母あるいは母の再縁相手の藤原氏の家人か
誰かが同行して、それで藤原氏も本物の義経と認めたんでしょう。
確たる証拠が無くて弟と認められる事など無かったと思う。
761日本@名無史さん:04/01/22 03:08
確かに出自を偽称して打ち首なった例なんて聞いたことないな。
>>712は根拠となる実例を出すべき。
762日本@名無史さん:04/01/22 04:46
>>712をまず打ち首にすべき。
763日本@名無史さん:04/01/22 13:59
家柄とか血筋というのが重んじられていない現代で、
厳しい審査をパスしていないのが自称新田の子孫の>>733だ。
実力ある有名人ならまだしも、このクラスで出自を詐称するのは下手すりゃ打ち首。
764日本@名無史さん:04/01/22 16:55
>>761
天一坊
765日本@名無史さん:04/01/22 16:59
>>761
古賀潤一郎
766日本@名無史さん:04/01/22 17:24
徳川光康について考えるスレ
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1072272570/
767日本@名無史さん:04/01/23 00:06
>>764
確かに天一坊事件があったわな。
768日本@名無史さん:04/01/23 01:17
>>761
ジュン君
769日本@名無史さん:04/01/23 21:55
>>759
生れた時に護り刀持たすじゃん。あれも身分証明になるんじゃない。
770日本@名無史さん:04/01/24 02:25
>>769
それを盗み出してなりすましたのが天一坊
771日本@名無史さん:04/01/24 02:55
大河「吉宗」の天一坊は京本政樹だった。
772日本@名無史さん:04/01/24 14:05
話を蒸し返してスマンが、>>712は天一坊の件があるから
戦国末期に新田の子孫と詐称すると打ち首になると思っているのか?

現代で言えば有栖川宮詐称と>>733くらい開きがあるぞ。
773日本@名無史さん:04/01/25 18:37
>>772
くだらん話をいつまでも蒸し返しているおまえこそ打ち首
774日本@名無史さん:04/01/25 19:56
>>773に打ち首獄門を申し渡す。
775日本@名無史さん:04/01/25 21:31
>>772
いちいちうるさいな、君も(w
確かに自分は>>712で「下手すりゃ打ち首」とは書いたよ。
今思うとちょっと勇み足だったかもしれないけど、
でもこの「下手すりゃ」という思いがある種の歯止めになっていなきゃ、
それこそ誰も彼もが名門を詐称したんじゃないのかね?
仮に天一坊事件なんか無くたって、江戸時代に徳川を詐称した場合は「下手すりゃ打ち首」。
徳川でなくたって、これが細川だろうが島津だろうが伊達だろうが事情は同じ。
いちいち実例が無くたって、それが常識。
えっ?戦国時代は別だって?
ああ、そうだね。だから自分は「実力があれば別」とも書いた。
では訊ねるけど、「大名でもなく、実力もない人間」で、
「戦国末期に新田の子孫を詐称しても打ち首になっていない」って実例を挙げてみてくれよ。
776日本@名無史さん:04/01/25 21:41
>>775
もういいから・・・。w
777日本@名無史さん:04/01/25 21:49
酒鬼薔薇が潤クンを打ち首にしたなぁ...
778日本@名無史さん:04/01/25 22:04
>>775
その時期の権力者の落胤と名乗るのと、とっくの昔に没落した家の末裔を名乗るとじゃ全然違うだろ。
779日本@名無史さん:04/01/25 22:26
>>776
没落なんかしていないだろ。岩松、山名、大館、里見氏なんかは健在なんだから。
780日本@名無史さん:04/01/25 22:42
>>779
没落していない岩松、山名、大館、里見氏の末裔を名乗ったのですか?
没落した新田本家の末裔を名乗ったのではないのですか?
781日本@名無史さん:04/01/25 22:43
ついでにいえば、山名と岩松は準足利一門というような扱いだし。
782日本@名無史さん:04/01/25 22:48
>>775
細川藤孝の生い立ちを知ってるかい? 彼が貴種と尊ばれたのは細川姓だからか?
土岐の子孫を名乗った明智光秀はどうだい?
その他、詐称かどうか後世まで判断のつかない武将は打ち首になった?
国持ちとなった明智は土岐氏を名乗ったかな?

結論は別で、戦国末期に新田を名乗っても打ち首にはならないんだよ。
この時には何の価値も無いの。名乗っても誰も担いじゃくれないの。
信長も秀吉も源氏じゃないから将軍になれなかったワケじゃない。
実力のある家康がこじつけに利用したからであって、子孫が名乗っても
何の価値もない、どうでもいい家柄なんだよ。わかった?
783かいなげ主水:04/01/25 22:54
親父(吉宗)が死ぬまで毎日毒見してました
マジおすすめ
784日本@名無史さん:04/01/25 22:56
新田はスネ夫、それ以上の価値はない。
785日本@名無史さん:04/01/25 22:59
>>775
> それこそ誰も彼もが名門を詐称したんじゃないのかね?

民主の古賀じゃあるまいし、誰にでもバレる嘘はつかないだろ?
普通は。
786日本@名無史さん:04/01/25 23:06
新田厨って「足利と互角」って思ってる時点で間違ってるよ。
787日本@名無史さん:04/01/25 23:07
新田恵美は打ち首獄門になる代わりに裸にされますた
788日本@名無史さん:04/01/25 23:08
【学歴】成田で古賀氏に卒業証書を渡すoff【詐称】
http://off.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1075035453/ @大規模off板
http://off.2ch.net/test/read.cgi/offevent/1074926410/  @突発off板

>現地時間の25日昼に出発し、26日午後に成田空港に到着するという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040125-00000136-kyodo-pol
789日本@名無史さん:04/01/26 00:05
>>780
本家とか宗家の名前を赤の他人に騙られるのは普通ウザいんじゃないの?
特に岩松氏は新田荘の支配を幕府に公認されているわけだし、今更新田嫡流なんかに出て来られたら迷惑でしょ。
>>782
>結論は別で、戦国末期に新田を名乗っても打ち首にはならないんだよ。

だから、新田の名を騙って打ち首になっていない奴を挙げてみてって言ってんだけど?
明確な根拠も無いのに思い込みだけで断定するなって。
言っておくけど大名や実力ある武将は別として、って自分は言っているんだけどね。
なんでそこで光秀だの藤孝が出てくるのか?日本語通じないのかね?

>実力のある家康がこじつけに利用したからであって、子孫が名乗っても
何の価値もない、どうでもいい家柄なんだよ。わかった?

わかった?ってえらそうに言われてもなぁw
もう少し理性的な説明をしてくれよ。具体的に資料を出すとか。
そもそも自分は家康の話なんかしとらん。
「実力ある戦国大名はともかく」ってはなから言ってるじゃん。
あんたのヒステリックな言葉をみてると、とにかく何が何でも新田氏を「どうでもいい家柄」ってことにしたいとしか思えんよ。
>>786
新田厨ってのは自分のことか?別に厨でもないし足利と互角だなんてことも一言も言ってないんだけどね。
頭悪過ぎだよ、あんた。
790日本@名無史さん:04/01/26 00:44
>789
>実力ある戦国大名はともかく

実力だけあったって、出自の詐称ってそうそう簡単なことじゃないよ。
例えば、豊臣秀吉みたいに最高権力の座に上った人ですら
母親が宮仕えしていた時に尊い胤を貰って宿下がりし、
そうして生まれたのが自分だ、とか吹いたらしいけど
その当時ですら誰も信じなかった。
長浜城主になったあたりから、少しずつ「準備」しておけばまた違ったのかもしれんけどなw
791日本@名無史さん:04/01/26 01:18
俺が学生だった頃の話

俺の指導教授は「家康以前の松平氏の当主は源氏を名乗ったことはない」と力説していた
NHKの某歴史番組に出演したときでも同様の発言をしていた

しかし、

家康以前の松平氏の当主が「源〜〜(誰か忘れた)」って書いた文書が
見つかっちゃったんだよ、頭痛いよ

と、ぼやいていた
792日本@名無史さん:04/01/26 02:10
>>789
あのサァ、傍で見てるとオカシイのはあんたなんだよ。
そもそも「打ち首」だの「この時代には」とか思い込みで言ってるから
皆からツッ込まれてるワケでさ、反論されると「資料出せ」じゃ話にならんよ。

> 本家とか宗家の名前を赤の他人に騙られるのは普通ウザいんじゃないの?
> 特に岩松氏は新田荘の支配を幕府に公認されているわけだし、今更新田嫡流なんかに出て来られたら迷惑でしょ。

あんたの言葉をそのまま返そう。

> 明確な根拠も無いのに思い込みだけで断定するなって。
> もう少し理性的な説明をしてくれよ。具体的に資料を出すとか。
> 頭悪過ぎだよ、あんた。
793日本@名無史さん:04/01/26 02:44
頑張れ、打ち首クン!

(゚∀゚)ニヤニヤ
794日本@名無史さん:04/01/26 04:48
>>782
>実力のある家康がこじつけに利用したからであって、子孫が名乗っても
何の価値もない、どうでもいい家柄なんだよ。わかった?

いや、この文章は全然意味がわからん。
こじつけに利用って何のこと?
子孫ってのは誰の子孫?
どうでもいいっていうのは誰にとってどうでもいいの?
説明、もしくは通訳キボン。
795日本@名無史さん:04/01/26 09:34
>>794
打ち首クン必死だな(w
796日本@名無史さん:04/01/26 13:58
>>789
松平(徳川)家の新田源氏僭称は家康に始まったことではない。
少なくとも家康の祖父・清康までは遡れる。
何故なら清康が「世良田清康」と署名した文書が存在するから。
清康時代の松平氏は、さほど大きな勢力ではありませんが何か。

>>791
たぶんこれでしょ?
797日本@名無史さん:04/01/26 17:15
傍で見てるとどっちもどっちって感じだな。
そもそも>>712は当初江戸時代の新田氏末裔のことを言っているのかと思ったら
その後のレス見ると戦国時代にまで打ち首うんぬんと言っているのがイタイし
かといってそれとやりあっている方も
戦国時代に家柄とか血筋なんて無意味だのどうでもいいのと勝手なこと言ってるし
こちらも負けじとイタイ。

結論:低レベルの論争はいい加減にしろ
798日本@名無史さん:04/01/26 22:31
二木?小和田?
799日本@名無史さん:04/01/26 23:13
>>797
結論:>>712を打ち首にすればこのスレは平和になる。w
800日本@名無史さん:04/01/26 23:44
>>797
自分も最初は江戸時代というつもりで>712を書いたのですが
その後相手が戦国時代を例に返してきたのでついつい勇み足を踏んでしまったようです。
レベルの低い論争申し訳ない。これにて打ち止めとします。
801日本@名無史さん:04/01/27 00:28
これにて打ち首とします、ときたかw
802日本@名無史さん:04/01/27 01:20
ヴァカ同士の論争が今後どう盛り上がるのかを楽しみにしていたのに・・・
>>797も余計なことを言うものだw
803日本@名無史さん:04/01/27 01:52
>>802
はっきり言って、かつての鎌倉北条スレでの「ぱっとしない」論争と同レベル。
傍らから見れば荒らしと大差なし。
このへんで打ち首にして当然。
804日本@名無史さん:04/01/27 02:42
797は打ち首クンにとって救いの神というわけだw
805794:04/01/27 05:08
なんだよ、これでおしまい?
せめて最後に>>782は俺の質問に応えてくれよ。
頼むよ〜
>>795
失礼な奴め。勝手に人違いしてんじゃねーぞボケナスが!
806日本@名無史さん:04/01/27 10:14
さ あ 、 も り あ が っ
                  て
                     ま
                       い
                         り
                          ま
                           し
                           た
807日本@名無史さん:04/01/27 14:11

   ⌒
 (`Д´川  ムネン....
┏━━━━━┓
808日本@名無史さん:04/01/27 20:11
しこたまsagaっとる>>806w
809日本@名無史さん:04/01/27 22:43
そもそも新田末裔を騙る香具師自体ないものと思われ(w
810日本@名無史さん:04/01/28 00:05

山名は、父系的には新田一族なのに、準足利一門の扱い。
岩松は、父系的には足利一族なのに、準新田一門の扱い。

これって何故?
811日本@名無史さん:04/01/28 06:54
>>810
新田は足利の準一門だから。
812日本@名無史さん:04/01/28 08:04
>>803
あの「ぱっとしない」論争はひどかったなぁ。
あれに比べればこっちのがまだマシに思える。

・・・蠅とウジ虫程度の違いだが。
813日本@名無史さん:04/01/28 18:05
>>811
足利は新田の準一門だから。
814日本@名無史さん:04/01/28 18:39
>>813
煽りだろうが、また酷い事実誤認だな。
815日本@名無史さん:04/01/28 23:06
>新田の名を騙って打ち首になっていない奴
岩松
横瀬(由良)
堀江
喜多
>>733の先祖
816 :04/01/29 02:45
すみません、質問させて下さい。
家の家紋丸に一文字なんですけど、
家紋ってどのくらい下っぱのやつまで使えるんですか?
昔は一派だったのかなーなんて妄想を楽しみつつロムってます。
817日本@名無史さん:04/01/29 19:15
297 :日本@名無史さん :02/05/06 10:41
家康が自分の家の系図を整えた経緯については、
近衛前久が子の信尹に宛てた書状からうかがえる
(渡邊世祐「徳川氏の姓氏に就いて」)。
それによると、家康はまず、従五位下・三河守に
叙任される直前の永録九年頃、吉田兼右が見つけ
出した徳川系図をもとに系図を整えている。
 この時兼右が見つけ出した系図は徳川氏(源姓)
のものではあるが、途中で藤原姓に改姓した奇妙な
家のものだったという。そのためか、三河守叙任後の
家康は、公式文書には藤原姓で署名している。
その一方で、同時期に安房の里見義康に宛てた誓書では、
家康は里見氏と同姓であることを主張している
(安房里見氏は、新田義重の子里見義俊の子孫である
といわれていた。もちろん源姓)。
 このように、一方で新田源氏であると主張しながら
その一方で公式文書には藤原姓を使っていたことが、
松平氏の出自について著しい不信感を抱かせる原因
となっており、家康が新田氏の末裔と称したのは
任官に際して家柄を飾るための単なる方便だった
のだろうという現在の定説の根拠となっている。
 近衛前久の書状によれば、家康はさらに、
征夷大将軍に任じられる前にも、吉良家から得た
系図をもとに新田義国以来の系図を整えており、
その際に、藤原姓から、「素志の筋」(本来の希望)
である源姓に戻したという。
818817:04/01/29 19:16
 家康が系図を整えた経緯を明らかにした渡邊世祐の
論文が大正時代に出版されてから、家康が自分の家が
新田源氏であると主張していたのは官位を受けるため
の方便であり、松平氏と世良田氏は実際は無関係である
ということがほぼ定説になった。しかし、論文が出た
当時は、家康の祖父の清康が世良田清康と称していた
ことは知られていなかった。のちにその事実が明らか
になったことで、松平氏の世良田氏へのこだわりは、
単に任官に際しての便宜のためという以上の、
根の深いものだったことが明らかになっている。
 そのような目で近衛前久の書状を読み直してみると、
家康が源姓を本来の希望(素志の筋)としていたことや、
藤原姓を使っていたのは入手した徳川系図に律儀に
従っていたためだったことが伺え、定説とは逆に、
家康の主張は一貫して「松平氏=新田源氏の末裔」(
新田氏の末裔の系図を使うためなら藤原姓を使うのもいとわない!)
であったと見ることも可能である。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1017225782/201-300
819日本@名無史さん:04/01/30 19:45
>>811
義貞の挙兵が、「尊氏卿の末の一門、新田小四郎なる者」云々と記されている。
同時代人の認識が伺われ興味深い。
820日本@名無史さん:04/01/30 20:28
>>819
『増鏡』な。
『増鏡』では「新田小四郎」となってるけど、
実際は「新田小太郎」だよね。

北畠親房の『神皇正統記』にも
「東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。」
という表現があって、興味深い。
821日本@名無史さん:04/01/31 02:13
「我らは同じ源氏」という大河でのセリフが。
822しんでん:04/01/31 02:19
新田義貞の古戦場あと近くに住んでいる人が新田の家来の末裔といっているが信用できますか?
823日本@名無史さん:04/01/31 03:29
下手すりゃ打ち首。
824日本@名無史さん:04/02/01 02:35
厨は足利!!
単純に徳川以降優位が新田。真実ともかく事実。
足利?埃臭くて脆弱な氏族。
825日本@名無史さん:04/02/01 02:40
とはいっても、徳川幕府にも足利一門出身の人物はたくさんいるけどな。
高家の大半は足利一門だし、それ以外でも、家康の腹心である金地院崇伝や板倉勝重が足利一門出身なのは紛れもない事実。
826名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/01 10:39
兵庫県川西市新田が新田氏と関係あると思ってたが
新田開発の新田のようだ・・・・・・・。打つ出し脳。
清和源氏発祥の地なのに兵庫県源市を名乗らずに
兵庫県川西市を名乗ってる川西は逝ってよしでつか?
827日本@名無史さん:04/02/01 21:50
>>826
東京では
武蔵新田(むさしにった)は新田氏と関係あるが
足立新田(あだちしんでん)は新田氏とは関係無い。
川西のは「にった」「しんでん」どっち?
828日本@名無史さん:04/02/01 22:37
しんでん
829しんでん:04/02/01 22:51
俺を呼んだか。
830日本@名無史さん:04/02/01 22:59
831日本@名無史さん:04/02/02 01:23
>>826
源氏は清和源氏だけじゃないから。
832名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/02 16:21
他の源氏イラネ
833日本@名無史さん:04/02/03 19:27
嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏も歴史に与えた重要度は高い。
834日本@名無史さん:04/02/03 19:47
清和源氏は八幡太郎義家が関東以東の英雄として神格化されたから、他
の源氏は意味なし。帝から分かれたって意味では桓武平氏と変わらん。
義家嫡流が頼朝の子・孫で絶え、京から将軍を連れてきてから、東国で
は常に庶流の足利、新田を担ぎだそうとゆう動きはあった。
武田も名門だが一段落ちる。
835日本@名無史さん:04/02/03 20:31
>>825
板倉が仁木支流ってのはインチキだろ
836日本@名無史さん:04/02/03 20:53
新説
こぶ平のCMで有名な仁木ゴルフの社長が仁木氏の嫡流
837日本@名無史さん :04/02/03 21:04
>>835
仁木じゃなくって渋川。
渋川氏祖足利兼氏は『尊卑分脈』などによれば
板倉義顕と名乗っていたというし、
実際に渋川氏は足利庄板倉郷を所領としていた。
天正本『太平記』などには、渋川氏被官に板倉氏が見える。

でも、板倉勝重は胡散臭い。
838日本@名無史さん:04/02/04 00:28
>>835>>837
渋川氏は、系図上では、康暦政変で失脚していた細川頼之の復権後に没落し、中央政界から消えた後、九州で名ばかりの九州探題として存続した家系と、関東の本領に残った家系とに別れ、後者がのちの近世大名板倉氏につながるとされる。
なお、徳川譜代で仁木氏支流を名乗っているのは榊原氏。
但し、こちらは板倉氏より信憑性が低い。w
839日本@名無史さん:04/02/04 00:40
館林出身の俺の友人曰く

綱吉より榊原が上
840日本@名無史さん:04/02/04 01:04
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/SEIWAG.HTM
ここのサイトによると確実な家ってホント少ないんだね。
武田から出たとされる家も「比較的」という扱いだし。
841日本@名無史さん:04/02/04 01:24
842日本@名無史さん:04/02/04 20:23
>>840
かなりシビアな視点で書かれてるな。まあ現実はこんなもんか。
843日本@名無史さん:04/02/05 17:41
土岐氏までもが。。。
前にチラッ源氏ではないとどこかで見たが。。。
844日本@名無史さん:04/02/06 00:08
>>843
平安末から鎌倉前期くらいの頃の動向がよくわからないから、美濃に土着した源頼光の子孫と鎌倉末・南北朝期以降の土岐氏との繋がりを疑問とする説がある。
845日本@名無史さん:04/02/06 00:09
まあ、土岐氏の系図を疑問とするなら、赤松氏を村上源氏だとする系図はさらに疑問だが。
846sage:04/02/06 01:48
医療法人社団杏月会堀□医院 259-1132 伊勢原市桜□1-2-13 0463-95-501□ 外・整・肛・胃
847日本@名無史さん:04/02/07 13:20
↑新田氏嫡流?
848日本@名無史さん:04/02/09 19:03
松平(徳川)氏の一族のうち、竹谷松平氏だけが、新田本家と同じ「大中黒」を家紋にしているのは、何故ですか?
849河内源氏某:04/02/09 20:31
>>840
Good job!
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/SEIWAG.HTM

摂津厨(実は土岐ヲタ)に読ませてやりたいぜ。
850日本@名無史さん:04/02/09 22:30
土岐氏の子孫必死だな>>846
851日本@名無史さん:04/02/10 02:23
土岐は今!
852日本@名無史さん:04/02/10 04:00
>>848
「大中黒」ではなく「丸に一引両」では?
中の線が大中黒ほど太くないやつ。
853日本@名無史さん:04/02/10 12:50
>>852
それって違う紋って扱いになるの?
足利家の二引両も分家によって太さが違ったりするじゃん。
854日本@名無史さん:04/02/10 13:16
分家した時の当主のちんこの太さで変えてるんだよ
855日本@名無史さん:04/02/10 17:10
856日本@名無史さん:04/02/10 19:05
チンコの太さなら圧倒的に新田>足利なんだがな
857日本@名無史さん:04/02/11 17:39
まんこの臭さでは?
858日本@名無史さん:04/02/11 18:08
小俣かな?
859日本@名無史さん:04/02/15 00:05
鳥羽上皇が緊急時に召集する武士が何人だかいて
源氏では義朝、義康(足利)、頼政だったとか、なんかの本で読んだ
この時点で新田はダメだったんじゃない?

頼朝にとっては母方の親戚ってこともあったろうけど、京都で暮らしてた頃に
「足利のおじさん(義康)」ってことで、そこそこの親しみはあったと思う
義重の存在は「足利のおじさんのお兄さんだよね、あったことない(かも)けどw」
って程度かも
でも義平の奥さんが義重の娘だっていうから、あったことくらいはあるのかね
860日本@名無史さん :04/02/15 03:38
義重は平治の乱以前では、
少なくとも仁平三年・保元四年には在京してるぞ。
頼朝と面識があっても全然おかしくない。
861日本@名無史さん:04/02/15 06:46
新田義重と足利義康は、後年の新田・足利のような対立関係にあったわけではなく、
むしろ相互に補完し、助けあう関係だったんじゃないかと思う。
義重は保元二年に新田荘下司職の地位を得ている(つまり新田荘という荘園が成立)けど
これは保元の荘園整理令の出される直前というタイムリーさで
おそらくは中央において後白河院の権力に近い立場を確保していた義康が
色々と運動してくれたからではないか、とも言われている。
その意味ではこの直後に義康が死んでしまったのは義重にとっても痛手だったかもしれない。
862日本@名無史さん:04/02/16 18:08
義重が棟梁になったんだろ?
863日本@名無史さん:04/02/16 19:31
大工の?
864日本@名無史さん:04/02/17 22:45
新田義重はかなりのやり手
865日本@名無史さん:04/02/18 00:19
家建てるのが巧いってこと?
866日本@名無史さん:04/02/18 18:31
源義朝は長男の義平を東国に残し、自分は次男と三男と共に在京して中央権力との結びつきを強めようとしていたようだけど
これって当時の関東の豪族としてはスタンダードな形だったんかね?
源義国も関東は長男の義重に留守を任せて自分は義康と一緒に在京していたって感じだし。
867日本@名無史さん:04/02/18 19:18
まるで騎馬民族の末子相続みたいだな。
868日本@名無史さん:04/02/18 21:45
鎌倉時代も有力武士は所領は一族や被官の代官に任せ、自分は鎌倉で幕府に仕えているね。
869日本@名無史さん:04/02/19 09:24
鎌倉時代って長子相続じゃなかったんですね。次男以下でも、時には女性でも
相続が出来た。まだ開墾してない土地があったから出来たんでしょう。
870日本@名無史さん:04/02/19 17:45
>>866->>869
父親が若いうちに生まれた子は父親と共に開拓にいそしめる。
つまり、すでに成人済みの子は開拓のノウハウもわかっているから親がいなくても自力でそれができる。
しかし、親が年とってから生まれた末子なんかは、もしかしたら親が死ぬ頃まだ幼いかもしれず
開拓が困難だろう、ということで、末子や女子(未亡人も)には開拓済みの親の土地を遺産として残してやる。

・・・こんな感じ?
871sage:04/02/20 01:34
>>870
父と長子の年齢が近いからじゃないんか?
親父が現役の時に部屋住みで置いて置くような世間じゃなかったと思う。
オトナになったらさっさと家を出て自分の力で生活しろよゴッルァ!!
ってなもんじゃないの?
親父が死んだら弟はそんな兄貴の後見で成人しる。

新田/足利の関係も義重→義兼/義康→義兼の頃はそんなんだったみたいだyo!
872日本@名無史さん:04/02/20 03:05
うちの家紋が足利家と同じ丸に二つ引きなんですけど、
何か関係ありますか? 姓は新田を持っています。
873日本@名無史さん:04/02/20 11:10
>>872
お爺ちゃんに聞いてみな
874日本@名無史さん:04/02/20 14:21
大中黒:一引両の新田氏に対して、その庶流は二引両を使います。
875日本@名無史さん:04/02/20 16:08
でも、足利は新田と合戦して不利になった時でも
真ん中を墨でぬり潰してごまかせるので有利です。
876日本@名無史さん:04/02/20 20:09
>>874
なるほど、ありがとうございます。
877日本@名無史さん:04/02/20 21:30
《874 創立時は足利は新田の庶流ということ?
878日本@名無史さん:04/02/20 22:41
>>877
はぁ?何で??
879日本@名無史さん:04/02/21 01:44
>>874
すると、足利の庶流は三引両を使うのですか?
880日本@名無史さん:04/02/21 01:59
白旗に目印をつけ始めた時に、
新田さんは一本だから先と思えないこともないかもしれないと
誰も否定できないとは君もいえないことはないといわれているのかも。
881sage:04/02/21 11:58
>> 880
まわりくどいなぁ
882sage ◆ozOtJW9BFA :04/02/21 12:00
>>880
云わんとしてることはなんとなくわかる気がしないでもない。
883日本@名無史さん:04/02/22 19:11
家紋では新田の勝ちだな
884日本@名無史さん:04/02/22 20:34
為朝の流れを引く足利が源氏の嫡流。新田は残念ながらその他大勢の源氏。
885日本@名無史さん:04/02/22 21:15
>>884
( ´,_ゝ`)プッ
886日本@名無史さん:04/02/22 22:30
(W
887日本@名無史さん:04/02/22 23:14
新田義重は情勢分析がマズく、頼朝にタテついたのが新田家衰退のはじまりだった。
888日本@名無史さん:04/02/23 00:50
>887
と、よく言われているけれど、それは足利家と比較するからそう見えるんで
結局は許されて義重の息子たちは御家人に列しているんだからそんなに悲惨でもない。
上総介広常なんかあれほど頼朝に協力的だったのに謀反を疑われあぼーん。
安田義定などの武田系もあぼーんされている。
新田家衰退の最大要因はむしろ義兼没後の、義兼未亡人による本家に薄い所領分配、
ついで起こった政義の自由出家だろう。
889日本@名無史さん:04/02/23 00:53
義重が頼朝の恋路を邪魔したのが最大の原因。
890日本@名無史さん:04/02/23 00:58
ミ/    J   ゙`ー、   " ;, ;;; ,;; ゙  u ヾi    ,,./ , ,、ヾヾ   | '-- 、..,,ヽ  j  ! | Nヾ|  |     l    ',   ヽ.  ,'
'"       _,,.. -─ゝ.、   ;, " ;;   _,,..._ゞイ__//〃 i.! ilヾゞヽ  | 、  .r. ヾ-、;;ノ,.:-一'"i  {     j  ,  }    .! /
  j    /   ,.- 、  ヾヽ、 ;; ;; _,-<  //_,,\' "' !| :l ゙i !_,,ヽ.l `ー─--  エィ' (. 7 /\-┘    '-y、  i     |, '
      :    ' ・丿   ̄≠Ξイ´,-、 ヽ /イ´ r. `ー-'メ ,.-´、  i     u  ヾ``ー' イ ==ゝ、    _ノ__,ヽノ  丿 i !
       \_    _,,......::   ´゙i、 `¨ / i ヽ.__,,... '  u ゙l´.i・j.冫,イ゙l  / ``-、..- ノ :u l 〃_)i. ` ´  rf´)iヾ,ヽ/ 丿ノ
   u      ̄ ̄  彡"   、ヾ ̄``ミ::.l  u   j  i、`ー' .i / /、._    `'y   / { i、リ!     |f_j|  ,'_ / ´
              u      `ヽ  ゙:l   ,.::- 、,, ,. ノ ゙ u ! /_   ̄ ー/ u /  -‐‐'   ヽ .ヒタ  .fノ
           _,,..,,_    ,.ィ、  /   |  /__   ``- 、_    l l  ``ーt、_ /  / .:::::::::.  ,〜-┐ .::::::. }|  ヾ、
  ゙   u  ,./´ "  ``- 、_J r'´  u 丿 .l,... `ー一''/   ノ  ト 、,,_____ ゙/ /ゝ、_    /   l    ,.' !   }.}
        ./__/⌒ヽ    ー7    /、 l   '゙ ヽ/  ,. '"  \`ー--- ",.::く、 _. \    {   ,'   , イ ヽ  ノノ  丿!
       /;;;''"/ ´_ゝ`)──/  ゙  ,::'  \ヾニ==='"/ `- 、   ゙ー┬ '´ / / `/"ヽ` 、 ヽ - '  _,-'⌒!`` =' '‐-‐'  l
、      .i:⌒`─-、_,....    l   /     `ー┬一'      ヽ    :l  //   {  .∧  ` ー ',-'    !`i ヽ     ノ

             な、何だってぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!
891日本@名無史さん:04/02/23 18:08
ワロタ
892日本@名無史さん:04/02/23 21:00
>>890
溶解しとる。
893日本@名無史さん:04/02/23 21:23
>>889
義重の娘は頼朝の兄、義平の嫁。義平は死んだとき二十歳位だったはず。もしその時、義重の娘が頼朝と同じ13歳だとして、頼朝とがちょっかい出したとき40代。
頼朝が義重の娘を要求したのは恋愛と言うより人質と考えた方が無難。
894日本@名無史さん:04/02/23 22:50
≫893
いいえ、頼朝の女好きな性癖が義重の娘を要求したんです。
40代なら充分横恋慕します。
895日本@名無史さん:04/02/23 22:51
熟女はええもんやで。
896日本@名無史さん:04/02/23 23:06
坂東に勢力を有していた源義国や義光の子孫たちにとって、頼朝は京育ちの
よそ者である。また、頼朝も自分を貴族とまでいかないまでも、土臭い坂東
武者とは一味異なる貴種と認めていた。
結局この溝が埋まることはなく、頼朝の子孫は坂東に根付くことなく絶えた。
897日本@名無史さん :04/02/23 23:11
>>896
あのね。
義国流も、基本的には京の軍事貴族なの。
調べもしないで適当なことを言っちゃいけないよ。
898日本@名無史さん:04/02/23 23:16
坂東武者の頭目として平家や後白河院と戦ううちに、頼朝自身が京都にとらわれて
しまったのである。まさにミイラ取りがミイラになったといっていい。
征夷大将軍への就任と辞職、天皇外戚への欲求など、晩年の頼朝は坂東武者の
期待を裏切り続け、ついに不慮の死を遂げる。おそらく殺されたのであろう。
南無阿弥陀仏。
899日本@名無史さん:04/02/23 23:24
最高権力者である将軍が京方に篭絡されることの恐ろしさを知った坂東武者たちは
頼家から権力を取り上げ、有力御家人による合議制を開始する。これに反発した
頼家は殺され、三代実朝は父頼朝と同様に京方の一員と見紛う体たらくで、これまた
御家人の信望を失った。最後はお定まりの家督争いで頼朝家は滅亡した。
900日本@名無史さん:04/02/23 23:27
あと100
901日本@名無史さん:04/02/24 15:28
>>899
小説として読んでみても、全く面白くないんですが・・・・
902日本@名無史さん:04/02/24 16:08
>>893
この時の頼朝の「浮気」は確か寿永元年だから、頼朝35,6才。
義平未亡人が頼朝と同い年だとすれば、一応40代にはなっていない。
とはいえ15,6才で嫁いでもそれが当り前とされた時代。
適齢期が30近くなっている現代の3、40代を想像するのは大きな間違い。
さしずめ現代に例えると50以上って感覚では?
だとすると、塾女というにはちと無理がry
903日本@名無史さん:04/02/24 19:31
現代でも50歳でマ○コ年齢25歳の人もいれば、
20代でシワシワのババ臭い女もいる。
義平の後家殿はいい女だったに違いない。
一般論じゃなくてロマンを求めろYO!
904日本@名無史さん:04/02/24 20:06
頼朝は行き遅れや未亡人というシチュに弱いやつだったんだよ
905日本@名無史さん:04/02/24 21:03
75歳で春を売る女子(おなご)もいれば、それを買う男の子(おのこ)もいるしな
906日本@名無史さん:04/02/25 00:24
頼朝はあんまり女にモテない暗い青春時代を送っている上に、
正妻の政子があの調子だから、のびのびと浮気も出来ない鬱屈した日々を送っていた。
「若くて巨乳でピチピチの女サイコ−!!」という、甚だ初歩的な欲望すら満たされないような人間が
ババアフェチとか少年愛などという洗練された趣味にはちょっと走りそうもない。
907日本@名無史さん:04/02/25 14:49
新田義重のムスメだからSEXしたかったんじゃん
908日本@名無史さん:04/02/25 18:29
というより兄義平へのコンプレックスだろ。
何といっても「鎌倉悪源太」とか謳われて
坂東武者の間では伝説のように語り継がれていた存在だろうから
無言の内に比較されているような気がしてムシャクシャしてたんだな。
武勇ではどう足掻いても義平の足元にも及ばないし
せめてその細君を慰みものにすることで鬱憤を晴らしたかったんじゃね?
909日本@名無史さん:04/02/25 19:54
                         , -'TT >、__ノ!
                        /ミ、,ィ‐'‐、;;;;;;;;;;;;;;;|
                        /三,l _, -=---<_
                        l三,ノ´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`'' 、
                        |=/;;;;;;;;;;;/`'''ー- 、,ィ'゙ヽ',
                        |ヲ;;;;;;;;;;;/   °   °',!
                        〉;;;;;;;;;;;;;`フ __,, 、  , ,.._, 〉
                       /;;;;;;, -、;;/ `ャッ'フ ) 〈{ノ/〈
                       l;;;;;//ヽ, l! 、  ̄/   lヽ' ノ
                       ',;;;;', 、rノ  `゙"  r、_,j 'l
                       _ゝ;;ヽ、_/  〃~~___, ~'!l     うほっ いい新右衛門
                   __  7ラ‐ゝ l  l!   -  l l
                  /\: : : ̄/ヾ、  `''ー|、   /! _,l''
              _, -‐'/  `- 、/:::::::\   ! j`ー';;`フ!: `ヽ_
         _, -‐''´   / \    ` 、::::::::\、  /l;;;;;;;;;;,;l!:l: :./! ` ー-、_
       、/ヽ      |    \    `ー 、:\、  ヽ;;;;;;;;;|゙:::l / l     ``i、
      / ヽ: : ヽ     l     `'-、    ` -、_ヽ  〉i!/::/ /       l: iヽ
    /   ヽ : ヽ           `ー-、_    ` ー' 、,/ /        l: :lヽ
910日本@名無史さん:04/02/25 20:46
>>898
頼朝に念仏ねぇ。
>>902
政子が実朝を生んだのは何歳ですか?
911日本@名無史さん:04/02/26 00:33
政子というと、岩下志麻のイメージが強すぎてチョット
912日本@名無史さん:04/02/26 01:16
安室奈美恵とオマンコしたいね。
913日本@名無史さん:04/02/26 09:45
914日本@名無史さん:04/02/26 09:49
  __,冖__ ,、  __冖__   / //
 `,-. -、'ヽ' └ァ --'、 〔/ /
 ヽ_'_ノ)_ノ    `r=_ノ    / ----------   ....,, _
  __,冖__ ,、   ,へ    /三.,ィ              ''  ,,
 `,-. -、'ヽ'   く <´   7_//                 'i
 ヽ_'_ノ)_ノ    \>     /                      |
   n     「 |      /= , -―  '''''''' - 、      |
   ll     || .,ヘ   /三, ニ ̄         ヽ     ,. |,
   ll     ヽ二ノ__  {三.{三ニ          .|    /::  ヽ
   l|         _| ゙っ  ̄フ三ニ         |   i::::   i
   |l        (,・_,゙>  /ニ、三ニ;;__    ノ    !:::   |
   ll     __,冖__ ,、  >三         ̄       ::;:  .,
   l|     `,-. -、'ヽ'  \==                ヽ_ノ      />   .<\
   |l     ヽ_'_ノ)_ノ   トー-                 |      //     \\
   ll     __,冖__ ,、 |三三,------     ...,, _     .|      | |       | |
   ll     `,-. -、'ヽ' iヾ三三二'' -- ,,.        ゙゙ '' ,|      | |       | |
   |l     ヽ_'_ノ)_ノ  { 三三三二:::::::::::::゙ '':::-....,_    .,,-'|      | |       | |
. n. n. n        l三三三三二;;;;;;;;;;;;;;;;::::::::::::'':.、:::''::::::::|      \\__   .__//
  |!  |!  |!         l 三三三二::::::::::::::::::::::::: ̄::::::: ̄::::-|、       '-,__工工__,-'
  o  o  o      ,へ l三三三二::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|::ヽ        ||
           /  ヽ三三三二::::::::::::::::::::::::::::::( ⌒):::::::: |::::::\       ノ,シ
915日本@名無史さん:04/02/26 14:43
>>910
実朝誕生時の政子の年齢は、数え年で36歳。
916日本@名無史さん:04/02/26 18:23
36って、今でも高齢出産の部類だな。
ん?待てよ。その年令で現役ということは・・・義重の娘も許容範囲か?
917日本@名無史さん:04/02/26 18:31
>>916
義重の娘ってかなりの美人って記録されているんだろ。
美人に年令なんて関係無いよ。
誰だって20才のブスよりも若村麻由美みたいな方がイイだろ?
頼朝の所望は何らおかしなものではない。
918日本@名無史さん:04/02/26 22:43
>>917は教祖様
919日本@名無史さん:04/02/26 22:58
頼朝はシャレのつもりで政子に夜這いを仕掛け、
不審者に間違えられて斬られた。
920日本@名無史さん:04/02/27 21:26
プレイだと気づかなかった政子は遊びの分かってない無粋者。
921日本@名無史さん:04/02/27 21:54
新田義貞はタイマン勝負なら相当強いよ。
尊氏は一騎打ちを申し込まれて逃げた。
922日本@名無史さん:04/02/28 07:37
>>921
大河の太平記では応じていたけどな>一騎打ち
尊氏役の真田広之が「やだ。おれのイメージダウンになる。脚本書き直して」とか言ったと思われw
923日本@名無史さん:04/02/28 12:25
>>921
それ太平記の創作じゃないの?
仮に事実でも劣勢な新田の起死回生に付合って一騎討ちで勝負なんて
馬鹿らしくて受けないのは当たり前だ。
924日本@名無史さん:04/02/28 18:42
派遣のバイトで世良田に行ってくれと言われた
行くかバカモン
925日本@名無史さん :04/02/28 21:37
世良田よいとこ一度はおいで。
926日本@名無史さん:04/02/28 23:02
>>923
ヤクザにボコられてる奴が「親分とサシで勝負させろ!」って言うのに似てる。
927日本@名無史さん:04/02/28 23:13
>>923
尊氏が「馬鹿らしい。そんなこと出来るか」と言って一騎打ちを拒み、義貞の挑戦を嘲笑った、という話ならばともかく
かなりムキになって「おーし、やってやろうじゃん!」となったそうだから(もちろん周囲は大慌てでとめたが)
一騎打ちを挑まれて応じないのは、武門の棟梁としては沽券に関わる問題だと、少なくとも当時はまだ考えられていたんだろう。
まぁ、おそらく本心では「上杉君、うまいこと言って止めてくれてありがとう」だったろうけどw
928日本@名無史さん:04/02/29 06:08
義貞って朝鮮人みたいなヤツなんだな
929日本@名無史さん:04/02/29 17:30
新浦

新井

新田

もしかすて…
930日本@名無史さん:04/02/29 19:24
>>928-929
はぁ????
931日本@名無史さん:04/02/29 19:28
義貞が一騎打を申し込んだのは
新田軍が優勢な時ですが

「ただ今となっては義貞と尊氏卿の争いに他ならぬ。
一騎打にて勝敗を決すべく義貞自ら
まかりこしたぞ」

かなり本気なのがすごい。いつもポーズだけの尊氏とは違う。
将としては?だが一人の武士としてはまさに鑑だ。
932日本@名無史さん:04/02/29 23:41
>>931
武将というのは、幡随院長兵衛ではないが「男を売る商売」って要素も多分にあったんだろ。
それが出来ていたからこそあれだけ不利な状況でも義貞に従う武士も大勢いた。
逆にいえば、そうやって大将の個人的武勇を誇示していなければ寄せ集めの軍勢を束ねられなかった。
933日本@名無史さん:04/03/01 00:00
宮方、武家方
共に寄せ集めだったのでは無いかと・・・
934日本@名無史さん:04/03/01 00:11
京都の東寺には今でも「不開門」があるが、あれが開かずの門になったのはその義貞の一騎打ちのときに固く閉ざしたままとうとう開けようとしなかった故事に由来していると聞いたことがある。
935日本@名無史さん:04/03/01 02:53
所詮、損得の駆け引きなんだけどな....
936日本@名無史さん:04/03/01 04:26
義貞は女にうつつを抜かして出陣に遅れ、寄せ集めた軍勢に愛想をつかされた。
937日本@名無史さん:04/03/01 04:29
義貞は楠木正成を捨てて軍を移動したので正成は戦死した。
938日本@名無史さん:04/03/01 04:31
義貞は武士からも公家からも常にNo.2の存在だった。

〜義貞三部作 終
939日本@名無史さん:04/03/01 10:00
後醍醐帝後宮にわいせつ行為、南朝武将に賠償判決

京都地方裁判所の高師直(こうの・もろなお)判事は25日、
後醍醐天皇の後宮である勾当内侍が「京都内裏時代に知り合った武将と35年7月に
京都で会ったが、酒の席でわいせつな行為を受けた」として、南朝の新田義貞(34)
に3000万貫(約3000万円)の慰謝料を求めた損害賠償請求訴訟で、 被告に
500万貫の支払いを命じる原告一部勝訴判決を言い渡した。

裁判所は「新田氏は性的動機や意図を持って胸を触るなど、単なるいたずらや親近感の
表現を超えて、成績屈辱感と嫌悪感を与えた点が認められる」と明らかにした。

1336.02.25 19:22
940日本@名無史さん:04/03/01 14:50
キング・正成、飲酒の新田一門7人に「武将の自覚」問う

 キングが苦言だぁー。打倒尊氏を目指す南朝代表の主力新田一門7人が2月の兵庫・湊川合宿中に
宿舎を無断外出し、同市内の飲食店で飲酒していた事件について29日、南朝の楠木正成(37)が
あえて言及。南朝代表の自覚を改めて促した。(サンケイスポーツ)
941日本@名無史さん:04/03/01 17:55
義貞の“代理人”が猛反論!!

 湊川の合戦に敗れ、京都に退却した宮方の総司令官・新田義貞配下の
猛将・堀口貞満が、敗戦の責任を一身に負い、一切言い訳をしない主君
になり代わって、並みいる報道陣に向って、怒りで顔を真っ赤にしなが
ら思うところをぶち負けた。

----楠さんを見捨てて退却したのはなぜか、という批判が出ていますが?
「冗談じゃない!ウチのお館だって、最後の最後までしんがりを務め、
その身も危うかったくらいなんだ。討ち死にも覚悟されていたのだが、皆が皆、
ここでお館を失ったら宮方はどうなる、と必死にお諌めして退却を願ったのだ。
むしろ、あそこで死ぬのは容易いことだ。武士ならばどの戦でも死ぬのは覚悟
しているものだろが。楠殿には気の毒であったが、何も死ぬことは無かった。
彼ほどの武将なら、血路をひらき、落ち延びるのは不可能ではなかったはずだ
からな。しかし、敢えてそれをせず死の道を選んだということは、死ぬことに
よって示したいものがあった、という風に受け止めている。その志を尊重したい」

----死ぬことによって示したいものとは?
「うまくは言えないが、並みいる朝敵に向って“これが宮方のもののふぞ!”と
いう必死の一念を顕示し得た、ということではないか。持明院の帝を擁立するなど
という、国体を蔑ろにするような悪辣な手段を選ばぬ足利の連中も、これには胆を
冷やした筈だ。そして、一番大切なのは、我々がその遺志をつがねばならない、
ということだ」
942日本@名無史さん:04/03/01 17:56
----ところで、作戦に問題は無かったのか。
「ではどうすれば良かったのか、どうしたら勝てていたのかを、逆に訊ねたい。
そもそも敵は圧倒的な大軍で、しかも海と陸とから迫ってきた。陸だけならば山陽道
を西へ出張って要害の地で迎撃することもできる。だが、瀬戸内海をまっすぐ浪花の
津に向かう別働隊、これだって凄い大軍だ。これまでが都に迫るとあっては、迎撃
できる場所はおのずと限られてしまう。我らの任務には、足利をどこで破るか、
という選択肢は初めから無いのだ。いつだって、まず都の防衛。これが第一に義務
付けられてしまうんだな、悲しいことに!…結果、兵庫の港で防衛せざるを得ない
ことになった。こんな要害でも無い場所で、陸と海、両方向から圧倒的な大軍の攻撃
を受ければ、いつまでも持ちこたえられる方が不思議だろう。そもそも、都で楠殿が
献策したように、正月に足利を破ったのと同じ作戦を採用していれば、こんなこと
にはならなかった。足利だって兵糧が不足している、という弱点があった。
それなのに、あの坊門の糞ったれが、あいつは足利の間者か!?」

-----その発言は、オフィシャルでよろしいですか?
「あ、いや待て。今のはオフレコだ。…とにかく、敗戦の責任は、楠案を蹴った誰か
さんにこそある。それを何だ!今になって、我がお館に全責任を負わせ、自分たちは
さっさと逃げ出しているんだから、ふざけるな、と言いたい。我らは帝の楯には
なるが、腰抜けの口先ばかりの青公家どもの楯になる気など無い!」
943日本@名無史さん:04/03/01 17:57
----その楠さんは、新田殿を誅伐して尊氏殿と和睦せよ、などと帝に献策したとも
言われていますが……
「言語同断だ。それは足利方の反間・離間の工作だろう。一体誰がそんなことを
言っているんだ?そっ首叩っ切ってやる!」

----まぁまぁ。あくまで噂です。ただ、私は足利殿のある部下の方からちょっと
小耳にはさんだもので…。
「ほら見ろ!どうせ細川あたりの小細工だろ。だいたい、そんな噂が戦う前から陣中
に飛び交っているようでは士気が上がるはずないし、勝てる戦も勝てなくなる。今回、
我が軍がいま一つ士気が上がらず逃げ腰だったのは、1つには我がお館が、損害を
出来るだけ寡少にして退却したいというご意志がひそかにあったからだが、
もう1つは、そんな噂があったせいだ。いずれにせよ、敵は謀略、策略かけ放題なのに、
こちらにはスパイを取り締まる軍規さえ無いんだから厭になる。箱根の時だって、
勝手に足利と手紙のやり取りをしている奴らがたくさんいやがった。あの二条とか
佐々木とか大友の野郎…案の定、裏切りやがったけどな!」

----でも、それは尊氏殿と義貞殿の人徳の違いがあるから、という人もいますよ。
「誰がそんなこと言っているんだ」

---噂では、楠殿が…
「ふん、死人に口無しだからな。どいつもこいつも、そんな見え透いた流言に易々
と乗っかっているから駄目なんだ。尊氏めが西国で“俺に味方したら、元弘以前に
所領を還付してあげるよ〜ん”という布告を発したのは知っているだろ。利益で釣り
上げるのが“徳”なのか?え?あれで旧北条の御家人どもは、みんながみんな足利に
付いちまったんだが、まったく足利は、どこまで恥知らずなんだろうなぁ!それじゃ
なんでてめえは北条を倒したんだよ、と小一時間問い詰めたいよ。管とか小沢が突然
“今日から自民党の政策を支持するよ〜ん!”とか言い出すようなものだろが」
944日本@名無史さん:04/03/01 17:59
-----でも、現実には多くの武士は、恩賞が欲しくて戦っているわけですよね。
「それは認める。だが、その恩賞を給付する権限すらも、帝は義貞さまには付与して
くれないじゃないか。それが無いから、恩賞をスピード給付できる尊氏の下にどいつ
もこいつも軒並み流れていっちまっているってえ現実を、一体どう考えているんだ
ろうね?そりゃ錦の御旗には有難い効力はあるよ。でも、今度は向こうさんも錦旗を
用意してきちゃってるわけよ。どっちにも大義があるってんなら、あとはじゃぁ、
利益の多い方につくべっていうのは人情だろ。このまんまじゃ、心意気だけで戦う
って奴らしかこちらには残らんよ。何考えているんだろうね、ほんとにお偉い人たちは!」

---堀口さんも後醍醐天皇には相当な不満がたまっているようですね。
「恐れ多いことだが、そりゃ俺も木石じゃねえからよ。というよりも、何も言わずに
ひたすら黙々と軍人としての責務をこなしている親分の…もとい、義貞公のお顔を
見ているのが辛いんだよぉ、俺は!言いたいことは山とあるはずなのになぁ!」

----ところで、堀口さんは足利方に走ろうとは考えないんですか?
「な…何を言い出すんだべらぼうめ!舐めんじゃねえぞコラ!俺たちが義貞さまを
見捨てたら、この世には義理も任侠も廃れたって話になるだろうが!」

---でも正直、これ以上明るい見通しがあると思いますか?
「……(無言)」

945日本@名無史さん:04/03/01 18:00
----話しは変わりますが、新田殿が美女に溺れて出陣が遅れたというのは事実ですか?
「ああん?今喋ったのはどこのマスコミだゴラァ!!朝日かゲンダイだろどうせ!!」

---いえ、女性セブンですが…
「けっ、どうせ勾当内侍さまに横恋慕していた青公家の誰かがそんなスキャンダルを
ばらまいたんだろうよ。ゴシップ好きの低能蛆虫どもが、これに食い付くって寸法だ。
お館は休む間もない戦闘のストレスから病気になられただけなのに、ほんと女にもて
ねえ青ビョウタンやブスどもの嫉妬と中傷は醜いの一語に尽きるな!」

----湊川合戦前夜に陣中を抜け出して酒を飲んでいた、という批判もあるんですが。
「馬鹿いえ!誰だ、そんな下劣な中傷してるのは」

----楠さんです。
「またかよ!その楠殿と義貞さまが、しみじみと酒を酌み交わした、という事実は
あるけどな!」

---じゃぁやっぱり飲んでいたわけですね。
「誰だ、おまえ」

---朝日新聞です。
「揚げ足取りかよ。付き合ってられねえな。もういいだろ、この辺で!」

 最後は、記者団を凄い目つきで睨みつけると、カメラマンの一人を突き飛ばしながら
一方的に会見を切り上げた。宮方の内情は、相当に深刻な事態となっているようだ
(1336年5月27日=夕刊フジ)
946日本@名無史さん:04/03/01 19:33
>>941-945
座布団三枚
947日本@名無史さん:04/03/01 20:30
三国史\で足利高氏、新田義貞、赤松円心、楠木正成、大塔宮尊心の能力鑑定頼む!!
ちなみに、足利は尊氏になる前の能力で。
948日本@名無史さん:04/03/02 00:35
>>941-945
某社の「戦国新聞」とか「三国志新聞」を思い出すなw
最後の揚げ足とりにはワロタ
949日本@名無史さん:04/03/03 21:59
誰か足利ヴァージョンつくれや
950日本@名無史さん:04/03/03 23:14
>>941->>945
いや、マジでなかなかうまくパロっていると感心したよw
太平記でもこの後堀口貞満が後醍醐天皇に直諫するシーンがあるよね。

ところで貞満って最後はどうなったんだっけ?
951デーモン足利:04/03/03 23:36
直冬はわがはいの子ではない
DNA鑑定してもよいぞ
952日本@名無史さん:04/03/04 01:24
そろそろ新スレ建てろや、ゴルァ
953日本@名無史さん:04/03/04 01:25
954日本@名無史さん:04/03/04 01:28
955日本@名無史さん:04/03/05 12:24
956日本@名無史さん:04/03/07 03:02
新田鬼童丸age
957孤高の24歳無職:04/03/07 04:18
宮沢りえと真田広之がHしてできた子供が
のちの関東公方になるんでしたっけ?w
958日本@名無史さん:04/03/07 17:24
>>934
なんと平成の今の世までも出てこないとは
日本最古の引きこもりですな。尊氏は。


南北朝新聞おもしろかったです。
959日本@名無史さん:04/03/07 18:04
もっと新田を盛り上げようぜ
960日本@名無史さん:04/03/07 23:41
卑怯?当然?「一騎打ち」を避けた足利尊氏の“評判”(1336.7.2週刊新潮)

 先日、都における合戦で、新田義貞からの一騎打ちの挑戦に応じなかった
足利尊氏の振るまいに対し、足利軍内部からも「清和源氏の棟梁にあるまじ
き卑怯な態度ではないか」と批判の声が上がっているという。
 その批判の声が果たしてどの程度のものなのか、この日、記者団は足利軍
の本陣である東寺周辺に行き来する人々に突撃インタビューを試みた。
「いやー、よくわかんないっすけどね、何か頼りないようには見えましたね」
と語るのは、その時、本陣で尊氏の様子を目のあたりにした旗本のAさん(21)。
「その時尊氏公は、『その挑戦、受けるぞぉ!!』と上ずった声で叫んで
立ち上がったんですけどね、周りの人たちがよってたかって止めちゃったんですよ。
でも、止めなかったらどうだったかなぁ?あれじゃ、やられちゃったんじゃないですかねぇ?
顔なんかもう真っ青だったし、上杉殿が諌めると、腰から崩れ落ちるように
ヘナヘナと座りこんじゃうし…歯の根もあわないくらい震えてましたしね。
そこから先は、上杉殿が『おまいら何見てんだ!陣中でも見回ってこい!!』
とか言って、本陣を追い出されちゃったんで見ていないんですけど。しばらく
経って戻ってみると、もういつもの自信たっぷりな尊氏公の顔でしたけどね。
何だかなぁ〜…って。正直、これが武家の名門、清和源氏の棟梁なの?って、
ちょっぴりがっかりしちゃいました」。
961日本@名無史さん:04/03/07 23:42
 一方、同様にその場に居合わせたBさん(20)は、
「新田殿の名乗りの声が、俺にもハッキリと聞こえましたよ。その直後、矢が陣中に
飛び込んで来て、柱にビ〜〜〜ン!!と突き刺さった瞬間は、もう鳥肌立ちましたね。
凄え!!って。友達なんかその瞬間小便ちびったって言ってました(笑)。
まぁ敵ながら天晴れっつーか、正直言うとメチャクチャ怖かったっすよ(笑)。
あんなのをまともに相手にしていちゃ、尊氏公だって命が幾つあっても足りないでしょ。
一騎打ちに応じなかったのは、俺は正解だったと思ってます」と尊氏を弁護する。
 更に、生田森の合戦で義貞に近付こうとして果たせなかったというCさん(24)も、
「そんなの無理ないっすよ。新田殿ってのは、とにかく鬼神のような武将。
生田森の時なんて、こっちが圧倒的に数多くて新田殿の周りにはご家来衆もいない
って時だったにも関わらず、まるで『子連れ狼』の拝一刀。近付く奴は次々バッタバタ
と切り倒されるだけですわ。しまいには誰ひとり近付こうとはしないで、遠くから矢を
雨あられと浴びせて討ち取ろうとしたんですけど、それも二刀流で飛んで来る矢を次々
切って落とすんだから、マジ凄いっすよ。あんな阿修羅みたいなのとまともに勝負だ
なんて、やる方がどうかしてます。勝負を避けたのは決して恥じゃないと思いますね、
僕は」と尊氏に同情的だ。
 意外にも、旗本クラスには弁護派が多いのか、とも思ったが、ちなみにAさんは
関東の出身、BさんとCさんは、それぞれ四国と九州の出身で、出身地の違いなども、
尊氏の振るまいに対する評価に関係しているようである。
962日本@名無史さん:04/03/07 23:43
 では、名のある武将クラスはどう考えているのか。
 殆どの武将が、苦々しげに手を振るだけで、こちらの問い掛けには一切ノーコメント
だったが、これはやはり、本音では相当尊氏に内心で不満を抱いているから、と思えなく
もない。そんな中、異色だったのは、足利家の執事である高師直さんだ。
「なにぃ?一騎打ちだぁ?馬鹿馬鹿しい!今の合戦はね、一騎打ちなんていう源平時代
のような古い形式はもう流行らないの。義貞は頭が古いんだYO!これからの合戦は、
大将は一番安全な場所にいて、兵隊をコマのように動かして戦うのがトレンドなの。
わかる?」と早口でまくし立てた後、
「それとだな、もし俺があの時の義貞だったら、東寺に火でもかけて将軍(尊氏)を
いぶり出すって戦法をとったね。一騎打ちなんていうアナクロなことやるよりも、
その方が遥かに有効じゃん!何?由緒ある寺院におそれ多いって?馬鹿かよ、そんな
こと言ってる場合じゃねーだろ!寺だって仏像だって、どうせ木とか銅で出来ている
んだから、焼いたのが気に入らないってんなら、戦が終わったらまた造りゃいいだけ
じゃんYO!戦はね、とにかく勝てばいーの、何でもいーの、ブライアン・イーノ!!
うわぁっはっはっはぁ!!」などと、わけのわからないことを言っていた。
 一緒にいた佐々木道誉さんが、「そういうことばかり言っていると、そのうち罰が
あたって身を滅ぼすよ」とたしなめると、師直さんは「おまえだって、普段そう
言ってるじゃねえかYO!!」と食ってかかる。道誉さんが「いや、俺が言いたいのは
本音と建前を使いわけなさいよ、ってことだよ」と苦笑すると、「おお、そうか。
そうだったな!今のはオフレコにしておいてちょんまげ!!」と、酔っているのか
何なのか、とても正気とは思えないことを言って、大声で笑いながら去っていった。
963日本@名無史さん:04/03/07 23:43
 更に、重臣の細川和氏さんを直撃すると、一旦はノーコメントとしたものの、
思い直したように、歩きながらではあったが、以下のように答えてくれた。
「将軍(尊氏)が新田殿の挑戦に臆したって?そんな馬鹿なことあり得ないよ、
何言ってるの(笑)。将軍はね、戦場においても、いつも微笑みを忘れないほど
豪胆なお方なんだよ。これは、あの夢窓国師が証言されていることだ。そのくらい、
君らだって知っているだろ?」
-----えっ…?では戦場に夢窓国師が同行していたんですか?国師は戦場での尊氏様を
見たことがあるってことでしょうか?
「(慌てたように)い、いや…それはまぁ、言葉の綾だよ。つまり、それほど偉い
お坊さんが、そう言っているんだから信用しなさいってことね。と、とにかく!
あの一騎打ちの時は、尊氏様だって八幡太郎義家公以来の血が騒ぎ、新田殿の挑戦に
応じたくてたまらなかったんだ。これは絶対に間違いない。でも、考えてもみてくれ。
将軍は大事なお体なんだよ。よしんば新田殿を一騎打ちで倒したにせよ、傷でも負って
しまったらどうなると思う?天下はみんな将軍を頼りにしているんだ。そういう危険な
行為は謹んで貰わなければ、みんなが困るんだよ!」
-----でも、こうも考えられませんか。その一騎打ちで新田殿を討ち取りでもしよう
ものなら、尊氏様の名声は、もはやかつて無いくらいに上がり、天下の武将はおしなべて
その威に服した筈では?その意味では、千載一遇のチャンスを失った、と言えない
でしょうか?とどのつまりは、尊氏様には勝てる自信が無かった、ということでは…
「馬鹿な!そんなことは無い!」
-----では、一騎打ちをやっていたら勝てていた、と?
「(しばし無言の後)……とにかく、そんなリスクの高いことは、政治家は出来ないんだよ。
もういいだろ?」と、最後は吐き捨てるように質問を打ち切った。
964日本@名無史さん:04/03/07 23:44
 最後に、匿名条件で語ってくれた、さる有力武将Y氏の発言を記しておこう。
おそらく、これが多くの足利方の武将の本音であると思われるからだ。
「一騎打ち?ああ、あれね。うーん、かく言う俺もまぁ、清和源氏の端くれなんだけどさ、
てか、出身は実は新田一族だったりするんだけどね(笑)。そうだなぁ、誰だって、
あの義貞さん相手じゃ尻込みするってのは分かるんだよ。え?もちろん俺だってそうだよ(爆笑)。
まぁ、本気で一騎打ちなんかやったら、十中八、九まで尊氏さんに勝ち目は無かったろうね。
そのくらい、誰だって本音では分かっているよ。だからまぁ、一騎打ちに応じないのは
別にいいのよ。むしろ賢明だった、と褒めてあげてもいいくらいでさ。総大将なんだし、
兵力的にもこっちが圧倒的に上なんだから。でもねぇ、俺が何より問題だと思うのは、
義貞さんの堂々たる挑戦があったにも関わらず、尊氏さんが東寺の門を閉じたっきり、
陣頭指揮にさえ立とうとしなかったことだね。これには正直呆れたなぁ。
あれで『尊氏って、実は大したことないんじゃねえの?』って、みんな思ったよ、きっと。
これじゃあ今後が心配だわ。誰も彼も、舐めてかかってくるようになるからね、間違いなく。
あそこはさ、もう演技でいいんだよ。『おのれ義貞!受けて立つ!!』と力強く言い放って、
旗本連中引き連れ、寺の外に打って出るくらいの気迫を示せば、それで面目は立ったんだ。
それをだなぁ、貝のように閉じこもってヒッキ−状態だろ?
あれじゃ、義貞さんの剣幕にびびりまくって固まっていた、なんて陰口叩かれても
仕方ないわなぁ、うん。
965日本@名無史さん:04/03/07 23:45
まぁ、そもそも俺が尊氏さんに従っているのだって、
尊氏さん個人のカリスマだの人徳だのに心酔しているからでは全然ないし、ただ、
あのお方が名門で、最大派閥で、地位も名声もあって、有力な一門の方々も大勢いて、
そして何よりも恩賞を大盤振るまいしてくれるからってだけのことだからね、実際のところ。
だから、彼がへたれでも何でも別にかまわないんだよ。言葉は悪いけど、お神輿なんだから。
ただねぇ…幾ら何でも、もう少し何とかならんのかって思っちゃうんだよなぁ〜。
武門の棟梁なんだろ、と。清和源氏の嫡流なんだろ、と。そういう看板掲げる以上は、
それに相応しい振るまいってものがやっぱりあるだろ、ってね。あれじゃぁ、
別に尊氏さんでなきゃならん、てこと無いでしょ?弟の直義さんでもいいし、
極端なこと言えば、足利の血さえ引いてりゃ誰でもいいってことにもなりかねないよ。
まぁ、個人的な魅力でいうなら、はっきり言って義貞さんの方が、尊氏さんよりも
はるかに源氏中興の英主・八幡太郎義家公を彷佛させるわなぁ〜。ただまぁ、彼の地位
と立場じゃ、とても従いていくわけにはいかないんだけどね」
 ……と、実に不穏な空気ただようコメントである。
 宮方の猛攻をしのぎ、彼らを比叡山に再び逼塞せしめた足利軍。
形勢は圧倒的に有利である。しかしながら、足利尊氏の求心力については、
大きな疑問符がついてしまった、といえそうだ。
966日本@名無史さん:04/03/08 22:58
>>960-965
またやったねw
有力武将Yって山名時氏?
967日本@名無史さん:04/03/09 00:03
こっちのスレは無理に埋め立てないで、960他氏のために空けといたら。
968日本@名無史さん:04/03/09 00:20
>>967
だね。
新スレ建ったからこっちはsage進行で。
969読者からのお便り:04/03/10 19:06
南北朝新聞記者殿

毎回楽しみに読ませていただいています。
特に世間の人がはばかって言わない尊氏の正体を
見事に暴いてるとこが素晴らしいです。
今後もがんばってください。
970日本@名無史さん:04/03/10 19:23
YBBを脅した人物名でググると・・・衝撃の新展開
http://society.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1077620009/l50
971日本@名無史さん:04/03/11 04:08
>>941-945
>>960-965
お、面白え・・・。
一見茶化しているようだけど、かなり本質を突いているところが凄い。
北条氏ヴァ−ジョンもやってほしいんだけどスレ違いかな?
972日本@名無史さん:04/03/11 12:39
南北朝公家もキボンヌ
973日本@名無史さん:04/03/11 18:05
記事がおもしろいのは
なにかと軽視されがちな新田殿の
真実に肉薄した衝撃レポートだからづあって
北条や公家の何を取材したらおもしろいのというのだ?
974日本@名無史さん:04/03/11 18:23
ゴダイゴの節操のなさと内管領の専横
975日本@名無史さん:04/03/11 20:38
貧乏公家て貧乏後家人の悲哀
976日本@名無史さん:04/03/14 14:34
無駄にあげ
977日本@名無史さん:04/03/16 22:06
独自に一家を興すというのは具体的にいうとどういう状態なのか説明キボンヌ。
例えば足利氏。
吉良とか今川、細川、一色、斯波、仁木なんかも幕府から見れば別の一族扱いになるの?
978日本@名無史さん:04/03/16 22:53
足利の場合は、
基本的に吉良・斯波・一色・今川など、
足利義氏の子孫は
「足利左馬頭入道跡」として同族として
捉えられてるんじゃないかな。
今川は吉良の庶流だね。

これに対して畠山は畠山上野入道(泰国)跡として
明らかに別個に捉えられている。
微妙なのが桃井で、
足利蔵人入道(義兼)跡と記され
「足利左馬頭入道跡」が「鎌倉中人々」なのに対して、
上野国の住人として捉えられているが、
これが足利本家とは別個なのかどうかは分からない。
同じように微妙なのが渋川で、
桃井にしろ畠山にしろ渋川にしろ、
他の御家人の跡を襲ったとしたら、
「別の家」として捉えられていたのかもね。


979日本@名無史さん:04/03/17 00:45
従四位上だの兵衛佐だの馬権頭だの、義親の子孫の義信とか義政って凄くねー?
もしかして源氏の嫡流は摂津でも頼朝でもなくこいつらでは。


980日本@名無史さん:04/03/17 01:26
仁木と細川は家格が低かった


981日本@名無史さん:04/03/17 21:05
>>979
為義は義親の五男だし、
八幡太郎義家の家ってことに限定すると
義信はもしかして「隠れ嫡流」的にリスペクトされていたのかもな。
義信の子の延朗上人ってのも何気に身分高そうだし。
982日本@名無史さん:04/03/17 22:37
義親は廃嫡だから…


983その3の91:04/03/17 22:38
何がしたくてコピペしたのか知らないけど>>979は俺じゃないから。
984日本@名無史さん:04/03/17 22:59
>>980
それってよく耳にする言い方なんだけど、
その「家格」っていうのはどういう風に決まるもんなのかな?
例えば斯波氏なんてのは南北朝初期には足利氏扱いだし
『梅松論』でも「殿」付きで呼ばれたりしていて、ある意味別格なんだけど、
そういう扱いの差ってのは具体的に何から生じるのかと。
官位?生母?役職?所領?血筋の濃さ?それとも他の何か?


985日本@名無史さん:04/03/17 23:04
1000取り合戦は既に始まってるってこった
986日本@名無史さん:04/03/17 23:08
その全てじゃねーの?
例えば、吉良氏は足利義氏の長男(五郎だが)で、
嫡子三郎泰氏の兄に当るし、
鎌倉に出仕して上総介になっているから、
子孫もその先例からか鎌倉時代には
鎌倉に出仕して上総介にも任じられる家柄となった。

斯波氏の場合は祖家氏は名超朝時の娘を母とし、
嫡子三郎頼氏の兄であり、ひょっとすると
本来は嫡子扱いされていたかもしれない人物。
血筋的にも最も本家に近いといえると思う。
家氏は鎌倉に出仕していただけではなく、
中務権大輔・検非違使左衛門大尉・尾張守と、
鎌倉御家人の中でも有数の官職を歴任している。
これらの要因が重なったから
鎌倉末期にも高経が鎌倉に出仕していることが分かるし、
南北朝期にも本家に継ぐ地位を保てたのだろう。


987日本@名無史さん:04/03/18 20:24
>>986
幕府に出仕できることってのが大きいように思うのですが。
出仕すれば功績を評価されて恩賞(領地・官位)など貰えるでしょうから。
例えば複数の子供のうち誰が出仕出来るかどうかってのは
幕府(北条氏)・総領のどちらが決めるんでしょうか?

あと鎌倉期の今川氏なんかは足利の支族である吉良のそのまた支族にあたるのですが
合戦で功績挙げたりしたらどこから恩賞もらうのでしょう?
幕府?足利氏?吉良氏?
幕府から恩賞貰ったら、足利・吉良とは別の独立した
御家人に出世したってことになるのでしょうか?

988日本@名無史さん:04/03/18 21:58
>>986
なるほど…。
すると斯波高経の「高」は宗家の足利高氏同様、北条高時から貰った偏諱だったのかな?
だとしたらプライド高いのも頷けるね。
989日本@名無史さん:04/03/18 23:20
>>987
幕府と御恩と奉公で結びついているのが「御家人」だってガッコで習った覚えがあるんだけど
それは
「幕府から恩賞(土地)を貰う、もしくは保証される=御家人」
って単純な図式ではないわけね?
だとすると、御家人とそうでない武士との区別ってどういうところにあったんでしょうか?


990日本@名無史さん:04/03/19 04:07
その3からコピペしまくっている香具師って何なの?

意味不明の行為ヤメレ!!
991日本@名無史さん:04/03/19 11:30
>989
御家人は幕府ではなく将軍と主従関係を結んだ人でいわば幕府の構成員
だから執権には御家人を直接支配する権威はなく調整役みたいなもの
992日本@名無史さん:04/03/19 11:38
992
993日本@名無史さん:04/03/19 12:01
993
994日本@名無史さん:04/03/19 12:01
994
995日本@名無史さん:04/03/19 13:00
>>991
でも、現実にはすっごく影薄いよね>鎌倉将軍
足利の天下になっても「先代」といえば北条氏のことだし、
南北朝の歴史物語(「太平記」も「梅松論」も)でも鎌倉幕府の親玉はあくまで北条氏って扱いで
最後の将軍(守邦親王だっけ?)の話なんてこれっぽっちも出てこない。
それでも立前上は、全部その親王将軍が軍勢を動員していることになっているわけか。
何というか、難しい時代だなぁ‥‥
996日本@名無史さん:04/03/19 15:07
996
997日本@名無史さん:04/03/19 15:33
大義名分


998日本@名無史さん:04/03/19 15:58
998
999日本@名無史さん:04/03/19 19:11
999
1000日本@名無史さん:04/03/19 19:12
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             `,i‐、..}i  '.;:. ゙ヽ   ヾソ'   .:::::::::::::::::::,.'   ちぃ、覚えた    
.             / ;. ゙,゙,   ';:  ノ,,、-''"   .::::::::::::::::::,r'
            / ,.'-‐゙'',-,、,i'"゙! "     .::::::::::::::::,r'"',
            / i'r"゙'´` `'''>'      ゙,::::::::::;r':!   ',
.           / .,、'´ ::、 .:,r'"        ゙、:::::'::::::',.   ',
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