【皇位】そろそろ足利義満について語ろうか【簒奪】

このエントリーをはてなブックマークに追加
933日本@名無史さん:2008/11/06(木) 16:37:00
義満の次代が電波の義持じゃなくて
義教だったら真の中央政権の確立も可能だったかも
934日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:40:28
>>929
父の足利義満や弟の足利義嗣が住んでいたから、
気に入らなかったからとある本で読んだな。
義持が義満や義嗣と仲が良くなかったのは事実みたいだね。
935日本@名無史さん:2008/11/18(火) 23:55:31
>932
ハズレ
当初は、領地が「国」じゃなく「荘園」単位だったから、ってだけ。
守護は領主じゃなくて、方面軍司令官って位置付けだったのよ。本来は。

で、幕府直轄領となってる荘園を全部あわせたら、数カ国に匹敵する規模があったはずだ。
鎌倉時代の段階ですら、1万箇所以上の荘園を領有してたらしいしな。
936日本@名無史さん:2008/11/20(木) 14:50:40
>>935
守護本来の位置づけは領主じゃないけど、義満以降は守護が国人領主等を
直接支配下に組み込んでいって、自分の領国化していくことになってるでしょ。
それだけ足利将軍家が有力守護を統制出来ていないって事だけど。

管領職に就ける細川・斯波・畠山の3家、侍所所司に就ける赤松・一色・山名・京極の4家。
そいつらと足利将軍家の所領の比率というか、力関係が問題なんじゃないかな。
尊氏が生きている間は戦時中でもあって味方同士で団結もするし、尊氏個人の力量で抑えられたとしても
いったん世が治まってきてしまえばね・・有力守護を抑えれるかどうかは、将軍の才覚次第って事になってしまう。
尊氏がもうちょっと味方に対してケチって、自分の家の力を強くすることを考えても良かったと思うんだよ。
江戸幕府見ると、歴代将軍は名君ばかりじゃなくて暗君もいたけどなんとか250年続いたしね・・維新までは内乱も起こさなかったし。
937日本@名無史さん:2008/11/20(木) 14:59:52
それを言い出したら、南北朝の動乱を収拾した義満にも責任があるってことになるのか・・
スマン>>936はスルーしてくれ。
938日本@名無史さん:2008/12/15(月) 22:27:51
ほしゅ
939日本@名無史さん:2008/12/15(月) 22:43:35
応仁の乱の遠因は尊氏がしっかりした政治基盤を作っていなかったからだろ。
足利義政が江戸中期の将軍でも応仁の乱みたいな大乱は起こらないだろうし。
940日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:45:59
このはし わたるべからず
941日本@名無史さん:2008/12/29(月) 14:53:15
織田信長は気にせずそのまま渡った
豊臣秀吉はその橋を壊し、新しい橋を架けた
徳川家康は渡れるようになるまで待ち続けた
一方、宇喜多秀家は泳いで渡った
942日本@名無史さん:2009/01/09(金) 11:16:46
このスレで時々、明正天皇の祖父・徳川秀忠に没後「衡岳太上天皇」の尊号を贈るかどうかを朝廷内で揉め
た事実をもって、義満の皇位簒奪論を否定する意見があるけど、後年の出来事をもってきても何の証拠にも
ならないよね
既に義満へ太上天皇号を贈ろうとした先例があるんだから、外祖父の秀忠なら猶のことってだけの話
義満より前の例を実証できたら、それをもって否定できるけど
943日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:06:06
>>939
> 応仁の乱の遠因は尊氏がしっかりした政治基盤を作っていなかったからだろ。

そりゃまあそうだけど、作りたくても作れなかったんだよ。
944日本@名無史さん:2009/02/04(水) 08:10:36
そろそろ大河ドラマになってほしいね☆皆さんどう思う??
945日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:30:03
将軍(武家の棟梁)=国王の前例を作ったという点で、信長秀吉家康以上にエポックメイキング
な人だよな。直江とか前田とか山内の妻なんぞより、この人を先に釣り上げるべきだろw
946日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:02:46
花の☆御所 足利義満

こんな感じ?
947日本@名無史さん:2009/02/10(火) 03:51:18
>>945
釣りか?w
この場合、国王=中国皇帝の臣下だろうが。
そんなもんエポックメイキングとか言うんじゃないよ。

何のために義持が恭献王の諡号を突き返したと思ってる。
948日本@名無史さん:2009/02/10(火) 16:57:25
義持は単に、親父が嫌いだっただけだろ。
949日本@名無史さん:2009/02/10(火) 21:23:48
>>947
中国との関係ではなく、日本国内での実質的な王という意味だよ
義持の意識がどうであれ、義満以前と義満以降では将軍(武家のトップ)
ということの持つ意味が変わったと思うがどうだろう?
950日本@名無史さん:2009/02/10(火) 21:36:53
>>949
後継ぎの義持が父義満のやったことをすべて覆して終わりだよ。
義満は自分の嫁さんを天皇の養母にして女院にしたり、
限りなく天皇家に近づこうとしていたが
義持にはそんな気まったくなし。
以降の将軍たちも天皇家には興味がなかったし。
951日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:32:09
信長に比べたら天皇や将軍なぞこんまいこんまい。
肩書きがなければ光らない者は人として魅力無し。
952日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:34:26
白河天皇
953日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:36:44
sage
954日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:30:29
一般に流布してる信長像は講談やTVの作り上げた虚構なんだがw
955日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:01:36
>>1
一休さんを出せば足利義満の大河でも盛り上がりそうだね。
956日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:52:45
義満ねえー 順徳天皇皇統子孫で 生母紀家の姉妹通じ時の天皇の身内で後小松帝のおおおじ
957日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:58:48
>>955
日野富子で一休出してきて失敗してるじゃんw
やたら暗い一休だったが
だからといって実像に近いと言われる
女好き酒好き一休出してきても
視聴者は厭がるだろうし
958日本@名無史さん:2009/04/10(金) 22:31:30
>>950
室町幕府は他の鎌倉・江戸に比べたらよっぽど天皇家と密着していた。
義持は朝幕関係を常識的な水準に戻しただけ。
959日本@名無史さん:2009/04/10(金) 22:59:04
>>958
「室町幕府が密着していた」というより義満個人だけだと思うが。
尊氏も義詮も、尊氏が娘を入内させたい希望を持っていた程度で
特に朝廷と密着していたわけではない。
むしろ、あっちの朝廷かついだりこっちの朝廷担いだり
天皇に弓ひいたりと歴代まれに見る不遜な行動とった人たちだったし。

義満は血縁上、まぎれもない後円融天皇のいとこで、天皇は何より身近な親戚だった。
だから、自分が天皇家の一族としてふるまうことに何のためらいもなかった。
それ以降の将軍はまた天皇家との血縁が遠くなってしまっただけのことだろう。
960日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:25:40
>959
大塔の若宮興良さんは 1360年4月赤松らと 南朝に反乱し
吉野焼き打ち 義満の父2代将軍と 若宮は
一貫内通しいたよ 皇室が公式に認める
五三の桐紋 配下家は その赤松と足利の2家のみ
961日本@名無史さん:2009/04/13(月) 17:48:41
>>957
一休さんパートだけアニメで
962日本@名無史さん:2009/04/14(火) 01:14:49
>>959
義持以後も室町幕府を主体とする「公武統一政権」の構造は変わっていないのだから、皇位簒奪説が云々される事態は義満だけであったとしても、室町幕府における公武密着は義持以後もそれほど変化はないよ。
治天の君から義満が奪った公家領の安堵(没収)の権限は義持以後の将軍行使している(将軍による御内書の安堵)。戦国時代に入ってもその路線は変わらず、将軍正室を近衛家に切り替えて朝廷との関係を強化することで求心力の補強を行おうとしている。
(こっちの方は結果論としては強化にはつながらなかった訳だが)
963日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:06:53
>>957
一休出したのは、大塔宮皇統に近い伏見帝末に、 北朝統一し、伏見宮家設立のためで、
伏見帝は、 義満先祖の順徳帝の時代源平以来、天皇親政を断行し、さらに伏見上皇時代
討幕に意欲ある、皇統はずれの後醍醐帝の、両迭制使い即位の道開く 功績より
北朝統一し、直末伏見宮親王家が維持された。うまく書けないが真意つたわればー
964日本史好きの男:2009/04/16(木) 09:53:32
子供が読むようなまんがの日本史の本にであるが、足利義満が天皇しか着用を許されんもの着ている
場面が出てくる。そして「義満さまが、天皇様に見える」と周囲の人が言ってる。
足利義満が天皇の位を狙ってか分からんが、天皇のようにふるまってたのは確かのようである。
965日本史好きの男:2009/04/16(木) 09:57:45
狙ってか→狙ってたのか
966日本@名無史さん:2009/04/16(木) 12:11:19
>>965
四辻宮親王家が、2代足利将軍に近く、親王宣下なくなり、将軍の力で源氏四辻姓えたり源氏解説本出しりで
順徳天皇の皇統の義満は、帝を意識してた。
967日本@名無史さん:2009/04/16(木) 12:57:16
>>964
俺アニメで見たけど一休さんに困らせられてたのは確かだ
968日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:14:10
>967
それ義満じゃなく義政だろうが。
969日本@名無史さん:2009/04/20(月) 18:38:34
またしても一休殿にしてやられたワイ
970日本@名無史さん:2009/04/20(月) 20:53:27
>>968
アニメで一休さんに困らされていたのは義満らしいな。

時代的に合わないのはアニメだから仕方ないw
971日本@名無史さん:2009/04/20(月) 20:58:04
>>964が読んだのは多分小学館の少年少女日本の歴史
>>967が見ていたのは多分一休さん
972日本@名無史さん:2009/04/21(火) 00:14:24
>970
一休さんは義満よりは若いんだから、
あの「将軍様」が義満なら、年齢がピッタリじゃないかな。
義満の孫である義教よりは年上だったはずだし、
義教の子である義政時代なら、一休さんは既に高齢者のはず...
973日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:11:05
>>972
足利義満(1358−1408)
一休宗純(1394−1481)
足利義政(1436−1490)

一休は足利義満より36歳年下。
足利義政よりも48歳年上。

漫画の影響で一休は将軍様と仲良しだったという印象が強いが
一応日本史板なので付け足しておくとむしろ将軍家とは仲が悪かった。
一休が門主を勤めた大徳寺は南朝を開いた後醍醐天皇の帰依を受けたために
北朝方の天皇をいただく足利幕府とは不和で
足利幕府が定めた五山十刹の制にも入れられず完全に無視された。
そこで一休は幕府の支援を一切頼まず、
堺の豪商などの支援をうけて大徳寺を再興した。
堺の豪商出身の千利休が大徳寺と関わりが深いのはこういう訳がある。
974日本@名無史さん:2009/04/23(木) 22:07:07
結構近いんだな年齢
975日本@名無史さん:2009/05/08(金) 06:38:09
976日本@名無史さん:2009/05/19(火) 02:08:13
>>959
義持が義満の朝廷政策を明確に否定したのは太上天皇の件と側近公家の排除くらいだな。
義持は父に倣って後小松院を院別当となって治天からの王権剥奪を策している点はまさに義満の忠実な後継者であったことを意味している。
977日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:19:59
義持は名君
978日本@名無史さん:2009/05/23(土) 16:37:05
979日本@名無史さん:2009/05/24(日) 15:08:41
室町幕府一の名君は足利義教
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1220564405/
980日本@名無史さん:2009/05/24(日) 15:10:19
981日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:22:33
義嗣の子孫って本当にいるの?いたとしたら義持死後に後継候補に上がらないなんてありえないと思うけど
982日本@名無史さん
>>981
義嗣が死んだとき、義持の側近が義嗣と結んで幕府転覆をしようとしたとしてでっち上げて、細川管領以下主要な守護大名が謀反の疑いをかけられた経緯があるから、義嗣は幕府全体的な黒歴史になった。