メジャーどころ?では、御宿勘兵衛とか柳沢吉保なんかが
いるけど、他にも面白いヤツいるんじゃねえ?
平賀源内ってどうだっけか?
>>2信玄初陣の折、討ち取られた海ノ口城主の平賀源心の子孫ではないかと
平賀朝雅の子孫かなんかなん?
つか平賀って武田一族かぁ?
5 :
日本@名無史さん:02/07/09 21:45
>>4
武田一族ではない。
6 :
日本@名無史さん:02/07/09 21:46
平賀って毛利の家来じゃなかった?
7 :
日本@名無史さん:02/07/09 21:53
>>6 毛利にもいたね。ここで話題になってる平賀は信州のだよ。
8 :
日本@名無史さん:02/07/09 22:09
尼崎に勝頼の子といわれる勝親が逃れ103歳まで生きて、子孫は
現在に続くらしいよ。真偽の程は如何に?
9 :
日本@名無史さん:02/07/09 22:14
安芸武田とか、いろいろ
11 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:12
真里谷武田モナー
12 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:16
武田鉄也が家督を継いだなも。
13 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:20
常陸武田は?
14 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:24
幕末の水戸天狗党首領、武田耕雲斎の母方は跡部勝資の系列です。
15 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:25
盛岡の南部とかは
16 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:28
跡部ってどこに繋がるの?
17 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:31
武田勝頼の側近が跡部勝資だよ。武田の支族でもあったような。
武田耕雲斉は武田氏の末裔なのか?
というか、水戸藩自体が武田の流れを汲むんだろ?
徳川と武田両方の?
19 :
日本@名無史さん:02/07/13 08:11
松前モナー
20 :
日本@名無史さん:02/07/13 13:04
跡部って一旦武田と戦って滅んでるよな
勝資の系統の跡部氏って小笠原系じゃなかったか?
尾張武田・真里谷武田
安芸武田
大井氏
一条氏
紀伊武田氏
湯川氏
愛州氏
伊勢愛洲氏
22 :
日本@名無史さん:02/07/14 14:00
たしか安芸武田氏が宗家だよな?
23 :
日本@名無史さん:02/07/14 14:04
記憶違いでなければ家康が息子に武田を名乗らせたことがあったと思いますが、
どういう経緯だったのでしょう?あとその行く末は?
甲斐武田氏周辺の一条氏や穴山氏はどうよ?
あれも元は武田氏とか?
25 :
日本@名無史さん:02/07/14 14:17
あのぉ、うち川窪と言うんですが、じいちゃんが
うちは武田家の分家だと言うんです。ホントでしょうか?
名前には”信”の字が代々つくのだが・・・・。じいちゃんが
言うには武田信玄の弟が先祖だと言ってました。
誰か分かる人居ませんかね。
26 :
日本@名無史さん:02/07/14 15:48
>>23 武田信吉だね。
家康の子だけど、穴山信君の正室で未亡人となった人に養育させた。
穴山信君の嫡子は病死してしまい、跡継ぎがいなかったから養子扱いにして
ゆくゆくは武田家を再興させるつもりだったんだろう。
(旧武田家臣を多く召抱えたから彼らを手なずける意味もあったろう)
が、信吉も若くして病死した。
その後はうやむやで、信玄の次男の家系が高家の武田家として続くこととなった。
河窪信実だっけ?
本物なら旗本家の由緒が伝わってるはずだから・・・
┠晴信
┃┠龍宝 高家 次男
┃┗信清 高家 5男か6男
┗信実
┗信俊 河窪
29 :
日本@名無史さん:02/07/14 19:28
石川義時の次男有義系も平賀氏で信濃に下ってるよ
拙者が江戸期の武田嫡流でござる。
31 :
日本@名無史さん:02/07/14 19:40
小笠原氏も一応武田家の庶流だよね?
安国寺恵瓊
33 :
日本@名無史さん:02/07/14 20:25
いいえ、武田が逸見の庶流です
34 :
日本@名無史さん:02/07/14 20:32
35 :
日本@名無史さん :02/07/14 21:24
>>26 川窪、川久保は旗本になったものも居るし、土井利勝やその他の大名に仕えた
家もあるから、調べてみたら。
36 :
日本@名無史さん:02/07/14 21:26
土屋数直も武田だった。
37 :
名無しの歩き方@コニーデルート:02/07/14 21:40
38 :
日本@名無史さん:02/07/15 00:41
川窪信俊が子沢山だったような・・・
39 :
日本@名無史さん:02/07/15 13:12
加賀美遠光には娘婿説があるね。
40 :
日本@名無史さん:02/07/15 15:45
>>36 >>36 数直はよく知らんのだが、土屋昌恒は一色家の出じゃなかった?
数直は昌恒の子孫じゃなかったっけか?孫だっけか?
>>37 なわけねーじゃん
本物なら旗本の子孫。知らないわけがない
土屋昌恒って岡部氏から来たんじゃなかったっけ?
それは昌次だっけ?
>>41 一々、伝承してる家もすくネーだろ。
旗本が好きなのか?
一、本物の旗本の子孫なら生まれた年代的に爺様が知らないわけない
二、伝承もないような傍流なら凄くともなんともない
三、なんで旗本が好きか嫌いかっつー話しになるのか理解できない
旗本の子孫て誰が言ったんだ。
爺様の年代って何歳なんだ
昭和初期じゃね?
>>45 河窪の直系なら旗本、直系じゃないなら凄くともなんともない
爺様が大正昭和の生まれなら、幕末の当主の孫ぐらいなはず
家の伝承が伝わりませんか?
49 :
日本@名無史さん:02/07/19 16:20
ちと調べてみた
足利泰氏−一色公深−範氏−範光−詮範−範貞−範次−藤直−金丸藤次−虎嗣−虎義
虎義の子が、昌直、土屋昌次、秋山昌詮、昌義、土屋昌恒、秋山親久
とのこと
50 :
日本@名無史さん:02/07/19 21:52
流れ流れて金丸信、と
51 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:11
金丸か
今の秋田県比内郡にいた浅利氏も武田一門(太閤によって没落)
53 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:32
50と51の間、1ヶ月か…
若狭武田のいい本あったよ
54 :
日本@名無史さん:02/08/22 00:34
>>52 武田一門ではなくて、甲斐源氏一門。
頼朝の時代から、浅利氏は独立した御家人。
55 :
日本@名無史さん:02/08/28 01:23
旗本とはいえ川窪は万石近い
56 :
日本@名無史さん:02/08/28 02:09
うちは調べたら清和源氏武田氏族となっていたんですが
一体何者なんでしょうか?ちなみに家紋はききょうです。
57 :
日本史@名無史さん:02/08/28 02:18
よろしい家系で
58 :
日本@名無史さん:02/09/01 10:01
59 :
日本@名無史さん:02/09/07 17:04
伊予河野氏配下の武田なんてどうよ?
61 :
日本@名無史さん:02/09/07 20:23
真里谷氏について詳細キボンヌ。
62 :
日本@名無史さん:02/09/07 22:28
下山(しもやま)という武将は武田→秋山の分家
穴山とも関係深い。下山殿という女性は一旦穴山の養女になりそこから徳川へ嫁いでる。
身延山のふもとの下山村(波高島駅)あたりの出身なんだろうか。
現在は栃木の足利に下山一族がいる。家紋は武田菱。
63 :
日本@名無史さん:02/09/07 22:33
>>60 よくは知らんが、信武の子の真信の系統が伊予に流れて仕えたらしい
>>61 真里谷武田は信長の流れやね
64 :
日本@名無史さん:02/09/07 22:36
そういや長宗我部の家臣にも武田が居るね
66 :
日本@名無史さん:02/09/15 07:29
伊予武田氏
直信−信綱−信賢−信光−信治−信重
信治が河野道直に仕えたとのこと
×河野道直
○河野通直
河野四郎通直なんで後代通直と思われ
さらに訂正・・・
直信=真信、武田信武の子
69 :
日本@名無史さん:02/10/02 05:46
紀伊武田って武田なのか?小笠原じゃねえ?
70 :
日本@名無史さん:02/10/02 15:12
小笠原は源氏の正統!!
71 :
日本@名無史さん:02/10/13 11:28
柳沢吉保なんてどうせ詐称だろ
権力握ってから系図でも買ったんじゃないか
72 :
日本@名無史さん:02/10/13 11:40
>>71 武田の旧臣はけっこう幕臣になってるから、そうとも言い切れない。
73 :
日本@名無史さん:02/10/13 13:56
スレタイが本家以外の、ってなってるけど
本家はどこよ
74 :
日本@名無史さん:02/10/13 14:00
>>73 つーか武田氏自体源氏の分家だし足利氏のほうが格上だし
75 :
日本@名無史さん:02/10/13 14:24
76 :
日本@名無史さん:02/10/13 16:32
>75
武田は新羅三郎義光の子孫。
足利は八幡太郎義家の子孫。
74の言うこともあながち間違ってはいない。
ただし、それは江戸時代、またはどんなに遅くても戦前であったら通じていたと思う。
因みに、賀茂次郎義綱の子孫はどうなったのでしょうか。
77 :
日本@名無史さん:02/10/13 17:37
源氏の嫡流を示す「髭切之太刀」と「源太之産着」は
どこに行っちゃったの?
78 :
日本@名無史さん:02/10/13 20:01
新羅三郎義光┬義清─清光┬信義
│ ├(逸見)光長
│ ├(加賀美)遠光
│ └(安田)義資
└義業─(佐竹)昌義
80 :
日本@名無史さん:02/10/15 09:51
源家重代相伝八領の鎧
・源太産衣:義家>頼朝
・薄金:義家>伴助兼>尾張猿投神社(為義、義仲、新田義貞)
・膝丸:為義>義朝
・月数
・日数
・楯無:義朝>甲斐武田氏>菅田神社
・面高:朝長
・八竜:義家>義平>義経>小林神五宗行
・七竜(or源太産衣)
鬼切:頼光>多田満仲>豊臣秀吉>徳川家康>秀忠>越前松平忠直>作州松平>東京国立博物館
誰か補完してぇ
81 :
日本@名無史さん:02/10/15 10:01
頼朝にぼろぼろにされるまでは、武田も足利同格と思うけどね
足利が嫡流格になれたのも尊氏の将軍宣下と北条との結びつき
と思われ、武田は富士川で活躍しすぎ(涙
>賀茂次郎
殆ど族滅、美濃義仲から石橋・服部
>>78 義業と義清は義業が兄
82 :
日本@名無史さん:02/10/15 10:24
>81
>頼朝にぼろぼろにされるまでは、武田も足利同格と思うけどね
頼朝と足利義兼は母が姉妹(叔母と姪かも)で
妻も姉妹(時政の娘)だぞ。
83 :
◆ANDOozB1sE :02/10/15 11:10
南部、松前も武田分家だよな
松前は眉唾だが
84 :
日本@名無史さん:02/10/15 11:24
85 :
日本@名無史さん:02/10/15 16:06
足利は頼朝にいち早く臣従したけど、臣従するしか無かったって
見方もできるんではないかと。
足利は当主早世とかあって、新田義重ほど地盤を作れなかったんでは?
常陸北部の佐竹、常陸南部の志田、甲信の武田一門、信州木曾、上州新田あたりは
当初頼朝に対抗できる勢力もってたからまずったんではないかと。
頼朝を嫡流なんぞとは思ってなかったりさ
87 :
日本@名無史さん:02/10/15 17:32
まあ、頼朝と血縁関係の濃い足利義兼が頼朝に従うのは
当然のことだと思うけど。
平氏に懐柔されていた新田なんて頼朝挙兵を平氏に通報した位だから
あっさりと臣従なんて出来ないよねぇ。
88 :
日本@名無史さん:02/10/15 17:39
武田なんてどうでもいいよ
89 :
日本@名無史さん:02/10/15 22:12
90 :
52じゃないですが:02/10/17 16:10
逸見清光の子が浅利義成。武田信義の弟です。
この浅利氏がそうなのかは知らないですが。
91 :
日本@名無史さん:02/11/10 20:35
age
92 :
日本@名無史さん:02/11/10 21:32
>90
多々見義成はいるの?
93 :
日本@名無史さん:02/11/12 16:53
asari-akt.hp.infoseek.co.jp/index.htm
浅利氏ならここだろ
94 :
日本@名無史さん:02/11/23 18:02
安芸武田氏の末路は興味深いぞ。
研究の余地あり。
95 :
日本@名無史さん:02/11/23 18:53
恵瓊は本当に安芸武田の遺児なのか?
それから大名になったとき本性に戻してないのか?
96 :
日本@名無史さん:02/11/23 19:06
97 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:09
蛎崎どーよ?蛎崎。
98 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:54
恵瓊は坊主として相当出世してたし
本人が還俗して本姓に戻すなんて事はなかっただろう。
ただし、彼の家が大名として存続していたなら、跡を継がせる養子に
武田と名乗らせたかもしれんな。まあ、本当に武田の遺児だったとしたらの話だが。
99 :
日本@名無史さん:02/11/24 17:21
越後新発田藩の溝口家も甲斐源氏なんでしょ?
100 :
日本@名無史さん:02/11/25 08:55
恵瓊は信重の子光広?
101 :
日本@名無史さん:02/11/25 12:04
102 :
日本@名無史さん:02/11/25 12:38
高杉晋作の先祖は武田元繁の遺児というけど、
本当のところはどうなの?
103 :
日本@名無史さん:02/11/25 13:44
高杉晋作が安芸武田家の子孫といわれているのは事実ですが、史実
かどうかは判らないそうです。
ちなみに室町時代の若狭の守護家で、本能寺の変で明智光秀に組して滅んだ
武田家、上総の守護代家で里見家に滅ぼされた武田家、山名豊国を
追放し一時的に鳥取城主になった武田家もいました。また盛岡藩主の
南部家は、甲斐から奥州に移住した武田家です。
104 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:06
高杉さんは家老宍戸家の猶子になったことがあるから?
105 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:18
>104
宍戸って武田氏と関係ないじゃん。
たしか先祖の高杉春継?とかいうのが元繁の遺児ということになっている。
106 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:24
>>105 宍戸の猶子になったどさくさに系図詐称でもしたのかと思ってな
107 :
日本@名無史さん:02/11/25 16:44
108 :
日本@名無史さん:02/11/26 00:20
武田を継いだのは武田信義(家康5男)だっけ?
彼の死後、武田家は断絶したんじゃなかったっけ?
109 :
日本@名無史さん:02/11/26 00:26
信吉の死後は大名としての武田はなくなったけど、
顕了道快(海野信親の子)とか武田信清(信玄七男)とかいるよ
あと武田勝親(勝頼次男?)とか
110 :
日本@名無史さん:02/11/26 07:20
道快系が高家武田家でここが嫡流扱いかな
武田晴信(信玄)−海野信親(龍芳)−信道(道快)−信正−信興(高家武田家)
大久保長安に連座して配流になるも、柳沢吉保の庇護を受け高家になるっと。
安田(武田)信清系は姉で上杉景勝の妻を頼って、上杉家に。上杉家の移封により
米沢武田氏になるっと。
勝頼遺児はまあ眉唾でしょう・・・
後は、信玄の弟の川窪信実系で、武田信貞が旗本かな。5,700石だったと思ったが、、、
川窪信実−信俊−信雄−武田信貞
他の武田氏はというと、
既に出てる、若狭武田、安芸武田、真里谷武田、伊予武田のほかは
常陸武田、紀伊武田とかかな。名字が武田以外をあげれば、もっと
たくさんあるけど・・・
111 :
日本@名無史さん:02/12/05 21:16
仁科盛信の子が生き延びて、林信正になりました
112 :
日本@名無史さん:02/12/11 21:09
安芸
113 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:11
age
114 :
日本@名無史さん:03/01/02 15:40
穴山衆では別格の扱いだった万沢氏も武田の流れらしい
115 :
日本@名無史さん:03/01/02 16:13
武田きぬっていうセンコーがいた。
家紋は信玄といっしょらしい。
116 :
日本@名無史さん:03/01/02 16:14
117 :
日本@名無史さん:03/01/02 16:20
>>103 >鳥取城主になった武田家
調べたいんだけど、鳥取の郷土資料(市史なんか)で
詳しく書いてあるのないかな?
山陰地方の方、お教えください。
118 :
日本@名無史さん:03/01/02 17:46
>>110 紀伊武田、伊予武田なんていたんだ・・・初耳
119 :
日本@名無史さん:03/01/02 19:40
武田高信の系譜関係は不明です。
120 :
日本@名無史さん:03/01/02 21:17
武田高信
安芸か若狭の一族でしょうか?
121 :
日本@名無史さん:03/01/02 23:45
いや鳥取城主ですが。
122 :
日本@名無史さん:03/01/03 01:18
>>121 そりゃわかってるが、系譜不明ということだから
安芸か若狭から来たのかと
123 :
日本@名無史さん:03/01/03 01:45
>122
だから系譜不明なんだろ?
124 :
日本@名無史さん:03/01/03 10:46
125 :
日本@名無史さん:03/01/03 10:58
武田高信て鳥取城を奪って山名豊国
に奪い返されたとき戦死したの?
126 :
日本@名無史さん:03/01/03 11:25
一説には山中鹿之助にだまし討ちされたとか
>126
そうなんだ〜勉強になった。山名豊国に
鹿ちゃんが協力した形?それとも客将?
128 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:05
辺見えみりも武田一族なんだろーな
129 :
日本@名無史さん:03/01/03 16:30
130 :
日本@名無史さん:03/01/03 19:39
辺見と逸見は同じなのか?
131 :
日本@名無史さん:03/01/03 20:19
同じではありません。
132 :
日本@名無史さん:03/01/03 22:00
逸見は「へみ」?「へんみ」?「いつみ」?
地域によって呼び方違うのですか?
133 :
日本@名無史さん:03/01/03 22:26
旧華族で第23類(甲斐守義光の子孫)に分類されていたのは、
南部、柳澤、佐竹、小笠原、松前といったあたりです。
また、
>>71 は偏見です。
俗に柳沢吉保と呼ばれている松平美濃守が出た家は、
武田家→駿河大納言家→館林宰相家→将軍家と仕えてきた家で、
歴とした甲斐源氏です。
大名になってからの当主は美濃守でなければ甲斐守を名乗り、
高家の武田家に養子を出すなどしました。
134 :
日本@名無史さん:03/01/03 22:57
>133
松前はかなり怪しいと思う。
135 :
日本@名無史さん:03/01/04 11:08
柳沢の系図ね。異説もあるんで一例ですが
新羅三郎義光−武田義清−逸見清光−武田信義−石和信光−一条信長−信経
−時信−新井時光−経光−青木信連−貞義−義遠−安遠−義虎−信定−信立
−柳沢信俊−安忠−吉保
出は青木氏ってことだが、武川衆の青木とは関係あるのかなぁ?
武川衆の青木をよく知らないので詳しい人ヘルプ
系図が詐称かどうかもよく分からないけど、まあ一応武田一族で
間違いないんじゃないのかしら?
136 :
日本@名無史さん:03/01/04 19:50
柳沢氏は武川衆です。
137 :
日本@名無史さん:03/01/05 11:06
若狭の朝倉方の中心となった武田信方は、朝倉滅亡後、
甲斐に逃れたんですか?
138 :
日本@名無史さん:03/01/05 15:10
>>135 柳沢吉保・義光20世孫
佐竹義重・義光20世孫
武田勝頼・義光20世孫
武田信政・義光20世孫(上総武田信保の孫)
武田元明・義光19世孫(若狭武田)
139 :
日本@名無史さん:03/01/06 17:43
洩れのうちも武田です。
柳沢吉保(1658〜1714)佐竹義重(1547〜1612)
武田勝頼(1546〜1582)武田信政(15??〜1552)
(^^)
(^^)
143 :
日本@名無史さん:03/01/19 23:56
138・140は何が言いたいんだ?
144 :
138・140:03/01/27 22:32
柳沢は世系がおかしい=家系粉飾疑惑
sage
146 :
日本@名無史さん:03/01/28 21:21
安国寺瓊恵も勝頼や義重と同年代と思うけど、3世代前だな
148 :
日本@名無史さん:03/01/31 17:02
>147
生年と没年も見てるかも
瓊恵って系譜関係確定してた?
他にないから、誰々の子と思われる、って繋いでるんしょ
柳沢吉保6代前の義虎
一世代35年で割って、大体15世紀後半から16世紀初頭の人でしょ
てことは武田信虎に関連付けるために考えられた名前
だけども、主君の諱を自分の諱の下につける事は考えられない
武田の家臣に○虎なんて名乗る不埒なやついたかな〜?
甘利虎泰・原虎胤・飯富虎昌・工藤虎豊・金丸虎義・小幡虎盛・・・
あぁ、もしかして青木義虎が武田信虎の烏帽子親なのか?
生没年だと義虎の次の代が1541没、次々代が1590没らしいね
150 :
日本@名無史さん:03/02/01 21:40
このスレは柳沢吉保が甲斐源氏か否かを論ずるスレに変わりました。
151 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:09
昨日、武田神社へ行ってきました。
掲示板に広報誌があって読んでみると、信玄の子孫が当神社の役員をしてるようです。
確か、武田昌信だったかと。
幕府高家の子孫だと思います。
153 :
日本@名無史さん:03/02/09 12:52
154 :
日本@名無史さん:03/02/09 16:45
フジTVの女子アナ、武田祐子は山形出身だね。
米沢藩に仕えた武田一族と関係あるのかなあ?
155 :
名無しさん@3周年:03/02/12 16:42
うちは母方が諏訪一族なんですが、どなたか同じ一族の方いませんか?
156 :
SEXYQ:03/02/12 17:58
若狭の武田義統の末裔ってどうなったの?
157 :
日本@名無史さん:03/02/12 18:23
158 :
SEXYQ:03/02/12 20:44
へえ〜、そうなんだ。その後はどうなったんだろう
159 :
日本@名無史さん:03/02/12 21:23
>>156 末裔ではないけど、若狭武田一族ってことで
武田信豊(義統の父)の弟、内藤某の曾孫内藤長縄ってのが丹羽に仕えて、
長縄の孫の長富が、将軍家に仕えたそうな。
長縄の弟の重純の孫の政勝が豊臣側で大坂夏陣で討死。
政勝の弟の政信は将軍家に仕えて、下総に知行貰ったそうな。
160 :
sexyQ:03/02/12 22:23
はあ〜、すげえ!わかりました。ありがとう
邪魔らしいからもうやめるけど
>>151 義虎が一(二か?)世代前でも、信虎と活躍年代が被る事に変わりはないし
年下からは偏諱を受けないなんて慣習もない
武田耕雲斎って跡部勝資の子孫?
TVの子孫物に時々出てくる武田家当主は柳沢吉保の子孫になる?
162 :
日本@名無史さん:03/02/13 15:03
>>161 >信虎と活躍年代が被る
本当に被ってる?
信虎への改名とも被る?
163 :
日本@名無史さん:03/02/13 17:17
>>161 義虎は信虎からの偏諱なんて事実ではないよ。
164 :
日本@名無史さん:03/02/15 00:40
若洲武田系図では、元明につづくのは木下勝俊だね
武田元明の妻を奪って、後を継いだ形にしたってことかな
165 :
日本@名無史さん:03/02/15 01:10
柳沢氏と同じ武川衆の山高氏なんかは信憑性どうなんでしょう?
柳沢氏と同じで一条氏の出ですが
166 :
日本@名無史さん:03/02/17 12:58
>>164 いや、木下勝俊は武田元明とその妻京極龍子との間の子という説。
木下家定の養子になったとか。
167 :
日本@名無史さん:03/02/17 21:18
>>166 知らなかった・・・いいこと教えてもらったよ
武田家では、信虎の父信縄が1507年没、祖父信昌は1505年没
信虎の偏諱は1507年から始まってってもおかしくない
逆に義虎が1507年以前に没していれば何ら問題ない
だのに〜な〜ぜ〜 か相当有力な家臣(馬場・内藤・山県等)ですら子も含め昌○
信虎偏諱の金丸虎義の子でも、昌次・昌恒・昌詮・親久・・・
青木家は義虎以降に信○が乱発してたり見れば見るほど怪しく思ってしまう
自分は先入観に囚われてる
誰かここに柳沢の系譜考証依頼してみたら
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihumokuji.htm
>>163 立場が下の人物が上位の人物の諱を勝手に付けることが可能だったんですか?
170 :
日本@名無史さん:03/02/18 12:33
>>168 信虎は信直からの改名だって知ってる?
それに「昌」は信玄からの偏諱という説があるの知ってる?
信直→信虎は知らない、何年改名?
義虎と名乗れるのは信虎の改名迄に訂正ね
「昌」が信玄の偏諱説も知らない、自分の諱じゃないのに偏諱?
木曽義昌や飯富虎昌など、諱の下にも使っているので片諱とは区別すべきでしょ
てか意味が通じていないよう、168のは
昌が信玄の偏諱であれなんであれ(付与なのは確実)
重臣ですら付与された諱が昌なのに、なぜ青木風情に信が連発してるのかって疑問
確かに信を受けた家臣も存在するし、青木信秀なんて人物も居るらしいけど
武田家家臣の人名を列挙してるサイトみても、義虎以前の青木家の信○は4/11人
義虎世代以降〜信立の子世代の信○は13/15人、なんか違和感がない?
それとも、義虎=青木尾張守満懸なのか?
義虎直系は代々尾張守を称してるっぽいし、満懸は年代が近い(1541年に武田八幡宮造営奉行
信虎の改名とともに義虎から満懸に改めたならおかしくともなんともない
172 :
日本@名無史さん:03/02/28 15:27
信虎への改名は、たしか1521年。
「昌」の信玄偏諱説はよく覚えていないけど、
信玄の実名「晴信」のうち「晴」は将軍からの偏諱なので家臣に下賜できず、
信虎の「虎」に当る字の代わりとして「昌」を当てたものという。
だから一族重臣は「信」で、譜代近臣ほど「昌」ということらしいけど、詳細不明。
173 :
日本@名無史さん:03/02/28 15:29
174 :
日本@名無史さん:03/03/05 11:34
4/11とか13/15ってどれを見ての比率なんだい?
言わんとしてることを共感できんのだが・・・
青木の「信」は偏諱じゃないんじゃないの
武田一族ならいたるところで使ってる通字なんだしょ
175 :
日本@名無史さん:03/03/05 21:19
油川信恵なんてどう?
176 :
日本@名無史さん:03/03/14 18:01
名スレあげとく
もう飽きちゃったしネットがソースじゃどうにもなんないけど
武田信長−信経−時信−時光 と続いて、時光の子に信一、義行、源光、経光、時次
源光の家系が源光−信高−信行
経光の家系が経光−信連−貞義−義遠−安遠 と続き、安遠に義虎と柳沢信興の二子
15人中、信を諱に使ってるのは7人
ただし、家祖を時光とすると12人中4人
義虎の後に義虎−信定−信立、信立の弟に信明、信立の子に時信、信実、信国、信次
そして柳沢家を継ぎ、吉保の祖父にあたる信俊の五子
信興の後は信興−貞興−信房−信兼−信久 と続き、信立の子の信俊が信兼を継ぐ
14人中、信を諱に使ってるのが12人
信定には信種、信立には信親という別名もあるらしい
7/15、12/14 としてみても信という字が義虎世代以降に急増してることに変わりはない
4/12、12/14 ならより明らか、青木家が信を通字としたのは後天的なものじゃない?
義虎−信定−信俊
信興−貞興−信房−信兼−信久
柳沢信俊を青木信定の子としているとこもあった
これだと一世代後の信兼を継いだことになる
178 :
日本@名無史さん:03/03/22 16:02
>>177 ご苦労さん。
だけど何の証明にもなってないね。
油川信恵は武田信縄の弟で信虎(信直)の叔父。
信玄の側室・油川夫人の実家?親戚?分家?
180 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:27
保全
ageとく
182 :
日本@名無史さん:03/03/31 17:10
穴山梅雪
どう評価する?
ところでこのスレは本家を語ってはいけないと思うのだけど、本家はどこでしょう。
安芸ですかそれとも甲斐
184 :
日本@名無史さん:03/03/31 23:08
安芸でしょ
楽しそうだから来たが、全然つまらねぇ話ばっかだ。
もう、こねーずら。
186 :
日本@名無史さん:03/04/02 17:55
本家は甲斐です。
187 :
日本@名無史さん:03/04/02 19:32
武田ってもともと新羅からの渡来人が土着した家系なんだよね。
もともと騎馬民族の血を引いていたからあんなに強力な騎馬軍団を形成できたのかもしれないね。
188 :
日本@名無史さん:03/04/02 20:01
>>187 おいチョン お前さっきからいろんなスレに嘘まいてんじゃねー
189 :
日本@名無史さん:03/04/02 20:04
190 :
日本@名無史さん:03/04/02 20:05
191 :
日本@名無史さん:03/04/02 20:13
実際に甲府市と武田氏の源流がやってきたとされる韓国清州市がその縁で姉妹都市関係を結んでるしね。
ま、
>>187は事実を捻じ曲げたい典型的な嫌韓厨ってことで。
192 :
【^▽^】ジーモン@ケー二ヒスベルク:03/04/02 20:33
板垣信形とその末裔 板垣退助(板垣正形)。
193 :
ききすてならぬ:03/04/02 20:59
>187と>191さん
武田氏の源流とは、何のこっちゃ?
新羅三郎義光が、新羅と名乗ってるから「新羅」と関係あるという
あほがいるとは聞いてはいたが。
194 :
日本@名無史さん:03/04/02 21:00
195 :
日本@名無史さん:03/04/02 21:01
>183他
武田本家は甲斐武田かな
信武以降の系図はほぼ信じていいと思ってるんで
本家を語っても構わないと思いますよ、他に語るスレがなかったら
スレタイを本家以外にしたのは、信玄周辺の話題に終わるのが嫌だったからす
期待どおりに、微妙にマニアックなスレになって楽しんでます。
197 :
ききすてならぬ:03/04/02 22:28
>194>195さん
どこがどうあほなのかおしえてくれ。
198 :
日本@名無史さん:03/04/02 22:30
199 :
日本@名無史さん:03/04/02 22:34
武田氏初代は信義(あるいは義清)、源流だかなんだか知らんが
変なもの持ち出さんでくれ
200 :
日本@名無史さん:03/04/02 22:35
しかしれっきとした事実だからなあ。
201 :
切り捨てごめん:03/04/02 22:48
>198さん
それじゃ、コテハン換えるからおしえてくれ
旧 コテハン 「ききすてならぬ」
新羅三郎義光は新羅明神の杜の前で元服の儀式をしたから、
新羅三郎義光と言われてるだけ。
もともと源氏が新羅明神と関わりを持ったのは、京都園城寺
開祖の智証大師円珍が唐から帰朝の時、船中にあらわれた新
羅の国神を祀って、後に源頼義が新羅明神に祈願して園城寺
との縁ができた。只それだけ。別に源氏が新羅から来たとか
わけのわかん事言ってるみたいだが・・・・・まぁ、ここに
来るのはこんなレベルの話を議論してるんじゃ、スレは伸び
ないと言う事で失礼します。
203 :
日本@名無史さん:03/04/03 01:07
204 :
日本@名無史さん:03/04/03 12:20
いや違う
八幡太郎、加茂次郎、新羅三郎は兄弟ではない。
次郎を除いて、韓国系だ。
といいたいのかな?
205 :
日本@名無史さん:03/04/04 19:58
東照大権現「この御稚児かっこいくねー?」
稚児の師僧「さすが御眼が高い、この子はかの土屋昌恒殿の遺児に御座います」
東照大権現「マジで?やっぱなんか違うと思ったんだよねー」
東照大権現「オレ武田遺臣の収集が趣味なんだけど貰ってっていーい?」
稚児の師僧「どうぞどうぞ」
権現様は駿河の寺で拾った御稚児に土屋利直と名乗らせ大名に取立てましたとさ。
それってさぁ、土屋昌恒の息子は土屋平八郎忠直(家康に見出され300石から後に大名)じゃない?
忠直の息子が土屋利直。
207 :
日本@名無史さん:03/04/07 04:04
板垣信形からどんな風に退助にたどり着くの?
age
209 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:42
板垣信方には信憲っていう息子がおるね
こいつの子孫かにゃあ?
210 :
日本@名無史さん:03/04/08 23:56
信憲は余りにも無能なんで重臣の地位を剥奪された上に自害を命ぜられたとされる人物だぞ。
そりゃねえだろ。
211 :
日本@名無史さん:03/04/09 01:46
板垣退助はもともと乾正形という名前でした。
212 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/09 10:19
私も詳細は知らないのだけど、
退助の先祖が武田遺臣なのは事実で、山内一豊が
遠州掛川城主になった時に召し抱えられたとも、
関ヶ原の戦の際に召抱えられたとも言われます。
後に板垣なんちゃらは乾家に養子入りしたかなにかで乾を名乗りましたが、
イミナは代々「形」か「信」を付けています。
213 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/09 10:27
ただ、退助自身は自分の家系が武田遺臣末裔である
ことをほとんど意識していなかったらしく、
東征出陣の際に山内容堂が「迅衝隊は東山道を行くそうだな。
そちの先祖は甲州の侍だったから、板垣に復姓せい。」と言われ、
乾から板垣に変えたそうな。
しかし、容堂のこのアドバイス(命令?)は効を成し、
甲州の人々は「武田武士が戻ってきた!」と感激し、
神官・浪人・郷士らは断金隊という斥候中心の義勇隊を
組織して、板垣(乾)の同志・腹心で元土佐勤皇党幹部の
池知退蔵の下で迅衝隊に従いました。
214 :
日本@名無史さん:03/04/09 14:27
>>212 >>213 だからお前は来るなって。
お前のレスのあと、まともな書き込みは続かない。
スレ潰しの嫌われ者は世界から去れ
退助=板垣信方子孫?
経歴詐欺、普通に。由来一切なし。
>私も詳細は”知らないのだけど”、
>武田遺臣なのは”事実で”、
バカか
リアル基地か
妄想炸裂か
お前は。
216 :
日本@名無史さん:03/04/09 16:14
武田勝頼でなんで滅んだの?
内容的にはかわらないからいいじゃん。
寺で拾われた坊主が大名になれちゃうだから武田遺臣はやめられない。
218 :
日本@名無史さん:03/04/10 00:18
土屋昌恒には件の実子の忠直以外にも
養子で元勝いうのがいるみたいだけど、
なんで養子にしたのかしら
元勝の実親、岡田なんたらてのは縁戚かしら
219 :
日本@名無史さん:03/04/13 16:19
知らねーけど普通に考えて実子がいなかったからじゃねーの
養子とったあとで忠直が生まれたか忠直が騙りなのかどっちか
220 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/15 10:27
土佐武田氏は
武田氏⇒香宗我部氏(小名・国人時代)⇒中山田氏(長宗我部氏に
香宗我部家を乗っとられた時代)⇒中山氏(山内氏の下で
馬廻次いで中老となっていた時代)⇒武田氏(維新後)。
221 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/15 10:34
事実、乾って苗字、土佐に結構いる。
退助の家は馬廻だから家老(後に中老の格下げされたが、
山内姓を名乗り続けることは許された)の乾家とは無関係だし、
まさか退助の乾家は土佐土着の大したこと無い「家」だったりして・・・
(^^)
223 :
日本@名無史さん:03/04/19 10:22
age
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
225 :
日本@名無史さん:03/04/30 00:33
香宗我部氏が武田氏ってのはかなり無理あるね
せめて一条にしとけば・・・
226 :
日本@名無史さん:03/05/14 23:24
age
227 :
日本@名無史さん:03/05/17 08:16
家臣だった真田には武田の血はいってるんだっけ?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
229 :
日本@名無史さん:03/05/25 23:57
しかし武田一族って雨後の竹の子のごとくにょきにょき出てくるね。東北地方なんて
殆どみたいだし。山梨県に日本武尊の子孫の猛田ってのがいたみたいだけどどうなっ
てしまったのだろう。
230 :
日本@名無史さん:03/05/25 23:58
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
232 :
日本@名無史さん:03/05/29 18:19
233 :
日本@名無史さん:03/06/12 21:54
安芸の守護 武田
235 :
日本@名無史さん:03/06/19 02:00
常陸武田ってどう?
236 :
日本@名無史さん:03/06/21 19:16
あのう、甲斐武田の家臣だった甘利氏について調べている者ですが、甘利氏について何か知っている事や、武田滅亡後の甘利氏について何か知っていたら教えて下さい。
237 :
日本@名無史さん:03/06/21 19:29
238 :
日本@名無史さん:03/06/29 11:17
明治時代に甘利の姓を天利に変えた方のHPを見たのですが、その方の先祖は武田の警備の武士をしていて最後は旗本花房氏の家臣だったそうです。
239 :
日本@名無史さん:03/06/29 11:51
240 :
日本@名無史さん:03/06/29 12:10
穴山信君って結局、あいつは途中から武田になったの?
武田勝頼と仲が悪かったみたいにいわれているが
木曾と穴山の仲は良かったのか?
漏れ的には勝頼も穴山も双方可哀想だと思うのだが
信玄さんがもうちと色々と考えておいてくれてればと
241 :
日本@名無史さん:03/06/29 12:20
>>240 穴山は武田家一門ですよ。
穴山が裏切らなければ1戦することができたでしょうに・・・
242 :
日本@名無史さん:03/06/29 12:24
信虎の子供の子供。
信玄の姉の子供。木曾と穴山のなかが悪いってって話も
いいって話もきかないな。
穴山が駿河の最前線を守ることになったのは信玄死後だ
からどうしようもないでしょ。
>>241 穴山が裏切る時には既に武田は滅亡状態だったから
仮に一戦しても無駄死にするだけだったと思いますねえ
裏切るというよりもうダメだこりゃと思ったんではないでしょうかね
裏切るならもっと早くから内通して寝返ってるのではないでしょうか?
凄く残念なんですよね、この2人がもっと円滑に回転していったなら
武田がもっとねぇと・・・つい思ってしまって
244 :
日本@名無史さん:03/06/29 18:25
穴 山
かっこわるいな
245 :
日本@名無史さん:03/06/29 18:26
お館様、ひき逃げでタイーホされましたね…
246 :
日本@名無史さん:03/06/29 18:41
>>245 何が言いたいのかよくわからん
もちっと客観的に詳しくw
247 :
日本@名無史さん:03/06/29 18:52
>>246 コピペで申し訳ないが…(ニュース速報版より)
依頼383 ◆CHAINS2fXE @速報記者 ★ :03/06/29 03:15 ID:???
強殺容疑などで5人逮捕 姫路のひき逃げ殺人
兵庫県姫路市で2001年12月、車上狙いの車を止めようとした大阪府柏原市の会社員、
伊藤裕一さん=当時(26)=がひき逃げされ死亡した事件で、同県警捜査一課と姫路署は29日、
強盗殺人容疑で車を運転していた大阪府八尾市、無職、武田晴信容疑者(31)を逮捕した。
http://www.sankei.co.jp/news/030629/0629sha007.htm ・・・腹を切れよ
248 :
日本@名無史さん:03/06/29 19:29
名前負けってやつね
梅雪は山県の領地を加増され江尻城城主となる。
これに対して、長篠で真っ先に逃げ帰った梅雪に対し、
高坂弾正は『腹を切らせ給えた』と勝頼に迫っていた。
しかし、勝頼はそうすれば梅雪が徳川に寝返るから考え、
弾正の懸案を実行する事は出来なかった。
age
252 :
日本@名無史さん:03/07/01 11:03
>>250 どっちを選択しようと梅雪は徳川に内通したってことだな
最悪だなこいつ
そんなにトップになりたかったなら勝頼と一戦すれば良かったのに
ただ、雪梅は武田家をなんとかして残したくてそうしたとか言われているし、
勝頼の首だけは討ち取らないでくれみたいな事も言われているし、
真相がいまいちなところがあるんだよね、この裏切りというか見限りというか
まあどっちにしろ雪梅が寝返ろうがそうしまいが潰れる運命には変わりないけどw
253 :
日本@名無史さん:03/07/01 11:05
255 :
日本@名無史さん:03/07/02 18:42
武田一族に上田氏っていますか?いたら詳細を教えてください。
いません。
257 :
日本@名無史さん:03/07/03 18:03
甲斐源氏には上田氏いませんでしたっけ?
いるよ
旗本になってる。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
260 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:43
261 :
日本@名無史さん:03/07/19 21:48
さらぶれっとと同じように
人間にも血統ってあるよね?
漏れの友達は武田家の子孫だが
武士の子孫って雰囲気がにじみ出てる
しっかりした子だったもん
それは君の先入観。
263 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:57
261のレスから
小姓っぽい雰囲気がにじみ出てる
武田本家のレスが多くなってきたな・・・
(^^)
267 :
日本@名無史さん:03/08/03 12:58
安国寺タンは・・・
269 :
日本@名無史さん:03/08/10 21:07
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
271 :
日本@名無史さん:03/08/16 02:02
272 :
日本@名無史さん:03/08/22 17:46
本家は若狭でいいのかな。
甲斐は、このスレの対象?
274 :
日本@名無史さん:03/08/22 20:14
武田流弓馬術の弓馬軍礼和礼一切を安芸武田家から細川幽斎に譲ったとゆうのはほんとうなの?
細川幽斎が活躍した当時安芸武田氏は既に滅亡してる。
戦国時代の安芸武田氏は応仁の乱前後に若狭武田氏から分かれたものだから、幽斎は若狭武田流を学んだんじゃないの?
276 :
日本@名無史さん:03/08/25 23:35
≫275
安芸家から若狭国信に伝えられ最終的には武田義統→義頼→信泰→安芸信重→信直
信直の室が幽斎の妹であったため寄頼した。以上 武田流正統師範 金子家教氏談
別冊歴史読本「武田一族のすべて」より
277 :
日本@名無史さん:03/08/26 02:10
≫276
信直て安国寺恵瓊のことか?
278 :
日本@名無史さん:03/08/26 02:27
ってゆうか義頼とか信泰ってだれだよOi
≫276
義頼=元明の弟?「HP戦国武鑑」より
本読んだけど武田信義が親父から楯無、御旗、虎丸の剣、礼法を譲られたとあるけど
なぜ礼法だけ安芸家に? 虎丸はどこ?
280 :
日本@名無史さん:03/08/27 01:21
義頼なんて本当にいたのか?
そもそも義統の「義」は将軍家から貰ったんだぜ。
当主が貰ってないのに、無名の弟が貰うか?
なぞですね。
朝倉の元明強制連行と関係があるのかな?
282 :
日本@名無史さん:03/08/27 14:03
>>261 環境遺伝だよ
武家気質の家に生まれて
そんな人の中で育ち、躾を受けていく
立ち居振る舞いから身だしなみまでね
若狭武田
板垣退助と岩崎弥太郎のスレッドはここですか?
285 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:14
286 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:24
>242
信玄の娘つまり梅雪夫人は諏訪のよそ者より、自分の息子の方が武田の血を3/4引いているので、次期当主に相応しいと思ってたとも言うが…。
287 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:31
>>126 武田高信は1578年に毛利に討たれたと聞いたが、
あと千葉の郷土史書では、
信玄3男の西保信之=上総武田最後の当主・豊信と当たり前の如く書かれているが、山梨サイドとしてはどうなの?
288 :
日本@名無史さん:03/09/05 12:10
まあ勝頼の子で勝近というのもいるらしいから。
289 :
日本@名無史さん:03/09/12 22:59
>247
武田晴信が本名か。
291 :
日本@名無史さん:03/09/13 14:06
久々に広島に帰ったので安芸武田氏についての文献を探してみた。
2冊だけ・・・。しかも個人発行・・・。
内容はとても濃かったけど。これで何とか安芸武田氏家臣を50人以上言えるようになったぞ!
・・・ほとんど名前だけだけどナー。
294 :
日本@名無史さん:03/09/21 10:25
>293
いきなり難しいことを訊いてきたなあ。
室町時代の安芸武田氏は佐東郡・安南郡・山県郡の安芸三郡の分郡守護だから、実質守護代はいないんじゃないかなあ。
安芸武田氏の家臣自体、戦国時代に限ると数え上げることが可能なくらいしかいない。
青木・有田・新屋・粟屋・井尻・板垣・一条・逸見・今田・岩国・遠藤・小河内・小田・
香川・笠間・吉川・木村・国重・熊谷・久村・己斐・品川・渋屋・白井・竹内・筒瀬・富樫・伴・
内藤・中間・中村・南部・温科・福井・福島・戸坂・前原・馬越・溝淵・壬生・無藤・毛木・
安田・山県・山中・吉原・吉山・綿貫。
うち吉川は戦国初期には独立勢力となっている。
この中で守護代を務めそうな家柄かつそれなりの実力を持つ譜代衆といえば、内藤・中村ぐらいだろうか。特に内藤氏。
参考にした資料は陰徳太平記を無視しているので、上記有力家臣は文書類・日記類に登場するもののみみたい。
守護代を挙げるなら内藤氏だろうけど、「擬明応八年武田元繁連署状」に載っていないのが気になったり。
参考ぐらいにはなったかな? わかりにくくてスマソ。
逸見、粟屋は若狭の分家かな?
逸見・板垣・一条・中村が武田氏の分家で、内藤は古参の譜代。
粟屋は安芸国に存在する同名の地侍らしいが、若狭の粟屋氏と同宗なのは間違いないでしょね。
毛利家臣の粟屋氏も同じく同族だと思う。
若狭・安芸の両武田氏では宗家が若狭のほうだから、たぶん粟屋本家も若狭かなあ。
298 :
日本@名無史さん:03/10/01 21:12
299 :
日本@名無史さん:03/10/02 01:06
粟屋勝久
逸見昌経
山県秀政
福島ってのは北条綱成の一族なのかな?
301 :
日本@名無史さん:03/10/02 08:42
安芸武田系の安国寺恵瓊が、最後の武田大名
302 :
日本@名無史さん:03/10/02 09:23
武田信吉だろ
303 :
日本@名無史さん:03/10/03 22:16
>>276 義頼の実在どうこうより、安芸信重って若狭義統より前の人じゃねぇの?
304 :
日本@名無史さん:03/10/13 02:23
305 :
日本@名無史さん:03/10/14 03:09
テソヨのビミサソ武田食品
白アリ駆除の武田消毒
307 :
日本@名無史さん:03/11/06 23:50
308 :
日本@名無史さん:03/11/07 02:44
松前氏って若狭武田系じゃなかったかな
309 :
日本@名無史さん:03/11/07 02:45
>>308 初代信広は若狭武田家の出身ということになっている。
>309
系図上はそうなってる。永禄期になって初めて交信してるけどな。
細川藤孝の養父o又は実父は細川or三淵の刑部or伊豆なんだが、なぜか細川播磨守元常とか三淵伊賀守晴員とされてるのと同じようなもん。
出自詐称&系図改竄。
ただ、一方的に信じてた可能性はある。それなら詐称とは言えないし改竄とも言い難い。
311 :
日本@名無史さん:03/11/07 09:47
>310
>細川藤孝の養父o又は実父は細川or三淵の刑部or伊豆なんだが、なぜか細川播磨守元常とか三淵伊賀守晴員とされ
>てるのと同じようなもん。
きちんとした日本語で書こう。
>311
藤孝は父を「細川刑部」とし、忠興は祖父を「三淵とか細川とかいう苗字の、刑部とか伊豆とか称した人物」としている。
しかし系図類では刑部も伊豆も名乗ったことのない三淵晴員や細川元常が藤孝の父親(養父)として記載されてるってこと。
313 :
日本@名無史さん:03/11/08 13:09
>312
ふーん
でもその
>藤孝は父を「細川刑部」とし、忠興は祖父を「三淵とか細川とかいう苗字の、刑部とか伊豆とか称した人物」としている。
この出典はなに?
正しいの?
314 :
日本@名無史さん:03/11/08 20:29
細川藩では藤孝を将軍義晴、忠興を信長の落胤っていってんだっけ?
>313
ぐぐるか、図書館に行くかしてくれ。
系図とか事典しか読まないのかよ……
316 :
日本@名無史さん:03/11/09 01:42
317 :
日本@名無史さん:03/11/09 02:25
318 :
日本@名無史さん:03/11/09 13:34
駒井高白斎の子孫が10チャンの昼の上沼恵美子が司会
してる芸能番組にでてるな。
あと藤原紀香も藤原氏の子孫らしいぞ。
319 :
日本@名無史さん:03/11/09 15:25
山県昌景と山県有朋ってなんか関係あるの?
>>319 苗字が同じ、という関係があるんじゃないだろうか
321 :
日本@名無史さん:03/11/10 01:27
それぞれ清和源氏流を名乗っている。
武田氏に従って移動したらしい。
>312
文章が正確じゃないなぁ。
忠興は「幽斎は三淵家より出たる者」と言い、
また「幽斎は細川伊豆とやらん、刑部とやらんにやしなはれ」と言っている。
忠興は祖父が細川伊豆(もしくは刑部)と言っている訳ではない。
あくまでも幽斎は「やしなはれ」と答えている。
要は幽斎は三淵家の出で、細川家に養われたということじゃないの?
つまり通説でいう三淵晴員の子で細川元常の養子となった、で何の問題もない。
あと、『寛政譜』によると細川元常は刑部大輔も称している。
323 :
日本@名無史さん:03/11/15 03:55
>>322 確かに室町時代の和泉上守護家の当主は、刑部大輔を名乗っているものが多いので、元常も可能性はある。
あと、忠興は形式的に奥州家(顕氏の子孫)の細川輝経の養子になっている。
324 :
日本@名無史さん:03/11/16 17:01
325 :
日本@名無史さん:03/11/16 17:18
326 :
日本@名無史さん:03/11/17 04:05
327 :
日本@名無史さん:03/11/19 19:48
湯川秀樹も紀伊武田一族です。
328 :
日本@名無史さん:03/11/20 04:07
329 :
日本@名無史さん:03/11/21 01:25
>>328 清和源氏は安芸武田だけではありません。
甲斐武田もそうだしW
330 :
日本@名無史さん:03/11/21 20:06
三河松平もそうだしW
331 :
日本@名無史さん:03/11/21 20:09
金で買ったのはダメじゃんW
332 :
日本@名無史さん:03/11/24 18:33
たけだたけだたけだーたけだーを食べるとぉ
あたまあたま・・・
うつだしのう
>>318 関西の方?上沼の昼の番組なんてないが?
334 :
日本@名無史さん:03/11/26 04:58
>333
関西の超人気番組だな。
335 :
日本@名無史さん:03/11/27 01:13
要するに山県氏というのは武田の根本被官みたいなもんなのね。
336 :
日本@名無史さん:03/12/10 19:59
上総武田氏と真里谷氏って同じ?
337 :
日本@名無史さん:03/12/10 20:16
>>336 同族。真里谷の方が分家。上総武田だと真里谷も入るので一般に前者は「庁南武田氏」と言っている。
338 :
日本@名無史さん:03/12/10 20:56
てことは、上総に入植した武田一族が、庁南氏と真里谷氏の2つに別れたが、前者のほうが本家筋ということか。
339 :
日本@名無史さん:03/12/12 23:51
>>338違う、信長の子の信高の長男信興が真里谷城主に、次男道信が庁南城主となった。
あと峰上系、久留里系にも分かれている。
340 :
日本@名無史さん:03/12/13 00:30
341 :
日本@名無史さん:03/12/13 03:02
まあ「日本語として…」とか言う具体性のない
訳のわからないことを言えるからね。
342 :
日本@名無史さん:03/12/13 03:14
343 :
日本@名無史さん:03/12/13 03:21
どこからの誤爆か予想するのもまた楽し
344 :
日本@名無史さん:03/12/13 03:25
仁科は高遠城の戦いで絶えたのか?
345 :
日本@名無史さん:03/12/13 04:39
346 :
日本@名無史さん:03/12/13 04:47
347 :
日本@名無史さん:03/12/13 05:34
348 :
日本@名無史さん:03/12/13 05:35
349 :
日本@名無史さん:03/12/13 08:31
>>340 正木氏は三浦氏系とされている。
(大河ドラマ「八代将軍吉宗」で竜雷太が演じた吉宗側近・三浦為隆は正木時忠系嫡流の5代目)
久留里の武田氏はは「勝氏」だったと思ったが。
351 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:21
352 :
日本@名無史さん:03/12/15 03:21
議論を上総武田氏に戻すが、武田の一族がどうして上総に来たの?
上総の守護にでもなったの?
353 :
日本@名無史さん:03/12/15 05:01
354 :
日本@名無史さん:03/12/15 05:25
356 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:07
357 :
日本@名無史さん:03/12/17 02:02
織田信長は武田の養子か何かになっていたのですか?
>>357 なってたよ。つうかそんなことも知らずに来るなよ。
初心者スレで聞け。
359 :
日本@名無史さん:03/12/17 16:11
360 :
日本@名無史さん:03/12/17 21:23
>>357 織田信長より100年も前の人だ、あとは自分で調べろ!
361 :
日本@名無史さん:03/12/18 03:18
362 :
日本@名無史さん:03/12/18 07:49
>>361 デマじゃないだろう。
15世紀(室町)後半の古河公方・足利成氏を巡る関東のゴタゴタで活躍したのだから。
363 :
日本@名無史さん:03/12/18 11:27
364 :
日本@名無史さん:03/12/18 21:10
プ
DQNはお前だろ(ゲラ
366 :
日本@名無史さん:03/12/18 21:22
367 :
日本@名無史さん:03/12/19 01:58
368 :
日本@名無史さん:03/12/19 07:22
今調べたら、1389〜1457と出ていた。
>>360、大雑把過ぎ。
369 :
日本@名無史さん:03/12/19 07:31
>>352 守護は上杉→千葉の筈、武田氏は最初は守護代。
千葉守護も武田守護代も古河公方が勝手に任命して軍事力で既成事実化させただけだが。
370 :
日本@名無史さん:03/12/19 12:16
371 :
日本@名無史さん:03/12/20 02:04
372 :
日本@名無史さん:03/12/20 04:39
お前ひとりでやってるだろ・・
374 :
日本@名無史さん:03/12/20 08:35
375 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:39
376 :
日本@名無史さん:03/12/21 09:52
>>352〜375
もういい加減にせい!
…ということで、上総武田の研究では代表的な郷土史家の府馬清氏の著書から。
武田信長1401〜1477(1458年頃真里谷・庁南城築く)
|
信高1416〜80(府馬説では年齢的に信高の兄が伊豆千代丸とは考えにくく、伊豆千代丸=信高とする)
|
(真里谷)信興1433〜1511
|
信勝1448?〜1523
|
信保1478〜1535
| |
信隆1496?〜1551(庶長子) 信応?〜1564(嫡子だが、信隆家督後継決定後誕生とされるので1520年代生まれか?)
| |
信政?〜1552(里見に討たれる) (小田原開城後、那須へ亡命?)
信応の生年推定のところがズレました。
信応=1520年代か? ですので宜しく。
ちなみに庁南家は、
信高
|
道信1435〜1481
|
宗信1459〜1551
|
吉信1475〜1568
|
清信1491?〜1574
|
豊信1543?〜1590(豊臣軍に居城を落とされて自害)
ちなみに、豊信は武田信玄の3男・西保信之が養子したものとされていますが、甲斐武田に詳しい方はどう考えられますか?
378 :
日本@名無史さん:03/12/21 10:56
>>376 府馬清さんて、軍記物を丸写ししているだけでは・・・・・
>>379 でも、上総武田って基本的に資料少なすぎるからな。研究しているのも府馬さんくらいしか思いつかんし。
380 :
日本@名無史さん:03/12/21 20:47
>>379 『袖ヶ浦市史研究』の何号か忘れたが、黒田基樹氏の論文は良いよ。
381 :
日本@名無史さん:03/12/21 21:25
382 :
日本@名無史さん:03/12/21 21:27
DQN荒らしキタワァ.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!☆
383 :
日本@名無史さん:03/12/21 21:30
384 :
日本@名無史さん:03/12/22 07:58
>>381 千葉県の図書館になら府馬氏の本は普通にある。
多分、千葉県を四国のどこかの県と間違えているんじゃないのか?
385 :
日本@名無史さん:03/12/22 19:41
>>349久留里武田信房(信長3子)−武定−武定の長子が勝姓に改め、
2子吉種が久留里を称した。
>>352上総は信長入国前も武田氏が領する地があったようだ。1344年までの上総姉崎保の領主は武田孫五郎長高であり、信長の上総入部は旧来の上総に所領を有した武田氏の存在を根拠に行われたと考える。
>>376伊豆千代丸は1433年、跡部氏との戦いで戦死したと考えている。仮に信高なら、伊豆千代丸穴山信高とある系図も存在するので、まず信元の跡すなわち穴山の名跡を継ぎ、武田信重を討って上総へ赴いたと推察する。
信重を討ったのは穴山伊豆守だからだ。
信応は1552年に自害している。1552年12月14日に北条氏が信応の菩提を弔う為に妙泉寺に寺領を寄進している事から解かる。
それと、府馬氏の生年は推察であり正しくない者も有る。あくまでも小説として読まれるのが無難です。
あと常陸武田氏、阿波武田氏、伊予武田氏、因幡武田氏、肥後武田氏、越中武田氏が存在しています。
386 :
日本@名無史さん:03/12/23 08:33
>>385 結論としては「上総武田の研究」は進んでいないってことですかね?
房総の武士はほとんど江戸時代中期まで生き残れなかったからな。
千葉・里見といった比較的進んでいる家ですら謎が多いからな。
387 :
日本@名無史さん:03/12/23 12:40
>>386資料が少ないですからね。他氏の資料で調べたりで根気のいる作業になりますね。
388 :
日本@名無史さん:03/12/23 14:40
安芸の武田光和は大内や毛利の侵攻を防いだ戦上手と聞いたが本当なのか?
389 :
日本@名無史さん:03/12/24 03:27
安芸武田ってどこの守護
たしか安芸のうち三郡だよね。
本拠は銀山城だっけ?
390 :
日本@名無史さん:03/12/25 00:24
>>389武田信光は甲斐守護兼安芸守護。信政は守護の証拠無いが安芸に住んでいたと思われる。
信時は安芸守護、子の時綱は甲斐には痕跡が無いので安芸在住と考えられる。信宗、信武、直信、
氏信は代々安芸守護。氏信の子信在は1397年佐東郡の分郡守護が確認されている。弟信守、
その子信繁は佐東郡、山県郡の分郡守護。子信栄は若狭守護、尾張知多郡分郡守護。信栄の末弟
元綱は安芸守護代、元繁は安芸守護。光和、信実は銀山城主。
391 :
日本@名無史さん:03/12/25 00:46
近衛前久の家女房が若狭武田氏の娘で、後陽成天皇の皇后となった藤原前子を生んだという説についてですが、その家女房は若狭武田氏の誰の娘かご存知の方はいますか?
392 :
日本@名無史さん:03/12/25 01:44
>>391近衛系図で後陽成帝准后前子、母家女宝樹院若狭武田氏女と見えます。
しかしどの武田氏系図を見ても存在していません。
前久が1536年生れで、同母の嫡子が1565年生れ。
1530年代40年代の子女を設けられる可能性のある武田氏は、
信豊1514年生れ−義統1526頃−元明1552生れ。義統の妹の
可能性大と考えるが。そうなると信豊の娘となりますが・・・いかが?
>389
1527年に松笠山合戦で大内勢を撃退しているな>光和
光和の生没年の一説である1502〜1534はでっちあげなんで注意。
394 :
日本@名無史さん:03/12/25 10:55
>394
1507〜1540
396 :
日本@名無史さん:03/12/25 23:37
>396
「でっちあげ」は言い過ぎかもしれん。しかしなあ。
文亀2年3月3日に生まれて天文3年3月3日に33歳で死んだっていう説(1502〜1534)は正直信じられんよ。
出典は「武田系図」・「陰徳太平記」だったかと。
山口県の欽明寺には1583年に光和没後50回忌として建てられたと伝えられる供養塔もあるがね。
但し供養塔のそばにある墓碑銘(50回忌云々が刻まれてある)は明らかに後世の作なので、本当に1583年に建てられたものかどうかはわからん。
とりあえずウチにある資料で1534年以降も光和が生存しているヤツ探してみるわ。
398 :
日本@名無史さん:03/12/26 14:07
>>397確かに系図纂要でも文亀2年3月3日生れ、天文3年3月3日死33とあるね。
欽明寺は天文13年創建と伝わるが、光和との関係は?
私も1534年以降生存していたか調べます。
激しく誤爆
402 :
日本@名無史さん:03/12/27 13:23
>>399周防武田氏了解しました。私が調べている優先順位は、1.天正14年肥後高森城で
戦死した武田元実とは? 2.富山に国の重要文化財武田家住宅があるが何故信綱の子孫が
越中に? 3.高知に勝頼お手植えの大木の櫻があるが、何故そのような伝承が残ったのか?
4.常陸武田氏と阿波武田氏 5.伊予武田氏と因幡武田氏 6.安芸武田氏と上総武田氏
7.若狭武田氏の順となっています。順次現地に赴き調査をするつもりです。
但し私の専門は美作三浦氏なんですが、今は武田氏と同時に調べています。
>402
>1.天正14年肥後高森城で戦死した武田元実とは?
大和守。若狭国宮川庄大谷城主。永禄年間に肥後国河尻に移り住む。
高森伊予守に仕えたのは大和守とも子の大蔵ともいうが定かではない。
のち津留一性と名を改めた。
高森城を攻められたとき寄せ手の深水摂津守(長智の子)を討ち取る。
404 :
日本@名無史さん:03/12/27 21:08
>>404有難うございます。その出典教えてもらえますか?
>404
花岡興輝『近世大名の領国支配の構造』国書刊行会
に武田家の先祖附が載っている。
都立中央か国会図書館で読めるはず。
406 :
日本@名無史さん:03/12/28 00:34
>>405早速若狭関係で調べました。大谷城は見当たりませんでした。宮川庄に居たなら宮川殿と
呼ばれた武田宮内少輔信高の後を継いだ武田彦五郎信方が居ますが元実とも名乗っています。
この信方が丹羽長秀に信保山城を追われた後、肥後に入ったのでしょうか?
若狭武田氏滅亡後、信高の子建仁寺英甫永雄が母方の細川氏を頼って、熊本へ一族を移していますが
時代が違いますしね。
407 :
日本@名無史さん:03/12/28 10:08
>>398 でも生まれた日と没した日が同じ日(年だけ違う)というのは少し出来すぎでは?
408 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:59
ちょっとお尋ねしたいのですが、
甲斐武田氏系に『信行』と名乗っていた人物は実在していたのでしょうか。
晴信(信玄)とほぼ同じ世代の人物で。
409 :
日本@名無史さん:04/01/07 13:53
>408
武田信行ならいません
410 :
日本@名無史さん:04/01/11 15:02
お尋ねした理由ですが、大分市の西端、高崎山近くに「加倉神社」というのがありまして、
その由来碑を読んで疑問が沸いたからです。文法等かなりアレではありますが、原文
ママで書きます。
--------------------------------------------------------------------------
加倉神由来碑
正徳五年甲斐嘉兵衛信利が府内藩山役与力として高崎山周辺の管理役ほか付近住民の
差配を務める爲、椎迫村より此の地大迫に移住、その際、地神としてこの加倉神を鎮
座、爾後約二百八十年間甲斐家守護神として崇敬す.
甲斐家は甲斐国の武田一族で四百二十年前の元亀三年織田信長のため浪人として甲斐
国を出国した武田信行が甲斐姓を名乗ったのが始まりである.信行が一族と共に豊後
国に入り大友家臣となり大分郡笠和郷(椎迫村)に移住、大友義鎮公抱人となる天正十
四年二月島津勢と大乱し戸次鶴賀城篭城の利光宗臣らを助けようと島津討伐軍(秀吉
軍、長宗我部元親)と義統軍その勢六千余騎により戸次河原にて激闘、利あらず敗色
濃厚成るも当甲斐家信行の子「清左衛門、右膳、源太郎」は城兵と共に城を守り抜き、
無比類軍功に依って大友家に重用される其の後甲斐三家と成る.朝鮮の役後大友家没
落するも慶長三年豊臣秀吉死後大友義統は再興を期し旧臣を集め石田方に付いて別府
石垣原にて黒田勢と戦うも破れ、大友家滅亡す.参戦した甲斐家も浪人、元和年間甲
斐太郎右衛門頼直が府内藩に仕えその六代目嘉兵衛が大迫に移住、代々此れを継ぎ加
倉神の御加護により繁栄を継けたり.
昭和六十年十月吉日、九州横断自動車道建設計画に伴い此の地に移転、三方荒神水神
先祖供養塔を合わせ祀り、加倉神苑とし?[玄+玄]に子孫関係者相寄り感謝のため永久
に祀るものなり.
平成五年五月吉日建之
祭祀 八月八日
--------------------------------------------------------------------------
要するに、この加倉神社を移転させた「甲斐嘉兵衛信利」の初代が甲斐武田氏系の浪人
「武田信行」であったと。元亀三年ですから信玄が歿する前年で、まだ信長らとやりあって
いたころですか。
で、この「武田信行」という人物が、本当に甲斐の国人で浪人して豊後に流れてきたという
言い伝えは、四国の武田氏らの話から決して考えられないことではないのですが、それで
は当時、同名の人物が甲斐にいた記録があるのか?と思ったのです。讓って、信行は甲
斐国人であったとき、武田の一門ではあったが武田を名乗っていなかったのではないか
とも。
宮崎を中心として甲斐姓は多いから、その流れとした方がわかりやすいと思う。
414 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:52
415 :
日本@名無史さん:04/01/19 18:30
>>399安芸武田氏と周防武田氏と言う論文見つけました。
手に入るかどうか解かりませんが、読んだら連絡します。
>415
よろしくお願いします。わくわく。
417 :
日本@名無史さん:04/01/28 16:38
>>416手に入りそうです。今週末にでも届く予定です。
418 :
日本@名無史さん:04/01/29 04:09
周防武田氏ってなに?
道修町の武田長兵衛家は、アリナミンAで有名な製薬会社の創業家です。
この家と、武田氏は何かつながりはあるのでしょうか?
420 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:05
421 :
日本@名無史さん:04/01/31 19:50
>>416野沢公次郎氏著、安芸武田氏と周防武田氏、1976年。
周防武田氏については初代小三郎宗慶の活躍と幕末に活躍した話だけ。
光和の生年については錆地三十二間筋兜の鉢裏の切銘から逆算して1502
年の生まれとしています。
422 :
日本@名無史さん:04/02/04 23:29
宗慶は入道名じゃないの?
親父の五十回忌に小三郎てのも大したもんだよな、小三郎タンは五十歳以上なわけだろ。
それとも、光和三子の刑部少輔(初代小三郎=入道宗慶)、その子(二代)小三郎、か?
423 :
日本@名無史さん:04/02/16 22:45
保守あげ
424 :
日本@名無史さん:04/02/22 14:18
425 :
日本@名無史さん:04/02/22 14:43
>>377 信之=豊信説はけっこう有名で色んなとこで読んだけど、
史実とすれば何故養子に出されたのかよく分からない。
「正妻三条氏の子のうち長男義信は謀叛、次男龍芳は盲目、
三男信之は早世したため、側室の子で四男の勝頼が跡を継いだ」
というのが甲州地区での言い伝えだと思われ。
庁南武田氏に信玄側が何か政治的な利用価値を認めていたとも思えないし。
ただ、義信の件に連座して、上総に追放された
(もしくは脱出した)というのはアリかもしれない罠。
>>424 実際には、平賀氏は信玄に倒される前に滅んでたらしいから、
この系図は無理があるよ
428 :
日本@名無史さん:04/03/07 11:29
age
429 :
日本@名無史さん:04/03/18 22:27
>>425 義信事件の直後、相越同盟期なら里見家が上杉についていくか、武田と組んで反北条を貫くか迷っていたから信玄が房総に関心がもっていたとしてもおかしくは無い。
実際、甲房同盟が一時的とはいえ成立したわけだし…。
430 :
日本@名無史さん:04/03/26 22:03
431 :
日本@名無史さん:04/03/26 22:41
>>430 武田耕雲斎の武田じゃない?
もっともひたちなか(勝田)の友人が言うには武田の発祥は常陸だからなあ
432 :
日本@名無史さん:04/03/27 03:03
>>430 そう。
発祥の地にいた武田氏。
戦国末期に佐竹氏によって他の多くの国人とともに粛清された。
でも耕雲斎ってもともと乾氏だったと思うけど、直接常陸武田氏と関係あったかな?
佐竹に与して生き延びた武田氏が姓を跡部に改称したのが耕雲斎の出自と言われているが。
434 :
日本@名無史さん:04/04/04 10:13
>>429 里見スレかなんかにあったが、上総万喜の土岐為頼を信玄が高く評価していたという話があるらしい。
435 :
日本@名無史さん:04/04/04 11:43
里見スレより、
「土岐為頼」は、
累代の城主の中で最も傑出した武将で、
「甲陽軍鑑」には、当代日本を代表する17大将に数えられ、
武田信玄書簡では、「上総に萬喜在り、地勢小と雖も天下不世出之材也」と賞賛されている。
(南泉寺秘書・土岐記)
436 :
日本@名無史さん:04/04/07 20:35
>>432違う、常陸武田氏は武田信満の弟信久が信満敗死後
下総に逃れ、後常陸国行方郡に土着した。
437 :
日本@名無史さん:04/04/11 01:57
武田・織田家が430年ぶり和睦、遺恨越えて握手
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040410i514.htm 戦国時代に覇を競った甲斐・武田信玄と尾張・織田信長の流れをくむ宗家の当主が10日、信玄公をまつる甲府市の武田神社をそろって参拝、
武田家滅亡のきっかけになった長篠の合戦から約430年後に“和睦(わぼく)”を果たした。
参拝したのは、武田家16代当主で会社員の武田邦信さん(55)(東京都世田谷区)と、織田信長の宗家の12代当主、織田信成さん(82)
(神奈川県相模原市)、埼玉県庁職員信和さん(57)(東京都港区)の親子。
両家は2001年7月、長篠の合戦をしのぶ「設楽原決戦場まつり」(愛知県新城市)で対面し、「仲直りの機運が高まった」という。
今回、武田神社の仲介で、信玄公の命日(12日)に合わせて開かれている「信玄公祭り」を織田家の親子が訪れることになった。
3人は武田神社の社殿に玉ぐしを奉納した後、宝物殿の壁に飾られた「風林火山」で知られる孫子の旗の前でがっちり握手。
武田さんは「旧来の遺恨を乗り越えて末永くおつきあいしたい」と話し、信和さんも「400年以上たった現代では、平和的な付き合いが
望まれます」と笑顔で話していた。
長篠の合戦は1575年(天正3)、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊が、三河設楽原で、信玄の四男、勝頼が率いる騎馬隊を撃破、
武田家は7年後に滅亡した。
438 :
日本@名無史さん:04/04/11 02:24
滅亡したのに子孫かよ!! と一応突っ込む
439 :
日本@名無史さん:04/04/11 10:15
>>438 それをいったら、明治維新で大名家は全部滅亡している。
この織田さんは高家の子孫なのか、それとも天童、もしくは天理のウラクサイの子孫なのか?
いずれにせよ。子孫が東京周辺に住むってのもな。
441 :
日本@名無史さん:04/04/12 22:50
>>440 明治維新のとき、華族は東京に集められたんじゃなかったっけ?
442 :
日本@名無史さん:04/04/12 22:54
会津武田氏
明治期に傑出した柔術家として知られた大東流合気柔術の武田惣角は
先祖の甲斐武田一族の武田国継が信玄だか勝頼の時代に甲斐を出て会津
の芦名を頼って地頭になったというんだが、これって信憑性があるのか
いな。大体武田国継なんて人、甲斐武田一族の係累にいたのか?知って
いる人いる?うさんくさい武田の筆頭だな
>>437 この宗家って誰が決めてるんだ
織田の宗家って、信雄の子孫なのにってネタでよく聞く、信孝氏じゃなかったか。
しかも神奈川県相模原市って織田無道家の宗家?
大体、信玄の命日に武田神社を参って和睦っつーのもおかしいだろ。
金日成の命日に日本の首相が北朝鮮行くか普通、ありえねー。
444 :
日本@名無史さん:04/04/17 08:01
>>443 >金日成の命日に日本の首相が北朝鮮行くか普通、ありえねー。
すごい飛躍だなww
445 :
日本@名無史さん:04/04/17 23:17
そもそも「本家以外」のスレだろう
446 :
日本@名無史さん:04/04/25 22:25
age
447 :
日本@名無史さん:04/05/10 22:47
>>385 >1552年12月14日に北条氏が信応の菩提を弔う為に妙泉寺に寺領を寄進している
通説では、信隆=北条派、信応=小弓公方派ですが、実際には信応=北条派ということですか?
追善対象者はなんと書かれてるんですか。
>>435 他の16人も気になる。
448 :
日本@名無史さん:04/05/11 07:42
>>447 信応の死は確か永禄年間だったはず。1552年だったら前年に死んだ信隆の間違いでないか?
449 :
日本@名無史さん:04/05/23 22:44
age
450 :
日本@名無史さん:04/05/24 09:55
.┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐
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| ⊂ニニ⊃ .JR | < よゆうで450ゲット クソ田舎 マジック!
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ノ二ニ.'ー、`ゞ ズビーシ
Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ、≡=─
|; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─
.|: ; : : : .| `~`".`´ ´“⌒⌒)≡= -
. |; ; ; ; 人 入_ノ´~ ̄ ≡= -
l ; ;/ // /'' ≡=─
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1081133856/l50
451 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:50
452 :
日本@名無史さん:04/06/07 22:43
平成16年10月8日から11月28日にかけて
千葉県立総南博物館において、企画展「燎原の火の如く-上総武田一族-」が
開催されるそうです。
453 :
日本@名無史さん:04/06/08 12:50
武田家宗家は柳沢系の子孫で、
米沢武田氏が信玄の血を引き継いでいるでOK?
454 :
日本@名無史さん:04/06/08 13:23
信玄の六男信清が上杉景勝の正室となった信玄の四女お菊の方を頼って上杉家に身を寄せた
景勝は信清を家臣として雇い、武田家は明治維新を迎えるまで上杉家の家臣として存続する
米沢近辺にいる武田氏は信清から派生したものと思われる
455 :
日本@名無史さん:04/06/09 21:46
信清は七男
456 :
日本@名無史さん:04/06/09 21:47
武田勝親の子孫は本物?ちょっと怪しい
457 :
日本@名無史さん:04/06/09 22:12
>>455 信清は六男とも七男ともいわれていてはっきりしないのよ
458 :
日本@名無史さん:04/06/10 07:50
義信
顕了道快
信之
勝頼
盛信
信貞
信清
七男に見えるんだけどな…信貞との順番が流動的とか?
要は、上に一人増えるか増えないかの違いだろう。
実の子だけで数えるか、養子も数えるかで変わる
ケースが多々あるぞ。
この前、岩国城に登って城の中を見たのだが、展示されている宝物の中に吉川から武田光和
に輿入れした姫が使っていた手水盥があり、説明書の寄贈者のところに
「武田光和から十何代目武田○○斎」(良く覚えていないスマソ)とあった。
どこかの学園長をしている(た?)らしいが何者だろう。安芸武田は光和病死後
若狭武田(一族の伴繁清の子という説もあったな)から信実が入った以外には
子供がいたとか聞いたことが無いのだが…。
うわ久しぶりにカキコしたから名前欄にsageっていれちった…orz
462 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:34
>>453信清の孫は他家からの養子だから、血は絶えている。
が、とにかく「信玄の子孫」は
現代も続いていると言って差し支えないのな
>>458 二番目は龍宝
道快は龍宝の息子
>>457 七番目説があるワリには生年がハッキリしてなかったっけ
信貞の記録もたいして残されていないようだし
昔、孝行の同級生で豪徳寺の辺に住んでる香具師がいて、
そいつが武田信玄の子孫だって偉そうなこといって威張ってたな。
N大の農業経済学科ってとこに進学したんだけど。
因みに、苗字が武田で名前が○信って名前だった。
綽名はエイシンだったけど。
ここのスレの住人の皆様、
こいつって本物ですか?
若狭の武田義統ってどうなったの?
一時は将軍様が難を逃れてきたと思うんだけど・・・
>>467 東京都世田谷区です。
卒業アルバム見たら、宮○って書いてあったよ。
父親の名前も記載されてて、
邦○っていうらしい。
なんで、そんな香具師がいるかってと、
ウエの学校法人が山梨の大物政治家(脱税事件で逮捕された人)と癒着(OB会長)してて、
そのコネで入学したとか噂があった。
大して頭良くない学校のあんまり頭の良くない同級生だったけど、
先生方からはエコヒイキされててクラスの嫌われ者だったね。
おっ、本物かも、、、
>>470 えっ?
そうなんですか???????
武田信玄の子孫って織田信長に殺されたのではないのですか??
なんで子孫が生きてるのでしょうか?
本人はなんでこんな性格の悪い香具師が武田信玄の子孫なんだってくらい嫌な香具師ですが…。
当時(1990年頃)に高校生で、渋谷のセンター街で悪いお友達とつるんでたらしいですがね。
まぁ、酒・タバコは日常的に、時々クスリもやってるような、
どこにでもいる普通の不良高校生でしたね。
あっ、修学旅行の時には女湯覗いて起こられてましたね。
>>471 検索かけてみぃ
震源の子孫ってワードで
474 :
日本@名無史さん:04/06/27 14:05
なんでそんなのが当主なんだか…
そんなに嫌われてんだ。
道快ってたしか流罪になって70いくつで戻ってきたんだよな?
それから子作りしたんか…ガンバッタネ
478 :
日本@名無史さん:04/07/24 23:55
世田谷在住だったよな。しかも会社経営者だったろ。父親。
ビンゴだと思うぞ。
480 :
日本@名無史さん:04/08/11 02:15
武田氏出自の旗本ってけっこうあるよね
川窪、永手、下曽根、逸見(今井)、栗原、内藤(若狭武田)とか
まだあるとおもうけど
481 :
日本@名無史さん:04/08/11 16:37
伊藤家の食卓なんか有名でしょう!
越後武田は米沢武田?若狭武田?
483 :
日本@名無史さん:04/09/03 15:08
甲斐武田の分家ではないか?
484 :
日本@名無史さん:04/09/03 15:36
小笠原は
485 :
日本@名無史さん:04/09/16 08:44:46
武田一族には、
武田菱、花菱以外に、桐もあるはずだけど、使っている一族いる?
武田信玄って名乗ってる荒しがいるよ
童貞なんだってキモイね
487 :
日本@名無史さん:04/10/03 00:23:34
488 :
日本@名無史さん:04/10/03 01:57:19
489 :
日本@名無史さん:04/10/03 02:04:30
490 :
日本@名無史さん:04/10/04 00:35:19
>>488 >ちなみに私の母方は武田家の侍大将。
誰ですか?教えて。
491 :
日本@名無史さん:04/10/04 18:51:39
>>490 小宮山内膳友晴
こみやまともはる
?-1582年3月11日
二俣城で戦死した丹後守昌友の子。使番十二人衆の一人。
設楽原以降、跡部・長坂等両側近(または御親類衆)を批判し、
勝頼の側近達とはすこぶる折り合いが悪かったが、
一門衆ですら勝頼を見限り早々と敵方に寝返る状況の中、
勝頼を守る為、天目山に駆け付けた唯一の武将。
勝頼は友晴の行動にとても感動したと伝えられる。
無謀な戦いと分かっていながらも鳥居畑で奮戦し討死した。
友晴の三弟・又七も勝頼達と一緒に戦う事を申し出たが、
兄に説得され友晴の妻子を連れて落ち延びたと言う。
友晴の直ぐ下の弟は中山広厳院の僧になっており、
田野で命運尽きた勝頼一行の遺骸を弔ったと伝えられる。
後に家康はこの地に景徳院を建立し友晴の弟を住まわせた。
492 :
日本@名無史さん:04/10/05 04:00:48
>491
何がしたいの?
この流れで小宮山なんてマイナーな武将の名前が出て来る理由がわからんが…
何の意図があって小宮山の話題にしたい訳?
もしかして君の先祖?
>>494 母方(の先祖)だと書いてるじゃん
きみ文盲なの?
誰それの子孫とかって話になるといつも嫉妬むきだしの
変な書きこみするのが出るんだよなw
496 :
日本@名無史さん:04/10/05 15:37:02
そうは言ってない
第一、小宮山は侍大将ではないぞ。使い番だろ?
何で小宮山ごときで妬まなきゃならんの?馬鹿ですか?
497 :
日本@名無史さん:04/10/05 16:00:39
>そうは言ってない
>496で
>もしかして君の先祖?
って聞いてるお前に
>488に
>ちなみに私の母方は武田家の侍大将。
と書かれてるのを読めないお前は
文盲なのか?って言ってんだろ
先祖に武士がいるのなんて珍しくも何とも無いのに
お前の先祖はよっぽどの甲斐性無しか
先祖の出も判らんほどの賎民の出なんだなw
お前みたいな白痴が生れたのも必然だ
498 :
日本@名無史さん:04/10/05 22:03:51
ぐふふっ
小宮山家の子孫が怒り狂った模様でつ
これだから馬鹿をからかうのはやめられん!
>>498 からかわれてるのはお前だろw
さすが小学校中退の知能、誰でも彼でも小宮山家の子孫に見えるのか
色んなスレで〜子孫さん達に絡んでは恥かいてるもんな
コンプレックスの塊で見ててキモイぜ
500 :
日本@名無史さん:04/10/05 23:08:30
>小学校中退の知能
これは立派な誹謗中傷ですよ
それともお前には冷静な判断力なんてないかw
>誰でも小宮山家の子孫に見える
自分から小宮山家の子孫だと明かしたクセにw
どした?先祖を馬鹿にされてトチ狂ったん?
これだからお馬鹿さんはからかいがいがあるw
>>500 ば〜か
上の小宮山家の子孫さんに代わって説明してやったんじゃないか
さすがは文盲ちゃん
またまた小学生以下の知能で痛々しい推理w
そんなに武家の出が羨ましいの プ)
どうせ人に言えない恥ずかしい出自なんだろ
馬鹿な上に下賎の出
502 :
日本@名無史さん:04/10/05 23:17:17
ね〜ね〜、洩れも県下にまぜてよ〜。
つーか馬鹿だから使番の意味も知らないで書いてるんだろ プ)
504 :
日本@名無史さん:04/10/05 23:59:41
馬鹿がムキになってます
506 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:03:13
↑
この荒しって色んなスレ荒してね?
507 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:07:26
人を嵐扱いして自分の罪をなすりつける嵐、乙
508 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:09:01
ね〜ね〜、洩れも県下にまぜてよ〜。
509 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:10:57
来いよ
てか、勝手に混ざれ
>>505 お前どうせ2chの書きこみだけが情報源なんだろ
書きこんでくれる人にたかってる乞食の分際なんだから分をわきまえな
つーか使番マジで知らないで書いてたの?さすがは小学生以下の知能
とりあえずはじめて覚えた言葉を使いたかったんだよね〜
511 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:16:55
512 :
本宮ひろし:04/10/06 00:16:59
513 :
本宮ひろ死:04/10/06 00:18:10
>>510 うるさいぞ無職ヒマ人( ´,_ゝ`)プッ
514 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:19:01
でた〜自作自演
大阪のTIKITIKIインターネットさんですか?
515 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:20:19
516 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:22:33
>>513おまいも、どうせたいしたもんじゃないだろ。
無理するな。
>510
決めつけの激しい方ですねw
小学生以下の知能って書かれてそんなに傷ついたの?
頭に来て性犯罪なんかおこさないでよ
もよりの警察署にメールしちゃうぞw
519 :
( ´,_ゝ`)プッ:04/10/06 00:26:24
521 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:39:08
問うやつ問われるやつ、みんな病気なんだから
そう目くじら立てるなぽーーん。
522 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:43:19
小宮山内膳友晴(頼貞)は、甲陽軍艦によると、使番十二人衆だったが後に将となり、
天正十年三月武田勝頼に殉死した。
>>なんか荒れてしまったようですね。聞かれたので答えただけ
なのですが?
武田信虎のときの二十四将の一人でもあります。
523 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:48:59
524 :
羽狗狸法師:04/10/06 00:52:00
日本人は何よりも名誉を重んじ、彼らの大多数は貧しいが、貧困は貴族にとっても
武士にとっても平民にとっても、決して恥ずかしいことでも、不名誉なことでもない。
彼らは「正直さ」のほうを選ぶ。未信心者のなかで、日本人より優れている民族は
いないと思われる。
宣教師 フランシスコ・ザビエル
525 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:53:11
>>523 お前のせいだろ
そうやってあちこちで荒してんじゃん
最後は決まってみっともない自作自演
526 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:57:13
>>525そうおもうのはジユウ。
たりないちみののうもそこまでがげんかい。
とおもわれ。
527 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:58:31
>>520 >>518は自分よりも弱い人ばかりを狙って、いじめて、優越感に浸る
救いようのない人です。
今後は相手にしないように。
528 :
日本@名無史さん:04/10/06 01:13:52
弱い人?別にこいつ自体、強くないが
みっともねー、ジエンは寄席w
529 :
日本@名無史さん:04/10/06 01:14:31
530 :
日本@名無史さん:04/10/06 01:15:56
アメリカの学者が国境の無い世界の方が現在の世界よりはるかに
人類を滅亡に導く危険性の高いということを完璧に証明。
>聞かれたら答えるのも荒れる原因
キチガイの言い分w
532 :
日本@名無史さん:04/10/06 01:28:49
>531
基地外
533 :
日本@名無史さん:04/10/06 03:20:55
>>532 ゴミレス相手にムキになるなよ。
>>531みたいなのは他人の文章にケチをつけることぐらいしかできない
「ガルシアへの手紙」の中に登場する無能でまったく役に立たない人間
の内の一人なのだからwww
534 :
日本@名無史さん:04/10/06 07:21:21
>533
無期になるか〜w
勝手な決めつけ=
>>531のジエン
みんな寝静まるまで待って自作自演するなんてさすが大阪の小心者
もうすぐ皇室関係のスレ荒しでTIKITIKIインターネットも退会になるだろw
536 :
490:04/10/07 01:26:27
1つ質問なのですが スレ違いならスマソ
武田氏は鎌倉−建武の頃は源家嫡流には声を揚げず新田・足利の嫡流争いには加わっていないのに
戦国期に入ると都公方や鎌倉公方がいるのに源家嫡流を名乗れたのはナゼですか?
538 :
日本@名無史さん:04/10/08 01:32:04
>>536 なかなか見識のある方のようですね。
江戸時代は友晴の弟、昌親が家康に仕えたとあるように(上記のHPに)
零落したというわけではなく、苗字帯刀を許された、名主
として過ごしています。
家系図は見たことはありません。頼めば見せてくれるかもしれませんが、あるか
どうかも未確認です。
>539
どこのコピペだ
541 :
日本@名無史さん:04/10/09 23:44:26
常陸武田について教えてくれ
542 :
日本@名無史さん:04/10/09 23:51:40
>>539 もしかして「なかなか見識のある方のようですね」
に傷ついたのか?お前見識無いもんなw
ドコかは忘れたがドコかのサイトで見たコトあるんだわ
545 :
日本@名無史さん:04/10/10 18:04:30
だったらその文をコピペして検索をかければエエヤン
そんな簡単な事も分からないのかい?ボウヤw
546 :
日本@名無史さん:04/10/10 19:11:36
今度はコピペだと難癖つけてるの?早くコピペ元を出してみろよ
馬鹿なのがばれてプライド傷ついてるんだろうけど
お前みたいなゴミが傷つこうが、ほかの人間にはどうでも良いのよw
大阪の朝鮮人ちゃんはほんと惨めったらしいね
547 :
日本@名無史さん:04/10/10 19:25:36
ぷぷっ、自分が開示した情報がコピーだとバレて怒り狂っておりますw
548 :
日本@名無史さん:04/10/10 20:06:17
またまた自分に都合の悪いレスは同一人物と断定w
はやくコピー元出してみろよ。
小宮山友晴を知らなかった奴が、そんなサイト出せるはずも無いのだが。
子供でももっとまともな嘘つくのに、もはや幼児にも劣る知能だとばれたな。
どのスレでも見事なまでの負けっぷり。
549 :
日本@名無史さん:04/10/10 20:15:18
使番の意味答えてないぞ、文盲
550 :
日本@名無史さん:04/10/10 20:15:58
南部氏や松前氏ですか?
551 :
日本@名無史さん:04/10/10 20:31:44
このスレは検索も出来ないガキがいるようですw
そんな頭で勝ち誇るなんて恥ずかしい恥ずかしすぎる
>548
>またまた自分に都合の悪いレスは同一人物と断定w
お前の事をそのまんま書いてどうする?
君の幼稚さでは冷静なカキコミは出来ないのかね?
ムキになるなよガキやんな〜
>549
だったら君が答えてやればいいやんか
さぞかし偉い方なんでしょうな〜
それとも君は何も知らないじゃないん?
>どのスレでも見事なまでの負けっぷり
ドコのスレで負けたのか書いてから物を言えw
誰かと間違えちゃってしょうがない子だな
タワケども。武田を語るスレにてグジグジ言うでない。
以下。また〜り進行で宜しゅう御座るな。
また喧嘩の種を蒔いちゃって困った小宮山家の子孫です事
よっぽど先祖を馬鹿にされたのが悔しいらしひな
556 :
日本@名無史さん:04/10/10 20:43:55
>>554 長老よ!
偉そうに書き込むんだったら
こいつらに言って聞かせてや
特に煽るしか脳がないあの方へ
557 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:01:42
大阪だとすると日本青年社あたりかな?メールアドレスも公開してますよ
判ってるIPと書きこみのログを送ってみれば?
559 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:34:51
武田観柳斎についても語ろう!
560 :
日本@名無史さん:04/10/10 23:21:15
武田観柳斎も子孫になるんでしか? 流れ流れて母里藩士、脱藩して、新撰組、最後には惨殺。
561 :
日本@名無史さん:04/10/10 23:24:12
>556
×脳がない
正しくは「能が無い」 才能の「能」でしょ きみの脳みそがないのはわかったけど
小学校もまともに出てないからこんな恥をかくんだよ プ)
562 :
日本@名無史さん:04/10/11 02:58:30
脳みそがないから脳がないだろ
そのまんまさw
また人のせいにしてる
だから成長しないのだよ
564 :
日本@名無史さん:04/10/11 14:32:34
童貞ちゃんってほんとに日本語不自由だねw
日本語教えてもらったのこれで何回目?ちゃんと覚えなきゃね
貴様らいい加減にしろ。折角のスレが煽りで台無しじゃないか。貴様らどこ流だ。
おれは安芸武田一門衆の流れだが、まずどこの出自が名乗れ。
566 :
日本@名無史さん:04/10/17 21:57:15
>>560 観柳斎も武田一族の子孫でしょう。
甲州流兵学の権威でもあるし。
今日、殺されちゃいましたね。泣きました。
>>566 彼は出雲の出身ではなかったかな?で、甲州流軍学を修めたとか言うことで
「武田」を名乗っていたような。
兵庫県伊丹市選出の県議会議員の家らしき建物の瓦に武田菱の家紋が入ってる。
>>8の尼崎から分かれた家の可能性もあるのかな?
569 :
日本@名無史さん:04/10/22 21:38:23
勝親は単なる作り話じゃね〜のか?
570 :
日本@名無史さん:04/10/23 11:49:01
まあそうだ
571 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:38:13
663 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/10/24(日) 23:35
観柳斎は弱い人間だ。
でもそれは誰にでもある。そこでお前らの中の観柳斎を教えれ。
572 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:47:04
武田って観柳斎好きだよな
ダメ人間なとこに共感してるのか
573 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:53:28
自作自演乙
574 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:56:26
>573
君がねw
また武田か(ry
なかなかの良スレだったのに荒れてるなぁ。
577 :
日本@名無史さん:04/10/25 21:04:29
花菱紋てインドの城にレリーフがあるね 写真で見たよ
大昔にインドと関係あるのかな、武田は
出雲大社の神社紋は六角に花菱、伊勢神宮の神社紋は16菊に花菱
うちは隅切角に花菱 甲斐武田系だ
578 :
日本@名無史さん:04/11/16 23:04:44
a
579 :
日本@名無史さん:04/11/19 13:52:47
明治維新も徳川についた武田残党と、地方大名に散った武田残党の
一騎打ちという説もあるな
幕末に活躍した人物も、ルーツをたどると武田に行き着く
580 :
日本@名無史さん:04/11/19 15:02:17
水戸の系統で高松松平に仕官した武田残党も、香川県でそこそこ
繁殖してるよ
581 :
日本@名無史さん:04/11/20 12:26:48
千葉県立総南博物館にて
上総武田氏の展示を開催中・・・
582 :
日本@名無史さん:04/11/25 01:00:16
ところで何で武田家ってあんな多くの国に所領を持ちながら皆が分家独立しちゃったの。
全部を甲斐の宗家が統べてれば三管領・四職に勝るとも劣らない大勢力を築けたんじゃないか。
583 :
日本@名無史さん:04/11/25 21:33:04
>>582 南北朝当時は軍事力がないと領地取られてしまうからじゃないですか?
所領が比較的固まっている細川氏とかでも大半の国は分家に守護職まかせているし。
(本家は摂津・丹波2ヶ国でしたっけ?)
あと、武田の宗家は足利尊氏に従って各地を転戦していた後の若狭武田氏で
甲斐の武田氏は留守番をしていた血統上は分家というのを聞いたことがあるのですが、これはあってますか?
御旗・楯無が甲斐武田に伝来しているから違うような気もしますけど。
584 :
日本@名無史さん:04/11/25 22:23:54
>>583 甲斐の武田氏のほうが宗家だと思う。
ただ、若狭のほうが足利家と近かったのかも...
585 :
日本@名無史さん:04/11/26 09:30:30
若狭は桐紋ももらって使ってたよね。
586 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:12:24
香川の小比賀性は武田家の分家と聞きましたが
実際どこでつながっているのでしょうか?
587 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:22:31
源氏の特徴は一族同士でよく内ゲバ、骨肉の争いをすることだな
どうしてかは、よくわからんが、、、、
それが、源氏の活力にもつながっているともいえるんだが、、、、。
588 :
日本@名無史さん:04/12/03 20:56:46
>>583武田の惣領は甲斐です。信光の時、甲斐・安芸の守護となり信政、信時、時綱、信宗
は安芸守護。次の信武で安芸・甲斐・若狭の守護となり信成の時に甲斐に戻った。
惣領が安芸に移ってからの甲斐守護は一条信長−武田政綱−一条時信−岩崎盛信−
武田政義と続いたと思われる。すなわち惣領は甲斐から安芸に移り、又甲斐に戻った
事になる。この時期の甲斐守護家は一条氏・岩崎氏・石和流の人々だったと推察される。
589 :
日本@名無史さん:04/12/07 21:41:24
戦国大名の墓がたくさん高野山にあるが、成り上り大名の墓は馬鹿でかい
前田家の墓など特に馬鹿でかい、その他の戦国大名の墓もみな馬鹿でかい
それに比べて、武田家の墓は小じんまりと、よくまとまってる
墓とはこういうものだ と言いたげな風だ 武田の知性を感じさせる良墓だ
説明書きに、信玄公を直情怪行などと書いてたのが、やや気になるが。
590 :
日本@名無史さん:04/12/08 00:19:04
武田八幡と武田王ってなに?
591 :
日本@名無史さん:04/12/08 00:27:12
>>588 せっかく解説してもらったのになんですが、ちょっとごちゃごちゃして
判りづらいですね。
大まかな流れは、惣領家は甲斐・安芸->安芸->甲斐と流れていて、
安芸だけの守護時には庶流家が甲斐守護だったこともある。
後に惣領家が、甲斐守護に戻ったので
信玄は惣領家の出身という理解でいいですか?
592 :
日本@名無史さん:04/12/08 18:05:05
>>591 588です。おっしゃる通です。
>>590 武田王は倭武尊の第13王子です。武田八幡は武田王と八幡神を祭っています。
593 :
日本@名無史さん:04/12/23 14:13:32
長篠で戦死した内藤や備後小早川氏も武田一族です。
594 :
日本@名無史さん:04/12/23 20:59:33
内藤というのは関が原の前に伏見城で戦った内藤というのがいるな
あれとつながってるのかな?小早川は毛利両川というくらいで
吉川、小早川は毛利だと思うが武田とつながってるのかな?
安芸武田の系統かな
595 :
日本@名無史さん:04/12/23 21:07:14
>>594 毛利両川の吉川は駿河出身(吉香氏)、小早川は相模出身(土肥実平子孫)ですね。
596 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:27:55
>>594俗に言う内藤昌豊の事。実名昌秀で大井信業の子。大井氏は武田一族。
>>595安芸沼田荘を譲られた小早川景平は大内義信の5子。義信は平賀盛信の3子、
盛信は源義光の3子。小早川の家としては土肥氏だが、人としては武田一族となる。
597 :
日本@名無史さん:04/12/25 01:37:15
何で昌豊は昌秀なの?
598 :
国の礎:04/12/25 11:56:19
そうそう
穴山梅雪は武田の名跡を残そうと思い一応裏切った。
真田家と一緒。
599 :
日本@名無史さん:04/12/25 14:40:30
>>597信用できる資料に、昌豊は無い。昌秀が正しい。
なるほど、高坂弾正じゃなくて香坂みたいな物か…
じゃあ、なんで昌豊になったんでしょうか?
601 :
日本@名無史さん:04/12/26 03:52:10
内藤昌豊って工藤虎豊の子じゃないの?
確か、工藤なんたらの子やね
大井の子ってのは間違いではなひの?
603 :
日本@名無史さん:04/12/26 10:24:57
大井なら信玄の母の実家だから、
親族待遇されてもおかしくない身分ですね。
勘違いでは?
大井信業の子というのは会津藩内藤家の系図が出所かな?
605 :
日本@名無史さん:04/12/26 14:40:01
擦違いだけど
春日弾正って本当に香坂名乗ったの?
春日虎綱は香坂、仁科などが上杉に内通し成敗された時に、
香坂姓を与えられたって言うがその証拠はなかったはず
弾正の場合は手紙等はほとんど春日姓だったと言うしな
604
なら、それは間違いか家系図捏造だろう
修理は工藤ナンタラの次男だった気がする
真田弾正幸隆なんかも本当は幸綱らしいしな
昌秀、幸綱と言い、後世で呼び名が違うのは何故?
608 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:58:35
真田てのは曲者だな 真田がへばりつくと、その大名が不思議につぶれる
武田も徳川も、、、、
真田幸村も、豊臣の埋蔵金探索に送り込まれた忍者ではないか?
豊臣秀吉の兵庫県猪名川町の埋蔵金も真田が取り出してるしね
関係者は大阪の陣で不思議に戦死してる
出自もなにやら怪しげなようだ
宣伝がうまいせいか、世間の評判はいいようだが、どうかな?
609 :
日本@名無史さん:04/12/26 23:42:44
出自は確かに怪しい
610 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:38:00
豊臣秀吉が金山からの採鉱技術者として中国から招いたのが、明の王族
明振竜こと白水善 中国の採鉱技術導入、冶金技術導入で金の採掘量が
飛躍的に上がった 白水善から採鉱、冶金技術を学んだのが住友の初代
住友はその後、別子銅山などで当て、財閥になった
住友が泉グループというのは白水善の白水から来ている
住友育ての親が実は中国の明の王族だった白水善だった
白水善ほか豊臣の多田銀山埋蔵金関係者は大阪の陣でみんなことごとく戦死した
613 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:36:40
>>596 確か、土肥系小早川は実平の息子の代で潰れて平賀氏から入った筈。
逆に毛利元就に打たれた平賀隆保は小早川家の出だった筈です。
614 :
日本@名無史さん:05/01/10 15:45:09
>>613 そうですか、ご教授どうも。
そうすると、鎌倉後期以降の小早川氏は源姓小早川氏になるわけですね。
615 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:49:11
616 :
日本@名無史さん:05/01/10 22:06:14
>>613 微妙に違う、実平の息子の代に没落した後、嫡流には土肥氏として本領が与えられ、養子だった景平に安芸沼田が残されたもののあとは全部没収された。
617 :
583:05/01/11 23:43:21
>>588 さんに回答してもらって591で私が整理させてもらった
レスがありますよ。
武田宗家が安芸守護だった時代もありますが、(そのときは甲斐守護を分家が務めていた)
最終的には宗家が甲斐守護に戻ったそうです。
618 :
日本@名無史さん:05/01/21 21:15:51
武田系図で三代ほどわからん時代があるとか、家系図の専門家が言ってたよ
国会図書館などで調べるらしい 旧温会に入ってた人だけど
旧温会に誘われたけど、堅苦しそうだから入らなかったが、、、、。
鎌倉時代の武田氏の系譜には、一部明確でないところが
あると聞いたことがある。
武田薬品とは関係あるの?
武田薬品の創業者が甲斐武田氏の子孫とか。
関係ない
武田が使った家紋は
武田菱 花菱 桐
だけだ。
623 :
日本@名無史さん:05/01/30 20:39:20
昔は家紋は表紋と裏紋があって、不都合が起きて蟄居閉門なんかになると
そこからは、裏紋を使ってたと聞いているよ
624 :
日本@名無史さん:05/01/31 01:26:37
昔、埼玉県立図書館で武田氏が高麗王の子孫だみたいなことを書いた
本があった。内容わすれちゃったけど誰か詳しい人います?
妄説ですか?蔵書検索してみたら
「武田氏の祖は高麗王か」中津○子 ○の字読めません。
んな訳ね〜だろ
626 :
日本@名無史さん:05/02/02 21:11:42
高句麗からの帰化人が多いのは長野県だろう
古代には大量に長野県にもぐりこんだようだ
長野県って知る限りではなんだか独特の顔をしてるね
627 :
日本@名無史さん:05/02/07 12:52:52
>>624 おおかた山梨県巨摩郡あたりからの思いつきだろう
だいいち武田姓の発祥地は常陸だ
629 :
日本@名無史さん:05/02/07 20:39:52
もっとも、武田マンらしいといえば板垣退助(乾退助)くらいか?
「板垣死すとも、自由は死せず!}とカッコよく、叫んだまでは良かったのだが
助かって結構、長生きした いかにも武田マンらしい
ちょっと、オッチョコチョイのところもある
根っからの自由主義者が多いみたい、思想だけでなく、体質が自由主義者
だろう
630 :
日本@名無史さん:05/02/07 23:38:56
乾退助は本当に甲斐源氏なのですか?先祖(板垣信方の孫?ひ孫?)が、
まだ掛川にいたころの山内氏に臣従したとかいうことですが。
官軍として甲州入りするに当たって、でっちあげた話でしょうか?
それとも本当の事なのでしょうか?
板垣信方の子は処刑されてるから子孫はいないような?
苗字を継いだのは他家からの養子だったはず
632 :
日本@名無史さん:05/02/08 20:44:30
長篠の戦の前後に、遠州や三河や知多半島あたりにトンズラこいたのも
多いみたいだよ
633 :
日本@名無史さん:05/02/22 01:11:05
よーく考えよーお前は武田だろー
>>633 高校の時、安芸武田を裏切った一族系の名前の香具師が知り合いにいて、傍系で討ち死に
した武将の子孫であるおれは、クラブの試合でその学校とあたるとエライ闘志を燃やしたものだ。
635 :
日本@名無史さん:05/03/09 21:01:59
明治維新も徳川に行った武田家臣と、諸藩に散った武田家臣の一騎打ちだったし
明治維新で活躍したした人物のルーツを探ると、ほとんどが武田に行き着く
歴史の節目節目で武田が動く
最後には、裏武田が動くかもな・・・・・・・・・・
637 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 23:55:56
ウホッホ
638 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 02:13:45
安芸に山県氏っているじゃん
あれは武田がわかれたときについてったの?
畠山の領国に遊佐がいるみたいなもんか
639 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 15:02:03
そうね、内藤・板垣・粟屋・一条・山県・逸見などなど、甲斐・若狭・安芸に同じ
名前の家臣、一門衆の名前が多いね。
640 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 10:10:27
安国寺の家臣団って、旧安芸武田の出身者が多いのかなぁ。
それなら安国寺恵瓊と呼ばずに、武田恵瓊と呼んであげたい。
安芸武田の家臣団は銀山城陥落前後から、毛利の家臣化、討ち死に、蜂起し制圧されたり、
中には帰農 ってのも多いね。(『萩藩閥閲禄』『芸藩通志』とかから)
恵瓊の家臣団についてはよくわからにゃい。
【社会】止めようと立ちはだかった男性、轢き殺される→車上荒らし、無期懲役確定
★ひき逃げ殺人で無期懲役確定へ 最高裁、被告の上告棄却
・兵庫県姫路市で01年、大阪府柏原市の会社員が車にひかれて死亡した
事件で、最高裁第二小法廷(福田博裁判長)は、強盗殺人罪に問われた
無職武田晴信被告(33)の上告を棄却する決定をした。一、二審判決の
無期懲役が確定する。決定は11日付。
一、二審判決によると、武田被告は01年12月14日午前2時40分ごろ、
姫路市のレストラン駐車場で、駐車していた車から雑誌などが入った
かばんを盗み、自分の車で逃げようとした。これを見つけた会社員の
男性(当時26)が武田被告の車の前に立ちはだかったが、武田被告は
そのまま車を走らせ、男性を引きずって殺害した。
会社員の両親は事件後、会社員が結婚資金のためにためた200万円を
懸賞金にして情報を求める活動をした。
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1113389537/
私の家は、真理谷武田の子孫らしいのですが、家紋が「九枚笹」です。武田氏の家紋と言えば武田菱が、有名ですが、真理谷武田氏の家紋って、何だったのですか?
御存知の方、教えて下さい。
アゲ
>>643 真理谷武田は甲斐武田から15世紀に分かれた宗家にごく近い一族だから
武田菱を使っても別に不思議じゃないが、実際に使っていたかどうかは知
らん。
(九枚)笹紋は武田の支族も使っていたらしい。家紋というより源氏を示す
姓紋といったほうがいい。
646 :
643:2005/04/21(木) 15:15:47
>>645 なるほど。お答えいただき、ありがとうございます。
因みに、私の家は、「武田」は、名乗ってませんが、「武」の字は使用しています。
まぁ、真理谷武田の子孫である事を知ったのもつい十年程、前だったので、先祖に対して無知なんです。
647 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 06:04:49
武田薬品の会長が武田だけどもともと武田ではありません。
近江屋から、明治に武田に改姓
648 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 11:43:46
織田信長によって、武田氏族はジェノサイドにあうことになった
世界史的に見れば、ジェノサイドにあったのはユダヤ人だが
同じような運命をたどった武田氏族も日本のユダヤ人という説もある
頭脳的には極めて優秀
649 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 12:20:44
>>648 織田は、武田に対して、ジェノサイドなんてしてないが…
ごく普通の戦後処理のみ
徳川のプロパガンダを、鵜呑みにすんな
650 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 20:51:18
穴山なんて真っ先に斬首だろう>ジェノサイトなら
651 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:10:40
穴山は寝返ったのだから殺されないだろう
不思議なのは穴山が寝返ったら、木曾衆などいっせいに寝返ったことだな
つまり穴山がオーナーで、勝頼は雇われマダムみたいなポジションかな
黒川銀山が枯渇して財政破綻してたので家康に接近したのだろう
勝頼が新府城を作ったり、戦争ばかりやったので貧乏した
意外に名君だったかも知れないよ、穴山は
本能寺の変のドサクサ紛れに狸にやられたのが惜しまれる
652 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:35:35
小山田の例は?
653 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 23:25:37
>>651>>652 寝返った順は、木曽→穴山→小山田
小山田が処刑された理由は、一族というより、
あやつの行為は卑怯だ!と信長も信忠もブチ切れたため
黒川銀山の枯渇や財政破綻も、今では見直され始めている
654 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 12:50:50
真田が忠臣づらして、勝頼をヨイショして新府城を作らせたりしたもんだから
信玄公がえいえいと蓄えてきた財産がなくなってしまった
戦争するのも莫大な金がかかる 戦争の目的もほとんどが金山、銀山の奪い合いだ
真田のほめ殺し、ヨイショ作戦で勝頼がのぼせ上がって武田が滅亡したんだよ
信玄公は人は石垣、人は城といって、城作りなどに無駄な金は使わなかった
真田は曲者だよ
真田は、勝頼をそんなにヨイショしていたかな?
滅亡した原因は、何も一つではなかろう。
よく信玄ならこうだったと、何かにつけ信玄と比べるが、
勝頼が、陣代とはいえ跡を継いだ状況を考慮すれば、
それは酷というものじゃないか?
確かに勝頼は、やるべきことをすっとばしてた部分もある。
しかし、彼は彼なりに、がんばってたと思うがね。
滅亡した原因に真田を出すなら、かくいう信玄も間違いなく
その一人になるだろう
656 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 13:49:55
勝頼の母は諏訪氏の娘だろう こい姫だったかな
諏訪氏を滅ぼした武田を諏訪系の勝頼が逆に滅ぼした
もともと跡目を勝頼に継がすべきではなかった
能力的にも長篠の戦の推移を見れば、勝頼は無能だろう
信玄公以来の有能な家臣をむざむざと織田鉄砲隊の餌食にさせた時点で
勝頼の無能確定だ
こい姫の名を出すレベルで、偉そうにいうとは…
之如何にw
658 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 19:10:32
「湖衣」という名前は新田次郎の創作じゃなかったっけ?
659 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 03:54:25
実名不詳だよ
660 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 11:16:33
天目山で勝頼が自刃して果てたときに、一緒に自刃した家臣の中に
金丸てのがいたな
金丸信がでかいツラしてたのは、その末裔だったからか?
661 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 11:25:08
>>656 基本的に武田側の損害は退却時の追撃によるものがほとんど
戦闘自体の被害は互角レベルだが
662 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 12:51:43
織田軍は大量の鉄砲を所有していた 対する武田軍は鉄砲が少なかった
織田コンピュータ軍 対 武田ソロバン軍みたいなものだ
事前調査、事前準備で織田軍の勝ち、武田は騎馬軍団に頼りすぎた
負け方も悪い 武田の重臣がことごとく討ち死に、信長が追撃しなかったのは賢明
織田近世軍 対 武田中世軍 みたいな戦いだから武田は時代遅れになって
しまっていた 敗れるべくして敗れた 負け方が悪いので武田に見切りを
つけたのも多い
>>662 というような、長篠合戦に対する評価は、もう古いと聞きましたが
664 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 14:42:48
>>661 騎馬軍団といってる時点で、レベルがしれる。
三戦にでも逝け
665 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 13:10:28
>>660 金丸信て武田の一族と聞いたことがあるけど本当かな?
中沢新一の「ぼくのおじさん」でインチキ商売やっていたとボロクソに叩かれていたけど
666 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 13:30:48
>>660 土屋昌次兄弟は金丸氏からの養子だろう。
667 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 13:37:26
金丸という家来がいたのは事実だが、金丸信がその末裔かどうかは
知らん 金丸は造り酒屋をやってたと聞いている
金山、銀山などに関係のあるような姓だな
武田系の八幡宮の棟木に金丸という姓があったのを見たことがある
668 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 13:40:18
同郷で苗字が一緒だからといっても安易に結び付けない方がいいな。
669 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 14:15:09
>>662 キミの言うとおりなら
当日、雨が降ったらどうなってたと思う?
670 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 16:30:13
タラの話は北海道でやってくれ
いっぱい一族が分家してるからまったく無縁なほうが珍しいと思う
ただし土屋惣蔵とは関係なさそう
金丸とか小宮山とか雨宮とか甲州行けば大勢いる姓だし
↓質問。この【武田刑部大輔】は誰ですか?
276 名前:朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA [sage] 投稿日:2005/05/06(金) 00:56:22
某所でものすごい誤爆を;;;;
そしてトナメでワーワーやってたため遅れました。スマンス
さて、宮増丸が一体誰でどのような人物だったかという手がかりは、
一通の書簡しか残されていないため中々難しいところです。
とりあえず書簡の内容をうpしてみますので、解釈を交えながら検証してみましょう。
(ママ)(ママ) 朝倉
武田形部太輔 宮搖ロ
御宿所
態以使札啓達、抑公儀入洛爲御行、太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、
随而義景不慮以來、如御存知爲仁者無之故、上意并輝元江得貴意儀無御座候、兄三郎喜三切腹候、
弟三人相殘候、若輩尤憚多存、菟角罷過候、於御味方中可相續名字躰無之候、然者、
乍出物沙汰對與三家督之儀被仰出候樣ニ、元春江有御入魂、隆景ヘ被仰談、
如何樣共御才覺奉ョ存候、於然者、集諸勞人至于越前亂入、不可存由斷、與三以愚札雖可申入候、
越府之路次無合期候間、先以一札令申候、畢竟有御心中事ニ候、偏ニョ存外無他事候、
於子細者佐々木源兵衞尉方江申渡候間、不能曲筆候、恐々謹言、
十二月七日 宮搖ロ
武田刑部太輔殿
御宿所
「吉川文書」
ぐぐったらこんなのがあった。
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
高景末裔の朝倉庶流の一族。
主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
ということで信実でよいのか?知る限り刑部少輔での記述しかみたことない。
だけど、光和死後の安芸に若狭から養子(これも諸説あり)に入り天文10年に
は銀山城を忍んで出雲に落ちており(『陰徳太平記』)、その後は良くわから
なかったが、若狭あたりに戻っていろいろやってたのかな。
675 :
674:2005/05/18(水) 23:38:38
ちなみに安国寺には刑部少輔信実の墓があるね
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/memory/me005.html に
永禄十一年(1558)、一乗谷亡命中の足利義秋(義昭)と近習を招いた南陽寺
観桜遊宴に参会した義秋の近臣に武田刑部大輔信実の名前があるな。同じく武田信賢の名前も
あるけどこの人鞆幕府にも名前が挙がる人じゃなかったかな。(まちがってたらスマソ)
別スレにあるように武田刑部大輔信実は毛利氏に追い払われた後、幕府に直参してて、
その後、足利義昭の都落ちに従っていた。ってことこか
しかし安芸系の系図って整理されていないように思う。
677 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 10:32:57
スレ違いだが、八戸南部信長の件もあるしな。
678 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 11:05:47
あんこくじえけい
武田信景は?
680 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 00:13:20
武田豊信(庁南の)って信玄の三男らしいですが
三男って早世したんじゃなかったっけ?
千葉ではそういう伝説になってるの?
それこそこんな人物がいたら武田マニアの家康がほっとくわけないような気がするのだが…
本人は死んで息子も取り立てられた様子もないし
681 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 18:16:00
>>680 この武田豊信の子孫と言う方々が、武田信玄の子孫として、
家系図と一緒に数年前の「笑っていいとも」のご先祖様はすごい人のコーナーに数人出てました。
山梨県では三男は早世したことになっていますが。
682 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 11:49:00
age
683 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 21:53:28
偽者か
暗黒JK
685 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 01:19:39
え?
686 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:44:06
武田節
♪甲斐の山々 陽に映えて
♪我れ出陣に憂い無し おのおの馬は飼いたるや
♪妻子に つつがあらざるや あらざるや
687 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 03:21:05
金丸信は関係ないようです。選挙用にその辺は、ぼかしていたようですが。
当時の選対参謀から聞いた話です。
688 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:37:47
武田節 2番
♪祖霊まします この山河
♪敵に踏ませてなるものか 人は石垣 人は城
♪情けは味方 仇は敵 仇は敵
689 :
真理谷武田家子孫?:2005/07/31(日) 15:14:35
真理谷武田家の子孫の一部が、その後丸谷を名乗って、東北方面へと北上したというのは本当なんでしょうか?
だれか、詳細きぼんぬ!!!
690 :
市 ◆CRdmCEc.aI :2005/07/31(日) 19:56:31
偉いかしょぼいかはしらんが、うちの先祖も武田系らしいぞ。
・・・武田ってやつに在日がおおいってほんとか?
691 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 22:14:11
在日は関係ないだろう
家紋を見れば、だいたいの系統がわかる
692 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 21:18:17
(詩吟)
疾如風 はやきこと 風のごとく
徐如林 しずかなること 林のごとく
侵掠如火 侵略すること 火のごとく
不動如山 動かざること 山のごとし
武田節3番
♪つつじが崎の 月さやか
♪うたげを尽くせ 明日よりは
♪おのおの京を目指しつつ 雲と興れや
♪武田武士 武田武士
693 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:40:01
>>690 残念ですが、武田に限らず、
在は滅びた名家・大名家の苗字を名乗りたがります。
権威利用のため、なんですけど。
九州に「豊臣」という通名を使う在日社長がいたはずです。
自ら在日だと言っているので罪が一等軽いですがwww
694 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 19:28:47
695 :
F:2005/08/05(金) 21:39:28
初めまして♪自分の変わった名字を調べてみようと思いまして、
検索していたらここの掲示板に来ました;3年ぐらい前のレスに話が出てたのですけど、
穴山ち名字は穴山氏の子孫なのでしょうか??いきなり現れてこんな事言ってスイマセン。
696 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:45:44
姓が穴山で、家紋が菱、花菱系統だと可能性があるかもしれない
697 :
F:2005/08/05(金) 23:00:01
姓は穴山で、家紋は「ちがい矢」です。
698 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:13:24
700 :
F:2005/08/06(土) 01:12:00
京都府です^^;
702 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 02:35:58
名字と家紋だけでは先祖のことはわからないよ
703 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:28:17
明治維新は、徳川方の武田遺臣と、諸藩に散った武田遺臣の一騎打ちだったが
今度は、官に潜り込んだ武田遺臣と、民に散った武田遺臣の一騎打ちになる
平成維新、信玄公の夢を果たさん。
史板で語るのは心もとないが、なんとなく書いてみる。
信玄が長生きして上洛したら、安芸・若狭・真里谷・蠣崎らはどのように遇せられるだろう?
また本家はどのように彼らを扱うだろう。
705 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 17:01:26
それなりに一門待遇だろうけど、甲斐がはるかに上座で、
他所の田舎大名よりは優遇される、って程度じゃないの?
706 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:01:09
蠣崎あたりで待遇が変わるんだったら他にも私も武田一門だ、って
名乗り出てくるやつがいるんじゃないの?
そもそも蠣崎って武田一門だっていう確固たる証拠あるの?
707 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:41:06
ないよ
708 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 00:11:56
そうやろな
711 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 15:39:10
↑
安田遠江守を称した安居山太郎信定。信義の三男が?義定(信義の弟)ではないです。
憶測ですが富士川合戦で功あって安田姓を賜ったとかそういう話が後世誤伝していったのかな…
712 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:07:22
実際に天下取った徳川だって十八松平は大抵小大名だし
武田が天下とっても遠縁はそのままじゃないの
713 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 10:07:17
>>712 でもなんか仲いいんだよね、若狭と安芸と甲斐の武田。
文通なんかしたりしててさ。
714 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 00:40:54
715 :
無知:2005/09/10(土) 01:01:54
清和源氏武田氏族 白須家について誰か教えて
716 :
名無し@そうだどこか攻めよう:2005/09/13(火) 11:19:23
動かないね
718 :
名無し@そうだどこか攻めよう:2005/09/14(水) 09:46:05
武川衆って、鼻くそみたいなもの?
719 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:49:05
織田信長がつけた岐阜ギフという地名は、中国の古典からとったということだが
甲斐 カヒ カの次がキ ヒの次がフ それでキフ ギフ 岐阜
とつけたような気がするのだが、、、武田の甲斐を目標にしたいという
願望からつけたような気がする ただし根拠はない
>>719 ちょ、ちょい、お前!
その新説、発表しろよ
721 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 02:56:15
722 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 03:36:16
723 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 03:36:20
724 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 21:06:15
昔はアイウエオ順だったのか?
軍記だけど、こんな別説もあるよ。
「土岐斎藤軍記」より
岐阜并稲葉山城之事
山を岐山と云ひ、里を岐阜と申事は昔よりの義也。明応より永正の頃までの
旧記に多く岐阜とみへたり。往昔は加納沓井吉田と申、岐阜今泉忠節井ノ口
と申しけるを、信長岐阜入城の後、沓井吉田を合て加納と号し、忠節今泉井
口宗田を岐阜と定めらる。岐阜と云は古き名にして、信長の名つくる所にあ
らす。(後略)
727 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 22:15:31
甲斐 岐阜 吉備 肥前肥後
ヒ 日 火 にからむ一族 もしくは太陽信仰に関わる一族
なにか共通点があるような気がする 元は同族かな
728 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 22:35:42
織田信長のルーツは越前の国の織田剣神社の神主の家系だろう
織田信長の信玄公に対する貢物の多さ、対処の仕方を
見ていると分家が本家に対して処するくらいの丁重さがある
織田信長のオヤジの信秀にしても、名前に信の文字がある
もちろん、武田は信が世襲名だ
武田と織田は深いところで、つながっていたとにらんでいる
信は人の言葉という意味で、言霊、神道などにつながる言葉だ
織田剣神社の神主の末裔の織田信長にも神道のにおいがする
729 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 16:52:56
う〜む・・・神道の武将っていてるのかな?
諏訪氏とか阿蘇氏とか
731 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 21:24:40
諏訪神社が日本最古の神社だろう 出雲神話などは後世のデッチアゲだ
信州 信 武田信玄 織田信長 信 神 シン シントウ
諏訪氏などが、案外秘密を握ってるのかもしれん
>>728 本能寺の変と武田松姫という本でもそのあたりのつながりから
水面下での武田と織田の関係について詳しく推測していて
おもしろかったよ。
733 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 12:49:09
安芸守護家の元繁の「元」はやはり細川家から?
734 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 21:50:06
本能寺の変は、武田の残党が裏で仕掛けたという説もあるね
735 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 01:31:13
もっと、具体的に書いてけれ
736 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 20:43:25
動機面からいっても、信長によって甲斐武田は滅ぼされたわけだから
十分動機はある
毛利の安国寺えけいだって、安芸武田系だし、信長死亡で一番
直接的なメリットがあったのは、滅亡を免れた毛利だ
当然、安国寺は信長謀殺の絵を書いていただろう
安国寺と甲斐武田の残党も同じ武田同士で交流はあっただろう
宗教を使っての交流だろう 安国寺が最後に逃げ込んだのが本願寺だったな
>>734 >本能寺の変は、武田の残党が裏で仕掛けたという説もあるね
おい 居たぞ 武田の残党
穴山梅雪
738 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 20:16:07
な、なんだってー(ry
739 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:57:32
そしてその梅雪をそそのかして実行させ、ちゃっかり帰りに始末したのが狸
741 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:26:16
安土での謁見は信長の顔を確認する意味もあったってか?
742 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:44:27
穴山梅雪には影武者がいた 家康の刺客に河原で殺されたのは
影武者のほうだ 本物は後に天海として登場した
織田の重臣柴田勝家の姪が辞世の句のなかで
武田という文字を使っている点について
信玄の影武者の一人としても知られる梅雪の影武者ってことは
745 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:31:52
746 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:58:01
『思ひきや 武田の里の草の露 今もろともに 消えんものとは』
句を詠んだのは勝家姉妹末森殿の娘。
747 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:50:12
室町幕府の将軍足利義輝が三好や松永弾正などに殺されたときに
いっしょに殺された人物の中に、武田左兵衛佐という人がいたようだが
この人は甲斐の武田か?もしくは若狭の武田か?
知ってる人がいたら、おせーて。
749 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:45:46
1565年に足利義輝公が、三次や松永などに攻められて殺されたわけだが
1563年に武田信虎公が、おとぎ衆として足利義輝公のそば近くに仕えた
足利義輝公の妻が若狭武田公の妹という説もある
武田左兵衛佐は鎌倉口を守り、奮戦したが最後は討ち死にしたということに
なっている 佐というのはかなりの高位で尉よりも上だ
小山田信茂が左兵衛尉という官職になっているので、関係があるのか?
ないのか?資料を見ても出てこない
あるいは、信虎公の配下の人だったか?かなりの重要人物のように思えるが
既存の資料からは正体がわからない 信長記などに名前だけが書かれている
>747
若狭の武田義統の弟。
751 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 21:08:11
若狭ですか・・
甲斐ってのは今でこそ武田マンセーな歴史観だけどさ
あれって勝者が歴史を抹殺したってやつなんだろうな
754 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 05:15:27
我が家は武田信玄の末裔と伝えられているが、本当のところは怪しいものだ。
そこで誰かご存知の人がいれば教えて下さい。
@姓は代々武田(ただしいつ頃からかは不明
A家紋は武田菱(四菱)
B祖父が徳島県美馬郡美馬町出身。
C言い伝えとして『武田の田に竹を立てろ』と言うと、阿波の国一帯
に竹が立ったとか・・・。訳わからんす。また、合戦(長篠?)で
破れた武田一族の人が阿波に逃れて来、それがうちの祖先だとか。
D同じ徳島県内にやはり、我こそは武田の末裔なりと名乗る家がもう
一軒あり、明治時代に地元の新聞紙上にて大論争を巻き起こしたら
しい。
Eうちはじいさんが次男だったために、徳島の方から見ると分家にな
る。故にいわゆる家系図というものはないが、数年前叔父が亡くな
った時に遺品の中からその写しというか転記したものが見つかった。
とはいえ、コピー機が今ほど普及する前のことであろう。なんと名
刺のウラに殴り書きしていたのには驚いた。覚えている限りでは初
代は源氏の某義光と書いていたと思う。新羅三郎義光と書いてたか
どうかは不明。
Fじいさんは『信玄の子孫』説を死ぬまで信じていたが、共産主義者
の親父は笑っていた。それでも武田一族の末裔であるのは間違いな
い、とは言っている。
G俺個人は、江戸時代あたりに阿波の国で栄えたうちの先祖が、ハク
を付けるために甲斐武田(信玄)の末裔を勝手に名乗り、今日に至
っているのではないか、と考えている。根拠はなし。美馬郡美馬町
や徳島県のHPを見てみたが、手がかりはない。尚、現在は関西在住
のため、そうおいそれと徳島まではいけない。
歴史には全く疎い俺のようなものがお願いするのは気が引けるが、分
かる人がいたら教えてくれ。
755 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 13:23:20
>>753 つうか武田マンセー歴史観は武田滅亡後中央に大量に入り込んできた
三河辺りの人間が作り上げたといっても過言ではないんだが…。
実際、現在の中央に信玄が生きていた頃からいる家はほんの一握りだし
そういう家の人間は変に信玄を神格化している姿に内心は辟易していたりもする。
(中央が県内で嫌われているのはそのあたりにも理由があるらしい…)
中央なんて所詮は三河人って思っている人も少なくないからね。
756 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 14:58:21
>>754 私見ながら、信玄の末裔たる一族が、地理的に四国の臍とも謂える美馬に移住する理由が見付かりません。
普通、高名な武家筋を誇る家系ならば、天正13年の蜂須賀氏入封の折、藩の側から仕官の誘いがある筈。
あまり参考にならなくて申し訳ない・・。
757 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 18:30:55
ノブトラって京都で子供つくったらしいけどまじ?
758 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 10:09:15
>>756 (754のものです。初心者でアンカーの付け方がわかりません)
早速ありがとうございます。なるほど、言われてみればそう
ですね。俺は歴史は門外漢なもので、専門家なら常識のこと
すら知らずお恥ずかしい。
やはりうちの先祖が勝手に騙った、と考える方が自然かも。
一応後学のために伺うが、このように自分の先祖をなるべく
正確に調べるにはどうすればいいのだろうか。恐らく菩提寺
の過去帳等から洗うのだろうと思うが。一度時間を作って徹
底的に調べ、白黒付けたいと思っている。恐らく残念な結果
になるだろうが、「思い込み」を子孫に伝えてゆく方が逆に
俺の本当のご先祖様に対して申し訳ないので。
759 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 12:51:16
>>758 そんなに悲観せずともよい。
まだ可能性は残されているのだからw ちょっと強引に飛ばすけど堪忍ね!
↓
天正10年を境に一族離散の憂目に遭い、ろくに仕官の口にありつけず途方に暮れて
いた或る武田一派の元へ、突然不意に四国の祖谷党から危急を知らせる文が舞い込む。
その内容とは、新領主蜂須賀徳島藩の支配を嫌い徹底抗戦の構えを見せた祖谷党から
加勢を頼む知らせであった。キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
〜中略〜
かつて相憎しみあった両氏族は過去の遺恨を全て水に流し、共に合力し両一族再興を
誓いあいその拠点を阿波山岳地へと定め、規模は極小とはいえ此処に旧源平氏族が固
く連合することになる。ナカーマ(・∀・)人(・∀・)ナカーマ
時は下り32年後の元和三年、徳島藩は祖谷山に籠る一揆勢に対し刀狩りを主とする
徹底した武装解除を実施したが、相前後して吉野川周辺に居を構える祖谷党民から内
応者が続出し始めた為、祖谷一揆勢は是に抗じきれず事実上壊滅、四散したのである。Ω\(-""-)
信じるものは幸いである。(ー人ー)
しかーし、上記の事は家だけに留め、決して他言せぬことw
甲斐武田氏は、鎌倉時代には安芸国の守護を兼任していたが、
室町時代になると家を二つに分けて、
一方を本国・甲斐に、もう一方を安芸に
それぞれ守護として配置した。
安芸のほうは、やがて隣国の大内氏との争いの中で衰退し、
毛利元就が勢力を伸ばすより少し前に勢力を完全に失った。
安芸(広島県)から徳島県なら、距離も近いし
水軍を経由して交流が有った可能性もある。
>>754 >>758 「阿波武田氏」というのを知っているか?
信玄の子孫というのは殆ど間違いにしても、
この末裔かどうかから、まず当たってみるべき
ではないかと。
762 :
武ポン:2005/10/25(火) 00:08:54
武田甲斐守信綱-甲斐武田氏の出。阿波那賀郡桑野城主。天文年間に桑野に移住し、桑野城を築く。
東条関之兵衛-信綱の子。長宗我部元親の養女を室とした。
武田信顕-大日本人名事典では信虎の子。京都で三好長慶に会い、その計らいで美馬郡脇城主となる。
武田信徒-信顕との関係は不明、美馬郡調子野城主。
武田信氏-信徒の一族。美馬郡南郷塁城主。
以上阿波武田氏です。
763 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 03:32:22
1221年の承久の乱の軍功により安芸守護に武田信光が阿波守護に
甲斐源氏一門の小笠原長清がなっていますね。
764 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 03:55:57
阿波の小笠原氏は守護職交代後姓を
元の小笠原から三好、大西と改め、一族は
多数の家に分かれてそれぞれ阿波の土豪となっていきました。
小笠原氏から派生した豪族。
重清氏(美馬郡重清)
河村氏(麻植郡別枝名)
有瀬氏(西祖谷山村有瀬名)
菅生氏(東祖谷山村菅生名)
赤沢氏(板野郡板西下庄)
坂東氏(坂東)
姫田氏(姫田)
馬詰氏(大谷)
大代氏(大代)
豊永氏(土佐豊永)
765 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 07:58:31
>>759
あんたひょっとして住宅リフォーム関係に勤めてないか?あることないこと吹き込んでこっちを
その気にさせるのが うまいねぇ。危うく信じそうになった。でもありがとう。
>>760>>761>>762
ありがとうございます。確かに可能性はあるかも。
しかし皆さん詳しいですな。前にも言ったが俺は歴史学はド素人なんで、こう
いった場合の調査方法を知らない。大学では国文学(専攻は国語学)をやった
んで、文献類は多少かぶるものもあるかとは思うが。
とりあえず臨地調査以外で出来ることと言えば、ネットがまず思い浮かぶが、
これがイマイチ使えない。もちろんここのような掲示板は別だが、それとて検
証しようにも肝心のソースがネット化されていなかったりするから、結局は図
書館で郷土史を漁るくらいしか思い浮かばない・・・。
766 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 18:05:28
>>754 あんた人にものを尋ねておいて偉そうな人だな〜
こう言う人が、武田の子孫だと思うと、清和源氏の血もたいしたことないね
ま〜血なんて、名前だけで、養子などで、本当の血自体は、途絶えた家の人だと思うけどね
ま〜あんたも武田なら、もう少し、清和源氏武田氏族の恥になるような言動は謹んで
くだされな
769 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 21:39:54
安芸の武田に、ついてた武田士族を調べるのに、良い文献を教えてけれm(__)m
772 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 21:58:14
安芸武田だったら、安国寺恵ケイあたりからたぐっていくと
いろいろ出てくると思われ
秩父地方に逸見一族がいる。
戦国時代、日野沢の根古屋城主が逸見氏で
鉢形城主北条氏邦に属してた。
この子孫で、旗本になった逸見氏と帰農した逸見氏がある。
剣術の甲源一刀流・逸見家は両神・小沢口逸見家。
開祖は逸見太四郎義年。
>>773 なんだろその逸見は
雁坂越えをして土着したのかな?
775 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 00:57:29
たしか両神のHPかなんかに出てたな
777 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 15:51:56
一条さんは武田の係累だったのか。
どこの一条のことだろ?
摂関家の一条氏(や、その支流で、土佐一条氏)と
武田氏の支流である甲斐(とその周辺?)の一条氏は
苗字は同じだが、血縁関係じゃないはず
こういう風な、まったく関係がないのに
偶然に同じ苗字である人々もいるから、
苗字を調べるのはいろいろと面白いわけだな。
>>780 清和源氏武田氏族の一条氏だよ。
青木氏は一条(武田)信長の後裔かな。
>>782 一連寺過去帳は『甲府市史』とかに載ってたな。
武田氏関係の人名が見られる(・・・と記憶している)。
戦国末〜近世初になると、庶民階級(上流)も法名を付けるようになったから
一連寺過去帳にも、そういう傾向は見られるんじゃないかな。
俺は山梨県人ではないけど、山梨人は図書館行けば見れるんじゃないか。
784 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:56:33
age
785 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:25:38
一條家て頼朝に滅ぼされたのでわ?
786 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:35:12
>105 宍戸は宇都宮一族だからね
787 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:38:06
ババアんち一条家
788 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:39:05
>138 佐竹は関東管領上杉から養子に入ったがな
789 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:48:53
>240 武田と、穴山・木曾・小山田との関係は、織田と徳川の関係に似ている。
対等ではない同盟。
790 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:55:03
>295 熊谷は毛利に寝返たね
791 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 03:02:55
信玄が桓武平氏仁科家(長野県大町市)の名跡を、息子に嗣がせただけやがな。
792 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 18:14:01
若狭武田氏、安芸武田氏は いつ頃の分家ですか?
>>792 若狭安芸氏⇒武田信栄
安芸武田氏⇒武田信光
武田と関係ない話だが、騎馬術に長けた児玉党氏族の児玉氏が
武蔵から安芸に移住して、子孫は戦国期に水軍で名を馳せる。
土地が変わった事で氏族の得意戦術も変化して面白い例。
訂正
>>783は一蓮寺の誤り。
>>792 大まかに言って南北朝の頃ですかね。
足利氏に従って各地を転戦した武田氏が守護に取り立てられたので。
最初安芸守護になって、さらに分家が若狭守護になったはずです。
795 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 00:49:15
一条って柳沢のことだよね。ひょっとして吉良の事件も上杉一族だからこそ孫(名前忘れた)見捨てたのかも
796 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:48:59
水戸の天狗党の領袖で家老の武田耕雲斎も一族だったよ、確か。
797 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 01:50:22
現在、武田を名乗る人の98%は農民だべ
798 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 13:42:08
>>796 武田改姓前は跡部だか長坂だろ。
いずれにせよ甲斐源氏か
799 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 15:24:13
うちの家紋は「隅きり角に花菱」なんだが、古神道の本を読んでいると
大己貴神(おおなむちのかみ)の伝とされる「八剣のまじない式」というのがあって
行法が、刀で家紋の外形を刀で10方向に切って、魔を払い、中の花菱を
描くというようなもののようで、よく似ている
というか、「八剣のまじない式」を抽象化したのが家紋のように思えるのだが
武田と大己貴神は古代に関係があったのかな?
祓い言葉には、石上神宮などで使われている「ヒフミの祓い」などが
使われているようだ
800 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:34:03
松前藩国家老 下国勘解由
802 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:45:27
長坂は後継ぎがいないからな
息子は謀反起こそうとしたんだっけ?
804 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:20:36
>794違う。分家(末子)が安芸に残った。
>>804 >794違う。分家(末子)が安芸に残った。
調べたら武田信繁(安芸分郡守護)の三男国信の子孫が若狭守護、四男元綱の子孫が安芸分郡守護なんですね。
信繁の長男・次男が国信の前の若狭守護だし若狭守護家が本家筋になるようですね。
三男の子孫だから分家と思い込んでいました。
失礼しました。
806 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:05:44
書き込みのはやきこと風の如く
他人と会話せざること林の如く
ネットで煽ること火の如く
部屋から動かざる事山の如し
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ノ ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ● ● ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ_ ( _●_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |∪| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴
809 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 22:03:18
wikiの武田氏の記事を充実させてください
もちろん若狭武田氏のことですよ
810 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 07:50:10
>>797 明治になってから、全国に散った武田支属の末裔等が、武田に改姓してるのが大半だ。
>>797 明治になってから、全国に散った武田支属の自称末裔等が、武田に改姓してるのが大半だ。
812 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:07:48
在日は勝手に武田と言っているのが大半。これはガチだ。
813 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:50:08
微妙にスレ違いですが、甲斐武田の家臣の名前に
「昌」がつく例が多いのはなにか由来があるんでしょうか?
(真田昌輝・昌幸、内藤昌豊、馬場昌房、原昌胤、
小幡昌盛、高坂昌信、飯富虎昌・昌景等)
春日虎綱さんですけど
>>813 普通は、主君の通字でない一字を拝領するんですが、(信虎家臣なら虎)
信玄(晴信)の場合、晴の字は将軍義晴から貰ったから家臣には与えられない、
それで代わりに昌を与えたんじゃないかという話は聞いたことありますが
何故昌なのかの説明は聞いたことがないですね。
817 :
81:2006/03/22(水) 20:03:44
すいません、ちと間違ってた。
家の通字(武田家でいえば信)も与えることはある、
信虎の例でいうと、同じく一字貰うのでも信貰った家臣のほうが虎貰った家臣より家中での評価は上、が正解かも。
晴信家臣でいうと、小山田信茂とか真田信綱、真田兄弟でも嫡男以外は真田昌輝・昌幸で昌ですね。
でももともと武田の分家で、その家の通字で信ついている可能性もあるから微妙ですね。
板垣信方は親父が善満というみたいなので武田氏から一字拝領している可能性が高そうですが
穴山氏は代々信〇って名前みたいです。
内藤昌月
山県昌満
高坂昌澄
息子世代も昌がつくよな
819 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 20:45:01
話が飛んですみません。
武田有義の子孫に塩部氏と万為氏とがいると系図類にありますけど、「万為」って甲斐の地名ですか?
>昌
なんだかミカン箱の上にお茶を乗せたみたいな形だよなあ
トリビア見てて、武田家で検索したらこのスレを発見。
>754
うちに古文書があるけど、関係してるかなぁー
822 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 02:02:48
wikiに若狭武田氏庶流の武田信方をアップしたよ。
間違いがあったら訂正してね。
823 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 02:06:49
分家 武田もOK?
>>823 本家以外の〜
って言うタイトルだからOKやろ
>>66で語られている伊予武田だが、
その家の子孫の女の子と、学生時代に付き合ってた事があって、
伊予武田の子孫が集まって作った本を見せてもらった事がある。
なにせもうかなり前の事なので、正確には覚えていないが、
信重の代に、来島の計にかかって伊予武田は滅亡した筈。
馬商人のフリをした来島の兵士が、白馬を連れて城内に潜入、
内側から城門を開け、外の来島軍を迎え入れてそのまま落城、
ってな逸話が印象に残っている。
その後生き延びた子孫は土着したが、江戸時代に入り一族が藩主に招かれ、
小身ながら家の復興は果たした、との話だった記憶が。
ちなみに今でもその家では、白馬を忌み嫌う、という習慣が残っているらしいよ。
ちなみにのちなみにだが、
俺は後に、甲斐武田の支流の直系(変な表現だが)の女の子とも付き合った事がある。
こっちは、未だに地元では領主のような扱い。村長選挙にも影響力があった。
以上、スレ汚しスマソ。
826 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:48:12
今は僧侶になった信玄の次男、竜芳(字が違ってたらスマン)の子孫が本家を名のっているみたいね。
ただ、勝頼より年下の弟が
(姉が嫁いでいたという)上杉領に逃げ延びて今でも子孫がいるそうだが・・・
(一時竜芳系統と本家争いがあったらしい)
>>826 明治政府のご裁可で竜芳の家が本家に決まった。
828 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:34:50
雨宮氏って知っていますか?
名前がカッコいいです
武田氏、いや清和源氏の名前の中で一番美しい名前
830 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:34:17
武田の花菱紋だが、調べてみるとインドのサルナートの城壁に卍紋様とともに
レリーフで描かれている サルナートというのは釈迦が悟りを開いて後
最初に説法を行なった土地とされ、初転法輪ともいわれる仏跡地でもある
場所はガンジス川の中流、ヴァナラシ(ベナレス)の東10キロくらいだ
サルナートという語感からすると海洋神の猿田彦を連想させる
インドとなんらかの関わりがあったのかな
サルナートに建物がよく作られたのは6〜12世紀頃。
花菱紋様が中国から日本に伝来したのが7〜8世紀頃。
中国で花菱がいつ頃からあったのかは知らん。
832 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 18:36:17
インドから南回り、海洋ルート、タイ、インドネシア、ベトナム経由で
来たのではないか?とか思う 根拠はないが
日本史学は北回り、中国、朝鮮経由に偏向しているのではないか?と思う
中国人が文献作りが好きな人種なので、その影響を受けすぎてるように思える
日本の史学会も南回りルートをどういうわけか・無視しているようだ
インドから南回り、海洋ルートの直結ルートがあったように思える
833 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 20:34:53
>>783 ぼく一連寺幼稚園出身です。ただそれだけだけど。
>>828 甲府あたりでは雨宮はふつうにある苗字です。
>>4>>5 平賀は確か新羅三郎義光の子が名乗ったような。源内は知らん。
834 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:14:27
正確には、甲斐武田が本家では?
835 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:17:31
新羅三郎義光の子供が甲斐武田の始祖となる・・
836 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:22:10
武田氏は新羅三郎義光がの子供が祖になる。義清と義光が甲斐源氏を起こしてたらしいよ。
その子の信義が富士川の合戦で武功をたてて、頼朝と同格くらいになったが疎まれて子供たちを殺されたらしいね。
義光の長男は佐竹氏の祖となっている
837 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:53:40
新羅三郎義光の子で佐竹冠者義業の弟の武田冠者義清は、初め常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)にいた。武田の名乗りは、居住地に因る。
しかし、桓武平氏常陸大掾家と所領争いを起こし、甲斐国に配流。その子らは、各所の土豪(逸見・加々美・安田・二宮・田井・曾根・奈胡・浅利・八代・一條)の家を嗣ぐ。その後、南部・小笠原・吉田・穴山 等一族は甲斐全域に拡がる。
甲斐源氏は同族連合体であり惣領家はなかったが、源平合戦の頃は一條忠頼・安田義定・加々美長清が有力だった。
だが頼朝は甲斐源氏を恐れ、幕府設立後暫くしてこれを誅滅。たまたま鎌倉に居た武田信義は難を逃れ、その後の甲斐国を統治する。
つまり、初めから武田家が甲斐源氏の長だったわけではない。
838 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 09:30:10
武田金次郎
幕末水戸藩の実権を掌握したものの失敗。晩年は伊香保温泉で風呂番をしてた。
839 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 16:41:31
>838出自は甲斐源氏跡部家だよな?
840 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 11:19:57
南部も武田氏になるのか?
841 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 14:21:10
>840南部も甲斐源氏だよ。山梨県南部町が発祥。武田義清の子の加々美遠光の子が、秋山光朝・小笠原長清・南部光行 等。
それから甲斐源氏=武田氏ではないよ。鎌倉期に頼朝が甲斐源氏を誅殺した後に、生き残った武田信義(義清の子の逸見清光の子)が惣領となった。
それ以前は同族連合体であり、決して武田=本家ではないし、また武田から分かれたという意識もない。
842 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:59:26
>841
武田信義が一旦甲斐国を統治したとあるけど、その信義が死んだ後の甲斐源氏の長は誰?安田義定?武田信光?それともまた同族連合体に戻り安田義定&武田信光の並立?そして義定死後、武田信光が再統一という事でOK?
843 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 21:16:04
>837,>841-842遠江守護職も務めた安田義定が、実力では一つ上でしょうか?
その次に武田信義がいて、二人で協力かな。
更にその下が、武田(一條)忠頼と加々美(小笠原)長清でしょう。
皆が あぼ〜ん された後で、信光が惣領および甲斐守護職となり、統治したのでは。
844 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 21:47:51
なるほど。
頼朝としては、まず甲斐源氏の小物である武田信義親子をあぽーんして信光は残す。
その後奥州合戦でも大活躍して甲斐守・下総守を歴任した大物の安田義定親子をあぽーん。
結局石和信光がいい所取りっつ〜感じですかな。
845 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:00:07
将軍位を狙いそうな関東圏の清和源氏は、皆一様に弱体化されてますな。
甲斐源氏一門、新田氏、佐竹氏、志田家
846 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:54:29
小笠原も武田家出身? そしたら、信玄は同族とあらそってたってことになるのか?
847 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:07:22
同族で殺し合うのが清和源氏の特徴。常識だろ。
848 :
七誌:2006/05/05(金) 01:25:14
信玄の6男が上杉家の家臣になった
>>846 生活基盤を一にしていなければ同族とて結託する必要は無いし、
生活基盤を獲り合うんだったら、そら命懸けて戦うもんで。。
850 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 08:58:44
>>846 同族と争うどころか、親や子とも争ってますw
跡部氏って朝比奈氏から養子いってるよな?
852 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 10:51:23
>>837 >>常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)
先週、行ってきますた。
ttp://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/takeda-yakata-ibaraki.htm 展示品は、写真パネルと説明文、甲冑(近所の古家から寄贈されたもので、
武田氏とは無関係とのこと)、武田氏初代の義清、清光父子の人形が中心
でした。
写真パネルは、武田氏発祥の地の根拠となる『長秋記』(源師時)の記述
が主で、武田氏館跡周辺の地図(推定堀跡などの図示あり)もありました。
実際の武田氏の館の主郭部は、現在館が復元されている場所ではなくて、
隣にある湫尾(ぬまお)神社の向こう側だったそうですが、現在はそこへ
は立ち入りは困難です。草木を掻き分けて行くのが平気な人は可能でしょう。
地表面に館の遺跡があるのかどうかは不明です。復元館でもそういう説明は
ありませんでした。しかし、展示パネルの周辺地図に記述があるのですから、
何か館の中心的な遺跡が眠っているのかもしれません。
なお、隣にある湫尾神社の入り口にも「甲斐武田氏発祥の地」の碑と
説明版がありました。
湫尾神社も由緒ある神社らしいのですが、武田氏と関係があるのかどうか
は不明です。
853 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:40:05
うちは常陸武田の分家だ
854 :
児玉清:2006/05/07(日) 21:42:05
六男は信貞
七番目が正解
855 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 11:01:32
>>74 頼朝は甲斐源氏の勢力を恐れて粛清していった。軍事力では甲斐源氏が最強だったが、政治力で頼朝が勝利。嫡流なんて勝った奴が継ぐもの。頼朝の親父の義朝なんて廃嫡されてたという説もある。息子が天下取ったから本流にしてもらってる。
何しろ東国で平家軍と最初に激突粉砕したのは甲斐源氏だし。
梶原景時が武田有義を将軍にしようとして失敗。足利は候補にも挙がらず。
>>85が正解。
856 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:21:05
>852湫尾神社かぁ。昔、隣の勝田駐屯地からの帰途に参拝しました。懐かしス。
>853常陸武田家というと、成田庄(北浦村→行方市)の国人の末裔のかたですか?
857 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:32:09
>855そうですね。苗字ではなく姓で表せば、関東・甲信には源 義仲、源 義重、源 義広、源 秀義、そして強力な甲斐源氏(義定・信義・忠頼・長清)がいたわけですからね。
頼朝も、同族の長というわけではないから、さぞ心配だったでしょうね。
859 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 05:57:50
確かに頼朝正統史観を考え直す必要があるね。
義仲、頼朝、甲斐源氏の挙兵はそれぞれ別行動。実は甲斐源氏の挙兵が一番早かったらしい。安田義定最強。でもあと一歩及ばず。甲斐源氏は詰めが甘い。
一条とかもっとうまく立ち回ればよかったのにな
861 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 10:17:57
やっぱり田舎源氏は人がいいんだよ。
頼朝みたいに15〜16まで都で暮らし、負け戦の中で親兄弟がああいう悲惨な目に遭うと他人なんて信じなくなるんだろうな。子供心に勝たねばだめだって肝に銘じたんじゃない。
862 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 13:40:51
上記の義家流だけでなく、頼光流の源三位(多田)頼政や源(土岐)光長が、「清和源氏の正統は漏れダ」と主張しても、頼朝は反論出来ないでしょ?
結局は、同姓諸家を力で屈服させるしかなかったのですね。
863 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 15:49:55
>852旧・武田郷うpdクス(^∀^)
佐竹も、上杉じゃなく、血縁の武田から養子迎えれば良かったのにね。関東管領に媚売るほど、弱い家ではないでしょ。
864 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:03:29
武田の前の守護は三枝らしいが、この系統は今でも残ってるの?
大身の旗本として残っている、あの三枝氏では?
866 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:07:04
>865
ありがとう
調べてみると三枝氏で7500石くらいからけっこう残っていますね
武田24将の中にも三枝氏がありますね
三枝守国の系統なのか、守という字がついている名前が多い
出身氏族は三枝部となっている なかなかの名門みたいですね
867 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:29:41
頼朝ってなんか性格歪んでキモそう
868 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:39:01
家康よりはいいのでは?
869 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:06:48
>866三枝って旧・塩山市かな?
甲斐発祥の武士で源氏でないのは、三枝と三澤くらいだね。
870 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 06:07:43
>869
塩山じゃない。
小山田も源氏じゃない。
小山田は平家
872 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 10:13:07
>870レスちゃんと嫁! 小山田は甲斐発祥ではないだろ。ボケ
町田市小山田だぞ!
873 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:32:33
>872レスちゃんと嫁!武田は甲斐発祥じゃねーだろ。カス!ゴラ〜
常陸国武田郷だぞ!ボケ!!
塩山なんて無知もいいところww。
三枝と三澤どころじゃないよカス。知ったかは恥かくよww。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいwww
874 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:28:07
三枝は太宰大弐三枝守国が甲斐国配流されたので甲斐発祥ではない。
大久保長安も父が他国から来たので甲斐発祥ではないしな〜。
甲斐発祥ってだれ?
875 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 16:06:25
>874義清の子供達からかな?
876 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 16:43:44
働き甲斐がないとか、甲斐性なしとかいう言葉があるが
もともと甲斐というのはどういう意味かな?
なんだか狭い、山が多くて耕作地が狭いとかいうような気がするが
877 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 02:07:26
峡(キョウ・かい)が語源という説が有力ですね。
山梨は、山や森を[均(な)ス](=耕作する)からでしょうか?
878 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:17:37
八代信清の子孫が前衆議院議員として大活躍された八代英太さんです。
誰だよ、それ
880 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:52:18
>877
奈良時代の奈良も、日本を奈良した、均した、平定したという意味だと
いう説を昔読んだことがある
山梨は月見里じゃなかったかな、昔は
>>719 冗談だと思うが、あいうえおが公布されたのは戦後だろ。
MMRならこじつけるだろうが。
イロハも無い時代だからな
883 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 01:59:13
甲府市
甲州市
甲斐市
山梨市
中央市
山梨は日本で一番バカが多い県?県庁所在地どこよ
(番外)南アルプス市
大阪が山梨並みにバカだったら
摂津市
摂州市
和泉市
泉州市
河内市
河州市
大阪市
大坂市
中央市
884 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 11:23:52
885 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:10:27
上九一色村の名前も消えたね。当然か…
勝頼公以前から名前があったんだよね、「工一色郷」(職人村)として。
うちは伊予武田の家系です。今治の朝倉じゃない方の武田らしいのですが(東予?)お分かりの方いらっしゃいますか?河野氏家臣の武田信勝は先祖らしく、そこから先の何代かがわかりません。ちなみに家紋は「丸に抱き沢潟」です。
887 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:26:50
889 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 09:11:17
【ゴールデンレス】
∩ ・∀・)∩∩ ´∀`)∩ このレスを見た人はコピペでもいいので
〉 _ノ 〉 _ノ10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
ノ ノ ノ ノ ノ ノそうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
し´(_) し´(_) 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です。
890 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 16:36:01
>>883 山梨県人で、歴史好きだけど、相当はずかしいよ、このネーミングは。
武田滅亡から現代まで、完全に人材が流出してしまったのは仕方ないけど。
普通なら、甲府市(甲斐府中市)、都留市、山梨市、八代市、巨麻市、という
風に、奈良時代から続いた郡の区分けをそのまま継承すればよいのに。
山梨出身者や甲斐源氏ゆかりの方々は、どう思っているのだろう。
スレ違いですみませんでした。
891 :
家紋は武田菱です:2006/05/16(火) 18:28:10
>890平成の大合併には反対ですが、その問題は扨て置き、
やはり新市町名は、旧郡名や甲斐源氏縁り、又は風土・名跡に因むものとして欲く存じました。
892 :
家紋は武田菱です:2006/05/16(火) 18:42:31
私見ですが、
北杜市 → 意味不明.北巨摩,又は逸見 若しくは小笠原がよい.
南アルプス市 → ユニークですが,南アルプス(赤石山脈)は大部分が長野・静岡県に属しており,妥当かは疑問.
甲斐市・甲州市 → @旧国の大部分を治下A旧国名の発祥地B旧国の中心地 以上3点に全て当てはまらない安易な市名.命名者は池沼か菌池撒謝でしょう.
中央市 → 確かに位置「だけ」は中央ですが…… 東巨摩ではいけませんか?
笛吹市 → 八代郡名発祥地であり,嘗ては国衙も在ったのだから,それに因んだ市名のがよい.マイナーな河川名では安直.
富士河口湖町 → 山中湖以外の富士五湖が4つ揃ってるのに,ナゼ町名は河口湖だけ??
893 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:54:00
信玄市とかってつくらないのか?
894 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 01:24:47
>893どこかが名乗ったら、周りの自治体が反対する鴨
895 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 01:27:14
風林火山市、騎馬市、山勘市、武田菱市、父追放市、勝頼市
896 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 01:37:16
>895は、扇子よいな。ワロス。
うちの近くにも、西東京市とかいう名前を付けた、ヘタレ自治体が在る。
武田市くらいは作るべきだと思うのだが。
898 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 03:02:56
韮崎あたりはそっちの方がいいよな⇒武田市
しかし、甲府がいちゃもんつけてくるのは必至だ罠
899 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 05:46:43
なら、新府市・甘利市・穴山市から選んで。
まぁ、中田市(中出し?)・ヒデ市はないだろうけど…
つ 【ジーコ市】
って提案があったな…
山梨の英雄・田原俊彦を忘れるな
僕だよ、俊だよ
902 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 13:28:16
>>899 南部周辺が合併したら穴山市にでもしてやって
郡内小山田市
>>902 南部は幕末迄生き延びた南部氏発祥の地だから、南部の名前は残したいな。
>>901 山梨の英雄・中田英じゃないのか
僕だよ、寿だよ
武家の末裔スレで自分こそ武田の嫡流に近いとか宗家は所詮柳沢の家系とか
変にがんばっている人間がいるんだが、どこあたりの家だと思う?
本人が書き込んだ情報
・鎌倉時代に武田家から分家した
・家系図でみると自分の家の方が嫡流に近い
・真田の城攻めに参加
・勝頼には織田との応戦を進めた
・江戸時代は旗本
佐竹?
逸見太郎光長の子孫か?
俺も逸見じゃないかなと思う。
それより、
>>906で書かれている人より嫡流に近い系統のガチに末裔と
思われるもう一人の武田分家の人がどこの家なのかが漏れは気になる。
入った養子が武田本家系統ばかりらしい。
一条あたりとか?ただ一条って分家だったっけ?
逸見ってもとは長男筋なのに、いつしか武田が嫡流になったのが気に食わなかったんだべ?
あっちのスレも読んできたけど、同じ末裔同士であそこまで違うと
何かおもしろいなw
何処よ?
915 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 05:01:47
あっちで騒いでる吉外武田は偽者だよw。武田じゃない。ただ吉外なのはガチ。
境界性人格障害。
もう一人の末裔と駿河・朝比奈氏の性格と知性が際だつなww
917 :
武田家嫡流:2006/05/22(月) 11:16:55
ひどいのがいるね〜
多分爺さんあたりから「うちは武田の子孫だ」みたいな話を真に受けたんだろうな。
で、自分のアイデンティティーの拠り所がそれしかない、と。
918 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 11:54:28
葛山信貞
>>910 一条は分家だよ。
俺、山梨に住んでいるけど姓は全く違うのに武田さんとか
お館さんと呼ばれていて、老人達は躑躅館とも呼んでいる
大きい屋敷が近所にあるけど、この家も武田家の末裔で
時代が時代ならという家らしくて、この家の人は市議とかの
自治関係者ではないけど、裏ではかなりの影響力を持っていると
いう噂もある。
920 :
武田神社付近住人:2006/05/22(月) 13:59:23
俺は山梨に住んでて、金丸が生きてる時は爺さんが後援会関係者だったけど、武田の子孫で裏で影響力もってるなんて家は存在しないよ。
武田宗家の現当主ですらなんの社会的パワーもないのに、分家で裏で影響力を持ってるなんて妄想もいいとこ。
何でもかんでも国中中心で考えているバカハケーン
南部や郡内方面の実情知らないの?
922 :
武田神社付近住人:2006/05/22(月) 14:25:34
バカはてめえだカス!!
南部や国中でそんな家はねーよ。
「噂もある」ってなんだよw
俺んちなんか隠し金山に5000億の資産を隠してるって噂もあるぞw
923 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 15:01:37
つうかさ、噂があるってだけの話でそこまで噛み付く必要あるのか?
南部は兎も角、国中なんて広いし人口も多いんだから全部の世帯を
調べるなんて普通に無理。
あとさ、山梨には同じ県人でも来たり者扱いするような
場所もあるんだから、919がいう家がそういう地域にあるなら
外部の人間が知るなんてまず不可能だよ。
蛇足だけど、未だ江戸時代前の旧領主様よろしくで
旧領主の家の当主がその地域の最終的な決定権を持つなんて
地域もあるぞ。そこの娘なんて姫様扱いだ罠
山梨はある意味独特の行政方法がまかりとおる県なんだよ。
そのおかげであの人もあそこまでなれたと言えるかもw
925 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 15:43:31
信玄も南部や郡内の平定にはかなり手を焼いたからな
926 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:01:39
>>923 旧領主の家の当主がその地域の最終的な決定権を持つなんて地域もあるぞ。
↑
どこの国だよ。アフガンの部族社会のはなしだろ。もし日本にそんなとこがあるなら教えてくれよwww。
そんな治外法権なとこがどこにあるんだよww。
武田スレも荒れてるな・・・
928 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 16:11:02
山梨県人でも武田の子孫とかまったく興味ないよ。今の当主なんて誰も知らないし。
信玄の子孫だって言っても「ふーん」ってかんじ。
山梨県人はあくまで信玄オンリー。勝頼は甲州人じゃないという認識。血筋に感心はない。
山梨県人と一言で括るなと何回言えば・・・
923必死だなw
学問板なんだから噂を書き込むなよw
ここはお前の日記帳(ry
931 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:27:03
とうとうこっちにきたか…。もう一人の末裔さんきてくれし(´・ω・`)
各スレに武田の庶流を名乗る人は居ても、このスレには顔を出さないのかな?
宣伝してくれば?
宣伝すれば又変な香具師が現われる予感・・・
逸見氏のあんちゃんみたいにか
936 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:03:38
富士山に登って、頂上で笛を吹いて、ちょっと祈祷をしてやったら
当時、勢力絶大の金丸信がすぐに失脚したな
ワシの祈祷のせいかどうかは、よくわからんが・・・・・・。
937 :
bonbonsinsi:2006/06/04(日) 19:48:41
新羅三郎義光┬義清─清光┬信義 ー一条忠頼ー甘利行忠・・・甘利右大臣虎康ー昌忠
│ ├(逸見)光長
│ ├(加賀美)遠光
│ └(安田)義資
└義業─(佐竹)昌義
938 :
bonbonsinsi:2006/06/04(日) 19:59:29
新羅義光から直系実子長子家系たどれば私になるんだよ
939 :
bonbonsinsi:2006/06/04(日) 20:02:06
八幡義家の家系は不明になってしまってるね。
足利将軍家が絶えてまってるからね
直系は途絶えてますがw
941 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 10:19:17
奥州の南部氏が武田傍流としては最強だと思う。
942 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 13:14:32
肥前 ヒゼン 佐賀
肥後 ヒゴ 熊本
吉備 キヒ 岡山
甲斐 カヒ 山梨
いずれも、ヒ、火、日の音がつく 日の本流 日本
日信仰 太陽信仰 月信仰の国 山梨は月見里だったかな
日本列島を貫くヒ信仰 レイライン 日本の本流 日本の背骨
>>941 南部氏に関して調べてみた
確かに南部氏は幕末迄健在だし20万石の大身だな。家臣も武田庶流が多いとか。
戦国期には北東北を平定し広大な地を領し、
>>941さんが言うように、武田庶流じゃ実質的に最強かも?
しかし山梨に住む多くの人々には南部氏と言われても?
分家の破木井家は日蓮絡みで知ってるんだが、奥州の南部氏に関しては疎いんだよ。
根城南部系(遠野)とか、三戸南部系、江戸期に分藩されて新しい八戸南部とか、色々複雑で難しいね。
良かったら色々語ってくれないか。
武田信玄五男の盛信の子孫っていたっけ?
自分で調べろ、馬鹿
いますよ
甘やかすな
948 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 12:37:58
>>944 ヒント:ウィキペディア
後は御自身の目で見て下さい。
検索猿人も使えない猿ばかりなのか、ココは?
うっしっし
>>941>>943 確かに南部氏は庶流じゃ最強だな。
でも一般には武田一族って言う認識が薄い感じがする。
>>944-950 信玄の子供に盛信なんて奴いね−よ( ´,_ゝ`)
架空の人物のことなんて載っているわけね−だろ( ´,_ゝ`)
無知野郎は首をかっ切って死ね〜〜〜〜〜
953 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 13:24:34
955 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 15:51:17
956 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 15:56:51
>>944念の為に言っておくが武田信玄の子供は男子四人で五男はいない。お前が言っているのは何時代でどこの武田のことかはっきり書かないとわからんぞ。もう一度勉強しなおせよ
義信,信親,信之,勝頼,盛信,信貞,信清
ちょい待て。
義信・竜宝・信之・勝頼・盛信・信貞・信清と
信玄の息子はわかっているだけで計7人
そして信貞は十郎だからもしかしたらあと三人ぐらいは
いたかもしれない。一説に快川と共に火定した恵林寺の僧達の
中にも信玄の息子がいたとも言われている。
すまん。かぶった。
死産も含めればかなり子供がいたらしいもんな
962 :
950:2006/06/08(木) 19:57:16
>>952 >944-950
信玄の子供に盛信なんて奴いねーよ
きちんと読んだのか?貴氏の指摘する事柄を一言も書いてない。
アンカー位まともに打てよ。
仁科信基を調べればわかる。
964 :
963:2006/06/08(木) 20:20:20
根拠は?
後、十男だから十郎とは限らないけど
義信.信親.信之.勝頼はともかく盛信.信貞.信清は後世の創作でいたと言う根拠なんてね−じゃん
>>963 盛信とその仁科信基がいたって根拠は?存在を示す文書や品物が出てないのに勝手なこというなってw恥かくだけじゃん( ´,_ゝ`)
>>965 自分で調べろ、調べもしないうちにイチャモンつけてもダサいだけw( ´,_ゝ`)
そもそも武田信玄なんて創作の産物だろ
969 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 17:17:06
そもそも968も創作の産物だろ
☆偉大なる武田家の系譜
【偉大なる信玄の弟達】
武田信繁・・・信玄の采配ミスで討ち死に。
武田信友・・・織田信長によって処刑される。
武田信廉・・・戦わずして城を捨てて逃げるが織田信長に捕まり処刑される。
一条信龍・・・上野で徳川軍に大敗。捕らえられて親子共々処刑される。
武田信実・・・長篠の戦いで討ち死に。
松尾信是・・・目立った功績もなく病死
【高貴なる息子達】
武田義信・・・嫡男。謀反が発覚。東光寺に幽閉され殺害される
海野信親・・・二男。生まれつきの盲目で僧となる。勝頼と供に自害
武田信之・・・三男。生まれつきの病弱で十歳の若さで病死
武田勝頼・・・四男。長篠の戦いで優秀な重臣達を皆殺しにさせ、十倍もの軍を擁しまがら鳥居峠で
寡兵の木曾義昌に大敗。織田の本格的進行からたった二ヶ月で武田家を滅亡へ追いやる
仁科盛信・・・五男。名城高遠城を信忠に1日で陥落され自害
葛山信貞・・・六男。織田信長によって善光寺で処刑される
武田信清・・・七男。武田家滅亡後、景勝側室甲斐御前を頼って落ちのび上杉家の家臣となる
【誠実なる一門衆】
木曽義昌・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を破り武田家を滅亡へと追いやる
穴山信君・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を見捨て降伏。
勝沼信元・・・従兄弟。謀反の疑いで処刑
【優秀なる武田一族】
武田信勝・・・武田勝頼の嫡男。天目山で討ち取られる。
一条信就・・・一条信龍の嫡男。上野で徳川軍に大敗。親父と供に処刑
武田信俊・・・武田信実の子。滅亡後も生き残り1600石の旗本となる
武田信堯・・・武田信友の子。信長によって処刑
望月信頼・・・武田信繁の長男。目立った功績もなく地味に死亡
武田信豊・・・武田信繁の二男。部下の下曾根覚雲斎に裏切られ死亡
望月信永・・・武田信繁の三男。長篠で無残に討ち死に
武田信道・・・海野信親の子。滅亡時に出家。命だけは助かる
一条は説がいくつかあっぞ、この春日
それから信繁の長男は、たしか病死だ
974 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 22:24:01
信廉・信貞も諸説があっぞ、この春日
975 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 00:20:07
いますよ
976 :
たけだ:2006/06/10(土) 00:27:03
確か、義信には貞春との間に2人の娘がいる
977 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:09:28
若狭にいなかったけ?
978 :
たけだ:2006/06/11(日) 00:17:51
977>>何の事?
979 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:16:42
あまやかすな
検索を覚えされや
982 :
仁科盛信の子孫:2006/06/12(月) 15:49:54
>964 「ウィキペディア」の仁科信基にまつわる情報は誤りが多々ある。
正確な情報は書けぬが。
984 :
仁科盛信の子孫:2006/06/12(月) 16:26:57
仁科信基の家系は日本家系協会の系図でも途中で途切れているが、ベールに
つつまれている。
985 :
武田:
義信の娘の子孫が山梨県にいるらしい。