宮増丸が毛利家に宛てた書状です。
出された年代が不明ですが、「太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、」と
上月落城の祝辞が述べられている事から、この戦役からほど遠くない時期、天正6年と特定できます。
その天正6年当時、「義景不慮以來」「仁者」のない宮増丸は弟三人と共に
「武田形部太輔」方に逗留しており「御味方中可相續名字躰無之候」の今、
朝倉「家督」を継ぐために何とか毛利家の力添えをお借りしたいと。
「偏ニョ存外無他事候」このあたりに宮増丸の悲痛な叫びが見て取れますね。
さて文中の「武田形部太輔」とは一体誰なのか。これは「刑部少輔」の間違いでしょう。
安芸国郡守護の武田家の当主が代々刑部少輔を継いでいますから、
恐らく安芸武田直系の人物ではないかと推測できます。
安芸武田は銀山城を追われて刑部少輔信実以降は不明ですが、
安芸安国寺には伝刑部少輔信実の墓があり、この地に細々と命脈を保っていたことが伺えます。
>>277 若狭武田の一族は天正6年当時若狭に居たとはいえ、無禄の上織田の勢力下で警戒されています。
また官途の中で「刑部少輔」に該当する人物がいないため、若狭の可能性は低いのではないかとオモウですね。
んで、整理してみますと、、、
-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
主家滅亡後安芸旧郡守護武田家に潜伏。朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、
佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
こんなところでしょうか。
279 :
277:2005/05/06(金) 08:14:03
武田信廉の可能性があるんじゃない?
信廉;1532-1582, 天文元〜天正十. 親族衆, 孫六・信綱・刑部少輔・逍遙軒
信長は六角次郎(佐々木義治)を匿ったとして恵林寺を焼き、正親町天皇から大通智勝の国師号を頂く、快川和尚を焚殺する。
修行僧数百名と宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等を山門に追い上げ、残忍にも寺の周囲に薪を積んで火をかけ、
生身を火であぶり、焼き殺す。この時、山門の四方には軍兵が槍や刀を構え囲んでいたとされる。
【本朝高僧伝】
佐々木源兵衞=六角義治説
ttp://blog.sasakitoru.com/200504/article_14.html こうなると、この朝倉宮増丸が宣正に繋がる可能性も出てくるわけだ。
280 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:18:05
六角が絡んでくるところを見るとやっぱり安芸じゃなくて
甲斐武田のところにいたんじゃないかと思います。
281 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 22:07:11
>>278は荒らし。知識もググル程度のものしかない
282 :
寒:2005/05/06(金) 22:47:22
佐々木と六角が絡むと、「義景、六角からの養子説」も絡んできますねふふふ・・・
まぁ「対信長地下連合」という結びつきかもしれませんが。
それにしても安芸武田へ逃げる意味がわからんっす。
283 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 23:04:07
だから荒らしは放置しろって
285 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:21:24
甲斐武田家に逃げて結局ともに滅亡ですか?>宮増丸兄弟
越後上杉家にも身を寄せた一族がいたと思うがそっちはどうなったのかな?
まず始めに、「宮搖ロ」の略歴に付いて訂正を。。。
>>278 >通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
の部分を「高景末裔の朝倉庶流の一族。」に訂正しておきます。
調べてみたんですが「一乘録」第二冊巻三に高景の裔として「與三」、與三の兄「三郎」の名が見えます。
すなはち「右一乘族人姓名傳于世者」として挙げられた「茂景、久景、弼景、三郎、與三、月庭、
久家、景友、景重、弥七郎、四郎左衛門、勘解由左衛門、六郎左衛門、権頭、掃部、出雲守」
ですです。
----------------------------------------------------------------------------
※ ちなみにこの「一乘録」はその紹介記事など見ますと、
朝倉広景以下歴代の庶子一族の事蹟(なにっ!!?)、
巻四には朝倉家臣123家(なんと!!!)を挙げて枚挙した列伝まで盛り込まれてるという、
ここの住人さんには何とも垂唾モノの内容ですね。全文の翻刻が待たれるところです。
----------------------------------------------------------------------------
んで武田刑部少輔が誰か、また宮増丸がどこに居たかということですが、、、
確かに逍遥軒信廉も刑部少輔を名乗っていたので、一応推測はしてみてたんです。
ただ毛利の「御才覺奉ョ」ってお家再興という重要な任務を遂行するために「越前亂入」を企てている以上、
甲斐から遥か遠国にあり、現地の動静を逐一把握できない状況下で毛利を頼るよりも、
毛利の膝元でその動きをつぶさに照覧できる安芸にあったからこそ、現実味を帯びた企てになったとオモウです。
また安芸国郡守護である刑部少輔信実は若狭武田からの入嗣であり、
若狭方面の勢力も少なからず期待できる事から、ここに安芸→播磨→若狭→越前という
宮増丸の侵攻ルートが想定できるわけです。
最後に「佐々木源兵衞」についてですが、どうやって彼を六角義治と見なしたんでしょうね。気になります。
287 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 10:33:22
で武田刑部大輔=武田信実で足利義昭と一緒に行動していた可能性・・結論)安芸 は?
それだ!
今までのをまとめると
-----------------------------------------------------------------------朝倉与三某。宮増丸。???〜???
高景末裔の朝倉庶流の一族。
主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
これでまた一つ朝倉家にトリビアが生まれた
修正
-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
高景末裔の朝倉庶流の一族。
主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
291 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:36:54
えーと、
武田刑部大輔信実は毛利氏に追い払われた後、幕府に直参してて、
その後、足利義昭の都落ちに従っていた。
宮増丸はそこに居候していたということですか?
292 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:39:01
武田刑部大輔信実・・・どんな生涯を送った人だろう・・・同名異人がいた?