源氏の名門!?【葵】徳川家のルーツと十六松平

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1日本@名無史さん
『奥三河の山のなかの坂をのぼって、松平郷という、
これ以上は山路もないという行き止まりの小天地
に行った時の夏の陽ざかりの印象は、筆者にとって
わすれがたい思い出になっている。
(ここがあの徳川家の発祥の地か)』

(司馬遼太郎「覇王の家」)

なんで源氏の名門の徳川(松平)家はそんな山奥に住んでいたのでしょうか?
源氏の名門ともなれば鎌倉時代にはさぞ優遇されていたんでしょうね。
具体的に鎌倉時代の徳川(松平)家の様子も教えてください。

2日本@名無史さん:02/03/27 19:44
ネタ?春厨?それともアンチの煽り?
3日本@名無史さん:02/03/27 19:49
偽源氏万歳!!!!!!
4日本@名無史さん:02/03/27 19:59
徳川(松平)氏の初代は乞食坊主。
5正統武家:02/03/27 19:59
徳川(松平)は源氏の名門などではない!
もっと言ってしまえばもともと武士ですらないのだ。
この時代の武士と言えば鎌倉武士を指すのであるが
徳川(松平)は鎌倉武士の系譜なぞはまーたく引いていない。

したがって徳川幕府が武士の政権などというのはとんでもない
お笑い種である。
そんなこというやつは歴史を知らないドアホウである。
6日本@名無史さん:02/03/27 20:01
徳川にくらべたら島津とか佐竹のが百倍以上も名門だね。
そう考えると明治政府の薩摩閥って正統武家政権じゃん。
7日本@名無史さん:02/03/27 20:04
乞食坊主が元祖の山賊集団が徳川の正体か。
歴史の教科書は江戸幕府が武士の政権などと書かずに
成り上がりの山賊がつくった政権だと正直に書くべきでないの?
8日本@名無史さん:02/03/27 20:06
s
9日本@名無史さん:02/03/27 20:07
>5
そう言えばこの板にも徳川が
武士の伝統を受け継ぐ正当な武士のような
言い方をしているドアホウがいました。
ほんとに勉強不足なやつですね。
10日本@名無史さん:02/03/27 20:11
なんだよ。
山賊集団が勝手に武士だとか名乗っていたわけかよ。
武士って案外いい加減なものなんだな。 
いや、実際そんなもんなんだろ。
むしろ、武士をひとつの固定した階級とみなす
現在のマルクスかぶれのバカ歴史学者のほうが間違っている
んだろうな。
11松平鶴千代:02/03/27 20:20
いかにもごもっとも。
我が松平家は鎌倉武士の伝統なぞはひいていない。
しかし、それがどうしたと言いたい。
我が松平家は当時の腐れ鎌倉武士の悪政のおかげで
混乱のきわみに陥り民を苦しめ三昧の権力者(=鎌倉武士)
どもに天誅を加え、三河に再び平和を取り戻すべくために
立ちあがった庶民の代表であったのである!
我々は手に武器をもって立ちあがった庶民である。
その庶民の出身である我々が既成の武士どもを打ち破って
三百年の泰平の世を演出したのはまことに誇りとすべきことである。
12日本@名無史さん:02/03/27 20:20
>むしろ、武士をひとつの固定した階級とみなす
>現在のマルクスかぶれのバカ歴史学者のほうが間違っている
>んだろうな。
ほー、どんな人がそんなことを言ってました。
具体的な名前を挙げてくださいますか。
13日本@名無史さん:02/03/27 20:22
>12
おまえだ。ボケ
14日本@名無史さん:02/03/27 20:24
>>11
そのような誇り高い一族がなぜ、家系を詐称するのですか?
15日本@名無史さん:02/03/27 20:25
なるほどなあ。
ようするに武士っていうのは武装した人間っていうような
感じなのかな。
それが固定化するのは江戸時代になってからってことだね。
16松平鶴千代:02/03/27 20:31
>14
お答えしよう。
それはずばり征夷大将軍になるために他ならない。
当時の我が国の伝統からして動乱の戦国の世を終わらせる
ためにはその役職につくのが一番手っ取り早いことで
あったからでござる。
我々、松平家は当時の腐りきった為政者(=室町幕府とその一味)
どもにはほとほと愛想を尽かしていたが基本的に伝統を
大事にする一族なのである。
17日本@名無史さん:02/03/27 20:38
現代左翼イデオロギーの根幹を成すマルクス史観は、日本の歴史は建国以来の
階級社会という悪質なプロタガンダに利用されましたが、その本質は
「天皇=階級社会の元凶」という構図にあります。
 それは、日本史が固定された階級に支配されてきたのではなく常に
流動性をもちながらも古い王家を大事にしてきた歴史だったからです
18日本@名無史さん:02/03/27 20:45
しかし、十六松平と宗家ってなんであんなに仲悪かったのかね?
やはり所詮山賊あがりの連中に宗家を敬うなんて意識は
なかったのかな。
19日本@名無史さん:02/03/27 20:49
>>16
たしかに徳川幕府は朝廷にもいろいろ制約を加えたり
したものの前時代からくらべれば破格な優遇しているし、
本物の源氏の名門である吉良家なども保存しようと
したりしているね。
20日本@名無史さん:02/03/27 21:03
>>15
江戸時代でも、百姓でも武士になれるだろ。
21日本@名無史さん:02/03/27 21:04
薩摩や長州の百姓侍も怪しいもんだな。
22ぁやしぃあずま:02/03/27 21:07
徳川の初代は新田系源氏の世良田親氏で関東から
三河に流れていった。
よって徳川は関東の正統な武家政権。
23ぁやしぃあずま:02/03/27 21:12
松平による三河統一は関東による西国支配の開始に他ならない。
関東の関東による関東のための日本支配。
これこそが徳川幕府の目指したものなのである。
24日本@名無史さん:02/03/27 21:22
>>6
島津家始祖の頼朝落胤説と毛利家が大江広元の子孫ということを鑑みると
明治維新の薩長政権は、鎌倉幕府復興となるへそ?
25日本@名無史さん:02/03/27 21:28
島津の源氏といい勝負やないか
26日本@名無史さん:02/03/27 21:29
明治政府は西国の正統名門武家による真の武士政権ということか。
どうりで軍事国家になったわけだ。
納得。
27日本@名無史さん:02/03/27 21:35
俘囚系の関東独立自衛農民が、
中央軍事貴族に出自を求めて、武士になったんじゃないかな。

28日本@名無史さん:02/03/27 22:19
>>17
本当にマルクス読んだ人が書いてるのか疑問な文章だな。

29日本@名無史さん:02/03/28 00:06
徳川のルーツはアイヌ人と思われ
30日本@名無史さん:02/03/28 00:19
>>6
>徳川にくらべたら島津とか佐竹のが百倍以上も名門だね。
>そう考えると明治政府の薩摩閥って正統武家政権じゃん。
その連中が言った言葉、知らないのか? このクソヴォケが!!
31日本@名無史さん:02/03/28 01:44
徳川氏の系図では、松平一族が源氏の末裔とされているわけではない。
松平氏はあくまで三河の山奥の土豪の一族でしかない。

徳川氏が主張しているのは、その土豪である松平氏のところに養子に入った
「徳阿弥」という坊さんが、新田源氏の血を引く人物だったということ。
この徳阿弥が武士としての松平氏のルーツになったから、
幕府を開くにあたって、徳川氏には源氏を名乗る資格がある、と言っているだけ。

この「徳阿弥伝説」が徳川氏の捏造か実話かということは、いまだ確認されていない。
捏造説の方が有力だけどね。
32日本@名無史さん:02/03/28 01:57
現在の定説
新田氏末裔説は後世の付会であるが、遍歴僧の婿入り話は地元の伝承からみて事実とみてよい。
33日本@名無史さん:02/03/28 02:57
俺が知ってるのは、家康公が、現時と血縁の得川氏の子孫を自称したところから、源氏になったと聞いている。
ちなみに俺の先祖は、源経基公。
34日本@名無史さん:02/03/28 03:08
徳阿弥は結局、出自不明の遊行僧なのだろう。
出自不明だから、源氏の子孫説を否定する材料が無いだけであって、
どう考えても徳川氏は偽者。
35日本@名無史さん:02/03/28 20:09
>>31
松平氏というのは親氏からはじまるということすらしらない付け焼刃
知識をひけらかす徳川教信者発見。
36日本@名無史さん:02/03/28 20:13
まあ徳川が当時の正統な武士ではなかったということだけはたしか
だな。
あえていえば松平氏というのは当時の既成の武士に反抗した山賊集団
というところだろう。

よって江戸幕府が武士の政権などというのはウソ。
37日本@名無史さん:02/03/28 20:14
徳川史観で西日本をバカにするな!
38日本@名無史さん:02/03/28 20:43
>>35

徳川一門に伝わる伝承によれば、
新田源氏の一族、世良田親氏(得川親氏)が時宗の遊行僧になって三河松平郷にたどりつき、
そこで地元の豪族の娘との間に子をもうけたため、その家の入り婿となって、
松平親氏と名乗ったとされている。つまり、松平親氏は徳阿弥と同一人物。
徳川氏は自らを源氏の末裔と主張するため、親氏を一族のルーツと位置づけ、
性を「松平」から「徳川」に変えている。

しかし、実際には松平氏は親氏から始まったわけではなく、
徳阿弥の義父にあたる、松平太郎左右衛門信重という人物が実在したといわれている。
39日本@名無史さん:02/03/28 21:05
>38

松平太郎左衛門は親氏のことだろ。
信重の姓は在原。

適当なことばっか書いてんじゃねえ。

しかも、親氏の世良田氏出身説の出典は徳川の世が磐石に
なった世に三河以来の徳川狂信者大久保彦左衛門によって
書かれた「三河物語」だろ。
そんなもんが根拠になるなら神武東正征は間違いなく史実だ。
4039:02/03/28 21:07
すいません。訂正します。
神武東征は史実でした。

天孫降臨にします。
41日本@名無史さん:02/03/28 21:26
松平氏と美濃土岐氏の関係はどうよ?
42日本@名無史さん:02/03/28 21:28
関係あるのか?
43日本@名無史さん:02/03/28 21:30
>39
清康は?
親氏を「世良田」に擬したかどうかはともかく、世良田二郎三郎を名乗った
のは家康のオリジナルではないということになっていたようだが。
(もちろん、史疑あたりを信じるなら別だが。)

で、38は35の
>松平氏というのは親氏からはじまる
とかいう話に対して、素性はともかく土豪の「松平」は親氏以前からあった
といっているんだろうと思ったが。

>松平太郎左衛門
は親氏だけでなく、松平宗家代々の名乗りだったはず。(信光のときから系
図では次郎流が嫡流になって、松平太郎さんは松平郷土着のままになってい
る。)

いずれにせよ、普通の話では素性のわからない(賀茂とか在原とかあるよう
だが)土豪「松平太郎左衛門」家に、これまた素性不明の流れ坊主が婿入り
して家を継いだ、ということになっていたと思う。
「松平氏が親氏からはじまる」という話こそ、親氏以前を抹消しようという
作為だろう。
44日本@名無史さん:02/03/28 21:36
>>18

 宗家って家康の所? あそこは宗家じゃないじゃん。宗家が断絶したどさくさに
紛れて清康が宗家面してただけじゃん。
45疑史徳川講座:02/03/28 21:38
>>33
源義家─義国─義重(新田)─義季(徳河/得川)─頼氏(世良田)

そして、世良田氏九代目の親氏は足利氏の弾圧に耐え切れず一族と
ともに流浪の旅に出たという。。
46日本@名無史さん:02/03/28 21:48
>43
松平氏は親氏が奥三河の土豪在原氏の娘を犯してのとって
作られた得体のしれない一族。
親氏以前に松平氏が存在したというのならその証拠を挙げよ。

ちなみに在原氏が松平氏になっていく経緯は松平郷の伝承書
『松平氏由緒記』に記されている。
さらに、ついでに言えばここには源氏だとか新田だとかいう話し
は一言も記されていない。
4743:02/03/28 22:43
>46
>親氏以前に松平氏が存在したというのならその証拠を挙げよ。
地元伝承などにいう「松平郷主太郎左衛門在原某」が「松平」を「名字として」
本人が名乗ったという確実な証拠を挙げよ、という意味ですか?

そういう意味であれば、証拠は挙げられませんので、43は軽率な発言だったと
認めざるを得ません。お詫びいたします。
以前に読んだ本に「在原某の子松平太郎左衛門信重の云々」という記述があっ
たのを鵜呑みにして、「親氏以前の松平郷の土豪の家」という程度で軽く使っ
たものです。
48名無しさん:02/03/28 22:50
新田に系図を売れと迫って断られた
徳川は所詮下賎の出。
そう言えば中学のとき母方が徳川の出
だとか言って威張ってたアホがおったな。
俺のこと「百姓」だとか言いやがって。
俺の先祖は小さいながらも信州のとある
城を守ってたのに。
まぁ俺はそんな先祖のことは口には出さなかったが。
徳川がナンボのもんじゃい!
この腐れ乞食の末裔が。
49【^▽^】足軽浪人ジョーカー@長屋:02/03/28 22:59
答えは簡単。家康が源氏か平氏かで源氏を選んだ。
征夷大将軍になったと同時に「源氏長者」になった。
何も難しく考えることもなけりゃ皮肉を言うこともない。
それが戦国の世。
50日本@名無史さん :02/03/28 23:10
源氏の名門の吉良や今川を保護して、細川や毛利、島津、京極を従えて
更に関白家の筆頭家老だったら「源氏長者」の資格は十分にある。
51日本@名無史さん:02/03/28 23:31
家康は名門水野家の血を引く貴人。
52日本@名無史さん:02/03/28 23:32
新田の支流の多くは貞方没後の宗家岩松一揆の一員として戦国期
までは残っている。
徳川の関東入部時に系図差出や口裏合わせた臭い奴はそれなりの待遇を
受けているが、岩松は20石で新田姓を使わなくなった時100石加贈。
それでも家格は交代寄合。偽者の複雑なコンプレックスが伺える。
幕末の国定忠治は新田長岡氏、徳川なんぞ心底馬鹿にしていた。
実際、新田一族は多数あるが徳川が本物と思ってた奴は居ない。
53日本@名無史さん:02/03/28 23:33
水野の先祖って誰なの?
54日本@名無史さん:02/03/28 23:34
>53
水野晴夫@シベ超
55日本@名無史さん:02/03/28 23:37
それは名門だね
56たぶん名無し:02/03/28 23:37
一つききたい
武士と呼ばれるのは武装した開発領主だろ?
源氏だ平氏だなんて所詮貧乏低級貴族だろ?
その低級貧乏貴族が都じゃ食えないから地方に散って
低い官位をかさに開発領主を手なずけただけだろ?
49や50のいうとおりに武士らしく運と実力でのぼりつめた奴の
勝ちじゃない? 
57日本@名無史さん:02/03/28 23:38
58日本@名無史さん:02/03/28 23:42
>>57
こんな水野の家譜の写しを信じているのか、坊やは。
かわいいのう・・・
59はー、馬鹿だなあ。:02/03/28 23:43
>>58
まともな反論ができないなら引っ込んでれば?
60日本@名無史さん:02/03/28 23:46
新田氏の血を引き、足利氏の弾圧に耐え切れず流浪の旅に出た男が、
なぜ、足利一族の本拠地とも言える三河に住み着けるんだろう。
無理が有り過ぎ。

61日本@名無史さん:02/03/28 23:46
「源氏長者」の意味もいつのまにか
「武家の棟梁」って意味になってし
まっているからな。
62日本@名無史さん:02/03/28 23:49
>>48
乞食でも何でも、天下を取った事実に間違いはない。
それとも何か? 「百姓」風情のお前が、天下を取れるって言うのか?(w
63日本@名無史さん:02/03/28 23:53
ちょっときいていい?
水野で思い出したけど、土井利勝でどうなん?
64日本@名無史さん:02/03/28 23:53
>>57
その系図の本文を読めば、誰でも胡散臭いと思うだろう。

65日本@名無史さん:02/03/29 00:01
かわいいなあ57は、何も知らないんだね。
それのおかしな点がわからないんだね。
何も知らないって幸福だね。
66日本@名無史さん:02/03/29 00:09
水野家は平安末以来の尾張平家で名門だよ。
67あれ?下がってくなー。:02/03/29 00:20
無知な58でも、水野致国ぐらい知ってるんだろ?
それとも煽るぐらいしか能がないのか?
68日本@名無史さん:02/03/29 00:26
思ってた以上に厨房レスだった見たいだな。
69訂正:02/03/29 00:28
レス→×
スレ→○
70日本@名無史さん:02/03/29 01:12
いつのまにか徳川厨が話題をすり替えてるぞ。
結局、徳川氏は出自不明ってことで終了だね。
71日本@名無史さん:02/03/29 01:20
寝言は寝て言え。
72日本@名無史さん:02/03/29 01:34
徳川家=乞食坊主の子孫
73日本@名無史さん:02/03/29 01:51
酒井氏も徳阿弥の子孫を称してるね。
連歌の会を催したりして、都から来た文化人って感じじゃなかったのかな。
74日本@名無史さん:02/03/29 03:13
>>66
もはや可哀相
75日本@名無史さん:02/03/29 03:16
水野氏も徳川氏も出自不明だよ。
江戸時代に系図と由来を勝手に作っただけ
76ぷ。:02/03/29 12:04
水野致国について何も答えずに夜中にこっそり煽りレスか。。。
典型的な負け犬厨房だな。
77日本@名無史さん:02/03/29 13:46
あんたらさぁ、こんな事を議論してて楽しい?
いくらルーツが乞食坊主だろうと、ニセ源氏だろうとさ、家康公が天下を取ったことには変わらない。
そして、250年以上続いたことも、周知の事実。
ここにカキコしている奴、そんな国家を作ることが出来る奴、居るのか? 俺も含め、いないだろうな。
78日本@名無史さん :02/03/29 13:48
まぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜まぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜まぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
落ち着けよ。
79日本@名無史さん:02/03/29 14:25
水野致国ってだれ?
80日本@名無史さん:02/03/29 14:50
致国は尊氏派、致秋は直義派。
81日本@名無史さん:02/03/29 16:55
自称水野子孫の水野ヲタには賢い皆さんは惑わされないように。
すべて嘘ですから。
82日本@名無史さん:02/03/29 16:59
同じ水野だから系図を水野とつなげるのは偽系図の最もよくある手
で、その水野と徳川家臣水野は無関係です。
あまりにも初歩的なことなので突っ込む気にもなれませんが。
他の人が勘違いするといけないので。
83日本@名無史さん:02/03/29 17:00
そもそもその水野致国が存在するかも疑わしいわけですが。
84日本@名無しさん:02/03/29 17:11
松平氏の一部が佐竹氏の庶流だと言う話、佐竹関連のスレで見たけれど、妄想か?
85日本@名無史さん:02/03/29 19:39
>>60
まさしく徳川が新田系を名乗った理由はそこにあるんでしょうね。
源氏は名乗りたいものの三河は正統源氏の足利家の領地。
いくら混迷の戦国の世といえども徳川が源氏でないのは誰もが
知っている。
そこで遠く離れた関東の新田の流れをくむ源氏だという苦し紛れの
ウソっぱちを捏造したんだろうね。
86日本@名無史さん:02/03/29 19:51
>>50
アホか。
一色家庶流を滅ぼしたりや東条吉良の吉良義昭を追放して滅亡させた
のは徳川(松平)。
徳川は名門を徹底的に骨抜きにしたうえでなければ保護しない。
朝廷の扱いを見ればよくわかるだろ。
87日本@名無史さん:02/03/29 19:57
>>84
妄想と思われ。
88日本@名無史さん:02/03/29 20:00
>>77
徳川幕府が鎌倉武士の伝統を受け継いだ武家政権だとかいう
たわごとをぬかすやつがいるので、徳川幕府は戦国の動乱の
どさくさに紛れて天下を強奪した山賊政権だということを
あきらかにしたまで。

そもそも、戦国大名には成り上がりものが多いのもたしかであるが、
名門ではなくともその多くは国人や地侍であり、もともと国内において
それなりの存在であった。
しかし、この松平一族はまったく氏素性も不明ないかがわしい集団
であり、山奥から繰り出しては三河を蹂躙した山賊集団に他ならない。

徳川幕府が武士の政権の代表格のようなことをいう輩はこのへんの
事実を踏まえたうえで語らねばならない。
彼らはもともと武士でもなんでもなく、れっきとした当時の武士達から
見ればチンピラの山賊集団でしかなかったのである。
89日本@名無史さん:02/03/29 20:08
>>56
>武士と呼ばれるのは武装した開発領主だろ

だとしたら松平一族は武士ではないな。

松平一族の正体は何度も言うように山賊集団。

「山野をかけめぐり、夜昼をかせぎ、麦のかゆ、ひえのかゆをかいて、
親を討ち死にさせ、子を討たれて」(三河物語)までも開発領主達の
領土を次々と征服していった山賊一味。

この連中の結束が固かったのは徳川家臣団の団結力と三河武士の忠誠心
として名高いが、その実態はヤクザ集団の発揮する独特の団結力に他ならない。
90日本@名無史さん:02/03/29 20:18
>>88
だったら、その立派な武士の方々が、山賊風情に統治されていた事実は考えてる?
91日本@名無史さん:02/03/29 20:19
信光の子による七つの松平氏の分布を見ると松平一族は
当初、西の平野部には目もくれずにしゃにむに山づたいに
南へ南へと海へ向かっていたことがわかる。
このことからも松平一族が山賊集団であったことが
わかる。
おそらく山賊のかしらである信光あたりが

「いっぺんでいいから海ってもんを見てみたいぜ」

などと駄々をこねてこの強行軍を考え出したのだろう。
連中の被害にあった開発領主や親分のわがままのために
働かせられた子分達はたまったものではなかったことだろう。
92日本@名無史さん:02/03/29 20:19
そして250年以上も、その政権を継続出来た事実もね。
93日本@名無史さん:02/03/29 20:26
>>90
当時の武士は既に権門の名声のうえにあぐらをかいて
腐敗しきっていたからね。
とくに足利一門は後醍醐天皇を裏切ってまで天下を
ものにしたというのに、民のことをこれっぽっちも考えずに
世の混乱をよそに己達の権力争いに終止した最悪のクズ
一族。
世の混乱をよそに金閣やら銀閣やらをたてて、民をますます
苦しめた。
将軍義政が後花園帝に「ええかげんにせえ」としかられたのは
有名。
まあ、武士っていっても当時の鎌倉以来の武士はクズばっかりという話し。
94日本@名無史さん:02/03/29 20:37
馬鹿だなぁ、キミ達。
とりあえずここでもみておけや、ゴルァ!!

http://www.geocities.com/jpnkiryaku/sokindex.html

http://www.geocities.com/jpnkiryaku/namiaiindex.html

松平氏はもともと在原氏流賀茂氏の一族だったのが、
南朝落人の話を借用して清康が吉良氏・今川氏に対抗するために新田氏を称したもの。
世良田氏が三河まできて酒井や松平の世話になったのはあながち嘘ではないだろうが、
生物学的に後裔といえるかどうかは疑問。

95日本@名無史さん:02/03/29 20:40
このように松平一族というものはもともと奥三河の山間部
から理由もなく平野に押し出してきては殺戮や略奪を行って
きた山賊集団であったのである。

戦国の世には流れものの破壊坊主あがりの斎藤道三や浮浪児あがりの
豊臣秀吉などがいるが、山賊あがりで天下を統一したのが徳川家康
だったのである。

これは当時の社会状況を考えれば非難すべきことではないかもしれないが
徳川の天下がおわった今日においてもこの徳川一族がもともと
山賊集団であったという事実を隠蔽し、さも正統な源氏の流れを
くむ武士であるかのような扱いは徳川史観がいまだに続いている
ことに他ならない。

かつて「史偽徳川」が発売された時にどこからともなく圧力が
かかって発禁にされたという事実を見ても現代の日本の歴史が
未だに徳川史観によって犯されているのがよくわかる。
水戸黄門などという時代劇が放送されているのも徳川史観を補強しよう
と画策するものの陰謀に他ならない。

96日本@名無史さん:02/03/29 20:48
>>94
なるほど。
松平家は正義の南朝の系譜をひくものとして
腐敗した朝敵足利幕府を打倒せんがために奥三河の
隠里から立ちあがったというストーリーですね。
松平一族にそのような義侠心と尊皇の心があったとは
はじめて知りましたが、後醍醐天皇を裏切って世を
混迷におとしいれた腐れ足利幕府を打倒して天下を安寧に
した心意気は評価すべきものだと思います。

松平家が新田系を称したのはそのためでもあったんですね。
97忠臣松平外伝:02/03/29 20:59


    南朝遺臣の末松平一族
         朝敵腐れ足利幕府に天誅をくだす!


出演:松平健(松平元康)
   高倉健(松平広忠)
   所ジョージ(元康の側近A)
   八名信夫(吉良義昭)
98名無しさん:02/03/29 21:17
62みたいな盲信的徳川信者がいるようでは
この国はダメですな。
お前みたいな奴は搾取され続けろ。
9962:02/03/29 21:27
>>98
俺は搾取する側だが、何か?
100日本@名無史さん:02/03/29 21:37
搾取する側=生活保護を受けている貧民
101名無しさん:02/03/29 21:42
>100
最高!
核心を突いてるよね。
102日本@名無史さん:02/03/29 22:10
>>97
自称南朝遺臣が北朝の吉良氏から系図を買って、
家系を捏造したんだ(w
恥ずかしいにも程があるね。
103日本@名無史さん:02/03/29 23:12
>>97
近衛前久・・・
10462:02/03/30 03:18
>>100
搾取する側は、それだけとは限らんよ。
俺、結構税金を使って、遊びに行くけどね。
105日本@名無史さん:02/03/30 03:27
山賊っていうか
国人ね
いちおう日本史板なんだから用語は正確に使いましょう
106日本@名無史さん:02/03/30 03:56

いざというとき、系譜が物を言うのに何故日本人はきちんと記録を録らなかった
のかね? 韓国人だと○○金氏・○○李氏とかきっちりわかるのに
107日本@名無史さん:02/03/30 05:04
系図って遡っていけば誰でも出自不明だろ。
108巡っていけば:02/03/30 05:54
アダムとイヴ
109日本@名無史さん:02/03/30 08:39
>>106
別に、必要なときには系図を買えばいいから
問題ない。 
110日本@名無史さん:02/03/30 19:12
>>105
松平の初期はとても国人とは言えないだろ。
国人ってどんな存在のこというのかわかってる?
山賊が妥当。
用語は正確にね(w
111日本@名無史さん:02/03/31 01:23
五日、三河国鳴瀬村(原注:今の成瀬村)に到着。里人が疑い、
村に入れなかったため、満政(訳注:満昌の間違いかも)の所領の坂井郷に行って、正行寺を頼る(原注:作手の正行寺村へ入御という説もある。
もしそうなら、坂井郷ではないかもしれない)。

酒井与四郎忠則
三州鳴瀬に住んだ後、大浜の下宮に蟄居。
成瀬七郎忠房と太郎左衛門忠親は正行寺に住む。
この三人は兄弟で、新田一族、大館の末裔、大館太郎兵衛親氏の子である。

永享八年二月十一日、公方家の命を奉じて、
平井加賀守広利が三千の兵を率いて京都から三河、
遠江に下向し、新田の余族を捜索する。故右京亮政義の二男、
万徳丸政親が、この時三河松平に隠れ住んでいたのを生け捕り、
梅原肥前守に預ける

永享十一年、洞院大納言実熈が三河国に流され、
大河内に滞在する。嘉吉三年、帰洛して内大臣に任ぜられる。
実熈が帰洛の時、富貴の者であった松平太郎左衛門尉泰親が金銀を貸し奉って供奉する。
泰親の娘は、実熈の妾であった。この妾に男子が一人おり、富永五郎実興と称した。
三河国の富永御所というのは、実興殿の事である。三州山本の祖である。
また、尾崎、山崎らも、この子孫である。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1006670909/l50
112日本@名無史さん:02/03/31 01:24
>>110
富貴だってyo!!
113日本@名無史さん:02/03/31 20:19
>>111
つまり、親氏は大館氏の一族で酒井氏や成瀬氏の先祖、
松平泰親は新田氏とは関係のない金持ちってこと?
114日本@名無史さん:02/03/31 23:28
財産あればあるほど相続でごっそりもって行かれるしね
115日本@名無史さん:02/03/31 23:47
>>113
えっ??
親氏−泰親−信光で、
親氏が酒井与四郎忠則の娘とやっちゃってできたのが酒井広親で、
その後にやっちゃったのが松平太郎左衛門信重の娘だったんじゃなかったっけ?
泰親は親氏の子とも弟ととも言われてるんじゃ・・・?
ということは、大館一族の親氏が三河に来た伝説を
富貴の者の太郎左衛門泰親が乗っ取って、
結びつけたってことかな?
世良田政義の子供が松平に隠れてたことから、
いつの間にか親氏が世良田になったのか。
116日本@名無史さん:02/03/31 23:49
>>115
酒井氏を支配下に組み入れた後に、
松平党を血で塗り固めるために、
同族ということにしたか。
肥前の松浦氏なんかは血が繋がってないのに、
同じ苗字だし。
117日本@名無史さん:02/04/01 00:28
家康は朝廷内においては徳川ではなく源家康だったね。
118日本@名無史さん:02/04/01 01:31
>>117
氏が源、名字が徳川なのだから当然では?

信長も朝廷内では平信長だったんじゃないの?
119日本@名無史さん:02/04/01 03:32
足利義昭も源義昭だし、今川義元も源義元だね。
120朝廷内において:02/04/01 11:26
秀吉の氏ははなんだ?
121日本@名無史さん:02/04/01 14:35
豊臣。
源平藤橘に続く第5の氏を作った。
122日本@名無史さん:02/04/01 15:53
>>121
姓だろ!
123日本@名無史さん:02/04/01 18:34
>122
本当は「氏」でただしい。
124日本@名無史さん:02/04/01 19:46
>>115
よくわからんが、徳阿弥が酒井の家で作った子供は
三河物語では親清。
このように徳阿弥というのはあちこちの女のとこに
夜這いをしかけ子供をはらませてはその家に居座る
おしかけ女房ならぬおしかけ夫を行っていたヒモ男。

あまり由緒ある素性のものとは思われないな。
125日本@名無史さん:02/04/01 20:39
それでみんな酒井とか徳川ってその坊主の子孫てことになってるわけ??
126日本@名無史さん:02/04/01 22:01
こんな胡散臭い伝承が、まかり通るのが如何にも徳川史観だな。
清康から世良田名乗ってたってのにしても、ちゃんと四郎に絡めろ。
次郎三郎じゃ、どちらの世良田さんて事だしな。
胡散臭い史料の羅列なら村岡も八切も同じだからかなり信憑性あるな。
127日本@名無史さん:02/04/01 22:03
>>119
そうです。
足利義昭も吉良義昭も畠山義昭も佐竹義昭もみな源義昭です。
128日本@名無史さん:02/04/02 00:28
南朝担いで反抗してた世良田氏の活動が止まって
暫くしてから徳阿彌が松平郷に現れる。時間的にはね。
でも両者が系譜的に繋がってるかどうかは、さあ‥‥
129日本@名無史さん:02/04/02 00:29
>>126
次郎三郎:次郎さんの三男。
130日本@名無史さん:02/04/02 00:33
>>128
本当に世良田氏の子孫なら足利一族が山ほどいる三河には、
絶対に近寄らないだろう。
131日本@名無史さん:02/04/02 17:29
まあこのように武士とは言っても氏素性があやしいのみならず
ほとんど犯罪者に近いようなものが多く鎌倉以来の武士の伝統
だとか武士=開拓領主だとかいう定義もあてはまらないような
存在がごまんといるわけで、ようするに日本史において後世
武士と呼んでいる存在の多くはその時代に力をもった武装組織に
他ならない。
おそらく山口組もあと七代もしないうちに立派な名門武家として世の中に
認知されることだろう。
132日本@名無史さん:02/04/02 20:16
徳阿弥の夜這い的行状を描いた小説は無いのかね。
133日本@名無史さん:02/04/02 21:01
>>84
それ書いたの自分だと思うけど>佐竹一族スレ
松平氏の一部が佐竹氏の庶流だと言ったんじゃなくて
宗家が藤原の血統になったため、血統では常陸源氏嫡流になった
佐竹氏の庶流の苗が松平(高柿)氏ってのが面白いなと

でも、この佐竹流松平氏の発祥時期って三河さんの信光と同じくらい?
134日本@名無史さん:02/04/03 02:18
>110
『国史大辞典』の「戦国大名」の項見てみな。
松平氏が国人に分類されるのは常識。
山賊的側面を持っている国人など珍しくもない。
用語は正しく使いましょう。
135日本@名無史さん:02/04/03 22:11
>>133
根拠キボンヌ。
佐竹系図とかリンクないの??
136日本@名無史さん:02/04/03 22:21
『荘園体制における領主と合戦(三木靖著)』という論文では、
三河の保久郷を本貫とした室町幕府奉公衆山下氏の一族が、
松平の住人と結び付いたと考えられている。
いずれにせよ、初期松平氏の動向に関しては、
額田郡が将軍家の御料所であったこととの関係を見逃すわけにはいかない、
額田郡を有する高氏との関係、
さらに幕府の政所執事伊勢氏との関係がポイントになる。
新行紀一氏は『歴史研究』-「伊勢氏と松平氏」で、
松平氏を庇護したのは、政所執事伊勢氏であろうとされている。
137日本@名無史さん:02/04/03 22:25
親氏が源氏を称した記録として、
三河国足助八幡宮に、徳阿弥自書の『大般若経』百九十巻を奉納し、
その奥書に「応永廿七年 太郎左衛門源親氏」とある。
また、三河国滝村万松寺の『法華経奥書』に
「心願の成就を祈り奉る者也。応永三十四年 書了す。
三河国松平郷、太郎左衛門尉源親氏」とある。
 下って、三代信光になってから源姓を称しているものもある。
滝村の万松寺本尊の台座に、「慈応山万松寺本尊 永亨十二年 松平和泉守源信光」とあり、
これは、信光三十七歳のときとされている。また。岩津妙心寺願文には、
「源氏の武運をして永代尽くる期無からしめんと欲す。−−− 沙弥信光敬白」とある。
 このように三河へ来住してからも、
言い伝えとして源姓を表現しているのである。
138日本@名無史さん:02/04/03 22:26
称名寺略記』に
 「徳川有親および其長男親氏従士石川孫三郎と本刹に来住す、
蓋し孫三郎は本刹住持の兄たるの故も以ってなり、
有名なる牧渓筆『渡宋天満宮』は当時有親公の寄進にかかる後、
親氏は松平村に移り有親は亨徳元年本刹に於て卒す」とある。
139日本@名無史さん:02/04/03 22:30
『藤沢寺記』によれば、「至徳二年、新田一門過半波合にて討たれ、
新田相模守義隆父子、有親父子、わづかに逃れ奥州に下り、
有親は塩釜のあたりにかくれ居給ひけるが、小山若犬丸の催促にしたがひ、
宮方の徒、馳集りしに、同六月、鎌倉殿氏満、大軍にて発向あり、
新田.小山、田村等悉く退散す。
有親ひそかに本国新田祝村に帰住し給ひしかも、鎌倉の捜索厳しければ、
自害し給はんとせられしとき、護身宇賀神の霊夢に感ぜられ、
その時、遊行十二世尊観上人、たまたま岩松青蓮寺に旅宿あしかば、
その弟子となり、有親、親氏、泰親、三人とも名をかへ姿を改め給う」とある。
140日本@名無史さん:02/04/03 23:07
141日本@名無史さん:02/04/06 20:40
>>134
「本に書いてある」を繰り返すコピペオウム君を発見。
ちったあてめえの脳ミソ使えよ。

で、他に山賊的側面を持つ国人というのを具体的に教えてくれ。
142日本@名無史さん:02/04/06 22:34
山賊は言い過ぎじゃない?
蜂須賀を盗賊だったなんて言う人いないでしょ?
徳阿弥なりそれらしき人を匿い、婿に出来るだけの財力を
持ってるんだからさ
143日本@名無史さん:02/04/06 23:41
大館一族の親氏が三河に来た伝説を
富貴の者の太郎左衛門泰親が乗っ取って、
結びつけた
世良田政義の子供が松平に隠れてたことから、
世良田氏へ。
144日本@名無史さん:02/04/07 03:18
>141
俺はあんたみたいに頭よくないんでね。特に用語は正しく使わないと
議論が不毛になるだけだからね。まあせいぜいそのご優秀な脳味噌で、
これからも独り善がりな妄想に向かって頑張ってくれ。「思ひて学ばざれば則ち殆ふし」

>142
たぶんこの人は蜂須賀は盗賊だと思ってるよ。
145日本@名無史さん:02/04/07 05:00
俺、松平出身だべ。
146日本@名無史さん:02/04/07 05:40
もう少し歴史的発言を注意しようぜ、みんなla
147日本@名無史さん:02/04/07 20:30
>142
言い過ぎではない。
山賊で正解。
蜂須賀も野盗あがりがもっとも適切な表現。
権力者による歴史捏造にだまされてはならない。
148日本@名無史さん:02/04/07 21:20
いま、ふっと思いついたんだけど、見ざる言わざる聞かざるって、
なんか、人を小莫迦にしてる印象あるよね。
149日本@名無史さん:02/04/07 21:23
全ての道は日光に通じるのである。
150日本@名無史さん:02/04/08 14:45
>>147
山賊か・・・
いかにも厨房発言だな。
151日本@名無史さん:02/04/08 15:20
少なくとも、まともな出自では無いね。
152日本@名無史さん:02/04/09 12:35
>151
まともな出自?
153日本@名無史さん:02/04/10 11:19
称名寺の場所は武蔵介経基王の屋敷跡地と伝える。経基王は後に臣籍降下して源朝臣となった清和源氏、実は陽成源氏の始祖である。
国司として武蔵国へ赴任して早々、上司の武蔵権守興世王と組んで足立郡司の武蔵武芝との間で紛争をおこし、
仲裁に入った平将門を謀叛の企て有りと訴えて臆病者と呼ばれて拘禁された。
ところが翌年、将門が常陸国衙を襲って本当に謀叛をおこしてくれたため、
経基王は先見の明ありとして清和源氏は武門の家ということになった。

□ 江戸時代の亨和二年(1802)境内の竹林から墓碑が発見され、
碑銘に「世良田徳阿弥親氏、応永十四年四月廿日」と刻まれてあった。
時宗遊行徒の世良田徳阿弥親氏は、徳川家の先祖が新田源氏につながるとされる要の人物である。
□ 徳川家の正史『徳川実紀』は時宗僧となった有親・親氏父子は三河国大浜の称名寺に寄遇し、
有親はここに葬られたという。その後の徳阿弥親氏は同国加茂郡松平郷の松平家の婿養子となり、
徳川家の初代とされる。
□ 府中称名寺で発見された墓碑は幕府の寺社奉行へ「徳川御当家の御先祖様の墓なるべし」と届け出たが、
浮妄の言と叱責したという。親氏が武蔵国府中で葬られたのなら、
徳川将軍家は新田源氏の末という系譜は宙吊りになる。
明治三十五年、これを根拠の一つとして村岡素一郎は『史疑』一巻を著わした。


154日本@名無史さん:02/04/11 15:20
いまだ源経基陽成源氏説を唱えるものがいるとは・・
155日本@名無史さん:02/04/11 17:52
>>142>>144

明治時代に蜂須賀家の末裔が明治天皇のタバコをパクって
天皇に「血は争えんな」と笑われたエピソードを知らないのか?
156日本@名無史さん:02/04/11 17:59
十八松平じゃないの?
157日本@名無史さん:02/04/12 12:10
十六松平ってきかないね。
普通は、十八松平か十四松平じゃないの?
158日本@名無史さん:02/04/12 13:12
三木、鵜殿、藤井、大河内、大給、戸田、越智、柳沢、でしたっけ。
159日本@名無史さん:02/04/12 14:13
 ↑
上で合っているのはせいぜい三つだけ。
160日本@名無史さん:02/04/12 14:41
徳川(松平)氏は賤民の子孫
161日本@名無史さん:02/04/12 16:07
蜂須賀家は途中で何回も血筋が入れ替わってるけどね。
江戸時代の大名って養子相続が多い。
162日本@名無史さん:02/04/12 18:26
三木松平なんて本当にあるのか?
康孝一代で終わってるんじゃないの?
163日本@名無史さん:02/04/12 18:41
たしか、藤井松平が信濃上田藩で、大河内松平が松平伊豆守や松平右京の家ですよね。
大給松平が松平乗邑で・・・松井松平が松平周防守です。

鷹司松平や柳沢松平、本庄松平は一応松平名乗っているが江戸時代に
なってからの松平は、14松平とか18松平に含まるですか?。
164 石田裁判長:02/04/12 18:43
徳川タヌキ守家康、ならびに近衛前久は公印私文書偽造罪で懲役260年を科す!
165日本@名無史さん:02/04/12 18:47
三河の松平は新田源氏発祥地の上野の得川郷にすんでいて、それが徳川
に結びつくという強引な論法ですな。
166日本@名無史さん:02/04/12 18:51
大給松平の最後の藩主が
明治に苗字を松平から大給に改めて
大給恒となっていますが、
他の松平家も松平から藤井なり形原なりに改めたのでしょうか?
167日本@名無史さん:02/04/12 18:53
                ____________
      \∧_ヘ     /日本史板が予選落ちの危機にあり!
 ,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 援軍求む!<<日本史>>板に投票してくれ!    ,,、,、,,,
    /三√ ゚Д゚) /   \____________  ,,、,、,,,
     /三/| ゚U゚|\      ,,、,、,,,                       ,,、,、,,,
 ,,、,、,,, U (:::::::::::)  ,,、,、,,,         \ジーク日本史ーーー!!/
      //三/|三|\     ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
      ∪  ∪       (    )    (     )   (    )    )
 ,,、,、,,,       ,,、,、,,,  ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
      ,,、,、,,,       (    )    (    )    (    )    (    )

http://live.2ch.net/test/read.cgi/vote/1018591859/
168日本@名無史さん:02/04/12 19:11
>>167 いやです。
169日本@名無史さん:02/04/12 20:53
大河内とか戸田とか、家康以降に松平を名乗った家は含まれないんじゃないの?
170日本@名無史さん:02/04/12 21:47
>>165
だから、新田源氏系の家系の人を重用したのは有名な話。
後年、徳川家は傍系の家柄から新田家・足利家を再興させたが、新田家の格が足利より上だったと言う話もある。
171111:02/04/12 22:17
明治維新に際して、朝廷が勅令を出して、松平姓を名乗る物は
すべて元の姓に戻すように命じていますので、
松平和泉守は大給和泉守に。
松平伊豆守は大河内伊豆守に。
松平伊賀守は藤井伊賀守に
松平周防守は松井周防守に
松平下総守は奥平下総守に
松平越中守は久松越中守に
松平肥後守は保科肥後守に
ぜんぶあぼーんされています。
172日本@名無史さん:02/04/13 22:39
契] 城内スタッフ、領地管理、大名候補

給与:当幕府規定により優遇
勤務地:江戸城または周辺の城内(2〜3年毎に参勤交代制度あり)勤務地考慮致します
時間:交代制、1日約8〜12時間(早出・残業・夜勤・休出あり)
資格:年齢不問、禄高100石以上の家柄であること
待遇:刀・袴貸与、切捨て御免制度、忠誠・実力により昇給あり
交通:東海道・中山道・奥州街道・日光街道・甲州街道より江戸方面徒歩又は籠1日〜30日位
応募:当幕府大目付役当てに飛脚にてご連絡ください。追って面接日時を連絡致します

征夷大将軍目指して頑張ろう!
173日本@名無史さん:02/04/14 11:32
江戸時代の亨和二年(1802)境内の竹林から墓碑が発見され、
碑銘に「世良田徳阿弥親氏、応永十四年四月廿日」と刻まれてあった。
174日本@名無史さん:02/04/15 01:51
尾張国知多郡の荒尾氏が参河國加茂郡松平村に住着き、松平太郎左衛門と号した。

荒尾氏の本姓は在原氏で平城天皇を祖とする。

太郎左衛門家に養子で入った親氏は清和源氏の世良田氏の流とも言われる。
また、親氏は加茂氏系とも言われる。
175日本@名無史さん:02/04/15 12:49
そういう意味じゃ、島津、前田なんかも明治になって戻したクチだよね。
176日本@名無史さん:02/04/15 13:36
竹谷、岩津、大給、桜井、三木、鵜殿、福釜、東條、藤井、西福釜
滝脇、形原、大草、宮石、五井、能美、丸根、長沢

この辺までが、家康以前の分家。これで18だけど、数え方は諸説ありあり。

>>44
松平太郎左衛門家(松平郷松平家)は、断絶はしてないよ
177日本@名無史さん:02/04/15 13:43
>>133
なんで高柿が常陸源氏嫡流になるのよ
血統でいくなら義盛に近いのは別の所やん

って、ここで言ってもしょうがないねwごめん
佐竹スレってどこだぁw
178日本@名無史さん:02/04/15 15:05
社] 奥女中・腰元・側女
給与:当幕府規定により優遇
勤務地:江戸城内大奥
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応募:当幕府大奥総取締り当てに飛脚にてご連絡ください。追って面接日時を連絡致します
179日本@名無史さん:02/04/15 16:14
結局、徳川(松平)氏の本当の先祖は、
加茂氏か在原氏かどっちなんですか?
180日本@名無史さん:02/04/15 16:22
荒尾氏の本家は鳥取&岡山の池田藩の家老だけど、
そこを厚遇したとかいう話聞かないね。
181日本@名無史さん:02/04/15 18:10

本来の宗家ってどこですか?
182日本@名無史さん:02/04/15 19:57
>>176
宗家は岩津松平でしょ?
三代とされる松平信光の根拠地は岩津だったし。
岩津松平は嫡流が絶えたらしいね。
183日本@名無史さん:02/04/15 21:06
松平親氏の庶長子信広を祖とする松平郷松平氏は
7代尚栄が関ヶ原の後440石を安堵され、
9代信和が交替寄合に列し、幕末まで続いた。
江戸屋敷はなく、参勤の際は大給松平家に寄宿した。
184日本@名無史さん:02/04/15 21:17
原住民系の豪族だったんだろ。
185日本@名無史さん:02/04/16 11:53
松平宗家は太朗左衛門家。
岩津はその分かれ。
186日本@名無史さん:02/04/16 12:33
>>185
183にもあるように太郎左衛門家の初代信広は
親氏の庶長子で戦勝により松平郷に逼塞して
弟の信光が惣領を継いだことになってるから、
宗家というのはちょっと違うと思うが。
(そりゃ安祥家が惣領とされたのと同様に横領の可能性もあろうが)
187日本@名無史さん:02/04/16 13:11
岩津松平親長は安祥松平親忠の子ともされるが?
188日本@名無史さん:02/04/16 14:10
>>186
具体的に、何をもって、「惣領を継いだ」といえるの?
189日本@名無史さん:02/04/16 20:43
>>177
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1011233720/l50
より義盛に近いとなると義有(義盛弟)?
190日本@名無史さん:02/04/16 20:54
松平氏って安祥が抑えるまではまとまりがなかったんでは?
各地に分立した一族が互いに無秩序に勢力を張って、
そのなかで突出したのが安祥家ということ。
清康が出てくるまでは同族でもいうこと聞かなかったりした。
191日本@名無史さん:02/04/16 22:51
192日本@名無史さん:02/04/16 23:00
193日本@名無史さん:02/04/17 14:18
吉井松平は徳川忠長の子孫。
194日本@名無史さん:02/04/17 15:31
徳川忠長は信清の吉井入封以前、高崎で自刃していると思うが。
195日本@名無史さん:02/04/17 16:51
忠長に遺児あり。
196日本@名無史さん:02/04/18 11:39
松平長七郎のこと?
197日本@名無史さん:02/04/18 12:07
長七ってのは実在したらしいけどねぇ・・・
198日本@名無史さん:02/04/18 12:16
長七ってのは紀伊徳川家の次子の通名のようですが・・
199日本@名無史さん:02/04/18 12:22
長七と長七郎は別でしょう。
200日本@名無史さん:02/04/18 12:25
忠長と長七郎の「野史」や「日本人名辞書」における年代の齟齬は誰かが研究していたよね。
201日本@名無史さん:02/04/18 13:27
忠長の遺児が長七で、これが松平長七郎のモデルとなった。
と、何かの本で読んだんだが・・・
202日本@名無史さん:02/04/18 16:47
群馬県尾島には徳川神社
新田荘近し。
足利にも近し。
203日本@名無史さん:02/04/20 00:10
足利と新田
204日本@名無史さん:02/04/20 01:11
>>201
そうだろ
205 :02/04/20 12:09
>>204
198-199は違う言ってるぞ、結局どっちだ?
206日本@名無史さん:02/04/20 19:32
>>205
忠長に子供いなかっただろ?
遺児とかなんとか言ったって、
認知されてなきゃ公的に存在してないことになる。
207日本@名無史さん:02/04/20 20:04
松平親忠
生没年:1431-1501
父:三河松平家当主 松平信光
幼名:竹千代
次郎三郎
左京亮、左京大夫
三河松平家当主
正室:閑照院殿(父:鈴木重勝)
1473-1544 長親
女:
親長
乗元(大給松平家へ)
玄蕃允 親房
右京亮 張忠
超誉
親光
-1540 安祥城主 長家
長忠
源四郎乗清(滝脇松平家へ)
行雲院殿(吉良持広室?)
松平長親
生没年:1473-1544
父:三河松平家当主 松平親忠
幼名:竹千代
次郎三郎
左京亮、蔵人、出雲守
208日本@名無史さん:02/04/20 20:05
松平泰親
生没年:
父:松平親氏
太郎左衛門尉
三河守
妻:?-1426?
1404-1488 信光
信広(松平郷系へ)
益親
守久
家弘
久親
松平信光
生没年:1404-1488
父:三河松平家当主 松平泰親
三河松平家当主
左京亮、和泉守
正室:真浄院殿?-1461(父:一色宗義?)
左京亮 守家(竹谷松平家へ)
1431-1501 親忠
1436- 親則(長沢松平家へ)
女:
親長
左京亮 守家
昌龍
佐渡守 与嗣(形原松平家へ)
紀伊守 光重(大草松平家へ)
光英
忠景(五井松平家へ)
次郎右衛門尉光能(能見松平家へ)
美作守 家勝
修理進 親正
娘?(戸田宗光室)
娘?(明眼寺金蓮室)
209日本@名無史さん:02/04/22 12:46
210日本@名無史さん:02/04/23 11:42
>>206
おいおい、当時は認知なんて制度なかったぞ。
211日本@名無史さん:02/04/24 23:30
2代将軍・徳川秀忠と織田信長の妹お市の方と浅井長政の娘・お江の方の次男に
生まれた忠長だったが、兄・家光との折り合いが悪く、将軍の実弟という甘え
からも粗暴な振る舞いが多かった。寛永8年(1631年)4月に父・秀忠により甲斐に
蟄居を命じられた。その後、金地院崇伝らを通して父に赦免を乞うも、
翌年に秀忠が没すると上州高崎城主・安藤重長のもとに幽閉された。
寛永10年(1633年)12月、命運を悟った忠長は自刃し果てた。
 忠長と正室・織田信良(信長の孫)の女との間に子女はなかった。
『幕府祚胤伝』は世間で忠長の落胤と噂の長七および武州秩父郡円福寺の
13代住持仏眼祖円の二人を紹介しているが、長七という人物の経歴、領地等、
いっさい不明。祖円も寛永15年から住職をつとめたとあるので寛永10年に28歳で
最期ととげた忠長の実子にしては一寺の責任者としては若すぎると思われる。
 松平長七郎なる人物を忠長の落胤とする説がある。それによると慶長19年、
なんと忠長9歳の時に長男として生まれ、名を長頼といい、父自刃後は幕府や
紀伊藩の密かな保護を受け、西国を流浪し寛文元年(1661年)に和歌山で没し
たとされる。もちろん長七郎の存在を裏付ける史料はなく、名の長頼は多分、
松平忠輝の子永見東市正長頼あたりと混同されたのではないかと思われる。
212日本@名無史さん:02/04/24 23:33
松平忠輝は伊達政宗の長女五郎八姫を正室に迎えているが、
子は側室於竹との間の徳松という男児だけである。
忠輝が改易に処され、伊勢の朝熊金剛証寺へ追放となった際の
同行は認められず、その後どこへ幽閉されたかは不明であるが、
三代将軍家光のとき、老中で岩槻城主阿部正次に預けられた。
 徳松の母・於竹は書に長じてあり、阿部の家臣・東西孫右衛門なる者が
彼女のために、無断で書を学ぶ便宜をはからった。
ところがそれを知った正次は、将軍家への聞えをはばかり、
孫右衛門に切腹を命じる。この阿部家の対応に、
忠輝の実子としての自尊心を傷つけられた徳松は、
激怒して岩槻城内の居所に火を放ち憤死した。
時に1632年、18歳。先に於竹が、続いて徳松が
屋敷を焼いて割腹したらしい。
 一方、忠輝は朝熊から飛騨高山、諏訪高島と流され、
1683年、92歳で世を去った。死後、忠輝付きの家老
久世半左衛門が諏訪藩の家老に提出した証文によれば、
岩槻で果てた徳松の他には「上総介殿子息とては男女ともに一人も御座なく候」
であった。
213日本@名無史さん:02/04/25 00:25
泰親━━信光━┳守家━━守親━━親善━━清善━━清宗━━家清━━忠清 --竹谷松平家

┣親忠━┳乗元━━乗正━━乗勝━━親乗━━真乗━━家乗 --大給松平家
┃ ┃
┃ ┣長親━┳信忠━┳清康━━広忠━━家康 --徳川将軍家
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗信孝━━重忠━━忠清 --三木松平家
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣親盛━━親次━━親俊━━康親 --福釜松平家
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣信定━━清定━━家次━━忠正 --桜井松平家
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┣義春━━家忠━━忠吉 --東条松平家
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗利長━━信一━━信吉━━忠国 --藤井松平家
┃ ┃
┃ ┗乗清━━乗遠━━乗高━━乗次━━正貞 --滝脇松平家

┣与副━━貞副━━親忠━━家広━━家忠━━家信 --形原松平家

┣光重━━昌安━━ 某 ━━三光━━正親━━康安━━正朝 --大草松平家

┣忠景━┳元心━━信長━━忠次━━景忠━━伊昌 --五井松平家
┃ ┃
┃ ┗忠定━━好景━━伊忠━━家忠━━忠利 --深溝松平家

┣光親━━重親━━重吉━━重勝━━重忠━━重直 --能見松平家

┗親則━━親益━━親清━━勝宗━━一忠━━親広 --長沢松平家
214日本@名無史さん:02/04/25 00:27
竹谷松平家
 松平宗家二代目の信光の息子達から出た分家は多い。
この竹谷も長男の守家を祖とする氏が竹谷です。
15世紀初め頃に成立した。後年まで続いた松平の分家では、
最も古く、三河国宝飯郡竹谷(蒲郡市)を本拠に、
宗家4代目の親忠の時代から、力を合わせて松平一族に貢献してきた。
大名になったのは、宗家の家康に従って小田原征伐に従った6代目の家清から。
家清は関ヶ原の合戦でも戦功を上げ、三河の吉田で3万石。
しかし、息子の忠清で跡取りが絶え、忠清の弟清昌の流れが江戸時代を通じて
存続した。大名に準ずる交代寄合の高級旗本というのが身分である。
泰親−信光−守家−守親−親善−清善−清宗−家清−忠清−清昌−清直−義尭−義著−義峯−守惇−守誠
215日本@名無史さん:02/04/25 00:28
形原松平家
 竹谷松平と同じく、信光の息子から出た。
始祖は信光の4男与副(ともすけ)で、永正年間に、与副が三河国形原(蒲郡市)に住んでいたので、
それを家名にした。家康に仕えるようになったのは、
与副から4代目の家広の頃からで、家広、息子の家忠は
長篠の戦い、孫の家信の小牧・長久手の戦いや小田原征伐での戦功が著しく、
家信の時に大名に取り立てられた。次の康信にも、武勲を誇る一代記がある。
18世紀の半ば、信岑が丹波亀山5万1千石の領主になり、幕末まで定着した。
最期の領主の信正は、明治維新の時新政府軍に苦しめられたが、存続は認められた。
明治になって藩の知事、子爵に登る。
与副−貞副−親忠−家広−家忠−家信−康信−典信−信利−信庸−信岑−信直−信道−信彰- -信正
216日本@名無史さん:02/04/25 00:29
大草松平家
 これも信光の息子から出た分家。信光の5男の光重が大草家の祖です。
しかし、初期の頃は宗家と勢力を争ったが敗れて大草(額田郡幸田町)に引きこもったのが、
2代目の昌安である。それ以後も、宗家とゴタゴタが続いた。
しかし5代目の正親の頃から、宗家に服属して忠勤を励んで頭角を現した。
本家では7代目の清康、8代目の広忠、9代目の家康の時代である。正親の息子や孫も、
家康親子に忠節を尽くしたが、他の分家ほどは出世していない。8代目の正永に子供がなく、
弟にも子供がいなかったので、江戸初期に大草家の本流は途絶えた。
光重−昌安−某−三光−正親−康安−正朝−正永

光重━┳昌安━┳ 某 ━━三光━━正親━━康安━┳正朝━━━━━┳正永
┃ ┃ ┃ ┃
┗親貞 ┗女子 ┣重成━━重之 ┣正村
┃ ┃
┣成次 ┗重之(養子)

┣康信

┗女子
 最後の正永は2代将軍秀忠に仕えた。のちに忠長卿に付属され、
忠長の改易後に、寛永17年12月15日に3代将軍の家老となり、
従五位下壱岐守に叙任し、嗣子がなく断絶した。

217日本@名無史さん:02/04/25 00:30
五井松平家
 五井は御油とも書く。これも宗家の信光の7男の忠景が祖で、
代々宗家に従って武勲を上げ、終生家康と行動を共にしたのは5代目の景忠だった。
しかし景忠は志半ばで倒れ、息子の伊昌が代わって奉公に勤めた。
2代将軍秀忠の下で、伊昌の息子の忠実が下総の海上郡に6千石を与えられた。
大名とは言えないが、それに準ずる待遇だった。
それ以後は、太平の世の中になり、五井家の本流は代々交代寄合で、
その番頭を勤めた者も多い。お家断絶の危機もなく、
幕末まで穏便に続いた幸運な家だった。
忠景−元心−信長−忠次−景忠−伊昌−忠実−伊耀−忠益−忠朝−忠根−忠寄−忠命

218日本@名無史さん:02/04/25 00:31
能見松平家
 信光の8男の光親が、額田郡能見(蒲郡市)で創立した分家。
宗家4代目の親忠以来、忠節を尽くし、江戸時代を通じて健在だった。
家康に従ったのは4代目の重勝、5代目の重忠の時代で、
長篠の戦いから大坂夏の陣まで活躍した。
この分家で最初に大名になったのは重勝である。
元和2年に下総関宿2万6千石の城主に任じられた。
3代目以後は相続が変則だったが、それでも豊後の杵築城主2万2千石で
明治維新を迎えた。最期の藩主の親貴は、戊辰戦争では幕府を離れ、
新政府軍に身を投じた。明治になって藩知事、子爵。
光親−重親−重吉−重勝−重忠−重直−英親−重栄−重休−親純−親盈−親貞−親賢- -親貴
219日本@名無史さん:02/04/25 00:32
長沢松平家
 長沢家は信光の息子の親則を始めとする家系。
この親則は長男とも8男とも11男とも云われているが、正確には不明。
なにしろ信光には50人近い子供がいた。宝飯郡長沢(音羽町)を本拠として、
宗家に仕えて家康の出世に従って長沢家も出世した。
9代目の康直に子供がなく、家康の6男松千代を養子に迎えたが早死にした。
ついで6男忠輝を迎えた。忠輝は下総佐倉5万石、
さらに越後高田70万石の太守に出世したが、お家騒動で元和2年に改易。
これで長沢家は断絶した庶流として、
4代目の勝宗から分かれた血統が大河内松平氏となり、
松平信綱などの多数の逸材を出した。こちらは3つの血流に分かれている。
上総大喜多2万7千石、三河吉田7万石、上野高崎8万2千石などがあり、
明治維新まで続いた。いずれも知事、子爵。
親則−親益−親清−勝宗−一忠−親広−政忠−康忠−康直
220日本@名無史さん:02/04/25 00:33
深溝松平家
 これも信光の血統である。五井松平家の祖の忠景の次男の忠定が源流。
兄の元心(もとむね)が、五井本家を継いだので、
彼は分家して土地の深溝(幸田町)の地名を取り、深溝家とした。
同家で最初に大名になったのは、家康に従った家忠で、
武蔵の忍城で1万石を領した。その息子の忠利は深溝城から吉田城主になり、
孫の忠房は丹波の福知山から、九州肥前の島原へ6万6千石で移封された。
島原の乱の収まった後で、九州統治を重く見た4代将軍家綱の特命だった。
一時転封されたが、幕末まで西国大名を睨んでいた。
最期の藩主の忠和(ただかず)は新政府軍につき奮戦。
明治には、東照宮宮司、子爵になった。
忠定−好景−伊忠−家忠−忠利−忠房−忠雄−忠俔−忠刻−忠祗−忠怨−忠和
221日本@名無史さん:02/04/25 00:34
大給松平家
 松平宗家の4代目の親忠の次男の乗元を祖とする名門で、
乗元が東加茂郡の大給(豊田市)地方の主だった為、この地名を取った。
早くから家康に仕えて信任が厚かった。大給本流が大名になったのは天正18年、
6代目の家乗の時、上野国那波郡で1万石を領した。
以後も本家、一族で大名や高級旗本になった者も多い。
歴代の老中も5人が勤めている。この中には有名な松平乗邑で優れた
官僚政治家だった。当初は色々、転封されたが、
最期は三河の西尾藩に落ち着いた。最期の藩主は乗秩(のりつね)は、
早くから新政府軍に加わり、明治になって知事に。
親忠−乗元−乗正−乗勝−親乗−真乗−家乗−乗寿−乗久−乗春−乗邑−乗佑−乗完−乗寛- -乗秩
222日本@名無史さん:02/04/25 00:35
滝脇松平家
 この家の源流は、加茂郡滝脇(蒲郡市)を本拠にしていた乗清で、
松平宗家の4代目の親忠の9男だった。早くから宗家に仕えていたが、
頭角を現したのは彼から5代目の正勝で、大坂冬の陣、
大坂夏の陣で戦功を上げた。しかし、彼は不運にも戦死したので、
養子の重信が代わりに累進して駿府城代になった。
次の信孝から武蔵や上野の領地1万石で大名の列に加わる。
その後、子孫は駿河の小島藩主として、幕末まで続いた。
明治になって上総の木更津に移り、桜井藩を立てた。
最期の藩主の信敏は明治政府に従順で知事を経て子爵に。
ただ滝脇家の家系は乱れていて、本流と称する別の系統もある。
乗清−乗遠−乗高−乗次−正貞−正勝−重信−信孝−信治−信嵩−昌信−信
223日本@名無史さん:02/04/25 00:35
福釜松平家
 松平宗家5代目の長親の息子達から分かれた分家である。
福釜松平家の元祖は長親の次男の親盛だ。
本拠は碧海郡の福釜(安城市)で、家康に仕えたのは3代目の親俊から、
親俊は若死にしたが、息子の康親が家康の関東入部に従って江戸へ移り、
大番に抜擢された。関ヶ原の合戦、大坂冬・夏の陣などでも活躍し、
伏見城番も勤めた。しかし、大名までは進めなかった。
その子の康盛も家康・秀忠に仕え、下総香取郡内の一部や福釜を領したが、
禄高は1千石あまり、子孫も旗本どまり、
松平支族にしては厚遇されたとはいえない。
親盛−親次−親俊−康親−康盛−康俊−康兆−康永
224日本@名無史さん:02/04/25 00:36
桜井松平家
 福釜家に同じく、松平宗家5代目の長親の子を祖とする支族。
長親の3男の信定が桜井(安城市)を本拠にして立て桜井姓を名乗った。
家康との関係を深めたのは信定の孫の家次から、その3代後の家広が、
天正18年、1万石で武蔵の松山城主になったのが大名としての第一歩。
その後も浮沈はあったが、1711年、忠喬が摂津尼崎4万石を領し、
後は安定して幕末まで続いた。しかし、維新前の動乱が始まると、
さっさと朝廷に従順を誓い、松平姓を捨てて、元の桜井姓に戻る。
最期の藩主は忠興は、明治になると知事を勤めて子爵。
信定−清定−家次−忠正−忠吉−家広−忠頼−忠重−忠倶−忠喬−忠名−忠告- -忠興
225日本@名無史さん:02/04/25 00:37
東条松平家
 東条氏も、松平宗家5代目の長親の息子に始まる。
4男の義春が、幡豆郡東条(吉良町)の東条吉良家に養子に入った家だ。
ただ、永禄年間(1558〜1570年)までは、
それより北方の青野(岡崎市)に居たらしい。
それまでは東条の有力な豪族吉良氏とは、反目し合う関係だったらしい。
天正9年に義春の息子の家忠が死んで血筋が絶えたので、
宗家の家康が自分の4男の忠吉を入れて同家を継がせた。
忠吉は武蔵の忍城とその周辺を領し、その後、関ヶ原の戦いで活躍した。
伏見城や尾張の清洲城の守りに就いていたが、病で無子のまま、
28才で死んだ為、東条松平家も絶えた。
義春−家忠−忠吉 (断絶)
226日本@名無史さん:02/04/25 00:38
藤井松平家
 同じく宗家5代目の長親の支族。
長親の5男の利長が碧海郡藤井(安城市)を本拠にして立てた。
家康の江戸移住に従ったのは2代目の信一で、小牧・長久手の戦い、
関ヶ原の合戦などで活躍し、家康の信任は厚かった。
慶長6年には早くも大名に列し、常陸の土浦3万5千石を領し、
4代目の忠国の時は、丹波篠山城主7万石に達した。
ただ、その後、歯車が狂い初めて各地を転々と移され、
元禄6年に6代目の忠之が発狂して栄光の座から転落。
その代わり分家が健在だった。3代目の信吉から分かれた支流は、
最後は信濃上田5万3千石の大名に、5代目の信之から分かれた支流は
最後は出羽上山2万7千石の大名になり、無事に幕末維新を乗り切った。
利長−信一−信吉−忠国−信之−忠之−信通−長恒−信将−信亨−信古−信愛
227日本@名無史さん:02/04/25 00:39
三木松平家
 この三木松平家は、これまでの分家の中では最も新しく、
宗家6代目の信忠の次男の信孝が祖である。本拠地は額田郡三木(岡崎市)。
初代の信孝は勇猛な武将で、宗家8代目の広忠がまだ幼い頃は、
本家を凌ぐ勢力と富を持っていた。その為に本家に警戒され、
ついに天文17年、戦となって滅ぼされた。
2代目の重忠は心を改めて広忠・家康に忠誠を誓った。
大番頭に抜擢され、初期の大番は江戸城の警護を主な任務とし、
何組かある番組の組長が大番頭だ。子供の忠清も大番頭を勤めたが、
子供を持たないまま若死にしたので、三木松平家は断絶した。
信孝−重忠−忠清 (断絶)
228日本@名無史さん:02/04/26 00:29
2119 Re: 徳川忠長の子孫は?
投稿者:Minstrel 投稿日:2000/12/15(Fri) 20:55

結論から言うと、忠長には子はいなかったようです。徳川忠長のご落胤とされる人物に松平長七郎がいますが、この人物は『幕府祚胤伝』の長七をもとに創作された人物であり、諸国を巡見して悪者を退治する華々しい活躍も創作だと思います。長七郎の本名は長頼とされています。
さて、松平上総介と言えば秀忠の弟にあたる松平忠輝のことですね。恐らく、この忠輝の子・永見長頼と混ざった創作の人物だと思います。
NHKの『葵徳川三代』で家光が「忠のつく者の行く末は芳しからず」と言っていましたが、血気盛んな3人の「忠」、家康の子・忠輝、家康の次男・秀康の子・忠直、そしてこの忠長と、徳川幕府の力が確立されていく中での犠牲者のように思います。
下記アドレスの『血筋の系譜』も参考にして下さいね。
http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/DramaticBlood/dramaticblood.html
229日本@名無史さん:02/04/26 06:48
目がチカチカする
230日本@名無史さん:02/04/26 08:47

それにしても、ここまで分家があるとは、三河って空き地だらけだったのか?

あと、なんでこうも名前の字がバラバラなわけ? 織田氏だと「信」でまとまって
いるのに
231日本@名無史さん:02/04/28 08:21
本当は血縁関係はなく初期の野伏り時代の党に所属していたものが
それぞれ松平を名乗っているからではないからでしょうか。
232日本@名無史さん:02/04/29 08:51
>>230
織田が「信」でまとまってるっていっても、
基本的に信長の家系くらいだよ。
233日本@名無史さん:02/04/29 08:53
織田敏広
234日本@名無史さん:02/04/29 09:58
清須の織田も信安とかいうけど本当かな?
235日本@名無史さん:02/04/29 11:02
織田因幡守良頼
236日本@名無史さん:02/04/29 11:11
松平の歴代は
親氏=泰親=信光−親忠−長忠−信忠−清康−広忠−家康
という説があるらしい。

ここで泰親は親氏の弟。
信光は親氏の次男。
信光の長男は信広で太郎左衛門家を継ぐ。
泰親の子益親は京都在住。
237日本@名無史さん:02/04/29 11:17
付け加えると、信忠の父の長忠というのは、一般に長親といわれている人物だが、
正式には、長親と言う名前は確認されていないらしい。
つまり岡崎松平の系譜は「忠」という字を使っている。
238日本@名無史さん:02/04/29 11:27
松平益親は、京都に屋敷をもち、日野裏松家の代官として、近江菅浦庄にいたそうだ。
239日本@名無史さん:02/04/29 11:40
征夷大将軍=日本のシーザー(成り上がり
240日本@名無史さん:02/04/29 11:45
家康が源氏の出のわけがないよ
家康が源氏の出を言い出したのは関が原の合戦の後のこと
それ以前は藤原氏の出と言っていたのだから、もう詐称バレバレ(藁
241日本@名無史さん:02/04/29 11:47
でも家康の爺さんは源氏を名乗ってたよ。
242日本@名無史さん:02/04/29 12:32
もともとは賀茂朝臣では?
243日本@名無史さん:02/04/29 12:47
酒井氏は親氏の子孫ではなく、親氏の義父の信重の娘婿の子孫らしい。
244日本@名無史さん:02/04/29 14:31
天皇家なんかチョソがルーツだけどね。
245日本@名無史さん:02/04/29 15:14
つまり、松平氏ってのは都合の良いように加茂氏や藤原氏や源氏と、
ころころと氏を変えていった出自不明の一族ってことですな。
246日本@名無史さん:02/04/29 15:37
古代から氏とは同族だと信じる集団であって
実際にその血縁の流れを汲んでいるわけではない。
天皇だってそう。マンセー一系なんか確かめようがないでしょ。
12人も妻がいたのだから不倫の一つやふたつしてるでしょ。
247日本@名無史さん:02/04/29 16:08
広忠に謀反した、松平忠倫ってどういう系統の松平なの?
248日本@名無史さん:02/04/29 21:25
>240
もともと源氏を名乗っていたのが、三河守になるのに都合がいいから藤原氏を
公認してもらっただけで、私的には関ヶ原以前から源氏を名乗り続けていたと
聞きますが。
「藤原家康」を名乗った時期の方が短いはず。
249日本@名無史さん:02/04/29 23:41
徳川改姓時に源氏に改めたはず。
250日本@名無史さん:02/04/29 23:55
家康の祖父、清康は世良田次郎三郎とも名乗っているけど、
そのときに源氏と称えたのかな?
251日本@名無史さん:02/04/30 00:37
もともと松平家は賀茂朝臣だった。
その後、藤原、源と改めた。
在原朝臣は伝説にすぎない。根拠はない。
252日本@名無史さん:02/04/30 01:01
>249
徳川改姓時には、源氏から藤原氏に改めたはず。
三河守任官に際し、「前例がない」と拒否されたのをなんとかしてくれ、
ということで、吉田某という公家が
「徳川氏の嫡流が二筋に別れていて、片方が藤原氏で云々」
という系図を作り、これを近衛前久が取次いで、
源姓松平->藤姓徳川
に改めた上で三河守になった、という筋書きだったと思う。
(まあ、どれも怪しいんだろうけど。)
253日本@名無史さん:02/04/30 01:07
>>252
前例がないってどういうことだろう?
源範頼や足利尊氏も源氏で三河守になってるのに。
やっぱり松平の家柄か・・・・。
254日本@名無史さん:02/04/30 08:44
違うよ。
もともと藤原→源。
徳川の名字と藤原の氏は関係ないよ。
理屈に合わない。
255252:02/04/30 21:13
>254
252のような経過をたどって「藤原家康」になったことは、近衛前久の書状にあるそ
うです。
このとき吉田兼右が見つけだしたという「徳川氏系図」は、
・徳川氏(源姓)の中に、藤原姓へ変わった前例がある
というものだそうで、これを基にきちんとした系図に仕立て上げた上で、近衛前久
が「藤原家康」の三河守叙任を取次ぎ認められた、という筋書きだそうです。
しかし、公式には藤原氏になった後でも、私的には新田流の源氏を称し続け、後年
には吉良氏から入手した系図を基に「新田氏の後裔」という系図を仕立た上で公式
に源姓を称するようになったそうです。
ぐぐるしたら、
ttp://homepage1.nifty.com/sira/matudaira_serada.html
というページが見つかりましたが、この辺りの話は徳川氏関連の本には時々出てい
ます。
256日本@名無史さん:02/04/30 22:05
信長家老の平手も系図上は松平と同祖
257日本@名無史さん:02/04/30 22:44
>>255
家康が藤原の前に源氏と名乗っていたということですが。
典拠は上記のページでは、近衛の手紙とありますが、
どういう文章なんですか?
また他に、実際に源元康とか源家康と署名した例があるんですか?
258255:02/04/30 23:44
>257
今手元に資料がないし、いずれにせよ近衛前久の書状そのものでなく一部の引用
を読んだだけなので、文章そのものを提示する事はできません。(以下記憶のみ)
引用されていたのは、おおむね252で書いた内容だったと思います。つまり、
・吉田兼右が徳川氏の系図を見つけてきた。
・みつけた系図は、惣領が二筋に別れていて、片方が藤原氏になっている珍しいものだった。
・鼻紙に書き写してきた系図をちゃんとした紙に清書して仕上げた。
という部分が引かれていました。で、これを資料として奏請したとか。

「藤原家康」時代に源氏を称した例としては、255で引いたページに出ていた、里
見氏に「同じ新田一族で云々」という書状を送った話の他は、すぐには出てこな
いです。(秀吉政権下で大納言時代には、「源家康」を公称していたようですが。)
259日本@名無史さん:02/05/01 00:28
>258
伝聞の伝聞ですね。
260255:02/05/01 01:14
>259
>伝聞の伝聞ですね。
???
私が書いたのは記憶に頼った孫引きもどきなんで忸怩たるものはありますが、私の記述
だけで、「私が読んだ資料の作者が原文にあたっていない」とまでどうして決めつけら
れるのか、全く以て不可思議ですね。
最初に読んだのは、「流浪の戦国貴族 近衛前久」という新書本ですが、当該部分の概
要は書いてありました。(原文の引用もあったと思うが、手元にないので。)

ところで、あなたは自分で調べて書く気はないわけですね?
「明らかに誤っている」なり「お前の資料提示では不満足だ」と思うなら、是非調べて
教えて頂きたいですね。
261日本@名無史さん:02/05/01 02:49
>260
孫引きですか。
262日本@名無史さん:02/05/01 16:44
大草松平の康安ってなんて読むの?
「やすやす」?
263日本@名無史さん:02/05/01 18:08
家康が源氏の子孫なら、秀吉が平家の子孫だと言うのも本当の話だな(w
264日本@名無史さん:02/05/01 20:28
 ↑
ヴァカ発見
265日本@名無史さん:02/05/01 21:51
>>262
こうあん
266日本@名無史さん:02/05/01 22:22
>>255
つまり、徳川氏は二回系図を書き直してるってことですね。
一回目は吉田兼右が見つけた「源氏→藤原氏系図」に自家系図を書き足し、
藤原氏として三河守叙任を受け。
二回目が吉良氏から入手した「清和源氏新田氏系図」に自家系図を書き足し、
源氏として征夷大将軍になった。
267日本@名無史さん:02/05/01 22:49
しっつも〜ん。徳川を名のる根拠になった新田支流の「得川」って有名な家系なんですか?
268日本@名無史さん:02/05/01 23:00
新田支流ときいただけで胡散臭く思える。スマヌ。
269日本@名無史さん:02/05/01 23:59
>>267
一般的に新田義重の子義季が得川氏の初代といわれている。
得川義季の子世良田頼氏は一時期、新田氏の惣領だったが、
北条氏の内紛に連座して失脚。
その後、頼氏の曾孫の満義は南朝方として奮戦するも、
南朝とともに衰退。
満義以降は尊卑分脈に記載無し。

>>268
本当だね。
270日本@名無史さん:02/05/02 10:14
>>269
満義以降も尊卑分脈に記載あるよ
271日本@名無史さん:02/05/02 10:17
>>265
坊主じゃないんだからそれはないよ。
272日本@名無史さん:02/05/02 11:10
>>171
滝脇、形原、桜井、深溝なんかは?
273伝承の整理:02/05/02 11:16
徳阿彌(親氏)と松平太郎左衛門信重(在原氏)との間に生まれたのが、泰親。
徳阿彌(親氏)と酒井忠則(大江氏)との間に生まれたのが、広親(酒井家祖)。
徳阿彌(親氏)が、新田氏の血を引くという伝承に基づき、後世、松平・酒井両家はともに源氏を称す。
274日本@名無史さん:02/05/02 13:19
>>273
男同士では子供は生まれません。
275日本@名無史さん:02/05/02 13:27
>>272
桜井は戻していたような気がする。
でも>>171は嘘と言うか間違いも多いよ。
276日本@名無史さん:02/05/02 13:33
信重の娘婿二人。
長女の婿は酒井氏。
次女の婿はいわゆる信武(親氏)。
信武の弟は泰親。
信武の長男は太郎左衛門信広。
信武の次男は和泉守信光。
泰親の子は益親。
277日本@名無史さん:02/05/02 17:21
>>270
現在の尊卑分脈は徳川による加筆済み。
278日本@名無史さん:02/05/02 19:06
だから?
279日本@名無史さん:02/05/02 20:28
>>271
坊主だよ
280日本@名無史さん:02/05/02 22:35
>>271
どこの坊主?
281日本@名無史さん:02/05/02 23:04
>>279
たしか石見守康安。坊主ではない。
282日本@名無史さん:02/05/04 09:22
ちなみに徳川家の本貫地三河にはいわゆる部落差別はない。
現在の部落差別の直接の起源が近世にあることは明白である。
283:02/05/04 09:27
あるよ。他地域ほどひどくないがね。
284日本@名無史さん:02/05/04 19:50
三河はもともと足利一門の所領だよね
なんで新田氏系のひとが所領していたんだろう?
気位の高い足利正統の今川義元は家康の新田氏の名門徳川性っての認めてたのかな?
285日本@名無史さん:02/05/04 20:56
この徳川系スレッドを上げる人は社会不適合者のアズマと同じです。
反論があるならばsageでするように。

アズマが一連の罵倒系スレッド、徳川系スレッドを増殖させてるので、
まともな日本史板住民は a g e ないようにしましょう。
286日本@名無史さん:02/05/04 22:05
群馬の世良田って部落だよね?
287sage:02/05/04 23:18
>>284
徳川家康になったのは、今川義元の死後だよ。
288日本@名無史さん:02/05/04 23:33
>>284
その前に元康→家康を認めないと思われ・・・
289日本@名無史さん:02/05/05 01:42
>>288
どういう意味?
290日本@名無史さん:02/05/05 07:35
元康の「元」は今川義元の「元」を貰ったものということ
291日本@名無史さん:02/05/05 11:06
家康への改名は義元死後だよ。
292日本@名無史さん:02/05/05 18:14
実は江戸時代は熊本細川家や吉良家のほうが
出自確実で徳川よりか格上だったんじゃないでしょうかね?
足利を源氏正統と見れば
293日本@名無史さん:02/05/05 18:45
だから喜連川を足利の正統(実は源氏の正統)として
5千石ながら諸侯に列したんでしょ。
294日本@名無史さん:02/05/05 21:00
295日本@名無史さん:02/05/06 09:19
>>283
?俺は聞いたことがないぞ。
挑戦部落のことではないぞ。

そもそも日本の歴史上で確固とした身分制度が築かれたのは江戸時代に
なってからのことで、マルクスかぶれの欧米史学コピペ学者達のいう
ように奴隷制度なぞは日本にもともと存在してないし、部落問題を
古代王権やまして近代立憲君主制に結びつけようなどとはむちゃくちゃな
話しである。
296日本@名無史さん:02/05/06 10:36
297日本@名無史さん:02/05/06 10:41
家康が自分の家の系図を整えた経緯については、
近衛前久が子の信尹に宛てた書状からうかがえる
(渡邊世祐「徳川氏の姓氏に就いて」)。
それによると、家康はまず、従五位下・三河守に
叙任される直前の永録九年頃、吉田兼右が見つけ
出した徳川系図をもとに系図を整えている。

 この時兼右が見つけ出した系図は徳川氏(源姓)
のものではあるが、途中で藤原姓に改姓した奇妙な
家のものだったという。そのためか、三河守叙任後の
家康は、公式文書には藤原姓で署名している。
その一方で、同時期に安房の里見義康に宛てた誓書では、
家康は里見氏と同姓であることを主張している
(安房里見氏は、新田義重の子里見義俊の子孫である
といわれていた。もちろん源姓)。

 このように、一方で新田源氏であると主張しながら
その一方で公式文書には藤原姓を使っていたことが、
松平氏の出自について著しい不信感を抱かせる原因
となっており、家康が新田氏の末裔と称したのは
任官に際して家柄を飾るための単なる方便だった
のだろうという現在の定説の根拠となっている。

 近衛前久の書状によれば、家康はさらに、
征夷大将軍に任じられる前にも、吉良家から得た
系図をもとに新田義国以来の系図を整えており、
その際に、藤原姓から、「素志の筋」(本来の希望)
である源姓に戻したという。

 家康が系図を整えた経緯を明らかにした渡邊世祐の
論文が大正時代に出版されてから、家康が自分の家が
新田源氏であると主張していたのは官位を受けるため
の方便であり、松平氏と世良田氏は実際は無関係である
ということがほぼ定説になった。しかし、論文が出た
当時は、家康の祖父の清康が世良田清康と称していた
ことは知られていなかった。のちにその事実が明らか
になったことで、松平氏の世良田氏へのこだわりは、
単に任官に際しての便宜のためという以上の、
根の深いものだったことが明らかになっている。

 そのような目で近衛前久の書状を読み直してみると、
家康が源姓を本来の希望(素志の筋)としていたことや、
藤原姓を使っていたのは入手した徳川系図に律儀に
従っていたためだったことが伺え、定説とは逆に、
家康の主張は一貫して「松平氏=新田源氏の末裔」(
新田氏の末裔の系図を使うためなら藤原姓を使うのもいとわない!)
であったと見ることも可能である。

298日本@名無史さん:02/05/08 13:44
立花氏の立ち話
299日本@名無史さん:02/05/08 18:03
昔から源氏を名乗りたかったのはわかるが、
系図を二度も書き直したら誰も信用しないよなあ。
300日本@名無史さん:02/05/10 12:34
松平氏っていつころまで賀茂朝臣なの?
301日本@名無史さん:02/05/10 13:37
>>300
信重まで
302日本@名無史さん:02/05/10 13:44
でも益親とか親則とかも、賀茂朝臣名乗ってるよね。
303日本@名無史さん:02/05/11 12:59
ジャガーの系譜に似てるな
304日本@名無史さん:02/05/12 17:37
>>297
>同時期に安房の里見義康に宛てた誓書では
永禄九年頃ですか?里見義康の生没年は1573〜1604
1570年頃の里見家当主は義康の伯父里見義弘ですよ
305日本@名無史さん:02/05/14 02:52
○○松平と言うとなんかエラソーだが、実体は年収ウン十石程度の農場経営者
だろ?
306日本@名無史さん:02/05/15 15:22
>>305
>年収ウン十石程度

それじゃ生活できないよ。
307日本@名無史さん:02/05/21 15:34
松平好景と板倉好重の関係について教えてください。
308日本@名無史さん:02/05/21 19:16
いい関係
309中世豊島氏の城・合戦のことなら何でも答えるスレ:02/05/21 20:05
何でも聞いてください。
何でも答えます。
(ちょっとマニアックなスレ・・・)
310日本@名無史さん:02/05/21 20:11
↑ちょっと間違えて書き込んじゃったです。ハイ。
でもホントにこうゆうスレ立てたんでよろしくです。
311日本@名無史さん:02/05/21 20:39
復活あげ
312日本@名無史さん:02/05/22 03:12
>>309
石神井城って豊島氏だっけか?
としまえんのとこの城?
でも豊島郡ってどの辺だったんだ?
313日本@名無史さん:02/05/23 11:53
>307
板倉好重って京都所司代、板倉勝重の祖父だっけ?
314日本@名無史さん:02/05/23 23:26
>>313
315日本@名無史さん:02/05/24 11:24
>>314
父は板倉定重では?
316日本@名無史さん:02/05/24 15:30
317日本@名無史さん:02/05/24 15:31
頼重のとき三河国額田郡小美村に住し、深溝松平氏の忠定に属した。嫡子好重は、吉良義昭が深溝松平氏を攻めたときに戦死している。その子が大名となった勝重である。勝重は天文十四年(1545)小美村に生まれた。幼少のとき出家して、中嶋村永安寺に住した。
 天正九年(1581)、弟定重が高天神山城攻めに討死したことで、還俗して、家督を継いだ。
318日本@名無史さん:02/05/24 15:36
>>307
松平(深溝)好景−伊忠−家忠
   板倉頼重−好重−勝重
偏偉だね。主従関係。
319日本@名無史さん:02/05/24 16:09
深溝松平って、
もともと他姓の家を婿かなんかで、松平にとりこんだ可能性があるらしいけど。
320日本@名無史さん:02/05/24 19:08
>>319
松平から他姓へ婿で入り込んだのは理解できるが、(吉良東条、鵜殿…)
深溝は理解できない。深溝一族はそのまま本家の家来になっているし、
縁戚も竹谷・水野・鵜殿とかだし…。
319の内容意味不明理解できません。
321日本@名無史さん:02/05/25 14:20
>>319
家忠日記読めやゴルァ!!
322日本@名無史さん:02/05/26 00:16
松平一族のやり方は侵略した在地の領主に入り婿して家ごと乗っ取り
松平姓に改宗させるというやり方。
これは初代からの方針で、松平一族がまっとうな武家の出であるなら
このようなやり方はしないと思われる。
323日本@名無史さん:02/05/26 00:55
>>322
伊達氏もよく使う手だね。
大崎、葛西、國分、留守、亘理、石川、岩城・・・。
しかも、留守、亘理、石川、岩城は江戸時代に入って伊達姓名乗らされてるし・・・。
同じじゃん。

松平って宗教か??
324322:02/05/26 00:58
>>323
侵略した×
侵略しようとする○ でした。スマソ。
改宗×
改姓○ でした。スマソ。
325日本@名無史さん:02/05/26 01:02
>>322
源義家以来源氏が行ってるやり口。
そうやって鎌倉を手に入れたのさ。
326日本@名無史さん:02/05/26 01:02
>>325
松平氏=新田氏=源氏
327日本@名無史さん:02/05/26 01:04
>>326
そゆこと。
328日本@名無史さん:02/05/26 01:17
毛利も同じと見ていい?
329日本@名無史さん:02/05/26 01:48
三葉葵を改姓後もずっと使っていたのは何故?
三葉葵って源氏の家紋じゃないよね。
330日本@名無史さん:02/05/26 01:59
賀茂
331宮城谷ファン:02/05/26 02:06
松平 <− 末平 <− 平家の末裔だったりして・・
332日本@名無史さん:02/05/26 06:44
>>329
葵紋を使用する本多などの譜代層が
賀茂社信仰が深く、
それらを懐柔するため。
そもそも源氏に家紋なんてのはない。
だいたい白旗でしろい幔幕を使ってた。
それと区別するために新田氏が白黒を使用。
他の一族が引両で区別。
以後丸に○引両が家紋の開始。
新田氏も幕府に遠慮して丸に一引の大中黒を使用。
詳しくは播磨屋でも逝ってくれ!
333日本@名無史さん:02/05/26 06:48
>>328
毛利も武田も織田も宇都宮も使う常套手段。
でも、松平は征服してからというのが味噌だね。
西三河なんて明治用水が出来るまでは
水田耕作が可能なところは少なかったから、
庶子家の分出するようなところは征服してからでないと捻出できない。
334日本@名無史さん:02/05/28 23:10
335日本@名無史さん:02/05/31 16:18
松平(長沢)政忠
336日本@名無史さん:02/05/31 18:34
>>331
64 Reply 活字中毒の仲間に! ふい Mail 2001/06/01 00:40

こんばんは!
宮城谷昌光の本にはまって抜け出せないでいます。
宮城谷ファンの方、お話しませんか?
337日本@名無史さん:02/05/31 18:36
338日本@名無史さん:02/05/31 18:37
中本さんようこそ♪ 投稿者:管理人ことKORIN  投稿日: 2月24日(日)07時57分13秒

中本さん、ようこそ!
私のHPに来ていただきありがとうございます。わーい!宮城谷ファン仲間発見!!
宮城谷さん、いいですよね。重耳以来すっかりはまっております。
本当はもっと本の紹介をしていきたいのですが…なかなか時間がないのと仕事でもPC使っているので
家でもやると目が痛くなるのであんかなか更新出来ないのが悩みです。
ボチボチ更新していくつもりなのでまたあそびに来て下さい。
社交ダンスもやられるのですか…??すごいです。
息子さん上海に一年いたなんて…うらやましすぎます。いいなぁ。
勿論我が家はコープ鳥取牛ですよ!!
339日本@名無史さん:02/05/31 18:37
Re: 青雲はるかに? 投稿者:りぼん 2001/06/16(Sat) 13:17:13
さすが〜!宮城谷ファンの鏡〜♪
340日本@名無史さん:02/05/31 18:39
Re: 青雲はるかに? 投稿者:りぼん 2001/06/16(Sat) 13:17:13
さすが〜!宮城谷ファンの鏡〜♪
341日本@名無史さん:02/05/31 18:40
Re: はじめまして 投稿者:渾沌 2001/04/18(Wed) 23:07:50 [Home]
りぼんさま、宣伝ありがとうございますm(._.)m ペコッ
というわけで、なっちゃん、はじめまして〜。(ちゃんがついているので、さんはつけません。)
「天空の舟」管理人の渾沌です。
宮城谷ファンが集まる広場へどうかいらしてくださいな。
それでは。
342日本@名無史さん:02/05/31 18:41
8月1日(水)

職場の近所に古本屋さんがありまして、以前は探しても探しても無かった宮城谷昌光氏の本が時々置かれるようになりました。たぶん同じ人が読み終わった本を売っているのでしょう、宮城谷ファンの身にはありがたい話です。
343日本@名無史さん:02/06/01 01:44
ここはなんのスレだ??
344日本@名無史さん:02/06/01 02:01
   松平家 三木系(ミツギ) 
◎重忠家  ?    後継なく断絶
◎忠利家 知行五百石 目白の養国寺 丸に蔦、鬼蔦
◎忠政家 蔵米二百俵 目白の養国寺 丸に鬼蔦、九曜、五三桐

   松平家 福釜系(フクガマ)(フカマ)
◎康親家 知行千百石 後継なく断絶 牛込の光照寺 丸に向梅
◎康行家 月俸二十口 後継なく断絶 牛込の光照寺
◎康済家 蔵米三百俵 高田の宝祥寺 丸に向梅
◎康春家 蔵米三百俵 高田の宝祥寺 丸に向梅
◎康末家 知行三百石 牛込の光照寺 丸に向梅、略葵
◎康勝家 知行五百石 牛込の光照寺 丸に向梅、福文字

  松平家 桜井系(サクライ)
◎家広家 領地四万石 維新で桜井姓に改姓 深川の霊厳寺 九曜、桜、蛇の目
◎忠利家 知行千七百石 後継なく断絶
◎忠直家 知行二千石 後継なく断絶 深川の霊厳寺 九曜、桜、五七桐
◎忠治家 知行一千石 深川の霊厳寺 引合九曜、単裏桜
◎忠久家 知行一千石 深川の霊厳寺 九曜、桜
◎忠輝家 蔵米三百俵 深川の霊厳寺 引合九曜、裏桜 
345日本@名無史さん:02/06/01 02:03
   松平家 藤井系(フジイ)
◎信一家 領地三万石 二本榎の松光寺 埋酢奬草、五三桐、桜
◎信重家 知行五千石 芝の松光寺 黒餅の内埋酸、五三桐
◎忠晴家 領地五万八千石 西久保の天徳寺 五三桐、撫子、鳩酢奬草
◎忠容家 知行五千石 西久保の天徳寺 五三桐、鳩酢奬草
◎忠秋家   ?   蟄居、改易

   松平家 大給系(オオギュウ)(オギウ)
◎家乗家 領地七万石 芝西久保の天徳寺 一葉葵、蔦
◎乗溥家 蔵米二千俵 後継なく断絶
◎乗興家 知行五千石 品川東海寺 黒餅の内に蔦、巴沢潟
◎乗住家 知行三千石 後継なく断絶
◎好乗家 知行三千石 後継なく断絶
◎乗重家 知行二千八百石 後継なく断絶
◎乗政家 領地三万石 上野の春性院 細輪に蔦
◎致乗家 知行二千石 目黒の清岸寺 蕨手の内蔦
◎乗員家 蔵米一千俵 後継なく断絶
◎知乗家 知行千二百石 浅草の東光院 太い輪に蔦
◎乗英家 知行六百石 浅草の東光院 丸に蔦
◎乗武家 知行千三百石 浅草の東光院 丸に蔦
◎乗実家 蔵米二百六十俵 浅草の東光院 丸に蔦
◎真次家 領地一万六千石 維新で大給姓に改姓 赤坂の浄土寺 蔦、万文字
◎乗真家 知行三千石 赤坂の浄土寺 蔦
◎近正家 領地一万石 維新で大給姓に改姓 小石川の傳通院 丸に釘抜、九曜
◎近苗家 蔵米五百俵 橋場の妙光寺 丸に釘抜、九曜
◎近鎮家 知行二千五百石 上野の津梁院 丸に釘抜、九曜
◎近良家 知行千五百石 深川の法禅寺 丸に釘抜、九曜
◎一重家 蔵米三百俵 小石川の寿経寺 丸に釘抜、九曜
◎重勝家 蔵米三百俵 小石川の寿経寺 丸に釘抜、九曜
◎近任家 蔵米五百俵 下谷の蓮城寺 丸に釘抜、九曜
◎正吉家 知行五百石 牛込の大信寺 丸に釘抜
◎正生家 蔵米三百俵 牛込の大信寺 丸に釘抜
◎正副家 蔵米三百俵 早稲田の建勝寺 丸に釘抜
◎近次家  ?    改易

   松平家 宮石系(ミヤイシ)
◎康次家 知行二千石 高田の宝祥寺 丸に筋抜蔦
◎正茂家 知行三百石 赤坂の盛徳寺 丸に蔦
◎正友家 蔵米二百五十俵 赤坂の盛徳寺 丸に蔦、九曜
◎利次家 知行五百石 牛込の松源寺 丸に蔦、九曜
◎乗良家 蔵米三百俵 牛込の松源寺 丸に蔦、九曜
◎乗次家 蔵米二百五十俵 後継なく断絶 大久保の法禅寺 蔦
◎乗政家 蔵米二百俵 牛込の松源寺 丸に蔦、七曜
◎直次家 知行千四百石 牛込の松源寺 丸に蔦、九曜
◎次倫家 蔵米六百五十俵 高田の宝祥寺 丸に蔦、九曜
346日本@名無史さん:02/06/01 02:04
   松平家 滝脇系(タキワキ)
◎乗清家 知行六百石 市ケ谷の長龍寺 丸に蔦、沢潟
◎乗久家 蔵米三百俵 市ケ谷の長龍寺 丸に蔦、沢潟
◎政次家 知行千五百石 浅草の西福寺 丸に一文字、五三桐、蔦
◎某 家 知行四百石 後継なく断絶
◎正勝家 領地一万石 維新で滝脇姓に改姓 丸に桔梗、九曜、蔦葉 

   松平家 竹谷系(タケノヤ)
◎家清家 知行四千五百石 三河の天桂院 丸の内一引、五枚根笹
◎清吉家 知行五百石 後継なく断絶
◎清定家 知行千二百石 麻布の湖雲寺 丸の内一引、五枚根笹
◎誠成家 蔵米三百俵 蟄居、改易
◎清武家 蔵米二百五十俵 麻布の湖雲寺 丸の内一引、五七桐
◎信房家 蔵米三百五十俵 甲府の大泉寺 丸の内一引、根笹
◎清春家 蔵米三百俵 後継なく断絶 麻布の湖雲寺 丸の内一引

   松平家 形原系(カタノハラ)
◎家信家 領地五万石 三河の光忠寺 丸に利文字、蔦葉、八丁字
◎庸倫家 蔵米二千俵 芝の済海寺 蔦、丸に八丁字
◎英信家 蔵米二千俵 後継なく断絶 下谷の英信寺
◎氏信家 知行四千石 牛込の法正寺 蔦葉、丸に八丁字
◎信錦家 知行二千石 牛込の法正寺 三階蔦、丸に八丁字
◎道庸家 蔵米三百俵 後継なく断絶 芝の済海寺
◎信忠家 知行二千石 後継なく断絶
◎信平家 知行八百石 後継なく断絶 麻布の湖雲寺 丸に蔦、笹龍胆 (石川姓)
◎正成家 蔵米二百五十俵 小石川の無量院 丸に蔦
◎親春家 知行五百石 小石川の無量院 丸に割蔦
347日本@名無史さん:02/06/01 02:04
   松平家 大草系(オオクサ)
◎康安家 知行六千石 後継なく断絶 丸に剣菱
◎正村家 知行五百石 後継なく断絶
◎重成家 知行一千石 後継なく断絶

   松平家 五井系(ゴイ)(ゴユ)
◎伊昌家 知行六千石 芝の大円寺 丸に一葉の葡萄、丸に鳩酢奬草
◎康完家 蔵米三百俵 後継なく断絶
◎忠尚家 知行千五百石 芝の大円寺 丸に一葉の葡萄、丸に鳩酢奬草
◎忠勝家 蔵米五百五十俵 浅草の法泉寺 丸に一葉の葡萄、丸に鳩酢奬草

   松平家 深溝系(フコウズ)(フカミゾ)
◎家忠家 領地六万五千石 深溝の本光寺 重扇、五葉の実橘
◎忠貞家 知行千五百石 牛込の万昌院 丸に七本骨開扇、根笹、橘
◎高久家 蔵米二百五十俵 後継なく断絶
◎忠治家 蔵米三百俵 四谷の祥山寺 丸に五本骨開扇、根笹
◎貞友家 蔵米三百俵 後継なく断絶
◎忠一家 知行千二百石 青山の玉窓寺 丸に五本骨開扇、三本骨開扇
◎忠冬家 知行四千五百石 赤坂の種徳寺 五本骨開扇、菱扇
◎忠頼家 知行五百石 市ケ谷の松雲寺 丸に五本骨開扇、菱扇
◎忠政家 知行三千石 四谷の西迎寺 七本骨開扇、丸に三矢、鞠挟
◎忠勝家 蔵米百三十俵 牛込の願正寺 五本骨雁木扇、丸に三矢
◎忠重家 知行三百石 後継なく断絶

   松平家 能見系(ノミ)
◎昌利家 知行九百三十一石 鎌倉の宝心寺 丸に花菱、丸に鳩酢奬草、飯笹、玉分銅
◎甫昌家 知行二百石 絶家
◎昌忠家 知行五百石 四谷の法蔵寺 花菱、丸に鳩酢奬草、飯笹、玉分銅、五七桐
◎照昌家 蔵米三百俵 麻布の大泉寺 花菱、丸に鳩酢奬草、玉分銅、五七桐
◎昌舎家 蔵米四百俵 四谷の法蔵寺 丸に鳩酢奬草、五葉の雪笹
◎昌信家 知行千六百五十石 四谷の西念寺 丸に花菱、丸に鳩酢奬草、玉分銅、五七桐
◎昌定家 蔵米二百俵 四谷の西念寺 玉分銅、五七桐
◎重勝家 領地三万二千石 不定 雪笹、分銅、七曜
◎重長家 知行三千石 浅草の海禅寺 雪笹、七曜
◎直政家 知行二千石 改易
◎正方家 知行千百石 浅草の海禅寺 丸に雪笹、七曜
◎重則家 領地一万五百石 後継なく断絶 麹町の心法寺 丸に雪笹、分銅
◎勝隆家 知行五百石 浅草の龍宝寺 丸に雪笹、分銅
◎勝制家 知行五百石 麻布の正信寺 丸に雪笹、分銅

   松平家 松平郷系(マツダイラゴウ)
◎尚栄家 知行四百四十石 松平郷の生塚山 藤輪の内に葵、五三桐
◎信貞家 知行四百石 牛込の光照寺 藤の丸に葵、五三桐

   松平家 長沢系(ナガサワ)
◎康直家 領地一万石 不定 花丁子
◎清直家 知行五千石 不定 花丁子
◎勝直家 知行千八百石 後継なく断絶
◎親明家 知行七百石 牛込の大信寺 花丁子、丸に中黒、五三桐
◎親正家 知行五百石 牛込の来迎寺 丸に九枚笹、三扇、五七桐
◎正周家 蔵米四百俵 小石川の無量院 丸に九枚笹、三扇、鶴菱、五七桐
◎信重家 知行千二百石 四谷の西迎寺 五七桐、篠丸、鶴丸
◎信吉家 蔵米三百俵 改易
348日本@名無史さん:02/06/01 18:55
349日本@名無史さん:02/06/01 23:37

徳川家康は豊臣家から豊臣姓を貰っていたので、豊臣氏でもあるんだよな?

350日本@名無史さん:02/06/02 01:51
>>349
羽柴ぢゃなかったっけ??
徳川knife豊臣家康
江戸中納言豊臣秀忠
だったけか??
豊臣は氏じゃなくて姓なんだよね?
351日本@名無史さん:02/06/02 02:00
初代 與副(ともすけ) 與嗣(ともつぐ)

名前:彦太郎・太郎兵衛・太郎又兵衛尉
生年:
父親:信光公の四男
母親:某氏の女
相続:
叙任:右兵衛尉 佐渡守   
致仕:
死亡:永正年中十二月二十一日(永正十六年とも)
葬地:形原の光忠寺
法名:玉峯院殿信譽雙元光忠大居士
號 :
領地:三河国額田郡中山領で七百貫文
   文明十二年岩津より三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職:
功名・逸話:
   形原の光忠寺は與副が開基する。
   一説に弟紀伊守光則(重)の建立で、法林山光忠寺と称す。
   佐渡守與副は信光公の四男(三男)なり。三河国宝飯郡形原に在せしにより、形原の松平とす。
   形原城は稲生城(粧城)(塩城)とも呼ばれ源三河守教頼、下司次郎師光により築かれた。
   家紋は「丸に三葉のむかい葵」「蔦葉」
 
352日本@名無史さん:02/06/02 02:01
 二代 貞副(さだすけ)

名前:兵衛太郎
生年:
父親:
母親:某氏の女
相続:
叙任:兵衛大夫
致仕:
死亡:享禄四年四月二十六日
葬地:形原の光忠寺
法名:信月院殿光誉順阿喜白大居士
號 :喜白
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職:
功名・逸話:
   母は某氏、大永二年三月十三日卒、法名は萃屋栄春。追福の為円通寺を建てる。

 
353日本@名無史さん:02/06/02 02:02
三代 親忠(ちかただ)

名前:弥太郎・親貞
生年:
父親:貞副
母親:某氏の女
相続:永禄五年十二月(1562)
叙任:佐渡守
致仕:
死亡:天文十年十月三日(十三日)(1541)
葬地:形原の光忠寺
法名:到運院殿峯誉西岸浄光大居士
號 :
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職:
功名・逸話:
   清康公に従、軍功を挙げる。(以後詳細は形原記に記されている)
   天文十年七月 (1541)三河へ帰り、茂呂木城へ移る。此は今川義元のお陰なり。
   天文十年八月二十日 (1541)吉良東条左衛門尉義照を攻撃。この時も二心無く闘う。
354日本@名無史さん:02/06/02 02:04
四代 家廣(いえひろ)

名前:佐太郎・又七郎・右近
生年:
父親:親忠の長男
母親:某氏の女
相続:永禄五年十二月(1562)
叙任:左近将監
   永禄五年十二月(1562)薩摩守
   佐渡守
室 :水野右衛門大夫忠政の女
致仕:
死亡:元龜二年二月二十九日(二十二日)(1571)
葬地:形原の光忠寺
法名:元忠院殿仁誉孝呈道伯大居士
號 :
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職:
功名・逸話:
   家康、今川義元の質と成る。家廣も末男左近某を質とする。家廣質を捨て忠義をする。
   永禄六年三月家廣等の質を吉田城より出して舟に乗せ、形原の前の井尾濱に於て皆切り殺し、串   刺しにする。左近時に十四歳。
   天文四年十二月 (1535)十三歳、父親忠とともに森山に行く。
   天文十一年 (1542)安祥城で砦を築き、岡崎方と闘う。
   天文十一年八月二日 (1542)参州小豆坂で今川義元、織田信秀と挑戦す。広忠公の援を賜う。
   家忠の母於牧は家康公の母於大(傳通院殿)の妹(姉)である。よって家忠と家康は従弟である。
   天文十八年三月六日 (1549)広忠公物故する。家康公はまだ八歳。今川義元の質となる。
   譜代の中には今川へ直参した者も多かったが、家広は形原城で家康公の成人を待っていた。
   弘治元年、家康公が岡崎城へ帰城する。お迎えに駿州に赴く。
   当時の序列は鵜殿康定、西郷定貞、家広である。
   元龜二年家康公、浜松城へ来た後は他姓を座上につけず。故に松平家広、松平伊忠を上座に定   める。

 
355日本@名無史さん:02/06/02 02:05
五代 家忠(いえただ)

名前:佐太郎・又七郎
生年:天文十七年、(十六年) (1547) 形原で
父親:家廣
母親:水野右衞門大夫忠政の女
相続:
叙任:紀伊守
室 :酒井雅楽頭正親の女
致仕:寛永十二年二月(1635)
死亡:天正十年十月十六日(1582) 三十六歳
葬地:形原の光忠寺
法名:照岳院殿清譽月桂浄雲大居士
號 :露雪
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職:永禄十一年(1568)宇津山砦在番
功名・逸話:
   永禄七年(1564)家忠(16歳)、三河国吉田城の城主小原肥前守資良を攻めた時、了念寺口砦より    攻める。
   永禄十二年(21歳)掛川城を圍む。氏眞と講和が成立、命を賭して氏眞を北条氏の許に送った。
   帰った後は遠江馬伏塚の要害を守る。元龜三年十月(1572)、武田信玄が上洛せんとして遠江に来   る。
   二股城に援兵として赴いたがすでに堪えられず、和を請い開城していたので家忠も質を交換して帰   った。
   元龜三年十二月二十二日(1572)、三方原の合戦には家康に従って参戦、苦戦した。
   天正三年五月(1575)長篠の役には酒井忠次の元で、松平康忠とともに先駆けし鳶巣山の要害を破   る。
   その後、武田氏の屬城遠江国小山城を取り、同国小笠山に砦を構えてこれを守る。
   天正十年七月(1582)(本能寺の変)、伊賀越、5ヵ国領有。家康が甲斐国(甲州若神子の陣)に入っ    た時に討ち入る。
   長男家信とともに酒井忠次の下に属した。
   家忠の母於牧は家康公の母於大(傳通院殿)の妹(姉)である。よって家忠と家康は従弟である。
356日本@名無史さん:02/06/02 02:08
六代 家信(いえのぶ)

名前:紀太郎 又七郎 家副
生年:永禄八年(1565) 形原で
父親:家忠の次男(長男)
母親:酒井雅楽頭正親の女
相続:
叙任:文禄五年正月 (1596)従五位下紀伊守
    寛永十一年七月十六日 (1634)従四位下紀伊守
室 :松平上野介康忠の女
   太田備中守輝資(資歓)
致仕:寛永十二年二月(1635)
亡年:寛永十五年正月十四日(1638) 江戸で 七十五歳
葬地:佐倉の光忠寺
法名:上誉露雪常立院大信
號 :露雪
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
   天正十八年八月(1590)上総国五井で五千石
   元和四年九月(1618) 安房国長狹郡で一萬石
   元和五年九月(1619)摂津国島上郡高槻で二萬石
   寛永十二年二月二十九日(1635)下総国印旛郡佐倉で四萬石
官職:元和四年九月(1618)御留守居役
功名・逸話:
   天正十年 (1582)父と共に信濃国諏訪、高島城の諏訪頼忠を攻めて功有り。御感状を下さる。
   天正十二年三月小牧の合戦で家老の松平但馬貞治に助けられ野呂孫一郎を倒す。時に十六歳。
   天正十八年 (1590)小田原攻めの時は、駿河国富士川、そうが原で戦う。船橋の事を指揮。
   天正十九年 (1591)陸国九戸の一揆では岩手澤で城壘を造り、一迫、二迫、三迫の城を壊して鎮    圧。
   文禄元年 (1592)大坂の陣の時は久野宗成とともに駿府で留守居で城を守る。
   元和元年 (1615)の大坂夏の陣には病の為次男康信を陣代にする。
   家紋「丸に利の字」は小牧の合戦で着けた旗差物の「利即是」から使った。
   朝鮮の役の際は、家康の名護屋入りにあたり、江戸浅草に於て軍船二雙の製造に尽力した。
   慶長五年(1600)の乱の時には江戸城西丸の留守居を勤めたが九鬼嘉隆が焼討ちするとの報で尾   張師崎城に赴いた。
   関ケ原の一戦で徳川氏が勝ったので、家康の後を追い大坂に至った。
   元和五年九月求められて先年尾州犬山にて野呂孫一郎を突き伏せし鑓を献ず。
   元和六年六月和子内親王入内、諸大名と共に行列に参列する。
357日本@名無史さん:02/06/02 02:08
七代 康信(やすのぶ)

名前:又七郎
生年:慶長五年二月九日(1600)、上総国五井で
父親:家信の次男(長男)
母親:太田備中守輝資の女(紫雲院)
相続:寛永十五年五月十六日(1640)
叙任:慶長十七年 (1612)従五位下 若狭守
    寛文七年十二月二十八日 (1667)従四位下紀伊守
室 :水野出雲守重仲の女
    酒井讃岐守忠勝の女
致仕:寛文九年九月二十九日(1669)
室 :水野出雲守重仲の女 
亡年:天和二年六月十三日(1682) 八十三歳
葬地:笹山の光忠寺
法名:大安院徳誉別峯
號 :別峯
領地:元和五年 (1619)所領のうち分知された 五千石
   寛永十五年五月十六日(1638)佐倉城で弟二人に各二千石ずつ分与 三萬六千石
   寛永十七年九月二十八日(1640)摂津国高槻へ移封、摂津国高槻で五萬石
   慶安二年七月十四日(1649)丹波国笹山へ移封、丹波国多紀郡笹山で五萬石
官職:慶長十七年(1612)御茶番役
   弟の重信は五千石で駿府城の城代家老
功名・逸話:
   慶長十九年(1614)大坂冬の陣では井上主計頭正就の元で働く。
   元和元年(1612)大坂夏の陣では父病の為陣代となり、紀伊頼宣卿の元で働く。
   寛永十五年十月 (1638) 江戸市ケ谷御掘の事で助ける。
   萬治三年七月 (1660)大阪城落雷の為、大坂玉造より京橋口まで石壘、楼を補修する。
   寛文元年正月 (1661)禁裏炎上、直ちに皇居を警備する。
   寛文六年五日 (1666) 京極丹後高国の所領没収の為、城請取りの役を勤める。
   寛文九年十月二十三日 (1669)得物備前兼光の刀および葉茶壷を奉る。
   康信は在府20年間に藩政の改革に力を入れ、旧土豪層の勢力を一掃し、新検地を実施した。
358日本@名無史さん:02/06/02 23:03
南朝忠臣新田系源氏を名乗った松平氏はじつはかなりの尊皇家で、
不敬な足利系を三河から一刻もはやく駆逐したいという思いで新田系源氏を
詐称したのです。
359日本@名無史さん:02/06/03 20:19
>>358
水戸家が勤皇の家柄なのは、
副将軍として将軍家を監察するために
皇室を研究するようにとの東照大権現の遺言による。
360日本@名無史さん:02/06/04 02:08
361日本@名無史さん :02/06/04 22:07
>>329
>三葉葵を改姓後もずっと使っていたのは何故?
>三葉葵って源氏の家紋じゃないよね。

ん〜〜〜
三葉葵を改姓後も??
三葉葵は松平から徳川に改姓した時、家紋も一緒に変えて三葉葵にしたんだけど・・・
徳川以前は三葉葵は使用してないの知りませんでした?
362日本@名無史さん:02/06/05 08:34
>>361
松平氏の家紋はウプきぼん
363日本@名無史さん:02/06/05 10:11
三葉葵以前は本多立ち葵紋として知られている家紋を使用していたみたいだ

徳川の家紋ではっきりしているのは、徳川に復姓した時から三葉葵を使用し始めたって事。
364日本@名無史さん:02/06/05 16:04
.ΦΦΦ \               /■ヽ           /  |/|/|/|/|/
        \                (=゚ω゚)ノ ぃょぅ!     /.|文|./|/|/|/    ワッショイ!
  ΦΦΦΦΦ\  ワショーイ! 〜(ヽ x )      シュコー / | ̄| ./|/|/     /■\
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    ワッショイ!!   \  )~ ̄~~)  /■\ / ̄\|| /  /\| /       /〔  祭 〕〕つ
              \( ´Д`∩∩´∀`∩∩⊂⊃ )/. | |ヽ/l/ ワッチョイ!   / 二二 ヽ
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  ∩ ´∀`)∩∩ヽ´∀`)∩\ | l i、∧∧∧∧∧.  /|   |/   (,,・д・)     (_)    C⌒ヽ
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 ノ ノ  ノ   ノ ノ  ノ  .ノ ノ \<      っ >       / ̄ ̄_ヽ        ⊂〔〔  祭 〕
 し´(_)    し´(_)   し´(__  <  予   し >       /__ノ(__)          ┌|___|
 ――――――――――――――<      ょ >―――――――――――――――――――――
  // /  (´⌒(´ワッショイワッショイ!) <  感   い >     .        /,/-_-_-_-_-_\   ) )
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  /     (´⌒(´(=゚ω゚)っ ( `)`)  ∨∨∨∨∨           (。'。、。@,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。@  ) ))
  (´⌒(´⌒  (´⌒(|〕っ /⌒`) ⌒)/           \.        .∩ヽヽ∩ヽXXXXXXXX/ .∩
   遅れるな!!  ( |ι  (⌒)`)⌒`)/             \       i||i ∩i||i:||::::¥_][_¥::::||. i||i   ワショーイ
    /■\  ワショーイ.――! ⌒)/               \ ワショーイ   †人=†††¶┌┐¶††††
    ( ´∀` )つ  ド  /■\⌒/お祭りマダー?  マダミタイヨ \ ■\[/■ヽ / ■\/■\]./■\ ■\
   ( |〕つ/] /    ォ と( ´Å` ) / ■\   / ̄\    /■\二( ´ー`<`∀´ ( ´∀`)□・ω・ )Д´ )/■ヽ
   ( |  (⌒)`)   ォ.ヽ|〕 ⊂〔| )/*´ _・`)△( ´■`)    (´(∞)`\|祭)~| 祭) ̄||祭) ̄|つ ⊂|_((|祭)~ノ (*゚ー゚)っ
 (´ ´し'⌒^ミ `)`)ォ (⌒)  //   x つ  ⊃目⊂) ∬ ⊂ x ⊂ ) \ _ノ 〓二ノ〓二ノ) ( / (L〓|〓二|〓=〓ノ
            彡  ̄(__//人_つ_つ  (_(_) 目 △▲_(_つ  \)_)し(_)し(_)(_(_,(_)(_)ι' J
365日本@名無史さん:02/06/06 01:24
>359

>水戸家が勤皇の家柄なのは、
>副将軍として将軍家を監察するために
>皇室を研究するようにとの東照大権現の遺言による。

その話、初めて聞いた。遺言と言うが水戸家は家康死後の
成立であり、義直の臨終に頼宣は尾張家が副将軍と
言っていたので当時は尾張家が副将軍と言う認識だったのでは?
水戸の勤皇は光圀が義直の影響を受けたからでは?




366389,391:02/06/06 05:17
>>365
水戸家は家康生前に既に成立済。(慶長10(1605)年 常陸下妻新封)
因みに紀州家の成立は慶長8(1603)年常陸水戸新封
「副将軍」は江戸定府制によるもので、
「御三家」とは江戸将軍家、尾張家、紀州家の3家を指すもの。
(江戸(元服時)・駿河:大納言、尾張・紀州:中納言、水戸・甲府・館林:宰相、田安:右衛門督、一橋:刑部卿、清水:宮内卿)

何故光圀が義直の影響を受けるのか??

367日本@名無史さん:02/06/08 10:14
初代  親氏 親氏は武芸に秀でて慈悲厚く、領民の信望もあり、領内も栄えた。
隣接する林添村の薮田源吾を討ち、額田郡の中山7名を下し、勢力を伸す。郷中の小山に松平郷敷城を築き防備を固めた。神仏の信仰心も厚く、多くの社寺の創建もする。高月院・安全寺・妙昌寺(改建)・六所神社等である。
2代  泰親 兄、親氏に劣らぬ武勇の士。三河平野進出の足掛りとして、
岩津城を攻略する。岩津に若一神社を創建する。
3代  信光 岩津城主となり、松平氏躍進の基礎作りをする。
卓越した才能と無類の長寿、驚嘆すべき子福者で48名の子女あり。
大給城、保久城を手中にし、松平郷への交通の要路を確保し、
宗家松平郷松平家を安泰にする。続いて安祥城を攻略し、
岡崎城(明大寺城)も入手する。子7人を入手した要地に分立、
配置し領土を守る。神仏への信仰も深く、大松寺・信光明寺・妙心寺等の寺院
等多く創建する。
4代  親忠 初代安祥城主。井田野合戦に勝利。伊賀八幡宮創建、
大樹寺建立、第二次井田野合戦勝利。足助の鈴木重勝の女を妻とし鈴木一族と
姻戚になり、岡崎の北も固め、大給、滝脇に分立家を出す。
5代  長親 2代安祥城主。父親忠と共に井田野合戦で活躍。
大樹寺連判状にて松平一族の結束を図る。永正の乱にて岩津城を援護し、
今川勢を退かせる。分立家四家を出し、安祥城の守りとする。
6代  信忠 3代安祥城主。弟の桜井松平信定と宗家相続を争い、
分立一家を出す。
7代  清康 4代安祥城主。英才で武勇と慈悲に富み、3代信光と並び称さ
れる。山中城を攻め岡崎の西郷信貞を下し、岡崎城(明大寺城)に移る。
足助城を攻略。吉田城の牧野氏、田原城の戸田氏を攻略し、配下とする。
尾張の岩崎城・品野城攻略。伊保城・宇利城攻略。大樹寺に多宝塔建立。
竜海院是之字寺を建立する。尾張守山城に出陣の折、家臣阿部弥七郎に
誅殺され、25歳にて惜しまれて死す。生存なれは天下も手中にとも云う。
8代  広忠 岡崎城主。桜井松平信定に追われ岡崎城を出るが、
今川家の援助を受け戻る。安祥城を織田信秀に攻略される。
刈谷水野氏の女、於大を妻として家康が生れる。第一次小豆坂合戦は
織田方優位となる。水野氏が織田方になり於大を離縁、於大は刈谷に戻る。
三木松平の信孝と合戦、勝利する。家康を今川家への人質として出すが
田原の戸田氏に奪われ、家康は織田氏の下に行く。第二次小豆坂合戦は
今川方勝利。広忠、岡崎城中にて岩松八弥に刺殺され、24歳にて没。
これより松平家並びに松平家家臣団の苦難の時代に入る。
368日本@名無史さん:02/06/08 11:07
家康は名門好き。
足利一門は、幕府では高家として優遇されたしな。
喜連川とか、今川とか、吉良とか、畠山とか。
自分をいじめた今川氏真も拾ってきて、優遇してるしな。
369 :02/06/08 12:02
>368
最も足利将軍家に近い平嶋家は冷遇されたが・・・。
370日本@名無史さん:02/06/08 14:59
平島公方は名門というよりドキュソだと思うが
371日本@名無史さん:02/06/08 16:08
>>368
好きとか嫌いとかではなく、
信長・秀吉の反動だと思われ。
戦国以来、皇室や有職故実が廃れて「日本人」アイデンティティーが失われていたものを、
皇室を立ち直らせ(程ほどに)、将軍家自ら有職故実を実践することによって、
日本的秩序を回復した。
372日本@名無史さん:02/06/08 17:27
>>366
っていうか、副将軍などというわけのわからん役職を持ち出すなよ。
373日本@名無史さん:02/06/08 17:33
>>372
副将軍は「役職」ではないと思われ…。
374日本@名無史さん:02/06/08 20:02

        ┏┓          ┏━┓            ┏┓                          ┏━━━━┓
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375日本@名無史さん:02/06/08 21:51
閑話休題。
親氏が何者であれ、賀茂姓だか在原姓の松平氏に婿入りしたなら、婿入り先の姓でいいんでない?
376日本@名無史さん:02/06/08 21:55
「子連れ狼」によると、本当は大変いやしい身分のご出自とか。。。。
377日本@名無史さん:02/06/08 22:16
>>376
それはない。
後北条氏も伊勢の素浪人とか言われてたが、
最近の研究では室町幕府で重職を務めた伊勢氏だとほぼ断定されてる。
斎藤道三も父の代から美濃で出世していたことがわかってきたし。
現代の日本人には想像もつかないほど昔の人は氏素性にこだわった。
没落した貴種を婿に迎えることはあっても
底辺身分の者をかつぐことなんかあり得ないよ。
378日本@名無史さん:02/06/08 22:33
>>377
そうか、だから新田氏なのか!!

そういえば、畠山氏も源氏になってるし。
379日本@名無史さん:02/06/08 22:36
没落してあても無く放浪している者なんて底辺身分以下だよ。
380日本@名無史さん:02/06/11 11:41
次郎三郎という呼称は、信光の四男(または三男)という親忠が最初らしい。
名前からすると、親氏(泰親)の次男の信光の三男だから次郎三郎かな?
381日本@名無史さん:02/06/11 13:41
親忠が岩津家が京都へ出仕してる間に宗家を襲う。
382日本@名無史さん:02/06/13 01:03
●松平親氏――+―●信広―――――――+―●長勝――――――●勝茂――――+
 徳阿弥   |  竹若丸 三郎   |  太郎左衛門    太郎左衛門 |
 太郎左衛門尉|  太郎左衛門尉   |  越前守      越前守   |
       |  三河国加茂郡松平郷|  松平親忠に仕う  親忠・長親・|
       |  に住す      +―女子        清康に仕う |
       +―○信光………徳川家康|                 |
          和泉守      +―女子              |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―信茂          +―勝吉
|  弥十郎        |  信勝
|  親忠・長親・清康に仕う|  伝十郎
+―●信吉―――――――――+―●親長―――――――+―重長
   太郎左衛門 隼人佑  |  太郎左衛門 隼人佐|  又十郎
   清康・広忠に仕う   |  広忠・家康に仕う +―●由重――――――+
              |  妻松平安房守某女 |  太郎左衛門   |
              +―重正        |  隼人佐     |
              |  民部       +―某        |
              |  子孫幕臣四百石  |          |
              +―親信        +―某        |
              |  宗十郎 和田維政臣|          |
              +―某         +―某        |
              |           |          |
              +―某         +―女子       |
              |           |          |
              +―某         +―女子       |
              |                      |
              +―女子                   |
              |                      |
              +―女子                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
383日本@名無史さん:02/06/13 01:03

+―●尚栄―――――――+=信正         +―●信和―――――――+
|  藤之助 太郎左衛門|  初重実 太郎八 主膳|  清次郎 次郎太郎 |
|  松平郷二百十石  |  実鈴木重次五男   |  寄合に列す    |
|  のち四百四十石余 |  書院番士 二百石  |  妻鈴木重氏女   |
|  妻成瀬重正養女  |  父に先立ちて死す  |           |
+―信晴        +―●重和――――――――+―女子        |
|  重三郎      |  太郎左衛門     |  松平信久妻    |
+―某         |  妻本多隠岐守家臣  +―女子        |
|           |   本多光久女    |  柴村安氏妻    |
+―某         |  後妻本多光政女   +―女子        |
|           +―女子            奥村謙徳院玄建妻 |
+―女子        |  尾張家臣                  |
            |  鈴木仁左衛門某妻              |
            +―女子                     |
            |  本多隠岐守家臣               |
            |  稲生三郎兵衛某妻              |
            +―女子                     |
               鈴木氏妻                  |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―和通       +―●尚澄――――――――――+―●親相======+
|  八十郎 代右衛門|  内匠 太郎左衛門    |  清次郎 帯刀  ‖
|  父に先立ちて死す|  妻尾張家老成瀬正幸女  |  太郎左衛門   ‖
+=●親貞――――――+―信村           +―信乗       ‖
   甚次郎 帯刀  |  初親房 伊織 次郎左衛門|  修理 兄親相養子‖
   太郎左衛門   |  松平信盈養子      +―親応       ‖
   実松平信久二男 +―澄平           |  愛之助     ‖
   母重和女    |  多宮          |  松平親孝養子  ‖
   妻中嶋重貞女  +―女子           +―女子       ‖
              土屋但馬守家臣        松平信村養女  ‖
              鈴木治部左衛門某養女             ‖
+====================================+

+=●信乗――――――――●信言――――――――――●信汎―――●頼載――+
   織之助 太郎左衛門  隼人 太郎左衛門               |
   修理 実尚澄二男   妻尾張家臣渡辺年綱女             |
   妻堀大和守家臣    後妻小笠原長孝女               |
    堀直祺女                             |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―●信英

384日本@名無史さん:02/06/13 13:38
>>377
無いとは否定できないよ。
遊行僧というところがポイントだよね。
385日本@名無史さん:02/06/18 14:55
あげ
386日本@名無史さん:02/06/20 21:59
age
387日本@名無史さん:02/06/21 01:45
在原信重
賀茂親氏(信重娘(姉)婿)
源泰親(信重娘(妹)婿)

泰親の後を継いだ信光
388日本@名無史さん:02/06/21 07:26
>>359、365

尾張家が勤皇を名乗ったのは、
御三家は将軍家の支配下にある一大名ではなく、朝廷の直属の臣下であると主張するため。
とくに徳川義直は一時期将軍になる可能性が最も高い立場だったため、
幕府への対抗心が強く、水戸家より先に勤皇を唱えた。

水戸家は御三家の中でも一段格下に見られていたため、
幕府の監視役を自称し、尾張家をまねて勤皇を唱えることによって、
幕府への影響力を保とうとしたと思われる。
389日本@名無史さん:02/06/21 10:53
>>387
泰親が信重の婿なんていう史料って何?
それに、泰親の子孫も信光の子孫も賀茂朝臣だけど。
390日本@名無史さん:02/06/22 20:54
age

391日本@名無史さん:02/06/23 19:48
あげ
392縞栗鼠(シマリス)の親方:02/06/23 19:51
大検・大学受験予備校の中央高等学院では
一流プロ講師による責任指導、四年制大学の絶対合格を餌に
知的障害児童の保護者から法外な授業料をボッタクリまくっています。

また中央高等学院の従業員「西部」は女子トイレに闖入し
汚物入れを物色して女子生徒の使用済みタンポン・ナプキン等を
個人的に収集しているというのは事実。

中央高等学院では
生徒及びその保護者の個人情報を名簿図書館等に売却しています。
中央高等学院 http://chs-f.com/index.html 中央高等学院福岡校
http://www.chuo-school.ac/
393日本@名無史さん:02/06/24 19:32
age
394日本@名無史さん:02/06/24 19:49
尾張家末裔殿は185cm88Kgか。
堂々たる体躯ですな。
殿にふさわしい。
395日本@名無史さん:02/06/24 22:55
>>394
侍従長??
396日本@名無史さん:02/06/25 00:48
泰親の後を継いだ信光(親氏子)は
養父の源姓でも実父の賀茂姓でも松平家の在原姓でもよかった。
397日本@名無史さん:02/06/25 12:00
>396
親氏=賀茂氏
泰親=源氏
ということ?
398日本@名無史さん:02/06/25 20:19
age
399日本@名無史さん:02/06/27 00:34
age
400日本@名無史さん:02/06/27 00:53
400頂かせて貰います
401日本@名無史さん:02/06/28 00:14
age
402日本@名無史さん:02/06/30 08:58
あげ
403日本@名無史さん:02/06/30 10:33
新人物往来社から、『三河 松平一族』という本が最近
出版されましたが、読んだ人いますか?
404日本@名無史さん:02/06/30 19:45
松平信重 在原信盛子
松平信広 松平信重子 太郎左衛門家
松平親氏 松平信重子
酒井広親 松平親氏子 酒井氏 
松平泰親 松平信重子
松平信光 益親 家久 家弘 久親 松平泰親子

在原説の参考にでも 


405日本@名無史さん:02/07/01 20:36
age
406  :02/07/01 21:38
上州出の乞食坊主が松平郷の庄屋の娘をスケ込まして
乗っ取ったのが始まり。たいしたもんじゃない
407日本@名無史さん:02/07/01 21:54
松平家といえば庄内藩酒井家の家老も松平だったな。
陪臣なのに松平名乗るってどういうこと?
そもそもここの松平はどこの松平なんだ。
408日本@名無史さん:02/07/02 01:05
>>407
前田氏家臣の松平氏のほうが気になる。
409日本@名無史さん:02/07/02 22:13
あげ
410日本@名無史さん:02/07/03 01:41
松平斬九郎は大給松平だね。
最終回でそう名乗っていた。
411日本@名無史さん:02/07/06 03:46
>>406
庄屋じゃねえ。山賊だ。
極道の娘に手を出しちゃあいけねえよ。
412日本@名無史さん:02/07/06 04:03
さすがは徳阿弥。時宗坊主はやることが違うね!
413日本@名無史さん:02/07/19 20:11
>>408
そういえば、前田の家臣には本多もいるよね。
414【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/19 20:41
親氏が上州出というのは、新田家の分家の「得川家」の
末裔=清和源氏の家系、と詐称した時に作られたお話。
生国不明の諸国放浪の念仏僧(それも定かではなく、浪人説もあり。
415日本@名無史さん:02/07/20 19:17
>>413
本多正純の弟の系統
元は上杉家臣
416日本@名無史さん:02/07/22 20:25
あげ
417日本@名無史さん:02/08/04 22:47
あげ
418日本@名無史さん:02/08/09 17:23
あげ
419日本@名無史さん:02/08/09 17:42
無意味な「あげ」は見苦しい
420日本@名無史さん:02/08/22 19:56
NHKの松平って、どこの松平?
421日本@名無史さん:02/08/22 20:51
定信の子孫らしい
422日本@名無史さん:02/08/22 21:22
久松の子孫じゃないの?
423日本@名無史さん:02/08/23 01:30
>>422
定信だから、久松だろ?
424日本@名無史さん:02/09/03 12:01
>42
たしか今治の久松松平家だと思ったけど。
425日本@名無史さん:02/09/03 12:04

『三河松平一族』では、たしか
太郎左衛門信重−+−酒井氏室
        |
        +−親氏(信武)室
          ||(夫婦)
        +−太郎左衛門親氏−+−太郎左衛門信広
        |         |
        |         +−和泉守信光−+−岩津親長
        +−泰親−益親−勝親        |
                          +−親忠・・・家康

426日本@名無史さん:02/09/03 21:29
あげ
427日本@名無史さん:02/09/04 09:03
そもそもなんで家康は松平から徳川に姓をかえたのか?
養子や婿以外で大名が姓をかえた例はあまりないように思うのですが。
身分の低い出の秀吉とかでは出世とともに木下、羽柴、豊臣とかわってるけど
松平家はそれでも家康の時点で8代続いたそれなりの家柄ではないかと。

徳川と名乗った時点ではさすがに将軍になることまでは考えていなかっただろ
うし。これは単なる想像にすぎないが、やはり源氏の名門今川家に人質に行ったこと
が大きく影響しているのではないか。文化度の高さに魅了されたり、また当然
今川家より明らかに見劣りする家柄について馬鹿にされることもあっただろう。
そのときの体験から家康は徳川という名門の出であると偽ることで自尊心を慰め、
対外的にも認められようとしたのではないか。
428日本@名無史さん:02/09/04 11:46
>427
とりあえず、家康の駿府時代は、単純に人質=虜囚ととらえることはできないと思います。
義元の師でもる雪斎に教育を受けたり、元服後に「元」の一字を受けていたり、重用されています。

改姓の理由は、数多いる松平庶流との差別化のためでしょう。

それから、秀吉の苗字は木下→羽柴であり、豊臣は氏です。
(平→藤原→豊臣)
429日本@名無史さん:02/09/06 15:08
二郎三郎という通称は、親忠がはじめて名乗ったらしいけど、本当?
それに彼は次男ということになっているけど、なぜ「三郎」なんだろう。
430日本@名無史さん:02/09/06 20:33
>>429
次男の三男だからだろ?
431日本@名無史さん:02/09/06 22:11
>>429
二郎三郎という呼び名は、>>430のような場合や、
本当は三男だけど兄が一人夭逝していて事実上の次男扱いのときに使われるらしい。
後者の場合は「小次郎」が使われることもあるようだ。
432日本@名無史さん:02/09/08 22:10
松平郷は今はどうなっているの?
ダムに沈んだの?観光地になっているの?
今は愛知県何郡何町○○でふか?
433日本@名無史さん:02/09/08 22:24
豊田市
434日本@名無史さん:02/09/09 06:35
豊田市て旧・コロモ市の?
山奥じゃなさそう。じゃ今じゃ松平郷も自動車工場?
435日本@名無史さん:02/09/09 07:43
>>434
松平に自動車工場はありません。
あるといったら松平まんじゅうと六所山(幽霊が出る?)ぐらいです。
436日本@名無史さん:02/09/09 10:51
>>430>>431
親忠は次男ということになっているから,これは当らないのでは?
437日本@名無史さん:02/09/11 21:18
先週のいいともに徳川家の子孫が出てた
438日本@名無史さん:02/09/11 21:45
豊田も少し郊外に行くと山だよ。確かゴルフ場もあったし。
439日本@名無史さん:02/09/11 23:13
織田無道タイーホとゆうことなんだが
http://www.shipss.com/odamudo/framepage1.htm
これほんとうなのか?
家光の子女に織田関係はいないし信雄系統の天童藩や有楽斉系統の芝村藩が
あるんだから織田を名乗るのは少々無理があるのでは・・・・
ちなみに家紋は三つ葉葵
440日本@名無史さん:02/09/11 23:42
家光の男系は絶えてたと思う。
あるとすれば娘の千代姫(尾張家に嫁ぐ)の子孫。
441日本@名無史さん:02/09/12 00:26
>>440
いいともに出てたよ(w
家光の子孫
442日本@名無史さん:02/09/12 00:38
ちなみに、関が原以降の家康は影武者がすりかわった者とかって
『影武者徳川家康 隆慶一郎』
で読んだけど、この中に影武者の名前が「世良田二郎三郎元信』
って書いてあったけど、このことを論ずるのはスレ違い?
この本を読む限りかなりの確立で、関が原以降の家康は全くの
別人にすりかわってるように思えるんですが・・・
443日本@名無史さん:02/09/12 01:09
>>440
どうだろう。尾張家も男系は絶えてるからなぁ。

>>442
…それは、小説では?
世良田氏は新田流で得川氏の宗家だか分家にあたる家。
隆慶一郎はそこから名前を引っ張ってきたのだろう。
444日本@名無史さん:02/09/12 11:16
>>442>>443
家康の祖父は、二郎三郎清康。世良田二郎三郎とも称している。
先祖には二郎三郎と称した人物は多いらしい。
家康の実名は、元信→元康→家康。
家康が二郎三郎と名乗ったかは知らないけど、そのあたりを合わせたものと考えられる。

445441:02/09/13 00:50
隆慶一郎の影武者〜には明治頃の種本があったはずだよ

いいともに出てた徳川子孫の系図
増刊号をちら見だからすご不完全

┌□□┬清方┌万橘┌熊之助
└清武└□□└武元┴

□□は名前忘れた
一つ目の□□は7代将軍

万橘と武元は清方とその弟
どちらの子かも忘れた

熊之助にはもっと兄弟がいた

7代将軍の名前忘れたのは俺がアフォだから
系図が不確かなのは殆ど画面に映らないから
446日本@名無史さん:02/09/13 00:54
>>445
7代目は夭逝してるよ。享年8歳だったか?
家光の男系子孫でありそうなのは6代目の家宣の弟の子孫ぐらいじゃないかな。
447441:02/09/13 01:05
すません
代数すら忘れてたのか
家綱、綱吉兄弟の次の世代が□□と清武兄弟でした・・・はず(弱
448日本@名無史さん:02/09/13 01:46
清武は六代家宣の弟だよ。
彼を祖とする松平家は幕末まで続いたが
養子が入っているから直系ではない。

すると、家宣に家継以外の子がいたんだ、
自分はその子孫だ…と称する人がいるってことかね。
ただ>>445の系図に出てくる武元は清武の養孫だったはずなんだけど。
449日本@名無史さん:02/09/13 12:24
松平左近将監武元の子孫ということ?
たしか浜田藩だよね。
武元の親って誰だっけ?
清武は子供いないから、家光の血は継いでいないよね。
450日本@名無史さん:02/09/13 12:38
(尾張)義宣ー(美濃高須)義行ー武雅(清武の養子)ー武元
先週のいいともに出てたのがこの系統じゃなかったかな
451日本@名無史さん:02/09/13 13:11
>>450
ということは千代姫の血は引いてるのかな?
452日本@名無史さん:02/09/13 14:17
>>451
浜田藩は武元の後にも何度か養子が入ってるはずだから、どうかなあ。
453日本@名無史さん:02/09/13 14:34
越智松平の子孫って松平龍門(芸名)だよね。
本名はたしか吉龍さんとかいったような。
お父さんか本人のどちらかがが婿養子だよね。
454441:02/09/15 15:35
>>453
その人、龍門って人だった
けど、いいともでは家光の系列に繋がってた
いいとものスタッフが見栄えのいいように変えたのかな
455日本@名無史さん:02/09/16 02:05
家光−綱重−家宣−清武=武雅・・・龍門
だから別にいいのでは?
456日本@名無史さん:02/09/16 02:32
>444
家康の最初の名乗りが「次郎三郎元信」でなかったかと。
あと、信康も「次郎三郎」を名乗ったと思う。
457日本@名無史さん:02/09/16 03:16
二郎三郎と名乗った松平歴代
親忠?−長親?−(一代略)−清康−廣忠?−家康?
458日本@名無史さん:02/09/16 04:18
龍門のおっさんについては新人物往来社の本に書かれていたぞ 大昔に

松平武龍(ぶりゅう)が本名じゃなかったか?(忘れた) 元のアーティスト名
を「交楽龍弾(まづらりゅうだん)」と言って、昭和40年代に前衛芸術家として
鳴らした・・・・らしい

「殿様の子孫の現在」というような趣旨のTV番組にもよく出てくる 出演依頼
があったら、二つ返事で喜んで出演するんだろうな

http://www.spec-web.co.jp/s-club/list/332.html
459日本@名無史さん:02/09/16 04:24
>>377
話はそれるがな 血統を大事にするんだったら、何故記録を取らなかったのだろう?
隣の朝鮮ではきちんと記録を取っているのに
460日本@名無史さん:02/09/16 04:25
スレの流れを読まずにカキコ。

松平って、「平家」じゃないの?
そう考える方が自然な気が・・・。
461日本@名無史さん:02/09/16 07:59
松平太郎左衛門家20代当主の松平信博は作曲家。
462日本@名無史さん:02/09/16 21:47
>>404
「古代氏族系譜集成」には怪しげな在原朝臣荒尾、松平系図が載ってるね。
−荒尾公平−持平−政平(信平)−持頼(信盛)−信重−
持平と政平は松平が乗っ取った安城(祥)城の城主・和田一族と同じ名前。
名前を拝借したのかな?
463炯炯:02/09/18 16:51
源氏に名門なんてあるわけないじゃん
464日本@名無史さん:02/09/25 22:00
松平の他には葵の家紋を使うことは許されなかったの?
465日本@名無史さん:02/09/25 22:22
三つ葉葵以外はいくつか許されてるよ。
466日本@名無史さん:02/09/26 21:26
将軍家と全く関係の無い徳川氏も江戸時代にあったそうですが
467日本@名無史さん:02/09/26 22:10
本田家は立葵紋
468日本@名無史さん:02/09/26 23:57
出雲の国造の千家家に比べれば
徳川なんてゴミみたいなものだ。
469日本@名無史さん:02/09/27 00:16
>>467
山南敬介ってなんで葵使ってたのか誰か知ってる?
470日本@名無史さん:02/09/27 18:36
近江菅浦の代官松平益親の子孫について教えてほしい。
471日本@名無史さん:02/09/29 09:29
 結局、徳川はアウトローの出自で、アウトローの扱いが巧みだったから
天下もとれたし、長期間政権を維持できたんじゃないの?
472日本@名無史さん:02/10/01 16:42
深溝松平家忠
長沢松平家忠
形原松平家忠
東条松平家忠

あと松平家忠は何人?
473日本@名無史さん:02/10/01 20:00
日光東照宮は家康を祀る以前には存在しなかったのですか?
全国の大名にも造らせて祀らせたのですか?
474日本@名無史さん:02/10/02 23:45
日光は輪王寺(+二荒山神社)の門前町。
東照宮は輪王寺の境内に造営。
475日本@名無史さん:02/10/03 01:01
>>430-431
織田信広は長男なのに三郎五郎なんだが…
476日本@名無史さん:02/10/03 12:24
二荒山神社を同じ発音の日光の漢字に書き換えたの?
477日本@名無史さん:02/10/03 13:55
>>476
山王一実神道では家康は薬師如来の生まれ変わりという事になっており、
薬師如来の脇仏に日光菩薩がいる事に由来。

あと、日=(日本) 光=(皇帝・国王・天子)という
意味にも解釈できるとか。

あ、漏れの勝手な電波じゃなくて、日光東照宮の高藤晴俊氏の説だよ。
478日本@名無史さん:02/10/03 19:32
全国東照宮連合會
http://www.toshogu.net/
479日本@名無史さん:02/10/03 19:35

岡山にもあるぞ
480日本@名無史さん:02/10/03 19:37
岡山藩が勧請したのがあるが、
連合会には加盟してないと言うことか
481日本@名無史さん:02/10/04 11:28
>>475
三郎信秀の五男という扱い。
嫡子は三郎信長。
482日本@名無史さん:02/10/04 16:43
すいません。日本史初心者ですが、どなたかもしよければ質問に
答えて頂けますと幸いです。

三代信光さんの時代に足利幕府の仁木氏と日野氏と親密になり
仁木氏から代官の役を貰い息子さんを鎌倉に送ってるようなのでこの頃は
足利幕府と仲が良く、また三河地は足利氏・仁木氏・高氏・細川氏・吉良氏と
足利ゆかりの家系が守護をやってるので完全に幕府支配に置かれてると思います。

そのうえで初代親氏さんは、「三河物語」の中で罪人を使ったとあり
南北朝時代に見られる悪党の働きをし近隣を支配していったと
推察しているのですが、疑問があります。

ココから質問です(^^↓
--------------------------------------------------------------------
じっさい松平郷の親氏さんはいつの時代を生きたのでしょうか?
この方のお墓があるお寺の伝記が正しければ南北朝時代の足利尊氏さんと
同年代に生きてると思うのですが?じっさいはどうなのでしょうか?

また「三河物語」でその息子さんか弟さんの泰親さんの記述で
『さる大臣が三河に流刑され刑期を終え京に帰るさい護衛をし
その後、勅旨を頂き周りの物が尊敬した』とありますが
さる大臣はどなたでしょうか?また勅旨を下したのは幕府なのでしょうか?
帝でしょうか?帝であるなら南朝の帝でしょうか?北朝の帝でしょうか?

自分は「三河物語」著大久保彦左衛門「松平一族」著平野明夫ぐらいの知識しか
ないのでこんな疑問が湧いちゃいました(^^
日本史初心者ですがよろしければどなたか、教えてくださると幸いです。
483日本@名無史さん:02/10/07 16:24
>482
>『さる大臣が三河に流刑され

『三河松平一族』にそのあたり書いてなかったけ?
それに幕府が『「勅」旨』を下すことはできないよ。
484日本@名無史さん:02/10/15 11:26
>483
答えてくださいありがとうございます。
『三河松平』では何気に真っ向否定で、大臣が誰かは多くの記述を
書いてるのですが決定されてませんでした。誰なんだろうか、、、

勅旨はそうですね。出せませんね。

お答え頂き感謝します。
松平郷の親氏さんはいつの時代を生きたとしたら納得がいくのだろう。

485日本@名無史さん:02/10/16 12:12
事実ではないのでしょう。
486482:02/10/17 18:41
>485さん
どうも。解かりました。

話を反らしすいませんでした。
487日本@名無史さん:02/10/19 09:10
『朝野旧聞ほう藁』所収の滝村万松寺法華経奥書には「第十三巻心願成就奉祈者也 
応永三十四年二月十一日三河国松平郷主太郎左衛門源親氏」と書かれているそうで
す。まあ、年代的にはこんなものかもしれません。
488日本@名無史さん:02/10/20 17:27
>487
>滝村万松寺法華経奥書
この文書の成立はいつですか?
489日本@名無史さん:02/10/25 20:34
お経の奥書に応永34年の日付が書かれているということですが・・・。
490日本@名無史さん:02/10/29 14:30
その日付は正しいのかどうか。
というのも、日付はあとからどうとでもできますし。
東京のどこかで見つかった碑文みたいに。
491日本@名無史さん:02/10/29 16:40
三つ葉葵は、家康が松平から徳川に改正した時に、家紋も変えて三つ葉葵にしたって
話しがあるね。
492日本@名無史さん:02/11/05 01:20
age
493日本@名無史さん:02/11/05 01:30
>>492
スレ上げには賛成ですが、>1の文面に加えて何かもう一つ話題をふって下さいませ。
494日本@名無史さん:02/11/06 19:07
江戸初期の松平一族には「康」や「忠」の字を用いる者が多いが、
家康や秀忠の一字をもらったものですか?
495日本@名無史さん:02/11/07 01:11
>>494
清康と広忠から貰った
496日本@名無史さん:02/11/07 01:13
家康の名家好きって自分がエセ源氏だから
本当の源氏は立場上親戚になるんですよね?
それで親戚は粗末にしちゃいかんって発想なんだろうか?
497日本@名無史さん:02/11/07 01:54
 松平氏(三河の土豪)
  |
徳阿弥(時宗の乞食坊主)
  |
 酒井氏(三河の土豪)
498日本@名無史さん:02/11/07 11:35
岡崎松平は「○忠」という名前が続いています。
長親もただしくは、長忠らしいですね。
ところで清康(はじめ清孝)はなんで違うのでしょう。
通称もずっと二郎三郎のままらしいし。
死んだところも、尾張の奥深く入った守山だし。
家康もはじめは元信で、元忠としてないし。
499日本@名無史さん:02/11/07 13:25
>496
家康さんの名家好きとういうか思想は
今川家に、人質としていたさいの教育による物だと
思われる。今川家は名門中の名門で家臣の教育には
家系の血統の良さを教えていたろうし
家康さんの三河には血統では抜きに出た吉良さんも
いたりして血統の重要性を理解し自分の血統を子供の頃に
考え新田源氏を名乗った、と思われる。
家康さんを責めないで・・・無意識だから。
500日本@名無史さん:02/11/07 18:22
>>499
>と思われる。

ここがポイントだね。
脳内妄想だということだよね。

501日本@名無史さん:02/11/07 18:28
なかなか妥当な推測だと思うよ。
今川家の家風を考えれば。
502日本@名無史さん:02/11/08 00:29
幼少期の環境は大きい罠
503日本@名無史さん:02/11/09 20:01
>500
そうです。妄想です。

だって足利・仁木・高・細川・吉良と
血統が良い人がたくさん出てる地で血統も良くなきゃ
バカにされるもん!
幼少の頃に新田氏と教えられた家康さんはきっと嬉しかったはずさ!
家康さんを責めないで・・・無意識だから。
504日本@名無史さん:02/11/10 00:34
>>500
自分では仮説も立てられないくせに、他人の仮説は脳内妄想か?(藁
こういうヤシが、変な宗教に引っかかって「この考えで世の中の仕組みは全部理解できる」
なんて時々たわごと言い出すんだわ。
505日本@名無史さん:02/11/11 15:10
>504
はいはい。
そういう君は変な宗教に引っかかってるぞ。
506日本@名無史さん:02/11/11 23:13
家康の名家好みは、たぶんに政治的要素があるのでは?
秀吉が、名家出身の側室を多数抱えたのに対し、家康はむしろ家格の低い、しかも後家を好んだのは個人的にはかなり深刻なコンプレックスも持っていたのでは。
にもかかわらず、名家を尊重したのは、下克上の気風を殺ぎ、徳川家の安泰を図ったものと思われ。
507日本@名無史さん:02/11/12 08:52
>>503
> 幼少の頃に新田氏と教えられた家康さんはきっと嬉しかったはずさ

教えられたの?
新田源氏を実際に詐称したのは、家康の代からでは?
508日本@名無史さん:02/11/12 10:53
>>507
ところが祖父の清康も世良田を名乗ってるんです。
509日本@名無史さん:02/11/12 14:21
>508
3代信光さんの時に幕府仁木氏から代官宛ての手紙なんかを
貰ってるので、(「松平一族 著平野明夫」)
その頃にはもう氏素性はハッキリさせていたと思います。
氏素性の解からない家を代官にはしません。

「松平遺文」著不明によると初代さんは自分のことを
松平の人間に「どこかの偉いひとですか?」と聞かれて
「東西を旅する、ただの旅人です」と言ってるそうで
時僧かどうかも解かりません。
時僧の人と書いてるのは大久保彦左衛門の「三河物語」とかですよね。
2代目さんにの、その手の記述は読んだ事ないです、

3代目の信光さんの代から代官にされてるんで
この頃には源氏を名乗っていると思っています。これも予想です。

2代目と3代目の時代の開きを考えると
3代目は初代親氏と血の繋がりは無いのではないでしょうか。
飛躍してすいません。

教えられた、の部分も予想です。じゃないかなーという事です。
いきなり自分から「俺は源氏の名家!」と名乗るにはその前から
三河での風聞やなにかしらの教育ありきと予想したのです。
510509:02/11/12 14:23
訂正
上の文は、>508さんにじゃなく>507さんにです。すいません。
511509:02/11/12 15:34
お恥ずかしいが間違いだらけでした。

訂正
仁木氏と書きましたが伊勢氏です。すいません。
512日本@名無史さん:02/11/12 23:25
>>509
>3代目の信光さんの代から代官にされてるんで
>この頃には源氏を名乗っていると思っています。これも予想です。

賀茂氏だろ?

>2代目と3代目の時代の開きを考えると
>3代目は初代親氏と血の繋がりは無いのではないでしょうか。
>飛躍してすいません。

2代目は弟、3代目はその子供
513日本@名無史さん:02/11/13 11:40
>509
予想と推測は意味が違うよ。
514日本@名無史さん:02/11/13 11:48
いけるか?
515日本@名無史さん:02/11/13 12:50
>512
そう聞きますが、初代・二代目は歳も近くて解かるのですが
三代目さんとの歳の開きは、お墓の歳だと孫くらいの開きがあり
なので息子説は無理がないかと思っています。

>加茂氏
加茂氏とは繋がりも深く三代目さんが
「加茂朝臣」と名乗ってたそうなんで、その通りだと思います。
加茂松平氏と思っていましたが
それとも加茂氏の誰かが代官になってたのでしょうか?

>513
ご指摘どうも。その通りです。

>514
何処にですか?なにを?
516日本@名無史さん:02/11/13 18:18
>515
『三河松平一族』にそのあたり書いてあったとおもったけど。
517日本@名無史さん:02/11/14 16:14
>516
どうも。読み直し、出なおします。
518ひみつ ◆tr.t4dJfuU :02/11/18 13:20
★徳川家康はウリナラ出身!!★
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1037587546/
519544:02/11/18 16:16
東照宮を日光に立てたかわかりますか?
おしえて!!
520日本@名無史さん:02/11/18 23:51
徳川の系図は世良田に繋げてるのに、徳川(得川)と名乗ってるのは
やはり吾妻鏡見て(徳川三郎義秀)家康が早とちりしただけだと思うが。
世良田なら四郎に絡めなければおかしいし、上記のようにあまりにも稚拙。
トンデモの世良田の賎民二郎君が二郎三郎と名乗り騙ったって方が良くできてる。

521日本@名無史さん:02/11/19 11:30
>520
>世良田なら四郎に絡めなければおかしい
別におかしくはないと思うけど。
522日本@名無史さん:02/11/19 11:39
>>519
@江戸陥落に備えての避難場所兼要塞。
A宗教的な聖地(天台宗、真言宗、修験道など)
B南朝ゆかりの場所
C鉱山
523日本@名無史さん:02/11/19 15:55
江戸城の
鬼門の延長でもあり。
524日本@名無史さん:02/11/19 16:04
南朝ゆかりの場所ってどういう意味?
525日本@名無史さん:02/11/25 16:58
広忠って蔵人佐?
526 :02/11/26 05:24
今夜の実況は こちらで

≪ 怪談百物語 源氏物語 ≫ 02年11月26日
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1038254666/
527結論:02/11/26 08:22
家康は家康である。
新田義重の後というたとて別段名誉でなく
また乞食坊主の子孫と言うたとて恥辱でもない。

─徳富蘇峰・近世日本国民史より─
528日本@名無史さん:02/11/26 09:25
529 :02/11/26 19:19
今夜の実況は こちらで

≪ 怪談百物語 源氏物語 ≫ 02年11月26日
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1038254666/
530日本@名無史さん:02/11/27 17:46
531日本@名無史さん:02/11/27 18:14
4、5年前文春文庫で出てた「異説日本史」みたいな名前のリレー形式で
日本史のよもやま話をのせている本で、
徳川と松平は別で、徳川家康が三河に乗り込んで松平家をのっとった、
みたいな話がのっていたのをうっすらと覚えている。
だれか知らない?
532日本@名無史さん:02/11/27 18:53
過去レスその他多数あり。
533日本@名無史さん:02/11/28 15:18
十六松平の「十六」ってなに?
534533:02/11/28 15:20
十六松平っていう名前なの?
535名無しさん:02/11/28 18:16
徳川家康の先祖は被差別部落出身




カムイ外伝より
536日本@名無史さん:02/11/28 18:26
>533>534
うーん。何というか。
まず検索することをお勧めします。

537日本@名無史さん:02/12/04 11:12
家康も桶狭間のころは、松平蔵人元康だったけど、
この蔵人って蔵人佐かなんかの略?
それとも蔵人だけで正しいの?
538日本@名無史さん:02/12/09 20:42





539名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/09 21:16
家康の一族は、上野国(群馬県)の時宗の宗だったという説が強いと思う。
家康の先祖で五代くらい前の奴が、高利貸みたいなことしてたらしい。
資金は山林業者みたいころにネットワークを張り巡らせていて
徐々に勢力を拡大していったと思う。
540日本@名無史さん:02/12/11 00:56
>>539

電波キターwヘ√レvー(゚∀゚)ーwヘ√レvー
541名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 01:59
京都の文献に、
家康の何代か前の人(松平長親?)で
金貸しみたいなことをしてたという...
542日本@名無史さん:02/12/11 11:22
>541
一族の益親じゃないの?
543日本@名無史さん:02/12/20 11:22
願人坊主ふぁいやー
544日本@名無史さん:02/12/27 21:19
あげ
545日本@名無史さん:02/12/31 23:03
家康が源氏に改姓したのはいつなの?
秀吉に臣従したときは源姓だけど、吉良の系図云々の話っていつのことなの?
546日本@名無史さん:02/12/31 23:05
徳川改姓のときでしょう。
547日本@名無史さん:03/01/11 15:38
548山崎渉:03/01/11 17:04
(^^)
549山崎渉:03/01/16 08:52
(^^)
550日本@名無史さん:03/01/17 01:42
551日本@名無史さん:03/01/28 22:27
>>1
その行き止まりの小天地とはどれぐらいの広さだったんだろう。
なんかつくづく歴史の浪漫を感じたよ。


552日本@名無史さん:03/02/07 13:53
サンカがルーツ
553日本@名無史さん:03/02/07 15:12
>>552
三角の創作です。
554:03/02/09 04:34
555日本@名無史さん:03/02/24 19:22
age
556吉井信平:03/02/25 11:36
鷹司松平家は正真正銘の名家でござる。
557日本@名無史さん:03/02/26 14:25
>>556
松平長七郎の子孫だってね。
558日本@名無史さん:03/03/10 22:44
あげ
559日本@名無史さん:03/03/10 23:02
asd
560出会い系ビジネス他所とは違います:03/03/10 23:04
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561日本@名無史さん:03/03/10 23:08
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徳阿弥
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数代略
  |
徳川家康
  |
数十代略
  |
  俺
562日本@名無史さん:03/03/15 18:36
あげておこう
563日本@名無史さん:03/03/28 00:01
もう一度あげ
564日本@名無史さん:03/03/29 17:48
さらにもう一度あげ


565日本@名無史さん:03/04/12 09:33
>>551
>その行き止まりの小天地とはどれぐらいの広さだったんだろう。
>なんかつくづく歴史の浪漫を感じたよ。
それは、米を近所のスーパーで買える現代人の夢想だね。松平郷は、西三河だが
地勢的には東三河だよ。山際にはりついて集落がある稲作に向かない山里だよ。
山一つ向こう西には、広大な矢作川丘陵地帯が開けているのに、そんな地に好んで
住むわけがない。山一つ向こう北なら、飯田街道の交易中継地の利もあるのだが。
親氏以前の松平氏って、生業は何をして生計をたてていたのやら。
566日本@名無史さん:03/04/14 21:56
>>520
>徳川(得川)と名乗ってるのはやはり吾妻鏡見て(徳川三郎義秀)家康が早とちりした...
いえ、祖父の清康が名乗っています。事実はともかく、新田氏との繋がり伝承があったと思われ。
567日本@名無史さん:03/04/17 12:48

偶然こういうHPを見つけた
子孫でもルーツとかまったく興味のない人がかなり多いようで(たまたま
この人は発奮したわけだが)
http://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/index.html
568山崎渉:03/04/17 13:38
(^^)
569山崎渉:03/04/20 02:13
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
570日本@名無史さん:03/04/20 11:20
あげ
571日本@名無史さん:03/04/21 19:44
新田義重の子孫 世良田氏の消息
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/serada.html
572日本@名無史さん:03/04/23 16:56
>>565
>地勢的には東三河だよ。

脳内妄想はおやめください。
東西三河関係なく山間部は稲作の土地は狭いです。
(だから東西三河とは別に奥三河という言葉が存在する)
 山里かどうかは東西三河を区別する基準にはならないです。
 
 松平郷自体、巴川・郡界川沿いにあって矢作川の流れる豊田にでるか
足助街道沿いに岡崎北部(細川・岩津集落)あるいは足助に出るのが移動ルートです。 
 そして、この道の一番重要な役割は塩の輸送経路(自家消費分ももちろんある)です。
 司馬さんの表現は松平を行き止まりの場所のように書いているけれども、それは正しくありません。
 たぶん松平家は農民を支配しながら足助街道も支配してそこから上がるなにがしかの利益を得ていたんでしょう。
 
573衣笠宮:03/04/23 20:35
>>228松平上総介と言えば秀忠の弟にあたる松平忠輝のことですね。
恐らく、この忠輝の子・永見長頼と混ざった創作の人物だと思います。

永見長頼は松平忠直の子のはずですが..
574日本@名無史さん:03/04/24 05:01
>>573
>>228は、思い込み厨の伊達遠江守家中。
また懲りずにネット上のトンデモ説を拾ってきたな。
575日本@名無史さん:03/04/24 11:17
いや、薩摩の陰謀に相違ない。
576日本@名無史さん:03/05/02 05:50
age
577日本@名無史さん:03/05/16 22:50
>>572
>足助街道沿いに岡崎北部(細川・岩津集落)あるいは足助に出るのが移動ルート
それで、3代親光は岩津へ南下したのですね。でも、南下途中の細川郷の当時の権勢家
足利幕府重臣細川家は、南下を許したのかな。
578日本@名無史さん:03/05/16 22:55
>>577
細川はもういなかったんじゃないの?
579日本@名無史さん:03/05/22 13:09
age
580山崎渉:03/05/28 11:12
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
581日本@名無史さん:03/05/30 08:16
582日本@名無史さん:03/06/11 23:28


583日本@名無史さん:03/06/13 13:45
あげ
584日本@名無史さん:03/06/15 10:20
新人物往来社から出版されている
『三河 松平一族』は面白いですか?マジレス希望。
585マジレス阻止委員会:03/06/15 13:20
↓氏ね
586日本@名無史さん:03/06/15 13:58
↑おまいが市ね
587日本@名無史さん:03/06/28 00:56
588日本@名無史さん:03/06/30 02:05
嫡流の岩津松平はなぜ廃れたの?
589日本@名無史さん:03/07/05 05:37
>584
あんたが読んで結果を聞かせてくれ
590山崎 渉:03/07/12 12:36

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
591山崎 渉:03/07/15 11:47

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
592日本@名無史さん:03/07/17 09:39
593日本@名無史さん:03/07/20 15:57
得川から徳川へ
594日本@名無史さん:03/07/26 17:51
だからなんやねん?
595日本@名無史さん:03/07/26 18:07
家康が源氏に改姓したのはいつ?
596日本@名無史さん:03/07/26 20:45
源氏に改姓
源氏に改姓
源氏に改姓
597日本@名無史さん:03/07/27 23:56
松平は山奥にあるけど、行政上は中核市で交付税不交付団体の豊田市とは…。
598日本@名無史さん:03/07/28 00:02
どうせなら松平市とか徳川市と名乗ればいいのに>豊田市
599日本@名無史さん:03/07/28 02:15
トヨタからの税金がほとんどなんだから可愛そうなこというなよ。
600日本@名無史さん:03/07/28 18:50
税金どころか
挙母市内の経済全て トヨタつながり
601日本@名無史さん:03/07/31 04:11
豊田市って人口めちゃ多いな
そのほとんどがトヨタ関係?
602田中:03/07/31 15:02
家康と争ったという松平の大叔父について教えて
603日本@名無史さん:03/07/31 16:45
>>601
豊田市民の8割がヨタ系に従事しているそうです
604山崎 渉:03/08/02 01:15
(^^)
605日本@名無史さん:03/08/02 11:57
8割はさすがに常識で考えてウソだな。

もちろん
トヨタの部品工場勤務とか
トヨタがお得意の日替わり弁当屋とか
そういう人がよく行く居酒屋とか
そういう人がよく利用する電車とか
そういう人が主に払った税金をもとに給料をもらう市役所員とか

どこまでをトヨタ関連と呼ぶかによるのだが。
606日本@名無史さん:03/08/05 22:15
豊田佐吉が朝鮮人の末裔って本当ですか?
607日本@名無史さん:03/08/05 22:24
あほか?
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
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 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
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611日本@名無史さん:03/08/10 23:34
612日本@名無史さん:03/08/15 11:49
松平清康スレ作って
613日本@名無史さん:03/08/15 11:54
ここで語ればいい。
614山崎 渉:03/08/15 12:05
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
615日本@名無史さん:03/08/15 21:49
616日本@名無史さん:03/08/22 12:10
617日本@名無史さん:03/08/27 23:24
618日本@名無史さん:03/08/28 18:09
バレーボールで有名な松平康隆は
どの系統でつか?
あと現在活躍中の松平さんって
誰がいますか??
619日本@名無史さん:03/08/28 18:14
>>618
「康」の通字を使うのは松井系の松平氏と思います。
620日本@名無史さん:03/08/28 19:21
松井松平は明治なってに松井に復姓せいています。
621日本@名無史さん:03/08/28 19:28
確かに本家は松井に戻ったが
庶流の旗本家も復姓したの?
622日本@名無史さん:03/08/28 19:44
越前の分家など松平には多いです。
623日本@名無史さん:03/08/28 22:36
>>622
多いとは「康」の字のことですか?
越前松平の康昌は昭和期に式部副長官でしたな。
フェートン号事件で切腹した松平康英は
確か松井系。
624日本@名無史さん:03/09/02 02:23
上へ参ります
625日本@名無史さん:03/09/02 12:41
福釜にも「康」字を用いた名は多い。
この通字のみで松井と断定するのはどうしたものか。
626日本@名無史さん:03/09/02 16:23
康隆以外で有名な人いないの?
627日本@名無史さん:03/09/03 01:57
定知
勇雄
628日本@名無史さん:03/09/03 02:16
アコースティックユニット「SPIRITS」のG&Voである
松平忠智って何者?
629日本@名無史さん:03/09/03 09:51
松平忠晃埼玉銀行会長の先祖
http://mylife.zero-city.com/osi.htm
630日本@名無史さん:03/09/03 10:01
>>628
http://www.gardencity.or.jp/~spirits/whats/profile.html

どう見てもDQNやで

大名・旗本とは関係のない庶民の末裔ちゃうか? 愛知県には松平姓が
ぎょうさんおるし
631日本@名無史さん:03/09/03 18:41
松平忠智氏は旧子爵家末裔の可能性が
あるような気がします。
『平成新修華族家系大成』と630が張った
リンク先の情報を比べると、
「忠智」の読み方・生年月日・母の名前が
一致してます。
632日本@名無史さん:03/09/04 08:39
>>631
このゴリラみたいな顔で貯金が233円でアームレスリング優勝が子爵ですか
そらびっくりだ
まぁ世が世なら立派な武将になれたかもしれんが
武蔵忍 上野小幡 信濃上田あたりかな?
633日本@名無史さん:03/09/04 22:43
>>632
横浜市青葉区出身なんだろ?
武蔵忍系は埼玉銀行だろ?
634日本@名無史さん:03/09/05 22:43
age
635日本@名無史さん:03/09/13 23:46
636日本@名無史さん:03/09/15 17:55
新田の偽と言えば、安房里見氏も似た者だな。
637日本@名無史さん:03/09/19 19:01
age
638日本@名無史さん:03/09/22 20:33
あげ
639日本@名無史さん:03/09/23 14:20
渡辺世祐学説が出たのは大正時代。家康が三河守任官の際、藤原氏を使っていた事を指摘。
それ家康以前の事は知りません。ただ、まだ大正時代、華族の徳川家にある意味で喧嘩を吹っかけたのは
意義があるのかもしれません。
清康は世良田を使用、それも足利の息のかかった三河国で。親氏は万松寺法華経奥書に源親氏と署名(後世の偽作ではないそうです)。
将来征夷大将軍になろうとするならわかりますが。まだ三河の小領主の時代に。
煎本先生は、室町期には系図など諸国をまわる商人に頼べば、簡単に手に入ったと書かれています。それで世良田を見つけて
名乗ったのだと。果たしてそうでしょうか?家康が三河守に任官する時でさえ、あれほど苦心したのに。
640日本@名無史さん:03/09/24 00:56

ただの土倉が富小路という公家になったくらいだから、源氏の詐称など
その気になればできるだろう
641日本@名無史さん:03/09/24 18:50
蟹江七本槍って知ってる?
642日本@名無史さん:03/09/25 01:31
>641
大久保党の戦力は侮れないね。

大久保新八郎忠俊
大久保甚四郎忠員
大久保新十郎忠世
大久保治右衛門忠佐
安部四郎五郎忠政
杉浦八郎五郎吉貞
杉浦惣左衛門勝吉
643日本@名無史さん:03/09/26 23:45
大久保一蔵利通
644日本@名無史さん:03/09/27 12:07
大久保一翁
645日本@名無史さん:03/09/27 15:25
でぶ大久保
646日本@名無史さん:03/10/06 20:55
647日本@名無史さん:03/10/06 21:01
>642
キミすごいね。

ところで蟹江って名古屋より
さらに西。
よくあんなとこまで攻めこんだもんだ。松平党。
648日本@名無史さん:03/10/07 01:22
だって清康死んだの那古屋から目と鼻のさきの守山でしょ。
距離的には岡崎からあまりかわらないんじゃないの?
649日本@名無史さん:03/10/07 01:49
http://map.yahoo.co.jp/prefmap/admi23.html

岡崎はちょっと遠い
650648:03/10/07 09:28
>649
ごめん意味わからないんだけど…
岡崎から守山も蟹江も距離はあまり変わらないだろうという意味なんだけど…
651日本@名無史さん:03/10/07 10:26
徳川家って今は皇族になってるんですよね?
そうすると徳川家のルーツが賤しい盗賊だったって事実はまずいんでしょうね。
652日本@名無史さん:03/10/07 14:24
皇族?
653日本@名無史さん:03/10/07 17:29
高松宮妃殿下が徳川家の出身だということが言いたいのか?
654日本@名無史さん:03/10/07 17:49
>>651
高貴な家柄っていうのは先祖が成り上がって、時間がたったから高貴なんだよ。
たとえ天皇家とかでも例外はなし。
徳川家は天皇家も思い通りにできるようになってから、400年。
今は十分高貴。
655日本@名無史さん:03/10/07 18:36
天皇家も朝鮮から流れてきた亡命者だしな。
656日本@名無史さん:03/10/08 14:18
そんな他人のこと知ってどうすんだ。
くだらないからこのスレやめよ
657日本@名無史さん:03/10/08 21:20
お前の人生が一番くだらないよ
658ty270410:03/10/11 22:32
松平氏は室町時代に京都の公家に仕える武士だったと
確かな古文書に出ています.
続群書類従刊行会から出版されている本です.書名は忘れました.
姓は源氏ではなく,藤原氏です.
659日本@名無史さん:03/10/11 22:37
>>658
忘れてしまような古文書は「確かな古文書」などとは言えません
660日本@名無史さん:03/10/11 22:55
>>659
それは>>658の記憶力の問題で史料の価値とは関係ないだろ。
661ty270410:03/10/11 23:46
>>658 の追加
「史料纂集」だったと思います.

なお,家康が藤原氏であったことは,
>>639 でも指摘されています.
662日本@名無史さん:03/10/12 02:54
>>658
室町初期に公家に仕えていたのは、松平益親のことですか?
かれは加茂氏を名乗っていたとおもいますが。
663639:03/10/13 15:01
>>661
639です。
私が書きたかった事は、家康は便宜的に藤原を使ったという事です。
世良田として複姓したいが、複姓は前例がないし、衰えたとはいえ、足利将軍も
健在である状況で新田の末裔で通すのは難しいし、家康は将軍家と当時パイプも
ありませんし、力になってくれたのは藤原の近衛前久ですし。
とにかく、三河守で認めてもらうなら、仮に藤原でも我慢しようという事で。
世良田は見つからなかったが、同族の得川につなげるのはどうか?同じ読みの
徳川という系図ならあるが、(もちろん世良田とは全然関係ない)途中で藤原に
分かれているけど、どうする?
「とりあえずとれでいいです。」という感じではないでしょうか?
1588年には公的に源家康でとおしてます。私文書ならずっと源家康。
親氏は足助八幡にも源親氏で署名しています。家康が知らないとは考えられません。

元々は源氏だが途中から源氏と藤原氏に分かれた徳川という系図、
詳しい方いらっしゃいませんか?

664日本@名無史さん:03/10/13 20:38
>>663
>足助八幡にも源親氏で署名
それは偽者です
665日本@名無史さん:03/10/13 22:09
>>658

それは松平信光が京都の足利家執事の伊勢氏に仕えていて、三河の領内の
違乱者を戸田康光と共に取り締まれと命じた文書かな?
666日本@名無史さん:03/10/13 22:21
>>665
伊勢氏は公家じゃないよ。
どこかの公家の近江国にある荘園の代官をしていた益親、勝親父子のことだろ。
667ty270410:03/10/13 23:27
>>665
そうです.
調べていただきありがとうございます.
668日本@名無史さん:03/10/21 22:07
すいませーん。
伊予松山藩「久松・松平」家の16代当主「定謨」は他家からの養子との事ですが、
どこから養子に来たんでしょう?
調べても「松平勝実の子」「松平勝實の三男」とかで、出自がハッキリしません。
セオリー通り、他の松平一族からの養子のようですが。
これまた謎な父上には「勝」の字が入ってるから、尾張系でしょうか?
それともパターン化している近隣の四国系か、あるいはやり取りの多い伊勢系か。
669日本@名無史さん:03/10/23 00:47
松平勝實の三男じゃん
何言ってるの?
意味不明なこと書くなよ!
670日本@名無史さん:03/10/23 01:33
静岡で窮迫していた旗本だそうです。

「勝」の字は久松系でも使っています。
とくに幕末は、家定将軍のイミナを避けて「勝」の字を使っていました。
671日本@名無史さん:03/10/23 01:39
だから、その松平勝実は何者か、つってんだよ低能
672日本@名無史さん:03/10/23 01:59
自分で調べろ、ハナクソ
673日本@名無史さん:03/10/23 19:40
「668」です。

いや、「勝実」と「勝實」、どっちが正しいのかすら分かりませんでしたので。
で、松平もいっぱいあるので「結局どこの松平シリーズから来たんだろう」と。

>>670さん
ありがとうございます。
窮迫していた旗本・・・旗本退屈男(藁)。
まあビンボーだったら、傘貼りとか畑仕事に精出して忙しいんでしょうね。
静岡(駿河)で旗本・・・江戸以外にも旗本はいるのですね。天領内のお侍さん
だったのでしょうか。
では、十六家にすら数えられない、超末席家系の端くれなんですね。
久松に来て良かったなぁ「定謨」くん、一気に子爵様だもん。
(ホント、どういう縁で養子のコネとか引きがあったんだ・・・)

じゃあNHKアナの大御所・定○モは、傘貼り旗本の子孫?(脳内傘貼り決定)
674日本@名無史さん:03/10/23 21:03
>673
>「勝実」と「勝實」、どっちが正しいのかすら分かりませんでしたので。
単に旧字かどうかという表記の違いだけで、同じじゃないんですか?
675日本@名無史さん:03/10/23 21:28
>>674
ありがとうございます。

ここのランキングの中にいるんですかね、傘貼り旗本の家系は。
「大名旗本の実高ランキング」
ttp://village.infoweb.ne.jp/~ksatake/libinde.html

とりあえずこちらを全部あたってみます
「徳川家康以前の松平諸家」
って、この16家からまたいくつに分かれとるんじゃい・・・(-_-;)
ttp://www.shibuyam.com/Keizu/Matsudaira/MATUDAIRA.html

傘貼り旗本・勝実くんのルーツを探せは、ウォーリーよりめんどくさそう・・・。
676日本@名無史さん:03/10/23 22:29
嵯峨天皇が崩御したのが842年だろ
少なくても500年はたってからの事だべさ
どっかで源氏と交わってても別に可笑しく無いな
50代遡ると日本人は、みんな親戚らしいからな。
677日本@名無史さん:03/10/23 23:09
静岡ってのは、維新後だろ?
江戸の将軍家が静岡藩に転封されて、
旗本もそれに付いて行ったってこと。
金に困って、帰農して、
牧の原を開拓したっていうのはそこから来てるんだよ。
678日本@名無史さん:03/10/24 00:06
順位 旗本家(本地・家格) 当主名 表高 村数 実高(石) 領地所在 採用名 在所、大村等備考
32 久松家(三河) 松平因幡守 6,000 17 6,109.96670 武蔵上総下総 因幡守/勝千代 在所は下総・飯篠村
33 久松松平家(尾張) 松平侶之丞 5,000 15 6,087.88034 下野下総 − −
64 久松松平家(三河) 松平栄之助 5,000 19 5,468.03600 信濃2郡内 - −
679日本@名無史さん:03/10/24 03:01
松平で通字が「勝」だと久松系。
680傘貼り旗本退屈男:03/10/24 10:52
すいません、凡ミス。松山久松家は、子爵ではなく伯爵でした(スゲー)。
しかし>>678さんの上げられた人達は旗本としては結構大台クラスなので、困窮
した傘貼りくんではなさげですね(脳内傘貼り断言モード突入)。
>>679さん、ありがとうございます。久松松平家初代「定勝」の片諱を継承してい
る家系、ということでしょうか
(でもどこにも書いてないマイナーさのあたり、御家紋・御連枝系ではなく十六系
の末席くさい)
まあ男女問わず子供のやりとりありますからねぇ。

こうして家系図ばっか見てると、世祖の血が幕末まで絶えてない松平家ってある
のかと思います。
しかし維新後に松平一族は旧姓に戻ってる家が多いのに、満州生まれの大御所・
定○モは、なんでマツダイラのまんまなのでしょうね。
681日本@名無史さん:03/10/24 11:38
>680
久松系に勝があるのは、定勝というより父親の勝俊からのものでしょう。
久松系は定勝だけでなく、兄弟もあるので。

>松平一族は旧姓に戻ってる家が多い
これはそんなことないでしょ。
外様系大名を別にすれば、桜井、大給、松井、大河内、久松、吉井くらいでしょ。
このうち十八松平は桜井、大給だけ。
久松系でも桑名の系統とか旗本の系統は松平のままだよ。
682日本@名無史さん:03/10/25 00:51
松平勝実

なぞの人物だな
松山久松家は現在も勝実の系統が続いているので気になりますね
683日本@名無史さん:03/10/25 17:00
みんな、もっと真面目に発言しよーぜ!
684傘貼り旗本退屈男 :03/10/25 22:48
>>681さん
ご教授ありがとうございます。しかしまた謎が生まれてしまいました。
十六松平+2の2と言うのは、どういう松平さんでしょうか。十四とする説ありと
いうのは見かけるんですが、+2ってどこだぁぁー?!
よし、人にばかり聞いてないで調べよう。ええーと。
竹谷家、形原家、大草家、五井家、能見家、長沢家、深溝家、
大給家、滝脇家 釜家、桜井家、東条家、藤井家、三木家で十四家。
+松平郷家 宮石家で、都合十六。
+2は、岩津家・鵜殿家でよろしいでしょうか。

なんか家系の迷路図にどっぷりはまっていきます・・・。
こいつら追っかけてるだけで、すぐ1〜2時間たってしまう。

追伸。では定○モが久松系というのは、松山でなく桑名・旗本系なんですね?
謎の人物、傘貼り旗本・勝実くんの実家系とか。
685日本@名無史さん:03/10/26 01:01
>684
十八は諸説あるようです。
ほかには西福釜、丸根、石川、細川とかも数えることがあるようです。

定智氏はたしか桑名では?
NHKアナウンサーも久松系の旗本出身です。
686傘貼り旗本退屈男:03/10/26 02:26
今のところ、実子・養子関係ては、ここんちが一番詳しいです。
ttp://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/japan/smmatudaira01.html
将軍家・御三家・御三卿・御連枝・御家門(越前系・会津・久松系・奥平)は
カバーしてます。
しかし旗本とか十六系は・・・。
どーでもいいけど、十六系って、苗字としては難解な読みが結構多いですね。
(漢字テスト。十四系の読みを答えなさい)
>>684
あ、福釜の福が消えてる(-_-;)。
十六系の祖・信光の男子が全員成人して分家してたら、十六ではすまなかっただろ
うなぁ・・・がんばったな、おっさん。

新・また謎
あの〜「押鴨」とかいう松平も現れたんですが・・・これは「大河内」みたいな
傍流でしょうか?
687日本@名無史さん:03/10/26 10:00
>>573
永見家には家康の落胤(秀康の双子)もいなかったっか?
688傘貼り旗本退屈男:03/10/26 16:47
>>687さん
永見貞愛ですか?(下記上から2番目)
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/tokugawa.html
なんか家康は双子の子供達を、てってー的に嫌ってたみたいですねぇ・・・。
なんてかわいそーな秀康と忠輝(胤撒き散らした親父に全責任があろうに)。

ここ見たら、他に「安祥松平」とかいう家がある・・・。
ttp://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/01_1matudaira.html
どこまで増殖する、マツダイラ?
689日本@名無史さん:03/10/28 23:37
>>661
>家康が藤原氏であった...
正確には、”藤原氏を称したのであった”ね。
>>663
>元々は源氏だが途中から源氏と藤原氏に分かれた...
系図などあるわけがあかろう。二股大根に人参をくっつけたような。源氏だの藤原氏だのって
家紋から、加茂氏なのは明らかじゃあないか。
690日本@名無史さん:03/10/29 02:45
家紋から先祖はわかりません
691日本@名無史さん:03/10/29 02:46
賀茂親氏が在原(松平太郎左衛門)信重の長女と婚し婿養子となり初代。
信重の二女と婚した源(世良田)泰親が義兄の養子となり二代。
3代目は親氏の子信光が嗣ぎ、その子孫が松平・徳川氏。
従って血系でいけば賀茂氏だが、松平という家系では在原氏。
泰親の時に信広が太郎左衛門家、信光が後の徳川系と定まったので
それを重視するなら、両松平はともに泰親の子孫、すなわち源氏。
692日本@名無史さん:03/10/29 03:00
>691
だから賀茂親氏とか在原信重とか根拠を示してからにしてよ。
思い込みを繰り返しレスするのはやめてくれボケ
693傘貼り旗本退屈男:03/10/29 18:59
>>691
>>692
「賀茂・在原」云々というのは、下記の
ttp://www2.harimaya.com/aoi/index.html
・徳川氏の系図 -出自-
・松平氏を探る -家康以前-
みたいなことでしょうか。
おー、なんか家紋の本も出してる。
どーでもいーけど、信光すごいわ。
松平信光、徳川(一橋)家宣、徳川(水戸)斉昭・・・こいつらの子供足したら、
全部で何人になるんだ。恐るべきマツダイラ一族。

で、徳川家創設(再興?)以前の○○家松平を数えたらば・・・21ありました、
しかしまだ庶流分家もある。恐るべきマツダイラ一族。

で、上記リンク先の下部ページ「・松平氏を探る -家康以前-」のさらに下
■三代松平信光から分かれた松平一族
■四代松平親忠以降分かれた松平一族
のリンク先の系図が、画像が壊れてるのか見えないー!
694日本@名無史さん:03/10/30 23:55
みんな、もっと真面目に語り合おうぜ!
695日本@名無史さん:03/10/31 18:12
>>694
ネタも出さずにヤジってるモマエは、とても真面目とは言い難いな。
今のところ「十六松平」からかけ離れたスレにはなっていない。
揶揄するなら、今の流れと違うと断言かつ真面目であると公言できるような議題を出せ、話はそれからだ。
696日本@名無史さん:03/11/01 14:53
世良田伝説実はパクリか?


 旅の僧が地方の小豪族に招かれるといった例は、近郷にもある。
それが徳川家の先祖松平氏である。初代松平親氏(1332年〜1394年「豊田史誌」)は、新田一族の後裔で、時宗の僧として全国を行脚
していたと言われる。
親氏の場合は、豊田市の松平郷に入り、松平家の婿となった。
行福寺開山蓮翁実賢上人(1314年〜1395年)とまさに同じ時期の人である。
 松平氏は、何代もかけて三河平野部を掌握し、
全国の統一に進むのであるが、この松平氏の勢力拡大と
行福寺の基礎確立は符合するように思われる。

http://www8.plala.or.jp/sidarezakura/rekisi.htm
697傘貼り旗本退屈男:03/11/03 19:58
>>696
隆慶一郎が『影武者 徳川家康』って書いてたですよね。家康クリソツ(死後)の
影武者・世良田次郎三郎の話。彼はいわゆる流浪人な道々の野武士という設定でし
たが、放浪僧だった親氏がモデルなんですかね。
(マンガ版は途中で終わっちまった上に、続編ぽい『左近−SAKON−』の家康
はおっさん顔になってもーたので悲しかったっス・・・『影武者』の家康のほうが
カッちょえかったのにー!)
698日本@名無史さん:03/11/03 23:26
懐漫板に来い。
板は使い分けろ。
おれは使い分けて遊んでるから
あんたはあっち行って遊ぼうや。
699日本@名無史さん:03/11/05 16:56
700日本@名無史さん:03/11/05 17:30
>>688
安祥松平の長家は織田信秀と戦って戦死しました。
大河ドラマ「信長」で、信秀が臨終のときに長家の亡霊を見て、その亡霊に向かって、
「安祥長家!生きておったかっー!」
って言いながら、刀を持って斬りかかっていく場面がありました。
701日本@名無史さん:03/11/05 17:34
松平信忠の生没年は?
702傘貼り旗本退屈男:03/11/05 20:54
「大名家の系図を現代までつなげてみるスレ」
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1066495915/147
で「久松松平」の家系図作ってみました。
参考までにドゾ。
しかし、相変わらず謎の傘貼り旗本(断言するなっての)勝実クンの出自は分からんのでした。

>>698
懐漫板って・・・どこですか?
703日本@名無史さん:03/11/06 17:54
懐かしアニメ?
704日本@名無史さん:03/11/06 18:04
705傘貼り旗本退屈男:03/11/06 22:10
>>704
逝ってきました〜。
そして家系図スレでは、まだ久松追っかけています。
706日本@名無史さん:03/11/07 01:30
松平家当主の生没年
初代親氏:
2代泰親:
3代信光:1404−1488
4代親忠:1431−1501
5代長親:1473−1544
6代信忠:
7代清康:1511−1535
8代広忠:1524−1549
9代家康:1542−1616

ところで、親忠、信忠、広忠、さらに2代将軍秀忠と松平家は1代おきに「忠」の字が付くのは何故?
707日本@名無史さん:03/11/07 03:14
>>706
過去レスにもあるけど。

長親も本当は長忠が正しいらしいので、「忠」は岡崎松平の通字と思われる。
708日本@名無史さん:03/11/08 01:32
age!
709日本@名無史さん:03/11/08 05:33

なんでこんなに分家が多いねん

三河って誰もいない無人の荒野やったんか??。。。って前にも書いたような
気がするが
710日本@名無史さん:03/11/08 05:41

おかしいやないかい 分家=ただのドン百姓を○○松平って大仰に
呼んだだけちゃうんか
711傘貼り旗本退屈男:03/11/08 11:26
えー、>>668から引っ張ってきました議題
「明治期の松山久松松平家(松だらけ)の当主・定謨の実父、ナゾの傘貼り旗本・勝実クンのルーツを探せ」
が「大名家の系図を現代までつなげてみるスレ」で解けました。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1066495915/
の147、148、156、171、173をご覧下さい。

勝実クンは、確かに久松の流れを組んでいました。
しかも初代・定勝から絶えてない、久松オリジナルの血筋です。
>>670様の御教授下さった通りです。
実家は2千石、養子先(勝実自身も元々は養子だった)の家柄は5百石。
うーん・・・なるほど、ビンボーだ。
2千石\5百石/15万石・・・スゲー出世。

お騒がせ致しました。
これにて「松山久松松平家」補完計画、完。
712日本@名無史さん:03/11/08 12:38
>>709
3代信光がやたら長命で子供がたくさんいたから。
でも、足利一門だって松平と同じくらい分家は多い。
713傘貼り旗本退屈男:03/11/08 13:04
>710
家康が天下取ったから、持ち上がってきたまでで(^_^;)。
取らなかったら、ドン百姓に留まってたでしょーね。
以前、とあるイベントで、元京都の貴族の末裔という方とお話しましたが
「秀吉って、なんであんな人気あるのかね?」
「最下級のドン百姓から最上級の天下人にまで、のし上がったからでしょう」
それと似たようなモンでしょう。マイナーリーグからメジャーリーグに大抜擢(違うって)。

>>712
信光の子息追っかけたら、傘貼り旗本・勝実君を探せでは済まなくなりそう・・・。
そもそも足利も源氏一門なわけで。でもエセ源氏っぽいな〜、松平。
源氏のメジャー正統って、今どこなのかな? 足利系列の喜連川さんちですか。
714663:03/11/08 14:48
>>689
鼻紙の事を書いたのですが、ご理解頂けなかったようで残念です。
715日本@名無史さん:03/11/08 15:10
とくがわのせんぞなんてただのるろうそうじゃねーかとかいているひとはすでにじぶんがとくがわとらっぷにかかっていることにきづいていないのでよんでいるほうはたのしいよもっとかいてくれ
716日本@名無史さん:03/11/08 15:21
老中形原松平信義age
717日本@名無史さん:03/11/08 15:27
徳川家恩顧の末裔です。

しばらくは天ちゃんにいい思いをさせないとね。
もうすぐ、跡継ぎいなくなっちゃうんでしょ。
大丈夫、天下の面倒は徳川がみてあげるから。
718日本@名無史さん:03/11/08 19:12
>>713
足利系なら平島家が嫡流。
719日本@名無史さん:03/11/08 19:32
戦国末期には足利将軍家は一応滅亡するわけだが、その足利家の末裔がこの家である。
鎌倉の関東管領も戦国期にはいくつにも分かれるが、その中の古河公方の足利義氏の家を
小弓御所足利義明の孫にあたる足利国朝が、秀吉の命によって嗣ぐこととなり、下野喜連川
に封地を賜ったのが起こりである。

家康は源氏を称して将軍となり、徳川将軍は代々「源氏の長者」の称を朝廷から得ていた。
そのため家康は源氏の名流を特に保護し、この喜連川家を筆頭に、吉良家、今川家、
畠山家などの足利一門大名の末裔や、果ては新田家の末裔までも探しだし、
いわゆる「高家」として遇した。
中でもこの喜連川足利家を足利家の嫡流として、5千石を与え、万石未満ながら大名待遇とした。

出典
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/kitsuregawa.html
720日本@名無史さん:03/11/08 19:35
慶長六年(1601)、頼氏は千石を加増されたものの万石には届かず、
諸侯に列することはできなかった。が、喜連川氏は十万石格として扱われ、
交代寄合をつとめた。
また幕府は、喜連川氏を徳川氏と主従関係にあるとは見ていなかった。
江戸城内での殿席は将軍の代によって異なったが、頼氏の代は
尾張・紀伊・水戸の三家に次いだ。
 喜連川氏の家紋は「十六の菊」「五七の桐」それに足利氏の「二つ引両」と
最高格式のものばかりが連ねている。
なお、明治維新後、喜連川から「足利」に復している。

出典
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiturega.html
721日本@名無史さん:03/11/09 01:28
>>692
源泰親、賀茂親氏は別として
松平太郎左衛門家が在原氏ってのは
信憑性高いみたいよ。
722日本@名無史さん:03/11/09 01:44
>721

だから根拠を示してみろよw
723日本@名無史さん:03/11/09 02:12
>722
後世に作られた系図w
724日本@名無史さん:03/11/16 04:08
後北条家一門の末裔です。

しばらくは天ちゃんにいい思いをさせないとね。
もうすぐ、跡継ぎいなくなっちゃうんでしょ。
大丈夫、天下の面倒は後北条がみてあげるから。
725日本@名無史さん:03/11/16 04:41
徳川って、ラッキー珍将軍だろ。

1590年の時点では、どう見ても
豊臣>後北条>徳川

たまたま後北条が豊臣に臣従しないで、領地没収になっちゃったから、
ラッキーで後々、将軍になれただけ。
後北条が残っていれば、徳川は将軍には、なれなかっただろう。

ついてる奴には、かなわないな。(ワラ
726日本@名無史さん:03/11/16 13:09
徳川って、ラッキー珍将軍だろ。

1580年の時点では、どう見ても
織田>毛利>徳川
727日本@名無史さん:03/11/17 03:46
松平家の通字って古い時代だと「親」みたいだね。
時代が下ると、「忠」とか「信」なんかが多くなるけど。
あと、親氏の庶子が祖と言われる酒井家も家康期以前は「親」の字が結構ある。
728日本@名無史さん:03/11/17 03:51
室町中期に近江国伊香郡菅浦庄の地頭として現れる松平益親とは何者ですか?
729日本@名無史さん:03/11/17 03:52
>728
地頭じゃなくて代官でしょ?
益親は三河松平の一族。
730日本@名無史さん:03/11/20 04:52
益親って2代泰親の弟だっけ?
731日本@名無史さん:03/11/21 01:23
>730
違う
732日本@名無史さん:03/11/21 16:24
>>731
じゃあ3代信光の弟?
733日本@名無史さん:03/11/30 22:16
要するに徳川家のルーツは賤民盗賊ってことでよろしいのか?
734日本@名無史さん:03/12/01 04:09
松平氏は山賊です。
735日本@名無史さん:03/12/01 16:51
>>729
似たようなもんやろ。
736日本@名無史さん:03/12/02 02:22
>>735
ぜんぜん違う。

おまえレベル低すぎ。
おはなしにならない。
737日本@名無史さん:03/12/02 02:48
>>735=>>736
ジサクジエン
738日本@名無史さん:03/12/02 12:19

バカでも悔しかったんだ
739日本@名無史さん:03/12/02 16:24
740日本@名無史さん:03/12/03 03:24
竹谷松平家の家紋が、松平一族の中で唯一、新田宗家と同じ大中黒なのは何故ですか?
741日本@名無史さん:03/12/04 21:01
【週刊新潮】 「徳川宗家」を悩ますハーフの末裔「徳川光康」の正体

15代将軍徳川慶喜の末裔?
NPO法人「徳川葵栄会」理事長・徳川光康 
742暇人:03/12/04 22:49
暇だから誘いにのってみるか
278
伊勢氏の子分てとこか
743日本@名無史さん:03/12/05 13:26
744日本@名無史さん:03/12/06 02:51
徳川光康って養子。
徳川家とは血縁関係なし。もと諸星某。ロシアとのハーフとのこと。
745日本@名無史さん:03/12/06 03:06
>>740
確かに気になる。
746日本@名無史さん:03/12/09 23:05
清康の娘って吉良氏に嫁いでいるよね?
それに家康の正妻は今川庶流の関口氏出身。
当時の吉良とか今川の一族なんてかなり足利一門の名門という家柄意識ガチガチでプライド高いと思うのだけど、松平氏が本当にどこの馬の骨とも判らない一国人に過ぎないのなら、彼らは松平氏と婚姻関係を結ぶことを良しとするだろうか?
747日本@名無史さん:03/12/10 02:19
清康が吉良に嫁いだのは確認できない。

家康は今川の三河方面軍の大将として、今川の一門格としての処遇をうけていた。
748日本@名無史さん:03/12/10 17:55
清康が嫁ぐわけねーだろ!
749日本@名無史さん:03/12/12 00:19
松平信忠の娘も吉良家に嫁いでいる。
750日本@名無史さん:03/12/12 00:45
だからそれは事実かどうか確認できていない。
751日本@名無史さん:03/12/12 01:56
>>750
だからなに?
752日本@名無史さん:03/12/12 01:59
だからそれは事実かどうか確認できていない。
753日本@名無史さん:03/12/12 02:24
>>752
で?
754日本@名無史さん:03/12/12 02:32
だからそれは事実かどうか確認できていない。
755日本@名無史さん:03/12/12 02:33
>>754
ハァ?
756三河国住人:03/12/13 19:25
>>411って何でこんな決め付けが出来たんだろうか?
徳阿弥はともかく、在原氏が山賊という根拠なんてどこにあるのか?
このヴァカは松平郷に逝ったこともない癖にグダグダとイチャモン付けてたのか?
どうせ、正体はお国自慢板の愛知叩きヴァカなんだろ。
一年以上前のレスでも突っ込みたくなる。
757日本@名無史さん:03/12/16 12:45
冷静に
758日本@名無史さん:03/12/16 13:14
>>757
おまえがなー
759日本@名無史さん:03/12/17 00:20
冷静に
760日本@名無史さん:03/12/17 02:04
761日本@名無史さん:03/12/17 02:19
あほなことで
あげるな
762日本@名無史さん:03/12/20 16:47
三河物語は忠教が大袈裟に書いている部分が多々ありますが、のどかな松平郷の
領主松平氏が、徳翁齋信武の代になって一気に中山七名切取ったというのは、
ほぼ事実であると考えてよいでしょう。
藪田源吾のように直接攻め入られた場合もあるでしょうし、武力を背景に戦わず服従させ
らた場合もあるでしょう。
信武のみならず、相当数の武装集団が松平郷に流れて来たと考えるのが自然では
ないでしょうか。
煎本氏の説は極論すぎるとは思いますが・・・
763日本@名無史さん:04/01/03 23:20
age
764あぼーん:あぼーん
あぼーん
765日本@名無史さん:04/01/10 14:38
まあ、時宗の僧が平和裏に松平家の入婿に迎えられました。
めでたしめでたし。
なーんて、全部徳川さんの作り話だからなあ。
766日本@名無史さん:04/01/14 04:27
>706
これを見ると清康って凄いな。
13歳で息子が居たとわなw
767日本@名無史さん:04/01/14 23:07
>>766
もう少し詳しく。
松平家当主の生没年
初代親氏:?−?
2代泰親:?−1436以前
3代信光:1404−1488
4代親忠:1431−1501
5代長親:1473−1544
6代信忠:1490−1531
7代清康:1511−1535
8代広忠:1524−1549
9代家康:1542−1616
信康(家康長男):1559−1578
768日本@名無史さん:04/01/24 02:06
769日本@名無史さん:04/01/24 02:09
松平長親って71歳までしか生きなかったのに、
玄孫(家康)と同時に生存していたんだな。
770竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/01/24 04:55
>>769
曾孫・玄孫がヤバい時に何やってたんですかね?この人

何を考えていたのでしょうか?
771769:04/01/24 18:19
>曾孫・玄孫がヤバい時に何やってたんですかね?この人

ですな。徳川家康が60代70代であれだけの大仕事をやったことを
思い合わせると、ますます疑問を感じるなあ。
清康あたりは結構いろいろな事蹟を残していて有名な武将だけど、
彼が活躍した時代は長親が松平氏を牛耳っていて全然不思議じゃない
年の頃だけどねえ・・・。
772日本@名無史さん:04/01/24 21:16
長親は、三河に侵入した今川氏親・北条早雲の連合軍を撃退した。
773日本@名無史さん:04/01/24 21:48
広忠には当然水野氏を離縁したあと今川系の嫁さん入ってんだろうし
家康って父系の弟妹いないの?
774日本@名無史さん:04/01/24 21:54
>>773
広忠さんの後家さんは戸田さんだろう?
775日本@名無史さん:04/01/24 21:54
一応、家元という弟がいたらしい。
776日本@名無史さん:04/01/24 21:55
家元については、史料が少ないので実在を疑問視する声もあるが、
わざわざ捏造する意味もメリットもないんだよな。
ま、影の薄い弟だったんだろう。
777日本@名無史さん:04/01/24 22:03
家元さんは何歳年下で、江戸開府まで生きてたんですか?
778日本@名無史さん:04/01/24 22:45
徳川家は世良田の部落出身でしょ。
779日本@名無史さん:04/01/25 03:39
捏造したんじゃなくて間違いが残っただけだろ。
780日本@名無史さん:04/02/01 19:49
>779
ハァ?
781日本@名無史さん:04/02/01 21:53
おいちょっとお聞きしますが、立ち葵を
江戸期に使った家ってどんな家がある?
公家も武家もその他も含めて。

家に、女物なんだが立ち葵を打った籠があったんで気になってな。
782日本@名無史さん:04/02/02 00:29
なんか、田舎の法事で交わされる会話のようなスレですね。

「あそこの伯父さんはどこそこの分家で…」
「誰々さんは本家の次男で…」
「ここの奥さんはあの家から嫁に来て…」
783日本@名無史さん:04/02/02 03:17
>>781
本多家が有名
784竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/02/02 06:15
>>781
近所に本多という人がいて、武家風の家に住んでいた その本多家の墓
(浄土真宗の寺)に立ち葵の紋が彫ってあった

なお、この本多さんは他界されたか何かでいなくなって、家・土地は誰も
継がず売りに出されて、今は5軒の家とちょっとした駐車場になった
785781:04/02/02 09:15
>783、784
レスありがと。

うん、本多は有名だな。それは俺も知ってる。

籠自体は家の立替の時に処分してしまったんで、今は無いんだが。
立ち葵の紋が打ってあったのは間違いない、江戸期の物である。
江戸期に葵紋を使えた家ってのはかなり限られてるとはず。
だが、家は旗本なのよ。勿論家紋も葵じゃないし16松平とかの
徳川一族でもない。
まあ、小大名となら、通婚はたまーにある位の旗本ではあったが
葵紋は思いつく限りでは家と関係が無い。無論大名の本多家とも関係が無い。
何でこんな物が家にあったのか、可能性として俺が思うに
立ち葵を使ってる家から妻を迎える、位しか思いつかない。
でも立ち葵を使ってる家との通婚について、覚えが無い。
まあ、江戸期の全当主の妻について把握してる訳じゃ無いので、
何とも言えないが・・。
で、家の過去の当主の妻が使ってた以外で、あの籠が家にあった理由について
思いつく人いる?
それとも、松平、本多以外の大名旗本で立ち葵使ってた家ってあるの?

それと、仮に、あの籠の持ち主が、家の当主の妻だったとして
嫁入りした娘が実家の家紋入りの品をずっと使うものなのか?
例えば、島津の娘が伊達に嫁いだとして、丸に十字の紋付きの籠を
仙台や江戸屋敷で乗り回すとか・・。化粧道具ぐらいならあるんだろうが・・。



786日本@名無史さん:04/02/02 12:34
>>785
おまえいい加減なやつだな。

>本多は有名だな。それは俺も知ってる。
嘘はいけない知らないんだろ?

>籠自体は家の立替の時に処分してしまったんで、今は無いんだが。
>立ち葵の紋が打ってあったのは間違いない、江戸期の物である。
存在しないものを断定してる。これも嘘だな。

>家との通婚について、覚えが無い。
>まあ、江戸期の全当主の妻について把握してる訳じゃ無いので、
>何とも言えないが・・。
かたるにおちていいる。
787日本@名無史さん:04/02/02 13:06
786はなんでそんなにむきになってるの?実生活で辛い思いをしているの?
788日本@名無史さん:04/02/02 13:15
辛いことがあるならおもいきってここで言っちゃいなよ。だれもきみのことを笑ったりしないよ。ぜったいしないよ。
789日本@名無史さん:04/02/02 14:02
このスレを読むとサンカ説が真実だというのが肯けるな。
790日本@名無史さん:04/02/02 16:35
>786
お前、チョンだろ?自分の出生が卑しいのがそんなに悔しいか?
早く半島に帰れよ。
両斑に虐げられた先祖を祭ってやれ。
仮に781の先祖が旗本だろうが百姓だろうが、お前の人生と
何の関わりがある?
ここは、2ちゃんだぞ。ネタでも楽しめればいい位に考えればいいだろうに。

>781
質問については、わからん。
誰かわかる奴、答えてやってくれ。


791日本@名無史さん:04/02/03 02:42
>>781=790
わかりやすい間抜けだなおまえ
792日本@名無史さん:04/02/03 03:24
786=791
わかりやすい間抜けだなおまえ
793日本@名無史さん:04/02/03 03:36
>791
哀れなヤツ。
794日本@名無史さん:04/02/03 03:52
>>790=792=793
わかりやすい間抜けだなおまえ
795竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/02/03 05:32
>>785
新撰組の山南敬助も立葵紋を使っていたようなので、誰が使っていても
おかしくないと思われる
http://www.bakusin.com/kamon.html
796日本@名無史さん:04/02/03 05:39
徳川って賀茂氏の支族じゃないの?
797日本@名無史さん:04/02/03 07:48
そうかも
798785:04/02/03 15:19
>795
レスどうも。
誰でもつかえるのか?
それなら、それでもいいが。

嫁入り後にどちらの家紋を使ったかについては
わかる?
799山羊:04/02/03 22:01
徳川は源氏ではない。そりゃそうだ。
でも、先祖に徳川家康を持ち、征夷大将軍として15代続いたから名門だ。
天皇家の素性ははっきりしない。そりゃそうだ。
でも、神武相当人物が大和の盟主となり、天皇家として125代続いているから超名門なのだ。
どこは名門で、どこは卑しいと言ったって空しくないか。
ただ単に、えらい先祖がいるってな話だよ。
800日本@名無史さん:04/02/05 01:32
はっきりしないんじゃなくてはっきりさせないだけ
801日本@名無史さん:04/02/05 08:09
なんだかさぁ、太平記で鶴太郎が あーしかが って独特の
イントネーションで言ってたのが、耳を離れないの俺だけ?
802竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/02/05 08:37
>>798
誰がどういう使い方をしたかは俺も知らないです

名字は実家のをそのまま使ったので、家紋も実家のを使った可能性が
ありますが
803日本@名無史さん:04/02/05 11:39
COME ON!
804日本@名無史さん:04/02/05 16:31
あーしかが
805日本@名無史さん:04/02/05 20:36
由良家も、江戸時代はたしか立ち葵だったな。
806日本@名無史さん:04/02/05 23:47
>805
由良ってなんだったの?
旗本か?
807日本@名無史さん:04/02/06 02:33
ドクトルGの「仮面ラーイダV3」と同じようなものだね。
808日本@名無史さん:04/02/08 11:26
>807
いみわからん
809日本@名無史さん:04/02/08 22:27
いや,よくわかるのだが
わかるほうが人間としてまずいかなこの場合...
810日本@名無史さん:04/02/09 14:28
渡来系のサンカなんでしょ
811日本@名無史さん:04/02/09 14:31
ドクトルGの正体はカニレーザー

カニレーザーも「仮面ラーイダV3」と言いますか?
812日本@名無史さん:04/02/09 18:20
おっさんええ加減にせいや
813日本@名無史さん:04/02/09 19:34
V3はプライベートでいろいろ大変だったみたいだな
814日本@名無史さん:04/02/10 00:51
>>813
詳しく聞きたいです
815日本@名無史さん:04/02/18 00:19
V3は仮面ライダー家の正統な嫡流
家紋はダブルタイフーンになったがね
816日本@名無史さん:04/02/18 00:22
              ,,. -‐''''''''''''''''''''''‐- 、
             , ‐'":::::::::::::::::::::::::::::::::::`'‐、
           /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
           / ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::  ヽ
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        i::::|::::::;i:::::/l:::/ | ';:::::ト;:::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;i 激しくスレ違いや…
        |:::|:::::/|::/ |:/.  | ヽ;::l ヽ:::i丶::::';:;;;;;;;;;;;;;;i
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            ';:|';;;;;;;l i、 ``''ー---------‐,l::;;;;;/リ  _,,..ヘ
817名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/18 10:39
       |::::i:;', '''''"       ヽ ̄ ヾ''''\:::::;;;;;;;;;;;;;|
        |:::::::;;', -─‐-     -──-- i:::::;;;;;;;;;;;;;;|   
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818日本@名無史さん:04/02/20 21:10
大坂は敵
819日本@名無史さん:04/03/02 23:16
初めまして、変なスレだな(´・ω・`)
820日本@名無史さん:04/03/02 23:22
ウルトラ族の正統な嫡流はタロウ
821レオ&アストラ:04/03/03 00:04
所詮、俺ら兄弟は傍流よ〜、ケッ!
822日本@名無史さん:04/03/12 23:40
age
823日本@名無史さん:04/03/14 10:41
清和源氏系図を眺めていたら
初代経基親王の子
満政(美濃、尾張、三河源氏)
とありますが
家康の頃にはこの系統の人たちは
どうなっていたのでしょうか?
824日本@名無史さん:04/03/14 11:02
祖先は三河に流れた乞食坊主という話。
どうせ落ちぶれ源氏の末裔の養子か何かになったんでしょう。
なにせ、秀吉もなんとか天皇のご落胤とか太陽の子とか。
825日本@名無史さん:04/03/17 01:41
>>823
細川とか吉良とか今川とか戦国時代にはいっぱいいたよ
826日本@名無史さん:04/03/21 01:45
あげ
827822:04/03/21 01:58
俺んちも今日から清和源氏に変更する
828日本@名無史さん:04/03/21 09:55
わかってない人が。。。
829日本@名無史さん:04/03/21 16:57
>>825
ぜんぜん違います
830日本@名無史さん:04/03/29 16:21
>>823
水野氏
8311:04/04/02 11:53
「デカイのが負けたその時は・・・・
お礼にテメェ等全員この場で処刑だぜッ」
832日本@名無史さん:04/04/04 22:29
age
833日本@名無史さん:04/04/06 21:16
age
834日本@名無史さん:04/04/06 23:35
age
835日本@名無史さん:04/04/08 13:14
あげあげ
836日本@名無史さん:04/04/10 23:22
age
837日本@名無史さん:04/04/20 22:13
age
838日本@名無史さん:04/04/22 15:00
ガイシュツかも知れませんし、スレ違いかもしれませんがちょっと
教えてください。
源氏の傍流って、歴史の表舞台に出てくるだけでも足利、新田、武田、
佐々木、六角、佐竹、土岐、明智・・・といっぱいありますが、平氏
の方は北条くらいしかない(少なくとも知らない。)。
なんで?まさか嫡流、傍流まとめて壇ノ浦に沈んだわけでもなかろうに。
839日本@名無史さん:04/04/22 17:44
>>838
自称平氏の末裔なら結構いますが、モノホンとなると。
やっぱり鎌倉時代に入って守護地頭らが全国に散らばっていき、
それぞれが力を持って武士の時代に移行していく中で、平氏系
が拡散発展する余地は少なかったでしょうね。

で、そういった時代での平氏系はあまり散らばらず、意外や意外、
関東に長く残ってたりするんですよ。代表的なのは三浦・千葉氏系。
ここいらから相馬、葛西氏などが出ています。
840838:04/04/23 12:24
早速レスありがとうございます。よくわかりました。
841日本@名無史さん:04/04/23 14:33
>>838
佐々木,六角は宇田源氏じゃねーか。
842日本@名無史さん:04/04/24 13:39
>>823
水野氏
名字からして瀬戸出身者。単に源氏の嫁さんをもらっただけと思われる。
843日本@名無史さん:04/05/02 06:49
>>823
土岐が美濃源氏の本家のはず。
844日本@名無史さん:04/05/02 06:51
>>806
江戸時代の由良家は、高家待遇の旗本。
845日本@名無史さん:04/05/02 06:59
>>838
桓武平氏には、公家になった家系と武家になった家系の2系統が存在します。
葛原親王(桓武天皇の皇子)の2人の子のうち、高棟王の子孫が公家平氏で、高見王の子孫が武家平氏です。
高棟王の子孫からは、時忠・時子(清盛妻)・盛子(高倉天皇生母)の兄妹などが出ます。

ちなみに、宇多源氏にも公家と武家の2系統があります。
武家になったほうは、近江源氏と呼ばれ、佐々木を名乗りますが、のちに六角・京極・塩冶・朽木などにわかれます。
公家になったほうは、庭田家(後花園天皇・後柏原天皇の生母の実家)など数家が近代まで残ります。
846日本@名無史さん:04/05/08 22:59
あげ
847日本@名無史さん:04/05/15 15:00
新田義重は、自分の子供のうち頼王丸が一番可愛かった。
お母さんを大事にしなさい、自分の所領はお前に譲ると記した書簡がある。
晩年は夫人とともに頼王丸の家で生活し、そこで亡くなり、火葬されている。


頼王丸はのちの徳川義季。
848日本@名無史さん:04/05/15 16:05
>>1
なんでもいいが、十六ではなく十八松平だろ。
849日本@名無史さん:04/05/15 18:08
850日本@名無史さん:04/05/16 03:45
>>848
いや十四松平だ!!!!!!
851日本@名無史さん:04/05/16 09:55
 しかし、源氏源氏ってゆうけどやあ。清和源氏はじめのころの、多田満中は
父とされる源経基より年長だから、子でなく家をもらっただけでしょ。多田家
は摂津の大金持ちだから。そっからして、系図なんて当てにできないのに。徳
川が源氏なんてどうでもいいこと。銭積めば源氏にしてくれるのよ。
 佐竹はもと源義光の家臣でいつのまにか子孫になっちまった。足利は源氏の
御曹司を婿にしたと言い張ってる分家が本家を圧倒した。
 源氏ってもとは、嵯峨天皇が自分の親戚の百済王家の人々にやった氏らしい
けど。
852日本@名無史さん:04/05/16 10:07
久松伊予守、久松越中守、奥平大膳大夫、奥平下総守、松井周防守、
三木、戸田、鵜殿、大給和泉守、大河内伊豆守、竹原
853日本@名無史さん:04/05/16 13:29
>>810
俺もサンカ説に賛成。

今でも松平周辺(岡崎、豊田、額田山間部)には日本語とは
思えない(サンカ言葉?)地名が多数存在する。
当て字で日本語っぽく改めたとこが多いけど。

ex.シャチノミ→酒呑→現 幸海町
854日本@名無史さん:04/05/16 15:24
>851

つまり源氏とは貴種を迎え入れた
在地勢力
855日本@名無史さん:04/05/16 21:10
そうね、鎌倉時代の中頃に、都の貴族を婿にして家を継がせてはならぬというお触れが、幕府から出てるもんね。
856日本@名無史さん:04/05/17 01:09
>>853
サンカ語って外来語なのか?日本語の亜流じゃないの?
857日本@名無史さん:04/05/17 02:22
pupupu

サンカなんて信じてるんだ(藁
858日本@名無史さん:04/05/17 20:52
>>856
現代日本語って意味だろ。

>>857
まあ、何をもってサンカとするか、定義のもんだいじゃない?
859日本@名無史さん:04/05/17 21:49
>855
素晴らしい学術情報どうも。
どうやら都や他の地域からの貴人を
迎え入れて家をつがせる風習のようなものが昔の日本には会ったようですね。
このスレの松平一族も、またそうでしたし。
860日本@名無史さん:04/05/17 23:21
そういえば源実朝の室も京から迎え入れていたし、
以後の将軍も京から連れてきて家を継がせていたっけ。

婿はなくなったが嫁は戦国時代でも貰っていたようだし、
地方の大名が「貴人」であるための条件だったんだろうな。
861日本@名無史さん:04/05/17 23:42
江戸期の大名旗本の中に、公家の子弟と地元豪族の娘との間に生まれた子が祖先という家系伝承を持つ者は多い。
862日本@名無史さん:04/05/18 14:34
竹原?
863日本@名無史さん:04/05/18 18:13
松平一族が三河で勢力を広げた時も
在地の有力者のとこに
強引に松平のものを入婿させたんですよ。
だから同じ松平でももとは違う氏族だから
宗家と大草松平のように何度も戦争してたとこもあるのです。
864日本@名無史さん:04/05/23 12:49
松平容保の軍服きて正面からの写真ってたまにTVとかでみるけどかなり幼い顔だち
だけどあれっていくつぐらいの時の写真ですか?
865日本@名無史さん:04/05/23 13:08
初歩的な質問なんですけど徳川(松平)家は何を基準に徳川、松平を使い分けているんでしょうか?
866日本@名無史さん:04/05/23 17:31
家康以降と以前じゃない
867日本@名無史さん:04/05/23 23:27
>>865
1 徳川(将軍家)氏
2 徳川(尾張)氏・徳川(紀伊)氏・徳川(駿河)氏・徳川(水戸)氏
3 徳川(甲斐)氏・徳川(館林)氏
4 徳川(田安)・徳川(一橋)・徳川(清水)
5 松平(越前)氏(津山/福井)
6 松平(会津)氏
7 松平(尾張)氏・松平(紀伊)氏・松平(水戸)氏
8 松平(越前)氏(出雲などその他)
9 松平(奥平)氏・松平(菅沼)氏
10 松平(越智)氏・松平(鷹司)氏・松平(本庄)氏・松平(柳沢)氏
11 松平(久松)氏
12 松平(戸田)氏
13 松平(深溝)氏・松平(形原)氏・松平(竹谷)氏・松平(能見)氏・松平(大給)氏・松平(五井)氏・松平(桜井)氏・松平(滝脇)氏・松平(藤井)氏
14 松平(松井)氏・松平(大須賀)氏・松平(依田)氏
15 松平(前田)氏(加賀/越中)・・松平(伊達)氏・松平(黒田)氏・松平(浅野)氏・(松平(毛利)氏)・松平(鍋島)氏・松平(池田)氏(備前/因幡)・松平(蜂須賀)氏・松平(山内)氏
16 松平(島津)氏・(松平(毛利)氏)

868日本@名無史さん:04/05/23 23:28
(つづき)

1は徳川宗家
2は御三家
3は御両典家
4は御三卿家
5は越前家の本家(福井)・嫡家(津山)
6は秀忠庶子
7は御連枝(御三家分家)
8は越前家分家
9は家康女婿
10のうち松平(越智)氏は徳川(甲斐)氏庶流、松平(鷹司)氏・松平(本庄)氏は家光側室、松平(柳沢)氏は綱吉落胤
11は家康異父弟
12は廣忠後妻
13は廣忠以前の十八(十四)松平氏
14は武功による賜姓
15は縁組による賜姓(松平(池田)氏のうち備前家は初代輝政が家康女婿、因幡家は初代忠継が家康女の子)
16は外様国持(大身)大名に与えられた賜姓(松平(毛利)氏は越前嫡家との縁戚関係)
869日本@名無史さん:04/05/23 23:31
但し、
4と5の間には宗家相続権の有無という越すに越せない大いなる壁が存在する
870日本@名無史さん:04/05/24 00:05
亀レススマソ
>>851
とはいえ、やはり当時の感覚では「氏」は大事だろう。だからこそニセ系図とかいう話も出るんだし。
(ちなみに清和源氏は実は陽成源氏だった、という説をとなえる中で、源満仲は間違いなく本物の源氏
と主張する向きもある。)
871日本@名無史さん:04/05/24 00:09
清和源氏も陽成源氏も本物の源氏であることに変わりないが?
872日本@名無史さん:04/05/24 00:15
>>871さんへ
>>851さんが
「満仲が経基王より年長だったことは、多田氏が源氏の地位を金で買ったことだ」とおっしゃ
っているので、それを受けて別説を紹介しただけです。
話の流れが止まるといけないので、
>>865-869のみなさまの話を続けましょう。
873日本@名無史さん:04/05/24 00:21
>868
15の鳥取池田は、9が正当 だからこそ分家も松平を名乗っていたし
外様の岡山と違って親藩扱いだった。
874日本@名無史さん:04/05/24 01:08
>>873
加賀前田・富山前田・大聖寺前田モナー
875日本@名無史さん:04/05/24 02:34
ということは9は家康外孫だな
876日本@名無史さん:04/05/24 09:33
池田の詰間はどこ?
877日本@名無史さん:04/05/24 15:30
岡山・鳥取とも大広間
878日本@名無史さん:04/05/24 15:38
鳥取は大廊下の下までいったんじゃ?
879日本@名無史さん:04/05/24 17:51
大廊下下だったらシンパン扱いだな
880日本@名無史さん:04/05/26 09:33
親藩だとどうなるの?
881日本@名無史さん:04/05/28 17:39
>>872 婿をとるとウジは存続してもカバネが変わるんだよ。藤姓足利氏とか平姓畠山氏とか奥州清原氏→奥州藤原氏とか…。
882日本@名無史さん:04/05/28 17:44
血縁よりも地縁で結合するのは14世紀頃から。エセ新田岩松氏は新田氏惣領として、直接関係のない家も同族にしてる。松平氏もまたしかり。
883日本@名無史さん:04/05/28 21:29
徳川家康が囲碁殿堂入り 近世囲碁に絶大な貢献
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040528-00000201-kyodo-ent
884日本@名無史さん:04/05/28 22:53
経基王の生年は不明だが清和天皇の孫にせよ陽生天皇の子にせよ890年前後の生まれ
源満仲は913年生まれで確定してるから経基王より年長ということはない

賜姓松平氏はふだん他人からどう呼ばれていたのですか?

前田だとやはり「松平加賀守どの」てな感じで呼ばれてたんですかね?

自分で名乗るときも「それがしは松平加賀守でござる」てな感じで名乗
っていたのかな?
886日本@名無史さん:04/05/29 08:25
>>884殿
史料によっては年長に記録しているものもあり、過去に出たような”入手説”
を唱える方がいらっしゃるそうです。
私は例え年長であっても、それは満仲が経基王以外の他の陽成系の皇族の血を
引いているということでも説明がつくと考えており、すなわち年少でも年長で
も問題なく正真正銘の源氏であると考えていますがね。
話が脱線気味なので、今の話題に戻しましょう。

>>885殿
どうですかね?
あくまで「松平」は拝領のものだから、少なくとも自分からは使わないんじゃな
いですか?
887日本@名無史さん:04/05/30 09:36
公的な名前は松平加賀守だから、前田〜は使わない。殿中では松平も省いて加賀守殿と呼ばれる
>>887
さすれば、「前田」の呼称の存在意義は如何に?
889日本@名無史さん:04/05/30 14:58
自家臣や自領民にたいしての家の呼称。松平は前田一族内での優位性の象徴。金沢、富山、大聖寺の3家は松平。
なるほど しかし、対内的な苗字と対外的な苗字があるとはややこしいですなあ
891日本@名無しさん:04/06/01 06:27
----------------------------------------------------
「松平」 → 上、同輩、あるいは他人一般に対して。
        徳川家のファミリーであることを示す自称(かつ、公称)
----------------------------------------------------
「前田」 → 下(家臣、領民)に対して。
        主家のファミリーであることを示す自称
----------------------------------------------------
じゃない。称する対象がどういうグループかで使い分けしてるだけ。
難しくない。
892日本@名無史さん:04/06/01 14:25
七日市は前田だね
893日本@名無史さん:04/06/01 18:40
松平≒准親藩でよいの?
894日本@名無史さん:04/06/01 18:56
いや、松平姓を下賜することと、准親藩・譜代格を認める事にはならない。
あれはあくまでも外様大名懐柔策の一端ですから。
准親藩格は、鷹司松平家の松平左衛門督のことじゃないの?
895日本@名無史さん:04/06/01 21:43
池田・前田は准親藩じゃないの?
896日本@名無史さん:04/06/02 22:55
じゃないよ
897日本@名無史さん:04/06/03 18:11
じゃないんだ!
898日本@名無史さん:04/06/03 18:48
松平姓のままで三河に幕府開けばすごく好感持てるんだが。
一国の閣僚の役職名が「大老」「老中」「若年寄」とかそこらへんの
田舎の村の寄合と変わらんというのが凄い
900日本@名無史さん:04/06/03 19:12
>>899
三河の土豪であった頃の家政機関の名称を
幕府になってもそのまんま使ったからでしょ?
901日本@名無史さん:04/06/04 18:03
諸大名も真似してるんだよね
902日本@名無史さん:04/06/07 09:36
だね
903日本@名無史さん :04/06/10 14:06
賀茂真淵は,元録10年(1697年)に,現在の浜松市伊場町で生まれた.かつてここは岡部郷と称した場所である.
真淵の幼名は岡部三四(ソウシと読む)と言う.真淵の生家,岡部家は賀茂神社(現在の浜松市伊場町)の神官を
代々勤める家柄である.
岡部氏九代目の政定は,徳川家康に従って多くの戦功をたて,岡部家の中興を為した.
有名なのは,布橋の奇策である.徳川と武田の,いわゆる三方原の戦いの折り,政定は150余名の手勢を率い,
犀崖(さいががけ)という険しい谷間(浜松市内,静岡大学工学部近く)に橋に見せかけた布を張り,
武田軍に夜襲をかけてこの布橋に誘い込んだ.
その結果,武田軍のある者は崖に転落しある者は後から押し寄せる自軍の人馬に押し潰されて,
大量の死者を出すという,大戦果をあげたのである.
真淵は,この武士としての政定を誇りに思っていたようだ.
904日本@名無史さん :04/06/10 22:29
岡部氏が遠江国敷知郡浜松庄岡部郷に移り住んだのは鎌倉時代中葉の文永11年(1275年)のことであった.
岡部氏始祖の賀茂師重が,亀山天皇の宣旨により,ここに500石の領地を賜ったのである.
師重は山城の賀茂社の神官(禰宜)であった.
師重の弟道久は,拝領した岡部郷に賀茂大神を分けた新宮(現在の浜松の賀茂神社)を造り,
その神主として,またこの地の代官を兼ねて,ここに移り住み岡部氏を名乗ったのである.
国学者となった真淵が後に岡部姓ではなく賀茂姓を名乗ったのは,この先祖への想いのためである.
905日本@名無史さん:04/06/11 01:45
>>881
例えば徳川の場合は姓が源で氏が徳川?
すると「朝臣」ってのは何だ?朝臣も姓だよな?
‥‥どうも氏とか姓とかややこしうてようわからん。
古代と近世では解釈もだいぶ違うんだろうし。
その辺の歴史をわかりやすく解説している本って無い?
906日本@名無史さん:04/06/11 11:33
徳川ってもともとは、
新田郡の世良田村の、
出身でしょ?
東照宮もそこにあるし。
907日本@名無史さん:04/06/11 12:59
松平健やNHKのアナは徳川家の末裔ですか?
908日本@名無史さん:04/06/11 16:42
>>907
NHKの人は、
本当に松平だって言うことだけど。
909日本@名無史さん:04/06/11 18:13
旗本久松氏の末裔
910日本@名無史さん:04/06/11 18:40
マツケンは百姓の出だろ
911日本@名無史さん:04/06/11 18:58
>>908
マツケンサンバの方の本名は、「鈴木末七」だったはずw
912日本@名無史さん:04/06/12 00:13
>>907
伊予松山藩(久松松平氏)の分家の旗本の子孫。
913日本@名無史さん:04/06/14 03:21
竹谷松平氏ってどうして新田氏と家紋が同じなの?
914日本@名無史さん:04/06/16 04:18
>913
竹谷松平氏こそ本当の新田氏の末裔だから。
915日本@名無史さん:04/06/16 17:45
>>914
新田氏の末裔って、岩松氏じゃないの?
916日本@名無史さん:04/06/17 18:09
次スレどうする?
917日本@名無史さん:04/06/17 19:37
まだ早い
970過ぎたくらいでいいよ
918日本@名無史さん:04/06/17 19:56
西三河のあたりを走ると
家康以前の松平の旧跡をポツポツ見かけるが
誰か全部調査した人はいないのかな。
919日本@名無史さん:04/06/17 22:37
上様何をなさいますうわぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://iyou2ch.sytes.net/2ch/up2/file/1087312183.wmv
920日本@名無史さん:04/06/17 23:00
世良田徳川について、
詳しい人は居ますか?
921日本@名無史さん:04/06/20 01:11
922日本@名無史さん:04/06/22 09:47
詳しいけど、なんか用?

俺、大阪人なのでよくわからんのですが、○○松平というのは
大阪で例えると高槻松平・茨木松平・吹田松平・梅田松平・天王寺
松平・鶴見松平・枚方松平・八尾松平・長野松平・堺松平・岸和田
松平・・・・くらいの規模ですか? それとももうちょっと小さい?
(狭い?)
924日本@名無史さん:04/06/22 13:18
大阪のことはわからないけど、数村規模だから、多くても5000石くらいかな?北千住〜とか王子〜、日暮里〜、池袋〜、新宿〜、って感じかな?高槻とかって、万石級でしょ?
925日本@名無史さん:04/06/25 00:32
>>923
歴博DBより

検索条件:旧国名= 三河,地名1= 岡崎市
検索結果:303件
【合計】 63735.058594 【平均値】 210.346725
【最大値】 1526.479004 【最小値】 0.000000

検索条件:旧国名= 三河,地名1= 蒲郡市
検索結果:67件
【合計】 13150.319336 【平均値】 196.273422
【最大値】 1085.943970 【最小値】 0.130000


どうやら、数百石単位だね。
926日本@名無史さん:04/06/25 17:34
因みに、深溝家忠は関東移封まえは8000石。
927日本@名無史さん:04/06/25 18:24
>>926
しかし、もともと2ヶ村の領主
管領細川家臣団
http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/keicyou.html

ということは、これらの国人クラスとその家臣クラスとそのまた家臣クラス
がゴッチャになってるのでしょうかな
929日本@名無史さん:04/06/26 18:33
松平氏自体が黒人だから、その家来は細川でいう陪陪臣クラスじゃない?
930日本@名無史さん:04/06/27 18:54
江戸時代の旗本の最低ランクが200石。
931わしは多田氏族じゃ:04/07/01 12:27
兵庫県川西市はなぜ、兵庫県源市とか清和市とかならなかったのか?
932伊丹市:04/07/01 12:45
それはだな、ポイズン
933日本@名無史さん:04/07/03 13:36
それにしても親氏を時宗の流浪僧と信じている香具師が多いよな。
また、そう書いてる(作家)も多い。
もまいらちょっとお勉強すりゃわかるだろうに。
934日本@名無史さん:04/07/05 09:46
幕府を開きましたがなんか用?
935日本@名無史さん:04/07/05 11:41
>>931
伊丹市と合併して源市か清和市になるんだろ?ポイズン
936日本@名無史さん:04/07/07 21:22
今NHKの「その時歴史が動いた」で姓をめぐる攻防で
なんで源氏の姓を名乗ったかやっているよ。


937日本@名無史さん:04/07/07 21:23
姓じゃないだろと突っ込みながらいらいらしてみている
938日本@名無史さん:04/07/08 03:31
>937
姓じゃないなら何?
939日本@名無史さん:04/07/08 10:48
940日本@名無史さん:04/07/08 11:15
>>936
てか、徳川(松平)氏が新田の末流を主張しているのは、清康が世良田姓を名乗って以来のことなので、家康が関東支配のために考え出した全くオリジナルの発想ってわけじゃないのにね。
941日本@名無史さん:04/07/08 15:06
しかし、一時任官に際しては藤姓だったからな。
942日本@名無史さん:04/07/08 15:23
源家康
従一位 源氏長者 征夷大将軍
943日本@名無史さん:04/07/10 00:28
藤原になったり源になったり 忙しい奴だな
944清和源氏:04/07/11 09:37
戦国のビジネスマンですなあ
945日本@名無史さん:04/07/12 11:25
川西って甲子園球場がある市だよな。みんな大阪だと思ってるけど。

要は、官名もそうだが、ある程度実力がついたら氏も源平藤の
中から好きなのを名乗って良かったのかも知れない ていうか、
名乗るのが当たり前だったのかも

たとえば、本当は忌部姓で通称を太郎と名乗っている某が、国主
並の実力が付いたら、氏を源氏に変えて、通称も美濃守・内匠頭
などに変えるとか
947日本@名無史さん:04/07/12 12:26
>945
えっ! 西宮市では?
948日本@名無史さん:04/07/13 09:31
>>947
949日本@名無史さん:04/07/18 21:49
ところでこの14松平か16松平が
その後どうなったかご存じの方いますか?
三河には松平家は一つも残ってないようですが。

幕末に活躍した会津松平や桑名松平は
違いますか
950日本@名無史さん:04/07/18 22:18
>>940
世良田は清康の当時から名乗ってたんでしょうか。
あとから付け加えた話でなく。
951日本@名無史さん:04/07/18 22:19
>>933
教えてください
952日本@名無史さん:04/07/18 22:25
三河の16松平とかってホントはあまり研究されてないのでは。
忠輝は三河松平を継いだとあるが
具体的に三河のどの松平なのだろうか?

16(14、18?)松平の研究はひょっとしてタブーなのか?
(徳川家の圧力とか)
953日本@名無史さん:04/07/18 22:32
松平家忠

一、弘治一〜慶長五 三河深溝の人

二、天文17〜天正10 三河形原の人

三、忠吉は天正10年三河東条の松平家忠の後を継ぎ・・
954日本@名無史さん:04/07/18 22:49
>>950
清康が直筆で「世良田清康」と署名している史料がある。
日本中世史をやっている人なら結構常識。

>>949>>952
普通は「十八松平」という。
まれに「十四松平」という言い方をするが、これは俗にいう「十八松平」のうち、どの家を指すのかはっきりしているものが14家だから。
逆に言えば、残りの4家はどの家を指しているのか、明確な根拠がなく、説によってバラバラというわけ。
但し、「十六松平」などという言い方は、このスレ以外で見たことがない。

なお、家康の子供のうち、4男の忠吉が東条松平家を、6男の忠輝が長沢松平家をそれぞれ継いでいる。
幕末の会津藩主家は、徳川秀忠の庶子である保科正之の子孫。
幕末の桑名藩主家は、久松松平家(伊予松山藩主家)の分家。

以下参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/a¾a13a°#.E6.9D.BE.E5.B9.B3.E5.AE.97.E5.AE.B6.E3.81.AE.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E5.BD.93.E4.B8.BB.E3.81.A8.E8.AB.B8.E5.88.86.E5.AE.B6
955954(間違えた):04/07/18 22:52
956日本@名無史さん:04/07/18 22:54
>954
ありがとうございます。清康が世良田を
名乗っていたのなら
家康はなぜまた得川を名乗ったのでせう
957日本@名無史さん:04/07/18 22:59
会津松平は秀忠の庶子だから
松平を名乗ったのでしょうか?それともどこかの松平を継いだ形になっているのでしょうか?

久松松平は三河の松平とはまったく別の松平ですか?
958日本@名無史さん:04/07/18 23:13
>>957
会津は幕府から松平姓を許されただけで、どこかの松平家を継いだわけではない。
久松松平家は、家康の異父弟(父方は久松氏)を祖先とする。
但し、幕末の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、いずれも美濃高須藩(尾張徳川家分家。但し養子関係によって幕末期には血縁的には水戸系)の出身の養子。
さらに言えば、この2人は実の兄弟。
ついでに言えば、この当時の尾張藩主徳川慶勝も兄弟。
959日本@名無史さん:04/07/18 23:34
会津の松平が姓を許された家ですか、ああそうですか。

松平姓を許されたのは島津や毛利etcの徳川家から嫁を迎えた大名家だろ。
960日本@名無史さん:04/07/19 00:55
いわゆる18松平や親藩大名(三家・三卿等を除く)も、松平姓を許されて(というか強要されて)いますが・・・。
961日本@名無史さん:04/07/19 00:58
>>960
元々松平姓の家と名乗りを許された家の違いがわかりますか?
962日本@名無史さん:04/07/19 01:10
18松平は、松平宗家から分家した時点で、分封地の地名を姓にしていたが、家康の時代にすべて松平姓を名乗らされた。
だから、明治維新後、18松平のうち、大給・滝脇・形原・藤井等の松平家は、松平姓を捨てて元の姓に復した。

会津松平の場合は、元々保科姓であったが、正之が秀忠の庶子であるため、幕府から松平姓を許されていた。
しかし、正之存命中は、これを固辞し続け、3代正容の代になって、松平に改姓した。
963日本@名無史さん:04/07/19 20:33
竹谷氏はまだ在住
964日本@名無史さん:04/07/19 20:56
竹谷松平家の家紋は、何故か新田惣領家と同じ大中黒。藁
965日本@名無史さん:04/07/19 21:19
竹谷氏は三河の竹谷にいるってことですか?

18松平のうち東条氏なんですが
東条吉良氏と関係あるのでしょうか。
昔、あのあたりに行った時、東条城というのを発見したことがある。 城というより砦って感じだった。
966日本@名無史さん:04/07/19 21:23
それから、時代劇なんですが
桃太郎侍の松平鶴千代殿は
どういういわれの松平かご存じの方いますか?
たしか、岡山とかあっちのほうの藩だったような。
967日本@名無史さん:04/07/19 22:45
>>965
東条松平氏の「東条」って、吉良庄の「東条」だったの!?

>>966
美作津山藩?
968日本@名無史さん:04/07/19 23:08
>966
 関係ないけど、徳川鶴千代なら水戸家の世子の幼名ですね。
969日本@名無史さん:04/07/19 23:48
>>1
なんでもいいけど、次スレ立てるなら「十八松平」にしろよな。
970日本@名無史さん:04/07/20 00:04
>952 直近だと2年前に新人物往来社刊 平野明夫著 「三河 松平一族」
を読まれると良いでしょう。ただし、この本は松平嫡流の研究書で、傍流
については、後日・・・と冒頭著者言にあります。
18松平か14松平かについては、学説上もまだ結論出てないみたいです。
皆さんご自分の先祖調査をやってみるとわかると思いますが、簡単じゃないですよ。
色々複雑な人間関係や、政治状況、その他諸々の経緯が絡んで、「ネットで検索」みたいには
とてもいきません。
971日本@名無しさん:04/07/21 01:14
質問だけれど

【徳川家】徳川家康嫡流の家、及びその相続権を持つ家
【松平家】徳川家の一族と見なされた家(ただし徳川家の相続権を持たない)

という分け方でいいの?
972日本@名無史さん:04/07/21 02:08
現在の徳川宗家の当主は、会津松平家出身の養子です。
尾張徳川家には、明治時代に越前松平家から養子が入っている。
973日本@名無史さん:04/07/21 07:37
>>972
>現在の徳川宗家の当主は、会津松平家出身の養子です。
母親が宗家の血を引いているから、養子にもってきたんだろ!
974日本@名無史さん:04/07/21 12:20
>>973
そんなこと言われなくても知っているが。
>>971が当然男系での話をしていることは明らかだから、あえて触れなかっただけだが。
975日本史初心者:04/07/21 14:30
あのーー、初歩的質問で申し訳無いんですが、江戸時代に出現した丹後宮津の本庄松平、大和郡山の柳沢松平、上野吉井の鷹司松平、
も十六松平としてカウントしているんですか???
976日本@名無史さん:04/07/21 16:58
>>975
しているわけがない。
「十八(or十四)松平」というのは、家康以前に松平宗家から分かれた分家一族をいうのだから。
977日本@名無史さん:04/07/21 22:11
>967
たしかそうですよ。
東条。
私の記憶がたしかなら名門!東条吉良家と
関係があったような。

どうやら三河での松平家というのは地元のそれぞれの名家
をノッ取る形で
増えていったようなんです。

だから徳川財団(?)の人も調査したがらないのではないのかと
978日本@名無史さん:04/07/22 00:18
そんなこと言ったって、歴史は歴史。
それに、仮に乗っ取ったのだとしても、そんなことはあの時代には多くの大名が普通にやっていること。
例えば、毛利氏が吉川氏や小早川氏を乗っ取ったからと言って、それで毛利の名に傷が付いたわけでもなかろう。
979日本@名無史さん:04/07/22 13:02
初代 親氏
  酒井広親 - 酒井氏
  信広 - 松平郷松平家(交代寄合)
  泰親(宗家二代)
二代 泰親
  信光(宗家三代)
三代 信光
  守家(長男) - 竹谷松平家(交代寄合)
  親忠(次男) - 宗家四代(安祥松平家初代)
  与副(四男) - 形原松平家(丹波亀山藩)
  光重(五男) - 大草松平家(断絶)
  忠景(七男) - 五井松平家(交代寄合)
    忠定(忠景の次男) - 深溝松平家(肥前島原藩)
  光親(八男) - 能見松平家(豊後杵築藩)
  親則(十一男) - 長沢松平家(断絶)
四代 親忠(初代安祥城主)
  乗元(次男) - 大給松平家(三河西尾藩)
  長親(三男) - 宗家五代(安祥松平家二代)
  乗清(九男) - 滝脇松平家(駿河小島藩)
980日本@名無史さん:04/07/22 13:03
五代 長親
  信忠(長男) - 宗家六代(安祥松平家三代)
  親盛(次男) - 福釜松平家(断絶)
  信定(三男) - 桜井松平家(摂津尼崎藩)
  義春(四男) - 東条松平家(断絶)
  利長(五男) - 藤井松平家(出羽上山藩)
六代 信忠
  清康(長男) - 宗家七代(安祥松平家四代)
  信孝(三男) - 三木松平家(断絶)
七代 清康(1524年より岡崎城主、岡崎松平家初代)
  広忠(宗家八代)
八代 広忠
  家康(宗家九代)
九代 家康→徳川家康となる。浜松へ転出して嫡子信康に岡崎城を譲る。
  信康
十代 信康(最後の岡崎城主、切腹)
981日本@名無史さん:04/07/22 23:06
>979
>親忠(次男) - 宗家四代(安祥松平家初代)
親忠(次郎三郎)は三男では?一番上は、惣領家(岩津)の親長だったかと思います。
982日本@名無史さん:04/07/22 23:22
>>981
確かに通称が「次郎三郎」なら三男だろうな。
でも親忠の通称が「次郎三郎」ってことは、父親の信光も次男だったってことになるね。
983日本@名無史さん:04/07/23 23:23
次スレまだぁ?
984日本@名無史さん:04/07/24 00:15
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1090595662/

立てたよ。
「サブジェクトが長い」と文句言われたのでタイトル名は若干はしょりました。
985日本@名無史さん:04/07/24 06:31
>>979-980
徳川一族って、みんな松平姓を名乗っているのに、広親の子孫だけは酒井姓なのは、どうしてだろう?
986日本@名無史さん:04/07/24 19:59
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987日本@名無史さん:04/07/25 12:42
>>979-980
情報ありがとうございます。
これだけの情報を見たのははじめてです。
多くの家が断絶してるのが残念ですね。
他の家も江戸時代の転封でやはり三河には
松平家はもういないのでしょうか。

前レスに竹谷氏はまだ在住とのこと
でしたが本当かな?
988日本@名無史さん:04/07/25 12:44
三河にはもう松平家は残ってないのでしょうか
989日本@名無史さん:04/07/25 13:07
>>987
松平郷家は三河に残ってなかった?
990日本@名無史さん:04/07/25 23:10
>989
太郎左衛門家は、交代寄合で松平郷にいたはずです。
 ずいぶん前、日経の最終面に松平太郎家の後裔の方がいろいろな逸話を書いた
文章が載ったのを読んだ記憶があります。
 家来が大勢いるわけでないので、参勤の時は、出立の時と江戸入りの時だけ人
数を集めて行列を仕立て、道中は少人数で行ったとか。後、江戸に屋敷もないの
で、親類の大名の屋敷に泊まったとか、いろいろと面白い話が出ていました。
 幕末の当主は陸軍奉行並で榎本軍の幹部を勤めたことで有名ですね。そのご子
息も「松平太郎」を襲名しています。(「江戸時代制度の研究」の著者ですね。)
991日本@名無史さん
>>982
信光が二郎三郎