徳川家康の息子達

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927日本@名無史さん:04/05/07 14:24
やっぱ結城秀康は前田慶次〜雲のかなたに〜では格好よかったぜ。

家康との対面を長男信康がととえたおりに家康は一瞥だに
しなかった。
それが物心ついた秀康の最初の記憶であった・・・・。

928日本@名無史さん:04/05/12 08:53
>915
家康が存命なら東軍が負けても徳川家は安泰です、
その当時から秀忠が嫡子扱いを受けてたと思います。

秀康にとり秀頼は兄弟ですからね違ういみであったと思いますよ。
929日本@名無史さん:04/05/24 22:51
>>1
義も頼も、源氏のイミナでしょう。
秀吉亡き後、家康は徳川源氏説をさらに、あからさまに誇示したと言える。
太閤在りし時代は、秀吉におもねる様に、秀や、吉を息子らに拝領しているが、
没後は、征夷大将軍を期して、源氏路線を名前にも鮮明に打ち出した。
頼は、たしかにおめでたい淀殿を喜ばす為、秀頼からの拝領と見せかけていた
節はある。
930日本@名無史さん:04/05/25 19:37
信康が切腹しないまま関ヶ原を迎えていたら徳川はどうなっていたのだろう。
931/:04/05/25 23:51
武田信吉の資料が、少ない・・・。あんまり、活躍してないわりだからかー。所で信吉に娘いたの?
秋田氏の室とか、書いてあるけど、本当かな?
932日本@名無史さん:04/05/25 23:54
>930
戦力増大・・・ではなかったでしょうな。
家康にとって、悲しい記憶でしょうが、また、信長の時代を担う信忠より、信康が
有能だった説、そしてそれを危ぶんだ信長のセコイ政策説もありますが、実際には
岡崎の信康、浜松の家康という二元政治(分裂)を危惧した信長のはからいも
有ったでしょうから、残念だけれど、関ヶ原時の家康には信康という世継ぎは
有り得なかった。
秀忠か秀康か、ですよ。
933日本@名無史さん:04/05/26 00:19
>>932
言ってることがよくわからんな。詳しく説明して。
934日本@名無史さん:04/05/26 00:26
どっちにしろ、信長の意思で、松平信康は、関ヶ原までは生き延びられなかった。
織田信忠より、信康のほうが、才気煥発だったみたいよ。
同盟組んでたとは言え、織田は、徳川の主家でしょう、2代目で、逆転なんて信長が
許すはずが無い。また、家康派と信康派が、徳川家中の家臣を巻き込んで、対立していた
ようでもある。
935日本@名無史さん:04/05/26 02:16
http://www.domo2.net/bbs/test/read.cgi/picture/1048436364/148

リアル家康

リアル秀吉

http://www.domo2.net/bbs/test/read.cgi/picture/1048436364/147


http://www.domo2.net/bbs/test/read.cgi/picture/1048436364/149

誰だろう?なんとなく義経か八幡太郎義家じゃないかと無責任な事を書いてみる。
936日本@名無史さん:04/05/26 02:21
家康が後年酒井を罵ったのはガチ
937日本@名無史さん:04/05/26 02:59
>>934
思い込みじゃなかったらソースよろ。
938日本@名無史さん:04/05/28 19:39
家康のせがれ11人のエピソード
信康:自刃した際部下が介錯を失敗し肩や背中に複数の傷を受けた
秀康:城下町の散策が好みで、ちょくちょくお忍びの視察を行った
秀忠:鼓を打つことが趣味だったが、家康の死後きっぱりやらなくなった
忠吉:関が原の戦いで岳父井伊直政と同じ場所に負傷し同じ病気で死んだ
信吉:父の征夷大将軍就任をきき病身をおして喜び舞をまった
忠輝:「背低く色黒くまなじり裂け恐ろしげ」という奇怪な風貌だった
松千代:女中や母親とままごとをするのが大好きだった
仙千代:桜見物が好きで、家臣や母、親戚とよく名所を訪れた
義直:側室を選ぶとき城下の女風呂を腹心成瀬正虎と覗いて痴漢と間違われた
頼宣:交渉する才能に長け、由井正雪の乱もうまく乗り切った
頼房:息子光圀に処刑場から罪人の生首を藩邸まで持ってこさせた
939日本@名無史さん:04/05/29 00:11
今日テレビで家光が辻斬りが趣味で連夜罪も無い人を斬りまくってたということがやってた。
現在だったら、気違いだったのだね。プププ。
なんかすっきりした。
わははは。アホ家光なんか歴史で教える必要無し。
940日本@名無史さん:04/05/29 00:12
家光最高!
941日本@名無史さん:04/05/29 03:57
頼房:息子光圀に処刑場から罪人の生首を藩邸まで持ってこさせた

こいつもなんかおかしいな。
頭の螺子がとんでる。
942日本@名無史さん:04/05/29 03:59
義直:側室を選ぶとき城下の女風呂を腹心成瀬正虎と覗いて痴漢と間違われた

痴漢そのものじゃん。
堂々と選べばよいものを士道不覚悟で取り潰ししろ。
943日本@名無史さん:04/05/29 04:01
松千代:女中や母親とままごとをするのが大好きだった
仙千代:桜見物が好きで、家臣や母、親戚とよく名所を訪れた


尾張と水戸はもし生きていたらこの二人が継いだろうな。
上のレスに上げた2人はどうかんがえても使えん。

現に260年後やっぱりつかえてねえし。
944日本@名無史さん:04/05/29 10:00
>>943
そりゃ松ちゃん&仙ちゃんがマトモだったrという仮定の話な。
でもこいつらの同母兄弟ってそれぞれ忠輝と義直だべ?
やっぱりそれなりやばい因子を持って生まれてきていたのは確かなわけで。
945日本@名無史さん:04/05/29 12:43
>>943
それより、忠吉早死が痛い。
946日本@名無史さん:04/05/29 17:36
>>944
そりゃ偏見でしょ。
殺人犯の家族が殺人犯というのは偏見なわけで。
あくまでも本人の事績を見て判断しているわけで。
947日本@名無史さん:04/05/29 18:38
>>946
本人の事績ったって、マツセンは幼子やしのう
948日本@名無史さん:04/05/29 20:55
同母兄弟が忠輝と義直だからマツセンだめぽ説よりはマシ
949日本@名無史さん:04/05/29 20:58
自刃した際部下が介錯を失敗し肩や背中に複数の傷を受けた

失敗した部下は服部半蔵


950日本@名無史さん:04/05/29 21:01
http://www.city.tenryu.shizuoka.jp/jiten/jinmei/jinmeihtm/nobuyasu.htm

随分おっさんナ容貌ですがまだ弐拾歳
951日本@名無史さん:04/06/03 21:16
ひさしぶりにあげてやるかどっこいしょ
952日本@名無史さん:04/06/04 00:02
じゃ、オレの息子を見せてやるかどっこいしょ
953日本@名無史さん:04/06/04 22:42
関ヶ原で、井伊と一緒にセコイ抜駆けに及んだ、松平忠吉(四男)、こいつ最低。
井伊と同じ傷が元で早世。
954日本@名無史さん:04/06/04 23:35
>>953は福島
955日本@名無史さん:04/06/06 00:20
>>954
いかにも、わしは福島左衛門大夫じゃ。
いまいましきは、井伊と家康の小倅じゃ。

956日本@名無史さん:04/06/06 00:36

何であんたは左衛門佐じゃなくて左衛門尉なの?
957日本@名無史さん:04/06/07 23:26
左衛門大夫じゃと申しておるに。
958日本@名無史さん:04/06/07 23:42
左衛門大夫は、五位で左衛門尉という意味ではなかったかしら?
959日本@名無史さん:04/06/08 00:00
従五位の下だったっけか。
ちなみに、三成の治部少輔、大谷の刑部少輔は、実行力のありそうな官職だが、
正則や清正の官職は、意味はあったのかね?形式だけで、自分たちも自覚があって、
満足してなかったのかね。 清正は大陸で、勝手に豊臣を名乗ったりして、ならず者
のイメージと、秀頼警護の理性的な顔と両面だが、本当はどうだったんだろう。
960日本@名無史さん:04/06/08 00:16
官職名は形式だけとはいえ、秀吉の武家官位制でいえば
五位は諸大夫成ということだからそれなりのステータスを有していたんでは?

それと、家康の息子に絡めるなら
豊臣時代に秀忠が羽柴姓および中納言を与えられ、
秀康も羽柴姓を与えられているが少将どまり
すでに家康の後継者は秀忠というのが既定路線であったといえよう


961日本@名無史さん:04/06/10 13:41
小説に登場する家康の息子達
長男信康・南条範夫「無惨や二郎信康」
次男秀康・隆慶一郎「前田慶次〜雲のかなたに〜」
三男秀忠・隆慶一郎「影武者・徳川家康」
六男忠輝・隆慶一郎「捨て童子・松平忠輝」、南原幹雄「隠密太平記」
九男義直・南原幹雄「御三家の反逆」、鳥羽亮「柳生連也斎・決闘十兵衛」
十男頼宣・隆慶一郎「影武者・徳川家康」
11男頼房・村上元三「水戸黄門」
962日本@名無史さん:04/06/10 20:00
紅虎
963日本@名無史さん:04/06/10 20:05
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964日本@名無史さん:04/06/10 20:05
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965日本@名無史さん:04/06/11 03:04
初歩的な質問だけど、家康の側室には庶民の娘もいたそうだが
当時は女性の血統ってほとんど問題にされなかったん?
966日本@名無史さん:04/06/11 04:40
>>965
当時は女性の地位はさほど高くはなかった。早い話が政略結婚などで使い勝手のいい
駒のような存在。なお家康は女性を子供を産む道具と見なしていたため、血筋よりも体質のいい
丈夫な女性を好んだ。言い換えれば外見より中身(まあそうは言っても「美人で健康」が家康の
望みではあったが)。家康の側室は、その多くが出産経験のあるバツイチや未亡人。
女を道具と見るのは差別的だと思う人もいるが、当時としてはごく普通の価値観。
967日本@名無史さん:04/06/14 03:19
戦国時代だと毛利家なんかはかなり異色な存在なんだろうな。
968日本@名無史さん:04/06/14 11:31
元就は正室の子と側室の子で露骨に扱いを差別したんだっけか。
もっとも立場の違いを明確にすることで余計な兄弟争いを未然に防ぐという
元就一流の思慮だったらしいが・・・。
969日本@名無史さん:04/06/14 12:29
元就が遺言状の宛先にしている人物。
毛利輝元・・・長男隆元の子
吉川元春・・・次男
小早川隆景・・・三男
宍戸隆家・・・長女の夫

側室の子供は無視。
970日本@名無史さん:04/06/14 12:31
>>965
もちろん、正室は血統を重んじ、正室の嫡子は特別
扱いされたが、当時は「女の腹は借り物」と言う思想で
側室の血統は関係なかった。むしろ、庶民の娘の血が入る
事により、血の新鮮さが歓迎された。(一族同士や同じ血統
同士で血が濃くなるとひ弱な子が生まれたり、心身障害の
子が生まれる確立が高いので出来るだけ避けた)
971日本@名無史さん:04/06/14 12:54
なるほど。
972日本@名無史さん:04/06/14 16:36
幕府初期の元老、土井大炊頭利勝はやはり、家康の落胤と結論付けるのが妥当
であろう。そうでなければ下総古河16万石という大大名、大老にまで上り詰めた
説明がつくまい
973日本@名無史さん:04/06/14 19:33
>>972
家康はなんで公表できないの?
11人も息子がいれば、1人くらいごまかさくてもいいじゃん。
恐妻家なわけでもないし。
974日本@名無史さん:04/06/14 19:44
>>969
遺言状? 三子訓戒状とは違うのか?
975日本@名無史さん:04/06/14 19:49
>>972
立身出世が落胤の根拠にはならんだろ、とマジレス
976日本@名無史さん
>>974
違う。てか元就の晩年だと既に長男隆元は死んだ後。