西都である証拠。
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
政治的にある意図が感じられるのである。
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)
オサホズカ、メサホズカ、この2大古墳を中心にして西都原だけでも大小の古墳329を数え付近の川南古墳、持田古墳、
新田原古墳、本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。
邪馬台国はどこですか2
http://mentai.2ch.net/history/kako/983/983026206.html 「魏志倭人伝」を読む(邪馬台国はどこですか4)
http://mentai.2ch.net/history/kako/989/989770230.html 「魏志倭人伝」を読む(邪馬台国はどこですか5)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/994297399/l50
2 :
日本@名無史さん:01/10/13 19:15
どうして2つある?
こっちは沈めろ
と言って上げちゃった折れって馬鹿。
皆様も整理にご協力を。
都原古墳群は、南北約3千kmの台地に、大小311基の古墳がある日本最大の古墳群です。大体3世紀代から造られはじめており、
3世紀には最盛期を迎え、4世紀、
5世紀初めまで西都原古墳時代は続いたと言われています。
その中でも男狭穂塚(ニニギノミコト)、
女狭穂塚(コノハナサクヤヒメ)と
いわれている古墳は全国的にも有名で、宮内庁の御陵墓参考地に指定されています。
「古事記」「日本書紀」に記されている神話は歴史的示唆に富んでおり、そこに展開されるダイナミックな建国神話の中では、禊払い、海幸山幸伝説、天孫降臨、神武東遷等といった日向神話がその中核を占めており、西都はその日向の中心地でした。
現在は、「記・紀」の道としてゆかりの事跡が多数残っており、歴史のロマンをたどる散策コースとなっています。
詳しくは<西都市役所:商工観光課 TEL.0983-43-1111
初めてカキコするが、論理的思考をすれば邪馬台は九州で中心は日向だろう。
西都原は不可解な点が多すぎる。その過去の調査過程において。
畿内論者にとっては非常に不都合なものが多いからだ。
第一、刺青人など隼人以外の何者でもないではないか。
畿内説は余りにもコジツケだらけで読んでいてウザい。
>>1 >3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
陵墓参考指定はメサホ・オサホだけだろ。それとブロードバンドと遺跡調査が何か関係するか?
西都原の考古調査は既に100基以上行われてる。未調査率95%の算出根拠は&ソースキボンヌ。
>4
>邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である
奴国や伊都国の場所だって実際には発見されてねーだろよ。
>5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある
メサホの方がオサホより大きいだろう(w
>7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
西都原は単一名称の古墳群として指定面積が最大というだけで古墳数は少ないぞ。
広大な領域内に300個ぐらいの古墳がコショコショ有るだけだよ。それにほとんど5世紀の古墳だろよ。
>>5 >南北約3千kmの台地に、ってオーストラリアよか広くないか?
>>6 >論理的思考をすれば って言いながら結論だけ&感想だけかよ・・・
8 :
日本@名無史さん:01/10/13 20:33
初めてカキコするが、非論理的思考をすれば邪馬台は九州で中心は日向だろう。
西都原説は不可解な点が多すぎる。その過去の調査過程において。
畿内論者は歯牙にもかけないものが多いからだ。
第一、刺身のツマ以外の何者でもないではないか。
余りにもコジツケだらけで読んでいてウザい。
こんなのsageろよ!
だからどっちが保守本流?
こっちは「魏志倭人伝等を読む」・邪馬台国はどこですか6
あっちは「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか6)
↑ ↑
このあたりが微妙に違う。
ようく見れば識別可能。
こっちは、西都コピ夫クン主宰ということで存在価値を認めてあげよう。
12 :
日本@名無史さん:01/10/13 20:53
じゃあどっちもいい?
13 :
日本@名無史さん:01/10/13 20:55
ところでパート2とパート4みたいのだが
今、見れないのか?
15 :
日本@名無史さん:01/10/13 21:00
西都原以外に考えられないですね。
17 :
日本@名無史さん:01/10/13 21:18
それは思考能力の不足ゆえ
18 :
日本@名無史さん:01/10/13 21:22
「邪馬台国」というのは、一種の「聖地」なのであって、「菊池川」
周辺には、「卑弥呼」や「卑弥弓呼」を中心とした「祭祀集団」が居住していた。
「七万戸」の人口を擁する「北部九州」の人々が「祭政上」の「王」として仰いだのが
「卑弥呼」だったのではないか。そう考えてみると色々面白い連想が生まれてくる。
この「菊池川流域」は有数の「装飾古境地帯」だ。時代は数世紀下るが、これらの「装飾古墳」の
「壁画」は、何か「呪術的な」ものを感じさせずにはおかない。鮮やかな原色で彩られた「三角紋」や
「円紋」の怪しい色調は、我々を千数百年以前の古代へと連れ戻してしまいそうだ。
おのずと、「卑弥呼」の「神懸りした」姿が脳裡に浮かんでくる。「倭人伝」の「正始八年」条には、「卑弥呼」と「卑弥弓呼」が、「相攻撃」して争ったと記す。これも「祭祀地域内」での「覇権争奪」の争いと考えれば、うまく理解出来る。
19 :
日本@名無史さん:01/10/13 21:27
さて、肝心の「邪馬台国」はといえば、「筑紫平野」一帯に広がっており、「卑弥呼」の「宮殿」のみが「山鹿」にあったのだと考えた。
「水行十日」は「太宰府」附近の
「筑後川支流」から流れを下り、「有明海」を南下、「菊池川」を遡ることで説明しようとした。「陸行」は説明するまでもない。
こうして一応「投馬国」と「邪馬台国」の位置については仮説を立てることが出釆た。あとは、「九州説」に有利で、「畿内説」
に不利な情報を掻き集めてゆけばよい。
例えば、「東渡一海」の件がある。「倭人伝」には、
女王国の東、海を渡る千余里、復た国有り、皆倭種なり。
と記す。この記事が果たして、どれほどの確度を持つものか、
今では非常に疑わしく思っているが、当時の私には、いや「九州説」
を唱える人にとっては恐らく非常に有力な
「味方」となる一節なのである。この「海東の倭種の国」こそ「四国」のことを表わしているのだ。
また、「鏡」の件も「九州説」には有利に解釈出来た。「卑弥呼」は「魏の皇帝」から「銅鏡百枚」を「下賜」された。
「卑弥呼」の生きた「三世紀前半」は未だ「弥生時代」であって、「畿内の弥生期」には「鏡の副葬」の風習は見られず、
またほとんどその出土も見ない。方や「九州」はと見ると、これはもう「ジャラジャラ」と鏡が出土する。
20 :
日本@名無史さん:01/10/13 21:41
「三世紀前半」が未だ「弥生時代」なんて無知も甚だしいね。
だから九州説は、もうおしまいなんだな。
21 :
日本@名無史さん:01/10/13 21:50
22 :
日本@名無史さん:01/10/13 22:02
よく見ると過去形まじりで書いてるね。
23 :
日本@名無史さん:01/10/13 22:50
井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦
井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦
井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦
井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦井沢元彦
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24 :
日本@名無史さん:01/10/13 23:08
九州でジャラジャラ出る鏡は前漢から後漢初期のもんだよね。
時代が違うのは明白なんだけど。
25 :
日本@名無史さん:01/10/14 00:03
また九州説の批判???やめろよ、手前みそ。
27 :
日本@名無史さん:01/10/14 00:22
お花畑の世界へようこそ。
つまり 1 は荒らしたかった、と。
29 :
浄土真宗本願寺派:01/10/14 00:27
おや大木さん、こちらにいらしたんですか。
元末期の「一向宗」って何ですか?マジで知りませんのでレスきぼんぬ。
30 :
日本@名無史さん:01/10/14 16:13
陸行1月は陸行17日で許せ!
ソレ以外すべて魏志倭人伝(エノキセツ)で充分過ぎますね。
31 :
日本@名無史さん:01/10/14 16:41
陸を17日もあるいたら、60km×17=1020kmも移動してしまうぞ。
九州からでてしまうのではないの?
32 :
日本@名無史さん:01/10/14 16:43
60キロ??
33 :
日本@名無史さん:01/10/14 16:46
伊都国から奴国まで30キロで2日じゃなかった?
34 :
日本@名無史さん:01/10/14 17:03
今の奈良〜南大阪の地区と宮崎の地区に2つの邪馬大国(ヤマト)があって、
宮崎から神武天皇が奈良のほうに婿入りしてきたんだヨ。
卑弥呼がいたのは宮崎のほう。(by原田常治
魏使はイトから先には行ってないと思うけど
隋書に「倭人は里数を知らない」ってあるから
イトから先は、全部現地で聞いて里数に直して書いたんじゃないの?
でも、水行が出てくると、それは里数には直せなかった
そもそも水行10日、陸行1月の行程の間に
全く国の名前が出てこないっておかしくない?
その余の旁国は…って要するに、行程の中に入ってないから
距離がわかんないってことでしょ?
やっぱイトからの距離なんじゃないの?
ヤマトとトモは
36 :
日本@名無史さん:01/10/14 17:32
60kmの根拠は徒歩の時速5km×12Hから算出。
徒歩で歩く場合の時間は江戸時代の標準によっている。
まあ、邪馬台国の時代に時速5kmで歩けるか?ってのは
疑問だが。
少なく見積もっても、600km〜700kmはあるんじゃないか?
37 :
日本@名無史さん:01/10/14 17:39
同時代の文献から30キロ2日と推定。
江戸時代の東海道53次を基準にしちゃイヤ!
38 :
日本@名無史さん :01/10/14 18:00
中国で「里」という単位がどのように発生したのか知りたいのですが。
計量史に詳しい方いらっしゃいましたらおしえてください。
どれがただしいのやら
なんかもう一個の方、基本的なところで視野がずれてる感じだから
こっちをあげとく。
安本:甘木
井沢:宇佐
鹿島:西都
関:2ヶ所あった、倭人伝に載せられてるのは九州の方
大和:同上だが、畿内のヤマトを間違って記録してしまった
著名人は割と九州説寄りだね
>>42 ageてる。必要もないのにageとかくお人もいるのさ、世のなかにゃ。
44 :
日本@名無史さん:01/10/17 16:30
案外サイトだったりして
日本人の祖先は失われたユダヤ十部族であるとか、スサノオノミコトの息子・
ニギハヤヒノミコト(※1)が真の日本の初代天皇であり、皇室はその事実を
隠しているとか、卑弥呼はアマテラスで、邪馬台国は九州の西都原にあったと
かいうようなことをづらづらと述べているわけである。いま読み返して見ると、
『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)や『東日流外三郡誌』
(つがるそとさんぐんし)といった怪しげな資料を使用していたり、
チャネリングはインチキと言っておきながら、北川某というチャネラー
だけは信用できると主張したりと、その記述は全く信用ならない。
今で言えば「トンデモ本」の部類に入るだろうか。
しかしその頃の私は、本の記述を疑うということを知らなかったので、
この『〜日本古代史の秘密』の内容を7・8割がた信じたのである。そし
てこのニギハヤヒノミコトの事跡を小説かマンガにでもまとめれば面白い話に
なるだろうと思ったのである。この時の私はまだ知らなかった。『
〜日本古代史の秘密』の内容を既に安彦良和氏がマンガ化していたことを・・・
のマンガというのが『ナムジ』・『神武』二作である。正確には、ナムジこと
オオクニヌシノミコト父子を主人公としており、ニギハヤヒノミコトはその
ライバル的存在として描かれている。更には安彦氏が引用しているのは
〜日本古代史の秘密』ではなく、その記述の元ネタとなった(というより
丸写しにしているように思える)、『古代日本正史』(原田常治・同志社
=今の婦人生活社)という本である。
安彦氏は『ナムジ』第1巻のあとがきで、この『古代日本正史』が学究的
ではなく雑文に近いとしながらも、原田氏の仮説は注目に値すると考えて
このマンガを描いたのだと言う。実際この古事記シリーズは、原田氏の主張
(ニギハヤヒが初代天皇だったとか、神武東征は史実であるとかいったこと)
をベースに安彦氏が絶妙な脚色を加え、非常に面白い古代史ファンタジーに
仕上がった。トンデモ本にインスピレーションを得て、傑作が出来あがった
わけである。
サイトくん死にましたか。それともカキコ禁ですかって返事はできんか。
コムロ
橋本龍太郎の子種をつかって雅子を腹ましてでも、天皇制は存続させます。
49 :
名無しさん脚:01/10/20 16:19
邪馬台国で村おこし。研究者の近所が邪馬台国。
50 :
日本@名無史さん:01/10/20 16:34
万世一系かどうかってのを問題視する発想っていうのは
神代から人皇を経ていまに繋がっている/いないことから正統性を担保したいっていうスケベーな根性から来ている.下品な話だ.
そういう下品な発想をしないひとには,いまの天皇のほんとうの出自なんかどうでもいい.
51 :
日本@名無史さん:01/10/20 20:12
http%3A%2F%2Fwww%2EGOO%2ENE%2Ejp&frameid=300&providerid=113&uid=30194301
52 :
日本@名無史さん:01/10/21 16:45
奈良〜南大阪の地区と宮崎の地区に2つの邪馬大国(ヤマト)があって、
宮崎から神武天皇が奈良のほうに婿入りしてきたんだヨ。
卑弥呼がいたのは宮崎のほう。(by原田常治
正直、応神朝以前の歴史は闇に葬られた
仲哀記における、不自然な記述や欠史8代は
それ以降の皇統譜との非連続性を意味している気がする
応神記には、ハッキリと東征が書かれている
しかも、その出発点は、応神の出生地である
朝鮮???
オキナガタラシヒメは、元々オオタラシヒメと
言われていたらしいが、そうすると
オオタラシヒコこと景行天皇との類似性が注目される
景行天皇は、九州への巡幸が事績の中心となっている
そして、その巡幸コースが、神功のそれと
元は一つのものであったことは、既に解明されている
朝鮮半島南部、北九州、南九州、出雲、吉備、畿内
当時大きな勢力を誇っていた地域が河内で統合されて
応神王朝ができたのではないかと思う
54 :
日本@名無史さん:01/10/21 18:16
日本書紀の記述は何パーセント信頼できるの。
55 :
日本@名無史さん:01/10/21 18:20
400年以上あとに書かれたものだよ。
まるで信頼できないね。
56 :
日本@名無史さん:01/10/21 18:46
卜部本?
57 :
日本@名無史さん:01/10/21 18:57
何でも他人のせいにしたがるウヨさんに聞くが、
コシコデンは200年くらい前に書かれた偽書というが
上記なんて確か日本書紀と重複している記事あるんだが
見たら書記より内容が詳しかったりするんだ。
だからもしかして書記の方がコシコデンより後の時代に書かれた
史書と断定してもいいのでは?
日本書紀こそ200年前の平田の時代に書かれたものなのでは?
58 :
日本@名無史さん:01/10/21 19:55
あ
59 :
日本@名無史さん:01/10/21 19:59
60 :
日本@名無史さん:01/10/21 20:16
だけど詳細なほうが偽書というのは納得ならん。
61 :
日本@名無史さん:01/10/21 21:00
uyo 君よ
頼むからこっちは荒さんでくれ
62 :
日本@名無史さん:01/10/21 23:36
ふつう詳細なほうが偽書なの。空想で書き足すからね。
ウヨ・UYO > 畿内説論者
根拠 > 誰某が言っているよ
論理的に > 俺が思うに
日本最大 > 329
著名人 > 竹村健一、井沢元彦、安本、鹿島・・・
世間 > 己の人生
推敲 > 妄想
65 :
病院行きましょう:01/10/25 17:06
ふつう詳細なほうが偽書なの。空想で書き足すからね。
>>ダ・イ・ジョ・ウ・ブ・?
.
67 :
日本@名無史さん:01/10/25 17:54
333333
>>65 元祖のほうのスレを荒らしてるのはキミだろ?
やっぱりそうでしたか。
皆さんお待たせしました。65です。ちょっと病院まで行っていたので遅くなりました。
>>66>>67のようなアラシはとても卑劣なのだが論理的に許せません(藁
>>68 元祖というのは、邪馬台国どこスレforウヨのことか?(藁
>>69 (藁藁藁藁藁
>>70 では僕はこれから井沢読んでから妄想に浸りつつ寝るから九州説の正さはサイトで決まり。(藁
72 :
日本@名無史さん:01/10/27 16:29
73 :
日本@名無史さん:01/10/27 16:34
そもそも西都という地名がいつの時代まで遡ることができるのか疑問。少なくとも「西」「都」という漢語を受け入れてからつけられた地名だろうから3世紀までは遡れないだろう。純然たる和語で、当てられた漢字から意味がとれないような地名のほうが古くからあると思われ。
74 :
日本@名無史さん:01/10/27 16:54
「西都原」は、もともと「斎殿原」といってましたが、中世以降に転訛したものです。
従って古代の「都」などとは何の関係もありません。
うーん畿内に大きな勢力(ニギハヤヒ?)
があったのは確かだと思うんだよね
で、現天皇家の祖先が、その勢力を継いだOr婿入りした
なぜ記紀は、あれほど畿内の王権を強調するのか
日向から出発したのはヒコホホデミで、
「神武天皇」になるのは、畿内で即位してから
たとえ、邪馬台国が九州のどこかにあったとしても、
畿内での勢力発生とは、また別の問題ってことなのかな
76 :
日本@名無史さん:01/10/29 19:24
そう言えば伊都国も「都」の文字が最後についてるだニャロメ!
(伊都国と言えば神武天皇が・・・(この後は貸間本参照のこと))
77 :
日本@名無史さん:01/11/01 18:38
ayu
78 :
日本@名無史さん:01/11/01 19:26
貸間本は阿呆電波の代名詞です
80 :
日本@名無史さん:01/11/01 20:28
どこが?
81 :
日本@名無史さん:01/11/01 20:41
。
82 :
日本@名無史さん:01/11/06 18:32
真面目に語りましょう
83 :
日本@名無史さん:01/11/06 20:32
南九州説のポイント
大体、三つの基盤から成り立っていることがわかる。
一つ目は、魏志倭人伝において、「海を渡る」「水行」という二種類の記述が
適宜使い分けられていることである。このことから、邪馬台国は九州島内にあった
と考えることができる。
二つ目は、記紀の神武東征説話において、神武天皇が日向の国から出発したと
記されていることである。そして、なぜわざわざ敵地である日向と記述されて
いるかといった疑問から、実際に神武が日向にいた可能性を指摘した。
三つ目は、邪馬台国と大和の名前の類似から、邪馬台国が東遷して大和勢力に
なったという邪馬台国東遷説である。
この三つを組み合わせると、邪馬台国が南九州、とくに日向の地にあった可能性が
高いように思える。
つまり、日向に邪馬台国が存在し、そこから一部の集団(神武率いる)が東征して
大和朝廷(王権)を樹立したという解釈である。その場合、現地に残った勢力は、
隼人として後に大和朝廷と敵対することになったと考えられる。
この説の中心は、なぜ日向から神武が出発したかという点にある。邪馬台国が北部九州で
あれば、わざわざ日向と記さずに筑紫や豊国と記述すればいいし、邪馬台国が元から大和にあれば、
王朝の正当性を主張するために編纂した歴史書において、わざわざ神武が日向から来たなどと記述する
必要は無いのである。
その疑問を手っ取り早く解決すれば、実際に神武が日向の国にいたと考えるのが妥当ではないだろうか。
そして、そうだとすると、日向にあった邪馬台国の勢力の一部が、東に移動して大和になったと考えるのが妥当であろう。
84 :
日本@名無史さん:01/11/09 20:51
q
85 :
日本@名無史さん:01/11/09 20:59
西都の語源はサイト(site)だろ。だからこの地名ができたのはInternet普及後と
いうことになるから卑弥呼の時代までは遡れないな。
86 :
日本@名無史さん:01/11/09 21:09
西都(サイトで)いよいよ邪馬台国の真相が・・・
あげ
88 :
日本@名無史さん:01/11/11 15:50
南九州っぽいね、支持上げ
そう言う事
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
”万世一系”という以上、これを否定する邪馬壱国の歴史、
あるいはそれを示唆するような資料は、当然抹殺されねばならない。
朝鮮総督府の朝鮮史編纂に関する昭和七年七月二十一日の
第六回委員会において、黒板勝美東大教授は、
「・・・鮮内各地名族旧家の秘蔵資料を借り入れ(略奪)、
その複本を作成(改竄)したものが、千三百五十余冊、
写真が二千七百余点である」と述べているが、
別の所では次のように記されている。
「大正十二年十月八日第一回委員会において定めた
朝鮮史編纂の大綱によって、人員と予算の許す範囲内に
おいて出張調査し・・・大正十五年十二月には更にこれを
一層強化し、全鮮各道は至らざるなく、更に内地・満州に
至るまで極力採取に努め、・・・
延べ日数は昭和十三年三月までに二千八百日、
蒐集資料は実に四千九百五十冊、写真四千五百十一枚、文記、
画像・扁額など四千五百十三点に達した」
委員会は更に、「・・・大正十二年七月、
黒板顧問が対馬に資料採訪を行ったとき、
朝鮮に関係ある文書古記録等が多数対州旧藩主宗伯爵家にあることを知り、
・・・古文書類六万六千四百六十九枚、古記録類三千五百七十六冊、
古地図三十四枚、古画類十八巻及び五十三枚を購入した」と述べている。
つまり黒板が焚書したと言う事なんだね。
こんな奴がいたから卑弥呼の墓に尻尾をつけて捏造したのさ。
おいおい、西都原古墳群の発掘は早稲田じゃなくて国学院だろうが。
発掘調査報告書も国学院の図書館に所蔵されてるし、
国学院の渋谷校舎の出土資料館に、西都原古墳群から出土した勾玉や刀が展示されてるぞ。
はっきりと5世紀末期から六世紀中期となってるぞ。
飯田橋に勤めてるんだろ?アンタ。国学院までそんなに遠くないから確認してみな。
文京区の由美ちゃんと一緒にさ。
新国民社の移転先も国学院からたいして遠くないから(目黒区民センターのすぐ近くだ)
ついでに行って本でも買えよ。もっとも裏ビデオ買わされるかもしれないがな(w
ついでにもうひとつ。
男挟穂、女挟穂両古墳は島津氏が神宮寺城という城砦を築いたおかげで原型を留めていない。
(「日本城郭大系」「日本城郭全集」「日本古墳辞典:九州編」etc・・・)
おまけに天保十年に急遽ニニギノミコトの墓とされて古墳の形に捏造された事実
(国立公文書館所蔵「斎殿原神明神宮縁起次第」)を知らないのかな?
明治3年の宮内庁の調査でも、石室内には伊万里焼の壺や天保通宝が
何枚も見つかっているのにね(クス)
93 :
大室寅之スケベ:01/11/13 01:04
邪馬壱国は西原理恵子だ!
ソースは「人生一年生」と「鳥頭紀行〜くりくり編〜」だ!
南九州っぽいね、支持上げ
禿胴!
まさにその通りだな
お父さんとは死別したのか。お気の読様。南無第六天魔王、南無第六天魔王。
97 :
日本@名無史さん:01/11/15 17:12
日出ずる国=日向=邪馬台国
同意上げ!
98 :
日本@名無史さん:01/11/15 18:40
すべての国の総数が7マンコと解釈できないの?
どこにあろうが7マンコはちとでかすぎないか?
禿胴!
まさにその通りだな
100 :
日本@名無史さん:01/11/16 05:25
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禿胴!
まさにその通りだな
>明治3年の宮内庁の調査でも って、その頃宮内庁なんて無いだろよ。
>>92 「書陵部調」は明治33年の間違いじゃないかい?
105 :
日本@名無史さん:01/11/21 14:29
縄文時代には熱帯ジャポニカによる稲の栽培が日本でも行なわれてるね。
さらに縄文末期には温帯ジャポニカも導入している。
混在して植えていた跡も発見されており、
従来の『弥生時代に外からやってきた人が稲を持ち込んで支配』説は崩れさった。
106 :
日本@名無史さん:01/11/26 12:54
ようするに昔から日本人(あるいは倭人あるいは縄文人)は
日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもいたということだね。
逆にいうと白村江の戦い以降だけが特殊な状態であるということ。
107 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:29
そもそも三国志正史の記述が正しいという根拠は?
子孫から賄賂もらって良いように書いた書でしょ?三国志正史って。
いまいち、信用に足らないと思われ。
108 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:46
こっちのスレは偽物だろ
禿胴!
まさにその通りだな
110 :
日本@名無史さん:01/11/28 18:35
歴史は素人なんで素朴な質問だが。
賄賂もらって良いように書いたって魏や晋についてはわかるが
なんで邪馬台国について良いように書く必要があるの?他国のことだよ。
魏志倭人伝の倭人の風俗を読むと大和とは思えませんけどね。
111 :
日本@名無史さん:01/11/30 17:46
大体南を東に変えたり7万戸がオーバーだったり畿内信者は妄想が多すぎ
禿胴!
まさにその通りだな
>>110 >賄賂もらって良いように書いたって
デマだから、まともに取り合わないように
114 :
日本@名無史さん:01/12/01 13:33
SiteUp!!
初めてカキコするが、論理的思考をすれば邪馬台は九州で中心は日向だろう。
西都原は不可解な点が多すぎる。その過去の調査過程において。
畿内論者にとっては非常に不都合なものが多いからだ。
第一、刺青人など隼人以外の何者でもないではないか。
畿内説は余りにもコジツケだらけで読んでいてウザい。
116 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:15
a
117 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:20
ho
(´-`).。oO(へぇ…そうだったんだぁ…)
119 :
日本@名無史さん:01/12/06 23:55
西都by西都
(´-`).。oO(へぇ…そうだったんだぁ…)
121 :
日本@名無史さん :01/12/09 02:57
●
123 :
日本@名無史さん:01/12/11 21:45
124 :
日本@名無史さん:01/12/11 22:57
ヤマト=邪馬台こそ当て字
邪馬壱国こそ正解だゴラァ!
125 :
日本@名無史さん:01/12/11 22:59
7万戸、人口約30万人の記載からして筑紫平野かそれより規模のでかい日向くらいしか該当しないダニャロメ!
127 :
日本@名無史さん:01/12/11 23:02
128 :
日本@名無史さん:01/12/11 23:07
西都原古墳群は、南北約3千kmの台地に、大小無数の古墳がある日本最大の古墳群です。
3世紀には最盛期を迎え、4世紀、5世紀初めまで西都原古墳時代は続いたと言われています。
その中でも男狭穂塚、女狭穂塚といわれている古墳は全国的にも有名で卑弥呼の墓に違いありません。
129 :
日本@名無史さん:01/12/15 23:59
西都原信者は盲信しすぎでは?
どう考えても邪馬台国はアズマの血である秋田にあった。
130 :
日本@名無史さん:01/12/18 23:16
日本中央(だっけ?)の碑があるのは秋田だっけ?
名古屋にきまっとるぎゃ
132 :
日本@名無史さん:01/12/19 00:43
そういや、天孫降臨の地もその辺だね
133 :
日本@名無史さん:01/12/19 01:17
日本中央碑は三沢と野辺地の間。
134 :
アズマも反アズマも出て行け:01/12/19 01:34
何ヶ所かあるんじゃなかった?
東に海があるのは( )だけ
136 :
日本@名無史さん:01/12/22 22:10
sousou
沖縄に決まっているだろう
138 :
日本@名無史さん:01/12/26 18:12
日向説って、神武とリンクするの?
139 :
138する:01/12/26 18:53
神武天皇であるが、元の名をイワレヒコといい古代朝鮮
(といっても現代の朝鮮半島ではなく、中国遼寧省の
遼東半島のあたりにあった)の扶余族の王であった。
また扶余族の支配者は、その淵源をトルコの
「ウラルトゥ王国」にもち、『上記』等にある
「ウガヤ王朝」とは「ウラルトゥ王国」のことである。
つまり、神武の先祖はシルクロードの西からはるばる
満州の地までやって来たのである。
神武と卑弥呼は夫婦であり、卑弥呼は中国のユダヤ系
フェニキア人、公孫氏の女であった。
彼らが朝鮮半島を南下して九州に上陸し、「伊都国」
(福岡県)、「安羅国」(宮崎県西都原)を建て、
アラビア及びインドにその先祖を持つニギハヤヒが
熊本に建てた「多婆羅国」と連合した3つの国家が
邪馬壱国(邪馬台国)であり古墳時代の始まりであった。
卑弥呼の古墳(宮崎県西都市西都原古墳男狭穂塚)
高さ:19m 外堀外径:249m 主円丘部径:132m
そして勃発した”白村江の戦い”。
新羅、唐の連合軍に敗れた倭と百済の連合軍こそ
”邪馬壱国(邪馬台国)”の系譜であった。
新羅は戦勝国として日本列島を占領し、開いた時代が”
奈良王朝”である。
しかし、この奈良時代も”白村江”の百済の残党、
桓武の”平安王朝”と交代を余儀なくされる、、、、
このように古代日本列島には種々の民族が渡来してきており、
このことを考慮に入れると”日本多民族渡来国家”が正しい
呼称と言えましょう。
日本人と共通の先祖は”北倭”(東胡)である、言っている。
”北倭”の一部が、扶余族の神武に率いられて九州にやってきた
のが邪馬壱国(邪馬台国)建国の頃(紀元200年頃)である。
140 :
日本@名無史さん:01/12/26 19:31
神武は百済の王、仇台のこと。
百済王であった神武は福岡地方に伊都国を建てた。したがって福岡地方には百済の前進基地があったことになる。
それより前、ニギハヤヒは熊本地方に多(婆)羅国を建てていた。また朝鮮半島にも多婆羅国があった。
百済と多(婆)羅国は合体した。クタラとは旧タラ国の意味である。
百済の前進基地たる伊都国と多婆羅国は、日向の安羅国とともに邪馬台国連邦を形成していた。
したがって、朝鮮本国の百済が滅亡しても「白村江の戦い」に出向かざるを得ない理由があったのである。
もちろん倭国とは九州のことで、卑弥呼は日向の安羅国にいた。
最近の九州説ってこんなのばっかなんだぜ。
落ちるとこまで落ちたもんだ。
142 :
日本@名無史さん:01/12/29 23:24
こっちはトンデモ系が作ったニセスレ
144 :
日本@名無史さん:02/01/04 02:10
>>143 usoha tuitehaikenaito mamani osowaranakatutano
145 :
日本@名無史さん:02/01/04 02:25
>>143 いいえトンデモではありません。日向説であれば(ただし西都)
魏志と古事記の記述に関する矛盾はほとんど無いことになる。
宮崎平野なら現在でも数十年に一度ぐらいしか雪は降らないし
土地が肥沃な為ほっておいても農作物が育成する。
それに宮崎なら邪馬台国の東に海があるという記載も生きてくるし
晋書倭人伝では三十ヶ国の合計が七万戸とかかれている。
いまある遺跡は明治に変造されたのだと叫ぶトンデモ
soreha anatano kotodesho
sousou
149 :
日本@名無史さん:02/01/11 06:07
mousou
maane
f\
152 :
日本@名無史さん:02/01/24 22:28
隼人、熊襲、吉備、出雲の勢力を抑えた事を考えると、
九州→大阪へ船で良く頻繁移動可能な状態が想像できる。
邪馬台国自体は九州説を1番と考えたいが、同時に大阪
あたりまでは勢力範囲であったと考える。
ある日突然邪馬台国が消えたのではなく、何らかの異変に
よって、大阪側が残ったと思えるのだが。
呉・越人による、海洋族が仁徳稜辺りを拠点を構えた大和説が
俺は辻褄が合うと思っているが、誰か意見ない?