898 :
水先案名無い人:2005/12/17(土) 00:12:36 ID:/O7u2Mic0
怒羅厳苦得守杜
今から20年ほど前、日本で発売され大人気を博したドラゴンクエストだが
その源流が古代中国にあることは意外と知られていない。後漢の時代、
劉翁(りゅうおう)という賊が仙人魯杜(ろと)の娘、魯羅(ろーら)を
さらった。激怒した魯杜は魏羅(ぎら)や回魅(ほいみ)などという仙術を
駆使して苦しい戦いの末劉翁を倒し、魯羅を救ったという。この物語は
琵琶法師の甫李偉(ほりい)によって語り継がれ、多くの子供たちを熱狂させた。
でもラプソーンはヘタレ過ぎ。
民明書房刊「勇者魯杜之伝説〜百元しかくれないみみっちい王様〜」より抜粋
廃成繁多示威(はいなるはんたじい)
かつて中国中央アジア近辺に主空依唖(すくうえあ)国という小国があった。
しかし近隣の騎馬民族に攻められ滅亡間近と言われた時、4人の英雄の活躍によって救われた。
彼ら4人は玖李廃流(くりすたりゅう)の武術の使い手で、
その実態は条武(じょうぶ)と呼ばれる様々な武器術や徒手空拳術を集めた総合武術であったという。
彼らはこれらの条武をいくつも極め、敵を翻弄した。
さらに帆船部隊を率いた司度(しど)王の援軍も受け、見事に勝利を収めた。
後にこの玖李廃流(略して廃流)大いに繁栄を極め、威を示したことから廃成繁多示威と呼ばれた。
現代、ファイナルファンタジーなるシリーズ作品が人気を博しているが、
この廃成繁多示威を元に制作されたことは定説となりつつある。
さらに誕生の逸話も滅亡間近という危機的状況から生まれたということも奇妙な一致といわざるを得ない。
なお、玖李廃流は略して廃流と呼ばれるが、
現在ファイナルファンタジーをプレイして廃人となる者が後を絶たないのは悲しい現象である。
民明書房刊「MMO〜その全貌〜」より
595 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/12/17(土) 13:04:37 ID:Urn1jWMU
【或笑茶(あるえむちゃ:アールエムティー)】
中国は古来より茶を愛する国であった。
数ある茶葉あれど、幻の茶葉とされる或茶葉は秘伝中の秘伝とされ
時の王侯政府が厳重に管理し、まさに門外不出の神秘の茶葉である。
或茶は飲むのではなく、風呂のように漬かる事により、麻薬のような快楽を味わえる。
満面の笑みで或茶に漬かっている様から、いつしか或笑茶と呼ばれるようになった。
ある時代、高い税率に頻発する暴動を治めるため、一部に或笑茶を許可した。
「足首まで・・・足首まで漬かるだけだから・・・・」
そして結局数ヶ月後はどっぷり肩どころか頭まで漬かってブクブクブク・・・っと。
それが運営公認或笑茶と呼ばれる歴史的悲劇の結末であった。
民明書房刊「溺れる者にはワラをやれ」より
プロシミン
1929年、治安維持法制定後多くの共産主義者が逮捕されたが、中には冤罪で捕らえられた者も
多く、警察は頭を悩ませていた。そんな中、東京帝国大学医学部教授、赤井邦道氏が拷問で死亡
した共産主義者の脳を解剖し、その思考回路を研究したところ、左脳に未知の脳内ホルモンが多く
分泌されていることを発見した。このホルモンはどうやら論理的思考プロセス形成を妨害する作用
があるらしく、そのことから「プロシミン」と命名された。警察はプロシミン分泌量を調べることで罪の
有無を判断できるようになった。
プロシミンが分泌されるメカニズムは現在も不明であるが、症状として、
・論理的思考ができなくなる
・体制の中や集団での生活に支障をきたす
・「地上の楽園」なるものを信じている
・「9」という数字を異常に神聖視している
などがある。戦後登場した「プロ市民」の語源は、元々プロシミンによる症状が悪化した人間の
暗喩であったことは言うまでもない。プロ市民が憲法9条改正に反対しているのもこの症状が
原因である。
余談ではあるが、過去に学校で「9」という数字が机を使って描かれていた事件があった。
これはプロシミン重症患者の仕業だと言われている。
ミュンヒハウゼン出版刊「世界の難病・奇病」より
訂正
学校で→学校の校庭に
うん、うまい。
科学ネタとは新鮮ですな
>>899 GJ。ジョブやシドの使い方がなかなかうまいとオモタ。
欲を言えば後期のFF低迷についても論じて欲しかったな。
907 :
水先案名無い人:2005/12/19(月) 21:24:40 ID:1GHtElwj0
寒天ダイエット(Karlten die yet...)
老若男女を問わず大人気の寒天ダイエットだがそれが実はイギリス議会政治に
端を発していることはあまり知られていない事実である。昔、自由党にカールストン
という議員がいた。彼は行政肥満を鋭く指摘したため首相に疎まれ、無人島に
流されてしまった。カールストンは太っていたので魚を上手く獲ることもできず、
天草から寒天を作って食べ、辛うじて生きながらえていた。何年もの時が経ち、
とっくにカールストンは死んだだろうと誰もが思って半ば存在すら忘れていた頃、
なんとカールストンは無人島を脱出して議事堂に戻った。この時議事堂で面影が
全くないほど痩せこけた彼が「Karlten(Karlston)die yet...」(カルテン・ダイ・
イェット…,カルテン未だ死せず…)と舌をもつれさせながら、いい加減な文法で
自分の名前も正しく発音できないほど衰弱して演説した姿はすぐに号外としてイングランド
中に広まり、その後、肥満に悩む民衆の間に寒天も広まるようになり、イギリスの
肥満事情は大きく改善された。同じゲルマン人種であってもイギリス人とアメリカ人で
ああまで体型に大きな違いがあるのは、実はこのカールストンの影響なのである。
珍人物往来社刊「これでアナタも痩せーる!失敗しないダイエット」より
物知り雷電タソ
魔美之儀
古代中国は秦の時代、この時代にもやはり自分の姿形にコンプレックスを持っていた女性は多く、
それに伴って整形もまた盛んであった。
当時人気のあった整形を上げるとすれば、現代日本でも引き継がれている整形手術だが、
巷では、材料を自前で調達できる漢方薬による整形が話題を呼んでいた。
薬についての資料は少ないので詳しくは分からないが、その薬物は飲んだ者をたちまち端正な顔立ちに変えてしまうのだという。
しかも、効き目が切れても副作用で元の顔より醜くなるということはなく、元通りの顔に戻ることが出来るという優れものだった。
この薬によって美しくなった女性達は、手術費用をかけることなく日常生活を美しい顔で過ごすことができるようになった。
また、この薬の効果によってたまに見る自分の素顔に対する感情が劣等感から恋しさに変わり、
自分の容姿に感じていたコンプレックスをも解消することができたのだ。
当時の人々は、この薬を服用することを「魔法の如き美の儀式」と称した。
薬の愛用者の間では、薬の服用は「魔美之儀」と呼ばれ、親しまれていった。
また、整形手術を既に行ってしまい、自身の顔を取り戻せなくなってしまった女性達は、憎しみと妬みの感情を込めて
「魔美人、是醜猿」(魔美を行う者は、醜いサルのようだ)と罵っていたと記録に残っている。
余談ではあるが、「魔美之儀」を行った男はたちまち女性のような顔立ちになり
同性同士で結婚式を挙げたという記録があるが、式の途中で薬の効果が切れてしまい、婚約は破談になったのだとか。
現在、世界規模で展開されているMMORPGに「マビノギ」というものが存在するが、
ゲームの中では美しく在ることが出来ることや、公式ページの掲示板でこのゲームのアンチが
「マビ 終焉」と言っている場面が見受けられること、そしてログアウトすれば、元の生活・姿形に戻ることが出来ることから、
マビノギの原点がこの故事であることは明らかである。
民明書房刊「整形手術のむかし・いま」より抜粋
【 死越豆 】
中国四千年の歴史の中でも特に秘密とされ、歴代の皇帝でさえ口にする事は難しかったと言われる食べ物である。
不治の病や重傷により死を確定された者がこれを食せば、たちどころに回復し不死に近くなると言われている。
死をも乗り越えてしまう豆‥‥‥ そこからこの名が付けられた。
しかしこれを食すには、数日〜数週間の絶食をしなければならないという過酷な条件がある。
挑戦する者は数多くいたが、絶食に耐えられず、結果、そのまま死ぬ場合がほとんどであった。
また絶食に成功しても、食す頃にはミイラのように痩せ、体力の限界に達し、結局死ぬ場合も多かったようである。
死越豆は「だいえっとう」と読み、絶食 → 食事制限のことを「ダイエット」と言うようになった。
英単語の「死ぬ−die−」や「食事制限−diet−」は、この死越豆が語源である事は明らかであるが、その存在を隠すために、この事は公にはされていない。
近年、日本漫画「龍玉」で「仙豆」という名前で紹介されたが、都合の良い箇所だけ描かれていたようである。
作者がなぜこの存在を知るに至ったかは、今のところ明らかではない。
(民明書房刊 『知られざる、中国四千年の食材』)
>>907 当て字駄洒落の悪いとこだけを取り入れたか…
苦挿身草(くそみそう)
学名をヤマジュネス。ヤマジュネス科に属し、名前の由来となったミクロネシア諸島に存在する
クーソミ島が原産である。島民であるアベベ族とミチシッタ族はこの草にある筒状の袋の中で
大小の用を足すが、ノンケーと呼ばれる養分によって、ミチシッタ族の中にはアレルギー反応で
草に挿れたまま、果ててしまう者もいた。また大便でした場合は逆流する恐れがあるので、
肛門を口の部分で栓をするものもいた。なお、この袋を使って、「ヤラライカ」と言われる打楽器が
作られる。フランスの植物学者であり、人類学者のウッホ・イオトッコが発見した。
なお、ウッホが山川純一作の「くそみそテクニック」を見て、あまりにクーソミ島の事例と
共通する部分が多かったと言ったのは学会での語り草となっている。余談だが、アベベ族はミチシッタ族
にしばしば、性処理をさせていると言う研究報告もある。
民明書房刊「俺のすごく大きい南洋植物百科を見てくれ」より
914 :
水先案名無い人:2005/12/25(日) 01:04:49 ID:NAA8jaeC0
147 名前: 神様仏様名無し様 投稿日: 2005/12/19(月) 11:58:29 ID:W0rRqVri
願場楼国府部(がんばろうこうべ)
中国古代王朝の秦では郡県制を敷いており、各地に有力な都市が興った。
その中の一つ、国府部(こうべ)に中国史上最大の地震が発生し、死者は多数に上った。
また建物の被害も大きく、復興は絶望視されていた。
そこで民衆は、国府部復興を祈願するために願場楼(がんばろう)を建設、
民衆の団結力もあって、国府部は瞬く間に復興された。
しかしその後すぐに秦が滅亡し、各地で内乱が起こってしまう。
国府部軍(別名、武流鵜羽鋭部(ぶるううえいぶ))の武将であり、
後々まで名将として語り継がれた翁義(おうぎ)は全兵に
「震災で被害を受けた者を勇気付けるため、また国府部を見事に復興させた民衆に敬意を表すため、
『願場楼 国府部』と刺繍した鎧を身に付けよ」と命じた。
一気に士気の上がった国府部軍・武流鵜羽鋭部は、翁義を中心に大胆な奇襲戦法「翁義魔実苦(おうぎまじつく)」を展開し、
各地の有力な軍を次々と破って、ついには中国全土を制覇したのである。
なおこの話は、1995年に発生した「阪神大震災」によって、
多数の犠牲者が出た兵庫県神戸市に本拠地を置く「オリックスブルーウェーブ」は
「がんばろう神戸」を合言葉に、名将仰木監督を中心にパリーグを制覇したことと関係があるかもしれないと、
研究者は注目している。
(民明書房刊 「古代中国の奇跡」より)
栗すます(標準語では「栗すまし」)
青森県の一部地域では 「くりすます」といって
冬至を祝って 栗のおすましをつくって飲む地域がある。
大昔 大時化で北前船がこなくて 冬至用のカボチャや
さとうやみりんが届かず カボチャに似た味の栗を使い
調味料を少なめに すましじたてにしてたべたのが
そのはじまりだとか。
明治時代に北海道で農業指導にあたってたクラーク博士が
クリスマスを祝うというので 青森出身の学生が 日本にも
同じ風習がありますと言って さっそく 栗のおすましを作ってあげた。
氏は生徒の勘違いに苦笑しつつも、文化の違いに思いをはせながら
学生のおもてなし料理をいただいて 楽しいクリスマスを過ごしたそうだ。
(民明書房刊 『日本の食べ物よもやま話』より)
苦理・崇魔衆(くり・すます)
現代ではイエス・キリストの生誕日として知られているクリスマスだが、
その起原が古代中国・秦時代にあることは意外と知られていない。
始皇帝の後を継いだ二世皇帝・胡亥は、
普段身の回りの世話を受け持つ宦官を慰労しようと、旧暦12月25日に特別の宴を催した。
宴席に宦官一同を集め、崇魔衆と呼ばれる妙齢の男女各100名を集め、
彼らの目の前で性のまぐわいを催したのである。
それは、魔羅を無くした宦官にせめて性の悦びを見せてやろうという胡亥の思いやりであったが、
宦官たちはかえって理性と本能の間で苦しみ、「是、将ニ苦理也」と胡亥を恨み、
のちの漢楚の争いの遠因にもなったという。
この故事が苦理・崇魔衆として西洋に伝わったとき、
性の狂宴の面が強調されたことと、偶然キリストの生誕日と同じだったことから、
慶事あるいは恋人と愛を深める日として認識された。
ところで近年のネット掲示板上では、異性にもてない者がカップルを逆恨みし、
まるで「苦理の宦官」のように下劣な言葉で罵っている様をよく見かけるが、
賢明なる読者諸氏は、決して現実の犯罪に走らぬよう、強く希望する。
民明書房刊「聖夜と性夜の狭間の喪男」より
クリスマス
苦理済ます。仏教用語。
師走の終盤の忙しい時期に一人になり
己の心と向き合って自分を見つめ直すという修行の事である
この修行を達成できない者の元には
裟端(さたん)がやってると教えられていた。
このサタンがシルクロードを渡りヨーロッパに伝わる際に
歪曲して伝わったのがサンタ=すなわちサンタクロースである
クリスマスは本来はこのように非常に厳しい物なのである
民明書房刊「牛男と虎」より
あ二日遅れだが、これでも
栗州摩州維舞(くりしゅうましゅういぶ)
中国は明時代、江東地方の栗州(くりしゅう)と摩州(ましゅう)に二人の職人がいた
彼らは偶然にも同じ維舞(いぶ)という名前で、皇帝主催の祭りで出会った二人は意気投合し、よく酒を飲み交わしていたという
さて、職人としての腕も確かな二人であったが、共通の悩みがあった
あまりに好色であったため、周囲の評判が最悪だったのだ
そこである年の12月24日、栗州の維舞はある提案をした
「俺が玩具を作り、おまえが村の子供にそれを配ったらどうだろうか」
それを聞いた摩州の維舞もこれに賛同し、さっそく行動に移した
これはたいへん評判が良く、子供たちは
「蚕汰(さんた。栗州の維舞の字名)が作った玩具を杜那戒(となかい。摩州の維舞の字名)が持ってきてくれる!」
と喜んだという
現在、クリスマスイブになると「性夜」を過ごす若者が多いが、たまには自分の行動を見つめ直し、二人のように善行を積んではどうだろうか
民明書房「しっとマスク伝説外伝〜クリスマスを作った悪人」
>>919 歩劣通(ふれつつう)
秦の時代、中国の北部地方を治めていた遠低(えんてい)という皇帝が居た。
彼の率いる軍は「打壱弐圧歩(だいーあるあっぷ)」という歩兵による人海戦術を得意としており、
一歩、二歩と敵部隊との距離をつめて、確実に敵部隊を仕留めるのだ。
また、彼は部下からの信頼が厚く、「遠低帝、万歳」の言葉の下に、部下は遠低に絶対服従を誓っており、
血気盛んな彼らの勢力は計り知れず、瞬く間に他の地方を制圧していった。
しかし、隣国モンゴルからの勢力「歩合馬(ふあいば)」により、遠低の軍は大敗を喫し、遠低は死亡した。
その理由は、スピード不足であった。歩合馬の「火狩(ひかり)」によって、じりじりと距離をつめていくタイプの
遠低の軍は、火責めにあって全滅したのである。
この歩合馬の長は、あまりに遅い行軍だった遠低軍を、「歩くにも劣る行軍…いや通行であった」と罵り、
現存する資料には遠低自身の事を「歩劣通」と置き換えてある物も少なくない。
現在、日本のNTTという電話事業が長い間、隣国韓国で普及していたADSLや光ファイバーを取り入れず、
アナログ回線やISDNによるナローバンドを共用していた事実がある。
これは秦の時代の遠低の軍と非常に多くの点が似通っているが、関連性は定かではない。
民明書房刊「よく分かる信頼の勝ち取り方〜反面教師編〜」より抜粋
洪民琥魔傑闘(こうみんくうまけっとう)
洪民琥魔傑闘…
明代最高とうたわれた大拳法家・洪民琥(こう みんくう)が、太平の世における
拳法の衰退を憂いて開催した一種の他流交流会。
万里の長城の上に拳術・槍術・棍術・弓術・氣功術などあらゆる流派の達人を
集め、その神業のような腕を披露させた。
この催しは盛況を博し、達人の腕を一目見ようと押し寄せた人々の列の長さは
万里の長城を越え、まさに長蛇の列となったほどだったが、
同時に流派同士のいざこざも頻発し、百名を越える死者も出したため、
第三回を最後に中止された。
なお、現在日本で夏冬に開かれている世界最大の同人誌即売イベントである
『コミックマーケット』の由来がこれであることは言うまでもない。
民明書房刊『中国拳法イベントカタログ』より
丹後の僧・禅鎮
丹後出身の僧、禅鎮(ぜんちん)は住職業のかたわら、
激しい踊りを村の子供たちに教えていることで有名だった。
しかしこの踊りが子供たちの教育に悪影響を及ぼすというあらぬうわさがひろまり、
ついには、丹後のお偉い方にまで広まって、禅鎮は島流しの刑にされてしまった。
禅鎮は飼い猫(黒猫と記録されている)の大和(やまと)とともに流されたのである。
なお、禅鎮は最後にこのような詩を残した。
黒猫と 丹後の踊り ここにあり
禅鎮
なお、アルゼンチン発祥のダンス、「タンゴ」はこの事件の数ヵ月後に
アルゼンチンで広まったとあるが、もしかすると禅鎮によって広められたのかもしれない。
民明書房刊「世界演舞図鑑・南米編〜僕の恋人は白い猫〜」より抜粋
備後の僧・利壱
備後出身の神主、利壱(りいち)は修行のかたわら、
古くなった碁盤を加工して作った遊びを子供たちに教えていることで有名だった。
その遊びとは、碁盤を縦横五マスに切断し、子供たちに一から七十五までの数字を選ばせ、
あらかじめ数字を刻んでおいた碁石を取りだし、見事当たると賽銭が少量もらえるという
一種の賭博事をやっていた。当たった箇所によって賽銭の授与量が違う。
碁盤の真ん中は振り射(ふりい)と呼ばれる碁盤を固定するための穴を開けていたので
実質二十四ヶ所の予想だった。
しかしこれが子供たちの教育に悪影響を及ぼすといううわさが広まり、
そのうわさはお偉い方にまで広まって利壱は島流しの刑にされてしまった。
利一は島流しにあったとき、狂っていて、このような言葉を連呼していた。
「微意愛得ぬ自慰王微意愛得ぬ自慰王……」
なお、アメリカ発祥の「ビンゴゲーム」はこの事件の数ヵ月後に
ラスベガスで広まったとあるが、利壱との関係は定かではない。
なお、当時のラスベガスには中国出身のダブ・リーという賭博師もいたという記録がある。
狂人となった利壱だけでは不可能だっただろう。
もしかするとこの二人が協力して作られた遊びがビンゴなのかもしれない。
民明書房刊「世界遊戯図鑑・北米編〜最初にリーチかかったのに当たらなかった〜」より抜粋
矢追(やおい)
漢〜明時代まで行われていた二人一組で行うスポーツ。全長約50mの扇状の陣地内に
攻(せめ)と呼ばれる競技者が矢を射、陣地内にいる受(うけ)と呼ばれる競技者が的を持ち、
矢を追って的に矢を受け、矢の的中数を競う。その様子からいつしか「矢追」と呼ばれた。
元々は秦の将軍、不徐至(ふじょし)が練兵法として考案したものである。
この競技には二人の連携が大事なのは言うまでもなく、競技者は互いの連携を高めるために
大会前は夫婦のように寝食を共にしたと言われている。時代が進むにつれ、複数の攻と一人の受、
逆に一人の攻と複数の受で競技を行う試合形式も登場した。しかし、この競技は一歩間違えれば
死亡事故に繋がるため、明時代に永楽帝によって禁止された。そうでなければ中国の誇る国技に
なっていたであろう。大変残念である。ちなみにイオンド大学教授でUFO研究家の矢追純一氏の姓が
この矢追に由来していることはあまりにも有名である。
なお、日本でのやおい本用語でも攻め、受け、なる言葉が使われているが、矢追とは無関係である。
しかし、カップリングを意味する記号「×」は、元々矢追競技において大会にエントリーする際、
「攻 劉備×張飛 受」という表記をしていたことに由来する、という説もある。
民明書房刊「ザ・スポ根〜血の汗流せ 涙を拭くな〜」より
926 :
水先案名無い人:2006/01/03(火) 14:11:34 ID:xUgx2r5BO
あげ
927 :
水先案名無い人:2006/01/06(金) 00:25:13 ID:7JSacbHk0
保守
928 :
水先案名無い人:2006/01/06(金) 12:24:37 ID:OcG169d00
歩囚(ほしゅ)
明の時代、やはりいつの世にも悪事を働く者は後を経たず、
留置所は常に満員であった。
留置所では、当時の食糧難から囚人を奴隷のように扱って畑仕事をさせるため、
人手が多いのは当時の人々にとっては大助かりなのだが、建物がついていかなかったのだ。
そのため、空きのある留置所があると、満杯状態の近所の留置所ではなく、
遠方の空きのある留置所に、囚人自身を向かわせるという「州隷吾外(すれあげ)」を行うという慣習があった。
この州隷吾外によって、囚人が刑に服す覚悟があるかどうかも試される。これを機に脱走を図ろうとした囚人は、
一般民による死刑が行われる。この一般の民による死刑は、当時の法律では合法なものであった。
またこの州隷吾外を、脱走をせずに指定の留置所にたどり着いた囚人は
脱走のチャンスがあったにも関わらずきちんと歩いて留置所間を歩いて移動した囚人、「歩囚」と呼ばれ、
宣告された刑よりも軽い刑で留置所を出ることができたのだという。
現在、日本の巨大掲示板群「2ちゃんねる」などに利用されているフロートスレッド式の掲示板において、
書き込みが少なくなってきたスレをリストの下の方から探し出し、書き込みをしてスレッドを掘り出すことを「スレ上げ」「保守」というが、
空きのある留置所までたどり着く過程と、過疎化したスレッドにたどり着く過程が似ていることから
保守書き込みの原点がこの故事であることは、賢明な読者の推察する通りである。
民明書房刊「留置所に見る『償い』〜思い留まれ、若者よ〜」より抜粋
壱不死尼多可参無毘(いちふじにたかさんなすび)
秦の時代、始皇帝は不老不死の仙薬探しに躍起となっていたことは周知の事実である
翔月(しょうげつ)は「不老不死の薬を蓬莱(日本)より持ってまいりました」
といった。その薬は「贋丹(がんたん)」といい、「一つめされば不老不死、
二つめされば女性は引く手あまた」と言った。始皇帝は2つの野望を
かなえるために3つ一気に飲んだところ、悶え苦しみそのまま果てていった。
儒学者達は焚書坑儒の怨み辛みもあってか、この出来事を喜び
この喜びを「壱不死尼多可参無毘(いちふじにたかさんなすび)」と
例えた。
現在、日本では年が改まって最初に見る夢の中で「一富士二鷹三茄子」
は縁起がいいとされているが、この説が逆輸入されて、さらに事実を
伏せて、演技のいいものとした、あまりにぞっとする事実である事を
知る者はあまりいない。
民明書房刊「暗殺薬剤師国家試験問題解説」より
930 :
水先案名無い人:2006/01/06(金) 22:20:18 ID:hx9hW4fp0
- - -
329 :仕様書無しさん :sage :2006/01/06(金) 11:26:48
>>328 今までの東京に於ける地下鉄開発の歴史は激動であった。
なんども地下水が工事を邪魔し、挙げ句の果てには、
地底怪獣や地底人との交戦と和解交渉など、
一般利用者の知らない困難が多く立ちふさがっていたのである。
「東京地下鉄の歴史」 民明書房 2003刊行
- - -
あげ
827 名前:水先案名無い人 [sage] 投稿日:2006/01/10(火) 02:28:30 ID:4gcXEzrN0 New!!
ところで頭にかぶるあのニセ頭髪のことをなんで「カツラ」と呼ぶんでしょう?
828 名前:水先案名無い人 [sage] 投稿日:2006/01/10(火) 02:51:16 ID:iD4dKO7b0 New!!
ああ、その前にあの赤い果物のことをなんで「リンゴ」と呼ぶのか答えてくれないか
829 名前:水先案名無い人 [sage] 投稿日:2006/01/10(火) 03:07:26 ID:b9P4Jydi0 New!!
かつらの語源は、「髪蔓(かみつら)」もしくは「髪」を「か」と読んだ「髪蔓(かつら)」。
「蔓(つら)」は植物の「蔓(つる)」の古形で、上代のかつらは花や羽、蔓草などの髪飾りをいったことから、「髪蔓」の説は妥当と考えられる。
その他、かつらの語源には、「髪」と「連なる」「連ねる」の「つら」を関連付けた説もある。
830 名前:水先案名無い人 [sage] 投稿日:2006/01/10(火) 03:08:30 ID:b9P4Jydi0 New!!
りんごは、古く中国を経由して渡来し、西欧系のリンゴの普及以前に日本でも栽培されていた。
林檎は中国語で、「檎」は「鳥」をさし、果実が甘いので林に鳥がたくさん集まったところから、「林檎」と呼ばれるようになった。
「檎」は、漢音で「キン」呉音で「ゴン」と読まれることから、「リンキン」や「リンゴン」などと呼ばれ、それが転じて「リンゴ」となった。
平安中期の「和妙抄(わみょうしょう)」では、「リンゴウ」と読んでいる。
また、中国語で林檎を「苹果(pingguo)」とも呼び、「林檎(リンゴン)」と「苹果(pingguo)」が混ざり、「リンゴ」と呼ばれるようになった
とも考えられている。
831 名前:水先案名無い人 [sage] 投稿日:2006/01/10(火) 03:10:09 ID:b9P4Jydi0 New!!
民明書房の事典を無くしちゃったんで詳しく書けずにスマソ
936 :
水先案名無い人:2006/01/11(水) 23:16:22 ID:StkLqefu0
洛天法印十騒動(らくてん・ほいんと・そうどう)
漢王朝が復興し、のちに後漢と呼ばれるようになった時代。
だが、一通りの騒動で首都洛陽の人口は減ってしまった。
これに困った当時の市長、三北弐(みきたに)は、ある秘策を打ち出した。
洛陽に土地を構えることによって、法印(洛陽で使用できるお金)を10与え、
買い物などの生活に不自由しない事を約束したのだ。
それにより、洛陽外へと引っ越して行った住人たちを引き戻すことに成功した。
しかし、その話に目を付けた一部の若者たちは、孔(あな)や浅灯(あさひ)を初めとした複数の地区の土地を得て、
一地区ごとに法印を10ずつ得ていった。彼らはその方法で大量に得た法印を使用し、様々なものを購入。
ある者は、絵巻を。ある者は、書物交換が出来る札を。ある者は箱いっぱいの温州蜜柑を沢山…。
この世の春の如く、洛陽生活を謳歌していた若者たちに、悲劇は突然おとずれた。
不正な方法で法印を稼いでいる人がいることに気がついた市長の部下が、三北弐に報告。
彼の命により、部下たちは不正な手段で法印を得た人たちを割り出し、法印の無効化と、
法印で購入した全ての品物の代金を支払えと命令。慌てふためいた若者たちがその後どうなったのかは誰も知らないという。
今年初頭、とあるネット通販のキャンペーンを利用し、膨大なポイントを得た人たちが様々な品物を購入。
それが突然、会社からキャンペーンの中止とポイントの没収。さらに現金請求という事態までに発展したという事件が起きた。
もし、この故事のことを、少しでも知っていたら、こんな事は起こらなかったのかもしれない。
民明書房刊「ネットに潜む甘い罠・辛い罠 第二章〜ショッピングで天国、地獄、大地獄、そのまた向こうは無間地獄〜」より。
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952 :
水先案名無い人:2006/01/13(金) 23:22:36 ID:Cjbn9mK00
『舞野発波(まいやはっは)』
時は漢、戦争が盛んだったこの時代には世界中で戦争が勃発しており、
漢も例外ではなかった。
当時の兵士たちは訓練を広い野原で行っており、跳躍力、走力、組み手などのメニューをこなしていった。
ある日、訓練に物足りなさを感じた当時の教官「雄存」(おぞん)は兵士たちを野原の菩提樹の下に集結させ、
奥義を伝授すると言って、菩提樹に向けて両の掌を突き出すと、菩提樹は物凄い音を立ててへこんでしまった。
菩提樹のへこんだ部分を見てみると、溶岩のように溶け、高熱を発していたそうだ。
兵士たちはこの光景を見て、口々にこう言ったのだという。
「舞野火、舞野風、舞野砲、舞野発波」
(訳:それは野を舞う火のように熱く、野を舞う風のように速く、野を舞う砲弾のように重い、野を舞うかの如く発せられた波動である)
教官はこの奥義を「怒り狂い、悟りを捨て、我をも捨てた荒くれの如き一撃」として、
「怒羅悟捨吾」(どらごすてあ)と名づけ、余すことなく兵士たちに伝えた。
この奥義を身に付けた兵士たちは、没した今もなお無敗の軍として記録に残っている。
記録によれば、この怒羅悟捨吾は物陰に隠れて気を拳に込め、
発射する時のみに物陰から出るという戦法を用いることにより、負傷すらしない戦が殆どであったようだ。
その様が「体が出ているようで隠れている」ように見えることから「出隠体」(でいんてい)と呼ばれ、そこから転じて現存する資料では
「怒羅悟捨吾 出隠体」(どらごすてあ でいんてい)と、ひとまとめで記されているものも少なくない。
また、怒羅悟捨吾を継承した、隋の時代の教官である「洩・部楠(えい・べくす)」は、成人して徴兵された者たちに怒羅悟捨吾を部下に継承した。
この出来事は隠守杯矢(いんすぱいや)と呼ばれており、意味は
「この奥義は、継承ではなくお前たちが編み出したものだ。隠し守っている杯の矢尻のように、心にしまっておけ」である。
つまり、洩は自らが継承「した」はずの奥義を我が物としてふんぞり返っていたのである。
現代日本で、「マイヤヒー マイヤフー マイヤホー マイヤハッハ」と歌う外国語の曲が空耳歌詞で人気を博し、
そのプロモーションビデオに2ちゃんねるのキャラクターを盗用しておきながら曲の輸入元のレコード会社が「インスパイヤ」と言い逃れたことは記憶に新しいが、
その起源がこの故事であることは明らかである。
戦争に用いられた武術を楽しげな物に作り変えてしまうとは、レコード会社の面々はなんと軽率かつ恥知らずなのだろう。
原曲「Dragostea din tei」を発表したo-zoneというグループは、失恋ソングとしてこの曲を発表した。この時点では少なくとも、楽しげな曲ではなかったはずだ。
レコード会社の面々には、少しは自分たちの犯した大罪を恥じてほしいものである。
民明書房刊「武術と現代歌謡曲〜踏み躙られていく過去〜」より抜粋
荒らしか?通報するか?
960 :
水先案名無い人:2006/01/14(土) 12:37:37 ID:P6qohW010
この状況だと埋め立てっぽいな。
961 :
水先案名無い人:2006/01/14(土) 16:02:30 ID:lvfky7FF0
次スレはいつ立てるの?
980ぐらいでいいんじゃね?
963 :
水先案名無い人:2006/01/14(土) 19:50:14 ID:/6Bqv5lr0
その前に容量オーバーになりそうな感じだけど
964 :
水先案名無い人:2006/01/14(土) 21:35:18 ID:YcxrWKIr0
test
965 :
水先案名無い人:2006/01/14(土) 23:09:11 ID:7i4hE2JC0
一番おもろしろかったのはどれですか?
個人的には
>>659を。後から名前が付いてるとことか、地味に良い。
あと、あの元ネタが生活板で良い話に化けた
>>745は気に入ってる。
トンファーキック
トンファーは元々は沖縄で伝わっていた武器であり、当然トンファーを使った格闘術も沖縄に存在する。
だがそれは、トンファーを振り回すのではなく、トンファーと己の拳や足を自在に使用した格闘術だ。
敵との戦闘のときに、トンファーを構えた状態にして敵の視線をトンファーに注目させ、
その隙に敵の腹部等に蹴りを打ち込む、トンファーキックは、トンファー格闘術の基本である。
トンファーは相手を叩くものではなく、相手を欺くものである。
民明書房刊「基礎から始めるトンファー」より
あ!
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test
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993 :
:2006/01/21(土) 17:04:57 ID:w6OvNqp80