>>460 よく知られた事実で少しも驚かないし、その特徴は現代中国語に限らない。古典シナ語 (漢文) にも時制はない。
では、すると日本語における漢文訓読体も時制は無いってことでいい?
漢文訓読では基本的にテンスの「き」「けり」「ぬ」「つ」は使用しないで
アスペクトの「れり」「たり」でまかなってますな。
464 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/06 20:39
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466 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/19 00:04
トリビア〜
がんがってるけど、端で見るとむなしいよ
467 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/19 04:38
むなしくない
注目してます
一読者
468 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/08/19 20:00
トリビアー ↑君も偉い!!!
日本語における漢文訓読体も時制は無いってことでいい、のか?
472 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/09/25 01:40
妹の漢文の問題集に助字「所」が「関係代名詞」と書かれていた…
マジそうなんですか?
>>455 sein, sei, wäre
Er ist krank.「彼は病気だ(事実として)」(事実。話者が確認済み、ないしは話者の100%近い確信)
Er sei krank.「彼は病気だ(そうだ・らしい)」(伝聞。確認はしていない。話者の確信の有無は関係ない)
Er wäre krank.「彼は病気だ(多分嘘だけどね)」(非現実。話者が100%近く嘘だと確信)
Er kommt nicht, denn er ist krank.「彼は来ないよ、彼は(実際に)病気だから」
Er kommt nicht, denn er sei krank.「彼は来ないよ、彼は(聞くところによると)病気だから」
Er kommt nicht, denn er wäre kranak.「彼は来ないよ、彼は(建前上は)病気だから」
以上ドイツ語でした。
>>437 seiはseinの接続法現在、wäreは接続法過去だったっけ?
>>474 そう。接続法第一式、接続法第二式とも言う。
主に接続法第一式(現在)は伝聞。接続法第二式(過去)は非現実に用いるが、
本来的には内容責任を話者に帰属させないための用法。
伝聞ではない場面で接続法一式を使うと、
日本語では「〜らしい」「〜だそうだ」「〜のようだ」「〜と主張されている」「〜という」「〜かもしれない」
などと訳出される。
論文や記事などで自己の意見と異なる他人の意見を紹介するときに使われるのをよく目にする。
接続法二式は非現実をあらわす。
Hätte ich Geld, würde ich eine Weltreise machen.^
「お金があれば、世界旅行するのになぁ」というようなオーソドックスな非現実の仮定から、
Deutschland ist zu weit, als dass ich da besuchen würde.
「ドイツは訪れるには遠すぎる」(=実際にはドイツを訪れない)
というような文章にも使われる。
477 :
名無し象は鼻がウナギだ!:03/12/24 09:23
>>376 > ……主節のあらわす時を基準にして,連体修飾説や他の従属節中において,
> タ形はそれより「以前」,非タ形はそれより「以後」または「同時」をあら
> わすと解するばあいにはそれを相対的テンスと呼び,発話時を基準とした
> 「過去」「現在」「未来」をあらわす絶対的テンスと区別することになる。
> しかし以上のように考えると,英語にみられるような時制の一致をもたな
> い日本語では説明しがたい点が生じる。たとえば,
> 定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
> では,「到着する」という非タ形は予定の意をあらわしているが,主節との
> 前後関係を考えることはできない。
この場合、「午前10時に到着する」ことが事実だった蓋然性は零だから、現実の時である発話時からも主節時からも、前後関係を考えられないのは当たり前の話。
"I wish I were a bird." における "were" が、発話時=主節時に対して以前か同時か以後かと問うても無意味なのと同じだ。
>>478 『日本語百科大事典』204頁以下(紙谷栄治執筆)より例を追加。
a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
b.(この問題が)できた人は帰ってよろしい。
>>478 >この場合、「午前10時に到着する」ことが事実だった蓋然性は零だから、
いや、少なくとも午前10時までは定刻通り到着する蓋然性が“あった”はず。
>>479 > a.(この問題が)できる人は帰ってよろしい。
> b.(この問題が)できた人は帰ってよろしい。
発話時と同時または発話時以後において、だれかにこの問題ができる蓋然性はあると、話者はふつう思っているはずだ (そうでないと教師は困る)。
だから、a は発話時基準 (絶対テンス)、b は主節時基準 (相対テンス) でいいんじゃないの?
>>480 > 少なくとも午前10時までは定刻通り到着する蓋然性が“あった”はず。
それを言いたいなら「到着するはずだった」となるのでは?
文脈上、明らかに発話時より前、かつ主節時より前であるべき事態が非タ形で表されている場合は、その事態が実現しなかったという印だ。
>それを言いたいなら「到着するはずだった」となるのでは?
と、ばかりは限るまい。
定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
定刻では午前10時に到着するはずだった列車が,遅れて午後になってついた。
定刻では午前10時に到着するはずである列車が,遅れて午後になってついた。
定刻では午前10時に到着するはずの列車が,遅れて午後になってついた。
>>481 b.(この問題が)できた人は帰ってよろしい。
これは、誤記。『日本語百科大事典』から正しく引用すると――
b.(この問題をといてみて)できた人は帰ってよろしい。
「できた」は主節時基準の過去かあ? タ形だけど未来だぜ?
>>482 > 定刻では午前10時に到着する列車が,遅れて午後になってついた。
> 定刻では午前10時に到着するはずだった列車が,遅れて午後になってついた。
> 定刻では午前10時に到着するはずである列車が,遅れて午後になってついた。
> 定刻では午前10時に到着するはずの列車が,遅れて午後になってついた。
三つ目は言いにくく感じる。
最初と最後は、「定刻に着かなかった」という意味が強く出て、午前10時までは定刻に着く蓋然性があったという意味は、あまり感じられない。
>>483 > b.(この問題をといてみて)できた人は帰ってよろしい。
>
> 「できた」は主節時基準の過去かあ? タ形だけど未来だぜ?
「帰ってよろしい」時よりは前だから、発話時よりあとでもタ形をとる。
>>484 >最初と最後は、「定刻に着かなかった」という意味が強く出て、
そんな感じは全然しないけど。
二番目の「するはずだった」に引っ張られすぎでは。
まあ感じる感じられないは個人差もあるしなあ、決着つかないよ。
>>485 いずれにしても、過去のことなのに「到着する」の所で非タ形が使われているから、
・定刻では午前10時に到着する列車が、ホームに入って来た。
と言えば、十中八九定刻どおりじゃない。延着または早着している。
では早着の場合。
・定刻では午前10時“迄”に到着する列車が、ホームに入って来た。
この時点で、午前九時五十九分現在だとしたら如何。
タ形を全て過去と見做すのは無理がありますよ。
>>487 > ・定刻では午前10時“迄”に到着する列車が、ホームに入って来た。
>
> この時点で、午前九時五十九分現在だとしたら如何。
この場合は、まだ定刻どおりに到着する蓋然性があるから、発話時以後と見ても主節時以後と見てもよい。
> タ形を全て過去と見做すのは無理がありますよ。
基準時以前だというだけで、必ずしも発話時以前ではないのだが。
>>488 タ形の議論で前から気になってたんだが
本来は過去と言うより完了の標識であるもの、
あるいは出来事を既成のものと捉えるモダリティ標識が、
結局過去を表しているだけ、ということはないの?
それともこの種の本質論は意味を為さない?
そもそもの疑問として、過去とか非過去とかいう西洋文法的な時制概念を
そのまま日本語文法にあてはめるのは妥当なの?
>>489 > タ形の議論で前から気になってたんだが
> 本来は過去と言うより完了の標識であるもの、
「過去 (基準時以前)」と「完了」の違いが、満足に説明されたためしがない。
> あるいは出来事を既成のものと捉えるモダリティ標識が、
> 結局過去を表しているだけ、ということはないの?
反例に瞬殺されるだろう。
> そもそもの疑問として、過去とか非過去とかいう西洋文法的な時制概念を
> そのまま日本語文法にあてはめるのは妥当なの?
「西洋文法的な時制概念」というものは存在しない。
例えば、英語とフランス語とロシア語とでは、それぞれのテンスは互いに性質を大きく異にする。
>>490 結論は
>>296 あたり。
プゲラ
「 定刻では午前10時に到着する」
というのは“習慣”を表しているから発話以前でも「する」を使ううんじゃなくて?
494 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/01/19 13:53
a
495 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/01/21 09:56
>>493 それも十分ありうる解釈だと思うが、ここに来る語感の鈍い人たちはなかなか認めない。
議論は >>378- 。
「予定では午前10時に到着する」なら?
>495
なるほど。語感のちがいっていうのは大きな壁でもありますね。
>496
それも話者の経験に裏打ちされた事なら「習慣」という解釈ができると思います。
また、初めて乗る列車だったとしても、その「予定」であるということを、
(時刻表等で)既知であるなら話者にとっては初経験でも、
その列車が習慣的に午前10時に到着することを認識しているのですから、
同様に解釈できると思います。
>493
僕もそう思います。
そもそも、連体節でも、普通名詞につくか、形式名詞につくかで、φ形(何もつかない形ね)
とタ形の表す文法的意味は変わってくると思うんだけど。
はじめて来たので、自分がどういう考えを持っているかということを少し。
僕は、主節だろうと従属節だろうと、φ形とタ形の基本的なはたらきは変わらないと思います。
φ形:未完了
タ形:完了
野村剛史「存在の様態―シテイルについて―」(『国語国文』72−8)が述べるように、
究極的にはこれでいいと思ってるんですけど。
まぁ、反例がないわけではなく、
○飛行機でアメリカに[行ったとき]、機内で[吐いた]。
※「行く」という動作が完了する前に、「吐く」という動作が完了している。
○エベレストに[登るとき]、山頂に国旗を[立ててくれ]。
※「登る」という動作が完了した後で、「立てる」という動作が完了する。
なんてのは、原則に反しているわけなんだが。
>>498 > 僕は、主節だろうと従属節だろうと、φ形とタ形の基本的なはたらきは変わらないと思います。
> φ形:未完了
> タ形:完了
*きのうの朝の段階では、午後彼に会う。
*あしたの 3 時ごろ、その仕事は終わっただろう。
上のようなのが言えないからダメ。(
>>410)
横レスだが
> *きのうの朝の段階では、午後彼に会う。
> *あしたの 3 時ごろ、その仕事は終わっただろう。
これは「タ」が完了であるという主張を否定するcrucialな根拠にはならないだろう
主節の「タ」は発話時現在が基準時になる、といえばそれまでの話だから
>>500 > 主節の「タ」は発話時現在が基準時になる
発話時現在を基準時とする「完了」と、「過去 (以前)」とは、どこが違うのか。
さあねえ、あんま変わんないんじゃない?
強いて言えば「過去」「非過去」は時間直線に視点を置いたものの見方で
「完了」「未完了」は出来事に視点を置いたものの見方って感じがするけど
経験的な違いがあるのかどうか
>>501 >>発話時現在を基準時とする「完了」と、「過去 (以前)」とは、どこが違うのか。
発話時から見て未来に相当するデキゴトもタ形で表すことがあるので、「過去」
とすると、わざわざ「相対的テンス」というカテゴリーを設けないといけないので、
「完了」とした方が述語が少なくて済む。僕が「完了」とする理由は、ただその一点のみです。
特に「完了」という述語にこだわりがあるわけではありません。「既然」でも「実現」でも、
呼称は何でもよいです。「過去」とか「以前」のように、時間軸に定位させてしまう
ような呼称でなければ。「完了」という述語がポピュラーなので使っているだけでして。
>>503 > 発話時から見て未来に相当するデキゴトもタ形で表すことがあるので
「ことがある」ではダメ。「完了」は時間軸にかかわらない概念のはずだから、タ形が「完了」を表すというのなら、未来のデキゴトであっても「完了」していれば、「常に」タ形で表されなければならない。
> 「完了」とした方が述語が少なくて済む。
「過去」と「完了」と呼び分けるか
「絶対的過去」と「相対的過去」と呼び分けるかで
術語が多くなったり少なくなったりというのは特にないように思うが
>>505 僕の文章はとても分かりにくいですね、改めて読みかえすと…。
相対的テンスを認める立場では、テンス・アスペクトというカテゴリー以外に、
新たに相対的テンスというカテゴリーを設けなければならない、という意味です。
相対的テンスと呼ばれているものは、アスペクトと考えれば済みますので。
>>504 >>「ことがある」ではダメ。「完了」は時間軸にかかわらない概念のはずだから、
タ形が「完了」を表すというのなら、未来のデキゴトであっても「完了」してい
れば、「常に」タ形で表されなければならない。
タ形で表すことができない未来における完了したデキゴトは、テイル形が表します。
つまり、タ形とテイル形が完了というカテゴリーを相補分布しているのです。
○*明日の今頃には[書き終わった]よ。
↓
○明日の今頃には[書き終わっている]よ。
反例を安易に「例外」として処理するのは問題外ですが、こうした処理ならOKでは?
「タ」と「テイル」が相補分布であるならば
「シテイタ」はどう考えるんだ
改めて
>>498を読むと、テンスはないと主張しているように見えますね。
○*明日、パリに着いた。
○*来年の今頃、モスクワに行った。
が言えないことから、主節にテンスがあるのは明らかです。
各語形のテンス・アスペクトは、次のようになると思います。
(テンス)(アスペクト)
φ形 非過去 未完了
タ形 過去 完了
テイル形 非過去 未完了/完了
テイタ形 過去 未完了/完了
テイル形・テイタ形をここに含めていますが、僕は奥田靖雄氏らが
提唱するような、単なるアスペクト形式ではないと思います。
金水敏氏や野村剛史氏がいうところの「状態化形式」というのが、
一番しっくりくると思います。その名の通り、動作を状態化させる形式。
古代語の場合、
テンス形式 :「φ」「キ」(「ケリ」は問題が多いので除く)
アスペクト形式:「φ」「ツ」「ヌ」「タリ・リ」
と、ある程度はっきり分かれてますが、現代語の各形式は、
テンス・アスペクトの両方を担っていると考えます。
時間形式は、中世で「タ」に収斂され、体系もその時に大きく変わったのだと。
>>509 > 金水敏氏や野村剛史氏がいうところの「状態化形式」というのが、
> 一番しっくりくると思います。その名の通り、動作を状態化させる形式。
同意。だから、こう考えればいいんだよ。
(テンス)(アスペクト?)
φ形 非過去 動作
タ形 過去 動作
テイル形 非過去 状態
テイタ形 過去 状態
「完了」とか「未完了」とかいう、ややこしいものは要らないだろ。
(テンス)(アスペクト?)
φ形 非完了 -
タ形 完了 -
テイル形 非完了 状態化
テイタ形 完了 状態化
とすると「テイル/テイタ」の「テ」が「状態化」を司っているわけですね
「テ」と「タ」は同じじゃねーの?
少なくとも語源的には
>>512 「動作」と「状態」というのが、日本語のアスペクト?の根本ということでよいと思います。
ただ、やはりφ形とタ形の対立はあるので、細かく見れば、「未完了」と「完了」ではないか、と。
難しい問題ですね、φ形とタ形の対立の問題は。「ムードのタ」(「あっ、今日は会議だった!」などの「タ」)
なんてのもありますしね。
>>514 「テイル」全体で文法化してますから、別に「テ」が司っているということはないかと。
>>515 「テイル」の「テ」は、古代語のアスペクト形式「ツ」のいわゆる連用形ではないかと。
「タ」は「タリ→タ」ですから、語源的には違うかと。
ただ、語源論は100%推論の域を出ませんから(語源関連の本も、ほとんどインチキまがいですし)、
これ以上は何とも言えません。
「タリ」は「テアリ」なんだから、結局同じだろ
勿論、推測の域を出ないが
>>513 > テイタ形 完了 状態化
「状態」が「完了」するというのはおかしい。「私は30分前にはもうここに坐っていた」: 発話時現在も坐っている。「完了」していない。
>>516 > ただ、やはりφ形とタ形の対立はあるので、細かく見れば、「未完了」と「完了」ではないか、と。
基準時点が決まったうえでの「未完了」 「完了」は、結局、「非以前」 「以前」と変わらないから、テンスになってしまう。
基準時点が発話時現在である場合のみをテンスと呼ぶという態度は、実は、ものすごい英語コンプレックスだ。英語は事態を常に発話時現在から計測したがるからね (時制の一致)。
>>517 昨日、帰りのバスでふとそれに気付きました。
全くその通りです、すいません。
>>518 ○あの時君は[若かった]。
○しまった、今日は10時から[会議だった]!
などもあるので、「完了」というのはやめた方がよいかもしれませんね。
昨日読んだ論文で、どなたか(失念)が「確述」(話し手にとって、確かなデキゴトの叙述)
とおっしゃってました。「完了」とか「過去」とか言っているが、根本的なはたらきは
そうなのだ、と。ふむ、なるほど、言われてみれば、確かにそうかも、と感心しました。
この「確述」っていうのはどうでしょうか?相当アバウトですが。
しかし、そうなると、きっちりとしたテンス・アスペクト体系を日本語で
構築するのは不可能(ってか無意味)ということにもなりかねないので、
少し寂しい気もしますが。
>>519 > この「確述」っていうのはどうでしょうか?相当アバウトですが。
これもよくある意見だが、「しただろう」 「したかもしれない」 「したらしい」では、タ形が使われていても「確述」なんかしていないから、全然ダメ。
それは言い方の問題だな
「しただろう」とかの類で問題になる確、不確と
「た」に関して問題となる確、不確は別のものだろう
まあ、どのみち、あまりいい言い方ではない、ということだろうが
>>522 > 「しただろう」とかの類で問題になる確、不確
「11月には米大統領選挙が {行われる/*行われるだろう}」: 非タ形が使われていても「確述」。
タ形/非タ形の対立と、「確/不確」とは関係がない。
> 「た」に関して問題となる確、不確
それを「以前/非以前」、すなわちテンスという。
「確述」はたしか森田良行の用語だったかと。
525 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/09 18:00
>>523 だから、それを言い方の問題と言ったのだが…
坊やには難しかったかな?
>>526 文法記述は「言い方」がすべてなんだが。
え っ え っ そ う な の ! ?
>>524 ありがとうございます。
>>521 >これもよくある意見だが、「しただろう」 「したかもしれない」 「したらしい」では、タ形が使われていても「確述」なんかしていないから、全然ダメ。
森田氏が言うところの「確述」は、「実現」に近い意味だと思います。
それと、「しただろう」の文構造は、
○[[した(=実現)]だろう(=推量)]
なので、確述していないということはありません。
「ダロウ」が、なぜ終止形接続なのかを考えれば、すぐに分かることです。
また、「確述」と考えれば、タ形で未来のデキゴトを表す現象も説明できます。
○明日雨が[[降った(=実現)]ら(=仮定)]、行くのは止めときます。
ちなみに、「降ったら」と「降るなら」の差は、
降ったら:発話の時点では、まだ行く可能性も残っている(つまり、行くか行かないかは、雨次第)。
降るなら:発話の時点で、すでに行くことを断念している。
です。次のように、
○明日雨が{降るなら/*降ったら}、もう、行くのは止めときます。
副詞「もう」の許容の可否から分かります。
長くなってすいません。
>>529 > 森田氏が言うところの「確述」は、「実現」に近い意味だと思います。
> それと、「しただろう」の文構造は、
>
> ○[[した(=実現)]だろう(=推量)]
>
> なので、確述していないということはありません。
> 「ダロウ」が、なぜ終止形接続なのかを考えれば、すぐに分かることです。
では、「するだろう」の文構造は、「[する (=未実現)] だろう (=推量)」ということか?
「5 年後には夢が実現するだろう」というのは、まだ実現しないことを推量するのか?
こういう考え方は根本的におかしい。
> また、「確述」と考えれば、タ形で未来のデキゴトを表す現象も説明できます。
>
> ○明日雨が[[降った(=実現)]ら(=仮定)]、行くのは止めときます。
その「ら (=仮定)」という形態素は、どうやって認定したの? 「たら」以外に「ら」が現れる場合はあるの?
ほかに使い道のない形を、形態素とすることはできないよ。
> ちなみに、「降ったら」と「降るなら」の差は、
>
> 降ったら:発話の時点では、まだ行く可能性も残っている(つまり、行くか行かないかは、雨次第)。
> 降るなら:発話の時点で、すでに行くことを断念している。
>
> です。次のように、
>
> ○明日雨が{降るなら/*降ったら}、もう、行くのは止めときます。
>
> 副詞「もう」の許容の可否から分かります。
「降るなら」は、ほとんどの場合、「降るのだったら」と言い換えることができる。
「降ったら」の「たら」と、「降るのだったら」の「(だっ) たら」とは、おそらく同じ形態素だ。
だから、「降るなら」 (≒「降るのだったら」) の意味は、「降ったら」の意味よりも、何らかの要素が多いと推測される。
こういう場合、「降ったら」と「降るなら」との関係は、範列的 (paradigmatic) でない蓋然性が大きい。すなわち、簡単に対比することはできない。
531 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/19 22:54
宣伝ご苦労さん
533 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/25 19:38
テンス、アスペクトというカテゴリーが絶対の前提になるのがおかしい
という見方はあって当然だと思います。
前提が正しければこんな混乱はないはずですからね。
書き込みが遅くなりました、申しわけありません。
>>530 >では、「するだろう」の文構造は、「[する (=未実現)] だろう (=推量)」ということか?
>「5 年後には夢が実現するだろう」というのは、まだ実現しないことを推量するのか?
>こういう考え方は根本的におかしい。
未来のデキゴトなので、「まだ実現しないことを推量する」ことに問題があるとは思いませんが。
ではなぜ、
○*5年後には、夢が[実現しただろう]。
○*明日は雨が[降っただろう]が、それでも試合は行います。
とは言えないのでしょうか。
>その「ら (=仮定)」という形態素は、どうやって認定したの? 「たら」以外に「ら」が現れる場合はあるの?
>ほかに使い道のない形を、形態素とすることはできないよ。
確かに、おっしゃる通り、「たら」を「た」と「ら」に分けるのはおかしいです。
便宜上、そうしただけであって(逆に分かりにくかったようですが)、形態素で分けたわけではありません。
○明日雨が[降ったら(=実現・仮定法)]、行くのは止めときます。
とするのが適当だったでしょうか。
>「降るなら」は、ほとんどの場合、「降るのだったら」と言い換えることができる。
>「降ったら」の「たら」と、「降るのだったら」の「(だっ) たら」とは、おそらく同じ形態素だ。
>だから、「降るなら」 (≒「降るのだったら」) の意味は、「降ったら」の意味よりも、何らかの要素が多いと推測される。
>こういう場合、「降ったら」と「降るなら」との関係は、範列的 (paradigmatic) でない蓋然性が大きい。すなわち、簡単に対比することはできない。
もう少し詳しく説明してもらえますか。正直、これだけではよく分かりません。
>>534 > 未来のデキゴトなので、「まだ実現しないことを推量する」ことに問題があるとは思いませんが。
> ではなぜ、
>
> ○*5年後には、夢が[実現しただろう]。
> ○*明日は雨が[降っただろう]が、それでも試合は行います。
>
> とは言えないのでしょうか。
ということは、「実現する」 「降る」が「未だ実現しない」なのは、発話時現在においてであって、「5 年後」 「明日」においてではない、ということだよね?
すると、「未実現」と「未来 (=発話時以後)」とはいったいどう違うのか、という問題が起こって来る。
> 確かに、おっしゃる通り、「たら」を「た」と「ら」に分けるのはおかしいです。
> 便宜上、そうしただけであって(逆に分かりにくかったようですが)、形態素で分けたわけではありません。
>
> ○明日雨が[降ったら(=実現・仮定法)]、行くのは止めときます。
>
> とするのが適当だったでしょうか。
「実現」が発話時現在におけるものなら、上の例は言えないはずだ。「*明日雨が降っただろう」とは言えないのだから。
「実現」が発話時現在におけるものでなく、「明日」におけるものであるなら、上の例が言えるのと同様に、「*明日雨が降っただろう」も言えるはずだ。
> もう少し詳しく説明してもらえますか。正直、これだけではよく分かりません。
「降ったら」と「降るのだったら」との関係が、「『降っ・たら』+α=『降る・のだっ・たら』」のようなものだということは、わかるよね?
で、「『降るのだったら』≒『降るなら』」が成り立つから、「『降ったら』+α≒『降るなら』」も成り立つことになる。
「降ったら」に何かの意味要素を足せば、「降るなら」に近くなるということだ。
「降ったら」と「降るなら」とを対比させるのなら、その「+α」を明らかにする、という方向でなければならない。
536 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/27 11:20
>>533 テンス、アスペクトなんて現行パラダイムの便宜的なものでしょう。
原理はほかにあるという531(のリンク先)は力強いと思われ。
>>534 >ということは、「実現する」 「降る」が「未だ実現しない」なのは、発話時現在においてであって、「5 年後」 「明日」においてではない、ということだよね?
>すると、「未実現」と「未来 (=発話時以後)」とはいったいどう違うのか、という問題が起こって来る。
「未実現(未然なり未完了なり、術語は何でも可)」と「未来」は、どちらか一方しか成り立たないということではないと思いますよ。
「未来」に生起するから「未実現」なのだし、発話の時点で「未実現」だから「未来」に生起する。
寺村秀夫氏は、タ形には、「完了」の場合と「過去」の場合があるとしたが、両者を分立させる必要は、そもそもない。
○晩ご飯はもう[食べた]。
○三年前、京都に[行った]。
前者は「完了」、後者は「過去」とよく言われるが、どちらも発話時以前(つまり「過去」)において
実現された(つまり「完了」)デキゴトであるのだから。
>「実現」が発話時現在におけるものなら、上の例は言えないはずだ。「*明日雨が降っただろう」とは言えないのだから。
>「実現」が発話時現在におけるものでなく、「明日」におけるものであるなら、上の例が言えるのと同様に、「*明日雨が降っただろう」も言えるはずだ。
確かにその通りです。僕が考える「実現/未実現」は、発話時基準で判断しているので、これはおかしい。
ただ、
○??雨が[降れば]、行くのは止めときます。
とは普通言わない。古代語では、「雨降らば…」とか言ったのでしょうが。
これはなぜか、今考えているところです。まとまってなくてすいません。
訂正
×
>>534 ↓
○
>>535 ※続き
>「降ったら」と「降るのだったら」との関係が、「『降っ・たら』+α=『降る・のだっ・たら』」のようなものだということは、わかるよね?
>で、「『降るのだったら』≒『降るなら』」が成り立つから、「『降ったら』+α≒『降るなら』」も成り立つことになる。
>「降ったら」に何かの意味要素を足せば、「降るなら」に近くなるということだ。
>「降ったら」と「降るなら」とを対比させるのなら、その「+α」を明らかにする、という方向でなければならない。
そう考えると、「タラ」は、「タ」の未然形などと考えること自体に弊害があるのかも知れませんね。
国語学専攻なので、どうしても歴史的背景を持ってこようとするクセがありまして。
「降ったら」と「降るなら」の差について考えるのであれば、まず、「降る」と「降るのだ/降るのである」
の差を明らかにしなければなりませんね。古代語の「〜ナリ文」と現代語の「〜ノダ/〜ノデアル文」について
考えてみたいと思います。
>>536 > テンス、アスペクトなんて現行パラダイムの便宜的なものでしょう。
どんな概念だって、「便宜的」なものだよ w
> 原理はほかにあるという531(のリンク先)は力強いと思われ。
過去 (以前) のことは「請合」えないし、未来 (以後) のことは「受止」められない。言い方を変えただけ。
「調べればわかる。*彼は以前ここに来るはずだ」
「*すみません、さっき私、3 時って言っちゃったんですけど、明日の会議は 2 時に始まりました」
「*夜行列車は、明日の朝 8 時にはもう終着駅に着いたよ」
全然ダメでしょ。
>>537 > 「未実現(未然なり未完了なり、術語は何でも可)」と「未来」は、どちらか一方しか成り立たないということで> はないと思いますよ。
> 「未来」に生起するから「未実現」なのだし、発話の時点で「未実現」だから「未来」に生起する。
要するに、同じなんだよ。
「未実現」かつ「過去」、「実現」かつ「未来」がありえないんだから。
> 寺村秀夫氏は、タ形には、「完了」の場合と「過去」の場合があるとしたが、両者を分立させる必要は、そもそ> もない。
同意。
>>538 > そう考えると、「タラ」は、「タ」の未然形などと考えること自体に弊害があるのかも知れませんね。
> 「降ったら」と「降るなら」の差について考えるのであれば、まず、「降る」と「降るのだ/降るのである」
> の差を明らかにしなければなりませんね。
まさにそのとおり。
>>539 >「調べればわかる。*彼は以前ここに来るはずだ」
>「*すみません、さっき私、3 時って言っちゃったんですけど、明日の会議は 2 時に始まりました」
>「*夜行列車は、明日の朝 8 時にはもう終着駅に着いたよ」
これらは、時間軸を意識した上での論理的言語表現です。
「スル/シタ」の使い分けは、基本的なところでは、
論理的思考によって自覚できない無意識的“悟性”(≠理性)領域から発せられる
ある種の衝動によるものです。
両者は言語使用の意識レベルがはっきりと異なります。
日本語話者が常に論理的言語表現のみを使用するという前提なら、
テンス・アスペクト等の説明だけで足りるでしょうけれども、
それでは説明しきれないところで行われる非論理的で衝動的な表現を説明するには
もっと“悟性”のメカニズムを究明しなければなりません。
「請け合い/受け止め」は、そのレベルでの仮説だということになりす。
>>541 なんだ結局日本語は論理の枠にはめられないといって
学問=論理=理性の働きの枠の外に逃亡しているだけか。
よくあるクソ日本文化論と同じじゃないか。ツマンネツマンネ。
学問=論理=理性の働きの枠の外に「逃亡」ですか?
その枠の中に引きこもってるからいつまでたっても進歩がないのですよ。
英語研究者も同じ壁に突き当たっているはずです。
“悟性”メカニズムの究明も言語化する必要性がありますから、
論理的説明を行う必要が当然あります。
しかし実際のメカニズムはどんな顕微鏡でも見えないところ、
私たちがはっきりそうだと自覚できないところにあります。
そのために仮説を立て、例外のない原理を導出する試みが必要なのです。
その努力を怠って外来のカテゴリーだけで全てが説明できるはずだと
信じるのは単なる宗教にすぎません。
脳内仮想敵である「単なる宗教」を勝手につくりあげて叩く。
チンケな手法ですね
545さんへ
あなたの発言は、誹謗の類でまったく反論になっていませんが、
それが「学問」なのですか?
俺は自分のレス
>>545が学問的であるなどと言った覚えはないが。
548 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/02/29 12:18
アスペクト表現のところでちょっとわかんない事があるんですけど
a.あそこで 太郎が ご飯を 食べている
b.あそこで 太郎が 倒れている
で、aが運動の継続になってbが運動の結果になりますよね?
何でこうなるのかちょっと判り易く教えていただけませんか?
今レポート書いてるんですがちょっとこんがらがっちゃってて…
よろしくお願いしますー
>>548 とりあえず、「食べる」、「倒れる」という運動の時間的特性と
主語「太郎」の意味役割に注目すること。
後者に関しては、「倒す」と「倒れる」の対比、また「ている」と「てある」の
対比に注目するのもいいかも。
太郎が木を倒している。
太郎が倒れている。
木が倒してある。
c.ピサで 塔が ゆっくり 倒れている
口頭語は更に先に進んで「イチゴが売る」のような表現まで聞いた事がある。
しかし今回の質問とは別問題だろう。
35 :名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/11 15:18
短い論文なんだから自分で嫁や
ぱらぱらっと見た感じ、痒いところに手が届かない感じがした
ぱらぱらっとしか見てないけど
「てある」文には形式的に具現していない動作主が統語構造中にあるが
「ている」文には統語構造中に動作主はない、っていう分析はどうなんだろうね。
あまりぴんとこないが
>>541 > 両者は言語使用の意識レベルがはっきりと異なります。
どう異なるのか全然わからない。
・すみません、さっき私、3 時って言っちゃったんですけど、
明日の会議は {2 時からでした/*2 時に始まりました}。
述語が名詞類+指定詞か、動詞かで異なるだけ。
・明日駅に着いた時にまた電話するね。
・*夜行列車は、明日の朝 8 時にはもう終着駅に着いたよ。
述語が従節にあるか、主節にあるかで異なるだけ。
>>544 > “悟性”メカニズムの究明も言語化する必要性がありますから、
> 論理的説明を行う必要が当然あります。
> しかし実際のメカニズムはどんな顕微鏡でも見えないところ、
> 私たちがはっきりそうだと自覚できないところにあります。
> そのために仮説を立て、例外のない原理を導出する試みが必要なのです。
それを文法と呼ぶ。普通の話者が、いちいち論理を考えながら言語を使っていないのは当たり前。
> その努力を怠って外来のカテゴリーだけで全てが説明できるはずだと
> 信じるのは単なる宗教にすぎません。
>> 「そんな自分なんて、どこにいるんだよ」って、まだわかんない人は、もっと深く瞑想して、もっとたくさん「わかる、わかった」を唱えてみてよ。そうすると「自分」と「自分の外側」という二つの領域の境界があるんじゃないかってことに気付くはず。
>> 頭で考えるんじゃないよ。魂(たましい)で感じるんだ。
>> そうするとだ、なんか信号(あるいは「気」)みたいなのが、出たり入ったりする感じ、するでしょ?これが一番肝心なところ。
>>
>> 「わかる」…信号(気)が出る。
>>
>> 「わかった」…信号(気)が入る。
どっちが宗教だよ w
単なる宗教と、インチキ宗教との違い
>>554,555
なんでそんなに怖がってるわけ?(w
さげ入れるとこ間違ったんで逝ってきます。
>>556 オウムを見て非合理主義と戦わないのは文明人として間違ってる
悟性なんてワケワカランことを言っているヤシの主張は
間違いなく「非学問」の戯言になっているんだよ。だから宗教だと嘲笑されるんだw
ヤシが敵視しているテンス・アスペクト・モード(ムード)といった
「西欧語の文法概念」は、これはラテン文法で形態論的にも機能論的にも
論理的にきれいに収まる諸概念であるというだけで
別に言語=論理=理性=ロゴスの、おおよそ「学問」すべての絶対的基盤となるものと
必要十分であるわけじゃないだろ。
日本語に新しい概念枠が必要だというのなら
言語=論理=理性=ロゴス→学問の大前提の上で、
新しい概念を立ち上げて議論を挑めばいいだけの話じゃないか。
それを、悟性(←これ自体西欧哲学用語なんですがw何を指すつもりで使っているのかな)
などという言葉でごまかして、妙な独りよがりのニセ論理を展開している。
学問としての論理的議論の土俵からの逃亡を自分で宣言しているから、
論理的批判をしようとしても批判のやりようがないだろw
こりゃ宗教かファンタジーだよww
>>560 とはいえ、
藻前のやってることはレテール貼りってYASIぢゃないのかと思われ(わ
>>560 まあ、あれ書いてる人も批判が先に立つのは藻前と同レベルだが、
核心部分をしかと間違いだと論証する義務ってのもありそう。
因みに漏れはまあ、そう間違ったことは言ってなさそうと見る立場ね。
>>561-562 間違いかそうでないかを論ずるより前の段階がおかしいんだよ。
だから門前払いせざるを得ない。というよりヤシが門前から逃亡しているww
テンスやアスペクトなどの、ラテン文法を雛形とする
西欧の文法学の概念には存在しない概念を立てて日本語文法の説明に資する試みは
もういろいろなヤシがしてきているじゃないか。
「話者の記憶の確かさ」「自然生成/話者の意志」など
挙げればキリが無い。
でもすべて、ちゃんと言語=論理=理性=ロゴスの大前提の上で、
他のヤシと議論することの可能な概念が立ち上げられ、批判にさらされている。
おおよそ学問というのはそういうものだ。
でもこのヤシはそこから逃亡しているんだよ。
もうすでに「悟性」の用法が意味不明で(間違いなく"Verstand"とは何の関係も無い。
Verstandが精神ではない肉体の働きのことだといったら(そう主張しているように見えるが)、
驚きの余りドイツの哲学者は全員心臓発作で即死するかもしれない)、
554(漏れではない)の引用している最後の部分に至っては
議論しようにも議論のしようがない。
「信号が出たり入ったりする感じ。瞑想汁。そうすればわかる。」
などという内容をどうやって議論せよというんだよ・・
>>544 > その努力を怠って外来のカテゴリーだけで全てが説明できるはずだと
> 信じるのは単なる宗教にすぎません。
そんなことだれも信じてないって w
>>562 タが言えるかどうかは、事実 (真偽) の問題だから、魂をいくらはたらかせたって、何もわからない。頭を使ってくれ。
魂は価値 (善悪) を判断する。魂を導くのは宗教だろ。
要するに、教え方がヘタクソなんだよ。
日本語教師はテクノロジストなんだから、理論をうまく応用してもらわなきゃ困る。
それに、適切な文法を知ったからって、急に日本語が上達するわけでもない。つべこべ言わずにレッスンしないと絶対ダメ。
日本人だって苦労して外国語を勉強するんだから、外国人も苦労するのは当然のこと。
>>564 タが言えるかどうかは、事実 (真偽) の問題、なのか?
藻前も相当怪しいこと言うな。
>>565 ほう。では、タが言えるかどうかについて、日本語話者の判断が分かれる (と思われる) 例を挙げてみてくれ。
567 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/01 08:22
>>566 (ヨコレスでスマソけど)
事実でルを言うことも多いからタが事実真偽と言われても「?」だね。
>>567 ルとタの使い分けについて、ネイティヴの判定が分かれることはほとんどない。両方言えるなら意味が違う。
使い分けの原理はあくまで事実の問題。好みや主観では選べない。
564さんへ
そんなオカルトじみたことではありませんよ。
形態素「ル(-u)/タ(ダ)」の現れ方を自己観察して割り出したというだけのことです。
「ル(-u)」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「タ(ダ)」=甲対乙の関係で、乙が主導的
甲=非事象(認知主体)
乙=事象(認知対象)
ここを見つけて私も勉強させていただいております。
真摯な反論をお願いできたら幸いです。
「ヨウ(-oウ)」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「タロウ(ダロウ、タダロウ、ダダロウ)」=甲対乙の関係で、乙が主導的
「レバ(-eバ)」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「タラ(ダラ)」=甲対乙の関係で、乙が主導的
▼形容詞
「イ」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「カッタ」=甲対乙の関係で、乙が主導的
▼形容動詞・名詞
「ダ」=甲対乙の関係で、甲が主導的
「ダッタ」=甲対乙の関係で、乙が主導的
甲=非事象(認知主体)
乙=事象(認知対象)
・・・・品詞を問わず同義の形態素がペアになっていて例外も一切ないと見ます。
こういうのを“原理”というのではないでしょうか?
忌憚なきご意見、ご教授を賜れば幸甚です。
ご質問ありがとうございます。
話者自身の思考や記憶は、話者の認知対象(話者自身に認知される話者内部の事象)となります。
しかし、「ル/タ」の選択は通常、認知対象とはならないレベルで行われています。
(原理の特定がこれだけ難しいことからも明かでしょう。)
「主導的」というのも、意識の表層に上ってこないレベルでそう認知されているということです。
>>573 「主導的」の説明には全然なってない。
> 話者自身の思考や記憶は、話者の認知対象(話者自身に認知される話者内部の事象)となります。
> しかし、「ル/タ」の選択は通常、認知対象とはならないレベルで行われています。
ネイティヴ・スピーカにとっては、あらゆる文法規則が、普通そのようなレベルではたらいている。
> (原理の特定がこれだけ難しいことからも明かでしょう。)
説明のための言葉を、われわれがまだ見つけていないだけだろう。
「昨日は雨だ」とか「昨日も雨だ」とか「過去」の助動詞を使わなくても
言えると思うんですが,なぜですか?
「主導的」の説明 (遅くなってしまい、すみませんでした)
発話=事象の提示
・・・ですから、その事象提示の衝動が、
相対する「認知主体」と「認知対象」のいずれが主導的で生起するか
ということです。
このような説明でわかっていただけるでしょうか。
> 「昨日は雨だ」とか「昨日も雨だ」
事象の認知が話者内で十分こなれるなどして、
「認知対象」よりも、比較的「認知主体」が主導的(事象提示の衝動に関して)になることがあります。
過去の事象でも「ル」が選ばれるのはそのような時です。
これに関しては、英語ネイティブ(イギリス)でも過去の事象を現在形で言うことがあり、
日本語と同じ原理が働いているのではないかと考えられます。
http://www.jomon.net/nihongo/nihongo.html
もともと時制のない名詞文だからだろ
>>575 > 「昨日は雨だ」とか「昨日も雨だ」とか「過去」の助動詞を使わなくても
> 言えると思うんですが,なぜですか?
そのときの「昨日」が、「昨日は (も) 雨だった」と言うときの「昨日」と、同じじゃないからだよ。
どんな場合に言えるのか、よく考えてごらん。
>>576 > 発話=事象の提示
> ・・・ですから、その事象提示の衝動が、
> 相対する「認知主体」と「認知対象」のいずれが主導的で生起するか
> ということです。
> このような説明でわかっていただけるでしょうか。
わからない。形態を選択する客観的原理になっていない。
> 事象の認知が話者内で十分こなれるなどして、
> 「認知対象」よりも、比較的「認知主体」が主導的(事象提示の衝動に関して)になることがあります。
> 過去の事象でも「ル」が選ばれるのはそのような時です。
どのような条件が整ったとき、「事象の認知が話者内で十分こなれ」たといえるのかが不明。
「ル」が選ばれているのを見て、十分こなれているのだと説明するのは後知恵にすぎない。
> これに関しては、英語ネイティブ(イギリス)でも過去の事象を現在形で言うことがあり、
> 日本語と同じ原理が働いているのではないかと考えられます。
>
http://www.jomon.net/nihongo/nihongo.html いわゆる「小説の現在形」のはたらきは英語と日本語とでかなり違うが、それはともかく、
> チャップリンはその後アメリカに渡ります
の「渡ります」が、発話時以前の事態を表しているのと同様に、
> ゆうべ部長と飲みに行ったんだけどさ、すごい飲むね、部長は。そんで顔色一つ
> 変えないで君は根性が足りないなんて言うんだよ。酔っぱらって言われるならま
> だしもほとんどしらふの顔で言われるとやだよね
の「飲む」 「言う」 「やだ」が、発話時以前の事態を表しているという保証はない。
また、二つの「言われる」は従節にあるから、主節にあるときと同じ原理に支配されているという保証もない。
>>577 > もともと時制のない名詞文だからだろ
そんな乱暴な。中級までは一応「*昨日は雨だ」は間違いと教えておくべきだ。ものには順序がある。
「時制」にせよ、「アスペクト」にせよ、決して「原理」ではありません。
「原理」は、別のところにある、それが事実です。
その原理が行われることによって、「時制」を表現したり、
「アスペクト」を表現したりすることは可能なのですが、
同時に、「時制」に適わない発話や「アスペクト」に適わない発話が生じるわけです。
>> 我々日本語を母語とする者は、スルとシタの間にまっすぐな境界線を引いているはずで
>> ある。それはテンスの境界線とアスペクトの境界線とを別々に引いているのでもなく、単
>> にスルとシタの境界線を引いているのである。
--- 興津 1994年(
http://www.jomon.net/nihongo/chap0.html )---
この「境界線」が、「認知主体」と「認知対象」という相対する領域の境界線であると見れば、
他のいかなる仮説(テンス・アスペクトなど)よりもすっきりするのではないでしょうか。
なにしろそこには例外もなければ併存する別の「原理」もないのです。
「ル/タ」が、子供にも正しく使い分けられているのは、
「原理」がこのように極めつき単純なものであるからだとは言えないでしょうか。
* * *
真の原理を習得するということは、すなわち、
「ル/タ」(及び「イ/カッタ」など)の習得に関してネイティブになるということです。
ただし、「原理」が特定されたからといって、
それを「客観的」説明によって正しく教授する方法が果たしてあるのかどうか、
そこにはまだ課題が残されたままですから、
579さんが「わからない。形態を選択する客観的原理になっていない。」
と仰るのも無理のないところなのでしょう。
しかし、
> どのような条件が整ったとき、「事象の認知が話者内で十分こなれ」たといえるのかが不明。
> 「ル」が選ばれているのを見て、十分こなれているのだと説明するのは後知恵にすぎない。
とのことですが、
形態素の発話とは、他者にも決定しうる「客観的条件」云々ではなく、
あくまでも話者にしか決定できないことです。
原理とは、発話された形態素から話者の心理を推定する上では有効になるはずのものですが、
他主観からの客観的観察によって、話者による形態素の選択を決定するものではないのです。
これもまた厳然たる事実ですから、579さんのご指摘には無理があります。
直感をそのまま述べるだけで検証可能な分析を伴わない
認知主義の典型的な悪い例ですね。
本人か他人か知らんが
本人だったら、こんなおそまつな論考をネット上で喧伝するというのは
実にイタイ
人畜無益な国語学、日本語学、逝って良し。
584 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/03/06 21:48
>582
>検証可能な分析を伴わない
脳波でもとくと見れば案外可能な気もするが、
それでもオマエのようにわからん振りするのも可能かもな。
>>580 > 我々日本語を母語とする者は、スルとシタの間にまっすぐな境界線を引いているはずで
> ある。それはテンスの境界線とアスペクトの境界線とを別々に引いているのでもなく、単
> にスルとシタの境界線を引いているのである。
これは怪しい。一つの語にも異なる用法があるし、同音異義語ということもあるし、同一語の異なる用法と見るべきか、別語と見るべきかも、容易には決められないことが多い。
例えば、「水は 0°C 以下で氷になる」と「私はあしたで30歳になる」の「なる」は、同じ意味と解釈しなければならないのか。
また、「強風で曲がった鉄塔」と「くねくね曲がった道」の「−た」は、同じ語といえるのか。
> なにしろそこには例外もなければ併存する別の「原理」もないのです。
> 「ル/タ」が、子供にも正しく使い分けられているのは、
> 「原理」がこのように極めつき単純なものであるからだとは言えないでしょうか。
現象を説明する「原理」は、単純かつ、客観的でなければならない。
また、「原理」がそのままの姿で具現していることはまずない。「例外」が全くないというのはかえっておかしい。
「原理」は、現実の様々な条件に干渉されて、現象の中に埋没しているのが普通だ。大人を基準として言語形成期の子供のことを考えても無意味。
>>581 > 形態素の発話とは、他者にも決定しうる「客観的条件」云々ではなく、
> あくまでも話者にしか決定できないことです。
> 原理とは、発話された形態素から話者の心理を推定する上では有効になるはずのものですが、
> 他主観からの客観的観察によって、話者による形態素の選択を決定するものではないのです。
それだと、「誤用」というものはなくなってしまうね。
>>582 > 本人だったら、こんなおそまつな論考をネット上で喧伝するというのは
> 実にイタイ
「本人」の言ってることも大差なし。「検証可能な分析」なんぞ鼻で嗤っている。
てす
> これは怪しい。一つの語にも異なる用法があるし、同音異義語ということもあるし、同
> 一語の異なる用法と見るべきか、別語と見るべきかも、容易には決められないことが多
> い。
問題は、「文法」研究者であろうと思われる586さんが、素直に事実を認識しているかどうかです。
ここで指摘しなければならない事実とは、
日本語ネイティブであり、なおかつ
「文法」などというものを気にしていない人々(以下「一般人」)が、
何が同音異義で何が同義と思っているかを、正しく認識するべきだということです。
586さんのような研究者に決定的に不足しているのは、
そのような事実認識への素直な姿勢ではないかと思われてなりません。
> 例えば、「水は 0°C 以下で氷になる」と「私はあしたで30歳になる」の「なる」は、同じ意
> 味と解釈しなければならないのか。
> また、「強風で曲がった鉄塔」と「くねくね曲がった道」の「−た」は、同じ語といえるのか。
一般人には、いずれも同じ意味です。
どこが違うのかと、586さんのような人に指摘されてはじめて、
「ふーん、なるほどねー、複雑なもんだねー」となるだけのことです。
そんな知識がなければ、「なる」は「なる」、「タ」は「タ」でしかありません。
一般人の日本語運用において、そんな複雑な知識は一切無用である、
これが事実です。
(もちろん、本当の同音異義語というのは別に存在しますが、
現在述べているのは、形態素の問題です。)
> それだと、「誤用」というものはなくなってしまうね。
なくなりようがありません。
一定のルール(原理)に従って発話できるようになること、
つまり原理の習得ができてはじめて、日本語が話せるようになるのです。
その原理に則っていない発話は、日本語として正しくないのです。
むしろ、正しくもない「文法」とやらによって、
正しい日本語がゆがめられる危険性の方を危惧しなければなりません。
つまり外国語用の文法用語で日本語を語るのに無理があるってこと?
名付けて、認知原理主義(w
しかし案外最強の文法かも
591 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! [sage] 投稿日: 04/03/07 15:42
名付けて、認知原理主義(w
しかし案外最強の文法かも
>>588 > 一般人には、いずれも同じ意味です。
それは君の思い込みだよ。
「私は30歳になる」は、或る年月日を境に不適格となり、「なった」と言わなければならなくなる。
他方、「水は (一般に) 0°C 以下で氷になる」は、いつまで経っても「なった」と言えるようにはならない。
また、「40m/s の強風で曲がる鉄塔 (はどれですか)」とは言えるが、「??くねくね曲がる道」とはほぼ言えない。
「曲がった道」の「−た」が、「-(r) u」と対立するものかどうかは疑問だ。
> どこが違うのかと、586さんのような人に指摘されてはじめて、
> 「ふーん、なるほどねー、複雑なもんだねー」となるだけのことです。
それがすなわち、「『ル/タ』の選択は通常、認知対象とはならないレベルで行われてい」るということだ。
>>589 > その原理に則っていない発話は、日本語として正しくないのです。
でも、その原理は客観的には知り得ないんだよね?
それで、或る発話が「日本語として正しくない」と、どうやって客観的に判断できるの?
アホは黙っとけ
>>593 オマエ日本語、わかる?「言える」とかどうとか、
所詮オマエの主観なんダヨ、ヴォケ!
>>595 だから、誤用というものはなくなってしまうと言っただろ?
>>593 > > 一般人には、いずれも同じ意味です。
> それは君の思い込みだよ。
思い込みかどうか、研究費のあるところでアンケートでもとってみたら
いかがでしょうか?
もっとも、特定の回答を誘導するような設問はだめですよ。(笑
> 「??くねくね曲がる道」とはほぼ言えない。
言えるかどうかではなく、そのような発話がネイティブから出るかどうかです。
もちろん、そのような発話も日常の中から出てきます。
それを「文法」的に間違いと断ずるような暴挙に対し、
「『文法』はどうか知らぬが、自分が間違った日本語を使っているとは思わぬ」
という主張が当然出てくるわけですね。
日本語教室をご覧になったことありますか?
あるいは、以前NHK教育で始まったころの日本語教育番組。
あれを見て一般の日本人の多くは、奇妙な日本語をやっていると笑った、
それが厳然たる事実なんです。
どうしてそうなるかと言えば、「文法」を教育項目に採用しているからなんですね。
あなたのやりたいことは、そういうこと、つまり日本語の破壊でしかありません。
>>590 時制などはその代表。
日本語でも“文法”をやろうと思い立ったヤシらが
「やった!日本語にも時制があるゾ!」と小躍りしてコンニチに至る。
百年進歩ゼロの珍しい「学問」をやってるヤシら、ここにもいるようだな。(藁
>>597 > 思い込みかどうか、研究費のあるところでアンケートでもとってみたら
> いかがでしょうか?
「通常、認知対象とはならないレベルで行われてい」る事柄についてアンケートをとって、何の意味があるの?
> 言えるかどうかではなく、そのような発話がネイティブから出るかどうかです。
> もちろん、そのような発話も日常の中から出てきます。
だれか一人でも、それを言うネイティヴがいれば、「誤用」ではないということなのか?
Google 検索結果 (日本語ページのみ):
「くねくね曲がる道」約40件。
「くねくね曲がった道」約127件。
「くねくね曲がる道」はけっこう出て来るよ。話者自身がその道を実際に進みながら、あるいはそれを想定しながら発話することがあるからね。
だけど、「強風で鉄塔が曲がった (のだ)」が言えるのに、「*地図を見ると、その道はくねくね曲がった」がおかしいのはなぜ?
「おかしい」と判断するのが「暴挙」かな w
> 「『文法』はどうか知らぬが、自分が間違った日本語を使っているとは思わぬ」
> という主張が当然出てくるわけですね。
つまり、ネイティヴ全員に確かめたうえでないと、「誤用」とすることはできない、
結局、「誤用」というものは事実上ないということになるね。
> あれを見て一般の日本人の多くは、奇妙な日本語をやっていると笑った
それも主観にすぎないといわれたらお終いだよ。
あるいは、番組制作者は日本語ネイティヴではないとでも?
> あなたのやりたいことは、そういうこと、つまり日本語の破壊でしかありません。
そういう意味での「破壊」が嫌だったら、言語形成期を過ぎたか、過ぎつつある外国人に日本語を教えるのは、一切諦めることだね。
> 593 :名無し象は鼻がウナギだ! :04/03/07 22:29
> また、「40m/s の強風で曲がる鉄塔 (はどれですか)」とは言えるが、「??くねくね曲がる道」とはほぼ言えない。
> Google 検索結果 (日本語ページのみ):
> 「くねくね曲がる道」約40件。
> 「くねくね曲がった道」約127件。
> 「くねくね曲がる道」はけっこう出て来るよ。話者自身がその道を実際に進みながら、あるいはそれを想定しながら発話することがあるからね。
> だけど、(以下略)
↑
でっかい致命的な墓穴掘ってる。
>>600 「話者自身がその道を実際に進みながら、あるいはそれを想定しながら発話する」場合だけ、「くねくね曲がる道」が言えるんじゃないの?
「くねくね曲がった道」にはそんな条件が付かないから、両者が「−ル/−タ」の対立だとはやはりいえない。
>>ほぼ言えない。
ワラタ。
>>601 やはりいえない。
ツマーリ、「いえない」は意味なしつーことでヨロシ烏賊?
言える言えないのどこが客観的なのか小一時間(以下ry
言語学板てのはアフォばっかやな
言語学→珍語学
日本語学→「「「「「日本語」」」」」学
国語学→どこく語学
上記のように名称は変更されました。
オマエ客観的に考えてみろやヴォケ、そこで「間違いない」とは言えな(ry
>>608 客観的に考えて、そこまで粘着するのは、何かトラウマを持っている蓋然性がきわめて大きい。
まずは共通語からだね www
>>598 >時制などはその代表。
>日本語でも“文法”をやろうと思い立ったヤシらが
>「やった!日本語にも時制があるゾ!」と小躍りしてコンニチに至る。
>百年進歩ゼロの珍しい「学問」をやってるヤシら、ここにもいるようだな。(藁)
全くないということはないでしょう。現代語はスルとシタの対立しか(テイルも含めるか)
ないから曖昧なだけで。古くは、いわゆる時制統一がはたらいていたのですからね。
あくまで文献上に現れた範囲でですが。
※続
アスペクトだってありますよ。コト(=Event)を、ウゴキ(=動作)として表すか、
アリサマ(=状態)として表すかの差が。まぁ、これをアスペクトと呼ぶのか微妙ですけど。
613 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/06/22 00:51
語学板?
>外板仏独スレの410
私が「入門スラヴィスト」ヽ(´〜`0)ヽ です。。。
>>615 あらら、そうでしたか。
この話題に、よすぃー氏が現れないなあ、と思っていたので
本コテ召喚してしまって、申し訳なかったです・・・
多分、きちんとやるのであれば、アオリストなどが残っている
ブルガリア語をやった方がいいんでしょうけどねえ・・・
そこまで今は手がまわらないや。
原氏の文章は、どうも通して見ると、割と普通の見解と変わらないのに
彼風にまとめたときに独特な色付けがされた感じがしました。
617 :
言語学の未熟な志望者:04/06/22 11:28
>>615-616 仏独スレの334です。いろいろご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
原氏の「独特な色付け」につられてしまいました。
どうして、そういう色付けをしたのか、動機、典拠を知りたいところです。
ブルガリア語はバルカン言語連合の影響を受けているので、どの程度参考に
なるのでしょうか?
この板が肌に合いません。ヒロシです