2 :
名無しさん@ピンキー:2006/10/27(金) 01:16:06 ID:sT83GGYB
おらおら!清潔で 美しく すこやかな毎日を目指す 花王様が2ゲットだぜ!
. ‐、‐-.,_
ヽ ヽ、
>>1 あるある大辞典は単独提供だ!うらやましいか(プ
'i 'i,
>>3 2ゲットもできねーのか?ビオレで顔洗ってこい(ゲラ
,ノ.,_ |
>>4 資生堂ばっか買うなよ(w
< ‘` !
>>5 お前もしゃくれアゴ(プ
,'=r ,/
>>6 ライオン製品でも使ってろよ(ゲラ
、.,_,..-'´ /
>>7 P&Gには負けんぞ!
`"'''―'''"´
>>8 ヘルシア厨必死だな(ププッ
3 :
48:2006/10/27(金) 12:10:20 ID:GBZpu/4i
こんにちは、とってもお久しぶりの48です。
これほどまでに間が空いてしまい、全くもって申し訳なく思っております。しばらく全く余裕の
ない生活を送っておりまして、それがひと段落したら周囲にいろいろと揉め事が起こってしまい、
それらに煩わされているあいだに、なんと1年も空いてしまいました。
さて、今回のお話も短編ですが、今回は、次の長編の主人公の1人であるシャルロット・
ゴドウィン3等陸曹が本編に登場するより以前を扱った、外伝的なお話です。しばらく書く
ことすらできなかったので、リハビリ的な意味で書きました。ブランクの割にはけっこう上手く
書けたと自負しています。
今回は濡れ場無し、戦闘シーンもほとんどありませんが、それなりに真面目なお話です。
読者諸賢に楽しんでいただければ幸いです。
※各国軍・各軍種間での階級呼称の違いによる混乱を避けるため、下士官兵の訳称を試験的に
自衛隊式呼称に統一しました。OR-1を3士と対応させ、以降それぞれがNATOコードに
おいて対応する階級に対応していると考えてください。
また、特に下士官兵については、旧軍式にせよ自衛隊式にせよ、来歴と職務について完全に
対応させた訳が難しいことも、承知していただければ嬉しいです。
「レディ・スミスの囁き」
愛息であるダニエルの父親について聞かれるとき、彼女はいつも決まって
「不思議ね。何も覚えてないわ。顔も思い出せないのよ」
と答えることにしていた。
しかし実のところ、それはまったくの嘘だった。
だからこそ、夕食の最中、レストランの前を通りすぎるその男の顔が唐突に目に入ったとき、まったく彼女
らしくもないことだが、シャルロット・ゴドウィンは、すっかり呆然として凍りついてしまったのだった。
隣でデザートに夢中になっていたダニーは母親の顔を見なかったが、テーブルの向かいに座っていたクロード・
ゲルサンは彼女の表情を不審に思い、首をわずかに動かして後ろを窺った。
しかし、彼の目に映ったのは、ごく普通の痩せた若い男の顔に過ぎなかった。
彼の鍛えられた眼はその男にさして危険なものを認めず、見かけによらず豪胆な姪が、この平凡な男を見てなぜ
こうも動揺するのかと訝った。
もっとも、「平凡な男」と彼女との間にあったいきさつを知っていれば、その疑問はたやすく解けただろう。
その男の名はディーン・エリダン。
彼女の初恋の相手にして、ダニーの父親である。
ゴドウィンは才能に恵まれた船乗りであり、また、一人息子を抱えるシングル・マザーでもある。
ゆるやかに波打つ赤褐色の髪はたいてい肩の上でカットされていて、注意深さを奥に隠した緑色の瞳は美しく、
引き締まった体躯は、秘める力を想像させないほどに楚々としている。
少なくとも、陸上にあるかぎり、彼女は魅力的な女性であり、また良き母親であった。
しかしその一方で、彼女は洋上を仕事場としており、斯界において伝説的な名声を確立した叔父のクロード・
ゲルサンの右腕であった。
もともと都会で育った彼女は、海について多くをクロード叔父に学んだ。
クロード・ゲルサンはヘスペリア共和国海軍歩兵コマンドー軍団に属する2等陸士としてその軍歴をはじめ、
退役したときには、軍団全体で最先任の上級陸曹長になっていた。
彼の現役時代の経歴は、そのすべてがいわゆる“ブラウンウォーター・ネイヴィー”でのものだった。
彼はその経歴を通じて、派遣すべきでない場所に人々を送り込み、いるべきでない場所にいる人々を支援し、
いないはずの場所から人々を引き揚げさせてきた。
彼が伝説となったのは、「砂漠の嵐」作戦中のことである。
パダニ王国の特殊部隊SASがスカッド・ミサイルの発射場を破壊するために送り出したパトロール隊のうち、
ひとつが帰らなかった。途切れ途切れの交信から、彼らが強力な機甲部隊に遭遇し、追撃を受けて脱出中である
ことが判明した。彼らは最初の交戦で対戦車ロケットを撃ちつくしており、このままでは、生きて翌朝を迎えら
れないことは確実であった。
手持ちの資産がすべて出払っていたせいで、多国籍軍司令部は、ゲルサンのチームを送り込まざるを得なく
なった。敵は沿岸に機雷原を設置しており、彼らは、狭い回廊を暗夜に辿らねばならなかった。
それだけでも既に過酷なものだったが、機雷原を突破した直後に、最大の危機が待っていた。
無人のはずの集落に、1個小隊の歩兵とBMP歩兵戦闘車がいたせいで、危険な任務は無謀なものになった。
沿岸に達した段階で彼らは発見され、猛烈な戦闘になったが、ゲルサンは空荷では帰らないと冷然と決意した。
艇は数百発の銃弾と73ミリ砲の至近弾を数発喰らって船室に風穴を開けられ、お返しにBMPを2両ふっとばし、
そのあげく、SAS隊員たちをどうにか収容して脱出したのだった。
その週のはじめにSASの別のチームが消息を絶ったばかりだったので、ゲルサンたちの救出成功はたいへんな
歓迎をもって迎えられた。畏れおおくもパダニ王国女王陛下が直々にヘスペリア共和国大統領に電話し、
「あなた方の勇敢な海兵隊員たち」に感謝の意を伝えたおかげもあって、救出作戦に参加した全てのクルーに
国家勲功章が与えられ、指揮官であるゲルサンと2名のミサイル射手には軍事勲章まで与えられる騒ぎになった
ものである。
軍事勲章の上には、かの有名なレジオン・ドヌール勲章しかない。
ゲルサンは、退役を機にチャーター・ボートの船長をはじめ、それと同時に、ゴドウィンを自分の後継者にすべく
徹底的に鍛え上げた。当時のゴドウィンは、単なる元不良少女に過ぎなかったが、彼はその中に何かしら光るもの
を見出していたようである。
彼女は、ゲルサンが見込んだとおりにみるみる腕を上げ、まもなく彼らの船は最高の船として知られるように
なった。記者が記事にせず、自分のために心にしまっておきたくなるような船である。
ゲルサンが軍の人脈を生かして集めた情報と、いかにも無邪気に見えるゴドウィンに心を許してうっかり秘密の
漁場を漏らしてしまう他の船乗りたち、そして何よりも彼ら自身の地道な努力のおかげで、彼らは常に客を満足
させることができた。他の船のすべてが良い漁場を見つけられず、釣り客を怒らせてしまうときにもそれは変わら
なかった。あたかも、その海域について彼ら二人が知らないことなど無いかのようだった。
その一方で、その地域にある海上憲兵隊の勢力が不当なほどに少ないために、時として彼らは警察などからの
依頼を受けた。憲兵たちは海軍歩兵コマンドー軍団で勇名を馳せた男の船に乗りたがったし、海上憲兵隊と協同
するにも、軍務経験のある船長のほうが何かと都合が良かった。
それらはたいてい水難者の捜索だったが、密漁船を追跡したあげく銃撃戦になり、船上で応戦する憲兵たちに
混じってゴドウィンが散弾銃をぶっ放したこともあった。
ゲルサンは、出自が出自なだけに、船乗りは武装しているべきだと固く信じていて、海兵隊時代から愛用する
9ミリのブローニング・ハイパワーを持ち歩いているし、船には散弾銃を積んでいる(銃撃を浴びて激昂した
ゴドウィンが持ち出したのがそれである)。
その一方で、ゴドウィンは海兵隊予備役に登録しているにもかかわらず、武装することについての考え方が
叔父とはだいぶ異なっていた。
そのことは、彼女が選んだ武器がステンレス製の5連発リヴォルヴァー、チーフス・スペシャルのレディ・スミス
・モデルだということから、極めて明瞭に分かるだろう。
彼女は、何かしら武器を買うように勧められた時も、その銃の威力には「一顧だにせず」、手入れにかかる
手間と信頼性、そしてお値段に重きを置いた。いつの日か海を二つ越えてアラスカまで行くことを夢見て、
「マグナム弾を使える」ことにひどくこだわった(グリズリーを相手にするつもりらしい)し、
「女性向け」だということに惹かれて、多少高いのにレディ・スミスを選んでしまったりはしたけれど、叔父が
持っているような9ミリ・セミ・オートマチックには、まったく興味を示さなかった。
彼女が持っているのは、レディ・スミスの中でもマグナム弾を使える新しいやつだが、強力なマグナム弾を
装弾した銃を息子の近くに置いておくことに抵抗があるのか、普段は.38口径弾だけを装填していた。
彼女は機械が嫌いではなく、その意味で銃にも興味があった。
ただ、決して口には出さないけれど、彼女は少し銃がおっかないのかもしれなかった。
そんな彼女だから、ダニーを寝かしつけたあとのキッチンで、しまいこんでいた弾薬箱を取り出して、
レディ・スミスにマグナム弾を装填しているのを見たとき、ゲルサンは本当に驚いた。
そのリヴォルヴァーは、いつものとおり完璧に整備されていた。あらゆる可動部がなめらかに動き、
シリンダーには火薬滓の一片もなく、フレームは鏡のかわりに使えそうなほどに磨き上げられていた。
開け放した戸口からゲルサンが入ると、彼女は振り向いたが、すぐに顔を戻し、黙ってシリンダーを閉じた。
ラッチがかちんと音をたてた。
フェデラル125グレインのホローポイント弾を5発装填されたレディ・スミスは、白く光る蛍光灯の下、
いつもと違う強烈な存在感を発散していた。
「――あの、夕飯のときの男のせいなのか?」
彼女はレディ・スミスをホルスターに収め、言った。
「奴がディーン・エリダン、私とダニーを捨てた男です」
ゲルサンが驚いたとしても、表情にはまったく表さなかった。その代わり、静かに訊ねた。
「長物が必要になると思うか?」
彼女は黙って首を振った。「長物」とは散弾銃など、彼らが普段たずさえるより大きく強力な火器のことである。
「あの男は危険だろうか?」
「危険になるだけの度胸なんか持っちゃいませんよ、あいつは」
ゲルサンはしばらく黙って彼女の様子を眺め、そして静かに聞いた。
「今でも彼を憎んでいるか?」
端正な彼女の立ち姿が、かすかに揺らいだ。
「違うと言えば、嘘です」
彼女が高校2年になった秋に、彼らは出会った。
そのころの彼女は、拗ねたような赤い唇が印象的な、もうすぐ17になろうという少女だった。鋭敏な観察者なら、
アンバランスな危うさを秘めていると評価しただろう。表面上は彼女にとって全てが順調だったが、内面では漠然
とした不穏さが漂っていた。学校の成績は良かったし、少女向けの雑誌の読者モデルに選ばれたりもしていた
けれど、何かを見失っているように感じていた。世界中が動きつづけているのに、彼女だけが同じ場所に留まって
いるような気がしていた。目に映る全てが物悲しく、全てが急速に色褪せていくようだった。小さな雨音さえもが、
彼女を苛立たせた。
たぶんそのせいだろうが、彼女はディーンとの関係にのめりこんだ。
16才の少女にとって、ハンサムで何事にも反抗的、気障な5才年上の男はとても魅惑的に映った。
出会ってから1週間ののち、彼らは初めて寝た。想像していたほど素晴らしいものではなかったけれど、そう
ひどいものでもなかった。彼女は酔っ払って勇敢になっていたし、ディーンはその方面に長けていた。
彼女はすっかり彼に夢中になった。母や友人の警告は無視され――
結局のところ、あまりに多くの少女がたどった軌跡を彼女もたどりつつあった。
17才の誕生日の数日後、妊娠したことがわかった。最後は外で出すことにしていたので、どちらも避妊は
まったく配慮していなかった。彼女はパニックになってディーンに助けを求めたが、彼は逆に彼女のありもしない
浮気を責めた。
彼女の自尊心は徹底的に傷つけられた。少年たちにとって彼女は既に疵物だった。たった17で使い古され、
捨てられた。過ちを悔いても既に遅く、母親になる準備などできているはずがなかった。
診療所に予約を入れたが、受付で名前を呼ばれたとき、堕ろすことなどできないと悟った。
退役したゲルサンが訪れ、その境遇から彼女を無理やりに引きずり出すのは、その半年後のことだった。
そのような次第で、ゲルサンとゴドウィンのボート・サーヴィスの事務所にやってきたとき、ディーンが受けた
応対は、すこぶる非友好的なものになった。
ゴドウィンは立ち上がって腰に手を当て、彼らはカウンターを挟んで対峙した。
ひとしきりゴドウィンの険しい視線に耐えたのち、ディーンはぎこちない笑みを浮かべて手を差し出したが、
彼女はその手を握ろうとしなかった。
「おまえが船に乗ってるとは、驚いたな」
「はるばる海外県まで世間話をしにきたとでも言う気? さっさと言いたいことを言って出ていきなさい」
「坊主は元気にしてるか?」
「あなたに教える必要はないわ。なぜあなたは今さら戻ってきたの?」
「おまえと坊主に会いたいからだ。これで不足か?」
「私はあなたに会いたくないし、ダニーも同じよ。本人の意思に反してダニーをあなたに会わせる気はないわ。
遠くまでご苦労なことだけれど、時間の無駄よ」
「おい、昔の恋人にその扱いは冷たすぎるぜ」
彼女は歯を食いしばった。
「今すぐ出てかないと憲兵を呼ぶわよ。その前にあたしがあんたを撃っていなければね」
「それはありえないね。おまえには俺を撃てないだろうよ」
その言葉を最後に、ディーンはドアからするりと抜け出した。
彼女はヒップ・ホルスターのリヴォルヴァーから手を外して溜息をついた。
1分たらずのやり取りにもかかわらず、全身が汗で濡れているのを感じた。
ゲルサンは何も言わず、寄りかかっていた壁から体を引き離した。
彼らの規模の事務所の場合、二通りの午前11時がある。殺人的に忙しいか、殺人的に暇かのどちらかだ。
中間というものがない。
だから、みんながホテルやらハーバーやらとの電話を片手に海図やら天気図やらと睨めっこしているか、
あるいはみんながあくびしながら、遅い朝の気だるさを、のんびり楽しんでいるかということになる。
雨季の中盤のとある日の午前11時は、普通、後者のほうの午前11時になる。
静かな雨がしとしとと敷石を濡らしていくのを、乾いて涼しい室内から温かいコーヒーでもすすりながら眺める
のは、実際、ちょっとした楽しみと言えた。
しかし、ディーンの来訪と、彼が伴ってきた不穏さのせいで、その呑気さは雲散霧消してしまっていた。
ゲルサンは手持ち無沙汰なままに「台風避泊のコツ、伝授します」の特集ページを読んでいたが、そのうちに
それを閉じて、姪のほうを見つめた。
ゴドウィンが書類の山を崩し、ペン立てとコーヒー・カップをひっくり返したところで、彼は声をかけた。
彼女ははっと気がついて、ばつの悪そうな顔をした。
「少し早いが、昼飯にしようか」
「はい」
「構わんからこっちに座りな」
「ありがとうございます」
ゴドウィンはすっかり散らかった自分のデスクを離れ、椅子を引きずってきてゲルサンの向かいに腰を下ろした。
ゲルサンはノート型のコンピュータを閉じて仕舞い、ランチボックスを広げた。
二人ともしばらく黙って食べていた。
ゲルサンが先に食べ終わった。彼は箱を閉じて脇に寄せ、机の上で大きな手を組んだ。
「チャーリイ」
と姪につけたあだ名を呼んだ。
ゴドウィンは紙ナプキンで口を拭い、挑戦的な目つきで叔父に向きあった。
「叔父さんが言いたいことは分かります。あの男への接し方が厳しすぎたとでも言うんでしょう?」
「その通り。さっきのお前の態度はまったく褒められたものではなかった。7年ぶりの相手に対するには、それ
なりの礼儀というものがある。ましてや相手は息子の父親だ」
「お忘れかもしれませんから指摘させていただきますが、奴は私とダニーを吸殻か何かのように捨てたのです。
奴を許すことなど、できない相談です」
「もちろん、それに怒るのは正当な権利だ。だが、それは7年前のことだぞ。歳月は人を変えるものだ」
実際、お前自身がいかに変わったか、省みるがいい、とまでは言わなかった。
「歳月は罪に赦しを与えはしません。無論、本人の態度次第で酌量の余地はあります」
と彼女は認めた。
「しかしさっきの態度は誠意とは程遠いものだった。そう思うでしょう?」
「だが、さっき君らが話したのは1分間――たった1分だぞ!
それで全てを判断するのは不公平だと思わんかね?」
「叔父さんは奴を知りません。私は知っています」
と彼女は突き放すように言った。
「知りすぎるほどにね」
「いいかチャーリイ、いたずらに敵意を煽るのは良くないことだぞ」
30年以上もの間、洗練された組織的な暴力に携わり、表沙汰にできる分だけで3回の実戦に参加した男は言った。
「相手に敵意が無いなら、衝突は回避すべきだ。衝突が生じれば誰かが負けたり傷ついたりすることになり、
良い結果に終わることはまずありえない。考えてもみろ。我々のなかでいちばん脆弱なのは誰だ?」
「ダニー」とシャルロットは認めた。
「しかしダニーには私がいます!」
「母親が全てを防げると思うのは間違いだ。自分の母親と父親がひどくいがみ合っているのを見て、ダニーは
どう思うかな?」
それが彼女の痛いところをついた、と彼は見て取った。
彼女は顔を背けて黙った。2回深呼吸し、呟くように言った。
「どうすれば、いいというんです?」
「彼に機会を与えたまえ。もっと冷静に話してみることだな。話し合い、和解せよと言いたいところだが、
お前にそこまで求めるのは酷だろう。だが、さっきのようにすっかり頭に血が上った状態ではなく、落ち着いて
話すことくらいはできる。そうだろう?」
「そうですね」
と彼女は不承ぶしょうながら同意した。
「それから、自分の最大の親友とよく話し合ってみること。つまり、自分自身だな」
そう言ってゲルサンは微笑した。少なくとも彼の目から見て、彼女がディーンを心の底から憎んでいるとは
思えなかった。
午後のあいだ、姪が静かに思いに耽るのを、彼はあえて止めようとは思わなかった。
翌朝、ゴドウィンとゲルサンが出勤したとき、事務所の前の歩道の端にディーンが腰掛けているのを見て、
ゴドウィンは思いがけず安堵感を味わった。
鮫に追われている遭難者は、鮫が見えなくなると、死角から襲ってくるのではないかと逆に不安になると言うが、
今の私がまさにそれだな、と彼女は思った。それは少なからぬ自己欺瞞を含んでいた。
ゲルサンはエリダンに微笑みを見せると、姪の肩をぽんと叩き、ハーバーのほうに歩み去った。
「ハイ」
彼女はできるだけ明るい声で挨拶し、エリダンを喫茶店に誘った。
ゴドウィンはマスターに挨拶すると、ディーンを一番奥の席に座らせて、自分もその向かいに腰掛けた。
「ここのコーヒーはとても美味しくてね。あたしの叔父さんはすごくコーヒーにうるさいんだけど、この町で
ここのコーヒーだけは認めてるんだ。それで、こっちの客が少ない雨期のあいだに、あたしがこの店で修行すべき
だって言うのよ。お前の淹れるコーヒーはインスタントより悪い、半年間みっちり修行して叩きなおしてもらえっ
て」
ディーンは少し笑った。
「そのくせコーヒーが飲みたくなるとあたしに淹れさせるんだから、ひどいと思わない? そんなに文句をいうん
だったら自分で淹れろっていうのよ、ねえ?
サンキュー、マスター」
彼女はブラックのままで一口飲み、カップを両手で持って微笑んだ。
「どう?」
「おまえの言うとおりだ。確かに美味い」
それきり、彼らは黙り込んだ。柱時計の針の音すら響きそうな静けさだった。
煉瓦建て風の店内は穏やかで、雲の切れ目から射す朝の陽光が、広い窓から斜めに差し込んで、彼の顔に陰影を
与えていた。
だいぶ痩せたな、と彼女は思った。
「あなた、本当にダニーに会いたいと思う? ダニーは生まれてから一度も父親に会わずに育ってきたのよ。
あなたの顔も知らないのよ」
ディーンはその黒い目で彼女を見つめて少し黙っていた。
彼女はふと、彼らが出会ったときのことを思い出した。
あのころ、ディーンの目は黒い炎のようで、ともすれば口の中で溶ける砂糖菓子のように甘かった。
若くて浅慮で無謀だったころを思い返して、彼女は胸に痛みを覚えた。
彼はあのとき、本当はどう思っていたのだろう?
彼女に投げかけた言葉は、彼の本心から出たものだったのだろうか?
ディーンは溜息をつき、ぽつりと
「会いたい」
と言った。何かを言いかけてやめ、また口を開きかけて閉じ、そしてまた溜息をついた。
「会いたいよ」
と彼は繰り返した。
「今さら父親面を――」
「違う」とディーンは断固として言った。
「違うんだ。父親として会うんじゃなくても構わない。俺は君たちを捨て、そのせいで到底埋められない亀裂を
作ってしまった。それくらいは俺にだって分かるんだ。ただ、ダニーに会いたい。抱き上げて頭を撫でてやりたい
し、笑い声を聞きたい。ただそれだけなんだ」
再び訪れた沈黙を、やがて、くすりと笑ってゴドウィンが破った。
「あなたって、普通にもしゃべれるのね。悪ぶったしゃべり方じゃなくてね。
いい、ダニーと話すときには今みたいなしゃべり方をしなさい。
あの子が汚い言葉遣いを覚えちゃったら困るからね」
そして、言葉を継いだ。
「来週の土曜日、ジャンダルムリ(国家憲兵隊)の県憲兵本部で、ヤング・ちびっこ大会があるの。ダニーが
すごく楽しみにしてるから、絶対に行くと思うわ」
彼女はそう言い置くと、代金を置いて席を立った。
「すごく、よく似てるんですよ――ダニーに、です。特に目元など…そっくりだと思いませんか?」
「ふむ」
とゲルサンは応じて、コーヒーをひとくち飲んだ。
「それで、彼がやってきたらどうするつもりだね?」
「ダニーと引き合わせますよ――父親としてね」
ゴドウィンは肩をすくめた。
「彼は確かにろくでなしだし、私たちにした仕打ちを忘れたわけでもありません。
だけど、それでも彼はダニーの父親ですからね…」
彼女は言葉に詰まるようにして沈黙し、ゲルサンは微笑した。
そのとき扉が開き、雨の匂いとともに海上憲兵隊のラプラス少尉が入ってきた。
「こんにちは、ミスタ・ゲルサン。あなたの予感は正しかったです。大佐はもう有頂天ですよ」
叔父の硬い表情に、彼女は不吉な予感を覚えた。
凍りついた彼女の顔に気づかず、ラプラスは言葉を継いだ。
「あのエリダンという男、ボルドーで強盗をやって逮捕状が出ていました。ホテルの部屋はもう押さえましたが、
あいにくと空でした。まあ、奴はもうこの県から出られはしませんよ。飛行機とホテルには偽造IDを使ったよう
ですが、それは既に我々の掌中です。県憲兵隊は既に検問をはじめましたし、我々も船舶に目を光らせています。
空港警察にも――」
胃の中に冷たい鉛の塊が生じたかのようだった。信じられない、という否定が最初に来たが、それを抑えつけ、
彼女はただちに行動に転じた。
「叔父さん、ダニーを迎えに行ってきます」
ゲルサンは一瞬不意を突かれたようだったが、すぐに気づいた。
「いや、私も行こう。ミスタ・ラプラス、君も来てくれると嬉しいのだが」
彼はそう言いながら、机の脇にさげたショルダー・ホルスターを取り、ブローニング・ハイパワーを収めた。
ダニーの小学校から自宅までの道のりは、大人が歩いて15分ほど。少年の場合、その倍に近い時間がかかる。
彼女はその道を、ほとんど小走りに近い速度で歩いた。海兵隊員としての訓練はそれを抑えようとしていたが、
母親としての本能が抑えがたく彼女を猛烈に急かしていた。
ゲルサンは自動拳銃をコックト・アンド・ロックトの状態にしてホルスターに収め、3尉もベレッタに手を掛けて
それに続いた。
しかし、緩やかなカーブを曲がったところで、彼女はなりふり構わず駆け出した。
立ち止まった彼女の足元には、ひっくり返った水色の子供用傘とダニーの通学用カバンが散らばっていた。
今やゲルサンとラプラスは拳銃を抜き、油断の無い目で周囲を観察し、脅威に備えていた。
ラプラスは小型無線機を取り出して連絡を取ろうとしたが、空中に充満した水蒸気と地形のせいで、何度試しても
つながらなかった。
しかしゴドウィンは、まるで茫然自失の態で、腰のリヴォルヴァーに手を伸ばすことすら思いつかないありさま
だった。
洋上で何度となく直面した危機には即座に対処できた彼女の頭脳もまるで為す術を知らず、その機能を停止
してしまったかのようだった。
やがて、彼女の目が焦点を結びはじめ、視線の先にあるものが彼女の意識に飛び込んできた。
それは下草に刻まれた、真新しい踏み跡だった。
「まだ新しい」屈みこんで足跡を調べていたゴドウィンが言った。
「そう遠くへは行っていないでしょう」
そして、ゲルサンの目をまっすぐに見据えた。彼はその目に冷徹な決意を読み取った。
「追いましょう。我々自身で」
ゲルサンは瞬時考え、そして肯いた。
「いけません――」
ラプラスが反対しかけたのを、ゲルサンが遮った。
「だが、君があの丘のところまで行って連絡をとり、県憲兵の応援が来るまでどれだけかかる?
だいたい、この空模様だと、いつ雨が降り出して、痕跡を流してしまうか分からんのだぞ」
「しかし、これは我々の仕事です!」
「あなたは県憲兵隊本部と連絡を取り、応援を頼んで、彼らを誘導しなさい。我々は奴を追います。
ご心配なく――我々は海兵隊員です」
ゴドウィンに気圧されて、ラプラスはやむを得ず頷いた。この魅力的な女性は、海上憲兵隊のなかで少々
下世話な話の対象となることも多かったが、その瞬間、彼は彼女がひどく恐ろしかった。
叔父と姪のそれぞれが武器を抜き、チェックした。
ゴドウィンは5発フルに装填したリヴォルヴァーに加えてスピード・ローダーを1個、
ゲルサンはブローニング・ハイパワーとそれぞれに13発ずつ装填した予備の挿弾子を2つ持っていた。
また、ゲルサンは東南アジアでの作戦中にさる村の長老からもらった短刀を一振り、ゴドウィンは武器とも
いえないような、ちっぽけなレザーマンのツール・ナイフを持っていた。
それが、彼らの持つ武器の全てだった。
準備が終わると彼らは顔を見合わせた。ラプラスが思わず敬礼し、二人はさも当然のように答礼した。
ゴドウィンが頷き、歩き出した。ゲルサンがそれに続いた。
今や動揺はすっかり払拭され、冷たい怒りと決意だけが青く燃えていた。彼女が彼をほとんど赦しかけていた
だけに、その怒りはなおさら強烈だった。
もしも奴が彼女のダニーに何かしていたら――と彼女は考え、そう考えるだけで爪が掌を破りそうになった。
もし奴が彼女のダニーに何かしていたら、彼女は考えられる限り残虐な手段で即座にエリダンを殺すだろう。
虎の子に手を出すものが少ないのは、代償があまりに大きいからである。
子供が危険に曝されたときの母親は総じて危険な存在だが、高度な殺人技術の訓練を受けて、しかも武装
している若い (したがって体力もある) 母親ほど危険なものも少ない。
「殺すなよ、チャーリイ」
とゲルサンが言った。彼女は藪漕ぎに夢中で聞き逃したふうを装ったが、彼はなおも言った。
「ダニーのことを考えるんだ。母親が父親を射殺した、などということになれば、ダニーの心に残すトラウマは
はかりしれないぞ」
彼女は倒木を乗り越えようと手を掛けたところだったが、その言葉に動きを止めた。
「大丈夫ですよ、叔父さん」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「私が撃つのはやむをえないときだけです。軽率に撃ちはしませんよ」
彼女はそう言うと体を持ち上げ、向かい側に飛び降りた。滑って尻餅をついたが、すぐに起き上がり、また猛然と
進みはじめた。雨期とあってあたりはぬかるんでいて、彼女はもう泥だらけだったが、この近道でだいぶ距離を
つめたはずだと思えば、まったく気にならなかった。
ディーンは自動拳銃のスライドを引き、薬室に弾薬を送り込んだ。彼が持っているのはベレッタの古いやつ、
シングル・アクションで装弾数も少ないものである。ここに来るだけで既に有り金の大部分を使い果たし、
立派なものを買う余裕など残っていなかったのだ。もっとも、その理由もありはしなかった。どうせまともに
使いはしないのだから。
彼は傍らですやすやと眠るダニーを見た。少年は、最初は手を引っ張られるままについてくるだけだったが、
そのうちに進んで彼の隣を歩くようになった。
この休耕中の畑につくまでの間もその後も反抗の声ひとつ上げなかったのは、この見知らぬ男に何かしら特別な
絆を感じたからだろうか。ディーンとしてはそう考えたかった。
ここについてからも、彼らはディーンが張っておいたテントのなかで話し込んだ。ほんの半時間ほどに過ぎ
なかったが、彼にとってはこれまでに味わったことのない至福の時だった。
だが、それも過去の話、彼にとってはもはや手の届かない楽しみであった。いま、少年は、彼が用意していた
睡眠薬入りのジュースを飲んで、眠りに落ちている。彼はふと不安に駆られ、寝息を聞いた。
ダニーの体重が分からなかったせいで、薬を入れすぎたかと危惧したのだ。しかしそれは杞憂に過ぎなかったよう
で、少年は安らかに眠りつづけていた。
全てが終わるまで少年は眠りつづけてくれるだろう、ディーンはそう願った。
唯一の心残りといえば、最後にシャルロットと会うことができなかったことだが、やむをえなかった。
彼は思いを断ち切り、立ち上がった。
この畑は小高い丘の頂上を開拓するような形でつくられているが、周りの山から見下ろすことはできる。
丘とそのふもとはかなり広い開墾地になっているので、視認を妨げる遮蔽物はまったくない。
テントは鮮やかな蛍光色なので、憲兵隊がヘリコプターを飛ばせば、まず見落とすことはありえない。
彼がそう思って空を見上げたとき、ちょうど雨が降りはじめた。視線を下ろすと、ふもとの樹木線から人影が出てくるのが見えた。
もう来たか。それにしても早かったな、と思い、首にさげた双眼鏡を持ち上げて下を見て、彼は思わず口笛を
吹いた。
二人が追っていた痕跡は、丘の上へとまっすぐに続いていた。ゴドウィンとゲルサンは顔を見合わせた。
奴があの丘のうえで待ちかまえている公算は、極めて大だった。
彼らは無言の同意のもと、銃を抜き、途切れた森から抜け出していった。
丘のふもとを登りかけたとき、思いがけず丘のうえに人影が現れた。それがディーンだということは、彼女には
一目で分かった。
「よく来てくれたな、シャーリー! 二人で話したいことがある! ひとりで上まで来てくれ!」
と彼は叫んだ。
「銃を置け! 話はそれからだ」
ゲルサンの叫びにディーンは肯定のしぐさをし、ゆっくりと身をかがめた。金属質の銀色の光が草の上に置かれ、
ディーンは両手を頭の後ろで組んだ。ゴドウィンは叔父のほうに顔を寄せて囁いた。
「私は行きます。叔父さんが援護してください」
不満を唱えかけた叔父に、彼女は畳み掛けた。
「奴がそう要求しています。それに、私のほうが叔父さんより足が速いですし、叔父さんのほうが弾数の多い銃を
持っていますから」
「やむを得んな。気をつけて行けよ」
「大丈夫ですよ。私だってただの小娘ではありませんから」
彼女はそう言って、銃をホルスターに戻した。
彼女は抜き打ちが上手く、万一のことがあれば3秒かからずに銃を抜き、発砲できた。しかし抜き撃ちがどれほど
早くとも、完全に射撃体勢を取った相手には及ばない。
彼女を射線に入れないように、ゲルサンは自動拳銃を片手に持ったままで右手に回り込もうと動いた。
しかしそれを見たディーンが――莫迦な!――拳銃を構え、ゲルサンに向かって発砲した。
ディーンが動いた瞬間、ゴドウィンも動いていた。
銃声が轟くより早く、彼女はなめらかな動きでレディ・スミスを引き抜き、銃を握った右手を前に飛ばした。
被弾して叔父が崩れおちるのを視野の端で瞬時に捉えるのと同時に左手がそれに加わり、
彼女は両手構えで速射した。
頭のどこかが残弾を数えていて、それがゼロになると同時に雨裂に身を投じて身を隠し、ラッチを押してシリンダー
を開き、空薬莢を振り落とした。
応射は無かったが、早鐘のような心臓の鼓動と銃声の残響でひどく耳が鳴っていた。
左手のなかに奇跡のようにスピードローダーが出現したので、それを押しこんでひねった。
全てがもどかしく緩慢に進んでいた。
喉に赤銅の味があり、草いきれが腹立たしいほどに臭っていた。
手首の一振りで、シリンダーがかちりとフレームにはまりこんだ。
再装填された銃を手に彼女は再び身を起こし、構えた。ディーンの姿は消えていた。
「叔父さん!」
「こっちは大丈夫だ――かすり傷みたいなもんだ! それより奴を押さえろ! 急げ!」
装填したリヴォルヴァーを片手に彼女は突進し、無謀なほどの速さで丘を駆け上った。
身を躍らせて頂きに飛び出すなり、彼女は照準越しに周囲を探った。
期待したような、ディーンの死体は見当たらなかった。
彼女の足元にはでかいレンチと草を踏み荒らした跡があり、血の跡が続いていて――
小さなテントと、その入り口に銃を持って立つディーンがいた。
雨で濡れた髪が額に張り付くのに構わず、彼女はリヴォルヴァーを構えてゆっくりと近づいた。
「観念しなさい。私たちの後には県憲兵隊の小隊が続いているのよ。じきにここに来るわ。
投降すれば罪も軽く済むでしょう。教えなさい。ダニーはどこにいるの?」
「やあ、シャーリー。よく来てくれたな、まったく。思ってもみなかったが、会えて本当に嬉しいよ。
それにしてもひどいありさまだな。かたなしだぜ」
「ダニーはどこ? 答えなさい!」
「ダニーはこのテントの中だ。今は眠っているけど、大丈夫、元気だ。君に言われたとおり、ダニーには汚い言葉
は教えなかったよ」
あまりにも平然としたディーンの態度に、彼女は混乱した。それを悟られないよう、急いで言った。
「なぜこんなことを? 私はあなたを赦しかけていたのに――」
「まず、ジャンダルムリの県本部なんかを君が指定したせいというのがあるね。お尋ね者の俺がそんなところに
のこのこ行けるわけがないだろう? 息子との出会いを楽しむ間もなくぶち込まれちまうよ。
それと、俺の時間はもう残り少ない。D2期の前立腺がんでね。もう手術で取ることもできない。そもそも、
手術も薬も、そんな金なんか初めから無いんだけどな。お前たちに会いに来て、このおんぼろの銃を買うだけで
もう一文無しさ。おかげでテントは盗まなきゃならなかった」
彼は心なしか苦しげに言葉を切った。
「そこでお前に頼みたいことがある。俺を撃ってほしい。見知らぬ憲兵に撃たれるよりは、お前に撃たれて死にた
い」
「そんなこと――できるわけがないでしょう!?」
と彼女は叫んだ。
「あたしたちが憲兵隊に言えば罪は軽くなるわ。何なら無かったことにしてもいい。薬のお金だってあたしが
払うわよ。借金したっていい。そんな戯言を言うのはやめなさい!」
「病院でもらった鎮痛薬が切れちまってね。その後は手持ちのモルヒネを飲んでたんだが、癌ってのは辛いなあ。
昔はあんなに効いたのに、今じゃ痛みがなくなるだけなんだぜ? 最近はそれでも効かなくて、もう致死量ぎり
ぎりなんだ。お笑い種だぜ。昔からさんざん使ってたせいで、体が慣れちまったらしい。
実をいうと、もう体じゅうが痛いんだ。坊主と歩いてた途中からな。今じゃ立ってるだけで精一杯だ。
だから、お前の手で片をつけてもらいたい」
「やめてよ…」
「お前がやらないなら俺がやる。坊主を撃って、俺も死ぬ」
「やめなさい!」
ゴドウィンは叫んで銃を構えた。しかし、撃てなかった。銃が震え、狙いをつけることができなかった。
やがて、彼女は力尽きるように腕を下ろした。
「そうか、シャーリー、お前はその程度の女か」
とディーンは静かに言った。
「それならしょうがないな。お別れだ」
そう言うなり、さっと銃を持ち上げてテントを狙った。
彼女はその瞬間、完全な反射に支配された。
淀みない一動作で銃が持ち上がり、射撃位置についた。
完全に安定した照準越しにディーンの顔が一瞬見えた。
その穏やかな微笑みを認識するまえに、彼女の体は、何百回となく繰り返した動作を機械的に遂行していた。
その瞬間、彼女は発砲していた。
彼女の射撃は哀しいほどに精確だった。
125グレインの.357マグナム弾は、ディーン・ユベール・エリダンの鼻梁に命中し、さらに突き進んで脳幹の運動
中枢を完全に破壊し、そしてすべてを奪い去った。
その一瞬、彼は荘厳ともいえる沈黙のうちに立ちつくした。
瞬間は長く引き伸ばされ、彼女の脳裏に焼きつけられた。
そして、生命を失った体が地を打った。
彼女は動けなかった。
麻痺させていた感情が、奔流となって溢れた。
微笑んでいた――彼女に銃を向けられて。
彼女はディーンが落とした銃を拾い上げた。
ひどく軽かった。理由は明白だった。
彼女は崩れるようにうずくまり、彼の体を抱いて泣いた。
彼には最初から、少年を撃つ気など、まったく無かったのだ。ひとかけらも。
「身勝手なひと」
と彼女は呟いた。
「本当に、何もかも――全部――私に――押し付けて――」
その先は言葉にならなかった。
やがて彼女は立ち上がり、テントのなかに入った。
そこに、ダニーがいた。何も知らずに、天使のように無垢な寝顔で。
彼女は少年の口元に顔を寄せ、息を聞いた。そして口元を綻ばせ、ダニーの顔に触れようと手を伸ばした。
だが、途中でその手は止まり、少年の顔に触れることはなかった。
彼女はウィンド・ブレーカーを脱いでダニーに掛け、体を覆ってやると、外に出た。
彼女は銃を落として顔を空に向け、目を閉じた。驟雨が地面を叩く水音が増した。
たちまちのうちに、雨が全身を浸した。髪が顔に張り付き、雨が服に滲んで、彼女の肢体を浮かび上がらせた。
憲兵たちがゲルサンを助け、丘を登ってきたときも、彼女はそのままで立ちつくしていた。
非難されるべきことは皆無だった。武装強盗での手配犯が子供を誘拐したが、その母親はしばしば憲兵隊に
協力してきた勇敢で善良な市民であり、子供が危険に晒されたため、やむを得ず犯人を射殺した。
完全な正当防衛として処理され、それに異議を唱えようと思うものもいなかった。
ただし、彼女自身だけは別だった。
やはりディーンの与えた睡眠薬は少々多く、ダニーは万一のことを考えて病院に収容された。もっとも、後遺症
はまったく残らない見通しだった。面会は謝絶された。もちろん家族は別だったが、彼女は病室の入り口のところ
から少年を見守るだけで、近づくことを畏れるように、決して手を触れようとはしなかった。
事情聴取の済んだ夜、シャルロット・ゴドウィンは、しばらくの間ダニーの病室のまえで立ちつくしていたが、
やがて意を決したように扉を開いた。
可動式のテーブルの上には読みかけのコミックスが伏せられていて、その脇には小さな熊の縫ぐるみが置かれて
いた。級友たちやその家族から贈られた花束が、窓際のテレビ台と背の低い移動棚の上を埋め尽くすように置かれ
ていた。そのなかで、少年は安らかに眠り続けていた。
彼女はベッドの脇の椅子に腰を下ろし、息子の寝顔を見つめた。薄暗い部屋の中で、少年の繊細な顔立ちを
白い月光が照らし出していた。
彼女はどうにか手を伸ばし、その額に触れた。顔にかかっていた髪の房を払い、そっと頬を撫でた。
「さよなら」
彼女は呟いた。
そのとき、ダニーが突然目を開き、寝返りをうって彼女のほうを見た。
「母さん――行っちゃうの?」
「ええ。遠く、遠くにね」ゴドウィンは少年の視線に耐え切れずに視線をそらせた。
「嫌だ。一緒にいてよ」
「駄目よ」
彼女はこみあげる感情を抑えて、告げた。
「母さんは、あなたと一緒にはいられなくなったの。一緒にいてはいけないのよ」
「そんなの嫌だ」
「母さんは行かなきゃいけないのよ」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「母さんも寂しいけど、行かなくちゃ」
「分かったよ」
少年は不満げに言った。
「じゃあ、行く前にキスしてくれる?」
「ええ」
彼女はためらいを押し隠し、少年の頬に唇をつけた。そして少年の息がつまるほど固く抱きしめて、耳元に唇を
寄せた。
「愛してるわ」
と囁いた。
「これまでも、これからも、ずっとね」
彼女が抱擁を解くと、少年は再び目蓋を閉じ、何事もなかったかのように眠りについた。
彼女は人差し指で涙を拭い、立ち上がった。
病室を出たところにゲルサンがいた。少し弱ってはいたが、それでも、老兵はなお立っていた。
「行くのか」
彼女は自分の決意を話してはいなかったが、その言葉に驚きはしなかった。
「はい。もう書類は書いて、地方連絡部経由で送ってあります。明日いちばんの飛行機でロリアンに飛びます」
ロリアンには、海軍歩兵コマンドー軍団の司令部がある。現役編入を志願した予備役隊員は、必ずここに
出頭しなければならない。
「お前を止めようと試みようとは思わない。
お前はダニーにとって欠かせない存在だ。死活的に重要だと言ってもよい。
しかし、それを指摘しても何にもなるまい。私が何を言ってもお前は聞かないだろう。
だが、餞別を贈ることは許してもらいたい」
彼はそう言って、短刀を差し出した。
「これは私が東南アジアでの作戦を終えて帰国するとき、駐屯していた村の長老から授けられたものだ。
以後、私は平和のときも戦いのときも、肌身離さずに持ってきた。
この剣には神聖な獣の霊が宿り、その主の身を守ると言われている。これを今、お前に渡そう」
両手で重さを量るように持ち、彼女は鞘から抜き放った。葉のような形の刃で、見たこともないものだったが、
しかし美しかった。武器に特有の凄みのある美しさだけではなく、言いがたく優美で、それでいて寄りがたいよう
な気品のある美しさを称えていた。何という二律背反だろう、と彼女は思った。これほど美しいものが、殺戮を
目的として作られたとは――
彼女が剣を鞘に収めると、ゲルサンがゆっくりと重い口を開いた。
「我々はいつでもお前を待っている。お前が後に残していく人々のことを、お前には果たすべき責任があることを
片時も忘れるな。お前は母親であることを求められている。それを妨げることは誰にもできないし、お前が何を
しようとも変わらない。いいか、絶対に帰れ」
彼はそこで一度言葉を切り、少し笑って言った。
「任期を延長でもしようものなら、軍団長に直接談判して、首根っこ掴んでも連れて帰るからな」
「ありがとうございます、叔父さん。くれぐれもダニーを頼みます。叔母さんによろしくおつたえください」
千語を費やしても語りつくせないのだから、言葉は少ないほうがよかった。幾度となく共に死線を超えた彼らには
それで事足りた。
彼女、母親にして海兵隊員であるシャルロット・C・ゴドウィンは、剣を脇に下ろし、叔父と堅く握手して、
そして想いを振り払うように背を向けた。
彼女が外に出たとき、月が隠れた。遥かな水平線で明滅する雷光を除けば、漆黒の闇のなかで病院の窓々だけが
光を投げていた。
それを背にして、砂地に落とした長い影とともに、彼女は歩いた。
歩むごとに潮騒が遠くなり、やがて消えた。
そのあとには静寂と、彼女が踏むごとに崩れる砂の音だけが残った。
〈レディ・スミスの囁き 了〉
GJでした。本編投下も期待して待ちます。
20 :
名無しさん@ピンキー:2006/11/04(土) 13:45:15 ID:pHEQdJsU
新スレ保守age
全身がきしむ。爆音。砲声。大きな波。足元が大気が地球全体が震え揺れている。
これがいいんだ。これこそが今の僕達に一番似合ってる葬送行進曲なんだ。
僕達をギッシリ詰め込んだ揚陸艇が浅瀬へと向けて突き進んでいく。
目の前に広がるのは、ビルぐらいの高さはある密林の濃い緑。
その下に広がっているだろう真っ青な海は揚陸艇の分厚い船体が邪魔して
見えない。
キリコはただ押し黙っているし、その脇のスコープドッグもピクリとも動かない。
クミョンとスーザンの着込んだパワードスーツの不恰好なバイザーは熱帯の
陽光をギラギラ反射する。
ヨンセンがゲーッと吐いた。浅瀬までもう少しだ。
>>21さんの投下はとりあえずないと判断させてもらって、「火と鉄」投下させていただきます。
前スレ>290さん、>293さん
モトネタなった事件についての解説は今やるとネタバレになる部分もあるので、、
めでたく最終回を迎えた暁には簡潔にさせていただきますね。
1.
『なぜ、我が一門はかような侮辱を受け続けねばならないのです、父上?』
『騎士たる者は常に真実のみを口にし、弱きを守れ――その誓いに背いたからだよ』
俺はそんな父親の態度が大嫌いだった。
卑怯な二枚舌を用いたのは爺さんの話じゃないか。
しかも、それが主君ジスモンド二世のためだと信じたからだ。
それなのに、我がデ・ウルニ家は卑怯な、裏切り者の一族と呼ばれ続けている。
大公家は狡猾だった。
俺たちには真実を明らかになど出来ないと確信して「犠牲の羊」に選んだのだ。
大公に抗議すれば、叛乱に荷担した罪で一家は断絶するだろう。
自ら大公の密偵であったことを公言すれば、旧反乱者は我々を許さない。
ただ俺は、俺たちは「裏切り者」の汚名を着て黙っているしかなかった。
――あの日、俺は父に連れられ、初めて五指城に上がった。
その前年、父の手で騎士に叙せられた報告をするためだ。
俺はそこであの二人に出会った。勝ち気で美しい金髪の少女と、泣き虫の少年に。
一目見て、それが誰だかは分かった。
家臣団の中でも噂になっている、大公の養女と私生児。
『さあ、もう一度剣を取るのよ』
少女は叫んでいた。
だが、目の前の少年はただ手で涙を拭うばかりで、足元の木剣を拾おうともしない。
少女は苛立ち紛れに剣を振り回している。
――どうしたのだ。
俺が声をかけると、少女ははっと振り返った。
その目には激しい敵意が籠もっている。俺は思わず言葉を飲んだ。
俺は子供からこれほどの敵意を向けられたことなどなかった。
『アルフレドに剣の稽古を付けているの』
――女なのにか。
『剣なら父さまから教わったわ』
少女の父は俺も名前だけ知っていた。
大公の義理の弟に当たる男で、昨年マラリアで亡くなったと聞いていた。
俺が物見高く見物しているのが気に障ったのか、少女はぷいとそっぽを向いた。
そして少年の剣を拾うと、強引に持たせる。
『さあ、続きよ!』
『もう嫌だよヒルダ。だってヒルダは、思いっきり殴るんだもの』
涙声で訴える少年の額は腫れて青あざになっていた。
どうやら少女が振り回した木剣をまともに食らったらしい。
無手勝流の剣術は手練れでも捌きにくい。少女の剣はまさにその類に見えた。
思わず俺は含み笑いを漏らす。
『笑うな!』
激しい反応に俺は戸惑う。
――気に障ったなら謝る。
『大人は嫌いだ、あっちへ行け!』
そう言うと、子供たちは――というか少女は再び稽古に集中する。
だが、俺は立ち去りがたい感情を覚えて、それをしばらく見つめていた。
――なぜ嫌いなのだ。
俺が不意に発した質問に、少女の剣がすぅっと下がる。
そんなことを問われることすら想像だにしていなかったらしい。
『アルフレドを馬鹿にするから』
少女は吐き捨てるように言うと、また剣を構えた。
アルフレド。大公マッシミリアーノの私生児。
貴族の銘も与えられず、かといって聖職者の道も許されず……
ただ城内で飼い殺されているという噂だった。
――馬鹿にされたのが悔しくて、剣を教えているのか。
無視されると思ったが、聞かずに入られなかった。
案に相違して、少女ははっきりと頷いた。
『いつか、馬鹿にした大人たちを見返してやるの。
アルフレドを強くて、立派な騎士にする。私が任命するわ。
そして、あいつらをこてんぱんにしてやるんだから』
俺はその頃、既に家を捨てて出奔する計画を立てていた。
こんな因習にまみれた国で、苔むしていくなんてまっぴらだ。
俺は腕一本で生きていく。そう思っていた。
だが、こいつらは。
あくまでここで戦おうというのか。
俺が近づいたので、二人は動きを止めた。
――剣の稽古をつけてやろう。
少女は初めて子供らしい驚きを顔一杯に見せた。
大きな青い目が、まん丸に開かれる。
――俺がこの国に残していく、唯一の置き土産だ。
俺の言葉の意味が分かるはずもなく、二人は首を傾げている。
だが、俺が笑うと、二人とも笑い返してきた。
――俺がもしこの国に帰ることがあれば、その時は三人で倒そうじゃないか。
稽古の後、俺たちはこっそりと約束した。
三人で、この国の大人たちに復讐するのだ、と。
「……コンスタンティノ!」
門の機械室で、コンスタンティノとルカは対峙していた。
外からは戦いの喧噪が聞こえてくる。
トルコ軍は稜堡を制圧し、城壁づたいに攻め寄せてくる。
目下の目標は、この聖アンナ門の開閉を司る、機械室だった。
門を制圧すれば、そこから一気に大軍を市内に突入させられるからだ。
「門を開けるつもりか」
「その通りだ」
コンスタンティノの背後では、彼の部下が四人がかりで巻き上げ機を動かしている。
鎖がこすり合わされる音が響き、少しずつ落とし格子が上がっていく。
跳ね橋は既に下ろし終えた。
落とし格子を持ち上げれば、城壁の中と外を妨げるものは何もなくなる。
「……なぜ」
剣を構えたまま、ルカは尋ねた。
だが、あえてコンスタンティノは答えなかった。
思えば、余りに子供っぽい理由だ。
忘れたつもりで、ずっと忘れられなかった理由。
二人の子供と交わした約束。
それは血なまぐさい約束だったが、純粋で無邪気だった。
(俺も老けたもんだ)
コンスタンティノが笑う。
ルカはそれを答えだと思ったらしい。
「……裏切り者」
そのとき落とし格子が上がりきる、大きな音がした。
――同時に、ルカが斬りかかってきた。
アルフレドは、聖アンナ門の鐘楼に立っていた。
傍らにはコンスタンティノ、その手には『凶暴騎士団』の旗が握られている。
二人の足元に、顔を腫らしたルカが座り込んでいる。
コンスタンティノに一発殴られてあえなく黙らされた証、だった。
「気にくわねえ……」
うめくルカを尻目に、アルとコンスタンティノは満足そうだった。
いまやトルコ兵は鐘楼どころか、稜堡からも追い出されつつある。
北側に配置されていた部隊も、モンテヴェルデ騎兵の突然の反撃に逃げまどうばかりだ。
さんざん逃げる敵を斬った騎兵たちは、ゆうゆうと聖アンナ門に引き上げてくる。
「そうやって二人で俺をからかってやがるんだろう」
「まさか、そんな意地悪するわけないだろう?」
アルの声も明るかった。
もともとトルコ軍が町の北側を重視しなかったのは、土地の狭さが原因だった。
門は一つしかなく、五指城に見下ろされていては、部隊の動きも制限される。
だからあえてコンスタンティノは聖アンナ門を開けた。
思ったとおり、トルコ軍はその一点に北部隊を集中させる作戦に出た。
門の背後にアルフレド率いる騎兵隊が待機していることも知らず。
騎兵の突撃をまともに食らった北部隊は一気に潰走した。
まさに紙一重の勝利だった。
もし門を開けるのが遅れれば、鐘楼自体がトルコの手に落ちていただろう。
かといって早すぎれば、騎兵隊の準備が間に合わず、ただ敵に利するだけになる。
アルとコンスタンティノの阿吽の呼吸無しでは不可能な作戦だった。
それに気づいて、ルカはむくれているわけだ。
「アルフレド、いい気分だろう」
城内に振り返りつつ、コンスタンティノは言った。
鐘楼に翻る『凶暴騎士団』の軍旗に向かって、味方が歓声を上げている。
そこには民兵も、騎士も、モンテヴェルデの貴族もいる。
誰もがアルフレドとコンスタンティノを称えているのだ。
私生児と裏切り者の末裔を。
「……いい気分です」
コンスタンティノの気持ちを知ってか知らずか、アルはそう答えた。
しかし、それも長くは続かなかった。
誰とも無く、異変に気づいていた。
町の方が騒がしい。それは勝利の歓声ではなかった。
コンスタンティノが目を凝らす。密集した下町の向こうを。
町の西北に開いた聖レオ門。そこに翻る旗はナポリの旗のはずだ。
金と紫の縦縞をあしらった盾の紋章だ。
そこに今、赤字に白の半月旗が立っていた。
まるでドミノ倒しのように、次々と旗が変わっていく。
一つの塔の旗が引きずり下ろされ、またその隣の塔、といったように。
「コンスタンティノ、何を見て……」
「敵だ! 敵だぞ!」
叫ぶと同時に、コンスタンティノが走り出す。
アルとルカも慌ててそれを追った。
「アル、お前は部隊をまとめろ。ルカ、城に伝令だ。
聖レオ門が破られた、予備隊が要る。早く、早く、早く!!」
2.
剣戟の音、悲鳴、断末魔の声は、ステラの耳にも届いた。
西の門の方から、それは次第に近づいてくる。
それが何を意味しているのか、聡明な侍女はすぐに気づいた。
主君に危機が迫っていることも。
脱兎のごとく走り出すと、ヒルデガルトの姿を探す。
教会堂の中には見つからない。礼拝室にも、聖具室にも。
とっさに中庭に飛び出す。
先ほどまで静かだった中庭は、にわかに騒然とし始めていた。
うろたえた修道女や軽傷者が回廊を走り回り、誰彼構わず状況を尋ねている。
そんな喧噪の中で、ステラはヒルダと見知らぬ少女が寄り添っているのを見つけた。
「姫さま!」
「ステラ、これはきっと……」
「敵です、たぶん西の門が抜かれたんだと思います」
冷静な侍女に、ヒルダも首肯して見せた。
ステラは、女主人が傍らの少女の手をしっかりと握っているのに気づいた。
少女は怯えていた。
ヒルダの手を両手で包むようにして、視線を泳がせている。
それに比べて、自分が冷静なのにステラは驚いた。
いや、おそらくそれは自分の安全を確信しているからだ。
護衛兵もいれば馬もいる。城に逃げ込むこともできるのだ。
「姫さま、とりあえず五指城に引き上げましょう」
「ええ、そうね……。あなたも一緒に来る?」
公女の威厳を漂わせながら、ヒルダは傍らの少女に問うた。
振り返った瞬間少女の顔から恐怖は消えていた。
「私……残ります。怪我をした人たちを逃さないと。
修道女さまたちを手伝わなきゃ。私だけ逃げるわけには行かない」
少女の勇気に、ステラは自分を恥じた。
怪我人を見舞ったというのに、自分は彼らのことなどもう忘れていた。
それどころか、主君の安全を口実に、早く逃げることだけを考えていたのだ。
だが、少女から恐怖が消えたように見えたのは錯覚か、あるいは一瞬のことだった。
かみしめた唇は蒼白で、顔は血の気を失っている。
だが震える手でヒルダの手をもう一度握ると、少女は離れた。
「……姫さま、知らぬこととは言え、これまでの無礼をお許し下さい。
ここでお別れです。どうかご無事で。
ただもし、私に何かあれば……もし、私に何かあれば……」
精一杯の微笑みに、ヒルダは首を振った。
「……駄目よ、あなたが残るなら私も残らなくては。
私のために傷ついた兵士を見捨てて、何の摂政でしょう」
「姫さま……!」
もう一度言い募ろうとして、少女はきっぱりと拒絶された。
「それに、あなたを死なせたらアルフレドが悲しむわ。そうでしょう、ラコニカ」
「私のこと、ご存知だったんですか……?」
ヒルダは力強く手を握り返した。
「ステラ、護衛の者に命じて馬を裏口に。怪我人を城へ逃がすのよ。
歩ける人を先に発たせて、歩けない怪我人は馬で運びましょう」
「はい、姫さま」
ヒルダの言葉に、弾かれたように少女たちは動き出した。
「姫さま、こちらにはもう誰もいません。私たちも出発を」
ステラの声が空っぽの聖堂に木霊した。
彼女が再び中庭に戻ったときには、もう教会は閑散としていた。
所々に転がったままの燭台や杯が、撤退の慌ただしさを伺わせた。
修道女は軽傷者とともに、一足先に城へ向かっている。
一人で歩けない者を馬に乗せる作業も終わり、今やヒルダを待つだけだ。
姫のそばには、不安顔のラコニカと二人の騎士が立っている。
「聖具室をそっくりそのまま残していくなんて、もったいないわ」
「聖遺物だけでも救えたのですから、主も許してくださるでしょう」
ヒルダの顔は晴れない。
人を救えば物が、物も救えば魂の救済を気にかけてしまう。それは性分だった。
聖具室には金銀で作った燭台や香炉、豪華な写本が収められている。
それもまもなく押し寄せるであろう、異教徒に荒らされてしまうのだ。
だが、物よりも傷ついた兵のために馬を使ったヒルダを、ステラは誇りに思った。
「でも、せめて祈祷書だけでも……」
立ち去りがたく、何度も振り返るヒルダに、ステラは頭を振った。
今にも駆け戻りそうな姫のそばに、ぴたりと騎士が寄り添う。
「姫さま」
兜の下から、くぐもった声が聞こえた。
次第に戦闘の喧噪は近づいてきている。ぐずぐずする暇はなかった。
「もしどうしてもと仰るなら、私が取りに行きます」
ヒルダはラコニカの方を振り向いた。
目を見開くヒルダに彼女は黙って頷く。その目は議論の余地は無い物だった。
「……今夜、主に許しを請うことにします。行きましょう」
その時、扉が荒々しく開いた。
戦士たちの本能は、頭で理解するより早く動いた。
護衛の騎士が体の位置を入れ替えるようにステラとヒルダを庇う。
だが、盾を構える暇は無かった。
二本の矢が風を切る。
僅か十歩ほど離れた位置から放たれた矢は、板金鎧すら射抜く力を持っていた。
胸を貫かれ、騎士は崩れ落ちる。
その向こうに鎧姿のトルコ弓兵が二人、立っていた。
三人の少女とトルコ人の間にはもはや死体しかない。
弓兵は相手が女と知ると、構えていた弓を下ろし、代わりに半月刀を抜きはなった。
ヒルダがそっと腰に手をやる。
護身用というには余りに華美で繊細な短刀をそっと握る。
「姫さま、おやめ下さい」
ヒルダが男顔負けの剣の腕といえど、二人相手に勝てるわけがない。
言葉とは裏腹に、ステラの体は動かなかった。
それどころか、守るべき主君の影に隠れるようにして、一歩前に出ることも出来ない。
三人は後ずさる。
トルコ兵は、面頬の影から笑みを覗かせつつ、近づいてくる。
教会の裏口までは、中庭に面した扉をくぐり、廊下を走って、ほんの百歩。
だが、その前に追っ手の手は少女たちに届く。
いや、誰か一人が犠牲になれば、後二人は逃げおおせるかもしれない。
ステラは震えていた。
ラコニカも、震えていた。
ヒルダだけが燃える瞳で、にじり寄る敵を真正面から睨んでいた。
ひゅっ。
再び矢が風を切る音がした。
ステラとラコニカは、思わずヒルダの両肩にしがみつく。
ヒルダすら、身を固くして目を閉じていた。
だが、倒れたのはトルコ兵だった。
少女たちが目を上げる。
残ったトルコ兵が盾を構えた。
中庭の入り口のところに、弓を構えたルカが立っていた。
ルカはここに駆けつける間に盾を捨てていた。
二の矢をつがえる余裕はなかった。弓を投げ捨て、長剣を抜く。
トルコ兵もそれに応じた。
半月刀が夏の太陽を弾いて光った。
振り下ろされる刃を、間一髪横に跳んでかわす。
とたんに、足がもつれてルカは転倒した。
『跳んでかわそうなどと思うな。実戦では甲冑の重みが圧し掛かるのだぞ!』
刹那、ディオメデウスの教えが蘇る。
しかし後悔する余裕もなかった。冷たい汗が背中を走る。
思えばこの一週間、ルカが積んだ経験など羽根のように軽い物だ。
ただ城壁の矢はざまに隠れ、弓を撃っては頭を引っ込める。
敵と向かい合って刃を交えたことなどない。
覆い被さるように立ちふさがった敵が、再び刀を振り上げるのが見えた。
まるで芋虫のようにルカは体をくねらせた。
一瞬前ルカの体があったところに半月刀が突き刺さる。
素早く刀を逆手に持ち変えると、トルコ兵は飛びかかってきた。
とっさにルカは剣を捨てていた。
覆い被さられる前に、背筋を振り絞り、体を丸めて反動で立ち上がる。
ベルトに差し込んであった短刀を素早く引き抜き、相手の腹目がけて腕を伸ばす。
敵の刀がルカの肩に食い込むのと、短刀が深々と突き刺さるのは同時だった。
口から血の泡を吹きながら、トルコ兵は倒れる。
「ルカ、お見事です!」
真っ先に体の自由を取り戻したのは、やはりヒルダだった。
すぐさま駆け寄ると、肩を押さえて崩れ落ちそうになる少年を助け起こす。
「普段から口を閉じ、黙々と今のように努めれば、城の騎士にも劣らないのに」
「冗談でしょう姫さま。口八丁手八丁、それが俺の戦い方ってもんです」
痛みに呻きながらそう答えるルカに、ヒルダは晴れ晴れとした笑顔を向けた。
ルカの肩に食い込んだ刃は、鎖帷子によってかろうじて致命傷とはならなかった。
次に駆け寄ったラコニカが、懐のハンカチーフで傷を押さえる。
強く押さえられ、ルカはうっと短く呻く。
「おい、命の恩人なんだ。アルの時みたいに優しくしてくれよ」
「城に戻ったらすぐ手当てしてあげるから。それまでそのお口は閉じておきなさい」
大人びた口調でぴしゃりと言うと、ラコニカはさらに力を込めた。
「運がよかった。骨と骨の間に刃が当たっていたら、腕を切り落とされていたかも」
「ちぇ、おどかすなよ」
おどけた様子で肩をすくめながらも、ルカはもう何も言わなかった。
少女二人に支えられなければ歩けないほど、怪我はひどい。
たちまちラコニカの手はあふれた血で真っ赤に染まっていく。
だらりと垂れ下がった腕の上を、血が滴り始めていた。
「それにしても間がよかったわ、ルカ」
「惚れるなよ」
無口なはずのラコニカも、饒舌になっていた。
それだけ、敵兵の前に無力で放り出されたことに恐怖していたとも言える。
忘れたふりをしていても、故郷で受けた辱めを若い娘が忘れられるわけがないのだ。
ルカもそれを知ってか知らずか、軽口で返している。
「城に戻る途中、ちょっと気になったから寄ってみたのさ。
そしたら、ちょうどトルコ人どもが教会に入っていくのが見えたんでな。
……もう一足早ければ、あの二人も」
「言っても詮ないことよ、ルカ」
ヒルダは冷たく言葉を遮った。
「あなたは精一杯やった」
ヒルダとラコニカに支えながら、ルカはよろよろと歩き出した。
ようやく、ステラが我に返ったようにヒルダに付き従う。
両側から誉めそやされるルカは、少し憮然として、照れくさそうにも見えた。
そんな彼を見ると、何故か嬉しい。
そして歯がゆくもあった。
確かに、よくやったと言えるけれど。
姫さまやラコニカさんに誉められて、いい気になっている場合ではないでしょう。
大体、私には何の言葉もないなんて、おかしいとは思わないのかしら?
ステラの胸はまだ激しく打っている。
敵の兵士に睨みつけられたときの驚きと恐怖。確かにそれはまだ彼女の中にある。
だが何故一向に胸の高なりは収まらないのだろう。
いや、それどころか、ルカが他の二人と言葉を交わすたびに強くなる。
小さな痛みを伴って。
一瞬ルカと視線が合う。
何か言おうとして、ステラは言葉を探す。
だが何を言うべきなのだろう。
「よくやった」……? ルカは「偉そうだ」と怒るのではないか。
「お見事」……? ヒルデガルトならともかく、侍女がかける言葉ではない。
それとも「遅かった」と叱責する方がいいのか。悠然と頷き返せばいいのか。
いや、一番簡単に「ありがとう」と言えばいいのだろうか。
ステラの心は千々に乱れた。
ようやく口を開き駆けたとき、ルカの視線は離れていった。
時間にしてみればほんの瞬きをする間だった。
唯一、ルカに声をかけるべき時間は、それだけしか無かった。
けれどそれっきりステラは彼に声をかける機会もなかったし、勇気も持てなかった。
「さ、城に急ぎましょう」
ヒルダの声で、四人は教会から姿を消した。
3.
モンテヴェルデの反撃部隊は二手に分かれて聖レオ門に突入した。
アルフレド率いる十騎は、門へと続く大路を馬上突撃する。
それに呼応したコンスタンティノ隊は、城壁沿いに北から攻撃をかける計画だった。
たちまち、町の通りで、城壁の上で、激しい白兵戦が勃発した。
もともと、聖レオ門を守るナポリ軍団は四つの軍団で最も弱体であった。
ディオメデウスが率いる騎士は八十騎。従士を入れても二百を超えない。
そこからアルの近衛兵が引き抜かれている。劣勢は明らかである。
コンスタンティノが行くところ、無数の騎士の遺体が転がっていた。
誰もが武器を手にしたまま、息絶えている。背中から斬られた者はほとんどいない。
一騎当千の兵の最期だった。
手勢のほとんどをアルに託したコンスタンティノは単身戦場に躍り込んだ。
戦いつつ、生き残りの騎士や民兵を集めて一隊を再編成していた。
もともと人ひとりすれ違うのが精一杯の城壁だ。
兵の数より、個人の剣の腕が戦いの趨勢を左右しつつあった。
「閣下!」
壁の下の方から声をかけられ、コンスタンティノは立ち止まる。
フランチェスコと弟子たちだった。
「どうしたマエストロ!」
「加勢に参りました。これに」
と言って差し出した頭陀袋の中から、フランチェスコは小さな壺を取り出す。
「火をつけて投げつければ勢いよく燃えます」「ギリシア火か?」
オリエントで発明された可燃物「ギリシア火」は、イタリアでも良く知られている。
だが、フランチェスコは首を振った。
「これは私の特製でして、火酒や硫黄、硝石、柳の木の灰、煮詰めた馬の小便。
これらを混ぜ合わせて良く練ったもので、水では消えず……」
「錬金術の講義なら後で聞こう。俺たちは上から行く。マエストロは下から行ってくれ。
門の所で落ち合おう、アルが確保しているはずだ!」
「分かりました、ご武運を!」
行くぞ、と声をかけるとフランチェスコの弟子たちは歓声を上げた。
着慣れない鎖帷子や兜、腰に吊った剣が騒々しい音を立てている。
彼らが去るのを見送って、コンスタンティノはまた走り出した。
とにかく門へ。
トルコ人のいる方へ。
コンスタンティノ隊が到着したとき、既に聖レオ門の楼閣では乱戦が繰り広げられていた。
立てられた半月旗を引きずり下ろそうとするモンテヴェルデ兵。
それを防ごうとするトルコ兵。
旗が入れ替わり、また引きずり下ろされ、そのたび新たな兵が旗竿に飛びかかる。
一見両者は互角のように見えた。
だが次第にモンテヴェルデの旗が優勢となり、ついに入れ替わることはなくなった。
楼閣を占拠したのだ。
塔の頂上から鬨の声が上がり、兵士が槍や剣を振り回している。
「アルフレド、良くやった!」
楼閣の上で、二人は再び顔を合わせた。
少年の顔がほころぶ。もうそれは臆病な子供の顔ではなかった。
自信に満ちた、傲慢と言えるほどの傭兵隊長のそれだった。
「このまま稜堡も取り返しましょう」
「門は?」
「奪い返しました。マエストロ・フランチェスコが守っています」
指差す先は、門の上に築かれた銃眼付き胸壁だった。
その影に十人ばかりの男が隠れている。職人の服に胸甲を着けた不思議な姿だ。
その真ん中に、小太りのフランチェスコがうずくまっていた。
男たちは、トルコの矢玉が途絶えた隙を見ては、手にした丸いものを下に投げつけている。
門扉を破ろうとするトルコ兵の一団に、炎の舌が伸び、荒れ狂った。
たちまち悲鳴と苦痛の叫びが上がる。
コンスタンティノのいる楼閣の上まで、硫黄と焦げた肉の臭いが立ち上ってきた。
コンスタンティノは背後の少年に振り返った。
剣を杖代わりにするほど疲労しているのに、アルの表情は明るい。
矢が飛び交い、剣戟の音と絶命の叫びが響く中、二人はしばし無言だった。
やがて、歴戦の男は唾をぺっと吐き出した。
「……今度は俺が先に行く。給料分は働かんとクビになりそうだ」
男たちの朗らかな笑いが、夏晴れの空に木霊した。
その声を合図に、モンテヴェルデ部隊は一斉に稜堡へと突撃した。
稜堡の屋上からは矢がびゅんびゅんと風を切って飛来する。
アルとコンスタンティノは、鋸壁を盾に一歩一歩近づいていく。
時折運の悪い兵が苦痛のうめきと共に倒れる。
だが戦いは勢いだ。
流れは自分の側に有利と知った兵士は、いつもより勇敢になる。
形勢を悟ったトルコ兵が怖じ気づく中、兵士たちは着実に稜堡に迫っていた。
トルコ軍の矢が雨のように降り注ぐ。
盾を頭上にかざすアルに対して、コンスタンティノは平然と身を曝していた。
そして声を振り絞って部下を励ましていた。
いや、部下すら置き去りにするのではないかと思われる勢いだ。
アルはとっくに彼の背中を後ろから見守るしかないほどだった。
「アルフレド!」
聖レオ門から稜堡へと続く城壁の上で、コンスタンティノが振り向いた。
「何です?」
立ち止まると、傍らを走り抜ける兵士に押し出された。
「俺がお前に最初会った日の話はしたか?」
「なんですって?」
「俺がこの町でお前に初めて会った時のことだ! お前はまだ四つか五つでな」
「聞こえない! コンスタンティノ、聞こえないんです!」
言葉を命令か何かと思ったアルが叫び返す。
そこかしこで砲撃の音が聞こえ始めた。城壁を飛び越えた砲弾が町に落下している。
劣勢を悟ったトルコ軍が砲撃を再開し始めたのだ。
「約束しただろう! 俺とお前とあの姫さまとで!」
一発の砲弾が城壁に当たり、揺さぶった。
アルは思わず鋸壁に手をつく。だが、コンスタンティノは平然と立っていた。
「コンスタンティノ、危ない! 身をかがめてください!」
アルの声も聞こえていないようだった。
「俺たちは、この国の奴らに復讐してやるって――」
その瞬間、アルの意識は途絶えた。
再び身を起こしたとき、最初に触れたのは石のかけらだった。
払いのけるようにして手をつくと、息を吐く。
目の前には石畳が押しつけられるように見えている。
アルの傍らを固い足音が通り過ぎていった。
顔を壁に擦りつけるようにしながら持ち上げる。
モンテヴェルデ兵の一団が駆け抜けていくところだった。
膝を曲げ、四つん這いになって体を起こす。
銃眼にもたれて座りながら呻いている兵士がいた。
綺麗に並んでいた鋸壁は砕け、辺りには人間の体が転がっている。
「コンスタンティノ……?」
彼が立っていたところは削り取られていた。石積みが崩れ、漆喰がむき出しになっている。
まるで竜が爪でひっかいたようだ。
「コンスタンティノ! どこにいるんです?」
アルは立ち上がって叫んだ。
だが、砲声はともすれば彼の声をかき消そうとする。
「コンスタンティノ! 返事をしてください!」
歩き出そうとするアルの足に、何かが当たった。
最初それは負傷兵の体か何かだと思った。
だが、違った。
剣を握った腕。
籠手をつけた腕の、肘から先は無くなっていた。
付け根から流れ出た血が石畳を赤く濡らしている。
それは戦場に不釣り合いなほど鮮やかで、アルは信じられない気持ちで一杯だった。
こんな綺麗な物が死体から出るとは。
しかし、アルフレドが信じることを拒んでいたのは血の色のせいではなかった。
その剣はよく知っていた。
もう半年以上前、「凶暴騎士団」に入隊してからずっと稽古をつけてくれた剣。
コンスタンティノの愛用した剣。
4.
――夜。
アルフレドは大聖堂・聖ステファノ教会を目指して歩いていた。
今日の戦いの負傷者たちがそこに集められていた。
だが彼の目的は負傷者の見舞いではない。
戦いは小康状態を取り戻していた。
突破したトルコ軍は思いのほか少数で、夕方までには城外に放逐された。
城壁には再び兵士が配置され、トルコ軍は堀の外へと退いた。
モンテヴェルデ軍が数えた敵兵の死体は三百以上。
一日に敵に与えた損害としては、これまでで最大の数だった。
だが、失った物は大きかった。
『凶暴騎士団』は十名、ナポリ人はその半数に当たる四十名を失った。
モンテヴェルデの兵士も三十名以上が死傷していた。
占領された北稜堡と、聖レオ稜堡にあった大砲は全て喪失し、投石機や石弓も同様だった。
損害は軍隊にとどまらなかった。
十数戸の家が砲撃で破壊され、その倍にあたる家が焼失していた。
市民の死傷者も百人を超え、行方不明になった親族を捜す声が夜になっても響いている。
その中には「マエストロ」を探すフランチェスコの弟子たちもいた。
彼は聖レオ門をめぐる乱戦の最中、行方が分からなくなっていたのだ。
アルがこれまで通り過ぎた幾つかの教会では鎮魂のミサが行われていた。
とくにナポリ人の嘆きは悲痛だった。
大将であるディオメデウス・カラファを失ったからだ。
彼の亡骸は門の楼閣に折り重なった死体の中から見つかった。
無数のトルコ人の刃を受けてもなお、悪鬼のような顔のまま死んでいたという。
老騎士の亡骸は清められ、帰国の日まで教会の一角に安置された。
多くの市民が、異国の自由のために戦った将軍が主のそばに登ることを祈った。
アルフレドは共も連れず夜の道を歩いていた。
僅かな時間でも、一人きりになりたかったのだ。
戦いの後、彼の元に届いた知らせは死にあふれていた。
将軍、隊長、兵士、女、子供、老人……。誰もが公平に、何の区別もなく死んでいた。
アルが受け取った無数の名前の一覧は、その一個一個が今朝まで生きていたこと――
もう二度と取り返せないことを示していた。
アルの足取りは重かったが、それでも義務感が足を前へと進めた。
やがて、モンテヴェルデの町では最も高い建物が見えてきた。
聖ステファノ教会だった。
「アルフレド、無事だったのかい」
甲冑姿であっても、ニーナはアルの姿を素早く見とがめた。
「今日は大勢死んだからね、心配してたのさ」
前掛けで手を拭いながらニーナは近づき、そう小声でささやいた。
聖堂の中には、今死のうとしている者も多い。
「どうしたのさ、怪我したのかい? いや、あんたは公子殿下だものね。
こんな汚いところなんかじゃなくて、城の医者にでも診てもらうか」
からからと笑いながら、ニーナはアルの肩を叩く。
そんなニーナをアルフレドは見ることが出来なかった。
じっとうつむいたまま、胸に小さな包みをかき抱いている。
どうしたんだいアル……そう声をかけようとして、ニーナは押し黙った。
アルフレドの腰に、二本の剣が下がっている。
アルの愛刀と、そうでないものが。
「……アル、私はね、大抵のことには驚かないように出来てるんだよ。
何しろ軍隊生活が長いもんだからねえ。洗い晒しのシーツみたいなもんさ。
汚れたって破られたって、もう大した疵じゃあないのさ」
その声ははっきりとしていて、震えてすらいなかった。
ニーナはそっと両手でアルの肩を抱く。
その重みが、ようやく彼を決心させたようだった。
白い布で巻かれた包みを差し出す。ニーナは黙ってそれを開けた。
「……死んだのかい」
アルは頷いた。
蒼白い、血の気のなくなった腕が一本、入っていた。
まるで聖遺物であるかのように、ニーナはそれを両手で捧げ持った。
無造作に、目線の高さまで持ち上げる。
まるで肉屋が届けた品が注文通りか確かめるように、ニーナはそれを見ていた。
「……確かに、あの憎たらしい奴の腕だよ、これは」
嘲りの調子が混じっていた。
顔をゆがめながら、アルの眼前にそれを差し出す。
「見てごらん、人差し指と親指の間にほくろがあるだろ。憎たらしい、嫌らしい手さ」
アルが目を上げると、白い指の間に黒々とした点が見えた。
ふん、と鼻を鳴らすと、ニーナはその手の先を自分の目の前に掲げた。
「この指でいじるんだよ、私のあそこをさ。何度も何度も、念入りにね……。
これでも、若いころは花も恥じらう乙女だったから、私も我慢したもんさ。
艶っぽい声なんて出しちゃいけないってね」
腕を包んでいた布が、音を立てて床に落ちた。
アルの目の前で、ニーナはその死骸の腕を、ぎゅっと抱いていた。
「それなのにさ、あいつは私をもてあそぶんだよ。『止めて』って言ってんのに。
『お前の本気の声を聞くまで止めない』なんて言ってさ……。
堪忍して私が声をあげると、この指先を私に見せつけるんだよ……
『お前の蜜は、よくあふれるな』なんて。私は恥ずかしくって恥ずかしくって。
いつかひっぱたいてやるって、痛い目見せてやるって、そう思ってたのにさ…………」
嗚咽が、漏れた。
「……先に…………先に死んじまいやがって、いい気味だよ。
あのけちんぼの、性悪にはふさわしい末路だろうさ、こんな場末で死ぬなんて……」
胸に抱いた手を、ニーナはそっと頬に当てる。
「もう二度と、あの助平に触られることはないんだよね……もう、二度と私を……」
ニーナは跪いて、泣いた。
もう動かない指に愛撫を求めるように、顔を擦りつけて泣いた。
最後の抱擁を、聖堂の蝋燭がいつまでも照らし出していた。
――アルはそっと姿を消していた。
彼にはまだ悲しむことすら許されていなかった。
城に戻らなくてはならない。平民や貴族を集めた臨時評議会が待っていた。
議題は、聖レオ門の新しい隊長の選出。
その候補はフェラーラのジロラモなのだ。
(続く)
まさかエロパロ板で泣かされるとは思わなんだ…GJ!
おお、団長…逝ってしまうとは…
まさに断腸の思いだわさ
山田くーん、
>>38の座布団全部持って行きなさーい
どうでもいいが(あんまよくないけど)、
前スレが生きてるのに、なんで次スレに来てるんだろ?
459kbって残り容量としては微妙だから
…央兎と鈴って、タイトルまで付けて貰っちゃったんですね。
単なる萌えシチュ書き殴りのつもりだったのに。
で、今回もそのつもりで書いたんですけど、なんか先に続いちゃいそうな終わりになっちゃいました。
…これでまた1年とか開いたらごめんねorz
「…気をつけて行きなさい」
「すいませんでした」
「もうこんな寄り道はするもんじゃないよ」
「はい。気をつけます」
「帰りの電車賃は?」
「あ、ご心配なく」
あーあ、朝っぱらから捕まった。
とか思いながら、警察官を背に駅に向かう。
「警察官は、素直に負ければどうにかなる」
3回分の教訓。
3回って言うのは、あたしが学校をサボって出かけてるときに、警官に呼び止められた回数。
サボって出かけた回数は、4年の冬から数えて60くらいはあると思う。もっとかな?
でも、今まで学校に連絡が行ったことはない。
っていうか、今でも幼い体のあたしが、そんだけいろんな街を彷徨いて、3回しか引っかからないってどうよ警察屋、とも思うけど。
ともかく、あたしはそういうところでの話術と回避術は、うまい方だと思っている。
今回は加えて、隣の県になる。変な話は行き渡らないと思う。
それに、あたしみたいなよそ者の小学生を覚えてるはずもない。
まぁ、念のため、この町にサボり目的で遊びに来ない方が、賢明かも知れない。
そんなことを考えながら、ここから上りに乗って、どこに寄れるかを考え出す。
今日の小学生稼業は休業。そう決めてる。場所が場所だから、今から行っても、時間的に意味無いだろうし。
反省するつもりは、ない。
(…まだ10時だし、暇だし)
電話帳の「な」行を出す。
『暇。いま小田原に向かってる。来れる?っていうか、来なさい』
呼べば来る。気の置けない友人って言うのは、とても便利だ。
気が合えばなおさら。
『せっかくの1限終わりだったのに…。改札出るなよ。コンコースで待ってろ』
退屈はしなくてすみそうだった。
(気分が乗ってきたから、帰りも新幹線に乗っちゃおうか)
『指定席窓側・子供1枚・乗車券込み』
あたしは多機能券売機に、福澤諭吉を吸い込ませた。
「よ。…どこぞの高校生みたいな着崩しだな。」
「まぁね。制服のままだと、やっぱりいろいろわかりやすいからね。これだとさっと着替えられて、便利だから」
挨拶もなしに、そんなやり取りをするふたり。
制服のスカートに、ポロシャツの裾を出しっぱなし。
「だらしないような気もするけど…」
「まぁね。でも楽だから」
飾るのに、関心とかは無いらしい。
「つか、どこで着替えてんのさ。トイレか?」
「今日は新幹線のを借りたよ。まぁ、普段も同じような感じだけど」
「…ちょ、新幹線って赤塚、どこ行ってたんだよ」
「三島を彷徨いてた」
「…普通列車で行けよ。いや、何でわざわざ三島なんだよ…」
央兎には、鈴の行動がどうにもわからなかった。
「うん、あたしにもさっぱり」
「なんだそりゃ」
「まぁ、そういうときもあるでしょ」
「わからなくはないけどな」
鉄道マニアがふらっと立ち寄るような駅が最初の遭遇だった故、ちょっと反論しづらかった。
「…また学校はサボりか?」
「まぁね」
鈴の返事は、いつもの調子そのままだった。
「よく捕まらないな」
「いや?今日はやられちゃった」
鈴の苦笑い、央兎はどう返すべきか一瞬戸惑ったが、とりあえず笑顔で。
「平然と言うなよ、不良め」
「で?成増君、どこ行こうか」
央兎は少し考え、何かを思いついた。
「一駅、早川へ」
「…なんでまた…、あ、あーそうか」
鈴はすぐに、央兎の考えを読めたようだった。
そうして、ふたりはホームへと向かった。
「ネタ的にはだいぶ前じゃないか?」
「そんなに前だっけ?」
「ペンギンがいると良いのに…」
港にやってきた。CMと少し違って、大量のお菓子をあらかじめ央兎が買ってきていた。
「うん。成増君。ペンギンになりなさい」
「…最近お前、言動が唯我独尊的になり始めてるな」
「うるさいわよ、キョン」
「あー、ハルヒの影響ですか」
「正直、あたしあのキャラは良いと思うの。身近に一人欲しいわ」
最近、ふたりの会話はこんな調子ばっかりである。
何となく、
(ストレス発散に使われてる気がする)
とか、央兎は思っていたりする。
食べ終わったふたり。人気がない。日差しが心地よい。これからもう少し冬が続く中、正午ちょい過ぎなのにコートがいらないくらいのぽかぽか陽気。動く気がしなかった。
「ふぃー。あかつかー。これからどうするか〜?」
央兎は、その場をはたいてゴロンと寝そべったりしていた。
「町田でも出る?」
「そうする〜?俺このままでも良いぞ〜」
「あたしも、このままで構わない」
「どっちだよ」
「もうしばらくここにいよ」
自然といろいろ緩んでいるようだ。
「町田なら、特急乗った方が早いね。付き合ってくれたんだし、ロマンスカー代はおごるよ」
「よーし。菓子は俺が買ってきたんだもんな。相殺相殺」
奢り奢られ、っていうのは、今までもよくやっていた。
央兎も何の疑念もなくそれに応じていたが、ふと、今気になったことがある。
「そういや赤塚、さっきは新幹線で往復したんだよな。小田原と三島」
「え?うん。まぁね」
「っていうか、その金はどこから出てくるんだ?こないだは秋葉原で散財してたし」
川崎大師にふたりで行く少し前。ふたりで秋葉原に出かけたことがある。
そこで鈴は、キャラグッズやらCDやら、2万円近くを使っていた。
そんな記憶がふと、よみがえった。
「あれ、明らかに小遣いじゃねぇだろ。預金もまだ相当あるんだろ?」
「ん、まぁね」
ポッキーを食べながら、鈴がけだるげに返事をする。
「家が甘い故に、巻き上げてるとか?」
「どっかのダメなすねかじりか?あたしは」
「…まさか、とんでもないお金持ちの家とか?」
「そりゃ、サンデーの読み過ぎ」
裏手でつっこみを入れる鈴。笑ってない央兎を見ると、真剣な答えだったようだ。
「…じゃぁ、…なんだろ」
「なんだと思う??」
寝そべってる央兎に、顔も向けずに鈴は言う。
「あん?何だろうなぁ、お年玉、…そんなレベルじゃねぇな」
央兎は相変わらず寝そべって、冬晴れの空を見上げる。
「…子供の身体ってね、結構高値になるんだよ」
「あ?」
「日本人って、元々年下趣向が強いんだよね。年齢的にも肉体的にも、あたしぐらいが良いって言う人は、結構多いんだよ」
淡々と、空を見上げながら鈴は言う。
「凄いんだよ〜。制服着た写真の首から下をネットに出すだけで、オークション開けるくらいの人数集ってくるの。
で、どんどん値段が上がっていくの。っても、あんまり大きなお金を動かすわけにはいかないから、10万円くらいでストップにしちゃうんだけどね。
でも、会って、話して、抱かれて、終わりで10万。ちょろいもんだよね」
息継ぎ4回で言い切った鈴を、寝そべったまま央兎が一瞥する。
「…はぁ」
ため息をついて、一言。
「で、どうやって金を生みだしてるんだ?」
「うわ、なによ。せっかく人が、改行3回も使って語ってあげたのに」
口を尖らせる鈴の後頭部に、央兎はとりあえず後ろからデコピンを見舞う。
「端っから冗談だって判ってるんだったら、スルーしないで突っ込んでくれるだけでもいいのに」
「いや、実際あと3個上くらいなら、微妙にありそうな気がするから突っ込みづらい。っていうか、そんな微妙にあり得そうな作り話やめれ」
「釣れたら指さして笑ってやりたいからこその、あり得そうな作り話なんじゃない。お金の所ははミスったけど」
「…そんなに浅はかな人間に見えるのか?俺」
「ちょっとだけ期待してた」
「ひでぇ」
あ〜、と央兎は寝そべったまま伸びをする。
「じゃぁ、5万」
「何?」
「あたし」
央兎はあくびを一つ。
「…いらね」
「うわ、即答だよ」
しばらくの沈黙。鈴は無言でそば茶をすする。
「…ホントのこと教えたげよっか」
鈴は央兎の方を向く。
「お金の儲け方を」
そこには、既に寝入った央兎。
「うわ、寝落ち…」
鈴はため息一つ。
「はぁ…。あたしもちょっとねむいのに」
無断で央兎を腹枕にする鈴。
少しやせ形の央兎だが、鈴の頭くらいなら十分耐えた。
「…ん?」
央兎が目を開ける。空が紅くなり、少し気温が低い。
「…寝てた?」
意識はまだはっきりしない。身体を起こしてみる。
「…あ」
同行者の存在を、目の前の顔で思い出す。
…さてどうした物か。
とりあえず動きを止める。3秒ほど。その後、おもむろに手を出し、頭を除ける。
同時に少し足を折り、膝に乗せた。
「それでも起きないかこいつ」
とかつぶやきつつ、手近の冷え切ったコーヒーを口に含んだ。
その冷え切った手を、頬に乗せてやる。
「なぜ起きないっ」
むなしく響いた児玉清を気にもとめず、鈴の頬が央兎の手を温める。
そこで、少し手の感触が気になった。
(…あ、これハマりそう)
指で頬を押してみる。柔らかい。肌触りが良い。
小柄で、華奢な印象の鈴だが、押した感触は柔らかかった。
それを縦二回、横二回、丸一回とこねくり回してみたが、それでも起きない。
もう一回コーヒー缶に手を伸ばす。
よく冷やして、それを今度は、鈴のうなじに持って行く。
(…うわ。あったけー)
鈴の子供体温が、一瞬手を温めてくれた。
(こいつ体温低そうなのに。子供なんだな、やっぱり)
たまに央兎は忘れかける。鈴は小学生だ。同い年か、仲の良い先輩とも思えてしまう。
発言もそう。性格もそう。行動もそう。考え方もそう。自分なんかより、断然年上っぽい。
(こいつ、8つ年下なんだよな…)
そう考えると、なんだろうか。自分がやけに子供っぽく思えてくる。
でも、だからこそ、それだけ達観してる鈴が、学校を拒否するのかが、判らなかった。
ついでに言うと、央兎自身、何でセンチメンタル気味にそんな思考に至っているのかも、判らなかった。
「…ぁ!冷たっ」
「あたしの首で手を温めるな」
惚けていて、よく状況が掴めない。
「…ちょっと?あたしの首がどうかした?」
央兎は我に返る。目の前には目を覚ました、膝枕状態からジト目で見上げる鈴、その首に自分の手を置いている央兎、その手に冷え切った自分の手を当てた鈴。
何気なく、央兎はこんな言葉を口にした。
「…お前、温かいな」
「…はぁ?」
「もう日没じゃん。どうするの?」
鈴が苦笑いで聞いてきた。早川駅ホーム。
「俺に聞くなよ」
「晩ご飯食べに行こう!」
「おう。…はぁ!?」
「ラーメン!花月行きたい」
鈴が親指立てて誘ってくる。央兎も空腹。
「…分かったよ」
この押しの強さには、敵わないと思う。
そうして2人は、少し早い夜の街に消えて行く。
「鈴、大盛りなんて食いきるのか?」
「食べ盛りだからね」
「そういう問題か?」
「替え玉出来たらいいのになぁ…」
「…お前さっきコロちゃんコロッケ食ってたよな?3つも」
「食べ盛りだもん」
「もう知らん」
以上
…で、これから先どうしようかorz。
あ、ごめ、一番最後、
>「鈴、大盛りなんて食いきるのか?」
これ、名字で呼んでるつもりで書いてた。
→「赤塚?大盛りなんて食いきるのか?」
うはGJ! 膝枕のところ、ちょっとエロくなるかと
(実際雰囲気エロいけど)期待した俺は汚れてますか?
>>42 GJ!!つーか、いつぶりだよw
一年後でも続き待ってますw
ほす
誰もいない。
雑談でもふってみよう。
おまいらもうすぐクリスマスですね。
>>55 そうだね、クリスマスだね。ケーキ予約した?
誰もいないわけじゃない。続きを待ってるよ!
もうすぐ2006年も終わりか……
サンタがお父さんだと分かってから、クリスマスは楽しくなくなったよね
今年は誰か、クリスマス小説を投下してくれたりするのだろうか……
クリスマスにはアントワープだぜ!
保守しておく。誰かクリスマスの話をあげてほしい。
エロくない奴を投下するスレがいっぱいある板ないの?
保守
test
65 :
名無しさん@ピンキー:2006/12/29(金) 01:24:50 ID:0aKUbfjV
保守&age
クリスマスなんて、無ければいいんじゃないかなぁ、と、思う。
割と毎年、そう思う。
特にイブの一週間前あたりからは、周りの人が皆幸せそうで、一緒に幸せする相手のい
ない自分が、物凄くかわいそうになってくる。
独り身の哀れな男達が集って祝うクリスマスパーティーにすら、隆人は誘ってもらった事が無かった。
職場で嫌われていると言う事は無いと思う。バレンタインデーには、手作りチョコをも
らえた事だってちゃんとある。飲みに行こうと誘われるし、自分から誘うこともある。
それなのにクリスマスには、誰も彼も隆人の存在を無い物のように扱って、誰も構ってくれなかった。
デパートの巨大なクリスマスツリーや、ショーウィーンドーの小さなツリー。街をキラ
キラに彩るイルイネーションも凄く綺麗で、隆人はそれを見るのが毎年大好きだったりも
するのだが、孤独がその喜びを半減させていた。
「寂しい……孤独で死にそう」
ウサギか、僕は。
自分の言葉に自分で突っ込む。これ程に虚しい行為が他にあるだろうか。隆人は隙間風
の容赦ないボロアパートの一室で、ひしひしと孤独を感じていた。
身も心も寒々しい隆人の世界で、小さな炬燵だけが何処までも暖かい。肩まで身をうずめれば、
なんと心休まる事か。
このまま目を閉じて眠ってしまえば、目覚めればクリスマス当日である。日本のクリス
マスはイブが本番のような所があるから、今日を乗り切れば身を切る孤独にさいなまれる
シーズンと再び一年間おさらばできる。
さようならサンタクロース。さようなら七面鳥。さようなら溢れかえるバカップル。
不意に、玄関が開く音がした。鍵をかけ忘れていたせいで、怪しげな宗教の勧誘でも
入ってきてしまったのか。どこまでも気が滅入る話である。
「うわぁ、今年は一段とひどいな」
シャン。すずの音がする。
隆人は丸まるようにして炬燵ぶとんにうずめていた顔をあげ、首を反らせて玄関を見た。
「や。隆人。久しぶり」
「……サンタクロース?」
真っ赤なコートのサンタクロースが、真っ白いリュックを背負って小粋よく片手を上げた。
片手には大手デパートのロゴが入った袋がぶら下がっていて、中の角ばった物体が袋から角を突き出している。
デジャヴを覚えた。どこかで見たことのある光景だ。
「そうそう。クリスマスに哀れな独身男にターキーとシャンパンを配達します、出張サンタ
の紗希ちゃんでーす」
「風俗は頼んでない。そこまで僕、落ちてない」
「風俗に電話かける勇気が無いだけだろ? 掃き溜めに舞い降りた一羽の鶴をせめてもてなせこの独男」
「僕は今から眠ってクリスマスイブの孤独を乗り切るんだから、邪魔しないでください」
真っ赤な風俗サンタから目をそらし、再び炬燵布団に頭を埋める。
すると数秒後、隆人は頭に鈍い衝撃を受けて思い切りのけぞった。
「い、痛い」
「ターキーショットだ。七面鳥まるまる一羽の衝撃はなかなかに効くだろう」
「や……誰かと思えば、風俗サンタはさっちゃんでしたか」
「何度人を風俗扱いすりゃ気がすむんだ。起きろ隆人。ターキーとシャンパンとツリーと
美女が一度にやってきたんだぞ。もっと喜べ。歓喜しろ」
言いながら、紗希が炬燵に小さなクリスマスツリーを置いた。針金でできたもみの木に、
色とりどりのビーズが煌いている。
「うわぁ、綺麗ですねぇ」
「うん、私が作った。もっと褒めると何か出るかもしれない」
「素晴らしい。ステキだ。才能に溢れてますね」
言われるままに褒め湛える。
すると紗希はにやりと笑い、真っ白なリュックサックを下ろして中から綺麗にラッピング
された小箱を取り出した。
「クリスマスプレゼントだ。明日、目が覚めたらツリーの下からもっていって嬉々としてあけるといい」
とん、と小箱を小さなツリーの上に置く。
隆人はターキーの箱で思い切り殴られた頭をさすりながら、手を触れずにまじまじと箱を見た。
「なるほど、さっちゃんは今年も恋人ができなかっ――いえ、つくらなかったんですね」
紗希の殺意を込めた一睨みに、慌てて表現を柔らかいものにかえる。
幼馴染である紗希は、その男勝りな性格が災いして恋愛ごとがどうも上手く運ばない事が多かった。
彼氏が出来ても長続きする事はめったに無い。バレンタインデーに彼氏が出来て、クリスマスまで
関係が持たないのだ。
それ故、孤独死しそうな隆人の所にやって来て、哀れな幼馴染を死の淵から救い出す役目を負う事が
極めて多い。去年も、一昨年も、もちろんその前の年も、紗希はクリスマスなんて嫌いだといじける隆
人の下にターキーとシャンパンとツリーを持ってやって来ていた。
「ピザを頼もう。お前はプレゼントを用意して無いだろうから、もちろんこれは隆人のおごりになる」
「折角だからチキンもデリバリーです。ケーキが無いのが残念だ」
「ターキーにロウソクを指せばケーキ気分に……」
「少なくとも僕はなりません」
「想像力が足りない奴だな。サンタさんが怒るぞ」
本物のサンタに怒られるのと、今まさに宅配ピザに電話せんとしている風俗サンタに怒られるのと、
どちらが恐ろしいかは考えるなでもないだろう。
隆人も携帯電話に手を伸ばし、チキンを買い求める客でてんてこまいの店に嫌がらせのような
宅配の電話をかけた。
「ようし。じゃあ。えー、ごほん」
クリスマスの夜にあっちこっちへ駆けずり回る、哀れな宅配スタッフからピザとチキンを受け取って、
パーティーの準備が整った。
紗希がシャンパンの栓を軽やかな音を立てて引っこ抜き、ワイングラスに琥珀色の液体をなみなみとそそぐ。
わざとらしく咳払いしてグラスを掲げ、紗希がにやりと口角を持ち上げた。
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス」
キン、と音を立ててグラスを交わすと、シャンパンがこぼれて指をぬらした。
構わずお互いにグラスを傾け、中身を一気に流し込む。炭酸がしゅわしゅわと口と喉を刺激して、
二人はしばらく声も無く身悶えた。
「かー! うめぇ!」
「さっちゃん……おっさんくさい……」
「もう一杯もう一杯」
聞く耳持たない先に苦笑いを浮かべ、隆人は紗希が持ち込んだターキーに手を伸ばした。
無理やり突き刺さっているロウソクが滑稽である。
すっかり冷たくなったターキーに、手と口を油でベタベタにしながらかぶりつくと、
紗希が大声で文句を言った。
「ばか! それは飾りだ! 食いもんじゃない!」
「何をおっしゃる。立派な食物です。生命です。ありがたや、ありがたや」
「おいしいか?」
「そこそこです。冷たいからそれなりです」
紗希が胡散臭そうに隆人を睨み、それならばとためらいがちに手を伸ばす。
足の肉をむしりとってかぶりつくと、紗希は嫌そうに顔を顰めた。
「……まぁ、そこそこだよな」
「だからそれなりだと」
紗希がぶつぶつと文句を言いながら、足を一本平らげて宅配のチキンに手を伸ばす。
こちらはまだ暖かい。
隆人も足を平らげると、熱々のピザに手を伸ばした。
「チーズがたっぷり。カロリーの権化」
「お前のその性格何とかした方がいいとおもうぞ」
「今さっちゃんが食べてるチキンは、トランス脂肪酸の塊です」
肩に紗希の強力な拳骨が飛んだ。ピザを持ったまま鈍痛に身悶える。
「クリスマスなんだ! いいじゃないかちょっと体に悪くても! いいじゃないか!」
「だれも悪いなんて言ってないじゃないですか。あぁ、痛い! さっちゃん、そこ痛い!」
新たな快感に目覚めてしまいそうである。
紗希はひとしきり隆人を殴ると、満足したのか再びチキンにかじりついた。
ほっと一息ついて、あぁ、クリスマスっていいなぁ、と思う。
隆人は、ほんの数時間前までクリスマスを呪っていた自分を忘れ、友人とのクリスマスを満喫していた。
先ほど紗希が言ったとおりだ。
美女かどうかはともかくとして、とにかく友人と料理とツリーとプレゼントがここにある。
これ以上のクリスマスが果たして存在するだろうか。
隆人には想像できなかった。
「クリスマスって、いいですねぇ……」
「うん。キリストとかどうでもいいけどな」
紗希がこの上なく日本人的な事を言う。
二人は男同士のようにげらげらと笑いあい、存分にクリスマスを楽しんだ。
隆人がクリスマスに誰にも誘ってもらえない理由は、紗希と過ごしたクリスマスを職場でさも
楽しそうに話すせいだと隆人が気づくのは、まだずっと先の話。
おわり
出遅れすぎたクリスマス小説。
以上。ゴンザレスでした。
クリスマスの話をリクした者ですが・・・ありがとう!ゴンザレスさん(・∀・)
二人はその後、どうなったんだろう?
紗希のいない隆人みたいな俺に対する挑戦ですね? これはw
71 :
人間失格:2006/12/31(日) 11:43:53 ID:uNRxJm9m
「恵まれない子供達に暖かいクリスマスをー…」
街中に募金集めをしている声が響く。
今年はベージュのロングコートを着たまじめそうな女の子が箱を持っていた。
毎年毎年よくやるが、ホワイトリングの件もあったり実際に"子供達"まで金が行くのか疑わしいものである。
いくら出るバイトなのかね、頭に雪積もらせて、これで倒れたら―――
と、
目の前で女の子が倒れた。
俺とその子を残して人ごみは流れてゆく。ジロジロと女の子と俺とを見比べて。
これは俺が介抱せねばならないのか?
そういう雰囲気なのか?
周りの目線がそういう空気をつくっている気がする。
あーあー、わかりましたよ。
女の子に近づくと、小さく肩で息をしていた。
顔が赤く火照っている。風邪をひいているのに長い間外で募金していて悪化した、という所だろうな。
お姫様抱っこで我が愛馬であるトライクまで運んだ。後部座席に跨らせて腕を俺の腰に回させる。
安全運転で速やかに家に帰ろう。
72 :
人間失格:2006/12/31(日) 11:46:39 ID:uNRxJm9m
アパートに戻ると直ぐに女の子をベッドに寝かせて風呂に湯を張り、ストーブを点けた。
躊躇いもなく服を脱がせる。
華奢な体に白い肌。首筋や胸元、内股には桜の花弁が散っていて、俺の心を痛ませた。
濡れ冷えた体を乾いたタオルで拭き、パーカーを着せて布団を掛けてやる。
ふと女の子が持っていた募金箱に目を遣る。
逆さにして振ってみれば、一番大きな玉が一枚、二番目に大きな玉が五枚、穴のあいた銀の玉が八枚転がった。
1400円。
雪の中一日中ああやって立ってて、風邪ひいてこれか。
一番恵まれてないのはこの子だろうに。
もし雇い主がいるのなら是非一言言ってやりたいね。
湯が溜まったアラームが鳴り、蛇口を締めて戻ると女の子が目を開けてこっちを見ていた。
73 :
人間失格:2006/12/31(日) 11:48:22 ID:uNRxJm9m
「具合、どう」
「ええと……大分良いです」
「そりゃよかった。お湯張ってあるから、温まっておいで」
俺はよく"人懐っこい顔をしている"と言われる。前の彼女からは"あなたの笑顔に誰もが騙される"と言われた事がある。
そんな笑顔で女の子に接する。
誰もが俺を警戒しない。
それはこの子も例外ではなかった。
布団から出た女の子は自分が下着の上にはパーカー一枚しか身に着けていないことに気付いた。
「ロングコートは窓際に。元々着ていた服は今乾燥機にいれてるから」
女の子は何故か不思議そうな顔をしながら脱衣場に入って行った。
今時の女の子は知らない男に半裸を晒しても恥じらわないのか。
溜め息をついた俺はストーブの前に椅子を寄せて腰掛けた。
シャワーの湯が風呂場の床を叩く音が響いている。
目を閉じればいつも悲しい事が思い出されるのに、思い出して後悔するのに、
それでもついつい目を閉じてしまうのは彼女の事を忘れたくないからだろうか。
俺は何時の間にか微睡み、深く寝入ってしまっていた。
74 :
人間失格:2006/12/31(日) 11:49:33 ID:uNRxJm9m
「あの……起きて下さい…」
女の子に揺すられて目を覚ます。
乾いた涙が瞼に張り付いて不快感を出していた。
「お風呂…頂きました。ありがとうございます」
「しっかり温まったかい?」
「ええ…」
女の子はさっき俺が着せたパーカーを着ているが、下は何も穿いていなかった。
「あ、ごめんね…寒いよねぇ」
苦笑して箪笥を漁る。
スウェットの上下とアイツが穿いてたショーツが出てきた。
「下着……洗ってはあるから、綺麗だから。自分のが乾くまでこれで我慢してくれないか?」
女の子は訝しげな顔で受け取った。
「いや、別に変な趣味とかじゃなくて、元カノが置いてったやつだからさ」
「そうですか…てっきり女装趣味がある人かと」
笑いながらショーツに足を通す。
この子は風俗嬢か何かだろうか?
初めて会った人に肌を平気で晒す、
男の前で着替える、
首筋の……
…まぁ、関係の無いことだ。余計な詮索はすまい。
「コーヒー煎れるから、くつろいでてもらって構わないよ」
「ありがとうございます…」
パイプベッドが軋む音がした。
75 :
人間失格:2006/12/31(日) 11:50:43 ID:uNRxJm9m
女の子は名前を、幹使 詩貴美 と名乗った。
舌を噛みそうな名前である。偽名か源氏名だろうか。
「あなたは…」
「好きに呼んでくれ」
「……泣き虫、さん?」
クスクスと笑いながら詩貴美は言った。
「寝てる人の顔を観察するのは良くないぞ」
「ボロボロ泣いてましたね。嫌な思い出ですか?昔の女ですか?」
「君が知る事じゃない」
空気が悪い。タバコを吸うために俺は外に出ようとした。
「何か買ってくる。欲しいものはあるか?」
「こんどーむ」
「………他には」
「ない」
「コンドームなんか何に使うんだ?」
「セックス」
深くは問うまい。家出少女が何して生きようが知ったこっちゃない。
「的場だ」
「……え?」
「的場斗真だ」
上から読んでも下から読んでも同じこの名前が、俺は大嫌いだった。
「上から読んでも下から読んでも同じですね」
またクスクスと笑う。
「君も同じだろうが」
そう言った時、詩貴美は少し嫌な顔をした。
君も俺と同じだろうが。
重い鉄扉を開けると、外は吹雪いていた。
76 :
人間失格:2006/12/31(日) 11:53:07 ID:uNRxJm9m
コンビニでコンドームと卵、牛乳を買った帰り道。
「よう」
吹雪の中、友達に会った。
白いスーツ上下にクリーム色のジャケット。
加えて比喩じゃなく髪も白に染まっている。今こいつと雪合戦したら勝てそうにない。
「さっきはいいもの見せてもらったよ」
さっき?
「お前が女をテイクアウトするとはな」
満面の笑みだった。
「見てたのか」
「たまたま居合わせただけだ」
「なんで手伝ってくれなかった?」
「乗り気じゃなかったんでね……大和以外の女には手出さないんじゃなかったか?」
俺はこいつ以上に嫌な奴を知らない。
こいつは嫌な奴一年分だ。これ以上は要らない。
「手出してねぇよ」
「袋ん中の小箱は何だ?」
「知らん。あの子が所望しただけだ」
急に肩を組まれ、耳元で囁かれる。
「自分に正直になるのも大事だ。何時までも過去に縋ってるわけにもいかないだろう」
「縋ってない」
「忘れろとは言わないさ。だが何も行動出来なくなる前に振り切れよ」
「君に言われなくてもわかっている」
ならいい、と彼は雪の中に消えていった。
白い嫌な奴はすぐに見えなくなった。
書いといてから何ですが、ここはオリでもいいんですかね?
前半部分です。
書いたのはクリスマス前だったので晦日ネタじゃなくてすみません。
オリジナルも二次もおkだよ。
完結まで気楽に待ってる。
年を越しても、続きまってます。
別のサイトでも書いてるものなので完結はさせます
年明けになりますが…
これからもよろしくお願いします
訂正を
タイトル…人間失格じゃなくて人類失格で…
太宰は関係ないです…
あけおめ!今年もよろしく!
コマンドはこれで良かったっけ?
84 :
森蔵:2007/01/04(木) 01:09:06 ID:uBgWZnYD
あけましておめでとうございます。
人類失格の後編ですが、まだ書き終えていません。
場つなぎの短編もありますが、どうしましょうか?
短編は女中と小説家の話で、ファンタジー系の明るいものです。
>>84 少数意見で申し訳ないのですが、私はエロの有無にかかわらず
新しい話を読むのが大好きです。
差し支えなければ、お願いします。
86 :
森蔵:2007/01/04(木) 21:33:13 ID:uBgWZnYD
昔書いていた場所からサルベージしてます
キャラクター設定でも見ながらお待ち下さい…
"女中と物書き"設定
菅 高峯[スガ タカミネ](旦那)26歳。
そこそこ仕事が入る物書き。
家は先代のもので、財産もかなりある。
仕事熱心というわけではないが、引籠気味。
……だったはずなのだが、家事を全くと言っていいほどやらない女中を雇ったおかげで頻繁に外出するようになった。
朱佐多 梛[アカサタ ナ](女中)23歳。
名前は思い付きで付けたので申し訳なく思っている。
食虫植物の蠅取草を頭に飼っている。
食事の用意は苦手、掃除は面倒、唯一出来るのは洗濯のみという怠慢な女中。
だが何故かクビにはならない。
岸上 貴詩子[キシガミ キシコ](岸上さん)28歳。
菅が密かに想いを寄せる隣の家の未亡人。
趣味は園芸で庭は様々な植物で埋め尽くされている。
87 :
女中と物書き:2007/01/05(金) 00:37:38 ID:ykvUuhwS
-茄殻-
去年の春に岸上さんから頂いた茄子の苗が実をつけた。
余り大きな実ではないが、元々観賞用として貰ったので、私はこれで満足である。
書斎に置いてあったのが、ある昼の事、居間の炬燵の上に移されていた。
「キミが移したのかい?」
いつも通り炬燵で丸くなり怠慢に過ごしている女中に尋ねた。
「あぁ……大変なんですよぉ」
ほら、と指差した先には罅の入った茄子の実が。
「寒さが原因かと思ったんでこっちに移したんですがねぇ……」
どうやら先程より罅が広がっているらしい。
「……岸上さんに聞いてみるか」
庭先に出ると、隣の庭では岸上さんが雪かきをしていた。
藤色の着物に白い半纏を羽織っている。
「精が出ますね」
垣根越しに声をかけると、にこやかな笑みで返事を返してきた。
「あけましておめでとうございます」
そういえば、年末から家に籠もりきりの私は年始の挨拶もしていなかった。
「これはこれは。挨拶も無くてすみませんでした」
「いえ、お仕事がお忙しいのでしょう?」
正直な所、正月明けに入っている仕事は年末に済ませ、後は新聞の新年号に小さく載せられるコラムだけで大した仕事も無いのだが。
ええ と曖昧な返事をしながら私はそう思った。
「…ところで、岸上さんから去年頂いた茄子なのですが……」
私は件の鉢植えを取り出した。
「あ!そろそろ孵るころですね!」
"孵る"?
「蛹ですか?」
毎回、岸上さんから貰う植物には"蛹"が実るものが多い。
「いゃだ、旦那さん。"孵る"と言えば卵に決まってるじゃぁないですか」
ぴきり
私達の見ている前で、茄子が揺れた。
「茄殻の割れる所なんて、そうそう見られるもんじゃないんですよぅ」
2人で鉢を覗き込む。
岸上さんの上気した頬や、そこについている紅色の唇が見えて、動悸がした。
ぱぎ
ぴつ
殻に空いた孔から大豆色の嘴が覗いた。
殻はどんどん割れ、鉢の柔らかい土の上に一羽の雛鳥が落ちる。
茄子と同じ濃い紫の翼を精一杯伸ばし、
まだ目の開ききらない雛鳥はか細く鳴いた。
88 :
女中と物書き:2007/01/05(金) 00:39:12 ID:ykvUuhwS
-遊蛾灯-
或る日のこと。
どうぞ、と岸上さんに手渡された物はアンティークのランプだった。
赤銅色に鈍く光る笠と台が4つの支柱で繋がっているだけで、風避けのガラスも何もない。
「遊蛾灯ですよぅ」
「今は蛾の季節ではないのでは?」
「使って見ればわかりますよぅ。私の主人が昔好きだったんですけど…今は必要無いので菅さんに使って戴ければ、と…」
夕方。そのランプは居間の炬燵の上に置かれていた。
「せっかく貰ったんだから、火点けてみればいいじゃないですかぁ」
「そうだねぇ…」
マッチを擦って支柱に囲まれた芯に近付けると、簡単に火が点いた。
「誘蛾灯ってよりはただのランプですねぇ」
誘蛾灯は本来青紫に光る蛍光灯で、実際はランプではない筈だ。
暫く2人で火を見ていると、支柱の中で炎が渦を巻き始めた。隙間風にしては少々強すぎである。
「あっ」
ぼぼ…っ
一瞬、炎が大きく揺れたかと思うと一匹の蛾が火中から飛び出した。
炎を纏って灯色に輝く蛾は綺麗なもので、火の粉を散らしながら天井まで上って行き、燃え尽きた。
「へぇ…」
「これは良いですねぇ。御主人様、一杯どうですかい?」
女中は既に開けられていた麦酒の瓶を掲げた。
「君さぁ……」
「まぁまぁ…」
日は暮れてゆく。
89 :
森蔵:2007/01/05(金) 00:40:17 ID:ykvUuhwS
今の季節に合いそうな2つを投下。
連投だけどいいのだろうか…
>>89 ありがとうございます。
何とも不思議な雰囲気のお話ですね。
女中さんよりも隣りの未亡人さんの正体が気になる・・・
不気味にほのぼのとした雰囲気に浸りました。
連投は構わないんじゃないかと思います。
短編だし・・・他板にもいらっしゃいますよ。2レス分の短編を必ず2話上げる職人さんが2人も
しかも同じスレ内です。
91 :
女中と物書き:2007/01/05(金) 23:36:14 ID:ykvUuhwS
-鉄砲魚-
家の庭の池にどこから来たのか鉄砲魚が住み着いた。
"彼"に初めて気付いたのは、主人である私の仕事となりつつある庭掃除の時だった。
落ち葉を集めていると首筋に水滴が当たった。
雨かと思って空を仰いだがどこまでも深い青空が広がるばかりだった。
上を見上げていると人は自然に口を開けてしまう。私も例外ではなく、その口内に水滴が落ちた。
「……む」
ちゃぷ
池の方で何かが跳ねた。水中で銀の煌めきが翻る。
「…鉄砲魚?」
再び水面に顔を出すと"彼"はまたも水つぶてを飛ばした。
顔に当たる。
「……むぅ」
構って欲しいのだろうか。
「落ち葉を片付けて欲しいんじゃないですかぁ?」
舌足らずな声が指摘する。
「君がやれよ」
おぉ寒い寒い、と働かざる者は炬燵へ戻って行った。
池の上に浮いた落ち葉を退けると、水底に日光が当たりだした。
成る程。鉄砲魚も寒かったのだ。
冷たい風が吹いた。
私も家に入ろう。パン屑を取りに。
92 :
女中と物書き:2007/01/05(金) 23:38:33 ID:ykvUuhwS
-南瓜凪-
風の強い日だった。
びゅごう、びゅごう、という風の音。
ガタガタ、シャリシャリ、という窓ガラスの揺れる音や、それに当たる落ち葉の音。
それらに混じって、池の方から
どぷ ん
という音が聞こえた。
鉄砲魚が跳ねでもしたかと見れば、音の主は鉄砲魚ではなかった。
水面には固くて厚い緑の殻に包まれた橙の蛹、南瓜が浮いていた。
少し寒いのを我慢しながら表へ出ると、確かに南瓜であった。
自分の縄張に突然入ってきた異物に鉄砲魚が反応し、突っついて追い出そうと躍起になっている。
私は鉄砲魚を助ける為に冷たい水に手を浸けて南瓜をすくい上げた。
立派な南瓜である。
とん、
足元に何かの当たる感触がした。
見下ろせば、また南瓜。
一体どこから転がってくるのか、風と共に南瓜はころころ転がって来る。
「どした?」
怠慢な女中がガラス戸の間から顔を出している。
「今日は南瓜鍋だよ」
「寒いしいいかもね」
足元に南瓜が転がる
「明日も南瓜鍋」
「ぬ」
とん、と
「明後日も南瓜鍋」
「………」
ころころ、と
「次の日も南瓜鍋」
「うぇ…」
南瓜凪が私の足元を吹き抜ける。
岸上さんにもお裾分けしなければ。
トリ付けてみました
これからの話の中で重要な役割を果たす登場人物の1人"鉄砲魚"と、
去年の冬至に書いた鉄砲魚が出て来るエピソード"南瓜凪"(かぼちゃなぎ)です。
女中と物書きは昔書いていた物ですが、あまり一目に付くことがない話だったので手直ししてここで書かせてもらいます。
岸上さんの下の名前と人類失格のヒロインの名前が被っている事は最近気付きましたw
>>93 GJ!面白いです。
こういう短編は、かなり好みです。これからも宜しくお願いします。
一ヶ月以上開いてしまって、お久しぶりの火と鉄です。(年末が忙しすぎたもので…)
終盤だというのにぶつ切りになってしまい、待っていた方には申し訳ありませんでした。
予定では今回を含め、後三回ぐらいで終わるつもりです。
あとしばらくお付き合いください。
1.
背後で石を蹴飛ばす音がして、アルフレドは立ち上がった。
座っていた石段には彼の温もりが残っている。それほど長くアルはそこにいた。
立っていたのはヒルデガルトだった。
「……武器を降ろしなさいな」
暗闇の中で、優しい声が響いた。
アルは剣の柄にかけていた手を、ゆるゆると降ろす。
五指城から、古い船着き場へと降りる秘密の通路。
アルもまさか、ここに自分以外の人間が来るとは思っていなかった。
「どうして、ここを――」
「あら、何を言ってるの? ここを教えてくれたのはあなたじゃない」
鈴のような声で笑いながら、ヒルダはアルの方へと降りてきた。
アルは正面に向き直る。ヒルダはその横に立ったが、座ろうとはしなかった。
「そうだったっけ」
「そうよ。アルが半日もいなくなって、私が探していたらひょっこりと顔を出して。
『秘密の砦を見つけたんだ!』って私をここに引っ張ってきたんじゃない」
小さく苦笑するアルの声が聞こえた。
「思い出したよ。まだ泳げなかった僕を、ヒルダが海に突き落とした」
「違うわよ、泳ぎを教えてあげようと思ったの!」
二人分の笑い声が重なった。
ひとしきり笑った後、不意の沈黙が流れた。
目の前には、アドリア海が静けさをたたえたまま、月光に輝いている。
波が光を反射する以外、動きは何も見えなかった。
「見てごらん。港を封鎖していたトルコの軍船が一隻もいない。
今日敵は少なくとも三百人の兵士を失った。僕たちが数えただけでね。
だから多分、船に残っている戦士や船員を陸に上げて、その穴埋めをするつもりなんだろう」
昨日までは、無数の船の灯りが海を漂っていた。
開場からの補給を阻むべく、トルコ海軍は封鎖線を張っていたのだ。
だがそれが今はいない。
見張り兵は、トルコ軍の泊地の方へと艦隊が南下するのを目撃していた。
「本国からは補給がきていないらしい、増援も」
「あら、どうして?」
「スルタン・メフメト二世はもう長い間病気なんだ。
いまトルコじゃ跡継ぎ争いが水面下で起こってるらしい。だから、どこの戦線も様子見なのさ」
不意にアルが言葉を切った。
ヒルダが自分の横顔をじっと見つめているのに気づいたからだった。
「……あなたはやはり、戦争を続けたいのね」
冷たい声だった。
夜風が、二人の間を駆けていく。アルは目線を海に向けたまま答えた。
「評議会の決定には従うよ。それに僕にはもう手勢も腹心の部下もいない。
『兵なき将軍は、火のない竃のようなもの』さ」
評議会はアル、ヒルダ、ジャンカルロ、ジロラモ、そして主だった隊長たちによって開催された。
会議の流れは、当初から混乱した。
まず北の聖アンナ門が突然破られた原因が明らかにされた。
守備していた『狂暴騎士団』の傭兵の一部が、トルコに降伏しようと門を開けたのだ。
当然傭兵隊の軍規に従えば、裏切りは死罪によって報いられる。
だが隊長であるコンスタンティノを失った傭兵たちは、烏合の衆と化していた。
誰もが責任者になることを嫌がり、隊としての決断が出来なくなっていたのだ。
汚れ役を引き受けたのは、フェラーラのジロラモだった。
自分が率いる鞭打ち教団から部隊を提供した彼は、今や一武将に昇格していた。
彼は即刻処刑を主張し、誰も反論出来なかった。
ついで問題になったのは、今後の戦略である。
確かに市内に入ったトルコ軍は撃退出来たし、多くの敵を倒した。
だが、モンテヴェルデ側の受けた被害も甚大だった。
コンスタンティノ戦死。ディオメデウス戦死。シエナのフランチェスコ行方不明。
死傷者は百を超え、たった一日で一割の戦力を失ったことになる。
二つの門が突破されたことで、そこに配置してあった武器の多くが破壊された。
大砲、火縄銃、投石器、石弓……そして何より貴重な火薬。
だが何よりの問題は、もはや兵士たちに戦う気力が失われたことだった。
「傭兵たちは宿舎に引っ込んだまま出てこない。
ナポリ人はディオメデウスの跡を誰が引き継ぐかで内輪もめ……これで戦争なんか、出来るか」
誰に言うともなくアルフレドは呟く。
今日の勝利は、結果的にアルから全てを奪い去ってしまった。
アルが帰国してからの権力を唯一支えていたものが失われたのだ。
気づけば、評議会で徹底抗戦を叫ぶのはアルとジロラモの二人だけになっていた。
民兵を率いる市民隊長たちはこぞって降伏を勧告。傭兵と外国人は棄権。
ヒルデガルトははっきりと意見を言わなかったけれども、決してジロラモに賛成しようとはしなかった。
ジャンカルロが、アルのすがるような視線に促されるように、最後に口を開いた。
『確かに、まだ食糧も水もある。多くの兵を失ったとはいえ、補充できないことはない……。
だが、このままどこからも助けが来ないのであれば、結局我々は滅びるしかないだろう。
だから相手も痛手を負った今、講和を申し出るべきだ』
渋々の同意を示す唸り声が、大広間に流れた。
ジロラモすら、決然としたジャンカルロの態度に、機先を制されてしまったようだった。
『……しかし、軍にはまだ力が残っています!』
アルが食い下がる。ジャンカルロは厳父のような顔で静かに言い渡した。
『余力が残っているうちに和睦すべきだ。全てが失われたら、何を条件に講和するというのか』
これで決まりだった。
ジロラモだけがなお抗戦を訴え続けたが、もはや誰も従おうとはしなかった。
「……明日の朝一番に使者を出し、交渉中の安全を求める。
それが認められれば私が敵陣に赴きます」
「君が……!?」
振り返り、立ち上がる。
だがヒルダは淡々と頷くだけだった。目は醒め、何ごとにも動じないように、唇を引き結んでいる。
アルには、その瞬間のヒルダが勇敢な戦乙女のように見えた。
「……彼らが欲しいのはこの町と民。
私が首を差し出せば、きっと降伏を受け入れてくれるはずよ」
「それは……」
少女の目が、アルの視線を避けた。
差し出すものが「首」などではないことを、彼女は悟っていた。
「それは……僕たち男の仕事だ。僕が……」
「あなたでは駄目よ。だってただの私生児ですもの」
ヒルダは冷ややかに笑ったようだった。
アルは言葉に詰まる。
嘲られたからではない。ヒルダの言葉が、初めて恐怖に震えるのが分かったからだった。
「……もう、決めたの」
沈黙の後、ヒルダは身を翻し、城への道を登り始めた。
「さよなら、アルフレド」
遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなり、波音だけが戻ってきた。
アルフレドは少女の姿が消えた闇を、見つめ続けた。
いつまでも幻のように残っていた彼女の白い影が、不意に曇る。
目から溢れた雫を拭うこともなく、アルは消えたヒルダの影をずっと見送っていた。
2.
「しかし、アルフレドさまにあんな所で会うとは、全く幸運でございましたよ」
そう言って親父は陶製の杯を持ち上げ、喉を鳴らしてエールを飲んだ。
横に座ったアルフレドも、微笑みで答えながら、自分の酒に口を付ける。
アルを取り囲むのは老若男女入り混じった素朴な顔。
男たちはアルと一緒に大きな円テーブルを囲んでいる。
女たちは料理を運んだり、あるいは男たちの話に口を挟んだりと忙しい。
特に若い女は、誰もがアルの世話を焼こうと互いに牽制し合っているようだった。
老人や子供も、宴を遠巻きにしながら、楽しそうに相伴に預かっている。
それは今のアルの荒んだ心を、ほんの一時とはいえ解してくれる光景だった。
彼らはアルフレドがかつて領主を務めていたオプレント村の住民だった。
領主と言っても、ジャンカルロの下で盾持ちだったころ武装を整えるためにあてがわれた貧しい村だ。
アル自身は自分の領民ということで、出来る限り村に足を運び村人の意を汲もうと努めた。
税についても、自分の武装が軍規に違反しない程度で我慢し、小さな不正には目を瞑っておいた。
だから、アルフレドの評判は決して悪くない。
というより、まだ少年のアルを村人は自分たちの息子、村の誇りのように考えていた。
それゆえ、追放になった後も、彼らはアルを領主とみなし続けたのだった。
「君たちが、まさかここに避難してきているとは思わなかったよ」
「フィオーレの二番目の倅が、村の様子を伺っているトルコの物見を偶然見かけましてな。
村を守る者がいるでなし、かといって他所に逃げる伝があるはずもなく……
それにお城にはアルフレドさまがいらっしゃると聞いておりましたから」
「それならそうと、尋ねてくれればよかったのに」
聖ジョヴァンニ門近くの自分の宿舎に戻る途中、村長に声をかけられたのがきっかけだった。
それまでアルはオプレントの村人が集団で避難してきているとは全く知らなかったのだ。
「言ってくれれば、こんな厩の片隅ではなく、もっといい住居をみんなに用意して……」
「そいつぁいけません、アルフレドさま」
酔っ払った村長が首を振った。
「よそ者が町でいい暮らしなんかして御覧なさい。町の連中が放っておくわけがないでしょう。
今だって村の荷物を盗まれないよう、昼夜を問わず見張り番を立てとかなきゃいけないんです。
ここんとこ食う物も乏しくなってきましたからね。自分の身は自分で守らなきゃ。
物盗りどころか、殴られたり、殺されたりしたって町の代官は私らを助けちゃくれないんですから」
教え諭すように言われ、アルフレドは黙った。
正直、町の人々がそれほど荒んでいるとは思っていなかった。
不満はあるとはいえ、危機に皆力を合わせて立ち向かっているのだ、と勝手に信じていたのだ。
だが、村人たちのおどけた目の向こうに、失望感が広がっているのに気づかないわけは無かった。
「……ところでアルフレドさま、剣の具合はいかがで?」
領主の沈黙の理由を察したのか、中年のたくましい男が陽気な声を上げた。
アルフレドの長剣を鍛えてくれた、村の鍛冶屋である。
「うん、ずいぶんこいつに命を助けられた。折れも曲がりもせず、いい剣だよ……ありがとう」
誉められた鍛冶屋は赤ら顔をまるで子供のようにほころばせた。
彼の背後に立っていた妻も、夫の肩をいたわるように一つ叩く。
「君にも、礼を言うよ」
アルはすばやく首を巡らせ、離れた所に座っていた指物師にそう言った。
「この鞘を作ってくれたおかげで、僕は……」
指物師は話が見えず、きょとんとしている。アルはそれを見て小さく笑った。
アルの指が、鞘にあしらわれたモンテヴェルデ大公の紋章を撫でる。
これがなければ、アルフレドはここには帰ってこられなかった。
どこか異国の地で、モンテヴェルデがトルコに蹂躙された報を聞くことになっていたかもしれない。
あるいは、カラブリアの城で虜囚のまま生涯を終えたか。
だが結果は一緒だった。
明日、ヒルダはトルコ人の所へ行く――あらゆる努力も、苦労も無駄だった。
「アルフレドさまはこちらですか?」
聞き覚えのない声に、その場にいた全員が振り返った。
もちろんアルフレドは真っ先にその声を発した方を見据えている。
厩の入り口に、外套を羽織った男が立っていた。
アルの知らない男だった。だが武装から、おそらく城の兵士の一人と見当がついた。
「何事だ」
声に威厳を取り戻し、立ち上がる。
男は小さく頭を下げると、アルフレドの側に駆け寄った。
その手には小さくたたんだ紙が握られている。
アルは差し出されたそれを開くと、さっと目を走らせる。
ラテン語で書かれたそれは、公用文書であることは一目瞭然だった。
「……援軍が、来る」
「えっ、そりゃ本当ですかい?」
アルフレドは村長の声に、力強く頷く。
「教皇猊下が軍を発せられた。総大将はウルビーノ公フェデリーコ閣下だ。
ハンガリー王の軍や、ポルトガル王とジェノヴァの艦隊も向かっている。
ナポリのアルフォンソ閣下も、トスカーナで休養中だった軍団を率いて急行中とのことだ」
その文書には教皇シクストゥス四世の署名が入っていた。
彼は教皇領、そして全イタリアからの異教徒の放逐を全キリスト教徒の王に命じていた。
つまり、ナポリ領オートラント、そしてモンテヴェルデからトルコ人を追い出せと言っているのだ。
「そいつぁ……そいつぁすごい。そ、それで、法王さまの軍はいつ到着するんです?」
「はっきりしたことは言えないが、おそらく二・三週間といったところだろう。
ウルビーノ公の先発隊は、すでに都を発ってモンテヴェルデに向かっているそうだ」
村人たちに安堵の空気が流れた。
もちろん、アルにとってそれは天からもたらされたに等しい幸運だった。
もしかすると、評議会の決定をもう一度ひっくり返せるかもしれない。
そうすれば、ヒルダも――。
「すまないが、すぐ城に戻る。評議会を再び招集しなければ……」
無造作にアルが席を立つと、村人の一人が慌てて彼の外套を取りに走った。
いつしか、全員が黙ってアルを見つめている。
自分を見つめる無数の目、目、目……。
今にも走り出しそうだったアルは、オプレント村の人々に決然と振り向いた。
「……すまないが、あと僅かの期間耐えてくれ」
皆が頷く。それは確信に満ちていた。
「それは、やはり戦争を続けるということですか?」
思いがけない方向から声をかけられ、アルフレドは驚く。
そう問うたのは、手紙を届けた兵士だった。
兵士とは思えない不躾な言葉に、アルは首を傾げる。
「ではっ……!」
「アル危ないっ、下がれ!!」
二つの声が重なった。
とっさにアルは体を引く。
そこに、兵士が抜き放った刃がかすめていった。
「何をっ」
村人の悲鳴。女たちが逃げ散る。
倒れこみながらアルは剣の柄に手をかけた。
兵士は第一撃を外したものの、素早く剣を振りかぶり、アルに襲いかかる。
アルの目の前に、白刃が振り下ろされた。
3.
「危なかったな」
床には剣を手にした兵士の死体が転がる。
その背中には、僅かに湾曲した短剣が突き刺さっている。
それを投げた人物――ルカ――の手をとって立ち上がりながら、アルはまだ呆然としていた。
「……こいつは?」
「恐らく、ジャンカルロの放った刺客だろう。抗戦を主張しているのはアルとジロラモだけだからな。
奴はジロラモとも密かに通じていたようだが、やっと一戦交える気になったらしい。
そうなると邪魔なのは、大公の息子で抗戦派のアル、お前だけだ」
「待ってくれ、ルカ。君は何を言ってるんだ?」
息をつき、頭が働くようになったところに投げつけられた言葉は、アルを再び混乱させた。
「ジロラモと、奴の教団が蜂起した。
ヒルデガルトさまに翻意を迫り、聞き入れられないと知って彼女を捕らえたんだ。
ジロラモは今、武装した信徒どもと領主館に立て篭もってる。
ジャンカルロは家臣を率いて奪い返すつもりだ。姫さまを手土産にトルコに降伏する気だろう」
「なんだって? つまり、それって……」「内紛さ」
死んだ兵士からルカは短剣を引き抜くと、ブーツの底で血を拭ってから、ベルトに差し込んだ。
よろけたアルが椅子に座り込むのも、気にならぬ風だった。
「なんで……」
「そんなこと知ってるのか、って?」
机に手を置いて体を支えながらも、アルの視線は定まらなかった。
ルカはそんなアルに目をむけず、ただ顔を歪める。
「……ジャンカルロとジロラモに脅されていてな。アル、お前の情報を二人に流していた。
お前がどこに行ったのか、誰と会って、何を話したのか、何を考えているのか、そんなことを」
「…………どうして」
ルカは小さく首を振った。
歪んだ顔に、自嘲気味の笑いが浮かぶ。
「ステラに危害を加える、と脅迫された。俺があいつに懸想してると思ったらしい。
ひどい勘違いだぜ、あんなこまっしゃくれた餓鬼に、俺が本気になるわけ……」
言い訳のように吐き捨てると、ルカは不意にアルの方を向き直った。
「その手紙も、お前に届ける前に俺がジャンカルロに見せた。
奴は破った封を直し、お前に届けるように部下に命じた。だから悪い予感がしたんだ。
つけてきて正解だった」
罪を告白してつかえが取れたのか、ルカは安堵の息を吐いた。
「……姫さまの情報は、ステラが流していた」
「ステラが!?」
信じられぬ風情のアルに、ルカは駄目押しするように頷いた。
「忘れたのか、ジャンカルロはあの子の伯父で、後見人だ。生殺与奪の権は奴が持っている。
――彼女も辛かったんだ。責めないでやってくれ」
そう言ってルカが背を向けると、アルはもう何も聞かなかった。
アルとルカのやりとりを、オプレントの村人たちは困惑した顔で見守っている。
だから二人が黙っても、誰も言葉を発しようとはしなかった。
――やがて、アルが動いた。
外套を羽織ると、振り返ることなく、建物の外へと歩きだす。
「どこへ行くんだ」
「助けに」
アルの答えは簡潔で、それ以上何かを聞く必要のないものだった。
ジロラモが勝つか、それともジャンカルロが勝つのか。
どちらにしてもヒルダの命はない。そして、モンテヴェルデも。
「一人で行くのか」
「傭兵たちもナポリ人も、もう僕の命令なんて聞いてくれないからね……じゃ」
「待てよ。俺も行く」
再び歩きだそうとするアルをルカが引き止める。
「ルカが責任を感じることはない。だから――」
ふうっ、とこれ見よがしに吐き出されたため息に、アルは怪訝な顔を向けた。
ルカは相変わらず、アルの目を見ようとはしない。
「俺にも助けなきゃいけねえ姫さまがいるんだよ」
「……そうか。そうだね」
ルカがアルの横に並ぶ。
不思議とアルフレドは、それだけで百万の援軍を得た気分だった。
自分と志を同じくする友がいる、それだけで。
「お待ちください、アルフレドさま」
再び呼び止める声がした。
「我々も行きます」
村長がそう言うと、男たちは一斉にどよめいた。
村長の息子も、鍛冶屋も、指物師も、皆立ち上がる。
その顔は少年二人のように悲壮なものではない。まるで町の市場に出かけるように陽気な顔だ。
「馬鹿言うな。君たちには関係のない――」
「領主さまが来いと仰るなら、それに従うのが領民の務めというものです。アルフレドさま」
アルは向き直ると、精一杯の威厳を込めて言った。
「では領主として命じる。君たちは来るな。武器も持たない農民を殺すことは領主として出来ない」
その言葉に、村人の動きが一瞬止まる。冷たい緊張が走った。
だが、すぐにそれは破られた。
村長が手で合図すると、村人たちは一斉に散る。
そして、アルは驚いた。
下着入れの底からは剣が。薪の束の中からは弓が。
壁にぶら下がった鍋の影から兜や盾が。
次々と武器や甲冑が引っ張り出されて来る。たちまち数十人分の武装が集まった。
「さ、これだけあれば文句はありますまい。アルフレドさま」
「し、しかし、どこでこれだけの…………」
アルが呆然としていると、後ろからルカの笑い声がした。
「毎年どこの領主の森でも鹿や猪が何十頭もいなくなるのは何故だと思ってるんだ。
こいつら農民が貴族や王の決めた掟を律儀に守っていると思うのかい。
そんなら役人なんてたちまち用済みじゃないか」
あっけにとられているアルに、村人は気恥ずかしげな表情を向ける。
笑いをこらえている者、目をそらして鼻をかく者、隣の男を肘でつつく者……。
まるでいたずらを見つけられた子供のようだった。
彼らは、羊の群れなどではない。
自分よりも遥かにたくましく、狡猾で、強欲で……だからこそ、大事なものを守れるのだ。
これほど頼もしい軍団はどこにもいないではないか。
ようやくアルは、彼ら一人ひとりの顔を見ながら、頷くことが出来た。
「オプレントの自由な民よ、続け!」
アルフレドの叫びに、男たちは一斉に鬨の声を上げた。
4.
荒々しく門を叩く音に、男は顔を上げた。
モンテヴェルデの城下町、領主館の一室である。
細長い部屋には、それに合わせた長いテーブルが置かれ、正面には玉座がある。
無数の蝋燭を灯した燭台が壁際にずらりと並べられ、室内をまぶしい程照らしていた。
だが、数十人が一同に会せる部屋にあって、男は一人だった。
再び門を叩く音が建物を振るわせる。
まるで巨人が揺さぶっているような音。武装したその男は、訝しげに首を振った。
そこへ、立派な鎧を着た若者が一人入ってきた。若武者らしく肩で風を切っている。
「何事だ」
「民兵どもです」
「民兵だと? どこの配下だ」
男はますます額に深い皺を刻む。市民隊長たちはまだ事態を把握していないはずだ。
彼らが事態に気づくとすれば明日の朝。しかしそのころには全てが決着しているだろう。
若武者は申し訳なさそうに頭を下げつつ、答えた。
「分かりません。旗印も何もなく……丸太で正面の扉を破ろうとしております」
「数は」「およそ三十。鎧を着けたものが半分、残り半分は弓を持っております」
男は顎を撫でた。
三十なら兵力では互角だ。しかもこちらは建物に立て篭もっている。
領主館は教会を除けば、市内で唯一の石造の建物。
しかも有事には要塞として使えるよう設計されている。防ぎきることは容易と思えた。
「無理をするな。守りを固め、期を見て打って出よ。姫を奪われてはならん」
「分かりました」
若者は頭を下げると、脇に抱えていた兜をかぶり直し、去っていった。
若者が去ってすぐ、再び扉が開く音がした。
「何事だ」
苛立ち紛れに振り返った男の顔が一瞬厳しくなり、ふっと和らいだ。
「これはこれは。お外の部隊を率いるのはアルフレド殿下でしたか」
男の口元に張り付いた笑みを、アルは視線で吹き飛ばそうとするように睨みつける。
その手には剣が、もう一方の手には木製の盾が握られていた。
「よく入ってこれましたな。つまり表の騒ぎは……」
「陽動だよ。ルカが鉤付きの綱を用意してくれたから、屋上の窓から入るのは簡単だった」
感心したように何度も頷きながら、男はアルを傲然と睨み返す。
二人の距離が剣の間合いより一歩ほど離れたところで、アルは立ち止まった。
「ヒルダを返してもらおう。ジャンカルロ」
「……奪い返してどうなさるおつもりで? まさか、本気で教皇軍が到着するまで抗戦する気ですか」
頷くアルフレドを見て、ジャンカルロは肩をすくめた。
「二週間なら、まだ持久できるかもしれない。トルコの塹壕が城門に達するにはまだそれぐらいかかる。
だが三週間なら。援軍が来るのが一週間遅れれば、もう和平の機会はないでしょう。
勝ち誇ったトルコ人たちを前に、我々には疲れきり、矢玉の尽きた軍隊しか残っていない。
そうなれば――虐殺だ。罪もない女子供や老人まで、なで斬りにされるでしょうな」
からかうように体をくるりくるりと翻しながら、しかしジャンカルロは決してアルの間合いには入らない。
まるで飛鳥のように、アルの目の前を彼は行き来した。
「……僕には、守りたいものがある」
「あの売女だけでは満足できませんか。顔は今ひとつとはいえ、なかなか豊かな乳房の持ち主だが」
挑発の言葉にも、アルは激昂しなかった。
ただ静かに盾を持ち上げ、剣を構えた。
「よろしい。たかが女一人と二千の領民は釣り合うというわけだ。
それが殿下のお答えなら、我々は戦うしかない」
ジャンカルロは柄に手をかけた。
黒革で包まれた鞘から剣が抜き放たれ、燭台の火をぎらりと弾き返す。
ジャンカルロは盾を持っていない。
だが、その体を精緻な彫刻を施した、板金の鎧が包んでいる。
金で飾られた鎧は、古代の英雄を思わせる彼の体を一層たくましく見せた。
「最後に一つ聞きたい。ジロラモはどうした」
まるで試合のように剣を胸の前に掲げつつ、アルが言う。
「馬鹿な男ですな。最後まで聖戦などという戯れごとを信じて死んでいった。
ほら、そこに座っているでしょう」
ジャンカルロが顎で指し示した方をアルは振り向く。
玉座に、黒い修道服をまとった男が貼り付けられていた。
骸骨のような顔は恐怖と苦痛にゆがみ、目をかっと見開いたまま。
手足を釘で椅子に打ち付けられ、血の海の中でジロラモは息絶えていた。
「……弄んで、殺したのか」
「言葉では説得できなかったから。まさかあそこまで狂っているとは思わなかった。
嫌いな種類の男だったが、初めて憎しみすら感じましたよ……だからつい、ね」
まるで汚物を口にしたかのように、ジャンカルロはひとつ唾を床に吐いて、剣を構えた。
「殿下も、すぐに彼と同じ所に送って差し上げますよ」
ジャンカルロの剣は、アルフレドが知る誰の剣とも違っていた。
まるで優雅な舞のような、変幻自在のヒルダの剣とも。
殺意だけで出来上がったコンスタンティノの剣とも。
押せば引き、引けば押してくる老獪なディオメデウスの剣とも違う。
それまで無数に打ち合わせた誰の剣とも似ていない太刀筋で、彼は襲い掛かってきた。
アルはジャンカルロの背後に、巨大な城、堅固な城壁が立ちはだかっているような錯覚を覚えた。
それほど、彼の剣には隙がなく、いかなる欠点も見出せない磐石の動きを持っていた。
盾を持たない不利など、微塵も感じさせない。
いや、逆にいつしかアルが守りを打ち崩され、部屋の一角に追い詰められてしまっていた。
「やはり幼いうちにお前を殺しておくべきだった、アル」
戦いの中で、二人は語り合っていた。
殺意をむき出しにしつつ、それでいて静かに語り合う姿を見る者がいれば、異様に写っただろう。
「気づいているか、お前は多くの者に守られていた」
「ヒルダや、生母や、父にすら、守られていたのだ」
「大公はお前を疎んじることで、お前の命を守ったのだ。
お前を後継者とみなさないことで、貴族どもの嫉妬と憎悪からお前を守っていたのだ」
「お前が一人前になるために、どれだけの血が流されたと思う。両手では効かんぞ」
「お前やヒルダのために、これから何百という民が死ぬ」
「だからお前を殺さねばならない……!」
アルは床に倒れた。
盾は砕かれ、剣は手を離れたアルを、ジャンカルロは見下ろしている。
首筋に、ジャンカルロの剣がぴたりと張り付いていた。
軽く引けば、それで終わりだった。
「……あなたもまた、この国を恨んでいたのか、ジャンカルロ卿」
「自分が愛したのは、民と土地だけだ。アルフレド殿下」
ジャンカルロは小さく祈りの言葉を呟いた。
死に行く魂の安息を祈る言葉だった。
剣が振り上げられ、振り下ろされた。
「ぬっ……」
その剣を、アルフレドは素手で受け止めていた。
鎖の手袋で守られてなお、両手の指を千切られそうになりながら、剣をアルは握りしめる。
そのまま、腕も折れよとばかりにジャンカルロの剣を引き寄せた。
それが、剣豪の判断を一瞬誤らせた。
とっさに奪い取られまいと力を込めたことが、逆にジャンカルロを後手に回らせたのだ。
刹那遅れて長剣から手を放し、腰の短剣を抜こうとする。
アルは刃を握ったまま、立ち上がり、ジャンカルロの懐に飛び込む。
逆手に持った剣を、ジャンカルロへと叩きつける。
それはジャンカルロの無防備な喉を貫き、鮮血がアルの顔を染めた。
崩れるように倒れたジャンカルロのそばに、アルは跪いた。
「……ア……ル……」
先ほどまで鉄壁の城壁を思わせた男は、老人のように弱弱しく息をしていた。
鮮血が口まで溢れ、血の気の引いた唇を化粧のように染めていく。
「…………お前の生母を殺したのは……ヒルダの父母だ……それでも……」
「ああ、僕はヒルダを愛している」
ジャンカルロは笑った。
その拍子に、一気に鮮血が口から吹き出す。
彼の指が動きアルを招いた。アルは口元に顔を近づける。
「……ステ……ラ……に、わ私……の、領……地…………を――――」
「分かった」
アルの答えを聞くと、ジャンカルロは満足げに笑い、そして死んだ。
「ヒルダっ……!」
「アルっ……」
ヒルダは、すぐ隣の部屋に監禁されていた。
嬉しさに怪我の痛みすら忘れて駆け寄ろうとして――アルはたちまち戸惑ったように立ち止まる。
ヒルダはほとんど一糸まとわぬ姿のまま、鎖で壁に繋がれていたのだ。
「……あ、え……っと――ごめ……」
「ば、馬鹿っ。謝る暇があったら、早く何か着る物を貸してちょうだいっ」
強がりを言いつつ、ヒルダも娘らしい恥じらいに頬を染める。
アルは出来るだけ見ないようにしながら、自分の外套をヒルダにかけてやった。
とはいえ、アルも若い男。一瞬ヒルダの白い肌に視線を走らせ……異変に気づく。
「拷問、されたのかい……?」
ヒルダの手から鎖を外しながら、アルは尋ねる。
「こんなの、どうってことないわ。鞭で打たれただけだもの」
白い肌には肉が弾けて出来た赤い傷が幾つも走っている。
それは背中だけでなく、乳房や、腹、それどころか、女としてもっとも敏感な部分にすら及んでいた。
アルの答えを打ち消すヒルダも、いつもの力強さはない。
鎖から解き放たれると、倒れこむようにアルに身を預けた。
「アルこそ、ひどい怪我……」
「あ、ああ――こんなの、包帯で縛っておけばどうってことないよ」
「そんなわけ、ないでしょう!」
血まみれの手を隠すように後ろに回すアルを、ヒルダは叱った。
外套の端を歯で食いちぎると、細く破っていく。
あっという間に包帯を作ると、ヒルダは馴れた手つきで怪我の手当てを始めた。
「……来てくれると、信じていたわ」
アルの腕の中で、ヒルダは呟く。
照れくささに頭をかこうにも、手は未だヒルダの手当てを受けている最中だった。
仕方なく照れ笑いを浮かべてみると、ヒルダと目があった。
「ごめんなさい」
謝ることはない――そう答えようとして、アルはヒルダに遮られた。
「本当はね、少しだけ疑ってたの。私のことなんか放っておいて、ラコニカさんと……って」
「ヒルダ……」
アルも言葉に詰まる。
ヒルダを愛しているのは確かだった。
従姉として、幼馴染みとして――そして女性として彼女を見ている。
だが、ラコニカもまた、アルフレドにとっては命を賭けるに値する女性なのだ。
ヒルダにそれを分かれと言うのは、あまりに身勝手なような気がした。
若い男女にとってやはり愛とは唯一無二のものなのであるべきで、しかもアルは不器用な少年だった。
「ごめん、僕は」
ヒルダは小さく首を振る。アルの言いたいことは、分かっていた。
「……でもね、今は幸せ。私のために戦ってくれたんだもの」
そこでヒルダは、少女のように笑った。
見つめ合う二人。はにかみ合いながら、そっと顔を寄せる。
「誓いを忘れた日は、無いよ」
ヒルダの手を、そっと取る。
持ち上げた手の薬指には、指輪がはまっていた。
大公家の紋章をあしらった、古い指輪。
「あの時も、私のために戦ってくれたものね」
「これからも、そうだよ」
少女には、それで十分だった。
騎士は誓いを果たしたのだ。
だから、貴婦人は褒美を与えなければならない。
何も持たない少女に出来る褒美は、たった一つ。
小さな部屋の中で、二人の唇がそっと重なった。
「アル?」
突然の声に、二人は慌てて顔を放した。
振り返ると、ルカが立っていた。その傍らにはステラがいる。
「姫さま!」
「ステラ、無事だったのね!」
姉妹同然の二人は、歓声を上げて抱きしめあった。
それを、二人の若い戦士は誇らしげに見守る。自分たちが成し遂げたことに満足しながら。
「ひどくやられたなアル」
「相変わらずだよ。運が良かったのさ」
「もっと剣の稽古をしないとな」
ルカに肩を小突かれ、アルは苦笑いを浮かべた。
「全く、心配してきてみればのんきに口づけなんて……」
「ル、ルカっ」
ヒルダが顔を真っ赤にしながら叱責する。
叱られた少年は、そんな言葉などどこ吹く風、といったようにおどけてみせた。
「こりゃ、もう少し遅く来た方が良かったかな?」
「い、いい加減にしないと本当に怒りますよ、ルカっ!」
ヒルダが拳を振り上げると、ルカはさっと身を翻してアルの影に隠れた。
「そう言えば、ルカ」
だが、もう一方の当事者であるアルフレドは、妙に冷静だった。
とぼけたような顔をしながら、ルカとステラの顔を見比べる。
「君も妙に遅かったじゃないか。ステラを探して連れてくるだけにしちゃ、時間が……」
「おいおい、何を変な言い掛かり――」
アルは顎でステラの方を指す。
その瞬間、ヒルダも何かを悟ったように傍らの侍女を見た。
もうずっと、ステラは顔を真っ赤にしたまま黙りこくっているのだ。
恥ずかしそうに、服の胸元を直したりしている。
ルカがどれだけとぼけようと、何があったかは明白だった。
「……ステラ、あとでお話があります」
「…………はい、姫さま」
たちまち四人の男女の朗らかな笑いが、部屋を満たした。
――これが、彼ら四人が友人でいられた最後の日だった。
そしてこの日のことを、彼らは一生忘れなかった。
(続く)
>>93 ヘンでおもろいです。山田章博というマンガ家の短編思い出しました。
大正・昭和初期の空気が似合いそうな雰囲気。遊蛾灯欲しいな。
>>火と鉄
クライマックスだー!!なにかこう、ドカドカとラストに向かって突き進んでいく感じで…。
最後の最後に表れた、ジャンカルロという人の内面が不思議です。
そうか、彼にも愛するものがあったのか、と思いました。
そしてラストの二行が……。いったい次に何来るんですか、という感じです(笑)。
「火と鉄」のもんのすごく容赦ない厳しさと、馴れ合いとはほど遠い優しさが同居してるところが好きです。
いろんな意味で書いてる人の根性に、心からの賛辞と拍手を。
109 :
森蔵:2007/01/09(火) 23:43:02 ID:F8jIOLM2
>>107 保管庫覗いてみたら「火と鉄」、かなりの長編なんですね
時間つくって始めから読もうと思います
女中と物書き、なるべく今の季節に合わせて投下しようと思ったんですが
冬のエピソードが少ないので時系列順にどんどん投下しようと思います。
といっても、あくまでも繋ぎなので人類失格を優先しますが…
>>森蔵氏
ここに投下されてる作品は、みんなびっくりする程クオリティ高いんで、
一読の価値ありますよ。
短編も人類失格も期待してます
111 :
女中と物書き:2007/01/10(水) 00:40:10 ID:zvRrWHxn
-錆蕨-
春の陽気にも慣れ、そろそろ梅雨入りかと感じ出した或る日のこと。
鉄砲魚の池にパン屑を撒いていたら垣根を挟んだ向こうから岸上さんに声を掛けられた。
声を掛けられた瞬間、私はだらしない顔をしていたのだろう。
至近距離からの冷水に顔を引き締められた。
「どうしましたか?」
岸上さんは萌葱色の着物に、白い半纏を着ていた。
今日も首筋がセクシーである。
「菅さんは山菜はお嫌いですかぁ?」
「いえ、嫌いなものなど……蜆以外なら」
岸上さんがくれるものならば蜆以外なら食べれましょうぞ。
蜆は駄目だ。浅蜊ならば良いのだが蜆は駄目だ。
「ふふっ。好き嫌いはいけませんよぅ」
ああ、なんて上品なのだろう。
家の女中なぞ笑う時は豪快にがははといった感じである。
「錆蕨がいい具合に育ったので、菅さんにもお裾分けしようかと…」
「いつも頂いてばかりですみません…さわらび、とは?」
これですよぅ、と岸上さんが取り出した鉢からは4、5本程蕨が生えていた。
岸上さんの育てているものだし、"錆蕨"と言うくらいだから唯の蕨ではないのだろう。
「これは育ちすぎちゃいましたねぇ」
真ん中に生えている一本は他のよりも大きく、葉も開きかけていた。
112 :
女中と物書き:2007/01/10(水) 00:42:17 ID:zvRrWHxn
山菜としてもあまり美味しくない状態である。
ぢょきん
岸上さんがその育ち過ぎた一本を根元から切った。
瞬間。
錆蕨は一気に渦巻き状の茎を伸ばし、葉を広げたのだ。
まるで早送りの様に伸び上がると、今度は葉の先から濃茶色に染まっていった。
鉄臭い香りが漂う。
錆び付いてているのだ。
「切ったら直ぐに水に浸けないとこうして錆びて崩れちゃうんですよぅ」
岸上さんがその白く細い指で伸びきった錆蕨を突っつくと、ぼろぼろと崩れ風に散ってしまった。
他の錆蕨は水に浸けたまま茹でて灰汁抜きをし、お浸しにするのがいいそうで。
私は植物は強いものだとばかり思っていたが、やはり生命というものは儚いと実感させられた。
春〜夏の話でした。
居間現在書かれているエピソードの時系列としては、
・"蛹"物
菅が岸上さんから蛹植物を貰う話が数話。只今紛失中なので、新しく書き直します。
・"鉄砲魚"が池に住み着く
・"本の虫"
PCの方に保存されているのでその内こちらに移します。
・"靫葛"
女中の話。こちらもその内に…
これら四つはこの順序でないと文章中にわからない単語やキャラクター出てしまうのでなるべくこの順序で、
間に小話を挟んで書いていきます。
「女中と物書き」のお話、面白いです。
「火と鉄・・・」過去ログ読み始めました。続きを期待してます。
115 :
森蔵:2007/01/17(水) 21:46:55 ID:ej4QQp/B
間あけてしまってすみません。
私的なことでひと月程書くことが出来ません。
自分としては中途半端な形で終わらせたくは無く、閉鎖騒動もあって悩んでいましたがどうやら閉鎖もなんとかなりそうですね
もう少し時間を置く事になりますが、どうぞ宜しくお願いします。
保守
118 :
名無しさん@ピンキー:2007/01/31(水) 12:06:18 ID:umruJwVA
ほしゅ
119 :
名無しさん@ピンキー:2007/01/31(水) 14:02:58 ID:egtCvI3A
機甲創世記モスピーダ
120 :
人類失格:2007/02/04(日) 20:36:02 ID:ycRnt4UZ
"寒漆"
アパートの階段を上りながら、まだ少ししか吸っていないタバコを雪の中に放り投げた。
「ただいまーぁーっと」
玄関の扉を開くと暖かい空気が洩れだしてくる。
「誰かが部屋に居てくれるってのはいいもんだねぇ」
「……そうですか?」
「しーちゃんは違うのかい?」
詩貴美はストーブの前で携帯を弄っている。
「私は両親ともいつも家に居ないので…あと、その呼び方は…」
「嫌だったらごめんよ。ホラ」
冷たくなったビニール袋からこれまた冷たくなったコンドームの小箱を詩貴美に渡す。
「今からするんですか?」
詩貴美は携帯をパタンと折り畳むと、パーカーの裾に手を掛け言った。
「は?」
「セックス。したいんでしょ?」
勿論俺はそんなつもりでこの少女をお持ち帰りしたのではないし、そんなつもりでコンドームを購入したのではない。
「いや、俺は……とりあえず、服乾いてるから着ておこうか」
「しないんですか?」
悪いが女の子が男を陥とす武器である下からの見上げも俺には効かない。
「話が見えないよ。俺は君を拾って来ただけで、まだ何も話しちゃいない」
121 :
人類失格:2007/02/04(日) 20:38:44 ID:ycRnt4UZ
脱衣場に行って乾燥機の蓋を開ける。
入れた時はよく見てなかったが、どこかの学校の制服のようだ。
身元の分からない未成年が成人の部屋に居るのは宜しくない。非常に宜しくない。
話を聞いたらさっさと帰っていただかなければ。
と、後ろから抱きつかれた。
腹に腕をまわされる。何も着ていない。
「小学生じゃないんだから、じっと待つってのは出来ないのかな?」
腰から全裸の女の子をぶら下げたまま暖かい居間に戻る。
「お願い。私とセックスして下さい」
「……わっかんねーなぁ…何でそんなにセックスにこだわるんだ?」
「セックスすれば大抵はワガママ聞いてくれるから」
言いながら、詩貴美はキスをせがんできた。
落ち着きのない娘だ。
ちょっと旅してました
人類失格の続きです
早く書き上げようとは思ってます
脇役の嫌な白い奴が主人公のサイドストーリーも考えてますので…
>女中と物書き
時代物のようなファンタジーのような雰囲気がいいっす。
茄子の話が好きです。情景が目に浮かぶというか。
>人類失格
>脇役の嫌な白い奴が主人公のサイドストーリー
kwsk
でも本編も読みたいです。主人公がどう動くか気になる。
>火と鉄
これで大団円…と思ったらまだ一波乱ありそうな…
望めるならラコニカ幸せになってほしいですが。健気だし。可愛いし。
あとバレンタイン(三日ほどフライング)ですね、ということで投下。
元ネタはサモンナイト3(PS2)。
「のう、ヤード」
ヤードは、ミスミがこういう口調の時はなるべく警戒するようにしている。
閨の付き合いもある相手に対するのだからもっと信頼してはどうか、とも自分でも
思うのだが、この年上―――もっとも鬼人族であるミスミは子持ちと信じられぬほど
若々しいし、ヤードは実年齢より年嵩に見られることの方が多いしで、二人並ぶと
丁度似合いに見えるのだが―――閑話休題―――とにかく、ちょっぴりお茶目な
この愛人がこういう振りをしてくると、絶対に何かある。
それは実に他愛無いわがままであったり、ちょっとしたからかいであったりするの
だが、真面目一辺倒のヤードにとっては結構な難事なのだ。
そこが可愛い、と思えてしまう辺り、無自覚にせよ名実ともに立派な「ばかっぷる」である。
とにもかくにも。
夜。ミスミの寝室で互いに酌をしていたところ、部屋の主が「ちょっと待っておれ」と
言い残し、いそいそと衝立の向こうに引っ込んでいった。
ヤードは正座を崩すことなく畳に杯を置く。独りで飲る、という考えは浮かばない。
脇の火鉢をそっと衝立ちかくへと寄せて。
不意に、ああ、幸せだ、と思った。
この島で子ども達に勉強を教えて、休日には知人とお茶談議に花を咲かせ、夜には
好きになった相手とこうして居られる。一番幸福なのは、相手も自分を好いてくれるという
ことだ。
復讐を願い、無我夢中で生きていた頃には、自分にはそうなる資格は無いのだと
思いつめていた頃には想像すらできなかった幸せが、此処にある。
大事にしなくては、と思う。
ふと聞こえた衣擦れの音に僅かに赤面しながら、ヤードは自分に言い聞かせた。
いや決して帯の解かれる音に不埒な想像をしたのを打ち消すためではなくそもそも恋人
同士であるからしてやらしい未来予測をしたところで別に誰に責められるわけでもなく、
「待たせたの」
聞く者も浮き立たせるような明るい声がして、ヤードは慌て気味に顔を上げ、
「……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「うむ、なんじゃ」
「……それは、何ですか」
「これか。これは『ちょこれーと』という菓子じゃ」
ヤードは教師スキルを働かせ、求める答えが得られなかった原因は相手の理解力に
起因するのではなく訊ね方に難があったからと理解した。
ゆっくり。深呼吸。
「いえ、それは分かります」
「む。ならば他になにかあるのか?」
ミスミが首を傾げると、艶やかな黒髪が肩を流れる。
薄い襦袢を通して、白い豊満な身体が感じ取れる。豊かなだけではなく、前線で薙刀を
振るうためのしなやかな筋肉が美しい。
ああ、それは良い。
勿体無いがひとまずそれは脇に置き。
はだけた襦袢、露わになった胸元、それはもう魅惑的な鎖骨から乳房にかけての絶景に。
「その、……挟んでいるように見えますが」
銀紙に半ば包まれているらしき、黒っぽい固まりが、見えた。
ちなみに包まれている「らしき」なのは、銀紙の部分がおおかた谷間に埋没しているからだ。
「うむ、今日は『ばれんたいん』と言って、このちょこれーとを慕う相手に渡す日と聞いてな」
「それは……」
ミスミの顔に、ごく薄く、不安がよぎる。ヤードは混乱する頭を叱咤して「いえ、嬉しいです」と
どうにか答えた。
「そうか、良かった。
では、ほれ。受け取れ」
「う、う、受け取る?!」
それはつまりミスミの胸に手を伸ばしてチョコレートを胸の谷間から引っ張り出せ、ということだ。
「何をうろたえておるのじゃ。床を共にする身であろう?」
「いえ、そうですが、あ、しかし」
あわあわするヤードにしびれを切らしたのか、ミスミはがしっとヤードの手を掴むと、
「ほれ」
「―――っ!!!」
むに、と胸に寄せた。
……。
むに、という効果音は、チョコレートからした。
「あ」
「……おや」
温かな乳房に挟まれたチョコレートは形を崩し、正に乳色の肌にどろりと垂れた。
「あ、す、すいません」
決してヤードのせいではないのだが、咄嗟に謝罪の言葉が出る。
「ふむ、たいしたことではないぞ。食べるのには問題ないじゃろう?」
「……は?」
ぽかんとするヤードに見せつけるようにして、
「妻から夫への贈り物……全部、余さず受け取ってくれような?」
やわらかな乳房と、溶けかけたチョコレートと。とろりと甘い白と黒のコントラストを
押し上げて、ミスミは甘くあまく微笑んでみせた。
それはそれは、年下の愛人には甘すぎて、ひとかけらも口にしていないのに鼻血が
出るくらいに、強烈に。
あまりにも久々すぎてどう切り出していたか覚えていない。
マスタースレイブ
番外続編
投下させていただきます
ごめんなさい、ごめんなさい。
叫ぶように泣きながら、髪の長い女が街道を駆け出した。
地面には取り残されたように、背中から矢を生やした男が倒れている。
投げ出されたクロスボウ。振り向きながら走る女。その女は、男に手を引かれていただろうか。
地面にじわりと染み出した赤黒い液体。呻き声が聞こえる。
想像もしていなかった惨状に、呆然と立ち尽くした。
震える唇から声にならない息がこぼれる。ふと、あぁ、と声が出た。瞬間、自分でも訳
の分からぬ叫び声を上げ、女の後を追うように猛然と走り出す。
クロスボウを拾い上げた。矢は装填されている。女の背中に照準を合わせる。振り
返った女の顔が恐怖に引きつっていた。
――ダメだ!
誰かが叫んだ。構わず引き金を引く。勢いよく矢が飛び出した。真っ直ぐに飛んで、突き刺さる。
膝から崩れて、仰向けに倒れた。――女ではない。
どうして――。
途端、全身から力が抜けた。
どうして、どうして――。
ふと、目が覚めた。
耳に心地よい談笑が聞こえる。
暖炉の炎が燃えていた。
部屋の中には珍しく、薬草とは別種の香りが満ちている。
「……どういう事だ」
ようやく覚醒した意識の中で、呆然と呟く。
窓の外は既に夜に覆われて、今朝と全く同じように、人間の少女がそこにいた。
テーブルの中央には、どこから引っ張り出してきたのか調理鍋が載っている。おまけに、シチューの中身入りである。
記憶は街道でシリクと揉めた時からふっつりと途切れている。トレスはあの場で眠って
しまった事を後悔した。
「やぁトレス、ようやく起きたのか」
のんびりと言いながら、シリクがシチューを一口含む。
「久々にシチューを作ってみたら、なんだか凄くおいしそうでさ。久々に食べてみた。胃
は問題なく受け付けてるよ。液状のものならまだいけるみたい」
最近は果物も齧ってなかったからなぁ、と感慨深げにシリクが言った。
野菜は森から採取して来たのだろうが、シチューを作るのに必要な動物の乳を、一体ど
こから調達してきたのだろう。
思わずどうやって作ったのかを聞きそうになり、トレスは辛くも踏みとどまった。
「私の質問に答えろシリク。一体何がどうなってこうなった」
「どうって、何がさ」
シリクがとぼけて聞き返す。
仲間のもとへ返したはずの少女が目の前にいて、あまつさえシチューなんぞを食してい
る状況で、どうやったらとぼけると言う選択肢が出てくるのか、トレスは軽く眩暈を覚え
て目頭に手をやった。
「おかわりー」
ここにいるはずの無いリョウまでが、当然のように空になった器を差し出してくる。
おまけにその声に反応し、シリクは器を受け取って立ち上がった。
「調子に乗って作りすぎちゃったから、沢山食べてね。ハニー」
「まっかしといて! 食べるのは得意なんだ」
「待て、貴様ら。食うのは構わんが状況を説明してからにしろ」
でないと首でもつりたくなる。
そんな自虐的な台詞が喉まで出かけたのを飲み下し、トレスはなるだけ深刻に聞こえるように呟いた。
少しでも、この和やかな家族ムードを冷却できればと思ってのことである。
「説明も何も、君が決めた事じゃないか」
何を今更、とシリクが更にとぼけてみせる。
両手鍋に特大のさじを突っ込んで、シリクは中身をぐるぐるとかき混ぜた。
「私はこの人間を街道に捨て置く決断を下したはずだ。それを貴様の飛躍した思考回路が
どこをどう曲解したのかを是非うかがいたいのだが」
「リョウちゃんの足の具合がまだよくないんだ」
「それは単なる事実にすぎん」
「鈍いなぁ、君も。足が治るまで面倒見るって約束したんだろ?」
忘れていた。確かに、そんな事を言った気がする。
トレスは自分の軽率な発言を恨んだ。これを切り返すのは難しい。
「――旅の仲間はどうなった」
「迎えにこなかったよ」
「見捨てられたか。いよいよ野垂れ死にしてしかるべき存在と言うわけだ」
知らず口調が厳しくなった。ちらとリョウに視線をやる。特に応えてはいないようだ。トレスの暴言にも徐々に慣れてきたのだろう。
「彼女達のキャンプ跡に手紙が残ってた。“安全な所に隠れてろ”ってさ。必ず見つけてあ
げるからって。だから見捨てられたわけじゃないと思うよ」
「ならば尚の事、ここに置いておくのは事態の悪化を招くだけだろう。この家は結界に隠
されて、アイズレスでさえ見つけるのは難しい」
「だけど見つけられないわけじゃない。昨日から捜索に掛かっているとしたら、アイズレ
スは二、三日中この家を見つけるよ。僕が組んだのは所詮その程度の結界でしかない。こ
こほど安全な場所は他にないと思うけどな」
「忘れたかシリク! 私はこの人間の手首を砕きかけているんだぞ」
「それじゃあ君は、リョウちゃんを殺して食うのかい?」
シチューで満たされた器を静かにリョウの前に置き、シリクはゆっくりと腰を下ろした。
一口シチューを含み、軽く噛んで飲み下す。
「森で獣と出くわしたら、手首を砕かれるだけじゃ済まされない。僕は食べ散らかされた
リョウちゃんの死体を回収して、埋葬するなんて真っ平だ」
それより酷い状況を、君は作り出すのかい?
その問は、口に出さずとも伝わった。
ひどく居心地の悪い沈黙が忍び寄り、トレスの喉を締め上げる。
スプーンを置く音がした。
トレスとシリクが、ほぼ無意識に視線を向ける。
「居るだけでも、だめかなぁ」
椅子に深く背も垂れて、リョウが俯きがちに呟いた。
「居るだけ、って……?」
「トレスはさ、インクルタとか、動物とか、そういうのは居ても平気みたいだから。だか
ら僕もそんな感じで、部屋の隅の方で大人しくしてるからさ」
動物――。そう、思えない事もないかもしれない。少し大きめの獣と思えば、愚かな人
間も賢い畜生と言えるだろう。
「いやもう、物体として扱ってもらっていいから! ほら、あれだ。修理した物を配達に
行ったら受け取り人が居なかったから、仕方なく取りに来るまでその辺に置いておくって
感じで」
――修理屋さん。
関係も存在しないと言い放ち、少女からその言葉を引き出したのは自分だったか――。
「もう、盗み聞きもしないし、お風呂にも落っことしたりしないから……」
シリクが堪えきれずに吹き出した。
まだ気にしていたのか。落とした直後は、あんなにも平然としていたのに。
「それでも……だめかなぁ」
重ねて、聞く。
トレスは目頭を押さえて唸るように息を吐き、こつこつとテーブルを叩いた。
「動物が勝手に棲みつくならば――」
テーブルを叩く指を握り、溜息を一つ。
「追い払いはしない」
半ば諦めかけていたリョウが、聞き違いかと疑うように顔を上げた。
「それじゃ――」
「だが世話は焼かんぞ。悪さをすれば叩き出す」
吐き捨てるように言うも、リョウは文字通り飛び上がって喜んだ。ひっそりと瞬いてい
たインクルタが、突如明るく輝き始め、リョウの周りを飛び回る。
「驚いた、インクルタが喜んでる」
「馬鹿を言うな。騒々しさに慌てただけだ」
「とてもそうは見えないけどねぇ」
部屋の隅でひっそりとしていると、そう宣言したばかりだというのに――。
「はしゃいじゃってまぁ……かわいいなぁ」
トレスは深く嘆息した。
一人はしゃぐリョウを複雑な気分のまま見つめ、ゆっくりと立ち上がる。
「シリク。話がある」
「話せばいいだろ」
「ここで話したくないから言っている」
「あまり、気分のいい話じゃ無いわけだ――リョウちゃん。ちょっと内緒話してくるよ」
インクルタとはしゃぎ回っていたリョウが、ふと、動きを止めて振り向いた。
「なんで内緒なの? 僕聞きたい」
「トレスが繊細な青年だからさ」
包帯の奥で片目を瞑り、寝室へと爪先を向ける。扉に手をかける直前に、シリクはふと
思い出した様にリョウの方へ振り向いた。
シリクの背を視線で追っていたリョウは、不思議そうに目を瞬いている。
「盗み聞きしたちゃダメだよ?」
一瞬、リョウは意味を理解できなかった様だった。その隙を見て、シリクが寝室に身を
隠す。後ろ手に閉めた扉の向こう側で、リョウが怒る声がした。
「本当にかわいいなぁ。思ったとおりに反応してくれるんだから」
扉を閉めた寝室は、暖炉の燃えている居間と比べると随分と暗かった。
漂っているインクルタの光も頼りなく、まだ低い位置にある月は、窓から光を注ぎ込も
うとはしてくれない。
半ば手探りのような形で壁の松明掛けに手を伸ばし、シリクはそれを引き降ろした。
ガゴン、とかんぬきの外れる音がして、壁の隠し扉が開く。本気で聞かれたく無い話を
するならば、ここが妥当だと踏んだのだろう。
一歩足を踏み込むと、ひやりとした空気が頬を撫でた。壁に点々と続く松明に、一つ一つ火を灯す。
ようやく地下室の全体がぼんやりと浮かび上がって来た。部屋の中央にある、丸テーブ
ルとロッキングチェア。その上には、先日ここに置き去りにしたグラスとワインボトルが
乗っている。
トレスはワインでグラスを軽くすすぎ、なみなみとワインを注ぎ込んだ。
ロッキングチェアに腰を下ろし、しばし気分を落ち着けるように前後に揺らす。
「それで、君が改まって言う程真剣で深刻な話っていうのは一体何なんだい?」
トレスがワインで唇を湿らすと、シリクが静かに話を切り出した。
その口調からは、今から深刻な話をするのだと言う心構えは見られない。どちらかと言
うと、今からトレスがどんな面白い事を言うのかを心待ちにしている様だった。
「お前は、あの人間をどう思っている」
馬鹿馬鹿しい質問だった。返答の内容はあまりに容易に想像できる。
「かわいい子じゃないかな。あと、寂しがりやで強がり」
「印象の話はしていない。感情の話だ」
「もちろん好きだよ。僕はずっと妹が欲しかったからね」
これだ。予想通り過ぎて苦笑も出ない。
「……先日、あれに例の治療を施した。貴様は眠っていて見ていなかったが、その痴態と
来たら、まるで悪魔の宴のようだった」
「痴態……? なんだい、それ」
シリクが不思議そうに問う。
当然だ。リョウの足の治療に使用した薬品は、確かに神経を鋭敏化させる作用がある。
触れるだけで快楽を覚え、泣きながら恋人の名を叫ぶ者も少なくない。
だが、もしもシリクが起きていたなら、リョウのあの反応は度が過ぎている事に気づく
だろう。トレスは意図的に、リョウを喘がせ、追い詰めたのだ。
「あの人間……子供だと思っていたが、存外に女の顔をする。戯れのつもりで少し、余分
に刺激を与えてみると、こちらの自制が利かなくなった」
連れ合いの名を呼べと言ったのに、求めるように出会ったばかりの異種族の名を叫び、
甘い吐息で物欲しげにすすり泣く。
――僕のあんな姿見て、手放すのが惜しくなった?
まるで挑発するような発言に、無反応を貫く事すら出来なかった。
「よく……意味が分からないんだけど」
「前戯と言えば分かりやすいか。幼いながらにそういった事に敏感だったのだろう、それ
だけで達した。おかげで、足の治りは随分早いようだが――」
そこまで話してようやく、シリクが額に手を当てて溜息を吐いた。困り果てたように俯
き、頬を撫でて天を仰ぐ。
「……欲情したのかい?」
もう少し、穏やかな表現はできないものかと思ったが、トレスは静かに頷いた。
「信じられない……だって、人間の女の子だよ?」
どこかで聞いた台詞である。
「欲情とは、少し違うかもしれん――一種の破壊衝動とでも言おうか。汚してやりたくな
るのだ。何処までも追い詰めて、立ち直れないようにしてやりたい衝動に駆られる。笑顔
を向けられれば泣かせてやろうかと苛立ちがよぎり、好意を向けられればそれを上回る悪
意を吐きかけたくなるのだ」
信頼されればされる程、その信頼を裏切ってやりたくなる。
永い間、恐ろしく永い間、他人から好意を向けられる事など無かった。
自らそれを望み、そうなるように演じ、演じるままに歪んだ。
だが、リョウは何もかもを無視して純粋に笑顔を見せる。苛立ちが募った。
リョウに対してよりも、自分自身の表し難い感情に。
泣かせてしまえば不快になるのは自身だと分かっていながら、追い詰めずにいられない。
「なに、私にも理性がある。こうなってしまえば、そう無闇に傷つけたりはしないだろう」
だが――と続ける。
「なるべく、私だけを起こしておかん事だ」
何一つ保証はできんぞ、と宣言し、トレスは静かに立ち上がった。
ふと、部屋の隅の木箱に置いた果物に視線を投げる。
中から飛びきり甘い果実を選び出し、石段に足をかけると、シリクが苦笑いにも似た表
情を浮かべた気がした。
>>123氏
バレンタインネタGJ!
やわらかそうなおっぱいの表現にハァハァしました。
>>森蔵氏
独特の雰囲気の作品、いつも楽しませていただいています。
白いヤツサイドストーリー、楽しみにしております。
また一ヶ月以上開いてしまいましたが、火と鉄です。
次回で最終回。今月中にうpできると思います。
1.
男は泥に足を取られ、倒れこむ。
その瞬間、今まで男の頭があったところを、さっと一条の矢が走った。
振り向くと、男の背後の控え壁にそれが突き刺さっている。
「糞っ、ふざけやがってノルマン人め! ぶっ殺してやるっ」
一瞬背筋が凍り、次の瞬間男は恐怖を打ち払うように大声で悪態をついた。
そうは言ってみたものの、頭を上げることはしない。
城壁から飛んでくる矢の数は衰えを知らないかの如く、彼の周りに降り注ぐ。
攻防が始まって一ヶ月以上が経った。
飢えと渇きに苦しめられた戦いも終わろうとしている、男はそう思った。
最後を華々しく飾ろうとするかのように、モンテヴェルデの反撃は激しさを増していた。
肩の高さまで掘り下げた掩蔽壕。
その縁には土嚢や牛馬の死体、あるいは死んだ仲間を積み上げて壁が築かれていた。
男は壁の影に隠れると、振り返る。
黒々とした、巨大な大砲がそこに鎮座していた。
彼の相棒である。
トルコ軍に残された数少ない重砲。
数週間かけて、男は仲間と塹壕を掘り、床板を敷き詰め、水をくみ出し……
ようやく射撃位置までたどり着いた。
弓矢どころか、城壁から石を投げれば届きそうな地点まで。
そこから人間の頭ほどもある砲弾を叩きつければ、城壁など紙に等しい。
「へ、全くしゃぶりつきたくなるような、いい女だぜ」
黒々とした鉄の砲身に、男はそう呟く。
その瞬間、彼の脳裏に故郷に残してきた妻と子供の顔がよぎった。
――ここまできて、死んでたまるか。
作業が遅れても、命の方が大事だ。
男は敵の射撃が止む機会をうかがおうと、塹壕の縁からそっと顔を覗かせた。
その時。
「お前、なにを休んでいるか。隠れていても大砲は動かせんぞ」
男はその声がした方を睨んだ。
彼はこれでも砲術下士なのだ。三日前に昇進したばかりとは言え。
そんな彼に横柄な口を聞くことの恐ろしさを馬鹿には教えてやらねばならない。
そう拳を握り締めたところで、彼は凍りついた。
声を変えた男は、黒テンの毛皮のマントを羽織り、金に輝く鎧を着けている。
頭には半月の飾りのついた兜。腰には真珠で飾られた刀。
周囲を固める、イエニチェリの兵士たち。
「ぱ、パシャ」
男が弁解をするより先に、アクメトは顎をちょっと動かした。
たちまち男は物陰から飛び出して、大砲を設置する作業に取り掛かる。
もはや矢玉を気にしている場合ではなかった。
「パシャ、このような所までお出ましになると危険です」
「君もここにいては危険だろう、砲術長」
アクメトは笑った。
慌てて追いついてきた砲術長の警告を受け流しつつ、城壁の方に目を向ける。
時折、鋸壁の向こうに動く影が見えた。
一瞬姿を見せ、矢を放ってはまた壁の影に隠れる兵士たち。
実戦こそ最良の学校だ。この一月ほどでモンテヴェルデ兵も腕を上げた。
だが、それも無駄なあがきに過ぎない。
「やはり敵の弾薬は尽きたようだな?」
「計略かと思い、砲の張りぼても作ってみましたが、やはり撃ってきません。
火薬が尽きたか、それとも砲を全て失ったか……どちらにしても」
「今日で終わり……か」
トルコ軍の攻城砲を遠ざけていたものは、稜堡とそれに守られた火器だ。
だがここ何日もの間、城壁からは一発の砲声も轟いていない。
それはモンテヴェルデの弾薬が底をついたことを意味する。
そうなれば、トルコの大砲は好きな距離まで接近し、射撃することが出来る。
塹壕と盾に守られた砲は、弓矢と投石などでは破壊出来ない。
「しかしパシャ、これほどまでごり押ししなければならないものなのですか」
目の前の堀には、ここ一週間の間に死んだトルコ兵が折り重なっている。
後ろを振り向けば、泥に大砲が埋まっている。
軟弱な地盤に侵入させて足をとられ、放棄せざるを得なかったのだ。
アクメトが損害に構わず攻撃を繰り返した結果だった。
「奴らに時間が限られているように、我々にも時間がないのだ。
斥候の報告が正しければ、教皇軍はあと一週間ほどの距離にいる」
アクメトの顔に初めて恐怖がよぎった。
一万以上を数えた彼の軍も、今や八千を割り込もうとしている。
もし背後から教皇軍に襲われれば、挟み撃ちにされてしまうだろう。
アクメトとしては、モンテヴェルデが降伏するのを待っているわけにはいかなかった。
足りない兵は、貴重な水夫を船から上げて埋め合わせている。
アクメトにはもう一つの敵がいた。
それはトルコ本国である。
今回の遠征を推進し、アクメトの後ろ盾となっていたスルタンの体調がよくない。
アクメトへの援軍を率いてイスタンブルを発ったものの、途中で病に倒れたのだ。
そのため、アクメトには補給も増援も届かなくなっていた。
――スルタン・メフメト二世は死ぬかもしれない。
――ならば、死に行く者より、次のスルタンの機嫌を伺っておいた方がいい。
そんな日和見が宮廷の中に広がり、スルタン子飼いのアクメトは孤立しつつあった。
せめて、メフメト二世が死ぬまでにモンテヴェルデを落とさなければ……
敗戦の責任を、アクメト一人が被ることになる。
「敵将は、若いながらになかなかやるようだな」
焦りを部下に悟られまいとしたのか、アクメトはあくまで快活に振舞った。
砲術長は頷く。
「公爵の私生児でアルフレドなる少年です。先日の暴動以来、総大将となったようです」
「幾つだ」
「十六と聞きました」
ほう、とアクメトはため息をついた。
彼の息子ほどの若さではないか。そんな子供に自分は翻弄されているのか。
「あの日以来、モンテヴェルデの守りは一層固くなったようだな」
「暴動を起こしたのが和平派のジャンカルロだったのが我々にとっては不運でした。
彼は処刑され、和平を口にする者はいなくなってしまいましたから」
「やつらは、町を枕に討ち死にする気か」
そう言ってアクメトは笑ったが、周囲の誰一人として笑わなかった。
兵士たちも、これが時間との戦いであることに気づいている。
教皇軍が到着するまでに町を落とせば自分たちの勝ち。
もしモンテヴェルデが守りきれば、負けなのだ。
不安げな部下たちに叱責の目を向ける。
どうやら甘い顔は有効ではないようだ。
「正午を持って総攻撃せよ。一斉砲撃の後、突撃する。損害に構うな」
2.
崩壊の音は、町にいた誰にも聞こえた。
とりわけアルフレドには、それは天が落ちたかのように思えた。
「マエストロ、あなたは下がってください!」
アルフレドは傍らにいたフランチェスコに叫んだ。
「崩れましたな、殿下も早く城へ」
「あなたが行くのが先です。二度も行方不明になられては困る」
フランチェスコは苦笑しつつ頷く。
シエナのフランチェスコは生きていた。
聖アンナ門が突破された日、彼は弟子たちとはぐれ行方不明になっていた。
だが、彼は二日後ひょっこり姿を現した。
侵入したトルコ兵から逃げ回り、丸一日農家の納屋に潜んでいたのだ。
そもそもはぐれた理由が
「町の作業場に残してきた原稿を取りにいったから」
というものだと知った時には、さすがのアルも彼を叱責せざるを得なかった。
もちろん次の瞬間、喜びと親しみを込めて彼を抱擁したのだが。
「ちゃんと原稿は全て城の図書館に収めてありますから、御心配なく!」
フランチェスコの言葉に肩をすくめてから、アルは兵に彼を守るよう指示する。
それから塔の階段を駆け上がった。
塔から望む町は、燃えていた。
城壁のあちらこちらから黒煙がもうもうと上がり、炎がちらちらと舌を伸ばす。
そこかしこに梯子がかけられ、トルコ兵が押し寄せている。
モンテヴェルデ兵が何度それを撃退しても、やがてそれは数の暴力に押し流されていった。
そして、遥か遠方に見える、大穴。
聖レオ門の近くの城壁が崩落し、巨大な突入口が作られていた。
それを防ぐのは僅か数十人のモンテヴェルデ騎士。
だがトルコ兵はその十倍以上でそこに押し入ろうとしているように見えた。
予備兵力などない。
突破されるのは時間の問題だった。
「撤退しろ。全兵まとめて、城に引き上げる!
鐘を鳴らさせろ! 市民を城へ避難させるんだ!」
アルは身を躍らせ、その後に兵士たちが続いた。
もはや、抗戦は無意味だ。後は何人生き残れるか。それだけが問題だった。
アルフレドと護衛の騎士たちはすぐ城壁の裏に繋いであった馬に跨った。
すでに遠くの方から早鐘の音が聞こえてくる。
それに急かされるように、兵士たちは塔から、城壁から飛び出してくる。
「城まで走れ! いらぬものは捨てろ!」
剣を振り、アルは五指城を指し示す。
そんな言葉も不要とばかりに、兵士は次々と走り出した。
持ち場を離れれば、当然トルコ兵はすぐさま城壁を乗り越え、門を破るだろう。
これは死との競争なのだ。
「殿下! 私は先に行って、城門のところで待ちます!」
フランチェスコがアルフレドの傍で止まった。鞍もつけていない馬に跨っている。
「最後のぎりぎりまで門を閉めないよう、伝えてくれ」
「分かっております、殿下もお早く」
アルが頷き返すと、フランチェスコは荒っぽく馬の腹を蹴った。
去っていくマエストロを見ながら、アルは門の方を振り返る。
既に外に破城槌がすえられたのか、閂を掛けた門扉を繰り返し叩く音がする。
槌が叩きつけられるたび、門扉はまるで鼓動を打つようにたわんだ。
「……ここはもう駄目だ、さあ急げ!」
逃げる兵士たちの殿につくと、アルは彼らを急かすように叫んだ。
だが、アルの目論見はたちまち潰えた。
危険を知らせる早鐘に、兵士どころか市民もまた一斉に逃げ出していた。
通りは人で溢れ、方々から逃げてきた人間があらゆる場所で鉢合わせしていたのだ。
角でぶつかって倒れる者。親とはぐれて泣く子供。
乗り手を失って暴れる馬。それに蹴倒される男。散らばる家財道具。
武器を振り回して道を切り開こうとする兵士……
混乱がそこかしこで起こり、それは波のように町へと広がっていた。
アルはその大混乱の最後尾にいながら、その様子を見守るしかなかった。
コンスタンティノやディオメデウスが生きていれば、事態は違っていたかもしれない。
だが、幾らアクメトが感心しようと、十六歳の少年はやはり少年でしかなかった。
戦場で「逃げる」ことの難しさを知らないアルに、この状況を解決する術はなかったのだ。
「アルフレドさま」
隣にいた護衛の一人が、兜の下から押し殺した声で呼びかけてきた。
その騎士の視線に、アルも従う。
「破られたか――」
大通りの向こう。アルの目に、異形の乗り手の姿が映った。
その背後には、小札鎧を身に着けた戦士たちの一団も控えている。
トルコ軍の一隊は、聖ジョヴァンニ門を破り、アルたちに追いすがろうとしていた。
再び馬首を巡らす。
避難民と撤退する部隊は、まだ道半ばだった。城へと延びる道をのろのろと進んでいく。
五指城のそびえる丘を見上げれば、ようやく先頭の集団が城に達したところだった。
いや、それどころか、まだ城壁のあちらこちらでは戦いの音が聞こえた。
殿の兵たちは、命を捨ててまで同胞の避難を守ろうとしているのだ。
「殿下、来ます」
騎士の声にアルは振り返った。
トルコ騎兵の一団がこちらに向かって来るのが見える。
その数は、どう見ても五十は下らない。
それは決して襲歩と呼べるほど早くはなかったが、着実に間合いを詰めてきている。
アルは剣を抜いた。
その意味を悟ったのか、護衛隊も抜刀する。
「蛮勇は無用。これは逃げるための戦いだ!」
アルは兜の面の下で、腹に力を込めて叫んだ。
緊張のあまり声が震えるのはどうしようもなかった。
「一撃を与え、敵の足が乱れたら一目散に城を目指せ、いいな!」
おう、と服従の声が響いた。
目だけで彼らの様子を伺う。
護衛の数、七騎。
半分生き残ることが出来れば、僥倖だろう。
いや、アルフレド自身生き残れるか分からない。
だがその瞬間、アルの脳裏には護衛たちへの感謝の念しか湧かなかった。
不思議と、ラコニカの顔もヒルダの顔も浮かばなかった。
「突撃――!」
アルはそう叫ぼうとして、言葉を失った。
後ろから、地鳴りのような音が近づいてくる。
アルには信じられない音だった。だが間違いない。
馬の蹄の音だ。
しかも、多い。五騎や十騎ではない。
アルは面を跳ね上げる。
振り向いた彼の視線に飛び込んできたのは、完全武装の騎士の一団だった。
先頭の一騎が巨大な軍旗を掲げ、その背後には数十騎の騎士が続いている。
それは襲歩のまま避難民の間をすり抜け、こちらに向かっていた。
「道を開けよ!!」
雷鳴のような声に、思わずアルは馬を道の端に寄せた。
そこを数十騎がわき目も振らず駆け抜けてゆく。
「しんがり、引き受けた――――!!」
たくましい声がアルの耳に届き、そして遠ざかってゆく。
アルはそれを呆然と見送るしかなかった。
騎士たちは一斉に槍を構え、トルコ軍へと突撃していく。
待ち構える、数倍の敵の中へと。
先頭の騎士が掲げた、巨大な軍旗が一瞬翻り、その図柄がアルの目に飛び込んだ。
それは「山に導きの星」、モンテヴェルデ公の紋章だった。
3.
夜はトルコにもモンテヴェルデにも、等しく平穏をもたらした。
だが今夜はいつもと様子が違う。
何か闇の中で静かに蠢く音が――あるいは胎動のような音と言ってもいい――が絶えない。
その音は城の内部から、そして壁を通して城下町の方から絶えず聞こえてくる。
のたくるような音に、ヒルデガルトは耳を塞ぎたくなる。
ざわめきは彼女の部屋にまで伝わってきていた。
腰掛けていた椅子から立ち上がり、町の様子を伺うために窓際へと歩く。
窓の向こうには廃墟となったモンテヴェルデの町が広がっていた。
くすぶる住居。あちこちで瞬く紅の火、闇に徘徊するトルコ兵……
時折廃屋を引き倒す音や指揮官たちの叱責が、風に乗って聞こえてくる。
そして、かすかに混じる死体の臭い……。
五指城への撤退は、大きな被害を出して終わった。
兵の三割、市民や近郊から逃げてきていた農民の半数は見捨てられた。
彼らは城に逃げ込んだ人々が見守るなか、殺されるか、辱められ奴隷にされた。
嘆きと怒りが城に満ち、誰もが復讐を叫んだ。
しかし、同時に今を生きのびた人々も、自分の運命を悟るには十分だった。
千人を超える人々が、かろうじてこの城の中に逃げ込むことが出来た。
とくに軍隊は、あの混乱の中にあってはほとんど無傷であったと言ってよい。
しかし同時に、撤退の成功はより速やかな敗北を決定づけるものだった。
五指城は普段五十人ほどの兵士と百人の居住者を抱えるに過ぎない。
井戸も倉庫もそれに合わせたものしか備えていないのは当然だ。
そこへ、十倍近い人間が逃げ込んだのだ。
井戸はたちまち干上がり、明日朝食を配給すれば、もう倉庫は空だ。
彼らには寝る部屋もなく、通路といわず納屋といわず、あらゆる所に人がひしめいている。
体も洗えず、着の身着のまま逃げてきた人が体を寄せ合って眠っているのだ。
そして飢えと汚れはたやすく病を引き起こす。
ちょっとした病が流行れば、手を打つ間もなく全員が倒れてしまうだろう。
一方トルコ軍は、野営地を守る僅かな兵力を残して、全てを市内に投入してきた。
今は夜を徹して攻撃の準備に取り掛かっている。
幸運なことに、五指城は丘の上にそびえる城だ。
しかも、陸と接するのは町側のみ。三方は海と崖に守られている。
トルコ軍の大砲はまだ城外の泥の中。斜面では大掛かりな攻城機械も持ち込めない。
そうなると高所にあり、城壁に頼れるモンテヴェルデ軍は有利だった。
明日は掴み合いにも似た血なまぐさい戦いとなるだろう。
だが勝ったとしても。
モンテヴェルデに二日目の太陽は昇らない。
「……まだ寝ないの? 明日は早いよ」
「あなたこそ。寝ることも戦士の仕事と習わなかったの、アル?」
開け放たれた扉の影にアルフレドの姿を認め、思わず突き放したような言葉を放つ。
一瞥を向けただけで、ヒルダはまた窓の外に目をやった。
「君にも色々と言っておかなきゃならないことがあるから」
アルの声がすぐ真後ろで聞こえ、ヒルダはまた振り返った。
月明かりと、燃える町の明かりに照らされた少年の顔が映る。
それは既に死人のように青ざめていた。
「伝えておきたいこと……って?」
艶やかな笑みを浮かべつつ、ヒルダは問う。
ため息に似たアルの吐息が聞こえた。
「最後の突撃に使えそうな軍馬は、せいぜい百といったところだ。
必要な道具の準備はマエストロ・フランチェスコに頼んである。明日の朝、発つよ」
「……そう、みんな食べてしまったものね」
多くの騎士は自分の軍馬を食べなくてはならなかった。
戦いで共に死ぬために育てた愛馬を、自らが生きるために食わねばならない。
それは誇り高き戦士の心に、砂を噛むような苦痛を与えていた。
「……父上……大公陛下の部屋は、からっぽだった。それに近衛小隊の兵舎も」
アルがそう告げると、ヒルダの肩が一瞬、びくりと吊り上がった。
「死体は見つかっていない。多分乱戦だったろうから……」
「それじゃアル、あなたが見た一団は、やっぱり」
アルフレドが頷き、ヒルダはそっと窓の外に向かって十字を切った。
大公マッシミリアーノと近衛小隊の決死の突撃は、多くの人命を救ったのだ。
アルフレドも含めて。
「ヒルダ」
「まだ、何かあるの? 早く彼女の元に帰ってあげなさいな……最後の、夜なんだから」
ヒルダは振り向かなかった。
「……君はそう思ってるの? これが最後の夜だって」
投げつけられた言葉に、ヒルダは驚く。アルは怒っているようでもあった。
少年は、鎧も剣も帯びず、ゆったりとした服に身を包んでいる。
まるで野遊びにでも出かけるかのような、くつろいだ格好だった。
「僕はそう思わないし、ラコニカも思わない」
「……私は、弱いの」
食いしばった歯から、ヒルダの嗚咽が漏れた。
「私は……私はラコニカさんみたいに、アルのこと……信じられないの。
あなたといると、どんどん不安になってくるの! もう……もう、二度と……」
駆け出したヒルダの体が、アルの胸に飛び込んできた。
よろめきつつ、アルはそれを受け止める。
「アルに、アルフレドに会えなくなりそうな気がするの……だから……もう……。
行ってよ、私の前から消えてなくなってよ! そうしたら……」
言葉とは裏腹に、ヒルダの手はアルの服をきつくきつく握り締めた。
「あなたのこと、忘れられるのに……」
アルフレドは、いたわるようにヒルダの唇を覆っていた。
一瞬おびえたように強張るヒルダの体を、さらに優しく抱きしめる。
腕の中で少女の強張りが消え、全てを委ねるようにヒルダもアルを抱く。
重なった唇を、少年の舌がぎこちなく割っていく。
驚き、目を見開いたヒルダと、アルの視線が合う。
初めて知った大人の交わり。
少女の雌としての本能がそれを受け入れていく。
絡まった舌同士がお互いを舐め、つつき、絡み、くちゅくちゅと淫靡な音を立てた。
どちらともなく、二人はお互いを寝台へと誘う。
軽い音を立ててヒルダの体が仰向けに倒れこむと、その上にアルは静々と覆いかぶさった。
暗がりの中で、二人の目だけがはっきりと互いを捉えていた。
「……するの?」
「…………嫌なら……」
ヒルダが首を横に振る気配がした。
「ラコニカさんに、申し訳ないような気がする」
アルの体が、動きを止めた。
「でも、私はして欲しい……アルに」
白い手がアルの耳元に触れ、そのまま頭を引き寄せる。
されるがままに顔を寄せるアルに、ヒルダはやさしく口づけた。
「今日だけの秘密、ね?」
いたずらっぽく笑うヒルダに、アルはまだ少しためらう。
「私が悪いんだから、アルが気に止むことないわ」
そう言いながら、ヒルダはアルの服のボタンを一つずつ外していく。
胸元が開かれ、白い肌着がそこから覗く。
「私の服は……アルが脱がせて」
少年が唾を飲み込む大きな音が、暗い寝室に響いた。
4.
裸になった二人は、お互いをまさぐりあっている。
アルの唇と指はヒルダの唇を、頬を、そして首筋や乳房を念入りに解きほぐしていく。
ヒルダは自分を菓子のように味わう少年のなすがままに、時折小さく苦悶の声を挙げた。
片手はおびえたようにシーツを握り、もう片方の手でアルの髪をかき乱す。
紅潮した二人がふとした拍子に見つめあうと、それは必ず長い口づけへと変わった。
そして再び互いを抱きしめる。
アルの執拗な愛撫に、ヒルダの体は次第に熟れていく。
小さな桃色の蕾は、芽吹きを待つように固く膨らんでいる。
少女の下腹は、かっと熱を持ったように熱くなり、苦しいほどだった。
苦痛をこらえるように歯を食いしばり、身悶えながら内股を擦り合わす。
泉が潤っていくのを、ヒルダは止めようと思うことすら出来なかった。
茂みの奥に隠された部分をアルの指がかき分けていく。
その指先は、叢の下に潜む滑りを確かに捉えていた。
「あっ……!」
触れたことすらない場所に最愛の男の愛撫を感じ、思わずヒルダは声を出して叫んだ。
アルの手が、ぎくりとして止まる。
もしかして、女によって扱いが違うのだろうか、ラコニカはこうしてあげると――
「今、ラコニカさんのこと……考えた?」
ヒルダが見透かしたように笑い、アルは言葉に詰まった。
「……仕方ないよね。大事な人だもんね」
寂しそうに呟く少女の頭を、アルは軽く抱きしめた。
ヒルダの手は、アルの背中でしっかりと組み合わされる。
火照った体同士が、お互いの熱を伝えていた。
アルはヒルダのつく荒い息から、彼女が男を受け入れる用意が出来ていることを知る。
ヒルダもまた、アルの硬く張り詰めた肉を、腹の上に確かに感じていた。
互いに黙りこくるだけで、二人は理解しあっていた。
覚悟を決めたように下唇をかむヒルダ。
アルの手にうながされるまま、彼女は両の脚を静かに開いていく。
湿り具合を確かめるようにアルの指が何度か谷をなぞる。
「……さあ、怖がらないで」
ほんの束の間ためらった後、アルは自分自身でヒルダを引き裂いた。
苦痛の叫びは高く、そして短かった。
ヒルダの体をいたわるように、アルは波のように体を動かす。
その動きにつれて、ヒルダは低く、そして高く苦痛を訴えた。
「きず……つけて……」
言葉にならない声の端から、ヒルダは精一杯それだけを告げた。
アルは無言で、ひたすらヒルダの体へ楔を打ち込んでいく。
男の体が高まっていくのを、初めてであっても女は気づいていた。
荒々しく叩きつけられる体をさらに密着させるように、ヒルダの脚がアルに絡む。
まるで今この一瞬、アルの子供を成すことが彼女に課せられた義務であるかのように。
そしてそれは人間以上に、動物としての本能的な動きのようでもあった。
アルの体が振るえ、そして跳ねた。
ヒルダの中で弾けたほとばしりが、彼女の胎内を浸していく。
最後の雫が吐き出され、アルはのろのろと力を失った自らを引き抜く。
そして、重なるように二人は倒れ伏し、抱きあった。
「アル、不思議な気分ね」
けだるい疲労と下半身を覆う痛みに、ヒルダはまだ寝台の中で横たわっている。
アルは、既に恥じ入るように彼女に背を向け、服を着付けていた。
「……あなたと私が、こんなことになるなんて」
もう、アルは答えてくれないのだろう。
それを知って、ヒルダは一人話し続けた。
「憶えてる? 小さい頃、二人で結婚式ごっこをしたでしょう」
天井の模様を見つめながら、ヒルダはくすくすと笑った。
たわいもない子供の遊びが、まるで昨日のことのように思い出されるのだった。
「やっと『ごっこ』じゃなくなったわね」
「……でも、あのとき僕は司祭の役だったよ。
ヒルダの相手は犬のジュゼッペだったじゃないか」
アルがそう呟いたので、ヒルダは驚いた。
その口調は、ヒルダを少し責めているようにも聞こえた。
「そうね。でも、仕方ないじゃない。
結婚式の最後に、新郎と新婦は口づけしなくちゃいけないのよ?
私は、アルと口づけするのが恥ずかしくて恥ずかしくて。
――どうしてもあなたに夫の役をお願いできなかった」
ヒルダの告白にも、アルは無言だった。
衣擦れの音が途絶え、アルは服を再び着終わったようだった。
「あの時、アルに口づけをしておけば、こんな風にはならなかったのかも」
さばさばとした口調だった。
もう、城の中庭で遊んだ、あの遠い日は帰っては来ないのだった。
「……遅すぎたのね、私たち。何もかもが」
アルは振り返らなかった。
部屋の扉を開け、廊下の闇へと姿を消そうとする。
「お休み、ヒルダ」
姿を消す刹那、アルは低く、しかしはっきりとそう呟いた。
「ええ。お休みアル」
ヒルダの声と、扉が閉じる音が重なり、部屋に静けさが戻った。
そして――遠ざかる足音に、ヒルダは一人泣いた。
「おかえり、ステラ」
「まだ、お休みじゃなかったんですか、姫さま」
悪戯を見とがめられた子供のように、ステラは主人の前で身を固くする。
だが、ゆったりとした夜着に身を包んだヒルダは、やさしく微笑んでいるだけだった。
「ルカは優しくしてくれたかしら?」
「ひ、姫さまっ」
顔を真っ赤にする侍女を、ヒルダは愛しげに見つめる。
もう何日も前から、ステラが夜こっそり部屋を抜け出すことにヒルダは気づいていた。
「……ねえ、ステラ教えてくれない? 初めてというのは、こんなに痛いものなの?」
「ひめさま……?」
その時初めてステラは、部屋に立ち込める淫を含んだ臭いに気づいた。
それが、ヒルダの言葉と結びついたとき、その答えは一つしかなかった。
彼女は既に城内で無数の同じ例を目撃していたから。
最後の夜を惜しむ男女の姿を。
「……私も、そうでしたよ」
「そう、良かった。では私だけがおかしいのではないのね」
まるで他人事のように笑い話めいて語るヒルダに、ステラも思わず吹き出す。
「はい、それが普通です」
よほど自分が世間知らずなことを言ってしまったことに気づいたのか、ヒルダが振り返る。
その目は、言い訳を告げるようでも、抗議しているようでもあった。
「だって『デカメロン』には『彼女はその夜何度も飛んだ』とか
『それが大変素晴らしいものだったため、たちまち彼女は虜になった』
なんて書いてあるじゃない? びっくりしたわ。あんなに痛いなんて」
百年も前の小説集に向かって、ヒルダは芝居がかった様子で怒って見せた。
それでも、ステラは笑いを隠せない。
思わず、ヒルダの目に非難がましいものが宿る。
「姫さま、あれを書いたボッカッチョは所詮男です」
「……それもそうね」
ヒルダがそう言うと、二人の少女は笑った。
心の底から笑いあい、沈黙した時、二人の心に何のためらいもなくなっていた。
「ステラ、はさみを持ってきてちょうだい。しなくてはならないことがあるの」
ステラは主人の命令に、黙って従った。
5.
次の日。出撃を前に、アルフレドは困惑していた。
目の前では、これ以上ないほど不機嫌な顔の女性が気ぜわしく働いている。
黙々と自分の武具甲冑を取り出しては、身につける手伝いをしてくれている。
だが、その間彼女は一言も口を聞かなかった。
その口を不満そうに尖らせ、アルの弱りはてた視線すら無視していた。
「ラコニカ、怒っているんだろう」
「……」
むっつりと黙ったまま、ラコニカはアルの鎧のベルトをきつく締め上げた。
その思わぬ力強さに、アルの顔が歪む。
それで、鎧の装着は完了だった。
腰にはすでに愛用の長剣と短刀があり、兜は自分で被ればよい。
用意が整ったのをちらりと横目で確かめただけでラコニカは背を向けてしまった。
外では、部下の百騎がアルを待っている。
だが、このまま別れることはどうしても出来なかった。
「怒ってるんだろう」
「怒っていません」
振り向きもせずそう言い放つラコニカの言葉には、明らかに苛立ちが感じられた。
昨夜遅く戻ったアルの様子を一瞥して以来、彼女はずっと機嫌が悪い。
ぷいと顔を背け、すぐに寝台に入ってしまったのだ。
仕方なくアルは石畳の床に毛皮をひいて寝るしかなかったほどだ。
もちろん、女の勘はアルの異変などたちまち見抜いていた。
しかしラコニカは、アルが謝ることすら許さなかった。
――このまま彼女を放っておいて、出て行ってしまおうか。
アルの頭にそんな投げやりともとれる考えが浮かぶ。
だが、彼女の背中はやはり泣いているようだった。アルは頭を振って思いなおす。
「ラコニカ、せめて謝らせて欲しい」
「……聞きたくありません」
アルを恐れるように、ラコニカは部屋の隅へと逃げていく。
甲冑をならし、アルはそれを追った。
「僕の気持ちも分かってくれ。このまま謝りもしないまま、もし……」
「言わないで!」
突然大声で遮られ、アルも言葉を失う。
ほんの一歩先にいるラコニカの姿が遠く、かける言葉も見つからない。
そんな彼女の肩は、小刻みに震えているようだった。
「もし、なんて言わないで下さい。アルフレドは、絶対帰ってくるんです。
だから、今日喧嘩しても、絶対明日仲直りできるんです。
だから……だから、私、絶対アルフレドの謝罪なんか聞きません!」
アルは後ずさった。
ラコニカの背中から立ち上るような気迫。
アルから見えはしなかったけれど、彼女は泣いていた。
体全体で泣いていた。
「……帰ってきてください」
すがるような思いで吐いたのだろう。
その言葉はか細く、震えていた。
「うん……約束する」
ようやく答えた言葉に、ラコニカは初めて振り向いた。
まっすぐにその視線はアルを見つめている。
怒っているような、泣いているような、笑っているような。
そんな顔のまま、ラコニカは小さく手を振る。
「帰ってきてから、ちゃんと謝るよ」
「じゃあ私、許してあげる言葉をいっぱい考えておきます」
顔が強張る。
少しでも気が緩めば、互いに涙が溢れて止まらなくなるのは分かっていた。
アルが背を向け、部屋の扉を開ける。
二人は、手を触れ合うこともなく別れた。
まだ薄暗いうちから、モンテヴェルデの人々は五指城の中庭に集まっていた。
誰に命じられたわけでもない。
ただ自然と、兵士も、子供も、女も、老人も、自分の意思で集まっていた。
中庭はそんな人々で立錐の余地もないほどだった。
そして彼らはただ一人の人物を待っていた。
最後の戦いを前に彼らに何かを語るであろう、あの少年を。
戦いを前に演説を行うのは、古代ローマ以来将軍の務めである。
そして今日がモンテヴェルデ最後の日になるかもしれないことは、皆理解していた。
アドリア海の向こうから朝日が顔を覗かせ、中庭に差し込んだとき、その人は現れた。
城館から姿を現すと、中庭に面した城壁の上をゆっくりと歩いていく。
やがてその人影は、朝日と向かい合うところで立ち止まり、全員を見渡した。
――すでにその人が現れた瞬間から、ざわめきが人々の間に広がっていた。
その人物に対するかすかな違和感。
甲冑に身を包んだ人物が城壁を歩くうちに、それはますます強くなっていった。
その顔立ちも、金の髪も、あの少年にそっくりだ。
だが違う。
その人は、アルフレドではなかった。
「皆さん」
その人物が口を開いた時、天啓が走ったように、全員がその正体に気づいた。
その甲高い声は、女のものだった。
「わたしたちは、今日最後の戦いを行います」
ヒルデガルトは、戸惑い顔を見つめ合う兵士や領民に、はっきりとした声で語りかけた。
「それは富や名誉のためでなく、わたしたちがここに生きていくための戦いです」
ざわめきは次第に大きくなっていた。
だが、ヒルダはそれにまるで構うことなく、静かに言葉を続けた。
「わたしたちがここで畑を作り、布を織り、子を産み、育て、静かに年老いていく……
それはこれまで絶えることなく、ずっと続いてきた営みです」
それはまるで戦いの前の演説としてはふさわしくなかった。
まるで子供に昔話をするように、ヒルダの声は低く、優しかった。
「あなたたちが、驚いているのは分かります。
私は教会法、つまり神が定めた掟に背き、鎧をまとい男の髪をしているのだから」
ヒルダの肩をいつも覆っていた、あの豊かな金髪は消え去っていた。
それは耳の後ろでざっくりと断ち切られ、短い髪の毛は潮風にあおられている。
だが、なぜ。
集まった人々は、ヒルダの次の言葉を聞こうと、水を打ったように静まり返った。
「ここにいるのは、あなたたちの知るヒルデガルトではない」
ヒルダの声は力強く、しかし荒ぶることもなかった。
一つひとつ言葉を選ぶように、ヒルダは何度も人々を見渡した。
「――私は昨日の夜、私もまた女であることを知りました」
思いがけない告白に、誰もが言葉を失う。
もとより、未婚の娘が口にするようなことではなかった。
だが、ヒルダは笑っていた。
「私は、人を好きになるということを知りました。
私は、愛されるということを知りました。――それは、とても素晴らしい」
ヒルダはそこで一呼吸をおいた。
「誰だい誰だい、その果報者は!」
その途端、中庭の端からしわがれた女性の太い声が飛んだ。
絶句していた聴衆が、一斉に笑う。
「あんまりびっくりさせないで下さいよ、姫さま!」
「姫さま、その運のいい男の名前を教えちゃくれねえか」
「そんなこと口にしちゃ、坊主どもが気を失うぜ!」
「気にすることはねえよ。なーに、こんな時だ、神様だって目をつぶってくれらぁ」
人々は口々にはやしたて、口笛を吹き、歓声を挙げた。
誰一人、ヒルダを非難するものはいない。
朗らかな笑いが、城全体を包んだ。
笑いが収まったところで、ヒルダは言った。
「もう、私は女に未練はない。だから、私は女を捨てたのです。
……女では、この国を守れないから」
一転、人々は押し黙った。
この城より先に、逃げる場所はない。
背後にあるのはアドリア海の青だけ。自分を守るのは、自分たちだけだった。
「私は決して逃げない。
今日この戦いが終わるまで、あなたたちを見守りましょう。
もし死ぬのが私の定めならば、あなたたちの間で死にましょう。
でも、私は生きていたい。
生きのびて、この戦いが終わった時……その時がきたら。
私は再び女に戻り、子を産み、育てていきたい。
この国を築いた人々がそうしてきたように。
私の願いはそれだけです。
……モンテヴェルデの地に、自由と平和がいつまでもあらんことを。
Ascortaci, Signore.(神よ、聞き届け給え)」
ヒルダは、静かに言葉を終えた。
人々が一斉に唱和する。
『Ascortaci, Signore』
そして皆がそう願った。モンテヴェルデに自由と平和があらんことを、と。
(続く)
148 :
森蔵 ◆z7/87tthTc :2007/02/19(月) 01:00:50 ID:8/V9E3vv
お久しぶりです
人類失格が行き詰まってしまったので、女中と物書きを投下します
149 :
森蔵 ◆z7/87tthTc :2007/02/19(月) 01:09:46 ID:8/V9E3vv
【歌袋】
岸上さんが隣に越してきたのは、私が今の連載を初めて引き受けた頃だった。
「昨日隣に越してきた、岸上貴詩子です」
藤色の着物を着て、ふわりと花の匂いをかぐわせて。
丁度その何週間か前に女中である朱佐多を雇った時で、別に女っ気に飢えていたわけではないのだが
その頃からなのだろう。岸上さんに特別な感情を抱いていたのは。
「これ、つまらないものなんですが…」
と、岸上さんは私に鉢植えをくれた。
鉢植えには一本木の棒が刺さっていて、その根元からひゅるりと蔓が伸びて巻き付いている。
蔓の先端の方には葉が二枚、片方の付け根からはコロネのように渦を巻ながら細長く伸びた蕾が付いていた。
「もうすぐ花が開きますからその際は是非立ち会って、楽しんで下さいねぇ」
はにかみながら彼女はそう言うと自分の家へと帰って行った。
おお……ついにここまで来たのか……。
GJ! と言いたい所なんですが、何だか次で終わり、と聞かされると一抹の寂寥感が残ります。
151 :
森蔵 ◆z7/87tthTc :2007/02/19(月) 08:03:07 ID:8/V9E3vv
何日か過ぎ。
私が書斎で連載したての小説の内容に頭を抱えていると、女中が茶を持って来た。
どういうわけかこの女中は緑茶くらいしか上手く煎れる事が出来ない。
女中としてこれはどうだろうか。
「筆が進まないんですかぁ?」
「風呂敷を広げすぎてね…収集が着かなくなってしまったよ」
私はペンを放り出し苦笑した。
ハッピーエンドにしたくなったのだがそれを打ち消す伏線を張りすぎたのだ。
これはやはり初期の予定通りバッドエンドで進めた方が良いのかも知れない。
湯呑みに口を付けたその時。
かすかに歌声が聞こえたのだ。ハミングの様な、鼻歌の様な。
「君、何か言った?」
「いえ、私は何も…」
耳を澄ませば、その歌声は窓辺に置かれている鉢植えから聞こえてきている様だった。
「あれは確か隣の岸上さんからの…」
「…花が開きかけているな。君も見てごらん」
蕾の先端が解け、中から歌声が溢れ出してきた。
花が開くとともにボリュウムが増し、私と女中は暫し聞き惚れてしまったのだった。
朝顔に良く似た藤色の花は、数日前どこかで嗅いだ事のある匂いをふわりと漂わせ、
朝日に向かって咲き誇っていた。
昨日は書き込み途中で寝てしまいました…
疲れが溜まっていたようです
>火と鉄
ネタバレ注意の感想。
時々「女を捨てた」ヒロインとかってたまに見かけますが、大抵不幸そうで悲壮なのですよ。
んでも、こんなに朗らかに幸せそうに「私は女を捨てた」って台詞は初めて見ました。
モンテヴェルデ公の冥福を祈ります。
次回で最終。。。…終わってしまうのか!!
また一つ連載終了か……なんか寂しい気もするけれど、完結させられるのは良い事だ。
>火と鉄〜
トルコ侵攻辺りでいったん止まってたので今まとめて読んできた。
ちくしょー超面白え。
最終回楽しみにしてます。頑張ってください。
しかしクオリティ高いスレだ…。
「火と鉄」最終回をお届けします。ようやく完結させることが出来ました…
これまで読んでくださった皆さん、感想を書いてくださった皆さんに心から感謝します。
ありがとうございました。
1.
兵士は絶叫と共に梯子から城壁へと降り立った。
そこへ、モンテヴェルデの騎士が斧を振り上げて襲いかかる。
剣と斧が数合打ちあって離れる。
次の瞬間、斧の間合いに飛び込んだトルコ兵が騎士の首を刎ねた。
その横から、弓兵が短剣を抜いて踊りかかる。
血しぶきを上げてトルコ兵は倒れた。先ほど自分が倒した騎士の上に。
だがそれは弓兵にとっても束の間の勝利に過ぎない。
さらに続々と梯子から新たなトルコ兵が飛びかかってくる。
死の舞踏はこうしていつ果てるとも無く続いていた。
五指城を攻め落とさんと押し寄せるトルコ軍。
それはまるで菓子に群がる蟻の群れを思わせた。
矢玉が降りしきる中、兵士は丘を駆け上がり、梯子をかけ、壁に取り付く。
対するモンテヴェルデ兵は矢を射かけ、石を落とし、煮立った油を浴びせて抵抗した。
城へと続く丘は兵士の死骸で覆われ、血がぬかるみを作る。
巨石が城壁から落とされ、巻き込まれたトルコ兵が絶叫と共に斜面を転がり落ちていく。
梯子を昇る途中に矢で射られた兵が墜落し、血肉をぶちまける。
地獄もかくや、と思わせる凄惨な戦場だった。
太陽が頭の上に昇る頃になっても、今だトルコ軍は城の外城壁すら落とせなかった。
モンテヴェルデに利したのは地勢と城壁である。
トルコは大砲や投石器も使えず、ひたすら梯子と人間の数で押し込むしかない。
アクメトは城外の宿営地に僅かな守備兵を残しただけで、全てを決戦に投じた。
それでも、数百年をかけて築き上げられた五指城の城壁は、未だ決然と彼らを拒んでいる。
城はまるで血に飢えた獣のように兵の命を吸い続けていた。
だが、モンテヴェルデの優位もいつまで続くか怪しいものだった。
たかだか数百メートルの城壁を守る兵すら不足しているのだ。
兵に混じって女や老人、子供までもが戦っていた。
彼らは矢を放ち、石を投げ、武器や食料を運び、ときに敵と素手で掴みあった。
早朝から始まった戦いは彼らを苦しめ、次第に疲弊させていく。
だが最後の望みに全てを託して、彼らは持ち場を守り続けた。
その全てを、ヒルダはじっと見守っていた。
城壁全体を見渡せる塔の上に立ち、傍らに巨大なモンテヴェルデの旗を掲げながら。
軍旗はよい的になる。
実際、ヒルダの体や顔を何度も敵の矢がかすめた。
それでも彼女はもう何時間も身動き一つせず、戦場を見つめ続けていた。
城壁の反対側では、アクメトが無言のままモンテヴェルデの軍旗を見上げていた。
彼は丘の麓に設けられた陣屋に立っている。
両側には突撃の順番を待つ歩兵隊が並び、眼前では延々と死闘が繰り広げられている。
彼もヒルデガルト同様、一歩も動くことなくその場に立ち続けていた。
もう何時間も、彼は部下が自分の死体で丘を敷き詰めていくのを見つめている。
それに耐えられるほどの剛の者は、アクメトの側近にはいなかった。
側近の一人が、今届いたばかりの報告をおずおずと告げる。
「パシャ、ヴォルカン殿の隊、攻撃失敗です」
「では残りの兵をまとめて攻撃を再開せよ」
アクメトは無表情に答えた。
「……もう生きている兵はおりません」
「ヴォルカンは!」
「亡くなりました」
その死人すら冥界から呼び出して叱責しそうな勢いに、男は後ずさる。
だがアクメトは怒りを爆発させることはなかった。
「ではイエニチェリを出せ」
「パシャ、すでに千人以上が……」
がちゃり。鎧を鳴らしてアクメトが振り向く。
夏の太陽に半日焼かれたというのに、アクメトの目は生気に輝いていた。
蓄えられた口ひげが、一瞬震える。
「……分かっている。イエニチェリ軍団が突撃の準備を終えるまで、他の兵は休息させよ」
意表を突かれた側近を尻目に、アクメトは背後の天幕へと足を向けた。
「私ものどが乾いた。兵には冷たい水を配ってやれ」
アクメトの姿が見えなくなり、召使いも天幕へと急ぐ。
側近たちは一様に安堵の息を吐いた。
「よく言う。『天国で休めばよい』と顔に書いてあるわ」
将軍の一人が自嘲気味に呟く。
諦め気味の顔を威厳の仮面の下に隠し、彼は伝令に各隊後退を命じた。
2.
ひとつ、ふたつ、みっつ。
門扉を勢いよく叩く音が聞こえ、そのたび土埃と割れた木屑が兵士の上に舞い落ちる。
男たちが内側から門を押さえているが、それも無駄に終わろうとしていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
トルコ兵が叩きつける丸太の勢いは衰えることを知らない。
鉄枠がはまった巨大な城門の扉に裂け目が走り、次第にそれが大きくなっていく。
城門の上や銃眼からは敵を撃退しようと無数の武器が発射される。
だが誰かモンテヴェルデの矢に倒れても、すぐ別のトルコ兵が丸太を担いだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
もう割れた扉の隙間から、動くトルコ兵の影が見える。
門の後ろには、選りすぐりの戦士が控えていた。
騎士、盾持ち、傭兵を問わず、手には業物の武器を持ち、磨きぬかれた甲冑で固めている。
その中央にはヒルダがいた。
円盾と長剣を構えた姿は、ワルキューレもかくやという勇ましさだ。
丈合わせのために無造作に断ち切った鎖帷子が、逆に歴戦の戦士を思わせた。
皆、戦乙女に率いられた勇者のように最後の戦いを待っている。
背後には城の内部へと通じる扉しか残されていない。
「……最後まで、希望を捨ててはなりません」
外から聞こえる異国の叫び声にかき消されそうになりながら、ヒルダがそう叫んだ。
何よりまず、自分に言い聞かせるように。
彼女の隣にいた騎士が、不意に声をかけた。
「姫、扉が破られたら、あなたは城の中へと走りなさい」
言われた意味が分からず、ヒルダはきょとんとしている。
「我々が壁になります」
同調するように、何人かの戦士が頷く。モンテヴェルデの男だった。
ヒルダの顔が曇った。
「なぜ……です。私が足手まといだからですか」
「生きているのも総大将の仕事ですよ。あなたがいなくなってはこの国の柱がなくなる」
「ここは大人の言うことを聞きなさい、姫」
そう言うと、男たちはヒルダを隊列の外へと促す。
優しく、しかし有無を言わせぬ腕が彼女の背を押した。
「けれど……」
「言うことを聞きなさい、マドモワゼル」
別の騎士が兜の面を跳ね上げ、言った。
「傭兵とは言え、ブルゴーニュ人は淑女を戦わせたりはしない」
異国訛のイタリア語で、その騎士は微笑む。すると、隣の兵士がすぐ混ぜっ返した。
「……気取るんじゃねえよ、フランスのバルバリ(野蛮人)が」
「ナポリターノ(ナポリ人)の心意気を見ておいて下さい、姫」
「ウルビーノ人は臆病ではないですぞ、姫さま」
「モンテヴェルデ以外の者も勇敢であったと、語りついでいただきたい」
引きずられるように城へと連れ去られるヒルダに、皆が口々に告げる。
閉じる扉の向こうに、手を振る男たちの姿が見え、そして消えた。
丘のふもとから見上げても、門が破られるのが時間の問題であることは容易にみてとれた。
トルコ兵は全ての攻撃を門に集中している。
モンテヴェルデの反撃も衰え、最後の力は門を守ることに注ぎ込まれている。
城壁から放たれる矢は勢いを失い、防戦を命じる叫びは途切れがちになっていた。
まるで敵も味方も最後の瞬間を固唾を飲んで見守るかのようだった。
アクメトにも扉が割れていく音は、はっきりと聞こえていた。
門を破る工作兵の背後には、突撃隊が静かに控えている。
時折城から放たれた矢に倒れる者がいても、もう誰も悲鳴すら上げない。
半日以上血にまみれ、傷つき疲れた兵士たちにもはや戦う理由などなかった。
死ぬか、生き残るか。あるのはそれだけだった。
ひときわ大きな、木の裂ける音が響いた。
アクメトは隣の副官に頷く。それを合図に副官は手を高く振り上げた。
ラッパ手が、突撃の調べを奏でんと、楽器を口に当てる。
そして一斉に、突撃ラッパの音色が響き渡った――
アクメトが振り返る。
副官も、ラッパ手たちも……彼らは、まだ吹いていない!
この音色はトルコの軍楽隊の調べではない。モンテヴェルデのものでもない。
それは町の外から聞こえてきた。
低く高く、味方に勇気を、敵に恐怖をもたらす調べが。
「……教皇軍の先陣だと!」
アクメトは驚愕した。
彼は初めて部下の前で絶望の悲鳴を上げた。
総大将の動揺はまるで波のように広がり、トルコ人は一斉に自分たちの背後を見る。
町の郊外にある丘に、無数の旗印が並んでいる。
黒い鷲を描いたウルビーノ公の旗。金と紫に塗り分けられたナポリ王国の旗。
整列した騎士や軍楽隊。様々な甲冑を身につけ、その手にしっかりと槍を握った姿。
太陽が彼らの武器や鎧の表面で弾け、銀色に輝いている。
まるで丘全体が光っているようだ。
再度ラッパが鳴り響いた。
陣太鼓が地を揺らし、そこに軍馬の蹄の轟きが加わる。
騎士たちはゆっくりと丘を下っていく。
鬨の声、馬のいななきが重なり、モンテヴェルデの地を揺さぶった。
彼らの狙いは明らかだった。城の外にあるトルコの宿営地だ。
アクメトが手を伸ばす。敵の姿を掴もうとするかのように。
だが彼の手がそれを捕らえられるはずもなく、騎士たちは突撃を開始した。
それは一方的な虐殺だった。
宿営地を守る少数の兵に、騎兵の突進を食い止められるはずもない。
右へ左へと逃げるうちに馬に踏み潰され、なで斬りにされていく。
守備隊を追い散らした騎士たちは、思う存分天幕を踏みにじり、火を放ち始める。
逃げ惑う奴隷や小姓、召使いの悲鳴が、町の中にまで聞こえてくる。
天を突く黒煙の下で、食料、衣服、そして住居が灰になっていく。
アクメトとトルコ軍は、目の前で何もかもが焼け落ちるのを、ただ見守るしかなかった。
その時、再び城で歓声が上がった。
「何事だ!」
アクメトは我に返り、叫ぶ。
だが、誰かが答えるより早く、それは目に飛び込んできた。
五指城の門が開き、一斉に敵が打って出てきたのだ。
決して数は多くないものの、浮き足立った兵はそれを食い止められない。
一団となった戦士の突撃に、たちまちトルコ軍は丘から蹴落とされていく。
もはや誰も戦おうとせず、逃げ惑うだけだった。
「……防御体制! 兵を円陣に組み替えろ!」
アクメトはようやくはっきりとした声で命じた。
混乱していた将軍たちも、その声に鞭打たれたように正気を取り戻す。
待機していた伝令が馬に飛び乗り、近衛兵は持ち場に走る。
「兵をまとめろ! 円陣を組め!」
アクメトが再度叫び、副官がそれに応じようとした時、一人の伝令手が飛び込んできた。
「アクメト・パシャ!」
馬を飛び降りると、アクメトに駆け寄る。その手には封がされた書簡が握られていた。
「スルタンからの書状です!」
近づく伝令に「後にしろ」と怒鳴り返そうとして、アクメトは動きを止めた。
スルタンの書状? このような時に?
だがいつ何時であれ、スルタンの指令はアクメトの、そして軍の運命を大きく左右する。
アクメトは差し出された書簡をひったくった。
たしかにその封緘は、スルタンからの手紙であることを示していた。
荒々しく封を剥ぎ取り、書簡を開く。
副官も、伝令も、衛兵たちも、アクメトが書面に目を走らせるのをじっと見守った。
やがて、アクメトの手から書簡が落ちた。
「……敵に和睦の使者を送れ」
「……は?」
将軍の一人が首を傾げる。
アクメトはさらに大きな声で告げた。
「……戦争は終わりだ。スルタンが――」
その瞬間、将軍たちにはアクメトが笑ったようにも見えた。
「陛下が崩御された」
3.
モンテヴェルデの大聖堂「サン・ステファノ・デントロ・ディ・ムーラ」。
そこにこれほどまで幸せそうな人々が集まったのは何ヶ月ぶりだろう。
着飾った紳士淑女の一団は、この国に平和が戻ったことを明瞭に示している。
彼らは今まさに生まれようとする新しい夫婦の門出を祝うために集っていた。
長い篭城戦が終わりを告げ、徐々に町はかつての賑わいを取り戻しつつある。
それは明日へと進む活力であった。
そして、二人の若い男女はこの国の未来を象徴するかのようだった。
『……この者たちを正式な夫婦と認める。父と子と聖霊の御名において』
跪き、握り合わせた手をそっと掲げた二人に、司祭が十字を切る。
低いラテン語の祈りは、大聖堂の高い天井に響き、そして消えていった。
『アーメン』
最後の文句を唱え終わると、司祭はそっと横へと退いた。
新婦は静かに立ち上がり、跪いたままの夫に相対する。
参列した人々の視線が、少女を追う。
横に退いた司祭が、改めて少女に小さな王冠を手渡した。
レースと花で着飾った少女は、威厳を込めて言った。
「私は、この男を伴侶とし、この男が私の正式な夫であることを認める。
そして、定められた法に乗っ取り、私が相続すべき全ての権利をこの男に授ける。
亡き父と、我が伯父ジャンカルロから引き継いだ領地の全て――
――すなわち、ルピーノ伯およびネレトの領主権を、エンリーコの息子、騎士ルカに」
幼さを感じさせない仕草で、ステラはルカの頭に冠を掲げ、被せた。
「ルピーノ伯ルカ・ディ・エンリーコ万歳!」
壁に並んだ衛兵が叫ぶ。
「神よ、新たな領主に栄光を授けたまえ。彼の統治に公正さと正義があらんことを」
ステラがそう唱え、人々が神への祈りを唱和する。
一斉に大聖堂の鐘が鳴らされ、新たな夫婦が今誕生したことを町中に告げる。
こうして、ルカとステラの結婚式は幕を下ろした。
式が終わり参列者が三々五々去っていく中、アルフレドはルカに声をかけた。
「ルカ、おめでとう」
「……お前のおかげで、ついに俺も糞ったれな貴族の仲間入りだよ」
だが彼を向かえたのは鋭い一瞥だった。
ルカは堅苦しい襟回りを緩めながら、ほぐすように首をごりごりと回して見せた。
「俺は、茹でたタコと白ワインを奢ってくれればそれで良かったんだがな」
「……ごめん」
モンテヴェルデに帰国する船上で交わした約束は、未だ守られていなかった。
守られたのは、もう一人の男との約束だけだった――それをルカは望みもしなかったが。
「まあ、いまさらアルに愚痴っても仕方ねえな。最後は俺が決めたことなんだし」
口ぶりとは逆に、ルカの顔は晴れ晴れとしていた。
ルカを騎士に叙任し、ステラと結婚するよう図ったのはアルフレドだった。
無数のモンテヴェルデ貴族が戦争で死に、多くの女が土地付きで残された。
大公に次ぐ貴族であるジャンカルロの跡を誰が継承するのか。
それは貴族間に新たな争いを招く恐れがあり、早急に解決すべき問題であった。
しかし、アルはジャンカルロの末期の言葉を忘れることは出来なかった。
――ステラに私の領地を――
彼が望んだのは自らの領地の安泰だけだったのだろうか。
あの言葉は、たった一人の姪の幸せを望むものだったのではないか。
そう信じてアルは決断した。
「……白ワインとタコなんて物と引き換えにしていいのかしら?」
黙り込むアルの背後から、ヒルデガルトが姿を現した。
頭を白い簡素なヴェールで覆った姿は、少年たちに嫌でもあることを思い出させた。
姫の髪は、まだ男のように短いままだ。
だから、人前に出る時にヒルダはいつもヴェールを被った。
ヒルダが「女」に戻れる日は遠い。
それは荒れ果てた町の再建よりも早いのだろうか。それとも遅いのだろうか。
アルはそんなことを思わずにはいられない。
「こんな素敵な花嫁さんを一杯の酒と交換してはいけないわ」
微笑むヒルダに、ルカは憮然とした顔を見せた。
彼女のすぐ後ろに、今永遠の契りを誓ったばかりの娘の姿を見つけていた。
銀の糸で刺繍した青い衣装をまとったステラに、もう式で見せた威厳はない。
うつむきがちに頬を染めた様子は、いつもの幼い少女だった。
「殿方というのは失礼なものね、ステラ?」
元主人にそう言われては、ステラも何か言わざるを得ない。
口ごもったあと、つんとルカを見上げる。
「……私の領地は年一万ドゥカートもの収入があるのよ。
感謝することね。それを目当てに求婚してくる貴族の方も多かったのだから」
「相変わらず可愛くない女だ。その領地がなきゃ、お前なんか誰も貰ってくれねえよ」
そっぽを向きながら、二人の距離は寄り添うほど近い。
はにかむステラと、気恥ずかしそうなルカ。
そんな様子を見れただけでも、結婚を無理にまとめた甲斐があったとアルは思う。
「やあ、おめでとうルピーノ伯殿」
野太い声に、四人は一斉に振り返り、頭を下げた。
その声の持ち主は、彼らの命の恩人に他ならない。
教会軍総司令官を務める、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ。
その後ろには、カラブリア公アルフォンソ・ダラゴーナもいる。
二人はオートラントに赴く途中、モンテヴェルデに立ち寄っていた。
「こちらがステラ殿か、噂通り美しい娘さんだ」
片目鷲鼻の相貌を崩しながら、フェデリーコは何度も頷く。
「甥のジョヴァンニがそなたとちょうど良い歳回りだったのだがな。
このような美しい人を逃したと知ったらきっと悔しがる。奴を式に呼ばず正解だった」
がはは、と豪快な笑い声を上げ、フェデリーコはルカとステラの肩を力強く叩く。
同意を求めるように、ウルビーノ公はアルに目配せした。
ルカとステラはひきつった笑みを浮かべ、アルも無言で頷くしかなかった。
フェデリーコもアルフォンソもモンテヴェルデに大きな貸しがある。
隙を見せれば彼らは貸し以上のものをモンテヴェルデから掠め取るに違いない。
戦争が終わって一月も経たないうちに結婚をまとめたのは、このためだった。
いわば、ルカを使って、モンテヴェルデの領土が侵食されるのを防いだのだ。
「このたびのこと、お二人には、謝らなくてはなりません」
アルは優雅に頭を下げて見せた。
瞬間、場が凍りついた。
フェデリーコとアルフォンソも返事に詰まっている。
「……勝手に貴軍の軍旗を用いました。ご無礼をお許しいただきたい」
アルは二人の企みなど何も気づいていないように、深々と頭を下げている。
「……なに。計略を用いるのも大将の才覚だ。気にすることはない」
「話には聞いています。知略においてアルフレド殿ほどの者は、そうはおりますまい」
ひきつった笑いを浮かべながら、二人の公爵は答えた。
彼らがモンテヴェルデに着いたのは「トルコ軍が去った後」のことだった。
あの日、モンテヴェルデ郊外に現れた教皇軍の先陣は、教皇軍ではなかったのだ。
少数の騎兵を率いて町を脱出、トルコの背後へ回り込み、救援に来た教皇軍を装う――
アルフレドの立てた作戦はこういうものだった。
百騎の騎兵は「アルとヒルダの秘密の通路」を抜け、かつての船着き場から町を脱出した。
必要な船とハシケは、マエストロ・フランチェスコが徹夜で用意したものだ。
ヒルダの役目は全てが終わるまでトルコ軍の目をひきつけることだった。
こうして計略はかろうじて成功した。
もしトルコが計略に気づいていたら、アルの部隊などたちまち全滅させられていただろう。
もちろんヒルダと五指城の人々も。
いや、アルフレドは実はアクメトは気づいていたのではないか、と考えていた。
どれだけ旗を掲げ、鳴り物を鳴らしても、兵力を百倍に見せられるはずもない。
時間が経てば、アルフレド隊の背後に教皇軍がいないことなど分かったはずだ。
だがアクメトにこれ以上戦う理由はなかった。
スルタン・メフメト二世の崩御が、最終的に彼から戦う意思を奪った。
彼は一刻も早く帰国したかった。だから計略と分かっていながら和平を結んだ――
それは確信に近い想像だった。
(僕は、幸運なだけだった)
アルは空々しく自分の知略を誉めるフェデリーコとアルフォンソを、醒めた目で見ている。
「……さて、アルフレド殿」
社交辞令が交わされた後、フェデリーコはこれが本題だと言わんばかりに言葉を改めた。
アルも自然と姿勢を正す。
「いつ、モンテヴェルデ軍は出発出来るかな?」
「……兵糧が集まれば、すぐにでも。あと十日もあれば道中必要な分は確保出来ましょう」
フェデリーコが満足げに頷く。
モンテヴェルデはウルビーノとナポリに兵を借りた。
ならば借りを返さないわけにはいかない。
オートラント市を巡るトルコとの戦争はまだ終わっていない。
三十騎の騎士と同数の歩兵。それがアルフレドの「割り当て」だった。
フェデリーコは少し頭を捻ってから、言った。
「では、一週間以内に式を執り行わねばな」
「……式? 式とはなんです?」
アルが問い返すと、フェデリーコは少し驚いた顔をして見せた。
「聞いておらんのか。貴殿の父上から、わしとアルフォンソ殿に遺書が託されておってな」
「大公陛下から!?」
初耳だった。
アルが思わずヒルダに視線を投げる。だがヒルダも小さく首を振る。
「アルフレド、貴殿を騎士に叙任して欲しいそうだ」
「私を、騎士に?」
重々しく頷くフェデリーコ。
「わしが貴殿を騎士に任じ、立会人はアルフォンソ殿に務めていただく」
「フェデリーコ閣下は帝国騎士でもいらっしゃいますからね」
補足するように、アルフォンソが短く口を挟んだ。
アルは言葉を失っていた。
二人の公爵の顔を交互に見比べ、ようやくそれが本当だと納得する。
「……でも、ありえないことです」
ようやく口にしたのは、そんな言葉だった。
「なぜ。モンテヴェルデ公が騎士の位も持たないのでは格好がつくまい」
「父は……父は僕を嫌っていたはずです。だから僕はずっと騎士見習いのままで……
僕を、僕を騎士にするはずなんてない……ましてや、僕を跡継ぎになんて――」
アルは何度も頭を振った。
「だって、僕は私生児だ」
ありえない、ありえない。そう何度も呟くアル。
フェデリーコは少し考えて口を開いた。
「貴殿の父上が何を考えていたかは知らぬ……だが血を分けた子を憎む親はおるまい。
自分は私生児だと貴殿は言うがな……わしだって私生児だ。
兄が死んでウルビーノ伯の地位を継ぐまでは他国の人質にされていた。
だが、父がわしを嫌っていたなどと思ったことは一度もないぞ?」
「でも、僕は」
大公に、いや父に憎まれていると信じていたからこそ、アルは生きてこられた。
強烈な憎しみと反発心を、ヒルダへの献身に変えることで。
ふと、ジャンカルロが死ぬ時に言った言葉をアルは思い出した。
『大公はお前を疎んじることで、お前の命を守ったのだ』と。
だが――そんな愛があるのだろうか。
ただそれだけのために、十六年ものあいだ息子を冷遇し続けることが出来るのだろうか?
フェデリーコの手が、アルフレドの肩を掴む。
「親の気持ちを分かるようになるには、貴殿はまだ少し若いかな」
フェデリーコの隻眼が、不意に緩んだ。
アルは、黙り込むしかない。
「残りの一生を費やして、父上のなされたことを考えてみなさい」
「――はい」
涙混じりに、アルは答えた。
やがてフェデリーコが去り、アルフォンソが去り、ルカとステラが去った。
薔薇窓から差し込む光が、アルを暗闇の中に浮かび上がらせる。
その肩を別の手がそっと触れた。
ヒルダだった。
アルフレドはうつむいたまま、その手を握り返す。
人気の絶えた大聖堂に、二人はいつまでも立ち尽くしていた。
4.
旅立ちの日が来た。
アルフレドは馬に跨り、ゆっくりとモンテヴェルデの大通りを行進していた。
彼の背後にはオートラントへ赴く三十騎の騎士と兵士たち、馬車の列が続く。
晩夏の柔らかな太陽に照らされた兵士たちは、まるで絵から抜け出たようだ。
幾旒もの旗印が海風にはらむさまは、誰の胸にも熱いものをかきたてずにはいないはずだ。
しかし、出征する軍隊には歓声も興奮も見られなかった。
通りの両側で見送る市民の数も少ない。
誰もが戦争とはどんなものなのか知ってしまった。
もはやそこに何の幻想も抱くことは出来ないし、誰も望んではいない。
あるのは武勇への憧れではなく失望のみ。そんな静かな出陣の光景だった。
「……よく見ておかなくて、いいの?」
アルフレドの隣を、ラコニカが同じ歩調で馬を進めている。
彼女にちらと目を走らせた後、アルは振り返って丘の上の五指城を見た。
戦の痕跡は未だ生々しい。壁は崩れ、炎に舐められた煤が黒くこびりついている。
あの城の、無数の窓のどこかにヒルデガルトがいる。
そう思うと、アルは胸が詰まった。
「これが見納めだなんて、思いたくないんだ」
「…………そう」
口で否定はしてみても、アルには分かっていた。
もうモンテヴェルデには戻れないだろう、と。
これからアルフレドとその軍隊は、オートラントを目指してイタリアを南下する。
トルコ軍は篭城を続けているが、総大将アクメトを欠いては長くはあるまい。
その後、アルフレドはウルビーノの都へと赴くことになっていた。
そこでフェデリーコの娘と婚約する予定だった。
アルは彼を義父とし、ウルビーノ公の臣下となる。
モンテヴェルデにある領地も、ウルビーノの支配に服することになるのだ。
つまりは体のよい人質だった。
それを思えば、文化の薫り高いウルビーノの宮廷での生活など何の慰めにもならなかった。
アルフレドの婚約と同時に、ヒルデガルトにも婿があてがわれる。
候補に挙がっているのはオートラント戦で父を亡くしたアクアヴィーヴァ候である。
こうして、モンテヴェルデの南半分はアクアヴィーヴァ候とナポリの領土になる。
それが一年後になるか、二年後になるかは分からない。
しかし、もうそこはアルフレドの故郷モンテヴェルデではない。
二つの大国に分割された、ただの町だ。
そっとアルは自分の唇のそばを指でなぞってみる。
つい先ほど、ヒルダの別れの口づけを受けた場所だった。
ふっくらとして、かすかに濡れた感触を、まだはっきりと思い出すことが出来た。
「……ヒルダさんのこと、心配?」
慌てて手綱を握り直し、アルは首を振った。
そんな様子を見て、ラコニカは目を細めた。
「私、やきもちなんて焼いてないんだから」
ラコニカの馬が、すっとアルの軍馬に近づく。
「あの人は遠くにいるけど、私はずっとアルフレドのそばにいるんだもの。
勝負になるわけないじゃない?」
いたずらっぽく笑ったラコニカに、アルは肩をすくめた。
「心配ないさ、ルカもステラもいる。それに――ニーナも」
そう言ってみたものの、アルは彼らが永遠にヒルダの味方とは思っていなかった。
ルカも妻を娶り、自分の領地、自分の領民を得た。
ルカはルカなりに自分が信じた道を行くだろう。それが君主のあるべき姿だった。
それがアルやヒルダと異なったものだったとしても、仕方ないことだ。
ステラもまた、いつまでもヒルダの侍女ではない。
一人の妻として、そしていつの日か母として、生きていかざるを得ない。
ニーナはアルフレドについていくことを拒んだ。
『狂暴騎士団』を離れ、五指城の下女として生きることにしたのだった。
「――この町に、根を下ろすことにしたのさ」
別れを告げに来たニーナは、吹っ切れたようにそう言った。
「あの男はきっと今ごろ煉獄で苦しんでるはずだよ。あれだけ悪い奴だったんだからね。
だからせめて私ぐらいが弔ってやらなきゃ、かわいそうじゃないか――」
とはいえ、百日のミサでもあいつの魂は天国にはいけないだろうけどね。
ニーナは涙を振り払うようにそんな軽口を叩いて見せた。
ようやく安住の地を見つけた女の、たくましさすら感じさせる口ぶりだった。
「それに、知りたいのさ……コンスタンティノが愛し、憎んだ町を少しずつでも知りたい。
だから、一緒には行けないよ」
――ごめんね。
そう付け加え、ニーナはアルフレドを抱きしめた。
きっと母親とはこういう感じなんだろう。アルはそう思った。
せめて彼女の残りの人生が穏やかならんことを。アルは祈らずにはいられなかった。
「――ヒルダは、強いから」
自分に言い聞かせるように、アルはそう言った。
「僕が守ってあげるなんて、傲慢だったのかもね」
ヒルダを守る。
そのために自分がやったことを、アルは見ながら町を通り過ぎていた。
燃え落ちた家々。壊された家財道具。焦げた木々。踏みにじられた畑。
何週間も続いた葬列。トルコの奴隷となり、行方不明になった人々。
町は復興に向けて活気を取り戻しているとはいえ、その姿はあまりに痛々しい。
何も得るもののなかった、無益な戦争。
全てアルが「一人の少女を守るために」したことの結果だった。
失われたのは人命や財産だけではなかった。
平和が訪れたとたん、あれほど団結していた人々の間にはたちまち不和が生じていた。
平民たちは貴族の無能を怒り、権利を求めて声を上げている。
貴族は貴族で、失った財産を取り戻すために重税を課し、領民と対立を深めていた。
ナポリ人やウルビーノ人は今では支配者面で町を闊歩している。
そして、『狂暴騎士団』の傭兵たち。
彼らも町に居座ろうとし、市民や農民は彼らを邪魔者扱いし始めている。
あの団結はなんだったのか。
隣人を救おうと命を投げ出した尊い行為は? 気高い精神は?
全て意味のない熱狂だったのか?
モンテヴェルデは戦争前に戻るどころか、より悪くなってしまった。
それが全てヒルダを守ろうとあがいた結果だとしたら……
自分こそ、煉獄どころか地獄に落ちるべき存在だ。
アルは黙り込む。
ラコニカですら、どう話しかけていいのか分からなかった。
そして、悲しかった。
アルフレドは「自分を助けたこと」だけでは心の平安を見出せないのだから。
(でもね、アルフレド)
ラコニカはアルが好きだった。
他人を恨まず、最善を尽くさなかった自分を恥じる姿を、愛しいと思った。
その時だった。
突然、二人の前に小さな子供が飛び出してきた。
一人は男の子、もう一人は女の子。
「きしさまだぁ。きしさまー、きしさまー!」
「だめだよ、おこられるってば」
男の子がまっすぐ馬の前へと駆け出してくるのをアルは素早く視界に捉えた。
そして慌てて手綱を引こうとする――
だが、男の子ははっと気づいたように、アルとラコニカの手前で立ち止まった。
「……ぼく、ちゃんといいつけ、まもってるよ」
アルを見上げながら、手に木剣を握った男の子は誇らしげに言った。
「おうまさんのまえにたったら、あぶないんだよね」
二人の傍らに、母親らしき女がやってきた。
その親子に、アルは見覚えがあった。
――無事だったのか
アルフレドはしばしその親子をじっと見つめていた。
元気そうな男の子と、姉らしき女の子。そして母親の姿を。
その姿は、たくましく生きていく庶民のものだ。
「ありがとうございました」
母親は子供に頭を下げさせ、自らも頭を下げると去っていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、アルはずっと彼らを見送っていた。
「……アルフレド、あなたのしたことは」
ラコニカが全てを言わなくとも、アルには何が言いたいかは分かった。
隣で微笑む女性に、頷き返す。
「無駄じゃなかった……今はそう信じていいかな?」
「私はずっと信じてるわ。愛しいあなた」
ラコニカはすっと手を伸ばし、アルの手に重ねた。
(ありがとう)
アルは声に出さず、そう呟く。
ラコニカも無言で応じた。
やがて二人は再び馬に拍車を入れた。
優しい太陽と、潮の香りの中を彼らは行く。
どこまでも青いアドリア海の風が、いつまでも二人に別れを告げていた。
エピローグ
だが、歴史の流れはアルフレドを、そしてヒルデガルトを翻弄し続けた。
一四八一年九月、トルコ軍は教皇=ナポリ連合軍の攻撃を受けオートラントを撤退。
二年近くに及んだオスマン・トルコのイタリア侵攻は完全に失敗に終わった。
戦前の協定に基づき、モンテヴェルデは領地の多くをナポリとウルビーノに割譲する。
その年の十二月、ヒルデガルトとナポリの貴族アクアヴィーヴァ候との婚約が発表される。
アルフレドもウルビーノでの半軟禁生活に入った。
だが一四八二年、ウルビーノ公フェデリーコが陣中で病没する。
対ヴェネツィア戦争の傭兵隊長として活躍中の突然の死であった。
老練な君主の跡を継いだのは、まだ十歳になったばかりの長子グイドバルド。
その混乱を、アルフレドは見逃さなかった。
「フェデリーコ死す」の報が届くや否や、アルはウルビーノから逃亡。
「下女」一人だけを連れての逃亡に驚かされたのはウルビーノ公国のみではなかった。
ウルビーノの切り札が消えたと考えたナポリは、さらなる利権を求めて行動を起こす。
協定を破り、モンテヴェルデ北部の実力による占領を目論んだのだ。
アクアヴィーヴァ候はナポリに軍の派遣を要請。
精鋭二千の騎兵が国境を越え、モンテヴェルデを目指して北上を始める。
それに反発したのは、モンテヴェルデの市民と農民たちだった。
彼らはトルコとの戦争に対する貢献によって発言力を強め、自治意識に目覚めていた。
だがそれはアクアヴィーヴァ候の専制的な政治によって弾圧され続けていた。
外国人領主の横暴に不満を高めていた市民はこれを機に叛乱を起こす。
市民軍は直ちにアクアヴィーヴァ候を捕らえ、五指城に監禁した。
ヒルダもまた婚約者に同調したとして逮捕されてしまう。
もはや市民の間にヒルダに対する敬意は微塵も存在しなかった。
逮捕されたヒルダとその婚約者アクアヴィーヴァ候。
二人の解放を要求して北上を続けるナポリ軍に対し、モンテヴェルデも軍の召集を決定。
総大将には対トルコ戦争の英雄、ルピーノ伯ルカが選出された。
一四八二年十一月、モンテヴェルデ郊外ネレトの野において両軍が激突。
僅か八百のモンテヴェルデ軍は地の利を活かし、ナポリ軍を完全に撃滅した。
同年十二月、「市民会」はアクアヴィーヴァ候と摂政ヒルダの廃位を決議。
同時に市民会はルピーノ伯ルカを終身執政官に選出し、共和制を宣言した。
こうして公国は消滅し、一四八三年一月「モンテヴェルデ共和国」が成立する。
同年三月、共和国裁判所はアクアヴィーヴァ候とヒルダの処刑を決定。
罪状は「モンテヴェルデの自由と独立に対する反逆」であった。
終身執政官ルカは「遅くとも四月中には」二人が処刑されるべきであると宣言。
これは市民会において喝采をもって受け入れられた。
だが、ここで事件が起こる。
処刑前日、ヒルデガルトが脱獄に成功。そのまま行方不明となる。
後に念入りな調査が行われたものの、結局犯人は見つからずじまいであった。
こうして、旧大公家の血統が全員行方不明という形で、モンテヴェルデ公家は断絶した。
しかし、モンテヴェルデ共和国もまた短命だった。
一四九四年、フランス王シャルル八世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵攻。
父の跡を継いでナポリ王となっていたアルフォンソは、たった二年で王位を追われる。
彼の息子フェルディナント二世は本家のスペイン・アラゴン家に援軍を要請。
一四九五年、フェルディナントはスペイン軍を率いて南イタリアに上陸する。
こうしてイタリアはフランスとスペインの勢力争いの場と化した。
二つの大国の争いに、モンテヴェルデも巻き込まれていく。
一五〇三年、南イタリア・チェリニョーラ近郊でスペイン軍はフランス軍に勝利。
同年、ゴンサロ・デ・コルドヴァ率いる2万のスペイン軍がモンテヴェルデに入城。
その後モンテヴェルデはスペイン副王の支配下に入り、共和国は滅亡した。
彼らの独立回復は、一八六一年イタリア王国の成立まで待たねばならなかった――
現在のモンテヴェルデは、アブルッツォ州に属する田舎町である。
夏はドイツからのヴァカンス客で賑わうが、それ以外にこれといった産業もない。
十%以上の高い失業率にあえぐ、南イタリアの典型的な都市に過ぎない。
かつての面影を残す建物も、今では少なくなってしまった。
アルフレドたちが死闘を繰り広げた城壁は十九世紀に取り壊された。
今では「旧城壁通り」や「聖レオ稜堡広場」といった地名にのみ残っている。
大聖堂と五指城も、二つの世界大戦で大きな被害を受けた。
第二次大戦中イタリア空軍の司令部だった五指城も爆撃にあい、今では廃墟となっている。
現在はイタリア文化財保護省の管理下で修復が進んでいる。
唯一、往時をしのばせるのは領主館の建物だ。
奇跡的に戦災を免れた建物は市庁舎と町の公文書館になっている。
公文書館はモンテヴェルデの歴史を今に伝える貴重な文書を大量に保管している。
現在の館長はマウリツィオ・ルピーノ氏。ルカから数えて二十八代目の「ルピーノ伯」だ。
彼は長年、公文書館の未発表資料の調査・研究に尽力している。
マウリツィオ氏の調査によれば、アルフレド・オプレントはヴェネツィアに逃亡したらしい。
元老院の記録に、同姓同名の傭兵との雇用契約が出てくるのだという。
その後「傭兵アルフレド」は功績を認められ、元老院議員に取り立てられている。
妻の名前は不明だが、「トスカーナ出身の女」と記されており、四人の子供をもうけた。
彼が亡くなったのは一五二五年。妻はその後を追うように、一五二六年に亡くなっている。
ではヒルダはどうなったのだろうか。
彼女の墓は大公家の墓所である聖ニィロ教会にある。
だが、それは十八世紀に作られたもので、中はからっぽなのだ。
一説によると、彼女はシラクサの女子修道院に逃れ、そこで一生を終えたという。
修道院名簿にヒルデガルトなる一四七三年生まれの修道女の記録があるというのが根拠だ。
おそらく、それが最も有力な説なのだろう。
だが、ヒルダの脱獄を助けたのは実はアルフレドであったという説は今も人気がある。
実際、アルフレドが一四八二年の叛乱の黒幕だった可能性は高いらしい。
だが、人々が信じているのはそんな無味乾燥な話ではないようだ。
今でもモンテヴェルデの母親は子供たちへのおとぎ話を次のように締めくくる。
『こうして勇敢な騎士とお姫さまは、一生幸せに暮らしましたとさ』
(火と鉄とアドリア海の風・終わり)
万感交々至る、という心持ちはまさにこのようなものだと思います。
この板に流れ着いて1年半、連載を追いかけて数ヶ月。はじめてこの賛辞を使いたいと思います。
おお、神よ!
ご苦労様でした。
終っちまった……長い間連載ご苦労様でした。
また一つ楽しみが減ったなぁ……
GJ! しかし、好きだった連載が完結するのって、結構寂しいもんだな……。
「火と鉄とアドリア海の風」
最高でした。終わってしまったのが残念でなりません。
いい作品をありがとう。
陳腐なのはわかってるが、どうしても言いたい。
ネ申よ、素晴らしき物語をありがとう。
「火と鉄とアドリア海の風」
完結。「続く」はもう無し!!。寂しい!!むちゃくちゃ寂しいけど、でもおめでとう!!
登場人物全員の死に様が一人一人、すごく胸に迫る物語でした。ちゃんと生きて、ちゃんとその人の生き方に相応しい死を迎えた、って感じで。
ごく私的感想なのですが、約一年前初めて火と鉄読んだ時、「感動して泣いた!!」と同時に「悔しすぎてボロ泣きした!!」ってーのも口には出し辛い本音でした…。
もー、泣いた泣いた(笑)。こんな話書ける人が死ぬほど羨ましいと思って。「骨の髄まで叩きのめされる」という気分でした、本音は(笑)。
「子供の頃、将来こんなお話を作れるような人になりたかったけど、でもおそらく死ぬまでできないだろうと予想が着いちゃった自分の人生」というのを、どうやって受け入れようかと悩んでた時期に出くわした作品で。
連載の途中で、心の中で打ち上げ花火がドカーン、と上がった気分になりました。「この人は本当にすごい」って、なんか納得しちゃって。
自分のしょーもない劣等感やら引き摺ってた挫折感やらが吹き飛ばされる感じで、気持ちよかったです。
あと、やっぱ何よりも書いてた人の根性に敬服。
本当にこの貴重な出会いに感謝を、と思いました。
長文すんません。
SSを書き「続けること」「完結させること」ってのは何気にすごいことだよな。
しかも面白いときてる。
まさに神だ…。心底畏れ入った。
長い間、本当にご苦労様でした!!!
本当にお疲れ様でした。もう、感無量ですね。
このお話は途中から読み始めたので、もっと早く知りたかったです。
エロパロ板の中で異色なお話でありながら、この板の唯一の良心。
終わってしまって淋しいです。感動をありがとう!
唯一の良心はさすがにひどいぞw
ここから書くのは全く蛇足なあとがきです。
ただ、以前「この話は実話を元に…」と書いたとき「元ネタが知りたい」とおっしゃって下さった方がいらしたので、簡単に触れさせてもらいます。
手品師があとでタネをばらすようなものですが、1〜2レスほどお付き合いください。
読みたくない方はあぼんしてください。
<元ネタについて>
「火と鉄」の元になった事件は本編にも出てきた1480年のオートラント戦争です。
1480年7月28日ゲデク・アーメド・パシャ(本編のアクメト)率いるトルコ軍が突如侵攻し、8月11日に町を占領しました。
ナポリ王はカラブリア公アルフォンソと彼の軍に救援を命じ、同時に教皇庁にも助けを求めます。
こうしてウルビーノ公フェデリーコ率いる教皇軍や、西欧各国が援軍を送りました。
戦闘自体は翌年11月まで続き、最終的にはトルコがオートラントから撤退して終結します。
以前「火と鉄…は作品内の日付で1480年10月には終わる」と書いたのは、
「アルフォンソと教皇軍がオートラントに到着したのが1480年10月だったから」
なのです。
戦争の原因については、ヴェネツィアの黙認という説、あるいは当時ナポリと戦争中だったフィレンツェの政治工作という説などがあり、本編でも少し触れておきました。
トルコ軍は「火と鉄」のように、最終的にはスルタン・メフメト二世の死去によって撤退を決意したようです。
ただ実際はメフメト二世もあまり乗り気ではなかったらしく、早くも1480年9月には補給が絶えています。
大将アーメドも援助を要請するため早々にトルコ本土に戻っていました。
後世の歴史家は
「トルコが遠征に成功するにはオートラント以外の大きな港を最初に占領するか、あるいはさらに別の港を確保して補給路を確立する必要があった」
と判断しています。
つまり「火と鉄」は「もしトルコがさらに攻撃の意図をもっていたら」という仮定に基づいた、一種の仮想戦記と考えてください。
<登場人物のモデル>
アルフレドのモデルは、本編にも登場したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロです。
フェデリーコも私生児で、若い頃傭兵隊で修行しました。学問を好んだ点も同じです。
ヒルデガルトは、フォルリの領主カテリーナ・スフォルツァの影響が強いキャラです。カテリーナは女でありながら領地を守るために篭城戦の指揮を取った女傑でした。
(降伏しないと子供を殺す、と脅され『ここからいくらでも代わりを生んでやる!』とスカートをめくったという逸話があります)
ただこの二人も含めて、大半の人物は小説や映画、ゲームなどのキャラから着想を得たものです。
例外的にはっきりしたモデルがいるのは、鞭打ち教団の指導者フェラーラのジロラモです。
彼のモデルは16世紀フィレンツェで神権政治を行ったジローラモ・サヴォナローラです。
サヴォナローラもフェラーラ出身のドメニコ会士で、「泣き虫派」といわれる支持者を利用して政治的実権を握りました。
とはいえ「サヴォナローラ=ジロラモのような狂人」というわけではありません。
サヴォナローラの神権政治を一種の政治改革として評価する歴史家もいます。
モンテヴェルデ人と『狂暴騎士団』の面々を除いて、残りはほぼ全て実在の人物です。
しかし話の都合とリサーチ不足からほとんど創作というキャラもいます。
一番創作の割合が強いのはアクメト・ジェイディクでしょう。
名前も「ゲデク・アーメド」がより原音に近いようですが、書き始めたころにはトルコ読みが分からなかったので、イタリア読みのまま通しています。
彼の経歴や習慣、性格はほとんど想像です。当時のイタリア人の記録では残忍で下劣な男とされています。
若い頃アクメトがコンスタンティノープルの戦いに参加したかも分かりません。また、実は将軍ではなくメフメトの召使い出身という説もあります。
ディオメデウス(Diomede Carafa)は実際は1487年まで生き、自分の戦場体験を綴った"Memoriali"という文書を残しました。
メフメト二世は話の都合上1480年に死んでいますが、実際には1481年に亡くなりました。
マエストロ・フランチェスコ(Francesco di Giorgio Martini,1439-1501)は当時名声を馳せた建築家/画家です。
彼の著書はダ・ヴィンチにも影響を与えたほどですが、その足跡には不明な点が多い人物でもあります。
1480年ごろ彼はウルビーノ公フェデリーコに仕えていました。オートラント戦争の時にはアルフォンソの要請でターラント港の防衛工事を行ったようです。
*****
私自身は、「火と鉄」はエロパロ板でも最も異端なSSだと思いますw
「いつ『さっさと止めろ』と言われるだろう」と怯えながら書いていました。
本来はもっと短いはずでしたし(アル追放編は全くない予定でした)、エロな話ももっと書きたかったのですが、あまりに長くなるので泣く泣く諦めました。
(アルxニーナやヒルダxステラ、アル+ヒルダ+ラコニカ3Pなども考えてたんですが…)
これほどまで長くなってしまったのは、ひとえに私の構成力不足です。
ではこれで本当に最後です。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
補足乙です。長期間にわたる、大部の執筆、ご苦労様でした。
また、気が向かれましたら、このスレなり、他スレなりに、
新作を投下していただくことを、楽しみにしております。
うはwwww濃いwwwwwスゴスwwww
火と鉄氏の歴史に対する熱意が感じられて素直に凄いと思えた。
ありがとうござます。元ネタ知りたいなんて無理なお願いを聞いてもらって。
本当に補足してもらえるなんて思ってなかったから、感激です!
すぐに次回作とはいかないのでしょうが、機会があれば是非!
今は暫く、ゆっくりお休みください。
178です。ちびっと恥ずかしいけどもう最後だと思ったので「ずっと憧れてましたっ!先輩の第二ボタン、くださいっ」てな告白をやっちまいましたw
一期一会というやつ逃して「伝えてれば良かった…」って後から後悔するのもやだし。
火と鉄は食い物に例えると食感「鉄」でした。喉越しが「鉄」ってーか、齧ると前歯折れますよ、っつーか。
まるで伊賀名物かたやきせんべい(忍者の携帯食・齧ると前歯折れるらしい)のよーだとw
…一応、褒め言葉のつもりです。エロパロ板での浮きっぷりにはとにかく拍手w
「アル追放編は全くない予定」。マジ!?
ルカの予想外の大大大出世が「意外だけどなっとくー」だったので、最初からそのつもりだったのかなあ(「貴族ではなく民が国を造った」って台詞とか)って思ってたんですが…、
やぱ「なりゆきで」とか言われそう。。
書いてる人はこの時代がものすごく好きなんだろうなあ、って読みながらよく思ってました。
おつかれさまです。
>>188 ワロタwwwここまで濃い感想は、初めて見たwww
>184
>「いつ『さっさと止めろ』と言われるだろう」と怯えながら書いていました。
今更だけど別にそんなに気にする必要はないかと思いますよ。
このスレはエロシーンが主体じゃないエロパロを投下する所なのですから。
むしろこのスレには火と鉄氏のような作品を読みたい住人が多いかと。
というかここではエロは飾りに過ぎないと思いますよ。
というか、これまでの投稿陣を見ても、火と鉄氏的な傾向はむしろ歓迎されるスレだよな、ここは。
うむ。だが
>アル+ヒルダ+ラコニカ
は見てみたかった
そういや、その頃の貴族の間では魅惑の三連結が人気だったらしいな。
ヒルダ×アル×ジロラモ とか見てみたスw
あ、ありがとう。やっぱエロパロなんだね。
2chには投下できる場所はないんだな。
誤爆スマソ。
>>194 一緒に控え室に戻ろう。
スレの皆様失礼しました
うわー、誤爆に親切にありがとう。すげー助かるよ。参考にさせてもらう。
ではこれにて巣に帰ります。
マスタースレイブ
番外続編
投下させていただきます
物体として振舞うと言うのは、中々に難しい。
リョウは暖炉の横に膝を抱いて腰を下ろし、ぼんやりとそんな事を思った。
じゃれ付いてくるインクルタを無視し、歩き回りたい衝動を押さえ込む。
退屈との戦いだった。
トレスとシリクが戻ってきても、置物然としてそこに居続けなければならない。
リョウは早くもめげそうだった。
いっその事寝てしまおうか。いや、悪夢を見てうなされたらことである。
リョウは歯を食いしばった。
「何のまねだ」
上から冷たい声が降りてくる。
リョウは思わず顔を上げ、冷たい若葉色の瞳を見つめ返した。
「置物のまね」
「下らん。来い、足の具合を見てやる」
「置物だから動けませんー」
トレスから視線を外し、強く膝を抱く。瞬間、体がふわりと浮いた。
「ちょ、ちょっ! ま、これ、落ち!」
「置物ならば、こうするほかあるまい」
「でもこの運び方は無いんじゃないかなぁ……」
シリクが少しだけ呆れたように呟いた。
膝を抱えたリョウの襟首を掴み、ぶら下げて運んでいるのである。
「落として割れると困るよ?」
「治せば済む」
恐ろしい事を平然と言う。
いくら治せたとしても、壊れたら痛いではないか。
リョウはトレスに落とされぬように全身を緊張させ、それこそ置物のように大人しくト
レスに運搬された。
文字通り物のように、乱暴にソファに下ろされる。こちらが人として振舞おうと置物の
まねをしていようと、トレスのリョウに対する扱いは変わらないようだった。
最初から物扱いである。
「目を閉じろ」
ソファに座ったリョウの足元に、トレスが腰を下ろしながら言う。
「どうして?」
「置物の分際で質問か?」
さっき、くだらないと吐き捨てたのは誰だったか――。
閉じりゃいいんだろ、と呟いて目を閉じる。とん、と足に指先が触れた。
指先、足のこう、足首と、叩く指が上へ上へと上がって行く。
それが腿の半ばまで来ると、トレスはよし、と呟いた。同時にリョウが目を開く。
目の前に果物があった。
「……なにこれ」
「森になる果物だ。名は知らん」
似たような台詞を、昨晩も聞いたような気がする。
「もらっていいの?」
「少し、足を揉み解す。エサを与えてやるから大人しく座っていろ」
嫌な予感がした。
昨晩は、果物のジュースを与えられて、その後に、ああなった。リョウは警戒して受け
取った果実を睨み、次にトレスの様子を伺った。
「……あの薬、使う?」
やぶ蛇な気もしたが、聞かずにはいられない。
包帯の下で、トレスが口角を持ち上げた気がした。
「気に入ったか」
「ちが……違う! 気に入るわけないだろ! あんなの! なんてこと言うんだよ!」
思わず怒鳴った。自分でも分かる程顔が赤い。
トレスが静かに立ち上がった。
「それ程気に入ったのなら、昨晩の残りがある。使ってやろう。本来ならもう、必要もな
いのだが……」
「いらないってば!」
悲鳴のように叫んで、リョウはトレスの服を乱暴に掴んで引き止めた。
くつくつと、肩が揺れる。
からかわれているのだと気が付いて、リョウは内心地団駄を踏んだ。
「な、なんだよ! なんだよ、二人とも僕の事おもちゃにして!」
「僕は今回なんにもしてないけどね」
シリクがやんわりと訂正を入れる。
こんな事ならば、本当に何を言われても反応しない置物になってやると、リョウは口を
一文字に結んでそっぽを向いた。
「あーあぁ、怒らせた」
「心が狭いな。人間の小娘では無理も無いと言うべきか」
思い切り反論したかったが、我慢した。
トレスが再び床に座り、リョウの足に触れ、足首を軽く回す。
なんとも言えない奇妙で不快な感覚だった。痺れるように、鈍く痛い。
「痛むか」
見透かされたように聞かれ、リョウは開きそうになった口を慌てて閉じた。
置物、置物。心の中で繰り返す。
ビリビリと爪先が痺れた。置物を貫くのは、やはり辛い。
「な、なんかビリビリする」
「神経痛だ。筋肉が炎症でも起こしてるのだろう。中途半端に歩けるからと、無理に動か
し続けると変に力がかかってこうなる」
「街道まで歩かせたのは君じゃないか!」
「誰が歩けといった。這えばよかっただろう」
心底殴りたかったが、返り討ちにあうのは目に見えている。
リョウはギリギリと奥歯を噛み合わせ、与えられた果実に噛み付くように歯を立てた。
この上なくみずみずしい。そして、素晴らしく甘い。
リョウはそれにさえ怒りを覚え、食い殺さんばかりの勢いでガツガツと果物を攻撃した。
だが。と、ふと思う。
トレスが世話は焼かんぞ、と断言したのは、ほんの十分前である。それが今、トレスは
リョウに果物を与え、足の治療を行っている。
悪役になりきれていない悪役と言おうか、何がトレスをここまで歪ませてしまったのか
分からない程、根はいい奴な事は明らかだ。
人間に裏切られた王子様――。
いや、違う。
人を怒らせる事で、生きる目標を与えていた――。
これが、この複雑な性格の大本だろうか。
自分がもし、わざと他人に嫌われるよう、他人を怒らせるように振舞って生きていたら、どうなるだろう。
リョウは考え、頷いた。
間違いなく、歪む。
自分で作り上げたキャラクターに縛られ、抜けられなくなるのだ。本来の自分とは異な
る人物を演じ続ければ、いつしか自分を見失う。
しかし変わらない本質が思考と感情に矛盾を生じ、激しいストレスを生むのだ。
人に優しくしたいと思うのに、無駄な思考が邪魔をして、言いたくもない罵声を吐く。
瞬間、リョウは閃いた。
悪意は好意の裏返しだ。トレスが感情的に、リョウに優しさを向けようとすると、理性
がそれを遮ってわざとリョウを傷つけようと働きかける。
シリクの言っていた事が本当なら、トレスは嫌いな相手には口も聞かないはずなのだ。
リョウは無残に食われた果物を手にしたまま、急速にトレスに対する一方的な親しみを
増して行った。
こちらが相手の好意に気づけば、関係を築くのは容易い。悪意を装った好意を、ただ好
意として受け取っていればいいのだ。
「トレス」
「何だ」
「ありがとう」
一瞬、トレスが呆けたようにリョウを見た。
吸い込まれる程純粋な若葉色――これが、トレスの本質なのだ。
「……炎症が脳に回ったか?」
すぐさま、瞳に鋭さが戻った。
訝るような目で睨み、トレスが怪訝そうに呟く。
リョウは答えず、ただにこにこと微笑んだ。
「あ、なんか足、いい感じかも」
ふと気づいて、足首をぐるぐると回してみる。
なんとなくだが、筋肉が引きつるような違和感が軽減されている気がした。トレスが静
かに立ち上がる。
「今日の修理は終わり?」
見上げて聞くと、鋭い視線で睨まれた。
肩を竦めて、果汁を垂らす果肉を一口かじる。
トレスは無言でその踵を返し、寝室に足を向けた。
「え? もう寝ちゃうの?」
恐らく、トレスは無視しようとしたのだろう。だが、くるりとシリクが振り向いた。
「一緒に寝るかい?」
瞬間、シリクが猛烈な勢いで壁に額を打ち付けた。
ゴッと鈍い音がして、激痛に崩れ落ちる。
リョウは突然の自虐行為に飛び上がり、全身を緊張させながらぴくりとも動かないシリクを見た。
数秒の沈黙の後、シリクが呻いて壁に縋るように爪を立てた。
「トレス……本気でやったろ。気絶しかけたぞ」
低い、低い声でシリクが言った。
「下らん事を言うからだ。少しは分別をもって口を利け」
崩れ落ちた体が、ゆらりと不気味に立ち上がる。
暫く、睨み合いのような沈黙が続いた。どちらとも無く舌打ちし、無言で寝室の戸を開ける。
その後姿を呆然と見送り、リョウはようやく、今のが二人のささやかな喧嘩なのだと気が付いた。
「……不毛だなぁ」
相手を攻撃するのに、自分自身も傷つく必要があるなんて――。
他人の痛みを知れと聖職者はよく言うが、なる程、あれならば嫌でも痛みを思い知る。殴っても殴られても、等しく痛い。
リョウは眉間によった皺を指先で揉み解し、退屈にあかせて哀れなインクルタをつつきまわした。
それから、数時間も経っただろうか。
「飽きた」
全てのインクルタを一列に整列させ、端から名前をつけて行く作業にである。
「眠い」
大口を開けて欠伸をし、リョウはちらちと寝室のドアに目をやった。
もう、トレスは眠っただろうか。
仮に起きていたとしても、それがシリクならばベッドに侵入するのは容易い。だがトレ
スが起きていると非常に厄介だった。
先程もシリクに分別を持てと怒っていたが、それ以上の叱責が飛んでくるのは間違いない。
数時間は説教を食らいそうである。
リョウは足音を忍ばせて寝室の戸の前に座り込み、息を殺して室内に耳をそばだてた。――人が動く気配は無い。
数秒の逡巡の後、リョウは隙間を空けるようにしてゆっくりと戸を開いた。
インクルタは全てリョウに整列させられているため、寝室は恐ろしく暗い。這うように
して入り込み、リョウはこっそりとベッドによじ登った。
シーツが冷たい。あれ? と思い、リョウは手の平でベッドの上を探った。
――誰もいない。
「……トレス? シリク?」
暗闇の中見回すが、そこに人がいるようには思えない。
リョウは急に不安になり、おろおろと視線を泳がせた。
誰もいない、と思うと、どうしようもなく不安で――。
瞬間、ガゴンッと重々しい音がした。
驚いて飛び上がり、見えもしないのに音の方を睨む。壁の隙間から、炎がこぼれた。
壁の中に、何か――。
「トレス!」
驚愕と喜びで、思わず叫んだ。
蝋燭の炎に照らされた包帯男が、隠し扉を背にしたままリョウを見る。シリクだ、とは
思わなかった。
最早声を聞かなくても、リョウはシリクとトレスが区別できるようになっていた。
「……ここで何をしている」
怒っているというよりは、事務的な声だった。
勝手に寝室に侵入したのに、怒らないとは珍しい。
「の、ノックしても反応無かったから……心配で……」
大嘘である。もちろんノックなどしていない。
リョウの見ている前で、重々しい音と共に隠し扉が閉じた。激しく興味をそそられ、そ
の壁を凝視する。
あの扉は何かと、聞きたくてうずうずしているリョウを一瞥し、トレスは火を灯したラ
ンプを枕元に置くと上着を脱いでベッドに腰を下ろした。
「私の気に入りの場所だ。地下で酒を飲みながら本を読む」
「へぇー。全然わかんないんだね、隠し扉。びっくりした」
「隠せなければ、隠し扉の意味はあるまい」
靴を脱ぎ、毛布を引き寄せる。
「もっとも、扉を開ける所を見られては、精巧な隠し扉も無意味だがな」
ランプの火を消し、横たわる。
リョウはベッドに正座したままトレスの一連の行動をしばらく眺め、追い出されない事
実に気づいて驚いた。
嫌味らしい嫌味も無い。
「ねぇ、トレス」
「睡眠の邪魔をするな」
「追い出さないの?」
「面倒だ。追い出されたいのなら自ら出て行け。私は知らん」
どうやら、シリクは既に寝ているらしい。
もともとベッドに忍び込むつもりでここに来たのだが、まさかトレスに許可をもらえる
とは思わなかったリョウは、どうしたら言いか分からず狼狽えた。
どういう心境の変化だろう。それとも、素直に毛布に潜り込んだら、何か嫌がらせや虐
めが待ち構えているのだろうか。
リョウが決断しかねて固まっていると、トレスが呆れたように溜息を吐いた。
背を向けたまま、呟くように言う。
「悪夢を見るのだろう?」
思わず、息を詰めた。
「な、なんで? 僕、怖い夢見るなんて、シリクにも言ってない」
「私も、たまに見る。そんな夜は森へ出て、冷えた夜の風を受けながら夜幻鏡を眺めれば、
少は気分も和らぐ物だ」
それは、リョウが悪夢を見たトレスと同じ行動をとったから、と、そういう事なのだろうか。
リョウはなんだかばつが悪い気持ちで向けられた背中を見つめ、唇をとがらせて目を伏せた。
なにより、とトレスが続ける。
「歎が“夜泣き”を始めた。あれは悪夢に呼応する。私の悪夢に呼び起こされたのでは無
いとすれば、貴様が悪夢を見たのだろうと想像するのは容易だ」
「え……じゃ、じゃあ! じゃああれ、僕のせいなの?」
「貴様の所為では無い。ただ、あの歎がそうあるだけだ。だが、悪夢を回避できる術を持
つなら、そうするのが一番よかろう」
「じゃあ、じゃあ……」
ごろりと、トレスが仰向けに寝転がり、リョウを見た。ようやく闇に慣れて来た目でも、
表情をうかがう事は出来ない。
「森で保護した生物が、温もりを求めて寝床に来るのはよくある事だ。ただそれだけにすぎん。だが――」
意味深に言葉を切って、リョウを見る。
緩慢な動作で腕を伸ばし、細い手を掴んだ。
「年頃の娘が男の寝所に忍び込む意味――それをよく考える事だ。何をされても文句は言えんぞ」
「え、え……?」
ぐいと腕を引かれ、気が付くと毛布の中に引きずり込まれ、トレスの腕の中にいた。
ドクン、と胸が高鳴る。
嫌だとは思わなかった。ただ少し、怖いだろうか。
恐ろしく近い位置に、トレスの若葉色の瞳が輝いていた。酒の香りがする。吐息が掛か
る程唇が迫り、リョウは全身を緊張させて身構えた。
きつく瞼を閉じて待つと、唇は触れずにすっと体温が遠ざかった。我慢していた息を吐
き、遠ざかったトレスの瞳を凝視する。
「ただ、食われるつもりか」
咎めるように聞かれ、リョウは間の抜けた声で聞き返した。
「何故拒絶しない。抵抗を示さない。慕う男がいるのだろう? ならば全力で抗え。それ
がその男に対する礼儀だ」
自分で押し倒しておいて説教とは、あまりにも理不尽ではあるまいか。
トレスはリョウが暴れ、逃げ出そうとするのを待つように、ただリョウを腕の中に捕ら
えたまま動かなかった。
リョウもまた、食い入るようにトレスを見つめたままピクリとも動かない。
トレスの若葉色の瞳が苛立ちに曇った。
「何をしている……抗え!」
苛立ちから、怒りへ。
明らかな変化を見せたトレスの瞳を、リョウは真っ直ぐに見つめ返した。
本気では、ない。
トレスはリョウから拒絶される事を望んでいるようだった。
抗い、泣き、悲鳴を上げれば、トレスは満足するのだろう。
「……できない」
小さく、だがキッパリと言った。抗う事は出来ない。例え受け入れる事が、ベロアに対
する裏切りだと言われても。
「嫌がったら、君が傷つく」
トレスが目を見開いた。
傲慢で、自信過剰な女だと思っただろうか。
だが、例えからかう事が目的だったのだとしても、欲しいと、少しでも思ってくれたのだろう。
その戯れを全力で拒まれ、拒絶される事はあまりに辛い。
す、と霞が掛かるように、トレスの瞳から感情の色が消えた。
少しの沈黙のあと、トレスが嗤った。
「貴様は……他者を傷つけぬためなら己が傷つくのも厭わぬとでも言うのか?」
「ちがう! そんなんじゃない……ただ、君に傷ついて欲しくないんだ」
優しすぎる故歪み、素直に好意を示す事が出来ずに向けたくも無い悪意を向ける。
無感動を装って傷つきやすい心を隠すこの男を、誰が嫌いになれるだろう。
「僕、君の事、が、好きだから……」
搾り出すように言うと、また、トレスが鼻先でせせら笑った。
「稚拙で、愚鈍で、無知で、蒙昧で、あまりにも短絡的だ。その感情は単に、森で迷い疲
労した心身が、より所を求めて作り出した一時の幻に過ぎん。試しに今、犯してくれよう
か。その刹那に幻は霧散し、貴様は後悔と恐怖に嘔吐する。惑わされるな。脆弱な種族の
中でさえ脆弱であるくせに、貴様はあまりに無防備すぎる」
淡々と言い捨てて、トレスはリョウに背を向け横たわった。
完全に開放され、ただ、トレスの体温の余韻に呆ける。
なぜか、ひどく寂しかった。
苦しいほどに、胸が締め付けられる。
「幻じゃない」
小さく呟いて、リョウもトレスに背を向けるように寝返りをうった。
「試したいなら、試せばいいだろ」
試さなければ、信じられないと言うのなら。
「意気地なし」
言い捨てて、リョウは睡眠に逃避した。
***
朝、半ば夢に浸る様な感覚の中、背中に体温を感じた。
――ベロア、熱があるのかな?
ふと心配になり、腰に回された手を掴む。
やはり、アイズレスにしては暖かすぎる。
――だめだよ、アイズレスに使える薬、なかなか手に入らないんだから。
まだリョウが小さい頃、ベロアが高熱を出して倒れた事があった。
どの薬屋で聞いても首を横に振られるばかりで、泣きながら町を駆け回った事を覚えている。
――街道や森で倒れたりしたら、僕もハーラも、君の事なんて運べないんだから。
医者を呼んでくるか、それとも、力のある旅人が通りかかるのを待つしかない。
待てよ、と、ぼんやりと思った。
トレスとシリクに頼めば、アイズレスに利く薬くらい――。
「閃いたぁ!」
弾ける様に睡眠から覚醒し、リョウ声を大にして叫ぶと同時に荒々しく飛び起きた。
「そうだよ! そうすりゃいいじゃん! これいいよ最高だよ! 絶対これありだよ!」
躍り上がりたい衝動に突き動かされるまま、ベッドに飛び上がって高らかに叫ぶ。
ベッドに横たわったまま、状況が理解できずにリョウの狂喜を眠たげに眺めている若葉
色の瞳をを見止め、リョウはその体に乱暴に圧し掛かった。
「今、どっち?」
寝ぼけ眼がぼんやりとリョウを見る。
「えーと……なにが?」
「よかった! シリク、話があるんだ」
ごしごしと目を擦り、シリクが天窓を見上げて欠伸した。
「太陽が……もうちょっと昇るまで……」
「だめ! 今すぐ!」
そのまま眠ろうとするシリクの頬を思い切り両方に引っ張って、リョウは痛みに悲鳴を
あげたシリクの顔を捉えて真っ直ぐに覗き込んだ。
「一緒に行こう! 北! 気付いた! 僕、君たちが欲しい!」
流石に言葉を失った。
少女の温もりを腕に心地よい睡眠を貪っていたら、突如叩き起こされて、恐らく突拍子
も無い誘いを受けた。
心躍る愛の告白付きである。
シリクは満面の笑みを浮かべて返事を待つリョウを見つめ、すっかり吹き飛んだ眠気の変わりに襲ってきた頭痛を追いやるように、目頭を揉み解した。
「……ごめん、リョウちゃん。もう一度」
「僕達は今、北に向かって旅してるんだ。理由はよく知らないけど、ベロアが行かなきゃ
いけないって。それで、スルグントの方からずっと歩いてきたんだけど、アイズレスや歌
姫が病気になると凄く困るなって、僕ずっと思ってたんだ」
「あぁ……まぁ、そうだね。治療できる医者や薬師は少ないから……」
「だからさ! 君たちが一緒にいたらいいなって、凄く安心だなって思うんだ。それに僕、
君達とさよならするのは、凄く嫌だ。凄く寂しい」
勘違いや聞き違いの類ではなさそうだった。
かといって、冗談やじゃれあいの類でもなさそうである。
「だから、一緒に行こう。ベロアはパーティーに男が一人しかいないって、いつもぶつぶついってるんだ。きっと君を歓迎してくれる」
真剣に、誘っていた。
なる程、これは確かに、トレスには持ち掛けがたい。
シリクはトレスがこの騒ぎに目覚めない事を心底から祈りつつ、無邪気なリョウの両手
を取って自らの頬から引き剥がした。
「ごめん、リョウちゃん。うれしいけど、それは無理だ」
「どうして? 嫌なの?」
「そうじゃない。だけど僕たちはここに住んで、生活してるんだ。それを捨てる事はできないよ」
教え諭すようにそう告げる。しかしリョウは引き下がらなかった。
「嫌じゃないなら、いいじゃないか。確かにさ、ベロアにいきなり旅に出るよ、って言わ
れた時は僕もびっくりしたけど、実際に旅に出てみたら全然平気だった。だから、君も無
理じゃないよ。誰かに閉じ込められてるわけじゃないんだもん!」
そうでしょ、と問われ、シリクは返答に窮した自分に驚いた。
確かに、誰に強制されてここにいるわけでもない。そう、ただ、自身で閉じこもってい
るだけである。
ただふらりと立ち寄った森にこの家を見つけ、住み着き、惰性で過ごしてきた生活だ。
捨てるのは容易い。ただ、決めればいいだけである。
「だけど……突然過ぎる」
「そんなの関係ない! 君が行くって決めれば、今からだって行けるんだ」
「でも……僕の一存じゃ決められない」
自分で言いながら、言い訳ばかりだと思った。
リョウが目を丸くして、鈍いなぁ、という顔をする。
「わかってるよ! だから、君に先にいったんじゃないか!」
シリクから、トレスを説得しろと言うのだろうか。
話を持ち書ける前から答えは見えている。トレスをここから引きずり出すのは、シリク
には不可能だ。
「まず、君が決めて。君が反対したら、トレスも絶対うんとは言わない。シリク。一緒に
行こう。トレスだって引きずってさ」
ぐいと、抗いがたい力で両手を引かれる錯覚を覚えた。
この森に、この家に、根を下ろして何年にもなる。自分の力では断ち切れない程に根は
深く地に埋まり、蔦は縦横無尽に張り巡らされ、へばり付いて離れない。
ここで朽ちていくのだろうと思っていた。
ここで朽ちる事を望んだトレスと共に。緩やかに流れる時の中で安穏と。眠るように朽
ちていくのだと思っていた。
ここを離れても、行く所など無かったから。
行うべき事など、探す事も億劫で、ただ無気力に生きていけるこの場所に、ただ縛られ
ていたのだ。
その根を、蔦を、眼前の少女の言葉が引きちぎり、共に生きろと急き立てた。
震えが走る。
脆弱な人間の、か弱い少女の一体どこにこんな力が宿るのか――。
「トレスを引きずって……か。あぁ、それは、面白そうだ」
リョウの笑顔が華やいだ。
トレスの根はより深く、複雑で、迂闊に断ち切ればたちまちに腐ってしまう。倒れる事
を恐れてより深く根を張って、そして二度と抜けなくなる。
「それで、僕は何をすればいい?」
一歩、足を踏み出した。
新しい世界へ、もう一度歩き出す。
心が躍った。
まだ、歩ける。
***
全ての囁き草の位置と向きを割り出すのに、それ程時間は掛からなかった。
ハーラの聴覚を借り受けて、音の反射をベロアが処理する。それだけだ。
そうしてベロアの頭の中に出来上がった地図を元に森の中を歩き回り、ベロアはよし、と呟いた。
木立に八つ目の印を刻んだ直後である。
「これで結界の範囲は特定できた。半径一キロ四方をぐるりだね。素晴らしい聴力だ。体
感したのは初めてだけど、君はあんなに大量の音の中で生活してるんだね」
「あのめちゃくちゃに戻ってくる音をどう処理したのか知らないけど、お役に立てて光栄
だわ」
「ひねくれるなよ。純粋に褒めてるんだ」
ベロアは笑い、ただ森が広がる空間をひたと睨む。
まさにここに、結界が存在しているはずなのだ。
「さて、行こうか」
「どこに? 結界はここにあるんでしょう? とっとと暴いちゃってマスター連れ戻しま
しょうよ!」
ハーラが片眉を吊り上げて、何も無い空間を指差す。
その様子にベロアがにやりと唇を吊り上げると、ハーラはきょとんとしてベロアを見つ
め、小さく肩を竦めると何も言わずに歩き出した。
「今度はなんなの? あんたの回りくどいやり方にはいい加減うんざりだわ」
「そうは言いながら従う辺り、知能レベルの違いをようやく理解してくれたのかな?」
「いいかげん切れるわよ」
「それは困る。この至近距離で歌われたら間違いなく失神だ」
君の音痴には恐れ入る、と舌を出したベロアの足を、思い切り踏みつける。
「それで?」
「歎を探そう。あいつの協力がいる」
ぴたりと、ハーラが歩みを止めた。
同時にベロアも足を止め、ハーラの瞳を見つめ返す。
「……なんですって?」
「聞こえなかったかい? 前に僕達を襲ったあの歎を使うんだ」
「参考までに聞くけど、どうやってあの暴走生物を使うわけ?」
「いやだなぁ、ハーラ」
ベロアが笑った。
ハーラの顔色が蒼白に染まる。全身で引きつった笑顔を浮かべ、ハーラは小さく首を振った。
「挑発は僕がする。君はただ、シレーヌの声を抑え続けてくれればいい」
「ちょ、ちょっと、まって。待ちなさいよ。あんたアイズレスよね? もっと穏やかで知
的な作戦はないわけ? どうして歎を挑発しなきゃいけないのよ! 結界はどうなった
の?」
「施術の痕跡がどうしても見つからないんだ。あれはもう、無意識じゃないと手が出せな
い」
だから、と言葉をつなぎ、ベロアはたちの悪い笑みを唇に刻んだ。
「ぶち壊してやる。単純な作戦だろう?」
ハーラは眩暈を覚えて額を押さえ、テリグリスの巨体にふらふらと倒れこんだ。
切らせていただきます
>火と鉄氏
完結お疲れ様でした!
その締めくくりの一文にぐっときました。
その筆力と書き続ける根性に脱帽です。
乙です。
相変わらずリョウがかわいくていいなあ…なんかニヤニヤしつつ読んでしまった。
ゴンザレス氏続き来てたー!
ベロアとハーラの、悪態つきつつ一緒に行動するところが好きだったりします。
トレス&シリクとベロアの初顔合わせがどんなふうになるのか、wktkで続きをお待ちしています。
緊急回避上げ
昨日初めてこのスレにたどり着きました。何この神揃い…!
どれもこれもじっくりと保管庫まで見入ってしまったのですが、
特にゴンザレス氏のがツボにストライクです。
いろんなタイプの従僕がたまらんです。
普通これだけ八方美人(すみませんイヤミではなく)だと、
主に余り感情移入できないのですが、
リョウ可愛いよリョウ…!
全員と幸せになって欲しいです。
ゴンザレス氏、久し振りですね。続き楽しみにしてます。
火と鉄も終わってしまったけど、楽しんで読めるのはエロなしのここだけになってしまったw
いや、
>>127で一回投下あっただろ。
その前にバレンタインネタも投下してるし。
しかしここのクオリティの高さは異様w
>>213 読んでるよw
ところで森蔵さんの人類失格と女中と物書きも待ってるんだけど、まだかな?
女中と物書き、かなり好きです。
平日にこの板に来るのは初めて……インフルエンザ……チラ裏でした。
>>214 楽しみにしてくれている人がいてとても嬉しいです
現在引っ越しなどでバタバタしているので、落ち着いた頃に再開します
4月には両方とも進めたいと考えてたり
216 :
森蔵 ◆z7/87tthTc :2007/03/31(土) 12:19:21 ID:4C3xnXkz
女中と物書きです
引っ越し準備中に書き上げました
217 :
女中と物書き:2007/03/31(土) 12:21:07 ID:4C3xnXkz
【芋粥】
「岸上さんがまた変なものを持ってきた。」
「こら、私のモノローグに見えるじゃないか」
確かに、私の手に乗っているメロン程の大きさの芋は岸上さんが持ってきたものである。
今日も岸上さんは麗しかった。
明日もやはり麗しいのだろう。
「大きなお芋ですねぇ」
「例によって只の芋ではないらしいが…昼も近いし食べてみるか」
着物の袖を捲くし上げ、台所に立っているのは私である。
女中である朱佐多君は料理が出来ないのだ。お茶くらいしか煎れられず、
しかも本当にお茶だけで、コーヒーを煎れると砂糖の代わりに塩が入っている始末。
さらに料理どころか掃除もしない、ダメ女中である。
それでも仕事に追われているときは役に立つし、洗濯くらいならできる、
何より寂しい独り暮らしを送るよりはマシなので傍に置いている。
岸上さんが言うには、中華包丁で縦から一息に割るのがベストだそうで。
ばくゎん
割れた芋の中は想像だにしていない様なものであった。
218 :
女中と物書き:2007/03/31(土) 12:22:40 ID:4C3xnXkz
「腐ってるわけじゃなさそうですねぇ」
「離乳食のようだな」
割れた芋の中には粥のようなドロドロとしたものが詰まっていた。
一息に割れたので零れず、椀のようになった芋に収まっている。
「いただこうか」
「お茶、煎れますね」
唯一得意のお茶の極みを渡された。
蓮華で掬い口に入れると、素朴な感じの仄かな炭水化物の甘みを持った懐かしい味が広がった。
「旨い…」
「おいしいですねぇ♪……あれ?」
「旦那さん、泣いているんで?」
母がまだ、生きていた頃を思い出した。
219 :
森蔵:2007/03/31(土) 12:24:08 ID:4C3xnXkz
人類失格はもうしばらくしたら…
>>219 乙です。あいかわらず、何が起こっても動揺しない物書きと女中さんwww
岸上さんというだけで総てが免罪符になっているのでしょうか?
それとも二人が真性なのでしょうか?今後の展開が楽しみです。
>222
dクス。
けどそういった「特殊性癖ネタ」は氣薄なので基本はここかあそこに落とします。
正直、明らかに純粋ネタが出ない俺ガイルOTLタハー
…一応、ドど遅筆なので期待しないで下さい。
保守
他スレで投下したものの続きはダメ?
>>225 いや、前例があるからOKだと思う。
ただ、前半がどのスレにあるか書いといて欲しい。
227 :
225:2007/04/18(水) 16:23:09 ID:i2Tk3jGc
>>226 ありがとう!
でも前のスレにも一言断ってからの方がいいよね。ちょっと考えてみる!
なんとなく書きたくなって書いた。
エロはあるけど、「どうよ俺の厨設定」がメイン。
全14レス
魔を討つため、魔に堕ち、魔を断つ。
我が名は魔剣オールオーバー。
我は、魔を絶つ剣。
我が名は魔剣。
声が、聞こえた――ような気がした。
私は、それが気のせいだと確信するため。目下、潜入捜査中である、街でも有数の貴族の蔵の中を見渡した。
貴族のくせに、蝋燭の一本をケチるのは、彼の商売人根性からくるものであろう。
その性質は、普段ならば同調するところだが。今は別だ。
広さはあるかわりに、ランプを向けていなければ、全くの暗闇になってしまう土蔵の中はひんやりとしていて。時折、どうしようもなく背筋に悪寒が走る。
――怖い。
意地を張って、部下を置いてくるのではなかったと後悔した。
貴族の娘だからと、コネで軍警察に入隊したお嬢様と思われるのが癪だからといって。潜入捜査に一人で来るのはまずかった。
かなり怖い。
暗い部屋の中、ジメッとして冷たい室温、その上――幻聴。
気絶していないでいられるのは、意地のおかげといって過言ではない。気を抜けば、今にも倒れてしまいそうだ。
しかし、こんなところで倒れれば何を言われたものか。
暗い蔵が怖くて、幻聴が聞こえたから倒れた――それでは、私を<お嬢様>と嘲る連中の言葉を肯定することになってしまうではないか。
「……フ」
そうだ、怖がってはいられない。
それに
「フ、ハハハハ」
何が怖いことがある。
恐れるから怖いのだ、恐れなければ全然怖くなどない。
ああ、そうとも。
たかだか、蔵の探索じゃないか。
……そう、自らに言い聞かせて、探索を再開する。
今日の私の任務は、貴族が所有する<アーティファクト>を譲り受けることにある。
<アーティファクト>――過去、正式な記録は消失しているため、正確な所は分からないが。
現王家ができる以前とされているから、約三百年より以前。その頃栄華を極めていた、魔導文明その技術により創られた物。
正式名称<ロストスキルエンチャントアーティファクト>
その大半は日用雑貨、生活用品であり。
目を引くのは、自動昇降機や魔力充電式ランプなど、現在の技術では再現不可能なものであり。
そうしたものは、個人での所有が認められている。
生活の場で便利な物は、使用して当然。
人々の生活が豊かになるのを、軍警察も政府も禁止はしない。
けれど、中には危険な物もある。
銃弾の装填なく撃てる銃や、放てば間違いなく敵を貫く矢、魔人を召喚するランプ、外なる神を呼び出す輝石。
まるで御伽噺のような代物の使用例が、国史に記されている。
そう御伽噺、そうとしか思えぬ伝説もある。
雷を自在に操る勇者、異なる世界へ繋がる門、魔剣を操る白き王と黒き獣。
御伽噺はいつもそうしたものたちが彩ってきた。
しかし、今。
そうした、危険な<アーティファクト>を破壊してまわるテロリストがいる。
彼らは異形の獣を操り、<アーティファクト>を破壊するためならば、平然としてその所有者。時には無関係な者まで殺す。
故に、我ら軍警察は、そうした所有物を一旦軍警察に預けるよう言い渡しているのだが。自発的にもってくる者は、あまりいない。
だから、こうして、軍警察が直に差し押さえを行っているのだ。
私がここ、ジョアン・エルザ・フォスター男爵家を訪れているのはそのためだ。
しかし、何故、家の者もいないなか、こうして一人なのは。
この蔵が先々代より使われていない、ガラクタ置き場だからだ。
言われて、分かっていたとはいえ。
蔵の中は埃だらけ。
着ている軍警察の誇りの青と緑は、埃の灰色に上掻きされ。
髪も、なんだか、ベトベトして気持ち悪い。
……帰りたい。
湯でなくてもいい、洗いたい。そういえば近くに河があったな、水浴びすればどれだけ気持ち良いか……。
いや、考えるのはよそう。
今はここに何もないことを確認するのが先だ。
そう思って、いつの間にか腰掛けていた長い木箱の上から腰をあげた。
――と、そこへ。
「ここでいいんだな」
「ああ、そうだ。だが、我が家は何も隠してなどいない」
「それは、我らが判断することだ」
蔵の扉が開き、光と声が入ってきた。
誰の声だろうと見ると、まともに直射日光をみてしまい、目が眩む。
入ってきたのは二人のようだ。顔かたちまでは判らぬが。
「――なっ、なんで軍警察がいる」
「まだ、帰っていなかったのかね……」
この声は、
「フォスター男爵?」
この家の当主。
元商人にして、現在貿易管理局副局長補佐を務める者。
金で貴族になったと言われているが、彼の実績を考えれば、それだけではないことは明白だ。
彼がいたことによって、これまで敵対関係にあった隣国ロンギとの貿易が始まり、今では融和策すら考えられるようになっていた。
ロンギとの和平がなれば、公爵位を与えられることになるだろう。
私の父の友人でもある。
「すいません。もう少しかかりそうです」
私が中々出てこないこと心配して、来たのだろう――そう思ったのだが。
「聴いての通りだ、軍警察が一刻探索しても見つからなかった。それでも探すのかね」
元が商人だからだと、本人も言っている通り。
フォスター男爵はいつでもにこやかな顔と喋りをしている、それらと豊かな腹は、相手を安心させるのに有用な武器なのだと。
「ハッ、信用できるかよ」
目が少しずつ光になれてきた。
フォスター男爵の隣に居るのは、どうやら男、中肉中背といった感じの。
「つーか、女かよ。へへっ、オレもついてら」
その言葉にかちんときたが、相手の素性も分からぬのに、殴りかかるわけにもいかず。ぐっとこらえる。
その男は蔵の中にはいってきて、中を見渡した。
「スゲェな。ここにあるもん売り払ったら、幾らくらいになるんだろうな」
「ここにあるのはガラクタばかりだ、1ルドにもならんよ」
「そうかい、なら焼き払っても構わないよな」
その言葉に、私は耳を疑った。
「――なっ!? なにを馬鹿な。君はあるかどうか確認するだけだといったではないか」
「こんなかにあるのは、ガラクタだけなんだろ。ならかまわねぇだろ」
確かに、ガラクタばかりかもしれない。
価値のあるものはないのかもしれない。
しかし、それでも個人の所有物であり。ここには家の歴史がある。今では使い道のない、ものばかりかもしれない。
しかし、それだからといって、焼き払うなど。
それに、もし、ここに火がつけば。側にある母屋にも火が移るのはまず間違いない。
そのようなことを、赦すわけにはいかない。
「貴様」
腰に下げた剣の柄に手をかけた。
「本当にする気ならば、法王の名において、捕らえるぞ」
可能な限り声を低め、ドスを効かせた。
男は私の方を向くと、足から頭まで見た上で――笑った。
「知るかよ」
「なんだとっ」
その顔に下卑た笑いを貼り付け、男は私に歩み寄ると、無造作に私の顎を掴み。
まるで舐めまわすように、私の顔を見ると。
「綺麗な顔してるな。えッ、警察士さんよ」
「それがどうしたっ」
男の手を払い、距離をあけるため、飛びのこうとし――足を取られて転んだ。
「……っう。たた」
直ぐに立ち上がろうとした、その鼻先に剣の切っ先があった。
「――くっ!」
視線を、ゆっくりと動かす。
軍警察支給品と違う、婉曲した刀身。ぬらりとした油が塗られていた。
「動けば殺すぜ」
その剣を握っているのは、確認するまでもなく、あの男。
下卑た笑いは深く。
「やめないか。その子は関係ない」
フォスター男爵の言葉も通じず。
男は、
「ああ、そうだ。イエンド、そのオヤジをぶっ殺せ」
そう、蔵の外へと叫んだ。
その声に呼応し、
「Guwraaaaaaa!!」
獣の咆哮が聞こえた。
「なっ、待て、」
「フォスター男爵っ?」
蔵の外、光が遮られた。
大人三人くらいは横並びに入れそうな広さの出入り口を塞げるほどの巨体
――異形の獣。
その姿を見たとき、私は、喉が詰った。
それは、赤銅色の隆々とした筋肉を鎧い、人間のような四肢を持ちながら、頭がなかった。
ならば、先ほどの咆哮はどこから?
答え――隆々とした身体付き、その下腹部に口が存在した。
その口からは、黒い――いや色は判然としない涎が垂れていた。
「く、くるな、来るなぁ―――――」
フォスター男爵の叫び。
異形の怪物の背から、筋肉の隙間から、蛸のような触手が伸び、フォスター男爵を絡めとり、縛り上げた。
「やめろ、なにを…やめ」
触手に縛り上げられたフォスター男爵の身体が――
ベキッ
――有り得ない方向に折れ曲がった。
「フォスター…男爵……」
唐突な、突然の出来事に、思考が追いつかない。
異形の怪物が、その口腔を拡げ、頭から……
ぐじゃ、べき、あむ、めきき、ぐご
「イエンド、喰うなら、外にしろ」
男の言葉に、異形の怪物はおとなしく従った。
男は怪物を蔵から追い出すと、扉を閉めた。
蔵の外からは、絶えず、何かが捕食する音が聞こえている。
私は、男が扉を閉める隙に、立ち上がればよかったのに、なにも出来ずにいた。
ようやく、逃げないと――考えがいたった時には男が戻ってきた。
男は、私の腰から剣を抜くと、届かない場所に放ってしまった。
「んじゃ、するとすっかな」
男はベルトを外しながらそう言った。
「な…なにを……」
「ああ? 決まってんだろ」
ベルトを外し、ズボンを脱いだ男はそう言って、足を上げ。
「――ぐえっ!?」
私の腹を踏みつけた。
「蛙みたいな声で鳴きやがる」
男が笑いながら言うのが聞こえた。
突然のこと,上手く反応できない。
抵抗も受身も取れないで、呻くだけの私から足を上げると、男は私の足元に膝を付いた
男の手が、制服のズボンを下ろしていく。
抵抗しよう、抵抗しないとまずい――分かりながらも、行動できない。
――怖い。
剣に頼ろうと、剣をと、手を伸ばし絶望する。
そうだった、剣は奪われていた。
蔵の冷たい空気が脚を脅かし、脱がされたのが分かった。
怖くてみれないし、なにより灯りがないせいで、見えない。
唯一ある灯りは、男の側。
「へへ、可愛い下着つけてやがんな」
「――ひっ!!?」
男の手が、下着の上から私の下腹部を撫でた。
やめろ、触るな。
――声が上手くでない。
混乱しているのか、声の出し方が分からない。
どうすればこの状況から抜け出せるのかも。
「なぁ、おい」
男の顔が、側にあった。
息が臭い。酒と血とコールタールの臭い、不快な。
「痛くされたくないよな?」
私は反射的に頷いていた。まるで、そうしなければならなかったかのように。
男が笑った。
「痛くされたくなかったら、自分で脱げ」
私は、頷いた。
頬を熱いものが流れていた。
腰を抜かしていた私を、男は助け起こすと。まず、下腹部を覆う下着を脱ぐよう指示した。
私は、成す術なく、その指示に従い。下着を脱いだ。
「へぇ」
いやだ、見るな。
「いい尻してるなぁ、おい」
男の手が、私の尻を打った。
「ひっ」
悲鳴をあげ、その場に崩れる私に、男は
「んじゃ、上も脱げ」
と指示をした。
躊躇う私の太ももを、油で切れ味を増した婉曲刀の腹で叩いた。
冷たい鉄の感触と、粘液のような油の感触に、鳥肌が立つ。
恐れが、私の手を動かした。
上依を外し、鎖帷子を脱ぎ、下着を脱ぐと。
いまさらと分かりながらも、私は胸の登頂部を片腕で隠していた。
「……」
男が沈黙して、私の胸を眺めているのが分かった。
――分かっていながら、何もできない。
こんな時にどうすればいいのか、お父様も教えてくれなかった。
「でかいな」
男が、ぼそりと呟いた。
その言葉の意味するところに、私は顔を赤くしていた。
昔からこの胸が好きではなかった。
女そのものな錘。
実力主義の警察社会において、女性というだけで何度もさげすさまれ、何度となく嫌な目にもあった。
男の油ぎった手が伸びてくる、払おうとして、絡め取られ。敢え無く、男の手が、胸を掴んでいた。
「本当にお前警察士かよ、娼婦じゃねぇの?」
ニヤニヤ笑いながらいう男に、私はなんの反論もできなかった。
男の手は私の胸を揉む、などという生易しいものではなく。まるで、親の仇のように、握りつぶそうとしているかのようだった。
痛い。
爪をたてられ、その部分がじんじんと傷む。
何がしたいのか、男は私の胸を捻った。
「――っ!?」
痛い、痛い、いたい。
どこまでも痛いだけ、なのに
「あ? 乳首勃ってるぜ、感じてんのかよ」
そんな勘違いしたことをいってくる。
「気持ちいいんだろ、なぁ?」
硬くなった乳首がつままれ、爪で抓られる。
「――――やめてっ!」
思わず、気づけば声が出ていた。
その声に、男が一旦手を離した。案外、気の小さい男なのかもしれない。
「な、なんだよ。でかい声だしやがって」
へへっと男は笑った。
「……胸触られるのは嫌なのかよ? こんなやらしい胸してるくせによ」
私は何か言い返そうとしたが、嗚咽しかでなかった。
涙が止められなかった。
嫌だ、なんでこんな。なんで私がこんな扱いを受けなければならないのだろう。
その泣き声が、男の神経を逆なでしたのか。
どんっと肩を押された。
「――っ」
先ほど座っていた箱の上に押し倒された。
箱の冷たい感触に、凍える。
男が私の脚を掴み、開こうとする。
私は抵抗しようとし――敗北。
「いやぁ」
脚が開かれ、見られたくないその場所が露になる。
それだけでも、苦痛なのに――
「く――っ!」
男の、脂ぎった指が、私の秘唇を割り、押し込まれた。
「濡れてねぇな」
つまらなさそうな声で、男が理解不能な言葉を吐いた。――死ね。
男の指先が、私の膣を掻き回す。
爪が薄い皮を削り、拡げるためかぐいぐいと何度も押される。
体が、痛みに抵抗するため。異物を吐き出すため。潤滑液を排出しはじめるのが分かった。
それを、なにを、勘違いしたのか。
「へへっ、ようやく感じてきたか」
男はそんなことをいった。
怨嗟で人を殺せるなら、私は、今この男を殺せる。
憎しみが沸く。
憎悪が猛る。
指が唐突に抜かれた。
男のシルエットが、私の視界にを覆う。
強く、
強く、
強く睨み付けた。
なのに、男は怯まない、怯えすらしない。それどころか、笑った。
私の表情を愉しむ、嘲るように、男は笑い。
「いくぞ」
意味不明――理解したくない言葉を言った。
言葉、意味、行動。
痛めつけられた局部に、男の何か――おそらく汚らしく、不浄な物が押し当てられた。
それが、
「いやあぁぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁあっぁaaaaaaぁぁぁぁぁ!!!」
――何か。
なに?
これは、 いや。
やめて
やめて
やめて
何かが、私の中に入ってくる。
何かが、私の中に侵略してくる。
越えてはならない――少なくとも、こんな男に、こんな奴に――、一線が陵辱されるがままに、踏み越えられた。
それが、理解した瞬間。体が力を失った。
「処女かよ」
男が何かをいった。
「マジでついてんな、オレ」
私は、その言葉に、万感の怨嗟を込め。
「貴様は、死ね」
言った。
涙が留めなく溢れる。
これが現実だと、思いたくなかった。
こんな目に合わされているのに、なにもできない自分を憎悪した。
男は私を幾度となく揺さぶり、私を陵辱していく。
口から泡と喘ぎを漏らしながら狂喜する男、その指先が、私の胸を押しつぶす。
ぐちゃっ、ぐちゅ、ぐちゅちゃ、ぐっちゃ、ぐっちゃ。
私の体がそんな音をたてる。
膣から、なにかが溢れ出していた。
――声が、聞こえた。
***
我が名は魔剣。
魔を討つため、魔に堕ち、魔を断つ。
我が名は魔剣オールオーバー。
我は、魔を絶つ剣。
汝、力を求めるか?
汝、魔を憎むか?
汝、
***
――声が聞こえた。
それは幻聴。
こんな目に合わされながらも――こんな目に合わされているから、言える。
そんな、私に都合のいいことは起こりえない。
私は貴族の家に生まれた。
一人娘、男子はいない家系。父は口癖のように繰り返す。
『お前が男だったらな』
私はその言葉に抗った。
男でなくていい、女の私でもいいとお父様が満足してくれるよう。
だから、軍警察に入った。
男に負けないため――なのに。
「くっ、すげ、絡みついてきやがる」
なのに、この展開はあんまりじゃないか。
なんで私が……
希望を打ちのめす、最悪の展開。
ご都合主義の打開など起こらない――――――――死にたい。
――汝、力を欲するや?
うるさい。
幻聴は消えろ。
そんな、都合の良いことがおきるわけない。
男は私をひっくり返し、うつ伏せにすると、再び挿入。
――そう、奇蹟は起きない。
なら黙ってろ。うるさい。
私を助ける力がないのなら、黙ってろ。
――そう、我には汝を救う力はない。
なら
――汝が汝を救うための、力にはなれる。
私は、その幻聴を冷笑し、その上で。
そこまで言うなら、助けて……ううん、力を貸して。
その幻聴の話に乗った。
――心得たり。
――我が力、用いたければ、我が名を呼べ。
――我の名を、
「……ぃ、」
掠れる声を奮い立たせる。
「それは叫び、それは痛み、それは涙」
「あ? なにブツブツ言ってんだ?」
「その切実なる願いに応え顕れ、魔剣オールオーバー!」
***
それは誓い。
それは契り。
それは聖約。
彼を封滅していた棺に血が流れたとき、彼は覚醒する。
今、血流す。傷つく人の呼び声に答えるため。
彼は喚起する。
魔術的封印の施された棺が、解け、内部に納まっていた剣が起動する。
八つに裂かれたその刀身が、繋がり、結ばれ、剣を成す。
それは両刃の剣。
それは血を浴びながらも、魔に堕ちぬ意思を持つ剣。
それは魔を断つ剣。
我が名は魔剣。
魔を討つため、魔に堕ち、魔を断つ。
我が名は魔剣オールオーバー。
我は、魔を絶つ剣。
***
気づけば、手の中に堅い感触があった。
「これは……」
私の手が、まるで独立した意思をもつように、手が動いていた。
「これが……」
うつ伏せの体勢。手が動く。背後に憎むべき悪がいる。手が動く。硬質な感触、眠っていた旧い冷たさ。手が動く。
手が動き、腕が押し込む。
「なっ――!!」
呻きが聞こえた。
手の中に剣があった、その剣は私の脇を通り過ぎ、背後にいる男へ伸びていた。
鏡のように研きぬかれた刀身に、血が滑る。
男の体が、ゆっくりと倒れこんできた。
もの言わぬ重さが、私の身体にのしかかる。
「……うう」
その重さから逃れるため、私は男の下から這い出た。
「くっ……あ…んっ」
這い出、立ち上がり
「…………」
――自分の成したことに、慄然とした。
この男は、確かに自分を犯した――それは、報復に殺してかまわないような罪なのだろうか?
私は考える。
状況に対して、頭が酷く冴えていた。
私は――
その時、悲鳴が聞こえた。
蔵の外から、誰か、女の人の恐怖に満ちた声。
思い出す、蔵の外に異形の怪物が立っていることを。
そして、仮定する。
この男、私が殺した男があの組織の一員ならば。あの異形の怪物と男の間には、盟約が存在したはずだ。
死が二人を別つまで、契約者は異形の怪物を意のままに操れる。
それが盟約の内容。
それが破棄されたとき、契約者が死んだらどうなるか、それは簡単だ。
――暴走。
人間という理性のギアスが存在しているならまだしも、
異世界より召喚されると言われている、異形の怪物どもは、この世界において破壊を繰り返す。まるでそれが、自分たちの使命だというように。
故に、あの異形の怪物を殺すならば。
契約者を殺す前でなければならない。
契約下にない異形の怪物を殺すには、三個中隊以上の部隊が必要。
悲鳴が聞こえた。
私は、無謀と分かりながら、蔵から飛び出した。
服は――いや、そんな時間などない。
蔵から出ると、フォスター男爵自慢の庭が赤く染め上げられていた。
使用人、近衛兵の死体の名残が、あちこちに散乱している。
異形の怪物は今も、メイド服姿の少女を食らおうとしていた。
私は駆けていた。
「やめろぉっ!」
駆けてから気づいた、剣は男の腹に刺したまま。
今の私には武器などないことに、しかし――
「せりゃぁあっ!!」
――勢いをつけ、片足で地面を蹴り、怪物を殴りつけた。
「――っ」
だが、私の軟な拳で怪物の隆々とした筋肉には通じず――筋肉の谷間から、触手が伸び、腕を絡め取り、捻りあげた。
「ぎっ…あぁぁぁっ!!」
しかし、そのおかげで。
怪物の注意は私に向き、少女は解放された。
私は顎をしゃくり、少女に逃げるよう指示する。
少女は一瞬迷ったようだったものの、一度頭を下げると逃げ出した。
後は、私が逃げるだけ……でも、無理そうだ――いや。
私はあることを閃いた。
まるでそれが出来て当然、
まるで以前からそのことを知っていたかのように。
口が動いていた、
「それは叫び、それは痛み、それは涙。……その切実なる願いに応え顕れ、
魔剣オールオーバー!」
私の声に喚起され、手の中に――在る。掴み、握り、
異形の怪物は、捕食しようと私を口へ運ぶ。
剣をその口へ向ける、勢いは充分――
「Gugyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa」
怪物の咆哮。
口腔に突き刺さった剣を抜く、黒く濁った血が溢れる。
触手の拘束が弱まり、触手を切り払いながら、体勢を整える。
血に濡れた剣を構えなおす。
重さは感じない、手に馴染むその感触。
一糸纏わぬ身は、血で濡れている。
私は人を殺した。
もしかすれば、他の解決法があったかもしれないのに、私は人を殺した。
だから、私が言える言葉ではないのかもしれない。
だけど、
この惨状はどうだ?
人が殺され、嬲られるがまま。
このような非道を、悪を赦していいのか?
――否。
断じて否。
罪が裁かれなければならないように。
悪は滅びなければならない。
しかし、私も人を殺した。人を殺したものが悪だとするならば、私は悪。
憎むべき性質の者ども。
それでも……
――迷いは剣を鈍らせる。
……迷っている間に人が死ぬというのなら。
今は、悪でもいい。
――悪を憎むか、ならば
悪を討にのに、悪をにならねばならないというのなら、私は悪に成る。
――唱えよ。
「私が名は魔剣」
深く旧く陰鬱な祝詞が聞こえた。
「悪を討つため悪に堕ち、悪を断つ。私が名は魔剣オールオーバー」
獣の咆哮が聞こえた。
世の理に逆らいしものどもの咆哮が。
「私は、悪を絶つ剣! 貴様等悪を、裁く者也!!」
血に濡れていた剣が、光を放つ。
無数の触手が迫る。
その動きが、全て理解できた。
魔剣の契約者に施される魔術、超反応。動体視力が極限にまで拡大される。
声が聞こえた。
――肉の器しか持たぬ者よ、走れ。持久戦に持ち込まれては、勝算が崩れる。
その声に、私は従った。
言われずとも、それを理解していたからだ。
あの男に陵辱された精神的な疲れがきているのか、身体が重い。
さっき、一撃で決めなかったことが悔やまれる。
けれど、後悔は――後だ。
走る/走る/迅る
触手の連撃――当たらない。
先ほどの一撃が効いているのか、怪物の攻撃は目暗撃ちもいいところだ。
身体が高揚していく/理解が超越する/意識が咆哮。
――今だ、跳べ。
「ああ!」
地面を蹴る。
隆々とした筋肉を蹴り、更に跳躍。
剣を振り上げ/剣を掲げ/高らかに/雄雄しく――叫べっ!
「ゼヤァァァァァァァァァァァァァッァァっ!!」
そして、振り――
――降ろせ。
剣が血飛沫をあげ、肉を引き裂く。
獣は、断末魔をあげることすらできず、断たれる。私によって。
地面に降りた私の上に、両断された獣の死骸が倒れてくる。
剣をかざし、防ごうとし――失敗を理解したのは、押しつぶされたときだった。
***
目覚めると、私は気を失う以前とは異なる場所にいた。
どこだろう、ここは?
白い壁、白い天井、ここは……病院?
私は身体を起こそうとし、柔らかいベッドに手をついたが――失敗した。
ベッドの上に再び倒れこむ。
身体が酷く重い、頭が穿たれるように痛い。
「あ、ようやく起きましたか」
声。
幼い声、誰だろう?
ベッドの脇に声の主が来て、ようやく誰だか理解する。
「ジョシュア?」
「はい」
金髪の少年が花のように微笑み、頷く。
「全然目を覚まさないから、死んでしまったかと思いましたよ」
「はは、それは、心配をかけたな」
「ええ、全くです」
ジョシュアは起き上がろうとした時にまくれた毛布をかけなおすと、手ぬぐいを拾いあげ。
「でも、ほんと、無事でよかったですよ。騒ぎを聞いた近所の人が通報で、行ってみたら。
怪物の下敷きになった先輩がいたんですから。それも怪我一つしてないっていうんですから」
「運がよかっただけだよ」
「そうですよ。これからは、一人で戦おうとしないでくださいよ。先輩が死んだら、みんな悲しみますよ」
「そうかな」
「そうです」
ジョシュアは力強く頷くと、
「水飲みます?」
「いや」
「何か食べますか?」
「いや、いい」
「そうですか。じゃあ、手ぬぐい絞ってきますね」
「ああ、頼む」
病室から出て行くジョシュアを視線で見送り、私は息を吐いた。
ジョシュアが悪いわけではない、疲れているのか、喋るのすら辛い。もう少し、眠っていたい気分だった。
目を瞑る。
眠りは自然と訪れた。
眠りの直前、私は不意に考えた。
そういえば、あの剣はどうなったのだろう?
「それは叫び」
私は、呟いていた。
「それは痛み、それは涙。その切実なる願いに応え顕れ。魔剣オールオーバー」
手に、硬質な感触は感じなかった。
魔剣は顕れなかった。
私は、それを少し残念に思いながらも。
私同様、あの剣も疲れているのだと。
魔剣。
魔を討つため、魔に堕ちた、魔を断つ剣。
魔剣オールオーバー。
魔を絶つ剣。
今は眠れ、再びその力が必要となるまで。
おしまい
いやあ、オナニーって気持ちいいものですねえ。
>>243 なかなかおもしろかった
ただちょっと、漢字が多くて読みにくい。
難しい漢字をひらがなに直せば、かなりいいんジャマイカ?
充分エロいというか、かっこよくて好きだ
漢字使いは俺は気にならなかった
人それぞれだね
246 :
243:2007/04/26(木) 08:44:31 ID:o1pijXQn
レストン
ついでに訊きたいんだけど。
なんとなく、このスレに投下したんだが。
本来ならどこのスレに投下すべきだったんだろうか?
マスタースレイブが
マスタースレイブが読みたいよ神様!
いやあ、オナニーって楽しいものですね。
全1レス
肝試しをしようという話になった。
なんでそんな話になったのかは、いまいち思い出せない。その場のノリというヤツだ。ここが学校であり、今が夏であることも、その要因の一つだろう。
まあ、とにかく。肝試しをすることとなったのだが。
「意外とつまらないね」
あたしのともだちであるユーコが呟いた。人気のない廊下にその声が反響する。
「そうかな」
腕を組んで、考えてみた。でも
「たのしいよ。かくれんぼよりは」
「えーっ、かくれんぼの方が楽しいよ」
「だって、あたしたち以外にかくれんぼなんて、してる子いないよ。もう」
ユーコはフフンと鼻を鳴らした。
「だからいいんじゃない。まいのれてーってやつよ」
指をくるくる振る。その仕草は、ユーコお得意の、オトナのヨユー。でも
「まいのれてーじゃなくて、マイノリティーだよ」
舌っ足らずなユーコは、いつになっても、いくら教えてあげても横文字が言えないのだ。
ユーコはぽっと赤らむと。
「うるさい、うるさい、うるさいっ。知ってるわよ。まいのれて、まいのれていーでしょ。まいのれていー」
きゃんきゃん騒ぐユーコを適当にやり過ごしていると。
「あ、来たよ」
廊下の向こうから懐中電灯のビーム浴びせられた。その向こうに、あたしたちと同年代の二人の少女。あたしはユーコの口を塞いだ。
二人の少女は口々に
「ねぇ、だ、大丈夫だよね」
「だいじょうぶだよ、へーきだよ」
「でも、さっき、みきちゃんの悲鳴が聞こえたよ」
「みきちゃんは、ほら、怖がりだから」
言い合いながら、暗い廊下を進んでいく。
あたしたちは天井から床に降りると、二人の背後に忍び寄り。肩を叩いた。
「え」「ひゃっ」
二人は同時に、バネじかけの玩具のように振り返った。
「い、いま」
だけど
「う、うん。……でも」
彼女たちには
「誰もいないよ」
わたしたちは、見えない。何故なら――
二人の少女が顔を見合わせる、その顔が恐怖に歪み。
『きゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』
絹を裂いたような悲鳴がをあげて、走り去っていく。
「ね、楽しいじゃん」あたしが言う。
ユーコはつまんなさそうに口をすぼめると
「つまんないよ、人を驚かせるのなんて。かくれんぼのほうがたのしいよ」
「またいってる」
あたしはくすくす笑うと。
「ほら、次の子が来るよ」
そういって、次の子たちを待って、二人のおばけの少女たちは言い争いを止めた。
おしまい
ほのぼのとしてていいね GJ!
ところで
>>229からの作品なんだけど、
あんだけ投下していて投降規制かからなかったのかな?
「ばいばいさるさん」とか。
違うスレで書いているんだけど、規制がかかりまくってたまらん。
なんか秘訣あるのかなあ?
さるさん規制は途中から緩和されたはずだから、そのせいじゃないかな。
エロパロのさるさんは先週解除されましたよ。
253 :
-戯画-:2007/05/02(水) 07:08:09 ID:IcSUHnvb
私の家は洋館のつくりと武家屋敷のつくりが半々の奇妙な形をしている。
地下には狭いワインセラーがあり、庭の隅には小さな蔵もある。
先日、その蔵の整理をしていたら絵巻物が出てきた。
「古そうな巻物ですねぇ。鑑定団に出しましょうよぉ」
「キミは先ずそれか」
紐解いてみれば、縁の黄ばんだ和紙に墨で大きな円が描かれているだけだった。
「なんですかねぇ?」
「こういう作品も見たことはあるけどなぁ…」
そうしている内に、円の中心からは墨が滾々と湧き出してきていた。
「あいやー、戯画だったかぁ」
「なんですかそれ?」
「古い事は古いけど鑑定団には出せないねぇ」
何故、と朱佐多君が首を傾げた。
円はいつしか墨の池になり、池には幾匹か鯉が泳ぎ始めている。
「見ていればわかるよ。滅多に見られるものではないから、しっかり見ておきなさい」
「はーい先生♪」
余談ではあるが、私は物書きであるのに誰からも"先生"と呼ばれたことがない。
朱佐多君も担当からもだ。
"先生"とはもっと売れなければ呼ばれない、最高称号のようなものなのだろうか。
254 :
-戯画-:2007/05/02(水) 07:10:13 ID:IcSUHnvb
「でも、確かにこんなもの他じゃ見ないですよね」
「数自体が少ないんだ。"戯画"は一人の絵描きが一生を掛けて完成させるからね」
"戯画描き"は先の10年で自分専用の筆を作り、次の20年で特殊な墨をする。
あとはもう、死ぬまでその巻物に向かい続ける、一子相伝の技法である。
"戯画描き"は戯画以外に絵は残さず、戯画を描くためだけに生きる。
長生きした"戯画描き"程、絵のスケールが大きい。
「江戸時代中期に極められたこの技法で先代まで描き続けられたんだ」
「今も作ってる人がいるんですかぁ?」
「いや、今はもういない。先代でこの技術は途絶えてしまったよ」
「それは―――
「ほら、よく見てごらん。恐らくこの戯画を最後に…」
この戯画を最後に、二度と見ることは無いだろうから。
墨池からは葦が伸び、その先に蜻蛉が幾匹か留まっている。
白鷺が飛んできて、岸に降り立った。
首を伸ばして足下を突つくと、そこから蔦が伸びだした。
命の奔流。
ばる。
ばるばる。
蔦やシダからは巨大な華が咲き、白灰色の鮮やかな実が生り
熟した実からまた新たな芽が出、次の世代が生まれていく。
255 :
-戯画-:2007/05/02(水) 07:10:58 ID:IcSUHnvb
やがて湧き出す墨が止まる。
生命の絵。
輪廻の縮図。
言葉には出来ない、圧倒的すぎる躍動。
「……凄い…」
朱佐多君はまるで小学生のように目をキラキラさせて巻物を覗き込んでいる。
「見納めだ」
戯画が育つより遥かに早いスピードで枯れ始めた。
ひび割れ剥がれ落ち、只の真っ白な巻物に戻っていく。
「なんで今は描かれてないんですかぁ?」
「私に絵の才能が無かったから、先代が私を勘当したんだ」
お久しぶりです
新しい生活に慣れてきたので再開します
>>256 お疲れ様です。作家さんの正体が少しだけ分ってきましたね。
中国の伝説の様な雰囲気です。
続きを楽しみにしてます。
マスタースレイブ
番外続編
投下させていただきます
耳に心地よい談笑が聞こえた。
もう、随分と慣れてしまった、シリクとリョウの話し声である。
また、ろくでもない事で笑い会っているのだろう。リョウがここに来てからと言うもの、こ
の家は静寂を失った。
いつもリョウが笑っているか、怒っているかしている。
「あ、トレスが起きたみたい」
ふと、シリクに名を呼ばれ、トレスは完全に目を覚ました。
先日治療に使用したソファに、リョウと並んで座ってるのだろう。
いつもの癖で天窓を見上げ、時間を計る。
「今日は……随分、早いな」
シリクはいつも、トレスより十分は遅れて目を覚ます。
トレスが朝の身支度を全て整えた頃に、ようやく目を覚ますのである。
「おはようトレス。今ね、シルクと花言葉の話してたんだ。知ってるかな?」
「花言葉……?」
「聞いた事あるだろう? 人間は、花に一つ一つ意味を持たせるんだよ。それで、ためしに聞
いてみたらこれが結構面白くてさ」
花に、意味か。
そういえば昔、少し興味を持った事がある気がする。
「詳しいのか?」
「うん。好きなんだ、花言葉。それでね、前にベロアと、毎晩花を一輪交換し合ってその日の
気持ちを伝え合うって遊びをしたんだ。花を贈るんだったら、恥ずかしい事も平気で言えるで
しょ?」
「花を贈りあう事事態、そもそも恥ずかしいけどね」
それはまぁ、そうなんだけど、とリョウが唇を尖らせる。
ふと、思う事があった。
戯れに聞いてみる。
「夜幻鏡は――」
「え?」
「夜幻鏡の花言葉は、なんという」
リョウが驚いたようにトレスを見、それからうーん、と腕を組んだ。
「なんだっけ……待って、思い出す」
分からないのならばいい、と言おうとした瞬間、リョウがあ、と手を叩いた。
「“私に構わないで”だ」
思わず、苦笑した。
もうひとつ、とリョウが人差し指を立てる。
「“私を見つけて”」
シリクが小さく吹き出した。
「なんだか、正反対だね」
「うん。ずっとなんでだかわかんなかったんだけど、この前やっと分かった。毒の針があるんだね」
いやぁ、危なかった、と頷き、トレスを見る。
「そう言えばさ、あの時、触ってたらどうなってたの?」
「夜幻鏡か?」
「うん」
「さて――暫くは幻覚を見るだろうが、概ね、問題は無い。一晩は気を失ったまま目覚めんだ
ろうが、命に別状があるものではない」
なぁんだ、とつまらなそうに言い、リョウはカップに手を伸ばした。
先ほどから強く感じる、甘いハーブの香りの元である。
「それは?」
「リョウちゃんが森でハーブを取ってきたんだよ」
「……森に入れたのか」
「怒るなよ。ちゃんと僕がついてた」
咎めるように言うと、シリクが軽く肩を竦めて見せる。
「トレスも飲む? ……って、同じ体なのにカップ二つ出すのも変か」
ややこしいなぁ、とリョウが眉間に皺を寄せる。
眼前に置かれたカップを手にとって、トレスはハーブティーを傾けた。
「酸味がきついな」
香りとのギャップに驚くと、リョウがくすくすと笑う。
「体にいいんだよ」
そう言って、カップの中身を全て飲み干した。
「これも、噂のベロアが教えてくれたのかい?」
「そうだよ。僕、学校に行ったことないから、勉強も料理も全部ベロアから習ったんだ。だか
らね、ベロアは僕のお父さんで、お母さんで、お兄ちゃんで、それでね、僕たち恋人なんだ」
心底幸せそうに、誇らしそうに語る。
ベロアは僕の全部なんだ、と言い切ったリョウの言葉に、トレスはふと、昨晩の事を思い出した。
そんなにも大切な男を裏切ってまで、この少女はトレスを拒絶する事を拒んだ。
シリクがリョウの頬をつついて、のろけるのはよそでやってくれ、とからかうのを見つめな
がら、トレスは静かに切り出した。
「昨晩――」
「うん?」
たっぷりと沈黙を挟んで、諦めたように溜息を吐く。
「――すまなかった」
意外そうな顔をして、リョウはトレスを凝視した。
謝罪など、関係の存在しない我々には無意味だと切り捨てたのは誰だったか――。
「謝罪は、無意味なんじゃなかったの?」
にぃ、と口角を持ち上げて、リョウが意地悪く笑った。
「“謝罪とは、関係を修復する行為”だから、そもそも関係の存在しない僕たちには、意味がな
いって――言ったのは誰だったかなぁ?」
「うわ、トレスそんな事言ったの?」
「僕はいたく傷ついた。で、仕返しにトレスをお風呂に落とした」
思い切り吹き出して、シリクが声を上げて笑った。
なるほど、それでか、それじゃあ仕方ないと頷いて、よくやったとリョウを褒める。
ふふん、と自慢げに笑い、リョウはふと、トレスに片手を突き出した。
「仲直り」
特に、いさかいを起こした覚えも無いのだが――。
トレスが躊躇していると、リョウが無理やり手を握ってぶんぶんと上下に振った。
「これで、僕たちはもう無関係じゃないんだよね?」
「宿主と寄生虫程度の関係にはなったやもしれんな」
どうしてそういう言い方をするのだと、リョウが声を荒げてトレスを責めた。
シリクが楽しげに声を上げて笑う。
認めなければならない。
トレスはきぃきぃと文句を言うリョウの髪に指を絡ませ、感触を楽しむように軽く撫でた。
「な、何?」
リョウを森で拾ってから三日になる。
執着を覚え始めていた。リョウが幸福そうに語るアイズレスの元になど、帰したくない程に。
「お前は、何故旅をしている」
突然の質問に、リョウが面食らって言葉を詰めた。
腕を組んで顎に手をあて、困ったようにううんと唸る。
「さっきシリクにも話したんだけど……知らないんだ、僕。北に向かってるのは知ってるんだ
けど、なんでかはわかんない」
「理由もわからず、過酷な旅路に身を置いているというのか……アイズレスが共とはいえ、北
には凶暴で餓えた獣やモンスターも多くいる。恐ろしいとは思わんのか」
「そりゃ、怖いよ。野宿すると森から変な声聞こえるし、今みたいに、迷子になってベロアと
はぐれちゃうこともあるし……」
でも、と繋いで、リョウは何かを思い返すような表情と共に微笑んだ。
「楽しいよ。見たこと無かった物いろいろ見られるし、仲間も増えたんだ。ハーラって言って、
歌姫なんだけどね。最初はベロアと二人っきりだったんだけど、森で会って、いろいろ話して、
それで、ベロアが物凄く反対するの押し切ってさ、一緒に北に行く事になったんだ」
す、と眼帯に手を触れて、次いで服の上から心臓の辺りに手を添える。
「ハーラは片目を怪我してて、凄く辛そうに泣いてたから、僕の目をあげたんだ。知ってる?
主従の契約。難しい手術なんてしなくても、僕が“与える”事に同意すると、勝手に相手にそ
れが与えられるんだ」
「主従って……ッそれじゃ、君は歌姫を使役してるのかい?」
驚いたように、シリクがリョウに問いかけた。
リョウが軽く頷くと、シリクが愕然として息を呑む。
「……それじゃ、まさか、アイズレスも……」
シリクの驚愕に、リョウが怪訝そうに眉を潜めて問い返した。
「そうだよ……? 昨日そう言ったじゃないか。手紙にだって書いてあったし、シリクだって
みたでしょ?」
「どういう事だ。話が見えんぞ」
「昨日、君が寝てる時にアイズレスからの手紙を見せてもらったんだよ。街道沿いのキャンプ
に埋めてあったんだけど――」
――僕はベロアのご主人様だからね。
何気なく言われたその言葉を、シリクは冗談か――あるいはベロアとリョウの間だけで通じ
る特別な遊び言葉か何かなのだと受け取った。
アイズレスを使役する事は、一国の王ですら難しい。
アイズレスは気まぐれで、平然と人の思考を読み、自分の好みや利害の一致が見られなけれ
ば決して契約に応じないからである。
無論、対象の意思を無視して無理やり従僕に下す方法が無いわけではない。
だがアイズレスは狡猾で賢しく、人の罠に落ちて縛られる事は決して無い。
話を聞く限り、ベロアはリョウの保護者のような物である。幼い頃から共にいて、無条件に
全幅の信頼を置く人間の少女に対し、契約に縛られてまで一体何を望むというのだろう。
トレスには――シリクにさえ理解できなかった。
とても、リョウがアイズレスの望む物を与えられるとは思えない。
「な、何? この、やたらと深刻な雰囲気。おちつかないなぁ」
「何って……リョウちゃん、アイズレスだよ? それを使役してるってだけで、各国の参謀が
君を傍に置きたがる。契約に縛られてる限り、従僕は主の命令に絶対服従なんだ。君は国同士
の戦争に必要不可欠な頭脳を“使役”してるんだよ?」
「そ、そんなの……知らないよ! 僕、ベロアに命令なんて出来ないし……ベロアとの契約は、
僕が物心ついた頃からしてるんだ。今更そんな風に言われたって――」
「――従請契約だと!」
リョウの言葉を遮って、今度はトレスが愕然と問い返した。
リョウが目を丸くして、聞きなれぬ言葉に思わずどもる。
「じゅ、じゅうせ……?」
「主が従僕を求めるんじゃなくて、従僕が主を求める形式の契約の事だよ。条件契約なら、
“これをくれたら、これしてあげる”って感じでわりとよくあるんだけど、従者の一生を主に
委ねる主従契約でこの形式が行われる事はほとんど無い」
しかも、何の変哲も無い人間の少女と、アイズレスである。
「信じられないな……ベロアは一体……君に何を望んだんだい?」
「わ、わかんないよ……! だって、ベロアが僕の従僕だって知ったのだって最近なんだ。そ
んな、別に特別な事なんて、なにも……」
“与える事に同意すると”と、先ほどリョウは当然のように言ってのけた。
それならばきっと、歌姫との契約もリョウが持ちかけたのではなく、歌姫から持ちかけたも
のに違いない。
奪い返しに来る。
確信を持ってそう思った。
人間同士ならいざ知らず、異種族感で行われる従請契約の場合、従者が主に心酔している可
能性が極めて高い。
主である存在が無力で平凡ならばそれ程に、従者は無条件に主の存在自体に異常な執着を抱
き続ける。
不安げに、リョウが服の胸元に握り締めた。
多くの場合、主は従僕に物理的な報酬を支払う。
それは、その報酬を支払ってしまいさえすれば、その先決して主が契約をたがえる事は無い
からだ。
契約する以上、主も従僕と同様、契約に縛られる事になる。主の方から契約をたがえれば、
当然代償が付きまとう。この時に主が従僕に差し出す物は、多くの場合従僕が決める。
ベロアがリョウに何を望み、リョウはベロアに何を与えたのか――それが物体で無い場合、
リョウはこの先、知らずに契約をたがえてしまう事もあるだろう。その時ベロアは、リョウか
ら何を奪うのか――。
「そ、そんなに不安そうにしなくても大丈夫だよ、リョウちゃん。だって物心つく前から契約
してて、今まで何も無かったんだろう? だったら契約内容なんて知らなくても、この先なに
も変わらないさ」
食えない男だ、と思った。
ベロアと言う男は、主であるリョウに契約内容を伝えていない。それはつまり、内容を知ら
なくても契約の維持に問題が生じないか、あるいは契約内容を知る事で契約の維持が困難にな
る事をアイズレスは悟っているのだろう。
そうでもなければ、リョウが契約をたがえ、その代償を得る事を目的としているか――。
「なんか、急に不安になってきた。僕、今まで当たり前にベロアに甘えて、頼ってきたんだ。
凄く沢山わがまま言ったし……どうしよう、僕、ちゃんとベロアが欲しがる物あげられたのかな?」
一瞬、トレスは凍りついた。
まさか――と思う。まさか、この少女は――。
「貴様、主従の契約について何処まで知っている」
きょとんとして、リョウは怪訝そうにトレスを見た。
「どこって……欲しいって言われた物をあげる代わりに、従僕になってもらう契約」
「そうだ。だがそれだけではない。主従の契約には“唯一の法”が存在する」
「なに、それ?」
「“唯一の法”を知らないのかい!?」
たまらず、シリクが叫んで立ち上がった。
「君は――自分が契約に反する行動を取った時、何が起こるか分からないで……」
「な、何の話? そもそもどんな契約かもわかんないのに、契約を破ったらどうなるかなんて
わかんないよ」
そうでしょう、とリョウが問う。
シリクが言葉を失って、うろたえた表情のリョウを呆然と見下ろした。
口元に手をやって、沈み込む様に再びソファに腰を下ろす。
「“唯一の法”とは、従僕が主に対して行使する事の出来る唯一の権限だ。それは、主が従僕と
の契約を違えた時のみ行使する事を許される。この内容は、契約を結ぶさいに従僕が決定する。
主が契約を違え、“唯一の法”を犯せば主従契約は破棄され、それと同時に従僕から代償を要求
される事になる」
「代償……」
「そうだ。主従関係の逆転。記憶。命。契約を違えた主に課せられる代償は総じて大きい。
だがその代償を支払う事を拒み、“唯一の法”に逆らえば――」
とん、とトレスの人差し指が、リョウの胸に押し当てられた。
規則正しい鼓動を刻む――心臓と、刻印の位置である。
「分かるな。死では済まされない。消滅だ」
ごくりと、リョウの喉が鳴った。
ようやく、自分の状況を理解したのか。
「貴様は契約内容を知らない。故に、どの行動が唯一の法に触れるか分からない。そしてその
結果、自らの身に何が起こるかも分からない」
「でも……代償って、言ったって……そんな大層な物じゃないかもしれないんだよね?
ベロアが僕の命とか、欲しがるとは思えないし……」
「ああ、あり得ん話ではない。事実、私は代償に口付けを求め愚者を知っている」
ほっとした表情を浮かべ、リョウの体から力が抜けた。
「じゃあ、そんなにビクビクしなくて大丈夫だ。ベロアなら、代償に僕のドレス姿とか、そう
いうくだらない物望みそうだもん」
「ならば何故、貴様にそれを伝えない?」
それは、と何か言いかけて、リョウは言葉を続けられずに口を閉ざした。
「私にはアイズレスの思惑など見当もつかんが、アイズレスの全ての行動には必ず理由と思惑
が存在する。道化を演じる事も多くあるが、それすらもはかりごとだ」
「でも、ベロアは僕を傷つけたりしないよ。だって、ずっと一緒だったんだ。僕はベロアが大
事だし、ベロアだって……」
「欺く事など、容易い」
「でも……!」
「特に貴様は騙されやすかろう。アイズレスの寿命は人のおよそ四倍だ。例え赤子の頃から貴
様を育てていたとしても、二十年程度の歳月、奴らは欺く事にのみ費やせる」
「トレス、よせ。不安にさせたってしょうがないだろ」
見かねて、シリクがトレスを制した。
確かに、ベロアの行動は妙だ。契約の維持を望み、主の身を案じるならば、契約内容は明確
にしておくべきである。
その上、代償の存在自体を伝えていないという事は、代償を得る事を目的としていると思わ
れても仕方ない。
だが、それを伝えたからと言って状況が好転するわけではなかった。
全てだと言い切る程に大切に思う従僕に、欺かれているかもしれないなどと、リョウも思い
たくは無いだろう。
「……僕なんて、騙したってしょうがないよ」
「何故、そう思う」
「だって、見て分かるだろ? 僕はどこかのお嬢様でもないし、凄い才能があるわけでもない。
そりゃ、まぁかわいいけどさ、絶世の美女ってわけじゃないし、それに……」
言い難そうに、首の後ろを撫でて視線を反らす。
「……処女でも、ないし……」
一瞬、トレスは呼吸を止めた。
「……だろうな」
自分でも驚くほど平然と言葉は出たが、内心、平静を装うのがやっとである。
一応、一つの可能性として考えてはいた。あの時、あの治療の時にリョウが見せた表情は、
快楽に戸惑うというよりもむしろ、溺れていた。
「……信じられない」
呟いたのはシリクである。
シリクはあの晩、リョウの嬌態を見ていない。眼前の少女に色気の欠片も見出す事は出来な
いだろう。
「だってリョウちゃん……君、十五かそこらだろ……?」
「今年で十七になったよ! 失礼だな!」
「十七! でも、それにしては……」
シリクの視線が、リョウの体に落ちる。
なる程、確かに十七と言うには少し無理がある。
「な、何だよその目! 分かってるよ! 貧相だって言いたいんだろ!」
シリクの視線から隠すように、リョウが両手を交差させて体を抱く。
「確かに、雌の象徴と呼べる部位は限りなく薄いな」
「ちゃんとご飯食べてるのかい?」
「食べてるよ! たくさん食べてるよ! なのに背だってぜんぜん伸びないし、そりゃ、
太りもしないけどさ、胸も大きくなんないし……!」
「アイズレスが従僕では、それもやむなし――と言ったところか」
え、と意外そうに問い返すリョウに、トレスはやはりそうかと目を閉じた。
「アイズレスが肉食なのは――知っているな?」
「……うん。野菜嫌いだね。ベロア」
「そうだ。食欲も並ではない。本来あのサイズの生物が活動するのに必要と思われる食事量の
数倍を、アイズレスは平らげる。つまり、あれはそれだけのエネルギーを必要とする生物だ。
貴様はそれを使役している。それと繋がっている。貴様の一部と言い換えてもいいだろう。た
だでさえ、契約で他者を使役するには力がいる。使役する生物の力が強大ならばそれ程に、主
は精神と肉体を削られる。意味がわかるな、小娘」
栄養不良とまでは行かないが、十分に栄養を蓄えている体とは言いがたい。だが、それでも
奇跡的だった。
アイズレスも随分と気を使ってきたのだろう。物心が付く前からアイズレスを使役するなど、
普通にしていてはとても“もたない”。
「……あの、歌姫は……?」
「歌姫はただ、歌うだけの生物だ。共につれてもそれ程深刻な影響は及ぼさん」
アイズレスに比べれば微々たる物だ、と言うトレスに、リョウがほっと胸を撫で下ろす。
「トレスって物知りなんだねぇ。性格悪いベロアと話してるみたい」
「性格悪いって、余計だと思うよ」
「でも素直では無いでしょ?」
うん、まぁ、とシリクが包帯の奥で苦笑いする。
「とにかくさ、分かったでしょ? 僕にそんな、何十年もかけて騙す価値なんて無い。だから、
何か理由があるんだとしても、僕は何も聞かないし、ベロアを疑わない」
「従僕に飼い慣らされる主か……滑稽だな」
「何とでもどうぞ。ねぇ、僕ばっかり質問されて不公平だよ。僕も君達の事もっと知りたい」
「断る」
「なんでよ! そんなのずるい!」
「嫌ならば、貴様も話さなければ良かった事だ。私は強要した覚えは無い」
「また、そうやって逃げる! じゃいーよ、シリクに聞くから」
「僕でよければ、いくらでも」
上機嫌で答えたシリクを忌々しげに小さく罵り、トレスは拗ねるといつもそうするように
むっつりと黙り込んだ。
「あのさ、えぇと、シリクとトレスはさ、どうして一つの体に、二人なの?」
「それは――」
「答えるな」
トレスの鋭い制止の声に、シリクは驚いたように口をつぐんだ。
気抜けしたような笑いを零し、それじゃあ、と肩を竦める。
「やっぱり君が相手をした方がいい。僕に任せておくと、何もかも喋っちゃうかもしれないからね」
「もう少し分別のある男だと思っていたがな」
「特定の相手には分別を失うのは、君は身をもって体験してるはずだよ」
「とりあえず、不本意な理由でそうなってる事はよくわかった……」
気まずそうに、リョウが言う。
トレスは忌々しげに溜息を吐くと、面倒くさそうにリョウに質問を促した。
「答えるかどうかは私が決める。玩具の様に勝手に質問を並べ立てるがいい」
「じゃー質問。君達はどうしてここに住んでるの?」
「ここに家があったからだ」
「じゃあ、どうしてここに辿り着いたの?」
「薬草を探して森に入った」
「トレスの家って、近くの街なの?」
「答える義務は無い」
全く要領を得ないトレスの答えに、リョウが不満そうに唇を尖らせる。
「街に出かけたりしないの?」
「不必要だ」
「でも、新しい本は街じゃないと買えないよ?」
「地下室の本で十分だ」
「そんなにこの家が好きなの?」
「建築物に拘泥する程愚鈍では無い」
「じゃあ、何となくここに居るだけ?」
「そうだ」
「僕の事嫌い?」
「……何?」
矢継ぎ早に投げかけられる質問に簡潔かつ淀みなく答えていたトレスが、初めてリョウに問
い返した。
「何故、それを聞く必要がある。私の貴様に対する評価を知った所で、貴様にはそれを変える
術は無い――聞くだけ無駄だ」
「知りたいんだ。嫌いなら、嫌いでいい」
数秒、睨み合う様に視線を絡ませたまま、二人は沈黙を貫いた。
根負けしたのは、珍しくトレスである。
「……悪意は無い」
「ほんとに? そうは見えないけどなぁ」
「貴様のその緊張感のない表情を見ていると苛立ちが募る。吐き出してもまだ足りん程の悪意
を覚える事も多々あるが、それを除けば概ね、貴様に特別な感情は抱いていない」
「あ、僕も! 僕もトレスの事殴りたくなる事結構ある」
お互い様だね、とリョウが笑う。
トレスが忌々しげに鼻を鳴らしてあらぬ方向に視線を投げると、リョウはトレスの視界の外
で、一人ブツブツとなにやら呟き始めた。
「――なんだ」
「うん。ちょっと考えてる」
「わざわざ口に出さねば考え事もできんのか」
「そんなの僕の勝手だろ。聞きたくなかったら耳ふさいでりゃいいんだ」
リョウのそっけない言い草に、シリクが小さく吹き出した。
「今の、トレス並みに横暴だったよ」
面白そうに肩を揺らしながら指摘すると、目には目を、と当然のように言ってのける。シリ
クは声を上げて笑った。
「つまりさ。トレスは別に、この家にこだわりも無いし、別に特別な理由があってここにいる
わけじゃ無いって事だよね」
「そうだ」
「で、別に僕の事も嫌いじゃないんだよね。それって、一緒にいるの苦痛じゃないってことだよね?」
「……何が言いたい」
「あのね、僕のパーティーって歌姫とアイズレスと人間じゃん? ベロアがいるから平気って
思ってたんだけど、ベロアが怪我とか病気とかするとさ、凄く困るんだよね、僕」
非力な人間と歌姫では、森や街道で行動不能に陥ったアイズレスを抱えて街を目指すのは難
儀である。仮に街に辿り着けたとして、アイズレスの生態は謎に包まれており、治療する術を
持つ者は少ない。
アイズレスは死体を晒さない。自身の死期を察すると人前から姿を消し、決して他者の目に
触れぬ所でひっそりと死ぬのだと言う。故に、アイズレスの肉体構造を知るものがいないのだ。
だが、それがどうしたとばかりに無言で注がれるトレスの視線を、リョウは極真剣に見つめ
返した。
「君がいると、助かる」
「……ほう?」
「だから、一緒に行こう」
「北へか?」
「そう。北」
「私が、貴様と?」
「正確には、僕達と」
しばしの沈黙があった。
く、くく、と喉がなる。
一瞬も待たず、トレスの嘲笑に近い高笑いが室内に響き渡った。
「正気か? 目的さえ知れぬ貴様の旅に、何故私が身を削って付き合わねばならんのだ。何故
私が了承すると思う。あぁ、なる程、冗談としては一級品だ」
「冗談なんかじゃない! だって、この場所にも執着が無くて、僕の傍も苦痛じゃないんだよ
ね? だったら、より強く望む方に流れるべきだと思わない? 君はこの場所にいなくても良
くて、僕の傍も嫌じゃない。僕は旅を続けなきゃいけなくて、君を必要だって思ってる」
「悪くない論理展開だ。だが、それは重大な要点を無視している。私がこの場に留まり、貴様
が去る場合。私は得る物は何も無いが、失う物もまた無い。だが私が貴様の気紛れな思いつき
に付き合う場合、私は道中生命の危険を伴う。また、野宿の続く徒歩の旅ならば身体的にも精
神的にも、多大な疲労を募らせる事になるだろう。目の眩むような損失こうむる反面、得る物
は何も無い」
なおも苦しげに笑いながら、それに、と言葉を繋いだ。
「私は、人間のみならず他者と交わる事を嫌悪する。貴様がここに単なる愛眼動物として存在
している事は構わんが、否応も無く他者との接触を強要される拷問のような旅路に赴く気はさ
らさらない。さぁ、もう十分楽しんだ。下らん話は終わりにしろ」
「僕をあげる」
ようやく、トレスは笑うのをやめた。
石像のようにリョウを見下ろし、シリクがこの少女の迂闊な発言をたしなめてはくれないか
とじっと待つ。
だが、シリクは口を開かなかった。
「意味が……分かっているのか」
「分かってる。僕は何も持ってないから、あげられるのは僕しかない。だから腕でも、足でも、
内臓でも。目は、もう片方しかないから上げられないけど、他の所だったら何だっていい。君
にあげるよ」
「馬鹿げた事を軽々しく口にするな……冗談では済まされないぞ」
「きっと――ベロアは凄く怒るだろうね」
言って、リョウは困ったように微笑んだ。
この状況で、何故――。
「僕がハーラに目をあげたの、ベロアに無断でやったんだ。そしたらベロア凄く怒ってさ、顔
合わせるたびに僕じゃなくってハーラの事睨むんだ。ベロアは隠してるつもりらしいけど、き
っと陰でハーラに沢山酷い事言ってる。やきもち焼きなんだ、ベロアって」
「ならば、尚更迂闊な事は言わない事だ。今の言葉、条件契約と取られても文句言えんぞ」
「でも、ハーラには僕がいる」
僕がハーラを慰めてあげるから、ハーラは大丈夫なんだ自信満々に胸を張る。
トレスが言葉を失うと、リョウがす、と人差し指を天井に向かって突き立てた。
「君は他人が嫌いだって言うけど、自分以外の誰かって、凄く大事だ。君だってさ、シリクを
大事に思うでしょ? でさ、君がシリクみたいに信じられる他人がもっと沢山周りにいたら、
大事な人が増えたら、凄くいいと思わない?」
「……同じ体にいる者を、どうして拒絶できるというのだ。どうあっても、シリクは私を裏切
らん」
「ほら、本音が出た。君は裏切られるのが怖いから、他の人と関わるのを避けてるんだ。でも、
そんなのただの逃避じゃないか。君はそんなに人を見る目がないの? 僕が君を裏切るかどう
か、そんな事もわからない?」
「……なんだと?」
黙らせるつもりで、鋭く睨む。
しかしリョウは引き下がらなかった。立てた指を大きく振って、無礼にもトレスに突きつける。
「疑わしきは罰せず。一回裏切られたからってこんな所に引き篭もってちゃ、君は何にもでき
やしない。とりあえず僕を信じて、僕と一緒に旅に出て、それで僕が君を裏切ったらさ、さっ
きの話。代償を僕に支払わせればいい。ほら、どっちに転んでも君はちゃんとえる物がある。
人との関係はこんなにいい事だらけだ! 損なんて一つもない」
「――傷は」
無意味だ。
この会話を続ける意味は何処にもない。
理性が激しく警告を発していた。出て行け、と言い放ち、地下室に向かえばそれで済む。
「裏切られる事でこうむった傷は、どうする」
「治せばいいじゃん」
「どうやって」
「恋人でもつくったらいいんじゃないかな」
同時に、沈黙を貫いていたシリクが思い切り吹き出した。
額を押さえて背を反らし、苦しげに身を捩る。
シリクが笑っているのだと思った。だが、それを不快に思わないトレスもまた、笑い出して
いたのだろう。
心に膿を孕んで随分と経つ。
恋人でも作って治せばいいと、眼前の少女は一蹴したのだ。
普段ならば、どんな反応を取っただろう。きっと笑って済ませたりは出来なかったに違いな
い。
この少女が――というのが重要だった。
自らの体を削ってまでトレスを欲しがったリョウだからこそ、トレスの傷を一蹴することが
許される。
どうして笑うんだよ、と唇を尖らせるリョウに、シリクとトレスは更に声を高くした。
「随分と口が回るな――なる程、アイズレスの教育の賜物か」
「教育っていうか……この位口が回らないと、ベロアとは暮らしていけないよ。だってちっと
も僕のわがまま通らないだもん」
「それを、教育と言う」
「だったら、ベロアに感謝だな。ねぇ、条件契約って、言うんでしょ? 君は、僕の旅が終る
まで僕と一緒にいてくれる。君は、僕に何か要求する。あと、他に何かあるのかな?」
「契約破棄条件の制定だ」
「そっか。じゃぁ、それはトレスが決めていいや」
「早合点をするな」
「え?」
「私はまだ、承諾をした覚えは無い」
静かに言って立ち上がる。
そんな、と叫んで、リョウが合わせて立ち上がった。
「どうして――!」
「信じられねば試せば良い――そう、昨晩言ったのを覚えているか」
意気地なし、と責めるように言った言葉を聞いて、トレスは内心、頷いていた。
信じたい、と思った者を安易に試し、その結果得るものが落胆と絶望だったらと、考えずに
はいられない。
「契約までするって言ってんのに……疑い深いなぁ」
「その理由を話してやる――来い」
切らせていただきます
マスタースレイズ続きキタアアア!
GJGJGJ
ツンデレ(デレでもないか)なトレスとリョウが好きだ
どうも
向こうだと趣旨が違う感じなので、
でも他に落とせるところが無いので、ここを使わせて貰います。
※パラレル設定
「――七那……」
放課後、夕日の差し込む廊下の中。
歩くその先に、一人の少女の姿があった。
彼女がこちらに向かってくるのを見つめながら、私は足を止めた。
視線が交わる。
あの時は、不安げに揺れたり嬉しそうに細められていた瞳は、鋭く私を貫いた。
そこに込められた感情は何なのだろうか。
怒り? ……それとも。
少女は、同い年の私の大切な親友の彼女は、足を止めることなくすれ違っていった。
「………」
私はただ彼女の後姿を見送った。
自分でも、笑っているのか泣きそうなのかは判らなかった。
でもこれは、私のせいだから。
だから別にいいのだ。
それが、私への最初の依頼。
通り過ぎる間際に言われた言葉が、まだ耳の中に響いていた。
「――――きらりのバカ……」
――――――
「……あの、あそこですか?」
隣で共に歩いていた少女に声をかけられて、五十里野きらりは思考を現実へと引き戻された。
少し疲れているのだろうか。
ちょっとした依頼の最中だとしても、ボーっと考え事をしてしまうなんて、サービス業としてはあまり良い事とは言えない。
きらりは急いで少女の言った言葉を反芻すると、答えを告げた。
「はい。あそこから出てるバスに乗っていけばすぐにでも辿り着けるはずです」
「そうですか。良かった……」
少女はほっとしたように顔をほころばせた。
それは少し前のこと。
人気の無い道を、ぼんやりと歩いている少女がいた。
小柄でどこか儚い空気を纏った少女を、まさかきらりが放って置くことなど出来はしなかった。
声をかけると、道に迷ってしまったのだという。
――久しぶりに帰ってきたので……。
聞くと、少女は昔住んでいた街へと帰る途中だと言う。
都心部にも来た事はあったけれど、それが昔のことであったり、だいぶ様変わりしていたために迷ってしまったらしい。
そして今、その町へと通るバスの停留所まで案内してきたところだった。
「あの、ありがとうございました。なんだかすごくお世話になっちゃって……」
少女が深々とお辞儀をした。
「いえ。でもお会いできて良かったです。あの辺りは最近、危険だって言われているものですから」
「そうなんですか……? ――あ」
バスが到着した。行き先は、彼女の帰る町、そしてきらりの住む街の名前を差している。
「あ、あの本当にありがとうございましたっ!」
わたわたと慌てながら、少女が言う。そんな姿に苦笑しながら、きらりは言葉を返す。
「では、また……」
「え? あ、はい」
何度も振り向いてはお辞儀をしながら、少女はバスへと乗り込んでいった。
エンジンを吹かしながら、遠ざかるバス。
きらりは小さくため息を吐いた。
実際は、こんな事をしている場合などではないのだ。
もっと重要な“依頼”の最中なのだから。
親友のために出来る事。
自分にしか出来ないこと。
あの人と、約束したのだから。
きらりはもう一度、人の行き交う雑踏の中へと歩き出した。
――――――
――つい先日。
「…………呼び出し、ですか?」
いつも気だるそうな担任から受け取ったのは、一枚の封筒だった。
差出人は、理事長。
「何をやらかしたか知らんが、……出来る限りのことはするぞ」
そう先生は、まるでこれから標的に止めを刺すような口調で淡々と告げていた。
彼女を見ていつも思うのは、美術を受け持っているというのにその服は無いんではないのだろうかということ。
だがそんなことは、自分の学生生活のために胸にしまっておき、いつもどおり一礼して職員室を後にした。
多分この呼び出しは、彼女が思っているようなことではないと思う。
想像できるのは、あの人から引き継いだ“仕事”のこと。
――便利屋。
といっても、何も事務所を構えているわけではない。
学園内で起こるトラブルから、ちょっとした恋愛相談まで、幅広く活動している。
お金は取らない、完全な慈善事業だ。
元はあの人――二つ上の先輩が何でも頼みごとを引き受けていくうちに、いつのまにかそう呼ばれるようになっていたのだと言う。
けれど今は、きらりが便利屋を名乗っている。
あの人は、今はこの学園には居ないから……。
きらりのことも、いつのまにか学校内で有名になり始めていた。
多少の原因は判っている。
つい先日、友達とのトラブルで揉めたという、中等部三年の少女の依頼をこなしたことがあったのだけれども、またその少女がやっかいで。
まず交友関係が広い。そして無駄にテンションが高く、クラスのトラブルメーカーと言われればすぐにでも納得出来そうな性格。
噂が広がっていくのは時間の問題だ。
更にそれ以来、彼女――田央萌々は良くきらりのもとへ訪れるようになっていた。
最近では自ら助手と名乗っては、自分の仕事の手伝いまでするようになっている。
彼女と居るのは楽しい。
少しなりとも失ったものの代わりを果たしてくれるから。
でも、
「………」
きらりの顔が曇る。
一つ心配な事があった。
一週間ほど前にあったあの時以来、萌々は何かを必死に調べまわっているようなのだ。
出来れば何も起きなければいいのだけれども……。
なんとなく、いやな予感が胸を締め付けた。
「――調査、ですか?」
理事長室。
デスクと全面ガラス張りの窓との間に、この学園の理事長、らしき人が立っていた。
土師圭吾。
らしき、と言っても肩書きはしっかりと理事長という事になっている。
眼鏡をかけ、なんだかいつも人を食ったような表情をしており、顔に浮かぶ笑みはひどく皮肉げだ。
「ああ。とある人物について、ね」
「……それなら私なんかではなくて、専門の方に頼んだほうが良いのではないですか?」
あの人からは十分に仕込まれているとはいえ、所詮はアマチュアだ。
彼みたいな人なら、そういったコネなども相当あるはずなのだが。
「いや、これはキミに頼みたいんだよ。彼女の後役がどうなのかも気になるが、何よりもこれは……キミにも関係あることだろうからね」
「私に……?」
きらりは首をかしげた。
土師はそんな姿を見てニヤリと笑いつつ、言葉を続ける。
「碑守ダイスケという人間を、知ってはいないかい?」
「………」
きらりは大きく目を見開いた。
「彼はこの学園に通っている少年でね、キミとは一つ年上になる。なにやら最近物騒なことに巻き込まれているようだけれど、こちらにもいろいろと事情があってどうにかしたいと思っているんだよ」
「………」
「引き受けてくれるかい?」
――それは、一週間ほど前のこと。
萌々と共に一つの依頼をこなして、一緒に帰る途中。
彼女が見つけたのは、一人の少年。
地面に座り込んだ彼は傷だらけで、何かに巻き込まれている事が一目瞭然だった。
そして――。
「……はい」
萌々はそれ以来、その彼のことを――ダイスケのことをずっと気にかけているのだった。
――――――
――“セントラル”という名前を、聞いたことは有るんじゃないかい?
きらりはあの時の土師との会話を思い出していた。
“セントラル”――ここ最近になって都市部で良く聞く集団の名前である。
簡潔に言ってしまえばただの少年グループなのだが、ここ最近はあまり良い噂があるとは言えなくなってきていた。
――最近は何かと危険なことが多くてね……。学園側としても対処しておかないといけないんだよ。
つまりはスキャンダルを回避してくれということらしい。
――キミには“調査”のみを依頼したい。現状が把握されれば、後はこちら側がどうにかするからね。
そう言って彼が、薄笑いを浮かべながら眼鏡のズレを直している姿が頭に浮かんだ。
ざわざわと人が賑わう繁華街の中で、きらりは携帯で時刻を確認する。
すでに彼と一旦合流しようと指定した時間になりかけているところだった。
「――きらり」
人ごみの中から自分の名前を呼ばれる。
――そうそう、それとキミ一人では危ないからね。優秀なボディーガードを付けておくよ。
振り返った先、こちらに向かってきたのは、一人の少年――きらりと同じ学年の、薬屋大助だった。
これといって特徴の無い顔に、地味な黒髪。目に止まるのはせいぜい顔の絆創膏くらいだろう。
――巷で噂の“黒ゴーグルの男”、彼なら十分にその役目を果たしてくれるだろうからね。ああ、彼のことは思いっきりこき使ってやってくれて構わないよ。
ありふれた姿、といってもわざとそういうふうに“姉にさせられているらしい”が、本人もその格好変えるつもりはないらしい。
幼い頃から武術を習っていたらしく、その腕前はかなりのもので、確かにボディーガードとしては申し分ないだろう。
出来るならば、そんな事にはなって欲しくはないけれども。
「どう……でしたか?」
大助は首を横に振った。
「………」
「何かがあるのは確かなんだけど、いまいちな……」
大助はやれやれといったふうに首をすくめた。
少年グループ、と言ってもそれほど統率が執れているというわけではないらしく、内部でも分裂までとはいかなくても複数の集団が出来ているようなのだ。
そのため情報が錯綜している。
碑守ダイスケが何かトラブルに巻き込まれているのは確かなようだが、その背景の事がいまいちわからないのだ。
本人に聞くことが出来れば一番良い方法なのだけれども、最近は学校にも通っていない。
「これからどうするかな……」
「………」
それほど急ぐ必要は無いのかもしれない。
でもきらりは焦っていた。
どうにも良くない事が起きそうで仕方ないのだ。
――ダイスケのことはあたしがなんとかするから、きらりんは何も心配しなくて大丈夫だゼッ!
そう意気込んでいた親友の顔が浮かんだ。
ああいうときの彼女に何を言っても駄目だと言うのはわかっていたけれど、今更ながら止めておいたほうが良かったのではないかと後悔していた。
「……今日、もう少しだけ調べてダメだったら、また何か別の手段を考えた方がいいかも……」
結局は、今出来る事をするしかない。
自分に出来る事なんて些細な事。
それでも誰かのために出来る事をしたい。
そう、あの人がそうしてきたように――。
「そうだな。それじゃあオレは……」
「………」
「きらり?」
「…………萌々ちゃん……?」
「え?」
雑踏のはるか向こうに、鮮やかな原色の服を着こなした少女の姿が見えた。
あの個性的なファッションを見間違えるはずなど無い。
あれは――萌々だ。
「おい、きらり!」
彼女の姿は、すぐに人波の中に流れていってしまった。
だが一瞬見えたその顔には、どこか焦りが含まれていて……。
嫌な予感が胸をよぎった。
大助の呼ぶ声にも耳を貸さず、きらりは人混みの中へと駆け出した。
―――――――――――
――きらり。
どこか遠くで、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「――きらり」
声をかけられて、きらりは後ろを振り返った。
「……ツカサ先輩」
夕日の落ちかける教室の入り口に立っていたのは、高等部に通う二つ年上の先輩――鬼道ツカサだった。
学園内では便利屋と呼ばれていて、人望も厚く、きらりにとっても尊敬できる先輩だ。
そして、どこか自分に似ているように思っていた。
口下手のところや、立ち回りが下手なところなんかに共感を覚えていたのかもしれない。
「――どういう……、ことですか?」
「………」
彼女は困ったように笑うだけだった。
「半年もかからないと思うけど、それでもその間……」
そっと頭を撫でられた。
「七那のこと、お願いしてもいいかな……」
手紙を一枚渡された。
それが、私が受けた最初の依頼。
でも……それは少しだけ、失敗してしまった。
やっぱり不器用で失敗ばかりの自分には、こんな仕事は合っていないのかもしれない。
それでも、自分にしか出来ないことがあるならば。
それが、誰かのためになるというのなら。
私はきっと、この“仕事”をずっと続けていくのだろう。
いつか彼女のようになるために。
「――コアトル・コアトル・パラ・エミレ」
「え……?」
ツカサがそっと囁いた。
「なんでも叶う、魔法のおまじない。無理はしちゃ、ダメだからね……」
そう言って、“優しい”彼女はそっと微笑んだ。
そっと、微笑んでくれたような気がした。
―――――――――――
「――ら……っ!」
誰かが名前を呼んでいた。
「――きらりんっ!」
目蓋をそっと開くと、目の前に一人の少女の姿が見えた。
「……萌々ちゃん……」
傍には二人の少年もこちらを覗きこんでいる。
一人は黒いゴーグルを付けた少年。もう一人は――碑守ダイスケだった。
――そっか……。
思い出す。
確かあの時、萌々に対して襲い掛かろうとしていた男から彼女を庇って、そのまま気絶してしまったのだ。
きらりが身を起こして周りを見回すと、ダイスケを取り囲んでいた男たちは残らず地に伏せていた。
おそらく大助たちがどうにかしてくれたのだろう。
「……きらりん……良かった……」
「………」
それはこちらの台詞だ。
一人で突っ走って、後先も何も考えないであんな事をしておいて……。
見上げると、二人の少年も苦笑いを浮かべていた。
ぐずぐずと鼻をすすり上げ、涙を流しながら抱きついてる萌々の背中にそっと手を回しながら、きらりはほっとため息を一つ吐いた――。
――――――
あれから――。
街角での“ケンカ騒ぎ”があってからは、取り立ててトラブルは起きていない。
ダイスケも普通に登校するようになっていた。
土師から連絡もあったが、おそらく全て片付いたのであろう。
またいつもの平凡な学園生活が戻ってきた。
朝。
ある人は眠そうに目蓋をこすり、またある人は友人と挨拶を交わす。
また今日という一日を、ゆっくりと始めていく。
「――きらり」
校舎へとぼんやりと歩いていたきらりは、声をかけられて後ろを振り返った。
声の主は、薬屋大助。
こちらへと向かってくる彼の後ろには、幾人かの少女たちがこちらを見ていた。
その光景に少し苦笑ながら、きらりは大助に声をかける。
「おはよう」
「ん、ああ……。おはよう」
何気ない挨拶。
けれどこういうことすら楽しいと思えるのは、いいことなんだと思う。
「もう大丈夫か? あの時の……」
「?」
あのいざこざで、打たれたお腹のことだ。
「あ、うん。もう十分良くなったみたい」
それほど大した怪我ではない。
気絶してしまったのも、ただ衝撃の方が強かっただけだから。
「そっか……。なら良かった」
大助は一瞬表情を緩めたが、次にはそれを険しくし、
「でも、もうあんな無茶はしないでくれよ……」
はぁ…、とため息を吐いた。
「人助けもいいけど、もう少し自分のことも考えたほうがいいぞ」
「………」
「きらり?」
「あ、ううん……」
……なんとなく、わかった気もしないでもなかった。
「ふふっ……」
「なんだよ」
まるで拗ねている様な彼に向かって、きらりは微笑みかける。
「次に危ないことが有りそうだったら、また大助さんにボディーガード、依頼しますね」
「え、……あ、ああ」
なんとなく憮然としていた彼の向こう側から、大助を呼ぶ声が聞こえた。
先程の少女たちだ。
「あー、じゃあオレ行くよ。あんまり無理はするなよ」
そう言って彼は、なんだか険悪なムード漂う集団のもとへと行ってしまった。
「………」
――さてと……。
騒がしく登校していく彼らを見送りながらも、きらりは視界の片隅に映る一人の少女が気になって仕方がなかった。
ぼんやりしているみたいな、どこか儚い空気を纏った少女。
制服を着てはいるが、まるで今日始めて登校したかのように周りを見渡している。
クスリと、きらりの顔に笑みが浮かんだ。
見上げた空は雲一つ無い。
暖かいけれど、どこか涼しい五月の空気が肌に触れた。
きっとこれからは、もっと楽しいことが待っているだろう。
友達とだって、すぐに仲直りできるはずだ。
「――お困りですか?」
きらりは、あの時とまったく同じ言葉をその少女にかけた。
「え? あ、あれ……」
少女は目を丸くして驚いている。
そんな彼女に微笑みながら、きらりは言葉を続ける。
「杏本詩歌さん、ですよね?」
「は、はい。へ、あ……名前……なんで……?」
小柄な少女は、さらに目を見開いてきらりのことを見つめる。
季節はずれの転校生。
なんとなく、きらりの胸に予感めいたものが走った。
何かが起こりそうな、胸を高揚とさせるような……。
そんな不思議な感覚。
「また、案内させてもらってもいいですか?」
「え……? あ、……良いんですか?」
彼女は申し訳なさそうに、でもどこかホッとしたように見えた。
「はい。――あ……」
「……?」
きらりはニッコリと微笑みを浮かべると、彼女に頭を下げた。
「申し遅れました。私……」
困っている人は放っておけない。
頼ってくれるのなら全力を尽くす。
それが私に出来る事。
それだけが、私に出来る唯一のこと。
「――“便利屋きらり☆”といいます」
いつかきっと、あの人のように。
……ううん。
自分にしか出来ない事を、やり遂げるために。
私は今日も、そっと手を差し伸べる。
いつまでも、その人たちの絆を繋げるために――。
「迅速確実をモットーに、私があなたをお助けします」
なんかこれからもマイナーなままそうだ…
まあ、それはそれで。
ほ しゅ
作品と作品の間が1〜2レス程度しかないスレってのもめずらしいなw
保守
保守
ほ しゅ
283 :
名無しさん@ピンキー:2007/06/16(土) 23:23:07 ID:k1q5WQZd
保守
hosyu
補修
hotu
守
本種
保管庫さんの更新を見て、投下しそこねていることに気付いた3レス分を投下させていただきます。
保管庫の11〜12の間に入るワンシーンです。
申し訳ありませんが脳内補完していただけるとありがたいです。
「入れ違い――か」
「入れ違い――ね」
すっかり燃え尽きた薪と、薪の周りを囲んだ奇妙な紋様。土を掘り返した痕跡と、それを丁寧に
埋めなおした跡。
それらを順々に見下ろして、ハーラとベロアは並んでげんなりと呟いた。
ハーラの背後に控えているテリグリスが、居心地悪げに巨体をゆする。森の外にある街道に
出るのは初めてなのか、しきりに付近を気にしてハーラのわき腹に鼻面を押し付けた。
「これってつまり、身動きせずにずっとここでキャンプしてればよかったって事?」
ハーラがテリグリスを軽く撫ぜてやりながら、忌々しげに片眉を吊り上げる。
「いや――昨晩は大雨だったから、待っていようにもあそこでキャンプは続けられなかった筈。
シレーヌの声の事を考えると森に入ったかどうかは微妙だけど、ここに留まり続ける事を僕が
選択した可能性は限りなくゼロに近い」
ベロアの苦々しげな物言いに、それもそうねと頷いて、ハーラはテリグリスに寄りかかって
溜息と共に天を仰いだ。
「つまりこういう事? 私達が待つ事を選んでも探す事を選んでも、結局マスターには会えな
い様になっていたと」
「まぁ、その後の細かい選択ミスも響いてるみたいだけどね」
「世の中ままならないわね」
「ん――ここまで思うように事が運ばないのも珍しい。誰かの運命の輪に巻き込まれたとしか
思えないな」
「なぁによ、その運命の輪って」
やれやれと年寄り臭く呟いて、ベロアが木の根に腰を下ろす。
ハーラがテリグリスによじ登り、その背に腰掛けたのを確認してから、ベロアは投げやりな
空気を多分に含んだ声色でゆっくりと話し始めた。
「生物にはね、時折本当にそうなるべくしてそうなる事があるんだよ。今の僕達の状況は、ま
るで運命がロウを僕たちから遠ざけてるみたいだ」
「知力のアイズレスが運命論? 冗談じゃないわ! 悪魔を天使に改心させるアイズレスが、
運命に踊らされてるからどうしようもないなんて!」
「そうは言ってないだろう? 言葉の端を捕まえて結論を急がないでくれ。頭が悪い奴の典型だよ?」
噛み付くハーラを嫌味でいなし、ベロアは再び宗教染みた説教を語りだした。
「ようは、個人個人の持つ運命の力の問題さ」
いよいよ胡散臭い話になってきた、と、ハーラは腹の口から鬱陶しそうに舌を出した。しか
しベロアは意に介して風もなく、ハーラは淡々と進む講義の様な雰囲気の中、面倒くさそうに
ベロアの話にやや閉じ気味の蝙蝠羽を傾けた。
「例えば僕の人生なんかは、完全にロウの運命に引っ張られるように動いてる。そしてロウは
君の運命に引き寄せられて君と出会い、君は彼女の運命に引きずられてここにいる」
さっぱり話が見えないハーラに、ベロアは出来の悪い生徒を前にした教師の様に渋い顔をし
て見せた。
「なによ、その顔」
「君の理解力の無さに呆れ果ててる」
「それはどうもごめんあそばせ。もしよろしかったら知能レベルの低い歌姫にも理解できるよ
うな言葉で説明していただけるかしら?」
「つまりだ!」
ベロアが短く啖呵を切って、笑顔とも呼べない笑顔で卑屈な言葉を吐いたハーラに人差し指
を振りかざした。
「接点も、前触れも、誘導も無いような状況下で、二人の人物が遭遇する。その後、この二人
が“どちらの人間に合わせて動くか”っていうのが重要になってくるんだ。例えばこの出会っ
た二人のうち片方が国を救おうとする騎士で、もう一人が腕の良い鍛冶屋だったりしたら、鍛
冶屋は巨大な運命に引っ張られるようにその騎士と行動を共にする事になる。これは二人の運
命が引き合って、そしてより巨大な方に引っ張られた結果といえる」
「出会っても何も起きずに分かれる事だってあるじゃない」
「それは二人の運命が引き合わなかったに過ぎない。そして二人の運命が引き合ってしまった
からには、それはお互いがお互いに大きく影響を及ぼす事になる。つまり、ロウと出会う事で
君は瞳と主を手にし、ロウは瞳を失い掛け替えのない親友を手に入れた」
少し、話が見えてきた気がした。
つまり今、リョウと見知らぬ誰かの運命が引き合って、そして現状は、その見知らぬ誰かの
運命の輪に巻き込まれる形になっているのだろう。
それはつまり、つまり――。
「マスターが戻ってこない事もあるんじゃない?」
「おおいにありえるね。夢を見たって言っただろう」
蒼白な顔色で、ベロアが見なかった事にしたがった夢の事である。
そういえばその夢の内容を、ハーラはまだ聞いていない。
「男が出てきたよ。若葉色の瞳の」
「それが、今回のごたごたの原因?」
「多分ね……。夢で見る限り、彼はロウを欲しがってる。そして問題はロウも彼を拒んでいな
いって事だ。――嫌な予感がするな」
「嫌な予感だらけじゃない! こんな所でもたもたしてないでとっととマスターを助けに行く
わよ!」
「そうしたくもあるんだけれど、ここでまた、僕は絶望的な問題点を発見してしまったわけな
んだよね」
息巻いて叫ぶハーラを尻目に、ベロアが溜息と共に燃え尽きた焚き木を見やる。
その周りを囲むように描かれた見慣れない紋様に、ハーラがテリグリスから飛び降りた。
「何これ? 魔方陣……には見えないわね」
「結界師の使うまじないだよ。でもこの名称は人に間違った印象を与えてる。“結界師”なん
て名ばかりで、彼らは紋様と言霊だけで信じられない程好き勝手ができるんだ。物理的干渉の
遮断や霊的干渉の遮断はもちろんの事、水を呼んだり炎を呼んだり逆にそれを退けたり――」
「やりたい放題じゃない!」
「やりたい放題なんだ」
仰るとおり、とベロアが肩を竦めて見せる。
「この僕が長い事探して、結界を形成する紋様の断片すら見つけられなかった理由がようやく
わかったよ。結界師が相手じゃ部が悪い。信じられない程巧妙に、完璧に完全に、これ以上な
いってくらい見事に隠されてる。きっと視覚から他者の神経に働きかけて、例え紋様を見つけ
ていても何も見なかったと思い込ませる要素が結界に組み込まれているんだろう」
「絶望的じゃない……」
「絶望的じゃない」
ハーラの力ない問いかけに、しかしベロアは毅然として言い切った。
「彼は自分が結界師だという証拠を残して行った。そして僕は彼の紋様の描き方の癖を完全に
把握した。見つけ出せるよ――二晩とかからない。何よりもハーラ、今の僕には君がいる」
ハーラが目を見開いた。
ベロアが唇に笑みを刻む。
「聴覚異常の歌姫に、一体何ができるわけ?」
ハーラは探るような視線でベロアを見つめ、慎重に問いかけた。
「なんだってできるさ。君がその気になりさえすれば。何よりもねハーラ――」
そこで一旦、ベロアはもったいぶるように言葉を切った。
そして一言、まるで殺し文句を囁くように。
「今の君には僕がいる」
切らせていただきます
292 :
名無しさん@ピンキー:2007/07/16(月) 02:23:43 ID:yFzqbdNC
今読んだ
GJ!
うわ、すげえ続きが読みたい。
いや続きの続きか。
トレス・シリクはどうなってるんだー。
生殺し。
これが生殺しという奴か!
>>ゴンザレス氏GJ!!
295 :
名無しさん@ピンキー:2007/07/18(水) 23:25:34 ID:/2LPwidD
続き! 続き!
つーかベロア・ハーラが見たくなったw
あと久しぶりにエルも見たいなぁ…
引っ越してきました
よろしくお願いします
チキンのハーブ焼きにミモザサラダ、オニオングラタンスープ、そして、パメラお気に入りのお店のパン。
ダイニングテーブルには、パメラがたった今作り上げた料理が美味しそうな湯気をたて、この家の主を待っている。
マーティンと二人だけで夕食を食べるようになってから二年が過ぎていた。
パメラには家族がいない。パメラの母親は彼女を産んだ時に亡くなり、父親はある日家を出ていったきり帰ってこなかった。年の離れた兄が居たが、彼も父親同様、数年前に家を出ていってしまった。
兄がまだ家にいた頃から、パメラはマーティンの家で夕食を食べていた。兄はパメラを養うために朝から夜まで働きづめだったため、パメラは家で一人だった。そんな彼女を可哀想に思ったのか、いつからかマーティンの祖父母が家に招いてくれるようになっていた。
マーティンは祖父母と三人で暮らしていた。だから、パメラが家に来るようになって、妹ができたみたいで嬉しかったのだと後から聞かされた。
やがて、マーティンは医者になるために都会の学校へ行ってしまった。その二年後だ。兄が出ていったのは。その頃には、パメラも働ける年になっていた。
仕事から帰ってくると、テーブルの上に書き置きを残して兄は消えていた。パメラは少しだけ泣いた。その時はマーティンの祖母が慰めてくれた。
そして、マーティンの祖父が天国へと旅立った。今度はパメラがマーティンの祖母を慰めた。抱きしめた老婆の体はとても小さく、か細いものだった。
パメラは恐ろしくなった。いつか自分は一人になるのではないかと。皆、私を置いて行ってしまう。
長年連れ添った伴侶を失い、心身ともに疲れ果てた老婆はとっくに寝入っていた。パメラはマーティンの家のリビングにいた。自分の家に帰る気がしなかった。老婆まで居なくなってしまう気がして。
涙は出なかった。悲しさよりも一人になる恐怖の方が優っていた。
何もせず、ソファの上で蹲り震えていた。
その時、玄関のチャイムがなった。
ソファからのろのろと降り、玄関に向かった。
ドアを開けると、そこにマーティンがいた。
マーティンが口を開く前にパメラはマーティンに抱きついた。
マーティンはとても驚いたようだったが、黙って抱き締め返してくれた。
安心した。恐怖がどこかに流れでていくようだった。
葬式が終わり、マーティンは都会に戻ることになった。
マーティンはその時約束してくれた。無事に卒業したらここに帰ってきてくれると。
マーティンの祖母はそれを聞いてとても喜んだ。
そして、約束通りマーティンは帰ってきた。
マーティンの祖母は元気になった。
しかし、それも一週間だけだった。彼女もまた、天に召された。
パメラは泣いた。悲しかった。その時もマーティンに抱き締められていた。
「ただいまー」
「おぅ。おかえり」
「あー。お腹すいたー」
そう言い、マーティンは椅子に座った。
「美味しそうだね。今日も」
「あったり前だ。あたしが作ったんだからな。ほら、冷めないうちに食え」
パメラがそう促すと、マーティンは嬉しそうに微笑んだ。
マーティンが幸せそうに食事をしているのを見ながら、パメラは話しかけた。
「お前さー」
「ん?」
マーティンは首を傾げた。
パメラはそれを見てキモイなぁと思いつつも続けた。
「結婚しないの?」
マーティンが盛大にむせた。
「ぐぇほぇ!ぐぇほぉッ!ちょ、ちょっと!どうしたんだい。急に」
「いや。ただ、なんとなく。お前、適齢期だろ」
マーティンは曖昧に笑った。視線はチキンに向いている。
「パメラが誰かと結婚するまでは絶対しないよ」
「ふーん…」
パメラは安心した。それを悟られないために、スープのおかわりをするとの口実でキッチンへと逃げることにした。
マーティンはそんなパメラを見て静かに笑っていた。
投下終わります。
ほしゅ
ほうしゅう
続きでも新作でも、どうか投下をっ…!
マスタースレイブ
番外続き
壁に地下室への入り口がある事は知っていた。
だが、どうやって開けるかまではもちろん知らない。
だから、リョウは、トレスが壁の松明を引き下ろし、それと連動して地下室への扉が開いた
時、思わず感動の声をあげた。
「秘密基地だ」
というのがリョウの率直な感想だが、トレスの反応は相変わらずにべもない。
「地下室だ」
と答えるトレスに分かってるよ、と言い返し、リョウはするすると下に降りていってしまっ
たインクルタを追う形でわくわくと中を覗き込んだ。
もっと真っ暗になる事を想像していたが、十数匹のインクルタのおかげで随分と明るく見える。
松明の物だろうか。アルコールに混じって、油の臭いが漂っている。足を踏み入れて狭い踊
り場に立つとひんやりとした空気が纏わりついて、リョウは小さく身震いした。
「昔――人間の少女がいた。母の病を治す薬を求めて私達の元を訪れた少女は、動けない母の
ためにと、遠い道のりを歩いて村までやって来ていた」
カツン、と靴音を慣らして、トレスが地下室に足を踏み入れる。
トレスの言葉に、リョウはすぐにシリクのしてくれた昔話を思い出した。
「先に、少女と面識を持ったのは私の親友だった。その少女の母の病は重く、村の薬師では治
せない。彼は少女を私に引き合わせ、私は少女の母に効くだろうと思われる薬を調合した」
「好きだったの……?」
滑るように、トレスは階段を降りて行く。
慌てて後を追おうとすると、その階段はひどく劣化しており、体重をかけるとボロボロと崩
れてしまい、リョウは慌てて踊り場へと後退した。
「そうだな――好意はあった。美しく聡明な少女だった。だが、それだけに過ぎない。だが、
その親友は違っていた。私は元々人間は好かんが、その男は種族によって生物を隔てるのを良
しとしなかった。そして、いつしかその少女の事を愛した」
階段の最後の段から足を離し、トレスが階段を振り返った。
リョウはボロボロと崩れる階段を恐る恐る、一歩ずつ確認しながら降りて行く。
「少女の母は快方に向かって行った。それならば、その母をこの村に連れてくれば、長い道の
りを歩く必要も無くなり労力も減るだろうと私たちは言ったが、母に無駄な体力を使わせたく
ないのだと少女はそれを聞き入れなかった」
「優しい人だったんだ」
「――ある日」
トレスは答えず、ほんの少しの沈黙のあと再び語りだした。
リョウはようやく階段を下り終えた。
「ある日私は、部屋に漂う少女の香りに気がついた。それは僅かな残り香でしかなかったが、
間違えようも無いほど確かな物だった。――そして、部屋の隠し扉が開いていた」
――盗まれたんだ。
シリクの昔話が脳裏を過ぎる。
「この扉の存在を知るのは、私と、私の親友だけだった。だが、残り香は少女の物に間違いな
い。私は全てを悟った。私の友が少女を信じ、そして少女が裏切った事を――」
「なにか、盗まれた……?」
「そうだ。決して他種族の目に触れてはならない物を盗まれた。確かに私達は病を治す薬を作
る。だが、それは一歩間違えば恐ろしい劇薬だ。そしてあろうことかその少女は、私が実験と
共に書きなぐった、中途半端で不完全な実験ノートを持ち出したのだ」
どうして――と問おうとして、リョウは寸での所でその質問を飲み込んだ。
トレスが知るはずの無い事だ。むしろトレスこそ、その理由を欲しているに違いない。
「私は少女を追った。取り返さねば、間違いなく多くの者が死ぬ。だが私が少女に追いついた
時、私が見たのは床に倒れ付した親友の姿だった」
――王子様は叫んだ。
「少女は誰か、見知らぬ男に手を引かれて走っていた。ごめんなさい、と叫びながら、少女は
何度もこちらを振り返っていた。私はそこで意識を失った。ただ、感情のみで動いていた。怒
りに支配されていた。ただ、眼前の怯えた目をした少女を殺すことだけを考えた」
どきりとした。
シリクの話では、王子様は少女を逃がした事になっている。
ここからだ、と思った。緊張で息が詰まる。
「ボウガンが落ちていた――私は、迷わずそれを拾い上げ、少女を狙って引き金を引いた。な
んの迷いも、ためらいもなかった」
そして――。
「矢は深々と突き刺さった――私の、親友の心臓に」
その言葉に、リョウは激しい眩暈を覚えた。
トレスの嘆きが、苦しみが流れ込んでくるようだった。
どうして――。
どうして、どうして――!
「私の親友は、少女を庇うように両手を広げ、私の矢を受けて崩れ落ちた。私の怒りが、私の
悪意が彼を殺したのだ」
笑っているような――可笑しくて仕方がないと言うような口調だった。
だが、リョウにはそれが、悲痛な慟哭のように聞こえてならなかった。
「私は――」
泣いてはいけない。
理由はよく分からないが、ただそう思った。
唇を噛み締め、涙を堪える。
「私は許せなかった。私自身を許せなかった。怒りに我を忘れ、少女を許すことの出来なかっ
た私が許せなかった。私は他者の命を奪おうとし――そして最も大切な者の命を奪ったのだ」
そうして、トレスは禁術に手を出した。
それは、あるいは不老不死の法と言っていいだろう。
その禁術とは、二つの肉体の魂と記憶を入れ替え、強制的に他人へと生まれ変わる薬師の秘
術だった。
過去に王がより長く生きるため、古い体を捨てて新たな体へと生まれ変わるために使われて
いたのだと、トレスはゆったりとした口調で語り聞かせた。
「私は、すでに事切れた親友に薬を飲ませ、そして自らも薬を含んだ。成功するかは分からな
かった。失敗したとしても、成功したとしても、私は死んでも構わなかった。私は薬の効力で
昏倒し――」
「目が覚めた時は、こうだった」
そう、シリクがひっそりと締めくくった。
長く、長くトレスが息を吐く。
ワイングラスに琥珀色の液体を注ぎ、ゆっくりと飲み干した。
「――分かっただろう。私は、自身に害が及べば平気で他者を傷つける。親友とて例外ではな
かったのだ。貴様など、容易く理性を失って傷つける」
それでも――とトレスは言った。
「お前は私を欲するか――? 私に貴様を与えると言えるのか? 私が恐ろしいだろう。森で
出会った時の貴様の反応が正常だ」
体がガクガクと震えた。苦しくて、リョウは今にも叫びだしてしまいそうだった。
これは呪いだ。
トレスは、自分で自分を呪ってしまっている。
決して誰も信じぬように。決して安息を得ぬように。
トレスは――。
この小さな家の地下室で、ずっと自分を罰し続けてきたのだ――。
「――後悔するがいい。自身の短慮と、無防備さを。たやすく他者を信じた事を」
ばさり、と、トレスが上着を脱ぎ捨てた。
はっとして、インクルタの淡い光に照らされた、その細い体を凝視する。
すとん、と、リョウはその場に崩れ落ちた。
「泣き叫べ。懇願しろ。私への恐怖を心に刻み込め」
座り込んだ体が、ふわりと浮いた。
腕をつかまれ、冷たい石の壁に押し付けられる。
ぐいと包帯を引き下ろし、トレスが唇を露出させた。
「トレ――」
唇を押し当てられ、強引に舌をねじ込まれる。
ベロアの物とは違う生暖かい感触に、リョウはぞくりとしてトレスの肩にしがみ付いた。
どうして――。
どうして怯えろと、恐れろなどと――。
「トレス……! ま、んん――ぁ、や、まって、ま……ん、んぅ……!」
丹念に歯列を舐められ、上あごを舌先でくすぐられる。
戸惑い、怯えて縮こまる舌を絡め取って引きずり出し、トレスはそれを吸い上げ、味わうよ
うに甘噛みした。
何度も角度をかえ、深く、より深く舌が絡まり合う。
ようやく唇が解放された時、リョウは全力で野原を駆け回った時のようにはぁはぁと呼吸を
乱していた。
その、激しく上下するリョウの胸を、トレスの手の平がまさぐる。
びくりと身を竦ませて見上げると、トレスは冷徹な瞳で、観察するようにリョウを見た。
「ぁ……や……」
やわやわと揉みしだかれ、服の上から引っかくように、乳首に爪を立てられる。
たまらず真っ赤になって俯くと、トレスは苛立ったようにリョウのシャツを乱暴にたくし上
げた。
「やだ――! や、恥ずかし……!」
慌てて、胸を隠そうとした腕を捕らえられ、決して動かぬように壁に縫いとめられる。
羞恥心にかたく目をつむり、唇を一文字に引き結ぶと、生暖かい呼吸が鎖骨にかかり、次い
でねっとりとした感触が鎖骨のラインを舐め上げた。
「トレス……まって、トレス、トレス……!」
「そうだ。――それでいい」
満足げに――ひどく陰鬱な笑みを唇に刻む。
違う――。
そう、リョウは叫びたかった。
拒絶しているわけではない。少し、怖い。だが、嫌悪ではない。
「ひぁ――! ぁ、やぁ……だめ、そこ、だめ、だめ……!」
つつ、と舌先が胸の小さなふくらみにたどり着き、その頂で赤く充血した乳首をくすぐるよ
うにちろちろと舐めた。
いやいやと首を振り、無意識に指が空気を掻く。
ちゅ、と唇で挟まれ、吸い上げられて、リョウは声にならない悲鳴を上げた。
「トレス……トレ――ッ! ぼく、ぼくも、ぉ、あし、ぁしが……」
がくがくと膝が笑った。
もう、とても立っていられない。
ふっと、腕を壁に縫いとめていた拘束が緩んだ。
安堵し、がくりと膝を折る。
その腰をトレスが受け止め、リョウはぐったりと脱力した体をふわりと抱え上げられた。
そして、どさりとロッキングチェアーに下ろされる。
ぎ、ぎ、と音を立てて揺れる椅子に浅く腰掛けながら、リョウはぼんやりとトレスの若葉色
の瞳を見た。
「トレス……?」
す、とその場に膝を付き、トレスの手がハーフパンツに伸びる。
カチン、と音を立てて留め金が外されて、リョウは慌てて椅子に預けていた上半身を起き上
がらせた。
「トレス……待って……おねがい、は、はなしを……!」
聞いて、と、最後まで言う事は許されなかった。
ハーフパンツを剥ぎ取られ、白い下着があらわになる。
見ないで、見ないで、と真っ赤になって顔を覆うと、トレスはリョウの懇願を無視して下着
の上からたっぷりと唾液を乗せた舌を押し付けた。
「やぁあぁ! だめ、や、やだ、汚い……きたなぃよぉ……!」
ぴちゃぴちゃと、わざとらしく舐めしゃぶる音が地下室に反響し、リョウは悲鳴を上げて耳
を塞いだ。
だが、音が消えても慣れない暖かな舌の感触は、ベロア以外を知らない体を執拗に責め立てる。
いつの間にか、トレスはリョウの下着をずらし、直接愛液をすすり上げていた。
「あ、あぁ、だ……だめ、だめ、だめ、だめ……!」
つん、とトレスの舌先が赤く充血した小さな突起に触れた。
瞬間、じゅるるる、と音を立てて吸い付かれ、リョウは悲鳴を上げて仰け反った。
「だめぇえ! やだぁ! やだぁあ! そこ、吸っちゃや……あ、ぇあ? あ、そ、それや…
…! うそ、やだ、だめ……! な、なんか、入ってく……!」
熱い。
熱い何かが、どろどろに蕩けた中に入ってくる。
それがトレスの舌だと気づくのに、随分と時間がかかった。
流されてしまう。
快楽に流されて、意識を保てなくなってしまう。
「トレス……トレス……お、おねが……キス……」
まるで信じがたい事を聞いたように、トレスがリョウから唇を離した。
はぁはぁと肩で息をしながら、焦点の合わない瞳でトレスを見る。
お願い、お願い、とうわごとのように呟いてトレスの頬に手を伸ばすと、トレスはその手を
静かに取って圧し掛かるようにリョウの唇に自身のそれを押し付けた。
唾液とは違う、慣れない妙な味がした。
一瞬の間を置いて、それが自分の味だと理解する。
たまらなく恥ずかしくて、今まで自分がされていた事を再認識せずにはいられなくて、リョウは
無我夢中でトレスの唇を貪った。
「何故だ――」
唇の離れた隙に、トレスが苦しげに零した。
意味がよく理解できずに、もっと、もっととキスを求める。
「何故、ここまでされて抵抗しない。分かっていないのか? 私は貴様を犯そうとしているんだぞ!」
若葉色の瞳が、激昂と不安に揺れているのが見えた。
「だって――」
ぞぞ、と、もどかしい快楽が這い上がる。
「い……嫌じゃない」
大きく、トレスが目を見開いた。
こんなにも、拒絶されるのを恐れているのに。
こんなにも、愛される事を望んでいるのに――。
リョウはぎゅっとトレスの首にしがみ付き、その耳たぶに甘えるように唇を寄せた。
「試して、いいよ……僕は、へーき、だから。だから、信じてトレス。僕は――」
君の事、好きだよ。
トレスが一瞬呼吸を止めた。
は、は、と、子供が泣くのを堪えるように、浅く短い呼吸を繰り返す。
ゆっくりと、抱きこむようにしてリョウの背に両腕を回し、そして、トレスは思い切りその
体をかき抱いた。
苦しいほどの圧迫感に息がつまる。
「トレス、苦し……」
「黙れ」
「トレス……ねぇ、トレ――」
また、先ほどのように強引に唇を奪われた。
だがもう、怯えも戸惑いもリョウにはない。
リョウの体を抱え上げ、トレスが体を入れ替えた。
ロッキングチェアーに腰かけたトレスに、リョウがまたがる形になる。
ぎ、ぎしりと、ロッキングチェアーが二人分の体重に悲鳴を上げた。
濡れ具合を確かめるように、トレスの指がリョウの蕩けきった入り口を探り、つぷり、と中
に潜り込んだ。
たまらずびくりと体が震え、トレスの肩にしがみ付く。
「……これでは痛むぞ。力を抜け」
「で、出来ないよ……! そんなの、わかんない……」
狭い――というのは、自分でも分かる。
トレスの指一本でも苦しくて、中での動きもひどく窮屈そうである。
く、とトレスが中で指を曲げ、指の腹で柔らかな肉壁を擦り上げた。あぁ、と喘いで、快楽
にふるふると首を振る。
体の奥からあふれ出す痺れに目の奥の方まで霞がかかり、リョウは無意識の内に腰を揺らし
てもっともっととトレスを誘った。
指が二本に増やされ、ほぐすように緩やかにかき回される。堪えきれず、リョウは先ほどよ
り激しくいやいやと首を振った。
「トレス……も、もう、ぼく……欲しいよ、欲しい、ほしい……」
「とんだ淫乱だな……小娘。私が欲しい、試せばいい、などと言うのは口実で、たんに快楽を
貪る事が目的か」
かっと、全身に血が巡り、リョウは赤く上気した顔を更に朱色に染め上げて、違う、そんな
んじゃないと必死になって否定した。
「だって、だって君が……! 君がこ、こんな風に、優しくするから……! だから、だから……!」
泣きそうになりながら言い訳を連ねる唇を、再び唇で塞がれる。
ゆっくりと導くように腰を引かれ、リョウは入り口に触れた熱い熱の塊に、どきりとして目
を閉じた。
こんなにも、熱いものなのか。
ぬるぬると愛液を馴染ませるように腰を揺らし、促されるままにゆっくりと腰を落とす。
「随分と慣れているな……」
はっと、リョウは自分の動きに気がついていよいよもって赤面した。
「やだ、やだ、ちが……!」
「なる程、契約のために体を与えるなどわけも無いと言う事か。まるで魔女だな」
どうして、トレスがこんな事を言うのか分からなかった。
突き上げられ、擦り上げられ、意識が焼ききれそうな快楽の中、ただひたすらに違う、違う
と繰り替えす。
それでも、快楽を求めて腰が揺れるのをリョウは押さえる事が出来なかった。
「あぁ、や、いく……だめ、そんな、したらすぐ……も、もう、あぁ、あ、ぁ……!」
泣きながら悲鳴のような声を上げるリョウを心配するかのように、インクルタがふわふわと
集まり出した。
その、虚ろな淡い光がぼやけ、開きっぱなしの唇を伝って唾液が垂れる。
「あ、あぁ、い、ひ……あ、ああぁあ――!」
きぃん、と、地下室に甲高い悲鳴が反響し、リョウはがくがくと全身を震わせてむき出しの
トレスの背に爪を立てた。
ガリ、と皮膚の抉れる音がして、トレスが小さく声を漏らす。
トレスはまだ果ててはいなかった。
絶頂を迎えたばかりの敏感の体をゆすり上げられ、リョウは休む間もなく再び絶頂へと押し
上げられた。
より深くへと突き入れようとするように、ぐいと腰を引き寄せられる。
「トレス……! トレス、トレ――ぃあぁぁあ!」
瞬間、体のどこかで目のくらむような熱が弾けた。
熱い――熱い、熱い。
「熱ッ……! ぁ、は……あ、あぁ……!」
ぜ、ぜぇ、と、トレスが呼吸を乱して喘いだ。
リョウもトレスの首にしがみ付き、酸素を求めて深呼吸を繰り返す。
どれくらいの間だっただろう。しばらくはそうしてお互いに抱き合い、リョウはふと、トレ
スの胸に頭を預けてすりすりと頬を摺り寄せた。
「僕……君は正しかったと思う」
「――何?」
くしゃりと、リョウの髪を撫でながら、トレスが疲れたように問う。
「裏切られて、大事な人を傷つけられたら、誰だって怒る。ベロアだって僕が汚したら、瞳の
色真っ赤にして怒るもん」
だから、シリクを傷つけられたトレスの怒りは正常だ。
そして、怒りは瞬間の狂気である――という言葉がある。
「だから僕、大事な人を傷つけられて、我を忘れて怒れる君が好きだよ」
くく、と、トレスが肩を揺らして笑った。
あぁ、まったく、と囁くように言う。
瞬間、トレスははっとしてリョウの体を引き剥がした。
「な――なに?」
「……後で薬をやる」
なんの、というリョウの質問に、トレスは眉間に皺を刻んで忌々しげに悪態をついた。
「……私は人間と子を成せる」
「……え?」
「懐胎しては――流石に問題があるだろう」
瞬間、リョウの脳裏に猛烈な勢いで性教育に使われた本の一文が呼び起こされた。
異種族間でも子をなせる特異例は意外に多く――。
例えば人間と似た外見の生物で生殖器の形状が合致すれば多くの場合――。
あぁ――。
ベロアに殺される。
切らせていただきます
GJでした
続きキター!
最近読み始めたんですが、GJですっ(´∀`*)
何かキテター!
猛暑に疲れ果てた今日 覗きに来て見て良かった。
これで安心してビールをあおれます。
GJGJ
体が鉛のように重い。
立ち止まると、汗が額からぽたりと落ちた。
乾いた地面は何事もなかったかのように雫を飲み干す。
容赦ない灼熱の日に、じりじりと体力が奪われていくのを感じた。
(…ひとまずどこかで、体を休めなければ)
ドレイスは乱れた呼吸を整え、のろのろと歩き出した。
「…もう、いい」
男がかすれた声を出した。
「私を置いて行け。一人なら逃げきれる」
ドレイスは歩みを止めずに強い口調で言った。
「私は私の義を貫いているだけだ」
「…勝手な義の在り方だな」
「勝手に私をかばったのはそっちだろう」
男が小さく息をついたのがわかった。
▽
ロザリアとアルケイディアの戦いは熾烈を極めていた。
ドレイスが所属する部隊は敗走中だったが、不幸にも敵国の奇襲を受けてしまい、壊滅に近い状態となってしまった。
それでも、たまたま同じ方向に逃げた兵士がアルケイディアで1、2を争う腕のガブラスだというのは幸いだった。
なるほど、彼は恐ろしいほど強かった。
後から後からわいてくる敵を斬り続けながら、彼女はその剣技に驚きを隠せずにいた。
噂に聞いてはいたが、これほどまでに強いとは。
神のおわした時代の戯曲に勇将を讃えた詩があったが、誰だったか、ガブラスの強さはまさにその勇将のようだと言っていた。
何を大袈裟な、と鼻白んだ記憶があったが、その思いを今になって正すことになろうとは。
だが、今は戦闘中でドレイスとて鍛練を積んだ兵士だ。
余計な雑念を払い、彼ばかりにまかせてはおけないと、目前の敵を無心に倒し続けた。
しかし、襲ってくる疲労には抗えない。
ようやく最後の相手となった兵士と戦っている際、ドレイスはとうとうよろめいた。
鋭い切っ先が、目の前に迫る。
(これまでか)
その瞬間、何かがドレイスを覆うようにしてかばった。
肉を斬る音と、血の滴る音。
ドレイスは地面に倒れこんだ。
痛みはない。
慌てて顔を上げると、腿に深手を負ったガブラスが、力尽きた兵士の前でうずくまっていた。
▽
「…廃村か」
もしくは、戦で村人は皆殺しにされたか。
ドレイスは井戸から水を汲み上げ、懐にしまっていたきれいな布を濡らした。
村を見つけた時に、その場にあった木陰にガブラスは休ませてきた。
彼は危ないと止めたが、様子を見てくる、足手まといだからここにいろ、そう言って置いてきた。
深手を負った人間に、肩を貸したとは言え長距離を歩かせたのだ。
少しでも休息させてやりたいというのが本音だった。
ドレイスは立ち上がると、もと来た道を走った。
ざっと見た程度だが、人の気配は全くない。
損壊していた住居もあった。
やはり廃村と見て間違いないだろう。
▽
「骨に異常はないようだな」
濡らした布で傷口を清め、さっと布を脚にまいてやると、その様子をじっと見ていたガブラスが口を開いた。
「すまない」
ドレイスは思いきり眉根を寄せた。
なぜこの男はこうなのだろう。
失態をさらしたのはドレイスの方で、彼はそれをかばったのだ。
彼に落ち度はない。
それなのに、どうしてこの男は謝るのか。
「…聖者のような人間だな、お前は」
吐き捨てるように言って、ドレイスはまた後悔した。
先ほどから彼には、命を救ってもらったとは思えない態度ばかりとってしまう。
女だてらに兵士になったドレイスには、男に舐められるわけにはいかないという強い感情があった。
またそうでなければ、今までやってこられなかった。
だから体を鍛えあげ、剣の腕を磨き、誰よりも勇ましい戦士であろうと肩をはって生きてきたのだ。
それなのにやすやすと命を諦めようとしたことや、その命を男に救われた事実、そしてそれを認めきれずにこんな態度をとってしまう自分が許せなかった。
そして何より許せなかったのは。
ガブラスが音も無く笑ったのがわかった。
今顔を上げれば、眉を下げて、困ったような顔で笑う彼を見ることができるだろう。
うつむいたままドレイスは口を開く。
「笑うな、無礼者」
「…すまない」
きっとまだ、ガブラスは笑っている。
ドレイスは溢れ出しそうな気持ちを抑えるのに必死だった。
「…もう十分だ」
ガブラスが静かに言った。
「ドレイス、一人で逃げろ。じきにここも見つかる。どのみち、私には兵士としての未来はない。
…私の出自は知っているだろう」
―――アルケイディアに滅ぼされたランディスの生き残り、ガブラスは祖国のかたきをうとうとしている―――
彼には常に黒い噂がつきまとっていた。
だからこそ、恐ろしいほどの強さと輝かしい功績を持ちながら、いつまでも兵士としては出世できないのだと、まことしやかに囁かれていた。
ドレイスは震える手でこぶしを握った。
「黙れ。感傷にひたりたいのならアルケイディアに帰ってからにしろ。
そんなに死にたければ今すぐにここで舌を噛んで死ね。
墓くらいなら作ってやる」
「…ドレイス」
「黙れ」
「ドレイス、聞け」
「私に触るな!」
肩に触れた手をはらって、ドレイスはその瞳から思いを零しながら彼を睨んだ。
いろんな感情が押し寄せて、どうすればいいのかわからなくなった。
「…私は愚かで卑しい人間なんだ、ドレイス」
だからそんな眼で見るな。
低く呟かれた言葉を背で聞きながら、ドレイスは寄せられた温もりを否定できずに静かに泣いていた。
終
FF12やってないけどハゲ萌えた!
ストイックは兵士の関係はやはりイイ
全体的な流れは好きだな。
もう少し描写があれば、もっといい感じになると思った。
保守だな
このスレ好き
☆あげ
投下させていただきます
関西弁が苦手な方はスルーしてください
空から子供が落ちてきた。否、詳しくは空からではない。アパートの二階から、バイト帰りの光の上へと、子供が飛び降りてきたのだ。
光は受け身を取れずに、そのまま子供の下敷きとなった。
「コォラォー!クソガキー!待てぇー!」
上の方から、二階に住んでいる真鍋さんの声がする。
子供はサッと光の上から退くと、すたこらさっさと走って行く。
「待てって言ってんのがわからんのかー!このあほー!」
下に降りてきた真鍋さんが、小さくなっていく背中に向かって叫ぶ。
光は真鍋さんの隣で地に尻を付けたまま、走り去って行く金髪頭の子供を見送った。
「あんのクソガキ。覚えとけよ」
斜め上から真鍋さんの舌打ちが聞こえた。
真鍋さんの顔を見てみると、視線を感じたのか、真鍋さんは顔をこちらに向ける。
「ごめんなぁ。痛かったやろ。怪我してへん?」
真鍋さんは本当に申し訳なさそうに謝ると光が立ち上がるのに手をかした。
「いえ、大丈夫で…」
「あぁっ!怪我してるやん!ここ!うわー。めっちゃごめんなぁ」
「いえ、大丈夫…」
「痛そうやなぁ。ほんまごめんなぁ。うちに来て。手当てするわ」
「いえ、大丈…」
「あんのアホ。帰ってきたら、ケツ叩きの形や。ほら、早く入って。血ぃ、垂れてきてるやん」
「いえ、大…」
真鍋さんは既に自分の部屋のドアを開け、光が入るのを待っている。
光はこの人には何を言っても無駄だと判断し、大人しく真鍋さんの部屋に足を踏み入れた。
「…おじゃまします」
「いらっしゃーい。汚いけど、気にしやんとってなぁ」
真鍋さんはカラカラと笑って、そう言った。
部屋の中に視線をめぐらすと、一人の子供がテーブルの近くに座っていた。白いブラウスにフリルのスカート。光にはこのボロアパートに少し不釣り合いのように感じた。
「こんにちは」
子供は光に軽く会釈してきた。光もこんにちはと会釈しかえす。
「葵に逃げられたん?」
「そうやねんー。我が子ながら、めっちゃムカつくわー、あいつ」
子供と真鍋さんの会話から、さっきの金髪頭の名前を知る。
「もうそろそろ、仕事の時間とちゃうん?」
子供の声に真鍋さんが壁時計を仰ぎ見る。
「あぁっ!ほんまや!ごめん、碧。この人の怪我の手当てしたって!」
真鍋さんは手早く準備をすると、行ってきまーすと大声をあげて出て行った。
部屋に二人きりになってしまった。気まずい。
光は子供が苦手だ。というより、人間全般が苦手だった。なぜなら、会話することが苦手だったからである。
光がどうしようかと思案していると、碧の方から声をかけてきてくれた。
「そんなとこ立ってないで、どうぞこっち来て座ってください」
光はそれに甘えさせてもらい、碧の傍に近寄ると、なるべく静かに座った。
碧のつむじが見える。あの金髪頭とは違い、黒黒とした頭だった。
「手ぇ、出してください」
言われるままに手を差し出した。
すると、碧はいつの間に用意したのか光の腕に垂れている血をティッシュで拭う。
「ごめんなさい。巻き込んで」
碧がポツリと呟いた。
「あの二人、いつもあんなんやねん。周りのこと考えやんと行動するから」
「いえ、大丈夫です」
今度は最後まで言えたと密かに心の中でガッツポーズをしていると、碧は首を傾げて光を見上げてきた。
「標準語?お兄ちゃん、関西の人と違うの?」
「あ、ハイ」
子供相手に敬語で答えた。
「へぇー。ずっと、関西の人やと思ってた」
碧は口を動かしながらも、光の手当てを手際良く進めている。
「なんでこっちに来たん?」
「大学がこっちで」
「あぁ。そういえば、大家さんが言ってたわ。お兄ちゃんの通ってる大学って賢いねんやろ。すごいなぁ」
「いえ、そんなことは」
「見た目普通やのになぁ」
子供は正直だ。時には残酷なほど。
「絆創膏どれがいい?」
碧は色とりどりの絆創膏を並べて見せてくれた。
「普通のはないんですか?」
「うん。ない。絵ぇ、描いてあるほうがかわいいやろ?だから、普通のは買わへんねん」
光はなるべくシンプルな緑色のカエルが描かれているものを選んだ。
碧はそれを手にとり、光の傷口に貼ってくれた。
「寂しくないん?」
碧が出し抜けに言ったので、光は一瞬戸惑った。
「へ?」
「家族と離れて一人で暮らしてんねんやろ?寂しくないん?」
「まぁ、たまには」
光が答えると、碧はなにやら考えこんだ。
「お兄ちゃんの部屋ってゲームある?」
「え?まぁ、一応ありますけど」
碧はにっこりと笑った。
「そしたら、お兄ちゃんの部屋に葵と一緒に遊びに行ったるわ。そうしたら、お兄ちゃん寂しくないやろ?」
光はあの金髪頭には来て欲しくないなぁと思いながら、ありがとうと碧に感謝の言葉を伝えた。
投下終わります
>>327 ここで終わり?それとも続きあり?
反応しにくいので、次の投下のときは意思表示してもらえると助かる
>>327 自分も会話するの苦手なので(やはり子供に敬語を使ったりする)
共感しながら読んでしまった……。
もし続きがあるなら、ぜひ読みたいです。
>>328 続きは書きたいとは思っています
が、書く気力が足りません
次に投下する場合は、名前欄を『ロリコン』にしときます
>>329 続きを読みたいと言ってくれてありがとう
すごく嬉しいです
ほしゅ
投下させていただきます。
・龍虎の拳のキャラクターの、ロバート・ガルシア×ユリ・サカザキ
・でも設定はどちらかといえばKOF寄り
・どうしてもエロにならなくて専用スレへの投下を断念
NGワードは「KOFロバユリ」でお願いします
「お兄ちゃんの、ばかあー!! 大っ嫌い!!」
帝王学の講義を終え、優雅に昼食を済ませたその足で、
いつものように極限流道場へ向かったロバート・ガルシアの耳に飛びこんできたのは、そんな叫び声だった。
と同時に道場の扉が勢いよく開き(間一髪でロバートはそれをかわした)、
つむじ風のように人影が脇をすり抜けてゆく。
それを呆然と見送って、ロバートは苦い顔をした。
短くない付き合い、何があったかくらいはわかる。
道場を覗くと、そこにいたのはロバートの師匠ではなく親友でありライバルでもある男だった。
「……リョウ」
その声に振り向いたリョウ・サカザキは、ロバートを見つけるとばつの悪そうな表情になった。
『無敵の龍』と称される彼も、実の妹に気をとられてしまってはロバートの存在にまでは気づけなかったのだろう。
ロバートは、すでに習慣になっている一礼をし、道場に上がる。
そして、あいさつもそこそこにイタリア語なまりの英語で言った。
「実の妹泣かしてどないすんねん。ほんまに大人げない」
「……大人げないとか、そういう問題じゃない。極限流の品位に関わる問題だ」
またこれだ、とロバートは思う。
最近のユリ・サカザキとリョウ、もしくはタクマ・サカザキの喧嘩はもっぱら極限流の品位に関してだ。
師範でもあり父でもあるタクマや師範代のリョウは、ユリの奔放な試合スタイルが許せない。
空牙を「ちょーアッパー!」、飛燕旋風脚を「ちょー回し蹴り!」などと言い、
勝利したときにウインクをするような空手は極限流とは認められないらしい。
極限流空手は一撃必殺を旨とする武術だというのがタクマやリョウの言い分だ。
「ええやないか。空手の大会のときには、ユリちゃんきちんとしとるんやから。
KOFみたいな異種格闘戦はパフォーマンスも試合のうちやで」
惚れた弱みもあり、ユリのそういった行為をすべて黙認しているロバートはさらりと彼女を弁護した。
しかし堅物なユリの兄は、形のいい眉をひそめる。
「師範代であるおまえがそんなことでどうする」
「自分、ユリちゃんの兄貴やろ?
年下の女の子相手に本気で喧嘩したうえに泣かせるなんて、兄貴としてどうなんや言うてんねん。
百歩譲って、師範代として門下生を一喝しただけ言うなら、次は兄貴として泣いた妹を慰めに行かんかい」
リョウは黙った。
若くして極限流の師範代を務め、無敵とまで謳われているリョウ・サカザキだが、
ひとたび空手を離れれば不器用でシャイで、しかも少々天然の入った一青年だ。
そういう、女性を立てたり慰めたりという気遣いは完全に苦手分野だろう。
そして、ロバートの見たところ、リョウのこの部分は確実にタクマ譲りだ。
「……ほんまに、ユリちゃんも苦労するわ」
口では呆れた口調を作りつつも、ロバートは少しの下心も持ちながら、親友の代わりに彼の妹のもとへと向かうことにした。
道場の裏手で膝を抱えているユリを見つけ、ロバートはどう声をかけたものかと足を止めた。
「……ロバートさん?」
ユリが、まるで後ろに目がついているかのように言ってのけ、不意を衝かれたロバートは息を呑んだ。
気配は殺していたつもりだ。
もしかしたら、極限流の中で一番才能に恵まれているのはこのユリかも知れないと今さらながらに思う。
「お、おう。ユリちゃん。どないしたん? またリョウの奴と喧嘩したんか?」
「……うん」
小さくつぶやいて、ユリはくすんと鼻をすすった。
タクマやリョウと違い、ロバートがユリの行動を黙認している理由は、半分が惚れた弱み。
そして、残りの半分はユリの考えを多少なりとも理解しているからだ。
父親であるタクマが失踪したことにより、幼いユリは兄であるリョウに育てられた。
彼がストリートファイトで生活費を稼いでいたのだ。
それに気づいたガルシア財団も援助を申し出たものの、リョウに断られたために陰から援助するにとどまった。
タクマが戻ってきてからは、極限流道場を再開し、護身用空手などを教えるようになって経済的には安定した。
しかしながら、宣伝の類を嫌うタクマは積極的に新聞広告などを打とうとはせず、
そのうえ指導も厳しいので、門下生が増加するということはなかった。
サウスタウン以外にも極限流の支部はあるが、
それもごく少数の精鋭である門下生と決して多いとは言えない練習生のみで、経営はかつかつだった。
宣伝と言える宣伝は、格闘大会に参加し、そこで極限流の実力を知らしめるのみ。
あえて言葉で説明しなくとも、戦いを見せるのみで十分だというのがタクマの考えだった。
そこで、裏大会から一転して、クリーンな格闘大会になったKOFだ。
極限流チームの一員としてタクマの穴を埋めるように出場したユリは、リョウやロバートが驚くほどの人気者となった。
一撃必殺を旨とするリョウやロバートの戦いぶりとはうって変わって、
手数の多い華やかな技を繰り出すユリは、極限流のイメージを一転させた。
何せ、テレビ映りのいい愛らしい女の子が並み居る格闘家を倒していくのだ。
大男をKOした後、モニターに向かって悪びれずピースサインやウインクをする姿は世の男性を魅了し、
テレビ観戦していたタクマを激怒させた(らしい)。
しかし、それによってユリの狙い通りに極限流空手の門を叩く男性や若い女性は一気に増えたのだ。
――ただし、不純な動機で入門した男性はタクマやリョウやロバートにあっさり看破され、
普通より五割増しで厳しい稽古にあっさり逃げ出すことになってしまったが。
それでも、ユリの『極限流の品位を落とす』振る舞いは、門下生を増やそうとユリなりに考えた結果だったのだ。
リョウやタクマはユリに対してのお小言を絶やさないが、ロバートから見れば、本当にユリはいい子なのだ。
尊敬していると言い換えてもいい。
大の男でも音をあげるようなタクマの稽古を毎日こなし、
サカザキ家の家事全般を一手に引き受け、
それ以外の時間はアルバイトをし、
さらに空き時間はボランティア活動までしているのだ。
これだけですでに、ロバートとしては「健気やなぁ」と抱きしめたくなってくる。
さらに、天然の入っているタクマやリョウは一生気づかないだろうが、
アルバイト代が入った日には、ユリは自らのお小遣いから奮発していつもより高い食材で夕飯をつくっているのだ。
ロバートは、背中を丸めているユリに一歩近づいた。
そんな動きを制するかのように、ユリはまた震える声で言った。
「何が『極限流の極意は一撃必殺だ!』よ。……お兄ちゃんには、私の気持ちなんて、わかんないんだ」
「……うん。せやなぁ」
どれだけ才能があろうとも、どれだけ努力しようとも、ユリは男性でなく女性だ。
腕力や体力は男に劣る。
女性の身でも、ユリの技術や格闘センスは他を圧倒し、並の男なら寄せ付けない強さを誇る。
一年そこそこというわずかな期間で、極限流の門下生をごぼう抜きし、
タクマ、リョウ、ロバートに次ぐ実力をつけたユリは、不世出の天才と言っても言い過ぎではないだろう。
事実、KOFでも名だたる格闘家を倒し、また互角に戦ってきた。
ただ、本当に超一流の格闘家相手にはきっと生涯敵わない。
――例えば彼女の兄であるリョウのような。
ユリは一生リョウに敵うことはない。
同じく、ロバートもユリ相手に負けることはないだろう。
ただ女として生まれてきた、それだけで。
どうしても技が軽くなってしまうユリには、「一撃必殺」という極意を完全に自分のものにすることは一生不可能なのだ。
ロバートにしてみれば、そのあたりを踏まえてもう少しソフトに接してあげられへんもんかなぁ、という感じだった。
まあ、あの不器用なうえに天然の入った頑固親子にそれを望むのは無謀というものかも知れないけれど。
「でもな、リョウの奴は、ほんまに兄バカいうか……過保護なだけやねん。
せやから、いろいろうるさく口出してしまうんやないかな?」
ユリは答えない。
ただ、くすんと小さく鼻をすするだけだった。
「師匠に似て……不器用なうえに口下手で天然やからなぁ、リョウは。
せやけど、あいつなりにユリちゃんのこと心配しとるんやで?」
少しの間を置いて、ユリがすっくと立ち上がった。
振り返ったユリは、まだ涙に濡れた瞳をしていたけれど、それでも世の男たちをとりこにした全開の笑顔だった。
赤い目をぐいっとこすって、言う。
「えへへ、そうだよね。お兄ちゃんもお父さんも、うちの男ってどうしてみんなああなのかな」
ロバートもつられて笑う。
「ほんまになぁ、困ったもんやで」
「しょうがないから、私、謝ってあげようっと」
もう一度顔を拭い、ユリは大股で道場へと足を進めた。
少し時間を空けてから後を追うのが礼儀というものだろう。
立ったままのロバートを振り返って、ユリが小走りで駆け戻ってくる。
どないしたんや? ……と声をかけようとしたとき、飛びかかるように勢いよく、ユリに抱きつかれていた。
「ロバートさん、ありがとう!」
至近距離でにっこり笑った天使が、羽のようにロバートの右頬に唇を落とし、すぐに身体を離した。
またねー、と手を振って、その俊足を飛ばしてユリは去っていった。
ロバートをそこにひとり残して。
「……天然なのはリョウだけちゃう。まったく……天然兄妹め」
男の方の事情を何もわかってくれない小悪魔を思い、ロバートは深いため息をついた。
保守
340 :
名無しさん@ピンキー:2007/09/27(木) 23:18:11 ID:Ww6Wr+50
ほす
投下します。
三角関係っていうか♀先輩×♂後輩←♀後輩って感じで
♂後輩が受けっぽいので、嫌な人はNGワード「大和高校恋愛の事情」でお願いします
「りょ〜〜〜〜〜〜お!!!!!
アンタ、飛ばし過ぎだってばっ
先輩に追いつきたいのはわかるけど、
もーちょいペース落としなさい!!!!
そんなんじゃ逆に脚壊すぞ!」
初めましてっ!
アタシ、平野秋奈でっす!
大和高校のマネやってて、絶賛説教中....じゃない
青春中です?
その相手はー....
「るっせ!俺のペースなの!
お前だって里南先輩みたくなれよ!
もーちょっとゆっくり話せ!
喉潰すゾ!」
こいつ、齊藤涼央。
生意気なんだけど、なんか猫っぽくて可愛い。
背小ちゃいし!
でもコイツ、ことあるごとに里南先輩里南先輩.....
ばこッ
「「痛ぁッ」」
でたッッ!里南!じゃ無い、里南先輩....(?□?;)
美人で黒髪のツインテールが美しい。
涼央の彼女で中国人と日本人のハーフ。
「りょ〜お?秋奈の言うことちゃんと聞きなさい!ボソボソ
あ〜きな〜!そんなんじゃ涼央オトせないよ?」
「「なッッッッ」」
りょー&アタシ、赤面。
なんて、言われてたんだろー
気になるー....
「「.............」」
ハンパねー。
可愛いー。
里南先輩には、負けたくありません
こんな可愛い涼央、あげませんって!!
「秋奈、涼央に見蕩れてないで記録しろよぉ」
!?
「ぅげぇ、晃太郎」
「うわ、もうちょっと可愛い声出したらどうだよ」
......
たしかに、コタの言うことが正しい...(コタ=晃太郎)
ぅげぇ、は無いよ....
「里南先輩に捕られるぞ〜なんちゃって。」
貴様、アタシからはなれろ。
端から見るとめっちゃ仲良さそうだよ、アタシら。
あ。先輩.....
っ!か、確実に誤解された!
ぽかーんと口を開けてこっち見てる。
付き合ってたんか。って言ってそうだよー...
「もーちょっと女っぽくなれよ
胸なんてペッタンコじゃ....」
「死ねエーーーーーー!!!!!」
色気無ーい。とか言ってるし。失礼な!
アンタよりはあるからね!(当たり前だしっ
そう言われて見ると...超胸小ちゃいし
腰くびれてないし
幼児体型....
ぐああ、女っぽくなりてえええええ!
「秋奈〜?」
!!
里南先輩........
アタシの最大ライバル
来たりィッッッ
「何デスカ(怒」
「あらやだ、もぉ
何怒ってんのかしら」
たりめーだ!
怒るよ!!!!
こっそり耳打ちして
涼央真っ赤にさせる程の秘密知ってんだから
「さっきさぁ、
あたし、なんて言ったと思う?
真っ赤になっちゃって、可愛かったよね。涼央。」
「涼央はアタシのモノですから。
譲りませんから。
絶対に、絶対に譲りませんから。」
「うふふ、やだ。
ま、その時はアタシも譲らないわ」
凄く短くてごめんなさい。
最後の、「ま、その時はアタシも譲らないわ」の所、
「ま、その時はアタシも黙っちゃ居ないわ」に脳内変改お願いします!
誤字・脱字は教えてください!
携帯小説なら、該当スレに移動した方がいいよ。
誤字脱字は他人任せにしないで、推敲は自分でやるべき。
書く人の最低限のマナーくらい守ろうね。
348 :
名無しさん@ピンキー:2007/10/08(月) 11:12:48 ID:h5jDbQNl
ほ
349 :
シン×ステラ 前編:2007/10/13(土) 01:37:10 ID:0VpOPH4N
投下します。ガンダムシードデスティニーのシンステ戦後パラレル。レイルナもあります。
安息の地
「ん・・・朝、か・・・」
シンが、そう呟いた。
「・・・ステラ」
再び、呟く。
そして、傍らのステラを見た。
・・・大戦末期。
デストロイからステラを助け出したシンは、それでもフリーダムを落とした。
ステラが助かったとはいえ、家族を殺された恨みは、それだけで殺意になった。
それに、軍人でもあるシンが、敵であるフリーダムを落とすのは当然だった。
が、それでも納得の行かなかったアスランは、議長に疑念を抱き脱走。
グフでなんとか逃げ切り、アークエンジェルに辿り着いた。
その後、ストライクフリーダムとインフィニットジャスティスを手に入れた
キラとアスランは、オーブでシン達の前に立ちふさがった。
激戦の最中に、シン達に信念を問うキラとアスラン。が、シン達は答えた。
「自分の守りたい者を守るためだ。」と。
・・・皆、自らの罪を受け入れ、それでも戦うという意志があった。
綺麗なままではいられないことも、理解していた。
これを聞いたキラとアスランは覚悟を決めた。
互いの主義・主張が相容れないものだと理解したのだ。
・・・激戦の結果は互角。決戦の舞台は月面となった。
月面での死闘は、思いもよらぬ形で終結した。
レイとキラの間にルナマリアが、シンとアスランの間にステラが割り込んだ。
ルナマリアもステラも、好きな人が傷つくのを見たくなかったのだ。
シンもレイも、一度は拒否した。少なからず因縁のある相手なのだから。
が、キラとアスランが退くという条件で同意した。
シンはデスティニープラン(Dプラン)に僅かな疑念があり、レイはこれでは、
反対者が多いDプランが導入されず、議長の望みが果たされないと思ったからである。 デュランダル議長も思い直し、ラクスとの会談を行った。
その結果プラント・オーブの和平が成立、Dプランは導入見送りが決定された。
Dプランに反対し、戦争終結を望む声が多かったからである。
かくして一時的とはいえ平和な世界が築かれ、シン達はオーブに移住した。
ザフト軍オーブ駐留部隊に任命されたからである。
が、テロ活動が散発的なせいか、シン達が動くことはほとんど無かった。
ステラもアカデミーを出てザフト特務隊・フェイスとしてシン達と共に居た。
そして、シンとステラ・レイとルナマリアの2組でそれぞれ同棲を始めた。
(レイはオーブに住みたくなさそうだったが、ルナマリアに説得された。)
そして、恋人同士が同棲して何もないはずが無く。
同じベッドで朝を迎えることになった・・・
350 :
シン×ステラ 後編:2007/10/13(土) 01:38:46 ID:0VpOPH4N
「・・・ホント、幸せだよな・・・」
「どうしたの?」
「スっ、ステラ!?起きてたの!?」
「さっき起きたよ。そうしたらシンがボーッとしてたから、どうしたのかなって。」
「ん・・・考え事してた。」
「フフッ、朝から考え事?もっと明るくしよう?」
「ありがと♪・・・って」
「シン、元気になってる・・・朝だから?」
「・・・それもあるけど、ステラ、自分の格好分かってる?」
「え?・・・あっ」
そう、ステラの格好は、裸にシーツを纏っただけであった。
「ごめん、ステラ。もう・・・止まらない」
「ふぇ?キャッ・・・シン、やめてよぉ・・・♪」
「声が嫌がってないよ、ステラ・・・」
何だかんだでどちらもその気になったらしく、またベッドに潜りこんでしまった。
「いっ、いいよぉ、気持ち、い、いよぉ・・・♪」
「はぁっ、はぁっ、くっ、」
「んああっ、も、だめぇ、イクよぉっ」
「オレもっ・・・出すよっ」
「あああぁぁぁっっ・・・!」「くうぅぅっ・・・!」
「「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、」」
いろんな人を、失って。
いろんな罪を、背負って。
それでも、ここに得たんだ(よ)。 オレ(わたし)達の、安息の地を。
以上です。
351 :
名無しさん:2007/10/13(土) 05:31:14 ID:kwqpK0IW
す
い
か
354 :
ロリコン:2007/10/21(日) 14:30:16 ID:CG0KnEML
投下させていただきます
関西弁が苦手な方はスルーしてください
携帯で書いているので、読みづらい箇所もあるかもしれません
ご了承下さい
一応、以前、投下した話の続きとなっております
が、期待されるような展開は全くないかと思われます
ぶっちゃけ、面白くないです
保守代わりの投下だと把握して頂ければと思っております
355 :
ロリコン:2007/10/21(日) 14:30:57 ID:CG0KnEML
ドンドンとドアが叩かれる音がする。
「みーずーはーらぁー!はよ、開けろー!」
子供の声が狭い部屋に響く。
光は、黙ってドアを開けた。そこには、金の頭と黒の頭が。
「遅いねん。このクズ!」
金の頭、葵はそう吐き捨てると、光の脇をすり抜け、部屋の中へと入っていった。
黒の頭、碧はというと、光にニコッと笑いかけ、小さな声でお邪魔しますと言ってから、靴を脱ぎ始めた。ちゃんと、脱いだ靴を並べることも忘れない。しかも、葵が脱ぎ散らかした靴まで並べている。
あれから、この双子が光の部屋に遊びにくるようになった。
二人が双子と知った時、光は驚いた。全く似ていない。天と地ぐらいの差がある。
どのようにしたら、こんなに正反対な双子を育てられるのだろうか。真鍋さんに聞いてみたかったが、あの人と話すのは苦手なので止めておいた。
葵は既にテレビの前を陣取り、ゲームを始めていた。投げ捨てられたボロボロのランドセルが部屋の隅に転がっている。
碧は自分のランドセルを静かに降ろすと、部屋の隅に置いていた。葵のランドセルもその隣に並べなおしてから、ゲームに夢中になっている葵の傍にちょこんと座る。
いやはや、全く似ていない。
356 :
ロリコン:2007/10/21(日) 14:31:47 ID:CG0KnEML
「水原ー。ジュースー」
目をテレビ画面に集中させたまま、葵がふてぶてしく言う。
光は返事を返さずに冷蔵庫から冷えた炭酸ジュースを取り出した。
視界の端で、部屋の中央に置いてある小さな卓袱台に碧がコップを用意してくれているのが見えた。
碧にお礼を言い、コップにジュースを注ぐ。炭酸の泡が次々と踊りながら上まで登っては、パチパチと云いながら弾けて消えていく。
葵はお礼も告げず、それが当たり前かのようにコップを手に取った。口へと運び、くぴくぴと飲んでいる。
碧は光の隣に座り、こちらはやはりキチンとお礼を言ってから、同じようにくぴくぴと飲んでいた。
飲んでいる仕草事態はすごく似ているんだけどなぁと、光はぼんやり思う。
その時、ふと、葵に呼びかけられた。
顔だけをそちらに向け、視線だけで、何だ?と問いかける。
「お前、彼女とか居らへんの?」
葵の唐突な質問に光は思わず固まった。
居るはずがない。できるわけがない。このコミュニケーション能力では。突然、何を言い出すのだ。このガキは。
「居ません」
正直に答えた。一瞬、嘘をついてやろうとも考えたが、大学の授業とバイトでしか外出しないので、どうせバレる。
357 :
ロリコン:2007/10/21(日) 14:32:30 ID:CG0KnEML
「ふーん」
葵は、ニヤニヤと忍び笑いをしながら、ゲームを再開し始めた。
絶対、馬鹿にされている。
「好きな人とかは居らんの?」
碧が、こちらを見上げながら、可愛らしい声で尋ねてきた。
テレビ画面では、葵の操るキャラクターが見事に壁に激突している。
「居ません」
あえて言うならば碧だろうか。いや、怪しい意味ではなく。自分は断じてロリコンではない。
碧は尚も光に尋ねてくる。
「初恋は?したこと、ある?」
「えぇ。それぐらいは」
「どんな人?」
碧が目をキラキラさせながら、興味津々といった表情で見つめてくる。光は自分の頬が緩むのを感じた。あぁ、かわいい。
「幼稚園の先生でした」
「お前、年上が好みやったん!?」
ゲームをやっていた葵が目を見開き気味にし、卓袱台越しに身を乗りだして、急に話に食いついてきた。
光はその過剰な反応に驚いて、少し身を引きつつも答える。
「いえ、そういうわけでは」
葵は睨みつけるように光のことをじっと見てくる。威嚇されている気がしないでもない。
なぜ、葵がこのような行動をとるのか、光には全くわからない。理解したいとも思わない。が、居心地が悪い。
358 :
ロリコン:2007/10/21(日) 14:33:18 ID:CG0KnEML
もしかすると、熟女好きの変態だと思われているのだろうか?確かに、熟女は嫌いではないし、自分が変態ではないとは言い切れないかもしれない。
しかし、光が熟女好きでも、変態でも、葵には直接関係ないはずだ。どうして、こんな目で見られなければならない。人の趣向に他人が口出ししないで欲しい。何を好きだろうと人の勝手だ。
光のことをキモいと思うのなら、サッサとこの部屋を出て行けばいいのだ。碧を残して。
暫く、この意味不明な睨み合いのようなものは続いた。光の目は始終泳いでいたが。
「葵って…」
光がこの不毛な睨み合いにうんざりしかけた頃、天の助けとばかりに碧が口を開いた。
「お兄ちゃんのこと、ほんまに好きやねんなぁ」
どこから、そのような結論が出てくるのか。
いろんな意味で絶句する二人をよそに、碧はニコニコとそんな二人を眺めていた。
投下終わります
ボーイッシュスレから流れてきました。
以下の保管庫のフレーム内『SS』からSSページへ飛び、
リストの一番下の『うめねた』の続きです。
http://boyishpink.client.jp/frame.html ひょっとしたらもう来ないのではないか――というウィリアムの懸念をよそに、ロザリーは翌日もグラッドの元に姿を現した。
だが、ほっと胸を撫で下ろすウィリアムとは対照的にグラッドの表情は渋い。
ロザリーは静かに剣を構え、その日一日中、ほとんど休憩も取らずにひたすらグラッドと切り合った。
その、ロザリーが今まで魅せた事の無い必死さに、自然グラッドの表情も真剣みを帯びる。
幼馴染を待っているのだ――とロザリーは言った。
グラッドはそんな口約束、と馬鹿にしたが、ロザリーにとってその約束がいかに大切か、いつしか理解するようになっていた。
そうか、そんなに大切な約束なれば、死ぬ気で守れ。
そう言ったグラッドの表情には、慈悲の欠片も無かったように思う。
グラッドが勝つだろうと、ウィリアムは確信していた。確信してきた。
だがここにきて、その確信がひどく揺らぐ。
グラッドが真剣にロザリーを鍛えれば鍛えるほど、ロザリーが必死に剣を振れば振るほどに、二人の差が縮まっていくのが目に見えるようだった。
その日、息を切らせ、汗だくになりながら交えた刃に、何の意味があったのかウィリアムには分からない。
だがロザリーが剣を落とし、地面に崩れ落ちた時――初めて、グラッドはロザリーに敬意の視線を向けた。
そして――その日以降、ロザリーはグラッドの元を訪れる事は無かった。
しかしグラッドはすでにその事は了承済みと言った様子で、ただ決闘の日まで淡々と、今まで決闘のために訓練などした事も無かったのに、一心不乱に剣を振り続けた。
時間は遅々として進まないようであり、飛ぶように過ぎるようであり、しかし一定の速度で規則正しく経過して行った。
ロサリーと顔を合わせなくなって、随分と経ったように思う。
「強い相手と戦って――殺さずに勝つ方法を知ってるか?」
決闘前夜の食事時に、唐突にグラッドが切り出した。
グラッドは既に食事を終え、下品にもテーブルに両足を投げ出している。
「いえ――存じません」
正直に答えると、く、くくく、とグラッドが喉を鳴らして笑った。
「俺も知らねぇ」
げらげらと、とうとう喉を反らして笑い出したグラッドの瞳に、ウィリアムは戦場の狂気を見出して戦慄した。
聞かずにはいられない事がある。
「閣下。貴方はロザリーを――」
「腕の一本くらいなら――」
がたん、と大げさに音を鳴らして立ち上がる。
「なくなったっていいやな」
それは、自分自身の腕の事か、それともあの、ロザリーの細く、可愛らしい腕の事か――。
「明日は収穫祭だ。早めに寝とけよ」
たんたんと音を鳴らして階段を上がって行くグラッドの後姿に、ウィリアムはそれ以上何も問う事が出来なかった。
***
決闘当日。
場所はジョエル邸の中庭に、全ての――誰一人余すことなく――村人が終結していた。
普段は決闘になど興味も示さないジョエルおよびその妻まで、手に手を取り合ってじっと固唾を呑んでいる。
介添え人もいない、小柄で、少年のようだが少女でしかないロザリーは、グラッドと対峙すると酷く弱々しく見える。
「似合ってるじゃねぇか――そそるねぇ」
そう、グラッドが揶揄したロザリーの装いは、兵舎で傭兵が纏うような簡素で丈夫な皮製の服だった。
ロザリーがウィリアムに助言をもらって選んだ物である。
「ロザリー! 無理だと思ったらすぐに降参するんだぞ! いいな!」
遠くでジョエルが緊張で上ずった声を上げる。
しかしロザリーは表情一つ変えずに、ひたとグラッドを見据えたまま動かなかった。
その腰の――美しい炎の刃。
フランベルジュ。
「それが君の武器?」
ウィリアムの持つ重たそうなその剣は、鞘に収まっているため形状はわからなかった。
だが、粗野なグラッドがふるうには、やや繊細すぎるように見える。
「知ってるかロズ」
初めて、ロザリーの冷静な表情が動いた。
ロズ――と、今、グラッドはそう呼んだか。
幼少期からの友も疎遠になり、最早誰も呼ぶことのなくなったその愛称を――。
「その、フランベルジュの形状の理由だ――そいつは肉を抉り、組織を壊し、腱を絶ち、骨を抉る武器だ。綺麗だから――だからそれを選んだと言ったのを覚えてるか」
グラッドの暗い、奈落のような瞳の奥で地獄の業火が揺れている。
うやうやしくウィリアムが差し出したその剣。
鞘から抜き去られた美しく波打つ刃――フランベルジュ。
「これが、戦場のフランベルジュだ。こんな剣を持つ奴にまともな奴はいねぇ。真性のサディストだよ。人を苦しめるための剣だ」
そんな物で婚約者を切るのか、と野次が上がったが、グラッドは意に介さず、ただ獲物を見るような目つきでロザリーを見た。
各が違う――と、一年前に思ったその瞳が、今ではそれ程恐ろしくない。
嬉しかった。
恐怖よりも歓喜で震える。
グラッドが――あの、果物ナイフでロザリーを侮ったグラッドが、こんなにも真剣に――。
知らず、笑顔がこぼれていた。
愛しい、愛しい好敵手。早く、速くと急かされるように、ロザリーは剣を構えた。
その気迫に、グラッドに対する野次さえ消える。
固唾を呑んで見守る中、グラッドも静かに剣を構えた。
ウィリアムの声が決闘の開始を告げる。
それと同時に、双方共に獣のような咆哮を噴き上げた。
喚声。
火花。
衝撃。
ごうごうと、嵐のような風音が聞こえていた。
それに混じって、ヒィン、ヒィンと、悲鳴の様な音がする。
たたき付けるように振り下ろされたグラッドの剣をひらりとかわし、ロザリーはわざと大きく振りかぶった。
みえみえだと言わんばかりにグラッドがロザリーの剣を止める。
そして――。
弾かれるままに、ロザリーは剣を手放した。
あ、と――観衆が息を呑む。
宙を舞った美しい白刃を――果たして見上げなかった者がいただろうか――。
次の瞬間。
グラッドが崩れ落ちていた。
その、ロザリーの手に光る小さな、可愛らしい装飾の果物ナイフ。
ザン、と鋭く、半ば根元までロザリーの剣が地面に突き刺さる。
愕然と――だがどこか嬉々として見上げてくるグラッドの瞳に、ロザリーの苦渋に歪んだ表情が映りこんだ。
「――ごめん」
ひたりと、崩れ落ちたグラッドの喉に突きつけたナイフから、ぽたりと鮮血が滴った。
ロザリーの瞳から涙が溢れる。
食いしばった歯の隙間からは、謝罪しか出てこない。
「泣くな」
じわりと、グラッドのクロースアーマーから血液が滲み出る。
傷口を強く抑えながら、グラッドは立ち上がってロザリーの涙を拭った。
「おまえの勝ちだ」
医者を――と、ウィリアムが叫び、待機していた医者が飛んでくる。
ひそひそと、村人達が囁きあう声が聞こえた。
どうして子爵様が倒れたんだ。ロザリー様が負けたように見えたのに――と。
そして誰かが、あのナイフで刺したんだ、と囁いた。
「惜しいなぁ、チクショウ」
「閣下! 手当てを――」
駆け寄ってきたウィリアムを片手で制し、グラッドはロザリーが握り締めて離さない果物ナイフを、一本一本指を解くようにして引き剥がした。
ロザリーの手と、グラッドの手と、果物ナイフの間で、すでに乾きはじめている血液がねちゃりと短く糸を引く。
「ごめん……ごめん」
必死に嗚咽を押し殺し、小さく肩を震わせながらロザリーは繰り返した。
卑怯なんじゃないのか――と、囁きあう声がする。
誰あろう、ロザリー自身がその行為の汚さを理解していた。
認めてくれたグラッドを。真剣に向き合ってぐれたグラッドを。ロザリーは裏切ったのだ。
決闘は終わりだ、と、使用人の誰かが声を荒げて野次馬を追い払っている声がする。
ぽん、とロザリーの頭に手を置いて、グラッドが青ざめた顔色のまま意地悪く微笑んだ。
「勝ちゃあいいんだよ。お嬢さん」
ぐぅ、と呻いて、グラッドがその場に膝を着く。
すぐさまウィリアムがその体を支え、使用人を呼んで静かにタンカに横たえた。
騒ぐな、大丈夫だとグラッドが繰り返す。
そうして、決闘が終った。
ロザリーは自分自身を取り戻し、グラッドは大事には至らなかった腹の傷を抱えてあと数週間はこの村で過ごすと言う。
ジョエルはもう、ロザリーを責めたり結婚を急かしたりはしなかった。
そこまでフィリクスを信じるのなら、そこまでその約束が大切ならば、好きにすればいい、と言ってくれた父親に、しかりロザリーは微笑み返す事しかできなかった。
よく、わからない。
グラッドが好きだ。
ウィリアムも好きだ。
両親を安心させてあげたいと思う。
それら全てを振り払い、我が侭を貫き通すほど――矜持を捨てて決闘を汚すほどに、幼い頃の口約束がそんなに尊い物なのか――。
そんな事を思うようになったのはどうしてなのか、何よりも輝いて見えた約束が、今はひどく頼りなく感じる。
「お嬢様――お嬢様!」
夜――そろそろ就寝しようかという時刻だ。
ぼんやりと、手の平の治りかけた血豆を眺めていたロザリーは、廊下のはるか彼方から響いた金切り声に驚いて、自室からひょこりと顔を覗かせた。
行儀悪く向こうからばたばたと走ってくるのは、ロザリーと歳の近い若々しいメイドである。
はぁはぁと息を切らせて駆け寄ってきたメイドの手に、一通の手紙が握られていた。
そして一言、
「フィリクス様から――」
とロザリーに差し出す。
疑いかけた約束に色が戻ったようだった。嬉しくて言葉も出ず、妙に畏まった印象の封筒をびりびりと乱暴に破く。
取り出したのは――二つ折りになった一枚のカードだった。
「なんですって? ねぇ、なんて書いてあります?」
うきうきと、メイドが瞳を輝かせてロザリーを見る。
ロザリーは答えられなかった。
震える唇から熱く湿った吐息がこぼれる。
「――結婚」
「え?」
「するってさ」
笑って、ロザリーはメイドにカードを押し付けるなり駆け出した。
お嬢様――と背後で叫ぶ声を振り切って外に飛び出す。
よく晴れた夜だった。
沢山の星が輝き、こうこうと輝く月が暗い夜道をはっきりと照らし出している。
気がつけば、秋が終りかけていた。
目的も無く、漠然と、ただ闇雲に走って、走って、走り疲れて、ロザリーはぜえぜえと息を切らせて暗い森の中に立ち尽くした。
色づきかけた木々の葉が、夜風に拭かれて乾いた音を立てている。
必ず迎えに来ると――そう、約束を交わした場所だった。
触れるだけの口付けと共に、約束だ、と誓ったあの場所だった。
どさりとその場に崩れ落ち、ぎゅっと肩を抱いてぎりぎりと奥歯を噛み締める。
「嘘吐き」
約束したのに――信じていたのに――。
「うそつき、うそつき、うそつき――!」
うわぁあぁ、と、叫ぶようにして泣き出した。
途絶えた手紙。十年の歳月。
ただひたすら、フィリクスの安否が心配だった。
怪我をしてはいないか、病気をしてはいないか、命を落としてはいないかと思うばかりで、一度たりとも想いを疑った事などなかったのに――。
思い出したように届いた手紙は、機械的な言葉で綴られた無機質な招待状。
小説の一説が頭に浮かんだ。
あの日、あの夕焼けの中、グラッドがそらんじて見せたあの言葉。
ナイフを持ってこなかったことを、ロザリーは後悔した。
泣いて、泣き喚いて、ぼんやりと座り込んだまま月を見上げる。
どさり、と後ろ向きに地面に寝転がり、ロザリーは笑い出した。
くすくすと肩を揺らし、体を丸めて声をあげ、いつしかげらげらと哄笑していた。
悲しみと虚無感に満たされた笑い声が、森のそこかしこに息づく過去の思い出をひっつかみ、びりびりと破り去って行く。
こんなものに。こんななんの形も無い不確かな物に、十年も――。
耳障りな哄笑が収まると、森はしんと静まり返り、しかし夜の森特有の穏やかな喧騒に沈んでいった。
空は相変わらず晴れていて、月はこうこうと輝いている。
森も、月も、世界に存在するありとあらゆる存在が、まるでロザリーの存在を忘れ、無視しているようだった。
切らせていただきます
GJ!
こういうの好きだ。
緊張感と切なさがいいです。
つ、続きを読まねば死んでしまう病がっ…
365 :
GJ!:2007/11/05(月) 23:42:35 ID:u18QzBa0
366 :
ロザグラ:2007/11/12(月) 04:38:24 ID:MM2lZNTS
>>359より続きです
深夜に屋敷を飛び出したロザリーを探して、使用人たちは村中を駆け回った。
父であるジョエルは娘を愚弄されたとフィリクスに憤慨し、母はロザリーの心中を思ってさ
めざめと涙した。
十年も想い、待ち続けた幼馴染に裏切られ、“馬鹿なこと”を考えてはいないかと、気がつけ
ば村中総出で探し回っていた。
そして、明け方近く――ようやく空が白みかけた頃である。
幼い頃によく、ロザリーがフィリクスと遊んだ森でロザリーは見つかった。
冬の足音が聞こえる冷え切った森の中に、薄い寝巻き一枚で眠っている所をジョエルが見つ
け出したのだ。
死人のように血の気を失ったその体に自身の上着を巻きつけて、ジョエルは父親としての怒
りと嘆きに涙さえ浮かべてロザリーを抱きしめた。
死んだのならば仕方ない。
遠い地で別の女を愛した事も、責められることではない。
だが、それならば何故、招待状など送りつけてきた。
ロザリーが待っている可能性を考えはしなかったのか。あるいは、待たせていることすら忘
れていたのか――。
家に帰りつくなり、ロザリーは目を覚ます間もなく高熱を出した。
ウィリアムが頻繁に見舞いに現れたが、グラッドは急用が出来たとかで一度も姿を見せる事
は無く、ジョエルは我が子の孤独を嘆いた。
いつか、フィリクスが迎えに来た時に馬鹿にされないようにと剣の鍛錬に没頭し、年頃の女
友達とは疎遠になった。
強くなりすぎたロザリーに打ち負かされる屈辱に耐えられず男友達もいなくなり、いいよる
男も全てその剣で跳ね除けてきたのだ。
ドレスやアクセサリーに夢中になる年頃を、掛け替えの無い少女の時期を、ただひたすら、
十年間も、ただ一つの口約束に捧げてきたロザリーが、なぜ、ただ一枚の招待状で捨てられな
ければならない。
ジョエルは慟哭した。
熱が引き、辛うじて歩けるようになると、ロザリーは何かに追い立てられるように庭に出て、
一日中無心に剣を振り続けた。
だがその真剣さはおよそ日課の鍛錬とは呼べず、ロザリーはまるで誰かを殺し続けているよ
うだった。
そして、招待状が届いてから二週間が経った。
血豆の上の血豆を潰し、目に見えてやつれたロザリーが一心不乱に剣を振る姿には、幼い頃
の甘い約束に浸る少女の面影もない。
それでも、剣をおさめると前と変わらず、むしろ一層明るく振舞うロザリーに、家族のみな
らず使用人たちも涙を堪えずにはいられなかった。
「いい太刀筋だな」
冬の訪れを感じさせる、白く冷えきった午後である。
ひどく懐かしい呼びかけに、ひぅん、と、風を切る音を響かせてロザリーが踊った。
ひたりと男の首筋に突きつけた愛剣は、美しく揺らめく炎。
「間合いの取り方もいい――まるでたけり狂う戦女神だ。そそるじゃねぇか。そんなにおまえ
を捨てた男が憎いか」
唇を吊り上げ、歯をむき出して男が嗤う。
冬の空の下にありながら、その男は相変わらず燃え上がるような熱気を纏っていた。
ロアリーは心地よく乱れた呼吸を白く曇らせながらグラッドを睨み上げ、静かに剣を下ろし
て鞘に収めた。
無邪気な輝きをなくした瞳で、ちろちろとくすぶる戦場の劫火を仰ぐ。
「誰を殺してた?」
「――自分」
ひゅう、とグラッドが口笛を吹く。
367 :
ロザグラ:2007/11/12(月) 04:38:58 ID:MM2lZNTS
「死にたいのか」
「殺したいんだ」
「自分をか?」
「前のね」
「いい女だった」
「もう死んだよ」
くすりと、ロザリーがぎこちなく微笑んだ。
グラッドを見上げて細めた目から、つ、と一筋涙が伝う。
「うずくまって泣こうとすると、君がちらついて涙が出ない。食事も喉を通らないのに、弱く
なるのが嫌で剣を振るのがやめられない」
ぎゅっと剣のつかを握り締め、苦しげに眉をひそめるロザリーの姿に、グラッドは目を細め
て微笑んだ。
「もう、剣を振る理由もなくなっちゃったのに……守るものもなくなっちゃったのにさ……
馬鹿みたい。でも、じっとしてられないんだ。もう僕には剣しかない」
ひく、ひく、と肩を揺らして、ロザリーが青白い頬を真っ赤に染める。
思わず抱きしめようと伸ばされたグラッドの手を乱暴に振り払い、ロザリーはごしごしと涙
を拭って再び真っ直ぐにグラッドを睨み上げた。
「僕を買って」
静かな、だがはっきりとした決意を孕んだ言葉に、グラッドから笑顔が消えた。
「子爵様なら、私兵を持ってるでしょ? 一番下っ端でいいから、僕を雇って。戦場にだって
行くよ。それだけで、君は僕を忘れていい。すれ違ったって無視していい」
「ロズ、おまえは――」
「僕は君より強いでしょ?」
女なんだぞ、と――ひどく月並みな言葉を発しそうになったグラッドは、ロザリーのその言
葉に息さえ止めて沈黙した。
どうして――ただ一言、妻にしろとそう言えば、グラッドは断らないことを知っていながら、
どうしてこの少女は――。
「君が僕にこれをくれたんだ。馬鹿みたいに子供の頃の口約束を信じて、花嫁修業もしないで
さ、約束以外何も無かった僕に、君は戦い方を教えてくれた」
――だから、君のために使わせて。
その言葉が、どれ程激しい殺し文句か、ロザリーはきっと気付いていない。
再び頬に伸ばされたグラッドの手を、ロザリーは振り払わなかった。
息がかかるほど唇を近づけても、身じろぎ一つしない。
「俺のものになるってのがどういうことか――わかってるのか?」
「何でもするし、何をしてもいい」
「娼婦のように犯されてもか」
「恨まないよ」
「妻になれと命じられたらどうする」
「僕から剣を奪うの?」
はッ――と。腹の底から吐き捨てるようにしてグラッドは嗤った。
かがめていた腰を伸ばし、今正に重ねようとしていた唇を意地悪く吊り上げる。
「あぁ、ったく。胸糞わりぃな。なんだこりゃ。折角愛してやまねぇ戦場の女神を見つけたと
思ったら、女神は戦場しか見ちゃいねぇとくる。俺がどんなに焦がれてもお構い無しだ」
芝居がかった調子で両手を挙げておどけて見せ、グラッドはロザリーに背を向けた。
「喜べウィリアム! 一緒に主を罵る仲間が増えたぞ!」
グラッドの視線の先の木立の陰から、きょとんとしてウィリアムが姿を見せる。
そしてかたわらのロザリーを見て、まさか、という表情でグラッドを睨んだ。
「表立って当主を守る護衛は容姿が重要なんだ。だから腰抜けでも顔のいいウィリアムを護衛
にしてる。だがさすがに護衛が腰抜け一人じゃ不安でな」
「――グラッド?」
「護衛として雇ってやる。これからは、俺のために剣を振れ。だがその前に、女として一仕事
してもらうぞ。ジョエルに話をつけてくる。その間に荷物を纏めておけ」
「グラ――」
「ウィリアム! ロズの荷造りを手伝ってやれ!」
これ以上言葉を交わす気は無いとでも言うように、グラッドが鋭くロザリーを遮る。
どこか怒りさえ伺える主君の背中を見送りながら、ロザリーは立ちすくんだ。
駆け寄ってきたウィリアムに振り返り、グラッドの後ろ姿を指差す。
368 :
ロザグラ:2007/11/12(月) 04:39:32 ID:MM2lZNTS
「あの……なんか、護衛として雇ってくれるって」
下っ端でいいって言ったんだけど、と、ロザリーが眉をひそめると、あぁ、と、嘆くような
溜息を吐き、ウィリアムは重々しく手の平で瞼を覆った。
「ロザリー」
「うん」
「二度も、盛大に閣下をふりましたね」
え、と声を漏らして見上げた先に、ウィリアムの複雑そうな笑顔があった。
どういうことかと首を傾げるロザリーに、ウィリアムが脱力して首を振る。
「まったく、ここ二週間の閣下の努力を思うと泣けてくるやら笑えてくるやら――」
「あぁ……忙しかったんだってね」
「それはもう、戦場のように」
ここにいないグラッドをからかうように、ウィリアムが笑った。
そしてロザリーの背をそっと押し、行きましょうと促した。
「閣下は時間にルーズなくせに他人の時間には厳しいんです。急がないと私とまとめて無能扱
いされますよ」
そう言えば、ウィリアムはいつも、なにかというと走っている印象があった。
物静かな性格にそぐわないその印象は、グラッドに小突き回されているからなのか――。
「ねぇ、女として一仕事って言われたんだけど……」
走り出したウィリアムを追いかけて、ロザリーも走り出す。
しかしウィリアムは城に着けばわかりますよと答えるだけで、教えてくれようとはしなかった。
十分後――ロザリーとウィリアムが丁度部屋に帰りついた時、屋敷を揺るがしたジョエルの
叫びは、やはり末代までの語り草となるのだった。
***
娘をよろしくお願いしますとか、娘をそんな危険な仕事につかせるわけにはいかんとか、そ
んなやり取りがあったかどうかはロザリーはわからない。
だがジョエルは、ロザリーが家を出る事について反対も賛成もしていないようだった。
どこか致し方ないと言うような、諦めを含んだ表情をしていたように思う。
ロザリーは泣いて縋る母親と、唇を引き結んで抱き合った父の背中を抱きながら、必要最低
限の物だけを鞄に詰めて迎えの馬車に乗り込んだ。
護衛は主君と同じ馬車に乗るものらしく、道中ロザリーはウィリアムとグラッドとずっと一
緒だったが、グラッドはむっつりと黙り込んでウィリアムともほとんど口をきかなかった。
ただ、ウィリアムがほんのすこしでもロザリーに触れると、明らかに仕事の説明上必要だっ
たにも関わらず、グラッドは容赦なくウィリアムを蹴った。
しかしグラッドがそんな行動を取ると決まって、わざとらしくロザリーに触るウィリアムも
負けてはいない。
ロザリーとしては、二人のじゃれあいを眺めて笑えるような気分ではなかったのだが、二人
を見ていると気を張っているのが馬鹿らしく思えてくるのも事実である。
便宜上護衛と呼んではいるが、実際は執事のような仕事が主だと言う。
ロザリーはウィリアムの補佐的な――いうなれば執事代としての仕事をする事になるだろう
から、覚える事がたくさんありますよ、とウィリアムは意地悪な笑みを浮かべてロザリーを怯
えさせた。
執事や執事代は普通、男がやるものなんじゃないのかと問うと、護衛だって普通は男しかや
りませんと切り返される。
だから下っ端の兵士でいいって言ったのに、とロザリーが唇を尖らせると、グラッドがそん
なもったいねぇこと誰がするかと鋭く吼えた。
「大体なぁ、おまえは剣をもたせりゃそりゃ強えぇが、例えば寝込みを数人の男に襲われたら
ひとたまりもねぇんだぞ。おまえが隊に入った次の日にぼろぼろに犯されちまうことくらいわ
かれ馬鹿!」
369 :
ロザグラ:2007/11/12(月) 04:40:47 ID:MM2lZNTS
「でも、君だって僕を娼婦みたいに犯すって言ったじゃないか」
同じだよ、とロザリーが顔を顰めると、隣に座っていたウィリアムが唖然とし、直後に烈火
のごとくグラッドを罵った。
さすがに自分の発言の下品さを理解はしていたのだろう。
グラッドが必死に言い訳を募る姿は、珍しくも面白い。
馬車での移動中は絶えずそんな雰囲気で、グラッドの領地に入る頃にはロザリーもすっかり
緊張がほぐれ、声を上げてげらげらと笑うようになっていた。
ウィリアムとグラッドがロザリーに気を使ったわけではない。
だからこそ、その自然な雰囲気が、ロザリーの強張った心を解していくようだった。
城――と言う単語だけを聞いてロザリーが思い描いていたのは、御伽噺でお姫様が住んでい
るような、そんな繊細できらびやかなものだった。
しかし実際グラッドの城を見てみれば、出てくる言葉は難攻不落の城塞だ。
「三代前の当主が作った城だそうだ。当事この辺りは国境が近くてな。もともと軍人だった曽
祖父がその防衛に一役かって子爵になったらしい」
「はぁ……なるほど。確かに、うん、守れそう……」
城塞都市――と呼ぶのだろうか。
高くそびえ立つ頑丈そうな隔壁のその向こうに町並みが広がっており、その家々のはるか彼
方に、どっしりとした石造りの、優美さの欠片もない城が建っている。
少し高い位置にあるように見えるのは、土をもって丘を作ってあるのだろうか。
どうやら掘りもあるらしい。
生活する人々にも活気があり、平々凡々たる田舎町とも呼べない田舎村しか知らなかったロ
ザリーは、開いた口が塞がらなかった。
こんど街を案内してあげますね、というウィリアムの口約束が、ついつい信用ならないと思
いつつも楽しみで仕方がない。
先に降りたウィリアムに促されて馬車から降りるなり、ロザリーは鳴り響いたラッパの音に
面食らって硬直した。
「主が戻った事を城内の人間に知らせてるんです」
そう、ウィリアムが耳打ちしても、あぁ、そう、と答えるばかりで固まった体はほぐれない。
最後に馬車を降りたグラッドを振り仰ぎ、しかし相変わらず貴族然としていないグラッドに
なんとなく勇気付けられ、ロザリーはちらちらと送られてくる好奇の視線に内心びくびくと怯
えながらも毅然とした態度でグラッドに付き従った。
グラッドはいつもと変わらないからいいとして、ロザリーが度肝を抜かれたのはウィリアム
の変わりようだった。
いつもの温和な雰囲気はどこへやら、いかにも護衛で腹心ですと言わんばかりのその姿はも
はや別人である。
これからは、毎日この完全無欠の騎士様と比べられて暮らすのか。
そう思うとロザリーは心底からげんなりした。だから下っ端がいいと言ったのに――と心の
なかで恨み言を連ねるも、実際問題として他の兵士に輪姦されるのは嫌である。
グラッドは城の中を、恐らく自室へと向かって真っ直ぐに突き進んだ。
護衛と言うからにはやはり、有事にはすぐに主君の元に駆けつけられるように控えの間など
が用意されているのだろうか。
それならば、ロザリーの部屋もグラッドの部屋のすぐ近くということになる。
護衛が城で迷子になるなどと言う末代までの恥を晒さぬようにと、ロザリーは平静を装いな
がらも道順を覚えるのに必死だった。
そして、優美な装飾の施された扉の前にたどり着く。
たどり着くなり、グラッドは重苦しい弾息を吐いてちらとロザリーを見下ろした。
「入れ」
短く命令して、さっさとまた歩き出してしまう。
え、と思わず零して付いていこうとしたロザリーを、しかしウィリアムが静かに制した。
「どうぞ中へ。あとで様子を見に来ます」
「でも、あの……でも、護衛じゃ……」
にこりと、ウィリアムがいつもどおりに微笑んで、がっしとロザリーの腕を掴んだ。
そして、無情にもドアが開かれる。
その扉の隙間から放り込まれるようにして室内に足を踏み入れ、ロザリーはたたらをふんで
ウィリアムに振り返った。
370 :
ロザグラ:2007/11/12(月) 04:41:41 ID:MM2lZNTS
「そちらの令嬢がロザリー様です――あとは任せましたよ」
明らかにロザリー以外の者に対して言葉を発し、ウィリアムがドアを閉める寸前、まるでグ
ラッドに対するような意地の悪い笑みでロザリーを見た。
「これがあなたの初仕事です――頑張ってくださいね」
ばたん、と扉が閉まる。
仕事って一体――と、改めて室内に視線を走らせると、三人の若い侍女とがっちり視線が交
差して、ロザリーはさっと青ざめた。
その、侍女達の側にある――燃えるような緋色のドレス。
「見て、抜けるように肌が白くていらっしゃるわ」
「なんて綺麗なおぐしかしら。まるで輝く金糸のよう」
「お人形みたいに可愛らしいわ。飾りたくってうずうずしちゃう」
しずしずと、しかし主君同様の図々しさで侍女達がロザリーに歩み寄り、有無を言わせぬ優
美さでロザリーを部屋の中央に引きずり出した。
お化粧はどんな感じがよろしいかしら、バージンロードの花嫁よりも可憐にしろとの命令で
すわと、ロザリーを囲んで好き勝手に相談を始めた侍女たちに、ロザリーはたまらず悲鳴を上
げた。
「ちょ、ちょっと……まってよ! なにこれ、どういうこと?」
きょとん、と目を丸くして、侍女達が顔を見合わせる。
三人のその態度にまるで自分だけが何もわかっていないような印象を覚え、ロザリーはしど
ろもどろになった。
「あの、ぼ、僕はグラッド卿の護衛として雇われただけで……ど、どうして護衛がドレスだと
か……!」
「あら。半月後に開かれるご友人の結婚披露宴に着ていくために決まってますわ」
「十年の歳月が過ぎても薄れることのない、幼い日の男女の友情――憧れますわ。なんて素敵」
「その感動の再会を美しく飾る花にせよとのグラッド様の命令ですわ。見てくださいませこの
ドレス。この二週間、グラッド様ったらロザリー様を飾る宝石やドレスのことにかかりっきり
で、このドレスを脱がせる日が楽しみだなんて――」
きゃぁ、と、三人がキンキンと甲高い悲鳴を上げて身もだえする。
城につけばわかるとか、二度も盛大にグラッドをふったとかいうウィリアムの言葉が、今な
らばはっきりと理解できた。
じりじりと後退するロザリーを、同じくじりじりと三人の侍女が追い詰める。
「さぁさぁ、そんな少年のようなお洋服、さっさとお脱ぎになってくださいませ」
「まずはお風呂で隅々まで綺麗にして差し上げますわ」
「半月後の披露宴までに、ドレスを着慣れていただかないといけませんからね。しばらくは護
衛なんてなさらないで、ダンスにでも興じていてくださいませ」
うふふふ、と甘ったるい笑みを唇に乗せて、三人がロザリーの服に手をかける。
まるで父ジョエルのように、ロザリーは城全体に響きわたる声量で絶叫した。
切らせていただきます
まあ、ほら、あれだ
GJ
先の展開をあれこれ考えてしまうが
だまって見てます
いや、このまま予想どおりに…とは行かない気が
て訳で続き期待
予想範囲内だとあと一転二転しそうだが、この作者はそこから更に捻ってきそうで油断がならない。
GJを申し上げる。
374 :
ロザグラ:2007/11/18(日) 22:54:59 ID:6CxYyp9E
剣を振る時の足さばきは完璧なのに、ろくにダンスが踊れない。
古い戦記の英雄の話は延々と続けられるのに、流行の服の話になると人形のように黙ってしまう。
平民の少女にならばよくいるタイプだ。
少年たちに混じって棒切れを振り回し、英雄ごっこではお姫様よりも騎士になりたがる。
だがロザリーは、いかにど田舎の出身といえど、一応良家の子女である。
すっかりロザリー付きの侍女として定着してしまったかしましい侍女三人組は、あらあら大
変とばかりに忙しく駆け回り、どうにかこうにかロザリーにダンスを教え込み、さらに歓談の
場で恥をかかないようにと、頻繁に上がるだろうことが予測される話題やら、披露宴に現れる
だろう貴族階級の名士やらを、ロザリーが泣こうが喚こうが逃げ出そうが徹底的に叩き込んだ。
そんな調子で、瞬く間に二週間が経過する。
その間ウィリアムは時々ロザリーの地獄の特訓の様子を見に来てくれたが、グラッドは披露
宴当日になるまでロザリーのドレス姿は見ないと心に決めているらしく、ロザリーが自室でく
つろいでいる時にしか姿を現さなかった。
そして、フィリクスの結婚披露宴の前日――ロザリーは普段と変わらぬ少年の様な装いのま
ま、腰に剣を携えてグラッドとウィリアムと共に家紋入りの豪奢な馬車に乗り込んだ。
フィリクスの結婚相手は、爵位は無いまでも有数の資産家であり、貴族たちにも広く顔が利
く商家の一人娘だと言う。
グラッドも一度、間接的にではあるが取引をした事があるらしく、是非結婚を祝いたいとい
う旨を伝えた所、快く招待されることに成功したらしい。
ロザリーに届いた招待状は、ジョエルが問答無用で暖炉に叩き込んで燃やしてしまったのだ。
「ベルク家の一人娘フロージア様と言えば、聡明で美しく、また人当たりも抜群である事で有
名です。伯爵からの求婚があったという話も聞きますが、ベルク家の当主クリスト氏は、結婚
相手は娘に選ばせるという主義らしく、身分違いとも言えるこの婚姻が成立しました」
「披露宴の規模もそこらの貴族よりはるかにでかい。招待された人間は貴族を含めて百人にも
のぼるそうだ――正直貴族でもねぇ田舎者のおまえが招待さるようなパーティーじゃねぇ」
「閣下!」
「事実だ」
不機嫌そうに顔を顰めてそっぽを向いたグラッドに、ウィリアムがデリカシーがどうのとガ
ミガミ怒鳴った。
人目がある所では実に従順な従者で頼もしい護衛のくせに、人目がないとまるでじゃれあう
幼馴染である。
「先ほど説明したとおり、ベルク家は地位よりも人物を見る人柄の方が多いんです。ですから、
爵位があろうとなかろうと、フィリクス様のご友人も多数招かれているはず。ロザリーに招待
状が届く事になんの不自然もありません」
「不自然しかねぇだろうが。アホかおまえ。フィリクスとか言ったか。結婚の約束を忘れてる
んだったらそれはそれで相当の猛者だが、覚えていながら招待状を送ったんならいかれてると
しか思えねぇ。舐めたまねしやがって――」
静かに目を細めたグラッドの表情に、暗く影が落ちたように見えた。
はっと息を詰めて瞠目したロザリーに気付かずに、グラッドが狡猾な獣のように唇に笑みを刻む。
「死ぬほど後悔させてやる」
「ッ――やめてよ!」
爪が食い込むほどにきつく拳を握り締め、ロザリーは鋭く怒鳴ってグラッドを睨み据えた。
窓の外を眺めていたグラッドが、目を見開いてロザリーを凝視する。
「なんだロズ……どうした」
「フィルは僕の親友なんだ。悪く言うの、やめてよ。それに結婚の約束は、僕が勝手に信じて、
勝手に待ってたんだ。フィルは何も悪くない」
「おいロズ。本気で言ってんのか? その親友とやらを待っておまえは十年も――」
「そんなのフィルには関係ないんだ! 僕はフィルを祝福するよ。フロージア様だっけ? 綺
麗な人なんでしょ? いい縁談じゃないか。僕なんかと――こんな、剣を振ることしか出来な
い野蛮なオトコオンナと結婚するより、その方がずっといい。誰だってわかるよそれくらい」
だから、だからと唇を震わせて、ロザリーは腰の剣を握り締めた。
「もしもフィルに何かしたら、グラッドだって許さない!」
しんと、馬車の中が静まりかえった。
馬車を引く馬の足音さえ遠ざかってしまったように思える。
唇をいびつにゆがめ、吐き捨てるように笑ったのはグラッドだった。
「――へぇ。許さねぇか。それでどうする。腰の剣で俺を切るのか? おまえのことなんざな
んとも思ってねぇ男のために、おまえに焦がれてやまねぇ男を切るってか」
そいつぁいい、とグラッドが大声を上げて笑い出した。
閣下――と小さく、なだめるようにウィリアムが声を出す。
「いいさ。せいぜいお美しい友情を演じて来い。おまえの好きなようにすりゃいいさ。本当な
ら婚約者としてつれて来たかったが、その計画も流れたしな。ったく、新しい護衛はどこまで
も俺をこけにしやがる」
「こけになんか――!」
「ロザリー!」
してないだろ、と怒鳴ろうとしたロザリーを、ウィリアムが鋭く制した。
ぐっと言葉を飲み込んで沈黙し、唇を噛んで自身の両膝を睨む。
「日が暮れる頃にはベルク邸に到着します。閣下の護衛は私がいれば十分でしょう。ロザリー
は自由に行動してかまいません」
「僕だってグラッドの護衛だ。一緒にいる」
「主を切ると脅す護衛が何処にいる」
「閣下!」
ウィリアムに怒鳴られ、今度はグラッドが黙り込む。
忌々しげに舌打ちし、グラッドは再び頬杖を付いて窓の外に視線を投げた。
そして一言、
「寝る」
とだけ宣言して目を閉じる。
それからベルク邸に到着するまで――否、到着してからも、グラッドとロザリーは一言も言
葉を交わさなかった。
***
ベルク邸に到着し、三人はそれぞれに客間をあてがわれたが、ウィリアムは護衛のためにグ
ラッドと同室に寝泊りすると言って部屋への案内を断った。
それならば――とロザリーも同室で構わないと主張したが、護衛といえど婦人が男と同室に
眠るべきでは無いというウィリアムの言葉により、結局グラッド達の隣室に一人で滞在する事
になった。
婦人だからどうのと言うのは建て前で、実際はグラッドとロザリーの仲裁にウィリアムが辟
易した結果である。
たった一人で広々とした客間のベッドに腰を下ろし、ロザリーはそのままどさりと仰向けに
寝転がった。
この屋敷のどこかに、フィリクスがいる。
きっと背も凄く伸びただろう。成長したフィリクスは、ウィリアムのように美しく、頼りが
いがある青年に違いない。
会いたいと思った。
捨てられた事はわかっている。結婚の約束だって、きっともう覚えてなどいないのだろう。
それでも、フィリクスはロザリーに招待状を贈ってくれた。会いに来てもいいと。迷惑では
無いと――そう伝えてくれたのだ。
だが、それゆえに会いたくないとも思う。
結婚の約束を覚えているかと訊ねたら、一体どんな顔をするだろう。
こんな歳になって少年の様な服を着て、グラッドの護衛をしているロザリーを見たら、フィ
リクスはどう思うだろう。
美しく聡明な結婚相手のフロージアと比べられ、ひどいものだと呆れられたりはしないだろうか。
幻滅されたら――と思うと、ひどく辛い。
嘘吐き――と罵りたい気持ちが欠片も無いわけではなかった。だがそれでも、十年も焦がれ
続けた親友に、あの誓いの口付けをくれたフィリクスに、一瞬でいいから会ってみたい。一言
でいいから何か言葉を交わしたい。
騎士になったフィリクスを一目見たい。
強くなったフィリクスと、一度でいいから剣を交えてみたい。
ごろりとベッドに転がってうつ伏せになり、ロザリーは伸ばした両膝を引き寄せて顔をうずめた。
こんな気持ちになるのが嫌だった
だから、招待状を焼き捨てた父を責めもしなかったし、会いたいという気持ちを押さえ込も
うとひたすら剣を振っていたのだ。
376 :
ロザグラ:2007/11/18(日) 22:56:42 ID:6CxYyp9E
だけど連れて行ってやると――会わせてやると言われてしまったら、ロザリーはそれを拒絶
できるほどフィリクスを捨てきれてはいなかった。
あの穏やかな田舎の、住みなれた家の、遊びなれた中庭で、確かにフィリクスに焦がれる自
分を切り殺したはずなのに――。
「女々しいやつ……」
嫌になる。
グラッドにもウィリアムにも、きっとひどく呆れられた。
「みっともない……」
吐き捨てるように言って、ロザリーはフランベルジュを引っつかんで部屋を飛び出した。
グラッドの城よりもはるかに優美で、ロザリーの家よりもずっと広い屋敷だった。だがごて
ごてと飾り立てているわけでもなく、それでいて施された彫刻や装飾ははっとするほど繊細で
上品だ。
いい趣味をしていると、芸術に詳しくないロザリーでもそう思う。
赤く燃えるひとけの無い裏庭にたどり着き、ロザリーは隅々まできちんと手入れの行き届い
た庭に溜息を吐いた。
裏庭と呼ぶには抵抗がある、実に立派な庭園である。
すらりと鞘から剣を抜き、ロザリーは沈みゆく夕陽にかざして目を細めた。
夕陽の朱をうけてフランベルジュがきらきらと輝く。
音が遠のいていく。
無音の中、自分の音だけが鼓膜に響く。
掲げた剣を振りぬくと、ひぃん、と澄んだ音がした。
無心に――ただ無心に――。
「――ロズ?」
無音の中に異音が混じる。
間合いは二歩。
踏み込んで、踏み込んで――ロザリーは音の主に切っ先を突きつけた。
気配が驚いたように半歩下がる――グラッドではない。
ようやく、ロザリーはまともに声の主を見た。
「失礼。人違いを――」
したみたいだ、と――恐らく言おうとしたのだろう男の声が、突きつけた剣の先でかすれる
ように消えていった。
身なりは上等。腰に下げた剣には、美しい少女を守るように交差した、二本の剣の紋章が入
っている。
見た事のない紋章だった。ベルク家の家紋でない事も確かである。私兵ではない。
だが、その鍛えられた体つきが、この青年が剣を振る者だと語っていた。ロザリーと同じよ
うに、どこかの貴族の護衛として雇われた者だろうか。
「――こちらこそ失礼を……剣を振るのに夢中で周りが見えなくて」
すらりと腰の鞘に剣を戻し、ロザリーは笑って青年を見上げた。
ごくりと、青年が息を呑む。
容姿は悪くないほうだ。だが、美しいと呼べるほどでは無い。ずっとウィリアムを見ていた
せいで評価がからくなっているのかもしれないが、美しいと呼ぶよりは精悍と表現したい。
だがその、鋭い視線の奥に輝く青い瞳だけは、宝石のように美しく輝いているようだった。
自己紹介をすべきだろうかと、間抜けのように見つめあったまま思う。
そういえば先ほど、この男はロザリーになんと呼びかけたのだったか――。
「……また、一人で剣の練習か?」
「――え?」
唐突に、なんの脈絡もなく男が言った。
感情を必死に押さえ込んでいるように、男が胸を震わせてロザリーを見下ろす。
「おまえんとこのピアノの先生、かんかんになって怒ってるぞ」
一瞬、ロザリーは呆然となった。
面影など、ほんの少しも見出せない。
瞳の色の記憶さえ、かすれてしまって曖昧で――。
「――フィル?」
それでも、ほとんど無意識に呟いていた。
子供のように青年が笑う。
「ロズ! ロザリー! 信じられない! 来てくれたんだな!」
大きく左右に両手を広げ、フィリクスは感極まったような声を上げてロザリーを思い切り抱
きしめた。
背骨を折られそうなその力に、たまらずロザリーが悲鳴を上げる。
377 :
ロザグラ:2007/11/18(日) 22:57:41 ID:6CxYyp9E
「痛いいたいいだだだだだ! 骨! 背骨! 軋んでる!」
「来てくれないと思ってた。いつ到着したんだ? もしロズが到着したら真っ先に私に知らせ
るようにと伝えておいたはずなのに」
少年だと思われたか、とフィリクスが笑う。
半ば突き飛ばすようにしてフィリクスの腕から抜け出して、ロザリーはぜぇぜぇと乱れた呼
吸を整えた。
ごほん、とわざとらしく咳払いをし、改めてフィリクスを見る。
「久しぶり」
面白そうにフィリクスが笑い、改まって言うと照れくさい、と鼻の頭をかいた。
「遠くから剣をふる音が聞こえてな。見に来たら見知らぬ少年が驚くほど綺麗に剣を振ってい
たから、ついつい近くまで寄って見入ってしまった。剣を突きつけられた時はあまりの気迫に
別人かと思ったよ。だけど見間違いじゃなかった」
「少年って……あのね! 僕はもう十九――」
「そんな装いなんだ。誰も貴婦人とは思わないだろう」
それは確かにそうである。
ロザリーが唇を尖らせて口をとざすと、フィリクスは声を上げて笑った。
「かわらないなロズ。背だってほとんど伸びてない」
「そ――そっちが伸びすぎたんじゃないか! 大きけりゃいいってもんじゃないだろ!」
かっとなって怒鳴ると、とても堪えられないと言う風にフィリクスが腹を抱えて身を捩る。
なんだか自分だけが子供のような気がしてきて、ロザリーは憮然として押し黙った。
「あぁ、すまない。怒ったか? そうだな。私が伸びすぎたんだ。友人にもよく言われるし、
服を仕立てるのにも苦労してる」
「私って……言うようになったんだね」
「一人称か? 学校に入ってすぐ矯正された。子供の頃の私の話し方は、粗野で野蛮だと先生
たちに不評でな」
「騎士になれたんだ……どんな仕事してるの?」
え? と――怪訝そうな声を上げてフィリクスがロザリーを見下ろした。
何か言いたげに口を開き、しかしどこか諦めを含んだ表情で首をふる。
「今はこの領土を治める伯爵様に仕えてるんだ。主な仕事は治安維持で派手な切合いなんかは
ないが、充実してる。おいで。話したいことがたくさんある。お茶を用意させよう」
何か、悪い事を聞いただろうか。
無理に明るさを装うように、フィリクスは駆け出さんばかりの勢いでロザリーに背を向けて
歩き出した。
さぁ、と力強く促されて、ロザリーは少しの間躊躇して、しかし結局フィリクスの後をつい
て歩き出した。
話したいことがたくさんある。それはロザリーも一緒だった。
手紙がどうとか、結婚の約束がどうとか――そんなことはどうでもいい。フィリクスに会え
て、そして話が出来るのだ。
下らない恨み言で、仲たがいをしたくはない。
「フィル」
「うん?」
「結婚おめでとう」
一瞬、凍りついたような沈黙が走った。
その沈黙にぎょっとして、少し先をあるくフィリクスの表情を見る。
「――ああ。ロズはもう結婚したんだろう? 先を越されたな。今日は夫と一緒に?」
笑顔で振り向いたフィリクスの言葉に、こんどはロザリーが凍りついた。
次の一歩を進もうとした足が上がらない。
結局立ち止まってしまったロザリーを、フィリクスは怪訝そうに振り返った。
「……僕は独身だよ」
「――独身? だけどおまえは、もう十九に――」
やはり――約束など覚えてもいないのか。
そう思うとなにか妙に安心し、しかしロザリーは声が震えそうになるのを止められなかった。
忘れているのならば、いい。
フィリクスはロザリーを捨てたわけではないのだ。わざわざその約束を思い出させて、罪悪
感を与える必要もないだろう。
「結婚ね――誰ともしないことにしたんだ」
赤く夕陽に照らされたフィリクスが、大きく目を見開いてロザリーを凝視した。
きっとフィリクスからは逆光になって、ロザリーの表情もろくに見えてはいないだろう。
「それは……どうして……」
「これのせい」
378 :
ロザグラ:2007/11/18(日) 22:58:23 ID:6CxYyp9E
ぽん、と腰の剣を叩いてみせる。
理解できないと言う風に、フィリクスは小さく首を振ってみせた。
「僕ね、僕より弱い人と結婚したくなくて、求婚してくる人をみーんな剣で返り討ちにしてた
んだ。そしたらさ、ほら、グラッド卿って子爵が急に招待しろとか無茶な事言ってきたでしょ?
あの人に剣の腕をかわれてね。護衛として雇ってもらったんだ」
「護衛……? 護衛って――ロズが、グラッド子爵の?」
「うん。最初は求婚者の一人だったんだけど、一戦交えたら剣の腕見込まれちゃってさ。実は
ね、僕の招待状、お父様が間違って燃やしちゃってね。そしたらグラッド卿が、ベルク様とは
一度取引した事があるから――って、無理やり招待とりつけてくれてさ。それにひっついてき
たんだ。だから、僕が到着したって連絡が行かなかったんだと思う」
「いつから――」
みるみる、フィリクスの表情が青ざめていく。
それとも、すっかり夕陽が沈みきり、辺りが暗くなり始めたからそう見えるだけなのか――。
「グラッド卿に会ったのはほんの一年前だよ。正式に雇ってもらったのだって最近で――」
「だったらどうして――返事をくれなくなったんだ」
「――え?」
ギリリと、フィリクスが奥歯を噛んでロザリーを睨んだ。
「返事って……なんのこと?」
「手紙の返事に決まってるだろう! 私は……おまえが、誰か他の男を愛したから……だから、
私の手紙が煩わしくなったのだと……だから――」
意味が――よく、わからなかった。
手紙なんて――。
「手紙なんてもう……何年もくれなかったじゃないか。学校を卒業して、誰か、どこかの騎士
様の弟子になって――僕はその先の君を一切知らない。騎士になれたかどうか不安で、怪我し
てないか、病気になったんじゃないか、戦場で死んじゃったんじゃないかって――」
「ロズ。おまえが何を言ってるのかわからない。手紙は毎月――この一年は月に何通も送った
じゃないか。一通でいいから返事をくれと――煩わしくなったのならそう言ってくれと――!」
「そんなの知らない。手紙なんか来てない。僕は受け取ってない」
「そんな馬鹿な! 私は確かに――」
「知らないって言ってるだろ!」
はっと目を見開いて、フィリクスは唇を手の平で覆って絶句した。
「……受け取っていないのか」
ごく静かに、フィリクスがそう尋ねる。
ロザリーは涙を堪え、唇を噛んで頷いた。
「住所は……」
「変わってない」
「それじゃあどうして――!」
「やめてよ! もう、手紙なんてどうでもいいだろ! 君はフロージア様と結婚して、僕はグ
ラッド卿の護衛として生きて行く。それだけの事じゃないか。今更手紙がどうとか言ったって
なんの意味も無い」
「意味が無いだと! まさか覚えていないのか? 私たちはあの森で――!」
「――フィル? どうしたの大きな声を出して」
愕然と息を呑んだロザリーの耳に、優しげでたおやかな女性の声が滑りこんだ。
はっとしてフィリクスが顔を上げ、声の方を振り返る。
「フラウ……あぁ、いや……なんでも――」
つやつやと輝く美しい黒髪を、たっぷりと腰まで伸ばした女性が、心配そうに首をかしげて
立っていた。
フラウ――というのは間違いなく、フロージアの愛称だろう。
この女性が、フィリクスの婚約者――。
美しい女性だとウィリアムは言っていた。正しく、眼前の女はそれ以外に形容が見つからな
いほど美しい。
「だめじゃない。そんなに小さな男の子を怒鳴って――あら、やだごめんなさい。可愛らしい
女の子ね」
申し訳無さそうに笑って、フロージアがロザリーを見る。
「紹介して? あなたのお友達ね」
「あぁ、彼女は――」
「グラッド子爵の護衛で参りました。ロザリーと申します」
まぁ、とフロージアが口元に手を当てる。
「信じられないわ。こんなにかわいらしい女性が、戦場の鬼と名高いグラッド卿の護衛を?」
戦場の鬼などと呼ばれていたのかと、ロザリーは内心吹き出した。
379 :
ロザグラ:2007/11/18(日) 22:59:03 ID:6CxYyp9E
実にお似合いのあだ名である。
「閣下は表立って連れ歩く護衛には、実力よりも容姿が重要だと――」
まぁ、とまたフロージアが目を見開く。
そしてくすくすと、それはそれは楽しそうに笑い出した。
「あの方は信頼している臣下ほど粗末に扱うと有名ですからね。その若さでグラッド卿からそ
んなにも信頼を買うなんて、余程お強くていらっしゃるのね」
ふわりと、フロージアが柔らかく微笑んだ。
その笑顔の優しさが、美しさが、ロザリーの心をずたずたに打ちのめす。
かなうわけがない。
あぁ――よかった、と思った。下らない嫉妬心がおこる余地もない程に、フロージアは美し
く聡明で、女のロザリーから見ても完璧な女性だった。
「すっかり日も落ちてしまいました。そろそろ部屋に戻らないと、護衛の怠慢だとグラッド卿
にどやされる」
あらあら、噂どおりにお厳しい方なのね、とフロージアが困ったように眉をひそめた。
実際は、今日一日は自由に行動していいとウィリアムに言われている。
「お二人の未来に幸多からん事を、心よりお祈り申し上げます」
そう、堅苦しい礼をとり、ロザリーは二人に静かに背を向けた。
ありがとう、と、幸福そうにフロージアが礼を言う。
「ロザリー様。今夜の晩餐は屋内でささやかな立食パーティーを用意していますから、もしよ
ろしければ、わたくしとも是非おしゃべりしてくださいね」
立ち止まり、振り返った先でフロージアがふわりと笑う。
喜んで――と半ばつられるようにしてロザリーも笑い、冗談でダンスにお誘いしますよとま
で言ってのけた。
すっかり暗くなった庭にはいつの間にかかがり火が点り、様々な動物の形に刈り込まれた植
え込みを赤く照らし出していた。
静かに裏庭を横切って屋敷の角を曲がり、少しずつ速度を上げて、最後には走り出す。
走らなければ、叫びだしてしまいそうだった。
フィリクスは手紙を出したと言い、ロザリーにはそれが届いていない。
それどころか、なぜ返事をくれなかったとロザリーを責めさえした。
痺れを切らせてロザリーが出した手紙もまた、フィリクスには届いていないのだ。
「ロザリー!」
聞きなれた声が聞こえ、ロザリーは立ち止まって振り返った。
心配そうな表情で、ウィリアムが駆け寄ってくる。
「どうしたんです? 血相変えて。裏庭で何か――」
「覚えてた」
「――え?」
「約束……フィルは覚えてて……手紙も、出してたって……でも、僕の所には届いてなくて、
僕の手紙もフィルには届いてなくて……!」
息を切らせて捲くし立てるロザリーを、ウィリアムは落ち着くようにと優しく声をかけなが
ら肩を叩いた。
「順をおって話してください。フィリクス様に会ったんですね?」
こくこくと頷き、それで、それでと繰り返す。
「……フロージア様……が、綺麗で……」
フィリクスが約束を覚えていた。
手紙も、フィリクスはずっと出していたと言う。
だけど自分は手紙なんてしらなくて――。
「幸せそうで……」
だから、なんだと言うのだろう。
自分は手紙なんか知らないと主張して、それに何の意味があると言うのだろう。
「ロザリー?」
「……ごめん。なんでもない」
「ロザ――」
「でも、ちょっと……泣かせて」
ぎゅうとウィリアムの胸にすがりつき、ロザリーは声を上げずに泣き出した。
手紙の行方はわからない。
だが、フィリクスが手紙を出し続けていたのは事実だろう。
そしてフィリクスは、一向に返事をよこさないロザリーが、きっと誰かに恋をして結婚した
と思ったのだ。
そしてそれでも、せめて親友として、結婚式に来て欲しい。
そうして出された最後の手紙は――どういうわけかきちんとロザリーの元に届いたのだ。
380 :
ロザグラ:2007/11/18(日) 23:00:00 ID:6CxYyp9E
だったら、ロザリーは演じなければならない。
フィリクスとの約束を忘れなければならない。待っていたなどと悟られてはならない。
手紙が届いていようといなかろうと、全ての結果は変わらないと思い込ませなければならない。
「ロザリー。もし閣下に見られたら、私は決闘を申し込まれます」
「うん」
「この暗がりですと、明らかに成人男性と少年に見えるでしょうから、衆道家と間違われる危
険性もあります」
「うん」
「その場合、護衛二人にそういう趣味があると言う事で、必然的に閣下もそういう目でみられ
ますね」
「うん」
「決闘を申し込まれる価値はあるな」
堪えきれずに、ロザリーは泣きながら思い切り吹き出した。
「もう! せっかく人が悲劇に浸ってるのに、笑わせないでよ!」
「私はいつも、閣下を陥れる事を第一に考えて行動してるんです。知らなかったんですか? 閣
下の悪評を流すためならなんだってします。あぁ閣下……そんな、意地悪しないで、もっと激
しくぅ」
「やめてぇ! 気持ち悪い! 死ぬ! 笑い死ぬ!」
腹を抱えてげらげらと髪を振り乱し、ロザリーはやめてやめてと悲鳴を上げた。
上手いもんでしょう、とウィリアムが胸を反らして自慢げに笑う。
「行きましょう。今夜は婚姻の前夜祭です。あなたのドレス姿を見れば閣下の機嫌も直るでし
ょうから、早いとこ着て見せてやってください。ダンスのステップは忘れてませんね?」
たたん、と軽快にステップを取り、行きましょう、とウィリアムが走り出す。
頬を湿らせる涙のあとをごしごしと拭い去り、ロザリーもまた、息を切らせて走り出した。
切らせていただきます
うおう、予想外の展開。
犯人はフロージアか…? どう決着つくんだろう。
ロザリー・ウィリアムでくっつくに400円。
お、続きが来てた!
次はどうくるのか、楽しみだ。
最初は親父が犯人かと思ったが…そうすると招待状で本気で怒ってたのが分からなくなるから違うよな…。
とにかく続きが楽しみになる。次はいつごろかな。
ほっしゅー
hosyu
hosyu
ほしゅ
保守する
ほしゅ
390 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:42:49 ID:C9FO1cik
ドレス姿を見せてやればグラッドの機嫌は直る――というウィリアムの読みは、半分は
的中したが半分は大はずれという結果となった。
炎と薔薇をモチーフにした飾り布をふんだんに使った緋色のドレスは、確かにロザリー
によく似合ったし、グラッドも最初はその姿にこの上なく満足していた。
だが、いざ会場に向かうと言う段階になり、俺以外の男がこれを見るのが気に入らない
と文句を言い始めたのである。
「やっぱりおまえ、いつもの服に着替えて来い。その服は城に戻ってから改めて俺が脱がす」
などととんでもない事を言い出したグラッドに、ウィリアムは渾身の力を込めた拳骨を
叩き込み、囚人でも扱うようにとっとと歩けと背後からせっついた。
初めて会った頃は真剣を抜いて切り合うような二人の喧嘩をおろおろと止めたりもして
いたが、最近のロザリーは慣れっこになってしまい、実に冷静な物である。冷徹と言って
もいいかもしれない。
主の背中を蹴るとは何事だと鬼の形相を浮かべたグラッドと、蹴られたくなかったら
君主らしく振舞えと嫌味ったらしい笑顔を浮かべるウィリアムの横を素通りし、
「喧嘩するのは構わないけど恥ずかしいから人目に付かない所でお願いね。連れと思われ
たくないから先に行ってるよ」
と言い残してエスコートもつけずにつかつかと歩き出した。
とてもドレスを着た貴婦人の歩き方ではないのが、どこか微笑ましい後姿である。
「畜生が。あの女に色目使う野郎がいやがったら手袋たたきつけてやる」
「閣下! ただでさえ、戦場の鬼が来てるって招待客が怯えてるんですから、これ以上
悪評を増やさないでください」
「腰抜け共が」
「こんな野蛮な男が主だなんて……」
舌を出して吐き捨てるグラッドにあてつけるように、騎士の恥だとウィリアムが絶望し
てみせる。
しかしはるか先をすたすたと進んで行くロザリーに一切立ち止まるつもりが無いとわか
るや否や、二人はすぐさま停戦協定を結んで慌ててロザリーの後を追いかけた。
連れの婦人を一人で会場入りさせるなど、仮にも貴族であるグラッドや騎士である
ウィリアムからすれば末代までの恥である。
舞踏会と言うものを、ロザリーは体験した事がなかった。
知識としては一応、踊ったり食事をしたり歓談したりする場だと知っていたが、舞踏会
の雰囲気と言うものは想像する事しか出来ず、せいぜい親戚を招いて行う誕生パーティー
を更に豪華にしたような物だとしか考えていなかった。
そして、その剣に生きてきた田舎者の貧困な想像力は、会場への入り口の前に立った
瞬間粉々に打ち砕かれた。
招待客は百人にものぼる――と、そう言えばグラッドが言っていた事を思い出す。
だが主催者側であるフロージアは、確かささやかな立食パーティーだと言ってはいなかったか――。
「なに固まってんだ! おら、手」
「へぁ?」
「侍女に教わったでしょう。ほら、その通りにすればいいんですよ」
「あ、あぁ……そ、そっか」
田舎者が、とグラッドが嫌味を言ったが、しかりロザリーにはその嫌味を理解できる
だけの余裕を完全に失っていた。
華やかな雰囲気に呑まれてしまう。
あでやかなドレスに目がくらむ。
楽しげに語らう声が、人々をダンスに誘う美しい音楽が、香水と酒の香りが、この会場
を満たす全てのものがロザリーの思考力を奪っていくようだった。
「これはこれは、おぉ、なんと久しい! グラッド卿!」
そんな、真っ白なロザリーの頭の中に、会場によく通る声が飛び込んできて、ロザリー
はようやく失いかけていた視界を取り戻した。
はっと視線を向けた先には、見事なあごひげをたくわえたいかにも貴族風の男が両手を
広げて立っていた。
ワインを高く掲げ、まったく今夜はめでたいですなとカラカラ笑う。
確か、侍女にくれぐれも注意しておくように――と言われた貴族の一人だ。
とんでもない女好きで、確かフランク子爵と言ったか――。
「貴兄は戦場でしか踊らぬ男と聞いていたが、いやなかなかどうして、かしこまった装い
もよく似合う」
391 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:43:32 ID:C9FO1cik
にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながら歩み寄ってくるフランクから、グラッド
があからさまにロザリーを遠ざけた。
半歩後ろに下がる形になったロザリーを、更にウィリアムが背後に庇う。
その二人の様子に、フランクがおやおや、と心外そうに眉を上げた。
「そんなに警戒しなくとも、私もそれなりに命は惜しい。稀代の悪漢グラッド子爵がわざ
わざ連れて歩くような寵妾にまで手を出したりはせんよ――ところでお嬢さん、お名前を
伺ってもいいかな。おお、なんと、これは可愛らしい」
手を出さない――と宣言した矢先に口説きにかかるとは、中々分厚い面の皮である。
寵妾という言葉にむっとして前に出ようとしたロザリーを、しかし再びグラッドは静か
に制した。
「これは私の護衛です。ウィリアム同様存在しない者として扱っていただきたい」
うぇ――と、妙な声が出そうになり、ロザリーは慌てて口をつぐんだ。
まさかグラッドが敬語を使うとは思っていなかったのだ。
「護衛? またまたご冗談を! あぁいや、しかしなる程、主の寝所を守るにはなかなか
頼りがいがありそうですな」
「全く。主君の腹を果物ナイフで貫くような護衛ですからな。私も油断をしていると、
寝所を守る所かあっさり寝首をかかれかねない」
とんとんと、グラッドがすっかり傷の塞がったわき腹を指で叩いてみせる。
その言葉にフランクはぎょっとして、まじまじとロザリーを凝視した。
そして、ごほんごほんと咳払いする。
「彼は過去に果物ナイフで刺された事があるんです――女性問題でね」
急に態度を変えたフランクを不審に思ったロザリーに、ウィリアムがそっと耳打ちした。
なるほど、と頷いて、わざとらしくフランクに笑いかけてやる。
フランクは慌てて視線を逸らした。
「それにしても今回の婚礼、実に残念ですなぁ。あのお美しいフロージア嬢が、まさか
一介の騎士なんぞに嫁ぐとは……」
「貴兄も求婚していらしたとか」
「さすが、よくご存知でいらっしゃる! 私もあの方の夫になれるのであれば、全ての
恋人と手を切ってもかまわんとさえ思ったほどでしてな。しかしけんもほろろ……」
「貴兄と真剣に添い遂げたいという危険な思想の婦人が現れたら、ぜひとも早馬を頂きたい。
その瞬間貴兄の領地に攻め入ってその女性を奪い去って差し上げよう」
わざと作ったさわやかな笑顔が、ロザリーには逆に恐ろしく見えた。明らかに本気である。
しかしその本気に気付いていないのか、フランクはカラカラと喉をそらせて笑った。
「全く、貴兄が言うとどんな冗談も全て脅しに聞こえてくる。しかしあのフィリクスとか
いう若造――どんな手を使ってフロージア嬢に取り入ったのか……一説によるとあの大男、
力にものを言わせてフロージア嬢の純潔を奪い、半ば強引に婚姻を迫ったと聞きますぞ」
急に声のトーンを低くして、フランクがグラッドに囁いた。
かっと――堪えがたい激情がロザリーを捉えた。
しかしウィリアムに視線で牽制され、足を踏み出すことも許されない。
「元々悪い噂の多かった男だ。ご存知か。あの男に思いを寄せた婦人が夜に寝所に忍んで
行き、口にするのもはばかられるような獣じみた情交を結んだ上で、全裸で室外につまみ
出されたらしい。頂くだけ頂いて後は――と言うやつですな。私も人の事は言えないが、
しかし婦人を部屋から放り出したりはいたしませんぞ。全く粗暴で感心できん男だ」
「でしょうな。貴兄はいつも、全裸で部屋を追われる側の人間だ」
「なんという切れ味! 全く貴兄の言葉はいつも私をずたずたに引き裂いてくださる」
そっくり返って豪快に笑うフランクに、グラッドも愉快そうに笑ってみせる。
ひどく白々しい光景だった。
親友を侮辱された激昂が、脱力するようにしおしおと萎えていく。
ロザリーの中に幻滅が満たされつつあった。
グラッドの姿を見たくなくて、ついには俯いてしまったロザリーに、また、ウィリアム
がそっと耳打ちした。
「堪えて下さい。あとで事情を教えます」
「事情って――」
「しっ。黙って見ているのが一番いい」
これは命令です――とまで釘を刺されてしまっては、ロザリーにはただ、俯いている
事しか出来なかった。
情けなくて涙が出る。
それでは――と、ようやくフランクが話を切り上げた。
392 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:44:06 ID:C9FO1cik
「なにはともあれ、決まってしまったものは仕方ない。負け犬は負け犬らしく、両者の
幸せな門出を妬みつつ新たな出会いを探すとしましょう」
「美しい花ほど、棘や毒で自身を守るものである事を肝に銘じておく事ですな。ご自慢の
護衛とて、寝屋の中まで守ってはくれますまい」
「毒に犯され突き刺されるのもまた一興。では失礼」
きざったらしく一礼し、ついでとばかりにロザリーに片目を瞑ってみせてフランクは
くるりときびすを返した。
人混みの中に誰かを発見し、嬉しそうに笑って歩み寄って行く。
グラッドが忌々しげに舌打ちし、その後ろ姿を睨み付けた。
「存在自体がひわいな野郎だ。俺の女に色目使いやがって」
「君の女じゃない」
意外そうに眉をあげ、グラッドがロザリーに振り返った。
「君の護衛だ」
「ロザリー……!」
「よせ、ウィリアム。いい」
怒りと言うより諦めに近い溜息を吐いて、グラッドはすいとロザリーに手を伸ばした。
身じろぎもせずに突っ立っているロザリーの髪を、くしゃくしゃと掻き乱す。
「そうだな。悪かった」
それが、妙に癇に障った。
ぱん、と音が出るほど乱暴に、グラッドの手を振り払う。
「ロザリー!」
さすがにウィリアムが声を荒げた。
近くにいた年配の婦人が、あらあら、と唇に笑みを刻んで離れていく。
「なんだよ、今の」
「なにがだ?」
「なんであんな奴と、あんな風に喋るんだよ……!」
自分自身を侮辱されたことよりも、フィリクスを侮辱されたことよりも、そんな男を
相手に平然と会話を交わせるグラッドが嫌だった。
剣を抜けとは言わない。
決闘を申し込めなんて非常識な事も思わない。
だったらどういう態度をとればよかったのだと聞かれても、ロザリーには答えられない。
それでも、ただひたすら、なぜか無性に嫌だった。
子供を見るような目で、グラッドが笑った。
「戦場の女神は、体裁を気にするお上品な紳士は嫌いか?」
それじゃあ――と呟き、唇に笑みを刻んだまま目を細める。
「あの野郎を殴りつけて、宴席をぶち壊しにしてやろうか。剣を抜いて首をはねてやろう
か? 戦争が起こるぞ。困るだろうなぁ、おまえの幼馴染は。それが望みか? 復讐か?」
戦場の愉悦に恍惚とするように、グラッドが獣のように唇を舐めた。
圧倒的な悪意に射竦められ、ロザリーは下がりそうになる足を必死に押さえて唇を噛んだ。
グラッドの瞳にどす黒い炎が宿る。
「おまえが言うとおりにしてやるとも。言ってみろ。ぶち壊しにしろってな。悲鳴が聞き
たいか? 血が見たいか? 絶望が見たいか。なんだって見せてやる」
「違う……なんだよ、それ、やめてよ……」
「言ってみろよ。壮快だぞ?」
「やめて……」
「剣の一振りだ。なんだったら演技でいい。俺とウィリアムが切りあうだけで祝いの席は
ぶち壊しだ」
「やめてよ! そんなんじゃない!」
しん――と、音楽さえもその場から消え失せた。
三人に――とりわけロザリーに視線が集中し、ひそひそと囁きあう声が会場中に広がって行く。
にやにやと、グラッドがからかうようにロザリーを見下ろした。
さぁ、どうすると言わんばかりのその顔に、しかしロザリーは青ざめて立ちすくむ
事しか出来なかった。
視界の端でウィリアムが動いた。
瞬間。
ぱしゃん、と、水音が会場に響いた。
同時に、きゃあ、と、どこかでささやかな悲鳴があがる。
ロザリーは呆然と、ぽたぽたと滴る水滴を凝視した。
393 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:45:30 ID:C9FO1cik
「頭を冷やしなさいロザリー。あなたは閣下に雇われた護衛であって、対等な立場ではない。
閣下の御身を守る以外の目的で閣下に声を荒げるなど言語道断です」
水を――ウィリアムに浴びせかけられたのだ。
ぐっしょりと濡れた金髪が頬に張り付き、首筋を伝って流れた水がドレスの胸元を
濡らしている。
ひどい、と誰かが囁いた。
あれが冷血無比で有名な、グラッド子爵の懐刀ウィリアムか――。
「いつまで、そのみっともない姿をさらしているつもりです」
「あ……あ……」
「下がりなさい。今すぐに」
鋭く命じられ、ロザリーはひどくぎこちない動きでグラッドに礼をとり、くるりときびす
を返してつかつかと歩き出した。
せめて泣くまい、これ以上醜態を晒すまいと、しゃんと背筋を伸ばして会場を後にする。
グラッドが部下の醜態と非礼をわびる口上を述べる声を背中に聞きながら、ロザリーは
堪えきれずに涙を零し、一目散に廊下を駆け出した。
会場に音楽が戻り、ダンスが戻り、人々の話し声が戻るのに、ロザリーが会場を後に
してから三十秒とかからなかった。
むしろ雑談にはより一層熱が入り、先ほどのウィリアムの行動が残酷だとか、それを
受けたロザリーの態度が毅然としていたとか、主君に声を荒げる護衛などとんでもない、
あの程度で済んで感謝すべきだと口々に言い合った。
その様子に、グラッドが不服そうにウィリアムを睨み付ける。
「やってくれたな」
「忠実な護衛として当然の行動を取ったつもりですが?」
あくまで飄々として、ウィリアムが答える。
グラッドは忌々しげに悪態をついた。
「俺を巻き込んで悪者になりやがって。そんなに不敬仲間が大切か」
もし、あのままウィリアムが何もしなければ、非は主君に声を荒げたロザリーにあった。
そして、それを責めずに黙って受け入れれば、グラッドは心の広い主君の名誉を得る
ことになったのだ。
それが、ウィリアムがロザリーに水を浴びせかけ、あまつさえ冷たい言葉で叱責して
退場させたせいで、祝いの場で可憐な少女に平然と恥をかかせる冷徹な主君の出来上がりである。
「私は閣下の評判を貶めるために護衛をやってるんです。絶好の機会だったので利用した
だけですよ」
「てめぇ、さっき悪評をこれ以上増やすなとかぬかしてなかったか」
「そんなことより、追いかけて慰めなくていいんですか? 心の隙間に付け入る好機に
見えますがね」
「――先を越された」
眉間に深く皺を刻み、グラッドはぐいと酒を煽った。
え、とウィリアムが聞き返す。
「フィリクスとか言う野郎だ。俺が謝罪の口上述べてる最中に無視して出て行きやがった。
あと、あのヒゲ面」
「非礼に非礼を返されたわけですか。自業自得ですね」
ふん、とウィリアムが嫌味を言う。
あんな風にロザリーを追い詰めたりするのが悪いのだ。
正直に、おまえのために猫を被っているのだと言ってやれば済んだのに――。
394 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:46:07 ID:C9FO1cik
「でも、だったらなおさら早く追いかけるべきでは? 正妻にはなれないまでも、妾にと
言われたら頷くかもしれませんよ」
「それを今から見物しに行くんだよ」
「覗きですか……?」
「嫌なら来るな」
「いくら悪評を立てたいと言っても、戦場以外での殺人を見過ごすわけには行きません」
このままグラッド一人を生かせたら、ロザリーかフィリクスか、あるいはその両方を
切り殺しかねない。
背中に百人もの視線を感じながら、ウィリアムとグラッドは晩餐会場を後にした。
***
どこをどう走ったのか、よく覚えていない。
とにかく人気のない所に行きたくて、ロザリーは一回の窓から飛び降りて、かがり火を
避けるようにして裏庭に向かった。
そのまま少し走って美しく刈り込まれた生垣の陰で立ち止まり、ぐしぐしと涙を肘まで
ある手袋で拭う。
は、は、と浅く短い息を吐き、ロザリーはその場にうずくまって泣き出した。
グラッドは主君だ。
自分で、グラッドの女ではないと。ただの護衛だと言い張ったのに。
一番下っ端で構わないから雇ってくれと言ったのに、まるで変わらず友人のように接し
てくれるグラッドを、当たり前のように思っていた。
ウィリアムのように公私を分けることも出来ず、公の場で主君を怒鳴り、集まる視線に
ロザリーは立ちすくむ事しか出来なかった。
もし、あのまま何も無かったら、ウィリアムが叱責してくれなかったらと思うと寒気がする。
その瞬間、自分はグラッドの護衛ではなく、側に置いて愛でるだけの人形になっていた
のだ。少なくとも、あの場にいた者は全員そう思う。
なんて子供で、なんて愚かで、なんて見苦しい女だろう。
頭から被った水と、冬の夜風のせいでいつの間にかカチカチと歯が鳴っていた。
上着も羽織っていないドレス姿はひどく寒い。
その肩に、硬質な布地が、ふわりとは言いがたい重さで巻きつけられた。
暖かさにぎょっとして立ち上がり、生垣を背にして振り返る。
「頭に血が上ると闇雲に走り回る癖は健在か」
「フィ――」
「何故部屋に戻らなかった。私とほぼ同時にフランク卿がおまえを追って会場を出たんだ
ぞ。こんな暗がりに一人でいては、襲ってくれと言っているようなものだ」
咎めるような口調だが、表情は柔らかく穏やかだった。
年齢なんてほんのいくつかしか違わないのに、それが手の届かないほど大人に見える。
395 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:46:46 ID:C9FO1cik
「――君には関係ないだろ! ほっといてよ!」
怒鳴って、ロザリーは肩に掛けられた上着を脱いで眼前の大男に押し付けた。
驚いたように目を見開き、フィリクスが押し付けられた上着を受け取る。
そして駆け出したロザリーの腕を、フィリクスは慌ててつかんで引き戻した。
「ロズ! 落ち着け、話を聞いてくれ」
「痛いな! はなしてよ! なんだよ、哀れみに来たわけ? フロージア様に慰めてこい
とでも言われたの? 僕が女だから。僕が子供だから!」
子供じみた怒りだ。成長した幼馴染と昔から変わらない自分を比べて、劣等感に焦燥と
苛立ちが募る。
「どうしてそんなふうに思うんだ。私はただ、おまえが心配なだけだ」
なだめるようなその声が、無性に癪に障った。
どんなに渾身の力を込めても、がっちりと腕をつかんだフィリクスの手は離れない。
「来るんじゃなかった」
「ロ――」
「君になんか、会うんじゃなかった!」
醜態をさらしてばかりだ。
ウィリアムに呆れられ、グラッドを怒らせ、二人に恥をかかせてフィリクスや他の招待
客に哀れみをかっている。
こんなつもりで来たんじゃない。
女々しくて、惨めで、みっともなくて嫌になる。
「ほっといてよ……もう、関係ないだろ。花婿がこんなとこで何やってんだよ」
ひく、ひく、と肩を揺らし、ロザリーはまた、めそめそと泣き出した。
もう、たくさんだ。これ以上みっともない姿をフィリクスに見せたくない。
ぐいと、掴まれた腕が静かに引かれ、ロザリーはよろめいた。
その肩にもう一度、重たい男物の上着が巻きつけられる。
「おいで、少し歩こう」
がっちりと腕をつかんでいたフィリクスの手が、あっけなくほどけた。
身をひるがえそうとして視線を逸らし、しかしロザリーは逃げ出さずに踏みとどまった。
ほっと、フィリクスが息を吐く。
促されて、ロザリーはとぼとぼとフィリクスの隣を歩き出した。
さくさくと、草を踏みしめて庭を歩く。
ロザリーが人に見られたくない、と呟くと、フィリクスは人気のない道を選んで歩いてくれた。
沈黙が妙に重い。
「……思い出すな」
ふと、沈黙に耐えかねたようにフィリクスが口を開いた。
「昔、冬の湖に落ちた事があっただろう。その時も、こんなふうにおまえに上着を貸してやった」
あぁ、と、ロザリーは呟いた。
青い唇で真っ白な息を吐き出して、責めるようにフィリクスを睨む。
「湖を覗いてた僕を、君がふざけて後ろから突き飛ばしたんだよね」
「……そうだったか」
「僕のお父様に怒鳴られたの覚えてないの?」
「……今思い出した」
気まずそうに、フィリクスが視線を逸らす。
ふ、と、ロザリーは小さく吹き出した。
「ほんと、子供の頃は乱暴者だったのにさ。すぐに怒るし、自分から誘ったくせに一人で
歩いて行っちゃうし、僕が誰と遊んでてもお構いなしに引きずってくし」
「やめてくれ。子供の頃の自分を殺したくなってきた」
あはは、と声を上げてロザリーが笑うと、フィリクスは力なく肩を落として嘆息した。
少し、苛めすぎただろうか。
ロザリーぼんやりと、どこか拗ねた様子のフィリクスを眺め、こみ上げてくる懐かしさ
に目を細めた。
「変わったよね、フィルは。背だって伸びて、力だって強くなって、穏やかで知的で、
まるで別人みたい」
「ロズ……」
「置いてかれちゃった気分だよ。僕ばっかり子供で、ドレスを着て大人しくしてることも
出来なくて、頭の中もからっぽ。胸もお尻も育たなかったし、女らしさのかけらもない」
「馬鹿を言うな! 自分を鏡で見た事がないのか!」
急に、乱暴に肩を掴まれて、ロザリーはぎょっとして目を見開いた。
396 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:47:20 ID:C9FO1cik
「おまえが会場に現れた時、真っ先にフランク卿が飛んで行っただろう。あの方は好色だ
が、飛び切りの美女にしか興味を示さない事で有名だ。私だって、こんなに可憐な夫人を
見た事がない。広いホールのきらびやかな婦人の中で、おまえを目で追わずにいられる男
がどれだけいると思う」
そりゃあ、と呟き、ロザリーはぎこちなく口元が歪むのを意識した。
「頭から水を引っ掛けられた婦人なんて、あの場じゃ僕しかいなかっただろうからね」
一瞬、フィリクスは言葉を忘れて呆然とロザリーを見下ろした。
そのフィリクスの瞳に自身の卑屈な苦笑いを見つけ、ロザリーは慌てて俯いた。
「その……フランク卿だけどさ。すごく感じ悪いんだ。嬉しそうに人の悪評喋ってさ。
まるで君が暴漢みたいなこと言うんだ」
「――婦人を、裸で放り出した話だろう」
「……なんだ、知ってたんだ」
「事実だからな」
え、と、ロザリーは目を見開いた。
「騎士などをやっているとな、不倫目的の貴婦人からの誘いは多い。私は全て断ってきた
が、ある貴族の開いた夜会に招かれたおりに、あてがわれた部屋のベッドで半裸の夫人が
待っていた」
「い、いいよ! 説明しなくていい!」
「退室を願ったが、話を聞かずに服を脱ぎだしたので――」
「フィル!」
「放り出した」
それきり、フィリクスは沈黙した。
あれ、と、真っ赤になってそらした顔を再びフィリクスに向け、たっぷりと疑問を含ん
だ表情で首をかしげる。
「あの……それだけ?」
「いま思えば、私が部屋を出れば済んだ話なんだがな。動転してた。私がその婦人の誘い
を受け入れた事になっているだろうが、実際は何もしていない。申し訳無い事をしたので、
公然と否定はしていないが……」
「あの……じゃあ、なんでその……君がその人と、いたしちゃった事になってるの?」
「恐らく、恥をかかせた報復だろう。よくある話だ」
都会は恐ろしいところである。
ロザリーは表情をひきつらせた。
「でも……だったら、じゃあ……し、しちゃえばよかったのに。だってそうすれば、その
ご婦人だって恥をかかずにすんだし、フィルだってそんな噂流されなかったのに……」
「――結婚の約束があったんだ」
ぎくりと、ロザリーは肩を強張らせた。
フィリクスの顔が見られなくて、無意識に視線を逸らす。
「そ、そうなんだ。誠実なんだね。相手はフロージア様でしょ。そりゃそっか、相手が
あの人なら、他のご夫人なんて道端のカボチャだよね」
あぁ、そうだな、とフィリクスが呟いた。
顔を上げられないロザリーに、フィリクスの表情は分からない。
「手紙を……な、探していたんだ。届いていないならどこにあるのかと」
唐突に、フィリクスが話題を変えた。
他の話題を探していたロザリーは、安堵して顔を上げ、しかし直後にこの話題もまずい
事に気付いてうろたえた。
「そんなの、みつかるわけないじゃないか。ばかだな。だって、出しちゃった手紙なのに
さ、家の中なんて探したって――」
「おまえは、そう考えるのか」
どこか呆れさえ含んだ口調で言われ、え、とロザリーは問い返した。
だって、と口を開きかけ、その先の言葉をさがして口ごもる。
「私は……誰が、どこへやったのかと考える。私の周りの人間もそうだろう。私でも鈍い
方なんだ。手紙の返事が来なくなった時点で、私は疑うべきだった」
「疑うって……それじゃ……」
みつかったの、と思わず聞いたロザリーに、フィリクスは静かに頷いた。
一言、
「暖炉の中に」
ロザリーは眉根を寄せ、愕然としてフィリクスを見た。
「騎士の称号を拝し、私はすぐにおまえを呼び寄せようとした。もちろん、両親にもその
事を伝えた。二人とも祝福してくれた。認めてくれたと思っていた」
だが、と低く言葉をつなぎ、フィリクスは拳を握り締めた。
397 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:48:26 ID:C9FO1cik
聞いてはいけない話だ。
自分は、約束を忘れた事になっているのだ。この話を理解してはいけない。
「腹の中では、祝福などしていなかった。ただ、反対すれば私が抵抗すると知っていたの
だろう。母は下男を抱きこんで私の手紙を手に入れ、全て燃やしていた。手紙を託してい
た下男を問いただしたら、あっけなく白状したよ。良家の子女との婚姻が家のためになる
と、私のためでもあるのだと……」
そうだ。
貧民でない――と言うだけで、地位も名誉もない田舎娘なんぞと結婚するより、地位も
名誉もある聡明で美しい女性と結婚するほうが、家のためにもフィリクス本人のためにも
ずっといい。
だから、祝福しに来たのだ。
美しい婚約者を。
騎士の称号を。
誇れる仕事を。
「よく、わからないけどさ」
青ざめた唇で真っ白な息を吐きながら、ロザリーは困ったように微笑んだ。
「君のお母様は、正しいと思うよ」
フィリクスが表情を硬くする。
その変化に気付かない振りをして、ロザリーは続けた。
「だってさ、幼馴染って言ったって、僕は一応女なわけでしょ? 独身の騎士様が故郷か
ら女を呼び寄せたりしたら、そりゃあ変な噂も立って女の人もよりつかなくなっちゃうじゃん」
「……そうか」
「鈍感だなぁ。普通に考えて、この状況だってまずいんだよ。結婚前夜の男がさ、薄暗い
裏庭で若い女と二人きりなんて……今すぐ会場に戻って婚約者の側にいるべきだと思うよ。
常識的に考えて」
「そうだな」
「だからほら、僕のことはもういいからさ。会場に戻りなよ。僕も部屋に戻って、暖炉に
あたってあったまるからさ」
「ロズ」
「うん?」
「グラッド卿やウィリアム様に、いつもあんな扱いを受けているのか?」
ふいに、フィリクスの瞳から穏やかさが消えたように思えた。
思い出したように風が吹き、水気を含んだロザリーの髪を氷のように冷やして行く。
「ううん。いつもはもっとずっと、凄く仲いいよ。でも、今回は特別。たくさん人が集ま
るところで、護衛が主君を怒鳴ったんだ。あれくらい、当たり前だよ」
「当たり前まえのように、あんな扱いを受けているのか」
「ちが……だから、普段はほんと、あんなんじゃないんだ。今回は僕が主君を怒鳴ったか
ら、だから――」
「いくら護衛といったって、おまえは女なんだぞ! それを、あんなふうに辱めるなど、
いくらなんでもやりすぎだ! 例えおまえが男でも、あそこまでやられて平然としていら
れる者などいない」
「それは、だって、咄嗟のことだったし……」
「ロズ。おまえは世界を知らない。夜会で婦人に声を荒げさせたら、それは男の責任だ。
怒らせるようなことをしておいて、相手の夫人を罰するなどありえないことだ」
「だから、僕はただの護衛で! 婦人とか、そういうくくりじゃないんだ! だいたい、
護衛の仕事だって無理言ってさせてもらってるんだし、それに――」
「ロズ!」
グラッドを庇うような言葉を連ねるロザリーの肩を、咎めるようにフィリクスが掴んだ。
ぎくりとして肩を竦めたロザリーを、フィリクスが真剣な目で睨む。
「――私のところに来い。私なら、おまえにあんな思いをさせたりしない」
愕然と、ロザリーは目を見開いた。
どくどくと、耳の奥で脈打つ音が聞こえる。これは、歓喜による胸の高鳴りか、あるい
は罪悪感による緊張か――。
「夕刻、おまえの振る剣を見た。覚えているかロズ。私が騎士になったら、私はおまえに
剣を教えると約束したんだ。だが、そんな必要は最早ない。その実力を私に貸してくれ。
また、一緒に剣を振ろう」
「……ばかな……冗談、やめてよ……」
ぎこちなく微笑んで、ロザリーは静かに首を左右に振った。
「僕はグラッド卿の護衛だ……全部、あの人にもらったんだ。あの人は僕に戦い方を教え
てくれた。だから僕は、あの人に仕えるって……だから……」
398 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:49:00 ID:C9FO1cik
頷いてしまえたら、どんなにいいだろう。
また一緒に、昔のように、妻になんてなれなくても、親友としていられたら、どんなに
心満たされるだろう。
「――もし、おまえが望んでくれるなら……」
ぐ、と、フィリクスがロザリーの肩を掴む手に力を込めた。
その指が、緊張で震えているのが分かる。
「私は、騎士でなくても構わない」
今度こそ、ロザリーは完全に言葉を失った。
その、フィリクスの言葉の意味は――。
「おまえは、本当に――昔からどうしようもなく、嘘の下手な女だな」
ひどく不器用に、フィリクスが笑った。
寒さとは別の、だがそれよりも抑えられない震えが足元からロザリーを揺さぶる。
「待っていてくれたんだろう?」
「ちが――」
「十年も、手紙が途切れてからもずっと、私を信じていてくれたんだろう」
「やめてよ、フィル。だめだよそんなの、だめ――」
力強い腕に抱きすくめられ、ロザリーは息を詰めた。
泣くまいと、涙を堪えて唇を噛む。
「やりなおそう、ロズ」
奪ってしまう――と、ただそう思った。
美しい婚約者を。
騎士の称号を。
誇れる仕事を。
十年かけてフィリクスが作り上げてきた物を。全て。なにもかも。
「……うそつき」
こんなつもりで来たんじゃない。
ただ、幸福なフィリクスに、自分も幸福だと伝えて安心させたかっただけなのに――。
「うそつき、うそつき、うそつき……!」
ずっと待っていたのに。
ずっと信じていたのに。
うわぁぁん、と声を上げ、ロザリーはフィリクスの胸にすがり付いた。
「迎えに来るって言ったじゃないか! 会いに来るって言ったじゃないか!」
結局、フィリクスの両親が村を出て街に移り住んだだけで、フィリクスは一度も村に
帰ってはこなかった。
すまない、すまない、とフィリクスが耳元で繰り返す。
「結婚しよう……って、言ったじゃないかぁ……!」
「すまない……ロズ。すまない」
抱き合っていた体をわずかに離し、フィリクスがふいに腰を屈めた。
唇が触れそうになり、慌ててロザリーは顔を逸らす。その顔を、半ば無理やり上げさせ
られて、ロザリーはぎゅっと唇を噛んだ。
その唇に重なった温もりに、ぎくりと体を竦ませる。
ロザリーが唇を開くまで、フィリクスは根気よく、ついばむようにロザリーに口付けた。
「ん……んん……ふ……」
くちゅりと、唾液が絡まる音がした。
怯えるようにわずかに開いた唇に、フィリクスの舌が無遠慮に押し入ってくる。
これは罪だ。裏切りだ。
グラッドに対する裏切りだ。
フロージアに対する裏切りだ。
ロザリーはぼろぼろと涙を零しながら、どんどんとフィリクスの肩を叩いた。
だけど一度受け入れてしまった舌は、ロザリーを逃がそうとはしない。
どれくらいそうしていただろう。ようやくフィリクスが唇を離したころ、ロザリーの
涙はすっかり枯れ果てていた。
ぐったりとフィリクスの腕に体重を預け、熱く濡れた唇を開く。
パン、と、乾いた音が夜に響いた。
立て続けに、皮膚と皮膚を打ち合わせる乾いた音が、植え込みの影から吐き出される。
音と共に姿を表した無骨な影に、ロザリーは血の気を失い、呆然と立ち尽くした。
「見せ付けてくれるじゃねぇか。感動のクライマックスだ! 涙無しにはとてもじゃない
が見てられねぇ。覗きなんて低俗なまねして正解だった。こいつぁ一級の戯曲に勝る」
399 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:49:34 ID:C9FO1cik
おどけた様子で喝采の声を上げながら、グラッドが脅すような笑みを浮かべて立って
いた。その瞳が、怒りとは違う感情に彩られ、責めるようにロザリーを睨む。
「グラ――」
「だけどな。フィリクス――つったか。でかいの」
ふいと、ロザリーから視線を外し、グラッドが静かにフィリクスを見た。
その背後に、どこか悲痛な表情でウィリアムが控えている。
「そいつは俺の女だ。俺の護衛だ。俺が見つけて、俺が育てて、請われて俺が受け入れた
女だ。俺が焦がれて、焦がれて、毎晩夢で犯しても手が出せねぇほど惚れた女だ」
すいと、グラッドがウィリアムに手を差し出す。
次の瞬間、ロザリーは瞠目した。
「一回捨てた女だろうが。それを拾った男から、その女を奪おうってんだ。筋は通しても
らうぜ、騎士様よ」
見慣れた装飾の、美しい鞘がグラッドの手に握られていた。
グラッドの手にあると、細身の剣がより一層小さく見える。
「剣で奪えと、そうおっしゃるのですか」
はは、と、グラッドが声を上げて笑う。
「その女はな。自分より弱い男とは契りを結ばないんだそうだ。元を正せば、それも全部
おまえのためらしいがな。おかげで俺も、その女に手がだせねぇ」
ちらとロザリーに視線をやり、グラッドは剣をロザリーに投げ渡した。しっくりと手に
馴染む、使い慣れたフランベルジュだ。
胸に抱きこむように剣を受け取り、ロザリーは唇を噛んで首を左右に振った。
「戦え。決闘してみろ。その女を俺から奪う資格があるのは、その女を打ち負かせる者だけだ」
「馬鹿を言うな! ロザリーは女で、しかもドレスなんだぞ! 決闘なんて成り立つものか!」
「そう思うなら、剣を抜け。そんなに実力に差がありゃぁ、傷つけずに勝つことくらいで
きるだろう。もし、本当にロズがおまえに負けるような事があったら、俺はそんな弱い護
衛はいらねぇ。そんな弱い女に興味もねぇ。連れて行くなり、犯して捨てるなり好きにす
りゃいいさ」
愕然と、ロザリーはグラッドを凝視した。
いらない、という言葉が、信じられないほど痛い。
「どうする? 女相手に剣を振るのは騎士道とやらに反するか。それとも、女に打ち負か
されるのが怖いのか」
なんなら――と、はじめて、グラッドがまともにロザリーを見た。
「わざと負けちまってもいい。甘んじて敗北を受け入れるような女も、俺はいらねぇ。後
始末は全部俺がしてやるさ。町を出る馬車も、支度金もくれてやる」
さぁ、どうする――とばかりに、グラッドが口角を吊り上げた。
わざと負けるという選択肢が存在する事すら、ロザリーは考え付かなかった。
そうか、ただ、剣を落とせば、それで済んでしまうのか――。
すらりと、フィリクスが剣を鞘から抜く澄んだ音が夜に響いた。ひゅぅ、と、グラッド
がいつものように口笛を吹く。
「抜け。ロザリー」
グラッドがロザリーに命じた。
かたかたと、胸に抱いた剣が震える。
「抜け」
重ねて、グラッドが鋭く命じる。
青い唇が白くなる程噛み締めて、ロザリーは鞘から剣を引き抜いた。
かがり火の赤が反射して、夕日のようにフランベルジュが美しくきらめく。
「グラッド」
「――なんだ?」
「……ドレス、ありがとう」
言って、ロザリーはドレスの裾を、腿半ばまで乱暴に引き裂いた。
「ロズ! 何を――!」
思わず剣を降ろしたフィリクスの声を無視して、ひらひらと揺れる飾り布も引きちぎり、
腰を落として剣を構える。
ウィリアムが前に出て、決闘の開始を告げ――瞬間、ロザリーはドレスの赤をひらめか
せてフィリクスに切りかかった。
愕然と目を見開き、フィリクスがロザリーの剣を受けて後退する。
「十年だよ、フィル」
400 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:50:09 ID:C9FO1cik
半ば呆然としてロザリーを見詰めるフィリクスに、ぎこちなく笑ってみせる。
「これが、僕の十年だ」
すべて、この男のためだった。
こんな形でさえ、フィリクスと剣を交えられる事が、笑い出したくなるほど嬉しい。
フィリクスの瞳に、ようやく闘争の色が宿る。
その色に、ロザリーは歓喜が体を満たすのを意識した。
叫んで、ロザリーは白刃を振り下ろした。
その剣を、やすやすとフィリクスが受ける。押しのけるように後方に弾き飛ばされ、
ロザリーはドレスに振り回されるようによろめいた。
大きく、フィリクスが踏み込んでくる。
踏みとどまり、フィリクスの剣を受け流し、ロザリーは泣き出した。
なんて綺麗で、なんて真っ直ぐで、なんて力強い剣だろう。
これは人を守る剣だ。グラッドの振るう、奪うための暴力とは違う。
だが、弱い。
絶望が、ロザリーの心に食らいついて離れなかった。
人を傷つけまいとして振られる剣は、悲しいほどに無力だ。
これに負けるのは簡単だ。お互いに、毛ほどの傷もつかずに勝負は終る。
ただ、剣を落としさえすればいいのだ。
なのにどうして――。
「どうして――どうして!」
悲しみが苛立ちに、苛立ちが怒りに変わる。
なぜ、腕を狙って切り付けない。
なぜ、傷つけまいとするように剣を引く。
茶番だ。こんなものは決闘ではない。こんなものは戦いではない。
「うわぁあぁあ!」
踏み込み、ロザリーは容赦なくフィリクスの腕を切りつけた。
だが、浅い。
更に追い討ちをかけようと剣を振りかぶったロザリーの眼前に、白刃が割って入った。
ぎぃん、と鈍い音がして、ロザリーの剣が止められる――フィリクスのものではない。
「終わりですロザリー。あなたの勝ちだ」
ウィリアムの声だった。
腕を押さえてうずくまったフィリクスは、もう、剣を握ってはいない。
呆然と、ロザリーは剣を降ろした。
「腕を。止血をしますから、医者を呼んで縫ってもらうといいでしょう。肉を抉られてい
るだけで傷は酷く残るでしょうが、今後も剣を振るのに支障はないはずです」
ウィリアムが剣をしまい、フィリクスの側に膝をつく。
白いシャツが真っ赤に染まり、腕を伝った血液がぱたぱたと地面に滴っていた。
青ざめた顔で、フィリクスがロザリーを見上げる。
あぁ、やはり――とロザリーは思った。
やはり自分は、あの日、あの庭で、恋に焦がれる自分を切り殺していた。
フィリクスに焦がれる心よりもはるかに強く、闘争の愉悦を奪われた怒りと虚無感が
ロザリーを揺さぶっている。
「弱いなぁ、フィルは……」
ぽろぽろとこぼれる涙を止められず、しかしそれでも、ロザリーは昔のように笑って見せた。
「ロ――」
「ピアノやダンスの稽古ばっかりしてるから、全然剣が上達しないんだ。そんなんじゃ、
いつまでたっても僕に一勝もできないんだから」
剣を振って血を払い、鞘を拾い上げて刀身を納める。
「幸せに。フィル。さよなら」
フィリクスに背を向けて、ロザリーは静かに歩き出した。
その肩をグラッドが軽く叩く。
「――よくやった。それでこそ、俺の女神だ」
ぱん、と音を立ててその手を振り払い、しかしそれだけでロザリーはまた歩き出した。
ロザリーが立ち去り、ウィリアムとグラッドが立ち去ってからも、フィリクスはしばら
くそこに座り込んでいた。
ロザリーに切られた腕が、燃えるように熱く痛む。
401 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:50:43 ID:C9FO1cik
ずっと、森での約束を想って生きていた。
会いたい気持ちを抑えて騎士になるためにひたすら学び、同じ手紙を何度も読み返して
必死に剣を振ってきた。
だが、ある日ふと、唐突に手紙の返事が途切れた。
何があったのかと不安に思い、だが、それと同時に、ずっと恐れていた一つの可能性を
考えずにはいられなかった。
誰か、他の男を愛したのではないかと。
幼い日の約束が煩わしくなったのではと。
そう思うと恐ろしくて、手紙の返事が来ない日が続けば続くほど、ロザリーに会いに
行く事が出来なくなっていった。
フロージアに出会い、だが、それでもロザリーを想い続けたフィリクスを、フロージア
は平然と愛し続けてくれた。
きっと、ロザリーは他の男を愛したのだろう。
別の誰かと幸福になったのだろう。
そして、フィリクスはフロージアを愛したのだ。
ロザリーはずっと待っていたのに。フィリクスのことを疑いもせず、手紙などなくても
ずっと、待っていてくれたのに――。
「フィル。そこにいたのね」
寒そうに声を震わせながら、白いドレスをひらめかせてフロージアがフィリクスの前に立った。
困ったように首をかしげ、フィリクスの腕に視線をやってまぁ、と口元に手を当てる。
「大変。お医者様に見せないと」
「――裏切っていたのは私の方だ」
抱き起こそうと屈んだフロージアに、フィリクスは震える声で囁いた。
え、と、フロージアが動きを止める。
「フィル。あなた、泣いてるの?」
「信じていてくれたのに、信じられなかった。待っていてくれたのに、迎えに行く勇気も
なかった……!」
あらあら、呟いて、フロージアがそっとフィリクスを抱き寄せる。
「そう。あの子が、あなたの言っていたロズだったのね」
ロザリーと名乗ったから、わからなかったわ、とフロージアが溜息を吐く。
「その上私は……おまえまで、裏切って……わたしは……!」
「いいのよフィル。二番目だって構わないって、言ったじゃないの。一番好きな人が目の
前に現れたら、誰だってそっちを見るわ。私は、子供みたいに正直で、自分に嘘がつけな
いあなたが好きよ」
だからほら、と促され、フィリクスはようやく立ち上がった。
激痛が腕を焼く。
幸福であると思っていた。迷惑でなければ、ロザリーが幸福に笑う姿を見てみたいと
思った。夫はどんな男か、子供はもういるのか、想像するたびに苦しくて、それでも
ロザリーの幸福を想像することが喜びだった。
それが――ロザリーは戦場の鬼の護衛として現れた。
剣に生きる事にしたのだと、手紙など受け取っていないと、ロザリーは平然と、さも
当然のように言ったのだ。
憎かっただろうに。自分を裏切った男の幸福を目の前にして、唾を吐きかけたかっただ
ろうに、それでも、ロザリーは友人として、笑顔を見せてくれたのだ。
自分は約束など覚えていないと。
だから、なにも気にするなとでも言うように。
「奪い返す力も……私にはなかったんだ」
「そうね。奪うのは、守るよりもずっと大変ですものね」
さらさらとした手袋で、フロージアがフィリクスの涙を拭う。
でもね、と言い聞かせるように、フロージアは微笑んだ。
「奪おうとする男がいて、その男に奪われたいと本気で願ったら、女は力づくでも奪われ
にいくものよ」
「……私は、力ずくで跳ね除けられた」
くすくすと、肩を揺らしてフロージアが笑う。
「ふられちゃったのね。頭がいい人。こんな最低の人でなし、普通の人なら愛すれば愛す
るほど傷ついてしまうわ」
「私は……! 私はただ……」
「優柔不断で、未練ったらしくて、諦めが悪くて、思い切りが悪くて、ひたすら頑固で、
我が侭で、さんざん人を振り回して傷つけるくせに、人を傷つけるのを怖がる臆病者」
402 :
ロザグラ:2007/12/20(木) 03:51:17 ID:C9FO1cik
ついと、豊かな黒髪を耳の後ろに流し、フロージアが優しく微笑んだ。
そして、ほっそりとした指でフィリクスの傷を撫でる。
「いいきみ」
ふふ、と、フロージアが笑う。
「言ったでしょう? あなたは騎士には向いていないわ。優しすぎるもの。それでも、故
郷にいる幼馴染に恥ずかしいからって、頑張って騎士になったのに、その人を裏切って、
逃げられて、ばかな男ね。ばかな人」
「フラウ……」
「グラッド卿は素敵な方よ。一途でまっすぐで、ひねくれ者でとても強い。約束を取り付
けるのは難しいけれど、守らなかった約束は一つもないというわ」
あなたより、ずっと上級な男よ。優良株なんだから、と、フロージアはからかうように
フィリクスの耳に唇を寄せた。
「だからあなたは、罪悪感よりも嫉妬心に身を焼きなさい。うらやましいってダダをこね
るあなたを眺めて、私は毎日をすごすから」
「それじゃあまるで……私は道化師だ」
「あら、だってお姫様を助けにいって、そのお姫様に打ち負かされたんでしょう?」
「見ていたのか」
「女のかんよ」
笑って、フロージアはフィリクスに口付けた。
***
部屋に足を踏み入れるなり顔面めがけて飛んできた果物ナイフに、グラッドはさすがに
苦笑いも浮かばず閉口した。
木製のドアに突き立った果物ナイフには、ロザリーの殺意がありありと見て取れる。
「俺は選択肢を与えたぞ」
言って、グラッドは果物ナイフを引き抜いて後ろ手にドアを閉めた。
ボロボロになった赤いドレスを纏ったまま、ベッドに身を伏せて泣いているロザリーに、
ゆっくりと歩み寄る。
「男より剣を取ったのはおまえだ。おまえが――俺を選んだんだ」
「君なんか選んでない」
すぐさま、鋭い否定が入る。
あぁ、そうかよとはき捨てて、グラッドは果物ナイフをもてあそびながら柔らかな
ベッドに腰を下ろした。
「フィルは僕を切るのを怖がってた……」
「あぁ、とんだ腰抜けだ」
「あんなふうにたきつけて! あんなふうに戦わせて! あんなふうに傷つけて! あん
なことしなくたって、僕は逃げたりしなかった。君に仕えるって決めたんだ! 裏切った
りしなかったのに!」
叫んで身を起こしたロザリーは、グラッドの襟首を捻り上げて荒々しく食らいついた。
涙で化粧の落ちた顔が滑稽で、思わずグラッドは吹き出してしまう。
グラッドの瞳に映った自分の姿に気がついたのか、ロザリーは顔を真っ赤にして
グラッドの頬をひっぱたいた。
「出てってよ! もう! 君なんか嫌いだ! 大っ嫌いだ!」
また、ベッドに顔をうずめて黙ってしまう。
その、大きく開いたドレスから覗く白い肌に、グラッドは果物ナイフの切っ先を滑らせた。
びくりと、ロザリーが肩を震わせる。
「動くなよ。傷がつくぞ」
言って、グラッドは刃物の切っ先でドレスの肩紐部分を切り裂いた。
「――パーティー会場で、話しかけていたヒゲ面な。腕利きの護衛を雇ってから、やたら
と決闘沙汰を起こしてるんだ」
シーツを掴んだままぴくりとも動かないロザリーの背に、再びナイフを滑らせる。
「決闘を挑んだり、挑まれるように相手を煽ったりと、やりかたは色々だがな。前々から、
俺とウィリアムに目をつけてやがる。俺達のどちらかに勝てば、そりゃあそれだけでたい
そうな名誉だからな。おまけに、俺に命令できる権利付きだ」
「……我慢してたの?」
「俺はあの手のゴシップは反吐が出るほど嫌いでな」
403 :
ロザグラ:
ぶつん、と、もう片方の肩紐もナイフで切る。
ドレスの背を編み上げる紐をナイフの切っ先で解きながら、グラッドはロザリーの
すべすべとした背中に唇を落とした。
ぺろりと、舌を出して軽く舐める。
「やだ……」
「動くな」
逃れようと身を捩ったロザリーを押さえつけ、紐の緩んだドレスの背を大きく開く。
その、肌とドレスの隙間に指を滑りこませ、グラッドはすべすべとしたわき腹をなでさすった。
「あの男に唇を許しただろう」
「……酔っ払ってるの?」
お酒のにおいがする、と、ロザリーが震える声で呟いた。
「そうだな。少し酔ってる」
「だから……僕を抱くの?」
だから――には、繋がらないだろう、この場合、とグラッドは苦笑いを浮かべた。
「嫌か」
「……お好きに。閣下」
「は……これだよ。ひでぇ女だな、ったく」
笑って、グラッドはロザリーから手を放した。
その代わり、ベッドに突っ伏しているロザリーの手をとって、無理やり膝の上に抱え上げる。
完全に怯えきり、今にも泣き出しそうな少女の顔があった。
そんなにも恐ろしいなら、嫌だと、はっきり言えばいい。その方がずっと、投げやりに
差し出されるより奪いやすいと言うのに――。
「好きなだけ他の男にかまけりゃいいさ。好きなだけ剣を振り回せ。だがなロズ。俺は何
があろうとおまえを手放さねぇぞ。百人の男に傷つけられて、百戦の果てに戦に飽きたら、
剣を捨てて俺の妻になれ」
ロザリーの震える唇に自らの唇を押し付け、グラッドはその幼い唇を味わうように
甘噛みし、緊張してがちがちに固まった舌を絡めるようにそっと誘い出した。
こうやるんだと教えるように、根気よく、じっくりとロザリーの緊張をほぐしてやる。
「それまでは、これで我慢してやる。唇や指でおまえに触れても、純潔は奪わないと
誓ってやる。例えおまえが他の男で純潔を散らしても、俺はおまえが心から頷くまで決して
お前を汚さない」
耳たぶ、頬、ほっそりとした首筋に、真っ直ぐに伸びた鎖骨。
順々に舌を這わせて甘噛みし、グラッドはもう一度、ロザリーの唇に口付けた。
***
翌日、フィリクスとフロージアの挙式は滞りなく行われ、二人はその足で、湖のはずれ
に建築したという二人の新居へと旅立っていった。
招待客にはその後も酒や料理が振舞われ、ロザリーたちも、呼び集められた芸人たちが
自慢の芸を披露するのを楽しんで眺めていた。
芸人など見た事がない田舎育ちのロザリーは瞳を輝かせてそれを喜び、ウィリアムと
グラッドはその姿をほのぼのと眺めながら、たまには遠出も悪くないなと頷きあった。
ふと、一人の道化がロザリーに歩み寄り、おどけた調子で一輪の花を差し出した。
そして、また飛び跳ねるようにして差って行く。
注目を浴びて恥ずかしそうに顔を赤らめ、ロザリーは花を手にしたままおろおろと
グラッドたちのところにかけ戻った。
「どうした。もう見なくていいのか?」
ゆったりと椅子に腰掛けながら、グラッドが笑う。
うるさいな、どうでもいいだろ、とぼそぼそと呟きながら花をもてあそび、ふと、
ロザリーは花びらの中を覗き込んだ。
「……なんか入ってる」
花びらの中に指を突っ込み、引っ張り出す。
するとそれは小さく畳まれた紙切れで、ロザリーはこれでもかと言うほどなんども折ら
れた紙を苦労してもとの形に戻し、うわ、と呟いて後方の道化師に振り向いた。
「手紙だ」