1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 19:36:26 ID:Ua4bsNC2O
三国呉は晋とも被ってるし、なかなか面白い人物も多いし、この板に向いているかもな
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 20:20:55 ID:nDuuuLZt0
孫晧はやる気だけはあるよな
>>1 乙
>>3 確かに何とかしようというやる気は感じられる
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 22:01:11 ID:cRpNuWVI0
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 22:16:47 ID:QSobJfyp0
陸坑は名将?
『江表伝』にある孫晧の直筆の手紙とやらは本物なのかねえ
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 23:18:08 ID:6wNiHOgx0
>>7 名将で間違いないよ。
西陵戦は夷陵や赤壁より凄いと思うよ。
永安を取ろうとして羅憲に撃退されてるのは痛いが
10get!
早く調査結果が知りたいな
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 15:39:56 ID:1OkmiEeA0
董襲って何か扱われ方がマイナーじゃありませんか?
板橋の駐在さんと被るな
溺死だからなあ。
でも主君を守りきって戦死っていうのは、魏だったら典韋とか男の本懐じゃないか?
蒋欽もそんなんだっけ?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 05:18:44 ID:fMQJ5ueO0
船に独り残って壮絶死だろ? 病死や討ち死により美談な気がする。
対魏・蜀戦線より異民族討伐が主任務だからマイナーなんじゃないか
>対魏・蜀戦線より異民族討伐が主任務だからマイナーなんじゃないか
呉はそういう人物が多いね。賀斉やら呂岱やら
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 06:14:31 ID:BQXm4Wq10
江南一の伊達男って孫策?甘寧?賀斉?
甘寧はいい年こいた露出狂
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 16:19:08 ID:Ne2OBOel0
董襲って厳白虎の配下だった時期もあるんだっけ
陳武でかすぎ
あらあらうふふ
でっかい孫呉です
アリシ:(;´゚ω ゚):. アッーーーーーーーー! さん
呉の時代は、江東に野生の象や水牛、
マチカネワニまで生息していたらしいな。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 15:35:27 ID:PHFMuFMZ0
孫権の趣味は虎狩り
孫呉の社長は代々青い目をした虎がやると決まっています
甘寧はザコ
孫策もザコ
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 22:17:54 ID:ZtyCdL9v0
>>28 意外に最近まで生きていた、絶滅動物は多い。
逆に言えば、人間が文明を発達させたこの最近数万年で、
大量絶滅が起きているということだな。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 09:56:26 ID:6z0zdvyJ0
メガテリウム、オオツノジカ、スミロドン(サーベルタイガー)、マンモス
みんな人間に狩られて絶滅したからな
ほっといても絶滅しただろ そいつらは
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 09:19:12 ID:+BfwA/qI0
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 14:04:13 ID:SardWWMq0
>>7-8 そういや今号の三国志マガジンで羅憲の漫画があって陸抗撃退されてた
( ;ハ;)イイハナシアルー
ある本ではたしか、孫皓のことを、「聡明なあまり国の実情と行く先に絶望し、そのため凶行に走った」って感じに書かれていたな
( ^ω^) またまたご冗談を
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 08:58:04 ID:Bf/oj/4n0
「絶望し」と「そのため凶行に」が全く繋がらないのですが。
「絶望した孫皓は自暴自棄になり、あのような凶行を行った」って感じか
迷惑な話だ
呉の武将は山越と戦って出世する
対山越と言えば賀斉
劉備と同盟を結んだ頃の孫権軍団は、山越のせいでグタグタだったらしい
朱治がずっと呉郡の太守だったのも山越対策だったと思ってる
なるほど・・・・
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 14:06:10 ID:3Xx3atfa0
やっぱ赤壁の頃も同時に山越がやばかったのかな?
山越は侵略ではなく、略奪を行うタイプの異民族
明確な頭領がいないため、何度追い払っても沸いてくる
だからヤバイと言うより、慢性的に国力を削ぐ天災と言ったところじゃないかな
ゲームの蝗を思い出した・・・
50get!
呉って微妙な奴か変な奴しかいない
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 03:33:06 ID:qzPfLMuL0
孫権にあまり敬意を払わない人食ったような面白い人物が多い
虞翻とか魏トウとか張昭とか呉範劉惇趙達あたり
払う必要もなかったしな
だがクーデターで途絶えないのが孫呉の面白いところ
>52 だから流刑にされたり機会を見て嫌味を言われたりするんだろ。
張昭はどうにも好きになれん。 まだ紘の方が・・・
孫策が縁のあったのって紘の方なのに、後事を託されたのが昭になったのは
単に近場にいなかったからって事で良いのかな。
まあ紘に託されたとしても昭より早く死んだしなあ
張昭の方が名声が高くて影響力があったからとか?
人脈とか、人格とか、孫権との相性とか、色々考えた結果だと思われ
呉っていうのは一応は孫権をトップとして掲げてはいるけど
実際は皆が孫権を半ばないがしろにして好き勝手やりまくりってのが面白いな
力で豪族を抑えていたからそう見えるだけでしょ
他が漢の威光を利用していたし
ひょっとしたら、かなり絶妙なタイミングで左遷してたのかもな
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 12:30:04 ID:Oe2SMgkc0
北方での「江南には妖怪がいる」と紹介された張昭は凄味があったな
近頃、董襲の風が吹いている気がしてるのは俺だけか?
孫権というのは自由を保障してくれる軽いトップ足らざるを得なかったんだろ。
ある意味では劉備以上にスタートラインで不利。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 04:59:30 ID:nc2dRdyU0
>62 董襲を死なせたような狂風が吹いているという意味か? 禿げ同。
周瑜はあれだけ孫権(呉)に貢献してるのに、なんで諡がないのでしょうか?
忠候でしょ。
たまには陸機についても語らないか?
>>68 魯粛、呂蒙、周瑜ともに正史には諡号の記載は無いよ。
孫権がつけなかったのか、当時から遺漏があったのか、陳寿がのせなかったのか、は謎。
>>69 レスありがとうございます。
wikiには忠候と書かれていたのですが、周瑜伝見ても載ってなかったので
おかしいなぁと思い質問させていただきました。
じゃあwikiの忠候ってどこからきたんだ。
周瑜の墓とか碑って残ってない?
あったらそこに表記でもしてあるのかも
不思議だな
ああ。世の中には分からない事が多いもんだな。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 00:37:53 ID:lhfFK7Pu0
忠侯だろ。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 02:20:50 ID:dUxcHd9KO
またWikiの嘘か
裴注にも見られないし謚号ないんだろ
おいおい
Wikiの三国時代のは迂濶に信じると痛い目見るよ
董承は二人いるとか嘘を堂々と書いてる
まぁ、おいおいで修正するけどね
他にも間違ってたら直してちょ♥
526人分はきついぜw
間違いだらけだもんな
何魏みたいに存在しない名前まであるし
せめて書式書体でも統一されてれば何とかなるんだがなぁ。
周瑜!周瑜!!
魯粛!魯粛!!
呂蒙!呂蒙!!
長沙の木簡の分析まだー?
陸遜!陸遜!
程普や朱然をスルーするおまいらにはほんとにもう。
息子はいい
朱治について語ろう
金持ち班
周瑜
魯粛
陸遜
貧乏班
呂蒙
潘璋
黄蓋
金持ち班
周瑜
魯粛
陸遜
全j
貧乏班
呂蒙
潘璋
黄蓋
周泰
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 19:08:26 ID:qHYUUS0V0
朱家も金持ちだろ
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 21:13:15 ID:sQfGr5rN0
>>81 三国志関連の項目は、中国語版より充実していそうな予感w
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 21:19:25 ID:04VM0WHjO
項目はね…
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 16:34:23 ID:ce87ohKG0
>>55 孫策が死んだ時、張紘は曹操の元に居たから
後事を託しようがないなで100ゲット
張昭に後事を託したのは孫策じゃなくて孫策の母親じゃなかったっけ?
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 17:40:06 ID:wpgDuemV0
孫策は項羽以上の英雄
上のほうで孫権の君主としての不安定さのレスがあるけど
呉の晩年は孫家のやりたい放題だよな
これも孫権の政治力か
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 01:57:01 ID:l3hRI/+n0
家柄や名声だけなら孫一族以上の豪族がいたとして、
実際に孫呉で何が出来たってんだろう。
クーデターを起こすとか、勢力として独立するとか。 どれも非現実的だと思う。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 14:28:22 ID:1S+biBut0
>>104 異民族や身内からもクーデターは相次いでても鎮圧できてるし
ひとつひとつの家は名声やある程度の権力はあっても
孫権のようにそれらをうまく統括できるほどの人物はいなかったって事だね
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 07:40:38 ID:I0l00Lqd0
孔明に泣いて謝れクソども
孔明が三国志名将二十四選に選ばれなくてイライラしてるみたい(笑)
呉は地元の豪族の影響力が強いとうけど、出世にも影響してるのかね。外様はなかなか上の位につけないとか。
大将軍まで登った諸葛謹みたいのもいるけど
歩シツ、呂岱、諸葛恪、滕胤なども高位に就いてる
最近、ようやく正史読んでみようと思って図書館でちくま書房のを
ちびちび読んでいます。とっつきにくいかと思ってたら、おもしろいですね!
孫権のエピソードは笑えるのが多いですね。
張昭との大人気ないケンカには大笑いしてしまいました。
正史の呉は演義での陰湿な姿と違って馬鹿話が多いw
確かに一番ウケるのは呉書だね
俺は呉範や趙達の話しなんかが好きだな
孫権は占い事に興味があったみたいで優れた占いをする人に教えてくれって言うんだけど
教えると重用してくれなくなるのを恐れて誰も死ぬまで教えてくれなかったw
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 20:37:22 ID:1NWM4wYY0
呉書見聞テラオモシロス
面白い話はけっこうあるが個人的に朱桓のDQNっぷりに笑ってしまうw
>112 誰か一人にでも占いの秘訣を教えて貰ってたら
わざわざ聞いて回るわけ無いじゃない。
>>114 アレはなんつうか……高機能障害っぽいな。
朱桓は人の下風にたつのを嫌うとか書いてるしなんか激しい性格だったみたいですね
朱桓が孫権の任命した指揮官である胡綜を殺したのに不問にした辺りは
才能ある人だったので惜しんだんだろうけど胡綜の親族とはトラブルはなかったんだろうかね
>>117 あの一件で非が有るのは明らかに全ソウなんで、遺族が朱桓を…は無いと思う。
全ソウが胡綜に責任転嫁したため朱桓は胡綜をぬっ殺そうとしたが
実際に殺されたのは胡綜じゃなくて下役人か何かだったはず
そして気が狂ったと称して帰宅する朱桓。こんな上司嫌だw でも部下には慕われてたんだよな
>>119 すみません 勘違いしてました
確かめてみたら確かに全ソウの側近や副官を殺したとありました
部下や親族など自分に近い目下の者は大事にしたという辺りは関羽なんかとカブりますね
神経質な性格の持ち主だったんでしょうかね
>>119 全ソウは都督として朱桓らを率いたが、期待通りの戦果を挙げられなかった。
処分される事を恐れた全ソウは、巻き返しを図り、不意打ち作戦を練り始める。
(当然、孫権からこんな命令は出されて無い)
朱桓は、元々気位が高く、指図を受けるのが嫌い。
その上、作戦も気に入らないのでやがて言い争いになる。
全ソウ、苦し紛れに「この方策をゴリ押ししてるのは参軍の胡綜なんだ」と責任転嫁。
朱桓、自陣に胡綜を呼びつけ、自ら剣を取ってぬっ殺そうとする。
しかし、兵士で包囲してたわけでは無いんで、逃げられる。
結果、胡綜の側近を斬殺。一連の行為を糾弾した側近も斬殺。気が狂ったと故郷に帰った。
こういう流れだよな。しかしこれ、朱桓の正確云々以前に全ソウの行動が…
これ、参軍の胡綜に責任転嫁したのがミソなんだよな。
元々、胡綜は、この戦役において全ソウの参謀兼監軍として、孫権の肝いりで従軍していた。
つまり、全ソウの「胡綜の進言なのだ」は、朱桓に対して「これは上意なのだ」と使われた訳だ。
しかし、従軍している士官級は、「奇襲なんて予定に無かった」ってのは皆理解している。
というかそれ以前に、
大規模侵攻で既に敗れて後に、ゲリラ戦挑んで小利を得ようってのがそもオカシイ。
まともな思考能力が有るなら「上司の尻拭いに余計な戦を一つやる」というのはすぐ理解できる。
だから、朱桓が胡綜をぬっ殺そうとしてたのも
胡綜は、お上の威光をタテに、お上の軍を使って、自分達の尻拭いに利用する、悪臣である。
と、全ソウの言から考えた事が伺われる。
現に、朱桓の暗殺は、「他の誰の手も借りず、自ら手を下す」形で計画されていた。
これはつまり、お上の臣に手を付けたら、ただでは済まない」と理解していたからだと思われる。
殺した後で狂気を騙ったのは、責任逃れの為ではなく、組織的な暗殺ではなかった事の証明と、
胡綜が無実であり、暗殺に失敗した以上、
自分の正当性を主張するのは、孫権の威光に傷をつけることを理解していたからだと思われる。
朱桓は自分の兵の顔や出身を全て覚えていた。死んだ副官の遺族も手厚く保護されただろう。
これだけの事でそこまで推測できるみんなスゲーな
叩かれる要素十分だな全ソウw
全ソウは後継者問題で陸遜とも揉めてるし、孫魯班の暴走にも加担してるしな。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 12:51:04 ID:xOb+fWBfO
全ソウのソウの字は簡単なくせに何故か変換出来ないしな
ソウはたしか【王宗】だよね
読めるかな?→j
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 21:40:44 ID:nIEoDFp50
全j
携帯電話からはどうだろうか?
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 05:17:46 ID:0Y2xMtm60
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 20:16:12 ID:UZDqPXGk0
孟宗
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 22:46:15 ID:f6JNL2b00
でも全j 王凌戦以外は中々の戦績
全jの能力が優秀であることは疑わざるところである。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 10:26:10 ID:NrHngCRi0
歩蘭の評価はどうですか?
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 19:18:26 ID:NtftDoGJ0
叔母さんが孫権最愛の愛人
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 22:02:54 ID:74/mUKlb0
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 16:56:17 ID:3crNiJp4O
本人評価してやれよーw
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 19:58:50 ID:bLyGOEpK0
>>136 歩蘭なんて人、全く知りません。
歩闡なら知ってるけど。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 19:14:34 ID:ooTmsieH0
歩一族も
呉のおかげで発展したんだが…
最後は自業自得か
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 00:49:55 ID:Jp/TlktW0
せっかく投降してくれた歩闡も即座に陸抗に討ち取られた事は
魏軍を少しは落胆させたんだろうか?
そもそも歩シツのころからおもっくそハンシュンに目を付けられまくってるしなぁ。
>>142 歩闡が討ち取られると撤退した訳だし、大いにガッカリだったのでは。
呉がメイン、もしくわ呉好きでも楽しめる小説ってありますか?本来は質問スレで質問しなきゃいけないのはわかってるんですが、呉に詳しい・呉が好きな人の視点でのレスが欲しかったので敢えて質問させて頂きました。ごめんなさい。
>>145 ハードカバーで大人買いしてしまったorz
ご愁傷様です
自分もつい先日文庫古本だけど10冊セットで買ったばかりorz
もっと皆正直に言おうぜ。他の犠牲者を出さないために…
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 01:40:01 ID:5YZjLQHH0
呉におけるそれぞれの都市の様子、人口などが気にかかる。
南方は開発が遅れていたけど、都市の発達状況はどんな感じだったのか。
晋書の地理志が参考になるな。 三國志にはないし。
晋書の記載だと州レベルで最高が司州(洛陽周辺?)が48万
中原は細かく州に分かれてる上に司隷単体だけで48万。
これに肥沃な華北がさらに加算される。
呉は揚州になるのかな。31万。だが北岸以上は領土じゃないから揚州
としてはもっと引いて考えるべきかも。
益州は14万。荊州35万。
蜀が200%勝てない理由は明白だな。 徐州と青洲足したのと変わらん。
交州は2万なんだけどこれは人口把握ができてないんだろう。
南北が完全に逆転するのは明あたりまで待たないといけない。
実際それ以前は、南から北伐はほとんど失敗or1時奪取 即効維持不能に
なっているし南側もそれが分かってる。
事実上、中原が乱れようが国力的には呉が魏なり秦なり前趙なりを打倒
できる可能性は0だと言うしかない。 あと何百年も永続すれば勝てる・・・
そこまで差があると、もう魏にしてみれば蜀なんて辺境軍閥って程度やね
蟻と象って比較も大袈裟じゃないのかも
ここでも主役は魏と蜀か
結局、呉の相手の隙を見て攻撃が一番有効じゃん
つーか一時攻撃しても人さらいしても、向こうが圧倒的に強いのでトータル
損失ペイオフできんから、結局戦うだけ無駄だな。
ベトナム方面か山越を完璧に抑えたほうがいいんじゃないのかな。
捨て身の攻撃とかしなかった孫権は、攻めろって言っても俺ら無理だろって
そこら辺わかってたんだろう。
開発が華北に勝つまでは保守こそ南朝政権の最強体制。 北欧でも騎射
は最強だったが、海じゃ騎射できんからな。
南側は守備サイドだと、相手が強かろうが異民族だろうが大勝可能。
攻めると国内突き上げとかで結局弱体化する。
その孫権シフトって結局近代戦が確立するまで誰も打破できなかったんだよな…
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 13:22:53 ID:DrHwS8Ub0
呉に外征に長けた将軍っていなかったの?
>>155 >ベトナム方面
そこで呂岱はもっと評価されていい人物と思う。
外征の成果があんまないからなぁ。
しかし攻めるにしても合肥方面にこだわった理由はなんだろう。
後の時代の北vs南でも、ほとんど、赤壁ルート、合肥ルートの2点に
限定されている。なぜかは分からんが地形的に理由があるんだろう。
つまりこの2点さえ抜かれなければ、どんなに横に距離があろうと防衛線
に必要な兵力は2点ピンポイントに絞る事が出来る。
がこれは守る側であって攻めあがるには、魏や呉が存在してた時代の西晋
の国力差からしてここから北伐成功はほぼ無理だろう。
北へ攻めるなら、成功例のある荊州からのほうがいいと思うんだけど
(呉も攻めて失敗してるが)
その場合襄陽を取ってそこが南側の今後の防衛拠点になるんだが守りにくい
上取られたら、一気になし崩しパターンになるので避けたんだろうか。
国力差から勝つためには呉側は、多大な消耗を掛けて戦う必要がある
敗戦は滅亡につながり兼ねないし、結局 無理だな。
引きこもり戦略しかない。
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 09:18:06 ID:CnSPSLAq0
蜀は諸葛亮の南征、とりわけ孟獲の逸話が有名すぎるほどだけど、
呉の方の辺境部の平定過程は華々しくないこともあって、
あまり知られていないな。
>>159 合肥は建業にとって喉元に突きつけられた匕首のようなモン。
長江にいたる大きな支流を付近に持つ大都市の中では最も東端に有ったから。
もし、魏側が合肥を失えば、海から建業を攻めねばならず、江南進出は事実上不可能となる。
逆に言えば合肥さえ確保すれば、呉は江南の主力を全て外征に向けることも可能だった。
>>161 付け加えると、合肥を失うと魏は徐、豫州二州の防衛を合肥という「点」ではなく
州規模の「面」での防衛を強いられるようになり負担が激増する。
一方、呉は合肥−濡須−建業とのラインが確保されより一層、防衛が厚くなり安定する。
建業(後の建康)って、後の南北朝時代を見ても思うけど、
北を長江によって守られた要衝とは言え、
長江の北側を制されたら、目の前まで脅威が迫ってしまうんだよね。
支配者育成にはいいんでないかい
緊張感ありそうだし
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 22:44:30 ID:2DheI2J10
>>163 実際、建康(金陵、南京)って直接攻められると、かなり陥落しているんだよね。
侯景の乱とか、隋の陳征伐とか、太平天国の乱とか……
南宋もその辺を考慮して、杭州に都を置いたわけだし。
南京てヤバイほど隣接してるな。それだけ揚子江がでかいんだろう
が・・
合肥は揚子江〜歩いて北上〜巣湖〜歩いて北上みたいな
位置だけど、ここが大軍でも落とせなかった(合肥新城以前程度)理由
はなんだろう。 地形的に陸戦で敵地に入るから? 現地着くまでに
時間稼がれるからなんだろうか。 孫権が下手糞というのはそうだけどさ。
孫権どういうルートで攻めたんだろ。 上の巣湖へ向かっていったのか、
直接健康から北上してワイ南の東から攻めたのか。
合肥つってもかなり広いな。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 23:57:51 ID:/zeWZZPi0
王城の地とか言われるわりには、防衛面で意外と脆弱なんだよね、南京。
鄭成功の軍の撃退なんかには成功したけど。
ちなみに日本軍も南京城を攻略した実績があるw
鄭成功撃退に関しては、鄭成功が人道主義者の阿呆の子だったので…
甘輝の進言を聞き入れてセオリー通りに攻撃してたら落ちていた。
やはり南京は防衛面で脆弱。
防衛面で弱い首都ならそりゃ以北カバーしないと厳しいな。
そういえば魯粛が巣湖に勢力をもつ鄭某を、劉曄のコネで仕官勧められた
が周瑜が〜〜てあるけどこの鄭某て何者?
曹操に仕官せぇじゃなくて、鄭某を推薦したのが少し不思議だ。
孫権が立ったばかりの頃のあの辺てどういう勢力状況なんだろ。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 14:52:55 ID:qYAkY5y60
一応、長江があるから、それによって必ずしも防衛面が脆弱なわけじゃないと思う。
ただ、敵軍の長江渡航を阻止するのが前提なわけで、
一度渡られてしまうと、後はかなり脆い。
特に東晋建国時の金陵ってろくな城壁がなかったらしいし、
呉の時代だって城壁はかなりお粗末なものだったんじゃないの?
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 23:45:48 ID:ya+PITE50
蜀って盆地だから、結構小ぢんまりとまとまった感じがするんだけど、
呉は、揚州から荊州まで、領土がかなり広い範囲にまたがっている感じがするね。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 15:40:05 ID:0+gbwaSr0
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 23:43:25 ID:XyPvIR/P0
長江の水軍の話はよく聞くけど、
海上での水軍の活動はどうだったんだろうか?
海戦の必要がないからほとんどないんじゃない
一応遼東に船団送ってるから全くないわけでもなさそうだけど
呉の勇将(卑賤、寒門系)て2代目はほんと重用されないな。
甘寧(普通くらいの寒門?息子は武将らしいが特記事項なし)
周泰(卑賤、周平だっけ?特記事項なし)
黄蓋(よくわからんが寒門叩きあげだろう、2代目名前忘れたが特記なし)
程普(よくわからんが高いはずはない。筆頭武官にして2代目特記事項なし)
陳武(例外的に2代目がそれなりに)
潘璋(卑賤、寒門出自のはず。2代目は不明。兵士には親父の恨みを引き継ぎ
さぞ恨まれただろう)
呂蒙(卑賤。息子はいるがそれだけしか不明)
蒋欽(↑に同じ)
韓当(韓綜が亡命という珍事に)
俺が彼らの息子世代の武官だったらすげー将来不安なんだが。
がんばって成り上がっても家が栄える保障0みたいじゃん。まったく
1代で功績立てれば呉の武の家柄として重用する気配なし。
寒門から家として重用されるには外戚はいるか、出自で県令出身とか
それなりでも豪族とかじゃないとダメって感じがする。
豪族抑制のために、孫呉オリジナル武家みたいなの作るってのはダメ
なんだろうか・・ 反感買うのかな・・
少なくとも↑の連中みたいなのが新世代で育つ環境とは言えないんじゃない
か・・
>>175 凌統が2代目じゃね?ちょっと世代がずれるけど。さほど良い家でもなさそう
その息子は孫権に育てられたのに重用されてないけど
呉に限らずほとんどの場合2代目は1代目を超えてないと思う
苦労する時代には才能があれば身分を越えて出世しやすいとか、苦労した奴は強いってことかと
重用されたされてない、というより、記述が無いだけでは?
タイシジの息子のタイシキョウは呉郡を治めていたけど
史書じゃ影が薄い
凌統の場合、親父の凌操も激動の時代で先鋒を務めたぐらい
活躍していたから、もうちっと詳しく書かれても?と思うが
息子の方が孫権がらみで活躍したからそっち重視なのかなという
ちと気になったのが、呉の二代目って罪を犯して失脚してる奴多くないか
豪族達が手をまわしたとかありそうだな
ちょっと昼ドラだが
>>175 甘寧の家は秦の丞相、甘茂の子孫で、甘寧の子である甘述が尚書。
述の子、昌が太子太傅。
と晋書の甘卓伝にある。ちなみに甘卓は甘寧の曾孫。
179 :
175:2007/09/25(火) 03:02:51 ID:lgu0he5g0
へ〜若い頃の俺様甘寧が役人やってたからそれなりの家かなと思って
たけどそうなんだ〜 晋で地位についた呉出身者は顧とか賀とか豪族
が多いと思ってたけど甘寧の子孫もがんばっていたんだ。
何気に勝ち組だな甘寧。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/25(火) 13:09:39 ID:tuOkLu8y0
戦いなどがあるので、ある程度実力主義的な人材登用は仕方ないものの、
基本的に豪族の連合体政権としての基本は揺るがせない。
>>175 程咨、黄柄は親父の功績で爵位与えられてる。
韓綜の無法も、孫権自身は親父の功績に免じてとがめなかった。
韓綜が勝手に疑心暗鬼で寝返り。
蒋壱は、短い期間だが、軍を率いて活躍。
周ショウも、記述はわずかだが、戦功をあげ出世してる。
陳表の記述量は父親以上。裴松之に父をしのぐと評される。
董襲は、子は不明なれど、遺族に手厚い援助。
徐蓋は爵位を継ぎ、軍を預かってる。
ほとんどが、功臣の子として優遇されてると思うけどなあ。
そっからさらに頭角をあらわすかは実力しだいじゃない。
陳表みたいな実例もあるんだし。
「家が栄える保障0」とか「武の家柄として重用する気配なし」
なんてようにはとてもみえないのだが。
武臣の子の記述がたいしてないなんて、魏書や蜀書でもざらだし。
何も呉に限ったことじゃない。
逆に呉以外でも、初代が武で頭角を現して、二代目以降も栄えた家系とかってあるかね。
基本的に元からお偉方の話だからな
ところで武限定なのか?
劉馥の一族は、劉靖、劉弘と武門において超優秀だったな。
また、王昶→王渾→王済の太原王氏も栄えた。
文欽、文鴦親子も2代で絶えたとはいえ欠かせざる所だろう。
蜀は入蜀後、悲惨なまでに軍人が育っておらんね。
霍峻・霍弋と、羅憲・羅尚親子くらいじゃないだろうか。
>>177の
> ちと気になったのが、呉の二代目って罪を犯して失脚してる奴多くないか
> 豪族達が手をまわしたとかありそうだな
が気になる。豪族か宦官か。いずれにしても興味深い
そもそも、呉は呂壱の一件や、二宮事件あたりから、
ずっと内部での激しい政争が絶えないから、
必然的に二代目世代がそれに巻き込まれてしまう。
宗室からして、その世代はかなり酷い有様だから。
一代目が寒門だった二代目なんかは
バックボーンが弱いから叩き易い
自陣営につけても余り旨味が無いだろう。
むしろ、建国に貢献したそのような一族は
それらの経歴からして古くからの豪族達を脅かす
新派になる可能性があるから、さっさと潰しておく方が良いよ。
そういう連中は、陸氏とツルんでおくとかそういう展開が必要なのかな
やっぱ。
スレ関係ないけど羅尚は、将軍としては割りとヤるのかもしれんけど
出来のいい子孫とは個人的には言えん気がするな。
羅憲に比較するとだけど。
>>187 で、寒門出身の功臣の二代目が、
そんな感じで実際に豪族たちから目をつけられ、潰された実例、
呉に限らなくてもいいから、三国時代にどれくらいあるの?
呉の場合でも、俺は
>>181で個々の例を挙げて
>>175に反論したが、
基本的に功臣の子として優遇されてるように思えるが。
そして、バックボーンが弱い故に、過ぎた地位に上ることも少なく、
むしろ、そうした政争に巻き込まれるケースが少ないようにさえ思える。
親父の最終職歴、潘璋(右将軍?) 周泰(奮威?) 程普(盪寇?)
韓当(虎威)、黄蓋(なんと偏将軍か?) 呂蒙(横野?呉オリジナルか?)
と見ると潘璋、呂蒙(?)>程普、周泰>韓当>黄蓋
という感じかな。死亡時期が影響するので一概には評価は出来んけど、
親父の官位自体はそんなに高くないと言える(孫権自体が昔ほどショボイ
官位なので)
孫権の官位と相対評価そればみなそれなりに優遇されていたと言えると
思う(韓当黄蓋はちょっと・・)
ただ息子連中が優遇されたとは言えんと思うな。手当てが厚いとか
優遇とは言えん。むしろ孫権が何もしないほうが問題だ。
程普、黄蓋の息子の爵位が親父を引き継いだ程度のものなら、低い
爵位になる。 軍を率いたのが優遇と直結するのか?
具体的な記述が少ない事がすでに物語っていると思うけど。
基本的に、晋まで重きを成した顧、賀、虞、諸葛(?)、陸とかと比べると
かなり差があるね。
吾粲とか見てると出る杭は打たれるつーかそういう空気がありそうw
他国ではどうなわけ?
例えば張飛はどう考えても高い身分とは思えんが、
れっきとした蜀の外戚だし。
>>190 死亡時期が全然違う者を、最終的な官職を基準に
不等号で序列しても、なんの意味も無いと思うが。
むしろ誤ったイメージを植え付けるだけ。
あと、漢制の序列は、九品官人法の序列とイコールじゃないからね。
黄蓋の扱いが悪いというのなら、黄蓋死亡時の孫権の地位と
他の主な武官の地位で比較すべき。
本題に戻ると、
>>190は「優遇」という言葉に過剰に反応してるね。
中央で大臣クラスや外戚として権勢を振るったり、地方で一方面の司令官となる
くらいの出世をしなければ、優遇と認めないというなら、その言葉は撤回するわ。
だが、寒門出身の武官の功臣の子としては、まあ普通の扱いなんじゃない。
父の功績を認められ、それなりの地位や処遇が与えられてるわけだから。
それを、優遇ととるか、認めないかはおいといて、
>>175や
>>187が主張するように、特別目の仇にされたり虐げ抑圧された印象は受けないのだが。
>>189で具体的なケースの提示をお願いしたが、
まだ一例も出されていないし。
>>192の指摘も含め、もう少し説得力のある実例をもとに話を進めてもらわないと
自分の印象と思い込みだけで決めつけてるように思える。
三国演義の第八十五回(劉備崩御のくだり)を
読んでみたら、朱桓の年齢が数えの二十七と
なっていました。
彼、実際には数えの四十六だったはずなのに
……十九歳も若く設定されてるんですね(@_@)
元々の記述が少ないのだから、他の時代ではどうなのか、情報が入手しやすい現代ではどうなのか
を調べて自論を立てる
人なんて、いつの時代でも同じ様なことやっとるからな
あまり関係ないが・・・こいつの世渡りは今の所成功しとる
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AA%A0 福田支持のくせに麻生をボンボン扱いして国政は任せられない、なんてボケた発言は
歴史に残らないんだろうな・・・orz
建国の功臣達は粛清されるのがよくあることだったから、自分でさっさと辞めた人もいた
名前ど忘れしたけど賢い選択だと賞賛されてたはず??
統治者が疑心暗鬼になる、周囲の豪族がうるさい、本人が調子に乗る、他国が息をかけてくるなど理由は様々
お国の為にと叫ぶ者と、地元でどのように家を繁栄させ権力を拡大していくかを重視する者。
統治者は○家のみと誓う者と、自分を重用してくれる人がいい者。
前者と後者、どちらを優遇すれば、国がまとまるだろうか。
政治は国興しの外向勢力より、地元の豪族などの定着した内向勢力に任せておいた方が、国内が纏まり、各々の指針となりやすい。例:公明党の集票力(怖)特例:町内だけ任せたい共産党
豪族らを重用しなかったら、国内の結束は弱まり、余力のある潜在的な敵を作ることになる
つまり小沢一郎のような売国奴ですな、本当の敵は国内にいるわけで
だから各国の統治者が豪族マンセー、成り上がり者共の子孫は突出した才能以外スルー、なのもしょうがない事(陳表などは二代目だからではなく、個の才能によるものだろう)
孫権は上手い事やってたと思う、途中までは・・・
歴史書に残ってる人は大体数多ある家臣達の中の数人だから、優遇、冷遇の判断材料になりうるかは疑問ですな、重要人物なのに書き忘れられてる人もいるから困る
二代目に兵を返し名誉を与えるのは体裁を整える行為
でないと他の才能ある成り上がり者共がやる気を失う
パフォーマンスの一種かつ、忠誠を確保して置く為でもあったのだろう
素直に父親の功績を認めているってのもあるだろう
だがあまりやり過ぎると周囲が面白くないのも事実
古い風と新しい風は交わり難い
ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9 >>191 張飛の身分が高くないとか・・・、その自論に達した理由を教えてくれ
>>194 演義じゃ何回も死んでる奴がおるし
なにが論点なのかわからんけどw
歴史って意味なら三国の魏呉蜀は多かれ少なかれ後漢の後だし、
豪族(貴族)は六朝から隋、唐まで幅を利かせてたけど宋以降は豪族の
権力事情は全く変わるぞ。
豪族らを重用しなかったら、国内の結束は弱まり、余力のある潜在的な敵を作ることになる
これが適用できる時代は限られるよ。
むしろ豪族政権の光武帝でさえ、豪族を国内の結束と潜在的な〜とは
まったく逆の発想で扱っていたんだけど・・
丁奉の死後、讒言され一族が冷遇されたのは謀略に参加した事によって
位人臣を極めたからだったのかな?
丁奉伝に、位が高まるにつれ、功績を傘にきて横暴なふるまいをするようになった。
これを憎まれて…とはっきり書いてあるやん
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 23:15:15 ID:Gp9DIfoL0
江東あたりの辺境でも、県にそれなりの城壁はあったのかな?
光武帝は豪族フル活用してたと思うが
(己の敵にまわったり、治安を乱す奴は罰せられて当然)
宋以降はもう時代の流れとしか言いようがなくね
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 19:35:07 ID:ADpq5SxZ0
>>199 城壁ないと山越に好き放題に荒らされまくるぞ
中原でも小さな県城とかの場合、城壁は石積みではなく土を盛ったものが結構あったようだし、
湿気の多い江南の水郷地帯の場合、城壁よりも堀を巡らした方が効果的なのでは?
なんか中国の歴史映画見たとき(時代は明くらい?)、少数で篭城するぜ!
ってなってたんだけどすんごい城壁が頼りなかったなw
乾燥した土って感じで高さは3mくらいかな・・軽く登れます。
実際は小城はあんなもんなのかな〜と思ってみてたw
でも篭城戦て嫌だよなぁ〜・・・俺味方情報土産に即脱走するね。
あ・・あと蜀の剣閣見たけどあれはヤバイね!すげぇトコに作ってる。
映画の城は平地だったけど中国の城って平地のほうが防御に向いてるのかな?
視界がいいし俺みたいな脱走兵は即射殺できるし。
剣閣はすごい要害のオーラ出てたけど両側の山から奇襲とかされそうだし
木や岩が多くて視界が悪そうだったよ。敵兵が隠れて近づきやすいというか。
>>203-204 その映画ってヘブン・アンド・アースか MUSA-武士- かなんかかな?
>俺みたいな脱走兵は即射殺できるし
wwwwwwww
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 15:24:00 ID:KADQfKxI0
小喬役は美人に限りますな
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 22:04:52 ID:JG3fIDTo0
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 22:05:50 ID:JG3fIDTo0
ちなみに11月頃に撮影に入る予定らしいドラマ三国演義の方は、
衣装設計を見るに、かなり派手なものになりそうだけどw
>>203-204 当時の城壁は粘土を押し固めただけの代物だしね。
また、元々村や町を囲うようにして出来ているのが向こうの城だから、
当然のように防御よりも居住性を重視している。
剣閣も、三国志当時のものと現在のものでは外観も、恐らくは場所すらも違うと思う。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 18:33:19 ID:yWQc5pFBO
呉って豪族の力の強い、豪族連合政権みたいな言い方をされることもあるけど、ホントなの?
そんなに力を持ってる豪族もいない気がするんだが…
私兵やら部曲を世襲させるのは呉楚の慣習としてもあったのかも知れないけど、
豪族の力が君主にせまっていたとも思えない…
寒門出身者、華北出身者も権力の中枢に食い込んでるし、
本当に豪族がそんなにハバをきかせていたんだろうか
呉の豪族せいぜい田舎の地主程度だが孫家がそれ以下の貧民だったってだけ
孫家と諸葛亮は朝鮮人説があったな
実際は演義みたいにその土地を治めている人間がすべてを牛耳ってた訳じゃなくて
豪族と利益を分けあって統治してたんだけど
受け継いだ当時の孫権は兄や父のように勢いがあった訳でも
名声があった訳でもないし地位も低かったから
なんとかうまくまわせるように地元の名士などに気をつかってたんだと思う
それとひとつひとつの豪族はさすがに孫権の軍閥に敵わなかっただろうけど
すべての豪族を敵に回して運営できるほど財力も軍事力もなかったしね
まあこれはどの地域でもいえることだろうけど
揚州あたりは名目上孫権のものだったけど配下は好き勝手やるし
反乱は起こるし、いろいろ腐心してる孫権の姿を想像したら泣ける
歩シツなんかは、募兵するのを警戒されたり、
二宮の変では孫覇方について裴松之に貶されたり、
なんか勝手に豪族あがりかと思ってたけど、
徐州から疎開してきた貧民(苦学生?)なんだよね?
とすると、呉では地域地域で豪族の力が強かった…
…それは政権中枢に豪族が食い込んできていたということではない。
そういうことなのか?
呉は三国の中で皇帝(一族含む)が一番好き放題してる気がする。
そして大体国政が悪化していくが…
あえて孫堅から数えると
初代:世紀末覇者
次代:花火のような男
三代:アル中
四代:幼帝
五代:文字狂い
六代:血の気の多い若帝
すげぇなwww
>211 でも版築ってけっこう固くなるんだぞ。それが現代まで残ってるわけだし
>217 歩隲は外戚(正確な言い方じゃないか)でもあったからな。出世に影響したと見るのが良いか
孫権期序盤以降は俺は言うほど(宋までは貴族荘園豪族がある程度力が
あるのは当然として)、豪族が孫の財力や軍事力を押してるとは思えないな
ぁ。
出世に近いという意味では出自と押し出しが異常に重要なこの時代
を考えればそれ以外に比べ有利なのは当然なので人数比としてはそう
なるし・・
中盤以降はむしろ孫権は自分の意思で動いてる感じだし豪族のご機嫌伺い
もあまり考えてないような感じ。国政に甚大な影響力てのは無くて、
案外孫権期、呉て君主権あったんじゃないの。
豪族の援助が必要だった完全開拓期堅策の時がピークって感じで。
中原の方向が貴族中心にシフトしてる中で孫呉時代って比較するとそういう
空気薄そうだし・・
>>221 >>211の「当時の城壁は粘土を押し固めただけの代物」は、
>>203の「乾燥した土って感じ」に対応してる。
しかし、保存しなくとも漢やそれ以前の時代の(長城)が残ってるぐらいだから凄いもんだよね。
気候的な部分も大きいが、日本だとあってもすぐ農地や宅地で潰されるからなぁ。
市長が花見がしたいって理由だけで貴重な遺跡潰すぐらいだし。
>>222 魏に臣従して高い官位貰った以降は土着豪族に気兼ねなく行動できたろうね。
この時代、戦の時の指揮官ってどの位置にいたんだろ
まあ先陣切って敵にぶつかるような事はあんまりなかっただろうけど
軍の中枢にいて指令してたのかな?それともやっぱ後方だったのかな
個人武勇よりもそういう統率力がある軍人がいい軍人ってされたのだろうか
大将は中軍にいるのが普通だろうから先頭にはいないんじゃないかな。
春秋戦国あたりは戦闘中に王が補足されそうになったりしてるし、前線
で戦う意味はあったぽいね。戦争がまだいろんな意味で穏やかて部分も
あったからかもしれんけど。
後漢くらいまでは先頭に立って個人武勇を見せる指揮官の影響力は軍の
強さにかなり影響したみたいだな。
時代が進むとそういう風は少なくなるね。三国時代はまだその名残が
残りつつ晋に近づくにつれ少なくなってそう。
杜預みたいな個人武勇は0だが指揮能力型へシフトみたいな。
国運かけた大戦とかは後の時代でも先鋒を君主がやることはないにしろ
総司令官として出撃はする。たまに捕まったり殺されてるけど。
夏侯淵は曹操にあんまり前に出るなって言われてるから
普通はそういう事はしないモンだったんだろうとは想像できるね
ただ指揮する人間に煽られても頼りない将軍だったら
兵士たちが率先して戦いに行ったのかどうかは疑問
その人のタイプにもよるだろうけど序盤などはある程度は
実際に戦闘に参加してたんじゃないかなって想像したりもする
>>219 そういうのは悪いほうで特徴的なところを言ってるんだから当たり前。
同じようなことを魏でも蜀でもできるぞ。
この時期の江南の経済力て具体的にどんなもんだったんだろ。
隋唐あたりになると華北を上回るけど。
元が江南の塩、茶の専売で多大な利益だしてたことから江南は有数の生産地
だったんだろう。生活に利用目的が多いAlK(SO4)2も華南が産地らしいし。
塩は昔から重要な意味を持ってるからこれの生産力が高い呉て想像以上に
経済力あったのかな。呉の経済農業政策てよくわからん。
経済力=食える人数だから人口も増えるはずだが極端には増えてない事から
やはり原住民と争いつつまだ発展途上て感じなんかな。
南宋みたいに農業政策重視すれば呉の場合かなり違った結果になってた
気がする。
>>227 魏や蜀の皇帝と比べてどうなんて書いてないだろ
頭ワルスw
>>228 孫権が曹叡次代に魏と貿易してる記述を見るに、宝石はよく出たようだね。
農業に関しては、この時代ではまだ人口比率以上の効率は技術的に出せないかと。
>>231 でも、その呉が送ってる宝石珍品の類は、江南産というより
南海交易で入手したものの可能性が高いんだよね。
>>232 翡翠なんかはまさにそうだろうね。
何と交換したのかが確認できなくてイマイチアレだけれども。
江南っていうと各種果物が名産な印象がある。
キウイとかも揚子江が原産地だったっけな
このスレためになるなぁ
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 00:46:26 ID:JFuVftpA0
江南は前漢の呉王劉ビの頃から経済力あるな
ローマ皇帝安敦(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者も江南経由で来たな
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 01:19:31 ID:CRA/j1Bu0
>>234 キウイフルーツは、長江流域に生えていたシナサルナシの実を、
ニュージーランドへ持って行って品種改良したもの。
日本の山野にもサルナシは生えているけど、
ほぼキウイフルーツを小さくしたような実ができるよ。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 01:24:03 ID:CRA/j1Bu0
>>236 海の道も、基本的には絹が目当てで中国に来ていたようだね。
その王安敦は、ローマの使者を騙った商人だったんじゃないかという説もあるけど。
ローマはこの時期、インドの港町に商館を置いたりしていたらしい。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 16:22:09 ID:Mq2fqsz00
呉の経済において、絹の生産はどれほどの位置を占めていたんだろうか?
呉はまだまだ未開発の地域が多かったから、
本来は経済の中心となるべき農業生産力はそれほどでもなかったように思う。
逆に、南海との交易などの比重が大きかったんじゃなかろうか?
南海って貿易によってとても栄えてたかのように書かれてあるけど
僻地で人口も少なかったのに本当にそんなにも栄えてたのかな?
僻地にある貿易港で、その周辺だけが妙に栄えるというようなのはそれなりに例があるべ。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:11:32 ID:jZI+Cte+0
この地方にあった越国は、貝が通貨の代わりに使われていた春秋時代に、
台湾、沖縄あたりで採れる貝を中原へ輸出していたみたい。
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:39:49 ID:iOzGnUMi0
絹は元来中原華北が主流だったみたいだね。後になって絹のような
経済農業と米等がイーブンになるような指針が作られてるし。
思うにこの時代の呉にとって絹はそれほど盛んな産業ではない気がする。
どうやら、戦国、漢代の江南は焼畑的な方法だったらしくいわゆる
後期発達した水田農業じゃなかったので生産力が急激に伸びるというのが
なかったのかも。
中国は農業技術についてはほかの文明圏に比べて進歩が遅い。
なぜか南宋元あたりまで王朝首脳部もそれほど農業開発にほかの文化圏
と比べて意欲的な気がしない・・・
江南は土地が元から肥沃なので工夫しなくても作物はできるので進歩が
なかったと俺は思うんだけどw
南海は人口が少ないわけじゃないと思うぜ!晋書でたしか戸籍が2万ほど
しかなかったけどこれは明らかに掌握できていないからだろう・・
実際、官戸に入っていない人間の比率がかなり高いためそれなりの人口
と経済力は持ってたと思うなぁ。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 10:20:36 ID:O4b7cx8H0
長江より南って、今でもかなりの少数民族が暮らしているんだし、
当時は、呉の支配が及ばない異民族がかなりの数跋扈していたんじゃないかな。
自治区のような区域が点在していただろうし。
山越狩りの負担が無くなれば魏ともっといい勝負ができると
呉の誰かが言ってたな
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 12:45:40 ID:pFecfrrh0
「呉越同舟」の諺通り
呉と山越は共存は無理だったのかな?
呉にとって山越との関係は戦国の呉越みたいなライバル関係じゃなかったはず
山越狩りは凄惨だったらしいし、人の姿した猿ぐらいにしか思ってなかったんじゃないか
共存は無理というかハナから頭に無かったのでは
北方三国志では周瑜のスパイが山越族の女だったが
本当はそんなのありえないんだろうな
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 14:20:49 ID:YvVnMLzZ0
春秋時代の越国人たちは、ほとんど漢族に同化し、
同化せずに残った者たちが山越?
当時の山越っていうのは要するにまとまりがないゲリラ隊みたいなもの?
呉から南のほうの山岳地帯にちらばってる不服従民族たちのことを総じて呼んでただけだよね?
山越に限らず華北はおろか中原にも独立した山越のような民族てのは存在した。
四川、江南中原華北近い民族系統なので錯覚するがとにかく中国は広大な土地。
スラブ系民族とアングロサクソンら多様な人種が存在しててもいいくらいの広さだ。
広さという意味ではたとえれば戦国の趙と韓でまったく違う民族系統言語系統
でも不思議ではない。
山越のような土着の民族から見れば、江南と呉人などは外人のような感覚
だろう。その逆もそうで。"中国の中にすんでる同じ中国人"という感覚
では見ないほうがいいのかもしれん。
言語だって江南と華北は通じなかったしね。
民族系統という意味ではタイ系に近いのかもしれない。
そういうベースが違うので漢民族は彼らから見た異民族というのに
非常に手こずるし互いに協調しにくい。
山越って呉の連中と言葉通じないの?
鎮圧したあと山越の捕虜を自軍に組み込んだりしなかったんだろうか?
教えてチャンでスマソ
今でも中国では北京語と広東語は全然違うし、
言葉が通じなくてもコミュニケーションの手段はいくらでもあったと思う。
六朝江南についての論文で山越の話が出てて分布図も載ってた
山岳地帯だけじゃなくて北は淮河のあたりまで居住地があったらしいし
捕虜を呉軍に編入した事も書いてあった
そもそも山越狩りは呉が兵力や単純労働力を補う目的で始めたと
書いてあったと思う
春秋の越国はとしては滅んでいたが部族としては秦になっても残っていた。
漢の高祖が王にしてやったが、武帝の時に滅ぼされて淮河と長江の間(盧江郡あたり)に強制移住させられた。
三国時代の山越はこの子孫か、このときに移住せずに山に隠れた連中か、はたまた長沙王呉ゼイに従っていた百越の子孫か。
江ワイの土着民で光武帝の部将が教化して戸籍に載せたのが数万人いた筈
板移動してたのか。落ちたかと思った。
山越の活動は呉の滅亡したあとは記録に残らなくなってきているらしいね。
これは呉が長い戦いを経て山越を自国民として組み入れてしまい、
山越そのものを吸収したから、ということらしい。
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 13:41:55 ID:EVrfDCu90
じゃあ孫権の苦悩も未来に撒いた種として実ったって事かな
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 18:53:38 ID:ksxVUjBv0
その頃は山越全員海を渡って日本へ逃げてたりして
山越逃亡路
台湾 → 琉球 → 日本
海流の関係で中国→日本の渡航はこの時代かなり困難だぞw
しかも遼東経由せずに行かざる得ない場合全滅するだろう。
山越はな・・・記録がないのはな・・ うぅぅぅ・・・
全員海の藻屑に・・
>>261 孫権が血を吐き、苦労して築き上げた呉があったからこその
河南の反映だからねぇ。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 13:59:16 ID:3vP+EQuv0
孫権も神として崇められるべきだな
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 14:51:26 ID:mpu8WtyP0
でも孫権の墓は朱元璋の墓の墓守扱いなんだよね
朱元璋と比べると、大帝孫権はちょっと小物に見えちゃう。
朱元璋は魔物すぎるんだろうけど。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 22:33:52 ID:lzQp1JYI0
朱元璋も呉王を名乗った。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 20:13:50 ID:lGsQGp/Z0
呉郡の辺りでやはり呉王を称した張士誠の方が、比べるのに近いかな。
張士誠は、やる気なさすぎたけど。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 07:27:38 ID:QQje4r400
張士誠だと、さすがに、
孫権 >>> 張士誠 だろう。
張士誠はやる気があれば、天下を狙える位置にあったのに、
動かなかったんだから。
もし孫策が死ななかったら、どうなっていただろう?
遅かれ早かれ自滅するのが関の山でしょ。
孫策の子の孫紹って、成長してからは、叔父が跡を継いでしまったことに、
不満は感じていたんだろうか?
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 14:24:24 ID:cKBF4g8I0
天子を奪い取る事に成功したら、後は曹操と袁紹が潰し合うのを眺めて
自分は荊州盗りに尽力するのかな
孫策もそうだけど周瑜も蜀を攻略した後、
劉備の事はどう対処していくつもりだったのか疑問
呉は電撃的な作戦が多いけどちゃんとフォローは考えてたのかな
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 15:45:50 ID:3l4UD9iZ0
呉に蜀を治める力はあっただろうか。
周泰がいたから大丈夫だろ
何の話ですか?
周泰は武将としての実績はそれなりにあるけど、
文官としての実績は、何か特筆するべきものはある?
県長とかいくつかの地方官は務めているようだけど。
確かに孫紹は不満に思っても不思議じゃないね
どう考えてたんだろ
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 22:06:37 ID:eQ7DFjIX0
>>281 不満に思ってたら孫賁や孫輔みたいに何かしらするはずだが
賢い人物だったなら、何もせずにじっとしていただろう。
内心の不満を絶対に表に出さないようにして。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 15:03:13 ID:EPJx1UW70
>>284 もし歴史に名を残すようなことをやろうとしたら、
その途端に身が危うくなる立場にいた。
権力の前では肉親も何もあったもんじゃないからな
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 11:28:13 ID:TrlVdCn+0
孫紹、そんなにヤバイ立場だったのか?
孫権にすれば普通の可愛い甥っ子だろ。
かつて孫家と敵対した袁術や劉繇の息子の袁燿や劉基ですら
後に孫呉政権に参入しているし
反乱未遂の孫ロや曹操と誼を通じた孫輔ですらも
蟄居幽閉程度で済んでいるな。
可も無く不可も無く、孫策ほどの才覚もない孫紹なら
普通に皇族として生活していたのでは?
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 12:55:14 ID:BnizUKz90
孫権及びその子らに、全く警戒心がなかったわけじゃないだろう。
普通に親戚としての情もあっただろうけど。
高度に政治的な問題だから孫権自体は孫紹に対して害意や
権力を脅かす危機感を持ってなくても周りはそうは見てくれないんじゃないかな
けど反乱を企てたような文献が残ってないことからすると孫紹本人は自重してたんだろうね
それに孫権が優れた人物だと認めていた部分もあったかも知れないし
ぶっちゃけ自分の父(孫策)や孫権のように器量がなかったのかも知れない
魯粛が正史では云い〜で、天才的な戦略眼と政治調整力を持つ呉
随一のそれこそ軍師という評価があるようだけど、俺はこれはとても
疑問だ。
たしかに変わった男だったんだとは思う。
だけど本当に魯粛はそれほどの才能を持つ男だったんだろうか。
赤壁の件の判断は見事だけど、そもそも海戦どころか軍隊の指揮すら
やったことがない魯粛が戦術的な判断だったとは思えない が
結果がすべてなのでこれは魯粛の優れた功績。
その後周瑜らと多少の方針の違いを示す。 そもそもケイ州を賃貸
して曹操とあたるという戦略自体が正しいと全く思えない。
劉備という人間は共存できるように元々出来ておらず共同戦線は
そもそも不可能。
魯粛は、実際の戦略や政治経験は非常に少ない。 劉備と連携する
リスクヘッジとメリットを単に計算できていなかっただけでじゃねーのかと。
でいつもどおりとりあえず思いついた持論を押したと。
周瑜は的確な判断をしていたが彼が死に不幸にも魯粛が後任になっため
このプランが採用されてしまいケイ州という本来呉が赤壁後早い段階に
領有できた地帯が他人に領有されるという異常な事態になった。
結局ケイ州をいい具合に占領され、名目上の同盟と組んだものの呉に
メリットはなく禍根だけが残された。
こういう魯粛の負の遺産と赤壁後の孫権の冴えない判断による戦術的
戦略的失敗を呂蒙が補填しなければ呉は揚州にたよるさらに弱小政権
になっていただろう。
軍事面では完全な素人なのはしかたがないが政治家としても優れている
とは思えない。
実務経験がないがだからこそか持論を押し通すそのメンタルは優れている。
過大評価されていると思う。
>>290 荊州を劉備に渡さなかったとして、荊州をずっと孫権が領有し続けることができただろうか?
俺は魯粛こそ周瑜死後における荊州問題のリスクとメリットをシビアかつ的確に計算できていたと思ってる。異論もあろうが。
孫権は赤壁以前にも落としたはずの江夏を手放している。周瑜死後の荊州貸しも同じ原因なんじゃないだろうか。
つまり、
1:地元民(豪族)の支持が得られず、占領し続けても抵抗や摩擦が起こるばかりでメリットが少ない。
2:平和裏に支配できないので戦時占領体制で臨むしかないがそれを長期間継続する地力がない。
3:それなら一旦放棄したほうがマシ。
ということだ。
しかし魯粛は江夏放棄の時と違い、荊州の人間が支配者と認める劉備に「貸してやった」という恩を売りつけた。
どうせ占領を継続できない(というより、劉備が力づくで荊州で孫権に反抗したら、孫権の荊州進出は水の泡。劉備との抗争に明け暮れる間に曹操に攻められるだけだろう。)なら、タダでは帰らなかった魯粛のやり方こそ理にかなっているのではないか?
ケイ州士人に孫権が好まれなかった(推定)のはあると思うが、ケイ州を
領有し続事は可能だったと思う。 現実に呉は領有し続けた。孫権は
ケイ州には免税など領有に対してそういうための対策を打っている。
江夏は敵地隣接と経済的な吸い上げの天秤で難しかったかもしれない。
がケイ州は別だと思う。
この段階で劉備の保有兵力自体は、呉も少ないがその気になれば追い出し
は可能だっただろう。戦争というのは士気というものが非常に重要。
どれだけ大軍や領土を保有してても大きな敗戦の後の連続軍事行動は
難しい。地盤を完全に残しながら1度の敗戦ですべてを失った群雄がどれほど
いるか。
劉備に恩や義理は完全に期待できない。ケイ州の人口は多くまさに
当分の間南朝政権には重要な土地。呂蒙がいなければ呉は山越と争い
ながら江南だけの政権になっていた。魯粛が長生きすれば呉は大いなる
損失を被ったと思えてしまう。
てめえら、三行以上書くなや
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 07:24:58 ID:XTt6Yk93O
魯粛は長期的時間を掛けて荊州を領有する根回しをしたな
周瑜死後は江陵を劉備に貸し渡し恩を売り
その一方で自身は陸口に駐屯し江夏郡や漢晶郡の実効支配を固め
劉備が益州を取ったら軍事的衝突の一歩手前で荊州の半分を譲歩させ
関羽が荊州の士人達に人望を失うのを長い時間を掛けて待った
呂蒙が荊州を占領してすんなり支配できたのは魯粛の下地があったからであろうな
>>294 それもあるだろうけど、呂蒙は武でケイシュウを制した感がある
結局荊南の帰趨は呉蜀の志向が地方政権と全国政権の差であったということが大きい。
無難に割拠を狙われれば手出しなど出来ようはずも無い。
関羽が第二の黄祖となって呉の大きな禍根となったことだろう。
下手をすれば上流の地の利を利用されて一息に滅ぼされかねない。
晋の征呉戦を見ても合肥ルートから攻めるよりも、益州から建康に突っ込む方が早いし。
魯粛がいなければ、程普とかそこらへんの武断派がまったく情勢を考えず
江陵に居座りつづけ劉備に実力行使で追い出されてた可能性大。
なんとか協定を取り付けても三峡を抜けるとは思えない。
そのまま入蜀の利権独占を争って呉蜀間で延々膠着状態が続けば、
その間に曹操が残り寿命一杯かけて涼益二州を制圧するだろう。
魯粛の存在で多少なりとも妥協していた史実でもかなり危うかったのに、
彼がいなければもっと早く呉蜀はつぶれていた可能性は高い。
三峡を封鎖して飛躍の可能性を無くし、交州を切り崩して連中の後背を脅かし、
多少力攻めでも最重要拠点の江陵を落としてしまえば、そのまま統一へのカウントダウンが開始する。
烏林―陸口間の制水権を握ってしまえば陸路から予章郡を攻め落とせる。
そうなれば揚州の国力は半分奪われたようなもので事実上抵抗力は喪失する。
程普の悪口を言うな!
劉備が果たして追い出すことができただろうか。この段階で劉備も
ケイ州を点支配状態で兵力も1万程度じゃないか。しかも兵は大敗退後の
寄せ集めに対して呉は士気が上がってる軍隊。
劉備が追い出される可能性のほうが高いと思うけどなあ。
上に書いてるが敗戦後の連続的軍事行動(しかも同じ相手)が実戦では
困難な事を考えればそう簡単に呉が抜かれるはずがない。
そもそも国が内部が糞(呉なら末期)じゃなく外圧だけで滅ぶことは
非常に少ないぞ。
曹操存命中の魏と呉の状況で現状の安定期の呉が単に外圧だけで滅亡する
ことは常識的にありえない。 魯粛の戦略は早い話が無駄。
先送り消極論に過ぎない。 戦争は国に多大な経済的な消耗をもたらすが、
荊州領線、その後蜀との戦闘、夷リョウと魯粛ポリシーが無ければ消耗せ
ずに済んだ戦い。少なくともこれほどの無駄は必要なかったんじゃねーかと
思うんだが。
大体一区画切り取るのに五年かそこら。
周瑜が全力で劉備をブチ殺して荊南を孫呉色に染めるとする。
それと同時進行で曹操は涼州〜漢中を切り取るだろう。
劉璋の帰趨が迫られるね。
そっからどうするのか?
劉璋は劉備には結構な抵抗を見せたが、一応献帝を奉じている曹操にならあっさり降伏しかねない。
どっちにしても、夏侯淵、張郃、郭淮らが占領に入るのでさらに五年、三つ巴で益州の覇権を争うことになるだろう。
そもそも劉備が入蜀に成功したのは、劉璋と同族であり、今まで主人を裏切らなかったという信用があったからこそ。
最初から侵略者気分では周瑜、呂蒙という三国最高峰の名将でも三峡の守りを突破するのは厳しい。
劉備や関羽を恐れることも無くなった曹操が
周瑜の留守を狙って荊州方面に侵攻すれば呉の入蜀軍は完全に孤立する。
さらに入蜀での一連の詐欺行為で天下の信望を落とした訳でもない劉備を、
大義名分もなしに言いがかりをつけて殺した孫権には、
切り取ったはずの荊南の統治自体が困難になる。
どう考えても公孫瓚のおかした轍に片足入ってますね。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 18:52:19 ID:Cyemg54p0
逆に劉備/蜀勢力が、孫氏/呉勢力を制圧することってできただろうか?
正攻法では不可能。
九州を束ねた曹操にも出来なかったのに、せいぜい一、二州の劉備に出来るはずがない。
あるとすれば孫権が若くして死に、呉のトップから一元的な指導力がなくなった場合だ。
その場合、弟の孫匡か孫朗か、あるいは孫策の長子である孫紹が継ぐことになる。孫静系の相続は多分無い。
まあ誰が継いでも事実上の呉の国主は周瑜となる。
それを考えると孫紹かな。どうせ傀儡だし。
もっともそんな体制では周瑜が健在でも一致団結して勢力を拡張出来るはずも無く、
単なる中立勢力に陥る可能性は高い。
孫策死後の地盤固めを孫紹の為にもう一度やることになるんだから。
呉が荊州にまで勢力を伸張出来たのは、
孫権が諸葛亮が思ってた以上の大器だったからで、
彼がいなければ隆中対通りの構図になってる可能性は高いな。
呉の制圧があるとするならば蜀の中原進出以降だろう。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 21:31:33 ID:s8PPRY+hO
孫権が劉備に荊州を貸さず、追い出して荊州支配を成功させるのは、全てが呉の思惑通りに行った場合にしか成りたたないだろうね
劉備との敵対が赤壁や直後の段階だったら呉は江夏を抜けることも出来なくなる
江陵を落とした頃には劉備も四郡を収め荊州牧になっており、もはや敗残の軍とは言えない
周瑜でさえ劉備を懐柔し幽閉しろとは言ってるが真っ向から敵対するとは言っていないのに、周瑜亡き後では劉備には勝てないたろう
江陵だって劉備たちと敵対したら孤立した要塞でしかない
孫権を侵略者とみなし劉備を主と仰ぐ荊州を劉備から奪い自分のものにするのは簡単じゃあないんだよ
後々の孫権の発言は喉元過ぎればの典型
少なくとも周瑜が死ぬ前後の状況では、無理をせず柔軟な対応ができ、大義名分と美名は独占できる魯粛の案こそ正解だろう
詰まる所国力というのは版図の広さではなく豊かさだしなぁ。
揚州や益州なんてマトモに使える土地、都市の数が…
益州は面積、人口、農産、商工、資源と、どれをとっても一級で、
その地形による守りやすさもあり、一州だけで比較するなら最も優れた州だよ。
ただ他の州と交通が不便すぎる。本拠とする場合これが結構、致命的。
本来は秦や高祖のように後方の一大策源地とするのが理想。
益州てこの時代、人口、農産?と商業工業てそんなに優れてんの?
人口は中原州の偏差値が高いから平均したら面積比率でかなり弱いほう
になる。商工業の具体的な記述てどんなのだろう。
海に隣接せずに価値の高い塩がとれるのは有利だけど、江南もかなりの
産地だし。 鉱業も揚州のほうがはるかに産地だろ。
まったく突出した地域ではない。
後漢三国、というかそれ以降も突出した時代はない。
一時期の涼州(灌漑とかが問題になる前の)のような貿易もたいして見込めない
しめっちゃ繁栄しまくった つー時代あんの?
補足すると益州の対面積人口比がそれだけ低いということは、この時代に
おいて生産力の限界と同じ意味なんで生産性も低い。
益州なんて司州とどれだけ人口差があるとおもってんだよw
対面積人口比…。人口密度のこと?
後漢書くらい呼んでから批判して欲しい。
巴郡、蜀郡、永昌郡は口百万を超えるし、蜀錦、塩、鉄などの生産物、資源。
農業の方も戦国の頃より秦の開拓により肥沃である事は史記、漢書にも記述がある。
後漢書郡国志による口数比較
司隷(京兆以下は魏では雍州)
河南郡:101万
河内:80
河東:57
弘農:19
京兆:28
馮翊:14
扶風:9
漢中郡:36
巴:108
広漢:50
蜀:135
ケン為:41
ソウカ:26
越スイ:62
益州:11
永昌:189
広漢属国:20
蜀郡属国:47
ケン為属国:3
晋書になって
司州:41万戸
(旧益州)
益州:14万戸
梁州:7万戸
寧州:8万戸
と逆転する。
ごめん。
河南と京兆は郡じゃなく尹だった。
ずばり俺は晋書ベースでの話だ。後漢よりも三国時代の事情に近いのは
晋書のほうじゃないか? 晋書だと青州と変わらないレベルの戸籍数。
農業生産力が、宋、元代のように伸びた時代じゃない三国時代において
は人口が指標でしょ。高いといえるか?
塩はいいとして、鉱山に関してはハヨウ湖(漢字めんどい)周辺のほうが
はるかに有名じゃねーの。
戦国より肥沃なのは特別な事情じゃないでしょ。
江南がこれから農耕技術の発達と開発で中原レベルまで伸びて拠点に
なったが益州は近代以前はそういう対象にならなかった。
同時代レベルの農耕技術レベルで差がでてるってことはそれが生産性
じゃないの。
まあ益州はすでに李氷が開拓してたからなあ。
>>310 晋書をベースにすると後漢末の争乱で多くの戸籍漏れがでて、その上三国の統治の差が現れる上、
それの記録があまりに不足してるから
後漢書と晋書を勘案するべきとは思う。
旧青州は晋書だと五万三千戸に平原国三万一千戸。
後漢の益州に相当するのは
益州(蜀)梁州(漢中、巴)寧州(西南地方)の三州。
鉱山は後漢書郡国志に出銅や出銀が多数の郡に書かれてるよ。
農耕は後の江南のように国を支えるほどじゃないけど、
自分は
>>304で一州だけならと限定していますので…
少なくとも後漢末三国時代で、後の江南のように全国を支えるほど農業生産が可能の州はないはず。
何か書き込み辛い。何度もエラーがでたし。
再起動してID変わったと思うけど
>>304です。
魏600万
呉300万
蜀100万だったかな
劉備の方が孫権と同盟を結ばなけゃ途中で曹操に殺されてるし、
荊南も兵を借りられないから四郡も落とせるか?
張飛がいないのは厳しいが、関羽ぐらいがいないなら
周瑜も江陵を落とせるだろうし。
うーん。四川をそれほど評価したい理由がわからんなぁ。
江南の力は明以降完全に中原を越えるわけだけど、逆に中原の生産力は
古代ほど相対的に他より高いわけで四川が最高つまり中原の州より優れ
てる理由がないと思うんだけど。
もっと端的に言おうか。四川1州が最高に優れているならどうして
三国時代以降も守りに強く生産性が最も高く最も優れた州である四川
政権が各国鼎立になると真っ先に崩れだすのか。
歴史が証明してるように、優れた州に拠るからこそ統一の基盤になる
わけで四川がそういうポジションにないことは自明じゃん。
それが華北であったり江南であっても、某に基盤に向かないと判断され
た荊州、そして四川はそう成りえないってことでしょ。
>>315 あくまで一州としてのみで評価してる。
>>304に
>ただ他の州と交通が不便すぎる。本拠とする場合これが結構、致命的。
>本来は秦や高祖のように後方の一大策源地とするのが理想。
と書いてるとおり。ちゃんと読んで欲しい。
むしろ貴方の言い分は肯定してるよ。
その上で、天下十三州の一州だけで評価したときの評価なんですよ。
逆に司隷にしろ揚州にしろ、まがりなりにも一州で益州のように自立できる州はないでしょ。
そりゃ複数の州を前提にすれば益州なんて雍、涼州二州があってこそ本領が発揮できる土地ですよ
でも司隷だって冀州や豫州や并州があってこそでしょ?
>>315 技術が優れていても負ける時は負けるだろうね
蜀崩壊は組織の腐敗やアイデンティティの盲失かな
特にアイデンティティの盲失は大きかったかと思う
>>316 拠る土地としてどうかという話で、州一つのパフォーマンスを議論しても仕方がねぇと思うが…
>>318 そういわれても…
>>303の
>揚州や益州なんてマトモに使える土地、都市の数が…
に対する反論として一州としてのパフォーマンスを述べたわけだから…
自立できるかというだけの話なら涼州や遼東でも自立だけならできるし
南北朝以降も腐るほど軍閥は割拠自立してるが。
司隷は狭い領域に文化濃度と人口が集まってるからこそ戦略的価値が
ある時期まで非常に高かったんだろう。ほかの高価値の都市も同じく。
後漢と晋書以降の歴史をどれだけ知ってるか知らんが四川の戦略的な
価値は低い。 四川に閉じこもって俺が王様だと名乗り土地の乗っかる
だけならいいが 中国の覇者になるのに1州としての戦略的価値が中原
や後の要地の1州と比べて高いと思えるの?
四川の農業生産力は高くないわけだし。鉱山があるという記述=非常な
鉱物資源が取れるとかそういう安易な解釈してね?
人口がこの時代の生産性なんだからさ。
なぜ南北朝や分裂時代、各政権の混乱期に1度も四川の軍閥が競争レース
にすら参加できなかったか。それがパフォーマンスの答えじゃねーの。
>>319 >>303で 国力 や 版図 と銘打ってるのに一州の評価もってくるのが既にして誤りなんだよな。
一州だけの力で尋常に戦ってる訳じゃあるまいし。
>>320 農業生産が高くないってのはどの資料からの判断?
諸葛亮も
「益州險塞、 沃野千里、天府之土」
と言ってるように、益州は豊かとされてますが?
それに益州一州で他州に対抗できないと認めてるのですけど
それを連呼する事に何か意味でも?
私は一言も覇者の土地だとか軍閥競争レースとかを議題にしてませんが?
貴方が勝手に統一のための根拠地としての優劣を議題にしているだけでは?
>>321 国力 や 版図
で、魏の版図は司州のみですか?というか誰もその一行に反論してませんよ
そりゃ蜀漢と魏の比較ならそうでしょう。
>詰まる所国力というのは版図の広さではなく豊かさだしなぁ。
この一行は是でも
>揚州や益州なんてマトモに使える土地、都市の数が…
この一行は非だと言ってるのです。
諸葛亮が言ったから豊かな土地ですとかありえんから。
そんなんで論証されたら話しならんわwwwwww
農業じゃ中国て国は歴史が古いにも関わらず発展が遅いことで有名なん
だよ。宋、元まで有力な農書(諸子百家の農氏も)が出なかった。
農耕の技術が発展したのがその時期。つまりそれまでは飛躍的に特定の
農業技術で人口が増大とかが限られる。
益州が広大な領土の割りに人口が少ないのは、=気候、開発可能
領域、そこから養える人間の数=生産力に繋がんのよ。
分かる?
>>323 はぁ、つまり諸葛亮や法正の言う天府とやらはデマとおっしゃるわけですか?
なるほど、それなら私が不明だったという事ですね。すみません。
>益州が広大な領土の割りに人口が少ないのは、=気候、開発可能
>領域、そこから養える人間の数=生産力に繋がんのよ。
>分かる?
分かりませんね
それと示す史料でも添えていただけないと、貴方は貴方の理論を語っているだけですから
実際、益州や張魯の漢中は豊かだったと書かれてるわけですからね
あのね。 彼は陳平や張良の風があるぜ! ここはまさに天府だぜ!
て歴史書の人物紹介や自国紹介にどれだけ出てくるんだろうな?
あとお前は "xに書いてあるからyであることは論証すぐまでもなく
肯定されなければならない"という考古学ではありえない思考回路の
持ち主だな。 まったく逆の作業をするのが歴史書を読むってこと
なんだけどな。
あと知識不足。話にならない。
>>325 人格批判は結構です。
ともかく、貴方は史料からそれと記す箇所か
考古学的な資料を出してください。
貴方の持論は貴方が論証すべきでしょう。
正直、
史記、漢書、後漢書、三国志と蜀の地、益州は豊かだという記述は知ってますが、
それらは間違いだという意見を初めて聞いた。
だからこそID:8G8TK6Kl0さんの知識と資料に強く関心があるのですよ。
私自身の知識不足は強く認識するところであります。
それ故、学の足りない若輩めに是非ご教授ください。
いえいえ滅相も無い。私こそまさにケツの青い若輩もいい所でございます。
かつこのような愚直な輩が語ることなどもうございません。
非常に恐縮でありますが、御自身で327様は他の時代の正史にも目を通されま
すとなにか有益な情報がそのまま記載されておる場合もあるかと存じ上げます。
農桑輯要など。
私ごときがもうこれ以上語ることは御座いません。
本来の我がホームスレ "ペットボトルに小便は孔子の教え"スレへの
帰路に付きたいと思います。それでは失礼いたします。
Best Regards
>>328 結局、持論について資料を一切持ち出さなかったか…
それを提出するだけで、資料を拠り所とする私に対しての充分な反証となったというのに…
残念だな。
農桑輯要を読んでも益州の生産力が豊かでなかった事を証明する記述は無いんだけどね。
益州が自国を守る分の生産性なら豊かだが、
天険から出れる生産性とは別物だろ。
>>322 >>303の主旨とは違う所に難癖つけても仕方がねぇだろう。
そもそも
>>303自体、内容のあるレスでもなかったのに。
詰まる所、知識の披露ご苦労様って事だよ。
>>314 前提を一つ忘れてる
赤壁は江夏郡にある。つまり孫権は劉備と同盟しないと赤壁で曹操を急襲することもできない。
黄祖敗死は同じ年の話であり、孫権と荊州はそもそも仇敵であり、同盟して曹操に当たるということ自体が劉備と魯粛の決断なしにはありえなかった。
そしてその同盟がなければ孫権は荊州に出ることも難しい。劉キに阻まれる可能性があるし、そもそも劉備が死んでいたら江夏だって曹操に早々と制圧されるかもしれない。
そうなったら曹操を退けるどころか孫権は全力で呉を攻めてくる曹操と単独で戦わなければいけないことになる。
また赤壁勝利後にしても、荊南四郡を劉備が速攻で落としたからこそ周瑜は江陵に集中できたんだし、完全に孤立化させることもできた。
また自称とはいえ劉備は長坂で負けた後でも2万の兵を動かせると言っている。話半分に考えても1万程度はあったわけで、3万程度を率いる周瑜から見ても重要な戦力ではあるはずだよ。
(赤壁戦に劉備が参加しないのは、水上が主戦場だったから当然といえば当然。むしろ追撃や荊州で使うために劉備が温存されていたのかもしれない)
つまり呉にしても劉備がいたからこそ曹操に勝てたし、荊州を落とすことができた。
劉備がいなければ呉が独り占めできたとか、劉備を早々と切り捨てていれば呉は楽だった、なんてのはあまりにも当時の状況が見えていない。
後漢末に一州を好きに選べというなら幽州、并州、涼州、雍州、交州はまず真っ先に除外。
強兵が使えるだの、貿易の旨みがどうこうと言っても所詮ど田舎である。中原から遠すぎ。
ここから覇権を握るのはどう考えても無理だろう。
となると単独でかなり優位なスタートを切れるのはやっぱ予州、荊州、冀州か。
荊州は少々たてに長すぎるが。
あとは兗州、司隷、青州、徐州が準じる感じ。
益州は孤立した地形が、揚州は山越の問題でかなり不便だが第二第三勢力の本拠地として申し分ない。
が、それをまとめ上げる間に中原に数州を束ねる大勢力が出来たらどうにもならん。
当時の蜀は、ほぼ益州のみで魏とそれなりに戦ってるから
豊かな方だったんじゃないのかな
魏は地形的な要因もあるが積極的に蜀に攻めることはしなかった
魏は蜀をそこそこ強いと認識しているからだろう
それなりに豊かだから兵を動員でき、国力もあったんじゃないかと思うが
なんかここ呉スレっぽくないな…。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 01:41:16 ID:KVbOgDwi0
ID:rqU8cjo+0とID:8G8TK6Kl0に言ってやれ。こいつが戦犯
別にスレ違いでも、それほど気にせずに
いや別に犯人捜しをしたいんじゃなくってさ、
スレ主旨からずれたところで人格中傷合戦されても俺にはつまんないんだよね。
益州の生産力を見極めるのは重要なことだと思うけど、
とりあえず中傷抜きで。できれば呉につなげる方向に行ってもらいたいなと。
そういや最近、四川省で後漢代の製鉄所が発掘されたとかやってたな。
>>336 悪口ばかり書いて中身のない蜀厨に比べたら全然マシだよ
なんか異様に盛り上がってたみたいだね 呉以外の話で
343 :
日本語の下手な在日晒しage:2007/10/29(月) 16:15:41 ID:KVbOgDwi0
336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/28(日) 23:44:16 ID:saNTXeZm0
なんかここ呉スレっぽくないな…。
341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 09:47:11 ID:e0i5Qwzb0
>>336 悪口ばかり書いて中身のない蜀厨に比べたら全然マシだよ
後漢書見たら、たしかに中原より揚州とか益州の方が人口多いんだよな。
面積が広いから当然なんだけど、平地が少ないことを考慮すると、
限られた耕作地でよくパフォーマンスを出してるなって感じ。
中原は先進地域だから既得権益を持った豪族が多くて、
この豪族が農地を隠したりして統計に数値が上がってないんじゃないかと思うんだよね。
「蜀犬日に吠ゆ」といわれるように四川の地は曇りがちで日光量が少なく、ために
農業生産もそれほど高くない。
という文章をどこかで読んだことはある。本当のことなのかどうか調べたわけでも
ないし、どこの書籍にあったかも不明なので根拠として挙げられるレベルのモンでは
ない。自分でも本当なのかどうか知らないし。
>>333 >荊南四郡を劉備が速攻で落としたからこそ周瑜は江陵に集中できたんだし
逆じゃない?周瑜が江陵で曹操軍と戦っていたからこそ、劉備が南四郡で活動
できたのだと思うが。
それと、孫権や周瑜の史書に残る発言を見る限り、劉備軍の存在は全くあてに
していない。実際に劉備軍と連動していた形跡はない。追撃のための予備だった
といわれますが、その追撃はほとんど役に立っていなかった。周瑜が劉備と連動
していたのなら、この劉備の追撃の失敗はどう解釈すべきか?
後漢代では益州は十三州のうちもっとも戸籍上の人口(約728万口)が多く、
戦国時代に司馬錯による蜀攻略以後から開発がなされていた。
とはいえ蜀漢時代に特別繁栄したとかは聞かない。
一方揚州は中堅の約440万口。もっとも開発が為されておらず、
山林と湿地が多く、水害が多く発生し、さらに異民族が各地の点在していた。
気候は暖温帯湿潤から亜熱帯湿潤で稲作に適している。
ぶっちゃっけ後漢では完璧に辺境未開。
黄巾の乱で知識人が流入しなければまともに政権運営が可能だっただろうか?
というくらいの状況だった。
後漢末三国時代に、呉が江南開発の先鞭をつけ、
文化的にも虞翻や陸機などの人物を排出できるくらいなったわけで、
呉の功績は偉大だし上海蟹( ゚Д゚)ウマーと、呉好きの自分が評価してみるヽ(´ー`)ノ
面白そうな議論してるんで、
( ´∀`)つ ミ『禹貢』の州ランキング置いときますね。
州名 田(農作物税) 賦(軍役とか人頭税)
冀州 5位 中中 1位 上上錯 (上上よりちょっと落ちる)
エン州 6位 中上 9位 貞 (;><)
青州 3位 上下 4位 中上
徐州 2位 上中 5位 中中
揚州 9位 下下 7位 下上上錯 (下上よりちょっと良い)
荊州 8位 下中 3位 上下
豫州 4位 中上 2位 錯上中 (上中より良い)
梁州 7位 下上 8位 下中三錯 平均すると下中くらい ←巴蜀はココ
雍州 1位 上上 6位 中下 ←関中(秦)
>>346 >周瑜が江陵で曹操軍と戦っていたからこそ、劉備が南四郡で活動できたのだと思うが。
それについてはもう水掛け論だろうな。ほとんど同時進行なんだから、単に視点をどこに置くかで評価も変わってしまうのだろう。
これはどちらか一方だけが利益を蒙るという関係ではないだろう。お互いに相手の軍事行動のおかげで助かっているという関係だな。
>孫権や周瑜の史書に残る発言を見る限り、劉備軍の存在は全くあてにしていない
それはちゃんと三国志を読んでいないとしか思えない発言だな。
周瑜伝だけを見ても、赤壁の戦いの際に「劉備と力を合わせて」「劉備と周瑜らがともに曹操を追った」などと協力体制を取ったことは明記されている。
また武帝紀注の山陽公載記には華容道を通り敗走する曹操を逃がしたものの追撃したのが劉備だと記録されている。
曹操こそ取り逃がしているが劉備の追撃は曹操に迫っていたのであり、失敗で片付けるのは不当だろう。
南郡攻めの際には注の呉録の記事として、劉備が張飛と兵1000を周瑜に同行させ、周瑜は劉備に兵2000を貸すという貸し借りを行っている。
周瑜らが劉備を当てにしていない、連動していないとは到底思えないし、劉備は劉備で赤壁から南郡・南部四郡攻めにおいて、周瑜らにとって十分な働きをしているのが見て取れると思うのだが。
>>348 よりにもよって尚書の禹貢かよ…
一応、建前では夏王朝の史料ってことだが…
>>345 うーん、それは黄巾の乱の影響でってことなんだよね。
後漢書の郡国志に書かれてる戸籍人口はそれよりずっと前のことだから
これはあんまり関係なさそう。
あと流民の移動なんだけど、知識人レベルでは確かに大きな動きになってるけど、
一般民衆が本当にそこまで大量に動いたかっていうとちょっと疑問なんだよね。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 07:55:46 ID:0J3W7CdD0
>>351 知識人の移動といっても、何も学者さんが一人で地方に旅したわけじゃないんだよ。
大抵は知識人=豪族なわけで、同時にその土地の名望家だったりする。
よって、地方に移住する時は、親戚・一族・私有民引き連れたかなりの集団の移動となる。
さらに、それを慕ってその地の人々もついてきたり。
つまり、知識人と一般民衆の移動は、全く別個のものなのではなく、
かなり連動していたものと取るべきだと思う。
>>349 周瑜軍の三万はあくまで先兵でしかないわけで、
余力としては孫権本軍と張昭軍も控えたわけだし。
たらればになるがむしろ、劉備がいなければ孫権は
合肥や徐州に行かず周瑜軍の後詰に向かうのではないか?
>>353 つまり孫権・周瑜は劉備の兵をある程度はあてにしてたというわけか
注の話だが、兵5万を要求した周瑜に対して孫権は3万しか与えなかったんだが、残り2万はちょうど劉備の自称兵力なんだよな
つまり劉備の兵も合わせて5万だからこれでがんばれ、ということだったんんじゃないか?
>>354 同盟を組んでいるのだし、あれば当然に使うのでないか?
ただ劉備がいなくても、兵力としてはの不足があったかどうかだし。
常備兵力と動員兵力は違うし。
あの時点では三万が精一杯だったんだろう。
赤壁の曹操は実質13万ぐらい?
>>334 公孫サンの兵力と食料が恵まれてるのを見ると幽州は意外と豊かな気がする。
予州、兗州、司隷、青州、徐州は荒廃してたから、この頃はあまり豊かでなかったと思う。
当時の幽州は烏桓が強かったから、こいつら手懐けて冀州を早めに併合してれば、
冀州からスタートするより楽なゲームになりそうだね。
>>356 呉の軍事面でのトップである周瑜が5万要求しているということは、5万は全く出せない数字ではなかったとは思うんだよね。
推測だけど、周瑜の出発に間に合うのが3万で、残り2万は劉備の兵をあてにしるという感じで出発したんじゃないだろうか。
で、周瑜の出発に間に合わなかった兵は万一に備えて控えさせてたけど、赤壁の勝利を知ったあたりで合肥に向かった、と。
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 22:48:32 ID:ZXOGPdRg0
>>358 当時の華北は、今ほど乾燥化が進んでいなかったしねえ
>>361 確か、人口増加などにより後漢末に自然破壊が進み
三国志の時代は象もいたらしい
隋の時代にやっと自然が回復したらしいけど
南宋末の時代に再び破壊が酷くなったようだ
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 02:00:25 ID:Ok/5R5GQ0
宋代より前の江南、長江下流域の湿地帯には、
野生の象や水牛が生息していたし、
マチカネワニもこの頃まではまだ生存していたのではないか、
という説もある。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 21:19:34 ID:y7V38m9P0
>>362 三国志の時代は華北に象は居ないよ
孫権が曹操に象を贈って大衆がビックリしたり
象の重さが判らなくて曹沖がトンチを働かせていたのをみる限り
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 08:05:54 ID:rab6wgNo0
>>364 その曹沖のトンチ話さえも、
仏典の話(『雑宝蔵経』)が流用されたものとみなされてるからなあ。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 14:37:32 ID:WYv5c+ba0
象は、唐や宋の宮廷でも飼われていて、パレードみたいなものに使われたようだけど、
権力の象徴みたいなイメージがあったのかな。
アレクサンドロス大王の後に像が西洋に伝わりハンニバルとか戦闘に使ってたからね
萌える展開だ
秦の36郡の一つ「象郡」は象がいたから名前がついた
象郡どこ?
のちの日南郡っすな。
ということは、秦の時代には今の中国の領域には象は居なかったかもり。
戦国時代に呉が楚の都を攻撃したとき、楚王が逃げるための時間稼ぎをするために象に火を曳かせたってのは
創作?横山史記に載ってたんだけど・・・
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 05:47:34 ID:X1PN4QQ5O
呉の人物で人格者ってどんな人がいますか?
孫権にみんなが彼のようであだったらなあとか言われた人がいた気がしますが
顧雍とか是儀とかかな。
>>371 中国の領域と言うか、秦の領域じゃないかな。
今の甘粛、陝西、四川にかけて。
楚とかなら象はいたはず。
四川に当時パンダは居なかったのと同じで
三国志の呉の時代には長江流域には象は居なかった
?
呉の動物にまつわるエピソードって何かある?
白頭翁とか鶏卵とか。
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 13:20:54 ID:mGdK3TeG0
諸葛謹ノ驢馬
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 18:10:39 ID:L3Tscc3SO
孫権のせいだな
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 11:32:10 ID:gkJGNZAH0
孫礼のせいでもあるな
いやいや、孫乾のせいだろ
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 03:31:58 ID:rdi335+z0
孫乾は虎と絡んだエピソードないだろ
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 21:46:39 ID:znjxAY030
呉の官制一覧が載っているようなサイトってどこかにある?
基本的には、漢に準じて、魏なんかとも似たようなものと思うけど、
何か呉独自の官職はあったのかなと思って。
>>387 大司馬が左右に分かれ、さらに大将軍、上大将軍まであるのは呉だけ
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 21:00:07 ID:nl9M9LR20
輔呉将軍
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 11:10:56 ID:/L01duct0
呉って海産物は食用にしてたんでしょうか?
>>390 まず、現在、中華料理として知られているものの多くが、
近世になってから完成したもので、
それ以前の時代の、食生活の状況は資料が少なすぎてほとんど分かっていない。
だから、呉に限らず、三国時代の料理がどんなものであったかか、
ほとんど不明と言ってもいい。
ただ、沿岸部の住民が海産物を食用とすることはごく当たり前のことだから、
呉でも当然のことながら、それなりの海産物を食用に供していたと思う。
例えばフカヒレの場合は、宋代からは食され始めていたようだけど、
本格的に食材として認識され始めたのは明代以降らしい。
はっきり分かってるのは沿岸部が藻塩で、四川が岩塩って事くらいだな。
中原から江南へ移ってきた者たちなら、
当然中原の食文化をそのまま持ち込んだだろうね。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 10:37:50 ID:bLTrSE+t0
河北は麦、江南は米とまことしやかに言われているな
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 10:56:53 ID:ecbtEY7R0
河北じゃそもそも稲作ができないしね。
中国は、淮水〜秦嶺の線の北と南で気候が一変してしまう。
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 01:15:38 ID:X9lY/mFB0
広いなあ
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 22:04:55 ID:lQ1VgG+O0
>>395 北海道でも稲作やってるのに・・・軟弱な河北。
>>397 北海道で稲作ができるようになったのは、品種改良のおかげだよ。
本来はしっかりとした稲作ができる土地じゃない。
旅行したとき刈り取り寸前の田をみたけど
稲の高さが3分の2位しかなかった
それと稲作の場合、水の確保が重要。
河北の辺りだと降水量が少なくてかなり乾燥しているから。
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 11:40:41 ID:sz2k/Dyg0
三国期の河北じゃ、どんな穀物が一番栽培されていたんだろうか?
教えてください
呉の武将達は元々豪族だった人が多いそうですが、孫家の元で勤めたり他に領地を与えられたりした時、
元の土地はどうしていたんでしょうか?
兄弟とかが土地に残って家長の代わりをつとめたり、その財産の一部を持ってこさせたりしたんでしょうか?
気になって夜しか眠れません
よく知らないけど、孫氏政権に勤めたり、新たに領地を貰っても、
元の土地を手放す必要はないのでは?
留守中は、一族の誰かが管理するだろうし。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 20:51:11 ID:gexk1xoi0
> 気になって夜しか眠れません
ロマンシアみたいなやつだな。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 00:49:23 ID:ScRSi41+O
そもそも呉に限って豪族あがりが多いってこと、あるんだろうか?
政権中枢には河北からの避難組もいっぱいいるし…
「武将」については低いよ
ていうか政府中枢はどこでも大豪族の影響を
出来るだけ排したいところだろうし、
史伝に大きく取り上げられない、
政府に任官しないような人々なんだろうね
魏や蜀を主役にした小説や漫画はあるのに呉を、
主役にしたのがないのは人気がもう一つだから?
無くはない
けど呉は影が薄い感が否めないよね
ある意味では呉が一番面白いのに
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 07:08:04 ID:iVilBlxI0
>>407 おいおいマルチかよ・・
あっちでマジレスしちまったw
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 19:18:47 ID:Ei09bklh0
>>405 川勝義雄先生の『魏晋南北朝』によれば、孫呉政権は江北から入ってきた
無頼任侠者集団と呉や会稽の在地豪族との協力により成り立っていたらしい。
ちなみに孫呉政権では華北には見られない「世兵制」と呼ばれる制度があり、
将軍達による父子兄弟間での軍隊の世襲が認められていたらしい。
これにより孫呉の軍隊はそれぞれの将軍の私兵としての性格が強く、
独立性の高いものだったらしいけど、こういうところが孫呉では
豪族の力が強かったと言われる一つの要因なのかもしれないね。
>>410 孫堅・孫策時代からの武将は殆ど余所者だけど、
彼らも兵を子供に相続させてる辺り、孫政権も豪族習慣との
ある程度の一体化を図っていたんだろうね。
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 00:42:03 ID:3sb/pR49O
江北から入ってきた無頼仁侠者集団って具体的に誰あたりのイメージなんだろう…
調べてみた。
無頼任侠と言うとかなり語弊があるけど、
程普と韓当は遼西(幽州)、甘寧は益州。
徐州がやはり多くて二張や魯粛、徐盛、勿論諸葛瑾など。
揚州も思ったより多かった。けど周泰賀斉蒋欽陳武辺りは
生粋の武門での昇進であって、豪族の出とは思えない。
赤壁辺りまでの「武将」と言える人間で現地豪族っぽいのは
周瑜くらいかな?
孫権期の宮廷中枢になると名門っぽいのは増えてきて、
失脚した人間を集めてる呉書第十二は、
吾粲以外そんな感じの人物が多いように見える
(虞翻はどうだろう?)
賀氏、駱氏、虞氏、吾氏あたりは南北朝時代にもしばしば顔を出す江南の豪族だよ
ただし、名門にはなれなかったので寒門だけどね
>>415 いや、賀斉や吾粲自身はそういう豪族の少なくとも本流ではなかった。
呉は(魏も蜀も多少あれそうだけど)土着で地盤をがっちり握っている豪族達と、
政府中枢とのせめぎ合いと協力の体制であって、必ずしも政権そのものを豪族達が
握っていたわけではない、と言いたかった。
陸家みたいに入り込んで高位に昇る人間もいるわけだけど。
川勝義雄と石井仁と宮川尚志と渡邉義浩ぐらいは調べておいたほうがいい。
誰かの研究だけでは「偏った知識」なってしまうから。
大川富士夫センセイにも孫呉〜両晋の論文集があったな
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 11:18:21 ID:D3KGz+3s0
呉書見聞 が面白いな
まだ書きかけのようだけど
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 13:27:42 ID:/+tnK3b40
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 23:54:41 ID:SDRJF4Kp0
遼来!
寵来!
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/22(土) 11:19:51 ID:EBVj1rCu0
孟宗の漫画はないの?
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/25(火) 10:49:51 ID:yrM6iGGR0
>426 「説三分」や「蜀の甘寧」がおすすめです
六年ほど前に、甘露寺を観光してたら境内の木製看板に太史慈墓って掲げられてて吹いた
案内人にここに行きたいと言ったけど そんな所いっても何も無いよって言われた
後から知ったが魯粛の墓もこの近くにあるそうだ
なんか悲しかったなー
あー そこだと思う
そのサイトにある通り 『碑があるだけだぞ。めんどくせぇなぁ。』って感じだったよw
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:14:36 ID:eiuOPRBZO
朱然の墓なんて公園になってんのに
日本の遺跡もだいたいこんな感じだよな。
板垣退助や岡田以蔵の墓も、地元の人が建てた看板しかなかったし。
それか、やけにテーマパーク化してるかどっちか。
時代が近くても、だからねえ。
うちの近所に伝・某百人一首の歌人の墓ってのがあるけど看板だけだな。
ある場所が田んぼの真ん中なんでちとシュールだが。
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 06:51:41 ID:rDpW5sWc0
墓あるだけまだマシかも。
近世の土方歳三やバロン西ですら遺骨の場所行方不明だぞ。
中国には周倉や貂蝉の墓があるらしいが日本にも弁慶や山本勘助の墓がある。
どこの国も同じなんやねー。
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 23:08:21 ID:lc4jcZTa0
>>433 >うちの近所に伝・某百人一首の歌人の墓ってのがあるけど
それは日本初のカーセ○クスをしたと伝えられる和泉式部でつか?
いいえ、坊主めくりでさいきょーの方です
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 12:54:35 ID:zfjVYaEn0
孫皓の代になって、
孫亮の代に義挙を起こして諸葛元遜を除こうと企てた孫弘を、陸凱が称揚してるよな。
でも孫弘って二宮の変で魯王覇に組して太子和を除こうと企ててた人で、
孫皓は太子和の息子で、言ってみれば「父親の仇をその息子の前で褒め称えた」わけだが、
こういう行為って儒的にはどうなんだろうね。
あと、どうして気に入らない部下は即ハンギングの孫皓が、なぜ陸凱を粛清しなかったんだろ。
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 05:42:14 ID:VbXUL3eD0
陸凱は孫権の時代でいう張昭みたいな存在では?
陸氏は呉にとって特別な存在だったから
>>443 >>444 つまるところ、ちょっとした癇癪でハンギングするような、出来るような相手ではなかった訳か。
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 16:30:10 ID:EkWEQ7Gw0
あ、それ聞いたことある
たしか陸家の陸遜だか陸抗だかが荊州の兵権その他もろもろを持っててその反旗を恐れて手が出せなかったらしい
陸凱は孫晧にとって尋常じゃないほど精神的圧力だったじゃないかな。
それこそ気が狂いそうになるほど。
最高権力者のはずの皇帝以外に皇帝が掣肘することすら憚るような異常な
権力を持ち、それだけでなくそれを表にだす男 陸凱。
俺が皇帝でもこえーわ。
皇帝って孤独だしさ自分の預かりしらないトコで手出しできない権力持った
何考えてんのかわからねぇ男がいるなんて。
あいつら祭り上げといて俺の事ハメようとしてんじゃねーのか・・
DAWN!くそが!どいつもこいつも信用できねぇ!みたいなw
出張るくせに自信がなくなるとすぐ退却する癖のある大皇帝よりも軍事面
の才能がありげで、尚且つ文才もある男。 この男が狂う原因こそ陸凱
だったんだよ。
陸凱は伝に載せきれないほどに事有る毎に上奏したらしいが…
伝に出ているような調子で毎回ネチネチとやられたら俺も狂ってしまうかもしれん。
皇帝てのは能力的に優秀でも、”猜疑心”の悪癖がある男は不幸で
あったり国を傾ける宿命なんだ。 孫晧は生い立ちからしてその悪癖を
背負うべく宿命付けられた皇帝だった。
ただ孫晧は呉の万里の長城である軍人達を粛清することはなかった。
末期の呉の士大夫ははっきいって状況を変えるほど使い物にならんのも事実。
すでに滅亡が迫ってる皇帝として即位し猜疑心に満ちた人生を送って
きた孫晧にして孫晧らしい皇帝ぶりだと思うよ。
崇禎帝とかもそうだが、皇帝として無能でなくても猜疑心癖をもった
男は絶対に皇帝にしてはならないのだ。 祭りあげた連中がアホ。
そいつらは粛清されてしかるべきカス士大夫。
渡邉さんが孫晧聡明説を唱えているが、咸はこれに同意か??
聡明は聡明でしょ
間違いなく
ただ、あの時期の呉には無用だった
利発ではあったろうね。
頭が良かっただけ、国の先や人の裏が見えて惑乱しちゃった感がある。
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 23:08:45 ID:tkkbL20w0
頭が切れる奴に限って暴君化する傾向がある。
金の海陵王完顔亮も暴君の代名詞みたいになっているけど、
若い時からかなりの切れ者だったようだし。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 00:58:21 ID:Xp2DwB9D0
いくら先が見えてるからって、その先をあえて早めるってのはどうなんだろ
精神の平衡を失った皇帝を取り除けなくなってる時点で、呉の命運はつきちょる
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 15:36:29 ID:UEoy0e2m0
自分は賢いけど、周りは馬鹿だと思い込むと暴君になる。
呉は豪族政権だと言われるけど結局皇帝権力集中が確立するずっと後代まで
豪族の制御は、前も後の時代もその時の皇帝1代の能力如何で決まる。
そういうシステムそのものが出来ていないからしかたがない。
孫晧もそこら辺の苦悩があったんじゃないかな。
霊帝も馬鹿と言われるが異民族侵攻には軍を送り(相手が異常に強すぎたため
負けた) 誕生していない皇帝権力システムのためにあがいた結果が
あぁなんじゃないかなと。
陸凱等、孫晧も結構似たような問題抱えた為+孫晧自身の能力的限界
とメンタルがあぁいう結果になったとか。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 11:44:14 ID:JVwclMTA0
霊帝はどうみてもバカ
歴史的な評価が暴君な皇帝は擁護しやすいけど、
暗君な皇帝の擁護って難しいよね。
顔の皮を剥ぐのって孫皓オリジナルの刑罰なのかな?
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 10:57:23 ID:gW/Np3/b0
呉の時代の国都の都市人口ってどれぐらいの規模だったんだろう?
東晋南遷時の金陵はかなりしょぼくなっていたみたいだけど。
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/16(土) 02:11:18 ID:B68kWw3p0
蔣欽と周泰ってどちらも濡須の督になっているようだけど
時間軸はどちらが先で後?
マルチすまん
>>462 三国時代は全般的に把握人口が激減しているということは、
一番把握しやすい都市部の人口がかなり減ったということじゃないかな。
呉の場合、十万人を超えるのは厳しいかも。
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 09:27:38 ID:Zq2kGA640
都市部の周りにスラム街 という可能性は?
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 20:44:21 ID:XR4CDyftO
スラム街が形成されるには それだけの温床がいるし
そもそも流民化するんじゃないか?
あ、単なる貧民街って事か
建業なんかは発展したはずだから、そこに流民が流入してスラム街というのはありえる。
貧民が密集するっていうのは、何とかやっていける仕事があるってことだから。
…近代や西洋中世のセオリーなら、だけど。
古代中国にスラムって生まれたのかなあ?
人口増加によって農村に土地が無いとか、農作物の輸入増加やモノカルチャーによって
食っていけないとかいう事情が必要だと思うけど、
中国だと豪族が吸収して農奴にしそうだ。
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:43:35 ID:dQJYHFY90
開発途上国なら大都市の周りにスラム街は当たり前
友達が上海に出張したら高層ビルのちょっと離れた所に
貧民街があったとのこと
建業は現代でいえばブラジリアみたいな計画首都だから
都市機能の周辺ではブラジリアと同じく貧民街に取り囲まれてそうだな
>>467 中国だと都市に住み着くよりも食料を求めて流民だと思う。
普通に奴隷にしそう
しかしスラムにしろ都市に住む以上、税の徴収その他圧力は受けざる
得ない。
税金を納めなければ労働や屯田なんかを強要されてもおかしくない。
呉の場合、南京にスラムというのは存在しなかったんじゃないかな。
スラムにならざる得ない人達は、官吏が容易に追跡できない山の中、
つまり山越化したと考えたほうが自然じゃないか?
少なくとも税金はおろか生活すらヤバヤバな人たちは。呉はまだ南宋
程度までの発展に遠いのはもちろん、人口増加率がそれほどでもないのを
考えると呉の税制度も旧態依然でのために人口や国家発展に適したものは
確立できなかったと。
徴税期→払えねぇ→山越化→税金確保のため討伐→殲滅困難→徴税期
というスパイラルになってたんじゃないのかな。
呉は南朝の土壌にはなったが、結局政治面で田舎国家から脱却できず洗練
されなかったので江南のポテンシャルを生かしきれなかったと。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 10:26:11 ID:z5f9vKMd0
江南の本格開発は南北朝以降だしなあ。
今の視野で、当時は推し量れないだろう。
473 :
p621894.tkyoac00.ap.so-net.ne.jp:2008/02/21(木) 11:15:09 ID:VJynlbvp0
a
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 11:16:34 ID:VJynlbvp0
catv77014.tac-net.ne.jp
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 01:58:12 ID:7yoM6/Vb0
山越は呉以後の南朝時代には絶滅?
孫権がほとんど駆逐し、自国民として取り込んだらしいね。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 23:39:56 ID:ZPFDdq19O
山越の生き残りが日本の北陸地方に漂着
絶滅というか同化だろうな。
鮮卑もそれで消滅したし、今の満州族もそうなりつつある。
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 14:05:01 ID:UzGg7OyTO
陳ウは県レベルの勢力だったのに、
なんで安東将軍と言う高い官位を与えられてたんだ?
こいつの官位の高さが謎。
江南を支配しているの孫策は討逆将軍・会稽太守で、
陳ウより格下の官位しか与えられてないのに。
あと、陳ウは呉郡太守も兼任していたようだけど、
朱治の呉郡は曹操には公認されてなかったのかなあ?
陳ウは陳球の息子だし、陳珪陳登父子のボスだからな。
袁術や孫策との対立はその辺りもからんでんの?
その可能性はあると思うな。
袁術は陳珪にラブコール送ってすげなく断られてる。
おそらく両氏は父祖代々の付き合いがあって、袁術はその関係を頼りにしたんだろう。
しかし陳珪は曹操を選んだ。
袁術が揚州を攻撃したのはその関係なんじゃないかな。
どっちが先になるか知らんけど。
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/06(日) 00:28:42 ID:6FEF3Feo0
陳登は陳珪よりも先に死んだ?
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/29(火) 19:33:28 ID:TrnY+dVm0
今日もくっせーなこの腐スレ
呉というだけで腐ですか
思考停止ですね
わかります
腐女子がこんな議論できるわけがないだろw
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/14(日) 15:51:48 ID:LVc0AAbd0
曹操や劉備は1代で成り上がったけど
孫家は3代で軍師も上手く移行していくんだよなw
>>485 韓国なんて国は無い
三国人といったら中国・朝鮮・台湾人
基礎知識な
7はなさそうだな
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/17(土) 23:52:49.91 ID:7T/PgLL/0
陸氏や二張、魯粛ってみんな袁術の勢力圏からやってきた人物だよね
孫家を監視する役目を内緒で与えられた人たちもいるんじゃないだろうか
虞翻が相当な基地外っぷりを発揮してるのは
孫権の時代になって周瑜を重用してるのに自分がシカトぎみだからなん?
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/19(水) 11:40:22.70 ID:IlLmDvEG0
燭と呉が一緒に北伐する構想とかは無かったのか?
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/20(木) 15:49:03.62 ID:dxvW4+Z50
あったというか
実際に蜀の北伐の時は呉も同盟国として連携攻撃はしてる。
ただあんまりうまくいかなかった。
あの時代に手に手を携えてお互いにいいタイミングでって難しかっただろうしなあ。
国内の問題もいろいろあっただろうし。
蜀とではないが、一番連携取れて行動できてたらって思うのは諸葛誕の乱のときか。
国内が荒れてない&もっとましな君主だったら…。
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/14(日) 05:59:37.53 ID:0ldkNOM/0
クラッシックプラグマティストアブラカレー
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いつも不思議に思うけど
赤壁の戦いで勝利したら、それまで反対してた人たちは立場を失って
活躍した将は、我が物顔で歩くもんだけど
戦勝後も反対派の文官は呉の政権で影響力あったのは孫権の器量による所?
孫権は降伏論者だった張昭のことを根に持ってたけどね
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/12(日) 11:02:04.03 ID:LqvXidq90
>>499 反対派の文官排除したら支配地域の統治が立ち行かなくなるぞ
>>499 魯粛も軍部側と考えれば,文官で抗戦派はいなかったのではないか。
だったら孫権と軍部の発言力が増すだけで,文官の立場に大きな違いがない。
大勢が降伏派だったのは確かとして、降伏を主張したとされる具体的な人物というと張昭と秦松くらいしか思いつかない
仮に演義のように陸績や虞翻も主要な降伏派だったとすると、それが後の左遷に繋がった可能性もあるかも
>>501 反対派の文官を排除して
新人の文官を作れば良いだけじゃね
反対派が少数ならそれもできたが軒並み反対されたからなw
赤壁当時は呉に名声ある武官は孫堅4天王と周瑜ぐらいしかいないのかな?
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/27(月) 00:45:27.94 ID:7L3fiqB70
>>506 征虜将軍 孫賁
平南将軍 孫輔
扶義将軍 朱治
とかは孫権と同格もしくは上位の武官
なので周瑜や程普や呂範よりも明らかに格上の武官
他には
揚武将軍 呉景
平虜将軍 徐琨
とかも孫権と同格以上の武官だったが
赤壁の頃には既にお亡くなるになってる
彼らの官職は曹操から任ぜられたもので、孫権の配下では無くて一種のライバルだね
実際孫輔は曹操と内通して流罪、孫賁も帰順しようとして朱治に留められているし
それを踏まえて考えるに、孫策死後孫権が一定の求心力を保てたのには朱治が従ったことが大きいと見る
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/10(月) 10:49:49.14 ID:oXFe0Oq90
赤壁時の呉軍のトップは朱治と言っても過言でもないようだな
呉郡の名士で中では一番の武功を誇っているし
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/29(月) 19:41:51.44 ID:aeTRYKEB0
孫策&孫権は位が低いのが生涯のコンプレックスだったのかな
でも20代で将軍&太守だったから年齢考えるとかなりの出世だったと思うけど
ただでさえ南方だから中央からは馬鹿にされてたしな
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/14(土) 22:26:25.63 ID:rXP2nHV70
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/15(日) 07:51:10.64 ID:CPfPrDCMO
いくらなんでも漢全盛期の有能&外戚の身内と後漢末の南方の豪族連合の一親分じゃあねぇ…
そりゃ比較するのが酷でしょうに。
514 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/21(土) 00:37:35.51 ID:MlEYXUm30
漢臣としての功績も皆無だし、魏にとってあまり脅威にもなってないし、中央からは軽んじられても仕方ない
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
>>512 霍去病は、王、皇帝になってないぞ。
最終的な位は、孫策&孫権の方が上。