☆☆「読書交換日記 《3冊目》〜長文歓迎〜」☆☆

このエントリーをはてなブックマークに追加
1吾輩は名無しである

本の読了後の感想、意見などを「読書交換日記ふう」に綴るスレです。
長文歓迎します。
荒らし予防のためにも「sage」進行でお願いします。

【前スレ】
☆☆「読書交換日記 《2冊目》〜長文歓迎〜」☆☆
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1143986357/
2 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 22:33:52

1です。

新スレも前スレ同様、どうぞよろしくお願いいたします。

前スレで、一定期間内に20レスつけないと即死判定と伺いましたので、
頑張って感想文をつけたいと思います。
文学板の連投は5レスまでですので、ひとつの感想文で間が空きますが
どうかご了承ください。
3 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:01:17

以下、感想文です。

ブローティガン『西瓜糖の日々』の感想です。
浮遊感のある不思議な世界観を持つ作家ですね。
この世のどこにもない世界で暮らす人々の日常が、日記風にごく短い章に
分けて淡々と綴られています。
人々の関係も濃密さはなく、さらさらと砂が流れていくような淡い関係です。
解説では1960年代のヒッピー族、フラワー・チルドレンの先駆けとして
書かれた作品であり、60年代に入って大ヒットした、とあります。
そうした時代背景を知らずに読んでも充分楽しめる作品だと思いました。

「失われた世界」、「虎の時代」そして、今のアイデスの時代。
おそらく「失われた世界」とはかつての私たちが住んでいた世界ですね。
すなわち、繁栄した文明と法治国家。
そして、次の「虎の時代」とは、弱肉強食の無法地帯。
アイデスとはかつての文明や法が崩壊し、また次の時代が弱肉強食ゆえに
仲間うちで殺戮が繰り返された結果、簡素な生活と仲間内で助け合って生きようと
集まった人たちがつくりあげたユートピア。
ユートピアの真の意味は、どこにもない国。
そう、アイデスとはこの地上のどこを探しても見つからない国なのですね。


(つづきます)
4 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:02:04

解説で柴田元幸氏はアイデスの名前から「死」の世界を連想する、と書いて
おいででした。確かにこの世のどこにもない世界、次の世界とは死の世界
なのでしょう。。。
わたしはアイデスとは人々の観念、空想がつくりだした架空の世界だと
思います。つまり、実体のない世界。そこでは血も流れない、労働しても
汗をかくこともない、棺は永遠に消えない灯りに囲まれて美しく彩られたまま
時がとまっているかのよう。それゆえ死体は腐臭を発することはない。
従って人々の感情も淡いものであり、濃密な感情に襲われた住人は必然的に
アイデスからはみ出してしまうのです。
たとえばかつての「私」の恋人マーガレットは、「私」がポーリーンにこころを移して
しまった途端に激しい嫉妬の嵐に襲われます。
そして、その日から「失われた世界」へと急速に惹かれていきました。
また、日々穏やかに過ぎていく世界に物足りなさを感じたインボイルと彼の仲間
たちは、刺激を求めて「失われた世界」の残骸を集め始めるのです。
強烈で何もかもが色濃く覆われていた「失われた世界」。
酒、タバコ、ドラッグ、感覚を高揚させ狂わせるものたちが充満していた世界。


(つづきます)
5 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:02:45

アイデスの世界ではあらゆる感情が希薄で、悲しみさえも淡くとおりすぎて
いくかのようです。
無論、悲しみを濃く味わいたい人間などこの世にひとりもいないでしょう。
けれども、それは例えば人の死を悼むという深い感情も失われてしまうことに
他ならないのですね。
うろ覚えですが、吉本ばななさんが新聞のコラムでこんなことを書いていました。
「今の時代は悲しみに深く向き合おうとしない時代です。
淡い関係こそがお洒落であり、ひとつの関係が壊れても替えはいくらでもある。
人々は悲しみを避ける術が上手くなり、親しい者の死にもきちんと向き合わない。
ヒーリング、娯楽、、、手を伸ばせば何と簡単にそれらは手に入ることだろう。
けれども、そうしたものは一時的なものに過ぎず、必ずあとでしっぺ返しがくる。
人は悲しみに対してきちんと対峙しないと、次の段階には決して進めない」

例えば「私」が子供の頃、目の前で両親を虎に食い殺されたこと。
虎は「すまない。こうしないとわれわれも飢えて死んでしまうのだ」と言います。
「私」は目の前で両親を殺された悲しみときちんと向き合えたのでしょうか?
いいえ、おそらく「私」がとった手段はアイデスという架空の国への逃避でしょう。
あまりにも悲しみが大きすぎたとき、人は自分のこころを守るために悲劇は
なかったことにしようとする心理がはたらきます。


(つづきます)
6 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:04:11

そしてケアされなかった悲しみは、同じように悲しみを持つ人たちを呼び寄せて
ひとつの王国をつくりあげるのです。
その国は、西瓜のように甘すぎず、希薄な関係を好む人たちの集まり。
気づいてます? 西瓜って甘くないのに鮮やかな赤い色をしているでしょう?
あの赤はね、血の色、情熱の色なんですよ。
生きている証し、それが血の色。こころが動く瞬間の激しい迸りの激情の色。

インボイルは指を切り落とし、アイデスの聖地・鱒の孵化場を血で染めて
死んでいきました。マーガレットは林檎の木に首を吊って自殺しました。
西瓜糖の大地の下には虎が埋まっていることをどうか忘れないで。
生きるために人間を食い殺した獰猛な虎の魂は、アイデスの世界で腑抜けの
ようになっている人々に呼びかけます。
目覚めよ! 眼を覚ませ! そしてよく眼を開けて辺りを見るんだ。
おまえがいる地はまやかしの国だ。嘘で塗り固められた平和だ。

ところで、鱒はライ麦畑の番人のように、人間の見張り役なのでしょうか?
アイデスから落ちこぼれる人たちを普段は静観していて、時々気まぐれに虎の魂を
吹き込んでいるような……。


(つづきます)
7 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:05:02

虎の魂を吹き込まれた人間はマーガレットやインボイルのように血の気が多くなり
アイデスから離れていきます。
これ以上人口がふえぬための、それはひとつの自然の摂理なのかもしれません。。。

どこにもないとわかっているのに、どうして人はユートピアを求めるのでしょう?
もし仮に探しあてたとしても、その瞬間からユートピアはユートピアではなくなります。
そうしたら、また新たなユートピアを求めずにはいられなくなるだけなのに、、、
理想郷が神の住まう平穏な国とすれば、イエスはいみじくも言いました。
――さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、
イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものでは
ありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものでは
ありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」――
(ルカ17章20 -21節)

夢見るようなやさしい、ほんのり甘い西瓜糖の世界。
だけど、一皮向けば血で塗り込められた凄惨で残酷な美しい世界。
指を切り落とした血で染められた西瓜をあなたは平然と食べられるでしょうか?
つるつるした舌触りの西瓜の種は実は針かもしれませんよ。
あなたは、何の疑問も抱かずに目の前の西瓜を食べられますか?
そう、これは西瓜糖の住人になれるかどうかの「踏み絵」なのです。
え? わたしですか? わたしならば**********です。そう、あなたと同じです。


……西瓜糖で灯されたランタンの橋を渡り、今宵こそ夢の世界に出発ですね。
8 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:37:20

ブッツァーティ短編集『待っていたのは』読了しました。

恐怖小説、SF小説、不条理小説、となかなかバラエティに富んだものが所収
されています。

なかでもとりわけ表題の『待っていたのは』は苛立ちを残す作品です。
ひと組の男女がとある街に降り立ち、すべてのホテルから拒否されます。
連れの女性は暑さのあまり涼をとりたくて公園の噴水のなかに入ります。
周囲の人々が彼女を咎め立て、連れの男性共々見せしめの檻に吊るされ
挙句の果ては唾やら汚物を浴びせられる……。
なぜ、そうされなければならないのか、詳しい説明は一切書かれていません。
……もし、この男女がこの街ではなく他の街に降り立っていたとしたら。
……もし、あのとき彼女が噴水のなかに入らなかったならば。
この世の出来事はあらゆる偶然によって引き起こされるのです。
そして、その偶然を引き起こしているなにものかがいる。
そのなにものかにとって、偶然とは必然なのですね。

ブッツァーティはそうした予測不可能な偶然によって引き起こされた必然としての
結果がもたらす暗部をとりわけ好んで描くのです。
偶然という意地の悪い運命のいたずら、迷路にふとしたことで迷い込み、
転落していく人間の姿をある種の諦念を込めて描く作家ですね。


(つづきます)
9 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:38:09

『夕闇の迫るころ』は、狡猾な手段で高い地位にのし上がった男が、
廃屋で子供だった頃のかつての自分に遭遇するお話。
少し教訓めいていますが、少年だった彼が理想として描いていた未来の自分との
あまりの隔たりに愕然とするも、時を取り戻すことはできず、男はひとり夕闇の
なかで絶望的に佇むしかすべがない……。
我欲と名誉欲が強い男が最後に手に入れたものは、深い孤独だけ。

ブッツァーティは人間の孤独についても深い観察眼をもって描き出します。
孤独とは他者との関係云々以前に自分が満たされていない状態。
家族や伴侶、親しい友人たちに囲まれていても、疑心暗鬼だったり
こころが通い合わずに空虚な状態を指すのですね。
自分で自分を認めてあげることができない、つねに何かに餓えていて充足する
ことがない。欲望が深ければ深いほど、孤独の度合いも深いといえましょう。


(つづきます)
10 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:38:48

『夜の苦悩』
病気の弟の枕元に毎夜立つ死神。兄は何とか死神を部屋に入れまいとしますが
死神はどんなに扉を堅く閉ざしてもどこからともなくするりと忍びこんでくるのです。
幾夜もそんな夜がつづいたある夜、兄は死神が眠っているのを見ます。
ようやく待ち望んでいた夜明けの光が射し、ふたりは死神がどこか遠くへ行った
ことを知り、喜びを分かち合うのでした。

ブッツァーティの作品にしては珍しく最後は希望に満ちています。
夜、闇、病がもたらす幻想的な恐怖を描いています。
死というものの前で人間はなすすべはありませんが、それでも時折奇跡は起こる。
神の恩寵によるものか、はたまた死神が年若い命を奪うのは気が引けたのか。
朝の光は天の国の光のように歓喜にあふれ、ふたりの兄弟を祝福します。
それは、ふたりが幾夜もつづいた夜の恐怖から解放された証でもありました。
ここでブッツァーティは人間の幸福について、言及しています。
そう、幸福とは自分を取り巻く苦悩が取り去られた瞬間にこそ訪れる。
逆説的ですが、毎日が平和で穏やかな人には、そのようなあふれる幸福感を
味わうことはできない。人生において願わしくない課題を与えられ、その課題から
解放された瞬間の喜びはなにものにも勝る幸福であると。
それは、曲がりくねった険しい山道をひたすら歩き続ける人の前に何の前触れも
なく、いきなりふいに眺望が開けた瞬間の喜びに似ています。
爽やかで清々しい朝の光。幸福とは明け方の光に象徴されているのですね。


(つづきます)
11 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:39:32

『戦さの歌』
勝利しているにも拘わらず兵士たちの歌う悲しい調べ。
王でさえも彼らの歌を止めようがありません。
戦勝に浮かれた王は、戦さを終結するどころか兵士たちをさらに先へ先へと
行進させます。
そして、気の遠くなるような年月が流れ、兵士たちが行進した跡にはあの悲しい
歌の詩のままに十字架が列をなしてどこまでもつづいているだけ……。
いくら勝利しているとはいえ、人が向かう先は最終的には死であるのです。
誰も死を阻むことはできない。
兵士たちは誰に教わるでもなく、そのことを知っていたのでした。
知らぬはただ王ひとりのみ。。。
勝利がもたらす喜びは、確実に待ち受けている死を思うとたちまち吹っ飛び、
暗澹とした気持ちに襲われてしまう。
兵士たちが悲しい歌を止めないのは、この行進は死へとつづいているから。
この世の権勢を誇る王でさえ、やがては朽ちて土に還る。
この世はまさしく、諸行無常……。
今日もどこかの見知らぬ国で兵士たちの悲しい調べは延々と流れる。


(つづきます)
12 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/09(土) 23:40:09

『アナゴールの城壁』
これはまさしくカフカの『門』をほうふつとさせます。
人々は行列をなして門の前で門が開くのを待っていますが、なかなか開かない。
幾年か前に、たった一度だけ門は開き入ったのはひとりだけ。
それも開いた門は数ある門のなかでも最も小さくみすぼらしく誰もが省みない門。
そこにたまたま訪れた男は数秒も待たずに中に入りました。
何年も待ち続けた人々は唖然と見送るのみ。。。
最後には教訓としてこんな一文が。
「あなたは人生で多くのものを求めすぎるのですよ」

ブッツァーティの作品の特徴として、登場人物たちはふとした運命のいたずらで
転落したり、待ちぼうけを食らったり、延々とつづく荒野をさすらったり、
命が尽きるまで迷宮をさ迷うはめに陥ります。
彼らの運命の糸を操っているのはいったい誰なのか?
人智を超えた大いなるもの(=プロンプター)でしょうか。
彼(=プロンプター)が気まぐれにほんの少しサイコロを振るだけで人の運命は
大きく変わります。それも一瞬で。人生が、流れが激変します。


(つづきます)
13 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:09:10

彼(=プロンプター)の出来心できられたカードには、瞬時に変えられた人の
運命が記されています。スペード? キング? それともジョーカー?
そのカードを見て彼(=プロンプター)の脳裏には、どんな想いがよぎるのでしょう。
あまりにもたくさんの人々のカードをきりすぎて、感情は麻痺してしまったので
しょうか。彼はいったい何を思い、また今日もひとりでカードをきるのでしょう?
彼には人生を狂わされた人々の慟哭が聞こえるのでしょうか。
わたしは知りたい。彼にはこころがあるのでしょうか?
あるとしたら彼のこころは、どんなかたちをしているのでしょう?
わかっているのは、彼は人間よりもずっとずっと孤独な存在であるということ。

運命のカードをきる者のこころのかたちとは?
映画「レオン」のエンディングに流れていたスティングの《Shape of My Heart》
(私のこころのかたち)のyoutubeを見つけたのでupします。

映画「レオン」の映像も合わせてお楽しみください。↓
http://www.youtube.com/watch?v=88uy47jylTo

こちらはスティング本人の動画 ↓
http://www.youtube.com/watch?v=KX4jAplZb0Y
14 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:11:29

< Shape of My Heart / STING>

He deals the cards as a meditation
And those he plays never suspect
He doesn't play for the money he wins
He doesn't play for respect
He deals the cards to find the answer
The sacred geometry of chance
The hidden law of a probable outcome
The numbers lead a dance

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart

He may play the jack of diamonds
He may lay the queen of spades
He may conceal a king in his hand
While the memory of it fades
15 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:12:23

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart

And if I told you that I loved you
You'd maybe think there's something wrong
I'm not a man of too many faces
The mask I wear is one
Those who speak know nothing
And find out to their cost
Like those who curse their luck in too many places
And those who smile are lost

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart
16 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:13:42

【訳詞】

< Shape of My Heart / STING>

瞑想するように カードをきる男
賭ける者も その手先に信用を置く
彼の勝負は 金のためではないから
媚びた競い方もしない
カードをきるのは 答えが欲しいから
聖なる奇跡にも似た 幾何学的な偶然
予測可能な結果 隠された法則
誰もが 数字に踊らされてゆく

僕は知ってる
スペードは 騎士(ナイト)の剣(つるぎ)
クラブは 戦いに備える武器を意味する
ダイヤは この芸術に捧ぐ金の輝き
だけど どれも僕の心を かたどりはしない
17 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:14:52

ダイヤのJackを 使うだろうか
スペードのQueenを 手放すだろうか
行き交う記憶の狭間で 彼がその手に隠すのは切り札
キングかもしれない

僕は知ってる
スペードは 騎士(ナイト)の剣(つるぎ)
クラブは 戦いに備える武器を意味する
ダイヤは この芸術に捧ぐ金の輝き
だけど どれも僕の心を かたどりはしない

……違う
僕の心を埋めるのは そんなものじゃない
もしも「愛している」と伝えたら
君は信じるよりも 驚くだろうね
仮面を使い分ける器用さのない僕だから
身に付けた「顔」は ひとつ
18 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:31:55

知識ばかりで良く話すやつほど
ほんとうは何も知らない
そのうち 大きなしっぺ返しをくらう
人をうらやんでばかりの 不幸自慢をする奴らと同じ
そしてただ微笑む者は 道を見失う

僕は知ってる
スペードは 騎士(ナイト)の剣(つるぎ)
クラブは 戦いに備える武器を意味する
ダイヤは この芸術に捧ぐ金の輝き
だけど どれも僕の心を かたどりはしない

……違う
僕の心を埋めるのは そんなものじゃない
19 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:32:40

連投失礼致しました。

今日はこの辺で失礼します。
皆さま、すてきな日曜日をお過ごしください。
おやすみなさい。

――それでは。
20 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:16:39

すみません。

前スレが途中のまま、
「このスレッドは512KBを超えているのでこれ以上は書けません」とメッセージが
でてしまいましたので、改めて『虹を架ける』2レス分をこちらに書かせて
いただきます。
21 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:42:45

前スレの途中で容量を超えてしまいました。。。
以下、美智子皇后様が子供時代の読書の思い出を語られた『虹を架ける』の
抜粋です。

――だ小さな子供であった時に一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことが
ありました。不確かな記憶ですので今恐らくはそのお話の元はこれではないかと
思われる新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。

でんでん虫はある日突然自分の背中の殻に悲しみが一杯つまっていることに
気付き友達を訪ねもう生きていけないのではないかと自分の背負っている不幸を
話します。友達のでんでん虫はそれはあなただけではない、私の背中の殻にも
悲しみは一杯つまっていると答えます。
小さなでんでん虫は別の友達、又別の友達と訪ねて行き同じことを話すのですが、
どの友達からも返って来る答は同じでした。そして、でんでん虫はやっと悲しみは
誰でも持っているのだということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなければならない。

この話はこのでんでん虫がもうなげくのをやめたところで終っています。
あの頃私は幾つくらいだったのでしょう。母や母の父である祖父、叔父や叔母たち
が本を読んだりお話をしてくれたのは私が小学校の2年くらいまででしたから、
4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。
その頃私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。


(つづきます)
22 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 21:17:12

だからでしょう。 最後になげくのをやめた、と知った時、簡単にああよかった、と
思いました。
しかし、この話はその後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、
もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていた
のでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは
済まされなくなりました。生きていくということは楽なことではないのだという、何とは
ない不安を感じることもありました。

どのような生にも悲しみはあり、一人一人の子供の涙にはそれなりの重さが
あります。
私が自分の小さな悲しみの中で、本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。
本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、
他者への思いを深めますが、本の中で過去現在の作家の創作の源となった喜びに
触れることは読む者に生きる喜びを与え、失意の時に生きようとする希望を取り
戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。――美智子皇后・『虹を架ける』より

「でんでんむしのかなしみ」新美南吉 ↓
http://nagoya.cool.ne.jp/ksc001/snail.htm


――皆さま、よい読書の旅を!
23SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/10(日) 23:31:38
Cucさん、新スレ出産おつかれさまでした!

ブローティガンについて少し。
>ごく短い章に分けて淡々と綴られています。
ブローティガンの作品は断章形式が多いですね。
『西瓜糖』も『鱒釣り』も『ビッグ・サー』も『芝生の復讐』も。
「西瓜糖」や「鱒」や『ビッグ・サー』の「鰐」などを象徴的に掲げ、
独特の文体で独特のファンタジックな世界を紡ぐブローティガン。
難しいことを考えずに音楽を聴くように読める作品ながら、
いつも読後に不思議な余韻を残してくれます。

>どこにもないとわかっているのに、どうしてユートピアを求めるのでしょう?
《アイデス(iDeath)》は観念(idea)の国ですが、
「私」の死(Death)の国でもあるのでしょうね。
どこにもないからこそ求められるユートピア――。
「どこにもない」という意味を持つユートピアは,
その定義からしてどこかにあってはならないのでしょう。
24SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/10(日) 23:38:25
ブッツァーティについても少し
>人智を超えた大いなるもの(=プロンプター)でしょうか。
ブッツァーティには『偉大なる幻影』というSF的作品もありますが、
そういう《何か見えないもの》をテーマに書くようなところは、
『タタール人の砂漠 』にも共通していますね。
『待っていたのは』や『七人の使者』という短編集でも
不気味なもの=不可視なもの、を描くのがなかなか達者。
ブッツァーティの『ある愛』は未読なので、
来年はぜひ読んでみたいなと思ってますヨ。

「アナゴールの城壁」という短篇について
>これはまさしくカフカの『門』をほうふつとさせます。
と書かれていましたね。
ブッツァーティの作品のトーンやテーマには
時々カフカを彷彿させるものがありますが、
『タタール人の砂漠 』を読んだときも、
たしかカフカ「万里の長城」を想起させられた記憶が。  〆
25SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/10(日) 23:42:24
追伸

スティングのリンクどうもありがとう。
スティングを聴いていると
黄昏時に橋の上から川の流れを眺めているような雰囲気に
なぜかなってしまうのでした。  〆
26(OTO):2006/12/12(火) 14:22:29
アク禁で遅れた。すまん。

Cuc乙。SXY乙。いよいよ3冊目か。先日「私についてこなかった男」の
2人の感想を再読しようと思い、1スレ目を読み始めたら、
ついつい現在まで通読してしまったが、感慨深いものがあるなww
これからも、2人ともよろしく。できるだけ続けていこう。

前スレ末尾の「不可能なもの」と「私についてこなかった男」に関するCucの
感想・返レス、非常に興味深く読んだ。バタイユにおける信仰のかたちを見据えた上での
読みは、もうかなり完成しているようで、安心して読める。文章ものびやかで
Cuc独自のの「口調」と「持っていきかた」が自然に出ているなあ、と感心。
そして書かれたことに寄り添うように漂う、書かれていないことをさえ
我々は読むものだ。書いた者の生きる「世界」。やわらくいえば「ひととなり」と
言えばいいのだろうか。誠実さややさしさが深いところから伝わってくるな。
それは美智子皇后の「虹を架ける」の引用にも感じる。
「その箇所」を静かに切り取り、貼る「手」のやさしさ、というのかな。

おれは、1スレ目だったかな?SXYのあざやかな引用に感心して以来、
感想文でも引用を多用するようになったが、同一であるはずの原典が
読む者の引用、そのサンプリングによってさえ違うテクストのように機能するのは
おもしろいと思うな。

>自分以外の人が書いた文章を再認し、自身の言葉で再構築する行為とは、
>結局は読み手であるわたしの一方的な思い込みや誤読に過ぎないものかもしれず、
>また、再構築された言葉とは自分の世界でしか通じないものなのかもしれません。
>なぜなら、作家がとらえた世界・それを構築した言葉と、それを読んでわたしが感じ、
>とらえた世界とでは当然ながら差異が生じるからです。 (前スレ504、Cuc)

「感想文」という言葉の持つ個人的なニュアンス。同意や差異を楽しみ、
それぞれのパルタージュを尊重しながら、ゆっくりと続けていきたいね。
んじゃまた。まだこのスレの上の方読んでないんだww
ゆっくり読ませてもらうよww
27SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/16(土) 23:13:43
>1スレ目を読み始めたら、
何を書いていたかはほとんどの忘却の彼方。
どうも人より多く頭の中に消しゴムがあるようで。。。
OTO氏のいう「あざやかな引用」なんてあったかな?
という感じではあるのだけど、どうもありがとう。

>同意や差異を楽しみ、
>それぞれのパルタージュを尊重しながら、
まったくの同感。
差異があるからこそ理解しようとする欲望も沸き、
二人への尊敬、といえばおおげさかもしれないけれど
それに似た感情を持ってしまうのだから。  〆
28 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:46:31

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>23-25

さっそくいらしていただき、ありがとうございます!
このスレもどうぞよろしくお願いします。

>難しいことを考えずに音楽を聴くように読める作品ながら、
>いつも読後に不思議な余韻を残してくれます。
そうですね。コージー・コーナーのような心地よい空間のなかで聴く音楽は
そよ風のようにこころを和ませ、いつしかまどろむとそこは異次元の世界へ
つづく扉が。
「不思議の国のアリス」のように、わたしたちは次々に扉を開けてゆきます。
扉を開けるたびに違う世界があり、最後の扉を開けたとき、そこに見えるのは
砂と岩だけの砂漠だったり、あるいは一面の海だったり、雪景色だったりと
色のないモノクロームの世界に立っている自分に気づきます。
寂しさと、なつかしさで胸がしめつけられるのです。
眼前に広がる世界はわたしの記憶がつくりだしている世界。
追憶の世界に入り込めるのはわたしだけ。。。

ブローティガンはそんな不思議で物静かな世界をつくりだす作家ですね。
29 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:47:17

>不気味なもの=不可視なもの、を描くのがなかなか達者。
本当にその通りですね。
ひたひたと音もなく忍び寄ってくる気配のぞっとするような怖さ、
正体不明の何者かが迫ってくるのがわかっているのに逃げられない恐怖を
描くと抜群に筆が冴えますね。

>ブッツァーティの『ある愛』は未読なので、
>来年はぜひ読んでみたいなと思ってますヨ。
あ、わたしもぜひぜひ読んでみたいです!
年明けに図書館にリクエストする予定ですヨ♪
そしたら、またこのスレで同じ本についての感想を語りあえますね。
今から楽しみにしておりますヨ。
30 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:47:56

>スティングを聴いていると
>黄昏時に橋の上から川の流れを眺めているような雰囲気に
>なぜかなってしまうのでした。
ああ、とても綺麗で素敵な表現ですね!
そうですね、哀愁を帯びた彼の曲は、どこかもの悲しくて、せつなくなります。
込み上げてくるものがありますね。
灰色の凍えた冬空にせいいっぱい翼を広げて飛び立つ鳥を見て
湧きあがってくる愛しさに似た感情。
ロックってもっとこう、ハードなものなのかな、と思っていたのですが、
こんなにも切々とした美しい調べもあるのですね……。

もの思いに沈んだとき、この曲を聴けばカタルシスに浸れます。。。
そして、思い切り沈んだらあとは静かに浮上するのを待ちましょう。
31 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:48:30

(OTO)さん

>>26
ようこそ、新スレへ! このスレもよろしくお願いします。

>バタイユにおける信仰のかたちを見据えた上での
>読みは、もうかなり完成しているようで、安心して読める。
ありがとうございます! とてもうれしいです♪

>やわらくいえば「ひととなり」と言えばいいのだろうか。
>誠実さややさしさが深いところから伝わってくるな。
ここを読んでうれしさのあまり泣きそうになりました……。
こんなふうに言っていただけて、ほんとうにとてもうれしいです。
ああ、言葉にしていないところまで丁寧に読んでくださっているのだなあ、
書くことの不安と怯えを払拭させてくれる揺るぎない友情と、
寛容であたたかなまなざしに守られているのだなあ、と。
ありがとうございます。

>同一であるはずの原典が読む者の引用、そのサンプリングによってさえ違う
>テクストのように機能するのはおもしろいと思うな。
そうですね。人それぞれの感じ方や引用部分が異なるからこそ、面白い。
あ、そんなふうにも読めるんだ。う〜ん、さすが鋭いところを突いているな、と
互いに刺激され、それを糸口にそこからまた「新たな読み」が始まります。
おそらくこれは弁証法に近いのではないかと思います。
32 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/17(日) 18:49:02

行きつ戻りつの対話は、一見戻っているようで実は登山鉄道のように、
最初の地点より高度は上がっている。それも確実に。
レールの終点は次のより高い地点を目指す始点でもあるということですね。
何だかブランショの「終わりなき対話」みたいですね。
だからこそ彼は「今、終わりと書く」と記してあえて終わらせたのですね。
ほんとうは終わっていないのに。書かれていないだけで対話はつづいているのに。

>「感想文」という言葉の持つ個人的なニュアンス。同意や差異を楽しみ、
>それぞれのパルタージュを尊重しながら、ゆっくりと続けていきたいね。
はい。これからも急がずに互いのペースを守りつつ歩みましょう。
本の読み方はそれこそ人の数だけあり、それはその人の今までの人生の
歩みそのものです。ですから、ひとつとして同じものはない。
真摯に綴られた感想とはその人の人生観、軌跡であるならば
どのような人の人生も、わたしにとっては未知の世界との出逢いであり、
新しい発見であるのですね。
そうした出逢い、発見を大切にしていくことが、パルタージュを尊重することなの
でしょうね。

先週、感想文をどっとつけたので、今日はおふたりに返レスのみにしました。
ブッツァーティーの「七人の使者」の感想は次回にupする予定です。

――それでは。
33SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/21(木) 23:57:28
>ブローティガンはそんな不思議で物静かな世界をつくりだす作家ですね
ブローティガンより前に高橋源一郎の初期の作品を読んでいたので、
ああ、源一郎のルーツにはブローティガンがいたのか、と感じたっけ。
ちょっといびつでなげやりで、それでいてリリカルなファンタジー。
二人とも根っこには詩があるのかな。

>年明けに図書館にリクエストする予定ですヨ♪
ギクッ。Cucさんは読むのが早いからなあ。
ちょっとハンデをもらわないと追いつけないかも。
とりあえず読み始めたら報告しますね。

実は今、いくつかの写真論に手を出し始めたところで、
ベンヤミン『写真小史』、ソンタグ『写真論』、
そしてバルト『明るい部屋』を遍歴する予定。
これは特に文学とは直接の関係はないけれど。  〆
34 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:15:12

>>33
SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>ブローティガンより前に高橋源一郎の初期の作品を読んでいたので、
>ああ、源一郎のルーツにはブローティガンがいたのか、と感じたっけ。
そうなのですか? わたし高橋源一郎さんの作品は未読なんですよ。
初期の作品を中心に読んでみたいですね。

>ちょっといびつでなげやりで、それでいてリリカルなファンタジー。
>二人とも根っこには詩があるのかな。
そういえば、ブローティガンは詩人でもあるのですよね。
高橋源一郎さんが詩作をされる方かどうかは知りませんが、
詩が好きならば充分読んでいた可能性が考えられますね。

>ギクッ。Cucさんは読むのが早いからなあ。
いえいえ、最近は平日の夜は全然読んでないんですよ〜。

>とりあえず読み始めたら報告しますね。
はい。よろしくです♪ また同じ物語について語り合えたらいいですね。
35 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:15:44

>ベンヤミン『写真小史』、ソンタグ『写真論』、
>そしてバルト『明るい部屋』を遍歴する予定。
写真論ですか! これはまた多趣味ですね。
わたしは写真のことはよくわからないのですが、江戸東京博物館で
開催されていた荒木経惟の写真展「東京人生」を先月鑑賞してきました。
中年女性の顔だけのアップとか、なかなか多彩に富んだ作品でした。

こちらにカキコするのは年内で今日が最後になりそうです。
SXYさん、OTOさん、そしてROMされている皆さま、
少し早いですが、良い年末年始をお迎え下さい。
来年もよろしくお願いします。
年明けにまたお逢いしましょう。


以下、今年最後の『七人の使者』の感想です。
36 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:16:30

『七人の使者』の感想を記します。

ブッツァーティーの短編集です。
このなかでもっとも有名なのがSXYさんがコメントされていた『七階』。
ひとりの男が少し熱があるので某有名な病院に診察にいくと、
次々と階を降ろされていくというお話しです。
訳者の脇功氏が解説で指摘しているように、軽症だと本人には思わせておいて、
実は重症でした、というオチのある話。
わたしは各階とは人生におけるその人の年齢の象徴だと思えました。
例えば七階が三十代と仮定します。まだまだ身体は二十代には負けないという
自負心があります。ところがそう思っているのは本人だけで、身体は確実に
三十代なのです。本人はまだまだ若いつもりで、いつでも二十代に戻れるつもりで
いる。そうこうしているうちに四十代になり、階はまたひとつ下へと降ろされます。
医師は差し当たりのないことしか言いません。それはそうです。
会社という組織を考えてみてください。年配の上司に面と向って「もうトシですね」
などという輩はひとりもいないでしょう。上司はまだまだ自分がイケルと思い
若い人たちとやたらに張り合おうとします。
けれども、現実に肉体は確実に年をとっているのです。。。
これは自分の年齢を最後まで認められずにいた男の物語として読みました。
自分の年代を受け容れてしまえば、生きることはずっと楽でしょう。
かつて自分も若者としてこの世を享受していたことにいつまでもしがみつくよりは、
これからの実りある日々を充実させるほうが豊かな人生を送れます。


(つづきます)
37 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:17:04

『七人の使者』、『急行列車』。まさに人生そのものを描いた作品。
父の治める王国を踏査しようと七人の忠実な家臣をつれて旅に出た男。
七人のうち、一人ずつ使者を出し都からの頼りを受け取るも、その使者が
戻ってくる間隔が次第に遠くなる。国境はいつまで経っても見えない……。

人生という『急行列車』に乗って旅するひとりの男。
途中駅で下車して恋人とともに歩むこともできたのに、男は恋人が待ちくたびれて
去っていく後姿を見送るだけで列車から降りない。
母が待っている駅で下車し、今度こそは母とともにここに残ろうと決意するも
「お前は若いんだし、お前の道を行かなくちゃあ。早く汽車にお乗り」と説得され
またも列車に乗り続ける。何年もの時が流れ知っている乗客は誰もいなくなる。
終着駅がどこなのか誰も知らない。それでも今日も列車は走りつづける……。

ブッツァーティーは人生を果てのない砂漠、終わらない旅ととらえます。
答えの見つからない旅、それが人生である、と。
ひとたび列車(=人生)に乗ったら途中下車できない、放棄できない旅。
なぜなら、誰にとっても人生は一回性のものであり、時間は後戻りしないから。
それならば、ひとたび列車に乗った以上、世の果てまで走り続けるしかない。


(つづきます)
38 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:17:40

わたしはここに、深い悟りと諦念にも似た信念を見るのです。
彼らは走り続けるしかないと悟った時点で、決して自暴自棄にならない。
それが自分の運命ならば受け容れるしかない、そうした潔ささえ感じるのです。
目標の国境は無きに等しい。にも拘らず死ぬまで旅をやめない国王の次男、彼に従う
忠実な臣下、ひとたび列車に乗ってしまったからには恋人とも母親とも別れ、ひたすら己の
道を進む男。彼らは人生にありきたりでわかりやすい幸福を求めない。
いつ辿り着けるのかもわからない自分の信じた道をひたすら突き進んでいきます。

深い読後感に浸りながら、せつなさに打ちのめされるのはわたしだけではないでしょう。
なぜ、彼らは旅をやめないのか?
彼らの求めるものは見つからないかもしれないのになぜ、途中で旅を放棄しないのか?
そもそも人生とは確固たる答えが出るはずのものではなく、ひとたびこの世に生まれ
おちた以上、死に向ってただ行進していくしかないのだとすれば、数え切れない生き方が
あっても、死という終着駅はひとつであり、最終的には皆そこに向っているのですね。
どんな人も終着駅に着くまでは各々の旅を続けるしかないのです。


(つづきます)
39 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:37:35

『それでも戸を叩く』、『なにかが起こった』、『山崩れ』これらの作品群は不気味な
雰囲気をたたえており、さながらブラッドベリの恐怖小説を読んでいるようでした。
『それでも戸を叩く』の豪奢なお屋敷の女主人は、川が氾濫して大変な状況なのに
現実を認めたくないばかりに、最後まで威厳を見せつけてその場を離れません。
慌てふためいて非難することは、女主人の沽券にかかわる、その傲慢さが一家を
悲劇に陥れます。
『なにかが起こった』は列車から何気なく外を見ると民族大移動さながらみんなが
非難している様子が見えますが、列車は止まらない。惨劇の発信地へと走り
つづけるのです。
『山崩れ』は山崩れが起きたので記者は取材に赴くのですが、崩れた様子は皆無。
ところが帰り道、車を走らせている彼のすぐ後ろで土砂崩れの轟音が……。

人生の途上で、人は故意か偶然か自分の意志とは関係なしに惨劇の渦中にあえて
飛び込んでしまうことが多々あるようです。まるで魅入られたかのように。
迫りくる惨劇に途中で気づきながらも、あえて逃げずに留まってしまう人がいます。
あのとき、あの列車に乗らなければ事故には遭わなかったかもしれない、
あの場所にわざわざ行かなければ、命は永らえたかもしれない、
あの瞬間にすぐ逃げ出していれば、助かったかもしれない、
人の運命は数分、数秒、いえ一瞬の差でまったく違ったものになってしまうのです。
生に向かう際、生き方そのものには各々の意志がはたらき変えられることはあっても、
予め決められた死という運命の終着地は誰も変えられない、逃れようがないのですね…。


(つづきます)
40 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:38:19

『神を見た犬』はO.ヘンリーばりの最後のオチが効いておりストーリー・テラーとして
抜きんでたものを感じさせます。
神を見た隠者が可愛がっていた犬は、彼のために毎朝せっせとパンを運ぶのですが
隠者が亡くなったあとも、町の人々は犬の目を見るたびに神の目を思い悪行を
改めます。人々は犬が町に現れるたびに食べ物を与え丁重に扱います。
犬が死んだあと町を挙げて埋葬しようとすると、隠者の墓の上には犬の骸骨が。。。
風刺の効いた寓話ですね。
ただの犬なのに、隠者の犬だと人々は勝手に思い込み、神のまなざしに恐れ戦く。
犬は何の考えもなくただ気ままにうろついているだけなのに、悪さを企む人たちは
犬の目が神の審判として映る。
人々はその後も日曜日にはミサに出るし、風紀は乱れることはありませんでした。

人間の意識はほんのささやかなことで一変するものですね。
自分の人生における主役は自分であり、どう生きようと自由ですが、自由ななかで
己を律することを忘れてはならないのですね。神が強制的に人を律するのではなく、
たとえ神が不在でも自分自身を律する目をつねに備えていること。
まあ、これができたら法律は不要なのですが、、、
人は野放しにしておけば、水は低きに流れる如く烏合の衆となり果てる。。。
大いなるものを畏れ敬うことで初めて人は人として生き得るということでしょうか。


(つづきます)
41 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:38:57

『円盤が舞い下りた』は、宗教を持たないご立派で清く正しい生き方しか知らない
宇宙人をおちょくる話。彼らは神父が祈る姿を不思議そうに見るのです。
神父の彼らに対する最後の悪態がいいですね。
「へっ! 神様はご清潔で汚れを知らないお前らよりも、祈ることを知っている俺たち
人間のほうをお喜びにるはずだ。そうだろ?」
神父のこの言葉はまさに真理です。
人間が汚れもなく罪をひとつも犯さないならば、宗教は不要です。
まさに神は人間という罪びとのためにこそ、降りて来給う方なのですから。

『竜退治』は人間の傲慢さと醜悪さを描いた風刺的な作品。
伯爵の醜悪な名誉欲のため老いた竜とその子供たちはあえなく殺されます。
親竜が殺された二匹の子竜の亡骸を前にして白い涙を流す場面は、
哀切極まり、読んでいて胸が痛くなりました……。
けれども、この親子の竜も生きるために毎朝村人に一匹の山羊を生贄として
捧げさせていたのです。生きることとは他の生きものの命を食らうこと。
自然界の掟ではそうしないと生きていけないのです。。。それが摂理。
竜が天に向かって毒煙を吐く最期は復讐というよりも、悲しみのあまり吐いた息が
当の伯爵だけでなく村人をも殺してしまう結果になったのだと、わたしは受け取りました。

生きていく上で出逢う悲しみは周囲を巻き込み、無関係なものたちまで死に至らしめて
しまう。この上なく理不尽。けれども、それを承知で生きることが人生なのです。


(つづきます)
42 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:39:34

訳者あとがきで、ブッツァーティーはカフカとよく比較されることを知りました。
ブッツァーティーは「自分の小説は人生を描いたものである」と主張したそうですね。
わたしは、カフカの小説は読んだ後、苛立ちと怒りの感情にとらわれることが
しばしばです。内容が難解という以前に、時間が遅々として進まない、
停滞したかのようなもどかしさで焦燥感ゆえに気力が消耗してしまうのです。
ブッツァーティーの小説は人生の断片が描かれ、寂寥感と静謐な悲しみが全編に
漂い、読後は人生の悲哀に思いを馳せ、深い余韻をわたしにもたらすのです。
《時間》というものを軸に据えるならば、カフカの作品は時が停滞しており、
ブッツァーティーの作品は人生、すなわち生から死へと確実に時間が流れているのです。
共通点をあえて挙げるとすれば、両者とも小説を寓意的に表現したことでしょうか。
また、不条理という観点から見れば、カフカの描く不条理は《法に縛られた世の中》
であり、ブッツァーティーの描く不条理は《人生》そのものに目が向けられています。

人生とは旅でありますが、ブッツァーティーの小説には旅に出る人物が多いですね。
『七人の使者』、『急行列車』、『道路開通式』、そして『タタール人の砂漠』。
人はなぜ旅に出るのでしょう? 未知の国へのあこがれ、新しい人たちとの出逢い、
未体験な出来事への渇望、、、理由はさまざまでしょうが、一番の理由は
遙か彼方から自分を呼ぶ大いなる何者かの声に導かれたから。
砂漠に魅せられたアラビアのロレンスや、新大陸を目指して出航したコロンブスも然り。
自分を呼ぶ声をひとたび耳にしたものは、何かに駆り立てられるように旅立っていく。
もはや誰にも彼らを引き止めることはできないのですね。


(つづきます)
43 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 21:40:08

ところで、ブッツァーティーの小説の、声に導かれるまま旅立った主人公たちは、
なぜ、幾多の挫折を繰り返しながらも、途中で放棄しないのでしょう?
なぜ、止まらない列車に延々とこの先も乗りつづけるのでしょう?
なぜ、永遠に見つけられないものを探す旅を降りないのでしょう?
なぜ、来もしない敵を気の遠くなるような歳月、待ちつづけるのでしょう?

――The answer, my friend, is blowin' in the wind――by Bob Dylan
「友よ、答えは風の中に舞っている 〜byボブ・ディラン」

(前に野島伸司さん脚本の「愛という名のもとに」というビデオをレンタルしたら
ボブ・ディランの「風に吹かれて」の詩のワン・フレーズが引用されていました。)
♪Blowin' in the Wind♪ by Bob Dylan (本人) ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-6gI9YS6avA

♪Blowin' in the Wind♪ by Peter Paul And Maryのカバーバージョン ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ku4oZjg0rz4

ちなみにわたしの答えは、彼らが旅を放棄しないのは、それが使命だから。
それも決して強いられたものではなく、自らの自由意志で選び取った使命。
そう、彼らを導き招く声とは人生における、その人の使命を表すのです。


――それでは。
44 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 22:21:20

☆☆おまけ☆☆


〜Blowin' in the Wind〜 by Bob Dylan

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
How many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many years can a mountain exist
Before it's washed to the sea?
How many years can some people exist
Before they're allowed to be free?
How many times can a man turn his head,
And pretend that he just doesn't see?
45 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 22:21:57

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many times must a man look up
Before he can see the sky?
How many ears must one man have
Before he can hear people cry?
How many deaths will it take till he knows
That too many people have died

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind
46 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/24(日) 22:22:38

「風に吹かれて」 (訳詩) by Paul Kim

どれだけ多くの道を歩めば 人は人として認められるのだろう?
どれだけ多くの海の上を泳げば 白い鳩は浜の上で休めるのだろう?
どれだけ多くの鉄砲玉が飛んだら それらが禁止されるのだろう?
友よ、答えは吹いている風の中に 答えは風の中に舞っている

山は海に流されるまで 何年存在できるのだろう?
ある人々が自由を許されるまで 何年かかるのだろう?
人はどれぐらい顔を背けて 知らない振りをするのだろう?
友よ、答えは吹いている風の中に 答えは風の中に舞っている

どれだけたくさん空を見上げれば 人には空が見えるのだろう?
どれだけ多くの耳を持てば 人々の泣き声が聞こえるのだろう?
どれだけ多くの死者が出れば 多すぎる人々が死んでしまったことが
分かるのだろう?
友よ、答えは吹いている風の中に 答えは風の中に舞っている
47 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/01(月) 09:23:14
SXYさん、OTOさん、ROMされている皆さま、
あけましておめでとうございます
今年もこのスレをよろしくお願いします♪

猪年ということで折り句を意識して詠みました

「い」く久しきとしつき
「野」に山にさすらへる
「し」づかなる森陰にわれは見たり
「使」者七人ありてわれを待てり
われはふたたび旅立む
暁の星に送られて
48(OTO):2007/01/05(金) 13:57:05
ふたりともあけましておめでとう!今年もよろしく!
最近はふたりの感想読んでるだけで、だいぶ読んだ気になってるんだがww

生誕100年の去年にベケットの感想を交わせなかったのはちょっと心残りだなw
今は「エクリチュールと差異」の下を読んでて(上は何年か前に読了)、
今年はちょっとアルトーを読んでみようかなと思ってる。
「ヘリオガバルス」と「ゴッホ」は読んだ。
あと吉増について少し書きたいな。吉増のトランス発動機序について、
少し書けそうな気がしてきた。「詩をポケットに」まで読了。

今年も仲良くしてねww
49SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/07(日) 01:38:26
>>47
ブッツァーティがらみの折り句とはまた乙で!
 いつもながらの、
 野に咲く花のような、
 静かで力強い、
 シリウスの輝き

>>48
去年はベケット、今年はブランショが生誕100年だね。
ベケット、アルトー、吉増。いずれも興味津々。
ベケットについては機会があれば何か書いてみたいナ。

ベンヤミン『写真小史』、ソンタグ『写真論』、 バルト『明るい部屋』、
最近読めたのはこれだけだけど、『明るい部屋』は写真論でありながら
自伝的小説のテイストが融合されてて、結構楽しめました。

昨年から書き残していることは多々あるのだけれど、
それはまたの機会ということにして、
とりあえず今年もよろしく。
50 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:00:53

>>48
(OTO)さん

>生誕100年の去年にベケットの感想を交わせなかったのはちょっと心残りだなw
これはね、わたしの明らかな怠慢ゆえです・・・
何かね、ベケットって読もうと力むと逃げ水のようにすっと遠くに行ってしまう、、、
戯曲がちょっと苦手ということもあるのですが、こちらのこころを読まれているなあ、
という感じ。本は読んでほしい人を選んでいます。侮れない、、、

>今は「エクリチュールと差異」の下を読んでて
デリダですね! デリダは哲学にも文学にも造詣が深く、どちらにも精通して
いますよね。わたしは入門書レベルなのですが。。。

>今年はちょっとアルトーを読んでみようかなと思ってる。
>「ヘリオガバルス」と「ゴッホ」は読んだ。
あちらのスレでもご紹介がありましたね。早速、「ヘリオガバルス」をリクエスト
しましたよ♪

>あと吉増について少し書きたいな。
楽しみにしています♪ 詩に対して(OTO)さんはかなり入れ込んでますよね!
詩的で簡潔な文章からも並々ならぬ熱意が伺えます。
今年もよろしくお願いします♪
51 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:02:03

>>49
SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>ブッツァーティがらみの折り句とはまた乙で!
いえいえ、わたしの名前を入れて詠まれたSXYさんの折り句もかなり
みごとですよ♪ ありがとうです♪ うれしいデス♪

>ベケットについては機会があれば何か書いてみたいナ。
おふたりともすでにベケットを読まれておいでなのですね!
今年は、わたしも心機一転して取り組んでみようかな…、と思います。
とりあえず新年の第一冊目は「ヘリオガバルス」にしましたので、
ベケットは追い追いゆっくりと読んでいけたらいいかなあ、と。

>『明るい部屋』は写真論でありながら
>自伝的小説のテイストが融合されてて、結構楽しめました。
小説ならばわたしにも読めそうな気がしますね。
自伝的な要素が盛り込まれているといっても、完全な私小説とは異なり、
論文+小説のような感じなのでしょうかね??

今年もよろしくお願いします。
以下、ブッツァーティ短編集『石の幻影』の感想文です。
52 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:02:42

ブッツァーティ短編集『石の幻影』読了しました。

この短編集の表題にもなっている『石の幻影』はSF仕立ての作品です。
頭脳は亡き妻ラウーラそっくりに、身体は石でつくられた人造人間。
そして、彼女をつくった狂った科学者の悲劇です。
「第一号」と呼ばれる彼女は生身の肉体を持ちません。彼女の身体は崖の上に
そそり立つ石でできています。深い崖の地中には電気コードなどがびっしりと
埋め込まれています。人間の言語を話すことはなく、音声を記号化したグラフで
コミュニケーションします。
「第一号」は自分の性別を知りませんでした。ところがある日、美貌の女科学者が
自慢の肉体を誇示し彼女を挑発するのです。
そして初めて「第一号」は自分がかつて人間であり、女であったことを思い出す
のです。かつて自分がどれほど美しかったかを、跪かせた幾多の男たちの自分に
乞う熱いまなざしを。。。
それが、今や自分は肉体を持たず、城壁に縛りつけられ逃れられない。
「わたしの元の身体を返して!」彼女の怒りと嘆きは無関係の同性の女性に
向けられ、最後には破壊されてしまいます……。


(つづきます)
53 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:03:39

亡き妻への狂信的な愛がもたらした悲劇。
この短編を読んで真っ先に想起したのは「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
あのアニメはいわゆる「オタク」と呼ばれ、気持ち悪がられ疎まれ、他者とまともに
コミュニケーションできない少年シンジの内面の葛藤と成長の物語としてとらえる
のが一般的なようですね。
わたしはオタク少年の物語云々よりも、シンジの父・碇博士の亡き妻への狂った
愛の悲劇のほうに興味がありました。
碇博士の妻・唯は、迫り来る敵・使途から人類を護る人造人間エヴァンゲリオンを
つくるために、生きたまま自らの命を実験台として捧げました。
碇博士は唯の意志を継ぎ次々とエヴァを完成させていきます。
彼がエヴァをつくるのは、表向きは人類補完計画のため、けれども本心はエヴァを
つくることで亡き妻・唯を蘇らせたかったというごく私的な理由のほうが強かった
ように思えるのです。そのためには手段を選びません。
本音と建前の使い分けの巧みさは愛に狂い「第一号」をつくったこの科学者そっくり
です。。。

碇博士は同僚の女性科学者の自分への一方的な愛を利用し、エヴァが完成したら
捨てました。彼女の娘もまた同様に…。


(つづきます)
54 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 20:04:22

『石の幻影』で「第一号」に呼びかける科学者は碇博士そのものです。
科学者には再婚した新しい妻もいるのに、未だこころから愛しているのは
亡くなった妻だけ。それも生前散々浮気をし、彼を苦しめた妻を。。。

けれども、これはたんなるSF小説にととまらず、人生を描く名手ブッツァーティの
鋭い洞察力に裏打ちされた深い真理の言葉が随所に光るのです。

――でも人間というものは、自分自身の心を悩ますように運命づけられています。
慰めというものは、すぐ手の届くところにあるものだということが、人間には
わからないのです。いつも新たな不安を自分から作ろうとしているのです――

人は何かひとつ困難を克服して安堵の思いに浸るや否や、次の瞬間にはもう新しい
心配事を自ら見つけてまたあれこれ思い悩むものですね。
これでいい、もう充分満足だという境地にはなかなか達しないようです……。
つまり人間の欲望というものは快楽を際限なく求めつづけるのみならず、
困難をも際限なく求めつづけて止まないということでもあるのです。
現状に充足しきれない生きもの、それが人間。


(つづきます)
55 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:03:33

――人生というものは、私たちにとって一番幸福な時でさえ、もしも自殺や
自己破壊の可能性が失われたら、たちまち耐えがたいものになるだろうと
いうことです。(略)恐ろしい牢獄です。私たちは狂人になるに違いありません――

機械は燃料がなくなれば動きませんが、補充すれば動きます。
けれども、機械は自らを破壊することはできません。意志を持っていないからです。
人間に与えられた自由意志の最たるものは「自らの命を滅ぼす自由」であると
ブッツァーティは述べています。
非常に危険な言葉でありますが真理ですね。
逆説的ですが、人はいざとなったらいつでも自殺できる可能性があるからこそ、
何とかつらい日々を耐えられる、正気を理性を保っていられるということですね。
「死」はすべての生きものに等しく与えられた最後の恩寵であるのです。

別板でOTOさんと『葉隠れ』について少し語ったのですが、あの有名な一節、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、毎朝目覚めたら自分の死に様を黙想し、
黙想のなかで一度死んでから一日を始めよ、死をつねに意識せよ、という
ことです。腹を括って死に臨む姿勢で生きよ、そうすれば怖いものは何もない。
わたしは『葉隠れ』にブッツァーティの人生観にも似た深いものを見るのです。


(つづきます)
56 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:04:19

同じ短編集に所収されていた『海獣コロンブレ』は、宿命の海獣コロンブレから
逃げようとして逃げられず、彼と対峙するために海に出て行く男の物語です。
子供のときに船乗りたちから恐れられているコロンブレと呼ばれる鮫を見て以来
彼は水夫になることをあきらめ、陸での生活を選びます。
事業で成功し豊かな日々を送る彼はふと思いついて海の見えるところにいくと
コロンブレが沖の方で彼を監視するかのように見ている。
いつどこの海に行っても必ずコロンブレは彼を監視しています。
ついに彼は意を決して海に出て行きます。そしてコロンブレとの一騎打ち。
「俺はただ海の王からお前に渡すようにとこの真珠を預かってきただけだ」。
二ヶ月後座礁した舟には白骨化した死骸があり、その手には小さな丸い小石が…。

ひとたび、運命=コロンブレに魅入られた男は抗っても抗っても逃れることは
できませんでした。しかも、コロンブレの姿は他の人間には見えない。彼にしか
見えないのです。人は無意識のうちに自分の運命の綱を握る主を探し求めて
いるのかもしれません……。
そしてひとたび探し当てた以上、自分の運命は自分しか生きることができない。
他の誰かが代わりに自分の運命を生きることはできないのですね。
運命という予測不可能なもの、人智を超えた大いなるものに対して人は抗うことは
できないということでしょうか。
短い寓話ながらもブッツァーティの本領が発揮された一編です。


――それでは。
57 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:04:58

(追 記)

『石の幻影』の、機械「第一号」に作り変えられたラウーラの嘆きと悲しみに、
ふと映画「イノセンス」のエンディングに流れていた伊藤君子の<Follow Me>を
思い出しました。……痛切で深い悲しみの漂う印象に残る曲です。
(奇しくも「イノセンス〜攻殻機動隊〜」のメンバーの数人は、こころ・魂は人間、
身体は全身サイボーグで出来ています。「第一号」ラウーラとどこか重なりますが、
決定的な違いは攻殻のメンバーは自らの意志で機械の身体を選んだことかな……)

「攻殻」の素子、バトーの映像もお楽しみ下さい。(OTO)さんなら分かりますよね♪

♪<Follow Me>♪
http://www.youtube.com/watch?v=kcqkiGLqn7o
58 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:05:43

<Follow Me> (Lyric: Herbert Kretzmer/Hal Shapey)


Follow me to a land across the shining sea
Waiting beyond the world that we have known
Beyond the world the dream could be
And the joy we have tasted

Follow me along the road that only love can see
Rising above the fun years of the night
Into the light beyond the tears
And all the years we have wasted

Follow me to a distant land this mountain high
Where all the music that we always kept inside will fill the sky
Singing in the silent swerve a heart is free
While the world goes on turning and turning
Turning and falling

Follow me to a distant land this mountain high
Where all the music that we always kept inside will fill the sky
Singing in the silent swerve a heart is free
While the world goes on turning and turning
Turning and falling

Follow me...
Follow me...
59 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/09(火) 21:06:26

【訳詞】 <Follow Me> (※翻訳サイトを使ってみましたよ)


私についてきて あなたの知っている世界を超えて
輝きながら待っている海を渡って 夢のように 世界を越えて
私についてきて 私たちが味わった喜び、愛だけが
楽しい夜の数年を克服する道に沿うでしょう

私についてきて 涙の向こうの光へ 私たちが浪費したすべての年月
離れた土地へ この山へ
私たちの変わらぬ音楽 暗黙の曲がり角で自由なこころで歌う
満天の高い空を仰いで 世界は回り続ける

私についてきて 離れた土地へ この山へ 私たちが回転して落ちても
私たちの変わらぬ音楽 暗黙の曲がり角で自由なこころで歌う
満天の高い空を仰いで 世界は回り続ける
世界が回りながら落ちても
私についてきて…
私についてきて…
60 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/10(水) 21:57:44

☆☆緊急連絡☆☆

OTOさん、%さん、あちらのスレが472 KB でいきなり落ちてしまいました。。。
500 KBには達してなかったし、対話も今日の午後まで続いていたのに・・・
削除依頼が出されたのかなあ? とり急ぎ下記にいます。

http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1102188602/l50
61 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/11(木) 01:40:44
すみません
早とちりでした・・・
板が移転したため落ちたのだと勘違いしました。
復帰したようです。ふたたびあちらにカキコをつづけます。
尚、↑のリンクはあちらの次スレの対話の候補です。
62SXY ◆y/JZLW1j6M :2007/01/12(金) 02:07:33
ブッツァーティについてはいずれ考えをまとめてみますね。
しかし翻訳はもうほとんど読んでしまったんですね!

>論文+小説のような感じなのでしょうかね??
ロラン・バルト『明るい部屋』についてですが、
ちょっと曖昧な表現をしてしまったので補足です。
この本はあくまで写真論、写真についての批評で、
特に前半の第1部では記号学者バルトらしい語り口です。
ところが、後半の第2部に入ると、がらっと変わります。
バルトは亡き母の写真(少女時代の写真)を持ち出し、
それを中心に写真について語ってゆくのですが、
もう母への愛に満ち溢れた文章で(マザコン?)、
自伝的というか私小説的というかロマネスクというか、
リリカルにも感じられる甘く美しい作品になってます。
ややその甘さが舌に残る感じもありますが。

新板になったようのでトリップ変えてみました。
63SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/12(金) 02:18:24
アルトーも一時期読んだんだけど
これは語るのがとても難しい作家。
書き込みをROMすることになりそう。

ベケットで未読の小説は2作品ほど。
OTO氏はどのあたりを読んでるのだろう?
短いテクストなら再読したいな。 〆
64(OTO):2007/01/12(金) 13:51:11
>>50
>何かね、ベケットって読もうと力むと逃げ水のようにすっと遠くに行ってしまう、、、
>戯曲がちょっと苦手ということもあるのですが、こちらのこころを読まれているなあ、
>という感じ。本は読んでほしい人を選んでいます。侮れない、、、

そういうのはある。出会いだからな。別に怠慢とは思わないよww
「エクリチュールと差異」下のバタイユ論というか「バタイユのヘーゲル批判」論は痛快だ。
友だちに「デリダ読みながら吹き出すなよw」と言われたww

>>52
ブッツァーティは面白そうだなw
アニメを関連させた感想も読んでて楽しいww

>>63
書肆山田のは全部読んでるな。
「見ちがい言いちがい」「伴侶」「また終わるた めに」「いざ最悪の方 へ」
あとは「名づけえぬもの」「ワット」「モロイ」、
「マーフィー」も読んだっけかな?ちょっといま手元になくてあやふやww
65SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/13(土) 21:43:53
>>36-43
ブッツァーティについて

>わたしは各階とは人生におけるその人の年齢の象徴だと思えました。
なるほど。面白い視点だなあ。
『七階』はカフカ的な不気味な幻想作品として読んでいたけれど、
そういう視点で読むと、時の流れに抗えない人生を象徴化したもの、
という教訓的なテイストも感じられそう。

>『七人の使者』、『急行列車』。まさに人生そのものを描いた作品。
>その使者が戻ってくる間隔が次第に遠くなる。
>国境はいつまで経っても見えない……。
『七人の使者』の到達できない国境――。
ここでもカフカを引き合いに出すならば、
測量士Kが行けども行けども辿り着けない、
あの「城」が思い起こされるけれども、
両者のポイントの置き方はここでもちょっと違う。
カフカの場合は主人公の彷徨に焦点があったけれど、
ブッツァーティの場合は「到達不可能な構図」そのものが、
読後感として浮かび上がってくる感じ。』

ブッツァーティーとカフカ。
Cucさんが>>42でも書いているように
「両者とも小説を寓意的に表現したこと」
に共通点がありながらも、
確かにちょっとパースペクティヴが違うね。
>また、不条理という観点から見れば、カフカの描く不条理は《法に縛られた世の中》
>であり、ブッツァーティーの描く不条理は《人生》そのものに目が向けられています。
カフカの寓意は抽象的なものだけど、
ブッツァーティは現実的なところにつながってゆくね。
66SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/13(土) 21:58:38
>>52-56
>想起したのは「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
『石の幻影』はSF風な作品だけれども
チャペック『ロボット』やリラダン『未来のイヴ』ではなく
エヴァンゲリオンを出してくるとは!

>運命という予測不可能なもの、人智を超えた大いなるものに対して
>人は抗うことはできないということでしょうか。
>短い寓話ながらもブッツァーティの本領が発揮された一編です。
『海獣コロンブレ』はブッツァーティらしさ全開だよね。


ようやく『ある愛』を読み始めましたヨ。
ちょっとびっくりした。
これまでの幻想的で寓話的な作風は消し飛んで、
ブッツァーティらしからぬリアリスティックな作品!
しかもテーマが娼婦との愛=性。舞台はミラノという都会。
うーん、これは予想してなかったナ。
67SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/13(土) 22:18:58
>>48
>今年はちょっとアルトーを読んでみようかなと思ってる。
>「ヘリオガバルス」と「ゴッホ」は読んだ。
そういえば2月に『アルトー後期集成』が出るんだっけ。
その時期に久しぶりに読んでみようかな。
「アルトー・ル・モモ」がちょっと楽しみ。
白水社の5冊のコレクションとのダブリが心配だけど。

>吉増のトランス発動機序について、
とても興味アルアル。ぜひ書いてほしいナ。
吉増のトランスとアルトーのとは異質かもしれないけれど
何かヒントが出てくるかもしれないし。

>>64
>書肆山田のは全部読んでるな。
じゃあ、「また終わるために」を毛馬内のあとにでも読み返してみよっと。
書肆山田の本の装丁はシンプルでかっこいいね。
そういえばベケットとブッツァーティとは同じ1906年生れ。
ブッツァーティに影響を受けたと思われるクッツェーは
若い頃にベケットを研究してたらしい。

そういえば、クッツェー『夷狄を待ちながら』には、
ブッツァーティの『タタール人の砂漠』と『ある愛』を
ひとつに合体させたようなテイストがあるような。 〆
68 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:48:32

>>62
SXYさん

>しかし翻訳はもうほとんど読んでしまったんですね!
ブッツァーティ、とても好きです。わたしのお気に入りの作家となりました。
ところで、前にブッツァーティと並ぶイタリアの作家、カルヴィーノの名前を
挙げていらしたのですが、カルヴィーノで何かお薦めはありますでしょうか?
読んでみたくなりました。

>バルトは亡き母の写真(少女時代の写真)を持ち出し、
>リリカルにも感じられる甘く美しい作品になってます。
ロマネスクかあ、モネの絵に描かれた白いドレスの貴婦人のようなイメージ?

>>63
>アルトーも一時期読んだんだけどこれは語るのがとても難しい作家。
確かに…。今「ヘリオガバルス」を読んでいるのですが、宗教論、神話論が
先ずあって、次に歴史物語(?)としてヘリオガバルスの出生、戴冠、そして死が
語られていくのですが、普通の物語のようにすらすらとは読めないのですよ。
ローマの歴史、それに関して作者の歴史観が語られていて、なかなかスムーズ
には進まない・・・・・
69 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:49:39

>>65

>カフカの場合は主人公の彷徨に焦点があったけれど、ブッツァーティの場合は
>「到達不可能な構図」そのものが、読後感として浮かび上がってくる感じ。
そうですね。両者とも到達不可能という結果だけ見ると同じでも、作家の視点は
まったく異なっていますよね。
カフカの作品は主人公がいきなりわけもわからず彷徨する設定ですが、
ブッツァーティの作品はちゃんと始まりがあります。起承転結がきっちりしている。
物語の深みという点から見たら、やはりブッツァーティのほうが人生を描く作家
だけあって生真面目さやずっしりとした重みを感じさせます。

>>66
>チャペック『ロボット』やリラダン『未来のイヴ』ではなく
>エヴァンゲリオンを出してくるとは!
上記の2作品、未読です。面白そうな感じですね。読んでみたいです!
エヴァンゲリオンは、昨年見たばかりなので記憶に残っていたのですよ〜。
碇博士がつくった、亡き妻・唯にそっくりな綾波レイを初めて見たとき、ピンとくる
ものがありました。碇博士は綾波レイの向うにいつも唯を見ていたのですね…。
彼の愛を純愛と見るか狂気の愛と見るか、意見が分かれるところでしょう。
70 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:51:42

>ようやく『ある愛』を読み始めましたヨ。ちょっとびっくりした。
驕慢な少女娼婦ライーデと、彼女に執着するアントニオの狂いようは
凄まじいものがありますよね・・・
今までの幻想的な作家のイメージは見事に吹っ飛んで、生々しく息苦しい
愛が克明に綴られています。

運命の女・ファムファタル「ライーデ」の名前は、男を迷わせ、裏切り、破滅させる
女の代名詞ともいえる、旧約聖書のサムソンとデリラの「デリラ」を捩っているのかな
と思いました……。
恋人に裏切られ正気を失った男の歌、ということでトム・ジョーンズの
題名もずばりそのものの「デライラ」をどうぞ♪
(感想文はもっとあとでupする予定です)

【動画】 Tom Jones - <Delilah>
http://www.youtube.com/watch?v=F0yCGcCwdYc
http://www.youtube.com/watch?v=lUN2bcDL8MI

原詩  <Delilah>
http://www.lyricsfreak.com/t/tom+jones/delilah_20138361.html
71 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:52:43

原詩  <Delilah>

I saw the light on the night that I passed by her window
I saw the flickering shadows of love on her blind
She was my woman
As she deceived me I watched and went out of my mind
My, my, my, delilah
Why, why, why, delilah
I could see that girl was no good for me
But I was lost like a slave that no man could free
At break of day when that man drove away, I was waiting
I cross the street to her house and she opened the door
She stood there laughing
I felt the knife in my hand and she laughed no more
My, my, my delilah
Why, why, why delilah
So before they come to break down the door
Forgive me delilah I just couldnt take any more

She stood there laughing
I felt the knife in my hand and she laughed no more
My, my, my, delilah
Why, why, why, delilah
So before they come to break down the door
Forgive me delilah I just couldnt take any more
Forgive me delilah I just couldnt take any more
72 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 21:53:29

【訳詩】  <Delilah>

その夜 窓辺に立つ彼女の姿を見た
窓に立つ人影 それは私の恋人だった
彼女は私を騙していたのだ 私は正気を失った
私の 私の 私のデライラ
どうして? どうして? どうして? デライラ
彼女は私につれなくした
私は彼女をあきらめることができなかった
私は彼女の奴隷だった
夜が明けて彼女の男が車で出かけるのを
私は待っていた
私は彼女の家の通りを横切った
彼女はドアを開けた 立ったまま笑いながら
私は手にしたナイフをふりかざした
彼女はもう二度と笑うことはなかった
私の 私の 私のデライラ
どうして? どうして? どうして? デライラ
ドアを壊す前に すでに私たちの関係も壊れていた
私を許してデライラ これ以上私を苦しめることはない
私を許してデライラ これ以上私を苦しめることはない
73 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/14(日) 22:21:44

>>64

(OTO)さん

>そういうのはある。出会いだからな。別に怠慢とは思わないよww
ありがとうです。安心しました♪
とりあえず、おふたりとも読まれた「また終わるために」を読んでみようかと
思います。

>友だちに「デリダ読みながら吹き出すなよw」と言われたww
えっ! なに、なに、なに?
そんなに面白いのですか? 下巻だけならわたしにも読めそうですか?

>ブッツァーティは面白そうだなw アニメを関連させた感想も読んでて楽しいww
エヴァンゲリオンも攻殻もOTOさんの影響で見たのですよね〜♪
おかげで「石の幻影」を読みながら、2作品を思い出し再び堪能しましたよ。
ああ〜、碇博士の唯への愛がここにも書かれている、って。
それにしても、男性のほうがロマンティストですよね♪ 女性は薄情…?

>書肆山田のは全部読んでるな。
す、すごい、、、! (思わずしゅごいしゅごい、と書きそうになりましたよ…)
74SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/16(火) 01:54:30
>>68
>ブッツァーティ、わたしのお気に入りの作家となりました。
それは良かった! 単に名前を挙げただけだけれど、
Cucさんの気に入る作家が増えるのはうれしいな。
クロード・シモンを気に入ってもらえた時もうれしかった。

>カルヴィーノで何かお薦めはありますでしょうか?
カルヴィーノはブッツァーティとはまた違った魅力があり、
作品の幅も結構広く、多彩なテイストがあるんだけど、
もし一作選ぶとすれば、うーん、そうだなー、
『冬の夜ひとりの旅人が』かな。
この作品自体、様々な作家の文体を取り入れたもので、
一冊で何冊分ものカラーをプリズム光線で輝かせてる。
なんと出だしは、「あなたはいまイタロ・カルヴィーノの
新しい小説を読み始めようとしている」というもの!
いわゆる自らを語るというメタフィクションでもあり、
読者もまた登場させられているという奇書でもあって、
「読むこと」をテーマにした小説といえるでしょうかね。
75SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/16(火) 01:58:45
>>69
チャペック『ロボット』。ロボットという言葉は、
このカレル・チャペックの作品から生まれたんです。
チェコでは国民的な作家として愛されていました。
といっても当方は未読の作品も多々ありますが。

リラダン『未来のイヴ』。これはいわゆる人造人間もので、
フランスの幻想作家ならではのダンディズムが濃厚な作品。

>>70
>凄まじいものがありますよね・・・
たしかに! 『ある愛』はたぶんもうすぐ読了するでしょう。
結構引き込まれるようにして頁をめくってましたが、
こういう作品も書けるのか!と感心してしまった。
ディーノ、あなたはなんという奥深さを秘めてのか。。。

>「デリラ」を捩っているのかなと思いました……。
ああ、なるほど! 鋭い指摘です。
そういわれるまで気づかなかった。
<Delilah> の歌詞が見事にはまっちゃうね。

『ある愛』については今週末には何か書いてみますヨ。〆
76(OTO):2007/01/19(金) 13:48:16
「未来のイヴ」はタイトルは知っていたが、押井アニメ「イノセント」冒頭の

我々の神々も我々の希望も、もはやただ科学的な
ものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であって
いけないいわれがありましょうか

という引用を見て、読んでみたいと思ったな。まだ読んでないが。
カルヴィーノはSFのアンソロジーで幾つか読んだことがある。
どれも、とても面白かった記憶。
チャペックも未読だが「山椒魚戦争」というのも彼だよね。
ここらへんはSFの歴史を調べたときに出会った名前だ。
東欧と言えばストルガッキー兄弟もいるな。
未読だがソクーロフ「日陽はしづかに発酵し…」の原作者だね。

>>73
>えっ! なに、なに、なに?
>そんなに面白いのですか? 下巻だけならわたしにも読めそうですか?

下、全部読んだら、簡単な感想書いて見るよ。それ見て判断すればいいww
77SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/19(金) 23:40:09
>>76
アニメにもリラダンが引用されたりするんだね。

>カルヴィーノはSFのアンソロジーで幾つか読んだことがある。
『レ・コスミコミケ』か『柔かい月』所収の短篇だろうね。
この2冊はファンタジックなSF短編集で奇抜な発想が秀逸。

>チャペックも未読だが「山椒魚戦争」というのも彼だよね。
『石の幻影』のブッツァーティ、『レ・コスミコミケ』のカルヴィーノ、
『未来のイヴ』のリラダン、『山椒魚戦争』のチャペック、
そして、ストルガツキー兄弟と名前が挙がってくれば、
ここでどうしてもサムライSFイラストレーション物語の
『KEMANAI』について、今度時間のあるときに
ちょっと触れてみないわけにはいかないだろうね(微笑
78SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/19(金) 23:59:51
ソクーロフはストルガツキーの作品を映画化してたんだね。
タルコフスキーが映画化した「ストーカー」は有名だけど。

東欧・ロシアの作家の中で、レムの作品が筆頭に挙げられるけれど、
幻想小説やSF小説に優れたユニークな作品が多い印象があるなぁ。

>>73
A L R T !  警 告 !  w a r n i n g !
>>友だちに「デリダ読みながら吹き出すなよw」と言われたww
>えっ! なに、なに、なに? そんなに面白いのですか?
「デリダ読みながら吹き出す」人間は珍しいからね(微笑
OTO氏の笑いのツボはあまりあてにしないほうが。。。
79SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/20(土) 00:22:09
ディーノ・ブッツァーティの『ある愛』を読了したよ。

パヴェーゼ、モラヴィア、カルヴィーノらと並ぶほど
ブッツァーティはイタリアではよく知られた作家ながら、
日本ではまだまだ馴染みが薄いといえそう。
いくつかの邦訳はあるものの、文庫がないしね。
河出文庫にでも何冊か入ると状況が違ってくると思うし、
しばらくご無沙汰になってる翻訳にもチャンスが来ると思う。

ミラノを舞台にしたブッツァーティ『ある愛』は、
アントニオ・ドリーゴとマダム・エルメリーナの
電話でのやり取りから始まる。

マダム・エルメリーナは娼家の女主人で、
ドリーゴはそこに通うさえない独身の50近い男。
おそらくこれまで女に愛された経験も乏しい奴。
ドリーゴはエルメリーナの家でライーデという女に出会う。
ライーデを見た瞬間、ドリーゴにある過去の記憶が蘇る。
――それはかつて場末の街路で見かけ、後をつけたある少女に、
ライーデはとてもよく似ていたのだ。。。
80SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/20(土) 00:28:44
(承前)

ドリーゴは身もかえりみずにライーデに恋心を抱くが、
所詮ライーデは2万リラさえ払えば誰にでも体を売るコールガール。
ライーデにとって売春は、楽しめる仕事、金になる遊び。
たとえ相手が50近い男であっても割り切って身をゆだねられる。

一方、ドリーゴにとっては、ライーデは女神であり天使。
ライーデのような美しい女を抱くことは夢のような出来事。
ドリーゴとライーデのなんたる悲劇的なギャップ。

しかもドリーゴは肉体的にライーデを所有した次に
精神的にも所有したいと望む。かわいそうな男だ。
つれないライーデに対してドリーゴの妄想は膨らむ。。。

時折文章は句読点が省略されて一文が延々と続く。
これはドリーゴの妄想が制御不能に全開になるとき。
(この意識の流れは、まるでジョイスかクロード・シモンじゃないか!)
81SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/01/20(土) 00:39:55
(承前)

P162で気になった点が。
ドリーゴがベッドに横たわり天井を見つめるシーン。
――「何時間も天井にあるふたつの奇妙なくらいそっくりな
7の字型の漆喰の割れ目を凝視していた。」――

この7の字型の割れ目はP190とP244でも出てきて
ブッツァーティが何かを象徴させている気配ぷんぷん。

作品内では、7の字型の割れ目にドリーゴは
「苦悩と妄念とを凝縮させていた」とあって、
「彼自身の苦悩を形象化したシンボル」とされている。
彼女を失うことに対する恐れから妄想は広がるばかり。
余談だけど、「妄想」「妄念」の「妄」という字は、
女を亡くす(失くす)と書くね。)

ブッツァーティには「七階」「七人の使者」といった作品もあり、
この《7》という数字には特別な観念を持っている様子。

とりあえず、タイムアウトで今日はここまでにしますね。 〆
82 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:50:51

(OTO)さん

>>76

>押井アニメ「イノセント」冒頭の
冒頭の言葉、すっかり忘れていました・・・・・
神々も希望も愛もすべてが科学的に実現されうる、か。
深い意味を秘めていますね。
例えば愛。自分の愛する人から愛されなくても、その人とそっくりの
人造人間をつくり自分を愛するように脳をプログラミングすればいいわけです。
また、愛する人が亡くなってもそっくりな人間をつくれば悲しみは半減すると
いうわけか、、、
もはや科学の世界において人は、何かに耐えたり悲しんだり苦しんだりする必要が
なくなるのでしょう。
……そうした世界において、文学は読まれないし、新しい文学が生まれることも
ないのでしょうね。哲学も然り。。。
なぜなら文学や哲学は、人生やこの世が不備なところから始まるのですから。
懊悩や葛藤のない人間にそれらは不要ですものね。。。

SF作品、さすがにくわしいですね! 初めて聞く作家、作品名ばかりです。。。

>下、全部読んだら、簡単な感想書いて見るよ。それ見て判断すればいいww
はい。仮に読んだとしても感想が書けるかどうかは未定ですが・・・
でも、デリダには興味があります。
文学と哲学の両方に精通していますからね。
どんなふうに展開させているのでしょうかね。
83 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:51:27

SXY ◆P6NBk0O2yMさん
>>74

>Cucさんの気に入る作家が増えるのはうれしいな。
>クロード・シモンを気に入ってもらえた時もうれしかった。
こちらこそ、毎回いろいろな作家を紹介していただき、ありがとうございます。
わたしはスタンダードな作家くらいしか知らないので、驚きの連続です。
クロード・シモンの奔放な想像力には引き込まれますね。

>『冬の夜ひとりの旅人が』かな。
カルヴィーノも初めてです。今から読むのが楽しみです。

>読者もまた登場させられているという奇書でもあって、
>「読むこと」をテーマにした小説といえるでしょうかね。
作者と読者の両方が参加するのですね! なんかすごそう!

>>75
>チャペック『ロボット』。ロボットという言葉は、
>このカレル・チャペックの作品から生まれたんです。
そうだったのですか! ロボットという言葉の発祥の小説。
アンドロイド、レプリカント、サイボーグ、レイバー、現代ならば
さまざまな呼称がありますが、当時としては斬新なネーミングだったでしょうね。

>ラダン『未来のイヴ』。これはいわゆる人造人間もので、
クローンで生まれたパラサイト・イヴみたいな感じかなあ?
84 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:52:38

>>77-78
>『KEMANAI』について、今度時間のあるときに
>ちょっと触れてみないわけにはいかないだろうね(微笑
折りしもSF作品に話題が向いていますでぴったりのタイミングですね♪
あの作品は究極のサムライ魂を持つ男のロマンを描いた作品ですね。
ケマナイという男はもともと無口で寡黙なキャラクターですが、物語のなかでも
あえてせりふは極力抑えてありますので、読者はケマナイのこころのなかを
あれこれ想像するしかないのですが、それがまた楽しいんですよね〜♪
武器は日本刀一本だけ。信じるのは己の正義。男は黙ってサッポロビールと言い
そうなタイプなのに、ストローでオレンジジュース(レモンジュース?)を黙々と飲む。
このギャップがたまらなくいいんですよね〜♪ 今度また語りませうね♪♪♪

>A L R T !  警 告 !  w a r n i n g !
くすくす、これって『KEMANAI』からの引用ですよね〜♪
了解ですよん♪

>「デリダ読みながら吹き出す」人間は珍しいからね(微笑
>OTO氏の笑いのツボはあまりあてにしないほうが。。。
ううむ・・・、そうでしたか。
まあ、とりあえず今のところ、感想待ちですねえ。。。
85 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:53:18

>>79-81
わたしの感想は9レスほど用意してありますが、今日はSXYさんの感想に
レスのみをつけたいと思います。ゆっくり行きましょうかね。
本当にブッツァーティには驚かされましたね。
深い人生観に富んだ寓話が主流だと思っていましたが、不毛な恋愛の
狂気に陥った人間の執念深さと醜悪さをこれでもかと叩きつけてきます。
全編に亘る濃密な描写にひたすら圧倒されました。。。

>――それはかつて場末の街路で見かけ、後をつけたある少女に、
>ライーデはとてもよく似ていたのだ。。。
ライーデを過去に見たかもしれないという記憶の再生は、いかにも不穏な運命の
幕開け、ライーデにアァムファタル(運命の女)としての神秘を纏わせた登場の
させ方としてはうまいですよね。アントニオは一瞬で神秘的な彼女の虜になりました。
実際のライーデはアントニオが思っているような神秘的な女とはほど遠かった
わけですが。驕慢で身勝手で金に貪欲なただの娼婦にすぎないという。。。

>時折文章は句読点が省略されて一文が延々と続く。
>これはドリーゴの妄想が制御不能に全開になるとき。
>(この意識の流れは、まるでジョイスかクロード・シモンじゃないか!)
だらだらつづく文章はとても読みづらく、訳者が句読点を打たないのは意図的だと
気づいていましたが、手法はまったくクロード・シモンと同じですね!
86 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/21(日) 21:54:10

>この7の字型の割れ目はP190とP244でも出てきて
>ブッツァーティが何かを象徴させている気配ぷんぷん。
>「彼自身の苦悩を形象化したシンボル」とされている。
わたしもこの「7」の文字が何を意味するのか疑問でした。
7と聞いて、ふと思い浮かんだのが「七つの大罪」。
中世ヨーロッパのキリスト教において最も悪しき行為とされた七つの行為のことを
言います。傲慢、嫉妬、大食 淫欲、怠惰、貪欲、憤怒の七つ。
大食に関しては贅沢な食事という意味にとれば、ブルジョワのアントニオには
すべての七つの大罪があてはまります。
お金で女を好きなように買う「淫欲」。お金で女のこころまで支配しようとする「傲慢」。
相手が自分の思い通りにならないことへの「嫉妬」、場違いな「憤怒」。
ブルジョワにのみ許された「怠惰」な生活、貪欲なまでの執拗な「執念」。
豪華で飽食ともいえる「大食」。
(ちなみにこの七つの大罪は、そのままライーデにもあてはまります・・・)

>余談だけど、「妄想」「妄念」の「妄」という字は、
>女を亡くす(失くす)と書くね。)
鋭い! どうも女という漢字は「嫉妬」、「怒り」、「姦通」、「姦しい」を初め、
あまり良い意味では使われていないような。古今東西、男を破滅に導くイヴ……。

とりあえず、今日はここまで。


――それでは。
87SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/25(木) 01:28:30
>>84-86
>あえてせりふは極力抑えてありますので、読者はケマナイのこころのなかを
>あれこれ想像するしかないのですが、それがまた楽しいんですよね〜♪
『KEMANAI』はほとんどサイレントムービーみたいな漫画だね。

>男は黙ってサッポロビールと言いそうなタイプなのに、
>ストローでオレンジジュース(レモンジュース?)を黙々と飲む。
そうそう。あのギャップがいいね。
柔らかな線と鋭い線、のコントラストなんかも含めてね。

>わたしの感想は9レスほど用意してありますが、
9レス! これまたすごいなぁ!

>全編に亘る濃密な描写にひたすら圧倒されました。。。
そうだね。気がつくと読み終わっていた感じだったから、
ブッツァーティの筆力に幻惑されたといえるかもしれない。
意外にストーリーテラーだったんだなぁ、と。

>7と聞いて、ふと思い浮かんだのが「七つの大罪」。
鋭い!「七階」「七人の使者」にもどこか通じてるかもね。

>どうも女という漢字は「嫉妬」、「怒り」、「姦通」、「姦しい」を初め、
>あまり良い意味では使われていないような。
確かに。「妨」もネガティブだしね。
ぱっと思いつくポジティブな字は「好」ぐらいかなぁ。
88SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/25(木) 01:37:48
>>81の続きをもう少しだけ。

ドリーゴはライーデから離れようとするけれど
なかなか離れることができない。
それはドリーゴにとってライーデが「宿命の女」だから。

そして、自分の哀れさを頭では理解しているドリーゴが、
それでも自分の感情をコントロールできないのは、
失われた青春を取り戻したいという、止みがたい希求を、
ずっと長年、潜在的に抱き続けてきたから。

いったんは破局を迎えたかに思えたドリーゴとライーデは、
最後には寄りを戻す形になって、
螺旋階段を下へ下へと降りていくようなこの物語の終局は、
意外にも静かな雰囲気を漂わせてるかのよう。
主人公にはハッピーエンドが待っているのだろうか? 
いや、違う。ドリーゴに待っているのは《死》。

実際にドリーゴは死ぬわけではないけれど、
ブッツァーティは《死》を提示してこの物語を締めている。
この《死》の受け止め方は幾通りかあるかもしれない。
罰としての死、愚かさの象徴としての死、放蕩の果てのゴール。

しかしながら、これもまた「ある愛(アモーレ)」の形として
ブッツァーティは提示したとも読むことができそうな気もする。
善悪や可否などの道徳的評価とは次元を異にした宿命の愛。 〆
89(OTO):2007/01/26(金) 17:47:11
>>73
>えっ! なに、なに、なに?
>そんなに面白いのですか? 下巻だけならわたしにも読めそうですか?
>>78
>「デリダ読みながら吹き出す」人間は珍しいからね(微笑
>OTO氏の笑いのツボはあまりあてにしないほうが。。。

さて、ちょっと書いたよwwww
「何故おれは吹き出したのか?」
90(OTO):2007/01/26(金) 17:49:31
「エクリチュールと差異」第9章「限定経済学から一般経済学へ」
1966年に「アルク」誌バタイユ特集号に初出掲載されたこの論文は、
サルトルのバタイユ批判「新しき神秘家」への圧倒的な反論としての意図があるようだ。

 バタイユの提出する諸概念は、それが置かれている統辞法を無視して個々に把捉し、
 固定化して見れば、すべてこれヘーゲル的概念である。そのことは認めるほかないのだが、
 それですべてが終わると考えてはならない。というのも、こうした一見ヘーゲル的な諸概念に
 バタイユはある震動を与えており、概念そのものにはほとんど手をつけていないが、
 これを新しい布置へと転移せしめ、再記載しているからなのだ。
 したがってこうした震動なり新しい布置なりがもたらす効果を厳密に把捉しきれないままだと、
 やれバタイユはヘーゲル的だ、反ヘーゲルだ、いや、出来の悪いヘーゲル亜流だ、
 などとその場その場で行きあたりばったりな評価が出てくることになるだろう。
 もちろん、いずれもみな間違っている。(162P)

言い切り、であるwwことアルトーとバタイユに対するデリダの感情は「愛」であり、
この二人の「前のめりでアッパーで、ドが付くほどの天然の深さ」に
ほとんどあこがれに似たものさえ感じているのではないだろうか。
おそらくデリダ自身には無い「天啓ともいえるインスピレーション」に対する
憧憬があるのだろう。
91(OTO):2007/01/26(金) 17:52:52
 まず《至高性》のことから始めようと思う。一見したところでは「精神現象学」における
 《支配》を翻訳したものかと思われるであろう。《支配》の主要な作用は、ヘーゲルによると、
 「われわれが《現存在》一般の普遍的特性に対してはおろか、いかなる特定《現存在》にも
 縛られていないこと、つまり生に縛りつけられているわけではないのだということを示す」
 ところにある。かかる作用は、帰するところ、自己の生の全体を《危険にさらす(賭ける)》
 であろう。これに対して《奴隷》とは、おのれの生を危険にさらさぬ者、
 生を保持しようと望み、自身保持されてあることを望むものなのだ。生を超えて立ち、
 真向から死を凝視してこそ《支配》に、つまり対自と自由と認知とに至る道が開かれる。
 自由とはしたがって、生を危険にさらしてこそ成るものなのである。
 そして《主人》とは死の苦悩を耐え忍び、死の仕業を支え切る力を有した者を指して言うのだ。
 おそらくバタイユは、ヘーゲル哲学の中核をこのように捉えていたのであろう。
 (一部括弧内表記略)(163P)

しかしデリダはヘーゲルの《支配》とバタイユの《至高性》との間にある差異を指摘する。

 この差異に意味があるとさえも言えないのだ。この差異は意味自体についての差異だからである。
 つまり、意味をある種の非-意味からへだてる唯一の間隔なのだ。(164P)

このポスト構造主義の代表的著作の終わり近くに来て、デリダは哲学そのものを
秤にかけようとしているように見える。意味の認知のため、真理のために生を危険にさらしながらも
それを保持すること、獲得した意味を享受すること。その意味の歴史。
それら一切を意味への隷属という「限定経済学」でしかないものにしてしまう
ひとりの男の存在について、デリダの表現は「詩的」ですらある。

 バタイユの哄笑。生の、つまりは理性の詭計によって、結局のところ、
 生が生きながらえてしまっている。こんなことになったのも、実は、いつのまにか
 すっかり別の《生》概念が導入され、そのままそこにいすわり、理性同様、
 遂に超えられることのないままにあるからだ。(166P)
92(OTO):2007/01/26(金) 17:54:31
続く数段の「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」についての、
情熱的な論を一気に読みながら、そのあまりの痛快さに私は吹き出した。
そばにいた友人が「おまいデリダ読みながら吹き出すなよw」と言った。

 「詩も笑いも法悦も《体系》においては無なのだ。そうしたものをヘーゲルはさっさと
 厄介払いしてしまう。彼には知以外の目的など考えられないのだ。彼につきまとっている
 あの無際限な疲れは、わたしの見るところ、そうした盲点への恐怖に起因するものである」
 (「内的体験)。笑うべきは意味の明証性に降ること、ある種の命令のもつ力に屈服することだ。
 この命令は言う、意味あれかし。(168P)

そうだ。無だ。徹底的な性的放蕩と泥酔の果てでバタイユが見つめたもの、
そしてその「不可能なもの」を眼前に、常にバタイユは笑っていたはずである。
このデリダの論文は、あるいは「笑い」についての極限的なエクリチュールとも言えはしまいか。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww




93SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/01/27(土) 18:21:09
>>90-92
興味深く読みましたよ。

>ことアルトーとバタイユに対するデリダの感情は「愛」であり、
>「天啓ともいえるインスピレーション」に対する憧憬があるのだろう。
インスピレーション。インスパイア。スピリットをインすること。
息を吹き込まれること(アルトー論は確かそんな感じの題だったっけ)。
といってもヘーゲルの弁証法的な精神とは異なるスピリット。
バタイユは奇妙な道を通ってインスピレーションへと向かう。
ひと言でいうならば、ヘーゲル的な明晰さと論理性を経由して、
《非−知》の夜における交感、哄笑、陶酔に向かう。
そこがアルトーとは(シュルレアリストとも)大きく違うところで、
デリダのバタイユ論の肝もその点にあるといえるだろうね。

デリダの「愛」をここに見るかどうかは人によるのかもしれないけど、
サルトルのバタイユ論「新しき神秘家」への目配せはあるんだろうね。
デリダによるバタイユは、ヘーゲリアンでも反ヘーゲリアンでもなく、
ヘーゲルの論理性をもちながら、ヘーゲルの体系が解体されるところまで
その論理性を極北まで拡大し、押しやろうとする「留保なきヘーゲリアン」。
相手の内臓に入り込み、その内臓に同化するかのような身振りを見せながら、
その内臓が破裂するところまでいくというこの同化と解体の手法は、
デリダ自身の脱構築のある面を投影したものかもしれない。

>続く数段の「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」についての、
>情熱的な論を一気に読みながら、そのあまりの痛快さに私は吹き出した。
バタイユの「笑い」に感染するようにして笑ったわけか!
そしてバタイユの笑いの背後には、ニーチェの哄笑もあるんだろうけど、
彼らは《知》や《体系》や《意味》を求めずに最初から笑ったのではなくて、
《知》や《体系》や《意味》の限界点を見定める地点で笑ったんだろうね。 〆
94 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:39:33

>>489-492
(OTO)さん

「エクリチュールと差異」の感想ありがとうです。

バタイユの「哄笑」について、興味深く読ませていただきました。
わたしはヘーゲルについてはほとんど無知に等しく、唯一知っているのは
ラカン理論を推奨したあの有名な「主人と奴隷」・支配/被支配くらいなのですが、
引用されている箇所はちょうどその「主人と奴隷」にあたるようですね。
とはいえ、「主人と奴隷」の正確な意味を今まで把握していなかったのですが、
今回詳しい引用のおかげで初めてわかりました。

>ヘーゲルによると支配とは生に縛りつけられていないこと、
>《主人》とは死の苦悩を耐え忍び、死の仕業を支え切る力を有した者を指して言う。
>これに対して《奴隷》とは、おのれの生を危険にさらさぬ者、生を保持しようと望み、
>自身保持されてあることを望むもの。
>おそらくバタイユは、ヘーゲル哲学の中核をこのように捉えていたのであろう。
なるほど。つまり、生に対しての挑戦者が《主人》であり、保身をはかるものは《奴隷》
ということですね。バタイユは常に生への挑戦者であり、それゆえに《主人》であると。
95 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:40:15

>「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」
>彼には知以外の目的など考えられないのだ
ヘーゲル哲学は「主人と奴隷」という言葉に象徴されるように、彼はすべて「労働」に
還元してしまう。つまり、「経済」に。この辺りマルクス的ともいえるような…?
けれどもバタイユはヘーゲルのあくせくした勤勉な知への労働を笑い飛ばす。
それはもはや労働とは呼べず徒労以外のなのものでもない、と。

>そうだ。無だ。徹底的な性的放蕩と泥酔の果てでバタイユが見つめたもの、
>そしてその「不可能なもの」を眼前に、常にバタイユは笑っていたはずである。
ヘーゲルが意味あれかしとせっせと知に勤しむ姿をバタイユは高みから哄笑する。
「意味なんかないのですよ。私が見ていたのは無なんですよ。
あなたはすべての現象に意味づけしないではいられない。意味づけすることは
知の証明であると考えておられるようだ。その勤勉さには頭が下がりますが、
どうやら大きな勘違いをされておいでのようだ。
人間がこの世でなしうるあらゆる悪事。私のしでかしたあらゆる放蕩、侵犯、
これらはあなたが意味づけした《主人》として生に挑戦したわけじゃあないんです。
ひとことでいえば法悦を味わいたい、究極の快感に浸りたいからですよ。
これだけです。意味などありませんよ。この上さらに意味づけなど必要ですか?」
96 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:41:46

>ことアルトーとバタイユに対するデリダの感情は「愛」であり、
>この二人の「前のめりでアッパーで、ドが付くほどの天然の深さ」に
>ほとんどあこがれに似たものさえ感じているのではないだろうか。
>おそらくデリダ自身には無い「天啓ともいえるインスピレーション」に対する
>憧憬があるのだろう。
デリダは哲学者である一方文学を擁護し、文学にも造詣が深かったようですので、
創作するものに対して人一倍憧憬の念が強かったのかもしれませんね。
巷間よくいわれることですが、文学研究者である文学者や哲学を経由した評論家
たちは読書量や知識にかけては小説家以上です。
膨大な量の本を読み、知識を有している彼らは、けれども自ら何かを編み出すことは
決してできない。無から形あるものを創造することはできない。
すでにできあがったものを前にして初めて研究なり理論展開をする人たちです。
自分より遥かに読書量も知識も劣ると思われる作家が、天啓を受けたかのような
小説を書く。そこに彼らの作家に対する羨望や嫉妬が皆無であるとは言い切れない
ものがありますが、率直に羨望のままに憧憬を抱く学者や評論家がいる一方で
彼らの才能に嫉妬し挙句の果てはこき下ろすという人種もいます。

デリダは、選ばれた人たちに「愛」を抱いたのですね。
さよう、選ばれた人たちは創作を知に還元しようとあくせくと「労働」しない。
いつだって無自覚で能天気だ。天然の彼らだからこそミューズの神は舞い降りる。
97 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:42:22

>>493 SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>バタイユは奇妙な道を通ってインスピレーションへと向かう。
>ひと言でいうならば、ヘーゲル的な明晰さと論理性を経由して、
>《非−知》の夜における交感、哄笑、陶酔に向かう。
そうでしたか!
バタイユは最初から明晰さと論理性を無視したわけではないのですね?
そこを経由し、結果として非論理的なもの、すなわち「神秘なもの」へと
到達したのですね。
「示されうるものは、語られえない」(4-1212)
「言い表しえぬものは存在する。それは神秘である」(6-522)
――ウイトゲンシュタイン「論考」より

バタイユはヘーゲルの論理性には限界があると感じていたのですね。
《非−知》とは知りえないもの、つまり語りえない内的体験。
98 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/27(土) 23:42:57

>バタイユの「笑い」に感染するようにして笑ったわけか!
>そしてバタイユの笑いの背後には、ニーチェの哄笑もあるんだろうけど、
>彼らは《知》や《体系》や《意味》を求めずに最初から笑ったのではなくて、
>《知》や《体系》や《意味》の限界点を見定める地点で笑ったんだろうね。

語りえないものについては沈黙しなければならないという哲学の掟を
破ってまでヘーゲルは示されたことに知や意味を求めたのですね。
バタイユはヘーゲルに真摯な態度というよりも、いじましくも《知》に必死に
しがみついて離れない哀れさを見たのでしょうね。
それはあたかも、もう自分の時代がとっくに過ぎたのにまだ自分の威力を
発揮することができると自惚れ、勘違いしている老人に喩えられるような……。
えてしてこうした老人は若者たちの未知なるちからを決して認めようとはしない。
バタイユが苦笑ではなく哄笑したのは、後から来た自分のほうが先に限界点を
見定める地点に到達したという自信と余裕からきているのでしょうか?
99 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:16:20

>>87-88
SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>9レス! これまたすごいなぁ!
そのうち3レスはあらすじですので実質は6レスです♪

>ブッツァーティの筆力に幻惑されたといえるかもしれない。
>意外にストーリーテラーだったんだなぁ、と。
切迫感というのかな、たたみかけるようなタッチには驚きですよね。
今までの作品は人生を俯瞰的な立場で、あくまでも傍観者としての位置を
崩すことなく淡々と語っていたのとはあまりにも対照的です。
リアルすぎて真に迫っているというか。。。

>「七階」「七人の使者」にもどこか通じてるかもね。
「七つの大罪」とは逆の「七つの美徳」(正義、分別、節制、堅忍、信仰、希望、慈悲)
がありますが、これに該当するのは領主にどこまでも忠実な臣下を描いた
「七人の使者」ですね。
「七階」はう〜ん、どちらにも該当しない・・・。ただ、段々と症状が悪化する
という設定は、ヨハネの黙示録で「神が定めた七つの時代」、「七つの厄災」
から来ているようにも思えました。
「神が定めた七つの時代」、「七つの厄災」とも終末を暗示しています。
いずれにしろ、キリスト教国において「七」は良い意味でも悪い意味でもキイワードとなる数字なのかもしれませんね。


(つづきます)
100 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:17:07

>それはドリーゴにとってライーデが「宿命の女」だから。
そうですね。
ライーデ=宿命=運命と設定することで、人は自分の運命から逃れることは
できないのだ、という従来のブッツァーティのテーマを踏襲していますね。
運命とは正体不明かつ得体が知れないけれど逃れられないもの。
男にとって女はその最たるものかもしれません。(逆もまた真なり)
散々手こずらされ、焦らされ、振り回され、破滅に向かうのがわかっていても
どうしても離れられない、それが「宿命の女」。
作中でドリーゴはライーデと完全に手を切ろうと試みた一時期がありましたね。
電話もしない、逢いにもいかない、そうすることで従来の平穏な日々を取り戻した
かのように思えたのも束の間、ライーデからの一本の電話で固い決意はたちまち
崩れ去り、ふたたびライーデに引きずられ都合のいいようにあしらわれる。

「男と女のごたごたは五分五分である」とは瀬戸内寂聴さんの言葉ですが、
どちらか一方だけに非があるのではなく、自分を苦しめる相手を選んだ時点で
相手と同罪なのですね。
ドリーゴの本心を覗き見るならば、そもそもドリーゴの惹かれる女はライーデの
ように自分を愛さない女、自分につれない女なのですね。
つまり、ドリーゴは自ら苦しみを引き寄せ、その苦悩を決して嫌いではない、、、
人はそれを「狂気」と呼ぶ。


(つづきます)
101 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:17:40

>ブッツァーティは《死》を提示してこの物語を締めている。
>この《死》の受け止め方は幾通りかあるかもしれない。
>罰としての死、愚かさの象徴としての死、放蕩の果てのゴール。

バタイユは『不可能なもの』で、苦悩を欲する主人公の祖先に言及しています。
常人ならば避けたいであろう苦悩をあえて欲する。
なぜなら、その苦悩は歓喜へと姿を変え、それゆえに苦悩はさらに希求される。。。
苦悩の最たるものは「死」でありますが、バタイユはその「死」は「エロス」のさなか
で真の歓喜に変るといいます。
苦悩を歓喜に変えるには「狂気」なくしては成り立たないということです。
つまり、「狂気」とは相反するものを結びつける橋渡し的な役割でもあるのです。

ドリーゴは「狂気の愛」の結果として、やがて訪れる「死」を歓喜に変えることが
できるでしょうね。
ひとつの破滅的な愛が人生の黄昏を迎え始めた彼にもたらしたもの。
彼にとって「死」とはもはや苦悩でも恐怖でもない。
「死」は歓喜と解放なのだ。

以下、わたしの感想です。
102 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:18:10

ディーノ・ブッツァーティ『ある愛』・河出書房新社、読了しました。
わたしのなかでは『死の棘』以来の凄まじい狂気の愛の物語です。
島尾敏雄の場合は浮気した夫に妻が狂乱し夫が苦しめられますが、
この作品は初老の建築家が愛人契約をした若い浮気症のコールガールの
驕慢さや酷薄さに翻弄され愚弄されて狂乱し破滅へ向かうという壮絶な
愛の物語です。

49歳の建築家アントニオはある日上辺は高級婦人服店、内実は売春斡旋業の
エルメリーナからライーデを紹介されひと目で気に入ります。
ライーデは自称バレリーナ志望の長い黒髪とすらりとした脚を持つ美少女。
淫売という自分の職業に何の罪悪感も抱いていません。
屈託がなく、一見そこら辺の少女とほとんど変わらないのです。
ただ一点、彼女をたんなる淫売と隔てているのはその気位の高さです。
すなわち、お金で軀は売っても魂までは決して売らない。
アントニオは青年期に女たちには苦い思いばかりさせられてきたのでした。
彼が好ましいと思う娘たちは悉く彼と目が合うと露骨にいやな顔をし、
顔を背けるのです。なかには愛想のいい娘たちもいることはいましたが、
彼は自分に微笑みを向けてくれる娘には何の興味も持てないのでした。
つまり、彼の女性の好みとは一言でいえば「自分を疎ましく思う娘」なのですね。
そして、彼の遅咲きの恋の相手ライーデはまさにその典型でした。


(つづきます)
103 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:19:17

青年時代、アントニオは恋愛については苦渋を嘗めさせられました。
彼よりも容貌の劣る、教養のない粗野な若者たちは娘たちをいとも簡単に口説き
ものにし、自慢しました。
彼がどんなに頑張ってもできないことを、彼が軽蔑し、彼より数段は劣る彼らは
いとも簡単にやってのける。ますます深まる劣等感……。
しまいにはアントニオは恋愛や女性を意識して避けるようになりました。
そして、今、彼は建築家としてそれなりに成功し、身分のある地位にいるのです。
そんな彼が狂ったようにライーデに夢中になり、月額で愛人契約を持ちかけます。
ライーデはお金欲しさに同意しました。
それはまさに地獄の日々の幕開けでもありました……。

ライーデは性悪で気まぐれで驕慢な娘だったのです。
彼との約束を守らないのは序の口、車を出させて足代わりにする、
皆の前で罵倒する、従兄弟と称する青年と見せつけるようにいちゃつく、
挙げ句の果ては、契約しながらも何だかんだと理由をつけて指一本
触れさせようとはしない。
さすがのアントニオも癇癪を起こし、ライーデを罵倒します。
すると、ライーデもさらなる癇癪を起こし罵倒の応酬をします。
ライーデに翻弄され愚弄の限りを尽くされ、アントニオは日に日に身も
こころも憔悴していきます。ライーデから去るのが一番の良策なのですが、
彼はライーデに魂まで奪われ、最早彼女なしでは生きていけない身の上に
なってしまっていたのです。


(つづきます)
104 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:51:28

それを承知の上でライーデはますます身勝手に振舞い、彼をこれでもかと
苦しめつづけます。アントニオはアントニオでライーデにすげなくされれば
されるほど、彼女に執着し執拗に浮気を責め立て、追いつめていきます。
息苦しいほどの克明な描写が延々と綴られ、読んでいるほうもつらくなります。。。

「愛とは呪いである」とは作中の作者の言葉です。
ひとたびこの呪いにかかった以上、愛に翻弄されながら呪いが醒める日を
ただひたすら待つか、あるいは死を選ぶかどちらかしかない。
わたしにいわせれば、アントニオの場合は「愛」というよりも「恋」なのですね。
それも遅咲きの免疫のまったくない「はしか」のような恋。
免疫がまったくない分、どこで引き、どう諦めるかがまったくわからない。
まあ、彼の場合まだ周囲にまで迷惑を及ぼしていない分、ライーデには
温情があるというべきでしょうか。

ラスト近くライーデのともだちは「私たちがまともに働けないように
しているのはあんたたちブルジョアよ」と罵ります。
――「あんたたちブルジョアは私たちが入用なくせして、私たちの足元に
ひれ伏している時にだって私たちを劣等な人種だと考えているの。
それでいながらそれを愛だなんて言うの?」――(p282)


(つづきます)
105 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:52:04

彼女の糾弾は半分は真実であり、半分はそうではありません。
ブルジョアに限らず金と権力を手にした男たちは少なからず、相手は売春婦
だから、と高をくくっているのは少なからず事実でしょう。
けれども、買春する彼らよりも売春婦である彼女のほうが先ず自らを
「劣等な人種」と認めてしまっているのですね。
実際ライーデのともだちは卑屈で、品がなく、小猾そうな目つきで目の前の
アントニオを値踏みしているのです。

ところで、娼婦に狂い破滅した男の物語は古今東西かなりありますね。
わたしはドストエフスキーの描く娼婦にとても興味があります。
彼の描く娼婦は対極にあります。
先ずは『罪と罰』のソーニャ。彼女は娼婦に身を堕としてはいますが、敬虔で
泥中に咲く真っ白な蓮の花のような清らかなこころの持ち主です。
次に『白痴』のナスターシャ。気位が高くその貴族的で高飛車な態度は今回の
躯は売っても魂までは決して売らないというライーデに匹敵します。
但し、ライーデの場合は高飛車なだけで貴族的からはほど遠いのですが、、、
ナスターシャもライーデもお金で自分を買う男たちを見下し、鼻で笑う。
ドストエフスキーは全く対照的な娼婦を別々の作品で描きました。


(つづきます)
106 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:52:43

男たちにとって、娼婦という「女」そのものの典型である彼女たちは
あるときは女神であり、あるときは魔性の女であるのでしょう。
崇拝したい、安らぎたいと願う一方で振り回されたい、狂おしい嫉妬や
懊悩に駆られてみたい、、、そんな相反する気持ちがソーニャとナスターシャ
という対照的な女性をつくりだしたのではないでしょうか?
では、ブッツァーティにとって「女」とは?
……彼にとって女とは、男を捕らえて狂わすもの。

ブッツァーティの作品は全般として何か得体の知れないものに「囚われた」
男の物語が多いです。
『タタール人の砂漠』は砂漠という不可解なものに生涯囚われた男、
『七人の使者』はあるかないか存在不明の国境を探すことに生涯を費やした
使者たち、そしてこの『ある愛』においては男からみたら究極の神秘であり、
同時に魔性でもある女に魂まで奪われたひとりの男。
なぜブッツァーティはそれほどまで執拗に「囚われびと」の物語を書く
のでしょう?
おそらくは、彼もまた書いても書いても答えがでない、それでも何かに
憑かれたように書かずにはいられない小説という世界に囚われたひとり
の男だったから。
ブッツァーティは「囚われること」は宿命だといいます。


(つづきます)
107 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:57:48

この息のつまる狂気に満ちた不毛な恋の物語を読んでふと思ったこと。
不毛とも言える何かに囚われて生涯を終える人と、何にも囚われず
平穏無事なまま生涯を終える人とでは、はたしてどちらが幸せなのだろう?
身も心も喰い尽くされた囚われびとにとって死は確かに救いであるのでしょう。
反して、平和な人生を歩んできた人にとって、死は恐怖以外の何ものでもない。
死は誰にでも等しく訪れますが、平静は忌避されるべきものであり、悪しき
ものとして目を背けられています。
けれども、宿命を背負い囚われた人にとって死は最も身近な親しいものとして
歓迎されるのではないでしょうか。
少なくとも死ねば、囚われの苦しみからは解放されるのですから。
ブッツァーティの描く囚われびとたちは、宿命を背負ったまま死に向かって
行進していきます。
砂漠にそびえ立つ砦から、国境を探す果てのない旅の道中から、
そして、初老の男の不毛な恋のいきつく先から……。
死は彼らにとって安住の地、約束の地。
在里寛司氏の解説にもありましたが、ブッツァーティは人生を――宿命と死を
描く作家であると。


(つづきます)
108 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 00:58:56

この作品は今までの寓意的な作品群と比べて、リアルな心理描写が克明に
語られ、また、胸をえぐりとるような刃のような言葉が乱れ飛びます。
恋は昔夢見た甘いお伽噺話ではなく、男と女のぎりぎりの心理戦、
命をかけた駆け引き、互いをどこまで縛れるかの意地の張り合い。
ブッツァーティは愚かで哀れな男の滑稽な恋を余すことなく赤裸々に白日の
下に曝します。
それにしても、アントニオとライーデは何とよく似ていることだろう!
ふたりとも相手から奪うことばかり考えていて、相手に与えようとはしない。
アントニオはこう弁明するだろうか。
「私は彼女にお金と住む場所とドレスを与えた。望まれればいつでも車を
だしてやり、屈辱にも甘んじた」
ライーデはこう言い返すだろうか。
「あたしはこの若い躯をあのじいさんに提供したわ。虫酸が走るほど嫌い
だったあのじいさんによ! お金も住む場所も当然の見返りよ」

こんなふたりは愛をどれだけわかっているのだろう?
ふたりを憎悪を結びつけているのは互いの深い劣等感、アントニオは青年期に
娘たち誰ひとり好かれなかったという屈辱、ライーデは自分がこれほどの
美貌と若さを持ちながらも娼婦に身を落とさなければならないという屈辱。


(つづきます)
109 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:29:26

つまり、ふたりとも自己評価が非常に高く、従ってプライドも異様に高い
持ち主なのです。
彼らは「このおれ様がなぜ?」、「このあたしがどうして?」と絶えず
不満を相手に押しつけているのです。相手を理解しようとするどころか
「おれ様を、あたしを愛しなさい」と命令します。
ふたりは合わせ鏡なのです。それなのに互いを決して認めようとはしない。

アントニオは自分に目もくれなかった高慢な娘たちへの恨みを引きずる
のではなく、初心で素朴な娘たちの微笑みを受け入れるべきでした。
ライーデは華やかなドレスやスポーツカーを望まなければ、町なかで
よく見かける平凡でつつましい普通の娘たちの仲間入りができたでしょう。
けれども、人間の嗜好は変えられないものなのかもしれませんね。
自分を忌み嫌う娘にしか食指が動かないのも、また、お人好しでマヌケで
凡庸な男にしか好かれないのも、「宿命」なのだとすれば……。

アントニオはライーデをこの上なく高貴で神秘的な存在に思っているふしが
ありますが、それは盲目の恋のなせる技ですね。
彼女の美貌と若さ、それに見合う驕慢さと身勝手さがそう思わせているだけの
こと。玉手箱を手にしていざ開けたら白い煙だけ、というのはよくあること。


(つづきます)
110 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:29:58

きりきり舞いさせられ、苦しめられ、それゆえに恋は刹那的に輝きます。
恋のもたらす痛み、壮絶な嫉妬も悶々と眠れない長い夜も懊悩も全部ひっくる
めてアントニオは49歳という年齢でようやく経験できたのです。
それもかなり濃厚に。彼の人生で最初で最後の闘争でしょう。
負け戦と初めから知っていて敢えて挑んだのです。
拍手をおくろうではありませんか。ライーデのこころを完全に手中にできる男など
おそらくこの世にひとりもいないでしょう。
そもそも、人は誰かのこころを、魂を完全に掌握することなどできやしない
のですから。それはあまりにも不遜であり傲慢というものです。
誰かのこころを永遠に縛りつけることなど不可能です。人は神ではないのです。
恋という美しい幻を夢見ることは決して悪いことではありませんが、
けれども、ねえ、お気をつけなさいな。
あまりも恋に囚われすぎると、相手も自分も見失ってしまいますよ。
とはいえ、それでも飛び込みたい人は飛び込むのでしょう。愛しい人の腕めがけて。
ひとたび恋に囚われてしまったからには、もはや誰にも止めることなど
できないのですから。それは野暮というものです。
こうしてまた今日もひとり、盲目の囚われびとは恋に向かって駈けていく……。


――それでは。
111 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:30:31

(追 記)

……それにしても、この物語のみならず、愛はあるときは人を有頂天にさせ、
あるときは人を狂気や死に導きます。有史以来、愛の正体は未だ不明。
「ある愛」のアントニオは最後に、他の男の子供を妊娠したライーデを受け入れ、
許そうと決心します。壮絶な茨の愛の昇華という点では「死の棘」のその後の
ふたりに匹敵するのではないでしょうか。
……ところで、あなたにとって愛とは何ですか?
想いが届かず今夜泣いている人、かつて愛に痛手を受けて臆病になって
いる人、嫉妬に苦しんでいる人、愛に懐疑的になっている人すべてに
Bette Midler(ベッド・ミドラー)の<The Rose>を贈ります。

<The Rose> 【動画】 Bette Midler(Live) ↓
http://www.youtube.com/watch?v=Y-y61DlRPhw

<The Rose> 【歌のみ】 Bette Midler ↓
http://www.youtube.com/watch?v=PIBUaMe37B8
112 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:31:07

<The Rose> 
[詞・曲]Amanda McBroom  [歌]Bette Midler

Some say love it is a river
That drowns the tender reed
Some say love it is a razor
That leaves your soul to bleed
Some say love it is a hunger
And endless aching need
I say love it is a Flower
And you its only seed

It's the heart afraid of breakin'
That never learns to dance
It's the dream afraid of wakin'
That never takes the chance
It's the one who won't be taken
Who cannot seem to give
And the soul afraid of dyin'
That never learns to live

When the night has been too lonely
And the road has been too long
And you think that love is only
For the lucky and the strong
Just remember in the winter
Far beneath the bitter snows
Lies the seed that with the sun's love
In the spring becomes The Rose

http://www.lyricsfreak.com/b/bette+midler/the+rose_20017078.html
113 ◆Fafd1c3Cuc :2007/01/28(日) 01:33:03

<The Rose> 訳詞


ある人は言う 愛は濁った川の流れのようだと
弱く傷つきやすい人を飲み込んでしまうと
ある人は言う 愛は冷たい刃のようだと
人の心を容赦なく切りつけると
ある人は言う 愛は飢えのようだと
どれだけ求めても満ち足りることのないものだと
私はこう言うわ 愛は花だと
そしてその大切な種が、あなたなのだと

傷つくことを恐れていては、
楽しく舞うことができない
夢から覚めることを恐れていては、
チャンスをつかむことができない
奪われることを拒む臆病者は、
与える優しさを知ることがない
死を恐れていては、
生きることの意味を学べない

ひとりで寂しく過ごす夜や、目の前の道を遠く長く感じるとき、
また、愛は心と運の強い人にしかやって来ないものだと思うとき、
どうか思い出して
厳しい冬、冷たい雪の下で 寒さにじっと耐える種は、
暖かい太陽の恵みを小さな体いっぱいに受けて、
春には美しい薔薇として花ひらくということを

http://www.mtblue.org/music/lyric/rose.php
114SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/01(木) 00:28:39
>>99-113
量と質においてすさまじい書き込みだね。

>キリスト教国において「七」はキイワードとなる数字
1週間も七だしね。七賢人
キリスト教の七つの大罪を仏教的にあてはめれば四苦八苦かな。
生老病死の【四苦】に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦をくわえた【八苦】。

>その苦悩は歓喜へと姿を変え、それゆえに苦悩はさらに希求される。。。
>ドリーゴは「狂気の愛」の結果として、やがて訪れる「死」を歓喜に変えることが
>できるでしょうね。
ドリーゴは果たしてバタイユ的な陶酔に至るのかどうか?
これはちょっと疑問ではあるけれど、作者がそこまで描いていない以上、
読者はいろいろなイメージを持つことは可能だろうね。
たとえば、この作品の中の死をこんなふうに考えることもできるだろうか。
妊娠したライーデと和解し、平静を手にしたドリーゴに訪れる「死」。
それはあたかも、平静とは死であり、翻弄と狂騒こそが生だというかのように。
ドリーゴを盲目的にするライーデの愚弄こそ、彼の生命に火をつけるもので、
不完全燃焼のままに埋もれていた彼の青春を蘇らせるものだというように。
115SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/01(木) 00:30:52
(承前)

>『死の棘』以来の凄まじい狂気の愛の物語です。
島尾敏雄もブッツァーティも幻想的な作品を数多く書いてるけど、
愛をテーマにしたリアリスティックな作品を残した点で
この二人には共通点があるようだね。

>わたしはドストエフスキーの描く娼婦にとても興味があります。
ドストエフスキーの名前はここでは初めて挙がったような気が。
当方は『ある愛』を読んでシュニッツラーを想起。
(機会があればシュニッツラーについても考えをまとめてみたいな。)

>ブッツァーティの作品は全般として何か得体の知れないものに「囚われた」
>男の物語が多いです。
まったく同感で、『ある愛』は確かに異質ではあったけど、
その点ではブッツァーティ作品に一貫したテーマが流れてるね。

>ふたりとも相手から奪うことばかり考えていて、相手に与えようとはしない。
有島武郎は逆説的なニュアンスで『愛は惜しみなく奪う』を書いたけれど、
有島も「奪う/与える」という二項対立図式に囚われてた感じだナ。
与えることと与えられることは必ずしも対立しないんだろうね。
与えることによって結果的に受け取ることも実際少なくないから。
116SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/01(木) 01:05:01
(追記)

Bette Midler <The Rose>は名曲だね。

>>93にもひと言だけ追記
私見では、デリダのバタイユ観に半分納得、サルトルの方にも半分納得という感じ。
『シチュアシオンT』のバタイユ論を読んだときはそれはそれで頷く面はあったから。
このゆらぎはバタイユのテクストそのものにある揺れに起因してると思うけれど――。

>>97-98
>バタイユは最初から明晰さと論理性を無視したわけではないのですね?
宗教学としては「無神学」としての神学、経済学としては限定されない「一般経済学」、
アセファルなどでは「社会学研究会」というふうに、「学」へのこだわりはあって、
バタイユは最初から「非-知」へ飛躍したわけじゃないとは思ってるけれど、
上にも書いたように、個人的には文章内での飛躍と揺れが時折感じられて
それがバタイユ像を正確に描きにくくさせてるところがあるなァ。

「非-知」が「言葉」で表現できないもの(内的体験)だとしても、
例えば「これは言葉で表現できない」と素朴にも語ってしまっては
サルトルがしたように神秘家というレッテルを貼られても仕方ない気がするし、
もし「これは言葉で表現できない」としか語れないにしても、
「言葉」に対する戦いと探求がもっとあった上でのものじゃないと
ちょっと弱い気もする、とこう書きながらも、このいかがわしさこそが
バタイユのバタイユらしいところなのかもしれないけれど。

雨傘を開いて哄笑するシーンが何かの作品にあったと思うけど
バタイユのスピリットにインスパイアされないとあれはわからない(苦笑 〆
117 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:05:30
>>114-116
SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>キリスト教の七つの大罪を仏教的にあてはめれば四苦八苦かな。
東洋ではなぜか偶数が多いようですね。108つの煩悩とか。

>ドリーゴは果たしてバタイユ的な陶酔に至るのかどうか?
>これはちょっと疑問ではあるけれど、
そうですね、これはわたしも走りすぎたかなあ、と。
バタイユにとって死はエロスを極める手段でありますが、
ブッツァーティにとって死は「囚われ」から自由への解放でしょうね。
「タタール人の砂漠」でも主人公の将校は最後に死を迎えようとするに至って、
敵の襲来を待つ永年の気の遠くなるような「囚われ」から解放されました。
誰からも賛美されない彼の人生は、最後に雄々しく死(=敵)を迎え入れることで
報われない人生と和解したのでしたね。

>それはあたかも、平静とは死であり、翻弄と狂騒こそが生だというかのように。
なるほど。
ライーデは性悪ではあっても、ドリーゴの今までの死せる人生に生の息吹を与え、
手引きしてくれた唯一の女。たとえそれが煉獄の炎に焼かれるような凄まじい
嫉妬の伴う生だとしても。。。
118 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:06:17

>島尾敏雄もブッツァーティも幻想的な作品を数多く書いてるけど、
>愛をテーマにしたリアリスティックな作品を残した点で
>この二人には共通点があるようだね。
確かに。ふたりとも愛を描く作家からは遠いイメージがあったのですが、
自らの恥部を赤裸々に迫真に描く点では似たようなところがありますね。
このふたりの作品を読んでいるとまさしく「愛とは闘争である」という言葉が
脳裏をよぎりますね。
プライドとプライドのぶつかり合い、互いの愛の量の測り合い、
己の全存在を賭けた勝負。。。

>(機会があればシュニッツラーについても考えをまとめてみたいな。)
ぜひお願いします。

>その点ではブッツァーティ作品に一貫したテーマが流れてるね。
ブッツァーティは自身で述べているように人生を描く作家ですが、
人生=運命のなかに異性がすっぽりと抜けていましたよね。
それが「ある愛」ではメインテーマとして語られています。
ブッツァーティにとって、異性は一度は書かねばならない宿命だったような…。
119 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:07:13

ベケット「ゴドーを待ちながら」を読了し、今「マーフィ」にかかっています。
本当は「モロイ」のほうを先に読む予定だったのですが、あいにく貸し出し中、
ということでした。。。
この作品も頭がくらくらするような作品ですね。
会話に込められた風刺や諧謔、これらの引用すべてを初読で正確に把握できる
人ってどのくらいいるのかなあ……?
巻末の膨大な注を見てふとそんなことを思いました。

「ゴドーを待ちながら」はOTOさんが再読し終えるのをゆっくりと待ちましょうね。
急がないで、スローペースでいきましょう。

立春になり、少しずつ春の気配が。
日曜日の午後、ラジオから流れてきた「そよ風の誘惑」、この季節にぴったり。
……でも、歌詞をよくよく読むと春風のようなさわやかな詩ではなく、大人っぽい詩
なんですね。
ライーデも最後にはこんな殊勝な気持ちになれたのかなあ……?

「そよ風の誘惑」 オリビア・ニュートンジョン
http://www.youtube.com/watch?v=qMAKE7_8AGY
http://www.youtube.com/watch?v=afpryDbAHYI
120 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:08:42

<Have You Never Been Mellow>

【作詞/作曲】 Farrar John   【歌】 Olivia Newton-John


There was a time when I was in a hurry as you are
I was like you
There was a day when I just had to tell my point of view
I was like you
Now I don't mean to make you frown
No, I just want you to slow down

Have you never been mellow?
Have you never tried to find a comfort from inside you?
Have you never been happy just to hear your song?
Have you never let someone else be strong?

Running around as you do with your head up in the clouds
I was like you
Never had time to lay back, kick your shoes off, close your eyes
I was like you
Now you're not hard to understand
You need someone to hold your hand

Have you never been mellow?
Have you never tried to find a comfort from inside you?
Have you never been happy just to hear your song?
Have you never let someone else be strong?

http://ntl.matrix.com.br/pfilho/html/lyrics/h/have_you_never_been_mellow.txt
121 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/04(日) 23:09:28

「そよ風の誘惑」   訳詞


見つめる目さえ 愛を知らなかったあの頃
夢見るように強く抱かれた あなたに
愛というより寂しさ 忘れたかったわ

Have You Never Been Mellow
わがままばかりで
あなた ごめんなさいね
ないものねだりするわけじゃないの
Have You Never Let Someone else Be Strong

ひとりつまびく あなたの唄が流れて
私の胸を素通りしては ふりむく
愛というよりやさしさ あこがれていたわ

Have You Never Been Mellow
わがままばかりで
あなた ごめんなさいね
ないものねだりするわけじゃないの
Have You Never Let Someone else Be Strong

http://www.age.ne.jp/x/ctake/midi-non/wrd/nonko13.htm
122SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/07(水) 01:10:18
>ベケット「ゴドーを待ちながら」を読了し
さすが速いね。OTO氏も今週あたりは読了かな?

あっちのスレは最近人大杉で見れないなぁ。

123(OTO):2007/02/07(水) 13:54:08
いま。いま読み終わったよww
とてもおもしろかった。感想書き上げられるのは来週かな、
順番どうする?これの感想を話し合うってことは「神」について
話し合うことになりそうだなww

あっちはちょっとageたら人が2〜3人来たので、少し下がるまで
休んでる。2〜3日かな。

遅レスだが
>>93〜98、>>116あたりを読んで、なんかすごく「話し合ってる感」が
あって、うれしかった。二人ともありがとう。
おれは割と断片的なとこに食い付いて、極端な論を展開するのが面白くて、
書いてる部分があるから、Cucの素直な感情移入やSXYのゆるがない平衡感覚
と出会うと何かが補完されたような気分になる。うまく言えてないなww

ブッツァーティ「ある愛」すごそうだな。だいぶ違う感じだが、
ふと有島武郎「或る女」を思い出した。

今日はいつもROMしてる専門スレを巡回するとどれもKEMANAIという
ハンドルの書き込みだったwwwwwwどうもありがとwwww
124 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/08(木) 21:16:23

SXYさん
ブランショのスレ、2レスほど書きましたよ♪

>>123 (OTO)さん
>感想書き上げられるのは来週かな、順番どうする?
そうですね、「ヘリオガバルレス」は飛び越して「ゴドー」を先にしましょうか。
わたしの感想はすでに書きあがっていますので、今週末にひと足先に
upしてもいいですよ。

>あっちはちょっとageたら人が2〜3人来たので、少し下がるまで
>休んでる。2〜3日かな。
今まで哲学板の動いていない下層スレを途中から借り受けてきましたが、
こうしたことが今後も許容していただけるのか、ちょっと難しそうですね…。
哲学板の「スレ立て依頼」で雑談系のスレ立てをお願いしたのですが、
「素人と飲み屋で話がはずむ位の哲学」という現行のスレを案内されました…。
ううむ、、、ちょっと違うなあ。。。
雑談で学問板にこだわらないのであれば、「ほのぼの板」があります。
見てきましたが、板全体が雑談です。
哲学板が今後新しい雑談スレを拒否するのであれば、「ほのぼの板」に
移動するのが一番妥当なのかなあ……。
125 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/08(木) 21:16:59

>なんかすごく「話し合ってる感」があって、うれしかった。二人ともありがとう。
いえいえこちらこそです。
哲学書はなかなか最後まで読み通すことができなくて、さじを投げてしまう
のですが、こうしてダイジェストしていただけるとありがたいです。

>ふと有島武郎「或る女」を思い出した。
ああ、知ってる、知ってる、あの驕慢な「葉子」という美貌を鼻にかけたヒロイン!
そういえば、同じような路線では夏目漱石の「虞美人草」の藤尾というヒロインも
いい勝負かな。藤尾が目をつけた初心な青年にはすでに婚約者がいる
のですが、婚約者がおとなしいのをいいことに、自分の美貌を武器に
彼を奪おうとして最後には憤死する女。
もうひとりは、谷崎潤一郎の「痴人の愛」のナオミ。
中年の男が年端もゆかない美少女ナオミの魔性に魅入られ振り回されます。
女王の如く君臨するナオミに男は奉仕する喜びを見出していくのです…。
ライーデはナオミに近いかな。

>今日はいつもROMしてる専門スレを巡回するとどれもKEMANAIという
>ハンドルの書き込みだった
おおっっ! みなさん、読んでくださるといいなあ。
126 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 14:29:05

☆☆緊急連絡☆☆

あちらに他スレへの誘導リンクが貼られました。。。
誘導先はすでに700を越えていますし、常連さんたちばかりのようです。
入りづらいです・・・
PCで新スレを立てようとしたら、こんな表示が。
「ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
またの機会にどうぞ。。。 」
ちなみに携帯からでも同じでした。
哲学板では1回もスレ立てしたことないので、初心者板で質問したら
規制値以上のスレが立っているとこのような表示がされるらしいです。。。
127SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/10(土) 19:18:01
>いま。いま読み終わったよwwとてもおもしろかった。
じゃあそろそろCucさん先陣で「ゴドー」に行こうか。
といって誰も動かなかったらすごくゴドー的(笑

>巡回するとどれもKEMANAIというハンドルの書き込みだった
あああれね(笑 KEMANAI氏はおそらく、
板内の1割ほどのスレッドに足跡を残そうとしてるのかもしれない(笑

――2月は一般書籍板も含めてちょっとあちこち遊んでみようかな。

>ブランショのスレ、2レスほど書きましたよ♪
すぐわかったよ。ありがとう。

あっちのスレはちょっと茶々が入ってるみたいだね。
相変わらず「もうずっと人大杉」でずっと読めないのがもどかしい。
128 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:36:36
>>127 SXY ◆P6NBk0O2yMさん

わたしも「宣伝」板に2レスほどKEMANAIを宣伝してきたところデス♪

>――2月は一般書籍板も含めてちょっとあちこち遊んでみようかな。
おもしろそうなスレがありましたら、紹介してくださいね。

>すぐわかったよ。ありがとう。
いえいえ、どういたしまして。ブランショという作家についての対話は
「終わりなき対話」であり、今後も気づいたことがありましたら、微力ですが
書かせていただきますね。

>あっちのスレはちょっと茶々が入ってるみたいだね。
……はい。途中から借り受けたスレなのですが、、、悲しくなりました。。。
どうしてもダメならば、雑談系の板に移るしかないようです・・・
今日はSXYさんがいらしてくださって、涙がでるほどうれしかったです!
こちらはうれし涙。

>じゃあそろそろCucさん先陣で「ゴドー」に行こうか。
はい、ではいきます。
129 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:37:26

ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)読了しました。

一本の木のもとでゴドーをひたすら待つふたりの男の物語劇。
彼らは定職に就かず、通りかかる人たちに物乞いをし、また、あるときは
近くの畑から人参や大根、蕪などをこっそり盗んで食べています。
いってみれば浮浪者。
エストラゴンとヴラジーミルのふたりは、この木のもとからなぜか立ち去ろうとは
しない。ゴドーが来ることを信じ、日々を待つことに費やしています。

登場するのはこのふたりの他は、ゴドーからの伝言を持ってきた男の子と
旅の道中の男ひとりだけ。
エストラゴンとヴラジーミルは聖書や救世主についていろいろと話しています。
となると、畢竟ゴドーは神もしくはイエスを想起するのですが、、、
今か今かと期待するも、ついに最後まで姿を現さないゴドー。

それにして、エストラゴンはいったいいつどこでゴドーと約束をしたのでしょう?
そのとき、彼はゴドーの姿もしくは声を聴いたのでしょうか?
それともゴドーとはエストラゴンのたんなる思い込みに過ぎず、実際は存在
しないものをいたづらに待ちつづけているだけなのでしょうか?


(つづきます)
130 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:38:12

しかし、ではゴドーからの伝言を授かってきたという男の子の言葉は
何を意味するのでしょう?
男の子は羊飼いだという。神の使い、イエスの使いであることを暗喩しています。
男の子は嘘をつけるほどまだ世の中には長けていないのです。
やはり、ゴドーは実在するのでしょうか?

エストラゴンとヴラジーミルが待ちつづける一本の木は、潅木であったかと思うと
次に見たときには青々とした葉が茂っているという設定です。
おそらく木だけが時の流れをこのふたりに知らせているのでしょう。
ふたりは長年同じ木の下に居座り、時の流れから最も遠い存在です。
ただ木だけが正確に四季折々の移ろいを刻み、ふたりに提示するのです。

ところで、ゴドーを待ちつづけるふたりはこの木から決して離れないのです。
なぜでしょう?
おそらくは、この木はゴドーが現れる約束の木、目印なのではないでしょうか?
ただ待つだけならばどの場所でもいいはずであるが、彼らはこの木に固執します。
あたかも、この木から離れたらゴドーは現れないという強迫観念すら
感じるのです。(解説によれば、この一本の木はイエスが磔にされた十字架を
象徴するものであるらしいです…)


(つづきます)
131 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:38:49

それゆえふたりはイエスが降臨するであろうこの木から離れることはできない。
作中の言葉を引用するならばまさに「縛られている」のですね。
ただ、時折エストラゴンのほうは立ち去るそぶりを見せるのですが、
ヴラジーミルに説得され、結果として残りふたたび待ちつづけるのです。
このふたりの行為を不毛と呼ぶにはいささか抵抗があります。
なぜならば、少なくともヴラジーミルは待ちつづけることを自らの自由意志で選んで
いるからです。第三者からの強制は感じられません。
彼がゴドーとどのような約束をしたかは語られておらず、読者はわけが
わからないまま、彼らとともにゴドーの降臨を待つしかないのです。

劇の最後にヴラジーミルは「じゃあ、行くか?」、エストラゴン「ああ、行こう」と
賛同するもふたりは頑ななまま、そこを動かない……。
実はこの会話は劇のなかで何回も繰り返し反復されていますね。
けれども、そのたび彼らは動かない。せりふだけが空回りするだけ。
読んでいるほうもしまいには彼らのせりふが本心からのものではなく
その場しのぎの雑談のひとつに過ぎないとわかってくるのですが。。。


(つづきます)
132 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 20:39:36

解説で高橋康也氏によると「今日この芝居が現代演劇最大の傑作、あるいは
問題作とであることを疑う者はおそらくいない。議論や解釈がむだだという
のではない。ベケットはゴドーが誰かときかれて、知っていたら作品の中に
書いたでしょう、と答えた」とあります。
無論、ベケットのゴドーに対する答えは本心から出たものでないことはわかり
ますが、そこに彼の皮肉というか、意地の悪さのようなものを感じてしまうのです。

そもそも劇的(ドラマティック)という言葉は紆余曲辺の出来事がてんこ盛りの
「劇」からきているというのに、この劇は演じられる物語らしい物語はまったくなく
劇的でもありません。退屈といえば退屈。謎の存在ゴドーさえも、当初の期待は
見事に裏切られ、とうとう最後まで姿を現わさぬまま。。。
観客はこの劇に怒りすら覚えるでしょう。何をいいたいのかさっぱりわからない、と。
それはそうでしょう。作者であるベケットでさえわかっていないのですから。
作者が何もわからぬまま実験的に書いた劇……?
さらに加えて、登場する人物たちも何もわからない人たちばかり。
ゴドーを待つ意味すらわからずひたすら待ちつづけるふたりの男。
ゴドーから「今日は来られません」と伝言を預かってきた、
これもまた何もわからない男の子。


(つづきます)
133 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:15:18

この劇に登場する人物たちはみな「わからないけれど言い伝えどおりに行動
する」人たちです。いちいち理由など訊ねたりはしません。
なぜでしょう?

それと不思議なのはヴラジーミルとエストラゴンがこれだけ永い間待ちぼうけを
食わされているというのに、ゴドーに対しては何ひとつ怒りを向けないことです。
ふたりは互いに愛想が尽き、けんかを繰り返し「おれはもう行くよ」と啖呵を切ります
が、その怒りは決してゴドーに向けられることはありません。
こんなにも永い間約束を遂行しないゴドーこそが仲違いをさせている張本人
であるはずなのに、、、
ゴドー=救世主であるならば、彼らは信仰者です。
待つことは信じることです。
信仰は待つこころのない人は持つことはできません。
そこには理屈も理由も理性も介入しえない領域です。
なぜ待つのか? 信じているから。それが信仰なのです。

ゆえに彼らは最後の最後までゴドーとの約束をすっぽかすことはできない。
ふたりの最期は野垂れ死にでしょう。そして、一本の木だけがふたりが約束を
まっとうしたことを知っているのですね……。
そう、人に知られなくとも神だけが彼らが最後まで待ち続けたことを知っている。
不条理劇というよりも、愚直なまでにゴドーとの約束を守りつづける信仰の
物語ではないでしょうか? 愚直さは最後のページで高貴なものに転倒します。


(つづきます)
134 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:16:01

確かにヴラジーミルとエストラゴンは浮浪者であり、世間から見放された存在です。
勤勉さからはほど遠く、働きもせずぶつぶつ繰り言ばかり言っている。
役立たずで、何の取り柄もない彼らが唯一持っているもの、
それは「約束を信じて待つこと」なのです。彼らの仕事といってもいいでしょう。
愚直なふたりはゴドーとの約束をひたすら信じて待ちつづけます。
何回も繰り返された「今日は来られません、明日には必ず」と伝言があれば
そのたびに「ああ、そうですか」と単純にもすっかり信じてしまう。

ゴドーなんか最初からいないんだよ、騙されているんだよ、早くその場を立ち
去ったほうがいいよ、と第三者が助言してもおそらく無駄でしょう。
なぜなら、詳細は語られていないがかつてゴドーと約束したのは他ならぬ
ヴラジーミル本人なのですから。
ヴラジーミルはそのとき確かにゴドーの声を聞いたのでしょう。
約束の場所も指定されたのでしょう。
そんなヴラジーミルに引っ張られるようにエストラゴンも一緒にゴドーを待つ。
もし、エストラゴンがヴラジーミルのゴドーとの約束をはなから信じていなければ
とっくの昔にヴラジーミルから立ち去っていたはずです。
間接的ですがエストラゴンもまた、ヴラジーミルが交わしたゴドーとの約束を
信じているのです。


(つづきます)
135 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:16:42

信仰とは実はシンプルなものなのかもしれません。
ただひたすら信じること。
ふたりの信仰を盲信と見るか、敬虔と見るか、意見が分かれるところでしょう。
ただ、これだけはいえます。
常人にはできない行為であると。
そこにはある種の狂気に近い愚直さがなければなりません。

余談ですが、聖フランシスコの青春を描いた「ブラザーサン シスタームーン」
という映画のなかでこんなシーンがありました。
フランシスコが信仰に生きるため、父に訣別宣言をしたとき怒った父は
「お前はこの裕福な家を出て乞食でもするつもりか?」と問い質します。
彼はこう答えました。
Yes, beggar,Christ was a beggar!
(そうです、乞食です。キリストは乞食でした!)
偶然でしょうが、エストラゴンとヴラジーミルも乞食(浮浪者)ですね……。

――ヴラジーミル「そうだ、この広大なる混沌の中で明らかなことはただ一つ。
すなわち、われわれはゴドーの来るのを待っているということだ」
エストラゴン「そりゃそうだ」
ヴラジーミル「われわれは待ち合わせをしている。それだけだ。
われわれは別に聖人でもなんでもない。しかし、待ち合わせの約束は守って
いるんだ。いったい、そう言いきれる人がどれくらいいるだろうか?」――(p140)
まさしくこれは真摯な信仰告白です。このふたりにいったい何が言えましょう…?


(つづきます)
136 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:17:29

以下は、曽野綾子さんの言葉です。

――このごろつくづく思うのは、神はあらゆることをお使いになる、
という実感だけです。
神はその人の賢さもお使いになりますが、往々にしてその愚かささえも祝福
されるように、その人がその愚かさによってのみなし得るような仕事をおさせに
なります。そのからくりに対して人間は何を言えましょう――
曽野綾子/『旅立ちの朝に』

――実に、人生の最大の仕事は待つことだという法則がここにも適用されていた。
しかも、その待つ意味がたいていの人間には見えていないのが普通である。
無意味なことを待つには勇気がいる――
曽野綾子/『紅梅白梅』

――人生は報いられなくてもいいということを、徹底して分からせてくれるのが
信仰なんです――
曽野綾子/『時の止まった赤ん坊』
137 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:18:04

「わたしは静かに神を待つ わたしの救いは神から来る」 
カトリック『典礼聖歌』p184 「MP3再生」をダブルクリックすると曲が聴けます。
http://tenreiseika.romaaeterna.jp/antiphon/ten184.html

聖フランシスコの青春を感動的に描いた「ブラザーサン シスタームーン」の
youtubeを見つけました。
ドノバンの詩情あふれる透明な歌声と、こころが洗われるような美しい画像を
合わせてお楽しみください♪

Donovan - 「Brother Sun, Sister Moon」
http://www.youtube.com/watch?v=9wfXR_ct0jc

Donovan - 「The Lovely Day - from Brother Sun, Sister Moon」
http://www.youtube.com/watch?v=XrkdvWf7euo
138 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:56:07

「Brother Sun, Sister Moon」  【詩】 Donovan


Brother Sun and Sister Moon,
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery.

Brother Wind and Sister Air,
Open my eyes to visions pure and fair.
That I may see the glory around me.
I am God’s creature, of him I am a part
I feel his love awaking in my heart

Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey

(参照) ↓
http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/4005
139 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:57:24

「Brother Sun, Sister Moon」  【訳詩】

ブラザーサン シスタームーン
その声はめったに私には届かない
自分の悩みだけに心を奪われて

兄である風よ 姉である空の精よ
私の目を開いておくれ
清く正しい心の目を
私を包む栄光が 目にうつるように

神に与えられた命 私にも神は宿る
その愛がいま この胸によみがえる

ブラザーサン シスタームーン
今こそ その姿に触れ
その声を耳に そして胸を打つ
あふれるこの愛


http://diarynote.jp/d/78290/20061111.html
140 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/10(土) 21:58:33

☆☆連絡・その2☆☆

スレ立て依頼を初心者板でお願いしましたら、さっそく親切な方が立てて
くださいました。ありがたいです!
さっそくレスがついています。
ちなみに、7以降がわたしのカキコです。
もう少し下まで落ちたらハンドルでカキコする予定です。

「哲学の基本は対話」
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1171103991/
141 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/11(日) 13:57:18

☆☆近況報告・3☆☆

たびたびの報告、失礼します。以下のスレにくわしく書いてあります。
ハンドルは「春の雨」=「シリウス」がわたしです。

「おしゃべりノート 長話しが好きな人」 ↓
http://human6.2ch.net/test/read.cgi/honobono/1171110731/l50
142SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:11:25
>>129-136
とてもCucさんらしい読み!
下記のような言葉で紡がれた視点なんかは特にそう。
>そう、人に知られなくとも神だけが彼らが最後まで待ち続けたことを知っている。
>不条理劇というよりも、愚直なまでにゴドーとの約束を守りつづける信仰の
>物語ではないでしょうか?
そしてそれを支える曽野綾子から引用された言葉(136)も適切!
以下にCucさんの書き込みを参照しながら、
ちょっと違う角度から『ゴドー』について簡単に書いてみようかな、
と思うけれど、今日はあまり時間がないので途中までで
後半は次回に回すことになりそう。

ちなみに、「哲学の基本は対話」 スレの20は当方。
のぞいてみたら上のほうにスレがあって、適当に書き込んじゃった(笑
トップページの20位以内のスレは見ることも書き込むこともOKだった。
今はもう他のスレと同じく「人大杉」状態でNG。
でも新しい場所ができてよかったね。
143SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:15:26
『ゴドーを待ちながら』について

1)『ゴドー』は《しるし》だけの劇

>男の子は羊飼いだという。神の使い、イエスの使いであることを暗喩しています。
エストラゴンは自分をキリストと同一視してみたり、
この本のあちこちにキリスト教を参照させるような《しるし》は
いやというほどふんだんにあるんだけれど、
ベケットが置いたその《しるし》の背後には何もない感じ。
『ゴドー』――これは《しるし》だけの劇といえるかもしれない。

2)『ゴドー』は時間のない劇
>エストラゴンとヴラジーミルが待ちつづける一本の木は、潅木であったかと思うと
>次に見たときには青々とした葉が茂っているという設定です。
>おそらく木だけが時の流れをこのふたりに知らせているのでしょう。
唯一の舞台装置といっていい「木」。
第一幕では裸だった木が、第二幕では青々と葉をつけてる。
今日(第二幕)に対する昨日(第一幕)という時間設定ながら、
木だけは異なる時間の流れの中にあることを表しているけれど、
それと同時に、一幕と二幕の間に時間を無限に流すこともできそうで、
いくらでもこの劇が反復され得ることを示しているかのようだ。
だから、この劇では時間は流れてないともいえそう。
ちなみに空間もこの「木」の周囲からまったく広がらない。
144SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:43:18
3)『ゴドー』は宙吊りの劇
>劇の最後にヴラジーミルは「じゃあ、行くか?」、エストラゴン「ああ、行こう」と
>賛同するもふたりは頑ななまま、そこを動かない……。
「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」という言葉。
そしてその言葉とまったく符合しない二人の行動(非行動)。
第一幕のこの終わりの場面は、第二幕でも見事に繰り返されて、
幕が下ろされてるけど、『ゴドー』ではどの言葉も重みを持たない。
その極めつけは、第一幕でずっと無言だったラッキーが突然しゃべりだすシーン。
句読点なくどもりながら機関銃のように連射される言葉は、、
一見抑圧されていたものがどっと噴出してきたかに見えながら、
その言葉は、豊かな感情の吐露でもなければ、深遠な思想の表明でもなく、
ヴラジーミルとエストラゴンのおしゃべりと何ら変わらない。
オートマティックな、意味という重みを欠いた、宙に浮いた言葉。
145SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/12(月) 18:44:33
4)『ゴドー』は反復の劇
>実はこの会話は劇のなかで何回も繰り返し反復されていますね。
「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」といいながら、動かない二人。
第一幕と第二幕のラストで反復されるこのシーンに象徴されるように
第二幕は第一幕と同じ構造を見事になぞっている。
(この構造は『モロイ』にもあてはまるね)
エストラゴンとヴラジーミルは無駄口をたたきながら
スリルもサスペンスもないドタバタコメディをやってると
そのうちポッツォとラッキーがやってくる。
彼らが去った後には少年がきてゴドーからの伝言をもってきて、
少年が去ると途端に夜になり、劇の幕も下ろされることになる。

また、劇中に何度も何度もしつこく繰り返される以下の会話。

 エストラゴン「もう行こう」
 ヴラジーミル「だめだ」
 エストラゴン「なぜさ?」
 ヴラジーミル「ゴドーを待つのさ」
 エストラゴン「ああ、そうか」

エストラゴンは特に健忘症のようで、これらの台詞には
「待つこと」と「忘れること」のテーマがある。
ん? ブランショ?(あとで書く予定の《無為》というテーマも含め) 〆
146 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:56:18

>>142-145
SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>とてもCucさんらしい読み!
ありがとうございます! とてもうれしいです!
わたしは劇の台本は苦手なほうなので、きちんと読めたかどうかは
自信がないのですが、わたしなりの「ゴドー」です。

>ちなみに、「哲学の基本は対話」 スレの20は当方。
>のぞいてみたら上のほうにスレがあって、適当に書き込んじゃった(笑
ああ、そうでしたか。ありがとうございます!
たくさんの哲学書を読まれた方ならではの書き込みです。
(わたしのカキコはデカルトの解説書の引用文がほとんど、赤面…)
いつもエールを贈ってくださって感謝いっぱいです。

>でも新しい場所ができてよかったね。
はい。今後の展開がどのようになっていくのか、今、様子をみているところ…。
147 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:56:52

>ベケットが置いたその《しるし》の背後には何もない感じ。
>『ゴドー』――これは《しるし》だけの劇といえるかもしれない。
確かにそう指摘されてみるとそうですね。
ゴドーという救世主を背後にちらつかせながらも、ゴドーは実体を伴わず
ただ飾りだけにすぎない。
ゴドーは《しるし》だけの思わせぶりな存在。

>だから、この劇では時間は流れてないともいえそう。
>ちなみに空間もこの「木」の周囲からまったく広がらない。
時間の流れない異空間での物語。。。
そういえば「木」はキリストが磔にされた象徴とありましたが、キリストは
復活するのですよね。
つまり、「木」=キリストは永遠に年をとらない。永遠の命の象徴。
「木」の周囲から一歩も離れられないふたりは、まさにキリストに魅入られた
永遠の「囚われ人」といえますね。(ブッッァーティー参照)
148 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:57:48

>『ゴドー』ではどの言葉も重みを持たない。
>オートマティックな、意味という重みを欠いた、宙に浮いた言葉。
そうですね。彼らはただただ、《お喋り》をしているだけにすぎない。
彼らの《お喋り》は主題を持たない。
ふと、哲学板で引用した斉藤慶展の言葉を想起しました。

「主題を持つ対話に対し、《お喋り》とは挨拶であり、それははたして
聴き届けられるかどうか定かでないままに捧げられる《祈り》のごときものである。
《祈り》、それは人智を超えたものに対して捧げられる言葉、
遥か彼方の存在するか否かもわからないものに対しての呼びかけの言葉、
聞き届けられるかどうかはまったくわからないいわば賭けのようなもの」

斉藤慶展氏は、《お喋り》は《祈り》のごときものである、と指摘しています。
ということは、このふたりの膨大な無駄話し、とりとめのない《お喋り》は
救い主に向けられた《祈り》の言葉なのでしょうか……?

解説によるとベケットはデカルトを踏まえている箇所もいくつかあるようですが、
引用した斉藤慶展氏はまさにデカルトの解説者です。
「対話」と「お喋り」については説得力があります。
149 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/12(月) 21:59:13

>4)『ゴドー』は反復の劇
>ん? ブランショ?
そういえば、「円環」はまさしくブランショのテーマでしたよね。
終わり=始まり、が延々と繰り返されていく。。。
それゆえブランショは「今、終わりと書く」とあえて記しました。(題名健忘…)
そして、先刻読み終えたばかりの「マーフィー」の終わりも「閉門です!」と
強調されていました。

次回を楽しみにしています。

――それでは。
150(OTO):2007/02/13(火) 13:40:00
連休中いろいろあったようだな。おおむね状況は把握。Cucおつかれ。
とりあえずここの「楽屋」はおしゃべりノートが順当のようだな。
哲学板であのような雑談を長い期間続けることができたことこそ不思議だった、と
言えるかも知れないなww長き平和の日々に多謝こそあれ、哲学板の対応に遺恨は無い。
未来、何かの拍子にあのスレのログに辿りついた人が、3人の不思議な親密さ、その
「平和」を感じてくれることを祈るばかりである。www

元はと言えば、リアルな「ブツ」を媒介とした、バーチャル以外での接触を
おまいらに試みた、おれの行動が発端とも言える。ふたりともすまないな。

>>129-136
>とてもCucさんらしい読み!
まったくだ!すごいよCuc!よくこの方向にもって行けたな!
おまいの中の「信仰」、「信じる」という心の動きに素朴なリスペクトを感じる。
これとSXYの前半を踏まえて書いてみるよ。今週中に書けるかな。
んじゃまた。
151 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/13(火) 21:59:15

>>150  (OTO)さん

さっそくおしゃべりノートにカキコ、感謝です♪

>連休中いろいろあったようだな。おおむね状況は把握。Cucおつかれ。
いえいえ、どういたしまして。
部外者であるわたしは哲学板にはもうあまり立ち寄ることはなくなって
しまいますが、捨てる神あれば拾う神あり(ん? ちょっとちがうかな…)、
スレ立てできなくても立ててくださる親切な方がいらしたり、
追い出された一方で、迎え入れてくれる板があります。
今回は特に身に沁みました。。。
持ちつ持たれつで、まさに2ちゃんねるの魅力はそこにあるといえましょうね。

>長き平和の日々に多謝こそあれ、哲学板の対応に遺恨は無い。
……正直に言うとね、移動リンク貼られたときヒステリーを起こしました。(恥…)
そして、ものすごく悲しくなりました。どんなに低姿勢で頼んでもだめなものは
だめなのだなあ、と。。。
でも、よくよく考えたら自治の方たちも今までよく見のがしてくれたなあ、
2スレも黙って消化することを許してくれたなあ、と今更ながらありがたいと
思いましたよ。
152 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/13(火) 22:00:06

>未来、何かの拍子にあのスレのログに辿りついた人が、3人の不思議な親密さ、
>その「平和」を感じてくれることを祈るばかりである。www
そうですね。
かつてのわたしが哲学板をROMしていたように、そして、対話を始めたように
別の人たちが、また新たな交流をあの板で始めてくださるといいなあ。

>おまいらに試みた、おれの行動が発端とも言える。ふたりともすまないな。
そんなことないですよ〜、
わたしがもう少しおふたりに見合う哲学の知識を備えていたならば、
たんなる雑談スレには落ちなかったと思います。。。
こちらこそ、申し訳なく思っています。

KEMANAIを宣伝したのはあくまでもわたしの自由意志であり、そうしたかったから。
ほら、わたしの性格、よくご存知でせう?
思い込みが激しく、自分がいいと思ったものは徹底して「いい」と言い張る!
ううむ、、、応為に重なるなあ・・・
153 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/13(火) 22:00:47

>まったくだ!すごいよCuc!よくこの方向にもって行けたな!
>おまいの中の「信仰」、「信じる」という心の動きに素朴なリスペクトを感じる。
ありがとうです♪ とてもとてもうれしいです!

「ゴドー」はねえ、劇中のふたりもちっとも動かないし、いったい何なんだ?
と思いましたね。。。
愚鈍であることは、実はひとつの才能なのではないかと思ったのです。
信仰はあまりに理に聡すぎたり、賢すぎるひとは持ちにくい。
何かを信じるのに理由はいらないんじゃないかと。
はっきり言って理由があるうちはだめなんです。
感情や嗜好、利益を度外視したところに信仰は訪れるのではないでしょうか?
「ゴドー」のふたりは約束をしたから待っている、それだけです。
誰かに認めてもらおうとか、ゴドーから褒めてもらおうとかまったく考えて
いない。彼らにとって約束を守ることは生きる行為そのものなのです。
だから、ふたりは待ちつづける。それが生きることだから。

>これとSXYの前半を踏まえて書いてみるよ。今週中に書けるかな。
楽しみにしていますね♪
154(OTO):2007/02/16(金) 12:40:50
書いたぞー!

ドゥルーズから入り書肆山田の後期散文・詩を読み尽くしてから「名づけえぬもの」
「モロイ」「ワット」と逆に読んできた私にとって「ゴドーを待ちながら」はとても
すんなりとした読みやすい作品に思えた。ここには「また終わるために」の荒涼たる灰色の砂漠はなく、
「クワッド」の単純な幾何図形にまで還元された無言の舞台もない。「幽霊トリオ」のように
ただ灰色の壁のアップが5秒間続くことも、ナレーションに音量を調節しろと言われることもない。
舞台には葉のついた木もあり、ぼろぼろの格好はしているものの、
非常に人間くさい二人の男によるコメディを見ることさえできるのである。
155(OTO):2007/02/16(金) 12:41:26
その言わんとするところも、いたってシンプルに見える。
神の長き不在に消尽しきった人間達。「大いなる物語」から二千年近くも過ぎ、
その約束の意味さえ忘れられてしまった。辛うじて聖書を憶えている
ヴラジーミルでさえ、イエスよりも泥棒の安否を気にする始末だ。
途中「同じ人間を平然と奴隷のように扱う人間」と「同じ人間に当たり前のように奴隷のように
扱われる人間」が二人の前を通り過ぎていく。それすら大した出来事ではない、
これらすべては我々の現状を表す「しるし」であり、
エストラゴンとヴラジーミルによる何ごとも起こらない「喜悲劇」を笑うことは
われわれの人生という喜悲劇を笑うことと同義だ。
或いはベケットは、「大いなる物語」と我々の、この時間的な距離、そのあまりに遠い距離を
「意味という重みを欠いた、宙づりの言葉」によって計ろうとしたのかも知れない。

にもかかわらず、この戯曲成立の第一義的条件が「ゴドーの再来を信じ、待ち続けること」
であることは、Cucが明らかにした通りであろう。であれば、やはりゴドーは神である。

156(OTO):2007/02/16(金) 12:41:57
しかし現時点で読んで感じるのは、もはやゴドーはキリスト教の神だけを示すものではなく、
神一般、もっと拡大すれば世界各地の神話さえ含む「大いなる物語」一般を示すことに
なるのではないか、ということだ。現代の我々の、聖なるものからかけ離れた日常、
その失墜は決して悲劇ではなく、やはり喜悲劇であり続ける。
どれほど混乱してはいても、我々は心の奥では「何か」を待ち続けているのであろう。
具体的には想像も出来ないような何か、「大いなる物語」を。
その期待が我々をしてときにポジティブな、ときにネガティブな笑いに導く。

「ゴドーを待ちながら」は具体的に進行する物語でありながら、
「背後には何もない」純粋な我々自身の人生の「範例」として機能するようにも感じた。
これは不条理劇ではない。あるいは我々の人生はすべて不条理劇である。
157(OTO):2007/02/16(金) 12:44:17
それにしても、私がいままで読んだ《全ての》ベケット作品に対して感じる、
「完成感」とでもいうものを、「ゴドー」にも感じる。なんと言えばいいのだろう。
その作品に一語さえ足すことも引くこともできない、といった感覚。
常に物語の可能性を細部に至るまで、順列組み合わせを網羅することによって
消尽させていく強迫的な行為。数学的ともいえる「くりかえし」によって
徹底的に語の、行為の可能性を塗りつぶしていく。
かといってそれは過剰にも陥らない。必要最低限の繰り返しをなんとかやり遂げた
ポイントで終わる。端正に書き上げられたプログラムのような美しさを
私はベケット作品に対して感じている。
これはファンのひいき目なのだろうか?

158 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:30:39
>>154-157 (OTO)さん

静かでありながら、力のこもった緻密な感想文、ありがとうございました。
詩のような美しさが漂う簡潔な文章ですね。
いつもながらのきっちりと構築された洗練度の高さを今回も感じましたよ。

>途中「同じ人間を平然と奴隷のように扱う人間」と「同じ人間に当たり前のように
>奴隷のように扱われる人間」が二人の前を通り過ぎていく。それすら大した
>出来事ではない、これらすべては我々の現状を表す「しるし」であり、
実に鋭い読みですね!
イエスは「神の前では皆等しく平等である」と説きましたが、当時も、また、
二千年経た今でもこの世は不平等がまかり通っており、支配するものと
支配されるものの二極化は一向に変わりません。
優劣の差は財力の有無に始まり、知力、体力、精神力あらゆるものに及びます。

この劇で大差ないと思えるふたりにおいてもそうです。
あるときはヴラジーミルが優位に立ち、また別のあるときにはエストラゴンが
優位に立つ。
159 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:31:24

ところで、この劇において、なぜ「ふたり」なのでしょう?
ゴドーを待つだけならばひとり芝居でも充分でしょう。

ふたりであることによって成立しうるもの、それは「対話」、「お喋り」。
ベケットはふたりに全編に亘って無駄話をさせていますが、際限ないお喋りこそが
ふたりであることによって成り立つ要素のひとつではないでしょうか?

そして、もうひとつは(OTO)さんによって指摘された「支配と被支配」の関係。
これもひとりだけでは成り立ちません。
「私」と「他者」がいて初めて優劣は認識され意識されるのです。
この劇で「支配と被支配」の関係は、ポッツォとラッキー、順位は入れ替わるけれども
ヴラジーミルとエストラゴン、そして、羊飼いの少年と彼の兄。
支配から唯一自由なのはゴドーのみ。
160 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:31:56

>どれほど混乱してはいても、我々は心の奥では「何か」を待ち続けているので
>あろう。

そうですね。
大いなるものがどのような存在かは知らないけれども、人間は悲劇に
見舞われたとき、瞬間的に祈ります。奇蹟を願うのです。
祈りの対象が誰に向けられたものかは具体的に明示できなくとも、祈りつづける
のです。支配していた人も、支配されていた人も等しく祈るのです。
どのような立場に置かれた人でも、祈りだけは万人に平等に与えられた行為
なのですね。
誰も奪うことはできません。
161 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:32:37

>「ゴドーを待ちながら」は具体的に進行する物語でありながら、
>「背後には何もない」純粋な我々自身の人生の「範例」として機能するようにも
>感じた。これは不条理劇ではない。あるいは我々の人生はすべて不条理劇でる。
たいていの人々は、人生が不条理であることをとうに知っていますね。
観客はそれゆえにお芝居を欲します。
うねるような大きな出来事がいくつも起こり、最後はハッピーエンドもしくは
勧善懲悪を望みます。それは、現実が不備であればあるほど期待が高くなる
でしょう。
「ゴドー」がリアルなのは、すごいことが「何も起こらない」からです。
現実のわたしたちの人生と同じように、、、
リアルでないところは、ふたりが最後の最後まで待つことをやめないこと。
この劇のクライマックスこそが、実はもっとも劇的な一瞬。
現実の人生を生きているわたしたちは、待つことはとうにやめてしまっています。
こころのどこかで何かを待ち望んでいるにしても、日々の生活をしていくため
待つ行為そのものを放棄せざるを得ないのです。

ベケットがこの劇で描いたリアルであることは、ふたりに「何も起こらないこと」、
そして、非リアルであるのが、ふたりが「待ちつづける行為」。
162 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/17(土) 20:33:13

>必要最低限の繰り返しをなんとかやり遂げた
>ポイントで終わる。端正に書き上げられたプログラムのような美しさを
>私はベケット作品に対して感じている。

わたしはまだ2冊しか読んでいないので、大きなことは言えないのですが、
「ゴドー」はまさに繰り返しの劇ですね。
まったく計算していないようないきあたりばったりかと思うと、要所要所に
羊飼いの少年やら、ポッツォとラッキーを登場させています。
彼らが去って行ったあと、ふたりは必ず「もう行くよ」と言いつつも動かない。
まるで、羊飼いの少年もポッツォとラッキーもふたりにこの同じせりふを
言わせるために登場するかのようです。
そして一本の「木」。木はふたりの人生を見つづける唯一の傍観者。
言ってみれば、カメラアイ。神の目。
この木から離れたら、彼らの人生はたちまち消滅してしまうでしょう。

この劇で何かが起こることを誰よりも強く望んでいたのは、実は「ゴドー」を書いた
ベケットその人であったのではないでしょうか……?
163SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 00:41:15
>>146-149
>彼らはただただ、《お喋り》をしているだけにすぎない。
フランスのデ・フォレという作家が、タイトルもずばり、
「おしゃべり」という小説を書いたけれど、《声》を伝えるには
きっと《お喋り》というスタイルがふさわしいんだろうね。

>ベケットはデカルトを踏まえている箇所もいくつかあるようですが、(略)
ベケットは初期の頃、デカルトをモチーフにした詩も書いてて、
若い頃は哲学を多少かじってたみたい。

>(斉藤慶展氏の)「対話」と「お喋り」については説得力があります。
まるでこっちのスレとあっちのスレについての言葉のようだね。

>読み終えたばかりの「マーフィー」の終わりも「閉門です!」と
>強調されていました。
終り――これほどベケットが好んだ言葉もないかもしれない。
そういえば、文字通り「終り」という短篇もあるし、
「エンドゲーム(勝負の終り)」という戯曲もあるけど、
その《終り》は何度でも繰り返される終わらない終り。
だから「また終わるために」ベケットは書く。
そしてその書くという行為は終わらない。
164SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 01:10:49
>>154-157
これまでの書き込みからの引用を適切に交えながら、
他のベケット作品にも目配せをしつつ、端正にまとめられた書き込みだね!
これに「足すことも引くこともできない」けれど、少し接木してみよう。

>ドゥルーズから入り書肆山田の後期散文・詩を読み尽くしてから
>「名づけえぬもの」「モロイ」「ワット」と逆に読んできた(略)
「ゴドー」が未読だったのは意外だけど、ほんと逆行してるね。
ドゥルーズ『消尽したもの』から入っていくとそうなるのかな。

>であれば、やはりゴドーは神である。
>神一般、もっと拡大すれば世界各地の神話さえ含む「大いなる物語」
>一般を示すことになるのではないか、ということだ。
同郷のジョイスの秘書をしていただけあって、
「大いなる物語」への意識はあったんだろうね。
――これまでの文学(小説や戯曲の形式)に対する意識も含めて。
ベケットが生まれたアイルランドのケルト神話も含めれるかな。
同じアイルランド出身の作家フラン・オブライエンという人に
『第三の警官』というとてつもない変な小説があるんだけど知ってる?

>その作品に一語さえ足すことも引くこともできない、といった感覚。
なんかサントリーの「山崎」のCMを思い出しもするけれども(笑 
でも、ホントその通りだね。『ワット』まではまだ冗長な部分があったけど、
1950年以降の作品は研ぎ澄まされたというか磨き抜かれたというか、
そんな感じがあるけれども、晩年はさらにそれを極限まで研いで磨くわけだから、
そのストイックな精神は凄まじいね。
165SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 23:03:40
>>143-145の続きをもう少し。

5)『ゴドー』は《人類》の劇
>純粋な我々自身の人生の「範例」として機能するようにも感じた。(157)
この劇に、極端に抽象化された一人ひとりの人生を見ることができ、
それと同時に、人類そのものの様態をも見ることができそうだね。
ニーチェのいう「神の死」が世界に広まった現代にあっても
それでも人類がこれまで保ってきた「神」への眼差しだけは残る。
「今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ」という台詞で、
彼ら二人が人類を象徴していることが明示的に語られてもいるし、
Vladimir(露)、Estragon(仏)、Pozzo(伊)、Lucky(英)という
登場人物たちの名前に国際性を感じることもできそう。

名前といえば、彼ら二人がお互いを呼ぶときに愛称が使われていて、
Estragonの愛称はGogo、Vladimirの愛称はDidiだけれども、
この二人の愛称を足すと「GODI」。ここで推測してみる。
もしかしたらゴドーは彼ら自身じゃないのか? ということを。
彼らは彼ら自身を、彼らの中にあるものを、待ち続けていることになる。
――これはひとつの読みの可能性でしかないけれど。
166SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/18(日) 23:11:47
6)『ゴドー』は《無為》の劇
>ベケットがこの劇で描いたリアルであることは、ふたりに「何も起こらないこと」、
>そして、非リアルであるのが、ふたりが「待ちつづける行為」。
この劇には「待つ」という行為だけがあって、彼らが何のために待ってるのか(目的)、
どうして待つようになったのか(理由)、いつまで待つのか(期限)は不明。
わかっているのは「ゴドー」と呼ばれる者を待っていることだけ。
しかし、その「ゴドー」が何者なのかはさっぱり説明されない。

>ゴドーという救世主を背後にちらつかせながらも、ゴドーは実体を伴わず(略)
ここには「待つ」という行為だけがあって、待ち人は不在のまま。
ポオの『盗まれた手紙』のように、不在によって存在感を示す方法もあるけど、
ここではそういう逆説的に照明をあてようとしてるわけでもなくて、
スポットが当てられるのは二人の「待つ」という行為のみ。
「待つ」という行為のほかは何も起こらない劇であり、
悲劇でもなく喜劇ともいえないような《無為》の劇。
でも実は、ここでは従来の劇では起こらなかった革命的なことが起こってる。
――「何も起こらない」という出来事が起こっている。絶え間なく。

※ここで、ブランショのキーワードのひとつ《無為》を参照しつつ、
(もちろんナンシーのキーワードでもあるけれど)
ブランショの「来たれ、来たれ」という言葉とともに
デリダのいう「メシアなきメシアニスム」という概念を
ベケットの「ゴドー」につなげてみたいとふと思ったのだけれど
今そこに踏み込むのは荷が重過ぎるので、とりあえず断念。 〆
167(OTO):2007/02/21(水) 16:56:52
今回はおれは二人に導かれたみたいなところがあって、書きやすかったな。
>>158
ゴドーを待つ二人とは関係のないところからやってきて、去っていく
ポッツォとラッキーはいろいろ考えさせられる「しるし」だな。
指摘した支配・被支配関係は表面上からすぐ思いつくものだが、
すぐに階級、差別、資本主義、植民その他の様々な派生問題が頭に浮かぶ。
面白いのはポッツォのありふれた支配の荒廃よりもむしろラッキーの
突き詰められた被支配の姿だなww

>>159 >>165
ふたりというのは集団を表す最小単位だとも言えるよな。
しかし男同士wこの頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
それが完全に作品に組み込まれるためには「伴侶」の老女を待たねばならない。
ヴラジーミルとエストラゴンのおしゃべりは極度に消尽された、
「全生活」を示す「しるし」かも知れないね。結局のところ意味がないw
だけど意味のないおしゃべりにも楽しさは生まれる。

女性の非存在と、告知する天使=少年のモチーフで「幽霊トリオ」を思い出した。

>>160
以前他板で「神」という概念の起源を考えたことがあって、その時思ったのは
神よりも「祈り」が先に存在したのではないか、ということだった。
原始の、まだ神を持たない人間が、何か極限的な状況に追い込まれ、
「死なないでくれ!」とか「雨降ってくれ!」とか祈る。
祈る対象を未だ持たぬ状況で、それでも自分にとって、自分のコミュニティにとっての
善き未来を「祈る」。そこから「神」が生まれたのでは無いか、と。
168(OTO):2007/02/21(水) 16:58:04
>>161 >>145
エストラゴンは待つことさえ度々忘れてしまうww
この待っていることさえ忘れてしまうくらい待ち続けている、
というのがこの二人の、そして我々の喜劇の始まりだなww

>>162
>この劇で何かが起こることを誰よりも強く望んでいたのは、実は「ゴドー」を書いた
>ベケットその人であったのではないでしょうか……?
あるいは書く「動機」だったかも知れないな。

このような状況下で笑いが生まれるということはどういうことなのか、という
考察の結果とも見える。

>>164
「第三の警官」ははじめて聞くタイトル。タイトル聞いただけで読んでみたくなるなww

>1950以降の作品は研ぎ澄まされたというか磨き抜かれたというか、
>そんな感じがあるけれども、晩年はさらにそれを極限まで研いで磨くわけだから、
>そのストイックな精神は凄まじいね。
逆行してみると「名づけえぬもの」が通過儀礼だったような気がするな。どうだろ?

>>166
>でも実は、ここでは従来の劇では起こらなかった革命的なことが起こってる。
>――「何も起こらない」という出来事が起こっている。絶え間なく。
まさしく。最早感情移入し、しばし自らの生活を忘れさせてくれるドラマは無く、
観客は劇場と戯曲を意識し続けるしかない。
エストラゴンは途中でトイレに行っちゃうしねww
169 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:05:25

>>163 -166
SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>《声》を伝えるには
>きっと《お喋り》というスタイルがふさわしいんだろうね。
そうですね、モロイはまさにその《声》を聞くために旅に出る物語です。
《お喋り》は互いに声を伝え合う行為。主題や内容などなくてもいいのですね。
《お喋り》をするという行為は、相手が存在していることを確認しあうこと。
こちらが声を発する、するともう一方が声に応える。
「ゴドー」におけるふたりは、まさに互いが互いの存在をどうでもいい《お喋り》で
確認しあう物語なのでしょうね。

>ベケットは初期の頃、デカルトをモチーフにした詩も書いてて、
>若い頃は哲学を多少かじってたみたい。
なるほど。だから「対話」をうんと崩した《お喋り》に行き着いたのかな……?

>その《終り》は何度でも繰り返される終わらない終り。
>そしてその書くという行為は終わらない。
この辺、ブランショと被りますよね。。。エンドレス作家の先駆者たち……?
170 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:06:13

>同郷のジョイスの秘書をしていただけあって、
>「大いなる物語」への意識はあったんだろうね。
わたし、ジョイスは読んだことないのです。。。機会があったら読んでみたいです。

>「大いなる物語」への意識はあったんだろうね。
>――これまでの文学(小説や戯曲の形式)に対する意識も含めて。
>ベケットが生まれたアイルランドのケルト神話も含めれるかな。
ケルト神話、初めて聞きます! 興味ありますね。
聖書の言葉をふんだんに引用してあるのはわかりましたが、それとは別に
ケルト神話も下敷きにしてあるとは!

>『ワット』まではまだ冗長な部分があったけど、
ちょうど今、その冗長な『ワット』を読んでいるところです。
言葉遊びやら、何やらかにやら、とにかく時間がまったく流れていない作品です。。。
いや、小説のなかでは時は推移しているのですが、読む側にとっては停滞して
いる印象を受けるのです。
171 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:06:47

>ニーチェのいう「神の死」が世界に広まった現代にあっても
>それでも人類がこれまで保ってきた「神」への眼差しだけは残る。
同意です。
まさに「神の死」からすべてが始まりました。
「神の死」を踏まえて、さらなる「神の復活」へと再生するのですね。
神は何度でも蘇り、「まなざし」で人々をとらえるのです。

>Estragonの愛称はGogo、Vladimirの愛称はDidiだけれども、
>この二人の愛称を足すと「GODI」。ここで推測してみる。
>もしかしたらゴドーは彼ら自身じゃないのか? ということを。
>彼らは彼ら自身を、彼らの中にあるものを、待ち続けていることになる。
>――これはひとつの読みの可能性でしかないけれど。
とても興味深い見解ですね!
なるほど、ゴドー=彼ら自身か。。。
そういえば、典礼聖歌400番「小さな人々」にもそうあります。
「小さな人々のひとりひとりを見つめよう、ひとりひとりのなかにキリストはいる」
172 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:07:32

>わかっているのは「ゴドー」と呼ばれる者を待っていることだけ。
>しかし、その「ゴドー」が何者なのかはさっぱり説明されない。
羊飼いの少年の伝言によれば、「ゴドー」はゴドーさんと呼ばれるいかにも
普通そうな人間。
ふたりの会話から推すと救世主のよう。
「ゴドー」とはもしかしたら、仰ぎ見る存在でもなく、遠くにいる人でもなく
まさに目の前にいる人間のことを指すのかもしれませんね。。。
SXYさんがすでに指摘されたように。
けれども、たいていの人間は目の前にいる人間が「ゴドー」であるとは
気づかない。
エマオへの旅人のように、復活したイエスが旅人を装って、ふたりの弟子に
近づいて話しかけたけれども、ふたりは最後の最後まで、その旅人がイエスで
あるとはわからなかったように。。。
だから、目の前のその人が「ゴドー」であると気づくまで、待ちつづけなければ
ならない。
173 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:08:07

>>167-168 (OTO)さん

>ポッツォとラッキーはいろいろ考えさせられる「しるし」だな。
そうですね。このふたりが登場していろいろとお騒がせをして、
それから必ずお決まりのセリフ「おれはもう行くよ」、「ああ」と言いつつも
ふたりはそこを動かない。
まるでこのセリフを言わせるために、ポッツォとラッキーが登場させられる
みたいですよね。

>ふたりというのは集団を表す最小単位だとも言えるよな。
>しかし男同士wこの頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
「ふたり」というのは、イエスも弟子たちに勧めた単位でした。
布教に行くときは、必ずふたりで行くようにと説きました。
それは、いろいろな理由があるのですが、一番の理由は一人が倒れたら
もう一人が助け起こすことができるという利点からでありました。
174 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:24:27

>しかし男同士wこの頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
>それが完全に作品に組み込まれるためには「伴侶」の老女を待たねばならない。
「マーフィ」は、年上の女性教師と若い娼婦のふたりから同時に愛されるという
設定でありますが、その前提である「モロイ」では老寡婦から一方的に性の捌け口
にされる少年期のモロイが描かれています。
モランは一応結婚していますが、妻は亡くなっており、家政婦の老婦人に
抑圧されているという設定です。

どうもベケットはまともな恋愛を知らないというか、知ってはいてもあえて描かない
という偏屈なところがあるようですね。
ベケットの女性像は、女とは男を抑圧し、恐妻家もしくは女性不信に陥っている
感じが伺えます。

>だけど意味のないおしゃべりにも楽しさは生まれる。
そうですね、「ゴドー」においてはストーリーを楽しむのではなく、
観客はふたりのどうでもいい会話に笑ったり、ときには共感したりするのですね。
175 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:25:03

>祈る対象を未だ持たぬ状況で、それでも自分にとって、自分のコミュニティに
>とっての善き未来を「祈る」。そこから「神」が生まれたのでは無いか、と。
同意です。
人は最初に何かに祈ることを覚えたのでしょうね。
祈る対象が何であるかはわからないけれども、祈る対象は人間を超越した存在、
万能であり、われわれの願いを聞き入れてくれる善き存在。
田舎道や、山道で見かける道祖神がありますが、旅の無事を祈る村人たちが
守護神として祀ったのでしょうね。
やはり、何か「かたちあるもの」をこしらえたほうが祈りを捧げやすかったのだと
思います。

以下、『マーフィー』の感想です。
176 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:26:28

ベケット『マーフィー』(白水社)の感想を記します。

この膨大な比喩と注釈に満ち満ちた本書は、意味不明の言葉であふれ
かえり、作者がふざけているのか、あるいは真剣なのか読者は混乱を
きたしてしまうでしょう。
いったい、この作者ベケットはどこまでが本気なのだろう?
おふざけにも度がすぎる、かすかな苛立ちすら覚えてしまうのです。

――マーフィーといるときはしばしば感じることだが、それが発せられたとたんに
死んでしまう言葉を体じゅうにはねかけられたような気持ちになるのだ。
一語一語が、その意味がわからないうちに次にくる言葉に抹殺されてしまい、
結局、しまいには何を言われているかわからなくなる。初めて聴く難解な音楽の
ようであった――(p46)

これはまさに作者に対して読者が抱く思いに他ならないでしょう。
ベケットはつまり確信犯なのですね。
読者が自分の作品に抱くであろう感情を、登場人物のひとりに吐露させている。
さらにまた、混乱を来たし、苛立つ読者の感情を先取りして、その矛先をしかも
自分に向けさせるのではなく、主人公であるマーフィーに向かわせるのです。


(つづきます)
177 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:27:24

マーフィーは「どう見ても人間には見えない」という身体的にも、また精神的にも
顕著な特徴を備えた人物であり、働かず遠縁の資産家の伯父の援助を受け
ながらふらふらと暮らしている人物です。
彼を愛する二人の女性、娼婦のシーリアと彼の教師であったミス・クーニハン。
そして、彼を取り巻くふたりの男たち、ワイリーとニアリー。

――「女たちがマーフィーのどこがいいのか、わしにはわからん。
きみはどうかね?」ニアリーが言った。
「それは彼の――」彼は適切な言葉がなくて口をつぐんだ。
「彼の外科的特性ですよ」ワイリーが言った――(p68〜69)

マーフィーの外科的特性を、解説で川口喬一氏は《異形の者》としています。
マーフィーはその特異な外科的特性ゆえに、店番としても雇われず、
また、外科的特性ゆえに特定の女たちからは熱烈に愛される。。。
いったい、《特異な外科的特性》とはどのような外観なのか……?
ベケットはマーフィーの服装についてはこと細かく記しても、肝心な容貌には
まったく触れていません。


(つづきます)
178 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:28:02

わたしたちは独自でマーフィーの特異な容貌を想像するしかないのです。
まあ、奇形ではないにしろ、ひと目見たら忘れられない強烈な印象を放つ
外貌なのでしょう。。。

特異なのは容貌だけでなく、所作も然り。自分を椅子に縛りつけて呼吸を
止める方法を訓練したり、緑青色の服にレモン色の蝶ネクタイを身につけたり。
はたから見たら「変な人」です。けれども、彼はやることなすことすべてが
いたって大真面目なのです。
通常ならば、この奇妙な可笑しさは笑いを誘うものなのですが、マーフィーに
至っては笑う以前のシロモノというべきでしょうか。。。
あきれるというのでもない、哀れを誘うのでもない、ただただ彼が日々を
無事に過ごせれば読んでいるほうも安心するという不思議な連帯感を
抱かせる人物なのです。

物語はマーフィーを軸に彼ら四人の行動がときに滑稽に、ときに悲痛に
描かれていきます。
マーフィーがシーリアと一緒に住み始めると同時に、彼女は彼に仕事を探す
よう命じるのですが、マーフィーは独自の占い師の命令でないと聞き入れない。
太陽の位置、星回りの位置で彼の運命は開けるという。


(つづきます)
179 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 21:39:45

昼間は職探しにいくと見せかけて公園でゆっくり午睡し、ハトにエサを与え
夕方定刻になると帰宅する。
この辺りまではマーフィーのだらだらした日常が緩慢に描かれます。
物語が動き出すのは、彼の就職先が精神病院に決まったときからです。
マーフィーはシーリアと暮らしていた部屋を出て、精神病院に寝泊りします。
途中、一回だけ彼は帰りますが、それもシーリアに逢いたくなったからではなく
愛用の椅子を取りに来ただけでした。
彼の愛用している椅子は彼が登場する至る場面で登場します。
椅子フェチというよりも、彼は椅子と一心同体なのではないかと思うくらい、
椅子は彼の一部であり、椅子なくしてはマーフィーも存在しえないかのよう
です。

《ぼくは大世界には属さない、ぼくは小世界に属す》という信条の持ち主である
マーフィーは精神病患者たちに思いがけず絶大的に受け入れられるのです。
他の看護士たちは拒否されても、マーフィーだけは決して拒否されない。


(つづきます)
180 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:00:24

――ここにはじめて、本来ノ場所デ、《狂人も容易に屈服するであろう
目の偉大な魔力的な力》を検証する自由を得て、マーフィーはすでに自分の
体質的特異性について知っているものとそれがいかに調和しているかを知って
満足するのであった。彼が患者たちに対して成功したということは、他の道は
すべてまちがっているという確信だけにささえられて、かくも長い間、かくも
盲目的にたどってきた道に、ついに道標が見えたということであった。
患者たちに対する成功は、彼らのところにたどりつくための道標であった
――(p186)

この描写は美しくちから強いですね。
いわゆる常人とマーフィーの立ち位置が見事に転倒するのです。
マーフィーの持つ、身体的、精神的特異性は正常の人ではなく、ここで初めて
精神病患者たちに受け容れられ、賛同をもって迎え入れられるのです。
患者たちが仮に小世界に属す人たちであるとするならば、マーフィーも彼らと
同じ世界に属する人であり、独特の鋭い嗅覚を持つ彼らはマーフィーに
自分たちと同じ匂いを嗅ぎとったのでしょう。
そういえば、彼を慕うふたりの女性も、ひとりは娼婦、もうひとりは少数民族の
口の大きな(つまり、あまり美しくない)女性であることを忘れてはなりません。
ふたりとも小世界に属しているのですね。
それゆえ、自ら小世界に属すというマーフィーに惹かれるのはごく自然なこと。


(つづきます)
181 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:01:02

患者たちは彼を慕いますが、それは以下のような理由からでした。
――彼らは彼のなかにかつての自分たちを感じ、彼は彼らのなかに
将来の自分を感じていたのだ――(p186)
患者たちは狂人になる前はマーフィーが世間から蔑まれたように、自分たちも
彼と同じような扱いを受けていたでしょうし、またマーフィーはマーフィーで
行く末は彼らと同じになることを漠然と感じていたのでしょう。
ここで重要なことは、たいていの人は将来自分が患者の仲間入りをすることを
不快に思い、恐怖に駆られるはずなのに、マーフィーはそうではない、という
ことです。
それどころか、マーフィーは彼らに親近感や連帯感、共感すら抱いている。
そう、常人には考えられない思考の持ち主であることに注意していただきたい。
理由ですか?
彼は生まれつき身体的、精神的特異性を有しているからです。
といっても、彼はまるきりの狂人ではありません。
身体的、精神的な性向が常人とは著しく異なっているだけなのです。
世間の人たちが偏見を持って見るであろう精神病の患者を、彼は高みから
見下ろさない。自ら意を決して低いところへ降りていくのでもありません。
マーフィーと患者との垣根は最初から存在しないのです。
182 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:01:40

おそらく、これは稀なことであるのでしょう。
特異性を備えたマーフィーだからこそ、できたことといってもいいでしょう。
とはいえ、ベケットは通常の作家のようにマーフィーを決して美化しません。
それは、彼が病院で寝泊りしている屋根裏部屋の描写についても同じ。

――屋根裏部屋の天窓を開けても寒くないときには、星たちはいつでも
雲か霧か霞に隠れているようであった。実は悲しいことに天窓からは、
夜空のもっとも陰気な小部分、銀河の石炭袋しか見えないのだから、
マーフィーのような状況にある観察者、冷たく、疲れ、腹を立て、いらだち
風刺画のように思える組織にいやけがさしている者には、それが不潔な
夜のように見えるのは当然であった――(p191)

天窓から星すら見えない、疲れはてた彼を安息の眠りに誘うにはあまりも
そっけないほどの寒々とした描写、、、
マーフィーの最期はこの屋根裏部屋でガスストーブのガス漏れ事故によって
実にあっけなく亡くなります。


(つづきます)
183 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:02:11

ベケットはマーフィーの最期についても、他の作家がやるように
感動的な描き方はしません。
英雄の死としては描かないのです。
その辺にあるひとつの死、としてのみ描くのです。
世間から蔑まれ、疎んじられ、遠ざけられた狂人と唯一交流できた
「稀有な資質を持った人物の死」としては描かないのです。

ところで、なぜマーフィーは死ななければならなかったのでしょうか?
ようやく特異性を持った彼の天賦な資質が発揮され、開花しようとした
まさにその矢先に。。。
いったい、この唐突ともいえる彼の死はどんな意味があるのでしょう?

――「理由はないのさ。運が悪かったんだ。諦めてくれや」
それ以外に説明のしようはなかった。人間はその程度にいい加減であった。
「オレ」が死ぬのは困るが、「アイツ」が死ぬのなら致し方ないのである。
そしてその現実を認めさえすれば、悼みながらも心は楽になるのに、
多くの人々は、なぜ或る人間が理由もなく死ぬかについて、本来無理な
理由を何とかしてこじつけようとして来たのであった――
『神の汚れた手』・曽野綾子


(つづきます)
184 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:30:40

いつものように患者の世話を終え、小森に全裸で身体を横たえ、
それから疲れ果てて屋根裏部屋に上り、椅子に身体を縛りつけ
音楽や詩を所望しながら永遠の眠りについたマーフィー。
死の間際、彼の脳裏にはどんなことがよぎったのでしょう……?

――私はふと救いを感じた。疲れとはいいものであった。
疲れて来ると、人間は死さえ怖くなくなる。彼もその間、何も考えなかったろう。
それはひたむきで純粋な時間であった。透明で人間的であり、その人の生涯の
最後の一日を飾るのにふさわしい時間だった。私もできれば、自分の臨終の
最後の一日を、そのような自然な充足によって終わりたいと思った――
『紅梅白梅』・曽野綾子

――ひとりの人間が、その最期近くに何を考えていたかを確かめて何に
なるのだろう。誰もが何かを思いつつ死ぬのだ。思ったのは何も彼一人
ではない。彼の死を他人のそれと比べて、決して特別なものとは
思いたくない。彼の死を散華とも思いたくない。
彼の死は、徹底してむだであった。一人の人間が死に値するほどのものは
実はこの世にめったにない。彼は自分の死がむだであることを確認して
死んだ。私はそのことが只、苦しい――『地を潤すもの』・曽野綾子


(つづきます)
185 ◆Fafd1c3Cuc :2007/02/25(日) 22:46:19

彼の遺灰は酒場に入ってきた客に腹立ちまぎれに投げつけられ、
ばらまかれて終わりです。
マーフィーの死後、シーリアはふたたび娼婦に戻り老人と凧揚げを見ています。
彼女の心情はいっさい描かれていません。
ただ、風景に魅入っている描写が淡々と綴られているだけです。
「閉門です」という繰り返される門番の声。

読者はこの太字で強調された「閉門です」に、お芝居の「閉幕です」を
重ねるでしょう。
そう、幕は引かれ、お芝居は終わったのです。
「あなたの見ていたのはすべてお芝居ですよ。マーフィーはいかがでしたか?」
皮肉っぽい笑みを浮かべたからかうような調子のベケットの声が今にも
聞こえてきそうです。

マーフィーがこよなく愛した揺り椅子。椅子は部屋のなかで屋根裏部屋で
いつも共にありました。
「ゴドー」においては一本の木がそうだったように、ここでは椅子だけが
彼に最後まで伴い、唯一彼のこころを知っていたであろう「同伴者」です。
そういえば、ブランショも肘掛け椅子が好きでよく登場させていましたね。


――それでは。
186SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/26(月) 00:59:08
>>167-168
>面白いのは(中略)ラッキーの突き詰められた被支配の姿だなww
まるで犬にでも付けられるような名前「ラッキー」。
あの『KEMANAI』で見かけた獣を思い出すね。
GODを逆さつづりにした宇宙服を着てるやつ。

>「第三の警官」ははじめて聞くタイトル。
この作品は絶版でなかなか入手困難だけど、
OTO氏が気に入る本じゃないかなと思った。
とっても変な本だから(微笑

>逆行してみると「名づけえぬもの」が通過儀礼だったような気がするな。
『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の三部作

>この頃のベケットにとって「女性」は超越的な存在だったのかな。
ベケットの作品には、初期の「初恋」という中篇を例外として、
恋愛対象となるような若い女性はほとんど登場しなかった気がするし、
恋愛どころか男女の対話すらもないんじゃないかと思うほどだけれど、
その意味ではブランショよりストイックかもしれないね。
とはいえ、性的なメタファーやスカトロジックな表現は結構あるから、
その意味ではブランショより随分下品なんだけれど。。。
187SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/26(月) 01:04:46
>>169-
>「ゴドー」におけるふたりは、まさに互いが互いの存在を
>どうでもいい《お喋り》で確認しあう物語なのでしょうね。
ベケットの世界は、うらぶれた場末に浮浪者がたむろする雰囲気だけれど、
非常に「枯れた」世界だね。意味はすっぽかされて宙に浮き、
内容がないよう!と叫びたくなるような空虚さに満ち溢れながら、
それでも「形」はしっかりと決めていく、というスタイル。
その形の中に充溢しているのは、絶えず意味を脱臼していく熱意であり、
既存のありふれたコードから絶えず逸れていこうとする意志であり、
そうしたストイックな強度の持続が感じられるところが楽しい。
枯れた世界だけど、見方によっては、その枯れ方が豊饒にも見えてくる。
――あたかも、裸だった木が青々と葉を茂らせた木に変わるように。

今日は時間切れなので、「マーフィー」の感想も含め、
今度ゆっくり読ませてもらうことにするね。  〆
188SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/02/26(月) 01:25:57
あっ、書きかけのまま放り出してた箇所があったので、>>186に追記。

>逆行してみると「名づけえぬもの」が通過儀礼だったような気がするな。
最初期の『並には勝る女たちの夢』から最晩年のテクストへの流れを見ると、
本当に徐々に「消尽」していった感じがするね。
『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の三部作以降は、
その傾向が確かに強まってる気がする。
ただし「通過儀礼」というより、すべて「終着点」のように感じるね。
『名づけえぬもの』で行き着くとこまで行き、
さらに『無のためのテキスト(反古草紙)』『事の次第』『死んだ頭』などで、
極北の極北まで言葉を削いでいったかと思いきや、その終点の先には、
さらなる終点『また終わるために』がタイトル通り待っていて、
もうこれで本当に終わったか、地の果てまで来たか、と思えば、
『まだもぞもぞと』みたいな終点の先の先が出てくるみたいな。
189(OTO):2007/03/02(金) 19:00:30
>>174
>どうもベケットはまともな恋愛を知らないというか、知ってはいてもあえて描かない
>という偏屈なところがあるようですね。
>ベケットの女性像は、女とは男を抑圧し、恐妻家もしくは女性不信に陥っている
>感じが伺えます。

>>186
>ベケットの作品には、初期の「初恋」という中篇を例外として、
>恋愛対象となるような若い女性はほとんど登場しなかった気がするし、
>恋愛どころか男女の対話すらもないんじゃないかと思うほどだけれど、
>その意味ではブランショよりストイックかもしれないね。

それと「マーフィー」で描かれる女性関係理解の参考になりそうなものを見つけた。
去年本屋でもらった
アイルランド政府外務省文化部発行、ベケット生誕100年記念パンフレット
(なんかすごいだろw)
その中からベケット自身の恋愛に関するところを引用しよう。
190(OTO):2007/03/02(金) 19:02:16
生涯を通じ、ベケットは数々の女性の愛と尊敬を得た。
そして、そのうちの多くは友人として長く付き合い続けた。
彼は大学時代に初めての恋に落ちた。その相手はエズナ・マッカーシーという名の、
抗しがたい魅力のある学友で、彼女が初期散文および詩作品のいくつかに登場する
「アルバ」のモデルであることは一目瞭然である。
この恋はベケットの片思いであったようで、
彼女はのちにベケットの終生の友のひとり、A・J・(コン)・レヴェンソールと
結婚した。ベケットの最初の真剣な恋愛は、たいそう彼の両親を恐れさせたことには、
従妹のペギー・シンクレアとのものであった。
彼女は「蹴り損の棘もうけ」の「スメラルディーナ」のモデルである。
1933年にペギーが結核で、1959年にはエズナが癌で死ぬと、
このふたりの女性の早すぎる死はベケットに途方もない苦悩をもたらした。
パリではジョイスの娘ルチア(のちに精神分裂病と診断される)が、
父の家へやってくるこのハンサムで若い訪問者に熱を上げた。
一方的な熱愛による気まずさから、ベケットとジョイス一家の関係は
一時的に途絶えることとなる。

1938年1月6日、パリの通りで明白な理由もなく、ベケットはポン引きに刺された。
ナイフは心臓すれすれであった。大勢の友人や家族が彼の枕元に駆けつけ、
ベケットは母親と和解した。ベケットが病院で回復に向かっている間、
シュザンヌ・デシュヴォー・デュムニール(1901〜1989)が彼を見舞っている。
ベケットとシュザンヌが初めて出会ったのは、10年前のことであった。
ベケットはその頃、アメリカ人の芸術後援者ペギー・グッゲンハイムと
付き合っていたが、シュザンヌとの関係が次第にこの戯れの恋に取って代わった。
ベケットとシュザンヌは1961年にようやく結婚し、
残りの人生をともに生きることとなる。
191(OTO):2007/03/02(金) 19:16:51
というように、本人はけっこうモテモテな部分もあったようだww
>>177
たしか「カモメの目」という表現が出てこなかったっけ?
このカモメの目っていうのはベケット本人に対してよく使われる
表現のようだ。アップの画像を見ると、一目瞭然。
http://up.nm78.com/obj/7079
正面
http://up.nm78.com/obj/7080
そしてすこぶるおしゃれw
http://up.nm78.com/obj/7081

すぐ流れるところだから注意。
192SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/03(土) 16:30:02
>>176-185
ベケット『マーフィー』について少し。
>作者がふざけているのか、あるいは真剣なのか読者は混乱を
>きたしてしまうでしょう。
おそらくは、とても真摯に、ふざけているんだろうね。
大真面目な変な人マーフィーそのままに。

Cucさんが適切に引用しているように、ベケットはあえて、
「発せられたとたんに死んでしまう言葉」を登場人物に語らせ、
「その意味がわからないうちに次にくる言葉に抹殺」させることで、
言葉の間接を外し、意味を脱臼させて、不協和音を奏でさせてる。
そう、ベケットは確信犯。
――しまいには何を言われているかわからなくなる。
初めて聴く難解な音楽のようであった――

その不協和音が荒々しく放り出されているところに、
『マーフィー』という作品の弱みと強みがあると思うけれど、
不協和音が決して作品を成功させているとはいえないにしても、
『ワット』を経て『モロイ』や『ゴドー』につながるところの、
後の作品へのステップとしてとても興味深い小説かもしれないね。
「ここでは何が削られていないか」を探りながら読むのも一興。

>マーフィーに至っては笑う以前のシロモノというべきでしょうか。。。
そう、『ワット』になると結構笑えたりするんだけど、
『マーフィー』では笑いを外してるんだよね。
あのへんちくりんなワットウォークは思わず噴き出してしまう(笑
193SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/03(土) 16:33:02
>>189-191
あ、そのベケット生誕100年記念パンフ欲しいね。
引用とリンクありがと。ベケットはかなりガニマタかな?

17歳から23歳にかけての思春期における二つの恋、
エズナとペギーとの恋愛は上手くいかなかったみたいだね。
それにジョイスの娘ルチアの求愛を断ったために、
彼女の精神分裂病が悪化したともいわれ、
エズナを車に乗せて自動車事故にあい、
彼女は重症を負ったりもしたという不運も。
194SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/03(土) 16:45:20
ベケットは20代で彼は実際に精神病院を訪れたり、
自身も友人の勧めで精神分析を受けたりしてて、
精神病院を舞台にした『マーフィー』には、
その体験が色濃く反映されてるんだろうね。

>椅子なくしてはマーフィーも存在しえないかのようです。
屋根裏部屋の揺り椅子はすごく重要な存在だね。
母体回帰願望をそこに読み取ることもできそうだけど、
それには精神分析的な読み、伝記的な読みも必要かな。

ここでいえることは、『マーフィー』という作品自体が、
身体的、精神的特異性を持つマーフィーそのままに、
荒削りでかなりいびつな文学作品として存在してる、
ということじゃないかな。
195 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:45:02

SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>ベケットの作品には、初期の「初恋」という中篇を例外として、
>恋愛対象となるような若い女性はほとんど登場しなかった気がするし、
>恋愛どころか男女の対話すらもないんじゃないかと思うほどだけれど、
>その意味ではブランショよりストイックかもしれないね。
>とはいえ、性的なメタファーやスカトロジックな表現は結構あるから、
>その意味ではブランショより随分下品なんだけれど。。。
ブランショもかなりストイックですよねえ。
女性嫌いかと思うほど、、、何か戒律の厳しい修道院の僧を思わせます。
ベケットは「遊び」はかなり知っているようで、スラングを交えたりして
ひそかに楽しんでいる感じは充分窺えますね。
196 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:45:40

>ベケットの世界は、うらぶれた場末に浮浪者がたむろする雰囲気だけれど、
>非常に「枯れた」世界だね。
バタイユもこうした娼婦がたむろする場末を好んで描きますが、非常に猥雑な
世界です。
ベケットにはそうした猥雑さがあまり見られません。
省けるものはどんどん省いて、必要なものだけ抽出していく感じ。

>もうこれで本当に終わったか、地の果てまで来たか、と思えば、
『まだもぞもぞと』みたいな終点の先の先が出てくるみたいな。
ベケットの作品の特徴のひとつですよね。
終わりまで読んで、実はその終わりが最初に繋がっているという。
彼はきっぱりと「完」という終わらせ方はしない。
まあ、小説というものは多かれ少なかれ必ず「その後」を予想するように
締めくくるのが通常なのですが、、、
197 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:46:14

>そう、『ワット』になると結構笑えたりするんだけど、
>『マーフィー』では笑いを外してるんだよね。
>あのへんちくりんなワットウォークは思わず噴き出してしまう(笑
独特のヨタヨタ歩きはチャップリンをほうふつさせますよね。
赤い大鼻とか、とにかくへんてこりんな容貌を全面に出すことでワットの
可笑しさは充分伝わってきます。

>屋根裏部屋の揺り椅子はすごく重要な存在だね。
>母体回帰願望をそこに読み取ることもできそうだけど、
母体回帰願望、なるほど! 揺り籠の頃への願望が揺り椅子に執着して
いるのですね。確かにベケットの主人公たちは必ず「母の部屋」や「母の名前」
「母の町」のいずれかを口にしていますね。
それも、母に溺愛されたというのではなく、むしろ逆の感情、、、
淫売とか、そういう蔑んだ呼称で母の描写をしています。
198 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:46:51

>ここでいえることは、『マーフィー』という作品自体が、
>身体的、精神的特異性を持つマーフィーそのままに、
>荒削りでかなりいびつな文学作品として存在してる、
>ということじゃないかな。
そうか、マーフイ=ベケットの提唱するいびつな文学作品、なのですね?
決して形は整えておられず、あえていびつなままにはみ出したままに
描かれた作品。それがマーフイ。
なかなか実験的な小説でありますが、ベケット自身は実験小説だとは
思いもせずに書いていたのでしょうね。
なぜなら、彼は確信犯であると同時に能天気な実行犯でもあるのですから。
書いている本人はいたって大真面目で、あちこち歪みが出ていることにすら
まったく気づかない、、、
いや、気づかないふりをしているだけなのか……?
だとしたら、ベケットはかなりの食わせ者の役者ですね。
まあ、そこが他の作家と一線を画しているところであり、魅力といえば魅力な
わけですが。
199 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/11(日) 23:47:24

(OTO)さん

ベケットの華やかな恋愛談、ありがとうです。
なかなか女性にモテた人のようですね。。。
ただ、初恋の女性が彼の親友と結婚してしまったのは、当時の彼のこころに
陰を落としたであろうことは想像に難くないです。。。
その上、妻に先立たれ、初恋の女性も病死となれば、通常の作家たちのように
恋愛ものを書く気になれなかったのも頷けます。

ベケットの画像、拝見しました。
う〜ん、眼光が鋭い! 何か気難しそうな感じ。。。
インテリで神経質そうな男性は、ベケットの周囲にいた女性たちには
すこぶる魅力的に映ったのでしょうねえ、、、
200SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/16(金) 00:05:55
>>195-199

>主人公たちは必ず「母の部屋」や「母の名前」
>「母の町」のいずれかを口にしていますね。
鋭い。そういえばそうかもしれないね。
母に向けての意識にはアンビヴァレンツなものがあるようで
単純な母体回帰願望じゃないかもしれないけれどね。

>あちこち歪みが出ていることにすらまったく気づかない、、、
>いや、気づかないふりをしているだけなのか……?
たぶん確信犯なZIGGY(歪んだ)野郎なんだろうネ。
デヴィッド・ボウイ並みかな?

で、あえて作品をカオス(混沌)状態にさせてもいる感じ。
――「すばらしいガス、たぐいないカオス」――
マーフィーが最後にガスで死んでしまうのもおそらく狙いのうち。
カオスとガスをかけてるのは間違いなさそう。

>ベケットは「遊び」はかなり知っているようで
隠語、常套句、地口、造語、捩りなどなど、
初期の作品は特にパロディ精神にあふれてるなぁ。
ちょっとあふれすぎだけど(笑

Cucさんが、それからOTO氏もどこかで書いていたと思うけれど、
『マーフィー』には聖書からの引用が頻繁に見られるけれど、
――「太陽は、しかたなしに、あいも変わらぬところを照らしていた」――
という冒頭の出だしからしてそうだね。
《太陽の下に新しきものなし》という言葉のアイロニカルなパロディ。
201:2007/03/16(金) 00:08:13
Bさん、こないだのあの本読みましたか?
202 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:25:24

SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>>200
>母に向けての意識にはアンビヴァレンツなものがあるようで
>単純な母体回帰願望じゃないかもしれないけれどね。
そうですね、母を慕うというよりは逆の感情、嫌悪や忌避感が窺えます。
まあ、それらは突きつめれば「母に愛されたい」という感情の裏返し
なのでしょうがね。。。

>たぶん確信犯なZIGGY(歪んだ)野郎なんだろうネ。
>デヴィッド・ボウイ並みかな?
おおっっ! ボウイが登場しましたね♪
そう、ベケットってものすごい確信犯で知能犯。
ボウイが自身の美貌を知り抜いているように、ベケットも女性にモテモテゆえに
そうした慢心が歪みとなって出ているような気がします。
まあ、ボウイはストイックかつ精進の人であり、それゆえ彼の美貌、歌は嫌味には
ならない。男女ともに受け容れられている感じがしますね。
(ちょっとひいきしすぎ……? だって青い瞳と金髪の王子さまのルックスだも〜ん♪)
ベケットは博識なのは誰もが認めるけれども、博識ゆえの言葉遊びは時として
鼻についてしまうのですね。羅列の面白さとか暗喩の絶妙さは認めるけど。。。
203 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:25:59

実際、翻訳者があとがきで「膨大な言葉遊びの羅列など、おそらく読者は読み
飛ばしてしまうであろうが、翻訳する側はそうはいかない」と嘆いていましたから。

わたしがベケットの描写でとりわけ好きなのは、幾つかの例外は別として
主人公の男たちはたいていは野原や森のなかを徒歩で旅するところ。
溝のなかで月光を浴びながら野の花に囲まれて眠り、森の小川で水を飲み、
火を炊き、干し肉や硬いパンを食べ、あてもなくてくてくと歩きつづけます。
星を仰ぎ、うろ覚えの聖書の言葉を口に出して祈り、ぶつぶつと独り言を
呟きながらただひたすら歩きつづけます。
彼らは一様に目的らしいものはいっさい持たない。
けれども、歩くのをやめない。左右ちぐはぐな靴を履き、足の痛みをこらえつつ
それでも歩く。
精神病者である彼らは生きる意味も、人生の意義も求めない。
言葉の意味も求めない。真理も求めない。幸福さえも求めない。
彼らの内面に流れているのは、悲しみや怒りを通り越したシンプルな感情。
おしゃぶりの石を味わっているときのような、無心な感情。
204 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:26:38

それは、博識であるがゆえに、生涯ベケットが浸れなかったであろう境地。
彼は作家として膨大な言葉を求め、散りばめ、操る。
一方、そんな自分を見つめるひとつの無垢なまなざしがある。
まともな言葉を話せず、意味不明のことしか口に出せない人の無心ともいえる眼。
彼らは言葉に憤らない、言葉を嘆かない、言葉に頼らない、、、
ベケットはそんな彼らに実はひそかな羨望を抱いていたのではないでしょうか……?

>――「太陽は、しかたなしに、あいも変わらぬところを照らしていた」――
>という冒頭の出だしからしてそうだね。
>《太陽の下に新しきものなし》という言葉のアイロニカルなパロディ。
ああ、なるほど! 指摘されてみればそのとおりですね!
ということは、《太陽は悪人の上にも善人の上にも等しく照る》という聖書の語句は
「太陽は知者にも狂者にも等しく照る」ということなのかな。
モロイやワット、彼らの上にいつも太陽は降り注いでいましたね。。。
205 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:27:12

「マーフィー」の《特異な外科的特性》=《異形の者》についての補足。
来たるべき救い主、つまりキリストの外貌についてイザヤはこんな預言を
しています。
どこか、マーフィーをほうふつとさせます。。。

――彼の顔だちはそこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なって
いたからである。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき
美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また、顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。
――イザヤ52.14-53.7
206 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 22:28:41

>>201 Aさん
>Bさん、こないだのあの本読みましたか?
「KEMANAI」ならば、とうに読みましたよ。

☆☆お知らせ☆☆

え〜、ROMされているみなさま、中野ブロードウェイの「タコシェ」にて
SFイラストコミック「KEMANAI」が絶賛発売中!
http://www.tacoche.com/

男の究極のロマンとは? 孤高のKEMANAIの生き方にあなたは失われた武士道、
サムライ魂を見るだろう。
真の男は自分の胸のなかにある大切なもののためにだけ闘う。
それが男の美学だ。
敵の数が多くとも日本刀一本のみで立ち向かう。よく生きよりよく死ぬために。

KEMANAIの容貌は高倉健に似ているかって? いえいえ、これが実にユニーク。
こればかりは購入して絵を見ていただかなければご説明できませんねえ・・・
クールなだけじゃなく、ちょっとお茶目さんでもあるのです♪
やっぱりイイ男には意外なギャップがあるものです。

みんなで「KEMANAI」を読もうね〜♪♪ ふるる♪
207 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:20:57

『モロイ』の感想を記します。

第一部、モロイが母の町へ向けて旅する物語。
第二部、モランがモロイを見つけに行く物語。
この物語は二部構成で書かれており、解説によれば、モロイ=モランであり、
第二部が終わった時点で再び第一部の最初に戻ってくる構成をとっている
とのことです。
確かに、モロイとモランは姿、格好、片足が不自由なことは酷似しており、
また、息子がひとりいることなど踏まえてみてもこのふたりは実は同一人物
であると読むのが妥当なのでしょう。

……わたしは、解説とは違った読み方をしていました。
第二部を読みながら、モランはモロイによく似ているな、と思いつつも、
やはりふたりは別人なのではないかと。
といいますのは、第一部でモロイが田舎道で山高帽を被ったふたりの男を
目にする場面があるのですが、解説によれば、このふたりの男は「ゴドー」の
ふたりに相応するらしいですね。
これについてはわたしも同意です。
解説ではそれ以上触れてはいませんでした。
わたしなりにつけ加えるならば、モロイとモランのふたりこそが、その後の
「ゴドー」のふたりなのではないでしょうか?
つまり、モロイは自分の行く末を演じるひとりの男と、相棒のもうひとりの男を
夕暮れの景色のなかで見たことになります。


(つづきます)
208 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:22:04

それ以来、モロイはふとしたときにあのふたりの男に思いを馳せるのですが、
その理由が何なのか、今のモロイにはわからないのです。
ペケット自身、そのときはモロイとモランのその後のふたりを劇に登場させる
など露ほども思っていなかったでしょうから。
ただ、漠然とではあっても、モロイとモランというふたりの人物を軸にして
今後何らかの展開をさせてみたいとは思っていたかもしれません。

「ゴドー」のふたりの人物も恐ろしいほど酷似しています。
どちらが言ったせりふなのか、名前がふってなければわからないほどです。
それほど「ゴドー」のふたりは思考もお喋りの内容も大差ないのです。
通常ならば、相反するキャラクターをもってきて、対照的に際立たせるのですが
ベケットはそれをしない。
どちらがどちらであってもまったく支障のない劇でした。。。

「モロイ」は、「ゴドー」同様、取るに足らないことをくどくど、延々と冗長に
緩慢に並べ立てています。
それも他の作家がよくやるように、その取るに足らないことに、ことさら
意味づけしようとはしません。
意味のないことに意味を見出すという建設的な作業を放棄します。
取るに足らないことは、そのままどうでもいいこととして書き切るのです。


(つづきます)
209 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:22:37

例えば大きな視点で人生を描くブッツァーティならば、瑣末なことのなかにも
人生の意味を見出し、単調な日々にこそ人生の真理があると描きます。
ところが、ベケットはそれをしない。
なぜならベケットは非情な眼の作家であり、観客の期待を最後まで叶えず、
読者の願望に添わない書き方をするのです。
ベケットは読者に甘い夢を決して見せない作家です。
それは、ベケット自身人生が何たるかを知っていて、希望や夢が容易には
叶えられないこと、世の中に期待などしないで生きることこそが真の人間
であることを暗黙のうちに示唆しているかのようです。
ベケットは辛辣で皮肉屋なのでしょうか?
いえ、そうではありません。
彼はリアリストなのですね。
これまでのお芝居、小説、どれもみないかにもつくりごとでお芝居めいていて、
観客も読者もそれを承知でつくりごとの世界に身を投じていたのです。

「そうした作家の立場に根本的な疑問を提示したのがいわゆるアンチ・ロマン
の人々だとしたら、ベケットはその先駆者と言えるかもしれない」
訳者の安堂信也氏は解説で上記のように述べています。


(つづきます)
210 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:23:07

「モロイ」について少し述べようと思います。
読み終えて思ったこと、これは巡礼の物語ではないでしょうか。
巡礼とは、聖地を巡るという宗教的行為のことを指します。
聖地とはどこか。モロイの言葉を借りるならば「終わっている世界」への旅。
一見するとモロイは母のいる町へ向けて旅をしているようですが、
どうやらその母はすでに死んでおり、正直言ってモロイにとって母の生死など
問題ではないのです。
そして第二部では、モランがモロイを見つけるために出発します。
つまり、モランもモロイを経由して巡礼の旅に出たのです。

――常に事物は朝の記憶も夕べの希望もない日の光の下で、傾いたまま
終わりのない地すべりに流されていくのだ。(略)
それは外見とは違い終わった世界だ。それの終わりが出現させた世界だ。
それは終わりながらはじまったのだ。そして、わたしもそこにいるときは
終わってしまっている――(p56〜57)

モロイは自身を終わってしまっていると自覚しながら、尚も「終わっている世界」
へ向って巡礼に出るのです。


(つづきます)
211 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:23:38

前半ではモロイが今は亡き母の部屋でこれまでの巡礼を回想します。

モロイは母のいる町へ向って旅をします。
道中、田舎道でふたりの男に出逢い、モロイはその後よくこのふたりに
思いを馳せます。このふたりについては先に書いたとおりです。
モロイは不審者として警察に尋問され、以後人目を避けるためひと気の
ない森のなかを彷徨いながら旅をつづけます。
老寡婦に乞われしばらく彼女と一緒に暮らすも、彼女の家を出、海辺を
彷徨い、そこでもなぜか老婦人たちに養われます。
モロイは若い頃からこうした老いた寡婦に誘われることが多く、欲望の捌け口
にされました。彼にとって女とは性欲を剥き出しにした淫売以外のなにものでも
ないのです。実の母をさえ、淫売と呼ぶのですから。。。
モロイの老婦人ばかりの異性体験は、彼の人生に幾ばくかの影を落とし
不幸にして同じ年頃の異性と恋愛する機会を失わせ、同世代のともだちを
つくる機会も奪ったようです。


(つづきます)
212 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:51:01

モロイが興味を抱いたのは、地理、天文学、人類学、精神分析学、
そして、最後に行き着いたのが魔術。

――いずれにしろ、そこは神秘の失われていることにより、魔術に捨てられた
のである。(略)そこにいたからといって楽しくもないが、かといってよく知られた
神秘の道具立てができている場所にいるほどの不快を感じないですむような
場所なのである――

モロイは何かに、生きることに、食べることに、愛することに、情熱を傾ける
ということを欲しない人物です。
彼が欲するのは「終わりの世界」、神秘な光に湛えられた静かな動かない
世界。この世における乱痴気騒ぎもあらゆる喧騒も彼の前を素通りしていく。
彼もまたそれらを望まないから、つかまえることもしない。
彼はいつも向うから来るものを「待つ」。
老いた寡婦たちも、森の中で出逢った炭焼きの老人も、すべて向うのほうで
彼に留まってほしいと懇願する。
モロイは受身でしか人生を生きられない。なぜ? 彼自身望まないから。
もっと言うならば、期待するだけ無駄だから、徒労に終わるのが目に見えている
から。モロイは悲しい人だろうか?


(つづきます)
213 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:51:39

では、モロイと外貌が酷似したモランは?
モロイもモランも人目を避けて森の中を旅するのですが、旅の道中のふたりの
思考、行動はまったく異なります。

モランは息子にやたら厳しく、モロイを見つけるよう命令されていやいやながら
旅に出るのですが、結局モロイを見つけられぬまま、道中でいきなり中止命令
を受け、負傷した身体で徒労のまま我が家に戻ります。
モランはモロイとちがって食事にもいちいち注文をつける男です。
モロイほど思索家でもなく、現実的で息子に与えたお金の勘定に細かい男
です。
モロイが好きな地理、天文学とは対照的に、モランは複式簿記と野営に
長けた男。

このふたりのもっとも著しく異なっているところは、モランは攻撃的であり
モロイはあくまでも受身であるところ。
追いかける男と、捕まえられる男。


(つづきます)
214 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:52:40

ところが、このまったく対照的といってもいいふたりの男はひとつの音、
ひとつの声を聴くという点で一致しているのです。

≪モロイが聞いた音≫
――あの遠い息吹をずっと以前に黙りこくってしまった息吹をついに聞くだろう。
だが、それは、ほかの音のように聞きたいときに聞けて、遠ざかるか、
耳をふさげばいつでも黙らせられるような音ではない。
それはどんなふうにか、なぜかもわからないまま、頭のなかでざわめきだす
音なのだ。それは頭で聞く音で、耳はなんの関係もない。だから私が聞いて
いても聞いていなくても同じことだ。いずれにしろ聞こえるのだから――(p57)

≪モランが聞いた声≫
――私に命令、というより忠告を与えてくれるある声のことはもう話した。
それをはじめて聞いたのが、この帰り道でだった――(p258)
――しかし、とうとうその言葉を理解するようになった。私はそれを理解した。
そこで私は家へはいって書いた――(p268)


(つづきます)
215 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:53:40

「マーフィ」、「モロイ」には必ず森が出てきますね。
マーフィが勤務する精神病院をぐるりと囲む森。
最後にマーフィが患者の世話を終えて、全裸で身体を横たえた小森。
モロイが、母の町へ向けて人目を避けて通った森。
茸や木の実を食べ、草の褥で眠りに就いた森。
モランがモロイを見つけ出す命を受けて、息子とともにキャンプをした森。
小枝で隠れ家をつくり、小川の水を飲み、火を焚いた森。

森はあるときには、世間から身を隠してくれ、豊富な食料を提供して
くれます。
また、あるときは背後から敵が音もなく近づく危険な匂いを潜めています。
そして、また別のあるときは、≪声≫をささやくのです。
モロイもモランも、ひとつの≪声≫を聞くために森に招かれたかのようです。
古来、森には精霊が棲むといわれています。
モロイとモランが聞いた≪声≫は精霊の声なのでしょうか?
「大いなるもの」が精霊の声をとおしてささやきかけたのではないでしょうか?
その≪声≫を耳にするものだけが、≪声≫の主と対話できるのです。
マーフィも、モロイも、モランも森の中でささやきかける≪声≫と対話していた
のです。彼らはその≪声≫を聞くために旅をし、果ては命が尽きるまで≪声≫
の主を待ちつづけることになるのです。


(つづきます)
216 ◆Fafd1c3Cuc :2007/03/17(土) 23:54:16

モロイとモランの巡礼とは、両者が、≪頭のなかでざわめきだす音≫、
≪ある声≫を聞くための旅だったといえるでしょう。
ヴラジーミルがゴドーと約束したとき聞いたゴドーの声同様、それは、
≪大いなるものの声≫、すなわち≪神の声≫を指すのではないでしょうか?
ゴドー、つまり神はこの世が「終わっている世界」であることをとうにご存知
なのです。
その「終わっている世界」で、神はふたたび自ら呼びかけ給うのです。
モロイに、モランに。ひいては、わたしたち読者に。

「私は家へ入っていって書いた、真夜中だ」
この物語はモランが書き始めることで終わりを告げます。
この書き始めるというラストにシモンの「アカシア」がふと重なりました。
けれども、「アカシア」と異なっているのは、モランが書くのは声の命令による
ところでしょうか。

――報告をしろと言ったのはその声だ――(p268)

モロイやモランをとおして、ベケットははたしてどのような≪声≫を聞いたので
しょう? そして、その≪声≫にどのように応じたのでしょう?
「はい、待ちつづけます」、と答えたのでしょうか……?
待つ行為は、そのまま受諾の行為なのですから。。。

――それでは。
217(OTO):2007/03/22(木) 19:19:11
遅レスだがwww
>>193
>あ、そのベケット生誕100年記念パンフ欲しいね。

いいでしょ?ww
この中で知っている名前はペギー・グッゲンハイムだけだな。
彼女は現代美術のパトロンとして有名な「セレブ」でw
映画「ポロック」からその姿を想像することができる。

>>194
それではまた同じパンフから引用

ベケットはしばしばパニック発作や、不安、憂鬱に苦しんだ。
1933年にはこれらの症状がとても激しくなり、精神治療を受けるために
ロンドンへ行く決心をした。そこで彼はほとんど2年にも及ぶ精神分析を受け、
フロイトやアドラー、ランクらによって書かれた精神分析関連の書物も読んだ。
ポートラ・ロイヤル・スクール時代の旧友が医者として働く、ベツレム王立病院を
訪ねてもいる。このベツレム訪問は、小説「マーフィー」と「ワット」における
精神病院の場面に用いられた。精神療法というベケットの個人的な経験の痕跡は、
作品の至るところに見受けられる。そしてそのほとんどが、顔のない聴衆に向かって、
多くの場合暗闇の中で仰向けに寝転んだ話し手が、ある種の錯乱状態でしゃべり続ける
モノローグという形式を取っている。1935年ベケットはロンドンで「マーフィー」を
書き始め、翌1936年6月に完成させた。現代のベケット読者の多くにとっての
出発点ともいえる、この滑稽な着想に富んだ小説はおそらく彼のもっとも実験的要素の
少ない作品であろう。それにもかかわらず、1938年ついにラウトレッジ社から
出版されるに至るまで、実に42回もの出版拒否に遭遇することとなるのだが。
218(OTO):2007/03/22(木) 19:19:45
>>199
>う〜ん、眼光が鋭い! 何か気難しそうな感じ。。。

だから上野動物園にそっくりのワシがいるんだってww

>>202
母親、家族に関する部分をパンフから

1906年4月13日の聖金曜日、ベケットはウィリアム・ベケットと
その妻メイの次男として、ダブリンから8マイル南に位置するフォックスロック
という豊かな町で生まれた。
一家は堅実な中産階級のプロテスタントであった。成功を収めた積算士の父ビル・
ベケットは、強壮で親切な愛情豊かな人物であり、ベケットと彼は非常に仲のよい父子で
あった。彼らはしばしば連れだってダブリンの丘やウィックローの丘へ散歩に出かけたもので、
その情景はベケット作品全体に浸透している。1916年のイースター蜂起の際にも、ベケットの
父親は彼と彼の兄を丘の頂に連れて行った。そこから炎に燃えるダブリンの中心地が見えたのだ。
このイメージは死ぬまでベケットの頭から離れなかった。1933年に父親が早く死んだことは、
ベケットの人生にひどい欠乏感をもたらし、彼に重要なテーマ
「人間の苦しみの気まぐれで不当な性質」を与えることとなった。母メイ・ベケットは
愛情深いと同時に支配的で、彼女の「激しい愛し方」は息子の成長に大きな影響を及ぼした。

この、母に関する部分は微妙な表現だなww
219(OTO):2007/03/22(木) 19:20:21
>>203
初期ベケットのこのペダントリーは、当時の知識人にはけっこう分かるものだったのかなあ?
まあ注を参照しなくてもなんとなく「皮肉かな?」とかわかる部分はあるが、
これが全部ピンとくる人だったら笑い転げるのかもしれないねww
そして膨大な注は「名づけえぬもの」で消え失せるwww

>>201,206
wwwwさんきゅ。

>>207
「モロイ」も読んだはずだが全然おもいだせないなあww不思議だww
「モロイ」発表の1951年、「ゴドー」は完成していたが初演は53年、
ベケットはまださほど注目されていない時期だな。50年には母親が死んでいる。
そのあたりをまた引用ww
220(OTO):2007/03/22(木) 19:21:31
言葉遊びや多用される他の文学作品への言及にジョイスの影響がうかがわれる初期作品
とは異なり、戦後の作品においては知識の披露は控えられ(ほんとかよ!byOTO)
無知、無能、失敗が重要な関心事となっている。ベケットの円熟した文体は、
砲撃のようにように博識さを読者に浴びせるのではなく、声が暗闇から聞こえて
来るような、仮に存在させられた意識が困惑と苦悩の中で自身の当惑を口にしている
かのそうなものだ。この方向性の変化とともに、ベケットはフランス語で執筆する
ことを決意した。そして1946年から50年の「書くことへの熱狂」期がやってきて、
この時期にベケットの著名な作品が多く、すなわち「ゴドーを待ちながら」と
小説三部作「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」が書かれた。

戦時中を除いて、ベケットは毎年夏には母親の元を訪れ、少なくとも1ヶ月は一緒に
過ごしていた。1950年のパーキンソン病による母の死は、予期されたことではあったが、
彼に苦悩と罪悪感をもたらした。ベケットはさらなる悲しみから逃れることのできない
運命にあった。兄のフランクが末期癌であるという報せを受けると、
キラーニーにある兄の家に駆けつけ、1954年の夏の間、兄の最期の数ヶ月をともに
過ごした。その年の終わりに書かれた「勝負の終わり」には、喪失、苦痛、終焉、
恐怖といった感覚が絶えず付きまとっており、「ゴドー」の過酷さを時に和らげていた
主役二人の仲間意識が、ここではかなり欠如している。
221SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 20:31:44
>>202-205 >>207-216
>母を慕うというよりは逆の感情、嫌悪や忌避感が窺えます。
ベケットにおいては、母胎と墓所がパラレルに語られることがよくあって、
「反古草紙」という短篇なんかがそうだけど(『短編集』所収)、
『モロイ』でも、モロイが語るのは母を探してさまよった旅の記録で、
その果てに行き着いたのが、彼がそれを書いている母の部屋のベッド、
それは、死の床ともいえるだろうね。
>読み終えて思ったこと、これは巡礼の物語ではないでしょうか。
>尚も「終わっている世界」へ向って巡礼に出るのです。
母と墓が融合した「墓胎」ともいうべき場所への巡礼は、
「終わり」に向けての旅といえるかもしれない。

>ベケットの描写でとりわけ好きなのは、幾つかの例外は別として
>主人公の男たちはたいていは野原や森のなかを徒歩で旅するところ
こういう視点はほんとCucさんらしいね。
なかなか目に留めにくいポイントだなぁ。

>博識ゆえの言葉遊びは時として鼻についてしまうのですね。
そうそう。42年の『ワット』あたりまでの初期はそうなんだけど、
46年〜50年に書かれた小説三部作などを経過した後は、
OTO氏が>>220で引用したように、ジョイス的言語遊びは次第に影をひそめ、
徐々にいろんなものを極北の地点まで削ぎ落としていく感じ。

>彼らは言葉に憤らない、言葉を嘆かない、言葉に頼らない、、、
>ベケットはそんな彼らに実はひそかな羨望を抱いていたのではないでしょうか……?
ベケットは『名づけられぬもの』やそれ以降の作品では、
言葉を沈黙に近づけ、饒舌とは違うつぶやきとしての言葉にし、
もはや物語や小説とは呼べない詩に近い散文に向かってくんだけど、
言葉を武器にする作家にとっては、なんか自虐的な歩みだね。
222SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 20:43:00
(承前)

>第一部、モロイが母の町へ向けて旅する物語。
>第二部、モランがモロイを見つけに行く物語。
モロイもモランも自分の旅の物語を書いていて、
我々読者はその報告を読むという形だね。
このメタフィクション的な構成がやがて、
『マロウン』以降、三人称ではなく一人称になり、
自分について語る、というスタイルになっていく。。。

>モロイとモランのふたりこそが、その後の
>「ゴドー」のふたりなのではないでしょうか?
モロイとモランは同じ時空にはいないけれど、面白い視点だね。
モロイはマロウンとなり、やがて名づけえぬものに変化するけれど、
ベケット作品にはこれまでの作品の登場人物の名前がよく出てくる。

>ところが、このまったく対照的といってもいいふたりの男はひとつの音、
>ひとつの声を聴くという点で一致しているのです。
モロイとモランを対比させての書き込みは面白かったし、
≪声≫に注意を向けてるところはさすが鋭いなぁ!

>モロイとモランの巡礼とは、両者が、≪頭のなかでざわめきだす音≫、
>≪ある声≫を聞くための旅だったといえるでしょう。
『マロウン』以降、三人称ではなく一人称になって語るのは「わたし」だけど、
それは登場人物というより「声」のみの存在になっていく。
それは神というよりも、墓胎から聞こえてくるような感じかも。
223SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 20:57:23
(承前)

>「私は家へ入っていって書いた、真夜中だ」
>この物語はモランが書き始めることで終わりを告げます。
>この書き始めるというラストにシモンの「アカシア」がふと重なりました。
そういえば、ベケットもシモンもノーベル賞作家(意外にも!)。
プルースト、ベケット、シモンに共通する円環。
そういえばベケットの数少ない文学評論にプルースト論があったっけ。
ただし、ベケットの円環は、ずれている。
――「そこで私は家へはいって、書いた、真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。
真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。」――
「真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。」で終わっていれば、
第二部冒頭の文章に見事に回帰するんだけど、
「真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。」と続き、
前言撤回によって成就するかに見えた円環は一挙に崩れるね。
224SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/03/25(日) 21:08:43
>>217-220
引用どうもありがとう。
前に話題の出た恋愛体験といい、
肉親との別れ方といい、波乱が多いね。

>声が暗闇から聞こえて来るような、仮に存在させられた意識が
>困惑と苦悩の中で自身の当惑を口にしているかのそうなものだ。
こういう表現にベケットの「墓胎」意識を感じる。。。

>1946年から50年の「書くことへの熱狂」期
この時期にはほかに『短篇と反古草紙』も書かれてるし、
本当に恐るべき5年間といえるなあ。

>「勝負の終わり」には、喪失、苦痛、終焉、
>恐怖といった感覚が絶えず付きまとっており、(略)
兄との死別を考えて「勝負の終わり」を考えると、
あの荒涼とした終末的雰囲気も別の感じ方を迫られるね。〆
225 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:31:22

>>168-169 (OTO)さん

ベケットの家族構成、少年期の両親との関わり合いについての詳細、
ありがとうです。

>ベケットはしばしばパニック発作や、不安、憂鬱に苦しんだ。
>精神療法というベケットの個人的な経験の痕跡は、
>作品の至るところに見受けられる。
一見、言葉遊びに見えるあの意味不明な膨大な言葉の羅列は彼の不安神経症の
現われだったのですね。
解説で「昼は農夫として働き、夜は精神衛生のために書いた」とありましたが、
身体を動かすこと、書くことはまさに精神病者の治療によく用いられる手法ですね。
「マーフィー」は誇大妄想の典型ともいえる人物ですが、働かないときの彼は
まさに病者であるのですが、ひとたび精神病院で働き始めた途端、他の看護士
たちよりかなり「まとも」であることが証明されていきます。
事実、彼はどの看護士たちよりも患者たちに慕われました。
この辺り、ベケット本人の体験がかなり濃厚に反映されているのではないでしょうか?
226 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:32:11

>だから上野動物園にそっくりのワシがいるんだってww
そうでしたか、一度お目にかかってみたいものですねえ。

>一家は堅実な中産階級のプロテスタントであった。
>成功を収めた積算士の父ビル・ベケットは、強壮で親切な愛情豊かな人物であり、
>ベケットと彼は非常に仲のよい父子であった。
仲の好い父親像はモランと彼の息子とのやりとりにも出てきますね。
(但し、モランは息子に干渉しすぎるきらいがありますが……)
ふたりで自転車を走らせ、森で野営する描写はとても好きです。

>「人間の苦しみの気まぐれで不当な性質」
>母メイ・ベケットは愛情深いと同時に支配的で、
父の死がもたらした喪失と大きな悲しみは、彼の人格に深い影を落としたのですね。
父を慕うようには母を慕わなかった少年ベケット。
父とは対照的で威圧し、支配的な母親を嫌っていた少年ベケット。
父を慕い母を厭う少年期のベケットに、同じく父を慕い母を嫌った少女期のロールを
重ねてしまうのはわたしだけでしょうか?
ベケットもロールも裕福な家に生まれ、両者とも母が支配的な人でした。
ロールの「バタイユの黒い天使 ロール遺稿集」のなかで、彼女は母親を
罵倒し、偽善を鋭く攻撃する一方で、早くに亡くなった「青い目をしたやさしい父」に
ついては、在りし日の父との楽しい思い出を少女特有の感傷的な文章で切々と
綴っています。いつもの辛らつさは影を潜め、父に関しての描写は驚くほど
友好的です。
227 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:33:10

少年ベケットと父親がしばしば連れだってダブリンの丘やウィックローの丘へ散歩に
出かけたように、少女期のロールも父と郊外の野原によく出かけたようですね。
父はロールに野の花の名前をおしえ、雲の流れをおしえ、あらゆる意味で
よき人生の師でもあったのでしょう。
それはそのまま少年ベケットと父親にもあてはまるのではないでしょうか?
(現代アメリカ作家のイーサン・ケイニンの短編「スター・フード」の父と息子みたい…)

>彼女の「激しい愛し方」は息子の成長に大きな影響を及ぼした。
ベケットの小説によく登場する苛烈な老寡婦、年上の独身女性教師たちは
彼の母親像がかなり濃密に投影されているといえるでしょうね。。。

>初期ベケットのこのペダントリーは、当時の知識人にはけっこう分かるものだった
>のかなあ?
もともと彼が執筆を始めた動機は「精神衛生」上のためであり、読者をまったく
想定していなかったと思うのですね。
ですから、商業主義的なサービス精神もないし、オチもない。
それゆえ、純粋に書きたいことだけを書き、自分だけにわかることを思う存分
書くことができた、作家として拘束のないもっとも自由な日々だったのでしょうね。
228 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:33:59

>50年には母親が死んでいる。
>そして1946年から50年の「書くことへの熱狂」期がやってきて、
>この時期にベケットの著名な作品が多く、
母親の死を体験したベケットは何かに憑かれたように「書くこと」への情熱を
迸らせたのですね。
喪失感や悲しみを紛らわせるかのように、ただひたすらペンを執ることで
自らが創り出した言葉の世界に没頭する。
……まるで彼に「書かせる」ために、母親の死が与えられたかのようです、、、
母に対する憎悪は母の死で罪悪感から「書くこと」へと昇華されたのでしょうか?
それとも、未だくすぶりつづけたままだったのでしょうか?

>兄の最期の数ヶ月をともに過ごした。その年の終わりに書かれた「勝負の終わり」
>には、喪失、苦痛、終焉、恐怖といった感覚が絶えず付きまとっており、
父を早くに亡くし、恋人を亡くし、母を亡くし、兄を亡くし、妻を亡くし、とベケットの
生涯は身内や親しい人の死で埋め尽くされていますね。。。
このような状況下で彼は神を呪わなかったのでしょうか?
229 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:34:51

「ゴドー」のふたりが愚直なまでに神を待ちつづけるように、ベケットも自分に
悲しみをもたらす神を信じていたのでしょうか?
いや、それとも、相次ぐ身内の死に当時のベケットはとうに信仰を放棄しており、
「ゴドー」のふたりは彼にとってひとつのあこがれの象徴だったのでしょうか?
待たされても、愚弄されても、ひたすらゴドーが来ることを信じ、命が尽きるまで
待ちつづけようとする無垢な魂を誰よりも希求していたのは、実はベケット
その人だったのではないでしょうか……?

ベケットは相次ぐ身内の死ゆえに気難しく皮肉屋になり、唇に冷笑を湛えていた
人だったのでしょうから。。。無理もないことですが、、、

この沈鬱な気難しい作家にキルケゴールを想起しました。
(ベケットとしてはデカルトに思い入れが深かったようですが…)
230 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 19:59:03

「キェルケゴール家は西ユトランド半島のセディングという荒野で教会の一部を借りて
住んでいた貧しい農民であり、父のミカエルは幼いころ、その境遇を憂い神を呪った。
その後、ミカエルは首都コペンハーゲンにおいて、ビジネスで成功を収めた。
しかしそのために、ミカエルは神の怒りを買ったと信じていた。
つまり、神を呪った罰が今の自分の世俗界での成功であると。
ミカエルはこれらが罰を必要とする(宗教的な意味合いでの)罪と考え、子供たちは
若くして死ぬと思い込んだのだが、実際に七人の子供のうち、末っ子のセーレンと
長男を除いた五人までが34歳までに亡くなっている。
父ミカエルの宗教的信条・思想はキェルケゴールに多大な影響を及ぼしたが、
一方でキェルケゴールが幼いころから二人は強い絆を共有した。
キェルケゴールが幼いころから、二人は遊びの一環として部屋の中で想像力を
使って物事を考えることを学んだ。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB

少年期の父親との強い絆と信頼感、相次ぐ身内の死、
悲劇がもたらした喪失感と絶望、気難しげで沈鬱な表情のよく似たふたり。
231 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:00:06

>>221-223  SXY ◆P6NBk0O2yM さん

>ベケットにおいては、母胎と墓所がパラレルに語られることがよくあって、
>母と墓が融合した「墓胎」ともいうべき場所への巡礼は、
「墓胎」! ベケットじゃないけど言葉遊びはなかなか凄腕ですねえ♪
生と死が等しく同居している場所。

>こういう視点はほんとCucさんらしいね。
>なかなか目に留めにくいポイントだなぁ。
ありがとうです♪
何しろ鄙びた草深いところで育ったもので、草や木、草原や森の描写には
無意識のうちに反応するようなのです。。。

SXYさんの母と墓が融合した「墓胎」という造語で、ふと思ったのは、
モロイやモランが旅した森、マーフィーが死の間際に身体を横たえた小森とは
実は母の胎内ではないかと思いました。
フロイトならば、胎内回帰とかいいそうですね。。。
繰り返し出てくる森は、実は母の胎内の象徴であり、モロイを初め、人物たちは
皆すでに母のところに辿り着いているのですね。
母胎とはこの世に新たに生を送り出す場所であると同時に、あの世に旅立つ
人たちの魂を最後に安らがせる場所でもあるのです。
232 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:00:46

森が人を守っているように、胎内の胎児も母胎によって外敵から守られています。
そう、モロイやモラン、マーフィーは母を憎悪する一方で、自分がこの世に
生まれ出る以前の、まだ人間ではなくヒトの状態に回帰したいと望んでいる。
森には食糧、水、あらゆるものがそろっています。
人はそこに留まっていれば生活していくための苦労はさほどしなくて済みます。
眠り、食べ、また眠り、こうして日々は安穏と過ぎていくでしょう。
旅をすることは、今まで自分を保護してくれていたものと訣別し、旅立つことを
意味します。

母(=森)へ向けて旅をするのは、そこがこの世とお別れする最後の場所であり、
唯一≪声≫を聴くことのできる聖地だから。

聖なる森で聖なる≪声≫を聴くモロイとモラン。
それは、母の胎内で胎児が初めて聴く外界の声。
生死を司るおおいなるものの声。
233 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:01:32

ベケットがこの世に生まれ出るときに胎内で聴いた声の主は、彼の身近な人たち
を次々とこの世から取り去りました。
「私は裸で母の胎を出た。裸でそこへ帰ろう。主は与え、主は奪う。
主のみ名はたたえられよ。」(ヨブ1:21)
当時のベケットの心境はヨブにはほど遠かったと思います……。

>言葉を沈黙に近づけ、饒舌とは違うつぶやきとしての言葉にし、
>もはや物語や小説とは呼べない詩に近い散文に向かってくんだけど、
おしゃべりは祈りに通じるものがあり、「ゴドー」のふたりのおしゃべりは
最終的には神に向けた祈りであるととらえることができますが、執筆している
ベケット自身、執筆しながら神に向けて膨大な祈りを捧げていたのかもしれません
ね。では、沈黙、つぶやきは?
沈黙は神との内なる対話であり、つぶやきは神に呼びかけること。
ベケットにとって書く行為とは、それが饒舌であれ、つぶやきであれ、
彼自身が意識していなくとも、神に向けられたものだったのでしょうか?
「諦念」とは悟りの境地であり、すべてを受諾することに他ならないのですから。。。
234 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/01(日) 20:02:04

>モロイとモランを対比させての書き込みは面白かったし、
>≪声≫に注意を向けてるところはさすが鋭いなぁ!
ありがとうです♪ うれしいです♪
ベケットが実際に森を旅したかどうかは不明ですが、彼の人物たちが
足を引きずり、左右ふぞろいな長靴を履いて田舎道を歩く姿は読み終えたあとも
鮮烈な光景としてわたしのなかに残っています。
イメージとしてはルオーの「ピエロ」。滑稽なんだけれども、悲しい瞳をしたピエロ。
http://www.poster.net/rouault-georges/rouault-georges-pierrot-4703286.jpg

>プルースト、ベケット、シモンに共通する円環。
>ただし、ベケットの円環は、ずれている。
これは、わざとでしょうかね?
時刻と天候の差異。終わりまできて、また最初に戻るように見せかけ、
実はまったく異なる空間の物語であることをあえて強調しているかのようです。
ベケットのことですから、周到に意識的にずらせたような感じもしますね。。。


――それでは。
235 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:26:48

「ワット」読了しました。

この物語の主人公ワットは精神分裂病であり、彼が同じく精神疾患者である
ノット氏の使用人として邸で住み込みで働き、そこを出て精神病院に収容
されるまでが描かれています。

三人称で描かれたこの小説は、言語障害者であるワットの心理描写は
皆無です。
彼がときたま呟く意味不明の言語の羅列、不可解な行動、身につけた粗末な
衣服のみが淡々と描写されていきます。
わたしたち読者は精神分裂病者であるワットのこころのなかを知ることは
できません。
ワットの描写はあくまでも「外から見た人」の描写に留まっているのです。
ワット自身は、自分が精神疾患を患っていることをどこまで自覚しているのか、
あるいは、まったく自覚していないのか、わからないのです。

彼がときおり耳にする幻聴、ひとつの《声》。
ここでも《声》は重要な役割をはたしていますね。


(つづきます)
236 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:27:33

ところで、ベケットはなぜこうも精神に疾患を抱えている人間を主人公に
据えたがるのでしょう?
彼らの思考、言語を正確に記すのは不可能です。
それをひとつの挑戦として見ることも可能ですが、ベケットの真意はもっと
別のところにあったような気がするのです。
ひとつめは、狂人の宗教観とはどのようなものなのか、ということです。
ベケットの描く狂人たちは、ワットを始めモロイもみな神さまを信じている人物
です。
盲信、というのとは少し異なります。
彼らの信仰は一般人と少しも変わらない。精神に疾患のある人たちはたいてい
盲信的な傾向が強くなるのですが、ワットは少なくともそうではありません。

――ワットは話すときはいつも低い声で早口だった。文法や統語法や発音や
発声法、綴字法に対しても敬意を表さなかった。
ただし、固有名詞、場所および人間を含めてキリストとかゴモラとかの固有名詞
は別で彼はそれらを非常に慎重に明晰に発音した――(p184)

(つづきます)
237 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:28:27

ワットが文字を読めたかどうかはわかりません。
聖書のお話も人が読んで聞かせたことを記憶に留めていただけかも
しれません。
それでも、彼は関心を示し、興味があったからこそ覚えることができたのです。

ワットは自身の境遇を嘆かない。悲惨な人生を放棄しない。
彼を生み育てた親、あまり幸福とはいえない今日までの体験、これらのことを
嘆かない。もっとも精神病者にとって自身の境遇を客観的に見るということは
不可能であり、それゆえに葛藤や懊悩からは解放された世界かもしれません。
そうした世界に生きるワットの抱く信仰とはどのようなものなのでしょう?
彼は、他の狂人たちがよくやるように、自身とキリストを同一視するようなこともしません。
一般の人たちは自身の不安や苦しみを取り除いてほしくて祈るのですが、
おそらくワツトの祈りはそうではないでしょう。
なぜなら、彼は自分の苦しみがどのようなものなのかさえ知らないのですから。
彼の祈りとは、神への賛美のみでしょう。
そして、彼の祈りは実はこの世でもっとも幸福な人間の祈りに他ならない
のです。


(つづきます)
238 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:29:09

貧しさも、孤独も、無知も、精神疾患も、言語障害も、ワットが捧げる
神への賛美の祈りを妨げることにはならない。

ワットがノット氏の家を出て駅のホームで幻覚を見る場面があります。
切れ目なしの一枚の着物を身に纏った男か女かわからない人物。
彼はこの人物が何者なのかをどうしても知りたく思い、すぐそばまで近づくのを
待つのですが、一向に接近する気配はなく、とうとう消えてしまいました。
この人物とはまさに、「ゴドー」=イエスに他ならないのではないでしょうか?
ワットはこれまでさほど何かを強く欲したことがない人間です。
ところが、この幻覚を見たときには異常なまでにその正体を知ろうと強い好奇心
に駆られました。
この出来事はたんなる幻覚として片付けられてしまっていますが、後々の
「ゴドー」に繋がる伏線となっているのではないでしょうか?
ワットをのちのヴラジーミルとするならば、彼はここで「ゴドー」から約束の言葉を
聞いた筈です。
たとえそれが、ある《声》の幻聴だとしても、約束を交わした事実は揺るがない
のです。


(つづきます)
239 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 20:29:49

ふたつめは、分裂病者であるワットの話す言語は正常者には当然ながら
理解できませんが、では、はたして正常者が話す言語は正常者相互間で
理解し合えているのか? ということです。
解説にはヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければ
ならない」が引用されていますが、わたしたちが相手に話す言葉は実は
相手が理解しえないことのほうが多いのではないでしょうか?
なぜなら、わたしはその相手の人間でないからです。
ならば、いくら言葉を尽くしてもわかってもらえないことのほうがはるかに
多いのが現実です。

つまり、わたしたちは皆ワットなのです。
分裂病者であり言語障害者であるワットだけが特別ではないのです。
わたしたちは誰も彼もが伝えようとして、「語りえぬもの」であっても躍起に
なって言葉を模索し、発します。
発せられた言葉は、いくら文脈が通っていても、文法的に正しくても
それが「語りえぬもの」である以上、決して相手に伝わることはないのです。
それは、ワットの意味不明な倒置法の言葉と何ら変りはないということです。


(つづきます)
240 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 21:35:24

ワットの可笑しさを笑う行為は自身を笑うことに他ならないのですね。
それは、ゴゴとディディにも通じます。
わたしたちは子供の頃から言語教育を受け、さまざまな本を読み、思考し、
自分なりの言葉というものを確立したような錯覚にとらわれています。
文学や哲学に親しんだ人は特にその傾向が強いといっていいでしょう。
ベケットはそうした人間を嘲笑するかのように、言語障害者や
無駄なおしゃべりしかしない人物をこれでもかと登場させます。
あななたちの言葉だって、彼らと変わりないんだよ、そんなにご大層なもの
じゃないんだよ、「語りえぬもの」なんだよ、と。


(つづきます)
241 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/08(日) 21:35:54

ワットが夜、溝のなかで草花に囲まれて眠る描写は「モロイ」にも何度も登場
しますが、これも野良作業に疲れたベケットの実体験かもしれません。
また、ワットが嫌いなものは太陽と月とありますが、これもゲシュタポの追跡から
逃げるには両者は邪魔なものだったでしょうね。。。
暗闇のほうがより安全に追手を振り切れますから。

解説で、ベケットはゲシュタポの手を逃れて南仏の片田舎で葡萄畑を切り開き
ジャガイモ作りをし夜は精神衛生のためにこの「ワット」を書いた、と知りました。
既存の小説を一切無視して、好きなように書きたいように書かれた小説。
主人公ワットを精神疾患者であり、言語障害者として設定したのも、
ベケット自身、何か世間に対して発言したなら即刻逮捕される危険があり、
発言したいことは山ほどあるのにできない状況のジレンマに陥っていたで
しょう。
そうした現況に、ワットに自分をなぞらえたのかもしれません。
ワタシハ、マトモナ、コトバハ、ハナセマセン、と。
あるいは、ワットのように本物の分裂病者であれば、誰もベケットを言論思想の
危険人物としては見なさないでしょう。
当時のベケットはワットという人物にある種の憧憬と風刺を込め世間を皮肉り、
あるいは、自身を嘲笑していたのではないでしょうか……?


――それでは。
242SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/04/14(土) 15:50:38
>>231-234
>「墓胎」! ベケットじゃないけど言葉遊びはなかなか凄腕ですねえ♪
>生と死が等しく同居している場所。
「墓胎」という造語は、もしかしたら誰かが既に使ってるかもしれないけど、
ベケットが日本人だったら絶対使ってそうな気がする(笑
――「おれは生まれる前におりていた」(「また終わるために」)――

>ベケットにとって書く行為とは、それが饒舌であれ、つぶやきであれ、
>彼自身が意識していなくとも、神に向けられたものだったのでしょうか?
ベケットは書かずにはいられなかったし、その不可能性に触れたときでも、
「書くことができない」と書かずにはいられない作家だね。
確かヴァンデ・ヴェルデ兄弟についての絵画論だったかどこだったかで(失念)、
書くことが何もない、何も書けない、そのことが書くことを促すみたいな、
そんな表現をしてて、「死せる想像力よ想像せよ」という短篇の題にあるように、
ベケットの場合は無能性が書くことのモチーフになってる感じ。

思考の腐食について手紙で書いてたアルトーとの共通点、
あるいはブランショとアルトーの線上でのベケットの位置、
このへんは機会があれば考えてみたいな、という気がしてるんだ。

>ベケットのことですから、周到に意識的にずらせたような感じもしますね。。。
ベケットは非常に明晰な作家だと思うし、きっと感情で書くタイプじゃないね。
戯曲やテレビドラマの脚本を読んでも、すごく数学的というか、幾何学的というか、
細部を含めた構成に対する厳密性はすごいからね。
243SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/04/14(土) 15:51:27
>>235-241
『ワット』について少し。
>既存の小説を一切無視して、好きなように書きたいように書かれた小説。
『マーフィー』にもあったその傾向が『ワット』で開花してる感じがした。
おそらくベケットは最初から既存の小説を書こうとはしなかったし、
既存の小説じゃないものを書くことがベケットを動かしてたといえるかも。
シュルレアリスムやヌーヴォーロマンみたいな宣言はしなくても。

それを考えると、
>ところで、ベケットはなぜこうも精神に疾患を抱えている人間を主人公に
>据えたがるのでしょう?
という問いにも、ベケットの体験というバックボーンだけじゃなくて、
端的に答えられそうな気がする。

>ワットがノット氏の家を出て駅のホームで幻覚を見る場面があります。
そんなのあったっけ? 失念してるヨ! 
どのあたりかなあ、今度見てみよ。

>ここでも《声》は重要な役割をはたしていますね。
その《声》というものについては以下のような私見があるんだけど、
たぶん、『マーフィー』『ワット』『モロイ』なんかの
固有名詞がついている小説では、その《声》はまだ曖昧な状態だけれど、
『マロウンは死ぬ』ではその《声》がかなり前面に出てくる、というもの。
一番の大きな差異は、『マロウンは死ぬ』までは三人称で書かれていたのが、
ここでは基本的に一人称になってるってことだね。

>つまり、わたしたちは皆ワットなのです。
>「語りえぬもの」であっても躍起になって言葉を模索し、発します。
>それが「語りえぬもの」である以上、決して相手に伝わることはないのです。
人は言葉によって思考しているにもかかわらず、言葉では「語りえぬもの」を、
何とか思考しようと躍起になるのはどうしてなんだろうね。 〆
244SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/04/15(日) 22:18:29
ついでに『マロウンは死ぬ』について少し

この小説がそれまでの『マーフィー』『ワット』『モロイ』と違うのは、
作品名に現われているような気がするんだけど、
固有名詞だけじゃなくて、「死ぬ」という言葉が付いていること。

「とうとうもうじきわたしは完全に死ぬだろう、結局のところ。」
という文で『マロウン』は始められてるのも象徴的。

そしてこの「死」がこの小説の中で意味しているのは、
単に語り手「わたし(マロウン)」の死だけじゃなく、
これまでの既存の小説および自分の小説との
決別までも意味してるように個人的には思えた。

その決別の大きなしるしが三人称から一人称への転換で、
『マーフィー』『ワット』『モロイ』の三人称から、
『マロウンは死ぬ』では一人称に切り替わったのが注目されると思う。
245SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/04/15(日) 22:32:51
(承前)

で、『マロウンは死ぬ』はどういう小説かというと、
小説の中で小説が書かれているという構造があって、
「わたし=マロウン」はサボを主人公にした物語を書くんだけど
これがまたなかなかスムーズに進まず、
「たいくつだ」「これはひどい」といった語り手の合いの手が、
そこかしこで入るは、よく脱線もするはというていたらくで、
(このへんはスターン『トリストラム・シャンディ』に似てるかな)
しまいにはサボという名前がマックマンに変わってしまう。

 「なぜならサボは――いや、彼をそう呼ぶことはもうできない、
 がまんできない、というわけで、さてと、なぜならマックマンだ。」
246SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/04/15(日) 22:34:43
(承前)

『モロイ』もまた小説中に「書く」ことがあったけど、
それはモロイやモランの回想レポートという形だったのが、
『マロウン』では現在進行形で小説中に「書く」ことがあるね。

モロイ、モラン、そしてマロウンという名前には、
Mを頭文字にした類似した音の響きが感じられて、
マロウンはモロイやモランの後継者だと思えるけれど、
マロウンの一人称の声は、より作者に近いニュアンスを帯びてる。

実際に「わたし=マロウン」の一人称の声を予告なしに突き破って、
時折作者の声が滲み出してくるところもあって、
これまでの三人称で使われていた名前にマロウンも含めて、
小説という枠組みともども、臨終に導くように思った。

 「わたしの臨終、(中略)そのときこそ、マーフィーとか、
 メルシエとか、モロイとか、モランとか、マロウンとか、
 こういった連中にもすっかりけりがつくだろう。」
247SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/04/15(日) 22:38:10
そしてこの、『マロウンは死ぬ』の後にくる小説が、
『名づけられぬもの』なんだけど、
そこでの声には名前が与えられないばかりか、
人間の姿すらも与えられないということになってゆくんだね。 〆
248 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 20:28:18

SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>>242
>「墓胎」という造語は、もしかしたら誰かが既に使ってるかもしれないけど、
>ベケットが日本人だったら絶対使ってそうな気がする(笑
そうですねえ、何しろベケットは言葉遊びが巧みですし、人に気づかれずに
ひそかにひとりで楽しんでいたでしょうね。

>書くことが何もない、何も書けない、そのことが書くことを促すみたいな、
>そんな表現をしてて、「死せる想像力よ想像せよ」という短篇の題にあるように、
>ベケットの場合は無能性が書くことのモチーフになってる感じ。
あえて「何も書くことがない」ことをテーマに据えているのだとすれば確信犯ですね。
無を書くということ、これは簡単なようでいてかなり高度な技を要求されるのでは
ないでしょうか? ここまで彼の作品を読んできて思うことはベケットは小説の限界を
熟知しており、物語のないことや何も主張することがないことにあえて挑戦した作家
のひとりであるということです。
読者にとってはこの上なく退屈な作家、難解な作家、作家の範疇から大きく外れる
作家、としてとられることを承知の上で賭けに出た作家。
249 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 20:29:29

>ベケットは非常に明晰な作家だと思うし、きっと感情で書くタイプじゃないね。
>戯曲やテレビドラマの脚本を読んでも、すごく数学的というか、幾何学的というか、
>細部を含めた構成に対する厳密性はすごいからね。
哲学者であると同時に数学に絶大な興味を寄せていたデカルトに敬意を払っていた
ことからして、非常に幾何学的であり、きちっと構築された世界を感じます。
登場人物が作者の意図に反して勝手に作品のなかで動く、というのは大方の
作家の言葉ですが、ことベケットに関してはそれを許さない。
登場人物はあくまでも作者の意思に忠実に従い、行動させられます。
文字通り、作者=ベケットは神であり、作品の全権を委ねられているのですね。

>>243
>おそらくベケットは最初から既存の小説を書こうとはしなかったし、
>既存の小説じゃないものを書くことがベケットを動かしてたといえるかも。
訳者はベケットはアンチ・ロマンの先駆者であると述べていましたが、
彼はありきたりのわかりやすい物語に嘘臭いものを感じていたのかもしれません。
無論、小説はすべて虚構の世界を描いていますが、その虚構が安っぽく俗っぽい
と感じていたのかもしれませんね。
既存の小説を破壊すること、新しい小説を試みることに彼は使命のようなものを
感じていたように思えます。
例の≪声≫が使命を彼の耳にささやいたのでしょうか……?
250 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 20:30:07

>>244-247
>そしてこの「死」がこの小説の中で意味しているのは、
>単に語り手「わたし(マロウン)」の死だけじゃなく、
>これまでの既存の小説および自分の小説との
>決別までも意味してるように個人的には思えた。
なかなか鋭いですね!
ということはこの「マロウン」以降の彼の小説のスタイルは変わっていく
ということでしょうか……?
実際マロウンは最後に海でボートの上で死ぬという設定ですが、彼の死は
仄めかされてはいるものの、確実ではない、、、
ベケットはマロウンを死なせることで自身の小説と訣別するつもりでいたものの
やはりどこかで完全に葬り去ることに躊躇したのかな、と思いました。
(これ以降の彼の作品は未読ですので、何とも言えないのですが……)

>マロウンの一人称の声は、より作者に近いニュアンスを帯びてる。
作者が「私」を書く、とはいえ日本の私小説とはまったく異なっており、
ひとつの作品が書かれる過程における「私」と「彼」の対話を描いたブランショの
「私についてこなかった男」に近い感じがしますね。

以下は、わたしの「マロウンは死ぬ」の感想です。
251 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 20:30:38

「マロウンは死ぬ」(白水社・高橋康也訳・1969年)読了しました。

……今日は自分が死ぬのにふさわしい日だろうか?
それが、読み終えてわたしが真っ先に思ったことです。
今日が、晴れの日でもいい、雨の日でもいい、わたしが死ぬのにふさわしい日
という日がこの世にあるとすれば、それはいったいどんな日だろう?
わたしの好きな緑輝く五月だろうか? あるいは、木枯らし吹きすさぶ季節
だろうか? それとも、雨に潤う月だろうか?

この物語はひとりの老いた男、マロウンが精神病院のなかで自らの死期を
予感し、これまでの半生を書きとめたものです。
マロウンは自身を「マックマン」と命名して物語を綴ります。
ちびた鉛筆と子供が持つような練習帳に訥々と書き留められた物語。

この小説はシンプルに読もうと思えば実にシンプルな小説であり、
勘繰って複雑に読もうと思えば、前後の作品との繋がり、人物の引用など
あちこちに既読のネタが満載しています。
ネタの宝庫ともいえます。


(つづきます)
252 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 20:32:58

けれども、これまでの作品と著しく一線を画しているのは、かつてふんだんに
散りばめられていた意味不明の膨大な単語の羅列はすっかり息を潜め
わかり易い言葉のみで綴られていることです。

マックマンは子供時代にはサポスカットと呼ばれました。
サポスカットは精神薄弱児であり、勉強は無論だめ、草取りや溝掃除などの
単純作業も満足にできない少年でした。
彼が得意としたのはボタンつけや、動植物の観察や空をながめること、
自分だけの宝もの(小石など)を収集することでした。
……ただ、彼は観察の仕方を知らず従って学ぼうとはしませんでした。
彼はただ、自然を「感じて」いるだけの少年だったのです。

よその家の農家の手伝いも満足にこなせない彼は、とうとう家出をします。
放浪の旅をつづけているさなか、ある日森で頭を叩かれ気を失い、老境に
さしかかり死期の迫った現在は精神病院に収容されているという設定です。

三部作のうちのひとつとしてではなく、独立した作品としても読めますし、
シンプルといえばこの上なくシンプルな作品です。


(つづきます)
253 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:06:12

そして、付け加えるならば、これは今までわたしが読んだベケット作品の
なかで唯一、恋が成就する物語です。

彼を看護する老婦モルとの最初で最後のたったひとつの恋物語。
彼らは互いに老人と呼ばれる年齢でありますが、ふたりとも今日まで異性と
恋愛したことは一度もありません。
なぜなら、マロウンは子供の頃から精神薄弱児であったため、モルは
口の大きな醜い少女であったため、、、
彼らは老境にさしかかって初めて恋をするのです。

第三者から見れば、彼らの恋は実に滑稽極まりないものでしょう。
いえ、恋と呼ぶよりもそれは最初で最後の、肉欲と呼んだほうがふさわしい
のかもしれません。
わたしはあえて「恋」と呼ぼうと思います。
彼らの恋は身体が衰えているため、性の交わりも格闘技のようです。
命懸けです。骨がいつ折れるかもしれず、興奮のあまり呼吸困難で心臓麻痺を
起こすかもしれない、歯が折れて目に突き刺さるかもしれない、、、
老いさらばえたふたりの交わりは読者の失笑を買い、共感するものは少ない
でしょう。


(つづきます)
254 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:07:05

それが、モルの恋文で一変するのです。
モルはなるほど醜い女であり、立ち居振る舞いも粗野な女です。
そんな彼女が綴った手紙の一節です。

――わたしたち、せめてもう七十年早く会っていたら。いえいえ、万事これで
めでたいのです。わたしたちにはもう、お互いがいやになったり、若さが
すりへってゆくのを見たり、要するにお互いをすみずみまで知りつくしたり、
そんなことをしている余裕はないのです。

それぞれの務めのために離れ離れになったときのわたしたちが、
ひたすらやさしさだけをたよりに毎日やりとげていることを、情熱の助けを
借りないでやりとげられる人たちがいるかしら?
わたしは顔もからだつきも美しかったことのない女、もう、わたしたちなにも
隠し立てすることなどないんですもの。あなたは、どう?
女たちの心をときめかす若さがあなたにあった頃でも、若さ以外の必要条件を
あなたは持っていたかしら? あやしいわね。

それにわたしたち、今まで人に仕えたとか、理解したとかいうことが一度も
なかったせいでしょうか、新鮮さと無垢さをとどめているような、そんな気が
しますの。ついにわれらの愛の季節は来たりぬ――(p189)


(つづきます)
255 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:07:50

なんて率直で、無垢な言葉に満ちた手紙でしょう!
純真で、飾り気のないこころそのもので彩られた一級の恋文です。
(何だか容貌は醜いけど筆が立つという設定は、女版「シラノ・ド・ベルジュラク」
みたいだなあ……)
解説で訳者である高橋康也氏も「まだこの小説をお読みでない方は、ここ
だけでも立ち読みをおすすめしたい」と絶賛しています。
やることなすこと本人はいたって大真面目であるにも拘らず、他人には
彼の振る舞いは悉く滑稽に映る狂人マックマンと、異性から一度も振り向かれ
たことのない醜女モル。
およそ恋愛劇から最も遠いふたりが、恋に落ちる・・・

ベケットの意図は何でしょう?
世間から背を向けられつづけた、死期の迫ったふたりにせめてものこの世での
最後の餞(はなむけ)でしょうか?
あるいは、恋とはもともと滑稽なものであり、陶酔している当人たちだけがそう
思っていないのだ、というベケット特有の皮肉でしょうか?

老いや死という絶対に避けられないものを目の当たりにしたとき、人は無意識
のうちに死の恐怖を忘れさせてくれるものを求めますね。
恋はその最たるものかもしれません。。。


(つづきます)
256 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:08:31

自分にはもう時間がないのだという焦燥感が、より強く激しく相手を求める
欲望につながるのでしょうか。少なくともその瞬間は死を忘れられますから。
モルは日に日に目に見えて老衰し、マックマンより早く死んでいきます。
モルの代わりにやって来たのがレミュエルという意地の悪い低脳な看護士。
彼はとにかく暴力的で、支配的な男。
マックマンの大切な財産目録、杖、ノート、鉛筆はレミュエルに没収されて
しまいます。ノートと鉛筆を奪われた彼はもう「書くこと」ができない。
つまり、この物語をマックマンの死で締めくくらなければならない。。。

マックマンは漂流したまま最期を迎えます。

ところで、なぜレミュエルは水兵を殺し、自分も含めて狂人たちをボートで
漂流させたのでしょう? レミュエルの自殺願望は随所に暗示されていましたが
狂人たちを道づれにしたのはなぜでしょう?
狂人たちを解放してあげたい、これが理由でしょうか?


(つづきます)
257 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:09:11

あの凶暴なレミュエルにそんな情けごころが果たしてあったのかどうか、、、
ただ、これだけは言えます。
狂人たちは閉じ込められた狭い檻の中ではなく、広い大洋の上で死んだ
のだ、と。
手足を縛る鎖もなく、四肢を伸ばし天空を仰ぎながら息絶えたのだ、と。

マックマンは最期に頭上に飛び交うカモメを見たでしょうか?
「カモメのように薄青い、ゆるがぬ目」と呼ばれたサポスカット時代。
「いったい何を何時間も何時間も思いつめているのか」と人々がいぶかった
少年時代の彼の薄青いカモメのような目。
おそらく、彼は何も思いつめてなどいなかったのでしょう。
何も考えてはいなかったのです。
彼はただ、目に映るすべてのものを「見ていただけ」の少年だったのです。
そう、もっと言うならば意思のないカメラ・アイのように、すべてのものをあるが
ままにとらえ、そこに思考ははたらかず、従ってすべてのものは彼をとおりす
ぎていくだけだったのでしょう。
それは幸福なのか、不幸なのかは、わたしにはわかりません。。。
彼は、うすぼんやりと目を開け、口をあんぐりと開け、この世のありさまを
傍観者として見ているだけの少年にすぎず、彼はあらゆることに対して
肯定も否定もしなかった。わたしにわかるのはそれだけです……。


(つづきます)
258 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:25:18

訳者の高橋康也氏はこの物語は「書くこと」についての物語である、と
指摘しています。
「書くこと」に必要なのは能動的な思考力でしょうか? 
それとも、あるがままに写し取る受動的な写実力でしょうか?
少なくともこの物語の筆者マロウンは後者です。
マックマンは旅の道中で豪雨に見舞われた時、雨宿りの木やあばら家を
見つけるどころか、道に身体をじっと横たえてただ雨の止むのをじっと「待つ」。
彼は最善策をとることを知らない人物として描かれます。
ところで、マックマンが「ゴドー」のふたりに匹敵する箇所があります。

――これだけたっぷり待った男なら永遠に待つだろう。そしてやがてこういう
ときがやって来る。もう何も起こらない、もう誰も来ない、そしてすべてが
終わって、ただむなしいとわかっていながら待つということだけが残る、
そういう瞬間が――(p143)

「待つこと」は受動的とされます。
「書くこと」は通常は能動的な行為です。
けれども、ベケットは「待つこと」も「書くこと」も同じであるとします。
ささやきかける≪声≫に耳を澄まし、その≪声≫の命ずるままに書く。
書く私は≪声≫のたんなる道具にすぎないとします。


(つづきます)
259 ◆Fafd1c3Cuc :2007/04/22(日) 21:25:52

「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」
西行法師のように人は自殺以外に、自分の死の時を選べるのでしょうか?

カモメのような青い目をしたマックマンの最期にふさわしい場所とは……?

塀や狭い檻から自由なところ。
まだ知能というものを持たなかったであろうヒトの祖先が最初に命を
育んだ原始の海。
いったいヒトはいつ、いかなる場所で、どのようにして知能を与えられる
のでしょう?
母胎のなかで羊水に浮かんでいるときは、知能はまだ宿らず、ただ生命の本能
のみで生きています。
それが、ひとたびこの世に生まれ出た瞬間から、智恵ある「人間」としての道を
誰もかもがいやおうなく歩まされます。
そして、知能が人並みに発達しない、つまり原初のままのヒトは狂人として
扱われます。
……モロイやマーフィーが森=母胎に抱かれて永遠の眠りについたように
マックマンもまた、原始の海=母胎の羊水に包まれて最期を迎えたのですね。

「願はくは海の上にてわれ死なむ 天空飛び交ふカモメ仰ぎつ」


――それでは。
260SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/05/01(火) 22:28:18
>>248-250
>読者にとってはこの上なく退屈な作家、難解な作家、作家の範疇から
>大きく外れる作家、としてとられることを承知の上で賭けに出た作家。
個人的には退屈だとも難解だとも感じたことはなかったけれど、
一般的な小説の尺度で測るとそうなるかもしれないね。

>ありきたりのわかりやすい物語に嘘臭いものを感じていたのかもしれません。
>ということはこの「マロウン」以降の彼の小説のスタイルは変わっていく
>ということでしょうか……?
もともとベケットが持っていた方向性が、
「マロウン」から「名づけられぬもの」にかけての創作過程で、
一挙に花開いた、というか花散ったというか、そんな感じがあるナ。

>ひとつの作品が書かれる過程における「私」と「彼」の対話を描いた
>ブランショの「私についてこなかった男」に近い感じがしますね。
トーンは異なるけれど、ベケットとブランショは結構近いかもしれない。
ブランショの評論にベケットについての小論が2つほどあったはずだけど、
ベケットに対してかなり親近感のある書き方をしてた記憶があるなあ。
261SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/05/01(火) 22:38:10
>>251-259

Cucさんの「マロウン」の感想を読んで新鮮かつ意外に思ったのは、
「マロウン」にはまだこんなに物語の要素があったんだなあ!
ということでしたよ。
マックマンとモルの恋物語もあまり印象に残ってなかった。。。
当方は小説の崩壊の面ばかりに目がいっていたんだなあ、と。

>この小説はシンプルに読もうと思えば実にシンプルな小説
>意味不明の膨大な単語の羅列はすっかり息を潜め
「マロウンは死ぬ」は確かにシンプルだね。
わたし=マロウンのナラシオン(モノローグ)も、
小説中におけるサボ=マックマンの物語も。
で、この作品以降、もっとシンプルになっていく。
というか、シンプルを突き抜けた、砂漠みたいな風景になっていく。。。
262SXY ◆P6NBk0O2yM :2007/05/01(火) 22:48:21
(承前)

>マックマンの大切な財産目録、杖、ノート、鉛筆はレミュエルに没収されて
>しまいます。ノートと鉛筆を奪われた彼はもう「書くこと」ができない。
>つまり、この物語をマックマンの死で締めくくらなければならない。。。
レミュエルはサミュエルに音が似ていて、作者の分身を思わせるけれど、
「書くこと」を終わらせるために、自分も道づれに沖に出たような感じ。

>訳者の高橋康也氏はこの物語は「書くこと」についての物語である、と
>指摘しています。
>ささやきかける≪声≫に耳を澄まし、その≪声≫の命ずるままに書く。
>書く私は≪声≫のたんなる道具にすぎないとします。
たしかにベケット作品における「書くこと」には受動性があるね。
≪声≫にうながされて書く、モロイもマロウンも、そしてベケットも。
そして「名づけられぬもの」では≪声≫そのものが。。。  〆
263 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:18:57

>>260-262
SXY ◆P6NBk0O2yMさん

>個人的には退屈だとも難解だとも感じたことはなかったけれど、
>一般的な小説の尺度で測るとそうなるかもしれないね。
……失礼しました。
どうも小説には「物語」があると思い込んでいると、ベケットのような作家は異色に
感じてしまうようです。
彼のその「新しい」手法ゆえにノーベル文学賞を受賞したのでしたね。

>ブランショの評論にベケットについての小論が2つほどあったはずだけど、
>ベケットに対してかなり親近感のある書き方をしてた記憶があるなあ。
そぅだったのですか!
ブランショも「書くことを書く」レシの作家ですから、ベケットと近いと思いますね。
但し、ブランショはどこまでも品位を保ちつづける作家であり、沈黙を愛する
作家でありますので、ベケットのお下劣さや饒舌さという点ではかなり隔たっている
のですが、作品が書かれる過程を熱烈に愛し、その過程を作品に仕上げた情熱は
ふたりともいい勝負ですね。
264 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:19:59

>Cucさんの「マロウン」の感想を読んで新鮮かつ意外に思ったのは、
>「マロウン」にはまだこんなに物語の要素があったんだなあ!
>ということでしたよ。
……そ、それはですね、わたしの読み方は自分の圏内に引きずり込み、
自分の興味のある箇所に関してはそこだけを集中して読むからなのです。。。

>で、この作品以降、もっとシンプルになっていく。
>というか、シンプルを突き抜けた、砂漠みたいな風景になっていく。。。
「名づけえぬもの」は独白のみで語られ、その独白のなかには物語が皆無ですね。
そう、どこから読んでもいい小説です。
前後のつながりを欠いているのですから。。。
265 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:20:43

>たしかにベケット作品における「書くこと」には受動性があるね。
>≪声≫にうながされて書く、モロイもマロウンも、そしてベケットも。
>そして「名づけられぬもの」では≪声≫そのものが。。。  
作家へのインタビューなどでときどき目にすることですが、彼らがよく使う
言葉があります。
「降ってくるのです」、「舞い降りてきます」。

瀬戸内寂聴さんは、「書き始めていると、もやもやとした何かが脳裏をよぎることが
あります。その何かをぐっと掴めたらしめたもの。あとは一気に書くだけです」
山本文緒さんは「引かないでほしいのですけど、、、宙に言葉というか物語の骨格の
ようなものが舞っているんです。わたしはただそれらを記述しているだけなんです」

作家たちは、自ら作品をつくりだすというよりも、言葉に憑依されて意のままに
操られ、ときに導かれるようにして作品を編み出すのではないでしょうか?
それは、誰でもいいわけではなく、書かせる対象を言葉たちのほうで選んでいる
といってもいいでしょう。
ベケットもブランショも言葉に「選ばれた人」たちであり、それゆえに言葉の企み(?)
を逆手にとって、暴き立てたような気がします……。
それは、作家にとって幸福なことなのか、あるいは不幸なことなのか、、、
266 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:21:23

「名づけえぬもの」読了しました。
内容が内容ということもあり、途切れ途切れに感想を書いたもので、バラつきが
あり、まとまりを欠いていますが、あえて書き直しせずにそのままupします。

「モロイ」「マロウンは死ぬ」そして「名づけえぬもの」は三部作とのことですが
今回の作品がこの三部作の最後を締める意味は何なのだろう?
と思いました。

「おれ」は身体がなく、ただひたすらしゃべりつづけることで己の存在を
確認しています。
解説ではデカルトの「われ思う ゆえにわれあり」を引用し、
「われしゃべる ゆえにわれあり」としていますね。
わたしはむしろ「われしゃべる 然れどわれなし」のように思いました。
「おれ」は最初から最後まで独白しつづけますが、肝心な彼の身体は
どこにもなく、従って本来であれば目も耳もないはずなのに、なぜか
かつての登場人物たちの姿は見ることができ、言葉以前の≪ささやき≫を
聴くことができるのです。

自身の身体が存在しないにも拘わらず、自分や他人の声を聴くことができ、
見ることができる姿なき存在。
このような存在は神秘であり、神に近い存在ではないでしょうか?
267 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:21:56

わたしたちには神の姿は見えません。
もともと神は身体を持たない存在であり、時空を超えて普遍的に存在するもの。
それが神。
神体験をした人たちによれば、神の姿はとらえることはできなくても
神の声は聞くことができるようですね。
それゆえ声だけの「対話」も可能なのでしょう。

この作品がSF仕立てだったらかなり面白いだろうな、とふと思いました。
舞台はとある広大な砂漠。そこでは昼夜を問わずいつもひとりの男の声が
どこからか聞こえてくるのです。
男の声は休むことなど知らないかのように、延々と独白しつづけます。
ある日、その砂漠を通りかかったひとりの旅人がいました。
旅人は男の声に興味を持ち、声の主を確かめるべく砂漠を彷徨います。
数え切れないほどの谷を越え、岩地を横切り、小さな森に辿り着きます。
その森の奥に樹齢がわからないほどの古い大木がありました。
声はどうやらその大木から発しているようです。
大木には朽ちた洞(ほら)ができており、古びたテープレコーダーがひとつだけ
置かれていました。
そうです。声の主とはまさにこのテープレコーダーから流れてくるものだったのです。
何万年もはるか昔から、同じことをテープレコーダーは繰り返しているのでした。
268 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:55:46

身体を持たない声だけの機能。
もし、これが人々が呼んでいる神ならば、神の正体は何と寒々しいものでしょう。
人々にとって神は神聖でなければならず、その存在を容易に明かしてはならない
もの。
人は神を求めこの目でしかと拝みたいと思う一方で、このまま姿を現さないで
ほしい、永遠に神秘なままでいて欲しいと願っているのも事実です。
つまり、神はそう簡単にわかりえてはならないのだ、という意識がどこかにある
のですね。

「名づけえぬもの」に話を戻しますと、ベケットは「おれ」に名前をつけないだけで
なく、身体も持たせない。
ベケットが「おれ」に持たせたものは唯一≪声≫だけです。
なぜ≪声≫だけなのか?
おそらくは言葉を有しているのは人間だけであり、言葉は声によって語られる
ものだから。
そして、言葉とは絶えず使っていないと忘れられてしまうものだから。
それゆえ「おれ」が一番恐れていることは死ぬことではなく、声を失うこと。
言葉を話せなくなること。
269 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:56:24

「おれ」が声を失い沈黙の世界に引き寄せられた瞬間、「おれ」はこの世に
存在しなくなります。
それゆえ、「おれ」は声が有る限り永遠に話しつづけなければならない宿命に
あるのです。
宿命というと、先のブッツァーティーを想起するのですが、ブッツァーティーの
描く人物たちの運命はいきなりふりかかってくるものであり、逃れようがない。
あるいは、途中で外れることができたにも拘わらず自らの意志で引き受ける。

けれども「名づけえぬもの」の「おれ」は運命に選ばれた人間でもなければ、
自らの意志で運命を選び取る人間でもありません。
「おれ」は終始、傍観者にすぎないのです。
「おれ」はモロイやマロウンを垣間見て語る存在です。
身体を持たない「おれ」は時空を超えて偏在することが可能ですが、決して
モロイやマロウンに触れることはできない。
「おれ」ができる唯一のこと。それはふたりに声でもってささやきかけること。
思い出してほしい。
モロイやマロウンが森の中で聴いたひとつの声のことを。
ふたりが聴いた声は、「おれ」が発しているものだったのですね。
270 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:56:57

そして、「おれ」もまたあの声を聴くものであるのです。
つまり、「モロイ」や「マロウン」の作者である「おれ」はふたりに絶えずささやきかけ、
その「おれ」もささやきかけられている存在であるということです。
一体、誰に? ベケットは声の主を明らかにしません。
あの声を止ませることもしません。

――おれにとってもいずれ終わりが来るだろう。おれが最後ということになる。
なにも聞こえなくなり、なにもすることがなくなり、ただ待つだけになるだろう。
(中略)
けっして終わりにはならないだろう。あの声もけっしてやまないだろう、
おれはここにひとりでいる、最初にして最後の者だ――(p190)

声がやまない限り、「おれ」も永遠にしゃべりつづけなければならないのです。
そう、作者は死なない、のですね。
ロラン・バルトは『物語の構造分析』で
――読者の誕生は作者の死によってあがなわれなければならないのだ――
と「作者の死」の章を締め括っています。

バルトの言葉を借りるなら、ベケットは読者の誕生を拒否します。
なぜなら、作者は死なないし、いつでもどの物語のなかでも必ず登場しています。
一例を挙げるならば、「マロウン」においては作者がマックマンを語る仕組みになって
いましたね。
物語のなかのマックマンは死んでも、彼を語っている私ことマロウンは死なない。
271 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:57:34

なぜ、ベケットは読者を誕生させないのでしょう?
勝手な解釈を毛嫌いしたから? 書くことはあくまでも自分の精神衛生上のためで
あって、読者など最初から想定していなかったから?
博識を披露する一方で実は隠蔽したかったから?

わたしはベケットという作家は絶えず何かに脅えていたのではないかと推測します。
例えば「死」。(彼の身近な人間は若くして相次いでこの世を去っています…)
例えばゲシュタポ。(彼らから逃れて昼は農夫、夜は精神衛生上書きましたね)
書くことは、書かれた時点で読者が発生します。
発信されたものは、読み手に渡されます。
ベケットは書かれたものが自身の手を離れて読者の手に渡ることを非常に
怖れていたのではないでしょうか?
なぜなら彼は読者を信用していないというよりも、何よりも先ず言葉を信用して
いないのですから。
デリダではないけれども「手紙は届くとは限らない」。
それゆえ、確信犯的に意味不明の言葉を羅列し、わざと読者に届かないように
画策し翻弄する。
272 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 20:58:17

意味不明の膨大な言葉の羅列という堅牢な鎧を身に纏うことで読者を攪乱し、
意識的にあえて遠ざけたのだとしたら……?
それは、脆弱な自分の精神を守る唯一の手段でもありました。
彼がそうした処世術を否が応でも身につけなければ生き抜けなかったであろう
と思うと、何とも痛ましい想いが胸をよぎります。。。

「書くことについて書かれた」小説といえば、真っ先に想起するのは記憶に
新しいブランショの「私についてこなかった男」ですが、ベケットも「名づけえぬもの」
において、「言葉についての言葉」で同様のことを試みていますね。
もっともふたりの場合、語り口はまったく異なりますが。。。

ブランショは、書かれた言葉すなわち≪文字≫を重視しました。
「私」は「彼」と対話しながら一編の小説を書き上げるのですが、「彼」との対話
さえもブランショは≪文字≫として設定しました。
ブランショの小説には書かれた言葉、すなわち≪文字≫と格闘する場面が随所に
登場します。「私についてこなかった男」は無論のこと、「謎の男トマ」も然り。

そして作者は「私についてこなかった男」においては、「私」が物語を書き終えた
とたん非情にも「彼」を抹消しました……。
そう、これ以上≪文字≫は書かれないと踏んだ上での行為です。
そして、小説の最後には果敢にも「今、終わり、と書く」と有終の美(?)を冠せました。
273 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 21:23:15

一方ベケットは、同じく言葉を扱いながらもあくまでおしゃべりを重視し、
≪声≫に徹底してこだわりました。
作中人物たちに作者である「おれ」の≪声≫を始終聴かせ、「おれ」もまた≪声≫
を聴きつづけるという構造です。
「続けなくちゃいけない、続けよう」、これが「名づけえぬもの」の最後の
締め括りの「おれ」言葉です。ブランショとは対照的ですね……。
ベケットは作者である「おれ」を葬りません。この先も続けさせようと目論む
のです。

≪文字≫と≪声≫、言葉の持つふたつの顔。
どちらかが優位というのではなく、人が最初に言葉を覚えるのは声を聴くこと
から始まります。覚えた言葉を記憶するにも脳の記憶力には容量が定められて
おり、文字として記し残すことが必要になってきます。
こうして、物語は語り継がれ、あるいは読み継がれて今日に至るわけですね。
274 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 21:24:03

最後に題名の「名づけえぬもの」について触れてみたいと思います。
今まで作中の物語の作者として、ベケットはマックマンやマロウンなどと
命名してきましたが、この作品においては無名であります。
「おれ、と言えばいい」これが冒頭の言葉です。
「おれ」はこの作品の作者でもあるのですが、ブランショが作中人物に名前を
つけなかったこととは著しく異なります。
というのは、「おれ」=「作者」であると、ベケットは明言しているからです。
ブランショの場合はあくまでも、作者と作中人物とは切り離された存在であると
していますね。

作者には名前がない。
そう、日本古来の「万葉集」「古今和歌集」の「よみ人知らず」に思い当たりますね。
無名である彼らは優れた歌を詠み、後世に残しました。
作者の名前は知らないけれども作品はひとり歩きし、読む人のこころに感銘を
与えてくれます。
最近の歌では「千の風になって」も原詩は作者不詳ですね。

ベケットが望んだことは何だったのでしょう? ノーベル文学賞作家として一躍
世界に名を馳せながらも、本心はよみ人知らずとして余生を静かに送りたかった
のかな、などと憶測してしまう四月の終わりの夜、惜春の宵なのでした……。


――それでは。
275 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 21:24:40

☆☆お ま け☆☆

以下、春から初夏にかけてのよみ人しらずの歌です♪


「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」

「深山には松の雪だに消えなくに都は野辺の若菜摘みけり」

「梓弓おして春雨今日降りぬ明日さへ降らば若菜摘みてむ」
276 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 21:25:20

「千の風になって」
http://www.youtube.com/watch?v=4Ut28zko1CU

作詞者不詳/新井満日本語詞・新井満作曲


私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています
あの 大きな空を 吹きわたっています
277 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/06(日) 21:26:48

作詞者不詳の原詩は、次のとおりです。
「a thousand winds」

Do not stand at my grave and weep;
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow.
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumn's rain.

When you awaken in the morning's hush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.

Do not stand at my grave and cry;
I am not there, I did not die.
278(OTO):2007/05/09(水) 13:24:57
「マーフィー」以降のベケットの小説群から血のかよった「物語」を汲み出し、
その異形の登場人物たちに、なんらかの「救い」を見出そうという、
Cucのつらい作業を振り返って感じるのは、やはりむしろ、ベケットという作家の、
他に類を見ない特殊性であろう。
取るに足らない人間という動物がドタバタ喜劇のような歴史の果てに辿り着いた
枯れ野のような「現代」、その突端に立っていることに気づいた男の、辛辣で、
諦念とそれを越えた黒いユーモアにあふれた口調は、単純に3Bとくくることもできぬ、
独自の非常に鋭利な響きを持っていたようだ。それに気づくことができた。

「名づけえぬもの」安藤元雄訳、白水社
後期散文を読み尽くした私がこの訳文に触れ、まず感じたのは、
後期における高橋康也の訳文に対する宇野邦一の感想に似ている。

 高橋さんの訳稿の「おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまってる、
 ただ生まれないわけにはいかなかった、それがあいつだった、おれは内側にいた、
 おれはそう見てる…」という冒頭を読んで、私はぎょっとした。原文で読んでいるときには、
 頭をすっと通り過ぎてしまっていた、抑制され、脱色され、微かな意味だけを反復しながら、
 いつのまにか一つの硬い稜線を描いている、というふうに私が読んでいたベケットの
 後期散文から、突然一つの肉声のようなものが生々しく立ち上がってくるようだった。
                      ─「また終わるために」終わりに 宇野邦一
279(OTO):2007/05/09(水) 13:25:39
ひたすら喋り続ける名も無き肉声。
それまでに作りだした小説上のキャラクターをすべて破壊し、最期に残ったのは
最早架空の存在を作り上げることに倦んだ、どうにも名づけられない自身の「声」であったわけだ。

 マーフィーだの、モロイだの、マロウンだのなんだの、そんな連中におれはだまされないぜ。(31P)

 物だの、形だの、物音だの、光だの、おれがしゃべり急いだあげくこの場所にだらしなく
 つきまとわせてしまったそういうものを、いずれにせよ手続きなどいっさい問題にせずに、
 いつかはきっと締め出してしまわなければならん。(中略)だが、あわてるなよ。
 まずよごすこと、掃除するのはその次だ。(23P)

「名づけえぬもの」これはベケットによる「大掃除」の記録とも呼べよう。
彼が掃除しようとしているのは「この場所」である。

 不安でたまらない、というのも、なにしろ問題はおれとこの場所のことしかないからだが、
 おれはしゃべることによって、あらためてもう一度それにけりをつけようとしているんじゃないか、
 ということだ。(中略)どこでもないところで、だれもいないところ、なにもないところから
 はじめて、もう一度もとのところへ、むろん新しい道を通って、あるいは前と同じ道を通って、
 どっちだかそのたんびに見わけがつかなくなるが、とにかくもとのところへ戻るだけのことに
 なるんじゃないか。(28P)
280(OTO):2007/05/09(水) 13:26:19
「この場所」それは>>272でCucが指摘したように「私についてこなかった男」でブランショが
記述しようとした「書き手の場所」と近いのかも知れないが、むしろブランショが記述しようとしたのは
進行する出来事としての「書き手の時間」、言葉と出来事のタイムラグを浮き彫りにすることによって、
エクリチュール独自の時間を展開しようとした試みであったような気も、いまはする。
ベケットはむしろ我々が彼の「声」を聞く場所、純粋に言葉だけによって組み立てうる空間のことを
言っているのではあるまいか。比喩、公的印象、想起などの手を借りずに、言葉でのみ作られる場所。
彼は自分のためというのではなく、おそらくは我々と出会うために、その場所からよけいなもの、
個体差、生活史によってまちまちに受け取られるしかないすべての舞台装置をとっぱらおうと
しているように、私には見える。
しかし、ベケットにおいて特徴的なのは、それでもなお、ビジュアル的な何かを組み立てようとする
不思議な意志である。

 すべてがだんだん黒くなるにしても、だんだん明るくなるにしても、あるいは灰色のままでいるにしても、
 とにかく手はじめとしてたいせつなのはこの灰色だ。灰色は灰色であって、灰色としての可能性を
 持っている。つまり明るさと黒さからできていて、そのどちらか一方ぬきにして他方だけに
 なってしまうこともできるのだ。だがひょっとして、おれは灰色について、灰色のなかで
 幻想を描いているのかもしれん。(26P)

後期ベケットで特徴的な「灰色」の登場である。個人的に3Bでは、バタイユは黒、
ブランショは白、ベケットはグレー、の印象がある。
281(OTO):2007/05/09(水) 13:26:55
前置きが済むと「声」は一気に喋り続けようと試みる。このパラノイックな語りをベケットは
どのように書き進めたのだろう。一気に書き上げられる量ではない。毎日、同じ時刻から同じ時刻まで?
誰にも会わず?食事の間も考え続け?延々と頭の中で響き続ける「声」を追って?

 消えてなくなれ。おれはなにもすることがない、ということはつまり、なにも特別なことがない。
 しゃべらなければならないが、それだけでははっきりしない。しゃべらなければならないが、
 言うことはなにもない、他人の言葉しかない。しゃべることができず、しゃべりたくもないのに、
 しゃべらななければならない。別にだれかに強制されたわけじゃない、だれもいない、
 これは偶然であり、事実なんだ。(53P)

何かを書くこと、喋ること、そのことの「意味」。しかし意味など脚注から脚注へと参照を繰り返すだけの
風変わりなステップくらいにしか考えていないような男にとって、
書くとは最終的に何事でありつづけることが可能だろう。

 おれのしゃべることやしゃべるてだてはひとつ残らず彼らから来たのさ。(中略)
 気違い沙汰じゃないか、しゃべらなくちゃいけないのにしゃべれない、おれに関係のないことしか、
 くだらないことしか、自分でも信じていないことしかしゃべれない、(73P)

相も変わらず中途半端な異形のキャラクター、マフード、
最早人間とは言えぬワームを創りあげ、壊して行く課程で、
ベケットは「彼ら」をも同時に駆逐しようとする。この「彼ら」とは何者か?
それは自分が使っていることに気づいた時には、もうすでに存在していた「言葉」、
様々な歴史を重々しく引きずる「言葉」なのか。それとも統合失調症例に頻繁に現れる、
妄想としての「彼ら」なのか。あるいは、それらは同じ「彼ら」なのか。
282(OTO):2007/05/09(水) 13:28:44
 いつになってもおれは自分がなんのことを、だれのことを、いつのことを、どこのことを
 しゃべっているのか、どんな手段で、どんな理由でしゃべっているのか、ちっともわからないが、
 たとえこんないまいましい仕事のために五十人の徒刑囚が必要だったにしても、やっぱり五十一人目が
 いなければ手錠をはめるわけにはいかないだろうってことはおれにもわかる、
 ただしそれがなにを意味するかはわからん。(102P)


これがベケットの見た作家という仕事だろうか。様々な創作された人格、もの。
創作していると思いこんでいる人格、それらすべてに手錠をかける不在の「もうひとり」となること。
意味もなく、その場にいない誰かとなること。物語から遠く離れて、しかし未だエクリチュールの中に
存在しつづけること。

やがてマフードの具体性は消え去り、ワームまでもが消えてゆく。それでも喋り続ける「声」。

 頭だ、おれはひとつの頭のなかにいるんだ、なんたるひらめき、シャーッと、そら、
 さっそく小便をかけてやった。(172P)

「声」は次第に「この場所」を自らの声のみで埋め尽くしていく。
よけいなものを追い出すために声を荒げながら。

 おれは自分の番を待っている。そうとも、あきらめたりするもんか、なんとかして
 いつかは彼らをおれの問題ににも注目させてやろう。(178P)
283(OTO):2007/05/09(水) 14:19:41
 もういっぺんマフードのほうやワームのほうをながめてみよう、これがおれたちの最期のチャンスだ、
 だが結局のところ、彼らの頭のなかにはなにがあるんだろう、そうした物語からひきだすような結論は、
 もうなにもなくなった、最初からなにひとつなかったんだ、おれにはおれの物語がある、
 それを彼らが言ってくれればいいんだ、そこからもまたなにも引き出せないってことが
 彼らにわかるだろう、おれにもそんなものはないんだってことがわかるだろう、
 それで終わりさ、この物語ぜめの地獄はね、(188P)

そろそろ部分引用が不可能に思えるエリアに突入している。
「声」は明らかに調子をあげてきているようだ。
私が読んだ範囲内で、文学史上最大と思える無法地帯がこの後広がっている。
物語性はおろか、おそらくは人類が積み上げてきた文明の突端に立つ自身の意識の混乱を通して、
人間の傲りすべてを嘲笑し、破壊し尽くそうとする「声」、「咆吼」、「哄笑」。
「掃除」を始めたはずが、いつのまにやら「絨毯爆撃による掃討作戦」になっていたのだ。

ランダムに見えながら無駄のない表現によって「声」は、ありとあらゆる罵詈雑言を
例によって順列組合せ的に網羅しようと試みているかのようだ。
ページは次第に加速しながら進み、気が付くと、
284(OTO):2007/05/09(水) 14:20:24
 おれはいま戸口にいる、どんな戸口だろう、もうほかの人間じゃない、ここで戸口がなんになるんだ、
 これが最後の言葉さ、ほんとうに最後の、(中略)声が沈黙を破ることを期待するんだ、ひょっとして
 これしかないのかな、わからん、なんの値打ちもない、おれにわかるのはそれだけさ、(262P) 

そして「名づけえぬもの」は「続けよう」の一文で終結する。
この地点でベケットが成し遂げたことを言葉で表現するのはなかなか難しい。
それはそのことが言葉自体に深く関わることであるからだ。
彼は何を葬ったのか、なにもなくなった「この場所」とはいったいどんな有様なのか。
彼は扉の向こう側に何を見たのか。それらはやがて後期散文で明らかになることだろう。
285SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/12(土) 22:24:45
二人の『名づけえぬもの』についての書き込みを読みながら、
それに導かれ、応答する形で何か書こうと思いながら、
実は、ちょっと今、戸惑いを感じてるんだけれど、
何か書きたいと思いながらも、書きにくい。
それはきっとベケットのこの作品に対して
ある怖れのようなものを感じているからかな。
でも「続けなきゃいけない、続けよう」。

266-274
>「おれ」が声を失い沈黙の世界に引き寄せられた瞬間、「おれ」はこの世に
>存在しなくなります。
>それゆえ、「おれ」は声が有る限り永遠に話しつづけなければならない宿命に
>あるのです。
そう、「おれ」の声が途絶えることはなく、
自問自答(というより自問非答だね)はやまない。
自分のしゃべったことを言ったそばから否定し続けながら、
自分のおしゃべりが無意味であることを認めながら、
それでも声はしゃべり続ける、途絶えることなく。
終わりだ、もう終わりだ、と言いながらも終わらない声。
――おれにとってもいずれ終わりが来るだろう。おれが最後ということになる――
――けっして終わりにはならないだろう。あの声もけっしてやまないだろう――
しかし、「続けなきゃいけない、続けよう」というこの強迫観念は何だろう。

そこに「不安」や「怖れ」を見るべきだろうか?
でも、何に対する?
286SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/12(土) 22:45:18
(承前)

>「書くことについて書かれた」小説といえば、真っ先に想起するのは記憶に
>新しいブランショの「私についてこなかった男」ですが、(後略)
『名づけえぬもの』と『私についてこなかった男』は、
たしかどちらも1953年に出版されたという記憶があるんだけれど、
どちらも「言葉についての言葉」という共通点があるね。

一方は、言葉を書くことに自覚的なエクリチュール。
もう一方は、自分の声と自問非答を繰り返すモノローグ。

「今、終わり」と書くブランショ。
「続けよう」と書くベケット。
ブランショの終わりには円環に導かれることが想定されており、
ベケットの終わりなき終わりもまた反復に向かう。
読点もなく改行もなく延々と垂れ流される声に終わりはない、
というか、むしろこう言えるかもしれない。
その声が始まったのは終わりからだと。

ゴドーの最後もそうだった。

  ヴラジーミル「じゃあ、行くか?」
  エストラゴン「ああ、行こう」
  ――彼らは動かない
287SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/12(土) 23:07:00
278-284
>それまでに作りだした小説上のキャラクターをすべて破壊し、最期に残ったのは
>最早架空の存在を作り上げることに倦んだ、どうにも名づけられない自身の「声」であったわけだ。
『名づけえぬもの』ではこれまでのアンチヒーローたちの名前が勢ぞろいする。
――マーフィーだの、モロイだの、マロウンだのなんだの、そんな連中におれはだまされないぜ――
「大掃除」のために彼らの名前が召還され、けりがつけられるわけだね。

>相も変わらず中途半端な異形のキャラクター、マフード、
>最早人間とは言えぬワームを創りあげ、壊して行く課程で、
>ベケットは「彼ら」をも同時に駆逐しようとする。この「彼ら」とは何者か?
『名づけえぬもの』でもマフードやワームという名前が作り出されているけれども、
もはやそれらのキャラクターは破綻しており、『マロウン』のマックマンのようにはいかない。
(マフードはマーフィーの、ワームはワットのなれの果てだろうか)
それにしても頭文字Mの名前が多いのはどうしたことだろう。
マーフィーからマフードまてのM(そして、ワットからワームまでのW)。

>それとも統合失調症例に頻繁に現れる、妄想としての「彼ら」なのか。
ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』を読み始めてみたとき、
驚くほどの頻度でベケットの名前が出てきたことに驚いた。
統合失調症(精神分裂病)に特徴的なものがベケット作品にあるのかどうか、
それはよくわからないけれども、狂気に近い感覚があるのだろうか。
288SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/12(土) 23:18:44
(承前)

物語を始めるためには、空間と時間と人物が設定されなくちゃいけない。
それは必ずしも具体的でなくてもいい。たとえば、
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」
というふうに。

でもベケットの場合はこうだ。
――どこだ? いつだ? だれだ?――

このフレーズで小説を書き始めた作家はおそらくベケットだけだろう。
どこでもない場所、いつでもない時間、誰でもない存在、
――どこでもないところで、だれもいないところ、なにもないところからはじめて――

この始まりは、まるで終わりのようじゃないだろうか。
終わりは始まりにつながっていく。
――もう一度もとのところへ、むろん新しい道を通って、あるいは前と同じ道を通って、
とにかくもとのところへ戻るだけのことになるんじゃないか。――
289SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/12(土) 23:34:17
(つづきは明日また)
290SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/13(日) 19:05:28
>>266-274のCucさんのレス、>>278-284のOTO氏のレス、
に促されながら、もう少し「続けよう」。

 ――しゃべらなければならないが、言うことはなにもない、他人の言葉しかない。
 しゃべることができず、しゃべりたくもないのに、しゃべらななければならない――

OTO氏が引用しているベケットの言葉をさらに引用させてもらいながら、
『名づけえぬもの』において語っている声に感じるのは、
強迫観念的な病める精神の特徴、統合失調症(精神分裂病)の症状、
少なくともそれに近いものが感じられるのかもしれない。
この作品に対する怖れは、そのへんに原因があるのかもしれない。

>このパラノイックな語りをベケットはどのように書き進めたのだろう。
ほんとにそれは疑問だ! 
ベケットがこの作品にどのように取り組んだのかを考えると、
またどんな精神状態でこの作品に取り組んでいたのだろう?
飽きなかったのだろうか? 苦しくなかったのだろうか?
291SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/13(日) 19:14:55
(承前)

>すべての舞台装置をとっぱらおうとしているように、私には見える。

 ――おれに関係のないことしか、くだらないことしか、
 自分でも信じていないことしかしゃべれない――

声が「他人の言葉しかない」と言うとき、
「おれに関係のないことしかしゃべれない」と言うとき、
声が自身の存在を確かめるためには、
自分の声の中から他人の言葉を削り取っていかなければいけない。
そのための大掃除を声はしゃべり続けて行う。

>やがてマフードの具体性は消え去り、ワームまでもが消えてゆく。それでも喋り続ける「声」。
マーフィー、モロイ、マロウンたち旧キャラクターは消され、
マフード、ワームといった新キャラクターは流産する。
大掃除、それは自分の言葉を探すための声の彷徨。
そして、大掃除は小説の破壊になってしまう。
もはやキャラクターは作れないし、物語は不可能になる。
292SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/13(日) 19:24:35
(承前)

 ――それで終わりさ、この物語ぜめの地獄はね――

物語は不可能になる地点、それはどんな場所だろう?
いや、きっとそこは名づけられない場所なのだろう。
そして時間も、また存在も、名づけられないのだろう。
だからベケットはこう始めた。「どこだ? いつだ? だれだ?」と。

>物語から遠く離れて、しかし未だエクリチュールの中に存在しつづけること。

物語が不可能となりながら、それでもしゃべり続ける声。
それは言葉と沈黙のあわいをゆくような声なのだろう。

>後期ベケットで特徴的な「灰色」の登場である。個人的に3Bでは、バタイユは黒、
>ブランショは白、ベケットはグレー、の印象がある。
これは面白い! 浅田彰が対談か何かの折々に(少なくとも二度)、
ブランショをゼロ神教、バタイユを一神教、クロソウスキーを多神教、
と形容していたのに匹敵するほど簡潔で示唆的な比喩だね。

グレー、それは白と黒の間。
沈黙する白紙でもなく、鉛筆で書かれた文字でもなく、
まるで白紙の上で文字を消した後に残る消しゴムの滓のようなグレー。
沈黙でも言葉でもなく、その中間のざわめき、ささやき、つぶやき。
とはいえ、そのモノローグの声は弱々しいわけじゃなく、
「絨毯爆撃による掃討作戦」にも似て、
荒々しくすべてを消していくかのようだ。 〆
293SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/05/13(日) 21:55:48
(長くなっちゃったけど、追伸をひとつ)

「ユリイカ」1996年2月号のベケット特集で
保坂和志と宇野邦一が対談してたんだけれど
それがWEBにupされていたのでリンクを。
http://www.k-hosaka.com/nonbook/t-uno.html

 ――おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまっている――

この『また終わるために』の言葉に象徴されるように
始まりからしてすでに終わっているベケットの世界。
Cucさんが最近読んだ『勝負の終わり』では
冒頭の言葉からしてこうだから。

 ――終わり、終わりだ、終わろうとしている。たぶん終わるだろう――

『名づけえぬもの』の後でどんな試みが一体可能だろうと思うけれど、
これが終わらないんだね。あるいは、「また」終わる。では。 〆
294 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 22:49:44

>>278-284 (OTO)さん

大変濃密かつ濃厚な感想文をありがとうございました。
ものすごい迫力ですね!
(OTO)さんのベケットに対する並々ならぬ情熱が文章からひしひしと伝わって
くるようです。
すごいなあ……。
ベケット作品のなかにあるほんのわずかな「物語」を抽出して自分の圏内に引き
入れて読むのがわたしの読み方ですが、(OTO)さんはいつも俯瞰的な目で作品を
とらえていますよね。いうならば「神の視線」。

>この「彼ら」とは何者か?
>それは自分が使っていることに気づいた時には、もうすでに存在していた「言葉」、
>様々な歴史を重々しく引きずる「言葉」なのか。それとも統合失調症例に頻繁に
>現れる、妄想としての「彼ら」なのか。
いつも思うことなのですが、ベケットを含むあらゆる作家たちは自らの意思で
書くというよりは、何者かに「書かされている」のではないでしょうか?
ベケットを書かせていたのは作品のなかにも現れた例の≪声≫なのではないかと。
そして、おそらくはその≪声≫にベケットは嬉々として従ったはずです。
理由ですか?
辛辣かつ自尊心の高いベケットのことです、その≪声≫は彼のために舞い降り、
彼にしか聴き取れない音程でささやいたことをむしろ光栄に感じていたことでしょう。
295 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 22:52:22

>これがベケットの見た作家という仕事だろうか。様々な創作された人格、もの。
>創作していると思いこんでいる人格、それらすべてに手錠をかける不在の
>「もうひとり」となること。
何にでもなれるのが作家。誰をも演じられるのが作家。
そんな自分を「わけのわからんことをしゃべっているおれ」という自嘲的な口調で
語るベケットは老獪というか、かなりの確信犯ですよね。
本当は何をしゃべっているか、自分が一番知っているくせに、わざと「韜晦」という
手段でもってはぐらかし隠す。やたら言葉の注釈を膨らませていく。
砂のなかにある一粒の純金を隠すために、わざと偽造のものをばらまく。
わたしたち読者は埋もれている純金を見つけられずに、右往左往するだけ。
まさにベケットの思う壺です。
中には果敢にも彼の真意を見抜き、砂金をつかめるところまで指が届いたと
思いきやベケットはその瞬間に純金をひょいと掬いあげてしまうのです。
それも何食わぬ顔をして。。。
296 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 22:53:43

ベケットは頑固というよりは小心者なのかなあ、と思うのはこんな瞬間です。
大切なものを絶対に読者には明け渡さない。
そう簡単にわかられては困る、なぜならその≪声≫は自分だけにささやかれた
神秘であり、≪声≫の恩恵を受けるのは自分だけで充分なのだ。
自分と≪声≫との親密な関係は強迫神経症という苦しみから生まれたものだと
しても、≪声≫は彼にとって闇の中に差し込む一条の光にも似た姿なき友であり
いつでもどこでも時空を越えて彼を慰める唯一のものであったのだから。。。
だから、彼は自分と同じように≪声≫を聞いた作中人物を待たせ続ける。
ゴドーと約束し、ゴドーの言葉を声を聞いたヴラジーミルを待たせ続けるのです。

>ランダムに見えながら無駄のない表現によって「声」は、ありとあらゆる罵詈雑言を
>例によって順列組合せ的に網羅しようと試みているかのようだ。
>そして「名づけえぬもの」は「続けよう」の一文で終結する。
>この地点でベケットが成し遂げたことを言葉で表現するのはなかなか難しい。
>それはそのことが言葉自体に深く関わることであるからだ。
なぜ「続けよう」なのか?
≪声≫はすでに軌道を失い、地球の重力から遠く離れて自由に宇宙の彼方へと
飛翔しようと意志を持ち始めています。
297 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 22:55:00

言葉や声はもともと人がつくりだしたものなのに、今や≪声≫は叛乱を始めました。
その事実に一番戸惑ったのはベケットその人であり、もう≪声≫は彼の親密な
友という域を脱している。
にも拘わらず彼は≪声≫にしゃべらせることを続けさせる、辞めさせない。
なぜなら、ベケットにとって≪声≫はやはり一番苦しかったときのかけがえのない
慰め手であり、≪声≫を今手離してしまったなら二度と彼のもとには舞い降りて
こないことに怯えていたから。。。
身内を相次いで亡くした彼は、相手がたとえ≪声≫であっても別離を繰り返し
たくなかったから。
罵倒でもいい、暴走でもいい、≪声≫が絶えず自分のもとに在ることは
ベケットにとって安堵の境地だったのでしょう。


――それでは。
298 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 22:56:06

>>285-293 SXY ◆0WsIEmknHQ さん

>しかし、「続けなきゃいけない、続けよう」というこの強迫観念は何だろう。
>そこに「不安」や「怖れ」を見るべきだろうか?
>でも、何に対する?
≪声≫に見捨てられることの恐怖は絶えずベケットから離れなかったと思います。
ベケットにとって最後の砦がこの≪声≫なのですから。

>一方は、言葉を書くことに自覚的なエクリチュール。
>もう一方は、自分の声と自問非答を繰り返すモノローグ。
≪言葉≫と≪声≫に固執し、徹底してこだわるこの二者は人間の存在意義を
極めようとしたふたりでもありました。
デカルトが「我思う ゆえに我あり」と提唱したように、
ブランショは「我書く ゆえに我あり」
ベケットは「我話す ゆえに我あり」と。
ふたりとも書くことと話し続けることで自身の存在を確立しようとしました。
けれども、デカルトは思索することで確固たる自身を認識し得たのに
ブランショもベケットも書くこと、話すことによって己は姿なきもの、存在しない
ものであると、デカルトとは真逆な結論に達してしまいました。
299 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 22:56:52

>統合失調症(精神分裂病)に特徴的なものがベケット作品にあるのかどうか、
>それはよくわからないけれども、狂気に近い感覚があるのだろうか。
「狂気」はブランショとベケットの共通したテーマでありますね。
ブランショには「白日の狂気」という狂気を扱った作品がありますし、
ベケットにいたってはほとんどの作品が狂人がでてきます。
ただ、ブランショの狂人は狂気を装った人に近いですね。
ベケットの人物はほぼ本物の狂人。。。

>「今、終わり」と書くブランショ。
>「続けよう」と書くベケット。
狂気を装うことに疲れたブランショは「終わり」と締めくくり、
狂人であることに解放感と自由とを味わったベケットは「続けよう」と息巻く。
300 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 23:03:10

>――もう一度もとのところへ、むろん新しい道を通って、あるいは前と同じ道を
>通って、とにかくもとのところへ戻るだけのことになるんじゃないか。――
ベケットの人物はいつも「道」を歩きながら旅をする人たちです。
深い森のなかをとおり、海沿いをとおり、ひとりでとぼとぼと歩いていく人たち。
母のいる町をひたすらめざして。。。
母という名がついていればどこでもいいのかもしれません。
彼らは母を憎み、一方で母を恋い、泣きながら旅をつづけます。
そうです、童話の「家なき子」ですね。
けれども、ベケットの描く童話は辛辣で作中人物たちに幸福な結末は訪れない。
本来ならば、ベケットの経歴からすいれば「父なき子」のほうがふさわしいのに
あえて「母」を持ってきたのはなぜでしょう?
誰よりも父を愛し、尊敬していた彼にとって父親は限りなく神聖な存在であり、
たとえ物語といえども汚してはならないものだったのでしょうか。。。
301 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 23:05:49

>ベケットがこの作品にどのように取り組んだのかを考えると、
>またどんな精神状態でこの作品に取り組んでいたのだろう?
>飽きなかったのだろうか? 苦しくなかったのだろうか?
……おそらくはそうした境地を遥かに通り越して、「苦悩を欲する」(バタイユ)に
至っていたかもしれませんね。。。
たとえば、マラソンでいう「ランニング・ハイ」。
苦しさはある地点に到達すると、次の瞬間から「快楽」に変わるというあの瞬間。
一度でもこの「ランニング・ハイ」を体験すると病みつきになるそうです。
そして、人はその瞬間を味わいたいがために何度でも苦しい走りに挑むとか。
苦しければ苦しいほどその瞬間の快楽はかなり大きなものなのでしょう。
書き続ける行為は、一瞬の快楽を得るためのまさに苦しい長距離マラソン。

>ブランショをゼロ神教、バタイユを一神教、クロソウスキーを多神教、
>と形容していたのに匹敵するほど簡潔で示唆的な比喩だね。
なかなか面白い比喩ですね!
302 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/14(月) 23:06:40

>沈黙でも言葉でもなく、その中間のざわめき、ささやき、つぶやき。
>とはいえ、そのモノローグの声は弱々しいわけじゃなく、
>「絨毯爆撃による掃討作戦」にも似て、
ベケットの描く≪声≫は嵐のさなかの暴風雨ですね。

>「ユリイカ」1996年2月号のベケット特集で
>保坂和志と宇野邦一が対談してたんだけれど
なかなか刺激的な対談ですね。リンク、感謝です。

「僕は娯楽で本を読んだり映画を観たりすることというのはほとんどなくて、
娯楽だったら競馬やっていればいいという感じがあって、いわゆる娯楽性は
本とか映画に求めていないんです。ベケットなんかは、読むのにある種の
苦痛もないわけではないけれど、突然襲ってくる快楽が苦痛よりずっと大きい」
さすが保坂和志! 苦悩のあとの快楽=ランニング・ハイを読書に求めるとは!
書くことの苦痛と快楽を体験しているからこそ言える言葉ですね。


――それでは。
303(OTO):2007/05/16(水) 16:34:01
>>285
>何か書きたいと思いながらも、書きにくい。
>それはきっとベケットのこの作品に対して
>ある怖れのようなものを感じているからかな。

これは理解できる。「他人の言葉しかない」、「おれに関係のないことしかしゃべれない」と
言いながらしゃべり続ける「声」に「関して」何か書くなどということは、
とりもなおさず「彼ら」の位置に身を置くことになってしまうからねww

>>286
>『名づけえぬもの』と『私についてこなかった男』は、
>たしかどちらも1953年に出版されたという記憶があるんだけれど、

ほんとだ。バタイユは「至高性」を執筆していたようだ。
フランスの歴史年表を見ると保守派ドゴールが敗退、植民地はどんどん
切り崩されていっているようだが、国内は割と平和だったのかな?
それじゃないと落ち着いて「書くことそのもの」を追求するとか
できなさそうだww
304(OTO):2007/05/16(水) 16:36:17
>>292
>きっとそこは名づけられない場所なのだろう。
>そして時間も、また存在も、名づけられないのだろう。

「名づけられない」こと、特定の「個」ではないということは
「偏在」の可能性があるということかも知れないなwww
かくしてベケットの作り上げる「どこでもない場所」は
我々が本を開くところ、何処でもパックリとその異界の門を開く。

>>293
まだ全部読んでないけどおもしろいな、この対談ww
グラシアス、コンパニエロ。


>>294
>ベケットを含むあらゆる作家たちは自らの意思で
>書くというよりは、何者かに「書かされている」のではないでしょうか?

確かに。というかそれでなくちゃ作家と言えないかもな。
矮小な自意識から離れ、読み手の深みに伝わる文章を書くためには。
305(OTO):2007/05/16(水) 16:48:23
>>295
>そんな自分を「わけのわからんことをしゃべっているおれ」という自嘲的な口調で
>語るベケットは老獪というか、かなりの確信犯ですよね。

彼が辛辣な口調で語りかけているのは「自分以外の読者」というより
「自分を含めた全人類」だと思うよ。すべては「自分も含めた我々」の
徹底的なくだらなさ、ちっぽけな自意識にむけての「すべて消えてしまえ」という
思いに貫かれているように、おれには読める。

>>296
>ベケットは頑固というよりは小心者なのかなあ、と思うのはこんな瞬間です。
そこに見えるのは我々読み手の中にもある「矮小さ」では無いかな?

>大切なものを絶対に読者には明け渡さない。
大切なものなど無い、あるいは「個」から離れた「何もない場所」にある、
というか「何もない場所」こそが大切だ、結局我々がなんとか持ち得ているのは
くだらないことしか詰まっていない、この首の上に乗っている球体の、
内側にあるような気がする「いろいろ考えたりする場所」だけなのだ、
という姿勢じゃないか?

Cucは性格的にこの辛辣な「声」を自分の中に取り込めないんだなww
それはそれでおまいらしいwww

>>299
>ベケットの人物はほぼ本物の狂人。。。
>狂人であることに解放感と自由とを味わったベケットは「続けよう」と息巻く。
ここは同意だwwww
それでもこれは「書かれた狂気」でありつづける。しかも他の作家には類を見ない。
306SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/05/20(日) 20:50:39
>>298-302

いつもCucさんが見せる豊かな読みが、ベケットの「貧しさ」を前にして、
うまく機能していないような気がしたけれど、OTO氏が、
>Cucは性格的にこの辛辣な「声」を自分の中に取り込めないんだなww
と書いているところをみると、同じ感じをOTO氏も抱いているかもしれない。

>ベケットの人物はほぼ本物の狂人。。。
ベケットの登場人物たちにはまともなキャラクターが皆無!
登場人物たちの狂気、そして語る声の狂気は、
きっとベケット自身が持つ狂気を拡大したもので、
理性と狂気がせめぎ合うモノローグは前言否定にあふれ、
まともなことをしゃべれない。
だから、理性に基盤を置いたデカルト的コギトとは、
真逆の方向に向かい、不確かさの中でもがき続け、
もがき続けることに飽きることもない。
というのも、不確かさというグレーゾーンでしか、
ベケット的な声はしゃべれないから。

>あえて「母」を持ってきたのはなぜでしょう?
精神分析的に父や母を持ち出してもうまく理解できない気がする。
たぶん、母というのは存在の原初形態の象徴で、
自我や意識を身に付ける以前の状態のメルクマール。

>さすが保坂和志! 苦悩のあとの快楽=ランニング・ハイを読書に求めるとは!
>書くことの苦痛と快楽を体験しているからこそ言える言葉ですね。
個人的には、ベケットを読むことにはすごい快楽があった。
たぶんベケットの波長と自分の波長が合ったんだろうね。
307SXY ◆uyLlZvjSXY :2007/05/20(日) 21:03:50
>>303-305
>とりもなおさず「彼ら」の位置に身を置くことになってしまうからねww
ベケットを読むことには快楽があったけれども、
作品について語ろうとするとこれはかなり難しい。
彼らの位置に身を置いてみることの難しさばかりじゃなく、
言葉と沈黙のあわいで紡がれる寡黙な饒舌というグレーの世界を、
何とか言語化しようとしたときの困難さがあるからなんだろうね。

>我々が本を開くところ、何処でもパックリとその異界の門を開く。
そう、ページを開くといきなり現われる(笑
ここはどこだ? いまはいつだ? おれはだれだ? と。
我々から見ると異界に見えるけれども、世界以前の世界というか、
原初の、母の、生まれる前の、世界。  〆
308 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 20:47:37

「勝負の終わり」読了しました。
これは「ベケット戯曲全集2」のなかに収められており、ほかのいくつかの短い戯曲も
収められていました。

印象に残ったいくつかの戯曲の感想のみ記します。
「勝負の終わり」、「しあわせな日々」、「芝居」この三作品についての感想です。

「勝負の終わり」
四人の男たちが何もない室内で「終わりだ、終わりだ」と言いながら終わりにさせない
劇です。彼らの会話はかみ合うことはなく、ひとりがしゃべりだすとそのひとりだけの
独白が延々とつづき、話し終えるとまた次の男の独白が、、、
こうしてちぐはぐな会話がつづくのですが、彼らは口を閉じたら最後負けだと思って
いる節が伺えます。彼らが勝負するのはしゃべっている時間の長さであり、
その内容についてではありません。

ハムの独白はなかなか興味深いものがありました。
世界の終わりがやって来ると信じていた狂人と知り合い、彼の男の子を養子にして
ほしいと依頼されます。
そしてどうやらハムはその男の子供を実際に育てたらしいのですが、彼の独白は
ほかの三人にさほどの感銘も与えず、むしろ逆に恩着せがましさのみを植え付けた
感があります。


(つづきます)
309 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 20:48:22

実際、ハムの独白の前に鼠や、犬の話が出ているのですが、ハムの独白が終えた
直後にすぐに鼠の話に戻ってしまいます。
そう、この劇の人物たちは他人の話になどまったく関心がなく、話している当人が
主役であると思い込み、自分の話ばかりしゃべりつづける人たちなのです。
彼らにとって勝負の終わりとは口を閉ざすこと、つまり沈黙であり、死を意味するので
すね。
彼らは沈黙が怖くて順番がくれば内容のないことを始終しゃべりつづけます。
自分の発する声を絶えず聞いていないと極度に不安になるかのようです。
一種の強迫神経症患者を思わせますね。
そのために、相手の死を待っているのです。
ハムに仕えていたクロヴはとうとう最後に部屋を出て行きます。
相手の独白を聞かされることを断ち切ること、これが勝負の終わり。
はたしてこれが勝負の終わりなのでしょうか?
ハムは独り残されても延々と独白をつづけるでしょう。
たとえ聞いてくれる人がいなくても、、、
ハムは「名づけえぬもの」の「おれ」をほうふつとさせるのですが、まさに聴衆が
いなくても彼は独白しつづけます。
この勝負はハムの死までつづくでしょう。そして、独り残されたハムの死など誰も
確認できない。


(つづきます)
310 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 20:51:20

そう、ハムは最後の最後まで勝ちつづける人であり、彼の勝利は誰かに認めてもらう
ためのものではありません。
彼の敵など実は最初から存在しないのです。
周囲の男たちは勝負に乗ったと見せかけて、実は最初から勝負を降りているのです。
彼らはこの勝負が不毛であることをとうに気づいていたし、見抜いてもいました。
ではなぜハムの仕掛けた途方もない勝負に乗ったのでしょう?
ハムが狂人だからです。
彼が独白のなかで語った「世界の終わりがくることを信じていた絵描きの狂人」とは
自らをさしているのではないでしょうか?
世界の終わりがやってくる、だから自分は勝つために勝負をしなければならない。
強迫神経症であるハムはしゃべりつづけることに命懸けです。

けれども、ついにクロヴは痺れを切らして勝負を降りてしまいました。
ハムは彼が閉ざされた部屋を出て行ったことで、勝負相手を失った彼はしきたりに
従って自らの顔にハンカチを掛けます。
白旗を挙げたのですね。。。
独りでもしゃべりとおすことができると豪語し信じていたハムの信念は最後で揺らぎ
ました。少なくともハムには聞いてくれる相手がなければ、ハムの存在は成り立ち
得なかったようです……。


(つづきます)
311 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 20:52:38

「しあわせな日々」
焼け草のなかにある円丘に腰まで埋もれた中年女性が延々と独白する劇。
彼女の背後には老年の男性が横になっています。
このふたりはどうやら夫婦であり、彼女がなぜ腰まで埋もれているのか、説明は
一切ありません。
最初、この身動きできない女性は病気とか、下半身不随とかの象徴を円丘で
現しているのかと思いました。
あまりにも設定が突飛だからです。
けれども、そうしたリアルな背景を完全に無視してベケットはとにかくこの女性に
身動きできぬまま独白させたかったようです。
彼女は朝起きると通常の人がするように、歯を磨き髪をとかします。
夫である彼は長々と寝そべったまま、新聞を読みます。
これだけを見れば、どこにでもあるありふれた朝の光景です。
彼女の口癖「きょうはしあわせな日だわ、きょうもしあわせな日になるわ」は
劇のなかで繰り返し語られます。
この反復のせりふにふと「念ずれば花ひらく」を想起しました。

念ずれば花ひらく
苦しいとき、母がいつも口にしていたこのことばを
わたしもいつのころからかとなえるようになった
そうしてそのたびわたしの花がふしぎと
ひとつひとつひらいていった

――坂村真民 『念ずれば花ひらく』より――


(つづきます)
312 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 20:53:46

「念ずれば花ひらく」の作者は、言葉に対して崇高な宗教的とさえいえるような
態度が伺えますが、ベケットはそうではありません。
言葉は遊びであり、諧謔として扱うふしが窺えます。

ところで、ほんとうにこころから幸せな人は「きょうはしあわせな日だわ」と声に出して
は言わないものなのかもしれません。
むしろ、あまり幸せではない境遇の人が言葉を声に出すことによって、言葉によって
幸せになろうとする、言葉のちからを借りることによって幸福を実現させようと望む、
それが現実なのではないでしょうか?

事実、円丘に埋もれたこの女性は「かつての」幸福な思い出ばかりを語ります。
初めての舞踏会、夫にプロポーズされた時のこと、自分に言い寄ってきた男たち、
彼女は息を継ぐ暇もなく次々と過ぎ去った幸福な日々の思い出を語ります。
夢見るように、歌うように、、、
そして、夫はそんな彼女の繰り言に相槌を打つでもなく寝そべったままこころここに
あらずの様子でただ聞いています。
彼女は幸福な思い出のかけらを繰り返し語ることによって、今日も幸福であろうと
します。彼女にとって幸福とは「?であらねばならない」という強迫観念に裏打ちされ
たひとつの揺るぎない信念のようなものを感じます。
鬼気迫る彼女の幸福の信念は息苦しさそのものの義務感のようでもあり、
あるいは、まったく別の精薄からくる無垢さのようでもあります。


(つづきます)
313 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 21:47:37

わたしはこの作品にベケットの「言葉のちからを信じたいが、ぎりぎりで信じきれない」
という悲痛な叫びを感じました。
弟二幕での彼女は首まで円丘に埋もれた状況になっており、独白にますます拍車が
かかります。そう、彼女は今幸福ではないのです、、、
にも拘らず繰り返される例の口癖「しあわせな日になるわ、とにもかくにもまた
しあわせな一日」。ほとんど泣き声に近いのではないでしょうか?
なぜ、ベケットはこうまでしてこころと言葉を乖離させるのでしょう?
人はこころにもないことを言うのは事実であり、嘘をつくものであることも事実です。
特に芝居ではその傾向が強い。
この劇においてたったひとつの真実は、首まで円丘に埋もれた彼女から夫が立ち去
らないこと、彼女の独白が尽きても夫は無言のまま彼女を見つめつづけていること、
言葉ではなく、語らないまなざしのみがふたりを結びつけているということでしょうか。
沈黙のうちに見つめ合うこと、それがふたりにとって「しあわせな日々」の証し……。


(つづきます)
314 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 22:56:13

「芝居」
一人の男を巡るふたりの女。
夫は妻の目を盗んでほかの女と浮気をします。
三人は舞台の上で壷から首を出して一列にならんでいるという設定。
ひとりが話しだすとスポットライトがその人に当たるという仕組み。
妻と夫の愛人との修羅場はせりふでのみ語られ、大太刀回りは一切なしです。
ベケットの劇に特有なことは、人物たちは動かない、言葉のみが延々とつづくことです。
「ゴドー」においてはまだ少しは動きは見られましたが、今回の戯曲集においては
人物たちはほとんど静止しています。
身体が動かない以上、彼らはしゃべることで自身の存在を確認するしかありません。

この三者は互いに互いを「かわいそうなひと」と呼びます。
まるで、他者をあわれむことで自分が優位に立っていると錯覚しているかのようです。
ここでも三人は今現在のことではなく、「過去のこと」を互いに独白しています。
ベケットの「独白内容と時間」の関わり方、捉え方は、つねに「過去」ですね。。。
たとえ現在しゃべっていても、話者の内容はすべて一様に過去の出来事のみ。
それは追憶とはちょっと違います。


(つづきます)
315 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 22:56:56

彼らは感傷に浸っているのでもなく、また、浸りたいのでもありません。
しゃべりつづけられる内容が過ぎし日の思い出であるというだけのことであり、
もし、語れるのなら未来のことだっていいのです。
ただ、ベケットは未来を信じる人ではなさそうですので、当然過去のことばかりに
話が向けられてしまうのでしょうね。

それにしても、壷から首だけ覗かせている三人の男女という設定は斬新というよりも
どこか薄気味悪さのほうが先立ってしまうのです。。。
ライトが当てられるたびに順番に話しだすのも、からくり人形のようで不気味です。
実験的な劇、とのことですが、観客は度肝を抜かれたことでしょうね。

いわゆる三角関係につきものの泥仕合は希薄で、最後には三人そろって合唱して
います。
この拍子抜けするようなラストの意味することは何でしょう?
三人は犬猿し合い、憎悪しながらも、結局のところ互いの存在がなければ自身は
存在しないことに気づいたのではないでしょうか。
サルトルの「出口なし」によく似た状況です。
ここでも、三人は最初は互いを罵倒し合いますが、やがて互いがなくてはこの出口の
ない世界では存在しえないことを悟るのです。


(つづきます)
316 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 22:57:41

「出口なし」では瞼のない世界、つまり三人の瞳孔が開き放し。
「芝居」では沈黙のない世界、しゃべり放しの世界。
「まなざし地獄」と「おしゃべり地獄」、どちらもぞっとするような世界ですね。

この戯曲集を読んで感じたことは、ベケットは演劇においても新風を吹き込んだで
あろうこと、そして、彼の趣向が理解されるにはかなりの紆余曲折を経たであろう
ということでした。
世阿弥によれば、観客が好きなものは、新しきこと、面白きこと、珍しきことの
みっつであるそうですが、ベケットの戯曲は「面白きこと」が微妙です。
確かに新しく、珍しいという点では人の注意を惹きますが、こと面白いという点では
滑稽さに置き換えたとしても理解されにくいのではないでしょうか。
あの膨大な言葉遊び、皮肉、風刺、高度であり難易度が高いのですね。
何しろ観客とは「わかりやすくておもしろい劇」を求めるものなのですから。。。

観る人を選ぶ作家、読む人を選ぶ作家、それがベケットのベケットたるゆえん
なのかもしれません。


――それでは。
317 ◆Fafd1c3Cuc :2007/05/30(水) 22:58:23

追記

ベケットの戯曲集を読んで、ふと世阿弥の言葉が脳裏をよぎりました。
「新しきこと、珍しきこと、面白きこと」――『花伝書』より
これは世阿弥の能舞台の三大原則でした。
ベケットはなるほどこの三大原則にあてはまる戯曲を書きましたね。
まあ、「面白きこと」については意見がそれぞれ分かれることでしょうが、、、

生きた時代も生まれた国もまったく異なる世阿弥はベケットのお芝居を観て
どう思ったでしょうね?
318吾輩は名無しである:2007/06/02(土) 16:06:52
あげ
319(OTO):2007/06/06(水) 13:15:48
「勝負の終わり」は「ベスト オブ ベケット2」で読んだはずなんだが
全然思い出せないなwww

>>316
>「まなざし地獄」と「おしゃべり地獄」、どちらもぞっとするような世界ですね。

たまらんねww、ベケットはシチュエーションやキャラクターを極限まで煮詰めた結果、
すごい異常な世界に突入しちゃってるものが多いよな。其処は確かに「地獄」だ。
おそらくその煮詰められ、隅々まで緊張した空気感が「地獄」なんだろうな。
いくつかのミニマムな戯曲には「能」を想起させるものもある。
世阿弥なら「花」が無いと言いそうだが、その「花」こそベケットが懸命に舞台から
排除しようとしたものかもしれないね。
320(OTO):2007/06/06(水) 13:22:45
徹底的な「花」の排除によって舞台に浮かび上がるもの、
緊張感のある「地獄の空気」は世阿弥の「幽玄」とは異なるが、
世阿弥だって面白がるんじゃないかなwww
「冷えに冷えたり」とは言わないにしても、
「枯れに枯れたり」とか言うんじゃないか?wwww
321 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 00:20:22

>>319-320
(OTO) さん

>すごい異常な世界に突入しちゃってるものが多いよな。其処は確かに
>「地獄」だ。
>おそらくその煮詰められ、隅々まで緊張した空気感が「地獄」なんだろうな。
そうですね、ふたりともこの世ならぬ世界や、この世のものとは思えない
異形のものを好んで描いたという点では一致していますね。
けれども不思議とふたりの作品には厭世観がないんですね。
ふたりはこの世を決して嫌ってはいなかった。この世の外にある異質な世界、
未知な世界に深い関心を持っていたということでしょうか。
世阿弥の場合は現世ではなく「あの世」や「幽玄な世界」を、
ベケットの場合は、この世をひとつのこころに喩えて、異質な精神世界を
持つ人間を好んで描きました。

>いくつかのミニマムな戯曲には「能」を想起させるものもある。
「能」は奥が深いですよね。
とはいえ、わたしはあまり「能」には詳しくないのですが、源氏物語を下敷きに
した「野々宮」の六条御息所の生霊はぞっとするような息を呑むほどの
怖さと美しさが鬼気迫る場面だとか。。。
322 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 00:21:19

>緊張感のある「地獄の空気」は世阿弥の「幽玄」とは異なるが、
>世阿弥だって面白がるんじゃないかなwww
おそらく世阿弥はベケット特有の緊張感とはほど遠い冗長なせりふと
ユーモアに度肝を抜かしたでしょうね。
はっきりいって全然「美しくない」のですが、その花の無さゆえに
却って観客が惹かれることはあり得るわけですから。
削ぎ落とすことで「美」に到達するのは事実ですが、計算尽くされた上での
冗長さも「美」を形作るものでしょうからね。
何しろベケットは頭脳派ですから、決して筆の勢いに任せてのものでは
なかったでしょう。
デカルトを敬愛していたということもあり、あの冗漫さは綿密な思考の上での
結果でしょうね。
323 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 00:22:12

「また終わるために」読了です。
小説ではなく散文。ひとつの作品の場面、人物のみを抽出して書かれた
文章ですね。
ゴゴ、ディディ、マーフィなどが散文のなかにふいに現れては消える。
作者の思いつくままに書かれた短い文章。
散文、随筆とはいえ、ベケットという作家は決して身辺雑記を書いたりはしない。
散文という形をとりながらも、かつての自身の小説の断片を描くのです。
そうした意味では骨の髄まで作家のなかの作家であった人です。

この散文集に収められたなかで一番好きなのは「ある夜」、次いで
「みじろぎもせず」です。
特に「ある夜」はこれまでの饒舌さを覆す佳品ですね。
特別なことが書かれているわけでもないのですが、短いながらも情景が
浮び、もの悲しさと甘いため息が全編に立ち込めている作品です。

「ある夜」は全編に渡って静謐な空気が立ちのぼる作品。
早春の夕暮れ、ひとりの老いた寡婦が夫の好きだった黄色い花を探しに野原を
歩いています。そこで草に寝転んでいるひとりの白髪の男を見つけます。
ただそれだけのお話しです。
ふたりが会話を交わすのでもない、そこから何かが始まるのでもない、寡婦は
男を見つけた、ただそれだけです。
324 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 00:23:11

この短い散文は「モロイ」が老寡婦と出会う場面そのものでありますが、
小説よりももっとロマンティックな要素が織り込んであります。
例えば「モロイ」においては、老寡婦はモロイを見つけた瞬間、彼を性の
捌け口にしか扱わない老女として描かれますが、この散文においては
そうではありません。
寡婦は亡き夫の墓に供えるための黄色い花を探し求めて野原を歩いて
いるのです。黄色い花は夫の好きな花だったから。
春浅い夕暮れに、寡婦はひとりの老いた男が草の上に寝転がっているのを
見つけます。腕に黄色い花を抱えたまま、彼女は日が暮れるまでそこに
立ち尽くす……。
ここでは老寡婦はさながら好きな人のために花を摘む少女のように可憐に
描かれています。珍しくベケットの辛辣さは影を潜めています。
彼女の長い影、羊の一匹もいない牧場、萌え出た草と夕闇に浮ぶ黄色い花。
とても美しい光景ですね。
静寂のみが支配する神聖なひととき。
人々はみな一日の労働を終え、つつましく祈りを捧げているのでしょう。
さながらミレーの「晩鐘」の絵のように。
「モロイ」の辛辣さは微塵もなく、読者の想像力を存分に誘い、引き出そうと
しているかのよう。
325 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 00:24:13

「おれ」の饒舌さのない作品、感傷を許さない作家なのに、この散文には
「花」「春の牧場」「夕暮れ」「星」「雨」などがふんだんに使われています。

――彼が好きだった花をさがして墓にかざろうとしている。
――白髪のそばには、摘んだ花の黄色。
――地平線にすれすれの西北西にはやっともう星が見える。
――雨? おのぞみなら数滴。おのぞみなら朝の数滴。
――ゆるやかに落ちる夕日。月も星もない夜。
ベケットはアンチ・ロマン派のひとりですが、本来は書こうと思えばいくらでも
書けた人なのでしょうね。人は新境地を開拓しようと野心を持ち、挑戦を続け
ますが、疲れたときはやはり旧来の古巣に戻りたい、そこで憩いたいのですね。
「星菫派」とは「星や菫によせて恋を歌う傾向がある、ロマンチストの一派」を
指しますが、感傷的、少女趣味と揶揄されつつも、人はやはりどこかでそうした
甘やかな夢を求めているのも事実です。
斬新なものは最初は珍しがられますが、ある時期が来ると飽きられ忘れられて
しまいます。刺激が強すぎる香辛料は敬遠されてしまうように。

ひとつの作品を違う切り口で語った実験的作品ともいえますが、まったく異質の
作品に仕上がっていることに驚きます。作家ベケットの豊かな資質が伺えます。
ふと、ベケットのオーソドックスな作品を読んでみたかったな、と思いました。
326 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 05:58:50

「みじろぎもせず」
この散文の語り手は肘掛け椅子に座って身じろぎもしないでいるだけ。
それも自らの意志で。
太陽を見つめ、夕焼けを眺め、木や藪をじっと見つめる。
ただひたすら身じろぎもせず、日がな一日見ている。
ここでもいつものベケットの饒舌は影を潜めており、語り手はただひたすら
「音たちに耳をすませている」だけ。
肘掛け椅子にもたれた全身が耳になったように、すべての「音」に耳を
傾けている。

見ること、聞くことのみが語り手の一日の仕事。
では「しゃべること」は?
戯曲「しあわせな日々」の円丘に首まで埋もれた女性はひたすら独白を続け
ました。この散文の語り手は同じように身動きしないけれども、しゃべらない。
しゃべることに疲れたのか、あるいはしゃべることの無意味さに気づいたのか。
おそらくはその両方。
沈黙のうちに見ること、音に耳を澄ますこと、世界はそれだけで充分だから。
深海に棲む魚たち、言葉を持たず深い海の底でひっそりと息づく彼らは
深海に降るマリンスノウを眺め、音のない世界で満ち足りている。
327 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 05:59:34

彼らは多くを求めない。刺激も求めない。静かな暮らしを守り、老いて
寿命を全うしていく。
ベケットが望んだのは彼らのような暮らしだったのかもしれません。
けれども、精神の病は彼に静謐な空間を与えることを許しませんでした。
ベケットは病を克服するためにもひたすら書くしかなかったのでしょう。
冗漫なおしゃべりを泣き笑いしながらも続けなければなりませんでした。

「おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまっている、ただ生まれない
わけにはいかなかった、それがあいつだった」
「生きたのはあいつだ、おれは生きたりしなかった」
「おれ」とは誰なのか? 「あいつ」とは誰なのか?
「おれ」とはひとつの≪声≫であり、「あいつ」とは≪声≫を宿してくれる身体
ではないでしょうか?
つまり、わたしたちがこの世に生まれる前に≪声≫はすでに在るものであり、
つねに自らを宿してくれる道具として人の身体を探していた。
おぎゃあと叫ぶとき、すでに≪声≫は赤ん坊の身体に乗り移っている証し。
それゆえに≪声≫はひとつの身体が寿命を終えるとまた別の身体を探さな
ければならないのです。
328 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 06:00:17

≪声≫はただ人の身体を借りているだけだから、実際に生きたことには
ならない。真に生きたのは生身の身体を持つ人間であり、≪声≫はただ
寄生しているに過ぎない。
ひとたび人間の身体に寄生した≪声≫は、その人間の人生を狂わせてしまう
ことも往々にしてあるのです。
≪声≫はいつでもどこでもしゃべりつづけ、語りかけるのですが、たいていの
人間は≪声≫の一部しか聞き取れない。
ところがある種の人間は≪声≫の一部始終を聞き取ることができます。
それは幻聴と呼ばれます。≪声≫ゆえに通常の生活から外れ、生涯を
病院で送らなければならなくなるのです。

「おれは内側にいる。あいつはどこかで行き倒れるだろう。よく眠れやしない。
おれのせいだ、もう歩きつづけることもできはなくなる、おれのせいだ、
あいつの頭はもうからっぽだ、必要なものはおれが与えてやるさ」
なぜこうまでして≪声≫はひとりの人間を苦しめるのでしょうか?
329 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 06:00:59

≪声≫は人の声帯器官を通してしか発声することができず、また同時に
人の聴覚器官、耳によってでしか聞き取ることができない。
そう、≪声≫は単独では何ら力を持たず、ただ宙を虚しく舞っているに
すぎないのですね。
身体を持たない自らの存在を≪声≫は嘆き、生身の身体を持つ人間に
羨望を抱いたことでしょう。そして、いつしか羨望は呪いになっていった……。

≪声≫とは人間の無意識が生んだ形のない同伴者のようなもの。
絶えずしゃべりつづけていないと不安なのは、しゃべりつづけることで
つまり≪声≫を出すことで同伴者の存在を確認できるから。
しゃべりつづけること、それが≪声≫の人間にかけた呪い。
赤い靴を履いて死ぬまで踊りつづけなければならなかったバレリーナのように、
ひとたび≪声≫に獲りつかれた人間は命が尽きるまでしゃべりつづけなければ
ならないのです。

ベケットは≪声≫の呪いと、≪声≫の親密さの両方を描きました。
わたしたちは時に≪声≫を支配し、時に≪声≫に支配されて自らの
人生を歩まなければならないのです。
ひとりの人間の生涯が終えたとき、≪声≫は「消えるのではなくまた終わる
ため」に何度でも蘇るのです。
330 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/17(日) 06:13:46

自身がこの世を去ったとしても、≪声≫に促されて書いた作品は
いつまでも残って欲しい、それは作家ベケットの願いであったのかも
しれませんね。。。
相次ぐ身内の死を体験し、孤独と精神的迫害をいやというほど味わわねば
ならなかったベケットにとって書くことが唯一の治療であると同時に
救いであり、≪声≫を永遠に葬り去ることはできなのでした。

ベケットにとって≪声≫とは、復活したイエスのように何度でも蘇るものであり、
永遠の命そのものでしたでしょう。


――それでは。
331(OTO):2007/06/20(水) 12:00:08
「また終わるために」高橋康也・宇野邦一訳、書肆山田
60年代の作品から見ていこう。
「名づけえぬもの」の「声」が再び喋りだしたかのような「おれは生まれるまえから」。
しかし今回「おれ」が語るのは「あいつ」との関係、その一点である。
死すべき運命を持った生身の存在である「あいつ」と「あいつ」が生まれる前から存在し、
「あいつ」が死に、塵になろうとも「内側」に存在し続けると語る「おれ」。
「内側」で持続し続ける意識である「おれ」にとって誕生や死など、想像することしかできぬ「物語」である。
「内側」であるがゆえの孤独な意識の流れが「おれ」であり、外界のありふれた物語にくみし、
それに翻弄される、他者と何ら変わりない「身体的な自分」は「あいつ」なのである。
この作品の変奏、「遠くに鳥が」では、断片的な外界の記憶が「あいつ」を痛めつける様子が、
時にベケットという個人の記憶さえ露わにし、描写される。

 あいつはおふくろと娼婦の見分けがつかなくなり、おやじをバルフという名前の
 道路人夫とごっちゃにするだろう、あいつの頭に老いぼれの野良犬を注ぎ込んでやる、
 痩せこけた老いぼれの野良犬を、あいつがもう一度可愛がってやり、もう一度失うことが
 できるように(65P)
332(OTO):2007/06/20(水) 12:01:12
後の「…雲のように…」「夜と夢」などでも繰り返される、
暗闇に中で椅子に座りテーブルの上に上体をかがめた男が、
夜中何かの思い、何かの記憶に取り憑かれ、眠れずに考え続けるベケット自身の姿であることは
「ホーンはいつも」を読めばあきらかであろう。
ここでは鏡に映った顔を介して「おれ」と「あいつ」は対面する。

 とどのつまりおれは、その顔がふしぎに消え残っているのを見て、ひとりごとを言った、
 まちがいない、これはあいつなんだ、と。(50P)

「…雲のように…」「夜と夢」、そして「幽霊トリオ」などを含めて読むと、
ここで「ホーン」と呼ばれている「あいつ」を夜中に語らせるもの、
それは時に女性(たち)の記憶である。

 おれが、たとえば、で彼女の今日の着物は?と聞くと、あいつはスイッチをつけ、
 メモをめくり、その箇所を見つけて、スイッチを切り、たとえば、黄色、と答えた。(48P)

しかしこの作品では、夜中に襲ってくる、その終わり無き執着の存在よりも
その孤独な行為、そのミニマルな構図(椅子とテーブルと男)、
その「姿勢」の描写「だけ」が問題となっている。

 これは座ったまま、起きあがることも横になることもできず死を待つという
 もっとも恐るべき姿勢である。  ─ドゥルーズ「消尽したもの」(13P)
333(OTO):2007/06/20(水) 12:02:26
一方「老いた大地よ」ではおれとあいつは分離してはいない。統合され、肉体をもった「おれ」は
窓から外を見ながら、押し寄せる思い出に、あきらかに「苦悩」している。

 窓べに、片手を壁に、片手でシャツをにぎりしめて、そして空を見る、じっと、
 だがだめだ、息がつまる、体がひきつる、子供のころに見た海、べつの空、べつの体。(57P)

窓から外を見るとき、人称の分離、錯綜は起こらない。眼に映るのは現実の「外界」、
刻々と移り変わる美しい空と、自分の「手」の動き。
75年の「みじろぎもせず」では自身の「意識」は語らず、
あたかも自分の身体までが「外界」に属するかのように、坦々と微細な描写が続いていく。

 まるで暗いなかでも目を十分に閉じ足りないかのようにまたこういうものがなくなった
 ときにそなえて手という隠れ家がもしかしたらいままで以上に必要になるかのように。(88P)

「ある夜」では非常に具体的な情景が描写され、そこにはかすかな「物語」の片鱗さえ漂っている。
これについては>>323-325の美しい文章を読むにとどめよう。

「断崖」では外界の描写に、異なるものが侵入してくる様子が語られる。
岩肌に現れる顔、狂女、頭蓋骨、その眼の窪みに、まなざし。
334(OTO):2007/06/20(水) 12:03:20
そして、この「異なるもの」だけによって組み立てられたかのような世界、
「名づけえぬもの」によって発見された「この場所」、その利用の先鋭化が試みられる。
其処は常に閉塞感のある空間である。
「頭はむきだし」では「ゴドー」的なキャラクターが狭苦しい洞窟のような「この領域」を
ひたすら「前へ」歩き続ける。単純化された「何ごとも起こらぬ人生」。その主題も「ゴドー」的である。

 どうであれ、こんなふうにして彼の歴史はできあがり、変質する、新しい上昇と新しい下降が、
 影のなか、忘却の方に、とりあえず褒められた上昇と下降を追いやるからだし、別の要素や
 動機が、例えばやがてたっぷり話の種になるはずのこの骨もそうだが、その貴重さでその
 歴史を豊かにするからだ。(37P)

「見ればわかる」での抽象化、イメージ化はもっと複雑、というよりも純粋、と呼ぶべきだろうか、
我々が「意味」を反芻できるよりどころはその「競技場」という言葉しか無く、文章はその巨大な
競技場の構造を描写し続けるのみ、である。

それはおそらく、人間の作ったもの、社会的な或るシステムの「イメージ化」なのであろう。
しかしその異形の建造物は、単純な寓意や皮肉を超えて、ただ非人間的な姿でそびえ立つ。
その建造物だけが、まるで漆黒の空間に浮遊しているかのようだ。
335(OTO):2007/06/20(水) 12:04:07
「この場所」で我々は、語られたものしか見ることはできない。
そしてベケットが飽くまでミニマルな描写によってイメージを創り出すとき、
それを読む者は、誰しも「ほとんどまったく同じ」光景を見ているはずである。
それは読む者の記憶、体験による参照にいっさい頼らず、純粋な或るもののかたちを描写する。
これがベケットが発見した「この場所」の最大の権能であろう。
言葉だけによって浮かび上がるもののかたち。
ドゥルーズは「この場所」をベケットの言語?。と呼ぶ。

 ここで見られ聞かれた何かは、視覚的または音声的な「イメージ」と呼ばれる。
 ただし他の二つの言語によって拘束されていたイメージを、その連鎖から解き放たなくては
 ならない。もはや、言語?氓ニともに系列の一全体を想像することも(「理性で損なわれた」
 順列組合せの想像力)、言語?�とともに物語を考えだし、思い出の目録を作ることも(記憶で
 損なわれた想像力)重要ではない。(中略)イメージのこのようなあらゆる粘着性を引き裂いて、
 「想像力は死んだ想像せよ」という地点に達するのは至難の技である。少しも損なわれていない
 純粋なイメージ、まさにイメージそのものを作りだすこと、一切の人称的なもの、合理的なものを
 保存することなく、十全な特異性のうちにイメージが出現するような地点に到達し、天上的な
 状態にも似た無限定なものに接近することは実に困難である。(「消尽」17〜18P)

そして表題作「また終わるために」では徹底的な言語?。の使用により、「この場所」は
「異界」としか言いようのない様相を出現させる。
336(OTO):2007/06/20(水) 14:52:51
私はこの作品、この本を何度読んだことだろう。例えば通勤の電車の車内、で。
そのページを開けるごと、異界はぱっくりと口を開け、瞬時に私を飲み込む。

まず「出口のない暗い場所」で、スポットライトが当てられるように「頭蓋骨」と「板きれ」が
浮かび上がる。最早椅子に座りテーブルにうつむいた人間の頭部なのではない。
かろうじて「頭蓋骨」と「板きれ」。そして「スイッチを押したように」灰色の砂漠が
出現する。直立する「追放された男」。雲のない灰色の空。地獄の空気。

「きちがいじみた思い出の堆肥」を担架で運ぶ二人の小人という「イメージ」の出現は衝撃的である。
これらのイメージは誰が読もうとほとんどまったく同じ光景であり、
そこには心安まる「解釈」も自分に照らし合わせた「納得」も存在する余地はない。
我々はすでに「地獄の空気」に捕らえられてしまっているのだ。

小人は担架を投げ出し、男は倒れ、また「スイッチを押したように」闇が訪れる。
終わったのだ。何かが、また終わるために始められた何かが、終わったのだ。

「また終わるために」はひとつの完成されたプログラムである。それは読むたびに
我々の持続する日常に裂開を作り、終わる。読み終わった我々の意識は再起動され、
RAMが更新される。おそらくそのためには、ひとつの終わりが、なくてはならないのであろう。

337 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/24(日) 22:45:42

(OTO)さん

丁寧かつ綿密な感想をありがとうございます。ベケットの作品をこころから
敬愛している人ならではの特有の情熱を感じました。

>>331
>「内側」であるがゆえの孤独な意識の流れが「おれ」であり、外界のありふれた
>物語にくみし、それに翻弄される、他者と何ら変わりない「身体的な自分」は
>「あいつ」なのである。
「おれ」と「あいつ」との対話はデカルトを敬愛していたベケットならではの
視点の物語ですね。
デカルトは数ある哲学者のなかでも「対話」にかなりこだわった人です。
その「対話」とはわかりやすい他者というよりも、内側の意識としての「あいつ」と
「あいつ」に問いかける「おれ」。

>>332
>ここでは鏡に映った顔を介して「おれ」と「あいつ」は対面する。
「おれ」は「あいつ」と対話することで、「我思う ゆえに我あり」となるわけですが、
べケットはデカルトのようにストレートに思索の道を選ばない。
とにかく相手にしゃべらせ、また自身もしゃべることによって己の存在を
確立させます。さながらデカルトが静ならベケットは動。
その「動」も身じろぎできなくなればなるほど、思索に傾くのではなく、
ますますおしゃべりに拍車をかけます。
死を待つ寸前になってもまだおしゃべりをやめない、もはや狂気に近い。。。
338 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/24(日) 22:46:26

>>333
>一方「老いた大地よ」ではおれとあいつは分離してはいない。統合され、肉体を
>もった「おれ」は
まだこの時点では「おれ」は正常であり、統合された精神と肉体を持った「おれ」は
それゆえに苦悩します。
苦悩するということは、精神が解放されていない証しでもあるのです。
真の狂人は精神が解放されており、彼らは苦悩からはほと遠い自由な境地にいる
のです。
そうした意味では「老いた大地よ」は貴重な作品といえるかもしれません。
なぜなら、ベケットの作品のほとんどは狂人が主人公であり、読者は正常者、
つまり、狂人になる前の彼らの苦悩はついぞ知らされることはなかったのですから。

>>334
>それはおそらく、人間の作ったもの、社会的な或るシステムの「イメージ化」なの
>であろう。
>しかしその異形の建造物は、単純な寓意や皮肉を超えて、ただ非人間的な姿で
>そびえ立つ。
ベケットは「イメージ」が好きですよね。
もし、ベケットの作品を表す絵を描くとしたら写実よりも抽象画、それもシュールな
もののほうがふさわしいかもしれません。
異形な人物はピカソの描く絵のように、異形の建造物はダリの絵のように。。。
具象を廃し、自らイメージの世界で遊ぶ(三人の男女が骨壷から首だけ出している
シュールな劇はまさしく具象性を無視した典型)、ベケットは窮屈な現実世界から
容易に脱出する術を心得ています。
339 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/24(日) 22:47:09

>>335
>これがベケットが発見した「この場所」の最大の権能であろう。
>言葉だけによって浮かび上がるもののかたち。
>ドゥルーズは「この場所」をベケットの言語・と呼ぶ。
ベケットは「この場所」を自身の特権的な場所とし、決して読者を介入させない。
共感を誘わない、共有を許さない。
それはベケットだけの言語の世界であり、わたしたちは彼の世界を正確に
知ることはできません。
ベケットは、もともと人間は他者と世界を分かち合うことはできぬものであるから、
それならば独自の世界を自由に描こうと決意したのかもしれません。
わたしたちは他人の世界を正確に把握できるはずもなく、想像力を駆使して
あれこれ憶測するに留まるのが現状です。
まあそれでもたいていの作家は、少しでも読者に自身の世界を理解してもらいたい
と望むものなのですが、どうやらベケットの場合はそうではなさそうですね。。。

それゆえベケットの発見した「この場所」はわたしたちにとって「異界」としか言いよう
のない様相を出現させるのですね。
340 ◆Fafd1c3Cuc :2007/06/24(日) 22:48:07

>>336
>私はこの作品、この本を何度読んだことだろう。例えば通勤の電車の車内、で。
>そのページを開けるごと、異界はぱっくりと口を開け、瞬時に私を飲み込む。
>「頭蓋骨」と「板きれ」が浮かび上がる。
同じように「異界」を描きながらもブランショの描く「異界」は夜の闇に妖しく輝く
夜光虫のような美しさをもっていますが、ベケットはグロテスクな世界ですよね。
醜悪さと残酷さが如実に現れている。
沈黙のブランショは「異界」は墓所、摩天楼、深い海中、夜の闇、霧、ガラス窓の
光といった被造物を描きますが、饒舌なベケットは狂人、骨壷の人間、半身不随、
身体障害者といった人間界での異端者をイメージを駆使して克明に描きます。

>何かが、また終わるために始められた何かが、終わったのだ。
まさにこの世は円環。
始めも終わりもひとつの輪。


ーーそれでは。
341SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/06/27(水) 00:58:53
板の人大杉と連続出張なんかで間があいちゃったね。
その間に二人の精力的な書き込みがたっぷり!

とりあえず、『また終わるために』について。

>>323からのCucさんの書き込みで、
「ある夜」「みじろぎもせず」をピックアップしてるのが、
まず、らしいな、と思った。
どんな砂漠からも水を吸い上げてゆくような、
それだけでなくて、その水で花まで咲かせてしまうような、
息吹を与える独特の読み方。
これはオアシス読みと名づけてもいいかもしれない。

訳者のひとり高橋康也になると道化読みという視点を提示してて、
『道化の文学』や『ノンセンス大全』といった本では、
ルイス・キャロルからベケットへというセリーを打ち出してる。

>>331からのOTO氏の書き込みではドゥルーズが引用されてたね。
ルイス・キャロルといえば、ドゥルーズは『意味の論理学』で、
アリスの世界のセンス(感覚=意味=方向)を描いてみせたけれど、
そのドゥルーズはベケットから《消尽》というキーワードを取り出した。

もうひとりの訳者宇野邦一は仏でドゥルーズに師事した人で、
おそらくドゥルーズの影響でベケットの翻訳に向かったのだろう。
342SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/06/27(水) 01:06:58
ベケットからキーワードをひとつ抽出するとしたら、
「終わり」という言葉がまず思い浮かぶ。
ベケットほど「終わり」を書いた作家はいないんじゃないかと思うくらい。
そしてその「終わり」というのは、始まりに続く円環というよりは、
むしろ始まる前から終わるような、あるいは、
終わることでしか始まらないような、あるいは、
終わることと始まることがいっしょくたになってるような、
そんな「終わり」じゃないかと思う。
かなり抽象的な言い方だけれど。
343SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/06/27(水) 01:17:58
プルーストやクロード・シモンのような円環に導かれる終わりではなく、
終わることと始まることがいっしょくたになってるようなベケット的終わり。
「おれは生まれるまえからおりていた」という
始まる前から終わっているようなイメージは、
またもや「墓胎」という言葉を喚起させるけれど、
でもやはりその場所から始まる。
終わるために、いや、「また」終わるために。
――終わることは永遠に反復される。

>ひとりの人間の生涯が終えたとき、≪声≫は「消えるのではなくまた終わる
>ため」に何度でも蘇るのです。 (by Cuc)
344SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/06/27(水) 01:34:15
>これがベケットが発見した「この場所」の最大の権能であろう。
>言葉だけによって浮かび上がるもののかたち。 (by COTO)

「墓胎」の場所、そこは言葉が沈黙の中へと消えゆくように生まれる場所。

しかし、『また終わるために』は文学作品なんだろうか?
成功作か失敗作かの二者択一が無意味だとしても、
これは作品として一体成立してるのだろうか?
この作品が「ひとつの完成されたプログラム」なのかどうか、
それはよくわからないし、詩のようでもある散文の名づけ方を知らない。
どちらかといえば、作品として生まれることができなかった作品、
ベケットの50年代の作品名を持ち出せば「反古草子(無のための作品)」か、
あるいは『また終わるために』の米版名『Fizzle(すかしっ屁)』なのだろう。

この小品集自体が「作品」というものの「墓胎」であるかのように。
345SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/06/27(水) 01:36:18
全体的な感想のみになっちゃったけれど、
取り急ぎの即興レスでご勘弁を。 〆
346(OTO):2007/06/29(金) 12:15:26
オアシス読みっていうのはすごい!すごいよSXY!

>>338
>もし、ベケットの作品を表す絵を描くとしたら写実よりも抽象画、それもシュールな
>もののほうがふさわしいかもしれません。
>異形な人物はピカソの描く絵のように、異形の建造物はダリの絵のように。。。

おもしろいなww
おれはジャコメッティっぽい印象があるな。彫刻よりも肖像画。
素描している内に人物がどんどん細くなって、回りの空間に圧迫感が生まれてくる感じ。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2006/giacometti060531/index.html
347(OTO):2007/06/29(金) 12:30:48
>>340
>醜悪さと残酷さが如実に現れている。

残酷っていうのはあるかも知れない。徹底的な「消尽」によって
テーブルが板きれに、頭は頭蓋骨に。しかしそれは長い時間を経て
風化したような印象だ。彼にとっては死すべき肉が演じる人間的なドラマの方が
醜悪だったのかも知れないな。

>>342
>終わることと始まることがいっしょくたになってるような、
>そんな「終わり」じゃないかと思う。

なんとなくわかる。投了、というか、もう言えることが無くなるような状態に達する、というか。
だけどしばらくすると、もう少し何か言えるかもしれない、という風になるww
348(OTO):2007/06/29(金) 12:42:12
>>344
>しかし、『また終わるために』は文学作品なんだろうか?

www実際この作品では何が起きたのかわからないし、その流れに納得できる必然性も無いからねw
おれは「幽霊トリオ」のような不思議なTV作品に近いような気もする。
そのすべてがただ「イメージ」を作りだすために「始められ、終わる」ような。
そしてその「イメージ」は何かを伝えるためのものではなく、ただ純粋に
「不思議な光景」であるだけ、というか。
だけど言葉だけでこれができたのはすごいと思うな。
349 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 00:49:16

>>341-345 SXYさん

久々の書き込み、うれしく読ませていただきました。

>息吹を与える独特の読み方。
>これはオアシス読みと名づけてもいいかもしれない。
ありがとうです♪♪ とてもとてもうれしいですっっっ♪♪
わたしの読み方は少女趣味的な読み方が多分に入っているのですが、
作品は書きあがった時点で作者から離れ、読者に読まれた時点で読者のもので
あるとのことですので、好き勝手に読ませてもらっています。
ただ、ベケットはかなり手強かったですね。。。
少しの脱線も許さないというか、甘さを嫌うというか、、、
ベケットもわたしの感想を読んで苦笑しているんじゃないのかなあ。
辛口のわたしの作品をまるで別作品に読み違えてくれたものよ、と。
350 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 00:50:21

>そしてその「終わり」というのは、始まりに続く円環というよりは、
>むしろ始まる前から終わるような、あるいは、
>終わることでしか始まらないような、
彼の作品は「始まる前から終わっていた」典型かもしれませんね。
それは、この世に生まれ出た時点ですでに老いていた、と同じニュアンスを
感じます。
この世では、始まるということは終わりに向かうことが義務づけられていますが、
ベケットの場合は始まる以前に終わっているのですね。
それゆえ、物語は物語性を持たない。
起承転結どころか、一向に物語は進まず始まる前から終わってしまっている。
醒めているといよりは、決して始まらせない、というベケットの頑固さを感じます。

>しかし、『また終わるために』は文学作品なんだろうか?
>これは作品として一体成立してるのだろうか?
>詩のようでもある散文の名づけ方を知らない。
これは分類が非常に難しいですね。作品の下書きのようでもあり、後で思いついた
補完のようでもあり、未完の小説のようでもある。
まさに「名づけえぬもの」ですが、あえて名づけるならば「作品群のつぶやき」かな。
語るのはベケットではなく、彼の作品そのものがつぶやく。
つぶやきはひとつの≪声≫となり、わたしたちに始終語りかけてきます。
351 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 00:51:22

>>346-348
(OTO)さん

ジャコメッティの絵画、ありがとうございます。
う〜ん、かなり線の細い肖像ですね。存在感が希薄というか。
そういえば、ベケットの人物って饒舌だったり、狂人だったりはするけれども
あまり自己主張の強さは感じられないですね。
これといった確固たる意志はもたないかのよう。
例外としては「ゴド―」のふたりくらいかな、何としてでも待ち続けるという。
でも、それも見方によっては強い意志というよりは、あきらめて他のことを
するのがただ面倒なだけというふうにもとれます。

>彼にとっては死すべき肉が演じる人間的なドラマの方が
>醜悪だったのかも知れないな。
仏教では生前どんな悪人でも死ねば皆仏になるというありがたい宗教ですが、
ベケットは人間の醜悪さを死をもってすら救わない。
人間が人間である以上、この世でもあの世でも醜悪なまま。
……彼にとっては生も死も息苦しいものだったに違いない。
352 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 00:52:19

>そしてその「イメージ」は何かを伝えるためのものではなく、ただ純粋に
>「不思議な光景」であるだけ、というか。
イメージ作家か、なるほど!
ひとつのイメージを完結させるために、言葉はたんに寄せ集められただけ、
イメージを鮮明にするために、言葉遊びがなされる。

ベケットは言葉に魅了された作家の一人ではありますが、
いつしか言葉の魔力に支配されてしまったような感がありますね。
博識で誇り高いベケットは言葉に支配されることを何よりも恐れていたにも
拘わらず、いつしか言葉は彼の手を離れて暴走を始めます。
『マルテの手記』で「僕の手が僕の意志とは無関係に言葉を書いていく」と
語ったリルケを想起させます。

そういえばリルケも強迫神経症で悩んでいた作家だったような、、、
そして、ブランショも然り。。。

言葉を操る作家たちの運命は言葉を操っているつもりがいつの間にか
形勢が逆転して言葉に支配される運命にあるようです。
言葉の王国を弄んではならないのですね。
353 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 20:31:15

『いざ最悪の方へ』の感想を記します。
ベケットの晩年の随筆が三つ所収されています。
一番好きな作品は『なおのうごめき』です。
けれども、順番として題名となっている『いざ最悪の方へ』の感想から
入るのが順当かと思いました。
というのは、『いざ最悪の方へ』はこれまでのベケットの作品に登場する
老人、老婆、子供、帽子、長靴、などが同じように今回は随筆という形式で
語られているからです。
もっとも随筆とはいえ、ベケットの場合小説とさほど大差ないように感じました。
モノログ、言葉遊び、こうした顕著な特徴は今回も全編に散りばめられて
います。

――だがまずおそらくすべてのなかで最も悪い最悪のもの老人と子供を
言う。もっと悪いを必要とする最も悪い。最も悪い――(p51)

なぜ、「すべてのなかで最も悪い最悪のものが老人と子供」なのか?
彼らに共通しているのは社会的に無力であり弱者であること、社会に何らかの
形で生産性をもたらしていないこと。
けれどもこうした表面的かつ短絡的な理由でベケットは老人と子供を最悪の
ものと設定したのではないでしょうね。
354 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 20:31:53

ベケットの作品を思い返してみると、いくつかの例外を除いてほとんどが
「言葉を求める」作品であることに気づかされるのです。
それもブランショのような生真面目な態度ではなく、遊び、おふざけの要素
を含んでいます。
おそらくは遊びやおふざけはベケットの照れの裏返しなのではないでしょうか?
本当は誰よりも真摯に言葉を追求しているにも拘らず、彼のスノッブさが
全面に真摯さを打ち出すことを許さない。
それがあの遊びなのかふざけているのか理解に苦しむ膨大な注釈付きの
作品になったのではないかと。

さて、老人と子供についてですが、「言葉を求める」ベケットにとって彼らほど
厄介な存在はありません。
子供は語彙力が乏しい上に何でも大人の言葉を真似します。そこには判断力
は皆無です。つまり、使い方がまったくわからないまま言葉を乱用するのです。
老人にいたっては語彙は豊富であっても一度こうだと決め込んだら最後、
言葉の幅が広がることを断固として拒み、柔軟性を認めません。
最悪なのは彼らは言葉を使って説教することです。
言葉は道徳や説教の道具ではありません。
355 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 20:32:57

ベケットにとってはどちらも厄介なお荷物なのです。
自由な言葉遊び、使っていいかどうかの的確な判断力、彼は言葉を自在に
操る裏で細心の注意を払っていたはずです。
前にSXYさんも指摘されていましたが、非常な「計画性」をもって言葉を
組み立てていたのですね。
ひとことでいえば、ベケットは無軌道なものが嫌い、説教臭いものが嫌い。
理由ですか?
無軌道なものも、説教臭いものも等しく洗練されていないから。
ベケットはかなり言葉に対する美意識が高い作家です。ブランショも相当に高い
作家ですが、ブランショは自身の美意識の高さを隠そうとはしません。
実際、ブランショの作品は品がよく、性的なシーンは極力抑えられ、
排泄用語など皆無です。
これに反しベケットは照れ隠しの反動のように性的描写、排泄場面をいたる
ところに散りばめます。但し、たんなるグロに堕ちないのは彼特有のユーモラス
な筆遣いに負うところが大きいと言えましょう。

『いざ最悪の方へ』はあらゆるものを「もっと悪い方へ」書いたものですが
言葉には限界があることを思い知らされる作品です。
「もっとも良く」書くことが不可能なように。。。

――最も良くもっと悪くもっと先はない。どうにももっと少なくは。
どうにももっと悪くは。もうどうにも。もうどうにも言われず――(p79-80)

「最も良い」とは「最も悪い」こと。つまり、もうどうにも表現できないもの。
356 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 20:34:11

『なおのうごめき』
『モロイ』『マーフィ』を随筆に書き換えたかのような作品です。
定番のモノログ。「彼」は帽子と外套を身につけて昔歩いた田舎道や草原を
回想します。記憶はおぼろで事実だったかどうかもあやふや。
夜の闇、風の音、空腹と苦痛にあえぎながら歩いた田舎道。
彼は記憶のなかへタイムスリップします。
草原へと。
彼はどんな草原も思い出すことができず、困難を極めるばかり。。。
彼はついに身動きできなくなり、そこで最期を迎えることになります。
その瞬間、彼は「失われた言葉」を耳にします。
その言葉が具体的にはどういう言葉なのかはいっさい示されません。

――そのときまでかつてなかった場所で終わるとはああなんて
そしてここにまたあの失われた言葉。そして彼の耳にかすかに奥深くから
いくどもいくども――(p99-100)

モロイが聞いた≪声≫、モランが聞いた≪声≫を、「彼」も今際の極みで
聞いたのですね。それは「失われた言葉」であるという。

――それはつまりあの失われた言葉しだい それがもし警告するため 
ああ終わる。どのようにであれどこでであれ――(p101-102)

言葉を渇望したベケット、膨大な言葉遊びを堪能したベケット。
「失われた言葉」とはどのようなものであったのか、わたしなりに勝手に推測して
みました。
彼が最期に求めたのはもしかしてイエスのあの言葉……。

「たとえ天地が滅び去るともわたしの言葉は決して滅びることはない」
(ルカ福音書21・33)
自身の言葉に対する絶大なる揺るぎない信頼感と自信に裏打ちされた
力強い言葉。
357 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/01(日) 20:35:18

冗長なせりふが特徴の「ゴドー」、ベケットは書いても書いても満たされない
飢餓を感じたことでしょう。
それは自分の書いた言葉が永遠には残らないこと、ひとたび風が吹けば
忘れ去られてしまう類のものであることをベケット本人が一番知っていた
からではないでしょうか。
同じように言葉を扱いながらも、自ら神を「父」と呼び、神と言葉に絶大なる信頼
を寄せていたイエスに羨望を抱いたことでしょう。
ベケットはなるほど言葉に関しては博識ではあったけれども、信頼してはいなか
ったでしょうし、自嘲的で辛辣なところが伺えます。

私見ですが、言葉は弄ぶものではなく、こころに残るものであって欲しい、
絆を深めるものであってほしいのです。

この随筆は最期に辿り着いた「言葉」に対するベケットの告解(カトリックで罪を
告白すること)に近いものを感じました。


――それでは。
358SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/07(土) 01:16:17
>テーブルが板きれに、頭は頭蓋骨に。しかしそれは長い時間を経て
>風化したような印象だ。(by OTO)

ドゥルーズは「消尽」と言ったけれども、ベケット作品を時系列で眺めると、
「研鑽」というより、「風化」という言葉が似合うかもね。
しかもそのスタート地点からして風化しているような。

それは物語の風化でもあるんだろうね。

>ベケットの場合は始まる以前に終わっているのですね。
>それゆえ、物語は物語性を持たない。 (by Cuc)

物語のないところで、一体声は何を紡げるのだろう。
おそらく、それはイメージ。

>そしてその「イメージ」は何かを伝えるためのものではなく、ただ純粋に
>「不思議な光景」であるだけ、というか。
>だけど言葉だけでこれができたのはすごいと思うな。 (by OTO)

イメージ、不可視の。けれど、絵画ではなく、やはり言葉。

>ベケットの作品を思い返してみると、いくつかの例外を除いてほとんどが
>「言葉を求める」作品であることに気づかされるのです。

言葉を求める、あるいは、言葉が求める、あるいは、あるいは、
言葉は沈黙を求めながら、沈黙は言葉を求める。
言葉と沈黙の、あいだの、つぶやき。
359SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/07(土) 01:20:28
>>353-357
『いざ最悪の方へ』所収の3作品についての感想、拝読。
>一番好きな作品は『なおのうごめき』です。
というのはCucさんらしい。

『なおのうごめき』の出だしはこうだったね。
――「ある夜机に座り両手に頭をのせて彼は自分が
起き上がり出ていくのを見た。ある夜かある日。」――

これはとても不思議な始まり方だ。
だって彼は「机に座り両手に頭をのせて」いるにもかかわらず、
「自分が起き上がり出ていくのを見た」のだから。

ベケット作品では、座っていて、なおかつ出て行くことができ、
それは「ある夜かある日」のことであり、
あるいは夜でもあり、日(昼)でもあるような時空の出来事。

ここでまず端的に結論から書いてしまおう。
ベケットを読み、その言葉から感じられるのは、
対極のものが同居している不可思議な緊張であり、
対極のものが融合しないままに隣接してる独特の強度。
360SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/07(土) 01:30:40
ベケットは『伴侶』『見ちがい言いちがい』『いざ最悪の方へ』の
後期三部作を書いたあと、『なおのうごめき』『なんと言うか』を書いて逝去。
1950年代までのベケットを読んできてから、
これら最晩年の80年代の作品を読むと、
なんかすごく透明度を湛えた言葉の結晶のように思えるんだナ。

とはいえ、もし80年代の作品しか残さなかったとしたら、
きっとベケットは誰からも読まれず、知られることもなかっただろうし、
あの『ワット』や『ゴドー』や『モロイ』『名づけられぬもの』を経てこそ、
80年代のベケット作品に対する感慨につながるんだと思う。

そしてその「風化した」というか「消尽した」というか、
OTO氏が名前を挙げたジャコメッティの彫像のような姿の作品には、
書肆山田の余計な装飾のないシンプルな造本がとても似合う。
361SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/07(土) 01:44:17
『なおのうごめき』なら『なおのうごめき』について、
もっと具体的に詳しく読解を試みてみたい気もするけれど、
たぶんこの散文には、言葉を継ぎ足すことなど無理な気もして、
この作品が孤高だとか極北だとかいいたいわけじゃないし、
他の作家のどんな作品より優れているというわけでもないけれど、
解釈とか評価とかジャンル分けだとか、
そんなものなんてどうでもいいと思わせる雰囲気があって、
「サム、あんたには参ったよ」と手を上げたくもなってしまう。
362SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/07(土) 02:07:44
だから、ベケットについて語れることは少ない。
ゆえに、端的に、最初に結論を書いてしまったわけだけど、
対極のものの同居ないし隣接はあちこちで見られる。

たとえば『いざ最悪の方へ』の出だし。
――「さあ。まだ言う。まだ言われる。まだどうにか。
もうどうにも。まで。もうどうにも言われず。」――

「言う」と「言われる」(主体と対象)
「まだどうにか」と「もうどうにも」(可能性と不可能性)
「言われる」と「言われず」(肯定と否定)
これらはパラドックスでもアンチノミーでもなく、
言葉の歩み。あのワットの可笑しな歩行にも似た。

第3パラグラフからの抜粋
――「中で動く。外へ。中へ戻る。いや。出ない。
戻らない。ただ中に。」――

ここでも「中」と「外」が一体化されないままに反転しつつ、
もうどっちなのかわからなくなっている。

第5パラグラフでは、
――「もっと良くまた。あるいはもっと良くもっと悪く。」――

これじゃあきりがない。。。
363SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/07(土) 02:22:31
第5パラグラフの、この「もっと良くもっと悪く」は、
作品の中で度々繰り返されるけれど、
良くと悪くは仲良く並び、子供と老女も並ぶ。光と陰もまた。
まるで生と死が仲良く並ぶように。
子宮と墓穴が仲良く並ぶように(墓胎)。
そして、言葉と沈黙が仲良く並ぶように。
だから、ざわめき。

『なおのうごめき』の最終パラグラフからの抜粋。
――「あれこれそんなような あのざわめき 彼の
いわゆる意識の中で 奥深くから ほかに何ひとつ
残らなくなるまで ただますますかすかに ああ終
わる。どのようにであれどこでであれ。時間と悲嘆
といわゆる自己。ああすべて終わる。」――

『いざ最悪の方へ』の最終パラグラフ=センテンス。
――「もうどうにも言われず。」――

前に書いたことを繰り返せば、
始まりと終わりも仲良く並んでしまう。
「ああ終わる」「ああすべて終わる」と書いて
この作品は終わっているけれど、おそらく、
このパラグラフから始まっても違和感はないだろう。

そして「また終わる」ためにベケットは次の作品へ向かう。
すべて終わったあとでも「まだもぞもぞ(なおのうごめき)」と語りだす。〆
364 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/08(日) 21:39:53

SXYさん
感想文のコメント、ありがとうございました。
いつもながらの丁寧なコメントですね!

>>358-363
>ドゥルーズは「消尽」と言ったけれども、ベケット作品を時系列で眺めると、
>「研鑽」というより、「風化」という言葉が似合うかもね。
「風化」、静かな時の流れを感じさせる言葉ですね。
抗いがいつしか諦めになり、いつしか受容になっていく。。。
マーフィーもマロウンも最後はそれぞれ「死」を迎えるのですが、彼らの「死」は
いっときは親しい人々の内に残るけれども、いつしか風化していく。
ベケットが紡いだ膨大な言葉たちも然り。。。

>『なおのうごめき』の出だしはこうだったね。
>――「ある夜机に座り両手に頭をのせて彼は自分が
>起き上がり出ていくのを見た。ある夜かある日。」――
>これはとても不思議な始まり方だ。
>だって彼は「机に座り両手に頭をのせて」いるにもかかわらず、
>「自分が起き上がり出ていくのを見た」のだから。
そう、わたしはこの冒頭を読んで真っ先に想起したのは尾崎翠でした。
彼女の作品にはドッペルゲンガー現象が現れるものがあるのです。
尾崎翠は新感覚派、第七官を提唱した作家です。
ベケットとはまったく異なる世界を描いた作家。にも拘らずこの不可思議な始まり方に
ふたりに共通するものがあるような錯覚にとらわれました。
365 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/08(日) 21:40:34

尾崎翠は感覚でしかとらえられないものを好んで描き、ベケットは感覚よりも
言葉を重視します。
この真逆な作家のふたりにあえて類似点があるとすれば、書いている自身を
その場から幽体離脱させたこと……。
作家は無論俯瞰的な神の目を持たなければなりませんが、そうした喩えではなく
このふたりは実際に幽体離脱できたのではないかと、、、
そういえば、尾崎翠もベケット同様、神経症で悩んでおりましたね。。。
ベケットも尾崎翠もおそらく実際にドッペルゲンガー体験者であり、その体験を
創作らしく見せかけて書いたのではないでしょうか。

>対極のものが同居している不可思議な緊張であり、
>対極のものが融合しないままに隣接してる独特の強度。
同じように対極のものが同居しているバタイユは壮絶な美しさですが、
ベケットの場合は、どこか人工的なものを感じますね。
バタイユは神と娼婦、苦悩と法悦といった根源的なものを対比させますが
ベケットは子供と老婆、狂人と正常者など「社会の目」を通しての対比ですね。
バタイユが「絶叫」であるなら、さながらベケットは「つぶやき」。
366 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/08(日) 21:41:23

>これら最晩年の80年代の作品を読むと、
>なんかすごく透明度を湛えた言葉の結晶のように思えるんだナ。
饒舌さは変わらないけれども、純度の高い言葉のみを選んでいますよね。
なかには詩のように思える作品もありましたし。

>あの『ワット』や『ゴドー』や『モロイ』『名づけられぬもの』を経てこそ、
>80年代のベケット作品に対する感慨につながるんだと思う。
後期の作品群は静かで言葉のひとつひとつが立ち上がってくるような感じです。
短いがゆえに必要な言葉だけを抽出して書かれたのですね。
詩のような美しさという点ではバタイユの「太陽肛門」と双璧でしょう。

>まるで生と死が仲良く並ぶように。
>そして、言葉と沈黙が仲良く並ぶように。
「沈黙」を描いた作家は、バタイユ、ブランショ、ベケットですがこの三者は
それぞれ沈黙の内容、辿り着き方が異なっていてなかなか興味深いです。
バタイユの「沈黙」は、あらゆる背徳の限りを尽くし絶叫した後の、沈黙。
ブランショの「沈黙」は、最初から黙して語らずの果てに訪れた、沈黙。
ベケットの「沈黙」は、饒舌のあとに訪れるつぶやきを経ての、沈黙。
367 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/08(日) 21:42:53

>そして「また終わる」ためにベケットは次の作品へ向かう。
>すべて終わったあとでも「まだもぞもぞ(なおのうごめき)」と語りだす。〆
ひとたび、「沈黙」に辿り着いたと思いきや、再び語るために、また終わるために
書き出す運命にある作家たち。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」ヴィトゲンシュタインの
命題は破られるためにこそ存在するかのよう。。。
それはあたかも、禁忌を侵すのが人間の性(さが)であるのに似て……。


――それでは。
368(OTO):2007/07/10(火) 13:38:38
どうにか書いた。もうどうにもwww

「いざ最悪の方へ」長島確訳、書肆山田。
ベケット没後十年、書肆山田の後期散文シリーズの最後に出版された長島確の訳文は
宇野邦一によってベケットにはまった自分には、やはり最初違和感を感じたのだが、
読み込む内にその、慎重に翻訳者としての自分の存在を消そうとしているかのような
姿勢とでもいうのだろうか。ベケットのグレーにいかなる色も足すまいとしているような、
そんな印象を受け、次第に好感を持つようになった。振り返ると宇野邦一の訳文は
金属質な、少し寒色系のグレーだったような気もする。

もともと「消尽したもの」を読んだ私が、ベケットの作品を読み続けたのは
この論文に一部引用されている「どう言うか」に衝撃を受けたことがきっかけに
なっている。

 狂気見られたあの ─
 あの ─
 どう言うか ─
 これ ─
 あのこれ ─
 このこれ ─
 すべてのあのこのこれ ─
 狂気与えられたすべてのあの ─
 見られた
 狂気見られたすべてのあのこのこれどんな ─
 どんな ─
 どう言うか ─
 見る ─
 かいま見る ─
 かいま見ていると思う
 かいま見ていると思おうとする ─
 何をかいま見ていると思おうとする狂気
369(OTO):2007/07/10(火) 13:39:20
同じ部分の長島確訳はこうなる。

 たわごとというのもこの─
 この─
 なんと言うか─
 これ─
 このこれ─
 ここのこれ─
 すべてのここのこのこれ─
 たわごとなのはすべてのこの─
 というのも─
 たわごとというのもすべてのここのこのこれは─
 は─
 なんと言うか─
 見る─
 垣間見る─
 垣間見ると思う─
 垣間見ると思いたい─
 たわごとはなにを垣間見ると思いたいから─
370(OTO):2007/07/10(火) 13:40:04
1983年英語で執筆された表題作「いざ最悪の方へ」が、
例外的にベケット自身によって仏訳されなかった、という「事件」を
めぐって、ベケットの「一義性」に迫る巻末の論考「線とインク」では
言葉「に対して」ベケットが到達した地点が見事に表現されており、
今回再読して最早この上感想文を書くまでもなく感じた。
英語仏語と作品を書き、翻訳する過程を2本の「線」を描く行為に見立て、
長島確はその現実的な行為の背後に抽象的な1本の線の存在を見る。

 ベケットの〈散文〉という問題は強固な論理性と結びついており、またそれは
 彼の作品の翻訳可能性とも結びついている。「伴侶」における、人称をめぐる
 あの果てしない推論、「見ちがい言いちがい」のすみずみにまでおよぶ呆れるほどの
 整合性、「なおのうごめき」の人物をどこまでも導いていく可能な選択肢の組合せ、
 「なんと言うか」の言いかえの規則性などはすべて抽象的な論理の線を示している。
 ベケットはその線を、英語とフランス語によって二度引く。むろん彼には、マラルメ
 に見られたような、「イデア」の実在にかんする確信といったものはない。あるのは
 ただどこまでも抽象的、論理的な筋道であり、それが紙の上に記されるときにつきまとう、
 分裂的な豊かさである。彼が追い求めた〈貧しさ〉とは、作品の短さや語彙の少なさと
 いった、表面的にとらえられるものばかりではない。それはなによりも、内在的な線の
 簡潔さ、単純さであり、その鋭さである。(140P)

「名づけえぬもの」がジャコメッティのデッサンのような乱雑な線の堆積によって、
或る、名前を付けることかなわぬ「もの・こと・場所」を描写する試みであったとするなら、
「いざ最悪の方へ」はかすれた細い3本の線を何度も消しては描き直すような行為と言えよう。
まるでサイ・トゥンブリ、である。
http://www.lowlandking.com/images/uploads/blackbird.jpg
http://www.artgallery.nsw.gov.au/__data/page/5026/Twombly_-_3panels2.jpg
http://artscenecal.com/ArtistsFiles/TwomblyC/TwomblyCJPGs/CTwombly6D.jpg
371(OTO):2007/07/10(火) 13:41:18
この作品を初めて読んだとき、ふと、デレク・ジャーマンの
「エンジェリック・カンバセーション」という映画を思い出した。
荒い、褪色した映像の断片が、重なり、何度も繰り返される。ストーリーはなく、
COILのアンビエントな音楽と、水音、男たちの息づかいにときおりシェークスピアの断片が
女声ナレーションによって朗読される。
ベケットが「いざ最悪の方へ」で現出させようとしている「背中」と「つないだ手」の映像が、
このデレク・ジャーマン映画の、粒子の荒いスモーキーなトーンで私の頭の中に現れたのだ。

 次に突然二人は消え去り。次に突然戻る。変わらず。いまは変わらずと言う。いまのところ
 変わらず。背を向け。頭を沈め。薄暗い髪。薄暗い白とあの薄暗い光の中薄暗い白に見える
 金髪。踵までの黒い外套。薄暗い黒。長靴の踵。いま二つ右。いま二つ左。同じ足取りで
 進むにつれて彼らは消え去る。地面はない。虚空の上のようにとぼとぼ歩く。薄暗い手。
 薄暗い白。二つはからっぽ二つは一つになって。そうして突然消え去り突然戻り変わらず
 一つになって暗い影とぼとぼ遠ざからずに歩き続ける。(25P)

「また終わるために」でどこまでも異形な空間を現出させたベケットは、ここでは晩年まで
どうしても彼の頭を離れなかった三つの抽象的な映像を何度も組み立て、解体してみせる、
「もっと良くもっと悪く言い間違える」ために。
372(OTO):2007/07/10(火) 13:42:17
この「もっと良くもっと悪く」という表現は、翻訳では前後逆方向へ行ったり来たりするような感覚を
あたえるが、原文ではbetter worseとあり、「もっと悪い」よりもさらに進んだ方向を示している
ということだ(147P)。ならばこの作品ではおそらく、「良い」と「悪い」という審級そのものが
秤にかけられている。「良い」とは何か。「悪い」とは何か。何故彼は「最悪の方へ」向かうのか。
ここで考えられているのは伝達手段としての言語、その使用における技術的熟練の「良し悪し」なのか。
文学における「感動」が、久しく人間的な感情の「喚起」であり続けた結果、
さまざまな喚起される感情の「かたち」が類型化・陳腐化するほど「広く」流通するとするなら、
それを容易にやり遂げることこそが技術的に「うまい=良い」ということになりはしまいか。
それともそれは、現在、ベケット亡き現在の問題であろうか。

それともそれを読んで、こころ安まるもの、現実にあるさまざまな不安を、あたかもそちらの方が
虚構であるかのように隠蔽する「ポジティビティ」、その何故か共感せざるを得ない方向性が「良く」、
まったく共感を必要としてはいないかのように、ただひたすら言葉そのものの「果て」へと、
抽象的な一本の線を引き続けること、印刷された活字がそのまま意味と一致してしまうような、
言葉自体の限界と、その向こう側を指し示す行為が言葉自体にとって「悪」と言える、という意味なのか。
それともこれもまた、ベケット亡き現在の問題なのか。
373(OTO):2007/07/10(火) 14:52:38
いずれにしても、「いざ最悪の方へ」は「最悪」という概念上にしか存在しない一点への
永遠の迂回、その純粋なベクトルの記述である点で、決して「ネガティブ」な事を
言っているわけではないのだ、と私は考える。

一転、50年代パリ「ゴドー」時代からの友人であるニューヨークの編集者、
バーニー・ロセットに捧げられた「なおのおごめき」は、それまでの強迫的な
言葉自体に対する攻撃の手が緩められたかのように、すんなりと読める作品だ。
この作品で特徴的なのは「イメージ」ではなく「音」が現出されることだろう。
第二次大戦直後、赤十字病院の同僚ダーリィの死の記憶とともに、
聴こえてくる叫び、そして時を刻む音。

  時計が遠くで一刻と半刻を打っていた。他の者たちのなかでダーリィがかつて
 死に彼を置き去りにしたときと同じ時計。時を打つ音はときにははっきりあたかも風に
 運ばれてくるかのようにときにはかすかに静かな空気にのって。叫びが遠くで
 ときにはかすかにときにははっきり。両手に頭をのせて一刻が打たれたとき
 半刻が打たれないことを半分望みながらそしてそうなることを半分恐れながら。
 半刻が打たれたときも同じように。叫びが一瞬やんだときも同じように。
 あるいはたんにどうなるか考えながら。あるいはたんに待ちながら。
 聞こえるのを待ちながら。(88P)
374(OTO):2007/07/10(火) 14:53:26
そしてもうひとつ。この作品では「ほんとうの終わり」が語られる。

  ついには彼が最後に見えてからあまりに多くの時を打つ音と叫びがあって
 ひょっとしたら彼がまた見えることはないかもしれない。それから時を打つ
 音が最後に聞こえてからあまりに多くの叫びがあってひょっとしたら時を
 打つ音がまた聞こえることはないかもしれない。それから叫びが最後に
 聞こえてからあまりに長く静寂が続いてひょっとしたら叫びさえもまた
 聞こえることはないかもしれない。ひょっとしたらそうして終わり。
 たんなる小休止でないかぎり。そのときはすべて前のように。前のように
 時を打つ音と叫びそして彼、前のようにときにはそこにときには消え
 ときにはまたそこにときにはまた消え。それからまた小休止。それから
 すべてまた前のように。そうしていくどもいくども。そして辛抱、
 時間と悲嘆と自己と彼自身のもうひとつの自己とのほんとうの終わりまで。(91P)

ここのはかつての「おれ」と「あいつ」が拮抗する構図は存在しない。
ベケットは現実的な自己の死を、いままでにない角度から見つめ始めたかに見える。
しかし、「ああすべて終わる。」と「なおのうごめき」を締めくくった彼は、
この作品を自身で仏訳するww
そして翌1989年、最後の恐るべき断片「なんと言うか」をフランス語で発表、
これも自身で英訳するwwwwwww




私にとってベケットは、こと言葉自体の探求において、最も「遠くに行った」冒険家の
ひとりであり続けている。
375(OTO):2007/07/10(火) 18:47:21
>>353
随筆という捉え方はいいね。
「書くこと」と自己の強迫的な繋がりがあるからな。

>>354
>それもブランショのような生真面目な態度ではなく、遊び、おふざけの要素を含んでいます。

おそらく「無為」だからだろうな。だから遊戯を感じる。ブランショにある「生活に対する趣味・スタイル」も
ベケットの、少なくとも書くものには存在しない。

>>355
きっと「最良の方」は「どんどんぬるくなっていく方向性」みたいに考えていたのかも知れないね。
そっち方向に言葉を「研ぎ澄ませる」ことは不可能だと踏んでいたのかも知れない。
「おれはそう見てる」www
376(OTO):2007/07/10(火) 18:59:09
>>358
きれいだな。詩だ。

>物語のないところで、一体声は何を紡げるのだろう。
>おそらく、それはイメージ。

 イメージのエネルギーは散逸的である。イメージは早々に終わり、散ってしまう。
 それはみずから終わるための手段だからである。(ドゥルーズ「消尽」22P)

>>361
>他の作家のどんな作品より優れているというわけでもないけれど、
>解釈とか評価とかジャンル分けだとか、
>そんなものなんてどうでもいいと思わせる雰囲気があって、

まったくww後期はどれも「それどころではない状況」では、あるww
377(OTO):2007/07/10(火) 19:04:25
>>363
>「ああ終わる」「ああすべて終わる」と書いて
>この作品は終わっているけれど、おそらく、
>このパラグラフから始まっても違和感はないだろう。

平和に閉じられている言葉世界の隙間に無理矢理手をねじ込んで裂け目を作る。
そしてやがてそれをまた閉じる、みたいな印象があるなww

>>366
>バタイユの「沈黙」は、あらゆる背徳の限りを尽くし絶叫した後の、沈黙。
>ブランショの「沈黙」は、最初から黙して語らずの果てに訪れた、沈黙。
>ベケットの「沈黙」は、饒舌のあとに訪れるつぶやきを経ての、沈黙。

いいね。そんな感じだ。
378 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/16(月) 20:27:04
>>368-377
(OTO)さん

ベケットの最後を飾る丁寧かつ濃密な感想をありがとうございました。

>どうにか書いた。もうどうにもwww
これから難解な感想文についてはこの「もうどうにもこうにも」が定型句として
活躍しそう♪

「いざ最悪の方へ」は長島確訳と宇野邦一の訳の両方があるのですね。
ううむ・・・長島確訳のほうが言葉を砕いており、わかりやすい感じ。

>1983年英語で執筆された表題作「いざ最悪の方へ」が、
>例外的にベケット自身によって仏訳されなかった
「いざ最悪の方へ」は、ある意味においてはひとつの結論が出された作品
ということですね。
つまり、仏訳する必要がない、あるいは仏訳する上で言語の限界がある。。。
もともとベケットという作家は二ヶ国語が堪能であり、語彙に長けており、
自由な言葉遊びができる作家です。けれども、この作品においては仏訳はあえて
なされなかった。なぜでしょう?
おそらくは、「いざ最悪の方へ」という作品そのものが言葉の極致へ赴こうとする
作品であり、極致へ赴くということはいわば命懸けの跳躍であり、英語で極められ
なかったら仏語でいいやという代替のきかないものであったから。
そう、ベケットは最後の大勝負に母国語の仏語でではなく、英語で勝負に出たの
ですね。
379 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/16(月) 20:28:30

>「良い」とは何か。「悪い」とは何か。何故彼は「最悪の方へ」向かうのか。
「最悪」とは何なのかがまったく定義されないまま、いきなり老人と子供が
でできたり、また、なぜ彼らが「最悪」の存在なのかの理由も説明されないまま。
もしかすると、彼らはたまたま登場したサンプルのひとつに過ぎないかもしれず、
何でもよかったのかもしれません。
ひとつのサンプルを「最悪」なものとして描くにはどのような言葉を尽くせばいいのか、
どのように位置に彼らを置けば、彼らが「最悪」な存在に見えるのか、
これはベケットにとってひとつの挑戦だったようにも思えます。
「最悪」とはひとつの言葉の極致であり、それは「最善」でも同じこと。
とにかくベケットは言葉の極致を描くことに挑戦したのでした。

通常「悪」を描くとすれば、神に対する侵犯、背徳、倫理、道理、良心などが定番で
用いられるのですが、ベケットはそれをしない。
(バタイユの背徳の限りを尽くした哄笑とはほど遠い……)
ベケットはサンプルとして抽出された言葉のみで描こうとします。
結果、読者にはわかりづらく、理解されにくい印象を与えます。。。
380 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/16(月) 20:29:14

ベケットは読者の期待や理解というものを不要とした作家なのでしょうか?
通俗のものしか理解できない読者を撥ねつけ、期待を裏切られてもついて
来られる読者のみを予め選んだのでしょうか?
おそらくは、彼が書くのは精神的リハビリのため、自分のためだけであったでしょう。
書きたいように書く、作家として至福の境地を満喫していたでしょう。
それゆえ、ベケットは孤独ではなかったと思います。
モロイもマーフィーもマックマンも皆、独りで旅をつづけた人物です。
(例外としてディディとゴゴのふたり連れがいたけれども。。。)

孤高の沈黙の作家と謳われるブランショでさえ、「私についてこなかった男」では
孤独に耐え切れず「読み手の私」=「彼」を登場させていました。
ベケットは徹底して他者を廃します。
「最悪」のものとは「孤高」なものに近い存在かもしれません。
そう、いつだって悪は壮絶な美しさで人を誘い、誘惑するものです。
381 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/16(月) 20:30:28

>「いざ最悪の方へ」は「最悪」という概念上にしか存在しない一点への
>永遠の迂回、その純粋なベクトルの記述である点で、決して「ネガティブ」な事を
>言っているわけではないのだ、と私は考える。
そうですね。
「最悪」とは言葉の極致を示すものであり、その証拠にこの作品では背徳、聖なる
ものへの侵犯、などはいっさい書かれていませんね。

>きっと「最良の方」は「どんどんぬるくなっていく方向性」みたいに考えていたのかも
>知れないね。
この世で最善のものを描くとすれば、まったく思考というものを持たない、
あるいは放棄した狂人か愚鈍な精神薄弱者しかないのですよね。
智恵の実を食べた人々はそこにしか「善」を見ることができない。。。

>私にとってベケットは、こと言葉自体の探求において、最も「遠くに行った」冒険家の
>ひとりであり続けている。
同意です。読者サービスなどお構いなしに、己の行きたい方へ、己の情熱のままに
突き進んだ作家ですね。
まるで、広い海の上空を自由に飛び交うカモメの如く。


――それでは。
382SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/23(月) 01:11:49
牧場で絞りたての濃厚な牛乳のような二人のレスを飲んで、
もうおなかがいっぱいというか、これ以上何も搾り出せないけど、
まだどうにか、と、もうどうにも、のはざまで、
もうちょっとだけうごめいてみようかな。いやはや。

確か雑誌ユリイカに掲載されたときの邦題はこうだったはず。
『なおのうごめき』→『まだもぞもぞと』
『いざ最悪の方へ』→『さいあくじょうどへほい』
ベケットのストイックさとユーモアのバランスをどう計るか、
それによって、タイトルも訳文も多少変化するんだろうね。
長島確と宇野邦一の訳の差異にもそのへんが窺われて面白い。
>宇野邦一の訳文は金属質な、少し寒色系のグレーだったような気もする。
というのは同感。80年代の作品に関しては宇野訳は好きだけど。
383SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/07/23(月) 01:20:07
>バタイユの「沈黙」は、あらゆる背徳の限りを尽くし絶叫した後の、沈黙。
>ブランショの「沈黙」は、最初から黙して語らずの果てに訪れた、沈黙。
>ベケットの「沈黙」は、饒舌のあとに訪れるつぶやきを経ての、沈黙。
この3Bの沈黙の違いは、黒、白、グレー、という色彩の違いとパラレルで、
ここで、言うこと(声)と見ること(イメージ)の相関関係ということなら、
ベケットに『見ちがい言いちがい』という80年代の作品もあるし、
端的に「目」と「口」にすれば、シネマやドラマ作品に言及したい気もして、
たとえば、キートン主演のシネマ、口だけが出演するドラマ、などだけれど、
ああ、そういえば、ここでブランショが書いた論考を参照できればいいんだけど、
と思い、バタイユ論「思考の賭け」とベケット論「ああすべてが終わる」を
ちらっと想起しつつも、「もうどうにも言われず」。  〆
384 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/29(日) 20:44:52

SXYさん

>>382
>牧場で絞りたての濃厚な牛乳のような二人のレスを飲んで、
>もうおなかがいっぱいというか、これ以上何も搾り出せないけど、
ありがとうです♪ そのように言っていただけてとてもうれしいです♪

>確か雑誌ユリイカに掲載されたときの邦題はこうだったはず。
>『なおのうごめき』→『まだもぞもぞと』
>『いざ最悪の方へ』→『さいあくじょうどへほい』
大笑い! ベケットの言葉遊びの「笑い」をどのように日本語に変換するか、
これはもう訳者のユーモアのセンスが問われますね。。。
ワルノリしすぎてもだめだし、硬すぎてもいけない、、、
385 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/29(日) 20:45:35

>>383
>この3Bの沈黙の違いは、黒、白、グレー、という色彩の違いとパラレルで、この3B>の沈黙の違いは、黒、白、グレー、という色彩の違いとパラレルで、
沈黙を描くのは難しいですね。
パターンとして、寡黙な人物で全編押し通す方法→ブランショ
表現可能な背徳の限りを尽くし、最後に言葉では言い表せない沈黙に行き着く方法
→バタイユ
饒舌という、沈黙とは真逆の表現で沈黙を際立たせる方法→ベケット

>端的に「目」と「口」にすれば、シネマやドラマ作品に言及したい気もして、
>たとえば、キートン主演のシネマ、口だけが出演するドラマ、などだけれど、
なるほど。
ということは、視線が数多く交わされるベランショはさながら「目」派。
ひたすらしゃべりつづけるベケットは「口」派。
とにかく破壊あるのみのバタイユは「行為」派かな。。。
386 ◆Fafd1c3Cuc :2007/07/29(日) 20:46:07

>バタイユ論「思考の賭け」とベケット論「ああすべてが終わる」を
>ちらっと想起しつつも、「もうどうにも言われず」。
となると、行き着く先はやはり「もうどうにも言われず」=「表現できないこと」
=「語りえぬものについては沈黙しなければならない」。
とはいえ、人はそれでも古今東西、語りつづける存在なのでしょうね。
文学や哲学がその事実を証明してくれています。
それだけ語るという行為は魅惑的であり、抗しがたい力を持っているという
ことでしょうか?


――それでは。
387SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/15(水) 01:20:50
聖書について何か書こうと思い何か取っ掛かりがないかな、
と考えていたら、太宰の「トカトントン」という短篇の中で、
「マタイ十章、28」からの引用があったので、
とりあえずそれについて簡単に書いておこうかな。
388SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/15(水) 01:25:35
「トカトントン」はごく短い書簡形式の短篇で、
某作家の元に届いた二十六歳の男からの手紙、という体裁のもので、
「拝啓。一つだけ教えて下さい。困っているのです。」と始まる。
その男が手紙に書いている「困っている」ことというのが、
頭の中で「トカトントン」という奇妙な音が聞こえてくるということ。

で、どんなときに音が聞こえてくるかというと、たとえばこんな場面。
昭和二十年八月十五日正午、男は広場で天皇陛下の玉音放送をラジオで聞く。
その後で、若い中尉が壇上に駈けあがってこう語る、
「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、
それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄も抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず
自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、
皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」
男は中尉の厳粛な言葉を耳にし、「死ぬのが本当だ」と思う。
その時、背後の兵舎のほうから、かすかに、トカトントンという音が聞こえる。
男はその音を聞いたとたんに、眼から鱗が落ちたような感じを味わい、
悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、「なんともどうにも白々しい気持」になってしまう。
389SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/15(水) 01:29:39
こんな奇妙な悩みを綴ってきた手紙の主に対して、
某作家は次のような返信を出してこの短篇は終り。

 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。
 十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、
 君はまだ避けているようですね。
 真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。
 マタイ十章、二八、
 「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、
 身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」
 この場合の「懼る」は、「畏敬(いけい)」の意にちかいようです。
 このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、
 君の幻聴は止む筈(はず)です。不尽(ふじん)。

※この作品は青空文庫にファイルあり。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2285.html
390SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/15(水) 01:34:44
時間切れで続きはまた明日。
391SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/15(水) 22:57:42
実は続きをどう書こうかと書きあぐねているんだけど
このマタイ第十章、第28節をどう解釈するか、
そしてこれを引用して返答した某作家の意図、
それから太宰の作者自身の立ち位置について、
二人の意見を聞いてみたかったんだ。
392SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/16(木) 00:43:17
書き込もうとするとどうも邪魔が入るなあ。
もう日付が変わったけれど、8.15ということもあって、
太宰「トカトントン」を思い出した。
太宰はそれほど好きな作家じゃなかったんだけど、
昔読んだときに漫然とながら気になってた作品で、
聖書からの引用もあるし、考えてみたいと思った。

 身を殺して霊魂を殺し得ぬ者どもを懼るな。
 身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。

「某作家」を太宰に重ねていいかどうかは今は置いておくとして、
頭の中で奇妙な音が鳴って悩んでいる青年への返答で、彼は、
それは「気取った苦悩」だとし、同情を寄せない。
むしろ、まだ「醜態」を避けているようだと難じる。
そして、真の思想は、「叡智よりも勇気を必要とする」として、
イエスが十二使徒に与えた言葉を引用する。

 ――身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、
 身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ――

このイエスの言葉に震撼できたならば、幻聴は治まるという。
青年の悩みはまだ浅いもので、真に苦悩するということは、
身は滅んでも魂は犠牲にしないという叡智よりも、
身も魂もゲヘナ=地獄にて滅びようとする勇気にあるという。
393SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/16(木) 01:05:24
ここで想起したのは、三島は太宰批判として語った言葉で、
「太宰の苦悩なんて、寒風摩擦でもすれば直る程度のものだ」
みたいな(うろ覚えだけど)ものだった。

その構図を「トカトントン」にあてはめると、
太宰=青年、三島=某作家、になる。

とはいえ、三島の太宰批判は近親憎悪みたいなところがあって、
奥野健男は、太宰と三島は双生児だという見解を出してるけれど、
それを「トカトントン」にもう一度当てはめなおすと、
青年も某作家もそれぞれ太宰自身の半身として考えられる。

芥川の自殺を知って、ショックで自室に閉じこもった太宰、
太宰を意識するあまり批判した三島、この自殺者たちにとって、
先の聖書の28節、および以下の39節はどんな意味を持つのだろう。

 ――生命を得る者は、これを失い、
 我がために命を失う者は、これを得べし――
394 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/18(土) 22:28:12
SXY ◆0WsIEmknHQ さん

太宰の「トカトントン」の引用と問題提起、ありがとうございます。
太宰はユダのエピソードも作品として書いており、かなり聖書には
耽溺していたようです。
うろ覚えですが、「自分のようなどうしようもないものにも
イエスの言葉はキラキラと星のように輝いて、こころに沁みてくるのだ」
というような記述があったように記憶しています。。。

さて、問題の「トカトントン」の引用についてですが、初めて読んだときは
イエスの言葉の関連性がまったくわからず、従ってこの神経衰弱な青年
の気取りも青年期特有の一過性のものとして読み過ごしてしまったような
気がします。遠い目……
今回、青空文庫で改めて読み直して太宰治という人は若き日の自身を
自嘲しながらも、こころの奥では理想に燃え、確固たるものを求めて
彷徨した作家なのだな、とつくづく思いました。

この小説は、自分にとってたったひとつの揺るぎなき理想、思想を求める
ものごとに陶酔しがちな青年の物語です。
けれども彼の求めた思想はいつも最高潮のところで「トカトントン」という
幻聴のせいで冷水を浴びせられ、一瞬のうちにありふれたどうでもいい
ものになってしまう。
395 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/18(土) 22:28:54
ニヒルというのか、あるいは熱しやすく冷めやすい性質なのか、
とにかく土壇場で彼は覚醒してしまうのですね。
そして、彼はそのことに大変苦悩しているという。。。
さて、ここからが太宰の天性の作家たる所以なのですが、
作家に宛てた手紙の最後に「これは全部ウソなんです。花江さんという
女性なんか最初からいないんです」とこれも嘘か真か判断しかねる
告白をしています。まさにこの青年は「道化師」なんですね。
理想主義に燃えながらもあの音のせいでいつもダメなんです、
と苦悩の気取りのポーズを大仰に深刻に演ずるわけです。
作家はそんな彼の真意を見抜いてこう諭すわけです。
「若者よ、理想の思想や真理を追求しようとする君の姿勢はなかなかの
ものです。けれどもね、君は腹が据わっていない。僕には君の言葉が
上滑りで実に底が浅いとしか受け取れないんだよ。
君は、天皇崇拝や恋愛、労働をはなから嘗めている。
君はね、ハムレットを気取り「苦悩している自分」が大好きなんだね。
そして、大仰な演技をしている自分を他人に見せたくて仕方ないんだ。
自意識過剰とも言うかな。
396 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/18(土) 22:29:28
真の思想とはね、死を覚悟したものなんだよ。
それには付け焼き刃の知識ではなく、勇気が必要なんだ。真の思想とは
つまりね、死を賭けた勇気のことさ。
君にはその勇気がない。
「あなたが真の人ならば、たとえ命が滅びても魂まで滅びることはない。だから人々を畏れてはならない。
本当に畏れるべきは身も魂も滅ぼせる方のことだ」
このイエスの言葉は、真の思想を求めるのならば裏切りや迫害、
孤独、あらゆる罵倒や憎悪をひとりで敢然と受けて立つ勇者でなければ
得られないのだと勧告します。

この青年はよくいえば感じやすい、熱しやすく冷めやすい典型とも
いえましょう。何事にも高揚しがちで、陶酔する。
一方で、ニヒルを気取り、完全にのめり込まないことが格好良いとも思っ
ています。
そうです、真の思想とは一時的な陶酔感や熱狂だけでは得られないの
です。その思想の背後には冷厳な絶対者の揺るぎないまなざしが働いて
いなければならない、ひとつの言葉を話すとき、そこには浮ついた
ものがあってはならない、それは絶対者からのものでなければならない。
絶対者のまなざしのなかに在るならば、外界の雑音などものでもない。
ましてや幻聴におびえるなんてもってのほか。
おびえること自体、腹の据わっていない証拠でしょう。
397 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/18(土) 22:30:11
>その構図を「トカトントン」にあてはめると、
>太宰=青年、三島=某作家、になる。
>青年も某作家もそれぞれ太宰自身の半身として考えられる。
わたしも、青年も某作家もそれぞれ太宰自身の半身としてこの小説を
読みました。
青年のこれまで夢中になったことが、すべて太宰の経歴なんですね。
思想犯で投獄されたこと、恋愛至上主義のなれのはてとして心中未遂を
何回か繰り返していること、作家を志すにあたっての先輩作家(井伏鱒
二)への同情を乞う姿勢。。。
主人公と作家の経歴や性癖が似ているというだけで主人公=作家という
見方は短絡的ではありますが、太宰ほどこの構図にぴったりとあてはま
る作家も他に類を見ないほどです。
太宰は自身の不甲斐なさ、だらしなさを大仰に書き連ねます。
読者はそんな彼につい同情し共感してしまうのですが、あざとくなりすぎ
ない微妙なさじ加減は作家としての力量でしょうね。

ところで、「トカトントン」の幻聴の暗示するものは何でしょう?
これは、自身の思想に対する不信感でしょうね。
そしてその幻聴とは言うまでもなく彼自身がつくりだしたものであり
いってみれば、彼は眼前の思想に身を委ねきることができない、
心酔しているようでいて、まるきり信じきれていないのですね。
彼はいつも肝心なところで命綱を外さない、小心な臆病者。
「命懸けの跳躍」をしようとしないものに、真の思想など得られるはずが
ないと作家はイエスの言葉を引用したのではないでしょうか?
398 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/18(土) 22:30:55
なぜなら、イエスは狂人扱いされ、犯罪者として見せしめにされ、
すべての弟子たちに裏切られ、観衆のもと罵倒されながらの死を初めか
ら覚悟して自らの思想を説いていたのですから。

畏れるべきは世間体や愚弄する世の人々ではない、神なのだ、と。
その神が自分に課した過酷ともいえる裁定を甘んじて引き受ける、
それが真の思想家であり、勇者である、と。

>太宰を意識するあまり批判した三島、この自殺者たちにとって、
>先の聖書の28節、および以下の39節はどんな意味を持つのだろう。
 >――生命を得る者は、これを失い、
 >我がために命を失う者は、これを得べし――
これは「永遠の命」をさしますが、芥川はインテリなあまり、永遠の命を
放棄しました。太宰にいたっては「世の終わりまであなたがたとともに
いる」というイエスの言葉よりも愛人とともにこの世に別れを告げることを
選びました。三島は死を懸けたイエスの生き方に魅せられ、自ら神を
決めました。天皇、という現人神です。そしてその現人神のために命を
断ちました。

今回は、Macから書いてみました。

ーーそれでは。
399 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/19(日) 22:02:04
>>394の【追記】

「ずいぶん久しい間、聖書をわすれていたような気がして、たいへんうろたえて、旅行
中も、ただ聖書ばかりを読んでいました。自分の醜態を意識してつらい時には、聖書
の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つ
だけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。」
――「風の便り」太宰治
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/283_15064.html



「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に
限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、
聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ。
 いま聖書を取り出して、パッとひらいたら、次のような語句が眼にはいった。
「我は復活(よみがえり)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる
者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか。」
忘れていた。僕は信ずる事が薄かった。何もかも、おまかせして、今夜は寝よう。
――『正義と微笑』太宰治

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1577_8581.html
400(OTO):2007/08/22(水) 19:52:44
太宰は苦手でぜんぜん読んでないんだけど、
青空で「トカトントン」読んだよ。
面白かったけど、聖書引用の意味は一瞬ぜんぜんわからんかった。
ちょっと整理してみると、この青年は敗戦まで、やはり現人神たる天皇を
素朴に、無意識的に受け入れていたんだろうな、多くの日本人たちと同じように。
それが敗戦した途端、気が抜けてしまった。その時聞こえた「トカトントン」という
「誰やら金槌で釘を打つ音」とともに。

 眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、
 私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、
 夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。

最初ここを読んだとき、まるで現象学的還元だなwと思ったよw
以来青年は何かにのめり込みそうになると「トカトントン」という幻聴と共に
現象学的還元を体験するようになるww
これはおれは「行動動機一般の基盤における脆弱性に対する認知」という風に
見ながら「太宰おもしろいじゃないかww」と読み進めたのだが、
最後の作家の手紙で「あれ?」と思った。

 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。
 十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、
 君はまだ避けているようですね。
401(OTO):2007/08/22(水) 19:53:32
おれ的には青年は、いかなる弁明も成立しない醜態を、「まだ」避けているようには見えなかったのだ。
むしろ作家の言う「いかなる弁明も成立しない醜態」から「最早」解放されてしまったかに見えていた。
同じ人間を神と信じ、歴然とした戦力差から眼をそらして人命を費やしていった日本軍の戦略、
いやむしろ戦争一般こそ醜態の極みではなかったのか?
この作家の手紙はおれの眼には「2chでよく見る煽り」のような文体でありww
このタッチこそおれが太宰を苦手とする部分とも思えた。

それではこの聖書引用は何を意味しているのか?
マタイ10-28はイエスが初めて十二使徒を伝道に送り出す際に注意を与えた部分の一部である。
特にこの箇所では迫害に対する心構えを説いている。同じ説話がルカ12-2〜9にあり、
こちらの方がイエスの意向がわかりやすい気がするので、手元の岩波文庫版より引用しよう。

 あなた達、わたしの友人に言う、体を殺しても、そのあと、それ以上には何もできない者を
 恐れるな。恐れるべき者はだれか、おしえてあげよう。殺したあとで、地獄(ゲヘナ)に
 投げ込む権力を持っておられるお方を恐れよ。ほんとうに、わたしは言う、その方だけを恐れよ。

つまりイエスはここでは自分を伴わずに伝道を試みる使徒たちが捕縛・拷問・死刑にあった場合を
想定し、その場合にも信仰を失うな、と言っているのである。
引用としてこの箇所を使う場合は、たとえ無謀な死に際しても、
神を信じ、信仰・何かを信じることを失うな、という意図と見て間違いないだろう。
つまり作家は信じるもの、すべての行動のモチベーションが立地する何かを持て、と
言っている、という風に拡大解釈が可能なようだ。狭義には、それは神、キリスト教信仰と
取れるだろう。
402(OTO):2007/08/22(水) 19:54:55
>>392
>青年の悩みはまだ浅いもので、真に苦悩するということは、
>身は滅んでも魂は犠牲にしないという叡智よりも、
>身も魂もゲヘナ=地獄にて滅びようとする勇気にあるという。

勇気という意味でもあるな。同意。

>>395,396
ここでの太宰のねらいはまさにそこら辺なんだろうね。

1947年、アメリカでは「ロズウェル事件」がいささか呑気な盛り上がりを見せ、
日本国憲法が施行された年に発表されたこの作品は、やはり当時の日本の空気を
ある程度知らないとわかりにくいのだろう。現人神ヒロヒトが人間になってから、
かくも時は流れたのだ。
我々が現代、死に際してまで信じることができるものは、いったい何があるだろうか、と
しばし考えさせられる読後となった。
403SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 20:59:50
二人の書き込みを読んで、もやもやしてたものが
かなりクリアーになった感じがする。流石〜。
404SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 21:54:31
>>394-399
引用してもらった「風の便り」や「正義と微笑」を見ても、
太宰は聖書に親しんでいたんだね。『斜陽』にもあったかな。
イメージからすると意外だったけれど。

>ニヒルというのか、あるいは熱しやすく冷めやすい性質なのか、
>とにかく土壇場で彼は覚醒してしまうのですね。
現実からの逃避という方向での覚醒だね。
金属音と共に吹くこのシラケ風は、ニヒル以上のものだと書かれていた。

 いったい、あの音はなんでしょう。
 虚無などと簡単に片づけられそうもないんです。
 あのトカトントンの幻聴は、虚無をさえ打ちこわしてしまうのです。

>まさにこの青年は「道化師」なんですね。
そうそう、気のふれた悩める道化師。
もちろんその悩みが深刻であることは伝わってこない。
M・C(マイ・コメディアン)たる太宰の半身。
一方、聖書を引用してもっともらしく助言を垂れる某作家、
こっちのほうも太宰のもうひとつの半身だとすれば、
自分を戯画的に描いて自嘲してみせたってことになるけれど、
こっちの半身もまた「むざんにも無学無思想の」道化師かもしれない。

青年の手紙と某作家の手紙の間に挿入された一文には、

 この奇異なる手紙を受け取った某作家は、
 むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。
405SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 22:20:49
>>400-402
>聖書引用の意味は一瞬ぜんぜんわからんかった。
>最後の作家の手紙で「あれ?」と思った。
そうそう、よくわからない。安心した(笑

>同じ説話がルカ12-2〜9にあり、
>こちらの方がイエスの意向がわかりやすい気がするので、
>手元の岩波文庫版より引用しよう。
なるほど、こっちのほうがはるかにわかりやすい!
しかし、この聖書の意味を考えると、
某作家が引用した意図は「?」なんだよね。
青年に対する適切なアドバイスにはなってない。

>「トカトントン」という幻聴と共に
>現象学的還元を体験するようになるww
フッサールが出てくるとは太宰もびっくりするだろう。
エポケーってやつかな。
406SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 22:21:33
(承前)

>いやむしろ戦争一般こそ醜態の極みではなかったのか?
それを狙ってないとしたら、太宰は大したことないね。
この短篇は斜に構えた戦争小説として読める。
戦後にいろいろな戦争小説が書かれたけれど、
これは太宰流のアイロニーとユーモアを混ぜた
戦争小説なのかな、という感じで読んだ。

海外の戦争小説としてまず頭に浮かぶのは、
メイラーでも
カート・ヴォネガットとジョーゼフ・ヘラー。

ヴォネガットの『スローターハウス5』では、
「そういうものだ。(So it goes.)」という表現が頻発し、
(これはたぶん春樹の「やれやれ」につながる)
戦争の後遺症としての失語症的感覚が表現されるけれど、
「トカトントン」の音もこれに近いかな、という気がした。

主人公ヨッサリアンが活躍するヘラー『キャッチ22』は、
『スローターハウス5』以上にハチャメチャで笑えるけれど、
堂々巡りの混乱した時間軸の中で戦争の狂気が描きこまれてる。
407SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 22:39:23
太宰は戦前・戦中・戦後と、あまり立ち位置を変えることなく
小説を書きついできた作家。昔は思想活動をしてたこともあったけれど、
戦争によって大きく作家としての姿勢を変えることがなかった。
というよりも、戦争によって引き裂かれる以前に、
引き裂かれた自己を抱えた作家だったといえるのかもしれない。

だから、キリストに対しても分裂した態度があるんだろうし、
作品の中でも青年と某作家に分裂してしまっているんじゃないか、と。

 もし、私が恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま
 必ず守ることを誓ったら、イエスさまはお叱りになるかしら。
 なぜ、『恋』がわるくて、『愛』がいいのか、私にはわからない。
 同じもののような気がしてならない。
 何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、
 身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者、
 ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。(『斜陽』より)

太宰は「身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者」を「神」と理解してたのか、
それとも、それは自分だと勘違いしていたのか。
408SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 22:43:19
おまけ

「トカトントン」の翌年に書かれた安吾の「不良少年とキリスト」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html

※不良少年というのは太宰のこと。  〆
409SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/08/22(水) 22:48:19
追伸

406で訂正
「メイラーでも」は「メイラーとかじゃなくて」と書こうとして、
やっぱりいらないやと、削除し忘れた言葉でした。
410(OTO):2007/08/24(金) 16:43:49
>>405
>しかし、この聖書の意味を考えると、
>某作家が引用した意図は「?」なんだよね。
>青年に対する適切なアドバイスにはなってない。

そうなんだよwまだすっきりしないw
それでまた考えていたんだが、やっぱり戦争というか敗戦のことだろうと思った。
戦争に打ちのめされ、人々は死に、原爆落とされ、現人神は玉座から降りた。
そういう打ちのめされた国民の状況を、
イエスの弟子として使徒たちが迫害される状況と重ね合わせて
「どんな打ちのめされた状況でも、たとえ死にそうになっても、何かを信じろ」
という意味で引用したんじゃないかな?

だけど通読してこの引用に差し掛かると、手紙内の時田花江とのエピソードが印象的なせいか、
>>407の「斜陽」引用部に見られるような錯綜した感覚があるような気もする。

>>399のリンク参考に読もうと思い「風の便り」はなんとか読み終えたものの、
「正義と微笑」の途中で降参wやはり苦手だw
巨大に膨れあがった自意識の中の迷路を、自らの尾を追って走り回るような
このタッチはどうにも共感できず、道化としても笑えない。
読んでいる内にお腹のあたりがムズムズしてくるような居心地の悪さを感じて
放りだしてしまうwww何年も前に購入した「晩年」の初版復刻も
半分以上フランス装を切ってもおらず、積読w

坂口安吾も読んでないのだが「不良少年とキリスト」はスラッと読んだ。
論旨も明快であり、友人太宰の死に対する姿勢もはっきりとしている。
アッパードラッグユーザー坂口とダウナードラッグユーザーの太宰の
決定的な差異を感じ、面白いと思った。

おれが太宰が苦手なのは、彼の「フツカヨイ的自虐作用」を見るに耐えない
ということだろうなwww
411 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/24(金) 22:25:47

(OTO)さん

>>400
>青空で「トカトントン」読んだよ。
>面白かったけど、聖書引用の意味は一瞬ぜんぜんわからんかった。
そうですね、わたしも初めて読んだときはなぜここにイエスの言葉が
引用されているのか、意味不明でした。
あまりにも唐突というか、脈略がまったくないのですよね。

>それが敗戦した途端、気が抜けてしまった。
神風、特攻により日本は敗けるはずないと信じきっていたのでしょうね。
敗戦は彼にあらゆるものごとの価値の逆転をもたらしました。
天皇は神ではなく、人間である。
日本は奇蹟の神風の吹く国ではなく、世界に遅れをとった国。
今まで無邪気に信じていたことがある日を境に一瞬のうちに崩壊して
しまったのですから、ものごとに懐疑的になるのも無理はないでしょうね。
昨日までは白と言い聞かされてきたことが、今日からは黒になる。
混乱をきたすのも当然といえば当然かもしれません。
その目まぐるしい変化についていけないのは、たいてい男ですね。
戦後の貧困、混乱期を逞しく乗り切ったのは女たちのほうでした。
412 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/24(金) 22:26:25

>以来青年は何かにのめり込みそうになると「トカトントン」という幻聴と共に
>現象学的還元を体験するようになるww
パブロフの犬のような条件反射ですね。
初めて耳にしたのは天皇の玉音放送で、日本は敗戦したという事実と、
天皇は神ではない、という人間宣言のときでした。
彼にとって信じていたものに裏切られた瞬間です。
「トカトントン」=裏切りのメロディ。
だから、それ以来何か信じられそうなものを見つけても、こころから信じ切る
ことができない。
裏切られるくらいなら、最初から信じないほうが賢明。
唯一の保身の術。彼はいつだって自分だけが可愛い、自分しか愛さない。
彼は自己愛の強いナルシスト。
413 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/24(金) 22:26:57

>>401
>この作家の手紙はおれの眼には「2chでよく見る煽り」のような文体でありww
>このタッチこそおれが太宰を苦手とする部分とも思えた。
確かにそうも読めますよね。
茶々を入れるというか、水をさすというか、途中まで結構面白く読めていたのに
最後にきて、作家の手紙を読んだら意味不明の引用、作家の不可解な意図といい
まるでからかわれたような印象でした。。。

>つまり作家は信じるもの、すべての行動のモチベーションが立地する何かを
>持て、と言っている、という風に拡大解釈が可能なようだ。狭義には、それは神、
>キリスト教信仰と取れるだろう。
同意します。
自分のなかに揺るぎないものを持ちなさい、その対象のために命を投げ出しても
惜しくないものを持ちなさい、それはあなたを支えてくれるだろう、という意味ですね。

たったひとつでいい、信じられるものがあるならば、それだけで人間は
生きていくことができる。けれども、その「たったひとつ」を見つけることは
この青年の例を見るまでもなく、現代では何と難しいことでしょう。
414 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/24(金) 22:27:30

>>410
>おれが太宰が苦手なのは、彼の「フツカヨイ的自虐作用」を見るに耐えない
>ということだろうなwww
「生まれてきてすみません」
この作家の売りは自身の弱さであり、その弱さを自己申告することで免罪符を
もらっているようなところがありますよね。
それがある種の読者には癇にさわったりする。
自身の弱さに溺れ、周囲の同情を買おうとする姿は卑しい、と。
「ボクってこんなに可哀想でしょ、ね、そう思うでしょ? ボクはナイーヴすぎて
弱っちくて、生きるのがつらい。こんなボクだけど、みんなはどうか見捨てないでね」
と人前でめそめそ泣き出す。そして、涙も乾かぬうちに、
「てやんでー、俺さまを誰だと思ってやがる、地元の青森じゃ名士で知られる
いいとこのぼんぼんだぜ、お前らとは格が違うんだよ!」
と突然いきり立って威張りだす。

劣等感と優越感はつねに表裏一体ですが、この作家ほど両者が著しく入れ替わる
作家も珍しいかもしれません。


――今日はここまで。
415 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 18:26:33
SXY ◆0WsIEmknHQさん

>>404
>太宰は聖書に親しんでいたんだね。『斜陽』にもあったかな。
>イメージからすると意外だったけれど。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
太宰はこのイエスの言葉は自分のためにこそあると思ったでしょうね。
数回の心中未遂事件、薬物中毒、思想犯、学業を放棄して女と同棲し、
その間働きもせず実家からの仕送りをあてにしていたデカダンな日々。。。
人間失格、と自らを自嘲する彼にとってイエスの言葉は身に沁みたでしょう。
家族から絶縁され、友人たちも彼のもとを去り、同棲相手の女は彼が入院中に
彼の親しくしていた男と不倫していた、、、以降、太宰はデタラメな生活に走り荒んだ
精神状態にあったことは想像に難くないです。

太宰のような気の弱い罪の意識が強い人間にとって、イエスはまさに自分のような
どうしようもない罪人のために来られた人でありました。
旧約の神のように威圧する神ではなく、限りない受容と許しを与えてくださる方。
太宰は貪るように聖書を読んだでしょうね。

「谷川の水を求めて あえぎさまよう鹿のように 神よ わたしはあなたを慕う」
(詩篇42-1)↓ 再生をwクリックすると楽曲が聴けます。
http://tenreiseika.romaaeterna.jp/antiphon/ten144.html
416 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 18:27:16

>現実からの逃避という方向での覚醒だね。
陶酔の絶頂の瞬間に聞こえる「トカトントン」という覚醒作用の幻聴は、
「いや、待てよ。はたしてこの思想に身も心も投げ出していいのだろうか?
現に崇拝していた天皇も神ではなかったし、神風特攻の勝利国だった日本も
敗戦したではないか。本当にこれは真理なのだろうか? 早まるな!」
という≪良心の警告・勧告≫なのか、あるいはまた、
「あははは、お若いの、君はまだまだ青いねえ。そもそも君は信じていたものに
裏切られても尚も対象を信じつづけられるほどの度量があるのかい?
背信した相手を許せるのかい? 裏切られても平気なほどの強さがあるのかい?
どう見ても君はひ弱だ、強さも度量もない君のような人間は何も信じないことだね」
という≪悪魔のささやき≫なのか……。
417 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 18:27:59

>>405
>しかし、この聖書の意味を考えると、
>某作家が引用した意図は「?」なんだよね。
>青年に対する適切なアドバイスにはなってない。
そうなんですよ。まったくそのとおり。。。
こんなわけのわからない聖書の言葉を書かれても、青年は困惑したでしょうね。

青年=作家とするならば、太宰のこれまでの心酔した思想の軌跡を辿るしか
ないのですが、彼の熱狂した思想を第三者が掘り下げたとしても、それはたんなる
憶測にしか過ぎません。
まあ、哲学と違って文学は読者の思い入れが自由に許される分野ですので、
あえてわたしなりに考えてみましたよ。
418 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 18:28:43

【太宰が思想にのめり込んだ日々と手紙の青年が労働を神聖視した日々】

共産党員だった太宰は、自身が資産家の家に生まれたことを恥じているようですが、
まさにこれは「いいとこのボンボンほど不良少年にあこがれる」のです。
故ジョン・レノン夫人の小野ヨーコさん(旧財閥系の銀行の令嬢)にしろ、
名家の異端児は世界各国にいるようです。
支配階級を糾弾し、自らの思想活動に熱狂しながらも彼はその思想に完全に
入れ込むことができませんでした。
どんなに仲間と結束しても彼の手は白い手、つまり労働階級の手ではないからです。
頭でっかちの実労を伴わない夢想家の青二才で終わってしまいました。


【太宰の恋愛遍歴・心中未遂事件と手紙の青年の花江さんへの思慕】

恋愛こそがこの世でもっともこころを高揚させる素晴らしきものである、
愛するものと死をともにすることは、まことに愛の完成である。
……けれども、数回の心中はなぜか未遂に終わります。
薬の量が足りなかったり、あるいはひとたび死を覚悟するも土壇場で
怖気づいたり、、、
恋愛は彼を失望させただけでした。
つまるところ、若気の至りに過ぎないのでした。
419 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 18:29:18

「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、
 身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」
 この場合の「懼る」は、「畏敬(いけい)」の意にちかいようです。
 このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、
 君の幻聴は止む筈(はず)です。不尽(ふじん)。

さて、ここで作家のイエスの言葉の引用についてですが、作家は青年の
これまでの真理の追究、思想遍歴は一時の心酔、熱狂にすぎないと
たしなめているようです。
青年に足りないもの、未経験なのものは「畏敬」であり、「懼れ」である、と。
彼は幾多の思想に惑溺したけれども、今日までついぞ思想の核となる対象に
対して「畏敬」や「懼れ」を抱いたことはなかったのではないでしょうか?
戦前の天皇に対しても崇拝こそすれ、「懼れ」までは及ばない。
共産思想は労働を神聖視はしても、労働そのものを「畏敬」はしない。
恋愛至上主義は恋愛を礼賛するも、畏怖はしない。

作家が言いたかったのは、イエスの言葉をとおして、この世には数多の思想が
あふれているけれども、その思想が真理であるか否かを極めるには、死を覚悟した
勇気も必要だけれども、その思想の核となる対象に対してどれだけ「畏敬」や
「懼れ」、「畏怖」の念を抱いているかを、問い質したのではないでしょうか?
熱狂だけで「懼れ」を抱けない思想など、すべて偽モノなのだよ、と。。。
420 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 19:15:44

【懼れる】
(3)神仏などを、人為の及ばないものとして敬い、身をつつしむ。《恐・畏》
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%D8%F6%A4%EC&kind=jn&mode=0&kwassist=0

>>406
>ヴォネガットの『スローターハウス5』では、
>「そういうものだ。(So it goes.)」という表現が頻発し、
>(これはたぶん春樹の「やれやれ」につながる)
>戦争の後遺症としての失語症的感覚が表現されるけれど、
>「トカトントン」の音もこれに近いかな、という気がした。
なるほど! なかなか面白い発見ですね〜
そうですねえ、わたしが「トカトントン」に近いものとして挙げるとすれば、
茶々を入れるときに使う「ちょwwおまww」(頻出する2ちゃん用語で
「ちょっと待て、おまえ」の意味だそうです。ちょっとワルノリしてみました♪)
http://aol.okwave.jp/qa3148223.html

「ああ、これこそがボクの求めていた思想だ、これこそが真理だ!」
「ちょwwおまww」(トカトントン)
「ん? なんかちがうような気がするなあ・・・やーめよっと」
421 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 19:16:32

>>407
>太宰は「身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者」を「神」と理解してたのか、
>それとも、それは自分だと勘違いしていたのか。
人の生死を司るのが神ならば、彼は恋愛において、文学において自身が神に
なりたかったかもしれませんね。
自分が相手に「一緒に死のう」とひとこと言えば、相手も同意してくれる、
その瞬間、彼は自分が神の座に据えられたかのような錯覚を覚えたでしょう。
また、彼を崇拝してやまない熱烈なファンからの手紙は自身を十二弟子たちに
君臨するイエスの如くに思わせたでしょう。
何しろ作家は作品を書くときは、事実上神の立場になるのですから。
人物を生かすも殺すも、作家の意図しだい。

安吾の「不良少年とキリスト」、読みました。
「芥川は、ともかく、舞台の上で死んだ。死ぬ時も、ちょッと、役者だった。
太宰は、結局、舞台の上ではなく、フツカヨイ的に死んでしまった。」
あれだけ、道化芝居を演じ、自らを道化師(マイ・コメディアン)と名乗っていた
太宰なのに、最期は舞台から降りてしまったなんて、、、
芥川はさすが死ぬときまで美意識の強い作家ですね。
この両者を比較すると、仮面をつけて演じていたのは芥川のほうであり
太宰は一見道化を演じているふうに見せかけながら、実は素面だったのでは
ないかという気もしますね。。。
422 ◆Fafd1c3Cuc :2007/08/25(土) 19:17:09

芥川の筋金入りのスノッブに比べれば、太宰の厚顔無恥などまだ可愛いもの。
けれども、芥川がスノッブに走るのも無理からぬことなんですよね。
芥川は太宰や志賀直哉や有島武郎ほど資産家もしくは名家の出ではないし、
実母は狂人だったし、出自や実母については隠したいと思ったでしょう。
頭が切れた上に誇り高い彼は自身を卑下して人に取り入るということが大嫌いであり
畢竟スノッブにならざるを得なかった。
最期まで「格好のいい文学者の死」を演じました。

対して太宰は道化の仮面をつけてます、ボクずるいんです、弱いんです、
と自己申告しまくりで周囲の顰蹙を買いながらも、安っぽい醜態をほぼ素のままで
演じました。
あれほどあこがれていた檜舞台に彼は上ることができなかったのです。


――それでは。
423SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/09/03(月) 00:31:14
>>410
当方も太宰は苦手だった。人間失格なんかは特に。
自虐的な道化師の肖像の背後に、
ナルシズムが透けて見えるのがどうもね。

ただ、日本文学史年表なんかを見て思うのは、
戦前・戦中・戦後と作品を黙々と発表してきたのは、
ほとんど太宰一人じゃないかと思えることだった。
良いか悪いかの判断は別にしておくとして、
戦争によって姿勢を変えることがなかった感じがあるナ。

>>415-422
「ちょwwおまww」の意味はじめて知ったヨ(笑

>イエスはまさに自分のようなどうしようもない
>罪人のために来られた人でありました。
太宰にはマザコンをゴッドコンに転嫁させたようなとこがあるかな。
日本の作家には結構クリスチャンがいるけれども
(椎名麟三や島尾敏雄、遠藤周作や三浦綾子などなど)
太宰のようなのは異質なのかな。

>安っぽい醜態をほぼ素のままで演じました。
道化師の仮面のつもりがかなり素顔に近いね。
それを狙ってやったとしたら戦略家だけど。
424SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/09/03(月) 00:39:15
 世の始めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。
 言葉(ロゴス)は神とともにおられた。
 言葉(ロゴス)は神であった。

あるスレにあった(笑)この言葉をちょっと考えてみると、
この始源の設定はなかなかすごい。

言葉(ロゴス)がまずはあったと、
そしてそれは神であり、神とともにあったと。
すごい。言葉を存在にしているのだから。

最初の言葉、それは「光あれ」だろうか。
とすれば、光=言葉=神の三位一体になり、
闇=沈黙=悪魔(?)の対が生まれることになる。

そんなことをちらっっと考えてみたヨ。
425(OTO):2007/09/03(月) 21:24:57
>>424
中学の頃、海外文学理解のために新約聖書を読んで、
今回キリスト者では無い視点で感想文書けないかと思って
改めて岩波文庫版の福音書を読んでみると、ヨハネ伝の冒頭がこれだw
びっくりしたねww続きをもう少し引用するよ。

 この方(ロゴス)は世の始めに神とともにおられた。
 一切のものはこの方によって出来た。
 出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。
 この方は命をもち、この命が人の光であった。
 この光はいつも暗闇の中に輝いている。
 しかし暗闇のこの世の人々は、これを理解しなかった。
 (中略)
 この方は、この世にうまれて来るすべての人を照らすべきまことの光であった。
 この世にきておられ、世はこの方によって出来たのに、世はこの方を認めなかった。
 いわば自分の家に来られたのに、家の者が受け入れなかったのである。
 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には
 一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。
 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神の力によって生まれたのである。

 この言葉(ロゴス)が肉体となって、しばらくわたし達の間に住んでおられた。
 これが主イエス・キリストである。
426(OTO):2007/09/03(月) 21:27:57
ここではロゴス=言葉それ自体が持つ論理構造が、人間を他の動物たちから隔て、
超越的な存在に関係づけている、という風にも読める。それが人間にとっての
知恵の光=明晰性である、という風に。これでは宗教と言うよりも哲学だww
ロゴスの理解と、それに従った実践のできない人間たちの世は暗闇である、というわけだ。
しかしロゴスの論理構造を理解し、徹底的に実践する者は「神の子」と言いうる資格を
「誰でも」持っているとヨハネは続けている。
そしてそれを完全に「わかっちゃった」人、ロゴスが肉体を持っているような存在がイエスだったのだ、と。
これ以降もヨハネは微妙で厳密な表現でイエスの生涯を綴っていくが、
もはや奇蹟や復活の真偽が問題なのではなく、常に言葉(ロゴス)において徹底的に
言動を一致させること、そのこと自体がイエスが神の子である証明となっているように
読めてしまう。すべての人間を愛するためには、親兄弟を特別視することさえ「ロゴスの実践」とは言えなくなる。
ローマの圧政により形骸化・弱体化した聖職者たちを論破することはイエスにとっては簡単な事だったかも知れぬが、
それは同時に自らの処刑を導くものでもあり、それを重々承知しながらもロゴスに忠実であった男。
その死さえ自分を取り巻く時代・環境からは当然の帰結として受け入れた男、として描かれているように感じたな。
いやはや、ビックリだよwwヨハネ伝ww
427 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 16:39:02
SXYさん

>>423-424
>自虐的な道化師の肖像の背後に、
>ナルシズムが透けて見えるのがどうもね。
そうですね、太宰は自身の弱さを売りとして読者に媚びるのが巧みですし
そんな自分に酔っている姿が端からは卑しく映ることがあります。
自身を蔑みつつ、同時に読者に憐れみを乞う。
ある種の人たちには鼻につく作家かもしれませんね。。。

>戦前・戦中・戦後と作品を黙々と発表してきたのは、
>ほとんど太宰一人じゃないかと思えることだった。
>戦争によって姿勢を変えることがなかった感じがあるナ。
太宰の作品の歴史的な背景については、今まで無頓着でした。
ほとんど考えたことがないといっていいほどに……。
敗戦によってそれまで抱いていた理念や思想が180度変わってしまった作家も
当然いたのでしょうね。高尚な理念を軸として書いていた作家たちのなかには
敗戦を機に退廃や無頼派に転向したり。
太宰は崇高な理念とか、そうした類のものを元々持たなかったせいもあり、
また、持っていたとしてもすぐに飽きて他に転向したりで基軸となるまでには
至らなかった。そうした弱さが幸いして敗戦を体験しても黙々と書き続けられた
のでしょうね。
428 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 16:39:57
いえ、敗戦は彼にとっては好機だったのではないでしょうか?
戦中軍事教育の富国強兵が飛び交うなかで、女々しいもの、弱々しいものはすべて
「悪」とされ弾圧されたでしょうから。
日本は敗戦した、すなわち弱い国であることが証明され、もう強さを武装することを
強いる人間はいなくなったのですから。

>日本の作家には結構クリスチャンがいるけれども
>(椎名麟三や島尾敏雄、遠藤周作や三浦綾子などなど)
>太宰のようなのは異質なのかな。
率直に言って太宰はかなり異質です。
今挙げたキリスト者の作家たちの作品は非常に真摯なものを感じます。
苦闘のなかでイエスの思想に行き着くまでの血を吐くような叫び、イエスの言葉を
必死に求め、自らの作品のなかに結晶させています。
ところが、太宰となるとなるほど聖書を熱心に読み、救済を願ってはいるのですが
こころのどこかで信じきれていない、ダメな自分が必死に聖書に惑溺している
自身の姿に溺れている、どこか芝居がかっているのですね……。
429 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 16:40:32
椎名麟三、遠藤周作が薄氷を踏むような思いでイエスの言葉を求め、作品に織り
込んだのに対し、太宰はどこか薄笑いを浮べながらアクセサリー感覚で作品に
引用したような印象を受けます。
何の脈絡もなく唐突に聖書の言葉が引用されたりと、濫用しすぎの感があります。
もっと言うならば、椎名麟三、遠藤周作などはキリスト思想を自らの文学のテーマ
として選び、生涯を懸けたけれども、太宰はそうではありません。
人生の途中でちょっと気になった思想ではあってもそれだけであり、いわば
途中下車した道草、寄り道のようなもの。
イエスの思想は太宰を心底とらえることはなかったのでしょう。

>言葉(ロゴス)がまずはあったと、
>そしてそれは神であり、神とともにあったと。
>すごい。言葉を存在にしているのだから。
「謎の男トマ」のなかで実体を持たないはずの言葉が本から飛び出して、トマが
食い殺されそうになるエピソードがありますが、言葉そのものが「存在」しているならば
辻褄が合いますね。。。
430 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 16:41:06
>とすれば、光=言葉=神の三位一体になり、
>闇=沈黙=悪魔(?)の対が生まれることになる。
なかなか興味深い展開ですね!
コメンティーターが犯罪者の心理を語るとき「心の闇」を持ち出しますよね。
ある人を憎悪するあまり殺害する、加害者の日記にはその人への憎しみが
書き殴られている。
犯罪者とそうでない人の差は紙一重といいますが、誰のこころにも憎悪や悪意は
あり、殺害を実行する人はもはや言葉では抑えられない状態、言葉では表現でき
ない臨界点に達しているのでしょう。
そう、まさに言葉や表現が及ばない地点が「闇」=「悪魔」のささやきなのでは…?

だから人は日記を書く。悪口を言う。
自らのこころの鬱憤を言葉にすることで、かろうじて犯罪に走ることを抑えている。
言葉にできなくなったとき、言葉のちからが及ばなくなったときは、もう手遅れ。。。
対象を「他殺」するか、あるいは自身が「自殺」するしかない。
まさに、言葉の及ばない世界=闇=死、、、
431 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 16:42:07

(OTO)さん

>>425-426
>中学の頃、海外文学理解のために新約聖書を読んで
わたしが聖書を初めて読んだのは高校二年の秋でした。
愛読書「ジェーン・エア」にしょっちゅう聖書の言葉が引用されていて、訝しげに
思ったことがきっかけでした。エミリー・ブロンテは牧師の娘で聖書に親しんで
いたからイエスの言葉の引用はお手のものでした。

>ロゴスの理解と、それに従った実践のできない人間たちの世は暗闇である、
>というわけだ。
言葉の理解、言葉の実践を聖書は推奨していますよね。
ところが、実生活において言葉の実践はなかなか困難です。
「隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」と不可能なことのほうが多い。
ところが、自らの言葉通り実践した男がいた。その名はイエス。

>それは同時に自らの処刑を導くものでもあり、それを重々承知しながらもロゴスに
>忠実であった男。
イエスが2000年経た今でも燦然としているのはまさに言葉を愛をもって実践した人
だから。
432 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 17:27:15
たいていの宗教の教祖は言葉で教えを説きます。
倫理、道徳、慈悲、を。
自身の言葉通り実践した教祖は数えるほどでしょう。
イエスはまぎれもなくその中の実践したひとりでした。
彼は言葉にはちからがあると説きました。
なぜなら、言葉は神とともに始原から存在していたからです。
言葉は神であり、神の子=イエスとするならば、言葉=イエスなのですね。
それゆえ、イエスは言葉をことの他大切にしました。
軽々しく言葉で誓うことを許しませんでした。

祈りにちからがあるのは、祈りとはまさに言葉でなされるものであるから。
祈りが聞かれるのは、祈りの「言葉」は、神とともにあるものだから。
言葉は神とともに存在する。
ラカンはこう言いました。
「手紙は必ず届く」と。言葉は必ず読まれるのですね。
433 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/09(日) 17:27:50
「言葉とはまことに不思議なものですね。
こころを整えないと言葉はうまく使えませんね。
言葉とは、まさに人格の核であるこころから紡ぎ出されるからでありましょう。
だから、イエスは弟子たちに言葉についてあれほど口を酸っぱくして
注意したのでしょう」

これは、わたしがかつて恩師の方から戴いた言葉です。


――それでは。
434SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/09/21(金) 00:02:57
>>425-426
出張続きでご無沙汰になっちゃったな。
引用どうもありがとう。
>この方は命をもち、この命が人の光であった。
>この光はいつも暗闇の中に輝いている。
>この世にうまれて来るすべての人を照らすべきまことの光であった。
やはり、光=言葉=神という固い紐帯を感じるナ。

一方、ギリシア神話をはじめとする神話的世界においては、
光と影の両世界のせめぎ合いみたいなものが多いんじゃないかと思う。
山口昌男という日本の人類学者の本を読んでも、
そういう二元論のダイナミズムの話がよく出てきたし、
ニーチェがギリシア悲劇に見出したアポロンとディオニュソスも然りで、
あとは陰陽思想なんかも含めればかなり普遍的な構図がある。

昼と夜、太陽と月がその原初的シンボルなんだろうけれども、
新約聖書においては、光の優位性、影の抑圧、を感じる。
435SXY ◆0WsIEmknHQ :2007/09/21(金) 00:25:22
>>427-430
>今挙げたキリスト者の作家たちの作品は非常に真摯なものを感じます。
Cucさんがよく読んでる遠藤周作にしろ曾野綾子にしろ、
また日常で出会う信仰者の人たちにしろ、すごく真面目だね。
Sというイニシャルの宗教(いくつかあるけれど)に興味はないけれど、
それに帰依してる人は優しくいい人が多い。
(宗教団体と帰依者とは分けて考えるべきかな)

一方、太宰は「どこか芝居がかっている」不真面目さがあって、
どうもそこに、ある種の親しみを個人的には感じないでもない。
光に満ち溢れた世界はまぶしすぎる、と感じてしまうのに似て。

理性であり言葉であるところのロゴスは光に包まれる。
言葉が人間らしさをシンボライズする。
理性に対する野性は、時には狂気として排除され、
そこまでいかなくても、光に対する闇として位置づけられる。
ロゴスが文化を作る。文化は「文」に「化す」と書くけれど、
ここでも言葉と文化がセットになり、沈黙は自然とペアを組まされる。

キリスト教が作品の中に色濃く感じられる作家の中では、
ドストエフスキーに、光と闇の葛藤が感じられるかな。
436 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/23(日) 21:51:04
☆☆緊急連絡☆☆

ほのぼの板の「おしゃべりノート2」が3日書かないうちに
落ちてしまいました。。。
あそこは流れが速すぎる・・・
というわけで、今度は「夢・ひとりごと」板に下記のスレを
依頼して立てていただきました。
お待ちしております

「こころはいつもラムネ色」↓
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/yume/1190546702/l50
437 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/23(日) 23:25:19
SXYさん

>>434
>やはり、光=言葉=神という固い紐帯を感じるナ。
そうですね、キリスト教はまさに光と愛と言葉の宗教なんですね。
光は善であり、命の源であるという宗教です。

>一方、ギリシア神話をはじめとする神話的世界においては、
>光と影の両世界のせめぎ合いみたいなものが多いんじゃないかと思う。
死の世界=闇とすれば、死者の世界の住人を取り戻そうとしたりと、
闇の世界が多く題材に取り上げられていますね。
やっぱりね、光だけではこの世は成り立たない、光が強い分闇の影も
濃厚になってしまうのですね。
ギリシア神話は神話の世界を描きながらもリアルな人間界の闇の部分、
嫉妬、欲望、怒りなどを巧みに取り入れていますね。
それゆえに物語が文字通り陰影に富んでおり、よりドラマティックに
なっています。
438 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/23(日) 23:26:25
>昼と夜、太陽と月がその原初的シンボルなんだろうけれども、
>新約聖書においては、光の優位性、影の抑圧、を感じる。
両者のうち、闇を断固として排除するのが聖書ですね。
わたしたち人間は生まれながらにして原罪を背負った罪人である、というのが
大前提として提示されています。つまり闇の世界の住人です。
それゆえ、闇から這い出て光の世界を希求します。
悪魔とはキリストに反するもの、という意味らしいですが、アダムとイヴの頃から
人類が誕生して以来、人間は悪魔の甘言に誘われて道を踏み外していきます。
お金、薬、異性、、、
誰もが光の世界にあこがれ、善を求めてやまないのに、躓いてしまう。
躓いた時点で初めて光の意味を理解するのかもしれません。
あたかも病気になって初めて健康であることのありがたみがわかるように。
逆説的ですが光は光だけの世界では何ら意味を持たないのではないでしょうか?
闇が兆して初めて光の真価が問われるのだと思います。

イエスはいみじくもこう言いました。
「わたしが来たのは罪人のためである」と。
439 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/23(日) 23:27:06
>>435
>Sというイニシャルの宗教(いくつかあるけれど)に興味はないけれど、
>それに帰依してる人は優しくいい人が多い。
>(宗教団体と帰依者とは分けて考えるべきかな)
そうですねえ、但し選挙のときだけは閉口してしまいますね(苦笑)

>一方、太宰は「どこか芝居がかっている」不真面目さがあって、
>どうもそこに、ある種の親しみを個人的には感じないでもない。
>光に満ち溢れた世界はまぶしすぎる、と感じてしまうのに似て。
太宰は何しろ「天性の嘘つき」ですからね。
もともと作家とは「つくりごと」を書く人であり、「うそごと」に長けていないと
成り立たない職業てあります。
彼が天才だと思うのはあの「嘘つき」のうまさと、その嘘を小説に仕立ててみせる
腕前の見事さですね。
ところが、嘘が過ぎると大仰な田舎芝居を見せられている気分になってしまう
のですね。嘘も百回繰り返せば真実になるといいますが、彼の場合はもともと
大嘘つきだから、かえって不真面目になってしまうのでしょう。
440 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/23(日) 23:27:47
そうした大嘘つきの不真面目さを楽しめる読者ならいいけれど、謹厳実直すぎる
読者には裏切り行為ととられても仕方ないのかもしれません。。。
太宰自身も書いていましたね。
「洗いたての清潔なシーツで眠る心地よさは半年もつづかず、わたしのなかに
あるデーモンはいつも汚い溝のほうへと足が向いてしまう」と。
お行儀のいい、道徳の鏡になるような生活は窮屈で苦痛、これは誰しもが
感じていることだと思いますね。
規則や規律にばかり縛られると必ず反抗したくなる思春期の少年のように。

>理性に対する野性は、時には狂気として排除され、
>そこまでいかなくても、光に対する闇として位置づけられる。
野性は言葉が通用しない世界ですよね。
本能の目覚めというのは、言葉が及ばない世界なのでしょうね。

バタイユとブランショはまったく資質が異なる作家なのに相通じるものがあったのは
まさに「沈黙」。
バタイユの人間の性の情動、欲望はまさに本能、野性の目覚めの世界、
すなわち言葉を持たない世界。
ブランショの深い沈黙は、死を間近に体験し、意識しすぎるあまり言語が
遠のいてしまった世界。死=闇=沈黙。
死=沈黙とは野性にふたたび戻ること……?
441 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/23(日) 23:28:31
>キリスト教が作品の中に色濃く感じられる作家の中では、
>ドストエフスキーに、光と闇の葛藤が感じられるかな。
ドストエフスキーは悪人と善人が壮絶なほど書き分けていますよね。
かなり両極端なくらいに。
「カラマゾフ」では一番上の兄の見事なまでの醜悪さと、末弟のアリョーシャの
天使のような善良さ。
「白痴」のムイシュキン公爵の無垢さと、対照的なもうひとりの男。
「罪と罰」における老婆殺しの青年と、娼婦でありながら清らかなこころの
持ち主のソーニャ。

ドストエフスキーの作品に出てくる人物たちは、あまり中庸というものがなく
善か悪かにくっきりと判別されています。
爾来、人間はそんなに明確には分けられない存在だとは思うのですが
ドストエフスキーはあえてばっさりと区切ってしまう。
まあ、そこがドストエフスキーたる所以といえば所以なのでしょうが。。。

高校生の頃、初めてドストエフスキーを読んだのですが、醜悪かつ俗悪な
人物描写にただただ、圧倒されましたね。
こんなにも強欲で醜い人間がこの世にはいるのか、と……。
その分、ソーニャの敬虔さ、清らかさが際立ちましたがね。
442 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/29(土) 22:20:21

デュラス、『ロル・V・シュタインの歓喜』の感想を記します。

19歳の女学生ロルは資産家の青年マイケルに見初められ、婚約しますが、
ある夏の夜開かれた舞踏会でマイケルは領事官夫人であるアンヌに
電撃的に恋をし、一方的に婚約破棄されてしまいます。
以来、彼女は家に閉じこもり親友であるタチアナさえも拒絶します。
ある日、夢遊病患者のようにロルは家を抜け出しふらふらと散歩している
途中で音楽家のジャンと知り合い、ロルを不憫に思うジャンは彼女に結婚を
申し込みます。
ふたりはその地を離れ他所で暮らし、三人の娘にも恵まれ、平穏な10年の結婚生活
を送りました。
物語はロルの一家がふたたびロルの郷里であるS・タラに戻ってきたところから
始まります。

かつての友人タチアナはピエールという医師と結婚しており、何不自由のない
生活を送っています。彼女にはジャックという愛人がおり、彼は夫と同じ医局勤務。

ある日のこと、ロルは散歩の途中でふたりの関係を知りホテルまで跡をつけます。
ホテルの前に広がるライ麦畑に身を横たえ、ロルはふたりの情事の妄想にふけり
ながら快楽を味わうのです……。
443 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/29(土) 22:21:06

ロルの性癖を「倒錯」とか「覗き趣味の変質者」とひと言で表現してしまうには
ためらいがあります……。
訳者の平岡篤頼氏はデュラスの恋愛観を≪欲望の三段論法≫と指摘し、
「愛しあう男女に第三者として立ち会うことで最大の歓喜でもある愛の燃焼に
身を任せることができるのは、作家の特権でもある」と解説しています。

ロルに限らず他人の恋の物語に自身を重ねて歓喜に浸るのは、幼い頃から
女の子だけに許されたひとつの特権ではないでしょうか?
たとえば童話に出てくる「人魚姫」や「白雪姫」。お姫さまたちは不幸な身の上で
ありながらも王子さまに必ず愛される。
たとえ恋愛未体験の年端のゆかない少女であっても、王子さまに恋をされるドキドキ
感は想像力によって味わうことが可能なのです。
恋愛小説、恋愛映画にドラマ、ヒロインに自身を重ねる大人の女たちは数知れず。
「風とともに去りぬ」のスカーレットに、「タイタニック」のローズに、「冬のソナタ」の
チェ・ジウに世の女性たちは我が身を重ねて陶酔したのです。

つまり、世の女性たちすべてがロルの投影とまではいいませんが、一部を
有しているのです。
444 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/29(土) 22:21:49

ただ、彼女たちとロルははっきりと一線を画しています。
たいていの少女たちは他人の恋愛を≪見ているだけ≫では満足できなくなり、
成長するに従い自身がそれぞれの恋愛の当事者となることを望みます。
ええ、夢見る少女じゃいられなくなるのですね。
ところが、ロルはそうではない。
ロルは成長してからもずっと≪視姦者≫でありつづけるのです。
彼女は恋愛の当事者になることを徹底的に拒絶します。
自分の婚約者マイケルのこころを一瞬で奪ったアンヌに自身を重ねて陶酔します。
ジャックと密会する友人タチアナを自分だと思い込み、ホテルで錯乱狂喜します。

ロルは自分の存在を消し去りたい、他者に自身を掏りかえたい欲望が強い。
昨今流行の「自分探し」、「自分の居場所」、「世界にひとりしかいないこの私」という
概念からほど遠いのです。
ロルにはそもそも強烈な自我という意識が欠けているのではないでしょうか?
445 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/29(土) 22:22:27

他の大勢の少女たちのなかにあって際立って美しい容姿を持ちながら、
ロルは自慢するでもなく、かといって持て余しているふうでもない。
ロルは自分の美貌にまったく無関心な少女だったのですね。
彼女が無関心なのは自身の容貌だけでなく、感情面に関してもまったくといって
いいほど未発達でした。
タチアナはロルを「少女らしい涙を流すのを一度も見たことがない」と回想して
いますが、気丈で人前で涙を流さない少女というのとは違います。
ロルの場合、当初から感情の起伏というものを持たない。
傍目から見て、こころここにあらずという状態は少女らしい夢想に浸っている
というよりも、「私」という確固たる自意識を持たないゆえ、目の前の他人に
自分を投影しているだけにすぎなかったのではないでしょうか?
そのことに、ロル自身まったく気づかないままに。。。

アンヌにマイケルを奪われたとき、ロルは嫉妬の感情に見舞われることは
ありませんでした。彼女の望んだことはただひとつ。
「ほほ笑みながらずっとふたりを見ていること」、でした。
それが、他人には奇妙に映る不可解なロルの唯一の「幸福」なのですから。
446 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/29(土) 22:23:09

それにしても、タチアナとジャックの密会する森のホテルの前のライ麦畑に
身を潜めて、ふたりの情事を妄想しながら悦楽の境地を体験しているロルは
何と濃厚でエロティックなことか!
自分の愛する者が自分以外の異性を愛撫している、自分は直接相手に触れる
ことはないままに至高のエロスを味わう。相手に自身を重ねることによって。

動物と人間を隔てているもの。
たとえば理性、言語、そして想像力。想像力は時には妄想と呼ばれる。
互いの肉体に触れ合うことで得られる快感は動物でも得られるでしょう。
けれども、肉体に触れないまま、妄想のみで得られる快感は、人間だけに
与えられた想像の翼のもたらすもの。

生身の肉体に触れ合うだけが恋愛の極致ではない、こうしたデュラスの恋愛観は
兄と妹の近親相姦を描いた「アガタ」をほうふつさせます。
互いの肉体に触れなくても、「想像」という翼を借りれば愉悦の境地に達せる。
デュラスは恋愛における肉体の接触無しの愉悦を、この小説で提示して
みせました。
447 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/29(土) 22:47:19

ロルが身を潜めるライ麦畑。
ここで素朴な疑問。なぜライ麦畑なのでしょう?
もっとロマンティックに季節の花が咲き乱れる馥郁たる花園でもよかったはずなのに。

サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の青年の夢はライ麦畑で遊んでいる
子供たちが畑から落っこちないように一日中見張り番をすることだと言いました。
そう、ライ麦畑は何ものにも束縛されない≪自由≫の象徴でもあるわけですね。
ロルの妄想は≪自由≫な想像の領域であり、他人は当人の妄想までも拘束する
ことはできないのですね。

ロルの行動が狂気めいて映るのは、狂気とは世間の常識や道徳、規律から
解放された唯一の≪自由≫な領域だから……。


――それでは。
448 ◆Fafd1c3Cuc :2007/09/30(日) 20:52:59

【補 足】
バタイユ、クロソウスキーの聖なるものの侵犯、冒涜には必ずといっていいほど
「第三者のまなざし」が必要不可欠でしたよね。
「歓待の掟」は妻が客人と不貞をする現場を第三者である夫が覗くことで
極上のエロスを体験しますし、バタイユの悪徳の限りをつくした性行為の
果てに訪れる法悦は、つねに第三者である神のまなざしを意識しなければ
成り立ちませんでした。
それゆえ、デュラスの恋愛観≪欲望の三段論法≫は別に倒錯でもなく、
人間とはつねに何かの行為をするとき、第三者のまなざしのなかでのみ絶頂に
達するという答えが導き出されるのではないでしょうか?
第三者とは、人であることもあれば神であることもある。
まなざし=言語であるならば、当然の結果といえましょう。
人は言語を持つゆえに、究極のエロスを体験するには肉体の接触だけでは
満足せず、言語=第三者のまなざしが不可欠なのです。

ラカンは言いました。
「人間の欲望は他者の欲望である」
ロルの欲望はアンヌの欲望であり、タチアナの欲望でもあるのです。
それゆえ、ロルは情事の当時者にならなくても、「見ているだけで幸福」
なのです。
449 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/06(土) 21:41:48

舞踏会の夜、マイケルがアンヌにいきなりこころを奪われて一晩中踊りつづける
場面がありますが、「これはまさしく、テネシー・ワルツの歌詞そのものではないか!」
と思いましたね。
あのふたりが夜が明けるまで踊っているとき、ずっと甘くせつない「テネシー・ワルツ」
がわたしの脳裏に流れていました。
けれども、ロルのそのときの境地はこのテネシー・ワルツの詩の世界とはまるで
違っていました。。。
ロルは失恋に暮れたのではなく、「歓喜」にふるえていたとは、、、

Patti Page - Tennessee Waltz
http://www.youtube.com/watch?v=-l2jF6XePz4
450 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/06(土) 21:42:39
「Tennessee Waltz」  Lyrics

I was dancin' with my darlin'
To the Tennessee waltz
When an old friend
I happened to see
I introduced him to my darlin'
And while they were dancin'
My friend stole
my sweetheart from me

I remember the night
Of the Tennesse waltz
Now I know just
how much I have lost
Yes, I lost my little darlin'
The night they were playin'
The beautiful Tennesse waltz.

http://www.sing365.com/music/lyric.nsf/Tennessee-Waltz-lyrics-Elvis-Presley/5991B63F1128CE1C48256874003BB658
451 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/06(土) 21:43:17

「テネシー・ワルツ」 訳詞

昔の友達と偶然出会ったとき、
テネシーワルツにのせて、私は愛する人と踊っていた
私は彼女を彼に紹介し、しばらく二人は踊っていた
そして友達は、私の恋人を私から奪い去ってしまった

あの夜とテネシーワルツを思い出すと、
失ったものの大きさを思い知らさせる

ええ、そうね、私はちょっと失恋しただけ
その夜、彼らは美しいテネシーワルツを
踊ってしまったのだから

http://homepage1.nifty.com/ozanobu/tennessee_waltz.htm
452吾輩は名無しである:2007/10/07(日) 23:42:08
保守
453SXY:2007/10/08(月) 23:49:03
>>438
>逆説的ですが光は光だけの世界では何ら意味を持たないのではないでしょうか?
>闇が兆して初めて光の真価が問われるのだと思います。
まさにそう思うね。言葉のシステムは、ソシュールを援用するまでもなく、
他の言葉との差異によって成り立っているわけだし、
対義語がなければ意味を持たない言葉も多いんだと思う。
というか、対立する言葉がなければ、そもそもその言葉も生まれなかっただろうし。
闇のない光、悪のない善、沈黙のない言葉、死のない生、などなど。
だから、ある種、株価操作にも似たレトリックがあるんじゃないかな。
光の価値を高めるために、闇の価値を必要以上に下落させる、みたいな。
454SXY:2007/10/09(火) 00:02:48
>>441
>ドストエフスキーの作品に出てくる人物たちは、あまり中庸というものがなく
>善か悪かにくっきりと判別されています。
そうだよね。相対立する2つの力(キャラクター=思想)が、
弁証法的に止揚されたり昇華されたりすることなく拮抗しあう。
思想は極端化され強調されてキャラクターに体現されている。
作者ドストエフスキーの立ち位置はどちらかに寄ることなく、
キャラクターたちをまとめる中庸的な立場にもいない。
バフチンはそうしたドストエフスキーの作品形式に焦点をあてて、
キャラクターそれぞれが中心を持っているような構造を
ポリフォニーという概念で表現したけれども、
人がドストエフスキーを語るとき、他の作家以上に、
アリョーシャなりムイシュキン公爵なりソーニャなりといった
登場人物の名前を持ち出すのもそのためなのだろうね。
455SXY:2007/10/09(火) 00:23:33
『ロル・V・シュタインの歓喜』は未読なので
これまで読んだいくつかのデュラス作品と
Cucさんの感想からの連想を交えて想像してみると、
やっぱりエロスがなきゃデュラスじゃないんだろうな、
ということと、映像的な描写が効いているんだろうな、
ということを思ったんだけれど、
『愛人』『モデラート』『破壊しに』『死の病い』とは
ちょっと違った雰囲気もあるんだろうか。

『死の病い』だとブランショのレシにも似た雰囲気があって
白いシーツを敷いたベッドに女が横たわる部屋に海の音が聞こえ、
人称と時制が奇妙で不安定なニュアンスをそのイメージに与える、
みたいな感じがあったと思うけれども。

V・シュタインというのはきっとドイツ名かな。
ロルという名前のほうはよくわからないけど。
456(OTO):2007/10/10(水) 13:39:24
最近忙しくてなかなか書き込めない。すまん。
「ロル・V」感想はもう少し待ってくれ。
ちょっとこっちむきの小ネタを書いて、お茶を濁す。

先日吉祥寺のサウンドカフェ[dzumi]の店主に教えてもらって
http://www.dzumi.jp/index.html
ウイリアム・クラインが撮影したパリ五月革命のドキュメンタリーを見た。
http://www.tokyohipstersclub.com/dvd/index.html
いくつかの路上、大学内での討論の映像に続いて、画面に「学生−作家行動委員会」の字幕が現れ、
ソルボンヌ大学の一室(?)が映し出される。画面左下に映っている女性は後ろ姿だが、特徴的な髪型と
眼鏡の形によって、マルグリット・デュラスであることが、すぐわかるだろう。
場面はすぐに会議の議長役を務めている40歳代の男性が話す姿を映し出すが、
その内容は非常に具体的な運動内容の再確認のようなもので、
ビラに載せる短い引用文に対してデュラスが「知っているわ」と応えたことしか憶えていない。
それよりも議長役の男のすぐ右隣に座る男、頭部と上半身はカメラを避けたかのようにすっぽりと
議長役の男の身体に隠れているのだが、肘をつき、しきりに組み直すその節くれ立った両手は
彼がこの場に集まっている人々のほとんどよりも年長、60代くらいであることを示している。
やがてカメラはアングルを変え、隠れていた男の深く皺の刻まれた鋭い表情、
一瞬見ただけで深い印象を残す、なにかを貫くような眼光を映す。
彼は組んでいた手をほどき、左手を頬にあてる。
私が唖然としている間に場面は変わる。
果たして私はモーリス・ブランショを見たのだろうか?

ちなみに郷原佳以氏の掲示板でも話題にのぼっていたのだが、確証は得られていない。
457SXY:2007/10/12(金) 23:14:43
すごいエピソードだね。
なんて濃厚なお茶の濁し方!
458SXY:2007/10/14(日) 01:10:54
>>446
>生身の肉体に触れ合うだけが恋愛の極致ではない、デュラスの恋愛観は
>兄と妹の近親相姦を描いた「アガタ」をほうふつさせます。
そうそう。『アガタ』で思い出したけれど、この作品は(おそらく、きっと)、
ムージルの『特性のない男』を下敷きにし、それに応答した作品だろうね。
本の解説にはひとことも触れられていなかったけど間違いない。
この作品では主人公ウルリッヒと妹アガーテが精神的な近親相姦関係に入り、
エロスなきエロティシズムという非常に特異な世界を築くんだけど、
デュラスは、アガタとアガーテというわかりやすい足跡を残してる。

それにしても、デュラスと夫アンテルム、ブランショ(?)の映像があるとは驚き!
459 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/14(日) 20:39:05

>>456
(OTO)さん

>最近忙しくてなかなか書き込めない。すまん。
>「ロル・V」感想はもう少し待ってくれ。
大丈夫ですよ〜
そちらのもろもろのことが落ち着いてからでOKですので。

パリ五月革命のドキュメンタリーのリンク、ありがとうです。
デュラス、ブランショが同じショットで映っているとは!
大変貴重な映像ですね!
ブランショは自身の評論のなかでもデュラスの「死の病」を引用していますし、
デュラスの初期の作品はともかく、後期から晩年にかけての作品は名前のない
男女の登場や、誰が誰に向って話しているのかわからないせりふの主の曖昧さや、
霧のなかに包まれたような顔の無い人物たちなど、かなりブランショ色が濃厚です
よね。
デュラス特有の夏草のむせかえるような濃厚なエロスは、「愛」ではすっかり影を
潜め、ふわふわと宙を漂うだけのものに留めています。
460 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/14(日) 20:40:12
>>455 >>457-458
SXYさん

>やっぱりエロスがなきゃデュラスじゃないんだろうな、
>ということと、映像的な描写が効いているんだろうな、
そうですね。デュラスの描くエロスは特有のものであり、いわゆるロマンス小説の
エロスの範疇には当てはまらない。
尋常ではない心理状態といいますか、ぞくっとするような危うげで妖しい関係が
描かれていますね。

>『死の病い』だとブランショのレシにも似た雰囲気があって
今回読んだ「愛」は『死の病い』にも似ていて、ブランショのレシを踏襲している
と思いました。
461 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/14(日) 20:41:02

>V・シュタインというのはきっとドイツ名かな。
解説ではユダヤ人という設定らしいです。
(……わたし自身はあまり気にせずに読んだのですが、放浪する民、郷里を持た
ない民として、迫害される民族側の視点で読むことがひとつの鍵となるそうですが、
う〜ん、わたしは民族間の闘争をキイ・ワードとして読むよりもストレートにロルの
奇妙な恋愛観、愛情のあり方のほうに重点を置いて読むほうが面白かったなあ)

>『アガタ』で思い出したけれど、この作品は(おそらく、きっと)、
>ムージルの『特性のない男』を下敷きにし、それに応答した作品だろうね。
>本の解説にはひとことも触れられていなかったけど間違いない。
ムージルの『特性のない男』は未読なので、図書館にリクエストしました。
それと、都内の図書館の縦横検索をかけたら3つの図書館に「ガンジスの女」が
ありました!
こちらも、他館からのお取り寄せでリクエストする予定です。
462SXY:2007/10/15(月) 00:20:29
『特性のない男』は長いよ〜。
プルーストの『失われた時』ほどじゃないけど。
そして、残念ながら未完の作品。
463 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/18(木) 10:02:16
昨日図書館から借りてきましたが
本当に長い…
完読は無理そうです
464(OTO):2007/10/18(木) 13:52:07
とりあえず感想だけ。

「ロル・V・シュタインの歓喜」平岡篤頼訳
河出のデュラスは装丁がフェミニンすぎる。
「ラ・マン」は確かにフランス国内でさえ、ある程度下世話な評判によって
ベストセラーになったのだろう。そして異例のゴンクール賞受賞。
しかし本来マルグリット・デュラスは3Bに勝るとも劣らない硬派な作家である。


解説ではこの作品を単純に「難解」としているが、読み込めば充分理解可能な作品であり、
この作品を理解することは、静かでありながら、極限的なひとつの狂気を
理解してしまうことになるという、恐るべき作品である。

地方都市S・タラの中産階級(現代日本的には上流の部類に入るような気がするが)
の美貌の娘ロル・V・シュタイン。彼女はある夏の夜の舞踏会での婚約者の裏切りによって
狂気に陥る。こう言ってしまえば、ありふれたゴシップ、スキャンダルと言えるのかも知れない。
しかしデュラスの筆は、その微妙な狂気の襞の中へと、まるで魅惑されたかの様に踏み込んでいく
ひとりの少女を注意深く、第三者の眼を通して描写していく。

ひとつ読む上で注意すべきは冒頭の一人称「私」がデュラスでは無いという点であろう。
私はてっきりデュラスだと思いこんで読み進めてしまっていた。
465(OTO):2007/10/18(木) 13:52:41
学生時代からのロルの友人、タチアナ・カルルは、こう語っている。

 タチアナはこの病気の起源を、もっと昔、ふたりが親しくなるよりもさらに昔にさかのぼると
 考えている。それがロル・V・シュタインの内部にすでに兆していて、ただ家庭の中、ついで
 学校で、ずっと彼女を取り巻いてきた大きな愛情のおかげで、発現するのが抑えられていただけ
 なのだという。(中略)彼女はおかしな娘で、どうしようもなくひとを小馬鹿にしたところがあり、
 とても繊細なんだけれど、彼女の一部分はいつでも相手とその瞬間からかけ離れたところにある
 みたいなの。かけ離れたところって?少女らしいむそうかな?いいえ、とタチアナは答える、
 そうじゃないの、まるでまだなんだかわからないもの、まさにそう、なんだかわからないものね。

しかし、ロル19歳の夏の夜、市営カジノでの舞踏会で、事件は起こる。
ロルはその時、何を見つめていたのか?
男女間に突然沸き起こる性的な欲望。ダンスという社会性の枠内で、それは永遠に遅延されていくかに
見える。果てしない期待の留保。それこそがエロティシズムであると、彼女は感じていたのだろうか?


事件後しばらく自宅に閉じこもっていた彼女は、おそるおそる外出した夜偶然出会った男性からの
プロポーズを受け、別の街で、表面的には平和過ぎるほど平和な生活を送り続け、
10年後、故郷S・タラに戻ってくる。
何か、自分にもわからないものを探し求めるかのように繰り返される毎日の散歩、
その途中で彼女は、友人タチアナの密会を目撃する。
そして、彼女の奥底で、10年間休止していた何かが、活動を再開する。
もう彼女を止めることは絶対にできないであろう。
466(OTO):2007/10/18(木) 13:53:58
ロル・V・シュタインは表面的な感情のうねりに翻弄される周囲の人々を静かに見つめ、
自身の奥底と結びついている一種の欲望のようなもの(?)のために、
人々を望む位置へと誘導していく。それはまるで居間の椅子の配置に完璧さを求めるような
調子とも見える。あるいは無意識の心理戦のようなものだろうか?

まるで細い糸で繋がれているかのような微妙な人間関係が、ダイアローグによって
刻々とその配置を変えていく流れは、後半ロルの家で開かれる会食の後のダンスのシーンで
クライマックスを迎える。
そのシーンのラストで、タチアナ・カルルは愛人に対して見事にキレる。

 ─もうあなたの目を見ていられない、その汚らわしい目。
 ついで言う─
 ─あたしたちが一緒にやっていることってそんなにたいしたことじゃないと思っているからなのね。
 (中略)
 ─よくって、あたしにたいする態度をあんまり変えたら、もうあなたに会わないわよ。

そしてその少し後、「森のホテル」のベッドの上で、

 ─思い知らせてやるわ、おだやかに彼女に注意して、ええできるわよ、彼女をいじめたりなんか
  しないで、あなたをそっとしておくよう言ってやるわ。狂ってるのよ、だから苦しんだりしないわ、
  気違いってそうでしょ、ね?
467(OTO):2007/10/18(木) 13:54:31
これらすべての状況がロル・V・シュタインの狂気に「仕えている」ように見える。
必当然的な流れによって、タチアナの愛人ジャックと伴にロルは、思い出の市営カジノへと
小旅行を試みる。列車の中で、浜辺で、カジノのダンスホールで、
我々はおそらくデュラスにしか書くことのできない、男女関係の深みを
息を詰めて覗き込むことになるだろう。

ベッドで。

 その後、彼女は叫ぶようにして、罵り、哀願し、もう一度抱いてほしいそっとしておいて
 ほしいと同時に懇願し、追いつめられて部屋から、ベッドから逃げだそうとし、もどってきて、
 巧妙に捕まえられようとし、悔恨の色のない彼女の目をのぞいて、そして彼女が自分自身を名指す
 ─タチアナのほうは自分の名前なんか叫ばない─ときを除いて、もはや彼女とタチアナ・カルルとの
 違いがなくなっていて、彼女は自分をタチアナ・カルルとロル・V・シュタインという二つの名前で
 呼ぶのだった。

ロル・V・シュタイン。これを狂気、と呼ぶべきなのだろうか?飽くまで異例なものとして。
もしそうであるのなら、狂気の存在しない世界には、物語さえ存在し得ないような気がする。
468 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/20(土) 22:29:29
>>464-467

(OTO)さん
お忙しいなか、感想ありがとうございます。
いつもながらの緻密で論理的な展開ですね! さすがです!

>河出のデュラスは装丁がフェミニンすぎる。
確かに・・・あのライ麦畑に佇む少女の画像はちょっと買うのが恥ずかしい
ですよね。特に男性は。。。

>解説ではこの作品を単純に「難解」としているが、読み込めば充分理解可能な
>作品であり、この作品を理解することは、静かでありながら、極限的なひとつの
>狂気を理解してしまうことになるという、恐るべき作品である。
わたしもこの作品が「難解」とはさほど思いませんでしたね。
そして、ロルの「狂気」も特異なものではなく、おそらくは誰もがロルの狂気の
入り口に近いところを体験してきているはずです。
子供の頃、テレビアニメのヒーローにあこがれた男の子が自分をヒーローで
あると思い込む、女の子なら童話のなかのお姫さまを自分だと思い込む、
こうした他者を自身と自己同一化することは珍しくありません。
自己同一化することの根源にあるのは「歓喜」です。
現実にはありえない「歓喜」を味わいたくて、子供の頃からわたしたちは誰に
教えられるともなく、あこがれの他者に自身を投影してきたのではないでしょうか。
469 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/20(土) 22:30:31

ただ、正常者が狂人と一線を画しているのは、正常者はいくらあこがれの人に
自身を重ねても、自身が他者にはなりきれないことを知っている。
他者の真似をし、他者を演じながらも、演じている自分を自覚しています。
小説や映画などに出てくる狂人たちは自分を「神」や「キリスト」、「ヒトラー」
であると完全に信じ込んでいます。
自身を他者に投影云々ではなく、彼らの意識は自身と他者の区別がまったく
つかない。分裂症、誇大妄想と呼ばれる患者はまさにこのタイプです。
彼らは自分が「神」や「キリスト」であることに歓喜します。
正常者が自身が他者になれない現実を突きつけられて悲しみに暮れるのとは
実に対照的です。
彼らは自身のつくりだした妄想の世界の住人であり、その世界にいる限り幸福
なのです。

ロルは自分がかつてマイケルに愛されたこと、夫であるジャンに愛されている
ことにまったく幸福を感じない。
ロルの幸福は、一瞬でマイケルのこころを奪ったアンヌに自身を置き換えること、
夫がいながら野性的なジャックという愛人を持っているタチアナになること。
ロルは自身が幸福の当事者であるより、幸福な他者になることを求めます。
470 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/20(土) 22:31:12

そう、幸福な他者が身近にいることが、ロルの幸福。
ロルは他者とわが身を同一視して、他者を介してのみ歓喜に至ります。
こうした捩れた奇妙な「幸福」が、「難解」とされる原因のひとつではないでしょうか。

>男女間に突然沸き起こる性的な欲望。見える。果てしない期待の留保。
>それこそがエロティシズムであると、彼女は感じていたのだろうか?
なかなか鋭い読みですね!
確かにそのように指摘されてみると、ロルの発病はすべてエロティシズムに
起因しているといえますね。
マイケルが18歳のロルを見初めたのは、ロルの美貌、聡明さ、品の良さであり、
そこにはエロティシズムはさほど介入していないように思えますね。
ところが、マイケルはアンヌをひと目見た瞬間から彼女の醸し出すエロティシズムの
虜になってしまう。そして、ロルはそんなアンヌに激しいあこがれを抱く。
その後知り合ったジャンもロルを同情的なまなざしで見ており、プロポーズは
ロルを庇護したいという男性の保護本能によるもののほうが大きい。
471 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/20(土) 22:32:37

タチアナは愛人のジャックに「最高の娼婦」と言わしめるほどのエロティシズムの
持ち主。またしてもロルはタチアナになりたいと願う。
ロルの女として抑圧されてきた本能、欲望は、男たちからアンヌやタチアナの
ように女そのもののエロティシズムの権化のように見つめられること。
若さも美貌も聡明さもエロティシズムの前では霞んでしまうことをロルはとうに知って
いたのでしょう。
自分よりはるかに年上であるアンヌはそのエロティシズムでマイケルのこころを一瞬
で奪ったように、ロルよりは格段と容貌の劣るタチアナはエロティシズムでジャックに
君臨しているように。
ロルの渇望しているものはエロティシズムであり、それを自分がもたないゆえに
アンヌやタチアナに激しく自己を重ねる。。。
なるほど、確かにロルはエロティシズムから遠い人間かもしれませんが、
ライ麦畑で他人の情事を覗き見するロルの身体からはエロティシズムが実に強烈に
放たれているのですよね。
その目は歓喜にあふれ、幸福の絶頂にあります。
エロティシズムとは、歓喜、幸福の絶頂であるとするならば、ロルは気が触れることに
よって初めてエロティシズムを体験したことになります。

472 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/20(土) 22:34:40

>ロル・V・シュタインは自身の奥底と結びついている一種の欲望のようなもの(?)
>のために、人々を望む位置へと誘導していく。
デュラスの筆は、わたしたちをロルの狂気、ロルのエロティシズムの世界へと
確信犯的に誘導してゆきます。
催眠術にかけられたようにわたしたちは気がつくとロルの狂気に巻き込まれている、
という次第です。その誘導過程は砂時計がゆっくりと落ちるのに似ています。

>ロル・V・シュタイン。これを狂気、と呼ぶべきなのだろうか?
>飽くまで異例なものとして。
>もしそうであるのなら、狂気の存在しない世界には、物語さえ存在し得ないような
>気がする。
狂気、妄想、これらはすべて過大な想像の産物であり、想像の行き過ぎたものである
とするならば、この世で表現されるあらゆる芸術作品はすべて「狂気」の範疇に
含まれてしまうのでしょうね。。。
すべての創作は想像力によって生み出されるものであることを鑑みれば、創作者も
またそれを鑑賞する者も「狂気」を内包していない人などひとりもいないでしょう……。
473 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/27(土) 21:45:18

デュラスが「インデア・ソング」に使いたかったお気に入りの「ブルームーン」
を見つけました。
ちょっとアンニュイな感じの曲ですね・・・
気だるそうなアンヌのイメージによく似合います。

Billie Holiday - Blue Moon

http://www.youtube.com/watch?v=zceWcWDaahg
474 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/27(土) 21:46:05
「Blue Moon」 Lyrics by Billie Holiday
Richard rodgers / lorenz hart

Blue moon,
You saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love on my own.

Blue moon,
You knew just what I was there for
You heard me saying a prayer for
Somebody I realy could care for.

And then there suddenly appeared before me,
The only one my arms will ever hold
I heard somebody whisper, please adore me.
And when I looked,
The moon had turned to gold.

Blue moon,
Now Im lo longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own.

http://www.tsrocks.com/b/billie_holiday_texts/blue_moon.html
475 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/28(日) 20:02:45

河出文庫・デュラス「愛」の感想です。

名前のない男女、生と死の交錯する場所、海、極限まで抑えられた会話、
砂と風でできた町、誰にでも身体を与える娼婦のような女。
さらに、詩的かつ簡潔な文体はまさに「死の病」の踏襲ですね。
“彼女”はロルであり、“旅人”はかつての婚約者マイケル、そして“黒髪の女”は
アンヌであることが読み進むうちに次第にわかってきます。
解説でもこうした人物設定を明らかにしていますね。
ロルの狂気はさらに進んでおり、彼女の周囲の男たちにもその狂気は伝播し、
“歩く男”と呼ばれるロルの信奉者(?)と思しき狂人の男は、タラの町に火を放つ
常習犯であり、マイケルに至っては自殺する気でおり、そのための場所を探して
いてふたたびロルに逢ってしまったがために、ますます死病に獲りつかれている
かのようです。

ロルは男たちを死や破滅に導くファム・ファタル(運命の女)として描かれます。
唯一のタラの生き残りであるアンヌはこう言い放ちます。
――彼女が行くところどこだろうと、何もかも滅茶苦茶になってしまう――(p112)
476 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/28(日) 20:03:25

解説では、この作品そのものについてはあまり触れておらず、もっぱら当時の
デュラスの政治的な思想を中心に展開していました。
曰く、ロルはユダヤ人である。五月革命のその後の思想が「愛」に大きな
影響を残している云々。。。
けれども、わたしがこの作品で興味を持ったのは、デュラスの思想背景よりも
この題名「愛」の意味するものでした。
デュラスの「愛」のとらえかた、描き方の方により多くの関心を抱いたのです。

“旅人”=マイケルはロルをタラの町に連れ出して砂浜にそっと横たえ、眠らせます。
そして、眠りに落ちた彼女にこうささやくのです。
「愛(アムール)」と。
彼女は自分に近づく男たちを悉く破滅に導きます。
音楽家の夫は死に、マイケルは死病に獲りつかれ、“歩く男”は夜な夜な町を
放火して回っている、、、
いったいロルの何が「愛」なのか?
デュラスは「テキストの中のテキストは旧約聖書」と自ら語っているそうですが、
ロルは確かにファム・ファタル(運命の女)ではありますが、イブのような誘惑は
しないし、デリラのように姦計をはかることはしません。
477 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/28(日) 20:04:02

ロルは自身の意思をまったく持たない無垢で非力な女なのです。
にも拘らず、彼女は自身の放つ狂気で男たちを捕らえ破滅へと導くのです。
ロル自身についていえば、彼女は何もしていません。
ただ、彼女はそこに「在る」だけなのです。
そして、そんな彼女を作者は“旅人”の口を借りて「愛」と呼びます。。。
ふと、花村萬月氏の言葉が脳裏をよぎりました。
「神は何もしない。そこに在るだけだ。それゆえに神なのだ」
神を愛に置き換えてみればまさにロルにあてはまります。
「ロル=愛は何もしない。そこに在るだけだ。それゆえに愛なのだ」
ここで注目すべきは、デュラスは世人のいうように「愛とはつくりあげるものである」
もしくは「努力して求めるものである」、イエスのように「与えるものである」といった
考えとは対極にあるということです。
「愛」はそこに「存在している」ものである、これがデュラスの答えです。
そして、「愛」の当事者ロルは妄想の狂人であり、「我思う、ゆえに我なし」なのです。
そうです。ブランショの「トマ」と同じなのですね。
いえ、この作品ではロルの狂気はさらに深化しており「我思わない、ゆえに我なし」
といったほうが正解でしょうか。
478 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/28(日) 20:04:36

デュラスは「愛」はそこに「在る」ものとしつつも、肝心な「愛」の具現者は「存在しない」
と指摘しているのです。
何という残酷さ、、、

一般的な定義において「愛」は善であり、何かを生み出すものであり、つくりあげる
ものであるとされます。
一方で、「愛」の持つ裏側の顔として、破壊、狂気、殺人などが挙げられます。
文学作品においては、「愛」の持つ裏側の顔がよく題材に取り上げられていますね。
そこには必ず嫉妬や懊悩、背信といった濃厚なドラマが描かれるのですが、
デュラスはそうではありません。
「愛」はただそこに「在る」だけのものとして、淡々と描かれるのです。
唯一、愛の定義にあてはまっているのが、自らの身体を男たちに提供し旧約聖書の
「生めよ、増やせよ」に従う如くロルは見境なく誰の男の子供でも生むこと。
けれども、彼女の子供を育てているタラの町は狂人に放火されているがゆえに、
結果として、ロルの子供も死んでしまっているということになります、、、

ロルは放火犯の狂人男に対してもひとことの叱責もしません。
自分の子供が焼き殺されているという事実にも拘らず。
もともとロルは自分というものが失われているのですから、当然といえば当然
なのでしょうが、デュラスの描く「愛」の残酷さにぞっとするのはわたしだけで
しょうか……?
479 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/28(日) 20:05:46

最後に、砂と風でできたタラという地は「約束の地」ではないでしょうか。
ユダヤの民が永い放浪の果てに求めた永遠の地。
そのタラの地に、侵入者たちは西洋の白骨のような建物を次々と建てていきました。
町に火を放つ狂人男とは、すなわちユダヤの民の怒りの炎の象徴であり、
旧約で神が堕落したソドムとゴモラの町を火で滅ぼしたことを踏まえているのでは
ないでしょうか。

この作品の冒頭で、ロルは海辺に立ちじっと耳を澄ましてこう言います。
――あなたはお聞きになった、叫び声がしたのを――(p17)
――あのもの音を聞く……神の音というか? ……あのからくり?……――(p207)
このラストの「神の音」とは狂ったロル自身の叫び声。
そして、ロルの放つ叫び声は狂人たちにとってはまぎれもなく「神の声」なのです。
それゆえ、放火男は神の代理人として町に火を放ち、神の怒りの槌を振り下ろす
のです。
480 ◆Fafd1c3Cuc :2007/10/28(日) 20:14:11

ところで、放火犯である“歩く男”とはいったい誰なのでしょう?
わたしはタチアナの愛人ジャックではないかと推測するのですが。。。
彼もまたマイケル同様、ロルの放つ狂気に魅せられ自らも狂人になってしまう。
かつてはタチアナとの情事をホテルの前のライ麦畑でロルに≪見られる側≫で
あったのですが、ここでは逆転して見張り番のように≪見る側≫に転倒しています。

ロルの狂気はこうして男たちを≪見る≫、≪見られる≫世界に巻き込んでいき、
ついに彼らは廃人になり、ロル=「愛」なしではいられなくなるのです。

デュラスの描く愛とは狂気の世界なのですね。
481 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/05(月) 20:55:53

引き続きデュラス・「インディア・ソング」読了しました。

これは映画化された台本をもとに書かれたということですが、従来の小説の
形式から離れております。
ストーリーは「愛」が「ロルの後日談」とすれば、「インディア・ソング」においては
「アンヌの後日談」とでも呼ぶべきでしょうか。
インドのとある邸宅に住むアンヌは自分を慕う男たちに彼らの望むままに
身をまかせる怠惰な日々を送っています。
夫である副領事は何もいいません。ただ見ているだけです。
アンヌの信奉者には、彼女を追いかけてきたマイケル、若い大使館員がいます。
何不自由ない生活、好きなようにさせてくれる夫、若い男たちの取り巻き、
それなのにアンヌはとても「不幸」なのです。
全編をとおして脈絡もなく出てくる乞食女のほうがはるかに幸福かもしれない
と思えるほどです。

なるほどアンヌは副領事夫人としては申し分ありません。
パーティのあとに残った食べきれないごちそうは裏口から乞食に提供するし、
彼らのために毎日新鮮な水を用意してやる気配りも供えています。
お情け深い白人の有閑マダムです。
482 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/05(月) 20:56:48

アンヌは見たところすべてにおいて退屈しているようです。
何かもかもが充足しすぎていて飽き飽きしている。
恋にさえも、飽きています。
夜毎に行われる盛大なパーティ、彼女はそこで取り巻きの男たちと踊ります。
流れている曲は「インディア・ソング」。

この作品全体に流れるおよそ生気をまったく感じさせない緩慢な気だるさは
いったいどこから来ているのでしょう?
白人社会がつくりあげた上流階級の腐敗と退廃とひとことで言うのは簡単ですが
この死んだような空気は実はインドという地がもたらしているのではないかと
思うのです。
アンヌは最後には河口で自殺します。
彼女にはもともとさほど生を求めていない節がところどころ窺えます。
他の外交官夫人たちがライ病患者から伝染することを極度に恐れているのに
アンヌは平然としています。
それはアンヌの博愛精神からくるのではなく、生に執着しないゆえなのです。
483 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/05(月) 20:57:40

アンヌ、ロル、乞食女。
傍目に見れば、裕福な生活を送り、夫と何人かの愛人を持っているアンヌが
一番幸福に映るのでしょう。
けれども現実はそうではありませんでした。

刑務所に収容されている狂人のロルはアンヌよりはるかに幸福なのです。
ロルは毎日囚人服を着て海辺をさ迷い、神の声を聞き、そして叫ぶ。
疲れたらかなり長い時間眠ります。ロルの眠りは安息と充足に満ちていて
なんと幸福な眠りであることでしょう!
ロルは眠りのなかで天地創造を夢見ています。海と陸と空とが出現する瞬間を。
彼女は口癖のように誰に言うともなくひとりごとのように言います。
「……歴史が始まるわ」と。
ロルは歴史の始まり、物語の始まりを妄想のなかで夢想するのです。
つねに歓喜の笑みをたたえながら……。
彼女はアンヌに比べたら無一物であるにも拘らず、
このロルの静謐な充足、安穏、ああ、なんてロルは幸福なのでしょう!
484 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/05(月) 20:58:30

17歳で子供を身ごもり家から追い出された乞食女。
彼女は今まで見知らぬ男たちの子供をどれだけ孕んだのだろう。
お金欲しさに子供を売り飛ばし、今では副領事館の前で物乞いをしながら日々
どうにか生きている。。。
彼女はアンヌが恵んでくれる新鮮な水、食べ物に言い尽くせぬほどの喜びを
感じている。それだけで一日を幸福な気持ちで過ごしている。

おわかりでしょうか?
ロルと乞食女にあってアンヌにないもの、それは「歓喜」であるのです。
「歓喜」はそのまま「幸福」に結びついているといってもいいでしょう。
ロルも乞食女もアンヌに比べたらはるかに悲惨な身の上です。
けれども、ふたりは「歓喜」を知っている。
ではなぜアンヌには「歓喜」が訪れないのでしょうか?
アンヌは自分から望まなくても欲しいものは難なく手に入る人種です。
望む前に、求める前に、相手のほうでアンヌに近づいてくるのです。
つまり、アンヌは欲することがどういうことなのかわからない。
大切なものを失くしてしまったときの喪失感も知らない。
485 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/05(月) 20:59:35

ロルの「見る」欲望、乞食女の「乞う」欲望。
人は欲望が満たされたとき初めて喜びを体験します。

アンヌは死ぬために河口に立ちますが、そのとき初めて欲望したのが死で
あったのでしょうね。

「愛」のなかでマイケルは、そんな死んだような目をしたアンヌから逃げ出し
ふたたびロルに逢ってつかの間の充足の日々を送るのです。
狂人のロルの目は虚ろではなくつねに静かな歓喜に輝いているのです。
アンヌの眠りが悲しみに包まれた痛々しいものであるのに対し、ロルの眠りの
何と平和なことか!

――彼女のガウンが見つかったのは砂浜なのです――(p221)
アンヌが入水自殺したことを仄めかす最後の一行。
それにしても、ロルも海辺をふらつくし、アンヌもガンジス川に身を投げるし、
海、川、は英語では女性の代名詞で表されるように、デュラスもふたりの
女性の最後にはやはり海と川を選んでいます。水=羊水とするならば
胎児を育むのは女性のなかにある海、原始の海であることを象徴している
かのようです。
486 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/05(月) 21:48:11
「愛」においては風と砂と光が作品の全体をとおして流れていましたが、この作品では
空気は止まったまま流れない。
淀んだ空気と退廃的な白人文化、腐った食べ物の匂い、お香の匂い(死の匂い)が
そこかしこに充満しています。
気だるい日常を送り退屈をもてあましているアンヌの体臭そのもののようです。
この地では光はまぶしすぎて昼間はどの家でもブラインドを下ろしたまま。
時が止まったかのような世界。
人のこころにも、ものにも風が流れないと倦んでしまうのです。
事実、この地に赴任している白人たちの目は死んだ魚のような目をしているでは
ありませんか。
ライ病を恐れ、貧困を忌み嫌い、自分たちの圏内から一歩も外に出ようとはしない。

アンヌは自殺するよりもロルのように発狂したほうが幸せだったのではないかと
思うのはわたしだけでしょうか?
狂気の世界には倦怠や退屈ではなく、まぎれもない歓喜があるのですから。
487 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:27:24

デュラス「ガンジスの女」亀井薫訳、読了しました。
これで、このシリーズについて語るのは最後です。

ひとつの物語についてデュラスは何作もに渡って書き分けています。
「ロル・V・シュタインの歓喜」、「愛」、「インディア・ソング」、そして「ガンジスの女」。
さすがにこれだけ同じものを読んだあとは、当分もうこの手のお話はいいかなあ、
という気になりますね。
とはいえ、さすがデュラスです。
同じテーマを小説風に、詩のように、シナリオのようにといろいろと角度を変えて
書ける腕前はやはり見事というひとことに尽きるでしょう。

ところで、素朴な疑問が。
なぜデュラスは同じテーマを執拗といえるくらい、何回も書くのでしょう?
「欲望の三角関係」、「愛の不可能性」を突き止めたい、などが挙げられる
のでしょうが、わたしはもっと単純に考えてみました。
デュラスは自身が錯乱していた時期があり、奇跡的にあちらの住人の世界から
こちらに戻って来れたとありますが、彼女は狂気の世界こそが最終的には人を
惹きつけて離さない強大なちからがあると提言したかったのではないでしょうか?
488 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:28:23

「ガンジスの女」においては、狂人の女はロル・V・シュタインであり、旅人は
かつての婚約者マイケル、自殺した副領事夫人はアンヌであると明示されています。
「愛」においては、女、旅人、副領事夫人としか記されていませんでした。
まあ、だいたい読者はおそらくこの三者はこの固有名詞にあてはまるのだろうと
想定はしていましたが、、、
わたしが勘違いしていた人物がひとり。
今回、旅人ことマイケルを追って赤い服の女性が登場しますが、この女性は「愛」に
おいても登場していましたが、わたしはてっきり副領事夫人アンヌだと思っていま
した。……アンヌはインドで入水自殺していたのですね。そして、その後マイケルは
別の女性と結婚しふたりの子供を儲けていたのですね。。。
今回登場する赤い服の女性とはアンヌのあとに知り合った女性。
けれども、マイケルは家を出て死ぬためにS・タラの町に辿り着き、そこで再び
ロルに出逢います。完全な狂人になったロルに……。
489 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:29:14

かつて捨てた女、ロル。
当時、年上のアンヌのエロスに一瞬で身もこころも奪われた若いマイケル。
彼女の死後別の女と結婚するも、結局平穏な日々に満足できずに家を飛び出し
死出の旅に出て、狂人となったロルに再会し、今度はロルの放つ狂気にがんじ
がらめになり、彼女に強烈に惹かれます。
かつてのアンヌのエロスとは比較にならないほどロルの放つ妖しい狂気は
ここに至って初めて彼を虜にするのです。
ロル自身は己の放つ狂気のちからにまったく無意識であり、無頓着です。
かつて自分を捨てた男が、今では自分の虜になりロルなしでは生きていかれない
ほどに廃人と化している。。。

ここにおいて、デュラスは男女の愛は初めは動物の本能からくるエロスが勝利する
けれども、最終的にはエロスを上回る狂気には太刀打ちできない、と暗示している
節が窺えます。
490 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:30:30

「聖なるものとは交感です」とバタイユの黒い天使・ロールは言いました。
究極のエロスを追及し、あれほど博識なバタイユですら、辿り着けなかった
結論にロールはなぜ辿り着けたのでしょうか?
ロールは狂気の世界の人であったからではないでしょうか?
聖なるもの=交感=エロスの交歓、聖なるもの、無垢なるものとは実は
狂気の世界にしか存在しえないのではないでしょうか?
(イエスは生まれた村の住人たちに「あなたは狂っている」と罵られました。
「白痴」のムイシュキン公爵はまさに典型そのもの、、、)

アンヌの放つ動物的なエロスは磁力のように男たちを惹きつけはしても、魂を
抜くほどのものではないし、人生の軌道を狂わせることはあっても男たちを廃人に
はしません。
何よりも哀しいのは、アンヌも男も誰ひとりとしてこころから「幸福」を感じていない
こと。では、ロルの狂気はどうでしょう?
ロルはいつも歌を歌い、海を砂浜を見てしあわせにほほ笑むのです。
狂人の男が彼女の見張り番をしており、この男もロルなしではいられない一人。
そしてこの男はロルを「見ているだけ」でやはり幸福なのです。
ロルの放つ狂気に自身も廃人と化した旅人のマイケル。
けれどもおそらくマイケルは今が生涯のうちで最も幸福なのではないでしょうか?
491 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:31:27

すべてを投げ打って追いかけたアンヌとの日々、彼女のアンニュイさは周囲の
誰も彼もを不幸にし、その後の別な女性との平凡な結婚生活も文字通り
ありきたりで満足感は得られなかったでしょう。
完全な狂人となったロルに再会して彼はようやく静かな歓喜を手に入れるのです。
ロルは自分に近づくものを狂気の世界の住人にします。
それもほとんど無意識のうちに。。。
おそらくマイケルはロルと同じ狂気の世界に住むことをよし、としたのでしょうね。

ロルは神と話します。
毎朝、ロルの目は海をとらえ、光をとらえ、海や光を越えてあらゆるものをとらえます。
そして叫ぶ。
言葉にならない言葉で。人には理解不能な言葉で。
神との対話は言葉以前のものでなされ、祈りとは言葉にならない言葉たち。

ロルは白い服と真昼の光と白日の狂気を纏い、今日も神と対話するのです。
かつての旧約の預言者の如く……。
それゆえ、男たちはロルを崇め傅(かしず)かずにはいられないのです。
なぜなら、ロルはもはや神と同化したのですから。。。
ロルの言葉は神の言葉そのものなのですから。。。
492 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:48:19

ロルのシリーズを読んで、高村光太郎の「智恵子抄」の詩のいくつかが
脳裏をよぎりました。
奇しくもロルも智恵子も狂人の両者がさ迷うのは海辺なのです。。。


  「風にのる智恵子」

狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する

防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある

わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ

尾長や千鳥が智恵子の友だち
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ
493 ◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:49:09

「千鳥と遊ぶ智恵子」


人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ
無数の友だちが智恵子の名をよぶ

ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな足あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。

ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。

 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。

二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。
494 ◆Fafd1c3Cuc

 「値ひがたき智恵子」

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことをする。

智恵子は現身のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。