1 :
名無し三等兵:
2 :
813:2013/01/13(日) 13:49:25.07 ID:???
『太宰府市史』『鎮西御家人の研究』(吉川弘文館,瀬野精一郎,1975)を借りてきました。
見解を修正します。
・大宰府守護所の位置は、現在の太宰府市である
高麗国使が、現在の太宰府天満宮に毛冠を献上していた記録がある
・大宰府守護所と、旧来の律令機構としての大宰府は併存して別々に機能していた
前者の権限は全鎮西に及ぶが、後者は武藤氏が守護としての権限を持っていた国々に
限られる。
発給文書の比較や武藤氏による大宰府の掌握について、
詳細は『鎮西御家人の研究』を参照のこと。
・日本側は、大宰府と(港としての)博多を一体のものとして認識していた
川添昭二「鎮西談義所」で論じられていると『鎮西御家人の研究』にあるが、未見。
日本側の認識に沿って、蒙古・高麗も「博多も大宰府の一部」と理解しており、
『元史』『高麗史』のいう「太宰府」が意味する範囲に、博多を含めてもよいのではないか。
3 :
813:2013/01/13(日) 13:58:28.41 ID:???
以下、『太宰府市史』中世資料編よりs。
--
『関東評定伝』文永六年状条
九月、蒙古・高麗重ねての牒状到来す、牒使金有成・高柔なり、
対馬島人答二郎・弥二郎を還す、高柔、霊夢により所持の
毛冠を安楽寺に献ず、すなわちその由を叙し詩を呈す
--
安楽寺は現在の太宰府天満宮。当時から、現在でいう太宰府市にある。
これに対する返牒を起草したのが菅原長成で、
『本朝文集』に収録されている「日本国太宰府守護所牒」である。
本文に
--
高麗国慶尚晋安東按察使来牒の事
牒す、かの按察使の牒を尋ぬるにいわく、当使□□□□□謹みて牒す、
当府守護所に着す
--
とある。
4 :
813:2013/01/13(日) 14:08:51.21 ID:???
弘安の役の後、鎌倉幕府は鎮西特殊合議機関を博多に設置させている。
『太宰府市史』では、
この組織は短命に終わるものの、政治機能が博多へ移転する契機になったとする。
--(引用)
この鎮西特殊合議訴訟機関は一年に満たない極めて短期間のうちに消滅したことになるが、
この期間が博多におかれたことは重要である。
それまでは、武藤氏の大宰府守護所はもちろん、大友氏の守護所も大宰府にあって、
大宰府が九州の政治の中心だった。
しかし、新たな訴訟機関が博多におかれたことによって、政治的な機能の多くが
大宰府から博多へ移ることになった。
--(ここまで)
以下、同書所収『新編追加』(法令集。御成敗式目の追加法を扱う)より。
--(引用)
条々、急速の御沙汰あらんがため、九州の所領をもって三方に相分かつなり、博多において
尋ね沙汰すべし、頼泰法師・行宗は、肥前筑前薩摩、盛宗・教経は、
豊後・豊前・日向、経資法師・政行は、肥後・筑後・大隅、おのおのこの旨を守り奉行すべし、
社領といい、名主といい、別の子細なくんば、あるいは直にこれを返付し、あるいは
その身を安堵し、まず下知の状をを書き与うべし、御下文は追って御計いあるいべきなり
(弘安七年)九月十日 尚時判
明石民部大夫殿
--(ここまで)
『吉続記』文永八年十月二十三日条には
--(引用)
二十三日、蒙古船今津郡に着岸す。件の所太宰府より三里を相隔つと云々
--(ここまで)
着岸地点から三里の距離に、太宰府があるという。
これは博多に出先機関があったということでしょうか?
5 :
名無し三等兵:2013/01/14(月) 16:44:51.47 ID:???
何時の間にか新スレに移行していたのか・・・
やはり元寇の経験を踏まえて対外防衛拠点を前進させたというのが正しいようですね。
6 :
813:2013/01/15(火) 01:19:23.94 ID:???
『太宰府市史』通史編2より。
・鴻臚館跡の建物群は11世紀中頃前後に廃絶していることが確認されている(p.432)
・大宰府政庁も12世紀中頃に荒廃して消滅。
墨書を記した陶磁器の出土量からして、
支配機構の中心は政庁跡から東にある観世音寺地区付近に移動したと予測されるが、
発掘進行待ち。(p.433)
で、幕府は筑前岩門城と「宰府」つまり大宰府の城郭を整備させています(弘安7年)。
この辺の資料も次回引用します。
7 :
名無し三等兵:2013/01/15(火) 20:24:57.05 ID:ZVOKFWXm
>>2 >日本側は、大宰府と(港としての)博多を一体のものとして認識していた
日本側にもそのような認識があったのであれば、例の
「同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」も、単なる日付ちがいで、二十日の博多周辺の
戦いのことを言っている可能性がありますね。
8 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 01:09:32.83 ID:???
>>2 過去スレで何故、博多が大宰府か否かという話が続いていたのかというと、ある論者が「膺懲パフォーマンス説」というの
を唱え、文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為のパフォーマンスだったと主張したことに端を発します。
それによりますと元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからとのことですが
実際には元軍は僅か1日の戦いで継戦を断念して撤退していいますから、自説を成り立たせる為には何とかしてこれを、
「元軍が勝った事」、少なくとも「元軍は勝ったと認識していた」事にする必要が有ります。
せめて日本軍の根拠地たる大宰府で戦いこれを脅かしたのでもなければ格好が付きませんが、実際に戦われたのはいわ
ば「博多攻防戦」で元軍は大宰府には到達すら出来ていません。
要するにこの論者にとっては「博多=大宰府」でないと都合が悪いのです。
こうすれば「博多攻防戦」はたちまち「大宰府攻防戦」に化け、「大宰府を脅かした」事になりますから。
この論者が「博多=大宰府説」を唱えるのはまさにこれだけの理由であり、彼が他の論者から極めて忌み嫌われていたの
もこういった極めて恣意的な論理展開をするゆえです。
9 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 01:13:35.27 ID:???
博多は大宰府の外港であり大宰府への玄関口ですから当初から大宰府と極めて密接な関係があったのは間違い
ありません。
当然博多には大宰府の窓口があったでしょうし、利便性から言っても博多で全て事が住んだ方が遥かに便利です。
実の所、平時においては博多と大宰府をあえて区別しなければならない理由も無い。
ただ、戦時においては話は別です。
高麗国使が現在の太宰府天満宮に貢物を献上していたということは、高麗は太宰府の政庁は博多ではなくもっと
内陸に置かれていたことを知っていた事になります。
であれば太宰府政庁が博多ではなく内陸に置かれているのは戦に備えるためである事や、日本と戦争する場合に
は博多ではなく政庁のある太宰府そのものを落とす必要がある事も当然の事として認識していたでしょう。
10 :
813:2013/01/16(水) 01:14:16.88 ID:???
以下の一条を含む『関東評定事書』は、
>>4で示した内容について、詳細を記したものです。
鎮西特殊合議訴訟機関が存在した弘安7〜8年に取り決められたもの。
--
一、城郭事、
次に岩門ならびに宰府に城郭を構うるの條、九州官軍としてその構えを得べしと云々、
早く領主らの沙汰として、その構えを致すべしと云々、
--
『太宰府市史』中世資料編では、この前後が省略されています。
全11条あるとのこと。
この一文と同じものが、正嘉3年の新御式目として収録されているブログを見つけました。
防衛の要衝であるため何回も同じ式目追加が出ていたか、あるいは……。
現時点では保留。
11 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 14:58:08.54 ID:???
元軍は博多「を」太宰府と認識していた。
太宰府政庁とともに
元軍は博多「も」太宰府と認識していた。
では全然、意味合いが違う。
813の挙げた資料だと、元軍は後者の方だと思える。
12 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 17:11:14.69 ID:???
そうね。前スレでも言われたが、今日でも博多を太宰府に含めて認識するような用例はある。
拠点名を、外港も含めた一地域名として用いるケースがそれ。
本来の太宰府が「太宰府」と認識されなくなったということではないだろう
13 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 20:02:17.30 ID:GFWshfa1
>>11 >元軍は博多「も」太宰府と認識していた。
それでいいじゃないか。それを言い換えれば:
「元・高麗人は博多『を』太宰府と呼ぶ『ことがある』」となる。
これがなぜ重要かと言えば、それを知ることによって史料の見方が違ってくることがあるからだ。
その例を前スレで「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」で示した。
14 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 20:26:22.66 ID:???
違うでしょ。元軍は博多「も」太宰府と認識していたということは
言い換えれば、博多を制圧目標としていたという主張には根拠が無い
ってことになる。
だって、博多は単なる太宰府の中心ではなく太宰府の一部でしかないのだから。
15 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 21:17:22.36 ID:GFWshfa1
>>14 >言い換えれば、博多を制圧目標としていたという主張には根拠が無いってことになる。
それはまた別の議論だ。私が
>>13で言ったのは史料の見方に関することだけ。
史料は正しく読めた方がいいに決まっているではないか。
16 :
名無し三等兵:2013/01/16(水) 21:27:24.19 ID:???
>>13 根拠が薄弱すぎる。あくまでも「そう読めないことはないかも知れない」と言うレベル。
可能性と蓋然性の議論を混同してはならないし、仮定の上に仮説を積み上げてはならない
17 :
11:2013/01/16(水) 22:13:28.84 ID:???
>それはまた別の議論だ。私が
>>13で言ったのは史料の見方に関することだけ。
史料は正しく読めた方がいいに決まっているではないか。
それを言うなら俺のレス
>>11も史料の見方に関することなんて一言も言ってない。
お互い様。
18 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 00:42:03.12 ID:???
>>13 いいかげん恣意的な議論や資料解釈は止めたらどうだ ?
「博多=大宰府」でなければお前さんの「膺懲パフォーマンス説」に都合が悪いだけだろう。
>>2によって、大宰府守護所は太宰府にあったこと。
高麗≒元軍も大宰府政庁は博多ではなくずっと内陸にあることを認識していた事が明らかになった。
こんなの常識で考えれば明らかなんだが、具体的な証拠が無かった。
前スレ813氏の努力によってやっと明白となった。
当然、戦争になった場合は博多ではなく大宰府政庁自体を落とさなければ意味は無い。
前々スレからの議論の要はここにあり、これをもって「膺懲パフォーマンス説」視点による「博多=大宰府説」は崩壊した。
平和時の交易において大宰府外港たる博多があたかも大宰府と一体のもののごとく振舞っていたとしても、それは全然
別の話だろう。
現実には元軍は大宰府どころか博多すら落とせずに敗走しており、元寇後鎌倉幕府は政庁機能自体を逆に大宰府から
博多に移動している。
この事実を見ても「膺懲パフォーマンス説」は根本から完全崩壊しているな。
19 :
813:2013/01/17(木) 01:39:44.87 ID:???
蒙古軍の作戦計画については、
『経世大典』『永楽大典』の該当部分が発見されない限り不明……という見解です。
『財津氏系譜』も閲覧してきましたが、これだけでは何とも。
戦功を認め、恩賞を与える旨の文書があればよいのですが。
『中世都市 博多を掘る』(海鳥社)も買ってきましたが未見。
当時の海岸線推定図とかある。
「日本国太宰府博多津居住」とは、中国寧波にある三石碑の碑文。
20 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 10:13:05.25 ID:vttoH3iy
>>16 >根拠が薄弱すぎる。あくまでも「そう読めないことはないかも知れない」と言うレベル。
>可能性と蓋然性の議論を混同してはならないし、仮定の上に仮説を積み上げてはならない
なるほど。「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」を
「上陸地から太宰府に向かうには、軍勢二、三万が必要でしょう」
と訳する読み方には「蓋然性」があると言うのだな?
ではそのように読める理由を、漢文解釈として一字一字解説してくれ。
日本文の「から」「に」「向かう」「必要」などはそれぞれ原文のどの字にあたるのか?
逆に原文の「等」「倶」「下岸」などはそれぞれ何を表しているのか?
21 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 11:59:15.21 ID:???
自説が完全崩壊してしまった腹いせに
全く的外れな言いがかりで他者に噛み付くパフォ爺であった
22 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 15:24:20.69 ID:vttoH3iy
813さん紹介の「中世都市博多を掘る」には当時の海岸線を示す地図がある。
この地図は壱岐軍議くんのブログの戦況地図とほぼ同じである。
これらの地図によれば博多から姪浜までの間に、博多の西方(住吉社前面)、鳥飼潟、室見川河口と、
三つの入り江が描かれている。しかし別の資料によればさらにもう一つの入り江があった。
その入り江は名柄川(古川)河口にあり、これによって姪浜半島は東西二つの小半島に分かれていた。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17775/2/p259-276.pdf 著者の推定によれば、この入り江の沿岸に、現在の姪浜町ふきんにあった唐房と、現在では内陸に
なっている下山門集落ふきんにあった今唐房と、二つのチャイナタウンがあった。
上記文献の地図に、「当方」とか「今東方」とかの現存の地名で書き込まれている。
これらの地名を見いだしたのが著者の研究である。
姪浜町を通っている東西の街道は唐津街道である。唐津街道は愛宕山の南で、二つの橋で室見川
を渡っている。元寇当時は橋はなかったとしても、街道のあるところは干潮時には徒渉可能だった
のではなかろうか。
元軍が百道原から姪浜に退却したとすれば、室見川河口の入り江を大迂回しなくても、まっすぐ
西へ行けば姪浜へ行けた。また日田がもし姪浜で負傷して百道原へ後送されて死んだとすれば、
このルートを逆にたどれば百道原は通過点であった。(ただしいずれも干潮時の話)
また、元軍が姪浜に上陸したとすれば、その目的は日本軍拠点をつぶすことと住民殺戮の他に、
チャイナタウンの利用があったと考えることができる。
また「今唐房」と生の松原は近い。姪浜上陸と言う場合、実際の上陸地点は生の松原も含めて
考える必要がある。
23 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 19:20:24.21 ID:???
パフォって完全に嵐だ
24 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 20:40:18.16 ID:???
813氏によって「膺懲パフォーマンス説」なる説は単なる妄想にすぎなかったことが証明されたわけか。
25 :
名無し三等兵:2013/01/17(木) 23:42:11.93 ID:???
軍板の元寇スレにおいて博多が大宰府かどうかなど本来何の意味も無い。
過去の経緯を踏まえても、かろうじて意味があるのは元寇当時、北九州の政庁は何処にあったのかと
それを元軍が認識していたかどうかだけ。
当時、北九州の政庁は博多にあったのか ? → 博多にはなかった。
では、何処にあったのか? → 大宰府にあった。
その事実を元軍は知っていたのか? → 知っていた。
これでおしまい。
軍板としてはこれ以上議論する事は無い。
まだ博多=大宰府云々の話を続けたいんなら、それは元寇の軍事史的視点とは何の関係も無い、せい
ぜい文化史的な意味合いしかないんだから、日本史板にでも専用スレを立ててやればいいだろう。
26 :
名無し三等兵:2013/01/18(金) 02:05:20.92 ID:???
良いからコテつけろパフォ
27 :
名無し三等兵:2013/01/18(金) 09:41:08.62 ID:???
今の時点で判別は出来るがw
一体何時まで居座るんだろう?
28 :
名無し三等兵:2013/01/18(金) 22:23:37.02 ID:aq4Sdydr
>>19 >「日本国太宰府博多津居住」とは、中国寧波にある三石碑の碑文。
有り難う。「寧波」「三石碑」で検索したら、碑文の全文解読(試案)の資料があった。
私が墓石と書いたのは間違いで、在日華僑が寧波の寺に参道建設費用を喜捨したことの
記念碑である。
日付はいずれも乾道三年(1167年)で、元寇より100年ちょっと前のものである。
石碑Tに「日本国大宰府博多津居住弟子丁淵・・」とあり。
石碑Uに「日本国大宰府居住弟子張寧・・」とある。
「弟子」とは仏弟子のことであるが、必ずしも僧侶ではなく、商人が仏弟子の立場で寄付する
という意味だろう。
石碑Uは「博多」を省略して「大宰府」のみだが、これだけで博多と分かったことを示している。
29 :
名無し三等兵:2013/01/18(金) 22:24:56.92 ID:aq4Sdydr
30 :
名無し三等兵:2013/01/18(金) 22:31:26.77 ID:aq4Sdydr
31 :
名無し三等兵:2013/01/18(金) 23:59:14.53 ID:???
>>28-30 はいはい、わかったからもうスレと全く関係ないネタを延々と書き続けるのは止めろ。
とっとと立ち去れ。
そして二度と戻ってくるな。
32 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 07:17:39.79 ID:???
つまり反論は出来ませんと
33 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 10:26:10.05 ID:???
誰が反論できないんだって ?
パフォがか ?
34 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 10:30:10.14 ID:???
反論も何もパフォが唱えている「パフォーマンス説」の根拠の一つであった
蒙古軍は太宰府は博多と認識していたという主張が誤りで、蒙古側が内陸の
太宰府政庁の存在を認知したということが判明したのであるから、パフォの
主張は完全に崩壊したんだよね。
そのことを誤魔化すために延々と
>>28のような博多も太宰府の一角と認知していた
ということを書き続けている。博多を太宰府の一角と認知していたのは、もう
>>831氏
が証明された通りであり、パフォはその尻馬に乗っかって繰り返し「パフォーマンス説」
が崩壊したことを誤魔化す書き込みを続けている。これを荒しとは言わずしてなんだろう?
35 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 10:38:32.82 ID:7YDfXZPi
博多の華僑が「日本国太宰府居住・・」と刻んで寧波三石碑を建てたのが1167年、
そのちょうど半世紀後、文永の役の約半世紀前の1217年に、金史に次の記録が現れる。
「貞祐5年・興定元(1217)年 
〔『金史』15〕
12月 5日 日本国大宰府民七十二人を乗せた船が即墨(山東省)に漂着。金、食糧を供給して本国に 
還す。」
これが博多華僑の船であることはもはや明らかだ。
前スレでこれを紹介した時はすぐに次のコメントがついた。
>>759 (前スレ)
>漂着船に乗ってた人間が大宰府の方から来たと話しただけだろ。
>
そんなもの町としての博多が大宰府と同一視されていた証拠でもなんでもない。
今では、特に外国人の間で博多が太宰府とばれたことについて、異を唱える人はもういないだろう。
皆さんも大きな進歩を遂げたのだ。
36 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 10:41:50.84 ID:7YDfXZPi
>>35 訂正
博多が太宰府とばれた → 博多が太宰府と呼ばれた
37 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 10:43:03.31 ID:???
831が証明したことをあんたが威張ることではないだろう。
38 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 10:57:46.14 ID:???
>>35 博多=太宰府の一角であると元軍が認識していたのはその通り。
しかしながら、そもそもあんたがそのことにしがみ付くように
なったのは
>>8のような妄想を唱えた事に端を発し、
>>813氏によって
>>8のような妄想は崩壊し
>>25という結論を迎えたのであるから
あんたの主張は論破され終了しているのだよ。
これ以上「博多=太宰府の一角」にしがみ付いて自論が崩壊したことを
隠すのはみっともない。
39 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 11:01:58.58 ID:7YDfXZPi
>>34 >蒙古軍は太宰府は博多と認識していたという主張が誤りで
>博多を太宰府の一角と認知していたのは、もう
>>831氏が証明された通りであり
「一角」までは認めたわけだな。以前から私は「太宰府広域市博多区」という形でそのことを言っている。
博多が太宰府の一角であれば「蒙古軍は博多を太宰府と認識していた」ということになるではないか。
そのような認識によって元・高麗人が博多のことを太宰府と呼び、それが史料に現れることがある。
そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識を知らないと、史料を読み誤る。
私が言っているのはそのことなのだ。
40 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 11:11:56.12 ID:???
>そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識を知らないと、史料を読み誤る。
私が言っているのはそのことなのだ。
なるほど。あんたは
>>8のようなあんたの妄想が崩壊したので「そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識
を知らないと、史料を読み誤る。私が言っているのはそのことなのだ」と論点を摩り替えたのだな?
41 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 12:37:46.43 ID:???
>>39 まず「膺懲パフォーマンス説」が誤りであったと認めろ。
話はそれからだ。
42 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 20:07:39.15 ID:7YDfXZPi
>>40 それはあんたが作った妄想だ。
私はずっと史料の読み方のことしか言っていないのだから崩壊もクソもない。。
>>41 それはお前の造語だ。
私はそんな説を唱えたことはないから誤りもクソもない。
43 :
813:2013/01/19(土) 20:44:24.82 ID:???
『日田記』。
冒頭に「文政六年四月財津永澄」とある。
凡例に
「此書五冊ハ永倫豊西記日田伝記郡司職次第異本郡職次第(此書二部予未見之)
西国太平記九州記等其外群書ヲ引テ誤リヲ改正シテ著述セルモノニテ氏ノ宝書ナリ」
とあり、財津永倫が『豊西記』『日田伝記』『豊後日田郡司職次第』等をもとに編纂したことが分かる。
私が閲覧したのは文献出版から刊行された『日田記』で、財津永澄によって書写された
ものが底本となっている。
文永十一年十月二十日の記事には、以下のような補注がついている。
--(引用)
郡司職次第曰蒙古人襲来手負討死交名注文別紙ニ在リ是又後世ニ不伝可惜
--(ここまで)
これは、『豊後国日田郡司職次第』にある以下の記事を指している。
--(引用)
永基
号弥次郎
文永十一年
十月二十日蒙古人襲来之時於筑前国早良郡姪浜并百路原両所軍陳一日中二ケ度
抽抜群大功手負討死交名注文在別紙
為被忠賞拝領当国安岐郷弁分弘永以下五ケ名
御下文明白也
--(ここまで)
「軍陳」は「軍陣」かもしれない。
なお、弘安八年に作成された『豊後国図田帳』に、
「弁府十町 地頭日田弥三郎永基法名法基」とある(弥次郎ではなく弥三郎)。
幕府の命令で作成された土地台帳であるから、信頼できると思う。
日田永基は、文永の役で戦死したのだろうか?
手負討死交名注文が現存していれば……
44 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 20:53:04.87 ID:???
つまり、弘安八年の頃に日田永基が生きていたという資料があるってこと?
45 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 21:30:00.04 ID:???
>>42 嘘をつくな。
そもそも、お前が【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】1あたりで元軍は博多=太宰府と認識していたすれば、
博多に軍事的圧力を掛けて示威行為を示すのが目的だったはずだと言ってたが?
残念ながら、過去スレが完全に埋没してしまってチェックできないのが残念だが。
46 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 21:42:38.93 ID:???
>>42 >それはお前の造語だ。
>私はそんな説を唱えたことはないから誤りもクソもない。
他の住人からは一貫して「パフォ」の呼称で呼ばれ、「膺懲パフォーマンス説」とは何かについても過去スレから何度と
なく説明されて来たのに、それについて今まで一言の反論も無かったのが、ここに来て「そんな説を唱えたことはない」
とは恐れ入ったな。
・文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為の元軍のパフォーマンスであった。
・元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからである。
これがお前の主張である事に異論は無いな ?
47 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 21:45:44.84 ID:???
そんなことはもうどうでもいいよ。
パフォも46も消えろよ。
813のような偏向のない客観的なレス以外いらん。
48 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 22:31:01.31 ID:???
逃走の口実にするためのパフォの自演かな ?
49 :
名無し三等兵:2013/01/19(土) 22:41:17.56 ID:???
>>43 福岡県飯塚市に「弁分」という地名があるから、最初これを苗字とした弁分弘永という武士以下5名が討ち死にした
という意味かと思ったが、「弁分」「弘永」共、文永の役の戦功により日田氏が地頭職を得た土地の名前らしい。
50 :
813:2013/01/20(日) 00:31:34.60 ID:???
『豊後国日田郡司職次第』は、『日田記』の作者が参考にした資料の一つです。
で、『日田記』より
--
文永十二年永基六位上に叙シ左衛門尉ニ任ス
関東ヨリ下文ヲ賜ヒ豊後国安岐郷ヲ宛行ル
--
とあり、元ネタは『豊西記』。(未見)
本人が死亡していて官位を追贈したのか、それとも生存していたのか。
また、弘安八年の記事に
--
同八年日田孫二郎永貞従四位下ニ叙シ左衛門督ニ任ス
郡司職次第曰……(省略)……
弘安八年ヲ以テ祖父ノ譲リ状ヲ得タリ
異本郡司職次第ニハ祖父法基譲状ヲ得タリトアリ
--
『豊後国日田郡司職次第』の伝本によって、
「祖父(日田永基)が永貞に所領を譲った」
「法基(日田永基の法名)が所領を譲ってもらった」
と異なっており、『日田記』は両方を併記しています。
特に後者の説は、永基の生存が前提となる話ですが、それを平然と書いている。
そもそも『日田記』『豊後国日田郡司職次第』とも、日田永基が文永の役で戦死した
とは書いていません。
『豊後国図田帳』に領主として名前が出てくることもあり、戦死したというのは疑わしいのでは?
手負討死交名注文は戦闘による負傷者・戦死者を報告するものなので、
現存していれば判断材料になったのですが。
51 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 01:14:31.98 ID:???
哲学ニュースの「世界史勉強してない奴のために各国の歴史を簡単に書く」
ってまとめ記事の米欄でお前らめっちゃバカにされてるぞ。
ま、いくらここで喚いたところで所詮は珍説の一つに過ぎないからなあ。
52 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 01:37:57.09 ID:???
>哲学ニュースの「世界史勉強してない奴のために各国の歴史を簡単に書く」ってまとめ記事の米欄で・・
笑うところですかこれ ?
53 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 01:45:56.23 ID:???
>>51 すごいねえ〜
ν速VIP板とそのまとめサイトって世界的に評価されている板で、米を付けてるのは世界的に
権威を認められた人達だけだったんだあ〜
54 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 02:48:43.66 ID:???
見てきたけどあまりのレベルの低さに吹いたわw
55 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 09:46:25.88 ID:???
苦し紛れに持ち出してきた"権威"がν速まとめサイトの米欄ってところが爆笑モン
56 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 10:02:39.89 ID:PXbjvpXc
>>46 >他の住人からは一貫して「パフォ」の呼称で呼ばれ、「膺懲パフォーマンス説」とは何かに
>ついても過去スレから
これを見ればお前が私に関する「パフォーマンス」の由来を全く知らないことがわかる。
だから「なんとかパフォーマンス」もお前の造語だと言っているのだ。
57 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 10:13:41.32 ID:???
>>56 「膺懲パフォーマンス説」という言葉自体はお前の見解を纏めた俺の造語だ。
だがそれについてお前は一切の反論をしなかった。
・文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為の元軍のパフォーマンスであった。
・元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからである。
これがお前の見解だよな ?
早く答えろよ。
58 :
605:2013/01/20(日) 10:48:40.07 ID:???
>>50 いや、恐れ入る。
こんなにも、よく調べてるとはね。
確かにこれだけ、日田が生存していた証拠があると戦死に疑念を抱かざるを得ない。
対して日田が戦死したというのは怪しげな「伝説」の類が根拠になっている可能性がある。
ただ、前スレであがっていた
【日田系圖】 八代 日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名
この史料をどう解釈すれば良いのだろう?
そもそも、この系図は何に掲載されているのか教えていただきたい。
59 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 11:25:57.45 ID:???
「パフォ」とは本来はこいつが日本史板で「日本軍が苦戦したのは武士の戦い方が基本的に自らの武功をアピール
するためのパフォーマンス・コンクールであり、それゆえ戦力の逐次投入しか出来なかったからだ」といった内容の
「武士は『やあやあ我こそは』の一騎打ち主体の戦法だったから集団戦法の元軍に歯が立たず蹴散らされた」って
俗説をそのまま引きずるような説を唱えていた事に由来する。
こいつが軍板で元寇は膺懲目的の威示行動だったと言い出したときに「今度は元寇自体が元軍のパフォーマンス
だったって言うのかよ」って事で「パフォ」の意味が変質して使われるようになった。
今更そんな話を持ち出すってのは、ここに到って尚「ガラパゴス武士のパフォーマンスコンクール」ネタを蒸し返す
つもりなのかね ?
60 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 12:14:26.08 ID:???
たとえ占領できても船の兵站が続かないんだから亜盆だろ
61 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 12:19:16.33 ID:???
>>60 兵站は占領地の略奪で賄うのがモンゴルの基本戦略。
62 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 13:17:06.55 ID:???
>>51 それを読んでみたけど蒙古襲来に関する具体的なコメントなんてどこにもないよ。
63 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 13:33:12.94 ID:???
哲学ニュースnwkってまとめブログなら米161件ついて元軍の話しとるでよ?
同じスレまとめてる他のブログ見たんでね?
64 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 14:25:37.26 ID:???
65 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 16:47:48.66 ID:???
一番、恐ろしいのは64のようなブログ主のようにNHKの主張を鵜呑みにして
現代日本を攻撃しだす輩だな。本人は新しい知識(嘘の知識)を仕入れて偉く
なったつもりになってるんだろうが。実際は、NHKの思惑通りに動かされている
駒にしかすぎないのだが。
そもそも、陳興道と元が戦っていた頃に日本征服計画なんて無かったのだから
陳興道のおかげで日本征服計画が頓挫したなんてことは無いのだが。
66 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 17:41:54.22 ID:???
さかのぼり日本史のホームページにあるこの問題なんですけど
蒙古の侵略を免れた日本。「弘安の役」がその後の日本にどのような
影響をもたらしたといえるか?
朝廷の権力が水面下で持続する結果となった
外交政策に置いての情報収集能力が高まった
神国思想が一気に高揚した
外交政策に置いての情報収集能力が高まった←これが×な理由は何でしょうか?
弘安の役の後、鎌倉幕府は間諜を大陸に派遣していたようですが、情報収集能力
が高まったからでは無いのですか?
67 :
813:2013/01/20(日) 17:57:16.07 ID:???
>>58 私が調べた範囲では、問題の系図は見つかりませんでした。
考えられる可能性は、
※問題の系図の方が正しかった場合
・系図作者が手負討死交名注文を確認した
(当時は存在していたものとして)
・『豊後国図田帳』にある日田弥三郎永基は、日田弥次郎永基と別人だった
※問題の系図の方が間違っていた場合
・系図作者が『豊後国日田郡司職次第』にある
「永基…(省略)…抜群大功手負討死交名注文在別紙」
という部分を見て
「日田永基が手負い討ち死にした」
と読み間違えた
結論は、手負討死交名注文が発見されない限りは出せないでしょう。
現時点では、手負討死交名注文に永基の名前がある可能性は低いと考えています。
『豊後国図田帳』に、討ち死にしたと報告したはずの人名を記載して、
幕府に提出するのもおかしな話ですから。
68 :
名無し三等兵:2013/01/20(日) 19:27:05.34 ID:???
例えばある場所で何らかの歴史的大事件が起こり、偶々その近くにもはや由来も忘れられたような
古い社や祠があった場合、その歴史的事件と社や祠を結びつけた「伝承」などは事後的にいくらでも
作り出されます。
元寇という歴史的大事件が有り、しかもその地で日田永基が奮戦して武功を挙げたというのが記録
として残っているのだから、もしその地にそういうものがあれば、それと元寇や日田永基と結びつけた
「伝承」は簡単に作られるでしょう。
しかも日田軍の戦死者について記載された文書があり、その具体的な名前が書かれた別紙が早期
に失われていたとすれば伝承されるうちに日田永基が戦死したという話に容易に変質します。
地元の、「伝承」のある稲荷神社より遥かに有力な神社である筥崎宮が、元寇で日本軍は大敗し、
数多の武士が討ち死にしたという話を吹聴している状況下なら尚更でしょう。
69 :
名無し三等兵:2013/01/21(月) 00:28:25.60 ID:???
蒙古軍って冬戦争のときのロシア軍みたいなもんか
使い捨て部隊
70 :
名無し三等兵:2013/01/21(月) 10:11:51.80 ID:4JLfy8UD
>>57 >だがそれについてお前は一切の反論をしなかった。
>これがお前の見解だよな ?
>早く答えろよ
いい加減なものを他人の「見解」として押し付けて、それに「反論」しなければ認めたことにするという
汚い奴には何も答えないのが唯一の答だ。
71 :
名無し三等兵:2013/01/21(月) 11:23:42.94 ID:???
>>70 上手い言い訳をするものだね。でも、君が過去
>>57で挙げられたような主張を散々していたことは
俺もはっきり記憶してるぞw
72 :
名無し三等兵:2013/01/21(月) 13:46:59.39 ID:???
>>66 一般的には「鎌倉幕府は国際情勢に対して無知だった」ということにされてるから
73 :
名無し三等兵:2013/01/21(月) 21:42:41.21 ID:???
>>63 これの過去スレって日本史板や軍板に大量にあるのだけど、
そこのコメ欄は「仮説」として持ち出された後で否定された主張ばかりなんだよ。
たとえば
>実際にはモンゴル軍も九州の内地にある程度進出したりと大混戦だった
「内地にある程度」進出って、もしかして太宰府決戦説とか言う妄説?何が根拠なのかさっぱり不明
>ちなみに元は、海を越えての侵略は日本を含め全て失敗してる。これ豆な。
服属を誓ったすえに騙し討ちで撤退したジャワと、返書すら拒否して10数万の敵を撃破した日本を同じレベルで把握する人がまた出たか
>さすがにモンゴル本隊が来てたら日本も終わりだったけどな。
>元寇の時に来たのはモンゴルに降伏した朝鮮軍であり、モンゴル軍本隊じゃない。
>モンゴルにしてみれば、日本なんて手に入ろうが入らまいがどっちでもよかった。
参考資料集にすら掲載されてる事実まで捏造した、新棄民説とも呼ぶべき珍説。
いったい何を根拠にこういう空想を繰り広げてるのか理解に苦しむ
こんな素人の思い込みサイトに批判されるのは、むしろ勲章でしかないよ
74 :
名無し三等兵:2013/01/21(月) 23:25:25.26 ID:???
>>70 >いい加減なものを他人の「見解」として押し付けて、それに「反論」しなければ認めたことにするという
こちらは、これがそちらの見解なのか ? と聞いているだけ。
違うなら違うと言って「正確な」自説を展開すればいいだけのこと。
回答拒否するならそれでいい。
「膺懲パフォーマンス説」(あるいは「膺懲威示行動説」)は完全崩壊したと宣言させてもらう。
これで「博多=大宰府」云々を議論する必要もなくなったな。
75 :
名無し三等兵:2013/01/27(日) 03:27:05.25 ID:???
結局モンゴル側の戦場での勝利って離島の分しか無いの?
76 :
名無し三等兵:2013/01/27(日) 12:54:18.05 ID:???
文永の対馬、壱岐に関しては勝利なんだが、
軍議が壱岐で行われたとすると、対馬南部は確保できてなかったのではという気もするな。
77 :
名無し三等兵:2013/01/27(日) 14:01:54.53 ID:???
守備兵力がせいぜい百騎程度の離島を数万の大軍で襲った虐殺行為を「勝利」と呼ぶなどおこがましい。
78 :
名無し三等兵:2013/01/27(日) 17:03:03.85 ID:???
日本から見たら壱岐対馬は前線の監視砦みたいなもんだから、
万単位の兵力相手に防衛は困難(例外も無いではないが)。
まあ、いったん取られても日本本体には影響が無いから、
また取り返せばいいだけのこと。
79 :
名無し三等兵:2013/01/28(月) 03:07:38.40 ID:???
いや、100騎弱とはいえ高度な技術を持つ弓箭の兵と、歩兵主体に移行している蒙古軍(実際は高麗軍?)にしてみたら、
おそらく千人隊が交替しないといけない程度の激戦なので、蒙古側の主観では「相当規模の戦闘のすえの勝利」なんだよ。
だから金方慶が−今までは連戦連勝だったのに−などと言う錯覚を起こす原因になってるのではないかな
80 :
名無し三等兵:2013/01/28(月) 08:13:14.46 ID:???
『高麗史』でやたらと壱岐戦が詳しく書いてるのもそれが理由なんだろうな。
『元史』も具体的な戦場を挙げている洪茶丘伝なんかも、島の戦闘しか書いてないし。
対馬、壱岐の強力な日本軍を撃破したのに、博多にはもっと強力な日本軍が…。
そりゃあ、その日に逃げ出すわな。
81 :
名無し三等兵:2013/01/28(月) 14:50:56.49 ID:???
撤退戦で、九州本土から直ちに追撃のかかった壱岐から対馬に退いて粘るという選択肢はなかったのだな。
82 :
名無し三等兵:2013/01/28(月) 21:13:10.36 ID:???
>>58 >>67 その系図なら福岡県史資料に載ってるよ。
[日田系圖]
八代
日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名、
九代
日田永資 六郎左衛門尉弘安四年蒙古襲來之時有軍功依之賜筑前國三奈木莊、
83 :
813:2013/01/29(火) 00:04:38.28 ID:???
>>82 少し調べたところ、『筑後将士軍談』に同じ系図がありました。
序文に嘉永6年(1853)とあります。
--
日田氏
取豊西記妄誕甚多、今取其要
--
とあり、『豊西記』を元に著者(矢野一貞)が補訂したものでしょうか。
『豊西記』は未見ですが、日田永基が討ち死にしたと書いてあるのかもしれません。
参考:『筑後将士軍談』(大正15年,筑後遺籍刊行会,矢野一貞)
84 :
名無し三等兵:2013/01/30(水) 17:52:01.33 ID:???
>>69 蒙古軍が外征部隊を使い捨てにすることはあり得ない。
蒙古軍は抵抗する者に徹底的な懲罰を与える一方、侵略遠征の協力者には
略奪品や領土や奴隷などの旨味を与えることで求心力保ってるんだから。
外征部隊を使い捨てになんかしたら帝国の崩壊に直結する。
85 :
名無し三等兵:2013/02/01(金) 09:58:33.62 ID:???
そもそも冬戦争の時のロシア軍も使い捨て部隊じゃ無いだろ
86 :
名無し三等兵:2013/02/04(月) 10:31:50.58 ID:xff+pAGB
何で元寇のモンゴル軍は本気じゃなかったみたいなトンデモが蔓延るんだろうね?
世界制服を国是とするモンゴル帝国から見れば、南宋征服がほぼ確実だった元寇時点で
日本以上に重要な攻撃目標なんかなかったのに。
元寇でモンゴル軍は帝国の威信をかけて日本に侵攻し、その上で圧倒的な日本軍の武力に
ボロ負けしたって事実がそんなに受け入れ難いかな?
87 :
名無し三等兵:2013/02/06(水) 03:28:40.02 ID:???
>>86 「世界中に進出したモンゴルが日本ごとき(ガチ偏見)に負けるはずがない」
↓
「そうだ!本気を出してなかったんだ」or「軍事勝利以外の目的があったんだ!」
だいたいこれ。早い話が「武士ごとき」に偉大なるモンゴルが負けたってのが嫌なだけ
日本史研究上は「武士の奮闘を評価してた戦前研究」を戦争アレルギーつきで過剰否定した反動が来てる
あと武士がモンゴル兵に劣ってるっていう解釈に使われる『八幡愚童訓』が重要視されるのは網野善彦が著書に「一番詳細な史料」って紹介したから
てか陸軍少将の竹内秀喜が「鳥飼潟で衝突できる兵力は一万が限界」って指摘してる。
お互いほぼ同数が衝突できるとすれば重装騎兵が主力の武士団と軽装歩兵主体のモンゴルじゃ前者が有利なのは当たり前
そういった当たり前の発想が出てこないくらい今の日本史研究者は軍事全般に疎いし、軽視してる。軍事は学者の触れることじゃないって感じに
88 :
名無し三等兵:2013/02/06(水) 07:25:33.59 ID:???
元軍が装備錬度共に勝っていたと仮定したとしてもベトナム戦争の米軍みたいな例も有るしな
北ベトナム軍に対して装備も錬度も劣っていた所か圧倒的に上だったはずなのに撤退させられてるよね
ベトナムが元軍を撃退したのは実力って主張にはあんまり反論しないのにねえ
89 :
名無し三等兵:2013/02/06(水) 09:25:01.44 ID:???
と言うかベトナム戦争やアジアの独立戦争のゲリラ戦による旧宗主国の撤退に影響を受けた戦後学者が、
戦中から形成されていた神風説を強化してしまったのじゃないかと思ってる。
弘安の役でも終始積極的攻勢に出ていたのは日本軍だが、元寇防塁の役割が過度に強調されている
文永の役は日本軍が馬の足場に適した場所に陣を構えて堅実に防御するはずが、予想外に勝ってしまったんだよな。
だから敵をさんざんに蹴散らしたものの、とりあえず1日目は軍を纏めようと言うことになったのだろう
90 :
名無し三等兵:2013/02/06(水) 17:47:13.39 ID:???
戦後学者とか完全に好き嫌いで勝ち負け決めてるからな。
モンゴル軍の第一次ベトナム侵攻なんて使者が帰国しなかったから急遽侵攻して、
ベトナム国王軍を撃破し、首都を占領破壊した上で投獄されてた使者を救出して帰還し、
その後ベトナムはモンゴルの属国化したのに何故かベトナム軍が勝ったことになってる。
一体どういう基準だよ?
91 :
名無し三等兵:2013/02/07(木) 10:06:35.32 ID:???
>>89 >弘安の役でも終始積極的攻勢に出ていたのは日本軍だが、元寇防塁の役割が過度に強調されている
それは思った。元寇防塁によって元軍の侵攻を防いだみたいなことが言われてるのが本当に謎。
日本軍は防塁で防戦したことなんて無いし、弘安の役におけるすべての戦いが日本側が攻勢なのに
全く逆の日本軍が防戦一方みたいな解釈がまかり通ってるのが謎すぎる。
92 :
名無し三等兵:2013/02/07(木) 10:43:53.90 ID:???
日本軍が防戦一方の大ピンチ、そこに神風が吹いて一発大逆転
ってのが一般に信じられてるドラマストーリーだからな
93 :
名無し三等兵:2013/02/07(木) 14:11:00.58 ID:???
面白いのは壱岐侵略時でも暴風雨に遭遇してる点だな
その時の元軍は大勢に影響なく九州まで侵攻してる
暴風雨で壊滅って説が誇張だと分かりそうなもの。
94 :
名無し三等兵:2013/02/08(金) 09:42:30.39 ID:???
文永の役と弘安の役の神風についての説明ってセットで補強し合う関係なんだな。
普通なら、弘安の役で停泊中の艦隊が嵐に遭っても、兵員は陸地に避難してて無事だと
気付くじゃん。
それを避けるため、モンゴル軍は文永の役で圧倒的に勝ってたけど、夜になったら
一旦船に戻ったとか滅茶苦茶な嘘をつき続ける必要があるのか。。。
95 :
名無し三等兵:2013/02/08(金) 13:33:17.96 ID:???
神風に守られた国であることは否定されたけど
風で勝ったって事になってる部分はそのまま残って思考停止したままなのが多いな
96 :
名無し三等兵:2013/02/08(金) 23:29:12.53 ID:???
>>90 マジで冗談じゃないよな
あと琉球やアイヌが元軍を撃退したとかぬかす嘘吐きにもうんざりする
97 :
名無し三等兵:2013/02/09(土) 00:40:32.58 ID:???
陳朝は占領だけは免れたって感じだもんなぁ・・
属国にはなってるんだよね
まともに撃退となるとマムルーク朝と日本だけになるのかな?
98 :
名無し三等兵:2013/02/09(土) 15:15:28.38 ID:???
ハルジー朝は?
99 :
名無し三等兵:2013/02/09(土) 15:20:33.16 ID:???
>>98 ハルジー朝はわからない。
インド史関連の本では読んだことあるけど、ドーソンのモンゴル帝国史では
スルーだし、モンゴル帝国側の史料ってあるのかな?
フレグ・ウルスもチャガタイ・ウルスもその時期はモンゴル軍同士の戦いが
忙しくて大規模なインド侵攻なんてやる余裕あったかも疑問。
しかし、弘安の役の元軍は何をしにきたのか意味わからんね。
日本に攻めてきて、やったことと言えば、ひたすら日本軍の猛攻から防戦するだけで
最後まで日本軍に大攻勢を仕掛ける事はなかった。海上に漂う時間が長くなるほど
兵士の士気、兵糧、疫病などの衛生面、陸上の日本軍の増援などでますます不利になる
ってことがわかっていなかったのかね。
橋頭堡が築けなくてそういう状況に追い込まれただけです
戦力目標は太宰府の陥落と日本の従属化
1420年に博多に滞在した朝鮮の使者が筥崎の松亭について日本人から、
「弘安の役の時、高麗人戦亡の地なり」と説明されたらしい。
そんな所で戦闘無かったよな。
高麗人の捕虜が斬首された場所ってことか?
>>97 マムルーク朝11万対モンゴル1万だっけ、
それもモンゴルの方は万騎長が率いているから1万だろって推測で、
実はそれ以下という説もある。
どちらにせよ10倍以上の戦力差じゃ負ける方が不思議。
それでも勝つことが多かったのは当時のモンゴル騎兵のすごいところ
元の目的は軍事的圧力によって日本を服属させるためで日本を占領するつもりなどなく
散々に痛めつけたのでこれで言う事を聞くと思ったので退却した
戦国の軍隊 P.64
予定通りの退却だな
まあ名乗り合いパフォーマンスは武士(笑)同士のチャンバラごっこだけでやってりゃいいよ、
お前らネトウヨも仮想戦記のプロット書いてないで職安にでも言ったらどうだ?
煽るならもうちょっと真摯な態度で煽れカス
>これで言う事を聞くと思ったので退却した
子供の使いじゃないんだからさぁ
本当にこんな間抜けな理由で撤退したら元軍の指揮官は全員処刑だよね…
パフォのリターンマッチ
弘安の役のようにボコボコにされるのか
>>104 マムルーク側ももう少し少なかったはず。
対十字軍での戦力を考えると当時の中東に5万以上集める勢力は無かったかと。
まあ2〜3万くらいはいただろうけどね。
111 :
813:2013/02/13(水) 00:06:29.96 ID:???
過去スレに、官道の話が出ていたので。
結論から言うと、赤坂〜太宰府ルートの官道は、水城以南では途絶していたという話です。
現在の福岡市〜太宰府市を結んでいた、古代の官道は以下の二本。
・水城東門ルート
太宰府〜水城東門〜博多遺跡群(太宰府市北西〜博多区方面)
・水城西門ルート
太宰府〜水城西門〜鴻臚館付近(太宰府市西〜中央区方面)
うち西門ルートは、九世紀後半までに官道としての機能を喪失。
官道中央に墳墓が造られていることを根拠とする(大宰府条坊跡第99次調査地点)。
※ただし一部は存続していたようで、
水城より北にある九州大学筑紫地区遺跡では、鎌倉時代の道路(幅3.9m)が発見されている。
東門ルートは、博多の発展とともに重要性を増して現在に至る。
最近では、西門ルート←→東門ルートを結ぶバイパスの存在も指摘されています。
参考
「鴻臚館から大宰府への道─水城西門ルート福岡市内探索の中間報告─」吉留秀敏,2009/2
『太宰府市史』通史編1
元寇って、文永は他の遠征と比べても十分な兵力だし、
弘安に至っちゃモンゴル帝国の遠征の中で二番目くらいにでかいんでしょ?
この時点で「元軍本気じゃなかった」説は相当苦しいのに、素人どころか
研究者や学者にまで信じてる人が少なくないのはなんでなの?
いや最近は予定通りの退却だったと言い換えてる奴がいる
予定通りって何が予定だったんでしょうね
朝貢も服属も出来なかったじゃないですか
「あ、これ無理だから撤退」っていう意味での自主撤退と「ここまで予定通りなんで撤退しますね」って意味の自主撤退で後者を使用する学者がけっこういるよな
前者は全滅するくらいなら追撃されてもいいからとっとと帰りますっていみだから完全に敗北だけど後者なら一応敗北扱いにはならないから自分のイデオロギーが守れるからね
>>114 新井あたりに聞けば分かるんでない?
悪党研究だけしてりゃいいのにバカみたいな本書いてるんだしきっと素晴らしい見解をもってると思うよ
あと時々疑問に思うんだが、こういった土地を占領して政治的な譲歩を引き出す場合って居座るもんじゃないのか?
時々政治的譲歩を引き出すために侵略したとか言ってる奴いるけど、それだとなおさら早期に撤退しちゃいけない気がするんだが
モンゴル軍に侵攻された国のほとんどが首都占領されても降伏せずに
国王が別の要害に篭って抵抗続けてるんよ。
そんな戦いを世界中でやってたモンゴル軍が僅か1日の戦闘で
「これで言う事を聞くと思った」なんてあり得ない。
戦争をそんなに甘く考えてるはずが無い。
>>116 だよなぁ……
一日で九州から撤退したせいで話がややこしくなってるけど、そもそも外交手段としての戦争は外交目的を達成して初めて意味を得るんだよな
そのあたりを日本の歴史学者は曲解してる気がする。どんなに理屈こねようと外交手段として失敗した以上文永の役は戦略的に意味をなしてない
戦闘に勝ったとか博多落としたとか以前に大目標たる服属させることに失敗してるじゃねーかと
そーいった根本的なことに目をそむけて史料の批判がどーだ台風がどーだなんてやってるのは学者としてどうなんだと……
>>117 そこで別の目的があったはずと必死に考えちゃうのが、日本的歴史学なのかも。
篭城中の南宋に対する補給路を経つ為に日本に攻め込むが失敗
南宋攻略後リベンジするがまたも失敗
これ以上でも以下でも無いね
文永の役前に南宋戦は山場を越えて征服は時間の問題と認識されてたから
それはない。
クビライは日本遠征に合わせて娘を高麗国王に嫁がせてるわけで、むしろ
日本戦の方が本命だった可能性が高い。
>>120 実際あの時代の交易量でも交易路絶たれると困るのかね?
儲けてもあの国の役人は特に軍備に費やすより私腹肥やすイメージ強いし
賄賂の分鎧薄くなりそうな偏見が
軍事の素人に元寇の作戦立てさせると、すぐに瀬戸内海から一気に京都侵攻みたいなこと言い出すけど、
そんなのは下策なんだよな。
日本を征服するつもりなら上陸して内陸に侵攻しちゃダメ。
元軍は逆に通商破壊を行うべきだった。
日本って河川が短くて国内流通の大半を海運に頼っていたから、それを狙い撃ちにされると国家機能が
麻痺しちゃう。
モンゴル軍に内陸荒らされても耐えた高麗王朝が、倭寇に海運狙われて滅びたのを見れば、通商破壊が
どれだけ効果的か一目瞭然。
モンゴルの侵攻は耐えたんじゃなくて支配を受け入れただけだろ
このスレを読むと、戦前の反動なのか、学問の世界は未だに反日史観が幅を効かせてるみたいだね。
皇国史観でも武士がボコボコになったけど
日本は神国なので神風が吹いて勝ったという見方
をされていたのが問題を複雑にしてる。
127 :
名無し三等兵:2013/03/07(木) 08:23:43.55 ID:mubrqgS1
やっぱ文永の役で10月20日に日本艦隊の追撃はあったとしか考えられないな。
11月6日に元軍の撤退と洋上の嵐遭遇の報が京都に届いてるけど、
これって
日本側も兵船出して元艦隊の動向把握してないと知り得ない情報。
『勘仲記』は元艦隊が博多湾から壱岐対馬に退いたじゃなく、本国へ
引き返したと書いてるわけで。
ただ元艦隊が博多湾を発っただけじゃ、そのまま瀬戸内海から京都衝く
可能性だってあるんだし、追い返したなんて報告するわけない。
>>128 その場合、高麗史にある倭兵伏すこと麻の如しとか言う記述は
元軍を追撃してきた日本艦隊を、壱岐に残留した高麗軍が迎撃したとなる?
130 :
名無し三等兵:2013/03/27(水) 10:10:26.26 ID:ZeBXk7+r
age
131 :
名無し三等兵:2013/03/29(金) 12:15:39.55 ID:UahE8rEr
久しぶりに来たらスレまだあってホッとした
んだけど
>>127なんぞこれ
日本は元と軍事同盟も結んでなければ第七艦隊は同盟国に軍事進攻なぞせんぞ
日本史板のあれはパフォくんかな?
BS歴史館「蒙古襲来」で高麗について触れず
4月4日/4月12日放送 NHK BSプレミアム
シリーズ 外圧(1)「蒙古襲来!空前の国難を救った“神風”」
ここでは高麗はモンゴルに服属したとだけ紹介、日本に攻めてきたのは
高麗や南宋の人であるとだけ説明。
朝鮮人の都合の悪いことをいつも隠す、NHKはいい加減にしてもらいたい。
↑タイプミスwwwすまん 高麗のところ訂正
BS歴史館「蒙古襲来」で高麗について触れず
4月4日/4月12日放送 NHK BSプレミアム
シリーズ 外圧(1)「蒙古襲来!空前の国難を救った“神風”」
ここでは高麗はモンゴルに服属したとだけ紹介、日本に攻めてきたのは
モンゴルや南宋の人であるとだけ説明。
朝鮮人の都合の悪いことをいつも隠す、NHKはいい加減にしてもらいたい。
しかも勝因は手抜き船説だったな
さらに対馬が日本の領域外であると言わんばかりの地図まで
ドアップで紹介
NHK解約推奨
それもそのはずで
流出した北朝鮮工作機関協力者リストになんとNHK職員の名前があった
しかも報道しないことで組織全部同じとみなされても仕方ない有様に
北朝鮮は元寇に思い入れ無いんじゃね?
日本は被害者ではない日本の対応が悪い
なら、新政府にやられた朝鮮は仕方ないな
文書の書式が気に食わないと突っぱねたんだから
NHKのやつはひどいな
恫喝文を侵略を目的ではなく侵略する気なら最初から軍事行動するだろって
モンゴルはスパイ戦略に優れてたことを知らないのか
あとモンゴルの同盟国は同盟国というよりモンゴルの私兵兵を出せと言われたら出さなければ潰される
返書すれば〜よかったって
上陸出来なくて海上で疫病って
多民族軍はモンゴル軍じゃないってモンゴル帝国というか国民国家以前の軍事を全否定だな
神風が吹かなくても上陸出来ない軍隊が脅威とか
兵士が犯罪者や捕虜、投降兵だから弱いって
NHK流石だな
142 :
名無し三等兵:2013/04/13(土) 09:31:27.50 ID:K0EteN8F
>>86 本気もクソもコンクエストに失敗したら失敗で敗北だよね
結局の所、日本側のあまりに極端な勝ちっぷりが問題で
真っ当な戦闘以外に原因が無いと納得できないんだろうね
まさか世界帝国モンゴルがこんなに弱いわけがないという前提で語られる
1・朝鮮が日本に加害者として関わった事実を隠したい&薄めたい。
2・朝鮮がボロ負けしたモンゴルに日本が勝った歴史を上書きしたい。
3・とにかく日本が悪かったことにしたい。
4・とにかく日本は強くなんか無いと言うことにしたい。
制作者の意図は、おおよそこんな感じなのかな。
>>140 >恫喝文を侵略を目的ではなく侵略する気なら最初から軍事行動するだろって
そんなものが侵略する気が無かった根拠として通用するなら、秀吉や明治政府だって
朝鮮を侵略する気は無かったってことだな
>>146 明治政府と朝鮮てまんまだよな
朝鮮「書式が気に食わない、なんだこの単語は?」
新政府「あ?」
朝鮮の場合、元寇みたいな大規模な軍事行動もうけず抵抗もしないで
むしろ日本を利用しようとして主権者が寝返ったりとか
元寇の例とは全然ちがうだろ?
>>147 元寇で書式云々は単なる建前だよ。
日本側が問題にしてたのは、モンゴルが侵略国家で、裏で日本侵略の準備を進めてること。
外交文書としてオブラードに包むため書式を問題にしただけで。
151 :
名無し三等兵:2013/04/23(火) 18:48:53.68 ID:XDneYfw3
第二次大戦時における韓国とは"高麗棒子"。
これは日本人がそう呼んでいたのではなくて
あの戦争の当事者である中国人が韓国の事を揶揄して呼称していたもの。
そんな加害者である韓国=中国の人いわく"高麗棒子"が、日本を戦犯国だとか言っているのは片腹痛い。
今の韓国の人は高麗棒子として、なぜ中国の人々からそう呼ばれ蔑視されていたのかを認識し
逃げずにその歴史に向かい合い、ちゃんと反省する必要があるんだと思う。
侵略前に現地政府とコンタクト取ってれば侵略じゃ無いって言うなら大東亜戦争も侵略目的ではなかった事になるな
最近の教科書とか、モンゴル帝国は侵略国家ではなくユーラシア大陸に「パクス・モンゴリカ」を
もたらしたとか絶賛し、属国にならなかった日本を南宋の禅僧の偏った情報を鵜呑みにしたとか
叩いてるじゃん。
でも、その舌の根も乾かないうちに「高麗やベトナムのアジア民衆による抵抗運動が日本を救った」
とかも書いてるわけ。
この矛盾何?
「アジア民衆による抵抗運動」とかは「パクス・モンゴリカ」破壊を狙ったテロ行為として糾弾しないと
整合性とれないでしょ。
そもそも史料ではモンゴルが侵略国だという情報を日本にもたらしてたのは南宋の禅僧なんかじゃなく、
高麗の抵抗勢力だし。
「奉使日本趙良弼遣書状官張鐸來言、去歳九月、與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所。
守者云、曩為高麗所紿、屡言上國來伐」
元史日本伝
つーか島国でよそを侵略するでもなく
それなりに平和にやってるのにな
何でわざわざモンゴル帝国下に入らなきゃならんの
グローバルスタンダードは正義
米帝は正しいという危険思想
156 :
名無し三等兵:2013/04/25(木) 16:40:13.17 ID:sSvk+QZF
糞サイト貼り付けんなボケ
NHK板にいるNHKの中の人っぽい人の話だと
元寇に関するNHKの放送は問題ないんだってさ
すげえ力説してる
根拠なしだけど
928 :名無しさんといっしょ:2013/04/26(金) 20:21:56.20 ID:IGgVsBJH
>>927 NHKは言葉で仕事をしている。
あんたのような日本語を粗末に扱う人間より、はるかに言葉にうるさい。
あんたは「平和的に服属を求める」という表現さえ理解できていないのだろう。
スパイ派遣が武力行使か?船舶建造が武力行使か?
笑わせるな。日本語を勉強しろ。
「平和的に」「服属を求める」のが、正しい日本語なのか?
それで言葉に使ってるらしいよ、NHKの中の人はw
>>160 ID:IGgVsBJH
こんなのがNHKの宣伝担当員なの?
逆効果じゃないのか?
164 :
名無し三等兵:2013/04/26(金) 22:25:38.82 ID:Kzn25weF
サムライエースっていうマンガ雑誌で元寇の話とかあつかい始めてるよ。
これもそのうち圧力で潰されるんじゃね。
侵略はいかんことか?
天上の神から授かった使命なんだが?
虐殺?抵抗しなければころさんよ
カリフ?バグダッド?話が遅すぎるんよ
暗殺教団?陰謀が合ったから皆殺しにしてやったんよ
>>165 そう並べてみると、世界征服を企む悪の秘密結社の類に見えてくるな。
>>165 国連憲章ではいかんことになってるな
もっとも五大国の面々もその前にさんざんやりつくしたわけだがw
そのうち三国は、いまでもやっとるな
>>159 現在でも一般の犯罪に対しては死刑を廃止した国ですら
外国のスパイ行為には法律上死刑が残ってる国が多いのは何故ですか?っと。
数万の大群で偵察
共産党の懲罰戦争かよ
実際懲罰みたいなもんだったな
辺境の蛮族を蹴散らす簡単なお仕事と聞いて来てみたら
完全武装の職業軍人どもが血眼になって首切り取ろうと襲ってくる
なんだよこれ
どんな罰ゲームだ
まさかこんな島国に戦争慣れした連中が大量いるとは思わなかったんだろうな
>>169 スパイの刑が重いのは感情的には納得できるんだが理屈で説明しろと言われると困るな
なんでなの?
174 :
名無し三等兵:2013/05/30(木) 22:02:49.58 ID:TQ52UjXl
元寇ってもし暴風雨が来ないで上陸されてたら九州占領されてた?
陸戦でどれだけ日本側が戦えたのか気になる
まず台風来なくても大規模な上陸はできなかったろうに
台風来る前に上陸押しとどめられてるしな。到着してたのだけじゃ推しきれないと思う
>>173 重罪にしなかったら、諜報員はやりやすくなるでしょ
スパイ天国になる
>>174 上陸できる時間なんていくらでもあったのに上陸しても日本軍に歯が立たないと認識してたから
上陸しなかったんだろ。
伊万里湾の中でひしめき合っていた艦隊がすぐ対岸の九州へ上陸を試みないまま殲滅されるなんて異常。
極度に日本軍を恐れていたとしか思えない。
恐れるも何も一回撃退されたから次の手段考えるために船に引き揚げたら
台風にあったんだろ。それとも何か撃退されても突貫続けなければいけないのか?
当時の海戦だと大型船の利はあんまりなかったのかな
海戦だと大型船って小回りが利かないだけ不利じゃん
>>180 というか大砲登場前には鈍重なだけで逆に不利
例えばローマ時代に軍船はガレー船でも商船は帆船で(当時としては)そこそこ大型
海賊退治に大型のガレー船作ったはいいがろくに役に立たなかったのはペルシャの逸話だっけ?
舷側高くすれば斬り込み喰らわなくなりそうだけど
大砲無いのにやっても互いに噛み合わなくなるだけかな
五弾廻船とかほんまかいなという
ここで聞くのはスレチな気がするが寧波焚焼事件てどんな事件なの?
元寇と比較して日本強かったと主張する人がいるんだが
軍隊による戦争なのか、取引のために市内に入り込んだ商人が好機を得て
掠奪者に衣替えしたのか今一よくわからん
187 :
名無し三等兵:2013/06/04(火) 04:46:40.61 ID:EygwCAAs
>>186 当時の寧波は日本人入城禁止だから、商人が取引のために市内に入り込むことはできないよ
>>187 その主張いろんなところで見かけるが1304年の一時点で入城禁止にしたことがあるとしか史料
は言ってないのになぜ1309年まで禁令が継続してることになってるの?
>>188 日本人入城禁止は一時的じゃないよ
1325年まで入城禁止が「定制」として継続されてた史料があるし
1308年に泉府院を復活させ、市舶司を整備してる時点でそれはないな
「舶有定制。輸其物以上干官、勿入郡城、勿止貿易、則得以永遠。」(馬元帥防倭記)
寧波では日本人入城禁止と貿易振興が定制としてずっと継続されていた。
したがって城外から武力で攻め落した以外の可能性はない。
その記述でどこをどうすれば日本人が入城禁止されてたと読めるんだ?
バカも休み休み言えよ。国家として貿易再開してる資料はあるのにね
さらに寧波焚焼事件の資料においても倭商が城内に入って略奪して
軍を破った記録はあるが、武力による力攻めなら当然生じる定海への
攻撃や城攻めの記録はどこにあるの?
>>192 「郡城に入れるなかれ」って思いっきり日本人入城禁止してるじゃん。
それに「貿易を止めるなかれ」で、入城は禁止した上で貿易は振興するという政策だろ。
国家として貿易再開してる資料はあるってことは、同時に日本人入城禁止も行われていたとする
馬元帥防倭記の記述を裏付けてるってこと。
>>193 だからその記述のどこに日本人が出てんだよ。年代も書いてない
さらに後段に関する返答は?それさえ出せば解決なのに未だに
出せないの
それから正月に起きた事件だってことわかってるんだよな
儀礼中のだまし討ち以外の描写どうやって読みとんの
>>194 どこに日本人が出てんだよって史料名が「防倭記」なんだが。。。
年代は
>>189に書いたけど、1325年頃。
1305年頃には日本人は入城禁止されてたわけで、それが定制としてずっと継続されていたってことね。
あと、寧波(明州)焚焼が武力による組織的な襲撃だってことは太平記に記述があるよ。
『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。』(太平記)
『島夷歳以土物互市。郡境吏卒侵漁之、不堪以忿、
持所賚流黄等薬火城中。官府・故家・民居幾尽、
観亦与。至大二年也。』(慶元府玄妙観碑銘)
これはどういう意味なんだろうな
>>196 それは1309の事件があったから整備されたことだろうに
さらに太平記の記述は活発化した倭寇全体の描写で会って
特定の事件を意味するもんでないぞ
>>198 だから、事件の前から日本人入城禁止されてた史料もあるんだよ。
事件があったからじゃないの。
あと、太平記の記述はドンピシャで寧波焚焼事件と一致するんだな。
太平記は元朝襲撃したのを九州四国の海賊どもと書いてるけど、寧波焚焼事件とピッタシ同時期に
九州四国の海賊どもが大規模蜂起してる。
海賊って言葉の響きいいな。
子供の頃、将来何になりたいかと聞かれたら自分はいつも「海賊」と答えていた。
今は仕事場のマンションで、終日机に向かって仕事する翻訳家になってしまったけどな。
>>199 なるほどその海賊が商人になって正月に市内(城内)に乱入して放火したのか
自分で言ってて無理感じないのか?さらに
>>196の書き方だと福建州一帯
荒らされてなければおかしいが1309年の時点でそんな記録どこよ
もしかして、元寇より倭寇のほうがヤバイ?
そりゃ被害の総計は倭寇の方が遥かに甚大でしょう
ライバルたちの光芒で元寇でてきたが
堺屋太一の「元寇=グローバリズム」並にひどかったわ
なんかNaver翻訳掲示板を思い出すなぁ。
議論も面白いスレだわ。
206 :
名無し三等兵:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:Xex1T21Y
207 :
名無し三等兵:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:SXDMx4y4
>>206 糞みたいな陰謀論サイト貼り付けんなカス
陰謀大好きドラえもん〜♪
なごみましょう、なごみましょう。
>>201 海族が商人を兼ねることに何か疑問がある?むしろ普通だと思うけど。
210 :
名無し三等兵:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:7/dXQmqz
『太平記』の記述は中国側資料の『隣交徴書』とも内容がかなり一致する。
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、
なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、
まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、
公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。
海道の兵は、猝かに対応できない。」
慶元府の事件ってどういう経緯で発生したのだろう
単なる出先のトラブルとかではないよね
弘安における旧南宋=元の水軍の消失で倭寇の活動領域が増大したとか…
日本と元との冷戦状態が続く中、日本の商船は自衛のため武装化
↓
元朝側はますます警戒心を強め日本人の慶元府入城を禁止
↓
さらに日本の商船にだけ重税を課したため日本人の不満が爆発
↓
熊野浦海賊などを引き入れて慶元府襲撃
久々に元寇のwiki見たら写真資料充実し過ぎワロタw
鎧マニアだが河野通有奉納の大鎧とか初めて見たわ
あそこは編集合戦が結果として項目の充実を導いたねw
資料が充実して出典も明記されてるから、バイアスがかかってる上に
不満足な情報しか載ってない歴史豆知識本の類よりよほど有益
今年の冬くらいからさらに充実したのだな
かなり前から最近のWikipediaは侮れんのうって思ってたけど
進化し続けてるからなw
金方慶とクドゥンの軍議が壱岐の追撃戦で行われた説はなかなか面白かったのだけどな。
高麗軍主力が壱岐に留まり、主力軍が九州決戦で敗れて掃討戦の過程で全面撤退か一撃か軍議が行われたと言う説だったか。
本土で戦闘終了から(推定)撤退までのわずかな時間で軍議が決するのか?と言う疑問は依然として残ってる。
元寇と言う成功体験があり、鎌倉幕府を模範としながら、清の成立の時、黒船来航の時もあの時とは違いますと朝廷に建白して
まったく違う外交対応を取った江戸幕府も面白い政権だな。普通は鎌倉の頃と比較されて叩かれるのが怖くて戦っちゃうのに
明が救援要請したとき井伊さんが潰したんだっけ?
>>219 ちょっと前まで戦争してた相手から救援要請されましても
>>217 問題の軍議がどこで行われたのかは判らないが、当時としては結構な暴挙である
「冬季夜間出航しての撤退。ちなみに敵前&上陸初日です」
を敢行するに当たって、伝令一発何の会議も無しだったら、蒙古軍の練度恐るべし。
>>220 井伊さんがぶっ潰すまで、結構割れてたみたいよ。
>>217 撤退の決断なんて時間かけちゃダメだろ
ほんのわずかな遅れが命取りになる可能性だってあるわけで
>>220 あれ前政権の暴走で徳川新政権は違うって事で手を打ったのに
夜半撤退を決める状況の軍議で金方慶が反対したとしたら、
作り話か、さもなくば将官として無能だと自白してるようなもの
だから九州本土とは違う場所での軍議ではと言われたのだろ
>>225 いや、朝鮮(高麗)としてはまだまだ戦えたのに宗主国の総司令官が撤退を決めたのでやむなく
撤退したのだとして、自国の武勇を誇るとともに敗戦の責任転嫁をしてるんだろ。
高麗史金方慶伝の信憑性に関わる問題になるなあ
金方慶の立場で言えば、同規模の遠征をもう一度やられたら高麗の負担が洒落にならないので
無理してでも日本を征服したかったのかも知れない。勝算があったとは思えないが。
「諸軍ともに戦え」まで元軍と高麗軍は別々に戦っていて
九州での戦闘体験を共有してなかったので危機感に差があった。
実際、その前の記述は高麗の中軍が遭遇した小規模な局地戦で
忽敦率いる元本隊がどこで何していたのか記されていない。
230 :
名無し三等兵:2013/09/18(水) 09:11:30.34 ID:wCkt38jP
それ忽敦が諸軍ともに戦え、と言ったん
じゃなくて、忽敦の発言は前文で切れていて
諸軍ともに戦うという別の文節っすよ。
高麗史の翻訳を担当した先生の訳し間違い。
文永の役以前の諜報活動とか研究してる人いるのかしら。
時頼−憲宗の時期に警固体制強化の布令が出てるようだね。
>>230 それでも変わらないでしょ。
諸軍與戰まで高麗軍と元軍は別々に戦っていた。
「蒙人雖習戰、何以加此」は九州から逃げ帰った敗将の弁。
233 :
PC:2013/10/04(金) 22:24:01.93 ID:J1ZR8z5E
金方慶伝はあくまで高麗軍の戦闘記録だから、高麗軍の戦闘を中心に述べており、
全軍のことは高麗軍との関連に於いて述べるだけ。
このことから言えば「諸軍」とは高麗軍の左軍、中軍、右軍のことである可能性も
あるな。
金方慶が直接指揮する中軍の戦闘を詳しく述べた後に、その他の高麗軍もともに戦って
夕方に及んだ、と言ってるだけじゃないのか?
手柄がほしくて無理やり他人の船に乗り込んできて戦闘に参加する
恐怖の九州地侍がすごいね
竹崎季長なんかフネに兜おいてきちゃうドジっこだけど、とりあえず脛当てをオデコに
つけて元軍の船にカチコミ→そのままぶっ殺しまくり大会開催しちゃう恐怖のドジっこだった。
>>233 三別抄との戦闘については高麗軍以外のことも書いてあるよ。
金方慶伝だけじゃなく世家や年表も同様だけど、高麗史に書いてあるのは
壱岐の戦闘だけで九州の戦闘の記述が無い。
でも、文永の役で元軍は博多湾から上陸してるわけで、元軍は高麗軍とは
分かれて九州で戦ってたはずなのね。
236 :
名無し三等兵:2013/10/05(土) 01:02:21.21 ID:W5Rdl+SZ
>>214 少なくとも日本史関連では一番充実してる記事だと思うわ。
あそこまで一次史料からの出典をキッチリやってる記事他に無いよ。
戦国時代関連なんて結構ヒドいの多いし。
237 :
PC:2013/10/05(土) 10:29:31.98 ID:nTllqcFK
>>235 「諸軍」の解釈次第だ。「諸軍」が高麗軍各部隊の意味ならばその説はなりたたない。
では「諸軍」の使われ方を見てみよう。文永の役が終わった忠烈王二年に、金方慶が
讒言される遠因となったできごとが書いてある。
出張から帰った金方慶を迎える集まりで、ある部将が金方慶の麾下(旗本)に先んじて
金に献杯しようとして麾下からなじられて答えた言葉:
「諸軍与麾下皆人也、何先後之有」「諸軍も麾下も人として平等である、先も後もなかろう」
この諸軍は動員が解かれた平時において高麗軍のトップを迎える集まりであるから、蒙漢軍
などがいるはずがない。すなわち「諸軍」とは高麗軍各部隊の意味である。
238 :
PC:2013/10/05(土) 10:46:35.42 ID:nTllqcFK
もうひとつ。弘安の役の対馬戦の記述に次の文章がある。
「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下与戦」
ここには「諸軍与戦」まである。
すなわち、部将の金周鼎の部隊がまず先鋒として日本軍と交戦し、その後に
「諸軍」がみな船を下りてともに戦った。
文永の役と同様に、対馬戦では蒙漢軍の主力はまだ参戦せず、日本軍守備隊の
制圧は高麗軍にまかせたと見られる。
したがってこの文章の「諸軍」もまた、「高麗軍各部隊」である。
>>237>>238 「諸軍」なんて言葉がそんな限定的な意味なわけないじゃん。
現に金方慶伝には高麗軍のことだけでなく劉復亨の負傷の記述もあるし。
あと、高麗軍と元軍が別々に戦ってたことは史料上確かなこと。
だって高麗軍は壱岐までしか行ってないからね。
240 :
名無し三等兵:2013/10/05(土) 12:53:37.17 ID:QdKgSEV0
壱岐までじゃなくて三郎浦=早良郡に高麗軍が上陸したと高麗史に
あるだろ。
>>240 三郎浦≠早良郡だよ。
高麗史には壱岐までしか到達してないと明記してある。
『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』(高麗史表)
242 :
名無し三等兵:2013/10/05(土) 13:40:07.87 ID:QdKgSEV0
それは金方慶伝を思いっきり省略した高麗史表だろ。
本文である金方慶伝に三郎浦と書いてあるんだから、
高麗軍が三郎浦=早良郡に上陸したのは明白。
>>242 省略してあるだけで高麗史表も金方慶伝も意味は同じだろ。
同じ出来事に関する記述なんだから。
三郎浦は壱岐の地名であって九州じゃないってこと。
PCって何だろうと思ったらパフォーマンスコンクールの略自称ですか…
245 :
名無し三等兵:2013/10/05(土) 16:04:55.92 ID:QdKgSEV0
意味は同じじゃねえよ。
本文から省略文である高麗史表が本来の意味を
失っていることは、金方慶伝が暴風雨で敗れたと
する記述が表だと壱岐に到着し戦闘で敗れたかの
ように改竄されていることからも本来の意味は
表では喪失している。
恐らくは金方慶伝の本文を1450年代に高麗史を
編纂する過程で全く違う意味の省略文にまとめ
あげたのが高麗史表なのだろう。
でさ、三郎浦=早良郡じゃなくて壱岐だとするなら
壱岐のどこよ?
246 :
PC:2013/10/05(土) 16:17:18.84 ID:fiQZ89mh
>>239 >「諸軍」なんて言葉がそんな限定的な意味なわけないじゃん。
もちろん限定的とは限らない。しかしまた「諸軍」と書いてあれば必ず「高麗軍+元軍」の
意味であるとは言えない。
現に上に示した二つの例では諸軍が「高麗軍各部隊」の意味であることは認めるだろう?
>現に金方慶伝には高麗軍のことだけでなく劉復亨の負傷の記述もあるし。
そのことも
>>233で「全軍のことは高麗軍との関連に於いて述べるだけ」という形でちゃんと
言っている。
高麗軍が撤退した事情に関わる重大事だから触れたのだ。
>>245 同じ意味じゃん。
暴風雨で船が敗れたのは帰路の出来事で撤退理由じゃないし。
壱岐で戦闘したうえで撤退に追い込まれてるんだから、まとめるなら
「 壱岐に至りて戦い敗れ」が一番適切。
三郎浦はおそらく壱岐の瀬戸浦あたり。
探せば他にも候補が見つかるだろ。
248 :
名無し三等兵:2013/10/05(土) 19:19:16.61 ID:QdKgSEV0
はぁ?
いつどこで壱岐で決戦があり元軍が撤退したんだ?
当然、壱岐で決戦があったとする日本側の史料は
存在するんだろうな?
決戦なんだから、一日で終わった博多の攻防より史料が
多くないとおかしいことになるぞ。
でさ、瀬戸浦が三郎浦だとするソースは何よ?
壱岐決戦とか三郎浦が瀬戸浦とか荒唐無稽な主張ばっか。
>>248 壱岐で決戦があったなんて言ってないだろ。
高麗軍は壱岐で、蒙漢軍は九州で別々に戦ってたと言ってるわけで。
どの戦いが決戦の名に相応しいかと言えば、当然蒙漢軍の戦った九州の方。
九州から逃げ帰った忽敦は壱岐で金方慶を説得して撤退を決め、出航した際に暴風雨に遭った。
早良郡に上陸したのが蒙漢軍だってことや、元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖だということは、
日本側史料とも一致する。
日本軍は博多沖から蒙古の船団が消えた時点で戦闘終了を確信するはずがなく、
必ず敵の行方を追跡するはず。本土決戦後の撤退戦を想定するといろいろ説明が付きやすいことは確か。
251 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 08:11:31.61 ID:YBJ4s0oG
>>249 >早良郡に上陸したのが蒙漢軍だってこと
正確には、「早良郡に上陸した遠征軍の中に蒙漢軍もいた」ってことだろ?
>元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖だということ
正確には、「壱岐に漂着した遠征軍の船が多数あった」ってことだろ?
蒙漢軍の規模考えたら、「早良郡に上陸したのが蒙漢軍」で問題無いだろ。
それに壱岐に漂着した元船の突出ぶりを見れば、「元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖」
だというのも確実。
253 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 13:32:14.33 ID:ESE0nqkH
確実じゃねぇよ。
勘仲記によれば、蒙古軍は南風に押し返されたって
あるだろ?
博多を出港して暴風雨にあっても南風で押し流されるのは
壱岐しかねえんだよ。
博多沖で暴風雨に流された船団が130艘もまとまって壱岐に漂着するわけないじゃん。
130艘という突出した数字は、暴風雨遭遇の場所が壹岐だったことを完璧に証明してる。
ちょと待て暴風雨で流された場合は一か所に狭くまとまるぞ
ついでに壱岐で暴風雨に遭ったら漂着という書き方にならんぞ
256 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 14:21:28.95 ID:ESE0nqkH
博多を出港して南風で押し流され、壱岐にまとまって
漂着することのどこに無理があるんだ?
博多を出港して南風の暴風雨にあったら、壱岐に必然的に
たくさん漂着するのは当たり前だろ。
むしろ壱岐から出港して壱岐に130艘漂着したということは
壱岐で暴風雨の中を出港するとか有り得ない状況になって
しまうわけだが?
それにお前の自説だと高麗史の記述だと壱岐で劉復亨が負傷した
ことになってしまうんだが?
壱岐で暴風雨にあったら座礁って書き方になるしなw
>>256 暴風雨の中を出港したんだろ。
高麗史では夕暮れまで戦い、それから撤退を決定し、その夜暴風雨に遇った
ことになってる。
高麗軍が博多まで到達していたのなら、元艦隊は博多湾内で暴風雨に
遇ったことになるが、日本側史料からそれはあり得ない。
つまり高麗軍は博多湾には到達していない。
>>254,258
君の主張だと壱岐から出発した軍は暴風雨に頭から突っ込むことになるんだけど
どうやってそんな進路とるの?この暴風雨って台風のことでいいんだよね
先に来てる風のせいでそっち方向に進路とろうなんて考える船長いないんじゃないの
撤退決定したなら湾内に留まらないのは当然だし
ちなみに博多湾内だと外海の風や波わからないから撤退しようとして湾外に出てあらしに遭遇ってのは
十分に成り立つよ
>>259 暴風雨は台風じゃないよ。
統計的に文永の役の時期に台風が九州を襲うことはない。
あと、暴風雨遭遇の日付は10月24日。
元軍の博多湾撤退の日じゃない。
それからもう一つ
>>261で10月24日と書いてあるのはミスリードを誘う手法だな
現代の暦に換算して9月後半と書かなければまずいと思う
おっと自分も引きずられて
>>262で10〜11月と書いてら。ここ9〜10月に訂正
文永の役が11月末だと言うのを頭に入れてないと
夜半撤退の意味が分からんじゃろうに
269 :
PC:2013/10/06(日) 16:58:12.76 ID:zizOTh1U
>>252 >蒙漢軍の規模考えたら、「早良郡に上陸したのが蒙漢軍」で問題無いだろ。
蒙漢軍兵士の捕虜がいたというのは蒙漢軍がいた証拠にはなるが、高麗軍がいなかった
証拠にはならない。
>>258 >高麗軍が博多まで到達していたのなら、元艦隊は博多湾内で暴風雨に遇ったことになるが、
意味不明。なぜそうなるの?
>元艦隊は博多湾内で暴風雨に遇ったことになるが、日本側史料からそれはあり得ない。
遠征軍の艦隊がどこで暴風雨に遭ったかを示す日本側史料は無いはずだが、君の言う「日本側史料」
って何?。
また、遠征軍艦隊は壱岐に漂着するまでに暴風雨に遭えばいいのだから博多湾内だって別に構わない。
まあ外海に出てからだろうけどね。
うん?博多湾内なんて陸から普通に視認できるところで敵の船団が難破したら
記録に残らんはずないんじゃないの?
271 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 17:04:44.46 ID:ESE0nqkH
暴風雨の中を出港なんてするわけないだろ。
日本側の史料でも博多で劉復亨が負傷したことが
わかるのだから、高麗史の記述は明らか博多の戦闘。
そもそも、壱岐で大規模な戦いがあれば、何がしか記録に
残っているはずだが、そんな記録は皆無。
勘仲記に蒙古軍船が南風で北に押し流されたと書いてあり
壱岐に漂着船が多数あったということは博多湾を出たところで
蒙古軍船は暴風雨に見舞われたってことがわかる。
でさ、24日に暴風雨があったって何の史料?
>日本側の史料でも博多で劉復亨が負傷したこと
史料名プリーズ
273 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 17:10:19.37 ID:ESE0nqkH
八幡愚童訓と少弐系図。
で、壱岐で大規模な戦いがあったとする史料プリーズ。
274 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 17:11:35.08 ID:ESE0nqkH
あと24日に暴風雨があったという史料もな。
ぼくも待ってる所。個人的には高麗が壱岐で戦って単独で撤退なんか決めたら
絶対、後始末の記録あると思うんだけね
276 :
PC:2013/10/06(日) 17:15:00.05 ID:zizOTh1U
高麗軍が九州まで来たことを示しているのは金方慶じしんの言葉だ。
「敵境に入った」とか「焚船の計」とか言うのは九州で言ってこそ似つかわしい。
味方は占領地、人員、補給において有限性があるが、敵方はそれらにおいて(相対的に)無限性を
有する、という状況において兵士に覚悟を強いる言い方だからだ。
壱岐のような離れ島では船でやってきたという敵方にも有限性がある。
だから「敵境に入った」や「焚船の計」はおおげさだ。
277 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 17:17:44.32 ID:ESE0nqkH
そもそも三郎浦が瀬戸浦だとするソースを出せよ。
早良郡の当時の音は「サウラ」であり、高麗史の「三郎浦」は
「サムラン」と読み音が通ずる。
早良郡が三郎浦であることは疑い様がない。
高麗史の記述は明らかに博多湾の記述。
というか、金方慶は壱岐までしか来ていないなら
「壱岐に至りて戦い敗れ」から、壱岐で何者かに敗北した事にならない?
一方で九州まで来たなら、この文は「博多(あるいは太宰府)に至って敗れた」になりそうな気もするが。
279 :
PC:2013/10/06(日) 17:26:21.14 ID:zizOTh1U
>>275 >個人的には高麗が壱岐で戦って単独で撤退なんか決めたら
いや、彼の説は単独決定じゃないんだよ。
高麗軍が壱岐で守備隊かたづけてのんびりしていたら、そこへ九州でやられた元軍と
追撃の日本軍とがやってきて、あらためて「諸軍ともに」日本軍と戦って、あらためて軍議を
開いて、金方慶が再戦を主張したがクドゥンの撤退論に押し切られた、とこうなるわけ。
そのあと全軍が壱岐を出航して台風に遭うわけだ。
280 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 17:31:56.92 ID:zizOTh1U
>>277 「三郎」でサムランね。浦まで入れればサムランポ。
ちなみに朝鮮語の「浦」は河口湾を意味する。
>>279 壱岐のそばで海戦したってこと?初耳なんだけどどの史料に載ってる?
282 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 17:34:29.96 ID:ESE0nqkH
278
だから、それは高麗史表で金方慶伝の記述を
無理矢理簡略した結果、本来の金方慶伝の意味を
完全に失っただけ。
>>282 高麗史は複数の文献をしもとに編纂されてるわけで、金方慶伝の記録が本来の意味とは
異なる簡略化をされるとか無理矢理過ぎ。
高麗史が壱岐までしか到達してないとしてる以上、三郎浦が九州でないのは確定だよ。
284 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 20:11:21.92 ID:ESE0nqkH
無理矢理なのはお前だ。
例えば、弘安の役の高麗史表では「覇家台に至り、
戦いて敗れ、軍の還らざるもの十万有奇」とある。
覇家台とは博多のことであるが、弘安の役において
博多で戦い敗れ、軍の還らざる十万有奇といった
戦いは起きていない。
この点だけでも高麗史表の杜撰さが際立つ。
その杜撰な高麗史表を基に壱岐で大規模な戦いが
あったとは無理矢理すぎだよお前。
さらに弘安の役の部分も世家の簡略化版だし。
世家にこうある。
「太宰府に至りて累戦し(中略)官軍の返らざる者、
無慮十万有畿」
高麗史表は史料を参考にしたのではなく、元寇から
二百年後の人間が高麗史表を記述するのに金方慶伝や
世家の記録の本来の意味を喪失してまで簡略化した駄文に
しかすぎない。
285 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 20:14:35.19 ID:ESE0nqkH
てか、早く壱岐で大規模な戦いがあったとする史料。
10月24日に暴風雨にあったとする史料。
瀬戸浦から上陸したとする史料。
劉復亨が壱岐で負傷したとする史料だせよ。
>>284 >覇家台とは博多のことであるが、弘安の役において
>博多で戦い敗れ、軍の還らざる十万有奇といった
>戦いは起きていない。
>この点だけでも高麗史表の杜撰さが際立つ。
「老松堂日本行録」によれば1420年に朝鮮の宋希環が博多に滞在した際、筥崎の松亭
について日本人から「弘安の役の時、高麗人戦亡の地なり」と説明受けてるよ。
つまり編纂が杜撰なのではなくちゃんとソースがあって書いてるの。
>>285 壱岐で大規模な戦いがあったとか誰も言ってないけど?
287 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 22:09:49.53 ID:YBJ4s0oG
>>281 >壱岐のそばで海戦したってこと?初耳なんだけどどの史料に載ってる?
いや、彼の説は壱岐沖海戦ではない。
九州から逃げ帰った元軍も、追撃して来た日本軍も壱岐に上陸して壱岐で陸戦。
そして「及暮乃解」で自然休戦になって、例の軍議に移るわけだ。
すべて壱岐の陸上でのこと。
だから史料は金方慶伝ということだろう。
文永の役において日本軍が壱岐対馬まで追撃した史料。
「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
『菊池系圖』
「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
『菊池系圖』別本
>>269>>271 高麗史には「戦艦は岩に触れて多く敗れた」と書いあるんだから外洋なわけない。
明らかに暴風雨遭遇の場所は元船が大量に座礁してた壱岐沖だろ。
290 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 22:59:18.43 ID:YBJ4s0oG
>>289 外洋というのは博多湾の外という意味だ。博多湾を出れば黒潮の影響を受けるのだから外洋だ。
壱岐だって外洋。
>明らかに暴風雨遭遇の場所は元船が大量に座礁してた壱岐沖だろ。
壱岐は半島へ帰るルートなのだし、壱岐周辺は暗礁も多いからそこで遭難したって別に
不思議ではない。もちろんそれ以前に遭難して壱岐に漂着したこともあり得る。
わからないのは、なんでそれが壱岐陸戦の証拠になるのかということ。
291 :
名無し三等兵:2013/10/06(日) 23:35:29.36 ID:YBJ4s0oG
>>288 それは文永の役のことと弘安の役のことを合体している可能性が高いな。
系図なんて江戸時代に書き込まれたかも知れないんだからあてにならんよ。
少貳の敵将射落としだって系図では弘安の役のことにされちゃってるし。
韓国語版WIKIは都合の悪いこと一切書いてないから
なんとかしてくれ。
元寇といい、ベトナム戦争でのレイプといい・・・。あの民族はいつもそう。
293 :
名無し三等兵:2013/10/07(月) 02:49:47.61 ID:2geRKbsC
はぁ?
『老松堂日本行録』なんて、百年以上先の人間が書いた
史料が何の関係がある?重要なのは高麗史表に書かれた
「覇家台に至り、 戦いて敗れ、軍の還らざるもの十万有奇」
のような戦いが実際に起きていないということが重要なんだよ。
本文を省略する過程で本来の意味とは全く違う意味になったのが
高麗史表。こんなのを拠り所にしてる時点でお前の珍説は信憑性
の欠片もない。
壱岐で漂着した元軍の掃討戦があったのは誰も否定は
してねぇよ。
『安国論私抄』にも小規模な掃討戦があったことが
書かれているからな。
ただ、『高麗史』金方慶伝の軍議の内容のような
大規模な戦いがあったって裏付ける史料は皆無。
294 :
名無し三等兵:2013/10/07(月) 02:50:50.81 ID:2geRKbsC
お前は金方慶伝の軍議は壱岐であったと言ってるだろ?
つまりは、元軍と高麗軍が協力して夕暮れまで続くような大規模
な戦いがあったと主張しているわけだ。
そもそも、元軍と高麗軍が夕暮れまで日本軍と壱岐で激戦が
あれば、大規模な戦いなのだから日本側に記録が残らないわけ
がない。
公家の日記にも武家の記録にも壱岐で高麗史金方慶伝のような
戦いが起きたとする史料はなく、お前の頭の中にしかない。
だから、何度も言わせるな。
壱岐で暴風雨の中を出港とか有り得ないから。
勘仲記には、元軍が南風によって押し流されたと
あるが元軍の被害には触れていない。
それはそうだろう。博多湾を出たところで強烈な南風にあって
元軍は壱岐の沿岸に押し流され、そこで岩に触れて船が
壊れたんだから。
よって壱岐に漂着船が多いのは当たり前。
>>293 高麗史が完成きたのは1451年。
1420年に日本の博多訪れた際に日本人から直接情報得たら当然編纂に影響与えるだろ。
つまり高麗史はちゃんとした根拠のもとに編纂されており自分に都合が悪いからって、
文永の役で壱岐までしか到達してないという記述を無視することは許されないってこと。
あと壱岐で戦闘があったこと自体は日本側史料にもあるんだから何の問題もないだろ。
日本軍と元軍の戦力差を考えれば、元側から見て大規模な戦闘でも日本側からは
小規模な戦闘ってことは十分あるわけで。
壱岐説って前スレできちんとした仮説として取り扱われてたのだが、
これを頭ごなしに否定してるageくんはこのスレ初めてなの?
297 :
PC:2013/10/07(月) 13:41:42.04 ID:LMnQa3IF
ひとつ気がつかなかった。
壱岐は遠征軍艦隊の予定の停泊地だった可能性が高いな。撤退する艦隊はなにごともなければ合浦まで
直行するはずだ、と考えるのは今日の我々の、動力船時代の頭だ。
遠征軍の船は帆もあるが主としては手漕ぎが推進力。手漕ぎは風まかせでないかわりに航続力は短い。
漕ぎ手を休ませなかればならないからね。両戦役を通じて艦隊の行動が島伝いなのはそのせいだろう。
つまり、博多を撤退した後の第一行程はもともと壱岐までだった。
全艦隊は台風で多くの船を失いながらも予定通り壱岐をめざし、ひとまず壱岐に停泊した。
そして壱岐を出るときに、使用に耐えなくなった船や、座礁した船、そして上陸用舟艇などの
不要になった船を遺棄した。
そう考えれば900隻のうち130隻ぐらいの船が壱岐に遺棄されたとしてもなんの不思議もない。
なにも壱岐陸戦(文永の役の第二次戦闘)などに結びつける必要はない。
撤退する艦隊が壱岐に立ち寄ることが漕ぎ手の疲労の観点から当然予想されるとしたら、
追撃するはずの日本軍は敵軍進路が予想されるのに黙って見てたことになるわけだが、
それはおかしいと思わないんだね。この人は。
299 :
PC:2013/10/07(月) 15:44:55.33 ID:LMnQa3IF
>>298 追撃する以前に、博多を出て行くのを「黙って見てた」ではないか。
まあ、「黙って見てた」というのも、撤退に気がついていたとすればの話だが。
>>297 だったら江南軍が直行コース選ぶわけないし
歴史の事なんて全然知らないのでウィキペディアに頼り切ってしまうが、文永の役で元軍は
10月03日 朝鮮半島の合浦を出航
10月05日 対馬上陸
10月14日 壱岐上陸
10月16日 肥前に襲来(17日かも)
10月20日 博多に上陸
というスケジュールで博多まで来ている。戦闘しながらで所要17日。その後、博多で日本軍の反撃に遭い、
1日で作戦継続を断念、撤退した。
で、この撤退した軍が合浦に帰還したのが、1ヶ月以上後の11月27日。戦いながら来た往路の2倍以上の期間
彼らは何をしていたのか? まさか海を彷徨っていたわけではなかろう。
壱岐(あるいは対馬?)に留まって、風待ちだか船の修理だかをしていたと見るのが適当だろう。その場合
元軍は、一ヶ月前後壱岐を支配していた事になる。
で、金方慶が壱岐留守部隊だったというのは、一応筋が通らないかな?
>>299 黙って見てたわけないじゃん。
日本軍は300余艘の兵船で追撃してる。
>>301 史料が事実を伝えており、本土で蒙古軍が甚大な被害を被ったのに金方慶が戦闘継続を主張することに合理性があるのであれば、
かなり有力に考えられるのが忽敦と金方慶の戦況判断の根底にある情報が共有されていなかったケース、つまり2人が別行動していたと言う想定だと思うよ。
実際、本土決戦での被害を見てもまだ金方慶が戦闘を主張したと言うのであれば、それは愚将(含む政治的判断)もしくは舞文曲筆を疑わざるを得なくなる。
「金方慶、壱岐でお留守番説(仮称)」に従って、もう少し考える。ウィキペディア鵜呑みご容赦
10月14日以降、留守部隊(規模不明)と共に壱岐に駐留していた金方慶の下に、10月23〜25日頃
九州攻撃部隊が逃げ帰ってきたとする。そして問題の軍議になるが、この時点で元軍に可能な選択肢は
案1:完全撤退(結局はこうなった)
案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
案3:占領を維持して、壱岐だけでもぶんどる。
の3つが主要な物となろう。壱岐留守部隊の規模は不明だが、高麗軍全部残っていたら戦闘員の
1/4ないし1/3という、結構な規模になる。この兵力を加えて九州再侵攻すべしと言うのが
お留守番説を前提にした、金方慶の主張と考える。
で、総司令官は壱岐留守部隊の戦力を加えても勝ち目無しと判断したというシナリオになると。
寸土をも得られぬ完敗を避けるために、案3を選択しなかった理由は判らない。壱岐の維持すら難しいほど
日本は強いと考えたのだろうか。
昔から不思議だったんだけど元寇の時
対馬とか壱岐の住人って住人も含めて全滅したの?
それとも守備隊以外は山に篭ってやり過ごしたの?
306 :
名無し三等兵:2013/10/07(月) 22:25:25.99 ID:s1xVucSW
>>304 >九州攻撃部隊が逃げ帰ってきたとする。そして問題の軍議になるが
それほど単純でない。だってクドゥンが壱岐に現れた(金軍の奮戦を賞めた)あとに
「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘があるのだから、日本軍追撃部隊も壱岐に上陸している。
当面の問題はこの日本軍をどうするかだ。
>案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
その案はない。だって金は「船を焼いてもいい」と言うのだから、もはや九州侵攻は
考えていない。
307 :
名無し三等兵:2013/10/07(月) 22:37:40.76 ID:s1xVucSW
>>302 >黙って見てたわけないじゃん。
よく読んでね。
「撤退に気づいていたとすれば黙って見ていたことになる」という意味だ。
実際は日本軍は撤退に気づいていなかった、つまり撤退の現場にいなかった。
それが見事な撤退作戦成功の、唯一の合理的説明。
>>307 いや、実際には日本軍は現場にいてしかも追撃してる。
元軍の撤退は成功なんてしていない。
百道原と姪浜で日本軍に殺されまくりながらの悲惨な壊走だよ。
>>306 まず、日本軍追撃部隊は存在したとしても撃退されたと考えるべきでしょう
(合浦に帰還するまで一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたとするならば)
そうなると「諸軍与戦、及暮乃解」ではなく、日本軍を大いに破ったという記述が
来そうな物ですが……。
> >案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
>
> その案はない。だって金は「船を焼いてもいい」と言うのだから、もはや九州侵攻は
> 考えていない。
ということは、金方慶は船を焼いてでも壱岐を死守すべき(
>>304で言う案3?)と主張したと
お考えですか? 壱岐の死守と領土化を目的とした場合、船を焼くのは下策かとも思えます。
(壱岐を確保する為には、海が安定する春まで粘って援軍を呼ぶ必要があるが、その時援軍を運ぶのに
新たな船を一冬で作るのは困難。壱岐にある船をいったん朝鮮半島まで回航して援軍を乗せる必要がある)
>>309 一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたは無いでしょ。
11月6日に元軍が本国に帰還したと京都に報告されてるんだから。
元軍が壱岐にいる状況でそんな報告はできない。
一ヶ月ほど巨済島とか済州島とかに滞在してたんじゃね?
311 :
名無し三等兵:2013/10/08(火) 00:51:25.23 ID:ybegOSqB
>>295 何度も言わせるなよ。
『高麗史』表は金方慶伝や世家の簡略版。
日本人から情報を得てなどお前の根拠もない妄想だろ。
金方慶伝や世家の内容と簡略版の表にズレがあるということは
高麗史表は史料としての価値はない。
表が都合がいいからと表の性格を無視して使用すべきでは
ない。
はぁ?どの日本側の史料に夕暮れまで激戦があったとする
記述があるんだ?
系図にしたって対馬の記述しかないだろ。
元軍と高麗軍が合同して一日中、日本軍と
戦いながら日本側が小規模な戦闘と認識して
いたわけないだろ。本当に都合の悪いことは
曲解する奴だな。
まず、お前の珍説を立証するには
一、三郎浦とは壱岐のどこか?
二、壱岐に大規模な戦闘があった証拠。
三、高麗軍が壱岐までしか到達していないという
高麗史表以外の史料。
四、劉復亨が壱岐で負傷したとする史料。
これを示さなければお前の珍説は珍説でしかない。
そもそも、高麗史の元軍上陸地点である三郎浦と
博多湾の早良郡の音が通じ、高麗史の記述は明らか
博多の戦闘以外有り得ない。
>>311 残念ながら『高麗史』表と世家の内容にズレはない。
『高麗史』世家
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、
伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。 会々、夜、大いに風ふき雨ふる。
戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金セン、溺死す。」
世家でも高麗軍は壱岐までしか到達してないんだよね。
つまり、本文を省略する過程で本来の意味とは全く違う意味になった
というのはお前の妄想。
313 :
名無し三等兵:2013/10/08(火) 01:15:51.85 ID:ybegOSqB
お前は馬鹿なのか?
文永の役の本文の記述は金方慶伝だ。
世家が省略文なのは金方慶伝と同様の記述があることは明らか。
金方慶伝の記述では『一岐島に至りて‥』の後に『千余級を撃殺』で
平景隆との戦いだ。
さらに金方慶伝の記述では一岐島に至るに、『倭兵は岸上に陳す。』とある。
ってことは博多湾から逃げ帰った元軍が壱岐に至ったという意味では無く
壱岐島には日本軍の守備隊がいたということ。
つまりは平景隆の戦闘を表す。
で、元軍は三郎浦=早良郡に上陸したというのが
本文の金方慶伝の内容。
博多湾の戦闘後、壱岐で大規模な戦いがあったなど
結局そんな史料は全くないのだよ。
>>305 (歴史の時間軸で)ちょっと前まで子供がぐずると「むくりこくり」と言われたらしい
そういうこと
>>313 いや、表や世家と同様に壱岐までしか到達できずに撤退したというのが
金方慶伝の内容だよ。
自分の都合に合わせて勝手に史料を捻じ曲げて解釈しちゃダメね。
>>313 一応の根拠史料を呈示して検討を加えている人間に対して「馬鹿なのか」というレスはさすがに失礼。
317 :
名無し三等兵:2013/10/08(火) 09:32:49.63 ID:jAj9oT2V
>>309 >合浦に帰還するまで一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたとするならば
それが貴方の新説であれば別ですが、彼の説の話ならば、彼の説は及暮乃解→軍議→撤退→遭難は
金方慶伝の通りに同じ一日のなかのできごととしているのです。
>「諸軍与戦、及暮乃解」ではなく、日本軍を大いに破ったという記述が来そうな物ですが……。
そんな記述はないのですから、日本軍は居残っていることを前提にしなければなりません。
>壱岐の死守と領土化を目的とした場合、船を焼くのは下策かとも思えます。
その通りです。金方慶が壱岐に居たのならば、焚船の計を口にするのは全く不適当なのです。
九州に居ての話ならぴったりですが。
318 :
名無し三等兵:2013/10/08(火) 09:39:41.83 ID:jAj9oT2V
>>308 >いや、実際には日本軍は現場にいてしかも追撃してる。
ソースをどうぞ。
>元軍の撤退は成功なんてしていない。
たった1隻の座礁船とその乗員を除いて一兵一馬も残さなかったのだから鮮やかな成功だ。
座礁船については多くの文献に記述されているのだから、他に残っていなかったことは明らか。
>>318 日本軍が追撃してるソース
「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、
廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
『歴代皇紀』
志賀島の1隻は座礁じゃなく追撃で捕えられたんだよ。
暴風雨の後で志賀島に流れ着いた元船は2隻。
>>304 壱岐だけでも分捕ると言うけど、日本軍は敵主力を九州本土で大破して、
本土に近い壱岐に追撃をかけ、その数も日増しに増強されているのだから維持なんて不可能だよ
これが忽敦の判断でしょ
321 :
名無し三等兵:2013/10/08(火) 15:17:47.47 ID:jAj9oT2V
>>319 兵船三百余艘の話は他の全ての史料にない。したがって裏付けがない。
「神威力云々」と書いてあるから、一代要記の「兵船二艘出来暗天合戦」や
八幡ノ蒙古記の白装束と同じような神様系だろう。
なお志賀島の座礁ないし漂着船は全ての史料で一隻。兵数が60~200人と差があるだけ。
この事件がこれだけ一致して取り上げられているということで、他に一兵一馬を
残さなかったことが推察される。見事な撤退作戦だ。
>>321 「賊船二百餘艘漂倒、神威力云々」は『勘仲記』十一月六日条で暴風雨を
神威と解釈した記事と一致する。
つまり裏付けがある。
志賀島の一隻は『帝王編年記』によれば合戦で捕えられた船であって
座礁ないし漂着船ではない。
日本軍の追撃による戦果なんだよ。
暴風雨の後で志賀島に漂着した船は『朝師御書見聞』によれば二艘。
冬の夜半に玄界灘に乗り出して見事な撤退もくそもあるものか
そういうのは尻をからげて逃げ出したと言うんだよ
324 :
PC:2013/10/08(火) 20:42:08.10 ID:Zpa9xZu9
>>321 >『勘仲記』十一月六日条で暴風雨を神威と解釈した記事と一致する。
なるほど「神威」が一致するというわけか。まさに信仰だな。
>志賀島の一隻は『帝王編年記』によれば合戦で捕えられた船であって
>日本軍の追撃による戦果なんだよ。
なんだ、これのことか。
「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之、於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」
他に合戦の記述はないんだから「蒙古與武士合戦」は一般的な合戦のことだ。だから「賊船一艘取留乃」
は追撃戦の結果とは言えない。全体として「蒙古と武士の戦いがあった。船を一隻押収した。志賀島で
押収した。他の賊は帰った」と言っているだけだ。勝手に帰ったのを「追い返した」と言うのは言葉の綾だ。
これで海上追撃戦は消えたな。
>>324 合戦の結果として「賊船一艘取留乃」と書かれてるんだから、追撃戦の結果以外の
可能性はないだろ。
「追い返した」と書かれてる以上、元軍は勝手に帰ったのでは無く明確に撃退されてる。
結局なに一つまともな反証になっていない。
これで海上追撃戦は完璧に立証されたな。
324はパフォのマネしてるが、数段劣るな。
327 :
PC:2013/10/09(水) 09:40:46.21 ID:1zeCFd3w
>>325 「合戦の結果」とどこに書いてあるの? 取留の「取」の字にすがりついている
のだろうが、これは「取り留む(とりとめ)」という一つの動詞だ。
「取り」は単なる接頭語で主たる意味は「留む」にある。
「取り調べる」と言っても単に尋問する意味であって、「逮捕して尋問する」の意味で
ないのと同じ。
つまりこの文章の「取り留む」は単に「押収した」または「残留した」の意味であって
「(戦って)捕獲した」という意味ではない。
まず日本語から勉強するように。
でないと「取り留めのない」ことになってしまう。
328 :
PC:2013/10/09(水) 09:43:19.37 ID:1zeCFd3w
>>327 訂正:
「取り留む(とりとめ)」→「取り留む(とりとむ)」
329 :
PC:2013/10/09(水) 10:02:11.68 ID:1zeCFd3w
>>325 ところで、壱岐軍議説を「きちんとした仮説」として評価して欲しいということだが、その前に
まず時系列をきちんとして欲しい。
いわゆる九州侵攻軍は10月19日夜に早良郡に上陸をはじめて、20日の昼間に日本軍との主たる
戦闘があったことは日本側の史料で確定しているよね。その後の時系列を教えてくれ。
九州侵攻軍の博多撤退開始の日時
同じく壱岐上陸の日時
追撃日本軍との第二次戦闘開始の日時
同じく自然休戦の日時
金方慶との軍議の日時
壱岐撤退開始の日時
台風による遭難の日時
以上について「日」と「時」を教えてくれ。
「時」のほうは「朝、昼間、夕方、夜」程度でいいよ。
ブログにはこれが「きちんと」書いてあるのかと思って見たが全く書いてない。
それでお願いする次第。よろしくね。
>>327 その取留た要因が「蒙古與武士合戦」しかないんだから追撃戦の結果以外の
可能性はないじゃん
331 :
PC:2013/10/10(木) 19:54:25.66 ID:4uhlhBfP
>>330 そんなことより「時系列」はどうなったの?
壱岐軍議説は時系列にできないのかな? それなら成り立たないということになるが、
まさかそんなことはないよね?
ところで、冬の玄界灘を渡るのは高麗の船には命懸けでも
日本の船にとってはそれほどの難事でもなく、しかも
300隻もの軍船を直ちに用意して追撃艦隊を編成できるほど
日本の航海技術は大陸をぶっちっていたの?
333 :
名無し三等兵:2013/10/10(木) 21:49:18.47 ID:H2qhJEiZ
水軍の中心である松浦党はすでに壊滅しているというのにね。
>>329 元軍が10月20日中に博多撤退を終えたことも日本側の史料で確定している。
日本軍が同じく20日に追撃開始したこともね。
で、高麗史によれば壱岐での戦闘の後の自然休戦、軍議、撤退、暴風雨遭遇は
全て同日の出来事。
24日に元船の遭難が伝わってるから21日〜23日の何れかの日の出来事だろ。
>>333 松浦党はその後も存続してるから壊滅はしてないんだけど、文永の役において
いつどこで大きな損害を出したかは史料上不明。
同時代性の高い史料だと、元軍の侵攻ルートは対馬→壱岐→博多湾であって
松浦党の本拠地は含まれていない。
つまり、松浦党に犠牲が多かったことから後世に逆算して壱岐侵攻の後で
松浦半島なども襲撃されたとされてるだけなんだよね。
むしろ松浦党に損害が集中したのは水軍による追撃の結果と考えた方が自然。
何が同時代性だよ笑
同時代性を言うなら、壱岐追撃戦説なんて
同時代史料に全くないじゃねえか笑
追撃戦があったのならば記録にきちんと残るでしょう。
この季節に玄界灘に漕ぎ出すことの愚は地元の人間ならば誰もが知っていることです。
>>332 雲泥の差がありましたね。
高麗の造った泥舟などに載せられた兵士たちも哀れなものです。
338 :
名無し三等兵:2013/10/11(金) 10:08:43.04 ID:B64e4v05
>>335 >同時代性の高い史料だと、元軍の侵攻ルートは対馬→壱岐→博多湾であって
>松浦党の本拠地は含まれていない。
文永の役で元軍は松浦党の本拠地をバイパスしたって?
ソースをどうぞ。
>>338 記録が無いことのソースって・・・
例えば『帝王編年記』だと
「十月十七日。自九国早馬到来于六波羅。是去三日蒙古賊人於対馬嶋合戦云々。
十八日。依蒙古事於院有議定。廿八日。筑紫飛脚到来。壱岐嶋被打取云々。
十一月三日。於院御所陰陽頭在清朝臣已下蒙古間事有御占。六日。飛脚到来。
是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
山口修とかは確かな記録が存在しないことを理由に、松浦党の本拠地襲撃を
否定してる。
その他にも、元軍の侵攻ルートを対馬→壱岐→博多湾としてる研究書って
わりと多いよ。
340 :
名無し三等兵:2013/10/11(金) 14:02:46.35 ID:B64e4v05
>>339 >記録が無いことのソースって・・・
なんだ、「同時代性の高い史料だと」なんて言うからなにか史料があるのかと
思ったら、結局「無いこと」がソースなのか。
日蓮宗関係ではいくつかあるようだが、それは信じないわけ?
同じ日蓮宗関係でも都合のいいのだけピックアップしてるということかな?
>>340 同時代の日蓮は松浦党に大きな犠牲があったって言ってるだけだよ。
で、松浦党の損失は基本戦闘員の損失だから。
松浦党にも博多への招集がかかってたはずで、壱岐の後で肥前が襲撃されたら、
戦闘員は留守にしてるはずじゃん。
鎮西武士団が蒙古船が消えただけで安心して、壱岐への捜索‐追撃を行わないとは常識的に考えがたい。
松浦党本拠を「襲撃しなかった」ソースを求めてるレスがあるけど、固定観念強すぎる
343 :
名無し三等兵:2013/10/12(土) 06:36:35.91 ID:RcfXsc8f
お前は妄想が強すぎるよ。
『類纂高祖遺文録』に「前国松浦党数百人伐虜さる。
この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し」とあり
八幡愚童訓にも「同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」
肥前への襲来が書かれている。
対して壱岐で大規模な戦いがあったなどいう記録は全く存在しない。
『高麗史』金方慶伝の戦闘は三郎浦=早良郡であり
壱岐で追撃戦があったとする史料は皆無。
344 :
名無し三等兵:2013/10/12(土) 09:32:25.86 ID:bdICLJn6
>>335 >松浦党はその後も存続してるから壊滅はしてないんだけど
壊滅とは戦闘力を喪失することだ。一回の戦闘で一族根絶やしになるはずがないではないか。
>むしろ松浦党に損害が集中したのは水軍による追撃の結果と考えた方が自然。
君は山代諧が対馬で戦死して恩賞を得たことについて、肥前の国の御家人である山代諧が
対馬にいるわけがないから、これは追撃戦で戦死したのだと言って、追撃戦の証拠にして
いるよね。
しかし松浦党は水軍すなわち輸送手段を兼ねた戦力なのだから、追撃戦で死ぬのも対馬防衛戦
で死ぬのも可能性は同じだ。
宗資国の率いる対馬守備隊を輸送して行った山代諧が、そのまま守備隊に加わって居残り、
侵攻軍と戦って戦死したということは考えないのか?
345 :
名無し三等兵:2013/10/12(土) 09:44:26.15 ID:bdICLJn6
>>344 訂正:
宗資国は対馬土着だったね。山代諧は増援部隊として対馬へ行ったと改める。
また本土との連絡係だった可能性もある。
ただ、『安国論私抄』に博多の戦闘の後に
『ユキノセト』という場所で戦闘があったのは
確かみたいだな。
ユキノセトとは対馬、壱岐のどこかだろう。
>>342 そもそも消えた敵船団がどこへ行ったのかもわからないんだから、その時点で「壱岐への捜索‐追撃」
なんて発想が出てくるわけもない。
考えるべきは敵の場所をあらためての再上陸なんだから、まずすべきことは周辺沿岸一帯への探索と
再上陸への備えだろう。
348 :
名無し三等兵:2013/10/12(土) 13:57:09.99 ID:bdICLJn6
日蓮宗関係の他に一つあった。日付と場所が入っている。
「石志文書」という史料の中に石志兼の遺書というものがある。
10月16日の日付が入っており、その大要は下記のようなものである。
「石志と呼子は私(兼)の先祖伝来の私領である。このたび蒙古人との戦争に長男の二郎を
連れて呼子に出陣したが、無事に生き長らえることも難しいと思うので、石志と呼子は弟の
四郎に遺産相続させる。しかしもし二郎が無事だったら、勿論、二郎に相続させるものである。」
翌日の戦いで兼は生き延び、二郎は戦死したという。
http://www.yoyokaku.com/sub7-19.htm なお呼子は松浦半島の先端にあり、石志はその付け根付近にある。
この文書が本物なら、10月17日に蒙古軍が松浦党の本拠地に上陸したことは明らかだな。
349 :
名無し三等兵:2013/10/12(土) 14:04:08.12 ID:bdICLJn6
350 :
名無し三等兵:2013/10/13(日) 10:30:15.37 ID:31bU0Es4
なんのことはない、ウィキ「元寇」に石志譲状の元の文章があった(参考文献111)
「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、
而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、
れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、
一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、
仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判」
これには「呼子」などの出陣場所の地名は無い。
>>347 消えた敵船団がどこに行ったか分からないからこそ、捜索や偵察を行うんでしょ?
弘安の役の途中で転進した蒙古軍の動向を気にせずに日本軍が解兵するとでも思う?
壱岐に関しては確実に追撃対象たり得る。
ここは軍板なので、いったん書を捨てて軍事的に考えてみませんか?
状況
10月20日未明、博多近郊に異国の軍隊が上陸。日本軍は直ちに反撃し
20日日没までに、異国軍を上陸地点の海岸まで押し戻した。
21日早朝、斥候より「海岸に異国軍の艦影無し」との報告が入る。
(あるいは夜間の出港を察知していたかも知れないが略す)
さて、この状況で日本軍総司令官はどんな指令を出すだろうか。
なお、日本側の水軍戦力はよく解らないので、取りあえずあった物とします。
案1 直ちに水軍を壱岐に派遣する
案2 他の地点からの上陸を警戒して、陸軍・水軍共に敵を捜索させる
案3 水軍を壱岐に派遣。陸軍には周辺の海岸を偵察させる。
案4 作戦は終了したと判断して、部隊を解散する。
案5 その他
横レス失礼。
20日に日本軍が追撃したことが歴代皇記に記載されているが
壱岐島で追撃戦を展開したとは書かずに漂倒する元軍船に出くわしたと
書いているだけ。
壱岐で追撃戦があったなどは書いていない。
つまりは日本軍が壱岐島に到着した頃には元軍は漂倒していた。
そして、安国論私抄には11月9日に「ユキノセト」に漂着した元軍を日本軍が
掃討している。これは暴風雨で味方とはぐれていた元軍船がユキノセトに
漂着し守備する日本軍に掃討されたのだろう。
史料からわかる顛末は、日本軍が壱岐島に渡った頃には元軍は暴風雨にあっており
壱岐島には元軍船が漂倒していた。
11月9日の時点で元軍船が漂着したということは暴風雨で組織的編成が崩れてから
体制を立て直すのに、元軍がかなりの時間を要していたということを意味する。
11月27日に合浦に帰還したのがその現れだ。
日本軍は味方とはぐれた壱岐の元軍船の蒙古兵を掃討し、元軍本隊はその間対馬で
編成を整えていたが間に合わず、日本軍が対馬に壱岐から軍を派遣したのを機に
元軍本隊は合浦に帰還した。
船の修理が間に合わなかった対馬の元軍船の残存船は日本軍に掃討され、『菊池系圖』別本
にある通り「追到對馬國、戮蒙古之將、」 という戦果を挙げた。
これなら、壱岐対馬追撃戦が史料上明確されない説明はつく。
元軍本隊は博多湾から撤退後、日本軍とは交戦せず、交戦したのは
本隊とはぐれた元軍だったのだ。
355 :
PC:2013/10/13(日) 20:39:04.77 ID:O/KwWwGN
>>334 >24日に元船の遭難が伝わってるから21日〜23日の何れかの日の出来事だろ。
電話もFAXもない時代だよ。10月21日以降に文字通り津々浦々でおこった事を、どうやって10月24日
までに集計して報告書にまとめ、しかも遠隔地まで届けるというのか?
これは原文に「一か」つまり「十一月か」と添書してあるように、11月24日の誤りだろう。
wikiも地の文では頭から11月24日としている。
356 :
PC:2013/10/13(日) 20:58:17.27 ID:O/KwWwGN
>>354 >これは暴風雨で味方とはぐれていた元軍船がユキノセトに漂着し守備する日本軍に掃討されたのだろう。
それにしては日本側の損害が多い。死者が日本人195人+下郎無数というのだから尋常でない。
ひょっとするとユキノセトの蒙古人195人は単なる漂着遺体であり、「又総の生捕・・」以下は別のこと
を書いているのではないか?
例えば「総」の字が示すようにこれが戦争全体の集計であるとか。
その場合195人は名ある武士の死者であり、下郎とは家来のことであるとか。
357 :
PC:2013/10/13(日) 21:01:43.57 ID:O/KwWwGN
>>356 訂正;
誤:蒙古人195人
正:蒙古人150人
パフォコン説はもはやネタの領域に入ってきたなw
359 :
PC:2013/10/14(月) 20:19:34.79 ID:fyWdqDR6
>>358 遭難で疲れ果て、武器も食料も喪失したであろう200人ほどの敗残兵を処理するのに武士が195人(+下郎無数)も
やられるのか?
武士ってそんなに弱いのか?
それがおかしいと思うなら史料の解釈が間違っているのだ。
360 :
PC:2013/10/14(月) 20:51:56.56 ID:fyWdqDR6
じぶんで考えられるように全文を載せておこう。
「又或記云十(一歟)月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、
鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、
又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、
又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、」
蒙古兵もその他数を知らずって書いてるから
死んだ150人や捕虜27人、頭を取られた39人が判明しているだけで
総じて総被害は不明であり単純にどちらが被害が大きかったかは比較は
できない。
362 :
PC:2013/10/14(月) 21:22:03.95 ID:fyWdqDR6
私の解釈を書いておこう。
「またある記録にいわく、十一月二十四日に届いた報告によれば、蒙古の船が難破して浦々に打ち上げられた。その数は
対馬に一艘、壱岐に百三十艘、ヲロ島に二艘、鹿島に二艘、宗像に二艘、カラチ島に三艘、アクノ郡に七艘、壱岐に
さらに三艘、以上百二十四艘である。これは視認した分だけである。また十一月九日ユキノセという所に死んだ蒙古人
が百五十人(流れ着いた)。また合計の捕虜数は二十七人、頭の分捕りは(合計で)三十九個、その他の数は不明である。
また日本人の死者数は(合計で)百九十五人、下郎の死者数は不明である。」
つまり報告書は「元軍の漂着船の数」「元軍の漂着死体」「日本軍が得た戦果合計」「日本軍が被った損害合計」の四つの
部分からなるという解釈だ。
>>362 それについては特段異論は無い。
俺もそういうふうに読む。
まあ、そもそもの情報が伝聞だし、内容の信憑性については評価しようがないがな。
おいおい、暴風雨があってから20日も経って
蒙古兵の死体が流れ着くのはおかしくないか?
さらに今度は蒙古兵の首の分捕りが合計で39個で
捕虜が27人とか逆に少ない。
365 :
PC:2013/10/15(火) 09:29:18.17 ID:PNu/DeHX
>>363 >俺もそういうふうに読む。
ありがとう。
この読み方が私だけでないと知って心強い。ウィキも訂正して欲しいね。
このように読むということは、この史料が壱岐軍議説や壱岐追撃戦説の根拠には
使えないということだ。
>>364 >20日も経って蒙古兵の死体が流れ着くのはおかしくないか
何日か船が漂流してから二次的に沈んだ可能性もある。それに死体がいったん沈んで
からまた浮き上がるまでに何日かかかると言うし。
>蒙古兵の首の分捕りが合計で39個で捕虜が27人とか逆に少ない。
捕虜は最終的に生かしてもらった数だろう。だから志賀島で捕まってすぐに首を
切られた60ないし200人の捕虜は数に入らないという考え。
首の分捕りは意外と少ないのではないか。菊池だって2個だし。
集団戦では取りにくいことと、ある程度の身分の首でないと認められないことが
あるだろう。
何日もかかったとしても20日もかかって
溺死者が一斉に漂着したとはどうも信じ難い。
また、唐突に日本軍の総損害の記載があるのも
不自然だ。
場所の言及が一箇所にしかないのだから、すべて
ユキノセの出来事とみた方がしっくりくる。
また、蒙古兵の死者に触れた後に「日本人死事」の
記載をもってきているのは、蒙古兵の死者に対応した
ものであろう。
対応して日本軍の死者に触れるということは、戦闘による
両者の比較と考えた方が自然だ。
367 :
PC:2013/10/15(火) 14:18:56.76 ID:PNu/DeHX
>>366 これは正式の報告書ではない。報告書を見た人の話から興味のあるトピックを
とりあげてメモ書きしたようなものだ。つながりが唐突なのはむしろ自然。
まず漂着船のトピックを取り上げた。つぎに漂着つながりで漂着遺体のトピックを
取り上げた。漂着のイメージが続いているから書き方は簡略にした。
次に戦争の総決算みたいな記事があったからそのなかから興味のある数字を取り上げた。
そのような性質の史料だ。
トピックとトピックの間を「又」でつないでいる、と見れば四つのトピックからなる。
「さらに」の意味の「又壱岐」を別にすればね。
いずれにせよ単なる敗残兵掃討戦で195人の戦死者は多すぎる。
一方、これを全戦闘に於ける御家人クラスの戦死者の総数と見れば、多すぎると見る人も
少なすぎると見る人もいるだろう。
ということは妥当な範囲にあるということだ。
もしそれが事実なら、これは日本側の戦死者総数の唯一の史料だ。その意味で貴重だと
思う。
では聞くが、暴風雨から20日経った11月9日に蒙古兵
の死体が150体、ユキノセに突如打ち上げられる摩訶不思議なことが
本気であると信じているのか?
また、195人が日本側の損害の総数だとして、総数であることに
に触れていないのはなぜだ?
日本側の損害が多いか多くないかは個人の主観に
しかすぎない。まず、「日本人」とはどの層を指した
ものか?「下郎」とはどの層を指したものか?
これを明らかにせず、日本側の損害が多いと思うから
総損害であると決めつけるのは無理がある。
下郎は数を知らずと両者の総数は不明である。
安国論私抄の書き方ならば、ユキノセにおける
蒙古兵の総損害が500で日本側が300かもしれない。
一概に日本側の損害が多いとは言えない。
過去の史料から写した内容が博多の本戦では無く、
ユキノセの戦いの局地戦(または蒙古兵死体の一斉打ち上げ)
のような小事(博多本戦と比べて)の記載があるということは、
参照史料の内容自体、ユキノセに関する記録しか無かったのだ。
また、本戦に触れず日本側損害だけを
記載するのは、興味があったからだけでは説明がつかない。
場所が書いていないということは、既に述べていたからだ。
つまりは唯一の記載地名である「ユキノセ」がそれだ。
>>364 情報が届いたのが20日後ってだけで、20日経って死体が流れ着いたわけではないだろう。
壱岐や対馬からの情報が届くのにその程度の時間がかかるのはむしろ当然。
370 :
PC:2013/10/15(火) 20:49:58.71 ID:PNu/DeHX
>>369 >情報が届いたのが20日後ってだけで、20日経って死体が流れ着いたわけではないだろう。
その可能性はあるね。「〜ニ聞コフル定」を、二回目だから省略したというわけだ。
もうひとつの可能性はすでに起こっていた事件を11月9日になって発見したという可能性。
戦後、無人になった壱岐または対馬を恐る恐る探索して、ユキノセに達したのが11月9日
だった、というわけ。
さらにもうひとつの可能性は前にも言った漂流だ。
大船には200人ぐらい乗っていたらしいが、そんな船が暴風で航行不能になり、何日も漂流
したあげくユキノセ津の沖合で遂に沈んだとすれば、150体がまとまって流れ着くことは
あり得るだろう。
この場合、ユキノセ津は壱岐・対馬であるとは限らない。裏日本のどこかの港でもいいのだ。
ということで、ぜんぜん摩訶不思議ではない。
>>370 >>その可能性はあるね。「〜ニ聞コフル定」を、二回目だから省略したというわけだ。
二回目だから省略したのならば当然、前後の文章は対応していたということになるな。
つまりは唯一の記載地名である「ユキノセ」と日本人の損害も前後で対応していたものと
みても良いことになる。
「日付」と「地名」が書かれた資料において、日本側の損害が総損害ならば
そのことに言及しないのはあり得ない。日本人の損害は「日付」と「地名」に
対応して書かれたものであると考えたほうが自然。
>この場合、ユキノセ津は壱岐・対馬であるとは限らない。裏日本のどこかの港でもいいのだ。
>>370 >>その可能性はあるね。「〜ニ聞コフル定」を、二回目だから省略したというわけだ。
二回目だから省略したのならば当然、前後の文章は対応していたということになるな。
つまりは唯一の記載地名である「ユキノセ」と日本人の損害も前後で対応していたものと
みても良いことになる。
「日付」と「地名」が書かれた資料において、日本側の損害が総損害ならば
そのことに言及しないのはあり得ない。日本人の損害は「日付」と「地名」に
対応して書かれたものであると考えたほうが自然。
>この場合、ユキノセ津は壱岐・対馬であるとは限らない。裏日本のどこかの港でもいいのだ。
ということで、ぜんぜん摩訶不思議ではない
まず、この資料の問題の箇所の前文を読んでみよう。
「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、
ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也
この資料をみれば、打ち上げられた蒙古船の確認できた船数を記録している。
『勘仲記』や『八幡愚童訓』などをみても、打ち上げられた船には蒙古兵が乗船しており捕虜となっている
ことが確認できる。
また、壱岐で船が座礁しているということは、当然のことながら溺死した蒙古兵の死体も打ち上げられていた
船と共に打ち上げられていたとみてもいいだろう。
つまり、前文の内容からして、ここで君のいう「ユキノセ」の漂着150体のみ特別に言及する意味などない。
前文には確認できた座礁船に全船について言及されているのだからな。
「ユキノセ」が日付と地名付きで記載されているのが「ユキノセ」の出来事が
特別な事件だったからに他ならない。つまり、「11月9日」付けに蒙古兵の損害に対応して
記載されている日本側の損害の記載があることを考えれば、この内容から浮かび上がる特別な
事件とは蒙古兵と日本人による衝突以外に考えられない。
373 :
PC:2013/10/16(水) 08:26:52.02 ID:0L4WQUlK
>>371 >>372 >唯一の記載地名である「ユキノセ」と日本人の損害も前後で対応していたものと
みても良いことになる。
「又」の字を無視している。ユキノセの話が又で始まり、次に「総の・・」の話が
又で始まるのは、それぞれが独立したトピックであることを示している。
>日本側の損害が総損害ならばそのことに言及しないのはあり得ない。
これも「又」で始まるから別のトピック。また「総の生捕り」でここからが集計の
話であることはわかるから、後はいちいち「総」をつけるのは省いたのだ。
こころみに全部「総」をつけてみよ。うるさくて読みにくい。
>「ユキノセ」の漂着150体のみ特別に言及する意味などない。
前にも言ったが、これは正式の報告書ではない。私的なメモに過ぎない。
漂着死体についていちいち記録してあったかどうかはわからないが、そうだとしても
ユキノセの150体が飛び抜けていたから代表してこれだけをメモしたと考えればよい。
374 :
PC:2013/10/16(水) 09:00:49.16 ID:0L4WQUlK
>>372 >日本側の損害の記載があることを考えれば、この内容から浮かび上がる特別な
>事件とは蒙古兵と日本人による衝突以外に考えられない。
「ユキノセの合戦」にえらく執着しているようだが、具体的に考えて見たのか?
その「蒙古兵」なるものを考えて見れば、彼らは船が難破して陸に上がって以来、20日間も飢
疲れていたのだ。また武器はと言えば、もともと矢は射尽くしている上に、帰還軍でさえ
「多くの武器を棄て、残りも使用に耐えない」と高麗記にあるくらいだから、ろくに揃っていなかった。
一言で言えば彼らはよれよれの、丸腰に近い敗残兵だった。
この蒙古兵を相手にしたのは戦意旺盛、補給十分な新手の日本軍だ。用心して日本人と書いて
いるがこれは武士のことだよな?
君は鳥飼潟の戦いで死んだ武士はみつともの又二郎ただ一人だったと言ったことがあるが、
それほど死ぬことがまれな武士を、よれよれの敗残兵相手に一度に195人も大安売りして
いいのか? 状況を考えれば、むしろ相手は戦わずして降伏して当然でないか?
こんな状況で武士195人の戦死はあり得ないと考えるならば、ユキノセの合戦もまた幻になる。
375 :
PC:2013/10/16(水) 10:22:55.34 ID:0L4WQUlK
376 :
PC:2013/10/18(金) 17:48:57.05 ID:PiBC0PhF
ひとつ気が付かなかった。
百歩譲って「ユキノセの合戦」が実在したとしても、それは「壱岐軍議説」(壱岐で文永の役の第二次戦闘が
行われたとする説)の証拠にはなり得ないね。
なぜなら10月9日に不明の場所で行われた敗残兵掃討戦だという「ユキノセの合戦」は、壱岐軍議説と従来説の
いずれにも整合するから。
377 :
PC:2013/10/18(金) 17:52:22.40 ID:PiBC0PhF
>>376 訂正:
10月9日 → 11月9日
いつも無駄遣いして申し訳ない。
パフォが暴れてるのは年中行事として、前スレの詳しい人が嫌気がさしていなくならないか心配
>>353 状況設定がすでにおかしい。
20日に日本軍の追撃部隊が出航してるんだから、この時点で元軍は既に
撤退してるし、日本軍も把握している。
>>355 >電話もFAXもない時代だよ。10月21日以降に文字通り津々浦々でおこった事を、どうやって10月24日
>までに集計して報告書にまとめ、しかも遠隔地まで届けるというのか?
日本軍が九州沿岸及び制海権を掌握していたなら問題ないだろ。
11月24日の誤りという可能性はない。
勘仲記の内容から、安国論私抄の記述に近い報告は11月6日時点で京都へ
届いていたと考えられる。
つまり、10月24日以前に日本側は壱岐も奪還してたってこと。
382 :
PC:2013/10/23(水) 09:48:42.17 ID:CjH8fOjf
>>380 日本軍が無線通信を持っていたという話はしばらくおいて、その、制海権を掌握していた
という日本水軍の話を聞こう。
1)元軍は主将のクドゥンが陸上にいるぐらいだから、全軍が壱岐に上陸したのだよね?
すると海上には300隻の空船(大船)が浮かんでいた。後から壱岐に到着した日本水軍は
なぜ、この空船を乗っ取りと焼き討ちで全滅させなかったのか?
船団を全滅させれば上陸した元軍はほっとけば自滅するから、わざわざ上陸して戦う必要が
ない。なぜ日本水軍はこの戦法を取らなかったのか?
2)元軍が壱岐を撤退したのは、君の考える時系列では21日か22日の夕方〜夜だろう。
元軍が博多を撤退したときには日本水軍は20日当日に博多を発向したのだから、当然
壱岐でもその日のうちに出発して元軍の船団を追撃したはずだよね。
すると日本水軍もまた暴風に遭遇したはずだが、こちらは大丈夫だったのか?
甲板のない和船が、元軍の大船よりも暴風に対して強いのか?
>>382 1)海上に300隻の空船を残して全軍が上陸するということは無いだろ。
弘安の役で志賀島に上陸した元軍に対して日本軍は海陸から攻撃してるけど、
あっさり船団が全滅したりはしていないし。
当然それ相応の戦闘力は残してるはず。
それに、日本側は壹岐の状況も気になる。
上陸して残存兵力がいれば合流して戦うという選択肢もあるからね。
2)壱岐でもその日のうちに出発して元軍の船団を追撃したはず、ではない。
元軍は夜間に悪天候の中を壱岐から出発してるけど、日本水軍はそもそも
その状況下で出発できなかったということも当然あり得るわけで。
384 :
名無し三等兵:2013/10/23(水) 15:45:48.75 ID:CjH8fOjf
>>383 >海上に300隻の空船を残して全軍が上陸するということは無いだろ。
>当然それ相応の戦闘力は残してるはず。
なるほど、それはあり得るな。
しかし、それならば自然と、元軍船団vs日本水軍の戦いになるのではないか?
弘安の役の壱岐の戦いだってその形だった。
もともと陸上に日本軍がいる志賀島の戦いと比較してはいけない。
>>上陸して残存兵力がいれば合流して戦うという選択肢もあるからね。
なるほど、それが日本軍が上陸した理由か。
しかし日本軍は壱岐守備隊全滅の報告をすでに受けていたのでなかったか?
>元軍は夜間に悪天候の中を壱岐から出発してるけど
悪天候なら元軍だってそもそも出航してないだろう。出航した後に天候が急変した
と考えるのじゃないのか?
ともかく君によれば日本水軍は当夜は出発しなかった。情報遅れの要因が一つできたな。
覚えておくよ。
>>380 >日本軍が九州沿岸及び制海権を掌握していたなら問題ないだろ。
目の前の空船、あるいは部分戦力の船団を暖かく見逃してやる。
出発する全軍の船団も暖かく見逃してやる。
それで「制海権」とはよく言ったものだな。
困ったな、これじゃレスが付けられねえ
パフォの味方はしたくないが、かといって壱岐決戦説なんて馬鹿話を支持するわけにもいかんし・・・
>>385 壱岐で決戦があったとか誰も言ってないけど?
九州本土に続いて追撃戦もしくは掃討戦が存在したその記述だと言ってるのでしょ
もちろん前スレでは疑義も呈されてたけど、「あり得ねえ通説知っとけよw」みたいな短絡反応はなかったね
(その「通説」とやらが前スレまでで徹底批判されたんでしょうに。
それに軍議の描写と史実の間に齟齬が生じるなり、経過が不自然になるから支持されたのに)
史料の記述の誇張を前提とせず、史料間の従来解釈の齟齬を合理化できる解釈として充分に成り立つ
>>384 守備隊が全滅したら報告は伝わらないよ。
九州に伝わっていたのは対馬や壱岐が元軍と交戦した報告。
元艦隊が退散したことを日本側が把握してる以上、九州近海は何の危険もなく
日本船が自由に航行できる海域だろ。
「日本軍が制海権を掌握」は何の誇張もなくそのものズバリの状況じゃん。
11月6日に京都へ元艦隊の撤退と帰路の遭難が伝わってる以上、逆算すれば
10月24日以前に日本側が壱岐の支配権も奪還していたとするのは自然。
389 :
名無し三等兵:2013/10/24(木) 11:15:43.72 ID:/qs3Waz6
>>388 >守備隊が全滅したら報告は伝わらないよ。
>九州に伝わっていたのは対馬や壱岐が元軍と交戦した報告。
守将の平隆景は自決の前に下人の宗三郎に命じて壱岐を脱出させ、博多に報告させた。
これによって壱岐全滅の事情が伝わった。勉強家の君がこのことを知らないはずがないな。
>元艦隊が退散したことを日本側が把握してる以上、九州近海は何の危険もなく
>日本船が自由に航行できる海域だろ。
>「日本軍が制海権を掌握」は何の誇張もなくそのものズバリの状況じゃん。
敵がいなくなったら制海権が戻るのは当たり前、犬が西向きゃのレベルだが、
自由に航行できたからと言って10月24日にあの報告書を届けるのは不可能。
そのことはまた後で書く。
>11月6日に京都へ元艦隊の撤退と帰路の遭難が伝わってる以上、逆算すれば
>10月24日以前に日本側が壱岐の支配権も奪還していたとするのは自然。
11月6日に京都に伝わったのは「20日に博多で合戦、敵船一隻押収、元軍撤退」まで。
元軍の遭難は伝わってない。
全滅って、一人残らず抹殺されたって意味か
391 :
名無し三等兵:2013/10/24(木) 13:31:25.83 ID:/qs3Waz6
>>390 抹殺されたんじゃなくて、最後は全員自殺ね。
これは戦闘員の話。住民は隠れおおせた人は生き残った。
>>389 帝王編年記は「云々」って書いてるだろ。
つまり、省略されてる情報があるんだよ。
11月6日に元艦隊が遭難したことや残った艦隊が高麗へ向かったことが京都へ
報告されていたってのは、勘仲記からわかる。
「十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、
少々船又馳上陸上」
つまり日本側には博多湾を発った後の元艦隊の情報が逐一入っていたわけだ。
393 :
PC:2013/10/24(木) 14:50:15.69 ID:/qs3Waz6
>>388 ところで、上にも書いたが、弘安の役の壱岐戦闘は絶好のモデルを提供している。
弘安の役で元軍は、志賀島で敗れたあと壱岐にたてこもった。恐らく元軍は一部の兵を陸上に
配置し、一部の兵を船に残して海上防衛に当たらせただろう。まさに君が
>>383で想定する状況だ。
それに対して日本軍は十分に準備を整えた上で攻め懸かった。文永の役で君が想定するように、
激しい陸上戦が終わった後の20日当夜の出発などというあわただしいものではなかった。
また他に戦闘は行われていなかったから、日本軍は全力を壱岐に集中することができた。
文永の役で陸上戦闘が行われて元軍を撤退させていたのなら、弘安の役でも陸上戦闘があって、
元軍を追い落としていたとしても不思議ではない。
このように条件が揃っているのに、弘安の役の壱岐戦ではなぜ陸上戦闘がなかったのか?
君はこれを説明しなければならないね。
394 :
PC:2013/10/24(木) 15:11:31.32 ID:/qs3Waz6
>>392 「而俄逆風吹來吹帰本國」は元軍の撤退をそのように表現したに過ぎない。
南風は吹いたかも知れないが、「吹き帰す」だから「帰った、撤退した」というだけで
本格的遭難のことは言っていない。
「少々船馳上陸上」は座礁の意味だ。後に捕虜五十人の話があるから、例の志賀島座礁船の
ことだとわかる。
結局は同じ情報だよ。「元軍は去った」という安堵の第一報だ。
>>394 海上で逆風に遇ったと書いてるんだから「帰った、撤退した」というだけでなく
本格的遭難としか考えられない。
それに、例の志賀島拿捕船は1艘だろ。
「少々船馳上陸上」はあきらかに複数形じゃん。
海上の逃れた後の元艦隊の動向を日本軍が追っていたことはこれで明白。
元艦隊がただ博多湾を発っただけじゃなく、海難で大損害を受けた挙句
本国に向かってることが確定してるからこその「元軍は去った」という
安堵の第一報なんだよ。
396 :
PC:2013/10/24(木) 20:13:54.79 ID:avWxrkjI
>>395 >海上で逆風に遇ったと書いてるんだから
「海上で逆風に遭った」とはどこにも書いてない。「海上」は前のセンテンスで「浮かぶ」にかかる。
「凶賊船数万艘海上に浮かぶ」だ。元の船団が博多湾に現れた事をこのように言ったのだ。
それでこそ次の「しかるに俄に逆風吹き来たり(賊船を)本国へ吹き帰す」につながる。
>それに、例の志賀島拿捕船は1艘だろ。 「少々船馳上陸上」はあきらかに複数形じゃん。
「少々」は非常に少ないと言う意味だから1艘でも複数でもいいのだ。
それにこの記録は「或人曰」だから明らかに伝聞だ。じぶんで報告書を見たわけではない。
拿捕船の話を聞いたけれども数は不確かだから「少々」と書いたのだ。後で捕虜の件も出て来る
ことで他の記録と同じ志賀島拿捕船の話なのは明らか。
ということで、船団遭難のことはこの記録には入っていない。
あと、
>>393への答えをよろしくね。
君の想定とほとんど同じケースの、弘安の役壱岐戦で、日本軍はなぜ上陸して戦わなかったのか?
>>387 誰も「あり得ねえ通説知っとけよw」なんて話はしとらんのだが ?
通説に批判的な点では俺も人後に落ちないつもりだが、通説に対する異説であれば何でも通るわけじゃあるまい。
壱岐決戦説など大宰府決戦説があり得ないのと同様にあり得ない。
有ったことを裏付ける資料が一切ないからな。
「史料の記述の誇張を前提とせず、史料間の従来解釈の齟齬を合理化」するためだけに無理に無理を重ねた奇説だ。
>それに軍議の描写と史実の間に齟齬が生じるなり、経過が不自然になるから支持されたのに
軍議の場が北九州であれば、むしろその方が史実と無理なく符合するぞ。
そりゃこの異説を支持してる奴もいるだろうが、支持しなくても議論の成り行き上パフォの味方をしたくないのでこのネタ
については傍観を決め込んでた連中も大勢いただろう。
俺もその一人だが。
>>397 だから壱岐で決戦があったとか誰も主張してない。
誰も主張してない以上、裏付ける資料も何もないだろ。
軍議の場が壱岐だってことは、史実やその他の資料と完璧に符号してるんだから
認めるしかないだろ。
久しぶりに来たら凄い事になってるな
読むべきレスって有る?
ない
>>396 海上に浮かぶ凶賊船数万艘が逆風に遇ったと書いてるんだから 、
「海上で逆風に遭った」そのものじゃん。
で、「俄に逆風吹き来たり」はあきらかに気象現象だろ。
あと、帝王編年記には志賀島拿捕船が1艘と明記してあるわけで、1艘のことを
「少々」などと表現しない。
志賀島拿捕船とは別に話であることも明らか。
更に國分寺文書に記された元艦隊遭難の表現とも酷似してる。
勘仲記11月6日条が元艦隊遭難の記述であることは疑いようがない。
実際にこれまでも勘仲記は元艦隊遭難の記録として扱われてきたろ。
日本軍が博多湾出港後の元艦隊の動向を完璧に把握していた動かぬ証拠だ。
>>393 弘安の役の壱岐戦では陸上戦闘がなかったという設定がおかしい。
wikiは『弘安四年日記抄』七月十二日条の「異國賊船等退散」を根拠に
日本軍が壱岐から元軍を追い落としていたとしてるよ。
403 :
PC:2013/10/25(金) 20:09:58.93 ID:Lrb8ogrV
>>401 結局、11月6日の伝聞の内容が「博多合戦・元軍撤退」の情報か、それとも「元艦隊遭難」の情報か
ということだが、百歩譲って「元艦隊遭難」の情報だとしても、なぜそれが「20日壱岐追撃戦」の
証拠になるのかがさっぱりわからない。
元艦隊が壱岐で遭難したのなら、壱岐と本土との距離は近いのだから、鷹島や松浦半島あたりでは
2、3日中に漂着物などから大量遭難の徴候が明らかになったはずだ。それを太宰府が10月26日まで
に確認して飛脚を立てたならば、11月6日には京都に着く。
服部秀雄氏によれば博多→京都の飛脚の所用日数は10日と推定されているからだ。
11月6日の「元艦隊遭難」情報を説明するのに壱岐追撃戦はまったく必要ない。
逆に言えば11月6日の「元艦隊遭難」情報は壱岐追撃戦の証拠にはなり得ない。
404 :
PC:2013/10/25(金) 20:46:51.78 ID:Lrb8ogrV
>>402 >wikiは『弘安四年日記抄』七月十二日条の「異國賊船等退散」を根拠に
>日本軍が壱岐から元軍を追い落としていたとしてるよ。
wikiはそんなことは言ってないが、ただwikiは竜造寺勢が7月2日に瀬戸浦に「上陸を開始した」と言って
いる。それなら陸戦があったことになるが、これは他の資料には無く、根拠不明である。
長崎県壱岐支庁発行の「壱岐島勢要覧」は
「6月29日から7月2日にかけて、肥前・肥後・筑前・薩摩の御家人は、壱岐の瀬戸浦で元軍の大船団にゲリラ的な
攻撃を行った。」と言っている。つまり海戦のみだったとしている。
>>382 忙しくて返信ができなくすまなかった。
>>「又」の字を無視している。ユキノセの話が又で始まり、次に「総の・・」の話が
又で始まるのは、それぞれが独立した事柄であることを示している
「又」は独立した事柄であることを示しているのはまったくその通りだよ。
ユキノセの話が「又」で始まり蒙古兵の戦死者について触れ、再び「又」で蒙古兵の死者とは
別の生捕二十七人について触れ、最後の「又」で蒙古兵のことと別の事柄である日本人の戦死者
について触れている。よって、「又」が使われていようがユキノセで戦闘があった否定の根拠
になりえない。
>後はいちいち「総」をつけるのは省いたのだ。
こころみに全部「総」をつけてみよ。うるさくて読みにくい。
君は「又」で別のトピックに移ったと言ったではないか?
日本側の損害について述べる前に「又」がついているのだから
前文の「総」と日本側の損害は対応したものではない。
まったく別の事柄だよ。
>ユキノセの150体が飛び抜けていたから代表してこれだけをメモしたと考えればよい。
わかっていないな。
「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、
ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也」
と「ユキノセ」の出来事に触れる前に膨大な蒙古側の損害に触れているのだから
「ユキノセの蒙古兵の死体150体が突出して多い」わけがない。
むしろ、確認された打ち上げられた船の数が170艘で、そのうち蒙古軍船の構成の3分の1が大型戦艦の千料船で
あったことを考慮して、打ち上げられた170艘のうちの3分の1である約55艘が仮に千料船だったとすれば
一艘あたり300人近く乗ることが可能であった千料船にとって「ユキノセの蒙古兵死体150体が突出して多い」
わけがないのは誰でもわかることだ。
やはり、暴風雨を免れた蒙古兵がユキノセに上陸してここで戦死したとしか読み解けないね。
>その「蒙古兵」なるものを考えて見れば、彼らは船が難破して陸に上がって以来、20日間も飢 疲れていたのだ。
そもそもの前提が君の妄想にしかすぎない。
彼らが陸に20日いたとは何を根拠にしているのだ?千料船1艘あたりには食糧も武器も積まれていたのだ。
暴風雨で本隊とはぐれ、彷徨っていた蒙古船は食糧が尽きかけていたため、略奪を目的に「ユキノセ」に
上陸したために起こった戦闘と考えれば君の疑問はすべて解決する。
>「多くの武器を棄て、残りも使用に耐えない」と高麗記にあるくらいだから、ろくに揃っていなかった
それは打ち上げられた蒙古船の話だ。
海上で暴風雨を耐えた蒙古船には当てはまらない。
>よれよれの敗残兵相手に一度に195人も大安売りしていいのか?
重要なことに気付いた。『安国論私抄』は「日本人が195人」と言っているだけだ。
「武士」だとは言っていない。武士も島民もすべて日本人であることに変わりはない。
君はこの資料がなぜ「日本人」と記載しているのかを考える必要がある。
略奪を受け殺された島民とそれを殲滅した武士の総数が195人だったのだ。
「下郎」とは195人のうちに含まれていた存在であり殲滅した武士のことか島民のいずれか
断定できないがどちらにしろ、 蒙古軍を撃退して20日後にこれほどの島民が殺された。
注目し記載すべき事件ではないか。
>>403 >元艦隊が壱岐で遭難したのなら、壱岐と本土との距離は近いのだから、鷹島や松浦半島あたりでは
>2、3日中に漂着物などから大量遭難の徴候が明らかになったはずだ。それを太宰府が10月26日まで
>に確認して飛脚を立てたならば、11月6日には京都に着く。
それじゃあ元艦隊が本国に向かったか不明じゃん。
安国論私抄に10月24日付で詳細な座礁船の報告があるんだから、それが
11月6日に京へ伝えられたとすればいいだけのこと。
410 :
PC:2013/10/26(土) 11:09:34.43 ID:GOvyNIcT
>>409 >それじゃあ元艦隊が本国に向かったか不明じゃん。
行く先しか問題がないのなら、君は
>>403で私が示した時系列が成り立つことを
認めたわけだ。
行く先が知れない問題は、君の想定でも日本水軍は嵐の夜出航しなかったのだから
同じだし。
10月24日付け報告書は、単に「こっちのルートもあるよ」というだけで、上記を
否定するものではない。これで11月6日付け伝聞が壱岐追撃戦の根拠にはならない
ことが確定した。
そこで10月24日付け報告書の問題に移るが、まず君は「10月24日に聞ふる定」と
いうのは何処で「聞ふる」つまり話を聞いた、あるいは報告書を見たと考えるの?
念を押せば、上記の私の質問の核心は「何処で」にある。
場所で答えてね。
411 :
PC:2013/10/26(土) 13:51:53.35 ID:GOvyNIcT
>>410 「場所」というと語弊があるかもしれない。
「地名」で答えてね。
412 :
PC:2013/10/26(土) 20:55:19.21 ID:ti8Hn2J8
>>407 >暴風雨で本隊とはぐれ、彷徨っていた蒙古船は食糧が尽きかけていたため、
1隻の船が漂流したと考えるわけか。その場合はいいモデルがある。志賀島の拿捕船だ。
志賀島の拿捕船の場合、20日どころかたった一晩座礁していただけだった。武器も食糧も揃っていたと考えられる。
それでも元兵は士気低下して、日本軍の姿を見ただけで戦わずに降伏した。君が想定する漂流船の場合もこれと同じ
ことが起こっただろうよ。もちろんその場合は日本側は一人も死なない。
>>408 >「下郎」とは195人のうちに含まれていた存在であり
曲芸的な読み方を考えても、かんじんの鎌倉時代の人がそのようには読まなかっただろうね。
ところで君は以前、鳥飼潟の戦いで死んだ武士はみつともの又次郎ただ一人だったと言ったことがあるが、
このような武士の損耗率から考えて、下郎すなわち下人郎党を除く武士の戦死者総数が195人というのは
多すぎると思うか? それとも少なすぎると思うか?
>>412 >1隻の船が漂流したと考えるわけか。その場合はいいモデルがある。志賀島の拿捕船だ。
志賀島の拿捕船の場合、20日どころかたった一晩座礁していただけだった。武器も食糧も揃っていたと考えられる。
まず、状況を考えてみよう。志賀島の場合は日本軍本隊の眼前での座礁船だ。
まずこの状況で日本軍と戦っても勝ち目はない。志賀島の場合は軍船が座礁しており
戦うか降伏するかの二択しかなく逃げることも不可能だったわけだ。
対して「ユキノセ」の状況を考えてみよう。「ユキノセ」の場合は本戦から二十日も経ち日本軍本隊がユキノセに
張り付いていたとは状況から考え難い。蒙古軍は難なく島民を襲撃できたはずだ。
しかし、急報を聞き駆けつけてきた日本軍との戦闘では「ユキノセの蒙古軍」は自らの判断で接岸したのであり
ここは戦ってでも逃げ延びようとしても何らおかしくない。玉砕するかもしくは降伏するかの他に「ユキノセの蒙古軍」には
第三の「追撃戦を受けながらも逃げる」という選択肢があったのだ。まったく状況が違う以上、志賀島の場合がいいモデルとは
言い難いね。
>このような武士の損耗率から考えて、下郎すなわち下人郎党を除く武士の戦死者総数が195人というのは
多すぎると思うか?
まず君の前提が間違っていることは既に述べたとおりだ。『安国論私抄』は「武士が195人戦死した」など一言も言っていない。
「『日本人』が195人死んだ」と言っているのだ。当然、御家人も郎党も島民もすべて『日本人』だ。
まず、君の妄想が成り立つためには「鎌倉時代において御家人階級以上のみが『日本人』として認識されていた」とする前提を
証明しなければならない。まずは御家人階級以上のみが「日本人」として認識されていたとするソースをよろしくね。
>ところで君は以前、鳥飼潟の戦いで死んだ武士はみつともの又次郎ただ一人だったと言ったことがあるが、
はて?いつ俺が「光友又二郎のみが鳥飼潟で戦死した」などありもしないしないことを言ったかな?
「鳥飼潟で戦死が確認できる唯一の人物が光友又二郎のみ」とは言ったことがあるがね。
415 :
PC:2013/10/26(土) 22:38:17.22 ID:GOvyNIcT
>>414 私は安国論私抄のなかの「日本人」とは何かなどと聞いていない。その議論はまた別だ。
私は単に195人という人数が武士の戦死者総数として多すぎるか少なすぎるかと聞いたのだ。
つまり文永の役における武士の戦死者総数に関する君の概念を聞いているのだ。
答えたくなければ答えなくてもいいよ。
君にもいろいろ事情があるだろうからね。
416 :
名無し三等兵:2013/10/26(土) 23:39:11.58 ID:ksfpvi5w
まあ俺が何と言っても許せないのは、東芝の携帯の変換予測が倭寇は出てくるのに原稿は出てこない事よ
安重根は出てくるのに伊藤ヒロ文が出て来ない
これどう思うよ?
417 :
PC:2013/10/27(日) 13:30:12.01 ID:l+g7SAqG
>>414 君は「195人は文永の役の武士(下人郎党を除く)の戦死者総数として多いか少ないか」
という私の質問に答えないな。
答えないのはこの数字が妥当な範囲にあると考えるからだろう。私もその見方に賛成だ。
ところで「195人は島民と武士の戦死者の合計。下郎も195人に含まれる」という君の
主張はどう考えても無理だ。というか矛盾を含んでいる。
なぜなら下郎の死者の数は「数えられない、数えてない」からこそ「その数を知らず」なのに、
195人のうちに含まれるなら一度数えたことになるからだ。
やっぱり下郎は195人に含まれてないよ。
であれば195人は下郎と区別される、下郎ではない人の死者の数だ。
そういう人とはどんな人かな?
>>417 >答えないのはこの数字が妥当な範囲にあると考えるからだろう。私もその見方に賛成だ。
答えないのは今君のレスを確認したからだ。君みたいに四六時中ここに張り付いているわけではないのでね。
残念だね。全く不同意だよ。まず、君は195人は「日本側の総損害」だとしているが、対馬や壱岐、博多において受けた
日本側の損害がたった195人だったと本気で信じているのかな?
君の卑怯な点は日本側の総損害が195人としておきながら、なぜか博多の戦闘のみしか念頭にない点だ。
君は『安国論私抄』の日本側の死者数を総損害としていながら、都合のいい解釈で対馬と壱岐を無視している。
まさにダブルスタンダードだね。
>なぜなら下郎の死者の数は「数えられない、数えてない」からこそ「その数を知らず」なのに、
195人のうちに含まれるなら一度数えたことになるからだ。
残念だね。毎度ながら前提が間違っている。「数えられない、数えてない」から
「その数を知らず」ではないのだ。
まず、『安国論私抄』の史料としての性格を考えてみよう。
『安国論私抄』は鎌倉時代の史料を室町時代の日朝が参考にして書かれた史料である。
つまり、参考にした鎌倉時代の史料に「日本人が195人死んだ」と書いてあったが
その195人のうちの下郎の死者数は室町時代の日朝には知る術もなく「その数を知らず」
なのだ。よって、君の疑問はこれで解決したね。
419 :
PC:2013/10/28(月) 14:42:22.63 ID:R00hgQVD
>>418 >195人は「日本側の総損害」だとしているが、対馬や壱岐、博多において受けた日本側の損害が
>たった195人だったと本気で信じているのかな?
私は
>>412で「下人郎党を除く武士の戦死者総数が195人では多すぎるか、少なすぎるか」と質問し、
君はそれを
>>414で引用している。だから君は質問を十分理解しているはずだ。
それにもかかわらず
>>418では「195人は「日本側の総損害」だとしているが」と、あたかも195人が
下人郎党を含む戦死者総数であるかのように印象操作している。
こんなストローマンをしなければならない、なにかの事情があるのかな?
>博多の戦闘のみしか念頭にない点だ。
>都合のいい解釈で対馬と壱岐を無視している。
対馬壱岐でそれぞれ100人、合わせて200人で195人をすでに超える、と言いたいのだろうが、
それは上記の事情と関係する。それを説明しよう。
まず軍勢の中で御家人クラス(御家人+係累)の割合はどのくらいか分からないが、仮に20%と
仮定しよう。すると対馬壱岐、松浦党、博多の御家人の戦死者数は次のように推定される。
(松浦党は「数百人」討たれたと言われるが誇張もあると思うので割り引いて300人とする。)
対馬壱岐 御家人クラス40人 下人郎党160人 計200人
松浦党 御家人クラス60人 下人郎党240人 計300人
博多 御家人クラス100人 下人郎党400人 計500人
合計 御家人クラス200人 下人郎党800人 総計1000人
博多は御家人クラスの合計を195人に近い200人にするための数合わせだ。
数合わせではあるが、戦死者総数を考える上でのたたき台の意味はあるだろう。
また、御家人クラスと下人郎党の戦死の確率を同じと見るのにも問題があるにはある。
さて、改めて聞こう。このような戦死者推定は妥当と思うか?
>>410 10月24日付け報告書は、単に「こっちのルートもあるよ」というだけじゃないだろ。
他に史料的裏付けのあるルートなんて存在しない訳で、それが唯一のルートだよ。
で、報告受けた場所は恐らく大宰府だろ。
>>419 >あたかも195人が下人郎党を含む戦死者総数であるかのように印象操作している。
くだらない言葉遊びはもういいのだよ。君はいつも反論できなくなると
言葉遊びに逃げるくせがある。
印象操作も何も鎌倉時代に御家人クラスのみが『日本人』として認識されていた
とするソースを
>>414で求めたわけだが、君がそのソースを出してしまえば終いの
話だ。議論をするうえで「自分の脳内で何となく日本側の損害として妥当
だと思うことがソース。君も妥当と思うでしょ?」では議論にならないのだ。
>まず軍勢の中で御家人クラス(御家人+係累)の割合はどのくらいか分からないが、仮に20%と
仮定しよう。
なるほど。都合の良い仮定から入るから話がかみ合わなくなるのだな。
まずこうしよう。日本側の郎党が80パーセントであったとするソースと
御家人が対馬壱岐御家人クラス40人、松浦党御家人クラス60人、博多 御家人クラス100人 下人郎党400人 計500人
合計 御家人クラス200人というソースを求めよう。都合の良い前提で
意味も無い『安国論私抄』との無理やりの数合わせ遊びなど時間の無駄だ。
ちなみに『八幡愚童訓』に記載されているように壱岐や対馬で180騎が全滅した
ことを考慮し、松浦党の損害を足せばすでに200騎の御家人が戦死したこと
になる。博多を抜きにしても、すでに『安国論私抄』の「195人」を超えて
しまうのだ。
このように『安国論私抄』が「日本人」と記載している時点で御家人の損害のみを
取り上げていないことは明らかだ。
さらに「又」で事柄が変わっているにもかかわらず、「日本人が195人死んだ」
という文の前に「総」の文字が無いことでも、この「195人」が戦役全体のことを
記載していないことは明らかである。
あ、それと個人的な話だが今週は取り組まなくてはならない仕事があるので、
返信がなかなかできないので悪しからず。
>>417のように勝手にどんどん
都合の良いように一人で話を進められると鬱陶しいのでね。
423 :
PC:2013/10/28(月) 21:32:55.77 ID:lC812vVg
>>422 >ちなみに『八幡愚童訓』に記載されているように壱岐や対馬で180騎が全滅したことを考慮し、松浦党の損害を
>足せばすでに200騎の御家人が戦死したことになる。
では君の真似をしてソースを要求しよう。
1)壱岐・対馬で全滅した180騎が100%御家人であったとするソース。
2)松浦党で戦死した御家人が20人であったとするソース。(註:200-180=20)
よろしくね。
ところで君は「騎」で数えられれば全て御家人だったと考えるのかも知れないが、郎党も馬に乗る。
たとえば竹崎季長の勢は5騎と自称しているが、そのなかで御家人は2騎のみで、残りの3騎は若者すなわち
郎党である。郎党は普通、御家人と血縁のない下郎である。ここですでに御家人は40%だ。
他に絵詞の絵には描かれてない下人がいるはずだから%はこれより下がる。
私が仮定した御家人20%に異論があるなら君の考える%を提示すればいいのだよ。
「たたき台」の効用はここにある。
『八幡愚童訓』を根拠に戦死者の数計算しても意味ないと思うけどね。
例えば菊池勢100余騎は武房だけを残して全滅したことになってるけど、
『蒙古襲来絵詞』では竹崎季長に戦闘の後で手勢100余騎を率いた菊池武房が
目撃されてるし。
それだけで既に戦死者の数に100余騎の差が出てしまう。
『蒙古襲来絵詞』によれば文永の役で恩賞を賜ったのは約120人で、討死は
恩賞の対象だから、御家人の戦死者数は120人が上限ってことになる。
425 :
PC:2013/10/29(火) 09:14:03.42 ID:E/tVkhk6
>>424 >討死は恩賞の対象だから、御家人の戦死者数は120人が上限ってことになる。
松浦党は御家人の戦死が多かったが例外を除き恩賞を貰えなかったのでは?
その理由は松浦党が私領を守って死んだからだとも言われている。
426 :
PC:2013/10/29(火) 09:20:05.57 ID:E/tVkhk6
>>422 お仕事ご苦労さんだが、私も明日から4,5日の間那須へ行くことにしている。
あ、仕事ではなく別荘でのんびりするだけだよ。
その間に君のお待ちかね「日本人論」を書いて見ようかと思っている。
したがって君のいない間に「勝手にどんどん」話を進めることになるが悪しからず。
427 :
PC:2013/10/29(火) 13:59:16.99 ID:E/tVkhk6
>>420 >で、報告受けた場所は恐らく大宰府だろ。
なるほど、京都や鎌倉は無理と見て太宰府にしたか。太宰府は報告書を出す側であって受ける側
ではないんだけどな。
まあいい。太宰府としても不可能だ。その理由は報告書が対馬の情報を含んでいるからだ。
まず壱岐で戦闘があったのが最も早いケースで21日。君によれば日本軍はその晩壱岐に留まった
のだから捜索は22日朝からだ。
壱岐から対馬までは直線距離で約70km。手漕ぎ和船の速度を6ノット、約10km/hとして7時間、
日の短い冬では一日行程だ。対馬に着くのが22日夕方、捜索は23日朝からだ。
この段階で捜索隊を出すからには目的は残敵掃討、そのためには対馬を一周して捜索しなければ
ならぬ。ところが対馬は広い。一周するだけで170km、2日行程だ。しかも入り江が多いから
いちいち入り江の奥まで捜索すると3日はかかるだろう。終わるのが25日だ。
翌日対馬から壱岐に帰り着くのがまた一日行程、これで26日だ。翌日博多までがまた約80km、
一日行程だから博多着が27日。24日はとうに過ぎている。しかもこれは全て順調に進んだ場合で、
海が荒れたり風が吹けばたちまち待ち時間が生じる。
10月24日太宰府報告が物理的に不可能であることがわかるだろう。やはりこれはウィキが見る
とおり、11月24日の誤記なのだ。
最精鋭の大軍を引き連れて九州すら落とせなかった元軍www
本当に当時世界最強なんですかねぇ・・・
>>428 イメージとは逆で野戦では結構負けてる
かわりに城塞都市攻めが異常なぐらい上手
だからいつものバーバリアンが攻めてきたと思って
城壁の中に立てこもるとことごとくやられる
モンゴルと他のバーバリアンって攻城戦の方法が違うの?
431 :
813:2013/10/29(火) 22:57:03.87 ID:???
『蒙古襲来絵詞』に登場する和船について。
竹崎季長が乗っている船は、[舟帶](ひらた)という種類です。
草野次郎、大矢野十郎、秋月九郎の船も同じです。
以下、『図説 和船史話』(至誠堂,石井謙治,図説日本海事史話叢書)より
「ひらたというのは元来、川船で乾舷が小さく、海での使用は静穏な海況のときに限られていた。
こんな船で鷹島の掃討戦に出かけられたとしたら、五日の海況が絵巻に描かれているように
ベタナギだったからであろう」(p.30)
「すでにみてきたように、『蒙古襲来絵詞』の兵船はいずれも平時の輸送船などに武士が乗っている
だけで、後世のような軍船独特の艤装は何一つほどこされていない。
わずかに(1)の[舟帶]が楯を舷側に並べているのが目につく程度であるが、これとても陸戦用の楯を船に
持ち込んだものでしかない」(p.35)
(つづく)
432 :
813:2013/10/29(火) 22:58:19.49 ID:???
少弐経資、島津久親の船は、
「平時は荘園年貢などを輸送している内航用の荷船でしかなく、とくに軍船として
作られたものではないのである。それは、どこにも軍船らしい艤装がないのでも明らかであるが、
同様の形式の輸送船は、鎌倉時代の『北野天神縁起』諸本や『一遍聖絵』をはじめ多くの絵巻に描かれているので、
疑問の余地はない」(p.33)
(つづく)
433 :
813:2013/10/29(火) 23:01:02.39 ID:???
弘安の役については、(p.36)
「こうした軍船ならざる船で、元軍にまともに向かっても勝てるはずはない」
「もちろん、堂々たる海上決戦が挑めないことは最初から分かっていたことで、だからこそ水際での迎撃を想定して
防塁を築いたのであろうし、それが当然の戦術的措置であった」
「したがって、『蒙古襲来絵詞』のように、兵船が勢いよく繰り出していくのは、大風で壊滅状態におちいり、
鷹島に集結して帰国しようとする残敵の掃討戦であったからにほかならない。
大風による元軍の大損害にくらべて、日本軍の被害が伝えられず、かえって掃討戦に出撃しているのは、
風波が荒くなると船はいち早く陸上に引きあげていたからで、これが日本では荒天時の対策であったし、
大宰少弐や島津の兵船のような最大級の船でも同様に処置されるのが慣行だったのである」
以上。
>>433 弘安の役では志賀島に取り付いた元艦隊に堂々たる海上決戦挑んで圧勝してる。
蒙古襲来絵詞に描かれた大宰少弐や島津の兵船は志賀島に向かう日本艦隊ね。
当時の海戦における強弱を決めるのは船の性能じゃなく乗船してる兵の戦闘力だから。
>>425 文永の役では松浦党に対して何の問題もなく恩賞が与えられてる。
山代氏とか佐志氏とかね。
問題になったのは弘安の役で、松浦党20人の代表が鎌倉まで直訴してる。
山代が対馬で戦死したように文永の役は私領を守る戦いじゃないからな。
「勝てるはずはない」とか全部そのオッサンの当て推量だもんなあ
437 :
名無し三等兵:2013/10/30(水) 09:50:38.74 ID:N7Olrqda
兵站や補給を考えたら、蒙古軍の日本占領など無理。
>>437 食料の生産性が高く集落が城壁で守られていない日本では現地調達やり放題だろ
兵站や補給の面だと日本占領って実は容易なはずなんだけど
>>437 近現代の戦争観で13世紀の兵站を語る軍オタwww
まだ現地調達と略奪の時代だよww
元軍弱すぎて占領は無理だな
>>428 穀物生産量が多く人口密度も高い地域では苦戦してる
南宋滅ぼすのに10年以上掛かってるしヨーロッパ・エジプトでも挫折
中東のオアシス国家や極寒のロシアなど殆んど人がいない地域なら簡単だったろう
>>441 南宋は当時の世界で最も高度に城郭化された国家じゃん。
エジプトには侵攻してないし、当時の東ヨーロッパなんて極貧地域だぞ。
>>427 10月22日朝に元の難破船が対馬に漂着し、対馬からその報告が大宰府に届くとすれば
10月24日って物凄く妥当な日じゃん。
ますます10月24日という日付けの信憑性が高くなっちゃったな。
鎌倉時代の城事情ってどんなだっけ?
戦国時代には小さな山城が支城ネットワークを作って敵軍に兵力分散を強いまくったり
してたけども
>>430 モンゴル高原時代は他と似たようなものだったけど
金攻略からは技術者雇いまくっていろいろな攻城兵器を装備した
446 :
名無し三等兵:2013/10/31(木) 01:18:25.79 ID:mh4mXYdJ
食料の現地調達ほど難しいものはない。
別にそんな事は無いと思うがな
その辺の集落を占領して徴発なり略奪なりするだけでしょ
どこでもやってたよ
まあそんな事やってるから軍隊が回り道しまくる事にもなる訳ですけどね
448 :
名無し三等兵:2013/11/02(土) 20:07:57.86 ID:bw5iusds
449 :
PC:2013/11/02(土) 22:38:17.57 ID:VVzJ4M9c
>>443 >10月22日朝に元の難破船が対馬に漂着し、対馬からその報告が大宰府に届くとすれば
10月24日って物凄く妥当な日じゃん。
君は状況を考えるということをしないのか。遠征軍の三分の二は帰還したのだよ。
大船にして200隻だ。22日朝はその大艦隊が対馬に到着した朝だ。
艦隊は入り江に停泊してその日を休養や修理にあて、一部は給水などのために上陸した
だろう。わずかに生き残った島民にしてみれば恐怖の再来だ。
その状況の中で、まだ1隻が遺棄されるかどうかもわからないうちに島民が早船を出すのか。
というか、そんな国家意識に燃えた島民がいたのか。日露戦争と間違えてないか?
モンゴル軍がロシアに出兵したときに、苦しんだのはその地域にある
河川などだった。
どんな大平原も越えて行ったモンゴル軍も、大河を越えるのは困難であり
結局、冬が到来して、河が凍りつくまでは侵攻が出来なかった。
この条件を日本に当てはめれば、起伏の多い島国である
日本侵攻は、上陸してからもけっこう苦しみそうだがね
日本の土地は滝のような流れの激しい川があり
狭い平地と山々があるのだから
日本の川は、急流だが幅が狭い物が多いので、渡河の苦労は
ロシアほどでは無いかも。
むしろ湿気が敵じゃないかな。モンゴルの弓は青草の上に置いてもいけないほど
湿気に弱い。秋が来て湿度が下がるのが戦争の季節なんて、日本では理解しがたい
天の時がある訳だ。
>>449 対馬からは弘安の役でも激戦の最中に宋船300余艘到着の報が届いてる。
文永の役でも同様だったというだけで特別なことじゃないよ。
453 :
PC:2013/11/03(日) 09:49:29.41 ID:kSIKmg8r
>>452 それはまだ防衛軍が存在して戦っている時の話ではないか。
戦っているかたわら、敵の目を逃れて報告の早船を出したのだ。
もちろん屈強な漕ぎ手をつけてね。
10月22日朝対馬にいた、虐殺から辛うじて生き残った僅かな人数の島民と同列に
比較してはいけない。
それに、大艦隊の停泊を認めたのなら、そのなかの1隻が遺棄されて「漂着船」と
なることは22日朝の時点ではまだわかっていないではないか。
それだけで時系列は崩れている。
454 :
PC:2013/11/03(日) 13:28:49.20 ID:kSIKmg8r
>>450 >どんな大平原も越えて行ったモンゴル軍も、大河を越えるのは困難であり
>結局、冬が到来して、河が凍りつくまでは侵攻が出来なかった。
モンゴルの遠征軍とロシア・遊牧民連合軍との間で戦われたカルカ河畔の戦いは
1223年5月31日に起こった。
もちろんカルカ川の氷は融けていた。
455 :
813:2013/11/03(日) 23:06:29.40 ID:???
>>434 ご指摘事項については『図説和船史話』で言及されていますが(p.30,36)、文字数の関係で省略。
『鎌倉時代の交通』(吉川弘文館,新城常三,1967)より。
通報の所要日数が弘安の役以降は改善されており、幕府が早馬制度を導入したのは、
この頃ではないかという話。
p.287
弘安役では、大体六〜七日くらいで博多からの通報が京著している。
これは先の文永の役の十二日・十一日ないし十六日等に比すれば、大きな進歩であろう。
このような行程日数の短縮は、文永役の経験にかえりみて、幕府が何らかの逓送制度を、この間
に設けるに至った結果ではあるまいか。
後述の如く、弘安役以後、山陽道には駅制の前駆的交通制度であるに早馬制度が存在するのであ
るが、その成立年代は明瞭でない。しかしながら早馬制度成立以後の京都・博多間の急使=早馬
が大体弘安役のそれとほぼ同様の速度をもって走行している事実から、文永役後・弘安役前に何
らかの逓送制度が打ち樹てられたのではないかと推測されるのである。
(引用者注:以下、平禅門の乱・正中の変における所要日数を例示している)
456 :
813:2013/11/03(日) 23:25:43.36 ID:???
山陽道にも早馬役が拡大されたのは、この時期ではないかということですね。
p.287
前述した如く、この後永仁元年(1293)四月二十二日の鎌倉における平頼綱の乱に、幕府の早馬
は五月三日に博多に到著した。この四月は小月であり、使者が事件の当日出立したと仮定しても、
その間十日にすぎない。しかるにこの使者は四月二十六日未明に京都に到著しているが、そのま
ま博多に向ったとして京都・博多間わずか六日にすぎない(『武雄神社文書』『都甲文書』『比志島文書』『来島文書』)。
また正中元年(1324)九月十九日京都に勃発した正中の変の報は、二十三日に幕府の耳に入って
いる。ここで当日付の関東御教書が発せられ、御家人の参集を求めたが、この早馬の博多到著が
十月五日亥剋である。九月は大月であるから、鎌倉・博多間十一〜二日となる(『延時文書』『大川文書』『都甲文書』)。
>>453 10月22日朝対馬にいたのも弘安の役で宋船300余艘到着の報を届けたのも
対馬島民で一緒だろ。
7年間しか経ってないんだし何も違いが無い。
あと、難破船が対馬に漂着したのと元艦隊が帰路対馬に停泊したのの間には
時差があると思うよ。
その後、対馬ではそれなりの規模の戦闘があったはずだし。
まだ実際に確認できてないから詳しくは書けないけと、対馬での掃討戦については
菊池軍記という史料が残されてるらしいじゃん。
458 :
PC:2013/11/04(月) 09:19:57.51 ID:10Sqp0MR
>>457 >難破船が対馬に漂着したのと元艦隊が帰路対馬に停泊したのの間には時差があると思うよ。
なるほど、難破船のほうが先に対馬に着いて、それを報告する島民の船が22日の朝に対馬を
出発し、その後に元艦隊が対馬に到着したというわけか。
航行手段を失った難破船が、潮流とは逆方向の対馬に、健全な船からなる艦隊より早く着ける
というわけだな?
そこまでの曲芸を考えないと君の時系列は成立しないということがよくわかったよ。
459 :
PC:2013/11/04(月) 09:31:49.22 ID:10Sqp0MR
>>457 >10月22日朝対馬にいたのも弘安の役で宋船300余艘到着の報を届けたのも対馬島民で一緒だろ。
前にも書いたが文永の役の壱岐防衛戦で博多へ報告したのは下人の宗三郎と名前が残っている。
下人と言っても島民ではないよ。れっきとした家来だ。
こんな大事な役目を、肝っ玉のすわってない島民などにまかせるものかね。
ちなみに島民のことをなんというか。それは「百姓」だ。日蓮宗の文書にもあるよね。
>>459 じゃあ難破船の対馬漂着を報告したのも家臣なんだろ
ただそれだけのこと
461 :
PC:2013/11/04(月) 12:51:37.73 ID:10Sqp0MR
>>460 >じゃあ難破船の対馬漂着を報告したのも家臣なんだろ
対馬の守備隊はすでに全滅しているし、君によれば壱岐の日本軍は21日夜は
壱岐に留まったのだから、10月22日朝の時点で対馬にはいかなる日本軍もいない。
日本軍がいなければ「家臣」も「下人」もいない。
困ったね。どうする?
>>461 対馬の守備隊が全滅してなかったから弘安の役でも対馬において高麗軍に
損害多発したんだろ。
文永の役の後で対馬に兵員が再配備された記録なんて無いわけで。
全滅ってひとり残らず討ち死にすることなんか?
もっと前段階でも全滅だとおもうが
困ったね。どうする?
>>463 八幡愚童訓に武房だけを残して100余騎が全滅って書かれてた菊池勢は
100余騎がほぼ無傷で残ってたよ。
だから対馬の守備隊が全滅したと書かれていても、大半が無事だった
可能性も当然あるわけで。
466 :
PC:2013/11/04(月) 16:35:19.44 ID:gPg+FrMm
>>463 >もっと前段階でも全滅だとおもうが
日露戦争〜太平洋戦争ごろならそうだね。30%ぐらい死んだらもう全滅と口走った。
だけど話は中世の武士の話だ。100人のなかから戦いに生き残った何十人かが主将以下自決すると
なったらやっぱり全員、下人に至るまで自決しただろうね。
>>462 >>465 >対馬の守備隊が全滅したと書かれていても、大半が無事だった可能性も当然ある
壱岐軍議説の可能性も、もうそこに賭けるしかなくなったということだな。
議論もそろそろ終わりにしよう。
467 :
PC:2013/11/04(月) 16:43:02.45 ID:gPg+FrMm
>>457 あ、ひとつ議論が残っていた。
>難破船が対馬に漂着したのと元艦隊が帰路対馬に停泊したのの間には時差があると思うよ
先に対馬に着いたという快速難破船と、後から到着したという元艦隊との間にはどのくらいの時差を
考えるの?
誰かここまでのまとめ頼む
469 :
PC:2013/11/05(火) 11:11:16.29 ID:AnTKpqxc
>>467 時間差についての返答がないので、こちらで勝手に想定させてもらうとしよう。
壱岐〜対馬の直線距離は約70km、これを10km/hの手漕ぎ船で7時間と、以前に想定した。
難破船がいかに快速であろうと、このなかでつけられる時間差は2時間がせいぜいであろう。
さて、対馬の生き残り日本兵は難破船を見た。彼らの第一反応は「続けて来る!」であろう。
彼らは難破船の背後の海上を見渡した。
水平線の見通し距離は5kmとされているが、これは波打ち際に立つ人が水面を見た場合のこと。
小高い場所から船の帆柱を見るとなれば10km、20kmはすぐ見える。
兵士たちは小高い山の監視所に駆け上がった。すると20kmのかなたに大船200隻の帆柱が見えた。
2時間遅れで対馬にやってくる元艦隊である。
兵士たちはすぐに知らせの小舟を出した。報告の内容はもちろん「蒙古が再び対馬に攻め寄せた」
である。この際難破船一艘など問題ではない。
かくして、壱岐軍議くんのすじがきに沿い、かつ対馬防衛軍の生き残りを認めたところで、
対馬から10月22日朝に送るべき報告は「対馬に難破船一艘」ではあり得ないのである。
これで10月24日付け報告書は崩れたな。やっぱり11月24日の誤記だよ。
>>451 元寇の一般兵は湿気に弱いタタール合成弓じゃなく
大陸系の竹と鯨の髭を張り合わせた半弓を持たせたらしい
>>466 自分に都合が悪くなったから議論を終わらそうとしても、そうはいかない。
宗氏は明治維新まで存続してるのに、文永の役で下人に至るまで全員が
自決したわけないじゃん。
「五月辛酉、忻都洪茶丘金方慶、日本世界村大明浦に至る。通事金貯を使し、
激して之を論し、金周鼎先ず倭と鋒を交え、諸軍皆下りて戦う。
郎将康彦康師子等之にて死し、諸軍一岐島に向かう」
これは7年後の弘安の役における対馬の戦闘。
文永の役で対馬の守備隊が全滅してたなら、この時高麗軍と戦ったのは
一体何者?
>>469 時間差についての想定は意味がないよ。
対馬島は東西に80キロ以上あるんだから。
仮に難破船が南端に漂着し、元艦隊が帰路停泊したのが北端なら時間差は
丸1日以上あっても不思議じゃない。
あるいは同時でも気が付かない可能性だってあるわけで。
というわけで10月24日付け報告書に対する反論は脆くも崩れ去ったな。
473 :
PC:2013/11/05(火) 21:14:41.86 ID:AnTKpqxc
>>471 >宗氏は明治維新まで存続してるのに、文永の役で下人に至るまで全員が自決したわけないじゃん。
一度戦力喪失したら必ずお家が断絶するのか。極端な話、父系の男の子が一人残ればお家は
続くし、それさえ無くても養子で続いた例はいくらでもある。
>文永の役で対馬の守備隊が全滅してたなら、この時高麗軍と戦ったのは一体何者?
全滅したのは80人の戦闘員の話。妻子などの非戦闘員がそれにつきあったとは限らない。
隠れおおせたかも知れないし、本土に疎開させてあったかも知れない。
当時のことだ。なんらかの存続対策はとっただろう。
そして7年あれば少年はりっぱな大人になるし、郎党を集める時間もある。
戦力の再建は十分可能だ。
474 :
PC:2013/11/05(火) 21:16:23.48 ID:AnTKpqxc
>>472 >時間差についての想定は意味がないよ。
意味がないとは何事か。時間差を言い出したのは君じしんではないか。
時間差に意味がないことに気がついたのなら、反省して今後はあまり意味がないものを持ち出さ
ないように。
>対馬島は東西に80キロ以上あるんだから。仮に難破船が南端に漂着し、元艦隊が帰路停泊した
>のが北端なら
時間差は見込みがないと見て、今度は地点差で来たか。しかしそれもまた意味がないだろう。
当時の航海は方向が合う沿岸さえあれば必ず沿岸に沿うのだ。対馬が半島航路になっている
のは長大な南北の沿岸を提供しているからだ。
いかに対馬が広くても、沿岸に沿って北航する大船200隻の大艦隊が人の目に触れないという
ことはあり得ない。
また、1隻の難破船ならどこの海岸に着いたってよい。しかし大船200隻の大艦隊を安全に
停泊させられる入り江となると限定されるし、そういう場所はまた自然と人の目も多い。
ということで大艦隊を抜きにした難破船1隻のみの報告というのは「意味がない」のだ。
475 :
813:2013/11/05(火) 23:18:09.81 ID:???
>>457 『菊池伝記』(別名『菊池軍記』)
著・井沢長秀(1668-1730)。
軍記物。お探しの箇所はおそらく、
--
文永十一年蒙古国より日本を襲しとき九州の諸将各発向し是を防ぐ
武房其一人なり相従ふ者共には舎弟赤星三郎有隆同菊池八郎康成葉室太郎高善
城六郎詫摩太郎以下八百余騎対馬に赴き武房有隆康成等勇を振て大に蒙古の軍を
破り首を獲ること五百余に及べり
--
>>473 家臣団が全滅したお家が7年後に完全復興なんて不可能だよ。
少年の成長だって周囲にそれを教育する環境があってはじめて可能なこと。
高麗軍が弘安の役の対馬戦で大損害を受けている以上、対馬守備隊が全滅なんか
してなかったのは明白ね。
>>474 >いかに対馬が広くても、沿岸に沿って北航する大船200隻の大艦隊が人の目に触れないという
>ことはあり得ない。
夜間なら普通にあり得ることじゃん。
11月末なら昼は短いんだし。
>>475 ありがとね。
伏敵編は10月5日の元軍対馬襲撃時に菊池が同島にいたわけがないって理由で
菊池軍記を無視してる。
でも、赤星三郎有隆の系図では九州の戦闘の後、追撃戦で対馬に至ったと
されてるんだよ。
『菊池系圖』別本 有隆赤星三郎
「人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、
追到對馬國、戮蒙古之將、」
478 :
813:2013/11/06(水) 07:53:47.51 ID:???
史料の信頼性を吟味した方が良いかと。
系図や江戸時代の軍記物は特に。
479 :
名無し三等兵:2013/11/06(水) 09:14:36.98 ID:PljYmTWd
本屋に並んでる、日本軍大勝利の仮想戦記のようなものだね。
480 :
PC:2013/11/06(水) 20:09:35.42 ID:fO4ozT2/
>476
>家臣団が全滅したお家が7年後に完全復興なんて不可能だよ。
家臣団が全滅したと誰が言ったのか。戦闘に耐えない老齢の家臣を非戦闘員に入れておけば
よいではないか。死地に赴く主君に別れを告げて、奥方と若君を守りつつ隠れ家へ落ちて
行く老家臣。ドラマだな。
軍勢については7年後の新成人ばかりではさすがに辛いが、宗家は貿易で金持ちなのだから
郎党を雇い入れることができる。彼らは戦闘員であると同時に新成人の教育者でもあり得る。
いずれにしても、しょせんひと暴れして形をつけるだけが目的の、100人ほどの小部隊だ。
戦力再建と言ってもたいしたことではない。
481 :
PC:2013/11/06(水) 20:12:08.09 ID:fO4ozT2/
>>476 >夜間なら普通にあり得ることじゃん。 11月末なら昼は短いんだし。
今度は夜の闇に逃れたか。夜は夜で衝突防止のランタンを灯すだろうけどね。
それにしても君はじぶんで立てた時間表に忠実でなければならない。壱岐を深夜に出発したと
いうのだろう? 速度を6ノットと仮定して朝の7時ごろ、半分の3ノットとしても昼過ぎには
対馬の南端に着く。
そこから潮流の影響が少ない対馬の西岸を、予定された停泊地まで北行するのだ。昼間の航行は
避けられない。しかしそのことよりも問題なのは、
難破船がどうやって対馬にたどり着いたかだ。壱岐から対馬までは、黒潮を直角に突っ切らなければ
行けない。難破船にどの程度の損害を考えるのか知らないが、推進力を失った船ではとうてい無理だ。
「難破船」には推進力があったと考えるしかないのだ。
そうするとこの船は対馬に到着するまでは難破船ではなかった。対馬に着いた後で水漏れがひどく
なったとか、座礁したとかの理由で遺棄されたのだ。そう考えるならばこの船は艦隊の一員として
対馬に到達した可能性が最も高い。
「対馬に難破船1隻」は、元軍が去ったあとのゆるゆるとした調査で判明したと考えるのが最も
自然である。
>>480 >いずれにしても、しょせんひと暴れして形をつけるだけが目的の、100人ほどの小部隊だ。
>戦力再建と言ってもたいしたことではない。
弘安の役では兵力1万の高麗軍の指揮官2人も戦死させた上、江南軍到着時点でも
戦力維持してたんだろ。
たいしたことではないなんて言えないだろ。
>>481 老松堂日本行録だと対馬―壱岐間は丸一日かかってる。
ほぼ同じ速度だと仮定した場合、夜出航なら到着も夜だよ。
あと対馬には現代でも九州からのゴミなどが漂着する。
ましてや当日の夜は風雨があったと高麗史に記述されてるんだから対馬に
難破船が漂着しても何の不思議もない。
>そうするとこの船は対馬に到着するまでは難破船ではなかった。対馬に着いた後で水漏れがひどく
> なったとか、座礁したとかの理由で遺棄されたのだ。そう考えるならばこの船は艦隊の一員として
>対馬に到達した可能性が最も高い
対馬の1艘は「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数」だ。
あきらかに難破船でその仮説の可能性は0パーセント。
484 :
名無し三等兵:2013/11/07(木) 11:14:04.43 ID:bcubsUGX
>>482 >弘安の役では兵力1万の高麗軍の指揮官2人も戦死させた上
だから「ひと暴れ」と言っている。「弘安の役である程度の損害を与えた」ということは
「世代交代と新規雇い入れで戦力再建は可能だ」ということの反論にはならない。
>>老松堂日本行録だと対馬―壱岐間は丸一日かかってる。
それは帆船の話だ。日本行録でも釜山〜対馬は8時間、約11km/hの速度を出しているように、
帆船は風さえ合えば速いが、逆風だと間切りするからいくらでも遅くなる。またいったん風待ち
するとなると何日待つか予測がつかない。
軍船はそんな悠長なことを言っていられないから手漕ぎ併用にして、漕ぎ手を乗せている。
ということで老松堂日本行録はまったく参考にならない。
>あと対馬には現代でも九州からのゴミなどが漂着する。
九州でも五島や平戸は海流的に対馬の上流にあるし、長崎あたりは中立だから時間をかけて
海流に乗れば対馬に着く。
壱岐からのゴミが対馬に着いたという例でなければ参考にならない。
>あきらかに難破船でその仮説の可能性は0パーセント。
上に書いたように、ほんとうに難破船なら対馬に着く可能性は0パーセントだ。
針で突いたような小島に1隻、2隻と漂着しているのに、あれだけ広い対馬になんでたった
1隻なのか、考えて見たのか?
485 :
813:2013/11/07(木) 23:27:58.53 ID:???
>>483 『老松堂日本行録』(岩波文庫,宋希m)
対馬の船余串(小船越)を三月一日巳の刻(午前十時)に出発〜壱岐勝本に翌日朝に到着。
p.50〜51
--
三月初一日、雨晴れ風便(よ)し。巳の時に発船し、一岐に向いて大洋に入る。
風なく、未だ島に及ばざるに日没す。
天昏く、四顧すれども茫々として之く所を知らず。
衆皆爽魂し、予に告げて曰く、「これを何(いか)んせん」と。
--
風が途中で止んで、難儀してますね。
『図説 和船史話』によると、太陽暦4月(=旧暦三月)の季節風は北東で、出現頻度は対馬付近で18%。九州北岸で38〜40%
まだ指摘されていないので申し上げると、『老松堂日本行録』は
「普通の紀行のように、正確に日を追って書いた物ではない(p.293)」ので、注意が必要。
『安国論私抄』の記事には具体的な数値が並んでおり、信じたくなる誘惑に駆られますが、
元ネタの正体が分からない以上は何とも。
>>484 >軍船はそんな悠長なことを言っていられないから手漕ぎ併用にして、漕ぎ手を乗せている。
弘安の役で5月3日に合浦を出航した東路軍の対馬到着が5月21日だったのは何で?
風待ちしてたからじゃないの?
>上に書いたように、ほんとうに難破船なら対馬に着く可能性は0パーセントだ。
史料には難破船が対馬に到着したって書いてあるんだから100パーセントだろ。
>>485 中世史料には元ネタの正体が分からない文章がかなりの割合であると思うけど
あきらかな嘘が書かれてたりしない限り史料として使われてるでしょ。
元寇についてはまだまだ知られてない史料が出てくると思うよ。
今だって探してる文献があるし。
488 :
PC:2013/11/08(金) 15:55:19.34 ID:6m4OLI0L
>>486 >弘安の役で5月3日に合浦を出航した東路軍の対馬到着が5月21日だったのは何で?
>風待ちしてたからじゃないの?
なるほど、「元の軍船は帆走だった」に賭けたわけか。
しかしその心配は無用だ。蒙古襲来絵詞に描かれた大船には櫂と櫂穴が明瞭に描かれている。
>史料には難破船が対馬に到着したって書いてあるんだから100パーセントだろ。
現に難破船が対馬に存在したのだから到着したのは100パーセントだ。
しかし壱岐から対馬まで自力航走でやって来たのか、それとも航走力を失って風と海流の
まにまに漂着したのかは史料には書いてない。
「浦々に打ち挙がる」というのは海岸に着底した状態を言っているだけであって、その状態に至る
経過を述べるものではないからだ。
そして壱岐と対馬の位置関係と海流の方向から言って漂着の可能性はほぼ0パーセントだ。
すると自力航走で対馬まで到着してから遺棄された可能性しか残らない。
そしてその場合は艦隊の一員として対馬まで来た可能性が高まる。
489 :
813:2013/11/09(土) 00:32:03.04 ID:???
>>487 そうですね。
>>486 和船だったら帆柱は着脱式なんだけど、高麗や南宋の船はどうだったんだろう。
動力は・・・・・・『老松堂日本行録』岩波文庫版p.35にあるとおり、「揺櫓」したり帆を使ったりしているから、
漕帆併用です。
『北条時宗』(歴史群像シリーズ,学研)
p.38
--
『蒙古襲来絵詞』は、帆やその他の船具が無視される反面、装飾が詳しく書かれており、
統一性には欠けるものの、実船を見なければ描けない部分がある。
--
高麗・元の軍船復元記事の、執筆担当は石井謙治氏。日本海事史学会会長。
確かに、第33紙には朱色の柱を持つ元の軍船がある。
河野通有は「帆柱ヲ橋ニ懸テ」蒙古の船に乗り移っているけど、『絵詞』の日本船には帆が無い。
文永の役では高麗様式の軍船が主力だから、これとはまた違うんでしょうね。
>>489 高麗様式の軍船については、『『小右記』所載「内蔵石女等申文」にみえる高麗の兵船について』
石井正敏『朝鮮学報』 [198]pp.25-73に詳しい分析がある。
p.42
--
1、広く大きく、ふつうの船とは異なり、〈二重〉に造られていた。
2、〈上〉には、左舷・右舷に「櫓」がそれぞれ四本ずつ、計八本設けられ、
一本の〈櫓〉を五〜六人で扱っていた。
3、兵士二十人余りが乗り込み、戦闘に備えていた。
4、〈下〉には、左舷・右舷に〈櫂〉がそれぞれ七〜八本ずつ、計十四〜十六本
備えられていた。
5、船首には敵船に体当たりし、突き破るための鉄製の角が装備されていた。
6、船内には鉄の甲冑・大小の鉾や熊手などの武具・武器が用意されていた。
7、賊船に投げ入れて打ち破るための〈大石〉が用意されており、恐らく投石器が
搭載されていた。
491 :
名無し三等兵:2013/11/10(日) 10:45:06.16 ID:FaFtILlf
元軍の大船は帆柱を持っていたか。これについて「軍事史学152号」で山形欣哉氏は次のように書いている。
「帆柱を持っているのは四、七、八、九、十号船であるが、旗竿と区別できない細いもので、不自然で
ないのは四号船だけである。」「(帆柱の)間隔が狭いのは不自然であるが、太さはそれらしいし、」
番号は著者がつけたもので、四号船とは絵16の上側の船である。たしかに2本の太い木材が描かれて
いるが、これが互いに角度をなして斜めになっている。帆柱ならこんな描き方をするだろうか。
そこでこれはデリックなのではないかと考えて見た。もともと馬を吊り上げるのになんらかの起重機が
必要なはずだ。このデリックを海戦で使ったのではないか?
>>490氏紹介のように大石が積まれていたというのは、それで武士が死傷した記録もあるから確かだが、
大石をどのように使ったか。投石器だと小舟相手では命中率が悪いだろう。
デリックで吊って小舟の頭上に持って行き、一気に落とせば最も命中率が高いはずだ。これで小舟の
転覆や乗員の死傷をねらえるし、石はまた釣り上げて何回でも使える。
上記「四号船」以外の船に帆柱らしい帆柱が描かれてないということは、絵師が省略したのでなく、
元の軍船は基本的に帆走能力を持たなかったのではないか?
492 :
813:2013/11/10(日) 12:29:47.10 ID:???
>>491 その本なら、手元にあります。
その直後も引用していただけると、より親切だったと思います。
p.80
--
これらのことから、画家は船の現物を見ているが、暴風雨で篷(帆)を飛ばされ、[木危](帆柱)を折られ、
浅瀬に吹き寄せられており、船底の構造まで確認できなかったのでは、と想像もできそうである
--
p.82〜p.83
--
「抜都魯」と「水汲船」は本船(六号船)に搭載された。
七号船
[木危](帆柱)を持ち、帆走できるようである。
八号船
[木危](帆柱)が細すぎる。
--
「抜都魯」「水汲船」は戦艦に搭載され、帆がなかったのかも。
『元史日本伝』至元十八年五月では、
「又、風水不便なるが為に、再び議して一岐島に会せんと定む」
とあり、風向きと海流を気にしています。
旧暦五月〜七月までの季節風は南西なので、江南軍もこれを使って日本に来たと考えます。
参考:『大乗院寺社雑事記』文明五年六月十七日条「渡唐船巡風[木尓]」
493 :
名無し三等兵:2013/11/12(火) 13:18:36.09 ID:2dNGn0xQ
>>492 東路軍の船も帆柱を持っていたことは間違いないようですね。
弘安の役の石築地出陣場面で竹崎が菊池に、「敵の将軍の船は帆柱を白く塗っている
そうだから、それを目当てに一矢射かけようと思っています」と言っている。
494 :
813:2013/11/13(水) 00:12:20.58 ID:???
>>493 「将軍の兵船は本はしらを白くきにぬりてしるく候」は帆柱ですか。
ありがとうございます。
495 :
名無し三等兵:2013/11/13(水) 09:10:26.82 ID:tRmibR35
>>494 「蒙古襲来絵詞を読む」で、原文(活字)に「ほはしら」、訳文に「帆柱」と書いて
あったのに従ったのですが、原文の写真を見たら「本はしら」つまりメインマストでした。
ご教示ありがとうございます。
「帆」があったかどうかはまたペンディングになりました。
デリックの操作にもメインマストは必要でしょうから。
496 :
PC:2013/11/14(木) 11:15:45.89 ID:CRaDyFAo
弘安の役で、季長はどこで戦ったのか? このスレでもいろんな見方があるので整理して見よう。
ウィキは志賀島で戦ったとし、その根拠に志賀島での部下二人負傷の申請を挙げているが、これは
手の者を「差し遣わした」つまり派遣したのであるから、季長じしんは陸上戦には行っていない。
恐らく兵力供出の割り当てがあったのであろう。
それでは季長じしんは志賀島戦に参加しなかったのかと言えば、
>>492のような言上があるので、
行ったとすれば海上戦に参加した。しかしこれに相当する詞書きは欠落しているから詳細は不明である。
では絵詞の海戦場面はなにかと言えば、これは鷹島の戦いである。この場面の前の詞書きに
「破れ残った船に乗っていた兵士を下ろして、将校たちが乗ってすでに逃げ帰った」という情報が
あるから、台風の後であることは明らかである。
これに対して季長は「下ろされた者たちは歩兵だから船に乗っている将校の首を狙う」と答えている。
これは陸上の敗残兵狩りには参加せず、海上戦を希望したという意味であろう。
さらに、船上で首を取る季長は冑をかぶらず変なものをかぶっているが、これは冑を部下にあずけた
まま兵船に乗ったので脛当てを頭に結んだいう詞書きの記述と一致する。ここでも戦闘場面の詞書きは
欠落しているが、絵があるから十分である。絵詞の絵は詞書きのイラストなのであり、必ず詞書きと
一致しているはずだからである。
そして季長の戦った相手は東路軍の船である可能性が高い。絵では船が損傷しておらず、兵士たちの
士気も高いように見えるので、台風で大損害を蒙ったという江南軍とすると違和感がある。
また同じ絵の左の方には上陸用舟艇が描かれている。日本軍の小舟を邀撃するために元軍が出したもの
かもしれないが、あるいは絵の継ぎまちがいであって、これが志賀島の戦いを示している可能性もある。
497 :
813:2013/11/15(金) 12:15:38.70 ID:???
>>496 季長が戦った相手は東路軍ですか。
『蒙古襲来絵詞』『高麗史』『元史』の記述を比較して頂けると助かります。
498 :
名無し三等兵:2013/12/03(火) 12:13:26.82 ID:DOZ4lI0W
PCってパフォコンってこと?
文永の役の撤退時期は今頃だが、対馬はともかく本土侵攻拠点になる壱岐は必ず掃討が行われたはずだね。
対馬は島面積が広すぎて戦闘のあった付近しか制圧できず壱岐放棄と同時に放棄になったのだろうね
500 :
813:2013/12/12(木) 23:18:25.35 ID:???
>>496 の返答が無いので書いてしまいますが……
>季長の戦った相手は東路軍の船である可能性が高い
というのは難しいと思います。
『高麗史』『高麗史節要』とも、台風後の掃討戦については
江南軍生き残りからの伝聞しか載っていないので(忠烈王世家、八年)。
一方で、『元史』日本伝にある記述、
五日、文虎等の諸将各自ら堅好の船を択びて之に乗り、士卒十余万を山下に棄つ。
『蒙古襲来絵詞』
しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候
両者は符合しています。
『高麗史』金方慶伝
八月、大風に値(あ)い、蛮軍皆な溺死す。
屍は潮汐に随いて浦に入り、浦は之が為に塞がりて、践(ふ)みて
行くべし。
遂に軍を還す。
501 :
名無し三等兵:2013/12/14(土) 11:02:52.32 ID:3/LDUtpS
>>500 「はやにけかへり候」だから、「しかるへき者とも」を乗せた船はもはや戦場には
いなかったということです。
高麗史が「蛮軍皆溺死す」というのは皆溺死していない軍の立場から書いています。
江南軍の張禧の部隊は台風の損害を免れたとされますが、記録では張禧が継戦を
主張したがいれられず、撤退用の船を提供したというだけで、戦闘を行った様子が
見られません。
またイェスダルが数百艘の戦艦を率いて東征し、全軍帰還して褒賞を受けたと元史
にありますが、高麗史から彼が東路軍に属したことがわかります。
以上から台風後に戦力を保持して、絵詞に描かれるような海戦を戦い得たのは東路軍
のみであったことが推定されます。
502 :
813:2013/12/14(土) 23:53:21.17 ID:???
>>501 先に挙げた『高麗史』金方慶伝を見るに、東路軍は早々に撤退したのではないかと思います。
(江南軍からの伝聞ではない)掃討戦の戦況が書いてあれば、話は別です。
『高麗史』『高麗史節要』に該当する記事があるのなら、ご教示ください。
『元史』日本伝では、
--
敗卒の于ショウ(門構えに昌)、脱(のが)れ帰りて言う、(中略)
方(まさ)に木を伐りて舟を作り還らんと欲せしに、七日、日本人来たりて戦い、
尽く死す。余の二三万、其の虜と為りて去る。
--
『蒙古襲来絵詞』と併読するに、江南軍(四散した東路軍も含む?)は、残余の軍船で
頑張ったのでしょう。
>全軍帰還して褒賞を受けた
主戦力として戦わなかったからでは?
間違っているのが私の方だとして、
『高麗史』忠烈王世家七年閏八月二十四日
--
左司議の潘阜を遣わし、忻都・茶丘・范文虎を労わしむ。
--
この三人(東路軍2名+江南軍1名)の雰囲気は、相当険悪だったでしょうね。
范文虎は、高麗経由で元に帰国していますので。
台風の後の伊万里湾には江南軍の中のバートルみたいな外洋航海能力を
持たない船だけが残されたって可能性は?
蒙古襲来絵詞に描かれた元船は大半が帆を持たないわけで。
あと、元軍の指揮官2人が元寇の後で敗戦の責任問われて処刑されてるね。
「カーンが遠征軍の指揮に当たった二人の重臣を共に死刑に処したのは、
この両将軍がいずれも本分を尽くさなかったからなのである。」東方見聞録
マルコ・ポーロは日本には来てないから不正確な伝聞しか書けなかったけど、
元の宮廷には17年間滞在したわけで、内部情報知りうる立場。
504 :
名無し三等兵:2013/12/16(月) 15:54:06.33 ID:Y/Af9NJO
>>502 >掃討戦の戦況が書いてあれば、話は別です。 『高麗史』『高麗史節要』に該当する記事があるのなら
掃討戦は主として台風で壊滅した江南軍が受けたのだから高麗史に記述が無くて当然ですが、その
高麗史も戦況の記述があるのは鹿島の戦いだけで、存在が確実な海戦も記述が無いのですから、あて
にできません。
>『高麗史』金方慶伝を見るに、東路軍は早々に撤退したのではないかと思います
江南軍の惨状を述べた後に「遂に軍を還す」とあるからと言って、状況が連続しているとは限りません。
「遂に」は最終的帰結を述べているだけかも知れないし、上記のように字数が少ないのですから。
>四散した東路軍も含む
元軍は一応軍律のある軍隊なのですから、台風ぐらいで「四散」はあり得ないでしょう。東路軍は台風の
被害が軽微だったのであり、かつ総司令官がいるほうの支隊なのですからなおさらです。
ところで季長が戦ったのは御厨と絵詞にありますが、御厨は江南軍主力が壊滅した鷹島からも、張禧の
艦隊がいた平戸からも離れてその中間にあります。これらの艦隊から御厨へ、この次期に派遣することは
考えにくいから、季長の相手はもともと御厨地域に停泊していた艦隊でしょう。それが東路軍か江南軍か。
まあどちらの可能性もありますね。東路軍の船が高麗製で頑丈だったことで可能性が高くなるだけです。
505 :
名無し三等兵:2013/12/16(月) 16:19:17.44 ID:Y/Af9NJO
>>503 >台風の後の伊万里湾には江南軍の中のバートルみたいな外洋航海能力を持たない船だけが残されたって可能性は?
絵詞で季長が首を取っている船は、碇の巻き上げ機や船倉が描かれているところから明らかに大船。
この絵に連続して左に描かれている(実際は別の絵なのかもしれないが)は、これらを持たず、また船首に
曳航用の鉄環がついている。これがバートルと思われる。
>蒙古襲来絵詞に描かれた元船は大半が帆を持たないわけで。
大船が帆を持っていたかどうかは今のところ確証がない。季長も「帆柱」とは言わず「本柱」と言っている。
>あと、元軍の指揮官2人が元寇の後で敗戦の責任問われて処刑されてるね。
それは兵を置き去りにして帰った江南軍の司令官なのでは?
506 :
813:2013/12/16(月) 23:27:23.27 ID:???
>>504 >台風ぐらいで「四散」はあり得ないでしょう。
博多に着く前に、早速やらかしてますけど。
『高麗史』忠烈王世家七年五月二十八日
--
是月二十六日、諸軍は一岐島の忽魯勿塔に向かう、
船軍百十三人、梢水三十六人は風に遭い、其の之(ゆ)く所を失う。
>(四散した東路軍も含む?)
と
>>502で書いたのは、『元史』日本伝に
--
九日、八角島に至り、尽く蒙古高麗漢人を殺し
--
とあるので、「もしかすると、掃討戦で捕まった東路軍兵がいたかもしれない」という含みを持たせたのです。
残りはスルーします。
507 :
名無し三等兵:2013/12/17(火) 18:08:28.30 ID:oHA4XkqR
>>506 >博多に着く前に、早速やらかしてますけど。
>船軍百十三人、梢水三十六人は風に遭い、其の之(ゆ)く所を失う。
これは恐らく一隻の船が遭難してその乗員が行方不明になったか、置き去りにされたかを
言ったものでしょう。同様の事件は文永の役でも起こっています。
台風の後で日本軍の掃討戦によって捕虜になった張百戸は東路軍だから、
東路軍の中にも台風の際に伊万里湾に停泊していた部隊があったのは確か。
ただ張百戸を軍の指揮官にしようとしてた状況だから指揮系統は滅茶苦茶。
東路軍の中でも無事だった部隊はそのまま帰還し、伊万里湾の海戦には
加わっていない。
509 :
名無し三等兵:2013/12/18(水) 20:30:58.84 ID:D/dDnC2w
>>508 闘将・張成が東路軍であるのに気がつかなかった。教えてくれてありがとう。
>東路軍の中でも無事だった部隊はそのまま帰還し、伊万里湾の海戦には加わっていない。
これのソースを教えて欲しい。
510 :
813:2013/12/18(水) 21:42:13.46 ID:???
>>508 ご教示ありがとうございます。
>>509 『元寇の新研究』所収、『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』でしょう。
日付は至正八年(1348)三月朔日とあります。
--
八月(日本暦閏七月)朔、海風作、船壊、軍還至京
--
この部分はwikipediaに載っていませんね。その続きには「二十一年君承命乾山(?)伐木・・・」
とあり、弘安の役の記事では無さそう。
台風後における東路軍の行動については、『高麗史』とほぼ同じ。
『元寇の新研究』には墓碑の拓本も載っています。
張百戸が捕虜になったという記事はありません。
>>510 張百戸が捕虜になったという記事は元史日本伝にあるでしょ。
「八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びて
これに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して
主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて
舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、
そのために虜去せらる。」
墓碑銘には景気いい話しか書いてないけど、その陰にはいろいろ不都合な
事実もあっただろうというのは、日本遠征から帰還した張百戸が1285年に
当時流刑植民地だった黒竜江の東北の極辺に屯田を命じられてることからも
推測できる。
512 :
813:2013/12/19(木) 21:43:33.70 ID:???
>>511 『倭国伝』(講談社学術文庫)に収録されている『元史』日本伝を所持しております。
私も貴殿と同じ期待を持ったのですが、
・張総管(張百戸)の生死に言及されていない
・墓碑に記載が無いので、張成とは別人かもしれない
なので、結論を保留しました。
「記事が無い」=否定したわけではありません。
子孫があえて書かなかっただけで、同一人物かもしれないが・・・・・。
(『元史』が「張成」と書いていてくれればよかったのに。同姓同名の別人とまでは言いません)
『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』の翻刻は
『満鉄調査資料第169編』 (南満洲鉄道, 1936)に収録されており、
近代デジタルライブラリーで、無料で読めます。
514 :
名無し三等兵:2013/12/20(金) 08:00:31.74 ID:GDkXrXsw
元寇って日本がフルボッコにされて終了したんじゃないの?
誰か分かりやすく教えて下さい
○○が○○の場所で戦闘、被害○○人
↓
同じく○○が○○の場所で戦闘、被害○○人
というように
wikiは分かり難いです
向こう側は何の目標も達成していないけどな
壱岐・対馬の人間は散々凌辱されたろ。
>>514 日本がフルボッコにされて終了したなら日本はモンゴル帝国に征服されてないと
おかしいだろ。
実際にはモンゴル軍が日本軍にフルボッコにされて終了した。
文永の役の戦闘損失はモンゴル軍が1万3500余人で日本軍が195人。
キルレシオ70か・・鎌倉武士強すぎでしょ・・
壱岐対馬をフルボッコにすることだけが元軍十数万の目的だったから
それを達成した元軍の大勝利だね
>>519 十数万動員した弘安ではそれすらできてないんだけど
521 :
名無し三等兵:2013/12/21(土) 10:20:49.84 ID:LDaD68eX
>>517 もう少し詳しい流れを簡潔にオナシャスっ
学校で先生が日本はフルボッコで逃げまくり
台風がなければ属国化でしたみたいな事言ってたから
日教組か
むしろ皇国教育だが
で行き着いた先が神風なんちゃら
526 :
名無し三等兵:2013/12/21(土) 17:40:27.04 ID:WUmkJ2kd
教科書に一騎打ちだのてつはうに苦戦しただの
追加したのは明らか戦後やぞ。
527 :
名無し三等兵:2013/12/22(日) 01:37:59.30 ID:wsEFDk2n
文永の役ではなぜ元軍は撤退したの?
威力偵察?
>>527 戦闘に負けたから撤退したのに決まってるじゃん
威力偵察説って後続というか上陸部隊の本体はどんな規模の部隊を用意してたと考えてるんだろうか
考えてるわけ無いわな
単に日本が普通に勝ったのが信じられないor気にくわないだけだから
一方的に殺戮されたのは、壱岐と対馬だけ?
時代は違うが、竹島も
弘安の役の時の平戸ってどうなってたの?
534 :
名無し三等兵:2014/01/18(土) 21:59:28.12 ID:A2L1bTiB
出島
535 :
813:2014/02/03(月) 23:42:02.36 ID:???
現在、『八幡愚童大菩薩訓』筑紫本、橘守部旧蔵『八幡蒙古記』を比較しているところです。
『八幡大菩薩愚童訓』(筑紫本)は、筥崎八幡宮座主坊に伝えられてきた室町中期の
写本で、壱岐・対馬での戦況に関する記述は、ほとんどありません(住民を虐殺した記事のみ)。
両書に共通なのは、
・弘安の役において、東路軍・江南軍が合流した後で博多に攻めてきたと誤解しているところ
『八幡愚童大菩薩訓』筑紫本にのみ存在する記事
・六月六日〜十三日の、海の中道での合戦を記載している
『八幡蒙古記』にのみ存在する記事
・建治元年正月二十三日、杜世忠が来日したこと
『鎌倉年代記』では「四月十四日、大元使着長門国室津浦」とあり、疑問。
この部分は、『蒙古諸軍記弁疑』所収の『八幡蒙古記』では削除されている。
嘘ばかり書いているとは思いませんが、取捨選択が難しそう。
参考:『八幡愚童訓諸本研究』(小野尚志,三弥井書店)
『筑紫本八幡大菩薩愚童訓』(福岡県文化財資料集刊行会)
536 :
813:2014/02/05(水) 22:21:31.45 ID:???
以下、『八幡大菩薩愚童訓』(筑紫本)のうち、文永の役・弘安の役
の部分を掲載していきます。
読点を補い、字体は現代のものに改めるつもりですが、
OCR特有の間違いなどあるかも。
筑紫本は、筥崎八幡宮座主坊に伝えられてきた室町中期の写本。
『八幡愚童訓諸本研究』では
「誤写と思われる箇所も多く、又、本文の一部が脱落したかと
思われる箇所も存する点、必ずしも善本とも言えないようである」
と評されるが、
「八幡愚童訓の原型が筥崎宮祠官の手になったとすれば、
筑紫本こそ、その流れをくむもの、と考えるのが順当であろうが、
残念ながら本書(『八幡蒙古記』)の検討から、結論を得ることは出来ない」
ともあり、気になるマニアも少数いるかもしれない。
(前略)
同十一年九月之比、異賊四百五十艘之大船二三万人乗テ寄来
対馬壹岐二之嶋ヲ打落テ、筑前国今津二着ニケル、此由京都
へ聞シカバ、御祈祷共始ラル、
十月廿九日ヨリ於御宝前両座最勝王経転読有、
十一月二日ヨリ山上二諸社御ヲ勤ム、
同八日八幡へ御幸在テ御祈祷共有。両総官ニ勤賞行ハル、
其上社務宮清ヲ馬場殿ニ召テ銀剣沙金賜ケリ、
是異国降伏之御祈之為也、懇懃ノ叡信宗廟之照覧有ン覚タリ、
九国ニ馳集軍丘(ママ)誰々ソ、
少弐大友菊池原田紀伊一類臼木戸次松浦党児玉党以下
神社仏寺之司及モ我モ々卜打立ケル、
大将軍一万二千余騎、都合其勢十万騎卜云へ共数ヲ不知、
537 :
813:2014/02/05(水) 22:29:01.22 ID:???
馬之気者天ニ上リ風ヲナシ、蹄之音ハ地ニ響キテ雷ヲナス、
三尺之剣之光ハ氷斗ニ有、一張之弓之勢ハ、
当着次タル鎧ノ毛之色々ナルカ映セルハ、
蜀江ノ錦ヲ洸ニ同立並タル旗之勢ハ浜風ニ吹レテ飜ハ、
枯野之尾花ニ異ス、
日本兵共高麗唐人等ヲアナツリ習タル様ニ思ツツ、
面々分取センスルニ味方ノ勢ハ多、彼方ノ勢ハ少シ、
異国十人ニコソ味方一人ニ当ヘシ、
此方之勢ノミ多シテ、敵軍一人モ当ン卜云テ、
味方ノ角落ナントハ曽不思、勇進テ我先ニトソ懸躍テソ待懸タル処ニ、
十一月廿日、蒙古舟ヨリ下、馬ニ打乗、旗ヲ揚テソ責懸ル、
日本之大将軍ニ少弐入道覚恵カ孫、纔(ワズカ)ニ 十二三之者ニ箭合ノ
為トテ、小鏑ヲ射サセタリケレハ、蒙古一度ニ
[豆皮/言]卜笑テ大鼓ヲ鳴シ鉦ヲ打テ時ヲ作事震シク有ケルハ、
日本之馬共驚刎ヒチメキテ進退惟谷タリ、
馬ヲコソアツカイタレ敵ニ向ン卜云事ヲ忘テヒシメキケリ、
蒙古カ矢ハ短卜云共錠ニ毒ヲ塗タレハ少モ当者ハ
毒気ニ負テ死ニケリ、鉾長刀ヲ以テ物具之明間ヲ指テ、
一面ニ立並ヒテ、奇(ママ)スル者有ハ中ヲ引退テ両方之端ヲ廻シ
合テ取篭テミサコ倒ニコロシケレ、吉[彳及](ママ)タルカ死ヲハ
腹ヲアケ肝ヲ取テ飲、本ヨリ牛馬ヲ美物卜スル者ナレハ、
射倒タル馬ヲ喰テ飽満セリ、冑ハ軽シ馬ニハ吉乗、力者強シ命ヲ
ハタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮也、
大将軍高所ニ打上リ、可逃ニハ引鼓ヲ打、懸ヘキニハ責鼓ヲ扣クニ
随テ彼逃時ハ鉄包ヲ飛ス、眼暗成鳴音高シ心ヲ迷テ、
肝ヲツフシ耳鳴テ亡然トシテ東西ヲ不弁有ケル、
538 :
813:2014/02/05(水) 22:34:53.74 ID:???
日本之軍之様ニ相互ニ名乗合テ高名不覚ハ一人ツゝノ勝負ト思処ニ
合戦ハ大勢一度ニ寄合テ足手之[魚各](ハタラ)ク所ヲ
我モ々卜取付テヘシ倒、生取ニシケレハ、是故ニ懸出ル程ノ者
漏テ帰ハ無リケリ、誠哉不教民ヲ令戦ル事是棄ツト謂本文有
今コソ知レケリ、其中ニ松浦党多討又原田一類、
深田ニ追被入テ失ニケリ、肥田相屋三百余騎ニテ彳ヘ
タリケルカ、乗タリケル馬ノロ強シテ、自然ニ敵陣へ被引入シ
カハ、主人討セシト彼カ手之者共続テコソ懸タリケレ、
取篭テヒシ々卜残少ク討成ル、主人引入シ馬ハ此方ニ走帰ケリ、
相屋カ手ニ山田之者共五人、蒙古ニ追立ラレテ、赤坂ヲ下ニ逃処ニ、
異賊三人擽ニ々テ追懸タル、サレ共疾逃延テ一町余ニ成シカハ、
蒙古無力シテ、セメテノ事ニヤ尻ヲ掲テ此方へ向テ跳(ヲトリ)ケリ、
其時山田ノ逃武者共、口惜事哉アヤトハラニ角セラルヽ事ヨトテ、
其中ニ精兵之有ケルニ、彼尻射卜云ケルニ力尽ヌ
遠矢ニテ争可射当ナレ共、余悪サニイテサラハ射テ見ン、
南無八幡大菩薩願ハ此矢ニテ敵ニ当サセ給ヘトテ
何クニ当共無繰リ遣ケル程ニ、アヤマタスコソ射倒タレ、
日本人ハ一度ニトツト笑ケレハ、蒙古共者昔モセス手負ヲカ
キ具シテ逃ニケリ、大菩薩之御罸ニ有サランヨリ外ハ何ニシテカ
此遠矢ヲ射中ル事可有嬉サ無限、蒙古ハ次第ニツヨリ勝ニ乗テ
責来リ、赤坂ノ松原之中ニ陣ヲ取テソ居タリケル、
539 :
813:2014/02/05(水) 22:41:01.36 ID:???
軍安思ニ相違テ面ヲ可向様モ無、味方引退テ寄合スル者無リケリ、
爰ニ菊池次郎思切テ百騎斗ヲ二手ニ分ケ押寄テ散々懸散シ
上ニ成下二成取重テ勝負ヲス、家子郎等多被討シニ、
菊池次郎計被打漏テ死人之中ヨリ起上リ、頸共余多取以
城之内ニソ入ニケル、名ヲ後代ニ留シカ、是偏ニ大菩薩之御
守護之故也然ニ勤賞蒙りタランニ者一番ニ賜リタラン物
ヲハ八幡ニ進セント願ヲ立シ故トテ、関東ニ参下賜ル甲胄ヲ
子孫ニ伝ト思ヘトモ、神恩難謝トテ当社ニ持参申キ、
少弐入道子息三郎左衛門尉景(資)并其手之者平四郎入道手光
太郎左衛門尉等始トシテ押寄テ散々ニ闘、
此外大名高家我モ々卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破ニ責入テ、
今津早良(注:原文ママ)百路原赤坂及乱入ケリ、異国者合戦何事カ可有卜
平安之敵トアナツリ思テ、妻子眷属ヲ隠置ニ不及シテ有シカハ、
家々ニ乱入テ数千之妻子共ヲ取ニケリ、軍ハ巳之時始テ日暮方ニ
成シカハ、彼方此方ニサゝヤキ事コソシケレ、
何事ソト恠ム難及力ニケレハ、水木之城ニ引篭支テ見ン卜
逃支度ヲソ構ヘケル、是ヲ聞テ我先ニト落シカハ、独モ留ル者無リケリ、
爰三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、蒙古大将軍ト思シキカ
長(タケ)七尺計ノ大男髮腮(アキ)ノ邊マテ生下リタルカ葦毛ノ馬ニ
乗十四五騎、カチ走七八十人カ程具シテ、ヲメキ呼テ追懸タリ、
其時旗之上ニ鳩翔舞ケレハ誠 八幡大菩薩之御影向トソ
憑敷テ究竟ノ兵共成シカハ、一鞭打テ馳延テ踏(フミ)留テ、
吉引テ放矢ニ、一番ニ懸ケル大男之真中射テ馬ヨリ下へ逆ニ落ニケル、
郎等共是ヲカゝケテヒシメキケル、粉ニ景資此方へ引返ル、
葦毛ノ馬ニ金造之鞍置タルカ走廻リケルヲ取テ、後ニ尋ハ、
蒙古ノ一方大将軍ニ流将公カ馬也卜、生取タル蒙古申ケリ、
鳩翔給テ大将軍ヲ討事之目出サヨ 八幡之御降伏誠ニ貴御事也、
まずはここまで。
540 :
813:2014/02/06(木) 00:05:34.90 ID:???
すみません、後はブログを開設し、そちらで続けます。
上の文中「勤」→「勧」でした。
>>535-540 お疲れ様。
気になるのは元軍が対馬壱岐から直接今津に侵攻し、肥前には立ち寄っていないこと。
松浦党は少弐大友などと博多での戦闘に参加してること。
日蓮の「一谷入道御書」とかも普通に読めば松浦党は武藤資能の指揮下で戦っていて
元軍が肥前に侵攻した裏付けにはならないと考えてるんで。
松浦党が博多方面の戦闘に参加していたことについては、実は裏付ける史料がある。
[白井文書]
筑後国御家人守部彌次郎盛通、同四郎盛時、同六郎光盛等申す蒙古合戦の事、申し状此の如し。
実正に任せ、起請の詞を載せ、左右を申さしめ給うべし。仍って執達件の如し。
建治三年七月五日 頼泰(花押)
斑嶋右衛門三郎殿
松浦党の斑嶋右衛門三郎が筑後国御家人の合戦の証人になってるんだよね。
542 :
813:2014/02/06(木) 07:16:46.72 ID:???
文中の「ぎょうにんべん」は、「ひか(へる)」と読みます。
誤字と思われる部分は、菊大路本等を参考にして校合していきます。
おそらく「難謝」→「報謝」、「粉に」→「紛れに」だと思う。
このスレ面白いよ。詳しく解説してくれるし
なんJで元寇スレが立ってたが未だに元が本気じゃ無かった説や日本は弱くて運が良かった説ばっかだったな
545 :
813:2014/02/09(日) 19:53:09.51 ID:???
さらに訂正。
上の文中「倒」→「殺」でした。
『自然と遺跡からみた福岡の歴史』所収「遺跡からみた福岡の歴史2-遺跡の動態から見る福岡平野」p.244より
--
文永の役では社殿が元軍の兵火にかかり、神体は宇美極楽寺に避難している。
焼土層の広がりは元軍の兵火によるものであろうか。
であれば、この時期砂丘全体に分布する遺構の広がりからすると、かなり限られた範囲である。
焼土の広がりが文永の役によるものとすれば、この後も武神として崇められていく筥崎宮だが、
元軍に対して被害を最小に食い止めえたと言えるのではないだろうか。
--
本文の説明図を見ると、焼土層は箱崎遺跡の北西部分にのみ存在しています。
>>544 ソ連軍のアフガン侵攻とか米軍のベトナム戦争見れば国力や軍事力で勝ってる=戦争に勝利じゃないの分かりそうな物だけどな
>>546 元寇とアフガン侵攻とかベトナム戦争じゃ戦争の推移が全く逆だけどな。
ソ連軍もアメリカ軍も個々の戦闘では勝利して敵国奥深くに侵攻しながら戦争の長期化に
耐えられずに撤退。
一方の元寇は戦闘で惨敗し日本内部に全く侵攻出来ないまま短期間で撃滅さされてる。
明らかに弱いモンゴル帝国が国力や軍事力で遥かに勝る日本に間違って攻め込んじゃった戦争。
北九州は古代から肥沃な土地で産業が発展し交通網も食物生産量も人口も高かったからな
奈良時代からの防人制度のノウハウもあり戦力の集積地に突っ込んだ元軍は下手打った
アフガンやベトナムと比較できるのは秀吉の遠征だろう
元寇は戦場での戦闘力差で跳ね返された
日本がモンゴル帝国に国力や軍事力で遥かに勝っていたとかw
当時の日本が中国にどれだけの兵力を送れたっていうだよ
元寇は兵站が伸びすぎればその先にある弱い相手にも勝てないという例
日本は元の中心地からは間に海があるうえに遠過ぎた
秀吉の朝鮮出兵と比べても元軍ボロ負けすぎる
時代が違うし朝鮮出兵は鬼門の着上陸戦を大した抵抗を受けずに成功させたからな
文永の役は上陸完了後、弘安の役は海上でぼこられてるが
文永の役はそもそも兵力が少なかったろ
弘安の役当時の海戦でどれだけ損害与えられたって言うんだよ
2倍の兵力の相手と野戦になったらただじゃすまんぞ
>>550 九州上陸して僅か1日で負けたくせに兵站とか関係ないだろ
そもそも元の中心大都から戦場となった九州北部までの距離なんて
鎌倉から戦場までと大して変わらん
モンゴル軍の遠征としては超近距離の作戦
556 :
名無し三等兵:2014/02/11(火) 22:47:55.16 ID:ZLBdxERI
>>554 4万って当時の基準で考えたら、一国を滅ぼすには十分な兵力だったんですが。
実際パガン朝はこの半分の兵力で滅ぼされてるし
>>550 カラコルムから出発して、バグダッドやキエフを簡単に征服しちゃった国らしからぬ言い訳やな>兵站ガー
とはいえ、モンゴル帝国が日本を征服するのには、どのくらいの兵力をつぎ込めば良かったのか。
14万でも駄目だったという結果からすると、30万とか50万とかの冗談みたいな数字になるのか?
文永の役って日本側が数的劣勢の状態で突っ込んでるよな
>>558 30万とか50万になると、それこそ兵站が持たなくて自壊しそうだな
561 :
名無し三等兵:2014/02/14(金) 15:50:04.37 ID:EnDGQoyd
Wikipediaの元寇の記事がすげー充実してきたな。
あとは英語出来る奴が英語版へ翻訳してくれれば完璧なんだが。
562 :
名無し三等兵:2014/02/14(金) 18:16:46.05 ID:IFBsc27V
三国志オタだけど、昔の一軍の規模は15000人
30000人からが大軍
当時最大兵力を投入したのが赤壁で23万人
人口的には余り変わらんから、14万って1000近い軍船を使う大軍だぞ
563 :
名無し三等兵:2014/02/14(金) 22:11:33.15 ID:IFBsc27V
あと、あいつら水軍の訓練十分にしてたんかな?
対馬を拠点にして、そこで訓練してれば多分10万でも大丈夫だった
>>563 水軍の練度については何の問題も無い。
東路軍は元寇の前に三別抄との戦いで上陸作戦経験してるし、江南軍も南宋水軍を
何度も撃破してる。
当時世界最高レベルの海軍14万が鎌倉幕府軍にフルボッコにされったってこと。
元寇で練度の高い海軍が壊滅したせいでモンゴル帝国は2度と大規模な海軍作成が
出来なくなったけどね。
>>555 距離が同じなら兵站への負担も同じなのかよw
そんなトンデモ世界ならインパール作戦ももう少しましな結果になってただろうな
>>565 実際には海運が利用できる元寇って兵站の負担はモンゴル軍の数ある遠征でも
最少クラスだろうな
>兵站の負担はモンゴル軍の数ある遠征でも最少クラス
中国制覇した元が戦争全体で14万しか動かせなかったのにそれはないだろ
1つの戦場としてみれば多いけど(金がモンゴル軍に決戦を挑んだ三峰山の戦いで15万
南宋が滅んだ崖山の戦いは25万とか)中華王朝の動員力は半端ない
>>567 三峰山の戦いの15万も崖山の戦いの25万もモンゴル軍の兵数じゃないじゃん
元寇の実際の戦況はどうだったのか知りたくてこのスレに辿り着いたが漢文も古文もミリ知識もない自分にはいささか難解だった
最近はへんなイデオロギーやマルクス史観から比較的自由な研究者が増えてきたそうなので、
その辺りの最新研究に基づいた一般書籍が出てないかと調べたら
新井孝重著『戦争の日本史7蒙古襲来』というのが目についた。
こいつはスゲェ…21世紀にもなってこんな見事な自虐史観バリバリなのにお目にかかれるとは…
モンゴルage酷いけど不当に日本おとしめない分、杉山正明が良心的に見えたわ
しかも著者経歴みたら経済学部?そこで般教日本史でもやってんの?つまり専門研究家じゃない?
吉川弘文館は自分の中では硬派で堅実な本出す所だと思ってたんだけどなあ…なんでこんなのに書かせてんだよ…
>>568 元軍は全てモンゴルの遊牧民で構成されてるとでも思ってるのか
江南軍とか実質南宋軍だろ
最近のでは呉座勇一著『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』
が比較的まともだった。
あくまで比較的まともレベルでこのスレ読んでる者から見れば真新しいこと
書いてるわけじゃないんだけど。
「下剋上」は本当にあったのかって副題見ればわかるように脱マルクス史観
みたいな立場の研究者なのね。
今までの元寇研究のあまりにも滅茶苦茶な部分を、ようやくおかしいと言える
研究者の本が一般書籍にも出だしたって感じ。
>>570 いや、三峰山の戦いも崖山の戦いもその数字は敵側の兵数で
モンゴル側の兵力は三峰山の戦いは4万、崖山の戦いに至っては2万やで。
モンゴルの軍事作戦は確か南宋のジョウヨウ要塞を攻略した時が最大規模で
弘安の役はそれに継ぐ規模、当時としては史上最大規模の上陸作戦だった。
杉山正明⇒旧南宋軍で優秀で戦闘力に富む兵は中央アジア戦線に投入され、
残りモノの弱兵が第二回日本遠征軍を編成した。
現実には⇒中央アジア戦線から兵力を引き抜いて第二回日本遠征軍を編成した。
元史/巻011 世祖八 十八年夏四月甲午,賜征日本河西軍等鈔。
自分が一番詳しいと思ってそうな細川重男とかも元寇に関しては旧態依然の認識のままだな
佐藤鉄太郎氏が何年も発表してないことが気になる
もしかして学界追われた?
あの辺りの海域って現在の漁師の方も危ないっていう場所らしいですね
>>575 ここ四年くらいは特に動きないね。
つっても一万円もするような分厚い本なんて、そう何回も書けないけど
579 :
813:2014/03/01(土) 08:29:04.03 ID:???
>>495 今更ですが、「本」=「ほ」の仮名として使われているとのこと。
帆柱で正解です。
日本思想大系21『中世政治社会思想 上』所収
『竹崎季長絵詞』p.423
岩波書店、校注担当は石井進
蒙古襲来絵詞の海戦の場面に描かれてる元軍が江南軍だとした場合、
問題になるのは弁髪の兵士が多さ。
弁髪はモンゴル、契丹、女真の習慣だからね。
江南軍には旧南宋兵以外の兵士もかなりの割合で含まれていたことになる。
弁髪だと出世しやすいとか?
海戦に不慣れな兵が多かったのは分かる
ただどうやったら上陸後に元は幕府側に勝つことが出来たんだろう?
そもそも元の最終的な戦略目標はどこにあったんだろう・・・やはり鎌倉?
現地に通じた人間もいなかったはずだしどうやって上陸後に展開していくつもりだったのか謎
>>582 最終的な戦略目標は天皇の身柄確保でしょ。
ホラズム国王ムハンマドやハンガリー国王ベーラ4世への執拗な追跡見れば
モンゴル軍が日本に対して天皇の身柄確保以外の勝利条件を設定してたとは
考えられない。
584 :
AV狂の詩:2014/03/05(水) 22:34:40.77 ID:l4dZ9F11
元寇に有関心だけど知識はたいしてないので、
直接関係ないAV論を書きましょう
現在のAVは面白過ぎますよね
スクリーンを通じて女優をどんだけ見てきたか分からないほどです
70〜80年代は、本当に女がお高かった
吾妻ひでおのマンガでは、主人公の高校生がとなりの美少女にやらしーことをしかけると、コテンパンに叩きのめされます
当時のマンガは似たようなパターンが多かった
女がとにかく強い
また、お高い
あるいは、女性上位なラブコメ
マンガがそうなってるのは、実態を反映してます
ボクは当時、そういった女性上位な文化が、また世相が大嫌いでした
そんな中、最も女性上位傾向から遠いカルチャーは、アイドル文化でした
アイドルは、男性に媚びを売ってる存在だったからです
90年代中盤に女性上位な文化価値がガラガラと瓦解したときは本当におどろきました
AVの本質は、
1 セックス調教された女優が何でもしているさまを写し出したドキュメンタリー
2 AVという制度を利用して製作者がやりたい放題やってるドキュメンタリー
…という点にあり、その意味でアイドルAVも企画AVも同じです
585 :
名無し三等兵:2014/03/05(水) 22:36:44.91 ID:qkAfIyvg
何かネタがあるのかと思って最期まで読んでしまったorz
本来なら「海戦に不慣れ」の基準って敵軍との相対的なものだろ。
三別抄や南宋海軍相手に海戦経験してるモンゴル軍が、壇ノ浦以来約100年も
本格的な海戦の経験のない鎌倉武士に負けた言い訳に「海戦に不慣れ」って
おかしくない?
日本の言葉や事情に通じた人材とかいたのかな当時の元って
中国大陸ならまだ寝返ったやつとか雇えば現地の様子よくわかるだろうけどさ
>>587 当時の元は日本の言葉や事情に通じた商人とかから詳細な情報を得ていたよ
589 :
名無し三等兵:2014/03/13(木) 11:30:02.50 ID:GmoTt7nP
スレチだがいつの間にか「応永の外寇」がかなり朝鮮寄りな記述になってた件
590 :
名無し三等兵:2014/03/13(木) 12:39:27.11 ID:qNtKAsXm
どこの?
モンゴルって大平原を戦うんだろう?
そこで機動性を発揮する。
でも、日本列島には大平原なんてない。国土の8割が山岳地帯。
その山々には数千の砦があり、
しかも、人口密集国で、20万を超える大軍と戦わないといけない。
また、日本は島国なので、モンゴルからの兵站の確保が困難。
遊牧民なんて兵站なんかたいして考えてないだろ
元々略奪のために戦争してた連中なんだし
まぁ橋頭堡も作れなかったんだから山がちの地勢も補給の困難さも大して関係なく負けたんだけどな
モンゴルって人口が少ない。だから、兵力は多くない。
だから、一回では、相手を屈服させられないので
何度も攻撃をしかけ、くるしくなると、モンゴルの大平原に逃げ込み
また、攻撃態勢をととのえて、また、奇襲攻撃をかける。
その繰り返しを何度でもやる。
相手がくたばるまでやる。
一方、中国側はモンゴルを攻撃しようにも
モンゴル人は遊牧民で定住型の都市を持たないので
生活基盤事、大平原に逃げ込むので、攻撃しようがない。
逆に上陸作戦成功してたとしても先の見通しは暗かったとは言える
文永の役で陸戦での戦闘力不足を露呈しちゃってるからね
つーか元が情けない
古代日本ですら海渡って着上陸成功させてるのに
>>591 南宋征服のときは蒙古騎兵に頼らない編成にしたみたいだし、
雲南大理経由でビルマまで征服してるから、もし日本側の状態が悪ければ
何とかされちゃう可能性もあったかもよ
でも雲南遠征では連れてった馬の殆どが死んだらしい
>>589 Wikiのソースがあっちの国の文献だらけでワロタ
599 :
名無し三等兵:2014/03/13(木) 16:18:28.45 ID:GmoTt7nP
>>590 Wikipediaの応永の外寇の記述。
こっちも用心しとかないといつ書き換えられるかわからんな
ネトウヨ警報!
ですがから出てくるな
むしろブサヨが巣から出てくんなって話だよ。
お前らは大人しく近代史で南京ガー慰安婦ガー731ガーって言っときゃいいんだよ。
ブサヨが古代、中世、近世にまでイデオロギー丸出しで出しゃばってきたせいで
今までどんだけデタラメな説が出回ったと思ってんだよ
まぁ元寇に関して言えば戦前の右翼と戦後の左翼が見事にコラボレーションしてるけどな
元軍に関してはもっと強くないとおかしい的な補正入るからね
おまえらも最初に経緯知ったときはアレ?ってなっただろ
元軍は南宋軍と高麗軍中心の編成。
結局、日本の殆ど上陸できず
船の中に二か月間停泊したまま、食料がつき、撤退した。
その帰路の途中に突風で沈没。
モンゴルの遊牧民って
軍隊と生活基盤が一体化している。
彼らは生活基盤事、移動して暮らす。
定住型の都市をもたない。
中国がモンゴルを攻撃しようにも、モンゴル人は生活基盤事
広大なモンゴル平原の中を移動しまくるので
モンゴル人の生活基盤を破壊しようがない。
>>605 元軍は南宋軍と高麗軍中心の編成というのは嘘。
高麗軍と南宋軍は補助戦力で主力はモンゴル軍だよ。
>>607 動員数を見たら、高麗軍と南宋軍が多い。
>>608 動員数を見たら、高麗軍が戦力に占める割合は文永の役が4分の1、弘安の役は14分の1。
主力は普通にモンゴル軍な。
どっちも1万しか出さなかったってこと?
ずいぶん少ないな高麗
言い出しっぺのくせに
元寇のときのモンゴル軍って悲惨な。
二か月間、ずっと狭い船の中で暮らしたんだぜw
博多沖でw
そのうち、食料もなくなり、
船の中は兵がする小便やうんちで悪臭が漂っていたw
風呂にもはいれず、汗臭いにおいが漂う。
そして陸には首切り取ってコレクションする事に異常に拘る猟奇殺人者どもが大挙して付け狙ってる
何地獄だよここ
ハンニバルのアルプス超えに比べればマシだろ
贅沢言うな
江南軍は平戸でちんたらしてた期間長いべ
>>610 それが,国力的に派遣可能な最大数とかなのかな?
>>610 そもそも高麗が言い出しっぺではない。
元史ではまず、フビライ自身が「我は宋と日本を討たんと欲す」と言う所から話が始まるからね。
高麗は太鼓持ちで「アイツらホント生意気っすよね。やっちゃいましょうよ」
って調子こいて煽ったら「じゃあ、お前らが船作れ」って命令されたという流れ。
日本軍は九州博多に4万の兵を動員して警戒していた。それで、東路軍4万と対峙。
この場合、攻撃側が守備側と同数くらいでは、守備側が防衛するのは簡単。
戦国時代の日本国内戦争でも、攻撃側は守備側の3倍の兵力がないと
攻撃側は守備側を攻略できないといわれていたのだから。
海外異民族同士の戦いで、しかも兵站の確保が難しい海を越えてやってくるのだから
攻撃側が守備側の5倍以上くらいの兵力はないと難しい。
つまり、博多の日本軍4万に対しては、最低は20万くらいないと難しい。
しかも、日本軍は博多の九州軍だけではなく、
この時、鎌倉幕府が
九州へ援軍として駆けつける容易をしていたのが8万以上。
元軍は結局、江南軍と東路軍とで合計14万を動員していたけど
九州沿岸部をうろちょとして二か月経過してしまっていた。
元軍が日本を攻略するのは困難。
うまくいっても、九州までがせいぜい。
でも、その後、本州から駆け付ける20万近い大軍と
兵站の確保もできないまま、敵地で戦わないといけない。
地侍の買収もしてないから内陸に攻め込んでもゲリラ戦に悩まされて戦力を集中出来ないよね
九州博多に4万もいたという客観的な史料は存在しないよ。
日本軍4万は『本土防衛戦史ー元寇』が元ネタなんだけど、
元ネタである『本土防衛戦史』自体が史料的な根拠が不明な
憶測で書かれている部分が多いことでも有名だ。
日本軍の兵力に決まった兵数は無く、戦闘が開始されると
徐々に博多に集結していったというのが実態ではなかろうか。
>この場合、攻撃側が守備側と同数くらいでは、守備側が防衛するのは簡単。
守備側が防衛するのは簡単だとしているが、博多湾に現れた元軍は日本軍が
守備しない志賀島に上陸している。そして、志賀島の元軍に総攻撃を仕掛けたのは
日本側だ。つまり、この場合は「元軍が守備側だった」ということになる。
弘安の役における戦いで日本側が守勢側だったことは一度も無く、その後の壱岐島の合戦も
鷹島沖の海戦でも常に日本側は攻勢で元軍は守勢だった。
一次史料でわかってる日本の兵力は
文永の時で総大将の少弐勢が500騎(人数に直すと2000〜3000程度)という事と
弘安の時で鎌倉から遣わされた援軍が6万という事だけだからね
>>617 海は陸より兵站の確保が楽だぞ。
陸では精々2週間分の食料程度しか携帯できないけど、元軍は船に3ヶ月分の
食料を積載してた。
もし陸の戦闘で2ヶ月間も累戦して利あらずなんて状態が続いたら全軍餓死してるって。
622 :
名無し三等兵:2014/03/16(日) 08:01:45.16 ID:4fqZUdVT
>>621 その当時のことを考えろよw
海が楽とえるのは、航海技術が発達してからだ。
それでも、たいへん。
3ヶ月分の食料でどうやって戦うんだw
海を越えてといってもだ、結局は日本を攻略しようと思ったら
日本に乗り込んで陸地戦をしないといけない。
そうなったら、今度は簡単には海を越えて本国には逃げられない。
大陸での戦いだと、モンゴル軍は形成は無理だとみるよ
すぐにモンゴル高原に逃げ込めたけど
今度は、そうはいかない。
いや、荷物運ぶのは陸路より海路の方が楽だろ
それは今も昔も変わらん航海技術?
5世紀の時点で海越えて半島の一部を占拠できる程度の技術はあったわけで
624 :
名無し三等兵:2014/03/16(日) 08:30:58.06 ID:5Tl3rBVJ
滅茶苦茶適当に考えてみる。
一人一日の食料を500グラムとして、4万人だと1日20トン
(水とか燃料を考えたらもっと増えそうだけど,とりあえずの値ということで)
3ヶ月分の食料を準備したということは、20トン×90日=1800トン
これを馬車とかで運ぼうと思ったら、牛馬1頭で2トン運べるとしても
900頭の牛馬が必要で、この牛馬の餌が一頭一日あたり10キロか
そこらは必要で……やっぱり船に積みましょうよ。
輸送の部分だけに注目すれば、馬車よりも船ってのは正しい。
継続して戦争しようとすれば、
船で往復する為に敵地にて港を確保する必要があり、
いったん海に出ると容易に補給ができない海路よりも
道中の村で補給が可能な陸路の方が有利
で、元軍は数か月分の食料を積んで攻め込んだらしいけど、
後続の補給とかがあったかどうかが重要。
無ければ積み込んだ物資だけで戦争して勝利し、敵地を確保して補給しなければならない
これがどれ程困難なのかを考えずに
>>622は輸送の部分だけしかみてない
627 :
名無し三等兵:2014/03/16(日) 09:51:55.85 ID:4fqZUdVT
途中の村で補給って、事前に物資集積してないと難しいのでは?
>>625と同じ原単位(食料は一人一日500g)で考えると、
一人1年分の食料は約0.2トン。4万の兵が1日に消費する食料を
20トンとすると、100人の村人を一年養える量の食料を提供して
ようやく軍隊1日分。例えば「10日分の食料を出せ」と言われて
簡単に出せる程の余剰生産力を持つ村が,そうそう有るだろうか?
だから、5世紀の日本はそれをやったってば
>>626 >積み込んだ物資だけで戦争して勝利し、敵地を確保して補給しなければならない
これって陸路の侵攻でも同じだよ。
陸路だと後続の補給なん不可能なわけで、むしろ海路より条件厳しい。
その上で更に積み込んだ物資は海路の方が陸路より桁違いに多いんだし。
海が戦争の継続にどれだけ有利に作用するかは十字軍の遠征や百年戦争が約100年、
レコンキスタに至っては約800年も継続してることから明白。
軍板民は補給とか兵站とか近代的軍事常識に洗脳され過ぎ
この時代、現地調達して自活が基本だから
いや、だからさ
陸路だって戦略目標落とさなきゃ現地調達なんかできないっての
途中に略奪できる都市あったらそこが目標になっとるわw
だから、持ってきてる物資だけで目標落とさなきゃならんのは陸路も海路も一緒
その上で、海路の方が荷物多く積めるから有利だし
橋頭堡さえ築けばどんどん運べるからさらに有利
>>632 そういえば,何故元軍は、対馬とかを長期間占拠して物資や兵を
集積しなかったんだろう?
いや、したよ
そして満を持して九州上陸
かと思ったら撃退されまた上陸したら撃退されの繰り返し
で、海上ウロウロしてたら台風であぼーん
>>634 てことは、台風が来なくて、撃退され続けるのを長期間やられてたら、
日本側も危なかった可能性があるってこと?
>>635 もう少し長く戦ったかもしれないけど、逆転は難しいんじゃないかな。
初期の戦力差が元軍撃退可能な程度に日本有利だったのだろうし
自分の土地で来た敵を撃退し続ける日本側と、攻め込んだり撤退したりを
繰り返す元軍の消耗速度を比べたら、元軍の方が早く疲弊するだろうし。
さらに、日本側は他地方からの増援を頼れるのに対して、元軍は
疫病その他で戦わなくても消耗していく。
文永の役では一日で撤退したのに、ほぼ同規模の東路軍が粘ったのは
江南軍という大規模な増援に期待していたんだろうけど。
……東路軍は対馬か壱岐に居座って、江南軍と合流後に博多を攻めるべきだった
のではなかろうか。
>>635 長期の襲撃作戦をした場合、どうしたって天候の影響は避けられない
台風やり過ごしたって冬に入れば日本海は荒れるわけだしな
倭寇の逆パターンで沿岸部を荒らす以上は中々難しいと思う
文永の役は撃退されて帰り道に台風
弘安の役は台風じゃなくてただの悪天候
>>637 夏に来ても冬に来ても悪天候。
日本海を渡っての侵略は地獄ですな。
>>638 文永の役って、晩秋から冬になりかけの時期じゃないでしょうか?
なのに台風?
あ、逆か
増援艦隊送る計画ってあったんかね
大陸に十分な兵がいても。増派は相当に困難でしょう。
海上輸送力を限界まで動員した作戦のようですから、
増援を送るには、
1 博多あたりを占領して兵を陸揚げする
2 船は大陸に戻す
3 帰ってきた船に援軍を乗せて、博多まで運ぶ
というピストン輸送する必要があります。
大きな港町確保して第二陣が来るまでの拠点を確立できないとな
そしてそれに失敗した時点で詰んでしまったと
ずいぶんと不安定な侵略作戦ではある
とはいえ、他にもっと安定した作戦があったかというと
……九州の有力武士団を内応させて港を押さえるくらいしか
思いつかないのが正直な所。
文禄の役であっさり釜山確保して2ヶ月後には平壌まで進撃した小西隊は
東路軍より兵力少ないわけで、元寇も侵略作戦としては別に普通だろ。
戦闘で勝てない相手を征服できるような都合のいい作戦なんて無いのが当然。
646 :
813:2014/03/16(日) 18:52:34.60 ID:???
「風待ち」「志賀島」で検索して下さい。
志賀島でよい風向きに変わるのを待つのが、古来からの航海でした。
『老松堂日本行録』でもいいけど。
石築地はないけど、中継港としては重要な志賀島。
647 :
813:2014/03/16(日) 19:06:30.11 ID:???
元史 至元十八年五月条に、
高麗の金州で東路軍江南軍が合流
→それから侵攻
というプランが「風と海流が不便なので」やめたとあります
648 :
名無し三等兵:2014/03/16(日) 22:19:57.12 ID:4fqZUdVT
というか、14万もの兵を動員して
2か月かかっても、九州沿岸部の小さな島を占拠しただけだろう?
平戸島と博多湾沿岸で、2か月間、うろちょろしていたわだから。
それで、どうやって、日本全土を征服するんだ。
九州すら攻略できないのに、四国、中国、畿内、関東へと
どうやって攻め込むのかな?
兵站は追いつかない。
また、大陸のように大平原あるわけではなく、国土の8割が山岳地帯で
狭い道を攻めのぼらないといけないし。
その周囲の山々には軍事要塞があり、あちことにが敵だらけだし。
よって、兵站の確保が困難になってきたから、2か月たったところで
帰路しようとした。その途中で暴風雨で沈没。
明史には明の時代に三回も日本を攻める計画が持ち上がったけど
いずれも「モンゴルですら勝てなかったのに、倭寇で精一杯な俺らが勝てるわけないじゃん」って取り止めになってる。
そんだけ、この遠征の失敗はトラウマになったんだろうなあ
>>644 あるいは、最初の攻撃は次回以降に内応させる事が目的だったかも
元の武威を示して、抵抗したらひどい目にあう→2回目は動員に消極的になる
→2回目で圧勝、あたりを狙ったとか。
結果は、壱岐対馬などで小兵力の部隊は粉砕できたけど、そんなのは当然のこと。
九州で勝利できなければ武威を示すにならんかったということかな。
九州で勝利できなければ武威を示すにならない。
九州で勝利できるなら最初の攻撃で征服すればいいだけ。
結局、最初から最低でも九州ぐらいは征服する目的だったとしか考えられない。
652 :
名無し三等兵:2014/03/17(月) 14:45:45.36 ID:98OZvmkB
いつの時代も兵站の確保は難しい。
兵隊というのは人間だから、当然、飯を食わないと死ぬし
また、糞も小便もするし、衣食住が必要なんだよ。
そういうものを数十万単位で、何か月間も遠征させるとなると
いかに大変か。
三十年戦争のヴァレンシュタインは、兵数が多ければ多いほど兵站の確保は
楽だと言ってる。
九州地方はかなり豊かな地域だから、戦闘に勝ちさえすれば現地調達で十分
やっていけるだろ。
土鍋がこっちに来たか
>>566 兵站で海運が利用できるためには積み込み地と荷降ろし地確保しなければならないわけで
元寇ではか言うんだから兵站楽だなんてとてもじゃないが言えないぞ
元寇は海軍+上陸部隊+補給物資だから兵站の負担は陸上よりきつい
656 :
名無し三等兵:2014/03/17(月) 19:52:41.95 ID:98OZvmkB
>>653 旧日本軍のアホな軍部みたいなこと言うなw
現地調査の難しさを知らんのかw?
対馬とか平戸とか長崎側の島じゃ積み替え無理なん?
逆に元軍で現地調達できない消耗品となると
矢毒とかてつはうとかそのぐらいだろ?
というか、皆殺しにして根こそぎ略奪という手段以外で
数万の軍隊に行き渡る食料が有るとなると、数万以上の人口を持つ
中世としては結構な都市に限定されるんじゃないか?
人口千人の町を根こそぎにしても、得られる食料は最大で千人の1年分程度
⇒4万人なら40分の1年=9日分くらいにしかならない。
人数が多い方が現地調達が容易って……畑作るとかの話なのかな?
661 :
名無し三等兵:2014/03/17(月) 21:45:20.79 ID:98OZvmkB
中世の町って、博多でも10万人だけど、
それらの街の住人が、平穏に食料を渡すわけないし
100歩ゆずって、おとなしく外国の侵略軍に食料を渡すとしても
その街は自給自足しているのではなく、
広範囲の農村などから食料を調達するわけだから
侵略された街へは、食糧調達網が崩壊するのに、
どうやって食料を入れるのか?
戦争では兵站の確保が常識中の常識。
大軍になればなるほど、現地調達は不可能になる。
日本国内戦争である関ヶ原や大坂の陣などでも、現地調査に限界があるんだよ。
たとえば、大坂の陣なんて、ほぼ徳川幕府が全国制覇していて、
65万石の豊臣家を攻めたんだけど、豊臣家が大坂城に立てこもって
意外に頑張ったので、20万の幕府方が兵站の確保に苦労して
徳川家康は焦ったんだよ。
国内ですら、20万の大軍の食糧補給を確保するのに、大慌てするのに。
>>661 >それらの街の住人が、平穏に食料を渡すわけないし
おいおい何のための武力だよ・・・
モンゴル軍に平穏に食料を渡さなかった街の住人は皆殺しにされるだけ。
モンゴル軍が去った後で侵略された街への食糧調達網が崩壊しようが知ったこっちゃない。
占領した街で食糧を現地調達して、その食料が尽きる前に次の街を攻略する。
モンゴル軍はそうやっていくつもの国を滅ぼしたんだよ。
>>661 元軍14万人がみんな博多に駐屯してたらたしかに現地調達は成り立たないだろうな
実際は広範囲に分散して、南宋人は農業すら始めるだろうけど
664 :
名無し三等兵:2014/03/18(火) 14:22:46.34 ID:sOVOePW9
>>663 どうやって、短期間で農業ではじめて、生産を上げるんだよw
その間、戦い続けないといけないんだぞw
土地勘ないところで、自分たちよりも大軍と戦わないといけない。
665 :
名無し三等兵:2014/03/18(火) 14:25:00.43 ID:sOVOePW9
日本国内戦争ですら
豊臣秀吉とか徳川家康が、20万以上の大軍で遠征するのに
兵站の確保のために、ちゃんと食料を用意していくのに。
現地調達はそんなに簡単ではない。
モンゴル軍って大平原では強いけど
実は市街戦は、そんなに強くない。
日本なんて、山ばっかで大平原ないしな。
>>665 いや、モンゴル軍は基本現地調達だよ。
そもそも兵站の確保って、どこを根源地にして、どの程度の物量が必要で、
どんな輸送手段使ってたと考えてるの?
ちょっと計算すれば、モンゴル軍の軍事行動を支える手段は、物理的に
現地調達しかありえないって分かるから。
モンゴル軍は何のために馬やら羊を軍隊に同行させてんだよw
その意味でも海上進攻はモンゴルの兵站に大きな負担なんだよな
>>668 羊って動物は1日の行動範囲が6キロ程度でしかなく、そんなもの連れて戦闘
なんて不可能なの。
モンゴル軍は草原地帯なら遊牧生活しながら移動できるけど、農耕民族の国を
征服するためには草原地帯を出なくちゃいけないじゃん。
足手まといになる羊などの家畜は草原地帯に残して行かなくちゃいけないし、
そこから先は現地調達しか食糧確保の手段は無い。
>>669 行動範囲について根本的に間違えてるぞ。ユーラシアの草原地帯はおろか
イベリア半島やギリシャ半島でも普通に羊の大移動してますがな
モンゴルは遊牧民だから、生活基盤事
戦地へ遠征するんだよ。
彼らは定住生活ではなくて、移動しながら生活しているわけだから。
常に兵站を確保している。
でも、日本みたいな島国へ攻め込むとき
こういったモンゴルの戦略が破たんするだろうw?
海を越えないといけないから。
モンゴルが強かったのは、少ない人口の割には動員兵力が多かったのと
移動生活している遊牧民だから、生活基盤事、戦地へ遠征できるし、
また、敵に攻撃されると、生活基盤事、モンゴルの大平原に
逃げ込むことが出来た。
そういう意味で、モンゴルは兵站の確保が容易だった。
でも、こういったモンゴル得意の戦術は
日本などの島国に攻め込む場合、困難になるんだよ。
実際の所、元軍は何ヶ月分くらい食料持ち込んでたんだ?
補給と言うより初っぱなに持ち込める量が圧倒的に多いのが海路の強みだが
行動半径って表現が気になるな
>>675 行動半径6キロなら移動牧畜してない状況でも一日12キロ以上普通にうろついてることになるんだが大丈夫か?
>>673 生活基盤事、戦地へ遠征なんてしないよ。
戦地でのモンゴル軍の編成についての記録には家族や家畜なんて含まれてないじゃん。
生活基盤事は後方の草原地帯に残して、戦闘員だけが戦地へ遠征する。
したがって兵站は現地調達に頼るしかない。
>>678 トルコ・モンゴル系の遊牧民が遠征行くとき一切合財連れて行くのは常識だぞ……
だからこそバトゥなんかも戻らずにそのままキプチャクに定着したわけで
アウルクについて全く知らない方がモンゴルの兵站について一生懸命語ってたとはw回線切って吊ってこいよ
現地調達?
何も行動しないでターンエンドすると5%くらい回復するんだろ?
南宋攻略時みたいな非モンゴル人特盛りの混成部隊だと思うんで上の議論とは余り関係ないと思うけど、
一応モンゴル軍も第一次ベトナム遠征では焦土作戦やられて撤退、第二次では焦土作戦の上に補給部隊も撃破されて撤退中に敗北してる
別に現地調達っつっても、都市を降伏させれば備蓄を供出させてもいいし、諸侯が降伏or協力すればより大規模な補給にも資する
ちょっと特殊な形式だが、ブランデンブルク公とかにタカりまくってフェルディナントに抗議されたヴァレンシュタインみたいなんもいるし
焦土作戦の怖いところは、これが機能しなくなる点な訳で
大北方戦争で、ピョートルの焦土作戦と補給部隊の遅れ(後に物資喪失)で現地調達の為にウクライナに転進したカール12世とか
智将は敵に食むっつーし、大概の軍隊は後方からの補給と現地調達、両方やってたんちゃう?
どっちに比重を置いてたかはケースバイケースやろうけど
元寇のときに後続の補給船団が来たのかどうかは知らない
どっちにしろ都市の制圧すらままならないなら海路も陸路も関係ない
むしろ初回に持っていける荷物が多いから海路のが有利
家畜どれくらい持ち込んでたの?
元寇が現地調達できなかったのは事実だけど、
それは「海路だったから」じゃない
単純に「戦闘に負けたから」
そんだけ
壱岐対馬での残暴が返って日本側の結束を強くしてしまったね
ユーラシア中央の民は押し並べて恐怖を撒き散らすと逃げ去ってしまう習性があったんじゃないかな
それが日本にも通用すると同じ調子で殺戮すれば恭順又は内部分裂すると勘違いした
>>689 君は一体何を言ってるんだ?妄想ならチラシの裏に書いとけ
>>691 普通にヤギ飼ってるわな。ヤギが問題なのは野生化や過放牧したときであって
個体数しっかり管理して飼う分には特に問題にならない
第二次世界大戦の大日本帝国の軍部も
現地調達して来いと言って、軍隊を送り出したんだよなw
そして、戦う前に大量餓死w
もう、あほかとw
日本では、今も昔も、兵站の確保への認識が甘すぎる。
それだけ、数万の大軍を遠征させるには、
衣食住の確保が必要なんだよ。
兵隊は人間なんだから。
羊ってグレイザーだから意外と食えるものが限られるんだよな
1918年に人口65万人だったモンゴル遊牧民の生活を支えていた家畜の数は、
ラクダ22万9000頭、馬115万1000頭、牛107万8000頭、羊570万頭、山羊148万8000頭。
仮に弘安の役の兵数14万人の兵站を遊牧で支えようとしたら、その約5分の1で
ラクダ4万5800頭、馬23万200頭、牛21万5600頭、羊114万頭、山羊29万7600頭が必要。
こんな数の家畜伴って軍事作戦なんて現実には不可能だけどね。
羊って1500頭前後まで牧童一人で管理するから114万頭でも1000人もいれば管理できるな
どこが不可能なんだ?
>>696 こんな数の家畜が集中したら、その周辺地域の草原をあっという間に
食い尽くしちゃうじゃん
>>697 いや、まったく。一度に全部随伴させる必要ないしその都度屠畜していくから
>>698 これってモンゴル人が毎日ギリギリの生活を営むのに必要な数だぜ。
一度に全部随伴させないなら、足りない分は当然現地調達で補うしかないよな。
>>699 牧畜の家畜の数は繁殖用と毛が少なからぬ量を占めてんだがそれまで食うのかよ
言ってる意味がさっぱり分からんぞw
>>700 生活基盤事、戦地へ遠征してたんだろ?
繁殖用と毛のための家畜も必要じゃん。
でも解答にはなってないな
>>681はコピーした奴持ってるんだけど、モンゴル軍が現地調達に頼らず、
自立して軍事行動できたという証明には一切なってないんだよね。
現地調達に頼ってたヨーロッパの軍隊にも輜重部隊は居たわけで。
>>682に至っては、平時の自国内の統治制度である屯田やイクターを兵站として
語ってて、正直ちょっと兵站に関する認識おかしくね?って感じ。
>>706 それはお前の認識がおかしいだけ。イクター制や屯田が平時の統治制度ってどんな冗談だ
現地調達しか(ここ重要)手段ないと言ってる相手にモンゴル軍(少なくとも中核の遊牧民)は生活基盤
連れて行軍してるから兵站は同時代の中では卓越してるよって話じゃないの?
でもって生活基盤連れて移動してる根拠に
>>681,682あげてるんじゃ
元寇の話と一般論と混在してる
軍隊ってのは、何にも生産しない、ただ破壊するだけの
非効率的な集団なんだよ、本来は。
そんなのが、数万規模、動くんだよ。
そいつらを破壊集団として機能させようと思ったら
そいつらを生かす衣食住が必要になってくる。
なぜなら、そいつらの一つ一つは、ただの人間なんだから。
飯を食わないと死ぬし、寝ないと死ぬし、小便や糞もする。
働き続けると過労で倒れるから、適度に休まないといけない。
よって、兵站の確保は重要になってくる。
とくに大軍になればなるほど、そうなってくる。
711 :
ハンニバル:2014/03/19(水) 08:26:18.67 ID:???
「兵站より相手が決戦に出てきてくれないことが困ります」
どこの軍でも戦闘以外の業務担当の方が人数多い
>>708 でも、史料にはチンギスのホラズム遠征やオゴデイの金国遠征の際、
生活基盤を残して出陣したと書いてあるわけだろ
>>709 元寇に関して言えば兵站続かなくて負けたってわけじゃないからな
敵地に2ヵ月もいて、何の戦果も上がってなけりゃ
兵站しっかりしてても撤退せざるを得ないだろう
弘安だと江南軍と合流する前の高麗方面軍が、兵糧あと1ヶ月分だよ!とか言ってたような
まぁ江南軍のが数多いから物資分けて貰えば問題なさそうだが
あと文永はともかく、弘安は台風来なきゃまだ粘ろうとしてなかった?
ここまで真水調達の話題なし
717 :
名無し三等兵:2014/03/19(水) 20:34:08.90 ID:U0zK++C2
豊臣秀吉も15万の大軍を遠征して
3カ月経過したあたりから、兵站の確保が難しくなったな。
元寇も2カ月で兵站の確保が難しくて撤退。
718 :
名無し三等兵:2014/03/20(木) 00:39:20.38 ID:itR24a1o
元寇で兵站の問題は起こってない
719 :
名無し三等兵:2014/03/20(木) 11:09:38.63 ID:7xpJISpK
2ヶ月近く戦ってたのは東路軍だけっしょ
江南軍は遅れて来たから、出航からの日数でも1ヶ月半ぐらいじゃね
兵糧については、台風の後に張禧が因粮於敵以進戰って発言してるね(元史)
東路軍は江南軍と合流する前に、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来って発言が高麗史にある
720 :
名無し三等兵:2014/03/20(木) 19:29:34.05 ID:ViejEQhf
>>716 その件は正直、どうやったのか想像もつかない。
721 :
813:2014/03/20(木) 20:07:30.28 ID:G0HIVL+Z
『大乗院寺社雑事記』文明五年六月十七日条「渡唐船巡風[木尓]」
言い回し、漢字は現代風に改めた。
--引用
日本国より大唐国は未申(西南)の方に相(あい)当たる。
春は肥前国大島小豆浦(現・的山大島。的山=「あづち」)より船を出し、五十里北なり。
秋は同国五島ノ島(奈留浦)より船を出し、五十里南なり。
その故は、八月より二月までは北風(西北季節風)、三月より七月までは南風なり(東南季節風)。
秋風をば野分ともカリワタシとも云うなり。
--ここまで
※大陸-日本間の往来には、季節風を利用する。
春の季節風は北寄りで、秋の季節風は南寄りである。
春は北寄りの風に押され、南下させられてしまうので、出発地をあらかじめ北にずらす。
五島列島まで南下せず、鷹島の西北にある的山大島で順風を待ったのである
--引用
帰朝は五月以後、未酉風(西風)船を出すなり。この風をば「マセ」といふなり。
此の「マセ」は、南風になることあり。また「左回り」とて辰巳(南東風)になることあり。
そのときは高麗島に着くことあり。
春の帰朝は大いに然るべからず云々とて此を嫌うべし(春に日本へ帰国するのはよろしくない)、風が北より吹くゆえなり。
--ここまで
※大陸→日本列島は、到着目標への「命中率」が下がる。
本州や九州は、大陸より小さいので。
722 :
813:2014/03/20(木) 21:35:42.63 ID:G0HIVL+Z
『松浦党研究』に元寇特集のある号があって、
「日本〜大陸間は5〜15日で渡洋できる」と書いてあったので、元ネタ探しをしていました。
所要日数の話です。
『日本考』李言恭ほか著,四庫全書収録。中華書局出版,1983
明代万暦年間の史料だが、順風を得た帆船による、大陸〜日本間の所要日数の目安として。
--引用
もし東北順風を得れば、五日五夜で普陀山(舟山群島、上海の西南)に至る。
……中略……
たとひ風不便なるも、半月有余を過ぎず、已(すで)に中国に至る。
--
これは日本→大陸行きではないか、逆はどうなのか?と聞かれると、
『策彦和上入明記』では5/24に風待ち開始〜6/20出発〜6/26五島列島に到着
この場合は7日間で渡洋していますね。
723 :
813:2014/03/20(木) 22:02:05.51 ID:G0HIVL+Z
すみません。
>>722は「普陀山(舟山群島、上海の東南)」でした。
で、真水調達の話。
『日本図纂』鄭若曽。1561年。
胡宗憲の配下として倭寇対策に当たっていた人が書いたもの。
『船』(須藤利一,法政大学出版局,1968)
--引用
冬の寒いときは、まあよろしいが、
五、六月ごろなどは、水を桶の中に入れておくと、二・三日で腐り、
きわめて清冽なものでも数日も持たせておくことが出来ない。
……中略……
日本人には一つの秘法がある。
泉の水を煮ること一、二沸、これを瓶(かめ)のなかに入れておけば、
よくもって腐らないという。しかし、これも半月以上長くはもたない。
--ここまで
現代に生きている私としては、「真夏は水が二三日で腐る」というのが驚きで。
※軍事板では常識だ、というなら申し訳ない。
弘安の役の江南軍は、水が腐りやすい時期を避けたかったと思うんですが。
6/18出発(一部だけかも)というのは、書類上だけの話なのか、
それとも江南軍秘伝の方法があったのか(あるような気がする)。
724 :
名無し三等兵:2014/03/20(木) 22:22:06.33 ID:ViejEQhf
>>723 真水の話、感謝です。
木の桶を使用すると、水が腐りやすいというか雑菌が繁殖しやすいのでしょうね。
沸騰させて陶器の瓶に入れるというのは、煮沸滅菌しているのでしょう。
密封が完全ではないので、長期保存までは出来ないと。
細菌対策としては、湧かして飲めば腐った水でも一応飲めます。船の上で何万人に
お茶を出せるだけの燃料があるのかは疑問ですが。
水に関してはもう一つ、単純な量の問題もあります。
一人1日1リットルの水を配給(現代の感覚からすると不十分な量ですが)したとしても
1万人に配れば1日10トンの水が必要です。東路軍は4万人が2ヶ月粘ったとして
10トン×4×60日=2400トンの水が必要です。どこかの島で給水してたのでしょうか…
725 :
813:2014/03/20(木) 23:48:54.25 ID:G0HIVL+Z
>>724 ご教示ありがとうございました。
当時の木造船では、火の取り扱いに注意していたでしょうから、
「沸かして飲む」にせよ、何回も出来る方法ではなさそう。
で、追加。
水の分量。日本人の場合ですが、体格的には蒙古・高麗も同様かと思いますので。
出典は『日本図纂』鄭若曽。
>>723に同じ。p.90。
--引用開始
およそ、日本船(倭寇)が来るときは、人1人について水三、四百斤、約七、八百碗を携帯する。
毎日五、六碗ずつ用い、非常に大切にして欠乏に備えている。水味は海水とは違う。
--ここまで
『日欧文化比較』ルイス・フロイス,岩波書店『大航海叢書』に収録(以下は
>>723『船』の孫引き)
第十二章 船とその慣習、道具について
--引用
我々の船には長期に堪える水をいつも積んでいる。日本の船はほとんど二日毎に水を積む。
我々の船は、昼も夜も航行する。日本の船は港にとどまり、昼間航行する。
--ここまで
上にある日本船は、おそらく沿岸航法用だと思います。
726 :
名無し三等兵:2014/03/21(金) 07:59:49.37 ID:GLTDAW8u
飲用水って酒じゃないのか
727 :
名無し三等兵:2014/03/21(金) 16:39:47.21 ID:1GIThs+y
そういえば備前焼の甕に溜めておいた水は腐りにくいらしいな
728 :
名無し三等兵:2014/03/21(金) 20:03:51.88 ID:6CJ9+rey
そういえば気泡が多く入ってて風通しがいいとか聞いたことあるな
729 :
名無し三等兵:2014/03/22(土) 19:34:26.61 ID:+Vr6kumN
(あえてセンセーショナルに言えば)相撲界は現代の元寇?
730 :
名無し三等兵:2014/03/22(土) 21:49:40.26 ID:uh7FSh/V
交流でしかないから違う
731 :
名無し三等兵:2014/03/24(月) 09:51:07.44 ID:XkNW1k5t
そういえば英国海軍なんかは樽内に青藻とか生えてても飲んでたとか何とか
強制ID制仮導入ノ是非ヲ問フ投票ヲ4.19ヨリ決行セリ!総員参加セヨ!自ラノ意思ヲ示ス戦ヒニ!
【4/19〜4/25までの期間、強制ID表示の是非を問う再投票を行います】
議論中失礼いたします。
皆様お気付きのように3/19に、軍事板では任意ID制から強制ID制への変更が行われました。
今回の導入は飽くまで仮導入のため、実施一ヶ月後に是非を問う投票を行います。
投票当日に向けての議論は現行自治スレにて、自治スレ他で指摘された強制ID制導入
に伴うメリット・デメリットのまとめはまとめウィキにて行っています。
自治スレッド53(ID強制表示本採用投票4/19予定)
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1395286401/ 軍事板強制ID制メリット・デメリットまとめWIKI
http://idtroops.wiki.fc2.com/ これらを参考に、強制IDに賛成の方も反対の方も共に、投票による意思表示をお願いします。
733 :
名無し三等兵:2014/03/31(月) 09:19:45.83 ID:SMz3iAqV
腐る原因は水の中に混入してる有機物と細菌だから
木桶で輸送&保存だとあっという間だろうな
734 :
名無し三等兵:2014/04/01(火) 09:53:14.73 ID:Oiy4ZQ5N
当時はまだ甕だと思われ
735 :
名無し三等兵:2014/04/02(水) 16:29:11.56 ID:PY/uYyT9
しっかし、なんで元は日本、ベトナム、ジャワなんてところに手を出したんだろう?
最大最強の敵カイドゥとの決着がついていないどころか、カイドゥ側に寝返る皇族
が出たりしていた、この時期むしろ劣勢なんだけど。
736 :
名無し三等兵:2014/04/03(木) 00:21:18.48 ID:u2l7SZEJ
日本は元々南宋と並ぶ攻撃目標だった。
ベトナムは一度は属国にしたのに反乱を起こしたから。
ジャワは知らん
737 :
名無し三等兵:2014/04/03(木) 02:21:11.83 ID:IGaViQ1x
一つずつ勝ちきってから次ぎ行けよって思うけど
各方面への侵攻を提案する派閥があっていろいろ面倒だったりするんだろうね
738 :
名無し三等兵:2014/04/04(金) 16:00:10.24 ID:PZz+1+eh
元にとって最大最強の敵は日本だよ。
例えば、文永の役と南宋侵攻作戦は同時に開始されてるけど、クビライは
そのタイミングに合わせて自分の娘を高麗王に嫁がせてる。
明らかに日本遠征の方を重視してるという意思表示。
弘安の役の際には中央アジア戦線から兵力引き抜いて江南軍に投入してるし。
カイドゥとの決着より日本遠征が大事ってのがクビライの判断なのね。
739 :
名無し三等兵:2014/04/04(金) 16:43:35.95 ID:W9yZFCQv
>>735 対カイドゥ戦はモンゴル騎馬軍団
日本やベトナムやジャワへの遠征は中国人歩兵
これは陸軍と海軍のように別の兵種だから
地形や気候などの制約でどちらかを援軍
とする事が極めて困難だった
中国人歩兵は北方平原の寒さに耐えられないし
モンゴル騎兵を下馬させて歩兵戦に使うのは無駄
740 :
名無し三等兵:2014/04/04(金) 20:02:00.11 ID:XzOpCdWZ
>>738 いや、どっからどう見てもカイドゥのほうがたちが悪いでしょ。
巧みな外交と謀略でもって、キプチャク汗国と同盟を結び、チャガダイ家を
支配下に置き、元朝内部まで調略の手を伸ばして、シリギの反乱を
引き起こしたりとクビライをきりきり舞いさせているし、
戦上手でもあって元軍は連戦連敗で一時はカラコルムまで迫っている。
それに大体、最強の切り札バヤンは対カイドゥに使っているし。
741 :
名無し三等兵:2014/04/05(土) 06:56:18.97 ID:+yEGpv7I
>>739 ナヤンの乱では中国人歩兵が北方平原の対モンゴル騎兵戦で大活躍してるし、
クビライは弘安の役にモンゴル騎馬軍団を大量投入すると高麗王に約束してる。
>>740 バヤンなんて最強の切り札じゃないぞ。
クビライの中では文永の役よりランクが下の南宋戦を指揮しただけで、
それ以前の戦歴はゼロ。
二線級の武将場バヤンが二線級の戦線である対カイドゥ戦に回されただけ。
バヤンの南宋戦と同時期の文永の役に投入された劉復亨とかはモンケ・クビライの
2代続けて皇帝親衛隊に所属し、アリクブケの乱ではカラコルム占領を任されてる。
バヤンより明らかに格上じゃん。
742 :
名無し三等兵:2014/04/05(土) 12:48:16.57 ID:x8bHTYjl
バヤンをフビライの切り札とか言う人はコーエーゲーのやりすぎですよっと。
743 :
名無し三等兵:2014/04/05(土) 17:09:31.62 ID:AUhPgeEh
>>741 >クビライは弘安の役にモンゴル騎馬軍団を大量投入すると高麗王に約束してる。
ソース希望
大量の騎馬軍団なんて船で運べるの?
744 :
名無し三等兵:2014/04/05(土) 19:59:31.69 ID:0rDdopBC
>>741 おいおい、二線級の将を筆頭宰相兼親衛隊司令官兼首都駐留軍司令官に
任じたりはしないでしょ普通。
745 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 02:00:56.10 ID:jOqy/516
元寇は歴史的な戦争だよ。
当時の海戦としては、動員兵力が桁違い。
746 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 02:39:59.55 ID:JllgJ5PQ
日本は強敵ではあるが、放置してもあんまり害無いよな
747 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 10:26:01.21 ID:YnoDTnph
>>744 残念ながら対日機関である征東行中書省トップと兼任の高麗国王の地位は、
「諸王・駙馬の第七位」(集史テムル・カアン記)、「位は親王と同等」
(高麗史)、「席次は元朝帝室の筆頭姻族ウンギラトの次位」(益斎乱藁)
とクビライ自身の親族にほぼ匹敵し、元の朝臣なんかより高いんよ。
元にとって高麗の戦略的価値は対日本の最前線に位置してるってのが唯一で、
それがこれ程優遇されてるってのは、日本こそ最大最強の敵ってこと。
748 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 17:08:28.91 ID:KAlUQ9hv
>>747 そういう格式が問題になるのなら対カイドゥ戦には皇子のノムガンやカマラそれから、
皇太孫テムルまで投入してるし、カイドゥと連携したナヤンの反乱の時にはクビライ自身が
親征している。
どちらを重視しているかは自ずから明らかだね。
749 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 17:37:33.09 ID:YnoDTnph
>>748 ナヤンの反乱なんて東アジアの対日戦の利権を巡る反乱じゃん。
だから鎮圧軍には高麗軍をはじめ元寇の参加部隊が勢ぞろい。
カイドゥに対しては牽制だけにとどめる一方で、クビライ自身が親征してるんだから
完全に日本>>>>カイドゥだろ。
750 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 17:48:25.98 ID:KAlUQ9hv
>>749 本当に日本をそこまで重視しているならナヤンの反乱もバヤンに任せて、
第三次遠征を強行しているでしょうが。
だけど、実際には第三次遠征は中止され、高麗に集結していた精鋭部隊を
全て引き抜いてナヤンにあてているし、鎮圧後も激化する一方のカイドゥの
攻勢に対応すべく皇太孫テムルとその配下の精鋭部隊をカイドゥに対して
投入し、日本遠征は計画すらされなくなっている。
751 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 17:55:11.06 ID:YnoDTnph
>>746 モンゴル帝国側はそう考えてなかったよ。
「小邦は日本に隣接する極辺の要地であり、中原から4000里もはなれている。
国王がながらく不在では、もしも不測の事変がおこった際に報告できず、
その得失は軽微ではない。これについて某等は日夜危惧し、安心できずにいる。」
(1324年)
「高麗は倭境に隣接しています。いまその国王はながらく都下に滞在しているので、
(すみやかに)帰国させるように願います。」
(1330年)
「(高麗は)いまだに服属しない海中の倭に隣接しているため、事変の発生を
危惧しないわけにはいかない」
(1339年)
「本国は日本というまつろわぬ国に隣接しており、1日として国主なしではいられません。」
(1348年)
752 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 17:59:21.38 ID:YnoDTnph
>>750 第三次遠征なんてやったら今度こそ元朝は滅びちまうって朝臣から大反対
されたんだが。
元の日本重視は征服対象としてではなく、モンゴル帝国を上回る軍事力を
持った脅威としての重視だから。
753 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 18:02:34.52 ID:KAlUQ9hv
>>751 元朝というより、高麗が危機感を持っているだけじゃん。
元にとってはクビライの皇子カマラを散々に打ち破り
カラコルムにまで迫る勢いのカイドゥのほうがはるかに危険な相手。
754 :
名無し三等兵:2014/04/06(日) 18:07:47.15 ID:KAlUQ9hv
>>752 日本の軍事力が元のそれを上回るというより、ただ単純に財政上の問題でしょうが
勝手に話を作らないでくれ。
それに何度も言っているけどカイドゥをいつまでも放って置くわけにも行かなんだし。
755 :
813:2014/04/06(日) 18:13:32.73 ID:ehpzoF6I
756 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 01:44:29.72 ID:jsgRt274
モンゴル自体は動員兵力は少ない。
だって、モンゴル人の人口は少ないわけだし。
757 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 08:31:45.34 ID:gsh4BgPu
モンゴルとひとくくりにしてるがチンギスハンのクリルタイの時点でさえ異民族の集団だから
純粋のモンゴル人の動員兵力なんて考えるだけ無駄じゃない?
758 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 09:09:52.94 ID:RN6TvsXX
759 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 10:09:35.48 ID:A7E8SKwm
>>754 元の首都は大都だよ
地図見れば日本とカイドゥのどちらが脅威か一目瞭然
実際、クビライはカイドゥより日本の方を重視してたし
760 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 10:28:26.23 ID:gsh4BgPu
あの時代、海路で日本から寧波目指すことは可能でも北京を目指すのはめちゃくちゃ難しいぞ
761 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 11:16:36.43 ID:A7E8SKwm
>>760 元朝って江南地方で収穫された穀物を全部海路で北京に輸送してたんだよ
762 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 11:25:09.30 ID:gsh4BgPu
沿岸航海と外洋をなぜ同視してるの?あの時代に日本から軍で北京目指したら一旦、
広州に軍送ってそこから北上するか、秀吉のように朝鮮半島通るかどっちかしかできんぞ
763 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 11:57:53.23 ID:A7E8SKwm
>>762 世界の海戦史見れば、あの時代に海運と軍事遠征の違いなんてないよ。
航路があればどこにでも軍を船に乗せて送れる。
764 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 12:03:17.79 ID:gsh4BgPu
>>763 だからどうやって軍を送るのよ。元寇のように中国南方から九州北部、対馬目指すという風、海流ともに
恵まれてる状況でも上手くいかなかったものがどうやって、日本から北京まで軍送れるの?
高麗が元側だから朝鮮半島に沿って航海することもできない
765 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 12:08:58.05 ID:A7E8SKwm
>>764 だから普通に船に乗せて送るんだよ。
倭寇は簡単に高麗沿岸の制海権獲ってるじゃん。
元寇が上手くいかなかったのは日本が軍事的にモンゴル帝国より強かったからだろ。
766 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 12:22:13.28 ID:gsh4BgPu
>>765 高麗沿岸の制海権を倭寇が取ってる?前期倭寇においてもそのような記述はないな。倭寇の始まりを
14世紀前半としても中半には高麗は沿岸防衛に成功し後半には当時の倭寇の拠点であった対馬に
遠征してる。まあその結果、武官がまた権力もって高麗が終わったんだけど。このことは元の朝貢国である
高麗ですら倭寇を抑えられたことを示し、軍事的に日本がモンゴルより強いとの主張の反証になる
767 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 12:40:10.10 ID:A7E8SKwm
>>766 沿岸防衛に成功しなかったから高麗は滅んだんだよ
768 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 15:45:22.98 ID:gsh4BgPu
うん?高麗は統治能力失って滅びたわけでないぞ。クーデタによる政権の交代と
領域国家の崩壊は全く別のもんだぞ。倭寇なんかよりはるかに高麗に大きな打撃を
与えた紅巾軍も撃退できてるように軍制は立派に機能してたわけで
769 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 15:48:08.47 ID:jsgRt274
>>757 モンゴル軍って、言うほど兵力は多くない。
3万前後の兵力で戦うことが多い。
基本、奇襲と撤退を繰り返し。
動員兵力では、農耕民の中国や日本のほうが多くて当たり前。
770 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 19:31:01.02 ID:wnBm+DcO
なんで話がこじれてんのかわかんないけど
日本は南宋と並んで重要な攻撃目標で一大プロジェクトだったけど
ハイドゥがかき回したりナヤンが反乱起こしたりベトナムが独立したりで
もはや遠征どころじゃなくなったってだけのことでしょ。
国内の兵力と金バカスカつぎ込む必要がある計画なら尚更のこと。
771 :
名無し三等兵:2014/04/07(月) 20:05:41.80 ID:F5imNcSo
というか、元が他国を攻めまくる目的って、世界征服で良いの?
もしそうだとしたら、日本が強かろうが弱かろうが、あるいは
征服することに利があろうがなかろうが攻めてくるんだろう、
772 :
名無し三等兵:2014/04/08(火) 07:23:18.53 ID:jciaEcIJ
モンゴルは征服したと言っても、モンゴル人の人口が少ないので
征服地の要所を抑えているだけで
征服地の大部分は、これまでどおり、現地人は暮していたんだろう?
773 :
名無し三等兵:2014/04/08(火) 12:28:02.79 ID:QCQtsOm8
紅巾軍って盗賊と流民中心だよねw
そんなのに首都占拠されちゃう程度だよ
高麗軍って
774 :
名無し三等兵:2014/04/08(火) 18:06:34.45 ID:lqptON0H
>>772 現地(旧)政府機構に強要すれば領域支配は可能
775 :
名無し三等兵:2014/04/08(火) 19:21:22.21 ID:SScrFQ+s
>>773 流民が一体どれだけの王朝、帝国を滅ぼしてきたのか知らないのか?
中国の黄巾の乱とか、東地中海の前十二世紀のカタストロフ、
それから、ゲルマン民族の大移動なんかも一種の流民みたいなものだし。
776 :
名無し三等兵:2014/04/08(火) 19:23:16.37 ID:VuI/yYNN
本拠地を捨ててそのまま移り住む気で乗り込んでくる連中はそりゃ強いわ
777 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 07:03:06.11 ID:jL2lqmog
>>768 紅巾軍の与えたダメージなんて倭寇に比べたら屁みたいなもんだよ。
朝鮮半島での穀物の流通ってほぼ全てを海運に頼ってるん。
倭寇はこれを集中的に狙ったため高麗は国家機能が完全にマヒしちまったんだよな。
モンゴル軍が陸地を30年間暴れまわっても滅びなかった高麗が倭寇によって衰退して
滅亡したのはそういう理由。
778 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 08:33:55.04 ID:/G+2GTyl
第一次東征のすこし前、高麗の役人が「財宝が欲しいならやるから、とにかく
人を殺さないでくれ」という説諭を倭寇に対して出そう、という提案をして、
弱腰過ぎるという理由で採用されなかった、という記事があったように思う。
高麗軍の壱岐対馬の暴挙は倭寇に対する報復、あるいは恫喝の目的があったのでないか?
779 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 11:24:18.09 ID:v+EF7vcf
780 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 18:58:25.32 ID:9uukD4jP
>>777 国家機能がマヒした国が軍隊動員できるの?奇妙なこと言ってるなー
781 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 22:02:23.34 ID:jL2lqmog
>>780 倭寇によって府兵制度は崩壊したから高麗は国家として軍隊動員できなくなってたよ。
だから将軍たちが現地で招集した農民とかを私兵化して対応してた。
782 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 22:12:02.74 ID:8cGXuxP8
結局、なんで元は勝てずに退却したの?
783 :
名無し三等兵:2014/04/09(水) 22:17:21.78 ID:w26ttJwd
戦場で弱かったから
784 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 08:56:00.82 ID:WKdJCipt
>>781 うん?軍閥の成立は倭寇の気がするが?倭寇が朝鮮半島に積極的に略奪来た時期って
軍閥が配下の兵を納哈出相手に北方に動員かけてる時だぞ。だから北方が一段落すると対馬まで
遠征かけて前期倭寇を終息させたんじゃないか
785 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 13:08:05.91 ID:i55UaG9s
李氏朝鮮の成立原因が倭寇なんだから
倭寇によって高麗が蹂躙されて国が崩壊したので
北方出身の李家の私兵で倭寇退治に成功したから李氏朝鮮が起こった
786 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 14:42:28.69 ID:WKdJCipt
いや、李家の武臣としての権力基盤成立は倭寇が来るより前だぞ。
他の武臣との権力抗争の中でクーデタで高麗王朝まで倒したってだけで
787 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 15:45:35.54 ID:DN0ItPde
>>784 高麗は前期倭寇を終息させてなんかないよ。
南北朝の内乱が九州でも平定され、朝鮮半島で食糧強奪してた南朝勢力が掃討
されたから終息しただけ。
高麗は軍事的には全く無能だった。
半島南部の安全保障のため今川了俊の派遣した日本軍に駐屯してもらってた
ような状態で、高麗が倭寇を終息させたとか厚かまし過ぎ。
788 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 15:52:11.63 ID:p8wsSf0B
応永の外寇のおかげで倭寇が一端収束したとか誰の説だよ?
789 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 16:24:19.96 ID:WKdJCipt
>>788 そっちより朴?の対馬攻撃の方。終息は言い過ぎだがその成果が
なければクーデタ起こす威信にならないでしょ。
790 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 18:42:35.71 ID:R+duLIwq
1389年 高麗の対馬侵攻 3000隻で対馬焼き討ち 倭寇の捕虜など無し 留守狙い?
1396年 李成桂の壱岐対馬討伐 日本側記録無し 詳細不明
1419年 応永の外寇 227隻17285名で倭寇討伐 対馬で民家2000戸を焼くも軍事衝突では良いとこ無く敗退
791 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 20:09:41.01 ID:m7t6e5fR
>>782 モンゴル軍って最強ではあっても無敵ではないんだよね。
日本遠征に限らず、例えば対南宋戦でも1235年のオゴデイによる攻撃は
皇太子クチュを戦病死させた挙句、南宋軍の大規模な反撃をうけて
逆に襄陽を奪還されるという悲惨な結果に終わっているし、
モンケによる侵攻も襄陽を落とせずじまいでモンケの戦病死という
結末を迎えている。
792 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 20:47:37.32 ID:m7t6e5fR
>>759 本当に日本の方を重視しているならヒンドゥみたいな
三別抄の鎮圧以外はこれといった武功を挙げていない上、祖先
も生没年すらよくわからない人物ではなくもうちょっと
格上の人間を現場指揮官にあてるでしょうが。
対してカイドゥ戦には嫡子中の末子で後継者有力候補だったノムガン
皇太子チンキムの長子カマラに、その弟で皇太孫のテムルといった直系皇族やら
知枢密院事のバヤンといってそうそうたる面々を投入している。
793 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 21:08:08.17 ID:cBXJa8Gg
モンゴルからみて日本が強いか弱いかは解りませんが、
海の向こうで攻め取るのが大変&日本の方から攻めてくる確率は低い
という条件なら、日本攻撃は後回しにするのが普通じゃないでしょうか?
794 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 21:53:43.02 ID:DN0ItPde
>>791 確かにオゴデイやモンケの時代のモンゴル軍は南宋に勝てなかった。
でもクビライの時代には勝ったわけで、つまりモンゴル軍は進化したんだな。
そのモンゴル軍の進化の頂点でボロ負けしたのが日本。
795 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 21:57:59.09 ID:WKdJCipt
>>793 自国が攻められた直後からお寺作るお金がないから
貿易してと交易せがんでくる相手を差し迫った脅威とは
認識しないと思うよ。商売にやってきたくせに正月に都市焼く迷惑な連中だけど
796 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:06:16.11 ID:DN0ItPde
>>792 ヒンドゥは日本戦の敗北がモンゴル帝国にとって致命傷だったため粛清された上、
記録抹消されたんだろうな。
当時のクビライにとって日本戦は最重要作戦だったし。
カイドゥに対する中央アジア戦線からも兵力引き抜いて弘安の役に投入てるわけで
カイドゥ戦が日本戦より優先順位の低い戦いだってのは明白。
797 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:14:49.62 ID:m7t6e5fR
>>794 というか南宋軍が弱体化しただけでしょ。
オゴデイの侵攻の時には名将、孟きょうが頑張っていたし、
モンケの遠征の時にも彼が作り上げた長江防衛線が機能していた。
対してクビライの遠征の時には賈似道の無策で長江防衛戦は骨抜きに
なっていた。しかも、それでもなお襄陽は五年間も孤立無援の中で奮戦を
続けている。
798 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:23:32.25 ID:m7t6e5fR
>>796 ヒンドゥが責任を問われて粛清されたなんて話はどんな史書にも載っていないぞ。
もし違うと言うなら、ソースを示してほしい。
あと高麗に集結した戦力もナヤンの反乱後は結局、モンゴル高原での対カイドゥ戦に
投入されていて高麗には戻ってきていないんだが。
799 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:34:00.60 ID:DN0ItPde
>>798 元史には記録が無いけど、当時元朝に滞在していたマルコポーロは元寇敗北の
責任を問われて将軍2人が処刑されたと書いてる。
元史では事実が隠ぺいされてるってことだし、その最有力候補はヒンドゥだろ。
800 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:39:11.87 ID:WKdJCipt
ID:DN0ItPdeは相変わらずソースなしの思いこみか。倭寇についても「高麗史」に載ってる高麗の損害は
無批判に取り上げるけれど、高麗の倭寇に対する戦果は一切見えない人だし
801 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:44:50.73 ID:DN0ItPde
>>800 ちゃんとソース挙げてるじゃん。
東方見聞録だよ。
あと、損害の記録は信用できるけど、戦果の記録は敵側史料と突き合せないと
信用できないってのは、戦争に関する数字の扱いとしては常識レベルだろ。
802 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:47:06.17 ID:WKdJCipt
うわあ……脳内の常識ですか
803 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:51:14.66 ID:m7t6e5fR
>>799 マルコ・ポーロの記述がそこまでアテになるかねえ。
元軍が平安京にまで信仰したなんて作り話を書き記しているくらいだしさあ。
804 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:56:05.93 ID:WKdJCipt
それ以前に「東方見聞録」では
「将軍の一人はアバタン(阿剌罕(アラカン))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、
二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の
末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」
と処刑されたと書いてる将軍二人の名前出してるじゃん(ペディアより)w
ちなみに1268年に起きたことだそうですw
805 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:56:46.55 ID:DN0ItPde
>>802 本当に軍事板の住人?
例えば、1944年10月の台湾航空戦は日本の記録だと損失312機で、
戦果は空母11隻撃沈、8隻撃破、戦艦4隻を含む45隻撃沈だよ。
この内、損害に関する記録は史実として扱われてるけど、戦果に関する記録は
アメリカ側の記録と突き合わせて信用されてない。
これが常識レベルの戦争に関する数字の扱い方な。
806 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 22:59:42.09 ID:WKdJCipt
>>805 それは史料を突き合わせた結果、アメリカの史料により高い信憑性の判断を下したもので
>あと、損害の記録は信用できるけど、戦果の記録は敵側史料と突き合せないと
>信用できないってのは、戦争に関する数字の扱いとしては常識レベルだろ。
なんていうのとは全く違うもんだぞ
807 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 23:05:43.90 ID:m7t6e5fR
>>805 ヒンドゥが粛清されたという話のソースは?
まさか東方見聞録だけとかいうことはないと思うけど。
808 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 23:05:52.17 ID:DN0ItPde
>>806 アメリカの史料だって戦果に関する数字は日本側史料と突き合わせると
かなり誇張されてるよ。
戦争において正確に把握できる数字は自軍にかんするものだけで、
敵の兵力や戦果は大抵の場合信用できない。
809 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 23:24:39.63 ID:DN0ItPde
>>803 マルコポーロは元寇から逃げ帰った指揮官が奴児干の流刑地送りになったと書いてる。
で、実際元寇に参加した張百戸が元文類の記録で奴児干の流刑地送りになってるんだな。
つまり、全くのデタラメではなく実際に処刑された将軍がいた可能性は高いんだよ。
810 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 23:35:36.01 ID:WKdJCipt
811 :
名無し三等兵:2014/04/10(木) 23:44:43.31 ID:DPDBb/qq
高麗が30年間、モンゴルと戦わなかったら、日本はあっという間に征服されてただろう
812 :
名無し三等兵:2014/04/11(金) 06:29:02.59 ID:Vwrwk2G5
されるかボケ
813 :
名無し三等兵:2014/04/11(金) 09:05:49.09 ID:NozZgdd8
>>794 >でもクビライの時代には勝ったわけで、つまりモンゴル軍は進化した
進化したというより、クビライはモンゴル軍を中国化させた。
本来のモンゴル軍では南宋との戦いに適合しなかったからだ。
日本軍が戦ったのは、その中国化したモンゴル軍だった。
814 :
名無し三等兵:2014/04/11(金) 10:10:00.67 ID:mNQjlWUN
現代と違って、あの当時の技術で
日本を攻略するのは至難の業だけどな、
兵站の確保などを考えても。
あの当時の日本は、湿地帯が多くて、今みたいにアスファルトの道路もないいしな。
国土の8割が山岳地で、大陸のような広大な平野部もないし。
そんな国の20万人以上の大軍がいるんだし。
渡海して十数万の大軍を運用するのは難しいのに、
どうやって攻略するんだ。
815 :
名無し三等兵:2014/04/11(金) 11:46:59.28 ID:1I9Bx53e
どういうプランだったのかは気になるな
仮に戦場で元軍の方が強くて博多制圧成功したとしても、その後どうするつもりだったのか
816 :
名無し三等兵:2014/04/11(金) 16:13:58.45 ID:mNQjlWUN
博多湾を制圧したとしても、そこから、
どうやって、日本全土まで制圧するのか?
大陸本国からの継続的な補給の確保も難しいし。
瀬戸内海沿岸をこえて、畿内、中部、関東まで制圧するプランに限界がある。
何年もかけて、山間の湿地帯の敵地を攻めのぼらないといけない。
その山間を形成する山々には、砦があちこちある。
日本って、国土の起伏が激しくて、天然の要塞。
また、本土からの日本の援軍は20万を超えるし。
817 :
名無し三等兵:2014/04/11(金) 17:15:53.11 ID:oJiJcPl0
どうあっても元の日本侵攻は本気じゃなかったことにしたい奴がいるみたいだな。
818 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 02:14:36.18 ID:gELbdtQZ
戦場で一撫でしてやればははーって頭下げてくるって思い込んでたんかね
現地勢力取り込みとか工作ほとんどやらずに来たのは
819 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 02:26:58.76 ID:YYu4+7wP
九州沿岸を襲撃してこれでビビッて服属すると思ったから元軍は撤退した!的な事を戦国の軍隊って本で書いてて笑ったw
フビライに処刑されるだろwそんな事したら
820 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 13:34:48.61 ID:4N8uUlUB
元史読むと、弘安の役終わってからもメッチャ日本侵攻に拘ってるなフビライ。
国内の反乱やハイドゥがちょっかい出してきたからやむなく断念したって感じ。
上で優先順位がどうたら言ってる奴がいるが、そりゃ
一族の反乱を裏で糸引いてた奴や属国の反乱を優先的に潰すのは当たり前やろ。
属国だったベトナムの反乱やナヤンやハイドゥへの対処を優先したからといって
イコールそれが日本遠征はどうでも良かったことにはならんよ。
むしろ、それらを鎮圧した途端にフビライはまたいそいそと日本侵攻の準備始めてるし。
821 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 17:04:15.66 ID:AtBeXNu9
>>819 その本、他にも弘安の役では日本軍が防塁での防衛戦に徹したから勝てたとか書いてあるんだよねw
主題である戦国期の合戦についての記述は参考になるけど
著者は元寇についてはまんが日本の歴史レベルの知識しかないと思われる
822 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 17:39:06.71 ID:xzPR9tyY
>>818 戦争で勝って占領地作ってから内応・誘引てモンゴルに
限らない侵略者の王道が初手で二回とも躓いたからね
823 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 17:43:41.90 ID:eq16W9e2
>>815そりゃ今から見ればそうなるけど当時の元側からなので
我が元軍に不可能などあるはずないのでノープラン!
824 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 23:12:55.49 ID:4N8uUlUB
あとスレチだけど韓国が言う対馬征伐って、現地の武士に
ボッコボコにされた応永の外寇以外は日本側に同時代の記録が無く
1回目は高麗史でも「お前らホンマに倭寇に勝ってきたんかいな?留守中の陣地燃やしただけちゃうん?」って疑われてる記述があるし
2回目はそもそも対馬に攻めてすらいない。
825 :
名無し三等兵:2014/04/12(土) 23:25:30.53 ID:YYu4+7wP
対馬征伐じゃなくて対馬侵略に言い換えさせないとなw
せいばつなんてさべつてきひょうげんだ
826 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 17:17:05.83 ID:Qb2qwg3P
元寇って14万の海軍って、当時では世界最大の前代未聞の海戦だろう?
それだけ動員しても、九州すら制圧できず、
博多湾沿岸とか平戸島あたりで足止めくらっていたんだろう?
どうやって、瀬戸内海沿岸、畿内、中部、関東へと攻めあがるんだ?
しかも、日本側が直接、応戦に応じたのが九州中心の4万ほどの兵力。
結局、日本本州からの新たな援軍8万が九州に到着する前に
勝負がついたんだから、元寇ってこの辺が限界だったんだろう?
フビライはヤル気だったけど、周囲が結構、反対している。
827 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 18:21:11.86 ID:iVC3pfhp
>フビライはヤル気だったけど、周囲が結構、反対している。
対南宋戦に次ぐ兵力が必要な割には全土占領できても投入兵力に見合った収入が見込めない
冷静に考えれば反対するよね
828 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 18:26:03.31 ID:YIVJv0TD
>当時では世界最大の前代未聞の海戦だろう?
崖山の戦いがあるじゃん。
829 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 18:33:32.18 ID:eDJdGoz+
日本攻めの得失を考えると
・攻略コスト
船を用意する必要もある。生半可な兵力では海岸で追い返される。
橋頭堡を得たとしても、京都または鎌倉までの道は非常に遠いと
大変高くつくことが予想される。
・攻め取ったときの利益
大量の黄金を産する?
・攻略の緊急性
放置しても向こうから攻めてくる可能性は低い。海の向こうであり
別に商業ルートを制圧されている訳でもない。
強いて言えば、南宋に味方されると困る?
……優先順位が高いとは思えないなぁ。何故フビライは日本攻めにこだわったんだろう?
830 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 18:51:45.02 ID:cJRLZWkd
当時の日本はアジアでも南宋に次ぐ生産力を持ち、貴金属や硫黄を大量に産出する国でもあった。
攻め込む理由としてならこれだけでも十分だが、確かに何度も無理して
侵攻計画を立てるほど拘る理由としてはちょっと弱いよな。
831 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 20:30:12.59 ID:cJRLZWkd
>>755 あと色々ブログに纏めてるとこ申し訳ないけど、正直今時八幡愚童訓の記述に頼る検証はどうかと思う
832 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 20:40:38.42 ID:cJRLZWkd
おっと、ごめん。ブログ開くまでの経緯をよく見てなかったわ
833 :
名無し三等兵:2014/04/13(日) 22:12:37.52 ID:Y/SKRpy5
>>829 邪魔な南宋人とかを流刑にするためとかw?
834 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 00:20:22.88 ID:RSlp81qe
だとしたら、南宋滅ぼす前から日本を攻めてる理由がわからない。
それに南宋人流刑にする為なら別に日本じゃなくても
ジャワでも海南島でも琉球でもどこでもいい。
それこそ、わざわざ日本に拘る理由がない
835 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 00:20:28.77 ID:dM5DbFqJ
>>824 応永の外寇も日本側史料で同時代の記録なかったと思うが
836 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 13:43:31.21 ID:RfM1CENK
フビライは、南宋を潰す前から、何度も日本に
南宋との外交関係を絶てと警告している。
そういうこと。
日本が拒否したので、制裁することにした。
それが元寇。
837 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 13:44:55.52 ID:RfM1CENK
>>828 動員兵力だけで見たら、そっちのほうが多いな。
でも、南宋って10分の一ほどの兵力のモンゴルに負けたんだな。
838 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 13:57:14.76 ID:RSlp81qe
だとしたら今度は南宋滅亡後も日本侵攻に拘った理由がわからない。
>>835 一応、少弐満貞の注進状があるんじゃなかった?
839 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 18:36:03.10 ID:RfM1CENK
モンゴルと南宋との戦争は、海戦とか言っても
所詮、狭い河川を渡っての海戦。
日本へ航海するのと距離が違うから。
兵站の確保という面で全く異なる。
840 :
名無し三等兵:2014/04/14(月) 20:36:03.94 ID:mVB51wFq
江華島に攻め込まずに、何度も退去要求したのは
841 :
前スレ813:2014/04/14(月) 22:10:48.21 ID:eAX90l87
>>831 心遣いありがとうございます。
現在のところ、『八幡愚童訓』そのものに対する検証という段階です。
これが終わり次第、別の文献も取り上げていく予定です。
842 :
名無し三等兵:2014/04/15(火) 00:01:27.57 ID:ve/49peT
>だとしたら今度は南宋滅亡後も日本侵攻に拘った理由がわからない。
大軍送って負けたままにしておくのは大モンゴル帝国の沽券に係わるだろうが。
844 :
名無し三等兵:2014/05/03(土) 20:37:20.97 ID:5HmLGdi9
845 :
前スレ813:2014/05/04(日) 20:00:37.92 ID:QA+PUx5T
>>755 にURLを挙げていますが、
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本について、文永〜弘安の役まで校注を完了しました。
また、橘守部旧蔵『八幡蒙古記』との比較を行いました。
『蒙古諸軍記弁疑』(1839,橘守部)を見て驚いたんですが、「元寇で戦備を怠ったのは北条氏の策略」という陰謀論の本だったんですね。
「八幡蒙古記は実録」と言う一方で、以下のようなことも書いている。
『橘守部全集』第6巻p.229より
--
今按に、ここは大神の御助けなるべければ申すも更なれど、
すべて弓力太刀かきのちからは、わが皇国に及ぶ国ある事なし。
されば上の対馬壹岐の武士どもさばかりに討れにけれど、
弓もてはいと思ひの外によき敵を射とりき。
これ前文に蒙古か矢は短しといへる如く、凡て外国の弓はよわくちいさき物なれば、
それにたくらべて(「比べて」か)二三町も離れては箭はあたらぬものと思ひ侮りて
如此思ひの外に射とらるる事の多きなり。
太刀も又そのごとく、己が国(異国)の鈍刀におもひ准(なぞ)らへて、案外に斬られける事の多かりしは、
下に出せる河野大矢野などが敵船にのりうつりて、皆悉(ことごと)くなで切にせし類ひもて知べし。
かかればもし此後異賊の攻来る事あらんには、先大将をめがけて遠矢にて落し、又は夜打して
敵船にのりうつりて斬廻るにまさるわざこそなかるめれ。
凡て異国人は怯弱なる者なりけれぱ、夜打にも限らす我船にのり移らるる時は、先づ其剛気に驚きてあわてさわげり。
其所を手早に切めぐる時はいと思ひの外に勝利を得る事多し。
是異賊と戦ふ軍略の奥義ぞかし。
--
「江戸幕府は海防にもっと力を入れよ」という遠回しの非難だったんでしょうかね。
846 :
名無し三等兵:2014/05/05(月) 01:33:19.78 ID:Rp0kx0yE
いつも検証乙です。
そういや、結局八幡愚童訓にある一騎打ちだの蒙古の弓は和弓の倍飛んだだのの記述は妥当なのか?
他の記録見るととてもそう思えないが。
他にも蒙古襲来絵詞との矛盾も目立つしどうなんだろう?
847 :
前スレ813:2014/05/05(月) 15:11:12.76 ID:8gkQA35H
>>846 >蒙古の弓は和弓の倍飛んだ
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本:記述なし(壱岐対馬の戦闘描写がない)
同菊大路本,文明本「蒙古ガ矢ハ二町計(ばかり)射ル間、守護代ガ方ニ(御家人百余騎)二人手負ヌ」
この戦果を、射程距離に見合ったものと考えるか否か。
一方で、以下のような記述もある。
筑紫本「相屋カ手ニ山田之者共五人、……(略)……
異賊三人……(略)……追懸タル、サレドモ疾逃延テ(素早く逃げ延びて)
一町余ニ成シカハ、蒙古無力シテ、セメテノ事ニヤ尻ヲ掲テ此方へ向テ跳ケリ、」
「一町余ニ成シカハ」は、逃げた距離ではなく(追撃をあきらめるほどの)敵味方の間隔と思われる。
ということは、両者の弓矢の射程距離は、そんなに変わらなかったのではないか?
(もちろん、使用者の技量次第)
詳細は↓
http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-14.html >八幡愚童訓にある一騎打ち
筑紫本:誠ナル哉、「教ヘズ民ヲ戦シムルコト、是レヲ棄ツト謂フ」
という記述に従えば、「武士どもをろくに訓練することなく戦場に送り出し、棄てているだけだ」ということになりますね。
しかし、『八幡愚童訓』の立場は、ご存じの通り
筑紫本「日本之軍兵一騎ナリトモヒカエタリシカハ、大菩薩之御闘卜申サズシテ唯追返タリトモ申シナマシ。
(日本軍が)一人モナク落テ後、賊惶恐テ逃返レハ神軍ノ威勢厳重不思議弥(いよいよ)顕玉ケリ。」
というものなので、そのまま信じることは出来ない。
菊池武房の戦闘部分の描写と、実際の生き残りの数を『蒙古襲来絵詞』と見比べればよいでしょう。
竹崎季長は、彼らをその目で見ているわけですから。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本の該当部分↓
http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-7.html 参考:『弓矢と刀剣』p.78〜99,『騎兵と歩兵の中世史』p.31〜32。ただし『今昔物語』『平家物語』の話になってしまう。
848 :
前スレ813:2014/05/05(月) 15:32:28.77 ID:8gkQA35H
(
>>847のつづき)
『八幡愚童訓』に書いてあることが嘘ばかりだとは思わないので、さじ加減の判断は難しい。
具体的な記述もあるし、一騎打ちがあってもおかしくはない。
では、なぜ彼らは無謀なことをしたのか。
『平家物語』覚一本、二度之懸より
--
河原太郎、河原次郎といふものあり。
河原太郎弟の次郎をようでいひけるは、
「大名は我と手をおろさねども、家人の高名をもッて名誉す。
われらはみづから手をおろさずはかなひがたし」
--
竹崎季長のように、小勢でも自力で高名を得ようという判断でしょうか。
一騎打ちをするから弱いのか、高名を認められる可能性があるから強いのか、各自の読み方は様々でしょう。
正直申し上げて、明確な回答は無理です。
849 :
名無し三等兵:2014/05/05(月) 16:52:37.60 ID:bgxJD2Pp
戦後元寇研究のおかしなところは、武器の性能の話をわけのわからない
おそらく武芸と全く関わりのない神官が書いたと思われる八幡愚童訓
で検証することだよな。そんなのを元にどっちの武器が優秀だのは不毛。
実際に検証実験すれば済む話なのに、戦後歴史学者はほとんど信憑性の怪しい
八幡愚童訓に頼り切っている。はっきり言って異常。
850 :
名無し三等兵:2014/05/05(月) 17:09:55.78 ID:p7ED1+cu
一町≒109mで換算すると、蒙古弓の有効射程は218m前後ということになりますね。
これって結構な長射程では?
851 :
前スレ813:2014/05/05(月) 23:15:01.15 ID:8gkQA35H
武器の詳細には疎くて……。
識者の御教示をお願いします。
弩を使ったとか、風向きが良かったとか?
射流しは競技ですから、そのまま当てはめるわけにはいかないかもしれないが、
「射流し」「200メートル」で検索してみて下さい。
852 :
前スレ813:2014/05/06(火) 05:51:28.10 ID:4mrs4fJp
歴史群像シリーズ『北条時宗』所収「比較検証 日本の弓vs.蒙古の弓」
(森俊男/筑波大学体育科学系助教授,2001)
より
--
矢の重さ,弓の構造から類推すれば、おそらく日本の弓の方が
遠くまで飛ばせたであろうが、推論の域を出ない。
また、兵器としての弓は、正確性と威力が重要であることは言うまでも無かろう。
--
とあり、現在の和弓を使用し、射手によって差があることを表で示しています。
--
弓暦(年) 弓力(kg) 弓の重さ(g) 平均時速(kg/s)
8 22 25 201.6
10 21 26 185.4
19 17 26 166.0
21 14 26 162.0
--
上の数値から、射程距離を類推することは出来るでしょうか?
私には、これが精一杯ですね。
853 :
前スレ813:2014/05/06(火) 05:57:32.06 ID:4mrs4fJp
間違い。時速はkm/sですね。
ずれてたらごめんなさい。
弓暦(年) 弓力(kg) 弓の重さ(g) 平均時速(km/s)
8 22 25 201.6
10 21 26 185.4
19 17 26 166.0
21 14 26 162.0
854 :
名無し三等兵:2014/05/06(火) 07:20:52.19 ID:JNDZvz2E
結局、兵站の確保を考えたら、最初から無理があるんだよ、元の遠征は。
855 :
名無し三等兵:2014/05/06(火) 13:53:43.23 ID:o73OVx2h
雑兵物語だと矢を射掛けるときは
指定された距離より遠くに飛ばしちゃダメだったらしい
元寇の頃も同じだとしたら、射程が短いのはワザとだったかもしれない
856 :
名無し三等兵:2014/05/06(火) 23:54:11.79 ID:dZ9dvJnE
857 :
名無し三等兵:2014/05/07(水) 17:15:38.63 ID:RuEwyhm8
敵を近づけて射た方が命中率も威力も上がるからだろうね
858 :
名無し三等兵:2014/05/08(木) 21:14:24.19 ID:QVAEQioZ
弓の重さというのは矢の重さ間違いかな?
859 :
前スレ813:2014/05/09(金) 21:17:39.36 ID:90oruHIh
>>858 ご指摘ありがとうございます。
本を確認したところ、「矢の重さ」でした。
前述の表には注釈があります。
「現在の弓を使用した矢の平均時速。距離28mで、各射手10射の平均を掲げた。
使用する弓・矢の条件により、矢の速度には相違が見られる」
弓は触ったことがないので、表だけ見ても実感がありません。
860 :
名無し三等兵:2014/05/10(土) 15:48:54.68 ID:f5JhoHmp
ていうか、射程と一騎打ちに関しては写本書く際の書き間違いって結論が前に出てなかったか?
861 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 05:29:39.52 ID:No5jF3p5
白村江で飲んだ煮え湯を覚えていたのか、はたまためんどくせえだけだったのか
三別抄とかいうゴロツキ集団の救援を黙殺した幕府と朝廷は賢いな
862 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 08:38:40.27 ID:ZFsZPH+v
白村江の頃は百済が属国だし日中通交路の確保という実益があったからな。
863 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 15:32:52.76 ID:IB3Br0nn
当時だったかもっと昔だったかの武士が「関東には五人張りの弓を引く勇士がゴロゴロしていて自分なんかまだまだっす」みたいなこと言うてたけど
五人張りの弓というものがどのくらいの強さなのか、現在の弓のの強さを参考にしてるだけでは限界があるな
864 :
前スレ813:2014/05/11(日) 18:18:21.46 ID:0HXBQhsY
試しに比較してみますか。
もともとの記述の信憑性は置いといて。
※『八幡愚童訓』は、本文中で叡尊(思円上人)をやたらとヨイショしており、
「差し引いて読まねばならんなあ」と思ってはいますが。
橘守部旧蔵『八幡蒙古記』→近世中期の写本。奥書は正応二年(1289)だが、『蒙古襲来絵詞』の記事混入あり。
『八幡愚童訓』菊大路本→鎌倉末期の写本
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本→室町中期の写本
『八幡大菩薩愚童記』文明本→文明十五年(1483)の写本
『八幡愚童記』東大寺上生院本→文明十二年(1480)の写本
橘守部旧蔵『八幡蒙古記』:蒙古人か矢は、二時はかりいる間に守護代か方にも二人手負、
『八幡愚童訓』菊大路本:蒙古ガ矢ハ二町計射ル間、守護代ガ方ニ二人手負ヌ
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本:記述なし(壱岐対馬の戦闘描写がない)
『八幡大菩薩愚童記』文明本:蒙古ガ矢ハ二町計射ル間、守護代ガ方ニ二人手負ヌ
『八幡愚童記』東大寺上生院本:蒙古カ矢ハ、二町計射ケレハ、守護代カ方ニ、二人手負ヌ
橘守部旧蔵『八幡蒙古記』:日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、より合、足手のうこく所、われもわれもと取つきて、おし殺し、又は生捕りけり
『八幡愚童訓』菊大路本:如日本軍、相互名乗合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ動処ニ我モ我モト取付テ押殺シ、虜ケリ。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本:日本ノ軍ノ様ニ相互ニ名乗合テ、高名不覚ハ 一人ツヽノ勝負ト思処ニ、 合戦ハ大勢一度ニ寄合テ足手之?(はたら)ク所ヲ我モ我モ卜取付テ、ヘシ殺、生取ニシケレハ、
『八幡大菩薩愚童記』文明本:日本ノ軍ノ如ク相互ニ名乗アイテ高名不覚ハ一人ヅヽノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ足手ノハタラク所ニ我モ我モト取付テヘシ殺シ生ケ取ル。
『八幡愚童記』東大寺上生院本:日本ノ軍ノ如ク、相互ニ名乗値(原文ママ)テ、高名不覚ハ、一人ツヽノ勝負ト思処ニ、此合戦ハ、大勢一度ニ寄合テ、足手ノハタラク所ニ、我モ我モト取付テ、ヘシ殺、生ケ取リ、
865 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 18:50:32.14 ID:avXSubt7
>>863 現代の弓弦は一人か二人で張れますよね? と考えると、5人て凄いな
待てよ。五人張りの弓を引ける力持ちが5人がかりで張るような超強弓というのも……あれ?
866 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 23:14:05.01 ID:l3100su5
検証乙です。
つまり八幡蒙古記の方が写本を書く際にミスってたわけか。
しっかし八幡愚童訓書いた奴は何を思って
「相互名乗合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」
だなんて書いたんだろうか?
例えば元寇の半世紀前に行われた承久の乱について記した承久記では
乱戦の最中に「この○○様の矢を喰らいな!」って感じで名乗りながら矢を放つ場面こそあるけど
悠長にお行儀よく名乗り合って一騎打ちやってるシーンなんて無かった気がする。
ぶっちゃけ軍記物見てても、そういうお行儀良いことやってるのって
保元物語くらいなんだよなあ。
867 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 23:33:37.57 ID:l3100su5
もっと時代が下った宝治合戦なんて殆ど不意打ちに近い感じだし。
868 :
名無し三等兵:2014/05/11(日) 23:57:34.53 ID:Iv+2Ikl6
今昔物語の源宛と平良文のタイマン勝負を理想視してるような武士に対する皮肉じゃないの
869 :
名無し三等兵:2014/05/12(月) 01:10:47.35 ID:C0W1zkNA
ところが武士達は別にそういうのを理想視してた風潮すら無かったんだよなあ
870 :
名無し三等兵:2014/05/12(月) 02:46:44.34 ID:5Sn2mtYZ
卑弥呼の時代から、倭軍って十万人以上は動員できたんだよな。
871 :
名無し三等兵:2014/05/12(月) 03:42:12.70 ID:5Sn2mtYZ
平和な時代の講談なんかで、一騎打ちみたいな記述になっただけ。
実際に戦乱の時代には、そんな戦い方していない。
ちなみに、源平合戦の時、京都育ちの義経の無謀な戦い方に
梶原景時らが頭を抱えている。
梶原景時ら、東国の武士らは、なるべく兵力を失わず、
相手を屈服させたがっている。
872 :
名無し三等兵:2014/05/13(火) 15:34:41.82 ID:FWysy++q
>>847 >菊池武房の戦闘部分の描写と、実際の生き残りの数を『蒙古襲来絵詞』と見比べればよいでしょう。
>竹崎季長は、彼らをその目で見ているわけですから。
八幡愚童訓の菊池勢戦闘場面と、竹崎が見た菊池勢の戦闘(実際は終わった後)とは
同じ戦闘だとお考えですか?
そうすると、竹崎が見た菊池勢の戦闘は明らかに緒戦段階(日本軍主力はまだ戦っておらず、
竹崎は自らを先駆けと思っている)ですが、菊池勢は緒戦に一階だけ戦って後は遊んでいた
ということになりますが?
873 :
名無し三等兵:2014/05/13(火) 15:41:24.78 ID:FWysy++q
>>849 >戦後元寇研究のおかしなところは、武器の性能の話をわけのわからない
>おそらく武芸と全く関わりのない神官が書いたと思われる八幡愚童訓
八幡宮の神官は武士身分なのでないか?
神官も防衛戦に加わったという記録があったように思うし。
八幡愚童訓の記述だったかも知れないが。
874 :
名無し三等兵:2014/05/13(火) 16:38:12.24 ID:thA9AXh7
筥崎宮の神官が防衛線に加わっていてそれを書かないわけがあるかアホ。
菊池勢の戦いも菊池の弟らが生きてるんだから、菊池武房以外戦死したという
八幡愚童訓の話はねつ造でしかない。
>菊池勢は緒戦に一階だけ戦って後は遊んでいた
ということになりますが?
竹崎季長も緒戦しか戦ってないんだから何の不自然もない。
875 :
前スレ813:2014/05/13(火) 22:05:30.53 ID:om6UTEJV
>>872 見比べてみましょうか。
『八幡大菩薩愚童訓』の書き方をそのまま受け取れば、菊池勢が複数回出撃するのは無理っぽい。
自分も、そう考えていました。
でも、実際にはそうではなく、複数回出撃した可能性もある。
貴重なご指摘をありがとうございました。
『蒙古襲来絵詞』旧御物本
そのせい百よきばかりとみへて、けうとのちんを□けてやぶり、
ぞくとをひおとして、
……略……
ひごのくにきくちの二郎たけふさと申すものに候
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本
爰(ここ)ニ菊池次郎思切テ百騎斗(ばかり)ヲ二手ニ分ケ、
押寄テ散々懸ケ散シ、上ニ成リ下二成リ、取リ重ネテ勝負ヲス、
家子郎等多ク討レシニ、菊池次郎計(ばかり)ハ打漏サレテ、
死人ノ中ヨリ起上リ、頸共余多(あまた)取リ、以テ城之内ニソ入ニケル、
名ヲ後代ニ留シカ、是偏ニ大菩薩ノ御守護ノ故ナリ。
……略……
少弐入道子息三郎左衛門尉景資、并(ならびに)其手ノ者平四郎入道・手光太郎左衛門尉等
始トシテ押寄テ散々ニ闘フ、
此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ
876 :
名無し三等兵:2014/05/14(水) 20:01:51.67 ID:pP9siH9y
>>874 八幡蒙古ノ記より
「馳参る軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、
我もゝゝと、はせあつまりたれは、たとひ異敵十萬に及ふとも、何ほとの事かあらんとて、いさましく見えにけり」
「軍兵」が「神社佛寺の司等に至るまで」だから、神官も戦ったのだな
877 :
名無し三等兵:2014/05/14(水) 21:37:36.46 ID:9chEc+Cs
>>875 引用された筑紫本の文章の前に次の文章があります。
「軍(いくさ)安ク思ニ相違テ面ヲ向クベキ様モ無、味方引キ退テ寄合スル者無リケリ」
これによれば、筑紫本の述べる菊池勢の戦闘の前に、蒙古と戦って戦意喪失した武士たちが
いた、ということになります。
自らを先駆けとみなした竹崎よりさらに早く菊池勢が蒙古と戦ったという竹崎の記録が
動かないとし、かつ筑紫本の記述をそのまま受け取るならば、
蒙古襲来絵詞の菊池勢の戦闘と、
八幡愚童訓筑紫本の菊池勢の戦闘とは、
異なる時点の戦闘である、すなわち菊池勢は複数回戦った、ということになります。
もちろん、筑紫本の述べる菊池勢の戦闘時点がでたらめ、と考えるならば話は別です。
878 :
前スレ813:2014/05/14(水) 23:43:46.99 ID:AWTovxZl
>>877 なるほど、自分の思い込みがあったかもしれませんね。
もう一度読み直してみるとしましょう(今日は無理)。
ただ、
>かつ筑紫本の記述をそのまま受け取るならば、
>蒙古襲来絵詞の菊池勢の戦闘と、
>八幡愚童訓筑紫本の菊池勢の戦闘とは、
>異なる時点の戦闘である、
この部分を、もう少し説明お願いします。
菊池勢戦う
→帰ってくるところを竹崎が目撃(『蒙古襲来絵詞』)
→菊池勢、もう一度(以上)戦う(『八幡大菩薩愚童訓』)
こういう感じですか?
879 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 01:21:22.48 ID:1jytneSJ
>>876 それのどこが筥崎宮の神官が戦ってたソースなんだよ。
筥崎宮の神官が出てくる描写は、筥崎宮の神体を避難させているとこだけじゃねえか。
これのどこが防衛戦に加わってるんだよ。
880 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 01:30:16.39 ID:1jytneSJ
「軍(いくさ)安ク思ニ相違テ面ヲ向クベキ様モ無、味方引キ退テ寄合スル者無リケリ」=蒙古襲来絵詞部分だというなら
戦況が全く異なるし、蒙古襲来絵詞の該当部分を載せないのもおかしいので却下。やり直し。菊池武房だけが生き残った
と明らかな嘘が八幡愚童訓に載っている時点で傾聴にも値しないわ。
881 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 14:39:39.27 ID:H2pvMUqT
半日分の当時の戦況を解明するにもこれだけの議論が積み重ねられる‥
歴史家の方の学究精神には頭が下がる思いですm(__)m
882 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 15:51:04.70 ID:bpoVq7uG
>>878 >菊池勢戦う
>→帰ってくるところを竹崎が目撃(『蒙古襲来絵詞』)
>→菊池勢、もう一度(以上)戦う(『八幡大菩薩愚童訓』)
>こういう感じですか?
その通りです。両文献から、論理的にはそうなる、ということです。
また、竹崎は緒戦の戦闘が終わった後の菊池勢を「涼しげ」つまり損害軽微、戦意旺盛
と見たのだから、この集団がその後は終日遊んでいた、と考える方がむしろ説明が
必要でしょう。
883 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 15:56:52.15 ID:bpoVq7uG
>>879 >それのどこが筥崎宮の神官が戦ってたソースなんだよ。
筥崎宮の神官が戦ったとはだれも言っていない。「武士身分だった」
とは言ったがね。
「神社仏寺の司」たちが参戦したということは、当時の社寺が武装勢力であった
ことを示している。
したがって宮司が武器の知識を有することは当然である。
884 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 16:46:54.48 ID:B0CdSOYX
>>883 なんだこいつ。
お前読み返せよ。だれが世間一般的な宮司の話をしてんだ?
お前が
>>873で八幡愚童訓の著者が防衛戦に参加し武士身分だったのではないか?
と都合のいい解釈垂れたから、筥崎宮の宮司が参戦したソースを求めてんだよ。
自社が参戦していてそれを書かないわけがない。
著者が武士ではなかった証拠に八幡愚童訓の著者は二町も蒙古矢が飛んだとしていながら、モンゴル兵が
一町余りで追撃を諦めたと恥ずかしげも無く矛盾することを書いてる。
武器に対してまともな知識を持ち合わせておらず、デタラメを平気で書く著者の人物像が
浮彫になるわ、。
885 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 16:51:02.94 ID:B0CdSOYX
それに寺社荘園領のお抱え武士と宮司に任命された武士も存在するのだから
宮司が戦闘集団であり武器に精通していたとするのは無理だな。
宮司が戦闘集団なら武士に土地を侵食され、されたい放題されないわ。
元寇の際でも、神官が持ったのは弓矢ではなく、加持祈祷だった、。
886 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 16:52:23.43 ID:B0CdSOYX
訂正な。
元寇の際でも、神官が持ったのは弓矢ではなく、加持祈祷が一般的だった。
887 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 18:28:37.11 ID:Hmc9CH3/
>>884 >お前読み返せよ。
>お前が
>>873で八幡愚童訓の著者が防衛戦に参加し武士身分だったのではないか?
>と都合のいい解釈垂れたから、筥崎宮の宮司が参戦したソースを求めてんだよ。
では
>>873を読み返そう。私は次のように書いている。
「八幡宮の神官は武士身分なのでないか?
神官も防衛戦に加わったという記録があったように思うし。 」
一行目は筥崎八幡宮の宮司が武士身分であったという事実だ。
二行目は一般に神官も防衛戦に加わったという史実だ。これについてはソースを示した。
この二つのことから、神官が「武芸と全く関わりがない(
>>849)」わけではないことを
示したのだ。
まあ、弓の性能ぐらいは知っていただろうね。
888 :
名無し三等兵:2014/05/15(木) 20:21:13.44 ID:1jytneSJ
>>888 ソースを示してねえなあ。
八幡愚童訓の神官が武士だったというソースは読み返したがないが?
八幡愚童訓の著者が、筥崎八幡の神官を描いた描写は、神体を持って
退避する時だけ。
自社の神官が参戦していれば、書かないわけねえよなあ?
元寇時の神官は戦闘ではなく、加持祈祷が中心。
自社の幕府への温床要求も武勲はほとんどなく、加持祈祷ばかりなのが
何よりの証拠な。
八幡宮の神官は参戦している証拠はないし、まして元寇の数十年後の著作と
思われる八幡愚童訓の著者である石清水八幡の神官が武芸に精通している証拠は
ねえよ。
愚童訓の内容の武器の飛距離の記述をとっても、何の疑問も無く書いてる内容の
飛距離にボロが出てるし、内容の正確さを追及する姿勢にも乏しい上に武器の知識
も対して持ち合わせていなかったのは明白だな。
889 :
前スレ813:2014/05/15(木) 23:46:34.10 ID:esWSDmag
>>882 >>43 で示した日田永基も二回合戦していますね。
『八幡大菩薩愚童訓』では、「肥田」(伝本によって「日田」「ヒタ」」)というのが彼のことと類推しています。
興味深い議論をありがとうございました。
890 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 11:04:43.42 ID:z33FAnOs
この独特の噛み合わない感じはあれか?パフォ爺が久々に復活したのか?
813氏、こいつとはマトモに取り合う必要無いっすよ。
何のかんの謎理論ぶちまけて元軍が勝ったことにしたいだけだから
891 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 11:14:07.74 ID:Xgo+urT+
>>888 では、武士が宮司であった例を示そう。
宗像神社の宮司は幕府の御家人だった。
(以前に書いた「八幡神社」はこれのうろ覚え)
また、肥後の阿蘇氏は阿蘇神社の宮司であると同時に、この地方の
有力武士団の一つであった。
今日の浮世離れした「神主さん」のイメージを鎌倉時代に投影してはいけない。
892 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 11:52:36.39 ID:x9OtEAPa
で、神官が武士だとして…地元に異国軍が攻め込んで来ても戦わないものなのか?
893 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 13:12:16.31 ID:5LCYq4gY
八幡愚童訓→一番詳しい記録。日本が元に惨敗してる
高麗史→高麗軍が武士たちを打ち破るさまを詳細に描いている
元史→元軍が勝利したことになってる
その他の記録→風聞や武士の自己申告。宛てにならない。
やっぱ文永の役は鎌倉幕府軍の敗北じゃん
894 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 13:14:58.17 ID:OXiHNlCK
釣れますか?
895 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 13:23:40.86 ID:z33FAnOs
菊池有隆「八幡愚童訓では兄者以外全員死んだことになってるけど、じゃあ元寇後に恩賞貰った俺は幽霊か何かなの?」
896 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 13:41:21.38 ID:Qx53Lo43
信憑性があるの蒙古襲来絵詞のみだろ
897 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 15:44:59.23 ID:x9OtEAPa
しかし、893氏のいうような元軍勝利の結果は……
戦果
・領土:無し
・財宝:対馬を略奪した分くらい?
・その他:一般人をさらって奴隷にした?
損害
・文永の役:全軍の3割ほど?
・弘安の役:おおむね全軍の9割が戦死または行方不明
元史によれば生還者三名?
898 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 16:41:30.24 ID:wF+1SkBl
そもそも元、高麗は何が目的だったんだろうな
最近の学者大先生諸氏の研究では威力偵察目的だったらしい
敵情が知れたなら、統制がとれなくなって、矢が尽きるまで頑張って、ド深夜に帰る事はないなw
「至元十一年冬十月、入其國敗之、而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸、」
899 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 17:28:37.13 ID:XQ7NWDN4
>>891 おまえ話が噛み合わねえわ。
誰も神官の中には宮司を兼ねた武士いたことし、寺社荘園領の中に武士が
いたことなど話してねえよ。
論題はお前が八幡愚童訓の著者系の八幡宮系が、参戦し武芸に精通していたと主張する
根拠だけ。参戦し武芸に精通していたら、モンゴル兵が武士の胆を食べたなんて馬鹿げた
話は載せねえなあ。
900 :
名無し三等兵:2014/05/17(土) 17:59:05.97 ID:492kfFeT
>>865 どっかで神社に奉納された弓の画像を見たがまるで棒というか角材みてーだったw
901 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 10:47:01.49 ID:6maokhK9
>>873 お前こそ論点をずらしている。この議論は
>>849でお前が
>戦後元寇研究のおかしなところは、武器の性能の話をわけのわからない
>おそらく武芸と全く関わりのない神官が書いたと思われる八幡愚童訓
と書いたことに始まっている。この文章でお前が「神官は武芸とまったく関わりがない」と
考えた根拠は、「神官だから」ということ以外には無いからだ。
ここに今日の、白装束にぽっくりを履いた、人畜無害な、浮世離れした「神主さん」の
イメージが投影されているわけだ。
しかし鎌倉時代の神官、宮司はとてもそんなものではなかった、ということを理解して
もらうために、私は複数の例を挙げたのだ。
だから私の挙げたひとつひとつの例を攻撃してもだめだ。
なぜならこれらの例によって、「神官だから武器のことは知らない」という一般的概念は
すでに崩れているからだ。
902 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 10:59:33.96 ID:6maokhK9
>>893 よく理解しているね。その通りだと思うよ。
例の勝ち組の学者の説もインチキやこじつけが多いし。
903 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 17:00:57.37 ID:6maokhK9
>>901 ごめん、書き直したとき文章がおかしくなった。下記のように訂正。
誤:「神官だから」ということ以外には無いからだ。
正:「神官だから」ということ以外には無い。
904 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 18:46:50.49 ID:+9Dp8/Wn
>>901 論点ずらしはお前だよ大馬鹿が。
>「神官だから」ということ以外には無いからだ。
じゃねえよ。勝手に捏造すんな。
八幡愚童訓が菊池勢の戦死者を捏造し、矢の射程でも舌の根の乾かぬ内に二町蒙古矢が飛ぶ
と言いつつ一町で矢が届かないからモンゴル軍は追撃をあきらめたとボカしてるわ、モンゴル兵が
武士の胆を食べる食人集団だったと荒唐無稽な話を載せるわ、八幡系の神官の描写が神体をもって退避する
シーンだけだわ、お前が八幡愚童訓の著者が「まあ、弓の性能ぐらいは知っていただろうね。 」とまるで武芸に
精通していたという都合のいい解釈は成り立たねえんだよ。
以上の点から八幡愚童訓の著者か武芸に精通しているもしくは八幡系の神官が参戦していたというお前の妄想は
崩れているよな。
905 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 18:49:09.08 ID:+9Dp8/Wn
>>902 >例の勝ち組の学者の説もインチキやこじつけが多いし。
笑かすなよ。インチキってお前のことじゃん笑
第二次赤坂の戦いとか八幡愚童訓の著者は武芸の達人とかお前のこじつけじゃん笑
906 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 19:00:35.41 ID:ACVwB67L
八幡愚童訓はハリウッド映画的なプロパガンダが入ってるんじゃないかな
やたら敵を強大に描いて恐怖心を煽ることで何かと恩賞狙いで足並みが乱れがちな武士団を束ねるため
907 :
名無し三等兵:2014/05/19(月) 21:45:12.20 ID:vcNILZcy
事実を伝えたかったわけじゃないんだろ
908 :
名無し三等兵:2014/05/20(火) 02:19:10.55 ID:2oKO7E/Y
幕府が恩賞払うのに苦心して、「朝廷や寺社の皆様方が必死に祈祷してくださったから、神の力で撃退されたんだよ!バカ!」
って事にしたい思惑があったんじゃね?
909 :
名無し三等兵:2014/05/20(火) 12:07:04.54 ID:nIdmI4Qm
恩賞に関しては岩戸合戦で解決じゃね?
910 :
名無し三等兵:2014/05/20(火) 17:56:55.94 ID:nsnkWT6Z
武士のおこりのひとつは、公卿の次男坊三男坊に六位以下の貧乏貴族が地方で警備業についたまま
土着化して地方の支配権を確立したのがひとつだけど
もうひとつは地方の有力者が入り婿で前者を迎えて
名実ともに朝廷からその地方の支配の正当性を手に入れたのがひとつ
神社自体、その土地の有力者の本拠地だった時代がながくて
宮司=有力者だったこともながくて、
その那珂で武士になったのもおおいわけよ
たとえば織田家のおこりは福井の神社の宮司だしね
911 :
名無し三等兵:2014/05/21(水) 10:07:10.81 ID:GV8k+04v
>>910 ありがとう。神官と武士の境目はあいまいだったということだね。
>神社自体、その土地の有力者の本拠地だった時代がながくて
>宮司=有力者だったこともながくて、
阿蘇氏もまた、古代豪族以来のそのような存在だった。
また宗像氏が鎌倉時代初期に御家人になって「武士化」した、という
ことが資料に書いてあるが、これも実はそうではなくて、宗像氏が水軍的な
集団であったからこそ、その有用性から幕府がこれを取り込んだのだろう。
912 :
名無し三等兵:2014/05/21(水) 11:00:05.33 ID:GV8k+04v
>>905 ではこじつけの例を示そう。「元寇後の城郭都市博多」という本の序文である。
そのなかで例の学者は福田兼重申状写の一節を:
「「右、去年十月廿日異賊等襲渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、
就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原、」
と引用した上で、次のように書いている。
「この史料によれば、日本の武士達は(中略)元軍と鳥飼潟塩浜に於いて合戦を行い、その後、「彼山」
の「凶徒」が「引退」と、つまり楚原山の敵軍(元軍)が引き退いた、逃げ出したので、(中略)日本の
武士たちが百路原に戦って追い払って、逃亡させた、ことを明確に記している。」
引用文の中で「彼山(凶)徒等」となっている所は、オリジナルの史料(ウィキ「元寇」など参照)では
「彼山(凶カ)徒等」となっている所である。つまり「山とあるのは凶の誤写で、正しくは『彼凶徒等』
であろう」という意味が「カ」一字に込められている。真に妥当な推定である。
彼の学者がこの「カ」一字を省いて引用したのは、「山」か「凶」か、どちらかでしかあり得ない所で
両方の文字を生かして、「彼の山、すなわち楚原山の凶徒」という意味をでっち上げるためであること
は明らかだ。
このこじつけによって、驚く無かれ原文に全く存在しない、「楚原山の元軍の撤退」という「史実」を
作り上げているわけだ。
彼の学者が勉強家であることは認めるが、勉強家であればこじつけをやってもよい、というものではあるまい。
913 :
名無し三等兵:2014/05/21(水) 12:01:17.45 ID:fv7gz7AY
なるほど
「彼山徒等」
か
「彼凶徒等」
のどちらかであるはずなのに
「彼山凶徒等」と呼んでしまうのは
恣意的と言われても仕方ないと
914 :
名無し三等兵:2014/05/21(水) 17:20:50.74 ID:OWGOrWp8
>>911 鹿島氏の例もあるし、神官ってステが付いてるだけで、その辺の在地領主が武士化して御家人になった流れと
あんま変わんない気がしないでもない
まぁ宗像なんかの大社は律令制の頃から重視はされてたけど
915 :
名無し三等兵:2014/05/21(水) 20:33:50.58 ID:c6QMrd7U
>>914 ちょっとずれるけど、大相撲の行司って、相撲という「神事」にたずさわりながら武士の格好してるよね。
短刀という「武器」も持ってるし。
江戸時代は本当にちょんまげ・かみしも姿で行司をやっていた。
明治時代になって、それじゃあんまりだというので鎌倉時代まで遡らせた、と聞いたことがある。
鎌倉時代の宗像神社や八幡神社の神官もあんな格好だったんじゃないか?
916 :
前スレ813:2014/05/21(水) 21:29:10.84 ID:lTV9boTZ
>>912 >オリジナルの史料(ウィキ「元寇」など参照)では
>「彼山(凶カ)徒等」となっている所である
()内は、翻刻した外山幹夫氏が補ったものです。
引用元の凡例に書いてあります(p.321)。
手元にウィキ「元寇」の引用元となった書籍がありますので原文のみを抽出すると、
右、去年十月廿日異賊等龍衣渡于寄来畢良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原
「彼山徒等」について、
・「山」を「凶」の誤記とみるか、
・「彼山凶徒等」の「凶」の脱字とみるか、
といったところでしょう。
917 :
名無し三等兵:2014/05/22(木) 08:16:58.33 ID:D0wEwUdZ
「ジパング伝説」に時宗に斬られた使者にムスリムがいた
元寇はムスリム商人がそそのかしたってあったけど
どこまで本当かな
918 :
名無し三等兵:2014/05/22(木) 09:50:21.50 ID:BN6rFz2+
>>916 引用元を明示しているのならばなおさらのこと、引用元の文章を注釈を含めてそのまま
引用しなければなりません。それが引用のルールです。
わざわざ外山幹夫氏の注釈「(凶カ)」を引用しながら「カ」だけを落としているのは、
やはり恣意的、意図的のそしりを免れないでしょう。
また、仮に脱字説を取って「彼山凶徒」だとしても、「山」が楚原山を指すという判断の根拠が
無いことは同じです。
さらに言えば引用した文章の後に続く文章は、大勢の敵のなかに駆け入って射戦し、矢三本を鎧に
射立てられ、大勢の敵のなかで珍しくも生き延びた、首は取らせなかった、という苦戦の記述になる
わけで、それを読めば文章全体の印象は大いに変わります。
大して長い文章でもないのにこの部分を引用せず、読者に見せないのは印象操作と言われても
仕方ないでしょう。
919 :
前スレ813:2014/05/23(金) 00:26:28.87 ID:BcOCpZAi
>>918 誤解があったのなら申し訳ないが、
・wikipediaの「元寇」で引用されている福田文書の元ネタは『中世九州社会史の研究』(外山幹夫,吉川弘文館,1986)
・『元寇後の城郭都市博多』が『中世九州社会史の研究』を参考図書として挙げているかどうかは知りません
(独自に翻刻したかも知れない)
この辺は
>>912さんの返答待ち。
気になるのは、活字で見ると「山徒」と「凶徒」は似ているように見えるが、古文書字典を見ると、「兇徒」という表記が載っていたりするところ。
とはいえ、結論に持って行くのが強引ではないか、とは私も思います。
>「山」が楚原山を指すという判断の根拠
『自然と遺跡から見た福岡の歴史』p.296に大濠周辺の等高線図(服部英雄氏作成)があるが、論拠とするには足りないかな。
西新〜百道付近で山と言ったら、祖原山以外にどこかあります?
920 :
名無し三等兵:2014/05/23(金) 15:35:47.28 ID:9aLiUNAl
>>919 >『元寇後の城郭都市博多』が『中世九州社会史の研究』を参考図書として挙げているかどうか
書名、著者、出版社、ページを入れて挙げてあります。
ただ「引用」という言葉はありませんから、参考図書中の注釈付き翻刻文から、学者が独自の
考えで想定される原文を抽出した、とは言えるわけで、
「彼山(凶)徒」も、「「徒」は凶徒の徒以外にあり得ないから「凶」の字が脱落している」
という、脱字説の考え方を表していると言えます。
その意味で、「でっち上げ」「こじつけ」などの言葉は不適切でしたのでここにお詫びして撤回します。
>西新〜百道付近で山と言ったら、祖原山以外にどこかあります?
もうひとつ、赤坂山があります。こう言うと、赤坂山の元軍はすでに菊池に追われたはずだ、と言う人が
必ずいますが、我々はその後の戦闘経過をまったく知らないのですからなんとも言えません。
ただ、これは「山」字の存在を肯定した上でのことですが、私は外山幹夫氏に賛成する「山」否定論です。
921 :
名無し三等兵:2014/05/23(金) 16:09:00.18 ID:9aLiUNAl
なぜ「山」字を否定するか。
ひとつは文章の問題です。福田文書を書いた人は、文中の「場所」については早良郡、鳥飼塩浜、
百路原、と克明に「地名」を用いています。楚原山に限って、文中に前出してもいないのに、
「彼山」と代名詞的に書く理由がありません。
もうひとつは、果たして当時、楚原山は「山」として認識されていたのか、という問題です。
蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記を通じて、「楚原山」という地名は一度も出て来ません。
出てくるのは「そはら(すそはら)」「佐原」など、「山」のつかない地名です。
これらの地名は「山」を省略したのではなく、「原」が地形を表す言葉なのであり、
「百路原」と同じように、それ自体で完結していたのではないか、とも考えられます。
つまり「そはら」は「少し高い平地」すなわち「台地」として認識されていたのではないか?
もしそうであれば、「彼山」と書いても当時の読者にはぴんと来なかったでしょう。
以上が、私が「山」字を否定する理由です。
922 :
前スレ813:2014/05/24(土) 08:59:54.54 ID:dqLKh/At
>>921 私も結果的には同意見ですが、理由は異なります。
というのも、原文に文字を足すときには、慎重になるべきだと考えています。
福田文書の別の写しでも見つかって、それをもとに文字を足したのかと思ったが、
そうでもなかったと言うことですね。
>もうひとつ、赤坂山があります。
それも知ってはいますが、当時の海岸線を考えて、書きませんでした。
当時の百道原は半島状で、その根元に祖原があるので。
(例の著者も、これを考慮に入れているとは思いますが、説明不足とも思う)
「祖原山・皿山という本陣を構えるのに適当な独立丘陵があり、文永の役ではこの地点が激戦地となっている」
※皿山は、現・紅葉八幡宮周辺
参考:『自然と遺跡から見た福岡の歴史』p.304,313〜314
923 :
名無し三等兵:2014/05/24(土) 11:08:29.71 ID:fA1g/u8U
>>922 ご教示ありがとうございました。
さて、ここは軍事板なので、すこし軍事的に考えて見ましょう。
福田兼重は「鳥飼潟塩浜」で元軍と合戦しました。「塩浜」とは塩田のことです。
当時の鳥飼潟は塩田に利用できる遠浅で、歩行可能であったことは蒙古襲来絵詞に見る通りです。
「塩浜」が絵詞の「塩屋」のあたりであれば現在の地名で別府のあたりと考えられます。
このあたりはすでに菊池・竹崎・白石勢が一度元軍を撃退したところですから、ここで
福田が戦ったということは元軍が再進出していたことになります。これだけから言っても、
例の学者が言うような一方向的な戦闘経過は成り立ちません。
さて、福田文書によれば元軍は「引き退き」ましたが、これが祖原山の元軍の撤退だとすれば、
福田は目の前の敵軍をさしおいて、1km以上離れた祖原山の元軍撤退を望み見て、これを追った
ことになり、どうも隔靴掻痒の感じがします。
そうではなく、塩浜で戦っている眼前の敵が後退した、と考える方が妥当でしょう。
そこで当然、福田はこれを追った。どちらの方向に追ったかと言えば、祖原山方向ではないでしょう。
なぜなら、その方向に追ったのなら絵詞と同様に「そはら」の地名を入れて表現すると思われるからです。
そうではなく、敵は干潟を横切って現在の西新の方向に逃げた、福田もこれを追った、そして
半島胴部、西新あたりにに「上陸」したところで敵の大軍に遭遇した、と考えます。
924 :
名無し三等兵:2014/05/24(土) 11:13:34.06 ID:fA1g/u8U
そこで福田は射戦を行って矢三本を射立てられた。そして敵兵に取り付かれて馬からひきずり下ろされ
そうになったが、なんとかこれを切り払って脱出した。首だけは取らせなかった。これが「大勢と雖も
希に存命し、分捕り許さざるなり」の状況です。
福田は危うく生き延び、「希に存命」しなかった多くの部下を失ったのです。
生き延びた福田はどうしたか。ここで福田が福田勢単独の突入であったか、大軍勢の一員であったかで
考え方が分かれますが、私は単独突入であったと考えます。理由は、記録に出てくる日本軍の戦法が
それしかないことと、命令もまた「各々早良郡に向かうべし」であったからです。
単独突入であれば、部下を失い、矢も尽きた福田がその場に留まれるわけもなく、出発した日本軍陣地
まで帰還した、という結末であったと考えます。
日本軍が、祖原山を撤退した元軍を追撃してこれを海に追い落としたような、例の学者の説は夢物語の
ように思えます。
925 :
名無し三等兵:2014/05/24(土) 16:21:40.21 ID:mptnNLOu
926 :
名無し三等兵:2014/05/24(土) 17:54:33.62 ID:Ik67RsWK
>>925 運営がサーバー移転に失敗して日中に書きこまれたレスが飛んだらしい
927 :
名無し三等兵:2014/05/24(土) 21:17:00.28 ID:mptnNLOu
なるへそ。3月〜4月のゴタゴタ以降ほんま糞やな2ちゃん。
12年くらい2ちゃんにいたけどそろそろ潮時かねえ・・・。
928 :
前スレ813:2014/05/27(火) 01:02:09.04 ID:QtXj9mw/
>>924 一点だけ。
福田の証人に立った、「宇木江六・江浦小次郎等」は?
929 :
名無し三等兵:2014/05/27(火) 09:07:26.16 ID:Vt2ofG4H
>>928 その証人については読んだことがありません。
教えて下さい。
930 :
前スレ813:2014/05/27(火) 23:03:45.15 ID:QtXj9mw/
>>929 引用した文の直後に書いてありますよ。
「且此由」の次に。
(戦功の証言について偽りがないことを誓う)起請文を納めたのが江浦三郎宗澄とあるので、この人も証人ですね。
>大勢と雖も希に存命し、分捕り許さざるなり
そうでしょうか。
引用元では「不分取許(ママ)也」です。
翻刻者は、「許」の文字は誤字・当て字だと指摘しています。
読み方を教えてください。
参考:『中世九州社会史の研究』,吉川弘文館,外山幹夫
931 :
前スレ813:2014/05/28(水) 07:24:47.51 ID:fyI5U4ri
苦戦の様子は読み取れますので、まあよいのではないでしょうか。
しかし、気になるところも。
弘安の役のときは下人が負傷した旨を明確に報告しているのに、文永の役では明確でないことですね。
例によって、wikipediaの引用では省略されているけれど。
932 :
前スレ813:2014/05/28(水) 08:12:59.66 ID:bWVbmq/a
すみません、見落としていました。
省略されてません。
933 :
名無し三等兵:2014/05/28(水) 20:20:12.39 ID:eMh54Kjp
>>930 >引用した文の直後に書いてありますよ。
それは知りませんでした。ウィキの引用はそれをはしよっているので。
ご教示有り難うございました。
>翻刻者は、「許」の文字は誤字・当て字だと指摘しています。
なるほど、福田が首を取られそうになったのではなく、福田の軍功としての分捕りが無かった、
という解釈ですね。
その前の苦戦の記述は分捕りが無かったことへの言い訳であると。
私の主旨は福田文書(文永の役)が、例の学者が唱えているような一方向的な戦闘経過の裏付けには
なり得ない、というところにあるので、分捕りについてはその解釈でも構いません。
934 :
名無し三等兵:2014/05/28(水) 22:00:39.01 ID:xUEhXt7Y
>>910 そういや勝頼の母かたの祖父は諏訪大社のおおほおりだな
中世の寺社のトップって戦国大名とかわらんしね
935 :
名無し三等兵:2014/05/29(木) 16:14:19.05 ID:haoN/NLG
>>928 >一点だけ。
>福田の証人に立った、「宇木江六・江浦小次郎等」は?
これが「証人がいるということは単独突入に反するのではないか?」という
意味ならば、必ずしもそうは言えないでしょう。
なぜならば単独突入同士で互いに証人になった竹崎と白石の例があるからです。
936 :
名無し三等兵:2014/05/29(木) 19:25:35.73 ID:8qclLNlz
>>934 だから織田信長本人には宗教的主張はなかったんじゃないのか?となるんだよね
937 :
名無し三等兵:2014/05/31(土) 22:14:57.21 ID:LOYJ4w7v
>>921 現在、赤坂山から望むと祖原山は明らかに山と認識できますね。ビル群にもかかわらず、いや、ビルとの対比でむしろはっきり山と認識できます。
むしろ鹿原という地名で書くと百道原のような湿地と区別がつかず山であることが読者にはぴんと来ないでしょう。
百道原に懸け落とした状況を理解させるには、懸け落とす地形、つまり山と明記したと考えても不合理なことはありません。
>このこじつけによって、驚く無かれ原文に全く存在しない、「楚原山の元軍の撤退」という「史実」を作り上げているわけだ。
「山」か「凶」か「山凶」でも百道原に懸け落とされ、百道原に退却したのなら鹿原は陥落しています。
文意が変わらないのに「山」か「凶」かで「令懸落百路原」をなかったかのようにこぢつけるのほ感心しません。
>>912 彼山凶徒等、彼山徒等、彼凶徒等、いずれの記述だったにせよ「令懸落百路原」といのは変わりません。
赤坂山から懸け落とされればそこは百道ではなく草香江あたりになりますね。
938 :
名無し三等兵:2014/05/31(土) 22:37:54.00 ID:LOYJ4w7v
凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、
「稀有の仁、存命せしむ」の解釈は「大勢の味方が打ち取られたが希に私は生存できた」ではなく
「稀有」は「幸運にも」あたりの解釈が自然ではなかろうか
939 :
名無し三等兵:2014/05/31(土) 22:53:34.03 ID:LOYJ4w7v
「稀有の仁」は神仏のご加護を受けてなになにでした、と使ったかな
「幸運にも」よりもこっちの方が鎌倉時代の古文としては自然かな
「仁」の字を使うのは神仏の加護を受けてる人だからだったような記憶が
940 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 00:09:18.92 ID:TEGqSZiL
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、
馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、
凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、
鳥飼塩浜に馳向い、防戦の処、ほどなく(彼山からor凶)蒙古の軍が引き退き、百道原に懸け落とした。
兼重が大勢の中に馳せ入ったのがどの段階であっても百道に撤退させたことは変わらない。
つまり鹿原は陥落している。
>>924 >そして敵兵に取り付かれて馬からひきずり下ろされそうになったが
>部下を失い、矢も尽きた福田
これって福田兼重申状読んでも見当たらないけど、別にもっと詳しいのがあるの?
941 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 07:24:25.78 ID:TEGqSZiL
>>939 追記)「稀有仁」そのものはググったけど出てこないから記憶違いかもしれない
説話で仏様のご加護、大鏡では道長のことだったと思ったんだが
読みは「稀有なる仁なり存命せしむ」になるのかな
では、稀有はというと
【希有なり・稀有なり】
@不思議だ。めったにない。
Aとんでもないことだ。思いもかけない。
福田文書では@なんだが、不思議だ、奇妙だ、という意味合いを持っている。
単に数的に希と解釈しては現代文であって古文ではない。
したがって、「希有仁令存命」の「希」を数的な意味で解釈するのは誤り、
今風に言うと「オレもってるわ」で、鎌倉時代なら「神仏のご加護」のニュアンスはあると思う。
矢が3本中ったにもかかわらず生きていることは優勢な戦況でも不思議なことと言い得、
これをもって苦戦しているとは言えない。
942 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 08:19:37.80 ID:TEGqSZiL
>>924 >私は単独突入であったと考えます。
「各可相向当所蒙仰之間」なんでしょ、増援のうち福田勢が最初に到着し、白石勢は既に退却していたということですか
>>923 「懸け落とせしむ」が解釈されてません。
943 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 11:49:06.95 ID:nfjyd4O3
>>942 >「懸け落とせしむ」が解釈されてません。
「敵は干潟を横切って現在の西新の方向に逃げた、福田もこれを追った、そして
半島胴部、西新あたりに「上陸」したところで敵の大部隊に遭遇した。」
これが「懸け落とせしむ」の状況です。(「大軍」は「大部隊」と直しました)
>>939 >「稀有の仁」は神仏のご加護を受けてなになにでした、と使ったかな
「仁」は単に日本語の助詞の「二」でしょう。
その前に「草摺等二」と、こちらはカタカナで出ている。
このころの武士の漢文はすでに純粋な漢文ではないわけです。
読みは「希有に存命せしめ」
944 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 12:40:19.86 ID:TEGqSZiL
>>943 解釈してませんよ
蒙古襲来絵詞で見てみましょう
「たけふさに、けふとあかさかのぢんをかけおとされ」
「ふたてになりておおぜいはすそはらにむけてひく」
「こぜいはべふのつかはらへひく」
「もうこのいくさひきしりぞきて、すそはらにあがる」
逃げるは「引く」「引退く」、山の陣地には「あがる」、山の陣地から攻め落されるのは「懸け落とされる」と区別しています。
「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原」
の「引退」だけしか解釈してませんね「令懸落百路(道)原」は無視してます
時系列でも見てみましょう、
鳥飼塩浜に馳向はせしむ→防戦の処→就く彼山(凶カ)に引退く→徒等百路(道)原に懸落せしむ
鳥飼塩浜に馳向はせしむ→防戦の処→就く引退く→彼山(凶カ)徒等百路(道)原に懸落せしむ
目的語を揃えたのと一般的なのと二通りの読みいずれにせよ防戦の処より引き退いた後に懸け落とされています。やはり時系列も無視して解釈してませんね。
945 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 12:53:24.38 ID:OaOZ/mUP
勢いですぎだろ
一体何の話題がここまで伸ばしてるんだ
946 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 12:58:41.37 ID:TEGqSZiL
>>943 「稀有の仁」は普通そうですね。そこで
>>941で【稀有】を古語辞典で調べて書いています。
「稀有」から部下を大勢失ったと推測するのは無茶です
947 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 15:48:57.97 ID:iWBzMvO0
基地外がいるな。
どういう超解釈したら、三本の矢が当たり福田が奇跡的に存命したという内容から
日本軍が苦戦したというウルトラ級の謎曲解になるんだ?
逆に福田は弘安の役でみられるように自分の郎党の損害は戦功のアピールポイントに
しているが、文永の役では触れていないんだが。ってことは、郎党の損害は無く、戦功ポイントは
福田が突撃して3本の矢を受けたってことだけだったということ。福田勢は損害皆無で凶徒を百道原に
追撃したっていう圧勝だったという証拠にはなるな。
948 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 15:54:48.69 ID:iWBzMvO0
「そして敵兵に取り付かれて馬からひきずり下ろされ
そうになったが、なんとかこれを切り払って脱出した。」
↑
これなんて、福田の文書に全く載ってない自己の脳内で捏造した戦況。
捏造してまで、日本軍が苦戦していたという主張してる。
こいつ、自分の主張のためにところどころ、都合の良いように脳内補完を刷り込ませて
くるからタチが悪い。
949 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 16:29:56.97 ID:nfjyd4O3
>>944 >「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原」
>の「引退」だけしか解釈してませんね「令懸落百路(道)原」は無視してます
「引退」は敵の動作、「懸落」が自分の動作、というだけのことです。
「退却」と「追撃」です。
私の文章で言えば「福田もこれを追った、そして半島胴部、西新あたりに「上陸」した」
これが「令懸落百路(道)原」です。 百路原は現在の西新あたりなのです。
>時系列でも見てみましょう
なんかよくわからないので、一度原文を書き下し文にして見ましょう。
「令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、 馳入大勢之中、令射戦之時、
兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」
「鳥飼塩浜に馳せ向かわしめ、防ぎ戦わしむるの処、彼の凶徒等引き退くに就き、百路原に懸け落とせしめ、
大勢の中に馳せ入りて射戦わしむるの時、兼重鎧の胸板草摺等に矢三筋射立てられおわる。凡そ大勢の中希有に
存命せしむるが為と雖も分捕らざるは・・なり」
「不分捕許也」は
>>930さんの注意により解釈を変更しました。
また「令:せしむる」は使役形のように見えますが単なる謙譲語で、すべて自分の動作です。
これで考えて見て下さい。また、書き下し文に異見があればまずそれを出して下さい。
950 :
前スレ813:2014/06/01(日) 17:07:00.20 ID:XinLQfok
整理しておきます。
wikipediaにある福田兼重申状写(建治元年九月二十五日付)は、全体の1/4程度です。
>>923〜924
は、wikipediaに載っている部分だけを参照して書かれたのではないかと思っております。
>>933 >なるほど、福田が首を取られそうになったのではなく、
>福田の軍功としての分捕りが無かったという解釈ですね。
いいえ、何の解釈もしません。
困ったことに、翻刻者による補正もありません。
ただ、なぜ「許さざるなり」と読めたのかが知りたかったのです。
>>935 単独突入と書いたのは、福田兼重申状写の証人に関する部分を知らなかったからだろう、
と推測したまで。
単独なのか複数なのかは分かりません。
>>921 >「楚原山」という地名は一度も出て来ません。
>出てくるのは「そはら(すそはら)」「佐原」など、「山」のつかない地名です。
「佐原」は何を指しているのでしょうか。
参考:『角川日本地名大辞典』
また、「希有仁令存命」の「仁」は、小さく書かれています。
951 :
名無し三等兵:2014/06/01(日) 18:56:13.37 ID:iWBzMvO0
福田兼重申状写はそれなりの古文書の知識
があれば、分捕りは無かったとしか読めね
えが、自身の無知からくる思い込みから、
「解釈の仕方」と受け取っているのが痛い
わ。
952 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 09:45:47.71 ID:SXqSGo/2
さて、大きな問題の一つは敵が祖原山から撤退したのかどうかです。
例の学者はその説だし、ここにいる大部分の人がそう考えるわけですが、その根拠には
二つの流れがあると思います。
一つは「懸け落とせしめ」の「落とす」に「上から下へ」の概念が入っており、これは
高い祖原山から低い百千原に撤退させたことだ、という考え方です。
例:
>>937 >百道原に懸け落とした状況を理解させるには、懸け落とす地形、つまり山と明記したと考えても不合理なことはありません。
しかし「駆(懸)け落とす」に「上から下へ」の概念は含まれないのです。
古語辞典で見ると、名詞形ですが「駆け落ち」の第一義は「武士が戦いに負けて逃げること」とあります。
「駆け落とす」はその能動形です。つまり単に「敵を破って退却させる」ことです。
退却する敵は「山から平地へ」逃げる必要はありません。「平地から平地へ」でも「平地から山へ」でも構いません。
だから福田が塩田で戦っていた相手の凶徒を百千原に退却させても、それは「駆け落とし」たことになるのです。
953 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 10:23:02.09 ID:SXqSGo/2
↑訂正:百千原→百路原
もう一つの流れは戦闘地域の捉え方です。
「敵は百路原に撤退したのだから祖原山は落ちているはずだ」という言い方は、戦闘地域の一つの捉え方を含んでいます。
それは赤坂→鳥飼→祖原山→百路原→百路浜→姪浜と続く、線状ないし連鎖状の戦闘地域です。
戦闘地域をこのように捉えるから、敵が鳥飼から百路原に逃げたと言えば、その中間の祖原山も逃げたはずだ、となるのです。
このような捉え方の基底には、戦闘が鳥飼入り江の湾岸に沿った幅の狭い地域で戦われたという概念があります。
しかし蒙古襲来絵詞を見れば、敵は赤坂から干潟を横切って祖原へ逃げ、竹崎もまた干潟上でこれを追っています。
沿岸地域に限らず、入り江の中(地図で見れば水面)もまた戦闘地域だったのです。
福田もまた「鳥飼塩浜」と書いているように、入り江の中の「塩田」で戦っています。
塩田は汐が引けば固くしまった砂地が現れます。ガタリンピックのような泥地では塩田にはなりません。
また塩が満ちてもひたひたにしか水は被らず、徒渉可能です。そしてもちろん広くて平坦です。
こう考えれば塩田ないし塩田適地の干潟は、うってつけの「戦闘適地」であったと言えるでしょう。
だから自然と、戦闘の大部分は干潟上で行われたと考えられます。だからこそ「鳥飼潟合戦」の名前がついたのです。
沿岸沿いに限った戦闘であったのなら、もっと他の名前がついたでしょう。
こう考えてくれば、塩田上で戦っていた福田の相手の敵は、なにも祖原を経由して逃げる必要はなく、まっすぐ
西へ逃げればそこが百路原です。またそうなっても、祖原山は半島基底部の西側に偏って位置しますから、
最前線よりさらに後方です。あわてて逃げる必要はありません。
敵の退却が一時的な、あるいはみせかけのものであったならば、なおさらの事です。
例の学者の説は以上のような事情を無視しているのです。
954 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 13:05:35.69 ID:jzdxQk5N
あんたの解釈によれば、「鳥飼潟で防戦し元軍は引き退いたところ、百道原へと戦い破って敗走させた」ってなるよな。
攻め寄せて側が敵に背を見せ逃げ出した時点で敗走だよ。
同じ元軍の逃走を二度も言葉を換えて繰り返し言ってることになるじゃねえか。
こんなおかしな解釈はねえよ。
まず、蒙古襲来絵詞にも鳥飼潟での戦闘の後、元軍が逃げ出したのは祖原山だろ。
蒙古襲来絵詞は竹崎が中心の実話だが、自身の体験談をもとにしてるために鳥飼潟の描写は肥前の白石が駆け付けたことしか
描かれていない。ところが竹崎は鳥飼潟で筑後国の御家人光友又二郎の戦死の証人になったという記述がある。
ってことは、鳥飼潟には肥前の白石勢以外の各国の御家人もいた可能性が高いってことだ。
福田勢ら武士団が鳥飼で防戦し破ったという元軍はこの祖原山に逃げ出したという判断の方が蒙古襲来絵詞と辻褄が合う。
これを否定しようとするのなら、この2つの史料が同一の戦場で別の時間帯の戦いとだったという史料にはないストーリーを
創りだし、脳内補完に次ぐ脳内補完を繰り返す小説の世界になるわ。
蒙古襲来絵詞の赤坂山の元軍を「駆け落とす」と表現しているわけで、この場合も祖原山の元軍を「駆け落とす」と解釈した
方がいいわ。
955 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 19:06:38.49 ID:90kzBpD5
>>952 つっこみどころが多すぎて長文になってしまう(わらい
>>944に書いたように武士は「退」と「落」を区別している。
ましてあなたの言う地形の意味を含めない「落」は、地形の意味よりはるかに酷い完全な敗走、
この戦を降りてしまった意になり、この凶徒の出撃拠点である祖原山の陣が残っていたなら尚更使わない。
そもそも、あなたは「懸け落とせしめた」のは赤坂山だと言ってたでしょう。
赤坂山を印象付けたいからあなたは塩浜の位置を別府あたりで祖原山から1km“以上”離れたと推測してたんじゃないですか?
1km以上というのもおかしい。満潮時の海岸“線”であろう“浜”なのに。
絵詞から塩屋は現塩屋橋から鹿原方向に広がっていると推測できる。
956 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 19:29:42.84 ID:90kzBpD5
>>953 前からあなたの位置把握がおかしいと思ってたけど、「とにかく祖原山を避けたい」という願望で地形が変動しているんですね。
>蒙古襲来絵詞を見れば、敵は赤坂から干潟を横切って祖原へ逃げ、竹崎もまた干潟上でこれを追っています。
>まっすぐ西へ逃げればそこが百路原です。
全然ダメですね。赤坂山から鹿原に向けて逃げたのが干潟を横切っています。足場の良い別府の塚原に逃げた小勢が迂回であり、
まっすぐ西へ逃げると祖原山です。
だからあなたは
>>923で西新あたりにに「上陸」したところとなったのでしょう。
しかも、季長が戦った塩屋はもう松が生えています。
957 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 19:47:33.21 ID:90kzBpD5
>>956 追記)しかも、季長が戦った塩屋はもう松が生えています。
戦闘はかなり鹿原よりで行われていると言いたかった。
958 :
名無し三等兵:2014/06/02(月) 20:08:08.51 ID:90kzBpD5
>>953 >塩田ないし塩田適地の干潟は、うってつけの「戦闘適地」であったと言えるでしょう。
ダメですね。季長は鳥飼潟で馬の脚をとられてる。
>福田もまた「鳥飼塩浜」と書いているように、入り江の中の「塩田」で戦っています。
これもダメ。“浜”と書いてあるでしょう。それに塩屋は松が生えている。
959 :
名無し三等兵:2014/06/03(火) 14:22:16.33 ID:SuACRcQd
>>955 >ましてあなたの言う地形の意味を含めない「落」は、地形の意味よりはるかに酷い完全な敗走、
部分肯定に「引き退き」ましたね。
「駆け落とす」にそんな使い分けがあると言うのなら、使い分けてある例文を示して下さい。
>そもそも、あなたは「懸け落とせしめた」のは赤坂山だと言ってたでしょう。
私が赤坂山のことを言ったのは形式論です。「山と言えば祖原山しかない」というから
「赤坂山だってある」と言ったまで。
そもそも私は「山」字を否定するのだから、赤坂山か祖原山か、など議論する必要はないのです。
山の字を採用しない書き下し文は
>>949 山の字を否定する理由は
>>921
960 :
名無し三等兵:2014/06/03(火) 14:37:51.99 ID:SuACRcQd
>>956 >全然ダメですね。赤坂山から鹿原に向けて逃げたのが干潟を横切っています。足場の良い別府の塚原に逃げた小勢が迂回であり、
>まっすぐ西へ逃げると祖原山です。
人の書いたことをまぜこぜにしてはいけません。赤坂山から祖原へ逃げたのは菊池の敵、まっすぐ西へ逃げて百路原へ行った
のは福田の敵です。
菊池の敵が干潟を横切ったことを書いたのは、干潟が歩行可能であったことを言うためです。
福田はその干潟で戦った。「塩浜」すなわち塩田と言っているのだから、かなりの沖合であっても構いません。
その沖合から、まっすぐ西へ行けば祖原半島の胴部に行き当たります。そのあたり一帯が百路原です。
祖原半島胴部の大部分は百路原なのです。半島先端でT字状に伸びる砂嘴は百路浜です。
961 :
名無し三等兵:2014/06/03(火) 14:51:22.49 ID:SuACRcQd
>>958 >ダメですね。季長は鳥飼潟で馬の脚をとられてる。
竹崎の馬は泥にはまったのかもしれないが、それを入り江全体に広げてはいけません。
竹崎が倒れた直後に一騎で敵を追った三井も、三井に追われる敵の撤退部隊も、ちゃんと地面を
歩いて(または騎行して)いることは絵詞に見る通りです。
鳥飼潟のような砂の干潟はこのあたりの山の花崗岩のくずを河が運んで、その河口にできる
のですから、干潟の中には必ず川筋があります。竹崎はそのような川筋に落ちたのでしょう。
>これもダメ。“浜”と書いてあるでしょう。
「砂浜」を考えて見ましょう。きれいな砂地が干潮時には現れ、満潮時には水に覆われます。
つまり「浜」は、陸地でもない、海でもない、その中間の地帯なのです。
塩田は、このような「浜」であって、それが思い切り広くて平坦なものです。
だから塩田を「塩浜」ということができるのです。
962 :
名無し三等兵:2014/06/03(火) 15:24:09.25 ID:SuACRcQd
↑長たらしい説明は不要でした。
いま、講談社「日本語大辞典」を見たら「しおはま、塩浜→塩田」と書いてありました。
これで福田の「塩田戦闘」は確定しましたね。
963 :
名無し三等兵:2014/06/03(火) 23:02:43.16 ID:JqvwxIir
>>959 落ち武者。落ちのびる。「武士が戦いに負けて逃げること」と書いてあるんでしょ
絵詞からも鹿原が拠点なのは明らかで鹿原が落ちなければここの凶徒は負けたことにはならない
現に「引退」と「懸落」を絵詞も福田兼重申状も使い分けており
>>954が指摘されてるよう解釈としてなってない
むしろ、「百道原より(海に)懸け落とせしむ」という解釈さへある
塩浜の位置を最初「祖原山から1km以上離れた別府あたり」と推測から現鳥飼の北方に変動させ、
季長の馬が脚を取られてるにもかかわらず干潟を足場の良いと言い張るのは、
凶徒が真っ直ぐ逃げれば祖原山になるから、できるだけ戦場を北に北に推定したいからでしょう。
季長は凶徒を追った結果、鳥飼潟から鹿原に駆け、鹿原の凶徒は同方面にうってで鳥飼潟が戦場になってるが、
日本軍の進出起点は現大濠の入江の南。一般方向は鹿原の敵陣撃滅。よって戦場は季長が戦った塩屋の松の本から南に広がると考えるのが妥当でしょう。
964 :
名無し三等兵:2014/06/04(水) 16:17:13.77 ID:N0dxj+jK
>>963 福田文書(文永の役)に「山」はない。
「塩田」はある。
これがすべて。
965 :
名無し三等兵:2014/06/04(水) 17:28:34.37 ID:N0dxj+jK
>>963 すべて、とは言ったが誤解は解いたほうがよいのでちょっと補足。
>塩浜の位置を最初「祖原山から1km以上離れた別府あたり」と推測から現鳥飼の北方に変動させ、
私は最初から「塩田」と言っています。
>>923を見て下さい。
塩田で戦った、と考えたのは福田文書が「塩浜」と言っているからです。
塩田であれば陸地よりも沖合、すなわち南北軸で「北方」にあるのは致し方ありません。
「別府」の名を出したのは東西軸上の位置を示すためです。
つまり福田は別府あたりの沖合の塩田で戦った、と考えたのです。
陸地の別府であれ、その沖合の塩田であれ、東西軸上で祖原山まで1km強であるのは同じです。
東西軸上の位置を別府のあたりとした根拠は薄弱ですが、少なくとも「塩屋の松」というあなたの意見とは
一致していますね。
966 :
名無し三等兵:2014/06/04(水) 19:17:11.53 ID:WIENBtP+
>>964 塩田をググってみてみましょう。塩田は陸側の砂浜にあります。
干潟に塩田を作れるようになったのは17世紀とされてます。(1件個人サイトで古くからとあるが伊勢神宮を誤認されたのでしょう)
参考に江戸時代の古地図に鳥飼の塩田が描かれてましたが陸側の砂浜にあります。
また、東区に塩浜の地名がありますが陸地の中央にあり博多湾の塩田が干潟においても揚げ浜方式だと推理できます。
967 :
名無し三等兵:2014/06/04(水) 19:52:51.85 ID:ljNaPmcT
まとめてくれる人も現れて、今スレこそは良スレになると思ってたのに
最後の最後でパフォコン爺がまるで
鎌倉武士に打ち取られた元軍の亡霊のように復活しやがったwww
968 :
名無し三等兵:2014/06/04(水) 20:02:21.26 ID:WIENBtP+
>>965 季長が戦った塩屋の松の本は鹿原側寄りでしょう。
馬が脚を取られた鳥飼潟から鹿原に向けて更に駆け、鹿原よりこれを迎え撃った凶徒と
合わさったのが塩屋の松の本なんだから、1km以上離れた鳥飼潟の東側ということはない。
969 :
名無し三等兵:2014/06/05(木) 21:12:54.18 ID:AiliHJk3
>>966 なるほど、塩浜=塩田は認めたわけですね。(ちなみに塩田というのは明治時代の造語だそうです)
揚げ浜なら底は粘土で固めるからますます戦闘適地でしょう。
たしかに「沖合」ではないが、揚げ浜があるということは周辺が遠浅であることを意味するから、
干潟を通って逃げた(追いかけた)ことを否定するものではありません。
また、干潟でなく海岸伝いであったとしても、行き着くのが百路腹であるのは同じです。
祖原山はさらに奥(西)にあるし、半島基底部よりすこし内陸に(南に)入り込んでいるからです。
確かにそこから祖原山は近いが、塩浜から逃げた敵兵が祖原山に逃げ込む理由もまたありません。
福田が百路原に達してすぐに大部隊に囲まれたことから見て、祖原半島はすでに元軍で充満していたと
考えられるからです。
970 :
名無し三等兵:2014/06/05(木) 21:18:39.00 ID:AiliHJk3
>>968 福田が戦った塩田がどこにあったのかはわからないが、1kmが500mだとしてどうだと言うのですか?
目の前の敵を置いて500m先の祖原山を攻めるのがおかしいことは同じでしょう。
971 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 01:38:30.89 ID:3KEBQ/Ei
>>969-970 “浜”が満潮時冠水しない地形を表しているという私の主張が正しかった。
あなたがまた間違っていたということですね。
現祖原山のすぐ南は荒“江”という地名が残っており早良街道には勾配があり祖原山の裾は街道の東まで広がっている。
絵詞の季長が戦った所はもう松が生えている。凶徒は鹿原を出入りして戦っている。
つまり、祖原山と浜は近く凶徒は鹿原と一体になって戦っている。
>目の前の敵を置いて500m先の祖原山を攻めるのがおかしいことは同じでしょう
塩田が浜にある時点であなたの思いは破綻してます。
凶徒が目の前の鹿原山を避けて迂回して引き退くのも、
それを兼重が鹿原山の隙間をぬって百道に追撃するのも不自然。
972 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 04:34:35.06 ID:e4FALwJj
いやー、ここまでの議論読んでたけど、時々ひどいけどオモロイわ。
実は毎日、西新とか百道には通ってる地形に住んでるんだけど、思い描いていた戦闘と全く違った。
防塁跡地って、護岸工事前の海岸線の百メートル位手前にあるんだよね。
これてっきり彼我の弓の射程を考慮して、着上陸する蒙高連合軍をアウトレンジするためだと思ってた。
モンゴルは知らないけど朝鮮は半弓だから、弓兵を防塁に並べれば楽勝になるなあとか考えてたけど、ぶっちゃけ防塁って使わなかったのかな?
973 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 06:45:19.17 ID:qcd8Yd2U
昔は海岸線がもう少し深かったってことも考慮に
974 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 06:46:55.91 ID:qcd8Yd2U
防塁自体は和弓の射程距離と当時の海岸線のバランスを考慮して設定されてたはず
要するに着上陸するところ丁度が射程内になるようにしてたらし
975 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 09:35:50.94 ID:hPhkRTmm
>>971 福田の戦闘地点と祖原山を一体化したいという願望はわかったが、それは無理でしょう。
福田文書に祖原の名が出て来ない限りはね。
ところであなたは「山」の字の存在を認めるのですよね。だからこそ祖原山が出てくる。
では「山徒」って何?
山賊? それとも山門の僧兵か何か?
976 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 10:06:54.71 ID:tyC7LjGC
弓矢で狙って当てられる距離が凡そ50mだから
当時の防塁と海岸線の距離もそのくらいだったんだろ
ただ元軍は雑兵に半弓を持たせ狙撃を考慮せず盲滅法撃ってきたらしい
大陸の集団戦法って要は技巧に凝った武人も弓矢の物量で圧倒してしまうって事だね
977 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 11:12:40.35 ID:IQLed2BY
それ半弓の飛距離じゃね?
和弓って曲射で200mくらいだろ?
大量の弓兵で間接射撃で矢の雨降らせて皆殺しは武士の戦法じゃなかったか。
978 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 15:24:40.45 ID:CTUOMlos
武士の戦法としては、集合して突撃しつつ直射or曲射での騎射がメインじゃね?
弾幕勝負にするなら流石に徒歩弓兵とかいると思うんだが、蒙古襲来絵詞だと
徒歩兵(郎党か何か?)は大体薙刀装備とかなんだよな
ただ弘安の防塁は弓矢持った武士が鈴なりになってるから、浜はブラッディ・オマハになりそう
979 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 18:13:25.10 ID:uV9R03Iw
そもそもは福田文書の原文の「山徒」を外山氏が書き間違いだろうと判断し(凶カ)
と付け足したのが間違いだな。
「凶」と読めば「懸け落とせしめ」の意味が通らない。
鳥飼から元軍が「引き退」いていたのだから。
蒙古襲来絵詞でも、祖原山から進出してきた元軍が鳥飼から撤退したのも祖原山。
「山徒」とは祖原山に元軍が陣を敷いていたから「山徒」でありだからこそ、
鳥飼で日本軍に撃退された元軍が祖原山から懸け落とされた。
「駆け落とせしむ」がどこからに言及がないのは、すでに敵方を「山徒」と表現
していたから。
980 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 21:42:23.65 ID:zeAVhlBu
>>979 >「凶」と読めば「懸け落とせしめ」の意味が通らない。
>鳥飼から元軍が「引き退」いていたのだから。
別に問題ない。
現代文に直せば「凶徒が(鳥飼から)退却したので、これを百道原に追撃した」
退却する敵を追撃して百路原に至ったのだ。
>「山徒」とは祖原山に元軍が陣を敷いていたから「山徒」であり
「山徒」でぐぐって見ろ。「僧兵」と出て来るぞ。
981 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 23:33:02.69 ID:tyC7LjGC
>>977 そういう戦いも無いわけじゃないし富士川の戦いじゃ源氏が矢の雨を降らせて勝ったらしいが
本来の武士の戦い方としては邪道だった、何故なら恩賞が貰えないからね
あくまで50m以内まで近づいて名の入った矢で確殺するのが習いだった
982 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 23:36:35.97 ID:spChD/9X
曲射が大鎧に対して非力ってのもあるんじゃね
983 :
名無し三等兵:2014/06/06(金) 23:38:55.70 ID:e4FALwJj
>>979 日本の弓は異常。長い射程を求めて二メートルを超える弓がデフォ。弓道も命中率よりも多分集団で斉射するための技術だろうね。
騎馬弓兵を百人揃える。アウトレンジから斉射。攻めてきたら引きながら斉射。逃げたら追いながら斉射。
敵に和弓部隊がいない、地形を熟知している、補給が続くという条件があればほぼ無敵。
絵巻物に出てくる得物は長巻っていうらしい。どの絵巻物を見ても、太刀よりも目立つ書き方されてるから余程重宝したんだろう。
でもなんとなくヒャッハーな人たち向けの武器に見える。
984 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 01:37:32.52 ID:H0YdA2AN
985 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 02:07:44.57 ID:bb5awG6X
>>983 >アウトレンジから斉射。攻めてきたら引きながら斉射。逃げたら追いながら斉射。
そんな運用がメインなら大鎧なんか着ないよ
普通の騎馬弓兵ならもっと軽装
986 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 07:51:34.38 ID:cfyzBJBq
>>980 「駆け落とせしむ」は「上から下に攻め落とす」か「敵を破って退却させる」
って意味だと言ったのはおまえだよな?
「現代文に直せば「山徒(祖原山)が攻め寄せてきたので防戦したところ、敵軍は撤退を開始したので
これを破って退却させる」って意味だな。意味不明だわ。防戦し撤退に追い込んだ時点で敵は敗走した
わけだが、なぜまた破ったことになってるんだ?笑
>「山徒」でぐぐって見ろ。「僧兵」と出て来るぞ。
あほか。比叡山の「徒」が転じて「僧兵」を表す単語に定着しただけ。
祖原山の元軍が山の「徒(ともがら)」であることには変わりねえよ。
むちゃくちゃだな、こいつ。
987 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 07:56:50.21 ID:cfyzBJBq
どちらの意味にしろ、「鳥飼」から撤退した敵軍を再び今度は「駆け落とす」ほどの大勝を収めた
となると「第二の戦場」が必要となるわけだが。「第二の戦場」から百道原へと「駆け落とす」と
なれば、元軍の陣が置かれていた祖原山を置いてほかにはねえよな。
鳥飼から祖原山に元軍が逃げ出したのは蒙古襲来絵詞と完全に一致している。
ってことは第二の戦場は「祖原山」を以外にはない。
988 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 08:02:03.92 ID:cfyzBJBq
訂正だわ。
現代文に直せば
「山徒(祖原山の元軍)が攻め寄せてきたので防戦したところ、敵軍は撤退したので
これを破って退却させる」だな。
撤退させた敵軍を再び退却させたわけだが、二回目の百道原へと逃げた元軍はどこから
退却したんだろうな?笑
989 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 09:14:44.56 ID:+NTABbOe
>>988 お前の言うことは「破って」の一点に依存しているが、これは辞書の説明を写したものだ。
正確に言えば「敵を攻めて退却させる」だ。
「懸け落とす」の「懸く=駆く」が「敵に向かって前進すること、攻勢を取ること」であり、
(懸け引きの「懸け」の語源も同じ。懸け引きは戦闘用語なのだ)
「落とす」が「落つ」すなわち「逃げる、退却する」の能動形で「逃げさせる、退却させる」だ。
だから合わせて「敵を攻めて退却させる」になるのだ。
交戦している敵が退却を始めた時、味方の選択肢はこれを放置するか、追撃するか、どちらかだ。
戦いの終盤に、元軍は水城に後退する日本軍を放置した。
福田は敵の退却を放置せず、直ちに追撃した。
福田の目的は第一に「分捕り」だ。敵が崩れているときのほうが首が取れる確率が高いからね。
しかし大部隊に囲まれて乱戦、苦戦となり、首は取れなかった。
福田文書は以上のような経過を語っているわけだ。
一つの経過の中に「引き退く」と「懸け落とす」の二つの行動がある意味がわかったかな?
990 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 09:34:29.73 ID:+NTABbOe
>>986 >「駆け落とせしむ」は「上から下に攻め落とす」か「敵を破って退却させる」
>って意味だと言ったのはおまえだよな?
また得意のストローマンだな。
「懸け落とす」に「上から下に攻め落とす」などという意味は「無い」ことは
>>952で
はっきり言っている。
山だろうが平地だろうが「敵を攻めて退却させる」意味しかないのだ。
そう言うと、義経は鵯越えで馬を「駆け落とし」たではないか、と言うかも知れない。
これは目的語が敵でなく馬だからそういう意味になるのだ。
そしてこの場合は「駆く」も本来の「騎乗する」の意味になっていることに注目しなければ
ならない。
日本語はデリケートだな。
991 :
名無し三等兵:2014/06/07(土) 11:01:04.33 ID:+NTABbOe
「落つ」が「逃げる、退却する」の意味に用いられる例を挙げておこう。
「一ノ谷のいくさ破れ落ち行く平家の公達哀れ・・」と昔の唱歌にあったな。
これは平家の公達が鵯越えから転落したのかな?
もうひとつ、他でもない「八幡ノ蒙古記」だ。
「大ともは 子ともうちつれ 落行て 方々にこそ よりやすみけれ」
これは大友父子が赤坂山から転落したのかな?
もちろん、どちらも高所から転落したのではない。単に退却したのだ。
992 :
名無し三等兵:
>>990 俺の言っていることまんまじゃねえか。
間違いだと認めてくれてくれてありがとさん。
「逃げさせる、退却させる」の意味だということは現代誤訳文に書いたとおり。
よってその現代語文を当てはめると、鳥飼で防戦したところ敵は既に逃げ出していたのだから、
続く文で敵軍を「敵を攻めて退却させる」とは同じ鳥飼の戦場の出来事とするお前の
解釈の仕方は成り立たない。
「第二の戦場」の地名が書かれていないのは、敵を「山徒(祖原山の元軍)」と表現していたからで説明がつく。
蒙古襲来絵詞を見てみると「引き退く」と「駆け落とす」は厳密に使いわけている。
たとえば、蒙古襲来絵詞の詞4では…
「もうこのいくさ…ひきしりそきて…、すそはらにあかる。」と表現している。
単なる敵軍の敗走は「引き退く」という表現だな。
次に同じく詞では…
「たけふさにけうとあかさかのちんを…かけおとされて…」
この場合は菊池勢が敵の陣を破り退却させた、という大きな大勝を表している。
福田文書を見てみると鳥飼での敵軍の敗走は「引き退く」で終わっているが、
続く文章では「駆け落とす」。
つまりは、鳥飼での戦闘以上の大きな大勝があったことを物語っている。
この場合、蒙古襲来絵詞でも鳥飼で敗れた敵兵は祖原山に逃げ込んだのであるから
第二の戦場は「祖原山」以外には無いわ。