【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5

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943名無し三等兵:2014/06/01(日) 11:49:06.95 ID:nfjyd4O3
>>942
>「懸け落とせしむ」が解釈されてません。

「敵は干潟を横切って現在の西新の方向に逃げた、福田もこれを追った、そして
半島胴部、西新あたりに「上陸」したところで敵の大部隊に遭遇した。」

これが「懸け落とせしむ」の状況です。(「大軍」は「大部隊」と直しました)

>>939
>「稀有の仁」は神仏のご加護を受けてなになにでした、と使ったかな

「仁」は単に日本語の助詞の「二」でしょう。
その前に「草摺等二」と、こちらはカタカナで出ている。
このころの武士の漢文はすでに純粋な漢文ではないわけです。
読みは「希有に存命せしめ」
944名無し三等兵:2014/06/01(日) 12:40:19.86 ID:TEGqSZiL
>>943
解釈してませんよ
蒙古襲来絵詞で見てみましょう
「たけふさに、けふとあかさかのぢんをかけおとされ」
「ふたてになりておおぜいはすそはらにむけてひく」
「こぜいはべふのつかはらへひく」
「もうこのいくさひきしりぞきて、すそはらにあがる」

逃げるは「引く」「引退く」、山の陣地には「あがる」、山の陣地から攻め落されるのは「懸け落とされる」と区別しています。

「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原」
の「引退」だけしか解釈してませんね「令懸落百路(道)原」は無視してます

時系列でも見てみましょう、
鳥飼塩浜に馳向はせしむ→防戦の処→就く彼山(凶カ)に引退く→徒等百路(道)原に懸落せしむ
鳥飼塩浜に馳向はせしむ→防戦の処→就く引退く→彼山(凶カ)徒等百路(道)原に懸落せしむ
目的語を揃えたのと一般的なのと二通りの読みいずれにせよ防戦の処より引き退いた後に懸け落とされています。やはり時系列も無視して解釈してませんね。
945名無し三等兵:2014/06/01(日) 12:53:24.38 ID:OaOZ/mUP
勢いですぎだろ
一体何の話題がここまで伸ばしてるんだ
946名無し三等兵:2014/06/01(日) 12:58:41.37 ID:TEGqSZiL
>>943
「稀有の仁」は普通そうですね。そこで>>941で【稀有】を古語辞典で調べて書いています。
「稀有」から部下を大勢失ったと推測するのは無茶です
947名無し三等兵:2014/06/01(日) 15:48:57.97 ID:iWBzMvO0
基地外がいるな。
どういう超解釈したら、三本の矢が当たり福田が奇跡的に存命したという内容から
日本軍が苦戦したというウルトラ級の謎曲解になるんだ?
逆に福田は弘安の役でみられるように自分の郎党の損害は戦功のアピールポイントに
しているが、文永の役では触れていないんだが。ってことは、郎党の損害は無く、戦功ポイントは
福田が突撃して3本の矢を受けたってことだけだったということ。福田勢は損害皆無で凶徒を百道原に
追撃したっていう圧勝だったという証拠にはなるな。
948名無し三等兵:2014/06/01(日) 15:54:48.69 ID:iWBzMvO0
「そして敵兵に取り付かれて馬からひきずり下ろされ
そうになったが、なんとかこれを切り払って脱出した。」

これなんて、福田の文書に全く載ってない自己の脳内で捏造した戦況。
捏造してまで、日本軍が苦戦していたという主張してる。
こいつ、自分の主張のためにところどころ、都合の良いように脳内補完を刷り込ませて
くるからタチが悪い。
949名無し三等兵:2014/06/01(日) 16:29:56.97 ID:nfjyd4O3
>>944
>「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原」
>の「引退」だけしか解釈してませんね「令懸落百路(道)原」は無視してます

「引退」は敵の動作、「懸落」が自分の動作、というだけのことです。
「退却」と「追撃」です。
私の文章で言えば「福田もこれを追った、そして半島胴部、西新あたりに「上陸」した」
これが「令懸落百路(道)原」です。 百路原は現在の西新あたりなのです。

>時系列でも見てみましょう

なんかよくわからないので、一度原文を書き下し文にして見ましょう。
「令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、 馳入大勢之中、令射戦之時、
兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」

「鳥飼塩浜に馳せ向かわしめ、防ぎ戦わしむるの処、彼の凶徒等引き退くに就き、百路原に懸け落とせしめ、
大勢の中に馳せ入りて射戦わしむるの時、兼重鎧の胸板草摺等に矢三筋射立てられおわる。凡そ大勢の中希有に
存命せしむるが為と雖も分捕らざるは・・なり」

「不分捕許也」は>>930さんの注意により解釈を変更しました。
また「令:せしむる」は使役形のように見えますが単なる謙譲語で、すべて自分の動作です。
これで考えて見て下さい。また、書き下し文に異見があればまずそれを出して下さい。
950前スレ813:2014/06/01(日) 17:07:00.20 ID:XinLQfok
整理しておきます。
wikipediaにある福田兼重申状写(建治元年九月二十五日付)は、全体の1/4程度です。
>>923〜924
は、wikipediaに載っている部分だけを参照して書かれたのではないかと思っております。

>>933
>なるほど、福田が首を取られそうになったのではなく、
>福田の軍功としての分捕りが無かったという解釈ですね。
いいえ、何の解釈もしません。
困ったことに、翻刻者による補正もありません。
ただ、なぜ「許さざるなり」と読めたのかが知りたかったのです。

>>935
単独突入と書いたのは、福田兼重申状写の証人に関する部分を知らなかったからだろう、
と推測したまで。
単独なのか複数なのかは分かりません。

>>921
>「楚原山」という地名は一度も出て来ません。
>出てくるのは「そはら(すそはら)」「佐原」など、「山」のつかない地名です。
「佐原」は何を指しているのでしょうか。
参考:『角川日本地名大辞典』

また、「希有仁令存命」の「仁」は、小さく書かれています。
951名無し三等兵:2014/06/01(日) 18:56:13.37 ID:iWBzMvO0
福田兼重申状写はそれなりの古文書の知識
があれば、分捕りは無かったとしか読めね
えが、自身の無知からくる思い込みから、
「解釈の仕方」と受け取っているのが痛い
わ。
952名無し三等兵:2014/06/02(月) 09:45:47.71 ID:SXqSGo/2
さて、大きな問題の一つは敵が祖原山から撤退したのかどうかです。
例の学者はその説だし、ここにいる大部分の人がそう考えるわけですが、その根拠には
二つの流れがあると思います。

一つは「懸け落とせしめ」の「落とす」に「上から下へ」の概念が入っており、これは
高い祖原山から低い百千原に撤退させたことだ、という考え方です。
例:>>937
>百道原に懸け落とした状況を理解させるには、懸け落とす地形、つまり山と明記したと考えても不合理なことはありません。

しかし「駆(懸)け落とす」に「上から下へ」の概念は含まれないのです。
古語辞典で見ると、名詞形ですが「駆け落ち」の第一義は「武士が戦いに負けて逃げること」とあります。
「駆け落とす」はその能動形です。つまり単に「敵を破って退却させる」ことです。

退却する敵は「山から平地へ」逃げる必要はありません。「平地から平地へ」でも「平地から山へ」でも構いません。
だから福田が塩田で戦っていた相手の凶徒を百千原に退却させても、それは「駆け落とし」たことになるのです。
953名無し三等兵:2014/06/02(月) 10:23:02.09 ID:SXqSGo/2
↑訂正:百千原→百路原

もう一つの流れは戦闘地域の捉え方です。
「敵は百路原に撤退したのだから祖原山は落ちているはずだ」という言い方は、戦闘地域の一つの捉え方を含んでいます。
それは赤坂→鳥飼→祖原山→百路原→百路浜→姪浜と続く、線状ないし連鎖状の戦闘地域です。
戦闘地域をこのように捉えるから、敵が鳥飼から百路原に逃げたと言えば、その中間の祖原山も逃げたはずだ、となるのです。

このような捉え方の基底には、戦闘が鳥飼入り江の湾岸に沿った幅の狭い地域で戦われたという概念があります。
しかし蒙古襲来絵詞を見れば、敵は赤坂から干潟を横切って祖原へ逃げ、竹崎もまた干潟上でこれを追っています。
沿岸地域に限らず、入り江の中(地図で見れば水面)もまた戦闘地域だったのです。

福田もまた「鳥飼塩浜」と書いているように、入り江の中の「塩田」で戦っています。
塩田は汐が引けば固くしまった砂地が現れます。ガタリンピックのような泥地では塩田にはなりません。
また塩が満ちてもひたひたにしか水は被らず、徒渉可能です。そしてもちろん広くて平坦です。

こう考えれば塩田ないし塩田適地の干潟は、うってつけの「戦闘適地」であったと言えるでしょう。
だから自然と、戦闘の大部分は干潟上で行われたと考えられます。だからこそ「鳥飼潟合戦」の名前がついたのです。
沿岸沿いに限った戦闘であったのなら、もっと他の名前がついたでしょう。

こう考えてくれば、塩田上で戦っていた福田の相手の敵は、なにも祖原を経由して逃げる必要はなく、まっすぐ
西へ逃げればそこが百路原です。またそうなっても、祖原山は半島基底部の西側に偏って位置しますから、
最前線よりさらに後方です。あわてて逃げる必要はありません。
敵の退却が一時的な、あるいはみせかけのものであったならば、なおさらの事です。

例の学者の説は以上のような事情を無視しているのです。
954名無し三等兵:2014/06/02(月) 13:05:35.69 ID:jzdxQk5N
あんたの解釈によれば、「鳥飼潟で防戦し元軍は引き退いたところ、百道原へと戦い破って敗走させた」ってなるよな。
攻め寄せて側が敵に背を見せ逃げ出した時点で敗走だよ。
同じ元軍の逃走を二度も言葉を換えて繰り返し言ってることになるじゃねえか。
こんなおかしな解釈はねえよ。
まず、蒙古襲来絵詞にも鳥飼潟での戦闘の後、元軍が逃げ出したのは祖原山だろ。
蒙古襲来絵詞は竹崎が中心の実話だが、自身の体験談をもとにしてるために鳥飼潟の描写は肥前の白石が駆け付けたことしか
描かれていない。ところが竹崎は鳥飼潟で筑後国の御家人光友又二郎の戦死の証人になったという記述がある。
ってことは、鳥飼潟には肥前の白石勢以外の各国の御家人もいた可能性が高いってことだ。
福田勢ら武士団が鳥飼で防戦し破ったという元軍はこの祖原山に逃げ出したという判断の方が蒙古襲来絵詞と辻褄が合う。
これを否定しようとするのなら、この2つの史料が同一の戦場で別の時間帯の戦いとだったという史料にはないストーリーを
創りだし、脳内補完に次ぐ脳内補完を繰り返す小説の世界になるわ。
蒙古襲来絵詞の赤坂山の元軍を「駆け落とす」と表現しているわけで、この場合も祖原山の元軍を「駆け落とす」と解釈した
方がいいわ。
955名無し三等兵:2014/06/02(月) 19:06:38.49 ID:90kzBpD5
>>952
つっこみどころが多すぎて長文になってしまう(わらい
>>944に書いたように武士は「退」と「落」を区別している。
ましてあなたの言う地形の意味を含めない「落」は、地形の意味よりはるかに酷い完全な敗走、
この戦を降りてしまった意になり、この凶徒の出撃拠点である祖原山の陣が残っていたなら尚更使わない。
そもそも、あなたは「懸け落とせしめた」のは赤坂山だと言ってたでしょう。
赤坂山を印象付けたいからあなたは塩浜の位置を別府あたりで祖原山から1km“以上”離れたと推測してたんじゃないですか?
1km以上というのもおかしい。満潮時の海岸“線”であろう“浜”なのに。
絵詞から塩屋は現塩屋橋から鹿原方向に広がっていると推測できる。
956名無し三等兵:2014/06/02(月) 19:29:42.84 ID:90kzBpD5
>>953
前からあなたの位置把握がおかしいと思ってたけど、「とにかく祖原山を避けたい」という願望で地形が変動しているんですね。

>蒙古襲来絵詞を見れば、敵は赤坂から干潟を横切って祖原へ逃げ、竹崎もまた干潟上でこれを追っています。
>まっすぐ西へ逃げればそこが百路原です。

全然ダメですね。赤坂山から鹿原に向けて逃げたのが干潟を横切っています。足場の良い別府の塚原に逃げた小勢が迂回であり、
まっすぐ西へ逃げると祖原山です。
だからあなたは>>923で西新あたりにに「上陸」したところとなったのでしょう。
しかも、季長が戦った塩屋はもう松が生えています。
957名無し三等兵:2014/06/02(月) 19:47:33.21 ID:90kzBpD5
>>956
追記)しかも、季長が戦った塩屋はもう松が生えています。
戦闘はかなり鹿原よりで行われていると言いたかった。
958名無し三等兵:2014/06/02(月) 20:08:08.51 ID:90kzBpD5
>>953
>塩田ないし塩田適地の干潟は、うってつけの「戦闘適地」であったと言えるでしょう。

ダメですね。季長は鳥飼潟で馬の脚をとられてる。

>福田もまた「鳥飼塩浜」と書いているように、入り江の中の「塩田」で戦っています。

これもダメ。“浜”と書いてあるでしょう。それに塩屋は松が生えている。
959名無し三等兵:2014/06/03(火) 14:22:16.33 ID:SuACRcQd
>>955
>ましてあなたの言う地形の意味を含めない「落」は、地形の意味よりはるかに酷い完全な敗走、

部分肯定に「引き退き」ましたね。
「駆け落とす」にそんな使い分けがあると言うのなら、使い分けてある例文を示して下さい。

>そもそも、あなたは「懸け落とせしめた」のは赤坂山だと言ってたでしょう。

私が赤坂山のことを言ったのは形式論です。「山と言えば祖原山しかない」というから
「赤坂山だってある」と言ったまで。
そもそも私は「山」字を否定するのだから、赤坂山か祖原山か、など議論する必要はないのです。

山の字を採用しない書き下し文は>>949
山の字を否定する理由は>>921
960名無し三等兵:2014/06/03(火) 14:37:51.99 ID:SuACRcQd
>>956
>全然ダメですね。赤坂山から鹿原に向けて逃げたのが干潟を横切っています。足場の良い別府の塚原に逃げた小勢が迂回であり、
>まっすぐ西へ逃げると祖原山です。

人の書いたことをまぜこぜにしてはいけません。赤坂山から祖原へ逃げたのは菊池の敵、まっすぐ西へ逃げて百路原へ行った
のは福田の敵です。

菊池の敵が干潟を横切ったことを書いたのは、干潟が歩行可能であったことを言うためです。
福田はその干潟で戦った。「塩浜」すなわち塩田と言っているのだから、かなりの沖合であっても構いません。

その沖合から、まっすぐ西へ行けば祖原半島の胴部に行き当たります。そのあたり一帯が百路原です。
祖原半島胴部の大部分は百路原なのです。半島先端でT字状に伸びる砂嘴は百路浜です。
961名無し三等兵:2014/06/03(火) 14:51:22.49 ID:SuACRcQd
>>958
>ダメですね。季長は鳥飼潟で馬の脚をとられてる。

竹崎の馬は泥にはまったのかもしれないが、それを入り江全体に広げてはいけません。
竹崎が倒れた直後に一騎で敵を追った三井も、三井に追われる敵の撤退部隊も、ちゃんと地面を
歩いて(または騎行して)いることは絵詞に見る通りです。

鳥飼潟のような砂の干潟はこのあたりの山の花崗岩のくずを河が運んで、その河口にできる
のですから、干潟の中には必ず川筋があります。竹崎はそのような川筋に落ちたのでしょう。

>これもダメ。“浜”と書いてあるでしょう。

「砂浜」を考えて見ましょう。きれいな砂地が干潮時には現れ、満潮時には水に覆われます。
つまり「浜」は、陸地でもない、海でもない、その中間の地帯なのです。
塩田は、このような「浜」であって、それが思い切り広くて平坦なものです。
だから塩田を「塩浜」ということができるのです。
962名無し三等兵:2014/06/03(火) 15:24:09.25 ID:SuACRcQd
↑長たらしい説明は不要でした。
いま、講談社「日本語大辞典」を見たら「しおはま、塩浜→塩田」と書いてありました。

これで福田の「塩田戦闘」は確定しましたね。
963名無し三等兵:2014/06/03(火) 23:02:43.16 ID:JqvwxIir
>>959
落ち武者。落ちのびる。「武士が戦いに負けて逃げること」と書いてあるんでしょ
絵詞からも鹿原が拠点なのは明らかで鹿原が落ちなければここの凶徒は負けたことにはならない

現に「引退」と「懸落」を絵詞も福田兼重申状も使い分けており
>>954が指摘されてるよう解釈としてなってない
むしろ、「百道原より(海に)懸け落とせしむ」という解釈さへある

塩浜の位置を最初「祖原山から1km以上離れた別府あたり」と推測から現鳥飼の北方に変動させ、
季長の馬が脚を取られてるにもかかわらず干潟を足場の良いと言い張るのは、
凶徒が真っ直ぐ逃げれば祖原山になるから、できるだけ戦場を北に北に推定したいからでしょう。

季長は凶徒を追った結果、鳥飼潟から鹿原に駆け、鹿原の凶徒は同方面にうってで鳥飼潟が戦場になってるが、
日本軍の進出起点は現大濠の入江の南。一般方向は鹿原の敵陣撃滅。よって戦場は季長が戦った塩屋の松の本から南に広がると考えるのが妥当でしょう。
964名無し三等兵:2014/06/04(水) 16:17:13.77 ID:N0dxj+jK
>>963
福田文書(文永の役)に「山」はない。
「塩田」はある。

これがすべて。
965名無し三等兵:2014/06/04(水) 17:28:34.37 ID:N0dxj+jK
>>963
すべて、とは言ったが誤解は解いたほうがよいのでちょっと補足。

>塩浜の位置を最初「祖原山から1km以上離れた別府あたり」と推測から現鳥飼の北方に変動させ、

私は最初から「塩田」と言っています。 >>923を見て下さい。
塩田で戦った、と考えたのは福田文書が「塩浜」と言っているからです。
塩田であれば陸地よりも沖合、すなわち南北軸で「北方」にあるのは致し方ありません。

「別府」の名を出したのは東西軸上の位置を示すためです。
つまり福田は別府あたりの沖合の塩田で戦った、と考えたのです。
陸地の別府であれ、その沖合の塩田であれ、東西軸上で祖原山まで1km強であるのは同じです。

東西軸上の位置を別府のあたりとした根拠は薄弱ですが、少なくとも「塩屋の松」というあなたの意見とは
一致していますね。
966名無し三等兵:2014/06/04(水) 19:17:11.53 ID:WIENBtP+
>>964
塩田をググってみてみましょう。塩田は陸側の砂浜にあります。
干潟に塩田を作れるようになったのは17世紀とされてます。(1件個人サイトで古くからとあるが伊勢神宮を誤認されたのでしょう)
参考に江戸時代の古地図に鳥飼の塩田が描かれてましたが陸側の砂浜にあります。
また、東区に塩浜の地名がありますが陸地の中央にあり博多湾の塩田が干潟においても揚げ浜方式だと推理できます。
967名無し三等兵:2014/06/04(水) 19:52:51.85 ID:ljNaPmcT
まとめてくれる人も現れて、今スレこそは良スレになると思ってたのに
最後の最後でパフォコン爺がまるで
鎌倉武士に打ち取られた元軍の亡霊のように復活しやがったwww
968名無し三等兵:2014/06/04(水) 20:02:21.26 ID:WIENBtP+
>>965
季長が戦った塩屋の松の本は鹿原側寄りでしょう。
馬が脚を取られた鳥飼潟から鹿原に向けて更に駆け、鹿原よりこれを迎え撃った凶徒と
合わさったのが塩屋の松の本なんだから、1km以上離れた鳥飼潟の東側ということはない。
969名無し三等兵:2014/06/05(木) 21:12:54.18 ID:AiliHJk3
>>966
なるほど、塩浜=塩田は認めたわけですね。(ちなみに塩田というのは明治時代の造語だそうです)
揚げ浜なら底は粘土で固めるからますます戦闘適地でしょう。
たしかに「沖合」ではないが、揚げ浜があるということは周辺が遠浅であることを意味するから、
干潟を通って逃げた(追いかけた)ことを否定するものではありません。

また、干潟でなく海岸伝いであったとしても、行き着くのが百路腹であるのは同じです。
祖原山はさらに奥(西)にあるし、半島基底部よりすこし内陸に(南に)入り込んでいるからです。

確かにそこから祖原山は近いが、塩浜から逃げた敵兵が祖原山に逃げ込む理由もまたありません。
福田が百路原に達してすぐに大部隊に囲まれたことから見て、祖原半島はすでに元軍で充満していたと
考えられるからです。
970名無し三等兵:2014/06/05(木) 21:18:39.00 ID:AiliHJk3
>>968
福田が戦った塩田がどこにあったのかはわからないが、1kmが500mだとしてどうだと言うのですか?
目の前の敵を置いて500m先の祖原山を攻めるのがおかしいことは同じでしょう。
971名無し三等兵:2014/06/06(金) 01:38:30.89 ID:3KEBQ/Ei
>>969-970
“浜”が満潮時冠水しない地形を表しているという私の主張が正しかった。
あなたがまた間違っていたということですね。

現祖原山のすぐ南は荒“江”という地名が残っており早良街道には勾配があり祖原山の裾は街道の東まで広がっている。
絵詞の季長が戦った所はもう松が生えている。凶徒は鹿原を出入りして戦っている。
つまり、祖原山と浜は近く凶徒は鹿原と一体になって戦っている。

>目の前の敵を置いて500m先の祖原山を攻めるのがおかしいことは同じでしょう

塩田が浜にある時点であなたの思いは破綻してます。
凶徒が目の前の鹿原山を避けて迂回して引き退くのも、
それを兼重が鹿原山の隙間をぬって百道に追撃するのも不自然。
972名無し三等兵:2014/06/06(金) 04:34:35.06 ID:e4FALwJj
いやー、ここまでの議論読んでたけど、時々ひどいけどオモロイわ。
実は毎日、西新とか百道には通ってる地形に住んでるんだけど、思い描いていた戦闘と全く違った。
防塁跡地って、護岸工事前の海岸線の百メートル位手前にあるんだよね。
これてっきり彼我の弓の射程を考慮して、着上陸する蒙高連合軍をアウトレンジするためだと思ってた。
モンゴルは知らないけど朝鮮は半弓だから、弓兵を防塁に並べれば楽勝になるなあとか考えてたけど、ぶっちゃけ防塁って使わなかったのかな?
973名無し三等兵:2014/06/06(金) 06:45:19.17 ID:qcd8Yd2U
昔は海岸線がもう少し深かったってことも考慮に
974名無し三等兵:2014/06/06(金) 06:46:55.91 ID:qcd8Yd2U
防塁自体は和弓の射程距離と当時の海岸線のバランスを考慮して設定されてたはず

要するに着上陸するところ丁度が射程内になるようにしてたらし
975名無し三等兵:2014/06/06(金) 09:35:50.94 ID:hPhkRTmm
>>971
福田の戦闘地点と祖原山を一体化したいという願望はわかったが、それは無理でしょう。
福田文書に祖原の名が出て来ない限りはね。

ところであなたは「山」の字の存在を認めるのですよね。だからこそ祖原山が出てくる。
では「山徒」って何?

山賊? それとも山門の僧兵か何か?
976名無し三等兵:2014/06/06(金) 10:06:54.71 ID:tyC7LjGC
弓矢で狙って当てられる距離が凡そ50mだから
当時の防塁と海岸線の距離もそのくらいだったんだろ
ただ元軍は雑兵に半弓を持たせ狙撃を考慮せず盲滅法撃ってきたらしい
大陸の集団戦法って要は技巧に凝った武人も弓矢の物量で圧倒してしまうって事だね
977名無し三等兵:2014/06/06(金) 11:12:40.35 ID:IQLed2BY
それ半弓の飛距離じゃね?
和弓って曲射で200mくらいだろ?
大量の弓兵で間接射撃で矢の雨降らせて皆殺しは武士の戦法じゃなかったか。
978名無し三等兵:2014/06/06(金) 15:24:40.45 ID:CTUOMlos
武士の戦法としては、集合して突撃しつつ直射or曲射での騎射がメインじゃね?
弾幕勝負にするなら流石に徒歩弓兵とかいると思うんだが、蒙古襲来絵詞だと
徒歩兵(郎党か何か?)は大体薙刀装備とかなんだよな
ただ弘安の防塁は弓矢持った武士が鈴なりになってるから、浜はブラッディ・オマハになりそう
979名無し三等兵:2014/06/06(金) 18:13:25.10 ID:uV9R03Iw
そもそもは福田文書の原文の「山徒」を外山氏が書き間違いだろうと判断し(凶カ)
と付け足したのが間違いだな。
「凶」と読めば「懸け落とせしめ」の意味が通らない。
鳥飼から元軍が「引き退」いていたのだから。
蒙古襲来絵詞でも、祖原山から進出してきた元軍が鳥飼から撤退したのも祖原山。
「山徒」とは祖原山に元軍が陣を敷いていたから「山徒」でありだからこそ、
鳥飼で日本軍に撃退された元軍が祖原山から懸け落とされた。
「駆け落とせしむ」がどこからに言及がないのは、すでに敵方を「山徒」と表現
していたから。
980名無し三等兵:2014/06/06(金) 21:42:23.65 ID:zeAVhlBu
>>979
>「凶」と読めば「懸け落とせしめ」の意味が通らない。
>鳥飼から元軍が「引き退」いていたのだから。

別に問題ない。
現代文に直せば「凶徒が(鳥飼から)退却したので、これを百道原に追撃した」
退却する敵を追撃して百路原に至ったのだ。

>「山徒」とは祖原山に元軍が陣を敷いていたから「山徒」であり

「山徒」でぐぐって見ろ。「僧兵」と出て来るぞ。
981名無し三等兵:2014/06/06(金) 23:33:02.69 ID:tyC7LjGC
>>977
そういう戦いも無いわけじゃないし富士川の戦いじゃ源氏が矢の雨を降らせて勝ったらしいが
本来の武士の戦い方としては邪道だった、何故なら恩賞が貰えないからね
あくまで50m以内まで近づいて名の入った矢で確殺するのが習いだった
982名無し三等兵:2014/06/06(金) 23:36:35.97 ID:spChD/9X
曲射が大鎧に対して非力ってのもあるんじゃね
983名無し三等兵:2014/06/06(金) 23:38:55.70 ID:e4FALwJj
>>979
日本の弓は異常。長い射程を求めて二メートルを超える弓がデフォ。弓道も命中率よりも多分集団で斉射するための技術だろうね。
騎馬弓兵を百人揃える。アウトレンジから斉射。攻めてきたら引きながら斉射。逃げたら追いながら斉射。
敵に和弓部隊がいない、地形を熟知している、補給が続くという条件があればほぼ無敵。

絵巻物に出てくる得物は長巻っていうらしい。どの絵巻物を見ても、太刀よりも目立つ書き方されてるから余程重宝したんだろう。
でもなんとなくヒャッハーな人たち向けの武器に見える。
984名無し三等兵:2014/06/07(土) 01:37:32.52 ID:H0YdA2AN
>>976
>>981
ソース
985名無し三等兵:2014/06/07(土) 02:07:44.57 ID:bb5awG6X
>>983
>アウトレンジから斉射。攻めてきたら引きながら斉射。逃げたら追いながら斉射。
そんな運用がメインなら大鎧なんか着ないよ
普通の騎馬弓兵ならもっと軽装
986名無し三等兵:2014/06/07(土) 07:51:34.38 ID:cfyzBJBq
>>980
「駆け落とせしむ」は「上から下に攻め落とす」か「敵を破って退却させる」
って意味だと言ったのはおまえだよな?
「現代文に直せば「山徒(祖原山)が攻め寄せてきたので防戦したところ、敵軍は撤退を開始したので
これを破って退却させる」って意味だな。意味不明だわ。防戦し撤退に追い込んだ時点で敵は敗走した
わけだが、なぜまた破ったことになってるんだ?笑

>「山徒」でぐぐって見ろ。「僧兵」と出て来るぞ。

あほか。比叡山の「徒」が転じて「僧兵」を表す単語に定着しただけ。
祖原山の元軍が山の「徒(ともがら)」であることには変わりねえよ。
むちゃくちゃだな、こいつ。
987名無し三等兵:2014/06/07(土) 07:56:50.21 ID:cfyzBJBq
どちらの意味にしろ、「鳥飼」から撤退した敵軍を再び今度は「駆け落とす」ほどの大勝を収めた
となると「第二の戦場」が必要となるわけだが。「第二の戦場」から百道原へと「駆け落とす」と
なれば、元軍の陣が置かれていた祖原山を置いてほかにはねえよな。

鳥飼から祖原山に元軍が逃げ出したのは蒙古襲来絵詞と完全に一致している。
ってことは第二の戦場は「祖原山」を以外にはない。
988名無し三等兵:2014/06/07(土) 08:02:03.92 ID:cfyzBJBq
訂正だわ。
現代文に直せば
「山徒(祖原山の元軍)が攻め寄せてきたので防戦したところ、敵軍は撤退したので
これを破って退却させる」だな。
撤退させた敵軍を再び退却させたわけだが、二回目の百道原へと逃げた元軍はどこから
退却したんだろうな?笑
989名無し三等兵:2014/06/07(土) 09:14:44.56 ID:+NTABbOe
>>988
お前の言うことは「破って」の一点に依存しているが、これは辞書の説明を写したものだ。
正確に言えば「敵を攻めて退却させる」だ。

「懸け落とす」の「懸く=駆く」が「敵に向かって前進すること、攻勢を取ること」であり、
(懸け引きの「懸け」の語源も同じ。懸け引きは戦闘用語なのだ)
「落とす」が「落つ」すなわち「逃げる、退却する」の能動形で「逃げさせる、退却させる」だ。


だから合わせて「敵を攻めて退却させる」になるのだ。
交戦している敵が退却を始めた時、味方の選択肢はこれを放置するか、追撃するか、どちらかだ。
戦いの終盤に、元軍は水城に後退する日本軍を放置した。
福田は敵の退却を放置せず、直ちに追撃した。

福田の目的は第一に「分捕り」だ。敵が崩れているときのほうが首が取れる確率が高いからね。
しかし大部隊に囲まれて乱戦、苦戦となり、首は取れなかった。
福田文書は以上のような経過を語っているわけだ。

一つの経過の中に「引き退く」と「懸け落とす」の二つの行動がある意味がわかったかな?
990名無し三等兵:2014/06/07(土) 09:34:29.73 ID:+NTABbOe
>>986
>「駆け落とせしむ」は「上から下に攻め落とす」か「敵を破って退却させる」
>って意味だと言ったのはおまえだよな?

また得意のストローマンだな。
「懸け落とす」に「上から下に攻め落とす」などという意味は「無い」ことは>>952
はっきり言っている。
山だろうが平地だろうが「敵を攻めて退却させる」意味しかないのだ。

そう言うと、義経は鵯越えで馬を「駆け落とし」たではないか、と言うかも知れない。
これは目的語が敵でなく馬だからそういう意味になるのだ。
そしてこの場合は「駆く」も本来の「騎乗する」の意味になっていることに注目しなければ
ならない。
日本語はデリケートだな。
991名無し三等兵:2014/06/07(土) 11:01:04.33 ID:+NTABbOe
「落つ」が「逃げる、退却する」の意味に用いられる例を挙げておこう。

「一ノ谷のいくさ破れ落ち行く平家の公達哀れ・・」と昔の唱歌にあったな。
これは平家の公達が鵯越えから転落したのかな?

もうひとつ、他でもない「八幡ノ蒙古記」だ。

「大ともは 子ともうちつれ 落行て 方々にこそ よりやすみけれ」

これは大友父子が赤坂山から転落したのかな?
もちろん、どちらも高所から転落したのではない。単に退却したのだ。
992名無し三等兵
>>990
俺の言っていることまんまじゃねえか。
間違いだと認めてくれてくれてありがとさん。
「逃げさせる、退却させる」の意味だということは現代誤訳文に書いたとおり。
よってその現代語文を当てはめると、鳥飼で防戦したところ敵は既に逃げ出していたのだから、
続く文で敵軍を「敵を攻めて退却させる」とは同じ鳥飼の戦場の出来事とするお前の
解釈の仕方は成り立たない。
「第二の戦場」の地名が書かれていないのは、敵を「山徒(祖原山の元軍)」と表現していたからで説明がつく。

蒙古襲来絵詞を見てみると「引き退く」と「駆け落とす」は厳密に使いわけている。

たとえば、蒙古襲来絵詞の詞4では…
「もうこのいくさ…ひきしりそきて…、すそはらにあかる。」と表現している。
単なる敵軍の敗走は「引き退く」という表現だな。
次に同じく詞では…
「たけふさにけうとあかさかのちんを…かけおとされて…」
この場合は菊池勢が敵の陣を破り退却させた、という大きな大勝を表している。

福田文書を見てみると鳥飼での敵軍の敗走は「引き退く」で終わっているが、
続く文章では「駆け落とす」。
つまりは、鳥飼での戦闘以上の大きな大勝があったことを物語っている。
この場合、蒙古襲来絵詞でも鳥飼で敗れた敵兵は祖原山に逃げ込んだのであるから
第二の戦場は「祖原山」以外には無いわ。