1 :
名無し三等兵 :
2010/08/27(金) 22:43:13 ID:??? 普段あまり省みられることもないM3軽戦車ですが、 ある程度まとまった数が鹵獲されたお陰で、 日本陸軍でもそれなりに運用されたと思えば愛着も湧こうというものですが、 冗談混じりにではありますが日本陸軍が実戦投入した中では 最強とも言われるこの戦車についてのスレッドです。
2 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 22:44:16 ID:S9p38++p
シルキー6
3 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 22:46:32 ID:???
日本陸軍が実戦投入したのはチハ改までだから冗談抜きでM3が最強じゃね? チヘなら互角だろうが
4 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 22:47:34 ID:???
数が数だから仕方ないですけれども、雑誌なんかでM3軽戦車特集をしていても、 日本軍における扱いなんて殆ど触れられない。 オスプレイ・ミリタリー・シリーズのM3軽戦車号でも扱いは一瞬。
5 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 22:54:50 ID:???
>>3 結局一式中戦車って、実戦投入したっていう資料出てこないんですよね。
一式七糎半自走砲や四式十五糎自走砲なんかだと投入されたっていうのは間違いないんですけど。
どちらも、なぜか昔アーマーモデリングで特集されていた。
6 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 22:57:23 ID:???
フィリピン戦で投入されたって話もあったけど、チハ改と見間違えたって説が有力だしなぁ 確かに見た目似てるし あとチハ改とか新砲塔チハという呼び方は戦後付いたもので戦時中は47mm砲型もチハと区別せずに呼んでたそうで、またチハ改を一式と呼んでた人も居るそうなのでまた混乱するな
7 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 23:12:03 ID:???
カタログスペック以外の部分ということで グランドパワー1994年11月号に 日本戦車(主にチハ)とM3軽戦車の比較というのが載っています 『チハ車は変速が難しく教育に3ヶ月以上かかったが、M3は素人の歩兵がわずか20日の教育で操縦できた』 『故障は少ないが、もし故障しても部品の互換性が高いので簡単に修理できた』 『馬力に余裕があるせいかM3は坂道でもトラック並にスイスイと走行しているが、チハ車は登板にかかると速度がみるみる低下し下車して歩いた方が早そうだった』 あと、新砲塔チハが登場する前ではありますがビルマでは日本戦車じゃM3軽戦車に対抗することが出来ないので、 先頭に鹵獲したM3軽戦車を立てて前進したとのこと。
8 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 23:18:21 ID:???
wikipediaのM3軽戦車の項目にコレヒドール島攻略作戦に、 M3軽戦車が一両が投入されたとありますが、 グランドパワーの上記の号によると、これは中隊長車とのこと。
9 :
名無し三等兵 :2010/08/27(金) 23:29:46 ID:4huFTbkt
逆にレンドリースでソ連に送られたM3軽戦車は評判が悪かった。 彼らが好んだのはイギリスから供与されたバレンタイン歩兵戦車。
10 :
名無し三等兵 :2010/08/28(土) 08:06:25 ID:???
>>9 そちらもソ連戦車よりも故障しなくて機械的な信頼性が高いというのが好まれた原因の一つみたいですね
>>バレンタイン歩兵戦車
M3軽戦車は東部戦線では非力ということで倦厭はされてはいたけれども、機動性能を生かして主に偵察任務に使われていたようですが、
初期においてはそれなりに戦果を挙げることもあったようです。
少なくとも、一輌のM3軽戦車が極東ザバイカル方面軍に配備されていて、45年夏の満州進行作戦に参加した可能性もあるとのことです。(これもグランドパワーの記事ですけども。)
11 :
名無し三等兵 :2010/08/28(土) 08:57:02 ID:???
>>7 書き忘れましたけれども、この比較は日本軍が鹵獲したM3軽戦車を実際に乗り回してみての比較です。
あとは機動力について言及されていました曰く、
『気化器のガバナーを外せば、舗装道路上でアクセルを一杯に踏むと60マイル(94km/h)は出た。履帯にゴムパッドがついているため舗装道路でも滑らない。』
12 :
名無し三等兵 :2010/08/28(土) 22:47:22 ID:OldE2FaA
緒戦での働きぶりは勿論のこと、 大戦後半でもインパールでも使われたし、フィリピンでも使われたし、 日本戦車としても結構息が長い。
13 :
名無し三等兵 :2010/08/30(月) 08:11:12 ID:lFm1NJoY
日本陸軍はコイツでM3中戦車を撃破したのが凄い。
14 :
名無し三等兵 :2010/08/30(月) 09:15:43 ID:???
日本の戦車相手なんて、M5とヘルキャットで十分だな。 チャーフィーでももったいないくらい。
15 :
名無し三等兵 :2010/08/30(月) 13:08:54 ID:???
>>14 いやいや、日本の戦車相手ならM3で充分なんだな。
M3の戦車砲は御存じのとおり、ラインメタルの37mm
対戦車砲がプロトタイプなんだが、アメリカのこれは
原型よりも口径を伸ばしてあるんで威力が高い。
16 :
名無し三等兵 :2010/08/30(月) 18:55:45 ID:???
一応ラインメタルとは関係ないんじゃないの? 性能では劣っていない(むしろ勝っている?)みたいだけど。
17 :
名無し三等兵 :2010/08/30(月) 20:11:06 ID:???
18 :
名無し三等兵 :2010/08/30(月) 22:47:40 ID:GSTlACH+
>>17 日本陸軍が鹵獲運用したのは、
M3A1以降じゃなくて初期のM3軽戦車だよね?
ってことは、主砲は通常の長さのM6じゃなくて少し砲身が短いM5か。
装甲貫通力は3mm程度しか違わないみたいだけど。
19 :
名無し三等兵 :2010/09/02(木) 22:18:22 ID:37joyRe6
>>13 機動力を生かして倒したみたいですね。
M3中戦車も鹵獲したけど、基本的には体格にあわないとか扱いづらいとかで使わなかったんだっけか。
戦後は戦後でM4中戦車よりもM24軽戦車の方が好まれたみたいだし
昔の日本の戦車兵って軽戦車のがあっていたのか?
20 :
名無し三等兵 :2010/09/04(土) 09:30:37 ID:???
当時の日本人は小柄だったからね
21 :
名無し三等兵 :2010/09/04(土) 11:43:58 ID:???
M4中戦車もM24軽戦車もアメリカ人の体格に合わせて設計してあるんじゃないの?
22 :
名無し三等兵 :2010/09/04(土) 11:51:14 ID:???
当時の欧米人も大恐慌のせいであまり体格は良くなかったとかいう話も聞くが それまでチハに乗ってた人が図体のでかいグラントに乗るのは辛そうだな
23 :
名無し三等兵 :2010/09/05(日) 19:51:17 ID:HGJsMVTA
>>7 >>『馬力に余裕があるせいかM3は坂道でもトラック並にスイスイと走行しているが…
インパールでも地形のせいか他の日本戦車はあまり活躍できなかったけど、鹵獲M3軽戦車や敵側の戦車は活躍してんだよねえ。
24 :
名無し三等兵 :2010/09/07(火) 20:44:12 ID:9cZRaNYD
戦闘機だと鹵獲したP-40Eの特殊防空部隊とかあったね。 あっちの部隊はM3軽戦車と違って活躍しないまま3ヶ月で解散。
25 :
名無し三等兵 :2010/09/07(火) 21:40:37 ID:???
26 :
名無し三等兵 :2010/09/08(水) 06:12:52 ID:???
>>22 アメリカ人の食文化が一気に大量消費に転じたのは戦後であって、
それまでの開拓時代〜恐慌期までは不作の年も多くて苦労したんだよな。
家庭によっては毎日豆のスープと固いパンとか、
量も質も同時期の日本人以下だったりする。
27 :
名無し三等兵 :2010/09/08(水) 08:06:25 ID:???
一方は「家族によっては〜」の貧困層、もう一方は富裕層?平均?まさか貧困層じゃないよね
28 :
名無し三等兵 :2010/09/14(火) 20:00:00 ID:c62Ls0/k
実際のところ日本軍が使用したM3軽戦車って何両くらいなんだろ
29 :
名無し三等兵 :2010/09/14(火) 21:29:49 ID:???
20両ぐらいらしいよ
30 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 03:31:50 ID:???
ビルマ戦線じゃ有名だけど 米軍反攻時のフィリピンでも初期に鹵獲したM3軽戦車を日本軍は投入したのかな?
31 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 06:06:13 ID:hvHpOcQP
32 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 06:27:10 ID:???
>>30 中退規模でいたようだよ。
あとM3ハーフトラックベースの自走砲も。
33 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 07:17:14 ID:???
フィリピン戦では、AFVに限らずM1903ライフルとか緒戦の戦利品が大量に使われてるな
34 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 08:42:59 ID:???
35 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 09:19:46 ID:???
そうね。きっと2時間はかかる。
36 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 09:48:37 ID:???
まあMT車の免許持ってればかなり覚えるの早いだろうな。 けどまあ車の操縦より覚えなきゃいけない事は多いぞ。 不整地の走り方とか。
37 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 09:49:33 ID:K23X8GAj
>>28 >>29 緒戦でビルマで英軍が使ったのが150両くらい
フィリピンで米軍が使ったのが100両くらい
その内鹵獲した正確な数字はわからないけれども、中には実弾演習の的にされた車両もあるから、
実戦投入された数はもっと少なくなる。
38 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 10:11:52 ID:???
>>36 世界一優秀な日本人なら2時間で乗りこなす。
39 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 10:41:43 ID:???
>>38 実際米戦車のが扱いやすかったみたいだね。
九七式中戦車なんてエンジンの始動さえ職人芸が必要だったらしいし。
簡単に扱えるってことは兵器としてとても良い事だ。
40 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 12:05:15 ID:???
さすが日本人だ
41 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 12:11:32 ID:???
61式でも操縦は難しかったって言われてるけど それでもチハよりも良くなったんだろうか?
42 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 17:34:54 ID:CRSqu/HQ
インパールかどっかで大量に放棄された英軍のM3を押さえたけど、 エンジンに砂がまかれてて結局つかえなかったって話があったような。
43 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 19:31:22 ID:???
ちょっとスレ違いで申し訳ないんだけど、 とあるアニメを見てたら日本軍がバターン半島を攻める時に アメリカ側にM4が出てきてたんだけど、その頃M4てフィリピンに配備されてたの?
44 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 19:50:19 ID:???
>>43 シャーマンが初めて実戦投入されたのは42年10月の北アフリカ戦線なのでその頃のフィリピンにはまだ無い
45 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 20:00:26 ID:???
せいぜいM3軽戦車しか無かったよ。
46 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 20:16:41 ID:CvtMr+Cd
>>30 その反攻時に日の丸のついたM3軽戦車ってのが米軍に鹵獲されて写真に残っています。
47 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 20:35:10 ID:???
48 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 20:38:42 ID:???
太平洋方面ではあんまりリー・グラントは使われてなかったような・・・
49 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 20:49:08 ID:???
>>42 日本のビルマ攻略戦の末期だね。
逃げる英軍が大量に捨てて行ったんだが、
焼きつけ起こさせるとか破壊作業が行き届いてて、修理困難だった。
それでもあとから必死になって再生試みたんだが、1割くらいしかものにならなかったと思った。
50 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 20:52:12 ID:???
>>43 M3軽戦車が新鋭戦車として配備された段階。
2個大隊が開戦ちょっと前に着いて、かろうじて梱包を解いたって感じ。
中戦車はM4もM3も持ってきてない。
ほかに在比AFVでは、M3ハーフトラック系の75mm自走砲、4輪の偵察車くらい。
51 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 21:13:19 ID:???
太平洋戦域でのM3中戦車は 豪州軍→バリクパパン島で3両(ドーザーブレード付きグラント、マチルダの支援用で戦闘自体には関わらず) 通常タイプはジャワ島に2個連隊投入予定も終戦 米陸軍→マキンの戦闘で数両 の2つが実戦投入例だとオスプレイ本には載っとった
52 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 21:18:50 ID:???
インパールに来てなかったか?
53 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 21:35:39 ID:???
東部、西部ニューギニアではM3中戦車って投入されてないのかな? 基本的にM3軽戦車オンリーで支援に1943年末位からM4中戦車? 確か太平洋戦域でのM4中戦車の初陣はタラワだよね?
54 :
名無し募集中。。。 :2010/09/15(水) 21:53:59 ID:S8S9dXf0
>>51 だね、太平洋の米軍ではM3はその程度。
ビルマでは英軍がM3リーとグラントU大量に使用、しかしイラワジ会戦の頃には
M4が主力になってた。
M3では機動力がやや劣るからだろうかね?
>>53 M4中戦車の初陣はタラワです。
だからパターン戦からタラワ前までは、理論的にはチハ改とM3軽で
互角だった事になるんだが、部隊配備となるとね・・・
55 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 21:55:55 ID:???
>>52 言葉足らずだったかな、スマン
>>51 はビルマ戦域を除いた極東戦線での投入例の話ということで
56 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 23:03:30 ID:???
>>54 東部ニューギニアとかソロモンは連合軍もM3軽戦車か…
まぁ、ニューギニアにもマルチダ2が居たとか居なかったとか聞いた気もするが
57 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 23:05:36 ID:???
そういや連合国軍のフィリピン侵攻時には日本軍は鹵獲M3ハーフトラックも纏まった数を投入してるのか
58 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 23:37:38 ID:???
>>56 オーストラリア第4機甲旅団が43年8月からニューギニアにマチルダを持ち込んでますね
59 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 23:58:39 ID:???
うぉ、どうも でも大半はM3軽戦車だよなぁ、英戦車がそれなりに居たとしても そう考えるとソロモン・ニューギニアの連合国軍の戦車事情も相当苦しい?
60 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 00:01:55 ID:???
数は足りなかったかも知れんが性能は終戦まで十分だっただろう なんせ最終的に日本が実戦投入した中で最も新しい戦車がチハ改なんだから
61 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 00:12:41 ID:???
モノは言いようだなあ
62 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 00:19:24 ID:???
>>59 ソロモンやニューギニアだと、戦車が行動可能以前に、
そもそも集団で行動するのが可能な道路が少ない希ガス。
63 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 00:37:47 ID:???
>>60 一式砲戦車は実践投入した中で最も新しい戦車扱いしてくれないのか。
前面装甲の厚さはチハ改以上だぞ。
64 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 00:43:24 ID:???
>>63 一式砲戦車は戦車じゃなくて対戦車自走砲だろ
シャーマン相手にそれなりの戦果を出してはいるが
65 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 01:04:26 ID:???
>>64 そうか、一式砲戦車は戦車じゃなくて対戦車自走砲だったのか。
それじゃ二式砲戦車や三式砲戦車は戦車なの?
66 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 01:18:11 ID:???
機甲科の縄張りなので砲戦車と名付けられてるのです その中じゃ二式砲戦車だけ毛色が違うね 主砲は75mm山砲を元にした奴で回転砲塔持ち しかも一式中戦車の車体を使用してるし 二式砲戦車は従来の短砲身57mm主砲中戦車の正等進化版な希ガス
67 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 01:33:41 ID:???
チハ57mm砲型は大戦後期に戦車連隊の砲戦車中隊で砲戦車の代用にされてたしな
68 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 02:01:23 ID:???
>>59 >>62 さんが書いてるようにニューギニアでは地形上の制約で集団行動が難しかったようです
オーストラリア第4機甲旅団も中隊以上の単位で行動する機会が殆どなかったようで
各地域・各島に中隊単位で分遣されて、さらに行動時は小隊単位のことが多かったそうです
オーストラリア軍が42年末の時点で757両も受領していたM3中戦車を全く投入しなかったのは
地形上の制約も大きかったような気がします
オーストラリア軍がM3軽戦車を使用しての戦訓では、ジャングルでは戦車は無用という認識を完全には覆せなかったそうで
それが重装甲のマチルダを投入して意識が一変したということです
視界の利かない中、秘匿陣地からの大口径野砲の零距離射撃を受けても耐えられる点が好まれたそうです
逆に言えば、ニューギニアでのM3軽戦車は、その辺りの脆さが悩みだったのでしょう
69 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 02:38:53 ID:???
そういやニューギニアには砂漠の女王様だけでなく、バレンタインも投入されてるんだな しかし砂漠の女王様投入後の評価とビルマでの活躍を考えると M3中戦車をニューギニアに投入しなかったのは、オーストラリア軍の判断ミスかも 勿論小分けでの投入になるんだろうが、ああいった戦場での火力支援と 日本軍の様な敵に対する対応こそM3中戦車の真骨頂の様な気が
70 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 03:19:05 ID:DG4yvYUo
70
71 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 10:47:46 ID:???
ソ連も対関東軍なら、終戦までBT-7軽戦車で十分のような気がする。
72 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 10:56:26 ID:???
最大装甲厚が50mmもあるM3と違ってBT-7はチハ以上の紙装甲だぞ T-70軽戦車ならチハ改をフルボッコにできるが
73 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 20:20:58 ID:???
BT戦車とか日本の37mmにすら余裕で貫かれる紙っぷりだしな
74 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 20:59:20 ID:???
九十四式速射砲だね。M3軽戦車には通用しなかったみたい。1945年の満州侵攻時にT-26,BT-5,BT-7が使われたってWikiに書いてあった。
75 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 21:08:43 ID:???
まぁ、日ソ全面戦争なら使用戦車がT-26系、BT系でもソ連が勝てるだろうさ でも相当酷い目にあうのは間違いないw
76 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 21:11:17 ID:???
シャーマン相手に47mmで奮戦した日本軍を舐めるなよ!と
77 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 21:31:12 ID:???
>>75 というか戦車無くてもソ連勝てるんじゃないのか?
戦車が無いとソ連の進撃が成り立たないという場面がどうも想像できない。
78 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 21:38:45 ID:???
>>77 まぁ、満州で全面戦争になったら日本が勝てる理由が無いだろうしね
米帝様と愉快な仲間達が日本の味方とかならともかく
79 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 21:46:24 ID:???
>>77 戦車の無いソ連軍なんて・・・
肉の入ってない牛丼のようなもんだ
まあ兵力と砲兵火力と歩兵装備が大幅に上回ってるし日本側の機甲戦力が貧弱だから勝てることは勝てるだろうが
80 :
名無し募集中。。。 :2010/09/16(木) 21:48:09 ID:MpTxspGG
>>69 バレンタインはニューギニアに投入された?初耳だ
極東でのバレンタインは第一次アキャブ作戦で英印軍が使った一個中隊だけ
だと思うが。
>>68 マチルダの堅さには日本軍が相当泣かされたな・・・
速射砲は無論、歩兵の持つ最大の重火器である連隊砲のゼロ距離射撃でも
マチルダの側面すら貫徹不可能で、重砲の直射か地雷もしくは肉攻しか
効かないんだから。
その肉攻でも擱坐がせいぜいで、暫くすると回収修理してまた出てくるし.....
やつの堅固さはM4なんかの比じゃないわ。
81 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 22:17:00 ID:???
>>57 有名なところでは、山本七平がM3GMC使ってる。
82 :
名無し三等兵 :2010/09/16(木) 23:39:42 ID:???
ニュージーランド第1戦車旅団は中東での展開を目的に41年に創設されてます その主装備がバレンタインでした ただしバレンタインには近接支援型がないので、マチルダCS型も33両発注、1個大隊につき6両配備されてます しかし日本が参戦、兵力投入の優先順位の変化に伴って、旅団は実戦参加の機会のないまま1年後に解体されてしまいます その後、太平洋でニュージーランド軍は1個戦車大隊規模を投入することになり 44年1〜2月のニューギニア地区・グリーン島(Nissan Island)の戦いで、バレンタインはニュージーランド第3師団を支援してます この際、補給の困難を避けるため使用する車種を統一すべく 手持ちのマチルダCSの3インチ榴弾砲を使って、18両のバレンタインを近接支援型に改造してます そして用済みとなったマチルダ33両は44年にオーストラリア軍に譲渡されたそうです
83 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 00:56:36 ID:???
バレンタインはニュージーランド軍が使用してたのか
84 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 01:02:50 ID:???
85 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 01:18:49 ID:???
>>81 M3ハーフトラックって戦後の自衛隊も使用しているんですよね。
そう考えると感慨深いものが。
86 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 02:14:51 ID:???
>>85 山本氏の一時期使ったM3自走砲は、
「砲の照準は外れそうなのが芋付けになってて」
「照尺はインチ法で作られてて」
と言った代物だったそうな。
で、川の対岸からの撤退支援の為に、その自走砲を
持ってゲリラへの支援射撃に行った、と言うのが概略。
(山本氏は一応予備士官だが観測通信出身の砲兵だったり)
87 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 18:13:32 ID:???
M8グレイハウンド装甲車は、太平洋戦線で日本軍の戦車と戦っている?
88 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 19:04:02 ID:???
ザロガの本だったかで日本の装甲車両相手なら 開発趣旨の戦車駆逐車の役割に立ち戻ってその用途で時折使われたとは見たけど どれぐらい戦果を挙げたかとかは知らんなあ
89 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 20:35:47 ID:???
M10GMCなんかも太平洋戦線に投入されたけど歩兵支援しかやってないね
90 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 21:00:24 ID:???
駆けつけてくる頃には倒されてたり、そもそも呼ばれなかったりしたんだろうな。>M10GMC
91 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 21:56:02 ID:???
太平洋戦線における米軍戦車の存在意義は対戦車戦にあらず、バンカー対策にあり。 …これはオスプレイの本ではっきり書いてある。それなんで長砲身シャーマンは回されてこなかった。凹むねえ。
92 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 22:06:45 ID:???
M3、M5軽戦車とグレイハウンドの高速師団とマチルダU、バレンタインの低速師団で相手に不足なし
93 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 23:04:25 ID:???
>>91 しかも日本の場合なんだかんだでシャーマンも結構狩ってる事を考えると
戦車駆逐車みたいな装甲薄めな奴だとね…
ある意味連合国の対日戦での戦車こそ伝統的な意味での戦車の本懐かも
94 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 23:08:25 ID:???
結構といっても太平洋戦争全体で米軍の戦車損失736両。高が知れているという気も。
95 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 23:29:53 ID:???
そもそもの投入量がw 損害比で考えるべきでは?
96 :
名無し三等兵 :2010/09/18(土) 08:38:50 ID:???
そもそも太平洋戦線は、狭い島々、ジャングル等々市街地と並んで、戦車に不向きな戦場じゃなくて
97 :
名無し三等兵 :2010/09/18(土) 09:25:33 ID:???
現代の非対称戦で戦車が装甲の厚さと砲による支援で役に立つっていう戦訓をすでに示していたようなものかも 装甲の厚いM26が配備されたら案外役に立っていたかもな
98 :
名無し三等兵 :2010/09/18(土) 16:20:45 ID:???
重装甲が必要なら、ジャンボでいいだろ。
99 :
名無し三等兵 :2010/09/18(土) 16:30:49 ID:???
>>82 の補足
とある戦車の解説サイトで、ニュージーランド軍のバレンタインがベララベラ島の戦いで使用されたとの記述を目にしました
べララべラ島の陸上戦は43年8月に米軍が上陸したことで始まり、9月下旬にニュージーランド第3師団が新たに加わりました
約20日後の10月上旬に戦闘は終息して、第3師団は同月下旬のトレジャリー諸島の戦いに投入されます
1:この2島での作戦時の同師団の編成表に戦車部隊が含まれていない
2:ベララベラ陸上戦のニュージーランド軍公式戦史に同軍戦車が登場しない
3:バレンタイン装備の同師団戦車大隊の資料では、実戦参加はグリーン島の戦いのみという記述がされている
上記の三点から、ベララベラ戦でバレンタインが実戦参加した可能性は低いような気がします
44年初頭には、ニュージーランドでは国内産業を維持する為の人的資源の不足が問題化してきました
そして、ニュージーランド第3師団は2月のグリーン島の戦いの後、戦闘参加することもなく8月には本国へ帰還
各部門は急速に縮小され10月には解体されてしまいました
約4000名の人員がニュージーランド第2師団に組み込まれ、イタリアの地で戦うことになります
グリーン島の位置がよくわからんw
>>101 ブカ島のすぐ上なんですね
ありがとう御座います
太平洋戦線でM7プリーストは、使われていますか?
サンマヌエルなんかで重見支隊相手に出てきてるね
>>104 たしか沖縄戦で泥沼の中でスタックしてる写真があったような
プリーストも日本軍のトーチカ潰しながら前進という突撃砲みたいな運用してなかったか?
うん、比島でプリーストが陣地を吹き飛ばしてから歩兵進撃という話を読んだことがある
>>106 読んで、たしか見た記憶がって思ったが初見だった
俺が見たのは欧州戦線のだったかもしれんw
M3軽戦車は、中国国民党軍にも配られたみたいですけど、国府軍のM3軽戦車との交戦記録は有りますか?
ビルマでは交戦してるようだよ。M5軽戦車vs97式軽装甲車なんて戦闘もあった。
沖縄戦ではM4の105mmタイプも多く投入されているし、 陣地を潰すにはやっぱり105mmクラスがないとな
太平洋戦争後期の国府軍の戦車と装甲車両の配備具合って、どのくらいなんだろう?
大戦後期だと、M3軽戦車やM4中戦車が主みたいですね。T-26とかもまだ使われてたのかな。しかし支那派遣軍より戦車は良さげですね。
一号作戦時の本国部隊は、残存T-26が主力っぽいね
>>116 同じM3軽戦車でも、日本のは基本太平洋戦争初期の無印のM3で、中華民国のはM3A3だしね。
戦車兵の腕は日本の方が遥かに上だろうけど。
普通に考えたら日本がM3A1以降を鹵獲するチャンスってなかったよな?
大戦初期のは勝ち戦だったからまとめて鹵獲できただけだし。
ビルマで英国植民地軍から捕獲したのは?
120 :
名無し三等兵 :2010/09/19(日) 20:06:41 ID:6l+NrMaJ
>>119 少なくとも開戦時のだったらタダのM3だよね?
インパールの時とかに鹵獲していたらもっとあとのバージョンだろうけど。
ビルマとかじゃ1944年に入っても鹵獲したりしそうだな
第一次、第二次アラカン作戦の時に英印軍戦車の鹵獲報告があるね。 まぁブレンガンキャリアかもしれんがw
123 :
名無し三等兵 :2010/09/19(日) 20:55:46 ID:hcIm589W
チャーチル恩給ではブレンやステンのような使い勝手のある装備も手に入ったらしいし
中国戦線で国府軍のT-26やノモンハン・朝鮮国境紛争でのBT戦車捕獲はなかったのかな?日本軍は捕獲した、M3軽戦車の37ミリ砲を強力な砲に換えるって事は考えなかった?
>>124 M3の37mmは同世代の同口径の戦車砲の中ではかなり強力な砲なんだけど。
>>124 ノモンハンではBT-5やBA-3なんか鹵獲して内地に運んでるよ〜
>>122 仮にそれがM3A3あたりとかで(M3A1でもいいけど)、鹵獲後再使用していたりしたら、
それが日本の軍事史上実戦投入された最強戦車ってことに…
M3系が積んでる37mmなら側面、後方なら普通にM4の装甲を抜けるだろうしなぁ
129 :
名無し募集中。。。 :2010/09/19(日) 22:24:56 ID:koZbPXG1
ビルマ末期のメイクテーラ戦で、第49師団の連隊がM4を鹵獲して 師団へ送ってる。 あと現地でも鹵獲戦車を反撃に使ったりしてるようだ。
確かに、グレイハウンドがキングタイガーに、50メートル付近まで近づいて仕留めたという話があるから。
ビルマじゃ鹵獲シャーマンも戦場に投入してるのかな?
133 :
名無し三等兵 :2010/09/19(日) 23:26:52 ID:6l+NrMaJ
>>130 何かと思えばM3軽戦車と主砲一緒なのか。凄いな。
134 :
暫編第一軍 :2010/09/19(日) 23:27:26 ID:???
>>131 メイクテラ会戦中、第四十九師団の山砲兵連隊が擱挫した戦車1輌を修理し3月22日夜の攻撃に使用しています。
陸戦史集では単にろ獲戦車とされていますが、英側資料を使用した「ビルマ 遠い戦場」によればシャーマン戦車で、砲塔が潰れて前方しか砲撃できなかったとあります。
最終的には行動不能となり自爆したとされますが、英側資料では横転し放棄されていたとか。
>>134 あの第一軍さん?
それはともあれ情報有難う御座います。
良スレの予感
>>133 グレイハウンドのクルーも勇気あるよ。
俊足を生かした攻撃だろうが、議会勲章ものだな。
文字通りの虎穴だよなw
M8装甲車はあれもロマンだな 装甲車としてはM20の方がいいし実際長く使われてるからな
140 :
名無し三等兵 :2010/09/20(月) 12:19:00 ID:qs/jfyIc
>>124 弾薬の補給を考えたら47ミリ戦車砲が搭載可能なら換装してもよかったかも。
141 :
名無し募集中。。。 :2010/09/20(月) 12:34:00 ID:FHbSQY9x
T-26やBTは鹵獲しても後方送りで、前線で使用はしてないでしょ。 対ソ戦の暁には、優秀戦車と目していたBTを鹵獲して部隊単位で使うつもりで 取り扱い教育もしていたけど。
誰も前線で使ったとは書いてないがw
上海戦を除くと中国軍の戦車隊は雲南遠征軍にしかないだろう。 上海戦ではビッカース戦車や1号戦車を鹵獲して、本土で展示してたが。
>>144 大陸打通作戦時でもたまに敵機甲部隊出現の情報があるから、
雲南だけではないだろうよ。
日本戦車隊と殆ど接触してないようだけど。
ソ連が満州に侵攻した時、シャーマンだけじゃなく、バレンタインも参加してたらし、まるで総決算ですね。アメリカの37ミリ砲とイギリスの2ポンド砲とソ連の45ミリ砲は、50歩100歩?
満州には旧式のKVも投入されてるしなかなか楽しいな
KVもいたんだ
150 :
暫編第一軍 :2010/09/20(月) 23:01:21 ID:???
>>144 機械化部隊の第五軍が参戦した南寧戦も有名ですね。
151 :
名無し三等兵 :2010/09/20(月) 23:03:10 ID:LWrGatFk
>>147 >>アメリカの37ミリ砲とイギリスの2ポンド砲とソ連の45ミリ砲は
イギリスの2ポンド砲は40ミリだし、
その順番に後ろに行けば行くほど威力はあるんじゃね?
榴弾が無い無いと馬鹿にされる2ポンド砲だけど装甲貫通力は結構優秀だったよね?
>>147 バレンタインも地味に凄いよな
砂漠から熱帯から寒冷地から案外広い範囲で使われている上に、どこ行っても信頼性の高さは評価されているという。
満州にはチャーチルも行ってますね。 ロシア軍はチャーチルも好きだね、名前は気に入らないかもしれないけど。
そういやなんで2ポンド砲は榴弾が造られなかったんだろ? 造る気なら造れたよな?>2ポンド砲用の榴弾
M3でもM3リーが好きな俺は変わり者? 横っ腹の75mm、副砲塔の37mmと連動して20mm あと12,7mmもハッチに着いてんだよな
>>154 イギリスは対人には機銃で充分と考え、徹甲弾の2ポンド砲タイプと榴弾の75o砲タイプで住み分けしていたから。
6ポンド砲も徹甲弾しかなかったっけ?
つまりは日本のチハと真逆の極端な運用だわな。
>>153 オスプレイ・ミリタリー・シリーズの「チャーチル歩兵戦車」では
WW2極東でのチャーチルについて、45年4月にビルマに運用試験で送られた1両のみにしか触れられていませんが
ニューギニア・マダンで44年8月に、3両のチャーチル(Mk IV, Mk V, Mk VII)がシャーマンと共に
オーストラリア軍によってテストされています
テストの結果、ジャングル内に於いてシャーマン以上に優秀と判定され
更に詳細な試験を3カ月半おこなったのち、オーストラリア本国へ戻されました
この結果を受けて、オーストラリアは510両のチャーチルを発注しますが
戦火が収まったことにより、51両のみ受領した時点でキャンセルしてしまいます
>>155 ビルマでの評判を聞くと森林で日本軍を相手にする場合はシャーマンより有効そうです。
>>157 マダンで実戦テストに出てたのか…
マルチダ2にシャーマンにチャーチルって
特にチャーチルはニューギニアの日本軍を相手にしたら
文字通り鬼神の如き存在になりそう
>>158 これは実戦テストではなくて、このテスト用に選定した試験所でおこなわれたそうです
植生が高密度、深さ3フィートの泥土層が存在、幅18フィート深さ10フィートの小川が横切ってるような環境だったようです
160 :
名無し三等兵 :2010/09/21(火) 12:15:16 ID:O3IRl5Pz
>>148 アニメ美味しんぼで、中国残留孤児の話があったんだが
避難民を襲っている戦車がモロKV-1だった。
161 :
名無し募集中。。。 :2010/09/21(火) 16:49:20 ID:y6oZaO5l
そりゃ57〜75mm砲装備の戦車に対応した後期のCS型だ。 2ポンド砲の頃のCSは3インチ砲。マチルダCSとかでググっとけ。
M3の37ミリ砲の砲弾は、片手で装填出来たとあるが、そんなに小さいの?
写真で見ても小さく感じるね 重量も各種砲弾で1.5kg前後だし、片手で装填出来たんでしょ
166 :
名無し三等兵 :2010/09/21(火) 19:59:26 ID:i60dRpxP
>>165 2ポンド砲の砲弾は、Hadfields社とその選択企業で製造されました
そして榴弾も42〜44年まで80万発ほど製造されています
北アフリカ戦末期の43年3〜4月頃から前線で見受けられるようになったようです
しかし時機を失した感は否めません
>>156 6ポンド砲は製造初年の41年は徹甲弾のみの製造でした
榴弾は42年から製造されています
ただし、榴弾が前線で使用されるようになったのはシシリー戦からだったと記憶しています
Oh先を越されたぜ〜
>>166 それ英語wikiからのまるごと翻訳だから細部については眉にたっぷり唾付けて読んでね
できれば英語wiki読んだ方がいいと思う
APC使用前提とはいえ、ベーラー砲はおろか一式速射砲並みの貫通力ってのは
砲の運行重量考えたら傑作だと思うんだけど、ドアノッカーっぷりだけが喧伝されてる可哀相な大砲だね
>>167 ちゃんと榴弾あったんですね
しかし時機は確かに逸してますね
>>170 37mmとしては破格の貫徹力だね
そういや一式速射砲は一式徹甲弾使用なら
近距離とはいえ一応シャーマンを前面から抜けたらしいが
>>170 俺もいい砲だと思うんだけどなー
見た目もなんか好きだw
キャニスター・ショットって、日本軍のバンザイ突撃時につかわれたら… 地獄絵図だね。
>>173 >キャニスター・ショットって、日本軍のバンザイ突撃時につかわれたら… 地獄絵図だね。
実際使われていたんじゃなかった?
キャニスターは突撃破砕射撃の際に実際重要な役割を担って居た てか別にバンザイ突撃でない真っ当な攻撃時でも突撃破砕射撃で使用されたらヤバい
176 :
名無し募集中。。。 :2010/09/21(火) 21:20:44 ID:y6oZaO5l
うん。 キャニスター・ショットはハーグ陸戦規定違反、それを使った米国は鬼畜だ。
キャニスター弾がハーグ陸戦規定違反って、どこにも書いてないよ。逆に現代でも歩兵に対して、有効な攻撃って書いてある。
小口径でも軽量な砲は航空機から投下できるから使い道はあるんだよね
M3は420kgで運行重量と放列砲車重量が同じ(要するにただ脚閉じて曳くだけでいい)だから ジープ2台あれば1台が砲引っ張ってもう1台が弾薬カーゴ曳けば、運用人員ともども運べてしまうのよな しかし実は20000門近く生産されてたとは驚き 戦車砲としての生産分含んでなかったら流石は米国としか言えん
軽戦車 M2A4 365 M3 5811 M3A1 4621 M3A3 3427 M5 2074 M5A1 6810 M22 830 中戦車 M2A1 94 M3リー/グラント 6258 装甲車 M6 2844 M8 8523 ハンバーMk.IV 2000 ざっくりと調べたが軽く3万は超えてるな。
おっとまだまだ見落としがあるし4万も超えてるか。
スタッグハウンド2800両以上って、結構作ったんだな
軽さで言ったらトラック1台で2門+段列全体の砲弾運べる大隊砲の勝ち……だよね? 全然嬉しくないけど・゚・(つД`)・゚・
アメリカ陸軍の歩兵部隊に、M3軽戦車とかグレイハウンドは、どういう割合で装備されてたの?例えばグレイハウンドは中隊に一台とか
軽戦車小隊1個につきM5軽戦車は5両、偵察小隊1個につきM8装甲車は3両
それと駆逐戦車とシャーマンがあるんでしょ?ゴージャスだな。
日本戦車ってトータルで4000両くらいだっけ?
軽戦車 九五式が約2400、九八式と二式合わせても約140……約2500 中戦車 八九式が約400、九七式が約2100(うち47mm型600?)、一式が170、三式が170弱……約2800 豆戦車 九四式軽装甲車約800、九七式軽装甲車約600……約1400 合計7000未満
ちなみにこのうちM3に対抗できる性能を備えた戦車は1000輌にも満たない罠
その分の鉄で一式速射砲を作った方がいいよね、できるものなら
脆くないAP弾と長い自緊砲身と牽引・輜重車輌がネックだったわけで 一式機動四十七粍速射砲の増産は出来るならそうしたいだろうけど到底無理な要望かと…… Wikiのハ号の項ではM3は新世代の軽戦車とか書かれてるが 生産年次で見るとハ号とM3がほぼ同時期の戦車に見えてしまう哀しさ (ハ号の本格的な生産は1940から1942会計年度というのがもうね……)
個人的にM3と遜色ないと思う、ソ連のT-70軽戦車は満州には来てるの?形状的にリトルT34って感じだと思う。あとテトラーク軽戦車は、ビルマのグライダー空挺作戦で使われている?
>>193 テトラークはビルマでは使用されていません。
第1次・第2次チンジット作戦での使用グライダーはワコですので、物理的にも運搬出来ない状況です。
インド・ビルマ方面でのハミルカーは、45年になって評価試験で1機送られただけだったと思います。
そういやM5軽戦車は太平洋、アジア戦域には投入されてない?
>>193 じゃあグライダー空挺部隊の使用装甲車両はないのかな?
>>196 輸送機で設営用の土木機械やジープ、牛馬は運んでたみたいだ。
カーサ辺りのグライダー着陸場は機械設営で数日間で仕上げたようです。
198 :
名無し三等兵 :2010/09/25(土) 19:38:45 ID:TattRJ/l
そういや牛馬も空輸してんだな……
近代戦を理解してる人がいないわけじゃなく 金がなかった、に尽きるなあ
200
近代戦の理解ってそもそも何を指すのだろうか。
一般に思われている銃剣マンセー精神主義マンセーで重火器の必要性を頑なに否認する帝国軍人じゃない人じゃね?
まぁ、銃剣マンセーというのも大分恣意的というか誤解に溢れてると思うけどね
思いつきで用兵したい連中が機械化された部隊は段取りを 踏まないと運用できないのが面倒くさくて適当こいてただけ泣きがする
日本軍がM3スチュアートを越える戦車を開発出来たのはいつごろだっけ? 速度性能に限れば平成時代まで日本の戦車の速度性能はM3スチュアートを超えられなかったw
>>205 そんなこと言い出したら、イギリスの戦車で最高速なのはいまだに
クロムウエルということになるのでは?
>>206 イギリスのスコーピオンは戦車ではありませんか?
>>201 機械化マンセーで火力主義の補給重視、陸海空の統合作戦ができて総力戦に対応。
>>202 頑なに拒絶でなく日露戦争の弾薬不足を経験し、一次大戦の火力主義に日本の弾薬生産は全く対応できないと判明したから。
ないものに頼れないから手持ちで何とかする事を考えるしかないってだけ。
>>204 銃剣突撃って言うとアレだけど、浸透戦術と言うと近代戦ぽく聞こえるだろ?
中国相手だと逆に地形やインフラの制約で機械化部隊は使いにくいし、金かけて火力重視しなくても勝てるなら安い方がいい。
広大な戦線維持に治安警備用の数が質より必要とされたし。
金があったらそもそも戦争しなくてもいい。 今みたいに。
それじゃ10年後辺りに戦争しそうじゃないか
M3軽戦車って悪路走破能力が悪そうだけど。キャタピラーは細いし 実際は?
履帯幅は29.7cm、チハが33cmでハ号が25cmだからちょうど中間か。 接地圧は0.723kg/cm^2(チハは0.66、ハ号はようわからん) 当時の日本戦車に比べると若干接地圧は高いけど、アメリカ戦車は全般的に高めであることや 自衛隊戦車はもっと高い事を考えれば問題は少ないだろう、たぶん。 砂漠だと問題視されるのかもしれないけどね。 (M24は0.793、M4A1初期型は0.962、M4A3E8は0.772、74式は0.86で90式は0.89) で、日本戦車に比べて馬力に余裕がありまくりなのでチハが登れない坂道を捕獲M3が登れるので チハを引っ張り上げたりした話は有名だな。
ゴムパット付きで舗装道路上でスリップしない点を日本側に評価されてたな。
アメリカってクリスティー式の母国なのに、採用した戦車が無いって何で?せめて任務が装甲車と被る軽戦車に使えよ!と思う。
>>214 履帯が外れ易かったのを嫌ったって話が有るみたいよ。
あとご自慢のサスペンションは意外にクッション性が悪くて、不整地で揺れまくったとも言われてたな。
日本軍捕獲のM3の塗装は2色迷彩?スコードロン社の本には2色迷彩みたいだけど。
219 :
名無し募集中。。。 :2010/09/27(月) 20:42:11 ID:+6MSJT8q
>>213 でもゴムパットはたちまち摩耗しちまうと思うんだが。
磨り減ったら取り替えるw 現用戦車でも付いてるでしょ。
>>220 そこはそれ、鹵獲品だから。アメリカみたいに直ぐ補充品が来る
訳じゃないし。スレタイ見て判るでしょ。
ただ、そうであっても作戦機動性の面で見ても、多分M3の方が
上だったんだろうな。
222 :
名無し三等兵 :2010/09/27(月) 22:55:20 ID:Tw6ApFUx
とりあえずプラモでも買ってチハと同じ塗装をしてみるか
M5軽戦車のギアって、オートマなんだ。少々びっくり!M5は交戦記録は有ると思うが、捕獲記録は有るの?
224 :
名無し三等兵 :2010/09/29(水) 01:26:48 ID:q1zzFexv
以前M5は対日戦に参加してないとか聞いたが本当かは知らない
鹵獲されたかどうかは知らないけど、M5は太平洋戦域に登場しとるよ ロイ=ナムル島の戦闘が初陣
もし捕獲されてたら、旧日本陸軍最強の軽戦車の称号は、M5になるだろう
>>226 日本軍はM24が鹵獲出来るまで善戦していれば良かったなw
まだ撃破できないの?
長くて申し訳ありませんが、ニューギニア戦線豪州軍のスチュアートにつきまして。 1941年中頃に、オーストラリアはM3軽戦車150両・M3中戦車250両をレンドリースで割り当てられることになりました。 そして8月にM3軽戦車46両の引渡しが認可されましたが、そのうち36両はロシア向けとなり、10両だけが同年暮れに到着しました。 その後、引渡し数は増加して43年中頃まで供給された結果、同軍機甲部隊は約370両のスチュアートを保有することになります。 (うち約50両はディーゼルエンジン搭載型) 車両は米国から直接供給されましたが、英国から運ばれたものもごく少数あったようです。 型式はM3とM3A1ですが、ディーゼルエンジン搭載型の何両かは「スチュアート・ハイブリッド」の可能性があるそうです。 英軍はスチュアートを受領すると独自仕様にすべく改修を施しましたが、オーストラリア軍もそれに倣い、 42年初めの時点で43の改修すべき箇所をリストに挙げています。 しかし、全車両が同時期に改修を施されたわけではありませんので、連隊・大隊内で差異が見られるそうです。
42年9月、ニューギニア戦線で戦車支援が必要であるとの判断から、ニューサウスウェールズ州で演習を終えたばかりの オーストラリア第1機甲師団にその任が割り当てられることになりました。 最初の案では第2/5機甲連隊(M3中戦車装備)の投入が予定されていましたが、その装備車が 彼の地で行動するには重量があり過ぎるという見地から、M3軽戦車装備の第2/6機甲連隊が任に当たることになります。 そして9月25日、ポートモレスビーに最初の3両のスチュアートが到着、連隊本部とC中隊がこれに続き、 B中隊の方はミルン湾へ直接運ばれました。 彼らが警戒任務に就いていた頃、ブナの米・豪州部隊は当地から日本軍を排除しようと、ブレンガン・キャリアを戦車の代用として投入するようなこともしましたが、その労力が報われるようなことはありませんでした。 ここに戦車投入の時機は熟し、12月18日、第2/9オーストラリア歩兵大隊を支援すべくスチュアート7両が初めて実戦に参加します。 0700時、スチュアートは歩兵を横や後ろに従え、彼らの前進ペース通りにゆっくりと進みました。 しかし、このような低速での連続運用を考慮していない設計のため、様々なトラブルに見舞われます。 戦車隊は右翼支援に3両、中央支援に3両、後方に指揮戦車という形をとりつつ前進。 日本軍のバンカーは見付かり次第、至近距離で戦車に攻撃され歩兵の手榴弾で止めを刺されました。 一方、戦車の支援のない左翼の歩兵中隊は多くの死傷者を出していました。 やがて、左翼からの支援要請に従い戦車隊は西へ回り込み、3つの火点を確認。ここでの戦闘は以下の通りでした。
@Whitehead大尉の指揮戦車に日本兵が飛び乗り、小銃を砲塔覗視孔に発射、大尉を負傷させます。 1000時、戦車を受け継いだHodgson中佐もハッチから顔を出したところを機銃で撃たれ負傷、連隊長と大隊長が共に失われました。 ALattimore軍曹の車両はココナツの丸太に乗り上げ各坐、日本兵が車体下面に火を付け始めましたが、僚車の機銃で日本兵は射殺されました。 BCurtiss中尉の車両は切り株にのし上げ、ここでも日本兵が火を付けました。乗員は歩兵の援護射撃のもと全員脱出しましたが、戦車は焼損しました。 CCambridge伍長の車両は破甲爆雷で撃破されました。 ※1400時、歩戦協同の最後の攻撃が開始され、日本軍はバンカーを放棄して撤収しました。
42年12月24日、西部で新たな攻勢が始まり4両のスチュアートが支援に当たりました。 この方面の日本軍は高射砲を複数装備していましたが、この頃は射撃もせずに沈黙した状態でした。 しかし最初の一時間で、スチュアート3両が眠りから覚めた3門の高射砲に捉えられ、 @Lattimore軍曹の車両では軍曹が重傷、操縦手が戦死。 A2号車は走行系を吹き飛ばされました。 BBarnett伍長の3号車は砲弾が砲塔を貫通し、伍長は重傷、砲手は戦死。 ※4号車は砲弾孔へ滑り込みました。 その頃、B中隊の11両のスチュアートがミルン湾左翼方面に移動していました。 12月29日、当該地区に到着したばかりの僅か4両が、無思慮に実行された攻撃に投入されます。 明けて43年1月1日、3両の予備戦車も含めた6両による再度の攻撃は成功しました。 そして1月10日、サナナンダでの戦闘が第2/6装甲連隊最後の戦いとなります。 この日、Heaps中尉指揮の戦車隊が第2/12オーストラリア歩兵大隊を支援しますが、 小道を前進していた指揮車が、所在不明の速射砲に砲撃され4発が命中しました。 ハッチは完全に吹き飛び砲弾1発が左スポンソンを貫通、Broughton伍長の2号車が指揮車を庇おうと前に位置しましたが、 こちらにも20発の37mm砲弾が命中、1発が貫通し搭乗員4名が負傷します。 その後、3号車のMcGregor軍曹が指揮を執るべく車両を進めますが、地雷で履帯を切断、さらに火炎瓶で攻撃され、 車両と4名の乗員が失われました。
ブナ・サナナンダ戦区に持ち込まれた27両のスチュアートについての作戦終了後のリストです。 ・ソプタ:8両稼動 ・エンダイアディア岬:12両稼動 ・可動するも戦闘には不適:1両 ・砲塔除去:2両(牽引車として使われ“ボブテール”の呼称) ・ブナで喪失:3両 ・サナナンダで喪失:1両 この戦訓により豪州軍内では、戦車は対日戦にも不可欠の要素と認識され始めました。 しかし、軽装甲のスチュアートの性能は不十分であると見なされ、根強い「対日戦での戦車不要論」も完全に覆すことは出来ませんでした。 不要論者の意識が一変するのは、以前にもレスしましたがマチルダ投入とその成果を見てからのことになります。 その後、第2/6機甲連隊は43年4月に本国へ帰還、ジャングル戦専門の第4機甲旅団に組み込まれますが、 すぐに第1機甲旅団(本土西部に駐屯)へ移管となり、同旅団が44年9月に解体されたあとは独立連隊となります。 45年7月に再び第4機甲旅団に組み込まれますが終戦。46年2月に連隊は解体されます。 結果的に彼らの実戦参加は43年1月で幕を閉じ、日本軍はマチルダ装備の新手の第4機甲旅団相手に死闘を繰り広げることになります。
戦車が歩兵と同じ速度で、動いたら駄目じゃない?やっぱり非人道的って言われるタンク・デサントかな
>>229-233 気合の入った書き込み乙
やっぱマチルダUは活躍したんだなぁ
その頃には榴弾も供給されてそうだし
チハ、BT、スチュアート、一番可愛いのはどれだ
スチュアート
238 :
名無し募集中。。。 :2010/09/29(水) 20:46:34 ID:FTd0lf0H
>>235 ニューギニアのマチルダも榴弾無しだったよ
徹甲弾だけであいかわらず陣地撃破に手こずってる。
ただしその重防御で撃破不能状態の無敵だった。
>>232 >20発の37mm砲弾が命中、1発が貫通
くそう、大英連邦の戦車は化け物か!
240 :
名無し三等兵 :2010/09/29(水) 22:45:45 ID:AeAoTwVo
>>229 すごい供与数だ。1941年にそれだけ関東軍に供与されたら参謀が関東軍特別大演習を
実行してもおかしくない数だ
>>238 >>165 以降の流れを読むと適当な時期にニューギニアの連合軍にも
2ポンド砲用の榴弾が配備された気もするがどうなんだろ?
日本軍の戦車配備なんて期待してない だが、せめてもう少し直協機を手当してやれよ… 上から6番ブチ当てればマチルダでも食えるだろうに。
何気に良スレ。
広い平野部が無く、ジャングル等視界が悪く、アンブッシュ攻撃がやりやすい、太平洋戦線には低速・重装甲の英国歩兵戦車が良いかもね。
M3A3とM5の外見の違いってなに?
オーラ
>>246 ・砲塔:M5の砲塔はM3A1共用の小型砲塔。ただしM5A1はM3A3共用の大型砲塔。
・車体前面の跳弾リブ:M3A3はクランク状につながってる。M5は途切れてる。
・エンジン部の高さ:M3A3は平ら。水冷発動機のM5は段差があって一段高い。
249 :
名無し三等兵 :2010/09/30(木) 17:29:12 ID:1dagn89a
>>245 チャーチル歩兵戦車に蹂躙される日本軍とか
>>249 万が一チャーチル歩兵戦車を鹵獲して、
無線で「チャーチルを鹵獲しました」と報告したら、
英国首相チャーチルを捕虜にしたのかと間違えるのか?
普通にマーク4歩兵戦車と言いそうだが。 ところでレンドリース車両て補修部品とか、砲弾とかどうすんだろ。 砲弾は追加で送ってくれても部品とか予備あるんかな。
多分最低限予備は有ると思うけど、壊れ具合にも因るが、修理するなら新しいのを補充して、故障車両は部品共食い用か、放棄した方が効率よくない?
そういやビルマじゃM3軽戦車だけでなくM3中戦車も鹵獲したらしいが マチルダやバレンタインは日本軍に鹵獲されてるんだろうか?
254 :
名無し三等兵 :2010/09/30(木) 21:03:33 ID:VWyr+Hzp
帝国陸軍戦車師団を米国のレンドリースで再装備してみたい
オーストラリアにはM3たくさん供給してるけど海兵隊は1943年のガダルカナルでもM2軽戦車使ってる
豪州でのシャーマン戦車につきまして。 オーストラリアは42年中にM3中戦車を757両受領していますが、M4中戦車の方は大戦中に3両保有したのみでした。 43年7月に国産のセンチネル巡航戦車の生産停止に踏み切った背景には、 必要量を満たすM4中戦車の供給が可能であるという米当局からの意見がありましたし、 オーストラリアもそれを望みましたので、豪州がM4中戦車に関心がなかったわけでも、米国が供給しようとしなかったわけでもないようです。 オーストラリアが初めて手にしたシャーマンは英国向けとして製造されたM4A2で、43年中頃にメルボルンに到着、 車体には米国登録番号(USA W 3096073 )と英国登録番号( T 146142 )が共に記入されていました。 同車は到着後すぐにグレーとNo.3カーキグレイの2色迷彩で塗装されたあと、メルボルン北のMonegeettaへ評価試験のため送られました。 この車両は44年中頃まで、おそらく同地に留まっていたようです。
44年初め、オーストラリア軍は英陸軍当局からニューギニアの環境におけるチャーチルとシャーマンの運用試験の実施を要請されました
(それが
>>157 です)。
車両は英軍の提供で、44年5月に試験用のシャーマン2両が豪州に到着します。
1両はクライスラー製のM4(シリアルナンバー59427 )、もう1両はボールドウィン製のM4(シリアルナンバー16239 )でした。
これらは何故か試験レポートではM4A1として記載されており、45年の報告ではM4となっています。
オーストラリア軍は手元にあるディーゼルエンジン搭載のM4A2も試験することを提案、こちらもテストに参加することになります。
44年8月、3両のシャーマンと3両のチャーチル(Mk IV, Mk V , Mk VII)が
ニューギニア派遣の第2/4機甲連隊のマチルダ26両と共に、リバティ船Norman J. Coleman号でマダンへ運ばれました。
マダン陸揚げ後、試験車両は試験場が出来上がるまで14日間露天で留められていたそうです。
試験は32日間続けられ、各戦車の平均走行距離は130マイルでした。
その後さらに3ヶ月半詳細な試験を行ったのち、試験車両は本国へ戻されます。
テスト後、ジャングル戦ではチャーチルの方がシャーマンよりも望ましいという評価が下されました。 リストに挙げられているチャーチルの利点は以下です。 1:操縦性(特に低速時) 2:歩兵と協同時に低速走行する際の適切な低ギア比 3:厚い装甲 4:登坂能力、小川での渡渉能力がやや上である 5:最低地上高 この結果を受けてオーストラリア軍は510両のチャーチルを発注(戦争終結により51両保有時点でキャンセル、51両の内6両は試験車両)、 豪州軍がシャーマンを多数保有する機会はなくなりました。
オーストラリア軍のいわゆるコンポジット車体のM4の写真を見たことがあるが、 表記がM4だったりM4A1だったりというのはそれかな
ところで日本軍に鹵獲されたM3は戦後どうなったの? 連合軍が押収して再利用したの?
港湾設備が充分でないマダンで、LSTでなくリバティ船で重いチャーチルやシャーマンを揚陸できるんだな。 日本にはできないのに。
>>259 クライスラー製のはコンポジット車体ですので、試験レポートでこの車両を誤ってM4A1と記載したというのなら分かるのですが、
ボールドウィン製の方もM4A1と記載されていまして、報告者がどういう理由でM4A1と認識してしまったのかは謎です。
263 :
名無し三等兵 :2010/10/01(金) 17:36:49 ID:pLgQz/J/
>>248 性能の違いは?例えばM3A3とM5の性能が変わらないのであれば、M5の存在意義がないと思う。
エンジンの馬力が上
265 :
名無し募集中。。。 :2010/10/01(金) 20:57:21 ID:vZaK/HRC
>>261 リバティ船の方が日本の戦標船より大きいデリックだった、ってことかね
蘭印でのマーモン・へリントン四輪装甲車 大戦前に蘭印軍はヴィッカース軽戦車を大量に追加発注していましたが、一部が納入された時点で大戦が勃発。 未納分49両のヴィッカース軽戦車を英陸軍が接収、"ダッチマン"の呼称で英軍内で使用されます。 この事態に蘭印政庁と英政府が協議を行った結果、リビア戦線で使用中の南アフリカ製マーモン・へリントン四輪装甲車49両が 補償として供給されることになりました。 既に蘭印が戦火に見舞われている42年2月初めに、これらの車両は到着しました。 到着した車両を目にした蘭印軍兵士たちには、怒りと失望感しか湧き上がってきませんでした。 スクラップとして売りさばいた方がましだと思えるぐらいの状態だったからです。 仕様ではボーイズ対戦車ライフルと機関銃が装備されている筈でしたが、到着したのは非武装の車両でした。 また北アフリカでの作戦中、徹底的な整備は受けておらず、洗浄も全く施されぬまま船積みされたので、砂塗れの状態でした。 蘭印軍は急遽、ヴィッカース重機関銃(航空機用のヴィッカース空冷機関銃とする資料もあります)をこれらの車両に取り付け、 49両中27両が作戦行動可能(3月1日に全車両行動可能としている資料もあります)となります。 これらの車両で、ジャワ陥落数日前には2個独立中隊と1個偵察小隊が編成されていました。 3隊全てバンドンで編成されましたが、第1中隊は装甲車両搭乗の経験者は皆無でした。 第1中隊の編成は以下の通りです。 マーモン・へリントン装甲車:14両 ウィリス・ジープ:6両 オートバイ:6両(BMWもしくはハーレーダビッドソン ) トラック:数量不明 無線装置も保有 ※小隊本部(装甲車2両)小隊×3(装甲車各4両) 第1中隊は僅か数時間の訓練の後、バンドン周辺で偵察任務に就きます。 日本軍部隊と時折接触しつつ、ジャワ島降伏まで偵察任務を続けました。
バンドンで同じように編成された第2中隊には、数人の戦車兵が含まれていました。 こちらはマーモン・へリントン装甲車を10両しか装備していませんでした。 42年3月4日、第2中隊は日本軍の接近を阻止すべくバンドン北20kmのTjiaten峠に派遣されます。 その際、1個小隊3両はバンドンに残されました。 3月5日、中隊は装甲車が通過するには困難な植生の丘陵地帯で、日本軍と遭遇します。 日本軍への攻撃に使用出来るのは一本の小道だけでした。 中隊は攻撃を開始しましたが、中隊でただ一人の将校であった中隊長が真っ先に戦死、装甲車2両も撃破されました。 中隊残存はLembang村(峠の南方6km)に撤退を余儀なくされます。 その間、日本軍機の襲撃を受け続けますが、損害なく脱出に成功します。 彼らは再度の攻撃機会に備えるべく、同村で損害を補充しつつ待機します。 一方、バンドンで待機していた小隊は、バンドン西35kmの蘭印軍が撤退した無人地帯の偵察を命じられます。 日本軍機の目を避けつつ小隊は偵察を継続、予想よりも遥かに早く日本軍が進出してきたことを確認します。 バンドン西での任務の後、小隊はLembang村でまだ作戦中の本隊に復帰、第2中隊の稼動車両は7両となります。 しかし、この状況は長くは続かず、Tjiater峠とSoebang村近辺での新たな作戦行動で5両の装甲車を失いました。 残り2両の内1両は直ちに偵察任務に赴き、間断なく砲火を浴びながらも任務を遂行しますが、 帰途に日本軍機に補足され、命中弾で爆発しました。
偵察小隊所属の3両のマーモン・へリントン装甲車は、占拠されたバンドンへの反撃に従事しました。 前進中、反撃部隊は山中での交通事故により1両のマーモン・へリントン装甲車を含む何両かの車両を失います。 残り2両の装甲車のうち1両は路上阻塞で阻止され脱落、もう1両は日本軍前線を突破して市内へ進入しましたが、 後続が日本軍の砲火に阻まれたため、後退しました。 ジャワ失陥後、何両かのマーモン・へリントン装甲車は日本軍のもとで使用され、日本降伏後は独立派の手に渡ります。 そのうちの数両はオランダ軍に鹵獲され独立小隊を編成、45年10月から48年1月まで活動しています。 独立派の車両と区別するために、全側面にオランダ国旗を大きく描き込んでいます。
※豪州におけるクロムウェル
42年9月、オーストラリアはクロムウェル(Mk.I)1両を10,000.00ポンド(プラス輸送費1,500.00ポンド)で発注します。
既に国産巡航戦車の生産が行われていた頃ですが、恐らく英国の最新巡航戦車を検分するのが目的だったと考えられています。
そしてクロムウェルは43年8月の終わりに豪州に到着しました。
6ポンド砲を装備していましたが、機銃は取り付けられておらずマウントは空いたままでした。
その後のクロムウェルは殆ど公的な記録に現れませんので、動向を掴むのは困難です。
43年遅くか44年初めに2色迷彩で塗装されたようで、旧式車のように牽引戦車として使用されているのが確認されています。
そしてニューギニアにおけるシャーマンとチャーチルの運用試験についての告知がなされた際に、
第4機甲旅団長はクロムウェルを試験車両に含めることを提案しますが、この試験では使用しない旨通告されます。
“……これは巡航戦車で、ジャングルの作戦行動で必要とされる低速走行向けには設計されていません。
それに我が国で唯一のクロムウェルですし、最初期型でもあります。そして予備部品の手持ちは大変限られたものなのです……”
戦争終結時、クロムウェルはPuckapunyalのAFV学校に配置されていました。
そして現在でもPuckapunyalの戦車博物館で目にすることが出来ます。
2色迷彩ではなくブリティッシュカーキグリーンドラブ1色で塗装され、
砲塔には“Not to be stowed on Deck”の注意書きも大きく書き込まれ、70年近く前の豪州到着時の姿が再現されています。
ttp://2.bp.blogspot.com/_MXu96taKq-Y/S0Le591-mlI/AAAAAAAAEWg/6FpU7-iqiGI/s1600-h/9.jpg
蘭印向けマーモンヘリントンは、未出荷分が米軍に回ったのもあって、 唯一の実戦としてアッツ島に顔を出していたと思った。 日本軍が鹵獲したのは、独混28旅団戦車隊あたりに支給されたんだっけ?
>>266 お、上段のは37mm連装のMTLS-1GI4だな。写真では見えないけど砲塔横についてる機銃がキュート
>>272 蘭印が発注したマーモン・ヘリントン軽戦車は、蘭印降伏後は豪州の他に蘭領西インド諸島や蘭領ギアナにも
割り当てられました。
キュラソー島:7(機銃型:CTLS)+2(砲搭載型:CTMS)=9両
アルバ島 :6(機銃型:CTLS)+1(砲搭載型:CTMS)=7両
スリナム :26(機銃型:CTLS)+28(砲搭載型:CTMS)+19(連装砲搭載型:MTLS)=73両
蘭印は41年初めに砲搭載型(CTMS)を194両発注しましたが、この型も蘭印降伏までに全車両を受領することは出来ませんでした。
ジャワ失陥後は、上記の通り他のオランダ領が31両を引き取り、中南米諸国向けのレンドリースに30両が流用され、
残りは恐らく米国内で廃棄処分となったようです。
下記が中南米各国への供与数です。
メキシコ:4両
キューバ:8両
グアテマラ:6両
エクアドル:12両
上記のような蘭印向けの製造分とは別に、米政府は中国に供与すべく機銃型(CTLS)の生産をマーモン・ヘリントン社に命じていました。
しかし中国は受領しようとはしませんでしたので、42年7月には240両が滞貨となりました。
これらは米軍が引き取り、北太平洋方面に配備されることになります。
そしておっしゃる通り、アリューシャン方面の戦闘に投入されました。
おー中国向け生産分だったか。サンクス。
>>271 ”Not to be stowed on Deck”船倉に入れろという意味なのか?
【鹵獲がお好き】
欧州で大戦が勃発、オーストラリアが参戦した際の戦車兵力は、4両の古色蒼然としたヴィッカースMk.II中戦車 と
10両の非力なヴィッカースMk.VIA 軽戦車が全てでした。
そこで海外派遣戦力として1個機甲師団、本土防衛戦力として2個機甲旅団の創設が決定されます。
41年6月、これらの装備として400両のM3戦車(軽150・中250)とクルセーダー巡航戦車847両を英国が供給することになりました。
しかしこの段階では多数の戦車装備という話も、前線の豪州兵にとっては只の紙の上での取り決めに過ぎませんでした。
第6オーストラリア師団騎兵連隊は40年1月に海外派兵されました。彼らは主にパレスチナで訓練を行い、後にエジプトに移りました。
最初の装備はマシンガンキャリア(ヴィッカースもしくはブレン装備)でしたが、40年10月、エジプト陸軍のよく使い込まれた6両のヴィッカースMk.IIBを、
Abbassiaの補給所で引き渡されました。
※大戦前のエジプトでのヴィッカースMk.IIの写真が掲載されています。
ttp://arcaneafvs.com/vmedium.html
40年12月11-12日のMaddalina砦とGarn砦の戦闘で、第6師団騎兵連隊はWW2におけるオーストラリア最初の
実戦参加部隊となりました。
マシンガンキャリア装備のみのA中隊がイギリス西部砂漠軍に分遣され、41年1月のバルディア攻略に貢献しています。
A中隊の一部は鹵獲したイタリア軍のM11/39中戦車とM13/40中戦車を装備しており、それらはトブルク強襲で使用されました。
鹵獲戦車には味方識別の為に師団マークのカンガルーを書き込みましたが、それらはすぐに砂埃で覆われてしまいます。
幸い友軍の誤射は免れることが出来ました。
鹵獲した7両の戦車のうち、最終的にイタリア軍の防衛線に辿り着けたのは1両のみでした。
これらの車両はイタリア本国から輸送されたばかりだったのか、カーキ塗装ではなくグリーン塗装だったそうです。
トブルク戦後、連隊はデルナ攻略とベンガジ攻略に投入されます。
41年4月に連隊はHelwanに戻り、装備品にヴィッカースMk.VIB軽戦車が新たに加わります。
そして英軍と共にサルーム攻略作戦に従事します。
5月末、連隊はパレスチナ北部へ移動、オーストラリア第7師団の指揮下に入りました。
ヴィシー・フランスのシリア・レバノンへの侵攻がいよいよ始まります。
師団マーキングを施した鹵獲M11/39中戦車の写真が掲載されています。
ttp://www.39-45.org/viewtopic.php?f=23&t=6356
シリア・レバノン作戦は41年6月8日に始まりました。
A中隊は第21旅団付きとなり、戦車やキャリアを運用するには難儀な岩場だらけの丘陵地帯を、
海岸線に沿って前進します。
中隊は6月13−14日に第9師団騎兵連隊の部隊と任務を交代します。
C中隊は第25旅団と共にRosh Pinna道沿いに前進中、Khirbe砦の強力な守備隊と遭遇します。
重砲と機関銃の支援を受けたフランス戦車隊の攻撃を受け、豪州兵は後退します。
シリア・レバノン作戦の初期の段階では、戦車隊は沖合いの海軍艦艇と信号旗で連絡を取りながら、
前進してくるフランス軍装甲車両を標的とすることが出来ました。
休養期間中にA中隊とB中隊は鹵獲したルノー R35軽戦車を各3両ずつ受領し、警戒任務で使用し続けました。
7月6日に始まったダマール市での戦闘は、シリア作戦で最も困難な戦いとなりました。
連隊はこの作戦で主要な役割を演じていませんが、使用していたR35がフランス軍の75mm野砲に撃破されてしまいました。
作戦終了後、連隊は占領軍の一部として留まり、42年3月、2年ぶりに本国へ帰還します。
その後、連隊は再編成され、対日戦では不要と見なされた機甲偵察部隊が解散します。
44年1月、名称が第2/6騎兵コマンド連隊となり、10月22日にニューギニア・アイタぺに到着。
以後はウェワク地区で終戦まで戦闘を続け、45年9月に部隊は解散しました。
ページ下の方に、鹵獲したR35戦車の写真が掲載されています。
ttp://www.awm.gov.au/blog/2009/06/03/the-girl-on-the-badge/
軽戦車とは言え、よく米国と英国は気前よく何百両も供与出来るよな。
>>281 いや、アメリカに関してはそうだけど、イギリスに関しては
「嫌がらせ」レベルだろ、これ。
>>278 乙。
Mk.VIBとMk.IIB&キャリア対R-35とか涙が出てくるな。
今更なんだけど、軽戦車の定義って何?中戦車と軽戦車の違いって言うか…20トン以下が軽戦車?
>>284 そこは各国バラバラよ。
例えば日本の97式中戦車とアメリカのM3軽戦車は重量がほとんど同じだけど、
それぞれの重量区分が違うから名称が異なる。
>>284 安価で偵察や連絡などに使う戦車。
重量で決めるとM3スチュワート軽戦車にフルボッコにされる九七式中戦車チハをドイツ軍将兵から見れば、
どっちも軽戦車扱いされる。
M24チャーフィー軽戦車に至っては3号戦車よりも高性能である。
偵察用戦車=軽戦車みたいなところもあれば 日本みたいに重量区分だけで機械的に分けてるところもあるからなぁ M3だって日本軍の区分で言えば中戦車だぞ 流石にそうは呼称しなかったらしいがw
【騎兵連隊キプロスへ行く】 40年4月、オーストラリア第6師団騎兵連隊がパレスチナの地で訓練に励んでいた頃、 本国では新たに第7師団騎兵連隊が創設されました。 連隊はヴィッカースMk.VI軽戦車とキャリアを装備し、ニューサウスウェールズ州カウラで訓練を行いました。 41年2月、連隊はパレスチナに到着、砂漠戦の訓練に入ります。 当時、中東に展開していたオーストラリア軍機甲部隊は、古参の第6師団騎兵連隊と新参の第7師団騎兵連隊の2つでした。 第6は砂漠戦の経験に長けていましたが、装備が貧弱でした。 第7の方は装備は良かったのですが、戦闘経験がありませんでした。 4月のベンガジ進攻の際、どちらの連隊を前線に投入するかがコイントスで決められ、結果は第6の勝ちとなりました。 第7師団騎兵連隊はその装備を第6に引渡し、スエズ運河の防衛任務に就きます。
ギリシャ失陥時、英国政府の関心は地中海東部に集まっていました。 ドイツがトルコ経由で中東に侵入すれば、英国の石油パイプラインは寸断されてしまう恐れがありますし、 その前段階として、クレタ島とキプロス島にドイツは進出するだろうと考えられました。 クレタ島の防備には、ギリシャ本土から撤退した英軍・ニュージーランド軍・オーストラリア軍を核にしたことにより、 比較的大規模の戦力を充てることが出来ました。 しかし、キプロス防衛に充てることの出来る戦力は殆どありませんでした。 チャーチル首相は、キプロスは1500名の兵力があればドイツ軍の侵攻を阻止できると信じていました。 “敵が侵攻しても....1500名の兵は険峻な山岳地に陣取ることが出来るでしょう。 そして出来るだけ長期間、ゲリラ戦を行うのです。” 豪州のメンジーズ首相はこの見解に同意は出来ませんでした。 そして幸いにも、この馬鹿げた企ては最終的に実行されませんでした。 キプロスには英第7師団が旅団司令部と1個大隊を派遣。 空母イラストリアス所属のアルバコア飛行隊、ハリケーン装備のオーストラリア第3飛行隊も到着しました。 そして英軍歩兵大隊を支援すべく、スエズ地区のオーストラリア第7師団騎兵連隊がキプロスに派遣されます。
連隊は5月5日、ファマグスタの港に到着。10日、ニコシアへ移動します。 この時点での連隊は、ヴィッカースMk.VIA(and B)軽戦車:15両、ユニバーサル・キャリア:14両、 2ポンド砲ポーティー:4両を装備していました。 ユニバーサル・キャリアーはボーイズ対戦車ライフルを装備していましたが、 キプロス駐屯中は対空用にブレン機関銃も載せていました。 A・B中隊司令部には、それぞれにヴィッカース軽戦車とキャリアが4両ずつ配備され、 C中隊司令部にはヴィッカース軽戦車4両・キャリア3両が配備されました。 全車両は島内パトロール以外の時は、急降下爆撃の被害を軽減すべく、ダッグイン状態で守備に就いていました。 彼らの主要な任務は、ドイツ軍にキプロスには1個旅団の兵力が存在していると思い込ませ、侵攻を断念させることでした。 クレタ失陥後、独伊空軍の空襲が増加しました。 また、シリアからヴィシー空軍のグレン・マーティン爆撃機が飛来し、このときの爆撃は空軍の地上勤務員に深刻な被害を及ぼしました。
ドイツ空挺部隊によるクレタ侵攻は、連合軍に大きなツケを支払わせました。 そして、キプロス侵攻の帰着がどのようなものになるかは明白でした。 41年7月30日、連隊は撤収すべしと警告されます。 8月10日、連隊はキプロスを出港しシリアへ移駐。 彼らの姉妹部隊の第6師団騎兵連隊と任務を交代します。 そのときに、ヴィッカースMk.VIB、キャリア、ルノー R35戦車を引き継ぎます。 その後、第7師団騎兵連隊は42年3月中旬に本国へ帰還。 9月、ポートモレスビー防衛のためニューギニアに派遣されました。 12月中旬、前線増強のためモレスビーからPoppendettaへ空輸されます。 その際にジャングルでは必要なしとみて、キャリアは全てモレスビーに残していきました。 12月18日、サナナンダ道と集落に沿って移動し、日本軍との苦しい戦いに突入します。 43年1月21日にようやく集落を占拠するまで、連隊長のEdgar Logan中佐を含む54名が戦死、67名が負傷、 3名が発疹チフスで死亡、240名以上がマラリアに罹患しました。 連隊の残存人員は47名でした。 連隊は43年2月からクイーンズランド州で再編成し、44年4月に第2/7騎兵コマンド連隊と名称変更。 ジャングル戦に向けて装甲車両は装備から外されます。 45年7月、バリクパパン、ボルネオで作戦参加。 その地で終戦を迎えます。
【末っ子登場】
WW2中東戦域に展開したオーストラリア機甲部隊は3つの騎兵連隊だけでした。
コンパス作戦にも参加した最古参の第6師団騎兵連隊。
この地域では戦闘らしい戦闘の機会に恵まれなかった第7師団騎兵連隊。
そして最も新顔で、末っ子とも言えるべき存在が第9師団騎兵連隊でした。
40年7月、ヴィクトリア州Seymourで第8師団騎兵連隊が創設されました。
連隊装備はヴィッカースMk.VI軽戦車とマシンガンキャリアでした。
41年2月、オーストラリア第8師団はマレーへ派遣されますが、
師団隷下の第8師団騎兵連隊の装甲車両は、ジャングルでは運用が制限されると誤った判断が下されます。
その結果、騎兵連隊は第9師団に移管され、ここに名称が第9師団騎兵連隊となります。
41年4月、連隊はエジプトに到着。その後パレスチナへ移動。
パレスチナへ到着して一月以内にシリア・レバノン作戦が始まり、連隊は第6師団騎兵連隊と共に第7師団を支援します。
6月14日、Jezzineで初めてヴィシー軍と接触。何両かのルノー R35軽戦車を鹵獲します。
鹵獲車には、師団マークの「ブーメランの上に乗ったカモノハシ」を描き込みました。
※オーストラリア第9師団マーク
ttp://jeepdraw.com/images/jeepdraw/Australian_Tac_Signs/9th-Ppus.gif
シリア・レバノン作戦の終了後、連隊は休養と再訓練のためパレスチナへ戻りました。 42年1月、再びシリアへ赴き、シリア北部で警戒任務に就きます。 その間に姉妹連隊の第6、第7は本国へ帰還し、第9が中東で唯一の豪州機甲部隊となります。 そして7月、ドイツ軍の攻勢の進捗を見計らって、親部隊と共にエジプトへ派遣されます。 ここにきて初めて、中東展開の豪州騎兵連隊は近代的な戦車を装備することになります。 クルセーダーMk.II 、M3軽戦車が配備されることになったのです。 第9師団司令部が戦車戦に巻き込まれた場合を想定して、2個戦車中隊が師団司令部護衛に当ることになりました。 作戦中、何両かのキャリアが撃破され、クルセーダーも数両損傷を受けます。 42年10月、第二次エル・アラメイン戦時の連隊戦力は、 M3軽戦車:5両、クルセーダーMk.II:15両、ユニバーサルキャリア:52両でした。 師団の予備戦力だった連隊は、この戦闘では大きな役割を果たしていません。 11月、連隊は師団の西方進撃の尖兵を務めることになります。 しかし第8軍の進撃はあまりにも速かった上に、オーストラリア第9師団は南西太平洋方面で活用するという方針から、 連隊は枢軸軍追撃には参加することなく、43年1月に本国へ帰還します。 44年1月、連隊は 第2/9騎兵コマンド連隊となり、装甲車両は装備から外されます。 45年、タラカンと北ボルネオで作戦に従事し、その地で終戦を迎えました。
M3〜5軽戦車やシャーマン戦車って車高高いけど、アメリカは見付かりにくさより、居住性を求めたの?
視察能力の高さや戦闘動作の容易さ重視じゃね? 戦後の米戦車もそうだと思う
>>294 シャーマンに関しては、航空機用星型ガソリンエンジン積む前提で設計したから。
トラック用6気筒エンジンを5個、星型?にひっ付けた恐ろしいエンジンもありましたね。
戦車に積んだ空冷エンジンって、ちゃんと冷えるのかな?エアーサーキュレーションが悪そうじゃん。しかし砂漠で水冷だと水の確保が大変だしなぁ。
でっかい扇風機で冷やしてるよ。
【キウイ・バレンタイン】 44年1月29日、グリーン島に米軍が上陸し、同島での戦いが始まりました。 2月15日に、ニュージーランド第3師団(第14旅団が主力)が新たに上陸、27日には戦闘は終了します。 日本軍兵力は120〜150名、連合軍兵力は5,806名でした。 そして、ニュージーランド軍のバレンタイン戦車が唯一、実戦参加した戦いでもありました。 以下に書き記しますのは、同年3月13日付のNZヘラルドの記事が元です。 ちなみに、それぞれのタイトルは元記事のものです。 ニュージーランド第3師団戦車大隊は、日本軍残存拠点掃討時の歩兵支援で、初めて実戦参加しました。 この任務では戦闘は突如不意に生じましたので、誰もが常に神経を研ぎ澄まさなくてはなりませんでした。 夜の帳が下りるころ、60名以上の日本兵の戦死体が横たわっていました。 「それは銃声で始まった」 それは島の南西海岸上、Tanakeranの小さな集落の外れで起きた出来事でした。 正午前、ブレンガンキャリア小隊の指揮官であったStronach大尉は司令部設置のため、この区域を偵察していました。 ちょうど食事時でしたので、彼の部下達は休息して泳ぎに行くことにしました。 そして数分後には、部下の一人が崖の端に向かって歩き始めていました。 突然、木々の暗がりの中で、小銃音が響き渡りました。 一人の日本兵が背後の木に潜んでおり、発砲したのです。
「戦隊急編成」 落伍した一人か二人の日本兵だろうと判断した二人の軍曹は、 周辺を捜索すべく、近くにいた15名の兵士を呼び集めます。 すると、辺りは小銃と機関銃の銃火で満たされ、2名が負傷しました。 Stronach大尉は、日本兵がかなりの人数であることに気付きます。 日本兵は洞窟に潜んだり、木々に登って、偵察隊の目を眩ませていたのです。 彼は、いくつかの隊からなる28名の兵で戦隊を急編成し、 増援が到着するまで周辺を保持しようとしました。 そして、負傷して銃火の中で横たわっている、キャリア小隊のRoy Stannard伍長を救出しようと試みます。 大尉と部下の何人かは、伍長の10フィート側まで這っていきましたが、 日本軍の小銃と迫撃砲の射撃に妨げられ、救出は叶いませんでした。 伍長は後に、戦車に救出されました。
「戦車出動」 偵察隊の構成員で、機関銃大隊所属のE.H.Ryan中尉が到着、右翼側面に位置しました。 そして、木々の膝の高さから頂点に至るまでの範囲に、機銃弾を浴びせかけました。 何故なら、枝の合間に潜んでいる狙撃兵の正確な位置を突き止めるのが、辺りの喧騒で著しく困難だったからです。 しかし、迫撃砲の猛烈な射撃を受け、機関銃手は釘付けにされたあげく、負傷してしまいました。 1400時、Rutherford少佐は、最初の戦車を戦闘に投入します。 生い茂る木々は視界を妨げ、入り組んだ木の根は戦車の行動を困難なものとしました。 戦車は周辺の木々に榴弾を浴びせかけます。 戦車の車長は、1両がEvans中尉、もう1両がBeetham軍曹でした。 Beetham軍曹の車両は、負傷して倒れているStannard伍長を救出すべく、彼の許に位置しました。 日本兵は、伍長から僅か15〜20ヤード離れていただけでしたが、正確な位置が判明しなかったので、 その辺り一帯に狙いを付けて射撃を行いました。
「援軍到着」 日本の狙撃兵は、戦車の小さなペリスコープに狙いを付けて射撃してきましたが、 その精度は高くはありませんでした。 そして、さらに2両の戦車が投入されます。 1両はHolden中尉、もう1両はJohns伍長が車長でした。 再度、日本兵の潜伏箇所に榴弾を浴びせかけ、一帯は飛び散った木片と葉で覆われました。 伍長の安全は確保され、戦車は撤収していきました。 15:30、D大隊長のBullen少佐が2個歩兵小隊と共に到着しました。 「攻撃実施」 Bullen少佐が総指揮を執り、第14小隊が右翼、第15小隊が左翼に位置しました。 いまや、日本兵の方が罠にかかってしまったのです。 手榴弾の炸裂する中、ニュージーランド兵は前進します。 小銃弾がはじけ飛び、機関銃が唸り声をあげ、迫撃砲弾が炸裂する中、 少佐は辺りの喧騒に負けぬ大声で命令を下達し、兵はその命令の一つ一つに黙々と従います。
>>5 二式砲戦車ってフィリピンで実戦投入してなかったっけ?
勘違いかな
してないよ
二式砲戦車も3式中戦車も、全部本土においてあったの
【キャンティの地 虎の地】 44年6月22日、イタリア戦線トスカーナ地方で、ニュージーランド第5旅団は、ある戦闘を経験しました。 数限りなくあった小戦闘の中の一つに過ぎず、戦史でも、普通は取り上げられるようなことはありませんが、 戦術級ゲームの「Combat Mission Afrika Korps」のシナリオに、 この戦闘を題材とした「CHIANTI COUNTRY TIGER COUNTRY」というタイトルのものが、何気無く含まれていたりします。 この日、キャンティの産地で起きた出来事は、以下のようなものでした。 44年6月下旬、既にローマを手中に収めていた連合軍は、トスカーナの地に足を踏み入れていました。 22日、ニュージーランド第5旅団が、自由フランス軍第2モロッコ師団の2個大隊を救援すべく行動を開始した時、 旅団はカステッリーナ・イン・キアンティの北西5マイルの地点に位置していました。 その一帯はキャンティの産地で、集落の建物のテラスからは、ブドウ畑に小麦畑、そしてオリーブの林も見渡せるような、のどかな場所でした。 彼らの当面の敵部隊は、ドイツ第4降下猟兵師団でした。 事前に得た情報では、敵は員数割れを起こしているとのことでした。 しかし、十分な砲兵と複数のティーガー戦車に支援されているとの、芳しからぬ情報も伝わってきていました。 旅団の装備戦車はシャーマンでしたから、ティーガー相手にまともには太刀打ち出来ません。 ニュージーランド兵達が、「ここはキャンティと虎の地……」と思ったのも、無理からぬことでした。 部隊内は、そこかしこのオリーブ林にティーガーが多数潜んでいるといった類の噂で満たされ、 いつ化け物が現れるかと、戦車兵は今まで以上に用心深くなっていました。
ニュージーランド戦車隊は、田舎道と浅瀬を用心深く進みましたが、 周囲は木々とブドウ畑に囲まれており、視界は閉ざされ、手探りの状態でした。 しかし、彼らの僚友の歩兵達には、前進時の隠蔽場所を与える格好の地勢ではありました。 まず、B中隊がSan Martino a Cozziを奪取すべく、戦車の支援無しに攻撃を開始。 小火器、野砲、迫撃砲、師団騎兵所属のスタッグハウンド装甲車の支援射撃を受けながら強襲し、 5名の捕虜を得たものの、30名の死傷者を出しました。 結局、最初の攻撃は盛大な失敗に終わりました。 この時、米軍の何両かのシャーマン戦車がSan Donato近辺にいたのですが、 ニュージーランド兵達への支援を拒絶してきました。 米戦車隊の指揮官は言いました。 「リスクを増やして、戦車を失うなと命令されたんでね。」 この米戦車隊は、A中隊がドイツ軍の反撃に直面してSambuca道に沿って後退した際、 ニュージーランド戦車隊と合流し、敵の背後に進んでいきました。 ニュージーランド部隊は高速2号線沿いにドイツ軍へ攻撃を仕掛け、 右翼側面では、南アフリカ部隊がほぼ同程度の距離にまで進出していました。 ニュージーランド戦車隊は、ゆるやかに起伏した地を、オリーブの疎林に沿ってさっさと前進しました。 疎林の外れに一軒家があり、そこに敵がいるのが見えました。 戦車隊が75mm砲を猛烈に浴びせかけると、ドイツ兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。
ニュージーランド部隊は高速2号線にまたがるPesaの谷まで、かなり前進し、 Virginioの谷へ抵抗無しに足を踏み入れました。 ドイツ軍は後方へ姿を消していきました。 しかし突然、1.5マイル北のVilla Bonazzaから、「ヒュー」という甲高い音と共に、 砲弾が路上に飛んで来ました。 ヴィラの中の小さな墓地の側に、ティーガー1両と降下猟兵が陣取っていたのです。 続けざまに2両のシャーマンが、右側面に命中弾を受け、燃え上がりました。 戦車第3小隊が戦闘に参加したとき、ティーガーは墓地を左手にして、2号高速線に頭を向けた状態でした。 ティーガーは溝を横切ろうとし、その際、修復不可能な損傷を被りました。 遂に、乗員が這い出して来ました。 これが、ニュージーランド軍シャーマンに撃破された、最初のティーガーでした。
【英国二封度砲弾異聞・其ノ一】 2ポンド砲弾に関して、一度ならず何度か目にした説に、下記のものがあります。 「2ポンド砲の榴弾には2種類あり、基本型の他に、威力の増した別のタイプが存在する。 これらは主に、オーストラリア&ニュージーランド軍によって、対日戦で使用された。」 この説には前振りがありまして、通説とは異なり、40年フランス戦の時点で、 既に榴弾の基本型は使用されていたというものです。 しかし、榴弾の威力が小さかったので、ダンケルクで装備一式を無くした英国には、 そのような物の生産に資材を割り当てる余力はなく、しばらくは徹甲弾のみの供給になったとするものです。 そして威力の増した改良型が生産配備出来たのは、北アフリカ戦も末期で、 以後の英軍では、2ポンド砲はごく僅かな装甲車が装備しただけでしたので、2ポンド砲を手広く活用している、 オーストラリア軍やニュージーランド軍で主に使用されたというのです。 この説は、17ポンド砲のケース(43年には榴弾を製造していましたが、榴弾威力が小さかったので、榴弾が使用されるようになったのは、 改良型の配備がなされるようになった、44年9月になってからでした)と似ており、なかなか、興味深い説ではあります。 しかし、真偽については、もう少し資料が出てくるまで、私は判断を保留しています。
【英国二封度砲弾異聞・其ノ二】
もう一つの興味深い説は、次のようなものです。
「M3 37mm砲のキャニスター弾は、2ポンド砲でも射撃可能となっている。英国は受領したキャニスター弾を、
全てオーストラリア&ニュージーランドへ送り込み、それらは2ポンド砲弾として対日戦で使用された。」
真偽についてですが、私はこちらも真偽判断を保留しています。
キャニスター弾自体なら、微かにその存在を窺わせるような事例はあります。
例えば
>>303 の中に出てくる、Beetham軍曹のバレンタイン戦車ですが、このとき射撃したのは、
「Besa, cannister and HE」(べサ機関銃、キャニスター弾、榴弾)と、大抵の資料では記述されています。
ただし、Beetham軍曹の車両が、2ポンド砲搭載車なのか、CS型なのかの確認が、私には取れませんでしたので、
これが、2ポンド砲キャニスター弾であり、Aの説が真実であるという根拠には出来ません。
又、たとえ、2ポンド砲搭載車だったとしても、そのキャニスター弾はM3 37mm砲用の流用ではなく、
2ポンド砲専用だった可能性が無いわけではありません(ただし、砲弾製造関係の資料から、その可能性はかなり低いと私は思います)。
では、Beetham軍曹の車両が、CS型だったなら問題はないかというと、これまた一筋縄ではいかない話となります。
英軍は、CS型の3インチ砲弾は、榴弾と煙弾の2種類しか用意しませんでした。
ですので、わざわざニュージーランド軍向けに、3インチ砲のキャニスター弾を製造供給していたことになります。
事実はどうだったのか、興味が尽かないものがあります。
【英国二封度砲弾異聞・其ノ三 】 ウィキぺディアにも記載されていますが、2ポンド砲には、 砲口に装着する「リトルジョン・アダプター」というものがあります。 徹甲弾の貫徹能力を増すためのものですが、装着時には榴弾の射撃は不可能となります。 このアダプターは、大戦後期の2ポンド砲搭載装甲車に装備されました。 では、「リトルジョン・アダプター」装備車は、榴弾を全く搭載しなかったのでしょうか? ここに一つの記録があります。 44年9月、マーケット・ガーデン作戦中のナイメーヘンにおいて、リトルジョン・アダプター装備のダイムラー装甲車が、 アダプターを外した上で、榴弾を撃ち込んでいます。 このような使用法を想定して、榴弾を積んでいたのか、アダプター非装備の僚車からでも榴弾を調達したのか、 興味深い事例ではあります。
ほほう・・・ 面白いですね。
317 :
名無し三等兵 :2010/10/05(火) 20:31:05 ID:qN35+v+P
>>276 全然知らんけど、バイアス湾上陸作戦までは荷揚げ地が広州とかだったのが原因かも。
蒋介石は広州方面の軍閥にはかなりの警戒心を持っていたから。
後の1号作戦で打通が成功したのもこれのせい。
ん〜、スターリンのレニングラードに対する心情のようなものか?
1月19日、オーストラリア第2/29大隊の背後から迫った大柿大隊は、 退路を確保しようとする豪州兵の必死の逆襲を7回受け、大柿少佐以下、死傷者6割以上の損害を被ります。 その頃、豪州第8師団と共に戦線を構築していた、インド第45旅団の旅団司令部に、日本機の爆弾が直撃しました。 旅団長は圧死、幕僚以下も殆ど死傷し、暗号書も吹き飛びました。 その為、豪州第8師団司令部との連絡が中断、それに伴って豪州軍の指揮も混乱し始めました。 21日、オーストラリア第2/29大隊は将校9名、兵190名に減少し、Maher大尉の指揮の下、撤退を開始します。 しかし、路上は切り倒した大木で塞がれていました。 既に退路は、国司追撃隊の先遣隊により遮断されていたのです。 "ある日 陽気な放浪者が 沼の畔で 野宿した ユーカリの 木陰の下で……" Maher大尉と第2/29大隊の生き残りは、「ウォルシング・マチルダ」を歌いながら、歩を進めました。 もう二度と眺められないかもしれぬ故郷の空に思いを馳せ、声張り上げて歌いつつ、 小銃、銃剣、果ては斧まで振るって、国司隊の哨線へと突撃していきました。 "……放浪者は 飛び上がり 沼に 身投げした 「お前らなんかに 生きて むざむざ 捕まったりしねぇよ」 彼は言った あの沼の畔を 通ると 彼の幽霊が 出るかもしれない……"
>>277 輸送中の塩害が、クルセーダー等の稼動率低下の隠れた原因だと、追求されてだいぶ経った頃でしたし、
今回は特に1両だけの特別オーダーの品ですから、リスクを出来るだけ避けたかったのでしょう。
>>276 色々と調べてみたのですが、受け取らなかった理由は、申し訳ないですが分かりませんでした。
ただ、中国側の態度は、かなり頑ななものではあったようです。
>>319 なるほど。気付きませんでしたが、なかなか興味深い見方ですね。
>>323 すみません。
>>320 の「D撃破後、砲や機関銃の撤去されたハ号」の三枚の写真ですが、
42年8月の、ラビの戦いで撃破された、呉5特のハ号でした。
参照元も間違えて、バクリ戦時として掲載してしまったようです。
確認せずにそのまま転載してしまって、申し訳ありませんでした。
2両で写ってる写真の左側のハ号に、既視感を感じまして、調べなおしてみましたら、
↓と同じものでした。
ttp://cas.awm.gov.au/item/026631 訂正させていただきます。
M5軽戦車は自動変速機みたいですが、自動車のATと同じようなもの?他の国で自動変速機って使用された?
>>326 そう、ほとんど同じもの。GMは1940年にはATをオプションでラインナップしていた。
M5やM24で使われたトランスミッションも、民生用の設計そのままだったそうな。
ただし、トルコンではなくフルードカップリングを使ったもの。
操作は現代のATと全く同じで、すでにキックダウンも可能だった。
戦車のAT化にはドイツも取り組んでいた。
1944年、IV号G型をベースに「流体変速機」を積んだ実験車輌を作っている。
ゆくゆくはEシーズに使うつもりだったようだ。
ただ、これはどんな機構だったのか知らない。乞う識者。
フルードカップリングもトルコンも、実はドイツの発明。
どちらもまずは船舶用として実用化された。
wikiには、M24はエンジンはM5と同じだが、ミッションはマニュアルって書いてあるが、どちらが正?
>>328 三菱で自衛隊戦車の整備や開発にあたっていた
林磐男氏の著書「戦後日本の戦車開発史」によれば、
M24はハイドラマチック自動変速機とあり、
分解写真も載っている。
当時の日本の技術ではM3をコピー生産出来なかったのかな? 戦後の日本ではM24やM41をコピーやライセンス生産せずに国産開発して、 61式戦車を配備したし。
無理だろうね。 技術的洗練度とか発想が優れているというより、 基礎的工業力格差から生じるバネやエンジンの質で性能差が出てる。
>>330 上で出した「戦後日本の戦車開発史」の内容のうち約3分の1は、
国産品とアメリカ製品の格差に対する著者の驚きや嘆きで占められている。
それは機械としての完成度はもちろん、整備や補給への考え方の違いにまで及んでいる。
エッセイ的な小著だけど、ぜひ読んでみる事をオススメしたいです。
>>330 61式戦車はM36の発展型みたいなもん。
あえてM24/41を参考してるとするなら74式かもな。
>>327 そして現代のアウディはデュアルクラッチトランスミッションを実用化した。
ホンダがVFR1200で導入したけど、広まっていくのかねえ。
>>331 いや、洗練度も段違いだったみたいだぞ。
曽根正儀氏の歴史群像インタビュー…手持ちがないがいまぐぐったら40号か。
4式戦車で長砲身シャーマンになんとか追いついたと思ってたら、いざA3E8の現物見たらとんでもない、
日本人技術者が設計すれば部品五個使わないと繋げない繋ぎ目を、
繋ぎの部品の形を巧みに工夫して3個で繋いでる、
そしてその伝が車中に徹底していて驚くほどの部品削減に成功してる、
機械設計の基本スキルが全然足りなかったよ日本人…てな事書いてたのが印象的だった。
>>332 米軍戦車の整備にあたって、三菱の工場の床に長年溜まった、
油混じりの汚泥の除去にどんだけかかるって聞かれて、
早くて三ヶ月って答えたら、向こうが呆れかえってもういい俺らで全部やるてんで、
クレーン車で機械釣り上げ外に出し、消防車でアルカリ溶剤ぶん撒いて、
汚泥が柔らかくなったところでブル入れてあっという間に片付けて、
ついでに長年雑然と溜まっていた機械を、使いやすいように全部並べ直して颯爽と帰っていった…
ってのはそっちだったか。勝てるわけねえよって。
>>335 日本は職人が手作業で機械を作り、アメ公は機械が機械を作って人間はその
前後の段取りをつけるって、そういう話か。
そういや俺が勤める会社(製造業)でも、長年使われてない生産機械が倉庫で
ホコリかぶってて、本来の倉庫業務の邪魔になってるな。機械の持ち主である製造課では
「資産だから」とか「せっかくつくったんだから」とか「何かに使うかもしれないから」とか
そんな返事ばっかで話しにならねーorz
>>333 61式戦車が揃うまでの繋ぎとしてM36を導入すれば良かったのにな。
初めてM24を見た時74式戦車に似ていると思ったけど、
74式戦車がM24に似ていると言うべきなんだろうな。
そうか? むしろ俺はT-44〜T-55あたりのソ連戦車に似てると思ったが
一方61式戦車はM41やM47、M48に似ていた。
>>337 M36は生産数が少ない上、第二次大戦、朝鮮戦争で酷使したんで余剰がね・・・。
M47貰おうとしたら、そっちも余剰がなかったので61式作ったのさ。
>>341 M36は韓国が大量に受領してる。即戦力がいるんでね。
>>343-345 感謝です。
>手引書、無線器、予備パーツ、一部制御装置を欠いたまま到着しました。
これは酷い話ですね。
>>344 乙
米軍とニュージーランド軍の主張と妥協点の関係がよくわからん…。
米軍は乗員のスペースに砲牽引車を積みたかったのか?
しかし「こんなものは誰にでも操縦できる」っていかにもアメリカが言いそうな感じで笑ってしまった。
>>347 既に、1月29日から米軍は上陸していましたし、ニュージーランド兵が気負う程には、
現地の状況は切迫していませんでした。
米軍にすれば、高射砲をすぐに設置出来るかどうかの方が重要で、
上陸早々、バレンタインに戦闘態勢を取らせなくてもよいとの認識だったと思われます。
ですから戦車兵を載せるスペースはあったのでしょうが、
「乗員は親部隊と一緒の輸送船に乗せて、それから揚陸済みの戦車を受領させればいい。」
と戦車兵に気を利かせたつもりで、米側は揚陸計画を立てたのでしょう。
しかし戦車兵の抗議が猛烈だったため、腹を立ててしまって、
「貴様らの乗るスペースなんてないんだ!牽引車も載せないといかんしな!!」というやりとりになったのかと思います。
「牽引車のスペース云々」を口実にした以上、米側は面子のためにも、戦車兵をLSTに乗せるなら、
牽引車は載せるわけにはいかなかったのかと思われます。
ですから、バレンタインが牽引車代わりになったのでしょう。
まことに子供の喧嘩のようであります。
……というのが、当時の状況と妥協案の内容から、私の頭に浮かんだ妄想です。
米側が、何故、戦車と乗員を個別に輸送しようとしたのか、
何故、バレンタインに高射砲を牽引させることが妥協案なのか、
その辺は資料に記述されていませんので、事情は謎であります。
笑っちゃいかんがヒドい話だ。段取りを乱されてイラッとしたのかね。 揚陸艦や輸送船の船倉に車輌を積み込むときは、積み下ろしがスムーズで、 しかもスペースを無駄にしない場所取りを考えなければならない。これは難しい。 オルモック輸送作戦の日本軍だっけ…荷物の積み方がマズくて、降ろすのに 手こずっている間に攻撃されて大損害を受けたケースもある。 積み込みには船員の命がかかっている。 忙しい中フネを割いてやって、しかも時間をかけて作った計画を一蹴するって お前ら何様だっ!っとかキレちゃったのかもね。 気持ちは分からんでもないが、命を張るのはニュージーランド兵も同じ。 仕事とはいえツラいね。
351 :
名無し三等兵 :2010/10/09(土) 11:59:14 ID:y6atSwCz
【メープル・スチュアート】 カナダは1941年に、最初のスチュアートを受領しました。 その後、スチュアートは続々と到着し、 戦後の46年9月20日に至っても、90両のM5A1を831USドルで米国から購入しています。 戦後購入車は、さすがに訓練車での使用が名目だったとはいえ、 彼らにとってお気に入りの車両ではあったのでしょう。 定番のオスプレイ・ミリタリー・シリーズ「M3&M5スチュアート軽戦車」では、 北西ヨーロッパに展開したカナダ第1軍が、大戦末期に保有した259両のスチュアートYのうち、 42パーセントに当る109両が、砲塔を外されて弾薬運搬車に改造されたとなっています。 カナダ軍のスチュアートに関しては、同書での記述はこれだけですので、 ひとまず、大戦末期のカナダ第5機甲師団隷下、第5機甲旅団の編成を見てましょう。
@カナダ第5機甲旅団本部中隊:計9両 M4A4 ×5 M5A1(偵察車)×1 バレンタイン ×3 A第2機甲連隊『ロード・ストラスコナズ・ホース(王立カナダ)』:計23両 M4A4 ×3 M4A4(装甲回収車)×2 M5A1(偵察隊) ×11 M5A1(弾薬運搬車)×7 B第5機甲連隊『第8カナダ軽騎兵(ルイーズ王女)』:計80両 M4A4 ×65 M4(105o砲搭載) ×2 M4A4(装甲回収車)×2 M5A1(偵察隊) ×11 C第9機甲連隊『ブリティッシュコロンビア竜騎兵』:計90両 M4A4 ×70 M4A4(装甲回収車)×2 M5A1(偵察隊) ×11 M5A1(弾薬運搬車) ×7 ※44年10月から旅団には、ファイアフライが配備されています。 規定上の配備数は、当初は1個小隊当り1両、45年3月以降は1個小隊当り2両となっています。 上のリストでは、ファイアフライもM4A4として記載されており、143両中何両がファイアフライかは判別出来ません。
カナダ第5機甲師団は、1939年に創設されました。 そして41年11月末に英国へ移駐します。 2年間の英国駐留後、43年11月に地中海戦域へ投入され、カナダ第1軍団に合流しました。 その際、カナダ第5機甲師団は戦車や車両を手放した上で移動し、 イタリア到着後、英第7機甲師団の装備だった機材を引き渡されます。 それらは大変よく使い込まれており、車両の大半はボロボロで、 北アフリカ戦時に英師団に支給されたとおぼしき物か、 イタリアでは役に立ちそうもない二輪駆動車かのどちらかでした。 結局、師団がシャーマン戦車を始めとする新品の車両で完全装備されるまでには、数ヶ月の時が費やされました。 そのためもあって、敵であるドイツ軍にも、師団は英軍の使い古しを装備している部隊であると、 後々まで認識されるようになってしまいます。 師団は44年末までイタリアに駐留し、ヒトラーライン、カッシーノ、ゴシックラインの各戦闘に参加します。 そして45年1月、リヴォルノとマルセイユを経由して、陸路と海路でベルギーへ移動します。 その地でカナダ第1軍に合流。ライン渡河作戦に参加し、終戦を迎えます。
カナダ第5機甲師団隷下の第5機甲旅団は、
長らく、砲塔を外したM3A3軽戦車をスチュアート・レッキとして使用していました。
それらがM5A1へ置き換えられたのは、45年3月になってからのことです。
ちなみにM5A1は砲塔はそのままに、偵察車として使用されています。
同様に弾薬運搬車がM5A1にリプレイスされたのも、45年3月になってからのことでした。
こちらは当然ながら、砲塔が外されています。
上で挙げた旅団編成表は、大戦末期のものというだけで時期は分からないのですが、
M5A1が装備に含まれていますから、45年3月以降であることは確かです。
旅団本部中隊のシャーマン5両のうち、3両は砲兵観測車で、
操縦席の脇に無線器が増設されていました。
又、第2機甲連隊『ロード・ストラスコナズ・ホース(王立カナダ)』の指揮戦車(シャ−マン)は、
無線通話セット1つを余分に持ち、机と2つの回転椅子を備え、砲は木製のダミーでした。
名称はそのものずばり、連隊名の『ストラスコナ』号で、
保安上、好ましくないとの議論が何度かなされてはいたようですが、改名されませんでした。
そのせいでもないでしょうが、44年5月24日のメルファ川の戦いで、
88mm砲弾が1発至近弾となっています。
このとき連隊は17両の戦車を失いますが、パンターを含む5両の戦車、8両のナースホルン、対戦車砲等を撃破して、
第90装甲擲弾兵師団を撤退させることに成功しています。
カナダ・ボーデンにて展示中のM5A1。
ttp://www.flickr.com/photos/33730662@N03/3843080028
>>350 こうして見るとやはり内部からの視界は最悪だな。
真横に歩兵が居る状態で曲がろうとしても、気づかずに巻き込みそうだ。
>>353 >90両のM5A1を831USドル
これは「お買い得」だったのでしょうね。
こういう価格が知れるのは嬉しい。
90両でいまの50万ドル(金基準で換算)ぐらい?まあ、安いっちゃ安いわな。
イギリスで唯一まともな、巡航戦車である「コメット」がビルマに来てたとあるのを見たが、本当?
>>360 大戦中にコメットがビルマに来ていたというのは、寡聞にして知りません。
戦後、ビルマ陸軍が22両採用していますので、そのことではないでしょうか?
大戦中のコメットは末期の北西ヨーロッパ戦線の他に、
やはり戦争終結前に、第4王立戦車連隊がパレスチナの地へ持ち込んでいます。
これはその後、同地で激化したアラブ人とユダヤ人の抗争の際、
ユダヤ人装甲トラックに対する小戦闘に参加し、
1両はRafahで非武装アラブ人トラックを破壊した後、鹵獲されています。
又、戦車連隊の兵舎の側の警察署が、装甲トラックによる迫撃砲の攻撃を受けた際、
2両のコメットも標的にされましたが、返り討ちにしています。
ユダヤ人地下組織は、コメットを操縦出来るいかなる英兵にでも、
任意の通貨で250,000ポンド支払うことを条件に引き抜きを図りましたが、
志願者は誰もいませんでした。
コメットはフィンランド軍も使ってますね。 1960年にスイス経由でトン当たりいくらの「クズ鉄」として、40両導入。 戦後も貧乏だなあ・・・
コメットさんはお星様の世界に帰ったのだ・・・
【戦車になれなかったよ】
大戦中、オーストラリアはキャリア類を大量に生産しました。
@LP1 キャリア :158
ALP2/2A キャリア :5000
B2ポンド対戦車砲キャリア :200
C3インチ迫撃砲キャリア :400
D1tGS無限軌道車:13(or11)
E起動・充電キャリア:50
1942年秋、ニューギニア・ブナでの連合軍の攻勢は、
日本軍の激しい抵抗により、なかなか進捗しませんでした。
11月23日、ミルン湾の豪州軍・Clowes将軍は、
少数のブレンガン・キャリアを、米兵への直接支援のため投入するよう命じます。
米兵としては、オープントップのキャリアが狙撃兵の銃火や砲弾の破片に無防備で、
側面攻撃にも脆弱であるというのは明らかでしたが、
ともかく、キャリアは歩兵支援の役を強制されることになります。
12月5日、エンダイアディア岬での掃討戦にキャリアは投入されましたが、
乗員は日本軍に手荒く迎えられたあげく、5両を放棄する羽目となりました。
米歩兵もそれ以上進撃することは出来ず、作戦は中止となります。
この結果は、連合軍にスチュアートの早期戦線投入を決意させることになりました。
豪州キャリア・マニュアル
ttp://www.imagecontrol.com.au/oldcmp/carriermanual.htm
えらい沢山作ってますね。 安いからかな。
367 :
名無し三等兵 :2010/10/11(月) 00:36:28 ID:SDz5JGUn
昔は日本にチャーフィーくらいのがあればと思ってたけど、あれの足回りって当時の日本から見たらオーパーツレベルなんだよね? それとハゴたんとスチュアートさんの走行試験の映像見たけど、ブッチギリで引き離されててワロタ
61式だってミッションはチャーフィーより古いだろ
>>367 戦前、結局トーションバーの技術は我が国ではモノにならなかった
からね。
チャーフィーの足周りは当時の日本では完全なオーパーツ。
戦後戦車の開発史だったかで 同じようなこと言ってる人いたな
何せ+のネジが無かった国ですから。
>>370 「戦後日本の戦車開発史」だな
・・・この本で、著者がM24を評して「私が開発に関与したほぼ同クラスの車両の運転感覚は、これを超えることができなかった」とか言ってるんだが、
これはM24がこの人が最初に乗った戦車で印象が強かったからだと思いたい
本当にそうなら・・・(´・ω・`)ショボーン
そもそも日本で「ほぼ同クラス」の車両ってあるのかと。
18t前後のAFVは無いが、この場合は10t台のAFVという意味じゃないだろうか
まともな戦艦は作れるのにまともな戦車は作れない国、 日本はイギリスに似ているけど、 日本の戦車はイギリス未満だったけどな。
あんまり知られてないけどWWII当時は経済力もAFV生産数もイギリス>ドイツだった 当然日本はそのはるか下
【縁の下のカヴェナンター】
大戦中、オーストラリアはカヴェナンター架橋戦車を8両保有していました。
カヴェナンター自体は周知の通り、欠陥の多さ故「英本土防衛専用」になってしまいました。
試験用の少数の車両を除いては、海外へ展開しませんでしたので、
架橋タイプとはいえ、豪州軍装備車のみが実戦参加したことになります。
全ての豪州軍カヴェナンター架橋戦車は、第4機甲旅団所属の、
特殊装備車両で構成されている、2個の機甲中隊に配属されていました。
そして1945年、カヴェナンターはブーゲンビル島に姿を現します。
6月2日、Han川の浅瀬近くのBum道で最初の行動を開始しました。
その後、バリクパパン戦にも参加します。
豪州軍は歩兵支援の為、バリクパパンに各種装甲車両33両を揚陸しました。
7月5日、カヴェナンター架橋戦車と他車両は、
Manggar飛行場奪取を図る小規模な水陸両用作戦に、歩兵を支援すべく参加します。
しかし、飛行場に接近した偵察隊は、カヴェナンターが近辺の川に架橋するのは、
不可能であることに気付きました。
バリクパパンでの最終的な行動の一つは、Pope's道とMilford高速道の交差点近くに開いていた、
巨大な破孔への架橋でした。
この作業は6分で終了し、同行していたマチルダ戦車隊(マチルダ・フロッグ火炎放射戦車2両を含む)は、
歩兵支援の為に前進することが出来ました。
そして7月24日、同地での全ての追撃作戦は終了しています。
※ビルマでも豪州軍のカヴェナンターが使用されたとの記述を目にしますが、
まだ、はっきりとしたソースが分かりません。
この件につきましては、判断を保留しています。
45年5〜7月、ブーゲンビルでのカヴェナンター架橋戦車。
ttp://cas.awm.gov.au/item/091664 ttp://cas.awm.gov.au/item/094220 ttp://cas.awm.gov.au/item/094222
陸軍の機械化が一番進んでたのがアメリカ、その次がイギリスと言う記事を見たことがある。
>>378 グデリアンの思いを或る意味実現したのが装甲教導師団と言う
人が居るんだが、アメリカの歩兵師団は大体装甲教導師団と
同レベルの機械化がされてるからなぁ。
>>372 ただ道を曲がるだけでも苦労が全然違うからなあ。
曲がるたびにクラッチ切ってブレーキでガコガコやるのと違って遊星歯車切り替えで
車運転するようにスムーズに曲がるんだもん。
戦車と言う以前に自動車としてのレベルが違いすぎるわな
歴群アーカイブで雑多なエンジンを積んでたアメリカよりも統制エンジンにこだわってた日本の方が評価されてて萎えた。
383 :
名無し三等兵 :2010/10/11(月) 15:10:22 ID:GZMHkUwr
wikiにチャーフィーの変速機が油圧手動ってなってたけど、アレ間違いだよな……
>>378 アメリカの機甲師団は当時他の国ができなかった歩戦砲の完全機械化を達成してるからなあ。
「乗りたかったのはこれじゃなーい!!」車両を受領した乗員から発せられる悲痛の叫び。 楽しいはずの補給処が突如、修羅場に。こんな経験ありますか?できれば避けたいものです。 しかし人生、欲しい物が何のリスクもなしに手に入るなんて話はそうはありません。欲しい物を手に入れる為には努力も必要だという事を何らかの機会に知っておくのも良いでしょう。 「コレジャナイシャーマン(M4A5ラム巡航戦車)」はその絶妙な偽物感、カッコ悪さにより、その事を指揮下将兵にトラウマ級の効果をもってお伝えする事でしょう。 情操教育戦車として是非お試しください。
日本の場合戦車、自走砲と機械化歩兵の諸兵連合の実現どころか、 トラック移動できるってだけで機動歩兵呼ばわりで エリート兵だからなあ。それも少数 近代戦やる気あるのか
昔、父親の職場にノモンハン事件経験者の方がいた。 当時は珍しかった自動車免許を持ってたので、後方でトラックを転がしてた。 特種技能者扱いで待遇は良かったそうな。 が、運んだものが・・・戦死体・・・ どえらい数を毎日運んだんだって。
>>390 「静かなノモンハン」だったかに「戦場にはトラックで運ばれるものだと思っていたが歩かされた」みたいな話があったなw
>>384 M5で好評だったキャデラックエンジン2基とハイドラマチックオートマの組み合わせをM24でも使ってるね。
シフトレバーもギアチェンジには関係なくドライブ、エンブレ用ローレンジ、ニュートラルの切り替えになってる。
アクセルペダルと別にニュートラルペダルもあるからぱっと見手動変速に見えなくもない。
しかし隣のアシスタントドライバー席でも操縦できるように同じ操縦ユニットつけるとかアメさんの戦車は贅沢だわ
ドイツも輸送部隊は、馬とか家畜をフルに使っている。そのおかげでファレーズ包囲戦では、タイフーンのパイロットまでに家畜の死臭が漂って来た。
日本とドイツは、燃料が不足気味だからしょうがないのかな。タイガーがいくら強くても、動かす燃料が無ければただの鉄の塊
燃料の無いタイガーは強固なトーチカに成りうるが(ry
だってチハとチニを作る時に何処の部署か忘れたけど 「中国での運用や鉄道輸送を考えると10t〜13tにしてね。500kgでも軽ければ軽いほどいいよ」 って要求が来るくらいだもの・・・
チハもハ号も速度っていうか馬力要求削れたら良かったんだけどねぇ 本当に額面どおりの馬力出てたかどうかは怪しいけども… 機関部でかい→ドンガラ長くなる→全てに重量増→更に大出力ほしくなる なんて悪循環だ
>>397 チハは元仕様では200馬力だったんだが
出来上がったら170馬力になってたのでお察しください。
そして統制型にした一式戦車は排気量同じなのに240馬力
単純に当時の三菱のエンジン技術が以下略だっただけ。
>>398 それは単に「作ってみたらダメでした☆彡 テヘッ」なだけで
当初の要求が大馬力・高速だったこととはあんま関係ないことよ
要求を130ps、最大25〜30km/h程度、自重制限ナシで済ませとけばもうちょい小型で重装甲にできたかもしれないってだけの話
まあ、実際のとこその要求下でも軽量化最優先でチニみたいな戦車になっちまう可能性のほうが高いけどさ…
ちなみに チハの定格150馬力のときの最大速度30.8km/h (以下全て公称、馬力は恐らくグロス値、出典は「陸戦兵器要目表」館山海軍砲術学校研究部) ハ号が同110馬力で31.7km/h テケ車48馬力で35km/h TK 32馬力で36km/h 八九甲105馬力で20km/h 八九乙102馬力で20km/h 鹵獲M3が日本軍最強と言われる理由がなんかこの辺にもありそう
>>399 そのちんけなバレンタイン戦車を見て、いったい誰が喜ぶんだ。
チハの問題は障子紙以下の装甲じゃなくて、ほとんど役にたたない火力だろう。
そこをなんとかできる可能性が少しでも大きくなるだけ、車体は大きいほうが望ましかった。
エンジンが大きすぎることで車体がウナギになっても大口径砲は積めないよ。 まあイギリス戦車も似たような側面はあるが。
中国相手なら57ミリ榴弾砲は十分以上に活躍できるんだから それでいいんだよ。アメリカ相手にチハたん使ったのが問題なだけで
>>401 チハの原案策定時に、重装甲欲しい、重くなるというのなら
馬力落として速度下げても良いって主張を、戦車学校がしてる。
また対戦車威力の無い主砲も当初から問題視されてて
だから47mm戦車砲の開発が急がれたわけ。
またチハはチニとの競作で、参謀本部は廉価なチニを選ぶつもりだった。
言い換えればチハは全般的に強力な戦車で
それでいてチニが比較対象に出来る程度に駄目な戦車で無いといけないのよ。
>>401 車体の大きさを云々してるわけじゃないよ
問題は機関部の大きさによってもたらされる「長さ」
これは車内容積の増大には全く反映されない、っていうかむしろ悪化させる可能性もある
あと、チハの備砲は当時の戦況と使用目的からしてあれ以上「使える戦車砲」はなかった
軽便でつるべ撃ちに撃て、完全肩付けで操作が容易、行進射が可能、榴弾の威力半径は広い、といいことずくめ
主敵に装甲目標自体がロクになく、仮想敵第一位のソビエトの戦車の実力は未知数だったんだから仕方ない
ま、実際にノモンハンでも速射砲でロスケの戦車部隊大損害なわけで
歩兵連隊にもっと速射砲と、できたら野砲を!九二式歩兵砲イラネ、という戦訓を反映した意見がアジ歴でも読める
戦車には対戦車砲、堅固な目標には師団砲兵又は連隊砲、戦車は敵暴露陣地と追撃戦ってのが日本軍の当時のお考えだったわけ
制定当初チハに強力な砲を装備させようという案も出たらしいけど途中で消えている
恐らくこれは九五式重戦車の7cm戦車砲のことだと思うんだが
仮に信管の致命的な欠陥が根治されてチハに搭載されてても大勢に影響は無かっただろうね
せいぜい大戦末期に作られたタ弾の威力が史実より大きくなる程度だろう
問題は、そういう時代遅れの戦車の初陣が1939年7月で、生産のピークが1943年ってところだろう…
まぁ脱線なのでおいらはここまで
406 :
名無し三等兵 :2010/10/12(火) 20:26:20 ID:xdZBK814
鹵獲したM3の機銃配置を陸軍は酷評してるけど、もはや負け惜しみにしか聞こえないw
三菱の直糞エンジンて性能的にはどうなの?大きさの割りには良作?駄作?
左右のスポンソンのことかな? あれは確かに無駄すぎる。 誰があんなもん撃つんだという話も含めて。 でも英軍はあのスポンソンからさっさと機銃外しちゃってたような。 ビルマではまだ付けたままだったのかねぇ。
>>407 3年後に出現した統制ディーゼルはほぼ同じ大きさ・重さ・同じ気筒数と排気量で出力1.5倍。
ちなみに統制型は別に高性能を狙ったわけじゃなくて、逆に性能に目を瞑って統一規格にした物。
だからまあ、糞って言えば糞。
機関が嵩張って余裕の無い設計になってた。
そのため既存車輌は僅かに大きな統制型への載せ換えもできず。
逆に言うとエンジン載せ換えて細部の再設計しなおした型が一式とも言う。
(この辺M3とM3A3やM5の関係に似てるな)
米帝「ヒャッハー!土人相手にはテッポの数で勝負だぜw」 って雰囲気だな。 ちなみに日本式の懸架装置ってどこの発明だっけ?三菱?
>>409 どうもありがとう。ちなみに直糞は変換ミスwまあ、でも統制型にする事によって、その後の日本車輌の生産がやり易くなるしメリットは大きくなるだろうね。
実際にはその前に敗戦してしまったけど。
参考までに、M3軽戦車のエンジンが262馬力、バレンタイン歩兵戦車が135馬力、T70軽戦車が70*2馬力、BT-7快速戦車が450馬力、M5軽戦車が296馬力。
バレンタインとかイタリアの戦車って意外と馬力低いのよね。 ブリはともかくイタリアは魚雷艇とか航空機でエンジンが強そうなイメージだけど……
414 :
名無し三等兵 :2010/10/12(火) 23:10:38 ID:E71FFwo/
いやイタリアの航空機エンジンはドイツのラ国だから。国産品は日本以下
シュナイダートロフィーを経ているのに、イタリアの発動機たちの低馬力は どうしたものか・・・
【密林の女王】
豪州の大戦中のマチルダの保有数は以下のとおりでした。
2ポンド砲搭載型:409
CS型:93
フロッグ火炎放射戦車:20
ドーザー型:18
ヘッジホッグ:7
ブナ・サナナンダ戦区での第2/6機甲連隊によるスチュアート運用時の戦訓は、
豪州軍に、より重装甲の戦車の投入を決意させます。
1943年8月、第4機甲旅団指揮下の第1戦車大隊は、初めてマチルダをニューギニアへ持ち込みました。
大隊はラエ、フォン半島、フィンシュハーフェン近辺で豪州第9師団を支援すべく、
主に日本軍第20師団を相手に死闘を繰り広げます。
とにかく撃たれ強いマチルダですが、この地での一例は、
Sattleberg近郊のPabu丘の戦闘時のものでした。
このとき、歩兵支援に当っていた1両のマチルダが、
日本軍の37mm速射砲と50m内の近距離で遭遇して、行動不能となりました。
その後、75mm砲、対戦車地雷、手榴弾の攻撃を受け、50以上の命中弾を受けますが、
乗員はそのまま弾薬が尽きるまで戦闘を行います。
彼らは上手く脱出し、翌日そこに戻りました。
車両は修復され、一日後の作戦で戦線復帰します。
43年12月21日、ニューギニア。マチルダへの日本軍兵器の効果(大円:破甲爆雷、小円:37mm速射砲弾)。
ttp://cas.awm.gov.au/item/062143 44年3月18日、ニューギニア。2ポンド砲を射撃中のマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/071534 44年4月6日、ニューギニア。テストの為、損傷したマチルダの前面装甲へ鹵獲連隊砲を撃ち込む豪州兵。
ttp://cas.awm.gov.au/item/072120 44年4月8日、ニューギニア。豪州軍テストにおける四一式山砲のタ弾の効果。射距離150ヤード、マチルダの前面装甲を非貫通。
ttp://cas.awm.gov.au/item/072169
ブーゲンビル島にも第4機甲旅団のマチルダが投入され、
1944年12月、第2/4機甲連隊のB中隊が上陸します。
同連隊は親部隊が第2機甲旅団だったころには、スチュアートとグラントを装備していましたが、
43年10月に第4機甲旅団傘下となったさいに、マチルダへ装備を改変しました。
B中隊は45年3月末、優勢な兵力の日本軍に包囲されていた第25大隊のいるSlater's Knollへ急行しました。
戦車の到着により流れは豪州軍側に傾き、大隊は救われました。
5月には連隊本部とA中隊が新たに島へ到着します。
この時、カヴェナンター架橋戦車も投入され、Tomoi川に橋を渡しました。
重量のあるマチルダは、哨戒用途で密林内の地均しされた小道で使用されましたが、
散った木の葉の下に埋設された地雷によって、損傷を被ることもありました。
又ある時、先導車が前方350ヤードの距離から150o砲を射ち込まれ、操縦士が戦死、
さらに2発以上の命中弾を受けて撃破されました。
日本軍は分厚い装甲を持つマチルダへの対策を、即急に練り始めます。
7月、ボニス半島の第23旅団を支援する為、島の北部にもマチルダが送られます。
7月23日、第23旅団/第8大隊がCommo峠を攻撃しました。
米第1海兵航空団とニュージーランド空軍のコルセアによる爆撃の後、
大隊はマチルダ2両と共に前進します。
戦隊が日本軍陣地へ迫ったとき、1両のマチルダがスタックし、
もう1両も沼地の柔らかな地盤で足止めされました。
しかしながら歩兵への支援射撃は可能で、大隊は尾根を20分で奪取しています。
8月2日、第27大隊の2個中隊による、Ruri湾道に沿っての強行偵察を先導していた1両のマチルダが、
500ポンド航空用爆弾を用いた地雷を踏んで撃破されました。
3名の乗員が戦死し、歩兵8名が負傷します。
豪州第2軍団長・Savige中将は、以後の密林哨戒でのマチルダの使用を禁止し、
十分に位置の判明している日本軍陣地への強襲時のみに、用いるよう命じます。
45年7月11日、ブーゲンビル。150o砲に撃破されたマチルダの検分。
ttp://cas.awm.gov.au/item/093900
以下は、藤本威宏著「ブーゲンビル戦記」内の対戦車戦の箇所を簡単に纏めたものです。
『ある日、いままで聞いたことのない轟音が陣地近くに迫った。
戦車2両が突入してきたのである。
手製の地雷の綱を引くが、地雷は全く効果がない。
ついに陣地を突破して後方へ出てしまったが、しばらくして反転し、密林の中に姿を消した。
歩兵を伴わず強行偵察だったらしい。
狼狽した司令部は60`航空爆弾を地雷に改造出来ないか検討することにし、
○○工作少尉が呼ばれ、3日で作れということになった。
3日目、遂に○○工作少尉は踏込み式の地雷を作り上げた。
8名が選ばれ、夜の内に60`爆弾の地雷を戦車の通り道に仕掛けてきた。
翌日は朝からの猛烈な砲爆撃で、地雷の成果は確認出来なかった。
しかし、草原に戦車が出てきてないことは確認された。
数日後、斥候が中型戦車が擱坐しているのを発見した。
キャタピラはちぎれ飛び、車体はねじれて扉はあかない。
中に4名が戦死していたが、収容の方法もないまま放置されていた。
戦車の後に一小隊ぐらいがついてたのだろうか、吹き飛んだ葉や散り敷いた葉に、
血がどす黒くこびりついている。小隊は全滅であろう。
このあと、戦車は強行偵察をあきらめ、草原に出てくるようなことはなかった。』
おそらくこれが、豪州側の記録にある、8月2日に爆弾改造の地雷で撃破されたというマチルダのことなのでしょう。
そしてSavige中将の命令通り、これ以降、マチルダによる強行偵察は行われなくなったようです。
45年5月23日、ブーゲンビル。MCKINNA橋を渡るマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/092566
乙 日本軍相手にマチルダをまさに虎のような運用してやがるなあ 地雷は500ポンドじゃなく25番のことかな?
マチルダさんのサスペンションは日本式だそうで…… でもカバー外した写真見たことないから本当かどうか知らないけどね(´・ω・`)
>>419 おっしゃるとおり、25番でしょう。
日本側の6番使用という主張と異なりますが、時期と地区を考慮すると撃破されたのは同一車両だと思われます。
さすがゴ マチルダだ、なんともないぜ。
150ミリの直射するか、地雷でしか止められない… アジア太平洋じゃ圧倒的だなマチルダ
>>414 日本はライセンス生産すら碌に出来なかったけどな。
そういえば比島決戦って記録映画に重砲の直接射撃のシーンがあった。 標的は良く見えなかったけど恐らく鹵獲M3だった気がする。流石に履帯がちぎれて若干宙に浮いてた。
>>426 スプリングにカバーつけたら四式っぽい雰囲気になりそう
>>426 戦間期のポーランド戦車や装甲車の塗装もなぜか日本式と呼ばれてる時期もあったな。
>>426 Mk.Cはリーフ式サスペンションじゃなかった?
正確なところはわかっていない。A6で各種の試験をやった後だからなあ。
>>421 25番だと人力では輸送不能じゃないかな。
たぶん藤本さんの言う6番使用で正しいと思う。
6番でも、痩せた兵隊4人がかりで必死で運んだそうだが。
日本軍には貨車もなけりゃ装軌車両も全然ないとか思ってそうだな、こいつ
>>416 日本の対戦車兵器では効かないみたいですね。
434 :
名無し三等兵 :2010/10/13(水) 16:40:27 ID:UPVLl2q/
チハたんはエンジンの始動も大変だったようだね。アメちゃんのはキー回して一発なのかな?
M5はオートマだから、押し掛けは出来ないと思う。
焚き火で予熱しないと動かない満洲のチハたんカワイソス(´・ω・`)
>>436 いや、それはT-34だって同じだし。
チハタソの方が(ry
>>435 やはりセミオートかつ自動遠心クラッチなのに押しがけが可能というスーパーカブは偉いんだな(違
米国、英国、ドイツ、ソ連の戦車の稼働率はどうなんだろう?日本は10台のうち6台は駄目とかあったのかな。
米>>英>>独>ソ(レンドリース後)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>日
>>400 チハタンはガバナーで制限したせいで最高時速38km/hだけど
そうでなければ44km/h出せるんだぜって原閣下か栄森伝治氏か竹内昭氏の
内の誰かが書いてたわ
442 :
名無し募集中。。。 :2010/10/13(水) 21:46:52 ID:QEZM5YPN
>>432 夜間の隠密敷設作業に貨車や装軌車両が使えるんですね?
すごいわぁ
>>441 でも、豪快に黒煙と騒音を吐き出すんではないだろうか?
>>441 でも運転制限は
>>400 のとおりで「定格30.8km/h、最大38km/h」なんだよね
実は30km/hが持続上限に近かったチハ。
>>442 煽られてすっごく悔しかったんですねw
マチルダぶっ飛ばすのに6番じゃ威力足りないと思うんだが
【密林の女王-2】
1941年7月、北アフリカへ展開すべくオーストラリア第1機甲師団が創設されます。
しかし、日本参戦により第1機甲師団は本土防衛の要となり、
北アフリカには赴かず、本国西部に駐留します。
42年9月、隷下の第2/6機甲連隊(スチュアート装備)がニューギニアに派遣されました。
そして、本土への日本進攻の脅威の去った、43年9月に師団は解体されます。
師団解体時、隷下部隊の一つであった第2/9機甲連隊は、第4機甲旅団に組み込まれました。
44年3月、連隊の装備車はスチュアート&グラントからマチルダへ改変されます。
同じ第4機甲旅団隷下で、同じくマチルダ装備の第2/4機甲連隊は、
アイタぺ、ウェワク、ブーゲンビルで既に活動していましたが、
第2/9機甲連隊には全くお呼びが掛からず、44年は暮れていきます。
45年3月、ようやく第2/9機甲連隊に海外での作戦行動の準備を整えるよう、命令が下されました。
オーボエ1号作戦&6号作戦で豪州第9師団を支援すべく、タラカン島、ラブアン島、ブルネイ湾に、
上陸することになったのです。
5月1日、C中隊が第26旅団と共にタラカン島に上陸しました。
そして、ANZAC高速道とBourke高速道沿いに戦闘を行います。
6月10日、B中隊が第24旅団と共にラブアン島に上陸。
飛行場、Flagstaff丘、マッカーサー道で歩兵の支援に当たりました。
ブルネイ湾にはA中隊が第9師団の残部と共に上陸し、内陸へ進出しました。
45年5月8日、タラカン島。ANZAC高速道で地雷に撃破されたマチルダ。地雷爆発時、空中へ18フィート吹き飛ぶ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/091925 45年6月10日、ラブアン島。マチルダを視察するマッカーサー将軍。
ttp://cas.awm.gov.au/item/109059 45年6月10日、ブルネイ。上陸中のマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/108956
一方、ニューギニアで最初にマチルダを運用したオーストラリア第1機甲連隊は、
44年6月に本国へ帰還しました。
そして45年5月、オーボエ2号作戦に参加すべくモロタイ島へ移動します。
第1機甲連隊は豪州第7師団と共に、バリクパパンへ上陸することになりました。
7月1日、第1機甲連隊のA中隊とB中隊はバリクパパンへ上陸します。
連隊戦力はマチルダ26両、マチルダ・フロッグ火炎放射戦車3両、ドーザー戦車3両、
第2/1機甲旅団偵察中隊からのカヴェナンター架橋戦車1両の計33両でした。
マチルダは、2ポンド砲搭載車3両につきCS型は1両の割合を目安として配備されています。
3両のドーザー戦車はグラント・ドーザーとする資料と、マチルダ・ドーザーとする資料があり、
車種の特定は出来ませんでした。
まず、戦車偵察隊が歩兵と共に上陸を開始し、5分後にはA中隊所属の最初の1両が岸へ達しました。
オーストラリア海軍の上陸指揮官からは、
全ての上陸波は時間通りで、岸辺では未だ抵抗は無く、死傷者は一人も出ていないとの報告が入ります。
岸辺のすぐ近くに無傷の橋があり、戦隊はこれを使用しました。
工兵が多数の250`爆弾と地雷が埋設されているのを発見します。
45年7月2日、バリクパパン。上陸するマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/P04266.002
上陸後、第2/10歩兵大隊は第2/2対戦車連隊の6ポンド砲の支援のもと、
87高地上の、猛烈な砲爆撃下でも生き残っていた数多くの日本軍バンカーを掃討していきます。
歩兵を支援すべくマチルダとフロッグが1両ずつ、Parramatta尾根の日本軍陣地へ接近しました。
それは地下に連絡路を張り巡らせた、手の込んだ仕掛けの拠点でした。
マチルダはバンカーの破孔に2ポンド砲を撃ち込み、フロッグはバンカー開口部に火焔を注ぎ込みます。
丘陵上の数多くのトンネルの開口部に、マチルダCSが3インチ砲を撃ち込んで破壊し、
その黒々と開いた入り口にフロッグが火焔を放射しました。
豪州軍はバリクパパンの市街地を3方向から攻め立てます。
Vasey高速道で、第21旅団支援の戦車隊は巨大な破孔の為、足止めを喰らいました。
カヴェナンターが破孔に橋を渡し、4両の各種マチルダが前進します。
1両のマチルダが地雷で一時的に行動不能となりましたが、
歩戦協同の攻撃は続けられ、日本軍の重迫撃砲4門を鹵獲しました。
バリクパパンには、Manggerにオランダの旧飛行場がありましたが、
日本軍はSepinggangに新滑走路を建設していました。
第2/14歩兵大隊が新滑走路を確保し、直ちに破孔だらけの滑走路の修復に入り、
7月3日正午にはオースター観測機が発着可能となります。
45年7月2日、バリクパパン。戦闘中のマチルダ・フロッグ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/P04266.001
7月5日、Manggarの旧滑走路確保の為、LCMとLCT1隻ずつに、
第3小隊と第4小隊のマチルダが積み込まれました。
13:00、砲兵が煙幕を展開する中、第3小隊がManggar Beserの浜辺へ降ろされます。
それらは高地上の日本軍陣地からは丸見えでした。
13:45、重迫撃砲の射撃に続いて120o海軍砲が1,200mの距離で火を噴き、
3両のマチルダに砲弾が命中します。
2両が完全喪失となり、残り1両は翌日までに修復されます。
この時、乗員6名が負傷しました。
LCT上の第4小隊は引き返すよう命じられます。
海軍砲は、丘の中腹の非常に頑丈な砲床に設置されており、
終日、艦砲と航空機が攻撃しましたが、砲は沈黙しませんでした。
5〜6日の夜間、ブナ戦でのベテランのPalmer軍曹指揮下の25ポンド砲1門が、
海軍砲の約800m前方に進みます。
25ポンド砲の初弾が砲を破壊しました。
7月9日に旧滑走路の占拠が成ります。
ミルフォード高速道では、日本軍が戦車の前進阻止の為に、
200gの油入りドラム缶を路上に並べ、燃やしているのが見受けられました。
7月10日、連隊副指揮官のRyrie少佐が狙撃兵に射殺されます。
追撃戦は7月下旬まで続き、その後は小競り合いとなり終戦を迎えます。
連隊は一連の戦闘で、工兵の援助も受けながら、110のトンネル、バンカーを破壊し、
8000以上の各種地雷、トラップを処理しました。
45年、バリクパパン。撃破された2両のマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/P00066.011 ttp://cas.awm.gov.au/item/P00066.039
日本とイギリス……同じ源でどうしてこうも違うのか…… 機銃はチェコ由来って所くらいしか共通点を見出せない
相変わらず面白い
ああ、チハたんは全力疾走すると転輪が焼けるんだった・・・ すっかり忘れてたよw
まともな接着剤がなくて転輪のゴムは鋼線で巻いて固定してあるだけなんだっけ?
第8軍が装備改変するたびに中古もらうんだな
尖閣諸島中国船の衝突ビデオ、こういう内容らしいという情報です。 海保船舶が横付け。海保職員が乗り込む。 その後、中国船舶が突如離船。 取り残された海保職員が中国人船員に飛び蹴りされて中国船舶から 海中に突き落とされる。 海に落ちた海保職員を潰すように、中国船舶が進路変更。 海保職員が必死に泳いで逃げるのを執拗に銛で突き殺そうとする中国人船員。 海保船舶が海保職員を救出するため停船し救助に乗り出す。 その後ろから中国漁船が溺れる海保職員に乗り上げ、海保職員が海の中に 沈んで見えなくなる。 その後、浮かび上がった海保職員は海保船舶に後部から担ぎ上げられる。 這い上がる海保職員めがけて数秒後に漁船が全速力で海保船舶の後部から 衝突し、海保側の船体が大破。 ビデオを見た日本側関係者は異口同音に「これ殺人未遂だよ」と呻くように 言ったらしい。
オーストラリアは、アメリカかイギリス戦車のライセンス生産はやらなかったの?カナダはやってたみたいだけど
>>457 豪州の陸上兵器製造で目ぼしいものは、センチネルが少々に、トラック、キャリア、2ポンド砲辺りでしょうか。
ある段階では米国中戦車の現地生産も考えられてはいたようですが、
米国から発電装置を導入せねばならないことと、豪州工業界のレベルではハードルが高い面があるということで、
沙汰止みとなったそうです。
英国戦車については、英陸軍省の41年7月の試案では、
豪州機甲部隊には847両の巡航戦車(クルセーダー)が必要とされていましたが、
こちらは775両の豪州設計巡航戦車(センチネル)とする案に置き換えられています。
1両のクルセーダーMk.Iが41年8月上旬にメルボルンに到着しましたが、
あくまでセンチネルの設計参考用でした。
他にはクルセーダーMk.IIを、以前にもレスしましたように豪州第9師団騎兵連隊がエジプトで受領しています。
こちらは第9師団が本国へ帰還する際に、英軍へ返却しています。
結局、英国巡航戦車そのもののライセンス生産は考慮外だったようです。
※豪州・Puckapunyal戦車博物館のクルセーダーMk.I。
42年に2ポンド砲は取り外されていますので、代わりに37mm砲身を装着して展示されています。
2ポンド砲が取り外された理由は定かではありませんが、
センチネルの砲塔設計の責任者の言に、
日本の参戦で兵器の払底していた42年初めに、センチネルの試作車に流用したというものがあります。
ttp://www.flickr.com/photos/yewenyi/126866830/
飛行機は生産してたのにね。
優先順位から考えたら飛行機→船→陸戦兵器になるのはしょうがない
豪州の場合は欧州大陸派遣部隊なら装備ごと英に頼ればよいわけで とりあえず必要な陸戦関係ってニューギニアでの戦闘に対応した分だから どう考えても欲しいのは巡航戦車じゃなくて歩兵戦車じゃ無いかと。
本土への上陸を警戒していた時期なのでニューギニアとは直接関係ないのではなかろうか。 で、海岸線広いから移動速度速くないと。
豪州の場合は、英国が手一杯で当てに出来なかった40年から自国巡航戦車の設計に着手していたのと、 41年7月当時は供給予定が250両だったM3中戦車を、最終的に757両受領出来た(供給数は777両、輸送中の事故にて20両損失)という事情が、 まだニューギニアでの戦訓の無かった時期にもかかわらず、英国巡航戦車のライセンス生産は考慮外という流れにつながったのでしょう。
>>460 日本と同じか。
日本に戦車くれる国は無かったけど(´・ω・`)
>>377 ちょっと古いけど
"British and American Tanks of World War Two"には
1942年にビルマでオーストラリア軍が使用したって書いてあるね。
45年のブーゲンビルは書いてないけど…。
友邦にカヴェナンターを送りつける鬼畜ブリテンw そしてクライスラーの変態エンジンを送りつける米帝も鬼畜w よくあんなの動かせたな
>>466 まだ、クライスラーの変態を積んだカビナンターじゃないだけまし
クライスラーのエンジンと、カヴェナンターのエンジン どっちが酷いかって言うと・・・どっちも勘弁してくださいw
相変わらず連載してくれる何時もの名無しの人が凄いw てかマチルダ強すぎ吹いたw そしてカヴェナンターも太平洋正面に投入されてたのねん
470 :
名無し三等兵 :2010/10/15(金) 15:11:19 ID:DT1O3FOX
よし、ここはマルチバンク5連メドウスを…… それにしてもチハたん……なんかチェコやハンガリーのマイナー戦車の方がマシな気がしてきたw
ハンガリー馬鹿にすんなよ。パンターに次ぐ強力な戦車を開発した枢軸国第二位の戦車国家だぞ。 日本なんぞと比べるのは失礼すぎる。
472 :
名無し三等兵 :2010/10/15(金) 15:36:21 ID:jJ4lqRSR
そりゃ大ドイツ様の膝元で装甲車両に専念できればそれなりのものは作れるだろ。 実質単独で広大な太平洋で戦う艦から飛行機まで作らなければならない日本とは状況が違いすぎる
チェコはドイツに占領される前に充分に立派な装甲車両を作ってるね。 流石だ。 機関銃も良い。
ヘッツアーの元になったチェコの38t戦車はかなり優秀だったからな。
大戦末期のドイツはヘッツアーだけを生産すれば良いけど、 大戦末期の日本は何を生産すれば良かったんだ?
47mm速射砲
>>476 それと敵戦車の装甲を簡単に貫通出来る砲弾だなorz
タ弾でええやん
小口径の砲だと外装式になって一発撃ったらハイそれまでよ、だがなあ。
ハンガリー戦車って「トルティ」? ビッカース6t軽戦車が基だから、ソ連のT-26軽戦車とは兄弟みたいなものかな。38t戦車はV号戦車並の性能って言われたが、装甲はトルティも38tもBTも紙です。
フィンスカのビッケルズとか、ギリシャにも友達がいたり ビッカース6tは派生種や輸出型多いよなあ
申し訳ありません。480ですが、トルティの基になった軽戦車は、ビッカース6t戦車じゃなくて、スェーデンのL-60軽戦車でした。
よくチハたんに関しては「登場時は世界水準」って言われるけどさ チハたん:1938〜 A10:1939〜 LT-38:1939〜 3号E:1938〜 S35:1936〜 この辺と比べると榴弾火力以外に長所を見出せないんだが……
>>483 厚み+傾斜装甲だから防御性能はS35以外に勝る。
機動性では劣位で馬力不足が目立つけど
総合的に世界水準の性能と言っても間違いでは無いだろう。
これを45年まで主力で使ってたことが間違いなだけで。
世界最高じゃなくて、世界水準だからな。
まあ砲塔はコロコロ〜だけどな。
フィリッピン決戦まで現役だった八九式(´・ω・`)カワイソス
>>487 あれは戦車を積んだ輸送船が沈められちゃって引っ張り出したんだからしょうがない。
そんなこと言ったらベルリンの菱形戦車だってry
>>484 ところがチハは何と48年まで続いた中国での国共内戦まで中国共産軍の主力として使用されて現役だったぞw
>>487-488 国共内戦まで現役だったチハ(´・ω・`)カワイソス
50年代まで現役だったフィンランドの3号突撃砲(´・ω・`)カワイソス
60年代まで現役だったスイスとチェコのヘッツアー(´・ω・`)カワイソス
第3次中東戦争まで現役だった4号シリーズとIS3スターリン(´・ω・`)カワイソス
第4次中東戦争まで現役だったM4シャーマンとM3ハーフトラック(´・ω・`)カワイソス
ボスニア内戦まで現役だったM36ジャクソン(´・ω・`)カワイソス
21世紀までパラグアイで今も現役のM24チャーフィ(´・ω・`)カワイソス
21世紀まで朝鮮と中東、ベトナム、レバノンを転々として、
南アフリカやイスラエルで今も現役のセンチュリオン(´・ω・`)カワイソス
21世紀まで朝鮮や中東、ベトナム、ボスニアを転々として、
シベリアの沼地から引き上げても燃料を入れると稼動して、
北朝鮮などで今も現役のT34/85(´・ω・`)カワイソス
>>490 それヘッツアーよりも火力、装甲、機動力が低いのに戦力になるのか?
>>488 わざわざ内地から新編成部隊に持たせて送り出したのもあるようだよ
>>491 御覧の通り出撃してすぐに殺られちゃってるw
>>492 それは戦車の定数を満たす程の生産が出来て無かったから。
19年にフィリピンに増援された部隊の戦車に装備が有ったらしい
ってのはこれみたい。
「国産」の肩書きしか褒めるとこないのに2000年まで現役だった61式(´・ω・`)カワイソス これを更にゴミスペックにしようとした旧軍以来の軽戦車厨……
>>495 しかも、旧軍の軽戦車閥は「兎に角数を揃えて員数を〜」って
ノリだったみたいだしなぁ。
チハタソの時から、連綿と続いてたってのが本当みたい。
>>494 せめて一式を持たせてやってくれええorz
>>496 ハ号が既にあるのにわざわざテケ車を作り、愈々大戦に入ったら
テケじゃ駄目だからとテケ車をハ号で置き換えたという伝説の彼等ですね
1942年度の戦車の最多生産台数はハ号、43年度はチハという恐るべき事実
>>497 本土決戦用の戦車師団ですら主力はチハ改とチヘの混成だったんだからどーしょーもないでわ
砲戦車中隊も本来全部チヌで統一したいところをホイ車とかその他諸々で員数合わせてるし…
>>497 最初に持たせたチハタソはバシー海峡で海没、で、戦車は無いのか
日本中を探して、大阪の工廠の片隅に眠ってた89式を引っ張り出して
来たらしい。
因みに、それでも戦車が足りずにフィリピンで分捕ったM3ハーフトラック
の自走砲と一緒の混成部隊だった、と言うのが現実らしい。
ソースは山本七平の「私の中の日本軍」
(彼は103師団の師団砲兵隊の観測通信係将校)
>>496 連中が長生きしてたら90式がオソリオみたいになってたかもw
>>497 一式は絶賛温存中です。
畏くも大元帥陛下からの賜り物に難癖をつけてはいけませんよw
てか、フィリピンに八九式送った当時に可動状態のチヘってあったのかな?
>>502 生産開始が一応18年だから、可能性は有るだろうね。
506 :
名無し募集中。。。 :2010/10/15(金) 23:26:59 ID:i+voYmzm
【彼らは来た】
1945年8月、日本との停戦後、連合軍にとって最優先事項の一つは、
降伏条件を履行させる為に、日本国内に占領軍を展開させることでした。
英連邦占領軍(BCOF)は、英軍、ニュージーランド軍、オーストラリア軍、英印軍から構成され、
BCOFの初代司令官は豪州軍のJohn Northcott中将でした。
豪州陸軍はBCOFの参加部隊を、第34旅団(45年10月27日、モロタイ島で第6、第7、第9師団の志願者で創設)を基に、
構成しようと考えます。
その際、機甲部隊は重要な役割を果たすとは思われませんでしたが、
1個装甲車中隊をBCOFに含めることにしました。
これが第1オーストラリア装甲車中隊として知られる隊で、ニューギニア、ボルネオ、ブーゲンビルでマチルダを駆った、
ある意味、日本と縁の深い、第4機甲旅団の志願者から構成されています。
装甲車中隊の指揮官はCec Ives少佐で、1937年に豪州がヴィッカースMk.VIA軽戦車を新規導入した際、
助手として王立戦車軍団の軍曹の身で豪州に到着し、以後叩き上げで少佐までなった人物でした。
48年8月24日、日本、宮島。第1オーストラリア装甲車中隊指揮官:Cec Ives少佐。
ttp://cas.awm.gov.au/item/145743
46年1月、第1オーストラリア装甲車中隊はヴィクトリア州Puckapunyalで創設。
10名の将校、159名の下士官兵から構成されていました。
中隊は機甲学校で訓練を開始し、2月中に装甲車を受領します。
それらは、Bandianaの兵器デポから引き出された、
18両のスタッグハウンドと8両のリンクス偵察車Mk.I/IIでした。
これらは大戦中は一度も使用されたことがなかったと言われています。
(大戦後期、豪州軍は279両のスタッグハウンドと171両のリンクス偵察車を受領していました。)
スタッグハウンドは砲塔背面に収納ボックスが追加されている以外、基本仕様通りでした。
この収納ボックスは大戦後、全てのスタッグハウンドに取り付けられたもので、
センチネル巡航戦車の砲塔後部に取り付けられていたものと同一でした。
リンクス偵察車は標準仕様のままでした。
44年5月26日、ヴィクトリア州Bandianaでのスタッグハウンド。
ttp://cas.awm.gov.au/item/066831 ヴィクトリア州Bandianaでのリンクス偵察車(カナディアン・スカウトカー)。
ttp://cas.awm.gov.au/item/P05457.007
46年3月下旬、第1オーストラリア装甲車中隊は、
オーストラリア電気機械技術兵団の第348軽支援分遣隊と共に、豪州を出立し、
4月12日に広島湾に到着しました。
中隊は下船した後、列車で海田市へ移動し、旧日本軍補給施設を兵舎にその地で3カ月過ごします。
装甲車は6月初めに到着しますが、中隊はこの地がスタッグハウンドを取り回すには不適であることに気付きます。
道の状態は悪く、えぐれている箇所もありました。
自然の障害以上に深刻だったのは、重量のあるスタッグハウンドが全ての橋に大変負担を掛けることでした。
試行錯誤の末、スタッグハウンドの使用区域は、呉と広島の二都市のみに制限されます。
6月下旬、中隊は、ニューサウスウェールズ州知事に就任する為、本国へ帰還するNorthcott中将の儀衛役を務めます。
2代目のBCOF司令官には、ニューギニアで第18軍が降伏した際、
安達中将から軍刀を受け取ったHorace Robertson中将が着任しました。
7月、中隊は呉市の広に移動し、旧日本軍兵舎に駐留します。
日本駐留中の中隊の任務は、尾道港の瓦礫の除去、運輸物資の捜索による地域闇市場取引の抑制、
日本官憲の隠匿兵器の摘発といったものでした。
他隊との人員の相互交換は、貴重なクロストレーニングの機会を提供しましたが、
それは中隊に、日本駐留中で唯一の奇禍をもたらしました。
スタッグハウンドを使用しての呉と広島でのパトロール中、
乗員の持ち場のいくつかは“部外者”で占められます。
46年10月31日、6両縦列のスタッグハウンドの2両が転覆しました。
中隊付き料理人のLittle兵卒が即死し、オーストラリア空軍のEdlund空軍上等兵も、病院へ搬送中に死亡します。
他に7名の兵が負傷しました。
事故を起こした2両は互いに約1マイル離れていましたが、ほぼ同時に転覆しました。
車両自体の損傷は軽微で、引き揚げた後、すぐに修復されています。
11月2日、Little兵卒の棺をスタッグハウンドの背に載せ、軍葬が執り行われました。
後日、Edlund空軍上等兵も葬られました。
48年5月6日、日本、広。BCOF駐屯地を望む。
ttp://cas.awm.gov.au/item/107785
47年初め、中隊は皇居の守備役を割り当てられ、東京へ移動します。
第66オーストラリア歩兵大隊と任を分かち合い、後に王立オーストラリア連隊第2大隊も加わります。
スタッグハウンドは日本の道路網には不適でしたので、
47年遅くに、リンクス偵察車へ代替されました。
11月、中隊は、エリザベス王女とマウントバッテン中尉の婚儀を祝うパレードを、
皇居前で行います。
中隊は、四国に夏季演習の場として申し分ない地域を見つけましたので、
その地へ揚陸艇で車両を運びました。
一個旅団での演習時、四国北部の大きな炭鉱に対して一つの作戦が実行されました。
米軍からの情報では、そこには大量の兵器と弾薬が隠匿されているとのことでした。
中隊は炭鉱を包囲急襲しますが、旅団が炭鉱で火災が生じているのを発見し、
捜索は不可能となりました。
48年12月、中隊は本国へ帰還します。
49年7月、中隊の残存人員は、新たなオーストラリア正規陸軍の最初の機甲部隊となる、
第1機甲連隊の要員となりました(ニューギニアとバリクパパンでマチルダを運用した第1機甲連隊とは同名異部隊です。
大戦中の第1機甲連隊は、戦後は市民防衛軍の一端を担うことになり、49年に新編成の機甲連隊に名を譲った後は、
由緒ある「第1王立ニューサウスウェールズ槍騎兵」の名称を与えられます)。
同連隊はチャーチルを一時的に装備した上で、センチュリオンを本命として導入することになっていましたが、
センチュリオンの到着が遅れたため、朝鮮戦争には投入されませんでした。
その後、ベトナム戦に参加し、現在に至っています。
47年11月21日、皇居前でパレード中のリンクス偵察車。
ttp://cas.awm.gov.au/item/145215 70年1月、南ベトナム。第1機甲連隊のセンチュリオンMk.V/1。
ttp://cas.awm.gov.au/item/WAR/70/0056/VN 南オーストラリア陸軍博物館で展示されているスタッグハウンド。
ttp://www.amosa.org.au/vtour/staghound2.jpg
>>509 乙
調べたらスタッグハウンドは14tもあるのか…。
それは道路に厳しいな。
装輪でチハたんと同クラスだから接地圧が…… ってかこいつもハイドラマチック4速ATなのね。テケたん涙目。
へえ四国で演習なんてやってたんだ。そういえば知り合いの爺さんが香川の金比羅宮の 一番上に進駐軍のジープが置いてあったんで仰天したって言ってたな。 4駆とはいえ延々と続く石段をあんな所まで登れるんだろうかと不思議がってた
逆に日本側は、本土決戦をにらんで、わざと道路やら橋架類を整備してなかったのかな?
517 :
名無し三等兵 :2010/10/16(土) 12:42:37 ID:ZGZrPVpF
>>517 手際いいねー。面白い動画をありがとう。
でもジープなら、金毘羅様の階段くらい問題なく登れる。
当時のゴー・デビルエンジンは、2,000rpmくらいで最大トルクを発揮するモリモリ型なので、
ああいうよじ登り型セクションには最適。
ローレンジのレシオは耕運機並みに低く、アプローチアングルも45度以上ある。
一度、三菱ジープにでも乗ってみるといいと思う。4DR5とかもう最高。
すごいクルマなんだよジープって。
90年あたりまで、東欧で未使用木箱入りのMBやGPWが発見されるという事件がたまにあった。
ちょうど
>>517 の動画のように、いくつかの部品に分解して、きれいに箱詰めしてあったそうな。
想像しただけで勃起が抑えられない。
>>519 東欧の品質管理できてない車よりも1940年代のジープ乗ったほうがまだましだったりしてw
宝箱を開けたらジープが出てきました!
>>520 埋められたりばらばらになった戦車や装甲車両をサルベージして使うなんて
メタルマックスの世界みたいだな
でも、実際にそういうの引き当てた人にしてみれば嬉しいだろうなあ
523 :
名無し三等兵 :2010/10/16(土) 16:07:44 ID:ZGZrPVpF
>>520 ニーヴァたんをバカにしないで!(´;ω;`)
>>487 レイテのオルモック道で撮影されたという、道端にうち捨てられた八九式中戦車の
写真が残っているところからして、ルソンから更にレイテに派出されたわけで・・・
動く歩兵砲でしかない八九式で末期のフィリピンはきつかろう
>>525 その他の部隊は明治時代の小銃や大砲だぞw
>>526 甘いな。本土防衛には日清戦争で手に入れた先込め青銅砲や考古学者が復元した投石機が参戦予定だw
>>517 お見事。
これ観ると、レンドリースで供与されたジープを「ウィルスカヤ」と呼んで、ロシア軍が愛用した訳が
良く分かりますね。
日本陸軍もコピーさせたけど、ジープに似せるな!と難題をふっかけて技術陣大弱り。
調べれば調べるほど良く出来ている事が分かり、どうしても似てしまう・・・
>>521 スレ違いだけど、
ガンダムXの世界に元ネタが有ったとは。
>>525-527 何でこんなに軍備の遅れた極東の島国が先進国である米英なんかに戦争を仕掛けたのだろうか?
>>516 もともと道路インフラの整備が進んでなかった(鉄道が主役)し、
空爆で橋梁やトンネルは痛め付けられてるだろうからねえ。
当時の道路事情は国道一号線ですら未舗装区間が多く、
九州から山陽道にかけては水陸両用車で水上を走る方が楽だったらしい。
>>527 昔日本銀行で1945年に発行予定だったという陶貨を見た時、
無理な戦争だったんだなあと心底思った。
>>530 米英並みの国を目指して突き進んだら、お前の弱いところなんざ先刻お見通しよとばかり資源を禁輸されて二進も三進も行かなくなったから
アメリカのトラックで、ソ連に送られたものと言えばスチュード・ベーカーが有名だが、これって四駆?
>>524 あれが内地からわざわざ持ってきたやつだよ。
535 :
名無し募集中。。。 :2010/10/16(土) 22:12:04 ID:FA+/2rRz
>>517 マジでそんなに登れるの? 45°はいくらなんでも無理では?
戦車でさえふつうは登坂力30°ていどなのに
ソ連のトラックの基礎は、アメリカがレンドリースで送ったトラックって話だから、しかしアメリカはソ連に何台トラックを送ったの?
40万台ぐらいらしい
トラックはだいたい40万両くらい、ジープはおよそ5万両。 全部で113億ドル。
自前のGAZ-AAとかと合わせたら結構な数になるな。 日本のトラックって九四式が唯一マトモだけど、市販車両の三倍以上の値段なのよね……
日本のトラックの台数は?
大日本帝国は何でそんな相手に戦争しちゃったんだろうねえ…
チャーチルが、アメリカに参戦してもらいたかったのも納得
この数ってレンドリース分も含まれてるよね?
>>545 あれ、よく見るとカナダがすごいことになってるな
なんだこりゃ
カナダ > ドイツ+日本+イタリア 超大国カナダが連合側で参戦したことにより、枢軸側の勝利の可能性はなくなったのであった
>>551 ラムちゃん乙。
それよりパスタ帝国の倍もある日本のトラックはどこへ行った?
北アフリカみたいに車両で大移動とかしてないだろ
>>543 自前のだとGAZ-AAが開戦時15万台ZIS5が10万台
ZIS5のほうが性能は良かった。
戦時中に国産した輸送車両33万だとか斎木のぶおが書いてた。
当時のトラック今でも州兵が使ってるよな。州兵がやってたイラクの輸送任務で 「爺様頑張ってくれよ。エンストしたら蜂の巣だ」って運転手が自嘲気味に言ってたわ
【はじめてのたたかい】
1943年4月にブナ・サナナンダ戦区の第2/6機甲連隊は本国へ帰還しました。
スチュアートは貴重な戦訓を豪州軍にもたらしたものの、その軽装甲が悩みの種でした。
43年8月、重装甲のマチルダを装備した第1機甲大隊がミルン湾へ上陸します。
11月中旬、フォン半島のSatelberg道への強襲で、
第1機甲大隊は豪州第9師団の支援に当たります。
Satelbergは海岸から10キロ程離れた小さな集落で、
前の月に、Ford少佐がフィンシュハーフェン地区を調査して、
次期作戦には歩兵戦車の使用が可能であると報告していました。
LSTが、9名の士官、136名の兵士、CS型を含む18両のマチルダ、
5両のジープとトレーラー、1両のブレンガン・キャリア、1両のバッテリー充電用キャリア、
10日分の糧食、弾薬、燃料を運びます。
10月20日の蒸し暑い晩、土砂降りの雨の中を、
Horden少佐率いる戦車C中隊がLangemak湾へ上陸しました。
第26旅団とマチルダ中隊は、より効果的な協同作戦を実施出来るよう、
多くの訓練を行いました。
それから、マチルダはKedam海岸からLaunch Jetty へ移動し、
月明かりの中、Satelberg道をJivevanangへと西進します。
道は険しく滑りやすい上に、急角度で折れ曲がっており、
道中は困難なものとなりました。
Graves Cornerで、粘度の高い土壌によって2両の戦車が行動不能となります。
戦車兵と工兵の何時間にも及ぶ奮闘にも拘わらず、朝になっても戦車は脱け出せませんでした。
周辺のタコ壷で眠っていた歩兵からは、嘲笑と皮肉が浴びせられ、
苛立たしい気持ちは、決して和らぐものではありませんでした。
43年11月9日、フィンシュハーフェン地区にて訓練中のマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/016096
11月11日、全9両のマチルダがJivevaneng地区の前線基地にいました。
彼らは頭越しに砲声を聞き、日本軍陣地で砲弾が炸裂するのと、
空襲の壮絶な有様を目にすることが出来ました。
又、大規模な日本軍爆撃機隊とライトニングによる迎撃を目にしましたが、
数で優るライトニングは、爆撃機を海上へと追いやりました。
1機のライトニングと2機の日本軍戦闘機とのスリリングな格闘戦が始まりましたが、
勝敗が決する前に、視界外へと去ってしまいます。
毎夕16:00頃に、日本軍は75mm砲と迫撃砲を道路沿いに撃ち込んできましたが、
戦車中隊には被害はありませんでした。
11月17日06:00、Sattelbergの高地へ向けて進撃が開始され、
マチルダは第2/48大隊のC中隊を支援すべく進みます。
Hordern少佐とEmmott中尉(偵察隊将校)は降車したまま、
ウォーキートーキーを使って、戦車と歩兵の意思疎通に当たります。
前線基地との連絡は、中隊指揮戦車の無線によって確保されていました。
戦車の行動には工兵の支援が必須でしたが、
これは第2/13野戦工兵大隊のBert Spry中尉の小隊が利用出来ました。
豪州軍の意図は、道路軸に沿ってSatelbergの頂へ押し進むことでした。
道の殆どの箇所は、厚い竹薮と草木に囲まれた高い尾根に沿って走り、
視界は大変に限られたものしかありませんでした。
それでも天候は良好でしたので、比較的楽に行進出来ました。
唯一採り得た隊形は、先頭車にCS型を充て、他の戦車を後方に20m間隔で続かせるというものでした。
各戦車には一隊ずつの歩兵が随伴し、協同して日本軍陣地の掃討確保に当り、
その後を強襲小隊と戦車C中隊の残余が続きます。
43年11月17日、Satelbergへ向けて前進するマチルダ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/060599
戦車が出現したことは、日本軍にとって全くの不意打ちであったと師団司令部は判断しました。
しかし、日本兵はすぐに立ち直り、驚くほど強固なバンカーから、
37o速射砲、重・軽機関銃、迫撃砲、手榴弾を使って頑強に抵抗します。
視界が限られていましたので、前進ペースは非常にゆっくりとしたものでした。
その中でも、ウォーキートーキーを使用しての部隊長と偵察将校による目標への誘導指示は、
予想以上に効果を発揮しました。
正午までに約1/4マイル進出し、3両のジープが前進して戦車へ弾薬を補給します。
Kunai Knollの斜面を横切りながら前進が継続され、
Coconut尾根の南端では、突出した先導戦車に、
味方の25ポンド砲の不発弾が命中し、履帯が吹き飛ばされ道を塞ぎました。
歩兵が斜面前方に陣取り、バンカーやタコ壷から出撃してくる日本兵を追い払います。
日本兵は反撃し、小グループが竹薮の右に位置していた2両目のマチルダのもとまで突破しました。
彼らは手榴弾で攻撃し続けましたが、べサ機関銃に掃射されます。
今や、戦車は榴弾の集中射を日本兵へ浴びせかけ、
随伴歩兵も攻撃を再開し、50m進んだ後、元の位置へ引き返しました。
Tomlins伍長から彼自身も含めて乗員3名が負傷しているとの報告が入ります。
伍長ともう1名は砲火の中、2名の軍曹と交代しました。
歩兵が境界線を確立しようと、擱座した戦車の周辺で強力な攻撃を実施した時、
夕闇が訪れ、乗員が退避してきました。
夜間、後退したことによって、擱座したマチルダは日本軍の支配領域に残されました。
この日は第5小隊だけが戦闘に参加し、
6両のマチルダがJivevanengで予備戦力として待機していました。
この最初の交戦で部隊は、120発の3インチ榴弾、234発の2ポンド榴弾、
12,000発のべサ機銃弾を消費しました。
43年11月、Sattelbergにて。
ttp://cas.awm.gov.au/item/016214
翌朝、偵察隊が、日本軍は既に後退していることと、
擱座したマチルダには何も手出しをしていなかったことを報告します。
08:00、再び前進が開始されました。
前から2両が2ポンド砲搭載マチルダで、その後を1両のCS型が続きます。
前進してすぐに、Coconut尾根からの集中火に見舞われました。
75o砲と37mm砲からの榴弾、重・軽機関銃からの射弾は、
歩兵を数時間釘付けにしました。
いくつかの試みの後、巧みな操縦と断固たる決意を持って、
戦車は困難な地形に打ち勝つことが出来、Coconut尾根の日本軍拠点へ辿り着きました。
そして、次の陣地また次の陣地と破壊していきます。
この頃には擱座戦車は修復され、戦闘に参加すべく随伴歩兵と共に到着しました。
尾根のハチの巣状になったバンカーとタコ壷は、日本兵の戦死体と兵器で満たされ、
1門の重砲(ことによると75mm砲)、2〜3門の37mm速射砲が見出されました。
43年11月、Coconut尾根奪取後。
ttp://cas.awm.gov.au/item/016226
道路沿いに沿って進撃が再開されましたが、200m進んだところで反撃に遭遇します。 日本兵は最初の2両の戦車をやり過ごし、道路の右側の隠蔽機関銃座から、 重機関銃を歩兵に向けて撃ち出しました。 2両目のマチルダが40mバックし、あっさりと機銃座を潰します。 無防備になった先頭車からは、左側面から日本兵が突進してきたとのコールがありました。 2号車は所定の位置に移動し、すぐに日本兵に多数の死傷者を出させ、 差し迫った脅威を粉砕しました。 突然、左手の丘から強力な射撃が加えられ、歩兵は釘付けになります。 2号車は鬱蒼とした密林内を約80m進むよう命じられ、日本軍陣地と遭遇しました。 生い茂る樹木に乗員は全くの盲目状態で、頼りになる偵察将校のEmmott中尉に誘導されます。 少し開けた場所で、重歩兵火器と手榴弾の攻撃に遭いました。 車長はまだ何も目視出来ませんでしたので、辺りの密林に向かって榴弾を撃ち込みます。 1丁の機銃を破壊しましたが、まだ歩兵は、戦車兵が確認出来ない位置からの射撃に晒されていました。 Hordern少佐は砲火の中、戦車と歩兵の間にあった放棄されたバンカーへ潜り込み、 そこからウォーキートーキーを使って、戦車へ直接、指示を与えます。 この指揮は上手く行き、悩みの種のバンカーは破壊されました。
この間、Curtayne中尉の1号車は、道路沿いに短距離進みましたが、
突然、37mm速射砲が火を吹きました。
この速射砲はよく隠蔽されていたにも拘わらず、1発射撃しただけで、
砲側員は戦車砲に吹き飛ばされてしまいました。
夕暮れが訪れ、歩兵は夜営すべく壕を掘り始め、
マチルダはCoconut尾根へ戻りました。
戦車兵達は、3両のマチルダが新たに加わったことを知り、大喜びとなります。
この日、弾薬の消費は抑えられ、
3インチ砲弾18発、2ポンド砲弾144発、べサ機銃弾8,750発が発射されました。
3日目の11月19日、 進軍は再開され、日本軍が頑強に抵抗を続けている、
"2,400 feature"として知られている長い尾根へと接近します。
ここは見晴らしの良い高地でしたが、戦車を運用するのは困難な地でもありました。
ここでの日本軍のバンカーは、ココナツの木と岩を資材としたものが大半でしたが、
コンクリート製のものも見受けられました。
それらは歩兵にとっては脅威でしたが、戦車には容易い目標でありました。
しかし、密生した草木の為、バンカーの位置を突き止めるのが至難の業でした。
1両のマチルダが細道から滑り落ち、土手に急角度でもたれかかります。
狙撃兵の正確な銃火のため、乗員は車内で不快な1時間を過ごす羽目となりました。
他の戦車は、歩兵が強力な銃火で足止めを喰らうまで前進し、
2つの機関銃座を破壊しました。
その時、マチルダCSが後進しましたが、
道の端の土手が崩れ、丘の斜面へ滑り落ちました。
今回は工兵隊のドーザーが他の1両を引き揚げた時で、
ドーザーは再度、同じ作業に取り掛かります。
その後、この車両は隊列に合流しますが、
その時は戦闘は終息しかかっており、日本軍と遭遇することは出来ませんでした。
43年11月、Sattelberg攻撃時。マチルダの引き揚げ作業。
ttp://cas.awm.gov.au/item/016228
前方へマチルダが1両派遣されて、"2,400 feature"を確保しようと試みたものの、 斜面はあまりにも急すぎました。 日本軍の断固とした反撃が開始された時、 増援の1個大隊の豪州歩兵は、"2,400 feature"への強襲発進点へ取り付いたところでした。 マチルダは歩兵の為に、驚異的な量の弾薬を消費します。 日本軍の反撃は数多くの死傷者を出して頓挫しました。 この後、工兵が、2個の250リットル入りドラム缶に可燃混合物を詰めた指向性地雷を作り上げます。 16:30まで、強力な支援火力のもとに突撃が行なわれ、 大隊は"Ho ho"という部隊独自の鬨の声を上げながら銃剣突撃しました。 日本軍は大量の兵器資材と戦死体を遺棄したまま、密林内へ撤退しました。 この日一日の戦闘で、約20の機関銃座と数門の37mm速射砲を破壊しました。 速射砲がマチルダに対抗すべく努力を繰り返していたのは明らかでしたが、 この地の日本軍部隊は徹甲弾を保有していないようでした。 1発がマチルダの軌道に命中して、一時的に行動不能にしただけで終わりました。 歩兵とマチルダの関係は非常に良好なものとなり、 戦車中隊の士気は高く、乗員の健康状態も良好で、マラリア罹患者は一人も出ませんでした。 戦車兵は皆、マチルダの性能に大変満足していました。
Satelberg道の切り立った尾根を前進する際、戦車は道から斜面へ転落する危険があり、 ともすれば、マチルダの近接支援は遅れがちとなりました。 豪州軍は4日間の激戦の後に、Steeple Tree丘を確保します。 その後、南から行動を起こし、左翼の高地上の日本軍の拠点を囲み続けました。 そして、Satelbergの南斜面に取り付きましたが、地形的にここへの戦車の投入は出来ませんでした。 11月25日08:00、Spry道をJack Sellars中尉指揮下の戦車分遣隊が進みます。 分遣隊は待ち伏せ現場に遭遇し、8名の偵察員の戦死体を確認します。 4名は行方不明で、全ての戦死体は身ぐるみ剥がされていました。 日本兵が彼らのブーツや小銃、タバコを使用しているであろうことは、明らかでした。
この日、第2/48大隊のT.C. Derrick軍曹の偵察隊が、
Sattelberg頂上へ到達したとの報せが戦車中隊へ届きました。
トブルク戦とエルアラメイン戦への従軍経験のあるDerrick軍曹は、第2/48大隊の消耗した小隊を指揮していました。
Derrick軍曹は、第1次エルアラメイン戦でNo.74ST「粘着爆弾」を使用して2両の戦車を撃破し、
第2次エルアラメイン戦直前の偵察行では、3つの機銃座を潰したという大べテランでした。
前日の内にこの小隊は、第2/23大隊を悩ませていた日本軍陣地を、側面包囲出来る位置まで移動していました。
小隊は数百m匍匐前進した後、頂上まで150m以内の位置まで進みました。
日本軍はバンカーから機銃を撃ち、手榴弾を転がしてきたので、
小隊は2時間以上釘付けになり、撤退命令を受けます。
Derrick軍曹は再度の攻撃の許可を求め、一人で日本軍の陣地を10箇所攻略しました。
翌日、大隊が高地を完全に占拠します。
この功により、軍曹はヴィクトリア十字章を授与されました。
25日10:00、Derrick軍曹がSatelbergの傷つき枯れた1本の木に、オーストラリア国旗を結び付けます。
翌朝、工兵が"3,200 feature"の頂上へ道を切り拓き、
3両のマチルダが移動します。
そして、その地を保持する第2/23大隊の支援の為、1ヶ月間居座りました。
既に日本兵は戦車の通行出来ない後方へ撤退していましたので、
SattelbergとWareo地区でのマチルダの役割は終わりを告げました。
戦車C中隊は戦友の第2/48大隊に別れを告げ、転出します。
43年12月3日、攻略後約1週間のSattelbergでの第2/48大隊Derrick軍曹と豪州国旗。
軍曹は45年5月にタラカン島で軽機に撃たれて戦死します。
ttp://cas.awm.gov.au/item/016246
なんというマチルダ無双・・・
566 :
名無し三等兵 :2010/10/17(日) 09:58:32 ID:isHyyLKg
スチュード・ベーカーのトラックにカチューシャを載せたら、自走砲?
マチルダをまともに撃破できたの120mm海軍砲と航空爆弾改造地雷か。速射砲兵は無念だな。南無・・・
マチルダさん。。。
>>556-564 感謝です。
マチルダは大活躍ですね。
ウォーキートーキーは懐かしいなあ。
あんまり関係ないけど豪州軍のカンガルーのマークが可愛すぎる
>>572 M10は車長がオーバーライドして砲を発射できるのか。
>>556-564 マチルダ2マジ密林の女王w
側面に至近で47mm速射砲か九〇式野砲を当てたら流石に抜けるだろうが
ニューギニアの国軍にそれを求めるのは酷だろうな……
2ポンド砲にも榴弾が供給されてそうだし
しかし東部ニューギニアの国軍は結構頑強な陣地を造ってたんだな
わが国の37mmじゃマチルダさんには歯が立たないよな。 こうやってみると重装甲の歩兵戦車ってな最善に近い歩兵のお友達なんだな
航空爆弾転用地雷の話で6番に拘ってた奴がいたが 25番じゃないとマチルダ相手には打撃与えられないんじゃないかね
6番だと15榴クラスレベルだからな キャタは吹っ飛ばせるかもしれんが、戦車本体を壊すには足りないかも。
束ねてたんじゃね?
>>577 余りに鈍重だったり踏破不可能な地形が多発するようじゃ意味ないからなぁ
少々足が遅くてもいいからどこまでも粘り強く歩兵に追従していけるのが理想だろうね
だからって小銃弾すら碌に耐えられない上に装甲も貫徹できず榴弾威力も僅少な歩兵戦車を配備してた日本はどうかと思うが…。
せめて歩兵部隊にチハ、戦車部隊にチハ改が配備されてればなぁ
爆弾と砲弾では炸薬量が違うのはどう影響するかな。 6番陸用爆弾が炸薬量24kg、15榴だと炸薬量6kgで、爆弾が4倍ほど炸薬量がある。
終戦直前の満州で前線の肉攻部隊から 「7kg爆弾(爆薬だったかも)じゃT34はやれるがJSはやれないから10kgよこせ」 って話があったし、十分なんじゃね ドイツ軍歩兵だって底面と同じくらい薄い上面に10kg程度の対戦車地雷を仕掛けて ふっとばしてるしいけるだろ。
>>582 20kg以上あるのか、それなら壊せるかもね。
ドイツの対戦車地雷がTNT5.5kgか、ふむ…
撃破されたマチルダの写真見ると後部の軟い場所以外は原形留めてるし ハッチが開かないほど歪むってレベルは束ねないと無理じゃね?
束ねたか、25番かだろうな。
589 :
名無し募集中。。。 :2010/10/18(月) 18:26:34 ID:mtSiS2lJ
>>586 ドイツの皿形地雷は強力で裏山・・・履帯どころか車体も吹き飛ばせるし。
我が軍の93式戦車地雷じゃ炸薬量700gぽっち・・・重ねて使えばまだマシだが
590 :
名無し募集中。。。 :2010/10/18(月) 18:28:58 ID:mtSiS2lJ
間違えた、890gでした
【怪物女王】
1943年の終り、Sattelbergでの戦闘終了後、
マチルダ装備の第1戦車大隊C中隊は、Wareoで戦闘を行います。
失地回復を図る日本軍の強力な部隊がBonga近辺からSong川に向けて、
沿岸路に沿いながら前進してきました。
第2/43大隊と第2/2機関銃大隊が保持しているNorth Hillへの激しく執拗な強襲は、
夥しい日本軍の損害と共に跳ね返されました。
11月28日、豪州軍は反撃に乗り出します。
戦車第3小隊の支援を受けた第2/28大隊が、
North HillとBonga間の沿岸地域を掃討しました。
沿岸路は、密林に覆われた平坦な湿地帯に沿いながら通っていましたので、
歩兵支援の為とはいえ、戦車は滅多に道から降りることが出来ませんでした。
全ての小川が戦車の通行の障壁となり、
橋を構築するか浅瀬を渡渉する必要がありました。
日本軍は遅延を図るべく、何本かの橋を破却していました。
日本軍後衛によるいくつかの抵抗は、自殺的なもので、
そのような抵抗が激しい箇所では、マチルダがやってきて断固とした支援砲火を注ぐまで、
歩兵はただ待機していました。
この地区の陣地群に日本軍の大部隊がいたことは明白でしたが、
マチルダの接近する音を聞きつけて、慌しく後退したようでした。
44年4月9日、Wareoの水路。ハマダラカ繁殖状況の調査。
ttp://cas.awm.gov.au/item/072121
11月30日のBonga占領は、
強圧を受け続け、今や絶望的な立場となった日本軍にとって、
"終わりの始まり"となります。
Bonga並びにWareoへ通ずる区域の支配力を喪失した日本軍は、
Kiligia-Wareo間の、長く通行困難な道を内陸の部隊への補給路としました。
第24旅団はBonga-Wareo間の道に沿って西進し、
第9師団隷下としてこの地に来ていた第4旅団は、沿岸路沿いに北上します。
両作戦共に、戦車による支援が行なわれるものとされていましたが、
どちらの地区も、戦車の通行が甚だ困難であることは保証付きでした。
Bonga-Wareo間の道は、大抵はクナイ草で覆われた斜面を通っており、
又、数多くの峡谷の高い尾根に沿って続いていました。
一方、Bongaから北への沿岸路は、
いくらかは沼地、又、他のいくらかはクナイ草の生い茂る地域を通っていました。
それまでの辛苦の数週間によって、
戦車中隊の人員と車両は調子を落とし始めていました。
ジープの調子は特に悪く、整備を必要としていましたし、
その乗員は、異なった地域にいるマチルダへの補給を、
長期間維持し続けなければならないことに、大変な負担を感じていました。
又、予備部品の不足から数両のマチルダが非稼動状態となり、
代替車両は前線には届かず、故障が頻繁に生じるようになります。
43年12月24日、フィンシュハーヘン地区。べサ車載機関銃の分解手入れ。
ttp://cas.awm.gov.au/item/062753
第2/28大隊と戦車第3小隊は、Wareo道に沿って押し進み、
Orientalと呼ばれる地点へ到達します。
そこは大規模な日本軍司令部跡で、日本軍は一戦もすることなく、
大量の器材を遺棄したまま、密林へ撤退していました。
12月1日、Pabuに到達し、工兵がブルドーザーで近辺の丘に道を切り拓きます。
第2/43大隊がPabuの保持の為に来援し、戦車と共に押し進みました。
そして砲兵の支援射撃の下、"Lilac Valley"を通って"Horace's Ears"へと突進します。
"Lilac Valley"という名称は、Pabuへの攻撃時、
数百名の日本兵がクナイ草に囲まれた斜面で戦死していたことから、付けられたものでした。
そして今や、日本軍は"Horace's Ears"に地歩を固め、
1門の75mm砲、数門の37mm速射砲、いくばくかの重・軽機関銃を含む全兵力で、
猛烈な反撃を仕掛けてきました。
1両のマチルダが数個のバンカーを破壊した後、クナイ草の斜面で身動きが取れなくなります。
マチルダは死の作業を続行し、複数のバンカーが穴だらけとなりました。
そして、夕暮れが訪れ、豪州軍は攻撃を取り止めました。
歩兵に多数の死傷者が出ましたが、日本軍の損失はそれを遥かに上回るものでした。
44年3月21日、Pabuにて。
ttp://cas.awm.gov.au/item/071425
12月2日、戦車第3小隊は任務交替の為、Orientalの野営地へ戻り、 中隊本部の2両と第2小隊からの1両が、第2/43大隊D中隊と共に前進を再開します。 計画では抵抗に遭遇した際は、予備車両を前方に呼び出すことになっていました。 移動後、すぐに1両が行動不能となります。 Kalueng湖に接近しつつあった時、道の左手の立ち木の茂った小川から、 機銃の猛烈な集中射撃が浴びせられ、歩兵は釘付けになります。 そこには日本軍の大部隊が、道に面した強固な塹壕に立て篭もっていました。 2両のマチルダは移動し、榴弾を至近距離から日本兵に向けて猛射し、 一帯は全て屠殺場と化します。 マチルダが引き返す際、1両が行動不能となり、少数の歩兵が援護の為、 左手に位置しました。 道に沿って前進を続けていた歩兵は、100m程進んだところで足を止めていました。 1両だけ残った"Costello"号は支援の為、前進します。 そして早々に、約50mの距離で37mm速射砲と出くわしました。 ほぼ同時に操縦手は、右前方と2ポンド主砲直下に、 対戦車壕に伏せている約20名の日本兵の姿を見出し、仰天します。 見通しの利かない密林で、巧妙に射界を設けていた速射砲は、 戦車兵に位置を特定される前に、2発の弾丸を撃ち込みました。 1発は履帯を破壊し、もう1発はターレットリングに命中します。 マチルダは動くことも、砲を横向きにすることも叶わなくなりました。 主砲は速射砲へは指向出来ませんでしたが、 対戦車壕の中から手榴弾と対戦車地雷を投げ込んでくる日本兵達に発砲し、 彼らを十分に意気阻喪させることは可能でした。
一発の地雷が操縦手ハッチの頂部で爆発し、
操縦手を一時的に失神させます。
その間にも、恐らく75mm砲と思われる重砲も戦闘に介入してきました。
"Costello"号は続けざまに50発以上の命中弾を被り、
左右の履帯は破壊され、誘導輪は共に吹き飛び、懸架装置も損傷し、
スカートは数箇所に穴が開きました。
おびただしい数の命中弾が砲塔にもあり、
まるで誰かが外からガンガンとハンマーで叩いているかのようで、乗員を興奮させましたが、
それ以上の効果は何も挙げ得ませんでした。
その内に、対戦車壕の日本兵は2ポンド砲でほぼ殺傷されます。
乗員は全ての弾薬を費消した後、脱出が上手くいくよう、
歩兵に無線で援護射撃を要請します。
Noel Miller伍長がメイン・ハッチを通じて戦車から脱け出し、銃火の中を歩兵の居場所まで走ります。
しかし、歩兵は濃密な火線の前に未だに釘付け状態でした。
伍長は再び戦車へと戻り、歩兵の支援は受けられないことを他の乗員に知らせます。
乗員はハッチをロックし、エスケープ・ハッチから車外へ這い出しました。
それから匍匐したり溝を掘りながら進むなどして、安全地帯へ辿り着きました。
その後すぐに、数名の日本兵が、
乗員が脱出したことを知らぬまま、戦車によじ登ってハッチをこじ開けようとしました。
今や前進路は山がちとなり、戦車は通行出来ませんでしたので、
歩兵は単独で進んでいきます。
作戦に参加していた6両のマチルダは、Orientalに集結しました。
"Costello"号は応急修理を受け、あばただらけの傷だらけではありましたが、
自力で移動していきます。
12月6日、第26旅団はKuankoを占拠しました。
44年3月29日、Wareo。上方にフィンシュハーフェンとLangemak湾。
ttp://cas.awm.gov.au/item/071784
豪州陸軍は独立時から第2次大戦まで国内防衛に、 少数で大半は非常勤の兵士からなる部隊を有していました。 大英帝国軍(31年からは英連邦軍)の分遣隊として戦う際には、遠征陸上部隊を徴募することでしのぎ、 第1次大戦でガリポリ等に投入された部隊は、AIF(オーストラリア帝国軍)と呼ばれ、 本国部隊とは一線を画した存在でした。 勿論、多数の本国部隊の兵士が志願してAIFの要員となっています。 終戦後、当然ながらAIFは解体され、再び市民軍のみとなります。 第2次大戦勃発直後の39年9月15日、豪州政府は20,000人からなる特殊部隊の創設を発表しました。 これは状況に応じて本国もしくは海外に展開するものとされ、 後に第2AIF(第2オーストラリア帝国軍)と呼ばれることになります。 しかし、豪州世論はドイツと日本が果たして脅威となる存在なのか否かで分裂した状態だった上に、 市民軍部隊の指揮官は、第2AIFへ兵員を手放したがらなかったので、なかなか人員が集まらない状況でした。 その状況はフランス陥落で一変し、40年6月には48,496名が徴募に応じることになります。
第2AIFは、第6〜9と第1機甲師団の5個師団から成り立っていました (第1〜5と10〜12、第2機甲師団と第3機甲師団は市民軍でした)。 第2AIF隷下の連隊・大隊クラスの部隊名は、市民軍部隊と区別が付くように、 部隊No.の前に、'2/'を付けます。 「第2/4機甲連隊」という名称がその例です。 しかし、例外もあり、 ニューギニアにマチルダを初めて持ち込んだ第1戦車大隊は、 第2AIF隷下の第4機甲旅団に所属していながら、'2/'が付きません。 この部隊は、1885年に創設された「ニューサウスウェールズ槍騎兵」の直系で、 元々は市民軍に所属していたのを、43年初めに第4機甲旅団隷下とし、 以降は第2AIFの部隊とすると宣告されたからです。 第1戦車大隊は44年6月に本土へ帰還した際に、第1機甲連隊と改称されます。 そして、戦後は再び所属が市民軍へと戻り、前にもレスしましたが、 49年に「第1王立ニューサウスウェールズ槍騎兵」となります。 第2オーストラリア帝国軍と市民軍の間には摩擦があり、 いくつかの部署では、終戦時迄かなり険悪な空気が生じていました。
>>591-597 乙です
オーストリア軍内でも色々ゴタゴタがあったんですね…
ところでCS型に積んでる3インチと95mmの性能ってどんな感じだったんだろ?
真ん中の76mmでけぇw
>>591-597 乙。
マチルダの硬さが半端じゃないな…。
こちらの砲火を全て跳ね返しながら、
近距離で榴弾打ち込んでくるとか悪夢でしかない。
>>599 これは又、興味深い写真ですね。
数値だけだとピンと来ないものがありましたので、いいものを見させていただきました。
603 :
名無し三等兵 :2010/10/19(火) 12:44:54 ID:mdj1A+qi
誰が得するんだよ
>>604 軍内部に巣食った反動主義者が以下略とかじゃねw
今さらなんだけど、M3軽戦車ってリアヘビーじゃない?
608 :
名無し三等兵 :2010/10/19(火) 21:37:38 ID:MtcN88nH
チハたんのベアリングは北欧生まれ ありがとうSKF ∩(・ω・)∩でも自前で用意できたら良かったのにね……
戦前の日本の兵器は細かい部品見ていくと外国産ばっかでキリないぞ。
でも設計技術はそれなりに…… あ、そういうのは紙と鉛筆と労力しか消費しないもんねwww
昔、米英我らが師。困る億兆火の車。
でも一式中戦車オーバーホールしたアメリカ人が エンジン補機類にベルトを一切使って無く、すべてシャフトドライブで 駆動してるのはすごいとか何とか書いてた気がする
それ、普通に考えたらベルトの品質がそれだけ…… いかん誰か来たようだ
アメリカの戦車は、砲塔を油圧で廻してるので、直撃を食らうとオイルに引火し、直ぐ燃えると聞いた。スチュワートもそうなの?他の国の戦車は何で廻してたの?
同じシャーマンでも油圧と電動がある 他国はハンドル手回し・補助エンジン・電動・油圧等いろいろ
確かタイガーTは、手動じゃなかった?
ハ号は砲塔も直接肩付け旋回だったんだろうか 例の鹵獲されてテストされるハ号の動画見てると砲塔自体がゆさゆさ回ってるような 何等かの駆動用のギアが付いてるようには到底見えない
「日本陸軍の戦車」買っとけ。
>>617 低速/高速の使い分けができる電動式だったはず。
日本の戦車はコロで支持してるだけなので、抑えておかないと坂道で勝手に回っちゃうそうな……
622 :
613 :2010/10/20(水) 14:31:23 ID:???
>>617 途中で電動機オミットして手動になっちゃったのはW号J型。
でも正副ハンドルで全力旋回のほうが電動より速かったって証言もあってどっちが良いとも言えないのがなんとも。
旋回に当たる乗員の疲労は当然増えるけどね。
ソビエトが誇るKV-2は手動ですよw
>>621 欧米の褒め殺しイヤミ殺法は日本人には理解しにくい部分があるからね。
海軍もジョージ六世戴冠記念観艦式で……
それでM3/5スチュワート軽戦車は、何で砲塔を廻しているの?
ってことは日本が手に入れたのは基本手動か。
【マニラ湾の落日】 1941年、米国が第二次大戦へ参戦した際、 米軍の初期戦力の多くは、州兵で編成された部隊で成り立っていました。 第194戦車大隊はFort Lewisで、3つの州兵戦車中隊から創設され、指揮官はE.B. Miller少佐でした。 (※A中隊はミネソタのBrainerd、B中隊はミズーリのSaint Joseph、C中隊はカリフォルニアのSalinas) Fort Lewisでは制服や戦車や資材が欠けており、何をしようにも全く最悪の状態で、 同地の将軍からは侮蔑の眼差しで見られていました。 この事実にも拘らず、部隊は最良の合衆国陸軍戦車大隊であると見なされ、 41年9月8日、54両の新品のスチュアートと共に、 サンフランシスコを出航してマニラへと向かいます。 フィリピン到着後、補給物資の不足─特に燃料と予備部品─は、 大隊の訓練にも支障をきたしました。 マニラの補給倉庫へは十分な供給があったにも拘らずです。 予備部品の取り寄せも、陸軍のお役所仕事によって、 しばしば30日を要しました。 実弾は12月2日になって初めて支給されましたが、 37mm砲の榴弾はフィリピンへは供給されていませんでした。 結局、榴弾は作戦末期に少量が支給されたに過ぎませんでした。
41年11月20日、第192戦車大隊がマニラに到着し、船上のD中隊が、 Fort Lewisで分離してアラスカへ送られたB中隊の代わりとして、 第194戦車大隊へ組み込まれました。 (※その後の史実的研究では、D中隊は計画通りに第194戦車大隊付属とはならなかった可能性があります) R.N. Weaver大佐が、第192戦車大隊と第194戦車大隊から成る臨時編成戦車集団の指揮官に着任します。 この部隊はウェインライト少将の指揮下ではなく、米極東陸軍の直轄となりました。 この分割指揮体系は、ルソン島防衛時に多くの問題を生じさせます。 12月8日、日本機がクラーク飛行場を攻撃した際、 第194戦車大隊C中隊は空港周辺の防御地点で配置に付いていました。 爆撃機の編隊が現れたとき、彼らはちょうど昼食を終えて携帯用食器を洗っており、 爆弾が投下されるまで、それらを友軍機だと思い込んでいました。 C中隊の兵士達は戦車とハーフトラックへ駆け込み、 辺り一帯に爆弾が落下してくるのにも構わず、対空射撃を開始します。 日本機の爆弾は近くの滑走路上で翼を並べていたB-17とP-40を破壊し、 更に日本戦闘機が機銃掃射を加え、去っていきました。 約40分に渡る攻撃が終了した時、米極東航空軍は約半数の機を失っていました。 この空襲で55名が戦死し、100名以上が負傷しましたが、 奇跡的にもC中隊には死傷者はありませんでした。 日本戦闘機はショットガンで撃ち落せるかに見える程、低空飛行をしました。 "green" 地点では一人の中尉が上等兵の腕を引っ掴みながら、 大声を上げて対空射撃の指揮を執っていました。 米兵達は目に付くもの全てに猛射を加え、 戦車C中隊のEarl G. Smith兵卒は、この日、9機編隊の戦闘機の1機を撃墜しました。
空襲後、全ての機銃弾帯を撃ち尽くしていたC中隊は、その夜を、 スプリングフィールド小銃のクリップ弾倉から、弾丸を機銃弾帯へ装着する作業で費やしました。 翌日、中隊はクラーク飛行場北東2マイルの地へ分遣され、そこで露営します。 その地で12月12日まで待機した後、Albert M. Jones准将指揮下の南部ルソン軍と合流するよう命じされました。 戦車C中隊は夜に約40マイル行軍し、日が出てからモンテンルパのTagatay尾根の第14連隊のもとへ急行しました。 この地区は第14連隊から第24連隊の担当となりますが、中隊はそのまま残されます。 そして、偵察隊を指揮して第五列分子を狩りたてました。 第五列分子は弾薬集積所近辺で、日中はミラーの明滅で、夜間は火を起こして合図を送っていました。 12月24日02:00に、7,000名の日本軍部隊がラモン湾へ上陸し、 Lucban方面へと進攻します。 C中隊はクリスマス・イヴに、フィリピン第1歩兵連隊の支援の為に移動しました。 クリスマスの日、Jones准将は自ら偵察隊を指揮して、 C中隊の1両のハーフトラックの護衛のもと、日本軍へ向かって狭い道を下り立っていきました。 彼らはPiis北で偵察中、日本軍前衛の攻撃対象となります。 ハーフトラックは位置を転換しようとした際に、溝に落ちてしまいました。 しかし、乗員は銃を取り外して援護射撃を行ない、Jones将軍と将軍付き運転兵は無傷で後退出来ました。 この行為によってJones将軍は、 ハーフトラック乗員が殊勲十字章を授与出来るよう推薦しましたが、 46年4月まで何の手続きも取られず、推薦状は却下されます。 その代わり、5人の搭乗員にはシルバー・スターが授与されました。
12月26日、戦車第2小隊はフィリピン軍少佐から、 その射撃で比軍部隊へ感銘を与えるべく、狭い山道を下り立つよう命じられます。 小隊長のNeedham中尉は、その命令に異議を申し立て、 まず偵察隊を前線へ出して様子見することを提案しますが、 少佐は日本軍は小火器しか装備していないと請け合いましたので、 小隊はこの任務を実行します。 戦車兵は出発するやいなや、 1門の速射砲と隠蔽された数門の野砲に出くわしました。 指揮戦車に命中弾があり、Needham中尉、Bales上等兵、Morello2等軍曹が致命傷を負います。 2号車は損傷車両を避けて進み、速射砲を蹂躙しました。 指揮戦車が再び被弾し、DiBenedetti兵卒が跳ね飛んだリベットで頸部に負傷します。 Brokaw軍曹の車両にも命中弾があり、3名が戦死して軍曹は重傷を負いました。
この戦闘で最終的に、全部で5両の戦車が行動不能となります。 Morello軍曹と4名の負傷者は、ハッチを閉めたまま車内に留まっていました。 何故なら、日本兵が戦車の脇で夜営をしていたからです。 日本兵は誰一人として、車内に生存者がいることに気付きませんでした。 朝になって日本兵は去っていき、Morello軍曹は負傷者の救助を始めます。 軍曹は負傷者を集め、ココナツの木立と水田を抜けて脱出しました。 Morello軍曹と負傷兵達は、道案内に雇ったフィリピン人の助けを借りて、 日本軍支配地域をすり抜けながら、5日後に全員がマニラへ姿を現しました。 軍曹はDiBenedetti兵卒をマニラのカトリック病院へ残し、 他の3名と共にバンカに乗ってコレヒドールへ渡りました。 その後、軍曹は2月中にバターンで原隊復帰します。 この一連の軍曹の行動に対して、シルバー・スターが授与されました。 丸ごと1個小隊の戦車と乗員5名を損失したこの作戦は、 事前の偵察を軽視し、戦車が無計画に投入された場合、 どのような結果がもたらされるのかという、苦い戦訓となりました。
12月26日、マニラは無防備都市宣言をし、 米軍と比軍はオレンジ計画-3に則って、既にバターンへと後退を始めていました。 戦車C中隊もこの命令を遵守し、12月29日、ルソン島南部から撤退を開始し、 南部ルソン部隊の後衛を務めます。 中隊はタガイタイ尾根の第31連隊のもとに移動し、不眠不休のままBocaueへと100マイル突っ走り、 その地で待機していた第194戦車大隊に復帰しました。 北への行軍中、中隊は無防備都市宣言をしていたマニラを迂回しましたが、 Saccone軍曹に指揮されていた後衛は、マニラ市周辺の道筋をよく理解していませんでした。 彼らはマニラの中央道を通ることに決めます。 闇の中、避難民の群れを避けようとした1両のスチュアートが、 ホセ・リサール像にぶち当たりました。 戦車は衝撃で片方の履帯が外れ、誘導輪も一つ折れ曲がってしまいます。 乗員は夜通し修復を試みましたが、日が射し始めた段階で事態は絶望的となりました。 彼らは戦車を使用不能にした後、フィリピン兵を乗せたブレンガン・キャリアへ便乗させてもらおうとします。 戦車兵がトミーガンで狙いを付け、ようやくキャリアの車列は止まりました。 彼らがマニラから出た最後の機甲部隊でした。 ※比島の米軍臨時編成戦車集団はM2/M3ハーフトラックを46両装備していた他、 本来はマレー向けで、開戦によって急遽マニラへ送られたブレンガン・キャリアーも装備し、 キャリアを運用した唯一の米軍戦車部隊となりました。
中隊はBocaueからパンパンガ川に架かるCalumpit橋へと進みました。 この橋は非常に重要な構造物で、マニラからバターンへ後退する全ての部隊が、 ここを通過せねばなりません。 ここで中隊は、空荷の比軍トラック100〜150両が、マニラから慌てふためいてやって来るのを目にします。 マニラの倉庫には莫大な補給品がまだある筈でした。 バターンで米比軍は物資不足に悩まされますが、オレンジプラン-3では部隊が餓死寸前にならぬよう、 開戦前に補給品は移動していることになっていました。 この怠慢の責は、42年4月まで開戦は無いと信じていたマッカーサー将軍に帰すべきなのでしょう。 南部ルソン部隊はCalumpit橋を42年1月1日02:30に渡り、 後衛の戦車C中隊がそれに続きました。 そして橋は爆破されます。 戦車隊はサンフェルナンドを通って移動し、 三日間に渡って7号線を遮断することに成功しました。 1月5日16:00、2両のスチュアートと2両のハーフトラックを指揮していたC中隊長Moffitt大尉は、 支援の第31歩兵連隊の4両の75mm自走砲と共に、750-800名の日本軍部隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けます。 この日本軍部隊に多大な損害を与えた後、中隊は燃えさかるLubaoの町を立ち去りました。 もしここで日本軍を喰い止められなかったなら、バターンへの退却は遮断されたことでしょう。 1月6日、バターンへの移動中、Remulus近郊で夜戦が生じました。 Moffitt大尉のハーフトラックに1発の命中弾があり、 Hennessey兵卒は左足をもぎ取られ、Martella上等兵も負傷します。 Martella上等兵は数日後にガス壊疽で死亡し、Hennessey兵卒もバターンでの降伏後に傷が元で死亡しました。 この戦闘で、Abbott軍曹のスチュアートは、被弾して行動不能となる前に、 1両の日本軍戦車に直撃弾を与えます。 負傷した軍曹は脱出し、戦車は翌日回収されました。 ※今回は此処までで、残りは他日投下します。
うひょ、ブレンガンキャリアなんて持ってたんだw
てかフィリピンにはマレー向け部隊とか居たんだw やっぱ対英蘭限定開戦とか無理だな
>>636 部隊じゃなくてキャリアだけいたんじゃね?
当時はまだ大西洋がそんなに安全じゃなかったからアメリカ周りとか。
太平洋戦線における、M3リー/グラントの物語を図々しくお願いします。
639 :
名無し三等兵 :2010/10/21(木) 19:45:16 ID:MptJPmcz
北アフリカ&欧州では完全に陳腐化した中古車輌なのにビルマだと最強という……
37mmM3用の榴弾っていつ頃配備? 北アフリカの英軍の小説でこれも榴弾が無かったって話があるんだけど。
太平洋にグラントって来てたのか?
【マニラ湾の落日-2】 バターンへ向けての撤退は続けられ、 1月7日、戦車C中隊はバターン半島への入り口に当る、 Culo川に架かるLayac橋の左側面守備に就いていました。 全部隊が川を渡ってすぐに戦車隊も後退し、 バターン半島を封鎖する為、橋は爆破されます。 橋の爆破は危険かつ非常に重要な作業でしたので、 第194戦車大隊長が自ら爆破命令を下しました。 これはルソン北部のAgno川で、恐慌状態に陥ったフィリピン兵が、 対岸に第192戦車大隊の戦車がいるのにも拘らず、橋を爆破してしまい、 6両のスチュアートが敵中に取り残され、失われるといった出来事があったからでした。 バターン半島内へ入り込んだ中隊は、Abucay南で野営します。 主戦線は僅かに小康を保っていましたが、連続30日間の作戦行動で部隊は消耗していました。 惨めさに追い討ちをかけるように、ウェインライト少将は糧食の配給量を半分にするよう命じ、 一人当たり一日30オンスの割り当てとなります。 最初の一ヶ月の戦闘で、C中隊は7両の戦車を失い、6人の戦死者を出しました。 この損失によって中隊は、各3両の戦車を保有する小隊を3個に、1両の中隊指揮戦車という形への、 改編を余儀なくされます(戦前は各5両×3個小隊、中隊本部2両)。 これらの戦車は、稼動400時間毎の定期点検の時期を既に過ぎていた上に、 大層、走りこませていましたから、履帯のラバー皮膜はボロボロでした。 幸いに、バターン南部地区の補給所から多少の交換部品が入手可能でした。
C中隊が係わった次の重要な作戦行動は、 ウェインライト将軍がBagacの西海岸へ3両の戦車を派遣した後に生じました。 派遣された翌日、この戦車小隊はMoronへ向けて沿岸高速道を北進することを命じられます。 小隊が前進してカーブを曲がった時、先頭車が至近距離で1門の速射砲に撃たれました。 砲弾は砲塔右側を飛び越えていき、速射砲は返り討ちに遭います。 一方、600ヤード後方を続行していた2両のスチュアートは地雷を踏みました。 地雷埋設は日本兵が特に好んだ戦法です。 先頭車は向きを変えて引き返し、小隊は一人の死傷者を出すこともなく立ち去りました。 翌日、擱座した2両の戦車は牽引されて持ち帰られ、 以後は部品取り用に使われることになりました。 今回の件は、歩兵よりも先に戦車隊を単独で前進させるという、 以前と同じ様な自殺的な任務によって引き起こされたものでした。 作戦期間中、戦車が適切な方法で運用される機会は殆どありませんでした。 将軍達は、戦車を可動するトーチカと見なしており、又、彼らは、 1個戦車中隊が必要な状況でも1個小隊しか投入しない傾向がありました。 臨時編成戦車集団指揮官とウェインライト将軍との相容れない命令は、 戦車大隊長を絶えず惑わせ、しばしば独断に頼らざるを得ない状況へと追い込みます。 戦車隊は戦車集団司令部かウェインライト将軍の司令部によって、様々な部隊へ細分して配属されることがよくあり、 それによって、諸兵科連合による防御力の利点は失われていました。 そして、上位の将校は戦車に馴染みがなく、機甲部隊の有効な活用法を知りませんでした。
1月中旬、糧食と医薬品の欠乏が栄養失調の米比軍に、 マラリア、デング熱、赤痢をもたらします。 とりわけ、キニーネの不足が深刻でした。 開戦してから部隊が手紙を受け取る機会はありませんでしたが、 時折、サンフランシスコから短波ラジオを通じてニュースを聴くことが出来ました。 1月26日、第194戦車大隊は、米比軍の第一線(アブケイ・ライン)から第二線への撤退の援護に当り、 C中隊はHacienda平地を横切って行きます。 この戦闘で日本軍へ大損害を与えますが、彼らは激しい爆撃で応酬してきました。 一発の爆弾がMuther軍曹のスチュアートのフェンダー上に落下しましたが、これは爆発しませんでした。 橋を渡る際に、中隊長のMoffitt大尉が吹き飛んできた木材で足に負傷します。 2月8日、歩兵による戦闘は下火となりましたが、 日本軍は間断ない砲爆撃で米比軍の前線を叩き続けました。 C中隊は日本軍のマニラ湾からの侵攻を防ぐ為、バターン半島東岸の各所に分散して配置されます。 中隊のいくつかの守備地点では、コレヒドール島の14インチ砲による支援砲火が期待出来ました。 Lamao近郊への日本軍の空襲時に、C中隊員がキャリバー50で対空射撃を行い、 1機の日本機が煙を吐きながらマニラ湾へと突っ込みました。 3月中旬、糧食の配給量が一人当り一日15オンスへと更に半分に減らされ、 バターンの米比軍は、僅かな米を主食にサル、ヘビ、虫、といったものを漁って生き延びます。 騎兵畑出身のウェインライト将軍は、最愛の第26騎兵連隊の250頭の馬と42頭のラバが餓死する前に、 屠殺するよう命じ、これらも米比軍の糧食となりました。
4月3日、十二分の兵力を揃えた日本軍の総攻撃が始まりましたが、 新たにバターン半島総司令官となったキング少将は、半島南部で日本軍を押し留めるべく最後の努力をします。 4月6日、C中隊第2小隊の4両のスチュアートは、 ラマオから半島南部中央に位置するサマット山麓へ派遣されます。 フィリピン・スカウトの第45と第57歩兵連隊が、29号登山道を下ってくる日本軍に抵抗しており、 戦車隊はその支援に当りました。 4月7日朝、フィリピン兵が慌てふためきながら逃走し、 戦車隊は戦線を支えるべく、第45歩兵連隊の兵士達と共に8号登山道を下ります。 1個分隊のフィリピン・スカウトが前衛を務め、2両のスチュアートが続きました。 6号登山道の交差点で、Frank Riley中尉の指揮戦車は75mm砲と遭遇し、 指揮車の砲塔に1発が被弾して中尉が倒されました。 Ray Peoples伍長が指揮を受け継ぎ、2号車の援護を受けつつ猛烈な砲火の中を後退します。 75mm砲の正確な射撃によって、2号車の砲塔にも1発が命中しますが、砲弾は弾き返されました。 小隊はそれ以上の死傷者を出さずに発進地点へ帰り着きましたが、 Morello軍曹のスチュアートのエンジンが故障し、カブカーベンへと牽引されていきました。 一方、2両ずつのスチュアートとハーフトラックからなる第3小隊は、 西海岸の沿岸路を経由してPilar-Bagac道へ達するよう命令されますが、 サマット山麓近辺で、日本軍の封鎖部隊による強力な抵抗に直面しました。 小隊は大隊司令部と無線連絡が取れず、状況判断が出来ませんでしたので、 Marivelesへと引き返し、大隊残余と合流します。 この2つがC中隊最後の作戦行動となりました。 開戦以来4ヵ月の間にC中隊は10両の戦車を失い、6名の兵員が戦死しました。
第194戦車大隊司令部の通信手は、"blast"の符号が来るのを待っていました。
これが全ての残存器材を廃棄する合図でした。
4月9日06:30、C中隊は大隊のもとへと戻り、7:00、"blast"の符号が遂に届きます。
戦車兵は無我夢中で器材を破壊します。
1両のスチュアートが他車両へ砲弾を撃ち込み、ガソリンが主要器材へ注がれ、糧食は公平に再分配されました。
その晩、中隊員はコンビーフハッシュと桃の缶詰を食べながら、故郷へと思いを馳せます。
ごく少数がこの先の過酷な運命を想像出来ましたが、大多数は毛布にくるまったまま眠りに就きました。
41年2月18日、中隊がカリフォルニアのSalinasを出立した時の人員は105名でしたが、
生きて故郷に戻れたのは47名でした。
※フィリピン戦での米機甲部隊
第192戦車大隊:人員588名、M3軽戦車54両
第194戦車大隊:人員410名、M3軽戦車54両
両大隊のM2/3ハーフトラックの装備数は46両、キャリアの装備数は私には分かりませんでした。
M3・75mm戦車駆逐車は、試作車のT12数両を含む50両がフィリピンに送られ、
3個大隊からなる臨時野戦砲兵旅団を構成していました。
>>638 太平洋での実戦投入例は、ブタリタリ島で米陸軍が使用した数両と、
バリクパパンで豪州軍が使用した3両のドーザー・グラント(ドーザー・マチルダの可能性もあります)だけになります。
ご希望はビルマでのM3中戦車のことでしょうか?
同一小部隊での作戦経過を詳細に追っていける資料を、まだ私は見たことがありませんので、
今のところはご希望には副えませんが、見付けましたら投下したいと思います。
リー/グラントは、ペリリュー島攻略戦から使われているし、オーストラリア軍に英国の中古が入って来ているとwikiに書いてある。
英語版にも米陸軍がマキンでだけ使用、海兵隊には供給されてないとしか書いてないじゃん
>>648 ペリリューで使ってたのか?
後、所持してたのと太平洋正面での使用状況は別問題ざんしょ
>>648 M3中戦車は、北アフリカ戦での英軍の中古車両が豪州へ供給されたといわれることもありますが、
実際は全ての車両は米国から豪州へ直接出荷されていました。
※余談ながら、豪州軍使用のマチルダが、全て北アフリカで英軍に使用された中古品という説も実際とは異なります。
43年4月、豪州軍が“欠陥戦車”を受領しているという内容の書簡を、参謀総長が国防大臣に宛てて出していますが、
その中で、米製造元から英連邦軍へのM3中戦車の割り当て数を、以下のように記しています。
豪州:777(輸送中の損失により受領したのは757両)
インド:896
中東:732
英国:216
M3中戦車の豪州軍での実戦投入例は、バリクパパンでのドーザー・グラント3両に限られますが、
43年4月、ニューギニアへ第2/8機甲連隊(スチュアート&グラント装備)が警備目的で派遣され、
ポートモレスビーに連隊本部と1個中隊が布陣し、ブナとミルン湾へそれぞれ1個中隊が分遣されています。
連隊の主任務は、日本軍の空挺作戦に備えて、飛行場を警備することでした。
既に日本軍が駆逐された地域でしたので、連隊は戦闘行動を取ることは一度も無いまま、
44年2月に本土へ帰還し、同年5月に解体されました。
その他に、1両の装甲回収型グラントが、44年にニューギニアでテストされています。
試験結果は、装甲による保護は利点であるものの、全般的にジャングルでの使用には不向きというものでした。
豪州軍にしてみれば、D8トラクターの方が好ましい牽引車両でした。
44年9月12日、ニューギニア・MILILAT。評価試験用の装甲回収型グラント。
ttp://cas.awm.gov.au/item/075964 45年、クイーンズランド州・CALOUNDRA。D8ドーザーと第2/5機甲連隊所属のグラント。
ttp://cas.awm.gov.au/item/P01388.003 ※グラント装備の第2/5機甲連隊は、42年8月か9月にニューギニアへ展開する予定でしたが、
この役はスチュアート装備の第2/6機甲連隊に取って代わられました。
45年7月のバリクパパン戦にも投入される予定でしたが、
こちらも最終的に、マチルダ装備の第1機甲連隊の担当となり、実戦経験の無いまま45年9月に解体されました。
何か勘違いしてた。使われたのはペリリュー島攻略じゃなくて、ギルバート諸島の攻撃だった。リー/グラントって形はあれだけど、自走砲・突撃砲と考えると中々だと思う。
>>638 ビルマ戦線で活動していた第3カラビニアーズ騎兵連隊のある不運なM3リーは、
日本軍の恐るべき対戦車近接攻撃を受けることになった。
日本軍の将校が戦車に飛び込んで軍刀を振り回したのだ。
装填手が彼をハチの巣にするまでに、戦車長と砲手が惨殺された。
飛び込んだ方も凄いが、乗員は目を疑ったろうなぁ
>>653 壮絶だなぁ……
M3中戦車の背の高さが仇となったか……
M3の37mm砲ってキャニスター弾撃てるのかな?
パンフロB型だと撃てた。
37ミリ砲は、みんな共通じゃない?75ミリ砲はシャーマンと共通?
>>656 ビルマで撃ってるよ〜
>>658 75o砲は最初はM2型を載せて、後からシャーマンと同じM3型
>>659 やっぱり歩兵いじめアイテムは必須なのね……
M24チャーフィーって45年の8月までに、約4000両生産されてるんだね。W号戦車を撃破したりとか、軽戦車とは言えないと思う。ヨーロッパ・北アフリカ戦線に於ける、スチュワート軽戦車の対戦車戦闘は、どうなんだろう?
662 :
名無し三等兵 :2010/10/23(土) 22:10:06 ID:8IlTzDyn
朝鮮戦争で戦ったM24チャーフィーはT34/85を何両撃破したのだろうか?
663 :
名無し三等兵 :2010/10/23(土) 22:14:34 ID:+XwyWVDQ
朝鮮戦争でM24チャーフィーはT34/85と交戦して、 少なからずT34/85を撃破した。
北アフリカのスチュアートや2ポンド砲装備車は大変だったみたいよ。 3号が撃ってくる中こっちが撃破できる有効射程に入るまで全速で走らないといけない。 グラント支給されて立場逆になったと喜んでたら4号長砲身が出てきて・・・
60口径5cmの奴もいるしね
>>661 オスプレイの「M3&M5スチュアート軽戦車」では、
初陣でのスチュアートの損失20両に対し、独側の損失はIII号戦車2両とII号戦車1両で、
その後の戦闘も含め、クルセーダー作戦でスチュアートは対戦車戦闘能力の低さを早々に露呈したとしています。
独側は戦車の戦術的な運用に長けていたのと、戦車自体がより対戦車戦闘向けに設計されていたとして、
装甲と主砲貫徹能力以外のスチュアートの欠点について、同書では以下のように記述しています。
@二人用砲塔な上に、英軍は戦闘時に副操縦手が砲手となるので、狭い砲塔内が更に混雑する
A初期車両の37o砲は、肩を押し付けて俯角を決めるので、着弾状況を見て次の射撃の照準を微小修正するのが不可能
BM5A1まで、照準器は望遠鏡式で距離測定機能が組み込まれていなかった
C砲塔の旋回ハンドルが、英軍独自改修後も相変わらず使いづらい位置だったので、射撃時は砲塔を前向きに固定したまま、
突撃砲のように車体全体を目標方向へ向け、最後の微調整のみハンドルを使用した
米軍に関してはヴィシー軍との戦闘で、 ルノーR.35に対して圧倒的な勝利を収めた戦闘例を同書は記述しているものの、 初めてドイツ戦車隊と交戦した際は、13両のドイツ戦車相手に正面戦闘を行なった1個中隊が全滅したとのことで (ただし別の1個中隊が背後を曝したドイツ戦車を9両撃破)、この戦闘の分析の結果、 米軍戦車大隊が要約したM3軽戦車の問題点を、以下のように記載しています。 @37o砲は対戦車戦闘では全く役に立たない A視察装置が不十分な為、ハッチを開いたまま戦闘をすることになり、防御力を著しく低下させる B履帯の幅が狭い為、地面の硬い砂漠でもなお砂にもぐる傾向がある その後もカセリーヌ峠で大損害を被り、戦車自体あまりに弱体でまともに対戦車戦闘がこなせないことから、 第70戦車大隊(軽)はスチュアートを、第601戦車駆逐大隊の待ち伏せ場所に、 ドイツ軍をおびき寄せる囮役として使用することもあったそうです。 シシリー戦では、地の利を得た2個中隊のM5A1が5両のIV号戦車を損害無しに撃破したそうですが、 北西ヨーロッパの第2機甲師団はアイゼンハワー宛ての報告書で、 「……現在我々は軽戦車を歩兵と共に行動させるにとどめ、間違っても敵戦車の直撃弾を浴びることのないよう、 細心の注意をはらっている。それはM5がドイツ軍戦車の射撃によって撃破されてしまうのに、 M5の37o砲ではドイツ戦車も、またドイツ対戦車砲も撃破出来ないからである。」と述べているそうです。
グラントとIII号スペシャルでも右前にしか打てないグラントが不利か
軽戦車による対独戦車戦闘は、チャーフィーまで待たないと駄目だったという事ですね。ソ連のT-70軽戦車も似たようなものかな。
小説だとどっちかというと 戦車相手より88mm相手のが困ったようなことが書いてあったけどなぁ。 戦車はまだ効く弾があるけど、対砲兵だと榴弾がないから 25ポンドを前進させないとならない。その間地形使って逃げなならん。 ただ、足の速さは評価されてた様だった。
>>670 同様にオスプレイの「M3&M5スチュアート軽戦車」では、
クルセーダー作戦の初期段階のシディレゼグ戦で、
戦車兵力で劣勢なDAKに英第7機甲師団が圧倒された理由に、
Pak38と88mm砲を戦車と併用したドイツ側の戦術的な冴えを挙げています。
英軍スチュアートに榴弾がいつから装備されたのかといった点は私は知りませんが、
オスプレイの「M3リー&グラント中戦車」には、後の米軍の北アフリカ上陸後、
米第1機甲師団B戦闘団の不甲斐無い戦い振りを調査した機甲軍の代表団が、
同戦闘団が現用型の徹甲弾を保有しておらず、
本土では訓練弾として備蓄されるのが普通な、時代遅れの弾薬を使用していることに衝撃を受けたとあります。
投入初期の連合軍部隊では、弾薬の不備に係わる事例をよく見かけるような気がします。
Pak38は5sm砲のくせにパネェw まぁ、一式速射砲でもあの威力だしあんなもんか
さすがに欧州じゃトンカチ持った歩兵が航空爆弾とタコツボに篭ったりとかはしないのねw
見方を変えれば、偵察が主任務のスチュワートが、対独戦車戦闘で五分に近い数字を残したら、シャーマン、リー/グラント、V/W号の立場は無いよね。せめて37ミリ砲搭載V号とは、五分であって欲しいって言うのは身びいき?
676 :
名無し三等兵 :2010/10/25(月) 19:05:46 ID:4ek4M4Oc
外装式の対戦車榴弾さえあれば日本だって…… あ、でも砲が足りなくて歩兵の肉攻に使われそうな悪寒
V号G型辺りなら遜色なさそうだね。 最大装甲厚 V号G型:上面12mm〜前面37mm スチュワート:上面12mm〜前面38mm 砲 V号G型:50ミリ砲 スチュワート:37ミリ砲 最大速度 V号G型:40km/h スチュワート:57km/h サイトによっては、スチュワートの装甲厚が9.52〜50.8mmになっているが どちらが正しいの?V号もH型になると10〜60mmに増強されている。
678 :
名無し募集中。。。 :2010/10/25(月) 21:23:06 ID:FERMeMSs
スチュワートの装甲厚は 45.5mmとする資料も多いよ あと51.5mmとするのもあるがこれは防盾の厚さで、普通は最大装甲厚 としてカウントしないかな除外だね。
そもそもチャーフィーが軽戦車とは思えないんだがw
>>677 前も上げた"British and American Tanks of World War Two"だと、
M3が51mm、M5が67mmになってる。
>>680 M24「えー、マジチハたん!?キモーイ」
T-70「重量20t未満で中戦車を名乗れるのは1940年までだよね。キャハハハハ」
AA略
ってことだろう(´・ω・`)
むしろあの程度の戦闘力で15tってどこからそんな重量が湧いてくるんだチハたん……
空冷ディーゼルだろ
>>675 米の軽戦車は偵察戦車じゃなくて、歩兵直援用の戦車だ。
>>682 重装甲だから仕方が無い。
M24なんか一部だけ25.4mmだが
基本的にはチハは全周25mmと無駄に装甲が厚く
しかもあの時代で傾斜面だらけ。重防御戦車だったんだよ。
>>686 そりゃ7年も新しい戦車なんだから勝ってて当然だろw
>>687 >>686 は
>>685 へのレスだと思う
>>682 チハの長さを考えればだいたい見当が…w
車体幅はU号並だが長さはV号並なんだぜ。
そして余分な長さの部分には丸々機関部が詰まってる。
重くなって当然だわな。
胴長短足だったんだね。
>>688 三号と同世代で重武装重装甲なんだから
三号と同じ長さで幅が縮まっても同じぐらいの重さになるのは当たり前では?
キチガイキタ━(゚∀゚)━!!
692 :
名無し三等兵 :2010/10/26(火) 20:14:07 ID:7oQ3AzhQ
なんかヘタにハ号やチハ作る前にランズヴェルクあたりから技術と設備の輸入をしたほうがいいんじゃ…… 溶接車体とトーションバー美味しいです(^q^)
そして戦車の名前がトルディになる。
余り語られる事のない仏戦車ですが、仏印にはホチキスH35かルノーR35は来てたの?それともルノーFTぐらいしか来てなかった?
信憑性までは分からんけど、タイとの紛争についての英版wikipediaだと仏印軍はルノーFT20両だけと書いてあるね
土浦でM24の実写見たけど凄いイケてる 存在感が写真や映画とは段違い ほぼ真向かいに展示されてる三式がすごく残念な子に見えてしまうのが なんとも…
日本軍が後半年でも徹底抗戦していれば日本本土で走るM24チャーフィーと待ち伏せ攻撃をする三式中戦車チヌが見られたかもしれない。 アイオワ級戦艦とボルチモア級巡洋艦、ミッドウェイ級空母、F8Fベアキャット、M24チャーフィーの生産数が少ないのは日本軍が余りにも実戦で弱過ぎたのが原因だ。
日本は、本土決戦をやらなかったおかげで、復興が早まり朝鮮半島みたいに、分断されなかった。とも言える。
騎兵と歩兵で似たり寄ったりの戦車を買っちゃうフランス(。∀。)イイ
戦車は歩兵のモノ、つって重装甲車使った日本も似たようなもんだ。 てゆーか当時はあちこちそんな感じだ。
バレンタインに巡航戦車Mk.IIの設計が流用されてたりするしな
バレンタインはいい子なのにヴァリアントは(ゲフンゲフン
>>698 アメちゃんは上陸地点に原爆をポイポイ投下する予定だったからな。日本の復興どころかアメリカでもアトミックソルジャーが問題になってカオスなことになってたはず。
ジャングルで無双状態のシャールB1bisを見たかった。
704 :
名無し募集中。。。 :2010/10/27(水) 22:04:03 ID:KImuwMFg
B1は武装と配置はM3そっくりだが、車体の75mm砲は左右射角ゼロだよ。 密林・軟弱地のジャングルでは、本当に真正面にしか撃てない75mmは ほとんど役に立たないでしょう。
>>702 ヴァリアントはイギリス人マジ嫌いらしい。
ボーヴィントンの実車の説明板のサブタイトルが
"One of the worst tanks ever built"
だからな…。
TOGとかもこんな書かれ方はしてない。
>>705 何でだろ?
走行装置の設計不備以外に何かあったっけ?
十分致命的だとおもうけど……。
>>706 ・たった13マイルテスト走行しただけで壊れ、その時点で操縦手が疲れ果てていた上、
操縦装置による負傷の危険を操縦種が感じる
・車体底部が低すぎて不整地を走るとサスペンションがダメージを受ける
・そのサスペンションの設計は失敗作
という欠点があるうえ、公式報告書からこの戦車の良い点を見つけ出せない・・・
ちなみにこの戦車、もともとは極東向けだったとその説明板には書いてある。
ただし"British and American Tanks of World War Two"ではこのサスペンション、
転輪がみな同じ大きさになって整備性と生産性が向上したと書かれており、
開発中止の理由もヨーロッパ戦線の終局が近づき、このような歩兵戦車の需要が無くなったためとしている。
英国兵器の例に漏れず、相変わらず使用者に嫌がらせか。
>>709 失礼な!変態エンジンで鍛えられていたからこそ、レンドリースのM4A4を不自由なく使いこなせたのですよ!!
ところで、第二次大戦中の軽戦車で皆さんがイチオシな軽戦車は?理由込みで 因みに私はスチュワートかな。軽戦車にしては走攻守のバランスが良いから。
>>674 何を踏んだんだろう
250kg爆弾くらい?
最初っからAPCBCが普通に支給されてりゃM3の評価も多少は変わったんだろうがねぇ
>>711 やっぱりWW2の軽戦車の理想形はチャーフィーだと思うんだ
高い機動性と信頼性、野砲並の支援火力、偵察車輌からの攻撃に対応してる防御。
40口径75mmを積んどいて’軽’戦車とかズルいよね(´・ω・`)
>>711 やはりM24チャーフィーだな。
後のM60A1/A3や74式戦車の原型とも言える近代的な戦車で、
台湾やデンマーク、パラグアイでは1990年代まで現役だった。
何故か本にはシャーマンの75ミリ砲より威力は落ちると書かれるんだよね 砲身長も初速も同じで砲弾も共通なのに
日本的には最高の軽戦車(偵察戦車)は……結局テケ車なんだろうな 軽便な砲(か重機)積んで、至近距離以外の小銃弾に耐えられ、簡易な支援体制で運用可能 しかし、軽戦車の限界が露呈した時期にテケをハ号で置き換えるしかなかったのは、もうどうしようもない…
あとテケ車は4t台しか無いから当時の貨物船でも楽に運べたってのも大きいだろうな
TKやテケは路上を長距離運行する場合にトラックの荷台に載せれたというのも大きいらしい (軽戦車以上は足回りに不安があっても自走必須) やはり無限軌道車は輸送の可否がネックだねぇ…
俺は38t軽戦車かな。装甲はペラリだが、大戦初期ドイツのV号・W号戦車不足を補ったから。
他所の国が軽戦車に見切りをつけていくなか M24のあとにまだM41を出してくるとか そんなにも軽戦車を愛していたのかアメリカ
他国の同時期ないしそれ以降の軽戦車 イギリス:スコーピオン フランス:AMX-13 ソ連:PT-76
ソ連って、T-70で軽戦車に見切りをつけたんじゃなかったのかな?
724 :
名無し三等兵 :2010/10/29(金) 10:11:28 ID:AbGM7xaI
アメの軽戦車は空挺とか海兵さん用だかんなぁ どうしてもって時以外は空輸できる装甲車両で済ませて ギリギリまでMBT引っ張り出さないのは現代まで続く伝統か
>>719 ルノーFTやカルロベローチェも、でかいタンクトランスポーターがいらないってのが美点のひとつなんだよな
>>723 PT-76は水陸両用だから、M41みたいなただの軽戦車とはちょっと性格が違う希ガス。
海軍歩兵にも配備されているし。
それをいうならスオーピオンも、シミターの火力支援型って考えると (セイバーへの改造を考えるとなおさら)、これまた違う気がする。 AMX-13もAMX-VCIの火力支援型(LAV-105とかストライカーAGS的な)って捉えると、 これまたちょっとちがう気もする。
>>729 ソ連は沼沢地とか大河川多いんで昔から水陸両用のAFVを必要としてたからな。
こういう状況だと火砲とかの追随が必ずしも保障されないんで
ワンパッケージになる戦車は便利なわけで
水陸両用にする都合上軽戦車になっちゃうだけで
本音は水陸両用の主力戦車が欲しいんじゃねえかと。
まあ各国の「軽戦車」てのは 軽い戦車って以外の共通項無いからね
いやそもそもアメリカの軽戦車だって別に代用戦車じゃないだろう。
>>730 >AMX-VCI
それはどう考えてもAMX-13が先だ。
AMX-13は植民地に送るための「戦車」以外の何物でもないよ。
>>734 順番はそのとおりだよ。
植民地警備用軽戦車なら、PT-76とはぜんぜん違うよなぁ。
純粋な軽戦車としてはT-70が最後でいいのか
だから純粋な軽戦車の定義ってなんだよw
※
>>647 補足
WWII緒戦の米極東陸軍・臨時編成戦車集団へのキャリアの配備数ですが、
フィリピン陸軍・軽機甲師団(PALAD)の公式サイトですと、
ユニバーサルorブレンガン・キャリアが15両(他部隊が何両装備したかは不明)となっていました。
又、マレー向けのキャリアを流用したというのはザロガ氏の「M3ハーフトラック」がソースですが、
上記サイトですと、香港守備隊のカナダ大隊向けに発送したものが開戦時にフィリピンに到着し、
カナダ政府との協議の後に、米極東陸軍が取得したとなっています。
どちらの説が正しいのかは分かりませんが、
太平洋経由だったということを考慮すると、本来は香港向けだったとするのがしっくりくるのかもしれません。
但し、フォード・カナダで製造されたキャリアが、
太平洋経由でマレーへ運搬途中であったという可能性もないとは言い切れませんので、
今のところは判断を保留しておきます。
米陸軍の公式レポートでは、
マニラへ到着した逃走英船からキャリアを40両取得したとなっており、
ブレンガンは付属していなかったそうです。
当初の計画案では機関銃を装備させた後、航空隊地上勤務兵を乗員として2個中隊を編成し、
スチュアートの作戦行動時に、偵察隊として活用するものとされていましたが、
そのような状況での使用機会は、ついぞ訪れることなく終わったそうです。
純粋=イロモノじゃない 空挺戦車・水陸両用戦車は除外 軽装甲・軽武装・高機動力 と言いたいところだがアメリカの軽戦車は火力重視なんだよね M3が開発されたころは主力戦車の備砲や対戦車砲も37ミリ級がメインだったし M24の開発が遅れたのは75ミリ砲にこだわったからだし
>>739 大規模な部隊による騎兵突撃ってWW2だと
初頭のポーランド軍だけかと思ってた…
>>741 日本陸軍の騎兵第4旅団が、44年に老河口作戦で老河口飛行場を占領したのが、今のところ史上最後の乗馬突撃の成功例だったはず。
あとは、イタリア騎兵が43年にソ連兵を蹴散らしたやつとか。
先進国同士以外じゃ、WW2終わったしばらくあとでも騎兵突撃がありそう…
>>742 中共と国府軍とかはそのあたり、どうなんだろ
スチュワートと一緒に騎兵が行動しててもおかしくない
>>743 確かに無いとは言い切れないね。
まぁ、一般的には『最後の¨大規模¨な乗馬攻撃の¨成功例¨』というと老河口作戦があげられる。
だから、¨小規模¨とか¨失敗例¨ならあるのかも。
745 :
名無し募集中。。。 :2010/10/30(土) 14:25:42 ID:+sAILfbG
支那の騎兵は数は多いが練度が低いから、ほとんど乗馬襲撃はできないよ 大陸では内蒙古軍騎兵の約半数と、国府軍騎兵1個師が乗馬襲撃できたらしい その他では馬はただの移動手段で実質乗馬歩兵だったようだ 馬も支那の騎兵の写真みると、昔の日本馬くらいの小型の馬格だし。
アフガンでは昔から馬に乗って、 RPGやAKで装備したゲリラ兵は居ないの?
ノモンハン事件の本に外蒙軍の馬は命令一つで姿勢を低くする訓練が施してあって、日本側が羨ましがったというエピソードが載ってたな。
748 :
突撃兵 :2010/10/30(土) 14:48:02 ID:???
北部同盟のドスタム将軍が米英軍の援護の下、タリバン相手に騎兵で突撃かまして壊滅させましたな。
>>748 アラブ土人共は馬に跨り槍を抱えていつまでも戦争をやってりゃいいんだよ。
西洋人様の拵えた超武器に手を出すから死人の数が多くなる。
アフリカのクロンボ共は腰蓑巻いて槍を抱えて以下同文
>>747 外蒙ってついただけで、なんか馬乗るのがうまそうなイメージあるなあ。
大陸で騎兵が消えたのはいつくらいなんだろ。レンドリース流用のスチュワートが
整備不良で消えるよりも後に違いないとはおもうがw
>>749 アラブ騎兵ならラクダの方が雰囲気が出ていていいぞ
ドイツの騎兵旅団も機甲師団とセットで側面守ったり活躍してるな。 ガソリン無しで機動性があるってのは重宝されるんだな
今じゃあモンゴル国より内蒙古の方がモンゴルらしいんだよな
人民解放軍の国境警備は今も馬使ってるところがあるね。 装甲車くらい買ってやれよw
>>754 馬は食われるだけで済むけど、
装甲車は転売される恐れが有るw
756 :
名無し募集中。。。 :2010/10/30(土) 21:41:55 ID:RgQt4xdB
>>753 え?
モンゴル(=外蒙)は確かに減っては来ているがまだ遊牧スタイルを多く残すし
モンゴル族が大多数を占めているが?
内蒙古は戦前ですら漢族の流入と遊牧地の奪取・農耕地化が激しく
漢族が8割以上を占めていた。
(だから漢族の侵略に反発する蒙古族の徳王らが蒙古連盟自治政府を作って
日本と協力したわけだが)
今の内蒙は更に漢化が酷く、95%以上が漢族に犯されてる上に僅かな蒙古族も
漢族化=農民化してほとんど蒙古と呼べない状態に陥ってるが・・・
>>746 ダグ・スタントン「ホース・ソルジャー」って名著が出てるから読め。
核のキノコ雲の下で騎兵が突撃する中国軍の広報映像があったはず。
逆に考えるんだ、燃料が他国から殆ど輸入の自衛隊では自転車部隊と騎馬隊が必要だと考えるんだ。
何のためにハイテクがあるんだよ 鹵獲スチュワートに、ソーラーセルと燃料電池載せて 地球に優しい軽戦車でヒャッハーするに決まってるだろ
>>741 英軍騎兵最後の突撃も42年3月18日、ビルマ・トングー近郊で日本軍に対して行われました。
Sandeman大尉に率いられたシーク騎兵が、塹壕内の日本兵を中国軍と誤認して接近したところを機銃で撃たれ、
即座に60騎でサーベル突撃を敢行したそうですが、塹壕へは誰も到達することなく倒されたそうです。
又、ポーランド騎兵は大戦末期の45年3月1日にも、
Borujsko飛行場で第1ワルシャワ騎兵旅団の所属部隊が騎兵突撃を行っており、
こちらは成功したそうです。
764 :
名無し三等兵 :2010/10/31(日) 03:15:05 ID:ZF3Y/Swa
a
765 :
742 :2010/10/31(日) 12:15:33 ID:???
>>742 今更だが、44年じゃなくて45年だったわ。
>>752 お馬さんは維持も補給も大変だから
油が乏しい時の代替手段としてはそれなりに有効なんだろうなぁ。
>>763 乙です
どういうシチュエーションで1945年に騎兵突撃やる羽目になったのやら…
大口径砲で撃たれたか
>>763 60騎というと増強1個小隊くらい?
ポーランド騎兵はどれくらいの規模だったんだろう?
騎兵が廃れたのって、機関銃や速射砲の発達も主な理由なのに…騎兵で死の火線突破出来るのかよ。
773 :
名無し募集中。。。 :2010/11/01(月) 22:08:06 ID:XJTReA/f
騎兵が廃れたのはそれらより早く、連発式=ボルトアクション式小銃の普及 で既に衰退してたよ。 ましてや機関銃の前には・・・
>>771 WW2ポーランド陸軍は開戦当初、11個騎兵旅団を有していた
多くの戦場で歩兵や砲と連携した戦闘を行い、ある戦場では
二個騎兵連隊が同時にドイツ軍相手に突撃をかけるなどもしたが
結局はドイツの優れた戦術と物量には通じず敗退
ちなみにポーランド騎兵が戦車に突撃を掛けた、と言うのは
確認されていない俗説なので注意
>>771 増強1個小隊というより、それまでの道中でも既に損害を出していて、半減してその数になっていたようです。
そして最終的に日本軍と中国軍を誤認したSandeman大尉が単騎で進み出て、
英語とビルマ語で「我々は英軍偵察隊だ!」と大声で呼びかけてしまったのが事の発端だったそうです。
Borujsko飛行場でのポーランド騎兵は2個中隊のようです。
ポーランド騎兵は装輪装甲車持ってたはず
>>776 装輪装甲車だけじゃなくて豆戦車も持ってる。
そして2個旅団は完全自動車化。
ポーランドは、ソ連と並ぶ装甲列車王国だった。
ドイツ相手じゃ全然足りぬ ポーランド侵攻作戦当時の保有師団数、300個師団オーヴァーだぜ
300個師団、300〜600万人か それだけ動員するのは葉書の枚数の問題でしかないが そいつらに与える被服やら装備やらを考えると大変だな。
782 :
名無し募集中。。。 :2010/11/02(火) 22:31:09 ID:vjEZfSrQ
それでもポーランドは開戦時30個師団を持ち、独ソを除けば中欧最大の 軍事大国だったんだけどね。 だからこそ祖国復活直後の過剰なナショナリズムとも相俟って貪欲な 拡張主義をとっていたわけで。
>>779 300個師団じゃなく300万人の間違いじゃないかと思うが
300万でも百数十個師団くらいか。ポーランド軍は30個師団だから
西の備えと国内軍除いても、どうにもならないなあ
元はドイツ、ポーランド、日本とかで対ソ包囲網妄想とかあったんだよなぁ ドイツとポーランドの関係も結構直前まで友好関係樹立の方向性で双方動いてたし
785 :
名無し三等兵 :2010/11/03(水) 05:13:31 ID:1cSPgusR
M3は日本陸軍にとってのTIGERショック
786 :
名無し三等兵 :2010/11/03(水) 09:46:19 ID:8YmyEi6/
>>785 どっちかって言うと、T34ショックじゃね?
ノモンハンでソ連のBTに衝撃、というほどにはM3のことは語られないね
788 :
名無し三等兵 :2010/11/03(水) 09:58:39 ID:8gGYodJm
えーとノモンハンでは、BTは「足は速いが速射砲で充分対処可能」とかじゃないの?
BT-5とかだと、チハたんよりも装甲は薄い 45ミリ砲の威力というか、数で負けた つかM3のスレでやるよりも、専用すれでさんざん愚痴ってる人が山ほどいる訳で
T-34にしてもM3にしても物凄く先進的で優れた戦車だったというのではなく、 単純に当時の主力だった戦車砲で対抗できなかったという意味では状況が似ているのかな
M3はともかく、T34はものすごく先進的で優れた戦車じゃないか?
T-34はエンジンがオーバーテクノロジーだったが、 それ以外は取り立てて先進的というわけではない。
>>787 むしろ衝撃を受けたのは「対戦車火器の数が足りてねええええ」ってことで
速射砲を一個歩兵大隊当たり4〜8門宛て装備させろ、馬が足りなきゃ迫撃砲を歩兵砲の代わりに分解担送しろとまで言ってる
同時に師団砲兵と重砲兵も拡充しろやと言ってたりする
(ソースは”「ノモンハン」事件より得たる地上部隊の編制装備に関する意見提出の件”。アジ歴に上がってる)
でも、戦車については冷淡
むしろ「戦車隊を計画数以上に増やすくらいなら対戦車砲を作れ。対戦車砲と肉迫攻撃に絶対的な自信を持てた」と言ってる
ノモンハンの実際の戦果見ればぐうの音も出ない程正論なわけだけどね…なんかね
日本陸軍は戦車砲の発射速度をかなり重視してたみたいだからね 戦車への大口径砲の搭載に懐疑的だったのも地上の同口径砲より発射速度が著しく落ちるからだったらしいし そう思って無かったら三式みたいなのをもっと早く作ってたのかね?(車体はチハ系列だし) でも47mmの一式ですら実戦配備が44年まで遅れたから大して変わらんか
>>793 そこで対戦車砲を自走化して数の不利を補おうとは考えなかったのかな?
>795 当時の日本の技術力と生産力では、自走化したら性能が落ちるし数も少なくなる。
>>798 対戦車ライフルでやられてしまうってだけで泣ける
800 :
名無し募集中。。。 :2010/11/03(水) 17:33:53 ID:JpCcUoW7
やられてないだろよく読めよ 結果的に放棄されたのは悪路でスタックしたからだ。
>>799 パンターでも同じ
寧ろ、この無双状態の活躍を見ろ!
デンマークには20mm砲搭載のバイクがあるから待ち伏せすればチハたん撃破できるかも……
ハ号タンはグアムでも活躍してる。。。 強いし可愛い!
良いこと考えた!ハ号の主砲だけ57mmにすれば、チハ要らねーじゃん。 それでチハの搭載砲をパワーアップすれば問題解決!
805 :
名無し三等兵 :2010/11/03(水) 19:36:53 ID:MDcKGlwV
海軍さんの陸戦隊のハ号か。ニューギニアに投入された唯一の日本戦車例だっけかな
逆にいえばハ号みたいな激軽戦車でも器材がないと 放棄しちゃう状況になるのが太平洋戦線
少し前に、ポーランド軍の事書いてあったが、ボフォース37ミリ対戦車砲1200門持っていたんだってね。日本はどの位持っていたの?
>805 95の砲だけ換えた→三式軽戦車 95にチハの砲塔→四式軽戦車
810 :
名無し募集中。。。 :2010/11/03(水) 21:44:03 ID:WQDwfpS7
>>808 生産数は、
94式37mm速射砲 3400門
1式機動47mm速射砲 2300門
94式だけでもさすがにポーランドよりは多いな
>>810 何と日本軍はポーランド軍よりも対戦車砲が充実しているぞ!
その割には米英ソ連軍の戦車に蹂躙された印象が深いのだけどw
812 :
名無し三等兵 :2010/11/03(水) 22:27:55 ID:Zo7pO163
しかもポーランドにはでかい海軍がない 海軍に突っ込まれた金を陸の近代化に回せたら…
てゆーかポーランドにとってのWW2っていつまでだよと。 あと人口とか。
>>795 歩兵学校の主張を通してたら九七式軽装甲車はそうなるはずだった。
大筋では戦車学校と騎兵学校も賛成してた。
日本に技術と金があれば、M8グレイハウンドをキャタにしたような車両になったはずで
軽装甲車系列が正当進化したらM18ヘルキャットになっただろう。
潰したのは技術本部と参謀本部だ。
>>795 資料に目を通してもらうのが一番いいわけだが
既存の装備でどうにかするって要求書だからね
これから開発しろとか呑気に言ってるような代物じゃない
>>815 結局銭が足りないからああなった、ってのがわかる資料だわな
>>806 西部ニューギニアには第36師団系列の戦車隊が入ってる。サルミとビアク。
ホーランジアの南洋第6支隊も戦車隊持ってたけど、実際にはパラオで分離残置。
なお、戦車ではないけど、飛行場整備用に伐開機が少々。
四式軽戦車とか乗りたくないなぁ…… 何か踏んづけたらひっくり返りそうだ
鹵獲スチュワートと鹵獲ブレンキャリアで構成された部隊とかが最強な国って 泣ける…
飛行機はそれなりなんだから 制空権が確保できてる戦場くらい、もっと直協すればよかったのになあ
戦車もだが陸軍は高射砲と高射機関砲がショボすぎ
822 :
名無し三等兵 :2010/11/04(木) 02:28:57 ID:TMfZ7E3g
>>792 エンジンはイタリア製イスパノイザのデッドコピーのディーゼル化じゃない
旧日本陸軍って、太平洋戦争後期のイメージが強いせいか、白兵戦重視って感じだが意外と火砲重視なんだよね。
>>824 正直金が有ったらもっと火力重視だったと思うな。
当時の陸軍の考えていた内容を実現出来るような国力が
日本帝国には無かった、と言うのが現実だけどさ。
まあ南方戦線には重火器を輸送できなかった面もあるからなぁ コレヒドール攻略とか制海圏があれば砲を持ち込める訳で
どの本だったか今確認できんけど、WWTで各国が毎日十万発単位で砲弾作ってるのに 日本は月産十万発で火力で伍する事に絶望したって話があったなぁ・・・泣けるわ
歩兵操典なんかでも、「火力で制圧してから」突撃ってことになってる。 本来は勝利を確実にするための「詰めとして突撃」だった。 で、問題は火力で制圧できなかった場合。 操典の原則に従うなら、制圧できるまで火力を追加投入すべきはずが そんな火力がなかったという・・・
>>827 乃木将軍が旅順要塞攻略開始3日目で砲弾を使い切ってしまって
その量が日本の砲弾生産量の1月分だったのを思い出した。
昔から火力重視なんだけど国力がついていかないんだよなぁ。
大和の46cm砲、旅順攻略時の28cm砲。日本人って巨根イヤ巨砲コンプレックスか?
>830 数(体格)の劣勢を質(火力)でカバーするって、いたって順当な発想。 日本以外でも、例えば冷戦期の戦車砲が85-90-100-105-115-120-125と 大口径化していったのもまた同じ。 そこにコンプレックスを見出すのは、あなたが抱えるコンプレックスゆえのこと。
海軍は以前は速射砲大好きだったのに いつのまにか遅漏になってしまった
やっぱり速射砲じゃ、艦(彼女)が満足しないからじゃない?
>>832 日本に於ける速射砲全盛期って日清戦争限定だな。
以降は敵の同種より大口径が基本方針。
日露でも第二艦隊が速射砲でボコボコにしてるけどね
>>835 相手側にも同種武装があったので
速射砲の手数で勝ったのではなく、砲員の練度で勝ったのだよ。
そもそも第二艦隊の装甲巡洋艦の8インチ主砲は
両軍の戦艦の一部よりも射撃速度が低く(両軍とも世代が色々あるので)
対するロシアの装甲巡洋艦の主砲は
大半が6インチ級速射砲だったんで第二艦隊は手数面では勝るところが無い。
>>833 女にかけては一流のイタリア様が最近になってスーパーラピッド砲を作ってるのでそれは無いw
より遠くに飛ばす155ミリAGSも知らないなんて、おっくれてるー
>>838 ヴォルケーノ長射程砲弾もあるのでイタリアに死角なし
ってかここスチュアートスレだよね?
長文の人がきたら本題に戻るし、まあいいんじゃない
男と一緒で、対戦車砲弾は太くて固い砲が良いの?
842 :
名無し募集中。。。 :2010/11/04(木) 22:10:47 ID:yddMBBDn
>>836 装甲巡洋艦の8インチ主砲は曲がりなりにも無煙火薬の現役世代砲。
ロシアの装甲巡洋艦の主砲は大半が6インチ級速射砲だったといっても、
露艦は8インチ砲が無いか黒色火薬を使った旧式砲だったという話で、
艦あたりの6インチ砲(当然"速射砲")門数はやや少ない程度。
装甲巡の数では多いから艦隊レベルでは6インチ砲でも勝っている。
ロシアの装甲巡が日本より勝っていたのは、一部艦(グロモボイ級)で
屯数と装甲と副砲数がやや上だったけど、あとは全てにおいて日本艦に劣るよ。
速射砲主義だったのは日清の時でしょ。
清国艦艇の備砲の大部分は黒色火薬を使った旧式砲だから発射速度が段違い。
ロシアの装甲巡洋艦は、規模としては二等巡洋艦程度までのが多いからな。 直接の戦闘性能ではかなわん
勝つだけならともかく、完勝したからこそ 日本海海戦が伝説になった。 ヴィレルボカージュのヴィットマンもすげえなあ
>>844 それを言うならバルジの戦闘でのグレイハウンドでティーガーIIを
撃破した37mm砲も同じように凄い、と何とかM3系列に話を戻そう
と試みてみる。
ネットで97式軽装甲でM3を仕留めたって話を読んだ記憶
戦後の自衛隊にM3スチュアートが供与されなかったんだ? 偵察や歩兵支援だけにはまだ使えたのでは?
チャーフィーがあるから要らない子だろ
>>842 誤解が多重です。まず装薬は事実上無関係です。
地上戦ではなく、それなりに速度を出す艦船ですから砲煙は殆ど影響しません。
つまり無煙火薬である必然は無く、そして日清戦争のときの日本軍も黒色火薬です
日本のコルダイト制式採用は日清戦争の後ですから。
つまり黒色火薬時代の火砲で射撃しているというのは両軍とも同じです。
そして日露戦争の時には両軍とも、この黒色火薬時代の火砲に綿火薬系のコルダイトを使ってました。
この時代の火砲で黒色火薬系火砲とコルダイト前提火砲で何が違うかというと砲身の長さです。
黒色火薬ですとあまり高初速が出せませんから、比較的単砲身になるだけで
速射砲としての基本構造は全く何も変わりません。また黒色火薬前提火砲でコルダイトを使っても問題はありません。
例えば手元に40口径12センチ速射砲の説明書があります。
日清日露両戦争で活躍し、後には薩摩や河内といった戦艦の副砲や磯風型駆逐艦まで使われた息の長い大砲ですが
そこには装薬がブラックパウダーであることが記されてます(元々イギリス製の大砲ですから)
もちろん、薩摩の頃にはコルダイトに変えてますが。黒色火薬時代の大砲なんて普通で旧式でも何でもありません。
>>848 だったらM24チャーフィーをライセンス生産しろよ。
>>850 当時の日本に高額のライセンス料金払うだけの余力は無いだろ。
>>847 自衛隊の前身 警察予備隊が創設されたのが、朝鮮戦争の最中じゃなかった?スチュワートの出る幕は無いだろう。
ていうかただで沢山くれるわけだしな。
>>854 それでも足りないから、
アメリカからM4A3E8シャーマンとM41ウォーカーブルドックを貰って、
国内配備しても61式戦車の開発と生産をしたのだろうが。
61式とパーシング、どっちがつおいの?>< って以前初質で聞いてた奴を思い出した
M3 37ミリ、ラインメタル37ミリ、九十四式37ミリ、ボフォース37ミリ、この中で対戦車砲として優れているのは?
ウォーカーブルドックっていうほど配備されてないじゃん
>>857 とりあえず威力だけ見ればアメリカ製の37mmが強力だわな。キャニスター弾で突撃阻止ができるのも魅力。
【砂漠のカモノハシ】※
>>293 の補足です。
1942年3月迄に、シリア駐屯の豪州3個師団の内、
第6&7師団は対日戦に投入されるべく、帰国の途に就きました(但し、第6師団主力は途中でセイロンへ振り向けられます)。
その結果、第9師団騎兵連隊が中東で唯一の豪州機甲部隊となります。
AWMには、エジプトで撮影されたスチュアート・T-37603号車の2枚の写真が収蔵されていますが、
同車の初期の動向は判明しておらず、恐らく、41年遅くか42年初めに中東へ到着したものと推測されています。
そして、42年7月には第6王立戦車連隊A中隊に所属していたことが記録されています。
この時期、同中隊はBulimba作戦に参加する豪州第9師団へ配属されていました。
そして、7月19日に、同師団騎兵連隊へ9両のスチュアートが引き渡されます。
しかし、受領した車両を豪州軍が検査したところ、使用に耐え得るのは5両のみということが判明しました。
その他に、クルセーダー等も供与された結果、7月末の同連隊の戦力は以下の通りとなりました。
クルセーダー:7両
スチュアート:5両
キャリア:70両
10月の第二次エル・アラメイン戦時の連隊戦力は
>>293 の通りで、
5両のスチュアートは、C中隊の第13&14小隊へ配属されています(第13が3両、第14が2両装備です)。
43年1月、第9師団騎兵連隊は帰国の途に就き、装備車両は英軍へ返納されました。
そして、その後のスチュアート・T-37603号車の足取りは全く不明となります。
42年8月8日、エジプト。第9師団騎兵連隊のスチュアート・T-37603号車。
ttp://cas.awm.gov.au/item/024793 同日、頭上で繰り広げられるドッグファイトを観戦中の同連隊員。
ttp://cas.awm.gov.au/item/024796 7月10日、エジプト。同連隊所属のクルセーダー。
ttp://cas.awm.gov.au/item/024483
第二次大戦後に、実戦で使用されたM3/5スチュワートってあるの?
>>860-861 いつも乙です。
レンドリースでソビエトに送られた後のM3はどうなったんだろう
あれだけ送ってるなら戦後にも生き残ってそうだが
金門島の時は、チャーフィーやウォーカー・ブルドックやパットンじゃないんだ。
>>865 M5軽戦車を巧妙に配置して撃退。策案したのは旧日本軍の根本中将。
>>866 旧日本軍出身の将校とその配下の部隊が日本軍の時代では使った事の無い、
より高性能のM5軽戦車を使ったのか。
>>867 いや兵隊は台湾人。根本中将は戦後台湾に顧問として呼ばれた。
>>868-869 微妙に違う。白団は蒋介石が岡村寧次ルートで手配した国軍養成の軍事顧問団だが、根本中将はまったくの押しかけ助っ人だ。強いけど…
根本中将って内蒙古の根本中将か
>>861 ニューブリテン島の@に旧蘭印軍の装輪装甲車が写ってるのがあるけど、
これの配備先や進出過程というのははっきりしてるのでしょうか?
>>873 私も知りたいのですが、分かりません。
ジャワの日本軍は45年の段階で、188両の旧蘭印軍各種装甲車両を使用していたそうです。
余談ながら、蘭印軍での“Stadswacht overvalwagens”の配備数には以下のような説があります
(“Army overvalwagens”の配備数は私は知りません)。
@スマトラ:12両(Koeta Radja :2両/パレンバンI 空軍基地:2両/パレンバンII空軍基地:3両/メダン:5両)
Aボルネオ:19両(ポンティアナック:1両/シンタン:1両/バンジェルマシン:2両/シンカワンII空軍基地:1両
サマリンダ:2両/サマリンダII空軍基地:2両/バリクパパン:3両/タラカン:7両)
Bセレベス:7両(メナド:3両/マカッサル:0両/ケンダリー空軍基地:4両)
Cアンボン:7両(アンボイナ:4両/ラハ空軍基地:3両)
Dチモール:3両(クーパン:2両/Tenaoe:1両)
Eジャワ:40両(Eenheid Mobiele:16両/Cav 6:9両/Mariniers Soerabaja:7両/Tjilitan + Kemajoran:6両/Tjepoe:2両)
Fバリ:2両
合計:90両
なるほど。 Eenheid Mobieleというのが、マーモンヘリントン軽戦車なんかも持ってた主力機甲部隊でしょうか。
>>875 KNILで唯一の戦車大隊(ヴィッカース軽戦車17両、マーモン・ヘリントン軽戦車7両)を持っていたようです。
【42年3月1日時点での蘭印軍装甲車両】 ※あくまで一つの説です。
@ヴィッカース水陸両用戦車:2両(ボルネオ西部に展開、喪失)
Aヴィッカース軽戦車:20両(ボルネオで3両喪失) ※24両という説あり。
Bマーモン・ヘリントン軽戦車:20両 ※20〜24両という説あり。
Cアルビス・ストラウスラーAC3D装甲車:12両
DM3スカウトカー:40両
Eマーモン・ヘリントン装甲車(南アフリカ製):49両 ※行動可能車両は27両。但し、全車両行動可能との説あり。
F謎のマーモン・ヘリントン偵察車:1?両
G各種Overvalwagens:150両近く ※但し、50両近くを他島で喪失したと追記されています。開戦時は200両近くだったということでしょうか?
※他に英軍が16両のヴィッカース軽戦車+6両の謎の車両(恐らく、ヴィッカース軽戦車の対空型)、
キャリア、ハンバーLRCを持ち込んでいます(マーモン・ヘリントン装甲車も使用しているとの説があります)。
>>875 人口数千万の植民地を守るには
あまりにも弱体な兵力だな。
調べてみたが歩兵や航空部隊もそんなに蘭印には展開してないし。
もうナチス・ドイツに占領されてるしね。
879 :
名無し三等兵 :2010/11/06(土) 19:20:14 ID:Fd4WHa3D
37mm砲の榴弾火力ってどのくらいだろうか?
37mm榴弾じゃ炸薬量100gも無い 普通の手榴弾が炸薬量100g以上あることを考えたらかなり威力小さいんじゃないだろうか
857か。まとめて質問してくれよ
>>872 そう。その時に「中国領内で」邦人がなにごともなく撤退できたのは蒋介石の御陰だてんで、助っ人に駆けつけた。
当時の日本の戦車兵をM7中戦車に乗せたら何と言うだろう
【忘れられた戦線】
1940年10月、第4王立戦車連隊・B中隊は、英本土から東アフリカ戦線・エリトリアへ急派されました。
16両のマチルダがポートスーダンで陸揚げされ、カッサラ南へ鉄道で運搬されます。
そこから路上を東方へと向かい、130マイルの行進後、41年1月30日にアゴルダトへ到着しました。
アゴルダトへ到着するやいなや、マチルダはイタリア戦車13両を撃破します。
砲手の一人は、3両のイタリア戦車が1発の2ポンド砲弾に貫かれるのを目撃し、
伊軍戦車の装甲をブリキのようだと感じました
(※これは砲手の証言で、実際にこの3両の伊軍戦車を調査して同様の結論に達したのかは、私には分かりませんでした。
又、アゴルダトにはM11/39とL3/35がいたようですが、撃破された戦車13両の内訳は分かりませんでした)。
この間、マチルダには機械的なトラブルが数限りなく生じましたが、要衝ケレンへと向かいます。
ケレンへの道程は、戦車にとって絶望的な地形でしたが、考えうる全ての任務にマチルダは投入され、
ある時は爆薬や砲弾を運搬し、又、別の機会には、イタリア軍火点を暴露させる囮として使用されました。
しかし、この山岳地帯でイタリア軍は頑強に抵抗し、ケレンが陥落したのは3月27日になってからでした。
4月1日、アスマラの伊軍守備隊長が、剣と旗を両手に捧げながら、Hick軍曹の小隊に降伏しました。
4月8日、紅海に面するマッサワへ、マチルダは先鋒として突入し、エリトリアでの作戦は終了します。
※40-41年、東アフリカ戦線におけるマチルダの写真・イラスト。
但し、一番下の写真は、北アフリカ撮影か東アフリカ撮影か判明しないとなっています。
ttp://www.societyofgentlemengamers.org/viewtopic.php?p=36685&sid=a1722f3e77618e507441f20e55c77301
マチルダのアゴルダト到着に先立つこと9日の41年1月21日の夜明け、 英軍は、ケル(アゴルダトよりスーダン寄り)で伊軍騎兵(植民地軍)の突撃を受けました。 この日の夜明け、朝もやの中をグイレット大尉の率いる伊軍騎兵250騎(500騎とする説もあります)が、 第4/11シーク連隊と“スキナーズ・ホース”の装甲車隊の側面を通り、 英軍旅団司令部と“サリー&サセックス・ヨーマンリー”の25ポンド砲列へと突撃します。 英軍部隊に手榴弾が投げ込まれ、何名かは剣で切り倒されました。 周辺は「警報!戦車!」との半狂乱の叫び声で満たされ(もやの中、英軍は戦車に襲撃されたと勘違いしたのかもしれません)、 伊軍防塞へ向けて砲列を敷いていた25ポンド砲は、慌てて目標を新たな敵へと転換します (※“スキナーズ・ホース”の装甲車隊は、戦車とする記述もあるのですが、戦後の1946年に受領したスチュアートが、 同隊初めての装備戦車ですので、戦車説は怪しい感があります)。 砲は25mの至近距離で火を吹き、伊軍騎兵を薙ぎ倒しましたが、 友軍のシーク連隊と“スキナーズ・ホース”のど真ん中でも砲弾が炸裂しました。 数秒後には、騎兵はワジへと姿を眩まし、英軍陣地には、伊軍騎兵180名以上の戦死体が残されました (※翌年、東部戦線で騎乗突撃を敢行する、サヴォイア竜騎兵連隊指揮官のベットーニ大佐は、グイレット大尉の親友でした)。
3月のケレンからの撤退時、グイレット騎兵大尉は英軍戦車3両、トラック5両を撃破して血路を開きます (※脆弱なヴィッカース軽戦車は、ケレン近辺には存在しなかったようで、戦車というのはキャリアなのかもしれません)。 5月、大尉の友人で後援者でもあったアオスタ公が、東アフリカ駐留イタリア軍と共に降伏しました。 しかし、大尉は降伏せず、英軍補給所や橋梁を爆破し、電話線を切断するなど、ゲリラ戦を展開しました。 当初、英軍は現地住民の仕業と思っていましたが、事情を把握後、大尉の身に生死を問わず1000ポンドの賞金を懸けます。 その後、大尉は紅海を渡って、中立国のイエメンへ脱出することに成功しました。 43年、変装して再びエリトリアへ潜入し、 英兵捕虜とイタリア民間人の赤十字交換船で、故国イタリアへと帰還します(休戦数日前に到着)。 そして、戦争の残り期間を情報将校(南王国軍)として過ごしました。 戦後は外交官を務め、今年の6月16日に101歳で死去しました。
大戦初期の英国戦車で、重装甲なのはマチルダだけ?バレンタインは、巡航戦車同様ペラり?
>>888 最大で50〜60mmだから薄くはない。登場時期を考えれば中の上くらいじゃないかな?
何故マチルダのキャタピラーにはスカートが付いてるの?
891 :
名無し募集中。。。 :2010/11/10(水) 22:14:45 ID:ahjIPUq7
>>889 65mmでしょ。マチルダより薄いがまあまあ厚い部類だね。
低速だが足回りのせいか機動性がマシだったのかね?
>>891 ソ連じゃ偵察に使われたくらいだから不整地で機動性はよかったんじゃないかな。
893 :
名無し三等兵 :2010/11/10(水) 22:57:54 ID:L8/GHxzd
ソ連はバレンタインを絶賛してる。どうしてかは知らない
>>887 大尉が格好良いw
>>893 機械的信頼性の高さからでしょ
性能の割には軽量だし使い勝手も良かったんでしょ
いつでも使える。戦場のど真ん中でエンコしない。 これって凄く大事な性能だよな。
T-34ってイメージと違って実際は故障しやすい部類の戦車だしね
伊騎兵って東部でも健闘してるし優秀だなぁ。。。
ロシア軍戦車の稼働率はどれ位だったのだろうね。 かなり悪そうだけど、数でカバーしたのかな。 中でもKVはかなり苦労してそうだなあ。
KVは対戦初期には稼働率が半分以下だったとか ソ連戦車兵がレンドリースのシャーマンなんか乗った日には、その信頼性に驚いただろうな
戦闘中の故障はこまるけど 戦場に移動中の故障は歓迎だね
ロシア軍でそれをやると・・・ シベリアで樹を数えるハメに・・・
つまり、きちんと行軍できて、戦闘中にも故障しない。 でも速度が遅いから突撃で突出することも無い 素晴らしい戦車だな。
>>899 オスプレイのシャーマンだったかな、シャーマン中隊とパンター中隊の稼働率の差が、
実際の戦闘時の戦力に大きく影響してた、とか書いてあったの
稼働率云々以前に、シャーマンは数が圧倒的なような気がするね。
>>904 数にさらに稼働率のレバレッジがかかってたゆうはなし
【消えた戦車兵】 豪州軍がマチルダの実戦運用を開始したのは、正式には1943年のニューギニア戦線からでしたが、 遡ること2年の41年5月、クレタ島・レティモ守備の豪州軍指揮下には、 マチルダ2両を装備した英軍戦車分遣隊がありました。 レティモには、クレタ島の3つの飛行場の内の1つがありました。 レティモ守備隊の指揮には、豪州軍・第2/1歩兵大隊指揮官のCampbell中佐が当り、 その戦力は以下の通りでした。 @オーストラリア第2/1歩兵大隊 Aオーストラリア第2/11歩兵大隊 B4個のギリシャ軍・即成歩兵大隊 C800名のクレタ警察官 Dオーストラリア第2/3野砲連隊の1個中隊(イタリア軍から鹵獲した100mm砲を4門、米国製75mm砲を4門装備) Eオーストラリア機関銃大隊の2個小隊 Fオーストラリア野戦工兵の1個分隊 G第7王立戦車連隊・B中隊からの分遣隊(マチルダ2両装備) ギリシャ歩兵は全員徴集兵で、装備・錬度共に劣悪で、兵器の殆どは19世紀の代物でした。 Campbell戦隊は、ギリシャ本土から撤退した4月末から同地の守備に就いていましたが、 戦車分遣隊は、5月17-18日になって漸く到着しました。
2両のマチルダは、特火点として飛行場脇にダッグインさせる予定でしたが、 この案にCampbell中佐は同意せず、機動予備として飛行場南西のオリーブ畑に秘匿されます。 これらのマチルダは、リビアで使い古されており、燃料や弾薬の予備はありませんでした。 5月20日08:00に、ドイツ降下猟兵のクレタ侵攻が始まります。 しかし、レティモ飛行場は当初は手付かずで、さほど激しくない爆撃と機銃掃射を受けるだけでした。 16:15頃に、飛行場近くの海岸へのパラシュート降下が確認されます。 その際、対空射撃で独機9機が撃ち落されました。 降下猟兵は奮闘の後、空港を見下ろすA高地を占拠しました。 17:15頃、Campbell中佐は、A高地攻撃の支援に当るよう戦車隊へ命じます。 しかし、高地周辺は、戦車が路上を外れて進むのは不可能な地形で、 1両のマチルダは飛行場北の溝の端に乗り上げ、もう1両はワジの中に滑落しました。 戦車分遣隊長のSimpson中尉は、戦車から降りる際に機銃で殺害され、 他の乗員は車内に留まらざるを得ず、マチルダはA高地での戦闘に全く関与出来ませんでした。 22:00、降下猟兵はA高地の殆どを掌握し、マチルダの乗員は全員捕虜となりました。
第2/1大隊・C中隊が、ドイツ軍が一時的に保持した飛行場を奪取し、 第2/1大隊がA高地、第2/11大隊がB高地へ払暁攻撃を仕掛けます。 第2/1大隊はギリシャ歩兵大隊の支援が無かった為、後退しましたが、 第2/11大隊はB高地から降下猟兵を一掃しました。 5月21日の朝遅くに、豪州軍はA高地の奪取に成功し、 引き続き生じた戦闘も含めて、約140名のドイツ兵を捕虜としました。 22日、豪州軍はオリーブ油工場を攻撃して敗退し、 第2/1大隊所属の歩兵中隊は、飛行場近辺へ下がりました。 マチルダが擱座していた飛行場北の地点は、再び連合軍の手のものとなり、 早速、豪州軍は戦車の復旧作業に当ります。 間に合わせの乗員は、第2/1大隊のキャリア小隊から抽出されました。 そして、第2/1大隊・B中隊が、ワジに滑落した2両目のマチルダの復旧作業に当ります。 24日06:00、最初に復旧したマチルダが、オリーブ油工場の偵察に向かいますが、 ドイツ軍は沈黙したままで、何事も起きませんでした。 18:00、マチルダはMason中尉(車長)とHuckett軍曹(操縦手)の2名を乗員として、 再び工場へ偵察に赴きます。 帰途、連合軍の前線近くで、一人の豪州兵に呼び止められました。 Huckett軍曹がハッチを開けて応対したところ、この豪州兵は腕を負傷していました。 その後、彼は腕を失いました。
5月25日の払暁攻撃案で、 Campbell中佐は、第2/11大隊の支援にマチルダを1両割り当てることにします。 しかし、攻撃は延期され、マチルダは第2/1大隊のもとへと戻りました。 夜間、このマチルダは、ワジに滑落したままの僚車の復旧作業に使用されますが、 多少、動かすことが出来ただけで、2両目のマチルダは相変わらず溝に嵌ったままでした。 26日05:30、マチルダは、Pervolia村への第2/11大隊の攻撃支援に当りました。 しかし、べサ機銃が弾詰まりを起こし、他に支援砲火の無いまま攻撃は中断し、延期されます。 11:00、べサ機銃の修復が成り、マチルダは飛行場東のオリーブ油工場への、 第2/1大隊・B中隊の偵察行の支援に当りました。 偵察員が接近すると、工場の建物から散発的に銃撃を受けました。 マチルダが機銃射撃で支援に当る中、豪州兵は建物へと殺到し、 1名の負傷者を出しただけで、工場を占拠します。 そして、半数は負傷者から成る80名のドイツ兵を捕虜とし、捕らえられていた連合軍兵士を解放しました。 その中には英軍戦車兵も含まれていましたが、何日間も間断ない砲火に曝されていた上に、 数枚のビスケットしか与えられていなかったので、彼らの体調は悪化していました。 その間、ワジに嵌っていた2両目のマチルダが復旧しましたが、 解放された英戦車兵は、身体的に戦車の運用は出来ない状態でした。 そこで、この車両も、俄仕込みの豪州兵が運用することになります。 1号車には、第2/1大隊のLawry中尉が車長となり、第2/3野砲連隊の3人の砲手が一緒に乗り込み、 2号車は、第2/11大隊のBeddells中尉が車長となり、第2/3野砲連隊の2人の砲手が乗員となりました。 今までとは異なり、砲手が乗り込むことによって、2ポンド砲が使用可能となりました。
5月27日05:25、第2/11大隊はPervoliaへの攻撃を開始し、 2両のマチルダが支援に当ります。 Lawry中尉のマチルダは大隊左翼を支援していましたが、 1発の対戦車砲弾が右側面を貫通しました。 砲手が戦死し、他の乗員は炎上するマチルダから脱出する際に、酷い火傷を負いました。 右翼のBeddells中尉の車両は、海岸の縁に沿って移動していました。 ドイツ軍陣地に正対した時に、地雷が爆発して履帯を損傷し、キューポラには迫撃砲弾が命中します。 中尉は車外へ出ようとハッチを押し上げましたが、その際に、機銃の掃射によって指を数本失いました。 乗員の生存者は全て負傷していました。 マチルダの喪失によって豪州歩兵への支援は微少なものとなり、攻撃は再度中止されます。 この攻撃で、戦隊は人員・弾薬をかなり消耗しました。 28日、Pervoliaの奪取が再度試みられ、豪州大隊が村を確保しましたが、 大隊の戦力はかなり消耗しており、短時間で撤退へと追い込まれます。
乙です。ドイツ軍相手だとニューギニアみたいにはいかんねえ
クレタ島のって有名な石垣迷彩だよな
>>ニューギニアみたい こののち独逸占領下のクレタ島は、孤立してしまうわけですが、孤立した島嶼ですんで 当然、食糧が入ってこなくなり「飢え」が始まります。。 パレードに出たら食糧増配とか空腹で歩哨が立ってられないので座って良いとか 涙ぐましい配慮が行われてる。 ニューギニアと違って飢餓線すれすれで終戦を迎えてるから餓死者は出なかったようですけどね
【砂漠の最初の一発】
“イタリア人よ、武器をとれ!
そして諸君らの頑強さ、勇敢さ、雄々しさを示すのだ!”
1940年6月10日19:00、ヴェネチア宮殿のバルコニーから、
ムッソリーニは対英仏参戦を声高らかに国民に宣言します。
しかし、リビアのイタリア軍部隊末端にまで、
即座に通知されたかどうかということは、別の次元の問題でありました。
夜の闇の中を、リビア-エジプト国境へ、
英軍・第11軽騎兵連隊のロールス・ロイス装甲車の隊列が、密かに接近していました。
彼らは国境沿い400マイルに渡って敷設された鉄条網へと車両を進めます。
操縦手は、錆び付いた鉄条網へ装甲車のボンネットを押し付け、
ゆっくり着実に、前に後ろにと車両を動かしました。
すぐに鉄条網は伸び切り破壊されましたが、電流が流されていることは明らかでしたので、
ゴム底靴を履いた乗員が残骸を押しのけ、支柱を引き倒し、通行用の切れ目を作ります。
それから、彼らはリビア領内深くへ車両を走らせ、電話線を切断します。
そして、用心深くMaddalena砦へ接近しました。
Clarke曹長は、1両のトラックが砦へ向かっているのを発見します。
英軍はヘッドライトを照射し、発砲しました ─これが北アフリカ戦での最初の一発となりました─。
6月12日の夜明け、装甲車隊は損害無しにエジプトへ帰還しました。
彼らは多数のイタリア軍野営地とトラックに銃撃を加え、
当惑しきった70名のイタリア兵士を捕虜にしていました。
※第11軽騎兵連隊所属のロールス・ロイス装甲車
ttp://www.flamesofwar.com/Portals/0/all_images/Historical/DR-11th-hussars-Rolls-Royce.jpg
ラットパトロール思い出した
921 :
名無し三等兵 :2010/11/13(土) 08:58:03 ID:pGcWLJQf
ラット・パトロールって、ジープに機関銃だったよね。その機関銃がM1910かM2かは分からないが。コンバットにも助手席に機関銃を積んだジープが出てきた。
懐かしいのう
【真昼の決闘 “雄羊”vs“鼠”】 英第22機甲旅団は、隷下の3個機甲連隊全てがクルセーダーを装備しており、 クルセーダー作戦時は、“砂漠の鼠”こと第7機甲師団の指揮下にありました。 1941年11月19日(作戦2日目)の正午、旅団は156両の戦車をもって、攻勢を開始しました。 攻撃衝力は、ビル・エル・ゴビの伊第132機甲師団“アリエテ”の守備陣地へ向けられましたが、 英軍は、これを組し易い相手と見ており、ガザラへの扉は簡単に開けるものと楽観視していました。 それまでの激しい雨で、一帯の地面は泥土化しており、 その中を、47mm対戦車砲と第132砲兵連隊・第2大隊が英軍を待ち受けていました。 守備陣地は巧みに構築・偽装され、効果的な斜射が可能でした。 思いも寄らなかったイタリア軍の奮闘により、 右翼への英戦車隊の攻撃は頓挫し、中央は僅かに前進したのみでした。 左翼には、ベルサリエリ部隊が丁度到着したところで、 この部隊は開けた地で、即、戦闘に突入する破目に陥ります。 幸いに、対戦車砲と砲兵の支援があり、態勢を整えますが、 それも一時的なものでした。 13:30、左翼の守備が崩れ始め、守備隊は英戦車隊に包囲されます。 いくばくかのイタリア兵が投降してきましたが、 英軍は誰一人として、イタリア兵の投降を受け入れようとはしませんでした (第22機甲旅団には、規模の大きな歩兵部隊の支援がなかったことが原因でした)。 仕方なく投降兵は砲のもとへ戻り、再び戦闘を続けました。 このようなことは砂漠での戦闘方針として、珍しいことではありませんでした。
927 :
名無し募集中。。。 :2010/11/13(土) 18:24:29 ID:Eump8n3d
これ、47mm対戦車砲って1号対戦車自走砲に積んでたのと同じやつかな (確か戦利品をイタリアに有償供与してたよね) ベーラー砲だったら凄いな、2ポンド砲以下の性能しかないにようやるわ…
>>925 いつも乙です
海軍砲搭載のトラックは現地改造兵器だったんですか?
調べてみたところ、この戦いでの活躍ぐらいしかなかったもんで…
>>932 情報ありがとうございます。
おかげさまで、初めて実車の写真を目にすることが出来ました。
いつもネタ上げてくれてる人ありがとう。
砲自体はこれだろうと思う。元は英の4インチ艦砲だとか。
ttp://www.navweaps.com/Weapons/WNIT_4-35_m1914.htm 載ってるクラス名と通っているクラス名が違うんだけど、
昔の水雷艇(と言う名の小型か旧式の駆逐艦)やら潜水艦とか
特設艦艇(元首相ヨットで通報艦じゃないかと思う)とか
に使ってて、陸上施設にも配置されてる位だから古くて数があったんだろう。
艦載型は45度までしか上がらないから対空は無理っぽい。
英が対空砲トラックに載せてたのは知ってるけど、
WW1で自走砲組むあたりイタリアも進んでたのだろうか。
開戦当初戦術面では遅れてたとか聞いてたけど。
日本は75mmをノモンハンだかどっかあたりになって砲車ごと載っけてたな。
935 :
名無し募集中。。。 :2010/11/14(日) 18:17:38 ID:qFzUtht3
>>931 幼稚なトラックに105mm砲載せてまともに撃てたのかね?
チャレンジ精神だなぁw
>>934 日本軍はトラックに火砲を固定した自走砲は作らなかったけど、
臨時的に載せた物は作ってるよ。
自動貨車に41式山砲をのせた"貨車山砲"は満州事変から使ってる。
車上射撃も下車射撃も可能なものです。
ラットパトロールは、.50口径搭載でドラマ化したけど。 うちのオヤジは、.50は多分無理だって言っておった。 砂丘は、ジャンプするほどの勢いで登れないので、多分あれは見えない側に板を敷いて撮影してるとも。
米軍には、ラットパトロールみたいな、ジープに機関銃を搭載して、敵を襲う部隊ってあったの?それとも架空の部隊?
>>933 『ジャーマン・タンクス』には似たような車両として75mm高射砲を搭載したものが紹介されてるね。
>>937 あれはイギリスの長距離砂漠挺身隊やその後進のSASのベースに作っているのでは?
長距離砂漠挺身隊関係なら、小説だけど『砂漠の狐を狩れ』(スティーブン・プレスフィールド著)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4102172319 がお薦め。とにかく色々苦労しまくる。
個人的には前半、主人公が第22機甲旅団で戦車隊を指揮するシーン
(スチュアートやA9巡航戦車、クルセイダーが登場して戦闘する)
の方が好みだけど。
【凋落への道標】 イタリアの対英仏参戦翌日の1940年6月11日の夜、 英第11軽騎兵連隊のロールス・ロイス装甲車装備の3個中隊は、 リビア-エジプトの国境線を密かに越え、イタリア軍の哨所や哨戒隊を襲撃しました。 これらの作戦行動は全て成功し、西部砂漠に於けるイタリア軍は、 機械化部隊による対応準備を、おざなりにしていたことが明白となりました。 捕らえられたイタリア軍将校の何名かは、未だに祖国の対英仏参戦を耳にしておらず、 他の幾名かの将校は、英軍が中立のエジプトから侵入したことを、抗議しました。 これらの伊軍哨所は、国境沿いの戦略的に重要な地点に設けられており、 哨戒隊がその支援に当っていました。 英軍は国境地帯での襲撃を継続し、すぐに、その襲撃隊には、 第7機甲師団の巡航戦車Mk.Iが含まれるようになります。 第11軽騎兵連隊の装甲車は、第7機甲師団の前衛として行動し、 国境沿いのイタリア軍守備隊を苦しめました。 英軍は襲撃の際、通信線を確実に切断し、次の襲撃場所を察知されぬよう、 大胆かつ慎重に作戦行動していました。 40年6月の開戦時、リビア駐留イタリア軍は以下の車両を保有していたとされます。 @L3軽戦車:324両 A装甲車:7両(旧式のフィアット及びランチア) B武装トラック:8両 Cトラック:8039両 ※スタッフカー等、他車種の保有数は、私は知らないです。
英軍機械化部隊の襲撃に対処する為に、伊軍も自身の機械化混成部隊を編成します。 リビアには、自動車化歩兵大隊を編成するに足るトラックがあり、 砲兵は既に自動車化されており、作戦該当地区には軽戦車大隊も存在していました。 これらの機械化混成部隊は大隊規模の戦力で、 中隊レベルの自動車化歩兵、自動車化砲兵、軽戦車隊から成り立っていました。 イタリア参戦から6日目の6月16日、伊軍戦闘団と英第7機甲師団所属部隊との間で、 戦車同士では初の戦闘が交わされました。 2日前の6月14日、伊軍は戦略的に重要な前線哨所を2か所喪失していました。 それらはCapuzzo砦とMaddalena砦で、国境地帯を横切る幹線道路と小道の中心に位置していました。 イタリア軍はこの2つの哨所の失陥に直ちに反応し、1個戦闘団を急編成しました。 この戦闘団は、バルディア地区に展開していた第21軍団から兵力を抽出して編成され、 元騎兵将校のD’Avanzo大佐に指揮されます。 戦闘団の編成は、以下の通りでした。 @1個リビア自動車化歩兵大隊…第1リビア歩兵師団から A1個軽戦車隊(L3軽戦車)…第9軽戦車大隊から B1個自動車化砲兵(28口径77mm野砲4門)…第17リビア砲兵中隊から 役者は揃い、舞台は西部砂漠作戦で初の戦車遭遇戦へと進みます。
Capuzzo砦へ向けて、D’Avanzo戦闘団は前進しました。 英軍は、2つの縦隊を確認し、国境を越え撤退することを決心します。 その前に、より小兵力と思われる縦隊へ2両の装甲偵察車を送り込み、攻撃させました。 これによって、“Nezuet Ghirbaの戦い”が引き起こされます。 遮蔽物の全く無い、開豁地で襲撃されたD’Avanzo戦闘団は、方陣を形成します。 D’Avanzo大佐は、4門の77mm砲を陣の四隅それぞれに据え付けさせました。 歩兵が陣の四辺に位置し、12両のL3軽戦車は陣外で哨戒に当ります。 これは明らかに防御態勢で、既存のイタリア軍の基本原則とは異なっており、 古風なナポレオン時代の、騎兵突撃への歩兵の防御策に近いものがありました。 英軍は最初の2両の装甲車への増援として、多数の装甲車両を送り込み、 その中にはヴィッカースMkVIB、2両の巡航戦車Mk.Iも混じっていました。 タンケッテは、歩兵と砲兵の支援無しに英装甲車両へ突撃します。 彼らは勇猛果敢に戦いましたが、全ての車両が破壊されるか行動不能となりました。
英装甲車両は方陣の周囲をぐるりと回りながら、 トラックや露出している歩兵を標的としました。 死の輪舞が二週目に差し掛かったときに、 イタリア軍砲兵が沈黙を破り、英装甲車両へ砲撃を開始しました。 彼らは榴弾のみしか保有していませんでしたが、 それでも、英装甲車両へ損害を与えられる望みが少しはありました。 イタリア軍砲兵と英装甲車両群との戦闘は、方陣の4隅で個別に行われます。 しかし、すぐに砲側員は倒され、歩兵も撃破されました。 イタリア軍砲兵に、勇気と技量が欠けていたわけではありませんでした。 ここで欠けていたのは、徹甲弾でした。 そして、対戦車砲は装備されておらず、これは歩戦協同時のイタリア軍の基本原則に反していました。 又、リビア師団は20mm機関砲搭載のトラックを保有していましたが、 英装甲車両との遭遇の可能性が高いと認識されていたにも拘らず、 何故か、D’Avanzo大佐は戦闘団の編成に含めていませんでした。 D’Avanzo大佐は投降を拒否して戦死し、戦闘団は手酷い敗北を喫しました。
これは、イタリア軍機械化部隊の戦術運用面での失敗でした。 L3軽戦車、自動車化歩兵、自動車化砲兵で編成されたイタリア軍戦闘団は、 ヴィッカースMkVIB、巡航戦車Mk.I、ロールス・ロイス装甲車装備の英戦隊に敗れ去りましたが、 英軍の装備や新たな戦闘形態に合わせた彼らの戦術が、イタリア軍戦闘団のそれを凌駕していた以上、 これは当然の結果でありました。 しかし、D’Avanzo戦闘団の敗北は、 リビア駐留イタリア軍にとって、プラスとなる面が全く無いわけではありませんでした。 イタリア軍は、戦訓をもとに機械化部隊の戦術・装備を見直し、 バルボ元帥は、中戦車もしくはドイツ軍の戦車・装甲車の派遣を本国へ要請します。 7月6日、72両のM11/39中戦車が北アフリカに到着しました。 これらは“アリエテ”機甲師団から抽出され、2個の戦車大隊として派遣されてきました。 そして、到着早々の7月8日に、デルナでマレッティ戦闘団が創設されます。 当初の戦闘団の編成は、以下の通りでした。 @1個自動車化歩兵大隊…第7リビア歩兵大隊から A1個戦車隊(1個中戦車中隊&1個軽戦車中隊) B自動車化砲兵隊 C補給隊
40年8月5日、北アフリカ展開のM11/39中戦車に、 英軍機甲部隊との初の交戦機会が訪れます。 1個ベルサリエリ小隊、砲兵、1個軽戦車中隊、1個中戦車中隊から成る小さな戦闘団が、 英軍装甲車両の隊列と遭遇しました。 イタリア軍は遭遇戦に勝利を収め、2両の英戦車を撃破し、2両を鹵獲します。 鹵獲した巡航戦車Mk.Iは、中戦車隊の追加装備として使用されました。 3両のM11/39中戦車が、英軍の砲火で損傷しましたが、後にバルディアで修復されました。 いくつかの欠点はあるものの、M11/39中戦車の性能は、 任務を遂行するに足るものであることが、証明されました。 その後、リビアでは戦車大隊がいくつか創設され、 9月13日からのイタリア第10軍によるエジプト侵攻でも、戦車隊は任務を遂行します。 シディ・バラーニで足を止めた後は、中戦車の損失は殆ど無く、 9月21日の時点で、北アフリカへ派遣された72両のM11/39中戦車の内、68両がまだ存在していました。 10月1日、37両の新型M13/40中戦車がリビアに到着します。 11月中旬迄に、北アフリカのイタリア軍は417両の中・軽戦車を保有し、英軍保有数に対して優位を誇っており、 同月18日、新たにバビーニ機甲旅団が創設されました。 シディ・バラーニに3カ月留まっていたイタリア軍でしたが、 次期作戦では、12月16日にマルサ・マトルーフへ進撃する予定でした。 しかし、時間の猶予を与えられた英軍は、着々と戦力を増強しており、 多くの航空機、巡航戦車と共に、“彼女”もエジプトの地へ足を踏み入れていました。
ニベイワ砦は、シディ・バラーニ近辺の7箇所の陣地の1つでした。
ここは、マレッティ戦闘団が守備しており、
その戦車隊は、M11/39中戦車とL3/35軽戦車を35両ずつ保有していました。
12月9日07:15、ニベイワ砦のマレッティ戦闘団の野営地へ、
第7王立戦車連隊の48両のマチルダの支援を受けた、第11インド歩兵旅団が突撃しました。
この時、イタリア兵は朝食中でした。
マチルダは、手始めに23両の無人のM11/39中戦車を撃破します。
イタリア兵は完全に不意を衝かれ、多くの戦車兵は乗車へ取り付く事すら出来ず、
壕から飛び出したところを殺害されました。
戦車隊は10分以内に壊滅します。
マレッティ将軍は天幕から機銃を乱射しながら飛び出し、戦死しました。
歩兵には早々に降伏する者が出ましたが、砲兵は果敢にマチルダへ反撃を行ないました。
しかし、その装甲は厚く、1発たりとも貫通させることは出来ませんでしたが、
砲側員は最後まで諦めず、戦死か負傷をする迄、砲の射撃を止めようとはしませんでした。
(※コンパス作戦全体を見ても、マチルダが装甲を貫徹された例はないようです。損傷例は、
履帯を破壊されたり、開けたままの覗視孔に砲弾が飛び込んだといったパターンになります)
08:30、ニベイワ砦は陥落し、マレッティ戦闘団は壊滅しました。
イタリア兵は2000名以上が捕虜となり、多数の戦車と共に莫大な資材が鹵獲されます。
英軍の損失は将校8名、兵・下士官が48名でした。
40年12月12日、ニベイワ。M11/39中戦車。
ttp://cas.awm.gov.au/item/004456 40年12月12日、ニベイワ。鹵獲された高射機関砲。
ttp://cas.awm.gov.au/item/004407
>>934 興味深い情報を教えていただき、ありがとうございます。
>>938 この小説は知りませんでした。好みの題材なので読んでみます。
ラットパトロールみたいなジープやトラック改造自走砲って、テクニカルの祖先みたいなものかな。米軍にもトラック改造自走砲があったね。ダッジ3/4トラックに37ミリ砲を積んだM6ファーゴが
951 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 00:13:21 ID:2JSTFN1x
パァスタァァァァァァァァ
953 :
名無し募集中。。。 :2010/11/15(月) 17:40:00 ID:PWhqEoEe
>>947 乙です
開豁な砂漠で奇襲くらって、しかも戦車へとりつく島もなく壊滅とか・・・
ヘタリア凄すぎるwww
>>947 貫通不能な無敵戦車マチルダ、まんせーw
8.8cmFlak18「呼ばれた気がした」
956 :
名無し募集中。。。 :2010/11/15(月) 21:28:04 ID:PWhqEoEe
90/53も忘れないであげて
37mm砲をジープに積んだのがあるけど、映像観るとサスがやばそうだった。
車載はブレダ20mmが好き。
>これは明らかに防御態勢で、既存のイタリア軍の基本原則とは異なっており、 >古風なナポレオン時代の、騎兵突撃への歩兵の防御策に近いものがありました。 この頃だと、開豁地で機甲部隊に襲撃された時の対策っていっても、こんなもんだったのかねぇ。
次スレは自衛隊におけるアメリカ製装甲車両か?
※スレが埋まりそうですので、過去レスの補足をさせていただきます。
>>947 この時のマレッティ戦闘団の戦車数には諸説あります。
又、英軍によるニベイワでの鹵獲戦車数を35両としている資料もあるのですが、
同資料はニベイワへ展開していたイタリア軍戦車数を20両とも記述していましたので、
>>947 中には書けませんでした。
>>449 バリクパパンで120o海軍砲に撃破されたとされるマチルダですが、
155mm砲によるものという説もあり、そちらでは乗員の損害を戦死1名・小隊長以下数名負傷としています。
但し、120o海軍砲説の資料(第1機甲連隊の血統の“ニューサウスウェールズ槍騎兵”記念館)の方は…
@負傷者6名の姓名が全て記載されている
A第4小隊の動向も記載されている
(155mm砲説の資料では当日の第4小隊について記述が全くなされていない)
B当日の戦闘の時間帯が記載されている
(155mm砲説の資料では記載がなく、又、バリクパパン戦以外の箇所で、部隊名・日時の誤記が時折確認される)
…でしたので、
>>449 では120mm海軍砲説の方を採らせていただきました。
【二十リーグ 二十リーグ 二十リーグ 前進】 “私はアレクサンドリアやサルームを目標にしているのではない。 目の前の英軍を攻撃せよと言っておるのだ。” 1940年8月10日、ムッソリーニはグラッツィアーニ元帥に厳命を下し、 9月13日朝、Berti将軍指揮下のイタリア第10軍によるエジプト侵攻が始まります。 イタリア第10軍は3個軍団(第21、22、23軍団)を擁していました。 そして、Bergonzoli将軍指揮の第23軍団がエジプト侵攻の先鋒となりました。 第23軍団は1個師団を完全自動車化、2個師団を半自動車化するに足るトラックを、 十分に供給されていました。 侵攻時の第23軍団の戦力は以下の通りでした。 @集成第1戦車群 Aマレッティ戦闘団 B第62歩兵師団“マルマリカ”…半自動車化 C第63歩兵師団“チレーネ”…半自動車化 D第1黒シャツ師団“3月23日”…完全自動車化 E第1リビア歩兵師団…非車両化 F第2リビア歩兵師団…非車両化 半自動車化師団は兵員を折り返し方式で輸送し、 非車両化師団は60マイルの道程を徒歩行軍しました。
9月16日夕、集成第1戦車群は第1黒シャツ師団“3月23日”及び第23軍団の全砲兵と共に、
シディ・バラーニ東南東へ達しました。
集成第1戦車群は歩兵支援用途のみに慎重に使用されます。
一方、マレッティ戦闘団はシディ・バラーニ西方に未だに留まっていました。
同戦闘団は組織上と補給上の問題を抱えており、十分に攻撃に参加出来ない状態でした。
イタリア軍は非車両化部隊の進撃速度を基準にしましたので、
日に12マイルしか前進出来ませんでした。
主目標のシディ・バラーニ到達後は進撃を停止し、以降は野営地の強化と補給線の整備に努めます。
イタリア第10軍の進撃距離は約100kmでした。
この時点での陸軍部隊の損害は戦死者120名・負傷者410名で、
若干数の戦車とトラックが機械的な故障で失われました。
空軍の損失は6機で、内2機は事故によるものでした。
12月8日の夜、イタリア第10軍はシディ・バラーニ近辺へ留まったままでしたが、
マルサ・マトルーフへ12月中旬に進撃すべく、作戦計画が練られていました。
英軍との接触は僅かで、彼らには総力を挙げて戦闘を挑んでくる意思はないだろうと考えられていました。
その頃、闇の中をイギリス西部砂漠軍6万名が密かに迫りつつありました。
※シディ・バラーニ。
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr467.gif ※シディ・バラーニ。マチルダとイタリア軍砲座。
ttp://i23.tinypic.com/dfekox.jpg
大戦末期の帝国陸軍の戦車部隊の記録は絶望的になるなぁ・・・ 集めても30台くらいしかいなくて、歩兵に攻撃をかけたらバズーカーと対戦車砲でフルボッコ。 撤退したらシャーマンに追いかけられて中隊全滅。みたいな話ばっかりだもんなぁ・・・
>>962-965 毎度乙です!!
貴方のお陰で凄まじい良スレになった
スレタイからはかけ離れた気もするがw
まぁ、問題あるまい
次スレはもし建てるなら第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合とか?
日本軍絡みの外国製機甲兵器がいいな。 上海でのヴィッカース・クロスレイとか、戦後のM24とか。
本当に小さいのう
育ちましたなぁ
一発装填にしくじってるねw
>>964 三枚目はカルロ・ランチャ・フィウメだね
朝鮮戦争では、中共軍の人海戦術に多大な威力を発揮した、M16対空自走砲の12.7ミリ四連装銃って、第二次大戦中は地上部隊には使われた?
>>976 大戦末期に欧州で絶対的な制空権を握ってヒマこいてた独立の高射自動火器大隊が
歩兵支援に投入されてた希ガス
アジアでも制空権は握っていたけど、どうなんだろう?
アジアでは、そもそも欧州ほど高射自動火器大隊を見ない希ガス
>>924-925 の補足です。
第132砲兵連隊は27口径75mm野砲を約30門(“イタリア軍入門”では32門です)装備していましたが、
ビル・エル・ゴビ戦の数週間前に、成型炸薬弾(初期型 )を少なくとも200発供給されていたそうです。
102mm海軍砲搭載トラック5両は“MILMART”(国防義勇軍沿岸砲兵)からの配属でしたが、
“MILMART”保有の7両からの抽出でした。
両軍の損害は以下の通りでした。
○第22機甲旅団:戦車42両、戦死21名、行方不明・負傷約70名
○アリエテ師団:戦車34両、車両3台、砲不明、戦死25名、行方不明・負傷177名
※ビル・エル・ゴビ戦(41年11月19日)の戦闘図が投稿されています。
ttp://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=56&t=162180
写真サンクスです。やっぱイタリア軍は黒羽ですよね〜
片手で6発持てるんすなw
>>924 >いくばくかのイタリア兵が投降してきましたが、
>英軍は誰一人として、イタリア兵の投降を受け入れようとはしませんでした
>(第22機甲旅団には、規模の大きな歩兵部隊の支援がなかったことが原因でした)。
>
>仕方なく投降兵は砲のもとへ戻り、再び戦闘を続けました。
>このようなことは砂漠での戦闘方針として、珍しいことではありませんでした。
なんだかなぁw
>>924 >(第22機甲旅団には、規模の大きな歩兵部隊の支援がなかったことが原因でした)。
これも初期イギリス機甲部隊の欠点だよね<歩兵部隊が少なすぎ
巨大な8.8 cm PaK 43/41を数十人がかりで押してる有名な写真は、 始めて見た時衝撃だったなあ。文字通り恐竜的進化って感じだった。
12.8cm Pak 44とか、もうなんだかねw
なんだかんだと来て、990を超えました。
軽量な50mmクラスまでの対戦車砲が使われ続けた理由だな
そんなもんで役に立つならいいけどドイツはそういう状況じゃ無かったし。
ドイツも難しい状況かもしれないが、このスレも難しい状況だぞ
次スレ建てるの? 俺は今建てられないから建てるなら誰か頼む
では1000
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。