1 :
名無し三等兵 :
2007/01/01(月) 08:45:20 ID:7AA0QutU 大河ドラマ・司馬歴史小説等、さまざまに流布している戦国時代合戦のイメージは、不正確極まりないものとされています。 真実はどうなんでしょうか? 軍事的な知識を多くお持ちの皆さんで論じ合いましょう。 ・日本だけではなく、同時代の他国の状況との対比 ・前史としての 律令制→室町中期 との比較 ・後史としての 江戸時代と黒船来航以降の幕末戦争 との対比 など積極的に話題を提供してください。 ※注意 少佐は書き込み禁止、もし書き込んでも徹底スルー 少佐に関わる奴は同類
2 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 08:45:58 ID:???
惨状!
4 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 09:03:54 ID:???
_. -―- ._
´ `ヽ、
. / _  ̄\
〆 /r=_ \\ー_
/ // │ |ヘ \\ \\- \
. / // /│ イ ハヽ \\ \\ ヽ
∧∨ │|││||│ │|││| |││ ヾ \ ハ〈 )
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∨│ 人│| "  ̄ 八 _ \\ 丿
│ / |‖|\ ー ´ /ハ| ∧\ \\ <
>>1 糞スレ立てんな、蛆虫、氏ね。
││ |‖|从iヘ、 . ィ〔 || 仆| ││ 丶丶 \
│‖ |│|イ乂丿(` -<ト、リ リ川| ││ ―――――――――――――――
│‖ |│|―く \ │ |  ̄`ヽ. | レ'⌒K
│‖/|人l ヽ \_,| r―-こ_ノ ノ / }
ノ 〆⌒ヽ ノ ∧ 厂o了ヘ ⌒ヽ ヽ ゝイ ノ 〉
/ ∨ ∨ { \∧ て/
. / } ゝ ヽ}`ー- '⌒Y
/ ∧ │ ト、__,イ
. / / \ } ノ │ │
〈 イ ヽ 孑 ∧ /
\  ̄∧ } | / `ー<
5 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 18:10:15 ID:7AA0QutU
スレ復活したのか とりあえず。今年の大河ドラマで登場して 話題になるであろう 武田騎馬軍団の実態について語りましょうか 常設の大規模部隊としての騎馬隊は存在しなかった というのが最近の歴史的見解ですが 小規模な騎馬隊や各備え等から抽出した臨時編成の騎馬隊などは あったという説もあります。それは、どの程度の規模だったのでしょうか?
6 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 20:59:55 ID:2oEaKWG5
実際は、戦闘時には下馬して戦っていた、という見方もあるね。 武田騎馬軍団。 それではなぜ「騎馬軍団」などというイメージが出来上がったのか。 おそらく、馬の数が多かったからではないか。京都など西国では 馬は高価で、なかなか手にはいらなかった。 京都では馬が高いから牛車、つまり牛に車を引かせていたくらいだ。 しかし東国では馬は豊富にいる。ぎりぎり東国の甲斐の軍勢は 馬を比較的大量に保有していた。その甲斐軍が西上してきた時、 大量の馬をみた人々の目には、騎馬の大軍団として写った ということではないか。
7 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 21:43:30 ID:ravnmTg/
素人考えなんだが、長篠とか鉄砲隊を無力化してから騎馬隊で 突入ってできなかったの? 当時の鉄砲って竹何重にもすれば貫通しなかったらしいし。 で、弾除け部隊を前衛にして弓や投石で攻撃すれば鉄砲の無力化は 無理でも漸減はできたんじゃないか。 その後騎馬隊突撃ってだめなの?
8 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 21:49:14 ID:???
長篠は何も鉄砲に負けたわけでは無いというのが最近の通説 3段撃ちとかも虚構 実際は別働隊に後方に回り込まれて不利になった武田軍が 正面の野戦陣地にいる織田の主力を強引に正面突破しようとして撃破された
9 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 21:49:30 ID:???
戦史板に書き込めよ・・・。 長篠の戦いは近年になって新説がでてるし…。 鉄砲3千丁も三段撃ちもガセ 桶狭間も今川は丘の上に陣を張り護衛も500ではなく三千人説が出てきたし 信長は今川義元をよく討ち取れたな。
10 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 22:04:45 ID:NpT4/ZKE
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11 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 22:31:14 ID:2oEaKWG5
>>7 おそらくその場にいた武田軍には思いもよらなかっただろう、
そんな作戦は。
長篠の戦の勝因、あるいは敗因は、武田軍には鉄砲という
新兵器の意味がよくわかっておらず、一方、織田軍は
その意味づけを十分理解し、戦術的な使い方を編み出していた、
というところだろう。
武田軍にしてみれば、向こうからなんだか凄い音がする
新兵器でバンバン撃たれて、ひたすら混乱するぱかり
対応策など思いつかない間に撃ち破られた、という感じ
だったのでは。
逆に織田軍は、とにかく撃ちまくって相手にパニックを
おこさせただけでも大成功だった。
12 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 23:22:36 ID:Up7SJlVB
長篠は何故武田が決戦に出たのか理解に苦しむ戦い。 騎馬隊の決戦に不向きであり、馬防柵、多数の鉄砲 偵察隊出しておけば兵力に劣る武田が抜けないの判るだろう? 勝頼の見栄で重臣を殺してしまったと思えてならない。 勝頼が暗殺されていれば負けずに撤退できたのに。残念 赤備 山縣 ○景
13 :
名無し三等兵 :2007/01/01(月) 23:39:14 ID:???
長篠では武田軍は包囲れて狭い平地に誘い出されているが、大軍でしかも陣地を構えて待ち受ける 織田徳川軍正面の突破を図るのではなく、後方の敵を殲滅して包囲を破ることはできなかったのか?
14 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 00:03:57 ID:???
ここ1000年くらいで純粋な騎馬戦術を採ったのは結局義経のみか
15 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 05:32:42 ID:???
>>11 >武田軍にしてみれば、向こうからなんだか凄い音がする
>新兵器でバンバン撃たれて、ひたすら混乱するぱかり
長篠は鉄砲伝来からすでに数十年後の戦いだから
武田軍が鉄砲を知らないなんてありえない
武田にだって鉄砲はあった
配備率も織田の方がやや多いってぐらいで
武田はライバルの上杉や北条に比べて鉄砲の配備率は高かった
16 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 05:37:58 ID:???
>>6 しかし、実際の記録に残っている
騎馬の配備率は武田より北条の方が多いという・・・
山国の甲斐よりも関東平野もってる北条の方が
馬の育成しやすくかったのだろう
17 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 11:33:13 ID:SY38jLmd
>>15 知らなかったとは言わない。どういう新兵器なのか意味が
わかっていなかった、と言ってるのさ。
信長はこの新兵器のもつ軍事上の意味を正しく理解していた。
鉄砲が普及し始めた段階から大量の鉄砲を集め、上洛してからは
他の広大な領地には目もくれず、鉄砲の生産地・堺の領有を
願い出ている。
鉄砲の使い方についても研究していたことだろう。そして
最も有効な使用法は、大量集中投入により敵を圧倒する戦法
だということを編み出していたわけだ。
18 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 11:43:02 ID:SY38jLmd
>>16 日本は、東から北にいくほど馬が増えていく。
時代は違うが、奥州藤原氏の時代には、京都では天皇ですら
牛車に乗っているのに、奥州では子供が馬に乗って
遊んでいると、京都からやってきた人が驚いたりしてる。
関東も平将門の時代から牧畜が盛んで、馬は豊富にいた。
19 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 12:18:28 ID:qr9olGLS
長篠の戦いの「鉄砲vs.馬」を否定する新説って、根本的に 重要な史料である『信長公記』の記述に適合していない。史料 の使い方が非常に恣意的な気がする。 「三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。 関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を 打つて懸り来る。人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて 待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。」 「是又馬入るべき行」とあるので、他の武田の軍勢も馬を 乗り入れる意図で戦ったことは明らか。馬を下りて戦った というのは、信頼できない『甲陽軍鑑』にある記述。 (ただし、これは全員騎乗の騎馬軍団があたっということとは別。) それから、参列に分けて鉄砲を交互に交代させて 銃撃する三段撃ちは『信長公記』の長篠の戦いでは に記述はない。ただし、もっと早い時期、信長の戦いの 最初期の村木砦の戦いで、鉄砲を交換しながら連射する したことが記述されている。おそらく、鉄砲を交換しながら 連射することを可能にした扱いは、比較的早い時期から 常識化していた可能性が高い。
20 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 12:22:26 ID:qr9olGLS
ついでにいうと、西国では、馬を下りて戦うことが多かった こともおそらく事実。これを、宣教師が見て、日本では乗馬 で戦うことがないと記述した。
21 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 14:25:43 ID:???
つまり、西国と東国では馬の貴重さが違っていて(生産量が違う) 東国では西国に比べ馬が豊富でドンドン積極的に使っていたと で、丁度武田は東国と西国の境目で 西国の人が貴重品扱いして大事に使う 馬をドンドン積極的に使ったので西国の人から騎馬軍団との異名で呼ばれた しかし、それは東国の各国から見たら一般的な水準にすぎなかった つまりこういう事なのかな?
22 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 14:34:48 ID:???
鉄砲については 1人の射撃手が3丁ほどの鉄砲を持って 2人ほどの部下が付く で、撃ったら部下に鉄砲渡して装填とかやって貰う その間に別の部下が装填した鉄砲を受け取って射撃 これを繰り返す〜 ってな意味の記録をどっかで見たことがあります(ソース失念探してみます) これだと連射ができますね 優秀な射撃手にドンドン撃たせる事で効率も良さそう 日本の鉄砲の使い方は弾幕射撃じゃなくて 散兵・狙撃が多かったそうなので、この方法は散兵・狙撃にも最適でしょう 宣教師の3段撃ちの記述はコレを伝え聞いて出来たのかもしれませんね
23 :
名無し三等兵 :2007/01/02(火) 22:13:53 ID:???
宣教師の記録と言っても 宣教師は実際の戦場には出ていないわけだから 聞いた話や、安全な遠方の丘の上から眺めたとか その程度だろうな 軍事の専門家でも無い宗教人だし 記録はどこまで信用できるのかな?
24 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 18:12:50 ID:iCxhecVW
>>22 鉄砲で狙撃兵チームを作ってはどうでしょう!
1名の射手に2名の装填手で計3丁
1名の補助要員兼護衛 1名の射撃指揮官で合計5名
全員騎乗する。ねらいは雑魚ではなく指揮官のみ。
こんな小隊を60チーム作ったら戦の流れが変えられそうに思うけどな。
騎乗射撃は伊達家で行われていたはずです。
25 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 18:26:46 ID:6LWLAPcp
あっただけで何の実績も挙げられてない編成を引き合いに出してどーすんの? 神保隊の殲滅くらいだろ
26 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 19:03:04 ID:???
>>7 長篠の場合、織田・徳川連合の陣の両翼を武田勢が突破しているが、
武田勢の中央が早々に撤退を開始した為に突出した形になった両翼が包囲され、各個撃破されてる。
鉄砲も有効に活用されたろうが、有効射程が100m未満と弓にも劣る武器では高が知れてるだろう。
>>11 武田も早い段階から鉄砲隊配備してるよ。
流石に堺を押さえてる織田には適わないが。
27 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 23:32:54 ID:???
>>24 騎馬鉄砲は伊達家で実際に使われたけど
当時の鉄砲は馬上に居たまま装填出来るような代物じゃないし
馬上筒もあったけど小型なので、射程は短い、命中率悪い、威力低い
と、あまり有効に使えるような代物ではなかった
馬の機動力使って敵に近づく>射撃する>反撃される前に離脱
と一撃離脱で使われたみたいだけど装填の問題や馬上筒の有効性の問題などで
結局たいした戦果はあげてないみたいですね
編成にコスト掛かりすぎるみたいですし・・・
28 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 23:41:48 ID:???
竜騎兵みたいな運用すればええやん
29 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 23:43:46 ID:???
>>24 狙いを指揮官のみとかいってるけど
現代の狙撃銃のように数百m〜1km先の物が狙えるような銃じゃ無いんだ
当時の銃は精々100m、大型の銃で何とか150mいけるかもってぐらいのもの
で大型のは当然馬上からの射撃なんか無理(馬上筒だと50mも怪しい)
敵の指揮官に少数の騎馬だけで100mまで近づくのは容易じゃ無い
>>22 で出てる狙撃ってのは現代の狙撃兵とは違うのよ
大勢で並んで敵の居る方向に撃つ欧米式の弾幕射撃ではなく
一人一人の兵隊が相手の兵隊をキチンと狙いを付けて撃つって意味だと思うよ
30 :
名無し三等兵 :2007/01/03(水) 23:47:40 ID:???
>>28 戦闘時は下馬するって事?
騎馬兵をそうやって運用してた事例は多いんじゃないの?
というか上でも出てたけど西国は馬が貴重だったから
下馬するのが多かったらしいし
31 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 09:07:53 ID:???
フランス式竜騎兵は乗馬歩兵で、イギリス式の竜騎兵はなぜか重騎兵なんだよね なんでだろ
32 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 10:38:59 ID:???
1 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/01/01(月) 08:45:20 ID:7AA0QutU 大河ドラマ・司馬歴史小説等、さまざまに流布している戦国時代合戦のイメージは、不正確極まりないものとされています。 5 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/01/01(月) 18:10:15 ID:7AA0QutU スレ復活したのか とりあえず。今年の大河ドラマで登場して 話題になるであろう 武田騎馬軍団の実態について語りましょうか
33 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 10:41:20 ID:???
大河ドラマの合戦は、軽歩兵による警戒行動も投射武器による射撃戦も無しで いきなり戦列も組まず突撃→ちゃんちゃんバラバラだからなあ 指揮系統も無茶苦茶で、大名自ら前線部隊を指揮したりと。
34 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 12:29:40 ID:???
そもそも信長が鉄砲を使った新戦術を編み出したってのが眉唾 長篠の後で鉄砲を大々的に運用したっていう戦はないし 信長軍の鉄砲保有率もそんなに多くない 長篠で3万以上のうち3000でしょ? 信長公記の1000っていうのが正しければ保有率4%以下。 むしろ雑賀や本願寺の方が鉄砲の保有率が高いし 鉄砲に苦しめられたのは信長の方じゃない? 信長の場合絶対に勝てるだけの数で押し包んだっていうイメージがある 3人一組で撃てば、とかいうのも 長篠で信長は鉄砲の新戦術を生み出したっていう 前提ありきの話だと感じるんですが
35 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 12:30:22 ID:???
結論 大河の製作スタッフはクレしん見ろ
36 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 14:14:42 ID:???
というより、まずエキストラに体を鍛えさせろ。 芝居用のニセ鎧を着込んだだけで戦する前からヨタヨタ歩きは情けなさ過ぎ。
37 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 14:44:01 ID:???
>>33 まあそうなんだけど
最近(ここ数年)は以前よりはマシになってない?
あいかわらずオカシナ描写は多いけど以前ほどじゃない
歩行組が槍を持つようになっただけでも進歩かと(笑)
以前は刀もって切り込みやってたもん
38 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 17:07:34 ID:???
ガくんが一騎駆けで刀一本勝負は見せ場だから、そのまま登場するだろうな
39 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 17:59:03 ID:JYIAC2RL
フランスの猟騎兵はイギリスの竜騎兵にあたると読んだことあるな。 フランスでは竜騎兵と呼んでいたのかな? イギリスの竜騎兵は胸甲騎兵みたいに突撃に使われて ワーテルローでも大損害受けてるな。
40 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 18:02:51 ID:JYIAC2RL
信玄の投石隊。三方ケ原でも役に立った。 鉄砲の射撃速度が遅かった為ですね
41 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 19:33:56 ID:???
スリングって普及しなかったの?
42 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 20:51:33 ID:???
鉄砲の装備数だが、長篠では織田、徳川連合軍1000丁対武田軍500丁という説がある。 慶長年間の徳川軍の装備数も16%程度だと言うから、まああり得る数字かと? よく言う馬防柵からの3段射撃は嘘であったというのが最近の説。 織徳連合軍は柵の他に土塁なども用いた、強固な夜戦陣地を構築していた。 謎は武田軍がここに突撃したこと。 数が劣る攻撃側が決戦を志向するというのは、常識的に言ってあり得ない。 理由として出ているのは、 1)酒井忠次の鳶の巣山砦夜襲により、長篠城攻略の後詰戦という構図が崩れたことによる説。 これによって攻守の立場が入れ替わり、武田軍は引くか、無理矢理な決戦で雌雄を決する他、 なくなってしまったというもの。但しタイミング的に合わないという意見もある。 2)信長の工作により勝頼の決戦志向が強まった説。 織田軍は弱兵であり、対する武田軍は強兵であり、いざ決戦となれば多少の数の差など ものともせずに武田勝利となるだろう。そして戦略上も大きな転換となるだろう。 そんな噂が流れ、またそう勝頼が読み違えたというもの。しかしそこまで勝頼は暗愚か? 3)ハナから勝頼は戦力差を無視した決戦を志向したとの説。 これでは勝頼があまりにも暗愚すぎる。講壇向けの説。 東国勢が騎乗戦闘をしたのは事実のよう。 山縣隊を継いだ井伊家の本に騎乗戦闘についての注釈がある。 ついでに西国侍が馬をまともに扱っていないことに対する嘆きもある。 英国騎士はクレシーで下馬戦闘した模様。 この戦いはロングボウが主役であり、英国騎士は重装備の歩兵として敵を止める役目を担った。 投石隊はメソポタミアの壁画でも、弓隊の後ろに描かれている。つまり弓より射程があった。 但し殺傷力などの点では劣ったかもしれない。
43 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 21:06:16 ID:???
24 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/01/03(水) 19:16:50 ID:ErGZzQq9
壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい。
96 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/04(木) 05:00:38 ID:???
>>24 七年間の朝鮮役で李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模(最大でも五千人前後)と考えられます。
また李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく、極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の制海権を維持できたことはありません。
二次的な船腹不足に影響が無いとは言えませんが、海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません。
97 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/04(木) 05:19:37 ID:???
>>24 つづき
また日本軍には廻船補給計画は元々存在せず、例え朝鮮水軍が存在していなくとも陸上作戦的な海岸支配と技術的な海路開拓の問題によって漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です。
98 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/04(木) 05:32:13 ID:???
>>24 さらに続き
李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり、朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の評価から朝鮮内部で珍重されたこと、それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通った。
そして、明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています。
これが権威となり、詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え、戦後の史観へ退凋します。
つまり李舜臣への幻想は朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています。
44 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 21:52:22 ID:???
陳舜臣の鄭成功伝「風よ雲よ」を読むと、日本から輸入した兵科として、目と耳以外の全身を 鎧で覆った重装歩兵が出てくるけど、戦国時代の日本にそんな兵士は大勢いたの?
45 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 22:10:46 ID:???
46 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 22:39:06 ID:GN84UAPb
>>34 仮に全国3万挺のうち、3千挺を織田陣営が保有していたとしても
すごいレートじゃん。日本に大勢大名がいるなかで、1人で
1割持っていたら、とんでもない保有率だよ。
47 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 22:50:16 ID:GN84UAPb
>>42 長篠の戦いは、織田氏、武田氏の認識のギャップが招いた
戦いだった、という説を読んだことがある。
つまり、史料からは勝頼が大規模な上洛侵攻作戦を計画
していた形跡はみあたらない。しかし、織田氏は
勝頼の軍事行動を、完全に上洛作戦として受け取り、
全力でこれを阻止しようとした。
この本気度の違いが勝敗を分けた、という説だ。
勝頼の作戦目的は、今で言う威力偵察か、せいぜい
「西部戦線」の織田氏部隊の掃討が目的だった。
しかし織田氏にしてみれば、信玄の代に上洛を企てた
前歴もあり、また織田氏周辺の対抗勢力としては
武田氏を最強のものとみなしていたこともあって、
大慌てで全力阻止攻撃に出た、という解釈だ。
48 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 23:10:57 ID:???
>>26 >有効射程が100m未満と弓にも劣る武器
マジ??
脳内ソースだが、鉄砲は威力、射程とも弓の倍って読んだんだが。
49 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 23:26:39 ID:???
火縄銃の有効射程は50m程度、弓は30m程度 もちろん最大射程と有効射程は違う。 弓矢は距離を取れば避けられるし、盾で防御するのも可能 鉄砲だと盾ごと打ち倒されるので、攻城戦では竹を束にした防御具を使うことになる
50 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 23:42:16 ID:???
弓は熟達の射手にかかればもっと上がる。 育成に20年もかかる射手なら、100ポンドの弓を6秒毎に放てるかもしれんw この連中の手にかかれば、有効射程は150m前後と言われる。 火縄銃も火薬の量などで調整可能。銃自体の強度は割りとあるという話。 但し戦国期の鉄砲足軽にそれが期待できるかと言えば…。 よって、一般的な使用を考えれば、50〜100m程度というのは妥当と思われ。
51 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 13:09:27 ID:Qa9mJTde
火縄銃は射程距離100m以内で装填に40秒位かかるなら 攻撃的兵器ではないな!防御にしか使えない。 野戦で敵が攻撃してこないと使えないジャン! 攻城戦では攻撃側も使えるが、それ以上に城方が有効利用してきそうだ。 では、なぜ使いずらく高価な兵器を装備したのか理解に苦しむ。 それでも火縄銃が好き 国友村 村民
52 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 13:33:22 ID:???
53 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 13:54:32 ID:???
>>51 最初の一発は天候次第だが攻勢でも撃てる。
後はまあ防御兵器として優秀だからだろう。
数集めれば馬や相手の兵卒を音でびびらせることも可能だし、
味方の士気も上がる。
54 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 14:19:20 ID:???
弓で甲冑を着込んだ人間を仕留めれるようになるには相当の修練を要する。 刀でこれを行うのもかなりの修練を要する。 槍はまだ簡単だが、それでも兵が前に出て行かないと始まらない。 しかも殆どの白兵戦武器は、修練の差が生存率に直結してしまう。 弱兵が強兵を倒すなんて無理な話。 そこへくると鉄砲は、僅かな訓練で連度の高い相手を殺害できるようになるのだから、 価格の問題さえどうにかなれば、これは揃えたくなるもんでしょう。 無煙火薬なんて気の利いたものがない時代だからね。 白煙が立ち込めて乱戦になってしまえば、まともに使えたかどうか疑わしい。 けれど名のある武者が不意の一撃で倒される恐怖が生まれたわけだから、 戦場を支配したと言ってもいいのでわ?
55 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 14:23:34 ID:???
数ヶ月訓練すれば一人前になる火縄銃 数年どころか十数年の修練が必要な弓 大軍を動員するようになった戦国期、どっちが有利かは一目瞭然
56 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 14:29:50 ID:VvipuFpp
>>51 短期間に兵を育成するには、銃の方が有利ではないか?
57 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 16:29:06 ID:???
火縄銃の弾は真直ぐ飛ぶのか? 狙って当るのは30m位ではないかと思うが
58 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 17:39:02 ID:???
線条ないし、鉛も唯の○で尖がってない。しかも実際は微妙に○でもない。 肩当もない。だから人体程度の的にあてられる距離は30m〜100m程度 になる。
59 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 17:48:25 ID:VQ77JwzT
薩摩も基本的に歩兵のみの編成だよねえ 戦国最強なのに合戦が始まると馬に乗ってる連中も歩兵になる
60 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 18:13:44 ID:Qa9mJTde
当時の日本の馬は小型であったと読んだことがある。 騎乗すると兵の足が地面に付いてしまうような兵種が役に立つのかね? 歩兵よりは機動力がある位で、突撃力があったようには思えないな コストも高いでしょうに・・・
61 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 18:20:50 ID:???
>>60 小型は小型だが、そこまでの超小型ではないだろう。
また、当時の日本人も小柄だ。
前スレだったかで、生身の人間が原チャリの突進を停められるか?
というような言い方をしたレスがあったが、
欧米のような大型馬による整然としたチャージは無理にしても、
それなりに威力のある突進はできたのではないかと思うが。
62 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 18:23:08 ID:7j8DmNWG
というより大規模な騎兵軍団整備するならその分、歩兵部隊を増やした方が良い気が・・・
63 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 18:32:44 ID:???
>>59 騎馬多いぞ
朝鮮の戦いの記録など
騎乗のまま射撃や弓を使うという表現が頻出
64 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 19:36:07 ID:???
素直に弩を使えよ。律令時代は使っていただろ? 源平時代に騎兵に淘汰されたのか?
65 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 20:36:07 ID:VQ77JwzT
66 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 21:33:26 ID:Qa9mJTde
弓矢の話で疑問があります 何故日本では騎兵の和弓も長弓・長い弓を使うのでしょう? モンゴル騎兵などは半弓で、そちらのほうが使いやすそうだよなあ。 射程距離なんかより使いやすさを重視したいと思うが俺だけかい?
67 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 21:36:52 ID:???
>>66 材料と製法の問題。
遊牧民の使ってるような複合弓は日本じゃ作ってなかった。
68 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 21:38:53 ID:Qa9mJTde
便利と感じなかったか! 元寇で攻められているから、器用な日本人が真似て 複製しているかと思ったが・・・
69 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 21:41:07 ID:???
>>68 つか、複合弓は射法とか戦術までそれにあった物に変えて始めて意味があるものだから。
単に道具だけ入れても意味がない。
君はちょっと近視眼過ぎるんじゃないか?
70 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 21:42:50 ID:Qa9mJTde
火縄銃の先に銃剣着けたら役に立つかね? スパイク式でもないよりマシと思うが・・・読んだことないな 当時の足軽レベルでは使えないか?
71 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 22:41:44 ID:???
火縄銃と別に刀もってたんじゃない? 刀で戦わなくちゃいけないときはそっちで 刀で戦うような近距離にいる時点で 火縄は無意味 全部空想でスマソ
72 :
名無し三等兵 :2007/01/05(金) 23:44:59 ID:???
弓矢には付いてたんだっけ>銃剣ぽいの
73 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 00:33:17 ID:4gw/XYEh
>>64 その弩が日本で普及しなかったのは、俺も不思議に思ってる。
遣唐使の時代から日本人は大勢中国に行ってる。
当然弩の存在も知っていたはずだ。
単なる弓矢よりも、個々の兵士の力量に頼るところが少なく、
訓練も簡単。どうして日本は弩を無視したのだろうか。
74 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 01:11:10 ID:???
>>70 それは、今から見た跡知恵だろ。
ヨーロッパでも、住建出現するのは18世紀じゃなかったっけ
なかなか着想しなかったんだろ、
現に、鑓とかパイクとかハレバryドの兵が存在してる状況では
76 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 03:29:06 ID:???
鐙とか、世紀の発明は案外後なんだよね。 暗黒時代をモデルにしたと思われるファンタジーに鐙があるのはビミョン…。 和弓でも重藤などは単弓でなく一応複合弓。 非対称なのは馬上で扱え、かつ射程を維持するための工夫。 反面習熟が難しくなってるけど、そもそも侍の武器だからキニスンナとw あと足軽用の弓は構造が簡素化されて単弓に近くなっているようだ。 モンゴルなどの遊牧民が使う弓は動物系材料による複合弓で、 和弓は木材や竹などを使った植物系材料による複合弓と言えるな。 この辺は材料の入手性と関係している。 弩が普及しなかったのは…。 戦いが武士の仕事であった時代が長かった。 (応仁の乱の頃まで、足軽なんていうもの盗り紛いの弱兵に用はなかった) →だから訓練の簡易さなんてキニスンナ。動員された兵はいないし。 習熟した人間の手にかかれば、弓の方が速射性に優れ、威力、精度も遜色なくなる。 →どうせ武士ばっかりなんだしみんなで弓を練習すれば円満解決! ついでに言えば、弩を作り、メンテする技術が一般的だったのかどうか。 都市文化が発達し、職工に仕事と一定の権利を与える土壌が必要だと思われる。 欧州でも弩を使用したのは、都市が発達した南欧が主流という点に留意。 日本で都市文化が一定の形を成したのは、室町中後期からでないかと。 後半は推測ばっかなんで注意してね。
77 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 03:41:14 ID:???
そういや鉄砲といえば、明の火竜槍みたいなのも、多少流通していたんで 後世から見た時に種子島と混同してしまったみたいな話を読んだことがあるが 実際どんぐらい使用されてたんだろうか? 火薬を使った兵器自体は、元のときにみてるし、使えるかどうかはともかく 興味を持った大名がいてもおかしくはないと思うんだけどね。
78 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 03:53:27 ID:iJdiBxFl
住建なんかにしたら 貴重な銃を壊すかもしれないでしょ
79 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 07:42:34 ID:???
銃剣自体相手が鎧を装備せず、槍なんかを装備している相手自体がいないの が前提で、しかも射撃後も敵味方が戦闘を続けなければ状況(決戦)や奇襲 されて止む負えない状況で使う道具、旧軍みたいに兎角銃剣・決戦主義なら ともかく射撃できる状況なら普通は射撃を継続するわな。槍働きが有効な 状況ならそれ専門の足軽に任せてしまえば良い。そもそも銃剣の発明期が 槍兵の絶滅期と重なるのはその為。
80 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 07:52:43 ID:znqHcgDa
火縄銃は重すぎだから
81 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 07:52:49 ID:???
歴史勉強にと思って PSゲームのバサラ2をやってみました 当時でも日本の兵器は随分進歩してたんですね
82 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 10:21:00 ID:Ii8NFVBe
>>76 日本でも海の戦いには使われてたような
石弓
83 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 11:27:30 ID:YKKyu4iE
勝頼が雨の日か風の強い日に決戦に出て、鉄砲の威力を激減させて 右翼にでも攻撃集中して、長篠に勝った場合、次に何をするのでしょうか? 三方ケ原の頃とは畿内の状況変わって、信長有利になっているから 上洛は難しいかな?勝頼にその気もなさそうだし・・・ 兵力が足りんよ!真○ 信綱
84 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 11:30:52 ID:???
>>83 その前に長篠で勝てないだろ。
野戦築城した自軍より多い兵力に後方を押さえられて勝てると思うのは阿呆だ。
85 :
73 :2007/01/06(土) 13:02:09 ID:WA435OVe
>>76 なるほど。都市の存在か。
確かに、弩のような標準化された大量生産型兵器の存在には
それを支える工業力、すなわち都市の存在が必要かも。
中国では弩が普及した春秋戦国時代には、すでに都市文明が
存在していた。日本では本格的に都市らしいものが出現するのは、
戦国期からで、その頃には鉄砲が来てたから、弩の出番は
なくなったわけだね。
86 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 13:15:50 ID:???
弩より鉄砲の方が生産難しいと思うんだけどなあ、火薬の生産もせにゃな らないし。どっちかと言えば文化的価値感の差ではないんだろうか、源平時代 の武士が槍を嫌って薙刀を愛用したり、武勲が敵に向かって大声で名を叫んで 一番に突っ込むみたいのが一番ってなると弩みたいに誰が使用したか分かりに くく美学がない兵器は嫌われたのではないのではないだろうか。
87 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 13:25:16 ID:???
鎌倉時代って長弓による射撃戦がメインだろ?
88 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 13:44:31 ID:???
>>66 モンゴル人などが使っていた短弓は、弦に羊の腸を使用し、接合剤に膠(要するに煮皮)を使用することで、短弓でも長弓に劣らない射程と威力を実現できた。
これらの材料は遊牧民であるからこそ容易に入手できた物。つまり日本では作られなかったのではなく、作れなかっただけ。
>>70 槍と銃剣(銃本体も含め)の長さを比べてみようよ… 世界最長(笑)との呼び声も高い、我らが38式でも2メートルにも満たない。つまり短い。
そんな中途半端な物があったところで、本物の槍には遠く及ばない。第一、火縄銃はそれを持って銃剣突撃をし得るほど軽くない。
そもそも弓兵に突撃を命じるバカは居ないのと同様の理由でもって鉄砲足軽は突撃などしない。
また防御目的だとしても、最初に挙げた理由から、護衛の槍兵をつける方がよほど合理的かつ現実的。
騎兵銃に銃剣が付いていないのも同じ理由。ようするに馬上から地上を制圧するにも事足りぬほど短いってこと。
上で他の方が述べている通り、銃剣の登場は槍兵という兵種が無くなったために登場した代替物に過ぎない。昔の人が思慮不足で思いつかなかったのではなく、むしろ思慮深かったからこそ作らなかっただけ。
89 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 13:56:11 ID:???
>>86 そういうことなら、鉄砲も同じ理由で嫌われてると思うけど
でも、戦争になったら美学とかあまり言ってられないと思うけどね
90 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 14:47:23 ID:???
>>41 投石部隊は武田や朝倉等で結構存在するのに
スリング部隊はないよね。 概念自体がないにしても弩・クロスボウと違って
誰かが思いつきそうなものだが。
91 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 15:29:53 ID:???
>>89 騎乗射撃ができない(次発装填は不可能)点が嫌われたんじゃないの?
>>90 あれはあれで錬度を要するから>投石紐
92 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 17:45:17 ID:???
スリング自体は日本にも昔からあった、ただいかんせん命中率悪いから 相手が盾などで防いだり避ける余裕の少ない10m位の距離で投げてたと 想像する。
93 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 18:14:56 ID:???
>>82 小規模な使用ならあり得ると思うけど、ちょっと調べてみましょ。
>>77 所謂石火矢かな。
但しこれ大筒と一緒くたに記述されているようで、どうもその辺が混乱の元。
仏朗機を買った宗麟以前に使用の記録があれば可能性が高いけど、
なんか自由な解釈を許している雰囲気だねw
投石は殺傷力の点で疑問かな。
味方の頭越しに嫌がらせをする、以上のことをするにはそれなりの習熟が必要だし。
ある程度の練度を持った兵を集団で使えば相当の破壊力を持つとは思うけど、
そりゃどの兵科でも同じだしね〜。
遊牧民の間では一般的な武器だった(肉食獣を追っ払うのに使ったみたい)
ようなので、そういった連中を動員する文化圏で普及した武器ではないのかと。
94 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 18:49:09 ID:???
ローマの共和政期のプロレタリーは石を投げて戦うのを義務付けられてた
らしいから投石は昔から行われてた。無論専用の武器には遠く及ばないけど
ただでどこでも手に入る武器ではある。
>>89 源平期は個人の勇武が重視される時代だからただ相手を殺すだけでなく、自分
がいかに美しく正々堂々と戦ったかを示さないと武勲として認められない。だか
ら戦闘服って言うより芸術品に近い鎧を着て名乗りをあげ、舞のように美しく
円弧を描く刀や薙刀や個人の技量が一発でわかる弓矢で戦う。
戦国期になって集団戦が一般化すると相手を殺せば良いって事で槍や鉄砲が
主装備になったと思う。
95 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 19:30:13 ID:???
源平時代の戦で白兵戦は重視されていない。楯突戦と、矢戦と呼ばれる弓矢での 射撃戦で形勢は殆ど決った。
96 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 20:51:22 ID:rY7nvAXO
97 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 20:52:07 ID:???
98 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 20:53:57 ID:???
弩は強力だけど、今日のボウガンほど使い勝手が良くなかったと思う。 巻き上げ機構と部品強度(鉄の加工技術)が発達していなかった戦国時代、 弩に長弓と同等の性能を持たせようとすると、装填作業には長弓以上の 力が必要にとなり、使い手が限定された。逆に装填しやすくすると、せっかくの 有効射程が犠牲になってしまった。 「機械的に巻き上げればいい」ってのはまさに後知恵で、実際には 機構の大幅な改良や、部品強度の向上(金属の加工技術等)が 必要となっただろう。総合的に見て主力とするにはあまりにも コストパフォーマンスが悪すぎたのが、弩 不採用の理由ではないか。
99 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 21:11:19 ID:rY7nvAXO
97 ゴメン、なかなか貴重な意見が聞けないしスレにあったテーマかと思いまして。ごめんなさい。
弩じゃ速射もできないしな。矢戦では、矢衾つくって面制圧するし。 時間当たりにどれだけ弓矢を投射できるかは重要。律令制時代の軍団兵は 弩も使ってるが。
101 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 21:56:18 ID:sqZBcVis
戦国時代の補給は現地徴収が基本。出征でも本国から運ぶ物なんか殆ど輜重が同伴で運搬した。
102 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 22:28:16 ID:DHkePE5d
>>86 >>89 そそ、戦国期に弩よりも鉄砲を生産したのは、その時、鉄砲が
出現していたという単純なから理由だろう。鉄砲という新兵器が
弩よりもすぐれていたから。
弩は二千数百年前、中国の春秋戦国時代に発明されたが、
もしその頃鉄砲があったら、孫子も鉄砲使ってたさ。
103 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 22:36:03 ID:DHkePE5d
>>100 そこで連弩ですよ。
秦漢交代時代にはさかんに使われていたらしい。連射式弩。
最大30連発なんてものもあったらしい。俺も図は見たことが
ないんだが、やはり普通の弩よりも大型で、バズーカ砲の
ように肩にかけて射撃していたらしい。
さらに固定式連弩というのもあって、人力ではとても使用
できない巨大な弓を、バネのような機構を使って装填し、
最大数十発連射するものだったようだ。
これは大きいので、城壁の上なんかに設置して火矢なんかを
放っていたらしい。
104 :
名無し三等兵 :2007/01/06(土) 22:42:13 ID:DHkePE5d
ただし、この連弩ってのはさすがに単なる弩にくらべて 操作が難しく、訓練が必要だったらしい。ましてや 固定式連弩になってくると、操作に一個中隊くらいの 人員が必要で、簡単なものではなかったらしい。 秦の始皇帝は、この連弩を使っていたらしいが、訓練の 十分できる親衛軍にしか配備していなかった、という話も ある。 連弩は操作が難しく、おそらく故障も多かったのだろう。 三国志の時代ごろには、使われなくなったようだ。
家康公幼少のミギリのエピソードにもあるように 石を武器とし戦いは子供の遊びなどで生活の一部でもあった。 かなり誰でも武器として扱えるものではないだろうか。 また、戦国時代の死者の数も投石によるものは鉄砲、槍によるものと並ぶと。
飛礫(つぶて)は10世紀の末から文献に出てくるが、鎌倉時代にししばおこった諸社の強訴のときはげしく飛礫を打っている。日本だけでなく、朝鮮でも古くから「石戦」が盛んで、朝鮮に出兵した豊臣秀吉の軍は、民衆の投石による抵抗に苦しんだという
>>103 連孥は連射できるようにした為に、張力が低くて
射程・威力ともに不足していて精々城壁から盗賊にむかって撃つ
(中国での運用法)
ぐらいしか使い道無かったとか
盗賊退治じゃなく実戦ともなると
そんな威力も射程も無い矢を連発で撃つより
しっかり威力と射程のある矢を
普通の孥から撃った方が良いのでは?
108 :
107 :2007/01/07(日) 01:13:07 ID:???
弩の字を変換ミスしてるね・・・スマン_| ̄|○
孔明が開発したとかいう、連℃あったよね。小型の奴だっけ。 脅しには結構、良さそうだけどな。
銃剣の話が出ているので一寸補足 初期の銃剣は銃口に突き刺して装着するタイプ だから装着したら射撃不可能になる それもあって、あまり使われなかった 当時の技術では現在のように着剣装置で銃身の下など に金具で取り付ける装置を作るのは工作精度と金具の強度の問題で出来なかった 脱着可能な剣をしっかり固定して戦闘に耐えうる金具を作るのは難しい(当時の技術では) ちなみに、剣を付けっぱなしの銃も試作された(剣の取り外し不可のタイプ) が、剣が邪魔になって、銃としての使用に著しく支障をきたしている なにせ、当時の銃は先込式だから・・・ この辺が発想はありながらなかなか銃剣が普及しなかった原因の一みたいですね
中国では弩の発射速度の遅さを補うため、弩兵を3列に並べて交代で撃たせることで 連射を実現していたそうだが。 長篠の3段撃ちはこの辺が元ネタなのかね。
ヨーロッパの交代射撃が同時期だから、それの発展版みたいなもんじゃない?
野戦築城といい、ネタ的には被る部分も多いね。 信長がその辺にインスパイアされたのかどうかは証明できないけど。
長篠の戦いは武田軍集団自決説まである。(NHKのテレビで) やっぱりみんなも 野戦陣地に正面突撃するのは只の馬鹿 だと思うか?
>>114 上手い手じゃないが、城攻めでも力押しでやってたのが珍しくない時代だ。
ただの馬鹿とまでは言えん。
織田・徳川連合軍の方が上手だったというだけの話だろう。
この時の野戦陣地って、柵以外には具体的に何するんだろう 石積んだり、堀ほったりとかか?
>>114 只の馬鹿。
人数だけでも織田徳川は武田勢の倍いる。
勝てる余地は無い。
突撃するはめに追い込まれた時点で戦う前に敗北しているとも言えるが。
>>116 空堀はあるね。
土塁は、長篠合戦で使用されたどうかは分からない。
(どこまで盛り上げると土塁なのかの定義は必要だろう)
秀吉の中国攻めの城攻めでは、もう定番。
野戦陣地としての土塁は、小牧長久手合戦では信じられないほど、念入りに作られている。
119 :
名無し三等兵 :2007/01/07(日) 22:08:15 ID:bZM/8IOE
鉄砲の交代撃ちなんて弓の撃ち方から言ってもあたりまえ。いろんな戦でやってる。 肝心なのは大軍勢の攻撃を阻止するには大量に必要であることを理解し実現したこと。 野戦築城と組み合わせることで鉄壁の防御をつくり野戦のありかたを変えたこと。小牧長久手などいい例だが、後世の塹壕戦のような防御側優勢の野戦の形態が出現したのが長篠の合戦。 鉄砲の有効な使い方については信長も本願寺との抗争で学んでいったのだと思う。
野戦陣地戦はお互い手が出せずに長引く事も多いですから 兵站に自信が無いと出来ませんからね。
すると鳶ノ巣山が落ちた時点で手詰まりっぽいな。 兵站じゃますます圧倒的だしな。
大河ドラマを見た・・・ガッカリした・・・所詮ドラマか・・ まあ、思いっきり現代語しゃべってワケ分からん事はじめる 民放ドラマよりはマシか・・・
日本の大河ドラマは無駄に長くやりすぎだよな。 もっと短く金をかけてやるべき。 ということで新大河ドラマは辻政信から
124 :
名無し三等兵 :2007/01/08(月) 00:32:06 ID:CwQXXPAM
大河ドラマっておんなじ人が何回も。 信長、謙信、信玄・・・ もう、いいよ 変わったのが好きだったのが「花神」 大村益次郎なんて地味すぎて。カップリング高杉晋作かな。大好き。
>野戦陣地としての土塁は、小牧長久手合戦では信じられないほど、念入りに作られている。 あれはもうほとんど城と城壁だよね
歴史上有名な日本人なんてそうそうしゅっちゅう産まれんわな。w 山本勘助なんて架空の人物までひっぱりださなきゃいけないNHKの窮状 も分かってやれ。
倍の人数が立て篭もった城に突撃する武田軍はDQN
昔は国家管理の兵隊じゃないから負け戦になるとすぐに離散してしまう。 離散程度はまだ益しで「返り忠」って言って上官の首を土産に相手に寝返る なんてざらにある。勝頼は信玄が死んでから後を継いでから2年しか経って ない。ここで弱気を見せると寝首を盗られかねないとあせったのではないだ ろうか、実際信玄以来の重臣との軋轢や長篠後の家臣の次々の離反がそれを 証明している。甲陽軍艦では重臣達が勝頼の無謀な突撃を諌めて最後は武田家に殉じて 戦死を覚悟して作戦会議は終るって筋書きだが、勝頼の立場からすれば重臣 達が部隊ごとまとまって自分を襲ってくる可能性の方が鉄砲より遥かに怖かった んじゃないだろうか。
戦国時代でもっとも有効だった 陣地って真田丸なんじゃないの? あれこぞ銃器でフル武装していたが
>>129 落城を食い止めたわけでもないし最も有効とはいえんのじゃないか?
>>130 6000名で30.000名(諸説あるが)を撃退したし
一説には徳川側の死傷者15.000名(流石に嘘っぽい)と言われるぐらい
大損害を与えてるし
前田家家臣の母衣に48発の弾痕が残ってたという話もあるし
相当な十字砲火を浴びせられるような造りになっていたのは確実だろ
100万の寄せ手を撃退した千早城だとかガイシュツの長篠と違って
歴史が新しい分、記録も信憑性が高くなってる
それに落城したのは真田丸が破却されて野戦になった夏の陣だろ
真田丸自体は結局不落だったぞ
>>131 真田丸自体が不落でも意味ねーんだよ。
自軍の勝利に結びつかなけりゃ最も有効とは言えん。
大体、野戦陣地と出丸を一緒にするな。
真田丸は大阪城あってのものだからな。 あそこに寄せ手が来たのも他の部分の防御が堅かったからだし。 で、城塞としての戦歴を考えた場合は大阪城より石山本願寺の方が上な訳で。
>>126 最近、当時の手紙が見つかったりして
一応実在はしていたっぽいってのが通説らしい
まあソレ以外は甲陽軍艦の怪しげな記述しか無いわけだが(笑)
>>134 下っ端の下士官クラスで、作戦会議で発言できるような身分ではないとか何とか。
決定した作戦を、他の武将に伝達する任務を負っていたのではって説もあるね。
一時期は秘密警察・スパイ集団の活動が情報に通じてたって事で軍師・山本 勘助に集約していったって説もあったな。山本なんて武田にも上杉にも他の大名 家にもわんさと居そうな名前だもんな。
甲陽軍艦には軍師と一言も書かれていない 明治の大先生が言った事を無批判に継承 するのは如何なものか と手紙見つけた研究者が怒ってたな
どうでもいいが、甲陽軍鑑ではないのだろうか? 片目で片脚ってキャラが立ちすぎてるのもちょっと怪しいのだが、実際はどうだったんだろう
当時は病気や怪我の後遺症で目や脚の悪い人は結構いたような気もするが
正月のドラマもたまには二本松の戦や長岡藩の攻防戦、 戊辰戦争前の生麦事件〜4カ国連合軍VS長州とかやればいいのにな。
>長岡藩の攻防戦 これは何年か前にガトリング家老視点であったんじゃ?
今年の白虎隊にもあったような。 でもほかについては同意
大河ドラマ見ていて思ったんだけど 槍短すぎない? 当時の槍ってもっと長いんじゃないの?
>>143 1.長柄は長すぎ&重すぎて役者が扱えない
2.画面を引かないと長柄を使った殺陣が…しかし、テレビドラマでは役者の顔がアップにならないと…
ちなみに武将が使う槍は長柄ほど長くなかったりする。
殺陣で見栄えがするのも短いというか普通サイズの槍だしね
>>144 武将が使うのが短いのは知ってるけど
足軽まで短いの使ってたからね
まあやっぱりドラマとしての見栄えの問題か・・・
146 :
名無し三等兵 :2007/01/12(金) 16:05:43 ID:1Kg6m1vL
落とし穴で下に竹槍仕込んだヤツとか出てきてたけど やっぱり実際でも、あ〜いうの作って仕掛けたりしてたのかな?街道沿いに
戦国合戦の描写にリアリティ求めるなら、結局、クレし(ry
映画「アレキサンダー」のガウガメラでのファランクスなんて凄い迫力あると思うのだが。 長柄と共通する部分もあると思うのですが。 せめてパクる位出来ないのかね。 演出が戦国を舞台にしている割に見せ場であるはずの「戦いのシーン」に興味が無いのでは?
>>148 Yes TV局にとって、視聴者ってのはチャンバラ合戦を見て喜ぶ層が大多数であり
「戦争」を史実に則り映像化する気なんてさらさら無い。
黒沢明はもう生まれないだろう。
>>149 「ラストサムライ」で始めへタレな新政府軍が最後には立派な方陣組んで前進する様なんか
日本は変わったんだって観てる者に認識させる良いシーンですし、その後の両軍突撃時に
勢い余って体当たり、死力を尽くしてるって感じがして。
戦闘シーンだけでなく、ちょっとした史実、実際を織り込めば、たとえファンタジーでも
面白く説得力も増すと思うんですがねぇ。
たぶん面倒なんでしょうね。
せいぜい「方言指導」位ですか。
>>151 こうすれば視聴率が稼げる!というのばかりが先行して
いいもの作ってやる!って言う気概が感じられないよね。
幕末まで蹄鉄が無かったし、あと去勢をして無いから軍馬としては使えないとか お雇い外人に言われてたようですが、欧米以外はどんな感韃靼でしょうね?
>>152 >こうすれば視聴率が稼げる!というのばかりが先行して
>いいもの作ってやる!って言う気概が感じられないよね。
それだとNHKがドラマつくる意味が無い様な
>>151 国は違うが
「ラスト・オブ・モヒカン」は激しくお勧め
>>151 方陣戦術はあの時代、既に時代遅れも甚だしい
というより、日本は密集隊形を鳥羽・伏見の戦い時の
幕府歩兵以外、実戦投入した事はない
日本の攻城兵器はどのようになっていたのですか? 西洋のような投石機や破城槌を聞いたことがありません。 戦国の後期に大筒が出てきたのは知っていますが、破壊よりも心理的側面が多いと聞きます。
少佐はなんで嫌われてるの? このスレで少佐を解禁しよう。
日本の場合、攻城兵器は西洋のように発達しなかったな、封建制で長期的 に篭城する相手を包囲する職業的軍隊は信長以前には存在しなかったし。篭城 側も気候的に食料の備蓄が難しいので1年以上の篭城なんてしていない。
攻城兵器もそうだが、兵站という概念も乏しかったと思う。 戦争の規模が小さい(根本的に内戦ばっかり)ことが一因かな。
西欧でも封建制の中世になると攻城戦は規模が格段に小さくなるからな。 ローマ時代みたいに海を埋め立て城壁に傾斜路を作るような土木技術も消滅したし。
>>159 攻城兵器は万里の長城の様な石の城壁を破壊するものですから、
日本の様な土塁と板・土壁では必要性は薄い。
>>162 万里の長城が、石(焼き煉瓦)になったのは明代以降だよ
それまでは土が主流
>戦争の規模が小さい(根本的に内戦ばっかり)ことが一因かな。 ヨーロッパも封権時代は似たような物。 兵員数でなら日本の戦国時代の方が むしろ大規模。
>>163 その頃のもあくまで壁であって、塁ではないし。
それに土といっても版築(日干し煉瓦)ですから、土盛りとは性格が異なる。
>>165 版築(ハンチク). 中国における墻壁築造の最古の形態。土を板の間に層状に突き固めていく建築工法。
版築は土だよ、NHKで見たことあるが黄土を突き固めると結構な強度になる
弱点は雨。
日干し煉瓦の城壁は、オリエントが主流。
西洋でも土壁、木壁に漆喰などの城郭はありました。 石造りの城だけが残存しているのは腐らないから。
元代の北京城(大都)は版築だったので雨による被害を避けるため 城壁に屋根作ったりして損耗を避けてた。 版築による城壁ってのは、年中修復が必要なのですよ まあ材料が土だけなので人件費だけで済むが。
西洋で石造りが復活するのは、十字軍でイスラムとの接触があってかららしいね。 暗黒時代のそれは、近所の遺跡のをちょろまかして作ったものw
こーゆーの調べて思うのは、つくづくローマはスゲーってことだな。
>>170 日本の場合、「モット」は「詰城」、ベイリーは「館」で後者は戦時には放棄するから、
山上の戦いになるがその場合、西洋に比べ急斜面・高所にあるから攻城兵器は
無意味
平城になった頃には山城で培われた土木技術で作られた大規模な堀や土塁で
無効化してしまったという所かな?
>>1 5 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/01/01(月) 18:10:15 ID:7AA0QutU
スレ復活したのか
いきなり自演すんな
>山上の戦いになるがその場合、西洋に比べ急斜面・高所にあるから攻城兵器は そのようなことは無い。 日本の城が急斜面、高所にあるものはごく一部。 イメージ先行による固定観念。 鎌倉期〜戦国期においても農業商業の経済地である平野に多くの城は存在した。 周囲に高い山が存在する場合でも農村、都市近郊の比較的低い (数メートルから数十メートルの高さ)の丘陵地帯に建造されるケースも多い。
※注意 少佐は書き込み禁止、もし書き込んでも徹底スルー 少佐に関わる奴は同類 ↑ このルールは撤廃してもよいだろう。
工場兵器が発達しなかったのは 日本の場合地形の問題で (攻める場所の地形じゃなくてそれまでの移動経路) あんなデカイのは運ぶのがメッチャ大変だったから ってのがあるんじゃないの? カタパルトなんかよりは幾分運びやすくなった大筒が登場したら 各大名積極的に利用してるよね
>>176 誤字 工場兵器>攻城兵器 ね
ヘッポコミスだ・・・_| ̄|○
。ヨーロッパにおける投石機は基本的に野戦で使われず、現地で必要に応じて建造する物だったので攻城戦が終わった後、すぐに解体されたようだ。
オスマントルコの攻城砲だって、現地で鋳造されてたしな
なるほど〜現地で作ってたのか ということは、日本で使われなかったのはなぜだろうな 現地に木材などはドコでも一杯ありそうだけどな
土木分野である普請は軍役であり、戦役と同じように動員され施行されたが 建築である作事は大名の仕事であり、これは大名の懐から予算が出る。 城塞にとって重要なのは普請であって、これは土木作業だが 土の防御施設に対して、大陸的な投石機などの建築物破壊兵器はあまり有効ではない これらの兵器が普及しなかったのは、日本の防御施設がそれらの兵器と噛み合わなかったからではないだろうか。
日本の城でも城門、それに付随する櫓等を破壊されれば、防御力が減退、 周囲の堀や土塁石垣が用をなさない。 日本でも投石器が建造、運用できたなら使って居たとおもわれ。 中世の城も観光地にあるような石垣と堀の巨大な城だけでなく 大河ドラマの『清洲のお館』のような中小の城相手なら圧倒的な 効果が見込めると思われ。
ということは、当時の日本人は 投石器などの存在を知らなかった もしくは、知っていたけど作り方を知らなかった って事なのかな?
>>183 中国から来た兵法書とかも一応読まれていたから、知られていなかったってことはないと思う。
やはり、何かの理由があって使いにくかったんじゃなかろうか。
戦国時代に入るまで攻城兵器が必要なほどの城塞が存在しなかった点が大きいんだと思うよ。 ヨーロッパや中国は都市を城壁で囲んだものが城で、攻城兵器はこの壁を越えたり破壊したりするのに使用したんだ。 これらの城壁は広い範囲を囲うために、高く薄く作られたのもが多かったので、投石器で結構簡単に破壊できた。 時代が下ると壁を厚くし始める。大砲の登場なんかも影響有ると思うんだ。 日本の城は本質的に『人質を囲っておくための施設』で、防衛に関してはその地域の防衛拠点に砦(柵)を築いて行なった。 で、この砦1つじゃなくて複数あって防衛ネットワークを形作ることで防衛してたんだね。 で、こういった防衛施設に対して攻城兵器はあまり向いてなかったのではなかろうか? 効果がないというより、コスト(手間隙)がかかりすぎるという点で。 時代が下ると、石造りの塁を持った城が登場するけど、 鉄砲や大砲に対応するため、いきなり壁が厚く石垣は高くといった従来の攻城兵器があんまり役に立たないモノが登場したので とうとう登場しなかったんではなかろうか?
戦国板でやれ
>>184 西洋との比較で効果が薄くても投石器があれば攻城の期間の短縮と
単なる力攻めで兵力の損耗を低減させる事ができる。
需要が少なく使われる頻度が少ないので無く、日本の歴史上
全くと言ってよいほど存在しない。
単純に製法、技術が無かったのでしょう。
織豊型城塞のように、石を多用する城塞って結構戦国後期に登場していて 中世から典型的な緊急避難用の山城と平時の城館といった組み合わせには 大型の投石機を使う必要性が低い。 平地の城館は簡単に攻略できるし 山城には、投石機を持って行くのが難しく、地形を利用した防御であるため 建物に効果的な兵器である大型投石機は効果が低い。
189 :
名無し三等兵 :2007/01/15(月) 13:15:22 ID:EIyK3paX
> これらの城壁は広い範囲を囲うために、高く薄く作られたのもが多かったので、投石器で結構簡単に破壊できた。 おいおい。 調べもしないで知ったかぶるなよ。 投石器と言えどもそう簡単には城壁粉砕できねぇよ。 城壁は壁の上に兵力展開できて何ぼ。それだけの厚さはある。 城壁に被害を与えても防衛側は修復する。 修復させないように攻撃側は打ち続ける。 その繰り返し。
平城の攻略が簡単なわけではないだろう。 大阪城や小田原城を見ればわかる。
>>190 中世の城館と大阪城を一緒にしてどうする
小田原城も堅城だが、海上からも含めて砲撃をアレだけ喰らったら どうにもならんだろ
>185 大砲が進化するまで、基本的に城塞の防御力>攻撃側の火力だったんだが。 投石器で城壁を打ち破ろう思うと、莫大な労力を使うわけで。 だからこそ、それまでは城壁は高さが防御力の基本であり、劇的な進化はなかった。 簡単に打ち破られるようなら、それに対策を取った進化を遂げるはず。
砲撃?何かパラレル入ってない。まあ城壁の建造技術も砲発明以前と以後 では西洋でも建造方法が全然変わってる。日本の場合、大規模に砲が使用され る以前に天下泰平になっちゃったから想像に任せるしかない。ただ地形的に 攻撃側の方が防御側より有利のような気がする。
地形的に攻撃側の方が防御側より有利と言うことはないだろう。攻撃側より有利になる場所に砦や城塞を築くだろ。
>194 パラレルというか、投石器で城壁を簡単に破壊できるって言うのに対して反論しただけ。 あと、地形的に攻撃側が有利という意味がよくわからん。 少なくとも、平城といえども縄張り内は周りより高いわけで、単純にみても高さの有利さはあると思うが。
フランスのイタリア侵攻では、何年もの包囲戦に耐えた要塞が フランス軍大砲の集中砲火で半日で陥落って話もあったらしいから それまでの投石機と、大砲では全く威力が違うだろう
日本の城郭でも投石器で破壊可能な上部構造物、城門、櫓、塀(城壁)が存在。 それらを破壊される事は防御力の低下につながる。 戦国期日本で投石器が作成可能であるなら 使わないはずは無い。
さしずめ中世日本のトーチカって事かな。
>>198 中世の居館クラスならそんなもん作ってるより一気に攻めた方がよいし、
壊すなら火矢で十分。
初歩的な質問ですけど投石器の石ってどう調達するの?
>>200 日本の城郭でも投石器で破壊可能な【上部構造物】、城門、櫓、塀(城壁)が存在。
居館ではなくそれ相応の大きさをもつ
堀や石垣を持つ城塞や丘陵地の砦でも【上部構造物】、城門、櫓、塀(城壁)が存在。
堀や石垣を持つ城塞や丘陵地の砦でも【上部構造物】、城門、櫓、塀(城壁)が存在。
土塀、土蔵等、火に強い構造物。
土塀、土蔵等、火に強い構造物。
まぁ、火矢だけで構造物を全て破壊できるなら、初期の攻撃で
守備側の武器食料の備蓄も建造物共に焼失するはず。
兵たちも雨ざらしの露天生活を続ける他は無い。
長期の篭城戦など日本の中世に存在しない事になるな。
海外の攻城戦でも火攻めは最終手段だったはずだが。 街が焼失し戦利品が手に入らなくなるから。
>200 ヒント。 瓦屋根 土壁 総塗込
投石器は台車に載せて運んでゆく。 投石する石もそうである。 しかし日本には車が無い。 精々牛車か大八車である。 しかも牽引する牛馬も少なく弱い。 従ってそんな重量兵器は使えない。
ヨーロッパにおける投石機は基本的に野戦で使われず、現地で必要に応じて建造する物だったので攻城戦が終わった後、すぐに解体されたようだ。
古代ローマ軍は小型の投石器やバリスタを野戦に持ち込んで、敵の隊列に 大穴をあけていたのにのう…
大穴が開くって程ではない、バリスタで放たれる弓でも殺せる人数は精々 一人か二人だし、投石器も射程は短い。ローマ軍団1つあたりバリスタは50 基、投石器は30基程配備されたが投石器は現地で組み立てられたし、バリスタ も咄嗟の対応が難しく、走ってる人間に当てるのは不可能だったろう。ローマ 軍がバリスタを重視したのは蛮軍の夜襲を怖れたって説がある。遠くまで火矢 を飛ばして夜襲を回避した。今で言えば照明弾って事だったんだろうか。
つか、投石機じゃ功名が立てられねーべ。 城に乗り込んで一番乗りしないと。
投石器って城壁破壊用の大きな岩だけじゃなく葡萄弾から火のついた硫黄まで 投擲できるので大規模な合戦なら対歩兵攻撃用にも十分威力を発揮すると思う。
手持ち式で石とか火薬などの入った壷などおなげる為の 小型の投石器(というかスリング)は日本にもあったんだよね? 印地などからもソレがあったのは明らか で大型の投石器があったのかどうか?無かったとしたらなぜ無かったのか? この辺が問題の焦点だね 大筒が入ってきてからは積極的に攻城や野戦に活用してるから 手柄とか一番乗りが重要とかの理由で、この手の兵器が嫌われたわけでは無いと思うのだけど どうなんだろう?
>>211 戦国後期とそれまでとじゃ戦に関する意識も違ってきてるのを忘れるな。
単に山城を攻めるのには効率が悪く、 平城が発達してからは一気に大砲に移行して戦国が終わったというだけだろ。
>>212 そだね〜戦国初期と後期じゃ意識は違うね〜
初期は足軽は軽視されてたそうだけど
結局末期は主力だもんね
戦い方が変わったとき(意識だけでなく、城の造りも変わった?)
に丁度、大筒とかも普及してきたので
大型の投石器は出番が無かったってことなのかな?
そもそも、西洋中世と日本の戦国では戦争の形態そのものが違うんじゃないの。 調略とかですぐ内部から崩壊するし。
単純に「その発想は無かったわ」ってだけの話じゃね?
日本史上の攻城戦で、投石機があれば落城したのに・・・ みたいなケースって何かある?
218 :
名無し三等兵 :2007/01/16(火) 12:46:41 ID:yJ5HgEl8
製作不可能だから作らない。 木製揚重機、大風車、木製ポンプなどの木製機械工学が当時の日本は未発達。 投石器を製作する為の技術的下地はまったくない。(又は新たに発明される) また、大砲登場以前も含め戦国期全般に渡り長期の篭城戦は存在。 攻城が長びく事による経済的負担と自国を軍事的、政治的に空白にするリスクとの比較なら 運用面の障害も非常に小さな物。 建造可能であるなら製作、使用しないのはむしろ合理的でない。
>日本史上の攻城戦で、投石機があれば落城したのに・・・ 落城した物でも ロシア戦争の203高地の大砲の例のように落城させるのに被害と期間を縮小 できれば
というか、安価で大量に動員できる歩兵による野戦主体の日本と 永久陣地である城郭の取り合いである欧州と比べること自体がおかしいんで無いの? ちょうど大砲が日本に入るすこし前に、大規模建造技術が発展し始めて、天主をもつ 城郭が出来始めたわけだし。 大型投石機を必要とするような城自体が存在しなけりゃそりゃ 投石器(カタパルトでもバリスタでもいいが)も作られないだろ
日本の城の櫓や土塀がどうこう語ってる人は、ぜひ1400年代築城の城を調べて欲しい。 基本的に、山の地形を活かした上に土塁と柵で構成された曲輪が防御の基本。 投石器で石を打ち込んだところで、防御力はたいして減らないと思うが。 西南戦争のときの熊本城も、天主が焼失してるが防御力がさほど減っては無いと思われる。 上部構造の喪失が防御力の大幅低下に繋がるなら、 大阪冬の陣で大砲打ち込みまって簡単に落城してたはずなんだが。 上で、鎌倉時代から平城があったといってるけど、それは平山城を含めていってるのか? 周りが平地でも、丘陵や小山の上に建てられた城がほとんどで、地形を生かした築城になっている。 平時に住む館も、ある程度の防御はされてるから、それを城というなら話は変わってくるが
城?そんなもの放置しておけ そういって野戦で主力を撃滅する独逸機甲部隊
要塞を華麗にスルーするナポレオン軍
ここで栗田ターン
乃木とつげきあっげ
>>204 中世は杉皮・茅葺き、板壁、柱出し
燃え易い
10万〜20万石諸侯の居城クラスなら平地の城など 埼玉東部、茨城西部、千葉北西部、栃木南部にいくらでもあるけど。
中国では城というのは都市を意味するそうで、門だけの平城京のように さしたる囲壁の無い日本の都市とかなり異なっているようだけど、その辺の 関係もあるんだろうか。
前九年の役だかで投石器使われてたような
弩と一緒で忘れ去られた? もしくは必要が無くなったのか? 上で木製機械の技術が〜って書き込みあるけど 当時だって水車や揚重機等の木製機械はあったよね? (江戸時代の物にくらべるとアレかもしれないけど) つかそうでないと 何層ものお寺の塔や城郭の天守は作れないし・・・
廃れたのか。戦艦みたいなもんだな。
日本の木造建築技術を見るに十分作れたと思う
投石機なんてそれほど複雑ではないでしょう。 平賀源内みたいなヤツが洋書片手に簡単に作りそうだが。
平賀源内は江戸期の人間。 からくり人形など製作された江戸期とでは時代背景、科学技術レベルが違いすぎ。
235 :
名無し三等兵 :2007/01/17(水) 12:54:08 ID:us6OmruN
篭城戦と言えば日本の城は常駐兵力に対して どのぐらいの量の米を蓄えていたのでしょうか?
その大名家の予算や時期的な面もあるだろう。収穫期直前はやっぱ少なかった と思う。ただ日本の気候的にそんなに食料を備蓄できたかと言えば疑問が残る。 衛生面でも日本の気候は篭城戦には向いてない。
最も過酷な兵糧攻めの一つである秀吉の鳥取城攻めでも、事前の周辺買い付け、総篭りに仕向ける という条件揃えて4ヶ月耐えているから最低半年位は常備していたのでは。 長期なものでは北条早雲に攻められた三浦同寸親子が、三浦半島新井城で重包囲を敷かれ続けて 3年粘ったなんて例がある。
完全にひごろしにされた別所長治の三木城のような悲惨な例もあるが
三木城は三年持ったから
>>234 複雑な部材を成型して組み立てる古代以来の寺社建築に於ける木工技術の高度さを知れ。
時間をかけて動かない建物を造る技術と、重い物をぶん回す機械を急いで造る技術では、 求められる物が違うと思うがなあ。
社寺建築は造営だけでなく常時修繕やらで職人の仕事がある。 高度な技術を持った職人ならそういった仕事で飯が食えるのに わざわざ戦に行く物好きはそうそういないのでは。
>>240 平賀源内は建築とは無関係。
ただの面白発明家じゃん。
関孝和などの和算の技術者達の方が向いていると。
和算は幾何学、規矩術に関連した技術であり日本建築の高度さを示す好例。
現在ではモーメントや運動エネルギー、作用反作用などと呼ばれる物理学を
解析して高性能な投石器の設計する事も可能にする技術でもある。
建造後において西洋における弾道学、放物線軌道を計算し高度な運用を
可能にする技術でもある。
兵糧攻めと水攻めどちらが悲惨だろうか。
溺死ごっこと餓死ごっこを試す
>>244 ごめん不謹慎だった
餓死のほうが間違いなく悲惨。三木城、鳥取城、あと島原の篭城戦 全部最後には死んだ兵士の肉食べてたらしいし… 小田原城みたいに砲撃と重囲でいあつして早期開城させてやれよ秀吉さんよお と思います
>246 スレの前のほうにあった3年篭城したケースなんかはどうなんだろ。 3年分の兵糧が有ったとも思えないし、戦国末期の兵糧戦と違って 包囲も結構ユルユルだったのだろうか。
248 :
名無し三等兵 :2007/01/18(木) 09:37:05 ID:XzjHGuCe
上に当時の馬の大きさについて書き込みがあるが、それについてたまたま読んだ本から紹介。 発掘された骨を調べて次のようなことがわかった。 武田騎馬軍団の軍馬は体高1.2mほどの小型馬。 肩胛骨が発達し前脚の筋肉が強いと推定される。 山岳地での軍事活動が多い武田は斜面移動に適していたこの種の馬が有用であった。 (朝日新聞社刊藤井尚夫著『復元イラスト 中世の城と合戦』より)
>>247 北条早雲のころと、秀吉が信長の先鋒として中国攻めした頃とじゃ
やっぱり違うと思うね。 包囲しただけ、と水も漏らさず、とじゃ
全然違うと思うし
>>221 平城の場合でも、防御力を一番左右するのは堀(もしくは自然の川・沼など)
だしな。大坂攻めで使われた大砲も実際に敵の防御力を削ぐというより心理的
効果を狙って使われてる。
>>204 それらのものが普及したのは戦国後期。既に鉄砲も普及しており、近畿地方
などの先進地域では三十匁〜百匁にも及ぶ「大鉄砲」が城門破壊などに使用
されている時代。
ちなみに石垣や瓦を大規模に使った城は信長の安土城が最初と言われている。
252 :
名無し三等兵 :2007/01/18(木) 12:35:05 ID:apRssDI2
>>247 篭城戦では内部崩壊による落城も多いわけで
兵糧等が持ったとしても長期に渡る篭城で士気を支えられた事も脅威に値する。
慶長文禄で日本側が籠城した城を明国側が攻めるときに 透析器を使った例はあるのかな。
>>247 新井城は三浦半島の先っちょにあり、三方を海に囲まれている。
船を使ったごく小規模な輸送ならば、時々は成功してたんじゃないだろうか。
>>247 三方海、というか崖。
力攻めはほぼ不可能なくらい防御力は高いが、一方を絞れば簡単に蟻も通さない重包囲が敷ける。
…という展開は予想出来るので兵糧の蓄えにも定評があった。
おそらく菜園とか矢竹も植えてその他備蓄も充実してたはず。
257 :
名無し三等兵 :2007/01/18(木) 23:36:17 ID:apRssDI2
三浦水軍てそんな強力だったのか 伊豆水軍がショボいのか知らんけど。
沿岸型の水軍レベルなら地元が強いってのがデフォじゃない?
海中地形と潮流の流、時刻による海の変化などの地理的要素を知り尽くした 地元の水軍の方が圧倒的有利だと思われ。 水軍、海賊類はそれが飯の種のような物でもあり。
石山本願寺も海から補給受けて、信長の包囲を10年以上だっけ? 耐え続けたし、制海権維持した状態の沿岸要塞は強い。
263 :
名無し三等兵 :2007/01/19(金) 01:52:22 ID:jm+ms+kx
攻城兵器が日本で未発達なのは、廓で幾重にも囲まれた日本の城郭では無意味に近いからどはないか?
海上部隊、陸上部隊での合同軍を保有し一斉攻撃ってのは そうやすやすと準備できる事ではない。
地方レベルの包囲網と秀吉中国攻めの部隊とじゃ、秀吉のほうがえぐいのは当たり前
制海権を維持して維持して自由に出入りできるなら、それはろう城ではないような希ガス 単なる敵と直接対峙する最前線の軍事拠点では
新井城も最終的には兵糧が尽きてるわけだし、補給が皆無ではなかった という程度で、自由自在に補給できるような状況ではなかったんだろうね。
攻めるのに海が邪魔なら埋め立てして道を作ればいいじゃん。 何を迷っているんだろう?
>>265 朝鮮と明の軍勢が倭城を攻めた時は大砲も含めて攻城兵器が本来の威力を
発揮できなかったようだ。
どうも大陸の城とは勝手が違ったらしい。
272 :
モーゼ :2007/01/19(金) 15:05:08 ID:???
>>270 埋め立てなんかしなくても神に祈れば一発ですよ?
中国の攻城兵器が用いられるのは平地にできた街を城壁で囲った、「城市」に 対してじゃないのかなあ。 日本の城のように純軍事的に作られた山上の砦みたいな「城」に対しても攻城 兵器は有効だったのか?
兵力うん倍とは言った物で武器の新旧の革新期でもない限り 西洋でも攻城兵器をもってしても城はそう易々と落ちる物でもない。 兵糧攻めで飢えや渇きでとことん苦しめるのが基本です。
投石器で悪性の伝染病に感染した死体を放り込むとか
山桜に風 2005-05-23 20:04:25 No.163454
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佐藤鉄太郎氏は「軍事史学」特集・元寇(第38巻第4号)のP.63でこう述べられています。
【源平の争乱時代から合戦の通常の戦法は騎馬隊が集団で敵陣に突撃する戦法
であり、双方が合意して一騎打ちを申し合わせたというような特別な事情の場
合のみ一騎打ちが行われたのであり、合戦に於いて一騎打ちは通常の戦法では
ない。
『八幡愚童記』に日本の武士達が一騎打ちの戦法をとったと記されているため
に、その記述を真に受けて日本の武士達が蒙古軍に対して一騎打ちの戦法をと
っていたかのように誤解されてしまっているが、日本の武士達は各武士団それ
ぞれが騎馬隊を中心とする一団となって突撃する集団戦の戦法で蒙古軍と闘っ
ている。絵五はそのような日本の武士達の戦法を描いている絵である】
ttp://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=162712&genre=sougou
倶利伽藍峠の戦いなんぞどう考えても一騎打ちではないな。
中世の騎馬武者の基本戦法は騎射であって敵とはある程度距離をとって戦って いただろう。騎馬武者が突撃をするといっても後世の騎兵隊のように騎馬兵だ けの集団をつくることはできず、騎馬武者は弓や薙刀を携えた郎党に護衛され ていた。そうした騎馬武者の主従が集団となって双方突撃というより武者押し をして戦うといったような意味での集団戦法は当然存在しただろう。後世の騎 兵による迅速な突撃というようなものは戦国期でもおそらく無かった。主従を 単位にして戦うという編成上もまた日本の馬の体力上も純粋騎兵の突撃は無理。
>>278 因みに騎馬隊で突撃する騎馬武者と言うのは200〜300石クラスで連中の軍役は
200石・・・騎馬武者1(自身)、徒侍1、槍持1、馬口取2、甲持1、挟箱持1、草履取1、小荷駄1
300石・・・騎馬武者1(自身)、徒侍2、槍持1、馬口取2、甲持1、挟箱持1、草履取1、小荷駄2
と言う具合で実際戦うのは自身の他は徒侍くらいなもの。
この程度なら騎馬突撃する際には一時的に置き捨てて、後続させるという事も十分に考えうるかと
無論、馬から降りて徒侍と共に徒歩突撃もしたでしょう。
要は状況に応じて様々な行動を採ったんじゃないかと言うこと。
備なんて本来の主従関係から言えば相当、怪しい指揮系統だし。
それ以前に騎兵突撃というのはコスト的に釣り合わない上に、余り役に立たない作戦のような気が。
>>279 因みにどこの大名家のものでしょう?
昨年の大河ドラマで一豊が馬に乗ったのは200石扶持ぐらいからだったような気もするけど、
実際のところはどうなんでしょうね? 馬の維持経費って。
一豊が黄金十枚で名馬を買ったということが評判になるぐらいだから、200〜 300石どりくらいの侍の馬はかなり貧弱なシロモノだったと思うな。 鎧武者を乗せて長駆突撃できたとはとても‥。
>>281 いやいや、そういう西洋騎兵の様な長躯突撃は日本では先ず想定されていない訳で
どちらかと言うと足軽隊の後方で待機し、時機を捉えて突撃・突破と言う流れではないのかと
それなら火縄銃の射程距離である百mを駆け抜ければそれで十分と言えるんでないの
ま、実際は追撃も考えるともっと走る必要はあるでしょうが
詰まる所、西洋の様な何万の大軍が歩兵と騎兵に完全に分離するという戦闘形式ではないの
だから、先ずそこから始めんといけんのだわ
自分もそんな考えかな。 時機を見て浮き足立った敵陣に突撃、突破、すかさず追撃に移り敵兵を散らす役目かと。
>>280 寛永10年(1633年)の幕府による軍役
>長躯突撃 これについては性急な結論は避けた方がいいと思う。 日本と同じサイズの馬に乗ったモンゴル騎兵がより大きい軍馬に乗る相手を 次々と撃破したんだからね。 17世紀にヨーロッパの諸国を相手に活躍したスウェーデン騎兵の軍馬も 体格では他の国の騎兵の軍馬に負けていたしね。 (当時のスウェーデン騎兵の軍馬の平均体高は1m12cm〜1m33cm)
>>284 トンクス。東国と思ったけど、幕府でしたか。
貧乏性の家康は、「1000石以下は馬なんかに色気をだすな〜」
みたいなこと言ったらしいんで、数百石の家じゃ徒歩主体と思ってた。
>>285 モンゴル騎兵は大量の換え馬を常に随伴させていた
機動力では全く違うぞ
それに12世紀の時点で、ヨーロッパやイスラム圏の軍馬が
体格でそれほどモンゴル騎馬に優越してたかどうかもわからないし
昔NHKでやってたけど、モンゴル騎兵って馬に乗ったまま草原に伏せるんだよな。 腰くらいの高さの草原だと、それで完全に溶け込む。 騎馬民族をナメてはいけないと本気で思った。 あと、半年分の糧秣が皮袋に収まるってのも…。 連中、水と草さえあればどこでも出張できる。
モンゴルとか匈奴とかの戦いって、騎馬兵で敵を「撃破」するというよりは、 むしろ機動力でふところにおびき寄せたりして包囲する戦いじゃないの? 例をあげれば、アケメネス朝vsスキタイや劉邦vs匈奴みたいな。 細かい戦術的なものよりも、ゲルとともに部族まとめて移動していくというように 戦略的なものによる「勝利」だと思うんだけど。
草原を騎馬に乗って移動してる部隊なんて、漢人の歩兵主体の部隊じゃ捕捉も できんだろうしな。
>>289 モンゴルは長槍を使ったようだけど、フン族(=匈奴?)の主武器が弓と鞭だったらしいので
やっぱり機動力重視と思われます。
敵を寸断し、包囲殲滅を繰り返すのが得意かと。
293 :
名無し三等兵 :2007/01/20(土) 22:29:46 ID:I7bO0KUw
>>292 モンゴル騎兵は弓騎兵だけじゃなくて、ちゃんと重騎兵を保有している
戦闘における決戦戦力としての、重騎兵の突撃を行っている
296 :
酷使様 :2007/01/21(日) 00:03:43 ID:???
日本で投石機が有効活用されなかった理由について一つ思いついたんだが、 日本の川の流れが急で、かつ細すぎて、運河として利用できなかったことも あるんじゃないか? ナポレオンあたりの時代では、運河を利用しないと大砲(大)を目的地まで運べず、 なんとか実用になる大砲(中)の運搬でさえ困難があったという。そのことが 城攻めの成否、あるいはそもそもの戦争計画にさえ大いに影響したという。 ならば、仮に現場で組み立てる方法を取るにせよ、投石機においても同様の 問題があったはずだ。戦場に木が生えてるからといって、切ったばかりの 「生木」じゃまともな加工はできない。となると、1〜2年干した木材を遠方から 運んでこなきゃならない。 つまり投石機用の丸太の運搬に巨大なコストがかかったため、技術以前に 経済的にペイしなかったのではないだろうか。これけっこうありがち。
日本の場合はある程度纏まった貨物の輸送は水上輸送になるわけで 逆にその面では有利では?陸に上げてから立ち往生というケースはあるにしても
>日本の場合はある程度纏まった貨物の輸送は水上輸送になるわけで そうか? 水上輸送できない地形の方が多いと思うが
>>298 中世においては河川水運が物流の中心であることは一般常識です。
東京近郊でも蔵どころなど古い町並みの町など、
古い町並、中世商業都市の名残のの各種祭りなど
日帰りの旅行の名所としてツアーなども多く、
テレビなどで街が紹介されるケースも多いです。
知らないなんて事は日本人としても恥ずかしい事です。
>>299 河川水運が、効率的なのは知っている。
でも、日本って河川水運が幹線道路として使えたか? という話をしているんだが。
ポイント−ポイント間での輸送路としては、河川水運は使えるが、それだけで済むわけねーだろ
話の文脈読め
298 名前:名無し三等兵 本日のレス 投稿日:2007/01/21(日) 00:20:04 ??? >日本の場合はある程度纏まった貨物の輸送は水上輸送になるわけで そうか? 水上輸送できない地形の方が多いと思うが ↑ 『纏まった貨物の輸送は水上輸送』 が幹線道路でなくてなんなんだ? お前が無知なだけ。 苦しい言い訳しねぇでいいよ。
>『纏まった貨物の輸送は水上輸送』 が幹線道路でなくてなんなんだ? 幹線とは、鉄道網・道路網・電話網などで、主要地点間を結び網の骨格をなす重要路線のこと。本線と呼ぶ場合もある WIKIより 古来の幹線道路ってのは五畿七道のことだよボケ 江戸時代は五街道だな 無知はお前だ。
>古来の幹線道路ってのは五畿七道のことだよボケ >江戸時代は五街道だな 物流の話で『ぼくは五畿七道が幹線道路だと思います』でちゅか? 纏まった貨物、米や材木など重量もあり、体積もかさばる物を陸上輸送する訳ねぇだろ。 お前馬鹿すぎ。
>>304 へえ…
じゃあ河川交通網に接続していない地域には、米や材木や体積のかさばる物が運ばれないんだ〜
馬鹿を晒すのはほどほどにな。
307 :
306 :2007/01/21(日) 05:05:25 ID:???
>>286 の話なんかを見る限り
馬をキチンと扱えるのは1000石〜みたいなので
700石で名馬を買ったってのは相当無理して買ったんでしょうね
投石機よりさ、木馬を作って中に入って城の前に置くっていうのを誰も思いつかなかったのはなぜなんだ
篭城戦なら相手が引き篭もってる間に外交的に孤立させるればよい。 いつまでも篭城続けても 最後は飢え死にか、孤独に欝氏。
投石機が無かったことより馬の蹄鉄が無かったことのほうが深刻な問題かと。
>>307 そりゃ、上を求めればキリがないですから
家康の色気を出すなと言うのは「家格にあったもん買っとけ」
と言うことなんじゃないの?
もう騎乗戦闘は廃れて徒歩戦闘の時代だから馬飼うくらいなら腕のたつ家来増 やすか鉄砲でも揃えよ、そのほうが徳川家の軍事力UPするからってことじゃ ね。
篭城側に援軍がこないなら。 無理に攻めずに兵糧攻めが一番 いつまでも篭城続けても 最後は飢え死にか、孤独に欝氏。
>>313 郭が折り重なった日本の山城だとその方法で一箇所突破しても
次の塁線が待ち構える。
>>317 山の頂上まで傾斜路を作れば解決じゃね?
山の頂上に到達する前に郭が有って阻まれる訳で。
580メートル以上ある山の上まで傾斜路を作ろうとすると相当膨大な土量になる筈で 果たしてそれだけの大工事が可能か疑問に思う。 城側の反撃もある中で。 それと日本の石垣に破城槌が有効かどうかも疑問だな 西洋や中東の城壁は、垂直の高いが薄い石壁構造で、 それに対し日本の石垣は、山の表面を階段状にして表面に傾斜をつけて石で覆った構造なので 破城槌で表面の石を割った所で、中々崩れないし、 たとえ表面の石垣を崩したとしても、中は表面を削った山そのものだから、 山そのものを破城槌で崩すような事になる。それが果たして可能だろうか?
くさいこわいしにたい
580メートル以上ある山の上まで傾斜路を作ろうとすると それは580メートル以上ある山をもう一つ作るようなもの。
要は西洋の攻城兵器は壁を崩すためのもので、 山を崩すためのものじゃないということでFA?
結局、日本の城郭の特殊性があり、外国の城塞都市のような厚い壁一枚で防御している城とは違い、 多重の曲輪で守られた日本の城の外周を攻城兵器で破ったところで次の塁戦まで撤退されるだけで、 しかも、攻城兵器への集中的な攻撃もあったので、上手く機能しなかったと言うことでFA?
イギリスに残る中世の城壁みると厚さ2mあるかどうかも判らんぐらい薄いぞ コンスタンチノープルも相当薄い。
一見似てるが中国の城壁は西洋とは構造が違って、土塁の表面を石やレンガで覆った構造で 中が土だから、球形弾の砲撃にも案外強い。 アヘン戦争だったか、アロー号戦争だったか、イギリスの軍艦が砲撃しても崩れないのでイギリス人が驚いたとか聞いたことがある。
襄陽攻防戦で元軍の投石器は本当に城壁を破壊したのか?
カルタゴ市の内壁が幅9メートル、コンスタンティノープルの内壁が4.5メートル程。 古代に建てられた城壁なら守備兵が城壁上で隊列を組める程の幅はあるだろう。
>>327 車輪付きじゃないけど、日本でも櫓を組んだり盛り土をして高い位置から城兵を掃射する方法は取られてたよ。
ただ、高低差の大きい山城の場合は難しいし、実例を聞いた事がない。
まあローマ軍なら郭毎に傾斜路建設とかやりかねないが。
ところで
>>327 の様な傾斜路を建設する場合、守城側の射撃から工事員をどうやって守ったか誰か教えて?
城からバリスタで反撃されたら厳しいと思うけど。
中世の封建国家の財政力ではマサダのような巨大傾斜路は無理っぽい。
マサダクラスの大土木工事やったのは、流石にローマだけだろ。
>>335 それ以前に中世では傾斜路建設の技術が失われている。
ところで質問。 畳表など篭城戦に備え構成材料を食べられる材料にする話など後世まで伝わっていますが、 とても大人数の長期生活では焼け石に水程度に思えます。 実際の篭城戦でどの程度役にたったものなのでしょうか? 記録など残っていませんか?
>>337 朝鮮の役で明軍が倭城に攻城塔を使ったけど
近づく前に大鉄砲を散々打たれてぼろぼろにされた後
火矢を浴びて終了ということがあった。
じゃねじゃねくどいやつは、くどいから工藤って呼んであげる
生皮だって油が染み込んだ火矢を大量に受ければ燃える。 鉄板だって同じこと。結局は数が無ければ無意味な代物。 同数〜数倍で城を囲んだくらいじゃ無理無理ー。
守備側の射手は攻城兵器群で頭を上げられないようにするから無問題なんだろう。
345 :
名無し三等兵 :2007/01/21(日) 22:51:35 ID:Cfa2I26S
木製なら水を吸わせればば燃えないと。
攻城塔は重くて動かなくなり役にはたたないがな。
>>339 役にたたんだろ。
畳剥がして食う段階なら、後は雑草や木の根っこ。
近いうちに戦死者食うか餓死するかの究極の選択は時間の問題。
>>344 それができたら朝鮮の役で倭城は明軍の攻勢の前にとっくに落ちたはずだよ。
だいたい塀に完全に隠れて狭間を通して撃ってくる日本軍の頭を
どうやって下げさせるんだ?
明軍といったって中央の精鋭じゃなく中国東北部辺境の寄せ集め雑軍だろ。 西欧から中東まであらゆる城砦を陥落させたローマ軍とは比較にならんよ。
確かローマ軍に対抗する守備側もバリスタやカタパルトで応戦したが、扱う兵士の差が質量ともに 圧倒的で結局制圧されたはず。
なにやら昔懐かしい「日本戦国軍vs古代ローマ軍団」になっている件について たしか、野戦では 日本戦国>古代ローマ って話だったよーな
>>347 明軍は中央よりも国境付近の部隊が精鋭だったんだが・・・・。
それに私の見たところ、ローマ軍の能力では日本の城砦はおろか
中国の城砦すら落とせるかどうか怪しい。
中国軍は野戦では弱くても攻守城戦には強いところがあるからな。
戦国末期の攻城戦というとやたら土木工事やってたように思うが。 秀吉ならマサダの砦でも土木工事で水没させてあっという間に攻略するよ。
ローマは土木建設技術なら世界史上でもトップクラスだからな。 西欧では中世の攻城戦でもローマ時代の建築物は一度破壊すると二度と復旧できないため、 攻防側双方それには手を出さないのが暗黙の了解だった位だし。 中国の攻城戦では攻城塔も木製のものがせいぜいだし、バリスタはあるがカタパルトは無し、 城壁下の坑道は掘られたが傾斜路は作られなかった。
>>352 やたらと傾斜路にこだわってるな。
まあ中国とローマの比較はスレ違いだからこのへんで終わりにするとして。
では、そのローマ軍自慢の攻城能力を日本の城相手にも発揮できるかな?
戦国時代の日本にはローマにはない大筒と鉄砲があるんだがな。
>戦国末期の攻城戦というとやたら土木工事やってたように思うが。 トンネル工事。
356 :
名無し三等兵 :2007/01/22(月) 06:19:15 ID:By7bW5dC
現代の日本は「アメリカの娼婦」といわれるほどアメリカの動向に従っているが、 過去の日本も「支那が混乱すれば日本も混乱する」といった状況だったのである。 支那に集客力のある帝国の唐代が生まれればそこに学び、支那がモンゴル帝国に 飲み込まれればそのために戦いが生まれ日本の政権が変わり、支那が朱子学を取り入れればすなわち 日本も朱子学を国教にした。この「海外の動向のまねをするくびき」から脱せられたのは ご存知明治の御維新のときの20代の政治家たちであった。日本人はもっと独自の戦略の 大切さを知った方がいいのかもしれない。
>>357 >この「海外の動向のまねをするくびき」から脱せられたのは
>ご存知明治の御維新のときの20代の政治家たちであった。
ここ笑うところですか?
学ぶ先が欧米になったというだけだろ。
自己流アレンジは維新の時にはより上手になったと思うけどね。
場所も時代も運用も技術も違う二つの軍制を比べるのに何の意味があるのやら。
まあ、千年以上も昔の軍と比べてウチの方が強いとか言っても、 傍目にはお笑いな訳で。
逆に言えば1500年近く後の軍隊と曲がりなりにも比較出来るってローマは凄いな。
ローマ人はヘンタイとすら言えるほどの建設偏重オタクだから。
>>362 比較だけならどこの時代のどこの国の軍隊でもできる。
確かにローマ軍が軍事面で立てた業績は凄いが
ちょっと過大評価過ぎる面もあると思うよ。
ローマ軍ファンはローマ軍が戦国日本や中世ヨーロッパもしくは
近世ヨーロッパの軍隊よりも優れていると考える人もいるようだけど
システムが優れているからと言って戦闘力も後世の軍隊より優れている
とは言いがたいだろ。
比較というか1000年以上後の時代の軍隊とでもまあマトモに戦えるのは凄いって事だろ。 >>近世ヨーロッパの軍隊よりも優れていると考える人もいるようだけど それは流石にただの馬鹿だろ。
>明軍は中央よりも国境付近の部隊が精鋭だったんだが・・・・。 遼東軍ってそれほど精強なわけではないと思うな 略奪や侵犯の際は常に敵が去ったのを確認してから追撃(のふり) 農民など非戦闘員の首を刈って戦果にするのが日課って感じ 明清決戦のサルフの戦いでは20人の清兵を見ただけで総崩れになって壊走 そんなわけで日本軍と正面から戦った碧蹄館なんかは 例外的に奮戦した珍しいケースじゃないかな
>>365 いや、マトモに戦えるって根拠がそもそも…
>>368 騎馬が多いな・・・兵站は大変だなこりゃ
編成なんかは地方によってまちまちっしょ
>>367 「まあ」マトモに戦えるって事。
少なくとも全く損害を与えられないまま一方的に殲滅される様な事は無いんじゃない?
当然火薬登場以前の話。
倭寇相手に奮戦した戚将軍とか、一部の軍閥は日本の鳥銃(種子島のことね) の装備量を超えてたそうだが、朝鮮出兵時に派遣されてた明軍はその点どうだったんだろう
>>371 火薬登場以前の戦争で、どっちかが相手に全く損害を与えられないまま一方的に
殲滅されるなんてケースはもともとないだろ。片方の人数が極端に少ない場合とか
は除くとして。
ローマ軍1千と石斧と石槍しか持たない原始人1千が戦ったとしても、ローマ軍に
全く損害ゼロってことはないだろう。
ローマの話は他所でやれやローマオタク
戦国武士団vsローマ軍団ってスレが昔あったなあ
>>375 ローマに関する知識の無い戦国ヲタと戦国時代の知識が無いローマヲタが堂々巡りの議論を繰り返す酷いスレだった。
赤坂城の戦いでの20万〜30万の包囲戦のが コンスタンティノープル攻城戦より大規模な件。
>>赤坂城の戦いでの20万〜30万の包囲戦 嘘くせ〜。 な〜んか嘘くせ〜。
日本の戦は動員力が異常に多いのは間違いないけどね。 ローカル戦でも平気で万超え、天下分け目のクレシー、アジャンクール級でも日本じゃ川中島レベル。 お米万歳
そんだけ動員しまくるから 農閑期と農繁期の動員力の差がありすぎて 大軍での長期戦はあんまりなかったんだよね 末期になって制度が充実するまでは
>>377 一応、ある程度真面目な考察でも3万から5万の軍が関東その他から来てるらしい
いわゆる号でしょ
>>377 ヘロドトスがペルシャ遠征軍が300万だって言うのと同じで誇張だろ。
ホラみたいな数である30万に、本当は3万から5万… どこかで聞いた話だ。
嘘八百万
顕如「イギリスかかってこいやwwwwwwww」
艦艇搭載の砲で比較にならん。 陸戦ではたしかに日本も強いが 海上からこられたら、砲台どころか大砲すら大して存在しないし どうにも出来ないよ。
>>386 そりゃ毎回毎回根こそぎ動員する訳にもいくまい。
当時のイギリスの人口ってどれ位?
>>387 時期を合わせるとエリザベス1世、無敵艦隊級が相手なんだが。
そして俺は、関東一円にあったと言われている、 1400年代築城の平城の具体例を楽しみに待ってるんだが、 いつになるんだろうか。 手元の資料では、ほとんど見当たらなかったんだよね。 多少の防備を備えた、平時の居館ならあるんだが。 あるいは丘に作った平山城とか。
つーかヨーロッパが少ないだけじゃね?と逆説的に行ってみる。 アケメネス朝ペルシャとか、あの時代に20万人動員ってホントかよ。
春日部城
>つーかヨーロッパが少ないだけじゃね?と逆説的に行ってみる。 黒死病の流行だとか、ジャガイモ伝来前は若干食料生産低かったが ヨーロッパだけが人口少ないなんて 絶対気のせいだ。
>>390 無敵艦隊相手なら白兵戦してくれるので毛利氏でも兵員数的に互角に戦えると。
つーか海戦で大砲が決定的な役割を果たし始めたのっていつ頃から?
人口は1500年でフランス1400万、スペイン830万、大ブリテン400万(とあるサイトから)。 戦国時代の日本は1000万と見られている。 軍隊の規模もだいたい似たようなものになるのではないかな。 でも日本は内戦状態にあり、人口に対する戦闘員のパーセンテージは高かった ので、天下統一後の秀吉の動員能力は世界有数だったかもしれん。
>>395 スペイン艦隊は射程は短いものの強力な大砲を積んでるので、こっちにも
大砲がないとなかなか厳しいかも(イングランドと決戦した頃の編成)。
無敵艦隊でも初期の頃の編成だったら、ガレー船中心で砲もそんなに
積んでいないため、毛利水軍などでも戦力を多く集めればいい勝負できる
と思う。
一石一人を信じるわけではないが、秀吉政権末期なら2200万人ぐらいじゃね? 1000万人ってあーた、奈良朝の頃でしょ
>そりゃ毎回毎回根こそぎ動員する訳にもいくまい むしろ口減らし。 等差数列でしか増加しない農業生産力に対しての 等比数列で増殖する人口をバランスよく抑制する 為の社会的解決法。
401 :
名無し三等兵 :2007/01/25(木) 02:14:20 ID:0CBBIMhm
日本の船は櫓で漕ぐ。軍船、安宅船もそう。 ヨーロッパは櫂。ガレー、ガレオンみんな。 見た目似たもんだがよくみるとちがうね。 櫓と櫂どっちがいいんだろう?
402 :
突撃兵 :2007/01/25(木) 02:45:34 ID:???
ガレオンは帆船でつ。 ちなみにジャンクや朱印船も帆船でつ。
403 :
名無し三等兵 :2007/01/25(木) 03:19:04 ID:7KBDWWOP
>401"櫓"
佐藤大ちゃんの本には、ガレー船はほとんど帆走船には適わないって書いてあった
地中海のように波風が穏やかな海ではガレーの方が同じ大きさの帆船より ずっと速いお。しかも臭い。
>>405 全速航行時のみな
ガレーの全速航行なんざ15分〜30分が限界
いくら風の弱い地中海でも巡航じゃ帆船の方がはやい
でも臭いではガレー船の圧勝。帆船も臭いが、足元にも及ばない。
話を戻すが、毛利水軍など日本の水軍が初期の無敵艦隊(ガレー船中心・砲少な目) と戦った場合、竜骨を持たない日本の軍船ではガレー船の得意とする衝角戦法に 苦戦しそうだ。
>>405 昔の海戦は港湾の近くで多発したからなぁw
正直、船自体よりも大砲の差(数、質ともに)がでかいな
時期的にはレパントの会戦も近い 毛利はトルコ軍に近い編成となるのだろうか。
>>409 昔も今も、海上戦闘は陸上の近くで起きる。
最近海上戦闘あったか?
フォークランド海戦とかか
対工作船
外洋航行出来る様な船が日本にあんの?
>>416 朝鮮出兵の膨大な兵站をまがりなりにも成功させてるが。
国を挙げてとなれば結構イケる。
>419 海流によっては対馬海峡を渡れなかったんじゃなかったっけ?
ちょっと話を蒸し返す事になるんだけど 騎兵の突撃は無理って、前前スレとかで木曽馬が武装した人間乗せて 200mぐらいしか全力疾走できないというからという結論になってたけど 弓矢・鉄砲の有効射程距離が100〜200mそこらの時代に 200mも走れるんであれば、鉄砲撃ち終わって歩兵の白兵戦に 移行したなら双方の距離ももっと縮まるだろうし、 味方と敵陣までの往復で200mぐらい走れれば充分って事になるんじゃないのかなあ…
>味方と敵陣までの往復で200mぐらい走れれば充分って事になるんじゃないのかなあ… 陣地に突撃する時点で馬鹿ですから。 こちらも陣地を築いて持久戦か機動力を生かしての兵站破壊がセオリーです。 もちろん無意味な場所に敵が陣地をはるなら放置プレイで後方地域を蹂躙するのもお勧めです。
>>423 敵陣は陣地でなくて敵部隊という意味なんでないの?
後、騎馬隊投入は足軽隊同士の戦闘後、どちらかに綻びが生じてからでしょうな
その判断が侍大将の将器の見せどころかと
戦国時代に近世ヨーロッパ的な騎馬隊は存在しない 騎馬に乗った指揮官に率いられた部隊を指して、騎馬隊と言うならば存在するが。
騎兵部隊なら迂回して本陣攻めればいいだべ。 歩兵部隊崩すのに使わんでもよかんべ。
襲歩はしないの?
めったにしないと思われ>襲歩 戦場で馬をへばらせて、肝心なところで動けないなんてことになると悲惨なことになる。
つか、現代のサラブレットですら小柄な騎手乗せての襲歩は、3000mのレースでは ゴール前でやって途中は駈歩で抑えておく。 武装した兵士乗せて、不整地を行軍してから襲歩なんて無理。
>>434 一つ突っ込ませて貰うが現代のサラブレッドがどれだけ繊細なのか知ってて言ってるのか?
>>435 速度に特化した存在としてのサラブレットを出しただけだが?
サラブレットでも襲歩は難しい、軍馬ならつーこと
>>436 3kmもギャロップするなんて誰も求めてないが。
たった60mギャロップするだけでバテるなんてどんな馬だよつーこと
>>437 敵陣に突入した時点で全てが終了するなら60mだけ襲歩でかまわないだろうな
60mの競技で、0m地点にゴールがあるなら
で、その後軽い速歩してから馬具をはずして水やって厩舎に連れて行って蹄の泥落として油ぬって体洗ってやるんだよね
多くの馬は整地ならバテるまでに1km以上はギャロップ出来る。 幾ら不整地があるとはいえたかが60〜50mギャロップしただけでそんなにバテるとは思えない。 それに騎兵の最大の武器は突進力なんだからそれをわざわざ殺す理由が無い。 ノロノロと突っ込んでくる騎兵なんていい的だ。
>>436 サラブレッドってスピードは一番だけど持久力やパワーは他の馬種と比べて
優れてるというわけでもないよ。
サラブレッドやサラ系の馬でも障害レースだと4000m以上走ったり跳んだり してるよ。最後の直線は100m以上あるがちゃんと全力疾走する。 ついでに言うと、障害の方が平地のレースより負担重量も大きい。
日本の武士の騎兵は軽装騎兵?それとも馬まで装甲した重装騎兵?
日本の在来馬に鎧を着せるのは可哀想。
>>442 日本の馬鎧は存在するが極少数で例外みたいな物。
あと装甲してなくても重装騎兵にはなる。
>>444 馬にも装甲着せないと射撃部隊相手に正面から突撃は無理でしょ。
>>445 『敵陣中央に突撃をかける類』の重騎兵は一過性の流行でしかないですから。
飛び道具の配備されない環境、騎兵を狙撃しない習慣、歩兵部隊が貧弱など
限定条件が重なった時のみ効果を発揮するだけで
武器、戦術の進化で対抗されては消えていくのがパターン。
敵陣の側面、後背をつくなど機動力を生かしての軽騎兵の類なら
時代を問わず、地域を問わず使われてきましたが。(戦車の登場までは)
日本の場合、軽装騎兵、重装騎兵って概念は無かったんじゃない? 戦いの専門家である武士・騎馬武者って感じで 同じ人が状況に応じて 軽装騎兵の役割である騎射して一撃離脱も 重装騎兵の役割である騎乗して突撃も 重装歩兵の役割である徒歩での攻撃も 作戦と状況に応じて全部同じ人がこなしてたんじゃないのかな?
>431だよ
なんか騒ぎになっているので
ネタ元はここ
ttp://www2.dokkyo.ac.jp/~less0088/cavalerie.htm みんなサラブレッドなどの軽量種で騎手は軽い人の場合のデータを出しているけど、
重騎兵の場合、騎手と装備合わせて120sを超えるんだ。
馬の体重とあわせると1トン近くになり、馬にかかる負担は大きなものになる。
規定では騎手の重量は馬の体重の20パーセントを越えてはいけないそうな。
騎手は馬を乗りつぶさないように、細心の注意を払ったんだよ。
重騎兵用の馬は高いからなぁ。
日本の騎馬武者は、ヨーロッパの騎兵分類だと軽騎兵〜中騎兵になると思うよ。
>>449 奥さん、ここは日本の合戦スレです。
せっかく448が軌道修正を試みたところで、
また洋ものを引き合いに出されますても。
日本の戦で、馬や弓鉄砲よけはともかく、手で持てる盾が発達しなかった 理由について教えてもらいたいね
騎射戦術取ってた頃は楯持ってると弓の邪魔になる。 鎧が発達してくると楯を持たなくても防護が可能なので 両手で槍や太刀持って戦った方が良い。 そして楯の機能はいつしか鎧の一部に吸収されてゆく。 ならば楯は置き楯のようなものになり、手持ち楯は必要性が薄れてしまった。 あと、木や竹でできた物だが手持ち楯も結構あるにはある。 すぐ作れて戦の帰り道で煮炊きの燃料に使えるのであんまり保存されず 現代に現物が残ってる事は少ない。
そのものズバリ「盾無」なんて鎧もあるし
>>452 違うよ。
足軽が頭に載せてるあれが盾なんだ。
盾が発達しなかった最大の理由は地形じゃないかな? 日本じゃ険しい地形が多くて開けた平野が少ない なので盾持っての移動が大変(機動力の大幅低下) 戦闘隊列も方陣の密集隊形じゃなくて散開横列の組み合わせだから やっぱり機動力重視 (というか日本の地形じゃまともに密集隊形組める場所なんてほとんど無い?) あと、密集隊形組めないと手持ち盾の効果は減少するんじゃないかな? 盾持つよりは、素早く遮蔽物などに隠れた方が良いと(散開してるからね) で、有利な場所に遮蔽物を作る為に置き盾や竹束などが重宝された?
古代ガリアやゲルマニアは森林や沼地だらけで平野は少なかったが盾は普通にあった。 他に原因があるんじゃないか?
>>451 投槍より弓の方が重視されたため。飛び道具以外でも、日本の合戦用の武器で
片手持ちのものはほとんどない。まあこれは鶏が先か卵が先かみたいなもので、
盾を使う習慣がないからこそ両手持ちの武器が発達したと考えることもできる
かもしれんが。
>>455 古代ギリシャのような密集隊形が発達しなかったのは地形というより文化や
社会体制の問題の方が大きいだろう。
>>456 ファランクスの本家本元のギリシャだって日本に負けず劣らず平地が少なく
狭くて複雑な地形をしてるしな。
>>459 にちゃんって何でも有りだなw
そのものズバリだ
>>458 古代ギリシャのファランクスは兵が素人である事から誕生し、その後はファランクスを組む事を前提に発達。
近世欧州も密集方陣は素人のスイス傭兵から始まった。
槍足軽も素人上がり
>>461 素人であったことは重要ではなく、指揮系統がシンプルだった、つまり
平等な市民兵の上に少数のリーダーが立つという形だったからできたこと
だと思うよ。密集陣形をまともに運用するにはかなりの練度が必要だから、
彼らは「素人」ではない。ギリシャ・ローマの市民兵は職業軍人ではないが、
日常的に軍事教練が義務付けられていた。スイスの傭兵になると、これはもう
純然たるプロだ。
日本の合戦は戦国後期になるまで、小規模な地方領主(侍)とその従者(郎党)
がより強力な侍の下に寄り集まって戦うという形だったのでファランクスのような
整然とした行動はほぼ不可能だった。
戦国時代も後期になると大名の直属に近い常備兵が増え、長槍隊のような集団戦法
が発達していく。
うん、俺も同じような意見。 密集隊形が編成として成立するか否かは、地形なんかより社会制度の影響が大きいと思う。 個々人の武勇が賞賛される社会じゃ難しいんじゃないかと。
ほんじゃ日本も律令制度の時は中国を見習って弩も盾も使っていたから、 きちんと密集隊列組んで戦っていたのかな?
朝鮮出兵のときの明軍側の記録では 「あいつら(日本軍)散開して統率取れて無いように見えるのに何で強いんだ」 というような事も書いてあったりするから、集団戦術取る必要なく効率よく 戦えただけなのかも知れないけどね
>>466 その頃になると日本には日本式の集団戦術が確率してたと見るべきだな。
なにしろ百年以上も内戦に明け暮れていたわけで、戦闘に関するノウハウの
蓄積は物凄いものがあった。
その点、今の日本はやばいなあ。戦争する事がいいことだとは思わんし 自衛隊の皆さんも頑張ってるとは思うが…
469 :
名無し三等兵 :2007/02/01(木) 13:23:17 ID:mzip9B49
その明の記録って具体的に出展は何?
統率がないように見えるのは、明の軍隊とは質が違うからでしょ 自分達の常識でしか物事を見れないのは古今東西同じ 日本軍が家単位で集まった軍役衆の集合体だ、なんていうのは相手からすれば想像の埒外
自演が多いなこのスレ
>「あいつら(日本軍)散開して統率取れて無いように見えるのに何で強いんだ」 散兵?
釣りキチ
爆釣晒しage
朝鮮出兵のあたりの日本兵は2・3割が小銃兵だからな 火力が違う
>火力が違う ガス会社のCMかと思った
鉄砲なら我々明軍も伝来から10年の1558年の時点で年間1万丁の生産していのだから、 決して銃兵を軽視していたわけではない。 ただ、当時は明軍の火縄銃の構造にほんのちょっと問題があったので、上手く実力を発揮 できなかっただけ。
>>477 いわゆる鳥銃と、それ以外の火器を混同してはだめだぞ
明軍の火器と火縄銃はイコールじゃない
479 :
名無し三等兵 :2007/02/02(金) 10:26:47 ID:CbA7fMzV
いや、当時の日本軍も長柄衆や鉄砲衆といった軍役で集めた兵士を兵科ごとに再編制する程度のことはやってるよ もっとも火力重視はあって、加藤清正軍の軍役帳を見ると長柄が無くて鉄砲偏重 本国への書簡でも兎に角鉄砲寄越せって書いてるし ただ、大筒以上の火力がほとんどゼロに近かったから強かったのはあくまで白兵かその前段階での火力
砲兵がいないかごく僅かだったのは何でだろうか
・鋳造技術の問題。大砲に必要な強度と重量の問題は、欧州でもかなり苦戦している ・大砲が有効な高い壁で囲ったような防御設備が日本には無かったために必要性があまりなかった ・莫大な金銭を必要とする大砲を揃えられるほど、日本の大名達は豊かではなかった 実際、大友宗麟の国崩や徳川家康の大阪城攻めぐらいしか大砲の運用例はない(そしていずれも輸入品頼り) 抱えて撃つ大鉄砲程度なら、信長あたりが多用しているがこれは砲兵火力とは言い難いし
大砲の輸送が難しいのもある 地形を利用した城が多い日本では、重量級の大砲を運び上げる手間暇多すぎ
>>483 施条銃はないだろ、前装銃で施条すると発射速度が極めて遅くなる。
高橋克彦の火城って小説に幕末の鋳造技術とかの話が載ってたな アテルイ2世の原作者
鉄で鋳造すると大失敗続出だったのは、イギリスが経験している どうしても強度が不足するため砲身を分厚くして重量がかさむので、鉄製砲は要塞に据え付けられた。 そのため、粘り強い青銅製の砲が必要とされたが、銅の入手がヨーロッパでは困難だったため はるか遠い日本まで銅を購入しようとオランダ人やポルトガル人がやってきた。
青銅砲って鉄以上に強度低そうだが
>487 当時の鋳鉄は炭素成分と巣が多く硬いが脆かった。 高圧にさらされて割れないようにしようとすると分厚くするしかなく重量過大になった。 青銅の方が延性があるので割れにくく鋳鉄よりも薄く作れた。
>>488 朝鮮出兵の話でなんでミニエー弾がでてくるんだ?
重箱が間違っているぞ
お朝鮮
質が悪いとされた鉄製大砲だが 青銅製では材料の問題から量産が難しい為 各国で鉄製の大砲が造られたがなかなかうまくいかなかった その中で、唯一多少の成功を収めたのがイングランド イングランドの鉄製大砲は他国の物より丈夫であった為 砲身が長く射程距離も長く命中精度の高いカルヴァリン砲が造れた (その分砲弾は小さくなったが) また、他国の鉄製大砲より軽くて扱いやすかった 敵対する国々はその秘密をなんとか探ろうとしたが失敗した (アルマダ海戦におけるイスパニアの敗北は大砲の性能差による、との説もある) 実際はイングランドで取れる鉄鉱石の質の問題だった 大型溶鉱炉で高品質の鉄を量産など到底出来なかった時代 鉄鉱石の質は重要な事だった (ただどうも、イングランド自身もその事に、気付いて居なかったらしい)
>>492 佐賀で反射炉作ってたけど砂鉄だと失敗してたな
まあなんだかんだで蒸気機関つくったけど
建前上全て皇帝の兵士で、徴兵によって地縁血縁から引き離されて集められる明軍の兵士に対して(実際は軍閥もあったが) 日本の場合地縁血縁そのもので動員される封建制の色濃い兵士達 どっちが有利なのかね?大量に兵を揃えられる前者? それとも国民意識が希薄な時代に強い結束力を期待できる後者?
戦闘経験と戦術の面で日本側有利。一方明は陸続きの同盟国での戦場であり 増援を送り込むのが容易。兵力動員に関しては日本側のほうが若干不利だが 練度の高さから言えば日本側が有利と見て間違いない(なにせ、戦国時代も 末期で戦術も戦闘経験も圧倒的に日本側の将兵のほうが経験積んでる)
明史でも最低レベルの暗君である万暦帝親政の時代ではなく、 せめて張居正と戚継光の時代だったら…
>>496 戚継光… 女房に負ける将軍なぞいらん。(談:○なぎさわ大臣
誰が来ても腐敗政権の動員兵では同じでは?
499 :
名無し三等兵 :2007/02/05(月) 13:45:04 ID:jx/+TjNv
明国は、払う俸給が惜しくて閣僚と地方長官の半数ほどが欠員になっても空席のままというギャグみたいな財政難にぶち当たってたからなー それでも動員力は日本をはるかに上回っている 戦は数という原則がある以上、どうにもならん
一応戚継光配下の将兵は明の他の部隊とは錬度が段違いだったそうだが。 その分、戚将軍の私兵集団みたいになってしまうけどな。
>>500 明末にも数は少ないが名将はいて、彼らの率いる兵だけは結構強いのな。袁崇煥とか。
たいてい宮廷の官僚とか宦官どもに足を引っ張られて悲惨な末路を辿るが。
名将現る ↓ 戦果あげる ↓ 中央政府に疎まれる ↓ 讒言 ↓ 処刑 ↓ 賊、異民族大攻勢 ↓ 初めに戻る
504 :
名無し三等兵 :2007/02/05(月) 17:21:36 ID:mTIHV393
その数を投入して補給不足になったのが明軍。 大軍を注ぎ込んで駐留する価値のある戦場じゃないのさ。
>>499 動員力=戦力とはならない
明は見た目の兵力は大きいが、守るべき地域が多すぎて集中できない
事実、朝鮮役の際は南部で反乱が勃発中で兵員の確保に苦労してる
更に中央軍以外の地方軍は一旦地元を離れると弱体化する
封建以前の中世的国家はどこもそんな感じだよなあ ローマが唯一の例外でといってもいい
日本軍は指揮系統がバラバラで、各大名単位で争いすらしていた これじゃ勝てませんがな 日本軍突入より先に漢城を焼くほどの朝鮮民衆の不満を吸い上げて尖兵にすればいいのに、そういった謀略も欠如してるし 情報と戦争システムの後進性はいかんともし難い
>492 イングランドの鉄鉱石は褐鉄鉱なのかな? 欧州では黄銅鉱が中心でこれイオウが多いもんだから鉄の質が悪かったらしいよ。
いま、備中松山城にきているんだが、山城に攻城兵器なんて絶対使えんと実感できた。 登るだけでバテる。 しかし、平安時代の大陸の影響をうけた、分厚い城壁をもつ城から、日本独自の城への、変化の過程が知りたくなってきた。
510 :
名無し三等兵 :2007/02/06(火) 11:43:25 ID:TrXKAw0s
武田信玄の息子(勝頼)は、諏訪の娘との子供だよね?しかも、諏訪の娘は人質だったよね? 勝頼を頭にすることで諏訪の残党を抑えられる効果があるから頭にしたの? でも、諏訪の残党の中にどんな恨みかわからないけど上杉方に味方して戦った武将がいたらしい けど、その人の末裔が近所に住んでるよ。 その人の家の置石に「*******恨み***」みたいな文字が彫ってあるんだけど読めない。 何したの?勝頼!!
>>509 平安時代に分厚い城壁なんてないですよ。
日本の戦は城壁よりも地形を利用した陣地の奪い合いですので
大化の改新のNHKスペシャルで飛鳥宮に長城を作っていたという発掘結果には驚いたが。
もともと律令体制の都の作りってのは長安など中国の城市のコピーだから、 本来は城壁で囲んで完成のはずなんだがな。 技術や物資・労働力が不足してたか必要性をあまり感じなかったか、あるいは その全部か。 平城京の場合は、約1kmに渡って簡単な木製の壁があった形跡はあるが途中で 工事が途絶えてるらしいな。
飛鳥が平安時代と思ってる奴がいいるスレはここですか?
朝鮮式山城の技術はその後断絶 後の築城技術に影響を与えていない。
>>508 俺の読んだ本には
硫黄の含有量が違ったと書いてあったな
517 :
名無し三等兵 :2007/02/08(木) 13:59:08 ID:7Wo9DeQG
>>510 強い一族に恨みを持つなんて当たり前の時代だからな〜
確か、新潟地方にも同じような武将がいたな、諏訪の残党なんて名前を変えて
色んな国に散ったから、子孫も覚えてないよ。
忘れないように石に刻んだんじゃないか
518 :
名無し三等兵 :2007/02/08(木) 14:35:57 ID:llxBjZ4R
長安が建造されたのはいつなの?
長安の街自体は大昔(もともと大都市の伝統のあった地に「長安」と命名 されたのは漢初の頃)からあるが、平城京や平安京のモデルになった長安は 6世紀終わりから7世紀の頭(日本では飛鳥時代のはじめあたり)に隋の首都 として新たに建設された新市街だな。
黄河屈曲部で、渡河ができるように流れが穏やかなところは 昔から大都市ができるようになっている
春秋戦国期の中国城郭は結構硬そうだからな。 近代兵器(火縄銃や大鉄砲レベルだが)をもった日本戦国軍は 野戦では勝てるだろうが城砦攻めだと時間がかかりそう
523 :
名無し三等兵 :2007/02/08(木) 18:31:03 ID:pkCUNv+B
日本軍が攻撃して落とせなかったのは準備と予備が悪かった幸州山城と晋州城の第一次攻城だけでは? 黒田は延安城を攻撃したっけ?
清兵と日本兵の強さ比較は「条件による」としか言い様がないが、広大な大陸で戦う(兵站も含めて) ということの習熟度では清(というか満州)兵の方が当然上だな。逆にヌルハチ自身が満州の精鋭を 率いて日本に攻めてきたとしても断然日本軍が勝つだろう。
結局、自分たちのホームで戦う方が強いのよね
でも清軍は馬の入れないチベットとか山岳民族も征服したんじゃなかった?
服従させた敵を自軍の兵力に組み込む手腕に大陸で伸張した民族は長けていたからな 理論上、勝てば勝つほどその地に適応した兵力が増えるということ モンゴルの漢人世侯からなる「漢軍」なんかはモンゴル騎兵が苦手とする城攻めで大活躍して南宋撃破の重要な役目を果たした
どこの世界も裏切り者がネックだなあ
裏切りちゅうか 自家なり郷里の安全が保障される勢力に付くのは「民の草なびき」で仕方なかろ と、戦国ネタに軌道修正
朝鮮で戦えば日本が勝ったのでは?
>>529 国民国家という概念の無い時代は、別にそれまで自分らを支配してた王朝に
忠誠を尽くす義理のあるやつなんてそれほどいなかったし。現代人の感覚で
「国家への裏切り」なんて論じることはできない。
>>531 史実と同じく兵站が持たずに負けたと思うよ。
ようは自分たちの生活保障してくれる方に付くって事ね
末期の王朝なんて住民に与えるメリットよりデメリットの方が遥かに 大きいからな。
>自家なり郷里の安全が保障される勢力に付くのは「民の草なびき」で仕方なかろ 王朝や中央地方官吏が入れ変わるだけで自作農、小作、地主、商人などによる 社会構造に影響なければ一般民衆は受け入れるかと。 新政権なり侵略者なりが地方の荘園、地主としての入植や専売制、交易品などに より既存の商業、工業を、破壊するような事をしなければ。
そうでなきゃ、信長も家康も出てこれないからなあ。
537 :
名無し三等兵 :2007/02/11(日) 06:17:49 ID:od9JQ6o5
>>532 秀吉軍だけでなく朝鮮軍も明軍も兵站に失敗しているわけだが、清軍だけが兵站に失敗する理由は?
多数の兵を維持出来ない不毛な半島の何処で戦うかによるだろう。
兵站が持たないから負けたって事実とちがわねぇ? 秀吉は兵站部隊を重視してたし、前線への補給は行われていただろ。 李舜臣は兵站線を攻撃して脅かしたが、兵站線を完全に断ち切ったことはなかったと思う。 中国と対等な立場での国交を樹立する、という戦略目標は失敗に終わったので、それを持って負けとするのが 通常の判断だと思うわ。
540 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 09:33:37 ID:4+8u73Td
李舜臣が日本軍の兵站を妨害した事例は、1592年9月1日の釜山を攻撃していた僅か数時間の間だけ。 それも幹部が戦死して撃退されて二度と危険な釜山攻撃は行われなかった。
541 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 11:03:39 ID:vtEo5UAg
それでは補給遮断とは言えないじゃん。
542 :
突撃兵 :2007/02/12(月) 11:52:57 ID:???
補給線の分断とはナポレオンがロシアに進攻した時のコサックがやらかしたようなコトじゃね?
アレは略奪が主目的で味方の被害もバカにならかったが ロシア軍側は退却したからナポレオンにに比べて被害が少なかっただけでw
計画的に焦土作戦やってるからコッサクの行動が略奪目的は可哀想だよ。 フランス軍の損害もでかかったが地元住民の損害はもっとでかかった。まあ ロシアの弊害でそっちの方の損害はロシア自体がスルーしているが。w。
545 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 13:25:46 ID:4+8u73Td
日露戦争の浦塩艦隊とかもな
>>544 計画的だったって事自体が疑われてるわけで
李舜臣ってどうしてここまで評価されているの?
帝国海軍の予算獲得のため。
計画的にやらんとモスクワ放棄なんてやらんだろう。
放火略奪、モスクワ大炎上がその計画に含まれてたかって事なんだが。
553 :
名無し三等兵 :2007/02/13(火) 06:24:41 ID:CragE4gw
実際問題、李舜臣は虚像を信じ、そして信じさせられたまま教科書に載せられてしまったからな。 いい加減、神話的解釈を見直しして欲しいよ。
個人的には元均のように、敵を前にして戦わずに艦隊を自沈させて敗走、 戦争終了後に一応功労者の李舜臣を反逆者に仕立て上げて、 自分の立場は守っちゃった奴のほうが朝鮮史の中では輝いて見える。
555 :
名無し三等兵 :2007/02/14(水) 09:05:38 ID:f9m3cAx3
戦国時代の軍隊は、軍役で集めた家単位の軍隊 統一的な訓練や装備がされているわけじゃないから、よく言えばアバウト悪く言えば寄せ集め これは同じような敵を相手にする内戦ならともかく外戦ではやっぱり厳しいんじゃ?
統治ノウハウが無いのがいたいだろう。言葉の問題もそうだけど、有力者 の自軍への買収や、人民が納得する税率の保障とか現地の人間が納得する 統治システムがないと侵略は大抵失敗する。
日本史は中学でやっただけなのでうろ覚えだが、
小田原征伐の時、篭城する小田原勢に対して、秀吉はそれまで各兵卒が自前で準備していた兵站を、
ちゃんと兵站部隊を設置して海上輸送で補給線を確保して、3ヶ月の間小田原城を包囲し続けてたんだよな?
自分の食料を自分で持つとなると、米と鍋で40kg持ったとしても1ヶ月かそこらしか持たないから。
秀吉軍が朝鮮で陸上兵站線を維持できなかったことと、
もとより戦略目標は明との対等な(冊封でも朝貢でもない、皇帝と皇帝の)国交樹立であって、
朝鮮を支配下に置くことではなかったことから、
>>556 が言う様な、朝鮮を平定して統治して、
駐留する部隊への補給を行う基地とする考えははじめからなかったんじゃないかな。
統治に関するノウハウの問題じゃないと思うわ。
戦国時代には東南アジアとの貿易が盛んになって、
フィリピンに日本人町ができていたりしたぐらいで、
そういった貿易を拡大、円滑に運営するためには明の体制に風穴をあけないといけなかったんだよな?
朝鮮半島の荒廃は、明軍の兵站が兵站線による本土からの補給ではなく、
現地での徴発に頼っていたことによる影響も相当大きい、と中学で先生は語っていたと思います。
やー、あれはいい先生だった。
ところで合戦を語るなら、平時の草がどんな諜報活動していたのかも気になってくるな。
>>556 モンゴル帝国の場合、歯向かう相手にはとてつもなく残酷な方法で報いるけど、大人しく
傘下に入った相手には宗教や慣習のほとんどを保証したりあまり過酷な徴税とかもやってないね。
そのへんがあれだけの巨大帝国を作れた秘訣なのかも。
>>557 秀吉軍の戦略目標は明及びその先々の征服ですが。で、その通り道で躓いて失敗したと。
東南アジアとの貿易拡大が目的なら、大陸に攻め込む必要はさらさら無い。
562 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 02:06:17 ID:cPJLByfT
>>559 「チンギス・カン」白石典之 中公新書
を読んだ。
筆者は考古学者で、考古学による発掘という、歴史書とは違う
視点でモンゴル帝国を分析していて面白い。
この本によると、日本・モンゴル合同調査団は、最近モンゴルで
大規模なチンギス時代の都市遺跡を発掘した。その都市には、
製鉄から武器製造まで一貫して製造する大規模な兵器工場や、
巨大な食料倉庫などがあったらしい。
チンギスハーンというと遊牧民のイメージだか、遺跡からは、
固定化した都市を作り十分な兵站を確保しつつ、計画的に
征服事業をすすめていた様子がうかがえるとか。
563 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 03:05:24 ID:Yy7CAvVe
>大河ドラマ・司馬歴史小説等、さまざまに流布している戦国時代合戦のイメージは、不正確極まりないものとされています。 この不正確極まるとされるイメージに太鼓判を押して流布を促進してしまった大きな一つの組織が大日本帝国陸軍なのでした。
565 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 08:45:41 ID:rKGEqb5g
小田原役も補給不足で略奪調達した例もあるよ。 大軍を長期間張りつけるのは大変なんだよ。
小田原の場合は北条軍に兵糧を焼かれたりもしてたり。
兵站の完全供給なんて空論でしょ 負担が馬鹿にならない 結局孫子時代からの「敵に食む」方式にならざるを得ない
>結局孫子時代からの「敵に食む」方式にならざるを得ない それも当てになるとはかぎらないし。
やめてくれ〜最初からジンギスカン戦術取るのだけはやめてくれ〜
大量に米を食う当時の日本人の兵糧(糒みたいなのもあるけどあれは補助的なものに 過ぎない)の輸送コストというのは、満州族のような半農半遊牧の民とかと比べて どの程度大きかったんだろ? あと、秀吉軍の優位点である大量の鉄砲に必要な弾薬も現地調達はほぼ無理だよね?
モンゴルの直轄統治領では、一般民衆の武装は許可されてたの? モンゴルの直轄統治領では、徴税はされなかったの?
武装は許可、集団で集まるのは(盗賊とか反乱の原因になるので)不許可。 当然された、多少税が安くなるなどの特典があった。食糧を持ってくるって 発想が古い。孫子の糧食は敵に食むってのは略奪しろって事ではない、金で 買えば良い。情報を収集しろとか、現地の有力者を買収しろとか、離間を図れ って孫子が口を酸っぱくしていってるのはそういった便宜をはかる為。
>>573 太閤検地は、従来と税率そのものはたいして変わりないだが、税の基準となる土地の広さを従来より
計測方法を変えて広く見積もるという手法で、実質大幅な重税になったため民衆の恨みを買った。
ついでに言うとモンゴル帝国の徴税は、旧支配者のものと比べれば決して重いものではない。むしろ
軽くなった地域も多い。
576 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 11:15:14 ID:eQpOkmzo
>>574 織田家の一司令官だった頃の秀吉は、敵の懐柔工作の巧みさにかけては日本史上でもトップクラス
だったが、やはり「豊臣政権」という巨大な勢力になってしまうと現場に秀吉並みの能力の持ち主を得る
ことは容易ではないし、威圧と力攻め中心のやり方になってしまうのは仕方なかったのかな。
>>574 じゃあどうやって軍隊を食わせるんだ
ナポレオン式の組織的略奪に落ち着くだろう、特に運輸能力が低い現代以前では
578 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 12:15:41 ID:TmChuOKI
善用兵者、役不再籍、糧不三載、 取用於国、因糧於敵。 故軍食可足也。 国之貧於師者、遠輸。 遠輸即百姓貧。 近於師者貴売。 貴売則百姓財竭。 財竭則急於丘役。 力屈財殫中原、内虚於家、 百姓之費、十去其七。 公家之費、破車罷馬、甲冑弓矢、 戟楯矛櫓、丘牛大車、十去其六。 故智将務食於敵。 食敵一鍾、当吾二十鍾、 稈一石、当吾二十石 (孫子・作戦編) どうみても現地調達を孫子は奨めているが。どっかと勘違いしてないかい?
>574と>578は矛盾しないことについて。
智将は敵に食む、という部分では完全に現地調達の意味だろ それを否定して、いや敵への工作のことだよといってるからおかしい
>>577 古代の頃から補給線を構築し大規模な荷駄隊で物資を補給するなんて普通に行われてるが。
当然略奪や徴発も盛んだったが普通に考えて略奪なんて不確かな物に全面的に頼れる訳がない。
孫子が説いているのは戦争に必要な物は可能なかぎり現地で調達しなさい、 国と戦闘地域が離れれば離れる程、補給線の維持は不安定になりお金も膨大に かかる。ただし現地調達と言っても略奪しろって事ではなく購入したり現地の 有力者の地位を保障したりして平和理にやりなさい。その為には情報を集めなさ い。情報が集まれば相手の弱点も解るからそこを利用して相手国を疲弊させない 、これが少ない兵力で短期間に勝てる必勝の策ですよと説いてるんだと思う。
「上兵は謀を伐ち、其の次は交を伐つ、其の次は兵を伐つ、其の下は城を攻むる」 という言葉も残してるしな。 「謀略で目的を達成するのが最良、次は外交で勝つこと、次は戦場で勝つこと、敵の 城を攻めるのは最低」ってことだ。 現地調達するにしても、戦闘によらず自分の兵を損なわずに入手できればそれに越した ことはない。
でも現地でインフレ起こすかもな
>>584 それはそれで敵の力を弱めるから好都合。
実際にはモンゴル支配下の各地では反乱が相次いでるな。
遊牧民特有の財産分割制度の性で孫・子の代になるほど収入源が減ってくの がいたい、また強い側にすぐ付いて結束力が弱いのも弱点。こういうのは攻勢 には強いが守勢には弱い。
>>586 あれだけの巨大帝国・多民族国家で反乱が皆無ってのはありえないだろ。
モンゴルの統治が上手いってのはあくまでも相対的な話。
まあ、相対的も何も・・・ アレだけの大帝国は他に比較対象は無いわけだが
>>589 もっと小さい版図なのにろくに納められなかった征服国家なら山ほどある。
>584 輸送コストより安ければいいんだ。 敵地での購入ってのは、そこまでの輸送費を転嫁するアウトソーシング。 適切に運用すれば、社内調達よりも遙かに効率的。
他の勢力はあそこまでの大帝国を築くことすらできなかったってことか。 あそこまででかくする必要がなかった国ってのも多そうだが。 モンゴル人の場合、経済の基礎が農業ではなく商業だったので交易路の防衛の ために版図をできる限り広げる必然性があったんだよね。征服した民族の文化を 尊重、というか割合放任してたのも、商業を行う場合むしろ多様性が残ってた 方が都合がいいってことだったのかもしれん。
モンゴルの収入源の基本は農業・牧畜。元の場合は塩引。産業革命以前 なのだから収入の基礎が農業・人口になるのは仕方ないだろう。無論、交易 によって自国経済が発展すれば税収も増えるだろうし、国内も安定するから 為政者がそれらに腐心しても悪い事ではない。モンゴル人が他者の文化に 寛容だったのは少数のモンゴル人で大多数の他民族を支配していかなきゃい けないという現実的な理由だったと思う。ただ中世の宗教が極めて強い時代 の宗教不問政策が当時の人々に与えたインパクトはそれなりに大きかったと思う。
>>588 >皆無ってのはありえないだろ
いや、各地で反乱が起こりまくってるんだが
相対的に秀吉が征服地の文化に非寛容だった根拠ってなに?
597 :
名無し三等兵 :2007/02/17(土) 15:31:56 ID:MA4/4btB
>>593 >モンゴルの収入源の基本は農業・牧畜
もともとは牧畜だが、「モンゴル帝国」となっては当時世界に類を見ない重商主義を取っている。
関税の大幅軽減とか。遊牧民が「国家」と呼べるぐらいの規模になると商業で身を立てるというのは
モンゴルに限った話ではないが。
>>594 主だった反乱ってほとんどモンゴル人のハン同士の勢力争いでは?
子供等分での財産分割制度やクリルタイ制度などで後になればなるほど 一族間の争いが絶えず、内部が弱くなれば外敵に侵食されやすく、少なくなった 領土をさらに一族で争うって構図が定着する。さらにチンギスハーンの一族から 嫁とかとった有力者が勝手にハーンを名乗って本家の系統を潰してくって例も 多発し、結局チンギスハーンの系統を200年後まで維持できたのはクリミア・ ハーン国程度になる。
牟田口閣下には先見の明があったということだな
>>599 「江南では圧制に苦しんだ民衆が立ち上がりモンゴルに反旗を翻しました」
「お陰で日本は3度目の侵攻を受けませんでした。日本はアジアの人々に感謝しなければなりません」と
さよくのセンセーに教えてもらいました。
他に「ダルガチの置かれた高麗ではダルガチの暴政に苦しんだ朝鮮の人々は一致団結して立ち上がり民族的抵抗を示しましてダルガチを追い出しました」
とも教えられました。
「抑圧に立ち向かって戦ったアジアの人々に比べて近代の日本は侵略のために戦ったけしからん国です」
とも教えられました。
【焼き討ち】「自分を見つめ直せ」武田信虎さんが織田信長公に苦言★8 武田信虎さんが信長公に苦言を呈した。 「焼き討ちするとは思わなかった。だまされた気分。 もう1度自分を見つめ直してほしい。為政者として領民たちを慈しむ 最低限のマナーは守らないといけない。」 まさかの焼き討ち事件に落胆の表情を隠せなかった。
焼き打ちなんて昔は当然の行為だろう。
「敵に食む」とは、掠奪や徴発の様に直接奪う事ではなくて、外交関係や交渉で敵に出費を強いるだけでなく、それと同時に自国に利益を生む様にする事。 どちらか一方は比較的容易だが、両立は難しい事から「智将は」と前置きがついている。 この場合の「将」とは、小さくは小部隊の隊長、大きくは一国の君主を指す。
てか敵から奪うんだろ、相手国の領民は敵なのか? 勝って領地を奪えば、自国民になるはずの連中なんだが。
安全保障や統治と引き替えに地元で供出。 当時はどこの世界でも基本で秀吉もやったのだが人口がおおく極端に貧しい場では成り立たなかったようで。
>606 中国の場合は地域毎に税として徴収した穀物を倉庫群に入れていた。 当然の事ながら倉庫群は交通の便の良いところでもあったので そこがしばしば争奪対象となっている。 敵に食むとはそういう敵国の穀物集積所を狙うという事なのではないかとちょっと思った。
>勝って領地を奪えば、自国民になるはずの連中なんだが。 輸送手段が無いから現地で調達するしかない。 自国領土にする予定の場合は多少苛烈さが和らぐが。 ヨーロッパだと、収穫期に侵攻した場合、麦刈りしながら前進したらしい。
日本の鎧が西洋の鎧みたいに金属で作られなかったのはなぜ? 打撃系の武器が無かったから?
あ、ごめんごめん。 前身を金属鎧でスッポリと覆う形にならなかったのはなぜ? って言いたかったんだ。
冶金技術が低かったから&良質の鉄が無いから。
>>613 西洋の騎士とは違い武士は徒歩での戦闘も良く行うので動き易い格好をしなければならない
馬上でも槍を固定させ突っ込むのではなく振り回したり、弓を射たりするので稼動部が多くなければならない
後、環境の問題。高温多湿の日本であんな格好をすれば、たちまち蒸し焼きが出来る。
あれだけ人体を密封したのは西洋だけだろ 西洋のプレートアーマーを除けば日本の当世具足も被覆率は高い
>>環境の問題。高温多湿の日本であんな格好をすれば、たちまち蒸し焼きが出来る。 なるほど、コンキスタドーレは蒸し焼きになったのか。
何故か日本では石炭を利用しなかったんだよな。 火力の不足が冶金技術の制約になっていた罠
現代の兵士の苦労を語る時よく持ち出される話で、彼らは武器弾薬・食料・寝具・衣服他 生活用品で30キロを超える荷物を背負って歩くというものがあります。 しかし戦国時代の兵士はそれら携帯用品に加えて重さ数十キロの甲冑を装備していた わけですよね? そうすると戦国の兵士達の装備の総重量はどれくらいの物になったのでしょうか?
>>重さ数十キロの甲冑 >>重さ数十キロの甲冑
>>619 武士には中間・小者といったポーターが居るからなあ。
>614->618 なるほど。日本の鎧は日本の風土や冶金技術、戦闘方法に見合った物なんですね。
》617 うん、だから彼らは当初から胸甲と兜しか付けなかったし、後には鎧を着ることさえなくなった
>>608 >人口がおおく極端に貧しい場では成り立たなかったようで。
要するにリサーチ不足がはなはだしかったってことだよね。
天下を取るまでの秀吉はその手の失策が非常に少なかったのだが、やっぱ
耄碌してたってことかな。
>619 まずもって鎧はそんなに重くねーよ 武士には個々に槍持ちやら旗持ちやらって運び人くっついてるし 小物足軽の鎧は簡易なもの(下手すりゃ和紙製)で重さは知れてる 重量的には大して変わらんかより軽かったかってとこじゃねーの
彦根藩に伝わる藩祖・井伊直政の鎧が一部装甲の欠損した状態で約23kg。 フルセットの甲冑の重さは15〜25kgといったあたりが一般的だったようだ。 ただしこういうちゃんとした鎧を身につける身分の人は荷物は持たないし 原則として行軍中は馬に乗ってる。
今でも歩兵が30kg近く持ち歩くのは普通じゃん
持ち歩くのと、身に纏うのは別物だ 馬に乗っていても体力使うぞ
リサーチ不足って無理言うな。 いくら貧しくても命は惜しむだろうと思うのが常識、でも朝鮮農民は自治や生産を投げ出して自爆した。 ちょっとした混乱で間接的な自殺をするような民衆に育てた朝鮮の非常識。
>>628 鎧は普通重さのバランスを考え、着用者が楽になるように工夫されている
ので、同じ重さの荷物を背負って歩くよりは疲れにくいと思う。
>>629 異民族に自分らの常識が通用すると考えてる時点で甘いだろ。
ん? 自分の農地を焼き払って(自殺的)抵抗をするのは世界的常識ですよ? スペインの征服者といい、これだから田舎者は困る(苦笑
占領軍にろくに抵抗もせず「ギブミー」とか言ってる民族の方が異常。 それがあながち悪いこととは言い切れないが。
ちなみにお隣の中国・12世紀南宋の甲冑重量は 弩兵 23.8〜28.8キロ 弓兵 30.2〜34.8キロ 槍兵 33.9〜36.8キロ 矢の雨を降らしてくる遊牧民族相手とはいえ、動けるのこれ?
>>633 とか、ネタでもこういうことを言う馬鹿の親の顔が見て見たい
ギブミーキャンディー♪ で米兵が配っていたキャンディーなんだがあれレーションの付属品だよな? あのキャンディーはすごく不味いってことで兵隊から大不評、こっそり捨ててたようなシロモノ。 丁度いい不良品処理となったわけだ。
637 :
635 :2007/02/22(木) 15:42:49 ID:???
>>635 親は進駐軍からガムをもらったと言ってた。
祖父はミンダナオで戦死した。
祖母は「東条という人がみんな悪かった」と言ってた。
うへえ、これはスマン 肉親の実体験から来てるんだな。それだと 少しはわかる
南宋の時代になると戦う相手も同じ中国人同士になるから無問題。動けた か動けないかと聞かれれば動けたとしか言いようがない、まあ車や電車にな れてる現代人の何倍も昔の人は強靭だったとしか言いようがない。神出鬼没 の遊牧民にそんな重装備だと周囲から矢ばかり撃ち込まれて戦えなっかった と思われがちだが、神出鬼没の様に見えて遊牧民にも一定の行動パターンが ある。要する家畜の草がある所に時期的に移動するから、草の生える盆地を 抑えたりオアシス抑えたりすると向こうからやってくる。そこで決戦を強いて 相手を屈服させる。漢の武帝なんかはそれで匈奴を屈服させた。
>>633 そりゃあ、政府も軍隊も健在のまま国家として降伏したからな。
オリンピック作戦なんぞやらかされてた日にはどんなことになってたか。
そういやドイツもアメリカに対してはあんまり抵抗しなかったんだったか。
こう言う奴らって中世の騎士は馬から落ちたら動けなかったとか平気で信じてそうだな。
動けないは嘘だけど、思いっきり不利になるのは事実。高さ1m〜1、5m の高さから自重+重量20キロ以上の重さ背負って落ちたらどんだけ痛いか、 その状態から起き上がるのがどん位大変か?それも敵がすぐ傍にいる状態の時 に。
「中世の騎士」と聞いてイメージする板金鎧は中世じゃなくてルネッサンス期に 流行したんだよな。ルネッサンスも中世に含めるという考え方もあるが。 いずれにせよ、プレートアーマーを着込んだ騎士というのは前線で戦うというより、 指揮官としての仕事をする人だったのであんまり軽快に動く必要はなかった。 あと、「落馬したら動けない鎧」というのは実戦用じゃなくて馬上槍試合用だな。 これはクソ重い上に、可動域も狭い代物。中には80kgなんていう馬鹿げた重さの やつまであったそうだ。
>>642 重装騎兵の使うペルシュロンなどの重種馬の場合、体高が2m近いものもザラ。
落馬すると大ピンチだな。
645 :
名無し三等兵 :2007/02/22(木) 19:27:34 ID:Y3a2XU1B
>>640 ドイツの場合は、前門の虎と後門の狼を比べた場合、
狼の方が断然待遇が良かったからだろ
正確に言えば虎の方が外道過ぎたから
上このような話題になれば某研猊下の出番だと思うのだが まあ猊下も全てのスレをチェックしているわけではないのであろうが
>>634 体重が30kg増えたらお前は動けなくなるのか?
>>647 いきなり増えたらしばらくはまともに動けないのでは?
2リットル入りのペットボトル15本分だよ。
>>648 訓練された人間ですが。
あと鎧ってのは重量をバランスよく分散する様に作られている。
現在のリエナクターもフルプレート着て逆立ちや腕立て伏せしている。
>>649 いや、648は「体重が30kg増えたら〜」に対するレスだから。
要するに例えが拙いってこと。
本多忠勝は薄い鎧を愛用していたが戦場で怪我をすることはなかった。 榊原康政はいつも強固な鎧で出陣していたが毎回のように負傷していた。
ドジっ子康政たん
653 :
名無し三等兵 :2007/02/22(木) 22:45:53 ID:a0WwmOa8
しかし30キロの鎧に武器に最低限の水と糧食を持ったらそれだけで40キロを超えるような・・・ 補給部隊からは絶対に離れられないな。
だから、そんな豪勢な鎧着られる奴は家来が何人も。
それに調整攻撃のときはバックパック捨てるし
江戸時代の駕籠かきは30kgくらい平気で担いで走り回るぞ
このスレには山岳愛好者は一人もいないのか。 テントと食料を担いで4人PTで冬山を縦走行軍するときは、 一生賢明軽くしても大体30kgくらいにはなる。 水は雪を溶かして調達すればいい分、多少は軽くなってるが。 高校生でも北アルプスみたいな標高2000m〜3000mのところを そんな装備で歩くんだ、十分に鍛えた20代の兵士なら、 40kgの荷物を持って麓を歩くことについて、余裕とは言わないが、 無理ってことは全然ない。 まぁ、俺は冬山はいかないので、せいぜい夏山を25kg程度の装備で歩き回る。 山小屋に行くと、雨水を貯めてあるので、それを安く譲ってもらえばいいし。 金があるおっさんたちは、食料も防寒具も遭難に備えた最低限だけの10kg程度で、 山小屋で食料も宿泊も済ませるんだがな。
>>657 大学時代にお祭りで駕籠かきのバイトしたことある
江戸時代の扮装して(かなり本格的な衣装とカツラ)
会場内どこへでもお連れします(1回お一人¥800)
売り上げの2/3がそのままバイト代、相方と折半だから1/3が取り分
稼ぎはメッチャ良かったけど(日給2万近く稼いだ)
ワンゲルで普段から重装備で登山して重いもの持つのは慣れてるつもりだったが
アレはキツかった・・・半端なくキツかった・・
昔の人は偉いよほんと・・・・
>そんな装備で歩くんだ、十分に鍛えた20代の兵士なら、 >40kgの荷物を持って麓を歩くことについて、余裕とは言わないが、 >無理ってことは全然ない。 大学入学して登山始めた1年生が週3回程度の若干の運動と 月2回程度の山行を繰り返せば。 3ヶ月後の夏合宿にはその程度の重量を背負って連日歩ける。
時代祭りの時によろいを着て行進した人の話だと 汗だくになって終わってからも半日身動き取れなかったそうだ。 (消防士の人である程度体力あるのに) 30s近いやつを身にまとえばそうなるわな
重さだけじゃなくて通気性の悪さとか、身動きの不自由さなんかも疲れの 原因になるだろうな。慣れればかなり軽減されるだろうけど。
30kgの鎧、歩くぐらいなら俺でもなんとかなりそうだけど、それを着て 槍を振り回したり屈んだり攻撃を避けるために急に方向を変えたりと いった動きをするのはしんどそうだな。 足場がでこぼこしてたりしたらなおのこと。昔の人の体力はすごいな。
昔の人の体力が凄いんじゃなくてお前さんが慣れてないだけさ。 お前さんでも定期的に鎧を着て戦闘訓練をすれば出来るようになる。
>>664 君は定期的に鎧を着て戦闘訓練をしたことあるの?
日本の鎧兜でも重いのに西洋の甲冑なんかもっとだろ〜ジャンヌダルクってムキムキウーマンだったりして…
>>642 「落馬してもたついているところを捕えられ人質になる」というのが百年戦争
など中世の戦争のお決まりのパターン。
名のある騎士を人質にして巨額の身代金をせしめるというのが軍隊の重要な
資金源だったので、殺されることは滅多になかったようだが。
重いから行軍速度も機動性も劣悪 それが重装備の宿命
誰?ってか集団で敵・味方に分かれて何時間も駆け回ってるんだろうな当然。
実際に長躯駆け回って戦闘する足軽のよろいは、 紙で作ってるやつとかもあるぐらいだし20キロも いかないんじゃなかろうか。当世具足や大鎧だったら30〜50位ありそうだが
>>641 騎士が馬から落ちたら動けなくなるのは当然。
自重と鎧の重さも相まって、落馬した騎士は死亡する事が多かった。
むしろ落馬でしか死者がでなかった戦争だってある。
673 :
659 :2007/02/23(金) 12:05:23 ID:???
>>660 だね、まあその辺までは慣れでいけると思う
(俺らの部では荷物は20〜30kgが標準だった)
でも駕籠かきの経験から考えると
昔の人は、農作業や諸々でもっと鍛えられてたんだと思う
(車も機械も無い世界だからね)
才能がとか素質が〜とかでなく、みっちり鍛えられてる
(日常生活やってるだけで鍛えられてる?井戸汲みとか薪割りなんて重労働だもんね)
その辺は現代人と比較にならないような一段上の所に有るんだと思う
なので、30kgの重装備の鎧着てさらに武器やらもってもソコソコ動けたんだと思う
モチロン素早くとか、長時間とかは無理だろうけどね
足軽なんかはもっと軽そうだから、日常的に鍛えられてる昔の人は
結構問題なく動けたり、長時間活動出来たんじゃないかな?
>>672 マキャベリだね。実際にはそんな甘い戦争は無かったと歴史家達が証明した
らしいけど。少人数でだらだら戦うイタリア式の傭兵隊長同士の戦いに国民国家
の成立を望んだマキャベリが怒って書いた文章だからそんな信用できないけど。
戦場では落馬イコール死か捕虜になるって認識は当然視されてたって房証にはなる。
>>674 わざとワンダーフォーゲル部の話題無視かよ
大陸なんかだと数ヶ月の遠征もざらだろうから ますます大変だったろうな。
ブラヴォー・ツー・ゼロだと100kgの荷物を担いでイラクの山奥にスカッド狩りしに行ってる 二週間分
>>672 言い方が悪かった。
「こう言う奴らって中世の騎士は馬から下りたら動けなかったとか平気で信じてそうだな」
だ。
>>671 大鎧は兎も角、当世具足の中で一番重い物の一つが25kg程度だぞ。
普通の物は15kg位だ。
当世具足、段々と防御面を狭めて頭部と上体の装甲強化に努めてる。
大名格は脛当てや篭手まで装備してるから防御面狭めてないぞ。兜なんて どんどん派手になってる、陣羽織なんかもな。まあ大名クラスになれば足軽 みたいな動きせんでも良いし、士気を鼓舞し目立つと同時に安全上重装備に なるのも仕方ない事なのかもしれんけど、あんな装備を1日中付けてるとし たら大名も楽じゃないな。
登山装備と鎧では、重量は一緒でも疲労度は全然違うと思われ。 漏れはオリエンテーリングをやってたんだが、競技用のユニフォームは、凄く薄い服なのよ。 で、大会準備などで私服で山に入る場合もあるんだが、疲れが全然違う。 重量から言えば1Kgも差が無いわけで。 だから、登山用のザックと鎧も単純比較は出来ないと思うよ。 んなことわかってると言われればそれまでだが。
683 :
名無し三等兵 :2007/02/23(金) 16:53:10 ID:k4UseFxz
村や村人は虐げられる者、というイメージは虚像であり、 実像は、武将は村人の機嫌取りに必死だった。
背負うものではなく着るものである鎧は楽だと思う
ヘソ曲げて一向一揆に走られたら領国経営いきなりピンチだし。
>>684 胴体部分はサイズが適正ならかなり楽だろうけど、篭手とか脛当てのような
よく動く上に重要なのであまり薄くも出来ない部位の重さはしんどいんじゃ
ないかと想像する。実際はそうでもないのかもしれないけど。
>>683 織豊期以前の戦国時代は武士以外でも普通に武装しており、敗走する軍勢が
村のそばを通りかかるとたちまち徒党を組んで襲い掛かり、金品を奪ったり
していたらしいな。
いわゆる「落ち武者狩り」というと、竹槍を持った農民数名が一人で逃げてる
武士をばらばらと襲うというイメージだが、実際には装備も人数ももっと大規模
なものが多かったらしい。
落ち武者がリに難破船ねらい。 東海道のような整備された街道沿い以外は山賊や海賊が 江戸初期まで涌いていたらしいしな
日本人はおとなしい国民性と言われるけど、江戸時代の長い平和を経るまでは 他の民族とそれほどは変わらなかったのかも。
海賊っていうと瀬戸内のが有名だな。 っても手当たりしだいに襲うタイプじゃなくて、通行料を取る代わりに 水先案内と護衛をやってたらしいが。 山賊ってのはあんま聞いたことがないな。
>>689 昔の航海は、地乗りと行って海岸が見えるぐらいの距離を航海し、
風向きや天気が悪くなったらすぐに手近な入り江に入ってやりすごすという
やり方だった。
で、このように入り江で休んでる船を見つけると、近隣の村人が集団で襲い
かかって積荷を奪うということが結構あったらしい。海賊とはちょっと違うけど。
690続き 有名な瀬戸内海などの水軍は、通行料を取る代わりに上記のような連中から 一般の船を守るのも仕事の一つだった。
>>686 落ち武者狩りというスケールを超えて、村が大名と戦争して撃退した例もある。
>682 中国の場合だと強行軍する時は鎧を外して巻いて担いだそうだ。 中国の鎧はラメラアーマーなのでそれができるらしい。
日本や西洋なんかでも戦闘が無さそうな時は胸鎧だけ着けて、それ以外は 箱に入れて運んだりしてるがな。
>>681 いや胴はもちろん全体的に軽い方向に進んでるよ。
兜の派手な部分は大抵漆塗りの紙や桐。
吹返しなんか盲腸チックに小さくなってるし。
鉄砲以後は根来鉢や日根野兜みたいに防御を正面に絞り被弾経始を考慮したものが流行った。
行軍中は軽装備ってのは常識だろ。
>>695 飾りの部分に強度はいらないもんな。
大名ながら兜作りの名人だった細川忠興は、兜に大きな角のような飾りをつけるときは、
わざと簡単に折れるような軽い材料で作っていたそうな。何かに引っ掛かったとき角が
頑丈だと装着者が身動きとれなくなるから。
>>683 機嫌取りに終始したというか、村落等も一個の勢力として扱ったというか。
境目の村で破れた方の勢力に付いたとこは勝者から撫で切り、
そこまで行かなくても重い賦役を担わされるとかはあったし。
699 :
某研究者 :2007/02/24(土) 01:08:24 ID:yyj0ZdpA
鉄の札が用いられ 大薙刀等の防御迄考慮した 南北朝時代の鎧が 一番重装と言う事かも知れぬし 南北朝時代では 40kgの大鎧に佩楯が追加され 腹当て迄下に装備していた例も 有ったと言うから 武装も入れれば50kg以上の重量に達したと言う可能性も 有るだろうが 此れでもWW1の歩兵装備並みな訳だろうか 戦国時代の鎧は兜の吹き返しや袖・脛当て(或いは篭手も)が 軽量化されているから 南北朝時代の胴丸と比べても軽量な訳だろうし 矢と異なり銃は鎧では止まらないので機動力での回避を 狙っている訳だろうか
700 :
某研究者 :2007/02/24(土) 01:13:20 ID:yyj0ZdpA
鎧では火縄銃は全く止まらないと言う
意見も有るだろうし
http://www.warbirds.jp/ansq/6/F2000508.html >Gun誌で須藤薫雄氏が火縄銃で鎧を撃つ実験をしたことがあります。使用銃は国友製の一匁五分筒(口径約10mmほど。
>ちなみに、戦国時代に多く用いられた火縄銃は二匁〜十匁筒)、鎧は重量約4.5kgの具足(鉄板の厚さは平均1.4mm)、距離は50mでした。
> 結果は、3発撃ち込んですべて貫通。射入口は大きさ20mmほどで、後ろに13mmほどの射出口ともう一つ窪みがあり、内部で弾が二つ以上に割れてしまったようです。
>初速は1,550〜1,590fps(約480m/秒)でした。実戦での性能は、火薬量などによって多少変わってくると思います。
一匁五分筒でさえこの威力だろうし
六匁筒なら200mでも貫かれたと言う事は
無いのかだが
(西欧のプレートアーマーも
17世紀の分厚い胸甲を用いてもピストル程度しか
止まらなかったと言う事かも知れぬし
完全鎧はピストルも止まらなかったと言う
事かも知れぬが)
701 :
某研究者 :2007/02/24(土) 01:20:55 ID:yyj0ZdpA
702 :
某研究者 :2007/02/24(土) 01:25:30 ID:yyj0ZdpA
703 :
某研究者 :2007/02/24(土) 01:27:58 ID:yyj0ZdpA
この某研って本物?
705 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 01:41:48 ID:zr1sf2wc
矢張り…っていう言い回しじゃないからなぁ。 ぁゃしぃ。
フランスでもっていうか、一時期以降の騎兵は抜刀突撃が大半だろ。
708 :
某研究者 :2007/02/24(土) 02:10:48 ID:yyj0ZdpA
709 :
某研究者 :2007/02/24(土) 02:20:52 ID:yyj0ZdpA
銃剣を構えての歩兵方陣を破るのに槍が復活したと言う 事だったかも知れぬが 上手く方陣等組める歩兵が 大多数だったのかだろうし ナポレオンの縦隊の雑兵が速やかに方陣等 組めたのかだろうし 組んでも騎兵を阻止出来たのか どうかだが
いあいあぼうけん
711 :
某研究者 :2007/02/24(土) 02:31:26 ID:yyj0ZdpA
712 :
某研究者 :2007/02/24(土) 04:57:26 ID:yyj0ZdpA
大鎧が40kg有るなら 南北朝時代の大袖の付いた胴丸と言うのは そう軽いのかどうかだろうし 腿の鎧の追加等を考えても 30kg程度は有ると言う事は無いのかだが (まあ更には腹当てを下に装備する可能性も有るなら 40kgを超えた可能性も有る訳だろうか)
713 :
某研究者 :2007/02/24(土) 04:59:46 ID:yyj0ZdpA
>南北朝時代の大袖の付いた胴丸と言うのは >そう軽いのかどうかだろうし 兜は全く大鎧と変わらない訳だろうし 頬当て迄有るだろうが 半首の付いた大鎧なら鎌倉時代にも 有る訳だろうか
714 :
某研究者 :2007/02/24(土) 05:16:10 ID:yyj0ZdpA
>南北朝時代の大袖の付いた胴丸と言うのは >そう軽いのかどうかだろうし 袖の重量も大鎧と差は無いと言う事かも知れぬが 草摺の重量はどうなのだろうか
715 :
某研究者 :2007/02/24(土) 05:45:18 ID:yyj0ZdpA
>彦根藩に伝わる藩祖・井伊直政の鎧が一部装甲の欠損した状態で約23kg。 >フルセットの甲冑の重さは15〜25kgといったあたりが一般的だったようだ。 軽量化された当世具足で此れでは 大袖と吹き返しの付いた 南北朝時代の胴丸なら30kg以上は 有ると言う可能性も有る訳だろうか (脛当て等も重いだろうし 臆病板等が装備された物は尚更重く成り 佩楯も後部迄防御した物が 有る訳だろうか)
716 :
某研究者 :2007/02/24(土) 05:56:55 ID:yyj0ZdpA
当世具足の場合脛当て・袖・吹き返しの軽量化は 顕著だろうし 袖や吹き返しは無い物も多いだろうか (脛当ても一枚板では無く 可也隙間が出来ているだろうか)
久しぶりにまともに猊下を拝見した ありがたやありがたや
鉄炮
719 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 10:05:36 ID:ObqXaywq
朝鮮軍や明軍は騎兵を使ったらしいが、秀吉軍は対応できたの?
鉄炮
かなり乗り遅れた感がするが、「鎧の重さで起き上がれない」について 全員が微妙に間違ってる部分があるので突っ込みいれとく。 重さ云々よりも、胴鎧の構造上着ると腹筋使って起きる事が難しいので 例えば仰向け状態で転んだとすると転がってうつ伏せになり、四つんばいになり、 その後ゆっくり上半身起こして、正座に近い座り方から起きる という手順踏まないと起きられなかったんで、その間に殺されるか捕虜にされたのが正しい。 (ただ、回転しながらすばやく起きる方法もある) これは西洋も東洋もほぼ同じ。 胴鎧着てれば足軽でさえ同じ状況になりうるよ。 胴鎧が可動部持ってたり体の動きにあわせて曲がる柔らかい素材だったらまだしも… あと、冶金に石炭使わなかったとあるけど石炭使った鉄の質は必ずしも良いわけじゃないから。
だから桶皮胴は画期的だったんだよな。
723 :
某研究者 :2007/02/24(土) 20:14:06 ID:w8d2lVWe
>朝鮮軍や明軍は騎兵を使ったらしいが、秀吉軍は対応できたの? 日本の場合はグスタフ・アドルフの騎兵の様に 歩兵と騎兵が連携しているなら アドルフの騎兵の様に歩兵の銃撃で騎兵を混乱させた後 騎馬武者が乗馬突撃すると言う様な戦術を使えばだろうし 大陸軍は騎兵と歩兵は分かれていたと言う事かも知れぬが 歩兵が先ず突入して来ると言う事かも知れぬが 此れも歩兵の銃撃後に騎馬武者が突入すればと言う 事だろうか
724 :
某研究者 :2007/02/24(土) 20:27:43 ID:w8d2lVWe
>だから桶皮胴は画期的だったんだよな。 生産性は可也高い鎧だろうが 足軽はどの程度此れを装備していたのかだが 映画等を見ると畳具足が多いだろうか (実際は皮の札鎧か此れさえ無いと言う兵も 多かったのだろうか)
最近の猊下は改行間隔が短いんだな。
726 :
某研究者 :2007/02/24(土) 22:02:16 ID:w8d2lVWe
行を長くすると思考が途切れたり 記憶が困難と成る故に 短く切っている訳だが
727 :
某研究者 :2007/02/25(日) 00:06:03 ID:Kz8nnw9d
リチャードも歩兵のクロスボウで アラブ騎兵を混乱させた後 槍騎兵で突撃を掛けている訳だろうし 騎兵を倒す為の歩兵と騎兵の連携と言うのも 重要である訳だろうか
ああ・・・少佐に続き・・・今度は某研か・・・ このスレも終わったな・・・
ああ・・・少佐に続き・・・今度は某研か・・・ このスレも終わったな・・・
731 :
酷使様 :2007/02/25(日) 12:07:11 ID:???
>>721 なるほど。馬から落ちたりすると致命的なのは、素早く起き上がれないからなのか。
>>728-730 台風みたいなものだから放っておけばいいよ。
>>721 >胴鎧が可動部持ってたり体の動きにあわせて曲がる柔らかい素材だったらまだしも…
鎖帷子は?
733 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 13:49:16 ID:4APKqhJb
>>721 胴丸でも腹巻でも当世具足でも腹筋部分を固定してるわけじゃないから可動するけどな。
734 :
某研究者 :2007/02/25(日) 20:45:51 ID:t4a1m1Kf
15世紀のプレートアーマーは 胴体部分が動くだろうし 落馬時の事を考慮した可能性も有るだろうが 16ー17世紀の物は胴体が動かない物も 多いだろうが 此れはピストルに対抗しての物なのだろうか
ガンダムがむくっと起き上がってるのは嘘か・・・。
2足歩行の巨大ロボット自体が(ry
ちなみに歌舞伎の暫や花魁の衣裳と鬘は軽く十貫目を超える。
女形はクソ重い衣装を、肩を落とした力の入りにくい姿勢で着て動く訓練を しているので男役の役者より力の強い人が多く、「酔って暴れたとき一番 恐ろしいのは女形」などとも言われていた。
ちなみに小林幸子の紅白用の衣装は軽く1tを超える。
>>739 それを着こなす小林幸子の膂力w
((;゚Д゚)ガクガクブルブル
巨凶・小林幸子
742 :
名無し三等兵 :2007/02/26(月) 16:28:50 ID:XBjJFP4u
小林幸子だけが着ているだけではなく、ステージ係の人や機械が支えているんだよ。 ここから推測すると、戦国時代の騎馬武者も、多くの下人に支えられて戦闘していたと予想するがどうだろうか?
着るときの手伝いはともかく30kgくらいの鎧は別に着てても歩ける。 現代の歩兵の携行する装備の総重量もそのくらいだしこの範囲は どの時代もさほど変わってない。 ただし多くの下人が付き従っていたのは確かだし、 現代で言う後方職種のような非戦闘員の支えもあった。
槍だって戦闘中以外は従者に持たせてたぐらいだしな。槍だけでも馬鹿にならない 重量があるので、疲労軽減のためには仕方が無い。
つーか過去ログぐらい読めよ。 ほぼ書いてある。
米俵って一俵60kgほどなんだけどさ、昔は肩に一つづつ、計120kgも担いで川渡っていく人とか普通に見かけたって年配の人が言ってたよ。 今は30kgの紙袋が主流だけど、現代人はこれでぎりぎりじゃねえかなぁ。 戦前の人の体力って超人的に思えるよ
なんでも人力でやってたから、日頃力仕事をする人の鍛えられ方は 現在のスポーツ選手どころではなかったのかもな。
日本の馬は駄載に適するようドンドン体高が下がっていった。
749 :
名無し三等兵 :2007/02/27(火) 14:29:58 ID:nzxirecT
いま歌舞伎の女形のトップ・中村雀右衛門はウェイトやマシントレーニング が趣味で、齢90になろうというのにダンベルを振り回している。
750 :
名無し三等兵 :2007/02/27(火) 14:39:12 ID:9auJYaPw
>>748 幕末の荷馬は140オーバーなんだけどな
動きに関係あるのは鎧の重量よりも構造の方が大きかったみたい。 メンアットアームズか何かの記述では、チェインメイルはベルトのつけ方の工夫で 重量が分散されてかなり動きが軽くなるとの事。特に腰のベルトは必須(これが無 いと殆どの重量が肩にかかる)。 プレートメイルではこのベルトのつけ方に加え、関節部分の可動性が非常に大きく 動きに関係したとの事。
義経のひよどり越えで馬を背負って崖を降りた武士のエピソードがあるが、当 時の日本の馬なら不可能じゃないな。絵巻や屏風の騎馬武者の絵も人と馬の大 きさに注目してみると馬はとても小さい。
いや、オレの友人も 「武田軍は凄いですよね。なにせいざとなると兵士が馬背負って 走っちゃうんですから」 と言っていた。世間の大多数はそういうものと思っているのかも。
北条家に仕えた水軍大将、清水康英の妻は怪力の持ち主で、「崖に落ちかけた 馬をつかんでひっぱり上げた」などの逸話を残している。
>>746 両国の見世物で、米俵を使ってお手玉をするという怪力芸があったそうだ。
そういえばペリー来航時に日本の力士が口に米俵を加えたまま 宙返りをするという芸を披露して見せたそうだが。
>>755 怪力女といえば、平家物語に出てくる巴御前の戦いっぷりもすさまじい。
敵の大力自慢の武者の馬に並びかけ、いきなり相手を掴んで馬から引き摺り下ろし、自分の
馬の鞍に相手の顔を押し付け、全く何もさせないままに「首ねぢきって捨ててんげり」。
物語だから誇張もあるのだろうが、こういう怪力話は面白い。
どれも空の米俵
インパ−ル作戦では、全兵士が60kgの装備を背負って、数百kmの山岳地帯を行軍して から戦闘したんだ。現代では信じられないぐらい。そして以後数ヶ月、背負ってきた2週間分 の食料を食べ尽くしてからも全く補給無しで戦い、さらに数百kmの山岳地帯を撤退したのだ 撤退路は白骨街道と呼ばれ、80%の兵士が飢えや病気で死んだ。
>>760 >現代では信じられない
当時の常識で考えても……
すれ違いだしここまでにするけど、打通や援蒋ルート遮断とか考えずに ビルマ〜インド国境で持久防御の選択肢はなかったんだろうかね
>>762 後知恵でインパール戦の結果を見てしまえば、持久防御がまだましだったとはいえる。
ただな。ビルマの占領自体の主目的の一つは、
当初はビルマ経由だった援蒋ルートの遮断だったわけで・・・。
そして、ビルマの独立運動の支援も、インドの独立運動支援も、
大東亜共栄圏という大義名分に適う目的なんだよな。
で、これらに目をつぶってしまい、純軍事的な見地からしてしまえば、
持久防御に留めるのなら、いっそビルマに侵攻しないほうがよかった、ということになる。
制海権を確保し、陸路はタイの独立を尊重してやれば、
英国のビルマからの陸路侵攻は制約される。
英国がタイに侵攻するとしても、時間もかかれば、政治宣伝上もよろしくない。
いっそそちらの方が戦線の過剰展開がされられ、マシだったと思うよ。
必要行動と可能行動の取捨選択。
スレ違いもはなはだしい。牟田口スレでやれ。
766 :
名無し三等兵 :2007/02/28(水) 19:23:13 ID:9ydbSQib
むっちーは2ちゃんのアイドルだからな。
天ちゃんとマコさまも2ちゃんのアイドルだぜ
辻〜んは軍事板限定のアイドルだしな
そろそろ壬辰倭乱史観から抜け出したらどうか?
>769 歴史板で家。木瓜茄子。
771 :
某研究者 :2007/03/06(火) 15:28:18 ID:odzos/8h
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) なぜ盾は日本で普及しなかったか [戦国時代] 【隋唐演義】 田中芳樹 【徳間書店】 [中国英雄] ★松井の良い事だけ黙々と1000書くスレ★ [野球総合] 過去ログ [戦国時代] 寡兵で大軍を破った戦い [戦国時代]
1569年女王エリザベス治下のイギリスはフランス侵攻の際動員できる 【イギリス全体の兵隊】と武器の数を総点検しました。 その集計数は、【兵数24000人】【鉄砲6000挺】でした。 (ソースは『Lindsay Boynton著 The Elizabethan Militia』) その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が 島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】 【鉄砲9000挺】でした。 すなわち、【欧州最強のスペイン(動員兵数27473人、鉄砲8000挺)】や、 【エリザベス治下のイギリス(全体の兵数24000人、鉄砲6000挺)】では、 【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺(兵数25000人、鉄砲9000挺)】 にさえ及ばない。 ノルマンディ公が13世紀に動員できたのは約3000 同時期フランス王が動員できた兵力は約2500 1281年の弘安の役では 日本側120000人 元側140000人 近代以前において、人口過疎地域のヨーロッパと人口過密地域の東アジアでは戦力が違いすぎる。
日本を統一した江戸幕府の軍事力は世界ランクでどれくらいだったんでしょう?
幕府はよく知らないが 関ヶ原では両軍合わせると 当時の世界に存在した銃の半数が集まってたらしい。
陸軍力では間違いなく世界一だろうが(物量では明だが) 海軍力では大きく水あけられてるからなんともな
777 :
某研究者 :2007/03/06(火) 21:49:20 ID:UEsJGzF2
マウリッツやグスタフ等の用いた軽量砲に 銃で対抗出来るのかだが 軽量砲と同程度の口径の大筒は多数有り 火縄銃は狙撃を行うので侮れぬ訳だろうか 海軍力に関してはドレイクの様に焼き討ち船でも使えばだろうし 夜襲等に欧州軍は慣れて居るのか どうかだが 日本も帆船は17世紀には一応建造している訳だろうし 此れでスペイン艦を叩いたと言う記録も 有る訳だろうか
ラテーン・セイル(三角帆)を持たない和船に対し 西洋戦の持つアドバンテージは決定的ではなかろうか
>>773 戦国時代の日本は100年ぐらいずっと戦争やってたのに人口増加率はそれまでの時代を
大きく上回ってるんだよな。その時代に食糧生産技術が飛躍的に向上したから。
人間と食料の供給が潤沢だったからこそ延々戦っていられたとも言えるが。
780 :
某研究者 :2007/03/06(火) 22:39:42 ID:UEsJGzF2
故に海軍力さえ整備すれば 欧州軍も殲滅出来たと言う事かも知れぬし 17世紀には帆船やカルバリン砲は コピー出来ていた訳だろうか
>>778 ん?旋回能力なら、むしろ和船の方が優れているが。
>>774 将軍家だけで直参八万騎でそれらの郎党も加われば確実に十万は超えるな。
さらに大名家からの動員を含めれば二十万はたやすく超える。
16世紀末期の日本の人口は最低でも2000万人近いそうだが、これは同程度の面積の当時のイギリスの4倍近い人口。 なんでこんなに違いが?
784 :
某研究者 :2007/03/07(水) 07:45:39 ID:AJVHF9dE
ペスト流行や 麦と米の生産性の差と言う 事だろうか
785 :
某研究者 :2007/03/07(水) 07:50:17 ID:AJVHF9dE
786 :
某研究者 :2007/03/07(水) 08:04:41 ID:AJVHF9dE
787 :
某研究者 :2007/03/07(水) 08:12:37 ID:AJVHF9dE
788 :
某研究者 :2007/03/07(水) 08:19:21 ID:AJVHF9dE
>なお、本邦の火縄銃が頬付け形に終始し、肩付け形の銃床にならなかった理由には、戦国期においては鎧武者による射撃に適さないことや鉄砲狭間からの射掛けにおいて邪魔であるという用兵上の事情、 >泰平期においては流儀による形態・射法の継承による硬直化等が指摘されている。 欧州の初期の騎兵銃のストックは 種子島銃と似た様な形だし 鎧にはストックは合わなかったのか どうかだが
789 :
某研究者 :2007/03/07(水) 09:14:38 ID:AJVHF9dE
http://ww2.enjoy.ne.jp/~tteraoka/esse2-2.htm#mugi 13〜14世紀のイギリス(イングランド)を例にとってみると、小麦の倍率はなんとたったの約4倍、16〜17世紀ごろでも6〜7倍だったんだそうです。
倍率が10を越えたのは19世紀半ばから後半に入ってからのようです。フランスやドイツでの小麦の倍率は、イギリスよりも少し下回るくらいだったそうですから、その想像以上の生産性の低さにびっくりです。
現在でこそ倍率は大きく増進し、食糧供給状況はいくらか安定したものになっていますが、欧米でのこれら倍率は、日本と比べるとなぜか低かったりします。
20世紀半ばの小麦の倍率はイギリスで16倍弱、アメリカで23倍強、それに比べて日本の「小麦」の倍率はなんと51倍を越えているのです。
日本では小麦は主食ではないにもかかわらず、倍率が高い(笑)。
まあ労働力辺りでの生産性はどうなのかだが
此れも欧州の麦は悪いかも
知れぬが
>789 欧州って、食糧に関しては想像以上に大変だったんだろうね。
>>783 日本は気候が穏やかで降水量が適度に多く、農業生産には非常に向いている
土地だったからな。地形的にも、現代では広い平野の方が農業を行いやすいが、
灌漑技術の未発達だった時代には日本のように谷や小さな川の多い土地の方が
むしろやりやすかった。
あと、面積に対して海岸線が長大で海産物を得るのが容易だったということもある。
ヨーロッパの人口の少なさについては某研究者が言うように、ペストの流行も
でかいかもね。14世紀の大流行のときはヨーロッパ人口の3割が死んだと言わ
れているが、当時の人口増加率では3割減った人口が元に戻るだけでも何百年も
かかる。ペストはその後も何度か流行して万人単位の命を奪ってるし。
ローマ帝国民みたいに公衆浴場に入って清潔にしてれば大多数は防げたがな。 貞操観念を強制した宗教を信じてる以上は仕方がない。 偉大なるローマよ 何故滅んだのか
...中世で盛んだった公衆浴場や個人浴場が廃れたのはペストのせいなんだが。 まさか「中世は汚物まみれの暗黒時代」だなんて信じてるんじゃないんだろうな?
今から突撃するぞー ってことを相手にも知らせるのって普通のことなの?世界的にみて
>>794 普通だろ?一人で突撃するより集団で突撃するほうが威力がある。
合図に合わせてやるもんだから、合図するのは当たり前。
重騎兵の突撃に関していえば、足並みをそろえて行進速度で進むだけで 相手側が士気の低い軍勢だと混乱状態に陥るからね。 >793 クソまみれの汚物時代だったのは、確か。 衛生観念が確立されるのはルネッサンスも後期になってからだし
>>クソまみれの汚物時代だったのは、確か。 >>衛生観念が確立されるのはルネッサンスも後期になってからだし 前時代的な妄想です。 中世初期からバスハウスは盛んだったし衛生観念もしっかりしてた。 窓からゴミを捨てるなんて持っての他で多額の罰金が科せられた。 農村は確かに汚物まみれだったが、それはローマ時代も同じ事。
パリとかずっと汚物塗れだろ?
>>798 公衆浴場でペストに感染すると言う思い込みや燃料の薪の不足等からルネッサンス期に欧州中の浴場は次々に閉鎖されルネッサンス後期の衛生状態は中世よりも悪かった。
17,18世紀になると更に酷くなり「汚物塗れのパリ」はこの頃の物。
そこらへんの事についての文献ってどんなものがある?
日本に風呂が伝わったのが戦国期か。文字通りサウナに近いもの。 銭湯は江戸期のいつくらいにできたんだろうね。
>>798 例えば、14世紀のロンドンでは窓からゴミを捨ててはならないと言う条例があり、厳しく施行されていた。
罰金は連帯責任で近所の人間全員に課せられた為ゴミを窓から捨てた男がリンチを受けて殺された例もある。
>>800 ピアース・ミッチェル
"Working With Water in Medieval Europe: Technology and Resource-Use (Technology and Change in History)"(ISBN 978-9004106802)
と
Medicine in the Crusades: Warfare, Wounds and the Medieval Surgeon (ISBN: 052184455X)
が詳しい。
>>802 20世紀屋なんでそのあたりは全然だなあ
で、あっちの中世史学会ではそこらへんが通説として合意が取れてるの?
>>801 鎌倉時代の京都に銭湯があったと、日蓮が書き残している。ただし、この銭湯が
どういう形態のものかはわからない。現代のものとはかなり違っていた可能性が
高い。
戦国時代に蒸し風呂が流行し、都市部では公衆サウナみたいな形の蒸し風呂も
あちこちにできた(秀吉の時代頃から)。ちなみにこの時代に流行ったのは
蒸し風呂だが、現代のように普通にお湯につかる形の入浴自体はそれ以前から
あった。蒸し風呂より単純なことだし当然と言えば当然。庶民は燃料代がかかる
温水浴ではなく、水で体を洗ってただろうけど。
現代の銭湯に近い、浴槽があって洗い場があって……という形の銭湯は18世紀
ぐらいからかな。湯が冷めないように窓がなく、入口もせまく薄暗かったらしい。
浴槽のお湯は現代のように頻繁に替えられないのでかなり汚かったんだとか。
当時の書物には「赤ん坊が中でウンチしちゃった」とか「浴槽の中で殺人事件が
起こり血が浮いていたが暗いからしばらく誰も気付かなかった」とかなんていう
気色の悪い話もある。
男女混浴でもあり、薄暗かったせいもあり、中で性行為に及ぶ男女がいたり、
いかがわしいサービスをやる風呂屋などもあり、しばしば取り締まりの対象に
なっていたそうだ。
>>803 ここ20年程は新しい研究の成果でかなりの俗説や通説が改められてる。
通説と考えていいんじゃないか。
少なくともまともな研究家で「汚物まみれで暗黒時代な中世」を唱えている人間はいないだろう。
源義朝が殺されたのが入浴中でしょ?たしか。 だから戦国時代伝来ってことはない。 日本最古のお風呂ってのをTVでみたけど(どっかのお寺に合った) 2階建てみたくなっていて、下で出した蒸気に上の部屋で当たるような形式と 説明していた。
>>806 建仁寺あたりには有った気もする
ロシアサウナみたいな入り方かもしれないが(木でからだを打つみたいな)
>801 日本に風呂が伝わったのは奈良時代じゃねぇの? 修学旅行で奈良に行った時にそう聞いたよ。
建仁寺に今有るのは江戸期のものみたいだ 東福寺に1459年に出来た浴室建築があるらしい 前みたのはどこだったか・・・
公衆浴場自体は鎌倉期にはあったとおもわれると 風呂自体は、下手すりゃ6世紀とかの感じか 温泉に入るのとかは何時だろうな、有馬温泉は7世紀には天皇が滞在してるようだが
>>811 温泉は猿でも入るぐらいだし、いつから入り始めたなんてのは調べようが
ないんじゃなかろうか。
ところで、昭和30年代の雑誌の記事に「最近では内湯のある住宅が増えて、 週に一度といわず一日おきにでも入浴できて大変結構なことです」みたいな 文章を見つけた。ほとんどの日本人が毎日入浴するようになったのって案外 最近のことなんだな。
ちなみに禅宗は五日に一回
>>813 だってお前、お湯湧かすのって大変じゃん。
薪の確保も大変だが水を交換するのも大変だな。
公衆浴場の湯船って排水口ついてたのかな?
老舗のおでん屋の汁みたいに、減った分だけ少しずつ新しいお湯を足して、 何年にも渡って熟成された銭湯のお湯とかあったらやだなあ。
なにその伝来の湯
質問ですがこのスレでお勧めの合戦に関する本は何でしょうか?
>>821 手軽なとこで、学研の戦国の堅城 I とII 戦国時代の城の設備や構造、各城の縄張りに即した戦術の説明などがなされている。
いわゆる名城とされる大きな城ばかりでなく、マイナーだけど特徴ある城も多く取り上げている。
隔月で出ている歴史群像の記事+αをまとめたもの
歴史群像は結構マイナーな武将や、細かな視点の記事載ってるんでおもしろい。 手に入りやすいしね。
最近だと長曽我部の四国統一戦とか、数年前だと足軽(槍とか鉄砲の部隊別)の戦術を説明した連載が特に興味深かった。
あのシリーズは北条と武田の土城マンセー
>>823 >あのシリーズは北条と武田の土城マンセー
そりゃ言えるけど、実際その2つと織田・豊臣が城造りの面では先進国だったわけだからしょうがない。
武田流や北条流の軍学問が江戸時代に流行ったから、研究が進んでいるいて、資料が多いのかもしれないし。
一応、上杉、本願寺、浅井、三好などや国人クラスの城りも時々とりあげているし、
1冊でいろんな時代、地域の城が見られるってのはいいんじゃない?
カラーの絵や図も多いから、ビジュアル的に派手だし。
もっと、ドマイナーな小領主の居城とか、繋ぎの城なども取り上げて欲しいとは思う。w
最近は地方の学芸員の研究をたぶん、そういう会合なんかを通じてきちんと拾って 要領よく紹介してますね。 地方の城は研究する人が少ないのね。で、その地方で頑張る人がいても その方の自説を客観的にみてきちんと受け答えする環境ってのが無くてなかなか発展しない。
豊臣の城はともかくとして、織田の城は安土の見栄え以外はしょびー
戦闘用だからな。
別所長治の三木城や、備中高松の鳥取城とかも取り上げてもらいたいもんだ 関東圏の城の話題はもういいよ
829 :
某研究者 :2007/03/08(木) 08:21:36 ID:WAEmUypM
830 :
某研究者 :2007/03/08(木) 08:37:40 ID:WAEmUypM
長篠は兎も角関ヶ原辺りでは 流石に当世具足が主流と成って 居たのかどうかだが
831 :
某研究者 :2007/03/08(木) 08:39:21 ID:WAEmUypM
長篠時点では未だ可也 弓兵は残っていたかも知れぬし 大袖での弓の防御も考慮されていたかも 知れぬが 関ヶ原や大阪冬の陣等では どうなのだろうか
832 :
某研究者 :2007/03/08(木) 09:27:57 ID:WAEmUypM
所謂板物鎧は 鉄砲が出てからの登場なのかだが 鎧が多数必要と成った 応仁の乱以降に出て来たと言う可能性も 有るのかどうかだが
833 :
某研究者 :2007/03/08(木) 10:15:47 ID:WAEmUypM
834 :
某研究者 :2007/03/08(木) 10:37:58 ID:WAEmUypM
835 :
某研究者 :2007/03/08(木) 10:39:47 ID:WAEmUypM
>脛当ての付いた貸し具足等も >有ると言う事かも知れぬが 中央の草摺が横にずれて 装備されて居る物も有るが 此れは草摺の下に刀を通す為かも知れぬが
>>828 北陸は結構あるし、朝鮮半島の倭城もあったけど、九州は立花道雪の城くらいでしたっけ?
>>836 九州は、黒田氏の支城(鷹取城)と、国人領主が秀吉対策に築いたと解説していた城(畝状縦堀いっぱいあるやつ)だけかな?。
あとは、畿内の波多野氏の城とか、東北(まあ織田系だけど)蒲生氏もありましたたね。
こうしてみると、信長の野望は侮れないですねぇ。一応道南から種子島まで
某研がここと戦国板の盾スレにまで現れて迷惑です
剖検、巣から出歩きまくりだからな URL紹介自体は面白いが、スレ消費上げすぎだw
某研はいい資料を貼り付けてくれるのでありがたい。
842 :
某研究者 :2007/03/10(土) 19:54:18 ID:bn5QAh8O
当世具足と言うのは
何処が最初に考えたのかだが
鉄砲が多用された雑賀・根来辺りと言う
事は無いのかだが
(雑賀は西欧の様な兜を多数作製していただろうし
この辺りから出て来たと言う可能性も
高いかも知れぬが
鎧の腹部に機動力を増す為に
大きな隙間を入れたのも
彼等なのかどうかだが)
http://saikashuu.fc2web.com/kattyu/index.html 雑賀も南蛮胴だらけと言う事では
無いのかも知れぬが
雑賀兜と言うのは筋兜より
強度は落ちる訳だろうか
(マクシミリアン鎧と似た様な物だろうが
此れにはトルコの兜に似た様な構造の筋が
入っているだろうし
此れを参考とした可能性は
有る訳だろうか)
845 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:04:54 ID:Nb4mNusr
http://blog.goo.ne.jp/makkyi0112/m/200605/1 >この鎧の名は紫糸逆沢瀉威鎧(むらさきいと
>さかおもだかおどしのよろい) です。 袖の
>模様を見てください。沢瀉(おもだか)と呼
>ばれる植物の葉の形をデザインしたもので
>す。【食用の慈姑(くわい)はこの変種で
>す。】上下を逆にV字形に威したものを逆沢
>瀉威(さかおもだかおどし)といいます。沢
>瀉は別名を「勝ち草」といいます。食用の慈
>姑(くわい)は沢瀉の変種でありこのことか
>ら、縁起がよいとして鍬形や袖にデザインさ
>れるのです。
鍬形やV字状の模様は
勝ちを意味する物だったと言う
事だろうか
>兜の正面の飾りを鍬形といいます。鍬の形に
>似ているから、あるいは慈姑(くわい)とい
>う植物の形とも言われています。初期の鍬形
>は2本平行していましたが、鎌倉時代の末期
>ごろから、慈姑の葉のように上に開く形にな
>りました。
最初は農民の象徴の
鍬を付けていたが
後で此れが勝ちを意味する
慈姑に変化したと言う
事かも知れぬが
846 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:07:38 ID:Nb4mNusr
腹巻の接合部が 態々後部に成ったのは 何故なのかだが 組み討ちの際に右脇を狙われる事が 多かった故なのかどうかだが 右に継ぎ目を置いて 臆病板の様な物を付ければ 良かったのかも知れぬが
847 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:16:32 ID:Nb4mNusr
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%B4%E4%B8%B8 >なお、大山祇神社には赤糸威の「胴丸鎧」と称する、大鎧と胴丸の折衷型のようなものが1領だけ残存している。これは、胴の正面に弦走韋を貼り、上半身の左右に栴檀板、鳩尾板を垂下する点は大鎧の形式であるが、
>胴は右脇で引き合わせる一続きの構造とし、下半身の草摺が4枚でなく7枚に分かれる点は胴丸に近い。『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』にはこれと同様の形式の胴丸鎧が描写されているが、現存品は大山祇神社の1領のみである。
徒歩の弓兵は弦走韋を
張って居たと言う事は無いのかだろうし
此れが無いと射撃時に問題は出るかも知れぬが
蒙古襲来絵詞には此れの無い騎馬弓兵も
描かれて居るだろうが
誤りである可能性も有るだろうか
848 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:30:48 ID:Nb4mNusr
849 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:36:40 ID:Nb4mNusr
まあしかし越中等と言う北方で 銃に対応した軽量化された具足(越中流具足)が 出て来たと言うのは どう言う事なのかだが
850 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:56:44 ID:Nb4mNusr
851 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:57:58 ID:Nb4mNusr
852 :
某研究者 :2007/03/11(日) 22:59:57 ID:Nb4mNusr
猊下のスイッチ入った━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
某研と少佐って同一人物としか思えない
855 :
某研究者 :2007/03/11(日) 23:11:53 ID:Nb4mNusr
笠じころの下の 下しころは吹き返しが無いから 腕の上げを拘束し難いと言う事も 有るかも知れぬし 此れを付けた侭腕を上げる事は 容易だったと言う事かも知れぬが
856 :
某研究者 :2007/03/11(日) 23:14:10 ID:Nb4mNusr
まあしかし蒙古襲来後上からの弓の攻撃を 何処迄受けたのかだろうし 日本側の弓は狙撃主体だったと言う 可能性も有るだろうが 攻城戦時の上からの弓の攻撃を 考慮したと言う可能性も有る訳だろうか
857 :
名無し三等兵 :2007/03/11(日) 23:24:16 ID:mL5ffTVF
859 :
某研究者 :2007/03/12(月) 01:22:48 ID:G8pT/fe5
841が褒めるから…
禁止した所で来るのが某研。 大自然の驚異を食い止めようとしても大抵無駄。大海嘯がおきれば 被害局限するのがせいぜい
某研究者をNGワード指定しとけばいいだけの話
コテハンの利点だな。
当時の陸戦世界最強は、充実した小銃火力(軽く十万挺以上)と卓越した白兵戦能力(鋭利無比な日本刀、人馬の区別なく切り伏せる腕前)、そして騎馬民族並の機動力(清正、小西の快進撃は伊達じゃない)をもつ戦国日本で間違いない。
南京事件では日本刀は低性能と貶め、戦国ものでは日本刀最強とホルホルする。 忙しい連中だなお前らは。
>軽く十万挺以上 >鋭利無比な日本刀 >人馬の区別なく切り伏せる腕前 >騎馬民族並の機動力 こら。
>>866 日本刀の質が最も劣悪だったのは室町〜戦国時代だが(需要の急増による粗製濫造のため)、
明治〜戦前の日本刀をベースにした軍刀はそれよりずっと質が高いはずなんだけどな。
そもそも日本刀は戦闘のときはほとんど使われなかったんじゃ?
>>869 槍や飛び道具が使える状況(戦闘中の大部分)では使う機会はなかっただろうな。
乱戦になった場合はそれなりに役に立ったと思うけど。
>871 ホントに香ばしいな。 鞴の動力源が幕末まで人力だった日本ととっくの大昔から水車を応用してた中国。 この事実だけでも明治前の日本の工業力は中国に及ばないのは明白なのにな。
>146 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/03/14(水) 03:33:28 ID:??? >1264年 >アムール川下流域に侵出した元がその支配下民族の敵である骨鬼に戦いをしかけた。 >それから44年間、骨鬼は世界史上最大の最強の超大国である元との戦いを継続した。 > >骨鬼(クイ)ってのはアイヌ民族ね。 これは本当? だとしたら、かつてはアイヌ民族も結構な勢力範囲を維持していたのかな?
>>871 目と鼻の先で弱体化した朝鮮半島への(割合)統一された意思の元の侵攻と利害関係もバラバラで何百キロも離れたテュニスへの侵攻をを比べて日本の兵站能力が優れていたとかテルシオを組むのに何時間かかったから欧州の兵は無能とかあああああああああああ
>>874 骨鬼がアイヌだったかどうかはまだ判然としていない。
>>874 あそこら辺ってアイヌ以外にも色々居たからなあ。
>>875 入試もそろそろ終わりだし、春休みだからしょうがないんじゃないか?
すこし真面目に日本の考察を。
関が原前後の細川家の記録見ていたら、大名クラスの指揮官でも護衛もろくにつれずに切りあいやってる。
細川家の場合、だいたい約3500人、これを大きく3つに分けて当主(忠興)と、親族(弟と長男)が指揮するってことになってるんだけど、
岐阜でも関が原でも彼ら自身が武器を取って戦闘に参加したり、従者が首取ったりしている。
特別な状況(乱戦とか撤退戦)でもないし、岐阜だと城の中に他の大名と争って攻め入ってるってのはあるけど、後方に控えようとか、指揮系統をしっかり維持しようとか考慮している様子もない。
朝鮮でも同じように、城攻めで彼らがはしご上って戦闘に参加して、城側の反撃で堀に落ちたりしている。
細川家だけの特別な話じゃなさそうで、彼らが関が原で目撃した黒田長政の記録もあったんだけど
敵味方数十人が戦っている中に供もつれずに一騎で駆け込んで敵を追い払った者がいて、兜の前立て見て黒田長政とわかった とか書いてある。
川中島の屏風絵みたいに整然と兵種別に整列して、後方で指揮を取るってのは、事実じゃないんじゃないかって気がしてきた。
総指揮官とその下の指揮官クラスでは、大名級でもやり方が違うんですかね?
秀吉が蒲生氏郷と織田信長の評価をしたエピソードもあるけど。
(同数で戦闘したら優勢なのは蒲生勢だけど、蒲生勢で何人か死者が出たらその中に先頭切っている氏郷がいるはずなんで、結局信長には勝てないってやつ)
>>871 一番笑ったのが「関ヶ原で石田光成が大筒を使用したから大砲の野戦利用は日本が優れていた」って奴。
>>878 と言う大名も居る反面、統制の取れた部隊編成を作ってた大名も居るわけで…
部分的には欧州水準な部隊も存在した、位でいいんじゃなかろうか
十万石台程度の大名だと自ら斬り合うことも多いだろう。 信長も尾張半国から一国くらいの頃にはしょっちゅう自ら斬り込んでたし。
あのまま戦国時代がつづいていたら日本は強くなっていた
883 :
名無し三等兵 :2007/03/15(木) 11:35:24 ID:dlwk8Sat
>>879 当時の大筒の弾は、後世実用される、破裂する榴弾と違い塊のまま飛翔して対象を破壊するタイプ。
欧州では地面を跳躍しながら兵隊を薙ぎ倒すことが出来たが、湿度の高い日本の気候下では地面が湿っていて砲弾が撥ねにくく、欧州のように兵隊を薙ぎ倒すなんて困難であったので
日本では野戦砲が普及しなかった原因の一つなんだってよ。
大砲の使い方は
中に釘やら色々詰めて
散弾を広範囲に散布するという使い方をしてたと聞いたことが
射程距離はそれほど無いけど
敵を引きつけてから発射すれば
一瞬の制圧力は凄まじかったとか
まあ、射程距離短すぎて使いにくかったのは確かみたいだけど
あと
>>883 みたいな使用法は
地面が固くても、欧州の密集隊形には効果あるだろうけど
日本みたいな散開隊列相手だとあんまり効果無いんじゃないかな?
>>880 >と言う大名も居る反面、統制の取れた部隊編成を作ってた大名も居るわけで…
具体的なエピソードとかあります? 考えたけどちょっと判らなかった。
大阪の陣の上杉家とか?(全員黙って身動き一つせず、景勝の合図で一斉に攻めかかったってやつ)
戦闘中も統制取れてたのかな?微妙に違う気がしますが。
越中時代の佐々氏や武田(信玄時代末期)の文献を見るとかなり統制が取れて居るように思えるが? まあ、戦闘での陣形とかじゃないのでまた別の事例かもしれないがね
「逃げ弾正」とか「退き佐久間」とか、「撤退戦の名手」がいる訳で 「撤退戦」の「指揮」が可能である時点で統制が取れている証拠の一つになり得ませんかね?
撤退が上手いことがそれだけ個人の特殊な技能として褒めそやされるということは、 他の大多数は統制などとれていなかったということ。
今は例外少数の話じゃないのか?
890 :
某研究者 :2007/03/17(土) 01:41:38 ID:5XeH3NFz
武田信玄が上洛寸前の時に 誰も信長を裏切らなかったと言うのは 彼の人望故なのか どうかだが 裏切っても冷遇・粛清される可能性も有るだろうし 信長は投降するから 問題は無いと考えたのかどうかだが
891 :
某研究者 :2007/03/17(土) 01:47:19 ID:5XeH3NFz
信長は武田信玄に投降し仕え 他の部下も特に処罰はされぬから 問題は無いと見たのだろうか (或いは西国に逃げる等と言う選択は 有ったのかどうかだが 信玄が後10年生きていたら 西国も平定されて居たかも知れぬが 山本勘助は川中島で生きて居たとしても 其処迄生きるのはきついだろうか)
892 :
某研究者 :2007/03/17(土) 02:28:31 ID:5XeH3NFz
893 :
某研究者 :2007/03/17(土) 02:34:31 ID:5XeH3NFz
>>878 1800年代のナポレオン戦争でも、軍団長(元帥)や師団長が先頭に立って先頭指揮を執ることが常識でした。
「師団制、軍団制が取られていたフランス大陸軍は統制が弱い」とは言えないと思います。
大名が武者働きをしたからと言っても、統制の弱さにはつながらないのではないでしょうか。
封建時代は個人の武功が重視されるため、例えば討ち取った相手の首を取って持ち歩くといった、 純粋に戦闘に勝つためにはマイナスになる行為を容認する必要があったというのはあるかもしれんな。
親分が安全な所にいて、子分が命がけで必死に戦う なんてのをどこまで許容できるかだな。 それを考えると朱子学って便利だな、江戸幕府が奨励するわけだw
897 :
名無し三等兵 :2007/03/17(土) 20:55:09 ID:7BKjeD1o
>>893 なかなかに興味深い
もし戦乱が続いていたならば、当世具足は越中流具足のようになっていたのかもしれんな
重量化の傾向がある当世具足、というのはないのだろうか
兵隊王カールの突撃号令は「我に続け!」
日本の備って、騎兵の機動力と歩兵の防御力を合わせた最強のシステムじゃね? やっぱり戦国日本は当時世界最強だ。
騎兵と歩兵を混ぜると歩兵並みの機動力と騎兵並みの防御力を兼ね備えた とほほな部隊が出来上がります。
>>902 その証拠は?
ヨーロッパやオリエントで歩兵と騎兵が分離して使われたのはたまたまそうなってずっとそうだったんだから有効に決まってると言う思い込みからじゃないか?
>>897 重量化の傾向がある当世具足ってのは、俺も聞いたことない。
当世具足の軽量化は、これは結構論理的説明がつく話だと思う。
大鎧から当世具足への変遷ってのも、分かる話。
けど、挂甲から平安時代の大鎧への変遷過程ってのは謎なんだよなあ。
このミッシングリンクに一論持ってる人はいないのかなあ…。
>>903 少なくとも全力で移動する場合は歩兵のスピードに合わせないといけないから
騎兵の機動力は死ぬわな。
戦国時代の日本の馬はフル装備の武者を乗せた場合、人間が走るのと さほど速さが変わらなかったのであんまり不都合なかったのかも。
>>894 >「師団制、軍団制が取られていたフランス大陸軍は統制が弱い」とは言えないと思います。
元の主張は、
>川中島の屏風絵みたいに整然と兵種別に整列して、後方で指揮を取るってのは、事実じゃないんじゃないかって気がしてきた。
なんだけど。
例に挙げた細川家や黒田家も、鉄砲や槍足軽の兵種別の編成や、侍のいくつかの組に分ける編成はやっているだろうけど
実際の戦場では有効に運用できてないんではないか? ってことです。
黒田長政が単騎突撃しているとか記録にありましたので。
ちゃんと運用できていれば、少なくとも馬廻や小姓で構成した直卒の部隊は周囲にいないとおかしいでしょ?
>>906 そうかもな。
騎兵というと、なにかと近代兵科としての騎兵を思い浮かべがちだもんな。
その時代その場所の人や馬で考えた方が良いわな。
騎兵の速さと歩兵の速さに大きな差があれば必然的に分けて運用するようになるだろうな。
910 :
某研究者 :2007/03/18(日) 22:34:37 ID:q6pVZjIz
風林火山も信虎追放前に陣羽織が 出て来るのも変だろうし 陣羽織と言うのは 鉄砲伝来後西欧の文化の影響で 出て来た物だろうか
911 :
某研究者 :2007/03/19(月) 00:55:49 ID:6z6wvXFA
グスタフも騎兵に歩兵を同行させて 敵騎兵・歩兵に勝利している訳だろうし 騎兵と歩兵を分けるのは果たして 合理的なのかどうかだが
>>907 単騎突撃とかは当時の封建制度に寄るところが大きいんじゃないかな?
上の人は自分が大将の器で有ることを廻りに示さないと家来が付いてこない
で、家来もそのような武勇と名声のある大将で無いと従わない
なので、効率非効率は別問題として
大将たるもの状況によっては自分が臆病者ではなく
勇気と武勇と器量のある立派な大将で有ることを廻りに示さないといけない
ということでは?
913 :
某研究者 :2007/03/19(月) 01:21:02 ID:6z6wvXFA
アドルフ以降は騎兵の歩兵随伴と言うのは 何処迄行われたのかだが 竜騎兵を随伴させると言う方向に 変わったのだろうか
>>911 リュッツェンの戦いではスウェーデン軍は歩騎混合を追及しすぎた余り中隊単位での
混成をやってしましまい騎兵の突進力を殺してしまった事が混戦の原因と言われてる
ね。
元々別舞台だったのを無理に混成したので指揮系統が乱れたことが原因とも言われて
るけど。
歩兵が騎兵よりも大幅に機動力が低いという前提は、前者が密集陣であるという前提も必要とする。
遮二無二歩兵走らせてぶつかったら一撃で壊乱だろ。
>>915 密集してようが散開してようが、馬並みに足の速い人間はいないんじゃね?
馬の方が人間並みに遅いということは(
>>906 )もしかしたらあるかも
しれないけど。
密集よりも散開のほうが機動力は高くその分、騎兵との機動力の差も縮まる。 これにより騎兵に対抗できるのではないか?
>>918 密集することによって統制を保っているものを散開させたらどうなると思ってるんだ?
>>918 どうあがいても歩兵が騎兵の足に追いつくのは無理だし、散開すると歩兵の
利点である防御力の高さが著しく低下する。まさに
>>902
つまり
>>912 もあるけど
騎馬武者の侍が同じ備えで
歩兵と一緒に居ないと
部下(足軽・歩行武者)が付いてこない
指揮系統を維持するために必要だったんじゃないの?
>>921 >騎馬武者
それはどちらかというと指揮官扱いとちがうか?
騎馬武者の周りに徒歩の郎党が従うというのは、後世の騎兵・歩兵という 兵科の概念とは違うわな。
>上の人は自分が大将の器で有ることを廻りに示さないと家来が付いてこない >で、家来もそのような武勇と名声のある大将で無いと従わない そんなことはないだろう、大将のカリスマ性は兵の士気にとって大事だけど、指揮官が個人的な武勇を示さなくてもいいわけだ。 源頼朝とか義経がいい例。 頼朝は武芸(馬術)は上手かったと言われるけど、戦場で武勇を示したことはない。 義経も弱い弓なんで敵に知られると恥ずかしいと言った程度の腕前。 戦国時代なら秀吉だってそう。 戦場で首取ったせいで、信長に部隊の指揮官に抜擢されたわけじゃない。 (ないとも言い切れないけど、少なくとも秀吉自身が宣伝材料に使えるような、はっきりした首取りの功績はない)
備は中隊戦闘団クラスの規模、構成だから何万規模で歩兵、騎兵が分割している欧州軍制と単純な比較はできないかと
山内一豊とか武勇はあっても大部隊の指揮任せられる能力なかったから出世は遅かったしな。
>>924 個人的な武勇に替わるだけのカリスマ性を持った大将なら武勇を示す必要はない。
そういうものを持たない大将なら、せめて武勇を示す必要があるってだけの話では
あるまいか?
>>927 そだね〜
状況というか人によるのかもね
武勇で無くてもとにかく何かしら示す必要はあったんじゃないかと思う
武勇とかカリスマとか言う前に、主従関係って“御恩と奉公”が基本なのでは? 死ぬか死なないかって所まで追い込まれて初めて 主と一緒に討ち死にするか 主をおいて逃げるか その決断を左右するのが主たる人間の武勇だったりカリスマだったりするのだと思う。
「御恩と奉公」ってのは 「庇護と兵力提供」って事の言い換えに過ぎないよ。 双務的契約関係なだけ。
931 :
某研究者 :2007/03/19(月) 20:41:53 ID:nXSoDIJa
>リュッツェンの戦いではスウェーデン軍は歩騎混合を追及しすぎた余り中隊単位での >混成をやってしましまい騎兵の突進力を殺してしまった事が混戦の原因と言われてる >ね。 パッペンハイムの騎兵は歩兵での連携で 撃退出来たが 歩兵への突撃力は低下したと言う 可能性も有る訳だろうが 中央には塹壕が掘られていたと言う事も 有った訳だろうし 騎兵が此所を迂回する必要は 有ったかも知れぬが >元々別舞台だったのを無理に混成したので指揮系統が乱れたことが原因とも言われて るけど。 まあ此れは日本の場合は 無いと言う事かも知れぬが カール12世やフリードリヒ大王・ナポレオンの時代には 指揮系統の問題は解決していたのだろうか
>>929 その追いつめられたときの事が
戦場では大事なんじゃないの?
だから状況によっては
「俺は命を賭けて家臣(の家や土地や利権)を守るぞ、だからおまえ達も命を賭けて戦え」
って事を示す必要があったのでは?
いざというとき一緒に死んでくれる(最後の最後まで逃げずに戦ってくれる)
家臣を増やすために時には武将自身の武勇を示す必要があったと
当時の軍は士気が低下するとすぐ潰走しちゃうから・・・
それを極力防ぐためにも日頃の名声って重要なのでは?
>>907 の長政の例もあるけど
父に比べてカリスマや知略で劣っている事が自覚出来ていたからこそ
部下達に武勇を示す必要があったのは?
(黒田家の正当な後継者であることを証明するために)
>>932 長政など指揮官が、カリスマ性を出すために多少は危険な行動を取る必要があったとしても朝鮮での戦闘時など長政に戦場での経験がない場合でしょう?
関が原の時点であえてそういうことをする必要があるのでしょうか。
あと、もしそういう個人的な武功を立てる必要があるとしても、何故周りに馬廻や小姓がいないのか?
相手が一騎打ちで答えてくれる保障なんて無いわけで、手を出さないにしても統制を維持しようと行動をしているなら
周囲に控えているんじゃないの?
>>933 関が原で黒田長政本人が敵と直接戦う羽目になったという話は俺は知らないが、黒田隊は
開戦直後から三成本隊と戦い、島左近率いる先陣から一時的に押し捲られてたので、あったとしたら
そのときのことだろうな。進んでやったというより、やらざるを得ない状況に追い込まれたってことじゃ
なかろうか。
>>933 いや、実際は廻りに馬廻や小姓など手勢(小者)居たと思うよ
大人数じゃ無いとは思うけど
でも、お話として伝えられていくうちに単騎駆けって話になったんじゃないのかな?
その方がお話としては盛り上がるからね
お家の記録に残すにしても単騎駆けって事にした方が勇ましいからそう記録した
多分そんなところじゃないかな?
だから何も武勇を示す=単騎で突撃じゃ無いと思うし
後ろから命令してるだけでなく
状況によっては先頭に立って戦う(共に戦う)って事だと
でやっぱ家臣達にそういうのを見せつける必要はあったと思うんだ
家臣に「うちの大将は命令ばっかで自分は全然戦わない」って思われるのと
「うちの大将はいざとなったら我らと共に戦ってくれる」って思われるのとじゃ
家臣の士気が全然違うでしょ?当時としてはそういうの大事だったんだと思う
黒田長政といえば、朝鮮の役で敵兵と格闘になって両者とも川に落ちたけど近くで見てた 家来の後藤又兵衛は見てるだけで助けもしなかったという話が有名だな。両者の不仲を物語る エピソードとして。
両者の不仲から作られたエピソードだろうな。 つうか、大名つっても率いる戦力は大隊相当くらいのが多いから指揮官先頭があって当然というか。
日本の馬は小柄で弱く行軍中は騎馬兵も馬から降りているので 機動力は歩兵と大差なかった。
>>934 >>935 ああ、
>>878 のスレ見てないのね。
黒田長政が家来連れずに、単騎で突っ込んだ話は、関が原のときの細川家の記録に出てくる。
黒田家の記録なら粉飾がありそうだけど、他家の記録なんでここで話題に出したんだけど。
ソースは、新人物往来社の戦国細川一族。引用元の史料名は控えてなかったので、手元にはないです。
>>938 >小柄
サラブレッドに比べれば、欧州騎兵の馬もモンゴル騎兵の馬も小柄です
>弱く
持久力ならサラブレッドなんかに後れをとりません
>騎馬兵も馬から降りている
騎乗歩兵は世界的にもポピュラーな兵科で、機動力に劣るという話は聞きません
で、なんだっけ?
>>939 一番良いのは家康みたいに最前線には出張るが、槍働きはせずに
指揮に専念するという人なんだけどね
>>940 >サラブレッドに比べれば、欧州騎兵の馬もモンゴル騎兵の馬も小柄です
サラブレッドは軽種馬。体高は160cm程度で、馬の中では中ぐらい。
で、フランス騎兵などが乗っていたのは中間種馬や重種馬。どれもサラブレッドより大きい(2m近い
ものもいる)。蒙古馬は確かにサラブレッドより小さい(体高150cm程度)けどね。
で、日本の在来馬種は全てポニーに分類され、体高は110cm〜135cm程度。
というか、軍馬の話をしてるときになんで純然たる競走馬であるサラブレッドの話が出てくるのか
理解できん。
フランスの軍馬と言えばペルシュロン。体重1トンにも及ぶ化け物じみた馬で、 強いものだと一頭で十馬力もの力を出すw 体高は、確かにでかいものだと2mを超えることもあるが、平均的なやつは160〜170cm程度と、 サラブレッドとそんなに変わらない。ただし体重は倍ぐらいある。 記録上最も大きなペルシュロンは体高210cm、体重1300kg以上もあったそうだ。北斗の拳に 出てきそうだな。 重い鎧に身を固めた騎士を乗せて活躍していたが、騎兵の役割が突撃より機動力重視になるに つれて軍馬としては廃れた。
>>942 一応サラブレッドを軍馬として使おうとしたこともあるにはあったらしい。戦前の日本陸軍とか。
結局ひ弱すぎるということでアングロアラブに切り替えたようだが。
騎馬武者なんて鉄砲のいい目標にされるだけだから鉄砲普及以降は下馬して戦 うようになったんじゃないの? 小部隊の指揮官がポンポン撃たれて死んじゃ ったらいくさにならんでしょう。 日本の場合馬に乗ってる人は指揮官であって兵隊じゃないから騎兵はできんで しょう。馬は身分の象徴でもあって足軽雑兵を馬に乗せるわけにもいかんし、 馬自体がそんなに数がそろわんだろうし。
相変わらず馬の話になるとループするのな
>>942 当時の馬は140前後だぞ?
どうもポニーって分類に惑わされてる人が多そうだ
ポニーの分類じゃ騎馬兵にならないってのなら
アメリカのカウボーイだって騎馬兵にならん
>>945 大規模な部隊は無いけど
武家の次男や三男などを中心として集められた
二〇騎〜三〇騎の小規模な部隊なら編成された
(もちろん騎馬オンリーというよりは騎馬中心って事だが)
備の中で各組に分かれるようになると
長柄組・鉄砲組・弓組と共に馬組(馬廻)なども編成されるようになった
947 :
935 :2007/03/20(火) 23:52:23 ID:???
>>939 ああスマン
細川と黒田の話は別の話だと思ってた
細川家の記録の中に黒田の話がでてくるのですね
う〜んどうなんだろ
その辺は本人の性格もあるのかな?
たまたま乱戦になったときに見かけたのかもしれない
当時は小物は数に数えない事もあったらしいので
兵五〇騎って言ったら小物含めて250〜300人ぐらいらしいですし
でも本当に一人で行ったのかもしれないし
ただ
>>878 の後半の秀吉の批評みたいなのもあるので
当時でも指揮をしっかりしたほうがってのは認知されてたんじゃないかな?
戦国後半にかけては備の内容も組の分け方もかなり指揮系統を意識したものになりますし
ただ、それを実践するか、個人の武勇を優先するかはその人次第って所?
948 :
某研究者 :2007/03/20(火) 23:55:15 ID:obqM/ATb
>蒙古馬は確かにサラブレッドより小さい(体高150cm程度)けどね。 モンゴル馬は135程度と聞いたが どうなのだろうか
>>946 >長柄組・鉄砲組・弓組と共に馬組(馬廻)なども編成されるようになった
馬廻は兵種名じゃなくて、一種の階層名(備の指揮を取るほど大身でない侍身分で近習や小姓でないものの総称)だろう。
少なくとも、信長の組織編制上はそう。
だから馬に乗って部下を多数引き連れているものもいれば、徒歩の侍もいる。
>>949 えっと馬廻りってのは本陣備の騎馬組のこと
(その大名家で最精鋭が集められた)
基本的に二〇〇石前後の下級武士や
ソコソコの武士の次男などが集められる
組頭は千石クラスが勤める
信長時代よりあとになるけど
江戸初期の酒井家の編成では
騎馬組の内訳・・・侍22人、奉公人58人(計80人) 乗馬22頭(計22頭)
となってる
951 :
948 :2007/03/21(水) 00:31:58 ID:???
あ、ちょっと訂正。 馬廻の本来の意味は、大将(もしかしたら馬印?)の廻りを固める親衛隊ってこと(各備に配備されていない大将直卒)だと思います。 信長の場合、組織が急に大きくなったので”取り合えず馬廻”扱いの侍 (現代風に言えば、とりあえずどの営業所に配属されるか正式辞令でるまでは、営業本部付きとか)が多くなってるんだと思う。
952 :
950 :2007/03/21(水) 00:32:13 ID:???
参考までに他の組も上げていくと 鉄砲組1・・・侍1人、奉公人5人、足軽36人、人夫11人、口取2人(計55人) 乗馬1頭、駄馬2頭(計3頭) 鉄砲組2・・・侍1人、奉公人4人、足軽36人、人夫11人、口取2人(計54人) 乗馬1頭、駄馬2頭(計3頭) 長柄組・・・侍1人、奉公人2人、足軽30人、人夫3人、口取2人(計38人) 乗馬1頭、駄馬2頭(計3頭) 弓組・・・侍1人、奉公人4人、足軽19人、人夫5人、口取11人(計30人) 乗馬1頭、駄馬1頭(計2頭) 軍監・目付・・・侍3人、奉公人5人、口取1人(計9人) 乗馬2頭、駄馬1頭(計3頭) (各組の戦果や働きを観察指導する役目) 太鼓・貝・・・侍2人、人夫3人、口取1人(計6人) 駄馬1頭(計1頭) (各組に号令のための太鼓や貝をならす) 侍大将・・・侍1人、奉公人27人、口取4人(計32人) 乗馬2頭、駄馬4頭(計6頭) (備の大将・本陣の場合大名自身・その他の場合家老などの重臣が勤める) 荷駄・・・侍1人、奉公人2人、足軽4人、人夫2人、口取8人(計17人) 乗馬1頭、駄馬8頭(計9頭) (荷駄組は戦況や状況によって大きく人数・駄馬の数が変わる) となるわけで、最初の馬組とあわせると備全体の総人数は 侍35人、奉公人112人、足軽141人、中間5人、人夫39人、口取22人(計354人) 乗馬32頭、駄馬22頭(計54頭) となります あくまでも一例ですから、各大名家によってかなりの違いはあったでしょう あとコレは平時(江戸初期)の編成ですから 戦闘の多かった戦国期にはコレに動員兵が加わったと 動員兵は訓練などの問題で槍組になることが多かったようです なので江戸期になると槍組の数が減らされました
953 :
950 :2007/03/21(水) 00:37:01 ID:???
>>951 948ってなってるけど949さんかな?
本来の意味はそうなのかも、江戸期になると本陣備の騎馬組を指すようですが
信長の時代の場合そうかもしれませんね
それに、急激に兵力の増えた信長は備の編成が間に合わずに
とりあえず馬廻りってのは多かったのかもしれませんね
ある用語を一時代のみの意味で使うのは禁物だよなあ。 最近、ドラマみたいな騎馬突撃は無かったという説が、騎馬武者自体指揮官以外居なかったみたいな流れになってるな・・・。 西国武者は確かに馬少ないけど・・・。
>>952 この奉公人ってのはさ、仕事としては足軽?中間?
956 :
950 :2007/03/21(水) 03:23:37 ID:???
>>955 >>952 の資料が江戸時代初期のものなので
戦国とは多少違うのですが
個々の侍個人に仕える者の総称です
編成に出てくる侍個人に仕えてる人のことです
なのでその侍によって奉公人の数に違いが出ます
侍大将なんかになると奉公人の数も多いですね
身分としては若党、中間、小者に分けられたようです
若党は士分、中間は文字通り中間(準士分)小物は平民扱いでした
若党、中間は戦闘にも参加していたようです
(戦国時代の若党とこの時代の若党は少々意味が違うようです)
>>952 の資料では奉公人の身分の内訳はわかりません
大名家からみた資料ですから
足軽は大名直轄の兵 奉公人のうち若党、中間は侍個人の足軽
って感じではないかと推察します
957 :
950 :2007/03/21(水) 03:47:17 ID:???
>>952 の資料
一組抜けてた
旗差・馬印・・・侍2人、奉公人5人、足軽16人、中間5人、人夫4人、口取1人(計33人) 乗馬1頭、駄馬1頭(計2頭)
そこに出てる中間は大名お抱えの中間じゃないの? 陪臣なら奉公人に含まれてそうだし。
ごめん、958は無視してくれ。 起き抜けでわけわからんこと書いてしまった・・・。
>弓組・・・侍1人、奉公人4人、足軽19人、人夫5人、口取11人(計30人) 乗馬1頭、駄馬1頭(計2頭) なんで弓組に馬の世話係が11人も?馬上弓?とつつこんで見る。
>>946 >アメリカのカウボーイだって騎馬兵にならん
ちょっと待て。カウボーイは騎馬兵じゃないだろもともと。それにアメリカで一般的な
クォーターホースはポニーじゃないし。
う〜む、馬廻衆に該当する物を騎馬組と呼び変えただけの様な気もするが。
>>960 >弓組・・・侍1人、奉公人4人、足軽19人、人夫5人、口取11人(計30人) 乗馬1頭、駄馬1頭(計2頭)
>なんで弓組に馬の世話係が11人も?馬上弓?とつつこんで見る。
口取り1人の間違いでしょう、計30人からそれくらい察しましょう。
この酒井家の陣立てで気になったこと。
>軍監・目付・・・侍3人、奉公人5人、口取1人(計9人) 乗馬2頭、駄馬1頭(計3頭)
>太鼓・貝・・・侍2人、人夫3人、口取1人(計6人) 駄馬1頭(計1頭)
>侍大将・・・侍1人、奉公人27人、口取4人(計32人) 乗馬2頭、駄馬4頭(計6頭)
徒歩の侍(概ね100石以下)がいないですね、軍監・目付の所の一人と、太鼓・貝の2人以外はリストから見れば多分馬に乗ってると思う。
侍大将は替馬が一頭いるんでしょうね。
酒井家では、徒歩の侍がいない(馬に乗れるクラスのみを侍と称して、それ以下は足軽という階級制度)なのかな。
一般的に戦国時代の編成として言われるものだと
旗本(馬廻)、長柄、弓、鉄砲、小荷駄(ここまでは酒井家のリストにある)と、手明とか言われる短い槍持ったりしている組(多くは侍)ですね。
>>962 だけど例として出てる酒井家の備えは複数あるウチの一つだよ。
大名直卒の備えでもないし。
大名家直属だろうが何だろうが編成された一備えの「部隊」であることには変わらない。
>>953 「馬廻」でいうところの「馬」って、「大名本人の御馬」って意味だよ。馬廻衆は、御馬の廻りに侍る衆。
別に騎馬武者とは限らない。江戸時代の話で言えば、藩によっては馬廻衆なのに馬上資格を持たない
中級の武士もいた。
馬廻衆の役割としては大名の護衛とか伝令とかがメインだから、必然的に馬に乗ることは多かったと
思うが、いわゆる騎兵とか騎馬隊というのとはちょっと違うのでは?
>>967 >黒田家と細川家は、犬猿の仲
関が原以降(領地の引継ぎで揉めてから)ね。それまでは別に悪くない。豊後の細川勢は黒田勢(数ではこっちが多いけど)と共同して大友勢を破っている。
犬猿の仲だから何? 細川家の記録に出てくる黒田長政の行動は、真実を記していない可能性があるってことですか?
>>963 確かに歩行武者居ないですね
あと侍大将はかなり身分のある人ですから
その奉公人27人の中にも騎乗可能な補佐役みたいなソコソコの禄高の人が居たのでは?
なので乗馬が2頭なのかも・・・・変え馬かもしれませんが
うめ〜干し って結構重要な携帯食料だったのかな?当時
>>972 殺菌効果とか激しい運動で失われがちなミネラルの補給とかクエン酸による
疲労回復効果とか、梅干には優れた効用が色々あるな。
頭に貼ると頭痛薬にもなる。
うめ
>>972 雑兵物語の一番最初の語り手が、落語みたいな話をしてますね。
梅干はみるだけで唾が湧くから、それで喉を潤せ。食べたり舐めるなどもってのほか。
うめうめ・・・ 某研って何が楽しくて2chにいるのかな? 普通に会話に絡めて話せば本人だって楽しいだろうに・・・
>>977 自然現象にそんなこと言っても。
あれはああいったものなのだ。
>>977 そうそう、無視してスルーがいちばん
触らぬ基地外に祟り無し
でうめうめ
埋たて
ちょ・・・
>>977 の発言を考慮してか
新スレで某研が空気読んだ発言してる(笑)
なんかわからないけど ここ埋めときますね?
ume
うめ
>>981 あのくらいのコミュニケーションはこのスレでもしてただろw
なんつうか某研を知らない世代が増えたのかなあ・・・
世代もくそも、某研はずっと現役で活躍しっぱなしだろ むしろ最近になってカキコが増えてきたような気さえする
それが若いんだよ・・・全員から荒らし扱いされてたころの某研の投下量と来たら・・・
埋ついでに某研分析ですか?
今居る某研は偽物じゃね?
某研の名をかたった荒らし
新スレの
>>48-54 までの一連のカキコの中に
タイミング良く
>>49 だけはいるなんてオカシイし
前から戦国スレを荒らしたい人が居たみたいだけど
ソイツが某研騙ってるだけのような気がする
などと埋ついでに某研分析してみるのだが