日本の戦国時代 合戦の虚像と真実

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1名無しさん@お腹いっぱい。
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実について語るスレ
煽り誹謗中傷抜きで大人の議論をしましょう
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 14:34:21 ID:YqF7QtWp
いいねー
でも手元にには関東の資料しかないけど
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 14:42:42 ID:9q77r4Fb
センセイ!質問!!

戦国時代の戦場って、街道沿いとか河川敷、田畑みたいなところになるの?
雑草生い茂ったところじゃ戦闘どころじゃないよね。

素人でスマンです・・・教えていただければありがたい。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 14:56:34 ID:YqF7QtWp
開けているならところ構わずってイメージはあるけど、どうなんでしょうね?
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 15:33:58 ID:YqF7QtWp
どう考えても 原野 で合戦しているイメージがあるので
少し考えたが、ちょいと仮説
当時の雑草は今ほど背丈が高くない
何故って、セイタカアワダチソウは戦後に入ってきた植物
ススキくらいでしょ、背が高いのは

仮説ですが
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 15:36:50 ID:9q77r4Fb
ありがとうございます。
騎馬隊のスレを見てて、日本の戦場で騎馬が活躍出来たのかなとおもったもので。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 15:54:09 ID:GSH7nv1u
山城での攻防戦がほとんどだな、残念ながら。
大軍での野戦は数えるほどしかない。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 17:34:27 ID:n9khY973
合戦しにオーストラリアに行ってたんだよ。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 20:39:14 ID:nlCxe46N
有名な長篠も川中島も桶狭間も関ヶ原も説得力のある新説が次々と出されてるし
多くの合戦は相当脚色してあるんだろうなあ。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 20:55:31 ID:BbrEmIyc
基本的に開けてるところには集落と田んぼがあるはずだから、
とりあえず、ほんとの平原みたいなものは余程の僻地で無い限りありえないと思う。
わからんが。
あとは、今の山は江戸期に植林でできたもんの筈だから、
当時の山は原生林みたいなものだったと予想。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 09:20:05 ID:Z6XlPt5e
>>10
そうかも知れないし、違うかもしれない

漠然としたイメージなんだけど、江戸期以前って日本全国に原野広がっていたような
内藤新宿の話なんかを参考にすると、そう思ってしまう
当然関東平野と濃尾平野、それから山がちな地形はまた違うでしょうが
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 22:05:38 ID:RRkh3DAO
日本の戦国時代 合戦の虚像と真実2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147453486/

軍板の本スレ
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 00:09:35 ID:xXlOTU/j
えらく荒れてんなw
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/28(水) 07:09:01 ID:DTSdoVrv
関ケ原の合戰は日本全國で東西それぞれ弐拾萬超の大軍勢が競ひ合つた一大決戰。
那古屋の邊りにのみ視點を奪はれると全體を見誤る。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/28(水) 21:51:35 ID:IXCgASv2
>>10
当時は都市人口率が非常に低く人口が分散していたため、都市部でも原野があった。
原野は至る所に広がっていたよ。草原というより、ススキ野原といったところ。
今の山や森はそれまで広葉樹林主体だったところに杉を植林したもの。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 07:52:47 ID:XpzNe0Ff
品種改良される前の稲って、ほんと場所選んだからねえ。
今の米の名産地なんて、当時は米は駄目ぽってとこ多いし。
当時でも肥沃だった筈の美濃、尾張、近江ですら原野は多かった。
穀物は寒さだけがクローズアップされがちだけど、何気に水はけが結構問題なんだよね。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 14:10:06 ID:c8YDLsMo
>>15-16
ありがとうございます
>>3が解決したような
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 23:50:17 ID:jOhDEbRq
>16
その辺は当時の治水能力というのも無視できない。
雨が降ると直ぐ洪水になるので平野部に田畑を作ることが出来なかったんだよ。
だから戦国以前は水の便のいい丘陵地帯が耕地として利用されたんだな。

うちの田舎はひどい土地で明治に入るまで平野部に田畑なんか作れなかった。
置県後、交通事業を優先するか治水事業を優先するかでもめて、分離しちゃったくらいだし。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 14:55:46 ID:UsGnX1W8
>>18は、いったい、、、おいくつなんだろふ???

20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 15:41:32 ID:AtgfdWEb
ちなみにオレの家は、明治末年は丘沿いの薄暗い湿地だった

って知ってるの、意外と明治の話とか江戸末の話は
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 05:38:08 ID:UUOiOjNX
江戸以前は関東平野もかなり湿地が多かったみたいだな。
今は郊外ならどこいってもたんぼばっかりで、
それを基準に見ると相当な人口養えたんじゃないかなと思うけど、
関東が乾いたのは江戸幕府が利根川を太平洋に注ぐそうにしてからっぽい。
それ以前は常陸の南部、下野の南部、下総から武蔵の江戸付近まで
ちょっと多く雨が降ればすぐに水浸しになったようだ。
香澄浦、香取浦から今の利根川に沿って下妻付近まで沼と湿地で
ちょっと大げさに言えば半島状の地形といってもいいくらいだった。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 06:44:17 ID:GhosFfZq
>>6
武士ってのは元々騎馬武者のことだよ。
馬上戦闘できてあたりまえの連中のことだ。
騎馬の集団突撃も源平合戦、元寇、戦国期(信長公記等)の史料に残っている。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 11:05:02 ID:6UqqmhEi
『信長公記』 太田牛一


一番に山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退。

二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。

三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。

四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。

五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 11:34:44 ID:hwk+kZ70
きちんとはなしするなら、ちゃんと言葉の定義をある程度決めておいたほうがいいんじゃねえの?

騎馬突撃つーのは、従者は伴わず、純粋に馬に乗った兵だけでたくさん集まって突撃したってことなの?
あと馬上戦闘って言うのは、馬の上で弓を撃つのまで含めるの?
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 11:36:57 ID:SRra7rmr
日本史板行くが吉
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 11:38:37 ID:/G43enYH
なんで日本史板に誘導するのかわからない。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 11:46:13 ID:BCfHV8+7
何の為にこの板出来たんだ?w
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 12:40:44 ID:GhosFfZq
>>24
何言ってんだ全く。鎌倉時代は従者も騎馬だっつーの。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 14:31:55 ID:hwk+kZ70
>騎馬の集団突撃も源平合戦、元寇、戦国期(信長公記等)の史料に残っている。
>>28
自分の発言で鎌倉時代も戦国時代も一緒くたにして扱ってるじゃん。
個人の感覚で言葉の使い方に齟齬が出るから、そうならないように
詳しく書いたほうがいいといっているんだけどね。

あと、所謂騎馬軍団については>>23がよく引き合いに出されるけど、
馬を入れたと書いてあるだけで、どういう状態で馬を入れたのかは書いてないんだよね。
オイラの感覚では、戦場には馬を連れてこないのが通例なのに馬に乗って戦場入り
(無論たくさんの徒歩武者をや足軽も伴って)した奴がいたので
まあまあ珍しくて書いたという風に思うんだけれども。

疑問があるんだが、鎌倉時代の馬上戦闘っていうのはほとんど騎射だよね。
突撃という言葉の使い方としては、おっかない棒とか槍とかを持って
密集して敵陣に突っ込んでいく姿をイメージするんだよね。
例えばこの↓のページのAね。
ttp://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-03.htm
鎌倉時代の戦闘について詳しく研究した書籍があったら教えて欲しいのう。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 14:47:20 ID:/DnAYfS7
勘違いしている奴多そうだけど、騎馬兵だけの部隊ってそれほど強くないぞ。
弱いとは言わないが、数が同じなら騎馬兵と歩兵をミックスした部隊の方が
むしろ強いくらい。騎馬兵だけだと、馬の弱点を補えないんだよな。

現在で言えば、騎馬兵・歩兵をミックスした部隊ってのは、機甲師団にあた
る。戦車を中心に歩兵がサポートして、敵をつぶしてゆく戦い方だな。
騎馬兵だけで構成した場合の最大の利点は、攻撃力よりも移動力の方。今
でいえば、空挺団にあたるが、空挺団がそうであるように基本的に奇襲に
つかう。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 14:47:40 ID:b8zcQ4kl
まあ、上の「信長公記」の記述から、長篠で騎馬はほとんど使われてないってことがわかる。
実際問題、武田家の陸運法が騎馬を用いた物なワケだから、
その騎馬を戦闘で失うことは、かなり痛手だと思うわけで。
長篠と武田家に限ればね。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 22:06:54 ID:Jmbh1akz
>>29
神戸市文書館(近藤好和)
ttp://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/bugu/bugu.html

『源義経』
ミネルバ書房(2005年)

『騎兵と歩兵の中世史』
吉川弘文館(2005年)
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 22:13:51 ID:XvcSLH10
>>30
ミックスはしないほうがいいんじゃないか。
最大の利点である機動力を削ぐことになる。
騎兵は騎兵として独立運用し、
なおかつ周囲の歩兵や砲兵の支援を受けるという形が望ましいと思う。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 22:14:54 ID:XvcSLH10
24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 09:09:04 ID:bQZ2Z3RZ
グスタフアドルフのスウェーデン軍は騎兵の長剣突撃で有名だが、
そのスウェーデン軍の装備目録によると、騎兵用軍馬の体高は112〜133cmと日本馬より体格が小さいそうだ。
前列が短銃で斉射したあと、長剣を振りかざして突撃するという戦法で活躍した。
(昭和28年に、新田義貞の鎌倉攻めの戦死者と共に出土した128体の馬の平均体高は129.5cm)
これほど体格の小さい馬でも突撃は十分可能である。

また、モンゴル軍の軍用馬の平均体高は120〜130cm程度で、
モンゴル人はこの小型馬に乗り戦闘を行なったわけだ。


25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 09:16:22 ID:bQZ2Z3RZ
>>10
スウェーデン馬ほど小さくないとはいえ、
中世ヨーロッパの馬もせいぜい130cm台で、max142cmといったところ。
>>24で言った鎌倉攻めの戦没者遺跡からは140cmの馬も出土している。
出土した中でもっとも分布数が多かったのは126〜136cmだった。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 21:24:54 ID:bQZ2Z3RZ
西洋みたいに突撃で中央突破して指揮系統を分断したり、
側背を包囲して包囲を完成させる、なんて用兵はしてなかったかもね。
日本でも集団で乗り入れて敵の陣形を崩すことはしていたようだ。

長槍には「槍衾(やりぶすま)」という騎馬への防御戦法もある。
文字通り密集した数列の横隊で槍を隙間なく並べるわけだ。
騎馬が近づいてきたら、槍の柄で地面をバンバン叩いて脅す。これは動物に非常に効果的なのだそうだ。
そして膝をついた姿勢で槍の尾部に付いている、石突という尖った金具を地面に突き刺し、槍先を敵に向ける。
突き刺さる馬の衝撃は人間で受け止められるものではないので、こうするわけだ。
敵の騎馬が突っ込んできたら串刺しになる。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 00:25:00 ID:i1Cj6cBO
>>33
それは、封建制領主の軍隊では無理なんじゃない?
封建制の軍隊は粒の大きさがまちまちの葡萄の房に例えられるように、質・量のいずれも均一ではない。
当時の騎兵は兵科として存在するのではなく身分として存在している。
領主だけ騎兵として再編しちゃったら、あとの足軽(大名からすれば陪臣)は誰が指揮するの?
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 12:58:29 ID:KdxafpSb
某HPからのコピペっす
でも単一兵科はあんま聞いたことないなあ

しかし時代が下り中世も後期になると、武将・大名が軍団の装具や資材を一括して集めたり、
動員された兵士全員の装備の内容に注文が入ったりする様になる。
組織としても動員した兵士を中央に一度集めてから再編成したり、
武将・侍を指揮官として各部隊に配属するという、中央集権的組織に変わっていく。
(これは各武将の独立・在地性が、著しく低下して行く社会的・政治的傾向と連動していると思われる。例えば寄子寄親制。)また武将・大名直属の兵士の数も増える。
つまり寄せ集めの度合いが減っていくという事である。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 13:02:53 ID:KdxafpSb
戦国時代の戦術とかはどうだったんだろか
ヨーロッパはギリシャ・ローマの時代から単一兵科で
高度な戦術をもっていたけど
戦国時代はとりあえずごっちゃで殴り合いって感じ?
ハンニバルみたいな采配の芸術は無いの?
鉄砲取ったらアレクサンダー大王や古代ローマ軍にも負けそうなんだけど>戦国軍団
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 13:24:44 ID:t0AN7IGK
近世日本の城郭は世界でも有数のレベルって言われてるぐらいだから
それを攻め寄せる技術(そこまで行く戦術も含めて)ってのも、それなりに高いんじゃないかと愚考。
まあ俺は戦術はよく知らないんで、あくまで愚考だけど。
でも城(というか縄張りね)は、ほんと調べれば調べる程レベル高いよ。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 13:32:58 ID:4lAXkW2O
>>36
それは、地方知行制の形骸化・廃止による家臣持ちの陪臣の減少及び大名直臣の増加を俟つ必要があるよね。
現代の組織で言うと広域暴力団型から自衛隊型の組織、つまり武士限定だけど国民軍に近い形。
江戸時代では幕末各藩で見られた農兵隊、幕府歩兵隊などがそれに近いかも。
ゥ隊も意図としては近いけど、地域・職域から自発的に編成されたものが多く、規模が均一でないという面で広域
暴力団型の尻尾を残している。
幕末頃の兵学思想になると、三兵戦術とか導入されてるのでそろそろ机上の学問としては騎兵・歩兵・砲兵という
区分が志向されてきていると思われ。その実態は別として。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 13:38:59 ID:4lAXkW2O
>>37
> 戦国時代の戦術とかはどうだったんだろか
> ヨーロッパはギリシャ・ローマの時代から単一兵科で
> 高度な戦術をもっていたけど

時代によって違うのでは? 皇帝専制・絶対王政時代であればそういう編成・運用ができていたと思うけど、小諸侯
が乱立し、皇帝・王と言いながらも単なる盟主的存在だった時代には日本の戦国時代に近い形だったと思うが。
兵制が我々に馴染み深い国民軍形式になったのはナポレオン以降順次各国に普及した結果でしょ。
それ以前の封建軍だったら、旅順も陥落しなかったし第一次大戦の西部戦線が塹壕戦主体の消耗戦になるはずも
なかったと思われ。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 16:41:37 ID:KdxafpSb
>>40
用兵戦術の知識はローマが滅んでから一旦衰退してるんだよね
中世の暗黒時代なんかそう
ルネサンスを経て15〜16世紀前半にやっと古代ローマに並んだって感じ
兵器はずっと進歩してるけど
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 18:19:04 ID:KdxafpSb
BC4世紀のマケドニアの斜線陣形のファランクス(6mの長槍と大盾を持った重装歩兵の密集陣形)に、
日本の諸兵科連合が勝てるかなあ・・・鉄砲あれば勝つかもだけど
マケドニア軍は重歩兵を集中した右翼が前、左翼は軽歩兵を中心に後ろ斜めに布陣、両翼に騎兵を置く
日本は諸兵科連合

日本が何も考えないで横一列に布陣して、マケドニアがうまく戦えばこんな感じ

                                 騎ママ
  侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍          侍侍侍 侍侍侍マ
  侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍        侍侍侍侍侍侍侍侍侍マ
                        騎ママママ侍マママママ
                     →.        マ
.            マママ 騎
.            マママ
           ママママ
         マママ
       ママ
 騎   ママ
   マ

斜線陣形の狙いは、手薄な自軍左翼の突入を遅らせている間に、分厚い右翼が敵左翼を圧倒し、撃破して敵左翼を包囲すること
でもこれ側面攻撃に弱い対ファランクス用の戦術なんだけどね
日本側も甲冑だし何かしら反撃してくるだろうが、長槍の絶対数の差と正面圧力には正直苦しむと思う
まあこのレス自体適当なんであまり気にしないでください
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 18:57:25 ID:RL8Zg0X+
まあ、その状況下ではバカでも横陣布くこた無いわな。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 19:04:37 ID:JXyJKvfv
>42
 マケドニアファランクスの弱点は密集陣形故の機動力の低さにある。
 初期ローマの槍兵密集陣が蛮族に敗れたのはこのあたりにある。
 そこから機動力重視の盾に小剣、投槍を装備したおなじみの編制となる。
 戦国軍がその点に気づけば戦い様が有ると思う。

 うーん、マケドニア軍と戦国軍が同数の場合はマケドニア軍のほうが包囲されそうです。
 マケドニア軍は方陣の上に密集しているので正面戦力が少なくなるのに対して、
 戦国軍は飛び道具による攻撃から戦闘に入るゆえに横隊陣が基本となるので正面戦力が広くなります。
 マケドニア軍の正面に対峙した部隊は簡単に蹴散らされそうですが、残った部隊は左右から包囲攻撃ということになりそうです。
45名無しの雑兵:2006/07/03(月) 21:19:47 ID:pVZRtQ6Y
>>44
マケドニア軍ではアレなので同時代のテルシオ〜マウリッツ〜グスタフ・アドルフの軍隊
と較べると・・・
正面から戦えば戦国期軍隊の必敗、但し機動戦、伏撃、奇襲、急襲、夜襲といった不意
を付く形なら戦国期軍隊が優勢
後、地形にも大きく左右され、起伏の多い地なら日本、平原なら欧州の軍隊が有利
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 04:34:46 ID:ylN1xemo
>>44
脆弱なファランクスの側面を包囲される危険を防ぐための、両翼の騎兵ですが
マケドニアの騎兵が充実していなければ
ローマにやられたときと同様、日本側の側面攻撃を支えきれないでしょうね

日本の正面戦力が広いと、戦列がその分薄くなり突破される危険はありますが、
両翼の幅が広がり側面攻撃に割ける部隊の数は増える
鈍いファランクスを正面に拘束し騎兵を撃破できれば・・・
それまでに日本側の正面がどれだけ持ちこたえるかにかかっていそうですね
日本側にローマの大盾があれば、正面からでもファランクスに肉薄して刀で攻撃できるんですが
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 05:22:10 ID:tkI229Rv
>日本側にローマの大盾があれば、正面からでもファランクスに肉薄して刀で攻撃できるんですが

起伏や障害物の多い地形に誘い込むというのも手ですね。
方陣を崩したがらないがゆえに、ちょっとした障害物で直ぐ止まってしまうんですよ。
そして足の止まったファランクスはそれほど怖くない。
戦場が日本なら・・・って戦国日本軍は日本の環境に適応した軍だからちょっと卑怯か。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 22:03:25 ID:LHadkzVR
そんなことを言ったら、欧州の環境に適応したマケドニア軍のホームグラウンドで戦うのは卑怯という事にもなる。

まあ、環境があまりにも違うから単純な比較は無理だろうしな。
49今更だけど:2006/07/06(木) 00:46:03 ID:lW1M/Ai7
>>34 中世ヨーロッパの馬もせいぜい130cm台で、max142cmといったところ。
現存している騎馬用甲冑の大きさから中世ヨーロッパの騎士用軍馬は相当大きかった模様。
デストリアと呼ばれる軍馬は170cm前後あった。
かつて軍馬として使われたシャイア種もそれくらいある。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 07:27:39 ID:50hBr9VY
>>49
デストリアとは騎士が用いる軍馬のことで種類じゃないよ。
オランダ産のフリージア種のことだと言われているね。一旦廃れ、近代に交配による大型化を経て復活してる。
シャイアー種は19世紀の種だよ。先祖はイギリス軍馬グレートホースだが、近代的改良を受けている。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 14:07:15 ID:HPo1UOz5
日本の戦国時代!合戦の虚像と真実3!!!!
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1151860317/
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 19:08:30 ID:RV2Qt1+M
このサイトいいですよ
↓オススメ
http://www.geocities.jp/wainsann_1985/
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 19:41:44 ID:WWFGfYGQ
>>51
そこ「少佐」なるコテハン持ちが暴れてるから、立ち寄らないのが吉
54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 21:08:24 ID:7wIqplqw
>>53
少佐は有名なネタ職人だよ。最近捻りが無くてつまらないが。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 22:37:49 ID:lW1M/Ai7
>>50
>>デストリアとは騎士が用いる軍馬のことで種類じゃないよ。
これはわかってるよ。馬の種類ではなくて軍馬の種類てことは。

>>オランダ産のフリージア種のことだと言われているね。
これは知らなかった。シャイア種の祖先か何かだと思ってたよ
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 21:56:09 ID:H/WyLtV+
>>51
本スレ荒れてますね
いくら少佐とはいえ、書き込み量が尋常じゃない・・・
57名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 03:09:48 ID:tpdskg7A
戦国時代に動員された兵力の実数ってどの程度なんだろね?
関ヶ原なんか1万石当たり300人で計算して数えられているけど実際はそんな都合よくは行かなかったと思うのだけど。

少し時代を遡った英仏百年戦争あたりだとかなり細かい兵数までわかってるようで例えば1428年のオルレアン包囲の際、
ソールズベリー伯が率いたのは装甲兵444人、射手2250人(ブルゴーニュの援軍などは含まない)
1441年のヨーク公の遠征は装甲兵801人、射手2997人
など
58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 04:51:19 ID:zb2GuJkF
当時の資料だと、単純な石高計算より多い兵力を動員しているね。
桶狭間の今川なんか好例。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:28:59 ID:OVOXh9vJ
>>58
桶狭間の今川軍だって総兵力は25000と言われてるけどそれ自体が正しいのかも疑問なんだよ。
大阪夏の陣の伊達軍なんかはかなり詳しい兵数が残ってたはずだけど・・・

ヨーロッパでも年代記なんかの記述そのまま引用するとバノックバーンなんかで30万も動員されたことになってて
当てにならない。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 00:01:42 ID:75f6s29+
潜水艦のようなものが大坂冬の陣で使われたらしい
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 04:11:05 ID:TfL+T8sv
ソースは?
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 21:45:15 ID:Qmob1k6F
>>60じゃないけど「続武将感状記」の九鬼水軍の盲船の事だろう。
真偽はかなり不明ですが。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 01:17:50 ID:spDMsuVy
大黒柱の働き手が怪我したら、一家壊滅なので兵士はまともに戦って無いよな。
西洋医学の到来以前は、怪我したら終わりだから、兵士は逃げまくっていたよな。
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 03:14:13 ID:UsfwHhgZ
>>63
逃げてばかりでは、出世も出来ないからいい暮らしも出来ない。だから戦うだろ。
雑兵レベルでは家庭も持てない、次男坊以下が多いだろうし。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 07:07:34 ID:BWHzSFLK
ほしゅ
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 02:27:41 ID:Bs+kHsdA
戦国時代の戦における傷の原因の比率
http://www.kurokichi.net/inside/up/src/up1165.jpg
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 09:09:55 ID:EaLE8DXU
>>66
藪の中での擦り傷とか蛇にかまれたとか、
あと虫刺されなんかもすごそう。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 09:20:44 ID:4tuytOvZ
>>66
やはり遠距離武器が強いか
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 10:36:58 ID:EzJCdDKh
基本は「相手が崩れるまで飛び道具で攻撃」だからなぁ
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:33:28 ID:MLuv/7UO
で、双方崩れなかったら槍の叩き合いだからな。
近接戦のメインウェポンはそもそも槍だし。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:34:35 ID:S61rJ8Sz
天正4年(1576) 天王寺砦の戦い ダイジェスト

4月3日 信長、石山本願寺を攻撃中の明智光秀・細川藤孝へ
全ての麦の刈り取りと「大坂籠城候男女」へ赦免するので早々に
退去することを促す旨を表示した「立札」を諸口に立てることを命令。
また「坊主」以下の再起を期そうとする連中は「不可赦免」を命令。
──『細川家文書』

4月5日 信長、摂津国平野庄惣中へ石山本願寺に兵粮を運搬
することは「曲事」であるので厳禁すること、もし違反者が発生した
場合は「成敗」することを通達。──『末吉文書』

4月14日 信長、明智光秀・細川藤孝・荒木村重・塙直政らに、
摂津国大坂の石山本願寺を攻撃させる。──『信長公記』

4月29日 信長、近江国安土城より上洛し、京都二条妙覚寺に
寄宿す。──『信長公記』
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:35:14 ID:S61rJ8Sz
5月3日 石山本願寺一揆勢、数千挺の「鉄炮」を以て織田軍を
攻撃、敗走させる。一揆勢の追撃を阻止した原田備中(塙直政)
・塙安弘・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らが討死。
──『信長公記』

5月4日 石山本願寺一揆勢、天王寺砦を守備する佐久間信栄
・明智光秀・猪子高就・大津長昌ら織田軍を攻囲。
──『信長公記』

5月5日 信長、100騎ばかりの手勢を率いて京より出陣、摂津国
大坂に向かう。河内国若江城に到着。──『信長公記』

5月7日 信長、自らの陣頭指揮により3千ばかりの軍勢を率い
「三段に御備」て石山本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛ける。
先ず住吉口より攻め込み、戸口まで進撃。信長は先手の足軽
と共に攻撃に参加し的確に指令を発していたが、足に鉄炮疵を
負うなど負傷するも一揆勢を撃破し天王寺砦に入る。
敵首2700余を獲る。──『信長公記』
739io:2006/08/26(土) 16:56:57 ID:YgG8EtIK
おお
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 22:36:19 ID:1jV77c6K
乗馬ってむずかしいよね。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 23:29:45 ID:m3EOUA+J
>>71-72
すごいゴールデンウィークのすごし方だな。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 23:32:02 ID:kjuyS6JO
軍板のスレ、両方とも落ちてたのね。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 01:32:18 ID:dYjOUIcN
>>75
 確かに出発がみどりの日か
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 05:24:48 ID:oP9Qvu2O
9

確かに脚色されてるかも!
討ち取った首は首桶にいれて持ち帰り、それに化粧して少しでも位の高い兵に見せかけてたっての聞いたことある
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 20:44:14 ID:oxmR6Jfu
日本の戦国時代 合戦の虚像と実像
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1128176890/
日本の戦国時代 合戦の虚像と真実2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147453486/
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実3
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1152990829/
日本の戦国時代!合戦の虚像と真実3!!!!
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1151860317/
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 01:20:04 ID:iykryX+S
ほしゅ
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 19:30:10 ID:GpPKvLrI

足軽は本人の希望で槍隊とか弓隊とか鉄砲隊に入りたいとか選べたのかな?
82名無しの雑兵:2006/11/27(月) 20:48:49 ID:CoiT4noC
>>81
弓・鉄砲は技量が必須
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 01:04:42 ID:jIlGhsZd
>>82
ただし修得難度は、弓>>|越えられない壁|>>鉄砲 な。
84名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 15:07:00 ID:PRqwhdFT
軍板の新スレ

日本の戦国時代の合戦の虚像と真実4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1167608720/
85名無し:2007/02/10(土) 20:23:58 ID:J5lRtZwR
大河みたいに敵味方入り乱れての戦いなんてほとんど
なかっただろうな
あんな激しい戦いをしていたら侍なんて怖くてやってられないよ
最前列の方だけチョコチョコやって陣が崩れた方が負け
だから関が原でも死傷者が少なかったんだと思うよ
86にゃんこ:2007/02/10(土) 21:11:35 ID:4E92lMkV
85氏に一票。

当時の戦争は近代戦とヤクザの出入りの中間だろう。
戦いの中心は、大ボスの「顔」で行う多数派工作。合戦はその多数派工作の
再確認の場。
関ヶ原みたいのが特殊なのではなくて、あれが普通なんだろう。
87人間七七四年:2007/02/13(火) 22:14:16 ID:o+L9Y4Bx
他スレでのレスを見ると>>86の言葉には微かな説得力も感じられないのであった。
88人間七七四年:2007/02/13(火) 23:11:51 ID:Y69GaKJL
>>58
たしか、朝鮮出兵のときには西国の大名は1万石につき500人動員するよう
命が下っているはず。たぶんこれくらいが限界値だと思う。
89人間七七四年:2007/02/13(火) 23:59:58 ID:LdPlqpWB
防衛戦だと百石七人役とかやる場合もあるっぽいけどな
90名無し:2007/02/28(水) 20:48:17 ID:qFpb8ts2
>>88
それだと50万石で2万5千人か
根こそぎ出陣になるのかな?
91にゃんこ:2007/02/28(水) 22:19:38 ID:eKzyPVor
豊臣政権の検地は、実際はいい加減なとこがあったらしい。朝鮮の役も北条攻め
も、エエ加減な検地を見越した動員数の割り当てなので、地域や大名によって、
1万石あたりの動員割り当てもバラツキが大きいらしい。
 結局、ちゃんとした検地をするためには、かなり強力な政権が成立する必要が
あるんだな。2代で潰れるような政権ではダメなのさ。
92にゃんこ:2007/02/28(水) 22:24:09 ID:eKzyPVor
89>

そうだね。惣村の協力の得やすい防衛戦と、嫌がられる遠征とでは、分けて
考えないとね。

ちなみに、100石7人なら、
100石は、不正確な検地に依っており、実際はプラス数十石。で、実際は
100石あたり、4人〜5人くらい? もっと少ないかな?
93名無し:2007/03/03(土) 10:57:28 ID:gCgY9+OE
100石4人だと50万石で2万人か
2万人もいれば誰が相手でも1戦やってみたくなるかも
将棋じゃないから負けたら重大だがな
94人間七七四年:2007/03/27(火) 13:04:57 ID:Y5kSxSDz
軍忠状(恩賞のため主君に差し出した戦功と損害の報告書)から見た戦傷比較
(1333〜1387年。いわゆる南北朝期)


矢傷 86.4% (462)
切傷 9.2% (53)
石傷 2.8% (16)
鑓傷 1.4% (8)
その他 0.2% (1)

()内は人数

南北朝期にはすでに刀槍併用時代が始まっていたとされていますが、接戦派の
主張する切傷は全体の一割にも満たないようです。  


軍板のスレが某研の連投で機能不全に陥っているのでageておきます。
95人間七七四年:2007/04/03(火) 09:14:25 ID:DZ0oHFcZ
そだね〜あっちはもう機能してないし
こっちに退避しましょうか

じゃあ、あっちのスレの続きで

備えの編成の話から?
参考はコレ?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
96人間七七四年:2007/04/03(火) 09:21:11 ID:DZ0oHFcZ
一応張っておきますね

軍板の姉妹スレ
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実5
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1174502072/

過去ログ
日本の戦国時代 合戦の虚像と実像
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1128176890/
日本の戦国時代 合戦の虚像と真実2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147453486/
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実3
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1152990829/
日本の戦国時代!合戦の虚像と真実3!!!!
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1151860317/
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1167608720/
97人間七七四年:2007/04/03(火) 09:28:14 ID:DZ0oHFcZ
>>94
戦傷者の傷だけ?
思うに接近戦だと死亡率高いんじゃない?
遠距離・矢戦だと怪我しても仲間が治療してくれるが
接近戦・乱戦だと負傷>戦闘力低下>そのまま討ち取られるってのも多そう

まあ、遠距離戦が中心だったのは間違ってないけど
結局最後の白兵戦って重要だったのでは?
最後には相手を潰走させなければならないわけで
その為に遠距離戦>時期を見て白兵戦に移行はあったのでは?
白兵戦に移行した段階でほとんど勝負は決まってるから
死傷者は白兵戦では少なかったのかな?
98人間七七四年:2007/04/03(火) 09:35:38 ID:GYNVFmEI
「首とってなんぼ」の世界だからな。
弓鉄砲だけじゃ首とれんからな。
99人間七七四年:2007/04/03(火) 09:43:08 ID:qGWbdKy/
弓鉄砲で戦闘不能にしてから首とったんだろうよ。
100人間七七四年:2007/04/03(火) 19:45:11 ID:zufrLwAv
>>97
治療ってw
傷→破風症等のコンボでの死者数>>>>>討ち死数
101人間七七四年:2007/04/03(火) 19:54:26 ID:acMOetiC
小規模な合戦(野戦)では、20%弱が石つぶてで死ぬような合戦もあったって聞いたんだけど。
攻城戦はどうだったのだろう?

102人間七七四年:2007/04/03(火) 21:17:11 ID:u4BSwd2q
小規模合戦だったら死者11名のうち2名が投石で死んだ、
っていうことなんじゃないか? いや、マジで。
103人間七七四年:2007/04/03(火) 22:38:12 ID:UoKKfB3A
>>100
そうね〜当時の医療だと
傷は軽度でも感染症なんかはヤバイね

>>102
ありそうだ・・・参加兵力300前後とかの合戦だと
104人間七七四年:2007/04/04(水) 13:59:24 ID:c0aw3GqN
>>100
>>94
さんの資料には戦闘後しばらく経ってから
感染症で亡くなった人の数は入っているのだろうか?
それとも、集計外なのだろうか?
確かに感染症は当時としては重要な問題ではあるが
感染症にかかる可能性があるからといって
治療しない(負傷者を見捨てる)などという行為を行ったとは考えにくく
そうなると戦闘直後にはそのような人はまだ生きているわけで

>>94の集計時が何時であるのか
どのような人を対象に集計したのか重要と思う

あと、負傷者の感染症の発症率
また感染症にかかっても100%死ぬわけでは無いのだから
その死亡率などはどのような感じだったのだろうか?
105人間七七四年:2007/04/04(水) 14:04:35 ID:b7faHp7X
>>47
でもマケドニア〜ギリシャも日本列島も起伏の激しさではどっこいだと思うん
だけどなあ。むしろ平地の比率は日本の方が高い。

日本の地形が複雑といっても、ある程度(数百人レベル)以上の規模の戦いは、
兵を展開できるだけの広さを持つ平地で行ってたのが普通なんじゃない?
106名無しの雑兵:2007/04/04(水) 21:29:53 ID:Kgq5QOgJ
>>105
ギリシャは乾燥してますから
107人間七七四年:2007/04/05(木) 07:09:26 ID:wA0QEEE5
ローマとの戦争では、起伏のある土地でファランクスの隊列が乱れたのが(ギリシア側の)敗因のひとつとされていたような。
108人間七七四年:2007/04/05(木) 12:58:47 ID:QPJKQHUJ
紀元前ギリシャのファランクス>戦国時代の軍団
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153279518/

昔軍板で似たようなスレが盛り上がってたような気がする
109人間七七四年:2007/04/05(木) 21:08:55 ID:wA0QEEE5
ハリウッド映画の「独立戦争モノ」とか「南北戦争モノ」なんかだと、敵の白目
が見える距離まで近寄ってマスケットやらライフルやら撃ち合っているけど、
戦国日本の場合、どの程度の距離で弓とか鉄砲とか撃ち合っていたんだろ?
110人間七七四年:2007/04/06(金) 05:04:08 ID:WToX/319
敵に近寄られた場合は、
敵の槍の間合いの内側に入って急所を狙って射ろ、と雑兵物語にはある
これがもっとも短い距離での射撃
111人間七七四年:2007/04/08(日) 15:46:47 ID:xXM1V+z8
2メートルくらいか?ほとんどゼロ距離射撃だな。
112人間七七四年:2007/04/08(日) 23:45:23 ID:I+N5gbp2
コワイ!コワイ!
113人間七七四年:2007/05/21(月) 20:28:22 ID:YkTGcslW
114人間七七四年:2007/05/22(火) 00:04:39 ID:40SLmv/Q
>>110
多分に心理的なものも含んでいる教えだから。

どうしても興奮し、恐怖に負けると、遠い間合いで射てしまう。
それで外すと。
115人間七七四年:2007/05/22(火) 17:05:32 ID:habLOl8W
話の筋が違う。
確かに仇矢疎かにするな、とは言っているが、
それとは別に、敵に近接されたときの心得も解いている。
114のは前者の話、110のは後者の話。
116人間七七四年:2007/06/17(日) 20:00:34 ID:vpJS/T9i
そしてキモイゾンビヲタクはウンコの中からニンジンを 洗い出しそれで飢えをしのぐんだ
117人間七七四年:2007/08/05(日) 21:45:34 ID:aTVRh6O9
矢が目にあたった場合ってどうしてたの?
118人間七七四年:2007/08/06(月) 21:39:35 ID:h33HeXGk
>>117
「よし、俺が引っこ抜いてやろう」と、足をかけて抜こうとすると
「男の顔を足蹴にするんじゃねえ」と切りつけられる。
119人間七七四年:2007/08/12(日) 07:59:38 ID:2VJRWV3D
>>118
こういうことを書くと今現代の一般人のどれくらいが
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
    /  `´  \
     ('A`)
     ノヽノヽ
       くく
と理解できるんだろうな。
たぶんなにワケわかんねえこといってんだこのウンコ野郎と
むしろこっちが足蹴にされるんだろうな。
120人間七七四年:2007/08/12(日) 09:53:06 ID:RPAC0W0j
>>111
たぶん長柄槍のことだろうから6〜7mでは?
121人間七七四年:2007/08/14(火) 07:46:57 ID:fcAyauZH
井伊直政が関が原合戦の際に受けた鉄砲傷が原因で死んでるけど、
あれって鉄砲の弾の破片みたいな物が残っていたんだろうね。
もっとも破傷風説が有力なんだけど、鉄砲の弾に使ってた鉛の毒が原因かも?
122こんな名無しでは、どうしようもないよ。:2007/08/14(火) 22:18:43 ID:uOJwUte8
所詮歴史なんて憶測にすぎない・・・なんて事を言ったら身も蓋もなくなってしまうのだが
大河ドラマのように全体の流れはともかく、詳細の部分に至ってはどこまでが事実かなんて
誰もわかりはしない。
もちろん残された資料や発掘調査などから精度は高くはなっているものの、それでもやはり
想像の域を出ないことには間違いないだろう。
例えばテレビ・ラジオ・ネットなど、情報収集の手段は今までにないほど充実した現代でさえ
我々は自身が生きている現在の世の中で起きている出来事をどれだけ正確に把握できてるだろうか?
それを考えると、信憑性の高い資料が皆無に近い歴史は想像の産物と言っても過言ではないだろう。
それゆえ、誰がどのような見解をしてもまた許されるともいえる。
123人間七七四年:2007/10/05(金) 17:33:12 ID:RnPVhYj5
124人間七七四年:2007/11/26(月) 00:19:06 ID:qok/eTJl
125人間七七四年:2007/12/12(水) 12:42:12 ID:5z9fFzOG
朝鮮人は日本の戦い方の特徴として2点をあげてるよな。
1.初っ端は鉄砲乱射
2.槍がやたら長い
3.刀がめちゃ切れる

やっぱそういうことなんじゃない?
126人間七七四年:2007/12/12(水) 13:23:22 ID:L0XH3BUV
3点あるんだが・・・気のせいかな・・・オレ疲れてんのかな。。
127人間七七四年:2007/12/12(水) 20:56:53 ID:8CmWnPor
3点あるけれど2点て見えるけれど、きっと気のせいだろう。

……そういうつっこみはともかくとして、やっぱりそうなんだろうな。

鉄砲射撃で敵が怖気ついたら長槍で突撃。
白兵戦に持ち込んだら刀剣類で滅多切り。

あれだね。映画で日露戦争の陸戦を描いた名作に二百三高知ってあったけれど、
ほぼ、あのまんまかもな。
そうすると当時の日本は三百年後にも通用する完成度の高い戦法を使っていたことになる。
128人間七七四年:2007/12/13(木) 20:31:13 ID:qoUaxlBN
ツッコミいらないところにツッコミが入りそうな誤字が多いよな。>2ちゃん
129人間七七四年:2007/12/16(日) 11:09:02 ID:9aqf3wxZ
>>127
逆に言えば三百年も進歩して無(ry

まあ、今日定石とされてる戦術はアレキサンダーの時代に既に完成されてたって説もあるからな。
まあそう簡単に進歩するもんでも無いだろうけど
130人間七七四年:2007/12/16(日) 17:58:49 ID:SQYu0wIu
完成された戦法などなく
ベストの戦法は戦況に臨機応変に応じるものであり
何をもってベストというかは戦局によって変わる。
131人間七七四年:2007/12/18(火) 00:28:38 ID:UhuD6EkD
首とってる時って敵は何やってるの?

かかってこないの??
132人間七七四年:2007/12/18(火) 01:09:36 ID:Elu21v6e
敵どころか味方に殺られて奪われることもあります。
133人間七七四年:2007/12/19(水) 14:21:00 ID:E0ZR31B/
まあ、基本的に一人で行動しないでしょ。
郎党が付いてきて、露払いから護衛までやる。
134人間七七四年:2007/12/22(土) 18:16:09 ID:OFql61Df
悲しいパターンとしては、

武士A「Bの首とったりぃぃぃぃ!!」
B家来「Aの首とったりぃぃぃぃ!!」
A家来「A様の仇討ったりぃぃぃ!!」

以下エンドレス、という事もあったらしいので、
割と入り乱れて互いの主従同士が殺しあっていた
ようだな。
135人間七七四年:2008/02/21(木) 23:57:04 ID:8ynTMOVi
>>85一番隊ってこわいね。ごちゃごちゃやってなかったのかな。だとしたら、一番後ろの隊長は長生きで、不死身、無敵なんて言われてたんだろうか。
136人間七七四年:2008/02/22(金) 02:20:38 ID:pWjgDA9c
>>134
それなんて第四次川中島?
137人間七七四年:2008/02/22(金) 09:20:40 ID:VtwWIENt
ところで戦国時代は気分が高揚する薬はあったの?
138人間七七四年:2008/02/22(金) 23:10:09 ID:zt68n1K0
酒。
139人間七七四年:2008/02/29(金) 15:11:03 ID:adQIVFhV
さすがに酒は配ってくれないと思うが、下っ端は与えられた米を使って自分達で作ったそうです。
140人間七七四年:2008/02/29(金) 15:40:14 ID:p13IYNYK
関が原の戦いって西軍東軍というけど、実はその日、関が原だけではなく全国で西軍と東軍が戦っていたらしい。
関が原の日に日本全土で決戦が繰り広げられていたというよ。
学校で習った。テレビとは違うんだなと実感した。ドラマにすると大きすぎて無理なんだろうけどさ。
全国で参戦した人は1億近いとの事。戦死者は実に8000万近い。
鉄砲の出現が戦死者を増やしたとの事。
141人間七七四年:2008/02/29(金) 15:53:58 ID:Il7YETaB
おいおい学校で習ったって・・・・・。
関ヶ原に関連した全国規模の戦いは当日だけでなく、
その前後に繰り広げられていたんだよ。
しかし、参戦「1億」で戦死者「8000万」って・・・・・。
当時の日本の推定人口より多いじゃないのよ。
教えた教師は間違いなくクビだな、こりゃ。
君も学校だけが勉強じゃない事を「勉強」しなさいね。
142人間七七四年:2008/02/29(金) 16:07:58 ID:p13IYNYK
お前馬鹿だろ。
先生の言いたいことはさ、数字の大きさでつまり「日本全国民が参加していたようなもの」と言いたいと俺は理解してる。
俺としては半分の5000万参戦、3000万死亡と考えてる。
全国規模で考えれば妥当な数字。
143人間七七四年:2008/02/29(金) 16:17:30 ID:+yVcMOlx
全然妥当じゃないww
144人間七七四年:2008/02/29(金) 17:21:35 ID:Il7YETaB
>>142
いきなり失敬な物言いですな。
もしその方が歴史の教師であるならば、もう少し妥当な数値なり例えをするではと
述べたまで。言葉足らずは認めるが。
君の「5000万」というのもどうかとは思うが、それだと武家のみならず下層民に至るまで
「参戦」した事になるよね。
当時の風潮において、合戦で戦うのは当事者同士のみで、足軽等に徴用されていない
一般民衆は傍観者がほとんどだったんだよ。
もう少し「勉強」されてからの反論をお願いいたす次第。
145人間七七四年:2008/02/29(金) 17:26:20 ID:p13IYNYK
>>144
すみませんでした。言葉が過ぎました。
でも関が原は日本最大の戦い。日本全国が戦となった。
武士のみならず、農民や女子供まで参戦している。隣の家同士でどちらに味方するかで
全国で殺し合いもあったと言う。
5000万や1億は決して大げさじゃない。
日本の人口は1億6千万くらいのはず。そのうち1億が戦ったとしてもありえる話ですよ。
関が原は何度も言いますが全国規模のとてつもない戦いだった。
146人間七七四年:2008/02/29(金) 17:31:36 ID:Il7YETaB
>>145
こちらこそ、気が立ってしまって申し訳なかったよ。
もちろん関ヶ原は東北から九州まで全国規模の戦いとも言えるよね。
例え話とするならば、その先生と君のいう事はわかるよ。
これで歴史に更に興味を持って楽しんで下さいね。
147人間七七四年:2008/02/29(金) 18:41:49 ID:52TxgK9f
……楽しそうだね
148人間七七四年:2008/02/29(金) 18:53:59 ID:KzROYBEj
>>145
関ヶ原以前にそりゃもう地獄だろ。
全国で戦い、隣人も殺し合い、女子供も徴兵・・・地獄以外の何ものでもない。
しかもその凄まじいまでの死亡率。
生きる事は殺すことである、と教えられそうな世の中だな。恐ろしい世界だ。
1600年前後に生まれて無くて良かったよ。
149人間七七四年:2008/02/29(金) 19:27:00 ID:p0sfHYtN
関ケ原の戦いで、そんなに亡くなったの?1000人くらいじゃなかったの?
そもそも、創造や時代劇とは違って、敵、味方、入り交じって、戦ってなかったんでしょ?
150人間七七四年:2008/02/29(金) 19:32:26 ID:3J+boOKj
俺もそれ学校で習ったなぁ

なんでも当時の文献によると、隣近所どころか家畜や自然の動物達も殺し合いをしていたという記述があったらしい

151人間七七四年:2008/02/29(金) 19:40:58 ID:Mbkcr50/
8000万死亡とか3000万死亡とか。
推定が多すぎるとかそういう問題じゃなくて、
ネタじゃないならかなり危険な知的水準に達してる発言ですよ(´ω`)
本当に歴史の先生がそんなことを言ったとしたなら、確かに即刻解雇すべきですな。
狂ってる。完璧に基地外の領域。

>>149のいう1000人くらいがいいところだろうね。
一連の関が原前後の戦い全部でも三千人、いや二千人死んだかどうかってところかと。
これでも多いかなあと思う。
152人間七七四年:2008/02/29(金) 19:47:27 ID:XtTUReJw
・・・…
就労人口の一割がいなくなると経済が破綻し国家が崩壊するといわれているのに
全人口の6〜8割が死亡ですか……
関が原以降、戦闘がなくなるのはもちろん技術や文化も退行。日本という国そのものが消えうせそうですね
「参加した軍隊の損耗率」と考えても死にすぎです。
損耗率3割で軍としての機能が喪失します。6割を超えた場合は殲滅。軍そのものが消滅したとみなされます。
敗北した側の損耗率が6割を超える事例は無きにしも非ずですが、
それはかなり特殊な条件がそろわないと発生しません。

関が原の戦いにおける実際はの損耗率は5パーセントほどです。
関が原の戦いに関連する戦闘が日本各地で行われたのは確かですが。
全国の大名が参加した戦いで死傷率という点なら大阪の陣のほうが高いよ
153名無し三等兵:2008/02/29(金) 20:31:18 ID:9QAx0MxJ
たしかに関ヶ原の合戦では、関ヶ原以外でも戦闘はあったんだけどね。
九州では黒田如水が浪人者集めて小西領に攻め込んで大暴れしてるし、
伏見では鳥居以下の三河武士が1500人ほど篭城し、西軍に殲滅された。
細川(親父)も西軍に城を包囲されたが、歌人を惜しむ勅命で生き延びた。
おあむ物語で述べられているように武家の妻女も兵糧の炊き出しから
敵の首の化粧までいろいろとやってるんだけどね。

それでも戦闘に参加した人間は全人口の1割もいないだろう。
武家人口はどう考えても全体の1割そこそこ。
一旗上げるために参加した連中や陣夫で徴収された農民なんかを
含めるにせよ、全ての武家階級が戦争に従事していたわけでは
ないんだから。
少なくとも江戸城の留守部隊とその家族、大阪城のみなさんなんかは
戦争に参加していない。
154人間七七四年:2008/02/29(金) 22:30:03 ID:adQIVFhV
日本の人口が一億に達したのが昭和になってからだもんね。
日本の平地をすべて農地にしても4千万人を食べさせることが出来るかどうか、はなはだ疑問。
それも、治水をして、農業用水路を作って、農地に向かない土壌を改良する技術が出来て、さらに戦国時代に無かった農産物があっての現代の話。
155人間七七四年:2008/03/01(土) 01:13:42 ID:pcm1VXZU
教師の法螺話を真に受けて嬉しそうに掲示板で披露するゆとり学生
のスレはここですか?
156人間七七四年:2008/03/01(土) 04:42:38 ID:CjPftiuy
>>154
江戸時代で3400万養えたんだから、現代ならば8000万くらい養えるよ。
利水事業の進行具合が違いすぎるし、品種改良により日中戦争頃になりやっとこさ北日本での稲作が容易になっているのがあるからね。
人口比食料自給率の過去のデータからも、8000万くらいは間違いなく養える。
157人間七七四年:2008/03/01(土) 21:08:40 ID:yS32P3dg
>>156
自給できる(必要なカロリーなどが確保できる)ってのと、国民が満足する食事を与えられるのかってのは別問題だけどね。
昔みたいに米食いまくっておかずは漬物と味噌汁だけみたいな感じで自給してもねえ。
158人間七七四年:2008/03/01(土) 21:48:45 ID:H5JrIcT+
自給出来るような収量を毎年達成する為には、当然、化学肥料・農薬・機械化が前提となる。
それらの原料や燃料を輸入する金、機械の部品、工場を操業する為の電力・燃料をどう調達するか?
159人間七七四年:2008/03/04(火) 07:01:10 ID:3sTNOmZu
>>140
さらに住宅地も人力にしなければならないとすると農地の近い場所にしなければいけないのであまり削れないし、不作の年のことも考えないといけないし…
となると…現代の知識技術を持っていったとしても関ヶ原の時代可能な農業では…
先生がどれだけいい加減なことを言ったか、分かった?

>>156
言葉が足りなかった。
すまない
160人間七七四年:2008/03/05(水) 16:15:32 ID:yVqxKLAM
これ釣りじゃないの?
本物のゆとりってヤツか・・・?
はじめて見た
161人間七七四年:2008/03/05(水) 18:21:04 ID:QZVCGIn6
子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの  永六輔

傍から見るといい大人が小学生をイジメてるようにしか見えんぞw
釣りで無けりゃな。
162人間七七四年:2008/03/06(木) 01:19:14 ID:n3OcD1Gm
>隣近所どころか家畜や自然の動物達も殺し合いをしていたという記述があったらしい

なんだか神話的で面白いなぁw
163人間七七四年:2008/03/06(木) 14:13:35 ID:tPKTXCrp
関が原の頃の日本の人口は多く見積もっても三千万もいない。
せいぜい二千万。
164人間七七四年:2008/03/06(木) 17:02:16 ID:Pc0T2GSo
その話は終わっているよ
165人間七七四年:2008/03/07(金) 08:54:54 ID:7bIph/SI
そもそも戦国の合戦で人が一番死んだのは関が原ではなく、川中島の戦いですよ。
両群合わせて5回の戦いで10万死んだと言うし。

戦国の合戦ってのはそんなに人は死なない。
万単位で合戦しても数百人程度だったりする。
みんな死にたくないからね。必死には守るが戦いたがらない。
166人間七七四年:2008/03/07(金) 09:56:53 ID:yuGvT8v1
>>165
>そもそも戦国の合戦で人が一番死んだのは関が原ではなく、川中島の戦いですよ。
>両群合わせて5回の戦いで10万死んだと言うし。
斬新な説ですね!
両軍とも3回くらい構成員が丸々入れ替わっていることになりますが。
167人間七七四年:2008/03/07(金) 17:16:07 ID:PdknDjbt
昔の書物は誇張が多いからね
168人間七七四年:2008/03/07(金) 21:03:51 ID:ra/Yvs33
wikiより、参考までに。
第一次、8000:10000
第二次、8000:12000
第三次、10000:23000
第四次、13000:20000
第五次、?
仮に第五次は各々の最高値を取るとして、13000:23000。
計52000:88000、両軍合わせて140000。

戦死率70%超えましたww
169人間七七四年:2008/03/07(金) 21:55:05 ID:aAauwaTY
負傷率まで考えると150%くらいいくんじゃね?w
170人間七七四年:2008/03/08(土) 00:35:19 ID:WOxp1kCP
さすが戦国最強を誇る両軍だな。日系442連隊も吃驚だな。
171人間七七四年:2008/03/08(土) 01:36:01 ID:F5rqpbzG
Oh, My God !!!
172人間七七四年:2008/03/08(土) 03:08:15 ID:kcdc9EgF
>>165
死にたくないというよりも犬死にしたくないという意識が強かったんではないか。
手柄で恩賞も月とスッポン!
戦の恩賞を生活の糧としていた浪人もいただろうし、
自身の死に様も残った親族のことを考えて戦ったんだと思う。
戦場から逃亡しようものなら親族皆殺しになることも現実にあった訳だし、
多くは腹をくくってただろうな。
173人間七七四年:2008/03/08(土) 21:40:18 ID:Dp1G0tkx
>162
それどころかね、妖怪も殺し合をしていましたよ。
それを近江の琵琶湖岸・蓬莱寺の八百比丘尼という偉い方が治療なすってた、という記述があるんですよ。
174人間七七四年:2008/03/08(土) 23:01:16 ID:Me1oMP+C
そういえば、四国では狸同士が戦争したとかいう話があったな。
175人間七七四年:2008/03/09(日) 01:56:15 ID:Qoq0c9kc
妖怪勢力図的には、四国は化け狸王国だからな。
176人間七七四年:2008/03/14(金) 00:42:40 ID:EWxM/1Ew
戦死者なら長篠の戦いが一番多いんじゃない?
177人間七七四年:2008/03/14(金) 06:32:44 ID:kagAcCr+
>>176
天王寺・岡山の戦い
178人間七七四年:2008/03/14(金) 12:26:30 ID:d41FzgYA
学校の先生の話マジワロタwww
電車の中で1人で笑みがでちまった…
つか1億以上の人口ってのがもうウケるし8000万死ぬとかアッハッハッハって話www
誇張って言うよりマジアホだろw
その先生は中国の歴史読みすぎて誇張癖でもついたのかw
それとも左翼の日教祖どもの知的水準とゆとり教育から導きだされる良識かwww
死んだ方が日本の為だwww
179人間七七四年:2008/03/14(金) 17:32:47 ID:EWxM/1Ew
>>178貴方も同じようなもんだよ(´-ω-`)
180人間七七四年:2008/03/14(金) 21:10:47 ID:uT8ZMUXP
>>140
無知にも程がある

まあ俺が授業受けてた社会の担任も
「日本に原爆が落とされてドイツには使われなかったのは人種差別が原因だ」
って言ってたが無知な子供は信じるわな

「第二次世界大戦でイギリスが疲弊したのはドイツからのロケット弾攻撃による被害のせい」
とか出鱈目ばっかり

教師の話は疑うが吉
181人間七七四年:2008/03/14(金) 21:15:43 ID:WDqQ/OzB
2週間も前のコピペに釣られるなんて…
182人間七七四年:2008/03/14(金) 21:21:33 ID:cugaNDPF
攻城戦だと激しい戦としては、1586年の筑前の岩屋城攻防戦かな。
現在の福岡県太宰府市。

両軍あわせて死者4000近くいってるし。(ひょっとしたら越えてる?)
負傷者も加えたら5000は越えるか……。2週間の間に声がやまなかったって
どんだけだ……名将の山田有信が気が滅入るくらいキツイ戦だったらしい。
183人間七七四年:2008/03/14(金) 22:11:18 ID:mMdfXMMG
まあ守将が優秀だったというのもあるし、
籠城側も陥落(玉砕)前提での時間稼ぎだったからなあ。

硫黄島で米軍が大損害を出して、タイムスケジュールが狂ったような感じ。
184人間七七四年:2008/05/05(月) 02:19:41 ID:FOc/XIWT
敗れた武将や、嫡男などをなぜ京都のなんとか川原で、決まって処刑、晒し首にしたの?
185人間七七四年:2008/05/05(月) 07:14:01 ID:1h0hcArh
上方が文化の中心地だから
186人間七七四年:2008/05/05(月) 14:06:22 ID:uvxxJgBh
心霊スポットだからお約束
187人間七七四年:2008/05/05(月) 16:03:21 ID:q1Z+pjnF
このスレってネタスレなの?
188人間七七四年:2008/05/05(月) 16:51:54 ID:q1Z+pjnF
>>182
そんなに死者は出ない。
それに負傷者は死者の三倍出るという、
負傷者三倍の法則がある。
189人間七七四年:2008/05/05(月) 18:34:11 ID:WDAyC/Qw
全軍の1割が死んだらほぼ壊滅じゃなかったか
190人間七七四年:2008/05/05(月) 20:21:33 ID:4JmCYidm
>>182
死傷者4千〜6千じゃな(島津側損害)
大友側の岩屋城は全員討ち死か自害(763人)
島津側の動員数は5万ほどだから、大損害だね。
191人間七七四年:2008/08/01(金) 10:13:27 ID:3P4gzojs
>>139
米があればみんな酒にしてしまうから
だから、余分な米はやらず、必要最小限だけ配ったそうだ。
みんな昔からお酒は大好きなんだよw
192人間七七四年:2008/10/14(火) 17:53:04 ID:KQ32uPK3
>>191
戦場だから、酒はある意味必需品
193人間七七四年:2008/10/19(日) 11:36:17 ID:mqqu3zGi
陣立てとか戦いの手順とか(よくわからないけど鉄砲で撃ちあった後に足軽がぶつかるみたいな)
槍の長さとかが史実に一番忠実な映画って何ですか?
194人間七七四年:2008/10/19(日) 11:45:34 ID:14eHSeUh
>>193
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」
195人間七七四年:2008/10/19(日) 12:00:34 ID:mqqu3zGi
実写映画では皆無ですかね?
196人間七七四年:2008/10/19(日) 12:04:40 ID:DrgsQ658
市民の娯楽にリアリィなんか追及したら本末転倒になるからな
197人間七七四年:2008/10/19(日) 13:10:22 ID:bicMB5tx
「影武者」とか「七人の侍」とかもデタラメなの?
198人間七七四年:2008/10/19(日) 13:22:00 ID:14eHSeUh
黒澤のは基本的に、時代考証も含めておとぎ話と考えるべき。
199人間七七四年:2008/10/20(月) 09:47:03 ID:NY7mpTiS
七人の侍は、あれは結構リアルじゃないかな。
戦争体験が生きているし。
200人間七七四年:2008/10/20(月) 10:11:35 ID:zp09bmjb
農村の武装が描かれてないのが残念かな。
もっともらしいけど、あくまでお話。
201人間七七四年:2008/10/20(月) 10:26:05 ID:atgcrood
戦国の農村は普通に傭兵も雇うし戦闘もするし、なにより足軽をはじめとする侍の供給地。
あんな無力な農村は存在しないよ。
202人間七七四年:2008/11/11(火) 09:54:01 ID:FtlO4zp2
>>201
その辺の事情に詳しい書籍で何がある?
できたら学者が「おまえ一般人に自分の学説広める気あるか」と問い詰めたくなるぐらいに
下手糞・魅力のない文章で書いてないやつで。(それしかないなら、そういうのでもいい)
203人間七七四年:2008/11/11(火) 14:43:25 ID:HTEg8euX
って言うか、中世のムラを扱ってるような本だったらだいたい載ってないかな。
「自力救済」が常識だった時代は、薪や柴を刈る山に他村の農民が勝手に入ったと言っては合戦、村外れの新開を他村の農民が占拠
したと言っては合戦だったわけだし。
藤木久志の朝日選書の連作にはそんなのが随分描かれていたと思ったが。
ちょうど戦後の農民が農閑期に上京して出稼ぎするように、合戦に出稼ぎに行くような農民がそんな弱っちいはずがない。
204人間七七四年:2008/11/11(火) 15:04:35 ID:vyQfGwnI
七人の侍の村民を弱いというけれど、全部が全部そういう好戦的な村ばかりじゃないと思うんだよな。
本当に「係争地として常に緊張関係にあった」村しかなかったのかね。
205人間七七四年:2008/11/11(火) 16:02:00 ID:HTEg8euX
>>204
他の村と全く境目を有さず、なおかつ足軽出稼ぎもしない村だったら非好戦的かもしれないね。
206人間七七四年:2008/11/11(火) 17:58:27 ID:mCSSoXSO
当時の日本と今の日本じゃ国民性もだいぶ違ってるんだろうなぁ。
そういう研究ってないのか?
207人間七七四年:2008/11/12(水) 13:27:17 ID:5fCRH7P4
というか,あの映画の世界では領主様は何してるんだ?
208人間七七四年:2008/11/12(水) 14:03:36 ID:8umKHChZ
村人の話ではあとになって被害の視察に来るだけだと嘆かれている。
町には浪人が集まり、野武士の横行に何の対応もしていない、相当無能な領主だろう。
どちらかというと収奪を政治と思っているような暴君タイプかと思われる。
もしくはあの村を知行された代官がそうなのかも知れない。
209人間七七四年:2008/11/12(水) 23:39:03 ID:HDRypt7U
そんな領主、あっという間に下克上か他国の侵略で倒されそうだな。
210人間七七四年:2008/11/14(金) 04:34:34 ID:RYYZqBY3
>>206
「喧嘩両成敗の誕生」(講談社選書メチ)がお勧め。
中世の人間がどれだけ殺伐として切れやすいかが良くわかる。
211人間七七四年:2008/11/14(金) 14:46:49 ID:TrXISmdz
村レベルでの合戦は結構熱い。死人も結構出てる。
それも基本は土地争いと報復の繰り返しだもんな。
それも土地から上がる利益よりも合戦その他の費用のが大きいといった有様。
気が荒いのもわかる。
212人間七七四年:2008/11/15(土) 00:01:52 ID:DZT5aBIB
やっぱり江戸時代とか五人組だとかで
今みたいな、なぁなぁで周りの顔色ばかり窺う気質になったんかね?
213人間七七四年:2008/11/15(土) 00:35:29 ID:JUL2/4z8
江戸初期まで日本人は相当荒々しい。

日本人が今に通じる「文明化」をなしたのは、五代将軍綱吉の時代。
このとき初めて日本に、「人道主義」が、社会の下にまで芽生えた。
214人間七七四年:2008/11/17(月) 17:39:44 ID:hwMCwoVA
>>213
この観点から、これまで天下の悪法とされてきたいわゆる「生類憐みの令」と総称される一連の法令を評価する説もある。
余談ながら、武家諸法度や禁中並びに公家諸法度みたいに生類憐れみの令という法律があったわけじゃないんだよ。
これと鎖国令は一連の法令の積み重ねを便宜的に総称してるだけなんだ。
215人間七七四年:2008/11/17(月) 19:34:17 ID:ZDlEkbdP
現在、、いわゆる「生類憐みの令」は色々と再評価されてるね。
なんせ、綱吉が死んで幕府がこの関連法規を廃止したとたん、日本各地で狂犬病の被害が
広がり、その対策にてんやわんやになってる。

「生類憐みの令」にはこういう、「害獣対策」の面が確かに存在したらしい。
216人間七七四年:2008/11/19(水) 19:35:09 ID:m0dXrwMe
>>211
そういや、爺さんの子供の頃の遊びは「石合戦」だったとかw
当然怪我人続出。
戦後しばらくして禁止されたらしいけど、今もお祭りかなんかでやってる町村があるらしい。
217人間七七四年:2008/11/20(木) 17:32:55 ID:qlSAZ5iY
石合戦なんてまんまガチ合戦の訓練だよなぁw
よく江戸時代に禁止されなかったもんだ。

江戸期になっても必要な訓練と考えられてたんだろうか。
娯楽的要素が大きいのはもちろんだろうけどさ。
218人間七七四年:2008/11/20(木) 22:22:11 ID:uUJ+sXDV
江戸期の農村は広範な自治で成り立っていたし、大規模な被害が出たり、一揆になるくらいの
事じゃ無いと、当局は関与しないよ。

勘違いされがちだけど、権力に対する農村、農民の立場は、戦国期より江戸期の方が
大幅に強くなってる。
219人間七七四年:2008/11/22(土) 11:16:18 ID:8MoMMqMF
白土三平「カムイ」の愛読者にそんなこと言ったら、噛みつかれるぞ!
220人間七七四年:2008/11/25(火) 18:19:20 ID:e3qW9sjD
「カムイ伝」ね。
これも第一部と第二部じゃあ、結構雰囲気違うけどね。

白土三平の功績は、「必殺技」と「敵役に美形キャラ(美少年or美少女)」に尽きるかなw
221人間七七四年:2008/11/26(水) 20:16:53 ID:zgZo8BRt
カムイ伝は貧農史観がひどくて頭がおかしくなるよ
222人間七七四年:2008/11/26(水) 22:39:00 ID:qHVtckLG
その時歴史が動いた
戦国のゲルニカ

223人間七七四年:2008/11/26(水) 23:45:13 ID:a5iGkOZp
川沿いの戦では戦死者が急増する傾向があるな。
細川高国と三好元長の天王寺の戦いでは戦死者8000でほとんどが溺死だったらしい
224人間七七四年:2008/11/26(水) 23:54:42 ID:7mlAR6w0
そういえば上杉謙信が増水している犀川に馬乗り入れて、溺死者多数を出して謙信自身も溺れかけた、
なんて話もあるな。まあ甲陽軍鑑ソースだがw
225人間七七四年:2009/01/05(月) 12:25:28 ID:RdTYPwcL
歴史群像シリーズ
「アーカイブ VOL.6 戦国合戦入門 −軍事学の支店から徹底分析」
(学習研究社 952円)

1.戦国合戦次第   河合秀郎
2.雑兵       中西 豪
3.戦国槍隊戦術   久保田正志
4.戦国鉄炮隊、前へ 河合秀郎
5.[検証]武田騎馬軍団不在説  桐野作人

すばらしい。これをふまえて議論しよう。
226人間七七四年:2009/01/05(月) 17:38:18 ID:oSmD5g02
ttp://www.kinseisha.jp/0327.htm
こっちの方がより良い
227人間七七四年:2009/01/05(月) 18:44:55 ID:RdTYPwcL
>>226
おお、サンキュー
すぐに買って読んでみるよ。わくわく
228人間七七四年:2009/01/05(月) 20:20:23 ID:IZGDBau8
石合戦ってやばくない?完全な殺し合いだろw
投石の威力をなめちゃいけねーよ 聞くところによると武田の投石部隊の
攻撃に耐えられたのは上杉軍くらいで 徳川も織田も耐え切れず崩壊したそうじゃねーか
229人間七七四年:2009/01/05(月) 22:17:56 ID:RdTYPwcL
>>228
現代のイスラエル軍もインティファーダで投石するパレスティナ人に本気で発砲していた。
まあ、徳川、織田が「崩壊した」というのは大げさだと思う。
古代地中海世界でも、クレタ人投石部隊が名を馳せていたし。
石も使いようということだろ。
230人間七七四年:2009/01/13(火) 01:12:56 ID:n206A2Ac
合戦マニアも納得の合戦ゲーム(戦国ゲーム)ってないですか?
できたらPCゲームで。
231人間七七四年:2009/01/31(土) 18:30:18 ID:2iYkhY7Q
結局225や226は良書だったの?
232人間七七四年:2009/01/31(土) 19:27:41 ID:TwR5F5HB
真田大八って石合戦で死んだことにして仙台連れてったんだよね?
それが説得力あろほど普通に死人が出てたってことだよな
233人間七七四年:2009/01/31(土) 19:31:13 ID:+mMhfbz9
>>226は軍事史的視点で戦国時代を知ろうとするなら必須
234人間七七四年:2009/01/31(土) 22:12:01 ID:CjLOB+v8
俺も買ったが良書すぎて鼻出たわ。 世界戦史も好きだから思わずハプスブルク家本まで
買ってしまったぞ。
ちなみに著者は浅草キッドの博士の同級生らしいな。
235人間七七四年:2009/02/01(日) 12:44:16 ID:AGKaedAv
>>234
その本は鈴木氏みたいに騎馬隊否定説?
236人間七七四年:2009/02/01(日) 16:10:29 ID:a310YHKK
>>235
まだ途中までしか読んでないが、一応馬はひ弱で騎馬隊はなかった方向性で話してる。
あったとしても突撃力・衝突力は欧州と比べて相当に劣るので、マウリッツ流の集団発射
弾幕を張る戦術をとる必要がなかったと。
まあそういうのを欧州の軍事革命と比較しながら、資料あらって綿密にやっておられる。
237人間七七四年:2009/02/01(日) 19:41:30 ID:IJ/xhg8M
同時代の欧州の馬について何も知らんという事か。
238人間七七四年:2009/02/01(日) 20:43:35 ID:+Y1KltAM
>>237
一応、比較対象としてノリーカー種の体高147cm、日本馬129cmを比較している
後は比較的有名な甲陽軍鑑やフロイスの記述、イエズス会の天正遣欧使節が持ち帰った
アラビア馬と比較して「この馬を見たら、日本の馬は仔馬のように見えた」や、
他の資料として坂本誠一の『碧い目の見た日本の馬』や、
『日本王国記』の「日本中で最上の馬が、エスパニャでならせいぜい薪を運び得るくらいのもの」
をあげている

私は個人としては騎兵の不活発は馬体だけでなく、日本の地形にも影響すると考えている
馬車が用いられないと同じ理由で
239人間七七四年:2009/02/01(日) 22:52:49 ID:jcZsnhSI
イラストとかは豊富なのかな?
どれぐらいの距離から射撃して、どれぐらい間合い詰まったら、どんな部隊が押し出すのか
とかイラストで流れとして把握したいんだが。
240人間七七四年:2009/02/01(日) 22:55:15 ID:Xsbt0oel
つーか3千円くらいのそんな高い本じゃないんだから、興味あるのなら買えばいいのにw
241人間七七四年:2009/02/01(日) 23:05:24 ID:a310YHKK
イラストはほとんどない。ノーリーカ種と日本馬の比較図くらいだ。

定価は3400円税別だ。 俺には安いが学生には高いだろう。
ちなみにハプスブル家かく戦えりは税別7000円だった。これは結構しんどかった。
242人間七七四年:2009/02/02(月) 00:45:14 ID:I7Q9v74n
>>237-238
むしろ日本の馬についてよく知らないというべきだなー。
243人間七七四年:2009/02/02(月) 01:00:42 ID:vUf0eQIy
日本の馬もでかいよってこと?
まぁ馬並みとかいうしなぁ。
244人間七七四年:2009/02/03(火) 01:08:59 ID:lq9+WHRI
日本の馬と一口に言っても、東日本と西日本じゃ違うもんね。
245人間七七四年:2009/02/03(火) 11:14:24 ID:JByQZb0p
多少は異論があるかもしれないが、戦術だけでなく兵站・動員・築城等の
多岐に渡って説明がなされているこの本は大いに評価されるべき
246人間七七四年:2009/02/03(火) 12:43:38 ID:ZprXgZOd
>>238
その通り
日本の馬の体高はそれぐらい
最も有名な村木座遺跡での軍馬108例の馬骨を詳しく実測検証した結果は
最も多い体高の馬は126〜136cm 平均体高129.5cmと綿密な調査報告にはっきり出ている


メジャーで計ったわけでない昔の軍記物の大袈裟な記述をもとに当時の軍馬の体高を大きく誇張するのは妄想以外のなにものでもない
247人間七七四年:2009/02/03(火) 15:03:02 ID:r6Dfve7Z
考古学調査には縄文時代は120センチ前後、弥生時代は136センチ。
大陸馬の流入で成長したと見られている。
馬体は書状等では四尺(121センチ)を基準として、
それよりどれだけ高いかで記される。
つまり120が通常ではなく、130〜135ほどはあったと見られる。
軍記などの史書にあるものはそれよりも巨大な馬が大勢でてくるが、
大抵大将の愛馬なので良馬であるから実際に並の馬より大きなものであっただろう。
ただし軍記以外の史書でも似たような大きさで馬体がはかられているから、
一概に非常的に捏造したとは言い切れない。
248人間七七四年:2009/02/03(火) 16:46:44 ID:ZprXgZOd
>>247
そこまで言うのならそれがどこの遺跡であるか、その調査報告を閲覧できるところぐらい教えて欲しいものだな
村木座遺跡の108例よりそれ以上の個体数、少なくとも同数前後の個体数の調査がなければ
村木座遺跡の調査結果は覆せないし、個体数が数体程度だけなら確率論的にも全く意味をなさない
なぜなら>>138の示した書籍のように日本の軍馬は129cmであると一般ではそう認識記述されているのだから
249人間七七四年:2009/02/03(火) 16:48:36 ID:ZprXgZOd
失礼↑>>138でなくて>>238です
250人間七七四年:2009/02/03(火) 17:27:00 ID:mZcr0ZUp
>>226本屋に届いたので買って来た。
いやあ、非常にいい本だわ。歴史書ではなかなか触れられない、示唆に富む記述が
たくさんある。この著者の論に納得するしないは別として、一読はしておくべきだ本だな。
251人間七七四年:2009/02/03(火) 19:04:18 ID:L9PrFFw0
村木座
252人間七七四年:2009/02/04(水) 10:50:06 ID:/fukI5eW
>>238
本書の中で著者は源平合戦以来もともと日本では騎兵突撃戦術が見られない引用してるんだから、
”馬の体格が悪いから騎兵の威力がないから歩兵に……”って展開は蛇足だよなぁ

他の部分と比較して、”馬の体格”云々でその用途を論じる所は、ちょっと違和感あるよ。
一般に農業労働に牛を使ってたからと言って日本の牛の体格が良くなった訳でもないし、
単純に、日本には軍馬(家畜)を育種する文化がない、だけな気がする。
現在に残る英国の狐狩と比較して、日本の巻き狩から鷹狩りへの変化とか、
そこらの文化社会的要因の違いから見た方がいいと思うんだけどなぁ
253人間七七四年:2009/02/04(水) 12:13:25 ID:ZUFtvQcl
>>252
日本で肉食文化が低調なのは、肉食を忌避するという文化・宗教的理由ではなく
単純に地理的環境に所以するものである

押井守は「立喰師列伝」で
「文化史的観点を離れ、異なる観点からこの事情を考察するなら、事情は直ちに一変することになる。
一般に食肉を獲得するための家畜の飼育、すなわち牧畜には自然状態における資料の存在もしくは
多量の穀物栽培が前提条件であり、これを蛋白質量に換算するなら動物淡白質1を獲得するためには
植物蛋白質10が必要であるとされている。この条件をわが国のおかれた地理的条件に則して検証する
ならば、自然発生的な飼料に依存する放牧形態は山間部を多く有する列島という特質から言って既に
論外であり、大量の飼料栽培を前提とする牧畜の集約化・産業化はその作付面積の絶対量の不足から、
同様に不可能となる。また一方で、穀物栽培の熱量交換比率すなわち作付面積あたりの扶養人口とい
う観点から見るならば、飼料作物に転換可能な小麦大麦カラス麦および雑穀類に比して、日本を含む
南西アジア全般に普及した水稲は圧倒的に優位にあり、これが狭い国土面積に大人口を抱えるための
絶対条件でもあった。すなわち、先に触れた通説なるものに則して述べるならば「牛は運搬・耕作用
に飼育された」のではなく「運搬・耕作用に飼育する程度にしか生産不可能であった」のが実相であ
り、水稲栽培という熱交換比率において圧倒的に有利な食料生産技術を有するがゆえに、牧畜という
非効率的食糧生産を必要としなかった―つまり食用牛が存在しなかったがゆえに、牛肉食が習慣化し
なかったのではなく、わが国のおかれた地理的環境がそれを許さなかったと考えるのがスジであろう。
宗教による禁忌等は、少なくとも我が国においてはこの宿命的ともいうべき食料生産事情を文化的に補
完する機能を果たしたがゆえに普及したのであって、その逆ではない。」
と論じている。

ここでは食用の家畜について語っているが、馬についても同様のことが言えるであろう。物理的に小規模な
牧場で飼われれば馬も相対的に小型化するし、同格の蒙古馬と比較しても劣る点は多いであろう
254人間七七四年:2009/02/04(水) 12:17:04 ID:ZUFtvQcl
>>248の記述は現在の木曽馬のデータをもとにしているようですね
255人間七七四年:2009/02/04(水) 12:39:41 ID:DeWnb/cy
重装備の人間乗せているのに小型のポニーのような馬が馬蹄すらなく、鞋もどきを着けて突撃しようなんて土台無理がありすぎ
馬の爪は馬蹄が無ければ非常に弱い
もともと何も背に乗せないで走るための強度しかないのだから当たり前だが
例え重装備の人間を乗せ走れたとしても異常なぐらい鈍足になるだろう

それに去勢技術がないため、もし牡馬にそのような無理を強いれば暴れるだろうし
発情期であればうるさくいななくだろう
一般に去勢した馬は普通の牡馬より体型が大型になることもユーラシアでは知られている
256人間七七四年:2009/02/04(水) 12:45:15 ID:tfWp4tOk
>>255
何のために調練があると思っているのか。
257人間七七四年:2009/02/04(水) 12:58:21 ID:BBumwlnT
モンゴル軍に蹄鉄無し。以上終わり。
258人間七七四年:2009/02/04(水) 13:39:42 ID:/fukI5eW
>>253
>押井守は「立喰師列伝」で
…ネタだと思うけど……

労役牛や軍馬は喰い物じゃねぇよっ!!
259人間七七四年:2009/02/04(水) 13:46:44 ID:ZUFtvQcl
>>258
>「牛は運搬・耕作用に飼育された」のではなく「運搬・耕作用に飼育する程度にしか生産不可能であった」
>ここでは食用の家畜について語っているが、
ちゃんと最後まで読んでね(キラッ
260人間七七四年:2009/02/04(水) 14:01:04 ID:/fukI5eW
>>259
ネタじゃないなら、マジ質問。

平安末まで、国営の軍馬育成機構があったけど、これの存在はどう判断を??

食肉に関しては、鶏が食用になった江戸時代に一気に全国に広まったけど、
広まってなかった江戸以前は、「「闘鶏・目覚ましに飼育する程度にしか生産不可能であった」
…と、いっちゃっていいのかね??
実際明治維新後は各地で肉牛生産が日本でも行われたわけだけど、
江戸時代は「運搬・耕作用に飼育する程度にしか生産不可能であった」
…と、いっちゃっていいのね
261人間七七四年:2009/02/04(水) 14:18:29 ID:ZUFtvQcl
>>260
軍馬育成といっても食用としての家畜が有る無しでは裾野が違いすぎる
結果として、その育種は肉食である西欧・中央アジアに比べて低調なのは間違いない

食肉についてはその通り、江戸時代の開拓によって鶏肉が食べれるくらいに穀物の
生産高が上がり、明治の欧米技術の導入や開拓で肉食が(ほんの一部の階層で)
可能になった
それ以前だと、猟で獲ったりや薬として食って程度の量
262人間七七四年:2009/02/04(水) 22:51:38 ID:DeWnb/cy
>>257
持論を主張するためには事実を歪曲するよくないですな

最古の蹄鉄の遺物は記憶が確かならモンゴリア高原とさほど遠くない紀元前のアルタイのバジリク遺跡で発見されているはず
モンゴリア高原に現れた鮮卑、柔然、突厥、ウイグル、契丹と歴代の騎馬民族が蹄鉄を使用していたのに
モンゴルの時代になったら突然、蹄鉄をやめたんですか
ふ〜ん

馬って蹄鉄がない長い距離を生爪で歩行すると爪が擦り減り、脚が腫れてついには歩くことも出来なくなるんだよ
263人間七七四年:2009/02/04(水) 22:57:08 ID:W8veRMGu
村木座で馬の骨を眺めながら芝居見物
264人間七七四年:2009/02/04(水) 23:01:06 ID:9X/WxBxa
遊牧騎馬民族の数少ない共有文化の一つが蹄鉄だったと思うが。
当然モンゴルしかり
265人間七七四年:2009/02/04(水) 23:09:12 ID:ZUFtvQcl
蒙古馬はさて置き、日本在来馬は蹄が固いので蹄鉄がいらないとか
馬鞋は行軍時のみのようですし
後、側対歩を調教していて上下動が少ないので騎射には適しており、
性格もおとなしいので、去勢の必要がなかったという
266人間七七四年:2009/02/05(木) 02:21:29 ID:H/cmEP89
>>262
東方見聞録には蹄鉄しないと書いてあるね。
ちなみに現代でもモンゴルでは乗馬に使っている馬でも蹄鉄されてない事が多い。
267人間七七四年:2009/02/05(木) 02:29:46 ID:Nwomja3W
モンゴル馬はあの体格でも、モンゴルの兵制には普通に重装騎兵があるしね。
268人間七七四年:2009/02/05(木) 07:21:06 ID:FZMCSPHz
モンゴルの重装騎兵は金属鎧を使用してないけどな

モンゴル馬は野生馬のように蹄が硬く、家畜馬のように簡単に蹄が磨り減ることがないんだよ
あと、人間一人当たりの馬の数がべらぼうに多いんで、頻繁に代馬が出来る。
農耕民族の軍馬のように穀物等の高栄養の飼料をあたえなくても
長期間の行軍が出来たのは、代馬の多さに負うところが大きい。
蹄にかかる負担も減るしな。

古代・中世の中央アジアにおける蹄鉄の普及率に関してはまったく知らないんだけど、
あそこは気候上燃料に不自由するところなんで、製鉄・金属加工については
他の地域から交易もしくは略奪で手に入れるしかないんじゃが、その点はどうなっているんだろ?
保有している馬全部に蹄鉄をつけることが出来るの?
269人間七七四年:2009/02/05(木) 07:25:16 ID:Nwomja3W
>>268
鉄の鎧ですよ>モンゴル重装騎兵
270人間七七四年:2009/02/05(木) 16:06:16 ID:QHr2WZUE
>>261
「家畜を飼う文化習慣 → 軍馬の育種が盛ん」…って展開かな
世界中で畜産しない文化の方が少ないから、無理あるんじゃない?

たとえば、中国は”肉を食う習慣”もあり、戦国春秋時代から騎馬が軍編成にあるけど、
”軍馬の育種”はなかったよ。これはどう説明する??

それに中央アジアやモンゴル帝国では、軍馬育成への熱情は全く見られないよ。
伝承ではマホメットが”軍馬”つまり兵器としてアラブ種育成しイスラム世界に広めたのだけど、
それを受け入れて育種したのは西欧だけ、隣の中央アジア、蹂躙したモンゴルではされてない。
…これはどう説明を??


個人的には、これは騎兵において、馬の体格は(かっこよさは別にして)最重要課題でなかった、とは思う。
西欧でも「英国馬は仏伊に勝る」といわれてたけど、騎兵の強さについて「英国最強!」、なんて記述ない。
なんで、「馬の体格が貧弱だから騎兵が弱い」テンプレが今生きてるのか、理解しがたいんだよなぁ……
271人間七七四年:2009/02/05(木) 17:47:23 ID:5kOYnTvH
>>270
少し違う
家畜を育てている文化とそうではない文化の双方が軍馬を育種する場合、
前者の方がより効率的かつより良い馬を生み出すという話

中国みたいに西域でより良い馬が手に入るなら、そちらを選ぶだろうし、
モンゴルの場合は民軍の馬の差が非常にあいまい、遊牧民は別枠とすべし
272人間七七四年:2009/02/05(木) 22:31:09 ID:G+XBj93b
朝青龍乗せてあのスピードで走れるなら鎧武者くらい何の問題も無いw>モウコノウマ
273人間七七四年:2009/02/06(金) 01:12:26 ID:HGdrTgMN
戦国時代の軍馬も鎧武者乗せて働けるように調練されていたわけで、何の問題も無い。
274人間七七四年:2009/02/06(金) 15:33:08 ID:rnWDTYPx
>>271
引用の順番前後するけど……
>モンゴルの場合は民軍の馬の差が非常にあいまい
軍馬だろうが普通の馬だろうが、モンゴル民族はアラブ馬作り出したイスラム圏を占領したんだから、
結果的には”軍馬として最強の馬”を育成したことになるんじゃない?
つか民生品と軍需品を分ける理由ってなによ? なんかゲームっぽい概念だね……

>家畜を育てている文化とそうではない文化の双方が軍馬を育種する場合、
>前者の方がより効率的かつより良い馬を生み出すという話
制度的な軍馬の育種ってのは、イスラムのアラブ馬に端を発し
西欧に渡って英国で盛んになった、わけだけど、
それ以外の多くの世界でアラブ種以上の品種ができなかった事実があるから、
日本だってその中のダメだった多くの国の一つと見れば↑の仮説は意味をなさないのでは??

>中国みたいに西域でより良い馬が手に入るなら、そちらを選ぶだろうし、
それって長年仮想敵国が北方遊牧民だった中国が
騎兵強化のために軍馬を育成しない理由にはなってない。
当時の認識では、数さえそろえば馬の体格やら質は当時の普通の馬で良かった、
…という事実確認ともとれる。


おいらが思うに……
馬は”兵器”とか”道具”なわけで、必然世界中でその国向けに改良されてるのよ。
実際ヨーロッパの軍馬は推進力重視で後輪駆動(FR)なの、オンロード向き。
でも日本の和馬はトルク重視で前輪駆動(FF)に育成されてる、オフロード向き。
これは騎兵突撃向きじゃない育成が長年日本で行われてきたことを示し、
逆に”集団騎兵突撃”という戦術が日本にあった仮定ならば西欧風の育種が行われた、
可能性があった、とも考えられる。日本人、地味にこういう改良好きだから。和牛みたいに。
そんなこんなで、日本の戦国時代に”統率された騎兵突撃”の話が出ると、
おいらは違和感あるんだよなぁ……それ知ってたら育種の方向変わってるよ、と。
275人間七七四年:2009/02/06(金) 16:10:51 ID:Q4lpcfVX
その考えも一理あると思うで、引いときます
276人間七七四年:2009/02/07(土) 22:11:47 ID:v7yfYMx5
この本の戦国合戦事情のところがすごく面白かった。
長篠の合戦と桶狭間のところを、信長公記から読み解いてる。

http://www.leed.com/act/Detail.do?id=ISBN4-8458-2635-6
277人間七七四年:2009/02/08(日) 23:23:06 ID:U7KDEXku
とりあえず日本在来馬の体高

南部馬 5尺に達する
津軽馬 4尺8寸に達する
仙台馬 4尺8寸に達する
最上馬 4尺5寸〜4尺8寸
三春馬 4尺5寸〜4尺8寸
佐久馬 4尺5寸〜4尺7寸
木曾馬 3尺9寸〜4尺4寸
飫肥馬 4尺4寸
福島馬 3尺9寸〜4尺2寸
恒吉馬 4尺5寸〜4尺8寸
市成馬 4尺6寸
北海道馬 4尺1寸〜4尺4寸

日本馬匹改良論(明治39年)
第二十七章 日本馬匹ノ沿革及各論 より


馬種改良を目的とした馬政局が設置されるのがこの年なので
ほぼ江戸時代と大差ない数値だと思われます
このなかで現在残っているのは木曾馬と北海道馬のみです
278人間七七四年:2009/02/14(土) 08:04:20 ID:QV4/ompx
結局
>>226は、「日本は中断された軍事革命しかない」なのか?

そもそも軍事革命があったかどうかに疑問を呈するべきでは?
明・清朝、ムガル帝国、オスマン帝国に軍事革命があったとは思えないんだが・・・
279人間七七四年:2009/02/14(土) 08:20:36 ID:2Bv0b7du
>>278
読んでから言えよ。
280人間七七四年:2009/02/23(月) 01:08:57 ID:CJhKPOJI
短めの槍を持った武士が主力だったって
マジでローマ軍団とやったら負けそうだな。
281人間七七四年:2009/02/23(月) 10:11:32 ID:GR+MwjC2
藤堂高虎の家中では、長い槍がずらりと綺麗に並んだところの突破は容易で、
短い槍が不揃いに並んだところは突破が難しいと言い伝えていたそうだ。
前者は組織戦に頼り切ってて個人の武勇が尊ばれないため崩れやすく、
後者は個々がおのれの面目にかけて武芸を駆使するから手ごわいらしい。
282人間七七四年:2009/02/25(水) 00:30:09 ID:0aokzu1h
グラディウスも知らん厨房がローマを語るとはw
283人間七七四年:2009/02/25(水) 10:15:26 ID:LD25eOjG
グラディウスと言えばX68000
284人間七七四年:2009/02/25(水) 11:24:10 ID:hP1oaepa
グラディウスなんて嬉々として語るのはむしろ厨房
285人間七七四年:2009/02/25(水) 20:04:13 ID:PRc8vZaI
>>280
火器が発達する近代直前まで、ローマ軍と戦ってまともに戦える軍なんて
それほど多くない罠。
286人間七七四年:2009/02/25(水) 22:44:50 ID:hP1oaepa
ローマ式軍隊はは騎馬民族の戦法にはほとんど対応できなかったらしいがな。
287人間七七四年:2009/02/26(木) 09:10:59 ID:+DiHcUWi
槍の密集戦法で騎馬隊を無効に出来るなら蒙古が大帝国なんか作れるはずがないし、
騎兵の概念は早くから消滅していただろう。
288人間七七四年:2009/02/26(木) 19:40:30 ID:JAba6KrS
何言ってんだお前
289人間七七四年:2009/02/27(金) 01:25:35 ID:Qzv4vXTN
定住型には強いんだろうが状況によって拠点を変えれる型には
機動力の無い歩兵軍団は対処しきれんって事じゃねの
290人間七七四年:2009/02/27(金) 03:01:24 ID:/ucwRore
ローマ軍だって標準編成に騎馬部隊あるし、
槍で歩兵だけ編成って古代ギリシアくらいしかないんじゃ?
vsって想定自体おかしな気がする。

ガチンコの騎馬突撃で槍編成部隊を突破した例は史実ではたぶん一件、
イッソスの戦いのアレキサンダー大王だけじゃないかな。
でもファランクス自体はローマ軍歩兵(投げ槍とグラディウス)に駆逐され、
槍部隊そのものが存在しなくなった。
だから、モンゴル帝国(13世紀)は槍部隊と戦ったことはなかったと思われるので、
>>287の論法はちょっとおかしい。

再び槍部隊が軍の編成に出てきたのは、14世紀スイス傭兵が生まれ、
それがポールアームを使う熟練部隊だったため。
アルベドの戦い(1422)においてパイク兵がミラノ騎兵を撃退して以降、
騎兵が横列槍部隊に突撃をかけた例は確実にないかな。

まぁ戦国時代の槍は、やはり時代的にパイク兵と比較すべきじゃないかなぁ。
291人間七七四年:2009/02/27(金) 17:52:14 ID:I5wF+CSY
>253
押井を持ち出すのはどうかとちょっと思った。
あの人の軍事知識はかなりぁゃιぃし。
その本に参考文献載ってるならそっちあたった方がいいような気がする。
292人間七七四年:2009/02/27(金) 21:43:07 ID:ZcK9jWvv
>>286
ヌミディアやガリア、ペルシア騎兵には十二分に対応できているが。
いったい何を言ってるんだ?

ローマが弱体化したのは社会が成熟して、安定的な市民兵の供給
が不可能になったから。

>>289
ローマ軍の機動力は異常。ローマ街道と軍事土木技術がその理由。
293人間七七四年:2009/02/28(土) 01:36:48 ID:dydYZe/Y
>>292
> ヌミディアやガリア、ペルシア騎兵には
騎馬「民族」
何にも分かってないね。
294人間七七四年:2009/02/28(土) 10:30:12 ID:9CC0c8o6
戦略的意味の機動力と戦術的意味の機動力は別だろうに
295人間七七四年:2009/02/28(土) 15:09:17 ID:3UDkCy0P
>291
立喰師列伝は参考文献含めて架空の民俗学ルポというネタ本
296人間七七四年:2009/03/03(火) 18:14:29 ID:UrlUEswH
>>294
ヌミディア人は騎馬民族だろjk
ペルシア人も果てしなく騎馬民族だし。

遊牧文化って言いたいのかな?
297人間七七四年:2009/03/04(水) 06:32:08 ID:LVsb4LSt
>>296
第二次ポエニ戦争でスキピオがアフリカ上陸したときカルタゴヌミディア連合軍は9万3千、
うちジスコーネ配下は3万3千、ヌミディア王シファチェは6万。
傭兵としては騎兵が有名ですが、ヌミディア軍主力は歩兵ですな。
主力が徒なのに”騎馬民族”と呼ぶのはいかがなものか??

ペルシア人が騎馬民族ってのは、いつの時代の話かわからんけど初耳だな。
ペルシア帝国に関する限り、ローマと争った時期のパルティアでもカルラエの戦いをみると、
王自身は主力(歩兵)率いてアルメニアに進軍してるしな。

…なんかこう、ベドゥイン と勘違いしてないか???
298人間七七四年:2009/03/20(金) 16:36:13 ID:w6qZwUBl
>>125
>3.刀がめちゃ切れる

逆に考えるんだ 朝鮮の刀の切れ味が悪いんだと考えるんだ
299まあ騎馬民族というけれど、そもそもの話:2009/03/20(金) 17:00:12 ID:w6qZwUBl
騎馬による戦闘や戦争に騎馬を用いることが
皆無だったり稀だったりする民族なんて
馬がいた地域では確実に居なかったと思うけどな。
つまりは我々は大なり小なり皆騎馬民族だと言えるんじゃないかと。
ただ地域ごとでその内実に違いがあるだけの話でさ。

全く騎馬が無かったのはアメリカ大陸とか南洋諸島くらいか。
ついでにアフリカでは騎馬技術は無かったんですかね?
300人間七七四年:2009/03/20(金) 17:57:13 ID:42BBV8i0
馬が居ないのなら鹿に乗ればいいじゃない
301人間七七四年:2009/03/20(金) 18:02:46 ID:OGSw1vPm
鹿さんだって一の谷駆け降りられるしね
302人間七七四年:2009/03/21(土) 15:00:37 ID:GwJnxEC1
>>299
北アフリカなら紀元前に騎兵の天才ハンニバルが現れてるし
そういう技術は発達してたと思う。
サハラ以南のアフリカはわからないな。馬とかいたのかな?
シマウマとかダチョウとか象に乗ったり、ライオンを飼い慣らした軍隊があったら面白いね
303人間七七四年:2009/03/21(土) 20:14:41 ID:mnNYEIvw
南洋諸島でも、シュリーヴィジャヤみたいに交易が盛んだったところは、おそらく輸入ものと思われる馬がある程度存在していた模様。
貴族達が狩猟や戦争で使用していたのが確認されているので、「全く無かった」というわけではないと思われ。
(無論、「あった」と言うよりは「皆無ではない」レベルねw
ソースは「岩波講座 東南アジア史」)
304人間七七四年:2009/03/22(日) 04:27:37 ID:q40Yn7B4
>>302
ヘレニズム時代の地中海とかインドじゃ象兵は普通にあったよ。
(というか、専用護衛部隊ついてた重戦車扱い)

…つかハンニバルを”騎兵の天才”よばわりは違和感ありありなんですが……
305人間七七四年:2009/03/22(日) 12:09:16 ID:6esUKtYA
>>304
>騎兵の天才
用兵の中に騎兵の運用は入るんですか?
306人間七七四年:2009/03/22(日) 19:41:30 ID:q40Yn7B4
>>305
”用兵”と”騎兵”は別な話なんじゃ……

逆に聞くけど、ハンニバルの”騎兵の扱い”で特筆すべき所はナニなの??
307人間七七四年:2009/03/22(日) 22:14:04 ID:6esUKtYA
>>306
申し訳無いがそれは俺にもちょっとわからんな。
308人間七七四年:2009/03/23(月) 05:35:29 ID:NA2pwrYr
ただいま、ハンニバルの戦い及びカルタゴの軍制について語り合っています。
309人間七七四年:2009/03/25(水) 00:44:03 ID:HmK/xIEk
ハンニバルは各兵種の特徴をうまく用いて包囲殲滅した。
そのなかで騎兵は機動性を生かして包囲の蓋を閉めた感じ
鶴翼の陣形の理想的な運用をしたイメージなんだが

ペルシャにしろカルタゴにしろ戦場は乾いた平原主体だから日本とは比較できないな。
310人間七七四年:2009/03/27(金) 07:25:28 ID:Oc6hoagy
平野あったら田んぼにするからなあ。>昔の日本
311人間七七四年:2009/03/28(土) 09:45:58 ID:GI/o3+i8
>>310
それはことなるんじゃないかな?
平地は、排水が悪くてかえって田にしにくかった。
やや高地が田になるんじゃない?

あと、肥料とり用原っぱもいっぱいあったようだよ。
関ヶ原とかは、原っぱっぽい
312人間七七四年:2009/03/28(土) 13:50:00 ID:dorp/C+R
平野が開墾されて田畑になるのは治水が進んだ江戸時代になってからだね
それ以前は谷地田が多い
山間なんかの水があって、かつ水はけの良い土地で耕作やってたんだよ
現在ダムに沈んでるような山間の村を想像すると分かりやすいかもしれない
あとは河川の下流部なんかの自然に出来た湿地帯で稲作をやっていた
つまり当時の日本には
大規模な軍事行動が可能な乾いた平野がわりとあったらしいという事
313人間七七四年:2009/03/28(土) 18:31:05 ID:tv8JPQHe
古代条里制の時代から平野の大部分は水田として開発されてるよ。
現存する条里制の跡を見ればわかる。
田畑として不向きなのは、湖沼周辺・大河川周辺・沿岸といった
平野の中でも特に低湿な土地。
水田化できないような低湿地の場合、それこそ大規模軍隊の展開
には不向き。
一方、牧草地は山麓や丘陵地といった少し高地に設けられることが多かった。
314人間七七四年:2009/03/28(土) 20:46:09 ID:6g8fBJ43
ハンニバル、ハミルカル、ハスドルバル
カルタゴ人ってこの三つくらいしか名前無いみたいなことになってて面白いね。(あとハンノ
315人間七七四年:2009/03/29(日) 10:11:39 ID:og++kItJ
>>314
カルタゴの歴史を扱った本を読んでいたら
「敗戦の責を負わされ処刑されたハンニバルの後任の将軍はハンニバル。」
というような記述があって吹いたw
316人間七七四年:2009/03/29(日) 14:59:47 ID:LGFoVp3W
大ハンニバルとか小ハンニバルとか誰が誰やら…

どうでもいいが、ハンニバルの父親の名がバルセロナの由来。(バルカス将軍)
317人間七七四年:2009/03/30(月) 15:13:31 ID:v6eO/w2p
>>313 昭和のおわり位ならまだ小さな草原とかあったけどな<北陸
318人間七七四年:2009/03/30(月) 18:14:13 ID:uOUsudAO
日本で草原と言えばほとんど山地丘陵地でしょ。
こないだ大分の由布で野焼き中の死亡事故があったけど
大抵は人為的に山地丘陵地を焼いて草原化させてるみたい。

現在は休耕田とかあるけどね。
319人間七七四年:2009/03/31(火) 16:38:21 ID:e70Ets30
当時の山野は、基本はげ山はげ野原多かったはず。
大給松平家の記録に、山が切り尽くされて税が取れない、なんてあるし。
しかも戦場なら陣地構築やら炊事やら陣の周りの木や草は根こそぎだな。

だから戦場の視界は結構良かったと思うよ。
視界良ければ、大規模な軍が展開できるし、関ヶ原なんてソレの例だと思う。
320人間七七四年:2009/04/01(水) 15:06:19 ID:l9WXpKlA
京都の東山は幕末頃は禿山だったそうだね。
でも戦国当時の山野が、基本的に禿山禿野だったっていうのもどかなぁ

当時の建物は庶民の民家も上流階層の邸宅も全て多種多様な木を建材
として造られていて、そのための木材は持続的に供給されている。
他に炊事に使う薪も持続的に利用されていた。
もし当時の山野が禿げが基本なら、それらの木材や薪を持続的に供給出来ないはず。
「山が切り尽くされて税が取れない」という例が当時一般的だったとは限らないし、
むしろこれは切り尽されるまでは木が生えてたという記録でもあるわけだしね。

おそらく木材の需要が自然の森林再生能力や人為的な植林による再生産能力
といった木材の供給能力を超えた場合に山が禿山化するんだと思う。
その需要が供給を上回る事態は最初に挙げた京都東山のように人口密集地に
隣接する山では起きやすく、近隣に人口密集地を有さない地域では起こりに
くいんじゃないかと思う。
321人間七七四年:2009/04/01(水) 20:19:30 ID:LlpfFs+V
>>320
今のアフリカのように、炊事などに雑木を使うとかなり簡単に禿げ山になりますよ。
また植生移相からみて草地→松なので、
日本に多い松林は、かなり禿げ山が存在していた証拠になると思います。

さらに戦争では無制限、秀吉の小田原攻めで三島神社の木が全部切られたり、
神域すら伐採対象になりました。
煩雑な戦が多かった時代には人里近くはほとんど禿かかってたんじゃないかと思いますねぇ……
322人間七七四年:2009/04/01(水) 23:25:33 ID:l9WXpKlA
アフリカ乾燥地帯とは違うし
日本における松林面積の比率は低いし
小田原攻めで木が伐採されたということはそれまで木が存在した証拠だし
日本で秀吉軍以外ではあり得ない大軍が密集するという事情で禿げたってことでしょ

もし禿山になってたなら木材や薪はどうやって入手してたの?
323人間七七四年:2009/04/01(水) 23:30:16 ID:MaYuoPgA
禿げてない山まで取りに行ってたんだろう
324人間七七四年:2009/04/01(水) 23:35:45 ID:l9WXpKlA
ttp://had0.big.ous.ac.jp/gakunai/vegetation/succession/succession2.htm
A.クヌギ−コナラ型薪炭林
 コナラ・クヌギ・アベマキ・クリなどの落葉広葉樹を優占種とする二次
林。関東平野において農用林として維持されてきた「武蔵野の雑木林」が有
名。クヌギ・コナラなどの高木種は伐採された切り株からの萌芽再生によっ
て更新する。典型的な例では、萌芽した芽は勢いのよいものを1〜3本程度
残すなどの管理を行う。高木種は薪や炭の生産に好適なサイズになった段階で伐採される。
(中略)
このようなタイプの薪炭林維持が広く行われてきたものと考えられる。基本
的には農用林であるので、全国各地においても集落の周辺などで維持されて
きた。
325人間七七四年:2009/04/01(水) 23:46:27 ID:l9WXpKlA
樹木が伐採されても地下部や切り株からも再生するそうです。
ttp://had0.big.ous.ac.jp/gakunai/vegetation/succession/succession7.htm
326人間七七四年:2009/04/02(木) 00:22:47 ID:ani3aOZ0
城や砦が立ってる山は敵が隠れられないように気を切るのは常識。

薪でハゲ山になるのはどうなんだろう。入相を上手にやれば、ハゲ山になることはないはず。なってるんなら、なんかの緊急事態。
327人間七七四年:2009/04/02(木) 00:47:30 ID:B5jdVv/o
盛本昌広『軍需物資から見た戦国合戦』を参照。

戦国大名が重要な軍需物資である木材の調達確保に気を使っていること、
その為に森林保護などの政策も取られていたことなどが紹介されてます。
328人間七七四年:2009/04/02(木) 02:30:53 ID:7fMp1vNZ
>>327の本のなかにも、室町戦国時代の”山やせ”の説明がありますよ。
ちなみに日本の山林のほとんどが”二次原生林”です。

つか、平時管理されてる山ですら”山やせ”の記録が残ってるし、
戦場では炊事以外にも篝火だとか陣地構築とかに必要で根こそぎ伐採してますよ。

今の日本に神域にしか大木が残ってない(そこすら無いところがある)という事実が、
昔は禿げ山が多かったことを示唆してるんじゃないかと。
329人間七七四年:2009/04/02(木) 04:41:05 ID:dNrDSwYH
少なくとも江戸時代には結構植林やってるみたいだけどね
330人間七七四年:2009/04/02(木) 04:48:20 ID:XkTQbMQ1
>>306
ハンニバル騎兵の主力は、子飼いのカルタゴ貴族騎兵ではなく傭兵的なヌミディア騎兵。
甲冑のような重装備はないが、勇猛で投げ槍等の投射と機動性に優れていた。
有名なカンナエ戦では、あえて片翼に騎兵を集中→短時間で前面の敵を撃破→片翼に回り込んで残りも撃破
そして全軍と連動しての包囲殲滅のための敵退路遮断、と騎兵の機動性を最大限にいかしていた。
両翼均等が常識だった時代に、あえて片方だけ重点を置いた戦いは、歩兵なら例はあったが(ギリシア都市国家の斜線陣)騎兵ではあまり見られなかった行為。
それを成功させたことで、戦史に名声を打ち立てたわけだ。
331人間七七四年:2009/04/02(木) 13:11:12 ID:7fMp1vNZ
>>330
>片翼に回り込んで残りも撃破
当時の他の名将のこと、ハンニバル自身が自分より名将と評価したアレキサンダー大王、ピュロス王ついてもお調べになると良いかと。

ちなみにカンナエで片翼騎兵集中は初耳です。
左翼(ハスバドル指揮ヒスパニア・ケルト騎兵)中央歩兵主力、右翼(ハンノ指揮ヌミディア騎兵)
で、左翼が最初にローマ騎兵を敗走させたはずですが……

カンナエ以後、ハンニバルはイタリア半島に居座ったわけですが、
撤退時には歩兵部隊だけ、騎兵なんて無くてもハンニバルはそれまで不敗だったんですよ。
”騎兵”の扱いがうまい、じゃなくて、本当に優秀な作戦指揮官、との評価が普通では。
332人間七七四年:2009/04/02(木) 18:19:34 ID:I89ewrkz
アレキサンダーらの戦術は、重騎兵を主力にして、歩兵のバックボーンと合わせて粉砕する
「床と金槌」だからね。
ヘレニズム諸国の騎兵は、国王に仕えkる貴族だったが、ハンニバルのそれは傭兵に過ぎんのにここまでうまく使ったんだから、統制力もかなりのものだろう。
もっとも、それゆえの弱みはついてまわり、ヌミディアの王家争いのために彼らがローマにつくと逆にスキピオによってヌミディア騎兵をうまく使われて撃破されてしまうが。
333人間七七四年:2009/04/02(木) 18:43:16 ID:I89ewrkz
ハンニバルは、ケルト騎兵とヒスパニア騎兵を左翼に集中させ、騎兵同士の戦いで速やかな撃破を可能にした。
元々騎兵戦力では優勢だったこと、ヌミディア騎兵なら質的にも優位なこと、は計算済みだっただろう。
最終的に敗北したザマの戦いにおいても、ハンニバルは劣勢の騎兵を敵騎兵の誘引に用い、一時的に主戦から引き剥がしていたりする。
そもそも軽騎兵が存在しなかった戦国日本では、やりたくてもできなかっただろうが。
334人間七七四年:2009/04/02(木) 22:18:45 ID:pnsiIxOx
どうやら俺は世界史板に迷い込んでしまったようだ
335人間七七四年:2009/04/02(木) 22:39:06 ID:akEBirD5
>>328
”山やせ”を記録に残す。
即ち”山やせ”が異状な事態であったという証だな
もし禿山が当たり前だったなら、敢えて”山やせ”を記録に残したりはしないだろう
336人間七七四年:2009/04/02(木) 22:42:29 ID:N+P30ZaG
そんな幼稚な論法つかうなよ
337人間七七四年:2009/04/02(木) 23:13:37 ID:ybCLuUH8
いや、>>335の言うことにも一理あるだろう。
こうして議論は深化されていくもんだ。
338人間七七四年:2009/04/03(金) 01:40:18 ID:hb+RA5Av
日本の山が一般的に禿山であったという主張では
日本で永続的に木材と薪炭が供給されていた事実の説明がつかない

また以下の常識的見解を根底から否定するものでもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%8C%E8%8A%BD%E6%9B%B4%E6%96%B0
>萌芽更新による森林は、定期的に伐採を行っても再生を繰り返す、永続的な資源となることから、入会地として地域で管理されているものも多かった。
>かつては、薪炭生産を行っていた日本の里山で、萌芽更新による森林は普遍的に見受けられた。

日本の自然環境では態々人為的に野焼きしなければ草原は森林へと遷移する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%84%BC%E3%81%8D


一部に存在する禿山化の記録は非一般的事態だからこそ特筆されたと見るべきで
このような非一般的事態をあたかも一般的状況であるかのように述べるのは適切ではない。
339人間七七四年:2009/04/03(金) 03:45:46 ID:A6QVEUq0
>>338
…戦国時代の話ですよね??

日本の山は基本伐採と植林で管理されて維持されてきた、という点は私も同意見ですよ。
でも禿げ山という言葉は平安時代から使われていました。いつも山林管理が完全なわけではないのです。
たとえば美濃守護代が汾陽寺に、境内の木をみだりに切って”山すき”になったら処罰する、という書状を送っています(1524)。
これは平時ですら、かなりの伐採が山林保護の役割を果たしていた寺内ですら行われたことを示しています。

そして合戦になれば、そういう制限すら無視され伐採されたようです。
たとえば秀吉の小田原攻めの際に松田康長が書いた書状に、三島神社の境内は根こそぎ伐採された、という記述があります。
合戦が行われる場所ではこのように通常保護されている場所でも禿げ山と化しました。

また戦国時代は川の流れが現在の形に決まるほど大洪水も多かったのです。
たとえば木曽川がそうですし、また利根川も上流の土砂流出のため流域を変えています。
これは上流で山の保全がなされていなかった結果、とみられ、
江戸時代移行保護された後はこれほどの変化は見られません。

”非一般的事態”という言葉の意味がわかりませんが、
「戦国時代はかなり山が荒れていた」
…ということは言えると思いますよ。
340人間七七四年:2009/04/03(金) 12:33:17 ID:PXeK83kt
木材は燃料・家屋建材のような日常にも、
防御施設構築のように戦時でも消費したからね。
後方からえっちらおっちら木材運搬する手間なんかとらないだろうし。
(長篠合戦では、信長が兵士らに馬防柵用の材料を携行させた、とかいわれるがこれはドラマの創作だし)
341人間七七四年:2009/04/03(金) 12:40:29 ID:ltMKe4S+
まるで日本中が禿山だらけのようだな
んなわけねーだろ
当時の人口から考えても禿山だらけになるわけない
部屋に閉じこもってないで外にいけよ
日本は広いんだよ
342人間七七四年:2009/04/03(金) 13:01:41 ID:0a6DGgCO
河川沿いは運搬しやすいから集中的に伐採されてただろうね
343人間七七四年:2009/04/03(金) 13:06:29 ID:PXeK83kt
明治24年に牧野富太郎博士が、六甲山一帯が禿山だったことを記録している。
これも現在は回復しているが、戦国は無論、江戸時代でも継続的な伐採が行われたからな。
田中 淳夫「森林からのニッポン再生」によると、地方(燃料として木材を多量に必要とした製鉄産業地など)にマツ林が多いのは、
伐採を続け土壌が酷使されたため、マツ類のような強い木以外は残りにくかったからだそうだ。
344仙台藩百姓:2009/04/03(金) 13:40:11 ID:qde4sXA2
川が氾濫しなくなったのは河川工事とダムで水量調整してるからだお( ^ω^)
今は河川工事やらなかったら昔より酷い事になるお
近代は杉や桧の植林ブームで山に保水力がなくなったのもあるけど
気象がおかしいのが最大の原因だお
特にここ十数年は酷い有様だお┐ (´ω`) ┌
過去千年間ぐらいでは今が最悪かもしれんお
345人間七七四年:2009/04/03(金) 17:17:34 ID:ltMKe4S+
戦国時代の日本は全土が禿まくりでした
燃料や家屋のために伐採しまくったからですってか?
ありえねーよ
当時の人口考えろや
どう考えても禿山あるのは都市部周辺等の人口密集地だけだろ

346人間七七四年:2009/04/03(金) 19:05:38 ID:uspVG1qv
勝手に日本全土禿山説を唱えて自ら否定とな
347人間七七四年:2009/04/03(金) 21:02:03 ID:xhApPZn4
誰かタイムマシーンで戦国時代に行って確かめてきてよ。
348人間七七四年:2009/04/03(金) 21:12:50 ID:wU3KmDEf
ていうか日本史、いや世界史はタイムマシーンでもないと分からないような謎大杉
349人間七七四年:2009/04/03(金) 21:28:17 ID:EtIaJCGD
桶狭間は、だまし討ち

鷹取城、大高城を落とされた時点で奇襲は不可能
350人間七七四年:2009/04/03(金) 22:15:08 ID:hb+RA5Av
>>339
どこどこが禿山化したというの記録があったなら、そればその場所が禿山化していたと書いてあるだけで、それを一般的に日本の山林が禿山化していたかのようにいうならそれは飛躍しすぎ。
小田原の秀吉軍の例を出しているけど、秀吉軍は20万とも30万とも言われる大軍であるため当然薪炭や木材の消費量は特別に多くなる。
そんな大軍は秀吉軍以外には存在しない。さらに秀吉は合戦のたびに大規模な土木工事を行うことが多いため特別に多くの木材が消費される。
すなわち秀吉軍は戦国時代の軍隊の中で非一般的な存在であるということ。
そしてこのような特別に大量消費を行う軍が小田原付近で作戦展開したのは1590年のたった一度だけでしかない。
長い戦国時代の中でったった一度起こっただけの事態を戦国時代の一般的事態であるかのようにいってはいけない。

川の流路変更について山林が禿山化していたことが原因のようにいっているが、なぜそれを当時の河川の堤防の整備状況に起因すると考えずに山林の禿山化に起因すると考えるの?
351人間七七四年:2009/04/03(金) 22:21:38 ID:hb+RA5Av
>>343
>明治24年に牧野富太郎博士が、六甲山一帯が禿山だったことを記録している。
神戸や大阪といった人口密集地近郊の事例だね。

>田中 淳夫「森林からのニッポン再生」によると、地方(燃料として木材を多量に必要とした製鉄産業地など)にマツ林が多いのは、
伐採を続け土壌が酷使されたため、マツ類のような強い木以外は残りにくかったからだそうだ。
これも特別に木が大量消費される場所の事例だね。

どちらも一般的な地域の事例ではないね。
352人間七七四年:2009/04/03(金) 22:46:52 ID:ScOajusg
日本は広いが、人が住みやすい環境となると当然限られる。
さらに合戦時に集中するような要地は、当然なんども舞台になるし、
人口密集地なら尚更。
そら、当時人がろくに入り込まなかった地域は自然豊かだっただろうさw
353人間七七四年:2009/04/03(金) 23:19:59 ID:PsDYDSRf
当時の輸送力で遠方から木材を運ぶといっても限度があるし
人口密集地や人の往来がある地域では伐採が進む
結果必要としている地域で木材が不足するということだな
354人間七七四年:2009/04/04(土) 00:09:22 ID:rMiiUpQW
禿山化してきたから伐採禁止森林保護というのは、それまでは禿山でなく
伐採が可能だったということだからなあ。
355人間七七四年:2009/04/04(土) 02:01:39 ID:DjtvvE9c
要するに禿山派は黒澤映画のような荒野が広がっていて
映画のように騎兵が駆け回っていたと思いたいわけだな
妄想もほどほどにな
356人間七七四年:2009/04/04(土) 02:31:10 ID:aq4UdlKp
(*´・ω・)(・ω・`*)ねー
357人間七七四年:2009/04/04(土) 03:08:04 ID:YXu4bj2Q
材木、といっても(先の人が住みやすいところにも重なる話だが)人間の使いやすい材木は限られていたからな。
史料があまり残っていない森林関係でも、やっぱり後北条が杉・檜の伐採を禁令にして、一年で伐れる量を制限したりとか残っているからな。
甲斐武田氏も勝手に木を切らないように専門の警備をおいたぐらい(山守衆)
358人間七七四年:2009/04/04(土) 03:35:08 ID:FpFbwwKx
>>355
合戦はじまるなら木なんて視界遮るものは刈られてるだろうし、
基本人間の生活圏内の重要な場所で起こる事件だし、
黒沢映画みたいに町の外には荒野が広がってる、ってイメージでおかしいとこはないかと。
(つか黒沢映画ってそこらの考証はかなり監督自身が研究してたんじゃなかったでしたっけ?)

>>357
戦国時代の”山守”は保護するだけでなく植林の方が重要でしたよ。
北条氏房が深井氏に栗の植林やらせてましたし。
上野国長楽寺では実際苗木からの植林が行われていましたし、
”はやす”は治山行政として一般的だったんじゃないですかねぇ。
359人間七七四年:2009/04/04(土) 07:42:44 ID:W6IBXCR+
たとえば羽柴秀吉は、籠城戦に数年かけて兵糧攻めをしたわけだけど、秀吉軍が帯陣してた山の周囲の山ははやっぱりハゲ山になったんだろうね。

もう一つ詳しい方がいたら、教えてほしいことがあるんだけど、それが「し尿の処理」

数万の人間が、大小をしたらすごい量になるはず。それを垂れ流し状態になったら飲料水に交じって、疫病の原因になると思ううんだけど。
360人間七七四年:2009/04/04(土) 11:55:30 ID:Niw6oQsW
>>359
WW2の日本軍とかどうしていたんだ?
狭い島に数万人こもっているわけで
361人間七七四年:2009/04/04(土) 15:08:15 ID:W6IBXCR+
>>360
 確か近代的な軍隊には、「防疫給水」担当の部隊がいたんだっけ?
関東軍の例の部隊は表向き「防疫給水部隊」ってことになってたんだよな。

第2次世界大戦に参加した90歳くらいのおじいちゃんが書き込んでくれたらありがたいんだけどw
阪神大震災の時は、自衛隊が被災者のために、穴と板2枚のトイレをたくさん作ったよね。
362人間七七四年:2009/04/05(日) 01:57:36 ID:6jaN+rWm
(´・∀・`)へぇ〜
363人間七七四年:2009/04/05(日) 07:36:22 ID:S0Pac/4S
硫黄島の洞窟陣地なんて糞尿まみれで、息もできないくらい酷いことになっていたとか
364人間七七四年:2009/04/05(日) 10:02:26 ID:3uNQEI7j
そういや平城京→平安京への遷都理由に平城京にはろくな河川が
流れ込んでいなくて廃棄物流せなかったからってのどっかで見たな

平安京は桂川鴨川とあって偶に氾濫したがバンバン流せて便利
365人間七七四年:2009/04/05(日) 13:02:49 ID:leqmam5L
>>359
そもそも視界や軍勢が駐屯する場所を確保をする必要上、周辺の木は切らなければならない。
それを陣城や砦などの建設にあてる訳だ。
「し尿の処理」は、一旦桶などに溜め込み、遠方まで運んで捨ててたらしい。

そういえば今のヨーロッパは広大な平原が広がっているが、
かつてはあれは森だったんだよね。
日本は温暖湿潤なので木を切り倒しても復活するのが早いけど、
乾燥しがちで寒冷なヨーロッパではそうはいかないようだ。
366人間七七四年:2009/04/05(日) 13:07:50 ID:leqmam5L
>>363
洞窟陣地は外に開けた場所にトイレ作ったよ。
息も出来ないぐらい酷いのは「硫黄島」の名称通り、
火山島なので硫黄臭が充満してるって話を勘違いしてるのかと。
367人間七七四年:2009/04/05(日) 13:46:01 ID:qzjbSwPj
禿山派は禿山=草原で馬が駆け回れるとか思ってるようだが
それは無理だよ
伐採は根っこごと取るわけじゃないから
切り株は残るわけね
そんな馬が駆け回れるような草原にはならないよ
368人間七七四年:2009/04/05(日) 14:48:49 ID:Sf9NJU9i
>>366
戦闘が始まってからでしょ 
369人間七七四年:2009/04/05(日) 15:01:14 ID:WgMTwjKl
江戸時代だと、し尿は貴重な肥料の原料で。農家が買い付けにきたりしたそうだけど。
戦国時代でも、戦場周辺の農民がせめてこれぐらいは、と利用してたりするんだろうか。
370人間七七四年:2009/04/05(日) 16:01:42 ID:qPgeQdkO
>>367
騎兵に対してなんか偏見持っておられません?

平家物語なんてallcast騎兵なのに山やら崖やらあらゆるところで戦ってますぞ
戦国時代の騎兵の使われ方もソレとそう変わらなかったかと
371人間七七四年:2009/04/05(日) 16:26:30 ID:0u96RbwO
戦国の騎兵(これ自体が馬を養え、かつ乗ることを許された特権層なわけだが)は、下馬して戦うのが基本になってたしね。
フロイスの日本史でも、甲陽軍鑑でもそうだし
突撃するような例はごく少ない
372人間七七四年:2009/04/05(日) 16:29:10 ID:5AdLWaqL
それが最近は見方がかわりつつある。
一次史料でも「鑓をあわせているところへ馬を乗り入れ」など、
騎馬隊の突撃としか思えない描写が多い。
鈴木・藤木両氏はこれを事実ではなく表現の一種と強引に言い放っているみたいだけれどね。
373人間七七四年:2009/04/05(日) 16:48:03 ID:0u96RbwO
>>372
いや、全否定は間違いだけども、少数例なのは事実でしょう。
馬それ自体が貴重品だし、兵士の身分の問題もある。
長篠合戦では、家康が相手の「馬一筋」と騎乗攻撃を警戒するように指示したことを伺わせる記述があるが、
逆にいえば常態化とはほどとおい特殊な戦いだったのでは?
374人間七七四年:2009/04/05(日) 19:20:16 ID:VEYnihGy
馬産地の東日本とそうでもない西日本の違いだってばよw
375人間七七四年:2009/04/05(日) 19:48:01 ID:qzjbSwPj
どっちにしろ黒沢映画やロードオブリングのように大量の騎兵が集団で暴れいた!
なんてことは有り得ないから
夢見すぎるなよ
376人間七七四年:2009/04/05(日) 19:56:40 ID:8lEtZVwb
支那の乱世とは真逆に、
人口は激増して各藩のGNPも増えて、景気が良かった。
377人間七七四年:2009/04/06(月) 18:39:33 ID:cxWIqJJm
日本の武士、重装弓騎兵っつー珍しいタイプだけども。
長らく武士の戦法の代表だった騎射は戦国時代はどうだったんだろう?
家康が三方原で負けて逃げるとき、追っ手の武田軍を二人ほど射殺したとかは聞いたことあるけど。
378人間七七四年:2009/04/06(月) 19:02:48 ID:n9/eMsix
騎馬隊を否定する史料を再検討すべき。
宣教師の知識は西国に偏るし、
甲陽軍鑑にしても下馬戦闘する習慣がはじまったのは長篠以後と見る向きがある。
東国では長篠までは常用されていた可能性もあるんじゃないか?
379人間七七四年:2009/04/06(月) 19:22:40 ID:cxWIqJJm
>>378
なら、東国では騎馬隊が常備されていた、とかいう史料を探せばいいのでは?
380人間七七四年:2009/04/06(月) 19:33:29 ID:n9/eMsix
黒田基樹が既にやっている。
北条、武田、上杉の軍役では、なぜ騎馬や鉄砲の数が指定されているかと。
381人間七七四年:2009/04/06(月) 19:39:08 ID:QXsgDFvt
関ヶ原で、西軍が突撃してきたので井伊直政は自軍を300mほど後退させて敵を誘い込み、
その側面に細川忠興が”自ら馬を乗り入れ”た(沢村大学覚書)とあるから、
”騎馬突撃”は長篠後も普通に行われていたと思う。
ただ、それを「騎馬隊」と呼ぶかどうかは、微妙なところ??


つかTPOで馬乗ったままだったり降りて戦ったりって、ものすごく普通っぽい話な気が。
馬があるならどっちかじゃなきゃダメなんて、なんか変だよ。
382人間七七四年:2009/04/06(月) 19:39:34 ID:cxWIqJJm
>>380
いやそれは西国に属する織田家の明智軍法なんかでも同じだし。
383人間七七四年:2009/04/06(月) 20:09:57 ID:uuRYT/og
常設編制の、騎兵だけを集めた騎馬隊、というのはなかっただろうね。
臨時に足軽を集めて槍衾作らせたりしたように、一時的に集めて、という用法はあったかもしれないが。
個々の判断でやってたんでしょ。
当時の武士は、同一の操典があったわけじゃなくて訓練も教育も個々の家単位だったしな。
兵としての統一性が低いし。
384人間七七四年:2009/04/06(月) 22:09:17 ID:JkPOCFpT
そもそも日本は歩兵、弓兵、騎兵って定義が凄く曖昧で割と臨機応変にやる感じだったんじゃ?
385人間七七四年:2009/04/06(月) 22:24:25 ID:16eqFhJO
そこら辺は足軽がいつ頃から正面戦力として用いられるようになったか
応仁の乱のようなゲリラ戦とは違い、通常の武士団と共に戦うようになったのが
何時からという大問題がある
386人間七七四年:2009/04/06(月) 22:56:51 ID:UMQ7sN9c
笑われるかもしれないけど、おれはそもそも、「騎兵」ってのがどういうものなのかわからないw
単純に兵士が馬に乗ってれば「騎兵」なの?

戦国時代の侍はある程度身分が高くなければ馬に乗れなかったはずだけど。
「出世する」という意味で、「馬乗りの士になる」とかいうよね。

「坂の上の雲」に、秋山兄が秋山弟に「騎兵とは何ぞや」を教えるシーンがあるけど、あれ読んでもやっぱりわからないw
387人間七七四年:2009/04/06(月) 23:40:59 ID:uuRYT/og
騎兵が馬を下りて戦うこと自体は、常設的な騎兵があった外国でもかわらないしね。
東ローマ帝国の騎兵が、ゴート族との戦いで馬を下りて槍兵がわりになったり。
388人間七七四年:2009/04/07(火) 08:10:51 ID:qRI42GJE
イングランドだと下馬して戦うことが殆どだったそうな。
389人間七七四年:2009/04/07(火) 08:54:48 ID:FlYoq7DO
>>386
戦国武将とかの騎乗の士は歩兵の指揮官が馬にのったやつ
騎兵隊ってのは騎馬にのって作戦を行う隊で
騎兵は騎兵隊の兵士
ってことじゃね?
390人間七七四年:2009/04/07(火) 09:35:41 ID:VFltXAS+
>>389
戦国時代の騎馬隊は騎乗武士とその従者が基本単位だけど
従者は1〜2人だから騎馬武者の集まったのが騎馬隊と言ってもよいかと
但し、20〜50騎程度だけどね
391人間七七四年:2009/04/07(火) 13:34:06 ID:uCL/XbeC
>>387 389
馬から降りたあと、馬はどうするの?その辺にウロウロさせとくのかな?
それともどっかにつないだり、誰かにタズナ持ってもらったりするの?
392人間七七四年:2009/04/07(火) 14:00:34 ID:hBEmcNJ3
戦国も後期、信長らの時代では、騎馬武者は奉行にまとめて率いられ、
従者は従者でまとめられてたそうだがな。
鈴木某とか、同じ戦国って括りで100年の歴史を一つにしてるから訳分からんよね。
393人間七七四年:2009/04/07(火) 14:50:28 ID:IMrg1cMa
>>391
戦国時代の武士には、非戦闘員含む供が何人もついた。
彼の中には馬の口取り専門のものもいたそうだから、預けたんじゃないの?

>>392
まとめられたのはあくまでも臨時でしょ。
馬乗り身分のものは、自分の連れてきた兵士の指揮をして面倒みなきゃならんのだから。
常設の騎馬編制は無理だよ。
考えられるとすれば、部下もたないで自分だけで戦うような下級の一家臣にも馬を与えられるほど裕福(かつ騎馬を重視した)なケースだけども。史料にはないし。
394人間七七四年:2009/04/07(火) 15:14:37 ID:YRnBc9ak
いやたしかに騎馬隊などの記述は無いが
信長が道三の所へ鉄砲や長槍など種類別に別けて行軍している
話しもあるし他国も似たようなものなのでしょう
騎馬だけはどの国も専用部隊を作らなかったと考えるのは変では?
という考え方だとおも
395人間七七四年:2009/04/07(火) 15:48:48 ID:gMXKJkKr
徴兵自体に騎馬兵の指定があり、かつ兵農分離が進んだ状態では、
それは”騎兵の常備軍”があった、と言えなくもない?

というか、軍事革命があって騎馬兵の集団行動訓練が常態化するまでは、
本当の”騎兵隊”は存在してなかった気はするけど……
396人間七七四年:2009/04/07(火) 16:15:20 ID:IMrg1cMa
>>394
うーん。どうだろうね。
馬っていうのは当時はただの道具扱いとかじゃなくて、
乗れること自体が一定身分の証明、とかだから。
槍や鉄砲とは同一視できない気もする。
ただでさえ騎馬の組成は軍役上も少数だしね。
全軍の数パーセントしかいない、貴重な指揮官を一箇所にまとめてぶつける、というのはかなり困難だと思う。
397人間七七四年:2009/04/07(火) 16:47:41 ID:VFltXAS+
>>396
武士は指揮官じゃなくて、突撃兵種
それに馬が持てなくても主君から貸し馬をしてもらうという事もある
398人間七七四年:2009/04/07(火) 16:52:18 ID:uCL/XbeC
伊達政宗が、「足軽を馬に乗せて戦につかった」って何かで読んだことがあるような気がする。
偵察隊としてつかったと書いてあったと思う。
399人間七七四年:2009/04/07(火) 16:55:48 ID:gMXKJkKr
>>396
戦国期武装要語解に載ってる例だと、
二百八十貫余りで要求された総勢36名のうち馬上兵は本人含め8名(22%)とかなり多いぞ。
他内訳はは槍17名(47%)鉄砲2名(6%)弓1名(3%)徒4名(11%)旗指物4名(11%)

ただ馬上には武将自身が含まれているから、槍みたいに集めて即集団で扱うみたいな扱いじゃなくて、
特別な待遇であった気はしますが……
400人間七七四年:2009/04/07(火) 17:01:12 ID:YRnBc9ak
>弓1名(3%) なんだか寂しい編成ですね
401人間七七四年:2009/04/07(火) 17:04:15 ID:IMrg1cMa
>>399
あ、こっちが参考にしたのは、そういった軍役を集めた上杉の軍役張とかだから。
全体の編制の話、ね。
402人間七七四年:2009/04/07(火) 17:09:35 ID:/s53erP6
軍役の兵科は武将などの指揮官は含まれていないだろう。
403人間七七四年:2009/04/07(火) 18:33:40 ID:Fj/a847i
上杉は槍の比率高いんだよね。
矢戦に応じないで、いきなり突っ込むんだとか

ちなみに、軍役帳は後期になるほど鉄砲が増え、槍が減る。
404人間七七四年:2009/04/07(火) 19:59:45 ID:qRI42GJE
>>395
本当の意味での騎兵の誕生はナポレオンの時代まで待たねばならんのでは無いだろうか
405人間七七四年:2009/04/07(火) 20:01:53 ID:gMXKJkKr
>>401
「上杉家軍役帳」でも総勢5553名のうち馬上566名(10%)
他は武将39名(1%)槍3609名(65%)鉄砲316名(6%)手明650名(12%)旗持368名(7%)

これだと騎馬兵は”乗り入れる”ような突撃に使うためにまとめて運用してた規模だと思うけど
406人間七七四年:2009/04/07(火) 21:40:50 ID:kEx7Nflb
当時の馬は小柄で装備重い武士のせたらたいして速度でないし。
暴露面積が大きいから、相手の投射武器のいい的だからな。
馬上の身分のものが打たれたらその家は大混乱だし、無理でしょ。
407人間七七四年:2009/04/07(火) 21:52:41 ID:VFltXAS+
>>406
雑兵物語には騎馬で突っ込む話やそれに対する対処法が載っている
騎乗なのだから走るより速いしその分、敵の対処時間が短くなる
408人間七七四年:2009/04/07(火) 21:59:20 ID:rZHPYUI+
「信長公記」長篠の合戦の記述

家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ
 (中略)
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。
409人間七七四年:2009/04/07(火) 22:04:24 ID:kEx7Nflb
>>407
同時に雑兵物語には、騎馬の武士は滅多に見かけず、馬は戦場までの運搬のために用いられたとある。
日本史等と同じ。
常用は到底無理の戦法のために常設部隊をもってたら、そのほうが不合理じゃないの?
410人間七七四年:2009/04/07(火) 22:14:23 ID:kEx7Nflb
もし馬上突撃があるとしても、騎馬の廻りは歩卒がいたんだろう。
当時はそういう軍編制だったし、第一単一兵科だと柔軟性がない。
敵が対騎馬だったらその時点であぼん。
いってみれば遅く、少数の戦車が多数の歩兵を従える形だったんだろうね。
411人間七七四年:2009/04/07(火) 22:23:33 ID:VFltXAS+
>>409
それは書かれた当時(大坂・島原)で、その頃は騎馬突撃は珍しいとある
なら、それより前はよくあったという事でしょうよ
412人間七七四年:2009/04/07(火) 22:24:59 ID:VFltXAS+
>>410
後、騎馬武者の従卒は1〜2人
突撃に後続させれば問題なし、投射兵器の射程を駆け抜けるだけだから
直ぐに追いつくし
413人間七七四年:2009/04/08(水) 00:53:52 ID:WaRD0V79
日本原産馬が、より軽い装備の明治期の兵士を乗せてさえ突撃できる馬格を手に入れたのは明治期の改良後からだし。
物理的に無理なんじゃ? そんなのろい突撃、いい的でしょ。
特に鉄砲が出回ってから武士の鎧はさらに重装備化したし。
414人間七七四年:2009/04/08(水) 00:57:40 ID:Uy0vd79y
>>409
大阪の役は湿地帯での遭遇戦や攻城が主だったから騎馬突撃する余地なかっただけでは?
遭遇戦だった関ヶ原では、騎馬での突撃は多く残ってますよ。

つか”槍の集団運用”というのがくせ者で、これしたら騎馬兵は前線に必要ないから後備に。
必然、騎馬集団できあがっちゃうんですよねぇ……

”騎馬隊”と意識していたとは思わないけど、騎馬兵だけの突撃、は普通だったんじゃないかなぁ
415人間七七四年:2009/04/08(水) 01:10:30 ID:dcscQD3h
歩兵に守られる騎乗の指揮官と、
集団運用される騎馬武者部隊とは区別して考えたほうがよいだろうね。
416人間七七四年:2009/04/08(水) 01:15:36 ID:WaRD0V79
また、西洋の騎士は突撃を主要としていたが(トーナメントの語源)そのための武具も発達した。
具体的には鎧と槍を結合して、強烈な衝撃に耐えるようにな。
でも日本の槍にそんな装備はないし。
せいぜい近づいてきた相手を馬上から振り下ろす武器で追いはらうぐらいじゃないの?
417人間七七四年:2009/04/08(水) 01:57:16 ID:dcscQD3h
>>416
日本の三間槍は殺傷力が弱いのですが、
その役割は敵個人に被害を与えるのではなく、
密集する敵部隊を乱すことにあったのではないでしょうか。
日本の騎馬隊もこれ同様に突撃して相手を散らばらせるのが
主な用途だったんじゃないでしょうか。
418人間七七四年:2009/04/08(水) 02:24:08 ID:WaRD0V79
>>417
難しいだろうね。
密集陣っていうのは、それこそ騎馬が一番苦手とする相手。
槍を構えて戦陣組まれると、馬体と上体さらす騎兵はいい的。
軽騎兵なら側面背後に回りこめるかもしれないが。当時の日本にはこの兵科すらないし。
むしろ鉄砲とかで相手崩したときに突撃させる、予備決戦兵力的な使い方じゃないのかな、るとしても。
419人間七七四年:2009/04/08(水) 04:00:57 ID:Uy0vd79y
>>408
日本で”密集陣”つかってことあったっけ?? 横一列って話はあるけど。

まぁ>>417の言うとおり”横やり”専門だったのかもねぇ
つか個人被害って、槍持ってる足軽なぞ誰も殺りにこないと思うんだが……
420人間七七四年:2009/04/08(水) 04:05:18 ID:WaRD0V79
>>419
現在にも伝わる、武田の槍隊遣いがあるが。
それによると、立つ〜からほとんど槍を水平に寝かせる、の三段の槍構えをするそうだよ。
でかい盾もったローマあたりの重装備歩兵ほどじゃないが十分厄介じゃ?
421人間七七四年:2009/04/08(水) 05:21:46 ID:Uy0vd79y
>>420
日本の合戦では槍って接敵して”叩き合い”しますよね?
その時点で槍自体消耗するわけで、それだと接敵後”槍衾”の効果なくなりません?
パイク兵の槍衾(4段)は完全に騎兵用の防御専用で
日本のように攻撃兵種での3段とは、比較できないのじゃないかと……

槍が攻撃兵種だったのは、ギリシアかマケドニアのファランクスで
その場合の密集体型は完全に8x8の方形、
これくらいでないと”槍衾”を戦の間維持できないような気がするのですが。
422人間七七四年:2009/04/08(水) 09:39:59 ID:zJgmN9Gu
>>420
その三段の出典教えてくれますか?
私は常に一列横隊しかないと考えているので
423人間七七四年:2009/04/08(水) 10:49:18 ID:G/1qVhLe
>>421
槍は上から叩けと教えてる物もあれば下から中段めがけて突きまくれ
って物もあるし一言では言えない
424人間七七四年:2009/04/08(水) 12:31:06 ID:WaRD0V79
>>422
川中島合戦の祭りとかにも出ているので、地元の保存会に問い合わせては。
そこまでする気がないのなら、確か最近の歴史群像の『戦国合戦入門』 にも載っていたと思うのでそちらを。
425人間七七四年:2009/04/08(水) 14:10:58 ID:zJgmN9Gu
>>424
前者は知らないけど、後者は出典ゼロ
昔は槍の数が多いから三段と言う安易な考えでやっている(後、欧州の受け売り)

自分としては一列横隊ごとに指揮官が指揮していると考えている
少なくとも自分が知る限りで、戦国期で方形陣を形成していたという資料は見たことがない
426人間七七四年:2009/04/08(水) 14:42:11 ID:WaRD0V79
>>425
それこそ一段限定、という史料こそ見たことないわけだし。
あと出典なしって、本当に読んだの? 武田家軍法なんて、現代にもかなり残っているわけだが。
427人間七七四年:2009/04/08(水) 15:01:45 ID:WaRD0V79
絵史料でいえば、関ヶ原合戦図屏風のようなものがある。
これも、一列ではなく弓形に構え、その備が魚鱗状に構えている。
一つの備えの中でも、馬上武者を中心に槍を立てて後段に控えるものがいるわけだが。
428人間七七四年:2009/04/08(水) 15:09:25 ID:zJgmN9Gu
>>427
いや、槍組なら組頭とその配下の足軽がどのような隊形をとっているかを論じている
例えば、その一組が一列横陣で別の兵科組が複数重なって箱型陣形取っても、それは
密集方陣とは言わない

また同じ兵科組が複数並んでいてもそれが密集していなければ、これも密集方陣とは言わない
そういって例がないと自分は言いたい
429人間七七四年:2009/04/08(水) 15:23:30 ID:eY4cSlKQ
世界史を見ても、密集方陣というのはギリシアの重装歩兵のように縦列の衝力で突破するような例を除けば、さほど列重ねないしね。
共和制ローマの歩兵だと、重装歩兵はせいぜい二列+後段の一列(大抵、最古参の精鋭)
横一列にすると、カバーできる範囲は広がるがその分一度突破されたら手当て不能だし。
一列+予備兵力(かならずしもこれも列とは限らないが)というのは、合理性もあるだろう。
430人間七七四年:2009/04/08(水) 15:31:42 ID:eY4cSlKQ
つか戦国時代の槍衾は、一列じゃなくて重層であったって話であって。
それこそマケドニアファランクスが日本にあった、とかいってるわけじゃないのでしょ?
431人間七七四年:2009/04/08(水) 15:44:56 ID:zJgmN9Gu
同じ槍組による重層があったかは疑問
432人間七七四年:2009/04/08(水) 15:47:28 ID:eY4cSlKQ
んで、信長公記の天王寺合戦のときに「三段御備」した足軽を信長が陣頭指揮して突っ込んだとか、おれが知る限りでは三段の足軽が最高だな。
(槍衾つくって突っ込んだか、までは記述がないが)
433人間七七四年:2009/04/08(水) 15:49:43 ID:03oHvWjM
長篠の合戦で撤退を始めた武田軍を追撃した織田軍、返り討ちにあって6000人以上死傷したことはあんまり書かれてないな、歴史家は完勝にしたかったんだろうか?
434人間七七四年:2009/04/08(水) 15:58:48 ID:zJgmN9Gu
>>432
五月七日、御馬を寄せられ、一万五千ばかりの御敵に、纔か三干ばかりにて打
ち向はせられ、御人数三段に御備へなされ、住吉口より懸けらせられ侯。
御先一段佐久間右衛門、松永弾正、永岡兵部大輔、若江衆。
爰にて、荒木摂津守に先を仕り侯へと、仰せられ侯へば、我貼は木津口の推へ
を仕り侯はんと、申し侯て、御請け申さず。信長、後に先をさせ侯はで御満足と
仰せられ侯ヘキ。二段滝川左近、蜂屋兵庫、羽柴筑前、惟住五郎左衛門、稲
葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、
三段御備御馬廻、

足軽三段とは異なるかと
435人間七七四年:2009/04/08(水) 16:07:21 ID:eY4cSlKQ
>>434
いや、なんで後段の

信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、駆け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負はせられ

を抜くわけ?
もしかして議論に勝つこと自体を目的としてミスリードも辞さない方?
だったらレスいらないんだけども。
436人間七七四年:2009/04/08(水) 16:13:09 ID:D+fe6BU7
>>435
横から悪いけど、あんたがあげた
>>信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、駆け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負はせられ
の部分じゃ足軽三段備なんて書いてないじゃん。
ただ信長が先手に交じってあちこち指揮したとしか書いてないよ。
ミスリードしてるのはそっちなんじゃ。
437人間七七四年:2009/04/08(水) 16:13:30 ID:eY4cSlKQ
つまり、他の誰かがいったように、一つの備えの中で槍衾と予備兵という重層があり。
軍全体では備という単位での重層があったと見受けられる。
誰も密集方陣なんていってないのに、いきなりそれだけをいってるように決め付けられてもねぇ。
お前さんの定義なんて、こっちは知らないし。
438人間七七四年:2009/04/08(水) 16:16:48 ID:eY4cSlKQ
いやだから足軽が横一列のみなんてないって話なんだが。
ID変動しているわけじゃなし、いちいち説明つけないとわかってくれないのか。
439人間七七四年:2009/04/08(水) 16:18:27 ID:D+fe6BU7
>>434の部分と>>435の部分は俺も読んだ事があるが、
これは自然に読めば
信長が第一陣を佐久間をはじめとする将に任せ、
第二陣を滝川をはじめとする将に任せ、
第三陣に馬廻りをはじめとする直属部隊を配置し、
自身は先手の足軽に交じって突撃した、になるかと。
足軽三段とは特に読めないと思う。
直属部隊の指揮は誰がとったんだとか大将が足軽に交じって突撃なんかして
全体の指揮はどうするんだという疑問はおおいにあるが。
440人間七七四年:2009/04/08(水) 16:21:46 ID:D+fe6BU7
>>437 >>438
あんたは>>432
>>「三段御備」した足軽を信長が陣頭指揮して突っ込んだとか
と書いているが、これは自然に区切れば
一段 佐久間その他
二段 滝川その他
三段 御備御馬廻り
となるのが自然なわけで。
三段備えした足軽を率いて突っ込んだって書いてはいないよ。
441人間七七四年:2009/04/08(水) 16:26:53 ID:eY4cSlKQ
無論、これがすべてだと断定する気もないけどな。
これがローマ歩兵だと、後列の最古参兵を除けば、投げ槍を携帯しており、後ろで直接戦わない間も支援が可能だった。
しかし戦国時代の日本の足軽は、こういった投射武器を持っていない(槍足軽の場合だが)
出番がくるまで何もしなかったのか、それとも石合戦のように槍じゃなくて石を投げていたのか、という可能性はいくらでもあるが。
442人間七七四年:2009/04/08(水) 16:27:17 ID:zJgmN9Gu
>>437
>一つの備えの中で槍衾と予備兵という重層があり。
備の編成に当てはめるなら槍衾は槍組一列、予備兵は侍組に比例されるかと
443人間七七四年:2009/04/08(水) 17:03:48 ID:uOBWtHBQ
おちつけ。戦国時代には操典とかの統一された戦術教書な存在しない

それぞれが勝手にやってたんだろうから、一場面だけ出しても差異が出るのは当然だろ。断定も全否定も危険度は一緒

今手元に賎ヶ岳合戦屏風図の写しがあるんだが、それによると槍隊同士が弓形、逆弓形でぶつかりあい、さらに後方から後続が殺到している風になっている

さらに縦列と見える一段もあるしな。馬については、山岳戦でもあるためか名のある武将ですら徒歩で、乗っているのは山上の指揮官ぐらい。主失ったらしい裸馬も描かれているがな

戦国最後期ですらこれだけ混沌だし
444人間七七四年:2009/04/08(水) 17:11:36 ID:uOBWtHBQ
ま、横一列きっかりというのがないのだけは確かだが。これも混戦になったからであって、陣形きれいに保ってたころは別かもしれんし

あとググってたら、川中島合戦絵屏風だと「足軽は一段、鑓足軽三段」と注釈されていた。これは例の甲陽軍鑑を元にしたもので信憑性はアレなんだが、足軽と鑓足軽、とさらに分化していた例もあるのでは?
445人間七七四年:2009/04/08(水) 18:39:03 ID:zJgmN9Gu
>>444
あの図屏風も元ネタと思われる甲陽軍鑑抜書とは随分違いますから
446人間七七四年:2009/04/08(水) 19:10:47 ID:28NE9EcF
このスレの住人的にはwikipediaの
「備」の項の評価はどんなもんよ?
447人間七七四年:2009/04/08(水) 20:08:56 ID:uOBWtHBQ
>>446
wikiにしては珍しく出展がはっきりわかるからいいんじゃないの?
448人間七七四年:2009/04/08(水) 21:51:22 ID:zJgmN9Gu
後、馬についてなのだが前に蓬左文庫で尾張藩の馬一覧という資料があって、
そこには七尺や六尺と書かれた馬があった

これ頭までとしても相当、でかいと思うのだが
449人間七七四年:2009/04/08(水) 22:29:48 ID:1Kq+aDsp
まぁどの道、朝鮮の役のころになると「鑓なんぞ役に立たん! なんにせよ鉄砲よこせ鉄砲」(島津義弘)となるわけだがな。
450人間七七四年:2009/04/08(水) 22:35:42 ID:1Kq+aDsp
兵法一家言、という江戸期の史料だと、鉄砲を一、二回ぶっぱなしたらもう足軽も武者も遮二無二突っ込んだというよ。
攻撃にせよ防御にせよ、がっちり横陣組む必要性なんてなかったんじゃ?
それよりも臨機応変の柔軟性と機動性でしょ。
世界の歩兵で見れば軽装甲である足軽じゃあ、固まってもたかが知れているし。
451人間七七四年:2009/04/08(水) 22:37:55 ID:28NE9EcF
>>448
普通は体高で計るはずなのに
それはどういう計り方したんだろう?
体長?
452人間七七四年:2009/04/08(水) 22:47:39 ID:zJgmN9Gu
>>451
解らん、何も書いてない
載ってたのは馬の名と毛色位
453人間七七四年:2009/04/08(水) 22:49:11 ID:zJgmN9Gu
>>450
それは多分、鉄砲が足軽の主力になった時代で槍が主力の時代は
また異なった戦法だったと思われ
454人間七七四年:2009/04/08(水) 22:50:53 ID:1Kq+aDsp
明治以前の日本馬は、馬格が四尺(約121cm)を何寸かオーバーしていれば、
○寸の名馬(佐々木高綱の八寸の馬なんか)、と呼ばれてたほどの貴重なのに?
何かの間違いじゃあ?
455人間七七四年:2009/04/08(水) 22:59:03 ID:1Kq+aDsp
当時の軍制は、
大名が領主の知行領土を安堵するかわりに軍役ださせる
 ↓
領主は家臣領民を兵として連れてくる

というのが原則。兵科ごとに編制するとしたら、大名が直接領民とか陪臣を掌握するようになり、鎌倉以来の御恩と奉公、の観念に反すると思うんだが。
456人間七七四年:2009/04/08(水) 23:12:59 ID:x6wMdqhy
つまり近世軍団と中世軍団をいっしょくたにして話すから、さらに語弊が出やすくなる。
457人間七七四年:2009/04/08(水) 23:21:51 ID:1Kq+aDsp
>>456
いや近世でもこの点は一緒だよ。
江戸時代だって知行から家臣が義務に応じて兵を出すシステムだし。
458人間七七四年:2009/04/08(水) 23:26:30 ID:zJgmN9Gu
>>455
足軽は陪臣でなく、主君に提供する人材なのではと最近考えるようになっている
他にも備を編成するのに足りない場合に寄騎(武士)や同心(足軽)を提供されている

足軽というのは武器に付属している操作手程度の認識だったのでは
459人間七七四年:2009/04/08(水) 23:28:53 ID:zJgmN9Gu
>>454
そうは言っても書いてあるのだから仕方無い
それも江戸屋敷と本国を別けて書いてあるし

個人的には肩まででなく頭までかなと考えているのだけどね
460人間七七四年:2009/04/08(水) 23:36:04 ID:1Kq+aDsp
例えば徳川幕府の旗本を例にすれば、元和軍役定では、
500石持ちは、鉄砲一・鑓三持鑓共の動員義務がある。
寛永、慶安の時代にも同様の軍役が出されているから。
大名の直接の家臣だけは別、という考えもあるだろうけど、それだけ特異にする意味は考えづらいし。
461人間七七四年:2009/04/09(木) 08:39:39 ID:ko4SqN+T
>>460
普通、騎馬隊一般隊士の知行は多くて200〜300石ですよ
462人間七七四年:2009/04/09(木) 11:19:36 ID:69bQN5JT
>>461
そもそも騎馬隊一般隊士なんて、日本には明治期まで存在しないって。
自分の身一つしか軍役義務がない(非戦闘員ならついただろうが)下級武士だろうと、このあたりの扱いを区別する理由が無い。
463人間七七四年:2009/04/09(木) 11:45:28 ID:ko4SqN+T
>>462
そりゃ用語は適当だよ、当時でも諸藩によって違うし
大番五十騎の大部分は知行200〜300石ですでいいのかな?
464人間七七四年:2009/04/09(木) 11:58:08 ID:FAG7AO8e
兵科ごとに編成とか馬鹿じゃね?
合理的じゃないから、混成部隊になったのに
465人間七七四年:2009/04/09(木) 11:58:29 ID:ddehqa3j
たとえ軽輩だろうと、武士であるならそれ自体が一箇の存在だからね。戦国から幕末まで戦場での指揮系統や進退全般を統一した規定が存在しない以上、その程度のものだったんだろう。
逆に言えばその分各人の自律性と、機動性が高かったということだろうが。
466人間七七四年:2009/04/09(木) 13:10:04 ID:ko4SqN+T
騎馬隊は突撃兵種程度の括りで受け止めとき
足軽は兵科単位になってるけど
467人間七七四年:2009/04/09(木) 14:45:54 ID:w4BeNPYn
室町期の戦闘について書いてるけどなかなか面白い
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021025b.html
468人間七七四年:2009/04/10(金) 01:56:29 ID:6nOXjlkl
「伊達の騎馬鉄砲隊」をあるのないのと言ってるうちに、今度は「徳川の騎馬鉄砲隊」を提唱する人が出てきちゃったよ。
考証画家を提唱して「いた」(後述)、中西立太氏が下記の最新刊73ページで主張している。
前後をぶった切って結論だけ書くと「長篠で無策にも武田方が馬防柵に向かって突撃したのは、知将・家康が育成した騎馬鉄砲隊の挑発
射撃に釣られたからだ」ということになる。

http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%B2%E5%86%91%E5%8F%B2%E3%80%88%E4%B8%8B%E5%B7%BB%E3%80%89%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3-%E4%B8%AD%E8%A5%BF-%E7%AB%8B%E5%A4%AA/dp/4499229561

ちなみに、「いた」(後述)と書いたのは、本人があとがき(2008年12月)から刊行(2009年3月)までの間の期間に亡くなったから。
469人間七七四年:2009/04/10(金) 08:04:00 ID:X2CuaRxt
>>468
あれは「信長記」を基にしている
絵で描かれると真実味がぐっと上がるもんだと思った
470人間七七四年:2009/04/10(金) 12:05:25 ID:DSB/QYFN
>>469
でも、牛一じゃなくて甫庵だからなあ・・・。
甫庵じゃ伊達の騎馬鉄砲が載ってる「常山紀談」と甲乙ないし。
471人間七七四年:2009/04/10(金) 12:26:19 ID:VkHFUpov
士分が(時には大名自身が)鉄砲もって使うこともあった。
その意味では騎乗の士が鉄砲持っててもおかしくはないが。
やっぱり馬上筒でもない限り、普通は下りて使ってただろうし。
騎馬鉄砲隊、と呼ぶほうがロマン刺激する程度じゃないの?w
472人間七七四年:2009/04/10(金) 21:28:25 ID:kKzkVVkO
といっても馬上筒が存在するように
馬上で鉄砲を放ちながら戦っていたのも事実
473人間七七四年:2009/04/10(金) 22:36:41 ID:gNbx4nwA
ピストル騎兵みたいに近距離から槍衾にぶっ放すような使い方だったのかねえ
474人間七七四年:2009/04/10(金) 23:09:27 ID:zA7DwxnA
戦国後期になると鉄砲→突撃になるから
それを1隊でこなすという発想かも
475人間七七四年:2009/04/11(土) 10:02:28 ID:eP/kV5OK
>>472
馬上で鉄砲を撃つのと弓を射るのと刀を振るうのと槍を揮うのでは
どれが一番難しいんですか?
476人間七七四年:2009/04/11(土) 10:29:27 ID:ich/yL8V
>>475
弓は今でも流鏑馬やってるじゃん。乗馬も弓もうまくないとできないよね。相当難しそう。
誰かここ見てる人で、弓道や乗馬やってる人が書き込んでくれるといいんだけど。誰かいないかな?

刀はわかんないけど、リーチが短すぎて、役に立たないからあんまりやんなかったんじゃないの。
オレ剣道やってたけど、そんなに難しくないと思う。

鉄砲は馬上で打つこと自体かなりムチャじゃないかと思う。あったとしても例外的じゃないかな。
テレビで火縄銃打ってるとこみたことあるけど、ものすごい音と煙がでてたから、馬がびっくりしていうこときかなくなるんじゃないの?
馬ってすごく神経質な生き物だから、仔馬のころから大きな音に慣らさないと馬上で鉄砲なんて無茶だと思うけどなあ。

槍はわかんない。突くんだったら簡単そうだけど、たたくとなるとバランス崩しそう。
477人間七七四年:2009/04/11(土) 10:43:05 ID:AwV1oepF
>>464
同意
478人間七七四年:2009/04/11(土) 13:33:47 ID:LY3CluJC
騎馬鉄砲はいなくても、鉄砲を装備した騎馬や、騎乗した鉄砲ならいたろうに。
479人間七七四年:2009/04/11(土) 14:07:38 ID:8H3m9GcF
あるいは、他人の目を驚かせて自家の力を誇示する宣伝部隊だったりして。
おれらの家は、騎馬に鉄砲もって撃てるほど、装備にかける金もあるし兵士も精鋭だぜ! みたいな。
で、実戦じゃあ普通に降りて撃ってたとか。
480人間七七四年:2009/04/11(土) 14:49:17 ID:Qz6wAKXP
遅レスなんだが
足軽三段っぽいのが描かれてる合戦屏風の一部分の画像を見つけた(右下)
http://www.aduchimomoyama.com/kawa_bubun1.JPG
それとも>>444の川中島合戦絵屏風の「足軽は一段、鑓足軽三段」なのかな?
481人間七七四年:2009/04/11(土) 14:52:15 ID:Qz6wAKXP
ごめん足軽じゃなかった・・・
それと戦国に関してにわかなんでツッコミとかどんどん入れてください
482人間七七四年:2009/04/11(土) 20:30:25 ID:vxDN0gkr
>>468-479
稲富一夢が残した稲富流砲術伝授書にも騎乗での射撃術が絵入で解説されてる。
ttp://www.gakushuin.ac.jp/univ/glim/collection/rare/inatomi.html
483人間七七四年:2009/04/11(土) 20:39:01 ID:8H3m9GcF
揺れる馬上から命中率低い馬上筒撃っても当たるとは思えん。
人間業じゃねぇw
あるいは相手を威嚇けん制するのが目的か、技量養成のための荒業とかかな?
484人間七七四年:2009/04/11(土) 20:57:47 ID:laDUS+En
至近距離から撃って相手方を混乱させてからウマを乗り入れるんじゃないの?
歩兵の槍よりちょっと遠くから攻撃出来ればそれでいい的な
485人間七七四年:2009/04/12(日) 01:07:33 ID:nwA07pxm
馬上で鉄砲撃ったら、まず馬が驚いて制御不能になるんじゃ?
486人間七七四年:2009/04/12(日) 03:34:35 ID:JtRG/Kcu
馬上からの銃撃は、騎兵が戦場から消滅するまで世界中の騎兵が採用してるわけだが。
487人間七七四年:2009/04/12(日) 03:55:56 ID:nwA07pxm
>>486
それは去勢のような、外科処置含めた訓練法が確立しての話だろう。
日本にない要素がある国がやってるから日本も、というのは変。
488人間七七四年:2009/04/12(日) 04:08:08 ID:Ds9MWob1
>>486
↑の方にあるけど、 軍馬の訓練は日本では一般的でなかったよ

つかね、軍事革命以後の騎馬隊と以前のソレを混ぜて話するなよー
489人間七七四年:2009/04/12(日) 10:19:04 ID:bGe74rWr
鉄砲の音なんか調教しだいでどうとでもなるレベルだろ
馬の学習能力低く見すぎ
490人間七七四年:2009/04/12(日) 10:47:36 ID:LzxiWMlc
つか馬上で使えなかったら馬上筒なんて名前にはならんだろ
491人間七七四年:2009/04/12(日) 12:02:28 ID:nwA07pxm
>>489いや、お前の願望で馬の能力は左右されないから。
馬は元来臆病で、だからこそ近代でも騎馬を慣らすのは一苦労だったわけでなぁ。

>>490
その論法でいえば、「国崩」は国を崩壊させられないと、名前がつけられなかったことになるなw
492人間七七四年:2009/04/12(日) 13:56:08 ID:Qb3FYY8g
「苦労はした」が「できなかった」わけではないだろ?
そもそも、鉄砲大砲の普及前から古今東西やっていた事の延長線に過ぎない事例を取り出して、ぎゃあぎゃあ喚く人間がいるとは思わなかったよ。
493人間七七四年:2009/04/12(日) 14:59:37 ID:JtRG/Kcu
現代の鉄砲を撃ったことも馬に乗ったことも無い奴が

「馬上は揺れるから鉄砲は撃てなかったはず」
「馬は臆病だから馬上で撃てなかったはず」

などといろいろ妄想を述べたところで
実際に馬上筒があり馬上射撃の教書もある以上
馬上から鉄砲を撃って戦っていた事実を否定することはできない。
494人間七七四年:2009/04/12(日) 15:03:51 ID:7ICctXTP
弓を射るに比べりゃ鉄砲撃つだけなら簡単だわに
495人間七七四年:2009/04/12(日) 16:14:58 ID:KW44UPwH
孫子にも、「兵は(中略)分合を以て変を為す・・」とあるとおり、
臨機応変な戦術の要は兵の分散進軍と急速な集合にある。
特に軍が分断されやすい地形ではこの傾向が強まる。
その戦術を支える陣形というものを考えたときに、
日本では兵科という意識よりも各兵器の混成部隊を基本として、
その分散しながら進軍するというやり方が一般的だったと推測。
日本の合戦は山を越えての機動戦が主体のため、戦国後期の比較的平地での
大会戦にも、このやり方を応用したものと推測される。
496人間七七四年:2009/04/12(日) 16:41:45 ID:QZLkHyiB
実戦ではできないけど、鬼面人を驚かすための芸だろ?
水泳鉄砲撃ちみたいなw
軍記物のような創作ならいざしらず、実戦で馬上から銃を撃ったなんて記録ないし。
497人間七七四年:2009/04/12(日) 17:01:26 ID:3jveS3TE
>>496

記録はないが思い出はある。
あ〜あ、書いとけばよかったぁ。
まさか後世で、記録がないと存在しないって言われるとは思わなかった。
498人間七七四年:2009/04/12(日) 17:39:35 ID:QZLkHyiB
>>497
霊界通信乙w
まぁ、編制上でさえらしい記録残ってるのは伊達さん家ぐらいだしねぇ。
常識外れの訓練と金かけて本当にやった、としても。
軍記物の中でさえ真田さんにあっさりと蹴散らされたことになってるしw
499人間七七四年:2009/04/12(日) 18:08:42 ID:ay906j5A
羽黒の戦いで奥平勢で十人ほど騎馬で近接した後に、下馬して射撃という竜騎兵みたいなことはしている
500人間七七四年:2009/04/12(日) 20:05:38 ID:QZLkHyiB
それが適当じゃないの?
騎馬の機動力があるってだけで十分上等だろうし。
当時の気の荒い日本馬の上で命中率低いのぶっぱなす、という曲芸やるメリットは少ない。
下馬して射撃したほうがなんぼか合理的では?
相手から撃たれる場合でも、晒す面積小さくできるし。
501人間七七四年:2009/04/12(日) 21:12:44 ID:JtRG/Kcu
日本の馬であろうと他の国の馬であろうと馬上からの射撃は命中率は下がる。
しかし命中率が下がろうと馬上で銃による射撃は行われた。

同じことは銃の登場前の弓にもいえる。
命中率が下がろうと騎射は行われていた。

命中率が低いから馬上で射撃されなかったなどというのは
そうした実態を無視した空論にすぎない。
502人間七七四年:2009/04/12(日) 21:35:01 ID:7qOUUFnz
もしかして、馬上からなら弓より銃のほうが難しい?
特に狙撃とか
503人間七七四年:2009/04/12(日) 21:57:31 ID:JtRG/Kcu
銃でも弓で走る馬から狙撃といえるような用法はしないでしょ
504人間七七四年:2009/04/12(日) 22:17:29 ID:HgXLBnDU
流鏑馬みたいに、かなり至近距離に接近して撃った、とか?
あれも走らせながら撃つときは、不動目標狙ってさえかなり近くから矢を射ているよね。
505人間七七四年:2009/04/12(日) 22:19:22 ID:HgXLBnDU
実際にやってた記録がないからね。あったらぜひ拝見したい。
平和な時代になっての、流派はく付けのための芸事として後付けされた、ぐらいだとは思うけどね。
数少ない実戦例は、軍記物みたいな話でしかも旧来の鑓足軽にボコボコにされた程度だし。
506人間七七四年:2009/04/12(日) 22:44:44 ID:gEUGWQvm
488がいってるように、南蛮渡来の火縄銃と20世紀初めのまだ騎兵が残ってた頃の銃を一緒にしないでよ。
反動も音も射程も命中率も全然違うんだから。

あと馬も種類によって全然違うし。サラブレッドと木曾駒じゃ大違いでしょ。

それに江戸時代も初めになると武術全体が曲芸化してくるでしょ。
泳ぎながら鉄砲撃つとか、真剣白刃取りとか、なんとか砲術とか、なんとか槍術とか。

ああいう曲芸武術は、戦をしない時代の侍の飯のタネで、代々「鉄砲奉行」ということで給料をもらってるんだから、「いかにもスゴイことやってます!」というポーズをとる必要があったと思う。
戦国時代の侍からしたら「そんなもん役に立つかよ!」ってことじゃないの?
「武士は食わねど高楊枝」とか「刀は侍の魂」とか言い出したのも江戸期。江戸期に書かれた書物や、江戸期に手を加えられた書物は真に受けないほうがいいよ。
507人間七七四年:2009/04/12(日) 22:59:40 ID:HgXLBnDU
あ、あと火縄銃の構造だと馬上で扱うのは難しいだろうなぁ。
西洋の騎兵が馬上で使うのは、フリントロック式の銃が出回ってからだし。
あるいは、装填他はお供に任せて自分は必死で馬制御しつつぶっ放すだけだったかもしれんけども。
そこまでするぐらいなら普通に降りたほうがw
508人間七七四年:2009/04/13(月) 00:33:50 ID:X4oA4K92
509人間七七四年:2009/04/13(月) 02:04:11 ID:aNYiyKXl
>>506
>>507
適当に妄想するな
学研の戦略戦術兵器辞典【ヨーロッパ近代編】
のp91に火縄式銃を放ち、戦闘する騎兵の当時の絵(版画かも)
(16世紀初めと思われる)が掲載されている。
因みにこの絵に描かれている馬は小柄で木曽馬とあまり変わらないように見える
馬上で射撃するなら大柄な馬より小柄な馬のほうが上下動が少ない分
安定した射撃が可能だろう。
510人間七七四年:2009/04/13(月) 02:36:03 ID:9a849aXK
>>509
だからそれ、日本に無いものがあった西洋。
日本の火縄銃は、マラッカ式。
いわゆる龍騎兵の萌芽が16世紀に既にあったことは知ってるが、日本とは条件が違う。
(その西洋ですら、下馬戦闘がほとんどだった。まとまった数の騎乗射撃戦術が登場するのは馬の訓練等が進んだ18世紀ぐらいから)
511人間七七四年:2009/04/13(月) 10:40:35 ID:7JQB9SBr
ピストルは肩当てじゃなかった気が
512人間七七四年:2009/04/13(月) 10:43:01 ID:SLlhrX/E
>>509
とりあえず>>226を呼んでみると良いと思うんだ。
西欧で騎兵が近代的用法(サーベル突撃など)復活するのが17世紀。
それ以前の日本で、西欧で確立した騎兵用法が成立していた、と考えるのはどうもなぁ……
というか馬に乗る武将は”持筒”備えてたりするので、
「騎馬兵が銃を持ってた」だけから騎乗銃兵の存在は証明できないと思う。

確かに日本でも伊達家で竜騎兵の萌芽みたいな編成はあったけど、
戦国といいにくいくらい末期だし、だいたい他の大名家では無視されてる。
それに文禄の役では明の騎兵を徒の日本軍が火力で制した戦いだったわけで、
当時の常識として「騎兵はあんま役立たないんじゃないか」ってのが一般的だったと思う。
513人間七七四年:2009/04/13(月) 16:00:08 ID:nkZbLx81
基本的に確認しておこうよ。
まず、騎兵がなんと為にあるかというと、「索敵と奇襲のため」であって、騎馬武者が突撃するようなシーンは破棄したほうがいい。

その騎兵が銃を持っていたとしても、馬上で打つ必要は非常に低い。騎兵は索敵・奇襲が主な仕事だから、「敵陣を偵察する」か「ひとあて当ててみる」ことが主な任務だとする。
そうすると敵陣の後ろや真横にに急に現れて、馬を下りて、銃を何発か打って、かく乱してすぐに逃げたすとか、敵陣の様子を見て軽い戦闘をして退却するとかが、騎兵の仕事だとする。
日露戦争の時もそうだった。

稲富流の馬上鉄砲は真に受けないほうがいい。
509の言うように、「絵が残っているから、資料が残っているから」、それを鵜呑みにするんじゃなくて、それがどんな状況で、どんな時に行われたか、想像力を働かせる必要がある。
514人間七七四年:2009/04/13(月) 16:53:41 ID:Im/mAkYH
臨機応変に決まってんだろ?

馬から降りて銃撃した方がいい場合や、馬の乗ったまま銃撃した方がいい場合があるだろうよ。



515人間七七四年:2009/04/13(月) 17:30:42 ID:4TA0ksmb
馬に乗ったまま銃撃する状況ってどんなんだろう?
普通に打ち合ったら、安定悪いは暴露面積大きいは、で鉄砲足軽に撃ち負けそうだし。
気の荒い日本馬が暴れだしたら、それこそ自爆路線だし。
平時のオレスゲー自慢の芸能ぐらいしか思いつかん。
516人間七七四年:2009/04/13(月) 17:46:24 ID:7JQB9SBr
>>515
敵陣に乗り入れる直前に、一撃を喰らわせて敵を怯ませるとともに突破の煙幕と
しても用いる
517人間七七四年:2009/04/13(月) 17:53:45 ID:SLlhrX/E
>>513
>騎馬武者が突撃する
…おいらは「これはアリ」だと思うけどなぁ。

戦国時代の槍と騎乗の比は6:1くらいで、これってスキピオとかカサエルとかと同じ比率
規模的に偵察だけ、っていうには多すぎると思う
それに古今東西の騎乗兵で突撃しないほうが珍しいしね

当時の西欧でも重装騎兵はまだ残っていて戦のTurning pointに使われる戦力だったし
たぶん日本でも同じような使われ方だったんじゃないかなぁ
518人間七七四年:2009/04/13(月) 17:57:35 ID:Lus1Jl0e
馬を敵の陣や柵へ当てるってのよく聞くじゃない
突っ込む直前に飛び降りるんだと思うけど
519人間七七四年:2009/04/13(月) 18:58:13 ID:F7Wmab1b
「雑兵物語」の中の騎馬突撃の記述で、各自得意な武器を手にして云々の中に槍刀弓鉄砲と一通りのものがあったと思ったが・・・。
武士は元々騎乗射撃を得意としていた者も多いから、時代の変化に乗って弓を鉄砲に持ち替えた者がいたとしても別に不思議は無いんだけどなあ。
520人間七七四年:2009/04/13(月) 21:41:50 ID:CcUG4C4d
弓→鉄砲へ持ち変えるってのは誰でも思いつきそうな考えだし
試した人間もいただろうけど
連射が出来ない上に馬を音に慣らしたりする手間考えたら
仮にいたとしても少数派だろうな
521人間七七四年:2009/04/13(月) 21:56:09 ID:aNYiyKXl
『宇都宮高麗帰陣物語』には
朝鮮出兵時
「騎乗の者もそれぞれ小筒を持っていた」
と書いてある。
522人間七七四年:2009/04/13(月) 22:00:32 ID:aNYiyKXl
>>510
>だからそれ、日本に無いものがあった西洋。
それがお前の妄想

>日本の火縄銃は、マラッカ式。
日本の火縄銃が騎乗使用不可能で、西洋の火縄銃が騎乗使用可能な理由の説明よろしく。
523人間七七四年:2009/04/13(月) 22:55:08 ID:oULGRgPn
>>522
お。近代以前に、例えば去勢技術が日本にあったという新説を語る気?
ソースもよろしくねw
524人間七七四年:2009/04/13(月) 23:18:17 ID:7JQB9SBr
>>523
去勢する必要がないだけでしょうよ
525人間七七四年:2009/04/13(月) 23:21:11 ID:oULGRgPn
実際、どんだけやばかったかというと、明治期に西洋の真似で騎兵隊を編制したはいいが、
馬を去勢することをしなかったもんで馬が暴れて事故続出。負傷より馬に落とされたりかまれたり、という事故が多く。
北清事変では「日本人は馬のようなものにのっている」と外国から笑われたぐらい。
戦史叢書にすら大真面目にのってるぐらい大変なわけだが。
526人間七七四年:2009/04/13(月) 23:23:59 ID:oULGRgPn
(切れた)
で、これじゃいかんと馬匹を去勢する法律制定。
種馬以外は去勢せよ、でないと罰金だとなり。
そこまでしてようやく日露戦争で騎兵を動かせるようになった。
この後は、確かに騎兵突撃をやっている。
(奉天会戦前の、長沼挺身隊では、十倍といわれるコサック騎兵と騎乗格闘やって日本軍勝利。もっとも全般でみれば騎兵格闘は不利で、秋山騎兵旅団は降りて機銃ぶっぱなしてたわけだが。)
527人間七七四年:2009/04/13(月) 23:28:33 ID:oULGRgPn
負傷より→通常の負傷より

軍板の情報だと、それでもまだ日露戦争期は未去勢馬が多く、ロシア兵の雌馬に興奮して統制きかんくなったり、と
コントみたいな事態もあったそうだ。
(このソースは 富国強馬―ウマからみた近代日本 というらしい)
528人間七七四年:2009/04/13(月) 23:42:48 ID:CcUG4C4d
誰でも知ってるような事を説明するのに3レスも使ってんじゃねーよボケ
529人間七七四年:2009/04/13(月) 23:47:25 ID:oULGRgPn
>>528
知らない人いるし>>524
530人間七七四年:2009/04/14(火) 00:01:16 ID:Z/yBymDs
江戸時代の貧相な馬と、戦国時代の軍馬は別ものだろう。
人間ですら体格が縮小しているんだし。
531人間七七四年:2009/04/14(火) 01:21:14 ID:aiJprr1h
戦国時代の軍馬って、遺骨から再現っていう手間掛けて120センチ程度って実証されているわけだが。
日本の馬がでかくなったのは、維新後に外来種をかけあわせてから。
532人間七七四年:2009/04/14(火) 04:05:55 ID:Z/yBymDs
実証している本は何があります?
533人間七七四年:2009/04/14(火) 04:39:14 ID:aiJprr1h
>>532
甲府市教育委員会が復元の主催だから。市史でもどうぞ。
まぁ戦国の実相ものの本なら、大抵載ってる有名な件だけどね。
534人間七七四年:2009/04/14(火) 05:37:03 ID:cfZWcPgL
>>532
ここらかな
ttp://www.sengokushi.com/c8/column/index.php?cid=0

まぁ14世紀(鎌倉市材木座で128体)の馬も平均129.5cm
和馬って”でっかい馬”とか”足が速い馬”が望まれたわけじゃないんだよね
ぎゃくに悍馬の方が喜ばれたとか、どうみても騎兵部隊向きじゃないよなぁ……
535人間七七四年:2009/04/14(火) 06:59:54 ID:+78AjNZi
だからモンゴル馬も同じ程度の大きさだったと何度言ったら
536人間七七四年:2009/04/14(火) 08:55:57 ID:Z/yBymDs
なるほど、世界的に当時の軍馬ってそんなもんだったのですね。
537人間七七四年:2009/04/14(火) 11:25:18 ID:7iDNsXpl
>>529
日本の場合、馬術で何とかしていたんじゃないの
538人間七七四年:2009/04/14(火) 12:19:09 ID:tOxT5x7f
>>535
装備重量が違うし、大陸ではやっぱり秦の始皇帝時代から軍馬の去勢は一般的だったから。
日本人は、去勢すると馬の力が落ちるとか思っててやんなかったらしい。
やりはじめるのは、それこそ他国並に扱いやすい馬がないとお話にならない騎兵を常備編制するようになった明治期の近代軍制より。
他国にあって日本に無いものがこれだけ明白な場合、同一視は無理。
539人間七七四年:2009/04/14(火) 12:27:34 ID:tOxT5x7f
フロイスの日本史にも馬についての記述があるが、
「西洋の軍馬は走っていてもすぐ止まるが、日本馬はひどく暴れる」
「西洋の馬にくらべて、日本の馬はみすぼらしい」
と記録している。
たたでさえ軍役であちこちから集められ、統一訓練もしていない武士達で、荒馬乗りこなしつつ…なんて無理。
540人間七七四年:2009/04/14(火) 12:47:44 ID:HRs0YJqd
日本は西洋とは逆に気性の荒い馬を好んだ
つまり、去勢など問題外の行為
541人間七七四年:2009/04/14(火) 13:55:13 ID:tOxT5x7f
>>540
その結果、近代でさえ馬の事故が戦闘による負傷より多い、という事態になっているわけだがw
542人間七七四年:2009/04/14(火) 14:04:32 ID:PSfURCgP
>>504
今残っている流鏑馬他(総じて騎射)の形式というのは
実戦向きと儀式向きというのに分けることができて
よく目にする横に向って射るのは儀式向きの形から派生したもの。

実戦向きから派生した形式にはおものいやおしもじりがある。
今はできる人もそれだけ動ける馬もいないから絶えてしまったけど
八的や犬追いといった鍛錬と遊びを兼ねたものもあったんだよ。

的が至近距離なのは中り重視かつ的が横方向にあるから。
中り重視ではなく、的が前後方向でかつ笠懸のように吊るタイプの
的であればもっと遠距離から射る形にもできるんだが、神事という
特性や射手の面子などの理由もあってどうしても中り重視にならざる
負えない現状だから至近距離・・・orz
543人間七七四年:2009/04/14(火) 15:30:55 ID:7iDNsXpl
>>541
気性の荒い馬は「みんなと一緒に走る」馬ではなく、「群れから抜け出す」馬とされている
西洋騎兵の様に馬を集中運用する場合には去勢した馬が役に立つ
一方、日本の備みたいに比較的少数単位で運用され、また敵陣突破と一番槍を重視する
場合は気性の荒い馬の方が有用と言う事であろう
544人間七七四年:2009/04/14(火) 17:01:42 ID:E3AYU6XZ
>>523
去勢したら馬上で火縄銃を撃てて
去勢しなければ馬上で火縄銃を撃てない
なんて幻想はすてたほうがいい。

そもそも西洋の馬が全て去勢されているわけではない。

去勢しなければ馬上で射撃できない論者は
どうも去勢を過大視しすぎてる。
現在の競馬の馬だって大部分は去勢されていない。
一部の馬が去勢されるが、去勢されたからといって
暴れたりする問題が解決されるとは限らない。
去勢とはその程度のもの。

それで、説得力のある反論ができないもんだから
明治以降の話を持ち出して近代的な騎兵運用の有無に論点を誤魔化すしかないようだ。
戦国時代の馬上での銃射撃の有無が論点だったのにねw
こんな風に↓論点ずらしID:oULGRgPn
>>525>>526>>527>>529 
545人間七七四年:2009/04/14(火) 20:04:05 ID:yjr7vkz4
拳銃以下の精度で30秒に1発しか撃てないような火縄銃が普及したのは
素人に持たせても戦力になるから。
馬上で装填・射撃を行うがごとき曲芸を身につけるヒマがあるなら
弓術を身につけた方がずっと使い物になる。
546人間七七四年:2009/04/14(火) 20:29:36 ID:cfZWcPgL
>>544
あなたの論点の方がぼやけてる。
だれ一人馬上で絶対射撃しなかった、なんて言ってないぞ?
当時”騎乗で銃撃”が実戦力として有効だったか、について侃々諤々してるのよ

去勢馬も騎乗戦術を効果的にする技術として生まれたわけだし
>>468もダメージじゃなく挑発としての効果しか強調してないし、
当時の騎乗射撃が有効だった根拠はまだ一つもでてないから、
”馬上で射撃”が、戦場での見せ物か曲芸だった、としか今は言えない。

>>545
訓練しなくても種子島の命中精度が良かったら17世紀の西欧の戦場がああなるわけないでしょう……
547人間七七四年:2009/04/14(火) 20:50:18 ID:yjr7vkz4
訓練しても種子島の命中精度は大して上がらない、と言った方が正確かと。
だから撃つだけなら素人で構わない。
銃剣戦闘も求められるようになると素人じゃ不足だがな。
548人間七七四年:2009/04/14(火) 21:17:33 ID:LFz/tY02
個人の兵装として馬上で鉄砲を扱う事はあったかもしれないが
戦闘に影響を与えるような部隊としてはまず存在しない。

でいいんじゃないの?
549人間七七四年:2009/04/14(火) 21:18:04 ID:RetUu1KJ
つまり、騎上で射撃があったよ派と
騎上射撃は戦術としては有効じゃなかったよ派とが
互いに勘違いしつつ、レスつけてるからこんなことになったのか
550人間七七四年:2009/04/15(水) 17:11:03 ID:WanVXJVD
つまり忍術みたいなものだったと。
水グモや忍刀が当時全く使われなかったとは言い切れない。
551人間七七四年:2009/04/15(水) 17:32:33 ID:VxbbAxge
昨日の深夜にやってたNHKのやつがリアルに怖かった。
552人間七七四年:2009/04/15(水) 22:33:58 ID:T1WiQRXi
ヨーロッパでは鉄砲は専門技術者の扱いだったようだよ。
弾、火薬、早合、火縄など作り、銃のメンテ、それら全部やるんだからね。
日本でも専門技術者だったろうと思うんだけど。
553人間七七四年:2009/04/16(木) 02:23:06 ID:BI0emGEs
安土桃山〜江戸前期の軍役状で見ると、騎馬武者の鉄砲装備率は結構高い。
文禄の役の加藤清正隊は、騎馬のほぼ100%が鉄砲を装備しているし、
江戸期になると騎馬武者の二人に一人くらいは鉄砲を持っている。
信長の播州征伐、平井山合戦では、
別所方の馬廻150騎ほどが10mほどの至近距離で馬上から一斉射撃し、織田方150〜160騎ほどを射ち倒しているね。
ただ騎馬鉄砲という兵科ではなく装備の一つとして従者に持たせ、使い分けしていたようだ。
554人間七七四年:2009/04/16(木) 02:24:45 ID:BI0emGEs
ちなみに中国では手で火縄を押し付け引火する手銃が騎兵の制式装備。
555人間七七四年:2009/04/16(木) 04:58:30 ID:QLW069Y2
>>553
>織田方150〜160騎ほどを射ち倒し
これって織田家も「騎馬兵を馬に乗せたまま集団で運用」してた様にもとれるね。

…元ネタってなんなのかな??
556人間七七四年:2009/04/16(木) 13:03:32 ID:XhrovLbx
騎射つながりで質問なんだが
パルティアンショットのような用兵の記録は日本にはあるの?
557人間七七四年:2009/04/16(木) 13:11:48 ID:g30yBMZ0
>>556
騎馬武者を使う使わないを別とすれば腐るほどあるんじゃない?>一撃離脱戦法
558人間七七四年:2009/04/17(金) 00:25:58 ID:CFtL6I8m
>>555
別所記。
559人間七七四年:2009/04/17(金) 00:33:12 ID:CFtL6I8m
馬といえば馬鎧に関して興味深い記録が残っている。
信長は初陣の時馬鎧をつけた馬に乗っていたが、
その後も島津家久が上京した時の「家久君上京日記」では
織田方の馬廻衆は馬面や馬鎧を着けているものがあったとの記録があるね。

家康が三百領の馬鎧を信長に献上したり、徳川では他にも数百領の馬鎧の製造命令が出ているあたり
結構需要があったんだろうか。
大半は軽量な馬甲札を綴った革か鎖製だろうから鉄砲を防げるはずもなく、装飾目的で矢や刀槍を防ぐ程度のものだったのか。
北条のように軍役状によっては馬鎧の装着を義務付けるところもある。
560人間七七四年:2009/04/17(金) 01:02:06 ID:3By6imUF
>>558
…大村由己の天正記をそのまま”実録”と受け取って良いものかどうか……
561人間七七四年:2009/04/17(金) 10:16:14 ID:CeaO1W5Y
>>559
競争馬にマスク(メンコ)をすると、周囲の音から隔絶されるというから、
それと同じ効果を狙ったんじゃないかと
562人間七七四年:2009/04/17(金) 19:35:21 ID:MuoY0taf
当時の矢玉はそれほど貫通力無いから皮一枚でもそこそこ生き残り確率あがっだろ
563人間七七四年:2009/04/17(金) 19:48:25 ID:HG5GERiS
>>555
つか、この場合の織田方150騎は騎兵のみという意味じゃなくて騎兵が混っていたという意味だろ。
太平記の20万騎とかと同じ表現。みんな馬上だった意味じゃない。
564人間七七四年:2009/04/17(金) 20:12:19 ID:3By6imUF
>>563
織田側がそうなら別所側だってそういう事情とみるほうがよくないかな?

だいたい”馬上”で”10m近くまで敵を引きつけた”と言う状況も気になるし。
普通は引き寄せた後突撃なのだけど、10mなんて馬の突撃力生かせる距離じゃないし
いちお当時でも数十メートルからの狙撃は普通に行われていたのに。
わざわざ身を相手にさらして撃つ、ってのは不思議じゃない??

天正記は秀吉出版の俺様カコイイ軍記なので、あんまり戦場の実際はどうかと思う。
そこらは”演出”な気がするのだけど
565人間七七四年:2009/04/17(金) 20:53:43 ID:kvgfZs4e
無理して馬上で鉄砲撃つより、馬から降りて鉄砲撃った方が効果的だと思うけどね。
「なんとかって資料には馬上で鉄砲を撃った絵が載ってる!」って一生けん命言ってる人がいるけど、その資料がどれだけ正確かってことをきちんと考慮しなくちゃね。聖徳太子の絵なんかそうでしょ。

長篠合戦絵巻を見て、「ほら、やっぱり騎馬隊だけの突撃はあったんだ!」って言っても意味ないんだよ。

それからIDを挙げてほかの参加者をバカにしたり、「w」マークを使ってあざけったりする人はどうぞご退場ください。
ここは、「煽り誹謗中傷抜きで大人の議論」をする場所ですから。
566人間七七四年:2009/04/17(金) 21:29:27 ID:omSWR/p0
別にある資料のある部分だけにそういう記述があったからって
「ありえない!」って言うのもどうかと思うぜ?
あの長い戦国時代に1度か2度はそういうこともあったんじゃないの?
別に「この資料にそう書かれてるから戦国時代では日常茶飯事だったんだよ!!」
とは言ってるわけじゃないんだし……
567人間七七四年:2009/04/17(金) 22:44:49 ID:kvgfZs4e
>>566
そうかもしれないけど、どうも馬上で火縄銃を撃つメリットがわからない。不安定だろうし、命中率も悪そうだし。だって火縄銃って、銃弾は球形でライフルもなしだよ。
ようつべには火縄銃を撃つ動画たくさんあるけど、馬上はないんだよね。

馬上火縄銃をやるとしたら、どんな時かな?やっぱり奇襲攻撃かな?
それに馬上専用の軽量コンパクトの火縄銃なんてあったんだろうか?
568人間七七四年:2009/04/17(金) 22:52:12 ID:CeaO1W5Y
>>567
>>516
短筒、馬上筒で良いんじゃないかと
569人間七七四年:2009/04/17(金) 22:55:18 ID:HG5GERiS
馬上筒が一般的とは言えないレベルなのは同意だがライフリングだの、椎の実弾だのの、
鉄砲の精度の話をしているのは意味がわからん。
どんなに精度が良かろうと、馬上で撃てば同じだけ精度が落ちると思うが。
取り回しやら先込め元込めやら連射性能やらなら理解できる。
570人間七七四年:2009/04/17(金) 22:57:21 ID:HG5GERiS
ごめん。馬上筒→騎馬鉄砲
571人間七七四年:2009/04/18(土) 00:14:11 ID:3GQPuzAa
>>567
まあ鉄砲も使った事もない、乗馬も出来ない、ましてや命のやり取りなんかした事のない
俺達が馬上で鉄砲を放つメリットってもんを感覚的には理解出来ないんだろうけどね
感覚と言う事を挙げれば弓を射る騎射なんか安定も悪そうだし死角も多いし狙い打ちされそうだし
個人の感覚として戦場で不利な感じがするけど、実際に源平の頃では主流だった訳だから
馬上での鉄砲騎射も同じ様なもんじゃないかな
それから馬上筒って言っても火縄銃では無いタイプ、強く握るだけの摩擦で発射出来る
あくたづつという小型の銃があって散弾を込めて発射して敵を撹乱させていたとの事だよ
572人間七七四年:2009/04/18(土) 01:24:09 ID:FsSZ8nuP
うーん、原文は
「近習の侍百五十騎各返し合い
馬上に鉄砲を持ち敵相五間六間に成る時一度に打ちける程に
秀吉方百五六十人馬より打ち落とさる」
だそうで。

馬上鉄砲を持ちと言っているし近習ともなると騎乗身分だし、百五六十人は馬から落ちた人数だから
どちらも馬上じゃないかな。
573人間七七四年:2009/04/18(土) 01:44:21 ID:LjSEvJhw
>>571
元陸自で一日体験乗馬の経験で良ければ。

止まれば上体は安定できるし、高い位置から戦場を見渡せれるのはかなり有利。
雑草や足軽の頭越しに状況を見れるし、射撃も撃ち下ろす形になるんで精度も高まる。
ポニー程度の大きさだと、小さい脚立の上にまたがる感じかな。それでも地上高の高い有利さを十分受けれると思うよ。

問題は前にも出てるけど、ギャロップ時はもちろん、並足の時も肩付けするのが精一杯で照準するなんてとても無理っす。

せいぜい銃口上に有る照星を的に向ける程度で、連射が出来ないと走行しながらでは有効な射撃は望み得ないね〜。
逆に言うと、インディアン狩りする騎兵隊みたいに、短射程のピストルでも走り回りながら有利な戦闘が出来ると思われ。
574人間七七四年:2009/04/18(土) 01:51:20 ID:FsSZ8nuP
同時代の西欧ではランスの届かない至近距離から易々と致命傷を与えるピストル騎兵とパイクに駆逐され騎士が消え、
一時は騎馬のほとんどがピストル騎兵化したな。
騎兵の先頭を行き馬上で騎兵銃を撃つカラビニエ騎兵のように
ヨーロッパやトルコでは一撃離脱や攻撃前に敵陣を崩す目的でよく騎乗射撃が行なわれたね。

騎乗歩兵と言える竜騎兵という別の兵科もあるが
こちらは機動性を生かして素早く進出し、下馬して歩兵として戦う。
575人間七七四年:2009/04/18(土) 02:16:24 ID:LjSEvJhw
>>572
馬上だと思う。

騎乗の火縄銃で有効な戦術だと、味方の後方からまたは迂回奇襲しての一斉射撃。
っていうのはすぐ思い付くけど、足並み揃えて素早く敵に近接する要領や一斉射撃の実施要領は一朝一夕では身に付かないよ。

つまり、訓練を施す方と受ける者の双方に大きな負担を強いるので大規模な部隊を編成するのは難しい。
しかし、近習の数百騎程度になら長期の高度な訓練を施すことが出来たことも十分あり得ると思う。
576人間七七四年:2009/04/18(土) 06:44:38 ID:z/Qf0UZv
>>575
当時、集団火器演習どころか、騎乗兵だけ集めて訓練した記録はないと思うけど……

いや馬上で撃ち放って敵を倒したのは良いけど、倒した相手の首はどうしたのかな?
当時の戦だと”首取り”しない限り戦功にはならないわけで、
一斉射撃→後退、の繰り返しってどう見ても首取りが無くなった軍事革命以後の騎兵隊の戦術っぽいけど
(信長除いて)その時代の戦術的に可能なのかな?
577人間七七四年:2009/04/18(土) 13:52:45 ID:LjSEvJhw
>>576
騎馬鉄砲隊の一撃離脱戦法は、僕も無理だったと思うよ。
火縄銃射撃と馬術を安易に組み合わせて一撃離脱戦法を試みたら必ず失敗する。
馬上筒であっても前方に射撃出来ない騎馬鉄砲隊の運用で最大の問題は、馬上射撃ではなく敵前で一斉射撃出来る隊形へと迅速に展開することだと思う。
大名とかが敵前展開能力の重要性に気付いたとしても、有効な訓練方法を編みだして継続的な訓練を施せたとは考えにくいね。

必然的に個人の功名心をある程度纏める形で、部隊としての体裁を取るしかないけど。
首取り前提でも、追撃や待ち伏せでは戦力を発揮する機会は十分有ると思う。
572は敵騎馬兵の奇襲に対して、咄嗟にぶつけてみたら上手いこといったって感じかな。
予備兵力としても、騎馬鉄砲隊の存分意義は有ったと考えられるよ。
578人間七七四年:2009/04/18(土) 16:03:43 ID:tRWPW9qu
逃げやすくするためにには馬上から撃たなきゃだめだろ

かっこよく登場してバーンと一発、でとっとと逃げる
敵の士気ガタ落ちでイェー
579人間七七四年:2009/04/18(土) 16:15:58 ID:CjE82gJS
流鏑馬はできて馬駆け鉄砲はできない理由はあるのかと。
弓より鉄砲の射撃の方が余程簡単なんだがね。
まあどちらにしろ出来るようになるにはかなり訓練が必要。
580人間七七四年:2009/04/18(土) 16:21:40 ID:CjE82gJS
>>576
じゃあ当時の足軽鉄砲はキッチリ首を取りにいってたのかね?
581人間七七四年:2009/04/18(土) 19:41:51 ID:GKbcSKly
>どうも馬上で火縄銃を撃つメリットがわからない。

火力+機動力。
これが理解できないのだとしたら、悪い事は言わないから軍事史関係は諦めた方がよい。
582人間七七四年:2009/04/18(土) 22:34:26 ID:LjSEvJhw
>>579
流鏑馬を当てるためにはすれ違わないといけないよ。
駆け鉄砲では、銃口を敵に向ける程度のいい加減な照準しか出来ないし、命中させるにはやはりすれ違う必要があるだろう。
当然接近時から反撃を受けて、発砲するのも覚束ないんじゃないかと。

なにより火縄銃には反動があるよ。
火縄銃は撃ったことないけど、反動はかなり強そう。
駆けながらでは容易に転倒するだろうし、訓練でカバー出来るようになるとは思えない。

騎馬鉄砲隊は、攻撃には完全に向かない兵科だと思うよ。

むしろ、前述した待ち伏せや予備以外に、撤退戦で大活躍しそうだけど…。

2〜30騎単位で退路上にいくつか配置された部隊が、味方を収容しつつ追い縋る敵の鼻っ柱にぶっぱなしたら次のラインまでさっと後退するって感じで。

殿は名誉だし、そういう事例が有れば記録にも残ってそうだけど。
583人間七七四年:2009/04/19(日) 00:05:12 ID:tGWLJhzj
大阪夏の陣での伊達勢の鉄砲装備率は、6割越えていたそうだからね
伊達軍総兵力1万だから鉄砲が6000丁以上装備されていた事になる
その圧倒的な比率から考えたら部隊毎の編成として
純粋な騎射隊なんかも存在していたと考える方が妥当じゃないかな
道明寺での後藤隊との攻防の詳細は詳しく知らないけどね
584人間七七四年:2009/04/19(日) 00:26:18 ID:iqKaqrSN
>>583
九州征伐以前の島津や四国征伐以前の長宗我部はもっと装備率高いよ。
島津は郷士に至るまで一人二丁の鉄砲装備を奨励していて、
繰り詰めという、射手一人に装填手2人で1ユニットの速射法(実験したところ1発あたり3〜4秒で撃てた)や
関狩という三段射撃も編み出している。
三段射撃自体は同時代の明の鳥銃隊でも行なわれていたので珍しい事ではないけど。
長宗我部も過半数が鉄砲を持っていたと言われ、敵が接近する前に鉄砲で壊滅できると豪語したほど。
585人間七七四年:2009/04/19(日) 02:07:49 ID:VlmrlfHr
しかしどちらも豊臣軍に叩かれていたりする。
この差はなんなんだろう?
586人間七七四年:2009/04/19(日) 02:40:10 ID:tGWLJhzj
>>584
島津は分かるが長宗我部は意外だよなw
江戸期に薩摩出身軍学者の徳田邕興が、島津兵の強さは鉄砲の活用術に優れていた為で
決して個々が屈強で強靱だったからでは無いと軍学書に記述している
しかし繰り抜きや釣り野伏とか島津の戦術は一種独特だよな
他国との接触が薄い南端の国だからこそ、独自の戦法が生まれるんだろうなあ
587人間七七四年:2009/04/19(日) 02:46:43 ID:AU3TS5xe
つーか島津や長宗我部のその銃装備率は甚だ疑わしいがw
ソースはどこ?
588人間七七四年:2009/04/19(日) 03:48:01 ID:X1MUWeFN
>>580
鉄砲での軍功評価はあったよ。誰が誰に向けて撃ったか、がよくわかる状況で使用されてたかと。

日本の鉄砲は 命中率重視で江戸に入っても基本狙撃の練習してたのよ
おあむ物語だと鉄砲の練習に狩りに出かけてたり。
でも一斉発射やらそういう軍事演習はしてない(ちなみに西欧ではこっちが主)。

練習の仕方で当時の鉄砲の使われ方を考えるなら、
日本の鉄砲は主に誰の功績かわかる個人の功績がはっきりする戦術とってると推察した方が
功績がわからない”引きつけて一斉発射”の場合、その直後の切り込みを伴っていたりするし

で、馬上で一斉発射は、誰が誰を倒したか説明がないから違和感がある気がするんですよ。
舞台や映画にしたら美しい場面ですけどね
589人間七七四年:2009/04/19(日) 11:57:53 ID:UjwOtOhG
>>582
馬上の弓は左側にしか射れないと思ってるひとですか?
590人間七七四年:2009/04/19(日) 17:12:46 ID:sN9wZoy6
>>587
島津は本場種子島のすぐ近くだから、鉄砲の生産と活用が盛んなのは分かるけど、
貧しい長宗我部はどうだろうね
591人間七七四年:2009/04/19(日) 18:03:47 ID:tGWLJhzj
>>585
そりゃ単純に頭数の違いだろ
同じ兵力差2倍だとしても、1000人対2000人と5万人対10万人で考えたら
少兵側の勝てる確率って格段に違う筈だろ
592人間七七四年:2009/04/19(日) 18:08:59 ID:VlmrlfHr
>>590
分国法の元親百か条だと、武芸の心得では鉄砲が筆頭になっている。
重視は確かじゃ?
593人間七七四年:2009/04/19(日) 18:15:56 ID:AU3TS5xe
>>592
重視するだけならどこの戦国大名もやってるからねえ>鉄砲
つーか、戦国後期は攻撃も防衛も、火力無しではなしえない時代。

その上で島津や長宗我部の鉄砲保持率はどうも信用できない。
実際にあったとしても、馬廻りだけ、ってかんじじゃなかろうか。
594人間七七四年:2009/04/19(日) 18:23:26 ID:tGWLJhzj
>>592
>>590は鉄砲を大量購入出来るだけの財力を
長宗我部が持っていたのかなあと言っている訳で
重視していたかどうかと装備率・保有数の問題はまた別じゃね?
595人間七七四年:2009/04/19(日) 19:58:55 ID:JA23V8K+
ちょっと教えてほしいんだけど
なんで川中島の戦いって有名なの?

ただの地方大名の合戦で
この戦いの結果、歴史が決定的に動いたってわけでもないし
無視しても良い気がするが
596人間七七四年:2009/04/19(日) 20:37:57 ID:QWyceQ9x
甲斐と越後のパワーバランスが崩れて
片方が片方を併呑するような事態になったら
日本史は変わるだろ。
597人間七七四年:2009/04/19(日) 20:50:03 ID:wH//T63r
九州征伐の場合は圧倒的な兵力差。

道明寺の戦いの場合、伊達隊と戦った真田隊もとんでもない鉄砲装備率で運用も上手かったそうな。どっかのサイトがソースだが。
俺の妄想では、九度山時代に雑賀衆の流れの者を雇い、連れてたのだろう。
598597:2009/04/19(日) 20:50:48 ID:wH//T63r
>>585
ね。
599人間七七四年:2009/04/19(日) 20:57:31 ID:wH//T63r
>>582
反動の問題なら火薬の調整で克服できますが?代わりに威力、射程距離など失うけど。

600人間七七四年:2009/04/19(日) 21:48:33 ID:JA23V8K+
>>596
そりゃどっちかが併吞してたらそうだけど
結果的にはどっちも勝敗は決着つかずだし
四国の争い、東北の争い、九州の争いは歴史的にも一般的には無視されがちだけど
川中島はなぜか有名だよね
601人間七七四年:2009/04/19(日) 22:20:06 ID:AU3TS5xe
>>600
無論武田信玄、上杉謙信って言う両大将の華もあるけど、
四国の争い、東北の争い、九州の争いは中央政局にはほとんど関係がないが、
川中島はどちらか一方が大勝すれば、明らかに日本の歴史が動いた戦いだし。
602人間七七四年:2009/04/19(日) 22:46:14 ID:mBNnVhDN
>>600
江戸時代に流行った講談でよく取り上げられたことと
甲陽軍鑑の影響も大きいと思うよ。
603人間七七四年:2009/04/19(日) 22:48:36 ID:tGWLJhzj
>>600
天下分け目の山崎・賤ヶ岳なんか一般層にとって全国区では無いのに比べ尚更にね

その発端って江戸期にベストセラーとなった甲陽軍艦の存在による武田の知名度だろ
以降軍艦を題材として講談・小説・映画・TVドラマ・ゲームと連綿と受け継がれてきたからね
それから甲州流軍学が隆盛を極めた事から分かる様に徳川現政権が一戦国大名時代の頃に
一番苦しめられた相手は武田信玄、その信玄の最大の宿敵は誰かと言えば上杉謙信
じゃあその両者の最大の激戦はどれかと言えば第4次になるからなあ
合戦に関しては(史実かどうかは別として)
・鞭声粛々→啄木鳥戦法失敗→大将通しの一騎打ちというドラマティック?なストーリー
・両軍合わせた死傷者が尋常じゃない比率だったのに明確な勝敗が付かなかった

つまるところ武田・上杉の圧倒的存在感(一般層にとって)と
人気(観光を含めた地元民の愛着なんかも含め)に尽きるんじゃないの
604人間七七四年:2009/04/19(日) 23:54:04 ID:XWRuBSS4
>>601
それ説明になっていない。それはイフの話で、現実はどちらかの大勝はなく、
史実として日本の歴史を動かす合戦にはならなかった。
質問者は「なのに、どうして有名になっているのか?」と問うている。

もし〜なんて言い出したら、例えば毛利と大友の間で戦われた北九州、博多を
巡る旧大内領相続戦争、通称門司戦争も、どちらかが一方的に勝利していたら、
間違いなく日本の歴史を変えていた。しかし結果的には両者痛みわけで終わり、
この合戦は日本の歴史を動かすことなく、現在は一般的には知られていない、
マイナーな合戦として扱われている。

川中島が有名な理由は>603かな。
605人間七七四年:2009/04/20(月) 00:37:19 ID:19wRXfir
戦国時代当時から、武田信玄の軍の強さと言うのは天下に認識されていた。
武田軍が西上すれば、信長はたちどころに粉砕されると一般に認識されていた。
これは当時の記録から見ることが出来る。

その信玄と互角に渡り合った謙信の、数度にわたる戦いは、早くから「神話」のように
語られたんだよ。
606人間七七四年:2009/04/20(月) 01:37:16 ID:gWo2UQtK
武田滅亡後に遺臣達が出世道具として信玄を称揚。
それが気に食わなかったのか、なぜか徳川一門が越州流軍学の祖とかいって謙信を称揚。
その結果だろう。
実際には別に天下を左右したわけじゃないし。
戦術より戦略を重んじる秀吉なんかからは、馬鹿な戦で浪費したものだとあきれられたぐらい。
607人間七七四年:2009/04/20(月) 01:42:19 ID:624K88Qg
>>604なるほどね
同年に行われた戦い且つ両軍相譲らず、という事でそれを対比として持ってきた訳ね
確かに門司城を中心とした攻防は川中島戦以上に面白いよな

@毛利勢拠点の門司城を、立花道雪率いる大友軍が攻撃するが攻めきれず

A宗麟はポルトガル船の協力を得て、海上から大砲の艦砲射撃を実施

B劣勢を感じた元就は小早川隆景を援軍として派遣・毛利水軍は大友勢を圧倒

C大友軍は篭城兵に対して、内応工作を実施するが毛利勢に発覚
 隆景は一計を案じ、罠に掛かったふりをして敵を誘き寄せる計略を立てる

D突撃してきた大友勢に対し毛利勢は水軍からの上陸兵と挟み撃ちにして
 大友勢を潰走させる・その後も大友軍の攻撃は続くが攻略出来ず遂に撤退

E貿易都市博多への足掛かりを死守した元就だが、宗麟は将軍義輝に調停を頼んで和睦が成立
 毛利門司城は攻められる心配は無くなったが、これ以上博多方面へ進出する事も出来ないという
 双方痛み分けという結末でこの戦いは終結、8年後の立花城・多々良浜の戦いまで両者休戦状態

この目まぐるしく攻守入れ替わる展開を映像で見てみたいんだよな
て言うか島津・竜造寺を加えた九州三国志事体を映像化してほしい
608人間七七四年:2009/04/20(月) 01:52:01 ID:2/G75cbM
>>603
>>606
遺臣が自分の過去の所属を喧伝するなど武田だけの専権ではなく、
北条もどこもやっている。
徳川は武田と北条を取り込んだけれど、徳川はどちらも宣伝していない。
甲陽軍鑑以上に面白い軍記もあるのになぜこれが最大級に人気を勝ち得たかを考えると、
もともと武田や上杉の軍事的名声が高かったと解釈するのが妥当じゃないかな。
609人間七七四年:2009/04/20(月) 01:58:22 ID:gWo2UQtK
>>608
だから立場が違うだろ。
北条遺臣は、陪臣ぐらいにしかなれない。
将軍の直臣や大名クラスになれた武田とは違う。
まして徳川が、石川数正出奔のために代用として武田流を採用した事情は、他の旧家臣団にはない要素。
610人間七七四年:2009/04/20(月) 01:59:53 ID:19wRXfir
>>609
徳川家は関東に移ってから、北条流の軍政を採用しているわけだが。
611人間七七四年:2009/04/20(月) 02:00:22 ID:gWo2UQtK
数少ない旗本化できた北条一族の末裔ですら、甲州流軍学の門下になっているのが実際。
そういう政治的背景なんだよ。
612人間七七四年:2009/04/20(月) 02:02:18 ID:19wRXfir
つーか、幕府開いてからの正式軍政は北条流だぞ。
甲州流は在野の軍学になってる。
613人間七七四年:2009/04/20(月) 02:04:05 ID:gWo2UQtK
確かに武田・上杉は百万石ぐらいまで領国を拡大した強大名だったのは確か。
しかし同等かそれ以上の実績を上げた大名は織田・毛利・島津・伊達・後北条らそこそこいる。
その中で異様に突出している理由を考えると、幕藩体制下の事情としか考えられないだろう。
614人間七七四年:2009/04/20(月) 02:05:11 ID:gWo2UQtK
>>612
軍政? 北条流っていうのはその甲州流軍学を学んだ北条氏の末裔から出たもので、別に後北条流というわけではないが。
当然、祖である流派が称揚した存在を貶める理由なしだし。
615人間七七四年:2009/04/20(月) 02:16:42 ID:gWo2UQtK
どれほど影響力が強かったかというと、江戸後期になって武田流を批判した徳田邑興という軍学者が罰せられているほど。
ちなみにこの徳田、自分ところの島津氏の強兵評判も否定している。
616人間七七四年:2009/04/20(月) 02:17:06 ID:19wRXfir
>>614
いやだから、家康は関東に移ってから、軍制を後北条氏のものを基にしたものに、
さらに改めているんだってば。

つーか、なんか変な固定観念にとらわれすぎてないか、キミ?
617人間七七四年:2009/04/20(月) 02:19:58 ID:4L8MDZaq
>>589
もちろん弓は、左だけじゃなく後方にだって放てる。
しかし、鉄砲は、乗馬したままで当てようと思えば、左構えでないと撃てない。

そもそも流鏑馬は、パフォーマンスの類いであって、戦技とはいえないよ。

>>599
走ってれば上下にも揺さぶられる。
上体と鎧冑、旗指物でかなりトップベビーなのに、その状態で重心よりかなり高い位置で発砲すれば…。

安全なまでに減らした減裝薬では、具足を着けた相手に効果があるとは思えないよ。
すれ違いざまに攻撃するなら、槍なり打物なりで。
618人間七七四年:2009/04/20(月) 02:20:48 ID:gWo2UQtK
>>616
軍政、といったのはそっちだろうw
ああ、誤字だったわけか?
しかし大筋はかわらないぞ。
幕府公認の軍学は小幡が立てた甲流で、その後はやったのも山鹿流らその系統だし。
(討ち入りで有名な赤穂藩もこれ)
619人間七七四年:2009/04/20(月) 02:23:37 ID:19wRXfir
>>618
幕府公認の軍学なんて存在しない。軍学はあくまで在野の学問だぞ?
620人間七七四年:2009/04/20(月) 02:25:17 ID:gWo2UQtK
>>619
あるだろ。上にあげた甲州流の分派である北条流は慶安軍制を制定している。
徳川の軍制も幕末まで武田流だし(井伊の赤備なんかは鳥羽伏見まで出張っている)
621人間七七四年:2009/04/20(月) 02:30:58 ID:GJdJUBkM
>>609
北条氏旧臣が陪臣ぐらいしかいないということはないだろ。
旗本の玉縄北条氏は代々重職を輩出してるような家だし、中山、秋元のような
関東系の連中でも出世してるやつはしてる。
(まあ、甲州系には及ばんけど)

>>614
北条氏長は小幡勘兵衛の門下だったんだっけ?
そもそも甲州流とか北条流といったように、学問として体系化されたの
自体が江戸初期の話なので、>>611の指摘はちょっと的外れな気もするが。
622人間七七四年:2009/04/20(月) 02:32:26 ID:19wRXfir
>>620
軍学と軍制をごっちゃにするなよ。
幕府の学問所で軍学の講義があったかい?
軍学の研究機関があったかい?

軍学は実戦を忘れた元禄期くらいからは確かに世間における一定のステイタスを
持つようになったが、それ以前に、世間的に大きな影響力を持ったことなど無い。
ましてや幕府に。
623人間七七四年:2009/04/20(月) 02:36:40 ID:gWo2UQtK
>>621
いや、だからなんで川中島が評判になったか、という話でね。
同時代の人間だと秀吉の例もあるとおり、決して褒めた一辺倒じゃないわけ。

>>622
あるだろ。軍学はいくつもあったが、その中で幕府から「官許ノ学」として唯一認められたものだぞ。
実績が問題なら、それこそ毛利流とか織田流とかが(無いけど)最強になるわけだしw
624人間七七四年:2009/04/20(月) 02:39:03 ID:gWo2UQtK
また幕府だけじゃなく甲流・越流軍学の系統は有力藩の指南にもなっている。
政治的影響を無視できるのなら、そのほうが異常でそ。
625人間七七四年:2009/04/20(月) 02:39:15 ID:19wRXfir
>>623
秀吉が批判(?)したっていうのは、逆にそれだけ川中島合戦が世間に喧伝されていたことの証拠だろうに。

高い評判と評価が存在したから、それに対しての秀吉のコメントが記録に残ったんだよ。
世間的になんでもないと認識されてた合戦なら、秀吉もコメントしないしコメントしても記録に残らない。
626人間七七四年:2009/04/20(月) 02:42:05 ID:gWo2UQtK
後北条の軍制に改めたから、といいつつ今度は軍学と軍制は関係ないとか、なんなんだろう? 普通に流しちゃったがw
627人間七七四年:2009/04/20(月) 02:43:41 ID:gWo2UQtK
>>625
秀吉は川中島を通るときに口にした程度で、別にわざわざ合戦の評判聞いてコメントしたわけじゃないんだが。
つまり武田強い、という虚構の上に虚構が重なったといいたいわけ?
628人間七七四年:2009/04/20(月) 02:43:50 ID:19wRXfir
>>624
キミは「政治的影響」で何でも説明しようとする。ある種の陰謀論者のようだなw
既に否定のための否定になっているぞ。
629人間七七四年:2009/04/20(月) 02:45:19 ID:19wRXfir
つーか、武田が強いという認識を拒絶する所から全てが始まっているんだなキミはw
だから無理に無理を重ねた結論しか出せないわけだ。
630人間七七四年:2009/04/20(月) 02:51:07 ID:vTgF6WXR
>>628
君のように自分のレスを舌の根もかわかないうちに否定する態度こそそうじゃないの?w
631人間七七四年:2009/04/20(月) 02:52:10 ID:ZxDxFQIb
個人についてじゃなくて、論の中身について議論しようぜ
632人間七七四年:2009/04/20(月) 02:56:57 ID:vTgF6WXR
まぁ知られている内容がリアルな当時の史料によった川中島合戦じゃなくて。

甲陽軍鑑や北越軍談で脚色された内容が評判になった、という話だからね。やっぱりそういう宣伝効果でしょ。
633人間七七四年:2009/04/20(月) 03:16:55 ID:TOXF0ojn
一カ所で何年も何回も合戦があった、しかもどっちも死傷者多めのガチンコで引き分け
ってのが川中島の合戦くらいしかなかったからじゃないかなぁ
当時でも研究対象にしやすかった気はするけど。

秀吉のは「おれならこんな泥沼はまらないぜ!!」みたいな気持ちはあった発言だと思う。
634人間七七四年:2009/04/20(月) 03:32:50 ID:vTgF6WXR
>>633
研究対象なら、それこそ講談調に脚色されたのを観るとは考えづらいんじゃ? 講談どおりの展開だとしても、冷静にみれば反面教師にしかならんミスばっかりだし。

まぁ実戦が過去になりつつあり、講談調のものが流行るのは時代の流れかもしれんけども。
635人間七七四年:2009/04/20(月) 11:07:20 ID:QcJzuVf/
封建時代の学問はサロン学問だからな。
「面白くてためになる(ような気になる)」というのが基本。
636人間七七四年:2009/04/20(月) 12:46:46 ID:624K88Qg
歴史音痴な人でも知っている全国区知名度の戦国時代の戦って
・桶狭間戦
・川中島戦
・関が原戦
・大阪の陣
くらいは知ってるんじゃね
637人間七七四年:2009/04/20(月) 13:36:33 ID:2/G75cbM
関ヶ原は信長と家康の合戦とか思ってる人も世の中にはいるよなあ。
638人間七七四年:2009/04/20(月) 13:44:44 ID:QcJzuVf/
川中島は中学教科書に載ってないだろうから、知ってたらオタ。
なお一時期、桶狭間ではなく田楽狭間の戦いと呼ぼうという言い換え運動があったんで
そっちで覚えて桶狭間になじめない人もいたりする。
639人間七七四年:2009/04/20(月) 15:10:40 ID:624K88Qg
>>638
世の中の影響力って教科書だけじゃないだろ
TV・雑誌・漫画・映画・ゲーム・ネットなどのメディア媒体全体の影響力は
全世代(若い世代が多いが)に万遍無く浸透するから教科書に載ってる載ってないの比じゃない
推測だけど過去10年すべてのメディアで一番扱われた戦国時代の戦って川中島だろ
一年前、赤壁の戦いなんか三国志好き・歴史好きの一部オタしか知らなかったろうけど
レッドクリフの影響で今の全国知名度は7〜8割くらいあるんじゃないか
そういうもんだよ
640人間七七四年:2009/04/20(月) 15:22:18 ID:vxF5CAXW
>知名度は7〜8割くらい
流石にこれはない
7〜8%だろね
641人間七七四年:2009/04/20(月) 15:28:42 ID:624K88Qg
>>640は?
もしかして君は民法地上派まったく見ない派かなw
数週間前からCMでバンバン流れてたろ
赤壁の戦いが云たら今たら〜レッドクリフって
TV点けてたら嫌が追うでも耳に入ってくるから
頭の中に自然と刷り込まれると思うが
642人間七七四年:2009/04/20(月) 15:31:36 ID:7lK35iYN
小説や映画の題材やモチーフにたまたまなったからじゃね>川中島
冷静にみれば、狭い土地取り合って膨大な時間と兵員を消耗した詮のない戦。
が、無駄こそが創作の源泉なわけでw
643人間七七四年:2009/04/20(月) 15:38:06 ID:vxF5CAXW
>>641 興味無い人がCM見ても記憶されないよ
男が化粧品のCM見てもCMにインパクトが無い限り覚えないのと一緒
関ヶ原や桶狭間の知名度ですら7〜8割なんていか無いと思うよ
644人間七七四年:2009/04/20(月) 16:11:03 ID:624K88Qg
>>643
誰も関が原や桶狭間の知名度が7〜8割あるとは言ってないがなw
1つ分かったけど、君はだいぶ世の中の仕組みや流行りに疎い頭がカチンカチンの年輩の方だw
TVCMってもんは興味がある無しに関わらずバンバン垂れ流す事によって
脳内に無意識下に刷り込ませる広告戦術なんだよ
同じ事を何回か聞かせたら自然と頭の中にインプットされるもの、特に若い人にはね

レッドクリフの話だがPART1の興行収入400億、この前のTV視聴率20%
レンタルも開始日以来ずっと1位をキープ、されに今PART2が公開中
公開数週間前からCMでバンバン流してPR活動
雑誌・TV番組でも去年からかなりの数扱われ・・・・・
こんな状況で知名度が7〜8%と言えるのかい
記憶が薄れる一年後の話じゃない、今現在の話だぜい
645人間七七四年:2009/04/20(月) 16:19:27 ID:7lK35iYN
>>644
まてまて。その計算はおかしいぞ。
そもそも視聴率っていうのは、視聴者を分母としているわけで別に全世帯とかじゃないし。
実際、CMとかの流行だって一時期過ぎれば忘れ去られるから、そのときブームだからって定着とはまた別問題だしな。
ただ、小学校の教科書でやってる関が原は基礎知識として内実はともかく名前は知られているだろうが。
646人間七七四年:2009/04/20(月) 16:23:16 ID:624K88Qg
>>645
あのね全世帯じゃないけど全体の推移を表す指標にはなる訳・分かる?
それと今現在の知名度の話なのに何故1年後、10年後の定着度の話に摩り替えるの?
647人間七七四年:2009/04/20(月) 16:45:28 ID:7lK35iYN
>>646
いやだからそもそも全体の指標じゃないから。限定された分母からの指標だから。
それに、話の元ネタは川中島合戦でしょ?
映画の知名度の話ならそれこそ何のために例として持ちだしたのやらw
648人間七七四年:2009/04/20(月) 16:46:05 ID:vxF5CAXW
いやいや早合点するな
レッドクリフの知名度と赤壁の戦いの知名度は違うぞw
映画のタイトルと歴史上の合戦名称とは一致しないって
テレビでやってたの家族で見たがイモートなんて日本の昔話と思ってましたが・・・w
しかも合戦シーン見て「なんで強い人と雑魚を戦わせるの?こっちの大将馬鹿じゃないの?」
なんて言葉を普通に吐いてましたがw赤壁は知らなくてもレッドクリフ1は見たとなるのよ
おそらく大半はこんな感じでしょ?

話変わるが前に番組でみのもんたや島田伸介の写真見せて街角で名前わかる?
つーアンケートしたら5-6割くらいの正解、この2人でもその程度
世の中そんなものだと思ってますよ
649人間七七四年:2009/04/20(月) 21:09:02 ID:mG1SSNv4
武田信玄は三方ヶ原で徳川及び織田の助勢を破るなど
信長・家康という天下人に相当な脅威を与えていたからなあ
上杉謙信もやはり織田に脅威を与えていたし
この2人は反信長勢力の二大巨頭といった感じかな。
両雄が対決した川中島の注目度も高くなるんじゃないの

西の毛利も織田に脅威を与えたけど
元就時代とは異なって、輝元はリーダシップというか
存在感がいまひとつなんだよね
650人間七七四年:2009/04/20(月) 21:25:10 ID:7lK35iYN
その程度の脅威なら、朝倉あたりのほうがよっぽど脅威になったわけだがなぁ。
しかも織田の苦境見て同盟切って背後うかがった程度でしかもそれすら完遂したわけでもない。
やっぱり江戸期の持ち上げられっぷりのせいだろ。
651人間七七四年:2009/04/20(月) 21:32:09 ID:yfKyuGNz
>>649
毛利も初期の頃なら7万の兵力で、秀吉もびびりまくりだったのにね。
宇喜多の寝返りで逆転したけど。
652人間七七四年:2009/04/20(月) 21:32:28 ID:mG1SSNv4
武田・上杉は信玄・謙信の存命中は信長に勝利している。
朝倉は信長に対し目立った勝利はなくそのまま滅ぼされた。
信玄・謙信のポイント高くなるでしょ。
653人間七七四年:2009/04/20(月) 21:41:11 ID:7lK35iYN
>>652
目だった勝利なく?
森可成ら織田の重臣を戦死させたり、相当善戦しているわけだが。
同盟切りでの小勝利だけ挙げて病没した程度が評価されるのなら、最終的に滅ぼされた点で同じ武田もここまで持ち上げられるのは妙じゃん。
ある要素は、講談等で持ち上げられたからで、その源泉は幕府から公認された軍鑑のような空想的な書物のお陰でしょ。
リアルの武田上杉が評価されたわけじゃないよ?
654人間七七四年:2009/04/20(月) 23:39:01 ID:ulNefGMr
江戸幕府が講談の内容についてもいろいろ規制だしたんじゃなかったっけ?
で、その規制に引っかかりそうもない中で、しかも幕府からもまず睨まれないもの、となるとそんぐらいしか残らなかったとか。
山本勘介が、武田勝頼と謙信の娘との恋を取り持つとかみょうちくりんな講談もあったな。
655人間七七四年:2009/04/20(月) 23:54:49 ID:j2b7hGhv
川中島の戦いは江戸時代の軍記物講釈とそれをもとにした、小説・テレビ・映画のせいでもうほとんど実態がわからなくなってる。
旧日本陸軍が編纂した書物には川中島の合戦はのってないはず。
実際に明治の軍人が現地を歩いてみたら、「ありえない!」って結果になったんだよ。

だいたい1万2千人の別動隊とか、大将同士が一騎打ちなんてありえないから。

軍学ってことでいえば「甲陽軍鑑」ってかなり胡散臭くないか?
徳川家中で武田系の武将ってすごく威張ってたわけでしょ。あの書物にもかなりハッタリがかましてあるはず。
著者も偽ってるよね。
ツガル外三群史なみにあやしいし、資料としての価値はすごく低いと思う。
656人間七七四年:2009/04/21(火) 04:11:21 ID:c3gLPh/C
森可成が重臣とは初耳だが
657人間七七四年:2009/04/21(火) 04:45:23 ID:sEgCSW4j
尾張統一戦で功績あり、信行に従った柴田よりも古参で配下では最も早い時期に
城持ちになった大重臣ですがな

息子らもえらい厚遇されとるし
658人間七七四年:2009/04/21(火) 05:07:49 ID:bKHjx2Wk
江戸期の軍学は観念的なものだからね。実用性もなさげ。
中国の孫子なんて、現代でも通じるほどなのにこの手の軍学は明治がくるとほぼ全滅でしょ。
中国を蔑視したくて仕方ない昭和一桁前後の日本軍が引っ張りだしたのも、軍学じゃなくて闘戦経という相当古いもので、スルーされてるし。
659人間七七四年:2009/04/21(火) 05:15:47 ID:0TNCf8XQ
>>657
何の功績もない三男がいきなり城持ちになったくらいだもんねw
660人間七七四年:2009/04/21(火) 05:33:30 ID:O8U/T3sx
>>659
ところが信長公記等では、城持ちにされたという記載はないんだな。
兄貴らは分国持ちの城主になっているが。
661人間七七四年:2009/04/21(火) 05:39:48 ID:O8U/T3sx
訂正。兄貴ら、じゃなくて兄の長可は、だ。
長男は最初に朝倉攻めで戦死。
662人間七七四年:2009/04/21(火) 05:46:06 ID:0TNCf8XQ
終巻には美濃金山と米田島を森蘭丸にやった記述があるね。
城という単語は確かにないが、その土地の領主である以上、
美濃金山城主になったと考えて何か問題あるの?
団平八も岩村を貰っているけど、岩村の領地だけ貰って岩村城だけは
貰えなかったとかそんなことがありうるの?
663人間七七四年:2009/04/21(火) 05:52:00 ID:O8U/T3sx
>>662
兄であり家長である長可が健在なのに?
例えば羽柴秀吉は中国地方に領土貰っても、本貫地である長浜城は別に取り上げられてないよ。
664人間七七四年:2009/04/21(火) 06:00:24 ID:0TNCf8XQ
>>663
羽柴も諸説あるけどね。
細川藤孝は丹後貰った後にそれまでの所領を返してたはず。
新たに所領が与えられた場合、旧領を返上するのは別におかしな事じゃないけど。
だから、弟に与えたというこの処置を公記ではかたじけなきことって表現してるんでしょ。
ていうか、公記の記述を信じるなら金山は蘭丸の物じゃん。
他に解釈しようがないよ。
665人間七七四年:2009/04/21(火) 06:03:26 ID:O8U/T3sx
その部分だと、「長可にとってもよいことだった」という風に書かれているから、取り上げられたとは考えづらいし。
奉行や加判・取次を勤めた功績を認めて、一門衆の別格と認めた(羽柴秀吉家の秀長のように)という意味かと思ってたが。
666人間七七四年:2009/04/21(火) 06:10:24 ID:O8U/T3sx
細川氏って城返還してたっけ? 明智にぶんどられたのは本能寺のときの力づくだろうし。
また、長可は本能寺の変後、金山に帰還している。当時の武家の慣習からいっても、いくら元は自分のとはいえ弟の城になったところへ入るとは考えづらいが。(戦死を知ってもう勝手だ、と考えた可能性もあるがね)
667人間七七四年:2009/04/21(火) 06:12:38 ID:0TNCf8XQ
>>665
新たに領地が与えられ、旧領も一門である弟に与えられた。長可にとってもよいことでしょ。
逆に聞くが、あなたは美濃金山と米田島は誰の領地だと思ってるの?
「金山よねだ島、森乱へ下さる 是れは勝蔵忝き次第なり」という文をどう解釈して
その意味になるの?
668人間七七四年:2009/04/21(火) 06:14:44 ID:0TNCf8XQ
>>666
細川が持ってる城を力づくで分捕るのか?それこそ考えられんでしょ。
669人間七七四年:2009/04/21(火) 06:15:48 ID:O8U/T3sx
>>667
言ったとおりだが。
第一、「森乱」は信長最後のときにもいたように、小姓衆だよ?
城主ではその職務とあわなくなるじゃないか。
それこそその領土からの収入は与えられる、という意味でしょ。
江戸時代でいえば陪臣に対する蔵米みたいな。
670人間七七四年:2009/04/21(火) 06:17:32 ID:O8U/T3sx
>>668
おかしくないでしょ。細川氏は親子そろって剃髪して信長を弔い、明智の誘いをあからさまに拒絶した後。
671人間七七四年:2009/04/21(火) 06:22:15 ID:O8U/T3sx
>>670訂正。

明智は本能寺後、近辺の城に強引に兵をいれているし、
自身が勝龍山に入ったのだって細川氏が親子そろって剃髪して信長を弔い、明智の誘いをあからさまに拒絶した後。
672人間七七四年:2009/04/21(火) 06:36:53 ID:0TNCf8XQ
>>669
城主の職務とは城にいなきゃいけないものではないよ。
長浜城主どこに派遣されたかわかってるよね?もちろん自分の領地と違う播磨だよね。
領地と任地が違う事くらい当たり前のことでしょ。
そこそこ大きい領地や城を持つ家臣は領地に自分の代官を送るのが通例。他の大名見ても同じでしょ。
任地と城地が違うことに何故そこまで拘るのかが理解できない。
もしかして、信長の領地は重臣以外は全部信長派遣の代官が治めてたっていう考え?
673人間七七四年:2009/04/21(火) 06:55:11 ID:0TNCf8XQ
>>671
とにかく、丹後拝領時に勝竜寺を召し上げたことは公記14巻に
『青龍寺の城上げ申され候』とある。文句があるなら公記に言ってくれ。
674人間七七四年:2009/04/21(火) 11:24:25 ID:rrDHBdSw
>>669
津田信澄は信長の側近だったが、同時に近江高島郡を支配する大溝城主だった。
もっとも彼の場合、磯野家の養子としての立場で高島郡を相続したのかもしれないが。

他にも、同じく側近の堀秀政が近江長浜城を拝領したとか、前田利家に能登を与える
代わりに、旧領の越前府中をやはり側近の菅谷長頼に与えるという記録もある。
675人間七七四年:2009/04/21(火) 11:52:35 ID:nJKTl+lN
森長可の領地が信濃、乱丸が美濃。

森家の家臣が信濃と美濃に分散してる、領土が二つに分かれてるけど実質同じ様なもの。

長可は、信濃から美濃に移って、そのまま乱丸の領土を支配してる。
676人間七七四年:2009/04/21(火) 14:24:03 ID:wBP6Ilp7
>>654
大衆本の規制は厳しいけど、歴史書はそれ程でもない
太閤記でいうと「絵入」は駄目で、「甫庵」は良いという感じで

実証学的なものは良いという面では、普通の頭の固いお役人だなと
思ったり
まぁ、江戸時代で「戦国BASARA」やったら、そりゃ怒るかと
677人間七七四年:2009/04/21(火) 14:31:01 ID:pc0gekFg
まあ、あの年齢で分家していたとも考えにくいわな。
公式で信長に領地を与えられたのは乱丸で、
その時に城の城主となったと考えるのが普通。
城は大抵領地に付随しているもんだし。
ただ、若いし、固有の家臣もいないので管理は森家で
行っていたってところじゃないの?
だから、公的に認められた乱丸は城主だけど実際の管理者は兄貴。
それなら両方の言うことに矛盾がでない。
678人間七七四年:2009/04/21(火) 16:06:32 ID:0osgtU/w
いくら後進的な織田家にも代官制度くらいあったろうしね
679人間七七四年:2009/04/21(火) 17:59:47 ID:sEgCSW4j
というわけで森可成は信長んとこでは大物だったということでOK?
680人間七七四年:2009/04/21(火) 18:04:57 ID:wBP6Ilp7
朝倉はヘボだけどね
681人間七七四年:2009/04/21(火) 20:37:37 ID:7xBQMDXP
つーか森一族は織田家中枢もいいところだろ。
あのまま織田政権が出来れば、徳川幕府における井伊家みたいな存在になってた。
682人間七七四年:2009/04/24(金) 01:04:09 ID:Vc6ysWhG
>>595
 歴史的意義に乏しいのはその通り。
4度目の合戦では両軍が霧の中で遭遇して激戦になったから。
683人間七七四年:2009/04/24(金) 09:33:26 ID:g+oUpncH
中央の政府だけ見ていると正しく情報を把握できないよ。
厳島の戦いや川中島の戦いなどの一見何でもない重要な合戦は、
戦国時代全体の縮図であるし、全体の政局にも大きく影響を与えている。
特に川中島の合戦は武田が奮闘しなければ
織田の進出もありえないほど上杉が膨張する危険性を孕んでいた。
人の意見で歴史の事件や人物の意味を評価するより、
自らそこに新たな事実や解釈を発見する観点が必要。
そういう意味でも川中島の戦いを検証するのは格好の材料といえるだろう。
684人間七七四年:2009/04/24(金) 09:59:51 ID:HO4ZBR7c
>>983
>戦国時代全体の縮図であるし、全体の政局にも大きく影響を与えている
それを言ったら、地方の合戦では全てその要素を含んでいる。
なのに、どうして他の合戦はマイナーで、川中島は有名なのか?ってのが
質問者の意図。あなたはまず、文章を正確に読み取る勉強からやり直して
きたほうがいいですね。
685人間七七四年:2009/04/25(土) 10:55:26 ID:FACugTVE
そういうあんたもどこにレスしてんだかw
686人間七七四年:2009/04/26(日) 18:48:39 ID:z3d1dbCp
>特に川中島の合戦は武田が奮闘しなければ
>織田の進出もありえないほど上杉が膨張する危険性を孕んでいた。

武田と上杉が逆じゃないか?
687人間七七四年:2009/04/26(日) 21:46:30 ID:2yStH21R
武田が大勝しても越後までは攻められないだろうし、上杉が大勝しても
信濃全域を勢力化に置くのは無理だろう。
結局川中島合戦って北信4郡の取り合いでしかないような気がするな。

どっちかの総大将が討ち死にするレベルだったら結構日本史全体に
影響与えたかもしれんけど。
688人間七七四年:2009/04/27(月) 10:59:21 ID:s7vFRfJ0
>>686
第四次川中島前の上杉の膨張ぶりは異常。
比肩できるのは上洛したときの信長ぐらい。
689人間七七四年:2009/04/27(月) 15:50:22 ID:067UEH6D
膨張って言ってもなあw
関東管僚就任・上洛にしても形式だけの所詮権威付けだけで、実なんかほとんど無いし
関東勢10万の旗頭と言っても、結局烏合の衆の集まりで纏まりなんか露程に無いしな
北条攻めに関しても、大した成果を挙げる事が出来ず無駄に出費を重ねただけだった
別に織田擁護派じゃないが、上杉は戦国最強だったとか後世に造られた
過大なイメージに振り回されている人が多いんじゃないか
690人間七七四年:2009/04/27(月) 17:34:20 ID:0MRmitXS
別に織田擁護派だが、当主が北条氏康だからこそ抵抗出来たのであって
もし仮に、三好長慶存命、北条氏康・氏政親子急死〜トロイカ体制ならば
信長は六角すら攻略できず、逆に北条家は大半を上杉に一部を武田に分割されていたのは確実。

もちろん織田擁護派だが、奇跡的な僥倖に奇跡的なほど数多く恵まれた信長に対して
戦後の妄想学者もどきが作り上げた超絶過大評価の信長像を真に受けてる人があまりにも多い。
691人間七七四年:2009/04/27(月) 20:34:25 ID:wiukbYT7
>>690
織田擁護派を名乗ってトンデモ論をブッて織田信長と織田擁護派を
貶めようというネガキャンですね。バレバレです。
692人間七七四年:2009/04/27(月) 22:09:06 ID:g1rIpQoV
>>691
キミは色々落ち着いてスレの流れを見たほうがいい。
693人間七七四年:2009/04/27(月) 23:28:29 ID:LCxmPk/D
1.三好長慶存命
2.北条氏康急死
3.北条氏政急死
えらくifガ多いな。もう少し遠慮しろよ。
694人間七七四年:2009/04/28(火) 14:43:26 ID:zqN4xI0U
川中島合戦当時の三好家と北条家の状況を引っ繰り返しただけだ。
695人間七七四年:2009/04/30(木) 17:10:42 ID:vDdXHp9b
>>491
> その論法でいえば、「国崩」は国を崩壊させられないと、名前がつけられなかったことになるなw

遅レスだが、「国崩」はちゃんと合っているぞ。ただし崩れたのは大砲を戦場に持ち込んだ豊後(大友)方だけど。
696人間七七四年:2009/05/09(土) 00:43:05 ID:xkfmbil6
>>600
当時において天下最強といわれた武田上杉の両方の大名が
激突した決戦だからってのが第一の理由かな。
これは江戸時代の講談云々ではなく、織田領土の大和興福寺の記録で
武田上杉の軍は天下一と称えられている。
それに武田も上杉もなんだかんだ言って中央情勢に結構噛んでるからな。
上杉に至っては上洛してその威名を知らしめてるし。
四国も東北も九州も中央情勢に絡んでないし、最強ともいわれてないだろ?
話題性で言えば結構なもんだな。
697人間七七四年:2009/05/09(土) 00:54:13 ID:xkfmbil6
>>604
それは理由としては足りんかな。
理由については俺も>>696に書いといた。
>>606
秀吉君は天下取ってからはやたらと天下の名物や偉人をこきおろしてるからな。
大仏に関しては俺が作ればもっと大きくなるとか、
源頼朝像に対しては「ろくに兵もいなかった状態から天下を取ったのは俺とお前くらいだが、
お前は源氏の嫡流で俺は無位無官の氏も知れぬ出自だった。俺の方がすごいな」と言ったりしてる。
そして信玄謙信の戦に関しては「俺からすりゃ無意味な戦だぜ!どっちも今頃いきてりゃ俺の家来だ!」
と言ってる。
逆に秀吉がこうやってムキになってこきおろしてるって事が
当時において両人が高い名声を持っていた事を裏付けてるんだけどな。
698人間七七四年:2009/05/09(土) 01:05:26 ID:xkfmbil6
>>609
まあ江戸時代の武田の最たるものは高家だけどな。
>>613
つーか当時から天下一という風評はあったんだけどな。
武田上杉には。
>>615
軍鑑批判は江戸時代から結構あったんだけどな。
それ言ったら越後流とかどうなんだ。
>>620
井伊の場合はもともと徳川家先陣を定められてたからと
大坂の陣における吉例なんだけどな。
>>623
秀吉に関してだが、>>697を参照の事。

織田に関しては江戸時代はあんまり評判良くないしなあ。
さらにいっとくと軍鑑とか見てみればわかると思うが、
人の使い方、人材の見極め方、法律はなぜ重要なのか、とかいった
平時において使える要素が豊富な実例をあげて説明されている。
軍鑑が重宝された理由は、江戸時代の人間にしてみれば
修養書みたいな役割を果たしていたからと思える。
699人間七七四年:2009/05/09(土) 01:15:27 ID:xkfmbil6
>>627
これに関してもやっぱり>>697を参照。
秀吉がわざわざこきおろしてるってのが
他の例を見ればどんなものだかわかる。
>>633
やっぱり>>697参照。
>>634
武田上杉が風評高かったのは事実なもんで。
>>635
>>698参照。
軍鑑の場合、戦の事ばかりだけでなく、平時における様々な教訓や要素が
豊富な実例とともに紹介されてるので、
平時を生きる人間にしてみても修養書みたいな側面があったと思われる。
実際軍鑑はずいぶん流行してるからな。
今では香坂もしくはそれに近い人間の口述が基と判明してるが、
当時においても小幡が書いた説はあり、そういった批判者でさえ
「書いてある事は歴史的に間違ってる事も結構あるのに、
なぜだろう。ひとたび読めばこれを尊崇する気持ちになってしまう」と
首をかしげている。実際は武田遺臣の息吹が入ってる書物だったからむべなるかな。
700人間七七四年:2009/05/09(土) 01:20:22 ID:xkfmbil6
>>650
武田西上はほかならぬ織田万歳の信長公記でさえ
「方々手ふさがり」と言わしめてる状況だけどな。
>>653
小勝利も何もないけどな。三方ヶ原はこれまた公記でさえ惨敗と書いてある。
さらに言うと、織田は平手をはじめとする家臣たちを失い、
徳川に至っては戦死武将50名以上。
これで評価されなかったらそっちが意外だが。
さらにいっておくと軍鑑を空想とか言ってるけど内容読んだことあるのかと。
リアルの時代でさえ武田上杉は天下一といわれてるのに。
701人間七七四年:2009/05/09(土) 01:38:22 ID:xkfmbil6
>>655
だからそういうお前は本当に軍鑑を読んだことあるのかと。
実際川中島では武田勢が上杉勢に押されて三隊を除いて敗走してるところとか
いろいろ書いてあるのに。
陸軍の話じゃないだろ、そのありえない話とかいうのは。
近年になってある大学の研究チームが実際に夜同じ経路で移動してみた検査結果だったはず。
まああれは軍鑑では西条山とあるのを妻女山としてやってみた結果だから
いろいろ問題あるんだが。
>>658
実際平時における人材活用とか国の治め方とか
むしろ平時にこそ役立つ教えが満載だと思うが。
明治の軍人にしてみれば大砲やら戦艦やらが跋扈した戦場で
どうやって軍鑑使えと。
まあ極論言うと、軍鑑の軍学っていうのは戦う前に勝負を決めろ、
平時からきちんと法律とかを定めて国を治め、その上で戦うべし、とか
強敵を抑えられるくらいの備えを持ち、その上でその強敵の同盟国や配下で
弱い所を叩き、自分達の力を高めると同時に敵の力を削ぎ、最終的に勝利する、
とかいうように一軍人が実行できんだろ、って事がら多いからな。
あくまで政治・軍事・外交をまとめて担う「大名」が前提なんだよな。
それから闘戦経が好まれた理由だが、昭和初期は天皇万歳な風潮で
その中では天皇家に仕えた大江家が纏めた天皇時代の兵法書である
闘戦経がもてはやされたってわけなんだが。
702人間七七四年:2009/05/09(土) 01:50:31 ID:xkfmbil6
>>684
実際四国や九州で勝っても中央情勢にはあんまり関係ないし。
第4回川中島前の上杉は非常に強力な存在だ。
まじでこれはひとつのターニングポイントだったと思うが。
まあ有名な理由は上に書いたとおり。
当時から武田上杉は天下一と評判高い存在で、秀吉も
何気に意識してるわけで。
>>686
いや、これで正しいだろう。
上杉は第4次川中島直前は関東諸侯を従え、
領土でも越後一国に武蔵北部、上野一国その他を持つ100万石近い存在。
武田領国もこの勢威によって動揺が広がり、武田宗家に次ぐ勝沼氏が上杉に呼応しようとしたり
北信濃豪族が上杉に挨拶に行ったりしてる。
だから武田としてはここでなんとしても上杉に打撃を与えねばならなかった。
>>687
上記にあるとおり、上杉がもしも完全勝利したら、武田領国の崩壊が起きえたと思うが。
>>689
まとまりがあったから北条も窮地に陥ったわけだが。
まあ、上杉の地力だけでも当時は100万石近い。
第4次川中島以降、武田北条は連携してこの力の削減に努める。
>>691
意外にとんでもじゃないと思う。
703人間七七四年:2009/05/09(土) 04:23:45 ID:m0e9Ddi9
今川氏真の武将としての評価が低いのは当然としても、
桶狭間で重臣がほとんど討ち死にして組織が烏合の衆みたいになってる。
補佐役がいないのは気の毒な面もある。

竜造寺も島津に隆信や重臣殺されて、朝鮮征伐の時も組織にまとまりが無かった。
704人間七七四年:2009/05/09(土) 11:56:53 ID:V9jplj6A
基本的には賛成するけど、川中島の過大評価がなあ。

どちらかが勝っていれば日本史のキーポイントにはなりえたけど、実際に勝っていないのだから。
IFで語れるのなら、中国四国の天王山とも言える毛利大友合戦だって、どちらかが勝っていたら
日本史の動かしていたよ。
705人間七七四年:2009/05/09(土) 12:12:13 ID:wHw59toA
大友も毛利も中央にはあんまり噛んでないからね
706人間七七四年:2009/05/09(土) 19:51:55 ID:Mg+7Wehs
歴史群像No95
「解析 上杉家の軍事システム」

「手明」は、徴発の指揮官(現代なら下士官〜尉官程度)だった
上杉軍は、徴発に頼ることで、機動力を上げていた
武田、北条は小荷駄が充実していたので、機動力を上げることができない

ほんとに手明って 徒侍・徒士・歩き侍 なのか?

射撃戦の楯持説やそれこそ小荷駄係という説もあるのに・・・

詳しいひとご教授下さい。 

707人間七七四年:2009/05/09(土) 19:57:25 ID:FEKOXvqx
おっ、
こんなスレあったんだな!こりゃ良スレだな
708人間七七四年:2009/05/09(土) 20:27:21 ID:1Eojsj42
>>706
他の軍役をみても楯持や小荷駄とは考えにくい
装備は甲、打物、籠手、腰指とあるので私は戦闘を行う徒侍と見るね
709人間七七四年:2009/05/09(土) 20:32:49 ID:A9cXyI6e
>>706
なんだ、そのトンデモな説は。
手明は総兵数の割合が高いんだから、
もっとまともな仕事があるだろうにな。
710人間七七四年:2009/05/09(土) 20:42:42 ID:8KGfg2kI
「手明」って語感からは、徴発や戦闘も含めて、状況によって何でもやらされてた職種、って
感じはするな。
711人間七七四年:2009/05/09(土) 20:48:42 ID:A9cXyI6e
普通に考えて、工兵の役目を伴う
足軽や雑兵の類か、
予備兵力だと思うけどね。
712人間七七四年:2009/05/09(土) 20:58:02 ID:1Eojsj42
>>708
私は腰に指す刀とは別に、打物という槍や長刀を指すものから
徒侍と見ますわ
713人間七七四年:2009/05/10(日) 05:20:07 ID:wnJU04bD
>>702
さすがに100万石は無いだろw
慶長3年の検地でも越後の石高は40万石を切るくらいだよ
第四次川中島の頃の上杉の勢力圏って越後と信濃・上野の一部だからね
あと本当にまとまりがあるんだったら、関東の国人達の相次ぐ北条側への
寝返りなんてのは起きない筈だけどね
714人間七七四年:2009/05/10(日) 06:05:58 ID:lYSOD7PK
>>713
川中島当時は関東一帯が上杉の領国になりつつあった。
上洛したばかりの織田と畿内みたいに。
しかし川中島の損傷で低下したから、
まとめる前に求心力を失った。
もしこの時武田がやる気を出さなければ、翌年には再出兵した上杉に小田原が落とされ、
名実ともに関東管領の復権が果たされた可能性は低くない。
これを食い止めた川中島の意義は限りなく大きい。
715人間七七四年:2009/05/10(日) 07:07:30 ID:NJOP55iV
無理でしょ。損傷とかそういう問題じゃあない。
越後と関東の物理的な距離と自然が作る障害の問題だよ。
緊急展開的にいったりきたりしないといけないようじゃあ、継続的支配は困難。
それこそ武田の信濃覇権を認めて手打ちにした上、本拠地自体を厩橋に移すとかの奇手を打たない限り、戦略的に北条には勝てないl。
716人間七七四年:2009/05/10(日) 11:48:21 ID:JosC0Ga6
>>713
いや、実際百万石近くある。
越後39万石、上野一国49万石、武蔵北部10数万石で
100万石超えてる。これに出羽の一部とか佐渡とかも入るか。
あんまり注目されてないけど、謙信は小田原ぜめの前に上野一国と武蔵北部を平定してる。
実際謙信が関東管領になってしばらくは相次ぐ裏切りなんて起きてない。
武田北条の連携による数年間の上杉勢力の侵攻作戦が成功してから
関東豪族の裏切りが起きる。
>>715
実際西上野は長野を中心としてまとまり、武蔵も松山城を中心にまとまり
うまく統治されている。武田は上杉と戦いつつ西上野を取り、北条に協力して援軍を出し、
武蔵北部も攻略してる。
717人間七七四年:2009/05/10(日) 13:29:25 ID:8CdTXBEV
歴史群像読んだけど、一言でいって、
「ねーわw」だった。
小説家の妄想レベルでなんら根拠がない。
面白かったけどな。
718人間七七四年:2009/05/10(日) 17:32:55 ID:rxU9WbiI
>>716
うまく統治、どころか謙信が十一万も集めて確保した土地どんどん奪い返されているのが実際なんですが。
戦国の領主が大名に従うのは、自分達を保護してもらうため。
奉仕するのはその代価。
越後から本当に後詰に来てくれるかわかんない謙信では難しいよ。
719人間七七四年:2009/05/10(日) 19:15:45 ID:8O3WK2rq
>>717
ほんとは前号に掲載の予定だったんだよね、この上杉家の軍制改革の記事
なんか苦しんで書いたのか あるいは執筆者が交代したのではないかと思うくらい

しばらく河合秀郎を見ていなかったので
720人間七七四年:2009/05/10(日) 22:10:47 ID:wnJU04bD
>>715
同意
春日山を拠点として留まってる限り継続的支配など出来っこ無い
信長みたく尾張→美濃→近江と勢力拡大に伴う根拠地移転の
柔軟な発想を謙信が持ち合わせていたとは思えないし
721人間七七四年:2009/05/10(日) 22:17:37 ID:F2fzDMsJ
>>696-702
ID:xkfmbil6

エネルギッシュな人きた
722人間七七四年:2009/05/10(日) 22:21:10 ID:F2fzDMsJ
>>720
謙信も小田原落としてたら
小田原か鎌倉あたりに移転したようなきがす
723人間七七四年:2009/05/10(日) 22:22:26 ID:7vnJt4iq
というより、根拠地移転の問題を当主個人の発想で片付けるのは随分だなぁ。
724人間七七四年:2009/05/10(日) 22:57:22 ID:wnJU04bD
>>722
謙信の関東侵攻ってあくまで秩序回復の義戦であって
領土的野心ってものはあの時期は更々無かったんじゃないかってきがす

>>723
言葉を短絡的に捉えすぎだな
当主名を挙げたからって、それは全て当主一人のみの発想・考えって限らんだろ
織田家及び家臣団一同、上杉家及び家臣団一同
なんて書き方は普通しない
725人間七七四年:2009/05/10(日) 23:04:57 ID:p39r5eFW
戦国各大名の軍役、着到

北条家(池田孫左衛門 天正九年)
大小旗持二人、指物持一人、弓五人、鉄砲三人、鑓二十二人、馬上二十騎、歩者三人

武田家(小田切民部少輔、天正四年 長篠後)
馬上六騎、小旗三本、鉄砲六挺、持槍六本、弓六張、長柄十九本、道具数四十、乗馬共四十六

上杉家(上杉景勝、天正三年)
鑓二百五十丁、手明四十人、鉄砲二十丁、大小旗二五本、馬上四十騎

織田家(明智家、天正九年 千石)
甲者四人、馬五頭、指物十本、鑓十本、幟二本、鉄砲五丁、馬乗一人の着到は二人分

徳川家(松平家忠、天正六年 家忠日記記載)
侍十五人(八十五人とあるが誤りと思われる)、中間百二十六人、鉄砲十五張、弓六張、鑓二十五本、鑓使三人


東国は全般鑓が多い
良く言われるが北条は馬、上杉は鑓、武田は長篠後故か鉄砲に注力している
織田と徳川に殆ど差がない事に注目
徳川は織田と同じくらいに鉄砲を装備していたと見るべきであろう
726人間七七四年:2009/05/10(日) 23:14:16 ID:PPxfRHN/
>>724
いやいや、それなら上杉家中とか他に書き方あるよ。
それでもまだまだ考えが足りなさすぎるけど。
上野を攻略したと言っても臣従、従属してきた国人の領地は保障しなけりゃならないのに、
どれほど長尾上杉の直轄領があるのかと。外様だらけの土地の飛び込むのは危険にもほどがある。
信長の場合は斎藤家の直轄領が転がり込んできたけど、
維持不可と見て助けを求めてきた憲政にそれほど多くの直轄領が残されているとは思えない。
獲得のやり方が全く違うのだから。

地形も。上野に本拠を移転しようものならと越後の交通難でただでさえ不安定な
越後がさらに不安定に。
濃尾平野と一言で言われるほどのだだっ広い障害の少ない平野部を支配している
織田と一緒に語れない。
727人間七七四年:2009/05/10(日) 23:42:27 ID:p39r5eFW
>>725
後、武田家の軍役が重すぎる
これでは家中が疲弊して、崩壊したというのも十分頷ける
728人間七七四年:2009/05/11(月) 00:10:53 ID:EuUbfuxc
>>726
だからそれは謙信に領土的野心があった前提での考察だろ
俺はそもそもそういう野心が無かったと捉える派だから
拠点移動の発想(必要性)が無かったと読めばすぐ想像出来るだろ
君はレスから相手の言ってる事を汲み出す能力が無さ過ぎ
相手の主張をよく吟味してレスした方がいい
729人間七七四年:2009/05/11(月) 00:24:21 ID:eCsQL7eS
>>728
それならまず、柔軟な発想と言う言葉が間違ってるね。
発想(必要性)と発想=必要性としているが、それは=で結ばれる言葉ではない。
それに必要ないことを発想することを柔軟とは言えない。

あと関東侵攻ってあくまで秩序回復の義戦も立派な動機ととらえることができる。
領土的野心だけの話ではない。君のレスからはそう汲み取るしかない。

君の言うような意味に汲み出すのは少々無理があるね。
そこまで言うならあなたには相手に理解できるようにレスして欲しいかった。
730仙台藩百姓:2009/05/11(月) 08:57:41 ID:2TVH1ILZ
領土的野心がなかったとかアホじゃないかお( ^ω^)プ
領土的野心を持てなかったのだお
謙信は関東管領というカビの生えた体制の上に乗っかったから
旧来の体制を維持する事でしか支持を得られなかったのだお( ^ω^)
佐竹や宇都宮ら北関東の諸氏らが自領を増やす事が殆ど出来ず
洞という緩い集合体で留まったように
謙信もそれの拡大版であったに過ぎないお( ^ω^)
731人間七七四年:2009/05/11(月) 23:29:31 ID:cALC4Bh4
百姓の分際でこやつなかなか言いおる
732人間七七四年:2009/05/12(火) 00:31:21 ID:SZVw3i3G
>>730
いやいや、野心を持てなかったという表現は一番外れた推測だろ。言葉に詳しく表すと
「領土拡大の野心を持っているが置かれている状況、現状がそれを許さないので
その気持ちを持たない様、考えない様、そしてそれを他者に悟られない様努めている」。
と言う事は、自らの本音を心の奥底に隠して本心を誰にも告げていなかったという意味合いになる。
その誰にも語った事の無いであろう本心を、どうしてあんたは自身満々に断言出来るのかな。

関東侵攻という確固たる事例があるのだから、野心を持っていたが適わなかった、あるいは
あくまで秩序回復の為の出兵であり野心がなかった、のどちらかがもっとも妥当な推測だろ。
それとも、自領拡大を図りたいが領国支配体制が脆弱で野心を持つのは望むべくも無いなどの
謙信自らの心情を赤裸々に綴った書状があるってのか。あったら教えてほしいな。

それと北関東諸氏全てがもれなく領土拡大の野心を抱いていた、と決め付けるのもいささか乱暴過ぎ。
自らの領地と一族の安全な生活が保障されるのならば、それで充分と思っている
現状維持安定志向の領主、つまり領国拡大の為ではなくあくまで自国防衛だけが目的による
駆け引きを行っていた領主も中にはいただろうと想像するのが一番自然な考えだと思うが。
それとも各諸氏全てが一人残らず野心を抱いていたという証拠がある?あったら教えてくれよ。
戦国大名は例外無く領土拡大野心を抱いていたと思い込んでいるゆとり厨スイーツ脳( ^ω^)プ
733人間七七四年:2009/05/12(火) 01:26:21 ID:jPagyO9i
>>732
軍役に対する恩賞と言う観念を忘れているよ?
武士の棟梁の器量とは、軍事行動に参加し手柄を上げたものに褒美として知行を与える事だ。
「ご恩と奉公」と言う言葉からわかるとおり、武士にとって「ご恩」の無い「奉公」はありえない。
734人間七七四年:2009/05/12(火) 02:33:13 ID:SZVw3i3G
>>733
だからこそ駆け引きと言う言葉を選んだんだけどな。
日本全国全ての棟梁が軍事的行動、活動を行使していた訳じゃないだろ。
それ以外の諜報活動、懐柔策、同盟策あるいは日和見を決め込むなどの
それら全て包括して駆け引きという単語が最も適切だと思ったんだけどな。
君の言ってる事も大事だろうけど、領主の器量で一番大切なのは
領国経営能力、内政の優劣であって、強力な軍隊、装備で外に打って出る
富国強兵策は次点にランク付けされるものだと思うが。
それと恩賞は土地が全てでは無いしね。
それとも君も全ての棟梁が漏れなく野心を持っていたと考えている口かい。
735人間七七四年:2009/05/12(火) 02:42:54 ID:hKfxxCGh
実際のところ、「俺が天下人になる」とか「新しい幕府(のようなもの)を作る」という意思表示をしていたのって何人いますかね?
736人間七七四年:2009/05/12(火) 02:58:38 ID:SZVw3i3G
修正 また突っ込まれるかもしれないから。
日本全国全ての棟梁が軍事的行動、活動を他国に向けて行使していた訳じゃないだろ。
現在の永世中立国の日本国みたく他国を攻める為でなく、隣国から自国を守る
抑止力として軍事武装していた所もあったろうと考えるのが自然と思うが。

>>735
逆だったら元就が息子達に戒めた「天下を望んではいけない」は有名だけどね。
信長に関しては永禄十年に「天下布武」 ”天下の武を布(し)く”の印を使用し始めたのと
稲葉山周辺を岐阜”周の武王が挙兵した岐山(きざん)の麓(ふもと)”と名付けたので
その頃にはすでに天下取りの野望があったと推察されるけど。
737人間七七四年:2009/05/12(火) 05:24:16 ID:GJhadIcS
>>718
そりゃ武田北条の連携戦略の賜物。
6年くらいかけて多くの戦いを繰り広げて
領土を奪っていったんだから。
それでも西上野の旗頭ともいうべき長野一門は
武田相手に果敢に戦い、最後は玉砕してる。
統治体制と軍事の結果は別物でしょ。
むしろ長野の玉砕とか見ても上杉の上野支配体制はよくまとまってたと
見るべきだと思うが。
738人間七七四年:2009/05/12(火) 05:27:42 ID:GJhadIcS
>>736
まあその毛利の天下を望むな云々は
実際には怪しいといわれてるけどな。
当時の毛利は九州から撤退し、尼子再興軍との相手に忙殺され、
浦上宇喜多とかの勢力とも緊張にあり、
天下を狙うとか悠長な事いう状態じゃなかったんだし。
信長の「天下布武」の「天下」もあの時点では畿内をさしてたと
見られるけどね。
739人間七七四年:2009/05/12(火) 07:36:49 ID:jPagyO9i
>>735
家中の者達の書状などの一次資料から、明らかに天下を目指し、何らかの政権樹立を考えていたと
わかるのは、武田家と上杉家だけだそうな。
740人間七七四年:2009/05/12(火) 09:33:24 ID:/M54VyXo
中央政府に軍事的に関わって主導的役割を果たそうと考えていた人物なら無数にいる。
足利将軍はもちろん、大内、細川、六角、三好etc、、、。
戦国大名に限定するなら将軍を傀儡にした織田と
「向後天下迄之仕合心安候」の上杉は確実だろう。
でも武田は?
741人間七七四年:2009/05/12(火) 10:37:58 ID:Rx/dkEub
信長の天下布武の武は少なくとも表向きは足利将軍を指していると思うんだけどな。
自力だと将軍を奉戴するには不遜すぎる。
742人間七七四年:2009/05/12(火) 10:39:06 ID:NshLt/60
>>734
>領国経営能力、内政の優劣であって
この中には、国防、安全保障もふくまれます。領土を守れない棟梁は
豪族から見捨てられます。
「関東を安定させる」「北信濃の豪族を援助して防戦する」もどちらも
領国越後を守る手段の一つです。
安全保障に必要な土地を占領する、というのは紀元前からある国防思想。
そして、国防のためであれ、戦うのなら配下豪族には軍役を負担させる
ことになり、軍役を負担させた以上は、手柄を立てれば報酬も必要に
なります。どこの土地を与えるのですか?長尾家の領地を割くのですか?
土地以外の報酬もありますが、もっとも重く喜ばれたのは、やはり土地です。

>>736
>現在の永世中立国の日本国
本気で聞きたいんですが、いつのまに日本は永世中立国になったんですか?
いつ日米安保を廃棄し、オーストラリアやASEANやアラブとの諸条約も撤廃し、
在米日本軍を撤退させたんですか?
743人間七七四年:2009/05/12(火) 11:14:50 ID:YnPpJzwf
>領国経営能力、内政の優劣であって、強力な軍隊、装備で外に打って出る
>富国強兵策は次点にランク付けされるものだと思うが。
強力な軍隊、装備で外に打って出ることを富国強兵策とは言わない。単なる『強兵』。
富国強兵とは、経済を発展させ(富国)、軍備増強を促す(強兵)こと。


永世中立とは『宣言』と他国からの『承認』が必要。日本は『承認』はおろか『宣言』すらしてない為、自称永世中立国ですらない。
その証拠に中立どころかアメリカの同盟国として派兵してる。
744人間七七四年:2009/05/12(火) 13:18:15 ID:7kMWIKGs
>>742
「在米日本軍」ってなんじゃい大間違い。
「在日米軍」でしたすまん。
745人間七七四年:2009/05/13(水) 09:31:22 ID:WeMHsDGY
>>740
武田は「天下静謐の馳走」じゃないか?
746人間七七四年:2009/05/19(火) 07:58:37 ID:y4VvMMSq
>>725
725にでてくる武田家の「馬上六騎」ってかなり重税だろ…常識で考えて…

これじゃあ勝頼がいくら戦上手でも、不満が噴出して、内部崩壊して、織田につきたがる武将が出るもの無理ないわ。

軍役で一番きついのが馬に乗った武者じゃね?

馬は上等じゃなきゃいけないし、それに乗ってる武士もそれなりの人物じゃいけないし、鎧・武器・鞍・馬につける飾り…

これなら鉄砲の方がまだ楽だろ…常識的に考えて…

木曾ナントカとか穴山梅雪とか・・・

725の武田家の軍役から、勝頼の限界が見えてくるようだなあ。
747人間七七四年:2009/05/19(火) 08:13:13 ID:BHcRVDf0
意味が良く分からない。四十六分の六なら別に重くないと思うが。
そもそも貫高が書いてないのに、重軍役かどうかわかるはずがない。
748人間七七四年:2009/05/19(火) 08:16:56 ID:BdeFLyZD
>>746
>>725の武田の軍役は何貫でこれだけの軍役なの?
それが書いてないので、重いかどうかは判断つきかねる。
北条の池田は、わしの持ってる史料では約389貫文
(寄子衆と鉄砲侍を全部足して)のようだけど。
749人間七七四年:2009/05/19(火) 08:47:39 ID:iYf+/tGg
上杉のは、軍役帳に負担数そのものが記載されてて、貫高は不明なんだよな。確か。
750人間七七四年:2009/05/19(火) 09:00:34 ID:f6Fit6pX
実は武田氏研究は、先行した後北条、今川などに比べてまだ途上。
751725:2009/05/19(火) 09:35:44 ID:v8fvtsZX
>>746
>>747
馬上だけより、その他の鉄砲・弓・槍といった道具との比率で見るべき
武田家は他の家に比べても馬に比して高い比率で多くの道具を持つ事を強いた
752人間七七四年:2009/05/19(火) 10:26:13 ID:BdeFLyZD
>>751
何がどうなったら「軍役が重かった」といえるのか、具体的な数字を頼む。
また「道具数四十」の「道具」とは一体何なのか。
そんで「四十」にはどうも人間の数は含まれていないようだな。
「乗馬共四十六」も意味不明だな。
これは小田切の武士の換え馬用なのか。
それとも小田切某は牧を経営してて、「乗馬」を供出するようにされていた等なのか。
あるいは他の武田の衆の軍役はどうなっているのか。
この点で比較も出来なければ、武田家の軍役の実体は見えてこない。

多くの物資の供出を命じられていたとしても、それに比する収入が小田切にあるなら、
決して重いとはいえないはずだ。「馬上(あるいは人間)」の代わりに「道具」や「乗馬」を
多く軍役せよ、ということもあり得る。やっぱり小田切某の収入が見えないと話にならないと思う。
753725:2009/05/19(火) 11:19:25 ID:v8fvtsZX
>>752
織田家や徳川家と比較すると馬の数を同じにして比較すると、槍や弓の数が武田家の方が多くなる

「道具数四十」は「小旗三本、鉄砲六挺、持槍六本、弓六張、長柄十九本」の合計
「乗馬共四十六」はそれに「馬上六騎」を加えたもの
754人間七七四年:2009/05/19(火) 12:23:59 ID:BdeFLyZD
>>753 なるほど。

馬上と他の者の比率
北条 馬上20 その他36 比率(馬上を1とすると、その他)1.8
(寄子、鉄砲侍を含めない池田孫左衛門尉知行191貫だけでみると、比率は3.3)
武田 馬上6 その他40 比率6.6
上杉 馬上40 その他295 比率7.3 手明40も含めた場合の比率8.3
織田 馬上5 その他31 比率6.2
徳川 馬上(侍)15 その他49 比率3.2 中間126も含めた場合の比率11.6

>>725にもあるように、明智は乗馬1人の着到は他の二人分に相当していた。
佐脇栄智によれば、北条は馬上1人は他の者の三人分に相当すると推察できる。
上記のように、他家でも一騎が数人分に相当したとするなら、
馬と他の装備の比率という見方は、軍役の実態を反映していないと思われる。
比率を見ても武田だけが突出しているようには見えない。
むしろ北条がやたら馬の比率が高くて、馬上1人は他装備3人分ということでも
分かるとおり、騎馬武者に軍役の価値を高く置いていたことが分かる。
もしくは牧が多かったようなので、他領よりも馬が安かったのか。
そして上杉が馬に対する鑓の比率が高く、徳川はよく分からん。
ついでに明智はほぼ25石につき1人で、これは豊臣政権の通常時の軍役と同じ。
755725:2009/05/19(火) 13:40:06 ID:v8fvtsZX
>>754
織田は指物は槍足軽に付けていたでしょうから比率はもう少し下がるかと
上杉は安価な槍が中心であることに注目、北条もそうだが馬上の多さは確かに特徴的だと
私も思っています

武田は維持費のかかる鉄砲や弓が上杉や北条よりも多く、にもかかわらず長柄も織田や
徳川よりも多い
となると、どこか無理をしているに違いないと思うのです
756人間七七四年:2009/05/19(火) 13:45:04 ID:BHcRVDf0
維持費というなら馬以上にかかるものは無いと思うが。
だから、原則高給取りしか騎乗武士になれなかったのだから。
757人間七七四年:2009/05/19(火) 13:49:16 ID:Uh7/UKlg
騎馬突なんてなかったでしょ
騎馬は荷駄の運搬用
実際、戦場では降りてから戦う
武田が最強なのは長槍部隊
だいたい武田を例に挙げると
騎馬戦なんてどこでやるのよw
甲信地方の山間の足場が悪い地域で騎馬を使った戦術などあり得ない

武田の騎馬が優れていたのは
領内の軍事運搬路を整備して戦場までの移動をすばやくしたことね
普通の大名は敵の潜入を防ぐために道を複雑にして妨げる
武田は逆に攻撃は最大の防御と考えているから道を整備した
これが武田があっけなく滅んだ理由の一つ
移動短縮で経費削減、すばやい移動で相手の先手をとる手法

そもそも、日本の戦国は野戦自体が少ない
攻城戦が基本
馬はそのための工具武器などの運搬が主要目的であったと判断する
騎馬武者は指揮官、伝令の一部のみと考えられる
758人間七七四年:2009/05/19(火) 13:54:46 ID:f6Fit6pX
>>757
それもそれで短絡的のような
759仙台藩百姓:2009/05/19(火) 14:04:40 ID:s9OVQ1Nl
近頃はたいした論拠があるわけでもないのに
騎乗戦闘は存在しないと得意気に語る奴が増えたおね( ^ω^)
760人間七七四年:2009/05/19(火) 14:07:33 ID:BHcRVDf0
近頃つっても、もう何年も前からだけどな。
板のあちこちで飽きるほど繰り返してるよ。
761人間七七四年:2009/05/19(火) 14:08:02 ID:f6Fit6pX
まあ、騎馬戦闘がなかったのなら、当時存在した騎馬での戦闘の為の、片手乗り騎馬術や
馬上体術はなんなんだ?って話になるよ。
762725:2009/05/19(火) 14:31:15 ID:v8fvtsZX
>>756
馬は配下の武士に土地を持たせれば取りあえず揃えられるが
弓足軽は専門職なのでそれなりの金銭で雇わなければならない
それも継続して(臨時雇いは必要な時に揃えられるかわからん)
鉄砲足軽は言うまでもないかと
特に東国では鉄砲は値を張るだろうし
763人間七七四年:2009/05/19(火) 15:03:39 ID:BHcRVDf0
>>762
いやいや、当時の兵制では馬こそが専門職だ。家業だからな。
馬の維持費は大きい。浅野家では250石以下の石高では馬を維持できないと計算した逸話がある。
軍馬だ。農耕馬ではない。草だけ食ってろというわけにはいかないんだ。
騎馬、弓、鉄砲全て貫高(土地)単位に何人と定められている。継続して費用必要なのは一緒。
それを言うなら弓足軽も鉄砲足軽も土地を持たせておけば揃えられる。
北条家の軍役でも実際そうなってるしね。
764725:2009/05/19(火) 15:18:52 ID:v8fvtsZX
>>763
いや、馬に金がかかるのは否定しない
それ程でないが、弓や鉄砲足軽は槍足軽よりも遥かに金がかかると言いたかった

管理の面倒臭さでいえば土地をあげれば後は自分でやる武士と違って、
足軽は装備についても色々、供与しなければならないし
765人間七七四年:2009/05/19(火) 15:40:27 ID:BHcRVDf0
>>764
そうなのか。すまん。
ただ、足軽の装備についても必ずしも大名家によるお貸しというわけじゃなく、
原則は自分(或いは上司である武士)が準備だね。
槍と鉄砲弓では確かに槍の方が安いだろう。
ただ、大名側もこれらを同等とみていたのではなく、槍、鉄砲、弓それぞれ貫高相当の
人数が違う。
例え、この表で武田が鉄砲や弓の装備率が他に比べて高かったとしても、
他の部分で優遇(たとえば、鉄砲が多い分大幅に槍を減らすとか)していれば意味が無い。
北条の軍役でもそうだけど、同じ大きさの土地を与えられている武士でも比率は一律じゃない。
やっぱり、詳細がわからないと武田の軍役の重さを示すのは難しいんじゃないかな?
766725:2009/05/19(火) 18:33:51 ID:v8fvtsZX
>>765
長篠よりずいぶん前の話なんだけど槍を減らすのと同じ数だけ弓を増やすということはしている
槍100本を30本減らして、弓30張増やすとか
元亀3年の話だけど
767人間七七四年:2009/05/19(火) 19:15:40 ID:BHcRVDf0
>>766
んー。それだけじゃなぁ。
武田の貫高あたりの兵役を示す着到状とかが沢山あれば比較もできるんだろうけど。
768725:2009/05/19(火) 21:05:29 ID:v8fvtsZX
>>767
手元にあるのは元亀2年3月に武田信實の子に397貫350文と陣夫5人を与え、
馬上3騎、鉄砲5挺、持槍長刀5本、長柄10本、弓2張、持小旗3本というのがある

後、武田の長柄は他と異なり兜と籠手を着けるよう命じられたという
これも費用がかかる
769人間七七四年:2009/05/19(火) 21:29:56 ID:30OGO1p8
武田も兜つけてたのか
加藤清正も足軽に兜かぶらせてたって常山紀談だかに載ってたなあ
頭は大事だもんな
770人間七七四年:2009/05/19(火) 21:33:46 ID:0YwIRFBy
陣笠って豊臣以前に使われていたの?
771725:2009/05/19(火) 21:42:51 ID:v8fvtsZX
天正三年の上杉軍役帳には鉄砲の装備に「笠・腰指」とある
元亀二年の北条家の軍役には皮笠着用を命じている
772人間七七四年:2009/05/19(火) 22:05:24 ID:0YwIRFBy
ありがとう。
陣笠って侍がつけるもんじゃないから、
地下人が最前線に立って集団戦闘の主力になっていたんだろうなー。
すごいな、昔の庶民は。
773人間七七四年:2009/05/19(火) 22:11:07 ID:f6Fit6pX
足軽を出せるほどの百姓は決して庶民ではない。
むしろ武家に近い存在。
774人間七七四年:2009/05/21(木) 18:03:25 ID:sDgnSe/1
足軽を出してた軍役衆か、農業で食えない連中かわからん
775725:2009/05/21(木) 22:04:26 ID:rdU9zceg
元亀2年 397貫350文 武田信実
 馬上3騎、持鑓5本、鉄砲5挺、弓2張、長柄10本、持小旗3本

元亀3年 35貫 源五左衛門尉
 持槍1本、長柄1本、持小旗1本

天正5年 高辻2465貫文 天正3年所務968貫仁185文 岡部正綱
 馬上9騎、持鑓15本、鉄砲10挺、弓10張、長柄21本、持小旗5本
 道具61、乗馬10騎

天正6年 上司1450貫文 天正5年定納合451貫300文 西条冶部少輔
 馬上4騎(自分共)、持鑓4本、鉄砲5挺、弓4張、長柄12本、持小旗3本

天正6年 天正5年定納合49貫700文 原伝兵衛
 馬上1騎、持鑓1本、鉄砲1挺、長柄1本、持小旗1本

天正6年 天正5年定納合49貫700文 玉井源右衛門
 馬上1騎、長柄1本

天正6年 上司36貫 天正5年定納合11貫400文 勝善寺(順西)
 長柄1本

貫高で比較する場合は天正は定納で元亀と比較するべきでしょう
一見して、天正の方が負担が大きいのが解ります
776人間七七四年:2009/05/21(木) 22:19:34 ID:6ljAfbCZ
武田は高税率、重軍役のイメージはあるなぁ。新領地には重負担だっけ?
同じ領地での軍役の変化を時系列で並べられれば一目瞭然なのだが。
777725:2009/05/21(木) 22:49:46 ID:rdU9zceg
>>775
訂正
玉井は21貫
778725:2009/05/22(金) 11:16:13 ID:KNqx3nK9
>>776
流石にそういう便利なものは…大井高政のがある
ただし、永禄5年のが二つに7年のが一つ、内容も微妙

一応、挙げると
永禄5年
@45人具足、長柄30本(在府に付き内5本免除)、弓5張、持槍2本、鉄砲1挺、甲持1人、小旗持1人、指物持1人、手明4人
A45人内40人具足、長柄31本(在府に付き内5本免除)、弓5張、持槍2本、鉄砲1挺、馬上5騎、小旗持1人
永禄7年
38人内34人具足、長柄18本、弓4張、持槍3本、鉄砲1挺、馬上4騎、甲持1人、小旗持1人、指物持1人、手明5人
779人間七七四年:2009/05/22(金) 11:26:17 ID:1M/qbpsf
天正以降は合戦の規模は大きくなるばかりだから、軍役もそれに伴って拡大したと言うことだろうか。
780725:2009/05/22(金) 11:43:31 ID:KNqx3nK9
>>779
長篠以降になると装備等の規定が厳しく、北条家並みになる
鉄砲を第一とし然るべき射手や玉薬300発用意せよとかある

識者はこういう文章による統制は近世的なものと評価する
場合が多いが、個人的にはこの手の細かい統制は逆に
武士への反発心を高めることになって逆効果だと思う

軍役からみると武田や北条は足軽を主人から切り離して
足軽隊を組織しているようだから、必要な処置かもしれないが

近世のように足軽は全て大名級が一括に雇用し、場合によっては
下に与えるという形ではなかったのかもしれない

そういう新たな足軽の雇用の形態はやはり織田・徳川辺りから
大々的に始めたのかな?
781人間七七四年:2009/05/22(金) 12:04:11 ID:1M/qbpsf
> 軍役からみると武田や北条は足軽を主人から切り離して
> 足軽隊を組織しているようだから、

自らの足軽隊を組織するほど、配下とは言え武田家からの独立性が高かったと言うことかもね。
まあ軍役の一環として足軽の提供義務があっただけかもしれませんが。
782人間七七四年:2009/05/22(金) 12:08:13 ID:mNvhT/RE
んー、近世でも家臣も足軽を雇用してない?全て一括じゃないと思う。
大名が足軽募集した例は天正十二年だけど木曾氏にあるね。
織田は絶対まともな資料がないので確かな事は言えない。
北条についても知識不足できちんとした事は言えないけど、
非常時の総動員令で金銭を対価に農村に兵を出させたことがある。
これは大名による雇用ととることができるんじゃないか?
783725:2009/05/22(金) 12:45:01 ID:KNqx3nK9
備に配属される足軽組は近世では大名が直接雇用したものです
数千石クラスの組頭級になると軍役で少数の足軽を有しますが、彼らは基本的に
足軽組でなく組頭の直下に組み込まれたままです

さて、中世の場合は軍役によって動員された下級武士の足軽を武士から切り離し、
別個に足軽組を作っていたと考えられています

それとは逆に経済的に備を作れない者にそのさらに上の者が援助をすることで
備を編成する例もあります
この援助は上の者の侍や足軽を付属させたり(所謂、寄騎同心制)、金銭や武器を
与え、足軽を雇用させる方法があります

どちらだけでなく、さまざまなことが行われていたようですが、北条・武田は主に
前者の下級武士の足軽を武士から切り離す方法を、織田・徳川などは金銭や武器を
与え、足軽を雇用させる方法が主だったように感じます
(寄騎同心制はどちらも大々的に行われていたよう)

この下か上のどちらがより負担するかで、求心力に大きな差が出ていたのではないか
と考えているのだが
784人間七七四年:2009/05/22(金) 13:21:49 ID:mNvhT/RE
ああ、足軽組の足軽を全て一括という意味ね。ちょっとわかりにくかった。

北条は有名な大藤の足軽隊があるけどこれは後者だね。
正直北条については微妙だなぁ。徳川は間違いなくそっちよりだけど。

織田については俺もイメージだけどそんな感じはしてた。
最近は資料的裏づけがないので最近は微妙に感じているけど。
ただ、信長公記の中の『右遠陣之儀候条、人数すくなく召連、
在陣中兵糧つゝき候様にあてかい簡要候、但、人数多く候様に戒力次第』
とある箇所で、遠征なので兵糧の関係で人数絞れ、でも足りるならできるだけ多く
という意味から、兵糧については支援があったと思う。
あと、長篠の戦時の鉄砲の徴集と配備については装備の援助ととることもできる。
でも、この程度の事例で信長を後者よりにすることはできないなぁ。
785725:2009/05/22(金) 17:04:26 ID:KNqx3nK9
>>784
北条と武田を比べれば北条は直接雇用の率は高かったかも
織田については確かに良く解らん、史料がない

でも徳川並みだとは思うんですけどねぇ、イメージで
いや、しかし後の徳川の大番と豊臣の七手組における前者の
先進性を鑑みると…徳川は軍制組織の最先端だったのかなぁ
786人間七七四年:2009/05/22(金) 21:18:08 ID:1M/qbpsf
そういえば七手組って、上杉謙信のところにもあるな。
何か関連性はあるのだろうか?
787725:2009/05/22(金) 23:03:56 ID:KNqx3nK9
>>786
徳川家の大番が武田家を真似(中身は全く違うけど)したのに対抗して、
上杉家の七手組を真似したとか…なんかやりそう
788人間七七四年:2009/05/22(金) 23:17:18 ID:1M/qbpsf
>>787
それは中々、妄想を掻き立てる説ですな。
信玄謙信の争いが、豊臣徳川にまで引き継がれていたと言う感じでw
789人間七七四年:2009/05/22(金) 23:33:10 ID:YaV03U/i
謙信の七手組って後世の創作じゃないの?
790人間七七四年:2009/05/23(土) 07:14:51 ID:yhP2Bffd
織田信秀の権力の成立過程から考えると
他の大名よりは金銭やり取りによる面は自然と強くなるんだろうな、とは思う
所詮は臨時雇いだろうが

商人を取り込むことで石高以上の経済力を手に入れたことがまさに権力の基盤だから
元の石高以上の兵力を得るにはどうしたって金銭雇用が必要になる
791725:2009/05/23(土) 22:13:23 ID:zsOLHCYy
足軽は応仁の乱時のゲリラ兵から、大田道灌辺りからの徒侍組の様なのが正規軍入りして
最後にその次の世代辺りから各兵種(槍・弓・鉄砲)単位の足軽組が編成されるようになったと思われる

信長公記の名が書かれた足軽なんかは真ん中の例に含まれるんだろうな
792人間七七四年:2009/05/24(日) 17:51:05 ID:1/Mlx91p
足軽って言葉が二重意なんだよね
身分として、士分ではない、侍ではないという意味の「足軽」と
足軽組に編成されている足軽という意味と

前者には、武士にくっついていく中間・小者などを含むし
後者は、近世の動員兵卒、徴兵兵卒に近いものがある
793725:2009/05/24(日) 20:36:43 ID:Km/pze6A
まぁ、あれだイギリスのコルベットみたいなもんだ
794人間七七四年:2009/05/25(月) 14:03:16 ID:Dx721VtV
戦国初期は傭兵隊長みたいなのが各地に足軽の募集しに行ってて、在地の領主からは
その行為が恐ろしく嫌われてるな。

政基公旅引付には、九条政基がお歳暮の予算を領地の入山田村に借りようとしたら、
和泉守護細川家と紛争中の入山田村から、「そんな予算あるならもっと足軽雇うわ!」って
断られた話があるなw
795人間七七四年:2009/05/26(火) 15:44:25 ID:vzg06puN
>>780
>近世のように足軽は全て大名級が一括に雇用
>そういう新たな足軽の雇用の形態はやはり織田・徳川辺りから大々的に始めたのかな?
近代明治政府以降、の大間違いなww
無知すぎる
796725:2009/05/26(火) 16:17:44 ID:l2d6W7WR
>>795
足軽組の単位で言っているのですが、何か?
797人間七七四年:2009/05/27(水) 17:52:00 ID:HEhC9cih
単に足軽が在地から離れた現象の事だけを言ってるなら
戦が大規模化するに随い、三好・大内・北条・武田・上杉・島津他色々な大名で
同様の傾向が見られますが、何か?w
798725:2009/05/27(水) 18:29:21 ID:uhg6Lvo6
うーん、そうじゃなくて備を単独で編成する際に、その足軽組の足軽を
編成した者が自分で雇ったかという話なんだが
799人間七七四年:2009/05/27(水) 23:15:10 ID:+liEFnnL
>>797は典型的な、何が議論されているかすら理解できて無いのに首突っ込んで、
恥をかいていることにすら気づいていないタイプだな。


そういえば豊臣家の七手組って、秀吉生前に既に、役職ではなく各組頭家の相続利権に
なっているのね。そりゃ組織として停滞するわ。
800725:2009/05/28(木) 20:05:54 ID:EjcPiI/M
一応、大番も松平重勝-重忠-重則や阿部正次-忠吉なんて世襲例も初期にはありますけどね
ま、板倉勝重-重宗の様に才を認められたんでしょうけど
801725:2009/05/28(木) 23:07:01 ID:EjcPiI/M
付言すると、七手組の世襲は当時としてはそれが普通で、大番が特異
家康が創始した組織としての武士の組編成は、時代の最先端を進んでいる

これは戦国期に起きた軍制革命の内、足軽の正規軍化、寄騎同心制、武士の城下常駐
に次ぐ第四の変革点と言えよう
802人間七七四年:2009/05/29(金) 09:56:18 ID:MhjYJ06w
謙信が創生した七手組の実態がわからない。
あれって七つの部隊にわけて活動するってことなのか?
803725:2009/05/29(金) 11:09:41 ID:V4pOp8CY
>>802
謙信の旗本の中で独立した部隊を率いていたという意味でしょう
家康の旗本先手組の様に寄騎同心制でなく、自前で全ての軍勢を揃えた国人衆という感じかと
804人間七七四年:2009/05/29(金) 11:20:05 ID:MhjYJ06w
>>803
謙信七手組はメンバーが奉行や旗本じゃなくて国人衆なんだよね。
それも時代によってその顔ぶれが流動的に変動している。
だから単純に考えて徳川同様に与力同心制だと思うんだ。
でも確証がないので徳川以前に先駆的な軍制を整えていたと断言できない。
805725:2009/05/29(金) 13:22:06 ID:V4pOp8CY
上杉家軍役帳を見ると

上条政繁(上条上杉氏)一門衆、奉行職兼任
鑓63、手明15、鉄砲2、大小旗6、騎馬10、合計96

北条景広(高広の子)奉行職兼任
鑓60、手明20、鉄砲7、大小旗7、騎馬11、合計105

柿崎景家(大見一族)奉行職兼任
鑓180、手明30、鉄砲15、大小旗15、騎馬20、合計260

斎藤朝信(四家老)披露太刀之衆、奉行職兼任
鑓153、手明20、鉄砲10、大小旗12、騎馬18、合計213

山本寺定長(長尾一族で山本寺上杉氏を相続)直太刀之衆、一門衆
鑓50、手明10、鉄砲2、大小旗3、騎馬6、合計71

本荘繁長(秩父一族)披露太刀之衆
謀反中に付き記載されず

竹俣慶綱(佐々木一族)
鑓67、手明10、鉄砲5、大小旗6、騎馬10、合計98

かなり出身にバラツキがあります
寄騎があったかも不明
同時期の家康の旗本先手役に比例するかもしれないが旗本先手役が家康の
居城に常駐していたのに比べて、在地領主のままなので制度的には劣るかと
806人間七七四年:2009/05/29(金) 14:07:58 ID:gOq7mzPA
横からだが、制度の優劣はまた別の議論を要すると思う。
807人間七七四年:2009/05/29(金) 16:42:15 ID:aUk3fOsh
時代が微妙に異なるのに優劣はないだろう。
上杉の軍制が武田などを通して徳川のもとへ伝わり、
発展したと見てよさそうだな。
808725:2009/05/29(金) 17:00:55 ID:V4pOp8CY
大番の前段は旗本先手役で、これの成立は家康の三河統一期の永禄11年頃になります
旗本先手役と大番の違いは前者が個人に寄騎を付属させているのに対し、後者は制度的な枠組みに
番頭と番士が配されている点に違いがあります

それ以外は城下に常駐する点や旗本に属する点など基本的に同系統といえます
しかし謙信の七手組はそれとは全くの別物といえます
809人間七七四年:2009/05/30(土) 09:26:52 ID:yO8tZmP4
>>805
軍役帳時と、謙信の後期七手組のメンバーが同じかどうか疑問が残るね。
810725:2009/05/30(土) 09:52:00 ID:HSxfjWcL
北条景広が家督を継承したのが軍役帳作成と同じ天正3年
それ以外のメンバーは前後含めて当主のままなので、特に問題ないかと
つまり、後期七手組は天正3年から謙信が死去する天正6年までの比較的短期間の
メンバーの様です
811人間七七四年:2009/05/30(土) 11:20:00 ID:rEqSiNFW
家康の大番制度は、今川、武田、北條などの先進諸制度の研究から生まれた、徳川独自の物と
考えたほうが良いんじゃ無いかな?
上杉の制度に影響されたとはちょっと考えにくい。

あと25さんは、制度の優劣ではなく、軍制の発展の流れの中における先進、後進に付いて
言っているのだと思うよ?
812人間七七四年:2009/05/30(土) 11:33:48 ID:zhTlcq/W
それを優劣というんではないか?
813人間七七四年:2009/05/30(土) 11:41:10 ID:AjWu2Ejs
俺にも発展してて先進だから優れている、後進だから劣っていると言ってる風に見えるね。
それは違う話だろうとは思うね。進歩史観っぽい感じで好きじゃない。
814725:2009/05/30(土) 12:31:55 ID:HSxfjWcL
国人一揆的な戦国大名から中央集権的な近世大名へと、体制の変換が行われていく中で、
その変換が最も成功した物の一つが徳川家で、その一例として旗本先手役や大番等の
軍制を上げている

確かに時代の転換への流れに適応しているから、優れているという考えは自分は持っている
近世大名を取りあえずの終着点とするホイッグ史観といったところかと
815人間七七四年:2009/05/30(土) 13:32:10 ID:yO8tZmP4
そういう歴史観も間違ってはいないが、
視野を狭めて評価が偏りやすいから要注意だよ。
816725:2009/05/30(土) 16:20:26 ID:HSxfjWcL
まぁ、注意はしているつもり
817人間七七四年:2009/05/30(土) 21:18:42 ID:rEqSiNFW
まあ進歩史観云々で言っちゃえば、周辺大名の中で制度的にはおそらく最も後進的だった
信長の織田家が、あそこまで拡大した理由がわからなくなるからね。

しかしやはり、制度にも一定の発展の流れがあり、長期的に見ればその流れに
いち早く乗ったものが、生き残り時代を主導するのに有利なのも事実。
818725:2009/05/31(日) 10:38:37 ID:6frXKEzq
織田家については組織自体は上杉家と大して変わらないけど、周囲はみんな敵で戦争しまくりという
異常事態であるが故に、組織改革する必要も余裕もなかった
それで、余裕ができると力を与えすぎた家臣の粛清を始め、結果として本能寺ですから

あ、これかなり適当な所感ですので
819人間七七四年:2009/05/31(日) 21:47:53 ID:X9NbCQZS
個人的にはおれもそんなところじゃないかと思う。
信長の思いどうりになりにくいが、織田家への忠誠が厚い譜代国人を粛清して、
信長の思い通りに動くが、織田家よりも信長個人への忠誠が濃厚な抜擢層が生き残った結果が、
清洲会議なんだろうなぁという所感。
820人間七七四年:2009/06/26(金) 21:29:59 ID:T2BjZk2+
>>491
超亀だが和語の「くに」には「天に対する地、大地」(広辞苑)の意味があるよ。
よって大地を多少でも崩せれば国崩しさ。
821人間七七四年:2009/07/04(土) 07:31:14 ID:Tz+srmsD
>>773
しかし農家から出る足軽は昔の日本で見られた兵役に就く成年男子と同じような物だと捉えると
それもチョット違って来る気がするのですが。あと足軽に限らず兵役には農家以外の所の庶民階級からも参加してたんだろうかと。
やっぱり肉体労働には農家の人が一番なのかな?
822人間七七四年:2009/07/04(土) 07:38:27 ID:7klS+D+A
>>821
捉え方自体が間違えてる。戦国期の仕組みを近代兵制と一緒にしないほうがいい。
823人間七七四年:2009/07/04(土) 08:05:32 ID:Tz+srmsD
>>822
まあそうだけど武家以外の所からも成人男子を兵役に採るというのは
近代兵制が出来る前からあったからその辺りがね。
824人間七七四年:2009/07/26(日) 22:08:59 ID:NzSZ30yU
>>805
上杉家軍役帳

これは、戦闘要員の数ですよね。これに陣夫がくっついていくわけですね。
すると、川中島合戦の時の上杉軍1万3000名とかは、かなりの非戦闘員が含まれていると考えて良いのでしょうか?
825人間七七四年:2009/07/26(日) 22:09:05 ID:NzSZ30yU
>>805
上杉家軍役帳

これは、戦闘要員の数ですよね。これに陣夫がくっついていくわけですね。
すると、川中島合戦の時の上杉軍1万3000名とかは、かなりの非戦闘員が含まれていると考えて良いのでしょうか?
826人間七七四年:2009/07/26(日) 23:30:29 ID:AiFKQTdn
まぁ、そうなるかと
6割は非戦闘要員と考えるのが妥当かと
827人間七七四年:2009/09/02(水) 11:15:21 ID:wxA6huNu
伝令の馬に乗った人が、背中に付けてる、丸く膨らんだ物は何ですか?漫画や屏風絵などでよく見ます。
828人間七七四年:2009/09/02(水) 11:23:41 ID:Lud+i24J
>>827
母衣(ほろ)と言います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E8%A1%A3
829人間七七四年:2009/09/02(水) 13:02:53 ID:wxA6huNu
>>828さん、ありがとうございます。これは背後からの矢を防ぐものなんですね。
830人間七七四年:2009/09/02(水) 20:13:03 ID:YNnR2FYw
>>829
当初はそんな機能もあったかもしれませんが
戦国時代に用いられたのは、飾りのためです。
831人間七七四年:2009/09/02(水) 20:27:56 ID:FlVElYKd
物も目的は一つでないよ。飾りのためだけというわけでもない。
832人間七七四年:2009/09/04(金) 07:41:25 ID:7mwXXKDu
背後から組みつかれることを防ぐ役には立っただろう。首を取られたとき、相手が母衣の布で包むのにも役立った。
ふつう大将クラスは使わないが、長久手の戦いでの池田恒興は黒母衣を用いていた。これは若いころ信長のエリート部隊、黒母衣衆の一員であったため。
833人間七七四年:2009/11/13(金) 11:06:57 ID:Nfdqyxbb
h
834人間七七四年:2009/11/13(金) 11:59:23 ID:NMEAYinN
母衣を馬印として使った武将も多くいた。
「家紋、馬印、旗指物」という本が今コンビニに並んでる(はず)
835人間七七四年:2009/11/13(金) 23:44:09 ID:QSpZQJPO
風を受けて孕んで浮力が出て乗り手が軽くなって馬の負担が減る。

というファンタジーな説をどっかで見たような気がする
836人間七七四年:2009/11/13(金) 23:46:15 ID:UYTLGV5/
ファンタジーにもほどがあるな
837人間七七四年:2009/11/14(土) 13:30:41 ID:QFUFZx1c
>>832
残念ながら池田恒興が母衣衆(赤黒共に)に入った記録は無い。
永禄12年には母衣衆が無くなり、変わって「柵きわ廻番衆」28人が選出されるが
その中にも入っていない。
恒興という人物を理解する逸話として、
信長が手抜きを頻繁にする佐久間信盛を叱りつけたときに恒興の名を上げて
「こいつはどんな事でも手を抜かずコツコツとやってきた」と言った。
恒興は武辺者からはほど遠く、真面目を絵に描いたような人だった。
黒母衣を用いたのは一種の武辺者に対する憧れか・・・・
838人間七七四年:2009/11/14(土) 13:52:16 ID:D4tsbjvi
池田恒興は信長の乳兄弟と言う立場を利用して、家中でとにかく驕りまくってた印象しかないな。
どうせ信長の前でだけ良い子ちゃんしていたのだろう。
839人間七七四年:2009/11/15(日) 11:37:34 ID:4ZKuCLU5
恒興は、甲冑を着けて馬に乗ろうとして落ちて、
起き上がれなくて部下に起こしてもらったという話がある。
長久手で討ち死にした時も、転んでジタバタしてるところを討たれたという裏話もある。
840人間七七四年:2009/11/15(日) 14:43:45 ID:4PQgUZte
清須会議の時、よく重臣の一人に選ばれたよな
勝家より支配領国等で一段落ちる長秀はともかく
恒興の場合は勝家が会議に来てみてなんでお前がこの場にいる?という感じだもんな
恒興はいくら敗軍の将とはいえ一益以上の臣ではないよな
841人間七七四年:2009/11/15(日) 15:11:37 ID:t4eK6CNZ
>>839
どんだけ重い甲冑つけてんだよww
842人間七七四年:2009/11/16(月) 04:16:09 ID:IpRW8Sd0
恒興って信長存命時に摂津守護に任命されてたはず。
本当に滑り込みで重臣になったんだろうなw
843人間七七四年:2009/11/16(月) 12:32:08 ID:37mO+wqn
>>841
完全武装をしていたとすると
平均サイズの重量(兜まで入れると)で20kg以上。
恒興は小柄(150cmちょい)といわれているから20kgほどの甲冑を着けていたと・・。
俺は176cm 70kgだが体に25kgくくり付けられたらすぐには起き上がれないぞ。
844人間七七四年:2009/11/17(火) 22:59:59 ID:t9qRP6Zv
そんなんで起き上がるのに苦労するんならデブは大変だわ
845人間七七四年:2009/11/17(火) 23:25:37 ID:GlNx8f2R
山崎の戦いで活躍しているからでしょう
846人間七七四年:2009/11/22(日) 06:10:59 ID:i5F0lK3q
>>843 現代の兵士でもフル装備では40キロ以上を身につけて戦う。それに比べても戦国時代の武者が過大な負担を強いられていたとは言えない。
これはヨーロッパの場合だが、鎧の完全装備を身に付けたまま、梯子を裏側から登ったり(つまり懸垂のまま上がっていく)、バク転できる者もいたとか。
847人間七七四年:2009/11/22(日) 11:10:33 ID:vqUB0LrY
>>846
それを称して「剛の者」という。特別な存在。
40kgもあった大鎧から改良が加えられ60%ほどの当世具足ができたが、
それでも相当な負担だった。
大坂の陣の時、家康本隊が行軍中、摂津の国境を過ぎたころ本多正純が家康に、
「兵にそろそろ甲冑を着けさせましょうか?」と言うと家康は
「今から着けていたのでは、大坂城に付くころには皆ヘタバッテしまうわい」
と言い、城が見えたところで装着を命じた。
848人間七七四年:2009/11/23(月) 19:15:38 ID:/jV6ll6r
鎧はどうやって持ち運んだんだろ?
849人間七七四年:2009/11/23(月) 20:33:37 ID:dqLwbzNk
櫃に入れて運んでいた
850人間七七四年:2009/11/24(火) 00:35:03 ID:mpINyi4b
下人の中に「鎧持ち」という役割もあった。
851人間七七四年:2009/11/24(火) 00:49:22 ID:NB8Ta7c3
足軽まで下人が運んでくれたわけではないよね、勿論。
足軽の鎧も櫃に入ってたのかな?
自分で櫃を背負って運んだのか?
戦ってる最中は、具足櫃はどうするんだyo!

疑問は尽きない。
852人間七七四年:2009/11/24(火) 01:34:40 ID:mpINyi4b
>>851
そういうものの輸送は「人夫」「夫丸」などという、賦役、もしくは賃金を出して集めた、
非戦闘員達がやる。
853人間七七四年:2009/12/01(火) 00:17:54 ID:yH8t5bgG
>>846
現代の歩兵であればフル装備で25〜30kg程度。40kg以上は山岳部隊などならありえる。
>>847
実際に甲冑を着てみると、皆一様に兜重っ!!と、バランスが悪く感じるらしい。
トップヘビーになるのでちょっと慣れが必要みたい。
西洋甲冑は全身に重量を分散する工夫があるので思ったほど重く感じないとか。
854人間七七四年:2009/12/03(木) 21:10:03 ID:hjHTzJBv
>>853
兜はいろんな重さのものがあって、実戦では軽いものを使ったらしい。
今残っている兜はその殆どが、一種の儀礼用、装飾用のものだから、重く感じるのだろう。
855人間七七四年:2009/12/04(金) 07:23:15 ID:l9wHtLkO
>>854
別スレでそんな話題があったが、何か資料を基に話しているようには思えないなあ。
貸具足に使われたような頭成兜でも重い。
被ってみると首周りを守る錣(しころ)があるせいか余計に重く感じる。
桃山期の試し撃ちではない実戦の弾痕がついた兜も鋼鉄製だったよ。
856人間七七四年:2009/12/04(金) 18:05:28 ID:hMJecyli
少なくとも戦場で動けなくなるような甲冑を使うバカはいないってことだな
特に転ばされたらすぐに立ち上がらないと死すら意味するから
起き上がることのできない装備をわざわざ使うことも考えられない
当時の鍛えられた人間になら着こなせる程度の重さにしかできない

池田が装備が重すぎて起き上がれなかったのなら
それは馬に乗った状態で戦場に出ることを前提にした装備だということだ
857人間七七四年:2010/01/15(金) 00:19:15 ID:bMv2uJWu
よく時代劇で鎧武者を斬る場面があるけど、無理だろw
刃が欠けるわ
858人間七七四年:2010/01/15(金) 00:25:11 ID:ZVAne3TY
ようつべにピストルで日本刀を撃つのがあって
あろうことか弾が二つに割れた、刀は欠けてない
もう一つ、銃機関銃で撃つのもあって
流石にこっちは日本刀が折れた、でも一二発は切った
859人間七七四年:2010/01/15(金) 00:52:35 ID:B1VT3jGx
ちなみに軍用ナイフでも同じことが出来ます
860人間七七四年:2010/01/15(金) 03:14:04 ID:TnmoM4AP
刀ってのはやっぱ実践的じゃ無いよね。
ソースは俺のじいちゃんだが時代劇を見ながら昔を思い出し、第二次世界大
戦の時、新陰流では人が斬れないって人から聞いたと言っていた。
まぁ歴史を知ってれば当然そんな事は無い訳だが、子供心にそれが印象に残
っていた。

http://resistance333.web.fc2.com/html/nihongun_nihontou.htm

つい最近上記の「日本軍と日本刀の実態」ってHPを見て納得した。
刀ってやっぱ可也難しいよ、切るスピード以上に切る角度が重要だし、柄の
持ち方一つで斬れなくなる。日本刀で物を斬るという行為の難しさがこのHP
に載っている。

もっとも戦国時代では当然防具を着込んでいる訳だから(一兵卒は映画七人
の侍の野武士のような出で立ちだろうが、史料では毛利で甲冑1万とかの受
注が残ってる)"斬る"という行為ではなく、"衝く"という感じであろう。
或いは"払う"とうい行為の方が多かっただろうとも思う。
861人間七七四年:2010/01/15(金) 08:52:01 ID:4X6fee2N
>858
弾丸そのものの材質考えろよ
862人間七七四年:2010/01/15(金) 10:50:07 ID:rtFXSrl4
>>860
軍人って言っても大半が剣術の素人だからな
863人間七七四年:2010/01/16(土) 09:25:10 ID:eLIi6GLv
昭和の粗悪刀で人を斬るなどw
864人間七七四年:2010/01/17(日) 07:35:06 ID:bhaTg8zi
某所から誘導されてきた歴史のレの字も知らん奴ですが
ガキん時(自分90年生まれなんで96〜98年くらいか?)のNHKの番組で、
戦国時代の飯っつーかそういうのについて話出てまして、
覚えてんのが足軽は陣笠、っつーんすか、あれで食事を煮炊きしてて、
丸い夏みかんくらいの大きさの固形食料を溶かして食ってた、
みたいに紹介されてたんすけど、こういう事実ってあるんですかね
865人間七七四年:2010/01/17(日) 07:48:58 ID:8qZnIfhz
陣笠が鉄製になったのが結構遅い時代だと主張している方もおられるようなのでなんとも。
紙製、木製等だと煮炊きの鍋代わりにはなりにくいだろうね。
直接火に当てるんじゃなくて、お湯を注ぐカップ麺の器的な使い方ならそれでも十分でしょう。
つーか、足軽一人一人に囲炉裏使わせるようなやり方じゃ、薪が幾らあっても足らなくなる。
効率が悪いんじゃないのかな?
866人間七七四年:2010/01/17(日) 10:21:07 ID:RX+/81cL
一応、雑兵物語の挿絵にそういう場面が描かれている
867人間七七四年:2010/01/17(日) 15:55:28 ID:nF9B5FHw
漏れの通ってた道場の先代宗家は家宝の日本刀持って中国大陸でぶいぶい言わせてたと聞いたが、実際のところはわからんなw
868人間七七四年:2010/01/17(日) 21:51:51 ID:sOE1Z4+P
陣笠も漆塗りや金箔貼ってたりするからなあ
煮炊きに使ったらそういう表面の仕上げがダメになる。
なので無闇に煮炊き用にはしなかった気がする。
869人間七七四年:2010/01/18(月) 04:24:17 ID:d2YZ7Pb8
>>865
>>866
>>868
ありがとうございました
固形食料みたいなの?はうろおぼえレベルで違うかもしれません
傘をひっくり返して足軽役の人たちがニコニコしながら煮炊きして食べてるのだけ
妙にはっきり覚えてたもので・・・
870人間七七四年:2010/01/18(月) 09:24:44 ID:XOGyf0Bq
実際に鉄製の陣笠で飯炊きをしてみた研究者がいたけれど、
衛生面に問題がある他、悪臭がひどくてとても食べられるものではないそうだ。
雑兵物語にあることは一部知ったかぶりみたいな描写が見えるのであまり信用しないほうがいいだろうね。
871人間七七四年:2010/01/18(月) 13:53:10 ID:F1WqR2qD
逆に考えるんだ、鍋を陣笠代わりにかぶっていた足軽がいたかもしれないと
872人間七七四年:2010/01/18(月) 14:33:35 ID:L9DX52tO
>>869
陣笠で煮炊きじゃなくて、干飯を水で戻してた、んじゃないのかなぁ

水を溜めとく装備って、当時だと傘ぐらいしか良い形がない気がするし
873人間七七四年:2010/01/18(月) 23:15:42 ID:Kz5RExKQ
煮炊きに関しては、足軽は普通に鍋持ち歩いてたらしいしな
874人間七七四年:2010/01/22(金) 15:38:06 ID:szsJ0HOP
>>860
つーか江戸期以降の剣術(剣道含む)と、戦国期の剣術は別もんだからなあ。
戦国の剣術は鎧の隙間を狙うのが基本だし。

そういう意味では、むしろ新陰流は古い伝を残してる方だと思うんだが、
一刀流かなにかの間違いじゃないのか?
日中戦争の時、一刀流(剣道だったかもしれんが)の使い手が
中国兵を真っ向に切ったら、鉄兜に当たって刀が折れたって記録はある
875人間七七四年:2010/01/22(金) 16:45:18 ID:QtNgBDQ4
>874
直心影流かもしれん
876人間七七四年:2010/01/27(水) 18:28:37 ID:gpnZSHPh
戦国時代でも鎧着てない状態での剣術はあるんじゃないの?
普段から刀身に着けてるんだし
877人間七七四年:2010/01/27(水) 18:50:09 ID:7shRcYSD
つまり喧嘩用すか
878人間七七四年:2010/01/28(木) 15:26:50 ID:uwkEZOUE
>876
剣術そのものは室町時代からあるだろ
天真正伝香取神道流や愛洲陰流
879人間七七四年:2010/04/19(月) 19:09:34 ID:4IlJ4knh
あの、ちょっと初歩的かもしれない事が気になったんですけど……

近現代の艦隊とかでは、艦隊全体の大まかな指揮を執る艦隊司令は それに専念していて
自分が乗っている艦隊旗艦の艦長は兼ねずに、自分より格下な人が艦隊旗艦の艦長として旗艦に同乗し
旗艦の細かい指揮に専念しているのだそうです。

それで、気になった事といのは………大名家の当主の居城は、もちろん大名なんでしょうが
もしも、ある大名家の重臣が一城主をしている城に、その城主よりも同格以上な人が
引き連れて来た一部の家臣や兵と一緒に、その城に住着き常駐滞在して
ある程度、広域圏の大まかな統制を行う……
ただし、その さしずめ広域統制官とでも言うべき人の方が権限が強いとはいえ
あくまでも城主は 以前から城主をしていた人であるため、城と城下町と城に付随する領域の統治は城主が行い
広域統制官的な人は城主の職権内の事には凄く大まかな事柄にしか口出ししない……
なお、広域統制官的な人が職務を行うための費用は その城の城主が自分の税収から分けてやる………

……と、いう事が、有ったのか無かったのかが気になったんです。
要するに、一つの城に、城主と 城主よりも権限の強い広域統制官が一緒に住んだりするなんていう
実例が、戦国以前の日本に 平時からの制度として あったりしたのかな?という意味なんです。

一応、戦時としてならば、大名当主の居城が陥落したけど、まだ他の重臣が城主をしている城が健在なので
そこに本拠を移すなんてのは よくありそうですが
その場合、やはり その本拠が移された城の城主は、自動的に当主が城主に変わりますよね?
それとも、もしかしたら、城に滞在している最高司令官は大名だけど
城主は あくまでも、名目上くらいは以前から城主だった人……という形態をとる
なんて実例もあったりしますかね?
880人間七七四年:2010/04/26(月) 10:41:12 ID:9xK8D8op
国守と城代官
881人間七七四年:2010/04/26(月) 17:34:26 ID:bNx1jlsQ
>>879
…ちょっと当時の認識がおかしいような気がするので答えにくい……

関ヶ原での上杉対策としての徳川側の配置や、北条氏綱に江戸城や川越城落とされた扇谷陣営とか
適当な事例を調べてみては??
882人間七七四年:2010/08/28(土) 09:33:32 ID:0siKysVE
で、どうなったんだろうかね
883人間七七四年:2010/08/28(土) 19:38:27 ID:g1DRBg28
というか領土を失った他の城の主に、
自分の城をくれてやる訳がないじゃない。
それが元主君であってもね。

例外的に駿府を追われた今川氏真を朝比奈泰朝が掛川城に招き入れたが、
新府城を脱した武田勝頼が頼った小山田信茂はあっさりと織田に内通したしな。
884人間七七四年:2010/08/28(土) 21:18:26 ID:EYyAo2pJ
真田昌幸も「勝頼の野郎がこっちに来やがったら捕まえてすぐお渡しますよ!」って北条に書状出してるしな。
885人間七七四年:2010/08/28(土) 22:55:47 ID:OITD+Ttc
小田さんと菅谷さんは?
886人間七七四年:2010/08/29(日) 07:46:43 ID:8e6AeV+9
例えば小田原攻めとか、海上包囲する場合は一日中船上で臨戦態勢でいるんですか?
というか、何ヶ月もずっと船上で生活してたんですか?
887人間七七四年:2010/08/29(日) 09:30:50 ID:aKLR2lm7
>>886
海上封鎖の場合、一旦制海権を取ったあとは、普段は哨戒船が出てるだけ。艦隊は港に停泊している。
敵に動きがあれば哨戒船から合図があって、艦隊が出撃する。
888人間七七四年:2010/09/04(土) 10:50:36 ID:N2C3tzfw
>>879
常陸小田氏
幾度となく居城を追われて、居城を奪還するまで家臣の城に滞在してる

これを調べてみたら?
889人間七七四年:2010/09/04(土) 15:15:06 ID:UjGEmaZX
>>884
北条蛆虫なんかに勝頼さまを渡すわけがねーだろ このアホウが
890人間七七四年:2010/09/05(日) 08:02:17 ID:8PYj9kDD
>>889
うんそうだね。辛くて厳しい現実なんて認められないよね。
891人間七七四年:2010/09/27(月) 16:39:27 ID:Ky1B7yUR
合戦が画として頭で描けないんだよなぁ
http://www.youtube.com/watch?v=U9HvlZpW6us
の2分45秒見ると思った以上に密集しててスペースが無いんだけど、
こんなんだと思っていいんだろうか
892人間七七四年:2010/09/27(月) 17:01:02 ID:n5fvpAf6
>>891
これは密集陣形の戦いだから参考にはならない
893人間七七四年:2010/09/29(水) 21:22:13 ID:g4B6pu3I
クレヨンしんちゃんでも見てろ
894人間七七四年:2010/11/01(月) 20:24:58 ID:SSa+zHJF
クレヨンしんちゃんてそんなに凄いのか
895人間七七四年:2010/11/01(月) 21:20:31 ID:AFNxQc5Q
クレしんの映画で戦国時代にタイムスリップするとかなんとかの合戦シーンは
学者クラスにも評判いいらしい。
896人間七七四年:2010/11/01(月) 21:47:04 ID:bnFTycxM
実写はどうなんでしょ

金曜ロードショーでやんないのかな
897人間七七四年:2010/11/03(水) 08:11:52 ID:eCo69ZlI
バラッドの合戦というか、攻城戦はいいね。
時代的にあんな小国にまで鉄砲があったとは考えにくいが、撃ち方とか、弾込め
の間は弓で応戦とか、細かいところがよくできてる。
あと、引き上げの合図が鳴ると、「終わり!」って感じがよく出てると思う。
898人間七七四年:2010/11/26(金) 01:20:52 ID:TblC3idx
実際のいくさ働きは 持久力勝負だったらしい。
だから 歴史に残る猛将たちは皆 どちらかというと細身のアスリート体型
だったらしい。
899人間七七四年:2010/11/26(金) 05:53:20 ID:QlZ9Hfat
900人間七七四年:2010/11/26(金) 06:02:03 ID:QlZ9Hfat
んーごめんスレ違いだった・・・
901人間七七四年:2010/11/26(金) 09:57:57 ID:NQZPnOEJ
>>898
今の軍隊と変わらんね
902人間七七四年:2010/12/01(水) 23:39:15 ID:ZO8RQTnW
>>897
どんな小国でも鉄砲は持ってるよ・・・
903人間七七四年:2010/12/04(土) 12:10:52 ID:nDhwthwX
ne-yo
904人間七七四年:2010/12/05(日) 14:55:00 ID:saMqIsOh
戦国時代も後期になれば持ってて当然。
905人間七七四年:2010/12/16(木) 22:38:01 ID:etRZf6UD
>>902>>904
設定が、織田信長が頭角を現してきた時代らしいんだよね。
映画をみていないのかもしれないけど、女子供を入れて500人に満たない小国
で、その時代に本当に10丁近くの鉄砲を持っていたとは思えないんだよなぁ。
戦国後期なら、場所によって或いは持っていても不思議ではないと俺も思う。
906人間七七四年:2010/12/19(日) 10:22:16 ID:7X1Sb1rd
http://kiritsubo.jp/item/uki-17.html
この浮世絵ってどれ位信頼できるのかな?
結構しっかりしてるようにみえるけど。
907人間七七四年:2010/12/19(日) 11:22:04 ID:cg/52G1c
たぶん江戸時代の軍学書か何かを参考にしてるんだろう
908人間七七四年:2010/12/21(火) 23:42:55 ID:T7cn+ws4
よく遠戦志向が説かれるけど
応仁の乱みたいな市街戦や数百程度の軍勢同士じゃ白兵戦になりやすかったんじゃないの?
909人間七七四年:2010/12/21(火) 23:47:23 ID:eOqZj02M
>>906
こんな複雑で幾何学的な備はいかにも江戸軍学だな。
910人間七七四年:2010/12/23(木) 05:52:22 ID:vEFyk/kj
先陣が白兵してる間第二陣はなにしてるの?
あと先陣とニ陣の入れ替えってのは機能的に行えてたの?
911人間七七四年:2010/12/23(木) 12:34:24 ID:QrvKG9aJ
どきどきしながら見てた
先陣が壊走状態にならない限りできた
912人間七七四年:2010/12/23(木) 22:41:33 ID:vEFyk/kj
>>911
ドン、ってぶつかったりしなかったの?
「右側通行」みたいな規則があるの?
913人間七七四年:2010/12/23(木) 23:19:43 ID:IzyyeUJB
>>910 >>912
残念ながらそういうことは史料からは一切分からない。
答えてるやつがいたら、思い込みと知ったかぶりに過ぎません。
914人間七七四年:2010/12/24(金) 04:21:45 ID:oGzw9YfL
>>913
そうなのか
「雑兵物語」じゃなく「備大将物語」を誰かに書いてて欲しかったなぁw
915人間七七四年:2010/12/27(月) 01:13:42 ID:uwveDeZT
まあ相当のルールは当然あったはずだが、おそらく当時としてはあまりにも
当たり前のこと過ぎて、記録に残らなかったんだろうな。
916人間七七四年:2010/12/30(木) 01:10:40 ID:yz5oIuOj
備の入れ替わりは信長公記にもそう取れる記述はあるしあったんじゃね
917人間七七四年:2011/01/01(土) 03:38:36 ID:/M4ozy09
古代ローマ軍も、疲労したら部隊が入れ替わるようになってたよね
918人間七七四年:2011/01/09(日) 22:28:07 ID:r5tHNMPg
 前線陣地から後方陣地への交代みたいのは行われていたみだいだね。休養・負担の
平等化の為にもこれは判るんだけど。戦闘中なんかはどうしてたのかね。下手にやったら
相手に付込まれそうだよな。
919人間七七四年:2011/01/09(日) 22:30:12 ID:nVBWhDZO
>>918
誉田の戦いで伊達がそれをやろうとして真田に付け込まれたという
920人間七七四年:2011/01/10(月) 17:23:09 ID:mzPAtF8z
信長公記だと柴田隊が損害を受け柴田も負傷したため
氏家隊がかわって受け持って氏家も戦死とか入れ替わりの記述はそれなりにある
921人間七七四年:2011/01/10(月) 18:39:16 ID:rBn2NReu
福島正則が関ヶ原で、真田幸村が天王寺で入れ替えをやったよね
特に真田は二回も入れ替えをしている。
賤ヶ岳の戦いなんかを見ていると、先陣を投入後、二陣目を投入して
先陣は疲れた人間から思い思いに戻ってくるというような感じだったみたいだが。
922人間七七四年:2011/01/11(火) 21:16:16 ID:d3SaQTSq
>>883
俺の先祖が仕えていた城主は関ヶ原の後に
転封されて何年かして戻ってきた。
その間は家臣だったうちが治めてたけど、
城主が戻ってきたときに国を引き渡したよ。
そんで主君から刀貰って元さやに収まった。
しがない小さい国だけどね。
923人間七七四年:2011/08/01(月) 18:25:29.34 ID:IHdnzB5N
h
924人間七七四年:2011/11/13(日) 02:41:44.66 ID:FHj6kiX+
>>918
10ヶ月前のにレスするけどw、
例えばローマ軍だと後方部隊が戦闘中部隊の隙間をくぐって、最前線の戦闘に参加。
戦っていた部隊は後方部隊が最前線を担当次第後退、ってのをやってた。
やっぱり付け込まれることはあったけどね。

戦国日本の場合は備単位での交代だったんだろうな。
925人間七七四年:2012/01/02(月) 23:44:07.03 ID:VN1ZXNJX
摺上原の戦いでは、伊達方の備が8個で23000〜21000人、
葦名方が11個で18000〜16000人とあるけど、
これだと多く見積もって伊達方は備1個あたり2900人近く、葦名方は1650人近くいることになる。
江戸期の備は千数百〜数百人で構成されているが、
近代の師団同様、戦時には大幅に増員していたということなのかな?
926人間七七四年:2012/01/03(火) 08:28:19.39 ID:WgXkQXqf
>>925

最小戦闘単位を「備」とするのは後世の用法で、それ以上やそれ以下の部隊単位に
「備」が使用される場合もある
この場合の「備」は数個の最小戦闘単位の「備」を複数編合した部隊(仮に「一手」)
と考えられる

また、独立した兵站や工兵部隊がいたとも考えられる
927人間七七四年:2012/01/03(火) 18:34:13.24 ID:lxi+KAXj
>>925
数字を水増ししてるだけ
928人間七七四年:2012/01/03(火) 22:44:15.71 ID:+oUuzReB
「備」といってもでっかい単位の場合もある

慶長の役陣立
右手の備 64300人
左手の備 49600人
929人間七七四年:2012/01/04(水) 01:06:19.12 ID:o0yaFuWB
>>926
奥羽永慶軍記では中央を先陣・二陣・三陣、後備を踵軍・後陣、左右を右備・左備と記述してるけど、
一手の可能性があるかも。

いや、なんでこんなことを言い出したのかって、
http://www.youtube.com/watch?v=594TG6fOPzM&feature=related
の動画の最後の方。
25年前の大河ドラマで、不十分ながら備の説明してて興味深くてね。
930人間七七四年:2012/01/04(水) 02:34:12.18 ID:LxHE4lXx
>>928
陣立表の項目の事なら複数形が略されてるだけという解釈でいいと思うよ
931人間七七四年:2012/01/04(水) 09:49:35.95 ID:FznhNkcF
>>929
大型の備としては関ヶ原合戦時の井伊先鋒木俣隊が1000人ちょいだったから
動画にある備で1000としているのは特に問題ない

ただこの数だと迂回等の機動戦に用いるには数が多すぎ、正面戦闘に用いるのが
適当と思われる
932人間七七四年:2012/01/04(水) 15:09:36.21 ID:4LuDEMF0
>>930
ごめん言ってることが意味不明なんで
詳しく解説たのむ。
933人間七七四年:2012/01/05(木) 02:03:02.00 ID:jRgVNVFu
>>925
当時の用語としての備は「部隊」程度の意味合いだから
師団規模でも大隊規模でも「部隊」=備。手とか勢とかも同様。
徳川の小田原陣立のように
一ノ先備七手、二ノ先備七手、旗本前備二手・・・・後備四手みたいに
学術用語としての手と備とは逆転している用法も目にする。
現在の用語に囚われて読むと変になるってことやね
934人間七七四年:2012/03/10(土) 19:54:16.81 ID:ddieyhjV
映画】時代考証学事始【小説】@日本史板
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326469668/l50
935人間七七四年:2012/03/10(土) 22:44:33.76 ID:oD5szhRP
国人勢力が強い家だと備の人数を均等にするのは難しいんじゃないか?
936人間七七四年:2012/03/10(土) 22:51:09.70 ID:KmBgeh8D
大国人を解体してその部下を直臣にして与力として中核武将に付けるという
手順を踏まないと無理だからね
937人間七七四年:2012/03/11(日) 23:07:59.04 ID:iiS6htXU
つーか、兵力って旗本クラスが何人の小姓や部下を連れて来るかで変わる
騎馬隊だって、騎馬武者一人+槍弓荷駄がいて合計10人程度組織
これが集まって騎馬隊になって軍団になる
938人間七七四年:2012/03/12(月) 01:44:40.35 ID:SUQLMSEi
その都度変わられては困るから一部の先進的大名は軍役状で細かく人数指定してるんでしょ
939人間七七四年:2012/03/12(月) 09:00:03.54 ID:elPxgfR8
細かく規定すると結果として、やる気が削がれるから
先進的でも指定しない場合もある
940人間七七四年:2012/03/12(月) 16:07:37.73 ID:SUQLMSEi
やる気w
941人間七七四年:2012/03/12(月) 21:24:46.84 ID:NBY+hOli
結局そこだからね。
逆に言えば、分国法定めて、国取るごとにいちいち検地やって、軍役定めて…ってやってる大名は急激に領土を拡大する意思がないか、
もしくは政治のことが分かってないということ。
最初から自分の領国だった国ならともかくね。
信長→秀吉の流れのように、変える必要があるところ以外は放置して、ほぼ統一できたところで一斉にガーッとやるのがベスト。
942人間七七四年:2012/03/12(月) 22:17:46.47 ID:SUQLMSEi
信長も秀吉やってることだと思いますが、独特の史観をお持ちのようでw
943人間七七四年:2012/03/12(月) 23:01:36.49 ID:elPxgfR8
指物の長さをを統一したり、装備まで規定はやりすぎ
944人間七七四年:2012/03/12(月) 23:46:17.81 ID:Se8k4KsM
織田も北条も細かい治世や家臣統制に乗り出した地域は基本領内の中心部で周辺部の領国はざっくりとした方針で治めてたと思ったが
945人間七七四年:2012/03/14(水) 00:21:17.67 ID:v0yWwbyH
>>942
勝手に思われてもな。
秀吉については「ほぼ統一できた時期」にあたるから。
946人間七七四年:2012/03/18(日) 13:00:39.77 ID:edTjXtk5
物凄く初歩的というか思い付き的な質問ですが、
戦国時代には大小の戦が沢山あったのは当然の話なのですが、戦があれば当然勝ち負けによらず
戦死者が出るワケです。
この戦死者の遺骸はどのようにして誰が処理していたのでしょうか?
くだらない質問でスミマセンがどなたか教えて下さい。
947人間七七四年:2012/03/18(日) 13:39:02.53 ID:dn78M9Bn
骨もムダにせずにごちそうさまでした。(^-^)
948人間七七四年:2012/03/18(日) 14:21:55.79 ID:mwsqIg3T
>>946
地元民や軍の人夫が遺体を回収
その際に身ぐるみを剥ぐ(これが報酬となる)
一ヶ所に集めて地元の坊主が弔う
終わり
949人間七七四年:2012/03/18(日) 17:44:49.90 ID:AWXKGm+x
>>948
早速の返信有難うございます。
然しながら、戦国時代は川中島の合戦や関ヶ原の戦いのように原野で行われただけでなく
城を攻め落とされてその城の城内に武者が屍を累々とさらしたこともあったと思うんだが、
そういう時にはどうしていたのですか?
950人間七七四年:2012/03/18(日) 22:03:20.47 ID:mwsqIg3T
>>949
山城といっても周辺には集落があるので、その辺の人達が担当
そういった掃除はかなり入念なもので、城跡発掘しても碌に遺物が発掘されない場合もある
951人間七七四年:2012/03/19(月) 04:18:13.87 ID:JP7I2ivi
>>950
なるほど・・・
948氏の返信と併用して、あくまでも戦で倒れた死骸はその戦があった場所の
武士ではない人達が処理していたということなのですね。
やっと納得いきました。素人的な初歩的質問にお答えを頂き本当に有難うございました。
952人間七七四年:2012/03/20(火) 20:10:49.36 ID:8RFW4UWf
野犬とかカラスが死体を処理した訳じゃないの?
953人間七七四年:2012/03/20(火) 21:50:59.94 ID:nByAg33x
人一人食い尽くすのに何頭何羽がどれだけの時間を必要とすると思う?
954人間七七四年:2012/05/04(金) 11:17:17.87 ID:N6ryHrFS
953
比較的すぐなんじゃないか?
955人間七七四年:2012/05/05(土) 14:38:45.58 ID:oFldTD1t
ノエルペリンさんは一体何を根拠に当時の日本の鉄砲保有数を世界一としたんだい?
956人間七七四年:2012/05/05(土) 20:39:02.24 ID:e4TvmKN6
山ほど鉄砲が有ったのに放棄した軍縮ニッポンすげーという色々勘違いした人だろ?
勘違い元の史料を探すのは勘違いだけに困難じゃね
957人間七七四年:2012/05/05(土) 21:51:43.19 ID:oFldTD1t
じゃあ実際のとこ鉄砲の装備率と保有数はどんくらいだったんだろ?
958人間七七四年:2012/05/06(日) 11:03:06.69 ID:6Ny0gj/r
本州最北端の南部家にも鉄砲は伝わってたし大名でない
豪商や豪農も所有してたろうからどのくらいあったかなんて分からんだろ。
959人間七七四年:2012/05/06(日) 12:07:32.24 ID:6nsLpufQ
>>955
農家一軒に鉄砲が一丁以上はあったのだから、相当だろ
 ↓
教科書「刀狩りで、すべての武器が取られました」
 ↓
極端から極端へ走る東洋の猿
960人間七七四年:2012/05/06(日) 12:58:10.79 ID:gBEmUnDC
自分だって東洋の猿のくせに
961稲田氏の末裔:2012/05/06(日) 13:08:18.46 ID:DvpeZ6zM
東洋の猿かなんか知らんが
西洋の猿ってのはいるんかい?
962人間七七四年:2012/05/06(日) 13:28:59.10 ID:gBEmUnDC
ヨーロッパには野生の猿はいないよ。
野生の猿の生息分布の北限がニホンザルだってさ。
963人間七七四年:2012/05/06(日) 14:04:46.68 ID:nEp3BZYu
ジブラルタルモンキーってのがいるみたいね。
一応はヨーロッパだよな、あそこもw
964人間七七四年:2012/05/06(日) 16:01:42.50 ID:nZoZw6fL
>>959
江戸時代でも、かなりの数の農民が鉄砲や刀を持っていたよ。
965人間七七四年:2012/05/06(日) 17:02:55.90 ID:gBEmUnDC
うん、だから「刀狩りやる前はもっとあったんだろうね」ってとこから飛躍したんじゃない?って話
966人間七七四年:2012/05/06(日) 17:07:22.18 ID:cXPQZM+p
江戸期も、鉄砲にいたっては武士よりはるかに大量の鉄砲が農村にあった。
967人間七七四年:2012/05/06(日) 19:10:42.35 ID:0m0UxAc1
鉄砲が有っても火薬は?って話じゃないの?
狩りとかで撃つ分には自家製でなんとかなるだろうけど、戦で家来にバンバン撃たせるには金がかかる。
968人間七七四年:2012/05/06(日) 21:04:08.37 ID:6Ny0gj/r
昔は今のように有刺鉄線とかビニールなんてなかったから
農村では害獣対策として使ってたみたい。
969人間七七四年:2012/05/06(日) 21:58:49.49 ID:cMoJlnVo
江戸時代の山間の村だと小規模村落なのに100挺持ってる記録があったりするらしいな
ただし民間のは戦いには向かない小口径の鳥撃ち銃が主だとか。
970人間七七四年:2012/05/06(日) 23:52:10.06 ID:XJ6eM5eH
熊、猿、猪、烏、鳩、鼬
戦国・江戸時代はこれら害獣から農産物を守る
農工具と鉄砲は捉えられていた。
971人間七七四年:2012/05/07(月) 02:25:39.33 ID:PqYCU3mZ
変なチョイスだな
972人間七七四年:2012/05/07(月) 23:39:20.42 ID:1yGjCPR2
>>969
小口径って何匁くらい?
973人間七七四年:2012/05/08(火) 00:21:04.06 ID:i8fNsTvc
3匁とか2匁半
974人間七七四年:2012/05/08(火) 17:20:43.51 ID:6Cd7A6Ec
戦国時代の標準的軍用銃の口径は3匁とか2匁半
戦いには向かない小口径とか有り得ない
975人間七七四年:2012/05/08(火) 17:48:40.57 ID:0ml4BM87
前装式で小口径化すると使いづらそうだな
976人間七七四年:2012/05/08(火) 19:36:58.65 ID:i8fNsTvc
>>974
戦国時代は6匁標準だよ
977人間七七四年:2012/05/08(火) 23:58:23.44 ID:OW3TW76e
>>966
以前別スレで自分がした試算では、民間で50万丁はいくのではないかとなった。
ひとつの大藩だけで数万丁あるんだぜ。
978人間七七四年:2012/05/09(水) 00:00:49.22 ID:JlDdMXnq
2匁筒は朝鮮の役で大量に使われた。
なぜなら朝鮮の兵の鎧にはその程度の番筒で十分だったからだそうだ。
979人間七七四年:2012/05/09(水) 00:36:11.90 ID:Dj88hbVs
>>975
火器の7割程度が2匁半
980人間七七四年:2012/05/09(水) 00:37:12.15 ID:Dj88hbVs
アンカーミス
>>976
火器の7割程度が2匁半
981人間七七四年:2012/05/09(水) 05:55:42.82 ID:H7FI8CyN
雑兵の持つ鉄砲は口径が小さく、侍層の持つ鉄砲は大口径のものだったらしい。
982人間七七四年:2012/05/09(水) 18:45:40.81 ID:+wtecscM
>>980
そりゃ慶長の役でだろ
983人間七七四年:2012/05/10(木) 05:33:00.72 ID:JQ5ooD7Y
>>982
その通り。慶長の役で大量調達されただけ。
984人間七七四年:2012/05/11(金) 00:46:56.12 ID:y+gdF2rD
>>977
それを戦国時代の軍隊はどんだけ装備してたかって話だな。
軍役での割合から見るとそんなに多くないはずなんだが
985人間七七四年:2012/05/11(金) 07:06:17.27 ID:kVWq9l85
>>982
>>983
文禄の役時点で
火器の7割程度が2匁半
小早川家文書や島津家文書に記録がある
986人間七七四年:2012/05/11(金) 08:17:20.86 ID:2yMOyBpY
何となく、論点がズレている気がする。
987人間七七四年:2012/05/12(土) 01:22:13.80 ID:fZGW5ZLM
問題は鉄砲の数よりも弾薬の量。戦国時代の状況じゃ数だけあっても火薬が全く足りない。
鉛玉だって合戦の後は戦場で拾いまくって再利用していたぐらいなので、そう足りている
わけでもないし。

江戸時代に入って、硝石の国産化と狩猟用途に細々と使っている状態なら、鉄砲の数に
見合った火薬を用意できるだろうけど。
988人間七七四年:2012/05/12(土) 03:44:47.12 ID:droUnnNW
>>985
慶長じゃないや、文禄の役の際に調達されたんだった
989人間七七四年:2012/05/12(土) 05:54:43.63 ID:nv1ZUbnl
990989:2012/05/12(土) 05:57:57.16 ID:nv1ZUbnl
>>989です。途中で書き込んでしまいました。続き

なるほどなあと思わせる内容でした。
軍の能率性というか、合理性を追求した本で、史料を使ってそれを実証していく感じ。
かなり決定版かもしれない。
991人間七七四年
西洋軍事史に拘泥しているきらいがある