古代〜近代(19世紀)迄の戦術・兵器・軍装等 5

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1某研究者
古代〜近代(19世紀)迄の戦術・兵器・軍装に関して
議論或いは情報を提供して貰いたい訳だが
2名無し三等兵:2006/10/24(火) 16:45:54 ID:???
2ゲット!
ぱんつぅ♪ぱんつぅ♪
3某研究者:2006/10/24(火) 16:50:29 ID:YS+SEh4m
過去スレッドログ

古代〜近代(19世紀)迄の戦術・兵器・軍装等 4
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1119042355/l50
古代〜近代(1 9世紀)迄の戦術・兵器・軍装等3
http://makimo.to/2ch/hobby3_army/1028/1028175560.html
古代〜近代(19世紀)迄の戦術・兵器・軍装等 2
http://makimo.to/2ch/yasai_army/1016/1016342597.html
古代〜近代(19世紀)迄の戦術・兵器・軍装等
http://makimo.to/2ch/yasai_army/1014/1014069159.html
4某研究者:2006/10/24(火) 16:53:34 ID:YS+SEh4m
秀吉も秀頼が生まれた時に
秀次だけでは無く
小早川秀秋も始末していれば
関が原はどう成っていたのかだろうし
領土を取り上げて生かしておいたら
後で恨みを持つ可能性も高い訳だろうし
小早川が裏切らないと考えたら
領土は奪わない訳だろうし
中途半端な事はすべきでは無いと言う
事かも知れぬが
5某研究者:2006/10/24(火) 17:00:53 ID:YS+SEh4m
>中途半端な事はすべきでは無いと言う
>事かも知れぬが

まあ明智光秀も領土を取り上げられれば
後で謀反を起こす可能性も有る訳だろうし
中途半端な事をした結果が
本能寺で有る訳だろうか
6某研究者:2006/10/24(火) 17:12:15 ID:YS+SEh4m
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_09.html
>秀吉が秀頼の養育権を淀殿に認めたことについて
>番組で紹介した訳は、「今度の子は淀殿だけの子にするがよい」。
>(おね宛ての秀吉の手紙より意訳)

>秀吉の秀頼への溺愛振りを示すエピソードついて
>番組で紹介した訳は「気に食わない侍女は縛り上げてしまえ。わしが行って叩き殺そう。」
>(秀頼宛の秀吉の手紙より意訳)

此れも鶴松が死んだから
おねには秀頼を預けず
侍女の質にも慎重に成っていたと言う可能性も
有る訳だろうし
秀吉が鶴松や秀長の死で狂ったり悪人だったと言う様な事に
無理矢理帰着しようと言うのも
どうなのかだが
7某研究者:2006/10/24(火) 17:16:12 ID:YS+SEh4m
http://scrapbook.ameba.jp/history_book/entry-10017792326.html
>関ヶ原の戦いで、小早川秀秋が寝返り東軍勝利、でした。
>正直何故?と思いましたがw
>「豊臣政権崩壊の危機を救うため、
> その命運を実力者・家康に託した。」
>ってことのようです。

まあ只結果的に豊臣政権が滅んだのは
北政所が無能だったと言う事では無く
淀に対する復讐の意味は無かったのか
どうかだろうし
最初から豊臣政権崩壊を狙って居たと言う事は
無いのかだが
(豊臣政権が滅んでも自らの息の掛かった小早川や
 加藤清正が生き残れば
 良いと考えて居たと言う事は
 無いのかだが)
8某研究者:2006/10/24(火) 19:29:50 ID:YS+SEh4m
>(豊臣政権が滅んでも自らの育てた小早川や
> 加藤清正・黒田長政・福島正則等が生き残れば
> 良いと考えて居たと言う事は
> 無いのかだろうし
> 加藤清正や黒田長政等に
> 三成側に付く様に手紙も
> 出せた訳だろうか)

まあ淀に復讐したと言うよりは
自分が育てたのでは無い秀頼よりは
彼等が生き残る道を選んだと言う
可能性も有る訳だろうか
9名無し三等兵:2006/10/24(火) 21:56:44 ID:???
中世で最強の軍団と言えば、何と言ってもチンジス・ハーンの軍団だな
戦力は軽騎兵のみで、統一性が極めて取れている。
しかも遊牧民族だけに、遠征に強く
ナポレオンも敗れた。冬のモスクワを占領したのは、世界史で蒙古だけだ。
10某研究者:2006/10/24(火) 22:06:14 ID:YS+SEh4m
まあモンゴルも寒いから
寒冷適応は万全である訳だろうか
11某研究者:2006/10/24(火) 22:07:34 ID:YS+SEh4m
スウェーデン等も寒冷適応と言う意味では
どうなのかだが
カール12世が負けたのは戦闘中に銃弾を受けたのと
ピョートルを見くびって居たと言うのも
有る訳だろうか
(ナポレオンも風邪を引かねば
 ロシアで勝って居たと言う意見も有るだろうか)
12某研究者:2006/10/24(火) 22:09:28 ID:YS+SEh4m
WW2のドイツ軍も
イタリアが北アフリカに攻め込まねば
ロンメルがモスクワを落として居たかも知れぬし
イタリアが北アフリカに攻め込んでも
ゾルゲやホワイト等のスパイが
居なければ
ロシアは終わっていただろうか
13某研究者:2006/10/24(火) 22:11:01 ID:YS+SEh4m
まあ矢張り領地を取り上げた領主を
生かしておく等と言うのは
矢張り危険な事で有る訳だろうし
光秀や小早川秀秋はせめて流罪にするべきだったと言う
事かも知れぬが
14名無し三等兵:2006/10/24(火) 22:25:57 ID:???
>>9基本的に西戎と北狄(便宜上この名称を使うが)は
世界最強の戦闘民族だよな

>>12でもモスクワ狙った時点で、?な感じじゃない?
カフカスとスエズを取れればかなり良かったのでは、と思うんだけど
スターリンは戦争する準備できてなかったわけだし
本気で攻めなくても牽制しつつ、補給を万全にすることは出来た気がする
それからトルコを引き込めばスエズ落とせたでしょうに
モスクワ落としても極東軍がウラル山脈の後ろにいたわけだし、勝てなかったんじゃない?
15某研究者:2006/10/24(火) 22:57:47 ID:hLInlgqj
まあ矢張りロンメルでも居れば勝てたと言う
可能性は無いのか
どうかだが
16名無し三等兵:2006/10/24(火) 23:24:16 ID:mrRCBsyR
ところで諸君、佐賀は滅ぼされねばならない
17名無し三等兵:2006/10/24(火) 23:26:03 ID:???
>>15むーそうではないでしょ
ロンメルは100点満点で150点の働きをしたけど、なにも得るモノはなかった。
ハンニバルなんかもカンネーを始めに200点越え連発の戦いをしたけど、
結果的に、イベリア半島失陥、さらに本国まで攻められる、と多くを失った。
極論すれば、戦闘に勝つことは必要ではないし、戦術に優れていることは絶対ではないと思う。
それより、古代から近代だったな
ハンニバルは戦術では文句なし
ただ、イタリアを火の海にしなかったのが最大の失敗だと思う
なぜ、持久戦という相手の土俵に乗るようなことを相手の庭でやったのか
諸都市をローマに抵抗させたり、混乱させるつもりなら優しく接するのでなく
「三光作戦」やってローマの無力を見せつけながら進むべきだった
18某研究者:2006/10/25(水) 00:05:54 ID:9GnFtNi0
http://blog.livedoor.jp/zuihitu/archives/50745590.html
>秀吉も最初は、お拾と秀次の娘を婚約させたりして、「秀次の後に拾に政権移
>譲」というような方向で進めていた。しかし、お拾の実母である淀殿はそうはい
>かない。早いところお拾に後を継がせたい。淀殿は、そうするように秀吉に進め
>たであろう。また、秀吉の家臣である石田三成も淀殿に同調して、秀吉を説得し
>ていたという。

まあ秀吉が最初から秀次を始末しようとしていたと言う様な
描写も多いだろうが
実際は周囲の人間の意向も
有った訳だろうか


>ここに、さらに関白秀次謀叛事件が発生する。この頃、会津の蒲生氏郷が没した
>のだが、太閤である秀吉は、氏郷の遺児・鶴千代の相続を認めず、会津は没収と
>決定した。ところが、名目上の最高権力者である関白秀次の所に、裁可を求める
>使者が来た時、秀次は「鶴千代の相続を認める」と判決したのである。

>事実上の最高権力者はむろん太閤秀吉なのだが、形式上、関白である秀次の裁可
>は必要だった。ここで、秀次はついに秀吉に対し謀叛をしたとみなされ、関白職
>を剥奪されて高野山に追放された。

まあしかし此れが無ければ或いは
秀次が後継者と成っていた可能性も
有る訳だろうか
19某研究者:2006/10/25(水) 00:46:41 ID:9GnFtNi0
http://www.m-network.com/sengoku/sen-14.html
>高野山蟄居を申し渡された彼は、じっとしていればよかったのだが、何と朝廷に
>銀五千枚を献上する。これを秀吉は朝廷に取り入って復権を図ろうとする行為と
>断じ、彼を追放処分から切腹処分に変更したのである。秀次は決してこのような
>意図の上で寄進したわけではなかったろうが、そのタイミングが悪すぎた

まあ此れは実際どうだったのかだが
献上と言うのは秀吉の作り話と言う
可能性も有るのかどうかだが
そうで無いとすれば
秀吉等の陰謀と言うのは
有ったのかどうかだろうし
秀次を失脚させる意図は無かったと言う
可能性も有る訳だろうか


>秀吉も秀頼誕生の翌月に、秀次に「日本を五分してその四を秀次に、残りを秀頼
>に」という懐柔案(?)を示し、秀次も一旦了承する。そして彼は困窮した大名達
>に金を貸し、それによって自分の味方を増やそうと目論むが、秀吉はもはや秀次
>に後を継がせる気はなかったと見え、五奉行たちを指図して次々と彼の言動を糾
>弾し始めてきたのである。もっとも、糾弾されてしかるべき事をしでかしている
>のは秀次なのだが。

まあ大名に金等貸さなければ
何等糾弾は受けなかったと言う
可能性も有る訳だろうか
20某研究者:2006/10/25(水) 00:48:39 ID:9GnFtNi0
>まあ大名に金等貸さなければ
>何等糾弾は受けなかったと言う
>可能性も有る訳だろうか

此れが秀吉の作り話と言う
可能性と言うのは有るのかだが
違うとすれば秀次を失脚させる
陰謀と言うのは
有ったのかどうかだが
21某研究者:2006/10/25(水) 00:55:37 ID:9GnFtNi0
妻子皆殺しと言うのも
陰謀であれば逆に無用だったかも
知れぬし
http://home4.highway.ne.jp/hibari/top/sengoku/hidetugu.html
>政宗は実際に謀反をほのめかす文書を秀次に送っていましたが、

と言う様な事も有った訳だろうし
秀次に側室を提供していた大名を
(彼等自身を処罰せず)牽制する為に
皆殺しにされたと言う可能性も
有るのかも知れぬし
大河ドラマ等に有る様な
狂った行動や陰謀等では
無い可能性も有る訳だろうか
(陰謀なら側室等を殺して
 大名を無用に牽制する必要は
 無いと言う事かも知れぬが)
22某研究者:2006/10/25(水) 01:06:53 ID:9GnFtNi0
まあ矢張り秀長や鶴松が死んだから
秀吉が朝鮮に侵攻したとか
秀頼を後継者とする為
秀次を殺した等と言うのが
矢張り正しいのかどうかだろうし
朝鮮侵攻と言うのも
単に国内を統一したから次を考えただけと言う
事かも知れぬし
狂った人間の考えなのかどうかだろうし
西国大名牽制の意図と言うのも
果たして有ったのかだが
23名無し三等兵:2006/10/25(水) 10:02:57 ID:0wE6PI9r
23
24某研究者:2006/10/26(木) 15:11:14 ID:nvcbv2Hy
http://www.tobunken.com/mainbbs/wforum.cgi?mode=allread&pastlog=0003&no=1515&page=130&act=past
>○「第一次世界大戦のドイツでは歩兵用の胸
>当ても存在した」

>とても現在のような防弾チョッキとは呼べな
>い代物です
>小銃弾を防ぐ為に厚さが2センチもある鉄
>で出来ていたため
>重すぎて使い物にならなかった、

>胸甲騎兵の胸当ても
>2cm有ったのかどうかだが


WW2の装甲車両の装甲は
薄い部分は5mm−10mmと言うのも
有る訳だろうから
装甲技術の進歩で
1cm程度の板でも防弾は可能なら
使えなかったのかどうかだが
対戦車ライフルや擲弾等でやられた可能性は
有る訳だろうが
対戦車ライフルや擲弾と言うのは
そう数は有るのかだろうし
装甲を装備した兵を少数投入すると言う
方向も有ったかも知れぬが
25某研究者:2006/10/26(木) 19:18:37 ID:wYp8m5/f
http://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/hypams00/gsg9.html
GSG−9の狙撃手は
土嚢の様な物を銃の下に置いているが
此れは防弾を考えたのか
銃の安定性を考えたのかだが
匍匐時は胸部も多少は露出するかも知れぬし
この部分にも装甲は欲しい訳だろうか
26某研究者:2006/10/26(木) 19:25:11 ID:wYp8m5/f
http://www5e.biglobe.ne.jp/~nord/img408.jpg
塹壕戦時は殆ど頭部・腕しか
出て居ない訳だろうから
余り装甲も要らぬ訳だろうか
27某研究者:2006/10/26(木) 20:08:55 ID:wYp8m5/f
熱分解でアセトアルデヒドが多少出ても
此れは酒を飲んだ後に出る物質だろうし
体外に排出は可能だろうし
溶解温度の250度程度では出ない可能性も有る訳だろうか

28某研究者:2006/10/26(木) 21:58:08 ID:wYp8m5/f
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=16
上の様な形で
伏せた際に正面に成る部分に
防弾を施すか
或いは防弾板に車を付けて
移動させると言う様な
方向も有る訳だろうか
(まあ現代戦では
 この程度の装甲では
 グレネードランチャーやATMの前に
 無力かも知れぬが)
29某研究者:2006/10/27(金) 00:55:56 ID:M5PMOHOM
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls123.html
>ドイツ軍はこの作戦を実行するために、優勢な敵に対する各個撃破と、殲滅戦の訓練を徹底して行った。
>しかし、シェリーフェンの名は有名になりすぎ、シェリーフェンプラの内容が漏れたため、各国は要塞の建設に走った、
>彼は、第一次世界大戦が始まる1年前に他界した。遺言は、「ドイツ全軍を右翼(ベルギー突入予定軍)に向けよ。」であった。
>第一次世界大戦では、後任のドイツの参謀総長小モルトケが、彼のプランを信ぜず、ロシア戦線に部隊を引き抜いて右翼を骨抜きにしてしまい、
>シェリーフェンは不発に終わった(しかし、骨抜きにされた右翼でも連合軍の左翼は敗れパリから50kmまでドイツ軍は到達している)。
>ドイツ軍がシェリーフェンの遺言に従い、全軍を西部戦線に投入し、仏軍を撃破した後、東部でロシア軍を撃破していれば、あるいは、歴史は変わったかもしれない。

シェリーフェンがWW1迄生きていれば
欧州或いは世界が独に支配されて居た可能性も
有る訳だろうか
30某研究者:2006/10/29(日) 17:02:55 ID:latYqZIK
赤い鉄錆地の兜や鎧は有るが
腕の装甲や脛当てが鉄錆地と言うのは
有るのかどうかだが
31某研究者:2006/10/30(月) 02:05:15 ID:DrS0wKMM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6#.E9.BB.8E.E6.98.8E.E6.9C.9F
>ホランド型は1904年から1905年の日露戦争中に日本、ロシア両国にも輸出されたが、偶然両者ともキングストン弁が間違って納入されるというアクシデントにより戦争中には戦力化ができなかった。

此れがロシアに有れば
日本側も敵前での回頭等が
上手く出来たのかどうかだが
ロシア側も日本の潜水艦に足止めされた可能性も
有る訳だろうか
32某研究者:2006/10/30(月) 23:09:40 ID:1mjNE/yI
赤い鉄錆地の兜や鎧は有るが
腕の装甲や脛当てが鉄錆地と言うのは
有るのかどうかだが


http://www.rakuten.co.jp/yoroi/117803/131920/
上は手甲や脛当て・鎖迄もが鉄錆地だが
雑兵の鎧は基本的に漆等は塗られず
錆びた状態と言う事は無いのかだが
皮鎧も多かった訳だろうか
33某研究者:2006/10/30(月) 23:26:30 ID:J2kfWhCc
http://www.samurai-gallary.com/z410.htm
>鉄錆地美女面頬 江戸時代

>皺の無い柔和な面相が特徴の美女面。端整な口鼻、肉付きのよい頬から
>締まった顎にかけての曲線に美女面独特の落ち着いた魅力が溢れております。


こんな物が有ったとは驚いたが
女が装備していたと言う訳では
無いのだろうか
34某研究者:2006/10/30(月) 23:31:03 ID:J2kfWhCc
http://www.samurai-gallary.com/z404.htm
鼻の部分が外せる様な面頬も多いだろうが
外して一体どうするのかだが
軍議等で表情を伝達する際には
外すのだろうか
35某研究者:2006/10/30(月) 23:39:54 ID:J2kfWhCc
http://www.samurai-gallary.com/z816.htm
上の様な隠し鎖帷子迄
有ったと言う事かも知れぬが
音は発さないのだろうか
36某研究者:2006/10/31(火) 04:20:23 ID:p2z5ZBG7
http://byp.ld.infoseek.co.jp/mati23.htm
>鉢金は額の防御に使うもので、京都で着用していた
>鉢金である。
>七カ所の斜めに刀傷がある

刀が当たり難いであろう頭部に
此れだけの傷が有ると言う事は
鎖帷子等は更に傷付いて居たのかだが
試し切り等をした跡と言う事は
無いのかだが
(防具が有るからこの部分で態と
 攻撃を受けたと言う
 可能性も有る訳だろうか)
37某研究者:2006/10/31(火) 19:15:32 ID:ePtwsNfI
狙撃能力の高い高位の鉄砲を持つ兵等は
自分で銃弾は装填していたのか
どうかだが
矢張り発射速度を早める為に
自分では装填して居ない可能性も
有る訳だろうか
38某研究者:2006/10/31(火) 19:16:50 ID:ePtwsNfI
徒歩武者レベルで五枚胴や南蛮胴等が
装備されたのかどうかだが
桃型兜や筋兜程度なら
装備された可能性も有る訳だろうか
39某研究者:2006/10/31(火) 19:19:59 ID:ePtwsNfI
徒歩武者レベルで変わり兜と言うのは
使用して居たのかどうかだが
40某研究者:2006/10/31(火) 19:22:35 ID:ePtwsNfI
十文字槍を持つ徒歩武者と言うのは
居たのかどうかだが
管槍は下馬して使用する物だったのか
どうかだろうし
此れも騎馬武者しか使用して居ないと言う
可能性も有る訳だろうか
41名無し三等兵:2006/10/31(火) 19:26:43 ID:KBImRl6N
何この 私物スレ
42某研究者:2006/10/31(火) 20:25:12 ID:VWtdjF+M
薙刀なら長巻からの変形で
徒歩武者も持って居たと言う可能性も
有るのかも知れぬが
十文字槍や管槍はどうなのかだが


腕の下から横や上に切り払われる等すると
可也厄介かも知れぬが
突きも場合に拠っては引かず共
連続で可能な場合も有るかも知れぬが


シルトロンはロングボウで壊滅しただろうが
スイスのパイク兵はロングボウでは
壊滅したのかだろうし
雑兵であるシルトロンと異なり
スイスのパイク兵は士気が高いから
壊滅は困難だったと言う
可能性も有る訳だろうか
テルシオのパイク兵は雑兵であり
銃撃を受ければ容易に敗走するが
オランダ式大隊のパイク兵は銃撃を受けても
其の侭突入したと言う可能性は
有る訳だろうか
43某研究者:2006/10/31(火) 20:25:50 ID:VWtdjF+M
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
テルシオのパイク兵も雑兵であるマスケット銃兵が正面に居るから
此れが混乱するとパイク兵が速やかに突撃する事は
困難かも知れぬし
パイク兵も銃撃を長期間受けて
敗走すると言う事かも知れぬが
オランダ式大隊の場合はパイク兵の前に銃兵は居ないから
この様な事には成らぬかも知れぬし
士気もテルシオよりは高かった訳だろうか
44某研究者:2006/10/31(火) 20:35:38 ID:VWtdjF+M
スイスのパイク兵の場合は
士気は騎士よりも下手をすると
上と言う事は無いのかだろうし
仏革命の時は市民に対して反撃するなと言う
命令を守って
殺されたスイス傭兵も居た訳だろうか
45某研究者:2006/10/31(火) 23:38:42 ID:VWtdjF+M
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=18
総面装備の徒歩武者を
適当に描いたが
面は騎馬武者の物と基本的に違わないのか
どうかだが
飾り兜は徒歩武者レベルでは
無いのだろうか
46某研究者:2006/11/03(金) 05:14:37 ID:mIS1pWyG
薄い鉄板を銃で貫かれると
何も無い状態より傷を負うと言うが
鉄砲足軽は一応鉄の鎧は
着て居た訳だろうが
上を考慮して可也軽装だったと言う事は
無いのかだが
(或いは練皮なら貫通しても
 傷は余り負わないと言う事は
 無いのかだが)
47某研究者:2006/11/05(日) 21:44:18 ID:3Hl5tHOt
関ヶ原も毛利を本隊付近に置いて
早々に戦闘に参加させれば
裏切りは困難だったかも知れぬし
一度戦闘に参加して優勢な状況に成った後で
裏切ると言うのは有り得たのかだろうし
正面から其の侭当たれば西軍が恐らく
小早川が居らず共有利だったかも知れぬし
明確に西軍が優勢なら
小早川も裏切らなかったと言う可能性も
有るだろうか


毛利も小早川も裏切ったのは結局
其の後の扱いを見れば
失敗だったかも知れぬし
其の辺りの判断は
出来なかったのかどうかだが
三成が勝った場合彼等の処遇は
どうだったのかだが
小早川が関白等と言うのは
有り得たのかどうかだが
48某研究者:2006/11/05(日) 21:46:16 ID:3Hl5tHOt
小早川・毛利を正面に置いて
宇喜多を敵背後或いは側面に置くと言う様な
方向も有ったかも知れぬし
小早川や毛利が動かないと言う事は
開戦前から分かっていたと言う事だっただろうが
動かなく共彼等で敵を足止めして
宇喜多で背後や側面から攻撃と言う方向も
有った訳だろうし
形勢が有利に成れば毛利・小早川も
参戦はしたかも知れぬが
49某研究者:2006/11/05(日) 21:48:56 ID:3Hl5tHOt
まあしかし此れを見越して
東軍も側面や後方の宇喜多に攻撃を集中すればだろうが
側面や背後を見せた東軍に対して
毛利や小早川・或いは他の軍に攻撃を掛けさせるのは
無理だったのかどうかだが
50某研究者:2006/11/05(日) 23:53:37 ID:3Hl5tHOt
毛利・小早川も背後に
西軍本隊等が居たら
裏切っても背後を突かれて崩壊する可能性が
有る訳だろうし
簡単に陣を転換するのは無理だろうから
正面に毛利・小早川を置いて
其の後方に西軍本隊を置けば
裏切りは困難だったかも知れぬが
(更には敵の側面や背後に宇喜多軍等を
 置けば
 西軍の勝率は増したと言う事だろうか)
51某研究者:2006/11/06(月) 00:18:23 ID:u/FFdrXk
http://www12.ocn.ne.jp/~santosu/page010.html
東軍も秀忠軍38000が来る迄
待つと言う手も有っただろうが
其の前にやられるか
所謂ハートランドである関ヶ原を長期に支配されて
苦境に陥ったと言う可能性も
有る訳だろうか
52某研究者:2006/11/06(月) 02:23:20 ID:u/FFdrXk
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=19
上の様な陣なら西軍が勝てるのか
どうかだが
側面攻撃をした宇喜多が背後から家康に
突かれる可能性も有るだろうから
宇喜多を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Sekigahara.png
上の実際の布陣の毛利の様に東軍の背後に置くと言う
方向が良いのだろうか
53某研究者:2006/11/06(月) 02:33:48 ID:u/FFdrXk
まあ只家康(此れは3万も兵力が有るが)が
背後の宇喜多を上手く足止めした場合は
膠着状態に成る危険も
有るだろうし
秀忠が来る迄粘られる可能性も
有るかも知れぬが


http://kakutei.cside.com/photo/sekiga.htm
まあしかし西軍の正面戦力は
毛利・小早川を置いたとしても
東軍より可也優勢だろうし
家康が宇喜多を足止めして居る時に
東軍の正面が敗走すれば
家康の背後を毛利・小早川が突く事は
可能かも知れぬが
54某研究者:2006/11/06(月) 02:37:56 ID:u/FFdrXk
3万の家康軍に
18000の宇喜多が
早期に壊滅すると言う
可能性は無いのかどうかだが
山に布陣していれば
東軍正面が壊滅する迄は
何とか保つと言う可能性は
有るかも知れぬが
55某研究者:2006/11/06(月) 02:55:24 ID:u/FFdrXk
http://image.blog.livedoor.jp/mansaku21/imgs/1/2/1265f5d1.PNG
家康軍3万だけでは無く
池田・浅野・山内等を加えれば42000程度も
東軍は正面には居ない訳だろうし
毛利・小早川勢
(彼等に従う兵力を合わせれば45000程度は有るだろうが)
を東軍正面は早期に崩壊し得ると言う事は
無いのかだろうし
史実でも可也正面は
やられていただろうか
56某研究者:2006/11/06(月) 03:01:30 ID:u/FFdrXk
小早川・毛利が万一裏切った場合
此れを背後から即座に叩けるだけの
兵力は後方に残して
他は前衛に配置と言う方向も有るだろうが
45000を背後から確実に叩くには
どの程度の兵力が必要だろうか
(西軍の総兵力84000なら
 宇喜多の18000を抜かすと
 残り20000程度と言う
 事だろうが
 此れなら毛利・小早川が裏切っても
 背後から殲滅は可能かも知れぬが)
57某研究者:2006/11/06(月) 03:49:02 ID:u/FFdrXk
>毛利・小早川を背後から2万の兵で撃破したとしても
>3万の徳川正面戦力に勝てるのかどうかだが

まあ只正直此れは難しいかも知れぬし
毛利・小早川撃破後は城に篭って
上杉軍等の到着を待つと言う様な
方向しか無いかも知れぬが
其の後果たして勝てるのかどうかだが
58某研究者:2006/11/06(月) 03:52:17 ID:u/FFdrXk
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=20
上の様な布陣なら
勝てたのかどうかだが
毛利・小早川が万一裏切った場合は
勝てるのかだが
(まあしかし背後を抑えられて居る以上は
 其の可能性は可也低いかも知れぬが)
毛利・小早川を背後から2万の兵で撃破したとしても
3万の徳川正面戦力に勝てるのかどうかだが
毛利・小早川軍の混乱した戦力が
東軍正面に流れ込めば
或いは撃破は可能と言う可能性も
有るのかも知れぬし
其の後で家康軍を宇喜多と挟撃は
可能と言う可能性も有るかも知れぬが


>毛利・小早川を背後から2万の兵で撃破したとしても
>3万の徳川正面戦力に勝てるのかどうかだが

まあ只正直此れは難しいかも知れぬし
毛利・小早川撃破後は城に篭って
上杉軍等の到着を待つと言う様な
方向しか無いかも知れぬが
其の後果たして勝てるのかどうかだが
59某研究者:2006/11/06(月) 04:55:23 ID:u/FFdrXk
http://ameblo.jp/ykblog/archive-200602.html
秀秋も松尾山には勝手に動いたと言うから
秀秋を正面に置くのは無理かも知れぬが
秀秋の背後に兵を置く事で
戦闘参加は兎も角裏切りは阻止出来たかも
知れぬし
正面には毛利を置くと言う手も
有っただろうか
(正面も毛利軍25000のみでは厳しいかも知れぬし
 宇喜多も正面に置くと言う
 方向も有ったかも知れぬし
 背後には別の戦力を山に少数置くと言う
 方向も有ったかも知れぬし
 東軍30000の正面戦力を撃破した勢いで
 家康本隊も何とか叩けないのかどうかだが)


秀秋も背後に兵を置かれれば
西軍が有利な状況と成れば挟撃を恐れて
戦闘参加すると言う
可能性は有ったかも知れぬし
全く期待不能な戦力でも
無い訳だろうか
(故に東軍3万の正面戦力撃破後に
 家康を側面攻撃させる事は
 可能だったかも知れぬが)
60某研究者:2006/11/06(月) 19:45:50 ID:7Sa6bDUj
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=21
上の様な布陣なら
西軍は勝てたのかどうかだが
毛利・小早川が裏切った場合は
勝てぬかも知れぬが
矢張り背後を取られていては
簡単に裏切れるのかどうかだが


http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/sekigahara.htm
>その後三成の求めに応じて、関ヶ原方面に転進。9月7日関ヶ原からは6kmほど離れ
>た南宮山に登ります。秀元が山頂付近、広家がその前を遮るように布陣しまし
>た。秀元は戦うつもりはあったようですが、前面の広家が邪魔で戦に加わること
>ができません。しかも、麓に布陣した安国寺恵瓊、長曽我部盛親、長束正家の軍
>を見下ろす形になります。

まあしかし毛利も広家が前に居た場合
平地に置いても戦えたのか
どうかだが
(平地なら広家を迂回して
 戦ったと言う可能性も
 有るかも知れぬが)
前衛に居る長曽我部軍等を戦わせる事は
可能だったかも知れぬが
宇喜多と合わせれば26000程度だろうが
本隊から兵力を割けば
30000以上には出来たかも知れぬが
毛利や小早川の背後を突けぬリスクは
出るかも知れぬが
61名無し三等兵:2006/11/18(土) 14:48:09 ID:zY7d0FW6
全体の兵に占める輜重隊の割合ってどれくらいなん?
62名無し三等兵:2006/11/18(土) 15:41:52 ID:???
15〜16世紀のアルケブスやマスケット兵の部隊ってどう言う風に射撃してたの?
部隊で一斉に射撃してたのかそれぞれが勝手に射撃してたの?
63名無し三等兵:2006/11/18(土) 17:56:53 ID:nWSK3w9b
>>45
北条家では兜の前立の大小を身分によって制限してるな。
知行の低い者は大きい前立や装飾を付けられないなどステータス化していたようだ。
64名無し三等兵:2006/11/18(土) 22:34:47 ID:???
>>62
大抵一斉射撃してたようです。日本でも信長がやってますね。
65名無し三等兵:2006/11/19(日) 08:49:50 ID:???
>>64
三段撃ちは捏造じゃ?
66名無し三等兵:2006/11/19(日) 10:53:26 ID:???
斉射と三段撃ちは異なる
67某研究者:2006/11/19(日) 12:34:00 ID:21uBkwnP
西欧のマスケット銃の命中率は
1000発に一発だが
火縄銃はどうだったのだろうか
(西欧も火縄銃は狙撃して居たのかだが)
68某研究者:2006/11/19(日) 12:36:49 ID:21uBkwnP
http://2ch.dumper.jp/0005522411/
>日本が船団を仕立てて、イベリア半島やグレートブリテン島に攻め込むとしたら、
>惨敗でしょう。そもそもヨーロッパまで行き着けるかどうか。

ドーバー海峡と言うのは可也狭い部分も有るし
他の場所も陸伝いに移動すれば外洋艦で無く共
移動は可能かも知れぬが


>欧米の学者だったかが、日本が鎖国しなければインド辺りでイギリスと
>激突していたという予測をしていて、第二次世界大戦は400年遅れの
>衝突と言っていた、という話を読みました。誰の話を読んだか覚えて

最短で何時頃なのかだが
西欧技術を装備した艦を大量配備したら
勝算は有ったのかどうかだが
陸では騎兵の差で勝てたのかと言う事は
有るだろうが
日露戦争の様に上手く騎兵に
対処出来た可能性も有るだろうか
69某研究者:2006/11/19(日) 12:39:05 ID:21uBkwnP
>西洋諸国の方が火器の威力で勝ってるという論拠はどこにあるのでしょうか?

テルシオの正面は確か大型の
マスケット銃が多かっただろうが
日本も大型の銃や大筒を可也正面には
置いて居たのだろうか
(まあ狙撃で無いならマスケット銃も
 脅威では無い訳だろうか)
70某研究者:2006/11/19(日) 12:50:12 ID:21uBkwnP
1569年女王エリザベス治下のイギリスはフランス侵攻の際動員できる
【イギリス全体の兵隊】と武器の数を総点検しました。
その集計数は、【兵数24000人】【鉄砲6000挺】でした。
(ソースは『Lindsay Boynton著 The Elizabethan Militia』)
その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が
島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】
【鉄砲9000挺】でした。
すなわち、【欧州最強のスペイン(動員兵数27473人、鉄砲8000挺)】や、
【エリザベス治下のイギリス(全体の兵数24000人、鉄砲6000挺)】では、
【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺(兵数25000人、鉄砲9000挺)】
にさえ及ばないことがわかります。

まあ日本は40万動員可能と言う意見も有るが
欧州全体でも同程度が
限界なのだろうか
71某研究者:2006/11/19(日) 13:14:26 ID:21uBkwnP
産業革命がなぜ起きたのかについては多くの議論が交わされており、
現在も明確な回答はないのですが、私見を述べさせていただきます。
植民地から集めた原材料を加工するには英国は人口が少なすぎたのでしょう。
清、オスマンなど人口の多い国であれば、わざわざ機械製造して利用するよりも
労働力を集めた方がずっと簡単で信頼性が高かったため、
機械を利用する産業革命に到達できなかったのだと思われます。


と言うのが
英が産業革命を起こせた理由なのだろうか
72名無し三等兵:2006/11/19(日) 16:25:53 ID:???
>501 :世界@名無史さん :2005/03/27(日) 16:40:35 0
>3000人で編成されたテルシオ陣形における実質兵数は、
>最前列の100人+四隅の小方陣の最前列5人×2を加えた110人。

>550人で編成されたマウリッツ方陣における実質兵数は、
>ハークィバスの最前列が10人×2+マスケットの最前列5人×2に
>+パイクの最前列25人を加えた55人。
>769 :世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 00:57:19 0
>>>764
>>仮に総力戦=全面戦争を行うとしてあの時代情勢から東アジアでの防衛的な戦争と仮定する。
>>両勢力の兵站、戦略性などは考慮外。
>上記の条件で仮に総力戦=全面戦争を行うならば、大兵力と小兵力が戦ったとき、
>大兵力側はたいした損害はでないが小兵力側の損害は兵力比の2乗の損害を被ると
>するランチェスターの二次法則を適用すれば、兵力の劣るスペインに勝ち目はない。
>>>501を参照いただければわかるようにテルシオの実質参加兵数は3000分の110で、
>総兵力の3.66%しか機能しないため、スペインの兵力はより少なくなり勝つ確立が低下する。
なんだこの糞馬鹿は?
そして何故だれもこの糞馬鹿に突っ込んでないんだ?
73名無し地球市民 ◆ZpUnXqLb2U :2006/11/20(月) 11:01:01 ID:???
>72
馬鹿すぎて釣りとしてしか見られてないか、凄く過疎なんじゃね?
74名無し三等兵:2006/11/20(月) 13:29:59 ID:???
256人で構成されたマケドニアファランクス一個部隊の実質兵数は最前列の16人。
よってファランクスの実質参加兵数は16分の1で総兵力の6・25%しか機能しない為アレクサンドロスがペルシア軍に勝つのは不可能。
75某研究者:2006/11/21(火) 09:16:11 ID:uhQDXijJ
16人がやられても後列が出て来る訳だろうが
密集すると包囲されたり大砲を打ち込まれる等して
壊滅する可能性は高い訳だろうか
76某研究者:2006/11/21(火) 13:05:59 ID:3pVcVsDO
艦隊が兵員上陸後に艦艇に搭載された大砲を
陸揚げして使用すると言う事は
有ったのかどうかだが
77某研究者:2006/11/21(火) 13:23:16 ID:3pVcVsDO
http://2ch.dumper.jp/0005522411/
>スペインは完全に国王を中心に軍の統制が権力一本化されているのに対して、豊臣政権は所詮領主連合で封建体制から脱皮していないこと。
>日本軍は日本一丸となって戦うわけではなく、日和見する大名もいるし、殆どの大名は、日本国の領土拡張などより御家大事であること。(そもそもその時の戦国大名に、ネイション概念があったかも疑問だが)
>スペインは国力の100%の力を発揮できると期待すれば、日本はせいぜい50%くらいか?

まあ相手が外敵且つ戦意が有れば
日本側もどうだったのかだが


>【長篠の戦いにおける織田・徳川連合は兵数38000人】であり、
>その内の【鉄砲部隊は10000人】だという。

テルシオ(1/3が銃兵)よりは銃の比率は
少ないだろうが
西欧と異なり基本的に狙撃兵である訳だろうか


30年戦争のリュッツエンの様に大砲の打ち合いに成れば
日本側の大筒の装備により
テルシオが壊滅的な打撃を受ける可能性も
有るだろうが
30年戦争もリュッツエンの様に常に砲撃を一方的に
歩兵は受け続けて居たのかどうかだが
78某研究者:2006/11/21(火) 13:32:19 ID:3pVcVsDO
>もし、日本の戦国時代と同時期の16世紀以降スペインに近代軍が確立していたなら
>なぜ、17世紀の30年戦争の主力が(ベーメン人の)傭兵部隊なんだ?

彼等が裏切ったり勝手に略奪等を
働く事も有った訳だろうか


>そんなこと言っても、同時代のポーランド軍団も戦い慣れしてるよ
>兵站一つ取ったって信長の経験はせいぜい数百キロに対して、ポーランドは数千キロだから

まあしかしポーランド軍も兵糧は
現地調達が中心だったと言う事は
無いのかだが
79某研究者:2006/11/21(火) 15:55:29 ID:I5yT2+bm
>厳密に言えば、ここで行われたのは交代射撃であって、整然と三段に分けて
>各自に撃たせるのとは異なります。
>射手に次々と鉄砲を手渡したものの様ですが。

優秀な少数の射手に
多数の鉄砲を運用させたと言う
事なのだろうか
80某研究者:2006/11/21(火) 16:07:06 ID:I5yT2+bm
>なお、戦闘員が兵数の三分の一に過ぎなかったという説は、近世の陣立書か
>ら立てられたものですが、参考に挙げておきました。

2/3は輸送及び作業専用の
人材だったと言う事なのだろうか
(此れ等の人員は
 兵を利用出来ぬのか
 どうかだろうし
 無用な食料を消費すると言う事に
 成るだろうが
 或いは兵も動員しているかも知れぬし
 兵糧輸送や陣地作製等の作業を重視したから
 非戦闘員の数が増えたと言う事なのだろうか)
81某研究者:2006/11/22(水) 23:03:23 ID:d9mNpUmt
http://2ch.dumper.jp/0005522411/
>波状攻撃を仕掛けて来た武田軍に対し、織田・徳川軍は守りに徹し、鉄砲を放
>ったが、たとえ直接死に繋がらないにせよ、銃声が鳴り響き、鉄砲玉が飛び交
>う状況は、相手を動揺させた。
>そこに長鑓、弓矢が打って出て、実際に死者を生み出し、柵の中に引っ込んだ。
>こうした事の繰り返しの中で、武田側は指揮官の被害を増やし、更に後方に別
>動隊が出現した事もあって、戦の庭から引き上げたのでしょう。

敵を銃撃で混乱させた後なら
騎兵の突撃だけでは無く歩兵の突撃も
有効で有る訳だろうか
82某研究者:2006/11/22(水) 23:36:07 ID:d9mNpUmt
>戦国末期の合戦が第一次世界大戦並の塹壕戦ばかりだったというペリンの説は
>今の所チト信じがたい。
>ただ、最近古戦場の発掘・調査が頻繁に行われていて、
>藤井尚夫氏などの調査によれば関ヶ原にも
>東軍西軍ともに土塁をつみ、陣地をこしらえた形跡があるようですから
>ペリンのいうことも今後実証されるかもしれません。

長篠も塹壕では無く土塁だろうし
西欧の大砲も防げる攻城用等の塹壕と言うのは
有ったのかどうかだが
野戦で有効な軽量砲なら土塁でも
止まるかも知れぬが
83某研究者:2006/11/22(水) 23:38:50 ID:d9mNpUmt
>南北朝時代から次第に下馬する様になり、戦国期には下馬が大半となります。
>皆無かどうかはさておき、下馬が志向されたというのは有力な説です。

まあしかし当時の絵を見ると
騎乗して戦闘している者も
可也多い訳だろうか
84某研究者:2006/11/25(土) 21:56:09 ID:OT7VuYVE
>日本では近世を通して火縄銃が主流で、「ピストル」なるものは菅江真澄も
>記しており、秀吉の小田原在陣中に火打ち式銃が持ち込まれていた事が確
>認出来るにも拘らず、火縄式からの切り替えは近代まで持ち越されました。

大筒なら火打石式にしても
ハンマーの衝撃は精度に影響は
与えない訳だろうから
大筒をフリントロック式に
出来なかったのかだが
不発が多いと言う問題も
有ったかも知れぬが
85某研究者:2006/11/25(土) 22:08:49 ID:OT7VuYVE
>火打石式を最初に欧州で大規模に導入したのは30年戦争時のスウェーデンであるが、
>。これは他の方式より火打石式が優れていたためではない。
>当時の歯車式は機構が複雑で量産に不向きであり、価格も非常に高価であり導入が難しかった。
>一方、火縄式はスウェーデン本国に火縄の原料が不足していたために導入できなかったのだ。
>しかし、直接火種を使い着火する火縄式に比べて火打石式は大変不発が多かった。
>また、>>434氏の書込みのとおり命中率が悪く、『撃てない、当らない』の二重苦であった。
>1621年ヴァルハウゼンは火打石式銃を『廃棄すべき遺物』と酷評し、火縄式銃への早期切替を
>具申している。


ハンマーの衝撃と言うのは
照準を狂わせる程
大きいのかだろうし
不発も直ぐにハンマーを起こし直せば
良いと言う事は無いのかだろうし
コストは火縄銃より火打石式の方が安い訳だろうか
86某研究者:2006/11/25(土) 22:17:58 ID:OT7VuYVE
>戦国日本の築城技術って結構高かったのではないかと思うのだがその辺はどうなの?
>文禄・慶長の役の時も、明と朝鮮が蔚山倭城や順天倭城を大量の火器を使って
>攻めたけど、結局は攻略出来なかったわけだし。
>まあ、当時の明とヨーロッパとでは大砲の性能にかなり差があるとは思うが、
>会津若松城や熊本城は飛躍的に強力になった19世紀の大砲にも有効だった。
>たしか、文禄の役に従軍していたイエズス会士も倭城について「難攻不落」って
>書いていたと思う。
>それに倭城って工事期間がだいたい2ヶ月ぐらいなんだよね。
>戦時中に敵地に短期間で大量に強力な城塞を築く事が出来るというのは、かなり
>実戦的な技術だと思うのだが。

耐震構造が砲撃に対しても
役に立ったと言う事かも知れぬし
石は切り出さないので短期間で
作れると言う事かも知れぬが
87某研究者:2006/11/25(土) 22:27:05 ID:OT7VuYVE
http://www.underzero.net/cas/cas_m_ishigaki.htm
安土桃山時代では
石の角が叩いて有る物が大半と言うが
此れでも加工にそう手間は
掛かるのかどうかだが
88某研究者:2006/11/25(土) 22:52:25 ID:OT7VuYVE
>よく、戦国日本の軍隊の戦闘員は全体の3分の1程度と聞くのだけど実際、どうなんだろう?
>大阪夏の陣の時の伊達勢はおよそ1万の内、
>騎馬628騎、槍1360、弓100張、鉄砲3420挺
>これだと5割5部くらいでだけど・・・。

歩兵の銃の装備率が可也高いだろうし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
オランダ式大隊や
グスタフアドルフの歩兵より高いかも知れぬが
騎兵銃はどうだったのかだが
89名無し三等兵:2006/11/25(土) 22:55:24 ID:Tzfj0i6A
(´・ω・)y─┛~~一人舞台やな
90某研究者:2006/11/25(土) 23:05:15 ID:OT7VuYVE
>日本の侵攻を受けた明は銃の重要性に気付き、日本に対抗すべくその導入に着手した。
>明末の趙士禎はその著書『神器譜』の中で種子島(日本式)、制雷銃(西欧式)など世界の
>各地から私費を投げうって9種類の最新式銃を収集し、その性能を比較した。
>その結果、最も性能の優れた銃として明国で正式採用された銃は「魯蜜銃(ローマ銃)」
>すなわちオスマン=トルコ式銃であった。
>頻繁に欧州各国往来した時期であり、各国商人が自国の銃を売り込んだであろうに、
>よりによってシルクロード経由の「オスマン式」が採用されたというのは大変面白い。

ストックが有る火縄銃と言う事で
トルコの物が選ばれたのかだが
欧州の火縄銃は駄目だったのかだが
91某研究者:2006/11/25(土) 23:10:50 ID:OT7VuYVE
>>460
>キプチャク3ハン国の内紛の際、オスマン帝国に派遣されたイェニチェリ軍団が装備していた銃が
>中央アジアで有名になり、シルクロードのオアシス都市ハミの内乱でも大きな戦果をあげました。
>趙士禎はこのハミ内乱での噂を聞き、取り寄せたと記述しています。


>>459
>口径9〜13mm 全長1.3〜2.0m 重量2〜4kg 射程150〜300m
>西洋では『テュフェク』と呼ばれ、高い完成度を誇った。
>西欧のハークィバスが全長1.3m程度だったことを考慮するとかなりの大型銃。

威力を重視したと言う事かも知れぬが
西欧にも大型の銃はテルシオの前衛等に
配備されていたかも知れぬが
此れより大型の銃なのだろうか
(此れを用いても
 遠距離からの狙撃を考えねば発射速度の差で
 却ってやられていたかも知れぬが)
92某研究者:2006/11/25(土) 23:13:02 ID:OT7VuYVE
>再度 英国軍と戦火を交えた米英戦争の頃には、長い銃身内を苦労して弾を押し込まなくても良いように銃身の根元を輪切りにして持ち上げる構造の後装式の元祖のような歩兵銃を装備している。

此れが以後主流と成らなかったのは
何故なのかだが
コスト高や銃身の接合部からガスが漏れると言う問題でも
出たのだろうか
93某研究者:2006/11/25(土) 23:30:35 ID:OT7VuYVE
>管槍が広く普及して、標準品になったために
>槍名人が「あれは卑怯な武器だ。」と、評し
>下衆の武器と断じた出展はなんでしたかね。

管槍が大量に使われて居たとは
知らなかったが
6m等の長い物は
有ったのかだろうし
無いとすれば自分より長い槍には
勝てたのかだが
94某研究者:2006/11/25(土) 23:35:43 ID:OT7VuYVE
>当時、世界は日本におそれてキリスト教の広める人に貴族と三秀にいって信長
>を殺すなら艦隊を送って力を貸すと秘密の約束があったので、スペインやイギ
>リスは日本にかなわないから恐れてボスの信長を本能寺で殺そうとしてたので
>ちゃんと戦っていたら、ヨーロッパは日本に負けていました。マンガに出てい
>たので間違いありません。


信長が欧州に危険視されて殺されたと言うのは
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls126.html
上の江田島孔明のランドパワーとシーパワーの戦略にも有るが
鉄甲船を其処迄危険視して居たのか
どうかだが
宣教師等が防火用の装甲を防弾用と誤認して
此れを可也恐れたと言う可能性も有るだろうか
95某研究者:2006/11/25(土) 23:38:31 ID:OT7VuYVE
>ナポレオン軍が使用していた革命暦]V年式銃には照星・照門がなく、
>戦国末期の日本の火縄銃より命中率が低い。

此れはマスケット銃が精度を重視して居ない事の
現われで有る訳だろうか
(火縄銃のストックが無い事でのぶれは
 問題では無いのかだが)
96某研究者:2006/11/25(土) 23:41:17 ID:OT7VuYVE
>カービン銃にいたっては有効射程20〜30mと射程距離が短く、
>当然標準もないため適当にぶっ放していた。

カービン銃の殆ど巨大なピストルと言う
所だろうし
馬上からの発射では精度は更に
低下したと言う事は無いのかだが
97某研究者:2006/11/25(土) 23:48:13 ID:OT7VuYVE
>30年戦争時スウェーデン軍に徴兵された兵士が死亡する確率は50%で
>徴兵通知が届くことは実質的な死刑宣告と徴兵拒否反乱が頻発した。

>この高い死亡率の数字がいかにテルシオという密集戦術が
>兵士の使い捨てを前提にした陣形かがうかがえる。

病死やリュッツエンの様に
最初の大砲の砲撃で死んだ人間が
大半だったと言う事かも知れぬが
98某研究者:2006/11/25(土) 23:50:58 ID:OT7VuYVE
>防御性と機能性の高い当世具足が出現し、家康の様に鉄砲で試し撃ち
>をさせてから着用した例もあります。

鎧を固定して居ない状態での
試し討ちで有るから
貫通しなかったと言う事だっただろうし
現実には50−100m程度では
プレートアーマーでも貫かれていた訳だろうし
近世のハーフアーマーでも
防げるのはピストルか
マスケットの遠距離からの流れ弾だけだろうか
99某研究者:2006/11/26(日) 00:16:03 ID:67b4vXNu
>アラブ馬 体高140〜150cm 足が速く戦闘向き。
>蒙古馬 体高130cm 足が速く体力があり戦闘向き。
>木曾馬 体高140〜150cm 足腰が強く番場向き。

木曾馬は蒙古馬より
大型だった様だが
足は遅かったと言う
事なのだろうか
100某研究者:2006/11/26(日) 00:29:48 ID:67b4vXNu
>日本の軍艦に積まれていた「鉄砲」を補足します。

>この鉄砲は通常の鉄砲ではなく、抱え大筒タイプの重鉄砲で、
>銃身90cm、口径30〜80mm、射程は800m。
>通常弾以外に棒火矢(焼夷弾)や千人殺し(散弾)も使用可能でした。

まあしかし通常の銃も
持って居たと言う事かも知れぬが
此れは板は貫けぬなら
矢倉からの上方からの射撃だけかも
知れぬが


>通常型の安宅船
>全長 平均して20メートルほど
>500〜1000石積
>楯板は厚さ2〜3寸のクスノキかムクの板
>武装 大筒1門 鉄砲30挺ほど

と有るが
大筒を30門装備していたと言う
事なのだろうか
101某研究者:2006/11/26(日) 00:31:45 ID:67b4vXNu
>日本の軍艦に搭載されていた「大砲」の代表格は国崩しで
>知られる仏朗機(フランキ)で砲身90〜290cm、口径95mm、
>射程は500〜1000mです。
>フランキは後装式可動砲で命中精度が高いといわれています。

フランキ砲と言うのは
威力が余り無いと言うが
大筒よりは有ったのだろうか
102某研究者:2006/11/26(日) 00:37:42 ID:67b4vXNu
>なお、欧州の軍艦でで使用されていた「大砲」の代表格は
>「カルヴァリン」(ラテン語で蛇の意)で、
>この名称は欧州における小口径の総称だったと言われています。
>なぜ、帆船に口径の小さい大砲が搭載されたのかというと、
>大口径の大砲では砲撃と同時に台座が壊れてしまったためです。
>砲身120〜300cm、口径38〜152mm、射程距離は300〜800mです。
>カルヴァリンは前装式固定砲で、射角の変更がきかないため、
>砲撃するには敵艦に横付けする必要がありました。

此れよりは大筒の方が
射角も変更可能であるし
使えると言う事は無いのかだが
103某研究者:2006/11/26(日) 01:07:25 ID:67b4vXNu
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/061.htm
外洋艦である朱印船に大砲を積めば
欧州の艦艇も叩けたかも知れぬし
同時期の英艦隊も小型艦が
多かった訳だろうか
104某研究者:2006/11/26(日) 01:42:45 ID:67b4vXNu
http://72.14.235.104/search?q=cache:J8S2V94Tf60J:www004.upp.so-net.ne.jp/miyamori/linkp06.htm+%22%EF%BC%91%E9%8A%AD%E5%88%87%E3%82%8A%22&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=3
>凶悪事件を防ぐためには、やっぱり罰則の強化が必要でしょう。織田信長の1銭切り。(織田信長の軍団ではたった1銭略奪しただけでも打ち首だったので非常に統制がとれていたそうだ) 

同時期の欧州や他国の軍は
どうだったのだろうか
(ランツクネヒトのローマ略奪等も
 罰則は無かったと言う事かも知れぬが)
105某研究者:2006/11/26(日) 02:12:33 ID:67b4vXNu
>余談だが、ウェールズ(Weath)人とは奴隷という言葉の意味。

この名称は変える気は
無いと言う事なのだろうか
(パリ等も野蛮人等が確か語源だったかも
 知れぬが)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA
>語源は Parisii (パリシー)と呼ばれるケルト人部族。Parisiiは「田舎者」、「乱暴者」を意味する。

と言う事だろうか


http://2ch.dumper.jp/0005522411/
>・外洋航海が可能な海軍と呼べる代物が無かった。日本“水軍”では乗り込み海賊戦法だけ。これじゃ話にならん
>・炸裂弾、大砲・攻城兵器が無い。国内戦しか知らないので発達しなかったが、対外だと致命的

トラファルガーでも白兵戦で決着が
付いていた訳だろうし
炸裂弾は19世紀でも余り
使われて居ない訳だろうか
106某研究者:2006/11/26(日) 15:14:24 ID:YQ57kMrY
>よく、戦国日本の軍隊の戦闘員は全体の3分の1程度と聞くのだけど実際、どうなんだろう?
>大阪夏の陣の時の伊達勢はおよそ1万の内、
>騎馬628騎、槍1360、弓100張、鉄砲3420挺
>これだと5割5部くらいでだけど・・・。

>歩兵の銃の装備率が可也高いだろうし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
>オランダ式大隊や
>グスタフアドルフの歩兵より高いかも知れぬが
>騎兵銃はどうだったのかだが

オランダ式大隊は前後が入れ替わり乍ら
発砲していただろうし
発射速度は速いかも知れぬが
日本側も此れを行っていた可能性も有るだろうが
スウェーデン3兵戦術の歩兵の場合は
前進し乍らでも発砲して居るだろうが
此れは日本側には無い戦術かも知れぬが
狙撃では無く日本側は散開しているので
余り当たらないと言う事かも知れぬが
17世紀末のカール12世の軍の場合は
前進後至近距離で銃撃していたと言うが
こう成る前に日本側の銃の狙撃で可也の数が
やられると言う事は無いのかだが
オランダ式大隊等の大量のパイク兵に槍足軽は勝てるのかだが
銃砲撃で混乱させた後
長い管槍でも大量に
用意していればだろうか
107某研究者:2006/11/26(日) 15:16:10 ID:YQ57kMrY
16世紀の場合リュッツエンの様に序盤の大砲の砲撃で
決着が付く戦いが大半なら
軽量砲並みの威力の大筒が大量に有り
散開している日本側が有利と言う
事は無いのかだが
108某研究者:2006/11/26(日) 15:23:22 ID:YQ57kMrY
>オランダ式大隊は前後が入れ替わり乍ら
>発砲していただろうし

テルシオは此れが無いから
後で銃兵の比率が増えても
発射速度が遅かった訳だろうか
109某研究者:2006/11/26(日) 15:29:08 ID:YQ57kMrY
>また少数ながら長刀使いもおり、「一番鑓」でいいのかと議論されています。
>「二番鑓は御免だ」と言って、鑓を捨てて刀を振るう変わり者もいました。
>なお、当時の軍は全体の約一割程度の騎乗者、若党・足軽といった侍、中間
>・小者といった介助役の下人、夫などの百姓で構成されていました。

バスタードソードを持つ兵はスイス傭兵にも居ただろうが
西欧では16世紀中盤辺りで
消えて居たと言う事かも知れぬが
ローマレギオンを考えれば剣も槍に対して
不利と言う事は無いのかも知れぬが
訓練された管槍を持つ兵に
剣で勝てるのかどうかだが
110某研究者:2006/11/26(日) 16:43:22 ID:YQ57kMrY
http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/mo60628a.htm
日本の馬の爪は強いから
蹄鉄は無用と言う
意見も有るし
http://www17.ocn.ne.jp/~noside/mongol/mongol03.htm
モンゴル馬にも蹄鉄は無いと言う
事かも知れぬが
40kgの鎧を着た場合は
蹄鉄は必要と言う事は無いのかだが
111某研究者:2006/11/26(日) 16:52:19 ID:YQ57kMrY
http://72.14.235.104/search?q=cache:Nf0PRH45PvQJ:salad.2ch.net/warhis/kako/986/986904684.html+%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E9%A6%AC%E3%80%80%E8%B9%84%E9%89%84&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=8
>まず、日本に蹄鉄が無かったのは本当ですね。
>必要があれば藁で作った靴を履かせ、すぐボロボロになるので
>どんどん取り替えたとか。
>ただ、フロイスは日本馬の「欠点」として蹄鉄の無い事を挙げていますが、
>西洋の石畳の街と違って日本はどこも土なので蹄の減りは西洋より
>少なかったと思われます。

>また、武士の心得としては予備の馬を飼っておき、蹄の減ったものは
>休ませ、伸びたら乗るという事はあったようです。

日本でも爪の消耗は一応
考慮していた訳だろうし

>モンゴルが「騎馬軍団」たり得たのは、人より馬の数が多く、
>(ひとりの兵士に馬5頭)疲れた馬はどんどん交代する事が
>可能だったからです。

モンゴルも馬を頻繁に
交代していた訳だろうか
112某研究者:2006/11/26(日) 16:56:15 ID:YQ57kMrY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E
>下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行った。

ペルシャの馬の影響と言うのは
何処迄有ったのだろうか
113某研究者:2006/11/26(日) 17:46:55 ID:YQ57kMrY
>でも日本兵はバラバラに行動して統制がとれないため
>認識がおかしい、欧州の兵隊は役立たずだから
>窮屈で柔軟性に欠ける、布陣なるもので統制とってただけだろ。

日本はレギオンの様な隊形
西欧はレギオンに敗れたファランクスの様な
隊形で有ったと言う
事だろうが
ナポレオン時代やボーア戦争時に
西欧軍も散開した訳だろうか
114某研究者:2006/11/26(日) 18:00:11 ID:YQ57kMrY
>スペイン軍が装備するカルバリンの射程距離は300〜800m。
>豊臣政権軍が装備するフランキの射程距離は500〜1000m。

此れ等は50mでも命中しないと言う
意見も有るから
発射速度が重要と言う事かも知れぬが
カートリッジの有るフランキの方が発射速度は
早い言う事かも知れぬが
大筒と比べてどうなのだろうか
(フランキでは数を積めない
 訳だろうか)
フランキ式で射角を変更可能な大筒を
多数装備すると言うのが
良かったのかも知れぬが
フランキは暴発が多いと言うし
早合を使用すれば良かったと言う事かも知れぬが
115某研究者:2006/11/26(日) 18:11:51 ID:YQ57kMrY
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/9156/REKISI/osaka.html
>一方で徳川方は、カルバリン砲やシェーカー砲といった、オランダ製の新型砲を使用しました。これらは弾丸を砲口からつめる前装砲で、確かに発射間隔は長くなりますが、密閉という考えのないフランキ砲と違い、爆発で生じたガスは100%弾丸の発射に伝わります。
>射程も長く、威力も大きいものでした。フランキ砲の射程が500メートルほどなのに、カルバリン砲の最大射程は4キロほどでした。

カルバリンとフランキと言うのは此処迄差が
有った訳だろうか
116某研究者:2006/11/26(日) 18:13:15 ID:YQ57kMrY
>仮に白兵戦になってもスペインの鈍刀では勝てない。

船上でも剣では無く槍を用いて居たと言う事は
無いのかだが
ハルバード等の短い物が
使用されていたと言う事は無いのかだが
117某研究者:2006/11/26(日) 18:16:07 ID:YQ57kMrY
普段は散開して大砲や銃撃を避け
騎兵突撃を受けそうに成ったら
前衛だけを密集槍陣にすると言う様な
方向も有るかも知れぬが
118某研究者:2006/11/26(日) 19:40:10 ID:YQ57kMrY
>朝鮮半島の日本の補給路の航路が一定であったのが、
>朝鮮海軍に兵站をやられた原因。

航路を変えるだけで勝てたのか
どうかだが
仮に届ける予定の補給物資が全部届いても
恐らく不足だったと言う事は
無いのかだが
119某研究者:2006/11/26(日) 20:50:29 ID:YQ57kMrY
>だから戦国日本では、かなり火縄銃が普及した後も弓は廃れる事なく併用されていた。

弓は基本的に騎乗して使用して居たと言う
事かも知れぬし
銃の装填中に射撃と言う意見も有るだろうが
銃は一斉射撃はして居ないので
弓が必要だったのかどうかだが
全体的に発射速度が落ちた時は
発射して居たと言う事かも知れぬが
120某研究者:2006/11/26(日) 20:53:12 ID:YQ57kMrY
>よく、戦国日本の軍隊の戦闘員は全体の3分の1程度と聞くのだけど実際、どうなんだろう?
>大阪夏の陣の時の伊達勢はおよそ1万の内、
>騎馬628騎、槍1360、弓100張、鉄砲3420挺
>これだと5割5部くらいでだけど・・・。

銃3000に対し弓100では
援護に成るのかだろうし
騎兵のみが弓を使用して居たと言う事は
無いのかだが
121某研究者:2006/11/26(日) 21:41:54 ID:YQ57kMrY
>一方、日本の場合は鎧などの装甲が重装備になるのは、鉄砲の伝来と普及まで待たねばならなかった。

銃の登場後鎧は軽量化されている訳だろうし
銃を防ぐ事は基本的に諦めて
槍を受け流すと言う方向に
成った訳だろうか


>実際のところ。日本の剣術は欧米のように突くことではなく斬ることを主としているだろう。
>貫通力で言えば突くことの方が良いのに斬ることを主としているのは、機動力を重視した武器だからだ。

まあ突きも一応考慮しているだろうし
1kgも無い様な剣で鎧兜や骨を殴ったら
此れは折れる確率が高い訳だろうし
強度を増す為の湾曲である訳だろうか
(日本刀は所詮サブウエポンであるから
 軽量化が求められたと言う
 事だろうか)
引いて切る為には
シミターや女型の薙刀の様に湾曲が多く無いと駄目と言う事だし
日本刀も西欧の剣同様叩くタイプの剣だが
軽いので湾曲して居ないと折れると言う
事だろうか
122某研究者:2006/11/26(日) 21:46:24 ID:YQ57kMrY
>日本って、今は河川が毎年同じように流れて、道路は縦横に走ってる国だけど、
>戦国期は平野は堤を破壊すればすぐに湿地帯になるのがこの国だよ。
>欧州の重装騎兵?突撃?
>後三年の役で柵に近づけずに狙い打ちされた武者みたいになるよ。

日本もいざと成れば
クルトレーの様な事が
出来た訳だろうか
123某研究者:2006/11/26(日) 21:49:07 ID:YQ57kMrY
>すると、戦国期、つまり16世紀末の段階だと、
>欧州の弓 > 火縄銃 > 日本の弓
>ってなところなんでしょうか。

クロスボウは早合も使えぬ訳だろうし
銃より発射速度が遅く
威力も銃より低く
ロングボウは発射速度は速いが
訓練に時間が掛かり
銃より威力が低いと言う
事だろうか
124某研究者:2006/11/26(日) 21:57:08 ID:YQ57kMrY
>@防御の限界:南北朝〜室町時代にかけて弓が飛躍的に発展し、重装甲を無力化した。

http://www.0986.jp/yumi/reksi.html
室町中期に出て来た四方竹弓と言うのは
大鎧を無力とする程
強力だったのかどうかだが
胴丸が使用されたのは足軽主体の戦闘が
原因であり
弓は袖や兜のしころの折り返しの部分では
十分止まったと言う事かも知れぬが
胴丸が当世具足と成ったのは
銃の登場で弓に対抗する為の
兜のしころの折り返しや
大袖等が不要に成った為だろうか
125某研究者:2006/11/26(日) 22:10:37 ID:YQ57kMrY
胴丸を二重にして居た者も
居たと言うが
此れは体力の有る者限定か
下馬しない大将が大鎧の代わりに
使用したと言う可能性も有るのかも知れぬが
当世具足ではこの様な事は
有ったのかどうかだが
126某研究者:2006/11/26(日) 22:12:55 ID:YQ57kMrY
>レパンド海戦でマスケット銃が十分機能したとは思えない理由は3つ。
>@乱戦時に銃を使用することは同士討ちの危険性が高いため。
>A乱戦時に揺れる海上で再装填が難しいため。
>B天候不順で不発、暴発の可能性が高いため。

大砲等は装填出来たのか
どうかだが
銃が再装填困難とすれば
海戦は一発大砲や銃を近距離で放った後
ラム等を使用するか
白兵戦しか無い訳だろうか
127某研究者:2006/11/26(日) 22:18:45 ID:YQ57kMrY
>戦国時代の日本では鐘、太鼓、貝、銅鑼などの楽器を体系化して、
>巧みに伝令に利用しています。

>同時期のヨーロッパの戦場における伝令システムの状況ははたして
>どのようなものだったのでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%95%E3%83%86%E3%83%AB
西欧も18世紀には軍楽隊が
居たと言う事かも知れぬが
128某研究者:2006/11/26(日) 23:13:56 ID:YQ57kMrY
>1kgも無い様な剣で鎧兜や骨を殴ったら
>此れは折れる確率が高い訳だろうし
>強度を増す為の湾曲である訳だろうか

兜や鉄の鎧は兎も角
皮の札鎧や骨を打っても簡単に折れるのかだが
軽い剣同士で打ち合っても
折れるリスクと言うのは有る訳だろうし
湾曲には矢張り意味は有る訳だろうか
129某研究者:2006/11/26(日) 23:28:39 ID:YQ57kMrY
>1560年以降デミランサーの突撃槍を段階的廃止、銃へ移行。(英)
>1597年にマウリッツが騎兵の槍を廃止し、銃へ再編。(蘭)

後で槍騎兵が復活した事を考えれば
此れは失敗だったと言う
事かも知れぬが
130某研究者:2006/11/26(日) 23:52:19 ID:YQ57kMrY
http://gissv.cseas.kyoto-u.ac.jp/~sibayama/sansaku/sansaku8.html
>朱印船末次船の画像見つけた。
>なんだ、大砲積んでるじゃん。

8門程度の大砲が有るが
西欧艦の大砲の方が
矢張り多いのだろうか
131某研究者:2006/11/27(月) 00:14:09 ID:rnYFG2ts
朱印船は少数のフランキを装備だろうが

http://www.mirai.ne.jp/~mgb/model/bship/shipyard.html
アーク・ロイアル号(イギリス)

型式:ガレオン、4本マスト
進水:1587年
長さ:36.80m(バウスプリットから)
幅:約8.75m
深さ:約4.85m
排永量:約880t
武装:第1砲列18ポンドカルバリン砲16門
   第2砲列9ポンドデミ・カルバリン砲12門
   小型携帯砲
乗組員:舶員190名(砲手40名をふくむ),兵士70名

同時期の英は小型のカルバリン多数だろうし
フランキも近距離でしか当たらないなら
こちらの方が良かった訳だろうか
132某研究者:2006/11/27(月) 00:32:00 ID:rnYFG2ts
>朱印船末次船の画像見つけた。
>なんだ、大砲積んでるじゃん。

>8門程度の大砲が有るが
>西欧艦の大砲の方が
>矢張り多いのだろうか

上の朱印船は武装商船と言う
事かも知れぬし
軍艦を作るとすれば西欧の艦艇の様に
多数のカルバリンを装備したと言う事は
無いのかだが
133某研究者:2006/11/27(月) 03:28:16 ID:rnYFG2ts
>弓は袖や兜のしころの折り返しの部分では
>十分止まったと言う事かも知れぬが

脛当ては湾曲しているから
装甲強化は無用としても
草摺や佩楯は側面だけでも分厚くすると言う
方向も有ったかも知れぬが
草摺が分厚く成って居る物は
確か有ったかも知れぬが
134某研究者:2006/11/27(月) 03:50:01 ID:rnYFG2ts
http://homepage2.nifty.com/kousyuryu-kisya/kachukishakou/ss04.html
>また鎧や袖、兜のシコロなどが腕や肩のうごきを制限するため、通常の騎射ほどには弓を引くことができない。
>弓勢を保つには強弓を用いる必要がある。さらに、弓手の角度への意識が足りない場合、矢は的の左側に向ってしまうことになる。
腕を前に出しつつ矢向けを平行に保つには、通常より弓手の腕の角度を内側に保持しなければならない。

まあ余り引かなくても飛ぶ強弓を
使えば問題は無いのかも知れぬが
(同じ腕力を矢に伝えるなら
 強弓なら余り引かなく共
 良い訳だろうか)
射程が短く成ると言う事は無いのかだが

135某研究者:2006/11/27(月) 04:20:22 ID:rnYFG2ts
>楯などを射砕く金神頭などが軍陣で使用された。

盾が果たして
砕けたのかどうかだが


>騎射なり馬上打物なり、馬上で尻を浮かせるには適した形状である。

此は白兵戦では
有利だったと言う事は無いのかだが


>弓の名手鎮西八郎為朝の弓手に出てしまった大庭は、為朝は九州育ちで馬上での弓の扱いは得意ではなかろうが自分は東国の出身で騎馬には慣れている、と考え、為朝の右側(大庭からみて弓手)に回ろうとした。
>その読みどおりすれ違いざまに為朝の射た矢は狙った体の真ん中をはずれ大庭の膝に当たった。このセオリーを知らなかったら殺されていただろう、と言うのである。これらの記述は弓手を取ることの重要性を当時の武士が認識していたことの証左と言えよう。

敵騎兵の右に回り込んで矢を避けると言うのは
アルスラーン戦記等で有ったかも知れぬが
敵も旋回する訳だろうし
果たして上手く行くのかどうかだが


>なお、軍記物の記述で見られる敵を射止める場面では、正面から胸板を貫く、鞍の前輪・後輪ごと射通す、草摺の上から膝を射抜く、などが「保元物語」などで見られる。

矢張りしころや袖の部分以外は
近距離では貫かれていた訳だろうか
136某研究者:2006/11/27(月) 04:23:57 ID:rnYFG2ts
>つまり、射向けの袖とは弓を射るときに敵に向う側、すなわち左側の鎧の袖を、間額(真向ともいう)という兜の正面、庇の部分に当てることで顔面を防御せよ、ということである。
>騎兵は鞍の上で腰を右に捻り、さらに左袖を身体の正面に持ってきている。こうして正面から飛んでくる矢を手楯の代りとする左袖で受け、身体正面及び顔面を守るのである。
>実際は袖の上部(冠板という)が目の下の位置までせり上がり、兜の庇と袖の冠板の間から目が覗くような姿勢になっていたのではなかろうか。(右図:射向けの姿勢をとる金為行「前九年合戦絵巻」)

袖の部分で顔迄
防御していた訳だろうか


>「あき間」以降の記述も防御に関して述べたものである。(3)でも触れたあき間を作らないよう「常に鎧つき」するよう指示し、
>さらに内兜を射させるような姿勢をとらないよう戒めている。鎧は長時間着用していると自然と隙間があいてくるものだが、身体を揺さぶることでこの隙間を正すことができる。
>この行為を「鎧つき」という。射向け姿勢と並んで防御の勘所と言えよう。

札鎧の場合この様な問題も有る訳だろうが
近距離ではどの道
貫かれる訳だろうし
袖やしころで止める以外は
無い訳だろうか
(後は鞍の部分で上手く矢が止まるのか
 どうかだが)
137某研究者:2006/11/27(月) 04:36:34 ID:rnYFG2ts
http://www.pref.ishikawa.jp/kisya/h11kyoui/bunkazai/2.html
鞍で草摺の部分が上手く
隠れるのかだが
佩楯の一部も隠れるかも
知れぬが
138某研究者:2006/11/27(月) 06:06:28 ID:rnYFG2ts
http://www.iranchamber.com/history/parthians/parthian_army.php
パルティア弓騎兵の鎧では弓は止まらないかも知れぬし
矢張り日本の鎧のしころや
袖の様な物が必要である訳だろうか


http://www.iranchamber.com/history/sassanids/sassanian_army.php
ササン朝ペルシャの騎兵は盾を肩に
装備しているが
弓もこの状態で引いたのかだが
兜の部分は脆い訳だろうか
139某研究者:2006/11/27(月) 06:19:50 ID:rnYFG2ts
http://www.royalarmouries.org/extsite/view.jsp?sectionId=474
モンゴル騎兵も肩に盾が有る様に
見えるが
此れ以外の写真では無いだろうか
140名無し三等兵:2006/11/27(月) 17:16:41 ID:???
モンゴル軍の弓は馬上でも射ることが出来る短いものだったが、飛距離はかなり高かったらしいな。
歴史上、優れた兵器があればそれを生かしきる戦術を練ることが出来れば勝利を得れるものだが
モンゴル軍の軽騎兵のみの迅速な速力は、当時の国々を圧倒できるものだったわけだ
141某研究者:2006/11/27(月) 17:17:51 ID:tdhwT5vy
http://2ch.dumper.jp/0005522411/
>回答:朝鮮侵略時は朝鮮が秀吉が当初予想し
>た以上に弱く戦線が急拡大した。
>このため、兵站線が延びて兵糧の供給が追い
>つかなくなった。

小田原攻めの際に兵糧を輸送したと言うが
この場合も
現地調達+輸送で保ったと言う事かも知れぬし
ゲリラ戦等で現地調達が困難なら疲弊せざる
負えなかったと言う事なのだろうか


>だから朝鮮水軍って戦闘行動半径がものすご
>い短いし、戦争が進んで朝鮮南岸の良港を
>日本軍に押さえられてしまうと、ほとんど何
>も出来なくなってしまう。

水軍では無く現地のゲリラ活動に負けたか
或いは生産性が低かったので
調達困難だったと言う
事かも知れぬが
後者の説が有力と言う
事だっただろうが
其れは敵も同様だろうし
兵糧が無いなら
少数精鋭で城や地形を利用して
上手く戦った方が
良かったと言う事かも知れぬが


142某研究者:2006/11/27(月) 17:22:22 ID:tdhwT5vy
17世紀日本の戦船は日本、中国、西欧の技術を採り入れた船だった。

2本マストにバウスプリットを持ち、基本構造は欧州船そのもの。
さらにスプリットセールと船尾のラテン帆を持ち、
キャラックに近い全装帆船であったと推測されている。

大きい相違は2本のマストに張る大帆が中国ジャンク式の縦帆になっており、
帆装としては原型のキャラックより使いやすさを重視したのであろう。

船体は全体としては中国式に見えるが船尾はキャラックに近く、
船首水面近くに設けた張出し船楼はキャラックにも中国船にもないもので、
17世紀日本軍船式の独特な櫓で砲撃の利便性と防御性を重視されていた。

ある推定によると総トン数は数百トンと見積もられており、
同時期のヨーロッパ外洋帆船に匹敵した。
Posted by 某研究者 at 2006年11月12日 14:34
>17世紀日本の戦船は日本、中国、西欧の技術>を採り入れた船だった。

http://www.mekong.ne.jp/directory/history/senkanzuema.htm
恐らく上のタイプの船だろうが
中華風の装飾を施した
西欧艦と言う印象だが


>ちなみに山田長政がタイで頭角を現したの
>は、アユタヤに攻め込んだ
>スペインの軍艦2隻を撃沈したのがきっかけ。

上の艦でスペイン艦を
撃沈したのだろうか
143某研究者:2006/11/27(月) 17:22:55 ID:tdhwT5vy
1560年以降デミランサーの突撃槍を段階的廃止、銃へ移行。(英)
1597年にマウリッツが騎兵の槍を廃止し、銃へ再編。(蘭)

>刺突武器は敵兵に刺さったまま抜けなくなる
>危険性が高いため、
>馬の機動性が活かせなくなる。
>突撃槍は根本的な欠陥を抱えた不良品であ
る。

まあしかし槍が復活したのも
事実だろうし
馬を狙えば剣を持つ騎兵は何も出来無い
訳だろうか
Posted by 某研究者 at 2006年11月12日 15:14
>おまけにキリスト教側は、味方の船ごと大砲
>で撃つという荒っぽい戦術も取ってたようだし

【レパンド海戦の経過】
>戦闘は午前10時に始まり、午後4時に終わっ
>た。

>オスマン帝国の旗艦が捕獲され、
>ドン・ジョンの意向とは反対に敵の司令官ア
>リ・パシャは斬首された。
>スペインの旗艦のマストにアリ・パシャの首
>が掲げられたことで、
>オスマン帝国側の士気は崩壊した。


こんな野蛮な真似は
イスラム側は行わないと言う
事かも知れぬが
144某研究者:2006/11/27(月) 17:27:55 ID:tdhwT5vy
>レパンドの海戦における十字軍の勝因は『重装甲』だったためです。
>オスマン艦隊はアザプ(海兵)中心であり、海への転落事故に備え軽装でした。
>逆に十字軍艦隊は騎士や貴族が中心であり、転落の怖さを知らないがゆえに、
>全身鎧を身に纏っていました。

大砲では無く鎧が役に
立ったと言う事かも知れぬが
以後の戦いでは何故か使用されて
居ない訳だろうか
(鎧を着た侭泳ぐ訓練は貴族はして居たかも
 知れぬが
 雑兵はどうだったのだろうか)


>もし実際に戦国日本の軍隊と欧州の軍隊が戦ったら、背景社会が米社会か麦社会かの
>違いって大きいような気がする。
>欧州では例えば三十年戦争とかでも万単位の兵員を動員した軍団は、傭兵達を食わせて
>いけそうな都市から都市へと渡り歩くのが精一杯で、戦略なんか二の次三の次といった
>感じだった。


矢張り当時の兵站能力では
生産性の低い土地を移動するのは
自殺行為で有る訳だろうか
145某研究者:2006/11/27(月) 17:30:27 ID:tdhwT5vy
>カルヴァリンは1発発射するのに3分かかったそうだ。かなり時間がかかってるな。

>海戦における艦砲の話題があるようだけど、近世どころか近代にいたっても、
>艦砲は命中率も威力も低い兵器で信頼性はなかったみたい。

>1866年リサ海戦で戦力に劣る墺海軍の提督テゲトフは、艦砲は滅多に当らず、
>当ったとしてもたいして損害はない。と、確信して体当たり戦術を敢行して、
>敵フリーゲート艦をマウスバスト(衝角)突撃で撃退してるよ。

ネルソンタッチと言うのも
完全に白兵戦の戦術だろうし
複数艦が敵旗艦に対して至近距離で一発放ってから
兵員を突入と言う方向だっただろうか
146某研究者:2006/11/27(月) 17:31:42 ID:tdhwT5vy
>レパント海戦の艦載砲の射程は1650mとされているが一発撃つたびに
>砲撃の反動で台座を破壊して自分の船を壊してしまい、
>敵に与える以上の損害を自分たちに与える(まぬけすぎる)ために、
>このような大口径の大型大砲は当時使われなくなった。

発射試験と言うのは
一応していたのかだが
この段階で消えたのか
どうかだが


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Maximilienne-p1000557.jpg
プレートアーマーも胸部は湾曲して居ないし
この部分が弓や槍等で貫かれる事は
多かったかも知れぬが
147某研究者:2006/11/27(月) 17:33:19 ID:tdhwT5vy
http://2ch.dumper.jp/0005522411/
上の方でポルトガルが軍艦3隻で簡単に勝てるって誰か言ってたけど
それは多分1565年のポルトガルのカラック船(船員80人)が平戸で
和船10隻と切り込みようの小船50隻に勝ったから言ってんじゃないの。
もちろん軍艦3隻ってのは誇大表現だしそれから柴田勝家がポルトガル人に
大船と兵1万5千人でも2万両と引き換えにしてもいいといったように
その技術を取り入れることを欲してたからずっと多くなろうが。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E3%83%8E%E5%89%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
永禄8年(1565年)、ポルトガルの商船と生月の加藤氏率いる平戸艦隊が平戸海峡で激突する。しかし平戸軍は完敗し以後ポルトガル船は平戸を避け横瀬浦に入港するようになり、平戸はそのため衰退に向かう事となった。
148某研究者:2006/11/27(月) 17:35:17 ID:tdhwT5vy
http://bungo79.hp.infoseek.co.jp/newpage4.nenpiyou.1561.html
肥前平戸の七郎ノ宮の門前で、ポルトガル商人、フェルナンデスら十三人と一人の日本人が綿布の取り合いでイザコザになっている所に、
松浦家臣の伊藤甚三郎が通りかかった。フェルナンデスらは伊藤を見て、斬られると勘違いして襲いかかってきたため、伊藤はしかたなく十三人を斬った。
しかし、これが後に問題になり、宣教師のコスメ・デ・トルレスは貿易は金輪際、松浦家とは行わず大村家と行うと宣言した。

80人の船1隻に60隻の船が
負けると言うのも
不可解だろうし
レパントでも大砲は決定打とは
成らなかったと言うから
船員の装甲に負けたのかだが
商戦に装甲の有る兵はそう居たのか
どうかだろうし
多人数で組み討ちに持ち込まれれば装甲等
無力だろうから
日本側も負けたのでは無く
ポルトガル帆船が速力で逃げたと言う事では
無いのかだが
或いは帆船の速力で逃げ乍ら
銃撃を加え続けたと言う
可能性も有るかも知れぬし
当時の日本船は未だ防弾は無かったと言う
事かも知れぬが
149某研究者:2006/11/27(月) 17:37:01 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
また、これは記録にはなく状況証拠からの全くの想像ですが、安宅船のような大型船が総矢倉の上に設けていた矢倉が火箭対策に有効に機能した可能性を考えても良いように思います。
総矢倉の甲板上に火箭が落ちてきたとき火薬を身につけた銃兵が大混乱に陥る可能性が高いことは既に指摘しましたが、
甲板上に設けた矢倉内に入り、その銃眼から射撃すれば、こうした火箭の第一時的被害からは逃れられるのです(この矢倉が鉄板や銅板のような金属板あるいは、
城郭建築のような漆喰で覆われていればさらに有効でしょう)。


日本船も後には
総矢倉の板で銃に対抗するだけでは無く
火箭対策で
矢倉迄立てられていた訳だろうか
150某研究者:2006/11/27(月) 17:38:22 ID:tdhwT5vy
http://2ch.dumper.jp/0005522411/
>優れた戦術と主張するスペインのテルシオ戦術の特殊要件を考慮するならば、
>さらにスペインの敗北する確立が上昇する。

大砲(大筒)の数の差
隊形の差で
テルシオが壊滅と言う可能性が
高い訳だろうが
銃(無論総数では無く比率だが)はテルシオの方が多かったかも知れぬが
此れは狙撃では無いので
余り役に立たないと言う事だっただろうか
ピストル騎兵や重装槍騎兵も
地形が無く共高精度の火縄銃の狙撃で壊滅と言う
可能性も有る訳だろうか
(トルコ騎兵は射程の長い弓を持って居るので
 火縄銃でアウトレンジ出来るのかどうかだろうし
 此れを叩くには地形が必要かも知れぬが)
テルシオの大砲の炸裂弾と言うのは
この時点では殆ど数は無い訳だろうか


>あと、どの文献かわすれたけど、長巻で馬の足を刈る部隊を関が原で編成していた、
>西軍の大名家も確かいたはず。
>下馬して戦闘してるなら、馬の足を刈る長巻部隊なんかいらないと思うが

鎌倉時代の徒士も
長巻で馬の足を刈っていたと言う
事なのだろうか
151某研究者:2006/11/27(月) 17:39:47 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
秀吉軍の大砲軽視という批判はあたりますまい。日本の水軍にとって有効な戦闘方法は総矢倉と呼ばれる装甲された上甲板の銃眼から鉄砲を撃ちかけ、接舷切り込みをかける方法だったわけです。
そう考えると、肥前名護屋城図に描かれた天守閣の様な巨大な矢倉(前述の総矢倉とは別物)の存在も乗船者の単に権力の誇示や虚仮威しには見えなくなってきます。つまり敵船を見下ろす位置から有効な射撃が可能となってくるのです。
現実問題として、朝鮮の役中の朝鮮側の記録にも、日本軍船がのせた巨大な矢倉に注意が向けられています。


http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/wasen/p0673025.jpg
上の安宅船の矢倉と言うのは
可也効果が有った訳だろうか
(故に此れを装備する大型船は
 有効だったと言う事なのだろうか)
152某研究者:2006/11/27(月) 17:40:47 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>水軍書に言う「井楼船」の有効性もここにあ
>りましょう。ただ、江戸期の水軍書は「井楼
>船」を艦種の一つに扱っていますが、戦国時
>代の記録や文書では、「井楼船」と安宅船を
>同一あるいは同種のものとして扱っている事
>例がまま認められます。「井楼船」の扱いに
>は注意が必要かもしれません。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~mikage/ship.htm
>これらの船の他兵員や兵糧を運んだ荷船、関
>船や荷船などに楼をくみ高い位置から安宅船
>などを狙う井楼船(せいろうせん)などがあ
>り、安宅船を中心として船団をくんでいまし
>た。


高い矢倉は小型船でも
装備して居た物が有った訳だろうか
(西欧の船もマストからの銃撃と言うのが
 有った訳だろうが
 この部分は防弾されて居たのか
 どうかだが)
153某研究者:2006/11/27(月) 17:41:46 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>また、この頃から日本側の火箭対策が目に付
>くようになります。九鬼の御座船日本丸は、
>釜山の泊地が襲われたときは、火箭対策に不
>燃性の絹布の幕を二重三重に張り(前述した
>ように、これは甲板上に待機する銃兵を火箭
>の火から守るためのものでしょう)、舷側に
>は突き刺さった棒火矢・火箭をたたき落とせ
>るように、縄で縛った丸太や切り株を下げて
>いたといいます。棒火矢が命中したときは、
>これを落として火矢を海中に叩き落とすわけ
>です(これは鉄板装甲していれば無用の装備
>です。この点、九鬼の日本丸には、毛利水軍
>と闘った安宅船のような鉄張り装甲は無かっ
>たと考えられす。)。

丸太が有れば火矢を防ぐ
重い鉄甲と言うのは
必要だったのかどうかだが


http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
この船が実際どのくらい活躍したかとなると、先学のご指摘どおり大いに疑問なのです。毛利水軍との所謂「木津川口の海戦」ですが、
大鉄砲で毛利方の指揮船を打ち崩しと景気のいいことを書いているのは『信長公記』のみで、肝心の九鬼家の家伝でも大鉄砲を撃って勝ったくらいのことしか書いておりません。


矢張り大砲で勝ったのでは無く
装甲での火矢の防御と
矢倉からの上からの銃撃で勝ったと言うのが
正しいのかも知れぬが
154某研究者:2006/11/27(月) 17:44:41 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
日朝双方の船の相違点をまとめれば、前述のように和船の水切りの良い平断面形に対し、
「板屋船」は平底で平面的にも箱形を呈すること、和船(特に軍船)が木綿帆を使用するのに対し、
ムシロないし網代の折りたたみ帆を使用すること(ちなみに、金先生は櫓走ならともかく、
帆走性能で朝鮮の船が和船に優れると書かれていますが、根拠が示されておらず実証的ではありません。
単帆の和船の速度は、二本マストのブリッグよりも速かったという江戸時代の記録があります。単帆とはいえ、
木綿帆の和船の帆走性能はすばらしいものがあったようです。)。
櫓が和船が一人が漕ぐ小櫓、大櫓でも二人で漕ぐのに対し、朝鮮の船が5〜6人で漕ぐ大櫓である点(ただし、櫓の総数は少なくなる)、
厚板を連ねた箱形船体の朝鮮船のほうが、棚板構造の和船より丈夫とまとめられるでしょう(ただ、安宅船クラスの大型船の場合、
棚板や船底材「かわら」も相当厚いものが使用されますので(狭山池の発掘では慶長期の安宅船の転用材と見られる板材の暗渠が発見されています。)、
板材の厚さからすると、構造的にやや劣る程度で、実戦面でさほど弱かったとも思えませんが・・・・。また、言われているように、
安宅船に防水用の区画があったとすれば、船体強度は更に増すことになります


帆走速度は木綿帆を使用する日本船の方が
高速だった訳だろうか
155某研究者:2006/11/27(月) 17:49:25 ID:tdhwT5vy
亀甲船=アルマダ海戦の英の
焼き討ち船であり
此れの特攻で隊形を乱された後で
各個撃破を受けたと言う
事かも知れぬが
火炎や砲撃でやられたのかどうかだろうし
(初期の艦艇には不燃布等の
 防火装備は余り無いなら
 火炎でやられたと言う可能性も
 有るかも知れぬが)
白兵戦で各個撃破されたと言うのが
正しいのだろうか
(後期には大筒の装備や地上からの
 軽量砲の砲撃で
 亀甲船を叩いていた訳だろうか)
  

地上からの砲撃の方が
海上からの砲撃より精度も高く
大筒は装填速度が高速であるなら
此れで可也やられたと言う可能性も
有るかも知れぬが
(まあしかし大筒に早合と言うのは
 有るのだろうか)
156某研究者:2006/11/27(月) 17:55:09 ID:tdhwT5vy
>亀甲船=アルマダ海戦の英の
>焼き討ち船であり
>此れの特攻で隊形を乱された後で
>各個撃破を受けたと言う
>事かも知れぬが

命中しなく共此れを回避する事で
隊列が乱れ各個撃破を
受けると言う事かも知れぬが
精度の高い地上からの砲撃や
艦艇の大筒等の装備で
後期は可也やられていた訳だろうか
157名無し三等兵:2006/11/27(月) 18:14:07 ID:???
ちょっと待て。
鉄板貼った安宅船は捏造だろ?
158某研究者:2006/11/27(月) 19:13:55 ID:IKScA6bz
鉄板等無く共銅版や布・棒等で
火矢は防げると言う
事かも知れぬし
大砲で毛利水軍を倒したのでは無く
矢倉等の上方からの銃撃と言う
事かも知れぬが
大筒も多数搭載していればだろうが
毛利側も此れは多いと言う
事かも知れぬが
159某研究者:2006/11/28(火) 03:19:41 ID:bfGuLMT5
毛利側が大型の鉄甲船に乗り移るのは
甲板の高さの問題で困難かも知れぬし
乗り込めぬ侭上方の矢倉等から銃撃を
受け続け
壊滅したと言う事かも
知れぬが
鉄甲船側も大筒で可也打撃は
受けなかったのかだが
160某研究者:2006/11/28(火) 20:12:31 ID:+qgeC+Sr
朝鮮出兵時の日本船は
棒で火矢を落とすと言う事も
行っていた訳だろうし
鉄板の無い西欧の艦艇も
火炎攻撃に対しては
同様の事を考えた可能性も有るだろうが
ギリシャ火等を受ければだろうが
此れは砂でも掛けて居たのかどうかだが
果たしてギリシャ火で攻撃は受けたのか
どうかだが
161名無し三等兵:2006/11/28(火) 21:23:57 ID:???
アルケブスやマスケットの部隊って
一列目が発射→後退、装填開始→二列目が前進、発射→二列目が後退
みたいに発射してたの?
162某研究者:2006/11/28(火) 22:18:46 ID:+qgeC+Sr
マウリッツのオランダ式大隊以降は有った様だが
テルシオでは後期でも無い訳だろうか
163某研究者:2006/11/28(火) 22:19:53 ID:+qgeC+Sr
ギリシャ火と言うのは
東洋には伝わらなかったのだろうか
(有ったとしても原料は
 中東等から輸入するしか
 無かったかも知れぬが)
164某研究者:2006/11/28(火) 22:23:01 ID:+qgeC+Sr
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
さらにマウリッツは斉射戦術を発展させ、背面行進(カウンター・マーチ)と呼ばれる戦術を編み出した。まず、前列の兵が斉射する。その後、前列の兵は最後尾に移動して装填を行う。
その間に、後列の兵が進み出て斉射をする。これを繰り返すことによって、理論上は途切れることなく斉射を浴びせかけられることができる。いわゆる長篠の戦いの三段撃ちと同じ戦術である


また、グスタフ・アドルフは背面行進以上に攻撃的な、漸進斉射戦術と呼ばれる戦術を編み出した。まず、前列の兵が斉射する。その後、前列の兵は最後尾に移動せず、その場で装填を行う。後列の兵は前列の兵の前に進み出て斉射をする。
これを繰り返すことによって、敵に接近しながら斉射を加えるのである。この漸進斉射戦術は、敵の隊列を撃破する可能性を銃兵に与えた。

上の銃撃方法は
以後のナポレオン戦争等でも用いられたのか
どうかだが
165某研究者:2006/11/30(木) 19:28:26 ID:v41D7BrX
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/braitenferut.html
上を見る限りザクセン軍のテルシオは
皇帝軍のカラコール騎兵で撃破されて居ると言う
事かも知れぬし
テルシオはカラコール騎兵と比べても
火力が低かったと言う事かも知れぬし
ピストルの銃撃で混乱した所で
サーベル突撃を受けたと言う可能性も
有る訳だろうか
166某研究者:2006/11/30(木) 19:34:05 ID:v41D7BrX
>手間取りましたが、なんとか全軍の指揮が取れるようになったティリーはこのチャンスに、歩兵大隊をゆっくり方向転換させてスウェーデン軍左翼を包囲し、
>騎兵隊にはスウェーデン軍を後方から襲撃させようとしました。左翼の危機に気づいたグスタフ・アドルフは急いでスウェーデン軍の前線の向きを変え、
>敵の襲撃に対して統一火線をつくることに成功します。旧教連盟軍の襲撃隊は、スウェーデン軍の猛烈な銃撃に遭って後退を余儀なくされました。

火力の高いスウェーデンの歩兵に対しては
カラコール騎兵は銃撃でやられて居たと言う
事だろうか
167某研究者:2006/11/30(木) 19:42:23 ID:v41D7BrX
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/ryutu.html
リュッツエンでも
スウェーデン軍は中央を後退させて
皇帝軍歩兵を壕から出し
カンネーの様に包囲して叩けなかったのかだが
ヴァレンシュタインなら其の様な手には
乗らなかった可能性も有る訳だろうか
168某研究者:2006/11/30(木) 20:22:19 ID:v41D7BrX
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/30yearswar4.htm
>この日の天候は最悪で、戦場は濃霧に覆われ、視界がほとんどありませんでした。そのためスウェーデン軍は、戦略的優位性を有する銃砲撃力を十分に発揮できなかったのです。こうして、戦闘は伝統的な白兵戦で終始しました。

歩兵は白兵戦の為に
パイク兵が前衛に出ていると言う状況なら
互角だったと言う事かも知れぬし
カラコール騎兵の銃撃を
一方的に受け得たと言う可能性も
有る訳だろうか
169某研究者:2006/11/30(木) 20:23:06 ID:v41D7BrX
濃霧の状態では皇帝軍も壕からの射撃と言うのは
可能だったのかだろうし
此れは行われなかったと言う可能性も
有るかも知れぬし
パイク兵の比率の多い皇帝軍の方が
歩兵の白兵戦では優勢だったと言う事だろうか
(騎兵同士の戦いではスウェーデン軍の方が
 優勢だろうし
 此れを生かして勝利したと言う事かも知れぬが)

皇帝軍の丘からの砲の射撃は濃霧の状況では
有効だったのかだが
スウェーデン軍も此れを奪った後
利用したのだろうか
(此れで背後から砲撃を受ける事と成った
 皇帝軍は
 可也混乱したと言う事は無いのかだが)
170某研究者:2006/11/30(木) 20:27:56 ID:v41D7BrX
>濃霧の状態では皇帝軍も壕からの射撃と言うのは
>可能だったのかだろうし

濃霧で無く共柵も無く
機関銃も無い状態では
騎兵やパイク兵に蹴散らされていたと言う可能性も
有るだろうか
(テルシオの銃兵と言うのは
 余り多くは無い訳だろうか)
まあしかし砲撃戦をやるなら銃兵の損害は
減らせたと言う事かも知れぬが
後方のパイク兵がやられたと言う事は
無いのかだろうし
砲撃戦をした後銃撃のみでスウェーデン歩兵を
阻止出来る訳では
恐らく無いだろうか
171某研究者:2006/12/05(火) 22:00:52 ID:RSZ2c9Yw
ピストル騎兵と言うのも
イタリア戦争等で仏重騎兵に対抗する為に
スペインが考えたと言う事かも知れぬが
トルコの軽騎兵の影響等は
無かったのかどうかだが
(第一次ウィーン包囲や
 モハーチでのハンガリー軍敗戦が
 影響していると言う事は無いのかだが)
172某研究者:2006/12/05(火) 22:01:42 ID:RSZ2c9Yw
仏重騎兵では無く
弓を持つトルコ軽騎兵に対抗する為に
ピストル騎兵を編成したと言う事は
無いのかだが
173名無し三等兵:2006/12/07(木) 12:38:23 ID:???
ゲーむネタで済まぬが、アメコンでHarquebusierや、Musketterが、射撃した後
筒先から籠め矢をコシコシコシコシするのがリアル。 だが前列発射後、後列と交替はしない。
密集して前列が屈み、後列が立って撃ってる。
マスケットは重くて、動いて撃てないし、屈んだら耳元で爆音するわでかなわんだろうなぁ
174名無し三等兵:2006/12/09(土) 07:04:46 ID:2bhxR4UH
某研究者さんの文章は、
昔筒井康隆が書いた「確かにまあ大阪というのは」を思わせるな。
あれも句読点を使わずに「まあ」で繋げていた。
175名無し三等兵:2006/12/09(土) 08:58:00 ID:ukChE77I
エンドレスな独り言をスレでやる意味あんのか?
176某研究者:2006/12/10(日) 13:13:07 ID:+uLemO1X
初期のテルシオは前列の銃兵は2列だが
2列が同時に発射して居たと言う
事なのだろうか
(後期の銃兵の増えたテルシオは流石に
 前後は入れ替わって発射して居ただろうが
 槍兵を銃兵で囲むと言う隊形は
 側面や後方の銃兵が遊兵に成り易いかも知れぬし
 パイク兵の迅速な突撃等も
 困難に成る訳だろうが)
177名無し三等兵:2006/12/10(日) 14:14:16 ID:???
鉄砲はその音の威嚇効果も高かったらしいから、どうせなら一斉に撃ちたくなるだろうし
それこそ、下手な鉄砲でも数を撃ては当たるだろうから、最初の一斉射で可能な限り
相手の数を減らしたくなるんじゃないのかな
ニ撃目で遅れをとる可能性はあるけど、相手がこちらと同等なら結局は有利だと思う
178名無し三等兵:2006/12/10(日) 14:57:08 ID:???
国土交通省のアレはお前か!!
179名無し三等兵:2006/12/13(水) 23:04:47 ID:mS0GvgCc
「現在は一瞬のうちに過去となり! 誰もがいつかは死に!
 運命は人智をこえて荒れ狂う! それが当然だといわんばかりに!!

 私はそんなこの世のすべてを憎む!
 熱力学第二法則を憎む!!」
180某研究者:2006/12/17(日) 04:08:09 ID:L1TiLn6g
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
上の様な陣形でテルシオやオランダ式大隊等に
勝てるのかどうかだが
本隊以外はテルシオと異なり
銃兵は前方に集中しているし
この点では有利と言う事かも
知れぬが

備えは700−1000人単位だが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
テルシオは250人単位で動いている訳だろうし
オランダ式大隊やスウェーデン式大隊は
150人単位と言う事だろうか
181某研究者:2006/12/17(日) 04:10:38 ID:L1TiLn6g
合計・・・侍35人、奉公人112人、足軽141人、中間5人、人夫39人、口取22人(計354人) 乗馬32頭、駄馬22頭(計54頭)
※奉公人は侍に仕える武家奉公人、中間・人夫・口取は大名に仕える武家奉公人という位置付けになる。

失礼備は300−1000と言う
事だろうか
182某研究者:2006/12/17(日) 04:13:23 ID:L1TiLn6g
騎馬武者も

内訳・・・侍22人、奉公人58人(計80人) 乗馬22頭(計22頭)

代わりの馬と言うのは
無いと言う事なのかだが
183某研究者:2006/12/17(日) 04:24:33 ID:L1TiLn6g
まあ部隊の人数の差に拠る柔軟性の差が
有る訳だろうし
此れで備えが敗れる可能性は有る訳だろうが
大筒の数や銃の精度の差で勝つと言う
可能性も有る訳だろうか
184某研究者:2006/12/17(日) 06:38:29 ID:L1TiLn6g
ゲームの戦闘等でも
300−1000人単位の備えを動かして
槍兵や鉄砲足軽の前後を入れ替え
向きも変更出来ると言う様な
方向に
単純化出来ると言う事かも知れぬが
備と言う単位で
そう細かく動かして居たのかだろうし
魚鱗等のおおまかな陣形を支持していただけと言う事は
無いのかだが
(初期配置で魚鱗等が選べ
 其処から備えを自由に動かすと言う方向も
 有る訳だろうか)
185某研究者:2006/12/17(日) 06:42:30 ID:L1TiLn6g
大将からの指示は
陣形及び備えの位置を
指定すると言う
程度かも知れぬが
撤退や攻撃は兎も角
細かい陣形の支持等を即座に音等で
伝えるのは
困難だろうか
(まあ本陣の槍兵や鉄砲足軽等の向きは
 即座に変更可能だろうが
 其処迄大将が指示していたのか
 どうかだが)
186某研究者:2006/12/17(日) 06:46:10 ID:L1TiLn6g
視界には限りが有る訳だろうし
敵味方の位置の把握に
伝令を利用するしか無い場合も有るだろうが
視界内なら敵味方の数は
旗で可也把握出来ると言う
事だろうし
旗で可也遠くの敵味方も
直接大将が把握可能と言う事かも知れぬが
187某研究者:2006/12/17(日) 07:13:57 ID:L1TiLn6g
総大将の場合は備えを動かすのでは無く
武将単位で命令を出すと言う
事だろうし
ゲームとほぼ同じと言う
事だろうか
188名無し三等兵:2006/12/17(日) 07:40:09 ID:???
某研もゲームするのか…
どんなゲームしてるの?
189名無し三等兵:2006/12/17(日) 08:08:53 ID:???
>>188
多分total warシリーズだろう。
190某研究者:2006/12/17(日) 14:48:07 ID:SZgv5oUN
陣形と言うのは全軍単位で
決めるのか
或いは武将の配下の備も
陣形を作る事が有るのか
どうかだが
武田信玄の鶴翼陣形と言うのは
矢張り全軍単位の物と言う
事だろうか
191名無し三等兵:2006/12/19(火) 01:45:48 ID:IAQvERzI
ボウケンさん、レイピアって2kgとか重いのが常識ですか?
平均1.5kgって本当ですか?
192名無し三等兵:2006/12/19(火) 02:19:13 ID:IAQvERzI
他のスレでついそんなこと書いちゃったもんで・・・
193贋研究者:2006/12/19(火) 16:42:59 ID:???
リアルですさんでるときネットで冒険の常に変わらぬ
ヒトリゴチックな文体を見ると癒されるかも知れぬが
例えば今のようについ和んでしまったときなど
不覚と思うこともあるのだろうか
194某研究者:2006/12/20(水) 14:34:07 ID:GBWpkl58
>ボウケンさん、レイピアって2kgとか重いのが常識ですか?
>平均1.5kgって本当ですか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%94%E3%82%A2
重量は1.5kgほどあり、見た目よりも重い。

15世紀中頃にフランスで「エペ・ラピエル」(フランス語でepeeは剣、rapiereは刺突を意味する)と呼ばれる刺突用の剣が生まれ、これがレイピアの語源とされている。

1.5kgとの事だが
15世紀には有った訳だろうか
195某研究者:2006/12/20(水) 14:36:30 ID:GBWpkl58
>戦場ではブロードソードやサーベルが使われ、レイピアが使われたのは主に街中の護身用あるいは決闘の武器としてであった。

と有るが

>15世紀中頃にフランスで「エペ・ラピエル」(フランス語でepeeは剣、rapiereは刺突を意味する)と呼ばれる刺突用の剣が生まれ、これがレイピアの語源とされている。

上は実戦用だったと言う事は
無いのかだが
196某研究者:2006/12/20(水) 14:38:55 ID:GBWpkl58
http://www2.nns.ne.jp/pri/sml/hosoken.htm
>語源はフランス語の「エペ・ラピエレ」。エペとはフランス語で”剣”を、ラピエレは”突刺”を意味する。
>15世紀頃、最初は宮廷の儀礼用(決闘)刀剣だったが、これはあまりにも軽量だったために実戦では用いられていないが、その後、スペインで発展した「エスパダ・ロペラ」と呼ばれたものがレイピアの原型。

と有るが
スペインのエスパダ・ロペラは実戦で用いられたのか
どうかだが
197某研究者:2006/12/20(水) 14:43:23 ID:GBWpkl58
http://yoyo-jp.net/viggo-archive/articles/2005-que.html

常に距離を保つ
剣を持った場合、距離を保つと都合が良い。対戦相手と接触するのはきわめて短く、ほんの数秒だ。その後、次の攻撃がはじまるまで相手と離れている。

突きで討ち合い、刃をぶつけあわない
映画で絶え間なく剣を交わしたりするのは本当ではない。実際の戦いでは突きでやりあうが、決して刃をぶつけようとはしない。逆に、剣士は常にそれを避けようとする。

つかみ合いが流行だった
これが最も重要な特徴の1つである。敵は相手を引っ張り、手か、柄の近くの刃の重い部分をつかもうとする。

確実に倒せる瞬間を求めて出入りする
対戦相手に近づいたり距離を保ったりしながら、絶えず出入りする。とどめの一撃で相手を確実に倒せる瞬間を探し、毎回2〜3のアクションを行う。

レイピアでの戦いと言うのは
現実には上の様な物だった
訳だろうか
198名無し三等兵:2006/12/20(水) 16:01:12 ID:tSo+RHVA
>>194
ボウケンさん残念でした。日本のウィキペディアは大間違いを書いているんです。
誰が書いたのか知りませんし、根拠も書いてないので、私としては修正する気にもなりませんが。
あと、もうすこしマトモなリサーチ先ってないんですかね・・・

http://jan.ucc.nau.edu/~wew/fencing/blades.html
http://www.nationmaster.com/encyclopedia/European-dueling-sword
http://www.musketeer.org/Garrick/Blade_spec_article.html

↑他にも、多くの美術館でのレイピアの重量に関する記載がありますよ
↑ご自分でもリサーチしてみられたらいかがですか?

レイピアは市民の護身用、戦場の実戦では使われていなかったのが通説。
まあ、外人が日本刀に誤った見識をもっているのと同様ですな。
199名無し三等兵:2006/12/21(木) 08:11:50 ID:???
なぜ剣道はフェンシングに負けたのか2
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/budou/1166625665/
某研よ、こっちにもおいで
200某研究者:2006/12/21(木) 10:52:03 ID:Z98shYii
弓を西欧では上に向けて曲射したが
日本では行わなかった等と言う
記述も有るが
西欧で上に向けた
或いは日本で上に向けなかったと言う
証拠は有るのかどうかだが
(攻城戦では両方無論上に向けて
 放って居る訳だろうが)
201名無し三等兵:2006/12/22(金) 15:50:46 ID:THK7zJFq
確か津本 陽の対談書籍では、
紀元前のヨーロッパの兵団は、100〜1000人単位が真相らしいわ。
それに、総大将が万人単位を兵力として差配する能力は無かったのでは?と。
202酷使様:2006/12/22(金) 21:45:42 ID:???
>>201
兵が一万人もいたら、補給の都合で一都市に集まること自体不可能と思われる。
現代的な意味での「部隊の再編成」は、帰属意識や武装の統一などの問題が多すぎて、
ほとんど行えなかったのではないだろうか。

なので、総大将は大将の報告する兵数を信じて、ちょうどいい数の兵を持っている
大将に命令する感じで軍隊を運用していたのでは? なんか間違ってたら指摘よろ>某研猊下
203某研究者:2006/12/22(金) 22:20:23 ID:nper+rCK
総大将も数千−数万程度を持たせた武将単位で指揮は
可能だったかも
知れぬが
私も情報が無いので詳細は分からないが
204名無し三等兵:2006/12/22(金) 22:27:07 ID:???
205名無し三等兵:2006/12/22(金) 22:42:04 ID:???
>>201
聖書にも、ローマ人の百人隊の隊長が出てくる。
その隊をセンチュリオンといったと思う。
206某研究者:2006/12/27(水) 00:57:45 ID:up7Ws8Fj
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E8%B5%B0%E3%82%8A
>ナンバ走り
>飛脚の走り方であり、これにより飛脚は1日数十kmは走ることが出来たとされるが、その走法は失伝しているためその真偽は不明である。

此れは長距離の行軍には
有利だったと言う事かも知れぬが
此れをマラソン等で用いると言う
方向も有るだろうが
スタミナの消耗は少ないが
速度は余り出ないのだろうか
207某研究者:2006/12/27(水) 01:18:22 ID:up7Ws8Fj
http://www.npo.co.jp/santi/com_sub/com_sp_mshr_a05.html
>最近の日本の短距離の陸上選手の走法の変化や女子マラソン選手があまり手を振らないで走るようになっていますが、
>これすなわち腰を捻らない動作「なんば」の影響が発揮されているとおもいます。

既に導入されて居た様だが
短距離の速度迄
速く成る訳だろうか
208名無し三等兵:2006/12/28(木) 21:36:53 ID:???
散歩の時にでも試してみればわかるけど、肩と足を同時に前に出すことで
掌分くらいリーチが伸びる
背骨を支点に動いていた体が、股関節を支点に、こうパタンパタンと交互にひらく感じ
このへんを体感すれば、この延長上により効率のいい歩き方や走り方が想像できる
 …実行できるようになるわけじゃないけどね
209名無し三等兵:2007/01/04(木) 08:24:29 ID:wllrUC2d
保守
210名無し三等兵:2007/01/04(木) 14:40:11 ID:???
>>207
当時の食べもの水空気、労働量は近代とはくらべものにならない
その基本の上に立って効率の良い動きをするのだから飛脚などはかりしれない動きをしていたのだろうがな。
211名無し三等兵:2007/01/04(木) 15:18:08 ID:???
>>210
天速星 神行太保戴宋
212名無し三等兵:2007/01/05(金) 11:45:33 ID:???
一応、貼っておくよ。

人類最古の戦争、6000年前に=独考古学者がシリアで遺跡発見

 【ベルリン4日時事】ドイツ考古学者の調査で、これまで確認された中で
人類最古となる「戦争」が約6000年前にシリアで行われたことを示す
とみられる遺跡が発見された。米シカゴ大学東洋研究所のクレメンス・ライヒェル氏が
率いる調査隊が発見したもので、4日付独週刊紙ツァイトが報じた。

 同氏によると、シリア北東部にある対イラク国境地帯の町ハモウカルで、
紀元前4000年ごろによく乾燥させた粘土球が大量に見つかったという。
同氏は、ウルクとみられる南メソポタミアの都市国家が北部にある
ハモウカルを侵攻、粘土球を弾丸のような武器に用いて陥落させたと
推測しており、「世界最古の侵略戦争の実例」と指摘している。

時事通信 http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007010400799

213名無し三等兵:2007/01/06(土) 23:39:42 ID:???
http://www.slinging.org/historygallery.html
きっと投石機の弾なんだろうな
214名無し三等兵:2007/01/10(水) 02:55:21 ID:???
スリングショットで城が落ちるのか。。。
恐るべし投石兵。
215名無し三等兵:2007/01/11(木) 14:17:16 ID:???
>214
スリングとスリングショットは別物だが…いいのか?
216名無し三等兵:2007/01/18(木) 21:58:21 ID:0zdohmA6
からあげ
217名無し三等兵:2007/01/18(木) 22:10:08 ID:???
スリングショットにライフリングを入れることができれば、かなり強力な飛び道具になったかも。
218名無し三等兵:2007/01/18(木) 22:49:06 ID:???
空手の刷り足のやり方に似てるな。ナンバ走りをも少し腰を落とした感じ
219名無し三等兵:2007/01/19(金) 00:05:39 ID:???
パレスチナが元気なころは石が雨のように降ってる映像がよく見られたな
220名無し三等兵:2007/01/21(日) 22:21:32 ID:???
話題変わるんだが、古代はどんな軍用靴履いてたんだろう?
映画「グラディエーター」や「トロイ」を見ると、足元は殆んど写されない。明確に写されたのは各作品で一回ずつと思う。
グラディエーターは闘技場で、何やら現代のスニーカーの様に見えた。革製か布製か判からない。寒い地域。
トロイは更に判らないが、竹かツルみたいなので格子に編んである感じ。こちらは温暖な気候の様だ。
どちらの作品も、監督が相当に本物、というか当時と同じものを追求したらしい。
あるミリタリーアドバイザーは、「歩兵の価値は足と武器」と言うので、足元が気になります。
221名無し三等兵:2007/01/22(月) 00:18:55 ID:???
>>220

ローマ軍団の足元は「カリガ」と呼ばれる軍用サンダルでした。
革で編んだ足首辺りまでの深さの。
古代ギリシアも、やっぱり「クレピス」と呼ばれる革製サンダルです。
222名無し三等兵:2007/01/22(月) 00:22:09 ID:???
カリガは二世紀中頃までには廃れ靴を履く様になった。
また映画等とは違いカリガは靴下の上に履いた。
223名無し三等兵:2007/01/22(月) 02:34:20 ID:???
>>215
どっちも石が飛ぶから、日本語的には投石器と書けるし、混同されやすい。
スリングのほうが習得が難しい(ぶん回すから)だけ。
224名無し三等兵:2007/01/23(火) 23:17:41 ID:???
>>221-222サンクス!
革ですか。普通に考えたらそうですよね。竹は痛そうですね(笑)
225スカッドの3倍 ◆rRrqQ7z3WI :2007/01/30(火) 10:13:58 ID:???
>>220
ああいう設定の映画を示す「サンダル&ソード」なんてジャンルがあるのです。
226スカッドの3倍 ◆rRrqQ7z3WI :2007/01/30(火) 10:20:21 ID:???
>>225訂正 「ソード&サンダル」ですなorz

足元の装備という意味では、
トラヤヌス帝の頃に、ダキア人のファルクス(長い鎌状の刀剣)で
足をやられる事に対抗して、脛当てが追加されたとかなんとか。
227某研究者:2007/02/13(火) 23:19:56 ID:kTOQhdhz
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1171283684/
他にも略奪中に奇襲を掛けた例は有るのかだが
略奪等するのは下位の兵だけだろうし
高位の騎馬武者は略奪をせず
村の外に待機していたかも知れぬが
彼等は分散していたので本隊の急襲には
対応出来なかったと言う事かも知れぬが
228某研究者:2007/02/15(木) 14:39:42 ID:IDxh4fbm
南北朝時代には
打撃武器に対抗して
総鉄製の鎧が作られていたのかだが
騎馬武者以外は前から打撃武器は
用いて居た訳だろうし
依然皮製の鎧が使われて居たと言う事は
無いのかだが
(戦国時代は徒歩武者の装甲も
 鉄に成ったのかどうかだが)
229某研究者:2007/02/15(木) 14:41:38 ID:IDxh4fbm
開けた場所では
馬に装甲の有る騎馬弓兵が
馬に装甲の無い騎馬弓兵をアウトレンジ可能と言う
事かも知れぬが
交戦距離が短い日本ではこの様なアウトレンジは困難であり
故に馬に装甲は施さなかったと言う
事かも知れぬが
大陸軍は可也交戦距離が有る場合も多い訳だろうし
馬に装甲を施して敵の軽騎兵をアウトレンジする意味は
有った訳だろうか
230名無し三等兵:2007/02/16(金) 00:00:33 ID:???
>>馬に装甲
映画など見ていて思うのだが、敵の馬を狙う攻撃は普通にあったのだろうか。映画などではまずない。
その理由を→馬は戦利品→という意味から、人のみを狙うのか→と脳内変換していた。
どんなもんでしょ
231名無し三等兵:2007/02/16(金) 00:52:56 ID:???
古来、日本のウマは小さいため、具足をつけると動かせませぬ。
サラブレッドが輸入されるまでは、重装騎兵が発達しなかった
のはそのためでしょう。
鵯越を担いで降りたのは嘘かまことか小さかったことは計り知れましょう。
232名無し三等兵:2007/02/16(金) 10:55:46 ID:???
サラブレッドが輸入された後に重装騎兵が現れたのか日本に。で、何時?どんなのが?
233名無し三等兵:2007/02/16(金) 11:01:48 ID:???
サラブレッドはレースに特化された繊細な馬、ある意味で虚弱体質。
軍馬としてあまり向いてない馬だった。
234名無し三等兵:2007/02/16(金) 11:05:39 ID:???
この馬に突撃させたら最強じゃね?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC
235名無し三等兵:2007/02/16(金) 11:14:08 ID:???
フランス系の馬デカイ。フランス騎士のチャージが怖い。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%B3
236名無し三等兵:2007/02/17(土) 01:31:40 ID:???
>>230
時代によって違うけど南北朝時代あたりまでは馬は射ないなどの武家の作法が有った
モンゴル軍と戦って馬を射られたり一騎打ちに応じなかったり当時の武士は面食らったらしい
237名無し三等兵:2007/02/17(土) 07:38:27 ID:???
>>232
してない。
書き方間違えた酢万逝ってくる
238名無し三等兵:2007/02/18(日) 15:35:11 ID:???
>>236
それは嘘。
源平合戦の頃には馬を射ることなんか、ごく当たり前におこなわれていた。
そもそもモンゴル軍にだってオープンスペースで普通に戦って勝ってるし。
239名無し三等兵:2007/02/18(日) 15:40:56 ID:???
そもそも足軽雑兵だって当時からいたし、集団戦闘もあった。
ただ記録が少ないだけ。
240名無し三等兵:2007/02/18(日) 15:56:58 ID:???
>>238-239
一次史料に基づくソースを?
241238:2007/02/18(日) 16:33:16 ID:???
>>240
延慶本平家物語
『昔様には馬を射る事はせざりけれども、中頃よりは、先しゃ馬の太腹を射つれば、
跳ね落とされて徒歩立ちになり候。近代は、様もなく押並びて組みて、中に落ぬれば、
太刀・腰刀にて勝負は候なり』

鎌倉年代記裏書
『十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北』

帝王編年記
『是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々』
242名無し三等兵:2007/02/18(日) 19:28:35 ID:???
>>229
日本の合戦の場合、開けた場所では、馬体はシールドウォールによって、
ほぼ守ることが可能。
木曽馬の体高が109〜140センチなのに対し、楯の長さは140センチ前後だからね。
馬が楯の前に出るのは、最大射程400メートル以上を誇る弓で敵にダメージを与えながら、
少しずつ交戦距離を縮めて行き、最後に馳組みでとどめを刺す時だけだし。
243名無し三等兵:2007/02/18(日) 20:06:31 ID:???
>>241
どうも。
244名無し三等兵:2007/02/20(火) 15:18:36 ID:???
NHK大河ドラマも大幅に改善して130センチ以上の背高を
持つウマは出演禁止に汁! 
245名無し三等兵:2007/02/20(火) 17:25:50 ID:???
日本馬は時代が経つほど馬格小さくなっていく。
246某研究者:2007/02/20(火) 18:20:41 ID:HQ3bsVpX
>古来、日本のウマは小さいため、具足をつけると動かせませぬ。
>サラブレッドが輸入されるまでは、重装騎兵が発達しなかった
>のはそのためでしょう。
>鵯越を担いで降りたのは嘘かまことか小さかったことは計り知れましょう。

モンゴルや中国の馬も同等サイズだろうし
重装騎兵の馬に装甲は有る訳だろうか


>日本の合戦の場合、開けた場所では、馬体はシールドウォールによって、
>ほぼ守ることが可能。

歩兵が盾を何処迄持って居たのかだが
騎馬武者の馬を守るだけの盾なら
有ったのだろうか
(騎馬武者自身は袖と吹き返しで
 矢は可也止まる訳だろうが
 袖の無い騎馬武者も居るだろうし
 彼等は下馬したのか
 どうかだが)
247某研究者:2007/02/20(火) 18:26:46 ID:HQ3bsVpX
戦国時代では銃弾を騎馬武者の装甲では防げないし
銃撃戦時は騎馬武者は下馬して
竹束の影に隠れていたと言う事かも知れぬが
雑兵全員が竹束で守られた訳では無いだろうが
長篠では土塁で雑兵も守られた
訳だろうか


西欧の騎士は歩兵とは別行動だったから
上の様な形で銃弾を止める事は基本的に
考えて居ない訳だろうか
248某研究者:2007/02/20(火) 18:30:55 ID:HQ3bsVpX
近距離の弓の射撃では馬鎧も貫通するだろうし
此れに頼るのは限度も有るだろうが
盾や袖・吹き返しを貫通して
中の人間にダメージを与えられるのかだが
クロスボウや強弓なら可能だったかも
知れぬが
日本にはクロスボウは無い訳だろうか
(モンゴルの弓なら袖や吹き返しを貫通して
 ダメージを与えられた可能性も
 有るかも知れぬし
 南宋の兵等にはクロスボウも有るだろうが
 此れで袖と鎧が同時に貫かれていたと言う事は無いのかだが)
249某研究者:2007/02/20(火) 18:33:22 ID:HQ3bsVpX
>モンゴルの弓なら袖や吹き返しを貫通して
>ダメージを与えられた可能性も
>有るかも知れぬし

まあしかし此れが出来る距離に入る前に
モンゴルの馬鎧・鎧が
日本の弓で貫通したと言う事かも知れぬが
クロスボウでは逆にアウトレンジされると言う危険は
無いのかどうかだが
250某研究者:2007/02/20(火) 18:37:08 ID:HQ3bsVpX
>クロスボウでは逆にアウトレンジされると言う危険は
>無いのかどうかだが

此れは発射速度の問題で余りダメージは
与えられないと言う可能性も
有るだろうし
次弾装填前に接近されて弓でやられると言う
可能性も高いかも知れぬし
モンゴルの場合は歩兵と騎兵は別行動であり
下馬した騎兵を歩兵で守ると言う事は無いかも知れぬし
巨大な物以外では歩兵の盾迄貫通するのは
無理かも知れぬが
251某研究者:2007/02/20(火) 18:41:01 ID:HQ3bsVpX
モンゴル側にバイキングの
シールドウォールの様な物が有るなら
此れを正面からでは弓で何処迄崩せるのかだが
英の弓兵の様に包囲して射撃すれば
壊滅されられる可能性も有る訳だろうが
蒙古襲来絵詞を見る限り
モンゴル軍は
盾は全員は装備して居ない訳だろうか
252某研究者:2007/02/20(火) 18:49:14 ID:HQ3bsVpX
モンゴル軍の歩兵の長弓と言うのは
可也強力では無いのかだが
其れでも袖を貫く前に
日本の弓がモンゴル騎兵の鎧と馬鎧を
貫く可能性も有る訳だろうか


http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e04.htm
モンゴル側にシールドウォールの様な物は有るのかだが
最前列には盾を並べては居るかも知れぬが
乗馬騎兵には当たるかも知れぬし
上から落ちて来る矢には盾は歯が立たない訳だろうか
日本側も此れは同様な訳だろうが
モンゴル側は盾の列から
前に出て戦っている兵も多い訳だろうか
(日本同様騎兵の馬だけ盾の壁で守っている様にも
 見えるが
 日本と異なり乗馬して居る騎兵は矢には脆いと言う
 事だろうか)
253名無し三等兵:2007/02/20(火) 19:28:45 ID:???
日本の楯って基本的に両手持ちなんだよね。
シールドウォールを形成するために農民なんかが動員されて、楯持ちをやらされていたらしい。
大鎧全盛期の源平合戦とかでは騎乗したまま弓を射ていたんだけど、太平記の時代では、弓を射るのは
下馬した状態で、突撃の時に改めて騎乗する戦闘スタイルに変化したみたい。

楯使用が描かれた絵巻
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/kk/n02/k0228.jpg
この絵巻には、もっと「シールドウォール」らしい場面もあるんだけど、残念ながらUPされていなかった。
254253:2007/02/20(火) 19:35:20 ID:???
すみません。
失敗しました。
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/html/n02/p027.html
255某研究者:2007/02/20(火) 19:51:45 ID:HQ3bsVpX
>太平記の時代では、弓を射るのは
>下馬した状態で、突撃の時に改めて騎乗する戦闘スタイルに変化したみたい。

此れは弓の強力化で袖や吹き返しが
無効に成ったのが原因では無く
騎馬武者が弓を使用しなく成った故かも知れぬし
弓を使用しないなら下馬して盾の影に隠れた方が
安全な訳だろうか
256名無し三等兵:2007/02/20(火) 19:55:37 ID:???
>>253
>太平記の時代では、弓を射るのは下馬した状態で
その合戦絵巻を見る限りでは、徒歩立ちで射てるのは袖のない軽装の郎党みたいだけど。
257某研究者:2007/02/20(火) 19:56:07 ID:HQ3bsVpX
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/html/n02/p027.html
騎馬武者だけでは無く雑兵も盾の影に
可也隠れていると言う事だろうか
(無論上からの矢は防げ無いと言う
 事だろうが)

戦国時代では竹束の影に隠れようと
大筒等を打ち込まれればアウトだろうし
大筒を打ち込まれる様な近距離では
散開したと言う可能性も
有る訳だろうか
(信長側が土塁に篭って
 武田軍の車竹束に大筒を打ち込めば
 可也一方的な展開に成った訳だろうが
 現実には簡単に決着等付いて居ないだろうし
 武田軍が上手く散開して応戦したのかどうかだが)
258某研究者:2007/02/21(水) 02:54:22 ID:MHVJHkzU
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1882257
歴史及び軍装コミニュティーを
作製したから
使いたい者が居れば適当に使えば
良いだろうか
(歴史+軍装と言うコミニュティーは多分無いし
 片方だけと言うのが多いだろうか)
259某研究者:2007/02/21(水) 17:03:38 ID:uIrCYtGV
>現実には簡単に決着等付いて居ないだろうし
>武田軍が上手く散開して応戦したのかどうかだが)

車竹束を散開させ
其の後方に騎馬武者・徒歩武者・足軽を配置して前進し
大筒の射程内に入ったら兵を車竹束から出して
散開させ
高速移動させる事で銃撃を回避しつつ接近すると言う
方向かも知れぬが
(騎馬武者は騎乗して高速移動し
 銃撃を避けると言う事だろうか)
柵の部分で銃撃を可也受けるかも知れぬが
一部の歩兵・下馬した騎馬武者のみを
車竹束の背後に配置して
先に前進させ
車竹束の後方で伏せて前進する等して大筒及び銃撃を回避しつつ
柵を切り倒す成り押し倒す成りした後
後方の部隊が前進すると言う
方向だろうか
(敵が此れを阻止する為に土塁から出て前進する可能性も有るだろうし
 此れは後方からも含めた銃撃で阻止すると言う
 方向だろうか)
260某研究者:2007/02/21(水) 17:08:11 ID:uIrCYtGV
>(敵が此れを阻止する為に土塁から出て前進する可能性も有るだろうし
> 此れは後方からも含めた銃撃で阻止すると言う
> 方向だろうか)

敵も車竹束の様な物を用意して
銃撃を防ぐかも知れぬし
大筒を打ち込むしか無いのかも知れぬが
敵も車竹束の背後で伏せて前進するなら中々当たらないと言う
事かも知れぬし
接近戦に成る危険も有る訳だろうが
其の前に柵を倒せればだろうか
261某研究者:2007/02/21(水) 17:14:14 ID:uIrCYtGV
柵を倒しても突入時に
土塁上の銃眼からの銃撃で
可也打撃は受ける訳だろうし
銃眼からの銃撃であれば
此れを味方の銃で阻止するのは困難だろうが
攻城戦用の梯子は
一応使える訳だろうか
262某研究者:2007/02/21(水) 17:22:08 ID:uIrCYtGV
>車竹束を散開させ
>其の後方に騎馬武者・徒歩武者・足軽を配置して前進し
>大筒の射程内に入ったら兵を車竹束から出して
>散開させ
>高速移動させる事で銃撃を回避しつつ接近すると言う
>方向かも知れぬが
>(騎馬武者は騎乗して高速移動し
> 銃撃を避けると言う事だろうか)

まあしかし敵が陣地に篭って居ない
通常の野戦では上の様な
戦い方に成った訳だろうか
263某研究者:2007/02/21(水) 17:27:56 ID:uIrCYtGV
銃のない時代には盾の背後に入った侭
接近戦に成る事も有ったかも知れぬが
其処迄接近したら盾の外に出て居る
騎馬武者が頭部の隙間等を射抜かれる可能性も
有る訳だろうし
此れを避ける為に騎馬武者は下馬戦闘に移行したと言う
可能性も有る訳だろうか
(騎馬武者が槍を扱う南北朝時代等では
 最初から下馬していたと言う可能性も
 有る訳だろうか)
264某研究者:2007/02/21(水) 17:32:02 ID:uIrCYtGV
>騎馬武者が頭部の隙間等を射抜かれる可能性も
>有る訳だろうし
>此れを避ける為に騎馬武者は下馬戦闘に移行したと言う
>可能性も有る訳だろうか

まあしかし敗走した敵の追撃時には
蒙古襲来絵詞に有る様に
乗馬して居た訳だろうか
265某研究者:2007/02/21(水) 17:41:43 ID:uIrCYtGV
>其処迄接近したら盾の外に出て居る
>騎馬武者が頭部の隙間等を射抜かれる可能性も
>有る訳だろうし
>此れを避ける為に騎馬武者は下馬戦闘に移行したと言う
>可能性も有る訳だろうか

袖の無い騎馬武者と言うのも居るだろうし
彼等は遠距離から鎧を打ち抜かれる可能性も有る訳だろうし
下馬して盾の影から射撃したか
或いは乗馬して袖の有る騎馬武者の
背後から射撃をしたと言う可能性も
有るかも知れぬが
彼等も敗走した敵の追撃時は蒙古襲来絵詞の様に
乗馬して居た訳だろうが
袖の有る騎馬武者の後方に居たかも知れぬが
266某研究者:2007/02/21(水) 23:30:50 ID:uIrCYtGV
>(騎馬武者は騎乗して高速移動し
> 銃撃を避けると言う事だろうか)

馬に乗ると高速移動は出来るかも知れぬが
的が巨大と成るかも知れぬし
白兵戦で馬がやられる危険も
有る訳だろうから
突撃時は下馬して
追撃時のみ乗馬と言う可能性も
有る訳だろうか
267某研究者:2007/02/22(木) 10:19:31 ID:tABsrwOf
ゴンサロが居なかったら
イタリア戦争は仏が勝ち
(テルシオが無ければランツクネヒト等
 仏騎兵とスイス傭兵に蹂躙されていたかも知れぬが
 ヴァレンシュタインの様に
 篭城に徹したらどうだったのだろうか)
仏が欧州を統一していたと言う
可能性も有る訳だろうが
其の後は宗教改革等で
仏の支配は崩れたと言う可能性も有る訳だろうか
268某研究者:2007/02/22(木) 19:24:19 ID:pDhF4FZf
>総大将も数千−数万程度を持たせた武将単位で指揮は
>可能だったかも
>知れぬが
>私も情報が無いので詳細は分からないが

下手に各武将の兵の比率を変えると
反乱が起きるかも知れぬし
此れはゲームの様には
変えられないと言う事なのだろうか
269名無し三等兵:2007/02/23(金) 14:51:17 ID:???
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1167608720/
こっちにも来いよ。
270スカッドの3倍 ◆rRrqQ7z3WI :2007/02/23(金) 21:58:40 ID:???
http://www.youtube.com/watch?v=mD6UkzJs9h0
ポーランド重騎兵な映画のワンシーンの動画見つけたので置いときますね。
271某研究者:2007/02/24(土) 20:10:39 ID:w8d2lVWe
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1882257
人は来ないのでは無いかと思ったら
2名来たが
出来れば此処で議論をして
貰いたい所だが
272名無し三等兵:2007/02/25(日) 03:05:18 ID:???
>>269
荒らし依頼するなゴミが
氏ね
273名無し三等兵:2007/02/25(日) 06:19:33 ID:???
某研究者になりきって会話するスッドレはここですか?
274某研究者:2007/02/25(日) 09:09:06 ID:ebZA9S28
>ポーランド重騎兵な映画のワンシーンの動画見つけたので置いときますね。

上の動画ではパイクが短か過ぎるかも知れぬし
実物は3.5m程度は有る訳だろうし
3m程度しか無かった様にも見えたが
275名無し三等兵:2007/02/26(月) 14:12:04 ID:???
某研さんは鳥つけないからすぐに真似できるし
実物はだれも知らないし
どこにでも居るようなかきこでもあるのだが
276某研究者:2007/02/27(火) 00:56:15 ID:HsRLw+jb
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1899299
20世紀〜現代の戦術・兵器・軍装の
コミュニティも作製したから
使いたい者は使えば良いだろうか
277某研究者:2007/03/05(月) 15:08:23 ID:cLodpvC4
http://12565.hito.thebbs.jp/ct/%97%f0%8ej%8aw
上の地理公氏の文体は

http://yasai.2ch.net/army/kako/995/995475623.html
上のそんだけ氏に似て居るが
同一人物と言う事なのだろうか
278某研究者:2007/03/05(月) 15:40:38 ID:cLodpvC4
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/ww2-05.html
>だがその金も大概が前金だ。
>だから、傭兵はいざというときは皆逃げてしまう

スイス傭兵が金を払わぬ仏軍に対して
暴動を起こしたと言うから
果たして前金なのかどうかだが
前金が安いから暴動を起こしたのか
どうかだが
279某研究者:2007/03/05(月) 15:46:20 ID:cLodpvC4
>いざイラクが攻めて来たらクウェート傭兵は皆逃げ出してしまったからだ。

スイス傭兵と言うのは
そう簡単には逃げないと言う事かも知れぬが
現在の仏外人部隊はどうなのかだが
280某研究者:2007/03/05(月) 15:52:58 ID:cLodpvC4
>「ドイツ軍将校は、兵士よりまずい食事をするのが義務と、思っていたぐらいだ」

日本の場合は
武将も足軽と同じ物を食べて居たと言う
事だっただろうか
281某研究者:2007/03/06(火) 03:44:55 ID:ITSvT4kl
http://12565.hito.thebbs.jp/one/1128069094#come_p
>彼らは「ハイランダー・チャージ」なる戦法を得意とした。その内容はこうである。
>まず、射程距離ぎりぎりで銃を発砲。その瞬間に銃を捨て抜刀・突撃する。
>撃たれた敵は撃ち返してくるが、ぎりぎりなのでまず当たらない。
>当時の銃は連射が効かないので、弾を込めて撃つ準備をしているうちに至近距離まで行って乱戦に持ち込む。

騎兵が敵の銃の射程ぎりぎりで
騎兵銃やピストルを発射した後で
突入すると言う様な方向も
有る訳だろうか
(まあ相手が近距離でしか発砲しなく成ったら
 通用しない戦術だろうが)
282某研究者:2007/03/07(水) 18:45:53 ID:PpnoSUs5
http://12565.hito.thebbs.jp/one/1132819145
>ダプリン・ムーアの戦いでは500騎の下馬騎兵がランスを立てて敵歩兵の攻撃を受け止めた

騎士が下馬してランスを構る等と言う事は
以後は行われたのかどうかだが
ランスを全ての騎兵が構えている訳では
無い訳だろうか
283某研究者:2007/03/08(木) 09:58:39 ID:WAEmUypM
http://www.google.co.jp/custom?q=%E5%9C%B0%E7%90%86%E5%85%AC&hl=ja&oe=Shift_JIS&inlang=ja&client=pub-4132443649581942&channel=6126130800&cof=FORID:
1%3BGL:1%3BLBGC:666666%3BLC:%230000ff%3BVLC:%23663399%3BGALT:%23999999%3BGFNT:%23666666%3BGIMP:%23666666%3BDIV:%23EEEEEE%3B&domains=
thebbs.jp%3Bhistory.bbs.thebbs.jp&sitesearch=history.bbs.thebbs.jp&start=0&sa=N
上のBBS等の
地理公氏の書き込みを
後で追いたいと思うが
284名無し三等兵:2007/03/09(金) 01:40:10 ID:???
過去ログ見られるサイトないんですか?
にくちゃんねる休止しちゃってて見られないんです
285名無し三等兵:2007/03/10(土) 01:40:45 ID:LlkHmZo/
某研究者さま保守
286某研究者:2007/03/12(月) 16:16:37 ID:c9blTglM
http://www.geocities.com/Area51/Vault/1945/Guns/Match.htm
17世紀の西欧の火縄銃は
照門は無い訳だろうし

http://www.geocities.com/Area51/Vault/1945/Guns/1550M.htm
16世紀の物に至っては照星さえ
無い様に見えるし
此れで100m先等の精密射撃は
可能なのかだが
日本の銃は元が狩猟用なので
照門・照星が有ったと言う事かも知れぬが

http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi01.htm
上の前目当=照門と言う
事だろうし
前目当てと先目当ての間に更に
照準用の突起が付いた物も
有ったかも知れぬが
此れは何時頃からの登場なのだろうか

http://page.freett.com/sukechika/ishin/wepon/ishin08-01.html
>五匁は約18.75g。銃身を長くし、照門
>(前目当)と照星(先目当)の間に「中目
>当」という照星を二つ付け、命中精度を高め
>た長距離射撃用の火縄銃。砲術家稲富一夢が
>開発した。

上の中目当てだろうが
287某研究者:2007/03/12(月) 16:17:22 ID:c9blTglM

http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/letter/55.html
大阪冬の陣には此れを装備した銃が
使用されて居たのかどうかだが
現代の銃には応用可能な代物なのか
どうかだが
288某研究者:2007/03/14(水) 19:47:18 ID:0b9rAevm
http://plaza.rakuten.co.jp/tikutai/diary/20051229/
>このような、命中率どころか、発砲まで不安
>定なマスケットでしたので、当時の記録には
>「100m離れたところから敵に狙われて負
>傷したら、そいつは本当に運が悪かったの
>さ!」という将校の発言が残っています。

と言う割には

>1790年にプロイセン軍が行った射撃テストでは(さすが、ドイツ人!)、目標を歩兵中隊の全面に見立てた、幅32m、
>高さ1.8mの木と布で出来た標的に向けて中隊前列の部隊が発射したところ、なんと200m先では25%、140mで40%、
>70mでようやく70%という、とんでもない数字が残っています

結構当たっているかも
知れぬが


>。(反対に日本の火縄銃は、銃の口径に弾が
>ピッタリ合うように作られ、弾丸がぶれる事
>が無く、また火縄式の発火装置〔マッチロッ
>ク〕のため衝撃が少なく、良好な命中率を保
>っていました。)

銃身を頻繁に清掃する必要は
有るかも知れぬし
発射速度が落ちる可能性も有るだろうが
精度を増した方が良いと言う
事かも知れぬが
289某研究者:2007/03/14(水) 20:39:57 ID:+6DPcaty
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC
>また火縄銃競技に出場する欧米の選手の多くは、日本製の火縄銃を使用している。

矢張り照門も無い銃では
プロでも遠距離射撃は困難と言う
事かも知れぬし
工作精度等の問題も
有る訳だろうか


>種子島(長筒立射・火縄式マスケット、50m13発、30分、種子島標的〔フランス軍200m規格準拠〕)

此れは200m先の的を
狙って居るのかどうかだが
290某研究者:2007/03/14(水) 23:37:39 ID:+6DPcaty
http://www6.wind.jp/satochan/boukentai/l-kassen-hinawajuu.htm
>●有効射程距離は50〜100mほどです。鉄砲隊は訓練を積み、100m先の野球ボールほどの的を射抜く事ができた。

まあ此れなら150−200m先の人間や騎兵に
当てられないのかだが
どの程度の距離で射撃を
初めて居たのかだが
291某研究者:2007/03/14(水) 23:40:31 ID:+6DPcaty
>彼が1551年に日本に立ち寄ったとき、豊後(大分県)の国だけですでに3万挺、日本全国には30万挺の鉄砲があると聞いたと記されている。この日付は鉄砲伝来から、たった8年後のことである。

この段階でさえ30万挺有ったと言う事は
関ヶ原や大阪夏の陣時点ではどうだったのだろうか
292某研究者:2007/03/14(水) 23:54:30 ID:+6DPcaty
>また、実際には早合(はやごう)と呼ばれる1回分の火薬と玉が分包されている物も使用していたし、
>銃身を垂直に立てた状態で銃座を地面に垂直に打ち付けるようにすると、鉛玉の重みで火薬が圧縮され、カルカでつかなくても良い方法もあるとのことでした。従って、15秒〜20秒ほどで放つことができたようです。

棒を使わず共装填は可能の様だが
内部が汚れて来ると困難と成るかも知れぬが

293某研究者:2007/03/15(木) 00:02:52 ID:+6DPcaty
>・100m先の相手に1000発発砲し、200発命中、残り2800騎。
>ただし、発砲後の煙で煙幕がはられた状態か・・

100m先なら馬の様な標的なら
ほぼ100%命中と言う事は無いのかだが
生き残った騎馬武者が歩いて突入して来る可能性は有るだろうが
速度が遅いので此れは射撃する時間は有る訳だろうか
煙音影響で遠距離射撃は
何れ困難に成るかも知れぬが
何発程度は可能なのか
どうかだが
294某研究者:2007/03/15(木) 00:33:22 ID:FTrIJozZ
何れにせよ長篠では火縄銃の射手は250名程度とすれば
一回の銃撃で
騎馬武者の阻止は困難だろうが
柵が無く共長槍での騎兵阻止は
可能かも知れぬし
屈んだ長槍足軽の後方から
鉄砲足軽が近距離で銃撃を加え続けると言う事は
可能かも知れぬが
騎馬武者が近くで下馬して
突撃して来れば
此れを屈んだ槍兵では阻止困難かも知れぬし
乱戦に持ち込まれて
壊滅する可能性も有る訳だろうか
295某研究者:2007/03/15(木) 00:50:07 ID:FTrIJozZ
http://www.sanada.or.jp/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
>また細川家の家臣松野亀右衛門という名手は、島原の乱で原城を攻撃する際、5町(545m)先の敵を打って外さなかったそうである。

通常の銃では此れは
可能なのかどうかだが
296名無し三等兵:2007/03/15(木) 08:40:00 ID:???
火縄銃で500mだとかなり仰角つけないと無理だよなあ。
もはや狙いをつけるというより風を読むに近い技術だな。
297某研究者:2007/03/15(木) 15:56:47 ID:FhL6LWnC
http://aol.okwave.jp/qa2760189.html
>鉄砲の有効射程距離が100m程度である事を考えますと、武装した兵士でも100mを20秒〜30秒で走ると思われますから、致命的な打撃を与える事は不可能になります。

此れでは歩兵も
槍・銃では阻止出来ず
柵や土塁等が必要である訳だろうか
298某研究者:2007/03/15(木) 16:22:43 ID:FhL6LWnC
装甲が軽量な槍足軽なら100mを
30秒程度なら走れるかも知れぬが
徒歩武者は割に重装かも知れぬが
彼等は後で合流と言う可能性も有るのかどうかだが
299某研究者:2007/03/15(木) 21:48:16 ID:kCkEuYO8
まあしかし30年戦争等の砲兵も
同様に歩兵や騎兵に突撃されて
無効化されないのかだが
ブライテンフェルト等では
何故か長時間打ち合っていた
訳だろうか
300某研究者:2007/03/15(木) 22:41:14 ID:kCkEuYO8
ナポレオンは大砲に対して
前進して損害を減らすと言う戦術を取って居たかも知れぬが
どうだっただろうか
(縦隊突撃は銃撃戦の構えでは
 無い訳だろうし
 敵の銃砲撃に対して素早く突入する事を
 考えて居た訳だろうか)
301某研究者:2007/03/15(木) 23:07:35 ID:kCkEuYO8
http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=96957&genre=sougou
>・縦隊は3人の幅,90名で1小隊(platoon)
>  すなわち縦に30人が並んで突進
>(これでは砲撃を受けた場合(砲兵については後述),死傷率が莫大になる。ナポレオンはこれを回避するため,歩兵の突撃前に火力を一点に集中し,突撃点も一点集中となった。苦肉の策が,結果的に「ナポレオンの新戦法」となったわけである。)

敵砲兵は叩かないと
縦隊突撃は使えないと言う
事かも知れぬが
302某研究者:2007/03/15(木) 23:21:00 ID:kCkEuYO8
http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/reality.html
雑兵主体の縦隊も
方陣は一応組めると言う事かも知れぬし
横隊や散兵に迄成れる訳だろうか
303某研究者:2007/03/16(金) 17:21:09 ID:YfL0HeAq
30年戦争当時の歩兵は
全速で突入したのかだろうし
火縄銃の銃撃や砲撃を
可也受けて居たと言う事かも知れぬが
(まあ騎兵は全速で突撃していたかも知れぬが
 槍兵に阻止されると言う事かも知れぬが
 直近で下馬して乱戦に持ち込めばどうなのかだが
 この様な運用はして居たのか
 どうかだが)
日本の足軽は全速で突入して
居たのかどうかだが
304某研究者:2007/03/16(金) 21:16:34 ID:YfL0HeAq
http://www.sanada.or.jp/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
関ヶ原では5万程度の銃が
使われたと言うが
此れが一斉に射撃をしたら
5万の兵が死んだのかどうかだが
(まあ馬を狙って射撃した分も
 多いのかも知れぬし
 竹束で止まった物も有る訳だろうが)
毛利軍等戦って居ない軍も
多い訳だろうし
実際に使用された銃は半分程度と言う事は
無いのかだが
305某研究者:2007/03/16(金) 22:42:35 ID:8ADEMyxM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
関ヶ原では兵力18万で5万の銃だろうし

http://www.nobitown.com/dom040113.html
>しかし、一説によると、朝鮮侵略軍16万人のうち、1/4が鉄砲隊だったという
>推計もある。これを信じると、秀吉が率いる朝鮮侵略軍は大英帝国の7倍近く
>という、4万丁の鉄砲を保有していたことになる。

銃の比率は此処から関ヶ原迄は
変化して居ない訳だろうが
大阪夏の陣では
どうなのだろうか
306某研究者:2007/03/17(土) 04:55:54 ID:5XeH3NFz
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/syuuzou/03_buki/index.html#03a3
>天正18年(1591)、奥州仕置のため会津へ向かう秀吉を宇都宮まで出迎えた伊達政宗が秀吉から拝領した具足。

1591段階では可也軽量な
当世具足が出て居たと言う
事だろうか


>三宝荒神形兜 具足共
>伝上杉謙信所用

此れは1578以前の物だろうが
当世具足と言うより胴丸的な部分が
多いだろうが
素懸威しに見えるし
只の胴丸でも無い訳だろうか
307某研究者:2007/03/17(土) 05:07:20 ID:5XeH3NFz
兜の吹き返しは無いし
当世具足的な部分も有るが
腰の部分に隙間は無いし
此れは古い鎧の形式だろうか

http://www.yamamotokansuke.com/shiro/takeda2/
山本勘助の鎧と言うのも
板物鎧だが
1561以前の鎧では
当世具足と全く同じなのか
どうかだが
308某研究者:2007/03/17(土) 05:09:58 ID:5XeH3NFz
http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-02_ihin/21_yoroi/yoroi.html
>胴丸は、金箔押を施した小札を紅、萌黄、白、紅、紫の色糸で威している。

此れは旧タイプの
胴丸だろうか
309某研究者:2007/03/17(土) 05:25:08 ID:5XeH3NFz
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/117803/117896/
この様な鎧が1560に
有ったのかどうかだろうし
脛当て以外は完全に当世具足の形態だろうが
実物は何処かで見た様な気もするが
310某研究者:2007/03/17(土) 05:33:29 ID:5XeH3NFz
上の鎧が1560に登場したのが事実なら
鎧の銃への対応は可也早期に
行われていたと言う事かも知れぬが

http://www.rakuten.co.jp/yoroi/117803/370552/
此れも実物は有ったかも知れぬし
1583時点で
この様な当世具足なら
有った訳だろうか
311某研究者:2007/03/17(土) 06:17:50 ID:5XeH3NFz
http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-849-8p.html
>そしてときとして騎士ですらも、胸甲と腹当ての下にブリガンダイン(*革や布を芯地にして金属板をつけた胴鎧)をつけるにとどまったようだ。それ以外の板金防具は騎乗に欠かせない脚防具のみだった。

脚部は板金が多いと言うなら
馬上で回避出来無い部分故と言う事かも知れぬし
腰部や腹部も板金が多いなら
此れも回避困難な部分故と言う
事だろうか
(13世紀の鎧には板金の脛当てが
 装備されて居るだろうし
 此れは馬上では回避し難い部分故かも知れぬが
 腰部にはコートオブプレートは有ったかも知れぬが
 腿の部分は板金の装甲は未だ無い訳だろうか)
312某研究者:2007/03/17(土) 06:26:16 ID:5XeH3NFz
http://www.nobunagaou.com/hidari/siro/1i/
上に蘭丸の鎧の実物が有るが
胴体等の細部はややレプリカの物とは
違うかも知れぬが
313某研究者:2007/03/17(土) 06:54:11 ID:5XeH3NFz
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/118275/126354/129298/
>。(この他にも袖を全面的に楯変わりにして、矢の雨霰の中、前へ進む武者絵なんかもありますが、【大鎧】大将クラスの【胴丸】【腹巻】ではこの袖、完全に楯の変わりにしてる事がお分かりでしょう。

こんな真似をしても
袖や吹き返しの部分以外は矢が貫通して
アウトと言う事かも知れぬが
314某研究者:2007/03/17(土) 07:18:40 ID:5XeH3NFz
http://blog.goo.ne.jp/makkyi0112/m/200605
>鎌倉時代の鎧を見ると前の時代のものよりも札幅が狭くなっています。また長さも短くなってゆきます。それに伴い鎧の長さも短くなります。胴の腰の部分を締めて重量を支え、より苦痛が少なく活動しやすいように改良されてゆきます。札

鎌倉時代の大鎧は既に下馬先頭を
考慮されて居たと言う
事かも知れぬが
315某研究者:2007/03/18(日) 00:15:32 ID:iquUzGNq
旧タイプの胴丸は
鎧の腰部の隙間は無いので
太刀・短刀だけで
打刀は刺さないと言う事かも知れぬが
当世具足は基本的に差している訳だろうし
足軽は打刀しか無い訳だろうか
316某研究者:2007/03/18(日) 10:31:17 ID:iquUzGNq
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/letter/3001.html
井伊直政は本田忠勝より
重い鎧を着て居るのに
怪我をすると言う様な描写も有るが
本田忠勝は6mもの槍を使用して居たと言う
事も有るかも知れぬが
鎧の構造の問題も有るのかどうかだが
桶側胴は防御力は高いが動き難いので
攻撃を受け易いと言う問題も
有る訳だろうか
317某研究者:2007/03/18(日) 10:38:57 ID:iquUzGNq
http://diary.jp.aol.com/wk39mfj/img/thumb_1144821904.jpg
本田忠勝の鎧は軽かったと言うが
上を見る限り動き易い札鎧であり
袖も無い訳だろうが


http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/iyeyasu/pic/pic105.jpg
上の絵だと袖が付属しているが
装備されていた可能性も有る訳だろうか
318某研究者:2007/03/18(日) 10:45:08 ID:iquUzGNq
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/117803/120138/
上は袖が有るが
実物を何処迄参考として居るのか
どうかだが
319某研究者:2007/03/18(日) 10:53:32 ID:iquUzGNq
直政の鎧の方が鎖が多いが
忠勝の鎧は大袖を用いており
此れで可也防御を
して居たと言う事かも
知れぬが
6m等と言う槍のアウトレンジ効果の方が
有ったのかも知れぬが
320某研究者:2007/03/18(日) 10:59:04 ID:iquUzGNq
大袖で肩の隙間等を塞ぐ等して
防御力を高めて居たと言う可能性も
有る訳だろうし
弓に対する防御にも
使えると言う事かも知れぬが
手足の装甲は軽装である訳だろうか
321名無し三等兵:2007/03/18(日) 12:55:48 ID:???
指揮官の質はどうだろうか

戦国期の日本なら
軍神上杉謙信、武田信玄、北条氏康、毛利元就、島津義弘など名指揮官に枚挙にいとまが画内が
欧州の軍勢はいわゆる名将の類いが居ない

ゆえに日本軍こそ世界最強であるといっても過言ではないと思う
欧州において
100度の戦い負け無しという上杉謙信のような人材が居たか
居ないだろ
くやしかったらそういう欧州の名将をあげてみてほしい

当時の日本は英雄や名将が割拠していたわけなんだから
強いのは当たり前。
322某研究者:2007/03/18(日) 21:20:21 ID:q6pVZjIz
>欧州の軍勢はいわゆる名将の類いが居ない

同時期ならゴンサロやマウリッツ・アドルフ・ヴァレンシュタインの方が
上と言う事は無いのかだが
彼等でさえ日本側の精度の高い火縄銃・大量の大筒や
管槍等の新兵器に可也苦戦したと言う事は
無いのかだろうし
歩兵の援護下での銃撃で騎兵が突撃して来れば
アドルフがピストル騎兵を破った時の様な事に
成るかも知れぬし
槍迄有る訳だろうか
323某研究者:2007/03/18(日) 21:46:05 ID:q6pVZjIz
まあ大砲の炸裂弾が無いと言うのは
問題だろうが
30年戦争段階で何処迄
西欧軍は炸裂弾を使用して居たのか
どうかだが

324某研究者:2007/03/18(日) 21:49:32 ID:q6pVZjIz
大身槍や管槍でプレートアーマーの胴部の
余り湾曲の無い部分は
貫けるかも知れぬが
325某研究者:2007/03/19(月) 03:09:11 ID:6z6wvXFA
http://www.printsofjapan.com/Index_Glossary_Hil_thru_I.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Horo
母衣も
防御部位は吹き返しや袖と余り変わらないかも知れぬが
全力後退時は有用だったのか
どうかだが
326某研究者:2007/03/19(月) 20:52:23 ID:nXSoDIJa
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7
>しかも38歳の若さで、幸長の死の翌年に家康が大坂冬の陣を発動したことを考えると、暗殺説も否定できない一面がある。

家康も
豊臣に未だ忠誠心を持つ加藤清正・浅野幸長を暗殺後に
大阪冬の陣を起こしたと言う
可能性も有る訳だろうか
327某研究者:2007/03/20(火) 22:31:09 ID:obqM/ATb
http://www.city.ono.hyogo.jp/~kokokan/kanzouhin/yoroi_sitagi.html
>戦国時代、鎧が【大鎧(おおよろい)】から【当世具足(とうせいぐそく)】に変わると、体を防御する上でたくさんの小具足(こぐそく)(篭手(こて)・
脛当(すねあて)など)をつけるため、見せる衣装「直垂」が見えなくなりました。そこで、具足の上から着る【陣羽織(じんばおり)】(袖なしの上着)が新たに流行し、鎧兜にも趣向を凝らすようになり、
次第に見せる「直垂」は地味になっていきました。

南北朝時代から腿の部分は隠れているだろうし
この段階で陣羽織は無く
母衣を用いて居たと言う事かも知れぬが
328元空士長:2007/03/20(火) 22:54:05 ID:???
自分の頭は古代人ですね
いつも若い世代の会話についていけません
だからエアロダンシングのイベント会場でも私一人が浮いていました

ttp://motoku.fc2web.com/
329名無し三等兵:2007/04/04(水) 01:43:02 ID:???
    /,/
   ((;;||;;;) ) 昔から基本は変わっていない
 ⊆E;工;ヨ⊇
 ∪|;{;Φ;};|∪
  〈_|_〉〈_|_〉
330某研究者:2007/04/04(水) 16:05:46 ID:je0Oftub
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/tenji/160511/index.html
可也草摺の長い大鎧と言うのも有る様だが
南北朝以降の物と言う事は無いのかだが
331某研究者:2007/04/04(水) 16:08:54 ID:je0Oftub
>あわせて、南北朝時代の大鎧の優品、黒韋威大鎧を展示しています。

矢張り南北朝時代の物だった様だが
此れ以前で同種の構造の物は
無いのかだろうし
佩楯の装備された鎧は鎌倉期にも有ったと言うから
鎌倉期でも腿の防御を全く無視していた訳では
無い訳だろうか
332某研究者:2007/04/04(水) 16:12:34 ID:je0Oftub
http://learn.bowdoin.edu/heijiscroll/viewer.html
上の平治物語絵巻等に
長い草摺を持つ大鎧と言うのは
無いのかだが
可也描かれて居る人数が多いので
探すのは明日以降としたいが
333某研究者:2007/04/04(水) 16:29:26 ID:je0Oftub
http://www.sakurae-town.jp/information/detail.asp?info_class_cd=55&info_cd=54
盾無鎧は厚さ1cmも有る様だが
重量は通常の大鎧(40kg)の3倍程度は無いのかだが
袖やしころの吹き返しの部分等は
軽量化されている可能性も有るだろうか
334某研究者:2007/04/04(水) 19:56:45 ID:lsj6ZXjp
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/118275/126354/
>●伊予札
>古くは鎌倉より南北朝時代の胴丸、腹巻にも見られる(当世具足の伊予札とは異なる)札であるが、やはり当世具足としての伊予札のイメージが店長には強いです

此れは一体
どう違うのだろうか

335某研究者:2007/04/04(水) 20:02:39 ID:lsj6ZXjp
http://210.169.219.141/SONAN/kikaku/yoroi/sub0003.htm
>A縫延胴(ぬいのべどう)
>伊予札を横縫(よこぬい)する方法で、鎌倉時代から行われています。表に薄い馬韋(うまがわ)をはり、木目こんで漆で固め、素懸威などで構成しています。

鎌倉時代の伊予札も
同様の構造なのかだが
336某研究者:2007/04/05(木) 13:18:28 ID:zH0y/GDD
http://www.koutouclub.net/syushikandayori4.htm
>初公開・蜂須賀正勝所用甲冑

蜂須賀正勝はこんな鎧を
着て居たと言う
事だろうか
337某研究者:2007/04/05(木) 13:59:03 ID:zH0y/GDD
http://www.koutouclub.net/syushikandayori5.htm
>京極高次所用甲冑

首の部分が板金鎧の様な構造に
成って居るが
皮で包んだ札鎧かも知れぬが
338名無し三等兵:2007/04/05(木) 14:05:03 ID:???
洋弓は和弓より優位だよ
339某研究者:2007/04/05(木) 15:02:46 ID:zH0y/GDD
ロングボウの様な丸木弓が合成弓より上なのか
どうかだろうし
馬上では使用出来ぬ代物だろうか
340某研究者:2007/04/05(木) 15:12:06 ID:zH0y/GDD
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=794
平治物語絵巻(13世紀)の徒士だが
太刀しか持たぬ者も結構描かれて居るだろうが
長巻も買えない様な雑兵と言う事は無いのかだが
鎧は悪くは無いが
奪った物かも知れぬが
341某研究者:2007/04/05(木) 15:24:21 ID:zH0y/GDD
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=795
逆に太刀の無い徒士も居るが
短刀は持って居る訳だろうか
342名無し三等兵:2007/04/05(木) 15:59:35 ID:???
>>339
弓道のお師匠様が『洋弓は中るように出来ているが和弓は中らないようにできている』
って言ってたのを思い出したのでつい。
343名無し三等兵:2007/04/05(木) 16:40:27 ID:???
西洋の鎧の論説も頼む
344某研究者:2007/04/05(木) 16:56:54 ID:zH0y/GDD
西洋の鎧に関しては前に可也やっただろうが
基本資料は提示しても良いが
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1758888
上辺りが一番詳しいだろうか
345某研究者:2007/04/05(木) 17:05:06 ID:zH0y/GDD
346某研究者:2007/04/05(木) 17:09:21 ID:zH0y/GDD
http://www.wga.hu/framex-e.html?file=html/p/pisanell/tourname.html&find=battle
鱗状の馬鎧の様な物が
描かれているが
此れは博物館の鎧では見ないが
実際に使われたのだろうか
(ヒストリカルフィギュアでは
 この種の鎧が使われている場合も
 有るだろうか)


http://www.cs.usu.edu/~watson/bartholomew/armor04.html
一番上の鎧は肩にスパイクが有るが
博物館ではこの種の物は見ないが
多用はされたのだろうか


http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/a/andrea/castagno/2_famous/1pippo.html
上の様なサーベルの様な剣は
15世紀に使われて居たのか
どうかだが
他で同時期の絵に描かれて居るのは
見ないが
347某研究者:2007/04/05(木) 17:11:19 ID:zH0y/GDD
http://www.wga.hu/framex-e.html?file=html/c/carpacci/1ursula/2/80martyr.html&find=martyrdom
兵がトルコ弓の様な弓を
構えている様にも見えるが
形状が似ているだけであり
薄い事も有るから
只の丸木弓なのだろうか


http://lofka.michikusa.jp/book_worldsword.html
上のマンプルと言う
篭手に剣の付いた武器の
実物と言うのは見ないが
西欧で使われたのかどうかだが
348某研究者:2007/04/05(木) 19:17:29 ID:zH0y/GDD
>弓道のお師匠様が『洋弓は中るように出来ているが和弓は中らないようにできている』
>って言ってたのを思い出したのでつい。

集団戦の場合は精度より威力・速射性能だろうが
日本の場合は弓成りに矢を放って居たのか
どうかだが
直射可能な距離なら十分な精度が有るので
問題は無いのかも知れぬが
349名無し三等兵:2007/04/05(木) 19:23:50 ID:???
350某研究者:2007/04/05(木) 19:36:53 ID:zH0y/GDD
http://www.youtube.com/watch?v=15ppoxi3PM4&mode=related&search=
ロングボウも30ヤード(約30m)でもこの程度の威力なのかだが
実物の鎧の鉄板はもっと薄い(1.5−2mm程度)訳だろうか
351某研究者:2007/04/05(木) 19:42:16 ID:zH0y/GDD
上は110ポンド(50kg)程度の弓だが
ロングボウでは此れが標準なのかだが
和弓は確か25kg程度だったかも
知れぬが
352某研究者:2007/04/05(木) 19:58:47 ID:zH0y/GDD
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/jyudo/1171151646/
>テューダー朝時代の軍艦から発見された当時の長弓138本のドローウェイト
>(引く力)は170〜180ポンドが殆どで100ポンド以下はあまりなかった。

>1ポンド=0.453 592 37 kgで 77.1107 〜 81.6466 kg !

>バケモンだな。こんなものほんとに引けるのかよ。

此れではプレートアーマーも
殆ど意味は無いのかも知れぬが
連射は出来るのだろうか
(一人で引かない大型の弓の可能性も
 有るだろうか)
353某研究者:2007/04/05(木) 20:50:31 ID:zH0y/GDD
>こんな物かな? > manople

此れはインドのパタだろうが
同種の物が西欧にも有ったのかも知れぬが
遺品や絵は見当たらないが
354某研究者:2007/04/06(金) 13:58:00 ID:Dy8mBDBZ
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=812
上も平治物語絵巻だが
畳兜の様な物が描かれて居る様に見えるが


http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=813
此れは騎馬武者では無いだろうが
小姓か何かなのだろうか
355某研究者:2007/04/06(金) 17:13:37 ID:2AEQHHIC
http://www.bowdoin.edu/mongol-scrolls/
蒙古襲来絵詞の
13世紀の原本迄有るが
余りに劣化しており
細部は良く分からないだろうか
356某研究者:2007/04/07(土) 13:02:21 ID:VDaTqwl7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%BE
>バイキングは狡猾にも補強せず材質も柔らかい木材を使った。これは相手の剣を盾で受け、刃を喰い込ませ動きがとれなくなった一瞬を狙う目的があった。

此れは後のノルマンや西欧軍も
同様だったのかどうかだが


>実験では木製盾は斧の数撃で破壊された。

所謂デンマーク斧なら
数撃は耐えるのかも知れぬが
腕力が有ればどうなのかだろうし
バルディッシュやクレセントアックス・長巻等の
より重い武器では一撃で粉砕され
ダメージを受けると言う事は
無いのかだが
(メイスでも盾は砕けないのか
 どうかだが)
357某研究者:2007/04/07(土) 13:09:44 ID:VDaTqwl7
槍でも盾は貫通するだろうが
チャージ時のランスを盾で止められるのかどうかだろうし
盾毎鎧が貫通していたと言う事は無いのかだが
(プレートアーマー装備後は盾が廃れたのは
 ランスを鎧で受け流す事を
 考えた故かも知れぬが
 剣や弓を止めるのには盾は必要だろうから
 剣や弓相手には構えたと言う事かも知れぬが)
358某研究者:2007/04/07(土) 14:14:13 ID:VDaTqwl7
http://www.ncn-t.net/ridwarn/tate2.html
>スクトゥムは、楕円又は長方形の古代ローマ時代の兵士が用いた大型の盾です。木製で厚さ2o程度の薄板3枚を重ね合わせて固定したもので、大きさはどちらも1から1.2メートル、横幅が60から80pで、重さは1から2s程度でした
>楕円形のスクトゥムは、中央が縦一本で太く盛り上がり凸状に反っていました。表面には羊毛のフェルト加工で縫い合わせ、上下を金属の縁金具で補強してあり、

スクトゥム以外は
縁は別段補強はされて居ないと言う事は
無いのかだが
359某研究者:2007/04/07(土) 14:17:33 ID:VDaTqwl7
>タージェ/ターゲット(targe/target)
>これらの盾はロンダンス(rondanche)と呼ばれ、表面を金属で覆った物でそれ程小さな物でなく時には左肩のほぼ全部を覆う物もあったようです。

>ホプロンは円形の大型の盾で、全金属製又は、木製の物の表面に金属を張り付けたりした物でした。

此れは金属で補強されて居ると言うし
バックラーも金属製の物が多いかも知れぬが
360某研究者:2007/04/07(土) 14:38:49 ID:VDaTqwl7
http://www.geocities.com/ulfberth/Leger1.htm
西欧甲冑の写真は
上にも有るだろうか
361某研究者:2007/04/07(土) 15:24:16 ID:VDaTqwl7
http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030327026942599970
こんなオープン兜も
有った訳だろうか

http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030327877346124978
16世紀後半辺りの鎧で腰が後部に張り出している意味は
有るのかどうかだが
落馬時に腰を打たない様にする効果を
狙って居るのかどうかだが
362某研究者:2007/04/07(土) 15:47:53 ID:VDaTqwl7
http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030328212353574210
兜の内側に装備する
バーゴネット用のバイザー等が有るとは
知らなかったが
肘部分の構造等は17世紀中盤頃の
形式かも知れぬが

http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030328478641546674
http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030328435691873698
http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030328779289257522
皮の様な物が張って有る様に見えるが
何だろうか
(或いは鎧の軽量化の為の
 穴なのかも知れぬが)


http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030329256030627586
トーナメント用の装備にしては派手だが
実戦用では無いと言う事かも知れぬが
パレード用鎧なら態々トーナメント用のパーツ迄作るのかだろうし
実戦用と言う可能性も有るのだろうか
(まあパレード・実戦では着ない展示用の物と言う可能性も
 有るかも知れぬが)

363某研究者:2007/04/07(土) 16:02:29 ID:VDaTqwl7
http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030330329772452018
ビロードが張って有る鎧は見掛けるが
兜にも張って有る物が有った訳だろうか

http://picasaweb.google.be/true.fork/ArmourInTheBayerischNationalMuseumMunchen/photo#5030330368427157698
トーナメントランスの太い先端が此れは一応
飛び込まない様な構造なのか
どうかだが
364某研究者:2007/04/07(土) 20:18:30 ID:VDaTqwl7
http://www3.ocn.ne.jp/~k-koyama/news/033s/033.htm
燻した竹の強度と言うのは
果たして角よりも劣るのか
どうかだが
モンゴル弓はコストが高いので
数が揃わなかったと言う事は無いのかだが


http://homepage2.nifty.com/kousyuryu-kisya/kachukishakou/ss04.html
モンゴル弓が如何に強力でも
大袖を貫いて鎧迄も貫通出来たのかだろうし
兜の吹き返しの部分も同様だろうか
(馬は歩兵の盾が守って居たと言うが
 どうなのだろうか)


http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
>また、木を間にはさみ、圧縮力のかかる内側に角・骨の薄片などを、張力のかかる外側に動物の腱(けん)をはりあわせた合成弓は、中緯度地方の、東南ヨーロッパ、西南アジア、中央アジア、北アジア、北アメリカ北西海岸に分布する。

外側も角を張った方が良いと言う事は
無いのかだが
四方を全部燻した竹で作った様な弓(四方竹弓)や
側面以外は燻した竹しか使って居ない弓胎弓と比べ威力は
どうだったのだろうか
365某研究者:2007/04/07(土) 20:20:34 ID:VDaTqwl7
http://www3.ocn.ne.jp/~k-koyama/news/033s/033.htm
http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-279-1p.html
室町末期に出て来た殆ど燻した竹しか使用して居ない
弓胎弓なら
モンゴルの弓をアウトレンジ出来たと言う事は
無いのかだが
鎌倉時代の3枚打弓では
どうなのかだが


http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/bugu/bu_kougeki.html
>しかし、伏竹弓の弦を外した状態での反りは裏反りといい、この湾曲のままに弦を掛けるのではなく、弓を押し撓めて逆の湾曲を作って弦を掛ける。 だからよけいに強い弓となるのである。

日本の弓も弦を外した場合は
モンゴル弓同様に
逆の湾曲が有ったと言うが
欧州の丸木弓には当然無い訳だろうか
366某研究者:2007/04/07(土) 20:48:26 ID:VDaTqwl7
牛の角を1mも連続して
切り取れるとは思えぬし
切れ目が有るとすると反発力に問題は
出ないのかだが
竹は一応2mでも一体化した物が
貼り付けられる訳だろうか
367某研究者:2007/04/07(土) 21:02:29 ID:VDaTqwl7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A6
>スイギュウは平均1mほどの生き物の中で最も長い角を持っており、

一応1m取れなくは
無い様だが
弓の外側も動物の腱では無く
水牛の角にしたいが
コストが高いので困難と言う事は
無いのかだが
368某研究者:2007/04/07(土) 23:13:29 ID:tcNU4jJK
http://www.arrow.or.kr/jpn/data/index.php
朝鮮弓の構造が上に有るが
モンゴルの場合は竹は使用して居たのか
どうかだが
369名無し三等兵:2007/04/07(土) 23:23:07 ID:???
洋弓の弦って金属だよね?
和弓は植物だから結構頻繁に弦が切れて困る
370名無し三等兵:2007/04/08(日) 00:50:17 ID:???
http://ihbaa.org/goods.html モンゴルの馬具と弓具

> 弓は短弓で、材料はサルヤナギの木に、ヤクの角や動物の骨、腱(けん)などを膠(にかわ)で張り合わせた複合弓で、弦は鹿の皮で作られています。
>矢は、材料にサルヤナギを用い、それに鷲の矢羽を付けます。
>こうした製法はチンギス・ハーンの時代からほとんど変わっていないといわれています。


http://news.eastday.com/eastday/node81741/node81803/node112035/userobject1ai1998484.html
清朝皇帝十大御用武器  皇帝御用弓

木製、内側には牛角が、外側は金桃皮が張ってあるらしい。
金桃皮ってなんだろ?
371名無し三等兵:2007/04/08(日) 01:01:37 ID:???
http://mlps.ttct.edu.tw/project/2001/mu/mu6.htm

蒙古弓箭。材質不明、外側は樺の樹皮がはってあるらしい


http://www.archery.cc/shop/class.asp?lx=small&anid=20&nid=220

>牛角?弓。選用質地優良的竹子,作弓胎,正面周豬皮?貼上牛角,背面則貼牛筋

このへんの伝統弓は竹もつかっているような
372名無し三等兵:2007/04/08(日) 01:01:47 ID:???
海賊と一言に言っても、いろいろなタイプがあってね。
1.どっかの国が敵国の妨害のための行なう私掠船
2.その地域を根城にしている豪族や有力者などが、徴税と称して船荷を要求する場合
3.武装商人が海賊を兼業する場合とが主にある。

1のパターンは現在ではさすがに聞いたことはないが、有名なイングランドの海賊キャプテン・ドレイクなどがこのタイプだ。

それに、いま東南アジアで頻発している海賊は、2のタイプで地域の有力者の私兵集団がやっている場合もあれば
地元のマフィアやゲリラ組織がやっている場合がある。
ただ、噂によれば、中国共産党幹部の子弟によって構成された太子党が、彼らを操っているとの説もある。

また、現在でも2のようなのがあるのだから、国際線の船舶は武装が国際海洋法条約で認められている。
これは古代から同じだったらしくて、古代から交易船は武装を行なっていた
そうした武装貿易船が、貿易が上手くいかなかった場合や交渉が決裂した場合など
ついでに掠奪行為も行なうようになるのが、海賊の典型的なパターンだ。倭寇やヴァイキングなどは、このタイプだ。
実際、ヴァイキング達も、主目的は交易であって、海賊行為は副業みたいなものでね。

倭寇の拠点の対馬が、土地が痩せていて、耕作に適していなかったことなどから彼らは交易に乗り出し
そして海賊行為も重ねた。
ヴァイキングの故郷のアイルランドも、それは一緒で、寒い北欧では牧畜や農業だけではやっていけないから、交易もはじめて、そのついでに海賊もやったわけだ
373某研究者:2007/04/08(日) 13:03:58 ID:hh2sNfEj
燻した竹があそこ迄曲がるのかだろうし
心材であるから厚みも有る訳だろうから
朝鮮弓の芯の竹は燻して居ないのか
どうかだが
モンゴル弓の場合は芯材の木は柔らかいものが使われて居ると言う
事なのだろうか
374某研究者:2007/04/08(日) 13:07:35 ID:hh2sNfEj
>ヤクの角や動物の骨、腱(けん)などを膠(にかわ)で張り合わせた複合弓で、弦は鹿の皮で作られています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%AF
ヤクの角も1m有るから
問題は無い訳だろうか
375某研究者:2007/04/08(日) 13:11:18 ID:hh2sNfEj
ヤクの角が水牛の角より劣り
サルヤナギが竹に劣るなら
モンゴルの弓は中国や朝鮮の弓より
劣るのかだが
(トルコの弓は何の角を用い
 心材は何なのかだが
376こいつは無資格専門外来医だ。↓探せ:2007/04/08(日) 15:22:23 ID:???
dear 高卒準看馬鹿茄子

from 日昇国彩圏西部ライオンズ市 
   「吉川病院」幻帥 鶏 哲夫

いつも俺の心を満たしてくれてありがとう。
いつも俺を癒してくれてありがとう。
いつも俺のカレー臭を嗅いでくれてありがとう。
俺は君が好きなのだ。好きでたまらないのだ。
カレー臭のするこんな俺だけど・・・
小さいことにすぐにカッカッして鶏冠をたててしまうこんな俺だけど・・・
専門資格がないのに専門外来をやってばれそうになったから
あせって本物用意しちゃうかもしれないこんな俺だけど・・・
どんなときも[他力本願]な俺だけど・・・
警察に盗聴、テンペスト、デマ流し頼んじゃうこんな俺だけど・・・
イキガルけどビビリへたれなこんな俺だけど・・・
老いているわりに精神的に幼いお茶目なこんな俺だけど・・・
髪のボリュウムが少し気になるこんな俺だけど・・・
我が子と二十歳の約束果たせるかわからないこんな俺だけど・・・
ハイエナのように患者にこっそり不正請求するこんな俺だけど・・・
トラのサッチーに足元にも及ばないこんな俺だけど・・・

    君が好きなのだ!!!!!
   信じて愛して優しくしてほしい。
     心をこめて君におくる。
   この思いにはやくきずいてほしい・・・・


377某研究者:2007/04/08(日) 15:57:10 ID:hh2sNfEj
http://www.kcn.ne.jp/~toyo/yumi/takeyumi/ta_top.html
和弓の逆反りと言うのは
一番上の写真の様な感じなのかも知れぬが
牛の腱と言うのはどの程度反発力を
増すのかだろうし
燻した太い竹と薄い角何れが
反発力は上なのかだが
378某研究者:2007/04/08(日) 16:37:15 ID:hh2sNfEj
http://www.0986.jp/yumi/toria.html
>弓の裏反りは大切です。弦をはずして、本弭、末弭を床につけて弓を起こし、握りの部分で床から15cm〜25cm程度が理想です。

まあ裏反りは余り大きくは無い状態で
調整されて居ると言う事かも知れぬが
実戦用の威力の有る弓ではどうなのだろうか
379某研究者:2007/04/08(日) 16:48:01 ID:hh2sNfEj
http://www.kcn.ne.jp/~toyo/yumi/takeyumi/ta6genin.html
>内竹を外円側にして、反りの高さを鰾の場合には、1尺八寸(約55cm)
>合成樹脂系の接着剤の場合には、1尺6寸(約48cm)
>程度の裏反りに仕上がる様に竹の楔を打ち込む。
>楔の打ち込みの仕様に依って、弓の形が決まります、難しい作業だそうです

製作時の裏反りは
通常の倍程度は有る訳だろうか
380名無し三等兵:2007/04/08(日) 16:50:43 ID:???
http://www.youtube.com/watch?v=yJw8ETRFhKo

添えられている説明を信じるならばモンゴルの複合弓の作り方の動画らしいです。
どうぞ。
381某研究者:2007/04/08(日) 18:18:32 ID:hh2sNfEj
製作中も弦を張る直前にも裏反りが全然無い(日本弓以下)だが
此れは実戦用では無いのかも知れぬが
382某研究者:2007/04/08(日) 18:59:56 ID:hh2sNfEj
http://www.arrow.or.kr/jpn/data/index.php
上を良く見ると内側の竹の部分が3つに分かれているが
弾力に影響は出ないのかだが
モンゴル弓でも同様の構造なのだろうか
383名無し三等兵:2007/04/08(日) 19:07:29 ID:crCr5HAO
元寇の持ってた弓ってメインはモンゴルのじゃないんじゃない?
384名無し三等兵:2007/04/08(日) 19:09:30 ID:???
>>372
アイルランド?
385某研究者:2007/04/08(日) 19:37:52 ID:hh2sNfEj
モンゴル弓より強力な
クロスボウでも袖と鎧・或いは吹き返しとシコロを
同時に貫通出来たのか
どうかだが
(星兜の星の部分では矢は弾けるかも知れぬが
 兜の湾曲程度では矢は貫通するかも知れぬが)
386名無し三等兵:2007/04/08(日) 19:48:24 ID:???
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkakd107/C.html  一番下、竹の分布図

弓の材料としての優劣は別にして
竹が無いところでは、当然使われることはないんじゃないかな
387某研究者:2007/04/08(日) 20:10:09 ID:hh2sNfEj
まあそうするとトルコやモンゴルの角弓では芯材に
竹は使用されて居ない可能性が
高い訳だろうか
388某研究者:2007/04/08(日) 21:12:48 ID:hh2sNfEj
ドラマ等だと鎌倉時代でも下馬した騎馬武者は
長巻を使っている例も多いが
蒙古襲来絵詞等を見ると刀のみを使っているから
此れは無いのかも知れぬが
389某研究者:2007/04/10(火) 01:11:25 ID:IZukfUhT
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=12&pos=77
綿入れが一体化した様な鎧も有るが
16−17世紀の物だろうか
390某研究者:2007/04/10(火) 01:21:20 ID:IZukfUhT
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=12&pos=169
此れはウィングフッサー用と言う事では
無い訳だろうか


http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=12&pos=168
まるでウルトラマンだが
16世紀後半ー17世紀の鎧はピストルの狙いを付け易くする為に
視界を重視している訳だろか
391某研究者:2007/04/10(火) 01:40:14 ID:IZukfUhT
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=12&pos=209
この鎧は結構格好は良いかも知れぬが
歩兵士官或いはピストル騎兵の鎧と言う
事だろうか
392某研究者:2007/04/11(水) 00:17:35 ID:aQii0Pz8
http://www.karlofgermany.com/master06.htm
上の隙間が無いと言う鎧は

http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=48&pos=40
真下がこう言う構造に成って居たとは驚いたが
脚を大きく動かしても隙間は出来無いのかだが
393名無し三等兵:2007/04/11(水) 10:15:25 ID:hU6l91zu
三国志とか見ると、やっぱ中国が一番凄いと思う。
あんな昔に、あれだけ完成度の高い武器で戦っているんだから凄い。
394某研究者:2007/04/11(水) 13:48:24 ID:YCkbiCiX
騎兵はローマよりは上かも知れぬが
パルティア重騎兵には勝てるのかどうかだが
BC5世紀にクロスボウが出て居るし
車陣と此れを組み合わせれば騎兵も撃退出来たかも知れぬが
この様な工夫をしても匈奴には敗れている訳だろうが
フス戦争時のハンガリー騎兵の様な
機動力を生かしての焦土戦術に敗れたと言う事かも知れぬし
車陣が追い付かない場所を徹底的に破壊したと言う事かも
知れぬが
匈奴には耕作地や本拠地も無いなら耕作地や本拠地を叩くと言う戦術も
使えない訳だろうか
395某研究者:2007/04/11(水) 13:52:26 ID:YCkbiCiX
モンゴルや匈奴の機動力を生かした
焦土戦術の方が
脅威だったと言う事かも知れぬが
其れでも唐の時代迄は何とか保っていた訳だろうか
396某研究者:2007/04/11(水) 13:54:15 ID:YCkbiCiX
まあ只機動力を生かした焦土戦術の使えない
ベトナムや日本では
敗れていた訳だろうし
車陣や陣地・城の攻略等は苦手な訳だろうか
397某研究者:2007/04/11(水) 14:56:25 ID:8LcYQvLX
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=22&pos=10
ナウシカのクシャナが装備して居た様な
兜の覗き窓の形状だろうか

http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=26&pos=5
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=81&pos=17
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89
此れはランタンシールドと言う物の様だが
ランタンは何処に取り付けるのかだろうし
スイス傭兵以外は装備していたのかどうかだが
(ハルバードやパイク・バスタードソードと此れが
 同時に装備されたと言う
 事かも知れぬが
 ハルバードやバスタードソードを装備していた
 精鋭兵以外は装備しなかったと言う可能性も
 有る訳だろうか)
398某研究者:2007/04/11(水) 14:57:45 ID:8LcYQvLX
夜戦以外ではこの種の盾は
使用されなかったのか
どうかだが
399某研究者:2007/04/11(水) 15:07:14 ID:8LcYQvLX
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=15
この種の足の保護はトーナメント時だけと言う
事かも知れぬが

http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=27
大砲の弾が当たった胸甲が有るが
直接受けたのでは無く
バウンドして来た砲弾が当たったと言う
事なのだろうか


http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=30
ピストル騎兵の鎧も防御力を増すのでは無く動作性を増して
馬の影に隠れて銃弾を回避すると言う様な
方向に成ったのかどうかだが
(或いは既存の鎧でも伏せる事は可能だが
 槍と異なりサーベルの回避は動けた方が
 良いと言う事は有るのかも知れぬが)
400某研究者:2007/04/11(水) 15:13:34 ID:8LcYQvLX
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=33
スカートが一枚の板金で作られている物も有るが
此れはトーナメント用なのかどうかだが


http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=50
インドや中東地域の鎧は放熱を考える必要も有るから
胴体と兜・手足の一部以外は
鎖である訳だろうか
(モンゴルの鎧が軽量なのは
 機動力を利用しての焦土戦術を考えての
 物かも知れぬが
 重装の騎兵も居るのでそうでは無い可能性も
 有る訳だろうか)
401某研究者:2007/04/11(水) 15:15:43 ID:8LcYQvLX
マクシミリアン鎧も貧しいドイツの
余り鉄を使わない安物鎧と言う事は
無いのかだろうし
他の地域では使われたのかどうかだが
402某研究者:2007/04/11(水) 15:31:42 ID:8LcYQvLX
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=75
この鎧の肩の装甲は動かない構造の
様だが
何か不都合は出なかったのだろうか


http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=89
インドにもフレイルと言うのは
有った訳だろうか
403某研究者:2007/04/11(水) 15:32:57 ID:8LcYQvLX
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=117
オスマン帝国軍相手に西欧軍が16世紀に野戦をやったら
重騎兵はトルコ弓打ち抜かれ
ピストル騎兵はトルコ弓でアウトレンジされて
終わりと言う事かも知れぬが
テルシオなら対抗出来たのかどうかだが
テルシオの銃の射程外からトルコ騎兵が弓を放って
やられると言う可能性も有る訳だろうし
(砲兵も脅威かも知れぬが
 トルコの砲は大型の砲だけなので野戦には向かないと言うが)
テルシオに塹壕を組み合わせて何とか撃退可能と言う
可能性も有るかも知れぬが
トルコ側も此れに対して塹壕やトンネルを掘ったり
弓を山形に射る等して対抗して来る可能性も
有る訳だろうし
大砲を多数打ち込む可能性も有る訳だろうか


或いは塹壕等無く共
スイス傭兵がトルコの歩兵に対して突撃すれば
歩兵は壊滅出来たかも知れぬが
騎兵の弓で何れ壊滅すると言う可能性も
有るかも知れぬが
404某研究者:2007/04/11(水) 15:36:40 ID:8LcYQvLX
トルコも17世紀にもウィーンを包囲しているだろうが
攻城技術の問題で新型要塞を落とせなかったと言う
事かも知れぬし
野戦では不利だったのかだが
(最後やられたのも奇襲での負けだろうし
 野戦での負けと言えるのかどうかだが)
騎兵や歩兵も弓が銃に変わって弱く成ったと言う事は
無いのかだが
変わって居なければ強いかも知れぬが
405某研究者:2007/04/11(水) 17:42:22 ID:8LcYQvLX
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5089519&comm_id=699550
現実の中世ではクオータースタッフが歩兵の主武器だったと言う
可能性も有るのかだが
日本では棒は何処迄
使われたのかだが
投石の方が多かったのかどうかだが

406某研究者:2007/04/11(水) 17:45:09 ID:8LcYQvLX
狩猟用の槍や弓は可也有る訳だろうし
此れ等や鎌の様な農具も大量に
用いられたと言う事かも知れぬが
此れも無い物には棒が持たせられたと言う
事だろうか
407某研究者:2007/04/11(水) 17:46:53 ID:8LcYQvLX
無論狩猟用のナイフ・短剣の類も
大量に用いられたと言う事かも
知れぬが
408某研究者:2007/04/11(水) 17:49:12 ID:8LcYQvLX
木を切ったり薪を割る様な斧も
戦場に投入された訳だろうか
409名無し三等兵:2007/04/11(水) 18:29:34 ID:???
http://kwne.jp/~hareniwa/dict/ha/flail.html

× 武器として農具も使われた
○ 農具から発展して武器になった

まず、ありものの道具が使われて、徐々に武器として洗練されていったみたい
410名無し三等兵:2007/04/11(水) 19:42:09 ID:???
狩猟からとなると、落とし穴とか…そこに追い込む術も含め
命がけで獲得していったんでしょうね
411某研究者:2007/04/11(水) 21:16:32 ID:8LcYQvLX
まあ矢張りビルやトライデント・槍・弓・短剣・斧は元は
農具だろうが
剣や矛槍は違う訳だろうか
412某研究者:2007/04/11(水) 21:20:30 ID:8LcYQvLX
フレイルは元は農具だろうが
メイスは農具と言えるのかどうかだが
棍棒で動物を狩っていたなら
農具と言えるかも知れぬが
413某研究者:2007/04/11(水) 21:23:23 ID:8LcYQvLX
小型の投石器も狩猟用に
使用していた訳だろうか
414某研究者:2007/04/12(木) 19:40:09 ID:vwxe6JhP
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=795
袖を装備た胴丸も
11世紀に既に出て居ると言う事かも知れぬし
弓歩兵以外にも
敵の射撃に備えた歩兵が結構居たと言う
事だろうか
415某研究者:2007/04/14(土) 06:36:41 ID:9Gb3HCYe
http://www.nicovideo.jp/watch/1175605111
日本刀は叩き切る剣であり
油や刃毀れは切れ味には余り影響しないと言う
事だっただろうが

日本刀は西欧の剣と異なり湾曲しているから
叩き切る際に力が一点に集中して
威力が増すと言うが
装甲の上で滑る場合は無いのかどうかだが
札鎧相手なら問題は無いのかも知れぬが
板金鎧や兜に対してはどうなのだろうか

モンゴルの刀はシミターの様に極度に湾曲しており
引いて切る刀だから
突きが困難故に
船上では上方からの斬り一辺倒に成り
不利だったと言う事は無いのかだが
蒙古襲来絵詞ではモンゴル軍が
船上でも槍を用いて居る描写が有るが
此れに対しては刀で上手く踏み込めたのか
どうかだが
416某研究者:2007/04/14(土) 06:38:29 ID:9Gb3HCYe
http://www.nicovideo.jp/watch/sm108263
日本の場合は馬に装甲を施したのは戦国時代の
九州だけで
基本的に威嚇用の物だったと言う
事なのだろうか
(馬は歩兵の盾で守ると言うのが
 基本だった訳だろうし
 鎧等弓の威力の前には余り
 役には立たぬ訳だろうか)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
>腰反り(こしぞり)
>反りの中心が鋒と棟区の中心より下の方に位置するもの。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての太刀に見られる。
>中反り(なかぞり)、華表反り(とりいぞり)
>反りの中心が鋒と棟区のほぼ中心に位置するもの。鎌倉時代中期以降に見られる。
>先反り(さきぞり)
>反りの中心が鋒と棟区の中心より上の方に位置するもの。室町時代以降の刀に見られる。

時代と共に反りが先端部に移動して来たのは
同様に時代と共に強力に成る装甲に対抗する為に
打撃を先端部の一点に集中する為と言う
事だろうか
417某研究者:2007/04/14(土) 06:48:49 ID:9Gb3HCYe
>袖を装備た胴丸も
>11世紀に既に出て居ると言う事かも知れぬし

盾無しでも屈んで射撃或いは待機すれば
可也被弾面積は減るかも知れぬが
腰から下を守る小型の盾も有ったかも知れぬし
此れを使う場合も有った訳だろうが
馬を守る場合は大型の盾を使用したのか
どうかだが
418某研究者:2007/04/16(月) 00:56:52 ID:jmpwRaz6
ブリガンダインも
モンゴルに似た様なタイプの鎧が有ったかも知れぬし
モンゴルと13世紀に接触後に
此れを模倣したと言う可能性も
有る訳だろうか


http://chinese-armour.freewebspace.com/photo.html
>Mongol Yuan Dynasty (late 13th century) brigandine armour, used during the Mongol invasions
of Japan and preserved at the Mongol Invasion Museum, Japan

日本侵攻時にも使用された
此れの真似と言う可能性も有るだろうが
どうなのだろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ワールシュタットの戦い辺りで
捕獲したモンゴルの鎧を
参考に
ブリガンダインが作られたと言う
事かも知れぬし
中東には無い鎧だった訳だろうか
419某研究者:2007/04/16(月) 01:37:23 ID:jmpwRaz6
http://www.chinahistoryforum.com/lofiversion/index.php/t7770.html
清の鎧もモンゴルの鎧から変化が無いが
このブリガンダインの様な鎧は
元は何処が作ったのだろうか
420某研究者:2007/04/16(月) 01:53:26 ID:jmpwRaz6
http://chinese-armour.freewebspace.com/custom.html
肩・腕は板金部分が出て居る物が有るが
この部分は攻撃を受け易かった故に
布でカバーするのは止めたのか
どうかだが
421某研究者:2007/04/16(月) 07:41:24 ID:kDXx7AZ2
http://www.shogunart.com/Gusoku14.html
兜に付いて居る尾に関しては記述が無いが
一体何の尾なのだろうか
422名無し三等兵:2007/04/16(月) 23:18:45 ID:???
http://military.china.com/zh_cn/top01/11053250/20070104/images/13855896_2007010410260394400400.jpg

「日本具足(不是大?)的祖先――蒙古甲」 だそうな
↓ここからの画像、玉石混淆なかんじ

http://cbbs.chinadaily.com.cn/viewthread.php?tid=3980&extra=page%3D8
423某研究者:2007/04/17(火) 07:51:51 ID:iBD+XD93
ブリガンダインの様な鎧は
満州族やモンゴルだけの使用にも見えるし
後は布の外側に装甲の有るタイプだけだし
モンゴルや満州族が開発した鎧なのだろうか
(耳の部分に穴は空いているのかだろうし
 命令と言うのは聞き取れる構造に
 成っているのかどうかだが)
424某研究者:2007/04/21(土) 04:07:21 ID:Slg520+3
http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf11/otm11va&b.gif
13世紀の旧約聖書の絵だが
この時代でも絞首刑の際は
目隠しはして居た訳だろうか
425某研究者:2007/04/21(土) 04:57:13 ID:Slg520+3
http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf13/otm13ra.gif
こんな物は流石に兵器としては
使用されて居なかったと言う事かも
知れぬが

http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf28/otm28va&b.gif
上のダビデの持って居る様な投石器は
この時代には使用されて居たのかだが
426某研究者:2007/04/21(土) 05:31:17 ID:Slg520+3
http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf42/otm42rc&d.gif
盾を持って肩手で投石器を使用している絵も有るが
実際この様な事は行われたのかどうかだが
427名無し三等兵:2007/04/21(土) 10:05:19 ID:???
http://www.slinging.org/articles.html

Slinging Styles、Slinging techniqueの動画が参考になるかと
利き手でスリングをもって、残った手でポケットに石をセットするためには
握るタイプの盾は使えないし
投石の動作を見ると腕を通すタイプの盾も邪魔になると思う。
428名無し三等兵:2007/04/21(土) 11:46:40 ID:???
ところでさ、ナポレオン戦争の映画で見たんだけど(題名失念)、
まず楽隊が太鼓叩きながら前進して、それが撃たれたら応戦ってのが当時の戦争のスタイルなの?
429名無し三等兵:2007/04/21(土) 21:53:33 ID:???
>>428
楽隊が先頭で太鼓だの笛だの鳴らしながら前進するのは事実だが、
普通はドンパチ始める前に後方に下げるはず。
敵の奇襲で、行進隊形から戦闘隊形への変換が間に合わなかったってことではないか?
430名無し三等兵:2007/04/22(日) 01:21:34 ID:???
ナポレオン戦争時代から、フランスには選抜歩兵という
狙撃専門の兵科が作られていた。 行軍中の彼らが
散兵戦術で散々に叩かれたシーンだったのかも。
431某研究者:2007/04/22(日) 03:17:30 ID:nnQOr0hZ
散兵を叩くためにフリードリヒ大王が軽騎兵を利用したと言う
記述も何処かに有っただろうが
ナポレオン時代はどうだったのだろうか
432某研究者:2007/04/22(日) 03:38:56 ID:nnQOr0hZ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
>オーストリア軍の散兵に悩まされたプロイセンのフリードリヒ大王もまた、軽騎兵の運用に熱心であった。
>オーストリア継承戦争において敵の散兵に対し、ユサールを広く効果的に使用したのである。部隊の前方に展開し、偵察や敵の散兵線の破壊を行うユサールは、非常に有効な兵種であった。

オーストリアが中世以降では最初に散兵を使用したと言う事なのか
どうかだが
433某研究者:2007/04/22(日) 10:16:27 ID:nnQOr0hZ
グレイブと言うのはイスラムに薙刀の様な武器は
無かったかも知れぬなら
モンゴルの薙刀の模倣なのかどうかだが
http://www58.tok2.com/home/hermitage/weapon/glaive.htm
登場もモンゴルと接触した
13c頃と言う事だろうか


http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf45/otm45va.gif
左側の騎士が使用しているのが
グレイブと言う意見も有るが
此れはモンゴルの薙刀を模倣した物なのか
どうかだろうし
欧州独自の物と言う可能性も有るだろうか


http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf10/otm10ra&b.gif
柄が長目のグレイブも描かれて居るが

http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf10/otm10va&b.gif
上の中央の騎士が使用している
ナイフの様な剣もグレイブなのか
どうかだが
http://www.medievaltymes.com/courtyard/maciejowski_images_10.htm
上を見るとグレイブと言う事だろうが
此れ以外に描かれて居る絵は無いだろうか
434某研究者:2007/04/22(日) 10:40:26 ID:nnQOr0hZ
まあしかし合成弓も中東の高温で膠が溶けると言う事は
無かったのかどうかだが
435某研究者:2007/04/22(日) 10:42:16 ID:nnQOr0hZ
アラブ軍も合成弓が使えれば
西欧軍の丸木短弓の3倍程度の射程は得られたと言う事かも知れぬが
西欧軍のクロスボウをアウトレンジ出来たのか
どうかだが
436某研究者:2007/05/01(火) 22:01:07 ID:csW1cYjb
http://www.thearma.org/arttalk/at31.htm
左の兵が持って居るのはGrosse Messerと言う
武器の様だが
http://www.myarmoury.com/review_cs_mess.html
ファルシオンの一種なのかどうかだが
両手持ちのファルシオンなら
http://www.toride.com/~canossa/pic/bnf_f208.htm
上のワットタイラー暗殺の絵にも
出て来るだろうか
437某研究者:2007/05/01(火) 22:12:52 ID:csW1cYjb
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Gladiatoria_113.jpg
上で使用されて居る様な盾は他では見ないが
所謂バックラーの変形なのかどうかだが
438某研究者:2007/05/01(火) 22:41:17 ID:csW1cYjb
http://en.wikipedia.org/wiki/Hungarian_shield
此れはハンガリー由来の
盾と言う事なのだろうか
439某研究者:2007/05/01(火) 23:25:34 ID:csW1cYjb
http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%98%D0%B7%D0%BE%D0%B1%D1%80%D0%B0%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D0%B5:Langes_Messer_1520-1680_%28108cm%29.jpg
Messerも上の様な可也細い物も
後期には使われたと言う事だろうか
440某研究者:2007/05/02(水) 23:27:27 ID:QYezjBgI
16世紀の騎士の馬鎧は
銃やクロスボウを防げる訳では無いだろうし
騎士を狙って逸れたランスを弾く事を考えた程度なのか
どうかだが
(矢張りトーナメント専用或いは一部の騎士以外は
 装備して居ない物なのかどうかだが)
441某研究者:2007/05/03(木) 00:07:16 ID:QYezjBgI
http://www.villageantiques.ch/prints/weiditz/knight99.htm
鎧の肩にスパイクの様な物が付いて居るが
此れは何なのだろうか
442某研究者:2007/05/03(木) 00:09:23 ID:rSTyTAJz
http://www.villageantiques.ch/prints/weiditz/knight9.htm
http://www.villageantiques.ch/prints/weiditz/knight137.htm
実物の鎧とはやや異なる様にも見えるが
実物を参考としたのかどうかだが
443某研究者:2007/05/03(木) 00:24:24 ID:rSTyTAJz
http://www.dioceseofwenchoster.co.uk/nave.htm
上の中央に有る様な形状の兜と言うのも
見た事は無いが
444名無し三等兵:2007/05/03(木) 00:28:52 ID:???
ジンギスカン鍋?
445名無し三等兵:2007/05/03(木) 01:43:57 ID:???
>>444
鉄兜で料理すると、強度劣化しそうなのだが。
昔の戦いを描いたもので、鉄笠みたいな(中華なべか!)
もの被ってる絵があるけど、あんなもので煮炊きは
したものだろうか。
446某研究者:2007/05/03(木) 01:55:43 ID:rSTyTAJz
サレットの名称も
シャーレから来て居ると言うが
果たして此れで料理はしたのかどうかだが
447名無し三等兵:2007/05/03(木) 17:57:05 ID:???
ttp://ww2.enjoy.ne.jp/~tteraoka/esse1.htm

中世ヨーロッパとファンタジー世界の「食」、真ん中あたり、鍋。
三本足の鍋が鼎によく似てる。下、実用品の鼎

ttp://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/bronze-15.html
448名無し三等兵:2007/05/03(木) 18:17:59 ID:???
足軽の笠は煮炊きをしてたんでしょ?以前テレビで言ってたよ。
449某研究者:2007/05/04(金) 01:29:06 ID:dhVzWPyd
まあフライパンがそう劣化しているかを考えれば
余り影響は無いのかも知れぬが
450某研究者:2007/05/04(金) 01:50:05 ID:dhVzWPyd
http://www.iemed.org/fotografies/mediterraneum/peces/h12g.jpg
上の様にビロードを張ってある兜を
稀に見掛けるが
赤いビロード以外も
使われたのかどうかだが
451某研究者:2007/05/04(金) 02:44:13 ID:dhVzWPyd
http://www.wga.hu/art/g/goncalve/n-cavalc.jpg
棒状の腕の鎧や
篠篭手の様な構造の腕の鎧が
1460時点でも使われて居たと言う
事だろうか
452某研究者:2007/05/04(金) 15:31:14 ID:ks9eGE8K
http://www.wga.hu/cgi-bin/highlight.cgi?file=html/zgothic/miniatur/1301-350/10s_1300.html&find=knight+
13−14世紀の肩の鎧
http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-262-7p.html
>13世紀に終わりにエーレット(alette)という
>肩当が設けられました。このエーレットに
>は、当時活躍した十字軍の兵士達が十字架を
>描いたりしましたが、各人が自身の紋章を書
>くこともありました。

エーレットに飾りが付いて居る物も
有る様だが
453某研究者:2007/05/04(金) 15:39:56 ID:ks9eGE8K
http://www.wga.hu/cgi-bin/highlight.cgi?file=html/m/moroni/port_gen.html&find=knight+
騎士の着るアーミングダブレットが珍しく
描かれて居るが
鎖が上腕部にも有るのは補強の為か
或いは上腕部の内側には装甲の無い鎧を装備する為なのか
どうかだが
454名無し三等兵:2007/05/04(金) 19:50:17 ID:???
こうして歩兵、弓兵、騎兵の三兵科戦術の時代は終わりを告げたのであった。
455某研究者:2007/05/04(金) 20:00:25 ID:ks9eGE8K
槍兵が18世紀に消えて
3兵戦術は消えたかも知れぬが
擲弾兵が槍兵の様に
用いられる事も有ったと言う事かも
知れぬが
456某研究者:2007/05/07(月) 07:03:28 ID:5SOWAxDy
http://www.burgenseite.com/faschen/st_georg_in_oberdorf_ritter_5.jpg
こんな鎧で
馬に乗れるのかどうかだが
ローマの鎧を適当に絵で
模倣したと言う事は無いのかだが

http://www.burgenseite.com/faschen/trient_ritter_31.jpg
こんな小さい王冠も有るのかだが
上腕部の鎖の下には板金が有るのか
どうかだが
目の部分に穴が空いているタイプの兜と言うのは
15世紀にも有った訳だろうか

http://www.burgenseite.com/faschen/trient_ritter_30.jpg
肩の装甲の形状が
独特かも知れぬし
アーメットもそうだろうか
457某研究者:2007/05/07(月) 07:11:10 ID:5SOWAxDy
http://www.burgenseite.com/faschen/maria_pfarr_ritter_10.jpg
こんな騎士の服も
有るのだろうか

http://www.burgenseite.com/faschen/kobenz_ritter_1.jpg
此れも馬に乗れる構造なのか
どうかだが
458名無し三等兵:2007/05/09(水) 01:58:17 ID:???
主力がアルケブスから、マスケッタに切り替わる頃の槍兵の価値は、
天候に左右されないことぐらいか。
459某研究者:2007/05/10(木) 08:48:19 ID:Fe5Ollpv
槍歩兵も無用だったのかだろうし
18世紀に騎兵槍がもっと早く復活していたら
槍歩兵も復活したと言う事は無いのかだが
460名無し三等兵:2007/05/10(木) 18:34:46 ID:ywPqlVUq
俺は史上最高の戦略家です。こんにちは!
ここは壁紙を収集するにはもってこいです。お笑いスレだと思われるので息抜きにはいいですね。

>>454
ワロタースオリジナル
思わずコーヒーを噴出し大爆笑しました
とても素晴らしい神レスですね!
461某研究者:2007/05/17(木) 05:03:22 ID:FXCyM2aV
まあ矢張り当時の絵画や遺品等を抜きにして
オスプレイ等の現代のイラストや文献だけで
実際に何が行われていたかを判断するのは
危険と言う事かも知れぬが
462名無し三等兵:2007/05/17(木) 12:29:40 ID:???
>>461
海外のサイトは面白かったよ。読めんのが欠点だが
なかなか良かった
463某研究者:2007/05/23(水) 17:57:17 ID:vSmAKafr
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/erz-108.htm
>ついでにマクシミリアン1世はなぜか大砲を打つのが大好きだったそうで、自ら火薬と砲弾と詰めてはクフシュタイン城めがけて火を放ったそうです。

自分で下馬してパイクを構えた事も
確か有っただろうか


>さて、そのあとマクシミリアンは敵軍の陣地にいたボヘミアの傭兵を無罪放免にしてやりました。「仕事で雇われて戦闘をしてただけだから、悪気はなかったんでしょう」という大らかな判断です。
>さすがは「中世最後の騎士」ですね。しかし、謀反の張本人であるピンツェナウアーの一味42人に対してはいつもの寛大な皇帝らしからず、「即刻全員処刑!」という命令が下りました。

まあしかし捕まった兵は皆助かったと言う事なのか
どうかだが


>「皇帝陛下、これ以上の処刑はおやめになりませんか?」と進言。それは、マクシミリアンの忠臣エーリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カーレンベルクでした。
>この人、見上げた勇気の持ち主ですね。もちろん、皇帝は彼のところにゆくと、罰として平手打ちをすべく手を動かします。が、その手はエーリヒの頬をそっと撫でただけでした。
>そして、残った25人の処刑はとりやめにされたといいます。

>に1504年には、レーゲンスブルク郊外のメンゲルスバッハの戦いで、前線に立つ皇帝が敵の刃にかかりそうになったとき、これを庇おうと身代わりに切られて負傷をしていますよ。

自分の命を助けた者の進言は
聞き入れたと言う事だろうか
464翡翠(星砂) ◆X9uEcr1WoA :2007/05/23(水) 18:06:40 ID:PU+w6ZYB
某研様age
465某研究者:2007/05/24(木) 11:01:50 ID:Zo+gJ4GM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9
>帰国後、母国の指擦官は、無許可の指揮権延長を違法とし、彼への死刑裁判を求めたが、自身の演説によって窮地を脱した。
>この後、再び遠征し、スパルタとアテナイに打撃を与えたが、反撃の機会をうかがっていた国内の政敵により、戦果不足を言及され政界から追放される。
>その後の戦闘では一兵卒として参加、自軍が敵の待ち伏せに遭い全滅の危機に陥る中、指揮権を委任された彼は自軍を救出した。

こんな漫画の様な事が
実際に有った訳だろうか
466名無し三等兵:2007/05/24(木) 11:29:46 ID:???
やっぱり、川中島は無能同士のへぼい戦いだったか。
467某研究者:2007/05/24(木) 21:05:58 ID:Pd7Aomrz
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/maratonnotatakai.htm
>アテネは、将軍ミルティアデスの建議に従い、ペルシア軍との交戦を始めた。激戦のすえアテネ軍は勝利する。この勝利の報をもたらすため伝令となったエウクレス(フェイディビデスともいう)はひたすら走りつづけ、群衆に「われら勝てり」と告げて絶命した。 
> 彼が急いだのには理由がある。アテネではこのとき、抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にあった。

衝突したとしても
マラトン勝利の報を受ければ
結局降伏はしなかったかも知れぬが
衝突で無用な犠牲が出た訳だろうか
468某研究者:2007/05/25(金) 18:41:26 ID:Oqxp3nVw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%82%B9
>スキピオが「史上もっとも偉大な指揮官は誰か」と問いかけると、ハンニバルは「第1にアレクサンドロス大王、
>第2にエペイロスのピュロス、そして第3に自分だ」と答えた。

ピュロスと言うのは上を読む限り
戦術的に何か新しい物は
生み出せたのかだが
スキピオがハンニバル自身より下なのは
ヌミディア騎兵が居なければ自分に勝てなかったと
考えたと言う事かも知れぬが
469某研究者:2007/05/25(金) 19:09:18 ID:Oqxp3nVw
http://dolmeke.blog11.fc2.com/blog-entry-23.html
>ヴェリサリウス(505〜565)は東ローマの将軍で、少数の兵士で大軍の敵を幾度も打ち破った戦術の天才である。

彼も何か新戦術と言うのは
考えたのかどうかだが
470某研究者:2007/05/25(金) 19:25:46 ID:Oqxp3nVw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1
>3000名程の兵士を伴ったベリサリウスは計略により暴徒を競技場に追い込み、伝えられるところによるとおよそ3万人を殺害して反乱を鎮圧した。

此れは一体
どうやって追い込んだのかだが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
>晩年は、皇位を巡る陰謀に加担したとしてユスティニアヌスの命令で逮捕されるが、結局、無実と判明し釈放された。

まあ此れ以外にも何度も
解任されて居るし
他国に亡命する或いは
反乱を起こすと言う事は
何故しなかったのかだが


>強固な防御陣地、従来は主力とされてきた重装歩兵などを囮にすることで自らに有利な戦場へと巧みに敵を誘導し、
>騎兵によって撃破するという戦術は、その後の東ローマ帝国やナポレオンの軍事・戦術へも大きな影響を与えた。

ナポレオンも敵を歩兵で誘導して
騎兵で撃破と言う事を
考えたのかどうかだが
471某研究者:2007/05/26(土) 18:45:49 ID:Rv+YgvPQ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070526-00000001-scn-ent
>「ポスターに描かれたアンディ演じる趙子龍(趙雲)の鎧(よろい)姿がまるで日本の武士のようで、『三国志』に描かれたイメージがぶち壊されている」というのだ。

http://natu.blog65.fc2.com/blog-category-27.html
上の鎧の様だが
中国にこの様な鎧及び兜は
有ったのかだが
(鱗・鎖・明光鎧・札鎧辺りが
 主流だった訳だろうか)
472某研究者:2007/05/27(日) 20:47:06 ID:TzwJt9o/
ベリサリウスが皇帝に成っていたら
ローマ帝国復活も有り得たのかだが
ベリサリウスの死後分裂・弱体化したり
イスラム勢力等にやられたと言う可能性も
有る訳だろうか
473某研究者:2007/05/27(日) 20:54:46 ID:TzwJt9o/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96
ユスティヌス1世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96
ユスティニアヌス1世は共に
ベリサリウス同様に農民出身と言う事の様だが
ユスティヌス1世は軍人だった様だが
何故皇帝に選ばれたのだろうか
(神聖ローマ皇帝同様に
 野心の成さそうな者が選ばれたと言う
 事なのだろうか)
474名無し三等兵:2007/05/27(日) 20:59:08 ID:???
某研すげえな
475某研究者:2007/05/27(日) 21:43:54 ID:TzwJt9o/
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/990430.html
此所迄何度も戦術を駆使して勝ち続けた将軍等
居るのかだが
皇帝の猜疑心に拠り
十分な兵力を常に与えられなかった故の事だろうか
476名無し三等兵:2007/05/28(月) 02:52:46 ID:WAhn3XAe
ユスティニアヌスまでの時代はまだ建前だけじゃなく、
本質的な部分でも皇帝は市民の代表者だから
本人にやる気が合って周りが認めるぐらいの実績さえあれば幾らでも皇帝になれますぜ
ビザンツ人が血筋そのものが神聖だと考え出すのはもうちょい後です
ディオクレティアヌスも貧農出身の軍人でしたし
477某研究者:2007/05/28(月) 20:28:53 ID:d/cDXLA6
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/990430.html
>ベリサリウスは、丘陵に挟まれたダラの要塞正面の低地に、壕を掘ってペルシア軍を迎え撃つ。

野戦で壕を利用したのは
彼が初なのかどうかだが
中国では此れより前にも有るかも知れぬが


>翌531年、ペルシア軍は通過不可能と考えられていた砂漠を越えてシリアヘと進攻する。
>しかし国境沿いに能率的な通信網を築き、軍を高度に機動化していたベリサリウスは、2万の軍勢を率いて北方から急行、ペルシア軍に退却を強いて、その本国へと駆逐していった。

この様な通信網が築かれたのは
初と言う事は無いのかどうかだが


>上陸したベリサリウスは、現地住民の支持の必要を説いて、厳格な軍紀で部隊を律し、何の抵抗もうけずに前進、船団と連絡を取りつつカルタゴに迫る。

仮に皇帝と成った場合政治手腕も有ったかも知れぬし
ローマ復活は短期なら
可能だったと言う事は無いのかだが
478名無し三等兵:2007/05/28(月) 20:36:08 ID:WAhn3XAe
ベリサリウスの使用人が書いた本を見ればなんとなくわかると思いますが、
ベリサリウス個人には皇帝になれるような器はありません
そういうのはどっちかっていうと奥さんの方が向いてます
本気でベリサリウスが皇帝になろうと思ったなら
滅茶苦茶な指示ばっかり出すユスティニアヌスは殺されてたでしょうし
そこから来る混乱は相当なものでしょうからローマ復活なんて夢のまた夢ではないでしょうか
479某研究者:2007/05/28(月) 20:52:58 ID:d/cDXLA6
>これに対してヴァンダル側は主カで東ローマ軍を受け止めつつ、王自身の率いる一隊が大きく迂回、ベリサリウス軍の背後を襲う計画であった。

此れが成功していたら
ベリサリウスもやられていたと言う可能性は無いのかだが
部隊壊滅は免れた可能性は
無いのかどうかだが


>この翌日ベリサリウスは歓呼に迎えられカルタゴに入り、軍の厳正な秩序を保って占領を行った。

ハンニバル敗北後はローマ化されたカルタゴも
蛮族であるゲルマン人の支配には
納得して居なかった訳だろうか


>ベリサリウスは、船団を港の奥まで突入させ、帆柱の頂点に引き上げたボートから城塞を射撃。

この様な事も彼が初なのか
どうかだが

>ナポリは堅固に要塞化されていたが、ベリサリウスは乾いた水道の通路から兵士を市内に送り込み、内外からの攻撃によってナポリを攻略、

漫画等では良く有る手だろうが
相手が蛮族だから通用したと言う事は
無いのかだが
480某研究者:2007/05/28(月) 20:55:55 ID:d/cDXLA6
>本気でベリサリウスが皇帝になろうと思ったなら
>滅茶苦茶な指示ばっかり出すユスティニアヌスは殺されてたでしょうし

軍事的才覚の差を考えれば短期で倒せたかも知れぬし
混乱等何処迄起きたのか
どうかだろうし
統治能力は遠征先の状況を見る限り
可也優れているかも知れぬが


>東ゴートはシチリアを厚遇していたにもかかわらず、島民はベリサリウスを解放者として歓迎、

>、6千の軍勢とともに市民の熱烈な歓迎を受けてローマに入城、

旧ローマ帝国の大半の地域では東ローマの支配を
望んで居たと言う事なのか
どうかだが
481某研究者:2007/05/28(月) 21:24:28 ID:d/cDXLA6
>しかしベリサリウスがおびただしい篝火で兵力を誇張して進み、

>ホスローは講和の交渉と称して密偵を送り込むが、彼は巧みな部隊配置と自信に溝ちた態度で、この使節を歎き、自軍を大兵力に見せかける。
>そのため退路に脅威を感じたホスローは侵攻の継続を断念、ペリサリウスは血を流すことなく帝国の防衛に成功した。

>トティラはベリサリウスのローマヘの接近を防ぐため、ティベル川に橋と塔によって防御施設を築いたが、ベリサリウスは船団の先頭に巨船をつないでつくった浮き城を押し立てて進み、これによって敵の守る塔を圧倒、さらに火攻めを行って防御施設の突破を図った。

この辺りの戦術も中国には
500年以前に有ったかも知れぬが
欧州では可也珍しいと言う事かも
知れぬが


>ベリサリウスはこの事態に対処するため544年出征、アドリア海を奥へと進んでラヴェンナに入り、イタリア人を再び従わせるため懸命に説得を行った。しかし説得は効果が無く、

此れは他の東ローマの将軍が余程酷い支配をした
所為なのだろうか
482某研究者:2007/05/28(月) 21:33:19 ID:d/cDXLA6
>ベリサリウス個人には皇帝になれるような器はありません
>そういうのはどっちかっていうと奥さんの方が向いてます

http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/dame04.html
>ちなみに密告者達はアントニナの命で舌を切り落とされ、体を切り刻まれて海に捨てられる。

>、一旦コンスタンチノープルに戻ったベリサリウスは、アントニナを処刑する直前まで行く。ところがアントニナは親交のある皇后を事態に介入させ、皇后の面前で妻と包容することになったベリサリウスは、激怒していたはずが、あっさり互いに許し合う気持ちになる。
>ちなみにフォティウスは、憤激したアントニナの命で、笞や締め木による拷問や、地下牢への幽閉といった残酷な処遇を長らく受けつづける。

こんな者がまともな皇帝に成ったのかだろうし
ベリサリウスもアントニナを処刑していれば
皇帝に成る気も起きたのか
どうかだが
483某研究者:2007/05/28(月) 22:05:51 ID:d/cDXLA6
>なぜか皇后テオドラは彼を憎悪し、ユスティニアヌスの心の闇に毒を吹き付けます。ちょっと私には理解できない人間関係なのですが、テオドラとアントニナは極めて親密なのですが、なぜ友達の夫を中傷しまくるのでしょうか。

ベリサリウスが冷遇されたのは
テオドラの仕業なのだろうか
484某研究者:2007/05/28(月) 22:56:22 ID:d/cDXLA6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%80%E3%82%B9
>レオニダス(?〜紀元前480年)。スパルタ王。
>紀元前480年、ペルシャ戦争でスパルタの重装歩兵300名を率いてテルモピレーの戦いでクセルクセス1世の大軍を手こずらせ自ら戦死し部下も玉砕した。

王が居て300しか兵を割かなかったのも
不可解だが
相手の力を侮って居たと言う事は無いのかだが
485某研究者:2007/05/28(月) 23:07:58 ID:d/cDXLA6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%94%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
まあしかし5000対6−20万で地形が有れば
そう無謀な数字でも無いかも
知れぬし
300人だけで戦った訳では
無い訳だろうか


>3日目の未明にアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは会議を開いたが、徹底交戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛戦から撤退し、
>スパルタ重装歩兵とテバイ、テスピアイ兵は、共にテルモピュライに残った。

この段階で残ったのは総計1000程度だろうが

>この戦いによるペルシア軍の戦死者は2万人とされる。

地形の無い場所で20000も倒せるのか
どうかだが
同時にどの程度の兵力と
戦ったのだろうか
486某研究者:2007/05/29(火) 15:23:08 ID:CyZ72xLJ
ローマも生産性の低いヨーロッパ等は捨てて
バクダッドに首都を置き
ペルシャ・トルコ・ギリシャ・エジプトを中心としていれば
可也長持ちしたかも知れぬが
何故これを考えなかったのかだが
ローマも生産性の低いヨーロッパ等に篭ったから
ペルシャやイスラム等との国力の差が徐々に出て
敗れたと言う事も有るかも知れぬし
アレクサンダーは確かバビロンを首都としていたかも知れぬし
彼の様な柔軟な人間が皇帝なら
イスラム帝国の様にローマは
長持ちしたかも知れぬが
487某研究者:2007/05/29(火) 15:54:00 ID:CyZ72xLJ
http://a-s.cocolog-nifty.com/another_style/cat3408085/index.html
>また後年ペルシア帝国を築いたアレクサンダー大王も、バビロンをその首都とする決心をしていたが、王の短命のためはたされなかった。

矢張りアレクサンダーも
バビロンを首都とする予定だった訳だろうし
生産性の低い欧州等に篭れば
どう成るかと言う事は
分かって居たと言う事かも知れぬし
対ペルシャ宥和政策も此れの伏線だったと言う
事かも知れぬが
488名無し三等兵:2007/05/29(火) 16:17:45 ID:???
サーサーン朝が存在する以上無理
コンスタンティノポリスが帝国で最良の場所だった
489某研究者:2007/05/29(火) 18:25:47 ID:CyZ72xLJ
ベリサリウスレベルの人間なら
ペルシャも滅ぼせたと言う事は
無いのかだが
490某研究者:2007/05/29(火) 18:28:17 ID:CyZ72xLJ
まあ矢張り生産力が低く蛮族が侵入する
ヨーロッパの辺境のローマ等に
首都を置いた事が
誤りだった訳だろうか
491某研究者:2007/05/29(火) 20:00:44 ID:CyZ72xLJ
まあしかしローマと言うのはイスラムと比べても
科学が進歩したのかだろうが
首都をバビロンに置いた事で
ギリシャ化が進めば科学も復興したのか
どうかだが
ビザンチンには科学は何処迄
有ったのだろうか
492某研究者:2007/05/29(火) 20:07:37 ID:CyZ72xLJ
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/rekisinonaka/1~16/3tienoie.html
>ビザンチン帝国は、
>東ローマ帝国とも呼ばれるので、ローマ帝国と考えられやすいが、
>事実上ギリシア帝国に変わっていた。

>しかしビザンチン帝国は、古代ギリシアの科学や哲学に積極的な関心は持たなかったらしい。

>当時のキリスト教徒は、

>キリストを神と人の間にどう位置づけるかという問題をめぐって、
>きびしい宗教的対立を続けていた。

>そんな雰囲気では、古代ギリシアの理性を重んずる思想は危険視されたのだろう。


キリスト教がギリシャ化を
妨害していた様だが
多神教のローマがギリシャ化した場合
イスラム以上の科学復興は有り得たのか
どうかだが
493某研究者:2007/05/29(火) 20:14:02 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%B2
>しかしローマでは実践的・実用的な科学に重きがおかれ、ギリシアの文化や思想はあまり浸透しなかった。ウァロはギリシアの科学から知識を吸収し、
>学問を9つに分類して体系化した。すなわち文法学・論理学・修辞学・幾何学・数論・天文学・音楽の自由七科と医学と建築学である。この後に網羅的な研究が進められ、道路や水道が整備され、建築や彫刻を設計する技術力を獲得する。

ローマも技術は兎も角
科学はギリシャより後退している様だし
イスラムでは科学は後退しては居ない訳だろうか
(まあローマも技術が高度に進歩すれば
 何れ科学にも目が行くと言う事は
 有り得たかも知れぬが
 果たしてどうだろうか)
494某研究者:2007/05/29(火) 20:30:51 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E7%A7%91%E5%AD%A6
>しかし、外来の学問であっても正確な知識を求めることはハディースに照らしてもイスラムに相応しい行為とされ、固有の学問を修める学者が外来の学問を兼修することはまったく珍しいことではなかった。

こう言う考えは十字軍以前のキリスト教徒には
全く無かった訳だろうか
495某研究者:2007/05/29(火) 20:39:22 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89
>1258年のモンゴル帝国軍の侵攻によってアッバース朝が滅ぼされ、カリフの都の座を奪われると学問の中心の座もマムルーク朝の都カイロに譲り、ただイラク地方の中心に過ぎない地方都市へと転落した。

これがイスラム科学の進歩が
止まった最大の理由と言う事は
無いのかどうかだが
496某研究者:2007/05/29(火) 20:56:19 ID:CyZ72xLJ
ローマ等世界的に見れば欧州の蛮族にのみ
殆ど勝っていただけの
辺境の大国だったと言う事は
無いのかどうかだが
497名無し三等兵:2007/05/29(火) 21:15:16 ID:???
ホントだ。某研のレスはホノボノとしているなぁ。
俄将軍と違って不快感を感じない。
なんでだろ?
498某研究者:2007/05/29(火) 21:25:22 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0
>彼の研究は、数多くの実験を行い、そこから帰納法的な推論を用いて理論を打ち立てたことが特徴である。
>彼はプトレマイオスやユークリッドらによる古代ギリシア・古代ローマの科学研究を多くの面で引き継いだが、眼から発する放射物によって物が見えるという先人たちの理論とは反対の立場に立ち、物の放つ光を受けて眼の中に像が結ばれると考えた。

ここ迄考えたローマの科学者と言うのは
居なかったと言う事だろうか

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9
ローマ時代のプトレマイオスも
集大成的な仕事が
大半だった訳だろうか
499某研究者:2007/05/29(火) 22:00:19 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0
>彼はまた物質同士の引力の理論についても論じ、加速度の大きさは重力に関係があることに気付いていたと思われる。

>彼の、後世の数学や物理学に対する功績は
>幅広い。数学では、代数学と幾何学の間に
>つながりを作ったことで、解析幾何学の基
>礎を築いた。物理学では、彼は物の動きの
>研究を行い、運動は外からの力で止められ
>るか運動の方向を変えられない限り永久に
>続くと主張した。これは後にガリレオ・ガ
>リレイらが提唱しアイザック・ニュートン
>がまとめた運動の第1法則を先取りしたも
>のだった。その他、彼は動物の進化につい
>ても論じている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A0
>最後の審判の日や、死後の報償や懲罰など
>も信じていなかった。ウマルはむしろ、自
>然の法則が、生命について観察されるすべ
>ての現象を説明するという見解を支持していた。

500某研究者:2007/05/29(火) 22:02:03 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%B3
>彼の業績は化学、薬学の分野が顕著であ
>る。彼が発明したとされる、塩酸、硝酸、
>硫酸の精製と結晶化法などは現在の化学工
>業の基礎となっている。金などの貴金属を
>融かすことのできる王水も彼の発明による
>ものである。彼はまた有機化合物であるク
>エン酸、酢酸、酒石酸などの発見者ともさ
>れている。発明は化学器具にも及んでい
>る。彼が工夫した蒸留装置はランビキ (al
>embic) として、現在も使われている。化
>学にとって重要なアルカリの概念も彼によ
>って産み出された。

これ等もローマには全く無い物だろうし
モンゴルや十字軍の侵攻が無い場合は
イスラム文明が世界を支配した可能性も
有る訳だろうか
501某研究者:2007/05/30(水) 03:32:37 ID:zVmL6yFb
http://cwaweb.bai.ne.jp/~dsssm/sonotarekishi/heisitatino.htm
>五賢帝の最後の皇帝、哲人皇帝として有名なマルクス・アウレリウスの時代には、ローマ帝国の斜陽がはっきりと現れてくる。パルティアで勝利したが、遠征した軍隊が持ち帰った天然痘が帝国各地で広まり、
>イタリアでは人口の三分の一ないし半分を失ったと言われる。経済的軍事的損失ははかりしれないものとなり、この窮状を見てゲルマン諸族が帝国内へ侵入を始めた。

ローマ衰退の最大の原因は
此れでは無いのかだが
生産性の低い欧州等に篭れば何れ
スペイン等の様にやられていたかも知れぬが
502某研究者:2007/05/30(水) 03:33:30 ID:zVmL6yFb
マルクス・アウレリウス帝の実子コンモドゥス帝は、久方ぶりのとんでもない暴君であった。帝国の運命になんの興味も持たなかった彼は、さっさとゲルマン諸族と講和を結んでローマに帰り、猛獣との格闘などの遊楽にふけった。
503某研究者:2007/05/30(水) 03:37:27 ID:zVmL6yFb
>だが、マルクス・アウレリウス帝は、ゲルマン人に対して決定的な勝利を今まさにおさめんとするところまでいっていたのである。180年の彼の死と、そして養子相続の終わりから、恐るべき滅茶苦茶な時代が始まった。

マルクス・アウレリウスも優秀な人間を養子としておれば
どうだったのかだが
欧州に篭ればローマ滅亡を果たして
止められたのかどうかだが
504名無し三等兵:2007/05/30(水) 16:42:55 ID:???
塩婆は、コンモドゥスを皇帝としなかった場合のデメリットを上げていたな。
実の子がいるのに、あえて養子縁組みによる相続を進めることは、
元老院その他の承認をスムースに得ることが難しかろうこと。
そして、何より不満を持つ、コンモドゥス自身が反乱を起こすこと。

あんまり塩婆は好きじゃないが、確かにその通りと思ったよ。
継承の過程がギスギスになったところへもってして、
血統という正統性を訴えれば、コンモドゥスに着こうというローマ軍団兵も多かろう。

弱体化の始まったローマにおいて、内乱、内部分裂は何としても避けなければならないと思うけどね。
505名無し三等兵:2007/05/30(水) 16:43:59 ID:???
>>503
ああ、もう一つ言い忘れていた。

五賢帝のうち、血統上の実の息子がいたのは、マルクス・アウレリウスだけだったのだぜ。
506某研究者:2007/05/30(水) 23:09:18 ID:rCgjdas4
>実の子がいるのに、あえて養子縁組みによる相続を進めることは、
>元老院その他の承認をスムースに得ることが難しかろうこと。

事故死等と見せかけて始末し
何とかすると言う方向も有ったかも知れぬが
其処迄の度量は無かった訳だろうか


>五賢帝のうち、血統上の実の息子がいたのは、マルクス・アウレリウスだけだったのだぜ。

つまり偶然子供が皇帝に成らなかった事が続いた故に
良い指導者が続けて出て来たと言う
事なのだろうか
507某研究者:2007/05/30(水) 23:11:48 ID:rCgjdas4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9
>皇帝自ら円形闘技場で剣闘士試合に参加し、ギリシア神話の英雄ヘラクレスに扮して、1万2千人の剣闘士を殺害したという。

まあしかし剣の技術は有ったと言う
事かも知れぬが
相手にハンデが有ったり
自分の味方が優勢な状態で
勝負したと言う可能性も有る訳だろうか
508某研究者:2007/05/30(水) 23:25:27 ID:rCgjdas4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
>1528年、フランスのリヨンで青銅版に刻まれたこの演説の原文が発見されたことで、従来は虚弱な暗君と思われてきたクラウディウスの評価は一変したのである。

発見直後にはこの内容と言うのは
問題にされたのかどうかだが
509名無し三等兵:2007/05/30(水) 23:33:51 ID:???
>それはどこからでも、優れたものであれば、皆この首都に移植するということである。

文化ではなく、文明を造っちゃう人の言葉だね。
510某研究者:2007/05/31(木) 02:09:41 ID:MxPsuPvY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%82%A8%E3%82%AB
>その後名馬に成長し、20年以上(30年?)に渡ってエル・シドを乗せて戦った。

こんな事は実際に
有り得るのかどうかだが
511某研究者:2007/05/31(木) 02:13:45 ID:MxPsuPvY
> 征服後、暫くしてイスラム勢力との戦いのさなか、シドは流れ矢に当たり、その夜に死んでしまう。

映画でこの様な場面が有っただろうが
実話だったとは知らなかったが
512某研究者:2007/05/31(木) 02:19:22 ID:MxPsuPvY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
>1169年にはサラディンがエジプトの宰相になり、これを完全に支配下に置いた。しかし、サラディンは事実上自立し、1171年、1173年のヌールッディーンのエルサレム攻撃にも参加せず、
>却ってエルサレム王国が両勢力の緩衝地帯として存続することを望んだ。1174年にヌールッディーンはエジプト遠征の準備をしていたが、5月に熱病(一説によると扁桃の化膿)にかかり死亡した。
>彼の息子が後を継いだが、1185年にサラディンのエジプト政権(アイユーブ朝)に併合された。

サラディンもイスラム世界を十字軍から守る事を
最大限優先していた訳では無い訳だろうか
513某研究者:2007/05/31(木) 02:56:05 ID:MxPsuPvY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
>1240年夏にはビルゲル率いるスウェーデン軍がノヴゴロドに侵攻して来たのである。しかしアレクサンドルはこれに対し、わずかな兵力でネヴァ河畔の戦いで大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させると共に敵将・ビルゲルを討ち取ってしまったのである。

>そして1242年4月、今度はドイツ騎士団が侵攻して来たが、アレクサンドルは「氷上の決戦」という名でも有名なチュド湖上の戦いで勝利し、さらに勇名を轟かせたのである。

此れは一体どうやって勝ったのかだが
スウェーデンやドイツが仮に勝利しても
恐らくモンゴルに敗れていた訳だろうか

>1260年にはリトアニア大公のミンダウカスと同盟して宿敵・ドイツ騎士団を再び破ったのである。

まあしかしこの段階で敗れた場合は
ロシアは独に占領されていたと言う事は
無いのかだが


>ジョチ・ウルスに対して臣従を誓うことで、その侵攻と国家の荒廃を防ぎ(これには、バトゥがアレクサンドルの勇名を恐れて、侵攻しなかったとも言われている)、

アレクサンドル・ネフスキーと言うのは
モンゴルも恐れる将軍だったと言う
事なのだろうか
514某研究者:2007/05/31(木) 02:59:24 ID:MxPsuPvY
>しかし、一部の史料では国民の反モンゴル運動に対して厳しい弾圧を行なったことから、暴君とも称されている。

まあ一部の国民でもモンゴルに反抗すれば
此れを口実に殲滅される危険も
有った訳だろうし
止む負えぬ行動だったと言う事も
有る訳だろうか


>スウェーデンやドイツ騎士団と戦い勝利を収めたという記録は西欧カトリック勢力には一切記録されておらず、ロシア以外の歴史家からは、彼の戦功は疑問視されている。

等と言う意見も
有る訳だろうか
515名無し三等兵:2007/05/31(木) 03:07:22 ID:???
MGS4のソリッド・スネーク大丈夫かな
516某研究者:2007/05/31(木) 03:12:11 ID:MxPsuPvY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%83%A9
>オランダ(ネーデルラント連邦共和国)軍を率いるマウリッツ・ファン・ナッサウと互角の攻防を展開する。

マウリッツが居てもオランダが中々
独立出来なかったのは
アンブロジオ・スピノラが居た所為と言う事だろうか
517某研究者:2007/05/31(木) 03:18:24 ID:MxPsuPvY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B9
>1625年、ネーデルラント南部の要塞ブレダにおけるスペイン軍の戦勝を記念して制作されたもので、敗れたブレダ守備隊の指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム1世の庶子)が、
>勝者であるスペイン側の総司令官アンブロジオ・スピノラに城門の鍵を渡そうとする場面が描かれている。
>この種の戦勝画では敗軍の将は地面に膝をつき、勝者はそれを馬上から見下ろすという構図が普通であったが、この『ブレダの開城』では、敗軍の将ユスティヌスと勝者スピノラは同じ地面に対等の位置で立っている。
>温和な表情のスピノラは、まるで長年の友人に対するように敗者ユスティヌスの肩に手を置いている
>(ちなみに両者は1601年にニューポールトで対戦したこともある)。
>スピノラの傍らに大きく描かれた馬は、彼が敗者に敬意を表するためにわざわざ馬から下りたことを示している。このような、勝者側の寛大さを二重三重に強調した表現は、敗者に名誉ある撤退を許したスペインの騎士道精神の勝利を表したものといわれている。

まあしかし本当にこう言う事が
行われたのかどうかだが
518某研究者:2007/05/31(木) 18:16:23 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A9%E5%85%AC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
>マールバラの戦略の特徴は、機動性を重視して当時としてはきわめて異例な行軍速度を誇ったことにある。彼はそのために事前に兵站を綿密に計画し、行軍時間や武器の輸送方法を工夫して、
>兵士の疲労や物資の遅延を起こさないようにしつつ、1日に何マイルもの移動を行った。

フリードリヒ大王やナポレオンの軍隊より
機動性は高いのかどうかだが
仮に解任されなかったとしても仏には勝てたのか
どうかだが
519某研究者:2007/05/31(木) 18:21:45 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3
>長男ではなかったため伯爵を継げなかったオイゲンは軍人となる道を選んだが、ルイ14世のフランス軍では用いられるところがなかったので、1683年にオーストリアに渡ってフランス王の宿敵であるハプスブルク家のレオポルト1世に仕え、オーストリア軍の将校となった。

オイゲンが仏側に居たら
仏は勝ったと言う事は無いのか
どうかだが
520某研究者:2007/05/31(木) 18:25:17 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A9%E5%85%AC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
>三十年戦争におけるフランスの英雄テュレンヌ元帥の知遇を受けてその軍才を見出された。

マールバラ公も仏に育てられていたと言う
事かも知れぬが
30年戦争後に同盟国の仏と戦う可能性が有るとは
考えて居たのかどうかだが
この時代ではこの程度の事は良く有る事と言う事かも
知れぬが
521某研究者:2007/05/31(木) 18:50:34 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%AF
>彼はポーランドと休戦条約を結び、ドイツへと向かった。彼のポーランドとの休戦は、大北方戦争全体では、失敗であったと言われている。

ポーランドは容易に叩けた故と言う
事なのだろうか


>しかし彼の名声は、彼を慢心へと陥らせた。彼はデンマーク領のドイツ都市を無慈悲に焼き討ちにしたのである(1712年12月29日)。彼はこの行為によって、全ドイツを敵に回し、次第に孤立していった。元より本国からの支援もなく、補給も得られなかった。

この様な破壊をしなく共
敗北は決定的だったと言う
事なのかどうかだが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB12%E4%B8%96_%28%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8E%8B%29
カール12世も暗殺されねばだろうし
ポルタヴァもカール12世が指揮を採って居れば
勝てたと言う事は無いのかだが
522某研究者:2007/05/31(木) 18:55:23 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
>21歳のときにオイゲン公とともにベオグラード攻囲戦に参加した。フランス政府に誘われ、1720年にパリへ出てフランス軍に入隊した。

逆に仏側に引き抜かれた将軍も
居る訳だろうか


>また軍服や帽子、ゲートルは実戦に不向きである。

帽子は無用かも知れぬが
派手な軍服は敵味方識別の為に
この時点では必要だったと言う事かも知れぬが
523某研究者:2007/05/31(木) 19:34:05 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95
>そのためにスヴォーロフは機動を重視し、それを可能とする軍の質を維持するための猛訓練を奨励した。

兵の質を重視するロシアの将軍も
居た訳だろうか


>また、強襲に際しては射撃よりも銃剣突撃を活用するように命じた。これを述べた著名な言葉が「弾丸は嘘をつく。銃剣は正直だ」である。

銃剣と機動力強化の為の訓練を
主体として居たと言う
事なのだろうか
524某研究者:2007/05/31(木) 19:57:02 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8C
>、レーゲンスブルク攻略戦ではあまりの苦戦に怯えた部下を叱咤すべく「私は元帥である以前に擲弾兵である」と叫ぶや自ら梯子を掴んで城壁によじ登ろうとし(さすがに部下達に制止されたが)、奮い立った将兵達と共にこの堅塁を陥落せしめた。

この時点でも梯子で城壁を
登って攻略していた訳だろうか


>その後5月22日、アスペルン・エスリンクの戦いで優勢なオーストリア軍と交戦、敵弾を物ともせず陣頭指揮を執っている最中に足に砲弾を受けて倒れる。右足切断の緊急手術を受けた後直ちに後送され、一時は小康状態になったものの傷口が化膿して容態が悪化、31日に死んだ。

手足を切断して助かった兵等
ネルソン等を見る様に可也居るかも知れぬが
運が無かった或いはミュラ等に
暗殺されたのかどうかだが
(当時の砲弾は低速なので回避出来る等と言うが
 近距離で砲撃を受けたか
 炸裂弾や葡萄弾を遠距離から受けたと言う
 可能性も有る訳だろうか)
525某研究者:2007/05/31(木) 20:14:59 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%82%A4
>自身が見出して副官としたスイス人傭兵ジョミニ(高名な軍事理論家でもあった)の助力もあって、歩兵指揮官としても優れた能力を身につけている。
>ネイは個人的にジョミニの著作の出版費用を負担するなど彼をさまざまに援助しており、ベルティエ元帥と対立してネイのもとを離れた後も、ジョミニは終生ネイを敬愛していたという。

ジョミニが残って居たら
ワーテルローの結果も変わって居たと言う事は
無いのかだが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%EF%BC%9D%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B4%E3%83%BC
>遠征序盤の包囲作戦やボロディノの戦いなどは、ダヴーの助言を容れていれば勝てたとされる事も多い。

ナポレオンも熱を出していた為に
助言を受けなかったと言う事だっただろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%EF%BC%9D%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B4%E3%83%BC
>ダヴー本人は前線で戦う事を希望したが皇帝の方にも安心してパリを任せられる者がいないという事情があり、やむなくこれを引き受ける事になる。

パリを捨ててでもダヴーを前線に置けば
ワーテルローも勝てたと言う事は
無いのかだが
526某研究者:2007/05/31(木) 20:33:07 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8A
>マッセナをナポレオン麾下の元帥の中で最優秀と評価する歴史家もいるほどである。

>エルバ島からナポレオンが脱出し、いわゆる百日天下が始まると、マッセナは彼を支持したが、軍に加わることはなかった。

彼がワーテルローで戦って居たら
どう成って居たのかだが
527某研究者:2007/06/01(金) 23:54:51 ID:+xQ00CXP
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Achaemenid_Empire.jpg
アケメネス朝ペルシャの版図を考えれば
ペルシャから見れば
ギリシャやスパルタ等辺境の蛮族と言う
事なのかどうかだが
528某研究者:2007/06/01(金) 23:58:50 ID:+xQ00CXP
>当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に傀儡僭主を擁立し、彼らを介して内政に干渉するというものであったが、民主制をとるアテナイに受け入れられるものではなかった。

まあ只アテナイも
果たして民主主義を守る為にペルシャに反発したのかだろうし
スパルタはそうでは無い訳だろうか
529某研究者:2007/06/02(土) 00:02:14 ID:+xQ00CXP
>当時のアテナイは親ペルシア派と反ペルシア派の反目によって動揺していた上に、

多少介入を受けても民主主義は維持可能と
親ペルシャ派は考えたのか
或いは民主主義は重視して居なかったのかだが
ペルシャも民主主義を完全に根絶する気は
有ったのかだろうし
ペルシャに反抗しない範囲なら
民主主義も認めたと言う可能性は
有る訳だろうか
530某研究者:2007/06/02(土) 00:11:19 ID:YSh1y+B0
反ペルシャ派がペルシャに支配者に認められたからと言って
彼等が民主主義を捨てると言う事は考えられるのかだろうが
軍や資金の拠出は強要されたと言う
可能性は有る訳だろうか
531某研究者:2007/06/02(土) 00:24:33 ID:YSh1y+B0
>紀元前491年、ダレイオス1世はギリシアの各ポリスに服従を求め、エーゲ海島嶼部のポリスはほとんどが要求を受け入れた。

この降伏した連中が全て民主主義を放棄したとは
到底思えない訳だろうか


>一方で、ペルシアはアテナイやスパルタには使者を送らなかった。

使者を送っていれば
スパルタは或いはペルシャに付いたと言う事は
無いのかどうかだろうし
此れは失策では無いのかどうかだが
532某研究者:2007/06/02(土) 00:47:17 ID:YSh1y+B0
>スパルタが主力となって防衛にあたったテルモピュライの戦いでは、カルネイア祭によってスパルタが300人しか派遣できなかった上、

カルネイア祭が無ければ
万単位の兵力が動員出来
例の300人の壊滅は無かった可能性も
有る訳だろうか


>ペロポネソス半島の諸国は、アテナイが制圧された以上、アッティカ半島の防衛は不要と考え、イストモスに防衛線を築くことを主張した。
>しかし、テミストクレスは断固反対し、敵味方双方を篭絡して、なし崩し的にサラミス水道での開戦にこぎつけた。ギリシア連合艦隊をまとめあげることに成功したテミストクレスは、
>地の利を生かしてペルシア艦隊を破った。

サラミスで戦わなかったら
ギリシャ軍は敗れて居たと言う可能性は無いのかだが

>マルドニオスは、ギリシア軍の動揺を誘うため騎兵隊を差し向けたが、メガラ軍とアテナイ軍は騎馬部隊を破って戦意高揚し、
>全軍が山地を下ってプラタイアに進軍した。ギリシア連合軍約11万 は、スパルタの重装歩兵密集陣の活躍によってペルシア軍を敗退させ、
>ペルシア側の総司令官マルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。ペルシア軍はテーバイに逃げて籠城したが、ペルシア増援部隊はプラタイアから敗走する自軍を見てテーバイを放棄し、テッサリアからマケドニアを経て、アジアに撤退した。

こう言う事が起きてペルシャが敗れたと言う可能性も
有るだろうが
サラミスでやられた兵力が有れば
どうだったのかだが
533某研究者:2007/06/02(土) 00:52:36 ID:YSh1y+B0
>この戦争は「自由」のための戦いと称され、

まあしかしスパルタよりはペルシャの方が
自由は無かったのかだろうし
アテナイの自由と言うのも
ペルシャと比べてそう有ったのかどうかだろうし
民の生活レベルはペルシャの方が
上だったと言う事は無いのかだが
534某研究者:2007/06/02(土) 01:00:27 ID:YSh1y+B0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AD%E3%82%B9%E5%90%8C%E7%9B%9F
>同盟から離脱しようとするポリスには見せしめとして壊滅的な打撃を与えることもあり、次第に同盟はアテナイが他の諸ポリスを支配する機関へと変貌していった。こうした状況を指して、「アテネ帝国」と形容する歴史家もいる。

ペルシャの支配の方が
上の様なアテネの支配より
ましだったと言う事は無いのかどうかだが
535名無し三等兵:2007/06/02(土) 01:11:20 ID:???
欧州を侵略したモンゴル軍の装備を見れば、伝統的なモンゴルの軽騎兵のものばかりではなく
中東の装備も多数見られたそうだ。
彼らは侵略した先々で、打ち破った敵の戦術や装備を取り入れていった。
なまじ、自らの文化や戦略に自身があった文明国には、なかなか受け入れることが出来ないことだったようだが
厳しい環境で育った遊牧民族達にとっては、実用性が何よりも大切であり、そんな面子は簡単に棄てることが出来たのだな
536某研究者:2007/06/02(土) 01:26:22 ID:YSh1y+B0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%9D
>ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。

ペルシャがギリシャ併合の影響で
何れ民主制を採用した可能性も
有るのかどうかだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96
>ただしペルシア戦争の段階では、対ギリシア戦争は、アケメネス朝によるギリシア侵攻戦争であり、いわば辺境での領土闘争に過ぎなかった。
>また、戦争敗退後においても、豊富な財力と政治力によって、事実上ギリシアの諸ポリスに強い影響力を揮った。

ペルシャに取ってはギリシャ等
辺境の戦争の強い蛮族と言う程度の
認識しか無かったと言う事かも知れぬが
537某研究者:2007/06/02(土) 01:29:14 ID:YSh1y+B0
>欧州を侵略したモンゴル軍の装備を見れば、伝統的なモンゴルの軽騎兵のものばかりではなく
>中東の装備も多数見られたそうだ。
>彼らは侵略した先々で、打ち破った敵の戦術や装備を取り入れていった。

まあしかしモンゴルより優れた装備が
どれだけ有ったかは不明だろうし
技術を導入はせず接収した物を使ったと言う
事かも知れぬが
十字軍も綿入れ等イスラムの装備を
一部模倣していた訳だろうか
538某研究者:2007/06/02(土) 16:03:43 ID:Z36jayyR
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/pope/story/02yomiuri20070601i516/

まあしかしスペインが何を目論んで
布教していたのかと言う事は有る訳だろうし
彼等も日本占領の尖兵として
利用されていたと言う事かも知れぬし
彼等自身に其の認識が有ったのかどうかだが
仮に無いとしても
九州等で仏像や寺院・神社等を破壊していた連中迄
聖者とされるのはどうなのかだが


ジャンヌもフス教徒を討ちたいと言う様な
手紙を書いているし
フス派が名誉回復されたので有れば
ジャンヌが聖者であるのは
どうなのかだが

539某研究者:2007/06/02(土) 17:33:08 ID:Z36jayyR
ティムールも欧州では無く
中国を目指した訳だろうし
ペルシャやイスラム帝国・トルコも
生産性の低い欧州等は捨てて
インドや中国を
攻略すべきだったと言う
事かも知れぬが
540某研究者:2007/06/02(土) 17:38:58 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB
インドも攻略は難しくは
無かったかも知れぬし
中国やインドをトルコ等が手に入れる事は
可能だったと言う事かも知れぬが
ペルシャやイスラム帝国の軍では
どうなのだろうか
541某研究者:2007/06/02(土) 17:43:46 ID:Z36jayyR
ペルシャ等が中国やインドを攻略した後
首都を何処に置くべきなのかだが
バクダッドでは無く中間地点のペルシャやインド辺りに
置くと言う手も有ったかも知れぬが
(インドやペルシャの沿海部辺りに置けば
 良かったのかどうかだが)
542名無し三等兵:2007/06/02(土) 17:47:25 ID:???
>>541
あの当時の技術、政治水準から見て
分割統治するしかないと思われ。

モンゴル帝国方式
543某研究者:2007/06/02(土) 17:50:50 ID:Z36jayyR
分割統治するにしても
首都を何処に置くかと言う事は
重要かも知れぬし
http://www.hoteltravel.com/jp/india/maps.htm
トルコー中国の中間地点で沿海部の
ムンバイ辺りでは駄目なのかどうかだが
544某研究者:2007/06/02(土) 18:05:16 ID:Z36jayyR
ムンバイではやや西寄りかも知れぬし
コルカタ辺りを首都として
亜細亜の海上交通路を徹底的に支配し
海軍力を増強と言う方向で
良かったかも知れぬが
545某研究者:2007/06/02(土) 19:10:13 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB14%E4%B8%96%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3_%28%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8E%8B%29
>ベルナドットは1806年頃からナポレオンを見限り始めていた様である。その態度を見咎められ、軍事裁判にも掛けられた。しかしデジレ・クラリーの取り成しによって難を逃れている。

ベルナドットと結婚したのが
デジレで無ければ
ベルナドットは早期に失脚して
ナポレオンと対立する事は無く
ロシア戦敗北後のナポレオンの戦いも
有利に進められた可能性も有るだろうが
ベルナドットが居なく共
ロシア戦敗北後に反仏同盟軍に
果たして勝てたのかどうかだが
546某研究者:2007/06/02(土) 19:13:55 ID:Z36jayyR
>しかし現在のスウェーデンの骨格を築いた中立政策はスウェーデン国民の支持を得て、現代にまで継続する「中立主義」(武装中立)を創成したのである。

ベルナドットが居なかったら
この様な政策は採られなかった言う
可能性も有る訳だろうか
547某研究者:2007/06/02(土) 19:35:30 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%97%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%AB
>指揮を預かったグナイゼナウは、イギリス軍への不信から、ライン方面への後退を考えていた。この時、病床から起き上がったブリュッヘルが後退を却下し、グナイゼナウが指揮を執ってフランス軍を撃破するよう命じたという。
>イギリス軍と合流すべく、プロイセン軍は強行軍で西へ軍を返した。

このブリュッヘルの命令が無ければプロイセン軍は
ワーテルローには来ず
仏軍が勝利していたと言う可能性も
有る訳だろうか
548某研究者:2007/06/02(土) 20:23:05 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80
>近代的な参謀制度は、プロイセン(ドイツ)の参謀本部からはじまった。参謀としては、シュリーフェン、シャルンホルスト、グナイゼナウ、モルトケ、ルーデンドルフなどが有名である。

指揮系統はプロイセンの方が上だったと言う事かも知れぬし
参謀将校が居ればワーテルローでの
グルーシ軍への伝令不足等と言う事は
起きたのかどうかだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%95
>消極的で臆病な老軍人、みすみすナポレオンを逃がした無能者と非難されたりもしている。

>クトゥーゾフが退却するフランス軍に大規模な攻撃を仕掛けなかったのはなぜか、

何故追撃しなかったのかだが
仏軍を依然恐れて居たと言う
事なのだろうか
549某研究者:2007/06/02(土) 20:49:53 ID:Z36jayyR
http://12565.hito.thebbs.jp/one/1180453525
>この中でトップ3はテュレンヌ、スヴォーロフ、マールバラ公でしょうか。
>テュレンヌはルイ14世を支えた最大の将帥で、ナポレオンも彼を高く評価していました。
>マールバラ公はテュレンヌに師事したことがあります。生涯不敗でしたが、ヴィラール相手に
>大苦戦したので序列は三位かもしれません。
>スヴォーロフは奇矯な振る舞いが目立つ変人でしたが、戦には強く負けたことがありません。

テュレンヌと言うのは何か
新戦術は用いたのかだろうし
スヴォーロフはトルコ相手の戦いが
多かったかも知れぬが
550某研究者:2007/06/02(土) 21:46:37 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
>11月に海への進軍と呼ばれるジョージア州サバナへの進撃作戦を開始する。この作戦はジョージア州の最も肥沃な地帯を焦土と化し、
>また鉄道と通信等のインフラ設備は悉く破壊された。24日後の12月21日にはサバナも陥落、綿花の輸出を行う主要な港を落とされたジョージア州は完全に北部軍の手中に落ちた。

こんな事をせず共港を落とせば
勝てたと言う事は
無いのかだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBE%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC
>リー将軍の右腕だったジャクソン将軍がゲティスバーグの戦いが起こる前に戦死していたのもゲティスバーグで敗北した一因かも知れない。

ジャクソンが居れば果たして
勝てたのかどうかだが
結局焦土戦術でやられて居たと言う事は
無いのかだが
551某研究者:2007/06/02(土) 21:47:24 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3
>ジャクソン軍団は直ちにリッチモンド防衛のために呼び戻され、ビーバーダムクリークの戦い(6月26日)に駆けつける。マクレランはこれを南軍の新手の到着と誤認し、
>南軍の総兵力を過大評価して半島戦役の幕引きを決断する。
>このマクレランの撤退は南北戦争の終結を3年先延ばししたとも言われる。

此れが無ければ南北戦争も
可也早く終わって居たと言う可能性も有る訳だろうか


>戦闘が終わり司令部に帰還しようとしていたジャクソン及び司令部要員らはその一行を北軍の騎兵部隊だと誤認した南軍のノース・カロライナ連隊の将兵に止まるように命令された。
>しかしその将兵らは答えを聞く前に発砲し、ジャクソンは3発の銃弾を浴びてしまった(左腕に2発、右腕に1発)。
>この時彼に同行していた司令部要員も数人この誤射の犠牲になっている。

味方にやられていた
訳だろうが
軍服等で識別は
出来なかったのかだが
スパイと間違えたと言う可能性も
有るのだろうか
552某研究者:2007/06/02(土) 22:13:49 ID:Z36jayyR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF%E6%95%99%E8%82%B2
まあスパルタにも民会成る物は有る様だが
矢張り世界一自由は無いかも知れぬし
此れではペルシャやアテネに支配された方が
民は幸福に暮らせたと言う
事だろうか


http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20061210_300/
>もちろんこの300人はただの300人ではなく、いわば戦闘国家スパルタの精鋭300人、本物の戦士。剣が折れても素手や歯を使って全員が玉砕するまで戦ったとのこと。

相手の武器を奪って闘うと言う事は
考えなかったのかどうかだが
553某研究者:2007/06/06(水) 04:23:54 ID:9sKfDRf9
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/who2.html#anchor43995
>当時ペルシャの将軍や大守のなかには、ダリウス3世の欠点を補える人物が幾人かいたのですが、大帝国の確固とした階級制度が彼等を押さえつけてしまいます。

ナポレオン軍と戦った他国の軍隊も
確か同様の事は有った訳だろうか


>続いてエジプトの征服にかかりますが、攻めるに難く守るに容易なエジプトの地の利から海軍、陸軍とも進撃できず失敗してしまいます。

平地しか無い様にも見えるエジプトが
果たして攻め難いのかどうかだが


> 「イプソスの戦い」でリュシマコスとセレウコスの連合軍はアンティゴノス父子の軍隊と戦い、セレウコスがインドから連れてきた400頭の戦象がアンティゴノスの75頭の戦象を圧倒してリュシマコス、
>セレウコス連合軍の勝利に終ります。

欧州で400もの象が運用された事は
此れ以前には無い訳だろうか


http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/history/b-1-7.html
>また、セレウコスは属州インドを引き渡す代わりにマウルヤ朝のチャンドラグプタから象500頭を受け取り、前301年のイプソスの戦いではそのうち400頭が投入され、
>敵を深追いしたデメトリオスとアンティゴノスのあいだに象を割り込ませて両者を分断してアンティゴノスを破ったという事例もある。

セレウコスもインドと引き換えに500の象を得て居たと言う
事だろうか
554某研究者:2007/06/06(水) 05:06:48 ID:9sKfDRf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%82%B5%E3%83%AB
クラッススがパルティア戦争で死ななかったら
3頭政治が続いて
カエサルの寿命が延びて居たと言う
事かも知れぬが
555某研究者:2007/06/06(水) 05:15:18 ID:9sKfDRf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%BC%9A%E6%88%A6
>ポンペイウスの軍は数では圧倒的であったが、経験でははるかに及ばなかった。そのうえ、ポンペイウスが決戦を挑むかどうか決めかねていることに元老院は反発し、早期の決断を迫った。

ポンペイウス自身はカエサルと戦う気等
果たして最初から有ったのかだが
元老院に利用されて止む無く
カエサルをローマに呼び戻そうと
し訳だろうか
556某研究者:2007/06/06(水) 05:22:18 ID:9sKfDRf9
>ポンペイウス軍左翼のラビエヌスは騎兵を率いて突撃し、カエサル軍の騎兵を撃退して第4戦列とぶつかった。このときカエサルは自軍の投槍兵に、騎兵に対しては槍を投げるのではなく直接突き刺すように命じていた。この攻撃によってポンペイウス軍の騎兵は押し戻された。

>勝因は歩兵の効果的運用により騎兵の動きを封じ込め、その長所である機動性と運動性を封殺したカエサルの作戦に求めることが出来る。ザマの戦いのスキピオと同様に動物の性質を知り尽くしたカエサルの作戦勝ちと言えよう。

投げ槍と言うのは
余り役に立たなかったのかどうかだだが
投げ槍は複数持って居る訳だろうし
最後の1本以外は投げて居たと言う事は
無いのかだが
557某研究者:2007/06/06(水) 05:37:50 ID:9sKfDRf9
投げ槍程度で騎兵を阻止出来るなら
ファランクスも騎兵を阻止出来たと言う
事なのかどうかだが
558某研究者:2007/06/06(水) 05:41:29 ID:9sKfDRf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%82%B5%E3%83%AB
>カエサルがクレオパトラ7世に与した理由は諸説あるが、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」と著書『パンセ』で述べているような、彼女の美貌に惑わされたからという訳ではない。

カエサルの様な力が有れば
女等幾らでも手に入る訳だろうから
確かに馬鹿げた説かも知れぬが
559某研究者:2007/06/06(水) 05:49:09 ID:9sKfDRf9
>さらに、自らが終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。

カエサルも3頭政治程度で我慢していれば
暗殺されなかったと言う可能性も
有る訳だろうか
560某研究者:2007/06/06(水) 06:07:54 ID:9sKfDRf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%BC
>残党狩り開始の報を受けてウティカの地で割腹の後に自らの内臓掴み取っての自殺という壮烈な方法で自決した。 後に新渡戸稲造が欧米人に日本の切腹を説明する時、カトーを例にしたという。

ローマでも切腹の様な事を行った者は
居たと言う事だろうが
一般的な自決方法では無いと言う
事だろうか
561某研究者:2007/06/06(水) 06:50:38 ID:9sKfDRf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9
>まだなんの功績すら立てていない18歳の若者であった彼を後継者に選んだカエサルの選択眼は確かに正しかったと言える。

彼は一体どう言う理由で
選ばれたのかだが
562某研究者:2007/06/06(水) 07:39:01 ID:9sKfDRf9
http://www.m-matsu.com/egypt/study/cleopatra.html
>クレオパトラの死後、インドで母親の死を知らないカエサリオンの元に、オクタウィアヌスから使者がやってきました。使者はカエサリオンに向かって言いました。
>「あなたの母上は生きておられます。今すぐエジプトに戻って、一緒にエジプトを再建なさい」 カエサリオンはこの言葉に疑いを持たず、すぐさまエジプトに帰ります。そこでカエサリオンは捕らえられ、命を奪われてしまいます。
>しかし、オクタウィアヌスは、クレオパトラがアントニウスとの間にもうけた3人の子供は、手厚く保護したのでした。

カエサリオンがインドに逃げていたとは
知らなかったが
エジプトに戻らなかった場合は
後でローマの後継者争いに
利用される可能性も有った訳だろうか
563某研究者:2007/06/06(水) 07:54:00 ID:9sKfDRf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B5%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%91
アグリッパが居なければ
軍事的能力の無いアウグストゥス等
早期に敗北していたと言う
事かも知れぬが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%94%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9
アウグストゥスに歯向かった
レピドゥスと言うのは以外にも
処刑されて居ないし
アントニウスもクレオパトラに利用されなければ
生き延びる事は可能だったかも知れぬが
564某研究者:2007/06/06(水) 08:03:35 ID:9sKfDRf9
アントニウスがパルティアに敗れた時点で
クレオパトラもアントニウスを見限らなかったのかだが
パルティアはローマより強いと
考えて居たのかどうかだが
565某研究者:2007/06/06(水) 08:13:55 ID:9sKfDRf9
http://www.m-matsu.com/egypt/study/cleopatra.html
>。アントニウス軍の中には、艦隊を棄てて、陸戦に切り替えるべきだと進言するものもありましたが、クレオパトラが強行に反対します。恐らくは、陸戦に転じても勝ち目が無い事を十分に悟っていたのでしょう。

http://gtubo.gpoint.co.jp/qa2768161.html
>その後の海上決戦においてもアグリッパは見事な戦術でアントニウスの艦隊を叩いています。これはアグリッパが、ポンペウス派との戦いにおいて、海戦の経験を豊富に積んでいた事が大きな要因であったようです。

アントニウスも地上戦では無能では無い訳だろうし
陸戦をやっていたら或いは
講和程度には持ち込めたと言う
可能性も有る訳だろうか
566名無し三等兵:2007/06/06(水) 10:24:04 ID:???
少しでも勝ち目のある方を選んだから海戦になったんだと思うが。
敵が10倍強い陸戦と5倍強い海戦でどっち選ぶかったら、海しかないわな。
567某研究者:2007/06/06(水) 17:23:45 ID:3lTP/ma5
http://www2.gpmd.com/image/i/itas6028.jpg
ローマ騎兵も短槍しか無いから
カエサルの短槍しか持たぬ歩兵に
阻止されたと言う事だろうか
(ギリシャのファランクスでも当時の短槍騎兵なら
 阻止出来たかも知れぬが
 マケドニア騎兵は無理な訳だろうか)
568某研究者:2007/06/06(水) 17:30:56 ID:3lTP/ma5
http://homepage3.nifty.com/odyssey/31c8c001.html
>オクタウィアヌス軍は、歩兵7万、騎兵1万2千、名將アグリッパが4百隻の艦隊を指揮した。アントニウス軍は、歩兵10万、騎兵1万2千、5百隻の艦隊を率いた。

陸戦でもどうにも成らぬ様な兵力だったのかどうかだが

>春になると、島々を占領し、アンブラキア湾を包囲した。味方からは、トラキア王らが離反した。陸上戰に持ち込んでも、勝ち目はなかった。生き残る道は一つ、敵の包囲網を突破して、脱出することであった。

この段階では無理だったのだろうか
(海戦が得意なアグリッパ相手に海で戦うよりは
 陸で戦った方がましと言う事は
 無いのかだが)
569某研究者:2007/06/06(水) 17:36:42 ID:3lTP/ma5
>姉アントニアは、ドミティウス・アエノバルブスと結婚した。妹アントニアは、皇妃リウィアの子ドルススと結婚した。妹アントニアからクラウディウスとゲルマニクスが生まれ、
>ゲルマニクスからガイウス(カリギュラ)が生まれた。ティベリウスの死後、カリギュラは第3代皇帝となり、クラウディウスは第4代皇帝となった。
>姉アントニアの子、ドミティウス・アエノバルブスは、ユリア・アグリッピーナと結婚した。アグリッピーナから、ネロが生まれ、第5代皇帝となった。
>アントニウスは、エジプトで非業の死を遂げたが、その末裔は、皇帝となり、ギリシア文化を愛し、比類なき生を繰りひろげた。

アントニウスの子孫は何人もローマ皇帝に成って居る様だが
余り良い者は居ない訳だろうか
570名無し三等兵:2007/06/06(水) 18:23:48 ID:???
戦術の世界史
ttp://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/index.html

紀元前14世紀〜19世紀まで
571某研究者:2007/06/06(水) 19:26:33 ID:3lTP/ma5
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/cleopatra.html
>翌年8月1日アレクサンドリアが陥落した時、クレオパトラは地下墓室にこもり、アントニウスに、自分は死んだが嘆くな、と告げさせた。彼をローマに帰らせようと思ったのだろう。

アントニウスがローマに帰れば
エジプトは講和可能とでも
考えたのだろうか
572某研究者:2007/06/07(木) 01:21:00 ID:zmyUFJO6
共和制が科学文明成立の条件等と言う様な
ゲームも何処かに有ったかも知れぬが
共和制のローマよりイスラムの方が
科学は進歩している訳だろうし
此れは果たして正しいのかだろうし
帝政ローマと共和制ローマ何れが
経済を進歩させたのかどうかだが
無能な皇帝が出て来る確率と
衆愚政治が行われる確率とでは
何れが高いのかと言う事だろうか
573某研究者:2007/06/07(木) 07:50:36 ID:zlOr4vMo
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761576914/content.html
>アントニウスは有利な地上戦を主張する将軍たちの忠告に耳をかさず、クレオパトラのいいなりに、海上交戦にふみきった。

矢張り地上戦の方が未だ
有利だったと言う事は無いのかだが
574某研究者:2007/06/07(木) 09:13:45 ID:zlOr4vMo
まあしかしアントニウスが勝利しても
アウグストゥス以上の政策は
行えたのかだろうし
共和派等に暗殺される可能性も
有ったかも知れぬし
クレオパトラを良く思わない勢力も
ローマには多い訳だろうか
(例のクレオパトラに東方領土を与えると言う
 遺言等を取り消さねば
 可也の反発を招くだろうし
 領土を与えぬとすればクレオパトラと戦う羽目にも
 陥るかも知れぬが
 後者の方がリスクは少ない訳だろうか)
575某研究者:2007/06/07(木) 09:55:57 ID:ejW+/oDE
ギリシャ・スパルタも実体は衆愚政治の奴隷国家かも知れぬし
http://www.persian-world.co.jp/jp0401_top.html
>キュロス2世は諸民族の文化を尊重し、一定の自治権を与え、奴隷や虜因は解放して寛容な統治政策を行いました。魅力的な国家は拡大を加速させ、彼の息子の時代にはエジプトまで広がっていました。その英雄ぶりは旧約聖書にも登場しているほどです。

奴隷の扱いはキュロス2世の頃は
ペルシャの方がましだったのかも知れぬが
以後はどうだったのだろうか
ペルシャも生産性の低い欧州等は無視して
ティムール等の様にインド・中国方面に行けば
良かったと言う事かも知れぬが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%82%B9
>キュロスは、被征服諸民族に対して寛大であったので、後世に理想的な帝王として仰がれ、旧約聖書ではメシア(救世主)と呼ばれている。

まあユダヤ人を助けたから
良く書かれて居ると言う事も有る訳だろうか


陸戦でもペルシャがギリシャに簡単にやられたのは
何故なのかだが
地形を利用され騎兵を封じられたと言う面も
有る訳だろうか
576某研究者:2007/06/07(木) 10:32:40 ID:ejW+/oDE
マラトンではファランクスも
ペルシャ軍の弓を避ける為に走っているし
歩兵が走っても追い付けぬ騎兵から
弓を受け続ければ可也打撃を受けると言う
可能性も有る訳だろうか


http://cocoguru.fc2web.com/sub3ir2.html
>アケメネス朝ペルシャを滅ぼしたアレキサンダー大王からして、その統治方法を見習ったとか。

アレクサンダーも矢張りキュロスを参考として
居た訳だろうか


http://elderman.exblog.jp/3850640/
>この墓にはキュロス大王の金の棺と武器、貴重品があったそうですが、それらはアレキサンダーによって破壊されてしまったと現場の説明文に書いてありました。

まあしかしアレクサンダーがキュロスの墓を破壊する共
思えぬ訳だが
577某研究者:2007/06/07(木) 10:36:33 ID:ejW+/oDE
http://www37.tok2.com/home/tourfortwo/iran/iran08.htm
>アレキサンダーは、部下がキュロスの墓を暴いたのを憤り、犯人を見つけだして死刑に処したという。墓には「我つとに汝の来らんを知れり。我はペルシアを統治せしキュロスなり。
>我をつつむ僅かなる土を嫉むことなかれ」の文字があった。キュロスは、やがて墓荒らしにやってくるであろう者に、暴かずに静かに眠らせてくれと、請うているのであった。アレキサンダーは無常を哀しみ、
>あらためてキュロスの言葉を、ギリシア語で彫りこませたという(『プルタルコス英雄伝』)。

>イスラムの襲来にも、この墓はのこった。ギリシア語の功ではない。その後ソロモンの母の墓だという伝説ができて、ソロモンを尊ぶモスリムが、敬して侵さなかったのだそうだ。

部下が勝手に暴いた訳だろうし
アレクサンダーは此れを修復させて居る訳だろうか


http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/iran2/iran28.htm
>アレキサンダー大王はキュロスを尊敬していたのでこの地を征服したとき墓を荒らしてはならないと命じている。

アレクサンダーはキュロスの墓を破壊するなと
命じていた訳だろうか
578某研究者:2007/06/07(木) 10:57:47 ID:ejW+/oDE
http://e5.wtakumi.com/d.cgi?id=2044626&rp=&mon=200607&p=9&mmd=0
>俺が一番好きなアレクサンドロス大王の逸話は、アレクサンドロスがキュロスの墓に書かれた碑文を読んで。
>その無情さに涙するってとこ。

>たしかに碑文は泣けますよ。
>キュロスは自分が建てた国が滅ぼされる事を知って、その滅ぼした人間(つまりアレクサンドロス)にあてた碑文を残したんです。

此れは驚きだが
どの様な内容なのだろうか


http://history.dot.thebbs.jp/r.exe/1067943241.e40
>道ゆく人よ、あなたが何者であれ、どこから来るのであれ、
>いずれはやって来るであろうことを、私は知っている。
>私の名はキュロス。ペルシア帝国の建国者である。
>願わくは、我が墓を覆う、僅かの土を惜しむことがないように・・・・・・

と言う様な
内容で有る訳だろうか
579某研究者:2007/06/07(木) 11:07:23 ID:ejW+/oDE
http://japonikkla.exblog.jp/3970489/
>歴史上、最初の人権宣言が紀元前539年という大昔に、初代ペルシャ帝国皇帝のシウルス大王(注:イランではクロッシュ、日本ではキュロス大王と呼ばれてます。)によってバビロン陥落後、バビロニア人の権利と福祉を保証する為に公布されました。

>「被征服民族の伝統、文化、宗教を尊重し、いかなる統治者や下臣もこれらを見下したり、侮辱したりしてはならない。」
>(この人権宣言の銘板は1971年にイランから国連に寄贈され展示されているそうです。)

>ところで、ペルセポリスにある階段に彫られているレリーフには皆が微笑み、手をつないで歩いている姿などが描かれ、それらは人間の幸福を強調しているとの事です。
>また古代ペルシア人にとっては、統合、和というのがメインの考えであり、そしてそれぞれの多様性の共存の中にこそ、強さを得ることができると信じていたそうです。

と有るし
スパルタやギリシャにはこの様な考えは
持ち得たのかだが
ペルシャも奴隷は何処迄解放されたのか
どうかだが
580某研究者:2007/06/07(木) 11:22:41 ID:ejW+/oDE
http://blog.ohtan.net/archives/50819250.html
>ペルシャの歴代の王はいわば啓蒙専制君主であって、服属した土着の支配者や、属州に置いた総督(Satrap)を通じた、一種のゆるやかな連邦制ともいうべき統治を行った。
>臣民は豊かな生活を享受しており(注8)、かれらは、どんな貧者でも王に直接お目通りがかなった(注9)。

>(注8)ヘロドトスは、「ペルシャ人は豊かであり、牛・馬・駱駝・ロバを一頭丸焼きにして食事に供する。・・彼らは固いものは殆ど食べず、山のようにデザートを食らう。
>彼らはまたワインが大好きで、がばがば飲み干す」とうらやましそうに記している。
>(注9) 少なくともスパルタの従属民のヘロット(Helot)よりも、ペルシャ臣民の方がはるかに「自由」だった
>(http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1566336,00.html
>前掲)。

生活水準はギリシャよりペルシャの方が
上と言う事かも知れぬし

>そもそも、ギリシャ人にとっては大事件であったペルシャ戦争などというものは、ペルシャ側から見れば、辺境地帯における無数のこぜりあいの一つに過ぎなかったのだ(注10
>(注10) ギリシャが勝った勝ったというが、ペルシャは後々までギリシャ本土に影響を及ぼし続けた。最終的にはテミストクレスもペルシャに臣従の礼をとっている。(http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1566336,00.html上掲

ペルシャ戦争敗北も上の程度の事と言う
事かも知れぬが
581某研究者:2007/06/07(木) 11:33:39 ID:ejW+/oDE
http://blog.ohtan.net/archives/50819251.html
>アレキサンダー大王は、ギリシャ諸都市を征服した後、弱体化していたアケメネス朝ペルシャを前330年に滅ぼすが、アレキサンダーのやったことは、
>古典ギリシャ文明とより重要な古代ペルシャ文明という二つの文明を破壊した蛮行にほかならなかった(注11)。
>なお、アレキサンダーの征服した版図は、古代ペルシャのかつての最大版図の一部に過ぎないことからすれば、アレキサンダーの大征服なるものは、古代ペルシャの二番煎じにも値しない代物だ。

アレクサンダーも結果的にはペルシャ帝国を破壊して
中東を混乱・分裂させただけと言う事も
有る訳だろうが
長生きしていたら其の限りでは
無いかも知れぬが
582某研究者:2007/06/07(木) 12:29:13 ID:ejW+/oDE
http://plaza.rakuten.co.jp/goraemo785/diary/200703280002/
>ペルシア帝国がギリシャ征服に失敗した背景には、説明が難しい問題が残っており、現代の研究家はなぜ彼らが勝利したか、逆に言えば、何故ペルシアが敗北したか答えを出せないでいます。

>当時のペルシア軍は、戦術的な柔軟性とバランスのとれた構成を取っており、士気も決して低くありませんでした。
>有力な騎兵戦力を駆使すれば、単純な密集戦法しか出来なかったギリシャ歩兵に敗北する要素がありません。
>おそらく敗因はギリシャ側にではなく、ペルシア側内部に何らかの事情が発生したためであろうとしか推測できないようです。
>決戦であったプラタイアの戦いは、史料を基に再構成してみると不自然なことばかりです(ペルシア側30万とも言われる兵力自体が疑わしい)。

歩兵はギリシャの方が恐らく上だろうが
騎兵に関してはどうなのかだが
騎兵を封じられれば相手が倍程度でもギリシャの歩兵が
マラトンの様に勝つと言う事は無いのかどうかだが
583某研究者:2007/06/07(木) 12:30:01 ID:ejW+/oDE
http://plaza.rakuten.co.jp/goraemo785/diary/200704180000/
>ギリシャはペルシアから見れば田舎であり、偏狭の敵対的な勢力の一つでしかなかった。ペルシア戦争も辺境の一紛争でしかなかった。
>何百万も派遣したと言うのは勿論虚構で、実際には帝国全軍を投入した戦いではなかった。戦役全体では、両者の実戦力は、ほぼ互角か、
>総動員をしていたギリシャ側の方が上回っていた可能性が高い。
>当時帝国最大の敵は北方の遊牧民であるスキタイ諸族であり、遠距離戦闘を重視した帝国の防衛組織も、彼らを考慮したものであったようである。
>ギリシャは自分たちの自負とは裏腹に、戦争好きの野蛮な困った人々と帝国支配層には思われていたであろう。ペルシア戦争は、いわば危険な辺境住民、蛮族に対する防衛的な戦争であった。

ペルシャ側の兵力が余り多くは無く
蛮族支配の為では無く
牽制の為に差し向けた少数兵と言う可能性も
有る訳だろうか
(ギリシャ等生産性の低い土地等支配しても
 余り価値は無い訳だろうが
 蛮族同士で戦わせようと内紛を起こそうとしたら
 失敗したので兵を投入して牽制・或いは親ペルシャ勢力を
 増やそうとしたと言う事なのだろうか)
584某研究者:2007/06/07(木) 12:50:37 ID:ejW+/oDE
>ところで、ペルセポリスにある階段に彫られているレリーフには皆が微笑み、手をつないで歩いている姿などが描かれ、それらは人間の幸福を強調しているとの事です。

此れは

http://ameblo.jp/yontan444/entry-10027099853.html
>手を引いて案内してあげています (↓)

>これは、属国の中でも地位の高い国に対する行為とのこと。

上のレリーフなのだろうか
585某研究者:2007/06/07(木) 12:55:02 ID:ejW+/oDE
http://www3.plala.or.jp/syuyu/ryokou/iran/iran3.htm
>これも見にくいが。赤丸の部分はおてて繋いで〜♪状態。使者を案内する。役人との事なんだけど。

他にも手を繋いでいるレリーフが
有る訳だろうか
586名無し三等兵:2007/06/07(木) 14:40:37 ID:???
>>570
すごいサイトだね。あなたは素晴らしいね。
587某研究者:2007/06/07(木) 21:58:07 ID:zjFyToL2
>歩兵はギリシャの方が恐らく上だろうが
>騎兵に関してはどうなのかだが
>騎兵を封じられれば相手が倍程度でもギリシャの歩兵が
>マラトンの様に勝つと言う事は無いのかどうかだが

プラタイアではギリシャ10万・ペルシャ20万だから
騎兵を封じれば十分勝てる兵力な訳だろうし
騎兵を完全に封じず共突撃を正面に限定すれば
勝てたと言う可能性も有る訳だろうし
カエサルも短槍で騎兵を封じていた訳だろうか
588某研究者:2007/06/07(木) 22:04:53 ID:zjFyToL2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%B3
馬鎧はそう巨大でも無いし
全高2M等の馬は軍馬としては
使われたのかどうかだが
160−170程度の物はどうなのだろうか
589某研究者:2007/06/07(木) 22:22:11 ID:zjFyToL2
http://mp.i-revo.jp/user.php/ufuxjvlm/entry/132.html#bbs
>彼等は、当時、多くが小規模だった都市国家としては異例の巨大な領地を持ち、正市民1万人(18歳以上の男子のみ認められる)に対し、25万人という恐ろしい量の奴隷を所持していた国家でした。
>なぜ、数の少ない彼等が、25倍の人数を誇る奴隷を統治できたのか?
>その理由はただ一つです。

>「彼等が最強だったから」
>彼等は、当時、多くが小規模だった都市国家としては異例の巨大な領地を持ち、正市民1万人(18歳以上の男子のみ認められる)に対し、25万人という恐ろしい量の奴隷を所持していた国家でした。
>なぜ、数の少ない彼等が、25倍の人数を誇る奴隷を統治できたのか?
>その理由はただ一つです。

>「彼等が最強だったから」

奴隷の比率が此れ程多かったとは知らなかったが
ギリシャの奴隷は市民と同数程度だっただろうか


>300人で2万人を殺したんだから、一人当たり約67人を倒したことになります。

2万人は負傷者込みと言う事は
無いのかどうかだが
590某研究者:2007/06/08(金) 05:31:16 ID:39M+uoMp
ペルシャ戦争でペルシャが勝てば
スパルタやギリシャの奴隷は解放され
民主主義もペルシャに敵対しない限り
特に制限は無かったと言う可能性も
有る訳だろうか


http://www.youtube.com/watch?v=F3HJA8fEs-0
http://www.youtube.com/watch?v=CVKrvUsjiF4
http://www.youtube.com/watch?v=p3uyBmJ8mqM
矢の飛び出すスピードは
モンゴル・トルコ弓は和弓に比べて
高速なのかどうかだが
591某研究者:2007/06/08(金) 05:48:56 ID:39M+uoMp
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1
>それはキリキアの海賊の助力を得てシチリア島に渡ろうとしたものであるが、何らかの理由により船が現われず失敗した。スパルタクスは以前にも奴隷の反乱が起きたこの島を拠点にしようとしていたと考えられている。

スパルタクスがシチリア島に渡る等して
カエサルが勝つ迄粘っていたら
どうだったのかだが
奴隷の待遇向上と引き換えに
投降したと言う可能性も有る訳だろうか
592名無し三等兵:2007/06/08(金) 18:56:54 ID:???
大陸の弓の両端のそりが何のためなのか疑問だったけど、動画を見てやっとわかった。
弦の耳(って言うのか?)を傷めないための振動ダンパーというかストッパーなのね
593某研究者:2007/06/08(金) 23:17:59 ID:dXNtyJkD
ギリシャ・スパルタも
ペルシャに奴隷を解放される事を恐れて
戦ったと言う事は無いのかだが無いのかどうかだが
594某研究者:2007/06/08(金) 23:35:23 ID:dXNtyJkD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
>アテナイの使者はペルシアとの同盟を求めたが、ペルシアが完全な服従を求めたため、アテナイ民会はこれに反発した。
>当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に傀儡僭主を擁立し、彼らを介して内政に干渉するというものであったが、民主制をとるアテナイに受け入れられるものではなかった。

本当にこの様な理由で
同盟を拒否したのかだろうし
奴隷を解放される恐れが有ると
考えたからでは無いのかだろうし
他の民主主義のポリスが武力や経済力で屈しただけなのか
どうかだが
595某研究者:2007/06/08(金) 23:53:03 ID:dXNtyJkD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1
>以後、ペルシアは各都市国家に僭主を置いて内政に干渉したが、それほど過酷な支配は行わなかった。衰退していたミレトスなどはむしろ繁栄を取り戻し、イオニアの華と讃えられた。

奴隷の過酷な扱い等と言うのは
ペルシャの手に拠り解消されたと言う可能性も
有るのかどうかだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1
>その一方、反乱は鎮圧されたとはいえ、ペルシアは僭主を擁立して露骨に内政に干渉するという手段を撤回せざるを得なかった。
>経済の発展によって台頭した新しい社会階層を、僭主制によって抑圧することの危険性をペルシアが理解したためであると考えられる。反乱の後、イオニアでは、ペルシアの支配下にありながら民主制が敷かれた。

ギリシャ人を奴隷を使う蛮族と見ていたから
僭主を置いたと言う事は無いのかだが

ペルシャが勝っていたらペロポネソス戦争やアレクサンダーに拠る破壊も
起きなかっただろうし
ペルシャやこの地域の戦争はイスラム帝国が出来る迄
1000年以上抑止されたと言う事は
無いのかどうかだが
スパルタ等はペルシャに可也抵抗して
全滅したと言う可能性も有る訳だろうか
596某研究者:2007/06/08(金) 23:56:30 ID:dXNtyJkD
イスラム台頭が無ければ
モンゴル侵攻迄平和は保てたと言う
可能性は無いのかどうかだろうし
モンゴル帝国の誕生は必然では無いなら
下手をすると現代迄巨大なペルシャ帝国が残って
平和を保てたと言う
可能性も有る訳だろうか
597某研究者:2007/06/09(土) 00:01:11 ID:h4/rYOJq
紀元前500〜現代迄
2500年もの間戦争の殆ど無い
巨大なペルシャ帝国が
存在し得たと言う可能性も有るだろうが
インドや中国を統合出来た可能性は
有るのかどうかだが
598名無し三等兵:2007/06/09(土) 00:28:01 ID:???
P
599某研究者:2007/06/09(土) 01:30:10 ID:h4/rYOJq
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2005/051202.html
>そして前412年にはペルシアの使節がスパルタを訪れ、スパルタにとってのペルシア戦争を終わらせ、逆にアテナイに対する戦争を協力する協定を結んだ。
>ペルシアはスパルタに対して資金援助を惜しまなかった。苦境に貶められたアテナイでは前411年に「400人会」の寡頭制によって民主政が一時倒壊されるも、すぐに民主政に回帰、軍事的にも復調の兆しを見せるが、
>ペルシアの莫大な資金には所詮敵うはずもなく、前405年にはリュサンドロスによってアテナイへの食糧輸入路であるヘレスポントスを抑えられ、翌年アテナイはスパルタに降伏する。

>その後アテナイは、スパルタとペルシアの戦いの際、ペルシア側につく事となる。アテナイの軍人がペルシア海軍を率いてクニドスでスパルタ海軍を打ち破ったり、
>アテナイとテーベが結んで「コリント戦争」起こしたりするなどし、前386年にペルシアに有利な「大王の和約」を結ぶのにアテナイは一役買った。その戦争でスパルタが衰退する一方、アテナイはペルシアの資金で長城を修復し、
>ペイライエウスを要塞化した。それと共に一時失っていた海外領のレムノス島、インブロス島、スキュロス島の所有が認められた。

ペルシャ戦争後はアテナイやスパルタは
ペルシャと同盟して互いに
戦って居る訳だろうし
ペルシャも両者の離間を待ってから攻めた方が
良かったと言う事かも知れぬが
600某研究者:2007/06/09(土) 01:55:09 ID:h4/rYOJq
http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_25_28.html
>アテネの復興に脅威を感じたスパルタは、ペルシアに和解を申し込む。
>その結果、ペルシアにより 「大王の和約」 が強制され、コリント戦争は終結。
>小アジアのギリシア人は、ペルシアに売り渡されました。各ポリスは
>自治独立の美名のもと、小国にとどまることになりました。この和約により実利を得たのは
>ペルシア。そして条約実行の監視役となったのがスパルタでした。

ペルシャがアテナイ・スパルタを消耗させる為に
戦争に上手く介入したと言う可能性も
有る訳だろうが
危険なマケドニアを彼等を利用して上手く牽制は
出来なかった訳だろうか
601某研究者:2007/06/09(土) 02:48:45 ID:h4/rYOJq
>危険なマケドニアを彼等を利用して上手く牽制は
>出来なかった訳だろうか

無能なダレイオス3世にこの様な真似は
出来無かった訳だろうか
602某研究者:2007/06/10(日) 05:07:05 ID:TYrr9Je1
http://d.hatena.ne.jp/njf/20070520
>自分に反対する人々にも寛容で「私が自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのような事には心を煩わせたくない。
>何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている」と言い、
>実際自分が許した人々によって、次の巻の最初でカエサルは暗殺されてしまうわけですが、いったいカエサルが後10年生きていたらどれだけローマが発展しただろうかと考えざるを得ないです。

カエサル死後三頭政治を行った
反共和派は元老院の反対勢力を可也抹殺しているし
アウグストゥスは此れが無ければ
直ぐに暗殺されていたと言う事は無いのかだが
カエサルが後10年生きて居たとしても
アウグストゥスと同様の政策を行ったのみと言う事は
無いのかだが
603某研究者:2007/06/10(日) 06:47:53 ID:TYrr9Je1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB2%E4%B8%96
>当初幼い彼は貴族の傀儡と言っても良かった。しかしシャープールは貴族の黙認のもとに権力を握っていった。ローマのディオクレティアヌスやコンスタンティヌス1世の改革がサーサーン朝の政体、強力な中央集権化の参考にされたことは想像するに難くない。

サーサーン朝はローマの中央集権体制を参考としたと
言う事だろうか


>スサの反乱を、町そのものを象で踏み潰すことで芽を完全に摘む。

建物を象で踏み潰すと言う事は可能なのかだろうし
道路を蹂躙したと言う事なのだろうか


>、シャープール2世は自ら陣頭に立って遠征軍を指揮し、黄金の牡羊の頭部を模した王冠を被っていたと記されている。

此れはどの様な物なのかだが
余り大きな物では無い訳だろうか
604某研究者:2007/06/10(日) 07:23:01 ID:TYrr9Je1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97
>サトラップはペルシア人からなる議会によって支えられた。この議会には州民の参加も認められていた。しかし議会は王直属の書記官・王の密偵が強い影響力を持っていた。

ペルシャにも一応議会は
有った訳だろうか
605某研究者:2007/06/10(日) 07:57:55 ID:TYrr9Je1
http://kobe.cool.ne.jp/taniteru/gan_49.htm
>キュロス大王の事跡はあまり広くは知られていない。しかし、オリエント世界はむろん、世界の歴史に果たした、個人としての影響力はアレクサンダー大王を遙かにしのぎ、ジンギスハンに迫るものがある。
>個人、つまり一人の英雄が歴史に直接影響を与えるのはまれである。

アレクサンダーはキュロスの模倣だろうし
モンゴルは破壊的な部分が
多かったかも知れぬが
サーサーン朝は宗教弾圧は
行って居た訳だろうが
キュロスの時代には無い訳だろうか
606某研究者:2007/06/10(日) 08:21:12 ID:TYrr9Je1
http://www3.ocn.ne.jp/~mknight/AoE/aoe_html/peruperu.html
>交通網の重要さに初めて目を付けたのもペルシア帝国でした。「王の道」と呼ばれる帝国の主要幹線道路は全長2575kmにおよび、これらはほとんど全てが舗装されています。
>道路の要所には中継所を置き、伝令や旅行者のための馬小屋や宿泊施設を整えました。これにより早馬90日の行程を一週間に縮めたと当時の記録では残されています。全国に張り巡らせた舗装道路は帝国内での移動を劇的に変化させたのです。
>「全ての道はローマに通ず」ってあのことわざは、もともとはローマではなくペルセポリスなんだそうです。

ローマ帝国がペルシャの道路網を
模倣したと言う事なのだろうか


>神に仕える神官達はマギ(Magi)と呼ばれ、これは魔法のMagicの語源となったと言われています。

ゾロアスター教の神官が
魔法の語源と成って居た訳だろうか
607某研究者:2007/06/12(火) 06:51:45 ID:bw/gAm0z
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=88269&servcode=400§code=400
>「カルタゴの名将ハンニバルとの争いで毎度負けてばかりいたとき、ローマがどのようにしたのか思い浮かべる必要がある。
>国家の存亡が危なげな状況でもローマのリーダーたちは兵役の義務がない17歳未満や奴隷、下層民は一切徴用しなかった。代わりに指導層が自ら最前方に出た。ハンニバルにローマの執政官10人が犠牲となった。エリートたちが自ら国を守るという志を果たしたのだ

彼等を徴用しても勝算は無いと考えたと言う
事は無いのかだろうし
不満が高まって親ハンニバル勢力が台頭するのを
恐れたと言う事は無いのかだが

ローマよりキュロス大王やアレクサンダーの政治の方が
同様の世界帝国である
ロスチャイルド新大英帝国の一員と成るかも知れぬ
日本には参考と成ると言う事は無いのかだが


>塩野さんは「部下たちの才能を咎める上司がいるが、それは上司の想像力に問題がある」とし「部下の能力を適切に把握して適材適所に、どんな能力でも最大限発揮するようにするのがリーダーに要求される資質」だと言った。

此れを歴史上一番上手くやれたのは
誰なのかだが
608某研究者:2007/06/12(火) 06:54:43 ID:bw/gAm0z
>国家の存亡が危なげな状況でもローマのリーダーたちは兵役の義務がない17歳未満や奴隷、下層民は一切徴用しなかった。

銃では無く腕力を使う戦いでは
ろくに訓練も受けて居ない様な彼等は
正直戦力に成るのかだろうし
戦時でも労働力は必要なら
兵にする意味は有るのかどうかだが
609名無し三等兵:2007/06/17(日) 19:16:03 ID:???
おお、冒険の独演会なんて久々に見たなw
610名無し三等兵
この剣、どう遣う?
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/budou/1182110157/

こっちも頼むよ