1 :
某研究者 :
2006/10/24(火) 16:45:22 ID:YS+SEh4m 古代〜近代(19世紀)迄の戦術・兵器・軍装に関して 議論或いは情報を提供して貰いたい訳だが
2 :
名無し三等兵 :2006/10/24(火) 16:45:54 ID:???
2ゲット! ぱんつぅ♪ぱんつぅ♪
3 :
某研究者 :2006/10/24(火) 16:50:29 ID:YS+SEh4m
4 :
某研究者 :2006/10/24(火) 16:53:34 ID:YS+SEh4m
秀吉も秀頼が生まれた時に 秀次だけでは無く 小早川秀秋も始末していれば 関が原はどう成っていたのかだろうし 領土を取り上げて生かしておいたら 後で恨みを持つ可能性も高い訳だろうし 小早川が裏切らないと考えたら 領土は奪わない訳だろうし 中途半端な事はすべきでは無いと言う 事かも知れぬが
5 :
某研究者 :2006/10/24(火) 17:00:53 ID:YS+SEh4m
>中途半端な事はすべきでは無いと言う >事かも知れぬが まあ明智光秀も領土を取り上げられれば 後で謀反を起こす可能性も有る訳だろうし 中途半端な事をした結果が 本能寺で有る訳だろうか
6 :
某研究者 :2006/10/24(火) 17:12:15 ID:YS+SEh4m
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_09.html >秀吉が秀頼の養育権を淀殿に認めたことについて
>番組で紹介した訳は、「今度の子は淀殿だけの子にするがよい」。
>(おね宛ての秀吉の手紙より意訳)
>秀吉の秀頼への溺愛振りを示すエピソードついて
>番組で紹介した訳は「気に食わない侍女は縛り上げてしまえ。わしが行って叩き殺そう。」
>(秀頼宛の秀吉の手紙より意訳)
此れも鶴松が死んだから
おねには秀頼を預けず
侍女の質にも慎重に成っていたと言う可能性も
有る訳だろうし
秀吉が鶴松や秀長の死で狂ったり悪人だったと言う様な事に
無理矢理帰着しようと言うのも
どうなのかだが
7 :
某研究者 :2006/10/24(火) 17:16:12 ID:YS+SEh4m
8 :
某研究者 :2006/10/24(火) 19:29:50 ID:YS+SEh4m
>(豊臣政権が滅んでも自らの育てた小早川や > 加藤清正・黒田長政・福島正則等が生き残れば > 良いと考えて居たと言う事は > 無いのかだろうし > 加藤清正や黒田長政等に > 三成側に付く様に手紙も > 出せた訳だろうか) まあ淀に復讐したと言うよりは 自分が育てたのでは無い秀頼よりは 彼等が生き残る道を選んだと言う 可能性も有る訳だろうか
9 :
名無し三等兵 :2006/10/24(火) 21:56:44 ID:???
中世で最強の軍団と言えば、何と言ってもチンジス・ハーンの軍団だな 戦力は軽騎兵のみで、統一性が極めて取れている。 しかも遊牧民族だけに、遠征に強く ナポレオンも敗れた。冬のモスクワを占領したのは、世界史で蒙古だけだ。
10 :
某研究者 :2006/10/24(火) 22:06:14 ID:YS+SEh4m
まあモンゴルも寒いから 寒冷適応は万全である訳だろうか
11 :
某研究者 :2006/10/24(火) 22:07:34 ID:YS+SEh4m
スウェーデン等も寒冷適応と言う意味では どうなのかだが カール12世が負けたのは戦闘中に銃弾を受けたのと ピョートルを見くびって居たと言うのも 有る訳だろうか (ナポレオンも風邪を引かねば ロシアで勝って居たと言う意見も有るだろうか)
12 :
某研究者 :2006/10/24(火) 22:09:28 ID:YS+SEh4m
WW2のドイツ軍も イタリアが北アフリカに攻め込まねば ロンメルがモスクワを落として居たかも知れぬし イタリアが北アフリカに攻め込んでも ゾルゲやホワイト等のスパイが 居なければ ロシアは終わっていただろうか
13 :
某研究者 :2006/10/24(火) 22:11:01 ID:YS+SEh4m
まあ矢張り領地を取り上げた領主を 生かしておく等と言うのは 矢張り危険な事で有る訳だろうし 光秀や小早川秀秋はせめて流罪にするべきだったと言う 事かも知れぬが
14 :
名無し三等兵 :2006/10/24(火) 22:25:57 ID:???
>>9 基本的に西戎と北狄(便宜上この名称を使うが)は
世界最強の戦闘民族だよな
>>12 でもモスクワ狙った時点で、?な感じじゃない?
カフカスとスエズを取れればかなり良かったのでは、と思うんだけど
スターリンは戦争する準備できてなかったわけだし
本気で攻めなくても牽制しつつ、補給を万全にすることは出来た気がする
それからトルコを引き込めばスエズ落とせたでしょうに
モスクワ落としても極東軍がウラル山脈の後ろにいたわけだし、勝てなかったんじゃない?
15 :
某研究者 :2006/10/24(火) 22:57:47 ID:hLInlgqj
まあ矢張りロンメルでも居れば勝てたと言う 可能性は無いのか どうかだが
16 :
名無し三等兵 :2006/10/24(火) 23:24:16 ID:mrRCBsyR
ところで諸君、佐賀は滅ぼされねばならない
17 :
名無し三等兵 :2006/10/24(火) 23:26:03 ID:???
>>15 むーそうではないでしょ
ロンメルは100点満点で150点の働きをしたけど、なにも得るモノはなかった。
ハンニバルなんかもカンネーを始めに200点越え連発の戦いをしたけど、
結果的に、イベリア半島失陥、さらに本国まで攻められる、と多くを失った。
極論すれば、戦闘に勝つことは必要ではないし、戦術に優れていることは絶対ではないと思う。
それより、古代から近代だったな
ハンニバルは戦術では文句なし
ただ、イタリアを火の海にしなかったのが最大の失敗だと思う
なぜ、持久戦という相手の土俵に乗るようなことを相手の庭でやったのか
諸都市をローマに抵抗させたり、混乱させるつもりなら優しく接するのでなく
「三光作戦」やってローマの無力を見せつけながら進むべきだった
18 :
某研究者 :2006/10/25(水) 00:05:54 ID:9GnFtNi0
http://blog.livedoor.jp/zuihitu/archives/50745590.html >秀吉も最初は、お拾と秀次の娘を婚約させたりして、「秀次の後に拾に政権移
>譲」というような方向で進めていた。しかし、お拾の実母である淀殿はそうはい
>かない。早いところお拾に後を継がせたい。淀殿は、そうするように秀吉に進め
>たであろう。また、秀吉の家臣である石田三成も淀殿に同調して、秀吉を説得し
>ていたという。
まあ秀吉が最初から秀次を始末しようとしていたと言う様な
描写も多いだろうが
実際は周囲の人間の意向も
有った訳だろうか
>ここに、さらに関白秀次謀叛事件が発生する。この頃、会津の蒲生氏郷が没した
>のだが、太閤である秀吉は、氏郷の遺児・鶴千代の相続を認めず、会津は没収と
>決定した。ところが、名目上の最高権力者である関白秀次の所に、裁可を求める
>使者が来た時、秀次は「鶴千代の相続を認める」と判決したのである。
>事実上の最高権力者はむろん太閤秀吉なのだが、形式上、関白である秀次の裁可
>は必要だった。ここで、秀次はついに秀吉に対し謀叛をしたとみなされ、関白職
>を剥奪されて高野山に追放された。
まあしかし此れが無ければ或いは
秀次が後継者と成っていた可能性も
有る訳だろうか
19 :
某研究者 :2006/10/25(水) 00:46:41 ID:9GnFtNi0
http://www.m-network.com/sengoku/sen-14.html >高野山蟄居を申し渡された彼は、じっとしていればよかったのだが、何と朝廷に
>銀五千枚を献上する。これを秀吉は朝廷に取り入って復権を図ろうとする行為と
>断じ、彼を追放処分から切腹処分に変更したのである。秀次は決してこのような
>意図の上で寄進したわけではなかったろうが、そのタイミングが悪すぎた
まあ此れは実際どうだったのかだが
献上と言うのは秀吉の作り話と言う
可能性も有るのかどうかだが
そうで無いとすれば
秀吉等の陰謀と言うのは
有ったのかどうかだろうし
秀次を失脚させる意図は無かったと言う
可能性も有る訳だろうか
>秀吉も秀頼誕生の翌月に、秀次に「日本を五分してその四を秀次に、残りを秀頼
>に」という懐柔案(?)を示し、秀次も一旦了承する。そして彼は困窮した大名達
>に金を貸し、それによって自分の味方を増やそうと目論むが、秀吉はもはや秀次
>に後を継がせる気はなかったと見え、五奉行たちを指図して次々と彼の言動を糾
>弾し始めてきたのである。もっとも、糾弾されてしかるべき事をしでかしている
>のは秀次なのだが。
まあ大名に金等貸さなければ
何等糾弾は受けなかったと言う
可能性も有る訳だろうか
20 :
某研究者 :2006/10/25(水) 00:48:39 ID:9GnFtNi0
>まあ大名に金等貸さなければ >何等糾弾は受けなかったと言う >可能性も有る訳だろうか 此れが秀吉の作り話と言う 可能性と言うのは有るのかだが 違うとすれば秀次を失脚させる 陰謀と言うのは 有ったのかどうかだが
21 :
某研究者 :2006/10/25(水) 00:55:37 ID:9GnFtNi0
22 :
某研究者 :2006/10/25(水) 01:06:53 ID:9GnFtNi0
まあ矢張り秀長や鶴松が死んだから 秀吉が朝鮮に侵攻したとか 秀頼を後継者とする為 秀次を殺した等と言うのが 矢張り正しいのかどうかだろうし 朝鮮侵攻と言うのも 単に国内を統一したから次を考えただけと言う 事かも知れぬし 狂った人間の考えなのかどうかだろうし 西国大名牽制の意図と言うのも 果たして有ったのかだが
23 :
名無し三等兵 :2006/10/25(水) 10:02:57 ID:0wE6PI9r
23
24 :
某研究者 :2006/10/26(木) 15:11:14 ID:nvcbv2Hy
25 :
某研究者 :2006/10/26(木) 19:18:37 ID:wYp8m5/f
26 :
某研究者 :2006/10/26(木) 19:25:11 ID:wYp8m5/f
27 :
某研究者 :2006/10/26(木) 20:08:55 ID:wYp8m5/f
熱分解でアセトアルデヒドが多少出ても 此れは酒を飲んだ後に出る物質だろうし 体外に排出は可能だろうし 溶解温度の250度程度では出ない可能性も有る訳だろうか
28 :
某研究者 :2006/10/26(木) 21:58:08 ID:wYp8m5/f
29 :
某研究者 :2006/10/27(金) 00:55:56 ID:M5PMOHOM
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls123.html >ドイツ軍はこの作戦を実行するために、優勢な敵に対する各個撃破と、殲滅戦の訓練を徹底して行った。
>しかし、シェリーフェンの名は有名になりすぎ、シェリーフェンプラの内容が漏れたため、各国は要塞の建設に走った、
>彼は、第一次世界大戦が始まる1年前に他界した。遺言は、「ドイツ全軍を右翼(ベルギー突入予定軍)に向けよ。」であった。
>第一次世界大戦では、後任のドイツの参謀総長小モルトケが、彼のプランを信ぜず、ロシア戦線に部隊を引き抜いて右翼を骨抜きにしてしまい、
>シェリーフェンは不発に終わった(しかし、骨抜きにされた右翼でも連合軍の左翼は敗れパリから50kmまでドイツ軍は到達している)。
>ドイツ軍がシェリーフェンの遺言に従い、全軍を西部戦線に投入し、仏軍を撃破した後、東部でロシア軍を撃破していれば、あるいは、歴史は変わったかもしれない。
シェリーフェンがWW1迄生きていれば
欧州或いは世界が独に支配されて居た可能性も
有る訳だろうか
30 :
某研究者 :2006/10/29(日) 17:02:55 ID:latYqZIK
赤い鉄錆地の兜や鎧は有るが 腕の装甲や脛当てが鉄錆地と言うのは 有るのかどうかだが
31 :
某研究者 :2006/10/30(月) 02:05:15 ID:DrS0wKMM
32 :
某研究者 :2006/10/30(月) 23:09:40 ID:1mjNE/yI
33 :
某研究者 :2006/10/30(月) 23:26:30 ID:J2kfWhCc
34 :
某研究者 :2006/10/30(月) 23:31:03 ID:J2kfWhCc
35 :
某研究者 :2006/10/30(月) 23:39:54 ID:J2kfWhCc
36 :
某研究者 :2006/10/31(火) 04:20:23 ID:p2z5ZBG7
http://byp.ld.infoseek.co.jp/mati23.htm >鉢金は額の防御に使うもので、京都で着用していた
>鉢金である。
>七カ所の斜めに刀傷がある
刀が当たり難いであろう頭部に
此れだけの傷が有ると言う事は
鎖帷子等は更に傷付いて居たのかだが
試し切り等をした跡と言う事は
無いのかだが
(防具が有るからこの部分で態と
攻撃を受けたと言う
可能性も有る訳だろうか)
37 :
某研究者 :2006/10/31(火) 19:15:32 ID:ePtwsNfI
狙撃能力の高い高位の鉄砲を持つ兵等は 自分で銃弾は装填していたのか どうかだが 矢張り発射速度を早める為に 自分では装填して居ない可能性も 有る訳だろうか
38 :
某研究者 :2006/10/31(火) 19:16:50 ID:ePtwsNfI
徒歩武者レベルで五枚胴や南蛮胴等が 装備されたのかどうかだが 桃型兜や筋兜程度なら 装備された可能性も有る訳だろうか
39 :
某研究者 :2006/10/31(火) 19:19:59 ID:ePtwsNfI
徒歩武者レベルで変わり兜と言うのは 使用して居たのかどうかだが
40 :
某研究者 :2006/10/31(火) 19:22:35 ID:ePtwsNfI
十文字槍を持つ徒歩武者と言うのは 居たのかどうかだが 管槍は下馬して使用する物だったのか どうかだろうし 此れも騎馬武者しか使用して居ないと言う 可能性も有る訳だろうか
41 :
名無し三等兵 :2006/10/31(火) 19:26:43 ID:KBImRl6N
何この 私物スレ
42 :
某研究者 :2006/10/31(火) 20:25:12 ID:VWtdjF+M
薙刀なら長巻からの変形で 徒歩武者も持って居たと言う可能性も 有るのかも知れぬが 十文字槍や管槍はどうなのかだが 腕の下から横や上に切り払われる等すると 可也厄介かも知れぬが 突きも場合に拠っては引かず共 連続で可能な場合も有るかも知れぬが シルトロンはロングボウで壊滅しただろうが スイスのパイク兵はロングボウでは 壊滅したのかだろうし 雑兵であるシルトロンと異なり スイスのパイク兵は士気が高いから 壊滅は困難だったと言う 可能性も有る訳だろうか テルシオのパイク兵は雑兵であり 銃撃を受ければ容易に敗走するが オランダ式大隊のパイク兵は銃撃を受けても 其の侭突入したと言う可能性は 有る訳だろうか
43 :
某研究者 :2006/10/31(火) 20:25:50 ID:VWtdjF+M
44 :
某研究者 :2006/10/31(火) 20:35:38 ID:VWtdjF+M
スイスのパイク兵の場合は 士気は騎士よりも下手をすると 上と言う事は無いのかだろうし 仏革命の時は市民に対して反撃するなと言う 命令を守って 殺されたスイス傭兵も居た訳だろうか
45 :
某研究者 :2006/10/31(火) 23:38:42 ID:VWtdjF+M
46 :
某研究者 :2006/11/03(金) 05:14:37 ID:mIS1pWyG
薄い鉄板を銃で貫かれると 何も無い状態より傷を負うと言うが 鉄砲足軽は一応鉄の鎧は 着て居た訳だろうが 上を考慮して可也軽装だったと言う事は 無いのかだが (或いは練皮なら貫通しても 傷は余り負わないと言う事は 無いのかだが)
47 :
某研究者 :2006/11/05(日) 21:44:18 ID:3Hl5tHOt
関ヶ原も毛利を本隊付近に置いて 早々に戦闘に参加させれば 裏切りは困難だったかも知れぬし 一度戦闘に参加して優勢な状況に成った後で 裏切ると言うのは有り得たのかだろうし 正面から其の侭当たれば西軍が恐らく 小早川が居らず共有利だったかも知れぬし 明確に西軍が優勢なら 小早川も裏切らなかったと言う可能性も 有るだろうか 毛利も小早川も裏切ったのは結局 其の後の扱いを見れば 失敗だったかも知れぬし 其の辺りの判断は 出来なかったのかどうかだが 三成が勝った場合彼等の処遇は どうだったのかだが 小早川が関白等と言うのは 有り得たのかどうかだが
48 :
某研究者 :2006/11/05(日) 21:46:16 ID:3Hl5tHOt
小早川・毛利を正面に置いて 宇喜多を敵背後或いは側面に置くと言う様な 方向も有ったかも知れぬし 小早川や毛利が動かないと言う事は 開戦前から分かっていたと言う事だっただろうが 動かなく共彼等で敵を足止めして 宇喜多で背後や側面から攻撃と言う方向も 有った訳だろうし 形勢が有利に成れば毛利・小早川も 参戦はしたかも知れぬが
49 :
某研究者 :2006/11/05(日) 21:48:56 ID:3Hl5tHOt
まあしかし此れを見越して 東軍も側面や後方の宇喜多に攻撃を集中すればだろうが 側面や背後を見せた東軍に対して 毛利や小早川・或いは他の軍に攻撃を掛けさせるのは 無理だったのかどうかだが
50 :
某研究者 :2006/11/05(日) 23:53:37 ID:3Hl5tHOt
毛利・小早川も背後に 西軍本隊等が居たら 裏切っても背後を突かれて崩壊する可能性が 有る訳だろうし 簡単に陣を転換するのは無理だろうから 正面に毛利・小早川を置いて 其の後方に西軍本隊を置けば 裏切りは困難だったかも知れぬが (更には敵の側面や背後に宇喜多軍等を 置けば 西軍の勝率は増したと言う事だろうか)
51 :
某研究者 :2006/11/06(月) 00:18:23 ID:u/FFdrXk
52 :
某研究者 :2006/11/06(月) 02:23:20 ID:u/FFdrXk
53 :
某研究者 :2006/11/06(月) 02:33:48 ID:u/FFdrXk
まあ只家康(此れは3万も兵力が有るが)が
背後の宇喜多を上手く足止めした場合は
膠着状態に成る危険も
有るだろうし
秀忠が来る迄粘られる可能性も
有るかも知れぬが
http://kakutei.cside.com/photo/sekiga.htm まあしかし西軍の正面戦力は
毛利・小早川を置いたとしても
東軍より可也優勢だろうし
家康が宇喜多を足止めして居る時に
東軍の正面が敗走すれば
家康の背後を毛利・小早川が突く事は
可能かも知れぬが
54 :
某研究者 :2006/11/06(月) 02:37:56 ID:u/FFdrXk
3万の家康軍に 18000の宇喜多が 早期に壊滅すると言う 可能性は無いのかどうかだが 山に布陣していれば 東軍正面が壊滅する迄は 何とか保つと言う可能性は 有るかも知れぬが
55 :
某研究者 :2006/11/06(月) 02:55:24 ID:u/FFdrXk
56 :
某研究者 :2006/11/06(月) 03:01:30 ID:u/FFdrXk
小早川・毛利が万一裏切った場合 此れを背後から即座に叩けるだけの 兵力は後方に残して 他は前衛に配置と言う方向も有るだろうが 45000を背後から確実に叩くには どの程度の兵力が必要だろうか (西軍の総兵力84000なら 宇喜多の18000を抜かすと 残り20000程度と言う 事だろうが 此れなら毛利・小早川が裏切っても 背後から殲滅は可能かも知れぬが)
57 :
某研究者 :2006/11/06(月) 03:49:02 ID:u/FFdrXk
>毛利・小早川を背後から2万の兵で撃破したとしても >3万の徳川正面戦力に勝てるのかどうかだが まあ只正直此れは難しいかも知れぬし 毛利・小早川撃破後は城に篭って 上杉軍等の到着を待つと言う様な 方向しか無いかも知れぬが 其の後果たして勝てるのかどうかだが
58 :
某研究者 :2006/11/06(月) 03:52:17 ID:u/FFdrXk
http://atpaint.jp/boukenkyuusha2/potiboard.php?res=20 上の様な布陣なら
勝てたのかどうかだが
毛利・小早川が万一裏切った場合は
勝てるのかだが
(まあしかし背後を抑えられて居る以上は
其の可能性は可也低いかも知れぬが)
毛利・小早川を背後から2万の兵で撃破したとしても
3万の徳川正面戦力に勝てるのかどうかだが
毛利・小早川軍の混乱した戦力が
東軍正面に流れ込めば
或いは撃破は可能と言う可能性も
有るのかも知れぬし
其の後で家康軍を宇喜多と挟撃は
可能と言う可能性も有るかも知れぬが
>毛利・小早川を背後から2万の兵で撃破したとしても
>3万の徳川正面戦力に勝てるのかどうかだが
まあ只正直此れは難しいかも知れぬし
毛利・小早川撃破後は城に篭って
上杉軍等の到着を待つと言う様な
方向しか無いかも知れぬが
其の後果たして勝てるのかどうかだが
59 :
某研究者 :2006/11/06(月) 04:55:23 ID:u/FFdrXk
http://ameblo.jp/ykblog/archive-200602.html 秀秋も松尾山には勝手に動いたと言うから
秀秋を正面に置くのは無理かも知れぬが
秀秋の背後に兵を置く事で
戦闘参加は兎も角裏切りは阻止出来たかも
知れぬし
正面には毛利を置くと言う手も
有っただろうか
(正面も毛利軍25000のみでは厳しいかも知れぬし
宇喜多も正面に置くと言う
方向も有ったかも知れぬし
背後には別の戦力を山に少数置くと言う
方向も有ったかも知れぬし
東軍30000の正面戦力を撃破した勢いで
家康本隊も何とか叩けないのかどうかだが)
秀秋も背後に兵を置かれれば
西軍が有利な状況と成れば挟撃を恐れて
戦闘参加すると言う
可能性は有ったかも知れぬし
全く期待不能な戦力でも
無い訳だろうか
(故に東軍3万の正面戦力撃破後に
家康を側面攻撃させる事は
可能だったかも知れぬが)
60 :
某研究者 :2006/11/06(月) 19:45:50 ID:7Sa6bDUj
61 :
名無し三等兵 :2006/11/18(土) 14:48:09 ID:zY7d0FW6
全体の兵に占める輜重隊の割合ってどれくらいなん?
62 :
名無し三等兵 :2006/11/18(土) 15:41:52 ID:???
15〜16世紀のアルケブスやマスケット兵の部隊ってどう言う風に射撃してたの? 部隊で一斉に射撃してたのかそれぞれが勝手に射撃してたの?
63 :
名無し三等兵 :2006/11/18(土) 17:56:53 ID:nWSK3w9b
>>45 北条家では兜の前立の大小を身分によって制限してるな。
知行の低い者は大きい前立や装飾を付けられないなどステータス化していたようだ。
64 :
名無し三等兵 :2006/11/18(土) 22:34:47 ID:???
>>62 大抵一斉射撃してたようです。日本でも信長がやってますね。
65 :
名無し三等兵 :2006/11/19(日) 08:49:50 ID:???
66 :
名無し三等兵 :2006/11/19(日) 10:53:26 ID:???
斉射と三段撃ちは異なる
67 :
某研究者 :2006/11/19(日) 12:34:00 ID:21uBkwnP
西欧のマスケット銃の命中率は 1000発に一発だが 火縄銃はどうだったのだろうか (西欧も火縄銃は狙撃して居たのかだが)
68 :
某研究者 :2006/11/19(日) 12:36:49 ID:21uBkwnP
http://2ch.dumper.jp/0005522411/ >日本が船団を仕立てて、イベリア半島やグレートブリテン島に攻め込むとしたら、
>惨敗でしょう。そもそもヨーロッパまで行き着けるかどうか。
ドーバー海峡と言うのは可也狭い部分も有るし
他の場所も陸伝いに移動すれば外洋艦で無く共
移動は可能かも知れぬが
>欧米の学者だったかが、日本が鎖国しなければインド辺りでイギリスと
>激突していたという予測をしていて、第二次世界大戦は400年遅れの
>衝突と言っていた、という話を読みました。誰の話を読んだか覚えて
最短で何時頃なのかだが
西欧技術を装備した艦を大量配備したら
勝算は有ったのかどうかだが
陸では騎兵の差で勝てたのかと言う事は
有るだろうが
日露戦争の様に上手く騎兵に
対処出来た可能性も有るだろうか
69 :
某研究者 :2006/11/19(日) 12:39:05 ID:21uBkwnP
>西洋諸国の方が火器の威力で勝ってるという論拠はどこにあるのでしょうか? テルシオの正面は確か大型の マスケット銃が多かっただろうが 日本も大型の銃や大筒を可也正面には 置いて居たのだろうか (まあ狙撃で無いならマスケット銃も 脅威では無い訳だろうか)
70 :
某研究者 :2006/11/19(日) 12:50:12 ID:21uBkwnP
1569年女王エリザベス治下のイギリスはフランス侵攻の際動員できる 【イギリス全体の兵隊】と武器の数を総点検しました。 その集計数は、【兵数24000人】【鉄砲6000挺】でした。 (ソースは『Lindsay Boynton著 The Elizabethan Militia』) その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が 島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】 【鉄砲9000挺】でした。 すなわち、【欧州最強のスペイン(動員兵数27473人、鉄砲8000挺)】や、 【エリザベス治下のイギリス(全体の兵数24000人、鉄砲6000挺)】では、 【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺(兵数25000人、鉄砲9000挺)】 にさえ及ばないことがわかります。 まあ日本は40万動員可能と言う意見も有るが 欧州全体でも同程度が 限界なのだろうか
71 :
某研究者 :2006/11/19(日) 13:14:26 ID:21uBkwnP
産業革命がなぜ起きたのかについては多くの議論が交わされており、 現在も明確な回答はないのですが、私見を述べさせていただきます。 植民地から集めた原材料を加工するには英国は人口が少なすぎたのでしょう。 清、オスマンなど人口の多い国であれば、わざわざ機械製造して利用するよりも 労働力を集めた方がずっと簡単で信頼性が高かったため、 機械を利用する産業革命に到達できなかったのだと思われます。 と言うのが 英が産業革命を起こせた理由なのだろうか
72 :
名無し三等兵 :2006/11/19(日) 16:25:53 ID:???
>501 :世界@名無史さん :2005/03/27(日) 16:40:35 0
>3000人で編成されたテルシオ陣形における実質兵数は、
>最前列の100人+四隅の小方陣の最前列5人×2を加えた110人。
>550人で編成されたマウリッツ方陣における実質兵数は、
>ハークィバスの最前列が10人×2+マスケットの最前列5人×2に
>+パイクの最前列25人を加えた55人。
>769 :世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 00:57:19 0
>
>>764 >>仮に総力戦=全面戦争を行うとしてあの時代情勢から東アジアでの防衛的な戦争と仮定する。
>>両勢力の兵站、戦略性などは考慮外。
>上記の条件で仮に総力戦=全面戦争を行うならば、大兵力と小兵力が戦ったとき、
>大兵力側はたいした損害はでないが小兵力側の損害は兵力比の2乗の損害を被ると
>するランチェスターの二次法則を適用すれば、兵力の劣るスペインに勝ち目はない。
>
>>501 を参照いただければわかるようにテルシオの実質参加兵数は3000分の110で、
>総兵力の3.66%しか機能しないため、スペインの兵力はより少なくなり勝つ確立が低下する。
なんだこの糞馬鹿は?
そして何故だれもこの糞馬鹿に突っ込んでないんだ?
>72 馬鹿すぎて釣りとしてしか見られてないか、凄く過疎なんじゃね?
74 :
名無し三等兵 :2006/11/20(月) 13:29:59 ID:???
256人で構成されたマケドニアファランクス一個部隊の実質兵数は最前列の16人。 よってファランクスの実質参加兵数は16分の1で総兵力の6・25%しか機能しない為アレクサンドロスがペルシア軍に勝つのは不可能。
75 :
某研究者 :2006/11/21(火) 09:16:11 ID:uhQDXijJ
16人がやられても後列が出て来る訳だろうが 密集すると包囲されたり大砲を打ち込まれる等して 壊滅する可能性は高い訳だろうか
76 :
某研究者 :2006/11/21(火) 13:05:59 ID:3pVcVsDO
艦隊が兵員上陸後に艦艇に搭載された大砲を 陸揚げして使用すると言う事は 有ったのかどうかだが
77 :
某研究者 :2006/11/21(火) 13:23:16 ID:3pVcVsDO
http://2ch.dumper.jp/0005522411/ >スペインは完全に国王を中心に軍の統制が権力一本化されているのに対して、豊臣政権は所詮領主連合で封建体制から脱皮していないこと。
>日本軍は日本一丸となって戦うわけではなく、日和見する大名もいるし、殆どの大名は、日本国の領土拡張などより御家大事であること。(そもそもその時の戦国大名に、ネイション概念があったかも疑問だが)
>スペインは国力の100%の力を発揮できると期待すれば、日本はせいぜい50%くらいか?
まあ相手が外敵且つ戦意が有れば
日本側もどうだったのかだが
>【長篠の戦いにおける織田・徳川連合は兵数38000人】であり、
>その内の【鉄砲部隊は10000人】だという。
テルシオ(1/3が銃兵)よりは銃の比率は
少ないだろうが
西欧と異なり基本的に狙撃兵である訳だろうか
30年戦争のリュッツエンの様に大砲の打ち合いに成れば
日本側の大筒の装備により
テルシオが壊滅的な打撃を受ける可能性も
有るだろうが
30年戦争もリュッツエンの様に常に砲撃を一方的に
歩兵は受け続けて居たのかどうかだが
78 :
某研究者 :2006/11/21(火) 13:32:19 ID:3pVcVsDO
>もし、日本の戦国時代と同時期の16世紀以降スペインに近代軍が確立していたなら >なぜ、17世紀の30年戦争の主力が(ベーメン人の)傭兵部隊なんだ? 彼等が裏切ったり勝手に略奪等を 働く事も有った訳だろうか >そんなこと言っても、同時代のポーランド軍団も戦い慣れしてるよ >兵站一つ取ったって信長の経験はせいぜい数百キロに対して、ポーランドは数千キロだから まあしかしポーランド軍も兵糧は 現地調達が中心だったと言う事は 無いのかだが
79 :
某研究者 :2006/11/21(火) 15:55:29 ID:I5yT2+bm
>厳密に言えば、ここで行われたのは交代射撃であって、整然と三段に分けて >各自に撃たせるのとは異なります。 >射手に次々と鉄砲を手渡したものの様ですが。 優秀な少数の射手に 多数の鉄砲を運用させたと言う 事なのだろうか
80 :
某研究者 :2006/11/21(火) 16:07:06 ID:I5yT2+bm
>なお、戦闘員が兵数の三分の一に過ぎなかったという説は、近世の陣立書か >ら立てられたものですが、参考に挙げておきました。 2/3は輸送及び作業専用の 人材だったと言う事なのだろうか (此れ等の人員は 兵を利用出来ぬのか どうかだろうし 無用な食料を消費すると言う事に 成るだろうが 或いは兵も動員しているかも知れぬし 兵糧輸送や陣地作製等の作業を重視したから 非戦闘員の数が増えたと言う事なのだろうか)
81 :
某研究者 :2006/11/22(水) 23:03:23 ID:d9mNpUmt
http://2ch.dumper.jp/0005522411/ >波状攻撃を仕掛けて来た武田軍に対し、織田・徳川軍は守りに徹し、鉄砲を放
>ったが、たとえ直接死に繋がらないにせよ、銃声が鳴り響き、鉄砲玉が飛び交
>う状況は、相手を動揺させた。
>そこに長鑓、弓矢が打って出て、実際に死者を生み出し、柵の中に引っ込んだ。
>こうした事の繰り返しの中で、武田側は指揮官の被害を増やし、更に後方に別
>動隊が出現した事もあって、戦の庭から引き上げたのでしょう。
敵を銃撃で混乱させた後なら
騎兵の突撃だけでは無く歩兵の突撃も
有効で有る訳だろうか
82 :
某研究者 :2006/11/22(水) 23:36:07 ID:d9mNpUmt
>戦国末期の合戦が第一次世界大戦並の塹壕戦ばかりだったというペリンの説は >今の所チト信じがたい。 >ただ、最近古戦場の発掘・調査が頻繁に行われていて、 >藤井尚夫氏などの調査によれば関ヶ原にも >東軍西軍ともに土塁をつみ、陣地をこしらえた形跡があるようですから >ペリンのいうことも今後実証されるかもしれません。 長篠も塹壕では無く土塁だろうし 西欧の大砲も防げる攻城用等の塹壕と言うのは 有ったのかどうかだが 野戦で有効な軽量砲なら土塁でも 止まるかも知れぬが
83 :
某研究者 :2006/11/22(水) 23:38:50 ID:d9mNpUmt
>南北朝時代から次第に下馬する様になり、戦国期には下馬が大半となります。 >皆無かどうかはさておき、下馬が志向されたというのは有力な説です。 まあしかし当時の絵を見ると 騎乗して戦闘している者も 可也多い訳だろうか
84 :
某研究者 :2006/11/25(土) 21:56:09 ID:OT7VuYVE
>日本では近世を通して火縄銃が主流で、「ピストル」なるものは菅江真澄も >記しており、秀吉の小田原在陣中に火打ち式銃が持ち込まれていた事が確 >認出来るにも拘らず、火縄式からの切り替えは近代まで持ち越されました。 大筒なら火打石式にしても ハンマーの衝撃は精度に影響は 与えない訳だろうから 大筒をフリントロック式に 出来なかったのかだが 不発が多いと言う問題も 有ったかも知れぬが
85 :
某研究者 :2006/11/25(土) 22:08:49 ID:OT7VuYVE
>火打石式を最初に欧州で大規模に導入したのは30年戦争時のスウェーデンであるが、
>。これは他の方式より火打石式が優れていたためではない。
>当時の歯車式は機構が複雑で量産に不向きであり、価格も非常に高価であり導入が難しかった。
>一方、火縄式はスウェーデン本国に火縄の原料が不足していたために導入できなかったのだ。
>しかし、直接火種を使い着火する火縄式に比べて火打石式は大変不発が多かった。
>また、
>>434 氏の書込みのとおり命中率が悪く、『撃てない、当らない』の二重苦であった。
>1621年ヴァルハウゼンは火打石式銃を『廃棄すべき遺物』と酷評し、火縄式銃への早期切替を
>具申している。
ハンマーの衝撃と言うのは
照準を狂わせる程
大きいのかだろうし
不発も直ぐにハンマーを起こし直せば
良いと言う事は無いのかだろうし
コストは火縄銃より火打石式の方が安い訳だろうか
86 :
某研究者 :2006/11/25(土) 22:17:58 ID:OT7VuYVE
>戦国日本の築城技術って結構高かったのではないかと思うのだがその辺はどうなの? >文禄・慶長の役の時も、明と朝鮮が蔚山倭城や順天倭城を大量の火器を使って >攻めたけど、結局は攻略出来なかったわけだし。 >まあ、当時の明とヨーロッパとでは大砲の性能にかなり差があるとは思うが、 >会津若松城や熊本城は飛躍的に強力になった19世紀の大砲にも有効だった。 >たしか、文禄の役に従軍していたイエズス会士も倭城について「難攻不落」って >書いていたと思う。 >それに倭城って工事期間がだいたい2ヶ月ぐらいなんだよね。 >戦時中に敵地に短期間で大量に強力な城塞を築く事が出来るというのは、かなり >実戦的な技術だと思うのだが。 耐震構造が砲撃に対しても 役に立ったと言う事かも知れぬし 石は切り出さないので短期間で 作れると言う事かも知れぬが
87 :
某研究者 :2006/11/25(土) 22:27:05 ID:OT7VuYVE
88 :
某研究者 :2006/11/25(土) 22:52:25 ID:OT7VuYVE
89 :
名無し三等兵 :2006/11/25(土) 22:55:24 ID:Tzfj0i6A
(´・ω・)y─┛~~一人舞台やな
90 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:05:15 ID:OT7VuYVE
>日本の侵攻を受けた明は銃の重要性に気付き、日本に対抗すべくその導入に着手した。 >明末の趙士禎はその著書『神器譜』の中で種子島(日本式)、制雷銃(西欧式)など世界の >各地から私費を投げうって9種類の最新式銃を収集し、その性能を比較した。 >その結果、最も性能の優れた銃として明国で正式採用された銃は「魯蜜銃(ローマ銃)」 >すなわちオスマン=トルコ式銃であった。 >頻繁に欧州各国往来した時期であり、各国商人が自国の銃を売り込んだであろうに、 >よりによってシルクロード経由の「オスマン式」が採用されたというのは大変面白い。 ストックが有る火縄銃と言う事で トルコの物が選ばれたのかだが 欧州の火縄銃は駄目だったのかだが
91 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:10:50 ID:OT7VuYVE
>>460 >キプチャク3ハン国の内紛の際、オスマン帝国に派遣されたイェニチェリ軍団が装備していた銃が
>中央アジアで有名になり、シルクロードのオアシス都市ハミの内乱でも大きな戦果をあげました。
>趙士禎はこのハミ内乱での噂を聞き、取り寄せたと記述しています。
>>459 >口径9〜13mm 全長1.3〜2.0m 重量2〜4kg 射程150〜300m
>西洋では『テュフェク』と呼ばれ、高い完成度を誇った。
>西欧のハークィバスが全長1.3m程度だったことを考慮するとかなりの大型銃。
威力を重視したと言う事かも知れぬが
西欧にも大型の銃はテルシオの前衛等に
配備されていたかも知れぬが
此れより大型の銃なのだろうか
(此れを用いても
遠距離からの狙撃を考えねば発射速度の差で
却ってやられていたかも知れぬが)
92 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:13:02 ID:OT7VuYVE
>再度 英国軍と戦火を交えた米英戦争の頃には、長い銃身内を苦労して弾を押し込まなくても良いように銃身の根元を輪切りにして持ち上げる構造の後装式の元祖のような歩兵銃を装備している。 此れが以後主流と成らなかったのは 何故なのかだが コスト高や銃身の接合部からガスが漏れると言う問題でも 出たのだろうか
93 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:30:35 ID:OT7VuYVE
>管槍が広く普及して、標準品になったために >槍名人が「あれは卑怯な武器だ。」と、評し >下衆の武器と断じた出展はなんでしたかね。 管槍が大量に使われて居たとは 知らなかったが 6m等の長い物は 有ったのかだろうし 無いとすれば自分より長い槍には 勝てたのかだが
94 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:35:43 ID:OT7VuYVE
>当時、世界は日本におそれてキリスト教の広める人に貴族と三秀にいって信長
>を殺すなら艦隊を送って力を貸すと秘密の約束があったので、スペインやイギ
>リスは日本にかなわないから恐れてボスの信長を本能寺で殺そうとしてたので
>ちゃんと戦っていたら、ヨーロッパは日本に負けていました。マンガに出てい
>たので間違いありません。
信長が欧州に危険視されて殺されたと言うのは
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls126.html 上の江田島孔明のランドパワーとシーパワーの戦略にも有るが
鉄甲船を其処迄危険視して居たのか
どうかだが
宣教師等が防火用の装甲を防弾用と誤認して
此れを可也恐れたと言う可能性も有るだろうか
95 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:38:31 ID:OT7VuYVE
>ナポレオン軍が使用していた革命暦]V年式銃には照星・照門がなく、 >戦国末期の日本の火縄銃より命中率が低い。 此れはマスケット銃が精度を重視して居ない事の 現われで有る訳だろうか (火縄銃のストックが無い事でのぶれは 問題では無いのかだが)
96 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:41:17 ID:OT7VuYVE
>カービン銃にいたっては有効射程20〜30mと射程距離が短く、 >当然標準もないため適当にぶっ放していた。 カービン銃の殆ど巨大なピストルと言う 所だろうし 馬上からの発射では精度は更に 低下したと言う事は無いのかだが
97 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:48:13 ID:OT7VuYVE
>30年戦争時スウェーデン軍に徴兵された兵士が死亡する確率は50%で >徴兵通知が届くことは実質的な死刑宣告と徴兵拒否反乱が頻発した。 >この高い死亡率の数字がいかにテルシオという密集戦術が >兵士の使い捨てを前提にした陣形かがうかがえる。 病死やリュッツエンの様に 最初の大砲の砲撃で死んだ人間が 大半だったと言う事かも知れぬが
98 :
某研究者 :2006/11/25(土) 23:50:58 ID:OT7VuYVE
>防御性と機能性の高い当世具足が出現し、家康の様に鉄砲で試し撃ち >をさせてから着用した例もあります。 鎧を固定して居ない状態での 試し討ちで有るから 貫通しなかったと言う事だっただろうし 現実には50−100m程度では プレートアーマーでも貫かれていた訳だろうし 近世のハーフアーマーでも 防げるのはピストルか マスケットの遠距離からの流れ弾だけだろうか
99 :
某研究者 :2006/11/26(日) 00:16:03 ID:67b4vXNu
>アラブ馬 体高140〜150cm 足が速く戦闘向き。 >蒙古馬 体高130cm 足が速く体力があり戦闘向き。 >木曾馬 体高140〜150cm 足腰が強く番場向き。 木曾馬は蒙古馬より 大型だった様だが 足は遅かったと言う 事なのだろうか
100 :
某研究者 :2006/11/26(日) 00:29:48 ID:67b4vXNu
>日本の軍艦に積まれていた「鉄砲」を補足します。 >この鉄砲は通常の鉄砲ではなく、抱え大筒タイプの重鉄砲で、 >銃身90cm、口径30〜80mm、射程は800m。 >通常弾以外に棒火矢(焼夷弾)や千人殺し(散弾)も使用可能でした。 まあしかし通常の銃も 持って居たと言う事かも知れぬが 此れは板は貫けぬなら 矢倉からの上方からの射撃だけかも 知れぬが >通常型の安宅船 >全長 平均して20メートルほど >500〜1000石積 >楯板は厚さ2〜3寸のクスノキかムクの板 >武装 大筒1門 鉄砲30挺ほど と有るが 大筒を30門装備していたと言う 事なのだろうか
101 :
某研究者 :2006/11/26(日) 00:31:45 ID:67b4vXNu
>日本の軍艦に搭載されていた「大砲」の代表格は国崩しで >知られる仏朗機(フランキ)で砲身90〜290cm、口径95mm、 >射程は500〜1000mです。 >フランキは後装式可動砲で命中精度が高いといわれています。 フランキ砲と言うのは 威力が余り無いと言うが 大筒よりは有ったのだろうか
102 :
某研究者 :2006/11/26(日) 00:37:42 ID:67b4vXNu
>なお、欧州の軍艦でで使用されていた「大砲」の代表格は >「カルヴァリン」(ラテン語で蛇の意)で、 >この名称は欧州における小口径の総称だったと言われています。 >なぜ、帆船に口径の小さい大砲が搭載されたのかというと、 >大口径の大砲では砲撃と同時に台座が壊れてしまったためです。 >砲身120〜300cm、口径38〜152mm、射程距離は300〜800mです。 >カルヴァリンは前装式固定砲で、射角の変更がきかないため、 >砲撃するには敵艦に横付けする必要がありました。 此れよりは大筒の方が 射角も変更可能であるし 使えると言う事は無いのかだが
103 :
某研究者 :2006/11/26(日) 01:07:25 ID:67b4vXNu
104 :
某研究者 :2006/11/26(日) 01:42:45 ID:67b4vXNu
105 :
某研究者 :2006/11/26(日) 02:12:33 ID:67b4vXNu
106 :
某研究者 :2006/11/26(日) 15:14:24 ID:YQ57kMrY
>よく、戦国日本の軍隊の戦闘員は全体の3分の1程度と聞くのだけど実際、どうなんだろう?
>大阪夏の陣の時の伊達勢はおよそ1万の内、
>騎馬628騎、槍1360、弓100張、鉄砲3420挺
>これだと5割5部くらいでだけど・・・。
>歩兵の銃の装備率が可也高いだろうし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA >オランダ式大隊や
>グスタフアドルフの歩兵より高いかも知れぬが
>騎兵銃はどうだったのかだが
オランダ式大隊は前後が入れ替わり乍ら
発砲していただろうし
発射速度は速いかも知れぬが
日本側も此れを行っていた可能性も有るだろうが
スウェーデン3兵戦術の歩兵の場合は
前進し乍らでも発砲して居るだろうが
此れは日本側には無い戦術かも知れぬが
狙撃では無く日本側は散開しているので
余り当たらないと言う事かも知れぬが
17世紀末のカール12世の軍の場合は
前進後至近距離で銃撃していたと言うが
こう成る前に日本側の銃の狙撃で可也の数が
やられると言う事は無いのかだが
オランダ式大隊等の大量のパイク兵に槍足軽は勝てるのかだが
銃砲撃で混乱させた後
長い管槍でも大量に
用意していればだろうか
107 :
某研究者 :2006/11/26(日) 15:16:10 ID:YQ57kMrY
16世紀の場合リュッツエンの様に序盤の大砲の砲撃で 決着が付く戦いが大半なら 軽量砲並みの威力の大筒が大量に有り 散開している日本側が有利と言う 事は無いのかだが
108 :
某研究者 :2006/11/26(日) 15:23:22 ID:YQ57kMrY
>オランダ式大隊は前後が入れ替わり乍ら >発砲していただろうし テルシオは此れが無いから 後で銃兵の比率が増えても 発射速度が遅かった訳だろうか
109 :
某研究者 :2006/11/26(日) 15:29:08 ID:YQ57kMrY
>また少数ながら長刀使いもおり、「一番鑓」でいいのかと議論されています。 >「二番鑓は御免だ」と言って、鑓を捨てて刀を振るう変わり者もいました。 >なお、当時の軍は全体の約一割程度の騎乗者、若党・足軽といった侍、中間 >・小者といった介助役の下人、夫などの百姓で構成されていました。 バスタードソードを持つ兵はスイス傭兵にも居ただろうが 西欧では16世紀中盤辺りで 消えて居たと言う事かも知れぬが ローマレギオンを考えれば剣も槍に対して 不利と言う事は無いのかも知れぬが 訓練された管槍を持つ兵に 剣で勝てるのかどうかだが
110 :
某研究者 :2006/11/26(日) 16:43:22 ID:YQ57kMrY
111 :
某研究者 :2006/11/26(日) 16:52:19 ID:YQ57kMrY
112 :
某研究者 :2006/11/26(日) 16:56:15 ID:YQ57kMrY
113 :
某研究者 :2006/11/26(日) 17:46:55 ID:YQ57kMrY
>でも日本兵はバラバラに行動して統制がとれないため >認識がおかしい、欧州の兵隊は役立たずだから >窮屈で柔軟性に欠ける、布陣なるもので統制とってただけだろ。 日本はレギオンの様な隊形 西欧はレギオンに敗れたファランクスの様な 隊形で有ったと言う 事だろうが ナポレオン時代やボーア戦争時に 西欧軍も散開した訳だろうか
114 :
某研究者 :2006/11/26(日) 18:00:11 ID:YQ57kMrY
>スペイン軍が装備するカルバリンの射程距離は300〜800m。 >豊臣政権軍が装備するフランキの射程距離は500〜1000m。 此れ等は50mでも命中しないと言う 意見も有るから 発射速度が重要と言う事かも知れぬが カートリッジの有るフランキの方が発射速度は 早い言う事かも知れぬが 大筒と比べてどうなのだろうか (フランキでは数を積めない 訳だろうか) フランキ式で射角を変更可能な大筒を 多数装備すると言うのが 良かったのかも知れぬが フランキは暴発が多いと言うし 早合を使用すれば良かったと言う事かも知れぬが
115 :
某研究者 :2006/11/26(日) 18:11:51 ID:YQ57kMrY
116 :
某研究者 :2006/11/26(日) 18:13:15 ID:YQ57kMrY
>仮に白兵戦になってもスペインの鈍刀では勝てない。 船上でも剣では無く槍を用いて居たと言う事は 無いのかだが ハルバード等の短い物が 使用されていたと言う事は無いのかだが
117 :
某研究者 :2006/11/26(日) 18:16:07 ID:YQ57kMrY
普段は散開して大砲や銃撃を避け 騎兵突撃を受けそうに成ったら 前衛だけを密集槍陣にすると言う様な 方向も有るかも知れぬが
118 :
某研究者 :2006/11/26(日) 19:40:10 ID:YQ57kMrY
>朝鮮半島の日本の補給路の航路が一定であったのが、 >朝鮮海軍に兵站をやられた原因。 航路を変えるだけで勝てたのか どうかだが 仮に届ける予定の補給物資が全部届いても 恐らく不足だったと言う事は 無いのかだが
119 :
某研究者 :2006/11/26(日) 20:50:29 ID:YQ57kMrY
>だから戦国日本では、かなり火縄銃が普及した後も弓は廃れる事なく併用されていた。 弓は基本的に騎乗して使用して居たと言う 事かも知れぬし 銃の装填中に射撃と言う意見も有るだろうが 銃は一斉射撃はして居ないので 弓が必要だったのかどうかだが 全体的に発射速度が落ちた時は 発射して居たと言う事かも知れぬが
120 :
某研究者 :2006/11/26(日) 20:53:12 ID:YQ57kMrY
>よく、戦国日本の軍隊の戦闘員は全体の3分の1程度と聞くのだけど実際、どうなんだろう? >大阪夏の陣の時の伊達勢はおよそ1万の内、 >騎馬628騎、槍1360、弓100張、鉄砲3420挺 >これだと5割5部くらいでだけど・・・。 銃3000に対し弓100では 援護に成るのかだろうし 騎兵のみが弓を使用して居たと言う事は 無いのかだが
121 :
某研究者 :2006/11/26(日) 21:41:54 ID:YQ57kMrY
>一方、日本の場合は鎧などの装甲が重装備になるのは、鉄砲の伝来と普及まで待たねばならなかった。 銃の登場後鎧は軽量化されている訳だろうし 銃を防ぐ事は基本的に諦めて 槍を受け流すと言う方向に 成った訳だろうか >実際のところ。日本の剣術は欧米のように突くことではなく斬ることを主としているだろう。 >貫通力で言えば突くことの方が良いのに斬ることを主としているのは、機動力を重視した武器だからだ。 まあ突きも一応考慮しているだろうし 1kgも無い様な剣で鎧兜や骨を殴ったら 此れは折れる確率が高い訳だろうし 強度を増す為の湾曲である訳だろうか (日本刀は所詮サブウエポンであるから 軽量化が求められたと言う 事だろうか) 引いて切る為には シミターや女型の薙刀の様に湾曲が多く無いと駄目と言う事だし 日本刀も西欧の剣同様叩くタイプの剣だが 軽いので湾曲して居ないと折れると言う 事だろうか
122 :
某研究者 :2006/11/26(日) 21:46:24 ID:YQ57kMrY
>日本って、今は河川が毎年同じように流れて、道路は縦横に走ってる国だけど、 >戦国期は平野は堤を破壊すればすぐに湿地帯になるのがこの国だよ。 >欧州の重装騎兵?突撃? >後三年の役で柵に近づけずに狙い打ちされた武者みたいになるよ。 日本もいざと成れば クルトレーの様な事が 出来た訳だろうか
123 :
某研究者 :2006/11/26(日) 21:49:07 ID:YQ57kMrY
>すると、戦国期、つまり16世紀末の段階だと、 >欧州の弓 > 火縄銃 > 日本の弓 >ってなところなんでしょうか。 クロスボウは早合も使えぬ訳だろうし 銃より発射速度が遅く 威力も銃より低く ロングボウは発射速度は速いが 訓練に時間が掛かり 銃より威力が低いと言う 事だろうか
124 :
某研究者 :2006/11/26(日) 21:57:08 ID:YQ57kMrY
>@防御の限界:南北朝〜室町時代にかけて弓が飛躍的に発展し、重装甲を無力化した。
http://www.0986.jp/yumi/reksi.html 室町中期に出て来た四方竹弓と言うのは
大鎧を無力とする程
強力だったのかどうかだが
胴丸が使用されたのは足軽主体の戦闘が
原因であり
弓は袖や兜のしころの折り返しの部分では
十分止まったと言う事かも知れぬが
胴丸が当世具足と成ったのは
銃の登場で弓に対抗する為の
兜のしころの折り返しや
大袖等が不要に成った為だろうか
125 :
某研究者 :2006/11/26(日) 22:10:37 ID:YQ57kMrY
胴丸を二重にして居た者も 居たと言うが 此れは体力の有る者限定か 下馬しない大将が大鎧の代わりに 使用したと言う可能性も有るのかも知れぬが 当世具足ではこの様な事は 有ったのかどうかだが
126 :
某研究者 :2006/11/26(日) 22:12:55 ID:YQ57kMrY
>レパンド海戦でマスケット銃が十分機能したとは思えない理由は3つ。 >@乱戦時に銃を使用することは同士討ちの危険性が高いため。 >A乱戦時に揺れる海上で再装填が難しいため。 >B天候不順で不発、暴発の可能性が高いため。 大砲等は装填出来たのか どうかだが 銃が再装填困難とすれば 海戦は一発大砲や銃を近距離で放った後 ラム等を使用するか 白兵戦しか無い訳だろうか
127 :
某研究者 :2006/11/26(日) 22:18:45 ID:YQ57kMrY
128 :
某研究者 :2006/11/26(日) 23:13:56 ID:YQ57kMrY
>1kgも無い様な剣で鎧兜や骨を殴ったら >此れは折れる確率が高い訳だろうし >強度を増す為の湾曲である訳だろうか 兜や鉄の鎧は兎も角 皮の札鎧や骨を打っても簡単に折れるのかだが 軽い剣同士で打ち合っても 折れるリスクと言うのは有る訳だろうし 湾曲には矢張り意味は有る訳だろうか
129 :
某研究者 :2006/11/26(日) 23:28:39 ID:YQ57kMrY
>1560年以降デミランサーの突撃槍を段階的廃止、銃へ移行。(英) >1597年にマウリッツが騎兵の槍を廃止し、銃へ再編。(蘭) 後で槍騎兵が復活した事を考えれば 此れは失敗だったと言う 事かも知れぬが
130 :
某研究者 :2006/11/26(日) 23:52:19 ID:YQ57kMrY
131 :
某研究者 :2006/11/27(月) 00:14:09 ID:rnYFG2ts
朱印船は少数のフランキを装備だろうが
http://www.mirai.ne.jp/~mgb/model/bship/shipyard.html アーク・ロイアル号(イギリス)
型式:ガレオン、4本マスト
進水:1587年
長さ:36.80m(バウスプリットから)
幅:約8.75m
深さ:約4.85m
排永量:約880t
武装:第1砲列18ポンドカルバリン砲16門
第2砲列9ポンドデミ・カルバリン砲12門
小型携帯砲
乗組員:舶員190名(砲手40名をふくむ),兵士70名
同時期の英は小型のカルバリン多数だろうし
フランキも近距離でしか当たらないなら
こちらの方が良かった訳だろうか
132 :
某研究者 :2006/11/27(月) 00:32:00 ID:rnYFG2ts
>朱印船末次船の画像見つけた。 >なんだ、大砲積んでるじゃん。 >8門程度の大砲が有るが >西欧艦の大砲の方が >矢張り多いのだろうか 上の朱印船は武装商船と言う 事かも知れぬし 軍艦を作るとすれば西欧の艦艇の様に 多数のカルバリンを装備したと言う事は 無いのかだが
133 :
某研究者 :2006/11/27(月) 03:28:16 ID:rnYFG2ts
>弓は袖や兜のしころの折り返しの部分では >十分止まったと言う事かも知れぬが 脛当ては湾曲しているから 装甲強化は無用としても 草摺や佩楯は側面だけでも分厚くすると言う 方向も有ったかも知れぬが 草摺が分厚く成って居る物は 確か有ったかも知れぬが
134 :
某研究者 :2006/11/27(月) 03:50:01 ID:rnYFG2ts
135 :
某研究者 :2006/11/27(月) 04:20:22 ID:rnYFG2ts
>楯などを射砕く金神頭などが軍陣で使用された。 盾が果たして 砕けたのかどうかだが >騎射なり馬上打物なり、馬上で尻を浮かせるには適した形状である。 此は白兵戦では 有利だったと言う事は無いのかだが >弓の名手鎮西八郎為朝の弓手に出てしまった大庭は、為朝は九州育ちで馬上での弓の扱いは得意ではなかろうが自分は東国の出身で騎馬には慣れている、と考え、為朝の右側(大庭からみて弓手)に回ろうとした。 >その読みどおりすれ違いざまに為朝の射た矢は狙った体の真ん中をはずれ大庭の膝に当たった。このセオリーを知らなかったら殺されていただろう、と言うのである。これらの記述は弓手を取ることの重要性を当時の武士が認識していたことの証左と言えよう。 敵騎兵の右に回り込んで矢を避けると言うのは アルスラーン戦記等で有ったかも知れぬが 敵も旋回する訳だろうし 果たして上手く行くのかどうかだが >なお、軍記物の記述で見られる敵を射止める場面では、正面から胸板を貫く、鞍の前輪・後輪ごと射通す、草摺の上から膝を射抜く、などが「保元物語」などで見られる。 矢張りしころや袖の部分以外は 近距離では貫かれていた訳だろうか
136 :
某研究者 :2006/11/27(月) 04:23:57 ID:rnYFG2ts
>つまり、射向けの袖とは弓を射るときに敵に向う側、すなわち左側の鎧の袖を、間額(真向ともいう)という兜の正面、庇の部分に当てることで顔面を防御せよ、ということである。 >騎兵は鞍の上で腰を右に捻り、さらに左袖を身体の正面に持ってきている。こうして正面から飛んでくる矢を手楯の代りとする左袖で受け、身体正面及び顔面を守るのである。 >実際は袖の上部(冠板という)が目の下の位置までせり上がり、兜の庇と袖の冠板の間から目が覗くような姿勢になっていたのではなかろうか。(右図:射向けの姿勢をとる金為行「前九年合戦絵巻」) 袖の部分で顔迄 防御していた訳だろうか >「あき間」以降の記述も防御に関して述べたものである。(3)でも触れたあき間を作らないよう「常に鎧つき」するよう指示し、 >さらに内兜を射させるような姿勢をとらないよう戒めている。鎧は長時間着用していると自然と隙間があいてくるものだが、身体を揺さぶることでこの隙間を正すことができる。 >この行為を「鎧つき」という。射向け姿勢と並んで防御の勘所と言えよう。 札鎧の場合この様な問題も有る訳だろうが 近距離ではどの道 貫かれる訳だろうし 袖やしころで止める以外は 無い訳だろうか (後は鞍の部分で上手く矢が止まるのか どうかだが)
137 :
某研究者 :2006/11/27(月) 04:36:34 ID:rnYFG2ts
138 :
某研究者 :2006/11/27(月) 06:06:28 ID:rnYFG2ts
139 :
某研究者 :2006/11/27(月) 06:19:50 ID:rnYFG2ts
モンゴル軍の弓は馬上でも射ることが出来る短いものだったが、飛距離はかなり高かったらしいな。 歴史上、優れた兵器があればそれを生かしきる戦術を練ることが出来れば勝利を得れるものだが モンゴル軍の軽騎兵のみの迅速な速力は、当時の国々を圧倒できるものだったわけだ
141 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:17:51 ID:tdhwT5vy
http://2ch.dumper.jp/0005522411/ >回答:朝鮮侵略時は朝鮮が秀吉が当初予想し
>た以上に弱く戦線が急拡大した。
>このため、兵站線が延びて兵糧の供給が追い
>つかなくなった。
小田原攻めの際に兵糧を輸送したと言うが
この場合も
現地調達+輸送で保ったと言う事かも知れぬし
ゲリラ戦等で現地調達が困難なら疲弊せざる
負えなかったと言う事なのだろうか
>だから朝鮮水軍って戦闘行動半径がものすご
>い短いし、戦争が進んで朝鮮南岸の良港を
>日本軍に押さえられてしまうと、ほとんど何
>も出来なくなってしまう。
水軍では無く現地のゲリラ活動に負けたか
或いは生産性が低かったので
調達困難だったと言う
事かも知れぬが
後者の説が有力と言う
事だっただろうが
其れは敵も同様だろうし
兵糧が無いなら
少数精鋭で城や地形を利用して
上手く戦った方が
良かったと言う事かも知れぬが
142 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:22:22 ID:tdhwT5vy
17世紀日本の戦船は日本、中国、西欧の技術を採り入れた船だった。
2本マストにバウスプリットを持ち、基本構造は欧州船そのもの。
さらにスプリットセールと船尾のラテン帆を持ち、
キャラックに近い全装帆船であったと推測されている。
大きい相違は2本のマストに張る大帆が中国ジャンク式の縦帆になっており、
帆装としては原型のキャラックより使いやすさを重視したのであろう。
船体は全体としては中国式に見えるが船尾はキャラックに近く、
船首水面近くに設けた張出し船楼はキャラックにも中国船にもないもので、
17世紀日本軍船式の独特な櫓で砲撃の利便性と防御性を重視されていた。
ある推定によると総トン数は数百トンと見積もられており、
同時期のヨーロッパ外洋帆船に匹敵した。
Posted by 某研究者 at 2006年11月12日 14:34
>17世紀日本の戦船は日本、中国、西欧の技術>を採り入れた船だった。
http://www.mekong.ne.jp/directory/history/senkanzuema.htm 恐らく上のタイプの船だろうが
中華風の装飾を施した
西欧艦と言う印象だが
>ちなみに山田長政がタイで頭角を現したの
>は、アユタヤに攻め込んだ
>スペインの軍艦2隻を撃沈したのがきっかけ。
上の艦でスペイン艦を
撃沈したのだろうか
143 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:22:55 ID:tdhwT5vy
1560年以降デミランサーの突撃槍を段階的廃止、銃へ移行。(英) 1597年にマウリッツが騎兵の槍を廃止し、銃へ再編。(蘭) >刺突武器は敵兵に刺さったまま抜けなくなる >危険性が高いため、 >馬の機動性が活かせなくなる。 >突撃槍は根本的な欠陥を抱えた不良品であ る。 まあしかし槍が復活したのも 事実だろうし 馬を狙えば剣を持つ騎兵は何も出来無い 訳だろうか Posted by 某研究者 at 2006年11月12日 15:14 >おまけにキリスト教側は、味方の船ごと大砲 >で撃つという荒っぽい戦術も取ってたようだし 【レパンド海戦の経過】 >戦闘は午前10時に始まり、午後4時に終わっ >た。 >オスマン帝国の旗艦が捕獲され、 >ドン・ジョンの意向とは反対に敵の司令官ア >リ・パシャは斬首された。 >スペインの旗艦のマストにアリ・パシャの首 >が掲げられたことで、 >オスマン帝国側の士気は崩壊した。 こんな野蛮な真似は イスラム側は行わないと言う 事かも知れぬが
144 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:27:55 ID:tdhwT5vy
>レパンドの海戦における十字軍の勝因は『重装甲』だったためです。 >オスマン艦隊はアザプ(海兵)中心であり、海への転落事故に備え軽装でした。 >逆に十字軍艦隊は騎士や貴族が中心であり、転落の怖さを知らないがゆえに、 >全身鎧を身に纏っていました。 大砲では無く鎧が役に 立ったと言う事かも知れぬが 以後の戦いでは何故か使用されて 居ない訳だろうか (鎧を着た侭泳ぐ訓練は貴族はして居たかも 知れぬが 雑兵はどうだったのだろうか) >もし実際に戦国日本の軍隊と欧州の軍隊が戦ったら、背景社会が米社会か麦社会かの >違いって大きいような気がする。 >欧州では例えば三十年戦争とかでも万単位の兵員を動員した軍団は、傭兵達を食わせて >いけそうな都市から都市へと渡り歩くのが精一杯で、戦略なんか二の次三の次といった >感じだった。 矢張り当時の兵站能力では 生産性の低い土地を移動するのは 自殺行為で有る訳だろうか
145 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:30:27 ID:tdhwT5vy
>カルヴァリンは1発発射するのに3分かかったそうだ。かなり時間がかかってるな。 >海戦における艦砲の話題があるようだけど、近世どころか近代にいたっても、 >艦砲は命中率も威力も低い兵器で信頼性はなかったみたい。 >1866年リサ海戦で戦力に劣る墺海軍の提督テゲトフは、艦砲は滅多に当らず、 >当ったとしてもたいして損害はない。と、確信して体当たり戦術を敢行して、 >敵フリーゲート艦をマウスバスト(衝角)突撃で撃退してるよ。 ネルソンタッチと言うのも 完全に白兵戦の戦術だろうし 複数艦が敵旗艦に対して至近距離で一発放ってから 兵員を突入と言う方向だっただろうか
146 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:31:42 ID:tdhwT5vy
147 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:33:19 ID:tdhwT5vy
148 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:35:17 ID:tdhwT5vy
http://bungo79.hp.infoseek.co.jp/newpage4.nenpiyou.1561.html 肥前平戸の七郎ノ宮の門前で、ポルトガル商人、フェルナンデスら十三人と一人の日本人が綿布の取り合いでイザコザになっている所に、
松浦家臣の伊藤甚三郎が通りかかった。フェルナンデスらは伊藤を見て、斬られると勘違いして襲いかかってきたため、伊藤はしかたなく十三人を斬った。
しかし、これが後に問題になり、宣教師のコスメ・デ・トルレスは貿易は金輪際、松浦家とは行わず大村家と行うと宣言した。
80人の船1隻に60隻の船が
負けると言うのも
不可解だろうし
レパントでも大砲は決定打とは
成らなかったと言うから
船員の装甲に負けたのかだが
商戦に装甲の有る兵はそう居たのか
どうかだろうし
多人数で組み討ちに持ち込まれれば装甲等
無力だろうから
日本側も負けたのでは無く
ポルトガル帆船が速力で逃げたと言う事では
無いのかだが
或いは帆船の速力で逃げ乍ら
銃撃を加え続けたと言う
可能性も有るかも知れぬし
当時の日本船は未だ防弾は無かったと言う
事かも知れぬが
149 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:37:01 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html また、これは記録にはなく状況証拠からの全くの想像ですが、安宅船のような大型船が総矢倉の上に設けていた矢倉が火箭対策に有効に機能した可能性を考えても良いように思います。
総矢倉の甲板上に火箭が落ちてきたとき火薬を身につけた銃兵が大混乱に陥る可能性が高いことは既に指摘しましたが、
甲板上に設けた矢倉内に入り、その銃眼から射撃すれば、こうした火箭の第一時的被害からは逃れられるのです(この矢倉が鉄板や銅板のような金属板あるいは、
城郭建築のような漆喰で覆われていればさらに有効でしょう)。
日本船も後には
総矢倉の板で銃に対抗するだけでは無く
火箭対策で
矢倉迄立てられていた訳だろうか
150 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:38:22 ID:tdhwT5vy
http://2ch.dumper.jp/0005522411/ >優れた戦術と主張するスペインのテルシオ戦術の特殊要件を考慮するならば、
>さらにスペインの敗北する確立が上昇する。
大砲(大筒)の数の差
隊形の差で
テルシオが壊滅と言う可能性が
高い訳だろうが
銃(無論総数では無く比率だが)はテルシオの方が多かったかも知れぬが
此れは狙撃では無いので
余り役に立たないと言う事だっただろうか
ピストル騎兵や重装槍騎兵も
地形が無く共高精度の火縄銃の狙撃で壊滅と言う
可能性も有る訳だろうか
(トルコ騎兵は射程の長い弓を持って居るので
火縄銃でアウトレンジ出来るのかどうかだろうし
此れを叩くには地形が必要かも知れぬが)
テルシオの大砲の炸裂弾と言うのは
この時点では殆ど数は無い訳だろうか
>あと、どの文献かわすれたけど、長巻で馬の足を刈る部隊を関が原で編成していた、
>西軍の大名家も確かいたはず。
>下馬して戦闘してるなら、馬の足を刈る長巻部隊なんかいらないと思うが
鎌倉時代の徒士も
長巻で馬の足を刈っていたと言う
事なのだろうか
151 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:39:47 ID:tdhwT5vy
152 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:40:47 ID:tdhwT5vy
153 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:41:46 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html >また、この頃から日本側の火箭対策が目に付
>くようになります。九鬼の御座船日本丸は、
>釜山の泊地が襲われたときは、火箭対策に不
>燃性の絹布の幕を二重三重に張り(前述した
>ように、これは甲板上に待機する銃兵を火箭
>の火から守るためのものでしょう)、舷側に
>は突き刺さった棒火矢・火箭をたたき落とせ
>るように、縄で縛った丸太や切り株を下げて
>いたといいます。棒火矢が命中したときは、
>これを落として火矢を海中に叩き落とすわけ
>です(これは鉄板装甲していれば無用の装備
>です。この点、九鬼の日本丸には、毛利水軍
>と闘った安宅船のような鉄張り装甲は無かっ
>たと考えられす。)。
丸太が有れば火矢を防ぐ
重い鉄甲と言うのは
必要だったのかどうかだが
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html この船が実際どのくらい活躍したかとなると、先学のご指摘どおり大いに疑問なのです。毛利水軍との所謂「木津川口の海戦」ですが、
大鉄砲で毛利方の指揮船を打ち崩しと景気のいいことを書いているのは『信長公記』のみで、肝心の九鬼家の家伝でも大鉄砲を撃って勝ったくらいのことしか書いておりません。
矢張り大砲で勝ったのでは無く
装甲での火矢の防御と
矢倉からの上からの銃撃で勝ったと言うのが
正しいのかも知れぬが
154 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:44:41 ID:tdhwT5vy
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html 日朝双方の船の相違点をまとめれば、前述のように和船の水切りの良い平断面形に対し、
「板屋船」は平底で平面的にも箱形を呈すること、和船(特に軍船)が木綿帆を使用するのに対し、
ムシロないし網代の折りたたみ帆を使用すること(ちなみに、金先生は櫓走ならともかく、
帆走性能で朝鮮の船が和船に優れると書かれていますが、根拠が示されておらず実証的ではありません。
単帆の和船の速度は、二本マストのブリッグよりも速かったという江戸時代の記録があります。単帆とはいえ、
木綿帆の和船の帆走性能はすばらしいものがあったようです。)。
櫓が和船が一人が漕ぐ小櫓、大櫓でも二人で漕ぐのに対し、朝鮮の船が5〜6人で漕ぐ大櫓である点(ただし、櫓の総数は少なくなる)、
厚板を連ねた箱形船体の朝鮮船のほうが、棚板構造の和船より丈夫とまとめられるでしょう(ただ、安宅船クラスの大型船の場合、
棚板や船底材「かわら」も相当厚いものが使用されますので(狭山池の発掘では慶長期の安宅船の転用材と見られる板材の暗渠が発見されています。)、
板材の厚さからすると、構造的にやや劣る程度で、実戦面でさほど弱かったとも思えませんが・・・・。また、言われているように、
安宅船に防水用の区画があったとすれば、船体強度は更に増すことになります
帆走速度は木綿帆を使用する日本船の方が
高速だった訳だろうか
155 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:49:25 ID:tdhwT5vy
亀甲船=アルマダ海戦の英の 焼き討ち船であり 此れの特攻で隊形を乱された後で 各個撃破を受けたと言う 事かも知れぬが 火炎や砲撃でやられたのかどうかだろうし (初期の艦艇には不燃布等の 防火装備は余り無いなら 火炎でやられたと言う可能性も 有るかも知れぬが) 白兵戦で各個撃破されたと言うのが 正しいのだろうか (後期には大筒の装備や地上からの 軽量砲の砲撃で 亀甲船を叩いていた訳だろうか) 地上からの砲撃の方が 海上からの砲撃より精度も高く 大筒は装填速度が高速であるなら 此れで可也やられたと言う可能性も 有るかも知れぬが (まあしかし大筒に早合と言うのは 有るのだろうか)
156 :
某研究者 :2006/11/27(月) 17:55:09 ID:tdhwT5vy
>亀甲船=アルマダ海戦の英の >焼き討ち船であり >此れの特攻で隊形を乱された後で >各個撃破を受けたと言う >事かも知れぬが 命中しなく共此れを回避する事で 隊列が乱れ各個撃破を 受けると言う事かも知れぬが 精度の高い地上からの砲撃や 艦艇の大筒等の装備で 後期は可也やられていた訳だろうか
ちょっと待て。 鉄板貼った安宅船は捏造だろ?
158 :
某研究者 :2006/11/27(月) 19:13:55 ID:IKScA6bz
鉄板等無く共銅版や布・棒等で 火矢は防げると言う 事かも知れぬし 大砲で毛利水軍を倒したのでは無く 矢倉等の上方からの銃撃と言う 事かも知れぬが 大筒も多数搭載していればだろうが 毛利側も此れは多いと言う 事かも知れぬが
159 :
某研究者 :2006/11/28(火) 03:19:41 ID:bfGuLMT5
毛利側が大型の鉄甲船に乗り移るのは 甲板の高さの問題で困難かも知れぬし 乗り込めぬ侭上方の矢倉等から銃撃を 受け続け 壊滅したと言う事かも 知れぬが 鉄甲船側も大筒で可也打撃は 受けなかったのかだが
160 :
某研究者 :2006/11/28(火) 20:12:31 ID:+qgeC+Sr
朝鮮出兵時の日本船は 棒で火矢を落とすと言う事も 行っていた訳だろうし 鉄板の無い西欧の艦艇も 火炎攻撃に対しては 同様の事を考えた可能性も有るだろうが ギリシャ火等を受ければだろうが 此れは砂でも掛けて居たのかどうかだが 果たしてギリシャ火で攻撃は受けたのか どうかだが
アルケブスやマスケットの部隊って 一列目が発射→後退、装填開始→二列目が前進、発射→二列目が後退 みたいに発射してたの?
162 :
某研究者 :2006/11/28(火) 22:18:46 ID:+qgeC+Sr
マウリッツのオランダ式大隊以降は有った様だが テルシオでは後期でも無い訳だろうか
163 :
某研究者 :2006/11/28(火) 22:19:53 ID:+qgeC+Sr
ギリシャ火と言うのは 東洋には伝わらなかったのだろうか (有ったとしても原料は 中東等から輸入するしか 無かったかも知れぬが)
164 :
某研究者 :2006/11/28(火) 22:23:01 ID:+qgeC+Sr
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA さらにマウリッツは斉射戦術を発展させ、背面行進(カウンター・マーチ)と呼ばれる戦術を編み出した。まず、前列の兵が斉射する。その後、前列の兵は最後尾に移動して装填を行う。
その間に、後列の兵が進み出て斉射をする。これを繰り返すことによって、理論上は途切れることなく斉射を浴びせかけられることができる。いわゆる長篠の戦いの三段撃ちと同じ戦術である
また、グスタフ・アドルフは背面行進以上に攻撃的な、漸進斉射戦術と呼ばれる戦術を編み出した。まず、前列の兵が斉射する。その後、前列の兵は最後尾に移動せず、その場で装填を行う。後列の兵は前列の兵の前に進み出て斉射をする。
これを繰り返すことによって、敵に接近しながら斉射を加えるのである。この漸進斉射戦術は、敵の隊列を撃破する可能性を銃兵に与えた。
上の銃撃方法は
以後のナポレオン戦争等でも用いられたのか
どうかだが
165 :
某研究者 :2006/11/30(木) 19:28:26 ID:v41D7BrX
166 :
某研究者 :2006/11/30(木) 19:34:05 ID:v41D7BrX
>手間取りましたが、なんとか全軍の指揮が取れるようになったティリーはこのチャンスに、歩兵大隊をゆっくり方向転換させてスウェーデン軍左翼を包囲し、 >騎兵隊にはスウェーデン軍を後方から襲撃させようとしました。左翼の危機に気づいたグスタフ・アドルフは急いでスウェーデン軍の前線の向きを変え、 >敵の襲撃に対して統一火線をつくることに成功します。旧教連盟軍の襲撃隊は、スウェーデン軍の猛烈な銃撃に遭って後退を余儀なくされました。 火力の高いスウェーデンの歩兵に対しては カラコール騎兵は銃撃でやられて居たと言う 事だろうか
167 :
某研究者 :2006/11/30(木) 19:42:23 ID:v41D7BrX
168 :
某研究者 :2006/11/30(木) 20:22:19 ID:v41D7BrX
169 :
某研究者 :2006/11/30(木) 20:23:06 ID:v41D7BrX
濃霧の状態では皇帝軍も壕からの射撃と言うのは 可能だったのかだろうし 此れは行われなかったと言う可能性も 有るかも知れぬし パイク兵の比率の多い皇帝軍の方が 歩兵の白兵戦では優勢だったと言う事だろうか (騎兵同士の戦いではスウェーデン軍の方が 優勢だろうし 此れを生かして勝利したと言う事かも知れぬが) 皇帝軍の丘からの砲の射撃は濃霧の状況では 有効だったのかだが スウェーデン軍も此れを奪った後 利用したのだろうか (此れで背後から砲撃を受ける事と成った 皇帝軍は 可也混乱したと言う事は無いのかだが)
170 :
某研究者 :2006/11/30(木) 20:27:56 ID:v41D7BrX
>濃霧の状態では皇帝軍も壕からの射撃と言うのは >可能だったのかだろうし 濃霧で無く共柵も無く 機関銃も無い状態では 騎兵やパイク兵に蹴散らされていたと言う可能性も 有るだろうか (テルシオの銃兵と言うのは 余り多くは無い訳だろうか) まあしかし砲撃戦をやるなら銃兵の損害は 減らせたと言う事かも知れぬが 後方のパイク兵がやられたと言う事は 無いのかだろうし 砲撃戦をした後銃撃のみでスウェーデン歩兵を 阻止出来る訳では 恐らく無いだろうか
171 :
某研究者 :2006/12/05(火) 22:00:52 ID:RSZ2c9Yw
ピストル騎兵と言うのも イタリア戦争等で仏重騎兵に対抗する為に スペインが考えたと言う事かも知れぬが トルコの軽騎兵の影響等は 無かったのかどうかだが (第一次ウィーン包囲や モハーチでのハンガリー軍敗戦が 影響していると言う事は無いのかだが)
172 :
某研究者 :2006/12/05(火) 22:01:42 ID:RSZ2c9Yw
仏重騎兵では無く 弓を持つトルコ軽騎兵に対抗する為に ピストル騎兵を編成したと言う事は 無いのかだが
ゲーむネタで済まぬが、アメコンでHarquebusierや、Musketterが、射撃した後 筒先から籠め矢をコシコシコシコシするのがリアル。 だが前列発射後、後列と交替はしない。 密集して前列が屈み、後列が立って撃ってる。 マスケットは重くて、動いて撃てないし、屈んだら耳元で爆音するわでかなわんだろうなぁ
174 :
名無し三等兵 :2006/12/09(土) 07:04:46 ID:2bhxR4UH
某研究者さんの文章は、 昔筒井康隆が書いた「確かにまあ大阪というのは」を思わせるな。 あれも句読点を使わずに「まあ」で繋げていた。
175 :
名無し三等兵 :2006/12/09(土) 08:58:00 ID:ukChE77I
エンドレスな独り言をスレでやる意味あんのか?
176 :
某研究者 :2006/12/10(日) 13:13:07 ID:+uLemO1X
初期のテルシオは前列の銃兵は2列だが 2列が同時に発射して居たと言う 事なのだろうか (後期の銃兵の増えたテルシオは流石に 前後は入れ替わって発射して居ただろうが 槍兵を銃兵で囲むと言う隊形は 側面や後方の銃兵が遊兵に成り易いかも知れぬし パイク兵の迅速な突撃等も 困難に成る訳だろうが)
鉄砲はその音の威嚇効果も高かったらしいから、どうせなら一斉に撃ちたくなるだろうし それこそ、下手な鉄砲でも数を撃ては当たるだろうから、最初の一斉射で可能な限り 相手の数を減らしたくなるんじゃないのかな ニ撃目で遅れをとる可能性はあるけど、相手がこちらと同等なら結局は有利だと思う
国土交通省のアレはお前か!!
179 :
名無し三等兵 :2006/12/13(水) 23:04:47 ID:mS0GvgCc
「現在は一瞬のうちに過去となり! 誰もがいつかは死に! 運命は人智をこえて荒れ狂う! それが当然だといわんばかりに!! 私はそんなこの世のすべてを憎む! 熱力学第二法則を憎む!!」
180 :
某研究者 :2006/12/17(日) 04:08:09 ID:L1TiLn6g
181 :
某研究者 :2006/12/17(日) 04:10:38 ID:L1TiLn6g
合計・・・侍35人、奉公人112人、足軽141人、中間5人、人夫39人、口取22人(計354人) 乗馬32頭、駄馬22頭(計54頭) ※奉公人は侍に仕える武家奉公人、中間・人夫・口取は大名に仕える武家奉公人という位置付けになる。 失礼備は300−1000と言う 事だろうか
182 :
某研究者 :2006/12/17(日) 04:13:23 ID:L1TiLn6g
騎馬武者も 内訳・・・侍22人、奉公人58人(計80人) 乗馬22頭(計22頭) 代わりの馬と言うのは 無いと言う事なのかだが
183 :
某研究者 :2006/12/17(日) 04:24:33 ID:L1TiLn6g
まあ部隊の人数の差に拠る柔軟性の差が 有る訳だろうし 此れで備えが敗れる可能性は有る訳だろうが 大筒の数や銃の精度の差で勝つと言う 可能性も有る訳だろうか
184 :
某研究者 :2006/12/17(日) 06:38:29 ID:L1TiLn6g
ゲームの戦闘等でも 300−1000人単位の備えを動かして 槍兵や鉄砲足軽の前後を入れ替え 向きも変更出来ると言う様な 方向に 単純化出来ると言う事かも知れぬが 備と言う単位で そう細かく動かして居たのかだろうし 魚鱗等のおおまかな陣形を支持していただけと言う事は 無いのかだが (初期配置で魚鱗等が選べ 其処から備えを自由に動かすと言う方向も 有る訳だろうか)
185 :
某研究者 :2006/12/17(日) 06:42:30 ID:L1TiLn6g
大将からの指示は 陣形及び備えの位置を 指定すると言う 程度かも知れぬが 撤退や攻撃は兎も角 細かい陣形の支持等を即座に音等で 伝えるのは 困難だろうか (まあ本陣の槍兵や鉄砲足軽等の向きは 即座に変更可能だろうが 其処迄大将が指示していたのか どうかだが)
186 :
某研究者 :2006/12/17(日) 06:46:10 ID:L1TiLn6g
視界には限りが有る訳だろうし 敵味方の位置の把握に 伝令を利用するしか無い場合も有るだろうが 視界内なら敵味方の数は 旗で可也把握出来ると言う 事だろうし 旗で可也遠くの敵味方も 直接大将が把握可能と言う事かも知れぬが
187 :
某研究者 :2006/12/17(日) 07:13:57 ID:L1TiLn6g
総大将の場合は備えを動かすのでは無く 武将単位で命令を出すと言う 事だろうし ゲームとほぼ同じと言う 事だろうか
某研もゲームするのか… どんなゲームしてるの?
>>188 多分total warシリーズだろう。
190 :
某研究者 :2006/12/17(日) 14:48:07 ID:SZgv5oUN
陣形と言うのは全軍単位で 決めるのか 或いは武将の配下の備も 陣形を作る事が有るのか どうかだが 武田信玄の鶴翼陣形と言うのは 矢張り全軍単位の物と言う 事だろうか
191 :
名無し三等兵 :2006/12/19(火) 01:45:48 ID:IAQvERzI
ボウケンさん、レイピアって2kgとか重いのが常識ですか? 平均1.5kgって本当ですか?
192 :
名無し三等兵 :2006/12/19(火) 02:19:13 ID:IAQvERzI
他のスレでついそんなこと書いちゃったもんで・・・
193 :
贋研究者 :2006/12/19(火) 16:42:59 ID:???
リアルですさんでるときネットで冒険の常に変わらぬ ヒトリゴチックな文体を見ると癒されるかも知れぬが 例えば今のようについ和んでしまったときなど 不覚と思うこともあるのだろうか
194 :
某研究者 :2006/12/20(水) 14:34:07 ID:GBWpkl58
195 :
某研究者 :2006/12/20(水) 14:36:30 ID:GBWpkl58
>戦場ではブロードソードやサーベルが使われ、レイピアが使われたのは主に街中の護身用あるいは決闘の武器としてであった。 と有るが >15世紀中頃にフランスで「エペ・ラピエル」(フランス語でepeeは剣、rapiereは刺突を意味する)と呼ばれる刺突用の剣が生まれ、これがレイピアの語源とされている。 上は実戦用だったと言う事は 無いのかだが
196 :
某研究者 :2006/12/20(水) 14:38:55 ID:GBWpkl58
http://www2.nns.ne.jp/pri/sml/hosoken.htm >語源はフランス語の「エペ・ラピエレ」。エペとはフランス語で”剣”を、ラピエレは”突刺”を意味する。
>15世紀頃、最初は宮廷の儀礼用(決闘)刀剣だったが、これはあまりにも軽量だったために実戦では用いられていないが、その後、スペインで発展した「エスパダ・ロペラ」と呼ばれたものがレイピアの原型。
と有るが
スペインのエスパダ・ロペラは実戦で用いられたのか
どうかだが
197 :
某研究者 :2006/12/20(水) 14:43:23 ID:GBWpkl58
http://yoyo-jp.net/viggo-archive/articles/2005-que.html 常に距離を保つ
剣を持った場合、距離を保つと都合が良い。対戦相手と接触するのはきわめて短く、ほんの数秒だ。その後、次の攻撃がはじまるまで相手と離れている。
突きで討ち合い、刃をぶつけあわない
映画で絶え間なく剣を交わしたりするのは本当ではない。実際の戦いでは突きでやりあうが、決して刃をぶつけようとはしない。逆に、剣士は常にそれを避けようとする。
つかみ合いが流行だった
これが最も重要な特徴の1つである。敵は相手を引っ張り、手か、柄の近くの刃の重い部分をつかもうとする。
確実に倒せる瞬間を求めて出入りする
対戦相手に近づいたり距離を保ったりしながら、絶えず出入りする。とどめの一撃で相手を確実に倒せる瞬間を探し、毎回2〜3のアクションを行う。
レイピアでの戦いと言うのは
現実には上の様な物だった
訳だろうか
198 :
名無し三等兵 :2006/12/20(水) 16:01:12 ID:tSo+RHVA
200 :
某研究者 :2006/12/21(木) 10:52:03 ID:Z98shYii
弓を西欧では上に向けて曲射したが 日本では行わなかった等と言う 記述も有るが 西欧で上に向けた 或いは日本で上に向けなかったと言う 証拠は有るのかどうかだが (攻城戦では両方無論上に向けて 放って居る訳だろうが)
201 :
名無し三等兵 :2006/12/22(金) 15:50:46 ID:THK7zJFq
確か津本 陽の対談書籍では、 紀元前のヨーロッパの兵団は、100〜1000人単位が真相らしいわ。 それに、総大将が万人単位を兵力として差配する能力は無かったのでは?と。
202 :
酷使様 :2006/12/22(金) 21:45:42 ID:???
>>201 兵が一万人もいたら、補給の都合で一都市に集まること自体不可能と思われる。
現代的な意味での「部隊の再編成」は、帰属意識や武装の統一などの問題が多すぎて、
ほとんど行えなかったのではないだろうか。
なので、総大将は大将の報告する兵数を信じて、ちょうどいい数の兵を持っている
大将に命令する感じで軍隊を運用していたのでは? なんか間違ってたら指摘よろ>某研猊下
203 :
某研究者 :2006/12/22(金) 22:20:23 ID:nper+rCK
総大将も数千−数万程度を持たせた武将単位で指揮は 可能だったかも 知れぬが 私も情報が無いので詳細は分からないが
>>201 聖書にも、ローマ人の百人隊の隊長が出てくる。
その隊をセンチュリオンといったと思う。
206 :
某研究者 :2006/12/27(水) 00:57:45 ID:up7Ws8Fj
207 :
某研究者 :2006/12/27(水) 01:18:22 ID:up7Ws8Fj
散歩の時にでも試してみればわかるけど、肩と足を同時に前に出すことで 掌分くらいリーチが伸びる 背骨を支点に動いていた体が、股関節を支点に、こうパタンパタンと交互にひらく感じ このへんを体感すれば、この延長上により効率のいい歩き方や走り方が想像できる …実行できるようになるわけじゃないけどね
209 :
名無し三等兵 :2007/01/04(木) 08:24:29 ID:wllrUC2d
保守
>>207 当時の食べもの水空気、労働量は近代とはくらべものにならない
その基本の上に立って効率の良い動きをするのだから飛脚などはかりしれない動きをしていたのだろうがな。
一応、貼っておくよ。
人類最古の戦争、6000年前に=独考古学者がシリアで遺跡発見
【ベルリン4日時事】ドイツ考古学者の調査で、これまで確認された中で
人類最古となる「戦争」が約6000年前にシリアで行われたことを示す
とみられる遺跡が発見された。米シカゴ大学東洋研究所のクレメンス・ライヒェル氏が
率いる調査隊が発見したもので、4日付独週刊紙ツァイトが報じた。
同氏によると、シリア北東部にある対イラク国境地帯の町ハモウカルで、
紀元前4000年ごろによく乾燥させた粘土球が大量に見つかったという。
同氏は、ウルクとみられる南メソポタミアの都市国家が北部にある
ハモウカルを侵攻、粘土球を弾丸のような武器に用いて陥落させたと
推測しており、「世界最古の侵略戦争の実例」と指摘している。
時事通信
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007010400799
スリングショットで城が落ちるのか。。。 恐るべし投石兵。
>214 スリングとスリングショットは別物だが…いいのか?
216 :
名無し三等兵 :2007/01/18(木) 21:58:21 ID:0zdohmA6
からあげ
スリングショットにライフリングを入れることができれば、かなり強力な飛び道具になったかも。
空手の刷り足のやり方に似てるな。ナンバ走りをも少し腰を落とした感じ
パレスチナが元気なころは石が雨のように降ってる映像がよく見られたな
話題変わるんだが、古代はどんな軍用靴履いてたんだろう? 映画「グラディエーター」や「トロイ」を見ると、足元は殆んど写されない。明確に写されたのは各作品で一回ずつと思う。 グラディエーターは闘技場で、何やら現代のスニーカーの様に見えた。革製か布製か判からない。寒い地域。 トロイは更に判らないが、竹かツルみたいなので格子に編んである感じ。こちらは温暖な気候の様だ。 どちらの作品も、監督が相当に本物、というか当時と同じものを追求したらしい。 あるミリタリーアドバイザーは、「歩兵の価値は足と武器」と言うので、足元が気になります。
>>220 ローマ軍団の足元は「カリガ」と呼ばれる軍用サンダルでした。
革で編んだ足首辺りまでの深さの。
古代ギリシアも、やっぱり「クレピス」と呼ばれる革製サンダルです。
カリガは二世紀中頃までには廃れ靴を履く様になった。 また映画等とは違いカリガは靴下の上に履いた。
>>215 どっちも石が飛ぶから、日本語的には投石器と書けるし、混同されやすい。
スリングのほうが習得が難しい(ぶん回すから)だけ。
>>221-222 サンクス!
革ですか。普通に考えたらそうですよね。竹は痛そうですね(笑)
>>220 ああいう設定の映画を示す「サンダル&ソード」なんてジャンルがあるのです。
>>225 訂正 「ソード&サンダル」ですなorz
足元の装備という意味では、
トラヤヌス帝の頃に、ダキア人のファルクス(長い鎌状の刀剣)で
足をやられる事に対抗して、脛当てが追加されたとかなんとか。
227 :
某研究者 :2007/02/13(火) 23:19:56 ID:kTOQhdhz
228 :
某研究者 :2007/02/15(木) 14:39:42 ID:IDxh4fbm
南北朝時代には 打撃武器に対抗して 総鉄製の鎧が作られていたのかだが 騎馬武者以外は前から打撃武器は 用いて居た訳だろうし 依然皮製の鎧が使われて居たと言う事は 無いのかだが (戦国時代は徒歩武者の装甲も 鉄に成ったのかどうかだが)
229 :
某研究者 :2007/02/15(木) 14:41:38 ID:IDxh4fbm
開けた場所では 馬に装甲の有る騎馬弓兵が 馬に装甲の無い騎馬弓兵をアウトレンジ可能と言う 事かも知れぬが 交戦距離が短い日本ではこの様なアウトレンジは困難であり 故に馬に装甲は施さなかったと言う 事かも知れぬが 大陸軍は可也交戦距離が有る場合も多い訳だろうし 馬に装甲を施して敵の軽騎兵をアウトレンジする意味は 有った訳だろうか
>>馬に装甲 映画など見ていて思うのだが、敵の馬を狙う攻撃は普通にあったのだろうか。映画などではまずない。 その理由を→馬は戦利品→という意味から、人のみを狙うのか→と脳内変換していた。 どんなもんでしょ
古来、日本のウマは小さいため、具足をつけると動かせませぬ。 サラブレッドが輸入されるまでは、重装騎兵が発達しなかった のはそのためでしょう。 鵯越を担いで降りたのは嘘かまことか小さかったことは計り知れましょう。
サラブレッドが輸入された後に重装騎兵が現れたのか日本に。で、何時?どんなのが?
サラブレッドはレースに特化された繊細な馬、ある意味で虚弱体質。 軍馬としてあまり向いてない馬だった。
>>230 時代によって違うけど南北朝時代あたりまでは馬は射ないなどの武家の作法が有った
モンゴル軍と戦って馬を射られたり一騎打ちに応じなかったり当時の武士は面食らったらしい
>>232 してない。
書き方間違えた酢万逝ってくる
>>236 それは嘘。
源平合戦の頃には馬を射ることなんか、ごく当たり前におこなわれていた。
そもそもモンゴル軍にだってオープンスペースで普通に戦って勝ってるし。
そもそも足軽雑兵だって当時からいたし、集団戦闘もあった。 ただ記録が少ないだけ。
241 :
238 :2007/02/18(日) 16:33:16 ID:???
>>240 延慶本平家物語
『昔様には馬を射る事はせざりけれども、中頃よりは、先しゃ馬の太腹を射つれば、
跳ね落とされて徒歩立ちになり候。近代は、様もなく押並びて組みて、中に落ぬれば、
太刀・腰刀にて勝負は候なり』
鎌倉年代記裏書
『十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北』
帝王編年記
『是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々』
>>229 日本の合戦の場合、開けた場所では、馬体はシールドウォールによって、
ほぼ守ることが可能。
木曽馬の体高が109〜140センチなのに対し、楯の長さは140センチ前後だからね。
馬が楯の前に出るのは、最大射程400メートル以上を誇る弓で敵にダメージを与えながら、
少しずつ交戦距離を縮めて行き、最後に馳組みでとどめを刺す時だけだし。
NHK大河ドラマも大幅に改善して130センチ以上の背高を 持つウマは出演禁止に汁!
日本馬は時代が経つほど馬格小さくなっていく。
246 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:20:41 ID:HQ3bsVpX
>古来、日本のウマは小さいため、具足をつけると動かせませぬ。 >サラブレッドが輸入されるまでは、重装騎兵が発達しなかった >のはそのためでしょう。 >鵯越を担いで降りたのは嘘かまことか小さかったことは計り知れましょう。 モンゴルや中国の馬も同等サイズだろうし 重装騎兵の馬に装甲は有る訳だろうか >日本の合戦の場合、開けた場所では、馬体はシールドウォールによって、 >ほぼ守ることが可能。 歩兵が盾を何処迄持って居たのかだが 騎馬武者の馬を守るだけの盾なら 有ったのだろうか (騎馬武者自身は袖と吹き返しで 矢は可也止まる訳だろうが 袖の無い騎馬武者も居るだろうし 彼等は下馬したのか どうかだが)
247 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:26:46 ID:HQ3bsVpX
戦国時代では銃弾を騎馬武者の装甲では防げないし 銃撃戦時は騎馬武者は下馬して 竹束の影に隠れていたと言う事かも知れぬが 雑兵全員が竹束で守られた訳では無いだろうが 長篠では土塁で雑兵も守られた 訳だろうか 西欧の騎士は歩兵とは別行動だったから 上の様な形で銃弾を止める事は基本的に 考えて居ない訳だろうか
248 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:30:55 ID:HQ3bsVpX
近距離の弓の射撃では馬鎧も貫通するだろうし 此れに頼るのは限度も有るだろうが 盾や袖・吹き返しを貫通して 中の人間にダメージを与えられるのかだが クロスボウや強弓なら可能だったかも 知れぬが 日本にはクロスボウは無い訳だろうか (モンゴルの弓なら袖や吹き返しを貫通して ダメージを与えられた可能性も 有るかも知れぬし 南宋の兵等にはクロスボウも有るだろうが 此れで袖と鎧が同時に貫かれていたと言う事は無いのかだが)
249 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:33:22 ID:HQ3bsVpX
>モンゴルの弓なら袖や吹き返しを貫通して >ダメージを与えられた可能性も >有るかも知れぬし まあしかし此れが出来る距離に入る前に モンゴルの馬鎧・鎧が 日本の弓で貫通したと言う事かも知れぬが クロスボウでは逆にアウトレンジされると言う危険は 無いのかどうかだが
250 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:37:08 ID:HQ3bsVpX
>クロスボウでは逆にアウトレンジされると言う危険は >無いのかどうかだが 此れは発射速度の問題で余りダメージは 与えられないと言う可能性も 有るだろうし 次弾装填前に接近されて弓でやられると言う 可能性も高いかも知れぬし モンゴルの場合は歩兵と騎兵は別行動であり 下馬した騎兵を歩兵で守ると言う事は無いかも知れぬし 巨大な物以外では歩兵の盾迄貫通するのは 無理かも知れぬが
251 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:41:01 ID:HQ3bsVpX
モンゴル側にバイキングの シールドウォールの様な物が有るなら 此れを正面からでは弓で何処迄崩せるのかだが 英の弓兵の様に包囲して射撃すれば 壊滅されられる可能性も有る訳だろうが 蒙古襲来絵詞を見る限り モンゴル軍は 盾は全員は装備して居ない訳だろうか
252 :
某研究者 :2007/02/20(火) 18:49:14 ID:HQ3bsVpX
モンゴル軍の歩兵の長弓と言うのは
可也強力では無いのかだが
其れでも袖を貫く前に
日本の弓がモンゴル騎兵の鎧と馬鎧を
貫く可能性も有る訳だろうか
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e04.htm モンゴル側にシールドウォールの様な物は有るのかだが
最前列には盾を並べては居るかも知れぬが
乗馬騎兵には当たるかも知れぬし
上から落ちて来る矢には盾は歯が立たない訳だろうか
日本側も此れは同様な訳だろうが
モンゴル側は盾の列から
前に出て戦っている兵も多い訳だろうか
(日本同様騎兵の馬だけ盾の壁で守っている様にも
見えるが
日本と異なり乗馬して居る騎兵は矢には脆いと言う
事だろうか)
254 :
253 :2007/02/20(火) 19:35:20 ID:???
255 :
某研究者 :2007/02/20(火) 19:51:45 ID:HQ3bsVpX
>太平記の時代では、弓を射るのは >下馬した状態で、突撃の時に改めて騎乗する戦闘スタイルに変化したみたい。 此れは弓の強力化で袖や吹き返しが 無効に成ったのが原因では無く 騎馬武者が弓を使用しなく成った故かも知れぬし 弓を使用しないなら下馬して盾の影に隠れた方が 安全な訳だろうか
>>253 >太平記の時代では、弓を射るのは下馬した状態で
その合戦絵巻を見る限りでは、徒歩立ちで射てるのは袖のない軽装の郎党みたいだけど。
257 :
某研究者 :2007/02/20(火) 19:56:07 ID:HQ3bsVpX
258 :
某研究者 :2007/02/21(水) 02:54:22 ID:MHVJHkzU
259 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:03:38 ID:uIrCYtGV
>現実には簡単に決着等付いて居ないだろうし >武田軍が上手く散開して応戦したのかどうかだが) 車竹束を散開させ 其の後方に騎馬武者・徒歩武者・足軽を配置して前進し 大筒の射程内に入ったら兵を車竹束から出して 散開させ 高速移動させる事で銃撃を回避しつつ接近すると言う 方向かも知れぬが (騎馬武者は騎乗して高速移動し 銃撃を避けると言う事だろうか) 柵の部分で銃撃を可也受けるかも知れぬが 一部の歩兵・下馬した騎馬武者のみを 車竹束の背後に配置して 先に前進させ 車竹束の後方で伏せて前進する等して大筒及び銃撃を回避しつつ 柵を切り倒す成り押し倒す成りした後 後方の部隊が前進すると言う 方向だろうか (敵が此れを阻止する為に土塁から出て前進する可能性も有るだろうし 此れは後方からも含めた銃撃で阻止すると言う 方向だろうか)
260 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:08:11 ID:uIrCYtGV
>(敵が此れを阻止する為に土塁から出て前進する可能性も有るだろうし > 此れは後方からも含めた銃撃で阻止すると言う > 方向だろうか) 敵も車竹束の様な物を用意して 銃撃を防ぐかも知れぬし 大筒を打ち込むしか無いのかも知れぬが 敵も車竹束の背後で伏せて前進するなら中々当たらないと言う 事かも知れぬし 接近戦に成る危険も有る訳だろうが 其の前に柵を倒せればだろうか
261 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:14:14 ID:uIrCYtGV
柵を倒しても突入時に 土塁上の銃眼からの銃撃で 可也打撃は受ける訳だろうし 銃眼からの銃撃であれば 此れを味方の銃で阻止するのは困難だろうが 攻城戦用の梯子は 一応使える訳だろうか
262 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:22:08 ID:uIrCYtGV
>車竹束を散開させ >其の後方に騎馬武者・徒歩武者・足軽を配置して前進し >大筒の射程内に入ったら兵を車竹束から出して >散開させ >高速移動させる事で銃撃を回避しつつ接近すると言う >方向かも知れぬが >(騎馬武者は騎乗して高速移動し > 銃撃を避けると言う事だろうか) まあしかし敵が陣地に篭って居ない 通常の野戦では上の様な 戦い方に成った訳だろうか
263 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:27:56 ID:uIrCYtGV
銃のない時代には盾の背後に入った侭 接近戦に成る事も有ったかも知れぬが 其処迄接近したら盾の外に出て居る 騎馬武者が頭部の隙間等を射抜かれる可能性も 有る訳だろうし 此れを避ける為に騎馬武者は下馬戦闘に移行したと言う 可能性も有る訳だろうか (騎馬武者が槍を扱う南北朝時代等では 最初から下馬していたと言う可能性も 有る訳だろうか)
264 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:32:02 ID:uIrCYtGV
>騎馬武者が頭部の隙間等を射抜かれる可能性も >有る訳だろうし >此れを避ける為に騎馬武者は下馬戦闘に移行したと言う >可能性も有る訳だろうか まあしかし敗走した敵の追撃時には 蒙古襲来絵詞に有る様に 乗馬して居た訳だろうか
265 :
某研究者 :2007/02/21(水) 17:41:43 ID:uIrCYtGV
>其処迄接近したら盾の外に出て居る >騎馬武者が頭部の隙間等を射抜かれる可能性も >有る訳だろうし >此れを避ける為に騎馬武者は下馬戦闘に移行したと言う >可能性も有る訳だろうか 袖の無い騎馬武者と言うのも居るだろうし 彼等は遠距離から鎧を打ち抜かれる可能性も有る訳だろうし 下馬して盾の影から射撃したか 或いは乗馬して袖の有る騎馬武者の 背後から射撃をしたと言う可能性も 有るかも知れぬが 彼等も敗走した敵の追撃時は蒙古襲来絵詞の様に 乗馬して居た訳だろうが 袖の有る騎馬武者の後方に居たかも知れぬが
266 :
某研究者 :2007/02/21(水) 23:30:50 ID:uIrCYtGV
>(騎馬武者は騎乗して高速移動し > 銃撃を避けると言う事だろうか) 馬に乗ると高速移動は出来るかも知れぬが 的が巨大と成るかも知れぬし 白兵戦で馬がやられる危険も 有る訳だろうから 突撃時は下馬して 追撃時のみ乗馬と言う可能性も 有る訳だろうか
267 :
某研究者 :2007/02/22(木) 10:19:31 ID:tABsrwOf
ゴンサロが居なかったら イタリア戦争は仏が勝ち (テルシオが無ければランツクネヒト等 仏騎兵とスイス傭兵に蹂躙されていたかも知れぬが ヴァレンシュタインの様に 篭城に徹したらどうだったのだろうか) 仏が欧州を統一していたと言う 可能性も有る訳だろうが 其の後は宗教改革等で 仏の支配は崩れたと言う可能性も有る訳だろうか
268 :
某研究者 :2007/02/22(木) 19:24:19 ID:pDhF4FZf
>総大将も数千−数万程度を持たせた武将単位で指揮は >可能だったかも >知れぬが >私も情報が無いので詳細は分からないが 下手に各武将の兵の比率を変えると 反乱が起きるかも知れぬし 此れはゲームの様には 変えられないと言う事なのだろうか
271 :
某研究者 :2007/02/24(土) 20:10:39 ID:w8d2lVWe
某研究者になりきって会話するスッドレはここですか?
274 :
某研究者 :2007/02/25(日) 09:09:06 ID:ebZA9S28
>ポーランド重騎兵な映画のワンシーンの動画見つけたので置いときますね。 上の動画ではパイクが短か過ぎるかも知れぬし 実物は3.5m程度は有る訳だろうし 3m程度しか無かった様にも見えたが
某研さんは鳥つけないからすぐに真似できるし 実物はだれも知らないし どこにでも居るようなかきこでもあるのだが
276 :
某研究者 :2007/02/27(火) 00:56:15 ID:HsRLw+jb
277 :
某研究者 :2007/03/05(月) 15:08:23 ID:cLodpvC4
278 :
某研究者 :2007/03/05(月) 15:40:38 ID:cLodpvC4
279 :
某研究者 :2007/03/05(月) 15:46:20 ID:cLodpvC4
>いざイラクが攻めて来たらクウェート傭兵は皆逃げ出してしまったからだ。 スイス傭兵と言うのは そう簡単には逃げないと言う事かも知れぬが 現在の仏外人部隊はどうなのかだが
280 :
某研究者 :2007/03/05(月) 15:52:58 ID:cLodpvC4
>「ドイツ軍将校は、兵士よりまずい食事をするのが義務と、思っていたぐらいだ」 日本の場合は 武将も足軽と同じ物を食べて居たと言う 事だっただろうか
281 :
某研究者 :2007/03/06(火) 03:44:55 ID:ITSvT4kl
http://12565.hito.thebbs.jp/one/1128069094#come_p >彼らは「ハイランダー・チャージ」なる戦法を得意とした。その内容はこうである。
>まず、射程距離ぎりぎりで銃を発砲。その瞬間に銃を捨て抜刀・突撃する。
>撃たれた敵は撃ち返してくるが、ぎりぎりなのでまず当たらない。
>当時の銃は連射が効かないので、弾を込めて撃つ準備をしているうちに至近距離まで行って乱戦に持ち込む。
騎兵が敵の銃の射程ぎりぎりで
騎兵銃やピストルを発射した後で
突入すると言う様な方向も
有る訳だろうか
(まあ相手が近距離でしか発砲しなく成ったら
通用しない戦術だろうが)
282 :
某研究者 :2007/03/07(水) 18:45:53 ID:PpnoSUs5
283 :
某研究者 :2007/03/08(木) 09:58:39 ID:WAEmUypM
過去ログ見られるサイトないんですか? にくちゃんねる休止しちゃってて見られないんです
285 :
名無し三等兵 :2007/03/10(土) 01:40:45 ID:LlkHmZo/
某研究者さま保守
286 :
某研究者 :2007/03/12(月) 16:16:37 ID:c9blTglM
287 :
某研究者 :2007/03/12(月) 16:17:22 ID:c9blTglM
288 :
某研究者 :2007/03/14(水) 19:47:18 ID:0b9rAevm
http://plaza.rakuten.co.jp/tikutai/diary/20051229/ >このような、命中率どころか、発砲まで不安
>定なマスケットでしたので、当時の記録には
>「100m離れたところから敵に狙われて負
>傷したら、そいつは本当に運が悪かったの
>さ!」という将校の発言が残っています。
と言う割には
>1790年にプロイセン軍が行った射撃テストでは(さすが、ドイツ人!)、目標を歩兵中隊の全面に見立てた、幅32m、
>高さ1.8mの木と布で出来た標的に向けて中隊前列の部隊が発射したところ、なんと200m先では25%、140mで40%、
>70mでようやく70%という、とんでもない数字が残っています
結構当たっているかも
知れぬが
>。(反対に日本の火縄銃は、銃の口径に弾が
>ピッタリ合うように作られ、弾丸がぶれる事
>が無く、また火縄式の発火装置〔マッチロッ
>ク〕のため衝撃が少なく、良好な命中率を保
>っていました。)
銃身を頻繁に清掃する必要は
有るかも知れぬし
発射速度が落ちる可能性も有るだろうが
精度を増した方が良いと言う
事かも知れぬが
289 :
某研究者 :2007/03/14(水) 20:39:57 ID:+6DPcaty
290 :
某研究者 :2007/03/14(水) 23:37:39 ID:+6DPcaty
291 :
某研究者 :2007/03/14(水) 23:40:31 ID:+6DPcaty
>彼が1551年に日本に立ち寄ったとき、豊後(大分県)の国だけですでに3万挺、日本全国には30万挺の鉄砲があると聞いたと記されている。この日付は鉄砲伝来から、たった8年後のことである。 この段階でさえ30万挺有ったと言う事は 関ヶ原や大阪夏の陣時点ではどうだったのだろうか
292 :
某研究者 :2007/03/14(水) 23:54:30 ID:+6DPcaty
>また、実際には早合(はやごう)と呼ばれる1回分の火薬と玉が分包されている物も使用していたし、 >銃身を垂直に立てた状態で銃座を地面に垂直に打ち付けるようにすると、鉛玉の重みで火薬が圧縮され、カルカでつかなくても良い方法もあるとのことでした。従って、15秒〜20秒ほどで放つことができたようです。 棒を使わず共装填は可能の様だが 内部が汚れて来ると困難と成るかも知れぬが
293 :
某研究者 :2007/03/15(木) 00:02:52 ID:+6DPcaty
>・100m先の相手に1000発発砲し、200発命中、残り2800騎。 >ただし、発砲後の煙で煙幕がはられた状態か・・ 100m先なら馬の様な標的なら ほぼ100%命中と言う事は無いのかだが 生き残った騎馬武者が歩いて突入して来る可能性は有るだろうが 速度が遅いので此れは射撃する時間は有る訳だろうか 煙音影響で遠距離射撃は 何れ困難に成るかも知れぬが 何発程度は可能なのか どうかだが
294 :
某研究者 :2007/03/15(木) 00:33:22 ID:FTrIJozZ
何れにせよ長篠では火縄銃の射手は250名程度とすれば 一回の銃撃で 騎馬武者の阻止は困難だろうが 柵が無く共長槍での騎兵阻止は 可能かも知れぬし 屈んだ長槍足軽の後方から 鉄砲足軽が近距離で銃撃を加え続けると言う事は 可能かも知れぬが 騎馬武者が近くで下馬して 突撃して来れば 此れを屈んだ槍兵では阻止困難かも知れぬし 乱戦に持ち込まれて 壊滅する可能性も有る訳だろうか
295 :
某研究者 :2007/03/15(木) 00:50:07 ID:FTrIJozZ
火縄銃で500mだとかなり仰角つけないと無理だよなあ。 もはや狙いをつけるというより風を読むに近い技術だな。
297 :
某研究者 :2007/03/15(木) 15:56:47 ID:FhL6LWnC
298 :
某研究者 :2007/03/15(木) 16:22:43 ID:FhL6LWnC
装甲が軽量な槍足軽なら100mを 30秒程度なら走れるかも知れぬが 徒歩武者は割に重装かも知れぬが 彼等は後で合流と言う可能性も有るのかどうかだが
299 :
某研究者 :2007/03/15(木) 21:48:16 ID:kCkEuYO8
まあしかし30年戦争等の砲兵も 同様に歩兵や騎兵に突撃されて 無効化されないのかだが ブライテンフェルト等では 何故か長時間打ち合っていた 訳だろうか
300 :
某研究者 :2007/03/15(木) 22:41:14 ID:kCkEuYO8
ナポレオンは大砲に対して 前進して損害を減らすと言う戦術を取って居たかも知れぬが どうだっただろうか (縦隊突撃は銃撃戦の構えでは 無い訳だろうし 敵の銃砲撃に対して素早く突入する事を 考えて居た訳だろうか)
301 :
某研究者 :2007/03/15(木) 23:07:35 ID:kCkEuYO8
302 :
某研究者 :2007/03/15(木) 23:21:00 ID:kCkEuYO8
303 :
某研究者 :2007/03/16(金) 17:21:09 ID:YfL0HeAq
30年戦争当時の歩兵は 全速で突入したのかだろうし 火縄銃の銃撃や砲撃を 可也受けて居たと言う事かも知れぬが (まあ騎兵は全速で突撃していたかも知れぬが 槍兵に阻止されると言う事かも知れぬが 直近で下馬して乱戦に持ち込めばどうなのかだが この様な運用はして居たのか どうかだが) 日本の足軽は全速で突入して 居たのかどうかだが
304 :
某研究者 :2007/03/16(金) 21:16:34 ID:YfL0HeAq
305 :
某研究者 :2007/03/16(金) 22:42:35 ID:8ADEMyxM
306 :
某研究者 :2007/03/17(土) 04:55:54 ID:5XeH3NFz
307 :
某研究者 :2007/03/17(土) 05:07:20 ID:5XeH3NFz
308 :
某研究者 :2007/03/17(土) 05:09:58 ID:5XeH3NFz
309 :
某研究者 :2007/03/17(土) 05:25:08 ID:5XeH3NFz
310 :
某研究者 :2007/03/17(土) 05:33:29 ID:5XeH3NFz
311 :
某研究者 :2007/03/17(土) 06:17:50 ID:5XeH3NFz
http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-849-8p.html >そしてときとして騎士ですらも、胸甲と腹当ての下にブリガンダイン(*革や布を芯地にして金属板をつけた胴鎧)をつけるにとどまったようだ。それ以外の板金防具は騎乗に欠かせない脚防具のみだった。
脚部は板金が多いと言うなら
馬上で回避出来無い部分故と言う事かも知れぬし
腰部や腹部も板金が多いなら
此れも回避困難な部分故と言う
事だろうか
(13世紀の鎧には板金の脛当てが
装備されて居るだろうし
此れは馬上では回避し難い部分故かも知れぬが
腰部にはコートオブプレートは有ったかも知れぬが
腿の部分は板金の装甲は未だ無い訳だろうか)
312 :
某研究者 :2007/03/17(土) 06:26:16 ID:5XeH3NFz
313 :
某研究者 :2007/03/17(土) 06:54:11 ID:5XeH3NFz
314 :
某研究者 :2007/03/17(土) 07:18:40 ID:5XeH3NFz
315 :
某研究者 :2007/03/18(日) 00:15:32 ID:iquUzGNq
旧タイプの胴丸は 鎧の腰部の隙間は無いので 太刀・短刀だけで 打刀は刺さないと言う事かも知れぬが 当世具足は基本的に差している訳だろうし 足軽は打刀しか無い訳だろうか
316 :
某研究者 :2007/03/18(日) 10:31:17 ID:iquUzGNq
317 :
某研究者 :2007/03/18(日) 10:38:57 ID:iquUzGNq
318 :
某研究者 :2007/03/18(日) 10:45:08 ID:iquUzGNq
319 :
某研究者 :2007/03/18(日) 10:53:32 ID:iquUzGNq
直政の鎧の方が鎖が多いが 忠勝の鎧は大袖を用いており 此れで可也防御を して居たと言う事かも 知れぬが 6m等と言う槍のアウトレンジ効果の方が 有ったのかも知れぬが
320 :
某研究者 :2007/03/18(日) 10:59:04 ID:iquUzGNq
大袖で肩の隙間等を塞ぐ等して 防御力を高めて居たと言う可能性も 有る訳だろうし 弓に対する防御にも 使えると言う事かも知れぬが 手足の装甲は軽装である訳だろうか
指揮官の質はどうだろうか 戦国期の日本なら 軍神上杉謙信、武田信玄、北条氏康、毛利元就、島津義弘など名指揮官に枚挙にいとまが画内が 欧州の軍勢はいわゆる名将の類いが居ない ゆえに日本軍こそ世界最強であるといっても過言ではないと思う 欧州において 100度の戦い負け無しという上杉謙信のような人材が居たか 居ないだろ くやしかったらそういう欧州の名将をあげてみてほしい 当時の日本は英雄や名将が割拠していたわけなんだから 強いのは当たり前。
322 :
某研究者 :2007/03/18(日) 21:20:21 ID:q6pVZjIz
>欧州の軍勢はいわゆる名将の類いが居ない 同時期ならゴンサロやマウリッツ・アドルフ・ヴァレンシュタインの方が 上と言う事は無いのかだが 彼等でさえ日本側の精度の高い火縄銃・大量の大筒や 管槍等の新兵器に可也苦戦したと言う事は 無いのかだろうし 歩兵の援護下での銃撃で騎兵が突撃して来れば アドルフがピストル騎兵を破った時の様な事に 成るかも知れぬし 槍迄有る訳だろうか
323 :
某研究者 :2007/03/18(日) 21:46:05 ID:q6pVZjIz
まあ大砲の炸裂弾が無いと言うのは 問題だろうが 30年戦争段階で何処迄 西欧軍は炸裂弾を使用して居たのか どうかだが
324 :
某研究者 :2007/03/18(日) 21:49:32 ID:q6pVZjIz
大身槍や管槍でプレートアーマーの胴部の 余り湾曲の無い部分は 貫けるかも知れぬが
325 :
某研究者 :2007/03/19(月) 03:09:11 ID:6z6wvXFA
326 :
某研究者 :2007/03/19(月) 20:52:23 ID:nXSoDIJa
327 :
某研究者 :2007/03/20(火) 22:31:09 ID:obqM/ATb
328 :
元空士長 :2007/03/20(火) 22:54:05 ID:???
/,/ ((;;||;;;) ) 昔から基本は変わっていない ⊆E;工;ヨ⊇ ∪|;{;Φ;};|∪ 〈_|_〉〈_|_〉
330 :
某研究者 :2007/04/04(水) 16:05:46 ID:je0Oftub
331 :
某研究者 :2007/04/04(水) 16:08:54 ID:je0Oftub
>あわせて、南北朝時代の大鎧の優品、黒韋威大鎧を展示しています。 矢張り南北朝時代の物だった様だが 此れ以前で同種の構造の物は 無いのかだろうし 佩楯の装備された鎧は鎌倉期にも有ったと言うから 鎌倉期でも腿の防御を全く無視していた訳では 無い訳だろうか
332 :
某研究者 :2007/04/04(水) 16:12:34 ID:je0Oftub
333 :
某研究者 :2007/04/04(水) 16:29:26 ID:je0Oftub
334 :
某研究者 :2007/04/04(水) 19:56:45 ID:lsj6ZXjp
335 :
某研究者 :2007/04/04(水) 20:02:39 ID:lsj6ZXjp
336 :
某研究者 :2007/04/05(木) 13:18:28 ID:zH0y/GDD
337 :
某研究者 :2007/04/05(木) 13:59:03 ID:zH0y/GDD
洋弓は和弓より優位だよ
339 :
某研究者 :2007/04/05(木) 15:02:46 ID:zH0y/GDD
ロングボウの様な丸木弓が合成弓より上なのか どうかだろうし 馬上では使用出来ぬ代物だろうか
340 :
某研究者 :2007/04/05(木) 15:12:06 ID:zH0y/GDD
341 :
某研究者 :2007/04/05(木) 15:24:21 ID:zH0y/GDD
>>339 弓道のお師匠様が『洋弓は中るように出来ているが和弓は中らないようにできている』
って言ってたのを思い出したのでつい。
西洋の鎧の論説も頼む
344 :
某研究者 :2007/04/05(木) 16:56:54 ID:zH0y/GDD
345 :
某研究者 :2007/04/05(木) 17:05:06 ID:zH0y/GDD
346 :
某研究者 :2007/04/05(木) 17:09:21 ID:zH0y/GDD
347 :
某研究者 :2007/04/05(木) 17:11:19 ID:zH0y/GDD
348 :
某研究者 :2007/04/05(木) 19:17:29 ID:zH0y/GDD
>弓道のお師匠様が『洋弓は中るように出来ているが和弓は中らないようにできている』 >って言ってたのを思い出したのでつい。 集団戦の場合は精度より威力・速射性能だろうが 日本の場合は弓成りに矢を放って居たのか どうかだが 直射可能な距離なら十分な精度が有るので 問題は無いのかも知れぬが
350 :
某研究者 :2007/04/05(木) 19:36:53 ID:zH0y/GDD
351 :
某研究者 :2007/04/05(木) 19:42:16 ID:zH0y/GDD
上は110ポンド(50kg)程度の弓だが ロングボウでは此れが標準なのかだが 和弓は確か25kg程度だったかも 知れぬが
352 :
某研究者 :2007/04/05(木) 19:58:47 ID:zH0y/GDD
353 :
某研究者 :2007/04/05(木) 20:50:31 ID:zH0y/GDD
>こんな物かな? > manople 此れはインドのパタだろうが 同種の物が西欧にも有ったのかも知れぬが 遺品や絵は見当たらないが
354 :
某研究者 :2007/04/06(金) 13:58:00 ID:Dy8mBDBZ
355 :
某研究者 :2007/04/06(金) 17:13:37 ID:2AEQHHIC
356 :
某研究者 :2007/04/07(土) 13:02:21 ID:VDaTqwl7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%BE >バイキングは狡猾にも補強せず材質も柔らかい木材を使った。これは相手の剣を盾で受け、刃を喰い込ませ動きがとれなくなった一瞬を狙う目的があった。
此れは後のノルマンや西欧軍も
同様だったのかどうかだが
>実験では木製盾は斧の数撃で破壊された。
所謂デンマーク斧なら
数撃は耐えるのかも知れぬが
腕力が有ればどうなのかだろうし
バルディッシュやクレセントアックス・長巻等の
より重い武器では一撃で粉砕され
ダメージを受けると言う事は
無いのかだが
(メイスでも盾は砕けないのか
どうかだが)
357 :
某研究者 :2007/04/07(土) 13:09:44 ID:VDaTqwl7
槍でも盾は貫通するだろうが チャージ時のランスを盾で止められるのかどうかだろうし 盾毎鎧が貫通していたと言う事は無いのかだが (プレートアーマー装備後は盾が廃れたのは ランスを鎧で受け流す事を 考えた故かも知れぬが 剣や弓を止めるのには盾は必要だろうから 剣や弓相手には構えたと言う事かも知れぬが)
358 :
某研究者 :2007/04/07(土) 14:14:13 ID:VDaTqwl7
http://www.ncn-t.net/ridwarn/tate2.html >スクトゥムは、楕円又は長方形の古代ローマ時代の兵士が用いた大型の盾です。木製で厚さ2o程度の薄板3枚を重ね合わせて固定したもので、大きさはどちらも1から1.2メートル、横幅が60から80pで、重さは1から2s程度でした
>楕円形のスクトゥムは、中央が縦一本で太く盛り上がり凸状に反っていました。表面には羊毛のフェルト加工で縫い合わせ、上下を金属の縁金具で補強してあり、
スクトゥム以外は
縁は別段補強はされて居ないと言う事は
無いのかだが
359 :
某研究者 :2007/04/07(土) 14:17:33 ID:VDaTqwl7
>タージェ/ターゲット(targe/target) >これらの盾はロンダンス(rondanche)と呼ばれ、表面を金属で覆った物でそれ程小さな物でなく時には左肩のほぼ全部を覆う物もあったようです。 >ホプロンは円形の大型の盾で、全金属製又は、木製の物の表面に金属を張り付けたりした物でした。 此れは金属で補強されて居ると言うし バックラーも金属製の物が多いかも知れぬが
360 :
某研究者 :2007/04/07(土) 14:38:49 ID:VDaTqwl7
361 :
某研究者 :2007/04/07(土) 15:24:16 ID:VDaTqwl7
362 :
某研究者 :2007/04/07(土) 15:47:53 ID:VDaTqwl7
363 :
某研究者 :2007/04/07(土) 16:02:29 ID:VDaTqwl7
364 :
某研究者 :2007/04/07(土) 20:18:30 ID:VDaTqwl7
365 :
某研究者 :2007/04/07(土) 20:20:34 ID:VDaTqwl7
366 :
某研究者 :2007/04/07(土) 20:48:26 ID:VDaTqwl7
牛の角を1mも連続して 切り取れるとは思えぬし 切れ目が有るとすると反発力に問題は 出ないのかだが 竹は一応2mでも一体化した物が 貼り付けられる訳だろうか
367 :
某研究者 :2007/04/07(土) 21:02:29 ID:VDaTqwl7
368 :
某研究者 :2007/04/07(土) 23:13:29 ID:tcNU4jJK
洋弓の弦って金属だよね? 和弓は植物だから結構頻繁に弦が切れて困る
海賊と一言に言っても、いろいろなタイプがあってね。 1.どっかの国が敵国の妨害のための行なう私掠船 2.その地域を根城にしている豪族や有力者などが、徴税と称して船荷を要求する場合 3.武装商人が海賊を兼業する場合とが主にある。 1のパターンは現在ではさすがに聞いたことはないが、有名なイングランドの海賊キャプテン・ドレイクなどがこのタイプだ。 それに、いま東南アジアで頻発している海賊は、2のタイプで地域の有力者の私兵集団がやっている場合もあれば 地元のマフィアやゲリラ組織がやっている場合がある。 ただ、噂によれば、中国共産党幹部の子弟によって構成された太子党が、彼らを操っているとの説もある。 また、現在でも2のようなのがあるのだから、国際線の船舶は武装が国際海洋法条約で認められている。 これは古代から同じだったらしくて、古代から交易船は武装を行なっていた そうした武装貿易船が、貿易が上手くいかなかった場合や交渉が決裂した場合など ついでに掠奪行為も行なうようになるのが、海賊の典型的なパターンだ。倭寇やヴァイキングなどは、このタイプだ。 実際、ヴァイキング達も、主目的は交易であって、海賊行為は副業みたいなものでね。 倭寇の拠点の対馬が、土地が痩せていて、耕作に適していなかったことなどから彼らは交易に乗り出し そして海賊行為も重ねた。 ヴァイキングの故郷のアイルランドも、それは一緒で、寒い北欧では牧畜や農業だけではやっていけないから、交易もはじめて、そのついでに海賊もやったわけだ
373 :
某研究者 :2007/04/08(日) 13:03:58 ID:hh2sNfEj
燻した竹があそこ迄曲がるのかだろうし 心材であるから厚みも有る訳だろうから 朝鮮弓の芯の竹は燻して居ないのか どうかだが モンゴル弓の場合は芯材の木は柔らかいものが使われて居ると言う 事なのだろうか
374 :
某研究者 :2007/04/08(日) 13:07:35 ID:hh2sNfEj
375 :
某研究者 :2007/04/08(日) 13:11:18 ID:hh2sNfEj
ヤクの角が水牛の角より劣り サルヤナギが竹に劣るなら モンゴルの弓は中国や朝鮮の弓より 劣るのかだが (トルコの弓は何の角を用い 心材は何なのかだが
dear 高卒準看馬鹿茄子 from 日昇国彩圏西部ライオンズ市 「吉川病院」幻帥 鶏 哲夫 いつも俺の心を満たしてくれてありがとう。 いつも俺を癒してくれてありがとう。 いつも俺のカレー臭を嗅いでくれてありがとう。 俺は君が好きなのだ。好きでたまらないのだ。 カレー臭のするこんな俺だけど・・・ 小さいことにすぐにカッカッして鶏冠をたててしまうこんな俺だけど・・・ 専門資格がないのに専門外来をやってばれそうになったから あせって本物用意しちゃうかもしれないこんな俺だけど・・・ どんなときも[他力本願]な俺だけど・・・ 警察に盗聴、テンペスト、デマ流し頼んじゃうこんな俺だけど・・・ イキガルけどビビリへたれなこんな俺だけど・・・ 老いているわりに精神的に幼いお茶目なこんな俺だけど・・・ 髪のボリュウムが少し気になるこんな俺だけど・・・ 我が子と二十歳の約束果たせるかわからないこんな俺だけど・・・ ハイエナのように患者にこっそり不正請求するこんな俺だけど・・・ トラのサッチーに足元にも及ばないこんな俺だけど・・・ 君が好きなのだ!!!!! 信じて愛して優しくしてほしい。 心をこめて君におくる。 この思いにはやくきずいてほしい・・・・
377 :
某研究者 :2007/04/08(日) 15:57:10 ID:hh2sNfEj
378 :
某研究者 :2007/04/08(日) 16:37:15 ID:hh2sNfEj
379 :
某研究者 :2007/04/08(日) 16:48:01 ID:hh2sNfEj
381 :
某研究者 :2007/04/08(日) 18:18:32 ID:hh2sNfEj
製作中も弦を張る直前にも裏反りが全然無い(日本弓以下)だが 此れは実戦用では無いのかも知れぬが
382 :
某研究者 :2007/04/08(日) 18:59:56 ID:hh2sNfEj
383 :
名無し三等兵 :2007/04/08(日) 19:07:29 ID:crCr5HAO
元寇の持ってた弓ってメインはモンゴルのじゃないんじゃない?
385 :
某研究者 :2007/04/08(日) 19:37:52 ID:hh2sNfEj
モンゴル弓より強力な クロスボウでも袖と鎧・或いは吹き返しとシコロを 同時に貫通出来たのか どうかだが (星兜の星の部分では矢は弾けるかも知れぬが 兜の湾曲程度では矢は貫通するかも知れぬが)
387 :
某研究者 :2007/04/08(日) 20:10:09 ID:hh2sNfEj
まあそうするとトルコやモンゴルの角弓では芯材に 竹は使用されて居ない可能性が 高い訳だろうか
388 :
某研究者 :2007/04/08(日) 21:12:48 ID:hh2sNfEj
ドラマ等だと鎌倉時代でも下馬した騎馬武者は 長巻を使っている例も多いが 蒙古襲来絵詞等を見ると刀のみを使っているから 此れは無いのかも知れぬが
389 :
某研究者 :2007/04/10(火) 01:11:25 ID:IZukfUhT
390 :
某研究者 :2007/04/10(火) 01:21:20 ID:IZukfUhT
391 :
某研究者 :2007/04/10(火) 01:40:14 ID:IZukfUhT
392 :
某研究者 :2007/04/11(水) 00:17:35 ID:aQii0Pz8
393 :
名無し三等兵 :2007/04/11(水) 10:15:25 ID:hU6l91zu
三国志とか見ると、やっぱ中国が一番凄いと思う。 あんな昔に、あれだけ完成度の高い武器で戦っているんだから凄い。
394 :
某研究者 :2007/04/11(水) 13:48:24 ID:YCkbiCiX
騎兵はローマよりは上かも知れぬが パルティア重騎兵には勝てるのかどうかだが BC5世紀にクロスボウが出て居るし 車陣と此れを組み合わせれば騎兵も撃退出来たかも知れぬが この様な工夫をしても匈奴には敗れている訳だろうが フス戦争時のハンガリー騎兵の様な 機動力を生かしての焦土戦術に敗れたと言う事かも知れぬし 車陣が追い付かない場所を徹底的に破壊したと言う事かも 知れぬが 匈奴には耕作地や本拠地も無いなら耕作地や本拠地を叩くと言う戦術も 使えない訳だろうか
395 :
某研究者 :2007/04/11(水) 13:52:26 ID:YCkbiCiX
モンゴルや匈奴の機動力を生かした 焦土戦術の方が 脅威だったと言う事かも知れぬが 其れでも唐の時代迄は何とか保っていた訳だろうか
396 :
某研究者 :2007/04/11(水) 13:54:15 ID:YCkbiCiX
まあ只機動力を生かした焦土戦術の使えない ベトナムや日本では 敗れていた訳だろうし 車陣や陣地・城の攻略等は苦手な訳だろうか
397 :
某研究者 :2007/04/11(水) 14:56:25 ID:8LcYQvLX
398 :
某研究者 :2007/04/11(水) 14:57:45 ID:8LcYQvLX
夜戦以外ではこの種の盾は 使用されなかったのか どうかだが
399 :
某研究者 :2007/04/11(水) 15:07:14 ID:8LcYQvLX
400 :
某研究者 :2007/04/11(水) 15:13:34 ID:8LcYQvLX
401 :
某研究者 :2007/04/11(水) 15:15:43 ID:8LcYQvLX
マクシミリアン鎧も貧しいドイツの 余り鉄を使わない安物鎧と言う事は 無いのかだろうし 他の地域では使われたのかどうかだが
402 :
某研究者 :2007/04/11(水) 15:31:42 ID:8LcYQvLX
403 :
某研究者 :2007/04/11(水) 15:32:57 ID:8LcYQvLX
http://www.myarmoury.com/albums/displayimage.php?album=50&pos=117 オスマン帝国軍相手に西欧軍が16世紀に野戦をやったら
重騎兵はトルコ弓打ち抜かれ
ピストル騎兵はトルコ弓でアウトレンジされて
終わりと言う事かも知れぬが
テルシオなら対抗出来たのかどうかだが
テルシオの銃の射程外からトルコ騎兵が弓を放って
やられると言う可能性も有る訳だろうし
(砲兵も脅威かも知れぬが
トルコの砲は大型の砲だけなので野戦には向かないと言うが)
テルシオに塹壕を組み合わせて何とか撃退可能と言う
可能性も有るかも知れぬが
トルコ側も此れに対して塹壕やトンネルを掘ったり
弓を山形に射る等して対抗して来る可能性も
有る訳だろうし
大砲を多数打ち込む可能性も有る訳だろうか
或いは塹壕等無く共
スイス傭兵がトルコの歩兵に対して突撃すれば
歩兵は壊滅出来たかも知れぬが
騎兵の弓で何れ壊滅すると言う可能性も
有るかも知れぬが
404 :
某研究者 :2007/04/11(水) 15:36:40 ID:8LcYQvLX
トルコも17世紀にもウィーンを包囲しているだろうが 攻城技術の問題で新型要塞を落とせなかったと言う 事かも知れぬし 野戦では不利だったのかだが (最後やられたのも奇襲での負けだろうし 野戦での負けと言えるのかどうかだが) 騎兵や歩兵も弓が銃に変わって弱く成ったと言う事は 無いのかだが 変わって居なければ強いかも知れぬが
405 :
某研究者 :2007/04/11(水) 17:42:22 ID:8LcYQvLX
406 :
某研究者 :2007/04/11(水) 17:45:09 ID:8LcYQvLX
狩猟用の槍や弓は可也有る訳だろうし 此れ等や鎌の様な農具も大量に 用いられたと言う事かも知れぬが 此れも無い物には棒が持たせられたと言う 事だろうか
407 :
某研究者 :2007/04/11(水) 17:46:53 ID:8LcYQvLX
無論狩猟用のナイフ・短剣の類も 大量に用いられたと言う事かも 知れぬが
408 :
某研究者 :2007/04/11(水) 17:49:12 ID:8LcYQvLX
木を切ったり薪を割る様な斧も 戦場に投入された訳だろうか
狩猟からとなると、落とし穴とか…そこに追い込む術も含め 命がけで獲得していったんでしょうね
411 :
某研究者 :2007/04/11(水) 21:16:32 ID:8LcYQvLX
まあ矢張りビルやトライデント・槍・弓・短剣・斧は元は 農具だろうが 剣や矛槍は違う訳だろうか
412 :
某研究者 :2007/04/11(水) 21:20:30 ID:8LcYQvLX
フレイルは元は農具だろうが メイスは農具と言えるのかどうかだが 棍棒で動物を狩っていたなら 農具と言えるかも知れぬが
413 :
某研究者 :2007/04/11(水) 21:23:23 ID:8LcYQvLX
小型の投石器も狩猟用に 使用していた訳だろうか
414 :
某研究者 :2007/04/12(木) 19:40:09 ID:vwxe6JhP
415 :
某研究者 :2007/04/14(土) 06:36:41 ID:9Gb3HCYe
http://www.nicovideo.jp/watch/1175605111 日本刀は叩き切る剣であり
油や刃毀れは切れ味には余り影響しないと言う
事だっただろうが
日本刀は西欧の剣と異なり湾曲しているから
叩き切る際に力が一点に集中して
威力が増すと言うが
装甲の上で滑る場合は無いのかどうかだが
札鎧相手なら問題は無いのかも知れぬが
板金鎧や兜に対してはどうなのだろうか
モンゴルの刀はシミターの様に極度に湾曲しており
引いて切る刀だから
突きが困難故に
船上では上方からの斬り一辺倒に成り
不利だったと言う事は無いのかだが
蒙古襲来絵詞ではモンゴル軍が
船上でも槍を用いて居る描写が有るが
此れに対しては刀で上手く踏み込めたのか
どうかだが
416 :
某研究者 :2007/04/14(土) 06:38:29 ID:9Gb3HCYe
417 :
某研究者 :2007/04/14(土) 06:48:49 ID:9Gb3HCYe
>袖を装備た胴丸も >11世紀に既に出て居ると言う事かも知れぬし 盾無しでも屈んで射撃或いは待機すれば 可也被弾面積は減るかも知れぬが 腰から下を守る小型の盾も有ったかも知れぬし 此れを使う場合も有った訳だろうが 馬を守る場合は大型の盾を使用したのか どうかだが
418 :
某研究者 :2007/04/16(月) 00:56:52 ID:jmpwRaz6
419 :
某研究者 :2007/04/16(月) 01:37:23 ID:jmpwRaz6
420 :
某研究者 :2007/04/16(月) 01:53:26 ID:jmpwRaz6
421 :
某研究者 :2007/04/16(月) 07:41:24 ID:kDXx7AZ2
423 :
某研究者 :2007/04/17(火) 07:51:51 ID:iBD+XD93
ブリガンダインの様な鎧は 満州族やモンゴルだけの使用にも見えるし 後は布の外側に装甲の有るタイプだけだし モンゴルや満州族が開発した鎧なのだろうか (耳の部分に穴は空いているのかだろうし 命令と言うのは聞き取れる構造に 成っているのかどうかだが)
424 :
某研究者 :2007/04/21(土) 04:07:21 ID:Slg520+3
425 :
某研究者 :2007/04/21(土) 04:57:13 ID:Slg520+3
426 :
某研究者 :2007/04/21(土) 05:31:17 ID:Slg520+3
ところでさ、ナポレオン戦争の映画で見たんだけど(題名失念)、 まず楽隊が太鼓叩きながら前進して、それが撃たれたら応戦ってのが当時の戦争のスタイルなの?
>>428 楽隊が先頭で太鼓だの笛だの鳴らしながら前進するのは事実だが、
普通はドンパチ始める前に後方に下げるはず。
敵の奇襲で、行進隊形から戦闘隊形への変換が間に合わなかったってことではないか?
ナポレオン戦争時代から、フランスには選抜歩兵という 狙撃専門の兵科が作られていた。 行軍中の彼らが 散兵戦術で散々に叩かれたシーンだったのかも。
431 :
某研究者 :2007/04/22(日) 03:17:30 ID:nnQOr0hZ
散兵を叩くためにフリードリヒ大王が軽騎兵を利用したと言う 記述も何処かに有っただろうが ナポレオン時代はどうだったのだろうか
432 :
某研究者 :2007/04/22(日) 03:38:56 ID:nnQOr0hZ
433 :
某研究者 :2007/04/22(日) 10:16:27 ID:nnQOr0hZ
434 :
某研究者 :2007/04/22(日) 10:40:26 ID:nnQOr0hZ
まあしかし合成弓も中東の高温で膠が溶けると言う事は 無かったのかどうかだが
435 :
某研究者 :2007/04/22(日) 10:42:16 ID:nnQOr0hZ
アラブ軍も合成弓が使えれば 西欧軍の丸木短弓の3倍程度の射程は得られたと言う事かも知れぬが 西欧軍のクロスボウをアウトレンジ出来たのか どうかだが
436 :
某研究者 :2007/05/01(火) 22:01:07 ID:csW1cYjb
437 :
某研究者 :2007/05/01(火) 22:12:52 ID:csW1cYjb
438 :
某研究者 :2007/05/01(火) 22:41:17 ID:csW1cYjb
439 :
某研究者 :2007/05/01(火) 23:25:34 ID:csW1cYjb
440 :
某研究者 :2007/05/02(水) 23:27:27 ID:QYezjBgI
16世紀の騎士の馬鎧は 銃やクロスボウを防げる訳では無いだろうし 騎士を狙って逸れたランスを弾く事を考えた程度なのか どうかだが (矢張りトーナメント専用或いは一部の騎士以外は 装備して居ない物なのかどうかだが)
441 :
某研究者 :2007/05/03(木) 00:07:16 ID:QYezjBgI
442 :
某研究者 :2007/05/03(木) 00:09:23 ID:rSTyTAJz
443 :
某研究者 :2007/05/03(木) 00:24:24 ID:rSTyTAJz
ジンギスカン鍋?
>>444 鉄兜で料理すると、強度劣化しそうなのだが。
昔の戦いを描いたもので、鉄笠みたいな(中華なべか!)
もの被ってる絵があるけど、あんなもので煮炊きは
したものだろうか。
446 :
某研究者 :2007/05/03(木) 01:55:43 ID:rSTyTAJz
サレットの名称も シャーレから来て居ると言うが 果たして此れで料理はしたのかどうかだが
足軽の笠は煮炊きをしてたんでしょ?以前テレビで言ってたよ。
449 :
某研究者 :2007/05/04(金) 01:29:06 ID:dhVzWPyd
まあフライパンがそう劣化しているかを考えれば 余り影響は無いのかも知れぬが
450 :
某研究者 :2007/05/04(金) 01:50:05 ID:dhVzWPyd
451 :
某研究者 :2007/05/04(金) 02:44:13 ID:dhVzWPyd
452 :
某研究者 :2007/05/04(金) 15:31:14 ID:ks9eGE8K
453 :
某研究者 :2007/05/04(金) 15:39:56 ID:ks9eGE8K
こうして歩兵、弓兵、騎兵の三兵科戦術の時代は終わりを告げたのであった。
455 :
某研究者 :2007/05/04(金) 20:00:25 ID:ks9eGE8K
槍兵が18世紀に消えて 3兵戦術は消えたかも知れぬが 擲弾兵が槍兵の様に 用いられる事も有ったと言う事かも 知れぬが
456 :
某研究者 :2007/05/07(月) 07:03:28 ID:5SOWAxDy
457 :
某研究者 :2007/05/07(月) 07:11:10 ID:5SOWAxDy
主力がアルケブスから、マスケッタに切り替わる頃の槍兵の価値は、 天候に左右されないことぐらいか。
459 :
某研究者 :2007/05/10(木) 08:48:19 ID:Fe5Ollpv
槍歩兵も無用だったのかだろうし 18世紀に騎兵槍がもっと早く復活していたら 槍歩兵も復活したと言う事は無いのかだが
460 :
名無し三等兵 :2007/05/10(木) 18:34:46 ID:ywPqlVUq
俺は史上最高の戦略家です。こんにちは!
ここは壁紙を収集するにはもってこいです。お笑いスレだと思われるので息抜きにはいいですね。
>>454 ワロタースオリジナル
思わずコーヒーを噴出し大爆笑しました
とても素晴らしい神レスですね!
461 :
某研究者 :2007/05/17(木) 05:03:22 ID:FXCyM2aV
まあ矢張り当時の絵画や遺品等を抜きにして オスプレイ等の現代のイラストや文献だけで 実際に何が行われていたかを判断するのは 危険と言う事かも知れぬが
>>461 海外のサイトは面白かったよ。読めんのが欠点だが
なかなか良かった
463 :
某研究者 :2007/05/23(水) 17:57:17 ID:vSmAKafr
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/erz-108.htm >ついでにマクシミリアン1世はなぜか大砲を打つのが大好きだったそうで、自ら火薬と砲弾と詰めてはクフシュタイン城めがけて火を放ったそうです。
自分で下馬してパイクを構えた事も
確か有っただろうか
>さて、そのあとマクシミリアンは敵軍の陣地にいたボヘミアの傭兵を無罪放免にしてやりました。「仕事で雇われて戦闘をしてただけだから、悪気はなかったんでしょう」という大らかな判断です。
>さすがは「中世最後の騎士」ですね。しかし、謀反の張本人であるピンツェナウアーの一味42人に対してはいつもの寛大な皇帝らしからず、「即刻全員処刑!」という命令が下りました。
まあしかし捕まった兵は皆助かったと言う事なのか
どうかだが
>「皇帝陛下、これ以上の処刑はおやめになりませんか?」と進言。それは、マクシミリアンの忠臣エーリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カーレンベルクでした。
>この人、見上げた勇気の持ち主ですね。もちろん、皇帝は彼のところにゆくと、罰として平手打ちをすべく手を動かします。が、その手はエーリヒの頬をそっと撫でただけでした。
>そして、残った25人の処刑はとりやめにされたといいます。
>に1504年には、レーゲンスブルク郊外のメンゲルスバッハの戦いで、前線に立つ皇帝が敵の刃にかかりそうになったとき、これを庇おうと身代わりに切られて負傷をしていますよ。
自分の命を助けた者の進言は
聞き入れたと言う事だろうか
464 :
翡翠(星砂) ◆X9uEcr1WoA :2007/05/23(水) 18:06:40 ID:PU+w6ZYB
某研様age
465 :
某研究者 :2007/05/24(木) 11:01:50 ID:Zo+gJ4GM
やっぱり、川中島は無能同士のへぼい戦いだったか。
467 :
某研究者 :2007/05/24(木) 21:05:58 ID:Pd7Aomrz
468 :
某研究者 :2007/05/25(金) 18:41:26 ID:Oqxp3nVw
469 :
某研究者 :2007/05/25(金) 19:09:18 ID:Oqxp3nVw
470 :
某研究者 :2007/05/25(金) 19:25:46 ID:Oqxp3nVw
471 :
某研究者 :2007/05/26(土) 18:45:49 ID:Rv+YgvPQ
472 :
某研究者 :2007/05/27(日) 20:47:06 ID:TzwJt9o/
ベリサリウスが皇帝に成っていたら ローマ帝国復活も有り得たのかだが ベリサリウスの死後分裂・弱体化したり イスラム勢力等にやられたと言う可能性も 有る訳だろうか
473 :
某研究者 :2007/05/27(日) 20:54:46 ID:TzwJt9o/
某研すげえな
475 :
某研究者 :2007/05/27(日) 21:43:54 ID:TzwJt9o/
476 :
名無し三等兵 :2007/05/28(月) 02:52:46 ID:WAhn3XAe
ユスティニアヌスまでの時代はまだ建前だけじゃなく、 本質的な部分でも皇帝は市民の代表者だから 本人にやる気が合って周りが認めるぐらいの実績さえあれば幾らでも皇帝になれますぜ ビザンツ人が血筋そのものが神聖だと考え出すのはもうちょい後です ディオクレティアヌスも貧農出身の軍人でしたし
477 :
某研究者 :2007/05/28(月) 20:28:53 ID:d/cDXLA6
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/990430.html >ベリサリウスは、丘陵に挟まれたダラの要塞正面の低地に、壕を掘ってペルシア軍を迎え撃つ。
野戦で壕を利用したのは
彼が初なのかどうかだが
中国では此れより前にも有るかも知れぬが
>翌531年、ペルシア軍は通過不可能と考えられていた砂漠を越えてシリアヘと進攻する。
>しかし国境沿いに能率的な通信網を築き、軍を高度に機動化していたベリサリウスは、2万の軍勢を率いて北方から急行、ペルシア軍に退却を強いて、その本国へと駆逐していった。
この様な通信網が築かれたのは
初と言う事は無いのかどうかだが
>上陸したベリサリウスは、現地住民の支持の必要を説いて、厳格な軍紀で部隊を律し、何の抵抗もうけずに前進、船団と連絡を取りつつカルタゴに迫る。
仮に皇帝と成った場合政治手腕も有ったかも知れぬし
ローマ復活は短期なら
可能だったと言う事は無いのかだが
478 :
名無し三等兵 :2007/05/28(月) 20:36:08 ID:WAhn3XAe
ベリサリウスの使用人が書いた本を見ればなんとなくわかると思いますが、 ベリサリウス個人には皇帝になれるような器はありません そういうのはどっちかっていうと奥さんの方が向いてます 本気でベリサリウスが皇帝になろうと思ったなら 滅茶苦茶な指示ばっかり出すユスティニアヌスは殺されてたでしょうし そこから来る混乱は相当なものでしょうからローマ復活なんて夢のまた夢ではないでしょうか
479 :
某研究者 :2007/05/28(月) 20:52:58 ID:d/cDXLA6
>これに対してヴァンダル側は主カで東ローマ軍を受け止めつつ、王自身の率いる一隊が大きく迂回、ベリサリウス軍の背後を襲う計画であった。 此れが成功していたら ベリサリウスもやられていたと言う可能性は無いのかだが 部隊壊滅は免れた可能性は 無いのかどうかだが >この翌日ベリサリウスは歓呼に迎えられカルタゴに入り、軍の厳正な秩序を保って占領を行った。 ハンニバル敗北後はローマ化されたカルタゴも 蛮族であるゲルマン人の支配には 納得して居なかった訳だろうか >ベリサリウスは、船団を港の奥まで突入させ、帆柱の頂点に引き上げたボートから城塞を射撃。 この様な事も彼が初なのか どうかだが >ナポリは堅固に要塞化されていたが、ベリサリウスは乾いた水道の通路から兵士を市内に送り込み、内外からの攻撃によってナポリを攻略、 漫画等では良く有る手だろうが 相手が蛮族だから通用したと言う事は 無いのかだが
480 :
某研究者 :2007/05/28(月) 20:55:55 ID:d/cDXLA6
>本気でベリサリウスが皇帝になろうと思ったなら >滅茶苦茶な指示ばっかり出すユスティニアヌスは殺されてたでしょうし 軍事的才覚の差を考えれば短期で倒せたかも知れぬし 混乱等何処迄起きたのか どうかだろうし 統治能力は遠征先の状況を見る限り 可也優れているかも知れぬが >東ゴートはシチリアを厚遇していたにもかかわらず、島民はベリサリウスを解放者として歓迎、 >、6千の軍勢とともに市民の熱烈な歓迎を受けてローマに入城、 旧ローマ帝国の大半の地域では東ローマの支配を 望んで居たと言う事なのか どうかだが
481 :
某研究者 :2007/05/28(月) 21:24:28 ID:d/cDXLA6
>しかしベリサリウスがおびただしい篝火で兵力を誇張して進み、 >ホスローは講和の交渉と称して密偵を送り込むが、彼は巧みな部隊配置と自信に溝ちた態度で、この使節を歎き、自軍を大兵力に見せかける。 >そのため退路に脅威を感じたホスローは侵攻の継続を断念、ペリサリウスは血を流すことなく帝国の防衛に成功した。 >トティラはベリサリウスのローマヘの接近を防ぐため、ティベル川に橋と塔によって防御施設を築いたが、ベリサリウスは船団の先頭に巨船をつないでつくった浮き城を押し立てて進み、これによって敵の守る塔を圧倒、さらに火攻めを行って防御施設の突破を図った。 この辺りの戦術も中国には 500年以前に有ったかも知れぬが 欧州では可也珍しいと言う事かも 知れぬが >ベリサリウスはこの事態に対処するため544年出征、アドリア海を奥へと進んでラヴェンナに入り、イタリア人を再び従わせるため懸命に説得を行った。しかし説得は効果が無く、 此れは他の東ローマの将軍が余程酷い支配をした 所為なのだろうか
482 :
某研究者 :2007/05/28(月) 21:33:19 ID:d/cDXLA6
>ベリサリウス個人には皇帝になれるような器はありません
>そういうのはどっちかっていうと奥さんの方が向いてます
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/dame04.html >ちなみに密告者達はアントニナの命で舌を切り落とされ、体を切り刻まれて海に捨てられる。
>、一旦コンスタンチノープルに戻ったベリサリウスは、アントニナを処刑する直前まで行く。ところがアントニナは親交のある皇后を事態に介入させ、皇后の面前で妻と包容することになったベリサリウスは、激怒していたはずが、あっさり互いに許し合う気持ちになる。
>ちなみにフォティウスは、憤激したアントニナの命で、笞や締め木による拷問や、地下牢への幽閉といった残酷な処遇を長らく受けつづける。
こんな者がまともな皇帝に成ったのかだろうし
ベリサリウスもアントニナを処刑していれば
皇帝に成る気も起きたのか
どうかだが
483 :
某研究者 :2007/05/28(月) 22:05:51 ID:d/cDXLA6
>なぜか皇后テオドラは彼を憎悪し、ユスティニアヌスの心の闇に毒を吹き付けます。ちょっと私には理解できない人間関係なのですが、テオドラとアントニナは極めて親密なのですが、なぜ友達の夫を中傷しまくるのでしょうか。 ベリサリウスが冷遇されたのは テオドラの仕業なのだろうか
484 :
某研究者 :2007/05/28(月) 22:56:22 ID:d/cDXLA6
485 :
某研究者 :2007/05/28(月) 23:07:58 ID:d/cDXLA6
486 :
某研究者 :2007/05/29(火) 15:23:08 ID:CyZ72xLJ
ローマも生産性の低いヨーロッパ等は捨てて バクダッドに首都を置き ペルシャ・トルコ・ギリシャ・エジプトを中心としていれば 可也長持ちしたかも知れぬが 何故これを考えなかったのかだが ローマも生産性の低いヨーロッパ等に篭ったから ペルシャやイスラム等との国力の差が徐々に出て 敗れたと言う事も有るかも知れぬし アレクサンダーは確かバビロンを首都としていたかも知れぬし 彼の様な柔軟な人間が皇帝なら イスラム帝国の様にローマは 長持ちしたかも知れぬが
487 :
某研究者 :2007/05/29(火) 15:54:00 ID:CyZ72xLJ
サーサーン朝が存在する以上無理 コンスタンティノポリスが帝国で最良の場所だった
489 :
某研究者 :2007/05/29(火) 18:25:47 ID:CyZ72xLJ
ベリサリウスレベルの人間なら ペルシャも滅ぼせたと言う事は 無いのかだが
490 :
某研究者 :2007/05/29(火) 18:28:17 ID:CyZ72xLJ
まあ矢張り生産力が低く蛮族が侵入する ヨーロッパの辺境のローマ等に 首都を置いた事が 誤りだった訳だろうか
491 :
某研究者 :2007/05/29(火) 20:00:44 ID:CyZ72xLJ
まあしかしローマと言うのはイスラムと比べても 科学が進歩したのかだろうが 首都をバビロンに置いた事で ギリシャ化が進めば科学も復興したのか どうかだが ビザンチンには科学は何処迄 有ったのだろうか
492 :
某研究者 :2007/05/29(火) 20:07:37 ID:CyZ72xLJ
493 :
某研究者 :2007/05/29(火) 20:14:02 ID:CyZ72xLJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%B2 >しかしローマでは実践的・実用的な科学に重きがおかれ、ギリシアの文化や思想はあまり浸透しなかった。ウァロはギリシアの科学から知識を吸収し、
>学問を9つに分類して体系化した。すなわち文法学・論理学・修辞学・幾何学・数論・天文学・音楽の自由七科と医学と建築学である。この後に網羅的な研究が進められ、道路や水道が整備され、建築や彫刻を設計する技術力を獲得する。
ローマも技術は兎も角
科学はギリシャより後退している様だし
イスラムでは科学は後退しては居ない訳だろうか
(まあローマも技術が高度に進歩すれば
何れ科学にも目が行くと言う事は
有り得たかも知れぬが
果たしてどうだろうか)
494 :
某研究者 :2007/05/29(火) 20:30:51 ID:CyZ72xLJ
495 :
某研究者 :2007/05/29(火) 20:39:22 ID:CyZ72xLJ
496 :
某研究者 :2007/05/29(火) 20:56:19 ID:CyZ72xLJ
ローマ等世界的に見れば欧州の蛮族にのみ 殆ど勝っていただけの 辺境の大国だったと言う事は 無いのかどうかだが
ホントだ。某研のレスはホノボノとしているなぁ。 俄将軍と違って不快感を感じない。 なんでだろ?
498 :
某研究者 :2007/05/29(火) 21:25:22 ID:CyZ72xLJ
499 :
某研究者 :2007/05/29(火) 22:00:19 ID:CyZ72xLJ
500 :
某研究者 :2007/05/29(火) 22:02:03 ID:CyZ72xLJ
501 :
某研究者 :2007/05/30(水) 03:32:37 ID:zVmL6yFb
502 :
某研究者 :2007/05/30(水) 03:33:30 ID:zVmL6yFb
マルクス・アウレリウス帝の実子コンモドゥス帝は、久方ぶりのとんでもない暴君であった。帝国の運命になんの興味も持たなかった彼は、さっさとゲルマン諸族と講和を結んでローマに帰り、猛獣との格闘などの遊楽にふけった。
503 :
某研究者 :2007/05/30(水) 03:37:27 ID:zVmL6yFb
>だが、マルクス・アウレリウス帝は、ゲルマン人に対して決定的な勝利を今まさにおさめんとするところまでいっていたのである。180年の彼の死と、そして養子相続の終わりから、恐るべき滅茶苦茶な時代が始まった。 マルクス・アウレリウスも優秀な人間を養子としておれば どうだったのかだが 欧州に篭ればローマ滅亡を果たして 止められたのかどうかだが
塩婆は、コンモドゥスを皇帝としなかった場合のデメリットを上げていたな。 実の子がいるのに、あえて養子縁組みによる相続を進めることは、 元老院その他の承認をスムースに得ることが難しかろうこと。 そして、何より不満を持つ、コンモドゥス自身が反乱を起こすこと。 あんまり塩婆は好きじゃないが、確かにその通りと思ったよ。 継承の過程がギスギスになったところへもってして、 血統という正統性を訴えれば、コンモドゥスに着こうというローマ軍団兵も多かろう。 弱体化の始まったローマにおいて、内乱、内部分裂は何としても避けなければならないと思うけどね。
>>503 ああ、もう一つ言い忘れていた。
五賢帝のうち、血統上の実の息子がいたのは、マルクス・アウレリウスだけだったのだぜ。
506 :
某研究者 :2007/05/30(水) 23:09:18 ID:rCgjdas4
>実の子がいるのに、あえて養子縁組みによる相続を進めることは、 >元老院その他の承認をスムースに得ることが難しかろうこと。 事故死等と見せかけて始末し 何とかすると言う方向も有ったかも知れぬが 其処迄の度量は無かった訳だろうか >五賢帝のうち、血統上の実の息子がいたのは、マルクス・アウレリウスだけだったのだぜ。 つまり偶然子供が皇帝に成らなかった事が続いた故に 良い指導者が続けて出て来たと言う 事なのだろうか
507 :
某研究者 :2007/05/30(水) 23:11:48 ID:rCgjdas4
508 :
某研究者 :2007/05/30(水) 23:25:27 ID:rCgjdas4
>それはどこからでも、優れたものであれば、皆この首都に移植するということである。 文化ではなく、文明を造っちゃう人の言葉だね。
510 :
某研究者 :2007/05/31(木) 02:09:41 ID:MxPsuPvY
511 :
某研究者 :2007/05/31(木) 02:13:45 ID:MxPsuPvY
> 征服後、暫くしてイスラム勢力との戦いのさなか、シドは流れ矢に当たり、その夜に死んでしまう。 映画でこの様な場面が有っただろうが 実話だったとは知らなかったが
512 :
某研究者 :2007/05/31(木) 02:19:22 ID:MxPsuPvY
513 :
某研究者 :2007/05/31(木) 02:56:05 ID:MxPsuPvY
514 :
某研究者 :2007/05/31(木) 02:59:24 ID:MxPsuPvY
>しかし、一部の史料では国民の反モンゴル運動に対して厳しい弾圧を行なったことから、暴君とも称されている。 まあ一部の国民でもモンゴルに反抗すれば 此れを口実に殲滅される危険も 有った訳だろうし 止む負えぬ行動だったと言う事も 有る訳だろうか >スウェーデンやドイツ騎士団と戦い勝利を収めたという記録は西欧カトリック勢力には一切記録されておらず、ロシア以外の歴史家からは、彼の戦功は疑問視されている。 等と言う意見も 有る訳だろうか
MGS4のソリッド・スネーク大丈夫かな
516 :
某研究者 :2007/05/31(木) 03:12:11 ID:MxPsuPvY
517 :
某研究者 :2007/05/31(木) 03:18:24 ID:MxPsuPvY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B9 >1625年、ネーデルラント南部の要塞ブレダにおけるスペイン軍の戦勝を記念して制作されたもので、敗れたブレダ守備隊の指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム1世の庶子)が、
>勝者であるスペイン側の総司令官アンブロジオ・スピノラに城門の鍵を渡そうとする場面が描かれている。
>この種の戦勝画では敗軍の将は地面に膝をつき、勝者はそれを馬上から見下ろすという構図が普通であったが、この『ブレダの開城』では、敗軍の将ユスティヌスと勝者スピノラは同じ地面に対等の位置で立っている。
>温和な表情のスピノラは、まるで長年の友人に対するように敗者ユスティヌスの肩に手を置いている
>(ちなみに両者は1601年にニューポールトで対戦したこともある)。
>スピノラの傍らに大きく描かれた馬は、彼が敗者に敬意を表するためにわざわざ馬から下りたことを示している。このような、勝者側の寛大さを二重三重に強調した表現は、敗者に名誉ある撤退を許したスペインの騎士道精神の勝利を表したものといわれている。
まあしかし本当にこう言う事が
行われたのかどうかだが
518 :
某研究者 :2007/05/31(木) 18:16:23 ID:mUHwDiVR
519 :
某研究者 :2007/05/31(木) 18:21:45 ID:mUHwDiVR
520 :
某研究者 :2007/05/31(木) 18:25:17 ID:mUHwDiVR
521 :
某研究者 :2007/05/31(木) 18:50:34 ID:mUHwDiVR
522 :
某研究者 :2007/05/31(木) 18:55:23 ID:mUHwDiVR
523 :
某研究者 :2007/05/31(木) 19:34:05 ID:mUHwDiVR
524 :
某研究者 :2007/05/31(木) 19:57:02 ID:mUHwDiVR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8C >、レーゲンスブルク攻略戦ではあまりの苦戦に怯えた部下を叱咤すべく「私は元帥である以前に擲弾兵である」と叫ぶや自ら梯子を掴んで城壁によじ登ろうとし(さすがに部下達に制止されたが)、奮い立った将兵達と共にこの堅塁を陥落せしめた。
この時点でも梯子で城壁を
登って攻略していた訳だろうか
>その後5月22日、アスペルン・エスリンクの戦いで優勢なオーストリア軍と交戦、敵弾を物ともせず陣頭指揮を執っている最中に足に砲弾を受けて倒れる。右足切断の緊急手術を受けた後直ちに後送され、一時は小康状態になったものの傷口が化膿して容態が悪化、31日に死んだ。
手足を切断して助かった兵等
ネルソン等を見る様に可也居るかも知れぬが
運が無かった或いはミュラ等に
暗殺されたのかどうかだが
(当時の砲弾は低速なので回避出来る等と言うが
近距離で砲撃を受けたか
炸裂弾や葡萄弾を遠距離から受けたと言う
可能性も有る訳だろうか)
525 :
某研究者 :2007/05/31(木) 20:14:59 ID:mUHwDiVR
526 :
某研究者 :2007/05/31(木) 20:33:07 ID:mUHwDiVR
527 :
某研究者 :2007/06/01(金) 23:54:51 ID:+xQ00CXP
528 :
某研究者 :2007/06/01(金) 23:58:50 ID:+xQ00CXP
>当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に傀儡僭主を擁立し、彼らを介して内政に干渉するというものであったが、民主制をとるアテナイに受け入れられるものではなかった。 まあ只アテナイも 果たして民主主義を守る為にペルシャに反発したのかだろうし スパルタはそうでは無い訳だろうか
529 :
某研究者 :2007/06/02(土) 00:02:14 ID:+xQ00CXP
>当時のアテナイは親ペルシア派と反ペルシア派の反目によって動揺していた上に、 多少介入を受けても民主主義は維持可能と 親ペルシャ派は考えたのか 或いは民主主義は重視して居なかったのかだが ペルシャも民主主義を完全に根絶する気は 有ったのかだろうし ペルシャに反抗しない範囲なら 民主主義も認めたと言う可能性は 有る訳だろうか
530 :
某研究者 :2007/06/02(土) 00:11:19 ID:YSh1y+B0
反ペルシャ派がペルシャに支配者に認められたからと言って 彼等が民主主義を捨てると言う事は考えられるのかだろうが 軍や資金の拠出は強要されたと言う 可能性は有る訳だろうか
531 :
某研究者 :2007/06/02(土) 00:24:33 ID:YSh1y+B0
>紀元前491年、ダレイオス1世はギリシアの各ポリスに服従を求め、エーゲ海島嶼部のポリスはほとんどが要求を受け入れた。 この降伏した連中が全て民主主義を放棄したとは 到底思えない訳だろうか >一方で、ペルシアはアテナイやスパルタには使者を送らなかった。 使者を送っていれば スパルタは或いはペルシャに付いたと言う事は 無いのかどうかだろうし 此れは失策では無いのかどうかだが
532 :
某研究者 :2007/06/02(土) 00:47:17 ID:YSh1y+B0
>スパルタが主力となって防衛にあたったテルモピュライの戦いでは、カルネイア祭によってスパルタが300人しか派遣できなかった上、 カルネイア祭が無ければ 万単位の兵力が動員出来 例の300人の壊滅は無かった可能性も 有る訳だろうか >ペロポネソス半島の諸国は、アテナイが制圧された以上、アッティカ半島の防衛は不要と考え、イストモスに防衛線を築くことを主張した。 >しかし、テミストクレスは断固反対し、敵味方双方を篭絡して、なし崩し的にサラミス水道での開戦にこぎつけた。ギリシア連合艦隊をまとめあげることに成功したテミストクレスは、 >地の利を生かしてペルシア艦隊を破った。 サラミスで戦わなかったら ギリシャ軍は敗れて居たと言う可能性は無いのかだが >マルドニオスは、ギリシア軍の動揺を誘うため騎兵隊を差し向けたが、メガラ軍とアテナイ軍は騎馬部隊を破って戦意高揚し、 >全軍が山地を下ってプラタイアに進軍した。ギリシア連合軍約11万 は、スパルタの重装歩兵密集陣の活躍によってペルシア軍を敗退させ、 >ペルシア側の総司令官マルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。ペルシア軍はテーバイに逃げて籠城したが、ペルシア増援部隊はプラタイアから敗走する自軍を見てテーバイを放棄し、テッサリアからマケドニアを経て、アジアに撤退した。 こう言う事が起きてペルシャが敗れたと言う可能性も 有るだろうが サラミスでやられた兵力が有れば どうだったのかだが
533 :
某研究者 :2007/06/02(土) 00:52:36 ID:YSh1y+B0
>この戦争は「自由」のための戦いと称され、 まあしかしスパルタよりはペルシャの方が 自由は無かったのかだろうし アテナイの自由と言うのも ペルシャと比べてそう有ったのかどうかだろうし 民の生活レベルはペルシャの方が 上だったと言う事は無いのかだが
534 :
某研究者 :2007/06/02(土) 01:00:27 ID:YSh1y+B0
欧州を侵略したモンゴル軍の装備を見れば、伝統的なモンゴルの軽騎兵のものばかりではなく 中東の装備も多数見られたそうだ。 彼らは侵略した先々で、打ち破った敵の戦術や装備を取り入れていった。 なまじ、自らの文化や戦略に自身があった文明国には、なかなか受け入れることが出来ないことだったようだが 厳しい環境で育った遊牧民族達にとっては、実用性が何よりも大切であり、そんな面子は簡単に棄てることが出来たのだな
536 :
某研究者 :2007/06/02(土) 01:26:22 ID:YSh1y+B0
537 :
某研究者 :2007/06/02(土) 01:29:14 ID:YSh1y+B0
>欧州を侵略したモンゴル軍の装備を見れば、伝統的なモンゴルの軽騎兵のものばかりではなく >中東の装備も多数見られたそうだ。 >彼らは侵略した先々で、打ち破った敵の戦術や装備を取り入れていった。 まあしかしモンゴルより優れた装備が どれだけ有ったかは不明だろうし 技術を導入はせず接収した物を使ったと言う 事かも知れぬが 十字軍も綿入れ等イスラムの装備を 一部模倣していた訳だろうか
538 :
某研究者 :2007/06/02(土) 16:03:43 ID:Z36jayyR
539 :
某研究者 :2007/06/02(土) 17:33:08 ID:Z36jayyR
ティムールも欧州では無く 中国を目指した訳だろうし ペルシャやイスラム帝国・トルコも 生産性の低い欧州等は捨てて インドや中国を 攻略すべきだったと言う 事かも知れぬが
540 :
某研究者 :2007/06/02(土) 17:38:58 ID:Z36jayyR
541 :
某研究者 :2007/06/02(土) 17:43:46 ID:Z36jayyR
ペルシャ等が中国やインドを攻略した後 首都を何処に置くべきなのかだが バクダッドでは無く中間地点のペルシャやインド辺りに 置くと言う手も有ったかも知れぬが (インドやペルシャの沿海部辺りに置けば 良かったのかどうかだが)
>>541 あの当時の技術、政治水準から見て
分割統治するしかないと思われ。
モンゴル帝国方式
543 :
某研究者 :2007/06/02(土) 17:50:50 ID:Z36jayyR
544 :
某研究者 :2007/06/02(土) 18:05:16 ID:Z36jayyR
ムンバイではやや西寄りかも知れぬし コルカタ辺りを首都として 亜細亜の海上交通路を徹底的に支配し 海軍力を増強と言う方向で 良かったかも知れぬが
545 :
某研究者 :2007/06/02(土) 19:10:13 ID:Z36jayyR
546 :
某研究者 :2007/06/02(土) 19:13:55 ID:Z36jayyR
>しかし現在のスウェーデンの骨格を築いた中立政策はスウェーデン国民の支持を得て、現代にまで継続する「中立主義」(武装中立)を創成したのである。 ベルナドットが居なかったら この様な政策は採られなかった言う 可能性も有る訳だろうか
547 :
某研究者 :2007/06/02(土) 19:35:30 ID:Z36jayyR
548 :
某研究者 :2007/06/02(土) 20:23:05 ID:Z36jayyR
549 :
某研究者 :2007/06/02(土) 20:49:53 ID:Z36jayyR
http://12565.hito.thebbs.jp/one/1180453525 >この中でトップ3はテュレンヌ、スヴォーロフ、マールバラ公でしょうか。
>テュレンヌはルイ14世を支えた最大の将帥で、ナポレオンも彼を高く評価していました。
>マールバラ公はテュレンヌに師事したことがあります。生涯不敗でしたが、ヴィラール相手に
>大苦戦したので序列は三位かもしれません。
>スヴォーロフは奇矯な振る舞いが目立つ変人でしたが、戦には強く負けたことがありません。
テュレンヌと言うのは何か
新戦術は用いたのかだろうし
スヴォーロフはトルコ相手の戦いが
多かったかも知れぬが
550 :
某研究者 :2007/06/02(土) 21:46:37 ID:Z36jayyR
551 :
某研究者 :2007/06/02(土) 21:47:24 ID:Z36jayyR
552 :
某研究者 :2007/06/02(土) 22:13:49 ID:Z36jayyR
553 :
某研究者 :2007/06/06(水) 04:23:54 ID:9sKfDRf9
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/who2.html#anchor43995 >当時ペルシャの将軍や大守のなかには、ダリウス3世の欠点を補える人物が幾人かいたのですが、大帝国の確固とした階級制度が彼等を押さえつけてしまいます。
ナポレオン軍と戦った他国の軍隊も
確か同様の事は有った訳だろうか
>続いてエジプトの征服にかかりますが、攻めるに難く守るに容易なエジプトの地の利から海軍、陸軍とも進撃できず失敗してしまいます。
平地しか無い様にも見えるエジプトが
果たして攻め難いのかどうかだが
> 「イプソスの戦い」でリュシマコスとセレウコスの連合軍はアンティゴノス父子の軍隊と戦い、セレウコスがインドから連れてきた400頭の戦象がアンティゴノスの75頭の戦象を圧倒してリュシマコス、
>セレウコス連合軍の勝利に終ります。
欧州で400もの象が運用された事は
此れ以前には無い訳だろうか
http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/history/b-1-7.html >また、セレウコスは属州インドを引き渡す代わりにマウルヤ朝のチャンドラグプタから象500頭を受け取り、前301年のイプソスの戦いではそのうち400頭が投入され、
>敵を深追いしたデメトリオスとアンティゴノスのあいだに象を割り込ませて両者を分断してアンティゴノスを破ったという事例もある。
セレウコスもインドと引き換えに500の象を得て居たと言う
事だろうか
554 :
某研究者 :2007/06/06(水) 05:06:48 ID:9sKfDRf9
555 :
某研究者 :2007/06/06(水) 05:15:18 ID:9sKfDRf9
556 :
某研究者 :2007/06/06(水) 05:22:18 ID:9sKfDRf9
>ポンペイウス軍左翼のラビエヌスは騎兵を率いて突撃し、カエサル軍の騎兵を撃退して第4戦列とぶつかった。このときカエサルは自軍の投槍兵に、騎兵に対しては槍を投げるのではなく直接突き刺すように命じていた。この攻撃によってポンペイウス軍の騎兵は押し戻された。 >勝因は歩兵の効果的運用により騎兵の動きを封じ込め、その長所である機動性と運動性を封殺したカエサルの作戦に求めることが出来る。ザマの戦いのスキピオと同様に動物の性質を知り尽くしたカエサルの作戦勝ちと言えよう。 投げ槍と言うのは 余り役に立たなかったのかどうかだだが 投げ槍は複数持って居る訳だろうし 最後の1本以外は投げて居たと言う事は 無いのかだが
557 :
某研究者 :2007/06/06(水) 05:37:50 ID:9sKfDRf9
投げ槍程度で騎兵を阻止出来るなら ファランクスも騎兵を阻止出来たと言う 事なのかどうかだが
558 :
某研究者 :2007/06/06(水) 05:41:29 ID:9sKfDRf9
559 :
某研究者 :2007/06/06(水) 05:49:09 ID:9sKfDRf9
>さらに、自らが終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。 カエサルも3頭政治程度で我慢していれば 暗殺されなかったと言う可能性も 有る訳だろうか
560 :
某研究者 :2007/06/06(水) 06:07:54 ID:9sKfDRf9
561 :
某研究者 :2007/06/06(水) 06:50:38 ID:9sKfDRf9
562 :
某研究者 :2007/06/06(水) 07:39:01 ID:9sKfDRf9
http://www.m-matsu.com/egypt/study/cleopatra.html >クレオパトラの死後、インドで母親の死を知らないカエサリオンの元に、オクタウィアヌスから使者がやってきました。使者はカエサリオンに向かって言いました。
>「あなたの母上は生きておられます。今すぐエジプトに戻って、一緒にエジプトを再建なさい」 カエサリオンはこの言葉に疑いを持たず、すぐさまエジプトに帰ります。そこでカエサリオンは捕らえられ、命を奪われてしまいます。
>しかし、オクタウィアヌスは、クレオパトラがアントニウスとの間にもうけた3人の子供は、手厚く保護したのでした。
カエサリオンがインドに逃げていたとは
知らなかったが
エジプトに戻らなかった場合は
後でローマの後継者争いに
利用される可能性も有った訳だろうか
563 :
某研究者 :2007/06/06(水) 07:54:00 ID:9sKfDRf9
564 :
某研究者 :2007/06/06(水) 08:03:35 ID:9sKfDRf9
アントニウスがパルティアに敗れた時点で クレオパトラもアントニウスを見限らなかったのかだが パルティアはローマより強いと 考えて居たのかどうかだが
565 :
某研究者 :2007/06/06(水) 08:13:55 ID:9sKfDRf9
少しでも勝ち目のある方を選んだから海戦になったんだと思うが。 敵が10倍強い陸戦と5倍強い海戦でどっち選ぶかったら、海しかないわな。
567 :
某研究者 :2007/06/06(水) 17:23:45 ID:3lTP/ma5
568 :
某研究者 :2007/06/06(水) 17:30:56 ID:3lTP/ma5
http://homepage3.nifty.com/odyssey/31c8c001.html >オクタウィアヌス軍は、歩兵7万、騎兵1万2千、名將アグリッパが4百隻の艦隊を指揮した。アントニウス軍は、歩兵10万、騎兵1万2千、5百隻の艦隊を率いた。
陸戦でもどうにも成らぬ様な兵力だったのかどうかだが
>春になると、島々を占領し、アンブラキア湾を包囲した。味方からは、トラキア王らが離反した。陸上戰に持ち込んでも、勝ち目はなかった。生き残る道は一つ、敵の包囲網を突破して、脱出することであった。
この段階では無理だったのだろうか
(海戦が得意なアグリッパ相手に海で戦うよりは
陸で戦った方がましと言う事は
無いのかだが)
569 :
某研究者 :2007/06/06(水) 17:36:42 ID:3lTP/ma5
>姉アントニアは、ドミティウス・アエノバルブスと結婚した。妹アントニアは、皇妃リウィアの子ドルススと結婚した。妹アントニアからクラウディウスとゲルマニクスが生まれ、 >ゲルマニクスからガイウス(カリギュラ)が生まれた。ティベリウスの死後、カリギュラは第3代皇帝となり、クラウディウスは第4代皇帝となった。 >姉アントニアの子、ドミティウス・アエノバルブスは、ユリア・アグリッピーナと結婚した。アグリッピーナから、ネロが生まれ、第5代皇帝となった。 >アントニウスは、エジプトで非業の死を遂げたが、その末裔は、皇帝となり、ギリシア文化を愛し、比類なき生を繰りひろげた。 アントニウスの子孫は何人もローマ皇帝に成って居る様だが 余り良い者は居ない訳だろうか
571 :
某研究者 :2007/06/06(水) 19:26:33 ID:3lTP/ma5
572 :
某研究者 :2007/06/07(木) 01:21:00 ID:zmyUFJO6
共和制が科学文明成立の条件等と言う様な ゲームも何処かに有ったかも知れぬが 共和制のローマよりイスラムの方が 科学は進歩している訳だろうし 此れは果たして正しいのかだろうし 帝政ローマと共和制ローマ何れが 経済を進歩させたのかどうかだが 無能な皇帝が出て来る確率と 衆愚政治が行われる確率とでは 何れが高いのかと言う事だろうか
573 :
某研究者 :2007/06/07(木) 07:50:36 ID:zlOr4vMo
574 :
某研究者 :2007/06/07(木) 09:13:45 ID:zlOr4vMo
まあしかしアントニウスが勝利しても アウグストゥス以上の政策は 行えたのかだろうし 共和派等に暗殺される可能性も 有ったかも知れぬし クレオパトラを良く思わない勢力も ローマには多い訳だろうか (例のクレオパトラに東方領土を与えると言う 遺言等を取り消さねば 可也の反発を招くだろうし 領土を与えぬとすればクレオパトラと戦う羽目にも 陥るかも知れぬが 後者の方がリスクは少ない訳だろうか)
575 :
某研究者 :2007/06/07(木) 09:55:57 ID:ejW+/oDE
576 :
某研究者 :2007/06/07(木) 10:32:40 ID:ejW+/oDE
577 :
某研究者 :2007/06/07(木) 10:36:33 ID:ejW+/oDE
http://www37.tok2.com/home/tourfortwo/iran/iran08.htm >アレキサンダーは、部下がキュロスの墓を暴いたのを憤り、犯人を見つけだして死刑に処したという。墓には「我つとに汝の来らんを知れり。我はペルシアを統治せしキュロスなり。
>我をつつむ僅かなる土を嫉むことなかれ」の文字があった。キュロスは、やがて墓荒らしにやってくるであろう者に、暴かずに静かに眠らせてくれと、請うているのであった。アレキサンダーは無常を哀しみ、
>あらためてキュロスの言葉を、ギリシア語で彫りこませたという(『プルタルコス英雄伝』)。
>イスラムの襲来にも、この墓はのこった。ギリシア語の功ではない。その後ソロモンの母の墓だという伝説ができて、ソロモンを尊ぶモスリムが、敬して侵さなかったのだそうだ。
部下が勝手に暴いた訳だろうし
アレクサンダーは此れを修復させて居る訳だろうか
http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/iran2/iran28.htm >アレキサンダー大王はキュロスを尊敬していたのでこの地を征服したとき墓を荒らしてはならないと命じている。
アレクサンダーはキュロスの墓を破壊するなと
命じていた訳だろうか
578 :
某研究者 :2007/06/07(木) 10:57:47 ID:ejW+/oDE
579 :
某研究者 :2007/06/07(木) 11:07:23 ID:ejW+/oDE
http://japonikkla.exblog.jp/3970489/ >歴史上、最初の人権宣言が紀元前539年という大昔に、初代ペルシャ帝国皇帝のシウルス大王(注:イランではクロッシュ、日本ではキュロス大王と呼ばれてます。)によってバビロン陥落後、バビロニア人の権利と福祉を保証する為に公布されました。
>「被征服民族の伝統、文化、宗教を尊重し、いかなる統治者や下臣もこれらを見下したり、侮辱したりしてはならない。」
>(この人権宣言の銘板は1971年にイランから国連に寄贈され展示されているそうです。)
>ところで、ペルセポリスにある階段に彫られているレリーフには皆が微笑み、手をつないで歩いている姿などが描かれ、それらは人間の幸福を強調しているとの事です。
>また古代ペルシア人にとっては、統合、和というのがメインの考えであり、そしてそれぞれの多様性の共存の中にこそ、強さを得ることができると信じていたそうです。
と有るし
スパルタやギリシャにはこの様な考えは
持ち得たのかだが
ペルシャも奴隷は何処迄解放されたのか
どうかだが
580 :
某研究者 :2007/06/07(木) 11:22:41 ID:ejW+/oDE
581 :
某研究者 :2007/06/07(木) 11:33:39 ID:ejW+/oDE
http://blog.ohtan.net/archives/50819251.html >アレキサンダー大王は、ギリシャ諸都市を征服した後、弱体化していたアケメネス朝ペルシャを前330年に滅ぼすが、アレキサンダーのやったことは、
>古典ギリシャ文明とより重要な古代ペルシャ文明という二つの文明を破壊した蛮行にほかならなかった(注11)。
>なお、アレキサンダーの征服した版図は、古代ペルシャのかつての最大版図の一部に過ぎないことからすれば、アレキサンダーの大征服なるものは、古代ペルシャの二番煎じにも値しない代物だ。
アレクサンダーも結果的にはペルシャ帝国を破壊して
中東を混乱・分裂させただけと言う事も
有る訳だろうが
長生きしていたら其の限りでは
無いかも知れぬが
582 :
某研究者 :2007/06/07(木) 12:29:13 ID:ejW+/oDE
http://plaza.rakuten.co.jp/goraemo785/diary/200703280002/ >ペルシア帝国がギリシャ征服に失敗した背景には、説明が難しい問題が残っており、現代の研究家はなぜ彼らが勝利したか、逆に言えば、何故ペルシアが敗北したか答えを出せないでいます。
>当時のペルシア軍は、戦術的な柔軟性とバランスのとれた構成を取っており、士気も決して低くありませんでした。
>有力な騎兵戦力を駆使すれば、単純な密集戦法しか出来なかったギリシャ歩兵に敗北する要素がありません。
>おそらく敗因はギリシャ側にではなく、ペルシア側内部に何らかの事情が発生したためであろうとしか推測できないようです。
>決戦であったプラタイアの戦いは、史料を基に再構成してみると不自然なことばかりです(ペルシア側30万とも言われる兵力自体が疑わしい)。
歩兵はギリシャの方が恐らく上だろうが
騎兵に関してはどうなのかだが
騎兵を封じられれば相手が倍程度でもギリシャの歩兵が
マラトンの様に勝つと言う事は無いのかどうかだが
583 :
某研究者 :2007/06/07(木) 12:30:01 ID:ejW+/oDE
http://plaza.rakuten.co.jp/goraemo785/diary/200704180000/ >ギリシャはペルシアから見れば田舎であり、偏狭の敵対的な勢力の一つでしかなかった。ペルシア戦争も辺境の一紛争でしかなかった。
>何百万も派遣したと言うのは勿論虚構で、実際には帝国全軍を投入した戦いではなかった。戦役全体では、両者の実戦力は、ほぼ互角か、
>総動員をしていたギリシャ側の方が上回っていた可能性が高い。
>当時帝国最大の敵は北方の遊牧民であるスキタイ諸族であり、遠距離戦闘を重視した帝国の防衛組織も、彼らを考慮したものであったようである。
>ギリシャは自分たちの自負とは裏腹に、戦争好きの野蛮な困った人々と帝国支配層には思われていたであろう。ペルシア戦争は、いわば危険な辺境住民、蛮族に対する防衛的な戦争であった。
ペルシャ側の兵力が余り多くは無く
蛮族支配の為では無く
牽制の為に差し向けた少数兵と言う可能性も
有る訳だろうか
(ギリシャ等生産性の低い土地等支配しても
余り価値は無い訳だろうが
蛮族同士で戦わせようと内紛を起こそうとしたら
失敗したので兵を投入して牽制・或いは親ペルシャ勢力を
増やそうとしたと言う事なのだろうか)
584 :
某研究者 :2007/06/07(木) 12:50:37 ID:ejW+/oDE
585 :
某研究者 :2007/06/07(木) 12:55:02 ID:ejW+/oDE
>>570 すごいサイトだね。あなたは素晴らしいね。
587 :
某研究者 :2007/06/07(木) 21:58:07 ID:zjFyToL2
>歩兵はギリシャの方が恐らく上だろうが >騎兵に関してはどうなのかだが >騎兵を封じられれば相手が倍程度でもギリシャの歩兵が >マラトンの様に勝つと言う事は無いのかどうかだが プラタイアではギリシャ10万・ペルシャ20万だから 騎兵を封じれば十分勝てる兵力な訳だろうし 騎兵を完全に封じず共突撃を正面に限定すれば 勝てたと言う可能性も有る訳だろうし カエサルも短槍で騎兵を封じていた訳だろうか
588 :
某研究者 :2007/06/07(木) 22:04:53 ID:zjFyToL2
589 :
某研究者 :2007/06/07(木) 22:22:11 ID:zjFyToL2
http://mp.i-revo.jp/user.php/ufuxjvlm/entry/132.html#bbs >彼等は、当時、多くが小規模だった都市国家としては異例の巨大な領地を持ち、正市民1万人(18歳以上の男子のみ認められる)に対し、25万人という恐ろしい量の奴隷を所持していた国家でした。
>なぜ、数の少ない彼等が、25倍の人数を誇る奴隷を統治できたのか?
>その理由はただ一つです。
>「彼等が最強だったから」
>彼等は、当時、多くが小規模だった都市国家としては異例の巨大な領地を持ち、正市民1万人(18歳以上の男子のみ認められる)に対し、25万人という恐ろしい量の奴隷を所持していた国家でした。
>なぜ、数の少ない彼等が、25倍の人数を誇る奴隷を統治できたのか?
>その理由はただ一つです。
>「彼等が最強だったから」
奴隷の比率が此れ程多かったとは知らなかったが
ギリシャの奴隷は市民と同数程度だっただろうか
>300人で2万人を殺したんだから、一人当たり約67人を倒したことになります。
2万人は負傷者込みと言う事は
無いのかどうかだが
590 :
某研究者 :2007/06/08(金) 05:31:16 ID:39M+uoMp
591 :
某研究者 :2007/06/08(金) 05:48:56 ID:39M+uoMp
大陸の弓の両端のそりが何のためなのか疑問だったけど、動画を見てやっとわかった。 弦の耳(って言うのか?)を傷めないための振動ダンパーというかストッパーなのね
593 :
某研究者 :2007/06/08(金) 23:17:59 ID:dXNtyJkD
ギリシャ・スパルタも ペルシャに奴隷を解放される事を恐れて 戦ったと言う事は無いのかだが無いのかどうかだが
594 :
某研究者 :2007/06/08(金) 23:35:23 ID:dXNtyJkD
595 :
某研究者 :2007/06/08(金) 23:53:03 ID:dXNtyJkD
596 :
某研究者 :2007/06/08(金) 23:56:30 ID:dXNtyJkD
イスラム台頭が無ければ モンゴル侵攻迄平和は保てたと言う 可能性は無いのかどうかだろうし モンゴル帝国の誕生は必然では無いなら 下手をすると現代迄巨大なペルシャ帝国が残って 平和を保てたと言う 可能性も有る訳だろうか
597 :
某研究者 :2007/06/09(土) 00:01:11 ID:h4/rYOJq
紀元前500〜現代迄 2500年もの間戦争の殆ど無い 巨大なペルシャ帝国が 存在し得たと言う可能性も有るだろうが インドや中国を統合出来た可能性は 有るのかどうかだが
P
599 :
某研究者 :2007/06/09(土) 01:30:10 ID:h4/rYOJq
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2005/051202.html >そして前412年にはペルシアの使節がスパルタを訪れ、スパルタにとってのペルシア戦争を終わらせ、逆にアテナイに対する戦争を協力する協定を結んだ。
>ペルシアはスパルタに対して資金援助を惜しまなかった。苦境に貶められたアテナイでは前411年に「400人会」の寡頭制によって民主政が一時倒壊されるも、すぐに民主政に回帰、軍事的にも復調の兆しを見せるが、
>ペルシアの莫大な資金には所詮敵うはずもなく、前405年にはリュサンドロスによってアテナイへの食糧輸入路であるヘレスポントスを抑えられ、翌年アテナイはスパルタに降伏する。
>その後アテナイは、スパルタとペルシアの戦いの際、ペルシア側につく事となる。アテナイの軍人がペルシア海軍を率いてクニドスでスパルタ海軍を打ち破ったり、
>アテナイとテーベが結んで「コリント戦争」起こしたりするなどし、前386年にペルシアに有利な「大王の和約」を結ぶのにアテナイは一役買った。その戦争でスパルタが衰退する一方、アテナイはペルシアの資金で長城を修復し、
>ペイライエウスを要塞化した。それと共に一時失っていた海外領のレムノス島、インブロス島、スキュロス島の所有が認められた。
ペルシャ戦争後はアテナイやスパルタは
ペルシャと同盟して互いに
戦って居る訳だろうし
ペルシャも両者の離間を待ってから攻めた方が
良かったと言う事かも知れぬが
600 :
某研究者 :2007/06/09(土) 01:55:09 ID:h4/rYOJq
http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_25_28.html >アテネの復興に脅威を感じたスパルタは、ペルシアに和解を申し込む。
>その結果、ペルシアにより 「大王の和約」 が強制され、コリント戦争は終結。
>小アジアのギリシア人は、ペルシアに売り渡されました。各ポリスは
>自治独立の美名のもと、小国にとどまることになりました。この和約により実利を得たのは
>ペルシア。そして条約実行の監視役となったのがスパルタでした。
ペルシャがアテナイ・スパルタを消耗させる為に
戦争に上手く介入したと言う可能性も
有る訳だろうが
危険なマケドニアを彼等を利用して上手く牽制は
出来なかった訳だろうか
601 :
某研究者 :2007/06/09(土) 02:48:45 ID:h4/rYOJq
>危険なマケドニアを彼等を利用して上手く牽制は >出来なかった訳だろうか 無能なダレイオス3世にこの様な真似は 出来無かった訳だろうか
602 :
某研究者 :2007/06/10(日) 05:07:05 ID:TYrr9Je1
http://d.hatena.ne.jp/njf/20070520 >自分に反対する人々にも寛容で「私が自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのような事には心を煩わせたくない。
>何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている」と言い、
>実際自分が許した人々によって、次の巻の最初でカエサルは暗殺されてしまうわけですが、いったいカエサルが後10年生きていたらどれだけローマが発展しただろうかと考えざるを得ないです。
カエサル死後三頭政治を行った
反共和派は元老院の反対勢力を可也抹殺しているし
アウグストゥスは此れが無ければ
直ぐに暗殺されていたと言う事は無いのかだが
カエサルが後10年生きて居たとしても
アウグストゥスと同様の政策を行ったのみと言う事は
無いのかだが
603 :
某研究者 :2007/06/10(日) 06:47:53 ID:TYrr9Je1
604 :
某研究者 :2007/06/10(日) 07:23:01 ID:TYrr9Je1
605 :
某研究者 :2007/06/10(日) 07:57:55 ID:TYrr9Je1
http://kobe.cool.ne.jp/taniteru/gan_49.htm >キュロス大王の事跡はあまり広くは知られていない。しかし、オリエント世界はむろん、世界の歴史に果たした、個人としての影響力はアレクサンダー大王を遙かにしのぎ、ジンギスハンに迫るものがある。
>個人、つまり一人の英雄が歴史に直接影響を与えるのはまれである。
アレクサンダーはキュロスの模倣だろうし
モンゴルは破壊的な部分が
多かったかも知れぬが
サーサーン朝は宗教弾圧は
行って居た訳だろうが
キュロスの時代には無い訳だろうか
606 :
某研究者 :2007/06/10(日) 08:21:12 ID:TYrr9Je1
http://www3.ocn.ne.jp/~mknight/AoE/aoe_html/peruperu.html >交通網の重要さに初めて目を付けたのもペルシア帝国でした。「王の道」と呼ばれる帝国の主要幹線道路は全長2575kmにおよび、これらはほとんど全てが舗装されています。
>道路の要所には中継所を置き、伝令や旅行者のための馬小屋や宿泊施設を整えました。これにより早馬90日の行程を一週間に縮めたと当時の記録では残されています。全国に張り巡らせた舗装道路は帝国内での移動を劇的に変化させたのです。
>「全ての道はローマに通ず」ってあのことわざは、もともとはローマではなくペルセポリスなんだそうです。
ローマ帝国がペルシャの道路網を
模倣したと言う事なのだろうか
>神に仕える神官達はマギ(Magi)と呼ばれ、これは魔法のMagicの語源となったと言われています。
ゾロアスター教の神官が
魔法の語源と成って居た訳だろうか
607 :
某研究者 :2007/06/12(火) 06:51:45 ID:bw/gAm0z
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=88269&servcode=400 §code=400
>「カルタゴの名将ハンニバルとの争いで毎度負けてばかりいたとき、ローマがどのようにしたのか思い浮かべる必要がある。
>国家の存亡が危なげな状況でもローマのリーダーたちは兵役の義務がない17歳未満や奴隷、下層民は一切徴用しなかった。代わりに指導層が自ら最前方に出た。ハンニバルにローマの執政官10人が犠牲となった。エリートたちが自ら国を守るという志を果たしたのだ
彼等を徴用しても勝算は無いと考えたと言う
事は無いのかだろうし
不満が高まって親ハンニバル勢力が台頭するのを
恐れたと言う事は無いのかだが
ローマよりキュロス大王やアレクサンダーの政治の方が
同様の世界帝国である
ロスチャイルド新大英帝国の一員と成るかも知れぬ
日本には参考と成ると言う事は無いのかだが
>塩野さんは「部下たちの才能を咎める上司がいるが、それは上司の想像力に問題がある」とし「部下の能力を適切に把握して適材適所に、どんな能力でも最大限発揮するようにするのがリーダーに要求される資質」だと言った。
此れを歴史上一番上手くやれたのは
誰なのかだが
608 :
某研究者 :2007/06/12(火) 06:54:43 ID:bw/gAm0z
>国家の存亡が危なげな状況でもローマのリーダーたちは兵役の義務がない17歳未満や奴隷、下層民は一切徴用しなかった。 銃では無く腕力を使う戦いでは ろくに訓練も受けて居ない様な彼等は 正直戦力に成るのかだろうし 戦時でも労働力は必要なら 兵にする意味は有るのかどうかだが
おお、冒険の独演会なんて久々に見たなw