1 :
名無し三等兵:
2 :
名無し三等兵:2006/05/13(土) 02:09:42 ID:???
をを?
面白そうなスレだな。
3 :
名無し三等兵:2006/05/13(土) 08:58:01 ID:???
4 :
名無し三等兵:2006/05/13(土) 10:43:36 ID:I1hA2ozR
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5 :
名無し三等兵:2006/05/13(土) 20:38:07 ID:???
>>3 何をいまさら
ってか、戦国時代の合戦が軍事でないとでも?
6 :
名無し三等兵:2006/05/14(日) 15:31:26 ID:???
7 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 00:46:33 ID:???
前スレであった騎馬武者論争の要旨
1)映画「影武者」などで見られるような、
騎馬武者のみ集められた「騎馬軍団」による突撃はない。
これを裏付ける文献は何も存在していない。
「騎馬軍団」の象徴武田家についても、「甲陽軍鑑」は、
「1000人あたり7人か8人が馬上にあって、あとは皆馬から降りて戦った(要約)」
と「騎馬軍団」を否定している。ただし甲陽軍鑑は騎馬武者の存在は否定していない。
※「騎馬突撃」についてはスレ内で賛否両論分かれるが、
この点については肯定派・否定派ともに意見は一致していると思われる。
2)いわゆる「騎馬隊」とは騎兵と歩兵の混在部隊だった。
後北条氏の軍団編成を元に推測すると、
騎兵8騎に鑓・弓・鉄砲など徒歩28人の計36人。(騎馬率22%)
この時は500騎あまりの騎兵が集められたようなので、騎兵部隊は2250人から2300人ほど。
奉行6人が分掌しているので、1奉行が率いる騎馬混在部隊は375人から383人ほど。
その内訳は、(1奉行が率いる兵の総数は350〜400人と仮定)
・騎兵22%(77〜88騎)
・鑓47%(165〜188筋)
・鉄砲6%(21〜24挺)
・弓3%(11〜12張)
・徒士-指物14%(49〜56人)
と推測できる。
なお、これは鑓隊など集団運用される部隊とは別である。
8 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 00:59:33 ID:???
賛否両論が大きく分かれるのはいわゆる「騎馬突撃」について
ここではそれぞれの意見の要約を抽出してみる
1:騎馬突撃否定派
・遺跡から出てきた馬の骨やNHKの実験の成果を見る限り、
日本馬は貧弱で、しかもそんなにスピードを出して突撃する事が出来ない。
(時速9キロほどで10分ほどでへばる。1.5キロくらいしか走れない)
よって騎馬突撃の効果は薄いと考えられ、有効とは考えにくい。
・仮に騎馬武者だけが敵陣への突入に成功したとしても、
四方から鑓を突き入れられるし、手綱を握っている事で片手が使えない。
徒歩の兵隊との戦いに騎乗では不利である。
・馬は標的としては大きいので集中的に狙われやすい。
馬がやられ、騎馬武者が落下してしまったらそれだけで討ち取られてしまう危険が高い。
・敵陣の突入したとしても、上にあるような敵からの騎馬武者への攻撃を防ぐ為、
徒歩の兵隊をはべらせておく必要がある。これによりスピードはさらに落ちる。
・江戸時代以降の軍役では騎馬武者の比率は戦国時よりもさらに減っている。
これは騎馬突撃が有益ではないと思われていた証左ではないか?
9 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 01:15:39 ID:???
2:騎馬突撃肯定派
・NHKの馬の実験は訓練をした馬ではない。
馬は訓練をする事によって利用価値も高まるものであり、
この実験成果のみを参考にして、日本馬は無力だった、ゆえに騎馬突撃はないとは断言できない。
・モンゴル帝国の騎馬軍団の馬も日本馬と大きく変わらない。
よって、日本馬が貧弱であるとは言い切れない。
・仮に実験データどおり(最速9キロ、1.5キロが限界)としても、
戦時下では十分に役立つといえる。
また、遅いとは言っても鎧を着て装備をした歩兵よりは早く移動することができる。
・否定派が主張するような騎兵単独のムチャな正面突撃は考えられない。
正面突撃(歩兵を従えて行う)は歩兵部隊の攻撃により敵が混乱状態になってからではないか。
それよりも歩兵の戦いを有利に進めるため、側面からの攻撃などを行い、
揺さぶりをかけたのではないか。
(否定派は側面からの攻撃を敵が簡単に許すとは思えないとこれに懐疑的)
・雑兵物語には騎馬突撃の記述がある。否定派もこの記述は認めている。
(ただし常時行ったとは書かれていない)
・長篠日記の記述には「武田は戦いなかばに馬を入れ」と、
合戦なかばに騎馬隊の攻撃があることを示唆している。
(ただしそれがどのような形での攻撃なのかは不明)
また、騎馬武者が織田方へ攻撃を仕掛けた様子も描かれている。
・川中島合戦図屏風(岩国本)をみると、騎馬武者が敵に攻撃をしている姿が描かれている。
10 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 01:27:59 ID:???
ここからは個人的な感想
否定派は「騎馬単独による突撃」に懐疑的であるのに対し、
肯定派は否定派がイメージする騎馬突撃ではなくて、
敵が壊乱状態に陥ってからの歩兵との混在の突撃や、側面攻撃を主張するなど、
双方の「騎馬突撃」のイメージが異なっている可能性がある。
そのため互いに論点がかみ合わず、果てには感情的な激論になっているのかもしれない。
なお、上には書かなかったが、他にはこんな意見もあった。
・「騎馬軍団」が後世の創作だとして、そのような創作がされる何らかの理由があるはず。
・長篠日記にある「馬を入れる」とは、甲陽軍鑑の記述とあわせると、
騎馬歩兵混在部隊による攻撃を意味するのではないか?
これは騎馬突撃の可能性もふくむが、
それ以上に騎馬武者の歩兵の指揮が上手かったことを示唆するのではないか?
・戦国時代の備えは欧州の密集陣と散兵の中間に位置するのか?
隊列戦闘を行う鉄砲・弓・槍足軽は縦深1・2程度だし、
突撃を行う騎馬・徒武者(とその従者や兵科足軽以外の足軽)は、
隊列を考慮せずに突っ込むであろうから。
なんの役に立つかはわかりませんが、以上素人なりに前スレの流れをまとめてみました。
11 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 01:32:29 ID:???
>>騎馬単独による突撃
そもそもその様な事は世界の軍事史を見ても中世欧州の一時期を除いて行われていない。
よって騎馬突撃否定派は前提からしておかしい。
ド素人以外は誰も騎馬単独による突撃なんて主張してないんだから。
12 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 12:13:13 ID:???
>>11 騎兵も歩兵も基本的には分離される。突撃を行う際は局地的には騎兵のみの突撃になる。
騎兵と歩兵が一緒くたにされたのは、ファルサロスのローマ軍右翼かグスタフ軍の両翼に配置された騎兵くらいしか聞いたことが無い。
前者は圧倒的に騎兵戦力で劣ったための緊急処置で後者は有効に機能したが騎兵の機動力、衝撃力が活かせないという課題を抱えた。
13 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 19:00:51 ID:???
>12
そりゃ当たりまえだて。
騎兵と歩兵を混在して使えば、騎兵の特性を殺してしまう。
11の言っているのは騎兵と他の兵科との共同・連携攻撃。
歩兵は継戦能力は高いが機動力で劣っているため、一旦戦闘が始まればポジションの変更が難しい。
騎兵は高い機動力で敵に対して有利なポジションに付くことが出来る。(位置取りは重要な要素)
一方攻撃力は思ったより低く、一旦足が止まれば衝撃力を失い歩兵以下の戦闘能力になる。
それぞれの部隊が自分の特性生かしつつ互いに協力し合うのが基本なのだ。
将棋やチェスは古代・中世の戦闘をかなの忠実に再現したシミュレーションボードゲームなのでちょっとプレイすることをお勧め。
角や飛車を単独で敵陣に突っ込ませるとどうなるかよくわかるよ。
14 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 19:17:54 ID:???
局地的にといわれてもな。
突撃をかけられている部隊がどのような状態なのかと言うのが問題なのだ。
突撃をかける前の状況や、突撃をかけた後どのような手を打つのかと言うのが問題になってくる。
まったく陣の崩れていない歩兵部隊に真正面から突撃する騎兵部隊はほとんどいないし、
そのような突撃は大抵タブーとされている。
突撃を有効に行うには事前準備というのが必要で、そのためのほかの兵科の運用なのだ。
15 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 20:24:09 ID:???
>>13 14
それなら問題は無いのだけれども前に
騎兵単独の突撃はしない=騎兵と歩兵が混ざって攻撃
と勘違いしている人がいたから確認しておきたかった。
16 :
名無しの三等兵:2006/05/15(月) 22:56:38 ID:ttoy2KFS
戦国で騎馬突撃が否定されたら
源平合戦って、どうやって
戦ってたの?戦国より騎馬武者の
活躍が印象に深いのですが
17 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:02:41 ID:XBcutN1B
一番リアルな戦国描写のアニメといえば
くれよんしんちゃんの時代劇映画だったな
おもしろいので山野もみてみれ
18 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:08:02 ID:???
>>16 1.弓矢
2.近づくと、打ち物による馬上の一騎打ち
3.もっとも、すぐに組み討ちに移行してのし掛かり合戦の中、鎧通しで一閃。首を取る
また、組み討ちの段階で、下男どもも参戦してラグビーのモール状態になることが普通のようだ。
4.どちらかの主人が打たれると、下男どもは士気崩壊して逃げるか、
熱狂段階に移行して、首を取り返そうとしてさらに乱戦化。
19 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:08:09 ID:???
>>16 源平は騎馬突撃でなく個々による射騎だろ。
矢戦が主。
20 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:08:57 ID:GYXV39x1
鵯越は馬使ったんだしょ。軍団の規模よりも古くから馬使ったんだしょ。それからさ、馬体はどうよ?戦国までは馬体が小さくて、へたするとポニープラスαくらいだと聞いたがな?
21 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:10:33 ID:???
>>20 馬については上にガイシュツ
これくらいの少ないレス、読んでからカキコしろよ
22 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:11:30 ID:IJjR6/lm
>>7 その小田原北条の騎兵比率が異常に高かった。
他大名はもっと低い。
23 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:12:16 ID:???
24 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:13:21 ID:???
>>22 つか
>>7の軍団構成は、
前スレで出た岩付城の軍団再編の資料を元にしたものだからな
あくまで参考資料程度
25 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:13:38 ID:RlmU+SCX
つか、日本には、西洋のような厳格な軍馬の調教技術も、馬の改良技術もなかった。
しかもそんな勇壮に翔ける大平野もない。あまり騎馬は実用性がなかった。
26 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:14:04 ID:???
27 :
25:2006/05/15(月) 23:14:35 ID:RlmU+SCX
初レスだよ。
28 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:15:32 ID:???
>>25 日本では馬の調教技術がなかったというその裏付けとなる資料は?
勝手な憶測や鈴木の説だけ引っ張って来て断言してるんじゃないよね?
29 :
25:2006/05/15(月) 23:16:23 ID:RlmU+SCX
30 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:16:42 ID:???
>>27 あなたの言うとおり本当に初レスでもそういうレスすると、
「自演厨必死」と言われるからよしたほうが得策か、と
釣られちゃ負けですよ
31 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:17:36 ID:???
>>29 「日本の馬は自国に比べると駄馬で、
日本の武者は馬から下りて戦う(意訳)」
この部分?
32 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:17:36 ID:RlmU+SCX
>>28だ。スマソ。オルガンティノも日本の馬は貧弱で言うこと聞かないつうてる。
日本語しか聞き取れなかったかW
33 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:19:17 ID:???
>>32 その「日本の馬は言うこと聞かない」って部分から、
「日本馬は野蛮で凶暴。それゆえ日本馬は弱いとはいえない」
と主張する人もいるね
34 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:22:38 ID:RlmU+SCX
戦国時代の日本の馬が西洋の馬に比べれば調教に劣り、特に集団行動に
向いてないというのを当時の西洋人が言及しているのは「謎とき日本合戦史」にもあるね。
35 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:23:45 ID:???
>>25 じゃあ軍団で編成される騎馬はどういう風に利用されたとお考えですか?
自分は映画とかであるような騎馬の先頭単独突撃はないと思いますが、
追撃戦や側面からの攻撃の可能性は十分あったと思うのですが。
当然歩兵つきで。
36 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:26:24 ID:RlmU+SCX
戦国時代の騎馬は運搬も含め移動道具としての側面が強かった気がする。
37 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:27:44 ID:???
>>34 それは鈴木の意見としてみるほうがいいよ
てか鈴木の「日本馬駄馬説」って、
少なくとも「日本馬には力がない」って部分は、
NHKの実験結果を鵜呑みにしているだけだから、正直どうかと思う。
彼自ら日本馬についていろいろと実験した結果、
「日本馬は駄馬」といえるような結果を導き出されたならともかく、
人の実験結果パクってそれを信じ込んで裏付けにしてるのはどうか、と思うんだよな
まあこれは俺の鈴木観であなたの騎馬武者観には関係ないことだけども
38 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:27:51 ID:GYXV39x1
はぁーい
39 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:29:30 ID:RlmU+SCX
駄馬とは言ってない。軍用馬じゃなかったってことだ。
馬の文化は日本にも十分あるし。
40 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:31:02 ID:???
>>36 騎馬武者否定派がよくあげる、甲陽軍観の記述を見る限りでも、
騎馬隊はともかく騎馬武者までは否定していない。
上にもあるように長篠日記では、
武田が馬を入れてやってくると示唆するような記述もある。
映画のような騎馬突撃を否定するのは自分も同意だけど、
騎馬・歩兵混成部隊の攻撃(騎馬を先頭とするかはわからない)までは、
自分は否定できないんだけどね。
41 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:31:42 ID:RlmU+SCX
オレも全面否定はしてませんよ。
42 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:38:15 ID:???
江戸時代の荷駄輸送を見る限り、積載量と航続距離に付いては問題無いみたいだよ
荷駄=メス馬だが、騎乗して自在に操れるかというと、これは訓練されてないので無理
馬の訓練方法についての文書があると思うのだが、探したことないや
江戸時代のなら残ってると思うんだけど
馬の体格に付いては、江戸時代の記録がいろいろ残ってるが、特に大きくなったり小さくなったりは無し
騎乗突撃が出来たかどうかは訓練技術次第だから、各家によって違うと思われ
少なくても大馬産地だった東北の、相馬、伊達のあたりは騎乗戦闘しているようだ
43 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:42:55 ID:???
参考になるか分からないが、
昭和63年に発刊された歴史群像の「武田信玄」の中に、
騎馬軍団の検証記事がある。(記者丸田淳一)
要約すると、
1:いわゆる騎馬軍団はない。
2:(武田に限れば)他家と同様、騎馬隊をその機動力を生かした使い方をしていない。
3:格闘用馬術を身につけた騎馬武者と歩兵の混成部隊による、
壊乱状態に陥った敵との白兵戦に強かった。
(鉄砲隊・弓隊、鑓隊の歩兵部隊の攻撃後の突入を主張)
これが「騎馬軍団伝説」につながっているのではないか。
(ただし騎馬の単独突撃は歩兵を指揮出来なくなると否定。
攻撃速度は歩兵と変わらないと主張)
鈴木が「騎馬武者否定」するよりも前に、
ここでは「騎馬軍団」について否定がされている。
ソースがかかれていないが、
おそらくは、ここでもあげられている、
甲陽軍鑑・長篠日記等を元にした推論と思う。
44 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:45:30 ID:???
つか今手元にある歴史群像の「武田信玄」に、
前スレで話題になった川中島合戦図屏風の岩国本(左隻)が丸々載ってる。
もしよかったらスキャンしてうpしようか?
騎馬武者の描写とか見てると結構面白いよ。
45 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:51:40 ID:???
>>25 大平野がないというけど、
合戦の場所によっては馬で駆け回るのが可能であった場所は十分あったと思うよ
そりゃモンゴルの大平原みたいなのはないけどさ
46 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:54:33 ID:???
ここで、鈴木、鈴木言われているのは「鉄砲と日本人」「刀と首取り」を
書いた鈴木マサヤ(字忘れた)氏のことかな?
彼が、日本では騎馬での格闘戦はなかったといっている根拠に、例えばランス(馬上槍)、
蹄鉄といった馬上での格闘戦を行うのに必要な武具、馬具がなかったことも挙げていたと思うけど
どうだろうか?
ど素人なので詳しいことはサッパリだけど。
47 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:55:03 ID:RlmU+SCX
>>45 でもモンゴルの騎馬軍団は映画見てるだけでもすごいよね。
あんなん攻めて来たらコワイよ。
48 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:56:30 ID:???
>>46 鈴木眞哉(まさや)
つかこの名前出すと荒れる傾向あるからよすほうがいいと思うんだがなw
49 :
名無し三等兵:2006/05/15(月) 23:59:25 ID:???
>>47 あの大軍でこられたらさすがになあ。
けど鉄砲や弓、あと槍衾を作るなどしたら十分ダメージは回避できるよね
結局
>>14の言うように、騎馬突撃があるとしても、
映画とかのような闇雲な突撃じゃなく、敵の状態を見て行ったものだと思う
>>13の言うように単独で突っ込んだら討ち取ってくださいって言ってるようなもんだもの。
50 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:02:17 ID:???
でも鈴木眞哉の著書、時代劇でよくある描写の嘘を指摘した点では意味があると思うのだが。
51 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:02:56 ID:???
>>46 鈴木って武者はみんな馬から下りて戦ったって主張してたっけ?
52 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:03:56 ID:???
>>48 そうなのか。失礼した。
鈴木某は冥王星の彼方に忘却するとして、実際どうだろうか?
欧州の騎士連中の鎧をみると、ランスと一体化して衝撃に備えているように見える。
日本の鎧と槍だと、突撃をかましたほうが衝撃にたえらるか疑問に見えるのだが、
あくまで馬にのって接近するだけで、馬による体当たりはしないということだろうか。
53 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:04:55 ID:???
>>51 それは前述通り、ルイス.フロイスが書き残してる。多分、鉄砲出てきてから
下りるようになったんじゃね。
54 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:05:40 ID:???
>>50 >>43のように前から時代劇の描写のウソを言ってる人はいた。
ただ、白兵戦や騎馬武者の事については意見は異なるけど、
長篠合戦の通説の否定なんかは評価してる。
55 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:06:21 ID:???
>>51 馬上で戦うときは弓が主体。
格闘戦をしかけるときは、例外的なケース(騎馬によるかく乱)を除き、
降りて戦う、主張だったと思う。
56 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:07:19 ID:???
>>53 甲陽軍鑑でもそういう記述だね。
ほとんどは馬から下りて戦う、と。
けどじゃあ騎乗の武者はいったい何してたんだ?
騎馬軍団はともかく、騎馬武者の存在までは否定できんと思うのだが
57 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:07:30 ID:???
>>52 馬に乗っての接近戦は、馬にも相当、ドキョーがいる。
馬による集団戦は、なんかアレクサンドロスからして結構接近戦はなかったと思うんだがなあ。
58 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:09:47 ID:???
>>54 ああ、鈴木眞哉が最初に主張したっていう意味ではない。
ただ、本職の研究者以外にはあまり知られていなかったことを、
一般向けの本で広く紹介した点は評価されるべきかなと。
59 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:10:22 ID:???
>>52 結局上にもあるように「騎馬突撃」なるものがいつどういう時に行われるか、だよ
少なくとも相手に防御するような余裕がある時に突っ込んでいったら自殺行為だろう。
自分は
>>43の言うような、相手方を打ち破って壊乱状態にした後の、
騎兵・歩兵の敵への攻撃(追撃)は十分あったと思う
60 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:10:23 ID:???
>>55 オレもそれに同意。騎馬は弓矢とペアが基本。
モンゴルがそうだし、ペルシア騎兵もそうだった。
61 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:11:50 ID:???
>>57 アレキサンダーって最近映画になったけど、
あんな映画のようなムチャクチャな先陣きっての突撃かましてたん?
命知らずにもほどがあるというか…
62 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:11:59 ID:???
>>56 戦うときは馬から降りても、騎馬で戦場にきている以上、「騎馬武者」って
ことでいいんじゃないかな。
騎馬であることの戦力を期待されて馬に乗ってきたんじゃなくて、馬を持っているから
馬できた。
仕事場に電車で車でくるかの違い、っていったら無理があるか。
63 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:13:59 ID:???
>>58 ああそういう意味ね。それは同意できる。
ただネット見てると、そんな鈴木の意見を鵜呑みにして、
「騎馬隊なんか存在しない」というサイトとかあるのはどうかな、と思う
あくまで鈴木が出したのも史料を元にした意見なのであってね。
自分なりに色々と史料にあたらないと簡単には語れないと思うんだけどな。
64 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:15:21 ID:???
>>59 騎馬というヒット&アウェイが出きる脚に長距離兵器の弓矢ってのが基本で
騎馬突撃ってのは、おっしゃる通りの自殺行為。
すなわち、そのへんは鈴木が言うとおり、
第二次大戦の特攻を一種の伝統戦術みたいにでっちあげるでまかせっぽい感じするけどね。
「ラストサムライ」でも最後とってつけたように突っ込んでたがごとくw
65 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:16:24 ID:???
>>62 いや、降りる武者もいるけど、
軍鑑の記述だと馬に乗っている武者も数騎はいるわけだ。
1000人に7、8騎ってことは、
125人に1騎ほどの割合で。
この一騎は何してたのか、って思うわけよ。
66 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:18:02 ID:???
一つ聞くけど、ここにいる人で、
壊乱・逃走状態の敵への「追撃」に騎馬武者が活躍した可能性に否定的な人っている?
67 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:20:12 ID:???
>>64 騎馬と歩兵のセットにしても、
鑓だけじゃなく、弓とか鉄砲の歩兵もいてはじめて一つの騎馬隊になるわけだろ。
弓や鉄砲で敵を威嚇、鑓と一緒に敵を攻撃、こういう理解でええの?
68 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:20:45 ID:???
>>66 普通、退却戦(追撃戦)って、一方的でしょ。追う方はみんな大活躍だよ。普通。
69 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:25:30 ID:???
>>67 どうなんでつかね。馬に乗ってるのと自前二本足だと疲れ方が違うから、
長期的にシンクロ攻撃できるんでつかねって思っちゃいますけど。
70 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:26:03 ID:???
モンゴル騎兵と言ったら弓騎兵ばかり連想されるけど
実はかなりの数の重装騎兵が存在した。
十字軍の騎士に苦戦したイスラムは重装騎兵を取り入れている。
日本には接近戦重視の重装騎兵に当たる騎兵はいなかったのかな?
71 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:26:07 ID:???
「クレヨンしんちゃん」の合戦の描写がリアルと主張している人に質問
どういう本を参考にしたらの合戦はリアルだと理解出来るようになるの?
煽りでも何でもなく。
色々と諸説入り混じってるけど、
戦国の合戦の状況を理解するのに有益な本ってどんなのがあるん?
72 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:26:29 ID:???
>>66 弓を射ったり、命令していたりじゃないかな。
73 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:30:46 ID:???
>>71 諸説紛紛だから、いろいろ読むしかないでしょう。
あとはテメーの勘だ。
74 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:32:03 ID:???
75 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:32:47 ID:???
>>70 ないと思う。日本の武者は楯持たないから、そんな希ガス。
76 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:33:52 ID:???
>>75 日本にも盾はあるよ
ただ木で出来てて薪とかにも利用されちゃうのでほとんど現存していないけど
77 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:35:56 ID:???
>>76 楯はあるけど、全然リキ入ってないよね。
ちなみに、楯は西洋でも基本は木製だよ。案外知られてないけど。
78 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:37:17 ID:???
>>77 ドラクエに出るような「はがねの盾」とか「ミスリルの盾」は存在しないのか!
79 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:37:35 ID:???
80 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:37:40 ID:???
竹で作った鉄砲を防ぐ盾ならどっかで見た。
片手で携帯できるようなやつじゃなくて、動く壁といった感じのやつ。
81 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:39:53 ID:???
泥や粘土を練りこんだ竹のやつだろ
長篠の戦いでも武田勢に使われたとされるね
82 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:40:16 ID:???
>>78 古代から西洋では、表面だけ金属を張って反射させたりはしてたらしい。
現在の機動隊の楯なんかは、アルミ製だから全金属でも軽いみたい。
83 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:41:07 ID:???
84 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:41:47 ID:???
85 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:42:51 ID:???
強化プラスチックじゃなくてポリカーボネートやろ。
86 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:44:56 ID:???
87 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:47:17 ID:???
>>85 ポリカーボネートも強化プラスチックの一種だったと思ってた。
改めて調べたら、強化プラって本来FRPだけを指すのね、ごめん。
88 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:51:09 ID:???
しかし、楯なかったら、接近戦するの怖いぜ。
つうことは、やはり日本人は鈴木の言うとおり接近戦はしないのかなあ。
楯なしで接近戦やるつうたら、零戦みたいだもんなー。
89 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:55:10 ID:???
>>88 手盾(手持ち式の小型の盾)を使用したって記述は、源平時代〜南北朝時代の軍記物にはよく出てくるんだがな。
打物(刀や長柄など)を使った戦闘には多用されたらしい。
この辺、具体的な戦闘様式を書いた同時代の記録が少ないのでよくわからないのだが。
90 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 01:04:18 ID:???
戦力の主体が徴集兵だからね<戦国時代の歩兵
盾+槍で戦闘装備のまま移動するなんて錬度はもっていない
設置型の盾で弓矢対策、竹を集束したもので鉄砲対策は普通にしてるけど
91 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 05:23:18 ID:???
>61
映画はリアリティーよりも見栄えのほうが優先なので、答えは「ありえねー」
//
日本の騎馬武者は、ナポレオン時代の中騎兵
(主に下馬戦闘。でも偵察や追撃などの軽騎兵的仕事や突撃などの重騎兵的仕事もこなす)
相当と見た方がよかんべー。
歴史的経緯からすると全世界的にまっとうな騎兵部隊を持ちえたのは近代に入るまでは騎馬民族だけなのよ。
馬を育てて調教するのはすさまじくコストがかかるので、農耕民族が「戦闘用の馬」を大量に準備するのは難しいのだ。
古代ローマでも騎馬部隊の劣勢を重く見て強化しようと試みたけど、結局うまく行かなかったからなぁ。
中世ヨーロッパの重装甲騎士も基本はランス単位での個々の突撃だしなぁ。
私が知っている戦国時代の騎兵部隊の大規模運用は関ヶ原で撤退した島津を追撃するために
徳川方の各備から抽出・臨時編成した騎馬隊ぐらいかなぁ。
結果は大失敗だったけどなー。まぁ島津は鉄砲装備率がむちゃくちゃだしなぁ。
92 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 05:59:11 ID:???
>彼が、日本では騎馬での格闘戦はなかったといっている根拠に、例えばランス(馬上槍)、
>蹄鉄といった馬上での格闘戦を行うのに必要な武具、馬具がなかったことも挙げていたと思うけど
>どうだろうか?
蹄鉄や鐙の無かった古代でも馬上での格闘戦は普通に行われていた。
93 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 06:11:16 ID:???
この鈴木氏は自分で実際に馬に乗った事があるのか?
94 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 08:52:11 ID:+ARL5zwA
>>91 >答えは「ありえねー」
ところが一般的には先陣きって「オラオラオラー!」とされているわけだがw
95 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 08:53:53 ID:???
96 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 12:44:23 ID:???
>>92 そうなのか。古代で馬っていうと戦車が思い浮かぶのだが、格闘戦もこなしていたのか。
>>93 さすがにないでしょ。
著書の中では、戦国期の武将が馬に乗ったまま武器を振るうのは「犬鑓」、
つまり下半身が安定しないままで振り回すことになるので役に立たないと
語っていることや、現代で剣道をやっている人に馬の上で剣を振り回せますかと
聞いた話などはでていたと思う。
97 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 14:11:55 ID:???
>>92 マンガだが、センゴクという作品がある。
それみた結論。 馬上での戦闘は無理ぽ
とくに槍、刀剣は物理的に不可能。
雑談スレではじんべえやハスケやぽこ山も通読しているっぽいが、
特に異論もないみたいだし、確定だとみていいんじゃね?
某研閣下にもコメントほしいところだけど。
98 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 14:13:57 ID:???
つまり下半身が安定しないままで振り回すことになるので役に立たないと
語っていることや
>
それも指摘されたなセンゴクで。
ちなみに騎馬武者も実際は降りて戦ったそうだぞ。ソースはセンゴクなんだが。
たかがマンガという前によんでみてくれや
99 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 14:16:00 ID:???
>>97 あのね、今でも海外じゃ歴史ヲタによる馬上試合クラブがあって普通に馬上での格闘戦が行われてるの。
それはどう説明するんだ?
つーかソースが漫画?
ふざけてるのか?
>>つまり下半身が安定しないままで振り回すことになるので役に立たないと
鐙が無い時代でも鞍に四つの角があってそれをつかむ事によりバランスを取る事が出来たんだが?
お前は本当にカンネの戦いでヌミディア騎兵がわざわざ馬から下りて戦ったと本気で主張するんだな?
>>99 格闘に専念できる環境なら名。
実際に命のやりとりをする場合とはリスク度が全然ちがうよ。
馬をコントロールしながら、刀剣や槍よけてなおかつ戦闘なんて
超人でもないと無理。
しかも西洋人と日本人とでは体格も馬も装備も何もかもちがう。
その辺加味してから海外でのマニアの戦闘うんぬんと口にだすべきだね。
>>馬をコントロールしながら、刀剣や槍よけてなおかつ戦闘なんて超人でもないと無理。
その根拠は?
>>100 カンネーの話などしてないが。
日本の戦国時代の話のスレなんだが。
なんでセンゴク時代の話をしているのに
あらゆる諸条件を無視してまったくちがう戦場の出来事をもって、
日本の戦国時代の戦の真偽を騙るんだ。
詭弁も良いところだと思うが。
>>103 ああ、すまん。
てっきり全時代を通して騎乗戦闘は行われていなかったと主張していたのかと思った。
>>しかも西洋人と日本人とでは体格も
中世では日本人と西洋人の間にたいした体格の違いは無いと聞くが。
>>102 単純に自分がやってみればいいじゃん
ろくに医学も発達していない時代に腹を突かれたり、着られたら破傷風で死ぬ罠。
不安定な馬上で刀剣や槍を繰り出して敵将の首ねらってくるのにのんきに格闘戦
なんて、それなんて完璧超人?
在来馬なんてそもそも背も低いから馬上のメリットもさしてない。すぐやられちまうがな
でもマジな話センゴクよんでみろよ6巻までで出ていてすごくおもしろいから。
一日で読めるのでまず君がよんでから話しようぜ。
>>ろくに医学も発達していない時代に腹を突かれたり、着られたら破傷風で死ぬ罠。
全く同じ事が歩兵・足軽にも言えるんだが。
>>不安定な馬上で刀剣や槍を繰り出して敵将の首ねらってくるのにのんきに格闘戦なんて、
日本語がおかしいぞ。
(自分が)不安定な馬上で(敵兵)が刀剣や槍を繰り出して敵将の首ねらってくるのにのんきに格闘戦
と言いたいのか?
一つ聞きたいんだが君の持つソースはセンゴクとやら以外にあるのか?
>>108 敵将と自分以外にも敵の雑兵がわんさといる。
そんな状況で、格闘戦などできないといってるんだ。
>>109 いまセンゴク読みかえし中。ちょっとまっとけ
ひょっとして君は私が「騎馬武者は敵将を狙って真っ先に突撃する」とか考えてると思ってないか?
>>110 味方の雑兵もわんさといるわけだが。
つかマンガどうこうよりこのマンガの考証元となったソースは何か?が肝心だと思うのだが。
そもそも雑兵なら既に敵兵と交戦している状態で背後や側面から騎馬武者が乗り込んできた時点で壊走するんじゃない?
馬上槍は至極至難の業なり
戦国期の騎馬の主な目的は移動が主な目的であり
馬にのって戦う事は希であった
甲陽軍艦にも「下馬して戦うのが常」とかかれている。と
センゴクにあるな一巻の中ぐらいの記述だけど。
>>112 結局読む気は無いんだな。
6冊まとめても3千ちょいだからかってこいや
6冊600円になるまで待ちます。
マンガ喫茶いって読めばすぐだろうが
今は日本にいないのでわざわざ取り寄せる気にならん。
じゃ、6冊600円になるまで待ちますという発言と矛盾していると思うが。
海外で日本の漫画が古本に鳴る確立なんめっさ低いだろ。
ま、それはともかくとして、
>全く同じ事が歩兵・足軽にも言えるんだが。
こっちは士官クラスの首 向こうは手柄ほっしているしたっぱ軍団。
雑兵なんぞ甲冑も満足にそろえられないヤシおおいのに
立派な出で立ちに在来馬なんてもっているヤシなんか見るからに獲物な罠。
数もちがうし、いちいちとまっていたらやられるだろ。
くりかえすが、突かれたり、払われたら死ぬ事がめずらしくない時代だ。
なら混戦になったら将官はどうしていたのか?
その場を馬つかって脱出して全体の指揮に専念していたと考えるのが合理的。
121 :
119:2006/05/16(火) 15:42:24 ID:???
俺は117じゃない。
>じゃ、6冊600円になるまで待ちますという発言と矛盾していると思うが。
お前自分の相手が一人だとでも思ってるのかよw
いい加減気づけよ
センゴクの作者自身が鈴木の説鵜呑みにして物語展開してるってことに
俺もセンゴク読んでるが、面白い事は認めるが、
戦国時代の合戦を語る上でのソースにするのはどうか、と思う。
例えば、「武田騎馬軍団はなかった」といって、
三方が原の合戦を描写しながら、
姉川じゃ浅井方の侍大将の山崎、
(姉川の戦の浅井方の事実上の作戦発案者であり第一陣の指揮官!)
が騎馬で先頭突撃かまして、
仲間を殺された主人公に討ち取られて浅井方は壊乱状態に陥るという滑稽な展開も描いてる。
センゴクは俺も好きな漫画だし面白いけど、
あの作者の主張のみを根拠にいろいろ語るのはどうか、と思う。
あの人の「歴史語り」はあくまで物語を盛り上げる為の演出のひとつにすぎないと思うよ。
それで上の方でも出てることだけど、「騎馬突撃があった」派も、
何も鈴木や否定派が主張するような、
「無謀な正面突撃」や「騎馬単独突撃」を主張しているわけじゃない。
歩兵と戦っている敵部隊への側面攻撃、
全線の歩兵部隊が敵を押し始めてからの、
歩兵引き連れての攻撃(追撃といえるかも)などを主張している。
最初のほうでもあるけど、
肯定派と否定派の主張する「騎馬攻撃」観が食い違ったまま、
「騎馬攻撃はあったなかった」と言い合いしても、かみ合うわけないと思う。
騎馬単独突撃ってのは行ったらどうなるかは、
影武者で悪評高い(!?)黒沢の「七人の侍」を見たらわかるか、と。
ほとんどが騎馬武者で構成される野武士たちが村に侵入してくるけど、
すぐに竹槍持った村人に囲まれてしまって、
身動きが取れないようになって結局討ち取られてしまう。
それに槍衾で突撃を防御されてたし。
戦国の戦場でも似たような状況だと思う。
いくらなんでも開戦早々いきなり騎馬武者が突撃するってのはありえんだろう。
敵に騎馬攻撃に備える余裕が充分にあって、突撃するにはリスクが高すぎる。
騎馬隊が攻撃する可能性としてはやはり戦もなかばを過ぎ、
味方が押しはじめ、敵が崩れ始めた頃からだと思う。
あと騎馬攻撃否定派が主張する、
「武器を持って馬に乗ったらろくに操作が出来んのじゃないか」
という主張だけど、これも「七人の侍」を見る限りだけど、
両手鑓や弓を持った騎馬の野武士が、馬を上手に操りながら攻撃してた。
だから、馬術に心得のある人なら、馬上で武器もって戦うことも出来ただろうと思う。
(ただし七人の侍で描かれるような馬術が江戸時代以降に開発された可能性もあるが)
けど、馬上攻撃ができるとしても、
否定派が言うような騎兵単独の攻撃は考えにくい。リスクが高すぎる。
映画の中でもこの2騎は結局村人に囲まれて討ち取られてしまってるしね。
漫画のソースに対抗して映画がソースってふざけてるの?
127 :
名無し三等兵:2006/05/16(火) 16:42:48 ID:8VpKCYNb
馬上で武器を振るうのは、地上で武器を振るうのと比べると困難なのは確かなのだ。
それゆえ騎兵部隊の基本的な殺傷能力は歩兵より劣る。
上のほうでで馬上で白兵戦は無理、といっているのは多分これが根拠となっている。
が、これは騎兵部隊のやってはいけないタブーの一つ「足を止めての戦闘」をした場合なのだ。
騎兵は足を止めてはいけない。常に動き続け、切りかかっては駆け抜けると言う、ヒットアンドウェイを行う。
大きな獣に乗った兵士が武器を振り回して襲い掛かる。 反撃しようとしたら既に間合いから遠ざかっている。
これが歩兵に対する騎兵のアドバンテージとなっている。
反撃できない、もしくは反撃が難しい相手から攻撃を受けるということが士気を著しく低下させる。
実際に兵士を殺傷するのではなく、士気を崩壊させて部隊の機能を停止させるのが古代から近世にかけての戦争なのだ。
両手鑓や弓を持った騎馬の野武士が、馬を上手に操りながら攻撃してた。
だから、馬術に心得のある人なら、馬上で武器もって戦うことも出来ただろうと思う。
(ただし七人の侍で描かれるような馬術が江戸時代以降に開発された可能性もあるが)
>
映画だからな 本物の刀剣じゃなくて重量が全然ことなるまがい物である可能性もある。
馬そのものもちがうし全然参考にならない
>>127 本物の刀剣ではないし(打ち所がわるければ死ぬが)
そもそもそれタイマン勝負じゃね。
>>128 足を止めては死ぬんじゃなかったのか?
それとセンゴクの引用で甲陽軍艦に降りて戦うのが常道とあるのはどう説明するのか?
>馬をコントロールしながら、刀剣や槍よけてなおかつ戦闘なんて
>超人でもないと無理。
確かに困難だが、出来ないことではない。
というか、騎兵突撃を受けるような状況下に陥った歩兵が満足な組織的抵抗を行うほうが困難なんじゃが。
しっかり反撃を出来る、陣が乱れていない歩兵に対して突撃をかけるのは
何度も語られているように自殺的行動であって、普通はやらない。
戦国時代全般の基本戦術からも外れている。
歩兵部隊を使用する際でもまず、飛び道具を使用して相手の陣が崩れてから白兵戦を仕掛けるのがセオリー。
相手の陣が崩れない限りはにらみ合いが続くのが一般的なのだ。
歩兵ですらそうなのに、騎兵ではそうしないと言う理由がわからん。
どーも、「騎馬突撃は無かったよ派」は騎兵部隊の特性や運用の基本を良く知らないんじゃないかと思うんじゃが。
理由のかなりの部分が、一般的な「騎兵でやってはいけない事」や「騎兵の弱点・欠点」ばかりなんだよね。
むしろ「十分な数をそろえられなかったり、編成上の理由で劇的な効果を発揮するほどの運用が出来なかった」と言うほうがまだ説得力がある。
http://www.sasakijo.com/kiba.htm 騎馬部隊の用兵はほんとうになかったか
だから日本の戦国時代には、
騎馬部隊を大規模に、あるいは徹底して使う、という発想がなかっただけである。
しかし、小規模には使われたろう。
騎馬武者部隊が組織されていない小規模な軍勢でも、乱戦、混戦の中で、
騎馬武者たち、あるいは騎馬の指揮官クラスが
3頭から10数頭ぐらいまで固まって、密集突撃を敢行するぐらいのことは十分に
あったと考えられる。
このあたりジャマイカ
馬上の武器つうても刀や槍は、踏ん張れないから使いにくいのは分かるが
弓矢は別だろう。ケンタウロスを持ち出すまでもなく人馬一体の武器は
弓矢だと思う。そして弓矢攻撃は基本的に空爆的なところがあって、最後に
とどめを差しに決戦で出てくるのは地上部隊つか歩兵隊というのは
>>128に同意だな。
>足を止めては死ぬんじゃなかったのか?
だから、やってはいけないと書いてますが何か?
>それとセンゴクの引用で甲陽軍艦に降りて戦うのが常道とあるのはどう説明するのか?
別に不思議なことではない。
むしろ「下馬戦闘は一切しなかった」と言うほうがちとおかしい。
騎兵と言うのは射撃の的としてはたいへん大きいので、常に動き回っていない場合は降りるのが正解。
どーも、「下馬戦闘しかしない」とか「騎兵突撃しかしない」とか、ちと思考が硬直しすぎ。
状況に対して柔軟に運用してこそ、戦術じゃよ?
絵画にしても映画にしても騎馬の突撃つうたら、それこそ絵になるからね。
実際の古き戦場をビジュアルでわれわれが見てるのはその「絵画」と「映画」しかないわけであって
その影響たらすごいもんがあると思う。
黒澤の「影武者」の武田騎馬隊の突撃なんか、カミカゼ以下の戦術だし、
「ラストサムライ」なんか、敵味方入り乱れての歩兵白兵乱打戦がおさまったあと
お色直しみたいにしてあらためて謙さん、トムさん馬に乗って突撃するから吹き出しかけた。
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html 鈴木説を中心にくみたてた社説がだがひとつだけおもしろい記述があった。
しかも、騎乗の資格のある武者も、いざ戦う時は下りる癖があったらしい。ヨーロッパ人から見ると実に
不思議な光景だったらしく、フランシスコ・ザビエルらによって書き残された。大坂夏の陣の際、
加賀の前田家では、「馬上で指揮を執れ」との軍法をわざわざ出したという記録もある。
馬のサイズは
>>133の当時の騎馬武者とはの中ではサイズの件について鈴木説を否定しているが、
ザビエルの記述をみると、実際にサイズでは不満があったから、下馬したのでは?と思える。
それと大阪夏の陣では前田川は当然寄せ手側の立場であるわけだが、
>>133の同リンクでは
防御側が主に下馬して戦ったとあるが、毎日の記事では寄せ手側であるにもかかわらず
自軍で下馬するものがおおかったのか、馬上で指揮するように沙汰あった説明と矛盾するのでは。
伊達の鉄砲騎馬隊が資料確実で騎馬のみで構成された部隊じゃないか?
相馬にも騎馬隊はあったけど資料がイマイチ
騎馬隊同士でぶつかり合ったとの記述あるから、騎乗技術は関東から東北太平洋側にはあった模様
馬の大産地だしね
鉄砲騎馬隊は騎乗技術があった上での鉄砲との融合だし
あと、仙台の市立博物館に、戦国期の長巻や馬上槍が収蔵されてるよ
日本人は長い弓矢を持って馬上に上がり、そのとき左手に弓矢を持つから
馬の右から乗るようになったときいた。
モンゴル騎兵なんかは短い弓だから背中に背負って普通に馬の左から乗っている。
しかし普通に考えて、馬上で弓矢なら短弓だろう。
やはり馬上戦闘は弓矢でさえ、あまりしなかったのでわ?
>>135 足を止めて死ぬんじゃなかったのか?という疑問は
>>127の絵巻物を根拠に出した人の話と
矛盾しているぞという意味。
こんな具合にやっているなんてまずあり得ない。
両軍制止の上で一騎打ちみたいな事は室町以前なら武者同士が戦って死んだ方の家来や馬は
勝者のそうどりということなら聞いたことはあるが・・・・。
>>139 伊達の騎馬鉄砲隊は大阪の陣ででてきたんだよね。
あれは正宗好みの一回こっきりの例外的ケースだと思うんだけどなぁ。
後藤又兵衛隊を蹴散らしたけど、真田信繁隊には槍の待ち伏せでやられたんだっけか。
ちがったら、ごめんね。
しかし、種子島を馬上で連射できるかね?
>>140 モンゴルの騎兵よりはイマイチだったとは思うけど、
流鏑馬が伝統として残っているからね。
鎌倉以来の伝統らしいから、馬上射撃はあったとみていいんじゃない。
>>143 そもそも騎馬武者は常に動くか、下馬して戦うかなんだろ・
馬上でやるとしたら、弾をうったあと、「掃除」しなかったらいかんはずだが、
これだれがやるの? ついてくるかちの連中にやらせるのなら、騎馬鉄砲隊
の意味が無いんじゃないか?機動性うしなわれるし
流鏑馬は残っているけど、実際に使える代物だったのかね?
犬と武装している人間の集団とでは質量ともに違いすぎる気も。
そもそも騎馬武者って馬を狙って雑兵がワラワラくるから打っている余裕って
そんなにないのでは。 すくなくとも戦国期の戦い方としては?
鎌倉ぐらいまでの戦い方じゃね?
>>143 欧州中世の竜騎兵は、はじめに2発くらいぶっぱなして、銃はリロードせずに
そのまま突撃に移行する。
同じようにやれば、理屈の上ではなりたつ。
役に立つかはしらない。
>>146 確かに。
だから、完全な一撃離脱なんじゃないか。
ダーって近づいて一発、敵に囲まれる前にさっさと逃げる。
んで、雑兵は雑兵が引き受けるみたいな。
>>130 袋竹刀という物は実際に打ち込む練習目的で作られたんだが。
真剣と袋竹刀の重量の違いも考慮に入れるべきなのは当然としても、
まず、馬上で太刀を振るうという動作は物理的に不可能ということはあり得ない。
一応参考までにいうと、真剣でも重量は約1.5`、腕の筋肉が慣れれば充分片手で振り回せる。
これについては自分自身体現しているので保証する。
>>133 馬上での斬撃が物理的に可能であることの証明としてあげたまで。
戦国期の騎馬単独部隊による戦闘については自分も否定している。
>>148 やるとしたら、蒙古の戦いの時のようにまず防御(日本側)が打ち寄せてくる連中に弓矢を
嵐のごとくふりそそがせたように
ある程度数がまとまった武者で一斉射撃して陣を崩して郎党ひきつれた上でつっこんだののかな?
でないとあまり意味ないよね?
>143
むり。
ナポレオン時代の騎兵も突撃前の準備射撃にマスケットを使うけど、当然ながら一回撃って、抜刀突撃。
再装填時に足を止めなきゃならないのでたいへんまずい。
軽騎兵は拳銃を2丁持って、撃っては投げ捨てという方法をとる。もちろん捨てた拳銃は戦闘後に回収(笑
伊達の騎馬鉄砲隊は試しに一回やってみた、と言う程度。
新戦術を有効運用するには何度も実践を繰り返して有効運用法を確立する必要性があるけど、やってない。
>>149 戦国期の刀って後世の日本刀のようなものじゃなくて打刀じゃなかっけ?
ようするにぶったたいて骨砕くタイプの奴。
この打刀みるからに重そうなんだが、135キロですむものなにかね。
馬上だと力そうそうはいらんのでは
ナポレオン時代の騎兵が装備しているマスケットは突撃終了後、敵の射程圏外まで移動してから再装填。
数発程度なら掃除しなくても大丈夫。発砲数は歩兵と比べると圧倒的に少ないので問題なし。
マスケット兵の場合は、掃除や銃身の冷却をする場合、小便をかけたのだそうな。
>>152 打ち刀でも重量自体は大差ない。
あるとすれば長さの違いによるな。
馬上で振り回した経験は流石にないけど、脚が踏ん張れるのであれば
片手で振り回すことは充分可能と思われる。
それと一応断って置くけど、刀でも槍でも下馬して両手で使った方が絶対的に有利なのは否定しない。
>>154 可能性が考えられるという話だろ。絵巻もの見る限りタイマン勝負だし、
戦国期と以前の数人の従者ひきつれた武者同士が戦闘して敗者の馬、従者を総取りって
程度じゃないのか。
歩兵戦闘が主流になった戦国期の戦闘ではなく、絵巻物は後世の理想化されたイベントを
描いた物だと俺は思う。
>152
太刀→打刀ね
太刀は騎馬武者が使用する。反りが強く駆け抜けざまに切り込むのに向いている。
騎兵が使用する刀剣類は東西を問わず反りの入った「切る」ことを想定した刀剣が多い。
馬上では踏ん張れないので、ぶったたくとか突くとかが難しいからね。
徒武者が増えてくるにしたがって、簡単に抜ける打刀が増えてくる。
太刀のほうが寸法があるのよ。でも重量はそんなに変わらないよ。
>>156 枝葉末節だが、袋竹刀という物は実際に打ち込む為につくられたんでしょ。
太刀は一撃離脱で脇とおって相手を切り伏せる為に最適化されているなら
絵巻物の状況とはだいぶちがうんでは
もうひとつ気になるのは信長おつきの黒母衣衆があるわな。
あれ前田利家が「槍の又佐」とよばれていたようだが、
槍と太刀両方たずさえていくなんてちょっと考えられない罠。
あれはどう考える?
>>155 馬上での斬撃というモーションが実際に行われていたという証明。
馬の首が邪魔になる、馬の体や自分の脚に当たって振り回せないということはない。
これ自体が集団演習を兼ねた催し物なのは明らかなんだが、問題はそこじゃなくて
馬上での斬撃が可能ということ。
でもビデオにとったわけじゃないし、それが実際に使える代物だったかどうかは別問題だろ。
その絵巻物でわかるのは演習やりましたってだけで、
演習の結果実践につかえるよという証明にはならないだろ。
極論だが、野球の試合をしたからといってみんなホームランバッターになれるのなら苦労はしない訳で。
160 :
156:2006/05/16(火) 19:02:58 ID:???
おっちゃんは絵巻物のことは知らんがな。
ところでうちの殿様(利家)が母衣衆時代に馬上で使った槍ってどんな槍?
母衣衆は基本的に伝令・偵察を主任務としているから、重武装ではないはずなのだが…
>>157 >絵巻物の状況とはだいぶちがうんでは
絵巻物の通りに実戦が行われていたという話ではない。
>あれをどう考える?
母衣衆としては使番。
戦闘では徒歩立ちで槍を振るったとしか考えられない。
>>160 浅井の騎馬武者山崎どんも槍つかいだよ センゴクの記述を信じるなら。
ちなみに槍の又佐って前田慶次にそういうあだ名がでていたな。
>>159 だから馬上での片手打ちモーションが可能であると言ってんだよ。
それと日本以外でも馬上で曲刀は使われてるだろ。
日本の戦国武士だけそれが出来ないという理屈はおかしいだろ。
>159
逆逆w
実戦で使えるからこそ、演習で訓練するんだよ。
絵巻物は後世のものだから、戦国期に馬上の斬撃が使い物にならないことが判明していれば、そんな練習はしなくなる。
あと、近世の出来事にビデオうんぬんはどうかと思うぞ。
当たり前の話だが、練習しないチームは勝てないよ。
ホームランなんぞは打つ必要性はない。ようは勝てればいいのだ。勝つために練習をする。
ホームランを打つために練習する奴はまずいない。ヒットを打つ練習のほうが有効だ。
君は騎兵はことごとくすさまじい手だれしかいなければ成立しないと無茶を言っている。
近代までの戦いは、いかに敵を死傷させるかではなく、士気を崩壊させるかの方が重要なのだ。
>>163 本当に当時の打刀は軽かったのか? なんか怪しいなあ?
あんたのつかった太刀って現代の奴だろ。 当時の太刀なのかね。
http://www43.tok2.com/home/moncolle/gensou/absurdtrpg.html さて、「普通の剣」に関して言うと、イギリスBBCが製作した中世時代の武器や鎧・城を紹介した番組で、
次のようなシーンを見た事がある。 それは、「ボール紙の筒」を台に固定し「剣で斬る」という実験(
パフォーマンス)で、ボール紙の筒はひしゃげる事無く切断されていた・・・。(剣の切れ味はとてもスゴイ
という意図の作品だった)
私はこれらの事柄(ちと少ないが)から、今では「剣は切れる」と思っている。
正確に書くなら、「西洋の剣つまり直刀は、日本の刀のような曲刀とは違い”切り裂く”事には適さず、
その重さを活かして”叩き切る”ようにして使う」という感じだ。(先程のTV番組なら、切り裂く事すら出
来ていた訳だが・・・)
そもそも剣が叩く事しかできない武器なら、最初から「叩く」事を目的として重さと遠心力を計算された
メイスのような打撃武器が圧倒的に強いという事になる。
実際、金属鎧等に対しては重さがあるほうが有利だが、どんな鎧だろうと継ぎ目はある。その継ぎ目
から人を切るためには、刃が必要となり、重さと刃を兼ね揃えた剣こそ、当時最高の武器だったのだろう。
また、これは日本でも同様で、甲冑を身に纏って戦っていた戦国時代の刀は、太刀・野太刀と呼ばれ江
戸時代以降の打刀よりも遥かに、大振りで重い。
>>162 あのな、山崎という武者が、
浅井家家中であれほどの重鎮だったというような記述はなにもないのだが?
あれは仙石が姉川で討ち取った武者が山崎新平だったって記述を元に、
大幅に想像されたキャラだよ。
てかあの漫画を史料にするのはやめれ
>>165 一つ聞くがあんたの言う剣が重いってどれほどの重さを想定しているの?
まさか50キロも60キロもあるなんていわんよな?
>>167 重さを武器にしているんだから、4−5キロはあると思うのだが。
その絵巻物は近世つまり江戸期以降ので、使っている太刀あんたのつかったものも
そもそもの重さ自体がちがうのでは。
つか騎馬否定派にはっきりして欲しいんだが。
肯定派の主張する、
相手が壊乱状態になってからの騎馬・歩兵混合部隊の攻撃は否定するの?
とりあえず否定派の主張する騎馬攻撃がどういうものを想定しているのか教えてくれ。
そこからはじめないと話がかみ合わん。
>162
山崎どんは母衣衆(伝令・偵察騎兵)なの?
前田の殿様の母衣衆時代の兵装の質問をしているわけだから、同様の兵種じゃないと参考にならないよ?
で、その山崎どんは槍しか装備してなかったの?
サブウェポンとして大小を帯びているのは常識だし、騎馬武者は基本的に太刀装備だよ?
そしてその描写の参考文献はナニ?
>>163 大振り(尺が長い)なら比例して重くなるのは当然。
当時の蛤刃でも現代刀でも長さ以外で大幅な差異はない。
ちなみに自分が振り回したのは二尺五寸から九寸の物。
>>168 いや、俺は167がはじめてのレスなのだがw
それで、それほどの重さがあったとして、
何で騎馬からの攻撃が出来ないということになるんだ?
4、5キロだったら訓練でまかなえる範囲内だと思うんだが?
>>169 全体的なイメージとしては騎馬武者+従者・郎党が2,3人つくような感じ。
巧妙が辻の司馬版(またつっこみがはいりそうだが、山内が郎党ひきつれて馬用意して
親戚や若者を数人つれておっちらこっちら幾イメージ)
でも一豊自身、基本的には郎党単位での活動で集団戦なんか小説みているかぎり
してないっしょ。ああいうのが大半
>>168 4,5`なんてあるわけないだろw
大太刀だって徒歩でも両手でしか使えないってのに
>>170 162じゃないが…。
山崎新平ってのは、センゴクって漫画で、
浅井家重臣磯野丹波(だっけ?)の配下の一人として描かれてる。
軍略、戦闘力ともに優れた優秀な武者として。
で、姉川の合戦の作戦を山崎が事実上作案、
これにしたがって浅井・朝倉連合軍は動き、
まず第一陣指揮官の山崎が騎馬で先頭突撃、敵を壊乱させて、
織田方を壊滅し様としたが、
漫画の主人公仙石に逆に討ち取られて、浅井・朝倉壊乱、あぼーんという話。
ちなみに山崎新平というキャラが書かれてるのは、
仙石家の家中の書物にあるだけで、ここまで具体的な活躍を記したものはない。
おそらくは作者が大幅に脚色を加えたキャラクター。
>>173 なるほど。サンクス。
もう一つ教えて欲しいんだけど、
その騎馬の従者は、歩兵と考えていいのかな?
もしくはただの従者で、歩兵は別にいると考える?
>>176 あまり、その区別はないんじゃない?フロイスも、日本の軍隊は統制がとれてないつうてるし。
>>176 司馬の作品については批判が多いが、郎党といっても役割分担はしているでしょ。
だいぶ前によんだので詳細わすれたが、三人ぐらいが雑務と戦闘兼務していたはず。
出世するに従ってかわっていくだろうけど、当時の織田家の●人扶持の実態を
反映しているんじゃね?
刀は2キロもあれば重量として十分、その重さで斬れる。
>>177 いや、ここは重要と思うよ
センゴク作者がよく使う甲陽軍鑑の記述を基にすると、
馬から多くは下りるが、それでも1000人に7、8人の騎馬武者がいる事になる。
すると125人に1人の割合で騎馬武者がいるわけだ。
で、上にある北条家の騎馬隊の構成を考えると、
この125人の中で鑓・鉄砲・弓隊がそれぞれ編成されていて、
これが歩兵部隊とは別に騎馬の指揮の元攻撃する事になる。
もしあなたの言う2.3人が歩兵と考えると騎馬武者の率は圧倒的に膨れてしまい、
それこそ「騎馬軍団」に成りかねないとおもうのよ。
その2、3人が非戦闘員の従者なら別に問題はないんだけど。
刀剣類の発達と言う経緯からすると、
直剣→曲刀
金属鍛錬技術の上昇で、刀身を薄くしても折れなくなったので、突いたり叩き切る用途の直剣から
断ち切る曲刀が発生した。
当然のことながら直剣と比べて曲刀の方が軽く扱いやすく、また斬撃に関して効果的であった。
直剣が切ることに向いていないのではなくて、曲刀の方が直剣より切ることに関して優れていると言うだけの話。
でも、なんか日本なんて、昔から湿地帯多くて草木ぼうぼうで平野gない。灌漑設備などが
なかっただろうからよけいにそうで、どうも騎馬が動き回るってイメージが全然湧かない。
>>182 日本全土が湿地帯で草ぼうぼうというわけでもない。
仮に草ぼうぼうとしても、
ジャングルのようになっているわけでもない。
日本は平野が少ないから騎馬武者はいない、というのは少し極論のような気がする。
>>173 あなたの否定する「騎馬隊・騎馬突撃」ってのはどういう感じのものなんですか?
>>184 洒落じゃないが、槍でやりあってるのが目立つな。
槍のあるところ馬は飛びこめんだろ。
>>187 逆に鑓持った騎馬武者が追撃している場面も見られるけどね
この当時は鑓隊が一番多かった
超長槍を使用したアレクサンドロスのマケドニア式ファランクスも
騎兵と弓矢に優れた対ペルシア軍のために、考案されたと聞いた。
すなわち槍ぶすまで馬をおどし、隊形のうしろにいる奴が長槍を
前にいる奴の上にかざし、矢の襲来をふせぐという。
>>184 それ見て思うのは、
・「騎馬軍団」は書かれていない。
・歩兵と一緒に戦っている騎馬武者はいる。
・ほとんどの武器が鑓
・思ったより騎馬武者が多い。
>>180 それはどうかなあ。
いざ鎌倉で有名な老武者だと単独で駆けつけている例もあるし
(まあ創作だろうし、極端な例だが、下隅み時代の一豊や秀吉も
まず兄弟や一族、女房の縁者にまでこえかけるわけ。
そういう下級将校と武田のような豪族連合体のようなところとでは
そろえられる武者もちがってくる。
ましてや木曽は馬の産地だし、馬の価格も質も違う罠。
ようは階層や動員できる郎党もピンからキリまであって
一概にいえないということ。
>>190 当時の武田・上杉ならではの動員力という気もするが。
総力戦だからかき集められるだけあつめたから
国人から譜代までオールスターせいぞろいで普段の
合戦は武田・上杉といえどもここまでやれてないんでわ
>>191 だけど武田って北条とかと比べても騎馬の比率は変わらないんだけど?
むしろ少ないくらい。
戦時、騎馬1騎に125人の歩兵だよ?
仮に1000人に7、8人が騎馬がいるのが騎馬隊だとしても、
ほとんどは歩兵なわけだ。
あなたのいうような「騎馬1人に従者2、3人」は考えにくいんだけど。
それに下級将校になればなるほどほとんどは下馬してたと思うよ。
甲陽軍鑑の記述によれば、名のあるものにしか騎乗は許されてないんだしね。
>>131 自分の言いたかった事をここまで上手に説明してくれるとは。
>>192 いや、普通国人から譜代までオールスターになるのが合戦だろ。
>>193 また漫画の話になってしまうが、漫画版前田慶次で、松風との出会いが
関東の野生馬狩りを北条ががやっている描写あったぞ。
当時の関東は江戸期のイメージじゃなくて原野だらけで野生馬の繁殖地も
そこらじゅうにあったよ。
>>196 一つ聞くけど、「武田騎馬隊」に付いてどういうイメージをお持ちで?
他家よりも騎乗率の高い部隊というイメージがある?
>>195 わしはこのスレから誘導されてやってきたが、
本当は平和だった戦国時代
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1033130728/ 10 名前: 投稿日:02/09/27 22:49
だから永禄の川中島の戦いでの損耗率に
後世の軍事関係者が驚いているんだよ
あれ戦国の戦死者の常識からすると戦死者が
すごすぎるんだが。
関ヶ原のような規模の戦いで三千人なんだぜ?
11 名前:山野野衾 ◆NDQJtGoM 投稿日:02/09/27 22:49
>9
関が原の合戦ですら一説によれば東西両軍の死者が合わせて3000人
余り。ほとんどその場で死なずに総崩れになったという事ですか。
同列にするには無理がありすぎるというか、
総力戦なイメージがあるんだが。
>>198 川中島が総力戦というのは同意だけど、
各合戦に兵数の差があるとは言え、基本的に兵団の構成は変わらんだろ。
>>198 川中島特別と言うなら前スレの図屏風ヲタに言ってやってくれ。
あいつは
>>184の川中島の図屏風もとに、
「これは史料性が高い。だからみんな馬から下馬して戦ったんだ。ウヒャヒャーwww」
って煽りまくってたんだ。
人それぞれ解釈の仕方があるものだなあ。
関ヶ原のような規模の戦いで死者が三千人というのは間違いの?
数万人が刃物を使って丸一日戦ってたったの三千人しか死んでないのは幾らなんでも少なすぎる気が。
>>201 西軍の大半は日和見して戦ってないしね。
動員された兵力と実際に戦ってた兵力が異なるので、ここが重要。
けどけが人は多かったはずだよ
>>200 全スレの内容しらんし、●持ちでないからわかりません。
このスレしかみてないんでね。
せまい日本で本気で殺しあってたらタイヘンなことになるでしょッ
関が原は、京の町人がお弁当持参で見に行った記録があるぞ。
>>205 俺はまだみてない。
そもそもクリックしてない。
>>207 正直ムカツクだけのレスなんで、無理してみる価値はない。
長文ばっか書くやつだが、要約は上にある否定派の主張のとおり。
知識はあるが、人間的には大いに問題のあるやつだった。
>>207 過去レスくらいは読んでから議論しような。
過去スレ見ずとも、少なくともこのスレでどういう流れでレスされてるかくらいは読んでくれ。
>>208 今クリックしたら見ることが出来なかった。
>>211 過去スレに落ちてるわ。
で、話戻すが、
あなたの想定する騎馬武者が、
2、3人の従者を従えたものというのはわかった。
じゃあ、逆にあなたの“否定する”「騎馬武者突撃」「騎馬隊」を教えてくれんか。
どういう騎馬隊がありえず、どういう騎馬突撃がありえない、と思うんだ?
・絶対にないもの→正面突撃、たとrば古典的な長篠の戦いのような解釈ね。
・階層によって騎馬武者の働きがちがう。
ありえるものたとえば武田・上杉のような将校クラス軒端武者
側面、背面からの敵陣くずし、敵陣に縦深をしかけるとかそういうのはある。
ただしよほど上の連中できないし、状況によって従者がつくつかないなど
その辺は戦場の現況次第で変わる。
合戦によってやるとき、やらないときが当然あるだろうな
・階層がしたの連中、秀吉や一豊みたいに郎党あつめて戦働きする連中は当初はそれ自体が
一単位になって活動。 まあ雑兵に毛が生えたような物。
次第に認められて正式に軍制にとりこまれて上にいく
普段は農業、戦働きのどきだけ出て行く事が大半でそれほど陣を崩してとかまだそこまで考えない。
次第に上にいくにつれて駄馬が良馬になり、権限もひろがるこんな感じかな
>>213 ・絶対にないもの→正面突撃、たとrば古典的な長篠の戦いのような解釈ね。
これは肯定派も否定的。
・階層によって騎馬武者の働きがちがう。
あなたこのことにかなりこだわりもってるね。
どうしてそこにこだわるのか理由を教えてもらえない?
なんか史料に記述でもあるのかな?
>側面、背面からの敵陣くずし、敵陣に縦深をしかけるとかそういうのはある。
肯定派が主張する騎馬攻撃はこういうもの。
>ただしよほど上の連中できないし、状況によって従者がつくつかないなど
これもそう思う理由を教えて欲しい。
>その辺は戦場の現況次第で変わる。
肯定派も騎馬による攻撃は相手の状況を見極めて、と考えている。
無謀な攻撃には否定的。
・階層がしたの連中、秀吉や一豊みたいに郎党あつめて戦働きする連中は当初はそれ自体が
一単位になって活動。 まあ雑兵に毛が生えたような物。
次第に認められて正式に軍制にとりこまれて上にいく
普段は農業、戦働きのどきだけ出て行く事が大半でそれほど陣を崩してとかまだそこまで考えない。
次第に上にいくにつれて駄馬が良馬になり、権限もひろがるこんな感じかな
この下の連中というのは家臣の中で最下層ということでいいのかな?
あともう一つ。
これは自分だけかもしれないが、
「騎馬隊」と言うのは、数人の騎馬武者が、
多くの歩兵(鑓・弓・鉄砲)を従えて攻撃するものと考えているけど、
そういう「騎馬隊」はないと考える?
戦国時代の備は大体、一つが300〜500名(非戦闘員含む)で構成されており、
これを何個も組み合わせて軍勢を形成している。
こういうのを西欧人が見れば「統制が取れてない」と見えるのもアリかも
実際、統制を取りにくくはあろうが、状況の変化に即座に対応できる、機動力が
高い点も考えると一長一短だなとは思う。
ちなみに大名の基準が一万石なのはこの辺から来てるのではないかと。
どうしてそこにこだわるのか理由を教えてもらえない?
>
戦国も中期を過ぎると歩兵中心の戦闘になる。
まずつぶて、弓矢で敵陣たたくわな、次に槍がくるわな、
で、ある程度陣くずれたらそこに突入するという段取りだろうけど
そういう段階で突入する連中ってかなり上の人でないと無理でしょ。
頃は良しと独断で突入して陣崩しするわけだから。
郎党ひきつれて何処の馬の骨ともしれない頃にそんなのやらせる訳ないし
ただしよほど上の連中できないし、状況によって従者がつくつかないなど
>
縦深攻撃かけるわけだから、速度おそい徒連れて行けば敵陣をくずす意味が
ないでしょ。
それよりは将校が先駆けて戦線に穴あけた後に郎党単位でなくまとまった
足軽を集中して入れた方が効果ある。
>>217 このスレの騎馬肯定派と意見の違いがあるようには見えんのだが
>>215 それでは騎兵の長所である速度と一瞬の突進力が生かせない。
>>220 >それでは騎兵の長所である速度と一瞬の突進力が生かせない。
なんで?
騎馬が従える歩兵のサポート受けながらの突進は十分ありっしょ。
この下の連中というのは家臣の中で最下層ということでいいのかな?
>
主君との関係が直接つながっている武者なんてそう多くないんじゃないか。
国人、在地領主など立場がいろいろ分かれているけど、
当初は百姓に毛が生えたのが、俺も士分になりたいと明確に志向して
上にいった織田家中の秀吉や山内なんてかなりの勝ち組で
大半は上にいけないがそのかわりバイト感覚で、後背常ならぬ存在だったんじゃね?
↓こんなかんじだったそうだし。
本当は平和だった戦国時代
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1033130728/ 120 名前:日本@名無史さん 投稿日:03/07/30 15:47
戦国時代の戦争はそのほとんどが
戦場に集まって「えい、えい、おー!」とか気勢を上げてただけで
実際の戦闘行為は小競り合いすらおこなわずに
講和を結んで引き上げた罠。
だから人間が死ぬことなんて本当にごく稀。
当時の戦争なんてちょっと危険なお祭り以下です。
145 名前:日本@名無史さん 投稿日:03/09/22 19:44
この時代も、戦争は合理的にしていたのでは。
農繁期が済んでから、戦争していたとか。
刈り入れも終わって、今より優れていると思う。
>>221 歩兵と一緒に動くってことは、歩兵の速度に合わせなければならない。
馬に乗るメリットは速度だから、速度を落としては馬に乗る意味がない。
おそらく、あなたの想定しているのは1つの軍の中に騎馬の部隊と歩兵の部隊
があるって状況でしょ。
>>220の言っているのは、文字どおり馬の横に歩兵がくっついて一緒に動くって状態。
ちなみに騎馬武者はいても騎馬武者だけを集めた「騎馬隊」はいないってのが
今のとこの流れではあるまいか。
黒澤の「影武者」で武田軍団の風林火山の「林」の部隊(歩兵部隊)が
突撃するとき、先頭の指揮者が馬に乗ってて、最初はみんな歩いているのに
突撃合図で全員走り出すんだけど、ありゃ、絶対ついていけないと思った。
ちなみに、その「林」の部隊は突撃前、後列半分が90度向きを変えて密集歩兵隊の隙間を
埋めるという動きをするのだが、これ、「ローマの戦術」みたいな古い本に載ってたそのままだった。
歩兵と騎兵をごっちゃにして投入なんて世界史を見てもあまり例は無いね。
中世ヨーロッパでも動員は騎士と従者などのランスを基準にしてるけど
戦闘時は騎兵と歩兵はそれぞれ別々に集められて配置されてるし。
影武者の武田の戦い方ってのは、
「風林火山」に準えられていて、
疾風の如く騎馬隊が突っ込んで、
林の如く静かに歩兵が切り込み、
炎のように騎馬隊が突っ込み、
山の如く御屋形様の本陣は動かない、と
つか影武者の突っ込みどころって他にもあって、
城攻めシーンは鉄砲が飛び交う近代戦の様相呈してるし、
信玄は諏訪法主の兜被ってないし、
信長の城はどう見ても姫路城だし、
山県はなぜかじいさんだし、
なぜか森蘭丸がもういるし…
と色々ある。
映画としてはそこそこ面白かったし、
数々の突っ込みどころは黒澤流の「娯楽風の脚色」だったのかもしれないけど、
史実の詰め込みが甘い、と批判されるのは止むを得ないだろうね
>>225 中世ヨーロッパの騎馬隊の構成はどういう風になってたん?
>>226 ま、黒澤は確信犯だけどね。
「こんな大きな城門なんかありませんよ」とか「ボクは論理的な人間じゃないですから」とか
平気で言うし。
>>228 七人の侍でも遊びいれてるよね
つかフィクションなんで、面白ければそれでいいんだけどね。
>>227 中世ヨーロッパといっても時期や地方によって大きく異なるから一括りにはできないけど
例として
1298年ファルカークの戦い(イングランドvsスコットランド)では
優勢なイングランド側は歩兵と長弓兵を中央に置き両翼に重装騎兵を配置。
中央歩兵、両翼騎兵という基本中の基本の陣形。
スコットランド側は歩兵の密集隊を三つ中央に置き両翼に射手を配置。騎兵は後方に集中して配置。
これをみてわかると思うけど部隊としては騎兵と歩兵は分離されている。
因みにイングランドの両翼の重装騎兵は単独で突撃しスコットランド側の両翼射手と
後方の騎兵を一掃して歩兵に攻撃を加えたが長槍の密集隊は崩せず、長弓による攻撃で壊滅させた。
>>230 けどヨーロッパはヨーロッパ、日本は日本やからね
ここを間違えられぬよう
>>231 いやわかってるよ。227に返事しただけだから。日本で上記のように戦っていたとは思ってない。
ただ、日本と似た封建制の中世ヨーロッパでも騎兵、歩兵が分離されてたのに日本ではなぜされなかったのかなという素朴な疑問はもってる。
>>230 その歩兵は騎士の従者であったとは考えるのは早計かと
例えば王による傭兵や徴募兵とは考えられないか?
>>232 日本は組織、階級だてて軍隊構成しないからでしょ。
なんか、向こうの中世、古代の軍隊って、全体がひとつの生き物みたいに動いてる感じがす。
>>233 この頃のイングランドの軍制から歩兵隊、特に長弓兵に関してはほぼ傭兵や徴募兵だったと考えられる。
いい指摘ですね。
従者は恐らく騎兵隊のほうに編入されていると思う。
実は重装騎兵というのは騎士ばかりでなく、従騎士や従者も装甲兵として戦っていた。
15世紀になると装甲兵のうち、騎士は全体の5〜10%程度であとは従騎士や従者、ジェントリー階級が占めていた。
13世紀では重装騎兵の何割を騎士が占めているかわからないがそれほど高くはなかったと考えられる。
中世ヨーロッパの重装騎兵には当然支援の兵士がついてるよ
その比率は日本より少なかったけど、支援の兵士の方が騎馬兵より多い
突撃準備までは支援兵というか従者も行動を共にして、突撃発起位置から分離
>>236 具体的にどの戦いでそういうことが行われていたかわかる?
いろいろな戦いの陣形を見ても歩兵と騎兵が一緒になってるのはそれこそ12にある2例しか見たことが無い。
騎兵が馬から下りて重歩兵として他の歩兵と一緒になってる例はかなりあるけど。
だんだんスレ違いになってきた○| ̄|_
>234
ヨーロッパの軍制はローマ軍のものを継承していて、
それ以外の軍のあり様を見ると、まったく統制が取れていないように見えるんだわ。
基本的に、戦いたくない人たちを規律で統制することで維持すると言う形だから、
統制取れていない=直ぐに崩壊する、と見なすんだわ。
中東の奴隷戦士であるマムルークやイェニチェリ達を見て「あんな統制の取れていない兵が役に立つのか」といった話が有る。
中東の奴隷戦士たちはある種の義侠心と
*非イスラム系の農民から買い取られて戦士としての教育を受ける。
*普通の暮らしをしていては到底受けられない教育と各種武装(奴隷に馬を与えるのはヨーロッパでは考えられない)を与えられる。
*このため主人に対して強い忠誠心を持つ。
戦士としてのプライドが、士気を支えるのでガッチリした統制を必要としていないのよ。
彼らは職能集団として自立的に戦闘するんだわ。なのでとても強い。
戦国時代の軍隊はどうなのかなぁ?
中世騎士が出仕するときの標準編成見て文献探ればすぐわかること<支援兵のほうが多い
騎士=徒弟というか支援兵は、固有の主従関係で一体として運用される
中世は兵站が貧弱だから、自前である程度の補給品を携行しなきゃならない
絵になるのは見栄えが良いとこだけだから、乗るわけない
じゃんと文章を読みましょう
疑問に思ったら図書館へ
>>239 それはランスとして動員されるとき。ここで言っているのは戦場での編成。
>>絵になるのは見栄えが良いとこだけだから、乗るわけない
じゃんと文章を読みましょう
一体何を言ってるんだ?文献を読んで戦場では騎兵と歩兵が分離されていると言っているんだが?
戦国期の日本で、騎馬武者だけ集めて「騎馬隊」をつくるとまずいのは、
えらい人が馬に乗り、その部下が徒歩というシステムにもある。
徒歩で歩く兵達はそれぞれの主人を持っていて、そいつの命令しかきかない。
例え、主人の主人であっても、報酬をだすのは自分の主人であって、主人の
主人ではないからだ。
もし、歩兵の主人たる騎馬武者を一箇所に集めてしまえば、誰も命令できない
たくさんの歩兵が余ることになる。
軍隊が複数の独立勢力の集まりである戦国期では、騎馬「隊」は難しいと思うよ。
さんざん挙がっている、敗走する敵の追撃や奇襲目的といった例外的なケース以外では。
>241
そのへんを何とかしようと中央集権化を進めたのが信長でな。
まぁ、中途半端なことになってしまっているんだけど、ある程度兵科ごとのユニットを作ることに成功してはいる。
あと、イロイロ工夫している武将もいてな。
本来馬は武将が自前で準備するものなのだけど(100石取り以上)、主君が貸し与えると言う形で、
直属の騎馬隊を形成するということをやっているものもいたりする。
まぁ、だだしあくまで軍団を構成する最大単位である「備」の中でまでなんじゃなぁ。
二千人規模の備であれば百騎程度の騎兵部隊を形成できる。で、まぁそこまで。
それ以上の騎兵部隊は編制上存在し得ないんじゃな。
騎兵に限らず、槍や鉄砲、弓隊も同様。同一兵科の隊は「組」が上限。
備ごと丸々同一兵科と言うのはありえない。幕末にヨーロッパ式の編制を取り入れるまではね。
と言うわけで、古代から近世にかけての騎馬民族のような、
もしくは西洋の近世以降に登場する「大規模な騎兵部隊はあるのか?」
というとノーという答えになる。
243 :
名無し三等兵:2006/05/17(水) 17:04:47 ID:/TtNRVsY
今日はセンゴク厨いないのか
「よく分かりやすい戦国時代」みたいな感じの本を本屋でちらりと見たが
「武田騎馬隊を鉄砲三段撃ちで破った」と書いててあきれた。
そのシリーズの太平洋戦争ではミッドゥェーの魔の五分間と書いてたし…。
>>244 そーいうの見ると、漏れも厨房好みの通説ばかり書いた奴をコンビニ本部に
売り込めば需要あるんだろうかと思いたくなる。
246 :
名無し三等兵:2006/05/17(水) 19:33:12 ID:XxxvTkE0
>>244 まあ学校の教科書もずっとそのままだしね。
有名な武田信玄の絵も信玄とは別人ってのが定説だし探せばいくらでもあるけど。
歴史好きとしては南京大虐殺がどうのよりそっちの方を直してもらいたい。
>>242 信長はハンパに職業軍人つくろうとして、かえって傭兵だらけの弱小軍団
つくってしまった感があるなぁ。
自分の金で雇った傭兵だから融通が利くのはいいが、傭兵の常として士気が
低く弱い。
信長が絡んだ野戦って、ほとんど徳川隊が勝利をきめているイメージがある。
そういったイマイチな軍隊でびびらして、戦略の段階で勝利をおさめるのが
彼の真骨頂なのだろうけど。
つ勝てば官軍。
>>242 ごめん、その辺もう少し詳しく教えて欲しいんだけど…
つか基本事項の確認がほとんどだけど
まず軍団構成の最大単位である「備」だけど、これはよく言われるような、
「武田軍山県昌景勢兵4000(数字は適当)」
とかを指すものと考えていいの?
で、その備の中には「鉄砲」「弓」「鑓」「騎馬」などの「組」があって、
それぞれを備を率いる武将の配下の組頭が指揮、攻撃するものと考えていいのですかね?
(つづき)
そして、それぞれの備には小山田勢のような「石投げ」など遠戦を得意としたり、
鑓での白兵戦を得意とするような、何らかの特色があって、
これら各備を大名が上手く采配して合戦を進める、と。
例えば「馬場美濃守から行け」と信玄から指揮があったとしたら、
馬場美濃の中の「鉄砲」や「弓」が先に攻撃して、
そのあとに「鑓」組が攻撃、
そして敵の状況を見て歩兵混在の騎馬組も攻撃を開始するような感じで。
(戦い方も史実にあっているかはこの際置いておいて。これはあくまで例として)
ただしこれはあくまで備の中の話に限られる、と。
なぜなら備の中の者たちは皆、
備を率いる武将(もしくはその武将の配下の組頭など)に、
雇われているのであって、
大名が直接統治しているのではないので、
例えば小山田信茂勢の石投げ部隊と
高坂弾正の石投げ部隊が一緒になって一つの石投げ部隊を混成するのはありえない、と。
つまり単一兵科の「組」のような「備」はありえない、と。
こういう理解でいいのかな?
ちなみにこういう軍団構成の勉強について参考になる本で、
いい本ってどんなのがありますか?
ちょっと詳しく調べてみたいので…。
しかし随分とややこしい物だな。
だからこそ面白いのさ( ̄ー ̄)ニヤリッ
254 :
名無し三等兵:2006/05/18(木) 19:31:30 ID:HAg43l2Y
>>247 織田の兵が弱いのはよく言われるけど季節に関係なく攻め込めるメリットが大きいのでは。
美濃攻めなんか負けても何度も攻め込み美濃側が負担に耐え切れず有力武将などが
寝返ってきた。対浅井戦もそうだね。
上杉の関東方面なんて出稼ぎそのまま。
織田の兵は確かに追撃の時だけやたら強いという評判があるようだが
そもそも織田は城攻めとかでも強攻ばっかだし失敗する確立も高かろうよ。
単に見切りが早いだけじゃないのかなあ。
あえなく諦めて素早く撤退する代わりに決定的戦果も多く勝ち取ってるわけだし。
前線指揮じゃないが信長自身は戦国時代でも屈指の猛将で
最前線まで顔を見せる分、引き際の指示も早かったんじゃないか。
そういえば信長はある程度の騎馬隊もってたような。
戦国時代の軍馬は気性が荒い馬程名馬というのもあったな。
>そういえば信長はある程度の騎馬隊もってたような。
このスレとしてはそういうのを詳しく知りたいんだけど
257 :
名無し三等兵:2006/05/21(日) 09:30:59 ID:jD3nMNb5
クレしん(ry
>255ではないけど
宇佐山攻防戦の際に、摂津から信長馬廻が支援に急行(道家兄弟ら)している…大した数ではないけど。
宇佐山守備隊が坂本のラインで壊滅後(一部放火されたが宇佐山城は堅守に成功)、翌日には摂津を撤した信長軍が
到着、浅井朝倉軍は比叡山山麓に退去。
宇佐山本来の守備隊(規模的に数百人しか収容出来ない)+騎乗者の急行後詰=1000前後(坂本表での壊滅した戦力)
だった様に思われるのだが…どうだろう。
そもそも、織田軍が(数の割に)弱い、徳川軍が強いってのも後世(江戸時代)の神話だと聞いたことがあるけど。
姉川の合戦の通説(少数の浅井勢に押されて苦戦している織田軍を、多数の朝倉軍を破った徳川軍が
側面から支援したから勝てた)とは違う話が伝わっているという話をどっかで読んだ。
ソースを示せずに申し訳ないけど。
>姉川の合戦の通説
俺もこれは徳川時代に作られたって話をなんかで読んだ記憶がある。
金ヶ崎の退き口における家康の働きも同様らしいが・・・。
そのソースはまさかセンゴクじゃあるまいな
センゴクもそれに噛みつくアホもうざい
>>260 その時期の徳川家は(東国大名の)国人の結束力と(織田家の様な)常駐軍整備といった
双方の特徴を兼ね揃えていたから強いと言われる理由はある
>>261 ついこの前まで三河一向一揆相手と手を組んで反抗した国人相手に国内で戦争やってたのに
そこまで戦力整備できているのかな?
織田家のような常駐軍整備ってのも尾張ほど経済力がない三河で同じシステムが機能したの?
織田がコンサルタント派遣してやり方教えてくれるわけでもなかろうし。
私個人は信長の常駐軍(兵農分離の先駆けって程度の捉え方)あまり効果があったとは考えていないんだけど。
領地からの収入は一定なわけだから、常駐軍を大規模に整備するとしたら土着していた地侍を
帰農させないと無理じゃないです?占領した美濃や近江を見てもそこまで極端なことはやってないと思うけど。
地侍+(やり繰りして)常駐軍を整備するってのは他の戦国大名もやってたことだから、信長の勢力が伸張して
圧倒的な国力差(これをもとに大規模な常駐軍や長期の包囲が可能)が生じてないこの当時は
そこまでのアドバンテージはないと思います。
>>264 三河一向一揆の鎮圧により本願寺の利権を収奪した事により
家康は旗本先手備という常駐軍の整備が可能となった。
常駐軍の利点は陣触れの手間が省け即応体制が向上すること
常に出陣できる兵数を把握できる事
城下に常駐する為、知行は大名が奉行や郡代を通じて統治する
ことになり結果、統制が向上する等があげられる。
>>265 旗本先手備って遠江の占領軍として派遣(家康自身も浜松に前進しているけど)
しているから三河の個々の領地から離れて生活しているだけではないのですか?
三河の支配体制(信康・酒井・石川ら旗頭と各地の国人領主の関係)も従来の形態から変わったの?
一向寺院と関係者の所領没収 -> 徳川家の直轄領へ -> 直属の旗本・足軽の増強という形は理解できるけど、
個々の国人領主の領地に対する徳川家の統制も強化されたのですか?
もしそうなら江戸時代の旗本領地に対する統制より強いと思うのですが
(天領の代官が旗本領地を統治したわけではない)
いつどういう事情で政策の後退が起こったと思われます?
旗本先手備は三河統一戦時に編制され初期は岡崎城下に常在していました。
三河の支配体制は家康の旗本先手備を含む旗本衆と別に重臣譜代酒井忠次の東三河衆、
石川数正の東三河衆に与力として旗本を付け、さらに国人衆・他の松平氏(後に譜代化)を
隷下に置く事で統制をしていました。
奉行・郡代はあくまで管理であり、その点は江戸時代と変わりはないかと
昔読んだ武田信玄のとある小説だったかに
信玄が晴信だった頃に馬を使うのが得意な小集落の勢力を
家臣に加えて数十騎の騎馬集団を運用するって言うくだりがあったんだけれど
その騎馬隊の戦い方が、短い片手槍で敵を一突きして離脱、というのを
繰り返す一撃離脱戦法だったんだけれどこれは刀を片手で振って
一撃離脱するという上の方の書き込みと比べて現実性というか妥当性はどんなものなの?
ちなみにこの小説では騎馬隊は大体一撃離脱を行うものとして以降の描写が統一されてた。
>>268 戦列を組む長柄足軽相手には、どう考えても通用しないな
小規模な合戦や散兵相手ならともかく、大規模な合戦では使い物にならないと
>>268 この場合、槍は使い捨て(つまり投げやり)なんじゃないの?
これだと、陽動や後方・側面の攪乱としては効果ありそう
正面で長柄足軽どうしで隊列組んでたたき合ってるときに
数十騎で、側面や背後から奇襲・一撃離脱ってのは
騎馬隊の運用方法としては正しいと思うし
日本の戦国時代でも数十騎の集団運用なら可能だろう
騎乗しての槍の操作となると、突進しての突きが最も効果的でしょうしね。
はっきりとはしないけど、郎党に何本も槍を持たせてそのつど使用していたなんて読んだ記憶があるのだが。
272 :
名無し三等兵:2006/05/25(木) 02:08:34 ID:cxIeANl/
風鈴貸さん
日本で槍を投げるのは犬槍と言われて忌避されていたらしいが
>>274 でも「忌避される=戦場で使えない」とは言えないからね
槍を作るのは決して簡単ではないから、「それだったら、せめて弓矢を使え」って事なのでは
>>275 そらまあ戦場で絶対に使われないと証明はできませんな
悪魔の証明だし
むしろ、投げ槍が使われたという証明こそ必要では?
>>275 しかし
>>274で戦術として使われていなかった証明にはなるような…
まさか忌避されてることをいちいち訓練すまいし。
江戸時代の話しだしな<犬槍
戦国期にどうだったかはわからん
騎馬軍団のイメージ形成は旧陸軍が戦史研究やった時の影響が大きいと聞いたことがある。
当時の軍事知識で過去の戦史を研究したので騎馬=騎兵隊みたいな感じで
研究結果をしてしまったみたいなかんじで。
んー、投擲専用の槍が使用されたという話は聞いたことが無いなー。
騎兵で槍もって突撃した場合は、やりは使い捨てになると思うよ。
駆け抜けながら、刺さったのを抜くなんてのは出来ないからね。
前田利家は十文字鎌槍というのを使っていたそうな。
現存している前田家の武具にもあるし。
桶狭間の奇襲説はもともと江戸時代の戦記物語の作り話だったが陸軍が戦史研究でこれを史実としたと聞いた。
しかしまともな資料を集めたはずであろう軍事のプロがそんなミスをやらかすものか?
>>281 軍事のプロがミスをやらかした例は、古今東西至る所に転がっています
軍事のプロがやった戦史を基にした作戦→ジンギスカン作戦
籠鑓拵の鑓二筋、片方が寛文新刀期、もう一方は慶長年間のもの(三角身、血抜き付)を持ってるんだが、
以前試しに段ボールに投擲してみた経験では、1間(1.82m)〜1間半(2.73)ならアンダースロー・助走無しで
寛文新刀=1枚貫通・2枚目へこませ、慶長物=2枚半を貫通。共に突き立ったが、寛文物は柄の重量で落下。
慶長物も助走無し・鐘木徒士立では3間で1枚が「穂先が突き破る」限度だった(寛文物は2間)。
慶長物は(所有品本体の特徴なのかも知れないが)エッジや角度自体「投擲も想定した造り」…かも知れない。
素鑓なので抜き易く、騎走してアンダースローすればかなり有効な気がする…。
中国では拵え含め80cm程度の鎗を”標鎗”として、投擲用に携行した例が魏晋南北朝頃〜南宋に掛けて
散見。ローマ歩兵のピルムより短いが、まあ2〜3本の携行なら負担にならないかも。そうした記録は知
らないが。管鑓では鑓を引き戻すための革紐も使うし、徒士で至近距離投擲なら回収も可だが…
その距離と、徒士なら突いた方がハヤス。
>>281 明治時代は史料の発掘と選別が始まったばかりの時代だったから
何がまともな史料かがよくわからず、まともじゃない史料の記述を
採用してしまったってところだと思う
資料作成者が変な思い入れを持っていたのならわかりやすいのでは。
学園島の地図はこっちがいい
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>>286 西洋軍事視点で論じたのでその意に沿うような記述を重視したという
考えもあるかと
当時の鉄砲の戦法はどのようなバリエーションがあったのだろう?
砲術でいう「一斉放ち」で斉射か、分散して配備されていれば
各自ばらばらに狙いを定めて撃っていたのが一般的なのだろうが。
二段撃ちは有名だが、その他の射法は何があるんだろう。
奥州諸藩の砲術では横隊もしくは斜行隊形で、前列から一人一人が順番に発砲し、
その間に再装填し射撃間のタイムラグを無くす「釣瓶撃ち」射法があるが、
実戦でも使用したのだろうか?
鉄砲隊は組頭(士分)、小頭・鉄砲放(足軽)で構成され、射撃号令は組頭・小頭
が命じるが照準は各足軽による狙撃が重視されていた。
狙撃重視のため、命中率に問題があったホイールロック式やフリントロック式のマスケット銃は
輸入はされていたが日本で広まらなかった。
雑賀衆は射手1名と装填主3名で4丁の銃を使って5秒に1発の間隔で射撃できたという。
脚本家の掲示板が燃え上がった例のドラマですか
297 :
名無し三等兵:2006/05/29(月) 21:46:26 ID:OJClkCk6
>>290 日本では基本的に欧州のように弾幕的な一斉射撃は行われなかったそうだが。
鉄砲隊にしても個々の兵が狙いを定めて狙撃していたらしい。
これは機械的な問題と日本人の気質がからんでいるんだろうけど。
>>298 297ではないが「雑兵物語」で鉄砲足軽が狙って撃つ心構えを説いた
場面アリ
>>300 同時に使える鉄砲数は4倍になる
こっちの方が面倒が少ない
三段撃ちとか流れ作業撃ちは面倒臭い
>>301 場合によるんじゃね?
射撃の名手には射撃に専念させるため、複数の銃を割り当てることは有り得るだろう。
平均的な兵士には一丁ずつ配備するとしても。
戦国時代の鉄砲は戦場でどんな使われ方をするもんです?
火縄銃は再装填に手間がかかりすぎるので野戦で敵を撃退する時に使うとかですかね。
城攻めでの防御側
まずは狙撃
高級指揮官と伝令兵が優先度の高い目標
集中配備して突撃破砕(建造物でスタックして密度増大&雨天でも使用可能)
野戦では、斜行隊形で両翼に配備されることが多い。
初期には各部隊に分散して配備されることが多かった。
装填時をサポートするため弓隊と併せて運用されている。
戦国後期以降はそれぞれの家中で集中運用されることが多かった。
中世ヨーロッパでも騎馬兵にいくつか歩兵がくっついていて一緒に突撃していた?
日本でみたいに
>>306 動員時はランス単位で編成されるので乗馬した騎士と徒歩の従者は存在するが
戦場では騎兵と歩兵は分離された。
ただし、騎兵が馬から下りた場合他の歩兵と一緒になることはあった。
>>中世ヨーロッパでも騎馬兵にいくつか歩兵がくっついていて一緒に突撃していた?
だからそんな事に何の意味があるんだ?
重装騎兵は自分だけじゃ鎧を装備できないし騎乗できないよ
突撃発起するまでは、ある程度の従者が必須
従者は基本的には非戦闘要員
>>309 まさか鎧が40kgや50kgあったと思ってるんじゃないだろうな・・・
1人で騎乗できるぞ
>>重装騎兵は自分だけじゃ鎧を装備できないし騎乗できないよ
こんな100年前の説を未だに信じてるとは...
どの道、従者は必要だけどね
何度も言うが戦闘時は一緒じゃないぞ
従者を戦闘要員として数えるからおかしな話になるわけで
徒歩で移動してるから歩兵って訳じゃないぞ
日本の場合は従者も前線で主人と一緒に行動する(状況如何ではしないこともある)。
日本随行記 米国出版
我々(米国記者)が東洋の神秘の国、日本に降り立った時に見たものは
今思い出しても驚きを感じ得ない出来事であった。
日本唯一の国際空港 narieta で我々が最初に見たものはハラキリと呼ばれる
日本の伝統芸能だった。
ハラキリとは日本人が仕事を ミス した時、その失敗の責任を取る時に行う
行為である。
富士山を背景とした空港内で日本のサラリーマン(メガネで出っ歯で首からカメラをぶら下げていた)が
その上司であるトノサマの前で白装束を着て、ハラキリの準備をしていた。
ハラキリの手伝いはもちろん日本のゲイシャである。
我々米国記者がチェックインの手続きをしている最中、黒装束のニンジャが空港内を飛び回っていた。
これも日本では良く目に付く風景である。
これは我々米国記者の日本怪聞録のほんの序盤であった。
http://www.youtube.com/watch?v=6LTu5H5abgI
騎士の従者が分離されて、歩兵部隊に組みこまれることはない
っていうかできない
従者を分離すると騎士が能力発揮できない
転用されても武装が無いし訓練もされていない
このスレで揉めてる原因として俺推測
現代は小銃さえ持たせれば使い捨ての兵力として機能する
戦国時代(連発銃なし)は集団戦術の前に個人は無力
ランチェスターの法則がマジに効いてくるですよ
どんなに強いやつでも、同時に殴れるのは一人
その間に後ろから殴れば良い
交戦距離が長くなると話しは違ってきますが
歩兵は縦深密集戦術をとることで後ろから殴られる恐れが無くなります
正面の相手に対しては防御さえしておけば、両隣の友軍が押し出して包囲殲滅
士気が低くても「防御さえしておけば勝つ」ということです(敵の密度より友軍の密度が高いのが前提)
だからこそ、負け戦で士気崩壊で崩れます
騎兵は圧倒的な移動速度ですから、横や後ろから敵の密度の低いところを襲撃可能です
俺専用従卒とか、飯炊き部隊、輜重部隊とか非戦闘部隊を叩かれたらどうします?
司令部は厚く守るでしょうが、非戦闘部隊を後方にさげる余裕ありますか?
それによって飯を絶てば、前線歩兵部隊が崩壊します
騎兵は単体の戦闘力は小さいです
交戦距離というか有効射程の延長と共に密集戦術や遊撃戦術というか騎兵の活躍の場はなくなっていきますね
あなたが刀、あるいは槍を持たされたとして戦闘準備にどれくらい掛かるでしょう
衣服だけではなく軽装であっても鎧を装備しなくてはなりません
上級指揮官から下級指揮官への伝達も時間かかります
配置はどこですか? 直接の指揮官の位置は? 指揮官と連絡できないときはどうすればよいですか?
前線にある=戦闘準備完了ではありません
>>318 従者を分離すると騎士が能力発揮できない
転用されても武装が無いし訓練もされていない
前スレのファルカークの戦い見た?
当時の会戦の陣形を見ても歩兵と騎兵は分離されている。
アルスーフの戦いなんかそう。
従者を分離すると騎士が能力発揮できないなんて一体どこからそんなことが出てきたんだ・・・
従者が突撃時についく意味無いよ
非戦闘要員なのに
突撃発起までは必要
騎士と言ってもたくさんあるんだよ。
例えば足軽と一緒に行動する騎馬武者は土地持ちの武士だよね。配下がいてその指揮をする。
基本的には部下とは分離できない。
もう一方で大名直属の騎馬武者がいる。馬廻衆だね。
こちらは大名直属なので騎馬武者だけによる部隊が編制できる。母衣衆とか言う奴ね。
彼らは武将達の次男や三男坊で土地ではなくて給金をもらって仕えているものが多い。
時代が下ると上のような編制は少なくなって、備ごとに馬廻衆がいるようになってある程度の兵科ごとの分離が可能になってくる。
騎士も同じで、封建制に基づく騎士の場合、連れている従者や従騎士、その他の兵達と分離するのは難しい。
一方で「騎士団」の場合は、騎士とその他の兵を分離することが出来る。
ただし、騎士団の場合、国王の臣下じゃなくて一種の職能組合みたいなものだったりする。
ここに騎士団の編制が乗っていたり
ttp://www4.plala.or.jp/kaseiken/kasei/at04.htm
>>324 メチャクチャだな・・・
まさか騎士団を出してくるとは思わなかった。
>>封建制に基づく騎士の場合、連れている従者や従騎士、その他の兵達と分離するのは難しい
中世ヨーロッパの会戦を知ってるのか?少しでも知っているなら騎兵と歩兵が分離されていることくらいわかるだろ
日本史の観点からしか西洋史を見れないのか?
平均的な武士は一村を領するのが基本と考えると、その軍役は一騎とその従者
他に足軽も動員するのは指揮官級ではないかと
>>328 >>325は、↓に対する反論なんだから、騎士と従者を分離するという意味になるぞ。
>>封建制に基づく騎士の場合、連れている従者や従騎士、その他の兵達と分離するのは難しい
>騎士と従者というよりも騎兵と歩兵
騎兵と歩兵の定義が不明なんだよ。
その騎兵とは騎士の事ではないのか? 従者を伴ってないのか?
その歩兵とは馬を持たない騎士の事か? 騎士の従者は歩兵に含まれないのか?
まず中世で注意しなければならないのは
騎士、従騎士=騎兵 従者=歩兵or非戦闘員
というわけではないこと。
騎士が歩兵として、従者などが騎兵として戦闘することもそれぞれある。
具体的に見ていくと15世紀のいわゆる装甲兵の内、騎士身分は5~10%程度で従騎士なども少数。
大半は騎士などの従者やジェントリー階級が占める。
この時期は中世も終わりに近いがそれ以前からこの傾向は続いており、1347年にエドワード3世が
カレー攻防戦で動員した装甲兵の内、騎士身分は20%程度。
次に、中世の会戦を見てみると大半が「騎兵」と「歩兵」は分離されている。
但し、上記のようにここで言う「騎兵」がすべて騎士であったわけではなく
また「歩兵」の中に騎士が含まれていなかったわけではない。
具体的な例を挙げると1415年のアザンクールの戦いではフランス軍は
第一線に徒歩の装甲兵8000、両翼に装甲騎兵1600を配置し、第二線には装甲兵6000と射手4000、
第三線には装甲騎兵8000以上を配置した。
この中には徒歩の騎士も乗馬した騎士も存在するため騎士と従者が完全に分離されたかはわからないが
騎兵と歩兵というカテゴリで分ければ分離はされている。
中世ヨーロッパ封建体制の戦闘で
【歩兵】といえば
下馬した騎士とその従者
馬を持っていない騎士とその従者
傭兵
【騎兵】といえば
騎乗した騎士(徒歩の従者を従える)
>325
まさかと思うけど…
君の知っている会戦に参加している騎士の中で土地持ちの騎士の割合がどれだけか知っているの?
土地を持たない騎士は思ったより多いんだよ?
彼らは普段から王に雇われているか、浪人(別口で収入源を持っている)で、戦があると参陣する騎士
または、騎士の職能ギルドである騎士団に所属していて、王の召集があれば参戦する(一種の傭兵)
それゆえに重騎兵(騎士)と重歩兵(馬に乗ってない騎士や従騎士)を分離することが可能だったんだよ。
王に個別で雇われているからね。
さらに一般の歩兵は王自ら召集する傭兵や農村からの召集兵なのでこれらも分離可能。
私は分離できないと入ってないよ?
「土地持ちの部下を引き連れた騎士」は部下と騎士を分離するのが「難しい」といったんだよ。
勝てばいい、と思っている人は割りと多いのかな?
形式に乗っ取り、名が立たぬなら勝っても意味ない
完全なる勝利でも形式的にダメなら評価されないってゆー
面子をもっとも重んじる
現代日本人には想像も出来ない偏屈な心ってやつを
分析に乗っけてくだされ。
このみょうちくりんな美意識に盾を突いたから
信長は勝てたのとちゃう?
>333
それ、あたらしめの武士のあり方。江戸期以降の士道じゃな。
現在知られている武士道って江戸末期から明治期にかけて、
ヨーロッパの騎士道を参考にして作られたっていう経緯があるからなぁ。
(飛び道具が卑怯というのも騎士道的ものの考え方)
武士は基本的に「勝ってナンボ」という考え方をする人達なのだ。
自分たちの事を「犬なみ」と言っているくらいなのだから。
勝ってナンボという考え方をする軍オタの住民は日本人の精神性を理解できない
アウトカースト。
336 :
名無し三等兵:2006/06/01(木) 19:48:44 ID:aRfFivF7
ってか、そう言う考えの奴が生き残るんじゃないの。
加藤清正が剣術の達人と試合をして負けたんだけど
その後、鎧を着て槍をもち俺のやり方はこうだとか言った逸話がある。
337 :
名無し三等兵:2006/06/01(木) 20:05:52 ID:V7vC/VBo
両方を採るのが軍オタだろう
交渉(時間稼ぎ)しながらも兜を脱がずに殴りあう準備を欠かさないのだ
かといって戦国期の武士が全く面子を重んじなかったとか
言ってしまうと極端すぎる話なんだけどね。
義とか忠誠とかも別に江戸期以降にいきなり生まれた概念ではないし。
「家」っていう発想がないと戦国〜江戸は理解できないよ
血族集団だからね
主家に依存する=主家が滅べば一緒に滅ぶ
そのバランスだから
>>333 ,.ィ'",ィ `' 、
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i.F‐'゙ `'ー‐',. l
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||,,,,_ , _,,,,,, | |7}. ', 久々にわろうた
||. ̄ ,' ´ ̄ リ!|/ ', げにいみじきすれのたつのも今はむかし
!.', i,_っ l!| ヽ
. l ', _,,_ | l \ あたらしき人まいりこれりども
| ヽ `゙´ , ヽヽ 程しらぬものばかりなりて いとこうじけり
ヽ. ヽ、 ,.ィ ヽ,
/,、ri个`,゙゙゙゙´ //ヽ ,、
// | ||| | ',',\ / / // /\
>>338 名もなき軽卒が将を倒す鉄砲は卑怯だという意見は戦国中期ではよく出てくる。
名を惜しむということは当時でも一般的だよ。
ザビエルは戦国時代中期の日本人の印象を
「日本人は総体的に良い素質を有し、悪意が無く、交わって頗る感じが良い。
彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が凡てである。
日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、
貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。」
「彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしない。
平民が武士に対して最高の敬意を捧げるのと同様に、
武士はまた領主に奉仕することを非常に自慢し、領主に平身低頭している。」
「驚くべき名誉の国民」と言ったのはでたらめではないよ。
宣教師によっては日本人は自惚れが過ぎるとか、裏切りが多いとか言ってるけどね。
もちろん戦国時代の人間は、名誉を重んじると同時にリアリストでもあったわけだ。
両翼に騎兵を配置するのは欧州の伝統だね。
もともと騎兵を両翼に配置して、敵の側面・後背、輜重を狙うのはペルシャから学んだものだった。
騎兵は19世紀に連発が容易な後装銃が普及するまで、戦術における非常に重要な要素であった。
機動力を生かした迂回、追撃もさることながら、
騎兵のギャロップによる突撃は、大きな衝撃力で陣形に穴を開けた。
むしろ直接的な死傷者を出すことより、敵の陣形を崩すと言う点で非常に有効である。
ゆえに、火力の増大により騎兵の攻撃には歩兵・砲兵の援護が必要とされた
19世紀初頭でも全部隊の10〜30%が騎兵で占められていたのである。
この頃の騎兵は槍や剣の他、多くが拳銃や騎兵銃も装備していた。
銃剣は対歩兵や砲兵への制圧効果、馬への威圧効果はあったが、
騎兵突撃を喰らった歩兵の大半は、馬に巻き込まれることを恐れ蜘蛛の子を散らすように崩れたという。
ナポレオンのフランス軍における、銃剣による死傷者は全死傷者の1%以下であった。
カルタゴが中央に凸型に厚みを持たせたガリア歩兵を囮にして敵を釘付けにし、
騎兵の後背への機動で包囲を完成させローマ軍を壊滅させたカンナエの戦いが一番見事な騎兵運用だと思う。
>>341 ようするにヤクザの面子と似たような部分を持っていたわけで
それを名誉と訳すと齟齬が出てくる。
誇り高き名誉の日本人つー理解は不適当
ヤクザみたいなものさ武士は
>名もなき軽卒が将を倒す鉄砲は卑怯
いや、それは「鉄砲は卑怯」というより、「名も無き兵卒が将を倒すのは出すぎた行為」だと言うことなんだよ。
足軽が上位の武将の首を取ってきた場合、褒められることはなくむしろ罰せられる。
分不相応なことをしたと言うことで。
もし鉄砲が卑怯だと言うのが一般的な考え方であれば、あれほど短時間に鉄砲が普及することはなかっだだろう。
武士の名誉と言うのは日本人全体が持つ普遍的なものではなく私的なものなのだ。
武士が領主に忠誠を誓う場合はその領主を個人的に気に入っている場合に限るのだ。
「こいつのために死んでやってもいいぞ」と言う類のもの。
そうでない場合は、ギブアンドテイクの結構ドライな関係なのだ。(所領の安堵と引き換えの忠誠)
武士が貴族に仕える傭兵集団や武装農民だった頃の特性を戦国の頃までは強く持ってたんだよ。
343の言う「ヤクザの面子や忠誠心」と言うのが一番近い。
江戸期に入ると、そういった思想は平和を乱すので朱子学をベースとした士道を普及させようと幕府はがんばったわけだね。
日本の場合は「名誉」とかいうよりも「誇り」のほうが
しっくり来るんじゃないかなあ、とか思った。
外的な評価である名誉や他人からの賞賛を積極的に求めるよりも
内的な自己評価である誇りとか自己満足のほうが大事というか。
>武士たると平民たるとを問わず、
>貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない
このあたりの評が特に如実なんではないだろうか?
>343>344
ヤクザみたいなって言うとイメージがあれだけど、侠客とか言えば違って
見えるかなあ? 中国の春愁戦国時代みたいな。
自己のルールや美学哲学は持っているけど、リアリストでもありかつ思想
は矛盾してない形態になっている。
ところで
>「こいつのために死んでやってもいいぞ」
っていうような部分は江戸期以降の武士道にも一応形式的には受け継がれているっぽいけどね。
主君から恩と俸給を受けて(自分を評価してもらう)→忠誠を誓う(こいつのために死ぬ)
つまり、「士は己を知るもののために死ぬ」なわけだ。 建前だけで実際は
支配者とか為政者が家臣に忠誠を強いるために利用してるだけになってるけどね。
江戸期以降の武士道としてよく引き合いに出される葉隠なんだけど
「当てが外れて死ぬのは犬死だ」などと言うのは、上方風の軽薄な武士道である。
生か死か二つに一つの場所では、計画どおりに行くかどうかは分からない。」
「毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、
武士道とわが身は一つになり、一生失敗を犯すことなく職務を遂行することができるのだ。」
と説いているし、ようするに「常在戦場で実戦を意識し死ぬ気あるいは死んだ気になって
全力で戦え、躊躇とか二の足を踏んだりするな」って事だし結構平時より有事を意識していると思う。
平時のように失敗しても生きていられるから良いやみたいな弛んだ気じゃだめって事だと。
個人的な忠誠が無かったら、家族や生活を差し置いて追い腹(殉死)なんてしないさ。
戦国期は大名や武将が死ぬと、しょっちゅう家来も一緒に切腹したものだ。
あまりに盛んで江戸初期に禁止されたけど。
「葉隠」の山本常朝は、主君が死ぬと同時に殉死の代わりに40代で隠居してるね。
鍋島藩では40歳を過ぎても前髪を垂らし元服してない者もいたそうだがw
>>347 勝海舟が「昔の人はどんな事にも一所懸命だったよ」「門の前で切腹したりみんな元気だった」と言っていたな・・・
>>348 むしろ家臣に殉死を自発的にさせるほどの忠誠を買えなかったら
主君でいられる資格も能力が無いってことだし、主君の家に生まれた
跡取りは当然主君になるための教育受けてるんだろうなあ…暗君も歴多かったけど。
現代の軍事で言うことろの防衛大出身者は指揮官としての人身掌握術を叩き込まれるのに似てるかな?
葉隠は江戸時代以降に評価された書であって
江戸当時の主流説じゃないぞ
むしろ異端の書
歩いている者が戦闘員としての歩兵ではあるまい。
騎乗している者が戦闘員としての騎兵ではあるまい。
徒歩の兵の事を歩兵、騎乗している兵のことを騎兵といふ。
日本じゃ騎乗は武士の特権だったので、武装して騎乗している者はおおむね騎馬武者だわな。
ところで352は何を言いたいのか、誰か俺に教えてくれ。
戦場に向かう=戦闘員ではない
戦闘を行うには、荷役、雑用な非戦闘員も多数必要
小荷駄要員が駄馬に乗って移動したとして
御貸し刀ぐらいは持っているだろうけど
そいつは騎兵にカウントされない
つーこと?
小荷駄隊は大名直属の部隊で、
大名自身が招集した人夫と荷駄奉行率いる護衛とによって出来ている。
武器弾薬食糧の輸送を行う。
当然戦闘はしない。というかできない。
動きが遅いので実戦部隊とは一緒に行動できないし。
で?
>>356 騎馬武者は戦で持ち出すものは建前として自弁が基本だから
ある程度の小荷駄は自前での持ち出しです。
軍役にも騎乗の武士は小荷駄を必ず伴っています。
ただこの小荷駄が前線まで出てくるかは大いに疑問ですが・・・
動員兵力のうちの戦闘要員の比率
直属の足軽を除けば、いいとこ半分じゃないのかな
動員規模が大きくなるほど、戦闘要員の比率は下がる
現代では大隊規模でも直接戦闘要員は4割
中国式編成だと8割くらい行くけどさ
これと別に補給部隊が必要だけど、動員兵力には含まれても戦闘要員ではない
で、その連中についての資料が少ないんだよねぇ
地元民を徴発して済ませたからなんだろうけど
復刊された「補給戦」だと機械兵器が増えて弾薬消費が激しくなった第一次世界大戦以前
の軍隊は大抵現地調達でやってたようだけど、日本の戦国時代も一緒でしょう。
補給部隊の数はそう多くなかったのでは。
最近の私のバイブル「日本軍事史」によると前橋酒井家十二万五千石の軍勢の内訳は
総員5438人中、武士518人(9.5%)、足軽1129人(20.8%)、中間306人(5.6%)、又者1649人
(30.3%)、職人39人(0.7%)、人足1179人(21.7%)、小荷駄の口取573人(10.5%)
馬920頭中、乗馬347(37.7%)、駄馬(62.3%)
で九個の備を編制
となる、中間・又者の評価が難しいが余り現在と変わらん気はする
又者て武士の家来ひとくくりにしとるから
実質武士レベルから足軽、中間、人足、口取まで
あるぞな。
武士が正社員
足軽は契約社員
中間人足口取りはアルバイト
又者は下請け業者からの派遣
363 :
名無し三等兵:2006/06/03(土) 16:09:28 ID:5mZwYr/X
>>349 江戸時代の切腹は、自分が腹を切れば家は子供が継げるって暗黙の了解があったからでしょ。
個人主義の現代人にはアホみたいな話だけどね。
家のために一族に無理やり切腹させられた例も結構あったみたいだけど。
>>357 兵糧自弁が主流だけど、
北条氏が片道分の兵糧を貨幣で支給した例もあるね。
兵士は各々陣内に出入りする商人から買っていたそうだ。
最近のリアリズム本はセンセーションを狙い偏向が過ぎる。
ドイツ人のケンペルだったか、元禄時代の武士を
「彼らには腹に一箇の精神があり、己の名誉が侵されたと感じたとき、死を以ってしても抗する」と言っている。
ま、江戸時代に追い腹したらその家は断絶だけどね。
幕府が罰則を設けてなお、希望者が後を絶たなかった。
そこら辺はヤクザ(任侠)の論理なのさ
漢が漢に惚れて、追い腹を切る!
ウホッ
衆道、男色は非常に盛んだったからな
諸大名は何人も色小姓を侍らせて権勢誇ってたくらいだし
藩によっては奨励してたし
武田信玄配下の内藤昌豊だったか、武士の生き方は男道(おとこみち)だ、と記してた
意味深だw
>>368 色小姓=現代の美少年ではないらしいがねw
>>369 そら、色事を教え込んだ小姓がひとかどの武将になれば
かなりの信頼性が見込めるだろうな
親子で裏切り合う戦国時代としては、その手の関係は裏切られにくいので重要だろ
>>371 色小姓だった武将が寵愛されていた主君にクーデター起こしてみろ
誰も付いて行かないぞ
373 :
名無し三等兵:2006/06/04(日) 02:32:41 ID:xihPMqR3
裏切ったらプレイの内容ばらすぞと脅されれば裏切れんな
陶隆房は一応成功したと思うが…。
375 :
名無し三等兵:2006/06/04(日) 03:34:46 ID:57M3zEI6
>>370 信玄配下なら高坂弾正が色小姓出身だなアッー
高坂の尻はよほど具合がよかったのか恋文かいている信玄w
http://blog.livedoor.jp/kkim/ この信玄の男愛なのですが、
戦国時代の武将の間では特別なことではないのです。
伊達政宗なんかも男へのラブレター書いてて、残ってるとか、ちょっと不確定ですけど。
戦国時代の男好きナンバーワンは誰か?
順位のつけようがない(笑)ですけど、
とりあえず、上杉謙信と織田信長は、そーとー男好きです。
織田信長は森蘭丸などの色小姓(身の回りの世話も夜のお世話もする人達)をいっぱい揃えてましたし、
大河ドラマで有名になった前田利家も、もともと信長の色小姓です。
余談ですが、利家は16歳の時、信長が気に入ってた茶坊主(もちろんH有りの関係として)を、嫉妬と諸々
の事情により斬りつけて、出奔してます。
痴情のもつれはこわいですねー。
んで、上杉謙信は、これはもう筋金入りで、
ふつー戦国武将はバイセクシャル(どっちもいける)なんですが、
女色を断って、男一筋に生きた人です。すげーっすね。
謙信の後を継いだ、養子の景勝も謙信の夜伽をしてました。
アーッ アーッ アーッ
>360
中間までは一応戦闘員と見てよいと思う。
身分的には武家と平民の中間に当たっていて、刀は2本させないが戦闘には参加する。
どこかの藩では中間による長柄組を編制しているところがあったなぁ。
小者になると微妙。
200石取の軍役規定は以下の通りだけど、
侍以下の人員が中間か小者かにもよるなぁ。戦闘参加者。
侍1人 甲冑持1人 鑓持1人 馬口取1人 小荷駄1人
>>379
アフリエイト 乙!
381 :
アッーー!:2006/06/04(日) 13:37:11 ID:???
朝鮮通信使申維翰を、雨森芳洲が日本に案内する道中
街々に男娼が立ちんぼしてるのを見て、通信使は「日本の男娼の艶は、女色に倍する」と。
「貴国の俗(風俗=風習)は奇怪きわまる」と芳洲に問うたが
芳洲は「学士(あなた)はまだその楽しみを知らざるのみ」と答えたw
382 :
名無し三等兵:2006/06/04(日) 14:03:57 ID:58Ex3cKt
関が原は戦略家によると
100%西軍の勝ちのはずだったらしいけど
その根拠を軍事板的に教えてたも
西軍が東軍を包囲してたからではなかったかな。
>>382 地形を利用して包囲していたからな
小早川が裏切った時点で西軍が逆に包囲される形になったが
数的にも西軍優勢だった
関ヶ原に集結していた西軍は8万あまりで東軍は6万5千
問題は実情で、西軍側はまともに使えるのが3万5千しかいなかった。
小早川の1万3千、小川の3千、吉川の4千、毛利の1万6千、長宗我部の6千は
まったく当てにならなかった。
一方東軍はその事実を知っていたので西軍3万5千の相手だけすればよく、
結果として西方の倍の戦力で事にあたれたわけ。
秀忠がヘマしなければ、徳川直轄軍5万が使えて
家康も危ない橋渡らずすんだのにな
387 :
名無し三等兵:2006/06/04(日) 16:22:18 ID:jRMrsE6M
>>386 万が一のために主力軍団を温存させたって説もあるけど。
関ヶ原で負けても即徳川家滅亡ってわけでも無かったから。
>>387 軍板的にはそれは支持できないんじゃないか?
決戦に投入可能な兵力をすべて投入するのが基本であるから。
どうだろ。勢いというものがあるからね。
関ヶ原で負けたら諸大名は旗幟を西軍に一斉に翻し、
徳川が敗れるのは時間の問題じゃない。
温存するにしても秀忠が攻めあぐねて戦場に到着が遅れたわけだし。
しばらく家康は秀忠の面会を拒否してる。
秀忠もあんな小さい城数千残して包囲しといて、さっさと美濃に向かえよ。
予備隊として、関ヶ原へ行軍半日くらいの所に拘置しておくとか
別の街道を移動して大阪城に対して圧力をかけるなどの話ならともかく
ただの遅参だからな
歴史読本6月号だったかな?
秀忠が遅参したのではなくて、予定より早く家康が行軍して合戦始めたって説が出てました。
(一般的に言われる真田に引っかかって遅れたというのは、その後も特に行軍ペースが早まっていない点が不自然)
おそらく秀忠軍出発時に到着スケジュールを打ち合わせた上で行軍する予定だった家康が
秀忠への連絡が遅れるのも無視してまで行軍・合戦の予定を早めたのは
先発隊(福島らの豊臣恩顧の武将)が予想以上に活躍して、徳川家が合戦に寄与しないまま戦争が終わる
(徳川の功績が下がり、外様に大領を与えないといけなくなる)危険性が生じたためだったって話です。
>>381 ★☆★世界史板・統一雑談スレ35★☆★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1146758739/ 451 名前:山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2006/06/04(日) 18:32:15 0
>「学士(あなた)はまだその楽しみを知らざるのみ」
「未だ(いまだ)」その楽しみを〜でないと不釣合いな気がするのですが
・・・と思って検索してみたら、「まだ」でそれらしいのが出て来ました。
(「未だ」でも出て来ます。多分こちらが正解)
某大学三回生の発表も出て来ましたが、多分キムチニュースとか言ってい
る某ブログかその元になったサイトからの孫引きです。
印象的な逸話だけ抜き出しても、偏見を助長しかねない(コピペをソース
とする輩は案外多い)ので、どうかと思うのですが・・・。
452 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/06/04(日) 18:49:56 0
放っといたらいいんじゃない。
彼等にとっては偏見じゃなくて事実なんだから。
>>378 2つ疑問があるんだけど誰か教えておくれ。
甲冑持というのは主人の甲冑を運ぶだけが役目の非戦闘員なのか、
それとも甲冑持というのは名目だけで、実際は戦闘員なのか?
鑓持というのは主人の鑓を持つという意味なのか、
それとも自分が鑓で武装した戦闘員という意味なのか?
メッケルもビックリ
>>392 それは間違い。
「海游録―朝鮮通信使の日本紀行」(姜在彦訳注 平凡社東洋文庫 1974年)からの引用。
大名の軍団の中での足軽の位置づけがいまいちよく分からない。
家臣団とは別の存在みたいだから、大名が直接雇ってたのかな?
戦場で足軽を指揮するのは誰だったの?
直属の足軽がいて一組30名ほどの槍弓鉄砲足軽組に編成されていた。
大名→足軽大将→足軽組頭→足軽
>396
藩によって軍制がまちまちなので、これが定番と言うのが存在しない。
足軽身分と言われているものは
足軽のほかに、中間、小者がいてそれぞれが10人から20人ほどで「組」
を構成して、組頭が統率する。身分的には100石前後の徒衆に相当。
さらに組がいくつか合わさって「番」になる。統率するのは番頭。
侍大将とかともいう。
江戸の町奉行はこの職能。
与力が徒衆、馬衆身分で同心が足軽身分に相当。
>>393 双方とも前者、戦闘時はともかく行軍時に馬乗って
鎧着て、槍持ってたら死ぬ
400get
いや、そういう連中も鎧着て刀差してるから一応戦闘するでしょ。
>393
甲冑持と小荷駄は非戦闘員。まず実戦には出ない。
鑓持と馬口取は戦闘員。ちゃんと具足をつけている。
実際に戦闘に参加するかどうかは主人次第。
鑓持は主人の使う鑓を持っている。自分のではない。
足軽には2系統ある。
1つは大名が直に雇っているもの。
1組ごとに何貫という感じで雇っている。
本来は臨時雇いなのだけど、戦国も長くなりまた豊臣政権下時に足軽身分の地位が上がって
名目は「臨時お抱え」だけど実質上は常雇い状態となった。
もう一つは昔ながらの武士が個人的に雇っている足軽。基本的に主人について回って足軽組に編制されない。
徳川幕府は旗本・御家人に足軽をあまり雇うのはやめなさい、と制限をつけたという話。
200石は1−2人、300-900石は2−3人と言う具合。
足軽大将は奉行みたいな形で家臣の中から選んだのか、足軽の中の統率力のあるやつから選んだのかどっち?
406 :
名無し三等兵:2006/06/06(火) 19:15:58 ID:MBaEYLYr
>>405 一般にはそれなりの家柄であることが大前提じゃないか。
織田家でさえ軍団長クラスまで出世した秀吉みたいな例は少ない。
最下層出身の秀吉が天下取った当たりからそうでもないけど。
足軽大将は大名の直臣から選出された。
足軽組頭は足軽の中から選出することもあったそうだ。
まるで兵士から選抜されたローマ百人隊長と貴族身分のコホルス司令だな
>>402 戦闘隊形になったとき、各々の領主の所の非戦闘員はどうするんだろう?
非戦闘員だけ後ろに固まって、誰か(大名家から派遣された武士とか)が臨時に指揮するんですかね?
それとも、各領主の手勢の後ろにいるのかな?
>>409 小荷駄は戦闘中は後方に下がってるのが普通じゃないの?
>>403 後者の足軽は寛永の軍役には侍、雑兵物語には若党といった
別称があり混乱する事しきり
412 :
409:2006/06/06(火) 23:19:54 ID:???
>>409 そりゃ後ろには下がるだろうけど、各領主配下の非戦闘員を編成単位として組織したのかな? という疑問です。
移動などの効率とか安全確保のためとか、管理せずにばらばらに後ろについていったら
道塞いだりして他の部隊の邪魔になりそうな気がして。
40 名前:日本@名無史さん 投稿日:2006/06/01(木) 14:38:37
日本には騎馬の集団戦法はないが、
日本で初めて騎馬の集団戦法を取ったのは義経って本当ですか?
41 名前:山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2006/06/01(木) 19:01:13
質問は悪い事ではありませんが、スレへの貢献を考え、まず自分なりに史料
をあたった上で、問題提起と私見の披露ぐらいはして頂きたかったですね。
それはさておき、
>日本で初めて騎馬の集団戦法を取ったのは義経
確か、旧日本軍が言っていた事だと思いますが、一の谷と屋島の戦いには、常
識的に考えて歩兵も随伴していただろうと思います。
騎兵だけでは、歩兵による馬の足の薙ぎ払いや馬上からの引きずり落しといっ
た攻撃に対応しきれませんし、馬が暴れた時の為の口取も必要です。
それまでに無い戦闘法を行うのであれば、それ相応のノウハウが必要とされる
のであり、ひらめきだけあっても実行には移せません。
そもそも、戦闘に必要だからこそ随伴している訳で。それを取り除いてもどう
にか出来るという様にする為には、普段から随伴なしでも戦闘出来る態勢を整
えておかねばならない筈です。
『吾妻鏡』には、百五十余騎を率いて上陸したとありますが、その前に「士卒」
とある様に、少なくとも編者は歩兵込みで考えていた筈。
延慶本『平家物語』では、馬五十匹に兵五十余人と齟齬があり、余った兵の方
が気になりますが、内訳(歩兵は別か否か)がよく分かりません。
名前が出て来る様な兵(つわもの)に注目した物語的説明と見るべきか。
『義経記』には、義経主従が騎馬だけで移動している場面が二箇所存在します
が、そのまま戦闘に突入している訳ではありません。
同時期に成立した『太平記』にも、同じ様に騎馬だけで移動する話が記録され
ており、14世紀には騎馬だけでの「移動」は見られた様です。
414 :
名無し三等兵:2006/06/07(水) 14:55:01 ID:QdKr5xb2
日本史上に騎馬隊は存在していないとか、武田騎馬軍団というのは存在していないというヤツいるが
騎兵は存在しているだろw
つまり、騎馬軍団=騎兵だけで組織された大規模な軍団
騎兵=騎馬武者
騎馬武者が日本の歴史上存在しなかったか?
だから、武田騎馬隊は存在したんだよ
よく考えて書き込めよ、知ったかぶりは恥ずかしいぞw
武田騎馬隊や騎馬軍団つうのは俗称であって
そのような編成の部隊が存在したと聞いたことは無い
417 :
名無し三等兵:2006/06/07(水) 15:17:31 ID:jhemJXej
俗称であっても存在したんだろ?
同じようなものだよ。
>>417 武田家に騎馬武者を内部に含む封建的編成部隊が存在したのは間違いない
が、その手の部隊は当時の日本に腐るほどある。
そして当時「武田騎馬軍団」と呼ばれていたかとなると又話は別。
ID:QdKr5xb2もか 日本史板からようこそ
武田の騎馬隊は誰が指揮してたの?
中小国人ごとの分割された部隊のなかで、誰が騎馬武者が多数の隊を編成してたの?
>>417 お前が存在した事を証明出来たら話は早いなw
出来たらの話だけどな
歩騎混成の部隊を騎馬隊と呼んでいいのなら、もう何でもありじゃないか。
お前様方、せめてこのスレのログくらい嫁。
読んだところで騎馬隊の実在を証明したレスなど見当たらないんだが。
>>412 行軍中は主従で、戦闘時は陣城に留置か備の後陣に配置し
小荷駄奉行の管理下に置くとか
>>425 日本戦国期騎馬隊の歩騎混成は騎馬武者とその従者のユニットの事であり
決して足軽隊が配備されていたわけではない
そしてこの騎馬隊と弓・槍・鉄砲の各足軽隊、旗、小荷駄等が一纏めになって
数百人単位の最小戦闘単位「備」が構築される。
>>427 それはこのスレ読めば分かるって。
結論としては騎馬隊など存在しなかったってことだろ。
追撃戦とかに、馬廻りなどを集成して臨時に騎馬率100%の部隊を
作ることはあるかもしれないが
常設での大陸的な完全騎兵化された部隊が存在したという証拠は無いな。
>>427 歩騎混成部隊を「騎馬隊」と呼ぶかどうかが認識の分岐点だと思うが
武田騎馬隊ほど俗説として世間に広まっている物もめずらしい。
でも、槍兵 弓兵(銃兵) 騎兵の「三兵戦術」を駆使した常勝武田軍団とか
弓兵同士が射ち合い、槍兵が衝撃力で敵陣を崩し、騎兵隊の突撃で撃破する
という俗説は聞いたことが無い。 なんで?
日本ではテルシオも横隊戦術もオーダーミックスもあまり知られてないからか?
騎兵隊の存在有無は諸説あっても、
騎兵の運用、突入タイミングの話題は聞いたことが無いなぁ・・
>>431 比較的小規模な諸兵科連合である複数の「備」が当時の伝令に頼る程度
の指揮統制で戦闘を行うと、小規模戦闘の積み重ねという結果になり記録
に残りにくい
中国の明軍なんかは騎馬のみで編成していた。
>428
騎馬隊騎馬隊言ってるが、どういったものから騎馬隊と呼ぶのか、
と言うところがあやふやで答えようがない。
武田騎馬軍団とかいうのはまぁない。
これがありなら、古代ローマ軍団のことを古代ローマ騎馬軍団といってもよいことになる。
ただし、古代ローマ軍団内に騎馬隊はなかったのかと言うと、これはある。
1軍団あたり300人程度のが。全体の割合からすると1割切る。
そもそも近世以前の段階ではまっとうな騎馬隊を持つのは騎馬民族のみ。
軍馬と言うのはかなりコストがかかるので、戦闘のためだけに馬を飼い、
戦闘訓練を行うのは農耕社会ではひどくコストがかかるので大量に作るのは無理なのだ。
時代を下ってフランスナポレオン軍となっても意外なほど少なかったりする。
1騎兵連隊内の騎兵の数は500人。残りはすべて補助員となる。
ぶっちゃけた話、映画や講談に出てくるような騎馬隊や騎馬戦術はめったにお目にかかれるものではない。
振り返って戦国の騎馬隊となると編制上どんなに大きくても100騎を越えることがない。
軍構成員中騎馬武者は1割程度しかいない。
これは、位が如何とかと言う問題よりも軍馬を養うには200石を超えた収入がどうしても必要なため。
それを越える例となると、関ヶ原の時に島津を追撃するために徳川軍の馬廻衆をかき集めて臨時編制した
騎馬隊がある。
関ヶ原の布陣図に家康の本隊とは別に井伊直政隊3600と本多忠勝隊500があるけど、
これは家康に仕える武士(とその家来)と足軽を、直政と忠勝に付属させた「備」?
それとも、本多は10万石なので500人はすべて忠勝の家来かな?
井伊はどうだろう。12万石で3600人はちょっと多いよね。やはり家康の家来が付属されてるのかな?
この3600人は10個くらいの「備」に分けて管理するんかな?
それとも「井伊の赤備」の文字通り、3600人で1個の「備」?
数個の「備」を指揮するポジションてありますのん?
家康の本隊は3万人だと「備」が100個くらい出来ますよね。
本陣から100個の「備」に命令を出して指揮するのは面倒な感じが・・・
>>434 それもこのスレと前スレ読めば分かるって。
結論としては騎馬隊など存在しなかったってことだろ。
>>453 その兵力数は三人役(百石に付き三人)としての計算なので本多は三千、井伊は三千六百で
本多は兵数の大部分を中仙道の息子に回したので一備分のみ保有
井伊の様な大名級は前出の前橋酒井家のように複数の備を保有し家老にそれぞれ指揮させ
ていた(無論、全般指揮は領主が執る)
因みに三百は後方要員を含まない(状況により良く変わる)ので後方要員も含めると五百から
六百、本陣は千近くにもなる場合があるので前出の通り十万石で5つか6つ
家康の場合は3万(東海在番を除けば実数は二万七千)の内、大名級が4人、大身旗本も多数
おりこれらに寄騎同心制で備を編制させていたと考えられる
更には家康直轄軍として大番がいる
この場合、大名級や大身旗本の備はある程度の自由行動が行えたと考えればそれほど無理は
ないかと
>>時代を下ってフランスナポレオン軍となっても意外なほど少なかったりする。
1騎兵連隊内の騎兵の数は500人。残りはすべて補助員となる。
あんまり関係ないが、フランス軍重騎兵連隊の定数は502人だがこれはすべて戦闘員
日本も馬に乗って弓を使ったんじゃないの?
流鏑馬とかやってるじゃん。
>>439 騎馬武者の弓射、あれは個人戦であって
集団戦である騎兵集団の突撃とは、相容れない存在なのだよ。
戦場で名を上げ、より一層の領土を家人を増やす武装農民としては
均質的な集団戦術は受け入れられないのさ
中央集権軍隊な軍隊、たとえば中国や近世ヨーロッパの軍隊なら
農民主体の領民軍隊でも騎兵戦術を行使できるけどね。
441 :
名無し三等兵:2006/06/10(土) 06:45:06 ID:LbbFbl37
>>440 騎兵戦術を狭く見積もっているのではないでしょうか?
騎兵戦術には、突撃のほかに、騎射もあるようです。
アルサケス朝(パルティア、中国名は安息国)の騎兵隊は、騎射を繰り返し、重装歩兵中心のローマ軍団を破っています。
チンギス=ハンのモンゴル軍も、毒を塗った矢を小型弓で連射しては後退する戦術で敵を翻弄
近代初期の欧州で、スペインが使用したカラコール戦術。
射撃戦が、個人戦とは限らないでしょう。そうなら
>中央集権軍隊な軍隊、たとえば中国や近世ヨーロッパの軍隊なら
>農民主体の領民軍隊でも騎兵戦術を行使できるけどね。
は肯定できるところです
カラコール
>>441 射撃戦も十分集団戦術だぞ
一騎がけして、名を名乗って騎射する日本式とは全然別物
手下の覇者 脳糞古川将軍
>>一騎がけして、名を名乗って騎射する
それって過去の説じゃ?
ヨーロッパで騎兵を両翼に騎兵を置き側背を衝くのは常套戦術。
騎士の時代になると、重武装衝撃力を持った騎士が中央に配置され、戦場の主力となる。
火器が発達してからもスウェーデンの長剣突撃による中央突破は、
他兵科のきめ細かな援護が必要とはいえ絶大な威力を誇った。
スウェーデンの軍馬は体高110cm〜130cmほどであり、日本馬より更に劣るものであった。
騎兵に突破されないため、翼側を森林や河川で防護するのも常套戦術
独立騎兵部隊を編成して、敵後方への遊撃戦術も生まれた
>>436 俗説どおりの騎馬隊は存在しなかったってスレ最初の時点で
説明されているし、「絶対いなかった!いたなんて信じてる奴は云々」
なんて言ってたのは鈴木氏信者だけ。
しかも、「俗説どおりの騎馬隊は存在する」なんていってる奴はいないのに
脳内で勝手に議論相手作ってかみ合わないレスつけてた奴ばかり。
ただし、俗説どおりじゃあない別の形で「騎馬小隊」とか「班」とか
そんな規模のものが編成された例はないわけじゃあないので
その意味では厳密には騎馬隊は存在しなかったとは言い切れない。
という事でほぼ結論が出来かけてたと思うがお前はいまさら何を言いたいのか?
>>449 数騎程度の小規模な騎馬集団の運用はあった可能性についても前スレから読んでれば分かるっての。
スレ住人が判りきった話を蒸し返し得々と語る必要はないってこと。
こっちに言わせれば、ほぼ結論が出来かけた話を今さらスレのまとめとして語り得意げになってるお前は何なんだってな。
お前と語ることはなさそうだからレスつけんな。
>>451 別に。
そういう無理なレスもいらないから。
何か新ネタでも出すなら構わんが。
長槍足軽が戦闘の主力から鉄砲足軽の護衛といった風に役割が
変化した契機は長篠の戦からかな
本陣の防備は以前からと考えれば良いかな
この間鉄砲隊演武みたけど、銃声はほんとに落雷そっくりの「ドーン!」て轟音だった
現在のライフル銃とは全く銃声が違うんだね。
威嚇効果も相当なものだろう。
あの群れに突っ込んでいくのは狂気の沙汰に思える。
>>453 長篠の織田鉄砲足軽は、他の戦場(畿内とか)にいた部下の持っている鉄砲足軽もかき集めた臨時編成だから、
その後もそれほど鉄砲足軽の軍隊内での比率は向上しなかったのでは。
大坂の陣だと結構鉄砲の割合増えてますから,それまでの間鉄砲の生産数が増えるとともに
段段と長柄足軽の数と任務が低下したという感じでは。
結論:旧参謀本部の「日本戦史」がすべて悪い。
大坪流馬術には一通り基本的な騎馬戦術が記されている模様。
「騎崩」は足軽の後方に百騎ほど控えさせておいて、足軽が競り合っているところへ機を見て乗り込み敵陣を突き崩す戦法。
「騎切」は部隊を2手、3手に分けて、機を見て正面や左右から切り込んで、敵陣を切り崩す戦法。
「騎込」は騎馬部隊を集結させ、敵の虚を突いて突撃を試みる戦法。
以上が「乗用三段」と呼ばれる基本的な戦術らしい。
あとは、敵陣を突破する場合の「一文字駆込み」とか追撃の「追討」とか。
「乗用三段」においては「機を見て」とか「虚を突いて」と記されているので、
まともな正面突撃はありえないぽい。
417名前: 名無し三等兵投稿日: 2006/06/07(水) 15:17:31 ID:jhemJXej
俗称であっても存在したんだろ?
同じようなものだよ。
422 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/06/07(水) 18:34:58 ID:???
>>417 お前が存在した事を証明出来たら話は早いなw
出来たらの話だけどな
424 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/06/07(水) 19:07:37 ID:???
お前様方、せめてこのスレのログくらい嫁。
425 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/06/07(水) 21:54:43 ID:???
読んだところで騎馬隊の実在を証明したレスなど見当たらないんだが。
428 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/06/07(水) 22:07:28 ID:???
>>427 それはこのスレ読めば分かるって。
結論としては騎馬隊など存在しなかったってことだろ。
436 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/06/08(木) 18:43:10 ID:???
>>434 それもこのスレと前スレ読めば分かるって。
結論としては騎馬隊など存在しなかったってことだろ。
>>450 少し抜粋してみたが、どういう流れなんだかさっぱりわからん。
何を語りたいあいたいのかこっちこそ解らんのだが…
>スレ住人が判りきった話を蒸し返し得々と語る必要はないってこと。
って判っているんだったら最初っから
>>417なんて相手にしなければ良いだけの話であるし
>こっちに言わせれば、ほぼ結論が出来かけた話を今さらスレのまとめとして語り得意げになってるお前は何なんだってな。
って思っているんであればそっちこそ「騎馬隊は存在しなかった」とか言い出すのはなんかおかしい。
蒸し返しているのはむしろそちらじゃないのか?とさえ思う。
もしかして
>>417が粘着し続けていてそれを攻撃しているつもりだったとか?
それとも結論の要点は「存在したでも存在しないでも無い中間」だと理解してないだけとか?
あるいは単に言葉を選び間違えただけ? 本当は言いたかったのは「(俗説どおりの)騎馬隊は存在しなかったってことだろ」?
参謀本部が無能だからな、こうなっ原因は。
アメリカやソ連相手に戦争して勝てると考えた連中の考えるこった。
中身位想像つくだろうが・・・・・。
清やロシア?
地方軍閥相手の小競り合いや辺境紛争だろうが。
461 :
名無し三等兵:2006/06/14(水) 01:20:55 ID:zehZT9Eu
462 :
少佐:2006/06/14(水) 02:06:11 ID:iweTcp5b
ライフリングもなにも無く、銃床もなにもない当時の火縄銃で
命中させるにはゴルゴ13のような射撃テクニックが必要だった
のではないか?
463 :
少佐:2006/06/14(水) 02:08:39 ID:iweTcp5b
また戦国時代の足軽が持った槍は長いもので6メートルも
あったというが、そんなものを徒歩で持ち歩いて行軍し、
それで戦った当時の足軽はかなり強靭な体力や気力の持ち主であり、
一種の武道の達人であったといってもいいのではないか?
>>462-463 鉄砲は命中させようとして狙って撃つもんじゃなかった。
接近する敵を足止めさせるための兵器。
要するに「いやがらせ」。
だから、攻城戦で守手(城側)でよく使われた。
>武道の達人であったといってもいいのではないか
お主が、「武道の達人」をそのように定義するなら好きに定義してもかまわない。
ただし、他人にその定義を強制することはあまり勧められない。
マタギは火縄銃で熊を仕留めていたわけだが。
466 :
少佐:2006/06/14(水) 04:49:44 ID:iweTcp5b
>>464 武道の達人という定義が難しいとしても、当時の戦ではクソ長い槍で
相手を叩き殺すという戦法が主流だったと聞く。
クソ長い槍をなんども打ち付けたり、場合によっては切ったり刺したり
するということを延々とやるのは大変な肉体労働だろう。
肉体労働の達人という定義なら納得いただけるはずだ。
ヨーロッパやアメリカでは前装式古式銃による射撃大会があるんじゃが、
日本の火縄銃は他の地域の古式銃と比べてきわめて命中精度がよいそうな。
大会のためにわざわざ火縄銃を手に入れる異人さんもいると聞く。
ヨーロッパじゃ聞かないけど、日本だと火縄銃による狙撃の話は良く聞くなぁ。
>相手を叩き殺すという
違います。
殺すことではなく、戦列を乱す事が主眼です。
あと、現代人では大変な肉体労働といえるかも知れませんが、
当時の人間の体力を現代の感覚で計る方がおかしい。
>>467 イタリアかスペインの宣教師か忘れたが、
日本の鉄砲の命中精度と射程距離の長さは、欧州の鉄砲に勝ると報告してる。
大体2町(約250m)あたりから射撃を開始していたという説があるね。
1町あたりから有効弾が増えだしたとのこと。
火縄銃の射程距離は、最も一般的な六匁筒で約500m、有効殺傷距離約200m。
当世具足を貫通かつ人間を殺傷する確実殺傷距離は50mまで接近が必要とのこと。
日本の火縄銃は瞬発式なので、発火装置の撃発時に銃身がぶれ、
かつ撃発から発射までにタイムラグのある18世紀のフリントロック式よりは命中精度は良い。
欧州のマスケット銃は命中精度の悪さから狩猟に使えたものではなかったが、
日本の火縄銃は狩猟用としても数十万丁が国内で使用されていた。
大阪の陣の戦死者内訳では、戦死者は鉄砲によるものが最も多く、次に弓、槍、刀の順になっている。
朝鮮の役でも、武器の補給はもう鉄砲以外何もいらないという手紙が残っている。
鉄砲は当時戦場で最も殺傷力を持っていた兵器であったろう。
その宣教師は日本刀は鉄すら斬ることができるという日本人の話を疑い
実際に日本の小刀で釘を斬ってみたが、本当に斬れたことに驚いてもいる。
実際の古式銃による実験だと、標的から30mでの命中率は5/5で、標的の中心から15cm以内に命中弾全部が収束している。
50mからの命中率も5/5だが、30cm前後に命中弾の収束が広がっている。
近距離であれば命中率は良好のようだ。
471 :
名無し三等兵:2006/06/14(水) 10:13:43 ID:HHhk4msZ
>>469 >>日本の火縄銃は瞬発式なので、
はてそうなんか?日本の火縄銃にはなにか特殊機構があったのかいな。
>>471 欧州の火縄銃は火皿にゆっくり火縄をぎゅって押し付ける感じ。
日本のは引金引いた瞬間ガチーンって火縄が叩きつけられて即発射。
火縄式だと、火縄で発火させる際銃がぶれない
火縄を黒色火薬に点火するだけだからな
ただし引き金を引いてから発射するまでタイムラグがあるので
統制された斉射には向かない。
フリントロックの場合、燧石を叩いて発火させるので
当然銃がぶれて命中率は劣る
>>469 種子島のコピー元が狩猟用だったってのはデマ?
種子島が、東南アジア系の銃だったってのはの最近の説
根拠は銃床の形式らしい
江戸期の鉄砲教本の中には馬上筒の図解がいくつか残っているが、実戦では実際どれだけ使われたのだろう?
大坂夏の陣の伊達政宗隊が馬上から集団で射掛けて運用したのは間違いなさそうだ。
仙台筒は銃身長はともかく、ただでさえカーブの緩い銃床の形状が馬上筒みたいだな。
そのまま馬上筒に流用しても問題なかったりして。
銃床付きの銃はどっちみち具足の上からは肩付けできなくて
使えなかったらしい。
>>474 フリントロックはタイムラグあるよ
火縄銃はヨーロッパの緩発式ならタイムラグが出るが、日本の瞬発式ならタイムラグはない
>>469 >>日本の火縄銃は狩猟用としても数十万丁が国内で使用されていた。
これはありえない数字だろ。
長篠の戦における織田鉄砲隊3000丁がもっと少ないと言われているのに数十万丁なんて。
大阪落城以降は軍備縮小されたはずだし民間だけでその数字はありえない。
確かに多すぎる気はするけど、狩猟用の小口径の火縄銃はかなりの数普及している。
江戸期に入って各大名が新田開発に乗り出したせいなんだな。
森を切り開いて田畑を作るんで、今までそこにすんでいた動物達による
農作物への被害に対抗するために火縄銃の使用を許可していたらしい。
江戸期の人口約2000万だから
30万丁としても2000÷30=67
村に1丁から2丁としても、それほどおかしくないかも。
狩猟に使われるほどの命中率があるのに
”命中させようとして狙って撃つもんじゃなかった”
というのはありえない
猟に求められるのは、命中精度よりも
獲物にどれだけ近づけるかってことだと思うんだが
>>484 戦場でも同じ
鳥獣撃ちと違い甲冑を貫くなら有効射程距離内で発砲する
射手が近づくか、対象を引きつけるかの違いがあるだけ
ヨーロッパでも、敵の白目が見える位置まで接近してから撃てと言われている
あちらでは射撃号令に「狙え」じゃなくて「水平に構え」とあるし
公算射撃しか考えていないがね。
そもそも日本の火縄銃とは火縄点火と性能が違う
それにわざわざ狙えっなんて言わないよ
普通は構えっ撃てっだろ
>>482 ちょっとググって見たら
徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止されたそうだ。
ところで硝石は輸入に頼ってて鎖国後はどうしたんだと思ったら
糞を醗酵させたりして採取していたそうな。よくやるな〜。
>干草法」という方法では、50pくらい積んだ土の上に切り刻んだ干草を敷き詰め、さらにその
>上に下水・魚の内臓・鳥の死骸などを積み上げ、月に一度、土の草を積みなおして牛馬の糞
>汁をかける作業を3年間繰り返すと硝石の原料が取れるようになるということです。
ヨーロッパでも小便を使ってなかったっけ?
朝鮮の役では大量の鉄砲(約70%)が用いられているがその殆どは三
匁の小筒であった。
これは当時の明・朝鮮の鎧が鱗状の金属板で造られた防御力に乏しい
ものであった為で、その後の国内戦では大口径化の代わりにその装備
率は約30%まで減少している。
>>489 >徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止されたそうだ。
法律には抜け道があるもので、地方在住の武士とか郷士なら問題ない。
あと鉄砲は藩の所有物で、「最近猪がでて困ってます。お貸しください」とか。
それも藩の武器庫ではなくて・・・。
郷足軽とかの装備品という話で実質村の備品とか。
>>487 ヨーロッパの銃は発射までに銃身のぶれやタイムラグがあるので、
命中率は日本の銃にはるかに及ばない。
そもそも一斉射が基本のヨーロッパでは、命中精度はさして必要ではない。
日本にもホイールロックやフリントロック式のマスケット銃が輸入されていたが、
命中精度が低く普及しなかった。
>>480 貞享4年の綱吉による諸国鉄砲改めでは、
村方のものだけで仙台藩3984筒、松本藩1040筒、尾張藩3080筒、紀州藩8013筒、長州藩4158筒の所持があった。
それまで鳥獣駆除として鉄砲の保持は合法だった。
この鉄砲改めでも全て没収されたわけではなく、半数だけ没収などしていた。
綱吉の死後、諸国鉄砲改めは実効を失っていく。
>>457 足軽の後方に騎馬が控え、その「騎崩」をしていたのは史実と一致するね
496 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 02:28:15 ID:BylML/oD
497 :
少佐:2006/06/15(木) 02:50:13 ID:HF/xaZ3P
戦国時代の日本は世界で一番当時のハイテク兵器だった火縄銃を
装備してたとか言われるが、武士というと日本刀のイメージが強いが、
ハイテク大好きだったんだよな。
鎖国して無かったら、大砲なんかも装備しまくってたんじゃないか?
498 :
少佐:2006/06/15(木) 02:53:27 ID:HF/xaZ3P
また貧乏な武士はどうかしらないが、武士のなかで中流以上の
人間は魚とか肉なんかもむしゃむしゃ食べてたんじゃないか?
牛や馬なんかはいたわけだし、野鳥なんかも豊富だったんじゃないか?
それで雑穀混じりのコメなんかもむしゃむしゃ食べてたとしたら、
現代人と大差ない身長とかもあったんじゃないか?
499 :
少佐:2006/06/15(木) 02:56:31 ID:HF/xaZ3P
あの宮本武蔵なんかも身長が180センチくらいあったというじゃないか。
それで太い木刀や二刀流なんかの猛稽古をやりまくってたとしたら、
筋肉ムキムキだったんじゃないか?
500 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 02:58:06 ID:y4fY1Nus
>>496 ちゃんとググったのか?
なんでも人頼みじゃ成長しないぞ
501 :
少佐:2006/06/15(木) 03:00:37 ID:HF/xaZ3P
初見さんとかいう忍者の人の本や甲野さんという武道家の本や
合気道の実演とか見たら、戦国時代の忍者や武士はかなり強かった
んじゃないかと思うぞ。
だいたい当時の生活環境からして弱かったら死んでるだろうし、
白兵戦が多く、徒歩で移動だった当時の戦で生き残ることもできなかっただろう。
強運や悪運だって強くないと生き残れないよ。
502 :
少佐:2006/06/15(木) 03:03:44 ID:HF/xaZ3P
徳川家康でもイギリス人だかを取り立てて部下にして
国際情勢とかを勉強したり、意見を参考にしたりしてたようだし、
これまた武士というのはイメージと違ってグローバルな視野で
情報戦を重視する面もあったということだろう。
忍者にしても情報戦を重視したからこそ生まれたのだろうしね。
503 :
少佐:2006/06/15(木) 03:06:34 ID:HF/xaZ3P
戦後のニッポンは明治以前の日本社会がただ人権を抑圧していた
とか、民主主義でなかったというだけで否定する風潮があるが、
そこには現代の北朝鮮等の貧困国とは違って現代人も学んで
研究すべきものがたくさんあるのではないかと思うんだな。
504 :
496:2006/06/15(木) 03:08:12 ID:BylML/oD
フリントロックとの比較でってことか?
505 :
496:2006/06/15(木) 03:11:29 ID:BylML/oD
少佐さんって頭悪いでしょ。
506 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 03:14:55 ID:y4fY1Nus
507 :
496:2006/06/15(木) 03:26:23 ID:BylML/oD
ウィキペディアには本当のことしか書いていないと信じているのか?
508 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 03:36:40 ID:y4fY1Nus
>>507 なんだ否定厨か
そこの瞬発式について異論があるのならソース付きの反論でも語ってもらおうか
で、少佐とかいうマイナー固定で自演するのは飽きたのか?
串変えてまで何やってんの?w
ついでに、姫 ◆WRGPIHMdNsとかいうのもお前だってことはバレてるからwwwwww
火縄銃やマスケット銃の戦場での命中率の悪さは銃の問題ではなくて
ヒューマンファクターが大きく影響しているという説を読んだ事がある。
戦場において敵に発砲せよと命じられて実際に発砲する人間は少ないんだそうな。
ベトナム戦争の頃は打つ真似だけする兵士がたくさんいたそうだ。
また、マスケット銃の時代では発砲せずに弾だけ込めるというようなことをする人も多かったという。
最終的には1つの銃に何発も弾を込めてしまうという例があったらしい。
さらに撃つ人間のなかでも、実際に敵に向けて撃つものは少なく、わざとはずして発砲するものがいたそうな。
戦場では以外と良心が働くものらしい。
ただし、白兵戦となると自分の身が危うくなるので、まじめに戦ったみたい。
510 :
496:2006/06/15(木) 03:46:51 ID:???
>>508 お前悲しい奴だな、姫 ◆WRGPIHMdNsって何だ?知らないぞ。
511 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 03:51:18 ID:y4fY1Nus
512 :
496:2006/06/15(木) 03:58:36 ID:???
少佐は辞めて名無しに戻ったのか?
513 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 04:00:35 ID:y4fY1Nus
>>512 そうだね
図星突かれたから引っ込んじゃったねw
514 :
496:2006/06/15(木) 04:07:22 ID:???
雷管のない火縄銃がどうすれば引き金を引くと同時に発射できるのか
教えて欲しかっただけなのに。
>>514 そうですか
それだったらもうちょっと真摯な態度でいないとな
ただでさえお前は色んな歴史系板で否定と煽りと連投と自演で暴れてんだからw
516 :
496:2006/06/15(木) 04:15:44 ID:???
517 :
少佐:2006/06/15(木) 04:17:34 ID:HF/xaZ3P
もし織田信長が死んでなかったら、今頃のニッポンは今とは
ぜんぜん違う国だったんだろうなとか思うよ。
本当に惜しい人を亡くしたもんだよ。
>>516 まぁそういうことにしとこうか
おやすみ
519 :
少佐:2006/06/15(木) 04:23:45 ID:HF/xaZ3P
火縄銃の命中率は撃つ人間の技量や距離や標的の動きによっても
かなり左右されるんじゃないか?
まったく当たらないなんていう武器だったら、その時点で淘汰されてるはずだ。
>514
???
火縄銃の瞬発式というのは点火方式のことであって
「引き金を引くと同時に発射できる」ということではない。
だれもこのスレではそんなこと書いてない。
聞きたい事があるならちゃんと
「瞬発式火縄銃は雷管式の鉄砲同様に引き金を引くと同時に発射できるんですか?」
と聞かねば。
前の方の「騎馬部隊はいないよな」と同じで肝心の条件がかかれてないので、
どのように答えればいいのか判らんということになる。結果得々と説明する羽目に陥るわけじゃな。
答えとしては「雷管式の銃と比べると同時発射とはいえない」だ。
ただし、他のタイプの火縄銃と比べると早い。
基本的にこのスレは戦国時代の事を述べているので、当時のテクノロジーを前提にレスされる。
雷管式、というのは完全に意識の外に出されてしまうわけだ。
騎馬部隊も同じじゃな。近世・近代における騎馬部隊は外に置かれる。
521 :
少佐:2006/06/15(木) 04:29:27 ID:HF/xaZ3P
第一次大戦の火力でもドイツ軍の浸透作戦は有効だったのだから、
戦国時代の火縄銃が相手なら武田軍の作戦次第では織田軍を
打ち破った可能性だって十分あるだろよ。
522 :
少佐:2006/06/15(木) 04:31:24 ID:HF/xaZ3P
武田軍は100メートルの距離で蛸壺から弓矢を撃ちまくるとかさ。
そうやって織田軍の鉄砲隊に被害を与えてから突撃とか方法は
あったと思うのだ。
>521
当時の兵士の質(士気)では浸透作戦に必要とされる散兵戦術が取れない。
>522
そういった野戦陣地を作ったのは守り手の織田方。
武田も真似をすれば、当時の兵器や軍の能力を考えると千日手にならざるを得ず。
攻め手の武田に不利になる。
524 :
少佐:2006/06/15(木) 04:55:58 ID:HF/xaZ3P
あとは戦国時代の日本の貿易船は中国はもちろん東南アジアのほうまで
行ってたらしいが、これはそれなりの造船技術や航海技術が
あったということだろ?
一匁五分筒で距離50mから鎧の胴部を撃った実験では、鎧の表裏両側を容易に貫通し、
火縄銃の前に鎧は無力であるという結果だったそうだ。
空いた穴も一匁五分筒(口径10mm)の弾で20〜30ミリと大きく、
角度のある横の部分も貫通している。
鎧を貫通した人体は鉛弾ということもあって相当なダメージを負うことになる。
六匁筒(口径16mm)であればさらに大穴が空くだろう。
「手首にあたれば手がちぎれ、首に当たれば首が取れかかる」という威力は本当だったわけだ。
実験者は、100m以内であればかなりの確率で人間の大きさに命中させられるし、
かつ厚さ2mmの鉄板を容易に撃ち抜いていることから
100mから鎧武者も確実に倒せたと推測している。
100mでそれほどの命中率ならば、火薬の増量が可能な火縄銃は
密集した陣形に対してなら2町(約250m)以遠からしていたという射撃も可能だったろう。
528 :
527:2006/06/15(木) 06:57:44 ID:???
撃ち抜いたのは「厚さ2mmの鉄板2枚」だった。スマソ
つか、軍板名物「少佐」知らないわけじゃないよね、ここのスレの人・・・
なんか少佐にマジレスしてるからさ・・・
その実験に関しては当時、用いられていた火薬の質によって結果も異なるから単純に比較するのは難しいかと
>>509 なんでもかんでも一括りにして考えると間違った結論に至る
鎧を打ち抜いた実験のソースって何?
打ち抜くのは難しいというのは見たことあるんだが・・・
533 :
名無し三等兵:2006/06/15(木) 16:12:58 ID:P9DNww42
しかしへこますだけでも致命傷になるらしいな
へこんでもその衝撃を全て受ける訳だからね
>>520 やっと本体の登場か
要する「騎馬隊について教えてくれてありがとう」とでも感謝してほしかったのか?
こっちとしてはお前に頼んだ覚えはないんだがな
>結果得々と説明する羽目に陥る
それはお前の粘着な性格と、頼まれてもいないのに得意気に語ろうとする姿勢に問題があるんだろ
人のせいにするなよw
くっくっく
もめろもめろ
くっくっく
くっくっく
もっと罵り合え
くっくっく
>>532 貫通するみたいだよ。
当世具足の胴部の平均的な厚みは2mm。
それでもフル着用で20kg弱するのだからどれだけ重いのかがわかる。
>>542 2mm厚の鉄板ならdefeatだが、3mmなら火縄銃を跳ね返す可能性があるみたいだな
544 :
名無し三等兵:2006/06/16(金) 01:03:57 ID:QNtzxqJ+
鉄砲玉に当たったが、甲冑のお陰で助かったって記録は多いぞ。
鉄砲の弾が胴を貫通した跳ね返したの差は甲冑の胴が吊るし下げられているか、
固定されているかの差によるものかと
>>539のリンク先には雑兵物語の一節がある
具足つけてても鉄砲に当たったら
フグの毒に当たったと同じで死ぬと思えだと
一般的な6匁筒よりはるかに小口径の1匁5分筒(練習用によく使われた口径)で
2mm鉄板2枚を貫通していることからして、かなり距離をとらないと跳ね返すのは難しいんじゃないか?
兜なら厚みがあるのでかなりの防御効果は望めるかもしれない。
佐竹義重だったかの鉄砲傷がある兜が残っているが、兜がなかったら頭部に致命傷だったろう。
西洋でも同時期、防具の限界が見えていたから、そのまま戦が続いていたら日本でも防具が廃れていたでしょう
嘘か誠か、朝鮮の役では鎧をつけずに籠城戦をしていた、というしな。
あるいはその通りかもしれん。
>>550 文禄の役で日本の鉄砲に歯が立たなかったが
慶長の役では雑賀衆の残党が朝鮮に鉄砲のノウハウを伝えたという話だな
>>550 そういや朝鮮やら明国に日本側の騎馬戦術の資料があったりはしないの?
>>550 >嘘か誠か、朝鮮の役では鎧をつけずに籠城戦をしていた、というしな。
朝鮮側の資料(絵巻物)に出てますね。まあ、塀とか防御施設があるからだろうけど。
554 :
少佐:2006/06/17(土) 00:25:52 ID:kUR2rSAr
合気道の創始者である上芝なんて武道家は伝説によれば中国戦線で
大砲やライフルの弾が見えて避けたなんて話がある。
もちろん伝説によれば素手の格闘では最強レベルであり、夜間でも
ナイトビジョンがなくても見えたなんて話がある。
これが事実なら、この手の武道家が戦国時代にはゴロゴロしていた
可能性はあるだろう。
そしてこうした脅威の身体能力があったら、弓矢や火縄銃は簡単に
避けれるわけで人間兵器であったと言っていい。
555 :
少佐:2006/06/17(土) 00:29:25 ID:kUR2rSAr
またつい何十年前まで生きてた剣術家や忍者なんかにしても、
びっくりするような脅威の身体能力を持ってたという話がある。
豊臣秀吉の大阪三日帰りでもその伝説が事実ならオリンピック
並の身体能力だろう。
宮本武蔵だってそうだ。
身体能力だけじゃなく、技術なんか見ても火縄銃を量産したり、
お城を築いたり、鉄甲船を造船するだけの技術はあったわけだしね。
戦国時代を馬鹿にしたらいかんだろう。
556 :
名無し三等兵:2006/06/17(土) 00:31:23 ID:xEfETe4P
弾を見てから避けるなんて不可能
のらくろじゃあるまいし
558 :
少佐:2006/06/17(土) 00:33:04 ID:kUR2rSAr
ファッションや文化なんかにしても、現代でもこの時代の
美術品なんかは高い値段は付くわけで高度なものがあったわけだ。
食事なんかにしても、中流以上の人間はコメはもちろん、野菜や
魚介、肉なんかも腹いっぱい食べてた可能性はあるしね。
質素倹約だったと言われる徳川家康でもイワシや秋刀魚なんかは
食ってるしね。
徳川家康の立場だったら毎日でも食おうと思えば、牛の焼肉でも
食えたはずだしね。
560 :
少佐:2006/06/17(土) 00:39:14 ID:kUR2rSAr
>>556 第二次世界大戦の記録フィルムなんか見ても、銃弾を見て
避けてるような素早いモーションをする兵士のフィルムは
いくらでもある。
またグラマン戦闘機の6丁のブローニング重機関銃による
一斉機銃掃射を素早く走って避ける地上兵士の記録フィルムも
残っている。
第一次大戦のフィルムを見ても、なんか大砲の砲弾がバンバン
降り注いでいるのに凄まじい強運なのか身体能力なのか知らないが、
トコトコ平気で歩いてる兵士の映像はあるだろう。
明らかに現代の常識では考えてはいかん身体能力があるわけで、
戦国時代にも現代の常識では考えられない身体能力がそこに
あった可能性は十分ある。
少佐にマジレスする奴はバカ
563 :
少佐:2006/06/17(土) 00:42:23 ID:kUR2rSAr
テレビの時代劇なんかで作られた武士イコール日本刀という
イメージはまったく事実に反するよな。
投石、弓矢、クソ長い槍、棒、長刀、火縄銃、当時の手投げ弾なんかも
思いっきり使用しまくってるし、夜襲や忍者による暗殺や騙まし討ち
なんかも思いっきり使用してるからね。
2ちゃんは使用してたのかな?
565 :
少佐:2006/06/17(土) 00:45:48 ID:kUR2rSAr
上杉謙信なんかが出陣前に不動明王か何かにお祈りをする
シーンなどがよく時代劇であるが、当時の人々はそうした
宗教を100%狂信的に信じていたわけで、そうした心理的
効果で超人みたいになった可能性もある。
実際、アメリカ軍のブローニングハイパワーというピストル
なんかも宗教で狂信的になった原住民には火力の弱い拳銃では
ストッピングパワーが薄いということで開発されたなんていうしな。
566 :
少佐:2006/06/17(土) 00:48:40 ID:kUR2rSAr
>>564 当時の人々は野生の生活のなかで第6勘のようなものが研ぎ澄まされ、
以心伝心とかあうんの呼吸なんて言うように、一種のテレパシーに
よるテレパシーインターネット空間みたいなものがあって、そうした
テレパシー空間における2チャンネル的なものはあったのかもしれない。
ああ、君が本当に少佐でなくてよかったよ
568 :
少佐:2006/06/17(土) 00:51:01 ID:kUR2rSAr
何度も書いてるが、ヒエとか粟などがかなり混ざった、あまり
精白されてないようなコメを漬物や野菜の煮物か何かをおかずに
山ほど食べたら、下手したら現代人より栄養を多く取ってた
可能性すらある。
569 :
少佐:2006/06/17(土) 00:53:56 ID:kUR2rSAr
また鯨が取れたほどだから、魚介類は非常に豊富で沿岸部では
むしゃむしゃ食べてた可能性もあるだろう。
縄文時代の貝塚なんか見ても、縄文人はイルカや鯛なんかも
むしゃむしゃ食ってたようだしね。
食ってたにしろ地域差がでかいだろ
保存技術も低いから干物か塩漬けばっかだろうし。
野菜つったって(たぶん)根菜ばっかだろうからビタミンは少ないのでは
571 :
少佐:2006/06/17(土) 04:10:17 ID:kUR2rSAr
>>570 内陸部はそうでも、沿岸部は新鮮な魚介が食えたでしょうよ。
毎日漁師は漁に出るんだから。
また内陸部でも川なんかには川魚は豊富だったんじゃないの?
公害とかゼロに近い時代なんだから。
それから戦国時代にも葉っぱの野菜は一応あるし、根菜にも
ビタミンはあるよ。
宗教的な戒律が無かったら、イノシシ、牛、馬、山鳥なんかも
食ってたんじゃないの?
572 :
少佐:2006/06/17(土) 04:12:57 ID:kUR2rSAr
日本人の伝統的な食生活を考えるときに東北地方の内陸部だけ
で考えたらいかんだろう。
昔の日本は東北にしか人間が住んでなかったのかよと言いたい。
573 :
少佐:2006/06/17(土) 04:16:56 ID:kUR2rSAr
徳川家康の食事で言えば、麦飯、具たくさんの味噌汁、
味噌、イワシの煮付け、野菜の煮付け、漬物。
まあこんなものだが、これでもむしゃむしゃ大量に食えば
かなりのカロリーだし、栄養も足りてるよ。
はいそこ嘘は駄目ですよ
戦国時代に栄養足りてたなんてどんな嘘だよ
当時の食事内容だと、カルシウムが不足しているのは栄養学上の常識だろ?
どんなガセビアですか
適当に嘘並べるのはイクナイ!
575 :
少佐:2006/06/17(土) 05:36:06 ID:kUR2rSAr
>>574 私は武士階級の中流以上を前提に話をしている。
沿岸部の中流以上の武士なんかは「カルシウム豊富な小魚」
なんかもたくさん食べてたんじゃないか?
576 :
少佐:2006/06/17(土) 05:40:12 ID:kUR2rSAr
戦国時代より遡るが、有名な源義経が鞍馬山で鞍馬天狗に
武道の稽古をされたなんて話ももしかすると、本当にそういう
宗教体験みたいなのがあったのかもしれないし、凄い超人みたいな
のがいて天狗だと恐れられれたのかも知れないじゃないか。
577 :
少佐:2006/06/17(土) 05:44:11 ID:kUR2rSAr
悲惨なイメージがある粟やヒエといった雑穀も味のほうはともかく、
栄養価だけで見たらコメよりも高い。
山菜だって栄養はあるわけだし、漬物なんかも発酵することで
ビタミンが増えるという科学的調査もあるしね。
武士階級の中流以上限定なら、なおの事ガセビア確定
当時(戦国時代)の日記は殆んど散逸しているが、江戸時代初期の日記による食事内容は結構残されており、その食事内容は栄養学上の参考資料として使われてる
食事の内容が戦国時代〉江戸時代初期とか言い出すなよ、恥の上塗りになるぞ
まずは自分で一次資料を確認してから語れ
便所の落書きにしても酷すぎる
お前にはこの句を贈るよ
「憶測で見てきた様な嘘を言い」
579 :
少佐:2006/06/17(土) 05:53:59 ID:kUR2rSAr
昔の人は貧しくて食事は質素で少量だったというイメージがあるが、
現在に残ってる江戸時代の漁師や木こりなんかの弁当箱なんかを
見ると、なんか巨大というかコメが6合くらい入るものなんだよ。
しかもそれがごく一部の漁師や木こりが使ってたという訳じゃなく、
かなりの人間がその地方全体で使ってた形跡がある。
漁師なんかは仕事がら魚介なんかも豊富に食えただろうしね。
山の民でも今でも川で手づかみで川魚を取り放題の山なんてある
わけで、戦国時代なら腐るほど食えたんじゃないか?
また革製品があったということは、牛や馬の肉も食ってたということだろう。
江戸時代の大名でも野生動物の狩りとかやってるしね。
そりゃ狩るからには食ったはずだ。
580 :
少佐:2006/06/17(土) 05:58:49 ID:kUR2rSAr
>>578 江戸時代の江戸の人間は寿司に代表されるように魚介類を
食いまくってるし、野菜もいろいろ食べてるだろ?
鴨鍋や鳥なべまで食われてる。
卵も食ってるんだよ。
581 :
少佐:2006/06/17(土) 06:01:30 ID:kUR2rSAr
付け加えるが、魚介類の寿司や天ぷらは江戸の庶民層にも
大人気だったというじゃないか。
現代では高値のマグロやウナギなんかも当時は豊富に取れたので、
貧乏人がたくさん食べてたという話もあるんだよ。
どうでもいいが、それで肉体の必須構成物質でもあるカルシウムが足りている証拠には成り得ない訳だが
ついでに指摘すると、戦国時代の武士で中流以上限定の話から必死に貧乏人まで対象を広げて何が言いたい?
お前のガセビアに付き合いたくは無いが、お前の発言=全部ガセとされたら、今後迷惑だから書き込んだだけ
おまいさん、「自分はこんな事知ってる物知りなんですよ〜」とオナヌーしてる痛い子にしか見えんぞ?
>>583 dクス
いやぁ、流石に専門の栄養学を馬鹿にした様なカキコ見て、マジレスしてみた
朝ごはん準備までイジって遊ばしてくれくれ
585 :
少佐:2006/06/17(土) 06:39:44 ID:kUR2rSAr
小魚なんかがカルシウムが豊富なことは栄養学的にも証明されてる。
これを沿岸部なんかの中流以上の武士が毎日むしゃむしゃ食べて
いたら、カルシウムは足りるだろよ。
チリメンとか煮干なんかは当時からあった保存食なんじゃねえか?
はぁ…
正解なのは最初の一文だけだな
おまいさんは局所局所での事象を取り挙げてるだけ
総合的に(約10以上の過去文献から判断)考えて、カルシウム不足は指摘されているんだがね
一日二日栄養足りたら事足る訳じゃあるめぇに
おまいさん、もしかして局所で勝ちを重ねたら戦略的勝利は可能と考えた旧日本軍の亡霊か?
もう一度言う
一次文献見てから判断しろ
おまいさんのカキコは憶測の域を出ていない
んじゃ、朝ごはん作るんで後はゆっくり考えろや
少佐を知らないマジレス厨がたくさんいるみたいだな。
つーかここみんな2ちゃん初心者かよw
生暖かくスルー、ときに心にもない賛辞を贈るのがここでのたしなみ。
余談だが、高山右近は陣中にて蒲生氏郷、細川忠興らに牛鍋を振舞ったという記録が残っている。
愛知の覇者 脳糞古川将軍
>>587 悪いね空気読めなくて
理由は
>>584に書いた通りなんだがね
ちなみに、574=578=582=584=586=俺のカキコだ
しかし、なんだ
軍板の名物って位だから、素敵なDQN理論を期待したが、出ず仕舞いか
敵前逃亡とはいい御身分ですなぁ
昼ごはんの準備に行ってくるわ
591 :
中佐:2006/06/17(土) 17:05:24 ID:GxmcfJPO
知ってる者がえらいわけじゃない。気にすんな。
592 :
名無し三等兵:2006/06/17(土) 18:22:18 ID:OE0xhgLm
江戸初期の話だが江戸城で登城している大名たちが弁当を食べるのだが
ある大名の弁当に鮭が入っていてこれは珍しいとみんなで分けて食べた記録がある。
大名クラスでもこんなもの。
593 :
名無し三等兵:2006/06/17(土) 20:37:30 ID:LSRrImbj
そりゃ当時の西日本人は鮭なんて殆ど見たこと無かっただろうから
当時は生ものの輸送などそもそもできない。
と言うか牛肉とかも気軽に食えるようになったのは
道路網とかがかなり発達したここ数十年の話。
595 :
大佐:2006/06/17(土) 20:43:26 ID:DrJPs/2u
知ったかぶりでも、語った者勝ちの世界だ。
安心したまえ小佐。
貴官の復帰を待っておるぞwww
まあ少佐殿くらい突き抜けたレスがあった方が盛り上がるで
(※ペアで確かな論客を必要とする)
という訳で気にせずマジレスもまたGJですかと。
・・・昼ご飯、長いなあ・・・
>>792 >>593 >そりゃ当時の西日本人は鮭なんて殆ど見たこと無かっただろうから
しゃけ弁持ってきた大名は、長府の毛利秀元。
ちなみに北九州の遠賀川にも鮭は上ってきます。
商売になるような数じゃなくて、採れたらニュースになるレベルだけど。
>>596 590だが、もしかして呼んだ?
「去る者は追わずが」主義なんでねぇ…遅レスすまねぇ
ちなみに昼ごはん食べさせて、お昼寝させて洗濯・掃除、その後買い物してから、夕ごはん作って食べさせて、お風呂入れて寝させたら、もうこんな時間なんですよ
あ〜うちの奥さん風邪で寝てるんで、土休取れたから子供の面倒見てるんですわ
このスレは、方向さえ間違えなけりゃ、良スレなんだから今後もウォチしてますよ
ちなみに、江戸時代初期の献立から考察する当時の日本人の栄養事情って感じで、友人は修士論文完成させてたから、たまたま知ってるだけなんですよ
軍事は初心者ですのでお手柔らかに
あははwいえいえ、私もウオッチしています者なのでお気にせず。
良質なネタ見つけました時は投下宜しくお願いします
当時サケ漁は、太平洋側は利根川、日本海側は山口県粟野川あたりまで行われていた。
平安時代初期は信濃、越後、越中が主で、西は因幡あたりまで朝廷にサケを貢進していた。
当時は内陸の信州での漁獲も多く、元和四年(1618年)には
幕府が千曲川での堰止によるサケ漁獲の四割を上納するよう命じている。
江戸に出回った利根川の初鮭、新巻鮭で有名なように、江戸時代後期までには江戸の一般の食卓にもサケは普及していた。
同じ遡上型サケであるサクラマスは江戸周辺で大量に獲れたし、
大坂でも淀川は日本一サツキマスの漁獲があった。
ちなみにサケは平安期、朝廷の官吏の給金としても与えられた。
604 :
少佐:2006/06/18(日) 23:01:39 ID:CEqG1YfZ
戦国時代に天下人だった豊臣秀吉!
彼が作らせた大阪城を見よ!
現在残ってるのはありゃ天守閣だけだが、本来はもっと巨大な城なのだ!
そんなものを作るだけの権力や財力がある人間なら、当時の日本で入手
可能な食材なら何でも好きなものを食えたに決まってるじゃないか!
豊臣秀吉は朝鮮半島の虎の肉まで塩漬けで送らせて食べてたと言うぞ!
605 :
少佐:2006/06/18(日) 23:08:01 ID:CEqG1YfZ
武士というのは領民の生殺与奪権まで持ってる当時の特権階級
なのである。
間違っても乞食や小作人ではないのだ。
また当時のニッポンは金銀銅なんかもよく取れて、朝鮮、中国、
東南アジア、西欧の南蛮船とも貿易をしてたわけだろ?
さらに中流以上の武士ともなるとお城や豪邸に住み、鎧兜なんか
も派手だったわけだろよ。
そんな特権階級が一握りのヒエや粟しか食えないということが
あるわけないだろよ!
606 :
少佐:2006/06/18(日) 23:12:09 ID:CEqG1YfZ
ヨーロッパの観光名所にもなってる古城なんかに住んでた
昔の封建領主が一欠けらのパンしか食えない貧しい食生活
をしていたと考える人はいないだろう。
一欠けらのパンしか食えない人間にお城が建てれるわけないだろよ!
それなのにどうして日本の封建領主に関しては、大根飯を
食ってたようなイメージしかないのだ。
607 :
少佐:2006/06/18(日) 23:32:01 ID:CEqG1YfZ
戦国時代よりはるかに火力が向上した第二次大戦やベトナム戦争
の激戦地でも五体満足で生き返った奴はいるのだから、戦国時代
の人間が火縄銃や弓矢を避けてもおかしくないだろよ。
当時の生活環境から考えて、現代では考えられない身体能力を
持った奴がいたとしても不思議ではないし、人権など無かった
時代に禅や武道なんかの厳しいトレーニングを積んでたわけだしな。
また手柄を立てれば、豊臣秀吉みたいになる可能性もある時代だった
のだから、時代から考えても戦人の夢や野望は大きかっただろうしな。
火縄銃の量産体制だってあったんだし、金銀なんかもたくさん取れた
んだから、世界皇帝になることだって可能性はあったわけあろよ。
608 :
少佐:2006/06/18(日) 23:38:37 ID:CEqG1YfZ
嘘か本当かは知らないが、戦国時代には当時の技術の範囲内
で地雷、手投げ弾、大砲はもちろん、人間が担いで撃つ携帯用
大砲まであったらしいじゃないか。
無反動砲でもなんでもない携帯用大砲をはたして人間が腰だめ
か何かの姿勢で撃てるのかと思うが、超人的な修練や驚異的な
職人の手わざでそれが可能だったとしたら、そりゃ凄いものがある。
もしや三人くらいで押さえながら撃つとしても、そりゃ凄い。
何か人間力とハイテク精神が結合したような精神が当時はあったの
ではないか?
>604-608
それなんて痛快娯楽ハイパー戦国絵巻?
610 :
名無し三等兵:2006/06/19(月) 10:22:07 ID:udPH3Eed
>>604 >豊臣秀吉は朝鮮半島の虎の肉まで塩漬けで送らせて食べてたと言うぞ!
朝鮮出兵の時の略奪品じゃないのか?
金で通商インフラを利用しての入手ではなかろう。
>>608 >地雷、手投げ弾、大砲はもちろん、人間が担いで撃つ携帯用大砲
これは本当に存在しているな。
焙烙火矢というロケット弾は室町時代から使用されていたし。
鉄砲も中国の短銃身・直点火式のものなら15世紀に日本に伝来してる。
普通、ウソでも面白いこと書いてる文章ってパッと見だけでひきつけられるもんだがこの少佐とやらの文章はうっとおしいだけだな。
鳥変え御挨拶+まあまあ・・。
いやまあ、折角突っ走って貰っているのですが、
今、手一杯で返信レスできないのが残念・・・。
それでもいちお1つ。↓
>弓 鉄砲
弓と火縄銃の弾丸なら、いちお〜目で見えるので、
弓は太刀で、弾丸は小手で弾く事は可能だった模様です。
自分の剣道の腕では、弓道部とタイマンする気にはなれませんでしたが・・(w
>>614 秒速500mと現代の拳銃より初速の速い火縄銃の弾丸を見切ることができるとは・・・
さすがですな
>>613 その天然本気な微妙さが・・・
そこらの受け狙ってレスしてる確信犯とは違うのだよ
それゆえ少佐殿は神聖不可侵となったのだろう
ああ、申し訳無い・・・自分では見切れる訳ないですよ。
火縄ネタは昭和30年辺りの古い文献だったりします。
(その文献ではソース元が提示されていませんでしたが。)
と、このようにレスしていると
>>615氏のように良いレスが帰ってきたりしますので。
とりあえず言ってみて、良い論客(数字・ソース)が出るのを待つ、というのも良いのでは。
で、
>>617だけでは資料鵜呑みと思われますのでもう1つ。
火縄の弾丸は、御存知のように球体ですので、
有効射程距離、結構短い模様。
何間かは忘れましたが、それなりに距離が離れていますと・・・・・。
それを見切って小手で受けた、という話になったのかと。
弓矢だってまさか10-20mの至近距離とのタイマンという話ではなく、
それなりに遠い間合いの御話でしょうね。(具体例 野球の外野からの捕手への返球)
>>618 火縄銃は六匁筒で射程距離約500m、殺傷可能距離約200mだそうだよ。
葉隠でも火縄銃の飛んでくる弾は見えないとか書いてるが、絶好調時のイチローが300mくらい距離とればできたりして・・・
時速160kmのボールもヒットにできるんだから。まあ火縄銃の初速は時速にすると1800kmだがw
こういう数字が出てきますと、俄然戦国も身近に感じられますですね。
>>619さん、ありがとうございます(^^)
たしか昔は何かの番組で実際に
「 火縄の威力 」とかも検証していたハズなんですけれど・・発砲時の煙しか覚えてませんwww
それらの実際の検証データとか集めた本・・なかったですかしら。
つーかこのスレでつい数日前までそういう話してたわけだが
読み返せばいいかと
>>621 ん。かたじけない。で、、、
こちらの手元にある「ある1説」によると伝来した頃の火縄銃は、
・鉛球の飛距離 700m
・射撃の 距離 300m( 当たってもかすり傷らしい )
・有効な 射程 100m だ、そうです。
この手元にある↑1説によると300m辺りから射撃を始めるそう。
ドンパチ開始間合い300m = 軽く石を投げつける程度の速度?
これならワタシラでも角度と方向と位置さえ良ければバットで打ち返せそうw
草原や砂漠の民の様に視力2.0を遥かに超える人の場合、
日夜武術の練磨や狩猟に明け暮れていた人達だと・・?
何mで小手で受けたのでしょうかしら、なのです。
・・・やっぱり両軍睨み合い
300mの間合いからの開戦第1弾を弾いたという話なのか?
(・▽・)こんな感じです。>火縄の話
前後で数字を出してくださった方、ありがとうございましたです。
さートンデモベースボール、プレイボールです
ハナからデッドボール狙いか
アストロ球団なみにデンジャーですな
625 :
名無し三等兵:2006/06/19(月) 23:37:35 ID:sTTxWYfu
今までの流れで見たら、
翡翠〉〉〉(越えられない壁)〉〉〉小佐
といった感じではあるがな
小佐も他人の意見聞きながら、軌道修正すればいいのに
まるでミッドウェー前の図上演習の如く、結果ありきだから始末に負えない
実は本当に旧日本軍の亡霊だったりしてw
渋川剛気先生なら或いは…
>>611 虎肉は加藤清正がせっせと送ってたそうだが。
食べたくないのにしょうがないから食べて体調を悪化させたとの珍説もある。
628 :
名無し三等兵:2006/06/20(火) 03:06:21 ID:RaptszlA
>627
虎狩りは清正に限らず
肉体の衰えから精がつくという虎肉を食べたがった秀吉に献上するために多くの大名が躍起になったそうで。
石田三成が島津義弘に送った礼状には
「虎の肉はずいぶんとたまったのでしばらくは不要」
という旨が書いてあったとか。
豊臣秀吉の本当のあだ名は「六つ」
指が6本あったから。
日本を「二ほん」って書いてたんだよな秀吉は
当時はわからない字があったら適当な当て字にしたらしいが
ネタ投下↓
『信長公記』 太田牛一
一番に山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退。
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。
>>629 虎肉がどんな味か知らないが
朝鮮から送ってくるわけだし当時すでに弱ってた秀吉には悪そうだね。
始皇帝は不老不死の薬として水銀を飲んでたらしいけど・・・。
634 :
少佐:2006/06/20(火) 23:47:33 ID:yzEVNze6
かの豊臣秀吉が朝鮮の虎の塩漬け肉を食べてたということは、
戦国大名がその権力で好きなものを食えた証拠だろう。
豊臣秀吉だったら、毎日最高級の牛肉ステーキを食べることも
可能だっただろう。
もちろんコメに至っては毎日一升でも二升でも好きなだけ食えただろう。
一応当時のニッポンに牛はいたのだからね。
635 :
少佐:2006/06/20(火) 23:51:12 ID:yzEVNze6
火縄銃の性能がどうたらと書いてる人もいるが、当時でも一応
大砲や手投げ弾はあったのだ。
また投石、弓矢もあり、忍者、足軽もおり、一応騎馬武者も
いたのである。
有名な豊臣秀吉の水攻めも行われていたのである。
現代から見たら貧弱な火力を補うだけの総合的攻撃力が
そこにあったのである。
636 :
少佐:2006/06/20(火) 23:54:12 ID:yzEVNze6
第一次大戦の火力でもドイツ軍の浸透戦術は有効だったわけで、
戦国時代の足軽も舐めてはいかんだろう。
一応の鎧を着けて、槍や刀を持って死ぬまで突撃するのだから
少々の火力に匹敵する破壊力がそこにあるのだ。
死んだら腐って病原菌を出して、生物兵器としても機能する。
637 :
少佐:2006/06/20(火) 23:58:14 ID:yzEVNze6
長篠の戦で火縄銃を連発して織田軍が武田軍を撃退したと
言っても、さすがい当時のロジスティックや生産力では
ベトナム戦争のように何年にも渡って毎日銃弾を連射
しまくるのは不可能だろう。
武田軍が塹壕を掘り、ほふく前進で接近しても戦局は
いくらでも変化しただろうしね。
638 :
少佐:2006/06/21(水) 00:00:55 ID:yzEVNze6
また当時の技術では一応それは可能なのだから、武田軍が
強力なボウガンを作り、それを塹壕から撃ちまくるという
手もあっただろう。
曲打ちして、じわじわとダメージを与えるのだ。
>>633 文献は忘れたが、滋養強壮のために秀吉が求めたのだが、
島津家から送られた虎肉は塩漬けされた物で
当時の秀吉には固く筋張ったこれがとても食えた物ではなく、
それが前述の文面に繋がったとか……。
うろ覚えだがそんな話は聞いた記憶がある。
現在でも臭いだのと不評だし、大物を求められる傾向が
あっただろうから、余計にではないかな?
>639
「島津奔る」ではなかったでしょうか。
私もうろ覚えなもので…
肉食獣は悪食なんで、たいがい肉が臭くてロクに
食えたモンじゃないそうですね
ネタでは島津家は鉄砲は使わずに槍で虎に挑んだとありますが、
高麗虎狩図屏風(都城家所蔵)だのでは鉄砲は使っていましたかな。
島津義弘が一騎打ちで相手を狙撃した等という話もありますし、
そこな辺りも如何な物なのでしょうね?
まあ、当時の火縄銃の速射性・命中精度などを考えると
それほど分がよいとも限らない気もしますが。>狙撃での鉄砲。
>>640 関ヶ原の通常パートは兎も角、
島津絡みは異様に気合いの入った怪作か……。
あれだとすると、逸話を調べれば
そんな話も見つかりそうな。
>>641 虎肉でぐぐれば臭気がぷんぷんと。色んな意味で。
644 :
少佐:2006/06/21(水) 02:35:21 ID:Plu4485E
豊臣秀吉に虎の肉を送るために火縄銃で虎狩りをしたということは、
朝鮮に行ってる武将たちは現地の殺したての虎の肉を焼肉にして
食べた可能性はあるだろう。
他にも虎を食うんだから、鹿やいのししも食っただろう。
だいたい当時の武士は人間の肉も焼肉にして食べたという話があるほどだ。
体が資本だけに、滋養強壮になりそうなものは何でも食べたのだろう。
645 :
少佐:2006/06/21(水) 02:38:42 ID:Plu4485E
総合格闘技に出てくる柔道の吉田秀彦なんかも結構強いし、
ニッポンの国技である相撲の相撲取り達も少なくとも相撲に
関しては立派な相撲を取ってるじゃないか。
あとニッポンは平泳ぎでもオリンピックで金メダルを取ってるだろ?
生きてること自体がトレーニングみたいな戦国時代にそんなやつが
ゴロゴロしててもおかしくないだろよ。
宮本武蔵の話を見る限り、ゴロゴロしてたようじゃないか。
646 :
少佐:2006/06/21(水) 02:41:33 ID:Plu4485E
あと千葉真一の影の軍団だよ。
当時はただの観光用の見世物ではなく、立派な職業集団として
機能してたわけだから、千葉真一みたいなのがゴロゴロしてても
全然おかしくないだろよ。
ただのタコ助みたいな集団だったら、活躍なんかできるわけがないだろ?
実際、いろんな忍者の道具や忍者屋敷も残ってるじゃないか。
647 :
少佐:2006/06/21(水) 02:44:16 ID:Plu4485E
あとは中国の人民解放軍ではトレーニングの一環で体を鉄の棒
で叩いたり、刀の上を走ったりするじゃないか。
トゲの上で寝るなんてのもあるだろ?
頭突きで重ねたレンガを勝ち割るのは日本にもいるだろ?
ましてや戦国時代なら、あんなのがゴロゴロしててもおかしくない。
648 :
少佐:2006/06/21(水) 02:48:04 ID:Plu4485E
それから有名な忍者の水くもなんかも、もしかすると当時の
人は驚異的な身体能力であれを使って水の上を走ったのかも
しれないだろう。
さらにマントを使ったむささびの術なんかも、これまた驚異的な
身体能力で現代のオリンピックの体操やサーカスの空中ブランコ
を超える技みたいなので可能にしていたのやもしれない。
>「島津奔る」
あれは盗作云々よりも、義弘と関ヶ原をともにした一行と、
義久や忠恒、それに庄内の乱関係との格差が激しいような……。
――つーか島津家は現存している分、あまり客観性を感じさせる
本が見あたりませんな。
何か良いのはありませんかねえ?
650 :
少佐:2006/06/21(水) 04:23:20 ID:Plu4485E
フランス革命のころの民衆は娯楽として略奪やギロチン処刑を
楽しんだというが、ここから考えるに戦国時代の日本人に
とっても戦争は娯楽だったのではないか?
娯楽が乏しかった時代、飲んで食って騒いで女抱いて、大麻を
やって合戦をすることが最大の娯楽だったなんてことはないか?
651 :
少佐:2006/06/21(水) 04:25:01 ID:Plu4485E
また戦国時代の合戦は当時の公共事業だったという面もあるんじゃないか?
間違いなく需要や雇用が生まれるからね。
652 :
少佐:2006/06/21(水) 05:49:35 ID:Plu4485E
現代の傭兵や特殊部隊なんかもナイフを重要視してと言う
人はいるわけで、刃物や石ころで戦ってた時代を再考する
ことは重要なのである。
それって戦いの原点だからね。
最近の少佐はつまらんな
大体塩漬けと言う時点でステーキのような味は期待できないし。
コンビニで売っている塩カルビ牛丼くらいの味がせいぜいのはず。
しかも塩漬けとは言ってもある程度腐敗は進行するはずで
臭みがあるのは隠せないだろう。
>>641 かもね。俺は極端な肉食だが、ベジタリアン時代は体臭がほとんど無かった。
肉食するようになってからは、体から動物臭がするとよく言われる。
某研氏は昔から代表サッカー板の常連でもある。
>>632 ほとんど鉄砲しか活躍してないな。
武田方は一斉にではなく、部隊を入れ替え入れ替え攻めてきたこともわかる。
フレッシュな部隊を入れ替えて投入するのしても、これって逐次投入では・・・
長篠の勝利が鉄砲でもってもたらされたということはここでも裏付けられる。
身がくしし鉄炮にて待請け、とあるから敵の騎馬武者を伏兵で待ち伏せし射撃ということだろうか。
「島津奔る」は工房の頃の通学中にサッラと読んだだけなので…
盗作疑惑とかあるんですか。
読み物としては非常に面白かったのですが。
武田の騎馬隊は精強だなんていう一般的な認識がありますが、
数的には武田軍全体の0.7〜8%ぐらいで大多数は徒歩組だったそうですが、
騎馬のみで構成されたユニットも運用したのでしょうか?
>659
長篠の勝利自体は鉄砲に依らなくとも出来ただろう。
織田方は3倍の兵力を用意した上に防御陣地に籠もってるので、
単純に戦力比を出せば9対1になってる。
>>661 付け加えると、
織徳連合軍は別働隊を派遣して武田方の鳶の巣砦を陥れ、長篠城を攻囲から解放。別働隊と城兵が、武田
方主力を後から脅かす態勢になった。
勝頼にすれば、信濃に後退するか?正面の織徳軍主力を撃破するか?を早々に決める必要に迫られた。
なぜなら長篠城と別働隊により、武田方は荷駄隊の通行の確実性が失われたので、主力が手持の兵粮が
保つ間しか対陣できなくなったからだ。また主力を以て長篠城を再攻撃することも危険、長篠城(及び
別働隊)と織徳軍主力とに挟撃されるであろうからだ。
>656
だろう?
軍板名物少佐を知らんのかっていってたヤシがいたけど、俺はこのスレで
初めて見た。俺は別に名物扱いする気などない。
664 :
名無し三等兵:2006/06/22(木) 00:19:52 ID:832N2qQc
>>651 公共事業というか出稼ぎに近いんじゃないか。
農閑期に出兵して略奪。現地民を当たりかまわず捕まえて奴隷として売りさばいたり。
敵の城なんか誰も攻めないで略奪や人狩りに夢中なんて話いくらでもある。
上杉謙信なんか領地増やすでもなく見事にこのパターンだね。
キリスト教の協会とか神父さんが高く買ってくれたんですよね。
そして、秀吉の人返し令ですよ
特に、乱妨された捕虜の異国への売却が、
問題視されたとか
667 :
少佐:2006/06/22(木) 01:01:22 ID:bu96KNZJ
火縄銃の話ばかりが出てるが、忍者による攻撃や水攻め、兵糧攻めも
盛んに戦国時代では行われているのだよ。
つまり一般には20世紀になってから発明されたとされる浸透戦術、
電撃作戦、縦深作戦、キルゾーンなどという概念は戦国時代にも存在
し、実行されていたということになるのだ。
668 :
少佐:2006/06/22(木) 01:05:52 ID:bu96KNZJ
それから戦国時代における「そろばん」はちょうど第二次大戦の
コンピューターに匹敵する当時のハイテク兵器であったことも
忘れてはならないだろう。
ついでに言えば、南蛮渡来の機械式時計や航海術などもそうだ。
ただ火縄銃の火力だけで戦ったわけではない。
何をどう考えても火縄銃には機関銃のような火力はないんだからさ。
「名物にうまいものなし」昔の人はいい事言うよなあ。
670 :
少佐:2006/06/22(木) 01:09:29 ID:bu96KNZJ
また当時すでに原始的ながらも手榴弾や地雷が実在し、戦争で
使用されてたことを考えれば散弾銃も使用されてた可能性がある。
紙袋に包んだ、小さい複数の鉛球を筒から発射するような兵器である。
弓矢の先に爆薬を付けた、当時のロケットがあり、使用されてたこと
を考えれば十分ありえる。
671 :
少佐:2006/06/22(木) 01:17:42 ID:bu96KNZJ
また繰り返すが接近戦でのピストル乱射やカラシニコフ乱射
を避ける奴はいるんだから、距離がある状態で火縄銃を避ける
奴は絶対いるだろよ。
ましてや弓矢を避ける奴も絶対いる。
火縄銃の弾はトマホークみたいに空中で向きを変えて標的に
飛ぶのかよという話だ。
フェンシングの突きやボクシングのパンチ、ムエタイ、テコンドー
のキックでも避ける奴はいるだろ?
絶対に避けられないと主張する人間もいるだろうが、ならばなぜ
第二次大戦や朝鮮戦争などの現代戦でも白兵戦が起きたのかという話だ。
弾が絶対当たるなら、どうして兵士が銃剣、刀剣、石ころ、棍棒などで
白兵戦をやったというのだ!
どうして第一次大戦でドイツの浸透戦術が有効たりえたというのだ。
「馬鹿につける薬は無い」
昔の人はいい事言ってるねぇ
>>655 塩漬けの程度にもよるかと。
今でこそ干物だのは軽く干しただけですが、当時は保存性が割りに重視されますし。
逆に腐敗がある程度進んでいた場合、牛や豚のように腐敗=熟成となり
寧ろ柔らかくなる目もあるかも知れませんし。
また、臭いですが、先に満州だか山東の方だったかで牛肉だかに
虎の小便をかけて虎肉と偽装した等という阿呆話があった気がします。
ですので寧ろ臭さが虎肉の証明なのやも知れません。
ま、全身臭いスジ肉みたいな豪快な代物なのかも知れませんが。
>>664 侵略してきた大勢力に対する地元土豪の
奇襲や強襲の成立する場合、
或いは後北条等の籠城策は、
これらに対する積極策だったり
対処法だったりするのかな、等と。
>>660 関ヶ原の合戦における描写で、島津家部分以外が
司馬遼太郎の遺族に「関ヶ原」のパクリだと訴えられていた
モノと記憶しています。
尤も生前の司馬遼太郎は「島津奔る」を読んで、
関ヶ原での島津家の解釈に感心していたとも聞きますが。
司馬史観に加え、更に司馬遺族が動く。
最早笑うしかない状況でしょう。
676 :
少佐:2006/06/22(木) 01:55:18 ID:bu96KNZJ
司馬史観は本当に酷いというのが最近の定説になってるね。
日露戦争の乃木大将でも史実では塹壕や地下道を掘り進め、
大砲、機関銃、迫撃砲、ライフルの援護射撃のもとで手榴弾なども
持って突撃したわけだが、司馬史観では何の援護射撃も手榴弾も
無く、塹壕すら無く銃剣のみの突撃をしたとなってるからね。
また乃木がロシア軍の補給路を切断し、気球までも使って情勢判断
したなんてことも完全に軽視されている。
677 :
少佐:2006/06/22(木) 02:02:24 ID:bu96KNZJ
だが司馬と同じ間違いを犯してる人間はここにも多いな。
今から400年以上前の話である戦国時代の人間が現代人と
何も変わらない感覚や身体能力で生きてたように考えている
んだからな。
平均寿命20歳以下で刀剣による白兵戦が頻発し、百姓も
火縄銃などで武装して戦国大名と戦ってた時代に何をどう
やったら現代の東京人とまったく同じ感覚や身体能力が生まれるんだよ。
678 :
少佐:2006/06/22(木) 02:08:58 ID:bu96KNZJ
江戸時代の江戸庶民でも彼らが天ぷらや寿司などを盛んに
食べていたことはさまざまな資料から間違いないのだ。
そりゃ乞食もいただろうが、多くの人間が東京湾や多摩川の豊富
な魚貝を食い、コメも食べていたのだ。
卵や鶏まで食べていたという資料もある。
酒も飲んでいたし、歌舞伎を見たり、貸本を読んだり、ちょいとした
国内旅行に行くことも流行してたらしいじゃないか。
679 :
少佐:2006/06/22(木) 02:14:10 ID:bu96KNZJ
それから前時代では当たり前の治療法だった「心霊治療」にしても、
当時の人はそれをマジで信じていたのだから、それで少々の病気は
治った可能性は十分ある。
現代でもプラシーボ療法として医学的にも認められてるしね。
また自然が綺麗で漢方治療、サウナ、大麻アヘン、安静などの治療もそこに
加味されれば、治療効果が上がったとしても不思議ではない。
さらに非常に限られていたとは言え、オランダ医学も入ってはいたのだしね。
全ての病気は治らないだろうが、ある種の病気ならすぐ治っても不思議じゃない。
680 :
少佐:2006/06/22(木) 02:20:33 ID:bu96KNZJ
また江戸時代の飢餓の話にしても、それが事実であるとしても
南京大虐殺のように誇張されてる可能性は十分ある。
なぜなら当時は自然が破壊されておらず、乱獲もないのだから、
魚貝は豊富だったはずだし、山菜や野生動物も豊富だったと思われるからだ。
コメが大被害でもイモ、ヒエ、キビ、粟、蕎麦などは採取可能なはずだ。
伝染病や洪水なんかの被害者も含めての死亡者なのかもしれないじゃないか。
昔は飢饉や伝染病がしょっちゅうでしたよ、少佐。
貴方がお好きなお米だって品種改良が未熟だから病気にもやられるし。
農薬ないからイナゴやらウンカやらに食われるしさぁ。
キビやらアワだって腹いっぱい食えたかどうか…。
食えりゃ餓死者はいないでしょ
682 :
少佐:2006/06/22(木) 03:51:16 ID:bu96KNZJ
>>681 伝染病や洪水がしょっちゅうだったのは間違いない。
なにも餓死がゼロだったというわけではないのだが、はたして
イメージどおりのものなのかどうかという検証だ。
ヒエとか粟なんてのはそこらへんに埋めて置けば、後は手間
無しで勝手に生える雑草みたいなもんだよ。
それから前述のように魚貝や山菜は豊富だったはずだ。
今でも山間部では山菜を食べてるだろ?
683 :
少佐:2006/06/22(木) 03:56:17 ID:bu96KNZJ
飢饉がゼロだったとは言わない、しかし江戸時代の研究によると
農村でも国内旅行に行ったり、村で歌舞伎や祭りをしたり、
学問が流行したりなんてことがあったそうなのだ。
農村部に伝わる伝統的なお菓子もあるが、常に餓死寸前の暮らし
だったらお菓子なんてものが生まれるわけないだろう。
お節料理も然りだ。
また有名な富山の薬売りは江戸時代の農村で販売網を広げたらしいが、
餓死寸前だったら薬なんて買えないだろし、村に神社仏閣を建てる
ような余裕も一切ないだろうよ。
684 :
少佐:2006/06/22(木) 04:04:15 ID:bu96KNZJ
戦国時代には宮本武蔵の二刀流みたいなものがあったのだから、
鉄砲の撃ち方にしても現代の常識では考えられないような特殊
な武道みたいなものがあったとしてもおかしくはない。
異様なまでに高度な射撃テクニックとそれを可能にする身体能力
があったら、ライフリングがない火縄銃でも凄まじい命中率に
なるだろうしね。
拳銃でも名人は50メートル先の標的を射抜くというだろ?
685 :
少佐:2006/06/22(木) 04:07:52 ID:bu96KNZJ
有名な真剣白刃取りにしても、ようはスプーン曲げの清田君
みたいな奴のハイグレード版がいて、「えい」と日本刀を掴んで
グイッと飴のように曲げたのかもしれないだろう。
スプーンが曲がるなら、同じ金属である日本刀が曲がっても
おかしくない。
あとは気孔発射による攻撃も400年前ならあり得るだろう。
686 :
少佐:2006/06/22(木) 06:31:22 ID:bu96KNZJ
日本刀でもすぐ刃が欠けたとか、折れたなんて説もあるが、
突きまくりながら、頭突き、蹴り、体当たりなんかも駆使
しながら浸透戦術をしたのかもしれないではないか。
死んでる奴の刀を即座に奪い取って戦うという方法もあろうしね。
まったく無意味な武器なら戦場に携帯しないはずだ。
少佐は、自分で戦前の暮らしができると思う?
スレタイみて良スレだと思った。
まさか少佐がいるとは思わなかった。
今は反省している。
少佐k中の人は時代によって違うの?
昔は中が便厨だったこともあったって聞いたことがある。
少佐の中の人は色々ですよ。
そんなことより論破補正できるネタと時間を握っている場合は交戦いたしませう。
・・つか少佐、こんな論客揃いのスレより
過疎スレでスナイパって奮起してくれればいいのに(乱射は駄目でつよ)
>日本刀
日本刀といえば足利の剣豪将軍ですの〜。
でも名刀名人がでも裸死体3つ4つ胴という世界ですから。
それに刀の習得は凄い大変。集団で密集して長槍バンバカ打ち下ろすのが楽ですの。
んでもちろん、
>>686 を否定する気はありませぬ。
戦場で単独、大将首狙う1旗組は危険を冒してでも乱戦に突っ込んでいたでしょうし。
乱戦ならば咄嗟に小回りなんて効く訳が無い長槍より刀の方が便利でしょうし。
その場合ならサイドアームならぬメインウェポンでありますでしょうね。
このスレももう終わりだね・・・
刀(数打=大量生産品)に関しては、
折れる刀が悪い刀で曲がる刀が良い刀だそうな。
だから一番初めに曲げて見て、折れなかったら買う、と。
折れたらもう使えないけど、曲がっていても鉄の棒としては使えるからな。
ただ、素手で簡単にぐにゃと曲げられるような代物ではないだろうが。
>>692 曲がっても材木に挟んで押し付ければ直るよ。
真剣で藁や竹を斬るとき、たまに打ち込みの角度がまずくて曲がることがあるんだ。
そんなときはそうやって直してます。
694 :
小差:2006/06/22(木) 20:29:16 ID:bXXIQZUP
打刀が曲がっても、新しく購入すればいいんだから
それほど問題じゃない。
696 :
名無し三等兵:2006/06/22(木) 21:26:09 ID:q0Y+ZeZe
居合いなんて近代の発祥だろ
どうせ明治日本のインチキ武士道から妄想された武道のひとつにすぎない
698 :
名無し三等兵:2006/06/22(木) 21:45:26 ID:q0Y+ZeZe
>どうせ明治日本のインチキ武士道から妄想された武道のひとつにすぎない
うんにゃ、江戸時代の「決闘剣術」だよ。まぁ、平和な時代の喧嘩なら「先に抜いた方
が勝ち」だな。西部劇のガンマンと一緒。
西部劇のガンマンは「後から抜いて先に射つ」だけどな。
西部劇のガンマンは主人公補正がついているので、後から抜こうが負けません
たしか俺も名刀は曲がっても治るというのを読んだ事がある。
それに今の手榴弾みたいのも戦国時代にあったらしい。元寇の遺産なのか?
「てつはう」は元寇の時に使われたらしいが
それ以降の火薬兵器は、石火矢がそうかもね
焙烙玉もな。
>>703 「てつはう」は実は後世の加筆という説もある。
706 :
名無し三等兵:2006/06/23(金) 00:14:34 ID:uZeLEfJq
>>705 あと元軍の槍をかまえてる人も
(後ろの兵士と書き方が全然違う)
>>705 元寇の200年近く以前から、震天雷という陶器に火薬を詰めた爆発弾はあった。
もともとは金という女真人の国家が城壁の上から投げる為に発明したものだが、
これをカタパルトで発射して数百m飛ばすこともしていた。
石火矢も11世紀には発明され、バトゥのヨーロッパ遠征でも使われたようだ。
ポーランド・ドイツ連合軍の記録には「モンゴルが炎の魔法を使ってきた」とあるw
確か沖縄にもヒャーってのがあったな。
711 :
名無し三等兵:2006/06/23(金) 02:42:14 ID:+jikeQhK
てつはうの陶器なら博多湾の海底からサルベージされてたはず
712 :
少佐:2006/06/24(土) 01:37:12 ID:wQ0hm8Lg
日本刀は折れても折れてない部分は切れるわけだし、もう頭突きあり、
蹴りあり、投げあり、体当たりあり、転げたら砂を相手にぶっかけるあり
の総合格闘技みたいな戦だったんじゃないか?
戦では刀が折れても戦うしかないんだからさ。
それに刀を二、三本くらいは折れてもいいように持ってたんでしょ?
また伝説では手から気孔を発射して相手を吹き飛ばしたなんてのは
いくらでもあるんだよ。
713 :
少佐:2006/06/24(土) 01:39:08 ID:wQ0hm8Lg
よく横山光輝の三国志なんかに出てくる「妖術で幻覚を発生
させて敵を撃退する」なんてのも一種の凄い集団催眠術なんかが
あってそれで実際にやってたんじゃないか?
催眠術そのものは古代からあったらしいからね。
714 :
少佐:2006/06/24(土) 01:42:40 ID:wQ0hm8Lg
後進国なんかによく心霊治療というのがあるじゃないか?
あれの本を読んだら、麻酔無しでそこらへんの包丁やハサミで
人間を切りまくり、病気の元である黒い塊みたいなのをポンと
取り出してそれで治った人もいるなんて写真入で書いてあるんだよな。
それが催眠術の一種なのか、霊力なのか知らんが麻酔無しで患者が
痛みを感じずに外科手術をしてるというのは凄いことだろうよ。
なんか写真では脳の外科手術まで出てたぞ。
そんなのも400年前ならけっこうたくさんあったんじゃないのか?
今でも後進国ではゴロゴロしてるんだからさ。
715 :
少佐:2006/06/24(土) 01:46:40 ID:wQ0hm8Lg
戦国時代の暮らしを考えるに、短小包茎だったら、ちょっと大変
そうである。
チンカスがたまりまくりそうだろう。
当時の医療による割礼とかあったのかな?
また赤痢とかになったら運と体力のみで生き延びるしかなかったのだろうか?
それとも治療薬があったのか?
716 :
少佐:2006/06/24(土) 02:32:00 ID:wQ0hm8Lg
それから現代でも腐ってカビが生えまくってる野菜とか果物
を食べても平気な奴っているんだよ。
胃袋の塩酸がよっぽど強く、胃袋も普通人より温度が熱いのだろう。
そういう常識では割り切れない人間の身体能力というのは現代でも
たくさんあるだろうよ。
小佐の語るトンデモ戦国時代はまだまだ続きます
お楽しみに!
しかし、小佐の語る内容って「ムー」の劣化パクリなのがイマイチやね
ミクロの積み重ねで方向性間違えたら、ハチャメチャになる一つの例ではあるがな
ムーも結構面白いネタ拾ってくるんだがなあ・・なにせムーだけにw
ムーの立ち読みはエロ本の立ちより恥ずかしい。
なかなかできない><
721 :
名無し三等兵:2006/06/24(土) 18:50:10 ID:0dbVXZqv
誰も居ない古本屋で買えば無問題w
ムーと歴史群象は姉妹誌。
すなわち、軍事とオカルトは・・・
その気になればまさに「何でもあり」の業界ではあるなw
725 :
名無し三等兵:2006/06/24(土) 22:22:55 ID:2hCV06Z4
胃袋の酸は塩酸じゃねぇよ
なぜみな少佐にマジレスするのか
言っちゃなんだが、少佐よりムーの方が数倍面白い。
>>726 うざいからだろ。書き込み回数が多すぎるし、なんかナルチシズムを
感じるとこがイヤ。まだだつおの方がマシダ。
うざかったらNG指定であぼーんすればいいんじゃね?
少佐に限らず、話の通じない厨房は無視が基本だぞ。
戦国時代も野戦築城したんだろうけど、基本的な道具は農作業用鍬とモッコ?
シャベルやバールのようなもの とか地方によるだろうけど無かったんだろうか
ツルハシはあったみたいだけど、事前に装備として揃えておかないと必要数揃わないよね
で、備蓄数を・・・記述ある文献が見当たらない(大学でデータベース検索して現物当たってみたんだが)
どっかに眠ってて発掘を待ってるんだろうけど
一部大学の図書館には未解釈の古文書山盛りだけど、人手が足りていない
国文は就職無いから人気無いし、定員少ないんだよな
このスレで前にもあったけど、現代の土嚢に当たる俵積みも、なかなか記述が見つからない
当たり前過ぎて書いてないだけかもしれないが
>>729 そこまでやるのは正直面倒くさいし、強制排除は好かない。
本人の自主退去を希望したい(ジパング調)
>>730 図書館とか研究員はなりたい奴がいくらでもいるのに
採用は稀で超高倍率。
>>697 >>698 居合いの源流は戦国時代に敵に斬りかかれたときに
とっさに素早く鞘から刀を抜く技術から出てきたものなんですが?
座っている状態で斬りつけられたときに対応する技術でもあるし
奇襲への対抗技術であって決闘なんぞ考えてないというか嘘を広めるな。
あと、鞘から素早く抜くものだけが居合いだと思ったら大間違いだ。
一瞬で抜刀して即座に切って鞘に収めるなんてイメージのほうが漫画による幻想、
間違ったイメージだ。 勉強しなおせ。
>>731 2ちゃんねるのシステム上強制排除は不可能だし、いちいちマジレスして
自主退去させようと泥沼になってスレが埋まるから、
NG指定して無視するべきだといっとるんだが。
>>732 そして身障者枠で古文書読めないヤツが採用される罠
>>699 居合いも「後から抜いて先に斬る」だが。
あるいは「抜かずに斬る(斬らせないか、断念させる)」だな。
言い訳必要なときだけ<後から抜く
言い訳(大義名分)不要なら囲んで後ろから殴るが基本
738 :
少佐:2006/06/25(日) 02:35:28 ID:JoUb9AQh
戦国時代の伝説を見ると、いくらでも雑誌ムーみたいな話が
出てくるのである。
そしてこれが400年前の話だとすると、もしかするとこりゃ事実
であった可能性もあると思うのだ。
739 :
少佐:2006/06/25(日) 02:38:53 ID:JoUb9AQh
戦国より遡るが、源平合戦に有名な那須与一の弓矢の話があるだろう。
当時のゴルゴ13だった那須が弓矢で雑誌ムーのような超パワーを
発揮して見事扇を射抜く話だ。
だいたい当時は現代みたいな医学も何もなかった訳で、そこで生きてる
こと自体が雑誌ムーだろよ。
740 :
少佐:2006/06/25(日) 02:46:03 ID:JoUb9AQh
こりゃトリビアの泉でやってたのだが、日本刀に至近距離で機関銃
を発射したら、七発まで弾丸を見事に真っ二つに切った。
そこで力尽きて折れちゃったがね。
ならば雑誌ムーのような達人だったら、漫画みたいに日本刀で
鎧ごとズバッと切り裂くことも可能なのではないか?
これは先ほど述べた機関銃の弾丸の質量と速度から生まれる
運動エネルギーで考えて見て欲しいのだ。
なにもマシュマロを発射したのではなく、マンションの鉄のドア
、防弾チョッキ、クルマのドアを貫通する鉛の弾だよ。
741 :
名無し三等兵:2006/06/25(日) 02:46:50 ID:+/cArkju
那須与一はゴルゴ眉毛であった
↓想像図
742 :
少佐:2006/06/25(日) 02:49:50 ID:JoUb9AQh
戦国武士の格闘技というと相撲、合気道、柔術なんかのイメージがある
が、朝鮮出兵や東南アジアへの進出も行い、南蛮船も行き来してた
ことを考えたら、カンフーやムエタイ、西欧の武術も伝来してた可能性
があるだろよ。
火縄銃だった遠くポルトガルから伝来したんだからね。
南蛮人のフェンシングを見て、そうした剣も作られていたかもよ。
鉄砲、大砲、鎧でも真似てるんだから、剣だって真似てもおかしくない。
743 :
少佐:2006/06/25(日) 02:55:42 ID:JoUb9AQh
戦国時代の伝説をそのまま映像化したら角川映画の魔界転生
や里美八犬伝になるのだが、それが全て嘘だったとは言えない。
三国志の関羽の巨大な青龍刀だって、普通の青龍刀だってかなり
でっかくて人間の首をスパッと切ってもおかしくない形状なのだから、
豪傑が使用した特別青龍刀がもっとでかくてもおかしくない。
また中国は古代から肉を食べてるし、関羽の身分なら穀物も十分食べれた
だろうから本当に筋肉モリモリの大男で古代の凄まじい鍛錬や雑誌ムー
のパワーで武器を自由自在に操った可能性も十分あるだろう。
伝説を全て否定するだけの材料は存在してない。
744 :
少佐:2006/06/25(日) 03:02:14 ID:JoUb9AQh
加藤清正のトラ退治でも実際、アフリカのマサイ族には槍でライオン
を狩る部族もいるし、東南アジアにも槍や弓矢でトラを狩る部族は
存在する。
またいくら加藤が大名でも当時の移動は基本的に徒歩である。
そしたら実際に加藤が槍を持ってトラを「うおりやー」と狩った可能性もある。
当時の槍はその形状を見る限り、少々の鎧でも貫通するものだよ。
加藤の鉄拳制裁が炸裂しても全然おかしくない。
いやむしろ加藤がそれくらいの超人でなければ、加藤の戦国時代における出世
や民軍、朝鮮軍、民兵ゲリラと戦ってピョンヤンまで進撃したことを説明
できないのだ。
745 :
少佐:2006/06/25(日) 03:06:55 ID:JoUb9AQh
また加藤清正は戦場で槍が折れたのでしょうがなしにビンタの
鉄拳制裁で敵を倒したという話もある。
嘘としか思えないだろうが、実際に残る加藤の手形を見ると
かなり大きいのである。
この大きい手と当時の武術で鍛え上げた肉体から発射される加藤
怒りの鉄拳制裁を食らったら失神した可能性は高い。
もしかすると骨法の堀部の嘘のように鎧の上から内臓炸裂を起こした
のかもしれないではないか。
堀部と違って、加藤は実際に何度も戦に進撃して大名まで出世してるんだからさ。
当時の鎧兜を見ても、こんなものを着て走るのは超人ではないのかという
重さがあるのだしね。
746 :
少佐:2006/06/25(日) 04:58:07 ID:JoUb9AQh
当時も馬はあったのだが、戦場で馬が死ぬなんてことは当然あっただろう。
そこで加藤清正が馬の焼肉を丸かじりなんてのもあってもおかしくない。
また当時の話からして加藤清正が敵の人間の焼肉を丸かじりしてもおかしくない。
加藤の身分なら、魚介だって現地のものは食い放題だろう。
コメも食べ放題である。
動物性たんぱく質たっぷりで加藤が大男のムキムキだっても全然不思議じゃない。
島原の乱で、なんで天草四郎のような15のガキが「総大将」になったのだろう。
いくら神童と言っても軍事的指揮官という意味なら無理がありすぎる気がする。
かといってキリスト教シンボリックな意味でのトップというなら、これまた
そんな神童が「軍事的」なものにかかわると思えないのだが。
誰か一行目の疑問を推測でいいから説明してもらえないか。
とにかく島原の乱は資料が少なくて…
どっかの大名や国人の嫡流、あるいは一族だったんじゃね?
有馬氏、天草氏、よりどりみどりだよ。
軍事面に関しては有馬遺臣が一揆側を纏めていたらしいので、有馬の一族というのが妥当かもな。
750 :
名無し三等兵:2006/06/25(日) 12:58:41 ID:sS8kFXWi
>>742 織田信長は実際に西洋風の細い剣を作らせたそうですね。
>>747 名目だけの総大将で、実際は象徴としての役割だったんじゃない?
日本では嫡流の年端もいかない子供に後継がせて大名にするし。
で、実際は重臣達がイニシアチブをとる、と。
>>747 他の人も指摘しているが、乱の実際の指導者は有馬氏の旧臣で、
天草四郎は単なるお飾りと見る方がいいのではないのかな。
天草四郎の本姓は益田とする説もあって、それによると四郎の父甚兵衛は、
小西行長の家臣だったらしい。
753 :
名無し三等兵:2006/06/25(日) 14:09:26 ID:V3C+Dqgh
前の方の指摘したように、小佐=アボーン
してみたら…
「ムー」的なスレから、いきなり良スレに変わったぞ
小佐にマジレス返してる所がチトウザイから、今後は小佐放置でヨロシク
754 :
名無し三等兵:2006/06/25(日) 14:33:19 ID:vcYDpqWp
>>739 なんかのテレビ番組でやってたが
現代の弓道全国大会上位クラスの人でも難しいそうだがそれなりの確率で当てれるそうだ。
もちろん馬上で船の的という条件で一発で命中させたのは奇跡に近いけどね。
だからこそ現代まで逸話としてのこってるとも言えるが。
天草四郎は秀頼の子だから
ただ、少佐の駄ボラにもウルトラマグナム少数の真理が含まれていて、植芝盛平が陸軍兵士の射撃を
避けて格闘に持ち込んだ逸話が残っているんだよな。塩田剛三の回顧によれば、距離は50メートル
射手は3人だったかな。
まあ弾丸を見た訳じゃなくて、射手の指なり全身なりの微妙な動きから撃発の瞬間を見切って、射線
から体をかわしてってことなんだろう。
50メートルだと速い人で6秒ちょっと。訓練された射手なら二発撃てるが、初弾かわされて視界か
ら突然消えたら2発目は撃てなかったと思われる。
ただし
>>792は激しく抗議する。
合気道は戦国時代なんてないぞ。誕生をどの時点とするのかにもよるが、どんなに早く見積もっても
明治だぞ。大東流は合気柔術ではあるが、合気道の理念とはかなり違う。
(少なくとも、柔術と柔道ぐらいには)
少佐にレス返してる奴らは、あの物体に居ついて欲しいと本気で願ってるのか?
「少佐」あぼーんでみるみる良スレに
>>758 専ブラいれなよ、快適だよ。連鎖あぼん設定すればなお快適。
初心者のマジレスばっか
ほんとに2ちゃんもレベル堕ちたな
生暖かく諧謔してやればいいだけなのに
2ちゃんの古参とかダメ人間にはなりたくないな
>>761 ワールドカップで日本が負けたから、みんなイライラしてるんだろ
>756
「ゴキブリだって生きているんだ、友達なんだ
まで読んだ。
766 :
747:2006/06/25(日) 19:58:29 ID:???
島原の乱についてレスしてくれたみんな。ありがとう。
参考になったよ。やはり何か血筋的に重要人物だった可能性が高いようだね。
戦国時代は後世、脚色された部分も大きいけど
隠蔽された部分も大きいような気がします。
少佐の中に高位の人の確信犯もいたりするので・・
て、少佐は過疎スレに来てく(略)
>島原天草
血統だけであれだけの殉教者が出たのは不可解、という事だけ1つ。
伝説は置くにしろ、数千数万の大人が従った事実。
キリシタン受難・一向一揆・豪族の戦闘・農民一揆 らの例と比べるとどんなでしょう。
どんな軍師・血統がついてもあれだけの雑多な大群の統率ができるものなのでしょうか・・。
>名刀
戦時中の生き残りの方の本に、
くの字に曲がった刀が、一晩ほっておくと自然に治ったという話を読んだ事が。
名刀?を曲げてしまってオロオロしていたその方に、その方法を教えてくれた方曰く
「業物(名刀)を打ち据えて治すのは惜しい。悪い事は言わないから云々」
そして、その通りであったとの事。
>超常的武芸
とある古武術の方の言われますところ、
不思議なワザを発揮する師匠がいても、引き継げる能力のある弟子が出てこないと途絶えるのだそうで。
戦中の方たちの御話では、
眠ったまま歩いたり、眠ったまま聴覚その他は生きているとか、
そんな話がちょくちょく出てきたりします・・。
と、軍板ということで、数字ない話から数字の話に。
ある動員命令書では、
A大名から家来aへ 56人出しなさい。装備は 槍41、弓10、鉄砲4。
B大名から家来bへ 45人出しなさい。装備は 槍30、弓 5、鉄砲1、その他9。
という事例もあるみたいです。ただ、「鉄砲も持ってきてネ」の動員命令書は、
ある程度裕福な人たちへの命令書みたいで、貧乏な家には弓・鉄砲負担の指示はなかったみたいです。
ある1550年間の有名戦国大名のとある最前線の守備兵は
3000人に弓800鉄砲300という装備をつけてもらっていたそうです。
某戦国屈指の大大名は「槍の装備を略してもいいから鉄砲宜しく」とかの指示も。
ガミラスへ
ばかめ
ばかめ
773 :
名無し三等兵:2006/06/26(月) 03:33:14 ID:jQf5KT8X
なにが煽り誹謗中傷抜きで大人の議論をしましょうだ
お前が一番大人気ないじゃねーか
775 :
名無し三等兵:2006/06/26(月) 20:41:11 ID:IXgHuo5g
大名が鉄炮を持っていて、貸し出すことも多かったようですね。
大名が、槍、騎馬、鉄炮、旗、荷駄を貸し出して、
人数全員を扶持で雇えば、近代軍になりますね。
領土を分け与える方式から、
蔵米給付に変わっていくのも近代軍への変化の証でしょうか?
776 :
名無し三等兵:2006/06/26(月) 21:00:09 ID:cJL4aoFf
>>775 合戦じゃないが江戸時代の大名行列も
経費かかるんで行き来するときだけの臨時雇いだったそうだ。
人材派遣はそのその時代からあったってことだ。
いわゆる口入屋の出番か
人材派遣も単身赴任も終身雇用も過労自殺もみーんな徳川時代発祥。
779 :
少佐:2006/06/27(火) 00:58:48 ID:jP3i6AkK
>>747 天草四郎は伝説によれば、神のパワーでさまざまな奇跡を体現したと言われる。
まあ15歳で反乱軍のリーダーになり、戦力差から考えたら、かなり勇敢に奮戦
して打ち死にしてるのだから軍事的リーダーとしても優秀だろよ。
780 :
少佐:2006/06/27(火) 01:03:42 ID:jP3i6AkK
>>757 合気道そのものは戦国時代に存在しなくても、そのルーツである大東流
は鎌倉時代には成立しているものだ。
そしてそのなかには雑誌ムーみたいな話が五万とある。
例えば気孔を手のひらから発射して敵を倒すというのがそれだ。
わたし少佐はこれらは実際にある程度は現実にあり、そこに尾ひれが付いて
伝説が作られたのではないかと思う。
西野バレエ団のオッサンは写真にもあるように、気孔で人を吹き飛ばしている。
手のひらから気孔で巨大扇風機のような風を出すのではないか?
781 :
少佐:2006/06/27(火) 01:08:49 ID:jP3i6AkK
昔の人をいちがいに馬鹿にしたらいかんだろよ。
江戸時代の「いろは48手」というセックステクニックを見て欲しい。
何かアクロバットセックスのような合体が延々と描かれている。
零戦の坂井三郎の「逆さひねり込み」みたいなのが出てくるのだ!
こうした下半身の激戦でも凄まじい超絶秘儀を開発してたのだから、
槍や刀でも凄いものがあってもおかしくはないだろう。
チンポの先から気孔発射というのもあったかも知れないではないか!
782 :
少佐:2006/06/27(火) 01:12:55 ID:jP3i6AkK
なにかみなさんの戦争感というのは、ロボットみたいなものが
機関銃を乱射しながら何も考えずに突撃するとか、そんなイメージ
ばかりじゃないか。
それは史実に完全に反するのであって、古代や中世においては派手な
鎧や馬具を見ても解るように、芸能や芸術の一種でもあったのだよ。
それを頭から否定するなら、古代や中世の戦いを語る資格ないよ。
いわゆる近代バカというやつね。
中の人が変わったか?
784 :
少佐:2006/06/27(火) 01:17:19 ID:jP3i6AkK
それから当時のニッポンは火縄銃や城や東南アジアまで行ける
帆船を作る技術力があったのだから、ベトナム戦争でべトコン
が作成したような原始的ブービートラップをもっと上手く作って
いたとしても不思議じゃないだろうよ。
現在でも中世から受け継がれてる、原始的な罠漁は日本各地にあるだろよ。
熊を狩るマタギにもそんなのはあるだろ?
昔から犬や鷹まで使って猟をしてたのだしね。
もっと想像力を豊かにしたまえ。
785 :
少佐:2006/06/27(火) 01:24:39 ID:jP3i6AkK
また繰り返すが、当時の日本は鎖国してたわけじゃなく、南蛮貿易
も盛んだったのだ。
当時のニッポンは万国共通の貨幣である金、銀、銅なんかもたくさん
取れたのだし、陶器なんかもヨーロッパの王侯は求めたのだよ。
良質の海産物や良質の砂鉄から加工される鉄製品も輸出品だったらしいじゃないか。
何も無い国だったら、わざわざ帆船の時代に南蛮船が貿易で来航する
わけがないだろよ。
ビタミンC不足で壊血病に苦しんだ南蛮船の船乗りは日本のミカンなんかも喜んで
口にしたんじゃないか?
>>777 元祖派遣社員キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !!!!!
>>785 国内の内航路線ならいざ知らず
懐血病が心配される遠洋航海でみかんが出てくる訳があるまい
ビタミンC=みかん
って単純思考か?
生鮮野菜で十分だし、馬鈴薯が何故積まれていたか知ってる人なら、そんな語りはしない筈
お前は「陸軍小佐」でも名乗ってろ
789 :
名無し三等兵:2006/06/27(火) 13:59:20 ID:ZNKM9tG9
>>788 “ビタミンC不足で壊血病に苦しんだ南蛮船の船乗りは日本のミカンなんかも喜んで
口にしたんじゃないか?”というのは、日本を訪れた南蛮船の乗組員たちが、喜んで
喜んでミカンを食べたのではないか?と言っているんだよ。
“懐血病が心配される遠洋航海でみかんが出てくる訳があるまい ビタミンC=みかん
って単純思考か?”というのは貴方の文章の読み間違いだよ。
>>778 武士は終身雇用どころか子孫まで永代保証。
自分が頑張って手柄立てれば子孫代々食えるのだからやる気も出るだろう。
戦国から江戸初期まではそうでもないけど、家光のころからの浪人大発生で
だいぶ保守的というか何よりお家大事になったみたい。
792 :
名無し三等兵:2006/06/27(火) 20:04:04 ID:iXk9scLW
弓より石礫が有力な兵器だった件について…
そりゃそうだろ。日本でサッカーでなく、野球が定着したのは
剣豪と石礫投げが戦争の基本だったからさっ!
>>792 有名なローディス島やバレアレス島の投石兵の石礫すら死者は殆ど出なかったんだが。
本当に石礫が弓より有効なら何で訓練に多大な時間を要する弓が使われたんだ?
>>794 石礫が全く向こうだったら、クロスボウという発想も生まれないのではないかと。
ある程度の有効性を見いだせるからこそ、弓と融合させて、
機械力で飛躍的に威力を増したらどうなるかという発想にもなるわけで。
>>795 俺が言いたいのは訓練も多大な時間がかかるし製造だって決して簡単じゃなく弾を作るのにも時間がかかる弓矢が石礫よりも非力なら使われる筈が無いって事だ。
投石なら弓と比べて訓練は簡単だし弾だってその辺りに落ちてる石っころを使えば良いだけだ。
石礫で怖いのは顔の等防御されてない場所に当たった時だけで装甲されて場所にあたっても大した事は無い。
ある程度距離があれば避けるのもそんなに難しい事じゃないし。
カエサルの内乱記にもローディス島の投石兵があまり役に立たない事が書かれてる。
戦国時代の騎馬武者用の甲冑、矢は跳ね返すが野球のボールだと凹むそうだぞ。
あと、投石兵器にはハンマー投げのようにして使う投石布があるよね。
ミケランジェロのダビデ像が肩に掛けてるやつ。
あれなら、相当大きい石を投げれる。
でも投石の方が速攻には有利だからなあ。長所もあるでやんしょ。
800 :
名無し三等兵:2006/06/27(火) 21:08:34 ID:iXk9scLW
>>798 しかし矢って急所に的中すれば別だけどあまり殺傷能力ない気がする。
>>801 矢が腕や足に刺さっても平気なの?貴方。
あまりだ。あまり。
いや、充分だろ。
何と比較して「あまり殺傷能力がない」と言うんだ?
もうガイシュツだと思う。楯でなく鎧で防げるし。狙ってるところ分かるし。
もう一度言うがあくまで比較的だ。
黒澤明の「蜘蛛巣城」のラストシーンの三船敏郎みたいには俺だってなりたくないさ。
攻城戦では石は脅威の武器ではあったけどな。
城壁に張り付いてはしごを登ろうとしたら、城壁の上から2〜30キロの
石が落ちてくる奴。
なるほど、そういうことか。
しかし
>>801の言い方だと、素の体に命中した場合を想定しているように聞こえるぞ。
素の体でカセーンに行くんですか。あなた?
>>809 古代の欧州や中東では多くの投射兵が素のままで戦った。
でも矢って面積あたりのエネルギー量はすさまじく高いから貫通力ありそう。
石は速度があっても面積が大きいから貫通力は期待できない。
確実に殺傷するなら弓矢
後、狙って撃つでも弓の方が上かと
でも弓矢が当たって死んだなんてあまり聞かないぜ。
即死しなくても戦闘能力を失わせ、敵戦力を削ることができるなら
兵器としては十分だろ
じゃ、石も十分だな。
>>814 大坂の陣の死者は多い順に
鉄砲>弓>槍>刀。
訓練の難易度
投石>弓>鉄砲
だね。
戦国期なら、訓練された兵による有効射程は。
弓>鉄砲>投石
だね。
あと、投石に使う石はそこらで拾っているのでは無くて、予め投擲に適したサイズ重量の物を用意しているのだよ。
弓の方が鉄砲よりずっと訓練が難しい。
火縄銃は最大射程500m、有効殺傷射程200m、最大狙撃射程は100m。
和弓は最大射程350m、有効射程200m、最大狙撃射程は60〜80m。
鉄砲は装填速度と雨に弱いという欠点があり、
和弓は構造上山なりの弾道で直接照準でないため、命中精度と取り回しの悪さに難点がある。
密集した陣形になら多少ずれたところに射ても構わないだろうが。
日本の弓は外国の弓とくらべても命中精度に劣るから・・・
822 :
名無し三等兵:2006/06/28(水) 20:11:02 ID:IgQ0IHm+
>>821 むしろ弓矢をそれなりに使えるようになるにはかなりの熟練が必要って方が問題かと。
すくなくとも武士など毎日鍛錬できる環境の奴にしか難しいと思う。
弓矢も維持費が結構高いしね。
そう弓矢は管理が難しいし、精神性が強い武器な気もする。
だいたい、西武の松坂や阪神の藤川みたいなのが投石してきたら
弓矢より怖い。
今月発売の雑誌「乱」に、面白い記事が載っていた。
実際に戦国時代末期に使われていた甲冑の、耐久テスト。
使われたのは伊予札胴、赤縅、鉄板朱漆掛け「井伊の赤備え」足軽頭クラス着用。
角材で殴ると、角材の方がまっぷたつ。刀で斬りつけたら、漆が剥げたのみ。
弓道4段の実力者が矢を射かけても、3メートルの距離で跳ね返す。
雑兵用の鎧だと、30メートルの距離でも貫通するらしい。
しかし、かの村田兆治投手がボールをぶつけたところ、見事に凹んだそうな。
昭和54年11月14日、日テレ系で放送された「謎のカーテン」で行われた実験とのこと。
漫画雑誌のコラムでは当てにならないという人のために付け加えると、
名和弓雄氏の「間違いだらけの時代劇」からの引用だそうです。
>>824 んで、具体的に何がどう間違いなのでつか?
甲冑が凹んでも、しにゃしない。
凹まないようにするには、厚くするのが一番だが
重くて動けなくなるだろうな。
へこむ、と言うことは衝撃を吸収すること。
もしかしてわざとへこむように作っているのではないかと言う気がしてきたが
うがちすぎだろうか?
貫通せずとも大きく凹むようなら、あばらの2〜3本も折れるのではないか?
829 :
少佐:2006/06/28(水) 23:10:09 ID:+k8XDuLj
日本の弓矢は世界で一番大きく当然ながら威力も大きいわけで、
フライパンくらいの鉄板なら刺さるよ。
830 :
少佐:2006/06/28(水) 23:12:19 ID:+k8XDuLj
何度も言うが、第二次大戦の日本軍の話や戦後も生きてた
合気道の上芝盛兵なんかもいくらでも信じがたい超人的な
話はある。
横井さんなんかもそうだろう。
それなのにどうして戦国時代の伝説を一から百まで全て否定
するのか不思議である。
「科学的ではない」とする説もあるが、では横井さんも科学的
ではないと否定するのか?
831 :
少佐:2006/06/28(水) 23:18:03 ID:+k8XDuLj
武士というのは幼少から人権を無視した猛稽古をしていた人間が
大半であり、当時の生活環境で20歳まで生きてたたくましい人間
なのに、どうしてこれを考える時に現代の東京で暮らしてる20歳の
若者を基準に考えるのか?
それはおかしい比較だろう。
832 :
少佐:2006/06/28(水) 23:19:27 ID:+k8XDuLj
400年前の生活環境を考えれば、視力が5,0というアフリカの
原住民並の人間がザラにいてもおかしくない。
だったらレーザーポインターやドットサイトを装着してるようなものだよ。
どうしてこういうことも解らないのかね?
833 :
少佐:2006/06/28(水) 23:22:20 ID:+k8XDuLj
それに機関銃が炸裂する敵陣に歩兵で突撃するなんて作戦は
第二次大戦どころかベトナム戦争でも行われてる訳で、それだけ
で武田勝頼が時代遅れの人間だとは言えまい。
むしろ初期の犠牲だけで突撃作戦を断念して引き上げた勝頼は
現代的な目で見れば人権尊重主義者だったとも言えるのだ。
言ってる事ハナシが飛びすぎて支離滅裂ですね
少佐に突っ込むだけ無駄
836 :
少佐:2006/06/29(木) 00:31:50 ID:DU1OuPPu
戦後でも生存してた上芝みたいな武道家や剣道家なんかでも
いくらでも超人的エピソードは残ってるだろ?
オリンピックやワールドカップでも毎回、超人的偉業は生まれるのに、
どうしてこれがこと武道になると頭から否定するのか?
武道はいけないという占領軍的精神構造がそこにあるんじゃないか?
837 :
少佐:2006/06/29(木) 00:34:48 ID:DU1OuPPu
まだ現代みたいなハイテクやロジスティックが存在せず、
当然ながら現代のような火力が無かった時代の局地戦で
人間力の比重が今より重たかったとしても不思議ではなかろう。
どうしてそれを語る際にコンピューターや戦車があることが前提の
現代戦の常識で語るのかという話だ。
戦国時代の足軽はカラシニコフでも持ってたというのかよ。
838 :
少佐:2006/06/29(木) 00:38:48 ID:DU1OuPPu
「少佐は戦国時代のような民衆が抑圧され搾取されていた時代
を美化するのか?」という意見もあったが、当時の百姓は火縄銃
まで持って盛んに百姓一揆をやってたらしいじゃないか。
抑圧される民衆などというイメージだけで見たらいかんのだ。
鎖鎌なんかも百姓が考案したという意見もあるしね。
むしろ映画ランボーのようなイメージで見るべきだろう。
>>826 当世具足は防御効率と動きやすさを追求して15〜22kg程度に軽量化してるから、
胴の全部だけ厚くする余裕はあったかもね。
大鎧なんかは30kgを超えるものもある。
西洋のプレートアーマーは18〜25kg(全身板金だが間接部の隙間はチェーンメイル)、
フィールドアーマー(間接部まで板金で覆ったもの)は35〜40kgほど。
ちなみに十二単も10kgオーバーだそうだから、当時の貴族女性は強化ギブスをつけてるようなもんだなw
840 :
少佐:2006/06/29(木) 01:09:16 ID:DU1OuPPu
30キロの鎧を着て、さらに槍持って戦ってたとしたら、
それだけで超人だと言えるだろう。
>>839 しかし、そのフィールドアーマーとやらは、いわゆる「特攻」決死隊用じゃないの?
平均的にそんなもの着た奴たくさん集められるわけないし、
そもそも楯が強化されて密集方陣が形成されてからは、鎧だって一度は
麻布製に簡略化されているのに
842 :
少佐:2006/06/29(木) 03:14:24 ID:DU1OuPPu
>>841 盾にも弱点が無いわけじゃない。
防御力が大きい盾は当時の材料ではひたすら大きく重くなるしかない。
しかも盾が視界を遮るし、片方の手しか攻撃用の武器を持てない。
843 :
少佐:2006/06/29(木) 03:18:53 ID:DU1OuPPu
古代マケドニア帝国や古代ローマのような戦術を鉄砲以前の
戦場では最強と考えてる人もいるようだが、史実ではそれも
負けてることがあるわけだよ。
>>841 フィールドアーマーは15〜16世紀頃に使われた重装騎兵用の鎧。
馬にも馬鎧を着せ、鎧にランスを固定して使う。
歩兵用のものはフットコンバットアーマー。
完全武装した騎士のランス突撃は最強といわれ戦場の主力であったが、
百年戦争では地形による有利も大きいがイギリスのロングボウに粉砕されたし、
後にはスイスのパイク(長槍)傭兵の密集陣に破られることになる。
846 :
少佐:2006/06/29(木) 05:07:46 ID:DU1OuPPu
柘植の話が本当かどうか知らないが、一応鉄砲や大砲があった
ワーテルローの戦いでもネイ元帥の騎兵隊突撃は戦力を集中して
タイミングを間違わなければ成功して、そのまま勝利したなんて書いてるぞ。
地形とかタイミングとか士気とか錬度とか複雑な要素もあるわけで、
単に騎馬隊よりもロングボウや火縄銃が強いという話でもないんじゃないか?
847 :
少佐:2006/06/29(木) 05:11:47 ID:DU1OuPPu
ナチスの電撃作戦でも当初は無敵というイメージがあるが、
有名な時代遅れの騎馬隊で突撃してきたポーランドだか、オーストリア
だかとの戦いでも一応戦車とかあるのに結構な死傷者がドイツ側に
出てるのだ。
少なくとも損害ゼロで機関銃や大砲で全て掃討したなんていう世界ではない。
ソ連との戦いでも騎兵隊のコサック相手にかなり損害を受けてるだろ?
848 :
少佐:2006/06/29(木) 05:17:15 ID:DU1OuPPu
馬というと機動力だけのイメージが強いが、一応体重が500キロ
前後あって、それが思いっきり走ってくるし、ジャンプもするのだから
体当たりされたら死ぬか大怪我するぞ。
競馬のジョッキーの福永雄一でも落馬して馬に踏まれて、腎臓が一個
潰れてそのまま意識を失ったらしいからね。
そりゃ重たい馬車でも引く力があるのだから、そのパンチ力は凄いだろよ。
849 :
少佐:2006/06/29(木) 05:19:21 ID:DU1OuPPu
プロレスラーの藤原義明も昔テレビのバラエティでツキノワグマの
小熊と戦ったのだが、小熊の体当たり一発で吹っ飛ばされ、
「骨が折れて死ぬかと思った」とか言ってしばらく立てなかったぞ。
850 :
少佐:2006/06/29(木) 05:22:25 ID:DU1OuPPu
合気道の上芝でもボクサーのピストン堀口とかが「化けの皮を
剥いでやるぜ」とか言って道場に行ったが、パンチを見切られて
捕まれ、そのまま投げ飛ばされたらしいじゃないか。
その弟子の塩田でも全盛時代のマイクタイソンも見学して、
「凄い足裁きだ」とか言って感心してたそうだぞ。
総合格闘技の柔術、サンボ、柔道なんかを見ても強いじゃないか。
>>846 ワーテルローは砲兵と歩兵が援護していたなら成功したかもしれない。
ナポレオン本人の言葉を要約すれば、
「ネイは早まった。後1時間待って、援護のもとに実施すれば成功しただろう」
「ミュラが指揮していれば成功した」
852 :
少佐:2006/06/29(木) 05:57:48 ID:DU1OuPPu
>>851 そういう風に1時間の差が勝敗を分けたなんてのは戦史には
いくらでもあるわけでしょ?
客観的に観ても、ナポレオン軍の騎馬隊はあと一時間後に
援護のもとで突っ込んでたら成功したかもしれないだけの
馬、人材、武器があったということでしょうよ。
そしたらあまり単純化した議論はできないと思う。
時間とか地形とかそういうのは思いっきり左右すると思うんだな。
853 :
少佐:2006/06/29(木) 06:00:09 ID:DU1OuPPu
火縄銃よりはるかに進化してる太平洋戦争の戦いでも、
「もしそこで右に行ってたら」とか「あと1時間、いや30分
早ければ」なんてのはいくらでもある。
>>849 熊は強靭。ヒグマは陸上では最大の肉食動物で、成獣は人間が戦って勝てるもんじゃない。
北海道では大正時代、1匹のヒグマが10軒の人家に押し入り、8人が殺され喰われる事件があった。
44マグナムをグリズリー(北米のヒグマの仲間)の頭に撃ったら、全弾頭骨を貫通できなかった。
アラスカではグリズリーに会ったら、拳銃は自殺用ぐらいにしか役に立たないとさえ言われている。
これを殺すには鮫や象、鯨など大型動物用の、ウェザビー460Wマグナムというライフル弾を使うそうだ。
人間の胴にあたれば直径70cmの大穴が空く威力だ。
軍事に納めておけば問題無いのに、商業格闘技を例に持ち出した時点で胡散臭くなるって事に気が付かないのかな
軍事面なら同意出来ても、商業格闘技だの戦国時代の食料事情だのはグダグダなんで、信憑性に欠けるんだよな
軍事に話題絞ってりゃ、害は無いのにね
ついでに一言、「戦国時代の伝説が信じられない訳じゃない。小佐が信じられないだけだ」
>>852 横スレになるが、一時間後だったらますます無理。
プロイセンが来てる。
ナポレオンの言い分は
「プロイセン軍の前衛を片付けてから予備とともに突撃すれば勝てた」
だからもともと無理なことを言ってると思う。
それに仏軍砲兵からの援護はある程度はあったみたいだし。
あと、馬は方陣に体当たりなどしなかった。
騎手がどれほど拍車をあてても、本能的に銃剣を避けたらしいよ。
最近の専ブラは、名前欄と本文欄別々にNG登録できるのが多いから、そんな配慮は必要ないかもしらんけどな
>>856 方陣は歩兵が騎兵に対してとれる唯一有効な戦術だ。
通常、騎兵が迫ると歩兵はその前に立ちはだかるのを恐れ、蜘蛛の子を散らすように逃げたそうだ。
槍兵の方陣と比べれば遥かに対騎兵防御力に劣るので、高い士気と練度がないと成功しない。
ナポレオンもエジプトで大方陣を組んで、凄絶な突撃を繰り返すマムルーク騎兵を撃退している。
ちなみにフランス軍における銃剣による死者は1%以下。殺傷力においては期待できなかった。
むしろ側背を衝かれることがなく、全方位に射撃が可能ということが利点だ。
胸甲騎兵は突撃の慣性による衝撃力を加える為の兵科である。
槍騎兵は衝撃力こそ劣るが、銃剣(1.8m)より長い槍(3.5m)でリーチの分がある。
しかし、突撃が成功するには歩砲の十分な援護がなければ成功は難しい。
アイラウでも十分な援護は行なわれなかった。
ロシア軍中央の歩兵横隊に、フランス竜騎兵が突撃し迎撃され大きな損害を出している。
続く胸甲騎兵突撃によって、ようやく中央部を撃破できたのだった。
ワーテルローでは馬が方陣を恐れ近寄りたがらなかったということだが、
ナポレオン時代の胸甲騎兵は銃剣の山の中に突撃するのが常であり、
それゆえ装備した防弾胸甲であった。
エジプト騎兵ですら突っ込んだ方陣に、フランスの軍馬は何故ためらったのか。
イギリス軍騎兵の将軍によれば、ワーテルローのフランス軍馬は貧弱で調教がされていない駄馬だったと言う。
ロシア遠征で一旦壊滅したフランスにはまともな軍馬は残っていなかったということか。
以下、ナポレオン本人の言葉。
「だが12000騎の騎兵は奇跡を成し遂げた。
彼らは数において勝る敵騎兵の反撃を制し、いくつかの方陣を殲滅して大砲60門を確保した。
方陣の内部にまで攻め入って10の連隊旗を分捕った。
私はラ・ベル・アリアンスの前でこれらの連隊旗を3名の親衛隊猟騎兵と3名の胸甲騎兵から受け取った」
かといって、イギリス軍側には「一つの方陣も破られなかった」という者もいる。
なんで日本じゃ短弓が発達しなかったんだろうね?
短弓でもモンゴルの短弓なんかすげえ威力あるし(構造がやや複雑だが)
交戦したからモノはしってるだろうし
つか日本みたいにせまいところや馬上で使うのがメインなら短弓の方が
いいと思うのだが、諸兄はどう思われるか?
>日本みたいにせまいところ
お前は馬鹿か
城郭に関しての話しだが、弓矢の有効殺傷距離が15間、銃が30間が目安らしいな
堀の幅はこれを基準に設定されると
廓のサイズが30間以下だと、一箇所落とされると次の廓まで射通される
鉄砲普及後、山城が短期間に落とされるのは廓が狭いためだという説が
歴史読本や歴史群像の受け売りだが、実際に城跡みては納得できる説
古い山城だと長槍(3間)の距離が基準みたいだ
土木技術の問題もあるでしょうけど
>>862 短弓はその材料や接着剤として家畜の腱などを用いていた為、
大規模な家畜産業の行えない日本では不可能
四半弓とかは局地的な使用だったのでしょうか。
かなりの威力があったようなことを聞いたことがあります。
友人がこれをやっているのですが、女性でも引くことができ、
受け売りですが、戦国時代には農民が自衛のために使ったこともあったらしい。
現在の和弓の話ですが、普通に使われてるのは14〜18kgくらいですね
屋外の弓道場で立つのが辛いくらいの強風だと、28m先の的で3尺は流されます
沈みは・・・3〜4mくらいかな
20kg以上のを引くと、屋外の弓道場ではかなり楽です
自分は24kg引いてますが、50射くらいで押手(弓を持つほう)が辛くなる
アーチェリーも引いて見たことあるんですが、射後の反動で押手がさらに辛い
全く経験のない人は12kgが引けません
新人の最初の練習用には8kgのを使ってました
これが風が吹くと1間離れた隣の的に当たる
芸としては面白いですが、競技としては成り立たない
みなさんレスありがとう。
なるほど〜。弓は奥が深そうですね。
自分も一度、大学の和弓場を設計したことがありますが、
なんか一的だけ、もんすげえ遠いところに的を置くってんで
びっくらしたことがあります。
869 :
少佐:2006/06/30(金) 00:14:47 ID:lPr/ULP0
>>854 そうだろう、プロレスラーの藤原義明でもツキノワグマの小熊と相撲
くらいの距離で戦ったのだが、小熊がピョンと勢いよく体当たりした
だけで吹っ飛ばされ、泡吹いて「骨が折れそうだった」とか言ってた。
現在でも殺すのに人間の胴なら70センチの穴が開くライフル弾を使用
するのだから、これと弓矢や槍で戦ってた時代の人間は一種の超人だろう。
870 :
少佐:2006/06/30(金) 00:18:32 ID:lPr/ULP0
>>855 だったら私を信じなくてもいいが、戦国時代の伝説は少なくとも半分は
真実の可能性があるということを信じて欲しい。
弓矢でも戦国時代のものは張力が50キロ、60キロなんてのがあるが、
これはボウガンでも大型動物を殺すようなもので、それを弓矢で撃ってた
としたら射手は一種の超人だよ。
871 :
少佐:2006/06/30(金) 00:23:33 ID:lPr/ULP0
なぜ日本の弓矢は世界一巨大なのか?
それは簡単で運動エネルギーとは重さ掛けるの速度だからだろう。
地形や天候の利があったとは言え、鎌倉時代の武士団はこれで
朝鮮から船で上陸してきた朝鮮モンゴルの連合軍を打ち破ってる。
一般には台風で全滅したとされてるが、北九州に上陸して交戦した
ものの橋頭堡を築けず敗退して、船に引き上げた所を台風に見舞われた
のだからね。
872 :
少佐:2006/06/30(金) 00:27:27 ID:lPr/ULP0
人間力を軽視して、人間力よりも機関銃のほうが強いと頑強に
主張でもしたい人間がいるようだが、今から400年前の世界
には死んでも機関銃はないし、大砲も現代のような飛距離も砲弾も
命中率も無く、現代のような補給もできない。
人間力の比重が凄まじく高かった時代の戦争だということを念頭に
置くべきだろう。
>>854 最大の陸上肉食動物はホッキョクグマじゃないの??
内容は同意します
874 :
少佐:2006/06/30(金) 03:55:44 ID:lPr/ULP0
だいたい電気ガス水道が無く、ダムも無く、スーパーも現代のような
医療も無かった時代に人間が生きて、子孫を残してたという事そのもの
が凄いではないか。
日本アルプスで遭難したようなもんじゃないか。
それでさらに弓矢、槍、刀、火縄銃で戦争までして、朝鮮まで攻め込んでる。
野獣のようなバイタリティがそこにあるぞ。
なにしろ当時は徒歩が当たり前だよ。
鉄道すら無いんだぞ!
しかし戦争の構図は全く変わっていない
876 :
突撃兵:2006/06/30(金) 05:18:00 ID:???
んなのシビライゼーションやコサックスやればすぐわかる話だ…
ロシアの真冬に捕獲したおふらんすの兵器が寒さに耐えられないからソ連の騎兵突撃は対応出来た。
確かその騎兵突撃も独逸製の機銃が配備されてる地点では粉砕されてませんでしたっけ?
877 :
少佐:2006/06/30(金) 06:01:01 ID:lPr/ULP0
>>876 だが騎兵隊が突入できた地点では恐怖とダメージを与えてるんだろ?
ようは時や場所によって話は変わるということだろう。
また第二次大戦だったら、コサック騎兵隊も当時のライフルや
バラライカを撃ちながら進撃したんじゃないかとも思うし、
大砲の援護射撃なんかもあって、突入したらサーベルを振りまくり、
手榴弾なんかも投げまくったのではないか?
878 :
少佐:2006/06/30(金) 06:09:06 ID:lPr/ULP0
また士気の問題もあるだろう。
東部戦線で後退していくドイツ軍は明らかに士気が低下している。
「ウラー」と叫んでバラライカと手榴弾を手に突撃するソ連歩兵の集団
にも突き崩されて押されてるのだ。
それでは騎兵隊に押されても納得できる。
879 :
少佐:2006/06/30(金) 06:11:50 ID:lPr/ULP0
総合格闘技のヒョードルなんかを見ても解るようにロシアの武術
は馬鹿にできないものがある。
いや世界中のマーシャルアーツは現実の暗殺、喧嘩、戦争から
生まれたものが多く一概に馬鹿にはできない。
もしかするとロシア騎兵隊はサーベルの達人が多かったのかも
しれないだろう。
それも白兵戦では押せる要因になるはずだ。
880 :
少佐:2006/06/30(金) 06:16:47 ID:lPr/ULP0
戦国時代に来てた南蛮船の船長なんかにしても、西欧の剣術、
格闘技、火縄銃、火縄ピストルなんかに長けてたんじゃないか?
向こうの鎧兜だって積んでたんじゃないか?
ひょろひょろの青白いインテリだったとは当時の世界情勢からして
あり得ない話だ。
ある程度は腕に自信がある命知らずじゃないと世界の海を航海する
なんてとてもじゃないができない時代だろう。
それが侵略をせず、それなりの敬意を持ってたということは、当時の
武士団はそれなりに尊敬に値するのではないか?
めちゃ弱いなら侵略してるはずだしね。
881 :
突撃兵:2006/06/30(金) 06:17:49 ID:???
モスクワ防衛の為に投入された騎兵はVodkaやドラッグで御花畑だったんだぉ。
>>873 ああ、そういえばホッキョクグマのほうが重いか。
>>879,880みたいな事書くからムー信者扱いなのが判らんみたいね
せっかくいい流れで話していたのが、個々の話だとか別な話を無理矢理繋げようとするから変になってるんだが
後、戦国時代に電気も鉄道も無かったが、未だアフリカや東南アジアで同じ環境下で暮らす人類が居る訳だし、それってそれ程凄い事なのか?
ただの戦国マンセーだとは思うが客観的では無いな
>>882 動物は同種なら、だいたい寒い地方の方がでかくなる。これは人間も同じ。
虎も一番大きいのはシベリア産。
>>880 スペイン国王は「日本を侵略できるか調査してこい」って言ったんだけど、
宣教師は「とてもではないが不可能、逆にスペインが危なくなる」といってるね。
886 :
名無し三等兵:2006/06/30(金) 18:05:35 ID:WTPDX3oK
東にもイギリスみたいなもん出来たらお手上げだろ。
エロス
トリップつけれ
890 :
少佐:2006/07/01(土) 02:32:44 ID:PYWvo389
>>883 それは失礼。
古代から近代にかけて世界中で「騎兵隊」が使われたのは、間違いなく
徒歩よりは機動力があるし、白兵戦でも頼りになったからだろう。
まったく無意味だったらジンギスカンのモンゴル帝国の成功を説明できないし、
ナポレオンの時代に騎兵隊が使われてたことを説明できない。
馬というのは本能的に恐怖や苦痛があると、前面に思いっきり死ぬまでダッシュする
わけで人間よりはるかに重い体重や四本の足から繰り出される「突貫力」は馬鹿に
できないだろう。
筋肉は人間の比じゃないんだしね。
現代の最新アーマーを着た大男でも、馬に真正面から激突されたあげく、蹄鉄で踏みつけ
攻撃を食ったら無傷では済まないだろうしね。
891 :
名無し三等兵:2006/07/01(土) 02:35:42 ID:bXhtdKxU
日本の戦国時代の馬に蹄鉄はついておりません。
892 :
少佐:2006/07/01(土) 02:37:43 ID:PYWvo389
>>885 当時のスペインは今と違って先進大国で植民地から金銀財宝や資源を収奪しまくり、
大砲をたくさん付けた大型帆船も持ってたわけでしょ?
当然ながら火縄銃や向こうの鎧兜、槍、刀、馬具もあったわけでしょう。
それで「侵略不可能」と判断したということは、地形的な問題もあるが、当時のニッポンが
政治力、宗教力、体力、軍事力、経済力、技術力なんかで高い国際的競争力を持ってた証拠
でしょう。
893 :
少佐:2006/07/01(土) 02:42:26 ID:PYWvo389
司馬遼太郎あたりの読みすぎの人間が多いと思うんだよ。
司馬は明治維新では大砲だけで勝敗が決まったとか書いてるが、
当時の記録を見ても白兵戦は起きまくってる。
白兵戦ゼロだったら、銃剣やサーベルなんかが官軍に支給されてた
ことを説明できないだろよという話だ。
38小銃よりも低性能な銃で戦い、機関銃も普及してなかったのに
どうやって火力だけで勝敗が決まるのかという話だ。
894 :
少佐:2006/07/01(土) 02:46:31 ID:PYWvo389
明治維新の頃の薩摩武士は一応は武士なんだから、コメやイモは
モリモリ食べてるし、肉や魚介だって食ってる。
一応は支配階級なんだからさ。
また白兵戦の訓練もモリモリやってたのだ。
だから当時の貧弱すぎる小銃やロジステイックによって弾切れに
なった後の「肉弾突撃」でも押して押して押し捲る「浸透戦術」
が可能だったのである。
薩摩の日本刀は実戦本位に作られてるわけだしね。
薩摩は武士階級が曖昧でたしか藩の60%以上が武士だった気がする
他藩からすりゃ農民も多いんじゃないのかな
>>895 武士の人口比率が全国平均で7%なのに、薩摩は25%くらいだった希ガス
多くは半農半士の郷士で生産に携わっていた
897 :
少佐:2006/07/01(土) 05:20:01 ID:PYWvo389
とにかくみなさんに訴えたいのは司馬史観からの脱却である。
司馬史観は戦後的イデオロギーだけで過去を判断し、断罪するという
典型だからね。
江戸時代の江戸の町人は肉はおろか、魚介も食えなかったとかさ。
だったら現代に残る江戸の町人たちが屋台で天ぷらや寿司を食べてる
浮世絵なんかをどう説明するのかという話だ、
江戸から残る「どじょう鍋屋」とか「とり鍋屋」をどう説明するのかという話だ。
おそらく司馬は「それは徳川幕府のプロパガンダ宣伝だ」とか言うの
だろうがね。
898 :
少佐:2006/07/01(土) 05:23:50 ID:PYWvo389
また司馬史観では薩摩武士は「非常に貧しく、ひとかけらの芋
だけが食事だった」とか言うのだが、そんなに貧しかったら、
芋から作る「芋焼酎」も生まれてないだろよ。
戦争もできないし、琉球を植民地にしたり、密貿易をすることすら
できなかっただろうよ。
司馬は薩摩の大砲やライフルが優れていたとか言うのだが、ひとかけら
の芋しか食えない状態でどうやってそれを外国から購入するのかという話だ。
899 :
少佐:2006/07/01(土) 07:00:41 ID:PYWvo389
さらに無知なイメージがある豊臣秀吉なんかでも彼の日記や手紙は
残ってて、手紙を書いて出すのが好きだったようなのだ。
秀吉の描いた絵まで付いてる手紙もあるしね。
秀吉の考えたギャグまでそこに書いてたりするのだ。
戦場で秀吉が書いて出した手紙なんてのまである。
いわば「戦国時代の2チャンネル」みたいな生活がそこにあったんじゃないか?
芋ひとかけらというのはさすがに誇張か飢饉の時と思うが。
「脚気」って知ってますか、江戸時代に江戸ではやり、白米食が全国に広がるにつれ、明治大正には全国に広まった。
膝をたたいたら足があがらなくなるだけの病気ではない。大正時代には年間3万人が脚気で死んだそうだ。
いろいろ症状はあるが一つは記憶障害。昔のことは覚えているのに最近のことは全く覚えられなくなる。
ご飯を食べると頭が悪くなると言うデマはこれからきている。
白米にはビタミンがないし、炊飯の前に研いでしまうのでほとんど無くなる。
現代人は玄米食べなくても脚気にならない。手術で胃をとった人やアルコール依存症の人くらい。
なぜかというと副食が充実していて栄養が過剰なくらいだから、米からビタミンB1をとる必要がない。
つまり江戸時代(というか戦前まで)の食文化は確かに多彩だったが、一部の人のため、またはたまの贅沢だった。
かなりたくさんの人はろくなもの食べてなかったと言うこと。でなきゃ脚気になんかなるはずがない。
米は年貢米が全国から集まるから豊富でも、他の食材は100万都市を養うにはとうてい足りなかったと思われる。
901 :
少佐:2006/07/01(土) 08:06:34 ID:PYWvo389
>>900 そのご説明からいくと、「脚気」がもっともピークで病人が多かった
のは江戸時代以降の「明治、大正」だったという話になりませんか?
江戸時代よりも明治、大正のほうが栄養失調が酷かったという
話にならないかい?
封建時代の搾取による栄養失調よりも、明治大正の近代資本主義に
よる搾取の結果起きた栄養失調のほうが酷かったという話にならないか?
ならないだろw
903 :
少佐:2006/07/01(土) 08:16:31 ID:PYWvo389
野菜にどれだけのビタミンB群があるのかは知らないが、
江戸時代の人は納豆なんかもよく食べて人気メニュー
だったらしいし、江戸時代の八百屋の写真や練り歩いて野菜を
売る行商人の写真も幕末に日本に来てた外国人によって撮影
されてるが、種類はともかく、量は豊富に見えるよ。
また現代では高級なウナギやマグロなんかも江戸時代では下賎
でまずい食い物とされて、安いんで下層民がよく食べてたという
伝承があるよ。
寿司が町人に愛されてたくらいだから魚介はよく食べたんだろう。
卵や鳥なんかもどれくらいポピュラーだったかは知らないが、店
があって食べてる人はいたようだしね。
また「大阪」なんかは江戸時代から「食い倒れの街」と言われてるよ。
「栄養失調が凄まじく酷い」では「飛脚やとび職、漁師、木こり」みたいな
当時の「人力手作業の肉体労働」はとてもできないんじゃないかとも思うしね。
幕末に日本に来た欧米人は「飛脚」を見て、その体力に驚いたと言うしね。
極度の栄養失調では徒歩で流通や旅行をすることなんて不可能なはずだ。
さらに「極度の栄養失調」ではデブが売り物の「相撲」なんかが江戸時代から
あったことも説明できない。
904 :
名無し三等兵:2006/07/01(土) 08:16:58 ID:S3EFkWB3
>江戸時代に江戸ではやり
当時、江戸の人口の八割は独身男性だったからねえ
一度離婚したら絶対に再婚なんて出来ないので、間男見つけたら亭主の方が隠れる始末
(女房からしてみれば、これ幸いと三行半を亭主に「書かせる」ことが出来る。そしてより条件のいい再婚相手を)
一人身の男の食生活のいい加減さが原因じゃないか?
脚気は江戸患いと言われていたじゃねえかw
906 :
少佐:2006/07/01(土) 08:26:24 ID:PYWvo389
私が思うに江戸時代の「飛脚やとび職」なんかの飯はこんな感じじゃないか?
あまり精米して無いコメをどんぶり三杯。
野菜の煮物、貝の味噌汁、当時安かったウナギの塩焼き、漬物。
あとは仕事の途中で腹が減ったら、当時のお菓子、寿司、ソバなんか
を立ち食いしていた。
それから飲み物はお茶や甘酒など。
仕事を張り切りたいときは卵なんかも食っていた?
ウナギを食べたら精力が付くと聞いたらブームになって「土曜の牛の日」
なんて言葉が生まれたくらいだから、漢方の影響もあって食事から栄養
や元気を取り入れるという発想は当時もあっただろうしね。
当時もあったんじゃなくて、当時は一般人はほとんど医者なんか利用しなかったのw
908 :
少佐:2006/07/01(土) 08:31:13 ID:PYWvo389
>>904 それあると思うね。
現代でも料理を作るのが面倒だからと言って、カップラーメン
ばかり食べてる独身や単身赴任なんていくらでもいるだろ?
さしずめ江戸時代だったら、夜鳴きソバしか食ってなかったとかさ。
酒とスルメだけしか食わないなんて奴もいたんじゃないか?
当時、庶民が気軽に手に入れられたはずの食材でも極度の栄養失調
は防げたはずだ。
天ぷらや寿司が町人にもブームで、お菓子も食べられてたんだよ。
909 :
少佐:2006/07/01(土) 08:34:06 ID:PYWvo389
>>907 まあ医者は高かったなんて話もあるしね。
そこでお祈りとか心霊治療とかで治療してたんじゃないか?
それでも徒歩で東海道五十三次なんかを流通したり、旅行してた
のだから健康だった人も多かったんだろう。
不健康では途中で死んじゃうよ。
910 :
少佐:2006/07/01(土) 08:36:42 ID:PYWvo389
有名な俳諧の松尾芭蕉さんなどは徒歩で北陸とか東北なんかを旅行
したんだろ?
栄養失調で死にそうな爺さんにそんな真似はできないと思うのだ。
>>909 旅行者は一般人の場合講中の健康な代表者。旅行の際に餞別をあげたり
土産物を行かなかった人に配ったりするのはこの習慣から。
けっして皆が健康であったわけではない。
912 :
少佐:2006/07/01(土) 08:39:47 ID:PYWvo389
さらに当時は帆掛け舟で流通もしてたようだが、北海道から沖縄
までを帆掛け舟で移動するなんてのも極度の栄養失調では死んで
しまうだろう。
漁師なんか手で漕ぐ船が主流だったんじゃないかとも思うが、
これまた極度の栄養失調ではとうていできないはず。
余裕があれば、それもあろうが、江戸時代だけでも大規模な飢饉は発生している
某蕃の記録によると、餓死による村落消滅が確認されている
義農作兵衛の様な逸話が各地に散見されている事からも、飢餓が通常の生活リスクとして認識されていたのは間違いない
少佐の話しは、限られた人が限られた条件でのみ享楽を得ていたと解釈すべきかと
つまり食糧事情が、江戸時代〉明治大正なんて事は決して無い、と断言できる
914 :
少佐:2006/07/01(土) 08:47:34 ID:PYWvo389
>>911 健康というか、かなり健康すぎると思うぞ。
そうじゃないと江戸を出発して歩いて大阪に行くなんて
発想は出てこないだろう。
しかも靴が草鞋で、街頭も何も無かった時代ですよ。
馬で行くとしてもそれなりに大変なはずだよ。
富士山に登るのもブームだったらしいじゃないか。
当時のそれはインパール作戦に等しいと思うが、それを
日常的にやってたらある意味凄い。
日本軍より装備が貧弱なんだよ。
体力、根性、執念の塊で強運、悪運も凄かったんじゃないか?
食べれる草を見分けて食べたり、昆虫や野鳥なんかも食べて強行軍
で進むとかそんな世界だったんじゃないか?
ランボー怒りの脱出じゃないか。
>>906 つ「土用の牛の日」
まずは、正しい日本語を使って下さいね
江戸時代はちゃんと宿場があっただろうがw
それに庶民は基本的に旅行は不可。ただし宗教的なものは大目に見られ
富士講他が成立した。伊勢詣でにはツアコン兼ホテル経営者のような
存在の者が居て、庶民を安全かつ贅沢に旅行できる体制は整っていた。
917 :
少佐:2006/07/01(土) 08:54:23 ID:PYWvo389
>>913 それは知ってるが、それは飢饉なんかの時の「東北」なんかの
話でしょうよ。
確かに東北なんかでは悲惨で深刻な貧困飢餓があったようだ。
昔も冬は豪雪地帯だったのだろうしね。
しかし江戸で半数以上が飢えで餓死したなんて記録は今のところ一切
発見されてないよ。
またヒエ、粟、ソバのような飢饉に強いとされてる穀物もすでに一応
はあったし、これまた飢饉に強いとされた芋も普及している。
何度も言うが、乱獲や汚染がほとんど無かった時代だろうから、魚介類
や野生動物も豊富だったはずだしね。
山菜なんかは言うまでもない。
また講中に健康な者が誰も居なかった場合、犬を代表とした。
即ち犬の伊勢参り、犬の金毘羅参りといった具合である。
>>914 民間人の旅行と軍事行軍を同列に扱うな
余りに滅茶苦茶じゃないか
携行品が全然違う事実も完全に無視か?
突っ込み処満載で、笑いながら見ていたが、流石に酷いので、書かせて貰うぞ
920 :
少佐:2006/07/01(土) 08:58:41 ID:PYWvo389
江戸時代の「瓦版」なんか見ると、どこかの地方に巨大な大ムカデ
が出現したとか、地震の原因は巨大ナマズ妖怪だとか書かれてるだろ?
これが一種の娯楽を兼ねたヤラセ報道だったのか、当時の人は迷信で
本当に信じていたのかどうかは知らないが、東北の飢餓にしてもそれが
ゼロではないにせよ、「大ムカデ」のような誇張表現はあったのではないか?
瓦版では歌舞伎役者の捏造セックススキャンダルや江戸に出現する幽霊の話
なんかも大人気だったというから、誇張のオンパレードだった可能性もあるだろ?
瓦版だって当時は現代の新聞社みたいなものだろうしね。
視聴率欲しさみたいなのもあったんじゃないか?
誇張のオンパレード
↓
当時のそれはインパール作戦に等しいと思うが、それを
日常的にやってたらある意味凄い。
日本軍より装備が貧弱なんだよ。
体力、根性、執念の塊で強運、悪運も凄かったんじゃないか?
食べれる草を見分けて食べたり、昆虫や野鳥なんかも食べて強行軍
で進むとかそんな世界だったんじゃないか?
ランボー怒りの脱出じゃないか
>>917 江戸で半数餓死って誰も言ってない訳だが
確認出来た飢餓発生地域は、西日本だけでも多数ある
少佐は魚介類が多いから飢餓は無かった、有っても東北地方などの豪雪地帯だろうと推測しているが、その魚介類が多い筈の四国九州でも餓死の記録は残されている
さて、論理の破綻をどう取り繕うか見させて貰おうか
923 :
少佐:2006/07/01(土) 09:08:49 ID:PYWvo389
>>919 現代みたいな街灯や舗装された道路も無く、雨が降ったら道が
泥まみれで自然破壊も無いからジャングル状態だったんじゃないか?
追いはぎやオオカミもいただろう。
トンネルも無く、山越えなんてのも当たり前だったのだろうしね。
川を泳いで渡るなんて局面もあったし、断崖絶壁に木の杭が打ち込んである
だけの足場を渡るなんて局面もあったかもしれない。
雨が降ったら、洪水もひんぱんに起きただろう。
だから刀を持って旅した人もいたんだろ?
特に冬季の東北なんかは樺太島を探検した「間宮林蔵」と大して
変わらない世界だと思うぞ。
もし現代人が当時とまったく同じ条件で旅をしたら、「バターン
死の行進」や「八甲田山」になると思うのだ。
924 :
少佐:2006/07/01(土) 09:10:26 ID:PYWvo389
>>922 内陸の山間部で主に発生したのではないか?
九州もけっこう広いわけで、内陸の山間部もあるからね。
925 :
少佐:2006/07/01(土) 09:12:34 ID:PYWvo389
私が思うに当時は5歳、6歳くらいまでに大半の人間が死に、
強運、悪運の塊のような人間や超人ランボーのような免疫力、
体力を持った人間だけが生きてたんじゃないか?
草を食べても強靭な胃袋で栄養を消化吸収するような人間だ。
>>924 残念だが(?)海岸付近でも同様に記録に残っている
一次資料は各県の教育委員会にでも問い合わせたら、郷土資料の取り扱い機関を斡旋してくれたから、参考までに
ちなみに、郷土資料館ある場合は、そこが早いぞ
「超人ランボー」って発想が貧困なんだが…まあいいや少佐だし
次はどんなガセネタが出てくるんだ?
>926
そこは退職教員とか○○の牙城。
なにげに階級闘争史観で運営されてる場合が多いので・・。
929 :
名無し三等兵:2006/07/01(土) 11:20:04 ID:0wx/kca0
というかあの時代に餓死が発生しないとこなんてあるのか?
日本に限った話じゃないと思うが
はー、少佐早く死なねえかな
議論やネタが3日ほど止まってしまった時に出てくれると有り難い方なのです。
他の過疎スレに来てくれると嬉しいのですが。
>天草ネタ
四郎の親父さんが小西浪人らしい事、母姉妹がいたらしい事、
死んだときは15-16歳くらいらしい事。信頼できるデータはこれくらい?
最近の学説では新史料でていたかしら・・・。
立て篭もっていた人たちは37000くらいで、
幕府軍が「無理矢理仲間や切支丹にされた奴はゆるすから出てコーい」
とかやっているんですが、それに応じて逃げ出したりした人はほんのわずからしい。
関が原や大阪の陣で若いときを過ごした浪人たちや土豪が幹部だったみたいなのですが。
>ランボー?
徳川家霊廟発掘調査の時のデータでは、
徳川2代目将軍秀忠公が類推で158cmくらいだったそうです。
当時の一般人の平均よりも少し大きい方だったみたいですね。
はー、某研早く来ねえかな
なんだよこのビギナーばっかのスレw
おまえら、 軍 板 半 年 R O M っ て か ら 書 き 込 め
少佐と某研はハイハイ良かったねって聞き流すのが粋ってもんだろが
座敷わらしとでも思ってりゃいいんだよw
>>934 お前は一生ROMってろ
それが一番正しい在り方だw
具体的なカキコ無しで扇りだけなら猿でも出来るぜw
普通に気になるんだが
「土用の丑の日」が正解な気がするんだがどうよ
そこいらは、スルーが基本なのか?
少佐が袋叩きにあってると聞いてやってきますた
938 :
名無し三等兵:2006/07/01(土) 23:04:29 ID:bR9rJQ7J
>>922 津軽の大飢饉でも米がまったく無かったわけではなくて
何万石という量が大阪へ運送された。つまり大名の借金の支払いってわけ。
東北某藩は、飢饉に見かねた豪商の援助米も着服していたような。
>飢饉
東北各藩の惨状ヤバ杉。6万の人口で3万失われたケースもあるような。
東北大藩は、30万人も餓死疫病死で失われたケースもあったような。
九州でも、人口の3割4割亡くなるケースが。
>>936 とりあえず、弓かナポの流れに戻ってくれると嬉しいでふ。
こっちの方面に強い人がいましたから。> 弓 or ナポ
石ツブテの話は・・
誰も釣られていないみたいなので、私が1つ。
子供の頃に石合戦した事ある人なら、石ツブテの使いやすさを知っているはず。
タダ・簡単・連投可能・片手OK・かさばらない・相手もロクな防具もってない
相手が弓槍つかうときは、両手が塞がっている・・・かなり使いやすい武器ですね。
何でも使い様、というところで。
6万が3万とか仙台だったか、南部が30万とか言ってるけど、
飢饉すぎたら5年ほどでフカーツひてるような気がするんだが・・。
税収も人口も何処から湧いてくるの?
他の場所に逃げてた人が戻ってきたんじゃないかな?
>>940 そんなアッサリ復活しないよ
禁じられてるけど他藩に移動する。
薩摩はえらい人口が増えてるのがいい例だね。
あそこは経済が発展してるからその噂が周囲の藩にも
(庶民レベルで)広がってたのでは
>>942 それだと、飢饉じゃないのに周辺諸藩の人口が減少するのでは?
島原の乱で人口が減った地域には西日本各地から移民を募集してますね。(移民当初は税率抑えるって条件だったかな)
瀬戸内の小豆島からの移民が素麺を伝えて、島原名物になったりしている。
人口増大の経緯は、
商業が発展して藩の財政が楽になる->農民の税負担が減る->生活に多少の余裕ができる
->栄養事情が良くなって死亡率が下がったり、間引きとかが少なくなるので人口が増える って感じとか。
で、その頃にまた大飢饉が・・・・、の繰り返し。
でも破綻しないし人口も増えている。
飢饉が去ればまた順調に増えて、飢饉がこればまた弱い老人子供から逝ってしまう。
昭和も大家族が多かっただろ?貧乏していると他に楽しみが無いんだよ。
>>945 健康な適齢期の男女が毎日セックルしていれば、3ヶ月もあればほぼ確実に妊娠するからな
江戸時代はずっと総人口が変化してないとか聞いたことがあるが。
2000万人だったか。それが日本列島で自給自足できる限度だとか。
>>947 産婆が間引いてたのさ、悲しいが一家で餓死するよりはマシというコラテラルダメージ
949 :
名無し三等兵:2006/07/02(日) 20:07:39 ID:wAhzAXAd
それに日本は結構フリーセックスの世界だったからね。
今からじゃ信じられないほど。
それも未婚既婚関係なしに公然とヤってた。
951 :
名無し三等兵:2006/07/02(日) 20:17:49 ID:wAhzAXAd
いや武士階級でもよく離婚再婚してる。式という形式に則ってるかどうかだろ。
日本人の貞操観念が強固になるのは、明治になってキリスト教の形式を
輸入してからだ。そのときに神式結婚式などもキリスト教の唯一神の前に
結ばれるというやり方をマネした。
>>951 離婚再婚は構わないのだが、「家」という存在が介入すると
不義密通は重ねて四つということになる。
明治以降に貞操とかが問題になるのは、国民全部武士化とも言うべき
国民皆兵制になってからだろ
キリスト教は関係無いと思われ。
953 :
名無し三等兵:2006/07/02(日) 20:35:59 ID:wAhzAXAd
うーん、明治の国民皆兵化時に庶民の武士化、いわゆるサムライゼーションが
あったのは思うが、天皇中心主義化=キリスト教的唯一絶対神への忠誠という構図、模倣は
見逃しにできない重大ごとだと思う。
それまでの武士なんかは主君への忠誠と言いながら、結構あっちの藩主、こっちの藩主と
したたか、フレキシブルに行ってた。戦国時代はもっとそうだ。
>>953 戦国時代なら、主君を変えるのはありふれたことだが
江戸時代において主君替えはタブー化していったわけだが
切り取り自由の戦国時代なら、有能な部下を雇って拡大主義も可能だが
領土が定まった江戸時代だとリストラの嵐であって、新参者を雇い入れる余地なんて
ほとんど無い。
うん、それは知ってる。
主君にしてみれば終身雇用みたいな二夫にまみえずというのは
自分の権力、秩序保護に都合いいわけだし、でも江戸時代でも融通無碍なところもあったようだ。
非人から侍へリカバリーもできたしね。敗者復活戦もあった。
ま、戦国時代ほどでは当然ないんだが。
>>953 江戸時代の武士の忠誠つうのは、お家を保障してくれる対象に対しての忠誠なわけで
それを朱子学とかで補強したわけだが
明治における天皇に対する忠誠てのは、大名→武士もしくは将軍→武士との忠誠を
天皇→国民としただけであり
さらに全国同一の教育により絶対化しただけじゃねーの?
>>956 どうかなー。自分も7「主君⇔武士」と「天皇⇔国民」の関係はほぼイコールな気もするが、
それを庶民に浸透させる段にあたって、かなりキリスト教的教義とかプロイセン風気風が
取り込まれたと思う。
伊藤博文も日本の西洋化に当たって、西欧のキリスト教に当たるのは天皇であるといっている。
その「キリスト教的教義」とか「プロイセン風気風」つうの具体的によくわからん
西洋の国王に対する忠誠とどう違うの?
イギリス海軍にしても、「国王(女王)陛下の為に!」 と戦ったわけで
「Godの為に」と戦うのは十字軍とか聖地の騎士団とかだと思うのだが。
西洋人は明らかに、「God」と「国王(皇帝・女王)」を分けている。
魂はGodに捧げて、忠誠は国王に捧げる
義務は国家に捧げたりするが、損得を考えない根本の魂の部分はGodだろ?
どうも、そこら辺の分離が日本人にはできていないように思えるのだが。
960 :
名無し三等兵:2006/07/02(日) 21:15:27 ID:kyy/YgV/
なんつーか、山本七兵を読み返したくなってきたな。
自分も直感的にもの言ってる。でも近代天皇制の場合、西欧の「国王」よりは
天皇は天皇そのものが「神」であり、近代天皇制は「宗教」であるという感覚がある。
それに江戸時代の場合でも、主君より武士は「家」のほうが大切だったんじゃないかなあ。
そういう意味で、江戸時代の主君への武士の忠誠が、近代天皇制に敷衍されたっつうのは
ちょっと短絡的な気がすると思うのだが…
山本七平は好かん。なんでイザヤ・ベンダサンなんてユダヤ人ペンネームで
書くんだ?
>>961 >そういう意味で、江戸時代の主君への武士の忠誠が、近代天皇制に敷衍されたっつうのは
>ちょっと短絡的な気がすると思うのだが…
だろうね、だからこそ明治政府は軍事基盤を武士ではなく鎮台や徴兵制に置こうとした
御親兵がみんな西郷隆盛を追って帰ってしまったことや、士族の反乱があったことで。
明治政府が、「国民総士族化」を行い、エセ大和魂やエセ武士道を
国民全部に教育しようとしたのは
それまでの士族階級があてにならないことと、国民皆兵を実施しようとしたことが
あるのではないかと。
その為の「天皇」だったと
ちょっと自分のてこ入れでスレ趣旨から脱線したので元に戻すっぽいこと
言わせてもらうと、戦国時代はそう考えると近代戦とは違い、結構武士たちは
独立独歩的で唯一絶対なものに忠誠を誓うような感じじゃなかったと思う…って
これは今更でなく指摘されてますが、こんな裏切り、転向が当たり前の世界なら
本当にむちゃくちゃな戦争つか殺し合いがあったかは疑問にも思えるなー。
案外、合戦なんてのも近代戦よりはずっとのんびりしてたんだと思う。
>>965 少しでも戦況不利になればさっさと逃げ出すのは普通。
仕官級以上はともかく下っ端なんてそんなもんです。
関ヶ原の後、東軍は開戦前の倍の人数になってたそうだ。
たとえばドイツ軍が、包囲されて弾薬が無くなった時点で「祖国への義務は終わった」と降伏したのに比べ
日本軍が絶対に降伏せず(勿論例外はある)、玉砕したのは
西洋人がGodのみに捧げる魂を天皇と祖国に捧げていたからではないかと思う。
>関ヶ原の戦い
京からは庶民がおにぎり持参で見物に行ったそうでつ。
東軍応援は黒に柿色、西軍応援はは黒に黄色といういでたち。
西軍はやっぱりジェット風船を飛ばしたそうでつ。
(一行目は本当のことらしい)
大阪城攻略の大砲の音を肴に、宴会やったのは本当らしい
970 :
名無し三等兵:2006/07/02(日) 22:08:52 ID:UdjZFnxQ
えーと、まず設楽ヶ原(長篠)の合戦が鉄砲が主役になったものでないことはいいですか?
梅雨時で基本的に火薬が湿っている、それから霧がすごくて視界が悪い、さらに決定的なのは
「真田戦記」真田家は昌幸の兄が何人だか死んでるから信憑性の高い文書でその中には
「陣城」の記述がある。つまり「要塞化」した陣地に突っ込んでいったのが真相で鉄砲はあまり
活躍していない。
>>968 戦場まででかけて見物してたのか
信長だったか、戦見物の京奴ブチ殺していなかったっけ?
維新後に喧伝された「武士道」はキリスト教学者がでっちあげた国民道徳って
側面が強いからね。新渡戸稲造の武士道はもろに天皇=神扱いしてるし。
これって英国教会+王室で顕著だった、王権神授説そのものだと思うんだけど。
>>972 さすがに王権神授説でも王と神は分離しているとおもうんだが
王権神授説は地上における支配権を王が神にかわって代行する、というもの。
したがって王権はローマカトリック教会より与えられるという形になっている。
(ローマ教会は神の代理人という立場)
だから、ローマ教会のご機嫌を損ねると、破門されたりする。
明治以降じゃぱーんのばあいは、「天皇=ローマ教会が王様をやっている」感じ。
>>972 「武士道」の恐ろしいところは、でっちあげどころか、新渡戸の奥さん(アメリカ人)が
書いたって説があるところだ。とにかく原稿はメアリー夫人が書いたらしい。
>>972 王権神授説が神→法王→王だとすると、ヘンリー8世がやりたい放題やって
イギリス国教会作った後は矛盾すると思うんだが。
>王権神授説は地上における支配権を王が神にかわって代行する、というもの。
権力者に都合のいい教えだなw
>>974 いや
>明治以降じゃぱーんのばあいは、「天皇=ローマ教会が王様をやっている」感じ。
つうのは特に明治以降の話でなくて古代からそうでしょう。
将軍だって今の首相だって最終的に任命印を押すのは天皇なわけだから。
天皇の元ネタは、隋・唐代の皇帝だったりする。
>978
明治以前は「天皇=御神輿」
天皇の実質的威信や権能は平安時代に既に形骸化されて、時の権力者に利用される形になっている。
ローマ教会とは持っている権力が違いすぎ。
明治以降も同じようなもんだけど、多少はマシになっている。
大急ぎで中央集権化しないといけなかったからなぁ。
実は仏教徒だった皇族を無理矢理還俗させて、国家神道&中央集権にしているからな
陣中で糞の処理ってどうしてたのかな
各自が好きな所ですると辺り一面糞だらけになるよね
「糞はここでするように」と決められていたのかな
しかし明治以降の日本が
>「天皇=ローマ教会が王様をやっている」感じ
では全然イメージも構造も違うな〜
明治以降の天皇だって、かなり軍部政権、具体的には山県有朋なんかに
利用されている。対して、法王庁は完全に独立した眼に見える実権を持っていて
それをまた眼に見える形で行使している。
全然違うと思う。
985 :
972:2006/07/03(月) 00:39:29 ID:???
英における王権神授説の確立はヘンリー8世より少し後の思想で、教皇制とは違う。
というか下(民衆)と上(ローマ教会)からの干渉を排除しようという思想。
いわゆるプロテスタントの宗教改革は、従来 神>教皇>教会>王だったものを、
神>信徒と王>国民(実質は王>教会>国民)の二列にし、同時に各国に独立した国教会制を建てた。
んでヘンリー8の英はプロテスタントではなかったけれど、王室とローマ教会との対立から
プロテのシステムを部分的に取り入れ、英国教会を建て神>英王>英国教会とした。
要はローマ教会を抜かし、教会と王を逆転させた。
でその後色々あって、17世紀頭に王権絶対不可侵を主張するジェームズ王+国教会
が「王権神授説」確立すると。
986 :
少佐:2006/07/03(月) 00:43:15 ID:Ly5K2PYj
昨日の続きだが、江戸時代において脚気は「江戸わずらい」とか呼ばれて
江戸という「地域限定」で起きる「奇病」か何かのように考えられていた訳だろ?
ということは、当時の地方ではほとんどそうした病気は無く、それつまり地方の
食生活では「ビタミンB1」が足りてたということになる。
また江戸にしても、当時はなんでもかんでも「徒歩」な訳で、江戸の過半数以上が
そんな病気だったら江戸社会はすぐ崩壊してたはずだ。
これが「明治、大正」にかけて「日本全国で深刻な病気」になったということは、
少なくとも「ビタミンB1」に関しては江戸時代より、明治大正のほうが「欠乏」
していたと言えるだろう。
>>986 精米とか森鴎外のことを最近知ったということだな。
勉強は大事だよ。
988 :
少佐:2006/07/03(月) 00:57:47 ID:Ly5K2PYj
江戸時代は飢餓が深刻だったとか書いてるが、人間飢えたら何でも
食うはずだろう。
海藻だろうが、山菜、木の実だろうが、昆虫だろうが、蛇、イノシシ、
犬、山鳥、ネズミだろうが何でも食うはずだ。
魚介も食えるものは何でも食うはずだ。
芋、ヒエ、粟、キビ、麦なんかは言うまでもない。
そしたら少なくとも「脚気」にはならないぞ。
989 :
突撃兵:2006/07/03(月) 01:04:15 ID:???
少佐にはヒントを差し上げましょう。
北朝鮮。
伝説のメシ「土粥」を知らんのか?
991 :
少佐:2006/07/03(月) 01:11:39 ID:Ly5K2PYj
明治、大正になってから、全国的に普及した「白米とたくわんふた切れ」
みたいな「脚気メニュー」が戦国時代から普及してたなどと考えるのは
歴史の改ざんもいいところだろう。
明治以前は玄米、麦、ヒエ、粟、キビ、芋なんかが普及してる主食だよ。
ビタミンB1が不足したら脚気になるって言う仕組みを知らない時代
なんだから仕方ない。当時は白米食べられるのが贅沢の証拠、上流階級
の証拠だから、上級武士や商人及びその家族が罹る。また庶民でも冬は
生鮮野菜が不足するんで罹る人がでてくる。
993 :
少佐:2006/07/03(月) 01:17:08 ID:Ly5K2PYj
>>989 江戸の町人も天ぷらや寿司を食い、大阪がすでに「食い倒れの街」
とか呼ばれていた江戸時代と北朝鮮を比較するのはおかしいのではないか?
紀伊国屋文左衛門のような「豪商」も存在したのが江戸時代だよ。
994 :
少佐:2006/07/03(月) 01:25:13 ID:Ly5K2PYj
>>992 戦国時代の武士は「豊臣秀吉」を見れば解るように「質素を重んじる気風」
は存在しないが、江戸時代においては武士や商人などに「異様なまでに質素
を重んじる価値観」が生まれたのではないか?
そうした「質素イデオロギー」の結果が「白米と沢庵ふた切れ」だった。
「質素」が宗教的信仰のように美化された階級においては「おかず類」は極端
なまでに「削減」されたが、「おかずを削ったのだから、主食くらいは白米でも
いいじゃないか、さすがに主食まで貧乏百姓みたいにヒエ、粟にするのは耐えれないよ」
という「妥協」が命取りになったのだろう。
>>992 仕組みを知らないが、経験で玄米を食べてると脚気にかからないことに気がつく。
それまでタイムラグが生じてしまうということだよね。
>>994 質素にこだわったのは「宗教的信仰のように」じゃなくて、
文字通り宗教上の理由による。
997
少佐にマジレス
998
少佐終了
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。