【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1アライグマ ★
地名を聞いてもいまいちピンとこない札幌市の地名をあげましょう。
知名度ゼロ、名所ゼロの土地へ実地調査へ行き、見所を見つける良スレです。

「その一」から「その十参」までの過去ログはこちらでご覧になれます。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/ 

      Special thanks!! Mr.161

【前スレ】
【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十参】
http://hokkaido.machi.to/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1077463747
2なまら名無し:2004/04/26(月) 18:53:49 ID:2bxLppcY [ p0411-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ]

地名一つ一つに歴史がある
3新川番地:2004/04/26(月) 20:12:37 ID:Whax2TFk [ YahooBB219041108128.bbtec.net ]
「札幌人」買いました。

なるほど、こうなっとるのか。ふむふむ
まぁ こんなものか ふむふむ・・・


定期購読しとくかな
418丁目:2004/04/26(月) 22:14:15 ID:KIjFh9Fg [ p22054-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ふたつの横町からひとつの東札幌へ〜
 昭和7 年、一級町村制施行で白石村が一級に昇格し、村内は14 の区に
分けられた。その中の一つが「横町区」だ。昭和14 年ころの横町区には、
「横町振興会」と「新横町町内会」の二つの町内会があった。その当時、
横町振興会は白石祭、新横町町内会は札幌祭の祭典区で、互いに競い合
う間柄であり何かとゴタゴタが絶えなかったという。
この状態をなんとかしようと、北日本毛織会社(今の東札幌3 条2 丁
目にあった)の社長が、地名の変更を提唱。そのころ両町内会を合併す
る動きがあり、住民のアンケートをもとにして役員が話し合いをはじめ
た。しかし、意見はなかなかまとまらない。
518丁目:2004/04/26(月) 22:18:21 ID:KIjFh9Fg [ p22054-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
「東札幌町」に落ち着く?白石横町町名変更
いろんな名まえがあって難航していた札幌市白石横町の町名変更は「東札幌町」
に決まりそうだ。同町の新横町町内会と横町振興会は同町一帯が住宅地として
密集化するにつれて地番がゴチャゴチャになったので新しい町名をつけ、条丁
制にしてほしいと市議会に陳情、それぞれの町内会で発展地にふさわしい名まえ
を考えていた。(中略)地元同士で話し合ったがまとまらず、この中(候補にあ
げられた名前)から選んでほしいと市議会に決定をまかせた。
(『北海タイムス』昭和34 年11 月6 日より)
618丁目:2004/04/26(月) 22:23:15 ID:KIjFh9Fg [ p22054-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
横町の名は、古くから馴染みのある人には愛着があるが、新しくきた
人の中には、イメージが悪い、何でもいいから変えて欲しいという気持
ちが強かったという。最終的に「泉町」と「東札幌」が候補に残ったが、
こんなことで町連合併にしこりが残ってはいけないという理由で、判断
は市議会にゆだねられた。
718丁目:2004/04/26(月) 22:37:41 ID:KIjFh9Fg [ p22054-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
昭和34 年12 月の市議会で、国鉄の東札幌駅があり、もうすぐ開く郵便
局も東札幌となることなどから、「東札幌」に決定。当時の原田市長の決
断だった。この年には、町名改正の祝賀会や合同親睦大運動会などが行
われ、翌年めでたく「東札幌町内連合会」が結成された。こうして、90
年以上親しまれてきた横町は地名から消えた。
いまは、かつての横町通に面した「横町精米所」と、南郷通沿いにある
「やきとり横丁」に、その名を見ることができる。
8なまら名無し:2004/04/26(月) 22:50:24 ID:7KbOp6Hs [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
怒涛の新スレ突入です。
18丁目さんの「横丁」と「横町」の解説の途中で切り替わりましたね。
こんな場合、ちょっとやり難いものなのです。
っが!18丁目さん、お願いします。
「横丁通」までは了解しました。
例の水害が「横丁」の発祥に大きく関わったのですね。

業務連絡さん。
今日、「季刊 札幌人」を文教堂発寒店さんで3冊買いました。
いただきました3冊とは別に…。
なんて奇特なワシなんでしょう。

札幌五代目本籍菊水元町さん、お久です。
誠に僭越ながら、「札幌市手稲区○条○丁目」ってのは、「札幌市手稲区前田○条○丁目」の間違いですよね。
「曙」は「曙通」からですか。
「さっぽろ文庫1札幌地名考」で「曙」を引くと、中央区の「曙」が出てきます。
手稲区曙は出てこないですね。
本スレの最初のころ、ワシもこの「曙」間違いをしたことを思い出しました(w

で、書き込もうと思ったら、18丁目さんの「ヨコチョウ」の続編が…。
ほっほ〜。
9牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/26(月) 22:52:44 ID:7KbOp6Hs [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
>>8はワシです。
10横丁:2004/04/26(月) 23:34:15 ID:WRpbFNTU [ N019103.ppp.dion.ne.jp ]
前スレ278です。(せっかくなのでこのハンドルで)。

>18丁目さん
知られざる東札幌の歴史、興味深いです。これはまだ続きがあるんでしょうか?
「丁」→「町」の変化が今ひとつ釈然と・・・。これ以降は自分で調べなさいとの思し召しか。
自分としては牛鍋氏の「二次元」→「三次元」説がなるほどなあという感じです。

「札幌人」買いました。なかなか今後も期待できる作りで次号が待ち遠しいです。
そういえばこの本の中でもVシネ「北海水滸伝 484のブルース」が出てますね。
写真の貸し出しって、札幌でロケしなかったんだろうか・・・。
11元東月寒人@琴似:2004/04/27(火) 03:00:13 ID:e4VmsUg2 [ snjk036k074.ppp.infoweb.ne.jp ]
素朴な疑問。バス停の名称でもある「手稲鉱山通」はどこなのでしょうか。
前回の調査で調べようとしていたのですが、時間がなくできませんでした。
金山と稲穂の境界の通りが該当しそうですが、大きな通りではないようなので。

話は変わりますが、中央バス南92滝野線(以前は市営、さらに以前は過去ログによると定鉄)には車掌さんが乗っているそうです。
終点、滝野の転回所が狭く、誘導のため乗っているのこと。
(最近琴似にできた古本店で見つけた、「バスマガジン」という雑誌から。)

乗り物好きの子供の絵本用にと車関係の雑誌を探していたら、表紙に中央バスのでっかい写真(61番、月寒中・東北通経由平岡行き)の雑誌が現われ、元東月寒在住の私はそれだけで買ってしまったのですが、バスの世界も奥が深いようです。
この雑誌には日本全国のバスの写真が無数に出ていて、子供は狂喜状態。

なお、去年はバス創業100年だったとか。
(1903年9月20日、京都で乗合バス創業。北海道は1914年、浦河が最初とのこと。)
12元東月寒人@琴似:2004/04/27(火) 03:21:02 ID:F4f5N9B2 [ snjk033k016.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>8
手稲区の曙は、札幌地名考の「手稲前田」の項にちょこっと出てます。

私は曙図書館に行こうとして、中央区を探してたことがあります。
単に「曙」と言ったら、中央区の曙の感覚が残ってますが、今は手稲区の曙の時代ですね。
13元東月寒人@琴似:2004/04/27(火) 03:41:54 ID:ghaFMmPY [ snjk033k017.ppp.infoweb.ne.jp ]
東札幌駅が菊水に面していたのは面白いです。
横丁からは不便だったのでは。
駅ができてその土地の名称が変わったという例は、全国にあるようです。
14なまら名無し:2004/04/27(火) 03:53:28 ID:Pp1lKe4g [ EATcf-130p239.ppp15.odn.ne.jp ]
苗穂、東苗穂、伏古ってのもマイナーだよね。
田舎過ぎて。
15牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/27(火) 05:55:12 ID:SJBOJow. [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
>>10
祝・コテハン決定、横丁さん。
なんか粋ですね。
「ワク」じゃないよ、「イキ」。
でね、Vシネで札幌ロケはやらんでしょう。
なんたって、めっちゃ低予算ですもん。

18丁目さん頑張っていただきました。
結構どこでも揉め事があるようです。
地名の変更に関しては、妙な折衷案で訳の分からない名前になっちゃったりして。
横丁さんのおっしゃるとおり、「横丁」から「横町」へは、もうちょっと調べなければいけないようですね。

>>14さん。
「苗穂」、「東苗穂」も議会で揉めた地名の一つなんですよ。
以前に「伏古」もネタとして取り上げました。
過去ログお読みでなければ、是非。
16牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/27(火) 05:59:33 ID:SJBOJow. [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
>>11
「手稲鉱山通」はその通り「金山」と「稲穂」の間を抜ける道路のはず…。
なぜそう思うのかというと、確かそういう表示があそこにあったような記憶が、としか言えないのがつらい。
今度確認しよう。
あの道、ワシはなぜか懐かしさを感じてしまうのです。

「曙図書館」は先日行ってきました。
あそこは紛れもなく手稲区ですね。
「曙」に関する画像をアップせよ、と言われれば、「資生館小学校」に統合されて無くなりました中央区の「曙小学校」の写真がなぜかありますけど、今回はアップしません(w

「札幌地名考」の「手稲前田」の項に、
「なお、地区内には曙、南平台などの旧部落名や団地名があり、現在は町内会、自治会名として残されている」とありました。
こう見て行きますと、手稲区って変幻自在に地名を付け替える区であると言えないでしょうか?
いや、西区から手稲区へって変遷があってのことなのでしょうがね。
でも旧地名が生かされてのことなので、手稲区にワシは好感しています。

「手稲区ガイド」(手稲区発行)では、
「曙は、いつから開けたのか定かではありませんが、地名は、将来ほのぼのと明けていくという願いを込めて付けられました」と書かれています。
「将来ほのぼのと明けていく…」。
なんかの〜んびりと、春らし〜い名前だなぁ。
17なまら名無し:2004/04/27(火) 08:19:10 ID:jHFtIPqI [ p0359-ip02sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]

やれやれ。どうしたものかね。
18牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/27(火) 09:16:50 ID:SJBOJow. [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
先だってより話題の「地図と鉱石の山の手博物館」は、今日オープンだそうです。
1918丁目:2004/04/27(火) 23:34:22 ID:28QzTTmE [ p9156-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
わ、BNNでも「札幌人」次号予告で、モエレ沼公園が北区になっています。

豊平区と清田区、手稲区と西区、白石区と厚別区を間違えるのはまだしも・・・
ただ、西や南の人が北と東を間違う事例は身近でも経験済みですし、線路の北側
住民と南側住民とでは知っている地名のマイナー度メジャー度を測る感覚が全然
違うでしょうね。
20西創成:2004/04/28(水) 00:27:15 ID:61n1W0Is [ i096225.ap.plala.or.jp ]
18丁目さん。
「横丁(町)」の件わかりました。
丁→町 と変わったのは、なぜなんですかね。

>>10 横丁さん。どうぞよろしく。

>>11
中央バスの(南92)滝野線の車掌は、運賃授受などはしていません。
わたしが、市内で最後に乗った車掌付きバスは、昭和54年頃、市営バス(南93)定山渓線でした。
道内では、奥尻町有バス(スクールバスの路線バス扱い、白バス)に現在でも車掌がいるようです。
21元東月寒人@琴似:2004/04/28(水) 05:53:44 ID:XTU57RO2 [ snjk039k071.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>20
車掌付きバスで私が最後に乗ったのは、昭和55、56年頃の通学時に使った国鉄バスの南幌線でした。
長沼からのバスも車掌さんがいたかもしれません。
停車時は車掌さんがブザーで運転手に知らせる仕組みだった記憶が。
(ブザー1回と、ブザー2回で合図を使い分けていましたが、違いは忘れました。)
私は定期券でしたが、硬券も売っていたと思います。
その後は東西線が延長したので地下鉄通学になり、そのバスがいつまで走っていたかはわかりませんが。
22牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/28(水) 09:05:49 ID:OcaP2YQU [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
ディーラーで国産メルセデスのフェイスアップをした後、「地図と鉱石の山の手博物館」を偵察しに行ってきますっ!
23牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/28(水) 17:33:37 ID:OcaP2YQU [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
「地図と鉱石の山の手博物館」の偵察に行ってきました。
かわいいお姉さんが二人おられました。
スキ…。
以上。

あ〜、ダメですね、こんなレポートじゃ。
でも、かなり辛口になっちゃうなぁ〜。

鉱石(鉱物ではないようだ)に、かなりの興味がある方ならOKでしょう。
"かなりの"ですよ。
でもね、素人にはさっぱり分かりませんのや、「ウンタラ鉱」とか「ナンタラ鉱」と言われて石が置いてあっても。
地質図もありましたが、ワシにはこいつもさっぱりでしたし。
石を見ているうちに、竹中直人の「無能の人」って映画を思い浮かべました。
それが精一杯のワシでした。
一般的な古地図もあるようですが、まだ展示が追いついていないとかなんとか…。

将来、拡張されるのかどうか知りませんが、今のところの展示スペースは一階と地下のスペースのみです。
展示方法やプレゼンテーションにもっと工夫が欲しいですね。
素人にはツライです、はっきり言って。

駐車スペースは数台ありました。
でも、開いていたのは「社長専用」と書かれた所のみだったので、社長ではないワシは「琴似発寒川」の川沿いに停めました(w
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=939
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=938
24西創成:2004/04/29(木) 00:07:56 ID:Z2VQGghs [ i095138.ap.plala.or.jp ]
>>21
よくご存じですね。
車掌は中扉、車掌台のブザーで、運転手に知らせておりました。
前扉のみの車の場合や、古い方式だと『オーライ』と口でやるんですが、札幌でのツーマンバス末期は、現在のワンマンバス式の降車ブザーや整理券・運賃箱を使う方式+車掌(市バス他)で、中扉しかない車を使っていました。国鉄や定鉄では、車掌が乗車券をがまぐちで売る式もあったはずです。
その頃、国鉄バスでは、自動車線各駅(手稲町・手稲追分・釣橋・旭町・札幌駅発売所など)で硬券=汽車の切符みたいな厚紙の券を発売しておりました。
現在、バス券の硬券を市内で売っている会社は道南バスと定鉄の洞爺湖行だけのようです。

実は私も市内某社で平成6年までバス車掌をしていました。(路線を書くと私の事がすぐわかるので省略)

現在たしか中央バスさんに車掌じゃなくて、男性のガイドさんがおられるはずです。

それに、現在居なくなったバス関係の係員として、日航ターミナル(道庁前)や全日空支店(伊藤加藤ビル)などにいた荷物をトランクに入れたり、乗客人数をチエックしてバスを発車させる係があります。

札幌〜千歳空港のバスは、中央バス(日航・東亜便乗客のみの利用に限る)、北都交通(全日空便乗客のみの利用に限る)という認可免許が出ていましたが、それもなくなりました。
25横丁:2004/04/29(木) 00:29:46 ID:zNyD9/gs [ H016013.ppp.dion.ne.jp ]
>牛鍋さん
う〜む、Vシネがそこまで低予算な代物だったとは・・・。
ちなみに最近このVシネの元ネタと思われる「北海道水滸伝」という本を入手しました。
なにか面白いネタがあればご報告します。
ところで「神田川」のAnsは・・・?。

>西創生さん
こちらこそどうぞよろしくお願いします。
バスに車掌さんがいたとは・・・。地方のローカル路線バスにしか乗ったことの無い
私にとってある種カルチャーショックであります。

近々、「横丁」のコテハンの名に恥じぬよう‘横丁’図書館にいっていろいろ研究して参ります。
26元東月寒人@琴似:2004/04/29(木) 04:51:13 ID:OHm1bWFk [ snjk039k050.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>24
いろいろなやり方があったのですね。
南幌線では、車掌さんが乗車券をがまぐちで売ってました。
硬券は定期券売り場(私は下白石を使ってました、今はシャトレーゼができてますが)だけだったかもしれません。
車内では、回数券のようなものをちぎっていたみたいです。

12号線を通るバスの終点は普通、札幌駅でしたが、手稲追分行きのバスが朝に1便くらいありました。
(どっから来るのか覚えてませんが、厚別営業所からだったのか?)
当時、なんで手稲追分に行くんだとか思っていましたが、手稲方面のターミナルだったのでしょうか。
今なら、地下鉄の新さっぽろ発宮の沢行といった路線でした。

札幌駅から帰るときに、たまに高速小樽線を使いますが、バスターミナルに係員の人がいることがあります。
いつもいる訳ではないようですが。

30年以上前の子供の時の記憶なので、定かではないですが、東北通を平岡の方に行くバスに車掌さんがいたような記憶があります。
でも、もっと距離のある有明線はワンマンだったので、記憶違いかもしれませんが。
有明線の運賃表示板は、やたら大きいもので、バス停もたくさんあり、どんなところに行くんだろうと思ったものです。
27牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/29(木) 20:23:30 ID:6UfhyT5E [ N044134.ppp.dion.ne.jp ]
巷ではゴールデンウィークってヤツらしいですね。(フン!)
ワシには全然関係ありません。(く〜!)

さて、第3653回ゴールデンウィーク特別企画として、こんなサイトをご紹介しましょう。
「泉麻人の裏街道を行く」 http://www.nissan.co.jp/CARWINGS/kuruma_aruki/ura.htm 
日産自動車の http://www.nissan.co.jp/CARWINGS/kuruma_aruki/top.htm 「くるまあるき」というHPの中のコンテンツ。
話は東京なのですが、なんとなくワシらのやっている実地調査に近い雰囲気。
お休みのない方、あるいは休み中どこへも行く予定(金)のない方、ここを読んで東京の地図でも眺めて、旅行気分を味わうってぇのも一興かと…。

>>25 横丁さん。
「神田川」の「ヨコチョの風呂屋」は、前スレの283で西創成さんが…。
正解は「横丁の風呂屋」。
ワシには「横丁」には風呂屋が一軒しかなく、「横町」には数軒ありそうな気がします。
「二人で行った横丁の風呂屋」とはどこにでもある風呂屋ではなく、「あの風呂屋」でなければ「神田川」の世界は成り立たないだろうし(w

あ、歌詞、正しくは「よこちょ」ではなく、「よこちょう」。そう聞こえるけど。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=940
ウチにある「別冊ヤングフォーク 決定保存版 初心者のための<YUMIN> フォーク・ギター教室」(小林雄二編 講談社1976)より。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=941 
ちなみに「YUMIN」とは現在の「松任谷由美」のことではなく、編者の娘さんの愛称です。
76年当時、「荒井由美」はデビューしていましたが、「ユーミン」の愛称はまだ一般的ではありませんでした。
こっちは「YUMING」だけどね。
28牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/29(木) 20:25:38 ID:6UfhyT5E [ N044134.ppp.dion.ne.jp ]
んなわけで、何ぁ〜んだか最近たるんでるんじゃないのか牛鍋…、と思っておられる方、いらっしゃると思います。
正直って、国産メルセデスが納車になってから休日は実地調査にかこつけて出かけて歩き、文献やネットでの調べをないかしろにしてきた点は否めません。
しょうがないじゃありませんか、ワシだって「牛鍋だ、蝸牛だ」って名乗ってはいますが、本当は人間なんですから。
年金だってちゃんと払っているんですよ。
ま、とは言っても名誉挽回、汚名返上、こんなジミチな記事を見つけてまいりした。

「広報札幌手稲区版1990年12月号」の「特集2ふるさと手稲この1年 快適で、住みよい街に 町名整備・住所表示」をごらんください。
http://www.city.sapporo.jp/teine/teine/kouhou.htm  
「町名整備・住居表示 手稲星置、手稲金山、手稲稲穂の3地区で合計95ヘクタールの町名整備と85ヘクタールの住居表示を行いました。手稲星置の一部は、星置南○丁目と金山2条4丁目に、手稲金山の一部は、金山○条○丁目に、また、手稲稲穂の一部は、金山1条1丁目に変りました」

「手稲金山」、「手稲稲穂」の一部が「金山条丁目」になったことは既知の事実でありました。
が、「星置南」は1990年からの名称であることと、「金山2条4丁目」はもともと「手稲金山」ではなく、「手稲星置」であったことが新たに分かりました。
「手稲星置」であった地域から同時に「星置南」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=924 と 
「金山2条4丁目」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=925 という住所表示が発生したわけです。

どうも手稲区ってのはなんだね。
大胆だ、やることが…。
29西創成:2004/04/30(金) 00:55:55 ID:.GP0n0yU [ i253083.ap.plala.or.jp ]
巷ではゴールデンウィークなんですね。
私は、復刻発売のファンタ・ゴールデングレープなる飲み物を今飲んでおります。(これって、チクロ問題の時出たやつかな)

>>26
バスがワンマン運転しない場合というのは、
・道路の幅員がせまい、終点に転回所がない、極端に運行距離が長いなどで、役所からワンマン運行の許可がでない。
・車両に運賃箱などの設備がない。もしくは中扉しかない。臨時便などで案内テープや運賃表を用意していない。
などの場合です。
ただ、過去には、正式の路線認可を取らないで会員制ツアーバスとして運行して、添乗員等を乗せたケースもあります。

>>27
♪神田川の風呂屋は、スーパー銭湯なんかではなんんでしょうなぁ。「ゆ」なんて暖簾のさがっていて、脱衣所で森永ホモ牛乳なんか飲んでいる人のいるとこなんだと思います。
>>28
手稲区って大胆ですねぇ。
30元東月寒人@琴似:2004/04/30(金) 04:04:06 ID:x.aUkefc [ nc104081.ras.plala.or.jp ]
>>29
>車両に運賃箱などの設備がない。もしくは中扉しかない。
そうでした。記憶がよみがえってきました。
南幌線などには、中扉しかない車両がありました。
座席は左右2列ずつで、通路が狭く、いつも満員で身動き取れないほどの状態でした。
でも、快速か急行便だったので、鈍行に乗らずに、そういうのに乗ってましたが。

>ゴールデングレープ
それ飲んでました。グレープより高級な感じがしてました。
最近、フルヤの復刻キャラメルを景品で貰った事あります。
31牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/01(土) 23:40:25 ID:wzZSddUM [ N044134.ppp.dion.ne.jp ]
ゴールデンウィークなんですよね、やっぱり。みんな遊びに行っているんだな。
レスも付かないしなぁ。
しかし、ワシは書く!

>>28でご紹介しましたが、「星置南○丁目」の住所は1990年付けられたことが分かりました。
先日、別々にではありますが、ワシと元東月寒@琴似さんが「星置南1丁目」にあります「星置神社」へ実地調査に行きました。

「さっぽろ歴史なんでも探見」(山谷正著 北海道新聞社 1993年)にはこの神社の住所を「手稲区手稲星置17-2」としております。
93年に出版された本ですから、「星置南1丁目8-1」としなければいけないはずなのですがね。
文献や資料は鵜呑みに出来ないものです。

さて、複雑な変遷を見せる手稲区の地名ですが、今回のネタの「金山」に戻ります。
ネット上でも読めますが、ttp://ftp.galaxy.city.sapporo.jp/teine/genki/ 
「稲穂金山活性化推進委員会」より出ています「稲穂 金山よもやま話 第三集」に手稲鉱山のイラストマップがあります。
古い地名が記されたものですので、アップします。
解像度の問題で見づらいかもしれませんが、繁栄を誇った時代の「金山」を髣髴とさせてくれるものです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=942
32牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/02(日) 21:37:54 ID:RIC2S2ds [ N044134.ppp.dion.ne.jp ]
「星置の滝」の実地調査へ行ってきました。
「乙女の滝」もと思ったのですが、事情があって…。
というか車の置き場に悩んだのです。

「星置の滝」の方は「金山児童会館」の隣の空地前に問題なく置けるのですが、「乙女の滝」へ行くにはでこぼこ道の脇に停めなければならず、ちょっと不安だったんだよねぇ。
これが旧車の国産フェラーリならば…。

3月にはご覧の通りでした「星置の滝」。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=866 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=863 
現在は、問題なく下りられます。
ここは石で固めた階段ですので、それなりの靴をご用意ください。
スニーカーでOKでしょうが、ハイヒールとかはNG。
ワシもお気に入りの赤いハイヒール、今日は止めときました。

下りきりますと、「金子教會」の滝道場への橋が「星置川」に架かっています。
あちらは「小樽市星野町」なのですが、手稲区からのご注意がございます。
「私橋につき通行しないでください」。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=943
「私橋」というのは初めて聞いた言葉です。
「私設の橋だから渡るな」ってのは分かるけど、この橋のこっちは札幌市の土地ですよね。
土地の使用料は支払われているのかなぁ?と思った次第です。<つづく>
33木工団地:2004/05/02(日) 23:46:42 ID:N.tdd5S. [ ZF000050.ppp.dion.ne.jp ]
ふぅ〜。
やっと見つけました、【その十四】。
前スレ≫300であんな事が書かれていて、少し必死こいて探しました。
『無くなる訳は無い!!』と。

で、新札幌団地(今は石狩市花川ですが)ってのが30年くらい前に売り出されていました。
札幌市に合併しそうな勢いだったんでしょうか?
その付近には『内外レジャーランド?』とか『スカンジナビア館』などの施設があったと
記憶してますが、覚えてる方いますか?
一応、札幌の名の付く団地でしたので…。

≫11≫16に出てくる手稲鉱山通りはたぶん国道5号線から『肢体不自由者訓練センター』
と『手稲養護学校』へ上って行く道だった様な気がします。昔は丁度その通りの延長線上に
星置選鉱場の建物が見えたもので。

バスのお話で、私は幼少のころ国鉄バス札樽線の「手稲宮の沢」と「木工団地入り口」を
利用していましたが、不思議な車両が運行していました。
ドアが車両真ん中と後ろの2ヵ所に付いていました。
手稲オリンピア行きのスキーバスだったようです。
車掌さんも乗っていて、後ろの扉は使っていませんでした…たぶん。
後ろの扉はスキーを積み込む為のドアだったようです。
34なまら名無し:2004/05/03(月) 00:03:12 ID:JOKmRopg [ p6142-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ]
35牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/03(月) 10:13:02 ID:wHgCvNSc [ L066199.ppp.dion.ne.jp ]
>>33 木工団地さん、お疲れ様。
大丈夫。ちゃんとあります、あなたの帰る場所は…。
前スレの後半あわただしく埋まり、スレ立て申請制のタイムラグもあり、リンク貼れませんでした。
今後そのような場合、検索してね。

「手稲鉱山通」も行ってきました。
じゃ「星置の滝レポート」を中断して、こちらから…。
国道5号線にあります、JRバスと中央バスの「手稲鉱山通停留所」です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=947
昨日ここへ行った時、なぜか神戸ナンバーの乗用車が停車していまして、中にいた3〜4人の白人男性がワシの方を見て叫んでおりました。
何て言っていたかこっちは実地調査中で忙しいし聞き取れませんでしたが、きっとワシのカッコイイお尻にでもジェラシーでも覚えたんでしょう。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=948
木工団地さんのおっしゃる各施設がここにはありまして、
空地には「(仮称)北海道立小児総合医療・療育センター改築工事地盤調査」といった看板なども立っておりました。
同センターの基本計画はこちらにあります。(PDFファイルですよ)
ttp://www.pref.hokkaido.jp/hfukusi/hf-shfks/syofuku/doritu/k-keikaku.pdf 
最近、小児医療の問題点が提起されていますね。
小さなお子さんを持つ方にはいいニュースかも…。
でも、出来るまでに大きくなっちゃうかも…。

で、こちらがどうやら「手稲鉱山通」と…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=949 
どうです、なんとなく懐かしい風景じゃありませんか?

>>34 kanagawaくん、ご苦労様です。
でも、2ゲットなら、ついでに「富良野」調べなきゃ(w
36なまら名無し:2004/05/03(月) 11:31:07 ID:giW/k/X2 [ t506209.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
>>33
気になったので調べました。
スカンジナビア館は、大阪万博から譲り受けたものだったんですね…
<<失われたバス停名>>の所に詳細がありました
http://kskpro.ld.infoseek.co.jp/haisi/haisi01.htm
ここの過去ログにも(135-137辺り)
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/8_log.html
去年の今頃に調査されていたなんて…
37牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/03(月) 21:19:19 ID:wHgCvNSc [ L066199.ppp.dion.ne.jp ]
>>36さんのリンク先にありました、
「紅葉山(もみじやま)という地名は古くからあったらしく、今でも小学校や公園の名称として残っている」
の「紅葉山公園」の画像です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=950
GW特別出血大サービスですぜ。

「星置の滝」の実地調査レポート。ん?…、リポート?
文字で表わした時は「レポート」で、画像の場合は「リポート」と使われることが多いような…。
ま、どっちでもいいんだけど、その続きだす。

「金子教會」の私橋を横目に「星置川」の上流を目指します。
とはいっても、その距離ほんの20mほど。
一段高くなった斜面を上りきりますとそこは行き止まりで鎖が張ってあり、展望のための狭いスペースがあります。
そこから見たら、あっ、あった。

「星置の滝」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=944
二段になった、思ったよりも大きな滝でして、画像からは分かりにくいのですが30mほどの高さはあるのではないでしょうか。
雪解け時期のため水量も豊富でしたし、滝つぼだってなかなかの広さ。
誠に残念ながら、筆力不足のためうまく言い表せません。
なにはともあれ、一度ご覧になることをお勧めします。
ということで、尻つぼみのレポート、反省!!
38木工団地:2004/05/04(火) 02:58:18 ID:rRAclztw [ ZF000050.ppp.dion.ne.jp ]
お尋ねします。みなさん、古本屋さんへ出向く機会が多いようですが、
小学校で使っていた教科書なんかも、置いて有るんですか?
実は、ふと思い出したのが小学校3〜4年生の時の「社会科」の授業に
使っていた『わたしたちの札幌』って言う副読本(上巻と下巻があった様な)が
ありまして、今思うと結構参考になったのではないかと思うしだいで…。
たぶん捨ててしまって、詳しい内容も忘れてしまいましたし、
今も使って授業しているか判りませんが、このスレを見ていると、
急に読みたくなりまして…。
39牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/04(火) 03:34:54 ID:20whK2RE [ L066199.ppp.dion.ne.jp ]
>>38
「わたしたちの札幌」という副読本は「その弐」の#48で上げられた方がおられましたね。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/2_log.html#048
ワシもそう多くの古書店へ出向いているわけではありませんが、さすがに教科書そのものは見たことがありません。
使われちゃったらぼろぼろになるからでしょうか。
でも副読本の類はあると思いますよ。

「わたしたちの札幌」を「日本の古本屋」ttp://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihonでサーチしましたが、ヒットしませんでしたが、読みたいということであれば「札幌中央図書館」に数冊ありますね。
学年と年度で何種類かあるようですので、ttp://www.library.city.sapporo.jp/SPCLIB/servlet/search.inp_cond で調べてみてください。
中央図書館へいくのが大変ならば、最寄の図書館へ申し出れば取り寄せてもらえると思います。

なんて親切なんだろう…。
40とろんとろん:2004/05/04(火) 17:02:35 ID:ra9tgBIE [ p4061-ipad28sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ふう、やっと季刊「札幌人」買ってきました。
まさか、牛鍋さんの年齢までわかるとは思っていませんでしたが。
私のHNまで載っかっているとも思いもせなんだ、でしたが。
私が「あび」まで運んだ、「新・北区エピソード史」が「書棚」の
カラーページに載っかっているなんて、すごく意外でしたが。

 ちなみに購入したのは駅前のステラプレイスに移動してきた
「旭屋書店」さんで、北海道関係の棚においてあったかな。
(まあ多少見つけにくい本でもあるし、本屋の検索かけても別の
「札幌人」とついた本ばかり引っかかるし−そういややけに
北海道日本ハムファイターズ関係での発言に「札幌人」言う人が
多いような)ともかく季刊「札幌人」を見つけてもらう上での
一助になれば、と思いまして蛇足ながら。

>>29  西創成さん
私の最近のお気に入りの飲み物は復刻された「カナダドライジンジャーエール」の
クラシックかな。ウィルキンソン系のちと辛いヤツ。
41元東月寒人@琴似:2004/05/05(水) 21:53:42 ID:XFoZwsWI [ snjk031k066.ppp.infoweb.ne.jp ]
「手稲鉱山通」について、散歩をしていた現地の人4人に聞いてきました。
結果の前に地図を見てください。昭和50年(ほぼ現在と同じ)と25年の比較です。
50年の道路の内の4本を稲穂側から、A(青)、B(緑)、C(赤)、D(黄)とし、「手稲鉱山通」バス停を水色の●で現しました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=961

「手稲鉱山通」と思われる、金山と稲穂の間の道路はBです。
この通りを最初、手元の道路地図で見たとき、何となく「鉱山通」と言えそうにないと思い、>>11の疑問となったわけです。
昭和25年の地図ではC(星置の滝へのバス道路)の道筋が大きく異なり、Dは若干ずれているような気がします。
この25年の地図で「鉱山通」というのは、BよりAの方がふさわしく思えます。
また、C(星置の滝へのバス道路)が、直線であるのも気になります。

そこで、私も実際に行ってみました。牛鍋蝸牛さんとは逆に山側からの写真です。
高台線との交差部分が、微妙にずれています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=952
また、この道を登ったところは変形交差点で、スムーズに鉱山に行くようにはなってません。(以前の道路と形状は変わっていると思いますが。)
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=953

A(鉱山から稲穂に斜めに下りる道)とD(変電所の西側の道)の写真も撮ってきました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=954
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=955
42元東月寒人@琴似:2004/05/05(水) 21:54:28 ID:XFoZwsWI [ snjk031k066.ppp.infoweb.ne.jp ]
ここで、一休みして、金山周辺の画像をいくつか。

養護学校にあった、百年記念樹です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=956
タカの仲間と思われる鳥の羽。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=957
金山PAは一般道からも歩いて入れます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=958
「滝見町線」の記載されている表示を見つけました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=959
手稲西小の彫刻「FAIRY CAT」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=960
43元東月寒人@琴似:2004/05/05(水) 21:55:21 ID:XFoZwsWI [ snjk031k066.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>41の続きです。
「手稲鉱山通」についての、現地の人の回答結果はまちまちでした。。
2人はB(金山と稲穂の間の道路)ではなく、C(星置の滝へのバス道路)だという答えでした。
他の2人はBだという答えでした。
これ以上尋ねても結果は出ないと思い、交番で聞いてみましたが、良く分からないという事でした。
結局、結論はでませんでした。

昭和25年の地図では、C(星置の滝へのバス道路)が現在の「手稲鉱山通」バス停近くから鉱山に向かっており、この道が「手稲鉱山通」であった可能性もあると思います。
ちょっとした疑問でしたが、「手稲鉱山通」は金山と稲穂の間の道路?ということでした。
そのうち、地元の人が調べてくれるでしょう。
44牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/05(水) 22:45:15 ID:AnIEg1zc [ N045030.ppp.dion.ne.jp ]
「手稲開基110年誌 手稲の今昔」(昭和56年)の巻末に、「手稲地区町内会区域図」ってのが載っています。
これによりますと、>>41のD http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=96
(黄色の道)は「鉱山通線」となっております。
う〜ん、名称的には近いけど、微妙。
しかるに、昭和50年のC(赤)は「滝見町線」となっとります。
で、A(青)は? と申しますと、こいつがなぁ〜んにも書いていない。
奥ゆかしい…。
もしかして「手稲鉱山通」とは、バス会社が停留所の名称として付けた名前、って事はないでしょうかねえ。

「東札幌」の「ヨコチョウ」ですが、ま、資料はいくつか見つけました。
しかし変遷は未だ不明です。
もしかして初めから「横町」であった可能性も…、と考えてもみています。
「横丁」は、実は誤字、あるいは記述間違いだったって可能性。

事ほど左様にどんな可能性をも、初めっからは否定しない姿勢が大事だと思うんですよね。
まずは仮説を立ててみて、それを否定する材料が出たら捨て去る。
するとおのずに正解が浮かび上がってくる。

すんませ〜ん、えらそ〜に。
45横丁:2004/05/06(木) 00:05:31 ID:9DVZINf. [ p94-dna18toyohira.hokkaido.ocn.ne.jp ]
「横丁・横町」
う〜む、マチガイの可能性ですか。マチガイと言えば、前スレ284で触れた
「米里・行啓通りと36号線がぶつかる交差点の角の建物の名は「横町会館」で、私の記憶違いでした。
『横丁』の名がついているのは焼き鳥「横丁」のほうです。ちなみにこの「横丁」というのは
一軒のお店の名前であって、決して南郷通りに対して丁字路というか小路になったものではないです...。

私は、昔の人がアバウトに「どっちでもいいや」的に、「よこちょう」という
言葉に好きな字を当てていたんではなかろうか、と考えております。
4618丁目:2004/05/06(木) 01:40:37 ID:1dCK96HI [ p3200-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
横丁の変遷については
横丁通→横丁→横町→東札幌
でほぼ間違いの無い事実だと思われます。
白石歴しるべでは、ご丁寧に明治29年〜大正5年〜昭和10年〜昭和40年と年代別
の地形図を載せてあります。
ただし、横丁通も横丁も正式名称ではなかったのでしょう。
横丁通と呼ばれていた場所→横丁と地図に記載されたのは例の大正5年の地図です。
この大正5年の5万分の1地形図は、いろいろと情報が書き込まれてはいるが、年代や
名称が大雑把で、大正5年の実勢を必ずしも捕らえていないことが多いようです。
ちなみに、「やきとり横丁」は昔は横丁通にあったのが、移転して南郷通にあるようです。

正式名称が何だったのか?あるいは、当時の多くの人はどう呼称していたのか?
については、札幌村の本村・元村・新村に関しても疑問が湧いてきます。
47元東月寒人@琴似:2004/05/06(木) 06:20:15 ID:foXPGHcQ [ snjk038k058.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>44
町内会の図ではD(変電所西横の道)ですか。ありがとうございます。
Dは、雰囲気は歴史がありそうな道ですが、鉱山への通りとは思えないんです。
鉱山住宅への通りとは言えそうですが。
鉱山住宅と思われる建物がいくつか近くにありました。

私は「滝見町線」の位置もあやしいと思っているのです。
Cの「滝見町線」は今のバス通ですが、滝見町より「栄町線」と言ったほうがふさわしいのではないかと。
滝見町の正確な位置がわかれば解決ですが。

>>44〜46
「横丁」ですが、札幌歴史地図明治編の「白石村土地割図」(明治4年)に出てます。
「札幌本府道路横丁ヨリ番号」となっており、左右それぞれ1番から7番まであります。
(「幌」は「糸晃」、「号」は旧字体です。)
ただし、解説には、横丁が記入されているので、作図は明治5年以降ではないかというようなことが書いてありますが。
48元東月寒人@琴似:2004/05/06(木) 06:28:58 ID:gFtl/Vfo [ snjk040k033.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>44
>バス会社が停留所の名称として付けた名前
昔のバス停に「東北通」「東北通南」というのがありました。あれはまだ謎のままでは。
49なまら名無し:2004/05/06(木) 08:18:29 ID:Z3S5hDcg [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
50牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/06(木) 22:14:31 ID:/d9Rl7ms [ N044234.ppp.dion.ne.jp ]
>>49さん。
前スレ後半で18丁目さんが要約されておられたので、既出と言えばそうなのですが、本文そのものは読んでいなかったので、
サンクスです。
しかし、これでも「横丁」という表記が「横町」になった経緯がどうも分からないのです。
初めは線であったのが、面に広がったからか。
加えてイメージの問題もあったのでもあったのか。
>>46
大正5年(頃)の地図では確かに「横丁」となっております。
ではいつ頃から「横町」の表記が出てきたかというと、以前「立花」の時にご紹介しました、「新札幌市史 第三巻 通史三」、「第七編 近代都市札幌の形成 第二章 諸町村の近代化と行財政 第二節 ムラの変貌と近代化 U 三 白石村」P179に「白石村誌」より作成された「部落別戸口数」(大正9年10月1日現在)にその名が…。
部落名「横町」で戸口65、人口408人。
大正5年頃から9年の間に切り替わったのか、あるいは並存していたのか。

ところで話はそれますが、「スピカ」ってどういう意味なんでしょう?
STVのホールの「スピカ」方では「人体の不思議展」が開かれています。
行ってみたいと思いながら、「飯がまずくなりそうだなぁ…」と思うとなかなか行けませんわ。

あ、さて、手稲金山に戻りまして…。
>>47
>滝見町の正確な位置がわかれば解決ですが。
「手稲開基110年誌 手稲の今昔」(昭和56年)の「手稲地区町内会区域図」アップします。
ただし、既存の地図の上に町内会の位置を記したものですので、元地図の表記が見づらいんですよ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=963
51なまら名無し:2004/05/07(金) 02:58:34 ID:Ps1iNikA [ 61-21-235-13.home.ne.jp ]
スレ違いですみません。

>>50
スピカの由来はここにありましたよ
http://www.stv.ne.jp/spica/whatsspica.html

人体の不思議展は普通に見れました。
が、胎児だけは普通に見れなかった。
赤子そのものだったので((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
(それでも二児の母である私はしっかり見たのですがね)
病気の人の内臓をみるだけでも価値はありますよ。
喫煙家の旦那に肺癌患者の肺を見せてあげたかったです。


あ、札幌人を立ち読みしましたよ。
買ってなくてゴメンナサイ。
52元東月寒人@琴似:2004/05/07(金) 05:56:03 ID:ih5ZQrGM [ snjk034k087.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>49
この「白石地名探偵団」、興味深い内容なので改めて読んでみましたが、突っ込みたくなるところが多いんですよね。
読めば読むほど疑問点が増え、もっと詳しく書いて欲しかったというのが私の感想です。
53元東月寒人@琴似:2004/05/07(金) 06:08:08 ID:ueqGMXTU [ snjk033k001.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>50
「手稲地区町内会区域図」ありがとうございます。
「滝見町線」微妙に「滝見町」町内会にかかってるようですが、宮町に行く道という感じがします。
栄町の入った町内会はないけど、バス停には残ったという事になりますか。。

「星置元町」町内会が「星置条丁目」のほかに「星置南」を含んでいるのも歴史がありそうです。
54牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/07(金) 21:12:39 ID:s9j/aElQ [ N044234.ppp.dion.ne.jp ]
>>51 
二児の母さん、恐縮です。
「スピカ」って既成の事物だったんですね。
てっきり造語だとばかり…。
ところでイメージキャラの「スピカちゃん」、ど〜見ても「O次郎」に「スマイルマーク」付けて一丁上がりって雰囲気?
(タバコを吸わないワシは、病気の人の内臓は見なくてもよいでしょうか…)

>>53
「手稲開基110年誌 手稲の今昔」(昭和56年)はさすがに町内会レベルでの監修ということなのか、実に身近なネタが満載されておりまして、ちょっとこいつは…。

元東月寒人@琴似さん(ちょっとだけ長いので、打ち込みにいつも苦労します)がご興味を示されております、この辺りの道路に関連した記述がないものかと調べてみましたら、ベンベン!
「金山編」に「栄町」という項がありましてな。
そこに、
「この町内での悩みの種はダンプ通行に依る公害問題である。国道5号線を山本木材から左に曲り金山栄町を経て手稲鉱山に至るバス通りを滝見町線と言うが又の名をダンプ通りともダンプ銀座とも言われる程…」という記述がありました。

焼酎のお湯割りを飲んじまったワシは今日のところはもう眠いので、分析を明日までにしておくよ〜に。
じゃ♪
55西創成:2004/05/07(金) 23:32:50 ID:iXIrDdIw [ i095004.ap.plala.or.jp ]
話は全然違うのですけど、
『各駅停車の資材倉庫』というサイトで、千歳線切り替えにともなう代行バス時刻表をみたのですが、
時刻表というのをみたのですが、

「移設上野幌は立花に停車」とありました。
このころでも(昭和49)「立花」という名称をつけたバス停があったんですね。

このサイトのアドレスは一応伏せたほうがいいのかな。
56西創成:2004/05/07(金) 23:38:02 ID:iXIrDdIw [ i095004.ap.plala.or.jp ]
>>55
失礼。時刻表・・・がなぜか二重になっています。
57元東月寒人@琴似:2004/05/08(土) 06:01:16 ID:Qgnobe8g [ snjk034k049.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>54
当時の金山の道路は現在とはかなり違うようです。
私は、今の道路の感覚で考えていたので誤ってました。

「星置の歴史」の絵地図
http://www.ne.jp/asahi/kirakiland/hosioki/rekisi/kouzan.htm
「手稲でみつけた手稲のはなし」の航空写真
http://www.city.sapporo.jp/teine/tthanasi/honbun/hanasi15.htm
この2つを見比べているのですが、栄町と思われる辺りは、滝見町線沿線ではなく、今の養護学校の近くのようです。
航空写真では、滝見町線の栄町辺りに建物は無く、当時はまだ公害問題はない様子。
絵地図を見ると、国道への道路が5本書かれており、「手稲地区町内会区域図」のとおり、西から「鉱山通線」「滝見町線」という感じはします。

航空写真は、撮影角度の関係なのか、稲穂への道路が強調されていますが、滝見町線よりカーブがきつそうなので、大型車の通る道は滝見町線だったのではないでしょうか。
バスがどの道を走っていたかですが、国道から栄町を通り「滝見町線」に入っていたとしたら、「手稲鉱山通」は養護学校付近の道路を指していたとも考えられます。
(航空写真は昭和23年のものなので、いつから手稲鉱山までバスが入っていたか注意が必要ですが。)

(元東月寒人@琴似は長かったです。今からコテハン変えるのも遅いので、琴似や月寒、月琴でもわかりますのでどちらでも良いです。)
58元東月寒人@琴似:2004/05/08(土) 21:45:19 ID:PsXlaquM [ snjk032k007.ppp.infoweb.ne.jp ]
立花の事が出たので、上野幌に行ってきました。順番に写真を紹介します。
「厚別南の水準点」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=964
「厚別南緑地」 写真左「炭焼窯複製」、右「沢地 奥はサイクリングロード」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=965
「厚別南緑地の生き物」 写真左上「トカゲ?」右上「タニシ?カワニナ?」左下「ゼンマイ」右下「咲き終わった水芭蕉? 右の葉に乗ってる茶色はカメムシ」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=966
「厚別南緑地」でみつけた良く分からないもの 写真右「道路区域」左「見出し標」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=967

「旧国道と思われる道」 写真右「立花への下り 奥は千歳線」左「西の里への上り 奥はパークゴルフ場」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=968
「大曲川」 亜炭層を探しに行ったのですが良く分からず断念
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=969

「星子牧場」 牛はいないですが、トラクターと牧草がありました
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=970
「東部緑地から南方の教会に向けて」 東部緑地は厚別南緑地に比べかなり人の手が入っており、自然と言っても乾いた感じです。厚別南緑地に入って行く時のわくわくする感じはありません。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=971
「上野幌神社」 「宇佐八幡」に遭遇
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=972

このあと、痛恨のバッテリー切れ。予備を持っていなかったので、宇都宮牧場関係はありません。他にも見所があると思われるのにがっかりでした。
59牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/09(日) 20:02:54 ID:Wtj2YDBU [ N044234.ppp.dion.ne.jp ]
元東月寒人@琴似さん、お疲れ様でした。
デジカメのバッテリー切れは、ききますね。
ワシなんか今日、「軽川桜づつみ」に行って撮影しようと思ったら、メモリースティック忘れて。

「軽川桜づつみ」は以前に実地調査行きまして、「桜の季節になったらさぞかし…」と思いましてな。
しかし、ここが名前の通り、桜の花で覆われるのはかな〜り先のことのようです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=973 
でも、いいか。
タンポポは満開だったし、それはそれできれいだったから。
スマップにもそんなような歌があるじゃないですか。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=974 
(メモリースティックなかったので、久々に念写をかましました)

さて、牛鍋蝸牛、数日間のお休みをいただきたいと思います。
「札幌人」へも微力ながらもお手伝いができ無事出版されましたし、冬物の整理をしてついで部屋も片付けたいし。
まぁ、リフレッシュ休暇ということです。
60元東月寒人@琴似:2004/05/11(火) 05:04:49 ID:IMq5boDo [ snjk034k008.ppp.infoweb.ne.jp ]
「東区まち知るべ」というのを入手したので、読んでたら、北7条〜茨戸の馬鉄についてこんな記述がありました。

「1922(大正11)年、札幌軌道は馬に代えてガソリンカーを2両導入しました。」
「1935(昭和10)年3月に軌道廃止の許可を得て、バス営業へ転換します。軌道廃止時の保有車両は重量7トンのガソリンカー5両、客車7両、貨車33両でした。」

札幌軌道(札北馬車鉄道)の話はこのスレで知ったのですが、後年、馬鉄から気動車に転換していた様です。
61新川番地:2004/05/11(火) 12:26:31 ID:ThkUTQ0Y [ p2213-ipad29sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
馬鉄のルートってどこだったんでしょうね
駅もあったのでしょうか

牛の居ぬ間の何とやらで、調べてみようかな
62元東月寒人@琴似:2004/05/12(水) 05:24:58 ID:5Q5UFVGo [ snjk033k018.ppp.infoweb.ne.jp ]
「東区まち知るべ」によると駅は次の通りです。
(いつの運賃かは不明、4歳以下無料、12歳以下半額)

駅名,運賃(銭),距離(マイル)
札幌(北7条東1丁目)
東皐園(北14条),1,0.32
興農園前,5,1.12
新琴似,9,2.40
製線所前,10,2.68
中島,12,3.40
二番通,14,4.15
篠路,18,5.30
前田農場前,20,6.20
茨戸,20,6.40

明治43年10月 札北馬車鉄道(株)、札幌・前田農場前間軌道完成(単線)
明治44年6月 札幌・前田農場間運行開始
明治45年1月 札幌軌道(株)に改称
明治45年9月 前田農場から茨戸太まで延長
(昭和9年11月札沼線開業) 
昭和10年3月 軌道廃止、バス営業に転換

ちなみに、「東区ガイド」では開業時の会社名と区間が異なってます。
「明治44年 札北馬車軌道(株)が札幌‐茨戸間に馬車鉄道を開業」
63新川番地:2004/05/12(水) 21:37:14 ID:.c/08zwI [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
うーん 古代中国から邪馬台国への里数のようですな。なぜマイル表示?


どこをどう通ってたのでしょう。札沼線とはラップして無いんですよね、これ

二番通りは新琴似じゃないようだし、興味は尽きませんね
64めっちゃ名無し:2004/05/13(木) 05:43:41 ID:FrroQbFY [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
ご無沙汰してます。
さて、札幌軌道ですが、鉄道ピクトリアル1989年3月号によりますと、

明治41年2月七条良実氏は札幌区と石狩の交通運輸の利便を図るため、
札幌-茨戸間の馬車鉄道を企画し、沿道農村の有志、工藤重作他12名の
発起人により資本金7万円を以って札北馬車鉄道株式会社を組織し、
42年12月25日特許を得、設立は翌43年6月、資本金を5万円に変更して、
44年6月11日営業を開始した。
営業区間は札幌区北6条東1丁目-前田農場前で、さらに大正元年9月30日
茨戸太まで延長、大正6年9月4日石狩河岸まで延長した。明治44年6月5日
号の「北海タイムス」の記事”石狩川の半日”によれば、6月3日に札北馬鉄の
試運転が行われ、鉄路約8マイルを1時間20分で着いたと報じている。
なお、明治44年中に社名を札幌軌道株式会社と改称した。

とあります。(続く)
65めっちゃ名無し:2004/05/13(木) 06:14:19 ID:FrroQbFY [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
(続き)
大正11年動力を馬力から内燃化し、ガソリン機関車を使用した。
待避線、引込線工事のため、資本金2万5千円を増資して、
7万5千円となし、さらに10万円とした。

路線は北6条東1丁目-茨戸間であるが、石狩街道の創成川東側を走っていた。
馬鉄時代の停留所は、明治43年の「殖民公報」57号によれば、
札幌、東皐(とうふ)園前、興農園前、新琴似、製線所前、中島、
二番通、篠路、前田農場前、茨戸となっている。
6.79マイル、軌間3フィート6インチ、軌條は8kg/mを使用したようである。
後に停留所が増え、
札幌、北12条(諏訪神社前)、興農園前(北20条)、北大第3農場前(北26条)、
新琴似、製線所前、中島、一番通、二番通、三番通、篠路四番通、横新道、
前田農場前、上茨戸、川端(茨戸公園)となった。
単線であったため、処々に待避線を設けた。
製線所(亜麻原料工場)、上茨戸、川端、札幌には引込線が設けられた。
「札鉄局報乙第472号」(昭和3年7月25日)によれば札幌軌道の請願によって、
貨物輸送のため札幌駅構内に線路接続工事がなされたとある。

となってます。
他に知りたいことがあれば本に載ってる範囲で書き込みます。

>>新川番地さん
明治時代は基本的にマイル表示です、いつからキロ表示に変わったのかは分かりませんが(汗)

P.S. GWに帰省した時に「札幌人」購入しました。
66元東月寒人@琴似:2004/05/13(木) 06:21:51 ID:Kd4E66HQ [ snjk031k036.ppp.infoweb.ne.jp ]
続・北区エピソード史の20番「夢と思い出を運ぶ 石狩街道」に載ってました。
http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi2-20.html

ただし、「東区まち知るべ」の話と微妙に異なる点があります。
距離数、開業時の区間・会社名、ガソリン車の導入時期、軌道廃止の年が異なってます。
「東区ガイド」と「続・北区エピソード史」はほぼ同じ内容です。

駅の場所は、大正5年地図ではよく分かりません。茨戸駅だけ載ってます。
本当はマイルを換算して距離を出す必要ありますが、こんな感じだと思います。

札幌=北7条(以下東1丁目省略)、東皐園=北14条、興農園=北21条、
新琴似=北38条、製線所前=北42条、中島=北48条、二番通=太平4-1、
篠路=篠路2-1、前田農場前=篠路10‐1、茨戸=東茨戸1‐1

「東区まち知るべ」の本文には、前田農場前から0.7キロ地点に茨戸太駅とあります。
表の「茨戸」と「茨戸太」が同じか良く分かりません。
表の前田農場前‐茨戸は0.2マイルなので、0.3キロ位となり、0.7キロとは大きく違います。
0.7キロであれば、「茨戸太」は茨戸川河川敷辺りと思われます。
67元東月寒人@琴似:2004/05/13(木) 06:31:05 ID:0wzHD9EA [ snjk037k004.ppp.infoweb.ne.jp ]
すいません。>>65を見てなかったので、駅の場所が違ってました。
68めっちゃ名無し:2004/05/13(木) 06:42:47 ID:FrroQbFY [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
3連続失礼します、肝心の廃止前後のことを書き忘れてました(汗)

昭和4年国鉄札沼線の桑園-浦臼間は5工区に分けて
建設し、昭和5年8月桑園-篠路間が竣工した。ここで
問題となったのは、札幌軌道との平面交差であった。
札鉄達甲第251号(昭和9年11月20日)によると、新琴似
-篠路間の札沼線と札幌軌道との平面交差について踏切
遮断装置を設け、看手を配置して電話打ち合せをするこ
とを計画したが、結局実施されなかった。
それは札幌軌道の営業上の問題であった。
札沼線開通による札幌軌道の影響は、旅客51%、貨物89%、
運賃収入において62%減となるため営業不能ということで、
昭和10年廃止を申請、同年3月2日許可になり、3月15日
営業を廃止した。
それで、軌道法第26条、地方鉄道法第36条準用により、
補償金10万5千円を支払って解決した。
(第67通常国会補償公債発行決定)

となっています、なお他事業として冬季運休中の運輸用の
馬橇、石狩川における小蒸気船の航行があったようです。
また、廃線前から茨戸-石狩間の船便もあわせて段階的に
バス運行に切り替えていったようです。
69めっちゃ名無し:2004/05/13(木) 06:54:41 ID:FrroQbFY [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
>>元東月寒人@琴似さん
僕の資料では、
新琴似=北36条 製線所前=北41条 中島=太平3条1丁目
となっています。
70西創成:2004/05/13(木) 07:30:18 ID:WU2zvWdM [ m174132.ap.plala.or.jp ]
>>60〜68

その後、この軌道会社は、札幌観江バスという会社として(札幌・製麻会社前〜茨戸間)で営業していましたが、昭和17年国策により中央バスに合併
したようです。

軌道線の始発について、続・北区エピソード史46pでは「製麻会社前」としていて、47pでは、茨戸終点・川端駅の写真が掲載されています。
茨戸駅のつぎは川端駅だつたようです。

軌道経路は、石狩街道道路内併用軌道、〜前田農場あたりでやや東にそれて〜茨戸橋付近だと思われます。
71新川番地:2004/05/13(木) 14:08:07 ID:Kx79sB92 [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
>65さん 了解っす 自分の認識不足でした

本屋で立ち読みしてたら帝繊から茨戸にピュ−ッて線が引いてあるだけでした

駅や線路って遺ってないんでしょうかね
72新川番地:2004/05/13(木) 20:14:52 ID:Kx79sB92 [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
あ すいません痕跡っていう意味です
73新川番地:2004/05/13(木) 20:55:08 ID:.g3pBDoQ [ p2171-ipbf506marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
今友達から聞いたんですけど札幌駅のへんでなにか事件があったんですか?
74なまら名無し:2004/05/13(木) 21:28:20 ID:9ALQLrfo [ p4087-ipad91marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
>>13
> 東札幌駅が菊水に面していたのは面白いです。

恐れ酢だけど
白石横丁が東札幌になる前は
東札幌駅前の菊水東町あたりを
東札幌と呼んでいた
東札幌○○なんて会社も残っていると思う
75なまら名無し:2004/05/13(木) 21:31:08 ID:9ALQLrfo [ p4087-ipad91marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
札幌人は店頭で手にしてみたけど
東京人
を期待するとちょっとがっかりするかもしれない

今日は神田の書店で
大阪人
というのを見かけたけど
それでも札幌人よりは厚かった

これからの
札幌人
の発展を祈ります
76なまら名無し:2004/05/13(木) 21:42:16 ID:9ALQLrfo [ p4087-ipad91marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
74の話は
菊水スレッド
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/travel/2155/1077878952/50
にも書いた
77牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/13(木) 23:10:43 ID:WQ69cwqE [ y064237.ppp.dion.ne.jp ]
ぷっはぁ〜!浮上!
>>71
こんなのしかありませんが…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=975
78新川番地:2004/05/14(金) 00:14:28 ID:nOa/rNR2 [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
>>77牛さんお帰り〜

矢臼場・・・でしたっけ
あの辺が川端ですかね。大友掘みたいにルートを地図に落とせれば面白いかなーと思います。

ところで73さん 他人のHNは語らない方がイイと思うよ
79牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/14(金) 00:40:15 ID:HLIhldyA [ y064237.ppp.dion.ne.jp ]
当時、札幌には「馬鉄」が何路線かありまして、「さっぽろの足 写真でつづる50年」(札幌市交通局 昭和52年)にはその写真がたくさん載っています。
同書に路線図もあるのですが、「札幌石材馬車鉄道梶vと「札幌市街馬車軌道梶vのものだけ。
新川番地さん、残念ですね。

ま、基本的に「石狩街道」沿いであることは間違いないですし、「北区エピソード史」の地図
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=975
が正しければ、あとは駅の場所の特定だけで路線図は一丁上がりってことで。
是非、完成したいね。

「馬鉄」と「石狩街道のポプラ並木」のエピソードがありました。
http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi1-02.html
「植えて間もないポプラ並木に沿って馬鉄が通り始めた。馬がレールの上を客車を引いて走る、いわば"馬引き軌道車"が、茨戸から北7条あたりまでの石狩街道を雑穀などを積んで走った。若いポプラの枝振りが、馬のムチに適していたのか、何度も馬車追いに折って使われ、くる日もくる日も補植の明け暮れだった」

このスレ何日かROMってましたけど、読むだけでも面白いですね(w
80めっちゃ名無し:2004/05/14(金) 02:21:11 ID:CGo81CIA [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
実は鉄道ピクトリアルの方に大正7年の
5万分の1の地図にかかれた路線図が
載っているのですが、スキャナを持って
いないのでアップできません・・・。

その図を見る限りでは、札幌から茨戸まで
231号線沿いで東茨戸1-1交差点付近に
茨戸停留所があり、そこから伏篭川を渡り
左に曲がって茨戸公園の辺りに川端停留所
があったようです。

ちなみに、昭和55年6月NHKテレビ
「北海道の窓-アマチュアの映像記録」で
札幌市白石区在住の佐々木卓氏(旧国鉄OB)が
9.5ミリ映画に札幌軌道を撮ったものが
放映されたそうです。
81元東月寒人@琴似:2004/05/14(金) 05:57:22 ID:xrdwjBxU [ snjk031k075.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>69
了解です。私のは適当に出してますので、そちらの方が正しいです。

>>79
「石狩街道のポプラ並木」は面白い話ですが、
「苗木は部落の篤志家が寄贈し、全てが村民自身の手による風変わりな“緑化作戦”であった。大正4年のことである。」
「ところが難儀がまたひとつ。植えて間もないポプラ並木に沿って馬鉄が通り始めた。」の部分。

細かい話ですが、ポプラを植えてから馬鉄が通ったようになってますが、馬鉄は明治の終わり、ポプラは大正の初めなので順が逆です。
82牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/14(金) 07:47:25 ID:HLIhldyA [ y064237.ppp.dion.ne.jp ]
>>80
あ〜、スキャナがない…。う〜ん、後は念写しかありません。
なにはともあれ、「石狩街道」を進んで、後は
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=975
ってことでOKですね?
馬鉄の写真が載っている資料は仕入れてきていますので、後ほどアップしましょう。

馬鉄の車両に関しては「さっぽろ歴史なんでも探見」(北海道新聞社 1993年)より、
「約12キロの道を1時間20分ほどで走ったようだが、馬は客車(定員18人)や台車(荷物用)を2、3両引いていたという」。

「新札幌市史」に、「札北馬鉄」関連の当時の新聞記事がまとめられていました。
起点は「北五西一」だったかも…。

>>81
ポプラの件、「なるほど」です。
どうやら馬丁や馬工は他の人馬に対し、粗暴であったようです。
それらも含め営業早々にいくつかの問題が発生し、沿線住民が警察に相談を行っています。
これも後ほど。

見出しばかりですみません。
83新川番地:2004/05/14(金) 07:56:03 ID:nOa/rNR2 [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
川端駅はガトーキングダムあたりなのかな

至石狩は今の市役所方面っぽいですね

札幌最北の店の裏手を通ってる様ですね

駅のホームの石垣が・・・みたいな形で何か痕跡が遺っていると嬉しいですね

下見して来ようっと

最近暇なので・・・
84牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/05/14(金) 22:35:41 ID:5ld4mLP6 [ U125051.ppp.dion.ne.jp ]
新川番地さん、行かれましたか?「川端」。
場所的には「茨戸神社」あたりの辺りかな?とも思うのですが、どうでしょう。

さて、「一丁上がり」と思っていた「札北馬鉄」の路線ですが、そうでもないかも知れません。
「新札幌市史」の「第三巻通史三 第五章 交通・通信の近代化 第一節 輸送機関の整備と近代化 二 馬車鉄道の敷設 (二)札幌茨戸間馬鉄」の「札幌茨戸間の馬車鉄道」。
「明治四十一年二月三日、石狩町大字生振村村議会議員鳥羽熊三郎ほか十四人が、北五条西一丁目を起点(大正期の地図では北七条東一丁目まで軌道があったように描かれている)とし、篠路村大字茨戸に至る馬車鉄道敷設の願書を札幌支庁の手を経て内務省へ出願した(北タイ 明41.2.10)」

ほら、もうすでに起点からして二つ説がある(w
でも、こうじゃなくっちゃ面白くないんですよね、このスレって。
85めっちゃ名無し:2004/05/14(金) 23:42:42 ID:CGo81CIA [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
>>牛鍋様
>>65
明治41年2月七条良実氏は札幌区と石狩の交通運輸の利便を図るため、
札幌-茨戸間の馬車鉄道を企画し、沿道農村の有志、工藤重作他12名の
発起人により・・・
>>84
明治四十一年二月三日、石狩町大字生振村村議会議員鳥羽熊三郎ほか十四人が・・・

発起人の人数からして違ってます(汗)
86西創成:2004/05/15(土) 00:45:42 ID:AstaUCGE [ i099182.ap.plala.or.jp ]
札幌軌道の始発点は、北7西1じゃないかと思っています

・理由

1、北5西1では国鉄線と交差しなければならないこと。
2、軌道廃業後、転じて「札幌観江バス」になったが、
  その会社が北7西1、創成川河岸にあったこと。
  鉄道会社がバス会社に転じた場合、起点旧駅施設を
  そのまま使う例が多いこと。(定鉄・定山渓駅、
  根室拓殖軌道・根室駅、早来軌道・厚真駅など)
3、帝織の貨物があること。

路線認可(特許)上、北5西1より篠路村大字茨戸に至る軌道として、
認可されるも、国鉄線との交差という問題で頓挫して
北7西1が起点になったのではないでしょうか。
87めっちゃ名無し:2004/05/15(土) 03:05:06 ID:FfAIWaB. [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
>>60
遅くなりましたが、導入された内燃車はガソリンカーではなくガソリン機関車のようです。
(つまり自走客車ではなく、機関車牽引による客車列車)
両数はガソリン機関車5両、客車7両、貨車33両(廃止時)であってるようです。
88めっちゃ名無し:2004/05/15(土) 03:19:12 ID:FfAIWaB. [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
連続すみません。

>>82
基本的にその図であってると思います。
ただし、茨戸停留所は手元の本だと伏篭川を渡る手前のように見えます。
茨戸停留所を過ぎて渡る道は今の道道273号線だと思われますが、
その道と川との距離が30m前後しかなさそうです。
この頃の列車長なら収まるんですかねぇ?
89元東月寒人@琴似:2004/05/15(土) 06:56:11 ID:zAUYQnj2 [ snjk039k062.ppp.infoweb.ne.jp ]
馬鉄とは直接関係ありませんが、沿線の情報を「アンビシャス」(北海道大学附属図書館北方資料データベース)から探してみました。
(「アンビシャス」って正式名称でしたっけ?)

帝国製麻株式会社札幌支店
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B002950000000.html
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B003060000000.html

札幌郡茨戸前田牧場
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B004360000000.html
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B003820000000.html

花畔銭函間運河線平面図・札幌茨戸間運河線平面図
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/map/doc/0D012900000000.html
90牛鍋蝸牛:2004/05/15(土) 07:16:51 ID:2Kxvse2w [ U125051.ppp.dion.ne.jp ]
あ、「大正5年頃の地図」(2万5千分の1)に載っていました(w
このシリーズの地図、でかいので開くのがおっくうで…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976 
めっちゃさんのご指摘のとおり、北区エピソード史の「茨戸駅」の位置は違っているようです。
伏篭川(茨戸川)の手前にありますね。
現在の「東茨戸1条1丁目」の三角地帯です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=977 
「石狩街道」から右の道が旧道になるんですね。

「川端駅」の名前見えませんが、確かに船着場があるようです。
まだ詳しくは考察していませんが、川を越えてからの路線もその角度からなんとなく分かります。
現・さつき公園(茨戸神社の境内かな)脇を通っていたのではないでしょうか?
その先は今でも船着場のようですし。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=978 

さて、こりゃ行ってみるしかないなぁ。
91ドナーA:2004/05/15(土) 07:39:07 ID:QyGoogEU [ pc051091.octv.ne.jp ]
そろそろ脳死公園へ逝って臓器提供するか
92なまら名無し:2004/05/15(土) 12:50:33 ID:q1Mu854U [ r023024.ap.plala.or.jp ]
l
93牛鍋蝸牛:2004/05/15(土) 14:45:05 ID:TUo2rUhk [ x086166.ppp.dion.ne.jp ]
今日は生ぬるいお天気なので、だら〜っと「札北馬鉄」の実地調査へ行って来ました。
なかなか面白かったです。
でも、ごめんなさい。
なんだかとっても眠いので、お預けにしておきます。

予告編。
今ならあなたも「茨戸駅」のオーナーになれる!?
そして、「川端駅」と「川端麟太」の関係は!?

次レス、刮目して待て!
ワシャ、目が開かない…。
94新川番地:2004/05/15(土) 16:05:53 ID:9lb1FZLc [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
私も家族と買物の途中ふらふらと寄って見て来ました。あくまで下見です。
ついでに人間ウォッチング。調査してますオーラだしまくりの人はいないかなーって

「川端駅」と「川端麟太」の関係・・・知りたいですねー
ついでにトーテムポールの意味も
9518丁目:2004/05/15(土) 20:37:03 ID:ElCt082k [ p6158-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
なーんか楽しそうだね!
96新川番地:2004/05/15(土) 20:43:43 ID:9lb1FZLc [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
18丁目さんも早くっ

牛の居ぬ間の・・・って違うか
97元東月寒人@琴似:2004/05/15(土) 21:14:02 ID:zkT7ipqA [ snjk035k059.ppp.infoweb.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976
を見て「とらば」と読んだのは私だけでしょうか。
すぐ右下には動物の形をした沼のようなものが。

手元の道路地図では、茨戸園から生振に行く橋は「観音橋」となってます。
大正時代の神社(茨戸神社?)の位置は、現在の茨戸神社の西方にあるようです。
98西創成:2004/05/16(日) 01:21:04 ID:.lzeBLLc [ m071226.ap.plala.or.jp ]
札北馬車軌道→札幌軌道の起点がはっきりしないのです。

・殖民公報、第57号(明治43年・道庁)によれば、
基点札幌区北6条西1丁目製麻会社前より創成川に沿って
終点篠路村字茨戸太篠路川橋南詰〜となっているし、

・北海道の鉄道 田中和夫著(平成13年・道新発行)は、
北7条東1丁目〜前田農場前(明治44、6完成・10.1km・単線、軌間1067mm)
前田農場前〜茨戸太(明治44,9完成・0.7km)

・明治45年1月会社名を札幌軌道(株)改称
茨戸太〜川端(大正6年9月完成・0.6km)

・昭和10年2月軌道廃業
・昭和10年4月札幌軌道バス(株)と改称
北7東1〜茨戸等運行開始

・石狩町誌によれば、
同社は、すぐに「札幌観江バス」→「札幌観光バス」(昭和11年ころ)と
名称を変えたようです。(『観光』と変えたのは、茨戸の観光事業=水郷茨戸、
の事業に関連してとのこと)

で、起点が、北5西1、北6西1、北7東1、北7西1、と出てきたのですが、
どこなんでしょ。
99あぼーん:あぼーん
あぼーん
100めっちゃ名無し:2004/05/16(日) 03:20:43 ID:n.NSi72A [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
>>98
手元の資料から考えて、おそらく線路は北6条から引いてありますが、
札幌停留所は北7条にあると思われます。
多分、北6条から7条の間は貨物用もしくは車庫への引込線と思われます。
東1丁目と西1丁目はどうなんでしょう?たぶん東が正解だと思われますが・・・。
101牛鍋蝸牛:2004/05/16(日) 07:46:48 ID:13ISWcG6 [ U125045.ppp.dion.ne.jp ]
とりあえず「札北馬鉄」の起点は、西創成さんとめっちゃさんにお任せします。
ワシは、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976 
の「茨戸駅」から石狩川(現在は茨戸川)の終点へ向かうルートをたどることにします。

でも、この「大正5年頃の地図」には終点の駅の名前がないんだよねぇ。
「北区エピソード史」では「茨戸駅」の位置が違っていますが、終点に「川端駅」の名前があります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=975    
終点駅に名前がないというのも不思議。
「札北馬鉄」の営業目的から言っても、駅の機能を果たすものはあったはずです。

「新札幌市史 第三巻通史三」の「札北馬鉄の営業」には、
「沿線附近からの雑穀野菜等の運搬、石狩川汽船との連絡、日曜日ごとの石狩川遊覧や石狩浜への海水浴客の運搬など盛況を呈した(北タイ 明44.8.5)。
特に物資の輸送は、集積地であり消費都市である札幌への、石狩や当別からの物資販売上重要な役割をになった。(略)」とありますから。
なぜ、大正5年頃の地図には名前が出ていないのでしょう?

それと、「北区エピソード史」の「茨戸駅」は、ワシは単なる間違いだと思っていたのですが、これは明治後期となっております。
もしかしたら、大正5年頃までに移転したということも考えられなくはない。
めっちゃさんの手元の資料でも「伏篭川」の手前になっているということなので、「東茨戸1条1丁目」が正しいとは思いますが。
ま、そんなこともあんなことも茨戸川にさらりと流して、レポートの本題へ入ることに致しましょう。

>>89
元東月寒人@琴似さん。
「アンビシャス」は正式名称ではないよ。
ワシが勝手に付けたんよ。
102牛鍋蝸牛:2004/05/16(日) 11:18:02 ID:13ISWcG6 [ U125045.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=977 
ご覧のおとり、「石狩街道」の上り線に合流する東側の道が、旧街道であると思われます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=979
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=981

目印とては「日免レンタリース」。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=982 
「馬鉄」はこの道を「伏籠川」にぶつかってから左へ行き、すぐに右折し川を渡ったと思われます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=983 
次の写真で言いますと、右側の道が馬鉄路線。
橋を渡って奥へ向かいます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=986 

このバス停の脇、「日免レンタリース」の向かい側に三角形の土地がありまして、これが「札北馬車鉄道茨戸駅」の跡地ではないかとワシは思うのです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=985 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=987
103牛鍋蝸牛:2004/05/16(日) 11:40:00 ID:13ISWcG6 [ U125045.ppp.dion.ne.jp ]
では、「札北馬車鉄道 茨戸駅」があったと思われる、この三角地帯の現在の状況をご説明しましょう。
住所は「北区東茨戸1条1丁目28番118」、地目「宅地」、面積は802.74u、都市計画上の制限等は「一種住宅 60/200」、高度制限・防火指定はなし。
電気・水道・下水はありますが都市ガスは来ていません。
交通機関としては中央バスの「東茨戸1条1丁目」まで徒歩1分。(というか隣接)

参考事項として、この物件は創成川下風致地区(第一種)に位置しますので、「札幌市緑と保全と創出に関する条例」に基づき、宅地の造成、土地の形質の変更、樹木の伐採等を行い場合には、あらかじめ札幌市の許可を受ける必要があります。
そして、札幌市建築基準法施行条例に基づく「出水のおそれのある区域」に位置しており、床面は道路より0.6m以上高くしなければなりません。
最後にこの土地は、北西側の接面道路に比べて約1.5〜2.5m低く、東側接面道路より約1.0〜1.6m高くなっています。

どうです、レポートというのはこのくらい詳細にやらねばならないのです!
で、この土地買いませんか?
ご希望の方は、5月28日までに財務省北海道財務局へご連絡ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1001
尚、財務局へお申し込み際、「スレも立たない〜」を見たと言っても、牛鍋蝸牛のサイン入りおしゃれ小鉢は差し上げられません。
104牛鍋蝸牛:2004/05/16(日) 20:31:57 ID:ATxe6jow [ U120036.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、「札北馬鉄」の「茨戸駅〜川端駅」の実地調査レポートはまだまだ続きます。
今日はもう書きませんけど。

「季刊 札幌人」のHPが出来たそうですので、ご紹介します。
http://www.hsc.or.jp/sapporojin/index.html 

では、ごきげんよう。
10518丁目:2004/05/16(日) 21:21:32 ID:8xOGM2AY [ p10201-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>104
http://www.hsc.or.jp/sapporojin/index.html
>また行政、学術、市井など各分野18人のコラムを掲載しています。

牛鍋さんはとうとう市井分野で大活躍したのでしたよね(w

ところで、馬鉄に関する市民のイメージとしては、
鉄道より北の市民からすれば、今このスレで話題の「札北馬車鉄道」後の
「札幌軌道株式会社」でしょう。
鉄道より南の市民からすると、明治37年設立、同42年に開通の「札幌石材馬車鉄道合資会社」
なんでしょうな。
なんて感想だけ記しておきます。
106元東月寒人@琴似:2004/05/16(日) 21:48:57 ID:cvssTUkM [ snjk033k047.ppp.infoweb.ne.jp ]
金山神社に行ってきました。前スレ>>250の写真の場所です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=895

地図ではこの辺で、乙女の滝からは結構距離があります。現地報告は後日にします。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=70000&el=141%2F11%2F49.727&pnf=1&size=500%2C500&nl=43%2F06%2F58.788
107なまら名無し:2004/05/17(月) 18:44:40 ID:7kDKMElY [ p1243-ipad404marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]

いちおう
東京人
のホームページ
http://www.toshishuppan.co.jp/tokyojin.html

ついでに
大阪人
http://www.osaka-cpa.or.jp/osaka-jin/index.html
108牛鍋蝸牛:2004/05/17(月) 22:11:09 ID:7lOMP7nQ [ U120036.ppp.dion.ne.jp ]
>>106
お疲れ様です。
皆さん。
実地調査って、実のところなかなか大変でして…。
っんでもってそれを報告するってぇのんは、もっと大変なんだよなぁ〜。

ところで遅くなったんですけど、>>73さん。
一度ちゃんと新川番地さんにお謝りなさい。

閑話休題。
おそらくは「東茨戸1条1丁目28番118」の三角地帯、こいつは「石狩街道」のルート変更などによって出来た土地でしょう。
ということで「札北馬車鉄道」の「茨戸駅」がこの形に収まっていた、とは思われないようにしていただきたい。
ただ、位置としてはこの辺りではなかったか、という前提で話しをさせていただいております。
どなたか検証していただければ安心なのですが、ま、そうすると、「石狩街道」の変遷もやらなくてはならなくなってしまいますねぇ。

先を急ぐことに致しましょう。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=986
馬鉄は伏篭川を渡ります。
遠くに「旧テルメ」、現在の「ガトー・キンダム・サッポロ」が見えますね。
ワシはバブルの末期まで東京におりまして、当地へ帰って来た際に「テルメうんぬん」と人々が話すのをこう思って聞いておりました。
「なんじゃろ?テルメって」
「カブトデコム」にしろ「テルメ」にしろ、札幌におけるバブルの申し子の最盛期をワシは知らないのです。

先を急ぐことに致しましょう。(だから、早く行けよ!)
伏籠川にかかる橋は「茨戸中央橋」。
渡りきると変則の交差点になりますが、地元の方以外でここを直進したことのある人は少ないのではないでしょうか。

まっこと失礼ながら、その先はちょいと辺鄙(へんぴ)な住宅街といった趣です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=989
馬鉄は奥の白い壁のお宅が建っているところを左に曲がったと思われます。
このお宅の向こうから再び道が現れるのですが、これが「さつき公園」(茨戸神社境内と繋がっている)の脇へ出る道となっています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=988
109牛鍋蝸牛:2004/05/18(火) 22:04:04 ID:aRHvHCnw [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
う〜ん、だめだ。
今日は上手く書けない。

明日にしよ〜っと ♪
110元東月寒人@琴似:2004/05/19(水) 04:52:20 ID:kr7L0Irk [ snjk036k034.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>106金山神社の報告です。
前スレ267のhttp://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=915、乙女の滝への自然歩道入口の表示。クマ情報が更新されていました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1002
この表示にある地図では、行き止まりとなっている方向(青矢印)に神社があります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1003

滝ノ沢砂防ダム手前で行き止まりとなります。写真は右岸(自然歩道側)から撮ってますが、行き止まり地点は左岸です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1004

行き止まり地点手前の上に平坦な場所が見えます。
そこに登ってみると、写真はありませんが、こぶし大ほどの石を50cmくらいに積んだ場所があります。賽の河原とは違って小山といった感じです。
そのあたりが鳥居のあった場所の様です。その上に、石段はほとんど崩れていますが参道がありました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1005
この平坦な部分から下の道路への参道はほとんど痕跡がありません。写真中央、木の生えている場所が鳥居のあったと思われる地点。中央上部にやや右下がりに見える道が、先ほど通ってきた行き止まりへの道です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1006

結構急な階段(今は坂道)で、石段はほとんどなくなっており、滑りやすい状態。注意しながらさらに登ると、一旦、平坦な場所に出ます。参道はまだ続きます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1007

先が見えないので、ちょっとした冒険気分で登ってみます。石段跡を登りきると拝殿があったと思われる場所に着きます。ここには基礎が残っていました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1008
この上に何があるのかは分かりませんが、この辺りまでは、人が入った形跡があります。拝殿の周辺を探せば何かあるのかもしれませんが、雨と草のため詳細な調査はしませんでした。
神社については以上ですが、乙女の滝報告をまた後日。
111牛鍋蝸牛:2004/05/19(水) 21:09:53 ID:.8KRMGfc [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
元東月寒人@琴似さんも頑張っておられますね。
ワシも見習って、テキトーに…。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=988 
この先が茨戸川河畔になります。
「札北馬鉄」開業から100年に喃々(なんなん)とする現在、ここは生活道路以外の何物でもありません。
「さつき公園」に沿う道は、最後には民家に突き当たり、ストレートに河畔に出ることは叶わないのです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=999  
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=990 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=991 

突き当たりの民家を回避して、反対側に出ますと空地があります。
位置関係を見ると、おそらく馬鉄はこのブロック塀辺りを北進したのでしょう。
その先になにやらコテッジ風の建物が…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=992 
最終地点「川端駅跡」へ向かうことにいたしましょう。

川端駅跡…。
今ここは、「ガトー・キングダム・サッポロ」の敷地内でありました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=997 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=995 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1000 

ここに一世紀前、「馬車鉄道」の駅があり、
「雑穀野菜等の運搬、石狩川汽船との連絡、日曜日ごとの石狩川遊覧や石狩浜への海水浴客の運搬など盛況を呈した」(北海タイムス)ところであるご存知の方が何人いらっしゃることでしょう…。

「茨戸川」の中島ではこの日もパークゴルフ大会が開かれ、そして釣りに興じる人々の姿が見られました。
100年前の「川端駅」も同じような活況を呈していたのでありましょうか。
なんとなく、しみじみしてしまう牛鍋蝸牛なのでありました。(「きょうのわんこ」風)
112牛鍋蝸牛:2004/05/19(水) 21:41:03 ID:.8KRMGfc [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
「川端駅」にはその役割上、当然船着場があったと思われます。
既出の大正5年頃の地図には船のマークが見てとれます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976

現在ここには石段がありまして、頑強なフェンスはあるものの、河畔近くまで下りられるようになっております。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=995
これはその昔の船着場の名残なのでしょうか?
周りを見回してもそのような形状の場所は、ここにしかありません。

以前にも書きましたが、「血筋」ならぬ「地筋」がここにも見受けられるような気がします。
実地調査をしていて、その土地に染み付いた歴史を現すものにそれとなく出会うことが何度かありました。
単なる思い込みかもしれません。
ご都合主義かも自己満足かもしれないのでが、ま、こいつがたまんないんだよねぇ…。
113新川番地:2004/05/20(木) 08:50:02 ID:L/0du.j2 [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
牛さん、質問っ
神社は現在の位置に移転してきてるんですか
それともずっとあそこなんでしょか
114篠路人:2004/05/20(木) 19:38:12 ID:SM4f73Uo [ p1064-ip04sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
初めて参加しますが 皆さんすごいマニアックでおそろしいほどですねー つまらないことなんですが ガトーキングダムのボート場じゃない側はビオトープみたいになっていて ヘラブナ釣りでにぎわってます 畑の中をくねくねとぬってしまいにゃ 突然川の横でせきとめられてなくなってしまいます
でも雪解け時期には 水量が増えて 普段来ないようなところまで水が出ておもわぬ増水現象が現れます
115なまら名無し:2004/05/20(木) 19:40:03 ID:/HdtNWGg [ p0576-ip02sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
逆に、馴れ合いすぎだけどな。
116牛鍋蝸牛:2004/05/20(木) 22:37:03 ID:tAGjv1O6 [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
>>113
確かに
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976
には、神社が見えます。
で、こちらが現在あります「茨戸神社」です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1009 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1010 

結論を言いますと、これら神社に関してはワシ、全然調べていません。
ごめんなさい。
ま、一つだけ言わせていただきますと、ご覧のとおりここは「天満宮」ですので、祭られているのは学問の神様、「菅原道真」だと思われる、ということくらいでしょうか。
どなたか、検証していただけませんでしょうか。

>>114
篠路人さん、お初でございます。
「ビオトープ」って言葉、好きです。
ここは、「地名の虫のビオトープ」…、なんちゃってね。
暖かくなったので、ハエも来たりしますけど(w

「川端駅」と「川端麟太」の関係(あるのか?)は、明日にでも気が向いたら書きます。
11718丁目:2004/05/20(木) 22:44:24 ID:hDhwy1po [ p5227-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>114
初めまして篠路人さん
その傍公園になっていますよね。
とってもマイナーな憩いの場になっていて好きな雰囲気です。
118新川番地:2004/05/20(木) 22:57:16 ID:L/0du.j2 [ YahooBB219041108090.bbtec.net ]
天満宮は前田家由縁説と皆バラバラの神様でまとまらなかったので長老か誰かが子供達に大切なのは学問だとか言って道真公を祭っちゃった説があるようなんですよ。
で、http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976では線路の終点に向かって左側にあるようですよね
でも、他の地図や略図を見ると逆っぽいし、篠路川との位置関係もどうなんだろうと思っちやってやや混乱気味です。
暇だったので中央図書館で資料を物色したんですがドンピシャなのが見つからないし・・・
川や道路が改修を受けて位置関係が変わっているとは思うのですけど、旧道と篠路川合流の間であることは間違いないだろうと。そこまでは良いのだけど天満宮の位置が変わってるのか否かが不明なんですよ。冒頭の小ネタの仕込みをしている段階では移設されているかどうかは分かりませんでした。どなたか教えて下さいね。

>>114
篠路人さん、はじめまして
「ビオトープ」実は私の専門分野のひとつです。篠路川も見て下さいね。別に私は関与してませんが結構面白いですよ。
119牛鍋蝸牛:2004/05/21(金) 06:46:49 ID:4Eg3KmAs [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
先ほど現在の地図に「札北馬鉄茨戸駅」から「川端駅」へのルートを作図してみたのですが、あることに気が付きました。
先日の実地調査で確認した路線はちょっと違っていたのでは?と…。
まずは、こちらをご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1012

青線が先日の調査で路線ルートであろうと判断したもの。
「さつき公園」に差し掛かるところで若干西へ曲がっています。
これは道路に沿って延長した結果だったのですが、
「大正5年頃の地図」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=976 では、線路はここでは曲がらずに、素直に川の方へ延びています。
で、もう一度こちらを、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1012
赤い線がそれを参考にして引いたものです。
どうやら、赤線が正しいルートのようですね。

で、面白いことに気が付きました。
ワシが引いた赤線の隣にも赤い線が見えるのですが、これが「東茨戸2条1丁目」と「東茨戸」(地番地区)との境なのです。
どうやら、こいつも馬鉄路線の名残りのようです。

ということで、今日再度実地調査へ行って確認してきます。
120牛鍋蝸牛:2004/05/21(金) 07:26:55 ID:4Eg3KmAs [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
実地調査行ってきました!

嘘です(w
その前に先日の写真で、>>119の件を説明させていただきます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=988  
先で道がわずかに左に曲がっていますが、馬鉄はここをまっすぐ行ったと思われます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=999 
反対方向から見た写真です。
当初、馬鉄路線はこの道沿いにあったと判断したのですが、画面で言いますと左の下の角方向(さつき公園内)へ延びていたようです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=990 
で言いますと、砂場と木の間を走っていたのではないかと…。

となりますと、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=991 
のキャプション、「馬鉄路線はこの住宅の下に…。先が川端駅」は間違いってことになりやす。
本当は、画面右方向が「川端駅」ということになるかと…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=992 
「ブロック塀沿い辺りが馬鉄路線と思われる」は「思われる」だから、ま、いいかな(w
事実は違うようです。

以上訂正いたします。
121元東月寒人@琴似:2004/05/22(土) 06:08:55 ID:Ag8BhvcE [ snjk037k057.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>119
>これが「東茨戸2条1丁目」と「東茨戸」(地番地区)との境なのです。
この辺、「東茨戸2-2,2-3」と「東茨戸」(地番地区)の境界も一般的な道路や川ではないのが気になってました。
平成11年の道路地図では「東茨戸○条○丁目○○番地」と、まだ住居表示になってません。開発途上ということでしょうか。
(西茨戸条丁目は一部住居表示になってます。)

茨戸メリー幼稚園が、茨戸福移通からはみ出して茨戸を主張しているのがよいです。
東茨戸と篠路の境界は、伏籠川の東側は篠路川ですが、西側は茨戸福移通となってます。
西側の境界は、変更されたのではないかと思われます。
122めっちゃ名無し:2004/05/22(土) 06:50:32 ID:RXJKDsWI [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
そう言えば、一つ気になるんですが、大正5年の地図を見ると、
茨戸停留所を過ぎてから、軽く右に曲がって伏篭川を「垂直に」渡ってるように見えます。
つまり、現在の茨戸中央橋では無いと思うんです。
昔は、架橋技術の都合でなるべく川と素直に橋をかけていたみたいですし。
(ちなみに函館本線の江別大橋(昭和11年頃完成)も同様な例らしい)
従って渡ってからのルートも茨戸中央橋につながる道の一本右隣の道を通っていたのではないでしょうか?
123牛鍋蝸牛:2004/05/23(日) 13:21:16 ID:jiDsoNCc [ L066024.ppp.dion.ne.jp ]
新川番地さんより、「手稲鉱山通」のルートが提示されました。
リンク貼っておきます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1013

「札北馬鉄」に関しては後ほど。
124めっちゃ名無し:2004/05/23(日) 18:43:37 ID:JViZOt1. [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
そう言えば、札幌軌道を調べてるときに見つけたのですが、
軽石軌道 軽川(手稲)〜花畔間 9.4km
大正11年10月28日開業 昭和15年10月23日廃止
動力:馬力 軌間:762mm
と言うのがあったらしいんですが既出ですか?
125牛鍋蝸牛:2004/05/23(日) 20:51:00 ID:jiDsoNCc [ L066024.ppp.dion.ne.jp ]
>>124
本格的には取り上げていません。
資料は持っています。
で、一昨日、「川端駅」の実地調査へ再度行って来ました。
そんなに大きな成果はなかったのですが、旧神社の跡辺りも撮影してきました。

すみません。
これからF1モナコGP観るので、今日もこんなもんで失礼します(w
126元東月寒人@琴似:2004/05/23(日) 22:19:41 ID:f.ckrqjw [ snjk035k019.ppp.infoweb.ne.jp ]
茨戸神社に行ってきました。入口左手に、五角柱がありました。
この神社には天神さん以外にも別の歴史があるかもしれません。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1020
このような五角柱は他にもあると何かで読んだ記憶が。(このスレだったか?何かの冊子だったか?)

石狩街道のポプラは、太平を過ぎた篠路2-1付近で一旦切れて、茨戸付近の篠路9-1あたりでまた並木が続いてました。北区エピソードでは「太平ポプラ並木」となってるので、茨戸付近のポプラは違うものなのかも?

>>123新川番地さんありがとうございます。最近図書館行ってないのでチェックしてみます。
127元東月寒人@琴似:2004/05/23(日) 22:22:23 ID:t4.M.m1U [ snjk034k085.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>110の続き、乙女の滝の報告です。
滝にはあまり期待してなく、神社の登りで腹も減ったので帰ろうと車に向かったのですが、せっかくだからと行ってみたのが正解でした。

自然歩道入口の表示にしたがって10分くらい、滝ノ沢砂防ダムを過ぎると、浄水場・採石場からの車道に出ます。
そこは、広場のようになっており、西側に坑口のようなものがあります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1014
その南側には露頭が見えました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1015

更に進むと、車道はゲートで閉じてましたが、自然歩道は脇をすり抜けて手稲山に向かいます。ゲート付近の表示板。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1016
登り道を数分行くと乙女の滝への表示があり、車道から小道にそれて下ります。まもなく、建物跡がいくつか現われます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1017

そこを過ぎると、木々の間から滝が見えてきて、滝に到着します。乙女の滝の由来は不明との表示板。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1018
滝は雪解け水のためか結構な水量でした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1019
鉱山全盛の頃は、従業員達がここで安らいでいたのではないかと思えるような場所です。実際に行ってみることをお勧めします。
128なまら名無し:2004/05/23(日) 22:29:58 ID:Fjo2804Y [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>124さん

石狩百話より
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1021

とりあえず こんなとこで・・・
「石狩百話」 軽石軌道にまつわる話 載ってますよ

では・・・ガンバレ琢磨っ!
129とろんとろん:2004/05/24(月) 00:35:28 ID:wdU0N6EA [ p4061-ipad28sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
まず、スレ自体には少々関係ないけど、言わせとくれ。
いやー、混戦のモナコ、楽しかったあ。
ラストまで息をつかせぬデッドヒート。
やっぱりモナコは速く走れる苦労人が勝つべき市街地コースの
グランプリだわ。

といふことで、閑話休題。
数ヶ月程前から新聞についてくるフリーペーパーで
「PM(ポストメディア)」といふヤツがあるのですが、
ここの「歴史」といふところが結構面白い。私が手にしてた
のは北区版でしたが、地名や道の由来なんかをちゃんと
押さえていて、今月は「幻の滑走路、新琴似四番通」で、
「戦闘機隼」の話まで言及していた様子。ま、参考までに。

あとそういえば以前話に出ていたさっぽろ文庫のネット公開
ですが、28日からでしたっけ。今のところはなんかパスワードか
なんかかかってて、アドレスのところに行こうとしても、行けない
感じのようですが。

ちょっと腰のあたりにビリッときまして、もう少し慣らしを
してから、フィールドワークはまたそのうち、といふ感じに
なりそうです。
130BHI:2004/05/24(月) 10:53:36 ID:AcBBj31Y [ p7155-ipad26sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
はじめまして、茨戸スレから飛んできました♪
BHIと申します。
私はひいおじいちゃんの代から茨戸に住んでいます。(今も)
茨戸のことでこんなに盛り上がっているなんてとても嬉しいです。
私は大正時代のことは知りませんが、茨戸神社とか、茨戸中央橋という言葉が出てきて、
嬉しい〜。すぐそばに住んでいます。
それでは、またよらせてくださいね。
131牛鍋蝸牛:2004/05/24(月) 22:05:55 ID:AKImTW4M [ U120025.ppp.dion.ne.jp ]
う〜ん、どうも最近、「アルバム」にアップしようとしても、うまく上がらない…。
ウチのネット環境のせいなのでしょうか…。
やたら重いんです。
「茨戸神社」、「軽川馬鉄」の画像があるんですがねぇ。

BHIさん、お初でございます。
最近、茨戸スレはちょいと拝見しておりました。
そこでさっそく質問なのですが、地元「茨戸」では「札北馬鉄」の路線や駅があったことは、どの程度認知されているのでしょう。
この件、茨戸スレの住人の方には前から訊いてみたかったんです。

>>129
とろんとろんさん、お大事に。
そういや、ワシも去年、ぎっくり腰やっちゃたんだっけ。
132牛鍋蝸牛:2004/05/24(月) 23:22:41 ID:AKImTW4M [ U120025.ppp.dion.ne.jp ]
ダメだ、重くて…。
「川端駅」と「川端麟太」に関しても、写真がなきゃなぁ…。
今日はもう寝よう。
133新川番地:2004/05/25(火) 08:38:26 ID:sjWQ.Bqs [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
札幌の運輸の歴史が河川や運河による水運から鉄道や現代の陸運に推移するあたりを、僕らは手繰り寄せているんですね。

さっぽろ文庫44「川の風景」 「岡崎文吉による排水運河」より要約すると、
明治時代に道内排水運河を手掛けた「北海道治水の開祖」岡崎文吉博士が同じく手掛けた札幌茨戸運河や花畔銭函運河なのですが、前者は馬鉄に、そして国道231号(の一部)に変遷し、後者は軽石軌道とはズレているようだけど国道337号のルートにあたるようです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1022

運河と排水の街から今日のクルマだらけの街に変遷して行く段階でけっこう旧いモノを破壊してきている札幌では運河の遺構は貴重ですよね。保存されている歴史的建造物と同等以上の価値があると思うのです。創成川の川幅が拡がっている部分は何のためにこうなっていたのかを子供に教えてあげられる親って言うのもなかなか良いなぁと思っています。

ちょっと脱線してしまいましたが、「今日運河沿いに残っているポプラは岡崎文吉博士により植樹されたもの」とも記述がありました。結局だれが植えたのか?

>>131 
うちはここ2〜3日重いというより接続に失敗しがちです。

>>131
とろんとろんさん、大丈夫ですか?
GP燃えましたよねぇ

>>130
BHIさん、初めまして。どうぞよろしく
茨戸神社ってどうして鳥居が削れているんですか?
等々伺いたい事が多いです
134新川番地:2004/05/25(火) 19:37:56 ID:sjWQ.Bqs [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
やっと見つけました。札北馬鉄の路線図です。石狩川開発建設部監修・発行による「石狩川舟運史」という本に「殖民公報」第97号「北海道旅行案内増補大十二版」から作成という注釈のもとに掲載されていました。

「札北馬鉄軌道地図」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1023
ただし、この路線図にはいささか?というところもあります。
まず、川端駅はない。石狩〜札幌の物流を担う路線であるならば水運の拠点である石狩川と直接にアクセスしているはずなのに、この路線図には載っていない。
また、札幌側の起点である北6条東1丁目に現在の札幌駅が隣接しているような絵になっていて札幌駅はほとんど創成川を跨いだ配置に描かれている。事実なの?
さらに、同書の他の頁に掲載されている写真を見ると、「茨戸停車場」は創成川沿いにある。創成川を左手に川岸にごく近い場所にある。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1024
元となった資料は旧いが、絵としては新しいこの地図は、いままでこのスレで提示されてきた図とは相違点が多いように思うのですが、どう思われますか?
135牛鍋蝸牛:2004/05/25(火) 22:45:03 ID:KOq0kLTc [ U120025.ppp.dion.ne.jp ]
新川番地さん、よく見つけましたね。
執念ですね。

「川端駅」は、「北区エピソード史」のイラストマップでしか確認できていません。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=975
しかし、前に書きましたように、駅がなかったというのはとても不自然です。
ま、駅という名ではなかったかも知れませんが、新川番地さんも述べられていますように物流の拠点はあったはずです。

>>133 新川番地さんのレス、
>明治時代に道内排水運河を手掛けた「北海道治水の開祖」岡崎文吉博士が同じく手掛けた札幌茨戸運河や花畔銭函運河なのですが、
前者は馬鉄に、そして国道231号(の一部)に変遷し、後者は軽石軌道とはズレているようだけど国道337号のルートにあたるようです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1022

に関しまして、実は石狩市の茨戸川沿いに、このような碑が建っております。
「花畔銭函間運河跡」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1027
碑の裏側を見ますと、このような碑文が彫ってあります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1025 
ちょっと小さいと思いますので、書き出しますと、

「(略)この排水と併せて運輸の便に供する為に建設されたのが「札幌・茨戸間運河」と「花畔・銭函間運河」である。
「札幌・茨戸間運河」は現在残されている創成川である。石狩川本流最下流部の花畔、すなわちこの場所から石狩湾にほぼ並行して銭函海岸に達していた。
この二つの運河を通じて、札幌と銭函を舟運によって直接結ぶことが可能であった。両運河は明治二十八年に起工され、明治三十年に竣工している(略)」

ここには運河跡がちゃんとあります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1026 

「札北馬鉄」と離れてしまって申し訳ありません。
石狩川の水運を体系するのはなかなか大仕事だと思います。
ワシも良く分かっていませんです、ハイ。
ただ、いつか役に立つと思って一年前に撮ってあった画像、使いたかったもんで…(w
136新川番地:2004/05/26(水) 01:05:34 ID:1KN/vHaQ [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
今回のネタ探しで入手した資料は前段までに提示した画像の「石狩川舟運史」と、「石狩川治水の祖 岡崎文吉」、そして「石狩川通信 石狩川の流れ」の3冊です。実はいずれも石狩川開発建設部が発行しているものです。
この3冊で、石狩川の改修史や水運をはじめとする交通史は概ね網羅されているんじゃないかと思われます。中でも「石狩川通信 石狩川の流れ」は石狩川開発建設部OBの方が瓦版として発行していたものを1册に取りまとめたもので
「石狩川舟運史」のネタ帳的存在だと思われます。資料となる図や写真などの出典も説明があるので、このスレにたびたび出て来る
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=975
についても、「札幌百年の歩み」という本に掲載されている図の書き直しだと分かりました。(ただし、この図には馬鉄の線路は書き込まれていない。)

前置きが長過ぎますね。
前回アップした「札北馬鉄軌道地図」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1023
で感じていた疑問点のうち、札幌側起点と国鉄札幌駅の位置関係については
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1029
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1028
で概ね納得出来ますが、他の資料を見てもやっぱり川端駅は出て来ないんです。
牛さんのおっしゃるように「駅」ではなかったかも知れないのですが、では茨戸駅が川端にあっても良かったはずです。

うーん 誰かスッキリする回答持っていらっしゃいませんか?
脳内サプられへんわー モヤモヤ・・・
137めっちゃ名無し 改め 藻南公園:2004/05/26(水) 06:32:12 ID:XP04XpgI [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
札幌軌道の終点ですが、茨戸まで延長されたのが大正元年9月
川端(川岸?)まで延長されたのが大正6年9月なので、
「殖民公報」第97号「北海道旅行案内増補大十二版」が、
その間のものである場合は、茨戸止まりで問題ないということになります。
ただし残念ながら、手元の資料だと開業年月日はわかるのですが、
免許申請や工事開始の日付が載ってません。
だから、実際に川端への延長がいつ計画されたのかははっきりしません。
ついでに言えば、本文がやや曖昧な所があって、明らかに川端まで延長
された後の記述なのに列車の運行区間が札幌〜茨戸と言う記述が
出てきたりするのでちょっと紛らわしいです。
(川端に停留所があったことはちゃんと触れられています)

新川番地さんが載せた元ネタらしき図には「拓殖広報」第57号(明治43年)の
記事を参考にと書かれてるので、おそらく設立時の資料なのでしょう。
従って、「札北馬鉄軌道地図」は参照した資料が川端延長前だった、
と言う可能性があります。

ちなみに元ネタ図よく見ると、茨戸停留所自体も今までの資料と若干位置が違う気がします。
(今まで茨戸まではほぼ直線に延びてたはずが、前田農場から先で左に曲がってます)
もしかすると、最初の開業が茨戸ではなく前田農場までだったことと関係あるのかもしれません。
たとえば、当初予定地が何らかの理由で使えなくなり急遽ルートを変更したとか・・・・・妄想ですがw
138新川番地:2004/05/26(水) 22:00:04 ID:1KN/vHaQ [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>135
牛さん これってどこですか?
今日探してたらネズミ捕りに捕まって断念しました。
139牛鍋蝸牛:2004/05/26(水) 22:59:47 ID:5A3eA02U [ U125079.ppp.dion.ne.jp ]
>>138
あちゃ〜!そりゃ災難。
ま、安全運転でお願いします。

「花畔銭函間運河跡の碑」、ネット検索でもヒットしないようですね。
目標は「石狩市民図書館」です。
ここの駐車場の北側にございます。
140牛鍋蝸牛:2004/05/26(水) 23:10:09 ID:5A3eA02U [ U125079.ppp.dion.ne.jp ]
祝・改名!藻南公園さん。

「藻南公園」といえば、ワシが幼少の砌、藪の中に鳥の卵を見つけ、
「ハトの卵だ〜!」と言って炊事遠足に一緒に来ていた学友に自慢してみせた、あの「藻南公園」ですね。
あの卵を何で「ハト」と決め付けたのかは、自分でも分かりませんけど(w

詳しく検証しなければいけない「茨戸〜川端間問題」。
ここでまた混乱の種を…。
>>137
>札幌軌道の終点ですが、茨戸まで延長されたのが大正元年9月…
ということなのですが、「新札幌市史 第三巻通史三」には、当時の「北海タイムス」の記事からの引用で次のようなことが書かれています。

「十月二十六日には軌道工事も竣工し(北タイ 明43.10.28)、その後茨戸停車場の建設、同停車場附近への一の橋架設、積雪中の馬橇の準備などを行って、明年一月一日開業予定となった(北タイ 明43.12.25)。正式な開業日については確認できなかったが、融雪期となった翌年三月十日『積雪の為暫く車両運転を休止し居たる札幌茨戸間の馬鉄』が、全線除雪終了して開通する予定を伝える新聞記事(北タイ 明44.3.9)があるので、一月初旬一時的に営業を行ったと思われる」
141牛鍋蝸牛:2004/05/26(水) 23:31:01 ID:5A3eA02U [ U125079.ppp.dion.ne.jp ]
「札幌〜茨戸」という言い方なのですが、これは区間を言っているのであって、駅の場所とは直接関係しないのではないでしょうか?
つまり、航空路線の「羽田〜新千歳間」を「東京〜札幌間」とも言うのと同じことではないかと。
当時「茨戸」は「篠路村大字茨戸」で、札幌ではなかったわけですし。

>>140 
「新札幌市史」に、「一月初旬一時的に営業を行ったと思われる」というのは、同馬鉄が道庁の検査を一部通過しないまま営業を開始したためです。
このことはまた後ほど書きます。

で、さぁ、「川端麟太の碑」って何でここに建てたんだろ〜?
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=993
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=994
142なまら名無し:2004/05/27(木) 21:31:56 ID:4..NsH22 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
いいから早く言いなさいよっ
143牛鍋蝸牛:2004/05/28(金) 10:25:38 ID:vAFDuNpo [ N047247.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、遅くなりました。
「新札幌市史」にあります「札北馬鉄と沿線住民」によりますと、

「春の営業開始直後、沿線住民である鉄道以北有志が、軌道を敷設した道路の整備上の問題など札北馬鉄の経営の仕方について七項目を決議した。(北タイ 明治44.4.6)。
さらに篠路村、当別村、石狩町字花畔、同字樽川、札幌村字中道、同字烈々布と連合して、次の要求六項目を決議した」

一、石狩街道札幌茨戸間馬鉄の両側鉄軌面と道路面とに平坦に幅三間以上の砂利を敷き完全に修復する事
二、軌道内外馬鉄敷地内は監督官庁の命令書中第三条第三項に基き充分の監督を官庁へ請願する事
三、雪中軌道内の降雪は堀り上ぐると同時に運搬放棄する事
四、製麻会社前の狭隘なる堤防地に停留所を設けたるため馬鉄会社の車体の置場なく自然車両を線路に放置し通行の妨害となり危険砂利を以って〔ママ〕製麻会社前の停留所を北十五条以北に移転を要求する事
五、馬鉄の営業時間以外は一定の場所を定め客車貨車を牽き入れしめ通行の妨害を為さしめざる事
六、馬鉄の馬丁及工夫は通行の人馬車に対し粗暴の行動あるを以って之を厳重に取り締まりを要求する事

(略)この不満を示す行動に対し、北海タイムスでは会社側の言い分も伝え、一方的に会社側の責任とは捉えていない。この問題は札北馬鉄側が、道庁の検査で一部通過しなかった部分を残したまま営業を開始したことも一端となっていたようだ(北タイ 明44.4.11)」

とまぁ、こう言うことです。
144なまら名無し:2004/05/29(土) 18:30:35 ID:NpimIDHw [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
こんにちわ 新川番地です

142では 取り乱してしまい 失礼ブッこきました

かかる事態は138の件と141の牛鍋氏の結論を早く聞きたかったためです

では、どうぞ
145牛鍋蝸牛:2004/05/29(土) 21:28:07 ID:YObkVYEY [ N047247.ppp.dion.ne.jp ]
「川端麟太」という人は大正八年に札幌に生まれた俳人でして、有志の方がこの地に碑を建てたそうです。
はたして、「札北馬鉄川端駅」との関連があるのか、ないのか…。
色々調べてきたのですが、どうもこの地との関係はないのではないかというのが今のところの結論です。
有志の方が、ここが「川端駅」ということで、シャレで選定したのでしょうか?
紛らわしいんですよねぇ。

さて、その「川端駅」ですが、アプローチの方法として、馬鉄の駅として出てこないであるならば、反対に「石狩川汽船の船着場」という視点で探せば、出てきたりして…と思っています。
今のところ図書館へ行く暇がなく手付かずですけど。
146牛鍋蝸牛:2004/05/30(日) 20:41:41 ID:IyTDkTGA [ N045118.ppp.dion.ne.jp ]
う〜んと…。
少々、煮詰まっているように思えますにゃ。
一端、「川端駅」から離れてみるのがいいのではないかと、こんな風に思っちゃうわけですが、いかがでしょう。

で、全くの遅スレで申し訳ありません、>>124の「軽石軌道」の件。
「石狩百話」にありました絵をアップしておきます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1031
147元東月寒人@琴似:2004/05/30(日) 23:05:48 ID:ukWe1nGw [ snjk037k043.ppp.infoweb.ne.jp ]
大正時代に異国の貴婦人が見つけたリリーの名所と思われる、富丘西公園に行ってきましたが、まだ葉だけで花が咲くまでしばらくかかりそうです。
駐車場の近くにハマナスが咲いてました。

そのあと、軽川駅から弁慶号に乗って5分ほど旅に出ました。
着いた駅も軽川でした。
(過去ログに似たような話ありましたっけ?オリンピアに行ってきました。)

茨戸の対岸である、生振を探索しようと思ってましたが、時間がなくなったのでそのうちに。
茨戸付近の馬鉄の写真(>>134)と大正の地図を比べると、ポプラはどこに植えたんだという疑問が。川と軌道の間隔が狭すぎるので。
太平のあたりはもっと間隔があったのか、それとも軌道の対岸だったのか?
14818丁目:2004/05/31(月) 00:24:46 ID:fw0jTq3. [ p10013-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
富丘西の札幌市保留地申し込みましたが、抽選で外れてしまいました。
なんだか、ずーっと平地に住んでいた(横浜在住時は別にして)もので、
山に憧れている今日この頃の18丁目です。
149なまら名無し:2004/05/31(月) 19:43:52 ID:Mv9Z1Ke6 [ p8132-ipad89marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
菊水スレッド
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/travel/2155/1077878952/
に書いたけど
地名関連で面白いサイトを見つけた
ttp://members4.tsukaeru.net/hks-sapporo/mati/kotimokuji.htm
既出
だったかな
150牛鍋蝸牛:2004/05/31(月) 21:38:26 ID:teq2tMvw [ N044253.ppp.dion.ne.jp ]
>>149
へっへ〜。
「既出か?」と問われれば、既出〜。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/12_log.html#275 で。
このサイト、とっても面白いのです。
面白いのですが、明らかに事実と齟齬している記述も見受けられます。
老婆心ながらご忠告を…。

でっさ〜ぁ、>>146の"一端"は"一旦"の間違いでした。

それはともかく、「札北馬鉄川端駅」の件について自分自身混乱していまして、この件についてのレスをプリントアウトして、改めて精査してみました。
そうしたらよ〜く分かりました。
「川端駅」は間違いなくあった。
しかしそれは大正6年以降のことであった。
これは藻南公園さんが、最初からおっしゃっておられたことなのです。
ああ、とことん反省…。

しかしながら打たれ強いワシはここで、「川端」とは果たして"純粋なる地名"であったのか?と考えることで責任を回避しようと目論見ました。
「川端」は、「谷地」とか「追分」とか「精進」といった地名と同様に、地形を表わした名前であったのではないかと…。
否、もっと単純に、機能のみを重視され命名された駅名ではなかったかと…。

「川端」を辞書で引いてみなはれ…。
(もう、ほとんどの方はそんなもん、辞書で引くのは初めてのはずですわな)
「川端」…、それは、
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%C0%EE%C3%BC&stype=0&dtype=0 
「川のほとり。かわべり」を指す言葉なのです。

もちろん、ここが当時、札幌と北部地域を結ぶ水路と陸路の要衝として重要なロケーションであったことは間違いないのでありますが、それゆえ機能性のみが重視され、いわば記号化してしまって命名されたのが「川端」であったのではないかと、こう思うに至ったのでありますが、これって、どないだ!?
151新川番地:2004/06/01(火) 20:00:27 ID:.OcxS4hI [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]

「川の端(は)」にあるから川端なのでは?というのは考えたんです。僕も
「製線所(亜麻原料工場)」だって地名ではない訳だし、「○○○へお越しの方は、こちらで降りられると便利です。」みたいな停留所や駅があっても良いのだから、あり得るのかなぁ・・・と
しかし何故あえて茨戸と区別して「川端」なのか。「水郷茨戸」でも「茨戸港」でも「船着場」でも良いではないか。
そもそも茨戸駅自体「上茨戸」とか「茨戸太」とか呼称されている訳で、その呼称について良く分からない部分は残しつつも、「川端」は「川端」と呼称されるだけの何かしらの必然性なり背景があって然るべきではないのかとも思う訳です。「川の端(は)」にあるから川端なのでは?では少々寂しくはありませんかと、私は問いたい。

それにつけても、結構立派な駅舎ではありませんか。 
「川端駅」昭和初期-廃止直前か   
「続・北区エピソード史」より  (70で西創成さんが指摘済み)
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1032
背景からどこなのか判断出来ないのでしょうか。

最近「あび」が寂しいな・・・
152新川番地:2004/06/01(火) 21:39:18 ID:.OcxS4hI [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]

65での、めっちゃ名無しさんのレスでは
「上茨戸、川端(茨戸公園)」「製線所(亜麻原料工場)、上茨戸、川端、札幌には引込線が設けられた。」と、あります。

読み返すと、
後に停留所が増え、札幌、北12条(諏訪神社前)、興農園前(北20条)、北大第3農場前(北26条)、
新琴似、製線所前、中島、一番通、二番通、三番通、篠路四番通、横新道、
前田農場前、上茨戸、川端(茨戸公園)となった。
単線であったため、処々に待避線を設けた。
製線所(亜麻原料工場)、上茨戸、川端、札幌には引込線が設けられた。

札幌の引込線は理解出来ます。製線所も然り。
しかし「上茨戸」(茨戸のこと?)「川端」両駅に引込線があったというのは?。0.7kmしか離れていない2つの駅の両方に?

しかも、元東月寒人@琴似さんが62で指摘しているように
「表の前田農場前‐茨戸は0.2マイルなので、0.3キロ位となり、0.7キロとは大きく違います。0.7キロであれば、「茨戸太」は茨戸川河川敷辺りと思われます。」
この辺の整理がつきません。
駅のネーミングと位置関係と引込線等の取り回し。すっきりしないですね。
153藻南公園:2004/06/01(火) 22:34:13 ID:HBpxJGq6 [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
>>新川番地さん
上茨戸に引込線があったのは、単に一時期そこが終点だったからと言う理由だと思われます。(客車等の留置目的)
ただ、その場合前田農場前に引込線が無いのがおかしくなりますが・・・。

一方、茨戸太・上茨戸の問題ですが、>>137で疑問に思ってた、
>新川番地さんが載せた元ネタらしき図をよく見ると、茨戸停留所自体も今までの資料と若干位置が違う気がします。
>(今まで茨戸まではほぼ直線に延びてたはずが、前田農場から先で左に曲がってます)
と関係あるのかもしれませんね。
神奈川にいるので、なかなか実地調査も資料発掘も出来ないのがなかなか歯がゆいです。

ちなみに、鉄道ピクトリアル1985年3月号に軽石軌道が扱われているようですが、手元にありません。
>>146の「石狩百話」の絵の「鉄道ピクトリアルより」と言うのは、多分ここからの引用だと思われます。
154牛鍋蝸牛:2004/06/01(火) 22:42:38 ID:TbuSsBgU [ y065088.ppp.dion.ne.jp ]
そうそう、すっかり忘れていた。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1032
の「川端駅」の写真。
サイト上の画像は小さいので図書館から「紙版」の「続・北区エピソード史」を借りてきていたのですが、取り上げる暇もなく、しかもそのことをすっかり忘れていて期限が来てしまい、返却しちゃいました。

新川番地さんの疑問、「川端駅」と「上茨戸」の引込み線の件ですが、ワシも札北馬鉄レスのプリントアウトを読み返してみて、興味を持っていました。
結論から申し上げますと、この近距離の二つの駅の両方に引込み線があっても、何の不思議もないのではないでしょうか。

まず、「上茨戸」は当初の始発(終着)駅であったわけですから、引込み線があるのは当然であります。
そしてその後、路線は延長され「川端駅」が始発駅となったのですから、やはりここにも引込み線がなくては困るのです。
なんたって、単線ですからね。
とりあえず、こういうことでどうでしょう?

と書いたら、>>153 藻南公園さんのレスが…。

>>151 >最近「あび」が寂しいな・・・
ワシが「あび」に行っていないという意味なら、その通りです。
二度と行くつもりはありません。
155横丁:2004/06/01(火) 23:32:09 ID:wzZSddUM [ N019134.ppp.dion.ne.jp ]
すっかり地下に潜っておりますが細々と「横丁→横町」問題を探求しております。
とりあえず手に入れた(借りてきた)資料は、
「東札幌町連40年史」「白石・暦しるべ」「白石の語り部たち」「白石開拓と横町通」
の4冊なのですが、期待もむなしく(特に「白石開拓と横町通」)決定的な記述は見当たりませんでした。
どの本にも目立ったのが「丁」をあえて「町」に書き換えているパターン。悲しくなりました。
今のところの推論としては、やはり一級町村制施行による「横町区」誕生のあたりに
答えがあるのではないかと考えております。

あとこの間「難得神社」に行ってきました。たまたま作業をされていた「T氏」に
お話を伺うこともできました。ただご神体がなんなのかは伺えなかったのが心残りです。
ちなみに最近は若い人がよくお参りに来るとのことです。

話をそらせてしまって失礼。
156牛鍋蝸牛:2004/06/02(水) 04:33:34 ID:jUtQmFeU [ U120139.ppp.dion.ne.jp ]
>>155
「横丁→横町」問題の研究、お疲れ様です。

>どの本にも目立ったのが「丁」をあえて「町」に書き換えているパターン。
案外、これがヒントかもしれません。
「丁」を"あえて"「町」にする…。
イメージ的に「丁」より「町」。
そんなことで次第に変わっていったのかも、と思ったりして…。

ほぉ〜、「難得神社」に最近若い人が来る。
もしかして、これが本スレの影響であったならうれしいですねぇ。
暫くぶりに行ってみたいなぁ。
157元東月寒人@琴似:2004/06/02(水) 05:34:06 ID:RhrMMEbM [ snjk036k094.ppp.infoweb.ne.jp ]
茨戸の「川端」駅ですが、「川岸」駅と書かれているのを見つけました。
「シノロ 140年のあゆみ」(平成15年)の、「茨戸」に関する本文と大正3年頃の地図に、川岸駅となってます。
この本1000ページ以上あり、まだ全文を読んでないため、新たなことが出てきたらまた報告します。
なお、馬鉄について「殖民広報 第57号」の一部を2ページほど引用してますが、その範囲では「川端駅」は出てません。
158新川番地:2004/06/02(水) 08:53:29 ID:WY4Zm8Ts [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>157
今度は川岸ですか・・・駅名が転々としているのでしょうか
1000頁熟読の後、また教えて下さい。

私は正直鉄道の仕組みには暗いので、単線の終着にある引込線かどの程度の規模かが良く分かりません。
昔の記憶を辿れば、祖父の家の近くにSLがターンテーブル状のものの上で向きを変えて・・・
そんなもですので、「場所とるよなー」と思っていました。線路がループしてんのかな
159BHI:2004/06/02(水) 11:20:58 ID:dfbZJ70M [ p6174-ipad02sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
上茨戸...
もう何年も前に変わってしまいましたが、中央バスの停留所に「上茨戸」というバス停がありましたが
その場所と昔の駅の場所と関係あるんでしょうかね...
160牛鍋蝸牛:2004/06/02(水) 21:35:06 ID:jUtQmFeU [ U120139.ppp.dion.ne.jp ]
>>154
ありゃりゃ。
大正6年以降に「川端駅」が出来たということで丸く収めようとしたら、「川岸駅」の出現です。
こうでなくっちゃ本スレではありませんね。(はぁ〜…)

これは>>150で述べました、「"川端"は単に"川のほとり。かわべり"のことであって、それ以上の特別の意味を持っていなかった説」の裏づけになるのではないかと思うのであります。
「川のほとり。かわべり」を示すのであれば、もう「川端駅」であろうが、「川岸駅」であろうが、「河岸駅」、「川縁(かわべり)駅」、「川っ縁(かわっぷち)駅」、「川辺駅」、「河畔駅」、「川原駅」、「河川敷駅」、「川沿駅」、「川筋駅」、「流域駅」、「岸辺駅」、「水辺(みずべ)駅」、「水辺(すいへん)駅」…。
言ってしまえば、何でもOKだったのではないかと。
かなり穿った見解ではありますが。
161新川番地:2004/06/02(水) 22:06:10 ID:WY4Zm8Ts [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>159
僕ももう寂しくはありませんかとは問いません。たーだ川の端かもね。
162元東月寒人@琴似:2004/06/03(木) 06:27:34 ID:OdAXxN92 [ snjk031k032.ppp.infoweb.ne.jp ]
163BHI:2004/06/03(木) 12:52:57 ID:X2s4ypoA [ p6174-ipad02sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>162

うちのひいジイさんの名前のってた!
164なまら名無し:2004/06/03(木) 19:17:46 ID:pEIlCnMc [ n141064.ap.plala.or.jp ]
>154
ニ度といくつもりはありませんて・・・地名考よりそっちのほうが気になるな
いったい何が・・・
165牛鍋蝸牛:2004/06/03(木) 20:22:40 ID:gLOXS3tc [ N046126.ppp.dion.ne.jp ]
元東月寒人@琴似さんからご提示のありました、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1033
を勝手にレタッチしてしまいました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1035 
方角とか、この方がぴんと来るかと思いまして。
で、BHIさんのひいおジイ様のお名前も、くっきりと…。
166新川番地:2004/06/03(木) 21:31:46 ID:U.9ZRU5E [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>163
いいなー、うらやましいですね。
古い地図に載ってるなんて。
私なぞ市内ジプシーなので、根っこがある人ほんとに羨ましいです。
これを期に、このスレにハマって下さいね。

>>164
スルーでいいんじゃないでしようか。
振った私が悪いのです
167元東月寒人@琴似:2004/06/04(金) 05:29:47 ID:wQ9gRlIA [ snjk040k084.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>162は手抜きで申し訳ありませんでした。スキャナー出すのが面倒でデジカメで撮ったのをアップしたんですが、見やすくなりました。牛鍋蝸牛さんどうもです。

エルムガーデンのサイト発見。と思ったら微妙に既出でした。
http://www.elm.cc

>>146の軽石馬鉄の乗車券。「賃金参拾五銭」の「賃金」というのがストレート。
運賃がそのまま御者の給料になったという訳ではないでしょうが、その頃は運賃のことを賃金と言っていたのか?
社章のスズランは軽川のリリーを連想させますが、「輕」の字の強引な丸みもまた良いです。
168あぼーん:あぼーん
あぼーん
169Q:2004/06/04(金) 19:56:22 ID:QjPWcqHU [ proxy320.docomo.ne.jp ]
しばらくぶりに覗いて見ました。
>>146の軽石馬鉄の乗車券。
多分、当時の思い出からこんなのだったよなと、書いたのかなと思います。

まず、その年代であれば当然 右書きが普通かと。
左書き制定を、昭和16-17年に国語審議会に出すが敵国の謗りと却下。
(但し、市井の使用は咎めない)
その後、新聞は、昭和20年代から左書きを開始。
途中下車前途無効(の使用語句)は、昭和30年頃だったと?
旧国鉄時代は、昭和33年まで東京と大阪付近以外は下車可能。
当時の鉄道(軌道)会社は、単に「下車前途無効」の表示が多かった/
170Q:2004/06/04(金) 20:05:11 ID:ges.T.v6 [ proxy317.docomo.ne.jp ]
それで、「賃金参拾五銭」は
「運賃 金参拾五銭」、扱賃 金参拾五銭」だったりして(^^)
171牛鍋蝸牛:2004/06/05(土) 13:19:28 ID:lbs5JNtQ [ N046126.ppp.dion.ne.jp ]
>>169
Qさん、お久しぶりです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1031
何を元に描いたかははっきりしませんが、「SU」さんが描いたってのは分かりますね(w
昭和60年の「鉄道ピクトリアル・軽川軌道」(浜田啓一)が出典だそうで、ご紹介していませんが、「石狩百話」(監修・石狩市 共同文化社)の記述もこれを参考にしているようです。

おっと、時間がない…。
172Q:2004/06/05(土) 18:06:42 ID:2szww7XE [ proxy310.docomo.ne.jp ]
参考になりましたら幸いです。
昭和八年三月鉄道省発行の
札幌駅、軽川駅から石狩町(役場)までの案内です。
http://dc-ita.dyndns.tv/~machibbs/cgi-bin/imgboard/img-box/img20040605174426.jpg

札幌駅から軽便軌道の茨戸から舟に乗れ。
軽川駅だと、馬車軌道の花畔から自動車。
173Q:2004/06/05(土) 20:58:42 ID:aT6o/s/U [ proxy312.docomo.ne.jp ]
すみません、「賃金」これは正しい表記の
ようでした。
書斎もどきにて数書より抜粋しました。
「賃銭」「賃金」使われておりました。
http://dc-ita.dyndns.tv/~machibbs/cgi-bin/imgboard/img-box/img20040605205512.jpg
174牛鍋蝸牛:2004/06/05(土) 22:18:46 ID:lbs5JNtQ [ N046126.ppp.dion.ne.jp ]
最近仕事が忙しいというか、一所懸命やっている(前からだよ)ので、ほんのちょっとだけですけど地名発掘に力が入っていないかな?と反省していますワシです。
でも来週の火曜日から三日間、道東への旅も企画しております。
常連の方、あるいはROM会員の方、通りすがりの浪人さん、何方も此方もひとつスレの盛り上げにご協力を…。

本スレの活動で、「札北馬鉄」の「茨戸駅〜川端駅」附近の状況がかなり分かってきたのではないか、と思っておりやす。
して、このことをここまで取り上げた企画はなかったとも…。

と、今日は日記に書いておこう。
175新川番地:2004/06/07(月) 14:19:41 ID:h6svqO5E [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
「札北馬鉄」中ほどにあった「中島駅」は、橋の名前に残っていますが地名の由来は・・・とか
まだ小ネタはありそうです。

茨戸近辺は手詰まりかなぁ。めげずに進行しましょ
176牛鍋蝸牛:2004/06/07(月) 22:03:06 ID:OwGcG7qA [ U123220.ppp.dion.ne.jp ]
>>175
「中島駅」の件ね。
前から思っていました。これ調べたいですね。
賛成です。

明日から3日間留守しますけど、泥棒に入らないでね。
177牛鍋蝸牛:2004/06/08(火) 05:40:24 ID:yZFZTlOQ [ U123220.ppp.dion.ne.jp ]
朝方近くの地名ファン、おはようございます。
というか、もう朝か…。

例の「季刊誌 札幌人」の記事が、本日付の道新札幌圏版に出ております。
是非ご覧ください。
主幹Aさんのご尊顔を拝せます。
Aさん、また今度お茶奢ってくださいね。

第二号の特集は「公園」です。
本スレで公園ネタといいますと、「東皐園」とか「旭山記念公園」や「五天山公園」もあったけど、やはり大きいところでは「偕楽園」でしょうかねぇ。
なんたって、「札幌初の公園」なんだから「札幌人」でも取り上げない手はないでしょうね。

さて、「札北馬鉄」の「中島駅」。
現在の「中島橋」は、「石狩街道」と琴似栄町通」の交差点で創成川に架かる橋です。
「屯田1条1丁目」、「麻生町8丁目(創成川下水処理場)」、「北48条東1丁目」、「北49条東2丁目(中央バス北営業所)」が接するところでワシも良く利用します。
ま、橋と言っても今までワシも、意識してあそこが「橋」であるとは思っていませんでした。

…って、ことで今書いていて気が付いたのですが、馬鉄の「中島駅跡」ってもしかして、「中央バス北営業所」なんでしょうか?
だとしたら、ものすごく分かりやすい!

じゃ!行ってきま〜す!
今日は阿寒泊まりです。
178新川番地:2004/06/08(火) 15:02:51 ID:QEEL9JbI [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
162で元東月寒人@琴似さんが提示された茨戸の地図の元ネタ「シノロ 140年のあゆみ」を私も新琴似図書館で借りて来ました。一言で言って「すげぇっ!!」考古学から地名の由来から変遷から何からほぼ網羅してるじゃないですか。こういう本に触れると、自分がいかに半可通なのか思い知らされますね。篠路出身/在住の方は是非一家に一冊お持ちになる事を強くお勧めします。

なにしろこの本には、「札北馬鉄」やら「軽石軌道」やら「茨戸神社」やらの新(旧か?)事実が盛り沢山で・・・何?中身について早く言えって?・・・無理です。帰って来て小一時間飛ばし飛ばし軽〜く読んで、立ち上がる時に立ちくらみを覚える程、濃密かつ膨大な資料なんです。スキャナは大丈夫かな?と言えば想像つきます?

元東月寒人@琴似さん あなた知ってましたね?この内容

2週間かけて良く読んで、少しずつアップします。
書中で絶賛されている石狩し図書館にも行ってみようっと

>>177
牛さん、道中お達者で〜
179藻南公園:2004/06/08(火) 17:41:05 ID:5c2Y4two [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
>>177
多分、馬鉄の中島停留所は特に駅舎も引込線も無かったようなので、
中央バスの営業所の土地は関係ないと思います。
多分、道路上にぽつんとホームがあった程度ではないかと・・・・・。
もしかしたら、ホームすらなかったかも?
180なまら名無し:2004/06/08(火) 19:30:05 ID:yf3XpwBo [ proxy309.docomo.ne.jp ]
(・А・)イクナイ
181なまら名無し:2004/06/08(火) 19:53:22 ID:zmfbEpgs [ ppp1610.va-osa.my-users.ne.jp ]
運賃の事を「賃金」って、伊豆の人車軌道でも言われていたと
聞いた事があります。
バラトから川端の区間は、人車軌道扱いの可能性はないのでしょうか?
182新川番地:2004/06/08(火) 21:39:36 ID:QEEL9JbI [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]

反省しています・・・「シノロ 140年のあゆみ」

「この本1000ページ以上あり、まだ全文を読んでないため、新たなことが出てきたらまた報告します。」って元東月寒人@琴似さん言ってました。
これはやはりしんどいですね。

「1000頁熟読したらまた教えて下さい」なんていっちゃって、深く反省してます。

で、すこし読んだ範囲では「中島」は場所的には確かに中央バスの営業所あたりのようです。
位置的にはズバリかどうかはまだ分かりませんが、馬鉄からバスに移行して最終的には中央バスになっているので説得力はありますよね。
茨戸にも中央バスの出先があったし。
ただ、始点/終点の駅?には写真が残っていますが、途中の停留所(駅)の様子が良く分からないので、藻南公園さんのおっしゃるようにホームすらなかったかもっていうのもうなづけるし・・・
資料を精査してみます。

「中島」は篠路に2箇所あったそうです。もうひとつは「中嶋」のようですが。
なぜ「中島」なのか、橋の名は残しても地域名としては残っていないのか。
これももっと掘り下げてみます。

元東月寒人@琴似さん たすけて
183空沼狸:2004/06/10(木) 07:15:32 ID:3uUjvm/6 [ T4d.V9585d3.rppp.jp ]
皆様はじめまして。こんなおもろいサイト、もっと早く知りたかったと地団駄踏んでます
郷土史、地名、調査…諸々大好きで、札幌文庫も1〜50巻くらいまでは持っております
過去ログを読破中ですが、「シノロ 140年のあゆみ」1000頁読破並みに長い道のりかも!?
宅地化する以前のもみじ台周辺で遊び育ち(十勝沖地震のころ)、南郷、山の手、川沿、豊滝と移り住み…札幌ばかり。現在は南区、真駒内牧牛場以南のことならおまかせを。ドンガバ村(共和国)の行方・場所、既出でしょうか?
望豊台ってのもありましたね。お役に立てそうですが、今は篠路に集中しますです(^^. 
ログ整理など人手が必要な時はいつでもお声かけ下さいませ。
184なまら名無し:2004/06/10(木) 08:04:14 ID:bTbZ2esY [ ppp0620.va-spk.my-users.ne.jp ]
空沼狸さん はじめまして。
私も、整備が始まる前の「熊の沢公園」で遊んだ年代です。

望豊台は石山4区あたりだったでしょうか?
なつかしい言葉です。
185新川番地:2004/06/10(木) 11:58:11 ID:tWLnJSDc [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
「川岸駅」もうひとつ見つけました。

「シノロ 140年のあゆみ」より
川岸駅付近の略図
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1036

馬鉄ルートの図では、川岸or川端駅は単に「駅停」となっています
昭和初期〜終戦頃の地図
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1037

>>183
空沼狸さん、初めまして。自称留守居役・新川番地です。
頼もしい方がまた一人増えましたね。どうぞ楽しんで下さい。
18618丁目:2004/06/10(木) 20:17:32 ID:Ok0cYiss [ p1242-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
18718丁目:2004/06/10(木) 20:19:09 ID:Ok0cYiss [ p1242-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ぎゃ!操作ミスでURLだけ貼ってしまいました。

>>183 空沼狸さん初めまして!
ドンガバ村とっても知りたいです。
よろしくお願いします!
188信濃:2004/06/10(木) 20:27:40 ID:Lf73alvo [ ppp0440.va-spk.my-users.ne.jp ]
こんばんわ
>>183空沼狸さん
>>184?さん
わたしも市営バス停が、下野幌団地入口や青葉町入口だった頃に住んでいました。

地元のなつかしい話題が出てくるとわくわくしますね。
189牛鍋蝸牛:2004/06/11(金) 21:53:28 ID:AzKHVQJk [ N046012.ppp.dion.ne.jp ]
阿寒湖二泊で根室は納沙布岬まで行って来ました、牛鍋蝸牛でございます。
三日間で、国産メルセデスにて1152.9km走りました。
ここ2年ほど、休日は本スレの調査に潰しておりましたので久々の旅行であります。
リフレッシュ!!!

さて!
>>181(184?)さん、初めてましてですよね?
「運賃」と「賃金」の件ですが、なるほどです。
動力が人なら「賃金」で納得ですね。
目からウロコでした(w
ちなみに「望豊台」の調査は何度か挑戦しているのですが、クルマを停めるところとそのタイミングで難儀しております。

空沼狸さん、いらっしゃい。
何度も書いていますが、過去ログを読む作業は一度挑戦してみたいと思いつつ、実現しません。
書くより大変そうだもん。
ログ整理はやりたいのですが、どう体系付けしましょうや?

「馬鉄」って「鉄道」と名が付き、「駅」なんぞと呼んでいますがその実、現在の市電の停留所程度のものであったのは?とワシは想像しています。
ということで、「中島駅」が即「中央バス北営業所」とは思っていないのですけど、ルーツはとしてあり得るかな?…、とこう考えてみていたりして。

と、このままではageずらい内容なので、
http://www.sapporobunko.jp/ をご紹介しておきましょう。 
(とろんとろんさんが行った時はちょっと早すぎたんですよ)

で、ここの「異説・新事実」ってサイト。
http://www.sapporobunko.jp/isetsu/isetsu.html 
腕が鳴りませんか?
うふふ。
190牛鍋蝸牛:2004/06/11(金) 21:56:33 ID:AzKHVQJk [ N046012.ppp.dion.ne.jp ]
あれ?
「信濃」って何度かネタで出てきたけど、HNとしてはお初でしたでしょうか?
>>188信濃さん。
191181:2004/06/12(土) 07:24:12 ID:xVPVZyE6 [ ppp1440.va-osa.my-users.ne.jp ]
バラトの馬鉄の謎、解明されてきましたね興味津々です。
昨年の啄木話題以来時折拝見しております。

江別の村営人車軌道(馬も使ったらしい)ですが、石狩川つながりでご容赦下さい。
ttp://www.kk-net.com/%7Etabuchi/ebetsu.htm
こんな具合に、支線、待避線は無かったのかなと?

当方、あまり御貴地の地理感覚が乏しいのですが、
江別市のカントリーマークに北海道百年記念塔が、
デザインされてますが、旅行の際に立ち寄り頂いたパンフレットの
住所は札幌市となっています、なんか?であります。

ちなみに、その折の宿泊先は冬季激安のバラトテルメのホテルでした。
192なまら名無し:2004/06/12(土) 07:34:10 ID:T4whrMbU [ t013189.ap.plala.or.jp ]
藻岩下のあたりに桂岡という地名があったそうですが由来は?
193新川番地:2004/06/12(土) 09:45:57 ID:zWjg.mKI [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
うーん・・・ 馬鉄の事ばかり考え過ぎて気を失っておりましたぁ・・嘘

牛さんおかえりー いいなぁ「人情岬ってヤツですねー」

うーん2度寝します
194牛鍋蝸牛:2004/06/12(土) 21:13:21 ID:.ckp5u6U [ U232200.ppp.dion.ne.jp ]
あ、ちょっと言葉足らずであったかもしれないと反省しつつレスします。

「賃金」ネタの出所であります、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1031 
はあくまで「軽川軌道」(石狩〜軽川間)ですので、「札北馬鉄」で「賃金」なる用語が使われていたかどうかは定かではありません。
ということで、「札北馬鉄」(特に茨戸〜川端)で動力が「人」の車両が使われたかもしれないという可能性に直接結びつくものではないと思います。
今までのところ、「札北馬鉄」に「人車」の記録は出てきていませんし、すでに馬鉄で営業され、この区間が後に延長されたことを考えるとその可能性はないのではないかと…。

>>189で書きましたが、「賃金」の意味が別にあったということに関しては疑いもなく納得しております。
195なまら名無し:2004/06/12(土) 21:16:16 ID:K/VIDWc2 [ 61-21-181-59.home.ne.jp ]
過去に何度か書き込んだ者です。
>>26 元東月寒人@琴似様
JRバス早朝の手稲追分行きは厚別営業所からだったと思います。
自分、上野幌在住で(旧宇都宮牧場のそばです)、高校野球部の応援で円山球場まで向かうのに利用したことがあり、
乗車の際に最寄りのバス停(報恩学園前)からではなく厚別営業所まで歩いた覚えがあるので確かです。
平成5年頃ですかね。
時計台前から駅に向かわず直進していくところが萌えでした。手稲「追分」ってどこへ行く道の分岐を意味しているんでしょうかね。

それから>58 面白かったです。
星子牧場、牛いなかったですか?
196牛鍋蝸牛:2004/06/12(土) 21:38:13 ID:.ckp5u6U [ U232200.ppp.dion.ne.jp ]
>>192
「桂岡」は「さっぽろ文庫1札幌地名考」では「桂ヶ岡」と出ております。
「山鼻川」の項なのですが、例の「六・九・十万坪」の辺りを指すらしいです。
由来は「カツラの木が多い」ということだそうで、あまりヒネリはありません。

「六万坪」、あるいは「九万坪」、もしくは十万坪」(全部同じところ)につきましては、過去ログに詳しく出ているのですが、ひとつだけ「さっぽろ歴史散歩」(山崎長吉著)の「藻岩下中継地」を再度引用しておきます。

「軍艦岬を過ぎるところは、藻岩山の裏手、すなわち南側の傾斜地で、割栗までの豊平川と藻岩山にはさまれた狭い地域である。藻岩下の地名が定着しているが、別に上山鼻と言った時期もあった。古くは十万坪と呼ばれていたこともある。(中略)
さて、藻岩下のこじんまりとしたところを区切って景観を考えると、ここは明治三年の南山鼻の入植で、世にいう十万坪の開墾が始められた。しかしそれは正確には場所を示すものがない。十万坪は広さをいうことから地名化したものである。つまり本願寺開墾のことである。開拓使当初から軍艦岬と称するのは、今の割栗の岬をさし、のちに現在の尾根の端しをいうように変わった。つまり砥石山の岬から藻岩山の岬に変わった」
197牛鍋蝸牛:2004/06/12(土) 21:48:49 ID:.ckp5u6U [ U232200.ppp.dion.ne.jp ]
>>195
>手稲「追分」ってどこへ行く道の分岐を意味しているんでしょうかね。
「追分」ですね。
これも以前にやりましたので過去ログを…。
「その十壱」 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/11_log.html です。

…というのも冷たいので、答えを言ってしまいます。 
「新札幌市史 第一巻 通史一 第五章 サッポロ越新道 二 松浦武四郎 「新道日誌」 銭箱よりハッサムへ」 によりますと、
「追分の由来は、右は本道、左はハッサム在住地へ至る二叉路になっていたからである。武四郎はここで左行し、大矢分右衛門・大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠の在住地に至る(略)」
とあります。
何度も言い続けましたのでなんですが、「札幌地名考」の「馬を追い分けた」説は間違いだと思います。

これはインターネット版の「異説・新事実」 ttp://www.sapporobunko.jp/isetsu/isetsu.html へ教えてあげた方が良いだろうかねぇ?
198とろんとろん:2004/06/12(土) 23:55:58 ID:BFRKOLUA [ p4061-ipad28sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ごぶさたしております。とろんとろんです。
多数の方々からねぎらいの言葉を頂き、誠にありがとうございます。
とりあえず、読んではいたけれど、なかなかスレに
参加するチャンス、といふか、気力がいまいち沸いてこなかった
臆病さんだったので、まあ、これからもよしなに。
あと、腰の方はまあ小康状態ではあるにせよ、まあなんとか
生きておりますので。

さて、私がこのスレに馴染むきっかけのひとつだった「ノブナガ」の
「地名しりとり」、本にもなったようですね。
(でもまさか、近くの文教堂で、平積みで売ってるなんて
思わなかった。中部支店発の「ぴあ」の本が)

そこで本を読んだところ気になったのは、ここで少し言われていた
「横丁→横町」問題にも似た問題。

ワッキーのしりとりの原則では「町」を除いた末尾次第で
しりとりと「ん」ルール発動が決まるわけですが、
和歌山県の和歌山城の住所「和歌山市一番丁」は「ばんちょう」と
呼びならわされており、「ばん」と「ちょう」では切らないので
次は「う」でしりとりの判定(本では190ページ、ネットではここのあたり)。
ttp://hicbc.com/tv/nobunaga/siritori/quize/123/index.html
でも本になって以降の香川県丸亀城の住所「丸亀市一番丁」は
それに当たらず「ん」ルール発動で前の住所に戻ったみたいですね。
ttp://hicbc.com/tv/nobunaga/siritori/quize/149/index.html

ちなみについでに本になってるのはここらあたりまでかな。
ttp://hicbc.com/tv/nobunaga/siritori/quize/137/index.html

まあ「横丁」を「横町」に安易に変えたのはいかにもお役所的な
「地名殺し」発動の典型的凡庸パターンな気もするけどな。
(お上主義的な北海道ではまたなおさら、って感じもするし)
変わりと言ってはなんだけど、北海道はその因果か「ん」ルール
発動が多すぎるような(真駒内公園に豊富町温泉、近くでは
石狩の「番屋の湯」の住所石狩市弁天町)。

なぜかヘンな映画やるクセにカナダGPの予選はやってくれない
プログラムにちょっとしょぼんな感じがしているとろんとろん、でした。
199元東月寒人@琴似:2004/06/13(日) 07:11:28 ID:MlKrwLZE [ snjk034k001.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>173,194
賃金について、了解しました。

>>182,185
不本意ながら働く男と化していて、シノロの本は手付かずで放置状態です。
最初の50ページは読みましたが、この本、「読力」なるものを要求しているようで、私には辛いものがあり、読破するのはいつになるか定かでないです。
馬鉄のことについては、計画時、認可申請時、開業後で駅の場所が動いていたのではないかと、そんな印象です。

185は懐古図のようですが、2つ目の地図の凡例が「札幌大通り−茨戸まで」となってます。馬鉄が札幌中心部にまで延びていたという記憶が残っていたのでしょうか。
「丸メ」地区というのも気になります。

>>195
バスについて、了解しました。
ロール状の牧草はありましたが、牛はいませんでした。聞こうと思ったのですが、人がいなかったので帰ってきました。
200新琴似原住民:2004/06/13(日) 22:55:51 ID:WvKcuQGw [ KHP222000011015.ppp-bb.dion.ne.jp ]
皆さんはじめまして。

すでにスレ違いとされているドンガバ村の話題に反応してしまいました。

さほど昔の話ではないにせよ、あの村で丸太小屋をつくり、朝起きたら崖が崩れて体半分埋まっていた経験をした私にとっては、歴史にとどめておくべき超”マイナーな地名”なのです。
18丁目さんはかの地で一緒にズンバーダンスを踊った仲かもしれませんね。

ドンガバ村の位置としては近くに”こがねざわ川”という川と、湖らしきものが記憶にあります。
あと、おなじくジュニアリーダーのイベントで滝野すずらん公園を歩いていたとき、森に入っていくわき道を指して、「こっちに行くとドンガバ村」といわれた記憶があります。

以上、私がこのスレに投稿するまでも無くわかってしまうのかもしれません。スレ汚しご容赦くださいませ。
201牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/13(日) 23:50:34 ID:VjyHkxPI [ U122166.ppp.dion.ne.jp ]
「札北馬鉄」の起点に付きまして諸説ありますが、「新札幌市史 第三巻通史三」に出ていました札幌停車場の写真をアップします。
ここでは「北6東1辺」となっております。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1039
>>189で「中島駅」の形態というか規模に関して勝手に想像してみましたが、「札幌停車場」はそれなりのものであったようです。

自分で引用しました>>140の同書からの記述に、
「その後茨戸停車場の建設、同停車場附近への一の橋架設、積雪中の馬橇の準備などを行って、明年一月一日開業予定となった(北タイ 明43.12.25)。」とあったのに、すっかり見落としておりました。
これにより、"建設する必要があった"のならば、馬鉄の停車場は「道路にホームがあった」程度のものではなかったのでは、と考え直しました。
もちろん、全ての停車場がそうであったかというと、なんとも言えません。

お!
新琴似原住民さん、初めまして。
「ドンガバ村」に付きましては、ワシは世代が違うようで、残念ながら実体験がありません(w
18丁目さん、よろしく。
202琴似街道:2004/06/15(火) 01:29:03 ID:rc3qQi6Q [ 61-21-188-153.home.ne.jp ]
はじめまして。子供の頃利用した電停名をハンドルにしてみました。(誰かとかぶってたらご指摘下さい)
「運賃」と「賃金」についてですが、私は漠然と古い本には「運賃」の意味で「賃金」という言葉を使う事があると思っていました。
というのは、手許に「北海道鉄道各駅要覧」(大正12年札幌鉄道局発行・非売品)という本がありまして、その中で「賃金」と「運賃」がともに「乗り物代」の意味で使われていたからです。
例を挙げますと、「札幌駅」の項では件(くだん)の「馬車軌道」について「札幌軌道株式会社経営。市内北八条東一丁目(札幌駅から五町、帝国製麻工場前)を起点とし・・・石狩河畔の茨戸太まで七哩一分・・・運賃は片道一人四十五銭である。・・・」
一方で豊平橋〜定鉄豊平駅間の乗合自動車、乗合馬車について「電車終点豊平橋を起点として定山渓鉄道豊平駅及月寒歩兵第二十五連隊まで・・・賃金は片道一人馬車は二十銭、自動車は三十銭である。」と。
おそらく173の書き込みのように「運賃」の意味で「賃金」と言ったのだろうと思います。ただ、比較的小規模の事業者に対して「賃金」という言葉を用いていたようです。

それにしても、ここのスレッドおもしろいですなぁ。いつもはROMなんですが、今日は独り飲みながらつい長々と書いてしまいました。
では、失礼致しました。
203牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/15(火) 10:59:34 ID:c6.B8ZiQ [ U121140.ppp.dion.ne.jp ]
>>202
琴似街道さん、お初でございます。
と言いましても今まではROM会員さんということで…。
旧来以上のお付き合い、よろしくお願いします。

「運賃」と「賃金」。
いわば、こういう些細なことにこだわるのが、このスレであります。
地名と言ってもそれだけに限らない、森羅万象、一切合切、有象無象、ある事ない事(?)、何でも扱うスレッドです。
で、久々に「札幌案内」(明治三十二年)の「附録の二」を見てみました。
そこにはとっても親切な解説が書いてありまして…。

「汽車乗客の心得」
「切符買入  乗車切符は発車時刻よりも遅くとも十分前に買求め小荷物ある人は直ちに預方の手続を為し乗車切符は紛失せざる様仕舞置くべし 若し切符を紛失するに於いては思はぬ面倒と損失とを受くることあり 又切符を買入れんとする場合には行先迄の賃金を過不足なく様用意すべし 然らざるときは時間切迫し場合抔(など)には不便甚だし」
「小児の賃金  四歳未満は無賃 四歳以上十二歳未満は半賃」

このように「汽車」でも「賃金」という言葉を使っていたところを見ると、規模の大小には関係なかったのではと思いますが、いかがでしょうか?
ところで、「賃金」どころか「半賃」なんていう用語もあったんですね。
今でも業界では使うのでしょうか?

尚、「附録の二」にはこの後、「手荷物斤量」、「電信取扱驛」、「五分以上の停車驛」、「下車驛」、「切符有効期限」、「両便」、「官線と乗換る際の注意」、「降車の注意」、「汽車発着時刻表」なども出てきます。
(「両便」とは汽車のトイレのこと。汽車に乗ったときの用便の注意が書いてある)

で、本日のオチ。
「汽車の窓からションベンすれば、これで汽車賃二度出した」
失礼!
204なまら名無し:2004/06/16(水) 01:49:28 ID:qj.er4rM [ pdd2fea.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
やっと追いついた!!
何かを調べていてこちらの掲示板にたどり着いたのが、
確かGWの終わり頃でした。
あまりの強烈さに、何を調べていたのかすっかり忘れてしまい、
以来、過去ログを全部読むのにひと月以上かかってしまいました。
(時間がかかったからと言って全て頭に入っているわけでは決してナイ)
皆さんの探究心、実地調査へのバイタリティに、ひたすら感服です。
自分も、地元の街並みの変遷に興味があり、
地味な趣味で、ひとり実地調査をしているものです。
残念ながらマイナー地名に接点が無いのですが、
何かお役に立てる情報があれば、書き込みさせていただきたいと思います。
ますますのご発展を祈ります(硬いな)。

・・・過去ログ読破記念書き込みでスミマセンでした。
205牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/16(水) 02:38:34 ID:Ovz.CIuk [ U121140.ppp.dion.ne.jp ]
>>204さん、お疲れ様でした。
>あまりの強烈さに、何を調べていたのかすっかり忘れてしまい
ありゃりゃ(w

読んで全部頭に入ったら、すばらしいんですけどそうも行きませんね。
書いた方でも記憶がかなり曖昧になってます。
ってことで、街で会っても、ワシに地名のことは訊かないでくださいね。

たとえちょっとした情報でも、強力な突破口になり得ます。
是非、ご参加お願いします。
なんか最近、新しい方が書き込んでくれるのでうれしいな…♪
206前田民:2004/06/17(木) 00:35:09 ID:Skt/jpB. [ EATcf-517p177.ppp15.odn.ne.jp ]
スレ違いかもしれないが、軽石軌道については、漏れの母校前○小学校の「郷土誌まえだ」という本に詳しく載ってた気がしないでもない。
何分10年以上前の記憶故、怪しい。
当の郷土誌も10年以上前の時点でかなりボロかったから現存するか不明。
207なまら名無し:2004/06/17(木) 09:11:20 ID:IiQG4jk. [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>206 前田民さん、初めまして。新川番地と申します。結構御近所じゃないですか?

中央図書館の2F右奥に市内の学校で編んだ郷土史研究誌がおいてあるので時々読むのですが、貴重な資料ばかりで宝の山だなといつも感じます。
「郷土誌まえだ」そのものがあったかどうかは記憶していませんが、近隣の図書館、図書室には大事にされて現存すると思いますよ。
札幌市内の鉄道網を再現しようと思えば、軽石は外せない存在の一つなので、掘り下げてみるのも面白いと思いますがどうでしよう?
208前田民:2004/06/17(木) 19:28:31 ID:Skt/jpB. [ EATcf-517p177.ppp15.odn.ne.jp ]
>>207 新川番地さんどうも。
毎年本町商店街の夏祭りでも馬鉄復元したやつ運転したりしてるから。運営委員の人に聞いてみるのも有かもしらないですね。
前○小学校の郷土資料室もいろいろあって何があったか覚えてないですが、有力な資料があるかもしれないです。あの学校。
209牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/17(木) 21:45:16 ID:Yfpaj0a6 [ N045184.ppp.dion.ne.jp ]
前田民さん、こんばんは。
小学校では郷土史を勉強して、冊子にまとめたりすることがままあるようです。
ワシが図書館で見たのは、ある先生が転勤した札幌市内の各学校でその土地々々の物語をまとめた本です。
こいつがなかなか面白いんですわ。

新川番地さん、「石狩百話」の「軽川馬車鉄道−花嫁は馬鉄に乗ってやってきた」をとりあえずご紹介するのはいかがでしょう?
取っ掛かりとしては適材であると思うのですが。

え?ワシ?
すんません。
ワシあっちの原稿に取り掛かっていて(略)。
210新川番地:2004/06/17(木) 22:02:46 ID:IiQG4jk. [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
新川番地さん、「石狩百話」の「軽川馬車鉄道−花>嫁は馬鉄に乗ってやってきた」をとりあえずご紹介するのはいかがでしょう?

はいはい、「石狩百話」の・・・ってオレかよっ!
ど〜んど〜んどんっ! ノリつっこみっ! どどんどどんっ! べたで〜すっ!
・・・すみません 取り乱しました

とりあえず紹介するには長いので、取りまとめますので時間をいただきたいっ。
211新川番地:2004/06/18(金) 09:16:35 ID:UQcKJFL6 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
いやぁ、間違えて他所に書き込んじゃいました。気を取り直して・・コホン

「石狩百話〜風が鳴る河は流れる」 石狩市発行です。
第23話に「軽石馬車鉄道〜花嫁は馬鉄に乗ってやってきた」という一節があります。樽川地区在住の古老からの聞き取りが主体ですが、まずは軽石馬鉄の概要から・・・

「軽石軌道は手稲村の有志によって計画され、第一期は軽川〜花畔間、第二期として花畔〜石狩間の貨物とお客を運ぶことでスタートした。」
第二期の計画は結果的に頓挫した様です。主たる貨物は、石狩側からは雑穀類・鮮魚・塩魚など(他に昭和二年までは五の沢産原油や、昭和三年まであった町村牧場を含む樽川沿線の牧場産の牛乳なども)、軽川からは生活物資や農場・漁場への資材を運んだとあります。

「軌道車が走る距離は軽川〜花畔間の8.21km。単線で軌道間は2.6フィート(76.2cm)。退避所が三カ所あり、そのポイント操作は馭者自身がした。」
ルートは現在の道道石狩手稲線
停留所は、
軽川   三楽焼酎付近。木造平家で待合室・事務所・倉庫・駅長宿舎兼ねる
新川   駅舎なし
南四線  駅舎なし
南七線  宮野雑貨店 現在花川南3条1丁目
南九線  駅舎なし
花畔   花川小学校教師宅 花畔北11線・花川自工付近

切符を販売していたのは軽川・花畔両駅のみで他は馭者が社内で販売していた。
面白いのは、停留所以外の場所でも手を挙げれば何処からでも乗れた。つまり、事実上フリー乗降区間だったということです。
また、開通当初は花畔北7線まで運行していたが、乗客が少ないので花畔で折り返すようになったということです。
運行は、午前/午後各3便(その他に貨車のみの運行もあり)で、始発〜終点の所要時間は約1時間。
開通期間は4〜11月で、冬季間は運休(代替の馬橇はなかった模様)。大正11年開業から昭和10年の廃止まで赤字体質ながらも道の補助により15年間営業を続ける事が出来たとあります。乗客数は大正15年の年間6374人をピークに昭和に入っての中央バスの運行や自家用車の普及が原因で徐々に減少したようです。

岩内からの嫁入りや救急搬送から軽川で一杯やって馬鉄から酔って落っこちたなどエピソードも多く樽川地区住民にとって重要かつ思い出深い軌道だったとのことです。
212新川番地:2004/06/18(金) 13:58:44 ID:UQcKJFL6 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
連続ですみません

入れとくのを忘れてました。
軽石軌道の車両
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1031
「石狩百話」のステージ図
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1021
御参考までに・・・

あと、三楽焼酎って後のメルシャンですが手稲駅の近くの何処にあったのですか?

市内の馬鉄網と石山と札北と軽石で全部なのでしょうか?
213前田民:2004/06/18(金) 22:41:50 ID:quKkBKb. [ EATcf-517p177.ppp15.odn.ne.jp ]
>>新川番地さん
メルシャンは現西友の場所です。ガキの頃はまだ木が生い茂っててちょっと不思議空間でした。
ガキのころといっても西友があの場所に行ったのが高校1年の頃ですから、ここ10年以内のはなしです。
214新川番地:2004/06/19(土) 01:44:54 ID:dx3rPWp2 [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
おお、そこでしたか。
まさに軽川駅と直結の好立地ですね。
もしかしてココイチの斜通りが旧軽川街道なのでしょうか。
あれ? 跨線橋への経路が斜めなんでしょうか。土地カンがイマイチで良く解りませんね。
215牛鍋蝸牛:2004/06/19(土) 21:56:13 ID:OtDdYKMg [ N045184.ppp.dion.ne.jp ]
何かとナニでご無沙汰気味のワシです。
来週中頃には完全復帰を目指して、原稿書きにまい進しております。(…でもない)

>>212
>市内の馬鉄網と石山と札北と軽石で全部なのでしょうか?

同時期に豊平方面に「北海道石材の馬鉄」ってのがあったんですと。
内務大臣に出願された計画によると、「札幌郡平岸村石山から豊平村を経て札幌区北五条西四丁目までを本線とし、月寒第二十五聯隊兵舎までを支線とする」計画。
ただ、札幌区内に関しては許可が出なかったので線路を敷設できなかったそうです。
(新札幌市史 第三巻通史三より)
じゃ!
216木工団地:2004/06/20(日) 00:14:40 ID:qrCHGJQM [ ZF000050.ppp.dion.ne.jp ]
皆さま、お久しぶりです。
≫214
>もしかしてココイチの斜通りが旧軽川街道なのでしょうか。
ヨコヤリ申し訳ありません。
『旧軽川街道』は手稲駅前を通る旧国道だと思うのですが、如何でしょうか?
http://www.city.sapporo.jp/teine/tthanasi/honbun/hanasi19.htm
とか、
http://www.ne.jp/asahi/kirakiland/hosioki/rekisi/rekisi33.htm
に出ていました。軽石馬鉄の線路図も少しだけ出ています。
217新川番地:2004/06/20(日) 08:14:48 ID:bc9VK92I [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
>>216 木工団地さん 横やりだなんてとんでもないです。

言い訳がましいのですが、「石狩百話」には嫁入りを迎えに行くくだりで、「軽川駅から馬鉄に乗って南7線で降りた。軽川街道まで馬車で迎えに行きました。」とあったので、石狩手稲線=軽川街道と思い込んでおりました。
石狩住民としては、「軽川に至る街道」という意味でそう呼ばれていたのでしょうか?石狩市民に聞いてみたいところですね。原稿の合間にでも
でも、地名スレなのに地名の扱いが軽卒だったと反省しております。

ところで、馬鉄経路はココイチの通りあたりで当たりなんでしょうかね
218牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/23(水) 21:24:40 ID:KUNaNvOs [ y065064.ppp.dion.ne.jp ]
みんなぁ〜、生きてるかぁ〜。
219新川番地:2004/06/23(水) 23:52:16 ID:Fjo2804Y [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
酸欠状態ですぅ
220牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/24(木) 22:15:48 ID:5GPL0s/I [ N045143.ppp.dion.ne.jp ]
やっと、あっちの方のケリがつきました。
ということで、酸素を放出…。
ブク、ブク、ブク ... 。。○○

ちょいと前から「札北馬鉄」から「軽石軌道」へと話が展開しておりますので、再開記念にワシもそちらを調べてみたのですが、やはり「札北馬鉄」の調べが足りないような気がしてイマイチ納得がいかず、考えてみればどっちも石狩基点という共通項もあるしついでに調べてみましたら、こんな事実が出てきましたので書いちゃいたいと思います…。

……っぷっはぁ〜!
センテンスが長くて息継ぎが!
もっと酸素を!

閑話休題。
「札北馬」の「川端駅問題」、なのですが、この駅が船着場であったとするならば、馬鉄路線だけではなく水路からのアプローチをしてみるべきではないかと以前より考えておりました。
ということで、石狩川水系の水路水運の資料はと探しましたら、ありました。
「石狩町誌」(石狩市 平成9年)。
石狩川の水路水運に関しては歴史も古いようですので、整理してかからないと間違いを犯すと思いますが、まずはとりあえず札北馬鉄関連に関係したところだけを抜粋します。

「石狩港は前述の通り、明治初期から石狩川水運の起終点として重視され、札幌本府の建設、石狩川中流部の開発に大きな役割を果たしたが、陸運が次第に活発になっても、道路の整備が遅れていたこと、貨物、人員の安定大量輸送には船便が安定していたことなどの点から、石狩町内の水運は昭和初期まで盛業であった。
とくに、一九一〇(明治四三)年六月十日に『札北馬鉄株式会社』(同四五年『札幌軌道株式会社』と改称)が札幌、茨戸間の馬車軌道の営業を開始したので、町内からの接続の便を設けるため、『石狩川汽船株式会社』が創立された」

>>101でご紹介しました「新札幌市史」からの引用では、「石狩川汽船」と「札北馬鉄」のどちらが先に出来たのかイマイチ不明でしたけど、これで一応は納得です。
で、少なくとも、「茨戸駅」ルートのロジスティックがあったという証拠の写真が、「石狩町誌」に載っておりました。
なかなか興味深いっすよ〜。

これに関する検証はまだしておりませが、突っ込みどころ満載ではないかと…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1040
221gtm:2004/06/24(木) 22:24:51 ID:hPGEOIcI [ r117142.ap.plala.or.jp ]
はじめまして
その8の139で書かれていた大阪万博終了後
石狩町に移築されたスカンジナビア館(既に解体)に
ついて、当時の事を詳しく知りたいのですが..
どうぞ、よろしくお願い致します。

http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/8_log.html#139
222牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/24(木) 22:27:54 ID:5GPL0s/I [ N045143.ppp.dion.ne.jp ]
で、話は変ります。
(ホンネ=間違ってsageたのでageたい)

>>217
「軽川街道」は木工団地さんのおっしゃるとおりですが、イワユル手稲石狩線は「石狩街道」と呼ばれていたようです。
ちゅ〜ことで、「石狩街道」は二つあったのですわ。
証拠見たい?
223牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/25(金) 13:37:58 ID:.DOYexHg [ y064143.ppp.dion.ne.jp ]
>>221
gtmさん、こんにちは。
スカンジナビア館が当時の「新札幌団地」で公開されていたのは、25年くらい前まででしょうか?
残念ながらワシは現物を見たことがないので、お答えできないのです。
借りてきた「石狩庁誌 下巻」には出ておりません。
ご存知の方おられるでしょうか。
それとも石狩スレの方がいいかな。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1040
「石狩町誌」からの「札北馬鉄茨戸駅」の興味深い画像ですが、創成川に接していて貨物の積み下ろしをしているようです。
水運との連絡は「川端駅」からだとばかり思っていましたが、川端駅まで延長される前は茨戸駅が基点だったのですから当然ですね。
船はハシケ程度です。
おそらくは輸送力のアップを図って、大きな船が入れる川端駅まで延長になったのでしょう。
しかし、思ったよりも駅舎が大きくて立派でした。
今で言う停留所程度ではないかと思っておりましたが、認識を新たにしました。

さて、話は変りますが「石狩町誌 下巻」によると「石狩街道」と呼ばれる道は、もうひとつあったようです。
都合三つ。
篠路・丘珠経由で札幌石狩間を通った道はその後、いつの間にか「丘珠街道」または「篠路街道」と呼ばれるようになり、「現・石狩街道」が「石狩街道」と呼ばれるようになったとのこと。
そして、「軽石軌道」が通った花畔から手稲へ抜ける「現・石狩手稲線」も「石狩街道」と呼ばれたと書きましたが、同書によりますと、「『長い間通称津軽街道』と呼ばれていた」とあります。
ありゃ、いつから「石狩街道」になったんじゃ?
224元東月寒人@琴似:2004/06/26(土) 07:59:01 ID:bERCOxeM [ snjk039k091.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>197
雨竜に追分と言う地名があるのを新聞で見たことがあり、地図を何気なく見たら、その近くに面白い地名をみつけました。
「面白内」です。神社やバス停もあります。

「札北馬」の「中島」と関連あるか判りませんが、篠路に中島彦左衛門が入地してます。
この人ログをみたら、「追分」の話の中にも登場してます。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/11_log.html#129
225牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/27(日) 04:44:59 ID:3mpqH67Q [ L066122.ppp.dion.ne.jp ]
「中島橋」、あるいは「中島」の名が付いた理由は気になっていました。
あそこに"島"があったというのは考えにくかったですし。

http://www.city.sapporo.jp/teine/tthanasi/honbun/histry.htm    
「万延元年(1860) 星置に住んでいた中島彦左衛門ら篠路の南部に移住する(中島村と呼ばれる)」
これは間違いないですね。
大正5年頃の地図を見ても確かに石狩街道東側、「篠路」の南部が「中島」です。
納得しました。
月琴さん、サンクスです。
こういうことが分かるから、本スレはやめられない。

しかし、ちょっと調べてみましたら、「琴似町史」に「手稲村星置に在住した中川金之助と中嶋彦左衛門の二戸は共に万延元年に現在の十二軒川の辺に移っている…」と書かれているって…。
http://www.hosioki.jp/rekisi/rekisi/rekisi22.htm
う〜ん、どないなっとるんや?

「十二軒川」と申しますと、以前に実地調査に行きました、現在の「宮の森」。
一応、画像がありますのでアップします。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=672
226牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/06/27(日) 04:51:55 ID:3mpqH67Q [ L066122.ppp.dion.ne.jp ]
>>225
>一応、画像がありますのでアップします。

失礼しました。
アップ済みの画像でした。
「再リンクします」に訂正。
227牛鍋蝸牛:2004/06/27(日) 22:22:05 ID:3mpqH67Q [ L066122.ppp.dion.ne.jp ]
もうかなり前になりますが、西創成さんと藻南公園(当時は"めっちゃ名無し")さんが札北馬鉄の始点を、論議されておられました。
>>80くらいからです。
藻南公園さんがもろもろから推論して、定説の通り「北七条東一丁目」であろう、とされておりましたが、「さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図<大正編>」から、「帝国製麻」附近の地図をアップします。

住人の方の中には、もうすでにご覧になっておられる方もいらっしゃるかと思いますが、大正末期の二枚だけ紹介します。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1041 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1042
これらからやはり、始発駅は「北七東一」でよかろうと、こうワシも納得した次第であります。

ただね、二枚目、大正15年の絵地図の「帝繊」の北に「札幌○道」(だと思う)とあり、そこから「至茨戸」となっているのですが、その「札幌○道」がよく見えない。
よ〜く、目を凝らしてルーペで見ても、わからないんだなぁ。

新川番地さんへ。
「軽石軌道」に関しては、資料を多少ですが仕入れております。
ただ、そっちまでまだ手が回りませんのですわ。
228牛鍋蝸牛:2004/06/28(月) 05:35:23 ID:4w9RfgYc [ L066122.ppp.dion.ne.jp ]
そうだ!
今でも馬鉄に乗れるところがあるじゃないですか!

え?皆さん、とっくに気が付いていた?
でも、今日は月曜日だから休みだなぁ。
229k:2004/06/28(月) 17:16:52 ID:M73HroWE [ customer71-242.mni.ne.jp ]
たいへん長らくごぶさたしておりました。一応ROMってはいたのですが、いろいろと
事情がありまして、・・・
>>227
さて、札北馬鉄の起点について、私も北7東1で間違いないと思います。私のおぼ
ろげな記憶ではありますが、昭和20年代の中頃ですが、あの帝国製麻の横の石狩街
道と創成川の間の細長い敷地に中央バスの営業所と車庫があり、茨戸や石狩へ行く
バスがここから出ていました。札北馬鉄の会社はその後バスに転換し、戦時中の企
業整備で中央バスに吸収されたのですから、この車庫なども馬鉄以来のターミナル
を引き継いでいたものと考えられます。
230牛鍋蝸牛:2004/06/28(月) 19:59:41 ID:RWJx3AXQ [ N045065.ppp.dion.ne.jp ]
kさん、お久しゅうございました。
そうですか。
>帝国製麻の横の石狩街道と創成川の間の細長い敷地に中央バスの営業所と車庫があり…
これは貴重な証言ですね。

実は今日、「中島駅跡」の実地調査へ行って来ました。
「石狩街道」と「琴似栄町通」の交差する「中島橋」付近です。
ここ「北49条東2丁目」にあるのが、「中央バス北営業所」。
前に書きましたが、やはりここが「中島駅跡」であったという傍証になります。

キャプションはリンク先でお読みください。
特別難しい写真ではありませんです、ハイ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1043
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1044
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1047
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1045
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1046


新川番地さんがアップされた、「石狩川舟運史」の「殖民公報」第97号(大正6年)を元に描かれたと思われる地図には始発であるべき駅、つまりは「帝国製麻前駅」はありません。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1023 
赤丸があるだけ。
でも、位置的には「帝繊前」であると思えます。
「茨戸停車駅」は赤丸で描いた上で名前が入っていますので、始発は書き忘れだと思います。
「川端停車駅」までこの時点で延長されていたのかどうかは、判断できませんね。

それでですね、先にアップしました、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1040
「茨戸停車駅」は、先に新川番地さんが、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1024 
で上げておられました。
失礼しました。
人の言うことをよく聞いていない、悪い癖です。トホホ。
231牛鍋蝸牛:2004/06/28(月) 20:52:28 ID:RWJx3AXQ [ N045065.ppp.dion.ne.jp ]
「札北馬鉄」は「中央バス」の前身と言ってもいい訳です。
その過渡期の「札幌観江バス」が、「札幌―石狩間」で運行する際に新聞に出した広告が「石狩町史」に載っておりました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1050
住所は見事に、「北七東一」となっております。

路線は違うのですが、同社のバスの写真も。
本日のデザートでございます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1049
232元東月寒人@琴似:2004/06/29(火) 22:28:44 ID:nbv5VWVY [ snjk037k029.ppp.infoweb.ne.jp ]
「札北馬」の「中島」について「シノロ百四十年のあゆみ」を拾い読みしたところ、次のような雰囲気です。(何回か読み返しましたが、はっきり分かりませんでした。)
決定的な記述がなく、読み方によっては解釈が分かれそうなので、暫定板としておきます。

・この本の編著者は、さっぽろ文庫「札幌地名考」の「篠路」について執筆した
・「札幌地名考」の記述中、「五ノ戸」「中島村」の内容に誤りが判明した
(地名考では、「篠路町上篠路」、「篠路町太平」の部分)
・地名として「中嶋」と「中島」の2つがあり、場所が異なることが分かった
・中島彦左衛門が入地した地は「中嶋村」で、その後「五ノ戸」となる
・中島橋のあたりの「中島」は「中嶋村」とは関係なく、その後「学田」となる 
・創成川と琴似川の合流地点付近に荷揚げ場を設けたのが中島となり、そこへの橋が「中島橋」と名付けられたと考えられる

以上ですが、舟運のために川中に島を作り、そこを「中島」と称したのではないかという事です。
233牛鍋蝸牛:2004/06/30(水) 22:42:53 ID:k6PV37NI [ N045065.ppp.dion.ne.jp ]
ドッシェ〜!(死語)

札北馬鉄の駅名にもなった「中島」は、"川の中の島"という意味だったと…。
それはワシが最初になんとなくイメージした、「中島」の名の由来です。
「川端駅は単に"川の端"の意味で名づけられた説」の補強材料にもなるのではないでしょうか?

「北海道地名大辞典」(角川書店 昭和62年)によりますと、「篠路<北区・東区>」に、
「ハツシヤブ在住の中島彦左衛門が、万延元年移民を募り荒井村南方の現篠路町上篠路(かつて五ノ戸と呼ばれていた)に入植、中島村と称した」とあります。
また、
「明治4年旧盛岡藩の士族が入植。この入植地と上荒井村・下荒井村と中島村とあわせて篠路村と呼称するようになった。なお、村の成立は明治2年説、同3年説もある」とも。

大正5年頃の地図を見ますと、「篠路村」があり、それとは別に石狩街道に「中島」と「中島橋」が描かれています。
ということは、やはり「中島村」(あるいは中嶋村)と石狩街道沿いの「中島」は、別個の物ということになりますね。
ただ、「中島」の北に「学田」の名前も一緒に載っているところが、なかなか一筋縄ではいかないなぁ、とは思わせますが。

何はともあれここに至って、「札北馬鉄」の駅名で違和感の一番強かった、「中島駅」の輪郭がはっきりしてきました。
臆面のなく言い切りますが、このスレはさすがであると思います。

さて、馬鉄の後に走ったという、ガソリン機関車の写真が「新札幌市史」にありましたので、明日にでも…。
あ、藻南公園さんが以前書かれておられたとおり、ガソリンカーではなく、確かに「機関車」でありました。
234牛鍋蝸牛:2004/07/01(木) 22:04:15 ID:l3JndOjc [ N047010.ppp.dion.ne.jp ]
さぶ。
秋だ…。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1051
「札北馬鉄」の後継である「札幌軌道」のガソリン機関車でございます。
この画像は「新札幌市史 第四巻通史四」から。
本文にはなかなか興味深い事柄が書かれているのですが、今日のところはちょっと酔っ払いっていて(いつも)シンドイので、改めて。

「中島」はどこにあったのか。
というか、どこに造られたのか、気になるところですね。
235なまら名無し:2004/07/02(金) 11:26:54 ID:8Fkr0hMU [ YahooBB219168112129.bbtec.net ]
はじめまして
1月かけて、やっとおいつきました
東区(天使病院)で生まれ、北区、地方を経て南区に住んでいる者です
皆さんの情報を元に、デジカメを持って子供と旅してます
 精進川の滝
 難得(へび)神社
 伏見神社?(赤い鳥居で赤い柱が並んでいた)
 琴似屯田兵村跡地
 (あびはまだいっていません)
などは良かったです
また、今は使われていない地名(北星、美香穂など)も興味深いです
今後さらに、滝、神社、斜め道などを回ってみる予定です
みなさん、お疲れのようですが、体に気をつけて頑張ってください

「将棋の仔」という本にでていた、琴似の将棋道場について情報ないでしょうか
JR琴似駅の北側の並びにあるのがそうかな?
236真駒内川:2004/07/02(金) 11:35:20 ID:ULeCoErU [ p624022.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
創成川は用水の他に水運の目的の運河でしたので、舟を運行させるにはある程度の水位が必要となります。
そのためには必要な箇所に堰を作って調整をするのですが、それですと舟が通れませんので閘門(水門)を併設します。
早い話がパナマ運河のように2枚の水門を閉じて前後の水位に合わせて水門の内側の水位を調節して通行させる物です。

創成側にはこの閘門が何カ所か設置されていたとされています。
堰は閘門の横に水を迂回する様に流していました。
この閘門と堰を組み合わせた形状が「中島」の様になっているのでそのように呼ばれていた可能性があります。

なお北3番橋と早苗橋の間と屯田9条1丁目付近に閘門があったことを伺わせる
形状が昭和初期の地図上で確認できます。
おそらく、創成川と琴似川の合流地点にも閘門があったと思われます。
237k:2004/07/02(金) 14:23:48 ID:lS5kgx.Y [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>234 牛鍋蝸牛様
旧札幌軌道のガソリン機関車の写真、あれどこかで見たことがあると思ったら、
雑誌「鉄道ピクトリアル」508号('89.3)所載の濱田啓一氏の報告に出ていまし
た。この報告によれば、「中島」は現在の太平3条1丁目付近となっており、い
まここで論議されている場所よりもかなり北になっています。そういえば、昭
和20年代頃の茨戸行きバスの「中島」も札沼線よりも北にあったようにも思い
出されます。それから「中島」の由来については、中島さんという人がかつて
住んでいたところと聞いたような気がします。これらはいずれもはっきりした
裏づけはありませんが、一応ご参考までに。
238牛鍋蝸牛:2004/07/03(土) 09:29:43 ID:dxmK/Xwo [ N045171.ppp.dion.ne.jp ]
これから仕事なので、また後ほどってことで、今は簡単に…。
>>235さん、おはようございます。
本スレは、マイナーな場所のガイドブックとしても利用していただけるようになったんですね。
難得神社は最近、若い方のお参りが増えているそうですし、ネタで上がった場所に皆さんも是非足を運んでみてください。
それなりに面白いと思います。

「将棋の子」ですね。
大崎善生さんの本ですか。
「聖の青春」は以前に読んだのですが、同書の存在は知りませんでした。
情報お持ちの方おられますでしょうか?

そうそう、「スカンジナビア館」のことです。
石狩に生まれの知り合いに聞いてみたのですが、彼は三十代前半で小学校の頃、遠足で行ったことがあるそうです。
何もないのっぱらで、立て看板だけがあって、「スカンジナビアカン」と書かれていたそうです。
なぜ、「カン」なのだ?
現在の藤女子大の付近であったとのことでした。
聞き込み続けます。

さて、昨日「北海道開拓の村」へ行ってきました。
馬鉄を見に…。
239牛鍋蝸牛:2004/07/04(日) 07:29:45 ID:IXzCJWLw [ N045171.ppp.dion.ne.jp ]
昨日の夜は(も)お酒を飲んで、そのまま寝てしまいました。
ということで、>>235さんの、
>お疲れのようですが 
の部分は当たっています。

>>236 真駒内川さん。
栄北小学校のHPに「旧琴似川」のことが載っていました。
ttp://www.sakaekita-e.sapporo-c.ed.jp/04machi/keiba.htm 

なるほど、中島橋の南のあたりで、「旧琴似川」と「創成川」が合流していたわけですね。
この写真の白い建物、「中央バス北営業所」の右側から撮影位置の辺りを流れていたようです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1044 
はたして、島はあったのか?

>>237 kさん。
>「鉄道ピクトリアル」508号('89.3)所載の濱田啓一氏の報告、「中島」は現在の太平3条1丁目付近 
の件ですが、大正5年頃の地図を見ますと、「中島橋」の北に「中島」の文字が見え、そこは「屯田二番通」と「石狩街道」が交差する太平側です。
つまり、「太平3条1丁目」付近で間違いありません。
大体ですが、現在、ビッグハウス、ヴィクトリア、元禄寿司、アルペンがある辺りを指しています。

ただ、Kさんがおっしゃる「かつて住んでいた中島さん」が、もし「中島彦左衛門」であったとすると、>>233で書きましたように、
「ハツシヤブ在住の中島彦左衛門が、万延元年移民を募り荒井村南方の現篠路町上篠路に入植、中島村と称し、明治4年旧盛岡藩の士族が入植。この入植地と上荒井村・下荒井村と中島村とあわせて篠路村と呼称するようになった」という「中島」とは別物になると思います。
でも、もしかすると、また別の「中島さん」がいたのかもしれませんので、大きな声では言えません。

馬鉄見物の報告はまた後ほど。
今日も仕事なので。
240牛鍋蝸牛:2004/07/04(日) 21:07:12 ID:IXzCJWLw [ N045171.ppp.dion.ne.jp ]
「中島村」について「新札幌市史 第一巻通史一」の「第九章 村の形成と幕末のサッポロ 第二節 シノロ村 三 中嶋村」から、「中嶋村の成立」の抜粋を。
「荒井村に比して、中嶋村の性格は明瞭である。すなわちイシカリ在住として安政四年ホシオキに入地した中嶋彦左衛門は、万延元年コトニ川支流のケシネベツ川流域(コトニ開発場)に移り、おそらくは同年中に荒井村の南方、明治以降五ノ戸と呼ばれた地に入地した」

同書によりますと、「中嶋村」が「荒井村」と一緒になって「シノロ村」となったのは、遅くとも慶応二年までとしています。
「このシノロ村の成立年、およびその事情は明確にし得ない。ただ中嶋村を統轄していた中嶋彦左衛門は、文久二年に退去したと伝えられている(岩村判官 札幌開拓記)。とすると、残された中嶋村の農民人別を荒井村のそれと合し、旧来の地名をとってシノロ村とした、と推定するのが妥当と思われる」

元号では時系列が分かりづらいので、参考までに。
中嶋彦左衛門が荒井村の南方に入地したのが1860年。
彼が中嶋村を退去したのが、1862年。
シノロ村の成立が遅くとも1866年。

もうこうなったら、意味もなく単純に年代を比較してみましょうや。
「札北馬鉄」が開業したのが明治44年ですから、1911年です。
「中嶋村」の名前が消えてから45年後の話です。
「現・中島橋」は、五ノ戸(現・篠路3条10丁目辺りかな?「五ノ戸の森緑地」ってあります)から直線距離で4kmくらい離れております。
「現・太平3条1丁目」とは3km。
ということで、年代的にも地理的にも同一のものとは思えません。
ちゅうことで、「札北馬鉄中島駅」の名前の由来、やはりこいつは島だったのか?
241牛鍋蝸牛:2004/07/04(日) 21:20:15 ID:IXzCJWLw [ N045171.ppp.dion.ne.jp ]
島だよ、島…。
島がないかと、そういう視点で改めて地図をよ〜く見ましたら、あった…!
ま、ただ、島というかなんというか。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1052
「創成川」の「中島橋」の南、ここに西にこぶのように出っ張った土地があります。
川が妙に歪曲しています。
その東側を馬鉄路線があります。
駅舎らしきものも見えます。
(北側の「中島」にも駅舎らしいものが見えます。これが「二番通」の駅でしょう)
で、この"こぶ"が「島」だったんじゃないでしょうか。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1055 
で、現在の中島橋付近です。
南東からくる「琴似栄通」の延長上に、旧道が残っていることが分かりました。
グリーンで表わしている防風林の位置関係から見ると、位置関係からそのことが分かります。
やはり、当時の駅舎らしいところに現在の中央バス北営業所があります。

どや!?
まいったかッ!
242新川番地:2004/07/04(日) 22:26:25 ID:fW4J5E.. [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]

こんな形見た事有るなと思ったら・・・
場所的には違う場所ですが、http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1056
こんな形状は実際にあったわけですから、中島もそうだったのでは・・・というのはあり得る話ですなぁ。
例のパナマ運河式の水門は、川がDの字に膨らんだ形状ではなかったかと思うのですが、これは水流側に突出というか流路が迂回しているというか、半島状ですね。
だからどうしたと言われると、答えに窮しますが・・・なんせ酸欠で倒れてたもので

中央バスの営業所は餅屋だったというのも、どこかで読んだなぁ・・・
琢磨もエンジンブローしたみたいだし寝るか
243なまら名無し:2004/07/04(日) 22:42:32 ID:fW4J5E.. [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]
すみません、書き忘れ。

中島村とどこだかが合併し学田地に・・・とか書いてありましたよね。
「シノロ 140年の・・・」に。
図書館に返しちゃったので、今度読んでおきます。
「中島」と「中嶋」2つあったのでそのあたりを・・・

「中島」VS「中嶋」 ゴルフ対F1みたい (古いか・・・)
244元東月寒人@琴似:2004/07/04(日) 22:42:57 ID:7zYI8h2Q [ snjk033k050.ppp.infoweb.ne.jp ]
「中島」について調べようと、さっぽろ文庫「大正の話」を取り出したところ、別の事にはまってしまいました。
この本の青いカバーの装画を良く見ると、御者が馬にまたがっているように見えます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1057
タイトルは「大正停車場通」で、おそらく市街馬鉄の写真か何かをみて描いたんではないかと思いますが、御者の乗車方法にこんなスタイルがあったんでしょうか。

ちなみに、このスレに今まで出てきた馬鉄の画像です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=775
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1031
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1039
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1040
245新川番地:2004/07/04(日) 23:26:03 ID:fW4J5E.. [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]

もうちょっと起きてようかな。
馬鉄の運転スタイルって考えてなかったですねぇ

馬には乗ってないように見えますがどうでしょう。ブレーキ操作とかありそうだし・・・
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1059
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1060
ついでに、市内の馬鉄経路図も
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1058
246牛鍋蝸牛:2004/07/05(月) 12:15:21 ID:m6M16VKE [ N044230.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1061
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1062

馬鉄の鮮明な写真がないので、「北海道開拓の村」の馬車鉄道の写真をアップします。
実際に見ると思っていたより小ぶりでして、定員は15人乗りとのこと。
当時のものと全く同じではないそうですので、そこらの検証は改めてしなければいけないでしょう。

「さっぽろ文庫 大正の話」の挿絵ですが、確かに馬の両脇腹に御者の足らしきものが…。
この状態で客車のブレーキはどうするんでしょう?
馬が止まっても、客車は止まらない。
ジャックナイフ現象が起きますよねぇ。
なんか、勘違いで書いたような気がするんだけど。
247牛鍋蝸牛:2004/07/05(月) 12:16:29 ID:m6M16VKE [ N044230.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1056
のD型地帯ですが、ここはまさに、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1052 
「中島」の北のD型地帯ですよ。
「太平神社」があったんですね。
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi3-03.html
これか…。
>>236真駒内川さんのレスと合わせて考えると、「創成川」と「琴似川」の合流地点であって、同じ形状の中島橋南のD型地帯も「閘門」でしょう。
川の中州が「島」であれば、舟運のために使うのは不便です。
陸地側と繋がっていなければ、荷物や人の乗り降りが出来ません。
舟運のためにわざわざ造ったのであれば、「島」はD型地帯のような形でなければ意味がありません。
以上の理由から、これが「中島」であったと考えても良いと思います。

なお、大正5年頃の地図によると、その太平側がすでに「学田」となっています。
「中島」と「学田」は同時期に存在していたのです。

新川番地さ〜ん。
スポーツの結果は書かないでね。
特にF1は深夜で録画して後から見る人もいるし…。
248新川番地:2004/07/05(月) 12:53:20 ID:CZrEEhbw [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]
失礼ブッこきました

イギリスGPから気をつけます・・・
249真駒内川:2004/07/05(月) 17:53:37 ID:lBfQc5w6 [ pdda0c6.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
うーん、なぜかゾヌで書き込めない...
さて、
閘門と堰(または制水門)は併設されますから、大抵「島」状になります。(堰側を一部分暗渠にすれば別ですけど)
船着き場は停留所前にあったのではないでしょうか。(そのような風景の写真を見た記憶があります)

ちなみに閘門内では水位が上下するので、積み降ろしは不可能です。
250gtm:2004/07/05(月) 19:47:02 ID:8dGMEVpc [ q210082.ap.plala.or.jp ]
牛鍋蝸牛様
スカンジナビア館の件 ありがとうございます。
私は神奈川在住なのですが7/3札幌に行った際
花川まで足を延ばし藤女子大内にて跡地と思われる
場所を確認してみました。只当時の事がサッパリ
解らず何か御存知の方がいらっしゃいましたら
教えて下さい。レストランだったと言う話も
聞きますが..どういったレストランだったのか
も解りません。よろしくお願い致します。
251新川番地:2004/07/05(月) 20:14:34 ID:CZrEEhbw [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]

太平神社跡(?)見て来ました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1056
図の通りならここらへんにあるはず。跡形もないとは聞いてましたが・・・

さなえ橋より下流をのぞむ
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1063
北三番橋より上流をのぞむ
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1064
川幅も一定。でっぱりの形跡もなし。

ただ、北三番橋下流には川幅の変化があります。通勤路に当たるこの橋で信号待ちしていて「ああ、ここが閘門だったんだな」と、漠然と思っていたのですが実際はどうだったのでしょう。と言うのはここから川幅に変化が有るようなんですよね

黄色の線が川幅
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1065

閘門がらみなんでしょうか。それとも「掘」が違う?
252k:2004/07/06(火) 16:20:43 ID:mQdKo0aQ [ customer71-242.mni.ne.jp ]
創成川にこのような大きな湾曲部があったことは確かに覚えています。しかし、これ
が舟運用の閘門のあととは、今日にいたるまで全く思い至りませんでした。閘門とは
別に、付近の水田に灌漑用水を供給するための水門がいくつかありました。初秋の頃
水田の水を落とした直後、この水門のまわりにはフナが大量に集まり、釣り人に大漁
をもたらしてくれたことを思い出します。
253牛鍋蝸牛:2004/07/06(火) 21:27:34 ID:ETibH9jM [ U125157.ppp.dion.ne.jp ]
新川番地さんがアップされた、石狩川開発建設部監修・発行による「石狩川舟運史」に掲載されていた「札北馬鉄路線図」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1023 のオリジナルを見つけましたのでアップします。
大正六年七月の「殖民公報九十七号」に載りました、「岡崎文吉博士」の治水計画である、「石狩川治水工事施行區域一覧図」から。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1066
>>137の藻南公園さんの推察は正解でした。

>>249 真駒内川さんのレス。
>ちなみに閘門内では水位が上下するので、積み降ろしは不可能です。

う〜ん…。
これは悩んでしまいました。
創成川の「中島」は、「札北馬鉄」との連絡に使用されたことはないのか?
貨物の中継という目的があったから、駅名を「中島駅」としたのではないのか?
もし、貨物の積み下ろしが出来ない島なら、馬鉄との直接の関係はないわけです。
そんなわけで調べてみましたら、両者の関係は、ワシが今まで思っていたのと違うという資料を見つけました。

「さっぽろ雑学ノート」(武井時紀 昭和58年第一刷 みやま書房)に、「パナマ運河より早い創成川の閘門式運河」という文章がありました。
「創成川は明治十九年、篠路から茨戸まで延び、二十八年には幅を四間も拡幅し、パナマ式水門八つを設けた。パナマ運河の開通する八年前のことである。水門の高さは二メートルあったが落差が大きく、しかも深度が不足のため平田舟の通行には困難が多く、明治四十四年軌道ができるとともに全く機能を失ってしまった。イギリスにおいても運河が鉄道にとって代わった。全くおなじことが札幌でもみられたのである」

この裏づけになるかは分かりませんが、「札幌市史 政治行政編」(昭和二十八年)の「創成川」に、
「(略)また篠路口から茨戸までは、明治二十八年北垣長官の時代に銭函・花畔間の長さ四里巾二間の排水運河と共に、もっぱら水運に供するため札幌・茨戸間の長さ三里巾四間の堀さくに着手し、数か所に水門を設け、三十年十月に完成した。(しかし水運にはあまり利用されなった。)」
と、その利用状況が書かれています。
あまり使われなかったんですねぇ。

どうやら、「札北馬鉄」が出来たことによって、「創成川」の水運の機能はその役割を失くしてしまったようです。
ということは、「中島駅」が「創成川」との貨物の中継地であったわけがないわけですよね。
「札北馬鉄 中島駅」はその機能面からではなく、単に「中島」という地名をもらってつけただけのようです。
254牛鍋蝸牛:2004/07/06(火) 21:57:51 ID:ETibH9jM [ U125157.ppp.dion.ne.jp ]
>>250 gtmさん。
「スカンジナビア館」の件、ほんの片手ですが調査しています。
手持ちの資料に関連事項の記述がありました。
ああ、いままで気がつかなんだ…。
「石狩百話」の「番屋の湯前史 二つのレジャーランド始末記」。
ま、「スカンジナビア館」そのものについては、あまり詳しくは書かれていないのがちょっとつらいです。

>>238で、聞き込んだ件を書きました。
「スカンジナビアカン」という看板のことです。
実は、これについてインタビューをした三十代前半の知人の思い違いかもしれない、と思い始めています。
ここの正式名称は、「スカンジナビアンパビリオン」。
知人の見た看板にも、「スカンジナビアンパビリオン」と書かれていたとして、看板の下の部分が朽ち果てたか、草でも生えていて見えなかったのか、あるいは単なる見間違え、思い違いかで、「スカンジナビアカン」と全部カタカナで表記されていたと思い込んでいるのかもしれないと…。
検証するしかありません。

「石狩百話」を手に取る機会はおありでしょうか?
もし、無理であれば、その内容をお知らせいたします。
ただ、誠に心苦しいのですが、本スレは札幌スレなので、石狩ネタは厳密に言いますとスレ違いになってしまいます。
gtmさんはメルアドを晒されておられますので、直接メールさせていただきたいと思います。
その中で別の展開があれば、また本スレでということでいかがでしょうか?
255牛鍋蝸牛:2004/07/06(火) 22:17:08 ID:ETibH9jM [ U125157.ppp.dion.ne.jp ]
新川番地さん、実地調査お疲れ様です。
分かりやすい写真です。
川幅が変わる件、興味深いですね。
一体、札幌で何人程度の人がこのことに気が付いているでしょう。
ワシもたまにここらを通りますが、全然気にもしていませんでした。

さて、「堀が違うのでは?」という疑問ですけど、ここは「新川」、あるいは「寺尾堀」と呼ばれるところだと思いますので、もともとの堀自体は同じだと思います。
拡張工事はされているわけでしょうから、なにか意味があるのでしょう。
う〜ん、これも調べなきゃわからないわなぁ。
「さっぽろの昔話 明治編」に、寺尾さん本人の聞き取りが載っています。
なかなか人間くさい話が出ていて面白いですよ。

>>252
kさん、そうですね。
ワシも子供の頃、ここらでフナよく釣りました。
ワシは小学校の頃、南6条西20丁目に住んでいたのですが、変速機もない自転車でひたすら茨戸まで出張っていきました。
(遠くは現在の石狩湾新港まで行った。当時は「十銭浜」と呼んでいた)
今から35年以上前になります。
石狩街道はさすがに舗装されていましたが、太平側は草原というか荒地で、商店が野中に一軒だけあったのを覚えています。
茨戸辺りはまさに水郷といった風情で、回りには背の高い草が生い茂り、迷路のようになっていたような記憶があります。
25618丁目:2004/07/07(水) 02:06:08 ID:PKvwUJ8I [ p16157-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
私も子供の頃、父のコロナでスカンジナビアパビリオン近くを通って十銭浜まで行って
帰ってきた記憶があります。
途中ペケレット湖園に寄ったは良いが、入園料の馬鹿高さに入らないで帰って来ました。

その頃は元町あたりからの道程は、元祖石狩街道(篠路道)が王道であり、篠路駅前
の商店街まで来ると、夏は海水浴道具(麦わら帽、浮き輪など)が店先に並んでいて
あーもう海近いんだなーなどと思わされたものです。
茨戸あたりから、逃水が見られたり、今とは少し地理的感覚も違っていたように思います。
257gtm:2004/07/07(水) 17:38:08 ID:jKRQF/HU [ o188234.ap.plala.or.jp ]
牛鍋蝸牛様 どうもありがとうございます。
小さな情報でも知りたいので、どうぞよろしくお願い致します。
258gtm:2004/07/07(水) 21:05:12 ID:SPw.tAek [ u064234.ap.plala.or.jp ]
スレ違いで申し訳ありません。この質問の本元に
なった18丁目さんが出てきてくれたのですが..
直接メールでも結構なので、何か教えて下さいませんか?
259牛鍋蝸牛:2004/07/07(水) 23:06:43 ID:mk5Djuas [ U123061.ppp.dion.ne.jp ]
「札幌グラフコミュニケーションズ」に「札幌人 夏号」の打ち合わせの為、行ってきました。
さきほど帰ったばかりです。
本スレに何回か書き込みいただきました、「業務連絡さん」とも初めてお会いしました。
業務連絡さんは、「札幌人」の表紙を描かれておられます。
次号はなかなか読み応えがあるようです。

gtmさん。
花川に移転してからの「スカンジナビア館」の外観写真を発見しました。
しかし、周りの風景が写っていません。
明後日休みなので、もうちょっと待っていただきたいと思います。

さて、先日「北海道開拓の村」へ、馬鉄見たさに行ってまいりました。
先にも言いましたが、思ったよりも小ぶりでして、聞いてみますと15人乗りとのこと。
「さっぽろ歴史なんでも探見」(北海道新聞社 1993年)では、「札北馬鉄」は、
「約12キロの道を1時間20分ほどで走ったようだが、馬は客車(定員18人)や台車(荷物用)を2、3両引いていたという」。

「開拓の村」の馬鉄は、客席が2列でした。
7人ずつ2列で14人。
ということは、御者も定員のうちに入っているのでしょうか?
でも、後ろに車掌が乗っていたなぁ…。
ああ、よく聞いてくればよかったぁ〜!
それに狭っ苦しそうだったんで、乗らなかったんだよね。
失敗した。
260牛鍋蝸牛:2004/07/09(金) 21:58:32 ID:FDU.pKEs [ U125127.ppp.dion.ne.jp ]
く〜、今日返却予定のビデオ3本観て、サッカー観たらもう目がしょぼしょぼですわ。

さて、「札北馬鉄ネタ」も、なんだかんだで2ヶ月やってまいりました。
そろそろ一旦中締めとしまして、新ネタをやりたいな、と思います。
奇しくも、明日は本スレの二回目の誕生日であります。
何かいいネタありますでしょうか?
261元東月寒人@琴似:2004/07/10(土) 20:18:58 ID:H523O7Qk [ snjk031k021.ppp.infoweb.ne.jp ]
おめでとう! 2周年!!
ということで、ちょっと調べてみました。detailsも含めて地名の入ったスレタイから抜き出しました。(倉庫は見てません)

【知名度∞】スレは立ってるがメジャーな地名なのか?in札幌【その何か】

中央区 大通、ススキノ、南5東、狸小路、円山、桑園、北桑園、宮の森
北区 北12・18・24・34条、麻生、新琴似、太平、屯田、茨戸、あいの里
東区 伏古、美香保
白石区 菊水、東札幌
厚別区
豊平区 豊平、美園、平岸、中の島、西岡、月寒、福住
清田区
南区 澄川、真駒内、石山、芸術の森、藤野、簾舞、定山渓
西区 二十四軒、八軒、琴似、発寒、西町、西野、福井、平和、小別沢、盤渓
手稲区

スレタイに地名が複数入ってるのもあるので、それぞれにスレッドがあるわけではありませんが、東と白石は少ないですね。
厚別、清田、手稲はその範囲でコミュニティが出来てるのか、各地名のスレは無いようです。
262牛鍋蝸牛:2004/07/10(土) 21:53:35 ID:Op1SRAFc [ y064101.ppp.dion.ne.jp ]
はい、今日から3年目突入しました。
おめでとうございます。

>>261
なるほど。
あくまでこの中での話しですが、「中央区南5東」ってのが気になりますね(w
改めて見てみますと、「東○丁目」の南端が「南7条東1〜2丁目」。
「南7条東1」は「札幌ロイヤルホテル」のみで、「同東2」はその駐車場と、豊平川及び河川敷だけです。
河川敷か…。
河川敷ぃ…?

ウチのネット地図ソフトMapFan.net(年契)では、ある一区域を除いて豊平川と河川敷には住所がちゃんと表示されております。
極端な例としては、「東雁来4条1丁目」。
豊平川を越え、米里側に食い込むくらい、自己を主張しておりますです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1068

ところが、この黄色の線で囲まれた区域は川のどちら側にも属さず、独立した地域になっていますが、なんと全部、川と河川敷。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1067 
しかも、MapFanでも住所の表示はありません。

これが「幻の雁来町」なのです。
本スレの原点である「雁来町」。
2周年記念アニバーサリーレスでした。
263牛鍋蝸牛:2004/07/10(土) 21:55:08 ID:Op1SRAFc [ y064101.ppp.dion.ne.jp ]
>>262
>記念アニバーサリー 
くどかった(w
264新川番地:2004/07/10(土) 22:44:55 ID:Ahu4EWh6 [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]
祝っ! 2周年っ!!

新ネタ募集中失礼ですが

創成川を地図で見ると、やはりこのヘンは怪しくでこぼこしています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1070
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1069

ヨシが繁茂していて浄化作用とか生物の生息に役立ちそうです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1071

北五番橋より下流は見事に川幅いっぱいに水が流れています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1072
ヨシの類いなんてあってもはしっこでささやかに。これなら舟でも大丈夫ですねぇ。

こんなだと、期待出来そうだな「創成川ルネッサンス」
265真駒内川:2004/07/11(日) 01:00:10 ID:xW4h/tSo [ pdda098.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
ある程度総括してから次ぎ進んでもらえますか。
何が決着して、なにが未確認なのかようわからんですな。

ここん所を押さえとかんといわゆる「なれ合い」になっちまうし、
消化不良で気持ち悪いぞな。
266牛鍋蝸牛:2004/07/11(日) 07:55:19 ID:qCspi/Oc [ U121091.ppp.dion.ne.jp ]
>>265
なるほど、「札北馬鉄」の総括ですね。

いやね、実はワシ、他のネタに関しても時間をかけて、一旦総括してみたいと思っていたのです。
ただ単なるまとめではなく、新しく調べなおして新事実があれば付け加えて…。
スレには時間が割けなくなりますけど、2年経ったし、時間をもらってこの際やってみようかな?
267牛鍋蝸牛:2004/07/11(日) 12:14:18 ID:qCspi/Oc [ U121091.ppp.dion.ne.jp ]
「札北馬鉄」の総括をと思ってちょっと調べていましたら、馬鉄のサイズに関してのデータがあったことを発見しました。
"あったこと"というのは、今まで見逃していたから…。

2002年5月号の「広報さっぽろ 東区版」の「ひがしくすとーりー第14回 馬車鉄道で行こう〜札幌軌道」に、「軌道の幅は千六十七ミリでした」とあります。
先日、「北海道開拓の村」の馬鉄を見たときの疑問、「札北馬鉄との大きさの違い」が未解決でした。
このヒントになりますね。
また金出して、行ってきましょうか?
それとも電話で訊きましょうか?
入場料、結構高いから電話だな。

他の馬鉄のレール幅はと思いまして、調べてみました。
「手稲のはなし 馬鉄が走ったまち」に「軽石軌道」のレール幅が出ていました。
「単線で線路の幅は約76センチメートル」。
ttp://www.city.sapporo.jp/teine/tthanasi/honbun/hanasi12.htm 
こりゃ!?
268牛鍋蝸牛:2004/07/11(日) 12:16:23 ID:qCspi/Oc [ U121091.ppp.dion.ne.jp ]
「札北馬鉄」の軌道幅は1,067mm、「軽石軌道」は760mm…。
かなりの差があります。
「手稲のはなし」には興味深い記述があります。
「車両は札幌の街中を走っていた馬鉄が大正7年(1918)に電車に替わったので、この中古の客車を払い下げてもらい1両に12人乗りの客車3両と屋根のない無蓋車(むがいしゃ)の貨車12両でスタートしています」

「札幌市街の馬鉄」をヒントに「新札幌市史 第三巻通史三」で調べてみました。
おそらくは、「札幌石材馬鉄会社」が明治四十四年に名称を変更した、「札幌市街鉄道株式会社」のことだと思います。
そうだとすると、札幌中心部の馬鉄と「札北馬鉄」はもし線路が繋がったとしても、相互乗り入れが出来なかったということになります。
「札北馬鉄」の始発問題とも関連する事柄です。
当初、明治四十一年に石狩の鳥羽熊三郎氏ら有志が馬鉄敷設の願書を出願した際は、起点を「北五条西一丁目」としていたわけです。
市街馬鉄と連絡する予定があれば、軌道幅は同じにするはずです。
あるいは、起点が予定通りにならなかったので、後に軌道幅を広くしたのか?
「札北馬鉄」終了のつもりでしたが、真駒内川さんにまんまとやられ、再び疑問がむくむくと…(w

さて、ここまで書いて、あれ?と思った方がいらっしゃると思います。
上記の「ひがしくすとーりー第14回 馬車鉄道で行こう〜札幌軌道」。
ttp://www.city.sapporo.jp/somu/koho-shi/200205/higashi/higa04.pdf 
なぜか、「札幌軌道」となっております。
これは「札北馬車鉄道株式会社」となっているのに…。
これも既出の、「北区のエピソード 夢と思い出を運ぶ 石狩街道」でも、
「札幌軌道株式会社が馬車鉄道の運行を開始したのである」となっています。
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi2-20.html
ま、これは昭和59年の記事ですので、そういうこともあるかもしれません。
同記事では馬鉄の後継を「ガソリンカー」と言っていますが、これはご存知の通り「ガソリン機関車」ですし。
269なまら名無し:2004/07/11(日) 13:59:57 ID:nC7qkTqg [ EATcf-365p144.ppp15.odn.ne.jp ]
>>263
このレスがくどい。
270真駒内川:2004/07/11(日) 15:25:01 ID:Yg4GmLKc [ p6240a6.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>268

762mm、いわゆる「ニブロク」ですな。
軽便鉄道でよく使われた軌間ですねぇ。
当時の地方鉄道法に定める最小の軌間でしたから、
資本力のない会社が始めた鉄道としては建設費が安く上がる規格として採用したのでしょう。
271なまら名無し:2004/07/11(日) 17:33:06 ID:S0TJGUrE [ p1206-ip05sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
固定同士の馴れ合いは禁止のはずだが、いいのか?
272真駒内川:2004/07/11(日) 17:46:09 ID:Yg4GmLKc [ p6240a6.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
名無しでぐだぐだ言うなや、ぼけ野郎!
273天狗橋:2004/07/11(日) 18:35:21 ID:PWjHP4JY [ EATcf-364p186.ppp15.odn.ne.jp ]
固定同士の馴れ合いは禁止のはずだが、いいのか?
274なまら名無し:2004/07/11(日) 18:56:36 ID:sfOy5qiE [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]
天狗橋さん、初めまして。
新川番地と申します。

>固定同士の馴れ合いは禁止のはずだが、いいのか?
だめなの? 堂々と名乗ってるだけなんだけど・・・
ここは名乗ったうえで結構厳しい事やってるスレだと僕なんか思ってるんですけど・・・
馴れ合いではないと思いますけどね。
で、いいのか?とか言ってないでちゃんと参加してくれれば、ROMの方々も含めて歓迎なり批判なりの参加を歓迎すると思いますよ。
荒らしの方がタチ悪いし
275牛鍋蝸牛:2004/07/11(日) 20:55:55 ID:p8l4kviA [ x086136.ppp.dion.ne.jp ]
まあまあ…、真駒内川さん。

>>269さんはよくワシに、ツッコミを入れてくれる方ですかね?
いつもどうも(w
さて、天狗橋さんのご質問にお答えいたします。
といっても、新川番地さんの意見と同じになっちゃうんだけど…。

本スレ、コテハンは多いですが、馴れ合ってはいません。
現に今回、ワシが「札北馬鉄」を終了しようとしたら、真駒内川さんが意義を申し立て、それからまた新しい展開となりそうな予感が…。
スレの内容だって、史実を調べ、推論を立て、実証できるものはする。
新川番地さんがおっしゃるとおり、結構、真剣勝負の場なんですよ。

コテハンの件ね。
コテハンが多いのは、こりゃ当然です。
このスレが名無しだらけだったら、誰が何言ったんだか混乱しちゃうでしょ?
書いているのは、かなり入り組んだ話な訳ですしね。
それにスレの性格上、レスをした責任という点でも必要ではないかと考えています。
真駒内川さんがお怒りなのも、おそらくそういう自負をお持ちだからでしょう。

で、最後に参考までに書いておきますが、本スレは、管理人べるーさんから2003年12月19日、「現状、本板進行妥当と判断しています」とのご返答をいただいております。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/12_log.html#009

天狗橋さん、納得していただけましたでしょうか?
ということで、どうぞ、安心して参加してください。
馴れ合いでもなんでもない、真っ向からの真剣勝負を楽しみにしています。
276真駒内川:2004/07/11(日) 21:12:35 ID:Yg4GmLKc [ p6240a6.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
まっそう言うことなので、的はずれなヤツはほっといて淡々と行きましょうか。

札幌石材馬鉄会社と札北馬車鉄道株式会社の軌道はつながってたことがあるのか、
どなたかご存じありませぬでしょうか。
「大正5年札幌市街圏」の地図では札北が北3条通りまで来ている様に書いております。
が、しかし、札幌石材馬鉄会社の軌間は1372mmで電化の際に1067mmに換えたはずだから、つながるわけないか...。
この地図が間違ってるんでしょうかねぇ。
277牛鍋蝸牛:2004/07/11(日) 23:08:53 ID:p8l4kviA [ x086136.ppp.dion.ne.jp ]
>>276
>札幌石材馬鉄会社の軌間は1372mmで電化の際に1067mmに換えたはずだから
お?

真駒内川さんに質問です。
>>268で引用しましたように、「手稲のはなし」で「軽石軌道」は762mm。
「車両は札幌の街中を走っていた馬鉄が大正7年(1918)に電車に替わったので、この中古の客車を払い下げてもらい1両に12人乗りの客車3両と屋根のない無蓋車(むがいしゃ)の貨車12両でスタートしています」となっています。
この「札幌の街中の馬鉄」は「札幌石材馬車鉄道合資会社」のことだと思うのですが、では、「札幌石材馬鉄」は762mmゲージ(軌間)をいつ使っていたのでしょうか?
どうもこの辺の関連が、よく分からなくなってしまっています。

尚、「札幌石材馬車鉄道合資会社」は「札幌市街鉄道株式会社」、「札幌市街軌道株式会社」、「札幌電気軌道株式会社」へと名称を変更していますね。
電化されたのは大正七年の北海道博覧会を期してだそうです。

電話で確認しましたら、「北海道開拓の村」の馬鉄のゲージはまさに、「ニブロク」(762mm)でした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1062 
そして、1067mmは現在の札幌市電のゲージです。
「開拓の村」へ行って、それから市電路線を見ると分かりやすいってことですね。
それにしても、現在の市電と同じゲージということは、「札北馬鉄」は結構大きな車両を運行していたのですね。
278真駒内川:2004/07/12(月) 01:15:48 ID:6GEo6IUY [ p6240a6.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
んとー
ニブロク軌道だったのは軽石だけで、あちこち調べましたが札石はやっぱり1372mmの馬鉄軌道だった様です。
博覧会を機会に見栄を張って電化しようとして1372mm(4フィート6インチ)の車両をイギリスから輸入しようとしましたが、
第1次大戦の最中だったので無事に着くかどうか判らなかったので、名古屋電気鉄道(現名鉄)の車両を譲渡してもらって
開業したので、狭軌(1067mm)にしたという経緯の様です。
あれ?既出だったかな。
(でも結局博覧会には間に合わなかったみたいですが...)
279天狗橋:2004/07/12(月) 01:35:55 ID:6Y90/HEQ [ EATcf-364p186.ppp15.odn.ne.jp ]
新川番地さん、牛鍋蝸牛さん、レスどうもありがとうございます。
私は馴れ合いとは思っていませんが、>>271の人に対する>>272のレスが
>>271を認めるような内容だったので、>>271と同内容を固定で書いたら
彼にどういう返事がもらえるのかと試してみただけです。

どうやら彼にはお二方のように良く練られたものを書くことはできないようなので
期待しただけ私がアホでした(笑
28018丁目:2004/07/12(月) 03:18:02 ID:bjC8toNk [ p23254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
石狩の君の実家のこの写真↓
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=showphoto&photoid=600
右側の建物は昔教会の集会所だったんですと。
名前は北光教会北十一条集会所、もちろん所有者は「橘家」。
時代は1955年〜1967年で、当時はやはり橘さんが地元有力者ということもあり、
かなりの来会者があったようです。
1967年に集会所が元町伝道所として独立してからは、橘さんは不参加となったようです。

なんて、マイナー地名のマイナーエピソードを唐突に語ってみたくなりました。
281真駒内川:2004/07/12(月) 09:50:58 ID:52IMTKbA [ pd33864.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>277
さてと、肝心な事を書くのを忘れていました。
軽石が札石の払い下げ中古車両を使っていたならば、札石もニブロクだったのかという疑問だと思います。
私は車両を改修して使ったのだと思っています。
元々電車でもなくただの2軸の台車ですから交換くらいはそれほど難しいものではないでしょう。
明治時代にはすでに国鉄苗穂工場で車両の製作が行われるほど道内の加工技術は高かった様ですから、
木造車体で「トロッコ」規格の改修ならば屁でもなかったと思います。
282元東月寒人@琴似:2004/07/12(月) 11:43:59 ID:SosMheoI [ snjk038k041.ppp.infoweb.ne.jp ]
さっぽろ文庫別冊、札幌歴史地図大正編の「札幌市街図<大正5年>」について気づいたことをいくつか。

・北3東1にあった鉄道管理局が駅前西にある。(大正5年9月移転)
・札幌市街軌道が電気鉄道会社と表示されている。(大正5年10月改称)
これらの変更後に作成されているとしたら、大正5年10月から12月の地図ということになります。(カッコ内の年月は札幌歴史写真集に記載のもの)

・道庁西側に国鉄線まで軌道が北上している。
これは「25000分の1地形図(大正5年測量)」と異なる点です。

・市街軌道が苗穂方面まで伸びていない。
これは、「札幌市街図<大正4年>」や「地形図」とは異なる点です。
なお、「市街図<大正4年>」では、札北の軌道は製麻会社前(北7条通)までであり、鉄道管理局は北3東1にあります。
「市街図<大正5年>」の地図では、軌道が国鉄線から南下して北3条通りまで来てますが、ちょうど移転前の元鉄道管理局の西側を通っています。

図をアップして比較した方が分かりやすいのですが、それはそのうちにということで勘弁してください。
283元東月寒人@琴似:2004/07/12(月) 11:48:52 ID:cMZEzeFA [ snjk020k008.ppp.infoweb.ne.jp ]
そこで、この時代の創成川近辺の写真をいくつか調べてみました。

札幌歴史写真集(大正編)に「創成川河畔(北3条付近から南を望む・大正9年ごろ)」というのがありますが、はっきり分かりませんが軌道はない様子です。

「鉄道管理局」がありましたが、駅前に移転後のものでした。

「帝国製麻株式会社(大正初期)」には軌道が写っており、建物前で、北からの2線の軌道が一つに合わさっています。ただし、「帝国製麻株式会社」についてはこの本以外にもいくつか写真があり、これらを合わせてみると、複線が単線になったというのではなく、3線が2線になったと思われます。(数え方はこれでいいのでしょうか?)
札幌歴史写真集には「石狩街道の馬鉄路線(北6条付近から北を望む)」が、この写真は右端がカットされている様で、「写真で見る北海道の鉄道下巻」では、右端に製麻会社がチラッと写っています。
このスレにもアップされている、札幌歴史写真集(明治編)「札幌・茨戸間の馬鉄開通式(明治44年)」では軌道が少なくとも3線あるので、製麻会社が写真右手で、北方面を写したものと思います。(最初は南に向かって撮ったのではないかと思っていましたが。)

写真のアップがなく文だけでは分かりづらいですが、今のところこんな感じです。また、新たな資料が出てきたら報告します。
284真駒内川:2004/07/12(月) 16:05:34 ID:mY6.qblQ [ p29b33c.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
先の札石の軌間ですが「さっぽろ文庫、『札幌事始』」の「電車」には「2フィート6インチ」だった記述がありました。
手元にあるのにかかわらず、うっかり見逃しておりました。
これが正しいのであれば車両は改造せずに軽石で使用された訳ですが、さっぽろ文庫の記述がレールの手配についての部分で他の資料と微妙に違っておりまして、
100%信じていいものか迷っております。
確かに当時の写真で一緒に写っている通行人とレール間隔を比べると1mあるのかないのか微妙であります。
285牛鍋蝸牛:2004/07/12(月) 21:59:18 ID:C5i4xf8s [ U124058.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、誠に細かいことで申し訳ないのですが、重要なので。

>>278 
>札石はやっぱり1372mmの馬鉄軌道だった様です。(略)
名古屋電気鉄道(現名鉄)の車両を譲渡してもらって開業したので、狭軌(1067mm)にしたという経緯の様です。

真駒内川さん。
ということは、1372mmだった軌間を電化に際して、1067mmに狭くしたということですよね。
ワシも「軽石軌道」が「札石馬鉄」シャーシを改造して、ニブロク(2フィート6インチ。メートル法で762mm)にしたのではと考えてみたのですが、「札石馬鉄」が電化のためにいらなくなった車両を「軽石軌道」が導入したとしたら、1372mmの物を、762mmに改修したことになります。
素人考えなのですが、これって、ちょっとヤバイのでは?
ほぼ半分の軌道幅ですもんね。
28618丁目:2004/07/12(月) 22:02:01 ID:M.3HV8B6 [ p8010-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ここんところの馬鉄ネタをヲチしていて感じること。
札幌の町をSimcityのように成立過程を一気に眺めてみたいですな。
栄えては廃れていく道筋や、役割の変貌していく地区などを体系的に見ることが
できると良いな〜と思います。
287元東月寒人@琴似:2004/07/13(火) 00:20:11 ID:B7tgvYks [ snjk015k008.ppp.infoweb.ne.jp ]
「太平開基百年史」に、私鉄研究家浜田氏の札幌軌道に関する記事(北海道新聞、昭和59年11月2?日発行)がありました。

「これが幻の”自動機関車”」という見出しで、札北馬鉄の内燃化は、ガソリン機関車によるものだったことが判明したということを紹介しています。
記事では、中古のアメリカ製自動車の車体の一部とエンジンを利用し、札幌のまち工場でつくった道産自動機関車で、台数は5台となってます。
機関車の正面と駅舎?のような建物の写真も掲載されています。

また、「常識的にはガソリンカーに切り替えられたものと推測された」「エンジンの動力を車軸に伝えるのに、チェーンを使っており、その点でも珍品だ」などの表現もあります。

翌年には詳細を鉄道専門誌に発表するとなっていますので、この雑誌が、今まで出てきた「鉄道ピクトリアル」なんでしょうか。
288真駒内川:2004/07/13(火) 00:30:15 ID:Kov.k2hk [ p29b33c.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
やっぱり札石は762mmが正解のようですね。
調べる物皆1372mmから1067mmになったみたいな書き方をしてるので信じてしまいました。うはは。
ただ、実際の所ヤバそうに見えてそれほどヤバくないのが鉄道であります。
現在でも762mm軌道の鉄道はありまして、傾いてきた近鉄が最近になって三岐鉄道に売却した北勢線がそうですし、黒部峡谷鉄道も762mmであります。
しかしさすがに最高速度は自動車以下です。
289牛鍋蝸牛:2004/07/13(火) 05:24:35 ID:6JydA5ik [ U124058.ppp.dion.ne.jp ]
う、う〜〜〜ん…(汗
いや、何か考えているのではなく、痛いんです。
尿路結石の発作が数年ぶりに再発しました。
おしっこマッカッカ、シチリキホッキョッキョであります。

>>287
その「札北馬鉄」のガソリン機関車の写真って、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1051
ですか?
この写真、以前にアップしたのもですが、どうも妙な形をしているとは思っていたのです。
自動車のような顔つきしますもんね。

「ガソリンカー」と「ガソリン機関車」の件につきましては、かの「札幌温泉」ネタの時にも出てきたと記憶しています。
「札幌温泉」では電車の変電所が火災になり、やむを得なく内燃機関の車両に切り替えたのですが、この場合は「ガソリンカー」でした。
「札北馬鉄」の場合、「カー」と「機関車」の両方の記述があるのは、この車両の特殊な形状によるのでしょう。
納得しました。
成り立ちは「カー」ですが、機能から言うと「機関車」と言えるのではないでしょうか。
あ、今、検索してみたら、「札幌温泉」の内燃機関車両については、「その十」で、kさんが詳しく述べられておりました。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/10_log.html#028
分かりやすいです。
290新川番地:2004/07/13(火) 09:30:36 ID:UAjtfxec [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]
>286 18丁目さん

それ賛成! できないでしょうかね
291牛鍋蝸牛:2004/07/13(火) 19:22:22 ID:aJ.vM6vI [ L066192.ppp.dion.ne.jp ]
スレ立ての依頼をしました。
新スレへは、こちらを使い切ってから移行してください。

馬鉄の軌間の話しで、「札北馬鉄」、「軽石軌道、「札石馬鉄」の三つが現在同時並行で進行しております。
(あ、現行の馬鉄として「北海道開拓の村」のヤツも入れておきましょうかw)
しかも軌間(ゲージ)が、762mm(2フィート6インチ、特殊狭軌、ニブロク)、1067mm(3フォート6インチ、狭軌)、1372mm(4フィート6インチ
)の三種類が出てきています。
ここで一度整理をしたいと思います。
但し、途中経過ということで。

「札北」は1067mm(3フォート6インチ)であった。
「札石」は762mm(2フィート6インチ)であった。(さっぽろ文庫 第7巻「札幌事始」 1979年1月刊行、さっぽろ文庫第22巻「市電物語」 1982年9月刊行による)
「軽石」は762mm(2フィート6インチ)で、これは「札石」の車両を譲り受けたものであった。
※「北海道開拓の村馬鉄」は1067mm。

補足。
「札石」は大正7年の「開道五十周年記念 北海道博覧会」を期に電化を図り、軌間を1067mmに変換した。(「市電物語」より)
同社は昭和2年、札幌市に路線を譲渡し札幌市営となり、現在の市電も1067mmゲージである。
とこんなところで間違いないでしょうか?
292牛鍋蝸牛:2004/07/13(火) 19:23:41 ID:aJ.vM6vI [ L066192.ppp.dion.ne.jp ]
さて、長々と書いてきたのですが、ワシが知りたいのは、「札北」は「札石(札幌市街鉄道)」と相互に乗り入れるつもりがあったのか、なかったのか、ということなのです。
当初「札北」が申請した時は始発を「北五条西一丁目」としました。
つまりは札幌駅前です。
でも、結局「北七条東一丁目」が始発になったわけです。
これは函館本線の横断という問題があったではないか、という意見が以前に出されております。
ひとまず、これを置いておいて…。

軌間は広い方が走行も安定するでしょうし、車両も大きくできますので輸送力はアップするわけですから、762mm より1067mmの方が良いに決まっている。
しかし、「札石」と連絡するつもりなら、同じ762mmゲージにしなければ意味がない。
ここらの関係が時系列的にどうだったのかなぁ、と気になるわけです。

でも、「札石」は東進してきて「北五条西三丁目」から中島遊園地方面へ向かったということなので、いずれにせよ相互乗り入れは無理だったとも思えるし、そうならば「札北」は最初から1067mmでの敷設を計画していたのかもしれませんねぇ。
皆さん、どう思われます?
293牛鍋蝸牛:2004/07/13(火) 19:26:14 ID:aJ.vM6vI [ L066192.ppp.dion.ne.jp ]
新スレ立ちました。
「その十五」です。

http://hokkaido.machi.to/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1089714171


…そして、また発作がっ!
294真駒内川:2004/07/13(火) 22:23:02 ID:KYXcc6f. [ p29b314.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
お茶飲んで縄跳びしましょう!
295牛鍋蝸牛:2004/07/13(火) 23:01:58 ID:PRe3Ul6I [ U123224.ppp.dion.ne.jp ]
すみません!
間違いを犯しました。

>>291
>※「北海道開拓の村馬鉄」は1067mm。
これ、違います。
既出の通り、762mmです。
296新川番地:2004/07/13(火) 23:19:49 ID:UAjtfxec [ YahooBB219041108086.bbtec.net ]
札幌駅で降りて茨戸方面に行く人は結構歩かされるんですね。
そのころは北口ってあったんですかね。
鉄道ドしろうとの素朴な疑問・・・

>牛さん 大丈夫?
私は数年前胆石を患いまして、どんな体勢をとっても何をしても良くならなくて、痛みの収まるのをじっと待つしかないあの辛さを思い出してます。
僕の場合胆石取っちゃッたんで、その後は楽ですが尿道はねぇ・・・取れないし
コロっと来るのを待つしかないのかな・・・お大事に

あ、スレ違いかつ長文で申し訳ない。 >2さん
297元東月寒人@琴似:2004/07/13(火) 23:46:31 ID:YUcAbsSA [ snjk011k009.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>289
すいません。写真は既出でした。記事の内容も説明不足でした。
資料が無くガソリンカーだと推測していたが、調査の結果、ガソリン機関車で引っ張る列車だったのがわかったという事です。
298あぼーん:あぼーん
あぼーん
299毘沙門天:2004/07/14(水) 02:30:20 ID:wDdrnjSs [ N019147.ppp.dion.ne.jp ]
お初です。約2週間前からROMってます。
素晴らしい!!!エクセレント!!!スレですね。
過去スレを初めから読んでいる最中でございます。
只今・・・パート9終了。近々追いつきますです。
スレ生誕2周年おめでとうございます!!!