【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十参】

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1アライグマ ★
地名を聞いてもいまいちピンとこない札幌市の地名をあげましょう。
知名度ゼロ、名所ゼロの土地へ実地調査へ行き、見所を見つける良スレです。

「その一」から「その十弐」までの過去ログはこちらでご覧になれます。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/

      Special thanks!! Mr.161

【前スレ】

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1071746350
2なまら名無し:2004/02/23(月) 00:29:41 ID:Bb3evH9g [ p5221-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ]

札幌、という地名。
3牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/23(月) 23:07:51 ID:oFfdVgD. [ N046160.ppp.dion.ne.jp ]
さて、スレも進んで、「十参」になっちゃいました。

「偕楽園」の跡地に去年行って来ましたので、写真をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=824
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi-new/05mizu.html とは変っていましたが、今でもちゃんと龍神さまの祠は健在で、花も活けてありました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=823
いまだに信仰されているのですね。
4発寒1条1丁目:2004/02/24(火) 00:17:48 ID:fjfFmVLE [ SODfa-01p6-24.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋蝸牛さん、そしてその他の皆様おしさしぶりです。
たまには、ロムってはいたのですが・・・
牛鍋さんが、偕楽亭ネタに取り組んでおられるので、レスします。
手元に「さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭」があります。
これによると、「明治31年、清華亭を含めて一体の地は対馬嘉三郎に払い下げられた。翌年、斉藤いくがこれを賃借して料理店を始めた。 池畔の博物場を改造して偕楽亭と称し、池の中島を整え白鳥を遊ばせた。清華亭は集会場に当てられた。<中略> 旗亭偕楽亭でため込んだ斉藤いくは数年後には南3条西4丁目に幾代庵を開いたが年々盛大に赴き、「東京以北随一の旗亭」(柴田欣兵衛「花橘」)となり、偕楽・清華の両亭はその支店となった。」とあります。
どうも「札幌事始め」の記述はあやしいような気がしますが、どうでしょうか。
それから、この「さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭」によれば、偕楽亭は池畔の博物場を改造した建物とその西側にも存在していた内容の記述もあって、はっきりしません。
機会があれば町内会の席で古老に聞いてみようと思いますが、何分明治時代のことですからね。
現在、この辺り、昼時は大原の学生が公園で食事やキャッチボールに興じる姿を見ることができます。
一昨年11月に京プラから撮影した写真があるのですが、アップの仕方どなたかレクしていただけませんか?
5西創成:2004/02/24(火) 00:25:11 ID:gX2MmJYg [ i096062.ap.plala.or.jp ]
新スレおめでとうございます。

>>2
「札幌」って当字とはいえ、変わった字を使ってますね。

さてさて…
「いく代」の女将の魔術…
偕楽園の「井頭龍神」社…

新・北区エピソード史によれば、『〜(略)〜今は宮司を近くの諏訪神社にお願いしているが、以前は町内に住む日蓮宗のお坊さんが、任されていた〜(略)』といい、一緒に掲載されている昭和48年のお祭りの時の写真にも神事をしている日蓮宗の上人の姿があります。

日蓮宗では、七面天女(龍神)も祭るし神さん事もする為、その流れでここの社では近所の坊さんに神事をお願いしていたのか、いく代さんのお宅が日蓮宗の信者なのでお願いしていたのか…そこらへんにも「いく代」の女将が龍神の力を使っていたと言われたかどうかの鍵があるかも知れません。

昔、年寄に聞いた話によれば、神さん降ろしや仏の口寄せは女しかできないそうです。

いく代の女将がそうゆう信仰の類をしてたのかも知れません。(まぁ推測ですが)

私は、女将の魔術=使用人の使い方、資金繰り、商売の仕方、政治的身のこなしなどを言っているんだと思うのですが。

ところで、「井頭龍神」って「いとう りゅうじん」なんですかねぇ「いがしら りゅうじん」なんですかねぇ…不勉強ですみません。
6元東月寒人@琴似:2004/02/24(火) 21:33:41 ID:nagr/x.k [ snjk040k027.ppp.infoweb.ne.jp ]
「札幌事始」の「いく代」に関する記述の参考文献、よくわからないです。
参考文献一覧に「札幌案内」がありますが、他には「最近の札幌(明治42)」、「大札幌案内(昭和6)」等いろいろあり特定できません。

ところで、新札幌市史にはこの辺のいきさつ何か書いてないでしょうか。
払下げであれば公文書が残ってるはずで、新札幌市史に記述があればその辺検証しているのではないかと思います。

對馬氏の所有が明治30年か31年であれば、その後明治32年の「札幌案内」刊行までに「いく代」(「札幌案内」では「偕楽園」?)が開かれ、後に移転というのが正しいのでは。

「札幌事始」には、「時の宰相伊藤博文をはじめ日本の貴顕紳商が次々と来遊、あまた美女を侍らせて浅酌低唱、文字どおり“歴史は夜つくられる”風景を現示していたという」ともあります。

権力者が呪術者や預言者を側近にしたり頼るという話はあるので、「いく代」に来た背景はわかりませんが、「魔術を弄する」話が耳に入り興味を持ったということも考えられます。
もっとも、伊藤博文なら、単に来道の折りに札幌の有名な旗亭に遊びに来た、というのが近いような気がしますが。
7元東月寒人@琴似:2004/02/24(火) 21:58:03 ID:kf70LHJ2 [ snjk039k069.ppp.infoweb.ne.jp ]
「文化通」、国鉄バス路線にもありました。
「JRバス資料館」のサイトでは、昭和33年に「十二軒通」が「文化通」に変更となってます。
http://www.inv.co.jp/~fumo/sap02.html

ただ、問題が。
過去ログに出てますが、「十二軒通」と「文化通」は同じ通りではないのです。
(十二軒通=宮の森2条と3条の間、文化通=山の手と宮の森の間)

なお、前スレ>>277で紹介されている昭和32年市営バス系統図で、28番山手線に「十二軒通り」が出てます。
この系統は、山の手通を通っているようで、33年の急行便運行区間を見ると、
  琴似療養所前 香蘭学園前 西高前 12軒通 北1西20
となっており、「12軒通」バス停は宮の森2条か3条あたりだったと思われます。

この路線に「北3西30」というバス停ありますが、今の地図では、北3西30は山の手通に面してないですね。
8西創成:2004/02/24(火) 23:21:15 ID:79E8hIOc [ i097187.ap.plala.or.jp ]
>>7
旧市バス28系統は、当時、現在の山の手通を宮の森2ー7付近のY型交差点を北2条通につながる方へ入っていっていたのではないでしょうか。
そうすれば、「北3西30」に停まることができます。
9牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/25(水) 00:07:58 ID:PDBkvTpU [ N046118.ppp.dion.ne.jp ]
>>4
発寒1条1丁目さん、かなりお久しぶりのような気がしますね。
なにはともあれ、再びの参戦、喜ばしい限りです。

往年の「偕楽園」はどの程度の規模だったのでしょう?
現在の「偕楽園緑地」がそのままの大きさなのでしょうか?
「偕楽亭」はここの、どこにあったのでしょう?

この「偕楽園緑地」、札幌の中心部にありながら実際に行ったことのある方は少ないように思えます。
おそらくは、日ごろ車でこの横を通っていながら、この存在に気が付いていないという方がほとんどではないでしょうか。
ワシもその一人でしたけどね。
ま、なんと言いましても都心にあって独特の雰囲気を持った地区であることは間違いありませんので、是非一度行って見ていただきたい場所であります。
大原簿記専門学校の学生さんと、日本共産党関係の方、自治労会館には用事があってよく行くよ、って方にとっては見慣れた風景でしょうけどね。
車で行きたい方は、某大型電器店でお買い物をしますと2時間駐車OKですので、後は歩いて行くって手があります。

写真をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=827
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=826
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=829
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=828
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=825

あ、発寒1条1丁目さん、「アルバム」への画像アップの方法ですね。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw の「今すぐ参加」からメンバーに登録していただければなんとかなると思うのですが、どうでしょう?
ワシは当たり前に使っているので、説明不足かもしれませんがそうは難しくないはずです。

まだまだ「偕楽園」関係で書きたいことがあるのですが、今日はもう眠いのでこの辺で。
かなり前に書きましたが、「札幌案内」の「遊覧場」の項での「偕楽園」の記述も気になります。
「同園は今や對馬嘉三郎(つしまかさぶろう)氏の所有に帰し斎藤いくなるもの賃居旗亭を営むを以って地甚だ俗了せり」

で、こんなサイトもあったので紹介しておきます。
まだ出ていないと思うのですが…。
内容が正しいかは…?
:ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi/44-3sekihi.html
10西創成:2004/02/25(水) 00:10:48 ID:Jl9jjglA [ i097187.ap.plala.or.jp ]
ん?
>>7、前スレ277で教えて頂いた市営バスの系統表をよくみてみると、>>8で書いたことは間違っているかもしれないです。

昭和40年のも見てみると、この28系統。「北3西30」経由しているようですが、昭和45年のも見てみると「北4西30」になってました。
おや?
山の手通の東急ストアーの横あたりに元々バス停があって、名称変更したんでしょうか。
◇市バス旧28系統(大通西2=バスセンター〜第一鳥居〜北3又は北4西30〜西高〜香蘭女子高〜国立西療養所〔琴似本通、天狗橋等行もあり。この先以降、時代により路線延長、廃止もしている〕)
11新川番地:2004/02/25(水) 17:34:41 ID:7B29KWV6 [ p7094-ipad11sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
偕楽亭の位置はさっぽろ文庫に載っていますが、現在のどこというのは私いまだに現地踏査を実施していないため不明であります。
「いく代」関連についても、亡父に「会っておけ」と言われていた何人かの人にまだ会っていないので進行していません。非常に興味深い資料や史実はあるけれど・・・停滞する新川番地に励ましのお便りを
1218丁目:2004/02/25(水) 22:37:35 ID:9oU0PMLg [ p23171-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
札幌ではありませんが許してください。
日本で唯一の住民ゼロの町に行ってまいりました。
13西創成:2004/02/26(木) 00:05:11 ID:AFlx6Ijc [ i221050.ap.plala.or.jp ]
>>11
なんか昔のマンガ雑誌の端に書いてた『〇〇先生に励ましのお手紙を』みたいですね。
コツコツいきましょうょ。

私もマネして…
いつまでも文章書くのがヘタな西創成に励ましのお手紙を!(なんてね…オレは薬師丸ひろ子カョ)

>>12
軍艦島(長崎、高島町内だったから0ではないか)か、どっかいったんですか?
14牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/26(木) 03:38:34 ID:5CCQdvjc [ N046118.ppp.dion.ne.jp ]
発寒1条1丁目さん、画像アップの方法、分かりましたでしょうか?
メンバーになったら、(確か)アップローダーをインストールして後は画像のあるファイルを開いてアップと、こんな手順だったと思います。
アップする画像は、容量が大きくてもmsnの方で圧縮しますので、そのままでOKです。

一昨日、昨日は眠くて中途半端なままにしてしまいました。
「札幌案内」に「偕楽園」という記述は、別々に二つあります。
「旗亭」の項で料理屋として、「遊覧場」の項では公園として。
「魔術を弄する」は「旗亭」のページに書かれています。
>>9で書いた、
「同園は今や對馬嘉三郎(つしまかさぶろう)氏の所有に帰し斎藤いくなるもの賃居旗亭を営むを以って地甚だ俗了せり」
は、「遊覧場」のところに書かれていました。

「北七條西七丁目にあり 明治四年岩村判官の設計に成り 臼井幹治偕楽園と名つく 初め園内に育種場、博物場、競馬場、偕楽亭、清華亭等ありしも育種場競馬場は北三條に転し今尚存するものは清華快楽の二亭にして清華亭は園内の小丘上にあり 十三年の新築にして黒田長官題して水木清華と云う 十四年聖駕北巡の際九月一日此亭に御し對雁舊樺太土人の舞踏を天覧あらせられ酒を賜りし處なり 園内老樹参差たるの處清泉流れ地境頗る幽邃なりしも同園は今や對馬嘉三郎(つしまかさぶろう)氏の所有に帰し斎藤いくなるもの賃居旗亭を営むを以って地甚だ俗了せり」
(牛鍋蝸牛注 "對雁舊樺太土人"の"舊"は"旧")

「斎藤いくなるもの賃居旗亭を営むを以って地甚だ俗了せり」。
いくさん自身がなにか胡散臭い人物として書かれ、「俗了せり=平凡(俗)なものになってしまった」というのですからどう見ても好意的ではない。
ということで、ワシは「札幌事始」の、
「偕楽園公園内に「幾代庵」(後に「いく代」)が開業した。(略)たちまち明治二十年代の札幌三大料亭にのし上がったのである」
という記述は怪しいと、こう判断するのです。
1518丁目:2004/02/26(木) 06:55:19 ID:uRfqUdBQ [ p5173-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>室蘭市仲町です。
ここ室蘭でも、旧繁華街付近で「いく代」という店見ました。
あ、それから人口ゼロの町に行った昨日の午前中は、旧五番館の自動車部へ行っていました。
どちらへ行っても、歴史の話に花が咲きました。
16牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/26(木) 11:05:48 ID:5CCQdvjc [ N046118.ppp.dion.ne.jp ]
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi/44-3sekihi.html
北区公式HPのサイト「北区のエピソード史」(刊行されている「北区エピソード史」と同じもの)の#46「石碑めぐり 井頭龍神碑」。
「池の龍神さまが夢枕に現れてなぜまつってくれない―とたいそうご立腹じゃ」。 こんな"霊夢のお告げ"を、隣近所にふれ歩くひとりの老人がいた。時は明治の中期。老人は、北六西七の一体の偕楽園という公園内で、料理店を営む小林という人であった」

さて、どうでしょう?
今までさんざ"魔術はまんま魔術説"を述べてきたワシでも、この内容ちょっと首を傾げたくなるのです。
「小林老人」とは「小林(斉藤)いく」さんのことなのでしょうか?
しかし、この頃のいくさんは明治元年生まれなので、今よりも平均寿命が短かった時代とは言え、腑に落ちない。
記述からすると、女性という感じがしませんので、ご主人の小林喜三郎氏のことかな?とも思うのですが、喜三郎さんってそんなに年配だったのでしょうか?
ここらも疑問な点です。

おそらくは口承されている間に「コバヤシ」は一人歩きをして、謎の弁護士になり、カイザー・ソゼの側近になって、でも実は「KOBAYASHI」は安物陶器メーカーのことで実在しない人物だった…。
あれ?
ユージュアルサスペクツ?
17西創成:2004/02/26(木) 23:34:19 ID:ogx2E6vo [ m071038.ap.plala.or.jp ]
>>15
室蘭仲町ですか。
町全体、新日鉄ですものね。
十数年前に、仲町人口2人と聞いてたんですが…どこに住んでんだろと知人と話した記憶があります。

>>16
たしかに、老人=いく氏というのもおかしいです。
8月19日(18日〜20日との話もあり)のお祭りに行ってみて、年寄に聞いてみるか、諏訪神社に聞いたほうがいいのかも知れないです。
いいだしっぺの老人の名前位ちゃんとわかるのではないでしょうか。
18元東月寒人@琴似:2004/02/26(木) 23:38:16 ID:1wMw2342 [ snjk033k014.ppp.infoweb.ne.jp ]
前スレ291で書いた「札幌事始」中の偕楽園の古絵図にある、鳥居と石碑は「屯田兵招魂碑」でした。
「続・北区のエピソード史」26番、「祭りの起こりは西郷どん」にある写真の碑と古絵図のものは雰囲気同じです。
今は護国神社境内にあるということです。

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi-zoku/26matsuri.html
1918丁目:2004/02/27(金) 07:37:18 ID:6UGFfh1U [ p17217-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>18
屯田兵招魂碑
西南戦争では、東北出身の会津・伊達藩士の兵隊が奮戦したのは殊に有名ですね。
反対に薩摩藩出身者が多く占める将校達はほとんど積極的ではなかったと・・・
複雑なお家事情が札幌・北海道らしくて興味をひかれます。
西南戦争では上官殺しもあったようですし、数十年後の山鼻屯田兵による警察襲撃
事件にもそんな事情が影を落としているのかも知れません。
2018丁目:2004/02/27(金) 07:41:58 ID:6UGFfh1U [ p17217-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
訂正します
屯田兵の警察襲撃事件は明治14年ですから数年後でした。
21牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/27(金) 21:19:53 ID:W32cm.PA [ U124149.ppp.dion.ne.jp ]
「井頭龍神碑」はやはり「イガシラ」と読むのでしょうね?(って、誰に聞いているのじゃ)
ちょいとだけ調べてみたのですが、「井頭」というのが具体的になにを指すのか、よく分かりません。

「井の頭公園」ってえのんが、東京にあります。
これは三大将軍家光が、「江戸で一番の池」という意味で名付けたらしい…ということは分かったのですが、都内には他にも「井頭公園」がありますし、他の地方にもその名が残っていたりしています。
ましてや龍神と絡む「井頭」となると、なおさらです。

「さっぽろ文庫45 札幌の碑」に「信仰の碑概説」(西崎いづみ)という項があります。
ここでは「龍神」はこのように解説されています。

古代信仰にその系譜をみる「龍神」は、雲雨を自在に支配するとされ、早害・水害を恐れる農家の信仰の対象となってきた。札幌ではごく一部の地域ではあるが、夢枕に現れて、あるいは修験者の言によって、龍神碑、龍神祠が建立され、とめどなく沸き出ずる泉の神秘性を崇める庶民の心情と相まって、人々の信仰を得た。

…とあります。
これは興味深いと思いませんか?
「井頭龍神」を斉藤(小林)いくは崇めたのは事実、そして謎の"老人"「コバヤシ」は、「龍神が夢枕に現れてお告げを告げた」と吹聴したわけです。
「札幌ではごく一部の地域」と定義された龍神信仰の一つが、「井頭龍神」であったことは間違いないようですが…。
そいえっばさぁ、アノ、「水車町 難得神社」も龍神信仰だったわけだなぁ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=292 から9枚。

あ、ちなみに、「札幌の碑」はこう続きます。
一方、平岸・白石の用水組合では、水の恵みを祈願して龍神塚が建立された。これらは、豊平川の伏流水の著しい減少や治水事業の完成で、神秘性を次第に失い、龍神の住みかは宅地造成で消えて、「龍神の棲む池の水を胃腸病や眼病の治療に用いる」こともなくなった。
22元東月寒人@琴似:2004/02/27(金) 23:47:43 ID:EsO1hHpw [ snjk039k010.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>前スレ290「川岸」
水車町のことならその弐195など何度か過去スレに出てます。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/2_log.html#195
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#085

既出かもしれませんが、豊平・旭町・水車町は、昭和36年の豊平町合併の時に札幌市になったと思いがちですが、明治43年に当時の札幌区に編入されているんです。
菊水の一部(当時は白石村字上白石村)もその時札幌区に編入されてます。
豊平に住んでる人でも勘違いしていました。私も最近知ったのですが。

>>2,5
札幌の標記を「札幌地名考」から抜き出してみました。
「さつぼろ」「しやつほろ」「さつほろ」
「サチポロ」「サトポロ」「札ポロブト」
「沙津保呂」「札 糸晃」「察 糸晃」(後ろの文字は、「糸」へんに「晃」)
他に改称案として「幸洞」「幸幌」
23西創成:2004/02/28(土) 00:00:18 ID:e9Forthg [ i239152.ap.plala.or.jp ]
そういえば、真駒内泉町に『龍神塚をお祀りする会』だか『お守りする会』だかいう会があって、近所の龍神塚でお祭りしてます。

>>「井頭龍神」は、「いがしらりゅうじん」って読むのですか。ははぁなるほど。

龍神様って、性格や体の色もそれぞれ違ったり、ひとりずつ名前もあるらしいと聞いています。なかなかおもしろい。

関係ない話ですが、私が幻のトウキミ「札幌八行」にはじめてであったのは、井頭龍神さんのそばの八百屋さんでした。
その時には建て替える前のお社を見ていたんですが、ちゃんと見ておきませんでした。失敗しました。
24元東月寒人@琴似:2004/02/28(土) 16:38:04 ID:wHbSG6Ks [ snjk042k055.ppp.infoweb.ne.jp ]
さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」に郷土史研究家、井黒氏の偕楽亭と竜神に関する次のような文がありました。10頁以上あるので、おいしいところだけ抜出します。

「この建物の南の方に、明治十四年の行幸のとき『御膳水』にした泉が湧いていた。いつしかそこに水神様の信仰が芽生えたらしく、旗亭幾代は正月のお水をくみ、うやうやしく三宝に載せて運ぶのを例とした。そして幾代界隈の“水商売”の人たちの間にもこの信仰は広まり、泉は人心の底流となってそうしたところの神棚に納まっていた。」

この後、大正期の清華亭の保存に関する話となり、昭和5年9月には、50年祭が行われ、「この村祭りのような行事は数年続いた」ということです。さらに、つぎのような話が続きます。

「やがて戦時色が日々に濃くなり、それと共に清華亭はもはや神社のように尊厳なものとして取り扱われるようになった。それでも遊び盛りの子供らは柵を越えて入り込み、白髯の老管理人に不忠者呼ばわりされたりした。」
「昭和二十五年ごろ、奇特な人たちが“御膳水”の近くに小祠をたてて、『井頭(いのかみ)竜神』と称し、幾代その他の水商売の人によびかけて寄付を募り、ささやかな祭礼を取り行うようになった。」
25元東月寒人@琴似:2004/02/28(土) 16:59:47 ID:9jQ7ikwY [ snjk042k023.ppp.infoweb.ne.jp ]
順が逆ですが、さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」井黒氏の斉藤いくに関する記述。

明治31年、一帯が対馬嘉三郎に払下げられ、「翌年、斉藤いくがこれを賃借して料理店を始めた。池畔の博物場を改造して偕楽亭と称し、池の中島を整え白鳥をあそばせた。清華亭は集会場に当てられた。」

その後、「札幌案内」の文を紹介した後、次のように続きます。

「旗亭偕楽亭でため込んだ斉藤いくは数年後には南3条西4丁目に幾代庵を開いたが年々盛大に赴き『東京以北随一の旗亭』(柴田欣兵平『花橘』)となり、偕楽・清華の両亭はその支店となった。」しかし、上島正のしょうぶ園や岡田花園に人が集まり、「ほどなく幾代もこの支店をやめてしまった。」

ここで疑問が生じました。「札幌案内」の「夏季最も繁昌す」です。

「豊平館・清華亭」の参考文献で、「札幌案内」は明治32年6月発行となってます。
偕楽亭が明治32年開業では、無理があります。それとも、発行前の5月、6月にどっと人が訪れた?花の季節だから人は増えますが、この年のことだけで「夏季最も繁昌す」と書いたとは思えないのですが。

それと、「札幌事始」の古絵図と同じもので、もっと大きく見やすいのが、「豊平館・清華亭」にありました。
「清華亭」「招魂社」「手水所」「博物場」「花室」「競馬場」などの文字が見えます。
2618丁目:2004/02/28(土) 19:53:49 ID:IDSqRUgw [ p15023-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
前スレで牛鍋さんに聞かれていたの見逃していました。
エルム山荘は過去スレで少し話題になりましたが、何せ情報が足りなくて・・・
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/7_log.html#070

私事ですが、ここで今夏「宴」を催すつもりです。
27牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/28(土) 21:42:21 ID:SuDpxaMQ [ N044139.ppp.dion.ne.jp ]
18丁目さん、コングラッチュレーション!!
お忙しそうだったので、じゃないかな?とは思っていましたよ。

で、「エルム山荘」の方はといえば、廃業したまま、とばかり思っていました。
かつての「山鼻鉱泉」の跡地でもある「エルム山荘」。
今の名前は「季の苑 エルムガーデン」。
ttp://www.engokai-hokkaido.co.jp/an/special/elm/main.html
ワシのような下々の者も、機会があれば利用できるような雰囲気になったようですね。
綺麗なおねえちゃんとかと一緒に行けたら最高だろうなぁ。
今度奢ってくださいね。

さて、西創成さん。
「井頭龍神」は「いのかみ」だそうですよ。
誰だよ、「いがしら」なんて言ったのは…。(知らんふり)
ついでですが、西創成さんが「井頭龍神」近くの八百屋で初めて見た「札幌八行」、これです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=707
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=708
実は、まだ、ウチの冷凍庫に数本入っていたりする。

>>25
>上島正のしょうぶ園 は「東皐園」かな。
「東皐園」は、「その八」の#88 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/8_log.html#088 あたりから。
本スレもデータベース化してきました。

やはり、「偕楽園」開業は明治28年辺りが妥当ですかね。
28元東月寒人@琴似:2004/02/28(土) 21:49:38 ID:EINSskaM [ snjk035k043.ppp.infoweb.ne.jp ]
「井頭龍神」は「伊藤」から来てるかも知れませんね。
「豊平館・清華亭」井黒氏の記述の中に次のようなことが書かれてます。
>>24で書いたのと内容が一部重複してしまいました。)

「水源の伊藤邸の泉はかれず、一条の清流は主婦たちの洗濯場となり、漬物樽のひたし場となっていた。昭和二十五年ごろ、奇特な人たちが“御膳水”の近くに小祠をたてて、『井頭(いのかみ)竜神』と称し、幾代その他の水商売の人によびかけて寄付を募り、ささやかな祭礼を取り行うようになった。泉そのものは衰弱し、あたりは人家のかげになったが、人間の信仰心のほうは涸れずに、むしろ復活した。
ところが、その翌年、一帯の水脈が一斉にかれた。伊藤泉池はかれて河筋は一条の砂利道に変わった。」
(中略)
「現実の“水神”は去っても、人々の信仰は絶えない。二十八年九月、有志は碑を建て、美しい彫刻のある祠堂を営み、年々の祭礼は絶えない。」
29元東月寒人@琴似:2004/02/28(土) 22:16:23 ID:cCefJwbo [ snjk037k031.ppp.infoweb.ne.jp ]
「豊平館・清華亭」いろいろ書いてあります。これ読んで行くと混乱してきます。

対馬嘉三郎への払下げ、明治20年頃から明治31年まで複数の記述が。
どうも、当初は貸していたのを明治30年に払下げたというような感じです。

「札幌案内」の口絵には「偕楽亭」と思われる写真があるそうです。
また、これとは別に、明治30年頃の写真が載っており、これらをもとに、この本では偕楽亭の場所を推定していますが、何となく違うような気がします。
写真には北面と書いてあるのですが、木の影が変なんです。
北面が正しいなら北西側から光が当ってるように見えるんですが。

以上、まとめるのに時間かかりそうなので、実際に読んでみることをお勧めします。
30牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/28(土) 23:02:33 ID:SuDpxaMQ [ N044139.ppp.dion.ne.jp ]
>>28
なるほど、「伊藤」が「井頭」ですか。
でも、「いのかみ」という呼び方はどこから付いたのでしょう?
そもそも「井」とは「井戸」の意味でしょうね。
古くは湧き水のことをこうも言ったらしいので、これは納得できます。
「頭」はやはり、一番のことをいうのでしょう。
先に述べたように東京の「井の頭公園」も「江戸で一番の池」の意味だそうですしね。
「あたま」、「かしら」です。

意味はOKだとして、発音の方です。
はたして「頭」を「かみ」と読むのかどうか…。
「かみ」という言葉、調べてみたら「律令官制」の四頭官のうち、最上の官のことをいうそうです。
そして同じ「かみ」でも、各官庁によって当てる字が違った。
うち、「寮」では「頭」という字を当てて、「かみ」と呼んだそうです。
例えば、「図書頭」=「ずしょのかみ」とか。

>>29
確かに「偕楽園」関係は、結構資料があるわりにはややこしいネタです。
まずはご案内の、「札幌案内」の口絵にあります「偕楽園」の写真をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=831
「偕楽園」とはなっているが、「Japanese restaurant」とも。
「偕楽亭」?
31元東月寒人@琴似:2004/02/29(日) 00:38:58 ID:FZCSszwQ [ snjk033k005.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>10「北3西30」
私も、北2条通に入って行ったのかと思ったのですが、何か変なんです。

>>11「偕楽亭の位置」
発寒1条1丁目さんが書かれたようにはっきりしてませんが、「豊平館・清華亭」の図によると北7西8のこの辺りです。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=10000&el=141%2F20%2F50.160&pnf=1&size=500%2C500&nl=43%2F03%2F56.926

でも、本を読んで行くうちに、北7西7のこちらが正しいのではと考えてます。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=10000&el=141%2F20%2F52.362&pnf=1&size=500%2C500&nl=43%2F03%2F57.599

それで、冬に行っても何もわからないかもしれないけど、竜神さんを見に行こうと思ったのですが、図書館で子供が寝てしまい、担いで30分ほど歩いて帰ってきたら、午後から時間差筋肉痛になり断念しました。

>>19「屯田兵招魂碑」
当初、豊平館の場所(大通西1)を想定していたそうです。
いつ護国神社境内に移ったのかは、困ったことにはっきり書いてません。
32元東月寒人@琴似:2004/02/29(日) 00:39:51 ID:FZCSszwQ [ snjk033k005.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>30「札幌案内」の口絵写真について
間違ってました。「偕楽亭」でなくて、「偕楽園」でした。「豊平館・清華亭」ではこうなってます。

「同案内の口絵写真には、『偕楽園 JAPANESE RESTAURANT』の説明があり、園内に料亭のあったことを伝えている。
写真の建物は、もとの博物所の位置に、池に東面していた。この建物を東側から撮影した別の写真の後方には、不明瞭だがもう一つ大きな建物が写っている。
ちょうど、鮭孵化所前の旧養魚池に、北面して建っていたと思われるが、これが、『案内』に出てくる、いく代が旗亭を営んだという『偕楽亭』であろう。」

アップされた写真とそっくりなのが、別のページに出てました。
明治30年代の偕楽園の図と比べると、清華亭横に立ち北から南に向け、東屋ともとの博物所の位置にある建物を写したようです。
この建物も、別のページに有る博物所の写真も、偕楽亭となんとなく似てるんです。
33西創成:2004/02/29(日) 00:46:47 ID:lk0MRmGQ [ i107223.ap.plala.or.jp ]
井頭龍神は、「いのかみりゅうじん」と読むんですか。
なるほど勉強になりました。
>>28
社のご神体は、『美しい彫刻』なんですかね。
34とろんとろん:2004/02/29(日) 15:38:41 ID:rcbAVxvw [ runsystem008.h-ix.jp ]
そういや下野幌小学校(6丁目)が1981年に青葉小学校と改称
されたことを含む青葉町のことに関しては1スレの122で
「87年まで青葉町、現在は南郷通在住」といふ方が
以前に説明しておられたのですな。

あとも一つそういやだけど、その7の180-181でそれぞれ
牛鍋さんと西創成さんが言われてたところで、
>小樽・池田製菓は、バンビキャラメルと豆菓子。
とあるけど、この池田製菓と白石区にあるタマゴボーロの
元祖にして節分の頃にもいろいろ紹介された池田食品って
何か関係あるのだろうか?(いや豆菓子、といふところが
どうも気にかかったもので)

それからその9でも少し語ったロビンソン札幌店
(旧松坂屋→ヨークマツザカヤ)には東京堂書店撤退後
本屋のテナントがありませんでしたが、3月1日から
「文教堂書店」が出店する模様。出店するのはロビンソンの
5階で、どうやら専門店街を運営する「ススキノ十字街ビル」
の誘致に応えたものなのだそうな。
35牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/29(日) 21:19:14 ID:96CbE6uM [ U232086.ppp.dion.ne.jp ]
>>28
「さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭」に書かれている「水源の伊藤邸の泉はかれず…」の「伊藤さん」って「伊藤亀太郎」さんなんですね。
伊藤亀太郎さん、近くは前スレ「その十弐」#292 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/12_log.html#292 で、元東月寒@琴似さんが「あまだれ小路」の解説の時、「既出ですが、電話番号の一番が伊藤亀太郎、二番がいく代…」と奇しくも書かれています。

この"既出"が「その五」の#280 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#280 辺りから始まった"明治の札幌の電話事情"ネタ。
ま、これも「割烹 いく代」からの派生ネタではあったわけですが。
#289 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#289 でこの伊藤亀太郎さんが「偕楽園」の工事に携わったことも書きました。
「豊平館・清華亭」の「水源の伊藤邸の泉はかれず…」が正しいのなら、「偕楽園」の龍神さまの"出"は「北5条西8丁目」ということになりますね。
伊藤さんのお宅は今も同じ所にあるはず。(一丁画占有。はぁ〜…)
36牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/02/29(日) 21:36:49 ID:96CbE6uM [ U232086.ppp.dion.ne.jp ]
「北区エピソード史」の「祭りの起こりは西郷どん 招魂祭」
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi-zoku/26matsuri.html
の新聞記事は、明治13年8月2日の「札幌新聞」の記事であることが判明しました。
このサイトでは「屯田招魂碑」は明治12年に完成とありますが、「さっぽろ文庫45 札幌の碑」では、明治11年7月に建立。
建てられた場所も同サイトでは「場所は偕楽園の前、北6条西8丁目」ですが、「札幌の碑」では、「北6条7丁目の偕楽園に建碑」となっています。

>>31
>いつ護国神社境内に移ったのかは、困ったことにはっきり書いてません。
これは同書によりますと、
「のち明治四十年十二月、日露戦争に従軍した札幌連隊区管内出征軍人の戦死者を合祀し、これを中島遊園地に移転した。
(略)昭和八年に、中島公園から現在地の南十五条西五丁目に移転した」。
なお、碑を守るために招魂保存会、在郷軍人会、札幌祭典区等からなる奉賛会によって昭和七年、招魂会の社殿が完成、その後、昭和十四年に札幌護国神社と改称されたそうです。
ということで、よく言われるように(?)「屯田招魂碑が護国神社内に移転された」、ということではないようです。

一方、現在大通公園にある「開拓記念碑」は「札幌の碑」によりますと、「偕楽園内(北七西七付近)に建てられ、明治三十二年大通りに小公園ができたときに、現在地に移された」そうです。
で、「札幌案内」(明治三十二年)の口絵には両碑の写真が…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=832
つまり、こいつは「偕楽園(付近)」にあった時の写真です。
37元東月寒人@琴似:2004/02/29(日) 23:18:58 ID:aMEjIATY [ snjk043k034.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>35
今気付きましたが、電話番号、泉が1番、その下流が2番ですか。で、泉に戻って3番。

今日、札幌案内を借りて来ました。
広告が面白いですが、活字が今のと違うので読むの疲れます。
札幌案内の遊郭の項に「雨垂小路」の名称だけ載ってました。
38牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/01(月) 00:08:57 ID:FuPXVRkM [ U232086.ppp.dion.ne.jp ]
>>37
>活字が今のと違うので読むの疲れます。
そのうちに慣れますよ。
振り仮名が付いているのでワシのような素人でも旧漢字表記はなんとかなりますし、旧仮名遣いの勉強にもなりますよ。

さて、その「札幌案内」の「神社」に、「屯田兵招魂碑」と「開拓記念碑」のことが載っていました。
「屯田招魂碑 北六條西八丁目にあり」
「開拓記念碑 北五条西八丁目に在り 明治十九年建設す」
またまた分からなくなりました。
当時は広い公園内だったので、条丁目の見分けが付けづらかったってことがあるのかなぁ?

「偕楽園」の大正時代の様子について、「さっぽろの昔話 大正編上」に「賑わえる偕楽園界隈」という文章があります。
一年以上前、「その五」で「割烹 いく代」をやったとき、このことにちょっとだけ触れたと記憶していますが、長文のため詳細まではご紹介しなかったはずです。
実は、>>36 で書いた、「北区エピソード史」の「祭りの起こりは西郷どん 招魂祭」
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi-zoku/26matsuri.html の新聞記事の出典がわかったのも、同書があったから。
この「札幌新聞」の記事も、実際はもっと長いものです。

当時の「偕楽園」の情景を描写した書物が他にないので、こいつは明日(もう今日か!)にでも引用したいと思います。
同書には偕楽園内にあった各施設の位置関係が書かれています。
でも、書かれているのは相対的なものですので、正確に特定することは難しいかもしれません。
39真駒内川:2004/03/01(月) 00:50:18 ID:/La8CVVk [ p29d86d.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>38
「札幌市街概図 明治14年」には空知通りに敷設された鉄道の北側に「屯田兵招魂碑」の記述があります。
また、「札幌市街之図 明治24年」では鉄道の南側に「開拓記念碑」の記述がありますし、「招魂塔?」(小さくて見えねぇ)もあります。
札幌−手宮間の鉄道が開通したのが明治13年とされていますから、これらの地図の記述と附合します。
招魂碑と記念碑の場所も合っていますので、信用できると思われますがどないでっしゃろ。
40牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/01(月) 21:49:14 ID:1R4HpKIA [ U232042.ppp.dion.ne.jp ]
>>39
はぁ〜い!真駒内川さん、ど〜も。
「札幌市街概図 明治14年」、「札幌市街之図 明治24年」。
これ、みて見たいにゃ。
で、実際のところ条丁目で言いますと、これらはどこらに当たりますでしょう?

ちょいと気が付いたのですが、「札幌市街概図」の"明治14年"といいますと、札幌において「条丁目表記」がなされた、まさにその年であります。
ん?
そっか、これらの碑が完成したのは、札幌本府が「条丁目」で呼ばれていなかった時期なのですよね。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=289

それらはもともとが、住所表記では表しにくい公園(しかも、札幌で最初の)にあったわけですがな。
んもう、元来、区画のはっきりしない公園の中に建っていたのにもかかわらず、そのうちに住所の表わし方がなにやら訳のわからん"条丁目"なんて表記になってしまって、あげくには移転までさせられちゃったんだもん、元あった場所なんて今更わかるわけないじゃん!ってとこでしょうか?
さて、この推論いかがなもんでおまっしゃろかいな?
41牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/01(月) 21:50:17 ID:1R4HpKIA [ U232042.ppp.dion.ne.jp ]
さて、長文で恐縮なのですが、「さっぽろの昔話 大正編上」(みやま書房)から引用します。
尚、再三申し上げてはおりますが、この本は「郊外繁昌記」として知られているものと同じものです。

「桑園方面 賑わえる偕楽園界隈」
「酒田開墾が桑園と命名された時分、札幌停車場前から五条を西に進むと、桑園のつっかかり八丁目の所は鬱蒼たるトドマツが茂っていた。これは旧道庁が防風のためL字形に植えたもので、植物園東北から製粉会社にまで及んでいた。今日では当時の面影を植物園の一部に止めている。
伊藤亀太郎さんの住まわっている辺から、大学の一円の地は水あり丘あり、景色がよい。ここを偕楽園といって札幌最初の遊覧地であった。伊藤さんの屋敷には孵化場があって、鮭を孵化していたそうである。今でも当時の名残りがあって地には鮭が上がって来る。池の北側の方には博物所があった。これは今の博物館の前身で、水陸の珍しいものが蔵されていた」
<明日につづく…かも>
42真駒内川:2004/03/02(火) 10:19:13 ID:DelddnDY [ pdda02b.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>40
すんません、スキャナ持ってないんでアップでけません...
「札幌歴史地図、明治編」に掲載されています(P16,P17)のでよろぴく。
43牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/02(火) 21:03:48 ID:7RHtZw5E [ L066011.ppp.dion.ne.jp ]
>>42
了解しました。
ワシの行く図書館にも「札幌歴史地図」ありますので見てみます
余談ですけど、"図書館では借りられても実際のところなかなか手に入らない画像資料"を、まとめてPCに取り込んで活用できたら…、とも思ってはいるのですが、こりゃかなり面倒で時間もかかるし…ってぇんで、未だ腰が引けちまっています。

では、>>41の「さっぽろの昔話 大正編上」(みやま書房)からの「賑わえる偕楽園界隈」の続き。
「明治天皇がお休みになられた清華亭もその東の高台にある。今は北大の農学講堂を建てられている一円は、競馬場であった。招魂碑も開拓記念碑もこの辺にあったが、後に招魂碑は中島遊園地に、開拓記念碑は大通に移された。当時は開拓の初めで、娯楽も少く遊び場も少かったので、春、夏、秋には人の集まりも多かった模様である。
明治十三年八月二日屯田兵の招魂際は相当賑わったようだ。札幌に於ける最初の新聞である、札幌新聞には当時の模様を次のように書いている」

この後に、「北区エピソード史」の「祭りの起こりは西郷どん 招魂祭」
ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/episode/epi-zoku/26matsuri.html の新聞記事が続くわけですが、サイトとは違い、これまた長いのでまた明日にでも…。
とまれ、これらのモザイクをつなぎ合わせて、各々の位置関係を少しずつ推測してもらいましょう!

さて、ちょっとテーマがずれてきているので再度確認しておきます。
ワシが知りたいのは斉藤いくさんの「魔術」の件。
で、この本にそれは書かれているのかと申しますと、なにしろこれ、書かれたのが昭和2年。
そして、引用の例の新聞記事はと言えば明治13年のもの。
斉藤いくさんが当地に店を開いたのは、早く見積もっても明治28年から。
てぇなことでさ、そのことはポッカリ空いていて、書かれていないのですよ、ここには…。
44新川番地:2004/03/03(水) 21:02:15 ID:CTquxhI2 [ YahooBB219041108026.bbtec.net ]
んもう、じらさないで牛さーん
45牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/03(水) 22:39:27 ID:VxHrH7C6 [ N044150.ppp.dion.ne.jp ]
あ、新川番地さん、「魔術を弄する」件でしたら結局、未だに結論は出ていません。
>>43の後半は、その単なるいいわけです。

さて、明治十三年の夏、新聞に書かれた「招魂祭」の模様。

「去る二日は屯田兵の招魂祭で、馬駆けがあるというから偕楽園まで出かけて見ると、あるともあるとも縦横八方、大道でも小路でも無闇に懸廻る乗手ありて、往来の人などは蹴倒す勢いなれば、余りの事にきもたまが飛出て、博物所の列品とばけ、是から漸次算へて見ると、イヤモーあるぞよあるぞよ鉱物、化石、禽獣、魚虫、幾千なるを知らず、根室千島の産、東西海岸いちいち出処を記して、贅沢物でも珍しいとて、採用せるあたり、無益でも遠方から来たとて採用し、ウドの大木もあり、空腹らしき鰌もあり、威張った面の鯰もあり、一丈程の大魚あるいは地震の魚なるべし、方寸の玉は雷の眼球ならんなどと評せる人の可笑しさに、臍宿転吹出したる法螺は我輩の持前なり」
46牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/03(水) 23:40:50 ID:VxHrH7C6 [ N044150.ppp.dion.ne.jp ]
「さっぽろの昔話」。
札幌新聞の引用に一旦、合いの手が入ります。

「如何にも人での多い事と、博物所の珍品を蔵していたか想像に難くない。更に掛茶屋を設け、見物席を設け堂々たる競馬であったか、次の記事で知られる」
とあり、ちょっとはしょりますが、また新聞からの引用になります。
「うどん店に立食する客は我輩と土百姓にして、其盛んなる事古今未曾有といわん。夜に入れば、砲声一発値千金の花火はどんどん空に飛んで魂魄の飜へるが如し」

ワシが思ったよりも、「招魂祭」というのは派手な、まさに祭りだったのですね。
亡くなった屯田兵の御霊をともらうという雰囲気じゃないな、これって。

さて、そんな「偕楽園」の同書が書かれた昭和初期にはすっかり廃れてしまっております。
というか、明治二十年の後半には、すでにその人気は「中島公園」に奪われてしまって、ひなびちゃっているわけです。
同書は「由緒ある清華亭」でそのことに触れています。

「札幌最初の遊覧地で賑わった…、ゴメン、サッカー観るわ。
4718丁目:2004/03/04(木) 07:34:20 ID:u00oKHNU [ p15246-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
明治の偕楽園・偕楽亭・清華亭・招魂碑の件、大正にはもう話題に出てこないんですよね。
わが東皐園はそんな明治の公園の話題でもほとんど無視されていますが・・・

ところで「料亭いく代」に関して少し感心したんですが、大正時代には私設消防組も擁していた
んですね。写真でみると12名、「いく代」と書いた消防車まであってかなり本格的だったようです。
48牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/04(木) 11:26:08 ID:PMcCZyHo [ N044150.ppp.dion.ne.jp ]
>>47
ではその、「夜の赤レンガ」、「いく代道政」とまで言われるようになった頃に出来た、「割烹 いく代」の消防団の写真をアップしましょう。
「割烹 いく代 七十年のあゆみ」からです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=833
49牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/04(木) 19:40:31 ID:PMcCZyHo [ N044150.ppp.dion.ne.jp ]
さて、「さっぽろの昔話」からの引用は、今回で終わりにしましょう。

「由緒ある清華亭
札幌最初の遊覧所で賑わった偕楽園界隈も、招魂碑、開拓記念碑が移され、競馬場には大学講堂が建てられ、一部農園となったうえ、清華亭附近が個人の所有になって貸家を建てられてから、池の周囲は塵捨場となった。あたら札幌随一の名所も台なしとなった。
七条、八条の通りが出来てからは、桜が切り払われ住宅貸家などが入り乱れて出来、池の東側には市場が設けられて、雑然たる偕楽町を現出した。こうして由緒ある清華亭も今は雑然る市せいにあり、僅に往年の俤を止めている。前年この荒廃した旧蹟を永久に保存する憤起した人があって、清華亭保存会が生まれ市の斡旋で、近くその目的を達する事となっている(略)」

同書では、かつての名所に塵芥が捨てられていることを嘆く記述が、他かにも結構見られます。
>>23
>私が幻のトウキミ「札幌八行」にはじめてであったのは、井頭龍神さんのそばの八百屋さんでした。
西創成さん、この八百屋さん、「池の東側の市場」の末裔では?
で、肝心の池の位置ですが、こいつがあったことを忘れていました。
「札幌市史」(昭和33年)から「札幌歴代地図」http://pernoi.chu.jp/chimei/chizu.html の「明治26年」http://pernoi.chu.jp/chimei/m_26.gif です。
「偕楽園」を拡大したものが、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=834 です。
50牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/04(木) 19:41:35 ID:PMcCZyHo [ N044150.ppp.dion.ne.jp ]
「開拓記念碑」の位置は、真駒内川さんからのご報告、>>39と符合しますね。
>「札幌市街之図 明治24年」では鉄道の南側に「開拓記念碑」の記述があります。
湧泉(メム)も沸いて「偕楽園」へ流れ込んでいます。
で、ここは現在「伊藤邸」でありますが、当時は「偕楽園内」であったのですね。

ところで、「清華亭」の東にもメムが見えます。
>>28で元東月寒人@琴似さんが「さっぽろ文庫」の「豊平館・清華亭」からの引用をされていますが、それによりますと、
「水源の伊藤邸の泉はかれず、一条の清流は主婦たちの洗濯場となり、漬物樽のひたし場となっていた。昭和二十五年ごろ、奇特な人たちが"御膳水"の近くに小祠をたてて、『井頭(いのかみ)竜神』と称し、幾代その他の水商売の人によびかけて寄付を募り、ささやかな祭礼を取り行うようになった」
との記述では「井頭龍神」は「伊藤邸の泉」と関連していると読めるのですが、「清華亭」の東側のこのメムの方が井頭龍神の場所に近いのです。
もしかして、龍神信仰は「清華亭東のメム」が本家ではないかな?
だとすると、「伊藤=井頭」説は苦しいか。
さて、「伊藤組土建株式会社」の創始者、伊藤亀太郎さんは新潟出身で「偕楽園」建設にも携わっていますが、札幌に落ち着いたのが奇しくもこの明治26年。
彼は斎藤いくさんとも同郷です。

参考までに現在の偕楽園附近の地図をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=835
51元東月寒人@琴似:2004/03/04(木) 23:29:29 ID:wbwtsDQ. [ snjk040k010.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>50
龍神信仰は「清華亭東のメム」が基になっている可能性大のようです。

以下は、さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」の工藤さん(幼少から青年期を、大正から昭和初期にかけ偕楽園で過ごす)の話から。

「私の家は園内の南東、池を見下ろす小高い場所にあり、百メートルばかり北方にある清華亭と相対していた。」
(中略)
「現在は水がかれて児童公園になっているが、中央には小島をかかえ、けっこうな広さをもった池であった。」
(中略)
「池の西側には『いく代』の料亭あとの屋敷が残っており、そこのみぞにサンショウウオがいた。その南にやはり一年上級のSさんの家があった。池はSさんの家を囲むように伸びていて、その奥からわき水が流れ出ていた。これが、明治天皇行幸のみぎり、お茶をわかしてさしあげたという御膳水である。」
52牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/05(金) 00:24:44 ID:uHpX0e8g [ N044150.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、突然なのですが、皆さんにご相談があるのです。
レスの流れの腰を折ることになりますが、お許しください。

10日ほど前、本スレの過去ログをWebに上げていただいています161さんから、メールをいただきました。
サイト宛にAさんという方からメールが来て、現在創刊準備をしている雑誌で本スレでの我々の活動のことを取り上げたい、と言ってきたのだけどどうしましょう?という内容でした。

その雑誌の名は「札幌人」というのだそうです。
現在、東京には「東京人」、大阪には「大阪人」という雑誌があるそうなのですが、
(関連サイト ttp://www.toshishuppan.co.jp/tokyojin.html
ttp://magnavi.goo.ne.jp/caption/10006472.html
「札幌人」は文字通りその札幌版。
A4変形で当面は季刊誌(その後月刊誌をめざす)ということでした。
ちなみに、18年だか続いている「東京人」の執筆人は錚々たるメンバーです。
「札幌人」は「東京人」とは資本的には無関係だそうですが、コンセプトは同じとのこと。
そう言われれば、今まで札幌には、このような雑誌があるようでなかったなぁ。

で、何度かのメールの交換の後、本日、市内某所の京王プラザホテルにてAさん(編集主幹)とお会いして、その具体的な内容をお聞きしてきました。
あくまで今日は取材とかではなく、まず「札幌人」のコンセプトが本スレの趣旨と相容れるものかどうか、こちらがよくお聞きするのが目的でした。
それからスレ住人の方々にその旨ご相談したいと思ったものですから。

で、一時間ちょいお話をさせていただき、ワシとしてはこの雑誌自体の内容は、本スレの趣旨にも沿うものだとこう判断しました。
繰り返しますが、ここでやっているネタ自体を掲載するということではなく、
「ネット掲示板というメディアを使って、札幌の地名・歴史・風俗を調べている、匿名で不特定多数の人たちがいるんだよ」ということを紹介したいというのがAさんのお考えのようです。
さて、皆さんのご意見をお聞きしたいのですが、どうざんしょ?
乗ってもいいかな?
5318丁目:2004/03/05(金) 06:54:06 ID:ozKlYFgg [ p12209-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>52
某2ちゃんねるのような、便所の落書きとまでは言わないが、
駅の掲示板のようなもので、あくまで匿名掲示板なのですから、
媒体で紹介されるのを我々が反対するのも何かなと。
54なまら名無し:2004/03/05(金) 20:59:03 ID:FE.GC8VY [ YahooBB219041108026.bbtec.net ]
ネタ拾いの手段でなければよいのかなぁ・・・と
55真駒内川:2004/03/05(金) 21:50:14 ID:QUWmjouY [ pdd745b.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>52
東京や大阪ならば一つのジャンルを取り上げてもかなり深く掘り下げていけるとは思いますけど、
札幌のように歴史の浅い街の、例えば建築構造物を拾い上げていっても、半年くらいでネタが尽きそうな予感がしますが。
で、ネタの供給源としてこのスレと言う訳かしら?
でもこの街の住人のほとんどは、昔の街がどうだったなんてことに興味を持つ人間は極めて少なくて、
「古いモンはぶっ壊して新しくしちまえっ!」っていう風潮だから(それが証拠にスレ荒らしの少なさ)
部数が伸びなくて、やっぱり半年で休刊って落ちだったりして...
56元東月寒人@琴似:2004/03/05(金) 23:05:37 ID:5mJFpYuU [ snjk038k029.ppp.infoweb.ne.jp ]
さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」の偕楽園の図をいくつかアップしてみました。
解像度が悪く見づらいですがご了承ください。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=838
これは、「偕楽園絵図」ですが、明治15年「北海道志」にあるという偕楽園図と構図が同じなので、その頃のものと思われます。
上部左から「花室」「競馬場」「清華亭」、中央付近、本の折り目あたりに「生徒館」「屯田兵招魂之碑」、碑の右すぐ上に「?物場」、その右下に「招魂社」、中央左下に「手水所」、中央右の池に囲まれた建物に「博物場」の文字が見えます。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=839
これは、本の中にあった清華亭付近の地図(想像図?)を3つ並べたものです。
左の「開拓使時代の偕楽園」は、上の「偕楽園絵図」と同じ配置です。川の北側に、西から「花室」「鮭卵孵化場」「清華亭」、中央部に西から「生徒館」「製物場」「博物所属舎」、南に「屯田招魂碑」となってます。
中央の「明治30年代の偕楽園」は、いくつかの写真を基に作成した様子です。
川の北側に「清華亭」「東屋」、南西側「偕楽亭」、南側「屯田招魂碑」となってます。
右の「昭和18年の偕楽園」は何を基にしたのかは不明です。51に書いた工藤さんの話の池は、右下側の池の事の様です。

>>52
53と同じです。私は単に掲示板を使っているにすぎないので。
57元東月寒人@琴似:2004/03/05(金) 23:30:22 ID:TBUsBhdo [ snjk038k026.ppp.infoweb.ne.jp ]
58西創成:2004/03/06(土) 00:40:11 ID:lslYqEmA [ i100060.ap.plala.or.jp ]
>>52
雑誌「札幌人」ですか。
このスレをその雑誌で紹介することには、乗っちゃってもいいとおもいます。
(今回は、牛鍋さんに骨折らせてしまいました)

ただ>>55で真駒内川さんが書かれているように、この街でそうゆう雑誌が成り立つのか?市や区役所発行の無料配布の歴史冊子もそんなに品切れにならない状況ですし。
人事ながら心配なんですがね。
対象が、全道や小樽、函館あたりなら別ですが。
商売抜きだと、この古いものはさっさと投げ、新しいものにはすぐ飛び付くがすぐ飽きるという不思議な札幌というまちを題材にするのは面白いとは思いますが。
59牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/06(土) 01:40:42 ID:bYkdoqX2 [ U120058.ppp.dion.ne.jp ]
「札幌人」の件は、もうちょっと意見が出揃うまで待ちましょう。
今のところ、積極的か消極的かは別にして、賛成の声が多いようです。
というか、少なくとも反対の意見はないということですね。

真駒内川さん、西創成さんご両人から出ました、「札幌の人間は街に愛着を持たず、古いものを大事にしない」というご意見ですが、「札幌人」編集主幹Aさんもまさに同じ見解をお持ちでした。
「だからこそ、札幌には時系列的に記録を残すことができる雑誌という媒体が必要である」ということらしく、いただきました創刊趣旨でもそのことに触れられております。
で、ついでに言っちゃいますと、「札幌人」の経営的な心配は確かにごもっともなのですが、本スレで語るべき問題でもないので、なにはともあれ「頑張れAさん!」ということでどうでしょう。
どっちにしろ、ワシは出版されたら買ってみますけど(w
60牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/06(土) 01:52:40 ID:bYkdoqX2 [ U120058.ppp.dion.ne.jp ]
>>56
開拓使当時の地図と現在を比較してみると、道路なんかほとんど変っていないんですねぇ。
経験上ほとんどの場合、その土地土地をいざ調べてみると星霜を重ねる間に地形も道路も相当変化してしまい、どう見たら良いのやら悩むものです。
そぉっすねぇ…、「白石遊郭」以来かな?これほど分かりやすいのは。
札幌の中でも貴重な場所だな、こりゃ。
これらの地図を持って現場へ行けば、かなりいい線で当時あった建造物の位置関係を特定できると思います。

実は、昨日、市内某所の京王プラザホテルへ行く前に、再度、「偕楽園跡地」へ行ってみたのですが、さすが都心のせいかそれほどの積雪はなく、実地調査OKの状態であったことをお知らせいたしておきます。

車が頻繁に入り込むような場所でもないのですが、「清華亭」のフェンスには「迷惑駐車は止めましょう」のプレートがこれでもかと言わんばかりに張り付けてあります。
車で行かれる場合はついでに近くの某家電店で買い物でもして、2時間のうちに調査ってのがよろしいかと。
ここ、過去と現在を比較しても分かりやすいですし都心であるので、実地調査初心者の方にはオススメのスポットです。
61元東月寒人@琴似:2004/03/06(土) 16:40:24 ID:XVGPRxa2 [ snjk035k087.ppp.infoweb.ne.jp ]
偕楽園公園に行ってきました。
何枚か写真撮ったあと、すぐ近くの喫茶店でコーヒー飲んで帰ってきましたが、清華亭も公園もそんなに広くないですね。
清華亭のパンフ持ってきましたが、偕楽亭のことには触れてないです。

帰りに本屋で「東京人」を立ち読みしました。
結構中身は豊富でしたが、それなりの値段だったし、東京に行くこともないので買わなかったです。
62元東月寒人@琴似:2004/03/06(土) 23:29:04 ID:C3vUDupg [ snjk044k052.ppp.infoweb.ne.jp ]
偕楽園周辺の写真アップしました。
招魂社参道付近の道と、伊藤邸から流れていたと思われる川のなごりです。
偕楽園緑地付近の写真はイマイチだったのでお見せできるのはありませんでした。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=841

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=842

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=843
63西創成:2004/03/07(日) 01:39:24 ID:bzdIFfzI [ o051122.ap.plala.or.jp ]
>>59
古いものにこだわらないで、新しいものを何でも自分のものにしてしまうことは、札幌という街の良い所でもあるのはたしかだと思うんです。
人も物もなんでも吸収しました。
後は見ないで前を見て来ました。
ある意味貪欲すぎたのかもしれません。
そのスピードはややはやくて、過去の産業でも文化でも民俗でもきちんと記録等していない状況のものも多いです。
たいして古い街でもなかろうに、さっぽろ文庫すら聞き書きが多いのもその辺に要因があるかと思います。

このたびそうゆう雑誌が創刊するということは、私は喜ぶのですが、やや遅かったかも知れないと思っています。
私も買ってみようと思います。
64牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/07(日) 09:50:29 ID:keLZPZbo [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
>>62
お、この掲示手法、なかなか分かりやすくて良いですね。
真似してみようかな?出来るかな?

ね、現地に行ってみると、
「なるほどぉ」と思わせられる発見ってあるもんでしょ?
これが楽しいんですよね。

>>63
そうなんでしょうね。
札幌の発展は近代になってからだから、どうしてもそのスピードが速い。
記録される暇もなく、次のものが出来てくる。
悪気はないのかもしれないけど、もうそろそろそこらを反省しないといけない。
同誌発行の動機もそこにあるようです。

では皆さん、雑誌「札幌人」で本スレのことを記事にしていただいても問題なし、ということでよろしいでしょうか?
良ければ、本日中にでもAさんにメールいたします。
で、ワシが本スレのことについてAさんと再度お話をさせていただき、記事にしてもらうということになるかと思います。
もし、同席願える方がいらっしゃいますなら言ってね。
でも平日の昼間だよ、きっと。
65牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/07(日) 20:25:03 ID:keLZPZbo [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
本スレでもたま〜に名前が上がります「山田秀三」(ひでぞう)さん。
この方の著書に「アイヌ語地名を歩く」(北海道新聞社 昭和61年初版)というのがあります。
以前からウチの近くの書店に並んでいたのですが、タイトルに惑わされて開いてみたことがなかった…。
なのになんとこの中に「札幌の偕楽園」という文章があったんですよ。

同書によりますと、「日本名勝地誌」(博文館 明治三十三年)に「偕楽園」はこうあるそうです。
「園内琴似川の源泉ありて、偕楽園の池水より流出し、軟草両岸を埋め、古樹参差として潤水(かんすい)にかざし、夏時に至れば一層の風致を添う」
山田秀三さんは、
「その池水というのは、現在の地図でいえば、北五条通の伊藤義郎氏邸内の池(今の枯池のままあり)が水源、それから鉄道の処を横切って清華亭の辺りが少し大きい池、さらに曲流して北大構内に入って、今その川形が残されている。古樹が茂っていたというのは、春楡(エルム)の大木のことであったろう」と言います。
まま、ここいらのことは、ワシらの今までの調べでも分かっております。

ところがですね、この先に当時の「いく代」の具体的な姿が述べられていたのです。
「明治晩年にはその泉池に添って料亭幾代庵(後に市内に移っていく代となる)があった。
女将のおいくさんの姪で、後に札幌の名妓とうたわれた須磨子姉さんはそこで育った。
晩年私と仲良しで、よく当時を話してくれた。
樹の茂った小川の流れに沿って、お離れの形の座敷が点々とあって、そこが開拓時代の
勇ましいお役人やお客様の宴会場。料理やお酒は女中さんたちが外を通って運ぶ。風雅な処でしたけれども、よく蛇が出るので、それが怖かった由。
今は、さむらい共の夢の跡も、美しかった泉池も全く消えて、明治天皇が休まれたという清華亭(小さな洋風木造建て)だけが、窮屈そうに住宅に囲まれて残っている」

う〜ん、なんとなくワシの想像していたのと違う。
しかし、それにしても「魔術」は分からない。
そろそろ、次ネタか?
66元東月寒人@琴似:2004/03/07(日) 21:33:48 ID:x1t3OYhg [ snjk040k049.ppp.infoweb.ne.jp ]
伊藤邸西側にも川の跡のような地形があったんですが、古い地図にはのってないです。植物園から来てるのかも知れないと思ったんですが、冬期の開館時間が土曜は12時までで入れませんでした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=844

話は変わりますが、「札幌八行」の事が新聞に少し載ってました。読売の連載記事「スローフードを訪ねる」から要約します。

消えつつある農産物、加工食品をリストにする「味の箱舟プロジェクト」という取り組みがある。消費者へ情報を提供し、生産者支援にも役立てようというものである。
選考には次の通り厳しい基準がある。
1 おいしい
2 地域に長く存在している農産物か、土地の原材料または伝統的製法の加工品
3 小生産者、少生産量
4 遺伝子組み換えにかかわりがない
岩泉町の肉牛「日本短角種」「安家地大根」、信州の「親田辛味大根」が候補になっている。
北海道スローフード・フレンズ帯広は「札幌八行」を候補に挙げている。
67元東月寒人@琴似:2004/03/07(日) 21:34:39 ID:x1t3OYhg [ snjk040k049.ppp.infoweb.ne.jp ]
さっぽろ文庫「老舗と界隈」の「狸小路」に、松竹遊楽館は、割烹「いく代」の初代・小林喜三郎の後押しを受けたことで、 明治43年に九島伊太郎が建設したとなってます。(「札幌浪漫堂」のサイトで発見しました。)
また、「都通り」には、明治24年偕楽園(北7西7)に幾代庵開業、その5年後に南3西4に移転という話が出てました。

明治42年発行「最近之札幌」には、商工人名録に小林喜三郎(南3西4)が出てます。料理店業では税額1位で364,500円、2位は後藤_太郎の314,750円となってます。
(既出ですが、小いくの写真も出てます。)

また、「最近之札幌」には次の碑の事も出てました。
◎開拓紀念碑(大通西七) 明治十九年九月の建立に係る、元北五条西八丁目にありしが、三十六年中現在の位置に移したり。
◎札幌忠魂碑(遊園地) 西南の役に戦死を遂げたる屯田兵の霊を祀れる招魂碑は元北七条偕楽園の南に在りしが、区有志相図り日清及日露役の戦死者の霊をも合祀せん為め、遊園地の勝地を相して之を移し、毎年八月一日及二日を以て祭典を行ひ、歩兵第二十五聯隊将卒を始め、一般区民参拝す、所謂札幌招魂祭なるもの是なり。
68西創成:2004/03/08(月) 00:43:56 ID:sdx2PtSM [ o051172.ap.plala.or.jp ]
>>65
幾代庵というところは、なかなか風流な趣きのところですね。ヘビがいるというのはご愛敬ですが。

ついでに書きますが、>>58で私が書いてしまった、『その雑誌、商売になるのか〜云々〜』という点につきましては、反省しております。
『そんなことしてもうまく行かない』とやる前から言ってしまうのは、この街の人の悪い癖であります。
それでいて、成功すると僻む。
自分もソレを言ってしまいました。
良くないことです。
恥ずべきことは、このような雑誌等を地元及び地元資本の手で発刊できなかったことです。(都市出版さんには失礼なのですが)

>>66
「札幌八行」の専門屋台が大通のトウキビ屋台の内一軒でもできるといいのですが。

>>67
松竹遊楽館の九島伊太郎氏の会社は「九島興行」でしたか。
69牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/08(月) 22:13:07 ID:KkSiMIr. [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
>>66
>選考には次の通り厳しい基準がある。
>1 おいしい

「札幌八行」の味には賛否あるかもしれません。
ワシは結構好きな味だったのですが、万人に受けるかどうかは疑問ですね。
味を説明するのはなかなか難しいのですが、一口で言いますと「ワイルド」かな?

ところで、「偕楽亭」と「幾代庵」の関係ってどうなっているのでしょう?
建物の名前と屋号ということでしょうか?
改めて気になりだした。
「偕楽園」内にあった「いく代の前身」の店は「こじんまりとした料理屋」というイメージを持っていたので、>>65の「アイヌ語地名を歩く」の記述は意外でした。
当地に在った時、すでに従業員を抱えていたのでしょうか。

>>68
あ、「札幌人」は「都市出版社」からではありません。
「東京人」とは資本は別ね。
70牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/08(月) 22:21:20 ID:KkSiMIr. [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
間違ってsage続けてしまってます。
他意はありません。
業務連絡ですが、ageます。

10日に「札幌人」の主幹編集者Aさんとの二度目の会見を決行致します。
161さんも同席します。
期待しないで待て!
71元東月寒人@琴似:2004/03/08(月) 22:33:48 ID:CFlqAsl2 [ snjk044k011.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>68
九島興業です。さっぽろ文庫「札幌と映画」に、開館のいきさつが書かれています。
「創設者の九島伊太郎は秋田から三十三年に来札、薪炭業を営むかたわら義太夫にこり、義太夫の師匠である森田ハツと結婚、弟子が多くなるにつれて発表の場がほしくなったこと、また義太夫を通して交友のあった初代『いく代』の小林喜三郎から『芸者衆の芸の発表の場をつくらないか』ともちかけられたことなどが遊楽館を建設したきっかけだった。」

偕楽園ついては、落語にもなってます。(さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」)
以下、明治19年8月に来道した三遊亭円朝が、高座にかけた「椿説蝦夷訛」から。
「公園地には招魂社を建立いたし、諧楽亭清華亭と名づけた集会所が設けてあり、此庭に池があって清水がドッドと流れており、其辺の樹木は悉く繁茂した大木で、(中略)いずれも千年余を経た古木の様に見え何となく幽邃で実に好い景色でございます。」
このあと、鮭が獲れること、花菖蒲が植えてあることなどの話に続きます。

円朝は山県有朋、井上馨の一行と来道し、同行記者が東京日日新聞に記事を書いてます。
「偕楽亭ノ宴、十八日午後五時ヨリ(中略)饗宴ハ日本料理ニテ札幌市内芸妓ノ粋数名ヲ集メテ盃酌ニ侍セシメタリ。御馳走モ甘ク待遇モ叮嚀ニ最一ツ芸者モ結構ナリシガ、殊ニ結構ナリシハ此亭ト園トノ風致ナリ。」
しばらく園内の風景を誉めたあと、次のように続きます。
「此亭園ハ官有ナレドモ市紳ノ望ニ応ジテ貸シ渡サルト云ウ、衆ト共ニ楽ム偕楽亭ノ名是ニ基スルモノナル歟。」

円朝が巡った場所を紹介する、こんなサイトを見つけました。
http://homepage3.nifty.com/zufu/zufu/11/11E1.htm
72元東月寒人@琴似:2004/03/08(月) 23:08:47 ID:T1dz/idk [ snjk036k012.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>69
偕楽亭の規模に付いては、次のような記述があります。
(さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」。なお、「札幌の街並」にも同様の記述がある模様)

「二十四畳の部屋が三つつながり、それらを四尺幅の縁側がまわり、カギの手に八畳間が二つ、それに八坪ほどの勝手があった」

芸者を呼ぶには薄野から離れていますし、従業員の手配をどうしたのかはなぞですね。
73西創成:2004/03/08(月) 23:31:06 ID:kDsjOa.A [ j176229.ap.plala.or.jp ]
>>69
失礼しました。早とちりです。
>>70
お手数をお掛けします。
>>71
九島興行ですね。了解しました。

円朝もネタにしたんですね。偕楽園。
74牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/09(火) 05:33:43 ID:xf3dNCbo [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
>>71
「九島興業」の旦那さまが「九島伊太郎」氏。
「旦那様」、「義太夫」、「落語」。
ってぇ〜なると、「寝床」を思い出しますねぇ。
ttp://www.gutenberg21.co.jp/nedoko.htm
もしかして、こんなやりとりが「遊楽館」でもあったのかも(w

「三遊亭園朝」が札幌に来たという話、聞いたことがあります。
聞いたみたいですね、「椿説蝦夷訛」。(他に単に"蝦夷なまり"とも言うらしい)
「寒くてしょんべんが凍るから、金槌でたたいて折る」、「スズメが凍って落ちてくる」、「火事に水をかけると凍ってしまい、春になるとあちこちで融けて大事になる」などという話が出てくる、北海道ネタの落語ってありますが、あれって、何でしたっけ?

そういえば、最近なぜか「「真景累ヶ淵」を全編聞いてみたくなり、図書館のメディアコーナーで探したのですが、見つかりませんで残念な思いをしたばかりです。
75牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/09(火) 05:36:36 ID:xf3dNCbo [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
閑話休題(本題に戻る)。
>>72
「偕楽亭」ってかなり大きいじゃありませんか。
で、>>57で@琴似さんが上げられました写真のもうちょっと見やすい奴ありますので、どーぞ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=848

>>56に出来てきた「偕楽園絵図」と同じ構図っていう、「北海道志」の図も見つけました。
これは線描で、色は付いていないですね。
ほぼ同じものなので、アルバムへのアップはしません。
ご覧になりたい方は、
ttp://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/map/doc/0D011040000000.html からどうぞ。
>>56の@琴似さんの解説そのままです。
おおっと、元ネタばれたかぁ(w
博物所(仮)の写真もあったりして。

ところで、「偕楽亭」は明治三十年代に「中島公園」に移転されたらしいんです。
上記、"アンビシャス"のサイトの資料にありました。
一体、「中島公園」のどこに…?
76真駒内川:2004/03/09(火) 11:18:46 ID:r7Qphaf2 [ pdddb46.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
ちょっとこんなサイトを見つけました。
ttp://members4.tsukaeru.net/hks-sapporo/
ここの、「街」のページから「札幌故地名考」へ。
これって、既出でしたか...はて?
77牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/09(火) 14:49:37 ID:xf3dNCbo [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
>>76
あ〜、残念。
既出〜(w
前スレで18丁目さんのフリで、「あまだれ小路」に関連して。
というか、18丁目さんの誘導でした。
このサイト、ネタの宝庫かもしれませんのでじっくり読みたいのですが、今のところその余裕がありません。
出来ますれば、代わりに御検証願いネタがあれば御教授お願いします。

「三遊亭圓朝」の件ですが、図書館で調べてみました。
園朝といえば、近代落語の創始者として知られておりますが、その代表作の一つが「真景累ケ淵」。
かなりの大作で、まともに鼻っから最後まで演じられることはほとんどないと言って良いでしょう。
この怪談をワシが生で聴いた(観た)のは「六代目三遊亭圓生」の口演で、おそらく1974か75年のこと、STVホールでです。
この時もごく一部分だけで、全部は演らなかったですね。

「真景累ケ淵」の「真景」とは、ある人の造語で、「神経」のことだそうです。
明治初年の流行語に「神経衰弱」があり、当時、時代の先端の言葉だったようです。
確かに、"枕"でも、
「幽霊は神経からくるものとかいいますが」ってな、意味のことを言っています。

で、井上馨らと来道した際に作られたと思われる、「椿説蝦夷訛」(ちんせつえぞなまり)。
上記の例に倣いますと、こいつの「椿説」は「珍説」ってことなんでしょうね。
ま、それだけ…。
あ?枕が長かった?
78なまら名無し:2004/03/09(火) 19:11:56 ID:Hndi6S4o [ N045066.ppp.dion.ne.jp ]
さっぽろ文庫の「札幌人名辞典」は糞
あれ読むくらいなら「札幌百年の人」を読んだ方がまし
あと、「札幌の漫画」も作らん方が良かった
79牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/09(火) 22:20:34 ID:xf3dNCbo [ N046014.ppp.dion.ne.jp ]
よく引用させていただいております、「さっぽろの昔話」ですが、 今回はその「明治編下」からのご紹介です。
「さっぽろの昔話 明治編」も上下巻ありまして、元は各々、「札幌昔日譚」(せきじつたん)とその続編の「札幌昔話」。
明治末期までに「河野常吉」氏が古老より聞き取りをしてまとめたものです。
あ、「明治編も上下巻ありまして」と書きましたが、「大正編」の下巻というものは「みやま書房」さんから実際に出版されたのでしょうか?
上巻はワシも持っていますが、下巻というものの影にすらお目にかかったこともありません。

さて、本題ですが、「明治編下」はほとんどが「深谷鉄三郎」氏の語りによるものです。
「偕楽園と米噌の欠乏」
先に言っておきますが、同書は口述されたものをそのままの順に書いたもののようです。
したがって、タイトルはこうですが、「偕楽園のこと」と「米噌の欠乏のこと」を順に述べただけで、両者になんの関係もありません。

「次に偕楽園のお話で、これは島判官の時分に休日の遊び場に建築した。常には留守居位を置いたのですが、その後官員が増すにつれて役宅が少なくなったので、やむを得ず役宅に致しましたが、今ではりっぱな場所で、東京からお出でになる方は非常にほめて行くということですが、その時分は非常な谷地で湿気が強いため、あの家に住って病人にならないのは松本判官と十文字大主典ばかりだというので、後には住み手がないので、博物館に致しましたが、その後対馬さんなどが今のような料理屋に致したのです。
それで明治の十三、四年でしたか、陛下が御臨幸になる以前に、向うの高いところにりっぱな西洋造りの建物を致して行在所に致すことになったので、私も一度中を拝見しましたが、実に美麗なものでした。それに今の偕楽園の向いの所に開拓試験場というのがありまして、種々の試験を致したものでしたが、これも明治十七、八年頃に廃止になりました」

博物館(場)
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=850
80元東月寒人@琴似:2004/03/09(火) 22:43:51 ID:8VKpNRRg [ snjk035k031.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>75
アンビシャスを見ていたら、「うおっ!これだ」と思わず声を上げてしまいました。
下の写真、さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」に文章で書いてあるんですが、実物が載ってなくどんなのかと思ってたんですよ。いながらにして閲覧できるなんて便利な世の中になりました。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/image/l/0B005510000000000.jpg

「豊平館・清華亭」の説明は次の通りです。
「(札幌案内口絵の)写真の建物は、もとの博物所の位置に、池に東面していた。この建物を東側から撮影した別の写真の後方には、不明瞭だがもう一つ大きな建物が写っている。ちょうど、鮭孵化所前の旧養魚池に、北面して建っていたと思われるが、これが『案内』にでてくる、いく代が旗亭を一時営んでいたという『偕楽亭』であろう」
「札幌案内」口絵写真は>>30で紹介されてます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=831

そこで、「豊平館・清華亭」の図に線を加えてみました。青矢印が札幌案内の写真、赤矢印が別角度の写真です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=851

ただ、現地に行った記憶では、起伏も考えると、この図と同じ建物の配置であのような角度の写真をうまく撮れるのか疑問もあります。
81牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/09(火) 23:21:28 ID:RwyLuIdw [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>78
「札幌人名事典」(1993)は「札幌百年の人」(1969)が元ネタだと思います。
「さっぽろ文庫」にもいろいろと間違った記述もありますが、これはこれで結構楽しめます。
ただ、そのうち何年か経ったら「新・さっぽろ文庫」として、全面改訂して出してほしい。
明らかな間違いは直さなければマズイでしょう。

「偕楽園」や「いく代」を改めて調べていくと、あちこちに散らばって関連の記述がたくさんありました。
どこからどう書いていきましょう?
まず、小さなネタなのですが、@琴似さんの実地調査報告を裏付ける情報から。
あ、いや、「さっぽろ文庫」なんですけどね(w

「26明治の話」(昭和58年)から「「黒官舎のかいわいはきれいなわき水がいっぱい 山田善美(81)」。
「植物園の正面の門の前には川があって、ドウドウと音をたてるくらい、きれいな水がいっぱい流れていました。伊藤さんのお宅(北五条西八、現伊藤義郎宅)のお庭にもわき水があったでしょう。それから、昔よく事故があって、魔の踏切っていわれていた西11丁目の踏切―あのあたりから植物園の北側にかけては窪地で、やっぱりわき水がありました。
そこで牛を飼っていた方がいました。そのちょっと低い所に、川が流れていまして、その辺りまで、サケがのぼってきたって聞きましたよ」

まさにここらのことかと…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=842
82牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/09(火) 23:31:55 ID:RwyLuIdw [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>80
いやね、@琴似さん、確かにこの「偕楽園」内にあった建物ってのは曲者です。
ワシも完全にこんがらがっています。

>>4の発寒1条1丁目さんによりますと、
「さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭」に
「明治31年、清華亭を含めて一体の地は対馬嘉三郎に払い下げられた。翌年、斉藤いくがこれを賃借して料理店を始めた。 池畔の博物場を改造して偕楽亭と称し、池の中島を整え白鳥を遊ばせた」
とあるとのこと。
ということは、「博物場」≒「偕楽亭」=「幾代庵」ってことになるわけです。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=839
これらの地図では、その後の「偕楽亭」になるはずの「博物場」は、開拓使時代の地図には出てきていないようです。
ま、いいんです、「博物場」は明治10年かららしいので。
しかし、>>79の「さっぽろの昔話 明治編下」の深谷氏の話が正しいとしたら役宅として存在してもいいはず。
まず「偕楽園」の管理事務所として建てられたなら、最初からなくてはおかしいわけです。
83牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/10(水) 06:59:06 ID:wx.E2KWs [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
話が前後して申し訳ありませんが、>>79「さっぽろの昔話 明治編下」の補足。
「偕楽園」について深谷鉄三郎氏(元新撰組)が、
「その後対馬さんなどが今のような料理屋に致したのです」と述べています。
「対馬など」…。
この中に斎藤いくさんが入っていると思いますが、その後の初代区長「對馬嘉三郎」氏とはどういう関係だったのか、気になるところ。
また、当時は"偕楽園の料理屋は對馬氏が始めた"という認識が強かったのでしょうか。

で、昨日書き込んだ時点では不明だったのですが、「米噌の欠乏」の「米噌」の意味。
読みは「べいそ」だと思うのですが、見かけない言葉です。
ウチの辞典で調べたけど出ていませんでした。

「さっぽろ文庫7札幌事始」の「みそ・正油」で触れられていたので、ご紹介します。
「札幌開拓当初の記録に『米噌』という国語辞典にも出てこないことばがしばしば現れてくる。これは、当時みそが米と並んで重要な食糧であったことを物語っている」
また、「米噌」が金銭の代わりにもなったと「札幌昔話」にある、とも書かれています。
84牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/10(水) 07:00:17 ID:wx.E2KWs [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
当時の食糧事情についてもうちょっと分かったことがありますのでお付き合い願いたい。
前ネタの「立花」の時、@琴似さんが「明治44年地形図」
http://homepage3.nifty.com/cocoeri/tachibana/
をアップしてくださいましたが、この当たりには小さな商店が数軒あったようです。
飲食店・雑貨店・小間物屋・魚屋に豆腐屋。
八百屋はなかったようですが、確かにまわりが畑なら必要ないか、とも思います。

気になるのは、豆腐屋(小ケ口さん経営)。
こんな田舎に豆腐屋、これってなくてはならないものだったの?と思っていたら、「さっぽろの昔話 明治編下」に「豆腐屋、風呂屋、芝居小屋」って深谷氏の話がありました。

「次は豆腐屋の初まりをお話しましょう。かようなことは必要なことでもありませんが、昔から田舎のことを申すのに、酒屋三里、豆腐屋へ一里と申して、とかく開けない土地でも酒屋と豆腐屋はあるもののようにしてありますが(略)」

なるほどね。
考えてみれば重要な蛋白源だもんなぁ。
85k:2004/03/10(水) 16:29:52 ID:fFcIPG0I [ customer71-242.mni.ne.jp ]
しばらくごぶさたしておりました。
>>66
少し遅くなりましたが、伊藤邸前庭の池の水は植物園から流れ出ていた思い
ます。植物園内の温室の入り口近くにわき水があり、ここから流れ出て植物
園内を流れ、北五条通りを暗渠でくぐって伊藤邸内に入り、その西側をまわ
って鉄道の下をくぐって偕楽園方面へ流れていました。函館本線の下は煉瓦
づくりの幅一mほどのトンネルでぬけていました。
鉄道が高架化されてからそのあとをさぐるのはかなり困難かもしれませんが、
その北側を並行する道路に起伏があり、ある程度はわかると思います。何しろ
最近そのあたりに行っていないのでなんともいえませんが。
そしてそれが今大学生協のあるあたりから北大の構内に入り、さらに北へ流れ
ていました。これがサクシュコトニ川の源流の一つでした。
86牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/10(水) 21:37:05 ID:wx.E2KWs [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>85 kさん、お久しぶりです。
いつもながら、kさんのレスは実体験に基づいておられ、本スレにとって貴重な存在であります。
その観察力とそして記憶力には感服いたします。

さて、本日、「札幌人」編集主幹Aさんと、二度目の会談を行ってまいりました。
今回はオブザーバーとして、161さんにご同席願いました。
161さんはレスこそあまりありませんが、本スレの過去ログをHTML化して下さっております、縁の下の力持ち。
…なのですが、初体面の彼は初々しい秀才と言った趣の、それでいて今時のなかなかのイケメンでありました。(くやしい…)
「あび」のラーメン、お口に合いましたでしょうか?

さて、「札幌人」関連の詳細、皆さんには後日、事態がもう少し進展してからご報告したいと思います。
先方の都合もおありです。
もうちょい、お待ちください。
87牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/11(木) 21:54:06 ID:6nh5GHmI [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
斉藤いくさんが「偕楽園」内で料理屋(割烹?旗亭?)の営業をし始めたのは、一体、明治は何年のことだったのでしょうか。
既出の通り、「さっぽろ文庫7札幌事始」(昭和54年)の五十嵐久一氏(元北海タイムス社企画局長)の「割ぽう」の記述によりますと、明治24年開業となっております。
そして、「"魔術使い"といわれたほど客扱いがうまく、(略)たちまち明治二十年代の札幌三大料亭にのしあがったのである(略)」とも。

「新札幌市史」に「いく代」の記述はと言いますと、「第二巻 通史二 第六篇 道都への出発 第七章 札幌進展期の社会生活と文化 第一節 明治中期の札幌の諸相 四 遊興・遊楽の街 娯楽・遊楽の街と旅客 四季と遊覧」に、「札幌案内」などから作った「札幌の行楽地」という表があります。
「偕楽園 北七西七 四年岩村判官の設計、薄井監事偕楽園と名づく。はじめ園内に育種場、博物場、競馬場、偕楽亭、清華亭等があったが、育種場は札幌農学校附属農園となり、競馬場は中島遊楽地に移り、博物場は北三条に移転。三十年偕楽園を対馬嘉三郎に払い下げる。三十一年斎藤いく、偕楽園内に旗亭偕楽亭を開く」

こちら、開業は明治31年としておりますめ。
…じゃなかった、おりますね。

この記述は、主に「札幌案内」からの情報が基らしいのですが、それ以上の情報が入っております。
しかし、残念ながら「魔術を弄する」ということについては述べられておりません。
ま、しょうがないか。
「偕楽園」に関してだからなぁ〜。
88西創成:2004/03/11(木) 23:42:14 ID:XRp1OtiM [ m174136.ap.plala.or.jp ]
>>86
牛鍋さん161さんお疲れ様でした。

>>79
手元のみやま書房さん発行在庫図書一覧(平8、11現在)によりますと、河野常吉ほか編「さっぽろの昔話」明治上下・大正上 とありますので、大正下巻は発行されてないようです。
ちなみにここのスレによく出てくる、札幌繁盛記、札幌案内、最近之札幌(いずれも復刻)は、版元品切絶版なんだそうです。
現在、ほとんどこの版元の書籍は、書店、各取次(トーハン・日販・栗田・大阪屋・大洋社・日教販等)などに注文をだしても入荷しません。
8918丁目:2004/03/12(金) 07:18:19 ID:cGdfV/Rg [ p7125-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか

わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな

石狩の都の外の君が家
林檎の花の散りてやあらむ

「一握の砂」
9018丁目:2004/03/12(金) 07:27:52 ID:cGdfV/Rg [ p7125-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
唐突にすみませんでしたが、昨日会社の車を給油しに寄った
ガソリンスタンドで発見した本「啄木と鉄道」がかなり面白かったんです。

平岸天神山緑地の例の碑の件も、平岸と啄木は全く関係ないことが記述されていました。
詩に出てくる「美国」とは何処のことか?など興味深い謎解きも多数あり、地名マニア
の本スレ住人の方々にもお勧めの一冊であります。
91元東月寒人@琴似:2004/03/12(金) 21:07:28 ID:m51A8pbo [ snjk042k042.ppp.infoweb.ne.jp ]
次の写真の2枚目「生涯の友。新渡戸稲造,宮部金吾,内村鑑三(明治16年頃)」は、北大関係のサイトにありました。
http://inazo2003.lib.hokudai.ac.jp/hokkaido/mukashi/3061-1.HTM

これと同じ写真が、さっぽろ文庫「豊平館・清華亭」に「偕楽園池畔で語り合った新渡戸稲造(左)、宮部金吾(中)、内村鑑三(右)」の解説付きで載ってます。
写真下の本文には、昭和33年刊中島九郎著「札幌九十年」から引用し、「明治十四年の夏、卒業式を目の前にして景色のよいこの偕楽園で顔を合わせ将来を語り合ったという、その時の貴重な写真は今に伝わっている」となってます。
「これは偕楽園で撮った写真」とは書いてませんが、私は偕楽園での写真と思ってました。

ところが、アンビシャス「北方資料データベース」 の次の写真を見てください。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/image/l/0B032700000001000.jpg

下の方に「明治十六年東京に於て」と読めるではないですか。
明治14年に写した写真を、明治16年に東京の誰かに上げたということでしょうか?
素直に、明治16年に東京で撮った写真、と私は思いますが。
(写真右下のサインが、3人のものではなさそうなのが謎ではありますが)
92元東月寒人@琴似:2004/03/12(金) 23:46:55 ID:AWK5kIxI [ snjk044k001.ppp.infoweb.ne.jp ]
既出ですが、「さっぽろ文庫39 札幌の寺社」の次の文に関してです。

「宇野八幡 明治二年上手稲の開祖ともいうべき福玉仙吉氏らが、中島太郎・石井助太郎氏らと、山口県岩国の宇野八幡の分霊を奉戴、字平和に安置、村民の奉斎する所となる。西野神社創建後、五天山の高台に安置。」

岩国に「宇野八幡」があるか調べているところなのですが、なかなか出てきません。
(既出ですが、岩国の宇野といったら、宇野千代の様子)

出てきたのは、「宇佐八幡」に由来の神社です。
(名前はメモしなかったので忘れてしまいましたが)

そもそも八幡の多くは「宇佐八幡」から来ているそうなので、「宇佐八幡」説もまだ捨てられないと思っているのですが、調査継続中です。
93元東月寒人@琴似:2004/03/13(土) 18:53:04 ID:MBv72qTU [ snjk044k065.ppp.infoweb.ne.jp ]
明治43年発行「花橘」を読んできました。内容は見番所属の芸妓達の写真や紹介がほとんどです。(幾代関係の写真は、小幾、小市、豆蝶、ぽん太、源平が載ってます)
その中で「札幌見番」は本玉、半玉合わせて50人くらい紹介されてますが、次のような事が書いてあります。(手元のメモからの抜粋なので原文とは異なります)

○小清 幾代主人が東京から招いた (小清の子供らも紹介されています)
○幾代芸妓(何人か紹介されています) 
・小幾 数百芸妓中の怜悧者 顔よし芸よし座持よし 幾代の姐株
○清華亭の小市 幾代中の売れっ妓 伎芸も何でも来いで剣舞吟声は巧し
・同亭の豆蝶 札見中の美人 幾代女将の仕込み 将来有望

なお、明治39年小林喜三郎が組織した「中見番」をもとに、明治42年に料理店組合が合同してそれまであった「新見番」を買い入れ、「札幌見番」と称したという事です。(この辺ややこしいので原文を見てください)
「札幌見番」の広告には本玉、半玉合わせて100人以上名前が載っており、そこでは「いく」となってます。ちなみに、「元見」広告は40人位、「町見」広告は30人位です。

「花橘」での旗亭「幾代庵」(南三西四)の記述は次の通りです。
「幾代は東北随一の旗亭にして、其構造の宏大なる、数寄を凝せる客室の美麗なる浅酌低唱の小宴より大集会の宴会まで客の嗜好に適せざるなく、殊に故伊藤公爵の旅館となりしに因み幌都に“つい”(杖の別字で竹冠の字、パソコンで出ませんでした)を曳くの紳士は必ず清遊を試みざることなしと、清華亭は其支店なり」
94元東月寒人@琴似:2004/03/13(土) 22:40:25 ID:k.TRKMRg [ snjk045k079.ppp.infoweb.ne.jp ]
「花橘」と合わせて保管されていた「札樽便覧」(明治41年)の旗亭「幾代庵」の記述は次の通りです。

「其名全道に響ける所以のもの、盖し女将の驍名斯界に鳴り、建築構造の宏壮と仝家自ら経営する中見番に、嫋々艶麗の美妓に富むを以っての故なりとす、大集会の宴席に便し、清酌に適し掬す可き清雅の庭園、料理塩梅の美味通客豪遊の人の愛顧愈深き又宜なり(南三条西四丁目電話二番)」

「中見番」「小いく」については次のようになってます。

「中見番 明治三十六年旗亭幾代庵の新設したるものにして、美妓嫋態の多きを以て鳴る、籍を列するの美目十九名にして、所謂一流紳士間の眷顧を受けて隆々たり(電話二三九番)」

「小いく 幾代庵の愛娘にして、婀娜たる麗艶一朶江桃夕陽の蔭に匂ふが如く、天性怜悧にして才気座中を壓し、三絃妙を極め舞曲又巧みなり、紳士之を聘せざるなく、通客之を招かざるなし」

この本にも「小いく」の写真が載ってます。(「花橘」とは衣装が異なる)
95札幌五代目本籍菊水元町:2004/03/14(日) 13:15:04 ID:qihfpWUU [ JJ074254.ppp.dion.ne.jp ]
皆様大変御久し振りです。

一応ROM会員代表(笑)として参加させていただいております。

で、
資料を探す場合に私は楽天の「Easy Seek」を利用しています。
http://www.easyseek.net/
確かに送料はかかるのですが、札幌関連の書籍は札幌市内の方が多いようですので連絡して直接手渡しでのお取引も可能です。
古本屋等を徘徊する時間がない場合は非常に便利です。

んで、
私、現在東京に住む叔父の家を借りて住んでいるのですが、先日叔父の書籍関連を漁っていたところ「札幌地名考」の初版と北海道関連の郷土史資料が出てきまして驚きました。
灯台下暗しとはまさに・・・。

時間がありましたらROM以外でも参加させていただきます。
96真駒内川:2004/03/14(日) 18:14:50 ID:fdFcEDz2 [ p6240d0.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>92
岩国の宇野神社は探したところ見あたりませんが、邸内社など神社庁も把握していないものとなるとこれは探しようもないと思います。
明治2年に奉られたと言うことは入植移住してきた人が持ち込んだ可能性がありますから、家財道具から邸内社の祠まで持ってきても不思議ではないでしょう。
一方で宇佐八幡説も可能性はあるでしょう。
山口県と島根県と広島県の境の玖珂郡錦町宇佐地区。ここの寂地峡近くに宇佐八幡宮があります。
鎮座850年とされ由緒のある社のようです。この時代は全国に八幡信仰が広まった時期であります。
9718丁目:2004/03/14(日) 19:26:50 ID:rkFIf8CI [ p11013-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
札幌の地名は
@アイヌ語(苗穂、丘珠、発寒等)
A願いを込めて(栄町、平和等)
B人名から(定山渓、美香保等)
C地形から(大谷地等)
D出身地または出身藩(白石、福井等)などから名付けられています。
ですが、歴史が浅いことと、条丁目地区が多いことから、意外と
Dの地名を見ることが難しくなっていますよね。
ですが、神社を見れば、はっきりと出身地が分ることが多いです。

それと、ふと思ったんですが、北3条に北海道富山会館がありますね。
各県人会および県事務所が多数あるのが、県庁所在地(札幌)の特徴かもしれませんが、
この富山会館だけはどうしてあんな立派なビルを持っているんでしょうか?
他にも目立った県人会事務所ありましたか?
98元東月寒人@琴似:2004/03/14(日) 20:28:37 ID:t6koaAMA [ snjk035k034.ppp.infoweb.ne.jp ]
「日本名勝地誌第九編 北海道」(明治32年発行)にこんな記述が。
事実か勘違いかはわかりませんが。

「東京庵は北七条偕楽園内に在る会席料理店にして東京風の料理を調進す其他東寿司(あづますし 大通三丁目に在り)、開進楼(かいうんろう 南四条西三丁目)、大中(薄野遊郭内に在り)、桃李亭(とうりてい)、東海楼(とうかいろう 大通西三丁目)等あり旅館は道庁前の山形屋(やまがたや)、旭館(あさひかん)、北七条の京華楼(けいくろう)、南一条の北京楼(ほつきんろう)等其の著名なるものとす」
99元東月寒人@琴似:2004/03/14(日) 20:55:47 ID:hwQKgnXQ [ snjk043k036.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>96
今でも存在していれば何とかなりそうですが、入植者が持ち込んでいたなら、探すのは難しいです。
岩国という根拠も何なのかわからない状態なので。
各人の出身地から当ってみるというように方向転換してみます。

>>97
明治から戦前までの県人会形成については、「札幌の歴史」第45号(平成15年)に最近の研究論文が載ってます。
100牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/14(日) 21:26:10 ID:baNN8Rr6 [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
へっへ〜(w
ちょっと忙しいので、よろしくお願いますぅ。
101元東月寒人@琴似:2004/03/15(月) 00:07:48 ID:7Qg2yxDI [ snjk042k010.ppp.infoweb.ne.jp ]
「札幌繁昌記」(明治24年発行)にある「割烹店」の話、店の中の様子わかります。

「会席料理は南二条西四丁目の東京庵を親玉とす、料理美にして蕎麦を兼ぬ(中略)一たび手を叩けば觴子(チョウシ)と料理と来たり、二度にして唄ひ女(ウタイメ)現はる、内抱八人あり、狭斜の美形尤物なり(後略)」

「待つ間程なく、指名点呼に応じて、蓮歩軽ろく運び来り、式(カタ)の如く障子細目に引き開けて笑顔を造り、異人同句に、オヤ今晩はアリーと現はれ出るもの、東京庵にては三吉 桃太郎 小十代 小いく 小しめ ○○ ○○(後略)」

「そが風姿、豊頬、細腰、立て而芍薬坐て而牡丹の如きあり、桜媚桃嬌雨後の海棠、露を罩めたる朝顔の如きあり、窈窕婀娜、銀釵影斜めに紅脂馨りて満座に溢る、現に解語の花なりけり、惜いかな、前陳の美形復た甚はだ多からず、去る物から山桜なり、一度にても見し殿輩は、人目を忍びて一枝手祈ばやと思ふならめとぞ、岡目の評こそ慥かなれ、軈て的(テキ)は火鉢の傍へ割込んで、帯の間から煙草入取出し、一寸お煙管アリーと、一服二服吸付けながら、世辞と愛嬌で、先づ粋士達を煙に巻く算段、マー一杯と献(サ)されて、觴子手早く、マーお重ね遊ばせと、玩(ジヤ)らすも手管のお一ツか、夫(ソレ)から例のお座付も長くないのに、お退屈さまーと暗詰(ワブ)るも手管の其の二かや、直に調子も三下り、陽気な都々逸に天上抜け、騒ぐ一座も二上りや、甚句も数々歌い果て、何時しか顔も桜色、足も千鳥とざんざめく、心ばかりは本調子、酔ふて管(グダ)まく怒り上戸、其れと綾なす思はぬ糸に、酔ふて管まきや尚可愛、なども漸く帰す後引上戸、安い線香も高くなる、積れば積もる五六七本、呑や歌へや跳ろや踊れ、実(ゲ)に壮快なる遨遊(ゴウユウ)なるかな」

「因に記す、札幌には未だ待合なるものなければ、思惑ある粋さま抔は定めしお困りなるべし、線香は一本内抱二十銭、見番へ掛ければ二十五銭なり、」
102牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/15(月) 22:39:56 ID:419wBPBk [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
ちょいとなにかと用事がありまして、ご無沙汰しておりやす。
遅スレで申し訳ないのですが、>>89−90 「一握の砂」でございますが…。

啄木という人、前にも書きましたが数年前のNHKTVのドキュメンタリーでは、かなり"人格的に壊れた人"という視点で描かれておりました。
所謂、「良識のない人」と申しましょうか。
奥さんがいながら他の女性にばかり目を奪われる。
しかも、生活力はほとんど皆無といっていいかも知れません。
ただ、借金を繰り返すばかり。
文学と人格は別でしょうが。
バーナード・ショウが言う、「良識を求めることの出来ない三種類の人間」の一つに、
「恋をしている男」ってのがあります。
まさしく啄木かも知れません。

では、ショウの言う、「良識を求めることの出来ない人間」の二つ目はと言えば、これは、
「恋をしている女」なのだそうで、じゃ男も女も同じってことですね。
では、この辺で…。

あ?残りの一つが気になりますか?
言わないほうがいいと思いますけどねぇ。
知りたいですか?
しょうがねぇなぁ。
「良識を求めることの出来ない人間」、三種類の内の最後、それは、
「恋をしていない女」だそうです。

オラ、しらね。
10318丁目:2004/03/16(火) 07:30:16 ID:y/12lv5g [ p11157-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
そんなこんなで、啄木といえば以前何度かご訪問されていたSWAN社様
のHPに久々に訪れたところ、札幌の東十六条問題?!なるものをやっておられました。
何やら野口雨情の「札幌時代の石川啄木」がネットで全文公開されたのが機のようで。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000286/files/4081_13923.html
104牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/16(火) 10:17:15 ID:KWeGnTUQ [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>91
「新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三」のお三方の写真はワシも確たる根拠はないにしろ、元東月寒人@琴似さん(ひさしぶりにフルで書きました)と同意見です。これは東京でしょうね。後ろに東京タワーが、ちらと写っていますもの…。(嘘)

>偕楽園で顔を合わせ将来を語り合ったという、その時の貴重な写真は今に伝わっている
こりゃ、まごうことなく、「偕楽園」で撮ったという記述ですよ。
その出典である「札幌九十年」の著者、「中島九郎」さんは北海道大学最初の学位の授与者だそうで(農学博士。他に早川直瀬氏も。右田百太郎氏は獣医学博士)、
ttp://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B034290000000.html
に「宮部金吾博士」と一緒に写った写真がありました。
どの方がどなたなのか、ちょっと分かりにくいですが。

ちなみに「半沢博士」は、本スレでも扱いました「博士町」にもご登場願いましたね。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html#078
その趣のあるお宅も、「博士町」に現存しています。
(こういうつながりが分かるから、このスレッドはやめられない)

事ほど左様に名所として有名であった「偕楽園」ですが、「中島遊園地」の完成を見るに至って、その人気は凋落していきます.
「新札幌市史 第三巻通史三 第七章 社会生活の変貌 第一節 明治末期札幌の諸 三 道都としての風格 札幌遊覧案内」に、明治41年の「北海タイムス」に出た記事が載っております。
札幌の遊覧案内なのですが、「名所」のところに出ているのは「中島遊園地」、「岡田花園」、「博物館」、「円山公園」、「東皐園」、「黒田伯銅像」のみ。
ここにはすでに「偕楽園」の名はありません。
105牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/16(火) 10:45:24 ID:KWeGnTUQ [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
「宇野八幡」あるいは「宇野八幡宮」に関しては、ワシも>>69真駒内川さんと同じく、「山口県にあった」という言い伝えは間違いだと思っています。
そもそも「宇野八幡宮」なる神社はそう有名な神社ではないようで、ネット検索で引っかかるものと言えば既出の通り「岡山県玉野市」、あとは「島根県浜田市」にあるくらいのようです。

「宇佐八幡宮」は山口県"にも"あるとのことですが、これもツライでしょう。
以前、ねこの手堂さんが、合祀した「西野神社」に取材してくれて、「宇佐」は「宇野」の間違いであるとがはっきりしていますしね。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#033

それらの根拠となるべき、古老の話があります。
ttp://www.phoenix-c.or.jp/~jinjya/kyoudo/korou/a_hachiman.html 
ttp://www.phoenix-c.or.jp/~jinjya/kyoudo/kaitaku/heiwa_kaitaku.html 
これらを読みますと、逆に、山口県(岩国)説が間違いないと言い切れなくなるような気がしてきてしまうような…。
そもそも、「福玉仙吉」さんは東京の人ですので、山口県は…。
ま、それを言ったら、福玉仙吉さんがこの神社(祠)を祀った本人かどうかも怪しいんですけど(w
106牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/16(火) 19:40:01 ID:KWeGnTUQ [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>93
偕楽園後の「いく代」に関しましては、「七十年のあゆみ」(新川番地さんよりいただきました)という資料があるのですが、そこまで触れるととんでもないことになりそうですので、遠慮しておきます。
「花橘」の「清華亭は其支店なり」というのは面白いですね。
>>98 「東京庵」と一緒にされたり、どうも混同されることが多いようです。

>>95 札幌五代目本籍菊水元町、お元気でしたでしょうか?
「Easy Seek」で仕入れた資料がありましたら、是非レスくださいね。
それに叔父上の資料とやらも興味深い…。

>>97 
富山県はウチの父方の出身地です。
富山県人をルーツにする方は、北海道に多いですよね。
何か強力なネットワークを持っているのでしょうか、富山県。

>>103
啄木が「東十六条」にいた…?
帯広の話なら分からんでもないけど。

ということで、ざっとやっつけてみました。(失礼…)
(業務連絡。昨日、「国産メルセデス」納車完了しました。以後実地調査はこいつで向かいます)
107牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/16(火) 23:05:04 ID:KWeGnTUQ [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>106で、札幌五代目本籍菊水元町さんを呼び捨てにしてしまいました。
すみませ〜ん。
コピペしてそのままにしちゃったっす。
108西創成:2004/03/16(火) 23:49:38 ID:igapvG66 [ i099085.ap.plala.or.jp ]
>>104
半沢博士って、現代納豆製造方法の開発者でしたね。
納豆菌を発売して研究費を稼いだとか。

現在、経木に煮豆を包んで納豆をつくる純粋な半沢式もしくは大学納豆の製法で製造しているのは、虻田・羊蹄食品ほか数軒だそうです。
今は、プラスチックの容器内で納豆菌ふりかけて発酵させていますね。
109なまら名無し:2004/03/17(水) 14:42:56 ID:dUpB2WsM [ usen-43x232x120x252.ap-USEN.usen.ad.jp ]
半沢博士は応用菌学の権威で、学士院会員でもあったと思う
110元東月寒人@琴似:2004/03/17(水) 23:06:16 ID:nPBrvbxc [ snjk031k015.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>105
「西野神社」の「平和の開拓」のページの本文では「宇野神社」です。
しかし、冒頭の地図のタイトル「平和の入植者」のすぐ上に「宇佐神社」と書いてあります。
http://www.phoenix-c.or.jp/~jinjya/kyoudo/kaitaku/heiwa_kaitaku.html

また、ページの最後の方に「古老の話:かいたくのころのくらし」へのリンクがあり、そこに書いてある文は、さっぽろ文庫「明治の話」から引用しています。
http://www.phoenix-c.or.jp/~jinjya/kyoudo/korou/h_kaitaku.html

このページには「宇野神社」と書いてありますが、前スレその12>>229で書きましたように「明治の話」では「宇佐神社」となってます。
なぜ、引用元の「宇佐神社」を「宇野神社」と換えたのか理由は分かりませんが。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/12_log.html#229

「平和の開拓」のページに「宇野八幡奉納記録」があるので自分なりに解読してみました。○や( )の部分など、分からない字が多すぎで申し訳ありませんが。

(ふ?古?)の御宮明治二年(與)り(者じ)まり
(左)イ(でん)ハ二十一年(ノ尓持当)○○奉(ら)ん
○(しんでん)○○(尓)て
石井助太郎
奉らん
明治二十四年○○(恭)日
奉(し)ん 石井助太郎
111牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/18(木) 08:34:23 ID:F1i8HERs [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
>>110
>冒頭の地図のタイトル「平和の入植者」のすぐ上に「宇佐神社」と書いてあります。
「平和の入植者」の原本は、「平和第一入植者の居所の図」でして、「手稲町誌」にありました。
これは一昨年の11月にアップしました、ものです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=356 
で、ねこの手堂さんが、「宇佐」は「宇野」の間違いであると西野神社から聞いたという経緯になるわけで、まぁ、「宇野」が正しいのではないかと結論付けたのです。

>なぜ、引用元の「宇佐神社」を「宇野神社」と換えたのか理由は分かりませんが。
ということで、言い換えたのではなく、間違いを正したのではないでしょうか?
112牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/18(木) 08:50:01 ID:F1i8HERs [ N045227.ppp.dion.ne.jp ]
さて、「博士町」の「半沢博士」。
西創成さんに先に書き込まれてしまいました(w
ワシも博士の納豆研究について書こうと思ったのに〜。

最近は「おかめ納豆」ファンのワシですが、子供のころ薄皮にビニールがかかった包装で「大学納豆」という商品があったと記憶しております。
赤一色で、字やイラスト(テレビ塔の遠景)が描かれていたものです。
でもちょっと、記憶があやふやで、自信がありません。
どなたかフォローを。
「押切食品」だったかな?

いずれにしましても、半沢博士と言う方は>>109さんのおっしゃるように、近代的な納豆製造の父のような方のようです。
「北大の125年」(北海道大学図書刊行会)に同博士の、若かりし頃の写真が出ております。
この写真の面影から推測すると、
ttp://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B034290000000.html
の前列右側が半沢博士のようです。
宮部金吾博士はその左。
113なまら名無し:2004/03/18(木) 21:17:17 ID:V.kV368A [ YahooBB219041108150.bbtec.net ]
それ「ポン納豆」ちがいますか? マルカワの
114なまら名無し:2004/03/18(木) 21:56:36 ID:yarIhv0A [ sbb6119820229.snowman.ne.jp ]
>112,113
えーと、薄皮に白いビニールがかかった包装の納豆。
金属で封がしてあったんですよね。

ポン納豆はマルカワですよね、時計台のイラストあり。
TVで宣伝してた文句、「時計台と共に××年・・・」

>赤一色で、字やイラスト(テレビ塔の遠景)が描かれていたものです。
テレビ塔の遠景が、あったのは他社の製品だったはずです。

って、当時納豆のパッケージは みんな薄皮で赤一色の字やイラストでしたね。
缶やビンのフタと違い収集しなかったもんね。
115牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/18(木) 22:41:36 ID:ygbhLl.2 [ U124251.ppp.dion.ne.jp ]
>>113−114
レス、恐縮です。
テレビ塔、押切食品…。時計台、マルカワ…。ポン納豆、大学納豆…。
う〜ん、自分でもかなり混乱してきました。

そういえば、赤のパッケージでよ〜く似た、全く別のメーカーの納豆を見たことがあります。
赤の色合いが微妙に違っていて、「ど〜せバッタもんだろう…」としか思わなかったなぁ。
ところで、納豆の「パッケージコレクター」って、日本全国にかなりいそうですよね。

さて、皆さんに相談です。
「偕楽園−いく代」を一旦終了し、次ネタに行ってもいいころあいかな?と思っています。
「五天山」の「宇野、宇佐神社」も、「博士町」の「半沢博士の納豆」も並行しておいおいにやっていくのは吝かではありませんが、これは今の時点ではメインディッシュではないような気もします。
ここで一発、ガツン!と「御題」をいただければと…。
116元東月寒人@琴似:2004/03/18(木) 23:14:28 ID:UOV4NwwM [ snjk041k043.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>111
入植者の図は過去ログにありましたか。ありがとうございます。

さっぽろ文庫は再考が必要のようです。
ひょっとしたら、>>24の『井頭(いのかみ)竜神』の読みも怪しいかもしれません。
もう一度偕楽園周辺に行ってみて、読み方を聞いてみようかと思ってます。

納豆ですが、最近の新聞に、遺伝子組換大豆を使った商品を売り出そうとしている記事を見ました。
確か北大教授だったような。
117西創成:2004/03/18(木) 23:48:16 ID:CwjAKmfQ [ i102059.ap.plala.or.jp ]
半沢氏はたしか、
実は2種類ある納豆菌(粘りを出すのが主の菌と味を作り出すのが主の菌。元来藁には2つともいる)を、味の方の菌だけ培養して、煮豆に振り掛け、味と粘り両方を出すことを考えたこと。
培養菌を使うので藁つとを使わなくても、納豆をつくることができるので、衛生的であったこと。
温度管理をしっかりすれば失敗が少ないこと。
この辺が普及した理由だとか。

発酵に使う包みも、経木じか包み→経木+ビニール(ポン納豆の類)→プラスチックに進化していったようです。

納豆の室の世界でも北海道で開発された物になかなか良い物があります。

札幌では地場メーカーとして、マルカワ食品、押切発酵食品、坂田発酵食品、味車(旧日糧デリー食品)、藍商店、茨城水戸食品銭函工場労働組合(廃業)あたりがよく流通しているようです。
全国展開の会社も、道内分は道内納豆会社に委託製造が多いとか。
全国納豆品評会の受賞常連は、登別・道南平塚食品、虻田・羊蹄食品など(道内は小粒部門より大粒部門の方が強いらしい)。
その内、羊蹄食品の羊蹄納豆は経木じか包み製法でめずらしいです。

>>115
メインデッシュ…
118元東月寒人@琴似:2004/03/19(金) 00:28:16 ID:HQYpC/qo [ snjk041k069.ppp.infoweb.ne.jp ]
もう一つ、納豆で最近読んだ記事思い出しました。
「札幌大豆」とかいう豆を使った納豆を発売したとかするとか。
確か押切食品だった様な記憶が。
11918丁目:2004/03/20(土) 21:59:24 ID:d3mL6d/2 [ p8043-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]

白石区にある北郷ゴルフセンターへ行ってきました。
購入したばかりのカーナビを駆使して(何度も行ったことがあるので使わなくても
良かったんですけど)行ったところ、北郷の4条〜3条あたりのルート案内に
「七面宮付近」と出てくるではありませんか。
実際にゴルフセンター裏手の「北郷なかよし公園」隣にひっそりと建っている社を
発見しました。
もう暗くなっていたので、車を降りての確認はしてきませんでした。
これが「七面宮」であるのであれば、由緒はいかがなんでしょうかね。
ご存知の方がいらっしゃったら、是非お教えください。
120西創成:2004/03/20(土) 23:44:02 ID:s/cJCDvA [ i106052.ap.plala.or.jp ]
>>119
「七面宮」ですか。
七面大明神でもおまつりしているのでしょうか。
出来た経緯は、山梨絡みかな。日蓮宗方面かな。それとも龍神=水絡みかな。
121真駒内川:2004/03/21(日) 01:27:02 ID:YRZRkAw. [ p624261.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>119
大正5年の地形図には、すでにこの付近に社があったことが記されてますねぇ。
ただ、これが「七面宮」かどうかは判断できませんが、白石村方向からの参道らしき道が書かれていることや
横を通る道が社の付近で大きく迂回している様になっていることから、
相当重要な社であったと伺えます。
当時、月寒川や望月寒川の川筋がはっきりしてなかったでしょうから
西創成さんのご意見の様に水神を奉っていた可能性もあるでしょうね。
12218丁目:2004/03/21(日) 02:24:41 ID:dUqv9X2M [ p8043-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>121
本当ですねー、ぞくぞくしますね。
今現在手持ちの資料やネット上では、北郷の「七面宮」に関する記述は発見できていません。
明日にでも確認しに行こうかな。
123真駒内川:2004/03/21(日) 12:25:08 ID:pKy6HHu6 [ p624104.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
龍神説、濃厚ですねー。
本来、七面宮の祭神は身延山(法華教)の守護神で七面山の池に棲む龍女、七面天女(吉祥天女)であったと言われています。
祭神の性格から察するに、北郷の七面宮の付近にわき水か池があったのではと思います。
でもこの七面天女をよくよく調べると本来は山岳信仰であって、山自体がご神体だった様な気がしています。
では現地調査の結果を待ちますか。
124元東月寒人@琴似:2004/03/21(日) 13:42:30 ID:aSNzlPrQ [ snjk038k008.ppp.infoweb.ne.jp ]
大正5と昭和25の地形図を見ると神社の辺りが沢になってる様です。
札幌歴史地図大正編の「白石村全図」(大正10)ではその辺に寺院があることになってます。
面白いことになりそうです。現地調査の結果期待してます。

とりあえず、白石歴しるべを調べましたがありませんでした。
ちなみに、納豆の半沢教授の話がありました。
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki50_51.pdf
12518丁目:2004/03/21(日) 15:05:37 ID:Yoo7.wYw [ p5192-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
今帰宅しました。
行ってきましたよ、七面宮(だとカーナビソフトが示している場所)。
ふーむ、全く謎でした。何の表示物もないのですよ。
すぐ近くに北郷地区会館があったのですが、日曜ですし、人が居そうもなかったので、
早々に引き上げてきました。
ちなみに北郷は岩手県人が最初の入植者だったはずですが、地区住民の方のレス期待します。
12618丁目:2004/03/21(日) 16:17:07 ID:ICw5vH/E [ p23065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
琴似さんが示されています、白石歴しるべで公開されている地図によりますと、
大正5年、昭和10年には神社マークがあり、昭和40年のものでは記されていません。
何なんでしょうね?
それでも私のカーナビでは思いっきり「七面宮」と出てきます。
127真駒内川:2004/03/21(日) 16:39:26 ID:/bOfS.lI [ pdd743d.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
ゼンリン電子地図帳Zでも「七面宮」が出ますよぉ。
12818丁目:2004/03/21(日) 16:54:25 ID:ICw5vH/E [ p23065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
真駒内川様ありがとうございます!
何せ私の身の回りでは、今のところ「七面宮」を確認できるのが、カーナビだけだった
ものですから、不安になりかけていたところです。

藁をもつかむ気持ちで、白石歴しるべの中から「白石区ライフ&アクションマガジン
【スピカ】」のバックナンバーに目を通してみましたが、少しも引っかかってきません。
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/spica/pdf/spicaVol09.pdf
とは言え、何気にこの号は凄い↑
129新川番地:2004/03/21(日) 19:32:53 ID:TcHhaudA [ YahooBB219041108150.bbtec.net ]
「七面宮」見物して参りました。調査ではありません。現地調査する人々でごったがえしている様子を見に行ったのです。
無人でした。建物横になにやら意味ありげに石が置いてありました。向かいの石材屋さんにも同じようなものがあったような・・・
関係あるのでしょうか。公園とはフェンスで分けられていますが、裏の家とは仕切りが無いし、見るからに勝手な立ち入りは御遠慮願いたい様子なので記念写真だけ撮って参りました。
Macでもアップ出来るかどうかは不明なので秘蔵写真となりそうです。いじよう現場から新川番地がお伝え致しました。結論としては無人で、ナニも分かりませんでした。
130牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/21(日) 21:32:38 ID:D.XniR4Y [ N044179.ppp.dion.ne.jp ]
…っぷっは〜!
しばらく黙っていました、牛鍋蝸牛でございます。
ちょいと例のナニの件で労力を使っておりまして、なかなか書き込み出来ませんでした。

「七面宮」。
ワシもかる〜く、調べてみました。
「白石発展百年史」、「さっぽろ文庫39札幌の寺社」、「同26明治の話」、「同44川の風景」などなど。
でも、全然分かりません。
あまりにも手がかりがない。
確かにゼンリンの住宅地図(紙のやつ)には「なかよし公園」の南東に神社のマークがありましたが…。
18丁目さんのカーナビの地図データは、ゼンリン製?

さて、ワシは「せや、原点に返ろう…」と思い、「その壱」の1の1さんのレスを改めてみて見ました。
そこには、
「福移、金山、有明、界川、豊滝 これらの土地について何か知ってます?」

とあります。
この中から、次ネタは「金山」というのはどうでしょうか?
13118丁目:2004/03/21(日) 22:23:35 ID:ICw5vH/E [ p23065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
金山か・・・・・
昔、今ほど山側に宅地が広がっていなかったなー。
上のほうの宅地の境界杭入れたの私です。

星置の滝の手前の住宅地の、家の裏が滝という環境に何となく憧れます。
13218丁目:2004/03/21(日) 22:40:07 ID:ICw5vH/E [ p23065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
あそうそう、私のカーナビソフトはゼンリン製です。

七面宮、法人格ではないのかな?新川さんの観察眼による、隣の家の敷地なのかな?
あまりにマイナー過ぎてレスがつかないか(w
133元東月寒人@琴似:2004/03/21(日) 23:14:00 ID:elHBDINY [ snjk032k004.ppp.infoweb.ne.jp ]
白石歴しるべの「航空写真による昭和23年頃の白石」5番に該当個所が写ってます。
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki90_91.pdf
この写真の「北13条北郷通」の「北」という文字の左下辺りと思われます。
沢なのか分かりませんが複雑な地形になってます。
(この写真にある「北13条北郷通」は今の場所と違うのでは?北郷3条と4条の間の通りと思いますが。)

なお、手元の地形図を見ると、神社は2つの沢の間にあるようです。
川下からの道路が神社東側手前でほぼ直角に北上しており、神社に行くにはその地点から橋を渡っていくことになります。
134元東月寒人@琴似:2004/03/21(日) 23:31:47 ID:9faJy1go [ snjk033k000.ppp.infoweb.ne.jp ]
金山には「宮町」「官舎町」「滝見町」「栄町」があったそうです。
どこがどの範囲なのかは分かりませんが。(手稲町誌)

星置の滝は20年ほど前に行ったきり。
乙女の滝はまだ見てないので、一度は見てみたいものです。
135牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/21(日) 23:43:04 ID:D.XniR4Y [ N044179.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、「金山」について全く何も調べていません(w
全てはこれからです。
イメージしていただくのにこちらの地図をどうぞ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=853 
この時期、まだ、滝へ実地調査は難しいのでしょうか?

ワシの「国産メルセデス」には今のところカーナビは無しです。
もうちょっと待って、いいのが出てからと思っていますが、純正カーナビに付くバックモニターの方が早く欲しい…。
後ろの感覚がまだつかめません。
136k:2004/03/22(月) 09:51:17 ID:xAuquDQQ [ customer71-242.mni.ne.jp ]
七面宮、なかなか面白そうですね。そのあたりは私は、土地勘がないので、なんと
もいえませんが、そのあたりの道路が何かいわくありげですね。この辺りは宅地化
されたときには、おそらくR12を基本としてこれに並行または直交するように道
路がつくられたものと推測されます。ところがこの周辺だけこれが乱れています。
これだけでも私は大いに関心があります。神社というものは小さなものでも意外に
奥深い場合がありますね。かつてここでもかなり盛り上がった水車町の蛇神社以来
のネタになるかも知れません。大いに期待しています。
137牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/22(月) 10:47:48 ID:Ikj85wvA [ N044179.ppp.dion.ne.jp ]
皆さん、「七面宮」乗り気なようなので、「金山」ネタは小休止します。
といっても何もしていませんが(w
まずは、「七面宮」というか、「北郷3条3丁目」附近ということで…。
138真駒内川:2004/03/22(月) 11:34:41 ID:xD981z9Y [ p29b358.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
雪がとけきってないから、現地調査はまだ先の方がいいかなぁ。
139161:2004/03/22(月) 12:41:33 ID:TR/CyzOA [ v060021.ap.plala.or.jp ]
白石区と聞くと、黙っちゃいられませんなぁ
どれ、ちょっと行ってみますか
140牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/22(月) 13:00:17 ID:Ikj85wvA [ N044179.ppp.dion.ne.jp ]
おお!
大集合!
ワシも行くかな?
141161:2004/03/22(月) 14:28:45 ID:TR/CyzOA [ v060021.ap.plala.or.jp ]
おっと、残念。ただ今帰宅〜

行ってきました。写真も撮ってきました。
七面宮自体は、>>129の新川番地さんの通り。
私も裏の家との関係は気にはなりましたが、神社だし(?)入ってダメなことはなかろうと
勝手に判断し、気にせず敷地内に入り込んで内部も撮影してまいりました。
そういえば柵に囲まれていたような気も… ゴホッゴホッ
ちょっと今時間がないため、写真は日付が変わるころにうpしたいと思います。

北郷会館の方にお話を聞こうととしたところ、
「近所にこの辺りの歴史を研究している人がいるので、そちらの方なら詳しく話を聞けますよ」
とのこと。電話番号を頂戴してきたため、後日連絡を取ってみたいと思います。
会館内にはその方が集めた、白石を初めとする資料もアリ。
軽く閲覧はしたものの、七面宮に関する記述は見つからず…
さらにこの方は「北郷西のあゆみ」という資料を執筆中で、執筆中の原稿もあったのですが、
七面宮のページも目次にはあったものの「未作成」とのこと。
ただ、この方からは詳しく話を伺えそうです。
142真駒内川:2004/03/22(月) 17:47:46 ID:Q2DTt6.2 [ pae2d1d.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
私もちょっと見てきました。
お宮の周囲には荒垣も鳥居も手水舎も賽銭箱も無く、建物も千木も鰹木も無いのでどちらかと言えば「お堂」。
と、お社の様相では無いのですが、のぞいてみるとあら不思議〜ご神体を奉安する様になっています。
周囲を回ってみましたが、この辺りはやや丘の様に高いところなのですが、
バス通り付近から公園の裏手(南側)にかけてはくぼみになっていて、地盤もあまりよくない様に見えます。湿地だった可能性がありそうです。
やはり水にかかわるものを祀っていたのでしょうか。
161さんの調査に期待します。
143牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/22(月) 17:51:12 ID:9S0RRcd. [ U125064.ppp.dion.ne.jp ]
ああ、あの祠の回りの土に残っていた足跡は、関係者の物だったんですね(w
161さんか、真駒内川さん。
割と大きめと見ましたが。

「七面宮」でネット検索していたからダメだったんですね。
気が付きました。
「宮」はあくまで「お宮様」の意味なんだから「七面」で検索して御覧なさいな。
ほぉら、結構ヒットするじゃありませんか!
で、これはあとで161さんが画像アップしていただければ分かると思いますけど、「法喜」、「妙喜」でもやったんさい。
ここも、神仏混交ですね。
144元東月寒人@琴似:2004/03/22(月) 21:29:17 ID:qQqfgriw [ snjk041k077.ppp.infoweb.ne.jp ]
地図では神社ですが、日蓮宗の寺でその後移転した、という推理で探しています。
市内の寺をあたってますが、そうはうまく行かない様で。
161さんの調査に期待してます。
145元東月寒人@琴似:2004/03/22(月) 21:37:22 ID:tm9DswBI [ snjk031k065.ppp.infoweb.ne.jp ]
移転した、というのはよく考えると間違いでした。今も在るので。
「お堂」に会いに行って、考え直してきます。
146sss:2004/03/22(月) 23:50:27 ID:KS7GobuY [ 210169236026.cidr.odn.ne.jp ]
七面宮ですが、ゼンリンの紙の地図でも確かに該当の場所に七面宮とあります。
裏手の家は岩○さんというのですが、お宮との関係は不明です。

さて、戦後の米軍撮影の航空写真と比較すると、「旧北郷通り」はこの辺で
お宮を迂回するようにいったん北上していますが、このあたりはちょうど
豊平川の形成する札幌扇状地の裾にあたり、伊藤邸と同じようなメムだったようです。
で、現在も七面宮の道路を挟んで北隣の敷地の庭園内に名残の池があるようです。

 この池が現在もメムなのか、あるいはサクシュコトニ川みたいに
人工的に水をためているのかよくわかりません。
どなたかもっと詳しいことがわかりましたらフォローお願いします。
147161:2004/03/23(火) 00:13:57 ID:S.aTR.qI [ v060021.ap.plala.or.jp ]
とりあえず、画像です。

とりあえず、これが全体像です。
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/01.jpg
近づいてみると、こんな感じ。
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/02.jpg
ちなみに、神社?の敷地全体には柵があり、入り口にも
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/03.jpg
このようにわざわざ鍵のようなものも。
まさに「勝手な立ち入りはご遠慮願いたい」様子。

ちなみに、新川番地さんの言う、「意味ありげな石」はコレですね。
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/04.jpg
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/05.jpg
通りを挟んで向かいの家にも
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/06.jpg
同じような雰囲気の石があり、確かに何か関係があるかも。
ちなみに、敷地内の石の上には
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/07.jpg
こんな神社の飾りの一片?のような、木片も無造作に置かれていたり…

さて、七面宮に戻りましょう。
近づいてみると、こんな感じ。
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/08.jpg
右方向から見てみると、こう。
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/09.jpg
よく見ると、最近補修したり色を付けた部分もあったりして、
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/10.jpg
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/11.jpg
かなり大切にされている様子。
建物も立派なので、この社自体は比較的最近立てられた可能性も。

さらに近づいてみましょう。
見上げると、
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/12.jpg
まさに七面宮。
牛鍋さんの「法喜宮」「妙喜宮」とは、これですね。
さて、お堂というか、建物には鍵がかかっていますが、
中を伺うことはできます。
中には真駒内川さんの言う
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/13.jpg
が。そして、その上方には、こんなものも。
http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/14.jpg

現地に行った方も多いのですが、行っていない方はとりあえずこれでイメージしてみてください。
詳しい調査は、後日行いますです。
148161:2004/03/23(火) 00:17:03 ID:S.aTR.qI [ v060021.ap.plala.or.jp ]
ああ、なんか変な日本語だ…
> 建物も立派なので、この社自体は比較的最近立てられた可能性も。

大体、これは何て言うんですか?
建物?お堂?社?
149:2004/03/23(火) 00:49:32 ID:qTh2jX6k [ ppp0726.va-spk.hdd.co.jp ]
横から口出しすみません。
幼少の頃、その付近で遊んだ記憶があるのでちょっと。

>>133さん、私の感覚だと「北13条北郷通」の(郷)のあたりのように思えます。
その公園は、昭和47年の春頃に完成して遊びだした記憶があります。
出来る前は、「しちめんさん」の場所、広場と子供どうしで呼んだような・・?

その向かいのくぼ地を、ガケ(子供の感覚で)と言っていました。
ガケを降りると、比較的平らな場所でしたがいつもじめじめして遊び場にはなりませんでした。
登る時も、土がボロボロして木の根っこにつかまって登ったりしてました。
今時の雪どけの時期は、いつまでも水がたまっていたんですよ。
参考にS51年と、ちょっと新しいのですが。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CHO-76-6&PCN=C11&IDX=22

今後の諸兄の奮闘解明に期待してます。
150Q:2004/03/23(火) 01:05:03 ID:xNNa7mho [ proxy304.docomo.ne.jp ]
申し訳ない。
違う地図で見たら
郷の場所では無いようでした。
151Q:2004/03/23(火) 01:05:20 ID:25oY6Jbc [ proxy312.docomo.ne.jp ]
申し訳ない。
違う地図で見たら
郷の場所では無いようでした。
152k:2004/03/23(火) 16:47:15 ID:mw56zJdM [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>147 161様
詳細な画像ありがとうございました。写真で見る限り、祠の建物などはわりに
新しそうですね。これは信徒というか、氏子といった方がいるということであ
り、これからの調査に大いに期待が持てます。内地在住のため現地調査に簡単
に参加できないないのが残念です。
「七面」から七面山や身延山、日蓮宗などと結びつけてしまうのは案外早計か
も知れません。こちらの方も少し広く考えた方がいいかも知れません。
153なまら名無し:2004/03/23(火) 18:16:43 ID:WQIAxsXM [ sbb611982017.snowman.ne.jp ]
154牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/23(火) 20:47:49 ID:gDesjKpA [ N044012.ppp.dion.ne.jp ]
「七面宮」に関して少しずつ分かってきました。
ただし、それは「七面宮」に関してでありまして、「北郷の」となるとこれは161さん、あなたの双肩に掛かっていますゾ!!
と、ちょいと気合を入れておこう…。

で、補足を。
>>147の161さん、実地調査 http://pernoi.chu.jp/chimei/sg/07.jpgの木片ですが、こいつを開くと、http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=854 こんなんなですねぇ〜。(発色が違うけど)
彫刻でありました。
石は、新川番地さんがおっしゃいますように、向いにある石材店「興輝技研株式会社」さんに同じものがあります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=855 
寄贈されたのかな?

>>149 Qさん、始めまして。
アテネオリンピック残念でしたね…。
あれ?違うかな?
横から口出し、大歓迎です。間違いもOKです。
ワシなんか今まで何回間違ったことか。ねぇ、皆さん。
今後もよろしくお願いします。

>>153さん。
リンク先、「予期せぬエラー」だそうですので、こちらで改めて。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=856 です。
「七面宮」はワシが入れたものです。
155牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/23(火) 21:17:41 ID:gDesjKpA [ N044012.ppp.dion.ne.jp ]
>>148 161さん。
>大体、これは何て言うんですか? 建物?お堂?社?
この「七面宮」、実態は「お堂」ではないでしょうか?
いや、「しち面倒」とかいうシャレじゃなくってよ。

この辺りの歴史的・宗教的なこと、ワシ、詳しくなくって、さっきからネットでいろいろ検索しました。
そしたら、どうやら、そうじゃないかと…。
学校で習った「廃仏毀釈」も、ちゃんと理解していなかったことに気が付きました。
でも、今日はもう乙類焼酎、飲み過ぎて眠いのでまた明日。
156牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/23(火) 21:24:10 ID:gDesjKpA [ N044012.ppp.dion.ne.jp ]
とかなんとか言っちゃって、まだ起きていたりして。
ワシは、この「お堂」は治水のために建てられたのではないか、と推理しています。
それだけ言って、寝よ。
157153:2004/03/23(火) 22:54:16 ID:WQIAxsXM [ sbb611982017.snowman.ne.jp ]
北郷地区は、岩手県の入植者とありましたので
各地のドライブインなんかで、販売しているお土産向け小冊子「岩手県の民話」を見てみました。

抜粋し、概略引用(はしょると)すると。
昔、岩手県に胆沢(イサワ)地区、今の水上市あたりに
北郷という夫婦がいた、その娘(北郷茂井羅)に縁談があり嫁いだがブサイクで子宝に恵まれず離縁された。

その後、実家に戻らず川近くの荒地に、独力で水路を作り畑を開墾した。
川岸から始まった水路は、畑が広くなるにつけて伸びて行き
近くの農民にも、気持ち良く水を分けてあげた。
やがて、その水路は隣の村までも延びるほどに発展した。
北郷の娘の死後も、水の恩人、田畑の神様と敬われ祠まで出来た。

まあ、少しこじつけかも知れませんが「空想のタネ」にでも。
158153:2004/03/23(火) 23:08:07 ID:WQIAxsXM [ sbb611982017.snowman.ne.jp ]
牛鍋蝸牛さん、どうもです。

>>153
http://map.www.infoseek.co.jp/
から、物件名マップ検索したら 日本で二つヒットしたんです。
勿論、一つは白石区でした。
159153:2004/03/23(火) 23:10:37 ID:WQIAxsXM [ sbb611982017.snowman.ne.jp ]
ああ、何度もすいません。
物件名マップ検索したら→物件名「七面宮」でマップ検索したら 
です。

しばらく、慣れない事は慎みます。
160元東月寒人@琴似:2004/03/24(水) 00:28:49 ID:qG3z7pRs [ snjk035k065.ppp.infoweb.ne.jp ]
札幌歴史地図明治編の「両白石村縮図」(白石区民センター展示)にある沢が、「七面宮」の該当個所に近いようです。

最月寒川合流点より一つ上流にある月寒川の支流の水源に「清水 水田アリ アンザイ」との記述があります。
「清水」は人名なのか「涌き水」のことなのかはわかりません。
鉄道との距離が実際とあってないですが、周辺の川や道路の関係からおそらくここではないかと思います。

この図の解説によると、大正時代に、明治15か6年頃を想起して作成したと思われるとのことです。
161西創成:2004/03/24(水) 00:28:55 ID:svw1cvow [ i106096.ap.plala.or.jp ]
>>147
161さんお疲れ様でした。
これお宮さんですね。
日蓮宗のお寺に結構こういうお宮があります。

妙喜宮
七面宮
法喜宮
と看板にありますから、
「妙」と「法」で、妙法じゃないかと。
妙法とくれば日蓮、身延系統?と思うんですがね。
鳥居がないのも、どうも「七面山」ぽい。

ここをお祭りしている、日蓮宗の講社・結社か寺院がありそうですね。

家の菩提寺(日蓮宗)にも似たお宮ありますよ。

そのお宮のそばにある石にここに七面宮をつくったいわれがあるかも知れないです。
162西創成:2004/03/24(水) 00:39:01 ID:svw1cvow [ i106096.ap.plala.or.jp ]
失礼。お宮でなくて、お堂です。
163真駒内川:2004/03/24(水) 10:24:34 ID:qHsYK1Zg [ pdd2eed.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>160
手持ちの札幌歴史地図で確認しました。確かにこれでしょう。
164元東月寒人@琴似:2004/03/24(水) 22:46:12 ID:/trXzads [ snjk033k020.ppp.infoweb.ne.jp ]
「東京人」について、今日の読売夕刊文化面に記事がありました。
東京という都市をテーマにした総合誌「東京人」が、創刊18年で通巻200号を迎えたと紹介されています。
創刊時は都の外郭団体が発行し、3年前までは都から補助金を得ていたが、民間会社単独の発行に変わってからも部数は伸びているそうです。
「過去の東京が関心の対象になりすぎる」との指摘(丸谷才一氏)もあり、今後は「今日の問題も載せていきたい」ということです。
165153:2004/03/25(木) 06:05:37 ID:ib0b5Cak [ bb6119820217.snowman.ne.jp ]
また、民話からですが。

檜山管内熊石町の、河口にお堂があり
以前は日蓮宗の七面堂として、また七面山とも呼ばれ参詣者が数多く足を運んだそうです。
(現在の、熊石町黒岩にある七面山光明寺は昭和になってからの移転)

もし、七面宮付近の石にも、「南無七面」と彫りがあれば
熊石町に伝わる、泣き石とか経文唱え石に似ているかなと・・・。(空想)
166牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/25(木) 08:57:25 ID:v62zSemU [ N044012.ppp.dion.ne.jp ]
「さっぽろ文庫」ネットで復活 絶版46冊、無料で閲覧

という記事が昨日の道新に出ていました。
ま、写真とかは見られないようだけどね。
詳細は道新HPから探してみてください。
167161:2004/03/25(木) 10:45:09 ID:XSftp2HY [ s074144.ap.plala.or.jp ]
七面宮について、上で述べた方に軽くお話を伺ってみました。

結論から言うと、「はっきりしたことはよく分からない」とのことです。
というのは、七面宮の歴史は古い(明治からあったのでは、とのこと)ものの、
資料は少なく、関係者があまり多くを語りたがらないため。
もともと七面宮はあの辺りの世帯のプライベート的なものであり、また歴史が古いことから
幾つか諸説もあって、関係者も間違った認識が広まるのを避けている、と。
よって、この方もあまり深くは調べていないそうです。
わざわざ柵で囲ってあるのも、余計な詮索はするな、って暗に言っているのでしょう。
新川番地さん言ってたのに。
水車町の件でも、蛇の話が一人歩きしていたってのありましたよね。
ああいったことを危惧しており、あまり具体的な話は(文献などには)書かれたくないという
傾向があるそうです。
まあ、もっともな話ですよね。

ちなみに、あの辺りに池があったのは、ご存知の通り。
どうやらゴルフセンターのネットの辺りは、池と陸の境目であったそうです。
歴史は古く、あの辺りには縄文時代の遺跡もあったとか。
まあともかく、池ということは動物も集まるし、人々の生活の拠点となるわけです。
で、農耕を行う当時の人々のより所として、七面宮ができたと。
あくまで仮説に過ぎないですが、こういう背景があるのでは、とのことです。
湿地帯ですので、豊作を祈って水やらなにやら祈願して何たらとか
そういった背景は少なからずあるとは思いますが、もともと何か宗教的な意味合いが
強いわけではないのでは、と。
石も、近所の石屋が寄贈したのでは?とか何とか。

確かなことは、
・歴史は古い
・池があり、あの近辺が生活の拠点だった
ということだけです。
私も宗教とかそういうことはさっぱりなので、なんか間違いとかあるかもしれませんが、その辺りよろしく。
168牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/25(木) 12:21:35 ID:76UYuWGw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
161さんご苦労様でした。
こうなると、それ以上の詮索は出来ませんね。
噂は一人歩きをしますからね。

その良い(?)例である、「難得神社」の由来に関しまして、とある豊平の地元サイトに「水路を整備するために野焼きをした際に、蛇がたくさん焼け死んだので供養のため建てられた説」が出ていたのを昨日発見しました。
すぐに「難得神社」は「明治期に四国の中西夫妻の奥さんが霊感を授かり、創めた神社(講)であって、蛇とは全く関係ない」旨のメールを送りました。
先ほど、先方より、「難得神社についてご指摘いただき誠に有り難うございました。勉強不足でした。今後も何かありましたら、ご指導いただけると有り難く存じます」との返信がありました。
この件は「言い伝え」と言ったものではなく、ごく最近の「作り話」であるからなおさら質が悪いのですが、一旦広まるとそれが当たり前になってしまいます。
「七面宮」はプライベートなものとなりますと、あまり触れられたくないというのは、もっともですね。
調査する際、他山の石として、ワシも気をつけます。
169牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/25(木) 20:43:13 ID:76UYuWGw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
遅レスです。
>>97
18丁目さんの疑問で、富山県人会について。
>この富山会館だけはどうしてあんな立派なビルを持っているんでしょうか?
「さっぽろ文庫54県人会物語」(平成2年)から要約します。

「札幌への移住は明治十五年頃からその数を増し、明治後期は新規入植できる土地が限られていたため県人の際立った村落形成はないが、『東区拓殖史』によれば、大正十五年の調査で判明した世帯の三分の一近く、丘珠に限ると六割以上が富山県出身であった。
持ち前の勤勉さと粘り強さで次第に経済力を貯えていった県人たちは、大正期には北陸銀行の前身十二銀行札幌支店をメインバンクに『越中郷友会』を結成、割烹いく代で新年会を開催するようになった。また初代地崎宇三郎を温泉権利者に憩いの場として定山渓に『鹿の湯クラブ』を開き、後の『ホテル鹿の湯』となった。
戦後、他県に先駆け物産斡旋所を開設、支援する形で「社団法人北海道富山会館」を設立、宿泊や集会施設を伴った社屋に物産常設展示場が設けられた。三十五年には六階建ての新社屋が完成、現在、大正海上との共同ビル再開発プランが実施され、平成四年竣工予定のテナントビルが建設中である。
別名富山鉄道といわれるほど県人の多かった定鉄会長の石崎作市、社長浅野一夫、地崎組社長二代目地崎宇三郎、岩田建設の創始者岩田徳治などは富山会館の理事長の職にあり、活動の原動力になった」
こんなんですが、よろしいでしょうか?
17018丁目:2004/03/25(木) 21:26:16 ID:b3oONiwA [ p3237-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>169
牛鍋様ありがとうございます。
私の母が昭和40年頃、この富山会館で一時働いていたそうなのです。
私バスの草分け地崎宇三郎も、東区中興の祖岩田徳治も富山県人ですか。

>>七面宮に魅入られた方々
この七面さん不思議ですね。
地名スレ的には、北郷3条3丁目周辺の成り立ちがかなり古いのがわかっただけでも
成果でありますが、宗教的なことや、地形の変遷なども知ることができました。
ちょっと一時に見学者が増えて、周辺住民の方に逆に不思議がられたかもしれませんね。
後々、新事実発見の予感を残しつつ、お次のお題は何じゃらホイ。
171牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/25(木) 21:40:18 ID:76UYuWGw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
ここんとこ「五天山」関連で「宇野八幡」、「北郷の七面宮」。
それに、「水車町の難得神社」が再び出て来て、こりゃ、神道仏教関係の知識を少し仕入れないといけないと思い出し、ちょっと調べてみました。
すると、所謂「山口県岩国の宇野八幡問題」と「蛇神社と呼ばれる難得神社問題」に関して、その怪しい記述の出典は「さっぽろ文庫39札幌の寺社」ではないかと思えてきたのです。

まずは、「宇野八幡」ですが、「神社辞典」(白井永二・土岐昌訓編 東京堂出版)、「八幡信仰事典」(中野幡能編 戎光祥出版)など複数調べてみたのですが、やはり思った通りひっかかって来ません。
特に「八幡信仰事典」は各県ごとに、つまりは山口県の八幡信仰についても記述されているのですが…。

「さっぽろ文庫39札幌の寺社」では、
「宇野八幡(手稲・平和)明治二年上手稲の開祖というべき福玉仙吉氏らが、中島太郎・石井助太郎氏らと、山口県岩国の宇野八幡の分霊を奉載、字平和に安置、村民の奉斎する所となる。西野神社創建後、五天山の高台に安置」とあります。
実は、「北海道神社庁誌」(北海道神社庁 平成11年)にも「未公認神社」の項にではありますが、同じような記述があります。
しかし、その最後に書かれた「参考文献」には「さっぽろ文庫39札幌の寺社」と…。

ちなみに、「五天山の高台に安置」ということは、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=474 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=471
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=473
これが「宇野八幡」ということになりますな。<つづく>
172元東月寒人@琴似:2004/03/25(木) 21:43:25 ID:ZxdCif.o [ snjk036k016.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>166
「さっぽろ文庫」をそのままネットで公開するのは危惧というか、ある種の不安を感じます。
特に初期の刊行物は30年近く経過しており、その後の発見や研究成果を反映させる必要があります。
何らかの注釈付きでないと、「さっぽろ文庫」の内容が一人歩きしてしまうおそれがあるのではないかと考えています。
(「さっぽろ文庫」の批判ではないので、ご理解を。)

>>167
了解しました。
124で書いた「白石村全図」の寺と、160で書いた「両白石村縮図」の月寒川の支流の水源は「北引接寺」の可能性も有り得ることと、「最月寒川」は「望月寒川」であることを追加させてください。

話は変わりますが、「札幌の歴史」第46号に「二星岱」という丘の名が出てました。
本願寺街道関連の場所で石碑もあるとか。(市内です)
173牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/25(木) 22:04:40 ID:76UYuWGw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
「五天山」の麓にあるのは「五天山神祠(しんし)」。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=466
これは「札幌の寺社」にはなく、「北海道神社庁誌」からの記述。

「昭和十九年九月神道実行訓導井上弥一郎に、大国主大神の神憑(ふ)によって「我を手稲の里西野の山に斎き祀れ」との神告があった。それで安井広・野村栄にはかったところ、大いに賛同してこの人達が早速発起人となって地域の人々にはかり、有志の賛同を得て、佐々木千代松所有の山の頂上を五天山と名づけ昭和11年8月神祠を創建。実行教権少講義藤沢市太齋主のもと第一次の祭典を執行した。神職 一、奉仕者 須○和○」
(注・○は、牛鍋蝸牛が伏字にしました)

話が逸れますが、これで長年の疑問がすっきりと氷解しました。
「五天山」の山頂にあったのが「宇野八幡」、麓の神社が「五天山神祠」。
とあるサイトで、頂上の祠の写真に「五天山神祠」とあったので、なおさら混乱していました。

元に戻りますが、かなりの信憑性があると思われた「北海道神社庁誌」ですが、怪しい部分も多いようです。
ま、これは「その参」でも語られましたことなのですが。
「北海道神社庁誌」が「さっぽろ文庫」をそのまま載せるというのはねぇ…。
「さっぽろ文庫」もかなりの間違いがありますから検証が必要です。
これが逆だったらわからんでもないんだけど。

今、>>172 読みました。
同じくワシも、「さっぽろ文庫」を否定するものではありませんけどね。
174牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/25(木) 22:28:51 ID:76UYuWGw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
さて、「難得神社」を「北海道神社庁誌」で探してみましたが、載っていませんでした。
しかし、「さっぽろ文庫39札幌の寺社」には、な、なんと、「蛇神社」として出ておりました。
「蛇神社(元水車通沿)創祀不明。祭神、大竜大神。蛇の供養のため建立という。別称難得神社」
なんじゃ!こりゃ〜!

どうやら、言われていた「難得神社の作り話を載せた札幌市の刊行物」とは「さっぽろ文庫39札幌の寺社」だったようです。
「難得神社」のお世話をしておられる隣に住む「Tさん」が言っていた、「結構値段の高い本」と言うのにも符合します…。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#072
そもそも、「別称難得神社」とは何たることか!
あくまで「難得神社」が正式名称で、神社のどこにも「蛇」なんてないのに…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=293
175元東月寒人@琴似:2004/03/25(木) 23:14:21 ID:nV.wzhtA [ snjk037k073.ppp.infoweb.ne.jp ]
先の話ですが、7月に伊納大図の展示会があります。
ワシントン議会図書館で見つかった写本を基にした伊納大図復元図の巡回展で、札幌では23日から3日間中央体育館で行われるそうです。
176元東月寒人@琴似:2004/03/25(木) 23:23:09 ID:84hwDrt. [ snjk045k049.ppp.infoweb.ne.jp ]
175を訂正します。「伊能大図」でした。
177牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/26(金) 20:24:05 ID:NL7QOunY [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
>>168で書きました、「難得神社に関する、とある豊平の地元サイト」の件ですが、先ほど覗いて見ましたら、見事に訂正されておりました。
関係者の方の誠意を感じます。
感謝!感謝!感謝!
それはこちらでございます。
http://www1.ocn.ne.jp/~toyohira/tiku/a-spot/framepage1.htmの20難得神社
豊平商店街振興組合事務局さん、お疲れ様でございます。

>>175
「伊能忠敬の大図」の巡回展。
それにしても「中央体育館」で開催とは、えらく渋いロケーションですなぁ。

さて、次のネタですが、やっぱ「金山」どうでしょ?
というか、「金山」ってもともと「星置」から分離した地名のようですので、「星置と金山」というネタでは?
178真駒内川:2004/03/27(土) 01:46:06 ID:S4xVO9MY [ pdd2f4e.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>177
難得神社と七面宮が重なって見えるのは私だけなのでしょうか。
もしかして七面宮にも経王寺が絡んでいるような悪寒、でなくて予感がします。
179牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/27(土) 04:49:03 ID:hUfsNsvM [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
>>178
ワシには両者はかなり違って見えます。
「難得神社」は「七面宮」とは違って、かなりオープンでありますし、その由来もはっきりしています。
地元の信仰という点では似ているかもしれませんが、「難得神社」は"講"としての性格が強いですから開かれていて当然かもしれません。
なんたって、中に入れば(入ってOK)昼間っから蛍光灯煌々で、サイドボードもあり、冷蔵庫もあり、テーブルの上にはお菓子が置いてあって、いつでも誰でも受け入れ態勢ばっちりですもん。
あ、書いているうちに、また行ってみたくなりました(w

さて、「難得神社」の「蛇供養説」が捏造されたのが、少なくとも「さっぽろ文庫39札幌の寺社」が発行された昭和61年12月以前であったことが分かりました。
これに関して、不覚であったと反省していることがあります。
以前に「難得神社」に実地調査に赴いた際、神社の隣にお住いでお世話をされている「T」さんからお話を伺ったのですが、(「その参」#66から)
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#066
その事件がいつ起きたのか、ちゃんと聞いていなかったのです。
漠然と「最近のこと」と思っていました。
ま、考えて見れば当時よく書き込みをされていた「本籍水車町」さんが、かなり以前からそういう話を見て聞いていたわけなので、「最近」てこたぁないわけで…。
祠の中にある、東京は杉並区に在住の中西さんのお孫さんが書かれた神社の由来のプリントも、同神社が「蛇神社」として誤解されたことによって置かれたのかもしれません。

繰り返しになります。
元東月寒人@琴似さんがおっしゃるように、「さっぽろ文庫」がネットで復活するのは結構。
しかし、このように明らかに間違った記述には注釈を入れるなりの配慮がなければ、また誤解が広まってしまいます。
ワシらも「さっぽろ文庫」から引用することは多く、気が付かないうちに同じ過ちを犯している危険性もあるので注意しなければいけませんが。
なんとか出来ないものかな…。
180牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/27(土) 17:38:14 ID:hUfsNsvM [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、「金山」へ、まず行ってきました。
もう、強引です(w
なにか面白いものがないか、とまずはネタ探しってこです。
で、あったか?と言いますと、小ネタですがありました。

今は消えてしまった「宮町」という名前の札幌市水道局の浄水場を発見!
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=857 
名前のプレートを大写しするのを忘れたので、これでカンベンしてください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=858 
さ、TUTAYAいってこ〜。
181元東月寒人@琴似:2004/03/27(土) 22:36:30 ID:65jTUowk [ snjk042k004.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>177
伊能大図は1枚が畳1枚分あり、それが207枚で、60×30メートルとなるそうです。
(札幌で全部を公開するかは不明。釧路では207枚を展示するとのこと。)
写本の上を歩くことができる、という計らいもあり、広い場所になったようです。

中央体育館は確かに渋いです。
1度行ったことありますが、車椅子の人では辛いものが有るのでは。
(2階が体育館で、エレベータがなかったと思います。)
182元東月寒人@琴似:2004/03/27(土) 23:36:17 ID:h7PCnhOI [ snjk035k032.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>180
現地調査お疲れ様です。
宮町には金山神社があった様ですが、写真を見ると付近には雪が残っており、今の時期探すのは大変かと思います。

「金山PA」が稲穂にあるというのを、いま地図を見ていたら気付きました。
「宮町浄水場」は、手稲町時代「金山浄水場」だったようです。
18318丁目:2004/03/28(日) 00:15:17 ID:VD6Fht6o [ p11073-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
神愛園は歴史の古い施設だと思いました。

宮町の由来って何でしょうね?以前からとっても気になっていました。

星置の滝にも宗教色ありますよね。ひょっとして滝自体も傍らにある宗教団体
の地所内なのかな?
18418丁目:2004/03/28(日) 02:26:41 ID:VD6Fht6o [ p11073-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
自分にレスします。
星置の滝は小樽市桂岡町内でした。
185牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/28(日) 05:20:20 ID:I8/g6kbw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
「金山」の地名・来歴について詳しい調べをせずに(実は個人的にはしているんだけど)いきなり始めちゃったので、分かりにくいと思います。
ご了承ください。
おいおい、説明します。

とりあえずといってはなんですが、「金山」の地図をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=853 
左下のゲートボール場(今日は雪のため見えなかった)辺りが、「宮町浄水場」です。
その奥には採石場(菱光手稲砕石株式会社)
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=859 があります。
「手稲町金山」の「宮町」の由来になったのは、@琴似さんもおっしゃるように「金山神社」があったからとのこと。>>182
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=860 の沢の向こう側。
今は跡しかないとのことです。

「宮町浄水場」
札幌市の事業所で消えてしまった地名が残っているというのは、他にあるのでしょうか?
この名前残しているのはなかなか通だと思いますが、ただ旧手稲町から引き継いだ施設名をそのまま使っていると言えば、そうも言えなくもない。
お役所は余計なことをしないのが一番って事かな?(公務員の方、ゴメンねw)
でも、知らない人に説明するに苦労しそうです。
「宮町〜?そんなとこ札幌にあったかぁ?」
186牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/28(日) 05:31:26 ID:I8/g6kbw [ U124233.ppp.dion.ne.jp ]
>>185で、
>旧手稲町から引き継いだ施設名をそのまま使っている
と書いてから>>182をよ〜く見てみたら、
>「宮町浄水場」は、手稲町時代「金山浄水場」だったようです
って!

ありゃ、そうだったんですか。
ということは手稲町と札幌市が合併してからの名称なのかな?
だとしたら、札幌市水道局、エライ!!
調べることがまた増えた。
187元東月寒人@琴似:2004/03/28(日) 22:27:41 ID:d3.PfBXY [ snjk031k031.ppp.infoweb.ne.jp ]
「挿絵に拾う北海道史」(昭和62年)に、「北海道志」の「偕楽園図」のことが書いてありました。
博物所属舎(東側の建物)が料亭になったと記述しています。一部を抜粋します。

「シャクシコトニ川は底の砂も数えられる清冽な水をたたえ、池となってその東端に北流し、今日の北大構内に向っている。その池に臨んで博物所属舎がある。普通の平屋であるが、博物所と呼び北海道の物産を陳列して一般に公開していたところ、明治十四年明治天皇行幸の際はここで今でも北大博物館の正面に人目をひいている人喰熊の剥製などを御覧になった。十五年当時は今の北大の博物館が竣功したので、民間に払下げられ、料亭になり、後ちこわされた。この建物はもともと開拓使の貴賓宿舎として建てられた建物を博物所に転換したもので、偕楽園として最初の建物でなかったかと思う。池畔にあって水を縁先に見る釣殿のような建物であった。明治四年外務卿副島種臣が泊まったのもこの家であったと思われる。今はもう無い。」

この「偕楽園図」は次にあります。(>>75
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/map/doc/0D011040000000.html

これと同じ構図の絵図はここです。(>>56
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=838
18818丁目:2004/03/28(日) 23:54:37 ID:BdqQeZa. [ p1202-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
他の掲示板より拝借した情報です。

15: 名前:名無しさん投稿日:2004/03/26(金) 22:09
今日、山の手の元カブトデコム社屋の前を通ったら
「地図と鉱物の博物館 平成16年4月オープン」
みたいな事が書いてある垂れ幕が下がっていた。
どんな博物館が出来るんだろう?
スゲー楽しみ!!
http://www.atz.jp/~ex212/cgi/bbs/mibbs.cgi?mo=p&fo=25&tn=0029&rs=42&re=42&rf=no&al=on
---------------------------------------
道路マニア的にも、非常に興味ある話だな
18918丁目:2004/03/28(日) 23:57:43 ID:BdqQeZa. [ p1202-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
それで、本日金山見物に行く途中、北1条宮の沢通りを通って確認してきました。
確かにあるね「地図と鉱物の博物館 平成16年4月オープン」。
非常に楽しみ!
190牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/29(月) 20:27:43 ID:NawkAlZ2 [ N046147.ppp.dion.ne.jp ]
>>187
>博物所属舎(東側の建物)が料亭になったと記述しています。
>>79の「さっぽろの昔話 明治編下」の記述と符合しますね。
>(略)後には住み手がないので、博物館に致しましたが、その後対馬さんなどが今のような料理屋に致したのです。
やはり、博物館がその後偕楽亭と呼ばれ、いくさんの料亭になったようです。

さて、「金山」の画像、多めに撮ってきたのですが、アルバムにスムーズィーにアップできない状態が続きレスも遅くなりました。
なんとかアップ出来ましたのでご覧ください。
「金山」(宮町)からの札幌市街の眺めです。
コンパスで確認しなかったので正確にどっち方向かは不明です。
撮影時には中央に見える煙突の建物は発寒清掃工場だと思ったのですが、今確認したところ違うようです。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=861 
「手稲ロイヤル病院」。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=862 
その時なんとなく気になって撮っておいたのですが、実はこの病院は「金山」の名前の由来となった手稲鉱山(三菱鉱業株式会社)と深い関連があったのです。
そして、そこには昔、温泉が…。

これが噂の「星置の滝」の入り口(降り口)です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=866 
150m沢に下りるとあるとのことだったのですが、未だ雪が残る状況のためこの日は断念しました。
しかし、雪の上には最近つけられたと思われる足跡があります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=863
 
「星置川」を上から覗いて見ますと、ごらんのような風景が広がります。
向こうに見える橋は札樽道です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=865 
川の向こうは「小樽市星野町」ですね。

ということで、>>184
>星置の滝は小樽市桂岡町内でした。
滝は境界線の「星置川」にあるので、札幌でもあるのではないでしょうか?
191牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/29(月) 20:49:20 ID:NawkAlZ2 [ N046147.ppp.dion.ne.jp ]
>>190 の続き。
このように見ますとこれらの風景、えらく山の中のような印象ですが、附近は実際には住宅街。
「星置の滝」降り口の向かいは「手稲西小」と「手稲西中」です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=867 
住宅街から一歩足を踏み出すと、そこは別世界というロケーションでんがな。

そして、この「手稲西小学校」の裏側(山側)にとある"会館"が建っていたそうですが、今は、丸紅食糧さんの出先が…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=868 

さて、いつもなぜか食いつきの悪い「手稲ネタ」。
どなたか食いついてくれる奇特な方はいらっしゃいませんでしょうか?
192元東月寒人@琴似:2004/03/29(月) 22:53:34 ID:J/maZ5VI [ snjk034k087.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>188
情報ありがとうございます。北海道の鉱山の掲示板があったとは知りませんでした。
私は学生時代、鉱山(応用地質)専攻だったので博物館興味あります。当時は地図を片手に道東の山の中に入っていました。
結局山師にはならずに全然関係ない事やってますが。

>>190
>中央に見える煙突の建物
奥に見えるのは海の様なので下水処理場でしょうか?

>手稲ロイヤル病院
前は手稲ルカ病院でした。八軒にも系列病院あります。

>「星置の滝」の入り口(降り口)
20年前ですが、教会への入口の様だったので、降りて良いのかわからなく、滝は道路から見ました。でも、もっと急な崖のようなところを降りていくと記憶してました。

>「星置川」を上から覗いて見ますと
川縁の建物は教会なんでしょうか?窓が板でふさがれている様に見えますが。
19318丁目:2004/03/30(火) 07:14:01 ID:BpGclzZc [ p1061-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>192
星置川に小さな橋が掛かっていて、渡ると教会です。
降り口の看板は、まるで滝がその教団の所有であるかのような書き方です。

手稲ルカ病院は、滝の沢温泉を三菱鉱山が買い取り、鉱山病院として発足させたのが起源ですね。
いつの間にかロイヤル病院となったのか?

>>190
よく地図を見ると滝は丁度境界線上でした。

星置番地、金山番地、手稲本町番地、冨丘番地、西宮の沢番地の環境に憧れてきている
今日この頃です。
何せ眺望が良いですね。
194木工団地:2004/03/30(火) 07:57:33 ID:uGR1p03. [ ZH001110.ppp.dion.ne.jp ]
木工団地です。「その十弐」で皆様にお相手していただきました。
金山関係でこんなページも発見しました。
「星置の歴史」
http://www.ne.jp/asahi/kirakiland/hosioki/rekisi.htm
『牛鍋蝸牛』さんの仰るとおり星置から分離した地区のようで、星置関係
で探すと「手稲鉱山」ものが少しずつ出てきますね。

幼少の頃は国鉄バスを利用していた為、自分は「手稲金山」より「手稲鉱山」のほうが
親近感があります。

そういえば、山の頂にあったお城?のような鉱山関係の建造物、無くなって
しまいましたねぇ。
195木工団地:2004/03/30(火) 14:49:38 ID:uGR1p03. [ ZH001110.ppp.dion.ne.jp ]
196牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/30(火) 20:30:31 ID:pWGLeZMk [ N044022.ppp.dion.ne.jp ]
「地図と鉱物の博物館」。
地図と鉱物…、どういう博物館で、どういう展示の仕方をするのでしょうねぇ。
手稲石(Teineite)なんてあるのかな?
なんてったって「手稲鉱山」で発見された鉱物ですからね。
ttp://202.224.39.49/~UG7S-KTU/teinei.htm
ま、行って見なけりゃ分かりませんね。
ところで、カブトデコムの旧社屋って、「北1条宮の沢通」のどこにあるのでしょう?
バブルの頃は東京にいたので、同社に関してほとんど無知なワシです。
当時帰省した折、いたるところに同社の建築中のビルがあって、「カブトデコムってなんだ?」と思ったのを思い出しました。

「金山」に戻ります。
手稲ロイヤル病院は>>193の通りでして、昔は「滝の沢温泉」という施設だったそうです。
例の北大アンビシャスサイト(勝手に命名)にも…。
ttp://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B061970000017.html 
「軽川滝の沢温泉観瀾閣」というえらく立派な名前の温泉だったようです。
残念ながら、同サイトには未だ画像はアップされておりません。
以前に「軽川温泉」出来てきていますが、これは「富丘」にあったそうなので、別物です。

滝の沢温泉−手稲鉱山病院−手稲ルカ病院−手稲ロイヤル病院という変遷だそうで、同病院のHP
ttp://www.teine-royal-hp.org/shinryou.htm より、
「当院は1963年、札幌市手稲区に手稲ルカ病院として病床数99床で開設され、市内でも内科系専門病院(主に消化器内科)として古い歴史を有する病院です。(2002年4月「手稲ロイヤル病院」に名称変更)」

>>194−195
木工団地さん、サンクスです。
広報さっぽろの五天山記事は初めて見ました。
史実はかなり調べたつもりでしたが、巻頭の写真や、「効能のある真っ白い水」、「男女の出会いの場であったお祭り」、「老人の幽霊」などエピソードは初耳で、興味深いですね。
逆に「午後5時を過ぎると霊山になり祟られる」という話は出てきていません。
何しろ、今でもそうだということなので、生々しくって載せられなかったのかな(w

さて、実地調査を先行してしまった今回の「金山」ですが、そろそろ、まっとうにその由来を「さっぽろ文庫1札幌地名考」あたりから引用していただける奇特な方、おられないでしょうかねぇ。
もう眠くなってきたし。
197元東月寒人@琴似:2004/03/30(火) 22:04:58 ID:V.pISsK. [ snjk031k061.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>196
カブトデコムの旧社屋は山の手の西端「山の手橋」手前、月山線(福井への近道)の入口付近になります。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=141%2F17%2F16.872&pnf=1&size=500%2C500&nl=43%2F04%2F06.856

金山神社の位置を特定しようと思っているのですが、>>194で紹介されている「星置の歴史」を見ると、滝の沢の辺りにあったように思われます。
「学校(手稲西小)から山側に行くと、ダンプカーで石を運び出している砕石場がありますね。この砕石場の沢の向こうに、金山神社があったのです」
http://www.ne.jp/asahi/kirakiland/hosioki/rekisi/rekisi44.htm

一方、手稲区のサイトでは、滝の沢の辺りから病院の近くに移ったとなっています。
「戦後間もないころ、金山神社は乙女の滝の向い側にあり(中略)その後、鉱山の操業規模が縮小され金山神社がルカ病院の上の辺りに移って」
http://www.city.sapporo.jp/teine/tthanasi/honbun/hanasi15.htm

当初はこの辺りにあったのでしょうか。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=70000&el=141%2F11%2F45.255&pnf=1&size=500%2C500&nl=43%2F06%2F34.419
198元東月寒人@琴似:2004/03/30(火) 22:31:48 ID:ihDx1TNY [ snjk039k057.ppp.infoweb.ne.jp ]
金山神社の位置、良く考えると197は間違いでした。
「金山神社は乙女の滝の向い側」となってるので、神社と滝が相対している場所になると思われます。
そのうち現地にいって確認したいと思います。
19918丁目:2004/03/31(水) 07:06:32 ID:amBLc7pE [ p12234-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>197
>月山線(福井への近道)
琴似さま、あの道路は月山線と言うんですか?
もしかして、その上にある築山牧場と関係がある呼称なのでしょうか?
200牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/31(水) 13:33:25 ID:WsrmcHrw [ N044022.ppp.dion.ne.jp ]
言い忘れていました。
>>194
>そういえば、山の頂にあったお城?のような鉱山関係の建造物、無くなってしまいましたねぇ。

手稲鉱山の星置選鉱場跡でしょうか?
無くなったんですか。
201牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/03/31(水) 14:03:45 ID:WsrmcHrw [ N044022.ppp.dion.ne.jp ]
「金山」。
ここで原点に戻りましょう。いきなり始めちゃったので…。
まずは、「さっぽろ文庫1 さっぽろ地名考」より「手稲金山」。
同所、現在は手稲区です。

「西区管内の最西端に位置する山岳地帯である。以前この地域は、星置の一部とされており、字金山と名称がつけられたのは昭和十七年の字名改正のときからである。
金山はその名のとおり金が採掘された山で、昭和十年(1935)三菱鉱業株式会社が手稲鉱山を創業したことに由来する。同鉱山は二十年の終戦の年まで非常な勢いで発展、全盛期には月産六万トンの金銀を産出、一躍鉱山市街を形成するほどに膨張した。
最初の入植者は安政年間(1854〜1859)で、幕臣の次三男で組織する何人かの在住士族が山に入り、木材の伐り出しを行っている。明治二十年代になると手稲山の地下資源が大いに注目され、とくに金山地区では鉱山採掘を試みる者が多くなり、鳥谷部弥平治ら農夫数名が入山して試掘したが大きな成功はみなかった。その後、大正から昭和にかけて広瀬庄三郎らが鉱山事業を始め、一時は月産約1,000トンを産出したが、労使間の紛争のため三菱鉱業株式会社に売却された。
また、農作物の開墾を試みた者に本間徳市、松下音吉らがいるが、いずれも狭い土地のため失敗している。その後、鉱山の不況と合わせて火が消えたようにさびれてしまったが、現在では民間業者による宅造が進み、札幌の新しい山の手住宅地として再発展を遂げようとしている」
202元東月寒人@琴似:2004/03/31(水) 20:51:34 ID:qd3n7RuU [ snjk033k024.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>199
私も月山線と築山牧場は関係があるとにらんでおり、あそこを通るたびに調べようと思いながら、3年くらい経ってます。
あの辺りの発寒川河川敷は焼肉するのに良いですよ。
203西創成:2004/03/31(水) 23:51:27 ID:X.muWg3Y [ i096229.ap.plala.or.jp ]
>>202
築山線とか、築山通りと呼ぶ人もいますよ。

>ルカ病院
ルカ病院ってなんじゃろねぇと思っていたんです。ようやくわかりました。
204元東月寒人@琴似:2004/04/01(木) 21:16:00 ID:c3ylVjlQ [ snjk035k034.ppp.infoweb.ne.jp ]
金山には他にも地名があったそうです。「星置の歴史」に次の名称が見えます。
 三ツ山、黄金沢(小金沢)、万能沢(万の沢)、紅葉丘、乙女沢、旭丘、星丘、滝の沢、白金町、宮町、滝見町、栄町

>>203
築山線とも書くんですか。正式な読み方は不明ですが、「築山」の「つきやま」が「月山」となったんでしょうか。

余談ですが、そのうち「がっさん」と読む人が現われるかもしれません。
雑誌「日本歴史」新年特集号ではこのような例の紹介があります。

愛知県碧南(へきなん)市など(元の碧海郡)
 「あおみ」の郡→碧海郡→「へきかいのかうり」と検地帳に記載→へつかいぐん
愛知県豊田市幸海(こうかい)町の地名の変遷
 しゃちのみ→酒呑→幸海→幸海(さちのみ)→幸海(こうかい)

この号には、室蘭線「大岸」は「小鉾岸(おぶけし、アイヌ語はオプケウシペ)」から変わったとか、日暮里は新堀から変わったとか、永井荷風の「断腸亭日乗」には、秋葉原(アキバガハラ、アキバッパラ)を「アキハバラ」と読むのは田舎者だと書いてるなど地名に関する話が他にも多く出てます。
205元東月寒人@琴似:2004/04/01(木) 21:49:47 ID:QVJ9OGFA [ snjk032k031.ppp.infoweb.ne.jp ]
大通西7の開拓紀念碑を見てきました。
字体が面白いです。
「開」は「門」の中が「井」に、「念」は「今」の「ラ」の部分が「ニ」に、
「碑」は「卑」の上の部分に点がなく「田」で、下の部分が「牛」の字から下の横棒を取ったような字になってます。

また、右側面には「明治十九年九月建立」と刻まれています。
「明」の「日」の部分に個性があり、「立」の字が他の字より崩されています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=869
206なまら名無し:2004/04/01(木) 23:32:38 ID:r/62vfEU [ i114137.ap.plala.or.jp ]
>>184
星置の滝って、小樽市に面してたんですか?
だとしたら、星野町(でなければ見晴町)かと。
桂岡はもっと西になるので。瑣末な話ですけど。

そういえば、あの辺にあった鉱山に、昔こまどり姉妹が来たことが
あったなんて話を聞きました。
20718丁目:2004/04/02(金) 07:12:08 ID:wxBQXTH. [ p14203-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
208牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/02(金) 09:11:48 ID:lLjelgNU [ N044022.ppp.dion.ne.jp ]
>>206−207
あれ?
>>207の「マピオン」では、「桂岡」ってことになるなぁ。
ワシの契約している「MapFan.Net」では
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=853 
「星野町」になっています。
昭文社の「スーパーマップル広域札幌圏道路地図10,000」でも「星野町」ですよ。
これははっきりさせる必要があります。

>>203
「手稲ロイヤル病院」の前身の件 http://www.hosioki.jp/rekisi/rekisi/rekisi44.htm にありました。
鉱山での労働で出たけが人や硅肺病(けいはいびょう)の患者を診るために出来たのが「手稲鉱山病院」だったのですね。
滝の沢温泉の建物を買い取って病院にし、その後、「手稲ルカ病院」−「手稲ロイヤル」となったということです。

こまどり姉妹、今、飲み屋さんやっているんですね。先日テレビで観ました。
えらく、ばあさんだった…。
ま、天地真理よりましだけど。

「手稲鉱山」には芸能人も多く来たようです。
http://www.city.sapporo.jp/teine/kawaraban/2000dec/05.htm の「協和会館」で公演したようです。
3,000人が入れたというのですが、そりゃ無理だろうと思ったら、やはり実際は1,000人くらいだったそうで。
http://www.galaxy.city.sapporo.jp/teine/genki/yomoyama-02/yomoyama-02.htm (「金山に劇場があった!本当?」 参照のこと)
この協和会館は「手稲西小学校」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=867 の山側にあったということで、先日おそらくこの辺りかな?と思われるところを写真に撮ってきました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=868 
現在は「丸紅食糧」の出先が一軒、ぽつんとあるだけで非常に殺風景な場所です。
「林長二郎一座」もやってきたそうで、
http://www.hosioki.jp/rekisi/rekisi/rekisi44.htm 
「長谷川一夫」ですよ。
「長谷川一夫」自体懐かしいけど、当時も年寄りは確かに「林長二郎」って呼んでいましたね。

ワシ、子供の頃、「豊羽鉱山」に勤めるの母の知り合いの家に夏休みに遊びに行ったことがあります。
その時、同鉱山の夏祭りで「日野てる子オンステージ」を観ました。
思えば鉱山のお祭りって、派手だったんですね。
日野てる子、結構色っぽかったなぁ。
まさに「夏の日の想い出」(w
209:2004/04/02(金) 13:32:28 ID:pxP21Hvk [ p2105-ipad32sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
210:2004/04/02(金) 13:34:14 ID:pxP21Hvk [ p2105-ipad32sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
「開」も「念」も「碑」も少しずつ間違ってますねぇ〜。。。
211元東月寒人@琴似:2004/04/02(金) 21:46:25 ID:eLUkGzvQ [ snjk032k093.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>208
チセイ堂の道路地図では、星置の滝左岸は「見晴町」になってます。
星置南との境界が「星野町」で、金山・手稲金山との境界が「見晴町」といったところです。

昭和48年に小樽市の一部を編入しており、場所を調べているところですが、手元の地形図や「札幌歴史地図」ではよくわかりませんでした。

>>210
異体字と考えた方が良いと思います。
212元東月寒人@琴似:2004/04/03(土) 00:09:53 ID:wwl9gI3U [ snjk043k046.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>208
「稲穂金山よもやま話」面白いですね。
第2集の「金山の「山神さん」って、なーに」では、神社の変遷が。
http://www.galaxy.city.sapporo.jp/teine/genki/yomoyama-02/yomoyama-02.htm
滝見町にも移ったということで、乙女の滝付近→ルカ病院付近→滝見町→手稲神社という流れが考えられます。

第3集の「星置川にまつわるお話」、「星置」の由来は流れ星、滝はその落下でできたそうで、他に、黒い大蛇の話、白い蛇の話、龍神の話も。
http://www.galaxy.city.sapporo.jp/teine/genki/02yomo3kae/02yomoyama3.htm

第4集の「なぜ乙女の滝っていうの」には物語のような説が載ってます。
(物語の時代は手稲鉱山が盛んな頃であり「滝の沢」の名称はあったと思いますが、娘が入った川を「万能沢の川」としているのは疑問です。)
http://www.galaxy.city.sapporo.jp/teine/genki/yomoyama-04/03YOMOYAMA-DAI4SYUU.htm
「札幌知名考」では「澄みきった大自然と、けがれない岩清水をたたえて呼んだものと思われる」となってます。
213牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/03(土) 01:00:12 ID:Te5Jakng [ N044022.ppp.dion.ne.jp ]
>>210
書体の違いですね。
所謂「字典」というので探すと出ていると思います。
たとえば、「碑」ですが、かなりツライけどここの写真に…。
http://www.nigensha.co.jp/shodo/bk_info.html?2016&INF=1488
左側ね。
 
>>212
「稲穂金山よもやま話」の第1集〜第4集、持っています。
以前に手稲区役所でもらいました。
でも、第1集は現物が切れていて、先方でコピーしたものです。
他にもあそこでは、「手稲区マップ」とかいろいろ貰えます。

あ、さて。
「星置の滝」が、小樽の住所表示ではどこに当たるのか。
こんな簡単そうなことが分からないというのが、オツですな。
自分自身、言っている意味よくわかりませんが(w
214元東月寒人@琴似:2004/04/03(土) 10:58:01 ID:xaiF4Rfw [ snjk036k034.ppp.infoweb.ne.jp ]
お詫びと訂正
>>205の開拓紀念碑の場所は大通6丁目(北側)です。失礼しました。

>>213
牛鍋蝸牛さんの検索力はすごいですね。
サンプル画像の「碑」の字を発見するとは。
215牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/03(土) 21:14:38 ID:Te5Jakng [ N044022.ppp.dion.ne.jp ]
「星置の滝」の小樽側の住所、図書館で調べてみました。
あ、ただ単に「ゼンリン住宅地図 小樽200306」を見ただけです。
こいつによると、同滝の住所は「星野町」であります。
実はこの滝、住所表示上でも重要なようです。
「星置川」を境界に、この滝の南側が札幌市で北側が小樽となっているのです。
いわばランドマーク。

で、ついでにあることに気が付きました。
遅くてすまんこってすが、>>193の18丁目さんレス。
>星置川に小さな橋が掛かっていて、渡ると教会です。
>降り口の看板は、まるで滝がその教団の所有であるかのような書き方です。

18丁目さん、ワシも同じように思っていたのです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=866 
を見ますと、確かにこう感じられる方がほとんどかと思います。
ところが、「ゼンリン住宅地図」にはこの"教会"、「星置の瀧 金子教會」となっております。

「さっぽろ文庫1 札幌地名考」では「星置の滝」の説明として、
「(略)この滝の下にも金子教会の研修所があって、毎年例祭、大祭が行われている」とあります。
「この滝にも」は同書前項の「平和の滝」の、「ここには身延山の支院と、滝道場があり」に掛かるのだと思うのですが、そうなると「星置の滝」の「金子教会」もこの滝を使った、「滝道場」であることになります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=866 の看板は、「金子教会」滝を私物化しているような誤解を受けるような書き方になっていますが、実はそうではなく「星置の瀧金子教會」が一つのワードってことらしいです。
「北海道日本ハムファイターズ」といっても北海道が日本ハムの所有物ではなく、それで一つの名称であるのと同じことなのです。
「星置の瀧」を大きく書いて、「金子教會」を小さく書くから滝の私物化と思われるんだよなぁ(w
216牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/03(土) 21:45:15 ID:cDzAVZSA [ U125112.ppp.dion.ne.jp ]
>>214
どうも、どうも。
ワシ、褒められると調子に乗るから、気を付けたほうが良いですよ(w

「開拓紀念碑」は、榎本武明の書らしいですね。
で、図書館で字典をひも解きますと、「開」と「碑」は「俗字」ということでした。
「正しくはないけど、世の中で使われている字」だそうです。
最近は見ませんね。

「地図と鉱物の博物館」のことですが、今日行って見ました。
まだ工事中でしたが、正しくは「地図と鉱石の 山の手博物館」でした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=870 
微妙に違っていましたね。

みやま書房から昭和58年に出た、「さっぽろ雑学ノート」(武井時紀著)に「金山」から出た、「手稲石」の話があります。
「世界ではじめての発見『手稲石』」
「手稲石は世界的に著名の鉱物である。手稲鉱山に産する。昭和十四年北大吉村豊文氏によって発見されたテルル鉱物である」

この文章の最後に、
「最近産業古学の立場から、産業記念物の保存、研究が行われていると聞く。(中略)鉱物施設は破壊と損乏のおそれが多く、しかも巨大で、かつ動かし難い。鉱山は一般に交通不便のところにあることが多い。幸い手稲鉱山は札幌市内である。せめて産出する鉱物や使用した器械器具などを保存展示するところが欲しいものである」

「手稲」からはちょいと離れてはおりますが、「地図と鉱石の 山の手博物館」、武井さんの期待に応えることが出来るかな?と思ったら、この方、秋田鉱山専門学校(現秋田大学鉱山学科)卒で、札幌市内の高校校長だった方だそうなのですが、住所が「西区山の手」とのこと…。
もしかして、「山の手博物館」の関係の方??
217牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/03(土) 21:52:03 ID:cDzAVZSA [ U125112.ppp.dion.ne.jp ]
話は戻って、「金子教會」とは何ぞや?とお思いの方も多いかと…。
「手稲町誌」(昭和43年)には、
「所在地−小樽市銭函町 宗派−神道 実行教 本山−埼玉県大宮市 実行教」とあります。
他に、「創始−昭和三十六年八月一日 本道着工−十月三十一日竣工」などとも…。
「教会」といってもキリストではなく、神道の方でした。
滝に打たれる必要があるのだから、滝のそばにあって当然ですなぁ。
21818丁目:2004/04/04(日) 07:15:08 ID:h4wpzYwU [ p5042-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
星置の滝の住所は金山と星野町ということでよろしいのでしょうか。
マピオンだけが何故か間違っているということで。
>>215
牛鍋さん なーるほど神道ね。
金子教会も写っている航空写真を置いておきます。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CHO-76-6&PCN=C5A&IDX=11
219なまら名無し:2004/04/04(日) 18:47:10 ID:Jc/s093o [ usen-43x232x120x250.ap-USEN.usen.ad.jp ]
武井時紀の本は読まない方がいいと思われ
他人の著作の剽窃と、自慢話のオンパレードで、読んでて胸が悪くなってくる
この人物の頭の中にあるのは自己顕示欲だけ
220牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/05(月) 21:20:01 ID:H1cpru1k [ L066190.ppp.dion.ne.jp ]
ワシは普段から寝不足気味の生活を送っておりますが、昨日から今日にかけ、それに輪をかけた状態でおります。
もう頭痛いです。
ということで、「地図と鉱石の 山の手博物館」脇から西野福井方面へ向かう、「月山(築山)線」の画像のアップで失礼します。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=871
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=872
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=873

では…、おやすみなさい。(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
22118丁目:2004/04/05(月) 22:22:58 ID:vZPYvKjc [ p20035-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
私も約1年半前から気になっていた築山(地名ではないが)です。
その弐ですでに前振りしていたのです。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/2_log.html#188
222牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/06(火) 21:30:23 ID:wFy9ukko [ L066190.ppp.dion.ne.jp ]
だめだ、まだ眠い…。
今のところ季刊誌の「札幌人」、今月の22日発売予定です!!
223元東月寒人@琴似:2004/04/06(火) 23:25:03 ID:yboZpsOI [ snjk033k004.ppp.infoweb.ne.jp ]
乙女の滝の調査をしようと思い、1/25,000地形図を買いに行ったら、新しい規格の地形図が出てました。
(記号が新設、字体の変更、表示範囲が広くなっているなど)
札幌周辺では「定山渓」が新規格になっていたので購入しました。
それを見ていたら、次のような地名表示がありました。
既出の地名ですが、住居表示にない地名も地形図にはあるということを改めて認識。
白井川、小樽内、薄別、一番通、二番通、滝ノ沢、盤ノ沢、中ノ沢、板割沢

「地図と鉱石の 山の手博物館」は今月下旬オープン予定と、夕刊の山の手界隈マップに載ってました。
224なまら名無し:2004/04/07(水) 00:52:56 ID:sHh7bs5c [ t597169.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
ここを見て手稲に興味をもったのですが、
区画の仕方が不思議な所があったので書きます
(特に手稲稲穂は稲穂の中に入ってもいいのでは?と思ったのですが
何か理由があるのでしょうか)
手稲稲穂
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=MapionBB&uc=1&scl=25000&el=141%2F12%2F53.045&pnf=1&size=954,768&nl=43%2F07%2F13.094&coco=43/07/13.094,141/12/53.045&icon=map_icon_11,0,,,,
手稲星置
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=MapionBB&uc=1&scl=25000&el=141%2F11%2F37.741&pnf=1&size=954,768&nl=43%2F08%2F03.922&coco=43/08/03.922,141/11/37.741&icon=map_icon_11,0,,,,
225なまら名無し:2004/04/07(水) 20:47:59 ID:EZKQ/XSs [ YahooBB219041108150.bbtec.net ]
鷹栖町と旭川市東鷹栖とか・・・とは違いますよね

お後がよろしいようで・・・
226牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/08(木) 07:23:56 ID:adK5B.fI [ N047124.ppp.dion.ne.jp ]
>>225
残念ながら…。

>>224
ご質問の答えになるかどうかは分かりませんが、こんなことを考えてみました。
以前「手稲前田」をやった際に、手稲区の住所にある「手稲区手稲○○」と「手稲区○○」の違いについて触れました。
結論は出せなかったのですが、市街化調整区域が「手稲区手稲○○」という表示になるのでは?と推理しました。
その七の#258〜260辺りをご覧いただきたい。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/7_log.html#258 

この時は手稲区役所の公聴課で質問したのですが、今考えてみるとここで訊いたのは間違いだったかもしれません。
「しかるべき部署へ行くべきであった」と思っています。
ま、今からでも遅くはないけど(w 

ただ、区役所でいただける「手稲区ガイド」(平成14年)にもはっきりと描かれているのは、「手稲区手稲○○」の軒番は「番地」であるということです。
「手稲区稲穂」であればその下が「○条○丁目」になりますが、「手稲区稲穂」は「○番地」の表示。
ご存知でしょうが、念のため。 <つづく>
227牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/08(木) 07:24:48 ID:adK5B.fI [ N047124.ppp.dion.ne.jp ]
さて、ご指摘の「手稲稲穂」。
このあたりは東洋一といわれた「星置選鉱場」の真下にあり、かつては「手稲鉱山」の一部であったようです。
昭和25年当時の地図です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=874 
ちょうど、「手稲鉱山」と書かれたすぐ西側の道路下が「手稲稲穂」にあたります。

隣接する「稲穂5条7丁目」は現在、完全なる住宅街で、眼下には「金山パーキングエリア」が見渡せるところです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=875 
でも、「手稲稲穂」は今でも山そのもので、道路もろくについていません。
上の写真は4月3日、二回目の金山実地調査の際に撮影したものです。
しかし、この時でも「手稲稲穂」側は山陰の道路に雪が残っており、すでに夏タイヤにしてしまった新車、国産メルセデスでチャレンジする気は起きませんでした。

「現・稲穂5条」は2丁目から7丁目まであります。
地図で確認しますと面白いように「稲穂5条」は、札樽道にへばりつく形で「手稲本町」から「金山」に繋がっております。
「角川日本地名辞典 北海道上巻」(昭和62年)によりますと、「稲穂5条」は、
「昭和59年〜現在の西区の町名。2〜7丁目がある。もとは西区手稲稲穂・手稲本町・手稲金山の各一部」となっております。
このあたりの開発が進むつれ「稲穂」になっていったと解釈すれば、将来的には「手稲稲穂」も「稲穂」になるかもしれません。

「手稲星置」の件ですが、現在「星観緑地」と呼ばれるところだそうです。
http://www.ne.jp/asahi/north/dreams/hosimir.htm 
ということで、ここは将来的にも「手稲星置」で行くんでしょうね。
と、こんなのでOKでしょうか?
228なまら名無し:2004/04/08(木) 17:29:04 ID:/9RH0j02 [ YahooBB219003162167.bbtec.net ]
>>224-227

牛鍋さんの解説で間違ってはいないのですが、もっとわかりやすく書くと

旧手稲町から札幌市へ編入した際、元々の住所に手稲をかぶせた。
例えば 手稲町稲穂○○番地→手稲稲穂○○番地
(当時は「手稲区」の呼称がなかったため。現在でも旧清水市が静岡市と
合併した際、静岡市清水××とつけているのと同じようなもの)
 札幌市に編入後、地番から条丁目の住居表示に整備されて行くに従い
頭に「手稲」のついた地名は徐々に整理されて行ったが、
調整区域など、さしあたり地名整備の必要のないところは
残されているというところでは。
229牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/08(木) 18:46:42 ID:kFyrKDy. [ U120085.ppp.dion.ne.jp ]
>>228
実は地図でその変遷を確認したかったのですが、手元のもので役に立つ地図がありませんでした。
ということで、裏を取れなかったのです。
トホホです。

今日、この二つの地区に実地調査へ行ってきました。
画像・レポートは後ほど…。
う〜ん、今日は無理かな?
230元東月寒人@琴似:2004/04/08(木) 22:48:46 ID:mmwMBRdk [ snjk039k063.ppp.infoweb.ne.jp ]
昭和50年頃の地図では、手稲稲穂、手稲星置、手稲金山
平成4年頃の地図では、稲穂条丁目、星置条丁目、手稲星置(現在の星置南付近)、手稲金山(現在の金山条丁目を含む)となってます。

>>225
旭川は札幌と同様、周辺町村を編入して大きくなってます。
編入した町村は、神居村、江丹別村、永山町、東旭川町、神楽町、東鷹栖町
鷹栖町は江丹別村と東鷹栖町の間に位置してますが、編入されなかったようです。
ちなみに、江丹別は蕎麦で有名となりました。
確か、農協の側に蕎麦屋があったはず。(5年前の話)
231牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/09(金) 05:11:19 ID:CAAx0lpc [ U120085.ppp.dion.ne.jp ]
>>224さんの疑問にお答えすべく、実地調査実施しました「手稲稲穂」と「手稲星置」。
まずは「手稲星置」ですが、最寄駅は「JRほしみ駅」となります。
駅名では「ほしみ」はあっても住所で「ほしみ」はないということを改めて確認しました。しかも、「ほしみ」はずっと「星見」だと思っていましたら、橋の名前などから「星観」であることにも気づかされました。

実は既出の「金山パーキングエリア」は「稲穂」にあったりします。
手稲区って他地域から比べると割とお手軽に住所表示が変えている印象があります。
(現実に則してだから一概に悪いとは思わないけど…)
ということで手稲区、落とし穴がいっぱいありますので、注意が必要です。
もしかしたら、「手稲区星観」という住所が将来できるかもしれません。

「JRほしみ駅」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=882 
駅の北側はご覧のとおりただいま分譲中です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=881 
ここは「星置1条9丁目」に当たるようです。

で、看板が…。
♪"ほ"のない将棋はぁ、負け将棋ぃ〜…
あれ?"へ"だったかな?
(真面目に、それは"ふ"です…とかレスしないように)

駅の北側がすぐ「手稲星置」。
ここは「星観緑地」といいまして、公園(造成中?)になっていました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=880  http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=877 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=879 
西側は小樽市の銭函工業団地になっていますので、工場がいくつも見えます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=878 
「星置川」の東岸まではすでに住宅が建ち並んでいました。
ということで、これからどれだけ経っても「星観緑地」があるかぎり、ここは条丁目表示にはならないようですね。
なにはともあれ海風のせいか、とっても寒かったですわ。
232224:2004/04/09(金) 16:57:12 ID:3vReNugA [ t083248.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
>>226-231
ありがとうございます。
余談ながら手稲星置は他にもありまして、
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=MapionBB&uc=1&scl=25000&el=141%2F12%2F39.247&pnf=1&size=954,768&nl=43%2F08%2F15.900&coco=43/08/15.900,141/12/39.247&icon=map_icon_11,0,,,,
の街路内側部分(北は手稲山口、後は星置○条〜)
もう少し小さいものだと
http://www.chizumaru.com/ch/dsp.htm?name=%8E%E8%88%EE%90%AF%92u&mode=0&func=3&cset=2&wid=350&hei=350&tab=live2003&lk=ALL&submit.x=16&submit.y=16

昔からある土地は、あなどれませんね・・・実地調査寒い中どうもご苦労さまでした。では
233232:2004/04/09(金) 17:12:47 ID:3vReNugA [ t083248.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
234牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/09(金) 18:13:53 ID:LRPu2ZM2 [ N045087.ppp.dion.ne.jp ]
>>232
う〜ん、手稲区ってやることが徹底していますね。
ここも怪しいですね。
何があるんでしょう?

あ!
まだ「手稲稲穂」があるじゃないですか。
なんですが、今日飲みすぎでだめです。
寝ます…。(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
23518丁目:2004/04/10(土) 08:29:34 ID:Bfcee/rE [ p6030-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
本当にていねっていいね。

山の手博物館 開いたかどうか行ってみます。
236牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/10(土) 09:55:16 ID:TwIOJcBU [ N045087.ppp.dion.ne.jp ]
>>235
山の手博物館のオープンは4月27日のはず。
23718丁目:2004/04/10(土) 13:45:35 ID:mKxwHqFo [ p20166-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ただいま、牛さん早く言ってよ。
昼寝しよ・・・
238なまら名無し:2004/04/10(土) 17:53:26 ID:PW/mf0p6 [ YahooBB220040056129.bbtec.net ]
現地の方に質問
真駒内の五輪団地ってどの様な感じ?でしょうか。

マジレスキボン
教えて訓スマソ
239なまら名無し:2004/04/10(土) 20:56:46 ID:tsSEhGiA [ EATcf-512p175.ppp15.odn.ne.jp ]
>>238
それだけじゃ答えられんべ。
このスレで聞くとジャネットリンとか出てくるぞ。
240牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/10(土) 20:57:17 ID:TwIOJcBU [ N045087.ppp.dion.ne.jp ]
「手稲稲穂」の実地調査報告です。
ま、現地の画像を見ていただきましょう。
「手稲稲穂」と「稲穂5条7丁目」の比較。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=883
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=884
もちろん、家の建っているほうが「稲穂5条7丁目」、山が「手稲稲穂」。
「手稲稲穂」にはこのような看板が立っておりました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=885 
現在地は左側の川の最下流です。
茶色の線が「砂防指定地域」というやつだそうで、現在地からやや上流のムカデのようなマークが第1号から第3号までの「多段落差工」というやつ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=886 
脇にフキノトウが顔を出しておりましたが、取って帰って天婦羅っ…てのは、止めた方がいいかもしれません。
なんといっても、かつてはここら辺一体にも「手稲鉱山」の施設があったのですから。
その名残りが…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=887 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=888 
この上にあったコンクリート製の巨大な「手稲鉱山星置選鉱場」の建物は、木工団地さんのご指摘のとおり見事になくなっていました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=876 
このような状態の「手稲稲穂」。
ここに将来、人が住めるかどうかはワシには分かりません。

>>283
現地の人間ではないのでお答えしませんが、もうちょっと具体的に聞かれたほうがよろしいかと。
お引越しでもされるのでしょうかねぇ。
>>237
お〜。すまん、すまん。
241牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/10(土) 20:58:20 ID:TwIOJcBU [ N045087.ppp.dion.ne.jp ]
>>239
ナイス!
242牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/10(土) 21:15:30 ID:TwIOJcBU [ N045087.ppp.dion.ne.jp ]
>>240の、
>>283
現地の人間ではないのでお答えしませんが、もうちょっと具体的に聞かれたほうがよろしいかと。
お引越しでもされるのでしょうかねぇ。

は、近未来のレスでした。
正しくは>>238へ、です。
243なまら名無し:2004/04/11(日) 10:22:25 ID:pofNzv5E [ p1033-ipbf09sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>78
亀レスだが・・・「札幌百年の人」もあまりいい本だとは言えない。
元北大総長佐藤昌介氏の息子で、日本スキー協会会長などをつとめ、
1940年の札幌五輪(中止)の招致に尽力した稲田昌稙氏や、
大正末期から昭和20年まで北海タイムス・北海道新聞の社長を務めた阿部良夫氏、
札幌出身の法学者で、早大総長も務めた中野登美雄氏などについて、
一切触れていないのは少し問題があると思う。
244牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/11(日) 21:24:28 ID:jbA1F1xM [ y065043.ppp.dion.ne.jp ]
「金山」から「星置」にかけて調べておりますが、元東月寒人@琴似さんが>>211でさらぁ〜っと触れられております「星置南」もかなり不思議なところであります。

「金山」と「星置」と小樽市に挟まれた、ごくごく狭い地域でありまして、1条〜3条までしかない、かなりなマイナー地名とお見受けしました。
こんなことを言っちゃったらなんなのですが、小さな声で言いますと、はっきり言って、こんなの「金山」か「星置」に入れちゃえば良かったものを…、と思ってしまったのですが、あ、いやね、ま、これは聞かなかったことにしてください。
とにもかくにも、なぜ、ここはこうなっちゃたのか。
とぉ〜っても気になるっす。
245牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/11(日) 21:32:57 ID:jbA1F1xM [ y065043.ppp.dion.ne.jp ]
>>244の訂正です。
「星置南」は条表示ではなく、丁目のみの表示でした。
つまり、1丁目〜3丁目しかないようです。
いよいよ、怪しい…。
246なまら名無し:2004/04/11(日) 22:43:19 ID:yu6I/FBE [ t075198.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
>>245
4丁目もありますよ
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=MapionBB&uc=1&scl=25000&el=141%2F12%2F05.907&pnf=1&size=954,768&nl=43%2F07%2F36.908&coco=43/07/36.908,141/12/05.907&icon=map_icon_11,0,,,,
それにしても、ほしみ駅の位置は微妙な所にありますね
星野町に住んでいる知人のところへ行く際は、ほしみ駅だと駅までの道がかなり遠回りなので
星置駅から迎えに来てもらう方が早いです
何故この場所に建てたのか不思議・・・余談ですが
247元東月寒人@琴似:2004/04/12(月) 06:36:13 ID:meYjt5GQ [ snjk040k061.ppp.infoweb.ne.jp ]
星置南には、星置神社があるので、場所的には結構重要と思います。

ほしみ駅から銭函にかけての市道と橋(札幌市側)は、設置が遅れたというのを新聞で読んだ記憶があります。
札幌市にはメリットがないとかいうことだったような。
駅自体も札幌市民向けに北(星置条丁目側)に向いてますし。
248牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/12(月) 06:43:55 ID:Vo9qP9x2 [ y064064.ppp.dion.ne.jp ]
>>246さん。
こりゃ、失礼しました。
確かに「JRほしみ駅」の南側から5号線までは「星置南4丁目」でした。
ご指摘ありがとうございます。

こちらも余談ですが、ご提示いただいたMapionの地図で最初見たときは「星置南1丁目」の東側のことをおっしゃっておられるのかと思いました。
ここは「金山1条4丁目」ですね。
自分で間違えておいてこんなことを言ってはなんなんですが、Mpionの地図ではその境界線が描かれていませんので紛らわしいですね。

>何故この場所に建てたのか不思議
なるほど、何故なのでしょう?
しかも、道路からアクセスが悪いとなると…。
「星置南」の名前のつけられ方が不自然なのも「ほしみ駅」に由来するのでしょうか?
249牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/12(月) 07:12:14 ID:Vo9qP9x2 [ y064064.ppp.dion.ne.jp ]
元東月寒人@琴似さんも朝早いなぁ〜(w

現在のネタの「金山」からちょっとずれますが、実地調査の必要ありですね。
札幌の他地域に比較して、手稲のこの辺りは近隣地区とのつながりが深いという印象があります。
ということで、これもありかなと。
そうそう、「手稲鉱山」と「運転免許試験場」(旧・曲長農場)にとあるエピソードがあることを発見しました。
話があちこちに行くのでこれは一段落付いてから書きます。

「星置南」の地図(「手稲区ガイド」より)をアップしました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=894
ご覧ください。
250牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/12(月) 21:50:42 ID:zm4O9eeA [ U124101.ppp.dion.ne.jp ]
特に元東月寒陣@琴似さん、略して月琴(つきこと)さんへ。
金山神社の画像を入手しましたのでアップしました。
かなりの急傾斜地に建っております。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=895

この神社跡是非探していただきたいし、「乙女の滝」へも実地調査していただきたいのですが、熊に警戒が必要なようです。
お気をつけください。

そして、>>182の>「宮町浄水場」は、手稲町時代「金山浄水場」だったようです
の件ですが、上記写真の出所である「手稲開基110年誌 手稲の今昔」にその話が出ていました。
この本、円山の「古本のらくだや」さんにて購入しました。
はっきり言って、かなりの資料であります。
らくだやさんは、行くと掘り出し物が一冊くらいはあったりするお店です。
251元東月寒人@琴似:2004/04/13(火) 04:14:15 ID:IsfRbaYk [ snjk043k060.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>249
最近、9時に寝て5時に起きるという超健康的な生活を送ってます。

山の手博物館のオープン情報が、鉱山の掲示板に追加されてました。
http://www.atz.jp/~ex212/cgi/bbs/mibbs.cgi?mo=p&fo=25&tn=0029

チラシの画像もアップされてます。
http://hp10.e-notice.ne.jp/~kage/cgibin/imgbbs/100/index.html#1
http://hp10.e-notice.ne.jp/~kage/cgibin/imgbbs/img/img1081517704.jpg
252元東月寒人@琴似:2004/04/13(火) 04:26:43 ID:f.Ys840s [ snjk036k091.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>250
画像ありがとうございます。
角度が急過ぎで、雪があったら、滑り落ちそう。
なだれの危険もあるので、現地調査はもうしばらく待ってみます。

円山の「古本のらくだや」さんは、たまにチェックしてますが、良いところです。
253牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/14(水) 05:52:57 ID:b3HOk.cM [ U123156.ppp.dion.ne.jp ]
「その八」の#29で西創成さんが「曲長(かねちょう)通」のことを書かれていました。
「下手稲通」を中心部から小樽方面へ向かい、手稲の「運転免許試験場」を通り越し「手稲自動車学校」手前の丁字路から函館本線へ向うさしたる距離もない通りなのですが、「札幌地名考」によると「山口と手稲市街を結ぶ主要道路として重要な役割を果たしてきた」という道路です。
その名前の由来となった「曲長農場」のことが「手稲開基110年誌 手稲の今昔」(手稲連合町内連絡協議会 昭和56年)に出ていました。
「手稲鉱山」とのつながりがあったということなのでご紹介します。

「明治中期より昭和12年まで、この稲穂地区に、曲長農場と言う面積130町歩の農場があった事は今では知る人も少なくなった。
地主は札幌市南3条東2丁目酒造業本間長助氏であった。
昭和10年手稲鉱山を開業した三菱金属鉱業株式会社は、大規模産金事業を遂行する為には、選鉱した後の大量の鉱滓を捨てる場所を物色していたが、金山の直下にある曲長農場に目をつけた。昭和12年買収交渉に入り全農場の買収に成功した。そしてここに鉱滓を沈殿するダムを建設した。その面積40町歩である」
254牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/14(水) 06:21:18 ID:b3HOk.cM [ U123156.ppp.dion.ne.jp ]
>>253の続き。
「曲長農場」にいた6戸の農家は富山県人の入植者であり、農場解散の折は涙ながらに各地へ散っていったそうです。

「現在は三菱の産金事業も過去の夢となり、6戸の人々の生活の場であり、希望のユートピアも、一部は国鉄運転区の車両基地となり、一部は道警の自動車試験場となり残余の土地は市街化調整区域の中にあり乍ら、すすき、よもぎの茂るに任せた不毛の地となっている」
1町歩=3,000坪なので12万坪の広さの"ダム"があったのですね。
運転免許試験場あたりが盛り上がっているのはそのせい?
255牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/14(水) 11:14:47 ID:b3HOk.cM [ U123156.ppp.dion.ne.jp ]
「宮町浄水場」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=857
ここは旧地名がそのまま使われているという、一風変った公共施設です。
手稲町のころは「金山浄水場」あったということだったのですが、その変遷が分かりましたので書きます。

「宮町浄水場の歴史は、手稲町の水道の歴史でもある」という書き出しで始まる、「手稲開基110年誌 手稲の今昔」(手稲連合町内連絡協議会 昭和56年)の「宮町浄水場」の要約。

「星置川の水利権は三菱鉱業所が取得していたので、手稲町としては手に入れようがなかった。三菱手稲鉱山閉山という事態になり、手稲町は水利権の譲渡を三菱鉱業に懇請したが三菱では種々の事情からそれに応じず、交渉は行き詰っていた。
三菱は鉱山住宅を道に売却することにしたが、道が出した条件の一つに水道完備という問題があった。水道設備と整備が出来なければ買い入れられないということで、完全閉山後の管理は無理と判断した三菱鉱業は、遂に星置川の水利権と水道設備一切を手稲町に寄付する事になった。
昭和28年、星置川の水利権と水道設備は手稲町のものになり、昭和30年には配水管工事、沈殿池工事が終了、金山浄水場として手稲本町への給水を開始した。その後工事が進められ、昭和53年宮町浄水場として新設された」

なぜ、「金山浄水場」がわざわざ新設の際に、旧地名である「宮町」になったのかという謎は残りますね。
こういうことが気になるんだよな。病気かな?
256元東月寒人@琴似:2004/04/15(木) 05:50:22 ID:HuQNnyek [ snjk036k035.ppp.infoweb.ne.jp ]
「金山」という地名は、昭和17年に付けられましたが(>>201)、18年以降、鉱山が金から銅に転換していくというのは、歴史のいたずらのような感じがします。
(「手稲でみつけた手稲のはなし」の「三菱鉱業時代の手稲鉱山操業概況」)
http://www.city.sapporo.jp/teine/tthanasi/honbun/hanasi15.htm

さっぽろ文庫「さっぽろ地名考」では、「三菱鉱業株式会社が手稲鉱山を創業したことに由来する」となってます。
ただ、それ以前から金の採掘を行っているので、「由来」はもっと遡っても良いかと思いますが。

「手稲でみつけた手稲のはなし」では、「大正に入り、元道庁の技師、石川貞治が鉱業権を取得、開発に乗り出します。このとき、手稲鉱山と命名。滝ノ沢川上流の黄金沢(こがねざわ)と呼ばれるあたりの金鉱を見つけ」とあり、三菱以前から「手稲鉱山」の名称はあったようです。

「星置の歴史」では、「開墾が始まると、星置川で砂金を取ったり、手稲山から米粒くらいの金を発見する人が出てきたのです。そのうちに、金の取れる場所を金の山、きんざんと言うようになりました」とあり、いつから「きんざん」と言っていたのかは不明ですか、三菱以前の可能性があります。
http://www.ne.jp/asahi/kirakiland/hosioki/rekisi/kouzan.htm
257牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/15(木) 08:24:55 ID:as4aayrg [ U125034.ppp.dion.ne.jp ]
「金山」の命名に付きましても「手稲開基110年誌 手稲の今昔」(昭和56年)の「金山と言う地名」より引用要約させていただきます。
(1,300円安かったかも〜♪)

「金山と言う地名は、どこから来たか定かではないが、この地区は嘗っては星置や稲穂の一部で、現に小学校や幼稚園等も星置の名がついていた。
安政4年山岡精次郎が、稲穂、星置の開墾に従事したと史書に記されているが、それ以前から、金鉱探検に幾人かの人が、入山していたことも想像出来る。
(略)
こうした星置の一角を、誰言うことなく金の山、きんざん、と言う様になり、三菱金属鉱業が本格的な産金事業に乗り出すと、益々金山の名に相応しくなり、昭和17年字名改正の時正式に金山と名付けられたものである。
かなやまとも、きんざんとも呼び、どちらが正しいか不明だが、最近かなやまと呼名が方向づけられて来た様だ。
昨年国鉄バス停留所が、金山変電所前に出来"手稲かなやま"と名付けられた」

ということで、「金山」という地名は古来あったようですが、「かなやま」という呼名が定着したのは1980年代あたりらしい。
これは意外な発見でした。
そいえば、昨日の道新に「麻生」の呼名の件が出ていて、HBCラジオ「カーナビラジオ午後一番」でも取り上げられていました。
「あざぶ」か「あさぶ」か。
ま、本スレの住民の方はご存知のように、なんたって歴史的に「あさぶ」が正しいのですけど。
258牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/15(木) 08:26:00 ID:as4aayrg [ U125034.ppp.dion.ne.jp ]
昨日、「星置南」の実地調査を決行しました。
詳しいレポートは後程しますが、「JRほしみ駅」、面白かったです。
札幌から車で国道5号線を走っていくと、一旦小樽に入ってから再び札幌に入られければたどり着けない不思議な立地になっておりました。
しかもその間、1分もかからないでしょうね(W
>>246さんのおっしゃる意味が良く分かりましたよ。

http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=894 をご覧いただきたいのですが、ほしみ駅の"駅前通"は「ほしみ駅南通」。
この駅前通には所謂「商店街」というものがありません。
店が一軒しかないからね。
「居酒屋くまさん」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=896
259業務連絡:2004/04/15(木) 09:41:06 ID:Wu6A0JcI [ 135.64.111.219.dy.bbexcite.jp ]
牛鍋さん初めまして!私は例のあの雑誌の表紙の絵を描いてます。発売楽しみですね。
今後ともどうぞ宜しくお願いします。
260とろんとろん:2004/04/15(木) 15:11:18 ID:582cFl2. [ SODfa-01p8-105.ppp11.odn.ad.jp ]
さてお話は「その11」の頃の話になるわけですが……。
「その11」の156で本村@18丁目さんの云われていた
「オヨヨ通り」や「東映仲町」の件なのですが、詳しい記述を
現在朝日新聞の夕刊火曜日連載の和田由美「さっぽろ喫茶店グラフィティー」に
見つけたのでここに記しておく。

(3月30日付「VIDERO」の回より)
タウン情報誌の編集長をしていた70年代半ば、四丁目プラザ裏の
南1条と2条の間の仲通りがとても面白かった。西4丁目から7丁目
までユニークな喫茶店や洋食店などが軒を並べ、横丁には小さな飲み屋が
密集した東映仲町もあった。何かが起きそうな余りに面白い通りなので、
勝手に名前をつけようと、編集部でアイデアを出しあったときスタッフ
から出たのが、当時、桂三枝が流行させていた「オヨヨ」。語感が良く、
私自身がオヨヨシリーズを書いた作家・小林信彦さんのファンだった
こともあり、「オヨヨ通り」と命名した。知る人ぞ知る
”オヨヨ通り誕生秘話”である。

(4月6日付「AGIT」の回より)
通称「オヨヨ通り」5丁目の南側に面した東映仲町には、かつて
映像作家の中島洋さんが営む居酒屋「エルフィンランド」を始め、
幾つもの小さな店が軒を並べていた。昨年(2003年)3月に
閉館した東映劇場の裏手に当たり、私と同世代で創造的な活動を
目指していた人なら、一度は足を踏み入れたことがあるはずだ。
その東映仲町の一番奥にあったのが、ジャズ喫茶「AGIT」。
(中略)
やがて仲町自体の立ち退きで、82年に閉店せざるを得なかった。

ちなみにですが、以前西創成さんが言われていた通り、和田由美さんは
亜璃西社の代表取締役(1988年から。前身は、編集工房「プロジェクトハウス
亜璃西」[1977−1988]、元ステージガイド札幌の発行人)です。
261牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/15(木) 22:19:41 ID:m1zWYxXQ [ x086149.ppp.dion.ne.jp ]
>>259 業務連絡さん。
お待ちしておりました。
ワシも札幌の街を車で流しながら、味のある建物や街角をそれとなく探しています。
今度発見したら、報告します。
皆さん、改めて告知します。

…あ、そうそう。
残念な報告からします。
今日通りかかったところ、「中央区南6条西20丁目」の北大名誉教授 故大原達(とおる)さんのお宅がきれいさっぱり取り壊されていました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=899 
昭和2(1927)年の昭和初期モダンリビングの建物だったそうで、とっても残念です。
実はワシは子供の頃、同住所に住んでおり、よくこの庭に忍び込んで遊んでいました。
ごめんなさい。
古いお宅は札幌市内に数多くあれども、これほどの規模の邸宅はなかったでしょう。
何と言っても二階には藻岩山が望める六角形の展望室とお風呂があったのですから。

ちなみに隣の空地は「白鳥事件」の犯人とされた人物が住んでいたところです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=522 
このことは「その七」でも触れましたが…。
262牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/15(木) 22:23:18 ID:m1zWYxXQ [ x086149.ppp.dion.ne.jp ]
「JRほしみ駅」の件ですが、http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=894
を再度ご覧ください。
国道5号を車で札幌方面から走っていきますと、星置川を越えたところから小樽市に入ります。
すると、すぐに「ほしみ駅南通」が交差しまして右折すると「ほしみ駅」。
この通りは120mほどしかないのですが、半分行くと再度札幌市に入ることになります。
風邪の為かあっち向いちゃってます「「札幌市」の案内板と、裏向いています「小樽市」の案内板です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=897 
「居酒屋くまさん」は札幌ってことですね。

札幌から小樽に入って、また札幌に入って駅前ロータリーを廻るとすぐに小樽に戻り、http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=898 
交差点を左折するとまた札幌…。
ま、こんな具合の「星置南4丁目」でありました。

本スレが特集された雑誌「札幌人」は、今月22日創刊で〜す。
263西創成:2004/04/16(金) 00:07:23 ID:a3NiFxt2 [ o050250.ap.plala.or.jp ]
しばらくでした。

>>254
運転免許試験場の下は手稲鉱山のズリだと、関係者から聞いています。
運免試験場の入口(下手稲通側でない方)あたりは、切り通しっぽいですが。

試験場となりの札幌総合自動車学園のコース(自動車教習所各社で共同使用)の路面がすぐうねったり、陥没ぎみになるのも埋立地だからかも。

>>238
真駒内の五輪団地は、公団賃貸(旧男子村)のでしょうか、M棟などほかのところでしょうか。

公団賃貸の方は、2DKタイプが旧男子選手村で3DKタイプはオリンピックの終わったあと建てられたものです。
2DKが多いためか、単身者や2人世帯が多く子供が少ないのが特徴と言えるでしょう。ハトが多いこと、暖房の値段がやや高いこと、近所の店が早く閉まること、エレベータが無いことが欠点と言えますが、地下鉄が近いのに静かで緑が多く環境はよいです。
私は住んだことがありますが、おすすめは出来ます。
264元東月寒人@琴似:2004/04/16(金) 05:53:53 ID:2ae4gU72 [ snjk035k011.ppp.infoweb.ne.jp ]
護国神社にある「屯田兵招魂之碑」を見に行ってきました。
中島公園側に多数の慰霊碑が並んでおり、「屯田兵招魂之碑」は北西角にあります。
慰霊碑入り口の「彰徳苑慰霊碑案内板」です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=903

「屯田兵招魂之碑」の前には灯籠がありますが、「山鼻屯田」と書かれ、「琴似屯田」はありませんでした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=904

帰り道、渡辺淳一文学館の近くで、「不老松」というのを発見。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=905
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=906

市電山鼻線「山鼻9条」から「東本願寺前」に向けて、結構な坂で、S字カーブとなっています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=907

>>263
札幌総合自動車学園は私の母校です。下手稲通ができ少し北に移転してます。
試験場と同規格で、60Kまで出せ、立体交差もあるコースです。
265牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/16(金) 21:30:22 ID:AjVurBUk [ N047153.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=901 
駅舎を背にして左手札幌方面 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=902 
ということで、今のところスキスキスーのガーラガラって状態です。

しかし、札幌駅まで25分で行けるので、その点は穴場かもしれません。
パーク&ライドの駐車場代は、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=908です
266牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/16(金) 21:33:26 ID:AjVurBUk [ N047153.ppp.dion.ne.jp ]
>>265の冒頭に、

「星置南4丁目」の写真をもう少しアップします。
右手小樽方面です。

を付けて下さい。
コピーする時抜けました。
267元東月寒人@琴似:2004/04/17(土) 11:37:59 ID:hS04m4wM [ snjk038k028.ppp.infoweb.ne.jp ]
第5?次金山周辺調査に行ってきました。
感想は「寒いっス]の一言。乙女の滝はまた今度という事で。

二十四軒手稲通を西進して向かったのですが、稲穂駅付近は特急たちが並んでますので子供たちが喜びそうな場所です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=911

星置駅には三角点があります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=912

「栄町」「宮町」などの表示を探索
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=913
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=914

乙女の滝入口付近は気温が一段と下がり、今日の装備では遭難するので断念。
(あられが降っており、今日は最初から行く気はなかったのですが。)
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=915

星置神社は、ただ寒いの一言。もっと色々なものがあるのですが退散。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=916
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=917

星置南国道沿いの水準点。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=918
268元東月寒人@琴似:2004/04/17(土) 11:45:57 ID:a0VXkMR2 [ snjk045k052.ppp.infoweb.ne.jp ]
今見たら星置神社の画像が牛鍋蝸牛さんとダブってました。
それもほぼ同じアングル。
牛鍋蝸牛さんごめんなさい。
269牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/17(土) 12:50:02 ID:8EgTrndg [ N046101.ppp.dion.ne.jp ]
>>268
まずは、寒い中調査お疲れ様でございました。
「星置神社」はレポするつもりで、先に少しだけ画像アップしておりましたのよ、オホホ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=909
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=910

同神社の由緒より。
「明治十七年広島県佐伯郡より十六戸の入植があり星置の開拓が始まった。その後山口県・富山県・青森県からの移住により村落を形成、移住者たちは苦楽を分かち心の拠り所として、明治二十年頃、星置百五十三番地(現在の星置一条七丁目十八)に小祠を建立し、郷里より奉持した御祭神を奉斎した、明治四十五年現在地(星置南一条八一一)を得大正二年九月開村記念碑と共に小社を建立、神霊を移遷した。昭和四十八年現在の社殿を御造営し、昭和五十四年に法人格を取得し「宗教法人星置神社」となる。平成十年には、東参道造成、上下水道敷設・境内整備がされた」

見事に同じアングルで、笑っちゃいました。
ま、誰が撮ってもあんなもんかな?
そうそう、大師堂があったでしょ?
270元東月寒人@琴似:2004/04/17(土) 16:59:01 ID:eUKi2o8Y [ snjk041k046.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>268「大師堂」
これですね。鳥居をくぐったらすぐ出てきたので、少し驚きました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=919
271牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/18(日) 02:10:40 ID:SVurwv2E [ N046101.ppp.dion.ne.jp ]
さて、この地域だけなぜ「星置南」という地名なのでしょう?
特に「星置南1丁目」と「2丁目」は「金山」にしても不自然ではないと思うのですが…。
272牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/18(日) 21:06:38 ID:SVurwv2E [ N046101.ppp.dion.ne.jp ]
「星置南」の補足です。
「星置神社」はこのように高台にあります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=910

が、この住所のうち高台にありますのは、「星置神社」のあります、「星置南1丁目」だけであります。
後の「2〜4丁目」は国道5号とほぼ同じ標高といっていいでしょう。
となりますと、少なくとも「星置南1丁目」は、同じ高台になる「金山」と地理的条件は一緒に思えるのです。
う〜ん…。
273元東月寒人@琴似:2004/04/19(月) 05:28:01 ID:gNwHBpU2 [ snjk031k028.ppp.infoweb.ne.jp ]
答えは出ませんが、星置の歴史を考えてみました。
幕末の星置の範囲は、おそらく、今の星置、星置南、金山、稲穂、山口、曙だったと思います。ひょっとしたら、前田、手稲本町も含んでいたかもしれません。

その「ホシオキ村」が「ハッサム村」とともに幕末末期か明治初期頃「発寒村」(「発三」という記述もある)となり、さらに、「手稲村」に分離してます。
その後「手稲村」が「下手稲村」に分かれ、明治15年に「山口村」を分離してます。

ここで、2つの「星置」ができたと思われます。
「山口村」の範囲は鉄道以北で、大まかに言うと、今の山口、星置です。
一方、鉄道以南である、今の星置南、金山、稲穂は「下手稲村」に属します。

鉄道以前の星置の入植者を見ると、星置、星置南にまたがっているようです。
星置が2つの村に分かれても、入植者の意識は1つだったのではないかと想像します。
その後、3村は手稲村としてまた1つになり、字改正で星置、金山などができます。
この時、星置神社がある今の星置南は、鉄道以北も含め「字星置」となります。

さらに、手稲町時代、札幌市合併となり、地名に「手稲」の文字が冠せられ、手稲星置となるのですが、住居表示は鉄道以北部分から始められ「手稲」の冠が取れます。
手稲区の住居表示は、鉄道を起点に1条、2条となっており、星置1条は鉄道の北です。
星置南はしばらく「手稲星置」のままです。

そしてついに、鉄道以南の「手稲星置」を住居表示するときがきました。
星置1条は鉄道北にあるので、マイナス1条となるわけですが、無難に星置南とした?

もっとも、住居表示は計画的に行っていると思いますので、かなり前から、おそらく星置が住居表示された時点には決まっていたでしょうが。

はっきり言って私見で、歴史も良くわからないところがあり、長文を最後まで付き合ってくれた方に感謝します。
274牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/20(火) 23:18:22 ID:hpYfP4os [ N044148.ppp.dion.ne.jp ]
日曜日より風邪をひいてしまい、思考停止中の牛鍋蝸牛です。
というわけで、元東月寒人@琴似さんの「星置南」に関しての考察を参考にさせていただき、
自分なりにその実態を解明したいと思ってはおるのですが、今はその時ではないようです。とほほ。

それでも、昨日も実地調査へは行ってきました。
地元の図書館へも行ってみました。
前回調査の画像もまだアップしていないものもあるし、早急になんとかしたいと思ってはいます。
275なまら名無し:2004/04/21(水) 03:00:28 ID:n.zUpwrE [ YahooBB219169112152.bbtec.net ]
>>274
風邪おだいじに。ご無理なさらぬよう。愛読者
276牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/21(水) 10:35:39 ID:mHPKfkt. [ N044148.ppp.dion.ne.jp ]
>>275さん。
お見舞い傷み入ります。ま、鼻かぜなんですけどね。
寒暖の差が激しい時期です。皆さまご自愛いただきたいと思います。

ということで、この際在庫を処分してしまおうということで、「星置南」のレポートを…。
以前、「金山」の「星置の滝」への下り口の画像をアップしました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=866
ここから北方面へ目を転じますと、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=923
このような景色が広がります。
札樽道の向こう側は小樽市。
右手手前が「金山2条4丁目」、ちょい奥が「星置南2丁目」になります。

「星置南2丁目」から「金山」を見た景色。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=924  
この「星置川」の沢一帯を「星置川緑地」といいます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=925
(「金山2条4丁目」の崖上から撮影)

しかし「ほしみ駅」北側の「星観緑地」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=880
とは趣が違い、全く手付かずの雑木林といった風の場所でして、かなり以前には、夜中若者が入り込んで
不埒な悪行三昧をしたこともあったようです。
ここは金山方面からは崖を降りなければ入れません。
行くなら「星置南2丁目」の住宅地
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=926 の奥からどうぞ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=928
あまりオススメはしませんけど。
277牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/22(木) 21:05:52 ID:SDBCfo6. [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、今回は番外編。

「星置神社」の近くに「星野稲荷神社」てぇのんがありましてな。
ここは「小樽市星野町」になるのですが、ま、ついでだし、行って見ました。
しかしながら14日時点ではご覧の通りでありまして、断念しました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=930

向かいの農家に犬がいましてやたら吠えますが、遊んで欲しい一心でからですので、ちょっとかまってやると狂ったように喜びます。
でも咬まれてもワシは知りません。
巷で一気に流行中の「自己責任」ってヤツで…。

近くで道路工事をやっていまして、ここにも宅地化の波が押し寄せているようです。
しかし、回りはまだ原野で、「アパタイト」でおなじみの「サンギ」の研究所が場違いに建っているのが印象的でした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=931
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=933 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=934 

じゃ、薬飲んだし、寝ます。
あ、「札幌人」創刊したそうです。
ワシもまだ見ていませんけど。
278なまら名無し:2004/04/24(土) 00:44:27 ID:8Xj3ID.M [ p91-dna18toyohira.hokkaido.ocn.ne.jp ]
はじめまして。
以前、帝繊や白石遊郭について調べているときにこちらのスレを拝見させて頂いておりましたが、
この度ついに全スレ一気読みを決行、皆さんのバイタリティには正に脱帽です。
今後も楽しみに拝見させていただきます。
ところで東札幌の旧地名は「横町」と「横丁」どちらが正しいのでしょうか?
279西創成:2004/04/24(土) 00:53:21 ID:Z44C.bj. [ i100037.ap.plala.or.jp ]
手稲鉱山・星置方面というのもなかなか面白いんですね。
すいません。さぼっております。

>>260
「さっぽろ喫茶店グラフティー」(朝日夕刊・北海道版)私も読んでおります。今週も”およよ通り”がらみでした。

さてさて…買いましたよ「札幌人」。
牛鍋さんの年令とか、蔵書の写真とかコラム読みました。
28018丁目:2004/04/24(土) 21:01:48 ID:mph0pmRI [ p11103-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>278
横丁→横町→東札幌 という変遷ですね。

さてさて私も買わせて頂きました「札幌人」。
牛さんはコラムも執筆してますし、写真もたくさん使われていますし、大活躍ですね。

それで、表紙絵は東区にある高城商店です・・・が、北区北7条東4丁目となっておりますがな。
いきなり誤記ネタの提供になってしまいましたね。

内容はかなり楽しめました、
これからの続刊おおいに期待しています。
281牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/24(土) 21:04:45 ID:P82P3C26 [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
>>278さん。
どうも、どうも、どうも。
そっすか、ちゃっちゃいましたか、過去ログの一気読み。
実はワシも「死ぬまでに一度は…」とは思いながら、なかなか実行できないでおりますのや。
こりゃね、ある意味、千日回峰行にも等しいのではないかと…。
もしくは、五体倒置にも匹敵する苦行ではないかと…。

「東札幌」の「横町」と「横丁」の件。
そういえば、この違いについて触れているよで触れていなかったですね。
(「その五」#271 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#271 を参照)
一般的に「横丁」というのは、本通から横に出た「丁字路」(T字路ともいうが、丁字路が正しい)との意味で、言い換えるならば「線」であるとワシは思うのですわ。
対して「横町」とは「町」ですから、「面」。
「横丁」という一次元から派生した二次元空間であるよ、と、彼のアインシュタイン博士も申したかどうかは知りませんけど、なんとなく語感からはそのような印象を受けます。
ま、今日のところは(も)酔っ払っているので、このくらいのお答えしか出来ませんことをお許しください。
あくまでワシの印象でして、確証はありません。 

で、突然ですが、本日のクイズ。
「かぐや姫」の名曲、「神田川」にも「二人で行った、ヨコチョの風呂屋」というフレーズがありますが、この場合の「ヨコチョ」は「横丁」だったでしょうか、「横町」だったでしょうか?
正解者には牛鍋蝸牛のサイン入りおしゃれ小鉢を、プレゼントしません。
(あ〜、我ながら小学生並だぁ、こりゃ…)
282牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/24(土) 21:24:26 ID:P82P3C26 [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
「季刊 札幌人」の創刊号。
3冊送っていただきまして、先ほど拝見しました。
う〜ん、思っていたよりカッコイイ…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=937 
「地名をめぐる4000の発言」っのが、本スレ紹介の特集です。
ワシが撮った素人写真もレイアウト次第なんですかねぇ、こいつがクールだ。
発行は「札幌グラフコミュニケーションンズ」で、定価600円です。
是非、お手もとに一冊。お茶請けにも一冊。
これを機会にスレ住人の人口が増えればと思うとります。

>>280 
あ、ほんとだ。
こりゃまずいなぁ。
「北7東4」は「北区」じゃなく、当然「東区」ですね(w

西創成さん、18丁目さんが触れられておりますが、今回は成り行き上ワシが全面に出ちゃいましたけど、「札幌人」では今後ともコラムを書いていただける人を募っているようです。
ということで、「コラム書いてもいいよ」という方がいらっしゃいましたらお願いすることもあるかもしれません。
発行人Aさんと今後話しを煮詰めて行きたいと思いますので、皆さん、覚悟していてください。
283西創成:2004/04/25(日) 00:50:15 ID:o0M8t6/U [ u054047.ap.plala.or.jp ]
>>281
「横町」「横丁」
前者は「町」なので、町の名前を指すのが普通ではないかと思います。
ただ、東札幌の横町の場合、旧地名の「横丁」の「丁」が釈然としないひとがいて改名しただけなのか?私はわかりません。

後者は、普通『横丁の風呂屋』(←牛鍋さんの問題の答えか?)などと用いますが、町名としては不思議な気がします。
ただ、仙台市に「東七番丁」「小田原広丁」などと「丁」を使っている地名があることからおかしくはないのでしょう。

両者とも、白石町の横の町という意味なのか私は知りません。

>雑誌・札幌人(札幌グラフコミュニケーションズ発行)
朝日新聞23日朝刊にも、紹介記事が載りました。
どうも市内有名書店以外では、買うことが出来ないようです。購入の際、市外の方は版元に問い合せたほうが良いようです。

個人的に、今号の全体内容にはやや盛り込みすぎかなと思いました。
テーマをもっと絞っても良いかも知れません。
頭休めの記事として、毎回市内線バス路線一線を乗りながら沿線探訪するなんていうものも載せると良いかも知れません。(勝手なこと言って御免なさい)
284278:2004/04/25(日) 01:22:00 ID:So8lXmZw [ K097221.ppp.dion.ne.jp ]
>18丁目さん、牛鍋蝸牛さん
拾って頂いてありがとうございます。以前この付近にすんでいたことがありまして。
「その五」のスレで出て来る ttp://www2.snowman.ne.jp/~itsumi3/rose/siro/yoko/yoko.htm
の他に、今の「米里・行啓通」が36号線とぶつかる交差点の角にも当時をしのばせる菜の
建物がありまして、そちらは「横丁〜」になっていてそれで気になったものです。
この辺は古びた謎の小料理屋的建物もあり、地味に気になる地区であります。

「丁」つながりで・・・。過去ログにも出て来る、みやま書房の「北海博徒伝」で
函館の○モ一家と対抗する札幌の博徒に「一丁一家(一丁派)」というのが出てきます
が、最近になってこの「一丁一家」という名が地名と関連する名前であったとわかりました。
牛鍋さんならきっとすぐわかってしまうんだろうなァ・・・。

ちなみにこんなのも最近みっけました(枯木のバラ関連)。
ttp://www.exf.info/movie.schedule/web-file/scedule.html

明日「札幌人」買いに行きます。楽しみです。
285278:2004/04/25(日) 01:31:34 ID:So8lXmZw [ K097221.ppp.dion.ne.jp ]
菜→名ですね。すいません。 
西創生さんのおっしゃるとおりで、どちらかが正しくてそれに釈然としない人が違
う字を当てたのか、地域の建物や店名で異なっているのが面白いところで興味の
きっかけとなりました。
28618丁目:2004/04/25(日) 02:20:57 ID:rK7QfdKg [ p11103-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
横丁はなぜ消えたのか
以前、七面宮の時に何気に紹介した「白石ライフ&アクションマガジン[スピカ]
Vol19白石地名探偵団」によると

 ときは明治4 年の冬、旧仙台藩白石領(現在の宮城県白石市)の領主、片倉家の家臣たちは、今の国道12 号
にそって入植した・・・伝々と、とーっても長いものになってしまうからなー、どうしよう。
28718丁目:2004/04/25(日) 02:30:35 ID:rK7QfdKg [ p11103-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
278さん
枯木のバラ情報ありがとうございます。
どーやらVシネマ製作中なんですね。
「北海水滸伝 484のブルース 枯木のバラ」
絶対観ますヨ(w

何せカラオケで484を歌うと受けがいいんですよ(思っているのは本人だけかも?)。
288sss:2004/04/25(日) 08:16:44 ID:pnpdEZlw [ 64.107.99.219.ap.yournet.ne.jp ]
>>286
>ときは明治4 年の冬、旧仙台藩白石領(現在の宮城県白石市)の領主、片倉家の家臣たちは、今の国道12 号
>にそって入植した・・・伝々と、とーっても長いものになってしまうからなー、どうしよう。

そう、とっても長いものになってしまいました。
12号線と旧千歳線の交わる踏切(現在も12号線に跨線橋があります)付近が1番地、
白石神社(札幌病院)が100番地ですから延々と続いていたみたいです。
番地は2番ずつ街道の南北につけられていたようで、ヨーロッパみたいに
偶数は通りの片方、奇数はもぅ片方というわけではなかったようです。
289牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942:2004/04/25(日) 20:47:03 ID:XrJQ.czI [ N044106.ppp.dion.ne.jp ]
>>284
>牛鍋さんならきっとすぐわかってしまうんだろうなァ・・・。
はっはっは!
ワシを見くびってもらっては困ります。
そんなこと調べなきゃ分かりませんがな。
ま、その件についての記述を読んだこともあるような気もしますが、忘れようとしても思い出せない、ポテチン。(by鳳啓介)

「その四」でも引用させていただきましたが、仙台藩白石の人々の入植に関しては、こちらをご覧いただきたい。
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki12_13.pdf
でも、昔のことなので、自分でも忘れようとしても思い出せない、ポテチン。(by鳳啓介)

18丁目さん。
SSSさんも期待しておられるようですし、こりゃ、「横丁」と「横町」やらなきゃ、世論は納得しないですよ。
ワシはもう少しヂミチに「金山」、「星置」をやろうかなと思っていますが。
29018丁目:2004/04/25(日) 21:06:38 ID:hy0gXX2M [ p2068-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
雪どけのあと新しい土地へ〜
 ときは明治4 年の冬、旧仙台藩白石領(現在の宮城県白石市)の領主、
片倉家の家臣たちは、今の国道12 号にそって入植した。北海道開拓使が
切り開いた道の両側に、1 0 0 戸分の土地が割り当てられ、白石の歴史
がはじまったのだ。道といっても切り株が残り、湿地もあり、とても道
とは言えない状態だったという。入植翌年の春、せっかく作った開拓小
屋のいくつかが水浸しとなり、とても生活できないことがわかった。
29118丁目:2004/04/25(日) 21:10:27 ID:.iicBG8s [ p5252-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
いまの上白石小学校から、中央二条一丁目浅沼安之進宅のある
あたりまでは、特にひどく、この辺一帯は、沼地のようになっ
てしまつた。(中略)密林をきりひらいて、道路をつくり、その
両側に、左一番、右一番と区画を割って、今の白石神社附近ま
で、一戸当たり、間口四十間、奥行三百間、即ち、一万二千坪
(三ヘクタール)として、割渡して、開墾を進めたものである。
(中略)この左右一番から、七番までの両側十四戸、二十二世帯
が水浸しになってしまったのである。
(武田美直著『白石開拓と横町通』より)
29218丁目:2004/04/25(日) 21:12:44 ID:.iicBG8s [ p5252-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
住民たちはすぐに開拓使に願い出て、まっすぐにできていた開拓道路
に直角に、横道をつくることになった。そこに新しい土地を割り当て、
水浸しになった14 戸が移転した。本通にたいして、横の道。これが「横
丁」のはじまりである。このとき理由ははっきりしないが、水浸しの14
戸のほかに4 戸が移転し、合わせて18 戸が横丁に並んだ。
29318丁目:2004/04/25(日) 21:15:28 ID:R9EV.z3Y [ p7035-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
横丁通
新しい道は、人々の間で「横丁通」とよばれた(現在の白石中央1 条3
丁目角から国道36 号まで)。このころ、札幌本府まで通じる本格的な道だっ
た。明治、大正、昭和を通して、このあたりは畑作地帯だったので、近
くには用水路もつくられた。
このときの横丁通の正式名称は、横を流れる用水路の名をとって「札
幌市道二号用水線」となっている(昭和48 年の都市計画で「米里行啓通」と改称)
29418丁目:2004/04/25(日) 21:17:53 ID:R9EV.z3Y [ p7035-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
横町(よこちょう)
二号用水(米里行啓通)線をいう。(中略)
この用水は明治十三年(一八八〇)ごろの白石略図、遠藤信雄
の筆にもあるから、かなり昔に掘ったものだろう。東方には望
月寒川があり、西方は低い湿地だが、畑の潅漑(かんがい)の
ため遠く月寒方面から直線的に引いたらしい。道路はまた、月
寒・豊平方面に抜ける道として大いに利用された。
(『さっぽろ文庫1 札幌地名考』「第3 章さっぽろの通り」より)
29518丁目:2004/04/25(日) 21:20:04 ID:R9EV.z3Y [ p7035-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ここからが面白いんだけど、ちょっと休憩ね。
296業務連絡:2004/04/25(日) 23:15:16 ID:QX/hTcCg [ 246.135.210.220.dy.bbexcite.jp ]
札幌人お買い上げの皆様へ 
牛鍋さん、A氏と共に深く感謝いたします。
創刊号を手に取っていただきありがとうございます。地方の方には申し訳ありませんが
流通の関係で市内大型書店と文教堂各店にしか置いておりません。お取り寄せのご検討を。
18丁目さん、高城商店は東区でしたねー。初めから飛ばしてしまいました。ショック。
絵描きのキャプションの責任です。関係各位の皆様、申し訳ありません。高城商店のオジさんになんて言おう{泣)。
297なまら名無し:2004/04/25(日) 23:19:29 ID:Xrrf85Pg [ hccd37dc7b4.bai.ne.jp ]
24
298札幌五代目本籍菊水元町:2004/04/26(月) 01:28:46 ID:Ps.9fUN. [ O034135.ppp.dion.ne.jp ]
ちょっと横レスになりますが・・・。

私、現在手稲に在住しています。(約30年)
で住居表示の件で少し。
現在の前田の条丁目は
札幌市手稲前田○○番地→札幌市西区手稲前田○○番地→札幌市西区前田○条○丁目→札幌市手稲区○条○丁目って流れで変更になってます。
現在の曙の条丁目は山口の番地でした。(曙は国道5号線の旧ニチイから北に走る「曙通り」から取ったようですが、なぜ曙通りの名称になったかは残念ながら知りません)

このように条丁目に整理される際に「番地のまま」だったところは現在も「札幌市手稲区手稲××○○番地」(××には町名、○○には数字が入る)のようです。
現在も番地のところは農地や原野が多いですね。
29918丁目:2004/04/26(月) 08:06:09 ID:gfyt2H2Q [ p13122-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ていねっていいね
300なまら名無し:2004/04/26(月) 08:09:44 ID:z25.ziWI [ p2158-ip03sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]

次スレは、いらないでしょ。 固定しか書き込んでないし。