【中韓】韓国歴史書「上海も韓国の領土だった」中国紙が反論[06/05/10]
144 :
名前をあたえないでください:
蒙古(元國)・東眞國 → 斎國(斉国大長公主=高麗王妃)
漢人(明國) → 高麗國(辛昌・李成桂・
王弟など 3年1貢)
満州(清國・女直) → 朝鮮國(仁祖王〔三田渡受降壇と
迎恩門〕1年4貢)
衛満(高麗靺鞨・太宗)→ 箕子(質子・藩・王弟)
故眞蕃朝鮮胡國・虜乱 → 朝鮮縣城(平壌城[明朝の城・漢人])
『舊唐書』
>>鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合
> >哀願して告げる 人質の王子および期日が満期の
>歸國學生等共一百五人、並放還。
>>放還藩、賜物遣之 > >(藩に還えらしめんと放つ
唐朝: 日本各地の国分寺(律令制度・中大兄皇子・藤原鎌足)
明朝: 日本各地の安国寺(勘合貿易・
日本国王=征夷大将軍・源道義[足利義満])
明朝: 日本幕藩で儒学振興(朱印状貿易・
日本国王=天下人・平秀吉 → 徳川家康)
『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳晉陳壽撰(宋裴松之註)
>今使譯所通三十國
>今(いまし)は使訳(吏訳)が所(お)り
>30国に通(かよ)いあり。
晉陳壽の現在は翻訳役人(吏訳)が所在(駐在)していて
倭の国内の30地域と通交(交易)している。
『宋書』列傳夷蠻(抜粋)宋何承天初撰 梁沈約完成
>讃又遣 司馬曹達 奉表 獻方物
>讃は表を奉じ方物を獻ぜんと司馬曹達を又遣わす。
倭王讃は挨拶状を奉じながら宝物を献上しようと
司馬曹達を再度、宋國へ遣わした。
145 :
名前をあたえないでください:2006/05/11(木) 16:38:58.97 ID:bPxX+thF
3つの節度使を兼任の安禄山(胡族。一説に)
遼西・平盧節度使(営州)
河北・范陽節度使(幽州)
山西・河東節度使(太原=晋陽)
唐→→高句麗←渤海マッカツ(唐の別働隊・渤海兵)
____↑_唐の別働隊・新羅兵・唐に兵隊を供出。寝返ったら新羅王子を渤海兵が殺す。
___百済(唐の手先、渤海マッカツ兵の占領下)→新羅(唐に人質で裏切れない)
____↑
___倭国(水軍の敗戦直後で、すぐに高句麗の救援に船の大群を作っては動けない)
> 三年(癸亥、六六三)11九月,戊午,
>劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し
>唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した
中国風の墓稜を建てて 正月や朔日の判る農事暦と 廟に祀る戒名を頒布した。
『資治通鑑』巻第二百一 麟コ二年(乙丑、六六五)10.
上(かみ) 熊津(くまなり)都尉の扶餘隆(プヨりゅう)
新羅王の金法敏(キンほうまい)ともに
旧怨を釈(ゆる)し去(さ)らんとせよ と命ず。
(『舊唐書』永徽六年(655)
百濟と高麗 靺鞨(扶餘氏)は 兵を率い 其(新羅)の北界を侵す)
八月 壬子(みずのえネ)熊津城(くまなりジョウ)において同盟す。
劉仁軌(りゅうジンキ)
海に浮かびて西へ還(かえ)り
新羅(しらぎ)百済(くだら)耽羅(とむら)倭国(やまと)の
使者を以(も)って
泰山(たいざん)の祠(まつり)に会(あ)う。
また高麗(こうくり)もまた太子の福男(フナン)を遣わし
祠(まつり)に侍(さむら)わんと来たる。
146 :
名前をあたえないでください:2006/05/11(木) 16:41:57.87 ID:bPxX+thF
熊津城に新羅の金法敏を呼び、靺鞨の夫餘隆と旧るい怨を釈放し去るよう同盟を誓わせた。
百済の吉地の祭壇下に埋蔵金と夫餘の土地証文たる盟書を埋蔵(風水)し
新羅の廟には質子(人質としての王子)を唐国に入れる盟書を秘蔵した。
新羅・百済(靺鞨の夫餘氏)・耽羅(百済と倭の共同保護の分国)・倭国の使いが
のちに高麗(高句麗)を加えて、
唐の泰山の祠廟に祖を祀りして合い会し、不戦と国土平和と安泰を誓わせた。
『通典』百濟条 ○其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 君長遂 絶。
→新羅と靺鞨夫餘氏に於いて その〔百濟の〕旧地は没収のこと
〔百濟の大姓八族の〕君長は遂に 絶滅せり。
『舊唐書』東夷傳−百濟条(旧唐書−百済伝)
時百濟本地荒毀 漸爲新羅所據 隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬 則天朝襲封帯方郡王 授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分 百濟之種遂絶。
時に百濟の本地は荒毀せし 漸らく新羅の所據と爲り 隆は竟すも敢えて舊國に還ら不 而して率す。
其の孫の敬、則天の朝より帯方郡王を襲封せられ、衛尉卿を授りたり。
其の地は此れ自り新羅及渤海靺鞨の所分と爲り 百濟之種は遂に絶すと。
この時代に百濟の本土は荒廃し しばらくは新羅の所有する処となった
渤海靺鞨の夫餘隆は〔?されるも〕あえて旧百済国に帰還せず そうこうしているうちに亡くなってしまった。
その孫の夫餘敬は つまるところ唐王朝から 帯方郡王を襲名して王号を封せられ 衛尉卿を授った。
その帯方郡王の領地(百済地方)は 渤海地方の靺鞨族の夫餘敬の所有する分となり
百濟の種族(民族)は ついに絶滅(滅亡)した。
『舊唐書』東夷傳−新羅条
>>鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合 >哀願して告げる 人質の王子および期日が満期の
>歸國學生等共一百五人、並放還。>>放還藩、賜物遣之 >(藩に還えらしめんと放つ
147 :
名前をあたえないでください:2006/05/11(木) 16:43:19.72 ID:bPxX+thF
148 :
名前をあたえないでください:2006/05/11(木) 16:43:49.30 ID:bPxX+thF