「世界中の教科書にみる日本」を書いてみませう!

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1世界@名無史さん
さて、書いてみます。
興味のある方は付き合ってください(^^;)
2世界@名無史さん:2001/08/16(木) 12:18
あ、もしも持っている外国の教科書にみる日本など教科書の関係の
ものを持っている方がいたが書き込みしてください。

今、手元にインド、アメリカなどあるのでそのあたりから書こうと
思います。他のもの持っているかたがいたら書いてくださると嬉しい
です。急でごめんなさい。最近の靖国、2ちゃんねるでの意見など
を見ていて、こんなスレがあってもいいかな、と思いました。
靖国とかどうしても、知らないことばかりで、やはりいろいろな知識が
あったらなら、もう少しいろいろな意見がでてくるかもしれないと。

ではインドから(今個所をさがしています。ゆっくり書き込みます。
気長にお付き合いください。ご意見も待っています。)
3世界@名無史さん:2001/08/16(木) 12:21
世界史板でやる理由は?
4世界@名無史さん:2001/08/16(木) 12:40
世界中の「世界史の中の日本」ですか。おもしろそう。
5世界@名無史さん:2001/08/16(木) 12:43
「世界中の(世界史の)教科書にみる日本」ということ?
61=2です。:2001/08/16(木) 12:52
The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)

帝国主義勢力としての日本

 日本は19世紀の最後の10年間に、帝国主義的拡張計画にのりだした。
19世紀のはじめ、日本は西洋諸国が足掛かりを築かなければならない地域とみなされていた。
しかし、日本はほかのアジア諸国の体験と運命をまぬがれた。
1867年に、王政復古により政体が変更されてからは、日本は経済を近代化しはじめた。
数十年たらずのうちに、日本は世界のなかでも最も工業化のすすんだ国の一つになったのである。

しかし多くの西洋諸国を帝国主義国に変えた力が、日本の場合にも働いていた。
日本には自国産業をささえる原料はほとんどなかった。
そこで原料を入手できる土地、製品を売りさばく市場を求めていたのである。
7:2001/08/16(木) 12:59
3,4,5さん、どうもぉ。
やっとかけたのでアップしておきます。つづきもあります。ゆっくり
いきます。。

>「世界中の(世界史の)教科書にみる日本」ということ?
そ、そうですね。。(;^-^A あれ? あ、あんまりこまかいことは
きにしないで。。(アセ;;何となく世界史版にきちゃったんです。)
8世界@名無史さん:2001/08/16(木) 13:02
続き

The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)

 日本の帝国主義的意図が実現される機会は、中国にはあり余るほどあった。
朝鮮をめぐる1894年の日清戦争についてはすでに学んだ。このあと、中国における日本の影響力は増大した。
1902年の日英条約は、日本をヨーロッパ列強と同等の位置にある勢力と認めたのである。
1904〜1905年に、日本はロシアを破った。この戦争の結果、樺太の南半分は日本に割譲された。
日本は租借した大連港とともに遼東半島南部の支配権を手に入れた。

1910年に、朝鮮は日本の植民地になったのである。
1914年に第一次世界大戦がはじまったとき、日本は誇りをもって過去50年間の自国の歴史を回顧したものであった。
日本は大国になっていた。そして、もし西洋列強が許しさえすれば、日本は中国を犠牲にしてさらに拡大することができたであろう。
91です。:2001/08/16(木) 13:03
続き

The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)


 しかし、日本の歴史は、西洋帝国主義の歴史よりむしろ悪質であった。
事実、日本の活動は帝国主義が特定の国民や地域に限定されるものではないことを示すのに役立ったのである。
帝国主義はどちらかといえば経済的、政治的強国の貪欲な結果であって、それは人種や文化的主張にかかわらず、どんな国の政策をもゆがめることができるものだったのである。

 要約すれば、19世紀の末までにアジアのほぼ全域が、帝国主義諸国に呑みこまれてしまっていた。
図36(注:教科書内の図)は、第一次大戦以前における帝国主義の支配下にあるアジアを示している。
10世界@名無史さん:2001/08/16(木) 13:53
以前読んだ本に、イタリアの教科書が紹介されてた。
その教科書には、「日本人家族の団らん」という題で、

 いろりを囲んだ、ちょんまげ姿で和服を着た異様な一家

が描かれていました(笑) <もちろん、写真じゃないです。
(これは結構有名な話なんで、知ってる人いるはず)
11世界@名無史さん:2001/08/16(木) 14:04
おもしろい!興味深い。
日本に行けば、皆チョンマゲの侍か忍者だって
思っている外人がいましたよね。
いまもそうか?
121より10さんへ:2001/08/16(木) 14:07
そうですか。その本も紹介していただけると嬉しいです。バングラデッシュの教科書
に、日本の七五三(だったと思います)とかお正月やらや工場やらの絵が載っていた
のを見たことがあります。(でも字が全く読めない文字だったので、内容はわかりま
せんでした。バングラデッシュの方には日本が好きだという方が、わりとたくさんい
ると、その後知りましたので、内容も知りたいな、と思っているのですが。(^^
訳せる方がいらしたらどなたか紹介してくださると嬉しいです。

あ、あとアフリカのほうにもわりと親日的な教科書の国もちらほらあったような
・・そんな記憶があります。(アフリカ教科書展、で見ましたぁ(^^
131より11さんへ:2001/08/16(木) 14:13
>日本に行けば、皆チョンマゲの侍か忍者だって
思っている外人がいましたよね。

う〜ん、今もそう思っている人いるのでしょうかねぇ。。
かなり詳しく載っている国が結構たくさんあります。
それらを勉強した人は、近代のことの知識のほうがたくさんある
のではないか、と読んでいて私は思いました。

あ、とゆことで、つづきです。

続き

ファシスト侵略の開始

 1930年代になると、ファシスト勢力は究極的に第二次世界大戦をもたらすことになる征服戦争を開始した。
主要なファシスト国家はイタリアとドイツであった。
彼らは政権についた日本の軍国主義体制と同盟を結んだ。
イタリアとドイツにおけるファシズムの勝利についてはすでに述べたところである。

皆さんは日本帝国主義の興隆、中国やロシアとの戦争、朝鮮の征服および第一次世界大戦後における中国内ドイツ領の獲得などについてすでに学んだ。日本政府は次第に軍国主義者の手に移っていった。

これら3国がヨーロッパ、アジア、アフリカで一連の侵略を開始したのである。
そのいずれもが共産主義に対抗して戦ってきたことを表明し、1937年には反コミンテルンをかかげた防共協定を結んだ。
(コミンテルンとは、コミュニスト・インターナショナルの略で、前に述べたようにロシア革命後に結成され、もろもろの国々の共産党が所属していた。)
ドイツ、イタリアおよび日本は枢軸国の名で知られるようになった。


The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)
14世界@名無史さん:2001/08/16(木) 14:15
続き(ファシスト侵略の開始)

 侵略行為がはじまるや、ソヴィエト連邦や被侵略諸国および世界各国の多くの指導者たちは侵略を打破するための共同行動の必要を説いた。
国際連盟規約には侵略に対する経済的、軍事的制裁と共同行動に関する条項があったことを皆さんはすでに学んだ。
しかし、西洋諸国の政府はその侵略への抵抗にもかかわらず、これら侵略勢力に対する宥和策を取った。

宥和とは他の国を犠牲にして侵略勢力と妥協する政策を意味した。かりにこれら西欧諸国の宥和策がなかったならば、ファシズムはあれほどには生きながらえなかったろうし、また第二次世界大戦を引き起こすこともできなかったであろう。

 1930年代に一連の侵略行為を開始したドイツ、イタリアおよび日本は、自分たちは共産主義と戦っているのだと主張した。
ヒトラーはくり返し、ドイツがソヴィエト連邦の広大な領土と資源を制圧する願望をもっていることを表明していた。
これら3国いずれにおいても、社会主義あるいは共産主義運動は弾圧されていた。

ロシア革命の成功以来、西洋諸国は共産主義の危険に悩まされており、彼らはファシスト諸国家がこうした危険を除去してくれるだろうことを望んだ。

The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)
15世界@名無史さん:2001/08/16(木) 14:21
アメリカの高校世界史教科書World History: The Human Experienceより

Japan’s growing affluence also brought demands that it spread its wealth to other countries.
For example, in 1990 one African nationalist leader, Nelson Mandela,
stated bluntly that Japan’s financial aid to African countries trying to overcome poverty was insignificant.

And that same year, when Iraq invaded its tiny neighbor Kuwait,
the United States called upon Japan to help force Iraq out of Kuwait.
After considerable debate, Japan responded with financial help to countries affected by the conflict.
However, Japan did not send troops, in part because of Article Nine of its constitution. Referring to World War II,
one member of Parliament said, “After that experience, we should never again aim a gun at foreign peoples?even the people of Iraq.”
161より:2001/08/16(木) 14:24

続き(ファシスト侵略の開始)

ファシストの侵略に対する西洋諸勢力の姿勢をある歴史家は次のように要約している。
「ナチスがポルシェヴィズムを破砕し、ソヴィエト連邦を制圧するべく努めていると
世界に納得させるため最善をつくしたことは疑いの余地がない。
もしウラル山脈が手に入るなら、すべてのドイツ人は十分に泳ぎを満喫することだろう
というようなヒトラーの演説は、この種の宣言の顕著な一例である。

また西側世界のエリート層の間にも、彼に信頼を寄せることへの嫌悪感がなかった。
多くの中間階層の人々とともに、大土地所有者・貴族・産業資本家・銀行家・教会の高僧・
高級軍人など、西ヨーロッパのあらゆる種類の有力者層は、彼ら自身の労働力や農民たちが
社会革命、おそらく共産主義によって指導され組織された革命を要求するかもしれないという恐れを放棄していなかった。

暴力団まがいのものであったにもかかわらず、共産主義を打破し、どうじに既得権益は
十分に官制下に残しておいてくれるひとつの勢力としてのファシズムに対して
彼らの示した支持は本能的かつ正直なものであった。

イギリスやフランスの多くの有力な人びとが、枢軸勢力によるソヴィエト連邦攻撃を望みつつ、
これら勢力を強化、確立せしめるべく行動したことはほとんど疑いのないところである。」

宥和政策はファシスト勢力を強化し、第二次世界大戦を導きだした。


The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)
17世界@名無史さん:2001/08/16(木) 14:58
アメリカの教科書はどんな感じなんだろうね。

>>16
しかし、この翻訳ひどくない?えらい読みづらい。
18世界@名無史さん:2001/08/16(木) 15:07
外国映画にでてくる日本人を見てる感じだ(苦笑
19世界@名無史さん:2001/08/16(木) 15:34
201より>15さん、17〜19さん、どうもですぅ。:2001/08/16(木) 15:52
15さん、どうもありがとう。
翻訳してくださると、もっと嬉しいf(^^;

アメリカの教科書は、今手元に翻訳されたものが4種類あります。
World Historyもありました。でも、15さんの載せてくださった内容は、
最新版なのか書いてありませんでした。手元にあるのは、1993年版と’95年板
と、あと一種類は・・(今さがしたのですが、まだ見つかりません)

アメリカにはいろいろな種類の教科書があるそうで、一種類でもなく
同じ年代でもなく、いろいろ見てゆけるのも変化がわかっておもしろい
なぁと思います。

もしできたら続きをお願いします。
いろいろ変化がわかっておもしろくなると思います。
(あ、できたら邦訳をつけてくださると嬉しいです)

機械翻訳したものを載せさせていただきました。ありがとうございました。

16さん、どうも。アメリカのもの、少し後で載せていきます。
(15さんも載せてくれるかも。。♥
翻訳はぁ〜〜、原文がインド語のせいなのかにゃ・・なんとも。。
(でも、インドは、英語で学校は教えているって聞きますね。。ぅ〜ん)

>>18さん
>外国映画にでてくる日本人を見てる感じだ(苦笑
アメリカには、もっとたくさん書かれています。
知ってからアメリカなどへの留学をして、こういった日本人への
イメージを変えてくれるような人がたくさんでてくるとよいですね。
21機械翻訳で〜す。:2001/08/16(木) 15:56
アメリカの高校世界史教科書World History:
The Human Experienceより
人間のExperienceより


Japan’s growing affluence also brought demands that it spread its wealth to other countries.
また, 日本が豊富を育てると, その富を他国に広げるという要求は持って来られた.

For example, in 1990 one African nationalist leader, Nelson Mandela,
例えば, 1人のアフリカ人1990の国家主義的なリーダーのネルソン・マンデラ

stated bluntly that Japan’s financial aid to African countries trying to overcome poverty was insignificant.
つっけんどんに, 貧困に打ち勝とうとするアフリカの国への日本の奨学制度がわずかであると述べた.

And that same year, when Iraq invaded its tiny neighbor Kuwait,
それそして, その同じ年.(その時, イラクはその小さい隣人クウェートに侵入した).

the United States called upon Japan to help force Iraq out of Kuwait.
合衆国は, 日本が, クウェートからイラクを強制するのを助けるのを訪問した.

After considerable debate, Japan responded with financial help to countries affected by the conflict.
かなりの討論の後に, 闘争によって国への財政的な助けが影響された状態で日本は応じた.

However, Japan did not send troops, in part because of Article Nine of its constitution.
しかしながら, 日本は一部その構成のArticle Nineのために軍を送らなかった.
Referring to World War II,
第二次世界大戦を呼ぶこと.

one member of Parliament said, “After that experience, we should never again aim a gun at foreign peoples?even the people of Iraq.”
「その経験の後に, 我々は二度と外国人の民族イラクの人々にさえ銃を向けるべきでない.」と, 1つの下院議院が言った.
221より15さんへ:2001/08/16(木) 16:01
>>15,21

これは、湾岸戦争のことですね。
あのときの日本のとった対応がアメリカへも影響を与えた、ということなのでしょうか。
世界って、いろいろですね。。ぅ〜ん、しみじみ。。(←なんだ?

でも日本も、もう少しいろいろ国民にしっかり教えて来ていたら、なんというか
もう少し主体的な行動がとれたような気もするのですよね。
たとえ、軍隊を送らなくても、もっときちんとした声明を世界に向けて
アピールするとか・・国民もしっかり世界からの見方を知っていたり
したら、いろいろな見方が出てくると思うのですよね。

神戸の震災の時にスイスからすぐにわんちゃんを連れて救援隊がきてくれましたよね。
救援って、軍隊やお金だけじゃないじゃないですか。お金がたくさんなくても
相手を思って、すごく効果的な救援もできるってこともあるような気もするんですよね。
お金、軍隊、自衛隊、軍隊、さぁ、どっち?・・みたいな・・

そんな極端なものでもないんじゃないかなぁ、とか・・いろいろ思っちゃったり
するんですよね。。
23:2001/08/16(木) 16:14
少し疲れたので、また今度きます。
どなたか書き込んでおいてください♪(←他力本願なやつ。

スレッドのタイトルにあう内容なら何でも結構ですので・・
ほいじゃ、またきまぁす。でわ〜

ぁ、でも落ちてなくなってたら、どうしよう。。(^^; マジで心配(アセ
ぅ〜ん、ではまたぁ(^^)/~~
24:2001/08/16(木) 16:17
16さん、ごめんなさい。
アメリカの教科書、今度来たときに載せます。
(明日くらいには来られるかと)
すみません。少し疲れました。では・・また
25:2001/08/16(木) 16:18
24は17さんへ、でした。
ごめんなさい。かさねがさね・・
ではでは
26世界@名無史さん:2001/08/16(木) 16:28
「世界の教科書は日本をどう教えているか」
持ってます。結構面白いです。

ドイツやソヴィエトの教科書では、原爆投下が、日本の敗北よりもむしろ、
ソヴィエトへの威嚇目的であったことを記述しているそうです。
これは結構うれしいです。
27世界@名無史さん:2001/08/16(木) 21:00
ここいいスレです。
1さんがんばってください。期待してます。
28世界@名無史さん:2001/08/16(木) 21:21
聞いた話でしかないのですが
ポルトガルの教科書では「15世紀に日本を発見」の一文があるそうです。
初めて聞いたのが14の時だったので結構衝撃を受けた記述でした(w
29アマノウヅメ:2001/08/16(木) 21:31
1さん
お役に立てなくて申し訳ないんですが・・・
読ませて頂いてます。

昔、何かの特集で各国の教科書やら副読本やらが載ってました。

イギリスの地理の副読本に、日本には地震が多いという記述があって
浴衣みたいなモノを着た日本人(?)が下駄履きで家から飛び出てました。
説明に「日本の家は木、竹、紙などから出来ており軽いので怪我しない」
とかいてあったのには、仰天しました。
30世界@名無史さん:2001/08/16(木) 23:46
今、「だ・かーぽ」で特集やってるね。

台湾はいい国だ
31世界@名無史さん:2001/08/16(木) 23:47

     アー   ヒャ    ヒャ  ヒャ ヒャ  ヒャ    ヒャ
∧∧      ヒャ  ヒャ  ヒャ ヒャ  ヒャ  ヒャ   ヒャ
(゚∀゚∧∧    ヒャ ヒャ ヒャ ヒャ  ヒャ    ヒャ
(  ( ゚∀゚)    ヒャ     ヒャ   ヒャ   ヒャ
  (   )    ヒャ       ヒャ   ヒャ  ヒャ  ヒャ
ヒャ    ヒャ   ∩( ) ( )∩ヒャ   ヒャ
ヒャ ヒャ    ヒャ | |  ..  | | ヒャ   ヒャ  ヒャ
ヒャヒャ  ヒャ    \\ ∩  //  ヒャ   ヒャ
ヒャ ヒャ   ヒャ   | | ∪ | |    ヒャ  ヒャ
. ヒャ ヒャ ヒャ ヒャ  | |   | |  ヒャ  ヒャ  ヒャ
  ヒャ ヒャ      怖 怖 怖     ヒャ ヒャ
   ヒャ ヒャ   怖怖 怖 怖怖   ヒャ  ヒャ
    ヒャヒャヒャ 怖怖 怖怖 怖怖       ヒャ
     ヒャ  ヒャ怖怖 怖怖 怖怖ヒャ       ヒャ
      ヒャ 怖怖 怖怖怖 怖怖  ヒャ     ヒャ
       ヒャ怖怖 怖怖怖 怖怖     ヒャ
        怖怖 怖怖怖 びヒャ       ヒャ
           怖怖怖怖    ヒャ        ヒャ
           怖怖怖怖      ヒャ
          怖怖怖怖 ヒャ      ヒャ
          怖怖怖怖   ヒャ       ヒャ
           怖怖怖怖怖   ヒャ       ヒャ
           怖怖怖怖怖    ヒャ
32名無し:2001/08/17(金) 00:33
昔、確か地球テレビ(だったかな?)という番組が深夜にやっていました。
そこの一部に「不思議な果実」というコーナーがあり、そこで日本について
外国の教科書が日本をどのように説明しているか が紹介されていました。
そこでは、絵でしたが、やはり十二単を着た女性が おり
さらに男性が剣をひっぱりっこしていました。剣といっても、持つほうどうしを
つなげ、お互いのおなかに剣先が向いている状態でひっぱりっこしているのです。
多分、「腹切りと綱引きをやっているのではないのではないか。勝った方が死ぬ」
ということでその場は終わったと思います。
33現実:2001/08/17(金) 04:52
>>15 てきとーに訳.

また,日本に富が増加したために,日本は,他国にその富を分け与えるよう,要求されたのであった.
たとえば,1990年には,ある,アフリカの民族主義者のリーダーであるネルソン・マンデラは,ぶっきらぼうにこう述べた.「アフリカ諸国に対する,貧困撲滅を目的とした日本の経済援助は,取るに足らないものであった」

また同年,イラクが,小国たる隣国のクウェートに侵攻したとき,クウェートからイラクを追い出すため,アメリカが日本に対して軍事援助を要請した.
侃侃諤諤の議論の末に,日本は,紛争によって影響を受けた国々に,経済的援助をするということで応えた.しかしながら,日本は,憲法9条がために,軍を派遣しなかったのであった.
第二次大戦に触れながら,ある国会議員はこう述べた.「あの経験があるからといって,我々は,もう二度と,他国の人々に銃口を向ける手助けをすべきではないというのだろうか?たとえそれがイラクであっても」
341です。:2001/08/18(土) 09:03
こんにちはぁ。おそくなりました。
昨日は熱っぽくて、手もだるく(夏カゼかにゃ。。)
毛布に包まっていたら寝ていました。昨日これなくてごめんなさい。
レスたくさんつけてくれてウレシイですっ。

アメリカの書いておきましたぁ。あとで載せますぅー
でもまずお返事から。。

26さんへ
>「世界の教科書は日本をどう教えているか」
>持ってます。結構面白いです。
 エヘ f(^^

>ドイツやソヴィエトの教科書では、原爆投下が、日本の敗北よりもむしろ、
>ソヴィエトへの威嚇目的であったことを記述しているそうです。
>これは結構うれしいです。

ホウホウ.. o(・・ o)

27さんへ
>ここいいスレです。
>1さんがんばってください。期待してます。
 エヘエヘ f(^^

28さんへ
>聞いた話でしかないのですが
>ポルトガルの教科書では「15世紀に日本を発見」の一文があるそうです。
たしかポプラ社からポルトガルの邦訳がでていたような・・「発見」恐竜の化石を
見つけたかのような書き方ですね(笑
351です。:2001/08/18(土) 09:05
29さん アマノウヅメさんへ
>1さん
>お役に立てなくて申し訳ないんですが・・・
>読ませて頂いてます。
エヘエヘエヘ f(^^ ウレシイ

30さんへ
>台湾はいい国だ
ホウホウ.. o(・・ o)
台湾の教科書の邦訳は見つけてもなかったのですが、どなたかご存知のかた
いらしたら紹介していただけるとうれしいっす、、( ̄ー ̄)

31さんへ
?  ニホン ノコトカニャ・・ア゙ァ゙...(′д`;

32さんへ
>昔、確か地球テレビ(だったかな?)という番組が深夜にやっていました。
>十二単を着た女性が おり、さらに男性が剣をひっぱりっこしていました。
>・・・ということでその場は終わったと思います。
い、いったい…。(^^;;

33さん
>>15 てきとーに訳.
33さん、ありがとにゃーo(^^ o)(o^^)o(^^ o)(o^^)o
361です。:2001/08/18(土) 09:14
では、今日はアメリカですにゃ

まず、邦訳の出ているもののご紹介。

 「世界の歴史ー文明の諸型」 (World History: Patterns of Civilization) 
  バートン・F・ビアーズ(Burton F.Beers)著
プレンティス・ホール社(Prentice Hall,Inc.)出版(1993年版)


 「合衆国の歴史(第二巻)−南北戦争から現在まで」
(History of United States,Volumu 2: Civil War to the Present)
トーマス・V・ディバッコ(Thomas V. DiBacco)、ローナ・C・メーソン
(Lorna C.Mason)、クリスチャン・G・アピー (Christian G.Appy)共著
  ホートン・ミフリン社(Houghton Mifflin Company)、マクドゥーガル・リテル社
(McDougal Littell Inc.) 出版(1995年版)

↑これらは、代表的なアメリカの教科書だそうです。
(国際教育情報センター編 対訳 世界の教科書にみる日本 アメリカ)

  The Free and the Brave(自由と勇気) 
コロンビア大学教授Henry F. Graffを主たる著者とする
 McNally & Company社(1982年)

↑これもハイスクール用のアメリカ合衆国史の教科書として広く用いられているのもの一つ。
(帝国書院 全訳 世界の歴史教科書シリーズ アメリカ)

 「アメリカの声ー合衆国の歴史」(American Voices: A History of the United States)
キャロル・パーキン(Carol Berkin)、アラン・ブリンクリー(Alan Brinkley)、
 クレイボーン・カーソン (Clayborne Carson)、ロバート・W・チャーニー
 (Robert W cherny)、ロバート・A・ディバイン(Robert A Divine)、エリック・フォナー
 (Eric Foner)、ジェフリー・B・モリス(Jeffrey B Morris)、アーサー・ウィラー師
 (The Reverend Artur Wheeler)、レオナード・ウッド(Lonard Wood)共著
  スコット・フォアズマン(Scott,Foresman and Company)社出版(1995年板)

↑こちらもアメリカ史の教科書。「アメリカの時代を生き、歴を作ってきた人々の声を通して
物語るアメリカ合衆国史であり、歴史的に重要な出来事に焦点を当てて、その内容が詳しく叙述されている。」
とあります。これが一番詳しく載ってる感じです。量も多いし。。
(国際教育情報センター編 対訳 世界の教科書にみる日本 アメリカ)
371です。:2001/08/18(土) 09:22
この中で、2番目の、
 「合衆国の歴史(第二巻)−南北戦争から現在まで」
(History of United States,Volumu 2: Civil War to the Present)
トーマス・V・ディバッコ(Thomas V. DiBacco)、ローナ・C・メーソン
(Lorna C.Mason)、クリスチャン・G・アピー (Christian G.Appy)共著
  ホートン・ミフリン社(Houghton Mifflin Company)、マクドゥーガル・リテル社
(McDougal Littell Inc.) 出版(1995年版)
を、転載しました。

では世界の教科書 アメリカ編〜です。


[第十一章 世界のなかの一勢力(1880−1910年)]
[4 アジアにおける関与]
日本開国
外部の諸勢力にとって大きな関心の的となった、アジアのもう一つの国は、日本だった。
1600年代以降、日本政府は外部世界との貿易をほとんど許可していなかった。
この政策は、アメリカ政府の意に添うものではなかった.アメリカの捕鯨船は、新鮮な食料と水、
その他の補給物資を求めて、日本に上陸することを望んでいた。
アメリカ人は、また、絹などの日本の品物を買い入れたいと思っていた。

 1852年、合衆国政府は、貿易を開始するべく、マシュー・C・ペリー提督を日本へ送った。
黒く塗られ、煙突から煙を吐き出すペリーの軍艦は、日本人をおびえさせた。
1854年、日本人は、アメリカ船舶が日本の港へ入ることを許可する条約に同意した。
まもなく、他の国々も日本との間で類似の合意に達した。
381です。 :2001/08/18(土) 09:24
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

 中国の場合と同様、移民問題は、合衆国との関係を緊張させた。
1885年以降、日本の天皇は、国民が国を出てハワイへ行くことを許可した。
やがて、1898年に合衆国がハワイを併合すると、多くの日本人が西海岸へ移住した。
アメリカ生まれのアメリカ人たちは直ぐにこの労働者流入に抗議し、西部諸州は日本人を
差別する法律を通過させた。

 1906年、事態は山場を迎えた。この年、サンフランシスコ市長ユージーン・シュミッツは、
(中国人・朝鮮人同様)日本人学生を「公立東洋人学校」に入れるよう命じた。
日本の諸新聞はこれを侮辱とし、反米暴動が起った。両国の外交官は、問題解決に努力することに同意した。
1907−1908年に、両者はある合意に達した。
それは、紳士協定と呼ばれるものだったが、そのために、日本人移民は大いに制限されることになった。
同時に、サンフランシスコは、新たにアジア人学校を作る計画を白紙に戻した。
しかし、日米関係は冷えきったままだった。

写真より
この日本画は、物見高い横浜の住民たちが、マシュー・C・ペリー提督の黒舟を見るために船を
漕ぎ出しているところである。
ペリーの使命は何だったか、また、彼はそれをどのようにやり遂げたか。
科学技術 ペリーの来訪が日本人にとって何を意味したかを説明しなさい。
391です。 :2001/08/18(土) 09:26
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

日露開戦

日米摩擦のもう一つの原因は、増大する日本の国力に合った。
西欧の影響を受けた結果、一層弱体化した中国とは異なり、日本は、西欧の考え方を取り入れて、
強力な産業国家に発展しつつあった。
この新たな力を持って、アジア・太平洋地域にその影響力を拡張しようと切望していた。
同様に、これらの地域に関心を持つ合衆国は、日本の動向を不安を抱いて見守っていた。

 またも、中国は外国の陰謀の場となった。
日本とロシアは、中国の弱体化に乗じて、自分達の影響を韓国、満州(中国東北部の広大な、
鉱物資源に富む土地)に拡張しようとした。
まもなく、帝国主義者は互いに戦いを交えた。
満州からロシア人を追放するために、1904年、日本はロシアに対して奇襲攻撃を仕掛けた。

 近代日本の軍隊は、日露戦争において、陸と海で、連戦連勝だった。
しかし、日本は、今や財政的に行き詰まり、ロシアを屈服させることが出来なかった。
ローズヴェルト大統領が和戦のための助力を申し出ると、両国は喜んでこれを受け入れた。
ローズヴェルトは、次の2つの理由でこの戦争を終結させることに関心があった。
(1)彼は日露両国が門戸開放政策を支持することを望んでいた。
(2)彼hら日本がこの戦争に勝ち、その力が強大になりすぎることを恐れていた。
 そのような状況になれば、「将来、彼らと我々の間に戦いが起り得る」と彼は考えていた。
40世界@名無史さん:2001/08/18(土) 09:35
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)日露開戦より

 ロシアと日本の代表は、1905年、ニューハンプシャー州ポーツマスで会見した。
彼らは、両国が満州から撤退することを求める講和条約に調印した。
ローズヴェルトは、後に、戦争終結のために果たしたこの役割について、ノーベル平和賞を贈られた。
しかし、多くの日本人は、好条件での解決を期待していたので、ローズヴェルトが日本人を失望させたと考えた。

 ローズヴェルトは、段階を踏んで、日本との間に安定した関係を維持しようとした。
両国は、1905年と1908年に条約に調印して、アジア・太平洋における相互の利益を尊重することを約束しあった。
(しかし、)必要とあれば、合衆国は自国の利益のために戦う用意があることを示すために、
ローズヴェルトは、1907年に合衆国海軍を世界一周航海に発つせた。
グレート・ホワイト・フリーと(巨大な、白い艦隊ー艦船は白塗りだったのでこう呼ばれた)の16隻の戦艦は、
強烈なまでにその力を誇示した。
それは、合衆国が疑いなく太平洋の強国であること示すものだった。

この科の復習
1.重要語句 (略)
  紳士協定、日露戦争
2.人名と地名  (略)
  マシュー・C・ペリー、満州
3.理解  (略)
4.理解  なぜローズヴェルトは,日本がロシアに勝利することを恐れたか
5.批判的に考える  (略)
4140=1です。:2001/08/18(土) 09:37
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)日露開戦より

写真より
マップスキル  諸外国は,中国の弱みにつけ込んで、土地を略奪し,不平等条約を押しつけた.
この地図には,東アジアにおける植民地と中国における外国領土が示されている.
どの東南アジアの領土がフランスに属していたか。
批判的に考える なぜ,外国列強が沿岸都市を支配したがっていたのか。
421です。:2001/08/18(土) 09:38
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第17章  2つの大戦の間に(1902−1941年)]
[1 平和を希求して]

 アメリカの平和の首唱

アメリカの指導者は、戦後の合衆国の経済成長は世界的な安定に左右されると考えた。
(世界情勢を)安定させるために、合衆国は、1902年代に、幾つかの国際平和会議に参加した。
 1902年には、ハーディング大統領の招きで、ヨーロッパと日本の代表が首都ワシントンで会合した。
ワシントン会議のときには、合衆国は、まさに、日本や英国と海軍の軍備競争をしようとしていた。
誰も、軍備競争を望んでいなかった。
同様の競争が第一次世界大戦のきっかけになったことを忘れているものはいなかった。


 会議の冒頭、チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官は、(今後)十年間は新しく戦艦を
一隻も建造しないことを提案した。
ヒューズは、また、海軍の保有総トン数の制限を求めた。
この計画は、現存の多くの艦船の解体を求めるものだった。
ヒューズは「世界の全提督が何世紀もの間に沈めた以上の船を35分間で」沈めたかったのだ、
というオブザーバーもいた。

 交渉は、5つの海軍大国に基づいて名づけられ、五カ国条約となった。
これは1922年に調印され、主力艦の建造を10年間禁止すると規定した。
各国の代表は、また、海軍力の比率の規定でも合意した。
この条約のもとでは、日本は合衆国と英国の5分の3の主力艦しか保有できず、フランスとイタリアは
3分の1しか保有できなかった。
431です。:2001/08/18(土) 09:41
続き〜(世界の教科書 アメリカ編) [17.1 平和を希求して] アメリカの平和の首唱より

 同年調印された四カ国条約で、日本、英国、フランス、合衆国は、太平洋で互いの領土を
攻撃しないことで合意した。
もう一つの協定である九ヶ国条約も締結された。
その中で、会議の代表者全員は、中国の独立を尊重することで合意した。
門戸解放の原則(第十一章)はこうして認められた。

 ワシントン会議は、アメリカの歴史上、成功を収め、アメリカの海軍力は大西洋に限定されたが、
東アジアと太平洋の安定が、少なくとも一時は保たれた。
 カルヴィン・クーリッジが大統領のとき、合衆国はより大胆な講話計画に調印した。
1927年、フランスの外交官アリスティード・ブリアンは、フランスと合衆国が互いに戦争を
始めないことに同意するよう提案した。
アメリカの国務長官フランク・B・ケロッグは、そのような合意は同盟とみなされることを恐れた。
彼は、かわりに全ての国に講和条約調印を要請することを示唆した。

 1928年、15カ国がケロッグ=ブリアン条約に調印した。(その後、60カ国以上が調印した。)
調印に当たって、彼らは[国策の手段として[戦争を]放棄する]ことを誓約した。
ほとんどのアメリカ人は、戦争のない世界を夢見て、ケロッグ=ブリアン条約を歓迎した。
しかし批評家は、この条約がその施行については何も触れてないことを指摘した。
また、それには自衛のための戦争は含まれていなかった。
他国に攻撃をしかけた国が自衛のために行動している、と難なく言い張れるだけの余地を残していた。
これらの抜け穴があるため、ある上院議員に、この条約は「郵便切手の値打ち」すらないと言わしめた。
441です。:2001/08/18(土) 09:42
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)[17.1 平和を希求して] アメリカの平和の首唱より

この科の復習
1.重要語句 (略)、ワシントン条約、ケロッグ=ブリアン条約、(略)
2.理解(略)
3.理解  ワシントン条約
4.理解 ケロッグ=ブリアン条約に対して,どのような批判がでたか。
5.批判的に考える(略)
451です。 :2001/08/18(土) 09:43
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[17.3 独裁者の台頭]

日本の軍国主義

ヒトラーの権力がドイツで増大したように、日本では軍国主義が台頭した。
繁栄の1920年代に、日本は西欧と密接な関係を維持した。
たとえば、1922年、日本の指導者たちはワシントン条約で結ばれた合意を受け入れることによって、
アジアにおける緊張を緩和すべく動いていた。
国内では、日本は民主的な精度を発展させていた。

 しかし、このような傾向に反対する日本人が大勢いた。
軍隊の中の過激な国家主義者は、自国の過去を誇りとしていた。
彼らは、(民主主義の変わりに)天皇の絶対服従支配への復帰を要求した。
イタリアのファシスト同様、彼らは領土拡張の利点を説いた。
軍部指導者は、日本の天命とは、西欧の植民地勢力を追放して全アジアを支配することである、と主張した。
日本の実業界の多くの指導者は、国防(産業上の)契約によって軍とつながっていたが、
経済的理由で領土拡張を支持した。

 事実、日本は領土拡張によって得るところが多かった。
日本の人口は急増していた。7000万人以上の日本人が、モンタナ(州)と同じ広さの地域に住んでいたのである。
日本は、また、石油、石炭、鉄のような、産業のための自然資源が不足していた。
461です。 :2001/08/18(土) 09:49
続き〜(世界の教科書 アメリカ編) [17.3 独裁者の台頭] 日本の軍国主義より


 ナチス同様、日本の過激派は、大恐慌までは表面に立つことはなかった。
(しかし、)経済問題が民主政府を悩ますと、過激派は一般大衆の支持を得た。
1930年代には、右翼の軍部将校が民主主義の指導者を脅し、殺害した。ヨーロッパの同類とは異なり、
日本の過激派は、単独の先導者によって先導されることはなかった。
かわりに、小数の指導者の一小団が政策を作った。
彼らは、政府見解に対するいかなる反対も許さなかった。
彼らは、情報機関を検閲し、国家に対する絶対的な服従を強要した。

写真の紹介より
この1931年にとられた写真には、中国の北部地区、満州における日本の軍隊と大砲が写っている。
満州において日本軍将校は(この地の)占領を指令したが、(一方)、東京の文官政府は弱体すぎて、彼らを阻止できなかった。
世界的な認識1930年代の日本の拡張主義政策の動機となったいくつかの要因を挙げなさい。
471です。 :2001/08/18(土) 09:51
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)[17.3 独裁者の台頭] より

日本、満州を侵略

1931年、軍部将校は事態を掌中に収めた。
彼らは、文官政府からの指示もなしに行動を起こし、資源の豊富な中国の満州地区を侵略した。
そして、満州を傀儡国家(形式上は、独立しているが、他国に支配されている国)とした。

 この領土略奪は、門戸開放の原則を作り、これを擁護してきた合衆国に対する正面切っての挑戦だった。
スティムソン国務長官は、大きな反響を望んだ。
しかし、恐慌で打ちのめされていた合衆国は、日本と衝突しない道を選択した。
スティムソンは、アメリカは満州における日本の支配も、征服によるいかなる領土譲渡も認めない、と発表しただけだった。
この声明はスティムソン・ドクトリンと呼ばれ道義的圧力ではありえたが、強制力はなかった。

 日本が属していた国際連盟もまた、満州征服を非難した。
日本は、連盟から脱退することでこれに応酬した。日本の指導者は、西欧大国はどこも
中国を救援には来ないという方に賭けていた。
この賭けは、予想通りの結果となった。

この科の復習
1.重要語句 (略)、傀儡国家
2.人名と地名 (略)、満州、ヘンリー・すティムソン、(略)
3.理解 (略)
4.理解 日本は,1931年に,どのように世界平和を脅かしたか。国際連盟はどのように反応したか。
5.批判的に考える  (略)
481です。:2001/08/18(土) 09:54
続きはまた今度でーす。
感想などお待ちしていま〜す。何でも結構で〜す。
ではまたぁ〜(^^)/~~
49ガージー:2001/08/18(土) 12:32
面白いです、今のところ凄く、冷静に普通に書いてある気がします
これからハルノートや、日本人移民の規制等についてどう書いてあるか、
きになります 書くの大変でしょうががんばってください
50世界@名無史さん:2001/08/18(土) 13:20
「ダ・カーポ」で今まさにこのことやってるね。
中国・韓国・台湾・インドネシア・シンガポールなど。
51世界@名無史さん:2001/08/18(土) 13:55
これを読むと、アメリカにとって中国の門戸開放がいかに重要であったか
がよく分かるな。逆にこれに抵触しなければ太平洋戦争が起きたかどうか
怪しいな。
52:世界@名無史さん :2001/08/18(土) 14:27
>逆にこれに抵触しなければ太平洋戦争が起きたかどうか
怪しいな。

やっぱり太平洋戦争はおきたと思いますよ。関東軍は暴発してましたし。
53T・S:2001/08/19(日) 21:16
 昔もってたEC共通歴史教科書には、日本のことは何一つ載ってなかった。まあ、
あれは世界史の教科書ではなかったからかな・・・・・・。
541で〜す。:2001/08/20(月) 08:30
おはようございま〜す。落ちていたらどうしよう、、と思いつつ、猛然と打ち込みをして
なんとかアメリカを続けて転載できると思ったら、インドの続きを載せ忘れていたことを
思い出し、、ました。。/(∪∪)はい。じつは、おきづきのかたもいらっしゃったかと
おもうのですが、インド。。つづきが。。つづきが。。

>>16からあとのつづきがあったのですけれど、気がついたらなぜかアメリカに
移っていた(笑;;)のですね。。(ご、ごめんなさい、インド。・☆

アメリカの続きを打ち込みましたので、とりあえずそちらを載せて、そのあと
インドを載せさせていただきたいと思います。(まだインドは書き終わっていません
ので。)少し前後してわかりずらくなるかもしれませんが、ご容赦ください。
レス、ありがとうございます。m(_ _)m
551です。:2001/08/20(月) 08:37
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

「合衆国の歴史(第二巻)−南北戦争から現在まで」
(History of United States,Volumu 2: Civil War to the Present)
トーマス・V・ディバッコ(Thomas V. DiBacco)、ローナ・C・メーソン
(Lorna C.Mason)、クリスチャン・G・アピー (Christian G.Appy)共著
  ホートン・ミフリン社(Houghton Mifflin Company)、マクドゥーガル・リテル社
(McDougal Littell Inc.) 出版(1995年版)より


[4 中立から戦争へ]日本との関係ドイツのヨーロッパでの数々の戦勝は、日本の領土拡張主義者
にとって新たな発端となった。
オランダ、フランス、イギリスはもはや、太平洋やアジア大陸の自国の植民地を防衛することは出来なかった。
これら植民地やその資源ー石油、ゴム、錫ーは誘惑的な要因となった。
日本は、すでに満州を支配し、1937年には中国侵略に乗り出していた。
日本の指導者は、今や全東アジアを日本の支配下に統合する機会を目前に控えていた。
ただ、合衆国のみがその道に立ちはだかった。
ローズヴェルトは、合衆国を太平洋の強国、中国の保護者と考えていたが、日本の領土拡張を阻止しようと決意した。
1940年までには、アメリカの世論がこれに同調し始めた。
1940年9月、ローズヴェルトは、日本に対する鉄・鉄鋼の輸出を禁止した。
彼は、日本が中国と東南アジアの植民地で彼らが目指していることを断念するよう要求した。

 この輸出禁止は日本人を激怒させ、日本人は、合衆国が日本の経済を締めつけようとしていると感じた。
しかし緊張が高まっていたにもかかわらず、どちらの側も対決を避けたいと望んでいた。
ローズヴェルトは、太平洋で戦争が起れば、ヒトラーを敗退させるために加勢しようとする
彼の計画が台無しになることを恐れたのである。
同様に、日本も、破壊を招く可能性があるため、大国である合衆国との戦いは避けたいと考えていた。
どちらの側の外交官も話し合いをすることに同意した。
561です。:2001/08/20(月) 08:43
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第17章 2つの戦争の間に(1920年−1941年)]より
[4 中立から戦争へ]
 その一方、それぞれの国は相手を戦争へと追い込む(結果となる)行動に出た。
日本軍は、中国にとどまっていたが、1941年7月には、軍隊を仏領インドシナ(現在のラオス、
カンボディア、ヴィエトナム)へ前進させた。同月、ローズヴェルトは、合衆国内の日本人の全資産を差し押さえた。
合衆国は、また、日本への石油輸出を停止した。
石油なしでは、日本の戦争マシンは、騒々しい音を立てて停止してしまう.
日本はアメリカの要求を受け入れるか、さもなくばオランダ領東インド石油を奪うしかない。
これは戦争を意味することになる。 日本の陸軍大臣東条英機は、合衆国との戦争はさけられないと考えた.
彼は、合衆国軍が行道する前に、先制攻撃を行うべきだと主張した。
1941年秋、日本は、ワシントンでの会談を続ける一方で、戦争の準備をしていた.
(しかし、)アメリカの専門家が日本の暗号を解読していたということを日本人は知らなかった。
合衆国は、日本の無線通信を盗聴し、日本が戦争の準備をしていることを知っていた.
しかし、来るべき攻撃の正確な時刻と場所は不明のままだった。
571です。 :2001/08/20(月) 08:48
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)


[第17章 2つの戦争の間に(1920年−1941年)]
[4 中立から戦争へ]より

マップスキル
1930年代、日本はすでに挑戦、台湾を要する自分の領土に、アジア大陸の諸地域を加えた.
1941年12月7日に始まる攻撃を、日本はどの地域にしかけたか。
批判的に考える 地図に従って、中国における日本の影響の範囲について述べなさい。

真珠湾攻撃
アメリカの情報部は、1941年12月7日に何かが起るという、日本大使館への通信を傍受した。
しかし、攻撃があるとしても、それはフィリピンに対してだろうと考えた。
 ハワイの真珠湾は、アメリカ最大の海軍基地だった。
1941年12月7日、日曜日の朝、基地内の何千人のアメリカ水平は、平穏な一日を迎えていた。
前日の真夜中に、353機の日本の爆撃機、戦闘機、雷撃機が、ハワイから数百マイルのところにいた
航空母艦から飛び立っていた。午前7時55分、彼らは、抱卵中のアヒルのように、湾内に停泊していた
アメリカ艦船に攻撃をしかけた。何年か後に、ジーン・ラロック提督はその日の朝のことを回想している。

   最初、私は、合衆国の陸軍空挺部隊が誤って我々を爆撃しているのかと思いました。
   我々は、それほど思い上がっており、うぬぼれが強く、日本の力については無知でした。
   ・……彼らがいかに優秀かを理解するのに長い時間がかかりました。
   日本軍は、2,300人以上のアメリカ軍人の命を奪い、18隻の艦船を撃破した。
   150機以上の飛行機が地上で攻撃され、破壊された。
   日本軍はほとんど損害をこうむらなかった。
   日本軍は、イギリス、オランダ領同様、太平洋におけるほかのアメリカ軍基地も攻撃した。
581です。 :2001/08/20(月) 08:53
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第17章 2つの戦争の間に(1920年−1941年)]
[4 中立から戦争へ]より

 真珠湾攻撃の翌日、ローズヴェルトは、議会に、日本に対する宣戦布告の勧告を行った。
彼は、厳粛に、1941年12月7日は[汚辱の日]であると述べた。
議会両院は、何時間あとに82対0、388対1の票でまとまった。
真珠湾(攻撃)は、ファシズムの脅威をもってしても出来なかった、(アメリカの)孤立主義的感情を
揺さぶった。3日後、日本の同盟国ードイツとイタリアーが合衆国に宣戦布告した。
今や、引き返す道は絶たれた.半世紀の間に2度にわたって、合衆国は世界大戦に参加したのである。


写真より
真珠湾への日本の奇襲攻撃中に爆撃された、戦艦ウエスト・バージニアの水兵がモーターボートで
救助されている。歴史 この攻撃は、第二次世界大戦に対するアメリカの態度をどのように変えたか。

☆歴史的文書ローズヴェルト大統領の議会への教書の抜粋については、本書725ページを参照のこと。

− ローズヴェルトの議会への戦争教書(1941年) −

1941年12月7日、日本の爆撃機が真珠湾のアメリカ艦隊を
爆撃した。翌日、ローズヴェルト大統領は、日本に宣戦布告するよう議会に勧告した。
昨日、1941年12月7日ー汚辱の日ー合衆国は、突如として、計画的に、日本帝国陸海軍の攻撃を受けた・・・・・・・。
 ハワイ諸島に対する昨日の攻撃により、アメリカ陸海軍は甚大な被害をこうむった。
非常に多くのアメリカ人の命が失われた。さらに、アメリカ船舶がサンフランシスコ・ホノルル間の
公海で魚雷攻撃を受けた、と報告されている。

 昨日、日本政府は、マラヤに対しても攻撃を開始した。昨夜、日本軍は香港を攻撃した。
昨夜、日本軍はグアムを攻撃した。昨夜、日本軍はフィリピン諸島を攻撃した。
昨夜、日本軍はウェーク島を攻撃した。今朝、日本軍はミッドウェー島を攻撃した。

 従って、日本は太平洋地域のいたるところで奇襲攻撃を行ったのだ。昨日の諸事実で、
その意味は明白である。合衆国の国民はすでに意見を決めており、わが国家の声明と安全にとって
の(この事態の)意味をよく理解している。
陸海軍総司令官として、私は、我々の防衛のために万全の措置がとられるよう指示した・・・・・・・。

 私は、12月7日、日曜日に、いわれのない卑劣な攻撃を日本から受けた時から、合衆国と日本帝国
の間に戦争状態が存在していると議会が宣言することを、ここに求めるものである。

 「フランクリン・D ・ロオーズヴェルトの公文書と演説」第10巻、514ページより
591です。 :2001/08/20(月) 08:55
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第17章 2つの戦争の間に(1920年−1941年)]
[4 中立から戦争へ]より

この課の復習

1.重要語句 (略)、第二次世界大戦、 (略)2.人名と地名  (略)、 東条英機、 真珠湾
3.理解 (略)
4.理解 (略)
5.批判的に考える  合衆国の第二次世界大戦への突入は避けられなかったのか。その答えを説明しなさい。
601です。 :2001/08/20(月) 08:57
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第18章 戦時下の世界(1941−1945年)][1 危機の時代]

日本の太平洋攻撃

ドイツ同様、日本は戦争初期に大勝利を収めた。
日本の真珠湾攻撃は、アジア・太平洋のいたるところに存在するイギリス、アメリカの陣地に対する
攻撃の一部だった。主たる標的には、フィリピンのアメリカ軍基地とシンガポールにあるイギリスの
重要な海軍基地が含まれていた。

 1942年1月、日本軍がフィリピンの首都マニラを攻略したとき、アメリカ・フィリピン軍はバターン
半島とコレヒドール等(431ページに地図)へ撤退しなければならなかった。彼らは、多くの犠牲を
払いながら戦いを続行した。
ついに、数ではるかに圧倒され、空海両面で外からの補給を断たれて、4月・5月に約12,000人の
アメリカ軍と約65,000人のフィリピン軍は、ついに日本軍に降伏した。
 日本軍は捕虜を,戦争捕虜収容所までの曲がりくねった65マイルの道を苛酷な強行軍をさせて,
連行した。7,000から10,000人の連合国軍捕虜が棒でなぐられ,銃で撃たれ,餓死させられた。
合衆国ではバターン死の行進と呼ばれたが,このニュースは,真珠湾で憤激していたアメリカ
国民をさらに怒らせた。
611です。 :2001/08/20(月) 09:03
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第18章 戦時下の世界(1941−1945年)][1 危機の時代]

日本軍を阻止する

 フィリピンでの降伏は,アメリカ軍にとって太平洋戦争中,最悪のときだった。
(一方、)日本は無敵に見えた。日本は6ヶ月で大洋の30万平方マイルを攻略していた。
オーストラリアを攻撃し,合衆国(本土)まで侵攻する体制を整えた。西海岸のアメリカ人は,
日本の侵略者に対して神経をとがらせて警戒を続けた。
アメリカの戦争マシンがやっとギアを入れた(指導準備が完了した)この初期の時点で,
日本海軍は,合衆国の3倍の艦船を保有していた。
 
 1942年半ばの2つの戦闘が,太平洋における日本の領土拡張を阻止する上で,決定的なものと
なった。5月,珊瑚海海戦で,連合国軍はオーストラリアへの日本の進撃をくい止めた。
この戦闘は,海軍史上でも初めてという,全くの空中戦で,敵艦が互いの視野に全く入らない
戦闘だった。翌月,1942年6月,100隻以上からなる日本艦隊がハワイ諸島への飛び石の一つ,
ミッドウェー島のアメリカ海軍基地を攻撃した。山本五十六提督率いるこの艦隊には,
何100機もの戦闘機を積んだ5隻の航空母艦が含まれていた。

 合衆国海軍がミッドウェー海戦で支配権を握ったのは、チェスター・ミニッツ提督が
日本艦隊の進路を正確に知っていたからである。真珠湾攻撃に先立つ暗号解読とは異なり,
今度の情報は成功裏に使われえた。

 珊瑚海のときと同様に、ミッドウェーでの戦闘は戦闘機によるものだった。
両陣営は莫大な被害をこうむった。しかし、アメリカの急降下爆撃がほんの短い時間に
4隻の日本の航空母艦を攻撃し、撃沈すると、(勝敗は)決定的になった。
勢いをそがれた日本艦隊は退却を余儀なくされ、ミッドウェー島はアメリカの手に留
まった。
62:2001/08/20(月) 09:05
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第18章 戦時下の世界(1941−1945年)][1 危機の時代] 日本軍を阻止する
より

[伝記]
テキサス州フレデリクスバーグの
チェスター・ニミッツ[1885−1966年]は、1905年に合衆国海軍士官学校を卒業した。
第一次世界大戦中は、合衆国潜水艦隊に服役した。
真珠湾で日本が合衆国海軍を粉砕した後、ニミッツは艦隊を再建した。
海軍・海兵隊の太平洋地域での作戦司令官として、ニミッツは、太平洋での戦争を勝利に
導く助けとなる、島とび作戦を展開した。
631:2001/08/20(月) 09:10
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第18章 戦時下の世界(1941−1945年)][1 危機の時代]

攻勢に出る

 ミッドウェーにおけるアメリカの勝利は、太平洋戦争の転機となった。
これ以後、アメリカ軍は日本軍をその本国の島々へ押し戻し始めた。

 連合国軍が日本軍に占拠されている、主要な島々へ進撃するにつれて、その、遠くにある、
密林に覆われた島々は死と破壊の現場と化した。太平洋で戦った海兵隊員、ウィリアム・
マンチェスターは回想している。

     文字通り人が住めないような島もありました。・………そして、戦闘は、現実
     とは思えないような状況のもとで繰り広げられました。
     ガダルカナルでは地震で揺さぶられることもありました。硫黄(島)では、
     火山の蒸気が岩を伝ってシューシューと吹き出ていました。
     ウーゲンヴィルで、何台もの ブルドーザーが、スポンジのような底なし沼
     に消え、ペリリューでの戦闘さなかの気温は、日陰で115度[訳注1:摂氏46度]
     もありました。


 連合国軍の最初の攻撃は、ソロモン諸島の一つ、ガナルカナルで始まった。ガダルカナル
の重要性は、その位置ーオーストラリアとニュー・ギニア両方に近いということーにあった。
1942年8月、2万人のアメリカ海兵隊員が嵐のごとく上陸した。その目的は、日本軍を絶滅し、
島の支配権を手中にすることだった。 (しかし、)海兵隊は苦しい敗北を喫した。
日本軍が5隻の連合国軍巡洋艦のうち4隻を沈めると、援護の艦船は後退し、海軍の砲撃も
補給品もないアメリカ軍部隊はガダルカナルで立ち往生した。
4ヶ月間、日本の陸・海・空からの砲撃や爆撃のもとに、彼らは孤立していた。多くは白兵戦
[訳注2 白兵(刀や銃剣などの武器)をふるい、敵味方が入り乱れて戦う接近戦]だったが、
この戦争の中でも最も激しい、何度かの戦いの末に、海兵隊は優位に立ち始めた。
生き残った日本兵は、1943年2月、島から撤退した。
しかし、日本に対する勝利はずっと先のことだった。
641:2001/08/20(月) 09:13
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第18章 戦時下の世界(1941−1945年)][1 危機の時代] 攻勢に出る
より

写真より
アメリカ海軍司令官が描いたこのミッドウェー海戦の絵は、第二次世界大戦における
日本の最初の大敗北の画面を描いている。アメリカの急降下爆撃が航空母艦加賀(右)
を撃沈し、800人の水平が戦死するという地獄の様相を呈した。
歴史 この合衆国の勝利は何を可能にしたか。

この課の復習
1.重要語句  枢軸国、連合国、(略) バターン死の行進、ミッドウェー海戦
2.人名と地名  (略)、フィリピン、チェスター・ニミッツ、山本五十六、
  ガダルカナル
3.理解  (略)
4.理解  太平洋で日本軍に対する戦いの転機となったのは、どの戦闘(二つ)だったか。
5.批判的に考える    (略)
651:2001/08/20(月) 09:19

日系アメリカ人の収容、ヤルタでの会談、日本への進撃、アイ・シャル・
リターン(ダグラスマッカサー大将)などについては次回となります。
ご精読ありがとうございました。m(. .)m
66世界@名無史さん:2001/08/20(月) 09:39
おもしろいなー
俺英語苦手で読めないんだけど、
向こうの教科書とか歴史書の日本語訳とかは
新しい発見が有ったりしておもしろいね。
67世界@名無史さん:2001/08/20(月) 16:32
日本の教科書問題の最中ですが、ドイツの教科書は自国の第二次
世界大戦における歴史観をどう扱っているのか興味深い所です。
誰かドイツの歴史教科書持ってる人いますか?
68世界@名無史さん:2001/08/20(月) 19:09
こういうのを見ると、日本の教科書の戦争の扱いがいかに薄っぺらかわかるね。
一番現在に繋がっている歴史なのに!
69世界@名無史さん:2001/08/20(月) 21:40
1さんへ質問!
現在、ここで連載(?)中のアメリカの教科書、対象は?
ハイスクールですか?
7069:2001/08/20(月) 21:41
感想文 about 亜米利加の教科書
戦争の記述が細かい。これはつくる会の歴史教科書もそうですね。
71世界@名無史さん :2001/08/21(火) 00:05
おもしろいっす!
72世界@名無史さん:2001/08/21(火) 00:19
うむ。オモシロイ。良スレage
73大スキピオ:2001/08/21(火) 08:27
韓国の歴史教科書には、元寇は東夷討伐とかいてあるんですね。
741ですm(_ _)m:2001/08/21(火) 09:52
おはようございます。
こんなにレスをつけていただいて。。r(′∇`。)thanks..
そ、それなのに、、
今朝早起きしてがんばったのですが、まだ書ききれていなくて
・・また、夜きます。(ごめんなさい。。インド思ったより大量になって
しまいました。アメリカはもう少しです。

ドイツの教科書は、知っているものでは
帝国書院より
全訳 世界の歴史教科書シリーズ 西ドイツT〜W(KLMN巻)
梨の木舎より
教科書にかかれなかった戦争 Part15
ヨーロッパの教科書に書かれた日本の戦争

です。それから、ポルトガルは、
ほるぷ出版より
世界の教科書 歴史 IJK巻 ポルトガル1、2,3

※ポプラ社とかいてしまったと思うのですが(↑で。。)
 勘違いでした。すみません。。

レスしていただいてとてもウレシイです。今朝はごめんなさい、、(><)
75世界@名無史さん:2001/08/21(火) 21:00
ドイツの教科書、絶版になってると言われました・・・三省堂で。
761:2001/08/21(火) 22:14
>>75さん
帝国書院さんのものですね。失礼しました。
図書館にはたいていあるので、つい忘れていました。
昭和55年ごろ出版のもので、古本屋さんくらいしかないかもしれません。
早稲田の古本屋さんで名前を忘れてしまいましたが、一軒、教科書関係を
扱っているところがあり、そこで、33巻そろって、5万円くらい、と
聞いたことがあります。(^^


梨の木舎さんの本は今も手にはいると思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/glance/-/books/4816695133/qid=998397851/ref=sr_sp_re_1_22/249-6846857-9568364
タウンページで調べて直接取り寄せのほうが早いかもしれません。
住所は、東京都千代田区神田です。図書館にもよく置いてあると思います。
771:2001/08/21(火) 22:37
>>69 さんへ

>現在、ここで連載(?)中のアメリカの教科書、対象は?
>ハイスクールですか?

ハイスクール用のようです。「教科書と日本についての記述について」のページから転載です。
.........................................................................

「アメリカ編」として、3冊の中等教育用の歴史教科書 - 世界史一冊、合衆国史2冊
を選択した。この3冊は、アメリカの代表的な社会化教科書出版会社から出版された教科書
で、9学年から12学年(日本の中学校3年から高等学校3年)を対象としている。これら
の各教科書は,百科事典1巻分の大きさがある、色彩豊かな大冊である。
(3冊↓)
・「世界の歴史ー文明の諸型」 (World History: Patterns of Civilization)
・「合衆国の歴史(第二巻)=b南北戦争から現在まで」(History of United States,
 Volumu 2: Civil War to the Present)
・「アメリカの声ー合衆国の歴史」(American Voices: A History of the United States)
..........................................................................

・The Free and the Brave(自由と勇気)
は、アメリカ合衆国でハイスクール用のアメリカ合衆国史の教科書として広く用いられている
ものの一つであり、いくつかのすぐれた特色を有する教科書である。(以下略)
>>36 参照

ここに載せたのは2番目の「合衆国の歴史(第二巻)=b南北戦争から現在まで」です。
781 訂正です:2001/08/21(火) 22:45
>>77 
×社会化 ○社会科
791:2001/08/21(火) 23:11
インドの内容、書けたので載せておきます。
以前少し載せてあったものよりも前の個所にも、よく見たら日本の記述が
あったので、前後せずに、整理できるように目次を載せました。
既に、転載済みのものは>>6 の、ようにリンクしておきました。
■が、日本のことが多く載っている個所 (■)が少しですが載っている個所
□が、日本のことは載っていないが、話の流れがつながるよう載せた個所
・・・です。(アメリカはインドの後、後半を続けて載せる予定です)

The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)
1978年 高等学校1,2年用


第9章 帝国主義 
− 帝国主義の発展を助長した諸条件 -  産業革命がつくりだした需要
  交通と通信への投資 極端な国民主義:威信と権力 「文明化させる使命感:人と思想」
  アジアとアフリカ帝国主義に有利に働いた諸条件 
/ - アジアの征服 -  インドにおけるイギリス人 ■中国における帝国主義
  南アジア、東南アジアにおける帝国主義 中央アジア、西アジアにおける帝国主義
  ■(>>6>>8>>9)帝国主義勢力としての日本  
/- アフリカにおける帝国主義 -  奴隷貿易  アフリカの征服 
西アフリカと中央アフリカ  南アフリカ  東アフリカ  北アフリカ  
/- 帝国主義のもたらした諸結果 -  富の流出   人種的差別  
帝国主義に反対する闘争

第10章 社会主義運動とロシア革命 
/初期の社会主義者たち  マルクスの社会主義  第一インターナショナル
  1871年のパリ・コミューン  第二インターナショナル 
/- ロシア革命 -  革命前のロシアの状況  ロシアにおける革命運動の成長
  ■革命の開始   ロシアにおける革命の諸結果  ロシア革命の国際的結果
 
第11章 □第一次世界大戦 
/ ■帝国主義的対立  ヨーロッパにおける諸抗争  同盟の成立 
戦争に先立つ書事件 
/- 戦争の勃発 -  
/- 戦争の終結 -  ■講和条約  戦争と講和条約の結果 

第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界 
/- 戦間期のヨーロッパ -  イタリアのファシズム  ドイツのナチズム
  イギリスとフランスにおける展開  最強の勢力アメリカ合衆国の登場 
ソヴィエト連邦の登場  ■アジア・アフリカにおける民族運動 
/- ■(>>13>>14>>16)ファシスト侵略の開始 - ■日本の中国侵略
  □ドイツの軍国主義化  □イタリアのエチオピア侵略  □スペイン内戦 
□ミュンヘン協定 
/- ■第二次世界大戦 - □ポーランド侵略  □ノルウェー、デンマーク、
オランダ、ベルギーおよびフランスの占領  イギリスの戦い  ドイツの
ソヴィエト連邦侵略  ■戦争の拡大 □スターリングラードの戦い 
□「第二戦線」 □ヨーロッパでの戦争の終結  ■日本の降伏 
■抵抗運動  戦争による被害
801:2001/08/21(火) 23:17
(歴史教科書 インドより)
第九章  帝国主義より  ■中国における帝国主義

 帝国主義の中国支配は、アヘン戦争といわれる事件とともにはじまった。この戦争の前
には、二つの港だけが外国人商人に解放されていたにすぎない。
イギリス商人は中国産の茶・絹その他の商品を購入したが、中国にはイギリス商品のため
の市場はなかった。そこでイギリス商人たちはアヘンを大規模に密輸し始めたのである。

 不法なアヘン貿易はイギリス商人には大いに設けをもたらしたが、中国人には身体的、
道徳的な損害を与えた。1839年に、1人の中国人管理がアヘンの荷を没収、焼却したとき、
イギリスは宣戦し簡単に中国を敗北させた。そして中国は多額の賠償金を支払い、
イギリス商人に5港を開放することを余儀なくされたのである。

中国政府はまた、将来これらの港でイギリス臣民がどんな罪を犯しても、裁判は中国の法廷
ではなく、イギリスの法廷で行われることに同意した。
この条項は、他の西洋諸国によっても踏襲され、治外法権といわれるようになった。
中国政府はもはや外国商品に関税をかける自由も失ったのである。香港はイギリスに割譲
された。

 まもなくフランスが中国と、同じような不平等条約を締結した。フランス人宣教師が
殺害されたということを口実にして、イギリスとフランスは中国と別の戦争を構えた。
中国は敗北し、征服者に以前にも増す特権を与えなければならなかった。

 中国における帝国主義拡大の次の重要な段階は、日清戦争の後に訪れた。
これは、日本が中国の宗主権下にあった朝鮮に影響力を強めようとしていたときに起きた。
中国はこれを怒り、両国は戦争に突入したが、結果は日本の勝利に終わった。
中国は朝鮮に独立を与え、台湾とその他の島嶼(とうしょ)を日本に割譲した。
また中国は日本に約1億5000万ドルに達する戦争賠償金を支払わなければならなかっ
たのである。
811:2001/08/21(火) 23:21
(歴史教科書 インドより)
第九章  帝国主義より  ■中国における帝国主義(続き)

 フランス、ロシア、イギリス、ドイツは、中国がこの支払いをしていくのを援助するため、
借款を提供した。しかし下心なくというわけではなかった!
続いて、これらの西洋諸国は中国を”勢力範囲”に分割した。
つまり各国は排他的に自分のために留保された一定地域を、中国にもったのである。
たとえば、勢力範囲では、1国は鉄道を敷設したり鉱山を採掘する権利を持つことが許さ
れた。ドイツは○州湾を獲得し、山東と黄河流域に独占権を得た。ロシアは満州の鉄道
施設権とともに遼東半島をとった。フランスは、広州湾を租借し、中国の南部3省に広範囲
にわたる権利を得た。イギリスは揚子江流域の勢力範囲に加えて、威海衛を得たのである。
(○は、変換できませんでした。)


 アメリカ合衆国は、中国が完全に排他的な勢力範囲に分けられ、その中国貿易が締め出さ
れてしまうのを危惧した。そこで、アメリカ合衆国は「文と開放」政策といわれる政策を提唱
した。この政策はまた「機会均等」政策ともいわれる。この政策によれば、全ての国は中国の
どこにおいても通商できる平等の権利を持つことになるのであった。イギリスは、この政策
が最も容易に中国本土に軍隊を派遣することができた日本やロシアによる中国の併合を
阻止するものと考え、アメリカ合衆国を支持した。 中国における特権の争奪がやんだのは、
義和団の反乱といわれた外国勢力に対する放棄以後のことであった。しかし外国勢力は
勝利を収め、懲罰として中国に多額の賠償金を課したのである。帝国主義は中国の軍閥の
協力を得て存続したのである。これらの軍司令官はさらに多くの特権を与える見返りに
外国勢力から得る借款によって支えられていた。その後、数十年の間に、中国は諸列強の
植民地の地位に転落したのである。

 中国の勢力範囲への分割は、しばしば「中国メロンを切ること」に喩(たと)えられて
 きた。(訳者注 中国「瓜分」ともいわれ、うりを切りさいた状態から、国土を容易に
 分割するさまをいう。)
821:2001/08/21(火) 23:27
(歴史教科書 インドより)
第九章  帝国主義より 帝国主義勢力としての日本  (>>6>>8>>9


第十章  社会主義運動とロシア革命より (■)革命の開始

 普通、小さな出来事が革命を「発射させる」。ロシア革命の場合、それはパンを買い求
めんとする労働者階級の妻女たちのでもであった。労働者のゼネストがこれに続き、
それにはまもなく兵士やその他の人々も参加した。1917年3月12日に首都ぺテルスブルグ
(後ペトログラードと改称され、現在はレニングラード)が革命派の手におちた。
革命派がモスクワを掌握するとすぐ、ツァーへの侮蔑を表現しつつ、ツァーの崩壊について
次のように書いている。

 噛みくだいたたばこのように われらはかの王朝をはきだした

ツァーの崩壊は、それがロシア暦の2月27日に起ったため二月革命として知られている。
しかし、ツァーの倒壊は革命のほんのはじまりにすぎなかった。

 人々の最も重要な要求は四つあった。平和に実現・耕作者への土地の授与・労働者による
工場管理・非ロシア民族への平等の地位であった。ケレンスキーの指導のもとでの臨時
政府はこれらの要求のいずれをも実現させず、人びとの支持を失った。二月革命当時
スイスに亡命していたレーニンは4月にロシアに戻った。彼の指導によって、ボルシャ
ヴィキ党は戦争終結、農民への土地の転移、「すべての権力をソビィエトに」のスローガン
の推進のために明確な方針をうちだした。
非ロシア民族の問題に関しても、ボルシェヴィキ党は明確な政策を持つ唯一の政党であった。
レーニンはロシア帝国を「民族の牢獄」と表現しており、あらゆる非ロシア民族が平等の地位を
与えられないかぎり、純粋な民主主義というものは確立されえないことを表明していた。
彼はロシア帝国下の諸民族を含むあらゆる民族の自決権を宣言した。
831:2001/08/21(火) 23:29
(歴史教科書 インドより)
第十章  社会主義運動とロシア革命より (■)革命の開始


 ケレンスキー政府の不評により、1917年11月7日にそれは崩壊するが、この日、水兵の一団が
ケレンスキー政府の司令部であった冬宮を占拠した。同日、全ロシア、ソヴィエト会議が招集
され、全権力を掌握した。11月7日に起ったこの事件は、旧ロシア暦10月25日にちなんで
十月革命の名で知られている。 翌日のソヴィエト会議は全民族及び交戦国に対して、併合や
賠償のない正当な平和のための交渉を開始するよう呼びかける声明を発表した。ロシアは
ドイツが平和の代償として要求した領土を割譲したあとしばらくしてからであるが、戦争から
軍隊を引きあげた。

土地に関する布告につづいて、地主、教会およびツァーの所領は没収され、農民の家族が雇用
労働なしで耕作するため彼らに分配すべく、農民組合の手に移管された。工場の管理は労働者
の工場委員会の手に移された。1918年の半ばまでには、銀行・保険会社・大工場・鉱業・水利運輸
及び鉄道が国有化された。外国の負債は廃棄され、外国の投下資本は没収された。全ての民族に
自決権を与えるとする民族の権利宣言が発表された。じんみん委員会と称される新しい政権が
樹立された。新政府のこれらの最初の行動が社会主義時代の幕を開けた。ロシア革命はほと
んど平和的に達成された。革命の起った当日に、2人の人間が殺されたと伝えられただけで
ある。

しかしまもなく、新国家は内乱に引き込まれた。崩壊したツァーの旧将校たちがソヴィエト国家
に対する反乱を組織したのである。イギリス、フランス、日本、及びアメリカ合衆国その他諸外国
勢力の軍隊もこれに加わった。1920年まで戦争の嵐は吹き荒れた。この時期までには、新国家の
「赤軍」が旧ツァー帝国の全領土を掌握していた。赤軍は装備も悪く、主として労働者と農民に
よって構成されていた。しかし、アメリカやフランスの革命における市民軍が勝利したように、
それは装備も訓練もよりよく行き届いた兵力にうちかったのである。革命はロシアの革命家たち
が期待したように、全世界的規模で発生することはなかったが、旧ロシア帝国では成功した。
ロシアは次いで、新しい社会の建設の綱領をうちだした。
841:2001/08/21(火) 23:35
失礼。83、改行に失敗しました。

(歴史教科書 インドより)
第十一章  □第一次世界大戦

1914年にヨーロッパではじまった戦争は、間もなくほとんど全世界を巻きこんだ。
この戦争のもたらした被害は、歴史上に例をみないものであった。従来の戦争では一般
市民は普通これに巻き込まれることはなく、死傷者も大むね戦闘する軍隊にかぎられて
いたものである。1914年からはじまるこの戦争は、交戦国の持つあらゆる資源が動員される
総力戦であった。それは全世界の経済に影響を及ぼした。居住区域爆撃や戦争によって
引き起こされた飢饉や疫病による一般市民の死傷者の数は軍の兵士たちの死傷者の数を
はるかにうわまわった。それが与えた衝撃もまた前例をみないものであった。
それはまさに世界史上の転換点といえた。あらゆる大陸に属する国々がこの戦争に引き
こまれた。戦闘はヨーロッパ、アジア、アフリカと太平洋で行われた。
その範囲の広がりと総力戦的性格から、それは第一次世界大戦の名で知られている。

第十一章  第一次世界大戦   (■)帝国主義的対立

 この戦争の基底にある原因は、帝国主義諸国間の対立と敵対であった。皆さんは前に
帝国主義に関する章で、アジア、アフリカの帝国主義的征服に続いて、帝国主義諸国間の抗争
が起ったことを学んだ。帝国主義者たちはときによっては、「平和的合意」に達し、相互に
武力の使用に向かうことなくアジア、アフリカのある部分を自らの間で分割するのに同意
することもできた。別のときには、彼らの対立は戦争状態をつくりだした。そうしたとき
でも、それ以上の植民地征服の可能性がまだあったから、戦争はほとんどの場合回避され
た。ある帝国主義国がどこかある地域から排除されても、また別の征服地を見つけること
ができたのである。ときには、たとえば日本とロシアの間に起ったように、戦争が勃発する
こともあった。
851:2001/08/21(火) 23:39
(歴史教科書 インドより)
第十一章  第一次世界大戦   (■)帝国主義的対立(続き)

しかし、19世紀の終わりまでには事態は変化していた。アジアとアフリカのほとんどが
すでに分割されつくしており、それ以上の征服は他の帝国主義国からその植民地を奪う
ことによってしか可能ではなくなった。したがって、19世紀の最後の10年間がはじまる
ころには、帝国主義的対立の結果として「世界再分割」の企図がみられ、そこから戦争の
条件が生みだされた。

皆さんはすでに、ドイツが遅れて植民地争奪に参加したことを学んだ。ドイツは国家統一を
達成したあと、経済発展のうえで目をみはる進歩を遂げた。1914年までには、ドイツは鉄鋼
と多くのほかの商品生産において、イギリス、フランスを遠くひき離していた。船舶貿易に
も大規模に進出していた。1912年に建造されたその船舶の一つインペラトールは、当時
世界最大のものであった。イギリスとフランスはドイツ製造産業の拡大を自らの立場に
とっての深刻な脅威と考えたので、これに驚愕した。

ドイツは遅れて登場したため、多くの植民地を獲得できなかったということはすでに
学んだ。アジアとアフリカのほとんどはすでに古くからの帝国主義勢力によって占領
されていた。そのためドイツ帝国主義者たちは東方への領土拡大を夢みた。彼らの野望
とは、崩壊しつつあるオスマン帝国の経済を掌握することであった。この目的のため
彼らはベルリン=バグダード間に鉄道を敷設する計画を立てていた。しかし、ベルリン=
バグダード鉄道の完成はオスマン帝国におけるイギリス、フランス、ロシアの帝国主義的
野望をそこねるものであったから、この計画は彼らの間に脅威を生みだした。
ドイツはまた当然のことながら、アフリカを含むほかの地域にも帝国主義的野望を抱いて
いた。
861:2001/08/21(火) 23:44
(歴史教科書 インドより)
第十一章  第一次世界大戦   (■)帝国主義的対立(続き)

 ドイツとヨーロッパの主要な勢力同様、日本もまた帝国主義的野心を持っていた。
統一達成後、勢力においてフランスとほぼ同格になっていたイタリアは、オスマン帝国下
にあった北アフリカのトリポリの掌握を切望していた。イタリアはすでにエリトリアと
ソマリランドを占領下に置いていた。フランスはモロッコをアフリカにおける占領地に
加えたがっており、ロシアはイラン、コンスタンティノープルを含むオスマン帝国領、
極東その他に野心を抱いていた。このロシアの野望はイギリス、ドイツおよびオースト
リアの利害、野望と衝突するものであった。これまた帝国主義国となっていた日本も
極東に野心を燃やし、それを達成する途上にあった。日本はイギリスとの条約締結後、
1904年〜1905年にロシアを破り、極東でのその影響力の拡大が可能であった。

イギリスはすでに守るべき広大な帝国を獲得していたため、全てのほかの帝国主義国
との抗争に巻きこまれた。他のいかなる国の勢力の台頭も、イギリスにとっては危険と
感じられた。イギリスはまた、他の諸国との競争に対して自ら守るべき、そしてまた
その帝国の生命線と自ら考えていたものを掌握するために維持すべき広範な国際貿易
をも有していた。

オーストリアもまたオスマン帝国へ野心を燃やした。アメリカ合衆国は19世紀末には
強大な国家として姿を現わしており、フィリピンをすでに併合していた。アメリカの
主たる関心は、その貿易が驚くべき速度で伸びていたから、当然貿易の自由の維持に
あった。他の主要な勢力の影響力の拡張はアメリカの利害にとって脅威と考えられた。
871:2001/08/21(火) 23:46
(歴史教科書 インドより)
第十一章 第一次世界大戦  (■)講和条約

 連合国側と呼ばれた勝利者側の勢力は1919年1月と6月の間に、最初はパリ郊外の
ヴェルサイユ、のちにパリで会議を開いた。
会議に代表を送った国は27であったが、講和条約の条件は、イギリス、フランス、アメリカ
の3カ国によって事実上決定された。
条約の条件の立案に決定的役割を果たした3人は、アメリカ合衆国大統領ウッドロー・
ウィルソン、イギリス首相ロイド・ジョージ、フランス首相ジョルジュ・クレマンソーで
あった。敗戦国の代表は会議に参加していなかった。戦勝国はロシアをも会議から排除
した。このように、条約の条件は敗戦国と戦勝国の間の交渉の結果ではなく、勝利者に
よって敗北者におしつけられたものであった。

 戦後の主条約はドイツとの間で1919年6月28日に調印された。
それはヴェルサイユ条約とよばれる。ドイツ共和国政府は侵入という脅しをかけられて、
この条約調印をよぎなくされた。条約はドイツとその同盟国を侵略の罪人と宣言した。
アルザス=ロレーヌはフランスに返された。ドイツ領内のザールとよばれる鉱山は
15年間フランスに割譲され、そこは国際連盟の管理するところとなった。

ドイツはまた戦前の領土の一部をデンマーク、ベルギー、ポーランド、チェコスロヴァキア
に割譲した。ライン峡谷地域は非武装化された。条約はまたドイツの武装解除を求める
条項を含んでいた。
その陸軍勢力は10万にまで限定されることとなり、いかなる空軍も潜水艦も持たないよう
要求された。ドイツはまた全ての植民地を取り上げられ、それらは戦勝国の掌中に入った。
−トーゴとカメルーンはイギリスとフランスで分配された。南西アフリカ、東アフリカの
ドイツ領はイギリス、ベルギー、南アフリカ、ポルトガルに与えられた。太平洋のドイツ領と
中国内の支配地域は日本の手にゆだねられた。
中国は戦時中は連合国と同盟しており、パリ会議でも代表を送っている。しかしドイツが
占領あるいは管理していた地域は中国には返されず、かわりに日本へと譲渡されたのである。
881:2001/08/21(火) 23:52
(歴史教科書 インドより)
第十一章 第一次世界大戦  (■)講和条約(続き)

ドイツはまた、戦時中に連合国側がこうむった損失と被害の賠償の支払いを求められた。
その賠償額は65億ポンドという巨大な額が設定された。

 別個の条約がドイツの同盟国との間で調印された。オーストリア=ハンガリーは解体
され、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアおよびポーランドの独立を
認めるようオーストラリアは求められた。オーストリアはまたこれら諸国とイタリアに
対して領土を割譲せねばならなかった。バルカン地方にも多くの変化がもたらされ、
新しい国家の創設、ある国家から他の国家への領土の移動などが見られた。
それまでロシア帝国の一部であったバルト諸国は独立国となった。トルコトの条約は
オスマン帝国の完全な分割を規定した。イギリスはパレスティナとメソポタミア(イラク)
を、フランスはシリアをそれぞれいわゆる『委任統治領』として与えられた。理論的には
『委任統治領』イギリスとフランスは『委任統治領』の住民の利害を守る義務があったが、
事実上はそれらは殖民として支配された。残るほとんどの旧トルコ領はギリシアとイタリア
に与えられ、トルコは極めて小さな国家へと縮小するはずであった。しかしトルコで
ハムスターファ・ケマルの指導下で革命が起り、するターンは退位させられ、1922年に
トルコは共和国を宣言した。トルコはふたたび小アジアとコンスタンティノープル
(イスタンブール)の支配を獲得し、連合国側もやむなく従前の条約を破棄せざるを得なく
なった。

 講和条約の重要な部分は国際連盟規約であった。ウィルソンの14か条は平和の維持と
すべての国家の独立の保障のために国際機関を設置するとの項目を含んでいた。そして
国際連盟が創設された。それは平和と安全、国際紛争の平和的解決を目指し、加盟国に
「戦争手段に訴えない」ことを義務付けた。その重要な条項の一つは「制裁」に関するもの
である。これによれば、侵略をおかしたいかなる国に対しても経済的、軍事的行動が取られる
べきものとされた。それはまた、各加盟国内の労働と社会条件の向上を義務付けた。この
ために国際労働機構(ILO)が設置され、これは現在国際連合の専門機関の一つとなっている。
891:2001/08/21(火) 23:54
(歴史教科書 インドより)
第十一章 第一次世界大戦  (■)講和条約(続き)

  しかしながら、平和の維持と国家の独立に先進する真に世界的な機関持とうという
願望は、連盟の成立によっては実現されなかった。ドイツとソヴィエト連邦という二つの
主要国が長い間加盟国となることを許されず、他方で独立していないインドが加盟国の一員
とされていた。連盟創設に重要な役割を果たしたアメリカ合衆国は最終的に連盟不参加を
決めた。連盟は決して実効的な機関とはなり得なかった。1930年代に多くの国々が侵略に
訴えるようになると、連盟は無視されるか、公然たる挑戦を受けた。

 講和条約の本質を示すその重要な側面の一つは、敗戦国の植民地に関する決定である。
連合国は戦利品の分配に関して多くの密約を結んでいた。ソヴィエト政府は戦争の帝国
主義的本質を明らかにするために、これらの密約を公開した。戦時中、連合国は戦争は自由
と民主主義のために戦われていると表明しつづけていた。ウィルソン大統領は、戦争は
「世界を、民主主義を守る平和な世界とするために」戦われていると語った。ソヴィエト
政府による密約の公開はこうした主張の本音を暴露した。しかしそれにもかかわらず、
前にも述べたように、戦勝国による敗戦国の植民地の配分は行われた。当然のことながら、
これら全ての密約を廃棄したソヴィエト連邦は、ロシア皇帝に約束されていたいかなる
戦利品をも受け取らなかった。国際連盟もまたこうした戦利品の分配を是認した。
さきに触れたようにイギリス、フランスその他の手に渡った旧ドイツ、トルコ領土は
『委任統治領』と呼ばれた。理論としては、『委任統治領』が住民の利害のために
『委任統治領』を治める義務があった。彼らは国際連盟に対しても責任を負って
いた。しかし実際は、彼らはこの『委任統治領』を自らの殖民として扱ったのである。
901:2001/08/21(火) 23:57
(歴史教科書 インドより)
第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

 (■)アジア・アフリカにおける民族運動

 第一次世界大戦後の時期には、アジア・アフリカ諸民族の独立への運動の強化が見られた。
すでに述べたように、アジア、アフリカの独立運動指導者の多くは、戦後自国が独立を獲得
できるであろうとの希望から連合国の戦争行為を支持していた。しかし彼らの希望は裏切
られ、帝国者たちは間もなく、彼らの戦争中の自由と民主主義のスローガンは植民地を対象
とするものではなかったのだということを明らかにした。ところが戦争は帝国主義諸国を
弱体化せしめ、植民地民族の覚醒に貢献した。彼らの独立への闘争は戦後新しい局面に入
った。ソヴィエト連邦からの支援が独立運動にいっそうの力を与えた。
アジア、アフリカのたいていの国は第二次世界大戦後に独立国として出現するのであるが、
それ以前の第一次世界大戦後の時期に帝国主義の深刻な弱体化が見たれたのである。

 インドではこの時期は、独立運動がマハートマー・ガンディー指導による大衆運動へと発展
したときである。これについては皆さんはあとでよりくわしく学ぶことになろう。
アジアの多くの国々は独立達成への重要な前進を遂げた。皆さんはすでに、イランが第一次
世界大戦前にロシアとイギリス両国の支配下に分割されたことを学んだ。
1917年の革命後ソヴィエト政府はその支配下の領域を放棄し、その全ての軍隊を撤退させた。
しかしイギリスはその支配を全土に広げようと試みた。この行為は広範な蜂起と直面する
こととなった。1921年はレザー・カーンに世って権力が握られ、彼は1925年に皇帝となった。
イギリス軍隊はイランから追い出され、イランの近代化が開始された。
911:2001/08/22(水) 00:01
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

 (■)アジア・アフリカにおける民族運動(続き)

 イギリス政府は19世紀にアフガニスタンに対して多くの戦争を行っている。これらの
戦争の結果、アフガニスタンの独立は大きな制約を受けていた。アフガニスタンの外交
関係はイギリスの統制下におかれた。1919年にアフガニスタン国王が暗殺され、その息子
アマヌッラーが王となった。あまぬっらーはアフガニスタンの完全独立を求めた。
この独立はソヴェエト連邦によって承認され、他の国々の承認がこれにつづいた。

 アラブ諸国ではイギリス、フランスに対する反感が高まった。アラブ諸民族は第一次
世界大戦中、オスマンの支配者に対して戦うよう連合国側から要請された。
しかし戦争が終わっても、アラブ諸国の独立という結果にはならなかった。これらの国々は
莫大な量の石油資源を蔵していることが知られてから、従来以上の重要さを増していた。
イギリスとフランスはこれらの国々に対して、保護領および『委任統治領』としてその
統制力を拡大した。エジプトではイギリスに対する蜂起が起り、1922年にイギリスは
エジプトの独立を承認せざるを得なくなった。とはいえ意義知る軍隊は引き続きそこに
駐留していた。

  シリアは戦後フランスの手に譲られた。しかし最初からフランスはそこで激しい反対
に出くわした。1925年に広範な反乱が起り、フランス政府はテロ支配に訴えた。フランス
軍隊が空から集中砲火を浴びせ、銃砲を用いて市内を砲撃したときには、反乱の中心地である
ダマスカスの町は廃墟と化した。ダマスカスの爆撃・砲撃でおよそ2万5,000人の人々が
殺された。しかしこうした虐殺にもかかわらず、フラン支配への抵抗は続いたのである。
921:2001/08/22(水) 00:04
訂正 >>91  ×フラン支配  ○フランス支配

(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

 (■)アジア・アフリカにおける民族運動(続き)

  第一次世界大戦後の諸民族の民族的覚醒の中で最も重要な出来事は、トルコでの革命
であった。19世紀にはじまって、第一次世界大戦でのとるこの敗北後に完結したオスマン
帝国の分裂・崩壊については皆さんはすでに学んだ。この間旧オスマン帝国の支配のもとに
あった多くの民族が解放された。帝国のアラブ領域は大戦後に『委任統治領』として、
イギリスとフランスの手に渡っていた。しかし連合国側は帝国の分割だけではとどまら
なかった。彼らはトルコ自体に対して支配権を打ち立て、トルコのある部分をギリシアと
イタリアに譲り渡すことを望んだ。そこで、連合国がトルコに対して加えた仕打ちが、
インドにおけるイギリスに向けての大衆蜂起を促したことが記憶されよう。
この蜂起はキラーファット運動の名で知られ、インド民族運動と合流したのである。

 トルコの民族運動は連合国による同国支配と、ギリシアおよびイタリアによる同国の
一部の併合を回避するために組織された。トルコのするターンは連合国側から指令された
条件に同意した。しかしスルターンが条約に調印する以前から、ムスターファ・ケマルの
指導下で、アンカラを司令部とする民族政府が樹立されていた。この政府は1921年に
ソヴィエトからの政治的支持と武器の支援を受けることになる。するターンとの条約に
続く形で、ギリシアはトルコに侵略を開始していた。ケマルノ指導下でトルコ人たちは
侵略の撃退に成功し、連合国側はさきの条約を廃棄せざるを得なくなった。連合国軍隊は
トルコ領内から撤退し、ヨーロッパ諸国に併合されることになっていた地域はトルコ内に
とどまることとなった。こうしてトルコは完全独立の獲得に成功したのである。
931:2001/08/22(水) 00:07
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

 (■)アジア・アフリカにおける民族運動(続き)

  自国の完全独立に成功したトルコ人は、トルコの近代化と後進的封建的要素を払拭
するための計画に着手した。トルコは共和国を宣言した。従来トルコのスルターンは
カリフの称号をもっていたが、新しい政府はこのカリフ制を廃止した。
教育は宗教指導者の手から奪い取られ、宗教は国家から分離された。

   トルコの革命はアジアにおける民族運動への刺激の源泉となった。それはまた
社会改革と近代化の理念を促進した。
   アジアの他のほとんど全ての地域で独立運動が強化された。たとえば、インドネシア
ではオランダの支配に対する蜂起が起っている。1927年には独立達成を目的として民族党
が組織された。朝鮮では日本支配からの独立を求める運動があった。インドシナ、ビルマ
その他の国々でも独立運動が力量を増してきた。

  この時期における最も強力な運動の一つが、中国ではじまっていた。皆さんはすでに
中国への帝国主義支配について学んだ。1911年に中国で革命が起り、その結果共和国が樹立
された。しかし権力は軍閥と呼ばれる腐敗した支配者の手に移っていった。
中国における民族運動は外国支配の妥当と、軍閥支配を断ち切ることによる中国の統一を
目ざした。中国民族運動の創始者は孫文であった。彼は1911年の革命で重要な役割を果た
し、1917年に中国南部の広東に政府を樹立した。彼が創設した国民党という政党はそれか
ら長い間、中国の民族闘争を指導していった。
941:2001/08/22(水) 00:10
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

 (■)アジア・アフリカにおける民族運動(続き)

  ロシア革命の中国への衝撃には奥深いものがあった。ロシア新政権は、ロシア皇帝
たちが中国に課していた全ての不平等条約を破棄し、中国の民族闘争への完全な支援を
約束している。1921年に中国共産党が結成された。1924年には国民党と共産党の提携が
決定され、ソヴィエト政府は革命軍の陽性などいろいろな援助を与えた。多数のソヴィ
エト政治・軍事顧問が中国の解放闘争と行動をともにした。1925年の孫文の死後、国民党
と共産党の統一は敗れ、内戦の時期に入る。全土の従属化をはかって日本が中国に攻撃を
しかける1930年代には、両者は日本の侵略に抵抗して再び提携した。日本の侵略に対する
抵抗闘争では共産党が主導的役割を果たした。党は国内に主導権を確立することに成功し、
第二次世界大戦終結後数年にして内戦に勝利した。

  この時期にはまたアフリカにおける政治的、民族的意識の目覚めも見られた。
アフリカにおける民族運動が勢力を持つのは第二次世界大戦後であるが、1920年代と30年
代は最初の政治組織が結成された時期である。アフリカでの民族意識の成長の上で重要な
役割を果たしたのは一連の汎アフリカ会議であった。南アフリカ連邦の民族運動はアフリカ
の他の地域に比べてずっと早くに現れていた。1912年には南アフリカ人の指導的組織となる
アフリカ民族会議が結成された。エチオピア人は1935年〜1936年のイタリアの侵略に対して、
英雄的に戦い、彼らの抵抗闘争はアフリカの他の民族にとっての刺激の源泉となった。

  アジア・アフリカ諸民族の民族的目覚めと、彼らの独立闘争の勢力の増大は現代世界の
形成にとって非常に重要な要因であった。これら2大陸の長く抑圧されてきた諸民族が
その独立への権利を主張し始めていた一方で、ヨーロッパでは新しい戦争への準備が
行われていた。1939年に勃発した第二次世界大戦は、回復不能なまでに帝国主義を弱体化
させて終結することになる。
951:2001/08/22(水) 00:14
第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より ■ファシスト侵略の開始
 は、>>13>>14>>16 です。

(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■日本の中国侵略

  第一次世界大戦後の最初の大きな侵略行為の一つは日本の中国侵略であった。
中国東北部満州の日本所領の*鉄道(*満州の日本所領の鉄道は南満州鉄道、略して
満鉄とよばれた)上での**小事件(**この事件は盧溝橋事件とよばれた)が侵略の
ための口実とされた。国際連盟の加盟国である中国は、侵略を停止させ、日本への制裁を
行うことを求めて連盟に提訴した。

しかし連盟内の主導的大国イギリスやフランスはこの提訴に全く無関心で、侵略を黙認し
た。日本は満州を占領してそこに傀儡政権をうち建てて、いっそうの領土拡大にのりだし
た。アメリカ合衆国もまたこの侵略に対して何事も行わなかった。1933年に日本は連盟
を脱退した。日本間また中国におけるイギリスおよびアメリカの資産を奪取し始めていた。
しかし中国だけでなくソヴィエト連邦を弱体化させるうえで役に立つと見た西洋諸国は、
日本に対する宥和策を続けた。イギリスはもう一つの理由をもっていた。
イギリスは日本を離間させることによって、アジアにおける自らの領有知を危険にさらす
ことを好まなかったのである。
961:2001/08/22(水) 00:23
訂正 >>95 ×領有知 ○領有地
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □ドイツの軍国主義化

 ドイツは国際連盟結成後しばらくしてこれへの加盟を認められたが、ヒトラーが
政権につくやまもなくこれを脱退し、大規模な軍備計画に着手した.ヴェルサイユ
条約によって、ドイツには厳しい制限が軍事力に関して課せられていた.条約に違背
するドイツ再軍備の開始は、多くの国々、特にフランスに不安感を抱かせた。1934
年にソヴィエト連邦が連盟に参加したのは、まさにこうした状況においてであった.
しかしドイツの再軍備を防止するために何事も行われなかった.ヴェルサイユ条約に
従って、ドイツのフランスとの国境地帯ラインランドは、ドイツのフランスへの攻撃を
困難たらしめるために非武装化されていた.1936年にヒトラーの軍隊は条約を
破ってラインランドに侵入した。これはフランスを恐慌に陥れるが、ドイツ軍を阻止
する何の措置もとられなかった.このときまでにドイツは、皆さんが記憶しているよ
うに、ヴェルサイユ条約によって10万という制限がなされていたにもかかわらず、
80万もの陸軍を作り上げていた。ドイツはまた、イギリスの同意のもとで強力な
海軍も築きつつあった。

  □イタリアのエチオピア侵略

  1935年にイタリアはエチオピアへの侵略に着手した.エチオピアの提訴を
受けた国際連盟は、イタリアを侵略国として非難する決議を通過させた。決議はまた、
武器売却の禁止を含むイタリアへの経済的制裁の行使をもかかげた.しかしイタリア
を処罰する何らの措置もとられず、1936年にはイタリアはエチオピア征服を完了
していた。
97世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:26
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □スペイン内戦

  ドイツとイタリアの同盟の開始を示す次の事件は、スペインの内戦への両国の干渉
であった。1931年にスペインは共和国となった.1936年には社会主義者、共産
主義者および他の左翼・反ファシスト勢力からなる人民戦線が政権を握った.イタリア
とドイツの武力勢力を受けるフランコ将軍の指導下で、軍隊の一部が政府に対する反乱
を起こした。イタリアとドイツはこれに続く内戦に公然たる干渉を開始した.彼らは
反乱軍を支持し、軍隊・戦車・軍艦を送った.ドイツの爆撃機はスペインの町や村を空襲
した。スペイン共和国政府は反ファシスト支援を訴えた。ソヴィエト連邦だけが共和国
側への支援におもむいた。イギリスとフランスは不干渉政策を主張し、スペイン政府側に
何らの援助を与えることも拒否した。彼らはドイツとイタリアの戦争介入に無関心の
態度をとりつづけた。しかしスペインの共和主義者達の主張は全世界に大きな反応を
引き起こした。

多くの国々からかけつけた何千もの反ファシスト義勇兵が国際義勇軍に組織され、
スペイン人とともにファシスト軍と戦った。そのうち何千人かがスペインで戦死した。
20世紀の最良の作家や画家達が共和主義者のこの戦いを支持した。スペインでの戦争
は、もしファシズムがスペインで勝利すれば、ファシストの侵略はいっそう加速されるで
あろうことが次第に認識されていったから、国際的意義を帯びるに至った。

自由と民主主義のために何千もの非スペイン人達がスペインにおいてその生命を
ささげたという事実は、社会主義の思想と運動が鼓舞した国際主義の最も見事な例の一
つである。スペイン内戦は3年間つづいた。この戦争で約100万人の人が死んだ。
しかしついに1939年、フランコ将軍指導下のファシスト勢力が共和国の妥当に成功
をおさめた。そして直ちに新政権はほとんどの西欧諸国によって承認されたのである。
98世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:30
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界

□スペイン内戦(続き)

  ファシズムの危険にたいして敏感であったインド民族運動が共和主義者達の大義
への支援の手を差し伸べたことは記憶されてよいであろう。インド民族運動のスペイ
ン共和主義者との連帯の証として、この時期にジャワ-ハイラール・ネルーがスペインを
訪れている。

  ファシズムの勝利は西欧諸国によるファシズム宥和策の結果であり、これによっ
てファシスト諸国はいっそう侵略的になっていく。ドイツはスペイン内戦の中で多く
の新しい武器を実験的に使用し、第二次世界大戦で本格的に用いることになる。
99世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:33
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □ミュンヘン協定

 スペイン内戦が未だ継続中の1938年3月、ヒトラーの軍隊はオーストリアに
侵入し、これを占領した.これは第一次世界大戦後に調印された講和条約に違反する
ものであったにもかかわらず、西欧諸国はそれに対し抗議しなかった。

  西欧諸国による対ファシズム宥和政策の最後を飾るのはミュンヘン協定であった。
ドイツは鉱業の展から非常に重要なチェコスロバキアに触手をのばした。その地域は
また、ソヴィエト連邦に向かってのドイツの東方拡張にとっても戦略的重要性を持って
いた。ヒトラーはドイツ人人口が主要な部分を占めるチェコスロヴァキアのズデーテン
ランドという地域を要求した。
この地域はチェコスロヴァキアの領土の5分の1を占め、世界最大の爆薬工場の一つを
有していた。ドイツによるこの脅迫に対抗するかわりに、イギリス、フランスの首相は
1938年9月29,30日にドイツのミュンヘンでヒトラー、ムッソリーニと会談し、
チェコスロヴァキアに諮(はか)ることなくドイツの条件に同意した。この直後ズデー
テンランドはドイツ軍によって占領された。数ヶ月たった1939年3月にはチェコ
スロヴァキア全土がドイツ占領下に組み込まれた。

  ミュンヘン協定は西欧諸国の宥和政策の最後の主要な行動であった。それによって
ドイツはより多くの要求をしだした.ファシストの侵略を阻止し、次の世界大戦の阻止し
得る唯一の道は、西欧諸国のソヴィエトとの同盟であった。ソヴィエト連邦はそうした
提携をアピールしてきた。しかし西欧諸国の宥和政策によってソヴィエト側は、彼らの
主たる関心がドイツの侵略をソヴィエト連邦に向けさせることである点に気づいていた。
ソヴィエト側の全ての訴えは拒否された。ミュンヘン協定は、西欧諸国がドイツと宥和
してその侵略の矛先を東に向けて、ソヴィエト連邦へと転ずるべく試みていることを
改めてソヴィエト側に納得させるものであった。当時ソヴィエトは1939年8月に
ドイツの間に不可侵条約を結んでいた。一方イギリスとフランスはポーランド、ギリシア、
ルーマニア、トルコに対し、独立の危機に際しては援助の手を差し伸べることを約束している。
100世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:36
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  (■)第二次世界大戦

  前大戦同様、第二次世界大戦はヨーロッパで勃発し、世界戦争の様相を呈した。
西欧諸国が満州侵略からチェコスロバキア併合に至る、日本、イタリアおよびドイツの
あらゆる侵略行為を黙認したという事実にもかかわらず、ファシスト諸国の野望は依然と
して満足させられていなかった。これらの諸国は新たな世界再分割をはかり、こうしてすで
に確立した帝国主義勢力の体制と対抗するに至ったのである。宥和政策はファシスト勢力の
矛先をソヴィエト連邦に向けさせようとする西欧諸国の政策は、独ソ不可侵条約によって
失敗していた。こうしてファシスト国家と主要な西ヨーロッパ諸国−イギリスとフランス−
の間で、ヨーロッパを舞台とする戦争が開始された。数ヶ月を経ずして、それは次第に多くの
地域に広がり、究極的には世界中のあらゆる国を巻き込むことによって、世界戦争へと発展
していった。


  □ポーランド侵略

  1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵入した。9月3日にはイギリスと
フランスが対独宣戦布告をした。こうしてポーランド侵略が第二次世界大戦の開始を告げ
た。ドイツ軍のポーランド制圧は、何らの援助もポーランドにもたらされなかったが為に、
3週間もたたないうちに完了した。しかし宣戦布告にもかかわらず、実際の戦闘は何ヶ月
もの間ほとんどなかった。そのため1939年9月からドイツがノルウェーとデンマーク
を侵略した1940年4月までの時期の戦闘は、「擬似戦争」の名で呼ばれている。
101世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:41
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーおよびフランスの占領


 ドイツは1940年4月9日にノルウェーとデンマークへの侵略を開始し、3週間
以内にこの2国の制圧を完了した。5がつはじめにはベルギーとオランダへの侵略が
始まり、これも5月末には終了した。まもなくドイツはフランスに侵入し、1940年
6月14日パリはほとんど何の戦闘もなくドイツ人の掌中に落ちた。一方、イタリアも
またその同盟国ドイツの側にたって参戦していた.1940年6月22日にフランス
政府は降伏し、ドイツとの休戦協定に調印したが、それによってフランス領土の約半分が
ドイツに占領されることになった。フランス政府下の残りの領土もフランス軍隊の解体
とフランス内のドイツ軍維持のための物資供給を要求された。フランスの敗北によって、
ドイツはヨーロッパ大陸における最高の勢力となった。

  □イギリスの戦い

イギリスはフランス崩壊後のヨーロッパに残った唯一の主勢力であった。ドイツは、ヨ
ーロッパに同盟国を持たないイギリスはまもなく降伏するであろうと考えていた。
ドイツ空軍は1940年8月に、イギリスを恐慌に陥れて降伏させるため、空襲を開始
した。これに続く戦闘はイギリスの戦いとして知られている.イギリス空軍はこうした
空襲に対する防衛活動において英雄的な役割を果たし、ドイツ領内に報復攻撃を加えた.
戦時期のイギリス首相はウィンストン・チャーチルで、彼の指導下でイギリス国民は勇気
と決断を持ってドイツの空襲に抵抗したのである。

  一方、イタリアは北アフリカで軍事行動を開始していた。ギリシアをも侵略した。
しかしこれら両地域でのイタリアの攻撃は撃退された。しかしドイツはバルカン諸国
すなわちギリシア、ユーゴスラヴィア、ブルガリアそして大部分の北アフリカの獲得に
成功した。ドイツのこうした前進で、戦争は新しい局面に突入した。
102世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:44
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □ドイツのソヴィエト侵略

  イギリスを除くほとんどのヨーロッパ全域を征服したドイツは、不可侵条約の存在
にもかかわらず、1941年6月22日にソヴィエト連邦を攻撃した。前に述べたように、
ヒトラーは常にソヴィエト連邦の広大な領土と資源に触手を動かしていた。彼はソヴィ
エト連邦の力量をあまりにも過小評価しすぎていた.ソヴィエト連邦との戦闘の第一
局面では、ドイツは重要な勝利をおさめた。ソヴィエト連邦の広大な地域が制圧され
レニングラードは包囲され、その上ドイツ兵はモスクワへと進軍していた。しかしドイツ
の緒戦での成功にもかかわらず、その猛攻は阻止された.ソヴィエト連邦はすでに自らの
産業上かつ軍事上の力量を獲得しており、ドイツの侵略に対して英雄的に抵抗したため、
早期勝利というドイツ側の願望はくじかれた。

  ドイツノソヴィエト連邦侵略によって、新しい広大な戦争の部隊が開始された。
これに続く重要な展開は、侵略に対してともに戦おうとするイギリス、ソヴィエト連邦、
アメリカの団結が実現したことである。ドイツの侵略の直後、チャーチルとルーズヴェル
トは対独戦争での両国のソヴィエト連邦への支持を表明し、援助を約束した.その結果、
ソヴィエト連邦とイギリス、ソヴィエト連邦とアメリカ合衆国の間でそれぞれに協定が
調印された。ドイツ、イタリア、日本が最終的に敗北するのはまさにこの3国の結束の
結果であった。
103世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:47
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■戦争の拡大

  皆さんはすでに1931年の日本の中国侵略について学んだ。1937年には日本は
新しい侵略を開始した。日本は反コミンテルンの日本、ドイツ、イタリア三国防共協定の
当事国の一つである。1940年9月にはこれら3国はいっそう緊密に相互を結び付けるもう
一つの協定に調印した。日本は「ヨーロッパの新秩序確立におけるドイツとイタリアの
主導権」を承認し、アジアの新秩序確立に関しては日本の主導性が承認された。これは
世界再分割をはかる協定であった。

1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾のアメリカ海軍基地に大規模な襲撃を行った。
そこに停泊していたアメリカ太平洋艦隊は破壊された。アメリカは20隻の艦船と約250機
の戦闘機を失った。そしておよそ3,000人が戦死した。アメリカ側は全くの不意打ちを
くったのである。

当時、アジア、太平洋における紛争に決着をつけるための日米両政府間の交渉は続行中で
あった。アメリカ政府は日本の中国侵略後においてさえも、日本への多くの重要物資の
供給を認可していた。交渉半ばでの真珠湾攻撃は、日本がアジア、太平洋征服を決意した
ことを示した。
これとともに第二次世界大戦はまさに全地球的なものとなった。アメリカ合衆国は12月
8日に対日戦線を布告し、この直後にドイツおよびイタリアがアメリカ合衆国に宣戦した。
アメリカの参戦に続いて、アメリカ大陸の全ての国がドイツ、イタリア、日本に対する戦争
に参加した。
日本はアジアにおいて重要な勝利をおさめていった。真珠湾攻撃後6ヶ月足らずで、
日本軍は、マラヤ、ビルマ、インドネシア、フィリピン、シンガポール、タイ、香港その他
広大な地域を獲得した。

 1942年半ばにはファシスト勢力はその力の絶頂に達していた。それ以降、その崩壊が
はじまる。
104世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:49
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □スターリングラードの戦い

1942年1月、反ファシスト諸国の団結はかためられた。イギリス、アメリカ、
ソヴィエト連邦を含む26カ国の代表が宣言に署名した.この宣言は連合国杏宣言の
名で知られるに至った。「連合国」という呼び名は、この宣言にちなんで用いられるように
なったものである。この宣言の調印国は、勝利達成まで戦争を遂行するためあらゆる資源
を活用すること、共通の敵に対して相互に協力することを決め、そして個別に講和条約を
締結しないことを約束した。

  戦争の最も重要な転換点の一つはスラーリングラード(現在のヴォルゴグラード)の
戦いであった。1941年11月から12月にかけて、ドイツのモスクワ進軍は強固な
抵抗を受け、侵略は撃退された。そこでドイツは攻撃の手を南部ロシアに向けた。
1942年8月にはドイツ軍はスターリングラードの郊外に達した.戦闘は5ヶ月以上も
続いた。それは200万もの人間、2,000台もの戦車、そして2,000機もの飛行機
を巻き込んだ。スターリングラードの市民達は、町を防衛するため兵士達と合流した。
1943年2月に9万のドイツ人将校と兵士が降伏した。
ドイツはこの戦闘で総計約30万の人員を失った。この戦闘が戦争の潮流をかえたので
ある。
105世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:51
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □「第二戦線」

  ファシスト諸国は他の地域でも敗北をきっしはじめていた。日本はオーストラリア
とハワイの占領に失敗した。北アフリカのドイツとイタリアの両軍は1943年早々に
敗北した。北アフリカでのファシスト軍の崩壊もまた、戦争の主要な転換点であった。
1943年7月、イギリス、アメリカ両軍がシチリアを占領した。イタリア内の多くの地域で
反ムッソリーニの活動が見られた。彼は逮捕され、新しい政府が樹立された。この政府も
ドイツに対する戦争に参加した。しかしドイツ軍はきたイタリアに侵入し、ドイツ軍の
助けで逃れたムッソリーニがそこで親ドイツ政権を率いた。一方、イギリス、アメリカ軍
がイタリアへと進入し、ドイツ人をイタリアから放逐するための長い戦闘がつづいた。
ソヴィエト連邦はドイツに対して重大な勝利をあげつつあり、すでにドイツ占領下のチェ
コスロヴァキアとルーマニアへ侵入していた。

1946年6月6日、10万を越すイギリス、アメリカ両軍がフランスのノルマンディー海岸に
上陸した。9月にはその数は20万に達していた。この戦線の開設はドイツの敗北に極めて
決定的な役割を果たした。これは「第二戦線」の名で知られている。1942年以来、ヨーロッパ
でドイツとソヴィエト連邦は、第ニ戦線がドイツをもう一つの戦線でも戦わせることにな
り、そのことがドイツの敗北を早めるであろうとして、この第二戦線の開始を長い間要求
していた。このときを境にして、ドイツ軍はすべての戦線で敗走することになる。
106世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:56
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  □ヨーロッパでの戦争の終結

  1944年6月6日以後、ドイツ軍は三方からの連合国軍と対面せざるをえなくなった。
イタリアではイギリス、アメリカ両軍が進軍を続けていた。北部および西部フランスと
パリはすでに移動中であった。東部戦線ではドイツ軍は崩壊に直面していた。東から
ソヴィエト軍が、西から他の連合軍がドイツへ向けて接近していた。1945年5月2日、
ソヴィエト軍がベルリンに入った。ヒトラーは同じ日の朝自殺した。1945年5月7日に
ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパにおける交戦状態の停止は1945年5月9日午後零時
をもって実現した。


  ■日本の降伏

  ドイツ敗北後、アジアでの戦争は3ヶ月間つづいた。ドイツ、イタリアとの同盟国
たる日本は深刻な敗退をこうむり、その敗戦は不可避であった。1945年8月6日、戦時中に
開発された最も恐るべき兵機たる原子爆弾の一つが日本の都市広島に投下された。
これは原子爆弾が用いられた最初のことであった。ただ一発の爆弾で広島市は痕跡内まで
に破壊された。またもう一つの原子爆弾が、1945年8月9日に長崎市にも投下され、この町も
破壊された。8月15日、日本は降伏し、ここに第二次世界大戦は終わりを告げた。
107世界@名無史さん:2001/08/22(水) 00:58
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■抵抗運動

  ファシスト国家の侵略の犠牲となったヨーロッパの全ての国々で、人々は抵抗運動
を組織した。多くの国で政府は侵略の前にあまり戦わずして降伏したが、これらの国々
の民衆はファシスト支配への抵抗を続けた。たとえばフランス政府が降伏したとき、
フランスの民衆はドイツ軍の占領に対して人民抵抗運動を組織した。フランス国外では
ド・ゴール将軍指導下でフランス軍が結成され、積極的に戦争に加わった。他の国々でも
同様の軍隊が組織された。ユーゴスラヴィアやギリシアなど多くの国々では大規模な
ゲリラ活動が組織された。また多くの国々で大規模な蜂起が起った。

ワルシャワでのポーランド人の英雄的蜂起は、抵抗運動史上の輝かしい一章をなしてい
る。ファシスト国家内にも抵抗運動はあった。イタリアとドイツのファシスト政権は、
ファシズムに反対する数十万もの人々の生命を奪った。しかし多くの反ファシスト闘士
たちは国の内外でファシストのこうして戦いを続けた。イタリアの反ファシスト勢力は
ムッソリーニに対する戦いおよびイタリア内のドイツ軍との戦いの中で重要な役割を
果たした。フランス、ギリシャ、そしてチトー元帥の指導下のユーゴスラヴィアで人々は
最も英雄的にファシストの侵入と戦った。社会主義者・共産主義者その他の反ファシス
トたちが抵抗運動で非常に重要な役割を果たした。何百万者民間人の反ファシズム闘士
たちがこの戦争で生命を失った。

  戦争が拡大したほかのあらゆる地域で被侵略国の民衆は勇敢に戦った。アジアでは
中国人民が1930年代初めから日本の侵略の矢面に立たねばならなかった。1920年代後半
に起った共産党と国民党の間の内戦は、日本の侵略に対する広範な民族的抵抗にとって
かわられた。日本に占領されたアジアの他の国々でも、人々は強力な抵抗運動を組織した。
イギリスおよびフランスの帝国主義に対して戦いつづけてきた諸民族も反ファシズム
戦争への支持を表明した。ファシズムは組織的な野蛮行為であり、独立に向かって
戦っている民族にとって同盟軍とは考えられなかったのである。たとえばインド
国民会議派は、イギリス支配からのインドの独立を目ざして戦いつつも、その反ファシズ
ムの姿勢を明らかにしていた。
108世界@名無史さん:2001/08/22(水) 01:03
(省略された部分)>>107
国民会議派は、イギリス支配からのインドの独立を目ざして戦いつつも、その反ファシズ
ムの姿勢を明らかにしていた。

(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■戦争による被害

   第二次世界大戦は市場最も破壊的な戦争であった。ファシストたちは
ヨーロッパの大部分を広大な墓地と奴隷収容所にかえた。ナチスのユダヤ人憎悪について
は前に述べた。ドイツ内で、また戦前、戦中にドイツ占領下に入ったヨーロッパの諸地域で、
ユダヤ人は検挙され、虐殺された。ドイツ占領下の国々の民衆の労働が動員され、最も恐る
べき労働者収容所が開設された。何百万者人々が強制捕虜収容所とよばれるところに移送
された。

ブッヘンワルトやダッハルにあるようなこうした収容所の多くは、新しい人間殺戮手段が
導入された死の収容所であった。人々はガス室で殺害された。大量虐殺があった。囚人
たちは集墓地を掘らされ、そこで射殺され、そしてそれらの墓地に埋められた。強制収容
所の近くには、人間の皮膚や骨からものを生産するある種の工場も設置されていた。
ファシスト、特にドイツ・ナチが用いた拷問と残虐行為の種類およびそれらが行われた
規模の大きさは前例のないものであった。これらの残虐行為の多くは、ドイツが敗北
したあとに大量虐殺現場が発見されたり、強制収容所を生き延びた人々の証言があった
りして、明るみに出された。
109世界@名無史さん:2001/08/22(水) 01:05
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■戦争による被害(続き)

  この戦争による人名の損壊は歴史にその前例をみない。5,000万以上の人々が
第二次世界大戦で死亡した。そのうち2,200万は兵士、2,800万以上が民間人であった。
約1,200万の人々が強制収容所で、あるいはファシストによって野放しにされたテロの
結果その生命を失った。

歩くにはその人口のうちのかなりの割合を失った。たとえばポーランドは全人口の
20%にあたる600万の人々−このうち500万人が民間人であった-を失った。絶対数では
ソヴィエト連邦のこうむった被害が最悪であった。じつに人口の10%にあたる2000万
人が死亡したのである。ドイツもその人口の10%にあたる600万人を失った。人的損害
に加えて、多くの国々の経済と物的資源も大きな損害を被った。多くの古代都市がほとん
ど完全に破壊された。第二次世界大戦の全損害額は1兆3,849億ドルという仰天すべ
き数字に達すると推計された。

  多くの新しい破壊兵器が第二次世界大戦中に開発され、使用された。そのうち最も
恐るべきものは原子爆弾であった。原子爆弾は大戦中にアメリカ合衆国で最初に開発さ
れた。

ヨーロッパにおけるファシスト専制から逃れてアメリカに行ったものも含めて、多くの
国々の科学者達がそれの開発に手を貸した。この爆弾の開発計画は、ナチ・ドイツが原子
爆弾を開発しているのではないかという疑惑を持った多くの科学者たちがその開発に手
をかした。
110世界@名無史さん:2001/08/22(水) 01:08

(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■戦争による被害(続き)

この爆弾の開発計画は、ナチ・ドイツが原子爆弾を開発しているのではないかという疑惑
を持った多くの科学者たちがアメリカ政府に働きかけて着手されたのであった。彼らは
もしナチスがこの爆弾を開発したなら、世界を脅迫して屈服させるためにこれを用いるの
ではないかと恐れたのである。
原子爆弾の実験は1945年7月に最初に行われた。そのころにはドイツはすでに降伏
していた。その開発を助けた人々の多くは、いまだ戦争が継続している日本に対して
これを用いることのないようにと、アメリカ政府に訴えた。彼らはまた、もし原子爆弾が
日本に対して用いられたときの核兵器製造競争の開始の危険をも警告していた。

しかしすでに述べたようにアメリカ政府は広島、長崎という日本の2都市に対して
原子爆弾を使用した。二つの原子爆弾はほとんど瞬時にして10万以上の人々を殺し*
(訳者注)、二つの都市の大部分を完全に消去してしまった。
アメリカ政府は、原子爆弾の使用が第二次世界大戦の即時停止をもたらし、これによって
戦争継続の場合に予想される多くの人命の損傷を救ったという口実のもとに、この使用
を正当化した。この爆弾の製造に手を貸した科学者達も含めて他の多くの人々が原子
爆弾の使用を非難した。
111世界@名無史さん:2001/08/22(水) 01:09
(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

  ■戦争による被害(続き)

ドイツの敗北とヨーロッパでの戦争の終結以後は、日本は戦争を継続できる状態には
なく、日本の降伏は時間の問題であった。一部の学者達の見解によれば、当時この兵器を
保有する唯一の国であったアメリカが原子爆弾を使用するに至った主要な理由は、戦後
世界におけるアメリカ合衆国の優位性を確立することにあったという。とにかく、
原子爆弾の使用は核兵器製造競争をもたらすであろうという科学者達の予言は事実
となった。第二次世界大戦終結後数年にして、他のいくつかの国々もまた核兵器の
開発にのりだした。

日本に対して用いられたものの数千倍の破壊力を持ち、もし使用されたなら地上の
全人類の生命を完全に破壊することができる核兵器もまた開発された。

(訳者注) * この数値は広島7万8,000人、長崎2万7,000人を合計したもの
(国連『核兵器白書』1967年)であろうが、側死者数としても、過少見積りである
とされている。現在即死者を含めて、死亡者は広島で20万人、長崎で12万人2,000人
と計算されており、被爆者総数は1979年の段階で37万人といわれている。
(参考:西島有厚『原爆はなぜ投下されたか』青木書店、1971年:広島市長崎市
原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』岩波書店、1979年)。
112インド 終わりー:2001/08/22(水) 01:15
(歴史教科書 インドより)
練習問題
1.ファシストおよびナチ運動の主要な特徴は何か。
2.1929〜1933年の世界経済恐慌の諸結果について説明せよ。
3.「枢軸国」の意味するところは何か。
4.イタリアとドイツでのファシズムの勝利の結果について述べよ。
5.イタリアとドイツの外交政策の主要な目的は何か。日本の場合はどうか。
6.第二次世界大戦への条件を作り出した1936〜1939年の間の主要な出来事
  について述べよ。
7.1931〜1938年の間に、日本、イタリア、ドイツの侵略行為に対抗するいかなる
  姿勢を西側諸国はとったか。
8.第一次世界大戦後のアジアにおける民族運動の成長について述べよ。
9.次の語句を説明せよ。 擬似戦争、第二戦線、イギリスの戦い

整理すべき事項

1.ヨーロッパの略図の上に、1936年から1939年8月までの間にドイツに占領
  された国々を示せ。
2.アジアの略図の上に、第二次世界大戦中日本の占領下にあった地域を示せ。
3.民族運動に関する書物から、ジャワ-ハルラール・ネルーとインド国民会議派の
  ファシズム観を集めてみよ。
4.第二次世界大戦後に開発された新しい兵器について学習せよ。これらの兵器の
  破壊力と第二次世界大戦中に使用された兵器のそれを比較するレポートを書け。
考え、討論すべき事項
1.西側の対ファシスト勢力宥和策が第二次世界大戦へと導いたと思うか。どうして
  そうだと思うか。あるいはどうしてそうではないと思うか。
2.宥和策の根本的理由は何だったか。
3.アメリカ合衆国が日本に対して原子爆弾を使用したことは正当だったと思うか。
  討論せよ。
113世界@名無史さん:2001/08/23(木) 01:29
わわ。
さがっているので、あげぇ
114世界@名無史さん:2001/08/23(木) 01:45
旧ソ連の教科書の日本観が一番面白いね。
資料がないから正確な引用は出来ないけど、

「米帝と日本の支配層は、自ら制定した平和憲法の精神を踏みにじり、自衛軍を創設し、民主主義陣営に対し侵略の構えを見せている。
これに対し、広範な国民各層、進歩的知識人から生まれた民主勢力が、各地でデモや啓蒙活動を行い、再軍備に反対している。
これらの民主勢力が、アジアの真の平和に大いに貢献して欲しいものである」
「東京の中心部には独占資本の超高層ビルが林立するが、その影には労働者の住む小さなアパートがひしめき合っている」
「日本の家は、木と紙で出来ている」
「中世日本の最大の英雄が、大塩平八郎である」
115世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:00
>>114
歴史観、全然違いますね。
でもおもしろい。。すごくおもしろぃ。。

大塩平八郎が最大の英雄、、
116世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:09
>>114
大塩平八郎が英雄って日教組の考えそのものじゃんか。。
117世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:13
イギリスも、面白いです。
アメリカは、真珠湾攻撃は傍受できなかった、としていますが
イギリスは違う書き方をしています。それを読むとアメリカに
とっては、真珠湾攻撃が、普通の攻撃(宣戦布告したあとの)
ではなく、『奇襲攻撃』でなくてはならなかったということ
なのではないのか?という感じがします。
連合国同士でも、そのような見方をしっかり載せてくれる
イギリスの執筆者はえらい、などと単純に感じてしまいました。
そういう意味で載せてあるんじゃないかもしれませんが(笑
118世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:20
大塩平八郎は平民から出て政治の腐敗を訴えたから、という
ことなのでしょうか。しかし、少し極端な感じも受けますね。
でも、全く違った見方を知るというのは、大変おもしろいです。

アメリカ人でもよく書いている人がいますね。
日本は企業はとても大きくて豊かだが、庶民は大変貧しい、
経済大国、生活貧国とか、、何かいけないの?というか、よくわからない。

それから日教組がいったいどんな人達なのかも、よくわからない、、
119世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:23
フランスの教科書も日本における「貧困層の存在」は書いている。
120世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:44
アメリカの教科書で、「World history」という板のほうには
アジアの経済大国日本、日本の経済的奇跡、といった項目があり、
日本の多くの会社では、「激励トーク」で日がはじまり、店が開くと
店員は整列してお辞儀をする。などなどの記述があります。
(写真を説明している部分ですが)
121世界@名無史さん:2001/08/23(木) 03:45
イギリス編も希望します!
スレの主旨とはズレてしまって申し訳ないのですが、
以前イギリスの教科書で、アヘン戦争についての記述が
無いという話を聞いた記憶があるのですが…。
どなたかご存知の方いらっしゃいましたら、教えてくださいませ。
122世界@名無史さん:2001/08/23(木) 12:03
面白いスレですね。各国の歴史観も伺えます。
でも、これまでのレスを読んで改めて思うのは、日本の歴史教科書の貧弱さですね。
123ななっし:2001/08/23(木) 13:28
ふーん。インドの教科書ってチャンドラボースのことには一言も触れてないんだ‐
124世界@名無史さん:2001/08/23(木) 13:35
>>123
うむ、俺もそう思った

右翼のデマごーくなのかな?
125世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:11
チャンドラぼーず。。?
126世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:33
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)
>>64 [第18章 戦時下の世界(1941−1945年)]より

2 戦争と銃後

この課の焦点
重要語句 収容  (略)
目標  本文を読み、次の質問に対する答えを探しなさい。
 1.日系アメリカ人は、戦時中、どのような、特別な苦難を経験したか。
 2.(略)
 3.(略)


日系アメリカ人の収容

 アメリカの参戦は多数の人々の生活を変えた。すぐにその影響を受けた人々の中に,
日系アメリカ人がいた。

この戦争は,アジア系の人々に対する長い人種差別の伝統に火をつけた。たとえば,
アイダホ州知事は、「ジャップ(日本人)問題のうまい解決策は,彼らを全部日本へ送り
返し、あの島(日本)を沈めることだ」と言った。そのような考えを裏付ける証拠は
ほとんどなかったが、日系アメリカ人はスパイか妨害者として行動する、と多くの
人々が信じていた。
127世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:34
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)2 戦争と銃後  日系アメリカ人の収容より


真珠湾(攻撃)のときに合衆国に暮していた日系人のほとんどは、生まれながらのアメリカ
国民だった。 1942年2月、ルーズヴェルト大統領は、軍隊に命じて、約12万人の日系市民
や在留邦人を逮捕した。
これらの人々は、その大部分が西海岸に住んでいたが、「再配置センター」−実際は強制収
容所−に入れられた。移転される家族は、主だった所有物は一切所持することを許されな
かった。多くの人々が、収容(抑留)時代に家や職を失った。収容所では、プライバシーは
ほとんどなく、家族全員が一人部屋で生活させられた。


 15歳のピーター・オオタは、そのような日系アメリカ人の一人で、ロサンゼルスの家を
出ることを強制された。12歳の妹と父親とともに、ピーターはコロラドの収容所に送ら
れた。母親は病気が重いため(一緒に)いけなかった。しばらくして、ピーターは、農場や
工場で働くために時々釈放された。ピーターの母親がなくなったとき、彼は遺体を引き
取りに、軍の監視下でカリフォルニアへ行った。「彼らが鉄道の駅を通って私を連行
したとき、そこにいた人々は、私が東洋系であると気づきました。
・・・・・・・・・・とてもはっきりと、『ダーティー・ジャップ[訳注:日系人を差別
するために使われた、人をさげすむ言葉]』と(いう言葉が)聞こえました。」とピーター
は回想している。
128世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:35
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)2 戦争と銃後  日系アメリカ人の収容より

写真より
この写真には、家を後にして、遠くの収容所に向かう日系アメリカ人の感じた不安が表れ
ている。 倫理  なぜ日系アメリカ人が、ドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人
と異なる扱いを受けたのか。

 約33,000人のほかの日系アメリカ人同様、ピーター・オオタは軍隊に入った。1943年か
ら、アメリカ政府は日系アメリカ人を兵役に招集した。二世部隊(日系アメリカ人二世に
よって構成された部隊)は、ヨーロッパの戦場で目覚しい働きをした。 最高裁は、戦時
中の(日系アメリカ人の)収容を合憲とした。
(しかし、)40年後、連邦委員会は、収容は「軍事上の必要性からも正当化されるものでは
ない」との決定を下した。1988年、議会は、戦時中の誤った処置を謝罪し、かつて収容さ
れ、現在生存している人々に対して一人2万ドルの補償金を支払うことに票を投じた。
謝罪を支持した69人の上院議員の一人である日系アメリカ人、ハワイ(州)のスパーク・
マツナガは、(これを聞いて)大変喜んだ。この行為により、憲法上の「一つの大きな汚点」
が取り除かれた、と彼は語った。
129世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:36
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[3 ヨーロッパでの勝利に向かって]

ヤルタでの会談

連合国は、ヨーロッパで勝利に向かって突き進みながら、将来の計画を考えていた。
1945年2月、ローズヴェルトは、病を患っていたが、黒海沿岸にあるソ連の保養地ヤルタ
で、チャーチル、スターリンと会見した。三巨頭は、ヤルタ会談で、戦後世界を形成するの
に役立つ諸決定を行った。これらの決定のいくつかは将来の混乱の種を宿していた。

 ヤルタにおけるローズヴェルトの最優先事は、平和を維持する助けとなる新たな国際
機関の細目を計画することだった。ローズヴェルトが思うに、国際連盟が機能しなかっ
たのは、世界の主要大国の支持を得られなかったからだった。彼は、新たな平和維持機関
の基本構想について、スターリンとチャーチルを同意させた。

 ローズヴェルトは、また、ドイツ降伏後3ヶ月以内にソ連が日本に宣戦布告するという
密約をスターリンから得た。アメリカの軍事顧問は、これ(ソ連参戦)は必要欠くべからざ
るものだと思っていた。なぜなら、もし日本本土をアメリカ軍のみで攻撃しなければなら
ないとすると、百万人ものアメリカ兵が戦死するかもしれない。日本を敗北させるために
加勢するというスターリンの約束と引き換えに、ローズヴェルトとチャーチルは、領土に
関してスターリンに譲渡した。彼らは、ソ連が外モンゴルといくつかの日本の重要な島々
を占領できるということで合意した。
130世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:38
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)[3 ヨーロッパでの勝利に向かって]

 ヤルタでの会談より


  これらの指導者は、また、ポーランドとドイツの戦後のあたらな国境について議論し
た。彼らは、ドイツを4つの軍事地域に分割し、三大国とフランスがそれぞれ1つの地域を
管轄することで合意した。

 結局、ヤルタ会談は、東ヨーロッパの運命についてのいくつかの漠然とした合意を生み
出した。三巨頭はそこ(東ヨーロッパ)にソ連よりの政府を押し付けた時、ヤルタで共産主
義に「身を売り渡した]とローズヴェルを非難するアメリカ人もいた。一方で、スターリン
は東ヨーロッパを完全に支配する以外のことは決して受け入れなかっただろうから、(それ
を考慮すると)ヤルタでの合意は、当時としては可能な最良の取引だった、と主張する人々
もいた。

写真より

ウィンストン・チャーチル(左)とヨシフ・スターリン(右)が1945年のヤルタ会議でフランクリ
ン・ローズヴェルトの両側に座っている。これらの指導者は戦争の最終局面の戦略を議論し、
戦後の時代のための計画を作った。 歴史 ヤルタ会談のそれぞれの指導者の主たる政治的
関心は何だったか。
131世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:38
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

4 日本への進撃

 この課の焦点

重要語句   島とび(作戦) ■レイテ湾の戦闘 ■カミカゼ ■硫黄島の戦闘
■沖縄戦 ■マンハッタン計画
要旨  連合国軍は太平洋において勝利へと突き進んだが、合衆国は日本に原爆を使用
    することについての重大な道義的決定に直面した。

目標  本文を読み、次の質問に対する答えを探しなさい。
1.ガダルカナルでの勝利のあと、連合国軍は太平洋においていかなる戦略を立てたか。
2.連合国軍は、いかにして日本を最終的に降伏させたか。
 1943年までに、連合国軍は、日本軍を本国の島々へ押し戻し始めていた。連合国軍の
 進撃は、 主に2つの進路をたどった。1つは、チェスター・ニミッツ提督に率いられ、
 中部太平洋の島々を通過して、まっすぐに東から日本へ接近した。もう一つは、ダグラ
 ス・マッカーサー大将指揮 下、南からーニューギニア、フィリピンを通って−日本に
 向かって進んだ。
132世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:39
続き〜(世界の教科書 アメリカ編) 4 日本への進撃より

太平洋の島とび(作戦)

ニミッツは島とびトよばれる作戦を取った。連合国軍は、日本が占拠している全ての島へ
侵攻するのではなく、戦略上重要ないくつかの島のみを攻略する計画を立てた。残り(の
島々)は、最補給の道が絶たれたら、もはや脅威とはなりえない。連合国軍は、ガダルカナル
から開始して、新しい(新たに攻略した)島群を次の攻撃の基地として使用しながら、重要
な島群を次々に攻撃した。

 ニミッツの部隊は、1943年末にギルバート諸島で作戦を開始し、1944年夏、連合国軍は、
グアムとサイパンを攻略して、マリアナ諸島へと移動した。今や、連合国軍は日本に対して
有効攻撃範囲にいた。兵士は、B29爆撃機が日本を攻撃できるように、マリアナ諸島に飛行
場建設を開始した。

 フィリピンへの帰還

 マッカーサー大将は、1942年12月、日本が侵攻してきたとき、フィリピンの連合国軍
司令官だった。アメリカ・フィリピン軍がバターンで進退きわまったとき、ローズヴェ
ルト大統領は、オーストラリアへ行くようマッカサーに指示した。マッカーサーは出発
したが、彼は「私は帰ってくる」と誓った。
133世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:40
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)   4 日本への進撃より

「アイ・シャル・リターン」  −ダグラス・マッカーサー大将−


 1944年10月、マラリアに悩まされるニューギニアの湿地での、壮絶な2年の戦いの後、
マッカーサーは約束を果たした。フィリピンのレイテ島の浜へ歩いて上陸しながら、彼は、
第二次世界大戦中の最も有名な声明の一つを発表した。「フィリピンの人々よ、私は
帰ってきた。・・・・・私のもとに結集してくれ」。

 しかし、フィリピン奪回は容易ではなかった。日本は、アメリカの侵入を阻止するため
に、残っている艦船や飛行機の大部分を必死に寄せ集めようとした。これに続いたレイテ
湾の戦闘は、史上最大の海戦となった。合衆国は、決定的なまでに日本艦隊を打ち破り、
大勝利をおさめた。

 レイテ湾の戦闘のさなか、爆弾を搭載した日本軍機が合衆国艦船セント・ローめがけて
まっしぐらに突進し、発着甲板に激突、爆発を起こして船を沈めた。日本軍がカミカゼ
(アメリカ艦船に自らの飛行機を体当たりさせる自殺パイロット)による攻撃にたよった
のは、これが最初だった。(カミカゼとは神の風の意味で、1200年代に日本に侵攻しよう
とした蒙古船団を全滅させた台風の故事による。)戦争の最後の1年間に、カミカゼ攻撃
は、300機以上の合衆国艦船を沈めるか大破させ、15,000人のアメリカ兵の命を奪った。

 アメリカ軍は、日本艦隊を滅ぼし、レイテから日本軍を一掃し、1945年1月、フィリピン
の主島ルソンへ侵攻した。何週間もの苦戦の末、その多くはマニラ市街においてであった
が、アメリカ軍はフィリピンの支配権を勝ち取った。
134世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:41
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)   4 日本への進撃より

アジア大陸

 連合国軍は、太平洋同様アジア大陸で日本と戦ったが、アジアでの進行は遅々たるものと
なった。1941年・1942年の日本の攻撃で、インドまでずっと後退を余儀なくされていたが、
連合国軍は北部ビルマを奪回しようと頑強に戦った。彼らの目的は、ビルマルートを再開
し、日本の中国侵略者に抵抗している蒋介石の中国国民党政府に補給物資を供給すること
だった。日本軍がビルマルートを支配していた時は、中国人は、ヒマラヤ山脈の「こぶを
越えて」補給物資を空輸する、勇敢なアメリカ軍パイロットに頼っていた。

 1994年初めまでに、合衆国のクレアー・チェノール少将は、日本空襲のための、中国での
航空基地の建設を完了していた。その年、その後、連合国軍は西と北から北部ビルマへ
進撃した。太平洋では島とび軍が日本に接近していたので、日本軍の司令官は、太平洋の
脅威に対抗して軍を移動させなければならなかった、こうして、大陸での戦争の風向きが
変わり始めた。

 アジアでは、ヨーロッパと同様に、共産主義者と非共産主義者の軍隊が戦争のため同盟を結
んでいた。2人の共産主義指導者−中国の毛沢東とインドシナのホー・チ・ミン−は、抗日戦に
奮闘したが、勝利が見えてくると、連合国軍の指導者は戦時中の同盟が崩壊することを恐れた。
中国の共産党員と国民党員は、何とかお互いの(主義の)違いを取り繕ってはいたが、全面的な
中国内戦はいつ起るとも知れなかった。インドシナの将来にも暗雲が垂れ込めていた。ホー・
チ・ミンは、祖国をフランスの植民地支配にもどすことだけには反対していた著名な人物だった
が、彼は独立を勝ち取ろうと心に決めていた。毛とホーについては、さらに後の章で学ぶことに
なる。
135世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:43
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)   4 日本への進撃より

東京に向かって

マッカーサーの部隊が南西から日本に接近し、ニミッツの部隊が太平洋を越えて進撃し
ていたとき、アメリカの潜水艦や爆撃機が日本の戦時経済を破壊していた。日本は、自国
の天然資源に乏しかったので、食糧や原料を海運に依存していた。潜水艦攻撃は、日本商船
に致命的な損害を与えた。一方、1944年11月以降、B29爆撃機はサイパン、テニアン、グラム
から日本の各都市に対して定期的な空襲を開始していた。1945年初めまでには、日本は、
軍事物資はもとより、食料を補給することも困難な状態にあった。

 1945年2月、合衆国海兵隊へ、日本からちょうど750マイルはなれた硫黄島の小島に上陸
した。海兵隊は、空軍の援護なしで、地下の蜂の巣状の日本陣地へ進撃した。硫黄島の戦
闘で、6,800人の死者を含む、25,000人の死傷者が出た。4人中3人が戦死するか重傷を負う
というような部隊もあった。しかし、アメリカ軍は、最終的には勝利を得て、英雄的な海兵
隊員が島の頂上、摺鉢山山頂に星条旗を立てた。

 日本への次の飛び石、沖縄本島は日本からほんの350マイルのところにあった。沖縄戦は、
1945年4月に始まり、太平洋戦争中最も壮絶な島での戦いになった。最後には、約30万人の
アメリカ軍が、1,300隻の艦船に援護され、大挙して上陸した。6月に海兵隊が島を掌握す
るまでに、110,000人の日本兵と約12,000人のアメリカ兵が戦死した。

 沖縄攻略によって、合衆国は、日本(本土)空襲のためにさらに多くの空軍基地を手に入
れた。アメリカ軍パイロットは、東京、横浜、大阪の各都市に規則的な焼夷弾爆撃を開始
した。
136世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:51
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)   4 日本への進撃

  東京に向かってより

写真より

硫黄島の戦闘で戦った兵士のためのこの記念碑は、首都ワシントンにある。戦争中最も犠牲
の大きかった戦闘の一つを終え、海兵隊員がアメリカ国会を立てているところである。
 文化 この作品で彫刻家は何を賞賛しているようにみえるか。
137世界@名無史さん:2001/08/24(金) 00:13
アメリカもう少し続きます。日本の教科書よりも日本の記述が
くわしく載っているような・・・。こちらが日本史の近代用の教科書のようです(笑;

他の版はもっと量が多くて、この版は一番淡々と冷静に書かれている感じです。
(体験者の話などを多く織り込んだ別の版も表現が豊かで読みやすい
 です。そちらのほうがよりリアルだったかもしれません、、)

>>121
>イギリス編も希望します!

はぁい。アメリカ編終わったらイギリス編いきますぅ。

>以前イギリスの教科書で、アヘン戦争についての記述が
>無いという話を聞いた記憶があるのですが…。

アヘン戦争の記述をイギリスと中国で比べてみるのもおもしろいかもですね。
138世界@名無史さん:2001/08/24(金) 00:31
>>137
香港返還ブームの頃の、日テレのニュースで
香港では阿片戦争を商業戦争と言い換えて教えていた、って話がありましたね。
本国の教科書ではどう書いているんでしょうか。
139世界@名無史さん:2001/08/24(金) 01:17
>>138
本国の教科書には「アヘン戦争」の項目で、7ページ以上
書いてありました。香港では返還後は、本国の教科書で
学ぶようになったのでしょうか、ね。返還前はイギリス政府が
作ったものを学んでいた、ということかなぁ?よくわかりません、、
140121:2001/08/24(金) 02:13
>>137
ありがとうございます!お手数おかけします!
すーっごい楽しみです!
じゃ、それまで今までの分を
もう一度ゆーっくり勉強させて頂きます。ラララ〜♪
141世界@名無史さん:2001/08/24(金) 11:31
>>123
これは多分に政治的な理由からではないでしょうか?
チャンドラボースが当時のインド独立運動の中心的な人物の
一人であったことは確実です.(例えば長崎暢子教授による)

また軍事史とはなりますが,リデルハートの「第2次大戦史」でも
彼に率いられた自由インド軍については記述が存在します.

しかしナチスドイツや日本と協力して,独立を達成しようと
試みたことが,戦後インドの政府の正統性にかかわるとして
(教科書の本文中で見た範囲では,一貫した反帝国主義,反ファシストが
インド独立運動についての現政府の公式な見解のようです.)
記述が控えられたのではないでしょうか.
142世界@名無史さん:01/08/26 14:01
>>123>>124>>141さんへ

チャンドラ・ボーズ(さん)の名前をさがしました。
教科書の最後に[インドの独立闘争]の歴史が書かれた部分があり、そこに、『スバー
シ・チャンドラ・ボーズ』という名前がありました。ネルー氏の時期に登場した民族
運動の重要な指導者、とありました。この人のことでしょうか。ただこの人が、日本
やナチスと協力した、という記述はありませんでした。

また、インド独立への民族運動の中の内容で、『過激主義の台頭』という項目があり、
日本の日露戦争とそれにともなうロシアでの革命の動きが、インドの過激派と呼ばれ
る(独立へ向けての)民族運動に影響を与え、その運動がその後、次第に大きくなって
行く様子も書かれていました。

途中で見つけたのですが、「タイ、ビルマの独立」「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」
などの中にも(少しですが)日本についての記述が見られました。また、冷戦時や
「ベトナム戦争」当時のアメリカや中国、ソヴィエトに関してインドからの見方
を知ることができると思われる記述もありましたので、それも載せておきます。

これらの部分を(インドの教科書の続きとして)転載しておきます。
143世界@名無史さん:01/08/26 14:03
『チャンドラ・ボーズ』について
  (〔★★★ここ⇒〕印の部分に載っています。)

[第15章  インドの独立闘争]  スワラージから独立へ(1927年〜1939年)より

 非協力運動の停止後、数年間は全国的な政治的キャンペーンもなければ運動もなか
った。そしてガンディージーの建設綱領が取り上げられた。しかし、この小康状態もま
もなく終わりを告げた。会議派は完全独立のスローガンを採択し、不服従運動として知
られている巨大な運動がそれを達成するために開始された。今や民族運動はより広い
性格を持つにいたり、一度独立を成就した場合でのインドの社会的、経済的な改造のた
めの包括的な綱領を採択した。かくて、政治的な独立闘争はインド社会の復興の前提条
件になった。

 ガンディージーについで、民族運動の新局面での中心的人物はジャワ−ハルラール
・ネルーであった。イギリスで教育を受けた後、ジャワ−ハルラールは1912年にインド
に帰国した。まもなく彼はガンディージーの影響下に置かれ、民族的な闘争にわが身
を投じた。(中略)彼の努力のおかげで、藩王の抑圧に対抗する藩王国人民の運動は
民族運動の不可欠の一部をなすに至った。モウラ−ナー・ムハンマッド・アリーが会
議派議長であったとき、ネルーは書記長の一人となった。

〔★★★ここ⇒〕 この時期に登場した、別の重要な指導者が、スバーシ・チャンドラ・
ボーズであった。カルカッタとケンブリッジで教育を受けた後、彼はインド高等文官職
に選抜されたが、それを捨てて民族運動に飛び込んだ。彼は民族運動を堅固のものにする
ために国中の学生と青年の政治的組織を作り、1924年にはテロリスト的な政治活動を組織
したとの理由で逮捕された。ジャワ−ハルラールとスバーシは民族運動の急進派の指導
者だけでなく、インド全体にわたって、インド全体にわたって青年達のアイドルになった。
(教科書:インド)
144世界@名無史さん:01/08/26 14:05

・日露戦争がインドへ与えた影響など、についての記述
(〔★★★ここ⇒〕印の部分に載っています。)

[第15章  インドの独立闘争]/-インドの民族運動 1905〜1919年-
 『過激主義の台頭』より

 20世紀のかわり目に、”過激主義”とよばれる新しい傾向が発展した。この新傾向の
影響を受けて、民族運動は英吉利政府に対して単に請願するという習慣を断念し、政治的
な扇動という新しい急進的な方法を採択した。提起された諸要求もまた、より急進的な性
格を持っていた。いくつかの新しい要因がこうしたことを助けたのである。

1898年12月に、カーズンが新総督としてインドにきた。その在任期に、カーズンはイギリ
ス支配への敵対感をあおるような誠に評判の悪い政策を押し付けた。彼は自分が会議派を
「静かに眠らせる」のを助けるだろう、と言明した。カーズンがインドを去ったとき、会
議派と民族運動はかつてないほどまでに強まり、事実新しい広がりをもつに至った。

 カーズンの最も評判を落とした行為はベンガル分割であった。この政策の目的は行政上
の便宜に基づくものであると説明された。インドの指導者たちはそれが事実上ベンガル人
民を分割する政策であることを明確に理解できた。東ベンガルはムスリム多数州であり、
西ベンガルはヒンドゥーとムスリムの統一を分裂させ、民族運動を弱体化させることを意
図した。しかしながら、その政策はイギリス政府の期待を裏切ることになった。分割は、
強烈な運動と分割を無効にしなければならないほどの、イギリス支配への怒りの反動をよび
起こした。(教科書:インド)
145世界@名無史さん:01/08/26 14:06
続き〜

〔★★★ここ⇒〕 国際的な諸事件もまた活発な民族主義の成長を促した。1905年にロシ
アは日本により戦争に敗北した。これはヨーロッパ国家へのアジア国家の最初の勝利で
あった。日本そのものは帝国主義国家に転化し、戦争は中国における帝国主義諸国の権益
のために戦われたとはいえ、日本の勝利はイギリスと戦うインドの民族主義者に自信を
もたらした。すでに学習したようにロシアの敗北はロシアの1905年革命をともなった。
革命はツァーの専制政治の妥当を目指したが、やがて抑圧されてしまった。この革命は
またインドの民族主義者の思考様式にも影響を及ぼしたのである。
(教科書:インド)



(これらの運動がインドに広範な怒りを生み出し、その後も激しい民族運動のうねりを
つくってゆきました。そして[民衆運動の大衆運動化への転化、1919〜35年 ガンディー
ジーの政治指導〕へつながってゆきます。)
146世界@名無史さん:01/08/26 14:07

・第二次世界大戦終結以後における日本の記述(インドの教科書より)

第13章   第二次世界大戦後の世界   冷戦より



 軍事同盟(NATO-北大西洋条約機構、CENTO、ワルシャワ条約など)の成立は、もう一つ
の危険な展開をともなった。それは破壊兵器の競い合いであった。みなさんは第二次世界
大戦の終末近くに日本に対して投下された2個の原子爆弾についてはすでに学んだ。大戦
後の約4年間はアメリカ合衆国が唯一の核兵器保有国であった。1949年にはソヴィエト連邦
が最初の核実権を行った。数年たつと、日本に対して用いられた原子爆弾の数千倍の破壊
力をもつ核兵器が開発された。これらは熱原子核爆弾あるいは水素爆弾である。これらの
爆弾の実験だけでも生命に対する重大な危険を生み出した。世界のあらゆる場所で、核兵器
の製造と実験の禁止を求める多くの運動が起こされた。アインシュタイン、ポーリングとい
った主導的な科学者のほとんどがこの要請を支持した。しかし世界の核兵器製造工場は
増加しつづけた。
(教科書:インド)
147世界@名無史さん:01/08/26 14:13
第13章   第二次世界大戦後の世界   アジア・アフリカの興隆より
〔(■):以下は、記述中に少し日本という文字が見られます〕

 ビルマはインド独立の数ヶ月後にイギリスからの独立を獲得した。ビルマでは1944年に
ハンファシスト人民独立連盟(AFPFL)が結成されている。その目的は日本のビルマ侵略へ
の抵抗と独立の達成であった。大戦後、イギリスはビルマに対する支配の回復をはかった。
これが独立運動の尖鋭化をもたらした。闘争の過程で多くの指導者が暗殺された。しかし
イギリスは独立の要求に同意せざるを得なくなり、ビルマは1948年1月4日に独立国となった。

 インドネシアにおける民族運動の開始については前章で述べた。日本の敗北後、独立運動
の指導的な人物の一人スカルノはインドネシアの独立を宣言した。しかしまもなく、イギリ
ス軍がオランダの支配権回復を援助するためここに上陸した。スカルノによって樹立された
独立インドネシアの政府は、植民地支配再建の試みに抵抗した。世界の多くの国々の間には、
オランダの支配を回復すべくインドネシアで始められた戦争を終結させようとする要求が強
かった。アジア諸国ではそれに対する反応はことに激しかった。インド独立運動の指導者た
ちは、イギリス軍の一部としてインドネシアに送られているインド兵の撤退を求めた。独立後
のインドはインドネシアの独立を支持するアジア諸国の会議を呼びかけた。会議は1949年1月
にニュー・デリーで開催され、インドネシアの完全独立を要求した。インドネシア人の抵抗
と高まる世論、およびアジア諸国からの圧力によって、オランダはインドネシア人指導者た
ちを釈放するのやむなきに至り、1949年11月2日、インドネシアの独立を承認した。

  インド独立後数ヶ月を経ずして、スリランカ(セイロン)が1948年2月に独立した。
タイは日本に占領されていたが、日本敗北後独立した。戦時中、日本は、フィリピンから
アメリカ軍を駆逐していたが、1946年にアメリカ合衆国政府はフィリピンの独立に同意した。
マラヤでは戦後にイギリス支配が再確立されていたが、イギリスも長年にわたってマラヤ人
の武装抵抗に直面しており、ついに1957年、マラヤは独立国家となった。
(教科書:インド)
148世界@名無史さん:01/08/26 14:27
第13章   第二次世界大戦後の世界   中国における革命より
〔(■):以下は、記述中に少し日本という文字が見られます〕(教科書:インド)

皆さんは中国の完全独立と統一を目ざして孫文によって築き上げられた国民党と共産党
の提携についてすでに学んだ。この統一は孫文の死後破れ、蒋介石指導下の国民党と、
毛沢東を最も重要な指導者とする中国共産党との間の内戦がはじまる。日本の中国侵略
後、両党とその軍隊は侵略に抗すべく時に協力したが、両者間の抗争は決してやむことが
なかった。(中略)

蒋介石のもとにある国民党は主として資本家と地主の利害を代表する政党であった。
他方、共産党は労働者と農民の政党であった。共産党支配下の地域では地主の所有地は
収容され、土地は農民の間に分配された。共産党のとった諸政策のために、何百万者中国
人民が次第にその旗のもとに結集されていった。共産党はまた人民解放軍と呼ばれる強大
な軍隊をも組織した。日本の敗北と日本軍の中国からの駆逐後、再び内戦が起った。
アメリカ合衆国政府は蒋介石に多大の援助を与えたが、1949年には彼の軍隊は完全に
敗れ去っていた。蒋介石は残りの軍隊を率いて、1895年の日清戦争以来日本占領下に
あった台湾島に渡った。1949年10月1日、中華人民共和国の建国が宣言され、毛沢東
指導下の中国共産党が政権の座についた。

 中国における共産主義革命の勝利は世界を震撼させる事件であった。世界最大の
人口を持つ国が共産党支配下に置かれたのである。ヨーロッパの社会主義諸国に加え
て、世界には今や共産党が政権を握る二大強国、ソヴィエト連邦と中国が存在するに
至った。中国革命の結果、帝国主義はアジアでいっそうその力を弱めた。
149世界@名無史さん:01/08/26 14:29
(・1950年以降の中国について《インドより》書かれている個所↓)

第13章   第二次世界大戦後の世界   中国における革命より(続き)
(教科書:インド)                         
 中華人民共和国の成立は同時にアメリカ合衆国の敗北であった。アメリカは20年
以上も中国政府の承認を拒否した。それによれば、中国の合法的政府は台湾の蒋介石
政府ということであった。こうしたアメリカ合衆国の姿勢のために、世界最大の人口
を持つ国家が国際連合への加盟をさえ拒絶されたのである。


 インドと中国の間には長年にわたって友好的関係が醸成されてきた。両国は提携し
つつ、アジア・アフリカ諸民族の独立運動やそこでの統一の実現に重要な役割を果た
した。しかし1950年代末ころになると中国政府の政策に変化が生じた。1962年、中国
はインドに侵入を試み、これはインド、中国両国間の友好のみならず、アジア・アフリカ
諸国家の統一に対しても厳しい打撃を与えた。中国とソヴィエト連邦との関係も悪化し
始めた。中国はカシミールを巡ってインドと敵対するパキスタンを支持し、バングラデ
シュ人民のハンパキスタン独立闘争に反対した。1970年代以後、中国とアメリカ合衆国
との関係は改善され始め、国際連合にも加盟を認められて、現在安全保障理事会の常任
理事国の一つである。しかしソヴィエト連邦との関係は悪化の一途をたどっている。
ある国々における独立運動に対するその姿勢もまたこのことによって影響を受けた。
しかし中国は革命後30年足らずの間に、世界最強の国家の一つへと成長したのである。
(教科書:インド)
150ちと、転載者から感想を。。:01/08/26 15:48

インドの記述思ったより長くなりました。読んでくださっている方、ありがとう
ございます。インドの教科書には、中国やソ連また、第三世界と呼ばれている世界
(イランやパキスタン、アフリカや東南アジアなど)の歴史や文明や考え方などが
たくさん書かれていて、今まで見たことのなかった視点からものを見ている感じが
しました。アメリカ原住民の文明や宗教などの説明、中央アジアその他世界中の宗教
を扱った記述なども多く見られます。訳者まえがきにて、『いいかえれば、この教科
書は、第三世界的な世界史でもある』と評されている通り、欧米資本主義諸国の見方
とは違った視点で書かかれているものであることがわかります。インド独自の視点…。
それらが、読みすすめるほどにじわじわと染み出してくる感じでした。日本に関する
部分を主に転載しましたが、他の部分も大変興味深い内容でした。

『インドに対して宗教的な国民というイメージをもちたがる日本の読者は、この教科書
 の各所に見られる、ヒンドゥーイズムとイスラームのそれぞれの絶対化と至上主義化
 への激烈な批判に驚くであろう。この国が独立してから30年以上も経過するなかで、
 インドは激しく変化していて、一面では私たちの対インド観を思い切って修正する
 必要性に迫られている。一面的なインド観をもつのは私たちの自由である。しかし
 それをインド人に押し付けることは私たちに許されていないはずである。そうした
 状況の中で、この教科書は日本人にとって確かな《インド入門》の意義をもつとい
 っても誤りではなく、したがってまた、多様な活用の仕方があることも確認してお
 く必用がある。』(訳者 まえがきより)
とも書かれていて、インドは変化しつづけているのですねぇ。。これは1978年初版
のものですので、これで学んだ子供たちは、今40歳くらいでしょうか。今のインドを
つくっている人達なのですねん。以上、感想でした。
151世界@名無史さん:01/08/26 15:51
で、続き〜
第13章   第二次世界大戦後の世界   朝鮮戦争より
〔(■):以下は、記述中に少し日本という文字が見られます〕
(教科書:インド)
 皆さんがすでに学んだように、朝鮮は1910年に日本の支配下に置かれた。第二次世界
大戦での日本の敗戦後、朝鮮領土での日本軍を武装解除するため、朝鮮はソヴィエト連邦
占領下の北区域とアメリカ占領下の南区域に分割された。その目的は朝鮮を独立国とす
ることであった。しかしヨーロッパのドイツと同様、朝鮮にも1948年に、朝鮮共産主義
者指導下の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と李承晩の指導する諸政党による大韓民
国(南朝鮮)という二つの異なる政権が樹立された。李は反共主義者で、共産主義の拡
大を防ぐため蒋介石との提携を望んだ。朝鮮の両国は自らの軍隊を整備し、しばしばその
間に紛争が起った。1948年にはアメリカ軍がつづいて撤兵した。両政府とも国土の統一
に賛意を示しているが、両者の間には何らの交流もなかった。


 1950年6月、南北朝鮮の間に戦争が勃発した。すでに中国革命は達成されており、アメ
リカ合衆国は共産主義がこれ以上広がることを恐れた。アメリカは戦争で南朝鮮を支援
するため派兵した。アメリカと同盟を結ぶほかの幾つかの国からの軍隊も朝鮮で戦闘
した。これらの軍隊は国連軍として戦闘した。というのも、国連の安全保障理事会は北
朝鮮を非難する決議を採択し、国連加盟国に南朝鮮への援助を要求していたからである。
しかし派兵したアメリカの同盟国は数カ国にすぎなかった。外国兵のほとんどはアメリ
カからの兵士であった。アメリカ軍の参戦後、中国軍が参戦し、事態はきわめて深刻な
局面をむかえた。この時期までにはソヴィエト連邦もまた原子爆弾を獲得していたから、
まさに第三次世界大戦勃発の危険が存在したのである。しかし朝鮮での戦争は3年間続
いたが、世界大戦には発展しなかった。
1953年に休戦条約が締結された。朝鮮は二つに分断されたままであった。インドは朝鮮
戦争を終結させる上できわめて重要な役割を果たした。戦闘は朝鮮のみに限定されて
いたとはいえ、3万のアメリカ人を含め何十万者戦死者を出した。。

  朝鮮戦争は新しい世界大戦の危険を倍加させた。それはまた世界の緊張を悪化
させ、冷戦のいっそうの緊迫化をもたらした。(教科書:インド)
152世界@名無史さん:01/08/26 15:52
第13章   第二次世界大戦後の世界     ベトナム戦争より
〔(■):以下は、記述中に少し日本という文字が見られます〕
(教科書:インド)
 最も英雄的な独立への戦いはベトナム人たちによって戦われた。この国はラオスやカ
ンボジアとともに、フランスの植民地支配下にあったインドシナ諸国を形成する。フラ
ンス政府がドイツに降伏した後は、インドシナの多くの地域が日本に占領された。フラン
ス支配からの独立を求めるインドシナの運動は何年も前からはじまっていた。ベトナム
人民の最大の指導者はホー・チミンである。彼は第一次世界大戦終結後、ベトナムに
おける共産主義および民族主義運動の組織に従事していた。ホー・チミン指導下のベト
ナム人たちは日本の占領に抵抗し、べト・ミンとよばれる民兵を組織した。

第二次世界大戦がおわるまでにはべト・ミンはベトナムの広範な部分を支配していた。
1945年8月にはホー・チミンを大統領とするベトナム民主共和国の建国が宣言された。
しかしイギリス軍のみならず蒋介石の軍隊までが、ここの日本軍の降伏を完了すると
いう口実でベトナムに入ってきた。1945年10月1日、旧支配を復活させる目的でフラン
ス軍も到着した。1946年にフランス軍はベト・ミンとの戦闘を開始した。彼らはまた
以前に日本支配下の傀儡政権の首班であったバオ・ダイを頭とする政府を樹立した。
ベト・ミンとフランスの戦闘は8年間続いた。1954年、フランスはディエン・ビエン・フーで、
ベト・ミンの手によって手痛い打撃を被った。ディエン・ビエン・フーの瓦解は、何らの
精巧な兵器を持たない民兵が強力な帝国主義国の軍隊を戦闘で破ったものとして有名
となった。

このディエン・ビエン・フーデの敗退はフランス政府をしてベトナム民主共和国政府との
交渉を開始することを余儀なくさせた。1954年7月にはジュネーブで国際会議が開かれ、
ベトナムを一時的に南北に統一するための選挙を全土にわたって実施することが合意さ
れた。インドシナのほかの2国、カンボジアとラオスも独立した。(教科書:インド)
153世界@名無史さん:01/08/26 15:54

(・ベトナム戦争とアメリカについて書かれている個所↓)

第13章   第二次世界大戦後の世界  ベトナム戦争より(続き)
(教科書:インド)
 ベトナムの分割によって、その独立運動の次の局面がはじまった。アメリカ合衆国の
援助で南ベトナムに成立した政府は、選挙の実施とベトナムの統一に関するジュネーブ
会議の決定に従うことを拒否した。南ベトナム政府は次第に、共産党指導下のベトナム
統一に反対するアメリカによって牛耳られていると見られるようになった。1960年代の
はじめに、南ベトナムに反政府の蜂起が起った。

これはアメリカによるベトナムへの大規模な軍事介入をもたらした。何十万ものアメ
リカ軍兵士達が、民衆の蜂起を鎮圧すべく最も新鋭の兵器を携えて派遣された。戦争
は何年も続いた。南ベトナム人は民族解放戦線によって指導され、北ベトナムの支援
を受けていた。
アメリカ軍は戦争を北ベトナムに持ち込んだ。アメリカ軍による爆撃でベトナムは
はかりしれない損害を被った。ベトナムの広範な地域が荒廃し、何十万もの人々が
殺された。アメリカ軍もまた大量の死傷者を出した。


 ベトナム戦争でアメリカ合衆国は完全に世界で孤立した。多くの政府がアメリカ
によってなされた戦争に反対の声をあげただけでなく、アメリカ政府への抗議とベ
トナム人民との団結をかかげる全世界的運動がおこった。これに対比しうる同種の
運動としては、1930年代にスペイン内戦における共和主義者を支持し、スペイン内の
ファシストを積極的に援助していたドイツとイタリアに反対して起った運動が唯一
のものであった。(教科書:インド)
154世界@名無史さん:01/08/26 15:55
続き〜
(教科書:インド)
ベトナム戦争反対はアメリカ自体の中でも未曾有の規模で広がった。何千ものアメリ
カ人が徴兵を拒否し、多くのアメリカ兵士が脱走した。ベトナム戦争のように単一の争
点が全世界の何百万者人々を連帯させた例は他にない。しかしアメリカは勝利が不可
能なことが明白であったにもかかわらず、戦争を続けたのである。 1975年の始め、
戦争は決定的な転換をみた。北ベトナム軍と南ベトナム民族解放軍はアメリカの支援
を受ける南ベトナム政府軍を全国にわたって掃討した。1975年4月初頭、アメリカ軍は
ベトナムからの撤退を開始した。ベトナム戦争で5万4,000のアメリカ兵が命を失った。
1975年4月30日には全アメリカ軍が撤退を完了し、同日、南ベトナムの首都サイゴンの
陥落によってベトナムは統一国家となった。サイゴン市は、これにより数年前に死亡
したベトナム人の偉大な英雄の名にちなんでホー・チミン市と改称された。


 統一・独立国家としてのベトナムの出現は世界史上の重要な一事件である。一つの
小国が世界最強の勢力の武力妨害に直面しつつ、完全独立と統一をかちとることに成功
したのである。社会主義諸国によってベトナムに与えられた援助、多くのアジア・アフリ
カ諸国によって示された政治的支持、そして全世界のあらゆる人々によって表明された
団結の意志がベトナム人に勝利をもたらすのを助けた。(教科書:インド)
155よいしょ。:01/08/28 00:31 ID:glzRpeE2
今日は、ageだけ。。
             ..... f(^。^)


(転送量の少ない時間帯にまたきます。)
156世界@名無史さん:01/08/28 01:00 ID:LkIGICBw
フランスの教科書には
「中世を通じて日本は二百家あまりの貴族によって国土が分割されていた。
彼らは何の仕事もせず、争い事を好み、時には貧しい暮らしをする、といった本来の軍人階級であった。
首都にいた殆ど名目上の皇帝に代わり、貴族の首領たる”将軍”がカロリング家の宮宰のように、軍事的独裁者として君臨していた」
157亀レスかな:01/08/28 03:55 ID:GZvu1Wt2
>>118
 大塩平八郎って、元与力だから、バリバリの旗本じゃないの ?
徳川政権下ではエリート階級だと思うけど、何故に平民とか日教組の
お薦め人物ってことになるの ?
158 :01/08/28 06:15 ID:JnQA54xw

各大学の学生ポータルたん萌え〜

早稲田 ―http://waseda-links.com
ICU ―http://icunavi.com
立教 ―http://ri-style.com
東邦 ―http://www.h2.dion.ne.jp/~jn1
東洋 ―http://toyowave.com
中央 ―http://chuo.pos.to

↑(・∀・)イイ!
 
159>156:01/08/29 02:49 ID:/eJBvOr6
わぁ。。
フランスですね。
>「中世を通じて日本は二百家あまりの貴族によって国土が分割されていた。
>彼らは何の仕事もせず、争い事を好み、時には貧しい暮らしをする、といった
 本来の軍人階級であった。

外の人から見るとこういう書き方になる、ということでしょうか・・・。
何といいますか、、何の飾りもない書き方といいますか、、(^^ 
−何の仕事もせず、軍人階級−(武士ですね)  とっても、、、
一切の虚飾を廃した表現(といいますか)に、、(;^^A なってますね、、

首都にいた名目上の皇帝とは天皇、軍事的独裁者とは、徳川幕府将軍のこと
なのでしょうね(^_^;
160118 :01/08/29 02:54 ID:/eJBvOr6
>>157
>大塩平八郎って、元与力だから、バリバリの旗本じゃないの ?
>徳川政権下ではエリート階級だと思うけど

旗本だったのですか? 元与力であったようですが、それは
エリート階級だったのでしょうか。

大塩平八郎といえば「江戸時代、凶作で米がとれず、人々が大変苦しんでいるとき
に農民とともに蜂起し、お上に不正を訴え…」「民衆の救済を訴え、反乱・・」という
記憶というか、イメージがあって上層階級の人という記憶はありませんでした。
『庶民の味方』的なイメージとして記憶に残っていました。

しかし『平民』という言葉を調べてみましたら、明治になって維新改革が行われた
後、四民平等政策が行われた時以後の新しい身分を示す言葉でした。上層階級では
ない→したがって『平民』とか『庶民』かな、というくらいの意味で何気なく
使ったのでしたが、なんと、大塩の乱の時には、まだ、『平民』という身分そのもの
がなかったのでした。大塩平八郎の生きていた時代には、士農工商の身分制度であり、
武士である御家人(将軍直属、一万石以下の家臣の称)も、旗本、御目見得、御目見得
以下などかっちりと分かれていて、大塩平八郎が、果たして、旗本だったのかどうか
はよくわかりませんでした。どのくらいの階級だったのかわかる方がいらしたら、教
えてください。いわゆる超エリート階級であったというのなら、大変、義侠心のある
人物だったということかもしれません。(^−^)
161118:01/08/29 02:57 ID:/eJBvOr6
いちおう、「与力」について調べてみました。
↓他にも、旗本、御目見、直参、御家人、などについても一緒に調べました。


(江戸時代の説明部分に●印)
よりき 【与力】 (名)スル
 (1)助力すること。加勢すること。また、その人。「北面の輩(ともがら)多く
    ―したりけり/平家 1」
 (2)(「寄騎」とも書く)室町時代、諸大名・部将に隷属する武士(被官)。
    戦国時代には侍大将・足軽大将に付属する騎士。同心。
●(3)江戸時代、奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭の部下として、同心を
    指揮し事務を分掌・補佐した職。
はたもと 【旗本】
 (1)軍陣で大将のいる所。本陣。本営。
 (2)大将の近くにあってこれを護衛する家臣団。麾下(きか)。
●(3)江戸時代、将軍直属の家臣のうち、禄高一万石以下で御目見(おめみえ)以上
   の格式を有する者。御目見以下の御家人とあわせて直参(じきさん)という。
おめみえ 【御目見・御目見得】
 (1)目上の人、貴人に初めて会うこと。目見え。
 (2)新たに人の前に姿を現すこと。「ニューモデルが―する」
●(3)江戸時代、将軍に直接お目どおりすること。また、それが許される身分。
 (4)歌舞伎・人形浄瑠璃などで、俳優・太夫・人形遣いなどが、初舞台・襲名また
   はその劇場での初出演などで演技すること。
 (5)「御目見得奉公(おめみえぼうこう)」に同じ。
じきさん ぢき― 【直参】
 (1)主君に直接仕えること。また、その人。⇔陪臣(ばいしん)
●(2)江戸時代、将軍直属の武士で、一万石以下の者。旗本・御家人の総称。幕臣。
ごけにん 【御家人】 〔「家人」の敬称〕
 (1)平安時代、貴族や武家棟梁の従者をつとめた武士。家の子。郎党。
 (2)鎌倉時代、将軍直属の家臣。本領安堵(あんど)・新恩給与・官位推挙などの
    保護  を受けたが、御家人役と呼ばれる多くの義務を負わされた。
●(3)江戸初期、将軍直属の一万石以下の家臣の称。のちに旗本と御家人とに区別
    され、御目見(おめみえ)以下の者とされた。直参(じきさん)。→旗本
162世界@名無史さん:01/08/29 02:58 ID:/eJBvOr6
省略されたところ
    保護  を受けたが、御家人役と呼ばれる多くの義務を負わされた。
●(3)江戸初期、将軍直属の一万石以下の家臣の称。のちに旗本と御家人とに区別
    され、御目見(おめみえ)以下の者とされた。直参(じきさん)。→旗本
163118:01/08/29 02:59 ID:/eJBvOr6
つまり、まとめると、

【与力】とは、江戸時代、奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭の部下
    として、同心を指揮し事務を分掌・補佐した職。
【旗本】とは、江戸時代、将軍直属の家臣のうち、禄高一万石以下で御目見
   (おめみえ)以上の格式を有する者。御目見以下の御家人とあわせて
    直参(じきさん)という。
【御目見・御目見得】とは、江戸時代、将軍に直接お目どおりすること。
    また、それが許される身分。
【直参】(じきさん、ぢきさん)とは、江戸時代、将軍直属の武士で、一万石以下
    の者。旗本・御家人の総称。幕臣。
【御家人】とは、江戸初期、将軍直属の一万石以下の家臣の称。のちに旗本と御家人
    とに区別され、御目見(おめみえ)以下の者とされた。直参(じきさん)。

ということになって、

・奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭、与力などが御家人(将軍直属の武士)
 ということであれば…↓
・御家人(将軍直属の武士で、一万石以下の家臣、幕臣)=直参=旗本、御目見得
・格:旗本>御目見得>御目見得以下
                        と、いうことになります。     
164118:01/08/29 03:03 ID:/eJBvOr6

大塩平八郎は、与力であって、書院番頭の部下。旗本だったのか、御目見得だった
のか、御目見得以下だったのか、わかりません。(くわしいことをご存知の方がいら
っしゃったら説明をお願いします)下級武士というものだったのかもしれません。

幕末の、坂本竜馬も下級武士だったと何かで読みました。どの程度の下級武士だった
のか、それによっては、彼の働きは大きな抵抗にあいながらのもので、とても大変
だったのかもしれない、と思いました。大変な階級と身分とによって規制された社会
にあって、彼のような働きをすることは、下級武士の分際で、といった身分社会の
意識から来る強い抵抗にあったかもしれないな、と思いました。
身分社会でない今でさえ、とても大きな決断であったと評されるのですから、昔の
こういったガチガチの身分のあった社会でするのは、すごいことだったのかも
しれない。。と思いました。

大塩平八郎は、平民ではありませんでした(失礼しました)でも、やはり
庶民の味方であったとは思いました。坂本竜馬も。。(^。^)

>御目見(おめみえ)以上の格式を有する者
>江戸時代、将軍に直接お目どおりすること。また、それが許される身分。

一定の階級以上でないと、(将軍に)会うことさえできなかったということ
であり、絶対的な階級社会であった、身分社会であったということですね。
165118 >157さん:01/08/29 03:08 ID:7vbwWe3I
また、日教組のことは、私には、わかりません。

116さんが
>大塩平八郎が英雄って日教組の考えそのものじゃんか。。

と、書かれました。116さんは、いろいろご存知なのかもしれませんが、
私には、その意味はよくわからなかったです。日教組というものが
どういったものなのかよく知りませんし、それを批判している人たち
がまた、どういった人達であるのかも、よく知りません。
116さん、説明きぼーん、です(笑
166少しひさしぶり(^^;):01/09/01 01:46 ID:grcnelSk
がんばって、あげ p(^^;)q
なかなか来れなくて・・スマソでした。

2ちゃんねる、大丈夫かな。。

アメリカ合衆国歴史教科書、続き、いきまーす。

(訂正から
>>136
>写真より
>…海兵隊員がアメリカ国会を立てているところである。

×国会  ○国旗
167世界@名無史さん:01/09/01 01:49 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編) 4 日本への進撃より
 
マンハッタン計画

太平洋戦争の次の段階を理解するために、1938年という年を回顧しなければならない。
この年、オーストリアの物理学者リーゼ・マイトナーと彼女の同僚たちが、ウラニウム
原子を分裂させる方法を発見した。微小な原子をさらに小さい粒子に分裂させること
によって、これらの物理学者は、突然のエネルギー爆発を起こさせることに成功した。
世界中の科学者が、いち早くこの発見の軍事的な可能性を察知した。もし原子エネルギ
ーが爆弾に利用されれば、それはこれまで発明されたことのない、最も破壊的力を持つ
兵器となるだろう。

ヒトラーのナチス政権を逃れた科学者の多くは、ドイツがそのような爆弾を製造する
ことを恐れていた。亡命者の一人であるアルベルト・アインシュタインは、この時代の
最も高名な科学者だった。1939年、彼は、ローズヴェルトあてに彼の名前で手紙を書き、
原子の潜在能力を警告し、合衆国が原子爆弾開発を始めるよう促した。

ローズヴェルトは、ヒトラー側の科学者がこれを実行する前に、科学者チームを編成し
て、そのような爆弾を製造する緊急計画に着手した。最高機密事業の性格を隠すために、
当局は、これにマンハッタン計画という平凡な名前をつけた。4年間の異常な努力によっ
て、恐るべき兵器が誕生した。1945年7月16日、最初の原子爆弾は、ニューメキシコの砂漠
の上空で目もくらむばかりの閃光を放って爆発し、実験は成功した。原子力時代の幕開
けだった。
168世界@名無史さん:01/09/01 01:51 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)4日本への進撃  マンハッタン計画より

マップスキル

1942年にはじまるアメリカ海軍の戦勝の数々は、対日戦の岐路となった。ミッドウェー
島はどの諸島の隣にあるか。
(→ハワイ諸島のすぐ近くにミッドウェー島がある。地図より)
珊瑚海に接する大きな諸島は何か。(→ソロモン諸島のすぐ近くに珊瑚海がある。
ソロモン諸島は、オーストラリアの北東、ニューギニアの東あたり)
■ 日本の支配下、1942年後半(→満州、中国、韓国、ビルマ、マレーシア、シンガ
ポール、オラン領東インド-現在のインドネシア-フィリピンなどが全て、日本の支配
下であったことを示す色がついている)

ー 日本の最遠支配範囲(東アジア、東南アジア全域が囲まれている)
← 連合国軍の進撃 (地図上の矢印は、ハワイ諸島の真珠湾から東へ、マーシャル
  諸島、タラワ(島)1943年へ。別の矢印が、真珠湾からエニウェトク島1944年、
  マリアナ諸島1944年、サイパン島、テニアン島、グアム島を通り、硫黄島1945年、
  沖縄1945年、フィリピン諸島に向かって進撃してゆく様子を示し、その後、台湾へ
  向かって進撃している。また、オーストラリアのほうからガダルカナル1942年、
  珊瑚海1942年、ニューギニア、オランダ領東イン  ド-インドネシア-、フィリ
  ピン諸島へと北上する矢印があり、南と東から進撃して  いった様子が地図上
  に示されている)《( )内は写真を載せることはできないので、補足として書き
  足したものです。》
169世界@名無史さん:01/09/01 01:53 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)4日本への進撃より

戦争の終結

 トルーマン大統領は、この歴史に残る新兵器をいかに使用すべきかを決定する責任
を負っていた。彼は、数ヶ月前に大統領になるまで、この爆弾の存在すら知らなかった。
それは、一人の行政長官がこれまで直面したことのないほど困難な決定となるだろう。
 戦争を終結するために、合衆国はその恐るべき新兵器をどのように使用できるか。
その爆弾により、日本侵攻が不必要になり、それによって何百万人もの日本人とアメリ
カ人の命が救われるかもしれない。しかし、爆弾をどのような方法で使用するのが最善
だったのか。

 マンハッタン計画の科学者の中には、犠牲者を増やさない方法を提案する人もいた。
彼らは、爆弾の計り知れない力をわからせるために、日本の政府関係者を招いて、砂漠
地帯で新しい実権爆発を見せるよう、大統領に強く勧めた。確かに、そうすれば日本人
は降伏を納得するだろう。

 しかし、爆弾は後2発しかなかった。合衆国は、その一つか、あるいは両方ともが不発弾
となるような危険を冒すことができるか。トルーマンは、それはできないと考えた。彼の
最大の関心は前面侵攻のもたらす凄惨な犠牲を避けることであり、彼は、その爆弾は戦争
兵器として使用されるべきだと信じていた。

 トルーマンは、日本に、降伏しないと「瞬時にして完全な破壊」に直面することに
なる、と宣告する手紙を送った。日本の首相は最後通牒を受け入れることを望んだが、
軍部指導者に降伏を説得できなかった。
170世界@名無史さん:01/09/01 02:12 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)4日本への進撃  戦争の終結より

 そこで、トルーマンは爆弾を日本の都市に落とすよう命令を下した。
1945年8月6日、1機のB29-エノラ・ゲイ-が爆弾一発を搭載して、マリアナ諸島のテニ
アン島を離陸した。それは、人口245,000の工業都市、広島へ向かった。
8時15分、機は警告なしに爆弾を落とした。すさまじい爆風が都市を破壊し、空中5万
フィートの高さにきのこ雲が涌き出した。アメリカは、この爆風が8万人の一般市民を
死亡させたと推定した。一方、日本は20万人という数字を出した。さらに何万人もの
人々が、放射能汚染がもとで、苦痛を伴う後遺症に苦しんだ。

 それでも、日本の軍部指導者は降伏を拒否した。広島壊滅の2日後に、ソ連が、日本
に宣戦布告し、日本占領下の満州に侵攻した。その翌日8月9日、合衆国の飛行機が長崎
に原爆を投下した。この都市も、粉砕された建物と死体というこの世の地獄の中に消滅
した。

 8月14日、天皇裕仁は、日本国民に降伏の決意を告げた。戦争は、1945年9月
2日、アメリカ戦艦ミズーリ上で日本が降伏文書に著名し、終結した。

写真より
 日本の長崎市は、1945年8月9日の核爆発の後、廃墟と化した。今までに戦争で
使われた第2番目の、そして最後の原爆は25万人の長崎の人口の三分の一を殺傷した。
日本は、翌日和平を求めた。 問題点 核兵器の利点と欠点を議論しなさい。
(転載者注:写真は、廃墟と化した長崎市の様子を上空から撮影したもの)。
171世界@名無史さん:01/09/01 02:13 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編) 4日本への進撃より

この課の復習

1.重要語句 島とび、レイテ湾の戦闘、カミカゼ、硫黄島の戦闘、沖縄戦、
       マンハッタン計画
2.人名と地名   チェスター、ニミッツ、ダグラス・マッカーサー、蒋介石、
          リーゼ・マイトナー、アルベルト・アインシュタイン、広島、長崎
3.理解    連合国軍が日本に勝利する上で、なぜマリアナ諸島は重要だったか。
4.理解    ナチス・ドイツの恐怖は、いかに原子爆弾製造の決定に作用したか。
5.批判的に考える  もしあなたがトルーマン大統領の立場にあったら、日本への
         原爆攻撃を命令したか。その理由は、またそうでない理由は何か。
172世界@名無史さん:01/09/01 02:15 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

5 戦争の破壊

この課の焦点

重要語句 (略)  要旨  (略)

目標  本分を読み、次の質問に対する答えを探しなさい
  1.第二次世界大戦の犠牲はどのくらいのものだったか。
  2.(略)  3.(略)
 1945年、世界は、戦争による荒廃から立ち上がり、新時代に直面した。何千人も
の人間が戦死、あるいは謀殺された。ヨーロッパとアジアにおける力の均衡は覆された。
新しい平和の機会がそこに存在していたが、新たな戦いの危険も存在していた。
173世界@名無史さん:01/09/01 02:18 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)  5 戦争の破壊より

戦争の犠牲

第二次世界大戦の直後の結果として、どれほどの人々が死亡したか、誰にもわからない。
概算では、戦争ぜんたいの死者は4000万人から6000万人の範囲である。一つ確
かなことは、戦闘員とほぼ同数の一般市民が死亡したことである。
たとえば、ソ連は1800万人から2000万人の人命を失ったが、少なくともそのう
ち1000万人は一般市民だった。
少なくとも600万人のドイツ人、200万人の日本人が死亡した。中国は200万人以上、
英国は40万人の人命を失った。(略)


国際法を定める

連合国は、ホロコースト(大虐殺)の恐怖に怒りを表明し、責任者を処罰することを誓約
した。彼らは、他の国際的犯罪-戦争の発端となった侵略行為、バターンや中国における
日本軍の残虐行為など-も指摘した。しかし、一体どのような法廷が裁判を行いえたのか。

 平和が訪れてまもなく、連合国は、敵国の指導者を裁くために、2つの国際軍事法廷を
開設した。- 1つはドイツのニュルンベルグ、1つは東京である。彼らは、被告人たち
を、「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」を犯すことにより、国際法に
違反したと告発した。ナチスの市の収容所についてのいまわしい、その実態が暴露され
たため、主としてニュルンベルグ裁判に注目が集まった。

ニュルンベルグ裁判にかけられた24人のナチス指導者のうち、12人が死刑の判決を
受けた。占領地区のいたるところで行われた、それほどは知られていない裁判で、合衆国
裁判官は50万人以上の小ナチス党員を有罪にした。彼らの処罰は、小額の罰金から強
制労働収容所への入所に及んだ。
174世界@名無史さん:01/09/01 02:20 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)  5 戦争の破壊  国際法を定める より


  東京裁判は、戦時中の日本の総理大臣東条英機と6人の日本の将軍[訳注:原文は
generals(将軍)となっているが、6人のうちの1人(広田弘毅)は文官だった。]に、
絞首刑を宣告した。他に、戦争犯罪で有罪とされた数百人の日本人も絞首刑に処せら
れた。

 戦犯裁判は、戦争犯罪人を徹底的に捜しだし、罰したとはいえない、と意義を唱える
人々もいた。実際ホロコーストに荷担した多くのナチス党員が釈放された。ドイツで
市民生活に入るものや合衆国を始めとする諸外国に逃げ場を見つける者もいた。

 裁判がいかに不完全であろうとも、重要な原則は確立した - たとえ戦時下でも、
個人個人は自分自身の行動に最終責任があるという見解である。ナチスの死刑執行人
は、[ただ命令に従っただけ]ということで罪を逃れることはできなかった。個人の責任
という原則は、はっきりと国際法に確立されている。
175世界@名無史さん:01/09/01 02:22 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)  5 戦争の破壊より

原因と結果 : 第二次世界大戦

長期にわたる原因                 直接の原因
●ヨーロッパの経済的不安定さ        ●ドイツのポーランド侵攻
●ヨーロッパと日本の過激派の台頭      ●日本の真珠湾攻撃
●宥和政策の失敗
    |_________  _________|

              第二次世界大戦
                 ↓
       ↓ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄↓
直接の結果                    長期にわたる結果
●枢軸国の敗北               ●世界の大国としての合衆国
●国際連合の設立              ●ソ連のヨーロッパ支配
                      ●冷戦



チャートスキル

第二次世界大戦は合衆国を超大国にしたが、ソ連と衝突する道を歩むことにもなった。
批判的に考える 上に表示した原因の中で、第一次世界大戦から生じたものはどれか。
176世界@名無史さん:01/09/01 02:24 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第19章 トルーマンの時代]  4 朝鮮戦争
  
新しい日本の建設


朝鮮へのアメリカの関与は、第二次世界大戦にさかのぼる。戦時中、日本はアジアと
太平洋(地域)の大部分を支配していた。しかし、1945年の敗戦で、日本は(海外の)
領土も独立も失った。かつて日本が支配した土地を誰が治めるのか。日本自体を誰が
治めるのか。

 合衆国は、太平洋戦争の勝利に最大の役割を果たしたので、日本の占領とその将来を
形成する権利を主張した。アメリカ占領軍を後ろ盾にして、ダグラス・マッカーサー元
帥は7年間日本を統治した。天皇から権力を取り去り、軍隊を廃止した。マッカーサー
は、また、代議制を求める新日本国憲法を作成した。合衆国と日本は憎い敵同士だったが、
力強い同盟国となった。
アメリカの援助は、日本の敗戦の屈辱感を和らげるのに役立った。
177世界@名無史さん:01/09/01 02:27 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第23章  ヴィエトナム戦争(1945 - 1975年)[1 アメリカの介入の原因]

日本軍との戦い

ヴィエトミン[ 訳注:ヴィエトナム独立同盟 ] はゲリラ隊を訓練し、ジャングル
の全哨地からの日本軍への攻撃を計画した。合衆国も日本と戦っていたので、彼らは
アメリカの情報将校と協力して情報を分け合い、日本軍に対するいくつかの小作戦を
実行した。

 日本の敗北で、ヴィエトミンは、独立したヴィエトナムの主導権を正当に主張する
ことができた。ホー(・チ・ミン)は、彼の戦時中の同盟国 - 合衆国 - が彼の
政府を承認するよう期待していた。
178世界@名無史さん:01/09/01 02:28 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)

[第27章  2000年に向かって(1988−2000年)] [2 冷戦後の世界に向かって]

貿易競争

「日本製」。1950年代、アメリカ人はこの表示に、安い、粗末に作られた製品を連想した。
(しかし、)1970年代までには、品質保障の証とみなされるようになった。日本は、世界
最大の経済大国の一つになった。その成功は、東アジア全体に広がった。世界経済の中心
は環太平洋(太平洋に接する国々)へと移動した、と断言する専門家もいた。

 多くの基準に照らして、合衆国は、世界中で最も活発な経済国家として1990年代を迎え
た。しかし、他国との関係で、その地位は確実に低下した。アメリカ製品の多くは、世界市
場での競争に十分耐えられるものではなかった。たとえば、1989年の世論調査によると、
[アメリカ製」が品質を証明するものだと思っている西ドイツ国民は6%にすぎない、との
ことだった。

さらに、深刻な貿易不均衡が生じた。合衆国は、製品の輸入量が輸出量を大幅に上回り
始めたのだ。
179世界@名無史さん:01/09/01 02:30 ID:grcnelSk
続き〜(世界の教科書 アメリカ編)  貿易競争より

 多くのアメリカ人の気をもませたのは、日本の経済力だった。この島国を不当競争
を行う、不誠実な同盟国とみなす人の数が増えてきた。大きな不満は、日本がアメリカ
からの輸入品を阻止するために、高い関税を課したり、あるいはその他の手段を取るこ
とにあった。合衆国が日本の国家防衛のために多額の支出をしているという事実も、
いっそうの反感を呼んだ。

ほとんどのアメリカ人が、日本をソ連より大きな脅威と見なしていることを示唆する
世論調査もあった。ニューズウィーク史は、[ソ連の恐怖が減じるにつれて、日本があらた
な妖怪として急速にその姿を現わしつつある」と報じた。このような受けとめ方の結果
として、保護主義(輸入品に対する関税を上げることにより、特定の事業を保護する政府
の努力)への支持が高まった。しかし、今日では、(ある国の部品を使い、別の国の工員によ
り組み立てられ、さらに第三国で販売される)国際品としかいえない製品がほとんどで
ある。


この課の復習

1.重要語句  (略)、保護主義
2.人命と地名  (略)
3.理解  (略)  4.理解   (略)
5.批判的に考える   (略)
180世界@名無史さん:01/09/01 02:33 ID:grcnelSk
アメリカは>>179で終わりです。

次はイギリスを載せます。
181世界@名無史さん:01/09/01 02:34 ID:grcnelSk
全訳  世界の歴史教科書シリーズ5 イギリス V その人々の歴史 帝国書院より
Longman Secondary Histories The Modern World since 1870
L.E.Snellgrove  (初版発行1968年 第9版発行1979年)


5 新しく生まれた二つの強国  アメリカ合衆国と日本

  ●日本  ●日露戦争  ●年表  ●さらに研究しよう

  =======================================================================

 新しく生まれた二つの強国

  ●アメリカと日本


 1890年代にニューヨーク・ジャーナル紙を読んでいたアメリカ人は、センセーショナル
な出来事には慣れっこになっていた。この新聞の所有者であったウィリアム=ランドルフ=
ハーストは話を誇張しておもしろい記事にすることがよいと思っており、つまらない記事
や退屈な記事で読者を失望させることはほとんどなかったのである。それでも、読者は
1898年2月17日付けのニュースにはびっくりしたに違いない。

その記事によると、アメリカの軍艦メーン号が、キューバ沖で<「極悪非道の秘密兵器」
を使ったスペイン人によって爆破されたことになっていた。死んだアメリカ人水兵は260
人にのぼった。同新聞は<この事件を引き起こした人間の逮捕につながる情報を提供して
くれる人には5万ドルを与えると、提案した。これによってアメリカじゅうに激しい怒り
の波が巻き起こった。

アメリカ人、とりわけ共和党を支持していたアメリカ人は、スペインとの戦争を求めた。
しかしマッキンレー大統領は、こうした騒ぎが抑えられぬくらい大きくなるまでは、開戦
に躊躇していた。共和党の指導者の一人、セオドア=ルーズベルトは、マッキンレーに対
し、大統領にはまるでチョコレートのエクレアのように背骨がないのか、と軽蔑の言葉を
浴びせた。マッキンレーもしぶしぶ譲歩し、ここに米西戦争が開始された。
182世界@名無史さん:01/09/01 02:36 ID:grcnelSk

>>181 省略された部分

アメリカ人、とりわけ共和党を支持していたアメリカ人は、スペインとの戦争を求めた。
しかしマッキンレー大統領は、こうした騒ぎが抑えられぬくらい大きくなるまでは、開戦
に躊躇していた。共和党の指導者の一人、セオドア=ルーズベルトは、マッキンレーに対
し、大統領にはまるでチョコレートのエクレアのように背骨がないのか、と軽蔑の言葉を
浴びせた。マッキンレーもしぶしぶ譲歩し、ここに米西戦争が開始された。
183世界@名無史さん:01/09/01 02:37 ID:grcnelSk
続き〜(教科書:イギリス)
5 新しく生まれた二つの強国  アメリカ合衆国と日本 より

 ハーストの新聞のいつもの調子のニュースと同じように、読者に伝えられたこの話も、
厳密には正確なものではなかった。1895年以降、キューバの反乱者たちは、スペインの
支配下から脱するための戦いをつづけていた。

キューバが北アメリカに近接していたことと、アメリカの金融家がキューバの砂糖産業に
投資していたことのために、アメリカ人はこのキューバ人の闘争に深い関心をいだいてい
た。企業家のほとんどは、スペインによるキューバ支配が維持されるのを望んでいた。
それに対し、一般のアメリカ人はキューバ人のほうを好んでいた。ちょうど自分たちが
1775年にイギリスに対して戦ったように、独立を求めて戦っている小国の姿を彼らはキュ
ーバに見たのである。

ハーストは、このような傾向を助長していた。1898年ごろには、農村を抑えたキューバ人
反乱者側と、都市を抑えているスペイン人側との間に、手づまり状態が生じているように
みえた。来る日も来る日も、ハーストは、読者にスペイン側の司令官のひどい行為につい
て伝えた。そのいっぽうで彼は、キューバ人の将軍も同じように残虐なことをおこなって
いる点については、沈黙を守っていた。

メーン号が破壊されたとき、ハーストの新聞は、スペイン人がその犯人だと主張したが、
それを証明する証拠は何もなかった。実際、アメリカとの戦争は、スペイン側が最も望ま
ぬ事態だったのである。メーン号の爆発原因については、専門家にも結局わからずじまい
であり、いまだに謎となっている。スペイン人の犯行であるとニューヨーク・ジャーナル
紙が発表したことが、戦争を引き起こす上で最大の要因となったのである。
184世界@名無史さん:01/09/01 02:38 ID:grcnelSk
続き〜(教科書:イギリス)
5 新しく生まれた二つの強国  アメリカ合衆国と日本 より

 アメリカ人は大層熱狂して戦争に入っていったが、戦争の体制はほとんど整っていな
かった。熱帯地方に船出していった軍隊は厚い毛の制服をまとっていたし、武器は時代
遅れであり、食料も食べられたものではなかった。

しかしアメリカ人にとって運のよかったことに、スペイン人のほうの同じくらい間が抜け
ていた。侵攻を6週間も前から敵方に予測されていながら、アメリカ軍はすべて抵抗もなく
上陸に成功したのである。戦いはすぐに終わった。
アメリカ軍艦は、旧式のスペイン艦隊をサンチアゴ港の沖合いで沈めてしまった。また
アメリカの兵士は、セオドア・ルーズヴェルトの率いる「ラフ・ライダーズ」と呼ばれる
騎兵隊の助けを借りて、サン・フアン・ヒルのスペイン側守備陣地に攻撃をかけた。これ
が成功したことによってルーズヴェルトは有名になり、アメリカでの伝説的人物とも言え
るほどになった。

太平洋では、スペイン領だったフィリピン諸島にアメリカ軍が侵攻し、スペイン海軍を
マニラ湾で打ち破った。講和に際し、アメリカは太平洋のフィリピン諸島、グァム、ハワ
イを獲得した。
さらにアメリカはキューバ問題に介入する権利と、キューバに石炭貯蔵基地および海軍基
地を設ける権利も手に入れた。後に、この事件全体は「すばらしい小戦争」と呼ばれるよ
うになった。アメリカ人の目から見ると、これは最も満足すべき戦争だったのである。
185世界@名無史さん:01/09/01 02:40 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)
5 新しく生まれた二つの強国  アメリカ合衆国と日本 より

 しかし、実情は少々違っていた。キューバ人の反乱者たちは、少しも幸せには感じなか
った。彼らは自分たちの手でスペイン人を打ち破りたかったにもかかわらず、アメリカ人
が手柄を独り占めしてしまい、キューバの将軍は最終的な降伏の式典に招かれさえもしな
かったのである。
また、戦闘による死者は少なかったものの、戦死者一人に対して13人もの割合で、黄熱病
による死者が出ていた。フィリピンでのアメリカ軍の損害はさらに大きかった。この地で
は、スペイン人に対して戦っていた反乱者たちが、アメリカ人に攻撃目標を変えた。その
後2年間続いた悲惨な戦いの中で、アメリカ軍は非常に苦しんだ。アメリカ本国では、
人々がこの損害に心を痛めていた。彼らは、自分たちの国がなぜ突然帝国主義国になって
しまったのかを、不思議に思った。
186世界@名無史さん:01/09/01 02:41 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)
5 新しく生まれた二つの強国  アメリカ合衆国と日本 より

 確かに事態は驚くべきスピードで進んでいった。この予期せぬ戦争の結果、アメリカは
太平洋の3,141の島を獲得し、700万人もの原住民を支配下に入れた。ほんの6ヶ月前には、
アメリカ人はフィリピンがいったい島なのか、缶詰の果物なのかさえ知らなかった。

それがいまや、彼らは帝国を有することになったのである。そして一度帝国主義の道を走
りはじめると、それを停止することは難しかった。自体は連鎖反応を開始したのである。
アメリカは大西洋と太平洋の二つの大洋に必要な海軍を必要とするようになった。この二
つの大洋のどちらかを強化しようと思えば、ホーン岬を回って危険な航海をする必要があ
ったため、アメリカはパナマ地峡を横切るパナマ運河の可能性に関心をよせた。
1901年にパナマ人が、自分たちを支配していた国であるコロンビアに反旗をひるがえした
とき、アメリカはパナマ人を援助した。

コロンビアの支配から解放されると、新しいパナマ政府は、大西洋岸と太平洋岸とをつな
ぐ土地を貸与することによって、アメリカの援助に報いることにした。それからいくらも
たたないうちに、アメリカ軍が一帯を固める中でアメリカ人技師がこの土地に運河を掘っ
た。
このような事態の展開を快く思わない人々もいた。南アメリカの人々は強大な隣人によっ
て弱いものいじめをされたようにも感じたし、世界の問題からアメリカを孤立させておく
ことを望んでいたアメリカ人も、懸念を覚えたのである。アメリカが、世界中に責任を持
つ強国になりつつあることに気づいていた人々の数は、わずかであった。
187世界@名無史さん:01/09/01 02:42 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国より
 ●日本

 1898年と1901年の事件は、アメリカが孤立を守ることを極めて困難にした。
同じころ、世界の舞台に登場してきた国が今ひとつあった。それまで何世紀もの間、
日本は中世的な生活様式を送ってきていた。支配階級であったサムライは、土地を保有し、
その見返りに軍役についていた。
彼らの心構えである武士道は、必要とあらば自分の家と自分たちの階級のために死ぬよう
に、彼らに教えていた。
サムライ階級の指導者であった将軍が、日本の実際の支配者であった。天皇は尊敬された
ものの、無視されることが多かった。武士階級の下には、農・工・商の三階級が存在した。
工、つまり職人は明らかに必要であった。農民は、税としてお金のかわりに用いられた米
を育てるものとして、重要であった。金をもうける商人は軽蔑された。そして、これら三
階級の人々はすべて、刀を差したいかめしいサムライの前には、頭を下げたのである。
188世界@名無史さん:01/09/01 02:43 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国  ●日本より

 このような体制は、日本人が外国人に対して国を閉ざしていたために、いっそう堅固
にされた。200年以上にわたって、ほとんど誰も外国人は日本には入れなかったし、日本
人も国外に出られなかった。それ以前には、中国風の様式が模倣されたが、今では模倣す
る相手がいなくなり、生活はほとんど変化をなくしてしまった。造花のように、日本は
つねに美しいいっぽう、つねに同じままだった。その結果、1800年には日本人は技術的に
見て、トルコ人よりも後進的になってしまった。日本人の祖国は、アジアの沖合いに浮か
ぶ、孤独な美しい牢獄ともいえるべきものとなった。
189世界@名無史さん:01/09/01 02:44 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国  ●日本より

 眠れる森の美女は、彼女を愛する王子の接吻によって、息を吹き返した。しかし、
日本には、そのような快適な目ざめは訪れなかった。ロシア人(1804)・イギリス人
(1818)・アメリカ人(1853)がつぎつぎにやってきて、交易を求めたのである。

日本がそれを拒むと、彼らは戦争に訴えるという威嚇に出た。アメリカ人には、
日本が交易を拒み、外交関係の樹立を拒絶していることが、頑固でおろかな態度に思われ
た。1853年から53年にかけて、ペリー提督は、アメリカの艦隊の規模を拡大して、日本を
くり返し訪れた。

そしてしまいには、軍事行動に出るため、軍艦の準備を整えるよう命令するところまで
立ちいたった。中世に生きる人々が、近代的な大砲の銃口をながめなければならないこと
になったため、日本人としては、降参するほかなかった。
彼らの国は、銃口を突きつけられるなかで、「開国」したのである。
190世界@名無史さん:01/09/01 02:45 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国  ●日本より 

 すぐ隣の中国での状況は、開国の結果何が起こるかを、思慮深い日本人に示していた。
1840年から60年までの間に、中国の港の多くは、ヨーロッパ人の兵士や商人によって占拠
されてしまっていた。中国の法律は無視され、人々は侮辱され、皇帝の宮殿は焼かれたの
である。

日本は、中国より小さくはあったが、もっとよく組織された国であった。日本の戦争好き
のサムライたちは、このような取り扱いに激しく反発はしたものの、それに不平を並べた
てて時間を浪費しようとはしなかった。彼らは、西欧の優越性とは、船・鉄砲の質がよく、
よりよく訓練された軍隊を持っているという問題にほかならないことに、気づいた。

そこで、ヨーロッパの戦術を実験してみる試みが、多くのサムライによって始められた。
中には高炉を建設し、大砲の鋳造を開始するものもいた。日本最初の蒸気船は1855年に
進水した。その翌年には海軍が作られた。
1868年に将軍は倒され、新しい支配者である明治政府が、日本を19世紀の水準に引き
上げる仕事に乗り出した。

 
191世界@名無史さん:01/09/01 02:47 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国  ●日本より 

 その後の変化は目ざましいスピードで起こった。1873年には西暦(グレゴリー暦)
が、中国の太陰暦にかわって用いられるようになった。その7年後には、西洋式教育
制度が導入された。1890年には、君主の力を強調した、プロイセンをモデルとした
政府のスタイルが採択され、お金による納税が米による納税にとってかわった。

日本人はどこででも最善のものを捜し求め、目に入るものをまねていった。日本の
海軍をつくり上げたのはイギリス人であり、陸軍の再編成はドイツ人の手になった。
美しい日本の風景は、電信線や、鉄道・工場などが横切ることによって、傷つけら
れてしまった。

岩崎弥太郎のようなサムライは、三菱の造船所を建設したし、ほかにも、絹や
セメント・鉱山業などはじめたサムライたちもいた。政府は事業に着手し、ついで
それを私企業へと譲り渡していった。

こうした発展のための資金を得るべく、日本はできる限り輸出をおこなったが、
とりわけ繊維製品は重要な輸出品であった。

 
192世界@名無史さん:01/09/01 02:48 ID:zNmH8i7c
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国  ●日本より 

 日本が外国人をまねたのは、外国人を尊敬したからではなかった。彼らは、自分
たちをこれほどまでに手荒く扱った人々を打ち負かそうとして、外国人をまねたの
である。外国人専門家から十分に教わったとみるや、その専門家はすぐに送り返さ
れた。

その結果、日本は植民地にならず、新しい自国の力をすべて自国のコントロールの
下においておけた。力点は、戦争を思考する発展におかれた。
1894年には、日本は、28隻の近代的軍艦、十分に装備の整った造船所の一つ、速射
できる銃や魚雷をつくりうる機械とを備えたのである。国家予算の3分の1は、陸
海軍に費やされた。学校では、子供たちが軍国主義的な歌を習っていた。成人になる
と、男たちはみな兵役についた。天皇への絶対的服従が教え込まれることによって、
愛国心が助長された。

古くからの宗教・神道は、天皇が神の子孫であるとといていたため、力を盛り返した。
このようにして、サムライの戦う伝統が、国民全体に教えこまれたのである。

 
193世界@名無史さん:01/09/01 02:51 ID:grcnelSk
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国  ●日本より  

 こうした日本の身ごしらえの結果まず苦しむことになったのは、中国であった。
1894年に、この両国は、朝鮮の支配権をめぐって争った。その結果起こった短い戦争
で、日本の近代的な軍隊は、中国側をたやすく打ち破った。

朝鮮だけでなく、満州と中国の一部も、日本軍によって席捲されたのである。
首都の北京が脅かされそうになったとき、中国は降伏した。1895年の下関条約で、
日本は、台湾と遼東半島の旅順とを獲得した。朝鮮は、中国の勢力から独立するもの
と宣言された。

しかし、日本にとって以外であったのは、フランス、ロシア、ドイツの三国が、これら
の条項を承認することを拒絶したことである。とりわけロシアは、日本が満州地域に進
出してくるのに反発した。三国は、戦いに疲れた日本に強要して、旅順をロシアに与え
させた。この三国干渉は日本人を激しく怒らせた。日本人は、中国の領土を手に入れた
がっている当の人びとによって、獲得物を奪われたと考えたのである。これに対する彼
らの回答は、もっと軍艦を建造し、ロシアを片付ける機会を待つことであった。
194世界@名無史さん:01/09/01 02:56 ID:grcnelSk
続き〜(教科書:イギリス)  5 新しく生まれた二つの強国

 ●日露戦争

 ロシアの極東への拡張が続いたため、この機会と口実とは、すぐに生じた。たと
えば、1900年には、ロシアは満州全域に進出した。イギリスは驚愕し、これを一つの
理由として、日本との同盟に調印した。こうして、西洋の大国との対等な協力相手と
してはじめて認められた日本人にとって、この同盟は大勝利であった。日本は、満州
におけるロシアの権利のかわりに朝鮮における日本の権利を認めさせる取り決めをロ
シアに要求してもよいほど、自分たちは強大になったと、感じたのである。

しかしロシア人は、「ちっぽけなサル」と呼んでいた相手とこの問題を議論すること
を拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した。日本の反応は激しかった。1904年2月9日、
日本の駆逐艦が闇にまぎれて旅順港に入っていったとき、ロシア側は何の準備も整え
ていず、まるで平時のように船には燈がともっていた。また岸壁の大砲には、防護
カバーがかけられたままであった。日本側は、何の苦もなく、2隻の戦艦と1隻の巡
洋艦とを魚雷で沈めた。40年間の近代化の過程を経て、日本はここに強国の一つと
戦いに突入したのである。
195世界@名無史さん:01/09/02 00:38 ID:5ELXHsgI
続きまだですかぁ?
196世界@名無史さん:01/09/02 09:14 ID:WbmjhaxQ
訂正
>>186
 ×自体  ○事態
>>189
 ×1853年から53年にかけて  ○1853年から54年にかけて
>>192
 ×思考する  ○志向する
197世界@名無史さん:01/09/02 09:19 ID:WbmjhaxQ
イギリス〜〜、続きま〜す。

続き〜(>>181より 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
  5 新しく生まれた二つの強国

 ●日露戦争より

 実際、あらゆる点で有利であったのは、ロシアの「ゴリアテ」でなく、日本の
「ダヴィデ」のほうであった。制海権を手に入れれば、日本の軍隊は船に乗って戦場
にすみやかにおもむくことができたのに対し、ロシアの軍隊の移動は、荒野を横切る
8000kmにおよぶ陸路一つに頼らなければならなかった。この点の有利さはすぐに現実
のものとなった。日本の軍艦がロシア側を旅順港外で破り、日本の兵士はヤールー川
を越えて満州に攻めこんだのである。

制海権を握ったため、日本は他の軍隊を遼東半島に上陸させることも可能になった。
まもなく旅順自体が包囲されてしまった。ロシア側の立場は、これ以上悪くなりよう
がないところまできた。

ロシアの軍隊は、6週間にわたって家畜の通る道をたどってアジアを横切ってやって
来ており、彼らにとって戦争とは、家庭からの別離以外の何者でもなかった。士官の
中にさえ不満をいだくものがいた。

ある仕官は、「この戦争の目的、原因、それにそのやり方までもが、私には実にいや
に思われます」と家に書き送った。日本人のほうは、はるかに強い熱意をもって戦っ
た。彼らは西洋人を打ち負かしてやろうと決意していたのだった。
198世界@名無史さん:01/09/02 09:23 ID:WbmjhaxQ
続き〜(>>181より 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
  5 新しく生まれた二つの強国   ●日露戦争より


 秋には旅順も陥落し、ロシア軍は奉天に退かざるをえなくなった。それについで
やってきた冬は、厳しい寒さで、歩哨が持ち場で凍死してしまうほどであった。
激しい風が鋤で掘り起こしてある大地に吹くと、砂ほこりが雲のように舞い上がって、
太陽をおぼろにし、人々の目・鼻・のどに入り込み、銃を詰まらせた。このような荒地
では、車輪のついた車は動けなかったため、あらゆる装備は、馬や人間によって運ばれ
なければならなかった。

こうした恐ろしい状況のなかで、100万人にものぼる人びとが、長い戦いに従事した
のである。日中は、銃声がほぼ間断なく鳴り響いたし、夜になると、日本軍の突撃隊
が声も立てずに敵に襲いかかり、肉弾戦をいどもうとした。3ヶ月の後、勝利は日本軍
に帰した。
199世界@名無史さん:01/09/02 09:26 ID:WbmjhaxQ
続き〜 >>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
5 新しく生まれた二つの強国

 ●日露戦争より 

 ロシア側の最終的な惨劇は、海上で訪れた。戦争が勃発した当初、日本よりはるか
に強大だったロシアの海軍は世界中に散らばっていた。そのうち一艦隊はすでに日本
側に敗北していたし、黒海にいた艦隊は、ベルリン条約の取り決めで、黒海の外には
出られないことになっていた。

3つ目のバルティック艦隊は、戦場から17,000kmも離れたところにいた。絶望的な気分
になったロシア側は、このバルティック艦隊を、世界をぐるりと回って極東に送ること
に決めた。その途上のさまざまな地点における石炭の供給は、ドイツの一会社が引き
受けた。
200世界@名無史さん:01/09/02 09:28 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

5 新しく生まれた二つの強国  ●日露戦争より 

 この長い航海は、その出発点で危うく終わってしまいそうになった。英仏海峡を
南下中、イギリスの漁船の間を通りぬけた際、ロシア艦隊はそれを軍艦と見誤り、
発砲してしまったのである。実際の損害は軽微で、漁船1隻が沈められ、ロシアの
巡洋艦1隻が、自国の砲弾に当たっただけであったが、日本の人気が高かったイギリ
スでは、怒りの声が上げられた。それからしばらくの間、ロシア艦隊は、はるかに
強力なイギリス艦隊の尾行を受けた。しかし、幸いにも1発の砲弾も撃たれることは
なかった。その後は、石炭補給がロシア艦隊の悩みの種となった。

熱帯の気候のもとでも、水夫たちは呼吸を助けるために、くず綿の詰め物を口に入
れて働き、高い気温の中で、24時間もぶっつづけで重労働を行った。船は、主要な
武器の線が喫水線の下にくるまで石炭を積み、デッキの上にも石炭の山がつくられ
た。ロシア政府が2つ目の艦隊を送り、先の艦隊と一緒にすることを決定したため、
マダガスカルで、最大の遅れが生じた。

全艦隊が極東の海にたどり着いたときには、すでに1905年になっており、旅順は陥落
したあとであった。したがって、海上での勝利以外に、この長旅を報いあるものに
する方策はなかったのである。
201世界@名無史さん:01/09/02 09:30 ID:WbmjhaxQ
>>181より続き〜 (教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

 5 新しく生まれた二つの強国  ●日露戦争より


 1905年5月27日、疲れきったロシア艦隊は、対馬海峡で日本艦隊と遭遇した。
ロシア側の動きのにぶい船は、日本の近代的な戦艦の敵にはまずなり得なかった。
日本側司令官東郷提督は、砲火を1杯に開きつつ、ロシア艦隊のつくった線の頂点
を横切って進むことができた。このTの横棒を欠くやり方は、蒸気船の軍艦にとって
の最善の攻撃形態であり、勝利はほぼ確実であった。日本軍の砲弾は、ツァーの軍艦
を木っ端みじんに打ち砕いた。


たった1時間の間に、8隻のロシア戦艦が沈められた。東郷は、1798年のナイルに
おけるネルソンの勝利以来もっとも大々的な勝利を勝ち取ったのである。
202世界@名無史さん:01/09/02 09:31 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

5 新しく生まれた二つの強国  ●日露戦争より 

 陸・海軍がともに破れたロシアでは、1905年に革命が勃発した。ぺテルスブル
クのプチロフ鉄工場の労働者がストライキに入り、黒海の艦隊の水夫たちが反乱を起
こした。

1905年1月22日の日曜日には、15万人の人々が平和的に行進し、ツァーに
謁見を求めようとしたところ、兵士が情容赦もなく、彼らを打ち倒した。しかし、
この血の日曜日事件の結果、ツァーは国民に国会開設を申し出なければならなくなり、
また講和の必要性も納得するにいたった。

アメリカ政府の助力も得て、ニューハンプシャーのポーツマスで、講和条約が結ば
れた。これにより、日本は朝鮮での優先権を認められ、南カラフト(樺太)を与えら
れた。満州と遼東半島でもロシアの勢力には、終止符が打たれた。

しかし、ロシアは金銭的な補償を支払うことを拒絶した。ロシア側に戦費を支払わ
せたいと望んでいた日本人は、これに憤ったが、彼らも疲れきっており、それ以上
戦いを続けることはできなかった。
203世界@名無史さん:01/09/02 09:32 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

5 新しく生まれた二つの強国  ●日露戦争より  

 これらの勝利が日本人に及ぼした影響は、普仏戦争における勝利がドイツ人に
与えた影響に似ていた。40年間で、日本は、ヨーロッパの大国を打ち破れるところ
まで、近代化を成し遂げた。日本はたちまちのうちに海外領土を持つ帝国主義国と
なり、西欧に対するアジアの人々の明らかなチャンピオンとなったのである。

日本人は、偉大な未来を夢見はじめた。彼らは、これほどまでに成功をおさめた
軍隊を崇拝した。日本は、危険なムードで、20世紀に直面したといえよう。
ヨーロッパが目覚めさせたのは、美女ではなく、巨人だったのである。
204世界@名無史さん:01/09/02 09:44 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

5 新しく生まれた二つの強国  ●日露戦争より

 ●年表

1853(江戸時代:嘉永6年)   ペリー提督の日本訪問。

1868(明治1年)    明治政府、日本の近代化を開始。

1895(明治28年)    国、日本に敗れる。下関条約。三国干渉。
キューバ人、スペインによる支配に反抗。

1898(明治31年)    米西(アメリカ対スペイン)戦争。

1901(明治34年)    アメリカのパナマ介入。プラット修正。

1904〜05(明治37〜38年) 日露戦争。

1905(明治38年)    日露戦争の終結(ポーツマス条約)。第一次ロシア革命。

1914(大正3年)    パナマ運河完成。
《 ()和暦/転載者注》
 
205世界@名無史さん:01/09/02 10:59 ID:HyNxB6P.
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
5 新しく生まれた二つの強国  ●日露戦争より 

 ●さらに 研究しよう

 日本とアメリカあのその後の歴史について第9,10,14,19,21,23,27を参照
 しなさい。

1.39ページに乗っているニューヨーク・ジャーナル紙の1898年2月17日号の一面を
  見て、次の問いに答えなさい。
a) メーン号が事故で爆破したのではないとすると、それを爆破した可能性が最も
   強いのは誰であると思うか。
b) 新聞の経営者は、この記事でアメリカ国民にどういう影響を与えたいと思った
   のだろうか。
c) 新聞の経営者、ウィリアム=ランドルフ=ハーストは、その目的を達したか。

2.1898年の米西戦争は、世界におけるアメリカ合衆国の役割をどのように変えたか。

3.次のそれぞれについて短い説明を加えなさい

a) パナマ運河          b) 日本の近代化(1850〜1905年)

b) 下関条約(1895年) d) 日露戦争(1904〜05年)
206世界@名無史さん:01/09/02 12:51 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

15 帝国から連邦へ  ●1900年以降のイギリス帝国 インド より

(抜粋)

 第二次世界大戦では、日本がビルマを攻撃したために、インドはより深く戦争に
巻き込まれることになった。1914年から18年にかけての戦争の際と同様、インド兵
は世界中でよく戦ったが、彼らの最大の努力は日本相手に注がれ、コヒマでは、日
本軍を破る助けとなった。

国内では、平和主義者のガンディーが、イギリスに対して「インドを立ち去れ」運動
を展開し、ネルーとヒンドゥー教徒の国民会議派は、ただちに独立が与えられなかっ
たために、戦争協力を拒絶した。戦争に勝利してまもなく、イギリスの労働党内閣は、
インドに自由を与えることを決めた。
207世界@名無史さん:01/09/02 12:53 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)

19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941

アメリカの目覚め  ●真珠湾  ●年表  ●さらに研究しよう

  =========================================================

19 ●真珠湾への道

   極東 1917〜1941

  アメリカ合衆国は、ヨーロッパにおける混乱のすべてから、どうにか孤立を保って
おくことができた。ヴェルサイユ条約への調印を拒んだアメリカが、ドイツと講和を結
んだのは、1920年のことであった。

ハーディング大統領は、国際連盟について、「横の戸口からであれ、裏口からであれ、
地下室の入り口からであれ」それに入るつもりはないと述べた。アメリカ人の大部分は、
この態度を恐れるどころか、喜ばしく思っていた。

彼らは、そもそも第一次世界大戦に参戦したこと自体が、ばかげた行為であったと考え
ていたのである。大戦は結局自分たちの戦いではなく、アメリカは多大の損失をこうむ
っただけで、領土も獲得してはいなかった。戦争が終わってみると、アメリカには巨額
の貸付金が残ったが、連合国の大部分には、それを返済する能力も、意思もなかった。
多くのアメリカ人はこの状態に幻滅し、二度とこうしたことに巻き込まれまいと、決意
していた。
208世界@名無史さん:01/09/02 12:53 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 より

  ヨーロッパについては、この政策は、近視眼的であったといえるが、極東に適用さ
れた場合には、悲惨な結果を招くもととなった。日本の人口は、近代化が開始されて以
来、着実に増大してきていた。1852年には1,700万人であった人口が、1910年には4,900
万人になり、その30年後には、7,200万人にも達していたのである。

しかし,日本はアメリカのカリフォルニア州よりも小さな国で、作物を育てることのでき
ない山岳地帯が多く存在していた。そこで日本の指導者たちは、近隣のアジア地域の中で
比較的人間の住んでいない地域に,国民を移住させる必要があると感じていた。日清・日
露両戦争における征服行動の背後には、こうした衝動がひそんでいた。

この動きは、第一次世界大戦中,ヨーロッパ諸国からの競合状態がなくなったことによっ
て推進された。日本は商船トン数を2,100トンから3,100万トンにふやし、安い商品、とり
わけ繊維製品を世界中に氾濫させた。また日本は中国を脅して、21か条要求を受け入れさ
せた。それは中国を日本の衛星国にしてしまうものといってもよい内容であった。
209世界@名無史さん:01/09/02 12:54 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 より 

  アメリカ合衆国の歴代政府は,二通りのやり方で日本の力と影響力を抑えようとした。
まず第一に,アメリカは中国が21か条要求を無視すべきだと主張し、中国における門戸解放
が、友好諸国のすべてに対して実施されなければならないと強調した。

日本はこれを迷惑に思ったが、アメリカには強力な海軍があったし、中国は同盟国である
と考えられていたから、譲歩を行った。第二に、アメリカは、日本の海軍力が驚異的な
スピードでのびていくのを制限しようとした。

1921年のワシントン海軍軍縮会議において、日本は戦艦のトン数を制限するよう、説得
された。それ以降、各国戦艦の比率は、イギリス、アメリカの5に対して、日本は3に抑
えられることになったのである。

いっぽうイギリスも,1902年の日米同盟締結の理由となった状況、つまりドイツとの建艦
競争が存在しなくなった以上、この同盟をやっかいに感じるようになっていた。そこで
イギリスは,日英同盟にかえて四ヶ国条約ができるのを喜んだ。

この条約によって、英、米、日、仏の4カ国は、太平洋・極東地域における互いの権利
を尊重することを、約束した。その後でつくられた9カ国条約では、中国に利害関係を有
するオランダなどの他の小国も加わって、侵略に対して中国を守ることを保証した。
210世界@名無史さん:01/09/02 12:55 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 より  

  しかし、これらの取り決めはどれをとっても、日本の庶民の間では人気がなかった。
戦後のイタリア人と同様、彼らも、戦時中の同盟者によって欺かれ、当然もらえるべき
報酬を奪われたと感じたのである。

アメリカ合衆国との関係で言えば、1921年のジョンソン法によって、アメリカの日本移民
受け入れが停止されたことにより、日本側の不満は高まった。この不満は、ヨーロッパ諸
国のいくつかが、日本製品に対して輸入関税を課したことで、もっと一般的な反西欧感情
へと広がっていった。

こうした感情が強まっていくなかで、日本の陸海軍の指導者たちは、国内において生まれ
たばかりの民主主義の基盤を、しだいに掘りくずしていった。さまざまな将校グループや
秘密結社の影響も、国民をさらに攻撃的にしていくために用いられた。

このような人々にとって、中国が弱体であることは、絶好のチャンスであると思われた。
こうしたチャンスがいつまでも存在するわけはないから、中国が脅威となる以前に、今
すぐ中国を撃つべきだ、と彼らは論じた。
211世界@名無史さん:01/09/02 12:55 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 より 

  このような見解をもっとも強くいだいていたのは、満州にいた将軍たちであった。
満州では、日本の軍人と実業化が手を携えて、鉱山の開発、鉄道建設に働いていた。

彼らには、満州のほかの部分や、中国自体の富が、きわめて魅力的に映っていた。本国
から遠く離れたところにいた彼らは、日本政府にほとんど注意を払わなかった。たとえば
1928年、彼らの手先が全面的な戦争を引き起こそうとして、中国側の一人の首領を殺害
した。

しかし東京の政府は彼らを支持せず、この計画は失敗に終わった。ついで1931年、中国の
注意が大洪水のためにそれていて、ヨーロッパとアメリカの関心も経済的困難に向けられ
ている最中に、関東州にいた日本軍が奉天近くの鉄道を破壊する手はずを整え、それを
実行した。

この事件の責任は中国側に帰せられ、軍隊をさらに満州の奥地まで送り込むうえでの口実
とされた。しばらくすると、中国の都市、上海も、日本軍の爆撃にさらされ、これを止め
ようとする本国政府の指令は無視された。
212世界@名無史さん:01/09/02 13:08 ID:WbmjhaxQ
>>211  ( 教科書:イギリス)
>このような見解をもっとも強くいだいていたのは、満州にいた将軍たちであった。
>満州では、日本の軍人と実業化が手を携えて、鉱山の開発、鉄道建設に働いていた。

>本国から遠く離れたところにいた彼らは、日本政府にほとんど注意を払わなかった。
>たとえば1928年、彼らの手先が全面的な戦争を引き起こそうとして、中国側の一人
>の首領を殺害した。

>しかし東京の政府は彼らを支持せず、この計画は失敗に終わった。ついで1931年、
>中国の注意が大洪水のためにそれていて、ヨーロッパとアメリカの関心も経済的
>困難に向けられている最中に、関東州にいた日本軍が奉天近くの鉄道を破壊する
>手はずを整え、それを実行した。

>この事件の責任は中国側に帰せられ、軍隊をさらに満州の奥地まで送り込むうえで
>の口実とされた。

イギリス歴史教科書の途中ですが、この、
  <1928年、彼らの手先が全面的な戦争を引き起こそうとして、
   中国側の一人の首領を殺害した。>
という事件の記述ですが、日本の教科書のほうも一応載せておきます。
(話題の、扶桑社からです(笑))
213世界@名無史さん:01/09/02 13:09 ID:WbmjhaxQ
(教科書:日本) 新しい歴史教科書  扶桑社より(2001年初版)

 64  協調外交の挫折と軍部の台頭   高まる軍部への期待より

1930年、ロンドンで補助艦の制限を議題とする海軍軍縮会議が開催された。(ロンドン
軍縮会議)。日本の海軍は英米10に対して7の補助艦比率を強く望んだが、政府は英米
との協調に努めて、結局は10対6.975の比率を受け入れた。

一部の軍人や、それに同調した野党政治家は、比率が要求を下回ったため、明治憲法に
定められた天皇の統帥権をおかしたとして政府をはげしく攻撃した。(統帥権干犯
《かんぱん》問題)。浜口雄幸首相は暴漢におそわれて重傷をおった。

軍人が政治に介入することは明治憲法に違反し、軍人直喩(1882年-明治15年-、明治天
皇が軍人与えた教え)でも戒められていた。しかし、経済不況による社会不安を背景に、
中国における排日運動と満州権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満か
ら、政府とは別に、軍の中に独自に政策を論じ実行しようとする考えを持った中堅将校
のグループが形成された。
軍部の政治的発言権を強めようとする動きも出て、国民の次第に軍部に期待を寄せるよ
うになった。

 民間でも三権分立の明治憲法体制を否定して、国家改造と軍部独裁を実現しようとす
る北一輝らの理論活動も活発になっていった。また国民の中にも、政党政治への不満が
高まっていった。
214世界@名無史さん:01/09/02 13:11 ID:WbmjhaxQ
(教科書:日本) 新しい歴史教科書  扶桑社より(2001年初版)

 64  協調外交の挫折と軍部の台頭   事変前夜の満州

日露戦争の勝利によって、日本は満州南部の関東州を租借し、ロシアから南満州鉄道
(満鉄)の営業権をゆずり受けた。

 昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいた。その保護と関東州
および満鉄を警備するため,1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。関東軍が,満州
の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動
も激しくなり,列車妨害などが頻発した。

さらに日本にとって、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力も及んできた。
こうした中で、石原莞爾(いしはらかんじ)ら関東軍の一部将校は、全満州を軍事占領
して問題を解決する計画を練り始めた。
215世界@名無史さん:01/09/02 13:23 ID:HyNxB6P.
(教科書:日本) 新しい歴史教科書  扶桑社より(2001年初版)

 64  協調外交の挫折と軍部の台頭  仕組まれた柳条湖(りゅうじょうこ)事件

 1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の○陽/○:さんずいに審)
郊外の柳条湖で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして、
ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍みずから爆破したものだった。
(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。

 満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍が
おこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍はこれを無視
して戦線を拡大し、全満州を占領した。これは国家の秩序を破壊する行動だった。

 ところが、政党政治への不信を強め、政府の弱腰な外交方針に不満をつのらせていた
国民の中からは関東軍の行動を熱烈に支持するものもあらわれ、りくぐんには220万円
の支援金が寄せられた。1932(昭和7)年、関東軍は満州国建国を宣言し、のちに清朝
最大の皇帝であった溥儀を満州国皇帝の地位につけた。
216世界@名無史さん:01/09/02 13:27 ID:HyNxB6P.
(教科書:日本) 新しい歴史教科書  扶桑社より(2001年初版)

 64  協調外交の挫折と軍部の台頭   満州事変を世界はどう見たか

 1932(昭和7)年、満州国の承認に消極的だった政友会の犬養毅首相は、海軍将校の
一団によって暗殺された(五・一五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わり
を告げ、その後は世論の支持のもと、軍人や役人を中心とした内閣が任命されるように
なった。

 アメリカをはじめ各国は、満州事変をおこした日本を非難した。国際連盟は満州に
イギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告書
は、満州における不法行為によって日本の安全が脅かされていることは認め、満州に
おける日本の権益を承認した。

一方で、報告書は、満州事変における日本軍の行動を自衛行為とは認めず、日本軍の撤兵
と満州の国際管理を勧告した。日本政府はこれを拒否して満州国を承認し、1933(昭和8)年、
国際連盟脱退を通告した。

 満州事変は、日中間の対立を深めたが、その後、停戦協定が結ばれ、両国の関係はやや
改善された。満州国は、五族共和、王道楽土建設などをスローガンに、日本の重工業の進出
などにより経済成長を遂げ、中国人などの著しい人口の流入があった。しかし実際には、
満州国の実験は関東軍がにぎっており、抗日運動も起った。
217世界@名無史さん:01/09/02 13:29 ID:HyNxB6P.
(教科書:日本) 新しい歴史教科書  扶桑社より(2001年初版)

 64  協調外交の挫折と軍部の台頭   ・南京でおこった外国人襲撃事件

 蒋介石による国内統一戦の途上、1927(昭和2)年3月、南京を占領した国民党軍の
兵士が、英・米・日各国の領事館とキリスト教会をおそい、居留民に暴行・略奪をはた
らき、死者を出した。

 英米両国は武力で反撃したが、日本幣原(しではら)外相の方針で英国の出兵要請を
拒絶し、かたく無抵抗を守った。領事館に派遣された荒木亀雄大尉は、命令を守って無抵抗
を貫いたが、釈放されてから、軍人としての名誉が損なわれたとして割腹自殺をはかった。
これを南京事件という(1937-昭和12年-年の同名の事件と区別して第一次南京事件と
よぶこともある)
218世界@名無史さん:01/09/02 13:55 ID:CUKU6M12
イギリスの教科書の記述詳しいですね。
事実誤認も多少ありますが、日本のよりずっと詳しい。
219世界@名無史さん:01/09/02 14:09 ID:WbmjhaxQ
西暦と和暦の対照表。


1853年(江戸時代:嘉永6年)ペリー来航
1854年(江戸時代:安政1年)日米和親条約
1855年(江戸時代:安政2年)
1856年(江戸時代:安政3年)
1857年(江戸時代:安政4年)
1858年(江戸時代:安政5年)
1859年(江戸時代:安政6年)
1860年(江戸時代:万延1年)桜田門外の変
1861年(江戸時代:文久1年)
1862年(江戸時代:文久2年)
1963年(江戸時代:文久3年)
1964年(江戸時代:元治1年)
1865年(江戸時代:慶応1年)
1866年(江戸時代:慶応2年)
1867年(江戸時代:慶応3年)
220世界@名無史さん:01/09/02 14:11 ID:WbmjhaxQ
西暦と和暦の対照表。

1868年(明治時代:明治1年)  戊辰戦争はじまる 江戸、東京と改称
1877年(明治時代:明治10年) 西南戦争 立志社社建白
1887年(明治時代:明治20年)
1897年(明治時代:明治30年) 金本位制確立
1911年(明治時代:明治44年) 日米新通商航海条約(関税自主権の回復)

1912年(大正時代:大正1年)  第一次護憲運動
1916年(大正時代:大正5年)
1921年(大正時代:大正10年) ワシントン会議に参加
1925年(大正時代:大正14年) 治安維持法成立 (T12年関東大震災)

1926年(昭和時代:昭和1年)
1930年(昭和時代:昭和5年)  大恐慌(昭和恐慌)翌年東北地方凶作
1935年(昭和時代:昭和10年)
1940年(昭和時代:昭和15年) 日独伊三国軍事同盟
1945年(昭和時代:昭和20年) 原爆投下 終戦
1950年(昭和時代:昭和25年)
1955年(昭和時代:昭和30年)
221世界@名無史さん:01/09/02 14:29 ID:WbmjhaxQ
>>218
詳しいですね。事実誤認の部分どちらになるでしょう。
書いていただけると助かります。全体的に親日的な感じを受けた
のですが、事実と異なるところありますか?
(細かいところまで照らし合わせていなかったので、できたら
 教えてくださいませ)
222世界@名無史さん:01/09/02 14:31 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 より 

  満州侵略は、日中両国ともに国際連盟の加盟国であったところから、国際連盟に
とっての最初の真の試練の場となった。これが日本による侵略というケースであること
は、明らかだった。

しかし、残念なことに、国際連盟がやったことといえば、日本の行動を非難し、戦い
を「調査する」ための委員会を送ることだけだった。アメリカ合衆国とソ連は国際連盟
に加入していなかったし、イギリスには単独で行動するつもりがなかったから、中国の
運命は決まってしまった。

関東軍に関する限り九か国条約は何の価値もない一枚の紙切れに過ぎなかったのである。
関東軍は進撃を続け、1932年には、満州国と呼ばれる傀儡(かいらい)国家が、満州で
樹立された。日本区内では、この動きを支持する人々が内閣を倒し、首相を殺害した。

満州での成功に勇気づけられ、軍指導部が、軍部独裁を目指しているのは、明白であっ
た。ラインラント進駐のあった1936年と同様、1931年も、将来戦争が起こることがほぼ
確実になった年であった。
223世界@名無史さん:01/09/02 14:32 ID:WbmjhaxQ
続き〜>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 より 

  1930年代を通じて、日本の侵略は徐々に拡大していった。日本は西欧諸国に対する
聖戦の相棒として、中国を必要としていた。中国が日本と手を組むことを拒絶すると、
日本はついに中国に対する全面的な侵略を開始した。1937年7月7日、北京近郊のロ溝橋
(ろこうきょう)で、日本軍と中国軍の間の衝突が発生した。

この事件について中国側が謝罪したにもかかわらず、またそもそも日本軍がその地域に
いる権利はなかったにもかかわらず、このことは徹底的な攻撃を加えるための口実に使
われた。

日本本土では、この成り行きを心配している軍指導者もなかにはいた。日本軍が中国に
深入りしている間にソ連が満州に攻撃を加えてきたらどうなるだろうかと、彼らは考え
たのである。

しかしそれでも、結局現地の軍部の意見が通った。中国側は激しく反撃したが、うまく
いかなかった。一年も経たないうちに、中国の人口の多い地域は日本側の手に落ちてし
まい、中国国民政府は重慶に退かねばならなくなった。山に囲まれ、速い流れの揚子江
に守られたこの地において、中国政府は日本への挑戦をつづけることができたのである。
224世界@名無史さん:01/09/02 15:06 ID:WbmjhaxQ
真珠湾への道  極東1917〜1941  途中ですが、続きはまた次回です。
225世界@名無史さん:01/09/02 15:21 ID:hTMWjSAo
>>221
≫1852年には1,700万人であった人口が
この人口は明らかな間違いですね。
日本の戦国期でさえ、これ以上の人口があったとされています。
この時期ならば、2500万〜3000万人近くいたでしょう。
石高からの割り出しですから、あくまで大体です。
その後の人口は、ほぼ合っています。
日本史板でこの事が討議されてます。≫宣伝≪

後他にも判断が分かれる所も有りますが、そういう風にも解釈できるから問題無いです。
余り突っ込むと荒れるかもしれないので、止めときます。
続き期待してます。
226vb:01/09/02 15:23 ID:e6yV60RQ
227世界@名無史さん:01/09/02 15:25 ID:hTMWjSAo
≫日本史板でこの事が討議されてます。≫宣伝≪

ここです↓

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=998148542&ls=50
228世界@名無史さん:01/09/02 16:32 ID:WbmjhaxQ
>>225さん、教えていただいてよかったです。。
あ、の、、

間違えてしまった、、ようなんです、、(アセ;;;

>>208
1852年には1,700万人であった人口が、1910年には4,900
万人になり、その30年後には、7,200万人にも達していたのである。

とありますが、×1,700万人  ○2,700万人 でした。
タイプの間違いでした。(何か他も大丈夫か、、と急に心配に、、)
読み返すと、誤字があるので、気が付いたときに直すようにして
いたのですが、これは、、ごめんなさい。。(アセ;
他にないか、後で読み返してみます。確か、3000万くらいが
7000万くらいに増えて、食料が足りなくなって・・・というような
記憶だったので、アレレ??と思ったら、、なんと、、

他にも、ありゃ?と思うところなどがあったら、教えてください。
229世界@名無史さん:01/09/02 16:42 ID:WbmjhaxQ
>≫日本史板でこの事が討議されてます。≫宣伝≪
>ここです↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=998148542&ls=50

日本の昔からの人口のこと、討議されていますね。
こちらのスレことが、わかる前で、よかった (>д<)アセ;;;
とりあえず、もう一度読み直してみます。誤字修正せねば、、ねばねば。。
230229:01/09/02 16:44 ID:WbmjhaxQ
また、きます。それでは。。(ぺこり)
231世界@名無史さん:01/09/02 17:53 ID:hIqDcnBg
>>228
そんなに卑屈にならずとも。
私なんか、10回に一回は間違えていますよ。

確かヨーロッパの教科書、は日本の何倍もの厚さがあると聞いたんですが、
どのくらいのページ数ありますか?
教科書は厚いけど、全部教えなくともOKだと聞きました。
その辺の情報ご存知無いですか?

日本に比べたら歴史が短いので、内容がかなり濃くなるのでしょうかね。
それを差し引いても、かなり詳しい。
中国や朝鮮などの教科書は、自称4、5千年の歴史を誇るはずなのに、
日本の事意外大して書いていない、(確か4分の1は日本からの被害の記述)
ページ数も日本の教科書よりも少ない。
地球の反対側の教科書を、日中韓で使えばいいと思ったほどです。
続きを禿げしく希望します!
232世界的@名無し:01/09/03 01:03 ID:Ki7g3w3g
ここ、楽しいです。載せてる皆さん頑張って下さい。応援してます。
学問的探究欲age!!
233世界@名無史さん:01/09/04 01:39 ID:UiY.Kmxs
いつもありがとうございます。続きを楽しみにしています。
234世界@名無史さん:01/09/07 01:13
揚げ
235世界@名無史さん:01/09/07 03:00
時間を忘れて読み込んでしまいました。
4時間後には仕事に行かなきゃいけないのに。
少し怨むよ。
でも楽しかった。
続き楽しみにしてます。
236age:01/09/08 22:25
age
237世界@名無史さん:01/09/12 04:19
続き待望上げ。
238世界@名無史さん:01/09/14 21:44
期待上げ
239世界@名無史さん:01/09/21 10:31
まだかなまだかなage
240世界@名無史さん:01/09/21 15:30
AG
241欧州の教科書って:01/09/21 17:22
国家予算投じて作っているんでしょ?
だれかが日本の教科書は金が全然かかってないんだゴルァみたいなこと言ってたし。
242K:01/09/22 00:12
KKK
243世界@名無史さん:01/09/24 17:32
age
244世界史の漂流者:01/09/24 19:58
興味深かったです、感謝。
245世界@名無史さん:01/09/24 20:17
http://www.isei.or.jp/japanese/America.html
History of the United States, volume 2 : Civil War to the Present
 日本の陸軍大臣東条英機は、合衆国との戦争は避けられないと考えた。
彼は、合衆国軍が行動する前に、先制攻撃を行うべきだと主張した。
1941年秋、日本は、ワシントンでの会談を続ける一方で、戦争の準備を
していた。(しかし、)アメリカの専門家が日本の暗号を解読していたと
いうことを日本人は知らなかった。合衆国は、日本の無線通信を盗聴し、
日本の戦争の準備をしていることを知っていた。しかし、来るべき攻撃の
正確な時刻と場所は不明のままだった。・・・中略・・・
・・・何年か後に、ジーン・ラロック提督はその日の朝のことを回想している。
最初、私は合衆国の陸軍空挺部隊が誤って我々を爆撃しているのかと思いました。
我々は、それほど思い上がっており、うぬぼれが強く、日本の力について無知でした。
・・・・・・彼らがいかに優秀かを理解するに長い時間がかかりました。
American Voices: A History of the United States
日本軍は、最初の6ヶ月間連戦連勝だった
・・・前略・・・
 連合国軍は、戦争の初めの6カ月間は、日本軍が見せた冷酷さに驚かされた。
日本の戦争マシンは、ドイツの電撃的集中攻撃を思い出させ、たちまちグアム、
ウェーク島、香港、タイ、マラヤ、ビルマ、シンガポール、フィリピン、
オランダ領東インドを攻略した。日本軍は、軍艦を1隻も失わずにこの
勝利を収めており、最も恐るべき敵となり得る証拠を十分に示した。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~jon/adv96/group1/US.html
246 :01/09/24 21:01
イギリスの教科書面白いなあ。
「美女」とか「トルコ人よりも後進的」(いいのかこんなん^^;)とか。
247世界@名無史さん:01/09/27 04:33
あげ
248世界@名無史さん:01/09/27 13:46
あげ続けてくれてる人には悪いけど続編はないよ
249世界@名無史さん:01/09/28 00:54
あります。あります。<続き 遅くなりました。
調べてみたら、たくさんあって何から書こうか迷いました。
お待たせしましたぁ。

まず、このご質問ですが、
>確かヨーロッパの教科書、は日本の何倍もの厚さがあると聞いたんですが、
どのくらいのページ数ありますか?

邦訳の本のページ数をそのまま比べてみました。邦訳にはそれぞれ「訳者まえがき」
や「各国の教育事情」などのページ分が5,6ページから15ページほどありますので
その分は引いてください。大体の量として比較して頂けるように邦訳の出ているもの
のページ数をそのまま載せました。
だいたいの量の比較にはなります。地域別に、多い順です。
(邦訳は帝国書院、ほるぷ出版より)

(ヨーロッパより)
イギリス   (全5巻)合計 1340ページ (11歳から16歳向け)
ソヴェト連邦 (全4巻)合計 1210ページ (ほぼ中学2年から高校2年)
フランス   (全4巻)合計  971ページ (11歳から15歳向け)
イタリア   (全3巻)合計  915ページ (中学校3年間)
西ドイツ   (全4巻)合計  787ページ (11歳から16歳用)
ポルトガル  (全3巻)合計  675ページ (中等普通学校12歳〜15歳)
スペイン   (全1巻)合計  397ページ

(アフリカより)
ナイジェリア (全1巻)合計  230ページ
(中央アジアより)
イスラエル  (全2巻)合計  798ページ
トルコ    (全3巻)合計  790ページ
エジプト   (全1巻)合計  317ページ

(アメリカ大陸より)
アメリカ合衆国(全2巻)合計  766ページ
メキシコ    (全1巻)合計 383ページ
ブラジル   (全1巻)合計  326ページ

(東、東南アジアより)
中国     (全2巻)合計  537ページ
韓国     (全1巻)合計  264ページ (高等学校 上下2巻)
インドネシア (全1巻)合計  173ページ

日本    ・小学校6年上(上下巻の上)118ページ(5社平均)
      ・中学校 歴史分野(全1巻)307ページ(6社平均)
      ・高校  日本史B(全1巻)378ページ(2社平均)
           世界史B(全1巻)353ページ(2社平均)

、∴日本の教科書は、小学校、中学校、高等学校でそれぞれ
  原始時代から現代までを扱っていて、時代は連続していません。
 
251世界@名無史さん:01/09/28 01:00
>教科書は厚いけど、全部教えなくともOKだと聞きました。
その辺の情報ご存知無いですか?

以下「」は、上記の邦訳(帝国書院)の「訳者まえがき」と「イギリスの教育
事情」からです。イギリスの歴史教育は、現場の先生に大きな自由裁量が与えら
れた授業内容のようです。自主的に自由に研究するような方法で、あまり教科書
にとらわれず他にも多くの補助教材なども使うようですね。

「わが国の中学校の社会科教科書や高等学校の日本史・世界史の教科書を見慣れた
ものに最初圧倒的な印象を与えるのは、B5版全5巻計1318ページという分量の大
きさであろう。しかしながらここで考慮に入れなければならないのは、中等教育
制度とそこにおける歴史教育には、イギリスとわが国において決定的な違いがあ
ることである。」

「イギリスの中等教育制度は複雑な構成をとっており、全国統一の学習指導要領
もなければ、教科書の検閲制度も存在せず、地方教育当局と学校そのものに広汎
な自主性が認められている」
                               
「日本のように、全生徒に同じ教科書を与えてその内容を教えるという方法では
なくて、生徒に多くの書物などの補助教材を与えて、個人であれ、グループであ
れ自主的な学習を進めさせる傾向が強い」

「文部省はじめとするいかなる教育行政機関も学校の教育内容や教育方法につい
て規制する権限を持っていない。決定を下すのは現場で教育を担当する校長・
科目主任である」

「教室で教えられる『歴史』の地域・時代・内容となるとまことに多種多様で
あって、年代を追わないこともまた特定の時代や地域だけを深く突っ込んで学習
することも可能であり、わが国のいわゆる『主題学習』形式でカリキュラムが
組まれることもある」

つまり、とても自由に教えることのできる制度のようです。教材も、
『主題学習』など研究のための材料として使われているようですね。
252世界@名無史さん:01/09/28 01:03
待ってました!
>>249
流石凄い。
恐ろしいほどのページ数。
全部教えるわけではないけど、やっぱり凄いですね。
日本もこのくらい厚くしたら良いのに、別で本買わなくても、
これ一冊で、5冊分はありますからね。
253世界@名無史さん:01/09/28 01:14
イギリスが今まで見た中では一番量が多いかもしれません。
旧ソヴィエトなども結構多くて、しかも近代史が特に・・
スペインは絵はとても綺麗ですが量は少ないですね。

中国は第2巻はアヘン戦争からでした。1巻はアヘン戦争前、
2巻はアヘン戦争後、でした。中国にとってアヘン戦争とは
手痛い近代史への幕開けとなった重要な事件だったと思いました
が、イギリスにその記述があるかな?と思って探しているのですが
まだ、見つかっていないんです。(いや、どっかにあるはずだ、、
きっと、、どこかに、、えっ? まさかないなんて?・・・
まだ探している最中です。)
254世界@名無史さん:01/09/28 01:15
>>253
私が聞いた話だとないという事です。
255世界@名無史さん:01/09/28 01:23
あ、ども〜(・e・)/

ポルトガルのことを書いてくださっていた方がいらっしゃいましたが
あれこれ見ているうちに、ポルトガルに支配されていたブラジル、
というほうをぱらぱらめくって、ちょっと、インカ帝国の人達でしたっけ?
つまりインディアン系の人たちの書かれ様に、チト泪が。。
後で機会があったら紹介できるかも、です。
でも、民族の誇りって、教科書によってすごく大きく傷ついてしまうと思いました。
はっきり言って、かわいそう、でした。ほるぷ出版です。知りたい方は
どうぞ読んでください。
256>アヘン戦争の記述:01/09/28 01:28
うん。ないかもしれない。
イギリスの教科書おもしろいし、フランスとかはうっとりしちゃったり
するから、こういうところで「アイコクシン?」とか育っちゃうのかも
しんない〜などと思いますが、大英帝国万歳的な内容には批判もある
らしいことが解説に書かれていました。(^_^)でも、イギリスの
教科書で勉強するイギリス人って、自分が好きになれるのかもしれない、
ですね。
257世界@名無史さん:01/09/28 01:31
以前、管直人さん(国会議員の)が、教育のことについて聞かれたときに、
日本で歴史の授業が大嫌いだった女の子が、イギリスへ行って授業を受けて
歴史が大好きになった、というようなお話をしていました。

その子の受けたイギリスでの授業は、一学期を通じて、たった1つのテーマ
「第二次世界大戦はなぜ起こったか」ということについて、喧喧諤諤の討論
を続ける、ということをしていたそうです。一学期間、たった1つのテーマを
クラス中でいろいろな意見を言いあいながら徹底的に討論するということで
した。確かに、きっとそのような授業だったら大変おもしろいと思いました。

海外で学習した方の体験談などあったら、教えてください。
日本とは違うでしょうか?どのような点が違うのでしょうか。
258世界@名無史さん:01/09/28 01:33
歴史学習の各国のスケジュール
(邦訳を見て大体分けてみたものです)

西ドイツでは
第1巻(155p) 旧石器時代からAD800年くらいまで(11歳〜12歳)
第2巻(196p) 500年位から1795年くらいまで  (13歳)
第3巻(195p) 1600年位から1871年くらいまで  (14歳)
第4巻(241p) 1871年から1973年くらいまで   (15歳〜16歳)

イギリスでは
第1巻(199p) BC5500〜A.D.410位まで    (11歳) 
第2巻(198p) A.D.400年頃〜1337、1431年  (12歳)
第3巻(248p) 1453年〜1714年        (13歳)
第4巻(335p) 1700年〜1975年        (14歳)
第5巻(360p) 1870年〜1979年        (15歳)
 (イギリスの教育現場はそれぞれ多様性の支配するものである
  ため、この構成内容はあくまでも一モデルであるとのこと)

フランスでは
第1巻(209p) B.C.500000〜476年       (小学6年生)
第2巻(211p) 5世紀〜13世紀        (中学1年生)
第3巻(259p) 13世紀〜18世紀        (中学2年生)
第4巻(292p) 1789〜1970年位まで      (中学3年生)
259世界@名無史さん:01/09/28 01:35
イタリアでは
第1巻(287p) 先史時代〜750年位まで     (中学1年生)
第2巻(320p) 756年〜1783年位        (中学2年生)
第3巻(308p) 1815年〜1969年位       (中学3年生)

日本では
小学校6年上 邪馬台国〜黒船、第一、二次世界大戦、戦後の世界(12歳半年間)
中学校?年 文明のおこり〜近代日本,大戦,現代の日本と世界(1年間)
高等学校?年(日本史B) 文明のおこり〜近代国家,戦後の世界と日本(1年間)
高等学校?年(世界史B) 〜帝国主義、2つの大戦、21世紀を展望して(1年間)

  ※中学校では歴史は何年生で習うことになっているのかよくわかり
  ませんでした。中学社会としては、「公民・地理・歴史」の3冊
  があるようです。ただ、それぞれを第何学年に教えているのか、
  それとも選択性などになっているのかなどはわかりませんでした。
  ご存知の方がいらしたら、どうぞ教えてください。

  ※高等学校は、理系コースの人は、歴史を選択しなくてもよかった
   でしょうか。また文系でも、世界史か日本史かどちらか1つ取れば
   よかったかもしれません。よくわかりません。現役の高校生がいら
   したら教えてください。
260世界@名無史さん:01/09/28 02:13
歴史教育の流れ

     11歳==⇒12歳==⇒13歳==⇒14歳==⇒15歳==⇒

イギリス BC5500〜 AD400〜  1453〜  1700〜  1870〜
フランス      BC500000  5世紀〜  16世紀〜 1789〜
西ドイツ 旧石器時代      500〜   1600〜  1871〜
日本   なし   全部(半年) なし   なし   全部 

  (※日本にて中学で歴史分野を扱うのが仮に中学3年である
    としておきました。3つの分野-公民・地理・歴史-を
    1年づつだと思いますので、1、2、3年のどれかだと思い
    ましたが、よくわかりませんでした。ご存知の方は
    いますか?)



日本の場合には、小学校6年の前期に学んだ日本通史概略のようなもの
(上:半年間)が終った後、後期(下)には、選挙や政治人権や外国との関係
などの内容が学ばれますので、歴史の学習は一度途切れてしまいます。その後、
中学に入っても、地理や公民もありますので、また歴史を学ぶときには、石器
時代の最初から学び始め、1年間で全ての時代を終らせるという超高速の過密
スケジュールになってしまっていると思われます。

習う側からすると、欧米では時代が連続していているので、成長とともに
学ぶ時代も徐々に現代に近づいてゆき、より重要な時代ほどじっくりゆっくり
時間をかけて学んでいるようになっていると思います。教科書の作り方、スケ
ジュールの取り方など。近・現代史を学ぶ年齢も14、15歳あたりですから
理解力の育ってきた年齢でもあり、人生や社会などについていろいろ考える
ような年齢に当たっていたりしてよい時期だと思いました。
261世界@名無史さん:01/09/28 02:21
残念なことに、日本のほうの学習スケジュールでは、歴史は小学校で半年
中学校で(おそらく)1年、で、しかも分断されて、それぞれ、最初の原始
時代から現代までの膨大な時間の流れを、大変短い期間のうちにどんどん
つめ込まないと期間内に学習内容が終らないような感じになっていますね。

このスケジュールですと、イギリスのように
「どうして第二次世界大戦は・・」などといった大きなテーマをゆっくり
深めて考え合う、などといった授業は望めませんし、できませんね。
残念ですね。このような授業の経験は学生の時間の中でこそ特にあったら
よいと思われるような経験ですね。

それに加え、中学の最後には高校受験がありますので、テストをパスするため
の勉強が必要になります。高校受験の問題集を調べたら、「日中戦争」や
「韓国や東アジアへの侵略や侵攻」については、なにも載っていないものまで
ありました。「ミッドウェー海戦」や「真珠湾」などについても、本当に少な
い内容です。それは試験にでない部分は省かれてしまうといったようなことな
のかもしれません。そんなわけでますます近代(特に日本の侵略時代のこと
などやどういった経過や原因で原爆投下までの戦闘が起きてしまったのか、な
ど)はあまり学ばれなくなっているのかもしれません。さみしいと同時にこれ
はいけないのでしょう、ね、、と思いますが、どうにもならないのでしょうか。。

成人した後、サイパンやグアムや香港やハワイなどへ旅行へ行くとき
その土地の人達が、まだ50年前のことをしっかり覚えていて、その土地の子供
たちもまた当時のことをしっかり学んでいて、日本人をとてもよく知っていた
りするといったことがあるかもしれませんが、当の日本人はそのようなわけで
全く知らない、というような皮肉な現実がおきているのではないかと思います。
まずいですよね。どうも、やっぱり、と思います。
262世界@名無史さん:01/09/28 02:24
ところで、フランスの歴史教科書では民主主義や基本的人権の尊重など公民的
な分野を歴史の中でたくさん扱っているようでした。そうした扱い方のほうが
自然に理解できるかもしれないと思いました。民主主義や人権といった考え
方や理念は歴史的なできごとを経て育ってきたものなのね、と思いました。教
科書をそういった作り方にしたら、公民の内容と歴史との関連もわかって、授
業もその分の時間が浮いて、じっくり型の授業に向けられるかも?などと少し
思いました。


訂正とイギリスの内容の続きを次回に載せます。今日はフロッピーが壊れて
よく動きません、、またきます。読んでくださった方、どうもありがとう
ございました。
263世界@名無史さん:01/09/28 09:19
アメリカの教科書より

KILL THE JAP
264武だバカヤロー:01/09/28 16:47
巛|巛巛巛巛巛巛巛巛巛巛》
 巛巛巛巛巛巛巛巛巛巛巛巛》
  《巛《 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 巛巛《》
 《巛《            ヽ巛巛》
 巛巛            ヽ巛巛》
丶⌒》  _         ヽ《《⌒
 |  |ヽ/   丶  ノ ̄ ̄ヽ/|  |
 |  | | ̄ ̄ ヽ _ | ̄ ̄ヾ/ │ |
  | |  ゝ_ // 丶__/  │ |
  │    /   \     │/
   |   / (___ノ\   │   ________
   |           丶 │  /
 / |  ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ 丶 / < ファッキンジャップくらいわかるよバカ野郎!
/  \ ヽ         \   \
   \ ヽ_____ノ \ \    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    丶          /  \___
     \        /        \
        \     /  
265世界@名無史さん:01/09/29 14:16
266世界@名無史さん:01/09/30 06:52
>>262
ご苦労様です。楽しみにしています。
267世界@名無史さん:01/10/03 05:28
もっと書いてみませう!!
268世界@名無史さん:01/10/04 08:44
良スレage
269 :01/10/05 12:32
日本人こそは、ヨーロッパ人に身の程をわきまえさせてやった、唯一の東洋人である!
 エジプト民族運動の指導者・ムスタファー・カミール
270世界@名無史さん:01/10/05 13:33
>269
で、実際わきまえたのかん?
271愛と死の名無しさん:01/10/05 14:15
そういや、歴史教科書問題とかって騒いだけど、歴史で近代をやった覚え
は小中高通してないな。いっつも明治維新よりチョット先で3学期が終わって
しまうんだが。
272 :01/10/05 18:12
>>270さん
少なくとも第二次大戦で負ける迄は、日本は欧米と対等だったはず。
今では米国追随の日本だが、テロは米国で起る!
何故か考えてみよう。>>270さん
273いやいや面白いね。:01/10/05 20:30

 それもそれなりのことが書いてあるもんだな。

 インドあたりは、いちいち「その時イギリス(やフランス)は何もしなかった」
というようなフレーズが出て来ているのが、読む人によっては「二次大戦が起こ
ったのはお前ら(英仏)がボーっとしくさっとったからや」という風にも受け取れ
るように思う。微妙なバランス感覚で、面白い。
 アメリカのは、三川艦隊の活躍まで書かれてあるとは少し感心したね。

 イギリスのもアメリカのもインドのも(扶桑社のも)、総じて、これを今日本
で使っても差し障りない感じだという印象を持った。
 以上ニテ。
274世界@名無史さん:01/10/18 08:20
275世界@名無史さん:01/10/21 15:07
276世界@名無史さん:01/10/28 13:08
保守
277M.Ts ◆N9shN.0I :01/10/31 19:24
アメリカの教科書は日本の「日本史」授業より興味深い
んだけどユダヤ問題なんかの自国の汚点(?)は
どうなんでしょう?すこし気になました。

ついでに下がってるので AGE
278世界@名無史さん:01/10/31 20:19
あまり関係ないが

ドストエフスキー「罪と罰」
踊りとかるい酒が好きな愉快な民族

なんだこれ?
279世界@名無史さん:01/11/04 17:36
イギリスの教科書、文章がロマンチックで面白い。
枝葉末節の事柄より本筋が理解しやすく書かれてていいですね。
280世界@名無史さん:01/11/04 17:54
「酸」と関係ないのになぜ「酸素」?
http://nara.cool.ne.jp/mituto
281世界@名無史さん:01/11/04 17:56
踊りと軽い酒が好きな愉快な民族いうのはベルヌの「80日間世界一周」の
横浜あたりでもいわれてたなあ・・・
282世界@名無史さん:01/11/12 02:20
age
283 :01/12/04 12:44
284世界@名無史さん:01/12/04 15:29
日本酒が軽いっていうのは美味しんぼでも指摘されてますよね。
(山岡は泡盛の古酒で対抗した)
踊り好きというのは外国人をもてなすときに、
日本舞踊でもみせたのかな?
日本人がハワイ=フラダンスと発想するようなもんで。
285世界@名無史さん:01/12/04 18:15
少し話がそれるが、

アメリカで受けた世界史のクラスの先生は
「日本刀は世界で最もすぐれた剣だ。コンクリートだって斬る」とか
「荘園制度が実によく機能してた」とか
「唯一ケンカをしかけてきた国」と誉めてもいた。

教科書は序章に「他に類を見ない特殊な国」として扱ってはいるが
「中国の文明・文化をうまく取り入れ独自に改善して発展した国」
と締めくくってた。

その先生は「私が神だったら、日本に資源を与えて歴史を観察してみたい」
とコメントを残し、次の文明・文化国の説明を始めた。

俺はCIVILIZATIONってゲームの存在を教えたかったな。
286世界@名無史さん:01/12/04 18:17
受験生よ!
これだけは覚えておくが良い!!
日本の鎖国は17世紀からだ!!!
16世紀では、なぁぁぁぁぁぁぃい!!!!
287世界@名無史さん:01/12/18 22:33
皆でこのスレを守ろう。
288世界@名無史さん:01/12/18 22:38
>>6
インドは日本を正当に評価してくれているよ(涙
それに比べ…
289 :01/12/18 22:41
The story of civilization volumeU(インドの中学生の歴史教科書)より
文献:全訳 世界の歴史教科書シリーズ インド(帝国書院)

帝国主義勢力としての日本

 日本は19世紀の最後の10年間に、帝国主義的拡張計画にのりだした。
19世紀のはじめ、日本は西洋諸国が足掛かりを築かなければならない地域とみなされていた。
しかし、日本はほかのアジア諸国の体験と運命をまぬがれた。
1867年に、王政復古により政体が変更されてからは、日本は経済を近代化しはじめた。
数十年たらずのうちに、日本は世界のなかでも最も工業化のすすんだ国の一つになったのである。

しかし多くの西洋諸国を帝国主義国に変えた力が、日本の場合にも働いていた。
日本には自国産業をささえる原料はほとんどなかった。
そこで原料を入手できる土地、製品を売りさばく市場を求めていたのである。
290289:01/12/18 22:42

誤爆。
291名無し三等兵:01/12/29 10:21
軍事板から出張です
こちらのすれもためになるのでいらっしゃってください
それと皆さんの意見もお聞かせください

各国の対日感情
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1007110255/
292世界@名無史さん:01/12/29 11:15
日本嫌いは中・朝とアングロサクソン系国家に尽きるように
思えるんだよね。いつか日本がイギリスを押しつぶす儀式が
必要な気がする。理論科学・政治諜報の面で凌駕してからの
ことと期待したい。
293世界@名無史さん:01/12/29 11:36
>292
それは釈迦が再来するまで無理だと思う(笑
294ホモ野郎:01/12/29 11:41
以前、日本に来たばかりのスペイン人の家族と食事した事があるんだが非常に面白かった。

夫     「日本に来るまで、日本と韓国は地続きでスペイン/ポルトガルのような関係なのだと思っていた」
妻     「日本に来るまで、日本の女性はいつもキモノを着ていると思っていた」
息子(6歳)「ソンゴクウ(Dボールですね)はいないの?ケンは?リュウは?(ストファイですね)」

両親はともかく・・・
295世界@名無史さん :01/12/30 16:35
私が持っているアメリカの高校用のアメリカ史の教科書に重要な記述が
あったので紹介します。教科書は(The Americans: Reconstruction
through the 20th Century) 出版社(Mc Dougal Littel)

(省略)Then, late on December 6, 1941, the president received a decoded message
that had been intercepted. This message instructed Japan's peace envoy to reject
all American peace proposals. "This means war." Roosevelt told his friend and adviser
Harry Hopkins.
"It's too bad we can't strike first and prevent a surprise." Hopkins replied.
"No, we can't do that ," Roosevelt reportedly responded.
"We are a democracy of peaceful people. We have a good record.
We must stand on it."
296んが:01/12/30 17:35
フィンランドかどっかの教科書には、
日本の家の前には鳥居があり、今でも日本人は着物とちょんまげだと
教えているらしい。
297sage:02/01/07 18:11

タイが日本に第2次世界大戦の補償を求めなかったって話しを美談みたいに
語ってる人が居るけどそんなのあたり前!補償を求める方がおかしい。

元々第2次世界大戦中、タイは日本の同盟国だったわけ。
それが日本の敗戦が濃厚になると日本に一方的に宣戦布告して寝返ったわけ。

これで補償までとったらそりゃーなんでもやりすぎだろ?


それと山田長政の話だけど地元の文献では極悪人という言い伝えが残っています。
これは色々な説があるけど当時のタイの国王が、彼の組織力を恐れてアユタヤへ
飛ばして毒殺したというのが日本での一般的な説。

もうひとつ現在の首相のタクシンは有名な日本嫌い。

だからこれから色々と日本企業には厳しい時代になるかもね。
298,:02/01/07 19:28

台湾の掲示板に見る日本のイメージ
http://ton.2ch.net/test/read.cgi/taiwan/990567711/56-93

「パールハーバー」公開後台湾の反日感情が急騰しており、おそらく3月の
台湾論事件以降最悪の状態に達しようとしています。

以上はここ数週間に台湾の掲示板で採取したものの一部ですが、

「日本の技術力は台湾の遥か下」
「一度華人を侮辱すれば、何倍にもして復讐すべし」
「蒋介石がいなければ日本は地球上から消えていた」
「表面は愛想がいいが、実態はゴミ」
「日本に全く何の好感もない。大部分が悪人、変態」
「日本人は差別主義者」
「日本人はドブス」

あたりはいいとして、

「日本の大不況は神の天罰。虐殺された南京市民の祟り」
「スピルバーグが「怒りのリンゴ」なる満州を舞台とした反日映画を撮影中」
「パールハーバーは日本で発禁になるに違いない」
「日本人は愛国心が強いから絶対に見ない」

などが割と真面目に論じられているのを見ると、なにやら電波の雰囲気も。
何人かの日本人が弁解に入ったところもありますが、逆に返り討ちに。
299山野野衾:02/01/07 22:06
>297
タイでは弟が相続するのが正当だったのを、長政が日本的価値観から子供に継がせ
としてややこしくなったという話も。
なお、一般の人は大学で初めて知った人も多い様です。
300山野野衾:02/01/07 22:08
>293
釈迦じゃなくて弥勒(56億7千万年後)では。
あとまるで話は変わりますが、一時期英国の教科書に6本指の秀吉の絵
がありました。
301世界@名無史さん:02/01/10 03:26
http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00317.html
『ニューヨーク・タイムズ』がさっきインタビューに来たけど、
八月十四日−日本が降伏したのは十五日でアメリカは十四日ですが、
その(降伏した日の)論説を見ると、ドイツ降伏の日と全然違う。

漫画があって、大きなこの部屋ぐらいのナマズみたいな化け物が
ひっくり返っている。
そのあんぐり開いた口の中に英米のGI(兵士)が入っている。
大きな機械で、その怪物のきばを抜いている。何が書いてあるかと
いうと「この怪物は一応降伏して倒れた。しかし死んではいない。
われわれのために、世界のために、この怪獣のきばを抜かなきゃ
ならない。戦争に勝ってこの怪物を倒した作業よりもっと難しいかも
しれないがアメリカのために、世界のためにこの怪獣をバラバラに
しなくちゃいけない」

ミズーリ号で、ただポツダム宣言受諾に調印したあと、マッカーサー
元帥は日本は無条件降伏したと嘘をついて、憲法を全部書き直し、
教育は全部アメリカ人がやって、軍隊は撤廃された。ドイツは
その三つとも全部ドイツ人でやるという条件をつけて降伏した。
ドイツ人の新しい教育も、新しい憲法も、降伏した次の日から
武装解除されてもドイツ国軍は残った。日本は全然違う。


■1.日米戦争をアメリカ側から見る■

 日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムスは
「太平洋の覇権を我が手に」と題して、次のような記事を載せた。

「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者は
 いない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog014.htm


 アメリカの国際政治学者ブリジンスキーは最近の論文の中で、
 日本は所詮アメリカのvassal(下僕)でしかないと記している。
 http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00342.html
302世界@名無史さん:02/01/20 17:50
テスト
303世界@名無史さん:02/01/23 17:06
おちた?
304ヒトラーは嫌いだが:02/01/23 17:32
シャロンも嫌いだ。
http://www.nsjap.com/marco/
305世界@名無史さん:02/01/23 17:49
実は好きなんでしょ
306世界@名無史さん:02/01/23 21:28
だれか続き書いてくれー。
このスレ面白い。
307世界@名無史さん:02/01/23 23:07
>>272少なくとも第二次大戦で負ける迄は、日本は欧米と対等だったはず。
今では米国追随の日本だが、

これだと日本の地位が敗戦後急落したみたいだけど、人種としての
白人とアジア人の地位の関係は第二次大戦以前とは比べ物にならない
ほど接近したわけでしょう(もちろんまだまだ白人の世界支配は続いているけど)。
米はともかく英・仏・蘭などは第二次大戦を境に植民地を失い急落したわけだし。

戦前日本は主要国だったと言っても、人種的には欧米人には実際には現在とは
比較にならぬほど見下されていたと推測します。大戦中日系人がドイツ系とは
全く異なる扱いを受けたのは明らかに人種的蔑視によるものでしょう。
戦中の報道でもアメリカのマスコミはドイツのことは普通に「ドイツ軍」と
表記したが、日本軍は「ジャップ」と蔑称で表記したということ。
そして最近アメリカは過去の日系人に対する扱いの非を認めたということ、
さらにNYテロの際同じく非白人であるアラブ人に対して、個人レベルでの
暴行はあったものの公式レベルでは「太平洋戦争時の日系人に対して行った
過ちを繰り返してはならない」という呼びかけをして暴行を取り締まったと
いうこと。これらは第二次大戦時に比べて白人の東洋人に対する蔑視は
かなり改善されたという証拠でしょう。
308世界@名無史さん:02/01/23 23:10
age
309世界@名無史さん:02/01/24 07:36
なんか、「日本人の暮らし」という節で、
昭和初期の雰囲気を漂わせた一家が出てくるんですよ。
で、いろりを囲んで食事。
いかにも陰険な狐顔をした父と母と子供達がいて、輪から外れた所で一人おばあさんが泣きそうな顔をして正座してるんです。
文の要約「日本の家庭では家父長たる父親が全てにおいて優先される。そして年老いた老婆は何事につけても下位に置かれ、食事でもろくな量を与えられない」とな。
310世界@名無史さん:02/01/24 07:50
>>309

どの国の物?

そういうのが日本について誤ったイメージを植え付けるんだろうね。
311世界@名無史さん:02/01/24 07:53
>310
う、忘れてもうた。

次回、他のネタを載せるついでに調べなおして書いとく。
312世界@名無史さん:02/01/24 12:03
 この時までに、連合国軍の飛行機は日本(本土)を猛爆していた。1945年3月の
1度の東京空襲で10万人が死亡し、商業建築物の60パーセント以上が破壊された。
1945年半ばまでに、日本海軍・空軍のほとんどが壊滅した。しかし、日本はまだ
200万人の陸軍を持っており、彼らの戦意は強いままだった。連合軍にとって最後
の勝利への道は、長く、多くの犠牲を伴うと思われた。
 合衆国では、ローズベルト大統領が1945年4月に死去し、副大統領ハリー・S・
トルーマンが彼を継いだ。7月に、合衆国は、ニューメキシコの砂漠で原子爆弾
の実験に成功した。原子爆弾は、従来の爆弾よりもはるかに破壊力があった。
トルーマンは、最初、この新兵器を使用することをためらった。しかし、
彼の軍事顧問は、日本本土侵攻となれば、100万人もの連合軍兵士の生命
が犠牲になるかもしれない、と警告した。トルーマンは、もし必要なら、
日本にこの爆弾を使用することを決意した。

http://www.isei.or.jp/japanese/America.html
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~jon/adv96/group1/US.html
World History: Patterns of Civilization
written by Burton F. Beers, published by Prentice Hall, Inc. 1993.
313世界@名無史さん:02/01/29 05:31
おち?
314世界@名無史さん:02/01/29 07:02
イギリス等との公約では原爆は一発だけ使用だった、というのが
昨夏ごろ明らかにされてなかったっけ?
てす
316世界@名無史さん:02/02/06 15:48
age
317世界@名無史さん:02/02/06 22:39
>>314
マジですか?
てす
319世界@名無史さん:02/02/09 04:47
>>310
ある意味間違ってはおるまい。
320世界@名無史さん:02/02/14 06:37
age
321世界@名無史さん:02/02/16 15:44
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=19650038 P118
 大体においてヨーロッパ戦域は、ジャングル病、マラリア、デング熱、
そのほか熱帯特有の病気に冒されないだけでも、まともな戦場といえた。
大戦中もっとも病気が恐ろしかった戦場は二つあり、一つはビルマで、
もう一つはニューギニアだった。イギリス軍の経験では、一九四三年
にビルマ戦線で戦闘による負傷者を一人後方に移送するたび、戦闘以外
の原因で後方に移送する者は百四十人を数え、その大半がマラリア
および他の熱帯性の病気の罹患者だった。この数字は一九四四年には、
徹底した防御策と新薬の導入により六十人に落ち、一九四五年には
四十人へと激減した。それでもなお、罹患者数は実に多い。
 アメリカ軍に目を向けてみよう。アメリカを離れなかった軍人や非戦
闘区域にいた軍人などを含め、アメリカ軍全体で考えると、戦闘による
負傷で戦闘不能になった者の率は、わずか一八%にすぎない。ビルマ、
ニューギニア、その他の熱帯地域で戦った軍人は、イギリス軍と同様、
数多くの熱帯性疾病の危険にさらされた。罹患者は敵軍による負傷者
より多い。敵軍がいなくても、病気の危険は去ってくれないからだ。
 アメリカ軍はメラネシアにあるサンタクルス諸島のヌデニに飛行
基地をつくろうと企てたが、多数の工兵が次々とマラリアに倒れ、
計画を放棄せざるを得なかった。それに加え「内国地帯」(軍事用語
=交戦国内で作戦地域を除く地域)での事故率が、飛び抜けて高かった。
一九四三年だけで、軍事関係の飛行事故で五千人が死んでいる。
322世界@名無史さん:02/02/16 15:47
http://www.history.navy.mil/faqs/faq11-1.htm 米海軍戦線別戦死傷者
US Navy and Marine Corps Casualty Statistics for World War II

Table 1--UNITED STATES ARMED FORCES TOTAL STRENGTH AND CASUALTIES
IN WORLD WAR II, DEC. 7, 1941-DEC. 31, 1946
Table 2--ARMED FORCES PEAK STRENGTHS AND BATTLE DEATHS OF THE
PRINCIPAL ALLIED POWERS
Table 3--ARMED FORCES PEAK STRENGTHS AND BATTLE DEATHS OF THE AXIS POWERS
Table 4--UNITED STATES BUDGET EXPENDITURES, JULY 1, 1940-AUG.
31, 1945 (Billions of dollars)
http://gi.grolier.com/wwii/wwii_16.html

Army Casualties (Wounded and Dead) by Year
Army casualties (Wounded and Dead) by Theater
http://www.nara.gov/publications/rip/82/rip082ap.html
323世界@名無史さん:02/02/17 04:31
>>319

あんたいつの時代の人?
それとも田島陽子信者。

今の日本でそういう家庭内で絶対権力者として君臨している父親なんて絶滅寸前だろ。
324世界@名無史さん:02/02/17 11:23
>323
家父長のほうじゃなくて老婆虐待のほうを>319は言ってるんじゃないのかな?
325323じゃないが・・・:02/02/19 09:28
それでもロクに聞いたことないけどね。
それとも>>319にはそういう実体験でもあるんだろうか?
俺の親戚だと爺さんがそんな扱いだったけどな。(小学生の頃に死んでしまったが)
326世界@名無史さん:02/02/19 09:59
>325
>爺さんがそんな扱いだった
って、じゃああんたの身の回りに実例あるんじゃないか(w
327世界@名無史さん:02/02/20 02:41
だがそれ以外は全くない。むしろそれを話した相手にことごとく「ひでぇ家」と呼ばれたことからかなりの特殊例と判断したが?
328世界@名無史さん:02/02/24 22:30
age
329世界@名無史さん:02/03/06 00:56
アメリカの教科書の日本についての記述が、
日本の教科書よりもよくまとまっているなんて。

鬱。
330世界@名無史さん:02/03/14 22:15
331世界@名無史さん:02/03/22 22:41
便利なHPサンクス
332世界@名無史さん:02/03/24 22:31
中国の江沢民・共産党総書記(国家主席)が2月末にベトナムを訪問、ノン・
ドク・マイン共産党書記長ら指導部と会談した際、1979年の中越戦争など
について、ベトナムの高校歴史教科書や党史の書物への「友好的な記述」を求
めていたことが分かった。ハノイの外交筋が17日までに明らかにした。
共産党一党支配体制を堅持しつつ市場経済化を進める両国が、グローバル化が
進む世界の中で、歴史的経緯から引きずっている「わだかまり」に区切りをつ
け、両国民の意識の面でも連携強化を図る中国側の狙いがあるとみられる。
しかし、中越戦争に関しては「加害者としての負い目」もあるためか、日本の
対中戦争について「歴史を鑑(かがみ)」とするよう再三求める強硬姿勢とは
好対照を見せている。

ソース:http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/20020317KIIAIA30910.html
333世界@名無史さん:02/04/11 00:18
てす
334世界@名無史さん:02/04/11 00:27
262です。

>>262
>訂正とイギリスの内容の続きを次回に載せます。今日はフロッピー
が壊れてよく動きません、、またきます。

と書いたあと、間違い字探しをしたのですが、あまり多くて、、
いったん、ざせつ ξ(//_//)ξ   

(T_T)しました。 (・・、)ゴメンナサイ


その後も忙しくなってしまい>>223の続きが
載せられなくなってしまいました。
あまり時間をとれなくて、これからも続け
られるかどうかわかりませんが、
書けたの、載せときます。。

訂正の後、>>223〜より続き〜、載せます。
               。。(//_//)262


335世界@名無史さん:02/04/11 00:37
>>334~

  誤字など。。

>>39  合った→あった ,彼hら→彼ら ,発つせた→発たせた
>>43   訂正:ワシントン会議は、アメリカの歴史上、成功を収め、アメリ
カの海軍力は大西洋に限定されたが、東アジアと太平洋の安定が,
少なくとも一時は保たれた。→ワシントン会議は、アメリカの
歴史上、成功を収めた最初の軍縮会議だった。ここで結ばれた諸
条約のため、アメリカの海軍力は大西洋に限定されたが、東アジ
アと太平洋の安定が、少なくとも一時は保たれた。
    
講話計画→講和計画

>>45  精度→制度 ,変わりに→かわりに
>>47   ヘンリー・すティムソン→ヘンリー・スティムソン
>>55  改行位置の挿入: [4 中立から戦争へ](改行)日本との関
係(改行)
>>56  ローズヴェルト
     →ローズヴェルト[訳注:フランクリン・ローズヴェルト]
>>57  挑戦→朝鮮
     長い時間がかかりました。(改行)
>>58  議会に勧告した。(改行,改行)昨日、1941年12月7日



336世界@名無史さん:02/04/11 00:39
>>334〜   

>>60  コレヒドール等→コレヒドール島
     挿入:日本の太平洋攻撃「バターン死の行進」の写真について
     写真より
     この連合国軍捕虜の写真は、バターン死の行進の出発時に撮ら
     れた物である。何千人にも及ぶ死亡者を出したが,その理由は,
     日本軍がこれほど多数の疲労した捕虜を扱う用意がなかったた
     めでもあり、また、苛酷な待遇のためでもあった。 歴史 日本
     の残虐行為はアメリカ世論にどのような影響を与えたか。

>>61  使われえた→使われた
>>63  ニュー・ギニア両方→ニュー・ギニアの両方
     (改行)(しかし、)海兵隊は苦しい敗北を喫した。
 
>>77  =b南北戦争 →=「南北戦争 ,社会化→社会科
>>80  設け→儲け ,中国人管理→中国人官吏
>>81  文と解放→門戸解放
>>82  妻女たちのでも →妻女たちのデモ
     平和に実現→平和の実現
>>83  じんみん委員会 →人民委員会    
>>88  トルコトの条約→トルコとの条約
     殖民→植民地 
     するターン→スルターン

337世界@名無史さん:02/04/11 00:41
>>334〜 誤字など。。

>>89  機関持とう→機関を持とう
     殖民→植民地
>>90  見たれたのである→みられたのである
     に世って→によって
>>91  意義知る軍隊→イギリス軍隊
     フラン支配→フランス支配
>>92  するターン→スルターン
     ケマルノ→ケマルの
>>93  妥当→打倒
>>94  陽性→養成
>>95  日本間また→日本はまた
    領有知→領有地
>>99   展→点
>>101  5がつ→5月
>>104  連合国杏宣言→連合国共同宣言
>>105  きたイタリア→北イタリア
>>106  兵機→兵器 ,痕跡内までに→痕跡ないまでに
>>107 ファシストのこうして→ファシストに抗して
>>108 何百万者→何百万もの ,集墓地→集団墓地
>>109  歩くには→ある国は ,行ったもの→行った者
     (消去→)この爆弾の開発計画は〜その開発に手をかした。





338世界@名無史さん:02/04/11 00:43
>>334


>>110  警告していた→警告した
>>111  側死者数と→即死者数と
>>130  三巨頭はそこ(東ヨーロッパ)にソ連よりの政府を押し付けた時、
→三巨頭はそこ(東ヨーロッパ)に「すべての民主的要素を広く代
     表する」政府を樹立することを約束した。スターリンが後に東
     ヨーロッパにソ連よりの政府を押し付けた時
     
     渡した]→渡した」

>>131  2.連合国軍は〜降伏させたか。(改行、改行)
>>132  島とびト→島とびと ,最補給→再補給
     1944年夏、連合国軍は、グアムとサイパンを攻略してマリアナ諸
     島へと移動した。→1944年夏、初めにマーシャル諸島へと進ん
     だ。1944年夏、連合国軍は、グアムとサイパンを攻略して、マ
     リアナ諸島へと移動した。

>>143  政治的組織→政治組織
>>144  英吉利政府→イギリス政府
>>146  核実権→核実験  
>>147  ハンファシスト→反ファシスト
>>148  何百万者→何百万もの
339世界@名無史さん:02/04/11 00:45
>>334~ 誤字など。。

>>149  ハンパキスタン独立闘争→反パキスタン独立闘争
>>150  必用→必要
>>151  皆さんがすでに学んだ→皆さんが前に学んだ
      交流もなかった。→交流の場もなかった。
何十万者→何十万もの
>>154  何十万者→何十万もの
     1975年の始め→1975年の初め
>>169  実権爆発→実験爆発
>>172  本分を読み→本文を読み
>>179  ニューズウィーク史→ニューズウィーク誌
>>181  キューバ沖で<→キューバ沖で  同新聞は<→同新聞は
>>184  スペイン人のほうの→スペイン人のほうも
>>186  自体は→事態は
>>189  1853年から53年→1853年から54年
>>192  思考する→志向する
>>193  以外→意外
>>197  何者→何物
>>204  1895(明治28年)  国、→中国、
>>208  意思→意志
>>211  実業化→実業家
>>213  国民の次第に軍部に→国民も次第に軍部に
>>222  日本区内→日本国内
340世界@名無史さん 223より〜:02/04/11 00:53
>>223より続き〜
( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  

アメリカの目覚め

  平和を愛するルーズヴェルトには、こうした事態が気がかりであった。
彼の国内政策を「ニューディール」と名づけたのと同様、彼は外交政策にも
別の名前を編み出した。合衆国はすべての国にとって「よい隣人」でありた
いと、彼は主張したのである。これはとりわけラテン・アメリカの国々に適
用された。

アメリカがこれらの国々に脅し(おどし)をかけたり、干渉したりした時代
は過去のものとなった。パナマには、より多くの自由が与えられ、ハイチか
らはアメリカの海軍が引き揚げられた。キューバ問題にアメリカが介入する
ことを可能にしていたプラット修正条項は、議会で撤廃された。

外交問題をめぐって、アメリカの役人がラテン・アメリカ諸国を扱う扱い方
は、丁寧さをました。ルーズヴェルトの大臣の一人は、通訳なしで交渉でき
るよう、スペイン語を学んだ。1933年には、ブエノスアイレスで開かれた
ラテン・アメリカ諸国の会議に、大統領自らが出席した。


341世界@名無史さん:02/04/11 00:59
認識台湾をそのまま日本の歴史教科書にしたいぐらいだ!
売国奴文部省は反省しる!
342世界@名無史さん:02/04/11 01:00
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  アメリカの目覚め より〜
 
  こうした動きは、ある程度の成功を収めた。しかし、残念なことに、いくら
丁寧な姿勢をましたところで、ヨーロッパや、極東における緊張状態を変えるこ
とはできなかった。

ドイツと日本が、ソ連に対して防共協定を結んだとき(1936)、ルーズヴェルト
は、この侵略的な2国間の友好関係に不安を覚え、アメリカ国民に危険な状態を
気づかせようとした。

1937年には、スペインと中国で起こっている戦争に触れて、ルーズヴェルト
は、「もしもこうした事態が世界のほかの部分で起こるようになった場合に、ア
メリカがそれから逃れられるとか、アメリカが容赦されるとか、西半球が攻撃さ
れることはないだろうとか・・・・・、だれも思ってはならない」と述べた。

ところが、この警告に対する反応は、ルーズヴェルトに敵対的なものであった。
彼の党である民主党の議員ですら、彼のことを戦争屋と呼んだ。その2年後に
第二次世界大戦が勃発しても、アメリカ人の孤立主義的なムードは変わらなか
った。

一般庶民は戦争にほとんど関心を示さず、将軍たちのほうは、助けがなくても
イギリス、フランスは勝利するものと思いこんでいた。

1940年7月になっても、ルーズヴェルトは、「われわれは侵略戦争で武器
はとらない、軍隊を送ってヨーロッパでの戦争に加わるつもりはない」と国民
に保証しなければならなかった。


343世界@名無史さん:02/04/11 01:03
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  アメリカの目覚め より〜
 
  しかし、1940年のフランス敗北ごろから、アメリカ人の覚醒(かくせい)
がはじまった。ドイツ軍の力に驚いた議会は、初めて強制的な徴兵を採用し、
海軍拡大計画を立てた。大西洋では、アメリカの商船がドイツのユーボートに
沈められはじめたため、ルーズヴェルトは海軍の指揮官に、ドイツやイタリア
の潜水艦は「見つけしだい撃つ」ようにと、指令した。

他方では、イギリスが侵攻を撃退できるよう、送れるだけの軍需物資がイギリ
スに送られた。もっと重要な出来事は、カリブ海におけるイギリスの基地とひ
きかえに、アメリカの駆逐艦がイギリス海軍に与えられたことであった。


  1年前であったら、このような援助は不可能だったであろう。現実が、ど
のようにひどい状況のもとにあるかに、アメリカ人もやっと気づいたのである。
1940年末に、アメリカ国民はルーズヴェルトを大統領に三選したが、これ
もかつてなかったことであった。

このように信任の票が寄せられたことに力を得たルーズヴェルトは、今度は有
名な、武器貸与計画を提案した。これによって、戦争が終わったあと返却して
もらうとの約束で、いろいろなものが、イギリスに送られることになった。
それらが破壊されてしまえば、アメリカのために用いられたのだと考えられる
ことになったのである。記者会見の席上で、ルーズヴェルトは彼特有の簡潔な
表現で、この政策を次のように説明した。


344世界@名無史さん:02/04/11 01:05
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941 アメリカの目覚め より〜

 
  隣の家が火事になり、自分の家の庭用のホースが400〜500フィートも離れ
たところにあるという状況を想定していただきたい。もし隣人が私の家のホース
を持っていって彼の家の消火栓につなぐことができれば、私は隣家の火を消す手
伝いをしたことになるだろう。

その際、私はいったい何をするだろうか。そうした作業をする前に、「お隣さん、
うちのホースは15ドルもします。私に15ドル払ってくださる必要があります」な
どと、いいはしないであろう。

実際にはどういった処理が行われるだろうか。私は15ドルを求めず、火が消え
たあとで、ホースを戻してもらうだけのことだろう。


  このようにして、第一次世界大戦中の貸付金をめぐって前に生じたような
不満の種は、あらかじめ取り除かれた。1941年3月以降、イギリスとその同盟
国はアメリカ合衆国から物資の供給を受け、戦争の続行を援助してもらったの
である。


345世界@名無史さん:02/04/11 01:20
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  アメリカの目覚め より〜


  その5ヵ月後、チャーチルとルーズヴェルトは、ニューファンドランド沖
で会見し、有名な大西洋憲章に調印した。

この中で、あらゆる人びとに自由が約束されるとともに、「ナチスの暴虐が最
終的に打ち倒されて」からあとで、新たな世界平和機構をつくりあげることも
うたわれていた。

アメリカは、ドイツに実際に宣戦布告を行ってはいなかったものの、ドイツと
の交戦状態ぎりぎりのところまでいっていたのである。

写真(転載者注:アメリカ、イギリス両首脳の会談の模様)の説明文↓ 
 大西洋憲章をつくりあげた会談の、プリンス・オブ・ウェールズ艦上におけ
るルーズヴェルトとチャーチル
 
346世界@名無史さん:02/04/11 01:48

(転載者談)この時代のアメリカの国民の様子として、
アメリカは戦争をしたくなかった、アメリカ国民は帝国主義国
なることは望んでいなかった、という描写が、アメリカの教科書
でも、よく目にしたような気がします。

南北戦争はイギリスから独立を勝ち取った戦争であったし、
(独立を勝ち取った=)つまり、それまでは
アメリカはいわゆる”イギリス(王族・貴族達の)植民地”
扱い、だった、ということですから、『自分達は、イギリスの
ように帝国主義者にはならないぞ。』という気持ちが、
国民の間では、強かったのだ、と・・・(反骨精神
みたいなものでしょうか・・)そんな感じで表現
されていたように思います。

こういった流れなので、『真珠湾(特に奇襲であったこと)』
というものが、何か、すご〜〜く大きな意味を持ってしまう
ことになってしまうんですね、、ちょっと、鬱。
347世界@名無史さん:02/04/11 01:52
いよいよ、真珠湾です。

続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941   

 ●真珠湾

  いっぽう、日本の指導者たちの間では、何をなすべきかについて論議が起こっ
ていた。ヨーロッパで戦争が起こったことは、第一次世界大戦のときと同じ自由を
日本に与えてくれるように思われた。彼らの気をそそるさまざまな可能性がまわり
じゅうにあった。陸軍の軍人たちは、中国、満州にいっそう進出していくことを望
んでいた。海軍の側は、南方へ進撃し、オランダ領東インド(インドネシア)の石
油を手に入れたいと思っていた。

日本にとっての主要な問題はソ連であった。1939年にはソ連軍の戦車が、満州と
の国境線で日本軍を打ち破っていた。ソ連が昔のように弱体でないことは、明ら
かになっていた。他面では、日本の指導者たちは、ドイツが戦争に勝つのは確実
であると思っていた。したがって彼らは、ドイツではなく自分たちが、極東にお
けるオランダ、イギリス、フランスの領土を手に入れる必要があると、強く感じ
ていた。

ソ連が攻撃してこないことさえ確信できれば、日本の陸海軍は、インドシナ、
シヤム(タイ)、ビルマ、マラヤ、オランダ領東インドに向けて南進し、日本
の工業界は、石油・すず・ゴム・ボーキサイトを手に入れることができるはず
であった。
348世界@名無史さん:02/04/11 01:54
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  

  この問題に解答を与えたのは、1941年6月におけるドイツのソ連侵入であっ
た。これにより、ソ連は西方国境で手一杯になったから、日本に関する限り、こ
の独ソ戦開始は、「進め」という信号に等しかった。1941年12月にはすべての準
備が整った。

日本の平和を愛する首相、近衛文麿(このえふみまろ)は退陣せざるをえなくな
り、その後には、非情な軍人で、「かみそり」というあだ名のついた東条英機将軍
が就任した。軍部の独裁体制を強いてしまえば、太平洋の支配権をめぐって日本
がアメリカ合衆国と挑戦するには、それに適した天候が到来し、十分な物資の補
給が確保されるだけでよくなったのである。


フランス領インドシナは、1940年6月にフランスが陥落したときに、すでに日本
に占領されていた。太平洋では、軍艦・飛行機、兵隊たちが、攻撃の準備を整え
た。年とった人ならば、日本が最初にヨーロッパの強国に挑戦した、旅順攻撃
(1904)のことを思い起こしたであろう。今や日本は、当時のロシアよりはる
かに強力な敵に挑戦しようとしていた。

 
349世界@名無史さん:02/04/11 01:58
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  
 
  フランス領インドシナが日本の手に落ちたとき、ルーズヴェルトは日本への
鉄くず輸出をすべて停止し、合衆国内の日本資産を「凍結」したため、日米間の貿
易は途絶えることになった。それでもなお、アメリカ大統領は、ヒトラーのドイ
ツのほうが日本よりも大きな脅威であると確信していた。
日本側はといえば、好戦的な意図をおおい隠そうとしていた。自分たちはただ平
和を望んでいる、と日本側はいった。もしもアメリカが、中国を説得し、戦いを
止めさせてくれれば、すべてうまくいく、というのである。

しかしルーズヴェルトの下の専門家たちは、日本側の暗号を解読し、重要なメッ
セージを読み取っていた。このころになると、日本の指導者に征服戦争開始の意
図があることを、大統領は心得ていたのである。彼は、他国民の領土を尊重する
よう、日本に求めた。交渉は、アメリカ側が日本に対し、戦争準備を止めるよう
改めて要求した11月26日まで、続行した。

その後東条は、戦争の前ぶれとして、外交関係を断絶した。この決定を述べた日
本側のメッセージはワシントンに届いたものの、日本大使館での暗号解読に手間
取った。その結果、この正確な内容がわかったのは、1941年12月7日(日曜日)
ハワイの真珠湾にあったアメリカ軍基地を日本の飛行機が爆撃する、わずか6時
間前になってしまった。

 
350世界@名無史さん:02/04/11 02:08
(転載者談)東条英機首相の写真、とても大きく載っています。ここを
見るまでは、そういえば、東条英機首相も近衛文麿(このえふみまろ)
首相も、顔さえ、思い浮かばなかったことに気づきました。
戦犯といっても、誰が何をして、誰が平和を望んで、誰の何が
悪くて・・などなど細かいことが、本当にイメージすら浮かばない。。(T_T
聖徳太子サンや織田信長サンなど、1500年も500年も前の人の姿は
すぐ思い浮かぶのになぁ・・と少し苦笑い。。

続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  
  
  この計画の背後には、山本五十六提督がいた。彼は何年も前から、アメリカ
の潜在的な力は日本の力よりもはるかに強大であるから、日本が戦争に勝とう
と思えば、ちょうど1904年にロシア艦隊をやっつけた場合と同様に、戦争が始
まる以前に現存するアメリカ艦隊を破壊してしまう必要があると、主張してき
ていた。

こうした敵を打ち倒す力をつけるために、彼は航空母艦を中心とする艦隊をつ
くりあげた。この艦隊を用いれば、当時の飛行距離のみじかい爆撃機でも、効
果的な攻撃をしかけられる距離にまで、アメリカ軍基地に接近できた。「アメ
リカ艦隊の存在は、わが国ののど元に突きつけられた短剣のようなものである」
と、彼は記した。

この年の11月に、だれもいない北太平洋の波をかき分けて下って行った日本
艦隊は、誇り高い国の希望を運んでいただけでなく、山本提督の生涯の夢をも
運んでいたのである。

 


351世界@名無史さん:02/04/11 04:30
ちょっとひとやすみ(たびたびすみません 転載者談)
 >この計画の背後には、山本五十六提督が・・戦争が始まる以前
  に現存するアメリカ艦隊を破壊してしまう必要があると・・

>は、少し微妙な書き方で、奇襲が作戦だったのか、意図せず
結果的にそうなってしまったのか、というところが、この記述では
はっきりしません。真珠湾の真実については、すでに、公文書館の
資料が公開されて明らかになって、書籍が出ているそうですが・・
自分はまだ残念ながら読んでいません。

ケネディ大統領暗殺の真相も、あと数十年すると、公開される
そうです。アメリカって、不思議というかすごいというゆうか・・
ですね。

あ、それから、山本五十六提督の話がでてきますが、
日露戦争の時の東郷提督の働きについて、
>このTの横棒を欠く(東郷提督)のやり方は、蒸気船の
 軍艦にとっての最善の攻撃形態であり・・
といったように、軍人としての能力をそのまま評価している
ような箇所もありました。評価されているらしき日本軍人も
たまにいるのですね。戦犯になってしまった軍人と、一定の評価
を受ける軍人と・・いるのですね。

『戦争は全て悪』といった単純な考え方をしているわけでは
なく、占領、征服、侵略目的、植民地獲得、といった戦争は悪、
自衛のためになされるものは、評価さえしている、という
ことかもしれません。微妙ですが、そういった認識とか・・
理解しておくことは大切なのかもしれない、と思われました。
でも、イギリスも、自衛のためのものしかしなかったわけでは
なかったでしょうから、なんとも、、

これからは戦争そのものが許されなくなるかもしれない
(兵器などが強力になりすぎて)と思ったりして、
これらの見方も、昔の時代の戦争は、という限定つきかも
しれない、とも思いました。

 (いえ。ただ転載するだけじゃ、つまんないかな、と
   思って、書き足しました。/(・・)ポリポリ..)


352世界@名無史さん:02/04/11 04:32
失礼しました。では転載続きです。

続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  

  荒れる海上で船がゆれる中で、真珠湾攻撃の計画がパイロットたちに説明
された。これは不可能なまでに危険な計画に思われた。ある人は、これを聞いた
とき「ぞっと」したと、のちになって認めている。見つからずにハワイまでいけ
るチャンスは、本当にわずかしかなさそうであった。 

しかし実際には彼らは幸運に恵まれていた。航海の前進を遅らせるものは何もな
かった。霧の中でも速度は保たれ、人間が海中に落ちても救助されることはなか
った。加賀や霞といった大きな船でも、偵察機に見つからなかった。その当時
から、批判者たちは、アメリカ側がこれほど軽率であったことを非難してきた。

しかし、実際のところは、アメリカ軍の司令官は、攻撃がかけられそうだとは
わかっていてもどこを攻撃されるかがわからなかったのである。オアフ島の南西
にいたアメリカ艦隊は、現に見当はずれの方角をパトロールしていた。

写真(転載者注:真珠湾で爆撃を受け、煙をもうもうとたてながら沈んでゆく
アメリカ戦艦の写真、かなり大きい) 真珠湾で沈んでいくアメリカ戦艦
 
353世界@名無史さん:02/04/11 04:33
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  

  日本の攻撃は、慎重に計画されていた。真珠湾のすべてが、海岸の勾配から、
潮の満ち引き、船の流れ、戦艦の位置にいたるまで、日本のスパイによって調べ
られていた。日曜日が選ばれたというのも、ウィークエンドにはいつもより余計
に軍艦が入っているという理由からの、意図的な選択であった。

ワシントンや太平洋艦隊には何かがわかっていたとしても、ハワイ自体にいたア
メリカ人は、危険にまったく気づいていなかった。ちょうど午前8時前に、第一
波の183機を率いた淵田美津男指揮官が基地の上空に到着したときには、おき
ているものさえわずかであった。水夫たちはそこここで、汚れた武器の掃除をし
たり、砲身についた露をぬぐったりしていた。

ワイキキの浜辺ではネオンの灯りがまだともっており、ラジオがダンス音楽を演
奏していた。港にはアメリカの軍艦がそれぞれ対になって錨を下ろしており、船
と船の間が密集していたので、淵田にはその幸運が信じられないほどであった。
その少し前にはアメリカのレーダー係が日本の機影をとらえていたが、その上官
が、これは見方の飛行機であると結論していた。


写真(転載者注:真珠湾の被害を近景から撮った写真・破壊された飛行機や爆煙の
立ち上る飛行機の写真) 真珠湾で炎上するアメリカ機

 
354世界@名無史さん:02/04/11 04:36
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  
 
  その数分後、飛行機と船とに爆弾が降り注がれた。これは完全な奇襲であっ
た。何とか空に舞い上がれたアメリカ機は4機のみであり、それらもすぐに打ち
落とされてしまった。他の117機は地上で破壊された。淵田の部下は、軍艦の艦上
部分と水平になるくらいの高さまで突っこんで、爆弾を落とした。水はわきかえ
ったようにはじけ飛び、黒煙が立ちのぼって、船が爆発したことを示した。 

アリゾナ号のボイラーと前部弾薬庫が破裂した際には、蒸気と煙からなる巨大な
雲が生じた。あわてふためいたアメリカ人は、いたいたしいまでの勇敢さを見せ
て反応したが、それによって損害はさらにましていった。デッキに駆け上り、赤
と黄色のしまのある日本機にむけてピストルを発射したりする者もいたのである。
ある一人は、ごみバケツのふたの陰に隠れて、機関銃を撃った。
355世界@名無史さん:02/04/11 04:37
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  


  170機からなる第二波の日本側飛行機が9時に真珠湾上空にあわられた
ときには、炎や煙を通して、壊されたアメリカ船を見ることも難しいほどにな
っていた。すでに4隻が沈んでおり、アリゾナ号も、1,000人の乗務員を乗せ
たまま燃えさかる油とともに沈もうとしていた。

しかし今回は、アメリカ側も激しい砲火を浴びせかけた。ある日本人パイロッ
トは、まわりじゅうで、「爆弾が花のように爆発していた」模様を語った。午後
1時30分にやっと日本側は引き上げた。

破壊されて使えなくなった戦艦は8隻、死者は2,403人にのぼった。その夜、
日本の潜水艦の一指揮官は、「真珠湾は火でできたもののように、空を赤く染
めている」と報告した。
356世界@名無史さん:02/04/11 04:42
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941  ●真珠湾より  
 

  この事件は、それ以後アメリカ合衆国の歴史のなかで、赤く光りつづけて
きた。攻撃としては、この作戦は多くの面で失敗であった。 貯蔵されていた
大量の石油は手つかずのままに残り、その後の戦いでアメリカ艦隊が使うこと
ができた。また3隻のアメリカ航空母艦は、海上に出ていて真珠湾にいなかっ
た。したがってこれは、日本が必要としていたような破壊的な打撃を与えるに
はいたらなかった。

しかし政治的には、この結果、わずか数時間の間に、20年間にわたる孤立主
義がぬぐいさられることになったのである。世界の他の地域で起こっていること
が、自分たちには関係のないことだとアメリカ人は決して思わなくなった。

この日曜日の朝のように、アメリカ人が不意打ちを食らわされることも、決して
なくなった。淵田の飛行機が攻撃したのは1941年のことである。しかしそのと
き彼らが行ったことは、今日にいたるまで、アメリカ合衆国の政策に影響をお
よぼしているのである。

 
357世界@名無史さん:02/04/11 04:43
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941   
 
 ●年表

1915    21か条要求

1921    ワシントン会議。 ジョンソン法。

1922    九か条条約。四か国条約。

1931    満州事変

1936    日独防共協定

1937    ロ溝橋事件。日中戦争開始

1940    アメリカ議会、徴兵を認める。アメリカ、イギリスに駆逐艦 譲渡。

1941    武器貸与法。大西洋憲章。アメリカにある日本資産の凍結。       日本軍、真珠湾を攻撃。アメリカ、第二次大戦に参戦。

358世界@名無史さん:02/04/11 04:44
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
 19  ●真珠湾への道  極東1917〜1941   
 
さらに研究しよう

日本とアメリカについては、第20、21、27,28章も参照しなさい。

柳条溝事件について述べ、その後の事態でなぜ国際連盟の力が試されたか、
またなぜ国際連盟が行動に失敗したのかを説明しなさい。

両大戦間に、アメリカ合衆国はどのようなやり方で日本の力と影響力とを
抑えようとしたか。こうした方策がどの程度成功したかについて述べなさい。

「とくにアメリカの中西部では,ヨーロッパははるかかなたの地と思われてい
たため,大部分の人びとが,当時アメリカのなしうる最善のことはヨーロッパ
からまったく手を引き,ヨーロッパの問題をヨーロッパの人間自身に解決させ
ることだと、信じていた。」ヨーロッパでの第二次大戦へのアメリカの「庶民」
の態度は,どのような出来事によって変わっていったかを述べなさい。

次のそれぞれについて、簡単な説明を加えなさい。

a) ルーズヴェルトの「善隣」政策     b) 防共協定
c) 武器貸与計画            d) 山本五十六提督
 


359世界@名無史さん:02/04/11 05:08
>>356
 
>この事件は、それ以後アメリカ合衆国の歴史のなかで、赤く光りつづけて
 きた。

重い言葉で・・何だか、すごぉ〜〜く、残念・・でした。
日本が敗戦した後も、その後の米ソの冷戦や、軍拡競争や
の流れにもつながったと、やはり彼らは主張したいのでしょうか…?
アメリカに住む人たちは、やはりそういう認識をするのでしょうか。
敵はいつ攻めてくるかわからないから、常に準備(軍備)をしておこう
というような(軍拡の大義名分になってきたとか)

何か、非常ーに重く、残念に感じてしまいます。(転載者談またまた、、)
360世界@名無史さん:02/04/11 05:11
失礼しました。(コホン)つ、続きです。

続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)

21 ●ミッドウェーから広島へ

 ●極東における第二次世界大戦

  1941年にアメリカが日本に対して経済的制限を加えた結果,日本に残され
た道はただ二つだけになってしまった。

すなわち好戦的な計画を捨ててしまうか,それとも東南アジア全体を手に入れて,
産業上の原料供給地として開発していくかの二つであった。日本の攻撃的な指導者
たちに関する限り,第一の選択肢は問題外であった。第二の選択肢のほうは十分成
功する見込みがあるように思われた。

フィリピン、ボルネオ、モルッカ、セレベス、チモール、ジャワ、スマトラ、マラ
ヤ、タイ、ビルマの防衛は手薄であった。この地域に関心のあるヨーロッパ諸国の
うち、オランダはすでにドイツ軍に占領されていたし、アメリカ合衆国の準備が整
っていないのは明らかであった。また満州で日本に挑戦しても不思議でなかったソ
連は、ドイツの戦いに掛かりきりになっていた。

経験を積んだ日本の軍隊に対抗するものは、何千kmにもわたって散らばり、ばらば
らの部隊に分かれていた装備の不十分な軍隊にすぎなかった。また200隻もの軍
艦を有した日本海軍に対し、英米側が使いうる船は90隻のみであったし、飛行機
も、日本の7,500機に対し、1000機のみという有様であった。日本は意の
ままに軍隊を終結し、望む地点を攻撃することができた。
361世界@名無史さん:02/04/11 05:12
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  このような計画を脅かす唯一の要因であったアメリカ艦隊は、真珠湾攻撃で動
きがとれなくなったように思われた。真珠湾攻撃に続いて、日本の海軍機動部隊は、
南方に進攻し、フィリピン、マラヤ、タイ、ポルネオ、ウェーク島、グアム島、香
港を攻撃した。日本軍の攻撃はどこでも成功し、1941年12月の間だけで、
ウェーク、グアム、香港が陥落した。

マラヤやタイも日本軍に席捲され、極東におけるイギリス最大の基地であったシン
ガポールも、1942年2月に日本の手に落ちた。3月9日にはオランダ領東イン
ドが降伏した。

フィリピンでは、ダグラス=マッカーサー将軍に率いられたアメリカ軍が、果敢な
抵抗を行った。バターン半島とコレヒドール島で、彼らは何ヶ月もがんばり、日本
軍に多大の損害を与えた。しかし、食料や医薬品が欠乏してくると、病気が広がっ
ていった。バターンは4月に、コレヒドールはその翌月に降伏した。

1942年5月20日までには、イギリス軍はビルマ方面におしもどされており、
オーストラリアも日本の脅威にさらされていたし、東南アジアはすでに日本の支
配下に入っていたのである。
362世界@名無史さん:02/04/11 05:14
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  これらの地域が征服されてしまうと、戦いの中心は海上へと移っていった。
海では、海軍による戦争の革命ともいえるべきものが起ころうとしていた。

真珠湾攻撃の成功と、プリンス・オヴ・ウェールズ、レパルスという2隻のイギ
リス戦艦が日本の爆撃機によって撃沈されたことは、海軍軍人、とりわけ山本五
十六が何年も前から主張していたことの正しさを立証した。すなわち、大砲を発
射する軍艦は時代遅れであり、近代的な軍艦というものは、砲弾ではなく飛行機
を飛ばす航空母艦であるという主張である。お互いに戦っている艦隊が相手方を
直接に見ることなく行う新しいタイプの海戦も、いまや可能になった。

ドレッドノートが戦闘のために列を組むこともなくなった。航空母艦は大きな輪を
つくるように集まり、そのまわりを巡洋艦や駆逐艦が防衛のためのスクリーンを
つくる形をとるようになった。急降下爆撃機や魚雷投下のできる飛行機が爆弾の
かわりとなり、活動範囲も80km以上になった。勝利は、多くの航空母艦を沈
めたほうに帰することになった。

363世界@名無史さん:02/04/11 05:15
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  日本が当初たやすく勝利を収めたため、日本の指導者の野望はさらに膨れ上
がった。1942年5月には、ソロモン諸島を占領し、パプアのポート・モレス
ビーを攻撃するために、強力な艦隊がサンゴ海へと送られた。

しかし、日本側は知らなかったが、アメリカ側の専門家は、日本側の無線暗号を
解く鍵を発見していた。その結果、アメリカ側は日本軍の動きをあらかじめ知り、
サンゴ海でその行く手を阻むため、艦隊を終結した。

そこで、1942年5月、史上最初の航空母艦対航空母艦の戦いが起こることに
なったのである。この戦いで日本の航空母艦2隻が沈められ、アメリカ側は、レ
キシントン号を失った。破壊された飛行機の数は、アメリカ側より日本側のほう
が多かった。日本の侵略部隊は、ここではじめて撃退されたのである。
364世界@名無史さん:02/04/11 05:39
>>361
写真:1942年シンガポール占領後、視察する日本の将軍

>>362
写真:プリンス・オブ・ウェールズ沈没時のデッキの上の情景

>>363
地図:太平洋での戦闘地域、1942〜1945年
(表示)■日本軍占領地域 ーー日本軍の戦線最大域
  ★主要戦場、→連合軍の攻撃 …→連合軍の空からの攻撃

(地図は日本の教科書に載っているものの2,3倍はあるかと。
 見やすく、分かりやすい、です。どこに何の島があるのか
 わかるので、それらの場所へ行く機会-仕事,旅行など-がある
 としても、何も知らずに行くことにはならずに済むかと。
 ・・なんちて)


365世界@名無史さん:02/04/11 05:40
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

 ●転換点としてのミッドウェー海戦

  サンゴ海の戦いは日本側にとっては一歩後退にしかすぎなかったが、それに続
いて起こった事態は、日本にとっての惨劇となった。この年のはじめ、ジェイムズ
=ドゥーリトル将軍に率いられたアメリカ長距離爆撃機の一隊が、航空母艦ホーネ
ットから飛び立って、東京を爆撃していた。

この被害は軽微であったが、誇り高い日本の指導者たちは、深い屈辱感を覚えた。
彼らは、この攻撃の発生地は、ハワイ諸島への道をふさいでいるアメリカ軍基地、
ミッドウェー島に違いないと考えた。山本は、この島を攻撃するために強力な艦隊
を送ることを主張した。

これに疑問を覚えた日本側指導者もいたが、真珠湾攻撃の成功のあとで山本提督
に異を唱えることはできなかった。1942年5月、航空母艦5、その他軍艦
115,000人からなる艦隊が、太平洋を超えて送られた。
366世界@名無史さん:02/04/11 05:42
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  その名声がどうであれ、山本はいくつかの誤ちを犯していた。まず第一に彼は、
サンゴ海の海戦で破壊したアメリカ航空母艦は、1隻でなく2隻であると思いこん
でいた。第二に、その他の2隻の航空母艦も遠く離れたところにいると考えていた。
しかし、実際のところは、解読された暗号情報に従って、3隻の航空母艦が山本の
率いる機動部隊のほうへ接近してきていた。

日本側がミッドウェー攻撃をはじめたときになって、アメリカ軍の魚雷搭載機が
頭上に現れた。アメリカ側の最初の攻撃は撃退された。しかしそれから、いった
んは勝った日本軍の戦闘機が再び高度をとり、爆撃機に対船舶用の特別の爆弾が
装備されている間に、アメリカ機が数波にもわたっておし寄せて来た。

悪夢のような5分間に、山本の夢は、ほとんど打ち砕かれてしまった。3隻の日
本側航空母艦、赤木・加賀・蒼竜は、燃える石油、炸裂する爆弾、さらに魚雷に
よって引き裂かれ、炎に包まれた。次の日の朝には、この3隻とも沈んでしまい、
姿を消していた。4隻目の航空母艦飛竜は、自艦が破壊される前に、どうにかア
メリカ側のヨークタウンを撃沈することができた。

写真:沖縄に上陸するアメリカ軍
367世界@名無史さん:02/04/11 05:43
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  この戦いは、戦争の転換点となった。これ以後、日本帝国海軍は戦闘力と威力
を失っていった。その後、アメリカ側の潜水艦や飛行機が破壊する日本商船の数は、
毎月増加していった。

船が沈められるたびに日本の最大の弱点に致命的な打撃が加えられていった。大き
な商船隊がなければ、日本の産業への原料供給はしだいに絶えていくことになるの
である。そうすれば、日本の広い征服地もうまく開発されないことになる。

また制海権を保持するための強力な艦隊を持たないと、他の日本の努力もすべて先
の見通しが暗くなった。日本にとってのミッドウェーは、ドイツにとってのスター
リングラード同様、いわば、「終局の始まり」となったのである。
368世界@名無史さん:02/04/11 05:46
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  ルーズヴェルトと彼の助言者たちは、ヨーロッパと極東の戦争の中ではヨーロ
ッパの戦争のほうが重要であると考えていた。人員や装備の量も、太平洋に送られ
たものより大西洋を越えて送られたもののほうが多かった。「靴紐作戦」というぴっ
たりした名で呼ばれた作戦も、極東では存在した。

しかし極東におけるアメリカの陸海軍の指導者たちは、長い距離を隔て、ひどいジ
ャングルの中で狂信的な敵と戦うこのもっとも難しい戦争で、賢明な政策をとった。

日本の新しい帝国は、その形が、太平洋にまたがって広がる巨大な花にも似ていた。
その一つ一つの花は大小の島々であり、茎はそれらの間の船の航路であった。した
がってこれらの「茎」を切ってしまえば、小さな「花」の多くはしおれてしまうであろ
う。

そこでアメリカは、太平洋を横断する「かえる飛び」もしくは「島伝い」作戦をはじめ、
日本側にとって死活の基地や空港を手に入れるとともに、海路を封鎖し、その間に
ある島々への補給を絶とうとした。



369世界@名無史さん:02/04/11 05:51
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より

  このような作戦を実行するための装備は、アメリカ海軍に十分備わっていた。
両大戦の間にアメリカ軍の将軍たちは、ガリポリ作戦を研究し、その教訓を学んで
いた。

その結果、浅い水域の中を動くことができ、危険を最小限に抑えながら積荷を陸揚
げできる特別のタイプの上陸用舟艇が開発されていたのである。また、海中にいっ
たん入ってから浜辺に上陸できるような水陸両用のトラックやジープも用いられた。

しかし、こうした兵器を使っても日本軍を征服する作戦は困難な仕事になった。日
本人は降伏する人間を軽蔑した。彼らは、負け戦はすべて不名誉なものとみなし、
最後まで戦った。

ソロモン群島のガダルカナルはすぐに占拠できたが、日本軍は取って返してきて、
奪回のために7回にわたる戦いをいどんできた。最初は、日本軍のほうがアメリカ
海軍に大きな損害を与えた。しかしそれからアメリカ軍が補強部隊を呼び反攻に出た。

日本軍が最終的に奪回をあきらめたとき、アメリカ人が「鉄底湾」と名づけた、ガダ
ルカナルとフロリダ島の間の狭い水域では、船の破片や死体があちこちに散らばっ
ていた。
370世界@名無史さん:02/04/11 06:07
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)より

21 ●ミッドウェーから広島へ 

 ●レイテ湾とビルマ

  日本軍の補給が乏しくなってくると、戦いはアメリカにとって容易になって
いったが、それもごくゆっくりとした変化であった。オーストラリア軍がニューギ
ニアのジャングルを確保している間に、アメリカ軍はばったのように島伝いに日本
へと迫っていった。

1943年11月にはギルバート諸島が奪回された。その2ヵ月後には、10万人を
超える大量のアメリカ軍によって、マーシャル諸島が占拠された。
1944年6月までに、日本の内側の防衛線を形成していた、マリアナ、テニアン、
グアムの諸島がアメリカの手に落ちた。日本帝国が崩れていくにつれて、日本本土の
危険性は増していった。

371世界@名無史さん:02/04/11 06:09
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●レイテ湾とビルマより 

  日本人側から見た場合の危機は、1944年10月、マッカーサー将軍が軍隊
を率いてフィリピンに上陸したときに到来した。

写真:上陸するマッカーサー将軍

日本人には、自分たちがフィリピン諸島を失うなどとは考えられなかった。フィリ
ピンを持つことによって、日本はそこからオランダ領東インドへの海路も支配し得
た。一度フィリピンを失ってしまうと、日本艦隊はその生命を保つ血液ともいえる
石油の供給を絶たれることになる。

そこで、日本軍の司令官が「フィリピン喪失という犠牲を払って、艦隊を救ったとこ
ろで何にもならない」と述べたように、帝国艦隊のすべてをここでかけたほうがよい
と思われたのである。その結果として、この戦争中最大の海戦がレイテ沖で行われた。

ここではアメリカ側が真珠湾の敵を討とうとし、急降下爆撃がうなり声をあげ、魚
雷が目標めがけて突進し、巨大な船が煙と蒸気を吹き上げながら姿を消していく光
景が見られた。戦いが終わってみると、日本海軍は航空母艦4隻と戦艦2隻とを失
っていた。

いっぽう陸上では、死ぬ決意を固めた兵士たちが、アメリカ軍の前進を食い止めよ
うとして、激しい犠牲を払っていた。フィリピンの首都マニラが最後に陥落したと
きには、日本軍の死者は17万人にのぼっていたのである。
372世界@名無史さん:02/04/11 06:10
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●レイテ湾とビルマより 

  そこから遠く離れたビルマとアッサム地方では、イギリス軍とインド軍が、簡
単には勝てる方法のない、報いの少ない戦いを行っていた。ジャングルを少しずつ、
また山や丘を一つずつ、巧みで無情な敵から奪い返していかねばならなかったので
ある。

この困難な土地で、ウィリアム=スリム将軍に率いられたイギリス第14軍は、ビ
ルマルートを再開し、中国に補給物資を送り届けるために、一連の作戦を行った。

こうした作戦を助ける目的で、オード=ウィンゲイト将軍は、チンディッツと呼ば
れるゲリラ部隊を率いて、日本軍の戦線の後方に回り込んだ。この人々は、まわり
を敵に取り囲まれ、空から補給を受けながら、奇妙な緑の世界のなかで暮らすこと
になった。戦いによる傷以外に病気で死ぬものも多かった。
373世界@名無史さん:02/04/11 06:16
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●レイテ湾とビルマより 

  日本側はイギリスに対して、戦闘力を集中した。中国側への攻撃は、実った米を
だめにするための、毎年お決まりの攻撃の域をほとんど出なかった。

1944年3月日本軍はアッサムに侵入したが、激しい戦闘が3ヶ月間続いたのちに
インパールで敗北し、イギリス軍はビルマに進攻することができた。このとき以降、
日本帝国軍隊は、守勢に立ち徐々におしもどされていった。15ヶ月にわたる戦闘で、
日本側では347,000人にのぼる人々を有した3個軍師が滅ぼされたのである。

1945年1月にはビルマルートが再開され、シンガポールとラングーンは連合国側
の爆撃にさらされることになった。その夏には、サー=ルイス=マウントバッテンの
率いる軍隊が、マラヤ再征服のための準備を整えた。

写真:空の砦、エノラ・ゲイ号
374世界@名無史さん:02/04/11 06:17
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●レイテ湾とビルマ より

  しかし、この準備は結局必要がなかった。フランクリン=ディー=ルーズヴェ
ルトも1945年4月の彼の死後、あとを継いで大統領となったハリー=トルー
マンも、日本への進攻作戦を懸念していた。

彼らは、死ぬまで戦おうとする気違いじみた敵を、もっと少ない犠牲で打ち破れ
る手段を探し求めていた。一つ可能な手段と思われたのは空襲であった。

1944年11月以降、日本は歴史上もっともひどい空襲にさらされた。たとえ
ば、1945年3月9日には、東京の41k平方キロメートルにおよぶ地域が焼
かれ、78,000人の人々が殺された。


375世界@名無史さん:02/04/11 06:18
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●レイテ湾とビルマ より

こうした空襲を助けるため、日本本土のより近くからアメリカ機を飛ばせようとし
て硫黄島と沖縄の二つの島が攻撃された。敵はそれに激しく抵抗してこたえ、降伏
するものはほとんどいなかった。海上では、神風に乗ったパイロットたちが、アメ
リカ戦に突っこんで死んでいった。

その結果、これら二つの島を手に入れる過程で15,000人のアメリカ兵が犠牲
となった。こうした損失が、アメリカ軍の最高司令部の不安をさらに増した。

日本本土から数百kmもはなれた島での防衛戦がこんな状態であれば、本土それ自
体に進攻したときは一体何が起こるだろうかと、彼らは考えた。

1945年7月13日に日本政府がソ連に対し、平和交渉を助けてくれるように求
めたのは確かであったが、多くの日本人が、天皇を失いはしまいかと考えて無条件
降伏に反対していたことはよく知られていたし、また陸軍の指導者の何人かは、最
後の最後まで戦うことを望んでいたのである。 
376世界@名無史さん:02/04/11 06:50
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖 は、後日。
(でも打ちこんであるので、そんなにおそくならないと思います。
 前回のようには。。。f(^^;)エヘ 
 なにかこしょうとか、じことかないかぎり、ちゃんとこれると
 思います。おもいます。。(あ、あらしもないほうが←ゼイタク)
  ・・・だ、だいじょうぶ。。。。(◎_◎)ウン。

 ξ(^^;)ウフ また来ます〜
377(゚Д゚)ハァ?:02/04/11 09:58
だいじょうぶか?
378世界@名無史さん:02/04/11 10:08
神が舞い戻られた。
379名無し:02/04/11 18:32
>>1さん、面白かった。
期待してます。
380世界@名無史さん:02/04/11 22:57
御降臨挙げ。
381世界@名無史さん:02/04/12 00:02
イギリスの教科書の方が日本の教科書よりしっかりしてるなぁ
382名無し:02/04/12 13:21
>>「日本の平和を愛する首相、近衛文麿(このえふみまろ)」

ここでチョットワラタ、オイオイ(wって感じで。
まぁ、教科書だしね・・
383世界@名無史さん:02/04/12 22:02
転載者(334~)です。ご無沙汰しました-m(,,)m

>>377さん
 だ、だいじょうぶです。(((⌒-⌒*)エエ
>>379さん
 ありがとうございました。
>>378さん、380さん。。
スレが残っていてうれしいです。(≧v≦)
 でもあたしゃ神さまではありませんです。。(・_・;)
>>381さん
 はい。状況描写をきちんと書いてくれているので、読みやすい
 ですね。どうして自分の教科書はつまらない(^^;)のかなぁと
 思ったら、状況描写がない、ことに気づきました。(^_^)
>>382さん
 ほっ?(・・)(←いえ、このえふみまろさん・・お公家さん
          のよ-な名前だぁ・・と思った位で、あとは
          よくわからなかったもので・・f(・・)ポリ,,)

 
 では、今後も続けられるかどうか自信はないのですけれど・・・
 (_ _)よろしくお願いします。
384世界@名無史さん:02/04/12 22:04
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)より
21 ●ミッドウェーから広島へ  

 ●広島での恐怖

  日本が平和への可能性を探りはじめてから3日後に、こうした状況を一変さ
せるニュースがアメリカでもたらされた。

原子が他の原子とぶつかって分裂すると、強力な爆薬の何百倍ものエネルギーが出
るということを、科学者たちはしばらく前から知っていた。

1939年、3人の物理学者、アルバート=アインシュタイン、レオ=シラード、
エンリコ=フェルミが、ファシストによる迫害を逃れて、アメリカに亡命してきた。

彼らはルーズヴェルトに対し、もしもナチスがこのような爆弾を生産した場合、
世界が危機に陥ることになると警告した。





385世界@名無史さん:02/04/12 22:05
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖 より


最初ルーズヴェルトは、これについてほとんど何も手を打たなかったが、アメリ
カ合衆国が参戦すると、核兵器研究のための特別施設をつくらせた。
しばらくすると、フェルミが、核爆弾製造にむけての中間段階となる核分裂制御
連鎖反応を生み出した。

作業が実験段階から工場段階の規模となってくると、それに必要な労働者や設備
を入れるため、テネシー州のオークリッジに、新しい町が建設された。
最後に実験を完成するための場所として選ばれたのは、ニュー・ネキシコのロス
・アラモスであった。このさびしい地点で、1945年7月16日、400km離
れたところでも見えた閃光がきらめいたかと思うと、すぐに紫色とオレンジ色の
火の玉になっていった。

爆発装置を支えていた高い塔は溶けてなくなってしまった。人類史上における新
たな時代がはじまったのである。

 
386世界@名無史さん:02/04/12 22:06
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より 

  トルーマン大統領は、この恐ろしい実験に、戦争をすみやかに終わらせる道
を見いだしていた。

1945年8月6日、ポール=ティベッツ大佐の指揮するB29爆撃機、エノラ・
ゲイが、核爆弾を積んで、日本の都市広島上空に飛来した。

美しい夏の朝の8時15分のことであった。町は明け方の太陽の斜めにさす光に
照らされ、きらきら光る部分と暗く陰になった部分とがキルトの模様のように組
み合わさり、大田川が銀色の線となって全体を2分していた。
ティベッツの機の照準係は、大田川の最も広い地点の一つに掛かっている橋に、
照準器のねらいを定めた。

爆弾投下室の扉が開かれ、4,500kgもある細長い形をした爆弾が落とされ
た。大きな爆撃機もこれほどの重い荷物を落としてしまうと、激しく上方に跳ね
上がった。

その43秒後、初めての原子爆弾が人類の上で爆発した。

387世界@名無史さん:02/04/12 22:08
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より 

  その恐ろしい瞬間に経験したことについて、生存者たちはそれぞれ違ったこ
とを語っている。

最初は何の音もせずただ目をくらませる閃光(せんこう)が見えたらしい。エノ
ラ・ゲイの後尾にいた射手は、中心部が摂氏1億度もある火の玉が風景の上に広
がっていくにつれて、世界が紫色になっていったのを見ている。

日本人のあるものは、真っ黒であったというし、あるものは虹の色のようなもの
を、また他の人々は青と金の花の形をしたものを見たという。多くの人々は、ま
るで巨大な写真用のフラッシュバルブがたかれたようだと感じた。

この結果、広島の中心部は天火と化し、何千人もの人々がその中で焼かれて、燃
え尽きてしまった。人間がいた場所を示すものといえば、ぼやけた写真のように
永久に焼きつけられた、人体の影だけであった。もっと離れたところでは、放射
能と火によって、人々はもっとゆっくり、しかし恐ろしい死にかたをしていった。

広島市から何kmも離れたところに住んでいた人びとでさえも、爆発によってす
べてが黒くなってしまったのに気づいた。人々の顔も、体も、さらに本のページ
さえ、その影響を受けたのである。

 
388世界@名無史さん:02/04/12 22:08
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より 

  最初のひどい熱に続いて、次には時速800kmに達する風速の風が巻き起
こった。それによって木は根元から抜け、建物は平らにされてしまうとともにガ
ラスが飛んで「雨」となって降り注ぎ、人々をずたずたにしてしまった。
衣服は裂け、爆発地点の下にあった柱は地面に真っ直ぐにもぐりこみ、葉っぱの
緑が危険な物体として、人々の体に食い込んでいった。

港では、このつむじ風のために大波が起こり、助かろうとして水中に飛び込んで
いた人びとの多くがおぼれていった。それと同時に朝食を作るために用いられて
いた木炭のコンロが火を吹き、爆弾によって点火された巨大な炎をさらに大きく
していった。

木と紙でできた壊れやすい家々は、激しく燃えさかり、大きなビルディングも、
炎に包まれて倒れていった。半狂乱になった人々は通りを必死に走ったが、彼ら
の顔は真っ黒になっており、皮膚は帯状になって引きずられ、目は飛び出してし
まっていた。
389世界@名無史さん:02/04/12 22:09
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より 


ある人は、何年ものちになって、次のように追憶している。

「私は死体が積み重なっている上に登って行きました。死体は幾重にも重なって
いました。中には動いているもの、生きている者もいました。でも私はそうした
人の上を越えていかねばなりませんでした。そういった人たちの骨の折れる音が
今でも耳に聞こえてきます。」

その後、何時間にもわたって、人々は死んでいった。広島の13平方kmの地域は、
あるアメリカ人の観察者が、「 巨大な、汚れた、灰色の、そしてさびのような茶色
をしたしみ 」 と化してしまったのである。

遠く離れた上空では、別のアメリカ空軍兵が6km以上も立ちのぼったきのこ状の
雲を見て、「神よ、われわれは一体何をしてしまったのか」と叫んでいた。
390世界@名無史さん:02/04/12 22:11
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より

  通常の空襲によっても、広島で死んだ8万人以上の人々がすでに殺されてい
た。しかし、この状況はまったく異なっていた。

何週間も後になって、犠牲者たちはわけのわからない病気で苦しみはじめた。彼
らの皮膚は形が変わり、小さな出血があちこちに現れた。髪の毛が抜け落ち、そ
して彼らは死んでいった。そのとき以来、放射能によるこうした病気、日本人が
「原爆病」と呼ぶものによって、人々はつぎつぎに死んでいった。

今日でも、1945年8月には生まれていなかった人々でさえ、その日にばらま
かれた放射能や、のちの核実験の影響を受けて、苦しんだり、死んでいったりし
ているのである。

ストロンチウム90のような放射性物質は、核爆発によって放出され、何千km
も離れた地上に降り注ぐ。そこで大地に吸収され、植物の中に取り込まれていく。
この植物を食べた動物の肉やミルクを通して、毒は人間にまで達する。人体に入
ると、放射性物質はガンなどの病気やいろいろな苦しみを引き起こし、ときとし
て死をも招く。

 したがって、広島に落とされ、それでもなお日本政府が降伏しなかったために
3日後に長崎に落とされた原子爆弾は、今なお何の罪もない人々を苦しめつづけ
ているのである。
391世界@名無史さん:02/04/12 22:12
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より

  この悪夢がもたらした唯一のよい結果は、戦争の終結であった。日本の軍人
の中にはまだ戦いつづけようとした者もいたが、天皇裕仁は賢明にも、降伏を国
民に命じ、アメリカ兵が日本にやって来たときには、何の抵抗も起こらなかった。

1945年9月2日、日本代表は東京湾のミズーリ号艦上で、マッカーサー元帥
に降伏した。そのあとで、マッカーサーは、ラジオを通じてアメリカ国民に次の
ように語りかけた。

「時の始まり以来、人類は平和を求めてきた。・・・・軍事同盟、勢力均衡、国際
連盟、そのすべてが失敗し、残った唯一の道は・・・・戦争となった。しかし戦
争の持つ破壊力そのものが、今や戦争というこの選択肢を消し去ってしまう。
われわれには、最後のチャンスが与えられたのだ・・・・・」と。
392世界@名無史さん:02/04/12 22:13
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ  ●広島での恐怖より

 ●年表

1941〜42年  日本、東南アジアに進出。シンガポール陥落。サン           ゴ海の海戦。ミッドウェーの海戦。

1943年     アメリカ、島伝いの攻撃開始。

1944年     フィリピンをアメリカ奪還。レイテの戦い。ビルマ           で日本軍、イギリス軍に敗れる。

1945年     沖縄と硫黄島の戦い。アメリカのニュー・メキシコ           で原子爆弾の実験成功。広島と長崎、原子爆弾で破壊。
          日本降伏。


393世界@名無史さん:02/04/12 22:14
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ より

 ●さらに研究しよう

1. 「われわれは、もっとも弱い状況下で、攻撃にさらされていた。つまり、
   船の甲板は、攻撃に出かけようとして装備した飛行機で一杯になってい
   たのである。」(1942年のミッドウェー海戦の際の、航空母艦赤木
   の状況についての、日本軍の一将校の証言。)。

 a) ミッドウェーでの日本軍の敗北につながった山本提督の誤算は何か。

b) そもそもまずミッドウェー諸島を攻撃しようと決意した日本の指導者の
   動機は何であったか。

 c) 第二次世界大戦中の日本軍とアメリカ軍の間の太平洋での戦いは、ど
   のような点で、新しいタイプの海戦だったといえるか。

2. 日本に対する戦いでアメリカが用いた「島伝い」戦略を説明し、その
   結果行われた主要な戦闘を記しなさい。

3. 次のそれぞれについて、短い説明を加えなさい。    

   a) サンゴ海の戦い          b) チンディット作戦

   c) 広島               d) ストロンチウム90

 
394世界@名無史さん:02/04/12 22:19
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)より

27  失敗した革命と成功した革命
    1945年以降の極東

  東南アジアにおける半植民地感情は、第二次世界大戦中の日本による占領で、
強まっていった。ジャングルにひそんで、日本兵と戦ったゲリラは、のちになると
同じ戦術を用いて、もとからのヨーロッパの支配者と戦うことになった。インド
ネシア人はオランダ人がもどってくるのを望まなかったし、ヴェトナム人はフラ
ンス人がもどってくることを欲しなかった。

しかしこの点を除くと、彼らの戦いの動機はさまざまであった。反乱の指導者た
ちは、しばしば自分たちのことを共産主義者であるとか自由主義者であるとか考
えていたが、農民出身のゲリラ兵たちは、そうした考え方には無縁であった。

彼らは自分たちを貧しくした地主に対し、自分たちにひどい扱いを加えた政府に
対し、戦っていたのである。彼らは自分たちの土地を愛し、外国人を憎むがゆえ
に、苦闘し、そして死んでいった。
395世界@名無史さん:02/04/12 22:23
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
27  失敗した革命と成功した革命 1945年以降の極東より

  日本

 敗戦国日本は、数年の間、アメリカの能率的な統治下に置かれた。アメリカの
指示によって、日本の軍備はすぐに解体された。

東条その他の軍人指導者は、裁判にかけられた末、戦犯として処刑され、好戦的
宗教となっていた神道は、国家宗教ではなくされた。

天皇裕仁は、神としての扱いを受けなくなり、その立場はイギリスの国王に似た
ものとなった。

民主主義の再建のため、さまざまな政党の発展が許容された。戦前の教科書、
とりわけ歴史の教科書は偏向して国家主義的であったため、廃棄される必要が
あった。何年かの間、日本の教師と生徒は印刷された歴史の本を持つことなく
過ごしたのである。
396世界@名無史さん:02/04/12 22:24
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
27  失敗した革命と成功した革命 1945年以降の極東 日本より


 アメリカの支配は多くの点で日本のためになった。たとえば日本人に強制され
た農地改革によって、働き者の農民に多くの土地が与えられ、彼らは農業の近代
化を行っていった。効率的な食料生産によって、1976年までに1億1,200万人に
達した人口への食料供給が行なわれた。

間接的ながら、日本のおかれた地理的条件のために、アメリカが朝鮮戦争(1961
~53)に乗り出したとき、日本はアメリカ軍にあらゆる種類の物資を供給するセ
ンターとなっていた。朝鮮戦争の結果、日本の工業は飛躍的にのび、多大の利益
をあげた。

1970年代中葉の日本の鉄鋼生産は、二つの超大国、ソ連とアメリカ合衆国につ
いで世界第3位となった。安いけれども品質の悪い品物をつくる国としての戦前
日本のイメージにかわって、高品質の製品を生産するきわめて近代的な国家とし
てのイメージがいだかれるようになった。

397世界@名無史さん:02/04/12 22:25
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
27  失敗した革命と成功した革命 1945年以降の極東 日本より

 1974までに、日本は世界最大の、最も近代的な造船国となった。日本はまた
他のどの国よりも多くの商業用車両を生産し、原子炉を開発し、非常に性能の
よい鉄道システムをつくり出している。繊維産業を加えて日本は最高級のカメ
ラ・オートバイ・自動車・テレビ・光学機械、それにあらゆる種類の精密機械
を生産しはじめた。

しかもこの「経済的奇跡」は、原料資源に恵まれないなかで実現したのである。
この原油のほどんどすべては中東のアラブ諸国から輸入されている。しかし、
買うよりもはるかに多くを売ろうとする日本の政策は、経済上の競争相手の怒
りを呼んだ。

たとえば1976年にはECのヨーロッパ諸国が、自分たちの国からの
輸入をもっとふやすように日本に求めた。これらの国は、自国のかせぎの多く
を占める分野ー鉄鋼・造船・自動車・電気・電子機器ーで日本の成功が脅威に
なっていることを心得ていた。

398世界@名無史さん:02/04/12 22:28
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
27  失敗した革命と成功した革命 1945年以降の極東 日本より

 1973年にアラブ諸国とイスラエルの間で戦われた「ヨム・キプル」戦争に
際し、アラブ諸国が原油価格を吊りあげる政策をとったことによって、日本
経済の成長速度は、1945年以来はじめて低下した。原油価格が4倍に上がっ
ても、日本に支払い能力あったし、またアラブ諸国は日本と争う原因を持って
いなかった。

しかし、日本が外国からの石油供給に頼りきっていたために、経済は激しい
打撃を受け、倒産や失業がふえていった。戦争中の日本には、「石油の一滴、
血の一滴」という標語があった。今や石油を手に入れるために戦争に訴える
ことはできなかった。日本は、経済の命の血ともいうべきものの流れを保つ
ために、より多くの代価を支払わざるを得なかった。

 自分たちの国の発展の仕方に、日本人がすべて満足しているわけではない。
ちょうど戦争前に国が軍国主義化していった状況に似て、ほとんどつねに
実業家によって牛耳られている政府は、物質的な事柄のみを問題にしている
ように思われた。

日本の産業発展のために必要とされた多大な努力は、さまざまな都市で、
ほかではアメリカ一部のみで見られる規模の公害を生み出した。日本が
1980年代に入っていくにあたっては、日本の産業の将来についての疑問
に加え、伝統的な文化の破壊に対する抗議も問題となってきている。

写真:日本の超特急列車(新幹線の写真です)


399世界@名無史さん:02/04/12 22:36
転載者(334~)です。込まないでアップできるかなと
>>383>>398までsageで載せました。内容の続きは、
>>384からです。/(_ _)ヨロシク-
400世界@名無史さん:02/04/12 22:49
半角板以外で神を見たのは初めてです(w
401世界@名無史さん :02/04/13 00:40
すごい感謝しています。
こういったものを見る機会はなかなか難しいですので
402世界@名無史さん:02/04/13 01:24
激しく感謝します。
明日遅刻したら、どうしよう、
共同かいはつ!という方法もある。。(w
たとえば,イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリア、中国、韓国、アジア
諸国などの専門家と共同開発して、あれこれ作ってみる、という方法もあるかと。

http://news.searchina.ne.jp/2002/0313/general_0313_002.shtmlより

>広州:外国人専門家が編纂した教科書を導入
>発信:2002/03/13(水) 11:19:31

>『新華網』北京12日付報道によると、現在中国の英語教材には「How
> old are you?」や「中国式英語」が使用されているが、広
>州市の小中学校では今秋から英語を母国語とする外国人専門家と共同編纂
>した新英語教材を使用することが決定した。

>同教材は中国と外国の歴史、地理、動植物、天文、環境保護、科学、地方
>風物、地方特産物、伝統祭日、風俗文化などこれまでにない幅広い題材が
>扱われ・・・

>生徒にさまざまな話題を提示し、自由に討論することで語学能力を高めて
>いく
404403:02/04/17 07:14

共産国家であり、資本主義国でもない中国が、かつての敵国イギリスの専門
家と共同で教科書を作っている、というのが、とても現実的な中国
らしくって、ありゃま、と思ったので、持ってきました.

中国華僑の人たちの言語習得能力には、驚くものがあって、
学習方法も無駄がなくて、独特で、すごいなぁ
と・・日本でも同じやり方でやったら、かなりの人が、
一、二年もあれば、一つの国の言葉(外国の)を習得できる
のになぁ・・・と思ったことがあったのですが・・

何というか・・・現実的な中国、民主化もしてないけれど
経済的に解放が始まったら、教科書作りからして
この変化の早さ、日本は、民主国家だし、資本主義国だから
どんどん良い教科書を世界中の専門家と相談して
開発して、良いものを作ったところから学校や生徒や両親など
が選択できるようにする、とか、どんどんしたらよいのに・・

と思いましたが・・どうしてできないの、でしょうね??

(ただ、英語が話せて、漢字の書けない中国人とか、日本人とか
 の子供になってしまうことの危惧を持つ人がいることも、その
 気持ちも、ちっとわかるので、できたら、語学ができる子には
 3つも4つも使いこなせるような能力をつけられる方法って
 導入できないのでしょうか。できたらすごいのにね。華僑や
 白人さんたちの中には、結構いますよね。不思議ですけれど)
405世界@名無史さん:02/04/18 07:13
>>382,383 近衛文麿首相関連のページ

遺書その他

ttp://www4.justnet.ne.jp/~border/dazai/konoe.html

僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居る
が、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪え難い事で
ある。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。
そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全
力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残
念に思う。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえそこに多少の知
己が在することを確信する。戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長
と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基ずく流言飛語と是等興論なるも
のも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷
に於て正義の判決が下されよう。(遺書)

近衛文麿 1945/12/15
--------------------------------------------------------------------------------

写真も、見つけました 近衛文麿首相
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/34.html

東条英機首相
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/40.html
406世界@名無史さん:02/04/18 07:14
おもしろいページ見つけました。

『普及版』歴史概論 近衛文麿 
ttp://www.asahi-net.or.jp/~xr6k-msd/japan/konoe.html
『普及版』歴史概論 蘆溝橋事件
ttp://www.asahi-net.or.jp/~xr6k-msd/event/rokokyo.html

407世界@名無史さん:02/04/18 09:06
あげ
408世界@名無史さん:02/04/18 10:11
>403-404
君は未来の教科書を心配する前に自分の教科書をよくよみなおしたまへ

せめてスレ題くらい読んでくれなくては教育の甲斐が無い
409世界@名無史さん :02/04/18 10:24
>>406
このサイト前から知ってるけど
裏面史が歴史の真実かのような表現が鼻につくし
親しまれるために歴史がかくもデフォルメされなければならない
日本って一体何?と情けなくなるね
410世界@名無史さん:02/04/18 13:00
なんつーか日本の教科書よりもイギリスの教科書の方が
原爆の描写が詳しいのはどういうわけだw
411世界@名無史さん:02/04/18 19:02
>409
要するに、うしろめたいことがあると認めてるも同様。
412世界@名無史さん:02/04/18 20:57
>>411
うしろめたい・・・?
イギリス教科書のような「簡易にして機能的な歴史叙述」を
「日教組系」教科書が果たせず
「つくる会」教科書が果たした(誤謬は多数あったけれども)のは
そういう背景からなのだろうか?
413認識台湾:02/04/20 20:19
台湾の史実を正確に把握する @
教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む

台湾の中学校では、一九九八年秋の新学期から新しい歴史教科書『認識台湾』
(歴史篇)が使用されるようになった。従来の歴史教科書は中国大陸の歴史を中心とし、
台湾に関する記述はほんのわずかだった。
しかし、新たな教科書は「先人が台湾を開発した史実を認識し、
団結と協力の精神、郷土を愛し国を愛する情操を養う」(同書巻頭文より)ことを目的として編纂されている。
同教科書は「先史時代」、「国際競争時代」、「鄭氏統治時代」、「清朝領有時代前期」、
「清朝領有時代後期」、「日本植民統治時代の政治と経済」、「日本植民統治時代の教育、学術、社会」、
「台湾における中華民国の政治的変遷」、「台湾における中華民国の経済、文化、社会」、「将来への展望」の
十の区分に分けられ、日本統治時代の二項目は全百十六頁のうち二十九頁が当てられ、
詳述されるとともに新たな解釈が加えられている。本連載はこの二十九頁分を全訳したものである。
414認識台湾:02/04/20 20:19
第七章 日本植民統治時代の政治と経済

は じ め に

 日清戦争後、日本は台湾を取得し、台湾総督府を開設して五十一年の植民地統治を開始した。この変化に対し、
台湾官民は当初「台湾民主国」を樹立して日本の接収に抵抗し、つづいて二十年もの長期間にわたり、
対日武装抵抗をおこなった。日本は力で抵抗を鎮圧する一方において、総督府による専制統治体制を確立し、
さらに警察と保甲制度を運用して台湾社会をうまく統制していった。経済面では初期に農業を改革し、
台湾を日本への米と砂糖の供給地となし、後期には工業化を推進して台湾を日本南進の補給基地とした。
第一節 台湾民主国と武装抵抗
●台湾民主国の抵抗
 西暦一八九五年(清の光緒二十一年)四月、中日両国は下関条約を締結し、台湾・澎湖を日本に割譲した。
台湾官民は再三にわたって清廷に撤回を求め、同時に列強の支援を得ようとしたが、ことごとく失敗し、
自己努力を残すのみとなった。五月二十五日、「台湾民主国」を樹立して巡撫の唐景(山+岩)を総統に推挙し、
議会などの機構を開設し、丘逢甲を義勇軍の指揮官となし、日本の接収に抵抗した。
 しかし、日本軍の上陸後すぐに守備隊は壊滅し、唐景(山+岩)や丘逢甲らは相次いで中国大陸に渡った。
六月、日本軍は台北に入り、台湾統治の開始を宣言した。台南に陣取る劉永福は軍民を指揮して抵抗を継続した。
六月下旬、日本軍は南下し、各地の民衆はつぎつぎと義勇軍(注@)を組織して在台の新楚軍(注A)、黒旗軍(注B)と
勇敢に抵抗したが、最後には日本軍との兵力、武器の大きな差により、つぎつぎと敗退していった。十月下旬、
劉永福も守備を放棄して大陸に渡り、日本軍は台南を占領し、民主国の抵抗は完全に崩壊した。
 日本は台湾軍民の勇敢な防衛抗戦に対し、大軍を出動させて鎮圧した。台湾軍民で戦死もしくは殺害された者は
一万四千人の多数にのぼり、犠牲は大きかった。
415認識台湾:02/04/20 20:20
●各地義民の武装抵抗
 一八九五年十一月、台湾総督府が全島平定を宣言したあとにも、各地には武装抵抗事件が相次いで発生した。
各地の義民による武装抵抗は、およそ前期と後期の二期に分けられる。一九〇二年までを前期とし、
この時期の抵抗は、屍を乗り越えていくというものであり、参加した民衆は多い場合で数千人、
少ないときでも数百人で、その大部分はゲリラ戦法をとり、日本人の虚を突き大きな打撃を与えた。
 当初、総督府は残酷な報復的鎮圧を展開し無差別的殺傷を進め、かえって民衆を抗日へと駆り立てるところとなった。
その後「三段警備制」の実施に改め、治安状況によって全島を危険、不穏、安定の三区分に分類し、
区分ごとに軍隊、憲兵、警察が警備に責任を負ったが、効果はあまりなかった。一八九八年、
総督の児玉源太郎は積極的に鎮撫と策略の方法を採用し、警察力を拡充し壮丁団(注C)を活用して武力鎮圧を
進める一方、招降策を定めて抗日勢力の投降を勧誘した。一九〇二年、各地の抗日勢力はつぎつぎと崩壊し、
民間が所有する武器をすべて没収し、この七年間に抗日運動に加わって戦死あるいは逮捕殺害された者は一万人余に達した。
 一九〇七年から一九一五年が後期となる。この時期に、台湾各地で前後して十を越す民族革命的な抗日事件が発生し、
各事件はいずれも一挙に在台日本人を殲滅し駆逐することを謀議していた。しかし、参加人数は苗栗事件、
西来庵(現在の台南市内に存在)事件が相応の規模であったのをのぞき、
その他はわずか十数人から百余人程度のものであった。
 当時、総督府の台湾社会に対する統制は非常に厳格で、
各事件は謀議の段階で総督府に察知されるところとなっていた。一九一三年、苗栗事件で死刑に処せられた者は、
羅福星など二十人であったが、いずれも刑場において死への気概を従容として示し、
このため現場の日本官憲を感動させた。一九一五年、西来庵事件によって逮捕された者は二千人近くに達し、
最終的に処刑された者は余清芳ら百余人であった。
●霧 社 事 件
 一九三〇年十月、霧社地区の先住民は日本官憲の横暴と圧迫を不満とし、頭目モーナ・ルーダオの指揮下に
学校の運動会に参加していた日本人に突撃して百三十四人を殺害し、武器と弾薬を奪い、そのあと山中に撤退した。
 事件発生後、総督府は軍隊と警察二千余人を召集し、爆撃機や毒ガス等を使用して強力な鎮圧を展開した。
霧社の先住民は五十余日にわたって抵抗したが、結局失敗し、当初一千四百人であった人口がわずか五百人となった。
翌年四月、日本警察は親日先住民を使って攻撃し、ふたたび多数を殺害した。
 この事件によって総督府は先住民政策を再検討せざるを得なくなり、台湾総督など関係官吏は引責辞任をした。

416認識台湾:02/04/20 20:25
台湾の史実を正確に把握する A
教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む

第七章 日本植民統治時代の政治と経済
第二節 政治と社会の統制
総督専制の統治体制

 一八九五年、台湾総督府が設立され、総督が軍事、行政の首長となった。
翌年、日本政府は台湾を新たに得た植民地として、不平等待遇によって台湾人を蔑視し、
「法律第六十三号」(「六三法」と略称)を公布し、立法制度を委託して台湾総督に法律の効力を
有する命令を発布する権限を付与した。台湾総督が最高の長官となり、人事の任免権、
議会の管轄権、さらに陸海軍の統帥権を有し、立法・行政・司法ならびに軍事の大権を総括したと言える。
地方制度として当初は県を設置したが、のち庁制に改められた。一九二〇年には州制となった。
地方行政機関は一貫して自主権と自治権に欠け、まったく上層部の命令を公的に処理する機関となっていた。

 典型的な警察政治

 日本植民地統治の初期、総督府は武装抵抗勢力を鎮圧して治安を維持するため、
絶えず警察力を拡大し、全台湾に厳重な警察網と警察力を配備した。
同時につぎつぎと警察の権限を拡大し、すべてを管轄するようになった。警察の権限は以下の通りである。
一、法律の執行と公共秩序の維持。
 たとえば公共の集会を監視し、軽度な刑事事件を審理し、アヘンの吸飲を取り締まり、小型金融業などを管理した。
二、地方行政府の一般行政業務推進への協力。
たとえば条例の広報、収税、戸籍の管理、戸籍調査などをおこなった。
三、先住民部落の管理。
 総じて、地方行政は警察が中心となり、いかなる業務にも警察が関与し、
警察が台湾社会を統制する強大な力を有し、人々はその専制的な処置と
台湾民衆の日常生活までへの関与を畏怖し、このため「典型的な警察政治」と呼ばれた。

 保甲制度と社会の統制

 清代における台湾の保甲制度は、主として行政府の防犯と地方の社会秩序維持のためのものであった。
総督府はさらにこれを活用し、全面的な保甲制度を確立し、隣保責任連座制度を実施し、
保甲を警察の補助機関とした。その構造は、十戸を一甲とし、十甲を一保となし、
保には保正を、甲には甲長を置くものであった。
 保甲の主要な任務は、戸籍調査、住民出入りの監視、伝染病の予防、道路や橋の補修、
義務労働などであった。同時に、保甲の青年男子で壮丁団を組織し、抗日分子の鎮圧と
天災防止の補助にも従事した。このほか、統制のため保甲規約を制定し、保甲の構成員に規範を設け、
保甲構成員の日常生活や行動まで完全にその統制下においた。
 保甲は一般行政業務を補助するほかに、総督府も日常的な保甲による協力を、
纏足・弁髮の廃止、日本語の普及、風俗の改善、迷信の打破などの運動に活用した。
あきらかに保甲は、総督府が人員を動員するための重要な機関となっていた。

 戦争と皇民化

 一九三七年、中日戦争が発生してから、日本は戦争の必要性から台湾で
「皇民化運動」を推進し、日本語使用の奨励、日本式生活習慣の普及、日本姓への改名、
日本神社への参拝などを進め、台湾人に日本国民としての愛国心と
犠牲的精神を扶植しようとした。間もなく台湾人からも従軍者を募集し、
最終的には徴兵制度まで施行し、その結果、台湾籍日本兵は総数二十余万人に達した。

【研究と討論】
一、日本の植民地統治時代、警察が行使した役割と特色はどのようなものだったろうか。
二、校区内で保正や甲長を経験した年配者あるいはその家族の人を訪ね、
経験談を聞いたり、資料を見せてもらったりしてみよう。
417認識台湾:02/04/20 20:30
台湾の史実を正確に把握する B
教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む

第七章 日本植民統治時代の政治と経済
植民地経済の発展
経済発展の基礎確立

 日本植民地統治の初期、総督府は台湾を日本の経済発展に組み込むため、
積極的に各種の経済改革と建設を促進した。

一、土地制度の改革: 耕地面積を調査し、新たに土地所有権を確定し、
耕作地税収を大幅に増加させた。
二、貨幣と度量衡制度の統一: 日本国内の制度に合わせ、
新たな貨幣の発行と新たな度量衡機器の製造を統一した。
三、交通網の整備: 各地にくまなく郵便局を開設し、
郵便・電報・電話の業務を執りおこなった。
自動車の通行できる道路を修築し、基隆から高雄にいたる縦貫鉄道を建設し、
台湾の各地域間の交通運輸網を改善した。基隆港と高雄港を改築して
近代的設備を整えた港に整備し、万トン級船舶の出入港を可能にした。
このほか部分的に媽宮城(現在の澎湖馬公)を取り壊し、馬公港を建設した。
四、人口調査: 一九〇五年、台湾史上初の人口調査を実施し、
全台の総人口は約三百十万人であった。一九一五年より五年ごとに定期調査をおこない、
台湾の人口状況を確実に掌握した。

 農 業 改 革
 日本植民地統治の当初、総督府は「農業は台湾、工業は日本」の政策を立て、
台湾を米と砂糖の生産地とするため、農業改革を積極的に推進した。
一、各地に農業研究機関を開設し、新品種や新化学肥料を提供するとともに、耕作新技術の指導にあたった。
二、各地に農業組合を設立し、新種の普及と新技術の教育に責任を持ち、農業用借款の貸付業務をおこなった。
三、水利工事を興して耕地・潅漑面積を大幅に拡大した。そのうち最も有名なのは八田与一の
設計・建設した嘉南大◆(大水路)であり、その潅漑面積は十五万甲(約十五 万ヘクタール)に及んだ。

 米の増産と砂糖王国の樹立
 農業改革により、水田面積と二期作の耕地は不断に増加し、米の産出量は激増の勢いを示し、
とくに一九二二年、蓬莱米栽培の成功は、台湾に米生産の画期的発展への時代をもたらした。
総督府の強制的な推進の下に、蓬莱米は急速に全台湾に普及し、米の生産量は大幅に増加して大量に日本に移出された。
 台湾は砂糖の主要な生産地であり、このため総督府は台湾糖業の改革に尽力し、
日本国内の需要に応じようとした。甘蔗栽培に改良が加えられてからは、
単位面積の産出量は大幅に増加し、作付け面積もまた拡大していった。
 日本植民地統治からすぐ、総督府は製糖産業の近代化に尽力し、資金援助の実施、
原料採取の地域指定、市場の保護といった三大措置をおこない、日本の新興製糖業資本家を支援し保護した。
このため、日本の資本家は競って台湾に投資するようになった。製糖業は台湾を最も代表する産業となり、
その生産量は絶えず増加し、最盛期には百五十万トン近くにも達し、台湾を世界的な砂糖王国の一つとなした。

 工業化への進展
 日本植民地統治時代、台湾経済は農業を中心とし、工業は長いあいだ農業に付随し農産品の
加工が主たるものとなっていた。一九三〇年代より日本は華南や南洋を進出目標とした南進政策の必要性から、
総督府は台湾の工業化政策を推進するようになり、軍需に関連する基礎的工業を発展させ、
台湾を日本南進の補給基地となした。
 工業化の結果、農産品加工業の継続的発展のほか、化学・金属・機械工業など重化学工業が顕著に成長し、
台湾を半農業半工業社会に転換させた。
418認識台湾:02/04/20 20:31
【研究と討論】
一、日本植民地統治時代、米と砂糖 の生産量はともに増加したが、米と砂糖の生産数値を元に折れ線グラフを作成してみよう。
 ●米生産量(単位:一万ヘクトリットル)
  一九〇一年   五五〇
  一九一〇年   七六〇
  一九二〇年   八七〇
  一九三〇年  一、三三〇
  一九三八年  一、七七〇

 ●砂糖生産量(単位:一万トン)
  一九〇二年    七六
  一九一〇年   二一六
  一九二〇年   二六三
  一九三〇年   六三七
  一九三九年  一、二八二

二、各自の県・市内で日本植民地統 治時代に建設された郵政、電信、交通設備、農業研究機関、農産品 
加工工場などを調査してみよう。

419認識台湾:02/04/20 20:34
台湾の史実を正確に把握する C
教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む
第八章 日本の植民地統治時期の教育、学術、社会

は じ め に

 日本の植民地統治時期の台湾の教育、学術は、植民政策の貫徹に主眼が置かれた。
教育は特に初等教育と職業教育に偏重され、学術は熱帯医学と地域研究に重点が置かれた。
 この時期、人口は激増し、社会は変遷し、風俗習慣も大きく変化した。
たとえば、纏足から開放され、断髪が普及し、時間厳守、法律遵守、近代的衛生観などが確立された。
一九二〇年代から、新知識人が十余年にわたり社会運動を展開し、民衆の知恵を啓発し、
政治改革と農民、商工業者の待遇改善を要求した。

第一節 教育と学術の発展

 公学校を主とした教育施設
 日本の植民統治時期、総督府は植民地政策貫徹の道具として、西洋の新しい教育制度を確立し、
差別待遇と分離政策を原則に、初等教育学校を主な施設(注@)として、日本語を最重要視した
六年間の教育をおこなった。公学校の数は不断に増加し、一九四〇年には学齢児童の入学率は
六〇%近くに上った。一九四三年に正式に義務教育が実施され、四五年には入学率が八〇%に達した。

 日本の植民地統治の初期に、総督府は日本語普及政策を確立し、学校教育を通して
浸透を図ったほか、社会教育を通して日本語普及運動を展開した。一九三〇年代からは、
日本語講習所が普及し、未就学者に対して簡単な日本語教育が施された。当時の官報統計によると、
日本植民統治末期、日本語を理解できた民衆は七五%を超えていた。

 しかし、台湾人にとっての日本語は生活言語とまでは言えず、単に台湾が
「二カ国語を話す」社会になっただけであった。台湾人は一貫して、日本語を外国語と見なし、
日本語を身につけたからといって同化したわけではなかった。だが、日本語は台湾人が
現代知識を吸収するための主要道具となり、台湾社会の現代化を促進することになった。

実用重視の中等以上の教育
 中等教育に関して、総督府は当初、教育期間を半年から二年間とした職業訓練所を設立し、
初級技術者の育成を図った。一九一九年以降、各地に相次いで一般中学が設立されたが、
総督府は技術労働者に対する需要に応えるため、引き続き職業教育を偏重し、基礎技術者を
再び日本国内に依存しなくて済むよう、さらに二年教育の職業予備校を大量に増設した。
 総督府の植民統治の下、初期の頃は台湾人子弟が人文学科を学ぶことを奨励せず、
教師を育成する師範学校と医師を育成する医学校に重点を置いた。教師と医師の社会地位は
比較的高く、長期にわたり熾烈な入学競争が展開された。

 高等教育は、医学校のほかにも一九一九年以降、農林、工業、商業の専門学校と、
台北帝国大学(現在の国立台湾大学)が設立されたが、台湾人の学生の割合は非常に低かった。
台湾人の進学は難しく、台湾人で志のある者は、こぞって日本へ留学した。
一九四五年までに日本に留学した学生は二十万人にのぼり、そのうち大学や専門学校の
卒業生は六万人以上で、医学専攻者が最も多く、次いで法律、商業、経済専攻と続いた。
留学は台湾の高等教育の不足を補うものとなった。
420認識台湾:02/04/20 20:35
植民地政策に合わせた学術研究

 台湾を完全に掌握し、有効に統治と開発をおこなうため、日本植民統治の初期、
総督府は多くの学者や専門家を招聘し、台湾の自然環境と社会について、科学調査研究を
おこなった。その後、総督府は旧慣調査会や研究所などの専門機関を設立し、台湾の伝統制度、
風俗習慣、医学衛生、産業などの調査をおこなった。一九二〇年代から、高等教育施設は
日増しに完備され、学術研究の中心となっていった。

 この時期、台湾の学術研究は植民政策に合わせて発展し、近代台湾の人文、自然、
応用科学研究の基礎が確立された。たとえば、医学ではペスト、マラリア、コレラ、
腸チフスなどの熱帯伝染病原菌が究明されただけでなく、それらに有効な予防・治療も
おこなわれ、台湾はアジア熱帯医学研究の中心に数えられるようになった。また、
地域研究では、台湾から華南、南洋へと研究範囲が拡大され、台湾が日本の華南、南洋研究の中心となった。

【注釈】
@公学校:台湾総督府は差別待遇、分離政策の原則に基づき、台湾の教育制度を確立し、
初等教育は台湾在住の日本人、台湾人、原住民に対して、それぞれ小学校、公学校、
蕃人公学校(または蕃童教育所)などを設置したが、各々の教育年数、
カリキュラム、教科書などはすべて異なっていた。

【研究と討論】
一、日本植民統治時期の台湾の教育について話し合おう。
二、地域内に日本植民統治時代に設立された学校があるかどうか、調査してみよう。
421認識台湾:02/04/20 20:39
台湾の史実を正確に把握する D
教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む
第八章 日本の植民地統治時期の教育、学術、社会

第二節 社会の変遷
人口の激増

日本の植民地統治時期、総督府は熱帯伝染病に対し、有効な予防・治療をおこない、
公衆衛生を強化し、交通、産業、教育などを改善した。このため、台湾の人口は長期にわたり
高い出生率を維持し、死亡率が大幅に低下した結果、人口は不断に増加した。一八九六年当時の
人口は約二百六十万人で、一九四三年には約六百六十万人(在台日本人を含む)にまで増加した。
優に二・五倍も増加したわけで、その増加速度は世界でもトップであった。(注@)

纏足追放と断髪の普及

 日本の植民地統治の初期、総督府は、纏足と弁髪、アヘンの三つが台湾社会の悪習で
あるとみなしていた。しかし、総督府はそれらを一気に禁止するのではなく、学校教育や新聞、
雑誌などを通じて、纏足追放と断髪を奨励していった。

 一九〇〇年、黄玉階が「台北天然足会」を創設し、その後、各地の有識者からなる
「解纏会」、「断髪会」、「風俗改良会」などが設立され、自らがその手本となり、
纏足追放と断髪を啓蒙した。その後十余年間、それらの改善の風潮は徐々に高まり、
総督府はこの勢いに乗じて、保甲制度を利用した全面的な纏足禁止と断髪を推進した。
また警察の監督の下、保正、甲長が各戸を訪問し、纏足と弁髪者の数を調査し、
断髪大会などを挙行して改革気風を醸成し、ついに纏足追放と断髪の目的を達成した。

 纏足追放と断髪は、女子の生産力を大幅に増加させ、経済発展に大きく寄与した。
例を挙げると、簡便な衣服の生産が民衆の気風を変え、新しい服装や靴、帽子産業が勃興した。
審美観も徐々に変化し、その後、再び纏足が尊ばれることはなかった。

時間厳守の観念の養成

 総督府は、週制と標準時間制度を台湾に導入し、官庁、学校、工場では就業と休息の
規則が制定され、勤労者や学生に対し、厳格な時間遵守を要求した。具体的には、
出・退勤時にはベルを鳴らし、時間を厳守させたほか、学校では遅刻や早退を厳しく取り締まった。
また、鉄道・道路においては時刻表を作成し、乗客に時間通りに乗車してもらい、出発と到着時間を厳守させた。
422認識台湾 2:02/04/21 00:21
遵法の精神の確立

 総督府は、警察と保甲制度を通して社会情勢を監視し、民衆の楽観的認識から犯罪を
起こすことのないよう、犯罪防止と秩序維持を徹底的におこなった。 同時にまた、
学校や社会教育を通して、近代の法治観念と知識を注入し、秩序と法の尊重を学ばせた。
司法は公正と正義を維持し、民衆の信頼を獲得した。これにより、民衆は秩序を重視し規律を
守る習慣を養い、遵法の観念を確立した。

近代的衛生観の確立

 日本の植民地統治の初期、総督府は積極的に近代的公衆衛生と医療制度を確立した。
例を挙げると、水道設備を完備し、民衆に浄化した飲料水を供給したほか、都市の下水工事を
再整備した。また、各戸の門前にはごみ箱を設置させ、規則に則った廃棄物処理がおこなわれた。
一方、保甲組織を通して、定期的に地域環境の清掃活動を実施した。また、予防注射、隔離消毒、
ネズミの捕獲作業、血液検査の強制、薬品支給などの防疫活動をおこなった。

 このため、ペスト、マラリア、コレラ、腸チフスなどの伝染病を有効に予防し、
台湾人の医療衛生観念と習慣を改めさせた。具体的には、住宅建設において通風、採光、
トイレの設置に注意が払われ、また予防注射が接種され、入浴やトイレ後の手洗いが習慣化された。
このほか、地面に唾・痰を吐いたり、ごみを捨てたりなどを戒め、定期的に各家庭で大掃除を実施させ、
地域の清掃活動への参加を呼びかけた。

【注釈】
@一九三〇年から四一年の間、台湾の人口の年平均増加率は二・五%で、
世界主要国の二〜十倍に相当し、世界一位であった。

【研究と討論】
一、台北天然足会会報に掲載された次の「俗諺勧解纏足歌」を読み、下の設問に答えてみよう。

  上蒼創造人、男女脚相同。
  算是天生成、好走又好行。
  可惜◆父母、看作纏脚好。
  著縛即是娘、無縛不成様。
  女子未暁想、不過看世上。
  別人此号様、出在◆◆娘。
  老母心肝残、脚帛推緊緊。

 @当時なぜ纏足追放が鼓吹されたか。

 A女子の纏足を決めたのは誰か。誰が足を縛って(纏足して)いたか。

二、校区内のお年寄りを訪ね、日本植民地統治時期におこなわれた地域清掃活動の状況について聞いてみよう。
423認識台湾 2:02/04/21 00:26
台湾の史実を正確に把握する E
教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む
第八章 日本の植民地統治時期の教育、学術、社会

第三節 社会運動

政治改革の要求

 台湾住民による武装抗日運動失敗後、一九二〇年代から新知識人が団体を組織し、
集会や講演、請願、抗議などの合法的手段で、十余年にわたる社会運動を展開した。
彼らの最大の主張は、不合理な植民地政治に対する改革要求であった。

 一九二一年から三四年にかけて、林獻堂らの指導のもと、台湾人は十五回もの
署名請願をおこない、民権の取得、自治組織「台湾議会」の設置、議員の民選を訴えた。
しかし、日本政府はそれを顧みず、受け入れようとしなかった。 他方で、蒋渭水率いる
台湾民衆党、蔡培火や楊肇嘉らの組織する台湾地方自治連盟などの政治団体は、
完全な地方自治の実施、つまり公民による地方首長と民意代表の選出を要求した。
徹底した啓蒙、宣伝、請願により、総督府はある程度譲歩せざるを得なくなり、
一九三五年には地方制度を改革し、もともと地方の民意代表はすべて官により
選出されていたが、半数を民選とすることに改め、規定の資格をもつ男性に選挙権と
被選挙権が与えられた。またこれらの運動は、自治、普通選挙、参政権などの
民主政治の基本概念を社会に普及させた。

民衆の啓蒙

 一九二一年、有識者により設立された台湾文化協会は、林獻堂を会長に据え、
台湾民報を刊行、各種文化活動を展開し、台湾文化の向上に尽力し、民衆の知恵の啓蒙と、
民族意識の覚醒、社会概念を強化した。その主な活動は以下のようであった。

1.各市や村に閲読所を開設し、一般民衆が閲覧できるようにした。
2.各種講習会を開催し、歴史文化、近代法律や医学、薬学、衛生などの新知識を広めた。
3.夏期学校を開校し、憲法、科学の概念、基本的衛生知識、哲学などの現代知識を説いた。
4.文化講演会を各地で巡回しておこない、新知識の伝授、植民政治に対する批判、
社会の悪習、風俗に対して検討を加えた。

 このほか、文化劇の地方巡回、映画放映、音楽会などが挙行され、民衆の評判も上々で、
これらに参加する住民の数も非常に多かった。このような活動は、就学できなかった
民衆に新しい知識を与える好機となった。

農民、労働者に対する待遇改善

 一九二〇年代中期、農民と労働者は別々の団体を組織し、総督府や地主、雇用主らに対し、
集団抗争を展開した。農民団体は請願、交渉、地租の拒否、訴訟などを通して、
製糖工場の安価な甘蔗買い取り価格に対して抗議、地租の引き下げを要求し、
地主の地租引き上げと耕地回収に対して反対した。労働者の団体はストライキ、
サボタージュ、談判などを通して、賃金の引き上げを要求し、雇用主による賃金の引き下げと
任意解雇に反対し、作業条件の改善などを要求した。

 このような集団抗争は、総督府に対し少なからず圧力となったが、農民や労働者による
一致団結には至らなかったため、抗争はあまり多くの成果をみなかった。

【研究と討論】

一、台湾文化協会はいかにして民衆を啓蒙したか話し合ってみよう。
二、日本植民地統治期に社会運動に参加したことのある、校区内のお年寄りや家族を訪問してみよう。 
424萌国主義者 ◆wl8kHb4M :02/04/21 16:08
いっぱい貼り付けてしまいました。すんません。
台湾の新しい教科書いいなー。羨ましいです。
日本にもあるにはあるが採用してないのと同じだからね。(鬱
425世界@名無史さん:02/04/22 01:08
>>413〜424さん

すごいと思いました。新しい台湾の教科書、読んだことなかったですけれど・・・

最初のあたりは、戦争の記述で、仕方ないと思ったけど、後半以降は随分
日本のこと評価してくれている内容ですね。。
最後の方には、感動したり嬉しくなったり。。途中から
ぷろじぇくとXを見ているよーな気持ちにさえ(ノ_・。)なりました。
書いてくださってありがとう

梨の木舎だったと思いますけれど確かもう少し以前の台湾の教科書
の内容が載っていたと思うので、変化を比べて見てみたいと
思いました。
426世界@名無史さん:02/04/23 07:30
認識台湾・萌国主義者さんへ

>>413ー424、
他の部分も読んでみたくてアマゾンコムの書店で検索したの
ですが、以下でよいのでしょうか?

台湾を知る―台湾国民中学歴史教科書
国立編訳館 (編集), 蔡 易達 (翻訳), 永山 英樹 (翻訳)
雄山閣出版 ; ISBN: 4639016751
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639016751/qid=1019513737/sr=1-3/ref=sr_1_0_3/249-9847996-7577936

427萌国主義者 ◆wl8kHb4M :02/04/23 20:13
>>426
ご指摘の通りです。私は手元にはありません。
私が貼り付けたのは中華週報にあったものなので
若干違うことがあるかもしれません。
428名無しさん:02/05/12 19:45
BS2   BSエンターテインメント世界の教科書クイズ2002
▽びっくり・外国で教えられている日本 
▽日韓露暗算競争 小堺一機 かとうかずこほか

おい!まさにこのスレそのままの番組やってるぞ!

って このスレ久しぶりに来たけど さびれてるなー
429名無しさん:02/05/12 19:52
アメリカの世界史教科書
子供たちビックリ 日本人はビルの屋上で(パター)ゴルフをしている。

そんな写真使うなよ・・・

與芝 由三栄アナが出てる。
430名無しさん:02/05/12 19:56
ドイツの社会教科書に観る日本

木村さんは仕事が終わってもスグ帰らない。
なぜなら、スグ帰ると「あの人は仕事がない」と思われる
だから日本人は仕事の後必ず一杯のみに行く。
431名無しさん:02/05/12 20:23
誰も見てないのかよ!  ( ´Д⊂ヽ ウエーン
432世界@名無史さん:02/05/12 20:25
空手やってるやつ?
433名無しさん:02/05/12 20:27
キタ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!

そうです!それ!
地味ですが、なかなか(・∀・)イイ!です。 勉強になります
434世界@名無史さん:02/05/12 20:35
韓国の少年の計算法ってとくに楽になっていないのでは?
435名無しさん:02/05/12 20:39
なってないね。 ロシアと日本のが合理的で良いね 
436名無しさん:02/05/12 20:46
清水ミチコとコンビの脇沢佳奈タンが かわいい ♥
437名無しさん:02/05/12 20:48
2002ってことは毎年やってるのか。
438世界@名無史さん:02/05/27 22:47
韓国歴史教科書にはこう書いてある!
http://kaba.2ch.net/news2/kako/999/999001043.html
原爆おとされたのは日本が悪い
http://kaba.2ch.net/news2/kako/997/997995196.html
439世界@名無史さん:02/06/02 04:08
久しぶりに来たら、なぜか過去ログに(w

「世界中の教科書にみる日本」を書いてみませう!
http://mentai.2ch.net/whis/kako/997/997931113.html

サーバーが変わったからか?
440世界@名無史さん :02/06/26 19:08
あげとこう
441世界@名無史さん:02/07/23 01:28
保守
442世界@名無史さん:02/07/24 17:43
保守age
443世界@名無史さん:02/08/09 04:46
保守
444希に見る良スレ:02/08/22 17:40
 あげとこう。他の板ならチャチャも入れるが、ここは別格
445世界@名無史さん:02/08/22 20:52
教科書問題で左翼プロ市民の組織票、多重投票にやられそうです。
ぜひ投票をお願いします。

「非常に良い事だと思う」
http://clickanketo.com/cgi-bin/q.cgi?q0001172911
「評価している」
http://clickanketo.com/cgi-bin/q.cgi?q0001173198
446世界@名無史さん:02/08/22 21:01
今月の「中央公論」で、世界の教科書が紹介されていますが、イギリスの
教科書では第二次世界大戦時の日本のことをfanaticと、しかもわざわざ
赤字で強調して書いているとか。
447世界@名無史さん
ttp://www3.kiwi-us.com/~ingle/topix-2/italian%20textbook.html
イタリアの教科書のカポレット突破戦(WWI)に関する記述を扱ったサイト。
旅順戦やミッドウェー海戦に1-2行しか割いていない日本の教科書とはえらい違いだなぁ。