乙カレー
3 :
世界@名無史さん:2011/11/02(水) 02:43:26.41 0
前スレの議論だが、
やっぱり蜀軍の動員準備期間を考えると、
黄皓が姜維の急報を握りつぶしたというのは考えにくいのではないか。
前スレで出てきた意見によれば
>10万ってのは戸籍に記されてる動員可能員数な。
>王平時代を参考にすると、漢中に居住しているか、
>徴兵で赴任している兵力は3万。
>仮に、成都近辺に3万、
>江州方面に2万、
>南方に2万、
>の動員力があるとする。
この数字は恐らく完全動員時のもの。
漢中が落ちた時点で、漢中にいた兵力が消えたことを考えると、
>徴兵で赴任している兵力は3万。
>仮に、成都近辺に3万
というのは意外と正しい数字ではないかと思われる。
なぜなら、姜維たちが敗退し、剣閣に立てこもったときの兵力が四、五万だから。
姜維の有能さは、沓中から剣閣までの撤退を見ても明らか。
姜維は沓中から剣閣までの(恐らく)道のりで300km以上の距離を、
彊川口会戦、陰平での軍勢集結、諸葛緒突破時の機動などをこなしつつ進んだ事になる。
ナポレオンや秀吉でもこんな機動は不可能。
秀吉の中国大返しは、約10日で岡山から京都の200キロメートルを踏破。
姜維が上。
>>3 資治通鑑で見ると。
魏の征蜀命令が出たのは263年5月。洛陽を出発したのが同年8月。
しかし姜維の急報は262年末,華陽国志でも263年春とされるから,征蜀命令より先になる。
急報は姜維からの援軍要請として却下されたのではないか。
魏軍が洛陽を出発する前に第二報を送れば,一応の準備はできるだろう。
>>6 >魏の征蜀命令が出たのは263年5月
魏の征蜀命令って皇帝の勅令だろ?
ってことは普通に全国に布告されるバリバリの公文書じゃん。
それを成都が知らないとかありえんでしょ〜。
王平と費イのコンビが曹爽を撃退したときは、
費イが援軍率いてやってくるまで3ヶ月かかってる。
三国時代の軍隊の高速機動なら、司馬懿が孟達を討ったときの例が最速。
宛から上庸まで8日で踏破して孟達を切った。距離はおよそ300kmから400km。
たぶん騎兵を使ったんだろうけど。
姜維が剣閣に篭城した頃の兵力を鑑みると、この頃には全力動員していたと思われる。
成都周辺には既に動員の余裕がなかった。
だから、諸葛瞻にはわずかな兵力しか渡せず、諸葛瞻が負けた時点で降伏してしまった。
鍾会伝によると262年冬に鍾会が鎮西将軍・関中都督に就任し、その一方で青徐エン豫荊揚で大々的に造船して呉討伐の準備をしていると見せかけたとある。
多分、司馬光はこの一連の動きから姜維は蜀討伐を予見したと解釈し、姜維の援軍要請を262年冬に置いた。
劉禅以下成都にいた者達は魏の動員を征呉の為のものとしか考えず、姜維の上奏を棄却したのだろう。
12 :
世界@名無史さん:2011/11/02(水) 11:29:44.69 0
>>11 そこまで分かってたのに、わざわざ沓中にでていって、漢中の防御をおろそかにしてた姜維ってなんなの? と。
姜維が漢中から兵を引き抜かなければよかったのに。
13 :
世界@名無史さん:2011/11/02(水) 11:51:44.61 0
14 :
世界@名無史さん:2011/11/02(水) 12:08:25.28 0
>>11 しかし征蜀の勅がでたのは263年5月だ。侵入は8月。
5月から動員を開始しても致命的なほど遅くはない。
244年の戦いの場合、2月に曹爽軍が侵入、5月22日に都に帰還。
援軍の費イが積極的に退路遮断を狙って動いているので、2ヶ月で動員と集結、漢中への移動を終えたものと見られる。
263年も、2ヶ月あれば数万規模の軍勢を漢中に投入可能と見てよいのではないか。
244年は涪に蒋エンの駐屯軍があったことも関係してるんじゃないか?
>>12 隴右にケ艾がいるからだと思う。征蜀が開始されれば隴右方面からケ艾が武都・陰平を突破するのは目に見えていたから、
姜維自ら沓中でケ艾と対峙せざるを終えなかったのではないかと思う。
姜維の上奏文は「ケ艾は私が抑えますから、鍾会に対応できるよう張翼ら成都の中軍を漢中に派遣してください」という意味だったのかもね。
参考になるか分からんが、
呉では263年10月に蜀から救援要請を受け、
11月22日に丁奉を大将とした魏遠征軍を派遣してる。
蜀もだいたい50日ぐらいで動員できるんじゃないの。
>>16 フから漢中までは結構遠くて、400kmはある。
まともに行軍したら1ヶ月かかる。
移動時間を加味すると、蒋?の事前準備がものを言ったのだろうな。
>>7 鍾会が動くより先にケ艾が南下して姜維と交戦を始めてるんだよ。
成都はそれに反応して腰を上げた。
>>17 成都からの第一陣の廖化が、真っ先に姜維の後詰に向かってるんだよね。
まともな要害の無いトウ水・陰平方面が最大の急所だというのが
蜀漢共通の認識だったのだろう。
結果から見れば、武都に諸葛緒が進入し、北辺防衛の要中の要である陽平関が
寝返りで陥落したわけだから、判断ミスと言うことになってしまうが。
しかし、廖化が先に陽平関を固めては、姜維は単独でケ艾を支えきれず、
結局陽平関が東西南北から包囲される事態になってしまう。
やはり、少なくとも廖化・張翼の二者がそれぞれの防衛に間に合って
東西に長い防御線を張るしかない。
>>4 普通だったらケ艾と諸葛緒に挟み撃ちにされて全滅してたな
魏はケ艾が姜維を引き付けておいて諸葛緒が姜維の退路を断ったのは上手かった
漢中にも鍾会がいるから漢中には手が出せない
どうすれば生き残れたのかな?
軌跡でも起きないと多少滅亡を先延ばしできるくらいか?
まず成都と漢中府に強固な信頼関係を築くこと。
次に魏の新たな戦力配置に対応した迎撃陣地を
漢中から陰平に掛けてしっかりと築くこと。
(漢中から武都辺りまでは姜維が実行したが)
魏の大侵攻があった場合には迅速に援軍を前線に送ること。
240-250年代の隴西戦に敗れた以上は260年代以降は防戦一方になるだろうが、
それでも、防衛線が十分に機能していれば益州はそうそう落ちる土地じゃない。
相当程度の期間「変事を待つ」ことができただろう。
前スレの後半に魏晋の脆さを強調していた人じゃないが、
やはり大国とは言え急所なしとは言えない時代だから。
成都と漢中府が仲良しでも、少ない兵力が増えるわけではないだろう。
外交で何とかするしかなかったと思う。
呉は色々やろうとしてた感じ(遼東とか)だが、
蜀って呉以外に目立った外交戦略行なってたっけ?
あの戦力差ひっくり返すつもりなら、
匈奴や鮮卑とか他民族の力が不可欠だと思うんだが。
それこそ魏に味方する部族を取り上げるくらいしないと。
>>24 信頼関係を再構築するといっても,
もともと崩壊させた姜維を除くことは,前線維持のためにもできないし,
もう片方の黄皓を除くことは,姜維の暴走を防ぐためにもできない。
それこそ劉備か諸葛亮に生き返ってもらうしかないのでは?
28 :
世界@名無史さん:2011/11/03(木) 08:14:42.27 0
仮に姜維の通報が成都でも信じられて、蜀が262年の冬から軍備を整えたとしましょう。
そもそも軍隊というのは金食い虫ですから、ただそこにいるだけで金と食料と物資を浪費し続けます。
さて、蜀の国庫は、魏が襲来する263年の夏まで、軍隊にただ飯を食わせ続けることができるでしょうか?
>>27 そりゃどうしようもないわな。
上手くやってくれとif蜀漢朝廷にお願いするしかない。
遅ればせながらやろうとした人選が閻宇だけど
>>28 262年冬から全力動員する必要がない。
関中からの大軍の前進は8月で、これは察知しやすいのだから。
三つに分断されて前線の蓄えを失いながら
数ヶ月間南方・巴地方や剣閣を維持した史実よりも
前線で敵を止める方が負担が少ないじゃない。
30 :
世界@名無史さん:2011/11/03(木) 08:28:48.42 0
蜀降伏時の成都の食料備蓄は、40万斛でした。
成都の近辺で全力動員を行なったとすれば、おおよそ3万の軍隊ができあがります。
過去、魏延は長安急襲作戦を立案するとき、その期間を10日と予測し、5千の兵と5千斛の兵糧を要求しました。
これから計算すると1万の兵を1年維持するのに36万斛必要です。
3万の兵を半年養うなら、軽く50万斛を超えます。
もうお分かりかと思いますが、成都の備蓄は40万斛しかありません。
仮に姜維の通報を受けてすぐ軍備を整えるとして、一体どうやって兵を養うのですか?
31 :
世界@名無史さん:2011/11/03(木) 08:32:42.20 0
>>29 >262年冬から全力動員する必要がない。
それは姜維の求めを無視せよということですよね。
私も無視は正解だったと思います。
蜀が全力動員で10万の軍隊を養える期間はきわめて限られています。
おまいは一体何を言ってるんだ。
成都から既に廖化・張翼・諸葛瞻の三派が出陣して、
姜維も重車を捨てて転戦しながら半年近く戦闘した後なんだぞ?
最大貯蔵庫で多くの屯田地があった漢中は、真っ先に陽平関が塞がれて連絡途絶している。
では、おそらく五万以上の兵力は防衛戦の期間の食い物をどうしたの? 霞でも食ってたわけ?
>>31 当たり前だろう。武装済みの総兵力が10万だから、
10万人北に振り向けられるわけがない。
>>3の仮定にでも沿って構築しなおしてきてくれ。
34 :
世界@名無史さん:2011/11/03(木) 08:44:08.02 0
>>32 姜維の求めに従って動員を早めるのですから、
五万以上の兵力は防衛戦の期間の食い物+動員を早めて集められた兵士たちの食料が必要なんですよ。
蜀の備蓄がそれに耐えられるとは思いません。
>>34 春から陰平を1、2万で増強してケ艾を阻み、
鍾会が関中軍を動かす段になったら本隊を出して陽平関を増強する。
これだけで済むね。
トウ中には姜維が屯田などした蓄えがあって、
連年ほとんど独立した補給体制を築いていた。
陰平などにも防御の備えがあっただろう。
張翼が漢中に入れれば漢中の蓄えを当然使うわけだから、
100%自足できるかは判らないにしても、
成都から動員兵力の額面どおりの輸送を続けるわけがない。
>>35 >前線で敵を止める方が負担が少ないじゃない。
とか話にならないですよ。いったいどこまで補給線を延ばすつもりですか。
フから漢中まででさえ400kmあるんですよ。
輸送にとられる負担を考えないんですか。
>>36 >春から陰平を1、2万で増強してケ艾を阻み
1、2万の兵力を数ヶ月養うための兵糧はどこから持ってきましょうか。
廖化・張翼が長駆するために少なくとも移動期間以上の兵糧を持ち出して、
前線の蓄えを全て捨てて馳せ戻ってきた姜維・廖化・張翼が
数万人で剣閣に相当期間立て篭もるだけの兵糧がおそらく持ち出されて、
諸葛瞻が最後の兵力を振り絞って出陣した時にも相当期間立て篭もる兵糧が持ち出されたはずで。
人的資源が殆ど出払った後の成都の官庫に、
三万もの兵が数ヶ月篭城できるだけの40万斛が残っていた。
なかなか立派なもんじゃね?
>>37 >トウ中には姜維が屯田などした蓄えがあって、
>連年ほとんど独立した補給体制を築いていた。
あの山の中で屯田して、いったいどれだけ収穫が期待できるんでしょう。
やっぱり漢中から延々と補給線をつないでちびちび物資を集積してたと思いますよ。
>張翼が漢中に入れれば漢中の蓄えを当然使うわけだから、
>100%自足できるかは判らないにしても、
>成都から動員兵力の額面どおりの輸送を続けるわけがない。
漢中の備蓄ってそんなに余裕ないと思いますが。
漢中は晋代で1万5千戸程度の人口がいたに過ぎません。
備蓄で維持できるのは、常にいる兵たちだけで精一杯じゃないですか。
>やっぱり漢中から延々と補給線をつないでちびちび物資を集積してたと思いますよ。
ムリムリ。成都から孤立した姜維がそんなの受けられる立場じゃなかった。
そもそも当時は、前線守備の常備兵は前線周辺で兵糧を賄うのが前提で、
平時首都から延々輸送するなんて誰もやってない。だから屯田する。
>漢中は晋代で1万5千戸程度の人口がいたに過ぎません。
だから屯田があるわけなんだが。
戍守と言って、辺境に多数の兵が赴任する場合、
現地付近の租税だけじゃとても賄えないから、
兵士自身に自分の食い扶持と有事に立て篭もるだけの食料を生産させる。
漢武帝の発祥ね。
漢中近辺に複数の屯田地があったことは、史書や水経注に確認できる。
>>41 >備蓄で維持できるのは、常にいる兵たちだけで精一杯じゃないですか。
ていうか漢中の兵力を養うには全然足りなくて、
常々成都→フ→漢中ルートで物資がピストン輸送されていたと思われます。
蜀の官吏がやたら多いのも、物資輸送の管理の担当者だったのではないでしょうか。
夢想乙としか言いようが無いな
というより,漢中〜陰平の屯田地に援軍を賄えるだけの余裕があったのなら,
その地域を制圧した魏軍はその食糧を使えるわけだよな。
姜維らに備蓄を焼いている暇はなかっただろうし
だとしたら,剣閣で姜維に止められた鍾会が,
補給を理由として撤退を考えたとする話は不自然になる。
だって,関中から剣閣まで運ぼうとするから大変なのであって,
漢中から剣閣までなら大した距離ではないのだから。
だから,漢中等にはたいして余裕はなかったのではないか。
まあ、陽平関と道程で落とした中小陣営の備蓄は使っただろうけどね。
折りしも姜維が、敵の侵攻に対しては
秦嶺山脈中にあった幾多の中小陣営を撤収して漢・楽二城に集中させ、
「野無散穀,千里縣糧,自然疲乏」の手配をしていたから、
それが効いていたんだろうな。
>>46,
>>47 漢中攻略を担当した鍾会らが先に進んでいる以上,
制圧できていないと言うのは無理があると思うけど,
(制圧できていないなら,撤退は困難だろうし,そもそも進軍できやしない。)
確かに籠城中の漢城、楽城、黄金圍等の分は使えないだろうな。
ただ成都へのルート上にある陽平関と関城は突破されているから,
その分の食糧は間違いなく奪われていただろうけど。
言葉尻の問題はどうでもよくて。
問題は、逆撃を期して諸軍と「野の穀」を収容している漢・楽二城が
固守を続けていたってことだな。
姜維の計画が遂行されたなら、
盆地の郷里田地から略奪も出来ない状況になる。
>>49 言葉尻も何も,
成都からの援軍に供給できる食糧が現地にあるかどうかで,
延々と議論していたのではないのか?>>30-
>>43は。
(
>>45は私だから除外するとして。)
そもそも,漢城その他はほぼ間違いなく無力化されているだろうから,
略奪はともかく,供出を求めることはできるだろう。
というか,それすらできない状態なら,どうやって先に進むのか。
退路を断たれる危険性を残したままで,先に行けると思うのか?
>漢城その他はほぼ間違いなく無力化されているだろうから,
>供出を求めることはできるだろう。
何を寝ぼけてるんだか。
三国志くらい読んで書き込んでくれよ。
>>51 ああ,確かに漢中で生産した食糧も2城に集められてたな。
これは失礼した。
53 :
世界@名無史さん:2011/11/04(金) 07:28:45.79 0
つーか姜維が連年出兵して備蓄を浪費してるんだから、
前線の備蓄基地にもあんまりないと思うが
蜀の備蓄基地は、成都とフと漢中と、あとどこだっけ。
55 :
世界@名無史さん:2011/11/04(金) 13:27:05.59 0
249年〜262年の間に姜維が行なった北伐は8回。
食糧備蓄する暇ないだろう。
そのうち、諸葛亮に近いような北伐は二回だけ。
費イ時代は1万のみ。
黄皓時代も漢中軍から抽出した程度の兵力。
最末期を除く全期間において、
魏領内には輜重を切り捨てて侵入し、
羌族の支援で活動していた。
まあ兵糧だけ見るなら諸葛亮の負担の数分の一以下ってところだろうね。
>>56 しかし諸葛亮もはるか遠くに進撃してるだろ。
兵の頭数が多少小さくても、補給線が延びまくれば負担は増える。
遠くまで行くって事は、兵糧を輸送する兵隊が増える。
兵糧を輸送する兵隊が増えたら、まずそいつらが食べる分運ばなきゃならない。
同じ量の兵糧を輸送すると足りなくなるわけだ。
>>57 しかし諸葛亮もはるか遠くに進撃してるだろ。
↓
しかし諸葛亮よりもはるか遠くに進撃してるだろ。
60 :
世界@名無史さん:2011/11/05(土) 06:26:48.16 0
>>59 輸送している人間様は兵糧を食べないというのだろうかw
>>60 輜重の存在が無かったのかどうかは
>>56が言ってるだけだから本当か知らんが
輜重が無いと言っているのにどこに輸送する人間様がいるのだろうかw
明帝紀には蜀には輜重が無いと書かれてるが、
それは牛車がないといってるのであって、
人力の輸送に頼ってたのは確実。
>>62 しかし漢中から狄道まで人力で輸送してたとはとても思えん
姜維は軍船で食糧輸送してるってケ艾だか陳泰だかが指摘してなかったっけ。
あったあった。
ケ艾伝でトウ水の大敗後、姜維が再び進出する論拠として
「姜維は船で行軍するのに対し、我が方は陸路を進むのであり、
費やす労力は同等ではない。」と述べてる。
姜維は水軍で兵員と物資の輸送をしていたから、
狄道まで迅速かつ長期の遠征ができたんだろう。
それと輜重については、季漢輔臣賛の注で
ビン山太守の王嗣は羌族から深く信頼されていて、
姜維が北伐する度に羌族から馬・牛・羊・穀物の提供を受け、
軍資の助けとしたとある。
益州に輜重に耐え得る牛がいないからって
蜀は人力のみで輸送していたとはならない。
>>66 姜族だって連年物資を供出させられたら疲弊するんだが?
ケ艾に負けた後は寝返るし。
輜重がないのが相変わらずなら、馬・牛・羊は単に食糧か農耕用として受け取っただけだろう。
羌族な
69 :
世界@名無史さん:2011/11/05(土) 20:30:29.24 O
木牛と流馬があるだろ。
だからジンギスカン作戦だろ
71 :
世界@名無史さん:2011/11/06(日) 07:17:46.11 0
段谷の大敗以降は羌族からの支援は厳しかったと思う。
その後の戦役では国内からの持ち出しだし、外地に軍を貼り付けて
おくだけで国内は消耗する。
姜維が国内を消耗させてないと主張するのは無理がある。
消耗させてないとか極端なことを言ってる奴は一人もいないし、
今はそんなことは話してない。
姜維の遠征は兵站への負担が大きかったので
263年にはもう漢中などには備蓄が無かったと極端なことを言う奴がいるから、
「兵糧負担だけ見れば諸葛亮の遠征に比べて遥かに軽い」と言ってるだけ。
>>62 諸葛亮の四次でも五次でも、諸葛亮に牛車がないなんてことは有り得ない。
人力車で兵糧を輸送したら、輜重隊要員が魏の十倍にもなる。
明帝の輜重がないというのは、単に兵站が続かない、ってだけの意味。
256年の段谷以降の出征というと、
257年 数万で諸葛誕に呼応した秦嶺越え
262年 屯田すると申し出てトウ中に築陣し、同年ケ艾に破れる
263年 そのまま魏の侵攻を迎える
だから、三年のスパンしかない諸葛亮の231年-234年よりかなり楽だな。
五次は10余万を動員した大遠征だし。
段谷以前の出兵だって、羌族の支援を受けながらも、蜀の兵糧を使ったはずだぞ。
外部勢力に過ぎない羌族の補給に頼った戦争なんて、危なくてできないよ。
だから。
>「兵糧負担だけ見れば諸葛亮の遠征に比べて遥かに軽い」
と言ってるんだよ。
漢中備蓄を一切使ってないなんて言う馬鹿もいやしないよ。
262年だって、屯田で収穫できるまでは持ち出し分を食うわけで。
それでもなお、遠征の前年から力夫を動員して
秦嶺へ兵糧を運び込むような諸葛亮の遠征より、
姜維の遠征の方が遥かに負担が少ない。と言っている。
>>76 >「兵糧負担だけ見れば諸葛亮の遠征に比べて遥かに軽い」
いや、諸葛亮時代よりはるか遠くに遠征してるじゃないか。
諸葛亮より兵糧を使ったと考えられる。
なんで今までの反論を無かったことにして無理矢理前の主張を持ち出すの? 読んでないの?
79 :
世界@名無史さん:2011/11/06(日) 11:39:06.55 0
漢中に備蓄がないかどうかは知らない、
鍾会の主力軍を秦嶺山脈の中で足止めできなかったのが
敗因でしょう。山脈の中なら、比較的少数の兵力で防衛できる。
主力軍が足止め食らってれば、ケ艾が成都を急襲なんて芸当は
不可能だったし。結果的には、諸葛亮以来の防衛システムの
方が、大規模侵攻には有効だったでしょう。
80 :
世界@名無史さん:2011/11/06(日) 11:51:25.48 0
>>78 羌族の物資だけを当てにして作戦を行なったとはとても思えない。
秦嶺山脈の中なら少数で敵を阻めたのかどうかは疑問。
一点道を塞げば大軍を物理的に止められるわけではないから。
包囲して無力化されたら、幾ら堅固でも少人数の小陣営は手も足も出なくなる。
関中から漢中に入るには4本くらい道があるしね。
魏延時代からの防備は、中小の陣営を山中に幾重にも張り巡らせて
敵の浸透を減衰させるものだった。
姜維はそれを、戦時に撤収して二城に集中する手配をすると同時に、
陽平関〜武都間に新たな多数の陣営を設けている。
では、この新陣営群の要員はどこから来たのかが問題となるわけで、
旧来の魏延・諸葛亮方式では西に伸びた防御線を賄うのに数が足りなくなったから、
山中での防衛を撤退したのではないか、という推測が成立する。
推測だけどね。
>>80 漢中備蓄を一切使ってないなんて言う馬鹿もいやしないよ。
なんで堂々巡りになるんだよ。論を展開できないならもう辞めなよ。
>>82 俺)羌族の物資だけじゃなく、漢中の物資も使った。諸葛亮時代より補給が負担だった。
お前)羌族の物資だけじゃなく、漢中の物資も使った。諸葛亮時代より補給が楽だった。
動員兵力は諸葛亮時代の十分の一から数分の一だった。
を付け加えてくれ。
>>84 >動員兵力は諸葛亮時代の十分の一から数分の一だった。
そうでもないだろう。
姜維時代でも、漢中、南方、孫呉国境の兵力は依然として存在していた。
これだけで5万以上いたはず。
姜維が転用したのは漢中の兵力だけで、他の兵力は蜀滅亡のそのときまで、現地に張り付いていた。
あのさあ、国境守備の兵力ってのは平時城壁の上で矛持って気を付けしてるのが
仕事じゃないんだけどさあ。
本当に心の底から他人の言うことなんてどうでもよくて何も読んでないんだな。
せめて「屯田」でこのスレ上から検索してくれよ。
>>86 「兵力が張り付いていた」といったら「平時城壁の上で矛持って気を付けしてた」と解釈するお前がおかしい。
貼り付け部隊や貼り付け師団って言う言葉を知らんのか?
だいたい屯田の収穫なんて、徴兵されないで普通に農耕するのに比べたらかなり下がるものだぞ。
>貼り付け部隊や貼り付け師団
知らんなあ。そんな部隊が巴や漢中にいたなんて。
根拠希望。
姜維が何度か魏の国境で年を越したのはそう言えるだろうけどね。
>徴兵されないで普通に農耕するのに比べたらかなり下がるものだぞ。
またそういう適当なことを言う。
屯田は基本「秋冬習戰陣,春夏修田桑」。農閑期に訓練するもので、
むしろ、首都近くのような穀倉地帯から兵糧を輸送するより
はるかに省力化を図れるものだぞ。ケ艾伝など参照。
遠征や敵の侵攻が無ければ、100%とはいえなくとも効率はかなり高い。
少なくとも
>>動員兵力は
>漢中、南方、孫呉国境の兵力は依然として存在していた。
>これだけで5万以上いたはず。
>蜀滅亡のそのときまで、現地に張り付いていた。
なんて、五万以上がただ兵糧を食うだけの存在だったかのような言い方は
ひどい出鱈目。
>屯田は基本「秋冬習戰陣,春夏修田桑」。農閑期に訓練するもので、
>むしろ、首都近くのような穀倉地帯から兵糧を輸送するより
>はるかに省力化を図れるものだぞ。ケ艾伝など参照。
1年の半分を訓練に取られるとか、まともな人間なら拒否するよな。
脱走者がでまくるわけだ。
なんなら、お前明日から自衛隊の訓練に180日いって、
残りの半分で仕事してみればいいだろ。
どれだけ「効率がいい」か、実践してみろよw
>遠征や敵の侵攻が無ければ、100%とはいえなくとも効率はかなり高い。
屯田は応募と強制徴用の二本立てだが、
応募には人が集まらず、
強制徴用された連中は脱走しまくり(5〜6割の高税率では当然)で、
効率がいい方法じゃないってのが定説。
北東南に5万以上の兵力が存在して
兵糧を消耗し続けていたのなら、
諸葛亮の南征以後ずっとその体制なんだから
蜀は何十年も前に軍隊を維持できなくなって滅びてるよね。
おそらく諸葛亮の四次や五次北伐の頃に。
>>89 もう無茶苦茶だな。
なんで180日休み無く訓練しなくちゃいけないのとか。
後半は曹操の民屯の話だろとか。
5〜6割の高税率云々とか脱走でまくりだったってのなら
曹操やケ艾批判の時に使ってくれよ。
まあ、そうすると曹操が天下を半分取れた国力的な理由とか
ケ艾や司馬懿の献策で隴西・淮水の軍滞在能力が強化され
天下統一の背景となったことが説明できなくなるだろうけどね。
93 :
世界@名無史さん:2011/11/06(日) 20:13:34.15 0
屯田とか過大評価もいいところだろ?
屯田制で成功したとされる曹操でさえ、官渡の戦いでは食料不足に苦しんでる。
袁紹よりも兵力少ないはずなのに、袁紹より先に食糧不足になるとか明らかにおかしい。
曹操は中原がボロボロに疲弊していたから
民屯を持ち込んで農民を直接支配しようと思ったわけね。
冀州は中原からの避難先となったくらいで、
後漢代の疲弊を比較的逃れた豊かな「大州」であり、そんな真似をする必要も無かった。
袁紹と曹操を比べたからなんなのって話だが。
屯田が10しかない生産力を10以上に出来る魔法とでも思っていたか?
中英の劉備天下統一スレで当時の三国の社会に対するレスで何故か民屯に関する評価を念入りに書いた暇人が来たぜ。
>>93 兵力の多寡より土地の背景を見るといい。
中原の人口も実は袁紹の支配地である幽・冀州より大分でかいが、
同時に荒廃度も袁紹の支配地域より遥かにでかい。
豫州から青州のラインってのは特に黄巾の被害が大きかった地域だ。
つまり農地は酷く荒れ果てている。
更に曹操は屯田以外の田地からの租税を120分の1にしている。
これは豪族との妥協の結果ともいえるが、同時に取れる租税の限界がそれだけ低かったという事でもある。
ここから屯田地の広さを過大評価せずに徴税能力を逆算してみると良い。
三州持ってると言っても限界値がかなり低いということが容易に見て取れるだろう。
屯田と言うよりも、当時の社会と、置かれている状況を顧みると、意外とカツカツで頑張ってるということが分かる。
相手の袁紹は漢標準+非常時で十分の一税だろうから、兵站能力は結構差が付いていてもおかしくはない。
96 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 01:08:42.35 0
>後漢代の疲弊を比較的逃れた豊かな「大州」であり、そんな真似をする必要も無かった。
冀州も戦争や反乱は結構起こってるが?
>屯田が10しかない生産力を10以上に出来る魔法とでも思っていたか?
じゃあ蜀漢のやった屯田も現実には大して効果なく、
実際は漢中あたりから食料をピストン輸送していた、
ということでよろしいですね。
>>95 大部分同意だけど、一つだけ
>中原の人口も実は袁紹の支配地である幽・冀州より大分でかいが、
それは後漢書の後漢最盛期近くの話であって、
曹操対袁紹の頃の国力比は晋書の方が実情に近いだろう。
エン州 08萬3200
豫州 11萬6796
青州 05萬3000
徐州 08萬1021
冀州 32萬6000
幽州 05萬9020
平州 01萬8100
并州 05萬9300
司隷 47萬5700
官渡のころ、曹操は青州をほとんど支配していない。
冀州は魏代のうちに五万戸を司隷に徙民するなど、
京師や対蜀前線への大規模移住が行われたにも関わらず、
晋代でも30万以上を確保している。
逆に、董卓の禍から復興と人口集中の政策が本格的に取られたのは
洛陽への遷都が行われた後と推定できる。
これらをほぼそのまま後漢末の人口に当てはめられるなら(そんなに単純でないだろうが)、
袁紹陣営支配人口40万〜50万以上vs曹操陣営30万未満
というような比になる。
そのうえ、単純な質で見ても曹操の中原の方が荒廃度が大きいというありさま。
>じゃあ蜀漢のやった屯田も現実には大して効果なく、
>実際は漢中あたりから食料をピストン輸送していた、
あれ? 漢中からピストン輸送するほどの余力があったとは認めるんだ?
OKOK。やっと意見の一致を見る場所がみつかった。
しかも、姜維がトウ中で屯田したとして、男子1万人の労働力があれば、
防備しながらでも男子2〜3万人の一年間の穀物を生産できるだろうことは想像できるよね?
普通、男子1万人いれば3、4万人の家族を養うことができるんだから。
だからピストン輸送しなくとも、廖化の援軍を迎えてしばらく戦う備蓄があったことになる。
つまり、姜維は当面の食料を持っていけばよく、ピストン輸送するほどの漢中の負担は
無かったことになる。
漢中もまた、成都からの援軍を迎えてしばらく戦う備蓄を持っていた。
めでたしめでたし。
ごめん
>>97で言ってる単位は人口(口数)ではなく、戸数ね。
100 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 04:29:47.08 0
>>98 >漢中からピストン輸送するほどの余力があったとは認めるんだ?
いや、そんな余力はない。
漢中でも兵糧が不足したはず。
だからフ、もしくは成都から補充がいった。
その結果、成都の兵糧が減少し、魏の攻勢を受けたとき張翼たちの軍の動きが鈍った。
>>98 >しかも、姜維がトウ中で屯田したとして、男子1万人の労働力があれば、
>防備しながらでも男子2〜3万人の一年間の穀物を生産できるだろう
その生産高は、整備された中原の良田で達成できるものだろう。
周囲を山に囲まれた、ネコの額みたいな土地でやる軍屯なんて、その収穫はタカが知れてる。
蜀は日照時間が短いし、成都のある四川盆地ならともかく、漢中なんか標高500mの山地で、平地並に作物が育ったとは考えにくい。
水田だってできないだろう。
羌族の支援を当てにしたところで、涼州は麦文化だ。
麦は米よりも生産力に劣る。
しかも羌族は遊牧民ときてる。
蜀軍の攻勢を何度も支えられるほどの余裕はなかっただろう。
>>97 晋代は魏郡4万、廣平3万5千、陽平5万戸も司隷に組み込まれてるから
冀州32万→45万だな。
もっとも後漢末以来、魏郡への植民は多かっただろうけども。
蜀は秦代から入植が行われたほどの現代まで続く米の名産地で、
面積辺りの収穫高は中原の数倍(華陽国志)。
漢中はそれほどではなくとも中原より劣るという話は無い。
標高500メートルに作物が育たない? 日本って国を知らないか?
羌族の負荷が大きかったことは陳泰だか郭淮が言及しているが、
それは蜀漢の備蓄とは関係ない。
国内から遠征地へ糧食を恒常的に運んでいたのか否かだけが問題だ。
だから、
>漢中でも兵糧が不足したはず。
>だからフ、もしくは成都から補充がいった。
>その結果、成都の兵糧が減少し、魏の攻勢を受けたとき張翼たちの軍の動きが鈍った。
妄想は聞き飽きたよ。さっさと論拠を見せてよ。
漢中で収穫高が悪いって、
標高がほぼ同じでより北にある秦と前漢の国力を支えた関中はどうしましょうかね?
>>97 曹操が4州分の国力が使えたとは思えない。
徐州で劉備が独立するわ、エン州を抑えきれずに豫州に本拠地を移すわ、
領内でもまだまだ不服従勢力がうろうろするわ、孫策が北上を計画するわと、
内外に爆弾を抱え込んでたのが曹操の現状。
一方の袁紹は、せいぜい田豊がぶちこまれたぐらいで、反乱もなく、領土の状況は曹操と比べ物にならないほど平穏。
曹操の危機感は明らかで、「袁紹が関中に手を出してる。蜀にも手を出したら、俺は一人で天下の6分の5と対峙しなければならなくなる!」と非常に悲観的ことを荀イクに言ってる。
>曹操対袁紹の頃の国力比は晋書の方が実情に近いだろう。
>
>エン州 08萬3200
>豫州 11萬6796
>青州 05萬3000
>徐州 08萬1021
>
>冀州 32萬6000
>幽州 05萬9020
>平州 01萬8100
>并州 05萬9300
>>104 項羽の根拠の呉は、当時未開の田舎国ですが。
西の方が先進地域。
あと、劉邦が占めたのは関中ではなく、四川盆地の穀倉だね。
>>107 劉邦の天下取りじゃなくて前漢王朝な
そんなことも知らんのか
109 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 07:42:14.00 0
>>105 蜀の生産力はもっとあったと主張したいならすれば?w
>>108 呉楚七国の乱に勝利した前漢側は、巴蜀の生産も抱え込んでる。
洛陽から長安の間も無事だし。
あと関中には渭水盆地の生産力があるが、漢中にそんなものはない。
>>109 綿竹縣 劉焉初所治。綿與ラク,各出稻稼,畝收三十斛,有至五十斛。
(舊各本皆作「十五斛」。廖本改作「五十斛」。是。)
(華陽国志巻三 蜀志14)
ほれ、「主張」なんかじゃなく「根拠」提出したよ。
>>110 だから、渭水盆地と漢中盆地との間に、気象上の大きな差があるのかって聞いてるんだが?
当然渭水盆地の方が、(秦と前漢では)灌漑整備が進み、面積も広く
司隷の巨大な人口を支えていた(支えきれたわけではないが)
翻って漢中を見る。
それまでの漢中人口は、
前漢代>十城,戸十萬一千五百七十,口三十萬六百一十四。
後漢代>九城,戸五萬七千三百四十四,口二十六萬七千四百二。
蜀漢代では晋書を参考にして、
>統縣八,戸一萬五千。
4を掛けて口六萬。二万人の成年男子が辺戍として赴任したとしても、人口十万にも満たない。
漢中盆地はこの人口が穀物を生産するのに十分な容量を持っている。
軍屯には養うべき未成年や女子がなく、生産がそのまま軍の糧秣庫に入ることを考えると、
平時なら毎年二万人と同数の以上の兵士を一年養う備蓄が溜まっていくことになる。
兵士が出征すればこの収穫は消えるが、蜀末期は258年から261年の間小規模の出兵さえしていない。
諸葛亮規模の大遠征は兵糧を備蓄するために「三年に一度」という司馬懿の看破より長い。
何を以って漢中の生産力が小さい、蜀には備蓄が無い、と言うつもりだい?
112 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 17:47:55.20 0
>>111 常識的に考えて、人口10万以下の漢中で、2〜3万の軍隊を養えるなんて狂気の沙汰。
蜀の人口100万弱に対して、10万の軍隊でさえ極めて負担な存在なのに。
つくづく他人の話をなんにも読んでないんだな。
それとも自分に都合の悪い文字は記憶できない脳構造をしているのか。
114 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 19:38:35.84 0
>>113 漢中の生産力が優れていたなんて、三国志研究者の誰も言ってねえし。
面積辺りの収穫率が並であればいいんだが?
>>115 クソ広い漢中の領土に対して、人口が10万程度那のを鑑みれば、耕作地がろくにないか、田地がやせ細ってるかのどっちかだろう。
>クソ広い漢中の領土
( ゚д゚)ポカーン
蜀豊発見w
漢中の気候風土を見てみると、漢中は海抜600メートル以上の高地で、山から流れてくる水は稲作には冷たすぎる。
おそらく屯田では米はつくれなかったのではないだろうか。
また小麦や大麦栽培には、日照時間が充分でも土地が痩せすぎていて適さない。
もし収穫があったとすれば、焼畑で耕作できる粟ぐらいだろう。
漢中と似たような地勢である関中も同じようなもので、
確かに前漢までの関中は豊かだったが、
後漢以降は人口も減り並以下の地域になっていた。
>>117>>118 漢中は面積だけは意味もなく広いが、だからといってそれで蜀は豊かなどとは一言も言ってない。
むしろ、漢中の生産は優れているといってるやつを俺は批判しているのだが?
>>119 そうだね。
別に関中並でいいわけよ。
1万5000戸と数万の軍屯を許容する全国水準があれば。
ついでながら、関中と比べて、下流域の中原の生産性が高くないことが研究されていたりする。
黄河を流れてくる黄土というのは栄養分を殆ど含まない痩せた土壌で、
しかもアルカリ化の進行が早く、それが関中・中原の疲弊に繋がった。
夏暑い下流の中原はアルカリ化の速度がさらに速いうえに、黄河が頻繁に反乱する。
定期的な大規模灌漑を必要とする土地なんだ。
だから、というべきか。漢の租税の主流は粟。小麦はまだ辺境でしか作られていない。
これらから、漢中は曹魏の北部・中部の大部分と同水準の生産性があったと推定できる。
蜀犬日に吠ゆ
張魯伝で閻圃が云うには、漢川の民は戸数十万より多く、財に富み土は肥沃とのことだが、
閻圃の贔屓目はあるだろうけど、漢中はどちらかと言えば上等な土地じゃないかな。
まぁ曹操が人を刈り取った後は、事情が変わったと思うけど…
この時代の技術水準で土地が肥沃かどうかってのは、
灌漑や干拓の組織力の比重が大きいだろうからね。
ちなみに漢中は今も「小江南」と言われるほど、蜀の領土では温暖で気候がいい場所だったりする。
緯度で見れば九州と同じだもんな。
大陸性気候の高地だから最高気温は高くならないが、
冬も寒くならない。
蜀の人口100万の内、兵卒10万。
この10万全部が軍屯に励んでも、徴兵されない10万の働き盛りの男より生産力があるとは考えづらい。
軍屯やる場所が農耕に適しているとは限らないし、1年の半分が軍務で潰れてしまう。
おまけに高税率だから、生産性は限りなく奴隷労働に近い。
10万というのは戸籍に記されてる武装兵の数な。
徴兵召集期間以外は自分の家で家業してるよ。
今の話題と関係ないけど。
おまけに高税率ってのは魏の民屯の話だし。
>>121 >1万5000戸と数万の軍屯を許容する全国水準があれば。
もちろんそんな許容能力はない。
前漢には30万人が住んでいたのに?
もしかして、漢数字が三つ以上並んだ文字列を読めない人?
現代では、漢中市の穀物生産の主力は水稲みたいね。
三国時代はどうか知らんけど。
「蜀みたいな貧困な田舎で天下取ろうなんて諸葛亮バーカバーカ」
「少なくとも蜀の米の生産量は多かったし、むしろ中原の疲弊の方が遥かに深刻だよ」
「また蜀豊かよ。証明してみろよバーカバーカ」
「(色々証明する)」
「なんだよそんな豊かな蜀で魏に勝てないなんて諸葛亮バーカバーカ」
って流れが昔三戦板であった。
133 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 21:28:06.87 0
>>128 >徴兵召集期間以外は自分の家で家業してるよ。
家業にかける時間が半分になったら、生産も激減すると思うが。
>おまけに高税率ってのは魏の民屯の話だし。
軍屯の収穫も大半が国庫に入ると
>>111で。
「軍屯には養うべき未成年や女子がなく、生産がそのまま軍の糧秣庫に入ることを考えると、
平時なら毎年二万人と同数の以上の兵士を一年養う備蓄が溜まっていくことになる。」
ていうか、生産をほとんど国庫に持っていかれるとしたら、軍屯の兵士たちはどうやって家族を養うの?
134 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 21:30:37.86 0
>>130 いやだから、それが後漢代では3分の1に激減したのだから、後漢代の漢中は気候がかなり悪化したのだろう。
確か小氷期じゃなかったか?
>>113 それがわからないなら、徴兵制の仕組みを勉強してから出直してください。
魏の民屯でさえ、「国に土地を貸してもらって徴兵の義務を負う農民」に過ぎない。
専業常備兵なんてこの時代に数%もいないんだよ。
>>134 なんで漢中だけ気候が悪化するんだよw
掌握人口が激減したのは全国同じ。
1/4から1/5で済んだのなら漢中の疲弊は全国平均よりかなりマシな部類。
137 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 21:39:05.92 0
>>136 荊益揚の三州は逆に人口が増えてるはずなんだけど。
その中で人口減ってる漢中はかなりひどい。
>>136 横レスだが、前漢と後漢って把握人口400万くらいしか変わらんぞ。
前漢が6000万強で後漢が5600万強のはず。
南方の把握人口が結構増えてるから、中原の減りもない訳じゃないけど。
>>137 ???
言ってることがわからんね。
その三州の人口が増加したのは前漢から後漢の間だよ。
その期間、漢中は30万から26万と確かに減少しているが、
これは関中荒廃と遷都の影響だろうに。
1/3ってどこから来たの?
140 :
136:2011/11/07(月) 21:44:18.16 0
>>138 ああ、うんそれそれ。
>>134が漢中は1/3とか小氷河期とか言うから、前漢と後漢末の疲弊後の事を比較しているのだろうと思った。
よくわからん。134の整理を待つ。
141 :
世界@名無史さん:2011/11/07(月) 21:47:27.84 0
>>139 三国志魏書杜襲伝には、曹操が杜襲に漢中の軍事を督させた時、その民八万余口を洛陽と?に徙させた事が書かれている。
で?
131 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/11/07(月) 21:19:34.34 0
現代では、漢中市の穀物生産の主力は水稲みたいね。
三国時代はどうか知らんけど。
つか俺もだけどお前らのレベルはこの程度だろ
「三国時代はどうか知らんけど」←フィールドワークの1つも出来ないアマチュアの史書分析・文献学の域
いや、別に
>>131を貶しているわけじゃないんだけど
漢中の生産力という一つのテーマに対し、農業の視点で実は誰も空想の域を超える研究をしてないのに
文献学の枠を超えてお互いを罵り合っても仕方ないだろうw
どうせなら土俵内で当時の人口の増減およびそれがもたらす生産力の差を議論すれば?
>>143 最後の一行の意味はよくわからないが、
今の問題は、漢中郡に関中・中原レベルの生産効率があったかどうかだけなのだから
>>119>>121で解決してるよ。
>>131はそれを越える水準だった可能性を示唆してはいるが、そこまで追求する必要は無い。
>>144 >漢中郡に関中・中原レベルの生産効率があったか
なかったに決まってるじゃないか。
成都や巴西から食糧をピストン輸送して維持してたんだよ。
決まった過程を詳しく
112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 14:19:26 ID:VMEeiwiL0
張既伝:住民数万戸を三輔に移住 武都の5万余を天水に移住
杜襲伝:洛陽に8万余を移住
和洽伝:住民を移住させ漢中を放棄した
張飛馬超が攻め入った武都=補給もままならぬ空城
劉備が占領した南鄭近辺=無人地帯
はあ。そうですか。
それをなんで劉備や諸葛亮は放置して無人地帯のまま40年前線基地に活用して、
晋代に突然1万5000戸生えてきたの。
>>148 どっかから強制移住させたんだろ
それでも10万も増えませんでしたというのが現実
現代の北朝鮮は人口2300万に対して軍人が100万。
この比率でも、財政にむちゃくちゃな大きな負担を強いている。
人口94万に対して10万2000の兵を持っていた蜀は、北朝鮮以上の軍事優先国家といえよう。
なぜ常備軍との違いと現代の軍事力の維持費を考慮せずそんなこと言えてしまうのか、これがわからない
153 :
世界@名無史さん:2011/11/08(火) 13:14:50.24 0
>>152 古代での鎧や刀や兜といった装備は、当時ではきわめて高価なハイテクノロジーの産物。
帯甲した兵なんて全体の2割もいなかった。
高価なハイテクノロジーの産物であることと、それが予算に対して同じだけの比重を占めるかという点については全く別問題だけどな。
人件費が大してかからず、武器の整備は全て当人がやればよく、故障率も現代兵器に比べれば格段に低い鎧や矛装備、
専門職もハッキリ言って比較にならない程未分化で必要もなく、つまり食料調達に当人を用いる屯田を行うことが出来る三国時代の軍。
整備人員、技術者に高給が必要であり、それも素人が想像するより遥かに人数も必要で、制度上の人件費も重く、
手入れの為に数十年も経てば購入費用に近い値段がかかり、人を買うより高い武器が大量にあり、ちょっと演習するだけでも同じ値段が飛ぶ現代軍。
食料費用でも出せば存分に演習できる三国時代の軍。
ちょっとした演習すら数百億円単位で飛んだりする現代軍。
流石に比較するのもバカらしくなるわ。
155 :
世界@名無史さん:2011/11/08(火) 13:55:28.74 0
>>154 現代に比して、古代は経済が比較にならないほど貧弱だから、古代の軍隊はやはり非常な重荷になるのだよ。
三国時代は鉄官がいれば兵器の原料を国内で自給自足出来るな。
現代だと日本ですらタングステン産出とかはかなり中国頼りだけど。
タングステンはレアメタルで一般的な銃弾の材料の一つね。
劣化ウラン使うことも出来るけど、これも北朝鮮は国内で用意出来ないだろうな。
>>155 経済が貧弱な時代だということは、逆に官で自給自足を行う可能性が高くなるということで、同時に費用もかなり低減される。
そのために将作大匠とかはいるわけで。
人件費も格段に低くなるし、比較にならないことに変わりはないよ。
じゃ、古代の鎧の製造について考えてみようか。
まず鉄鉱石を集めることからはじまるが、これがすごく大変。
炭鉱堀りも輸送も全て人力、よくて牛車による輸送。
で、集まった鉄鉱石を加工する段階に入るが、鉄鉱石を鉄にするには大量の燃料、つまり材木がいる。
この材木も全て人力で伐採収集することになる。
当然ながら、これらの炭鉱や伐採で働く人間も食わなきゃ働けない。
これらの人々を養う食料と金が大量に要る。
鉄ができた後は、いよいよ鎧に加工する段階に入るが、これが一朝一夕では身につかない超先端技術ときている。
一個一個が完全オーダーメイドであり、大量生産など望むべくもない。
このように、まったく自動化されてない古代は、鎧一つ作るのに現代とは比較にならないほど大量の人力と時間を必要になるのだ。
それは現代の兵器製作と比較しても劣らない苦労であっただろう。
>>157 人件費は前近代だと格段に安いし、労働の強度を基準にして費用が拡大したとしても多くて倍程度でしょう。
食料も元から居る彼らの食費を労働強度によって+αしてまかなう程度のもので、莫大にはならない。
前近代による苦悩を、近代以降なのにアレな統治を行っている北朝鮮と同列視するのは不適切だよ。
生産ラインを蜀が増設していなければ、それは大体は単純に個々の部署の苦悩に帰するべきもので、
それは蜀に限定すべき問題ではないし、この議論で問題とすべきは苦労ではなくコストだよ。
現代の遠征だと、兵士1に対して後方支援人員が7とか8の割合。
それだけ莫大な費用と設備が必要になる。
前近代だと、長安〜高句麗間の100万人徴兵・2000キロ遠征という桁外れのものでさえ、1:2。
近世欧州の、酒保から情夫まで一緒に行軍した傭兵団もそんな比率。
三国時代のような小規模なものなら、後方人員は1以下だろう。
古代国家が最新の投石器を研究開発配備するのに、年間国家予算の3%を使うなんてことはありえないが、
現代国家が戦闘機や戦車を開発するにはそんな額が掛かる。
はっきり言って桁を間違えてる。
話戻すが、
>>150 じゃあ、蜀の時代に1万5000戸と数万の辺戍兵がいたことは認めるんだね。OK。
それなら漢中は軍需兵糧を備蓄するに生産力を持っていた。解決。
詳細は上記に述べたとおり。
わからなければ、武帝の屯田 辺戍 漢の徴兵制などを調べること。
やってることはそれと同じだから。
161 :
世界@名無史さん:2011/11/08(火) 20:16:00.72 0
>>159 >前近代だと、長安〜高句麗間の100万人徴兵・2000キロ遠征という桁外れのものでさえ、1:2。
お前中国の100万とか言う数字マジで信じてるのw
実数はもっと少ないよ。
ていうか、後方支援人員まで含めていいなら、10万の兵を維持するためには蜀のように94万という人口が必要なわけで。
「後方支援人員が7とか8の割合」といえるだろう。
>古代国家が最新の投石器を研究開発配備するのに、年間国家予算の3%を使うなんてことはありえないが、
>現代国家が戦闘機や戦車を開発するにはそんな額が掛かる。
>
>はっきり言って桁を間違えてる。
現代国家が高い戦闘機や戦車を開発するのは、人件費を抑えることができるからだ。
軍事費でもっとも多くの割合を占めるのは実は人件費。
これは古代から変わらないね。
どうやら後方支援人員という言葉を理解しておられぬご様子
残念ながら、隋の100万人動員・200万人兵站は徴集名簿の総計が史書に一桁まで載ってることなんだよね。
これが信じられないなら、蜀の10万人も同等に信じられないよ。
ていうか敗戦の直後に纏められた蜀のデータの方が信憑性が低い。
後方要員は、本国から戦闘部隊までの兵站や整備に関わる人数のこと。
現代軍と国民全体の比率をいうなら、普通は1%から3%が相場。
三国時代では、蜀が10%、呉が同じく10%、魏は推定だが、一戦役に20万を集中できることからして、
総勢40万と推定すれば、9〜10%が兵士だった。
まあ古代・中世と現代とはこのくらいの差がある。
>現代国家が高い戦闘機や戦車を開発するのは、人件費を抑えることができるからだ。
無限の人民がいればエイブラムスやラプターに勝てると。すごいね。
>軍事費でもっとも多くの割合を占めるのは実は人件費。
鎧の話を覆されたから1レスで人件費に乗り換えるとは大したもんだ。
しかし、
「ほとんど人件費しか掛からない」「しかも徴兵で給料を払う必要が無い」「訓練費用が現代とは比べ物にならないほど安い」
からこそ、古代軍は人口の一割などという規模の軍をもてたわけだよ。
「莫大な兵器開発・維持費を支える後方経済を必要としない」
「精緻な景気対策や税制がなくとも国民の不服従を招かない」
etc
腐るほどあって上げきれないな。
そもそも隋の遠征を疑うなら、何故それより遥かに負担の大きい蜀関係の記述は信じるのだろうな
税制は漢より隋の方が重いはずだし、隋の遠征の兵力の人口比は46:1だから遥かに国家予算に占めるコストが軽いはず
>>163 うろ覚えで書いたからだいぶ間違ってた。
>總一百一十三萬三千八百,號二百萬,其餽運者倍之。
明記してあるのは百の位までだね。輜重輸送者は「これの倍」とあるだけで正確な数字は不明だった。
>>163 三国志ヲタに現代兵器ヲタが極少数だと思われるから、
エイブラムスとかラプター言われるとちんぷんかんぷんだろーよ
168 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 07:02:37.56 0
>無限の人民がいればエイブラムスやラプターに勝てると。すごいね。
財政的には勝てるよ?
アフガンで、ゲリラが作った5000円のIEDが、1億円のストライカー装甲車と、これまた高価な米兵をぶっ飛ばしてるのをみればわかるじゃんw
アメリカは出費に付き合いきれなくなって、ついに撤退だよ。
>鎧の話を覆されたから1レスで人件費に乗り換えるとは大したもんだ。
鎧の話もまた人件費の話でね。
あんたは人件費が安いというが、工業力としては人力しか頼るものがない古代では、人間はきわめて貴重品だよ。
曹操たちだって必死で強制移住させたりしないよね?
人間を確保することが生産を確保するに等しい。
169 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 07:04:10.16 0
そもそも、いくら人件費が安いとしても、古代の国家の財力自体が小さなものなので、相対的には人件費の比率が極めて高くなるのだよ。
>>163 >後方要員は、本国から戦闘部隊までの兵站や整備に関わる人数のこと。
彼らを養う兵糧を、誰が生産するかについては考えなくてもいいんですかね?
171 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 07:54:59.84 0
三国時代の稲作はしらないが、
山からわき水などを水田に引き入れるのは、
一端太陽光で暖めてから引き入れるようにしたはず。
この当時は、まだそういう技術はなかったのかな?
172 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 08:09:04.57 0
>>163 隋唐代に国家が扱える兵力が激増したのは、2年3作方式の採用がある。
この新しい農業制度によって、収穫が増え、養える人口も増え、余剰物資ができた。
だから三国時代や南北朝時代よりも大きな兵力の存在を可能になった。
そんだけの話。
173 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 08:10:08.78 0
>>171 >一端太陽光で暖めてから引き入れるようにしたはず。
確か蜀漢は日照時間が短かい。
実はあんまり農業向きの土地じゃないのかなぁ。
174 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 08:24:23.08 0
2年3作方式の問題点。
確かに収穫は増えたが、年中通して農業に専念する農民を必要とする。
畑や田んぼ、土木、水利の面倒を見る農民がいなくなると、てきめんに生産が下がってしまうからだ。
従って、農民を兵隊として徴用することが難しくなってくる。
農民を兵隊にするより、そのまま農民としてはたからせる方が、その生産でもって国家財政に大きく寄与するのだ。
やがて農民徴募の軍隊は姿を消し、兵農分離が完成することになる。
>>168 前者は私の発言ではないのでどうでもいいが、大筋は同意するわ。
後者は話が逸れている。
人間の確保が大事であることと、人間の労働が安価であることは両立する。
>>169 古代国家の特性という理由を挙げておいでだが、そもそも特性などの事情を無視して
無理矢理現代国家との類似性を論じたことに大きな問題があることを認識して頂きたいところ。
>>170 後方支援人員というのは軍人ないしは軍属だよ。
財政の話なので、給与から年金に至るまで補償する義務がある対象についての出費は大きな比率を占める。
176 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 13:19:36.42 0
>>175 >人間の確保が大事であることと、人間の労働が安価であることは両立
聞こうと思っていたのだが、君の言う「安価」って、いったい何と比べて安価なの?
177 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 13:23:54.80 0
>>176 >古代国家の特性という理由を挙げておいでだが、そもそも特性などの事情を無視して
>無理矢理現代国家との類似性を論じたことに大きな問題があることを認識して頂きたいところ。
君は古代は特殊だというが、俺はそうは思わない。
軍事費が国家を財政破綻に追い込むのは、古代も現代も変わらない。
ローマ帝国も最終的に軍事費が賄えずに滅亡したんだしね。
178 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 19:04:33.51 0
結局、姜維が国力を衰えさせたという結論なんだろ?
国力や防衛戦を維持できなくなる程の大敗するような失態もしたし。
諸葛亮みたいな国力を大きく傾けさせない配慮もないし、大軍を出兵さ
せるだけの準備もしなかった。しかも、負ける時は大敗し、諸葛亮のような
損失を最小限に食い止める能力もなかった。国全体を統率する能力は諸葛亮
にかなり劣る。ま、自分の能力を自覚してた費イの方が数段上姜維より上だ
な。
結局、歴史を考証評価して特殊性を割り出すことなんか興味なくて、
全ての事由を個人の素質に矮小化する能力しかないんだな。
それが認められるまでは何も証明せずに壊れたレコーダーみたいに同じことの繰り返し。
そりゃまともな歴史趣味の人間は逃げ出すしかないわ。
>>176 雇用形態。
中抜きも補償もないのは十分に安価と言えよう。
>>177 話を逸らさないでくれ。
軍事費が国家を財政破綻に追い込んだ形が存在するとして、内実や背景は全然違うだろう。
どうして一緒くたに論じようとするのかと聞いている。
>>178 悪いが俺は蜀の末路については興味無いな。
正直北朝鮮と三国時代を同列に並べようとしたアホさに釣られてやってきただけなんで。
182 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 19:59:37.92 0
司馬懿や陸遜が諸葛亮の立場だったら、
諸葛亮並のことができたかは微妙。それくらい北伐は大事業。
姜維の高速機動は確かに評価すべきかもしれないが、戦争は政治
の延長なのだから、内部分裂を引き起こし、戦争を支える体制を
結果的ガタガタにした姜維は実力以上のことをしたという評価は
仕方ないでしょう。この時代は政治力も全軍を率いる将の必須能力。
ついに兵站ネタも備蓄ネタも放り出した
184 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 20:20:00.52 0
細かいネタもよいのだが、
あまりに重箱の隅をつつき過ぎて、白馬は馬ではない
みたいな本末転倒の詭弁になってたからね。
歴史の流れを人の能力や責任に還元するものだとしか思えない人間にとってはそうなんだろうな。
漢中に備蓄があったという主張が姜維擁護にしか見えず、
段谷の敗戦理由などを追求するのは姜維等を批判する手段でしかしかない。
憎むべき輩だ。
186 :
世界@名無史さん:2011/11/10(木) 08:12:36.05 0
>>180 >雇用形態。
>中抜きも補償もないのは十分に安価と言えよう。
ピンハネはむしろ古代の方がひどい。
識字率低いわ算数もできないわで、騙そうと思えばいくらでも騙せる。
また、補償がなくても、人件費が極めて負担なのは同じ。
現代国家に比べて経済規模が小さいからね。
1万円持ってる人間は100円負担するのと、
1000円しか持ってない人間が50円負担するのでは、
後者の方が負担がきついよね?
>軍事費が国家を財政破綻に追い込んだ形が存在するとして、内実や背景は全然違うだろう。
蜀が古代国家の中でも特殊な経緯をたどって滅亡したとはあんまり思えないがねぇ。
なにが特殊だったの?
あいかわらず根拠も糞も無いな。現代国家の負担率が1:100で、古代が1:20だって?(何が?)
現代と古代の国家予算比率からその割合を示して見せてから言えよ。
>三国時代では、蜀が10%、呉が同じく10%、魏は推定だが、一戦役に20万を集中できることからして、
>総勢40万と推定すれば、9〜10%が兵士だった。
蜀はまったく特殊な国家じゃないな。当時一般的な戦時体制国家。
いったい何と何を比較して何を訴えたいのだろう。
>ピンハネはむしろ古代の方がひどい。
>識字率低いわ算数もできないわで、騙そうと思えばいくらでも騙せる。
これって中抜きで官僚が私服を肥やして兵士の取り分が減るって事だよね。
あるいは、国家が民衆をだまして低賃金で扱き使う可能性もある。
中抜き・ピンはねで古代国家の負担が軽くなりはしても重くはならないよな。
191 :
世界@名無史さん:2011/11/11(金) 09:58:31.93 0
>>187 確かに俺が挙げた比率がいい加減なのはそのとおりだが、
俺が言いたいのは古代国家の経済規模はずっと小さいってこと。
現代に比べて売り物が少なすぎるのと、国民が金持ってなくて市場が小さいのを見れば想像できるだろ。
192 :
世界@名無史さん:2011/11/11(金) 10:32:47.01 0
>>188 魏の人口が440万だから、20万動員なら人口の4%だね。
全力動員しても、魏に対抗できなかった蜀よりは負担軽いんじゃねw
>>189 >ピンハネがいくらあろうが最低限の賃金補償が成されてなければ極端な高騰はしない。
あの時代は食料は貴重品だから。食料という賃金を補償したら金がかかる。
>蜀が古代国家の中で特殊ではないことが確認されたのなら争う理由はない。
蜀は軍事費に金をつぎ込みまくったキチガイ軍事国家の一種だね。
類例があるという点では特殊ではない、というのは認めるよw
>>190 >中抜き・ピンはねで古代国家の負担が軽くなりはしても重くはならないよな。
それに加えて、水増し見積もりを突きつけて税金を着服するのも普通。
ピンハネ横行で兵士の暮らしが厳しくなり、納税すらできなくなったら、これも国家の損失。
193 :
世界@名無史さん:2011/11/11(金) 19:05:08.38 0
つうかさ。
あの時代の税体系がどうなってたか誰か説明してくださいな。
蜀には人口の10%もの兵士がいたが、
魏は人口の4%しか一戦役に投入しなかった。
魏の方が圧倒的に負担が軽い。
…たんいをおなじくしてからくらべましょう。って中学年で習わなかったか。
195 :
世界@名無史さん:2011/11/12(土) 08:10:59.49 0
>>194 蜀の普段の兵士はもっと少ないだろw
全部動員したら10万になります、でもそれやると戦う前に経済破綻するのでやれません。
196 :
世界@名無史さん:2011/11/12(土) 08:31:35.06 0
>>192 姜維時代の蜀も一戦線に投入してたのが五万を大きく超すとは思えないから(まあ完全に根拠無いけど)、
それだと人口の5%で、4%動員した魏と大差ない
>>196 姜維を迎撃した魏軍だって大した数じゃなかっただろw
魏が蜀を攻めるときは、魏は20万の兵力を動員するが、
蜀が魏を攻めるときは、魏は数万程度しか動員してないだろう。
姜維時代は。
>>197 そりゃ、対姜維戦では魏は国力の総力を使わなかったってだけの話で、当たり前のことだよ。
単なる迎撃に総力傾けてたら対呉や北辺防御はどうするんだっていう。
今の話は、蜀が「蜀は軍事費に金をつぎ込みまくったキチガイ軍事国家の一種だね」ってことらしいので、
対決した一戦役でどちらがどれだけ国力を使ったの比較は彼の望むところではない。
魏が最大の軍事力を動員したのは諸葛誕の乱の時。
諸葛誕が支配下におさめた「淮南・淮北」の「十餘萬官兵」と「揚州兵四五萬人」に対し、
司馬昭率いる「二十六萬衆」。
さらに東方の乱に呼応した姜維の北上を防いだ関中・隴西兵を合わせれば、
ざっと40万人以上が動いている。
これは戦闘要員ではない人夫などの「衆」や官吏等を相当含む動員数だから、
蜀の「戸籍上の帯甲十万」とはまったく単位が異なるが、
諸葛亮の五次北伐の「衆十餘萬」に匹敵する人口比率になる。
200 :
世界@名無史さん:2011/11/12(土) 20:06:28.54 0
諸葛亮死後では、魏は呉蜀に対する二正面作戦をやったことはないので、兵力が足りなくなったことはないだろう。
>>199 諸葛誕にしてみれば、大兵力で反乱を起こしたのに
それを上回る兵力で叩き潰された訳か
涙目どころじゃないな
>>201 それでも1年にわたる滅多にない長期の戦役だから、魏の国庫への甚大だったはず。
ま、それ以上に呉蜀は衰亡してて、魏の疲弊に乗ずることすら不可能になってたのだが。
結局、諸葛誕の乱から5年の間悠々力を蓄えてしまってる。
蜀も段谷の敗戦のあとだからな。
その後、姜維は成都の政争に掛かりきり。
258年時点で、魏の国力は呉・蜀・諸葛誕の三正面作戦に堪えるまでになっていた。
中原や関中・隴西での回復の努力の成果というわけだろう。
日本はミッドウェイで4空母失った損失を回復できなかったが、
アメリカは、稼動空母ゼロになっても、1年後にはエセックス級山盛り。
軍事に入れ込んだ小国は、一度受けた傷を回復できない。
三国時代の問題は軍事損失の回復力じゃないよ。
面積的には「大国」と言われる魏が、実は曹操時代には疲弊した国土を抱えて
二正面作戦を至難とする程度の国力しか残っていなかったこと。
40年の長い経済回復路線を歩む「疲弊した大国」と、
それを阻もうとする「豊かな小国」との衝突が魏蜀戦争。
何しろ益州は、一州では当時トップクラスの人口と、
穀物・塩・鉄・材木・水・各種鉱物・野菜等の高い生産バランスを持っていた。
魏の同等以上の州である冀州は遥か遠く、この経済力はとても対蜀戦線に投入できない。
そこで西方支配の回復を目指す魏の経済・軍事展開が行われる。
この活動を、蜀漢はついに軍事的に阻止できなかった。
それが滅亡の対外的要因。
一方の呉は、洛陽・許昌から迅速に展開されうる魏の大軍と騎兵に
正面からぶつかる陸戦兵力が無く、初めから蜀のような戦略を取れなかった。
淮-江・漢-江間の水路を頼りに豫揚荊州での鍔迫り合いに終始して、蜀の滅亡を見送るはめになる。
中世ヨーロッパと比較するのは馬鹿馬鹿しいことかもしれんが
現地調達で養える兵力は5万が限界だったらしいな
輸送網を整えるかか・現地を整えるかか、という戦略・政略の展開は読んでいて面白いね
近世なんて土地の経済力を吸い尽くしながら軍隊が通り過ぎたもんだしね。
208 :
世界@名無史さん:2011/11/12(土) 22:46:40.28 0
三十年戦争でドイツが壊滅状態になったのは、
両陣営の何万もの大軍が現地調達したからだしな
古代の国家予算は安かった
蜀豊が来たのか。
94万人の人口から徴税した場合、どんだけ食料余剰ができるのか計算してみろよ。
94万人分じゃね?
蜀の米の生産が一畝20斛でこれを人口5人で生産できるとし、税率が三十分の一なら、年間の租税高が12万5000斛。
議の粟と一部米の生産が一畝5斛でこれを人口5人で生産できるとし、税率が百二十分の一なら、3万5800斛。
あ、意地が悪いとか言うなよw
しかしこの手の話題で食いついてくるのがなんで魏に拘る人ばっかりなんだろうか。
長江下流を押さえて人口二倍の呉の方が遥かに生産力があると想像できるのに。
214 :
世界@名無史さん:2011/11/13(日) 12:37:10.27 0
ど素人なんですが質問いいでしょうか?
なぜ孫権は劉備を裏切って関羽を攻撃したのでしょうか?
もちろん、荊州の領土問題や婚姻を断られたという経緯は知っていますが、それだけ
で同盟関係を破棄して魏を利するだけの愚劣な所業だと思うのですが。
仮に争うにしても魏をもっと弱体化させてからでしょう。
そこらへん、このスレの皆さんはどう思われますか?
216 :
世界@名無史さん:2011/11/14(月) 18:34:24.15 0
蜀が豊かうんぬん。の話だけどさ。
確かに蜀は中原みたいに荒れてなかったけどさ。
蜀漢政権が四川盆地をどこまで支配しきれてたのか?
>>215 当時、劉備と孫権は同盟関係とは程遠い仲だったのよ。
215年の攻撃の分は一応和睦して境界線を引いたけど。
依然呂蒙は荊州の残りを狙っていたし、関羽もそれを十分承知で防備していた。
劉備を必要以上に弱らせて益州や荊州を曹操に取られるのは論外だが、
さりとて荊州をこのまま劉備に支配させておくわけにはいかないし、これ以上の拡大はもっての外。
というくらいの優先順位だった。
呂蒙はこの戦略条件に完璧に則って、曹操軍の疲弊に付け込み、
関羽との決戦無しに荊州を制圧した。
>>216 90万人分くらいには。
>>216 四川の地は豊かだけど、まぁ、当時としてもその豊かさを刈り取るには、
蜀漢の人口は少ないように思える。
政庁に人を集め、国防の要衝に人を集め、
灌漑の行き届いた耕地に人を集め、
塩田に人を集め、鉱山に人を集め、
蜀錦等の技術者を集め、交易に人を割く等々、まぁ色々と足りんわな
もっと戸籍に人を組み込み、食糧供給を万全にし、乳幼児死亡率の低下、
他国から食い扶持を求めて人がやってくるような、
地味な内政的努力がどのくらい為されていたのだろうか?
魏の領土の大半はそれとは比べ物にならないほど逼迫してるんだから
この時代としては十分だろう。
そもそもこの時代の人口って、国家の支配の及ぶ人民全てが記録されていたのか?
例えば、豪族の支配下にある人民は人口統計には加算されないが、豪族は国家に従っているから
国家は豪族を支配することで人民を間接的に支配できることになる、とか
いや、十分とは言わないか。負けたわけだし。
逆に、益州だけが後漢末の疲弊を奇跡的レベルで免れて、
200万300万の口数を持っていたなら、蜀漢は勝ててるよ。
まあその前に劉焉・劉璋時代がどう転ぶか予測不可能だけど。
>>220 そういうのはいた。人客ってやつね。
でもどの地域のどれだけの大豪族がいたかなんて判らないから、
戸籍の記録から人口比で国力差を比べるとか、大雑把なことしかできない。
223 :
世界@名無史さん:2011/11/14(月) 19:26:54.76 0
三国の戸籍の人数を2倍にすると、西晋統一時の人口と近似するんじゃなかったか。
>>222 そうするとさ、戸籍上の人口90万人余で10万人の兵を持っていたとしても本来の人口はもっと多い訳で、
豪族の私有民が記録に載っていないとしても彼らから兵を集められていれば必ずしも蜀が重負担とは言えないんだよね?
だからと言って、特別な状況(例えば、三国の内一国だけが豪族の勢力が強いとか)が無ければ
記録上の人口比でおおよその国力比を推測するのは間違っていないのは確かなので
蜀豊に加担する気は無いけども
>>224 蜀軍10万のうち豪族が私有民を率いて参戦した割合っていくら?
そもそも、豪族は戦争なんかに参戦してないような気がするんだけど。
>>224 前半、理屈としてはその通りだろうけど。
呉が滅びた時に晋が接収した記録として、
戸五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬。
がある以上、別に特別な仮定を立てなくとも、
蜀漢が当時として軍事負担の重い国だったことは否定されるんだよね。
官吏の多い国だったとは言えるけど。
呉 人口230万:兵23万
蜀 人口94万:兵10万
割合的に考えて呉より兵役きついじゃん。
>>217 お答えありがとうございます。両方ともぎりぎりな感じだったんですね。
229 :
世界@名無史さん:2011/11/14(月) 23:02:23.70 0
>>228 ばか。
そんなに簡単に納得するな。
天下二分の計(もちろん命名は後日の人間だけど。)、河北の曹操に江南、西蜀をおさえて対抗するという周瑜、魯粛の基本方針。
天下三分の計などそこにのっかって勝手に領地をぶんどろうとした諸葛亮の迷惑なやりくちでしかなかったのだ。
呉からすりゃ、関羽に好きかってやらしておく訳にはいかんからな
そもそも、呉が勢力を伸ばすとしたら、関羽相手しかいないだろ。
曹操:強い。論外。
劉備:強いし益州は遠すぎ。無理。
関羽:3人の中では間違いなく最弱。手ごろ。
流れぶったぎりですまん
呂布の裏切りうぜぇ
って言ってる奴がいたんだけど、呂布並にすごい裏切りした奴って誰かいる?
呂布の目の前にいるデカ耳
結果に結び付けたという意味ではすごいな。
あと即行で献帝確保して袁紹に優位を築いた曹操とか。
献帝東帰と見るや袁術を切った孫策とか。
>>229 取っても無い領土を「唾つけたー」って言っておいて、
出し抜かれたからって迷惑も糞も無いだろ。
あんまり孫権や魯粛を馬鹿にすんなよ。
236 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 19:12:25.03 O
>>232 「北の呂布、南の窄融」と言われて呂布と並び称された窄融じゃね
称されてないよ。どこかの個人サイトかなんかでは知らんけど。
ageで適当なこと言うといつもの子と同一人物と思われるからやめたほうがいいよ。
238 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 20:15:58.08 0
いつもの子??
おれのことか??
239 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 20:22:28.09 0
「北の呂布、南の窄融、西の孟達」だよな
ふーん。
まあ呂布の故主殺し・義父殺し・恩人の留守中に本拠地襲撃
には遠く及ばないけどな。
袁術・袁紹の元から去ったり、エン州の乱は別に裏切りではないけど。
241 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 20:51:33.09 0
呂布ってのはどうしてどうして。人望もあったんだよ。
242 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 21:02:23.53 0
筋肉バカではない。
むしろ筋肉馬鹿の要素が無い。
政治・戦略的には定見が無くて優柔不断。
>>234 >あと即行で献帝確保して袁紹に優位を築いた曹操とか。
むしろ、献帝担いだことで敵増やしてるじゃん。
献帝を擁立しなければ、敵が増える増えない以前に中原制覇なんて不可能だったわけだが。
東帰に応じて許都に集まってきた人材が対袁紹の柱になったんだよ。
直接曹操の部下にはならなくとも後漢朝廷に帰順した人間も多くいた。
その後、丞相・魏公として曹操が専横を明らかにしていくに連れて
孔融のように粛清・脱落していく者もいたわけだが、
曹魏政権の中枢を担ったのは196年の司空以降に曹操に付いた人間達。
>>245 >敵が増える増えない以前に中原制覇なんて不可能
それは嘘だ。袁紹に勝てれば中原はどうとでもなる。
>東帰に応じて許都に集まってきた人材が対袁紹の柱になったんだよ。
官渡で活躍した人材は、ほとんどが荀イクを通して集めたのばかりじゃないか。
献帝関係ないし。
>曹魏政権の中枢を担ったのは196年の司空以降に曹操に付いた人間達。
196年以降、宛の張繍を攻めて、思いっきり負けたけどな。
それまでの曹操は荊州に攻撃をかけたことがなかったのに、
献帝を擁したので調子に乗って手を広げようとした。
そして大ゴケした。
献帝を擁した後も、曹操が優位になった事実は全然ない。
張繍、劉表、呂布、袁術らとひたすら戦い続けている。
しかも曹操はしばしば負けてるし。
献帝のおかげで一体誰が服属してきたのか?
適当にかき集めたが。
孔融楊彪鍾ヨウ華キン荀攸陳羣郭嘉張繍賈ク袁渙
この辺が、曹操の司空就任以後、袁氏の敗北前に許都に参じて朝廷の官を得た人物。
王郎ヘイ原涼茂国淵
この辺りも曹操司空時代に官を得ているが、時期はよく判らない。
これらの人物は、幾人かの伝に「献帝が東帰したので許都に参上した」
とあるように、献帝を擁していなければ曹操の手元に集まることは殆ど有り得なかった者達。
多くは魏の高官となった。一方、196年以前に曹操にいた人物は、
曹夏侯氏と荀ケを除けば少数のエン州人くらいしか高位に上れていない。
曹操が献帝を擁したことで、袁紹の上位に立った、というような表現をしたのは悪かったね。
献帝を得たことで、袁紹よりも優位な一点を初めて得ることができた、と言おうか。
武力で周囲を全てねじ伏せることができるなら、そりゃ中原だろうが天下だろうが制圧できるけど。
実際には、曹操と後漢朝廷が一体の存在だったからこそ、
許都に付くか袁術に付くかの呂布の逡巡が生まれ、
張繍の帰順が成立し、
孫策の袁術からの離反と中原進出の遅れがあり、
司隸校尉鍾ヨウらの洛陽・関中派遣と後方支援地化、河内からの防御が成功した。
史実でさえギリギリの勝利だったのに、上記無しで
「エン州と豫州ちょっと」の曹操が袁紹に対抗できる勢力になるのは不可能。
二袁のどちらかが献帝を抑えての袁氏対決に、支配下軍閥の一員として参加するくらいしかできない。
>孔融
こいつは袁氏に追い出されて仕方なく来ただけ。
>楊彪
こいつは董承の同僚で、献帝の東帰行に従った一人だろ。
>鍾ヨウ荀攸郭嘉
献帝のおかげじゃなく、荀イクが評価したので曹操が召抱えた。
>華キン
孫策の死で空中分解しかけの孫氏と、官渡で勝った曹操なら、普通に曹操を選ぶでしょw 献帝がきっかけではない。
>陳羣
呂布討伐後、やっと徐州平定の目処が立ったところで出仕したのを「献帝を慕った」とはいわないw
>張繍賈ク
あのー、こいつらと戦うようになったきっかけはむしろ献帝奉戴なんですが。
献帝奉戴までの曹操は、袁術とは戦っても、荊州には手を出してない。
>袁渙
呂布に仕えてたけど、呂布が負けたのでそのまま曹操に吸収されました組だろw 張遼と同じ。
>幾人かの伝に「献帝が東帰したので許都に参上した」
そりゃ、魏書なんだから飾ってそう書くだろw
ふうん。
いくら理屈を並べても、献帝と後漢朝廷が許にいなければ、
彼らが曹操に就く理由は無かったことには変わりないけどね。
ついでながら、華キンが呼ばれたのは官渡決戦中。
こじつけワロスww
>>250 >実際には、曹操と後漢朝廷が一体の存在だったからこそ、
献帝と一身同体だった董卓や李?らはみじめに滅亡した、という前例があるんだがw
曹操も同じように滅びるだろう、と思う人の方が多かったんじゃないかな。
官渡で勝つまでは。
>張繍の帰順が成立し
帰順する前に何度戦ってるんだよとw
軍事的に曹操が優位と踏まなきゃ、曹操の下になんかつかねーよ。
仮に袁紹か袁術が献帝を抑えれば、華キンや孔融はそっちに行く。
わざわざ曹操に就く理由が無い。
楊彪鍾ヨウ荀攸は朝廷官であり、皇帝に就いていくのが当たり前。
皇帝を抑えた軍閥の許に留まることになる。
強いて言えば、徐州陥落で袁渙・陳羣らはそのまま吸収される見込みはあるが、
曹操が気に食わなければ出仕しなければいいわけで。
曹操が献帝を擁する司空・丞相の権威で、
皇帝直属官や公府掾属で釣っても引きこもった人間が多くいるのに、
エン州牧にすぎなかったら、なおさら仕える筋合いはない。
どれだけ協力してくれたものか。
曹操は劉表を朝敵と設定して攻撃した。急に武力が伸びるわけではないから、張繍に何度も負けた。
それでも張繍は、劉表に付き続けることに将来性無しと見たわけだ。なぜだろうね。
>>254 >曹操も同じように滅びるだろう、と思う人の方が多かったんじゃないかな。
>官渡で勝つまでは。
そうだね。思った人間はかなり多かっただろう。代表格が劉備。
しかし、それでも曹操が勝つ、と思って曹操に付いた人間もそれなりにいて、
彼らの集合が曹操を勝たせたわけだ。
で、彼らが曹操が勝つと見込んだ理由は二つ。軍事力と朝廷の存在。
華キンの場合、献帝の臣の馬日テイの部下。
つまり最初から献帝の部下に過ぎないと思うのだが。
馬日テイが死に、曹操から官位をもらってた孫策も死んだので、献帝の元に帰ってきただけだよ。
皇帝を迎えた曹操と袁紹は、不和の水位を上げながらも、199年までは亀裂は表面化していない。
この間、朝廷から官位をもらった劉備・呂布・孫策等群雄達や、許都に参集して朝廷に席を占めた名士達は、
表面的には袁紹-曹操の大きな勢力に取り込まれた格好となった。
この状況を利用して、外に官位をばら撒きつつ戦略環境を自分の有利に運び、
内では許都司空府に人材を集め、政治基盤と広域支配の行政組織を作り、
何より正統な根拠で牧・刺史等を自由に任命する。
こんなところが、袁紹と直接対決するまでに曹操がやったこと。
259 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 21:21:54.46 0
「献帝は疫病神」というのが曹操の献帝奉戴時の世論。
事実、曹操はひどい目にあい続けたし、領地もろくに増やせなかった。
袁紹との戦いでは本当に滅亡するところだったしね。
そんな世論は聞いたことが無いが、安全に生き延びることだけ考えるなら
生半可な軍閥が手を出すもんじゃないのは当然だな。
守りきることと制御しきることが両立できなければ意味が無い。
献帝を抱え込んだ曹操は、官渡の戦いに、なんとエン州と豫州だけで臨む羽目になってしまった。
ていうか、そのエン州と豫州にさえ、キョウ都、黄邵、劉辟、何儀のような賊がうようよ。
徐州は、劉備を担いでそむいたばっかりで、どこまで策源地として機能したか怪しい。
実際、東海で昌キが抵抗しており、張遼と夏侯淵ですら数ヶ月もの間攻め落とせなかった。
これは官渡の最中の出来事である。
ホント、官渡は何で勝てたか分からない戦争だよね。
献帝がいなければ、よくて皇帝袁紹の忠臣大将軍曹操。
ちょっと悪ければ途中で粛清されて終わり。
本格的に悪ければ、袁術に対する盾で使い潰されて史書に伝も立てられない。
曹操が袁紹との戦いに圧倒的不利な状況で「臨む羽目になってしまった」というのは嘘。
袁紹は朝廷を北に移す要求をしていたんだから。
曹操が袁紹との衝突を避けたく思い、朝廷に価値が無いなら、
この要求を呑んで袁紹の下位に甘んじるだけでよかった。時間は三年あった。
だから、199年に極めて不利な立場にあって、それでも袁紹との対決を選択したのは、曹操の意思。
そして、ギリギリまともな対決に持っていくためには朝廷の確保が大前提だった。だから確保を続けた。
単純な話だろう?
264 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 22:35:40.10 0
官渡は諸葛亮なら負けていた。
間違いない。
諸葛亮ならそもそも軍閥率いて天下争い自体しない。
266 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 22:58:51.79 0
いや。
わからんぞ。
意外とそういうのがすきな人だったのかもしれないぞ?
そうですか
面白そうな小説ですね
268 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 23:05:38.43 0
なら、おれが本書いたら買ってよめ。
269 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 23:07:31.91 0
きっと、約束よ。
>>263 >だから、199年に極めて不利な立場にあって、それでも袁紹との対決を選択したのは、曹操の意思。
>そして、ギリギリまともな対決に持っていくためには朝廷の確保が大前提だった。だから確保を続けた。
>単純な話だろう?
どう考えても結果からさかのぼってますありがとうございました。
お前みたいなやつが蒼天曹操の信者になるんだよw
271 :
世界@名無史さん:2011/11/17(木) 05:41:40.98 0
三国時代の擁州と荊州の人口はどれくらいだったの?
官渡の戦い
http://togetter.com/li/198438 抜粋
曹操と袁紹は 200 年にいきなり交戦が始まったように書かれ、199年にもその予兆が示されているが、袁紹の南下は198年に始まっているはず。
孔融と荀イクの論議もそのときのこと。
2人の分析は孔融のほうに分がある。
というか荀イクのは無責任な希望的観測、強がりにすぎないよ。
官渡の戦いで、河内郡のみならず、エン予諸郡の状況すら分からないのは、これらの地域が袁軍に寝返っていたことを示している。
曹操が維持できたのはほぼ官渡以南だけ。
あとは陽安、?城、離狐、泰山、広陵、長安くらいか。
臧霸は交戦の記録がなく、おそらく中立。
袁紹の兵力が官渡の戦いでは過大評価されているように思う。河北の人数をこぞって南下したといっても、中原全域を押さえてる曹操の兵力にはかなわないよ。
だから最初は黎陽→白馬ルートに戦力を集中していた。兵力が逆転したのは曹操が白馬で敗退してから。?州諸将が寝返ったのだろう。
曹操は白馬で敗退して?州諸将の信望を失い、諸将が続々と袁紹に寝返った。
通常、遠征軍は手を分けて各地を鎮撫するので兵力がすりへるものだが、今回は戦闘による占領ではないので、袁紹は領域を広げるほど兵力もいや増していった。
袁紹のえらいのはそれだけ兵力で圧倒しても慢心しなかったところ。
袁紹の勢力は冀州、青州、幽州、?州。人口は合わせても 1229万。
しかも冀州以外は完全に支配が行きとどいているわけではない。
曹操の勢力は広大だがエン州、予州にしぼってもこれだけで人口 1023万。
これに司隷、徐州、荊州北部、揚州北部が加わるわけだから…。勝てるか!
賈クが「曹操のほうが兵力が少ない」と張?に語っているのはおかしな話だ。事実に反している。
おそらく劉備の挙兵に対応したため、曹操の手持ちの人数に不足が生じたことを指しているのだろう。
張?の押さえる南陽郡の人口は、徐州の全人口とほぼ等しい。張?の帰服が歓迎されるわけだ。
官渡の戦い時の各地の動向や諸将の動きをまとめてみた 訂正頼む
汝南周辺:袁氏の師弟や親袁紹派が各地で決起、李通が孤立する、後満寵の活躍で事なきを得る
劉備:豫州に抜けて劉辟らと合流、曹操の背後を脅かすも曹人に敗退
劉表:張羨討伐のため動けず 劉備を受け入れ北に備える
臧覇等泰山諸侯:前年に青州に攻めこみ功をあげるが徐州劉備反逆には動かず、官渡時も動かず日より見
>>274 >劉備:豫州に抜けて劉辟らと合流、曹操の背後を脅かすも曹人に敗退
そもそも、なんで劉備が豫州にまでたどり着けたのか?
曹操の勢力内を突き抜けてくって無茶苦茶だろう。
劉備が豫州に言ったのは官渡が終わって一年後だね。官渡時は徐州(前線の小沛は豫州最東部だけど)。
まあ、そのくらいスッカスカだったってことだよ。
続き
徐州:劉備駆逐後は陳登に丸投げされる形に 陳登は孫策の将を広陵で破るも官渡時は支援した形跡なし
孫家:孫策の死による情勢悪化から曹操と同盟、以後数年間孫権は権力強化に終われることに
ショウヨウ:詞隷校尉として西方の鎮撫すると共に軍馬を提供して曹操支援
エン州:程イクと乗氏李家以外の有力者はほぼ袁紹に付くか
それ以外も曹操には味方しなかったと思われる 劉備が冀州から豫州に抜けることができたのは
エン州が曹操の味方をしなかったかもしれない
蛇足だがこの時期の曹操は史換と曹仁にばかり別動させており信頼できる軍才の持ち主はこの二人だったと思われる
適当な上に時系列もいい加減だけどとりあえず
>>270 蜀豊の次は蒼天信者か。俺も忙しいな。
戦略というものは、予め結果を想定して行動し、それが完全といえないまでも功を奏するから勝利に繋がるのだと思うけど。
俺は単に、「漢帝を擁したことが曹操の勝利の一要因となった」という三国志の陳寿=裴松之史観を肯定しているだけなんだよね。
しかし、三国志に載る多数の「漢帝を奉戴する曹操を支持する理由と支持した人物」を列挙しても、
そちらは魏書の美化云々と全否定するようだから、これは省略する。
さて、そうして陳寿=裴松之史観は否定されたわけなので、新たな史観によって穴が埋められなければならない。そこで、
1.曹操(荀ケ)が、長安を逃れた皇帝を確保するよう動いた動機は何か。
2.同時期、曹操と競り合って袁術もまた皇帝を求めた動機は何か。
3.奉戴を知った袁紹が、朝廷を北へ移すよう要求した動機は何か。
4.曹操が(3)を拒絶し、限りなく不利な袁紹との衝突に至ってまで朝廷を確保し続けた動機は何か。
この4つにそれぞれ答えてくれ。いずれも、袁氏敗北という「結果」以前に起された行動だ。口先だけの論説ではない。
ついでに、
5.周り中敵になるような「ひどい目にあい続けた」という意味での「献帝は疫病神」という「世論」の出典を示しつつ、
以上の全てを踏まえて、
後漢朝廷を擁する利益と不利益から見た、新しい後漢末史観を総合的に構築し、論述してくれないか。
279 :
278:2011/11/17(木) 20:57:01.51 0
0.長安を脱出した皇帝のもとに、楊奉・韓暹・張楊ら軍閥が集まり、官位を得て朝廷を形成しようとした動機は何か
を忘れてた。これも追加で頼む。
>>278 >「漢帝を擁したことが曹操の勝利の一要因となった」
曹操が強いから献帝を擁したのであって、献帝のおかげで曹操が強くなったわけではない。
むしろ奉戴後は敵ばかり増やす結果になっている。
その戦いを乗り切れたのは運と曹操の強さによるのであり、
董卓滅亡の二の舞になる可能性は高かった。
>280
うん。俺はあくまで「一要因」だと言ってるんだけど、どうも相手さんが聞く耳もってくれないみたいでね
同じことは何度も繰り返してるんだ。
>曹操が献帝を擁したことで、袁紹の上位に立った、というような表現をしたのは悪かったね。
>献帝を得たことで、袁紹よりも優位な一点を初めて得ることができた、と言おうか。
>曹操は劉表を朝敵と設定して攻撃した。急に武力が伸びるわけではないから、張繍に何度も負けた。
>で、彼らが曹操が勝つと見込んだ理由は二つ。軍事力と朝廷の存在。
>生半可な軍閥が手を出すもんじゃないのは当然だな。
>守りきることと制御しきることが両立できなければ意味が無い。
>そして、ギリギリまともな対決に持っていくためには朝廷の確保が大前提だった。だから確保を続けた。
>>278 >1.曹操(荀ケ)が、長安を逃れた皇帝を確保するよう動いた動機は何か。
曹操は袁紹から独立したかった。
それをアピールするため、袁紹の基本方針である「反献帝」を覆すことをやっただけ。
袁紹からの独立を正当化できるなら、何でも誰でも良かったのさ。
だが、独立のタイミングが早すぎ、かつ周りの勢力が強すぎて、激戦をやる羽目になってしまった。
曹操は行き当たりばったり。
>2.同時期、曹操と競り合って袁術もまた皇帝を求めた動機は何か。
放っておいたら、曹操と袁紹が献帝を殺すからだよw
袁紹派の献帝否定に対して、袁術は尊皇だった。
>3.奉戴を知った袁紹が、朝廷を北へ移すよう要求した動機は何か。
それは曹操の裏切りを確認しようとしているんだよ。
反献帝の袁紹が献帝の身柄を手に入れたら、何すると思う?
想像は簡単だろう。
>4.曹操が(3)を拒絶し、限りなく不利な袁紹との衝突に至ってまで朝廷を確保し続けた動機は何か。
もういまさら袁紹にごめんなさいできないだけ。
>それをアピールするため、袁紹の基本方針である「反献帝」を覆すことをやっただけ。
それは事実誤認。袁紹は李カク時代の朝廷に既に帰順して、右将軍位を得ている。
仕えた主君も殺す理由が無いし利益も無い。沮授と郭図の議論など、
皇帝を殺すという意図を読み取れる箇所は史書には無い。
郭図の論はあくまで距離を置くというもの。
>袁紹派の献帝否定に対して、袁術は尊皇だった。
孫堅を派遣して反董卓戦を長く展開したことは見るべきだが、
結局は197年に自分で皇帝になってしまった人間を勤皇などと評価できるわけがない。
袁術もまた他の群雄と同程度の存在でしかない。
前提二つが大間違い。やり直し。
>>283 >袁紹は李カク時代の朝廷に既に帰順して、右将軍位を得ている。
右将軍とか、袁術の後将軍より下位じゃないかw
そんなの受けるぐらいなら、わざわざ反董卓なんかやってねえよ。
李カクが袁紹を取り込みたくて一方的に発行しただけだろう。
>主君も殺す理由が無いし利益も無い
曹操と一緒に献帝の軍と戦ったのは一体なんなの?
>結局は197年に自分で皇帝になってしまった人間を勤皇などと評価できるわけがない。
皇帝自称後はともかく、この頃の袁術はまだ尊皇だからw
だいたい、袁紹の部下である曹操は、献帝が送ってきた金尚をたたき出してるだろ。
袁紹派が献帝支持に鞍替えしたらなら、曹操の行動が認められるはずねーじゃんw
受け取るくらいなら、じゃなくて、受けてるんだよ。現に。
袁術は洛陽時代に後将軍に任じられてはいるが、これは蜂起の際に朝廷によって剥奪されていると見るべき。
本人は名乗り続けただろうけどね。
袁紹は、さらに上位の車騎将軍を勝手に名乗っている。
この二つの将軍号を捨ててまで、二人は左右将軍号を受けている。
まあ、掣肘を受けないで済むなら正式の任命の方が有効なのは当然だね。
>この頃の袁術はまだ尊皇だからw
なぜ「まだ」尊皇だと言い切れるの?
董卓攻撃を続けたことだけで尊皇だと言っているならただでさえ根拠は極めて貧弱だし、
南陽を放棄して4年間、徐州や揚州ばかりを向いている間に考えが変わった可能性は無いの?
朝廷を求めた多数の群雄のうち、袁術だけがなぜか尊皇で、他の全てが忠誠ではないと信じられる根拠は何?
>>285 袁術も馬日テイを拘束してるね。
三者とも掣肘を受けない範囲で権威を利用し、頭を下げたに過ぎない。
つまり袁紹・曹操・袁術に差は無いよ。
袁紹は袁紹で、献帝から冀州牧として送られてきた壺寿をぶった切っちゃった。
こんなことやってて袁紹派が献帝支持とかありえんでしょ。
って、金尚が駆逐されたのって、袁紹・袁術が朝廷に帰順する前じゃないか?
袁術は荊州刺史に任命された劉表を以下同文
>>287 曹操は追い出す、袁紹は殺す。
一方の袁術は拘束ですませた。
実に尊皇ではないか?w
そうか、袁術は尊皇だから劉表に負けてやったのか!
と、
「献帝に価値は無く、擁立した群雄を酷いめにあわせる疫病神だった」派
の新しい後漢末史観はこんな感じのようです。
評価は他の人に任せるわ。
>>291 追い出すのと拘束するのって拘束する方がひどいだろ
要するに、長安で董卓、王允、李カクがやった抗争を、東で再現したのが二袁と曹操の戦い。
軍隊まで使って大規模に。
>>292 劉表と袁術の衝突は孫堅のアレ一回きりで、以後はむしろ強調しているような動きをしているのは事実。
献帝奉戴以前は 曹操+袁紹vs袁術 だったのが
奉戴以後は 曹操vs袁紹+袁術+劉表+張繍 で敵増えてるやないかい
張繍まで含めるなら
曹操+臧覇+劉備+鍾ヨウ+孫策+劉馥
vs袁紹(袁譚・袁煕・高幹)
vs袁術
vs劉表+張繍
vs公孫サン
vs呂布
だな。
このうち孫策や劉備が掌返すのは200年になってから。
曹操は連携できない群雄を各個撃破。
曹操の許に献帝がいなければ呂布・孫策・袁術が同盟して曹操に対抗するから勝てない。
袁紹軍の南下の尖兵になるのが限界。
なんていうかね、一人の所属派閥が変わっただけで、オセロみたいにひっくりかえっちゃうんだよな。
「こいつとこいつがいるからこっちが有利」
「いや、こいつは実は○○派の人間だからこっちが有利!」
なんとかなんねーかな。
「袁紹は既に献帝と和解していた」説で辻褄を合わせてみる。
献帝からみた場合、曹操は袁紹の部下なので、曹操のところに行くことに疑念はない。
だが、そこで曹操は袁紹の元に献帝を送らず、自分の領土に留めた。
袁紹が曹操に献帝をつれてこいと命じたのは普通のこと。
袁紹がグズで、献帝争奪戦で後手に回ったわけではない。
なぜなら、袁紹からすれば、まだ曹操は部下のつもりだから。
でも曹操は本当に異心を抱いていた・・・。
こうなると、献帝奉戴計画は、実は袁紹の考えを曹操がパクったのかもしれない。
袁紹は「献帝を奉戴するから、ちゃんとお迎えするように。時機を見てこちらに移すからそのつもりで」と曹操に命令していた。
ところが、曹操はこれを独立の契機とみなして、袁紹を出し抜き、自分で献帝を奉戴してしまったのだ。
曹操が袁紹のプランをフライングで奪うことには、すでに前例がある。
反董卓連合結成のとき、曹操たちは、袁紹より一ヶ月だけ早く挙兵した。
また、曹操が、袁紹の天下統一プラン(河北を押さえてから南を取る)をパクったというのもよく言われる。
奉戴案までパクったとしたら面白いよな。
302 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 17:38:05.99 0
袁紹と曹操が決裂したのっていつ?
>>302 献帝奉戴から直接交戦するまでには結構間がある。
袁紹は、曹操と公孫サンの挟み撃ちを避けるために、反逆者曹操との手切れを先延ばししていたのだろう。
曹操もその期間を利用して、南に攻勢をかけていた。こっちはほとんど失敗するが。
有名な陳琳の檄文によると、曹操はエン州と予州の民に苛政で苦しめたことになってる。
袁紹からは、曹操はこの2州しか実質的に統治できていなかったと見られていたようだ。
305 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 19:32:16.63 0
袁紹だってその支配地は隙間だらけだったよね
>>301 そのまんまのことを袁紹の檄文が言っている。
しかしこれは献帝の権威が完全に認められた頃に書かれたものであって、
袁紹が代わりの皇帝や王朝を持ち出せない以上、
「実は俺が帝を保護しようとしてたんです」と後出しで言うのはむしろ当然のこと。
この記述一点を以って袁紹の奉戴策を信じるのは難しい。
他に是非の参考になる証拠は無いのだが。
しかし、エン州牧として独立した命令系統を持つ曹操を、「無条件の部下」
と看做して大事を任せるほど、袁紹は能天気な人物だったろうか?
曹操が単独で袁紹に対抗するのが至難としても
"左将軍"袁術や"温侯奮武将軍"呂布に奔る可能性が残るのだから。
307 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 19:39:29.13 0
袁紹は献帝をよびつけようとしたからね。
曹操はみずから迎えに行った。
そうしておいて本拠地にさらっていった。
かしこいわ。
>>306 >エン州牧として独立した命令系統を持つ曹操
エン州牧としての曹操、そんなに強くないよ。
留守中に呂布が来たらあっという間に寝返り続出、曹操の手元には三城しか残らない始末。
つまるところ、曹操は現代でいうところの落下傘候補。エン州に地縁も血縁もない。
屯田が軌道に乗るのはまだまだ先の話。
>袁紹は能天気な人物だったろうか?
お目付け役に張バクつけただろ?
もっとも、張バクの方が、曹操と袁紹を裏切って呂布につくのが皮肉なところ。
劉虞が息子の劉和と連絡を取って、袁術-武関経由で献帝を奉迎しようとしたとき、
袁術が通行を阻止して長安にいかせなかったんだよな。193年以前のこと。
献帝迎える方針は
劉虞→袁紹→曹操
の山東諸侯の間で共有されていたのだろうか。
>>308 確かに196年当時の曹操は強くは無い。呂布の乱から回復したばかり。
しかし、南方と連合することはできるわけでね。
実際にそんな「暴走」をした場合に実力で阻止する手段は、袁紹には無い。
そんな人間を信じるなんて群雄としては能天気じゃないか。
張バクと袁紹は反董卓蜂起の時代に既に仲たがいしていたよ。
立場が逆だ。東郡太守・エン州牧として袁紹のバックアップで乗り込んだ曹操こそが、
張バクらエン州人士の楔役だった。
三者はそういう複雑な関係だったから、張バクの殺されるかもしれないという不安と
呂布を呼び込んでの蜂起に繋がる。
>>310 劉虞が献帝を迎えようとしたのは、
袁紹らが劉虞自身を担ぎ上げようとした直後だから
そんなに急に方針転換が行われていたとは、
傍証無しではちょっと考えにくいな。
袁紹が右将軍位を拝するのはもう少し後の195年。
ただ、沮授と郭図の議論のように、「朝廷を迎えるのは損か得か」という議論は
活発に行われていた可能性は高いだろう。無関心でいられる要素ではないからね。
313 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 20:10:28.29 0
つか。
まだ漢にそれだけの支持があったのがふしぎやね。
献帝を担いだやつらが次々と滅亡していってるのにね。
支持というのとはちょっと違うだろう。
朝廷に力が無くとも、群雄自身が忠誠でなくとも、自分の軍事力と合わせれば影響力を発揮する。
多くの群雄は勝手に将軍号を名乗ったりしているが、その殆どは
「後漢王朝●●将軍」という肩書きなわけだよ。
群雄の統治機構と指揮系統は、結局は後漢の権威に依存して正当性を得ていたわけだ。
(一方で、勝手に天子を名乗った反乱者も多数いたわけだけど)
どうせ依存するなら、工房で勝手に作った印綬よりも、
本物の皇帝にもらった印綬の方が権威は高いし、
中央朝廷の高官だって自分や味方にばら撒ける。徴召の名目で各地の人材を招聘できる。
そして漢帝を抑えるということは、禅譲って切り札を切る権利を持つことでもある。
ただ、朝廷を迎えることは高級官僚に政争の場を与えることでもある。
野戦戦力ではなく宮廷クーデターで首を落とされるかもしれないし、
勅命無しに勝手に行えば批判はより大きくなる。
そういうリスクと天秤に掛ける必要があったのだろう。
四百年続いた王朝ともなれば実力を失っても権威は保持し続けられるだろう
周王朝が春秋時代の間は権威を保持していたようにね
いや、漢の権威を失墜させたのが、献帝を担いだ董卓に喧嘩売った反董卓連合でしょ?
誰も「皇帝だから」といって恐れ入ったりしない。
漢の全国支配に止めを刺したのが反董卓連合であるのは間違いないだろうが、
反董卓連合だって、蜂起の正当化に漢の旗印を掲げているわけだよ。
彼らが献帝の即位を認めていなかった可能性はあるとは思うが、
漢室を否定したのではない。
319 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 20:57:43.39 0
黄巾以後って漢朝の支配外に出てしまった人民がすげぇ多かったんではないの??
>>318 「こちらにおわすは漢の皇帝様であるぞ! 頭が高い!」
「へ、へへぇ〜っ」
ってならない時点で権威失墜しまくり。
>>317 王や皇帝だから恐れ入るのではない。実力が権威を纏うから恐れ入るのだよ。
春秋五覇参照。
平穏な時代でも現代でも同じ。
一部の、理念や忠誠のために身命を賭すことができる者を除いた絶対多数の人間は、
国が警察や徴税や司法や福祉の実効力を持つ場合に限り、国に対して権威を覚える。
群雄割拠や、外戚のような権臣が蔓延る時代には、時々、
実効力を持つ者と権威を持つ者の二重構造で国家が支配されることもある。
ってだけのこと。
>>321 後漢で皇帝が強かったのは3代目ぐらいまでで、その後は幼帝ばっかりでどうしようもない。
霊帝は売官で権威を切り売りして金を稼ぎ、軍隊を編成しようとした。
実力をつけようとした。
しかし、そのための行為が、またしても皇帝の権威を低下させていく…。
悪循環だ。
皇帝に実力が無くても、竇氏や梁氏や曹氏に実力があれば
朝廷機能と権威は維持されるし、維持されてきたんだよ。
無論、臣下の身の上だから長期安定しにくい実力だが。
「皇帝」という機関を奪回する政争に、皇帝個人が参戦する、
ということが起きたりするのが君主国家というものだ。
臣下の武力蜂起を抑えられないことぐらい、王や皇帝の権威を失墜させることはないぞ。
幕末、反抗的な長州を征伐できなかった江戸幕府は、どんどん権威を失墜させていったよな。
意図的に議論の対象をずらしたのかな?
漢の権威の是非だったはずなのに、皇帝の権威になってるぞ。
>>324 >皇帝に実力が無くても、竇氏や梁氏や曹氏に実力があれば
>朝廷機能と権威は維持されるし、維持されてきたんだよ。
それが維持できなくなったのが董卓政権以降。
竇氏のころ、全土で反竇氏連合が沸き起こったりはしなかっただろ?
>>326 別に? 幕末は将軍の権威も江戸幕府の権威も失墜してるしw
で、回復したのが曹操、と。
>>別に? 幕末は将軍の権威も江戸幕府の権威も失墜してるしw
おい、大丈夫か?
江戸幕府は朝廷でも君主でも皇王でもないぞ?
幕府に取って代わるための根拠として持ち出されたのが、
鎌倉時代から実力を失っていたはずの「天皇」だというのは、
東アジアの君主制の「権威」というものを語る上で、最も優れた実例だろうね。
天皇という上位の権威の存在している江戸幕府を漢と比較するのは間違っている
「皇国史観」に則って動いた人々の実在と、
それによって次の政府が作られたことを分析評価しているだけだ。
科す学と信心の区別が付かない人間は歴史に触れる資格が無い。
害毒を流すだけだ。
権威の失墜が乱世を招いているとしても政権が絶えたわけではないし、官位は腐っても官位じゃないかと。
当時、漢王朝に代わる新政権はないし、自称するより公認された官位の方が価値があるのは確かだと思う。
上の立場になればなるほど家格、格、位のようなものが必要となるわけで。
漢の頃はまだ王朝交代というものが当然では無い時代だからね
あの時代の危機を乗り越えれば劉氏は日本における天皇家のようななれたかもしれない
劉虞のような徳と実力を備えた、少なくともそう思われた人間を擁立しようとした袁紹の方が漢王朝の立て直しに本気だったんじゃないの?
「曹操は袁紹の部下」とか、
部下の定義とは何かから始めなきゃいけないんじゃないの?
とても部下とは思えないんだけど。
部下と見なす要素より、部下と見なせない要素の方が多いと思うのだが
「そういった諸々について検証した上でやはり部下である」と主張したものを見たことがない。
>>285 ちょっと本筋から離れた横レスになるが
>献帝が送ってきた金尚をたたき出してるだろ
献帝じゃなくて長安政府だろ
それと、もはや「群雄」と化した諸侯は
幼帝を傀儡とした軍事政権から役人を送り込まれて
ほいほいと受け入れられるわけがない。
これだけで勤皇か否かを断じる材料にはならない。
金尚を担いだから袁術は勤皇か?違う。
金尚を追い出したから曹操は勤皇ではないのか?違う。
>>334 おお、その見方は一理あるな。
権臣専横は幼帝即位から始まるのが黄金率。
成年の嫡子までいる劉虞を擁立してしまったら、
禅譲はおろか実権を握るのだって困難になってしまうからね。
その辺の話は
>>301>>306>>308>>311でやってる。
部下なんて言葉を使うから悪いんだよ。
この時代に部下と呼べるのは自分の寺や府の掾属だけ。
196年の曹操は、
「州牧としてダメージが抜けておらず強さに不安はあるが、
外から他者に実力で行動を制約されない自律性がある」
ってとこか。
これがマスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています
「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット
「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」
「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット
「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット
「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット
「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット
他にもカットシーンがたくさんあるので、元資料で↓確認してください
http://news.nicovideo.jp/watch/nw147415 http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=FtxuPyRNszY
>>337 >外から他者に実力で行動を制約されない自律性がある
辺譲を殺してエン州の世論を失い、呂布が来たと一斉寝返りを受けるとか、確かに暴君としての自立性はあるなw
それ外じゃなく内側の問題じゃん。
で、だとしても違うね。
その反乱と鎮圧を経ることで、曹操は初めてエン州の集権的支配権を獲得したわけだから。
194年までの曹操には、「暴君としての自立性」なんてものはなかった。
曹操は他所から乗り込んできた州牧であって、
董卓時代前後から存在する諸郡太守の支配権を覆す力はなかった。
張バクらの乱は、エン州人士が呂布を担ぎ上げて酷烈な州牧を排除しようとする戦いであると同時に、
曹操にとって見れば自分以前の太守連と現地人士の影響力を排除して、自分の派閥に集権するための戦いだった。
曹操が袁紹の部下だった間接証拠
・エン州の維持と経営に熱心ではない。屯田が始まるのは献帝奉戴以後。
・外征ばかりする。それも都合よく袁紹の敵ばかり。
・呂布にボロ負けした曹操は、袁紹に家族を人質に差し出そうとした。人質ともいえるが、家族を預けるような相手を信頼してないとこういう考えにはならない。
・曹操の部下がやたら袁紹陣営に内通している。あまりにも多すぎて、全部不問に付さざるをえないほど。
曹操の部下は、本来曹操じゃなくて袁紹に仕えたつもりだった?
だから曹操の反乱に不満で、多数の人が半ば公然と袁紹陣営とつながっていたのかもしれない。
袁紹に仕えたというなら曹操は自称車騎将軍州牧の陪臣だが
自称車騎将軍の陪臣のその部下になるという意識で名士が集まると思うか?
・エン州の維持と経営に熱心ではない。
→献帝奉戴後も冀州を取るまでずっとエン州牧
・外征ばかりする。それも都合よく袁紹の敵ばかり。
→陶謙は袁術と抗争を始めていた。袁紹の敵の敵をわざわざ弱めに行った。
・人質ともいえるが、家族を預けるような相手を信頼してないとこういう考えにはならない。
少なくとも196年まで、両者は不仲だったわけは無い。信頼していたことが即座に上下関係になるわけではない。
・曹操の部下がやたら袁紹陣営に内通している。あまりにも多すぎて、全部不問に付さざるをえないほど。
→不利な戦いの場合は、負けた後のことを考えて敵方に手を回しておくのは割と普通のこと。
実際に内通して利敵行為をしていたかどうかは別
全て間接的以下の証拠に過ぎない。
曹操が袁紹の命令を聞いてどこかに侵攻したとか、エン州の太守の人事権が袁紹にあった、
くらいでないと「部下」とは言えないと思うのだが。
まあ、袁紹と曹操は「実力が対等ではない盟友」ってところ
>>341 >その反乱と鎮圧を経ることで、曹操は初めてエン州の集権的支配権を獲得した
実際には失敗した。
いつの間にか、本拠地がエン州から予州の許に移ってしまってる。
曹操はエン州を大事にしない。
エン州人士で活躍してるのも、程イクぐらい。
>>343 袁紹という看板が後ろに立ってるから、曹操を受け入れたんだろう。
ところが曹操、親分の威を借りて無茶ばかりする。
それどころか、辺譲という仲間も殺してしまう。
その結果、エン州の人士は軒並み呂布に同調しちゃったんだ。
いや実にみっともない。
この時代は他州の刺史や牧として出向けば、そんなもんだよ。
田楷も青州刺史時代はかなり好きに動いているし、
呂布の乱の時代の豫州刺史郭貢も、おそらくは袁紹か曹操に任じられた者だが、
荀ケらは彼が日和見するのが当然と扱っていて、袁紹(または曹操)の「部下」としての
行動など初めから期待していない。
>>345 献帝奉戴直後の曹操は豫州西部を多少支配しているだけだよ。
許都を兵站拠点化し、潁川人を重用したのは確かだが、
その一方で、曹操は一州規模の兵站地としてのエン州を大事にしている。
だからエン州牧を自分で保持し続けた。
これは冀州を得るまで続く。
同時期、豫州牧を劉備に任せて対袁術の壁とするなど、
豫州は曹操にとってまだまだ「周縁地」だった。
曹操がエン州の集権支配に失敗して許に「逃げ出した」のなら、
対呂布や対袁術に必要な物量は決してひねり出せなかっただろう。
>>344 >→献帝奉戴後も冀州を取るまでずっとエン州牧
それとエン州の扱いは関係ないし。
>→陶謙は袁術と抗争を始めていた。袁紹の敵の敵をわざわざ弱めに行った。
陶謙は、公孫サンの部下の劉備を受け入れてるだろ。
それ以前にも、公孫サンに呼応して発干に出陣し、袁紹の敵に回ってる。
袁紹の敵かつ袁術の敵ってだけ。
>少なくとも196年まで、両者は不仲だったわけは無い。信頼していたことが即座に上下関係になるわけではない。
家族を人質に預けるってのは、上下関係の下の方がやることではないか?
曹操も孫権の息子を人質に求めたりしてるし。
>→不利な戦いの場合は、負けた後のことを考えて敵方に手を回しておくのは割と普通のこと。
>実際に内通して利敵行為をしていたかどうかは別
魏略によると、曹操が袁紹の記録所を捜査させたら、李通の文書だけが見当たらなかったらしい。
もう曹操の部下のほとんどが袁紹になびいてたと見てよい。
ここまで寝返ってるのはさすがにほかに例がないだろう。異常事態ですよ。
>>348 >曹操は一州規模の兵站地としてのエン州を大事にしている。
もちろんまったくエン州を使ってないとはいわないが、曹操が支配できていた範囲はかなり小さかったのではないかと。
豫州に隣接した、西の一部しか実効支配できてなかったのではなかろうか。
>許都を兵站拠点化し、潁川人を重用したのは確かだが、
>その一方で、曹操は一州規模の兵站地としてのエン州を大事にしている。
曹操は州統治の基本である名士の確保に失敗している。
潁川人士を熱心に求めたのにくらべると、エン州人士への態度は冷たい…。
曹操を個人的にヨイショしてくれた程イクぐらいか、例外は。
エン州の名士の心をつかめない曹操には、エン州を「使えない」。
>同時期、豫州牧を劉備に任せて対袁術の壁とするなど、
>豫州は曹操にとってまだまだ「周縁地」だった。
では、なぜその周縁の地に曹操は拠点に移してしまったのか…。
それは、実はエン州が豫州以上に安定してなかったからでは?
>それとエン州の扱いは関係ないし。
曹操が自ら冀州牧になっても、冀州の扱いとは関係ないというつもりか?
>袁紹の敵かつ袁術の敵ってだけ。
それなら、袁紹の敵かつ袁術の敵かつ曹操の敵ってだけ。
わざわざ袁紹と曹操の関係を持ち出す必要が無い。
>家族を人質に預けるってのは、
人質と言ったんだっけ? どこの記述か忘れたので教えてプリーズ。
>魏略によると、曹操が袁紹の記録所を捜査させたら、李通の文書だけが見当たらなかったらしい。
それ、関中と縁が深い張儼を持ち上げる記事だから。
内通者が多かったのは正しいとしても、規模は文字通りに受け取るな。
第一、内通する理由が「部下のつもりだったから」と断言するのがおかしい。
部下のつもりなら堂々と曹操から離れればいいし、内通の理由なんて他にいくらでもあるだろうに。
>>352 >曹操が自ら冀州牧になっても、冀州の扱いとは関係ないというつもりか?
エン州牧のくせにエン州の扱いがひどいのが曹操w
だからエン州人士の心を失い、エン州を失った。
でも名目だけは残った。
どっかの劉豫州と同じだなw
>それなら、袁紹の敵かつ袁術の敵かつ曹操の敵ってだけ。
袁術と敵対し始めたのは後の話だから。
>人質と言ったんだっけ? どこの記述か忘れたので教えてプリーズ。
この時代、家族を抑えること=人質で間違いないと思うが?
>第一、内通する理由が「部下のつもりだったから」と断言するのがおかしい。
>部下のつもりなら堂々と曹操から離れればいいし、内通の理由なんて他にいくらでもあるだろうに。
彼らの大半は土着の豪族だから、いくら曹操が嫌いでも、土地を見捨てて袁紹の下に行くことができない。
だから手紙で裏切りを表明しまくったのだろう。
「あなたこそが真の主です。あなたが南下してきたら、必ず曹操を裏切ります」とかね。
>「あなたこそが真の主です。あなたが南下してきたら、必ず曹操を裏切ります」とかね。
これ嘘でもなんでもなく、豫州の一部は劉備、劉僻と一緒に反乱起こしてたよな。
曹操に従わない「賊」もいっぱい。
>エン州牧のくせにエン州の扱いがひどいのが曹操w
結論を用いて結論を導き出してるんだが。
循環論法ってググってみ?
許都朝廷は荀ケを中心とする潁川閥が最大派閥を占めたのは確かだろうが、
それに次ぐのがエン州人なのだが。
毛カイ、程c、董昭、呂虔、涼茂
軍部古参の于禁・楽進・李典もエン州人だね。
人質の出典教えてと言っても返事が的外れだし。なんだかなあ。
エン州大反乱の時、三城を除くエン州全土が呂布に付いたわけだが、
陳宮の知略と張バクの影響力や、辺譲を殺害して名士の失望を買っていたことだけでは、
これだけの雪崩式の離反は説明が付かない気がする。
各郡国の太守・国相や県令、守将などが一斉に呂布になびいたののには、どんな事情があったんだろうか?
呂布に靡いたわけじゃないよ
州牧って、組織上は太守の上だが、実際には郡県を直接統治するような人員も組織系統も持たない
「皇帝の使者」で「監察官」だから。
使者として勅命を伝えるという形で命令する他、ある程度独自の裁量で指示を下したりはしたようだが、
実際の行政執行の権限と担任の官吏は全て郡府に集中している。
一方の太守は、郡-県-郷-里へと命令が降りるピラミッドの頂点に位置する、
漢400年の殆どの期間における地方最高官だった。
州内の太守が何人か蜂起すれば、その郡内の県令以下は全て付いて来る。
そうなると、東郡太守夏侯惇とその他少ししか残留していない曹操派を見限る人間が続出する
流れになっていく。
曹操シンパの程イクすら「袁紹が何か言ってきてるようですが、絶対に人質送っちゃだめですよ」といさめたのを見ると、エン州って実はかなりの反袁紹?
太守の張バクも袁紹と仲悪い。
曹操は反袁紹に傾いてるエン州の監督に送り込まれたのに、
のんきに徐州で大虐殺やって、あわやエン州を失いかけてるが、
袁紹からみたら「なにこいつ使えねー」って感じだったんだろうね。
結局部下と思ってた曹操にやられた袁紹はクズってことだろ
>>359 当時の袁紹は反曹操派との和睦を目指していた
それは曹操派の程イクにとっては受け入れがたい結末に他ならない
袁紹が和睦を目指した反袁紹派って誰?
諸葛亮って過労死?
魏延に毒盛られてたんじゃないの?
死因まではようわからん。
ただ司馬懿は、体調を崩して食欲なくなっているのに
激務を続けていたことから諸葛亮の死を予期したことになっている。
(´・ω・`)はい
>>350 その時曹操は初めて袁紹に人質を送って、「部下」になろうか逡巡した。
つまりそれまでは曹操は袁紹の部下でもなんでもない。
あと、袁紹は劉岱に家族を預けてたと思うけど
袁紹は劉岱の部下だろうか?
>>367 >その時曹操は初めて袁紹に人質を送って、「部下」になろうか逡巡した。
>つまりそれまでは曹操は袁紹の部下でもなんでもない。
じゃ、夏侯惇も曹操に人質送ってないから部下じゃないってことでw
ああ…この子、ちくま三国志を読んだこともないし読む発想も無いんだろうなあ
朱霊の移籍の件はなにかの傍証になるかな?
袁曹の関係が緩い同盟だったら、援軍→勢力乗り換え
上司部下の関係だったら、目上の同僚の直臣に…
やっぱ、よくわかんなくなった
>>368 >袁紹は劉岱に家族を預けてたと思うけど
>袁紹は劉岱の部下だろうか?
臭いね。
州刺史で皇族というのは、反董卓連合のなかでは、もっとも地位が高いといえるんじゃないか。
(冀州牧の韓馥は、袁紹に対してかなり下手にでているから、除外。)
後に袁紹たちが皇帝に推薦した、幽州牧の劉虞に近い立場じゃない?
約盟,遙推紹為盟主。紹自號車騎將軍,領司隸校尉。
なんで反董卓連合で、袁紹たちは皇族の劉岱を掲げなかったのか?
また、なんで後に方針転換して、皇族の劉虞を掲げようとしたのか?
挙兵当初は劉弁が生きてたからでしょ。
酸棗の会盟式でも劉弁復位を掲げている。
劉岱って劉肥の子孫じゃねーか
あんなの国姓名乗ってるだけで皇族じゃないだろ
>>376 前漢の皇族の子孫っていうなら、劉焉とか劉表もそうだぞ。
劉焉が冀州刺史、劉表が荊州刺史の経歴を持っているように、劉岱だってエン州刺史から州牧に出世できただろう。
戦死しなければ。
よほど直近の系譜でなければ、この時代に皇族の有利なんて無いよ。
劉焉も劉表も劉虞も劉岱・劉ヨウも、自分の名声で高官になった人間だ。
父とか一族が豪族だとか高官歴任した家に生まれた有利はあるが。
つまり、遠い祖先が皇帝だったよりも、父や一族の縁故や名声の方が遥かに効果がある。
それ以上に自分自身の品行と実力が不可欠。
名声高い人物が皇族の末裔だった場合に、初めて利用価値が出てくる。
>>378 >それ以上に自分自身の品行と実力が不可欠。
家柄のいい連中の子弟が集まって、互いに評価しあったのが品行ですからw
家柄のいやしい連中は最初から対象外です。
もちろん、寒門の人間でも、ほんのお情けでちょっと仲間に入れてやることがあるのは否定しないが、でもほとんどが家柄で決まる。
後漢代の「家柄」って、かなり多くが三代か四代程度のぽっと出一族。
それ以上長く権勢を維持できる家など殆ど無い。
隆盛を始めた名家の始祖が悉く、お情けで名族入りさせてもらったのなら、
なかなか懐深い社会だね。
父祖が皇族として貰った爵位をそのまま継承してる人物ってこの時代誰かいるっけ?
>>381 >隆盛を始めた名家の始祖
もともと名族だったけど勢いが衰えて、それを立て直しただけでしょ。
土地と人脈面でガチ寒門よりはよっぽど有利
衰えれば人脈は切れる。
切れてる間に何十家にも分家する。移住することもある。
その後に朝廷で出世しようと思ったとして、
誰が家柄を見て特別眼を掛けてくれるというのか。
そんなのは孔子の子孫くらいだよ。
>土地と人脈面でガチ寒門よりはよっぽど有利
有利だよ。それは間違いない。
しかし、継ぐ者がロクデナシならあっという間に衰退する
浮沈が激しい時代なんだ。
確かに皇族なんて山ほどいた。強いて言えば、劉虞、劉曄のような
後漢皇帝の親族の方が、その他(劉表、劉璋、劉備など、前漢時代
に別れた皇族)よりも同じ名門でも有利だろうね。ちなみに、劉岱に
至っては前漢の高祖から別れているので、名門という点では皇族の
中で最も不利。
先祖が列侯になったりしてれば嫡流は特別視されそうだけど
確か六代ぐらい経つと皇族名簿から除籍されるんじゃないっけ。
>>382 光武帝の長男・劉彊に始まる東海王が後漢末まで続いて、魏でも諸侯になってる。
>>385 劉岱は弟の劉ヨウとともに、宗室系兄弟として重きを置かれてたそうだぞ。
さすがに、光武帝の長男の末裔である劉虞と比較すれば家柄的には劣るが、名声もある。、
官位の振り出しも侍中だからかなり高い。
てか、マジで驚いたんだけど、ソウソウって、エンショウ配下だったの??
劉ヨウ兄弟の家は、別に斉王から続く家柄として重んじられていたわけではないよ。
直接の祖先は牟平侯だが、爵位は途絶えている。
祖父の劉本が学識ある人物で賢良方正に挙げられたが、官界では県長止まり。
しかし、牟平劉氏の繁栄はここから始まる。
伯父の劉寵は三公九卿を歴任した人物で、父の劉輿は山陽太守となった。
陶丘洪という人物が劉岱・劉ヨウの兄弟を非常に推して、茂才に推薦したが、
家柄や縁故で贔屓があったとしても、父世代の余徳であって、
斉王の家系などというのはちょっとした箔程度の効果しかなかっただろう。
>>390 どのレベルで驚いているんだ?
曹操が反董卓戦で負けて兵を失ってから袁紹の元で将として働いていたことを知らなかったのか、
それとも同じ州牧クラスなのに配下なんて有り得ないだろって驚きなのか。
>>391 劉寵兄弟が出るまでは劉備の一族とさして変わらないな
郷里の顔役とか、そのくらいの豪族ではあったのだろうけどね。どちらも。
劉表、劉エン、劉寵と、後漢末になるとやたら前漢の皇族が活躍し始めるのは、なにか意味あるの。
そういえば劉備も前漢の中山靖王劉勝の末裔ってことになってるな。
初期にも中期にも後期にも活躍してるよ。
それに、劉岱兄弟より劉寵の方が大物だし、
劉虞の祖父は光禄勳だし、
劉焉の家は後漢代に入っても爵位を持っていたから
宗族ということで郎官になって、まともな頃の朝廷で学者官僚として
出世したのであって、後漢末にぽっと出たわけじゃない。
後漢末に活躍を始めたと言えるのは、劉備と、董卓の時代にやっと刺史になれた劉表くらい。
劉虞は光武帝の長男の系列。後漢の宗室。
劉表、劉焉、劉寵、劉岱、劉ヨウ、劉備は前漢の皇族の子孫なのに、後漢末に牧や刺史として大活躍している。
光武帝の系列よりも派手。
前漢の皇族の復讐か?
調べたら、劉寵って反董卓で挙兵してるじゃん。
やはり劉表、劉焉、劉岱、劉ヨウ、劉備と同じ穴のムジナ。
当時の皇帝に近い系譜の皇族が官僚として出世してる訳無いだろう
>同じ穴のムジナ。
もしかして、陳王寵のことか?
だとしたら全力で馬鹿にさせてもらいます。
>>397 後漢も流石に魏程ではないが結構血縁の近い宗室に厳しい傾向があったからな。
都尉のある郡の郡兵とかは二千から五千くらい有るのが普通だけど
王国の兵士は内陸にあるせいもあってか千未満程度しか持てなかったし、
豪族なら普通に持ってる賓客のパージも結構行われてる。
そのせいもあって陳王寵が千以上の弩を集めた際に謀反疑惑がかかったりしてるしね。
陳王寵以外はそこらの大姓よりは弱い立ち位置だったと見て間違いない。
豪族でも大姓クラスだとそれこそ郡兵クラスは常に持ってるからね。
彼は弩術の指南書も書いてるし単に弩マニアだった側面も強いみたいだが、本当に謀反を計画していた疑いもあるね。
普通の郡の弩は確かどっかに記述があって忘れたけど五百ぐらいだったし、弩が二千もあったとすれば、
普通の郡兵を五千として考えれば二万程度の兵を擁する事が出来る武装を予め用意していた可能性もある。
>>398 劉岱の伯父の劉寵は反董卓の際は確かもう死んでるよ。
そっちの劉寵は光武帝の子孫で陳王だ。
上記の通り挙兵準備紛いの武装集めをしていて、皇帝を傀儡化していた時期の宦官に咎められたことがある。
黄巾の際も弩によって黄巾賊を寄せ付けず、後の中原の戦いの際にも弩の多さに袁術も手を焼いたのか、
他の皇族のように飼い殺しにするのではなく暗殺という手段を取らざるを得なかったようだ。
大概の敵には余裕で力押しの出来る兵力を持ってる袁術が暗殺という手段に出たのだから結構なものだろう。
だがどんな動乱でも全く軍事行動の無い所を見るに、せいぜい自分の領民の安全くらいにしか興味がなかったのかも知れん。
すまんが、劉備が徐州手に入れてから袁術と戦い始めた経緯ってどんなか分かる?
何か、劉備と袁術が戦う理由って薄い気がするんだけど。
公孫サンの部下な劉備は反袁紹派であって、同盟こそすれ敵対する必要ない気が。
曹操の民虐殺で徐州の土地を取る利もないと思う。
袁術が以前から徐州を狙い続けていたから。
曹操に撃破されて本拠を寿春に移してからは、淮南を中心に、
徐州と江東に領域を広げようとしたのが袁術の基本戦略。
ついでに、劉備は徐州牧になった時点で袁紹と修好している。
対袁術のバックアップを求めたというところだろうね。
>>402 徐州に入った時点で袁紹側についてるってことだ
その上鎮東将軍まで貰ってるからね
じゃーさ、徐州牧劉備と敵対した呂布は袁術派なのか?
いつから?
呂布が袁術派なら、曹操を裏切って呂布についていった張バクと陳Qも袁術派になっちまうだろ。
実際、エン州大反乱で袁紹陣営に大打撃を与えてるわけだし。
このとき稼いだ時間のおかげで、揚州で死に掛けてた袁術は息を吹き返した。
呂布自身はどっちでもない。彼は蜂起や外交を主導したことは無いから。
エン州乱の張バク・張超は、遅くともエン州で負けが込んできた時期には、袁術に助けを求めようとしている。
その流れか、陳宮も徐州での態度は親袁術であり、親曹操の陳登親子と意見対立している。
陳宮に取ってみれば、単に「今更曹操の元には戻れない」ってだけだったかもしれないが。
この首脳部内の対立の煽りを受けて呂布は叛服を繰り返し、自分の滅亡の一因とした。
おそらく、中原情勢がいつまでも袁紹:袁術の二軸で動いていたと見るのが間違いなのだろう。
袁紹・劉表vs袁術・公孫サンというのは、冀州と荊豫の係争から生まれた図式であって、
袁術が寿春に遷ると(二袁の個人的反目はそのままとしても)劉表との対立は薄れるし、
曹操とさえもしばらく戦わなくなる。
代わって中原の焦点に浮上したのが徐州であって、
周囲からの圧力を受けて立場も主も二転三転することになった。
>袁術が寿春に遷ると(二袁の個人的反目はそのままとしても)劉表との対立は薄れるし、
>曹操とさえもしばらく戦わなくなる。
南方担当の曹操はエン州大乱で死にかけ、
袁術も曹操にボコボコにされた傷から癒えないので直接動けない。
劉表は張済の軍団を受け入れたりしてるけど傍観。
ん? これ劉表一人勝ちじゃね?
荊南が安定してるか、荊南放り出して中原進出できる大胆さが劉表にあったら大勝利だったろうな
そうはならなかったけど
劉焉も漢中に張魯を送り込んで益州に蓋している。
そんなことせずに関中攻略を本気で取り組んでいたら…
劉焉は死の直前に、長安に残っていた劉範や馬騰に呼応して兵を送ってるよ。
郭シと樊稠に撃破されている。
張魯が独立の傾向を見せ始めたのが劉焉の死後か前かはわからないのだが、
派遣した当時は通常の部将派遣だろう。
>>413 色々とキツい所があるとは思うけど、
>>411の言うように、劉表が大胆な行動にでたらというifは面白いと思うし、
同じように、張魯を漢中に送り橋を焼いた頃に、
劉焉がもっと大胆な賭けにでられたら、面白かったかもな〜って思ったわけ
劉焉が馬騰と組んで地味に戦ってたおかげで、李カク政権はボロボロになったんだから、もっと評価してあげてください
劉範が勝っていたら…
ってのは面白いifだよな
関中・中原は群雄並び立つ状態で、巴蜀確保、関中への足掛かりを得る。
劉邦の再現だ。
劉範が生きて逃れていただけでだいぶ事情は異なるだろうけどね
劉焉も気落ちせずあと何年か生きたかもしれんし
劉焉と李カクが戦う→長安疲弊する→献帝東帰→曹操献帝ゲット
諸葛亮による北伐開始時点で
天下三分の計は成就していたと見るべきなの?
421 :
世界@名無史さん:2011/11/25(金) 05:45:02.65 0
劉備の益州領有時点では?
>>420 三国として認められる条件は「荊州争奪戦に参加できること」。
劉備と孫権が衝突した時点で三国時代は開幕した。
交州士氏や遼東公孫氏は「三国」から除外される。
423 :
世界@名無史さん:2011/11/25(金) 08:03:11.94 0
蜀は西陵に防衛拠点が無かったのが響いた。
江陵と公安が陥落した時点で、長江流域が白帝手前まで
将棋倒しになってしまった。関羽の失敗は避けられなかった
にしろ、白帝から江陵の中間点に有力将軍を置いて、関羽とは
別の指揮系統にできなかったのは痛かった。
>>423 趙雲とか陳到とか、古参で忠誠心ある勇将の手駒はまだあったはずなんだがなぁ。
党錮の禁が、大乱の遠因とされますが、
数々の名家が三公何々を何代輩出した!みたいな書き方をされてたり
結構ちゃんと爵位をもらっていたりと、そこまで宦官に専横/独占されていたように思えないのです。
これは財政建て直しと、その為の改革を推し進めた皇帝から
既得特権を剥奪されそうになった文官たちが宦官ではなく、皇帝との政争に敗れたように見えるのですが。
霊帝は、売官して兵を養う財源としたとありますが、そこまで異民族の侵入が激化していたのでしょか?
この後の内乱で個人を含めて異民族名前はよく出てきますが、傭兵としてやとったり、力で押さえつけて貢納させていた記述ばかりです。
晋時代のように、防衛を破られ中原当たり前で席巻されるような事態になっていませんが、
これは群雄が割拠したことで、国境付近で進入略奪を繰り返しいた部族もおいそれと進入出来なくなったという事でしょうか?
割拠した軍閥程度で追い払えるなら、そこまで財政に影響するほどのこととも思えないのです。
つまるところ改革を推し進めようとした皇帝が死亡し改革は頓挫。
なりを潜めていた名家や士大夫たちがここぞとばかりに巻き返しを図り
幼帝を良い事に利権の回復・拡大を図ったら群雄割拠の内乱になったようにみえるのですが。
勿論ここに黄巾の乱という有力者に、私兵を許す事態に陥ったと言うことが重なるので致命的な事態になったと思いますが
党錮の禁は、宦官vs.清廉派などではなく、実像は皇帝(改革派)vs.士大夫(既得権利保守派)という姿が正しいのではないでしょうか?
あと乱暴に結論だけ言うと過去の状況と当時の状況、内乱時の蛮族の状況からも
防衛費がそこまで逼迫した問題になっていたようにはとても思えません。
売官で蛮族撃退の財源を確保ではなく、皇帝直属の手足として動かせる
親衛隊のような物を新設し、『皇帝』の権力を回復/強化を狙っていた様に見えるのですがどうなんでしょうか?
三国時代の三国は、異民族バンバン討伐して支配に組み入れたり、協力させたりしてるよね。
孫呉の山越討伐、蜀漢の南征、諸葛亮の北伐に応じた軻比能、姜維に協力したり寝返ったりしてた羌族。
統一すると辺境に目が届かなくなるんだろう。
>>426 まず一段落目について。
三公になると爵位を与える慣例が前漢以来続いていたので、三公に上って爵位を与えられなければそちらの方が大事になります。
また、三公の家でも意外に宦官を輩出しています。袁赦などが有名でしょう。
宦官と普通の文官を分けてしまう見方には問題があると思います。
二段落目、そもそも売官が兵を養う財源として始められたものかどうかについては諸説あります。
実は『後漢書』は売官の理由について書いては居ませんし、ただ財貨を収拾する為に行われたのかも知れません。
彼らの記録を残したのは、謝承『後漢書』にせよ洛陽の『東観漢記』にせよ、直後の王朝の人物ですので、
滅亡の直前の皇帝が徳を失っていく経過は重要でもそうではない経過は重要ではありませんから、
兵を養う財源としたと言っても省かれた可能性も十二分に有ります。
ただ、記述が存在しないのだから実際の理由は「目的はわからない」というのが一番誠実な態度ではあるかと思います。
異民族の脅威について、檀石塊在りし日においては相当な危機感があったのは事実であろうと思います。
彼は冒頓以来行われなかった中国北方の統一を成し遂げましたし、後漢の軍も何度も敗北しています。
ただし、あなたの言うとおり、檀石塊死後の北方異民族については酷い体たらくでして、ハッキリ言って雑魚です。
何しろ、檀石塊の息子が弩自慢の漢人の農民にうっかり射殺されるアホでして、それ以降漢代では類例を見ない程分裂しています。
河北の鮮卑のみですら、最低でも三つ以上の部族に分裂してしまいました。
あと、実は伝統的に群雄割拠時代の方が中国は北方に強いのです。
李牧無双とか、後漢初で馮異や耿舒、独立小軍閥時代の竇融等が
バカみたいにホイホイ匈奴や鮮卑を撃破、撃退しているのもそういった理由です。
分裂時の遊牧民が弱かったことが、統一時代においても脅威にならない理由にはならないでしょう。
晋時代は三国の動乱の後で完全に全面的かつ経済が崩壊した名残を引きずって物々交換状態。
この三国時代の喪失を結局晋が背負わされ、同時に北方異民族の力が強大化というコンボで晋が崩壊
この後は異民族が、居ることが常態化して、民族が所謂漢化しての繰り返し。
しかしそんなこと言い出したら春秋時代から、動乱があるたびに北側・南側に新興勢力が加算されていったわけだけど。
>>429 三国時代の君主の2人が、異民族すれすれの辺境出身者な件。
劉備は幽州の啄出身だし、孫権は呉という長江の南側出身。
タク郡はともかく、呉は漢では元からかなり別格な地域な件。
漢帝国の会稽郡(後漢後期に呉郡と会稽郡に分割)はかなりの数の有名人を輩出している。
陸賈、朱買臣、荘助(厳助)、鄭吉、厳光、陸コウ(門構えに宏-ウ冠)、陸続、王充、鍾離意、陸康、朱儁、駱俊。
まだ居たと思うけどめんどうなんでこの程度で。
最近一周回って漢帝国の南方統治が過小評価されてると思う。
>>423 孟達。
夷陵の所在する宜都郡太守。
彼は劉備の命で北上して房陵を攻撃し、漢水を下ってきた劉封と合流して、
関羽と共に攻撃ラインを押し上げている。
ついでながら関羽の言うことを聞いていないという皮肉。
この辺りは劉備の戦略ミスの面もあるね。
主な敗因は関羽が呂蒙の計略に引っ掛かったことであるが。
>>426 後漢中期以降になると、
皇帝(や皇太后)に近しい尚書令・外戚・宦官に権限が移り、
皇帝らと共に最高決定権に参画するようになる。
三公には行政権はある程度あっただろうが、
政治権力の頂点とは言えなくなる。
かろうじて、外戚大将軍の竇武や何進のような人物が
皇太后に意見しうる地位で影響力を保ち、名士勢のよりどころとなるが、
二人とも敗死する。
>これは財政建て直しと、その為の改革を推し進めた皇帝から
これは誰のどんな事跡を指すのかよくわからない。
霊帝改革と呼ばれるものが始まったのは黄巾の乱以後のこと。
そのときには黨錮は解除されている。
>なりを潜めていた名家や士大夫たちがここぞとばかりに巻き返しを図り
この側面は確かにある。後漢朝廷の全国支配を崩壊させた最後の一撃は、
董卓の権力奪取を許したことと、それに反発する諸侯の乱だった。
しかしながら、それで全国支配が瓦解するほどに漢帝国を衰弱させてしまった
原因まで士大夫層に負わせるのは公正ではないだろうけどね。
もし霊帝が長生きしていたら。
もし何進・袁氏の託孤政権が少帝を輔弼して安定していたら。
というifを考えることは出来るだろう。
>党錮の禁は、宦官vs.清廉派などではなく、実像は皇帝(改革派)vs.士大夫(既得権利保守派)
>という姿が正しいのではないでしょうか?
士大夫が既得権益保持者だというのは、まあ大雑把には良いとしても、
桓帝・霊帝は、黨錮の時代に特に積極的な改革を行っていないと思うが。
特に霊帝は、竇武・陳蕃の粛清時に数え11歳。
「改革」の主体者は誰で、目的と動機はなんだろう?
霊帝の 霊 にはどんな意味合いがあるの?
色々あるんだけど、
死而して志成りて曰く。
乱而して損なわれず曰く。
極めて鬼事を知りて曰く。
勤めずして名成りて曰く。
死見鬼能曰(ちょっと解釈が難しい)
鬼神祭るを好みて曰く、霊
あからさまな悪諡ではないが、まあいい意味ではないのが多いね。
436 :
433:2011/11/25(金) 21:04:29.96 0
多少訂正。
尚書令の台頭は光武帝時代に既に始まっていた。
諸郡の功労は刺史の監察が直接尚書台に入るなどし、大臣である三公九卿の力は弱体化していた。
この皇帝集中を利用して権限を一手に集めたのが、後漢中期の外戚と後期の宦官。
>しかしながら、それで全国支配が瓦解するほどに漢帝国を衰弱させてしまった
>原因まで士大夫層に負わせるのは公正ではないだろうけどね。
この時代、官僚・豪族らは宦官やその一派におもねるか、精々不干渉を保つのが大方だった。
だから賄賂をはじめとする政治腐敗が地方行政の末端に広がった。
その意味で、『士大夫層』は宦官の共犯者でもある。
この大勢に対して、宦官の排除を訴えたのが清流派達。彼らはあくまで少数野党だった。
>>428 >>433 ありがとうございます。
自分は最近買ったちくま学芸文庫の三国志をざっと読んで疑問点書いただけなので
質問には答えれるほどの知識は無いです。
漠然とした疑問に答えてもらって感謝です。
霊帝売官の財貨が八校尉の財源に充てられたという、比較的最近の説の根拠は、
当時霊帝の常駐する宮中が「西園」であって、そこに財貨が集められたという記述からだね。
これは、売官収益が(西方討伐軍の財源となった武帝の公田租税と同じく)劉氏皇室の私的財産
となったことを示す。
そして、「西園」八校尉は、皇室管理を担う宦官の一人である蹇碩がその総督となり、
大将軍何進以下の漢軍全軍を監督する軍団であった。
つまり八校尉とは、「西園」に貯蔵される霊帝の私費によって賄われる、
劉氏直属の私兵軍団であり、全国の官僚軍を統制し、各地の反乱を鎮圧する中核として派遣されることが
期待された軍団だということになる。
勿論全てではないにしても、売官の利益が八校尉維持に使われたことは自然な推論になる。
。
袁紹もそうだが袁世凱も皇帝になりそこねたな。袁氏はそういう運命にあるのかもしれない
帝舜は英明である
君主クラスって……。
いや劉寵だけは確かに「君主」だけどさ……。
春秋時代ならけっこうありそうだな
俺がぱっと思いついたのはケネディー、リンカーン、足利義輝だったわ・・・
445 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 10:18:36.60 0
曹丕曹叡曹髦は仲間に入りますか?
後漢初なら岑彭や来歙みたいな軍の重鎮が暗殺されてるな
447 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 14:20:12.52 0
暗殺だとばれる暗殺は二流じゃね?
暗殺だと知られていない暗殺を語るのは有害無益
暗殺といえば軻比能でしょ。
実際に発覚しない暗殺なんてどう考えても「時間をかけての毒殺」以外にないから時間かかりすぎるし
紛争での利点が完全に死んでるぞ
というか、暗殺だと発覚しない利点ってなんだ?
「下手人の身元がばれない」とかならともかく、暗殺だと発覚しないことに利点なんか無いだろ
故人と敵対している、或いは利益を得る勢力が限られるなど、下手人を問うまでもないケースだとむしろ積極的に宣伝して
相手勢力の重要人物に警戒させてリソース割かせたり疑心暗鬼招いた方が遥かに有益
451 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 16:49:09.99 0
劉奇も上手い具合に死んだよな。
でも北から南に行くとよく死ぬんだ
曹操軍も疫病でばたばた死んだ
453 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 17:15:35.31 0
水が合わないというやつ?
劉gが死んだのは劉備にとって痛手
孫権が仕組んだとでも言うのか
455 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 17:22:11.53 0
孫権が仕組んだのなら隠す必要が無いな。
じゃあ病死だな
当時劉g=劉備連合と孫権は同盟関係で、
荊州の地盤を複雑に分け合っていたんだから
孫権が劉gを殺したなら隠す必要アリアリだろ
>というか、暗殺だと発覚しない利点ってなんだ?
理屈としては、主君殺し上官殺しの場合。
自然死であれば揉めることなく後継者が決まるだろうが、
殺人となれば、犯人が判らなくとも異議を唱えて
後継競争に名乗りを上げる輩が出てくる可能性がある。
と言っても、実力のあるトップの死は
いつでも誰かにとって「上手いタイミング」になりえるんだから、
その全てに暗殺の嫌疑を掛けるなんて馬鹿馬鹿しくてやってられないけど。
そもそも、劉備は劉gが死ぬ前に荊州牧に任命されたんじゃ?
461 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 19:05:38.35 0
劉キの保持していた軍団は独立性を保っていたのだろうか?
劉キは江夏太守だから、それなりに兵力持ってたはず
それに逃亡してきた劉備軍を足して、一万以上?
463 :
世界@名無史さん:2011/11/27(日) 19:54:35.33 0
諸葛亮の話では合計2万とか言ってなかった?
まあ、誇大広告だとは思うけど。
関羽が水軍丸ごとかっぱらってきたらしいから、
頭数は割りとあるんじゃないか
劉備が単独で荊南を制圧して回れるくらいには
劉備は、関羽と張飛に2000人ずつ部隊を率いさせてシューユの援軍に送ったそうだ。
そして、南荊州制圧を同時進行でやったことを考えると、諸葛亮の自己申告2万はそんなに過大でもないと思う。
>>460 劉gがなったのは荊州刺史ね。
しかしwikipedia三国志関係の家臣だの棟梁だのいう言葉はなんとかならんのかな
>>467 そういえば、曹操も、エン州刺史が死んだら、その後をついでエン州「牧」になったんだよね。
刺史の死に対して牧を要求とか、こら完全に劉備は曹操パクってる。
なんで牧になることが曹操のパクリなんだか…
後漢末の牧のはじめは劉虞や劉焉世代だろうに。
わけわかんね
>>468 パクリじゃなくて名分の手に入れ方とか権力掌握の方法が当時としては一般的だっただけだろ
刺史よりも牧のが当時としては有利な官職だったのだし
機会があればそりゃ誰でもそう出るわ、ってことだ
刺史でワンクッション置いて、それからみんなに推薦されて牧につく。
ちゃんと段階を踏まないとだめだよね。
>>469 すぐに牧にはつかないという点をパクった。
漢の刺史と牧の差って、基本的に階級序列だけしかないんだよね。
刺史は六百石、牧は二千石(以上)。
刺史が、県令-刺史-太守と比較的少壮の時期になるのに対して、
牧は、太守-牧-卿と、壮年の有力者がなるものだった。
後漢になると、刺史・牧は皇帝の使者としての面を持ち、単純な地方官の序列に収まらなくなるとか、
後漢初の牧は将軍号、後漢末のそれは監軍使者を与えられて統制力を発揮したとか問題はあるけど。
で、おそらく青年だった劉gが、実力者の劉備・孫権に挟まれた状況で
州牧まで成り上がったら階級序列に問題が生じる。
左将軍で牧を歴任している劉備が、今更刺史なんて役不足。
それだけの違い。
>>472 はあ?
曹操は前任の刺史劉岱を推薦したり遠慮したりしたことなんてないぞ?
>>474 他者を推薦ても自分では牧にはならない、というのが深謀遠慮なのだよ。
わけわかんね
せめて言語思考してくれ
三戦板から厨房でも沸いてるのか?
ここしばらく常駐してるのが一人はいる
刺史と牧って併在してたの?
一州内でって意味?
それならノーだ。
そうだよね。
刺史は行政官ではないの?
牧はさらにそこに州軍の指揮権をも併せ持った存在でしょ?
刺史と牧は漢代に何度も置き換えられ、存廃が議論されたが、
職掌の差が議論になったことは無い。
問題になるのは、昇進序列の違いと、それによって来る任命者の影響力の大小。
刺史の職掌自体が250年の間に変化しているという別の問題はあるけどね。
州牧が軍事権を持っているように見えるのは、後漢初や後漢末の牧が、
将軍や監軍使者を兼ねたからであって、牧自体に軍の監督権があったのではない。
「州軍の指揮権」というなら、後漢中期以降の刺史にもあった。
郡で対応できない大きな反乱が起きると刺史に勅命が下って太守を率いた。
それで駄目なら御史、御史中丞が朝廷から派遣された。
孫堅が袁術によって二州刺史に任じられたのも同じ役割を与えられてのことだろう。
失礼。刺史の歴史は後漢末までで300年か
>>483 いや、わかりやすい説明だわ。感心しました。
でもなぜ何度も変遷したのですか?
刺史と牧がってこと?
刺史の職掌がってこと?
刺史と牧が、です。
理由があったから 刺史が牧に。牧が刺史にかえられたり、帝国内でも地方で使い分けられたわけでしょう??
前漢で刺史と牧が置廃されたのは、
刺史の監察権限が強すぎたから。
「一州を統べ、太守を考課し、推薦された者は卿まで昇る。
職務は重大なのに、刺史自身は六百石の下大夫に過ぎない。
これでは階級序列が失われている。牧を置いてその秩石を真二千石にすべき」
というのが牧派の主張。
一方、刺史派は、
「下級の刺史が州を統べていた頃には、みな昇進を楽しみに功績に励んだ。
牧が置かれると、太守のうち治績優秀な者は九卿に昇進するので、
中等の保身に努める者が牧になるようになった。
このため不法を取り締まることが出来ていない」
このような相克が漢書に記載されている論争。
後漢光武帝の時代に牧が廃されたのは、戦乱の終結による地方権限の縮小の一環と解される。
光武帝時代の牧は将軍を兼務し、しかも皇帝の使者として監察結果を直接尚書台へ報告する
大きな権限を持っていた。
光武帝はこれを縮小して、刺史に戻した。
ただし、「皇帝の使者」としての重きは残されたので、
六百石の刺史でも前漢のように「位次を失う」と言われることはなくなり、後漢二百年の間続いた。
ここから見れば、後漢末に牧が復活したのは、「皇帝の使者」としての権威の弱体化、
中央朝廷の地方に対する深刻な影響力減退と見ることが出来るだろう。
現地派遣される州牧個人の影響力と信望に期待するしかなくなったわけだね。
実際どうなの?「中華統一」ってホントに中華にとって良いことなのか?
【三国志12】三國志12 Part5【2012年発売】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1320585756/l50 987 :名無し曰く、 :2011/11/30(水) 15:55:34.22 ID:/mkkq23V
いい加減「統一」がベストな目標に設定されてるのってどうなんだろうね。
地方分権のままでも(むしろそっちの方が)うまく統治できそうなのに
なんで統一っていう強迫観念に取り付かれてるのかと毎回思うんだが。
988 :名無し曰く、 :2011/11/30(水) 16:07:45.40 ID:/0nQxFf9
劉表や劉璋がどうなったか考えれば分かりそうなもんですが。「わしはこの州で十分じゃ」は覇者にやられるだけだ。
日本で北条氏がやられたようにね。「こうして300年の長きにわたり・・・」がベストエンドなんだから地方分権ENDは
ショートシナリオじゃないと無理。
995 :名無し曰く、 :2011/11/30(水) 16:30:58.03 ID:/mkkq23V
>>988 逆に言えば、その統一によって分裂がもたらされてもいるわけで。
地方分権がどうなったかを考えれば〜は、統一がどうなったかを考えれば〜
と反論できる。そもそも地方分権の三国が何十年も続いてる時点で
統一っていうのが中華にとってベストな洗濯じゃないとも言えるよ。
劉璋も「潰された」というよりは「乗っ取られた」ようなもんだしなぁ
蜀の地で分権してたというのは劉備からも変わらんわけで
群雄が滅んだときは降伏するなとかそういうやり取りがあったが、
なんで州牧制ができたときは誰もやめろって諌めなかったの?
もう少し日本語で
>>493 霊帝が「州牧制やるよー」っていいだしたとき、「そんなことやったら駄目ですよ」「地方が独立したら手に負えませんよ」と諌めた人っていなかったのかなと。
群雄が滅んだとき云々はどこにいったのかわからんけど。
記録には残っていない。が、反対者がいない国家政策ってのも普通ありえんだろうね。
>>490 領土的に国家としての機能が捗る範囲を超えてるのは確かかもしれないが
秦代から続く”統一王朝”としての威光に関わるので、もう後に引けないみたいな
もともと漢は郡国制度で開始したんだし
ゲームのクリア目標の話題に歴史が反論してどうするよw
>>498 漢はその時のほぼ全ての諸侯の推薦で皇帝になったのが始まりだから、全土の諸侯の賛成も貰えない王朝は漢王朝未満のクズ王朝っていうことになるんだよな
>>500 「ほぼ全て」って、推薦しなかった諸侯王なんていたっけ?
統一に問題になるのは皇帝ではなく天子だよ。
「国」の君主や人民なら属国・藩国・化外の国民といくらいても構わないが、
天の名代であり諸侯を封じる権限を持つ「天子」は天下にただ一人。
複数並立する状況では、中華の国家と社会の基幹である礼教祭祀が成り立たない。
だから同盟相手である蜀と呉でさえ、相手の皇帝を「大王」と呼んで
厳密には天子であることを認めなかったわけ。
分立国家が余力のある限り「中華統一」に向かわざるを得ない理由はここにある。
皇帝の歴史は400年だが、天子は歴史上だけでも1200年、神話を含めれば2000年越えるわけだから。
あ、3000年か
506 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 00:21:28.04 0
,.r.:::;;;;:ュ、
fイ´__ __ヾ
{:六;;;;:ハ:;;;:カ
(_ ' _^_ヽリ なんだ AKBって整形した反日朝鮮人だったのかァ
,人 l⌒l、 ブームの捏造手法が寒流と同じだけはあるな
/ \,ゝヽr' \
/ |:| ヽ
l l /´堰@ l !
|___l ノ ,イ !__,}
>>502 そういや「日出るところの天子」でキレた奴いたな
508 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 10:51:43.03 0
>>507 あれは中華を占領した異民族に対する宣戦布告だろう。
ヤマト王権ができたのって、ちょうど五胡十六国時代だろ。
あんだけ異民族が皇帝を名乗りまくった時代なんだから、
日本人が皇帝もとい天皇を名乗ってもいいだろう。
>>490 統一しないとナメられるんだよ
「過去の皇帝(漢帝国)はこんな広い領土もってたのに、今は・・・(笑)」
といちいち他国・臣民に比べられてしまう
別に地方で小さくまとまって完成度の高い政治をしてもいいじゃない。
「皇帝」「統一王朝」なんて厨臭いドラッグ発明した政が悪い
老子の理想こそ、小国民主主義。
>>511も老荘の輩か。
老荘抜きにしても統一状態の中華は、ちょっと広すぎて不便じゃないかな。
司馬炎が善政したってどうせ分裂しそうな気がする
普通に中国が統一王朝となったのは北方騎馬民族に対処する為だよ。
>>511 曹丕が皇帝にならずに魏王国だけで小さくまとまっていれば良かったんだよな
分立状態の国家群が戦争せずに協定を結んで
100年200年の統一国家並みの平和を維持したのなら、
そのとき初めて「統一しなくてもいい」は「統一国家」に
道義的に対抗する舞台に上がる権利を得る。
そのとおり。
民族内の平和を実現するには統一しかなかったのさ。
そして統一国家は対外侵略にむかうのさ。
しかし漢朝200年の「統一王朝」にしたって、名目だけ漢土というだけで
実質は分裂政権みたいなものだからな
>>515 分裂国家である魏でも充分対処できてたような
ちょっと教えて欲しいのですけど、
官渡の戦いでなぜ袁紹は負けたんですか?
「漢の皇帝」のネームバリューはもうしなびちゃってるから
外国や臣民に威光を示すために魏が皇帝を名乗るしかなかった。
名乗らないわけにもいかない。皇帝っていう凄いものがあるのに
王のままじゃ示しが付かないし漢王朝の傀儡ぶり(ナメられる要素)を晒すだけ。
しかも皇帝名乗ったからには統一国家じゃなきゃ、過去と比べられて
それもまたナメられてしまう。だから統一しなきゃいけない。
まるっきり悪循環だけど、もう後には引けない。
ドラゴンボールでいうと、悟飯が超サイヤ人出現後のセル編で
界王拳覚えましたみたいなもんでインパクトがない。
読者の眼を引くためにも、商業作品としてのボリュームのためにも
悟飯は界王拳(王のまま)じゃなく超サイヤ人(皇帝就任)にならなきゃいけない。
そしてブウ編でのバーゲンセール(五胡の帝僭乱立)に続く。
ものすごい出鱈目だな
>>519 前漢の「分裂政権」状態は50年で解消されただろう。
50年も掛かった、というのが当時の現実ではあるが。
「魏王」のままでよかったと思う?
>>522 天下統一もできない奴が新たに皇帝を名乗るともっと舐められるという最悪の選択だったな
舐めるとか舐められるとか、一体誰が曹魏を舐めたんだ?
>>527 曹魏王国だけならともかく、漢王朝を掲げてるわけだから
情勢的にそのままにしておくわけにもいかなかったと思う
>>527 大臣たちみんな舐めきっていたから皇帝廃位されても殺されてもほとんど知らんぷり
漢王朝でも起きてることだよ
曹魏がしたことは異民族をどんどん領域内に受け入れて移住させた。
なんせ相次ぐ戦乱で土地はあるのに人民が足りなかったのだ。
そしてその戦力を利用した。
排斥ではなく受け入れ。
まるでどこかの国の政治家が言ってる様なことではないか。
で、結果どうなったか?
ここの皆さんはごぞんじでしょう。
中華の君主の正統性ってのは、近世王政や近代民族国家よりも遥かに属人的なんだね。
特に南北朝以前においては。
「皇帝が賢君である限り」「天子が身を慎み祭祀を全うする限り」において、
その家が皇帝・天子であることが許される。だから廃立や禅譲が思想として確立している。
(もちろん、現実に皇帝が廃立されるには非常に高いハードルを越える必要があるが)
これを皇帝が回避するには、皇帝個人に最低限の実力がなければならず、
実力を持ち得ない幼帝が続くと、臣下個人が容易に主君を越える実力─「徳」とも言い換えられる─
を所有してしまう。ここまでは、漢代に何度も起きている話。
この臣下の徳の成長を、皇帝派が実力で叩き潰すことに失敗すると、禅譲への道が開かれる。
皇帝派。ギベリンか?
>>522 乱れた漢を滅ぼした魏がまたダメだったから
その後の時代に残るのは結局漢への信仰なんだな
魏がそこそこうまくやっても漢への信仰は残るよ。
周への信仰がより強力に残ったように。
魏が500年くらい続けば別だったろうけど。
分裂国家の魏は、統一国家西晋より不利な条件だったのに、異民族に負けたりしなかった。
魏より弱体な蜀すら、異民族を寄せ付けなかった。
なぜ統一した西晋はあんなに弱かったのか。
今勝てる寸前だったよな?
王族同士で内乱したから
魏だって、司馬氏と曹氏で内乱やったし、粛清もやってるだろ。
淮南でも反乱3連発。
単に指導者たちが無能だっただけ
統一国家か分裂国家かは無関係
>>537 上手くやってた?
民衆的には司馬政権>>>>>>>曹政権みたいだけど
>>543 537は「魏が上手くやってた」なんて言ってないじゃん
20 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/25(水) 12:53:13
赤壁というか、曹操の荊州侵攻以降の劉備の動きは神がかってるよな。
曹軍侵攻と劉ソウ降伏を知った劉備は、抵抗と曹操撃退の手を考える。
襄陽を占領したてこもるのは時間がないし危険が大きい。劉ソウがいるのだから、占領自体に手間取るかもしれない。
江陵に急ぎそこに拠るのは魅力的だが、だからこそ曹操もそれを真っ先に潰しに来るだろうと劉備にも読めた。
ではどうするか。
自分に近い立場の江夏太守劉キとの合力しかない。しかしこのままでは兵力差にかなり不安がある。
そこで劉備は敢えて襄陽や江陵が目的地かのような行動を取り、曹軍をひきずりまわすことにした。
曹操はまんまとその手に乗り、強行軍に次ぐ強行軍で劉備を追いかける。
更に極めつけは、曹操の切札虎豹騎である。袁譚を斬るなどここ一番に投入されてきた精鋭を、劉備はわざと使わせる策を使った。
それが民と歩調を合わせた行軍である。
江陵を確保されることを恐れた曹操は一挙に決着をつけるべく劉備に虎豹騎を投入。
しかし劉備の遅い進軍は罠だった。今まで民と一緒に行軍していた劉備は、虎豹騎に追いつかれるといきなり全速力で東に逃走。
虎豹騎は民に阻まれ劉備をとり逃がす。後に残るは疲弊して使いものにならない軍馬と恐怖を味あわされた民の曹操への恨みだけだった。
劉備はかくして真の目的を隠し兵力も関羽に分け温存しつつ、曹操には無駄な消耗を強制しながら江夏に入ることに成功したのであった。
いい感じじゃないの。
劉備の計画性を推察可能な史料が無いので仮説になれないという点を除けば。
547 :
世界@名無史さん:2011/12/02(金) 19:59:07.72 0
それが孔明の知略じゃよ。
>>546 鋭いねぇ〜
結局、劉備の動物的勘だったとおもうんだけどね。
理屈じゃなかったんでしょうよ。
劉備がそんな勘で動く人間だったという史料が無いので(ry
>>549 それは資料ではなくおれの勘が教えてくれるのさ。
劉備の生まれ変わりなのかもしれないね。
劉備が襄陽に寄ったのは無駄足ではなかったか。
劉備軍には城攻めやる時間も頭数もなかっただろう。
曹操を恐れた劉ソウが逃げたと思って、空き城を火事場泥しにきたのか?
劉備は当時、襄陽の対岸の樊城にいたんだよ。
漢水を渡ったときに横を通りかかっただけ。
移動経路の途中だったのでは?
あえて避けて通る理屈も無いし、みたいな。
もしくは城内の呼応勢力とともにのっとるつもりもあったのかも。
劉備が襄陽に寄った直後に城内に内紛がおきてるでしょ?
小規模だったのですぐ鎮圧されてしまったけども。
>>554 しかし諸葛亮が「you! 襄陽攻めちゃいなyo!」と城攻めを勧めたことになっている。
隙あらば奪う気満々だったんじゃね?
襄陽で篭城ができれば、曹操軍の南下を阻止できないでもない。
孫権とももっと有利な条件で交渉ができたはず。
>>556 恐らく襄陽にいる少なからぬ親曹操派を抑えきれる自信がなかったんだろう
ただ諸葛亮は南側は黄承彦のツテで抑えることが出来ると見て劉備に勧めはしたのだろうな
劉備は撤退を選択したので結果としてその影響力はベン南の人間が劉備に付き従うという形で
発揮されるのだが
劉備軍的には「劉表軍最強の俺達がこんなにみっともなく逃げ出したんだから、襄陽の兵もさっさと逃げただろう」と思ってたのかもしれない。
ところが、襄陽についてみれば、劉ソウ軍は逃げるどころか、劉備軍に対してすら門を固く閉ざす始末。
あ、こいつらもう曹操軍とつるんでるわ、やべっ早く逃げないと・・・で難民を引き連れた逃亡劇が始まる。
当時の荊州については
蔡瑁や王粲といった既得権益層
と 諸葛亮や馬良に代表されるそのまま曹操配下になったのでは自らの出世は限られる、ひと勝負してみたい派
がいたんだね。
後者が劉備をかついだ。
>>559 劉備が新野撤退前に劉ソウ降伏の情報は把握できてなかったのかな。。
正史ではそうなってないの?
劉備がわざわざ襄陽の門前まで行ったのは、最初からそういう打ち合わせだったに違いない。
もし荊州の前線の城が落ちた場合、劉備は軍をまとめて襄陽に後退し、篭城軍に合流して戦い続ける。
ところが劉ソウは劉備を城に入れない。
それですでに曹操と組んでるのが劉備にばれてしまった。
この考えどうよ?
>>562 後で劉ソウに翻意して曹操の後背突いてみる?なんて話を配下が提言してみたりと
降伏自体が結構流動的で曹操と組んでるとか予め内通してるとかではなくかなり揺れてる
劉備は劉jの降伏の報を樊で聞いたと諸葛亮伝にあるだろう。
演義ほどドラマチックでないにしても、
一報を聞いて押しかけた劉備(またはその使者が)が襄陽城門下で
押し問答をやった可能性は高いだろうね。
劉備の逃避行で一番重要な記述は関羽が襄樊の艦船を率いて逃げたというくだり
これと赤壁での江陵艦隊喪失の結果
魏は長江の水軍を再び得るまで数十年の歳月が必要となってしまった
なんで劉表側の連中は手をこまねいて船取られるのを傍観してたの?
港は普通城壁の外にある。
まあ、劉jが演義のように篭城状態だったかはわからんのだけどね。
水軍は船もそうだけど人でしょ?
関羽に襄樊水軍がくっついていったってことで普段からてなづけていたってことでしょう?
関羽って意外に水軍の采配ができるんだよなぁ
解池で船使ってなんかしてたんじゃないの?
塩湖で船をあつかってたのなら長江の水はきつかろうに
>>568 関羽が確保したのは、戦闘艦や輸送に耐える船舶そのものであって、
水兵が定員まるごとついてきたってわけでもないだろう。
伊籍のように劉j派から離反した荊州人もいたわけだから、
個別に劉備に従う中級指揮官や部曲兵がいたとしてもおかしくはないけど、
それはあったとしてもあくまで個別の話。
挙って寝返ったような規模なら史書がそう書いてる。
>>571 いや、関羽は船連れて逃げてきたんだから、水兵乗ってるじゃん。
直接戦闘がなかっただけで、やってることは完全に戦争での機動だよ。
水兵が乗ってないわけがないよ。
>>573 戦闘してるよ
楽進隊に捕捉されて船を焼かてる
>>574 関羽が船を奪って逃げてきたのに、船のない楽進がどうやって追撃をかけることができるのか。
関羽が置き残した船を焼いてみただけじゃないのか。
楽進伝の話は、周瑜と共に逆撃に出た頃の話か、もっとあとの可能性の方が高いだろう。
関羽が追撃を受けて敗退したなら、陸路の劉備と漢津で合流するとかできないから。
>>573 当時の艦船は、定員=操船要員+白兵要員 だよ。
かっぱらって動かすだけなら定員を満たす必要も、熟練水兵である必要も無い。
新野から付いて来た荊州兵が中核で十分賄えるだろう。
>>577 >かっぱらって動かすだけなら定員を満たす必要も、熟練水兵である必要も無い。
これだけは疑問が残るな
古今東西を問わず海軍はその乗員の熟練度が全てだから、「船だけ」という考えはないはず
すくなくとも戦闘艦艇に関してはだ
>>577 >かっぱらって動かすだけなら定員を満たす必要も、熟練水兵である必要も無い。
動かすだけとか簡単にいうが、普通に動かすのが一番難しいだろ。
魏が長年長江をわたれなかったのは、赤壁で船を動かせる人材を大量に失ったからだ。
船は作れても、動かす人間はすぐには用意できない。
曹操も死ぬまで艦隊を再建できなかった。
「船だけ」でも奪えれば漢水水上での曹操の行動力は半減以下になる。
のちの自分の行動力の確保にもなる。
これは、当時の劉備にとって捨て置けない戦略上の争点だよ。
そりゃ当然、正規の水兵がまるごと付いてくれば上の上だが、
劉j軍内からそんなものを募る時間があったとは考え難い。
思考が船に縁遠い人の考え方だな・・・
船と乗員はイコール
人力の当時なら尚更
イコールじゃないってばよ。
船が無ければ建造するまで水戦はできないんだから。
劉備がどんなに喉から手が出るほど劉j水軍兵を欲しがっても、
現実に確保する手段と時間が無ければ意味が無い。
史料から伺う限りその痕跡は無い。
すげー
定員も満たしてないド素人の集団が秩序だった艦隊行動を400kmにわたって行ったのか(しかも逃避行)w
関羽はどんだけ神憑ってんだよww
なんでど素人だと推察できるのだろう。
襄樊-宛間には水路が通っていて、ここに長年駐屯し、
時には曹操を押していた劉備が、操船兵を多少なりとも所有してないのは不自然だし、
当時の艦船の定員=操船要員+白兵要員 だと言ってるのに。
白兵要員が殆ど存在しない、定員半数割れしているような船団でも、
操船経験者が最低限揃えば夏口までいけるのは当然のことだろう。
馬鹿すぎて話しにならんな
理由を述べよ
>>582>>584 新野時代に水兵を確保したって記述もないけどな
長年、というが具体的には7年程度
魏略の記事を採用するなら諸葛亮の勧めで流民を戸籍に入れて
軍役を課したのが205〜207年頃
とても専門技術職たる船員を扶育できたとは思えないんだが…
現代の技術で様々な労力を省けるようになっても
船員の育成には数年掛るし、古代で育成ノウハウも確立してない時代に
数百艘を動す程の数を揃えられるものか?
あと関羽伝には曹操が長阪で劉備を補足する前に江陵に船団を集めてたとあって
劉表時代からの水兵をここで接収してる可能性が高い
痕跡がないわけじゃない
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派
VS
橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
様子見:公明
江水周辺ほどじゃなくても、漢水周辺は水運に頼る比率が高く
南陽は京師への穀物輸送と商業で中華最大の郡になった地域だよ。
住人自体が船舶輸送に慣れた土地だ。
劉表が割拠して以来対北戦線に従事している兵団もあっただろうから
当時の戦闘艦が、動かすだけでも長年の訓練を必要とする
特殊な構造をしていたわけでもないだろう。
関羽が奪取したのが戦闘艦だけだったって記述もないし。
動かすだけでも航法とか天測とかややこしいんじゃないか、船って
川で航法とか天測なんてしないだろう。
民間輸送船と戦闘艦との間にそんなに構造の違いがあったのかってこと。
いや長江ってクソ広いらしいじゃん
今は漢水の話
海でも沿岸航海なら天測なんてしないから
>>591 違いはあると思うよ
ラムとか喫水とか目的に応じて考えなけりゃならんものは多い
風向きの変化とか川底の状態とかさ。やっぱ地元の漁師とかにしかわからないことってあるじゃん?あるじゃん??
ラムってラム酒?
ラムちゃん?
竜骨無いのに衝角突撃なんぞできるの?
なんか体当たりした側が転覆しそうだが。
衝角突撃出来る船があったんでしょう。
白村江の戦いでは唐の船にはクレーンがついてたんだってな
>>595 軍艦と同じく、商船や輸送船の喫水や排水量だって千差万別なわけで。
それら全て、長年個別に習熟した乗組員でなければ操船することもできず、
近い規模での乗り換えの応用も利かないほど精密なものだった
っていうのは信じられないな。
現代フリゲート艦を戦闘させるわけじゃないんだから。
>>601 そんな話はしてないけどな
違いはあるでしょ、目的は違うのだから
というだけの話をなんでそこまで余計な尾ひれ付けてくるかな?
目的が違う≠必要操船技術が違う
問題になっているのは、操船技術の応用が利くかであって、
俺は議題に沿ったレスをしただけ。
議題になっていない「違い」を持ち出したそちらが余計な尾ひれ
>>603 操船技術も当然違うでしょ
特に軍船は艦隊組んで戦うのに対して
商船はそこまでの連携が要求されない
今回は漢水下りだけ。
安全な距離保って速度を出せればいい。
数百艘が一緒に動いてるので結局楽な仕事じゃないけどな
人間ですら数百人がまとまって行動して誰もはぐれないってことは結構難しいのに
船でそれをやるんだから連携とか色々必要だよ
安全な距離保つ事自体がちゃんとした船員教育抜きにいきなりできるもんではないと思うよ
船員教育を受けた人間は普通にいるのが漢水周辺だろう。
そういえば、江夏に逃げたころは2〜3万ぐらい居たようなのに
その後、赤壁直後で2000、荊州4郡を獲得後で1万なのは、数を盛ったのか?
陸軍もそうだが、狭い道を行軍するのに数万人を固まった行列にして動かすわけじゃないよ。
統制が取れる小集団に分けて順次出発する。
数万の陸軍なら数日かかるかもしれないが、
時速10キロの河川を下らせる場合、
50の小集団にわけて6分に一回進発させれば、
1キロ間隔の小船団の出発が5時間で終わる。
あとは小集団内の衝突に気を使いつつ、
前後の集団との間隔を一定に保つ水先案内人がいればいい。
まあ、実際に当時、このように運用されていたのかは知らないが、考え方はこんな感じ。
民衆を連れた劉備が陸路で逃げて長坂までたどり着けるくらいの時間的猶予はあったのだから、
難しい話じゃないだろう。
>>608 単純に各地の制圧に人員割いてるだけでは?
>>607 操船技術と艦隊運用とはまた違うでしょ
>>609 そういう出発して途中で減速する場合、ぶつかってたり渋滞したりで結局上手くいかないもんだけどね
漢水は結構蛇行してるから今とは多少違うかもしれないけど中州とかあるしどっかどっかで詰まるよ
追いつく前に錨を降ろして待つだけじゃない
商船と軍船が同じような運用でいいなら曹操が池まで作って大規模に演習するかね?
船による輸送は曹操だって散々やってるし商船と同じならそこまで大々的にやらんでもと思うのだが……
曹操がやったのは戦闘・艦隊運用だろうが……
今までの流れ全部無視して同じこと繰り返すとか
煽ってんの?
漢水下りをするってのは艦隊運用そのものじゃん
何言ってんの?
なんだかなあ。
持論を押し通すために盲目になってるのかな。
熟練の水兵が必要な艦隊運用ってのは、この場合
>>604>>606的なものだろう。自分や自分の味方の発言くらい把握してくれよ。
それに対して、関羽がやったと想定されるのは
1.水運に慣れた荊州人を用い、
2.数隻単位の安全な数・速度を調整できる時間的余裕の中で、
3.漢水の流れに沿って下らせる。
というしごく単純なものだよ。
もし荊州人がこの条件で艦船を動かせない理由があるとしたら、
当時の軍艦が、他船の操船経験を受け付けないほどに特殊で高度な操船技術を要する代物だった。
という可能性だけ。
そうだったの? って聞いているのだが。
>>616 2と3が簡単ではないんだわ
数千人から数万人を運ぶ規模での水運は超が付く特殊技能でしょ
水路って言ったって人工的なもんじゃないから彼方此方で緩急があるのでね
だから商船とは違う艦隊に必要な技術ってもんがあるだろ、と言ってるわけだし
あと商船じゃ使わないサイズの楼船も三国時代には有った
劉表が江陵にどこまで大型な船を置いてたかは全くわからんがね
>だから商船とは違う艦隊に必要な技術ってもんがあるだろ、と言ってるわけだし
意図的に単位を違えてるのかな?
「"商船"とは違う"艦船"に必要な技術があるのか」と聞いているのだが。
漢代には水運が極めて盛んになって、
穀物満載の輸送船同士のすれ違いや渋滞が問題になったり、
漢水より遥かに急な渭水を長安まで遡って民間商船や輸送船が行き来していた。
また、黄・漢・江・淮水いずれでも、網の目のような支流を水路に使っていた。
それらに比べれば、漢水本流は随分広く穏やか。
これを小集団で下ることもできないなんて、
当時の一般操船技術を舐めすぎだろう。
小規模で下ること自体は商船だって普通にやってるから文句はないさ
ただ、それを連続で数百隻運用するのが特殊だって言ってるだけで
1キロ2キロの前後間隔が民間船では有り得ない「特殊」な状態だったとは信じがたいね。
もしそうなら「特殊」にならない程度に間隔を置くだけだろう。
数日以上の余地があったんだから。
1キロ2キロの間隔というけど、川の流れに乗っていくわけだから
何百隻も順次進発するし詰まるところでは詰まって渋滞起すでしょ
現代の交通じゃないんだからそんなに融通効かないよ
操船したことないオタクが何妄想しても無駄だよw
ありふれたカッターレース(漕ぎ手が片舷6*2=12名とキャップ2名)でも参加してみろ
1隻だけでも自分が何バカなことを言ってたのかすぐわかる
ましてや集団となったら集団行動での原則ルールと合図信号まで理解し尚且つ
それを守れないとすぐ事故につながる
>>618 >穀物満載の輸送船同士のすれ違いや渋滞が問題になったり、
>漢水より遥かに急な渭水を長安まで遡って民間商船や輸送船が行き来していた。
孫呉が漢魏に長年負けなかったのは、それが赤壁でごっそり失われたからだな。
漢魏の船が進もうとしても、孫呉の船に襲撃されて上手くいかない。
水兵を新たに育成して長江に出しても、優勢かつ技術的に優れた孫呉水軍に襲われて、あっという間にお陀仏。
しかし、蜀を手に入れたことで、ようやく孫呉に脅かされない水軍の根拠地を持つことができた。
先に蜀を攻略したのにはやはり意味があった。
長年負けなかったのは単純な話で蜀が生きてる間は
多少面作戦を強いて戦力分散させたからじゃないの?
南陽から漢水へ行く水路はいくつもあるし
豫州や徐州方面から淮水へ入ってく水路は
後の煬帝の運河無しにしてもそれ程大規模ではないがあることはある
一番広い水路が益州から長江そのまま下るってのは確かだが
征呉戦の時はそれのみならず各地から呉の拠点に進軍してるので
一番大きいのは対呉戦線に全てを傾注できる状況を作れたことだと思うよ
>>625 >長年負けなかったのは単純な話で蜀が生きてる間は
>多少面作戦を強いて戦力分散させたからじゃないの?
諸葛亮時代のあとになると、もう蜀も呉も、魏の現地軍だけであしらわれている。
中央軍が後詰してない。
>南陽から漢水へ行く水路はいくつもあるし
>豫州や徐州方面から淮水へ入ってく水路は
>後の煬帝の運河無しにしてもそれ程大規模ではないがあることはある
それでは水運としては死んでしまう。
細い水路に大挙して船が押し寄せるのは非効率。
細い血管と太い血管、どっちが有利かは確定的に明らか。
>一番広い水路が益州から長江そのまま下るってのは確かだが
>征呉戦の時はそれのみならず各地から呉の拠点に進軍してるので
>一番大きいのは対呉戦線に全てを傾注できる状況を作れたことだと思うよ
孫呉は荊州と揚州から突いても倒れない。
これは孫呉滅亡のときまで耐え抜いたことをみればわかる。
孫呉を滅ぼすには、さらに益州という三本目の手を必要とした。
>>626 現地軍が後詰に中央軍が必要な時期は現地に中央軍が長期間滞在できるだけの資力がないしね
司馬懿・孚兄弟の提案による対蜀輸送路の整備、ケ艾による対呉輸送の整備がそれぞれ行われた後は
確かに中央軍が出張ることもなくなった
ただ、これは中央軍が遊んでたってことではなくて、中央軍からかなりの兵数が地方に移動したのでは?
現地軍にあしらわれてると言うけど現地軍を増員してるからそうなるのであって
分散配備してる状況が改善されたわけではないよね
嘘吐き朝鮮、中国人がやってる報道機関 朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
NHK放送センター、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
629 :
世界@名無史さん:2011/12/07(水) 08:06:56.20 0
曹操が荊州攻略後、益州攻略に乗り出したらどうなっただろ?
輸送切れてアボン
631 :
世界@名無史さん:2011/12/07(水) 14:18:34.13 0
劉備は補給無しでやれた。
曹操ならもっと大丈夫だよ。
やればできる!
諸葛亮が必死で荊州で内政してたからだろ。
>>631 荊州攻略して益州攻略という前提だと長安周辺が確保できてないので
山道突き進むしかないよ
劉備とは違う
634 :
世界@名無史さん:2011/12/07(水) 22:05:35.22 0
諸葛亮にとっては荊州の内政ぐらい、片手間だよ。
劉備軍のこの先が不安だね
∧,,∧ ∧,,∧ 部下も少ないし・・・
∧ (´・∀・) (・∀・`) ∧∧
( ´・∀) U) ( つと ノ(∀・` ) そだねー ( ^+^) (三国志演義に洗脳されてるな…)
| U ( ´・) (・` ) と ノ / |_|\(正史における劉備の醜悪な正体を教えてやろう…)
u-u (l ) ( ノu-u l l
`u-u'. `u-u' 参謀役もいないし 曹操患者
領土が狭いよね
おい…なんかキモいのが来たぞ…
∧,,∧ ∧,,∧キモ…
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) ( ^+^) ……
| U ( ´・) (・` ) と ノ /l_l\
u-u (l ) ( ノu-u l <........
`u-u'. `u-u' なんだあいつ 曹操患者
うぜぇ…
∧,,∧ 劉備の正体はヤクザ! ∧,,∧ 無視しろ無視…
∧∧ (・` ) 偉大なる曹操閣下は英雄! ( ´・) ∧∧
(ω・` ) U ) \( ^+^)/ ( Uノ( ´・ω) キモいよー…
| U u-u l_l u-u (U ノ
u-u ∧,,∧ / \ ∧,,∧ u-u
(・ω・`) 曹操患者 (´・ω・) なんなのあいつ…
(l U)市ねよ… (U ノ
`u-u'. `u-u'
>>631 確かに曹操なら実力的には劉備と同等以上にやれるかもしれないが、
漢帝国の丞相様が孤軍で益州に突貫して
一州周り全部敵って状況から味方作りしつつ一年以上かけて成都へ前進するのか?
さりとて実力と求心力の点で劉備と同じことができうる人間は、曹操陣営には曹操しかいない。
つまり現実的には無理。
そもそも孫権とは対照的に恭順の使者を派遣し、
兵士の貸与までしてきた劉璋を討っていいのかどうか。
態度をはっきりさせない孫権に背を見せて、
一貫して恭順してる劉璋を討つのは悪手でしょ。
それはド正論だなw
劉璋って劉備を迎え入れたから曹操に討伐の名目を与えたんだよな。
劉璋が劉備に傾いたのは赤壁で曹操が負けたからで、
赤壁の会戦は孫権・劉備の積極攻勢によるもの。
つくづく歴史のターニングポイントだなあ。
直前までは曹操が兵を派遣してまで助けてる仲のいい孫権と
荊州が平定されてからようやく恭順の意思を見せる劉璋
恭順の意思を示してる人を討つこと自体ありえないけど
どっちが先に曹操と関係を構築してるかと言えば孫権じゃね?
>直前までは曹操が兵を派遣してまで助けてる仲のいい孫権
それなんだっけ?
それはともかく、曹操は荊州攻撃とともに東西に使者を送ったんだろう。
恭順したのが劉璋で、直接答えず武力で応じたのが孫権。
>>640 盪寇将軍になった直後の張遼派遣して江夏攻めさせてる
時期的には205年〜207年のどっかで、この時期の江夏は黄祖が守ってる
206年と207年は丁度孫権の黄祖攻めの時期で
特に207年の時には江夏の城を落としたり大量の捕虜を分捕ったりして
翌208年の黄祖の死に繋がるものだと考えてる
ここで張遼が一緒だとマンガ的で面白いのだけど、張遼の江夏攻めの時期は確定できないね
赤壁が208年だから、ほぼ直前まで曹操と孫権は協力関係だと思う
孔明の説得で一気に変わったのか
あー、なるほど。
>盪寇将軍になった直後の張遼派遣して江夏攻めさせてる
これが曹操自身の荊州攻撃前だったのは賛同するし、
確かに孫権の江夏攻撃と連携の可能性が出てくるね。
そうするとなおさら、「曹操が孫権討伐のために東下して赤壁会戦が起きた」
って一般的な見方を疑う必要があるんじゃないか。
理由はいくつか。
・武帝紀には「劉備を攻撃した」と記されている。
・実際、夏口の劉備・劉gを無視して孫権を討伐することは不可能。
・劉gを擁する劉備と、その宿敵の孫権が同盟するとは、前情報無しには予測し難い。
・孫権が江水を遡っていることを曹操が知っていたという逸話は無い。
・江陵-赤壁間と、柴桑-赤壁間の距離はほぼ同じ。上下流を考えると、孫権の動きのほうが早い。
曹操が劉jを下して江陵まで到達したことに危機感を抱いた孫権の、先制奇襲が赤壁会戦だと推定できる。
同盟者/臣従者に送った手紙として
「近者奉辭伐罪、旄麾南指、劉j束手。
今治水軍八十萬衆、方與將軍會獵於呉」
だと全く意味が違う気がしてきた
当時の文化詳しくないから全くわからんのだけど
一緒に猟しようぜ!ってのは挑発じゃなくて親睦会しませんか?って意味になるのか?
挑発は挑発だろう。
今でみたいな「同盟」じゃなくて漢の名の下に従え、さもなくば、という。
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
>>866 14時以降に何が起きたんだ
>>866 Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
これが規制されたからじゃねw
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ
張遼の江夏攻撃は孫権の為じゃなくて、単に江夏を曹操領に組み込む為のものだろ。
漢水を通行できないのに曹操単独でそんなことは不可能。
一時優勢でも劉表の本隊が来るか張遼が退けば元に戻る。
>>643 >劉gを擁する劉備と、その宿敵の孫権が同盟するとは、前情報無しには予測し難い。
これは予測できるんじゃないの?
遼東への進軍をしないことで公孫康が袁兄弟の首を送ってくることを予測した曹操の理屈から言えば
まぁ孫権の迅速な判断と周喩の行軍速度は予測できなかっただろうし、そこら辺が郭嘉が生きてれば
って話なんだと思うけど
郭嘉が生きていても、結局の所、賈クの献策と大差ない事しか言わない、
と言うか、あれで孫権は積むと思うけどなぁ
曹操の郭嘉云々は言い訳臭いと思う。
>>650 いや、賈クの言葉には動かされないけど郭嘉が進言していればそれに従ったのに、っていうことだろ
諸葛亮天才
郭嘉だったら、赤壁でどういう助言をしただろうか。
史実では撤退してしまったのだから、逆に撤退せずに孫権と戦い続けたかも。
>>651に賛同
そりゃエスパーみたいな予知能力を想像するならいくらでもできるけど、
「優れた計画なら誰のものでも採用する」ってほど参謀と主君の関係ってのは単純なものじゃないからね。
法正がいないことを諸葛亮が嘆いたのも同じ理屈。
孫権に背後を突かれるリスクがあるのにさ。
さらに曹操が蜀に攻め込むなんてありえん。
さきに孫権を屈服させる方に向かうでしょう。
でも孫権には曹操の留守を狙って江北、中原侵攻!なんて積極性なかったけどね。
>劉gを擁する劉備と、その宿敵の孫権が同盟するとは、前情報無しには予測し難い。
曹操があそこまでせめこんでいって劉備を追い込まなければ孫権と同盟なんかするもんか。
放置しておけば荊州自立派+劉備と孫権勢力は必ず仲違いするのだ。
>>656 だから、曹操が江陵から東へ下るより先に、孫権は柴桑から周瑜を派遣しているんだよ。
でなければ周瑜と劉備は赤壁まで届かない。
進発準備、夏口で劉gと合流して調整編成云々、と考えれば、
数週間とか一ヶ月前に孫権は曹操との開戦を決断している。
>>647 江夏は劉表・孫権の目と鼻の先
曹操側からすると少数で行く分にはともかく
大軍を送り込むには維持の困難さに難儀する
落としてもその後にさっくり取り返されそうな場所だと思うので
曹操領に組み込むためとは中々に考え難い
かといって孫権との連係プレーとか 孫権に便宜をはかる遠征であったとか は考えにくく。
ク ク || プ / ク ク || プ // ,へ ヘ
ス ク ス _ | | │ //. ス ク ス _ | | │ // /ハ \_/ 八
/ ス ─ | | ッ // / ス ─ | | ッ // /_______}
/ _____ // / // ..{_____曹●操_| 『三国志正史』で真実の歴史を知った、
. / l⌒l l⌒l \ )) ____ |ミ/ ー―◎-◎-) そんな俺の布教活動は間違ってはいない。
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ / ____ヽ (6 u (_ _) ) ただ捏造物語にすぎない『三国志演義』に感化された、
/ ̄/ ̄. ー'●ー'  ̄l ̄ | | /, −、, -、l )) ―-、ノ/| .∴ ノ 3 ノ 劉備・諸葛孔明を支持する愚民どもが余りにも多すぎるんだ。
| ̄l ̄ ̄ __ |.  ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 || | -⊂)/ _\_____ノ__
|. ̄| ̄ ̄ `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6. ー っ-´、} | |/ 曹 ≡ :::: (、 ヽ
ヽ ヽ 人_( ヾ ヽ `Y⌒l_ノ ヽ `\( 操 ≡ :::: |___|
>〓〓〓〓〓〓-イ /ヽ 人_( ヽ `− ´ ( .命 ≡ ::::. | |
/ / Θ ヽ| /  ̄ ̄ ̄ ヽ-イ
曹操患者
>>659 孫権との連携であることは類推によるものだけど
それ以前からも曹操と孫権は結構仲いいよ
孫策が死ぬと直前まで孫策の許昌襲撃に怯えてたくせに
即座に孫権の地位を上奏して後継を確固たるものにしてあげてるし
周瑜によってご破談になったけど203年頃には人質を寄越すように求めたりしてる
もうこの時点で曹操と孫権は結構しっかりとした上下関係のある同盟か臣従関係にあると言える
そんでもってそのちょっと後の江夏攻撃と考えると
これはもう連携プレー以外にはちょっと見えないな
>>659 孫権との連携であることは類推によるものだけど
それ以前からも曹操と孫権は結構仲いいよ
孫策が死ぬと直前まで孫策の許昌襲撃に怯えてたくせに
即座に孫権の地位を上奏して後継を確固たるものにしてあげてるし
周瑜によってご破談になったけど203年頃には人質を寄越すように求めたりしてる
もうこの時点で曹操と孫権は結構しっかりとした上下関係のある同盟か臣従関係にあると言える
そんでもってそのちょっと後の江夏攻撃と考えると
これはもう連携プレー以外にはちょっと見えないな
>>661 >即座に孫権の地位を上奏して後継を確固たるものにしてあげてる
袁譚を一瞬だけ厚遇したのとどう違うねん。
>>もうこの時点で曹操と孫権は結構しっかりとした上下関係のある同盟か臣従関係にあると言える
ならなんで赤壁で戦う必要があるわけ?
>>そんでもってそのちょっと後の江夏攻撃と考えると
これはもう連携プレー以外にはちょっと見えないな
なんですか?それ??
孫権にだじゃれでも言わせたいんですか?
>>663の答えが
>>664だな
曹操は後漢の権威を利用して遠方の孫権をとりあえず大人しくさせていた。ついでに邪魔な劉表と噛み合わせていた。
孫権は曹操が実際的な干渉をしてくる心配が無い限りにおいて、漢帝を奉じて自分の権威を強化していた。
荊州侵攻で互いの勢力が接触し、しかもその間に劉備が存在したことで、
両者の関係は名実共にの帰順か破綻かを選ばざるを得なくなった。
>>663 袁譚とも一時盟約関係にあったし、何度も共同戦線張ってる
でも袁譚が何度も約束を破って色々しでかしたもんだから
曹操が優位を確信した瞬間に同盟解除されて攻撃されたので
それまで全く裏切ってない孫権とはあまり比較にならないような
曹操は毎回のように投降とか臣従した人に裏切られてていい加減学習したらいいのに
部下「閣下、う、裏切りです!」
曹操「誰が裏切られたんだっ!? 袁紹か? 劉備か??」
部下「閣下!あ、あなたですよ!」
曹操「なぁんだ。なら良かったじゃないか。」
工作員達の正体(韓流AKBと政治ゲーム)
180 名前:115x125x150x194.ap115.ftth.ucom.ne.jp[] 投稿日:2011/04/29(金) 13:58:50.19 0
このスレ見てハロカスヲタはホント閉鎖的だなって思うわ
これだからハロカスって言わるんだよカス ハロ=HelloProject(モーニング娘などが所属)
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1303996886/180 756 名前:115x125x150x194.ap115.ftth.ucom.ne.jp[] 投稿日:2011/04/30(土) 04:27:05.86 0
このスレ見てハロカスヲタはホント閉鎖的だなって思うわ
これだからハロカスって言わるんだよカス
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1304043385/756 他多数書き込み
Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 115.125.150.192/29
f. [組織名] 有限会社 クリップ
AKB48 音響、缶バッヂ等製作 有限会社クリップ(代表=日本名を名乗る在日朝鮮人)
→なぜ在日朝鮮人が、わざわざ2chに出向いて必死になってHelloProjectを叩くか。単に商売敵だから?AKBが「ツリ目のエラ張りにしか」売れてないから?
ヒント:*韓国人のみに見られる風土病の存在
*HelloProject→日本人アイドル AKB→整形した○○人←韓流()
そして、"朝鮮人だらけの"マスコミが 捏造AKB ブーム. 捏造韓流 ブームを演出し、ごリ押す目的が見えますか?
検索していろいろなサイトを巡ってみて下さい
全ては諸葛亮の計略
671 :
世界@名無史さん:2011/12/10(土) 13:34:55.24 0
なんだかんだと言って諸葛亮は凄い戦略家だよな。
劉備と孫権を同盟させ、赤壁では兵力を温存、すかさず荊州
南部を占領させ、劉備に所領を持たせるまでにした。
それは諸葛亮の策じゃないじゃんw
諸葛亮は襄陽を乗っ取り交戦することを第一の策としたし
そもそも曹操が侵攻するまで無策という時点でダメダメ
同盟は魯粛の案に乗っかっただけだし
赤壁の実戦は周瑜だのみの他力本願(周瑜が負けたら本当に蒼ゴとかに逃げんの?
673 :
世界@名無史さん:2011/12/10(土) 15:42:32.80 0
元々劉備軍は主体的対策が取れる立場じゃないよ。
荊州の居候だったんだから。せいぜい新野にいる兵だけで、
曹操主力軍の侵攻に有効な対策なんて不可能。それを鮮やかに
自領を確保するまでにさせたのは凄い。他人を利用するのも作戦
なんだよ。
え?
劉備って樊城にいたんじゃないの?
206年くらいは新野にいるし208年の曹操の侵攻時は樊城だね
劉孫同盟の成立は魯粛と功績を分けるものであるけど、
劉備陣営では諸葛亮が一連の荊州争奪戦での最大功労者なのは間違いない。
赤壁の方は諸葛亮の功績も責任も無いが、
赤壁まで前進した周瑜軍は二万しかいなかった。
劉備軍公称二万のうちの何割かが存在しなければ
赤壁の会戦も、その後の曹仁攻略と荊州南部攻撃の並行戦も実現し得なかったわけで、
他力本願と言うのは大間違い。
677 :
世界@名無史さん:2011/12/11(日) 21:25:58.91 0
二万もいたんだ?
678 :
世界@名無史さん:2011/12/11(日) 21:30:54.71 0
瑜と瑾の関係ってなんですか?
両方とも美玉の意味。
左氏伝に「瑾瑜瑕を匿す」などという言葉がある。
>>677 どこまでいたかは不明だけど襄陽から逃げる時に軍に組み込んだ民衆がいるだろうから
見た目の数はかなり多いんでない?
周瑜二万、後詰が孫権一万で、孫権は赤壁の勝利後すぐに合肥に自軍を振り向けている。
周瑜はそのまま前進し、曹仁と対峙。その後一年近く「相守」してやっと江陵包囲にこぎつけた。
呉から増強を受けているにしても、それだけの長期間周瑜が曹仁に集中するには
荊南を抑えて陥落させている劉備に相当以上の兵力がなければ不可能。
でなければ挟撃されて負けてる。
周瑜は曹操よりも孫権を討った方がよかったんじゃ
683 :
世界@名無史さん:2011/12/12(月) 18:17:55.32 0
瑕?
ああそうか〜。この漢字は玉のキズをしめす字だったのか。
684 :
世界@名無史さん:2011/12/12(月) 18:24:08.56 0
レッドクリフを見て思ったことだけど。
やっぱ今の上海周辺の中国人にとっては周瑜、孫権が正統なんだよな。
そうなん?
まあ周瑜や孫策は人気あるだろうけど。
686 :
世界@名無史さん:2011/12/12(月) 18:36:38.50 0
さすがに劉備、孔明をけなすことはない。
演義の影響だね。
だが、周瑜が主人公だよな。レッドクリフ。
小喬がヒロイン。
687 :
世界@名無史さん:2011/12/12(月) 18:37:35.31 0
ペキンあたりの人間が映画をつくったなら違ったものになったとおもわれる。
なぜ孫権は周瑜を見捨てたの?
江陵の戦いに一年もかけたから負傷しちゃったじゃないか。
普通に増強はしてるだろ
全権委任って言うんだよ
あと、209〜210年ごろは曹操と淮南で袁術残党を挟んで国境争いも同時進行してる
>>689 全権委任というか、本当は孫権の手下じゃなかったんじゃ
孫権の手下でなければ、孫権の手下の兵を使えないよ。
>>690 というか孫権ってなんで淮南取られちゃったんだろうね
赤壁後に奪取出来なかっただけではなくて、
赤壁前にも揚州の中にあるんだから制圧しているべきところなのに
合肥で揚州刺史劉馥が睨みを聞かせていたので、曹操と開戦せずに淮南全土を取ろうとするのは無理。
割拠していた袁術残党を緩衝地帯的に利用していたって所だろう。
江水は勿論、孫権の独壇場だが、
淮水は水路で許都まで直結しており、無数の支流が豫州と徐州に張り巡らされて、
移動・物流の動脈となっている。
陸兵や物資をを緊急招集するのに水運を使うこともできるし、
ショウなどで教練した水軍をそのまま合肥まで乗り入れることもできた。
こんな場所を劣勢な陸軍と細い水路を昇る水軍で攻めて、
淮水の北まで押し込むのはなかなか難しい。
>>692 それすら本当に孫権の手下の兵だったかもわからんのだが
魯粛と程普は別格として。
呂蒙・甘寧・凌統・周泰・黄蓋・呂範らとその手勢が「本当に孫権の手下の兵だったかもわからん」
というのはなかなか画期的な説だな。
客将として共闘しただけでは
全員が? すごいね。
本当に全員参加したのか疑問だな
wwww
701 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 16:18:37.65 0
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
>>866 14時以降に何が起きたんだ
>>866 Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
これが規制されたからじゃねw
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ
702 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 17:07:09.04 0
>>692 でも益州の二代目みたいな例もあるし。
味方のつもりで劉備を呼んで、兵と食料をあげて張魯討伐を頼んだら、逆に自分が国を乗っ取られた。
軒を貸して母屋を盗られる、といふ
704 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 19:14:13.35 0
帰属のいまいちはっきりしない関係はあるもんな。
黄祖なんかは一応劉表の配下ということになっているけど半独立だったでしょ
705 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 19:18:09.50 0
周瑜は孫権にとっては 叔父貴 みたいなかんじでしょ。
そもそも「孫権の手下」って誰だっけ?
本当に直属の手下といえそうなのって、周泰ぐらいじゃね。
後は、孫策や孫堅が死んだので仕方なく孫権についた人たちだろ。
707 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 19:36:42.22 0
陸遜って水門事件をおこしてたよね。
谷利
>>704 反独立どころか結構便利使いされてるしきっちり配下だと思うけどな
黄祖って孫堅に襄陽が包囲されたときに城内にいて、
単身脱出して外で軍勢かき集めて戻ってきて解囲を試みたくらいの人間だからな。
劉表の股肱の可能性はあっても半独立と見る情報は無いだろう。
股肱という割には、孫呉の江夏攻めのときに劉表は何にもしてないようだが。
劉表伝の貧弱な情報量で何もしてないとなぜわかる
劉備が許都を脅かすくらいの攻勢を掛けても何も支援していないことになるぞ
>>712 劉表が張繍を救援したことはしっかり記録されてるぞ。
黄祖は見殺し。
赤壁で荊州水軍が盛大に燃やされたことと、
黄祖軍が自前で大量に水軍を持ってた可能性を考えると、
劉表は黄祖に援軍を送らず戦力を温存していた可能性大。
715 :
世界@名無史さん:2011/12/14(水) 10:05:06.47 0
何度落城しても戦死するまで継戦出来た、って時点で支援あったってことだと思うけどな
一郡の担税力、生産力で曲がりなりにも一州を持ってる孫権に対抗できないでしょ
>>717 前半は同意だけど、一郡しかないが後背を気にせずに戦える黄祖が
四郡あるが後方は必ずしも万全では無い孫権(まあ当時は比較的後方は安定してたとは思うが)を相手に防衛線を戦う場合
上手くいけば対抗出来る程度ではあったと思う
孫権と周瑜は、韓馥と袁紹みたいな関係だったんじゃないの
部下というよりは立場だけ上の盟友
張昭がいる限り、周瑜は孫権の臣だろうし、
周瑜がいる限り張昭は、後見とは言え、やはり臣。
この二人が孫権を見捨てない限り、程普や張紘、呂範、太史慈も
やはり孫権に従うだろう。従わざるを得ないだろう。
>>713 つまり、張繍は劉表の配下で、黄祖は半独立だったわけですね。
んな馬鹿な。
記録には濃淡がある。本紀扱いの曹操と、彼に帰順する張繍との戦いは濃度が高く、
孫策・孫権と黄祖との戦いは低い。それだけだよ。
>>719 袁紹と沮授の方が近いね。
袁紹・孫策は、自陣最上級の腹心・有力者である沮授・周瑜に諸軍団の監護を任せている。
単に客将という身分では、ここまで深く自軍にコミットさせることはできない。
同盟関係というニュアンスでの「盟友」ではなく、腹心というニュアンスの「盟友」なら近い。
その客将が、なぜか荊州をほしいいうてます。ついでに益州取りたいとも。
さて、孫権はどう思うでしょう?
「そ、そっかーコーキンはぼくのためにがんばってくれるんだねー」
なんてありえるでしょうか?
724 :
世界@名無史さん:2011/12/14(水) 20:56:11.86 0
在日の戦略にひっかかり、全ての間違いが始まった2009年 夏
|:::::::::::::;;;ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|::::::::::( 」 < 民主になればこの世はバラ色、政権交代!
ノノノ ヽ_l \______________
,,-┴―┴- 、 ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | 在 反 | '、/\ / /
/ `./| | 日 日 | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ |
| ┬ |それでも懲りない日本人、韓国民団総理支持率35%w早く目を醒まそう!
>>723 おっ死んだから後でいくらでも糊塗できるな
死ななかったらどうなったの?
荊益二週に跨る周氏王朝とか?w
727 :
世界@名無史さん:2011/12/15(木) 00:57:46.12 0
>>723 心配しなくても君の考えが数年後にはスタンダードになっているさ。
しかしおまえさんの考えがスタンダードになる日は来ない
そんな腹心の力をどうしても削ぎたかった袁紹
統治上仕方なく使わざるを得なかっただけだろ
「即表授為奮武將軍,使監護諸將」が仕方なくねえ。
沮授を腹心にしたのは袁紹の選択。
のちに力を殺いだのも袁紹の選択。
それがどうした? ってはなしだな。
>>718 「上手くいけば対抗できる」としても、
上手くいかずに痛撃を食らった事が何度かあったのが史実で、
その場合に江夏の戦力を復活できないでしょ、一郡の「半独立勢力」では。
って話じゃないか。
それから、黄祖の戦死後もそう。
なんの実績も取り立てて名声も無い劉gが太守に赴任して兵民を掌握できている。
つまり黄祖の後継者を江夏単独で選出できず、劉表の主導が罷り通っている。
これでは半分でも独立勢力とは言えない。
前半は同意してるのか。すまん。
黄祖って劉表から厄介者を押し付けられてるような
禰衡だの甘寧だの孫家だの
734 :
世界@名無史さん:2011/12/16(金) 17:19:09.69 0
黄祖パワーを期待されたんだろう。
南郡の豪族で黄氏っているよね。胡広の妻とか出してる。
胡広の継母じゃね? というか江陵黄氏はそれくらいしかわからないんじゃないか。
後漢荊州の黄氏と言えば、江夏の安陸黄氏だろう。
「天下無雙江夏黄童」と絶賛され、和帝に破格の二千石待遇を受けた尚書令香
順帝から桓帝の名臣、梁冀の伸張に歯止めを掛けた司空瓊
豫州牧として活躍し、朝廷では董卓に諫言し、のちに王允とともに董卓を討ち、ともに獄死した太尉エン
の父子三代。袁氏・楊氏の頭一つ下クラスの稀な名族だよ。
737 :
世界@名無史さん:2011/12/16(金) 23:26:21.56 0
正史に一番近い小説教えてください
よく言われるのは宮城谷?
俺読んだことないし、読んだ人には色々言いたいことがあるみたいだけど。
一番近いのは間違いなく演義だろ
史観が違うだけだ
史観こそが最も重要なのだが。
蒼天や北方に比べれば演義の方が近いのはわかるが、
より近い小説が未だに出てないのかね?
宮城谷は詳しいことは詳しいが正史には近くない。偏ってる
しかも小説なのに正史より読みにくいw
>>741 演義が「史観が違うだけ」なら、宮城谷も北方も「史観が違うだけ」だわな
>>741 北方は正史なぞったような文章は多いがオリキャラ満載で正史とは大分違う
列伝っぽいという意味では、宮城谷は一番正史に近くはあるな
宮城谷は「状況」は他のどの小説より詳しく書いてるし流れもあるが
人物を描くのが下手だと思う
ひたすらマンセーすりゃ魅力的になると思ってるふしがある
>>743 その違いの度合いの程度が大きいか小さいかじゃないの
一番近いのは単純に演義だと思う
言うほど近くは無いわなあ。
個人としての劉備が憂国の皇族だったという「史観」が完全にフィクションだから。
劉備を軽薄者とかヤクザ者にするのと「程度」としては変わらん。
宮城谷のは「羅列」を接着してる感に不自然がありすぎるんだよな
この違和感はなんだろうと読み返してみたら人と人がどうつながったのか
(たとえば関羽張飛はどういう風に劉備についたのかとか)
がスッポリ抜けてるから正史風の小説でもなく小説風の正史でもなく
残念な結果になってる気がするね
>>748 その史観をフィクションとすることは間違いだよ
正史三国志やその注釈ですら再三、劉備は憂国の皇族の血に連なる人間として描いてる
勿論、正史の方は演義ほどその憂国っぷりの純度は高くないし
しょっちゅうその姿勢を疑わせる発言やら行動はしてるがね
751 :
世界@名無史さん:2011/12/17(土) 23:45:00.05 0
宮城谷さんの三国志は読んでるしそれなりに面白いけれど、たしかに人間の描き方に魅力が無い。
人柄高潔、剛毅。
そんな人間はおらはなじめねぇだ。好きになれねぇだ。
おなじ人物でも 司馬遼太郎が描けば違ってみえるだろう。
宮城谷さんははたして自分の描く人物にどれだけ思い入れがあるのだろう?
司馬さんはまじで対象を好きになって、友達の感覚で人物像を描写している。
そう。
「あぁ、劉備はん。知ってますがな。変わったお人でしたなぁ。ええかっこしぃで。
でもそばにいると楽しい楽しいお人でしたなぁ。」 みたいな。
だから、読者もすごく作中の人物を身近に感じる、体温を感じる。そして好きになる。
宮城谷さんにはそういう力が無い。いや、人間への思い入れが無い。
それは文学板か中華英雄板あたりで語ってくれ
>正史三国志やその注釈ですら再三、劉備は憂国の皇族の血に連なる人間として描いてる
描いてない。
記録の限り、劉備が劉氏であることを初めて強調するのは、孫権の劉璋攻めに反対する建前のとき。
このときでさえ、漢氏の裔であることには触れられない。
劉備が漢の皇族であることを訴えたのは、漢中王即位の上奏や皇帝即位の宣言のような「公式発表」のみ。
劉備個人が漢王朝に対してどのような考えを持って転戦を続けたのか。
自分をどのような場所に位置づけていたのか。それには触れずに済ませた。
これが陳寿の史観。
他人の言葉としては、孫権を説き伏せる諸葛亮が「劉豫州王室之冑」と言っている。
政治的影響力に限るが、劉備が漢室の裔であることにようやく意味が見出されてきたのがこの時期なんだろうな。
劉備くらいの血筋なんでごまんと居たわけで、劉備自身に箔が備わって初めて価値あるものになってきたと。
こんな境遇だから、漢の衰退の時代に生まれた劉備個人が
自分の血筋をそんなに誇らしいものと看做して育ったかというと、大いに疑わしい。
>>753 曹操などの公式発表は省略しまくって劉備のその宣言を採録してる時点で陳寿の史観は伺える
曹操が魏王になった時、宣言が正史に採録されたかい?
曹操「夏五月、天子進公爵為魏王」だけ
散々、劉備と曹操は同じく英雄だって正史本文に書いておいてこの落差
ただでさえ記述のスッカスカな蜀書においてこれは非常に目立つ
孫権に至っては曹丕から任命する文章をデカデカと載せて
漢の呉王じゃないことを強調して逆に晒し上げという素晴らしい煽りっぷり
また、劉備は陳登や孔融に漢室の衰微や袁術は憂国の輩ではなくもっと別のダメ人間
と説得されて徐州刺使を承諾してる
このことから劉備に対する言葉として「憂国の人であるかどうか」
ということが意味のある説得であった記述を陳寿はしている
細かいようなところで曹操と同等の英雄として強調したり
陳寿の史観は相当に劉備スキーで正統性を微妙な表現で一生懸命織り込んでる
ちょっと隠れ過ぎて江戸っ子の粋な羽織みたくわかり難くなってはいるがね
おーいおいおい。
おまえさんは何を言っているんだ?
蜀漢王朝が、漢王朝の後継を主張して立てられ、
当然劉備もそれに則って宣伝と儀式を行った。
陳寿もそれを大いに宣揚する意識で三国志を書いた。
そんなことはここなら誰でも知ってる常識だろう。
今の話題はそれと全く異なるぞ?
「劉備個人が漢王朝の末裔という意識をもって決起し、王朝を輔弼するために戦い続けた」という演義の「史観」が
「三国志」のどこから伺われるのか? だぞ?
これが、
「劉備が漢王朝の末裔、蜀漢が後漢の後継だという史観は、演義のフィクション。陳寿はそんなことは描いてない」
などという主張だったら袋叩きだが。
俺はそんな話はしていない。
>>755 さっきから何いってんの?
ぼくはちんじゅがかいたせいしからりゅうびがせいとうだとかくされてるめっせーじをよみとれます
だからりゅうびまんせーなえんぎはせいしにもっともちかいです
↑そんないまさらどうでもいいからw
皆がここでいってんのは正史で記述されている事象に近いの小説はなにかであって
作者のスタンスが近いのは何かではないの
あんたのレスからは自分はお前と違ってわかってるというキモさが滲みでている
>>756-758 陳寿は劉備が公式にそういう発表をしたということで蜀の正当性を強く打ち出した
つまり陳寿はそういう正当性を持って劉備が動いていたという史観で三国志を書いてるわけだ
さらにその動きを補数するべくどうやって調べたのかわからない会話によって
強引に「憂国でない袁術には徐州は任せない」→「憂国の士なら任せる」という形で
劉備の若い頃からそうであったという事を織り込んでる
正史から既に蜀正統理論に加えて劉備がその正統を守りたいとして動いてる人と描いてる
760 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 01:02:46.29 0
ならやっぱ宮城谷じゃねーの?
ところで
>>752だけどさ。
さんざん、「宮城谷の三国志は人物が描けていない。」とか
>>746で話題をふっておいて。
>>751みたいにそれを受けたレスにたいして「板違い」とけなすのはあまりに人が悪くはないか?
>>759 極めて貧弱。
牽強付会というのも恥ずかしいほどの個人的願望に過ぎない。
762 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 01:06:10.67 0
反三国志にくらべたら演義は正史に近いさ。
以前に通して読んだ程度だが正史の劉備が結構ギラギラと上昇志向なのに対して
宮城谷劉備はかなり浮世離れしてる印象を受けたがな
>>759 史家が記述対象の行動論理に「史観」というバイアスをかけるときに、
そんな貧弱で迂遠な程度で済ませるかよという。
蜀漢への明白な記述上の優遇と同じように、劉備に対しても大いに忠臣と強調するだろう。
だが三国志の劉備というのは、
曹操誅殺の勅命を受けても董承が失敗しても献帝が廃立されても、
漢室に対する個人的な感慨を述べない人間なんだぜ。
そんな感傷的な逸話が蜀漢に流通していなかったのだろうか。
もし流通していなかったので陳寿が採録できなかったのなら、
蜀漢全体が劉備個人を「(演義的な)憂国の士」だと看做していなかったという皮肉な想像が成り立つが。
>>764 晋は魏から、魏は漢から「正統な禅譲」によって国を継いでいるわけだから
献帝の廃位と禅譲について正史内で劉備のセリフとして否定的なことを言わせると
本格的に命がヤバいんじゃないか?陳寿の
後漢書の獻穆曹皇后のところには漢魏革命について
兄に反対して泣きながら抵抗する曹節とか採録されてるんだけども
三国志だと細かいところまで精読して覚えてるわけじゃないが
禅譲に反対した有名人をあんま思いつかないな
768 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 01:52:50.50 0
符宝郎祖弼がいるじゃないか。
裴松之注も含めて、魏志は漢の忠臣を書く場所ではないからってのがある。
それは漢史の領分。
逆に、司馬晋に対抗した魏の忠臣を、裴松之は多く拾っている。これは晋史ではなく魏史の領分だから。
晋代に生きた陳寿には無理な話だったけど。
ちょっと質問すみません。
三国志には褒賞として綿千匹を賜るとか、呂布が娘を綿に包んで〜とかあるけれど
この「綿」ってのは何を意味するんですかね?高価な布ですか?
771 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 08:13:27.96 0
錦だろ。。
772 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 12:40:08.17 0
7月の段階で民主党が2兆円の復興予算を組んだとき
自民党が要請した復興予算は累計17兆円
自民党の17兆が7月時点でに決定されていたのなら
今の日本はもう少し違って居た筈だ
ちなみに関東大震災のときは復興予算として現在の価値にして150兆円以上を組んでいた。
この事実を知れば、予算の規模の小ささ、ましてや増税なんて奇知涯にも程があると思わざる負えない。
>>760 チャットじゃあるまいし746と760が同一人物だと思い込むのはやめといた方がいいと思うけど
混乱の元だよ
>>771 ありがとうございます。
錦じゃなく綿と表記されてるけど、錦の意で書いてあるということですね
>>774 呂布が娘を包んだのは「綿」だが、
褒章で与えられるのは「錦」だぞ。
ただの読み間違い
776 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 19:37:52.17 0
>>呂布が娘を包んだのは「綿」だが、
いや。
錦であってもおかしくないし。
アホか。
解釈の皮を被った妄想をするのは
せめて呂布伝と張飛伝などを比べてからにしろ
778 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 19:50:07.51 0
はあ? 何勝手に詐称してんの?
負けないためにはなんでも曲げる、ちくま版も読んでないいつものage子ちゃん?
780 :
779:2011/12/18(日) 20:08:52.25 0
いや。オレ言い過ぎてるわ。
たしかに錦でくるんでたと言う解釈もありえるし間違いじゃないんだよな。
>>776さんの言うことは決して間違ってないな。
言いがかりをつけたことをお詫びします。
781 :
世界@名無史さん:2011/12/18(日) 20:10:01.16 0
いいえ。わかればいいことですよ。
>>774 「綿」はメン、つまり新品の木綿だってば
綿布は絹程ではないが新品は十分に高級
新品の布自体が高級な時代だから新品の「綿」に対応して中古品を表す「絮」という言葉がある
三国志中でもちょいちょい絮で出来た衣類は話題になってるな
呂布が娘を綿で包むのは「連綿」「綿々」なんて言葉もあるように
恐らくは「長く続く間柄にしよう」という事なんだろうね
もしかすると自分の名前と掛けた駄洒落かもしれない
綿布から出てくるのが布の子である、ってな
ま、色々想像し甲斐のあるシチュエーションだね
柳絮って中古の綿みたいなのか。。
錦と言うのは金糸銀糸を縫い込むから金偏なのだ。
錦。
にしきという和名は、古代日本において普通の着物は無地、または単色の染めであったことをさししめしている。
>>775-782 とても良く分かりました
返答ありがとうございます。
呂布伝には「以綿纏女身」と記述があるけど、そう言えば「(情緒)纏綿」っていう
愛情が深く離れ難いという意味の(四字)熟語もあったような
徐州にいるよりは袁術の元にいた方が娘も安全かな。
人質という体ではあるけど
ドラマ版演義だと呂布がその綿を陳宮に試着させてたなw
呂布の娘ってかわいこちゃんだったのか?
>>791 知らん。
ただ、呂布自身はかなりイケメンだったらしい。そもそも呂布が
出た匈奴はフィン=ウゴル系コーカソイドで、不細工な中原の
モンゴロイドとは違った。
んなことはわからん
匈奴とか断言しちゃう男の子って・・・
并州では匈奴が主簿になれるのか。
モンゴル人の美的感覚では、山田花子が美女らしいからな
797 :
世界@名無史さん:2011/12/20(火) 00:50:30.36 0
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
>>866 14時以降に何が起きたんだ
>>866 Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
これが規制されたからじゃねw
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ
当時の漢人が混じりっ血のない生粋の匈奴を見たら、一目でそれとわかった思う
羌族と匈奴は区別ついたのかな。
羌はチベット系(との説が濃い)から全然違うだろう。
鮮卑だったらわからなくもない
当時の北方の覇者は鮮卑だし、鮮卑の外見は漢人に類似してたみたいだしね
ホセ ロフというイスパニア系中国人だろ。
自己愛性人格障害者の関羽が孤軍で荊州護る羽目になったのは鳳統が死んだからだよな?孔明が益州攻略に借り出されたから関羽に任せる羽目に。
仮に鳳統が生きていれば益州・漢中・荊州を統治して荊州ルートの陸・水路で中原に進攻も撤退も出来たし孫呉も牽制出来た。
やはり攻撃型の軍師である鳳統を失った時に関羽勝手に北上→留守の荊州陥落→逆切れ劉備夷陵で大敗→国力減衰 みたいな流れは決まってたな
更に続けると脳科学の観点から見て蜀陣営に前頭葉機能不全者の多い事多い事w関羽→自己愛性人格障害者
姜偉→自己愛性人格障害者
孔明→境界性人格障害者
張飛→反社会性人格障害者
15年くらい前に流行った説だな
>>803 諸葛亮の出発はホウ統死亡前、無関係
ホウ統自体の特性は攻撃型かどうかも不明
何もしない内に死んだから
ホウ統の死はぶっちゃけ大勢に影響ない
>>806 あらw勉強して出直して来ますw蒼天航路とkoeiのゲームとドラマ三国志Three Kingsしか知らないオレの来る場所じゃ無かったみたいですw
ホウ統はラク城の攻城中に死んだのであって、
諸葛亮の進発前かどうかは判らんわな。
勿論、劉備の幕僚長であるホウ統の死と、
蜀攻略の一軍の将帥として呼ばれた諸葛亮の進発は「関係ない」が。
それにしても諡を貰い史書に伝を立てられた人間が「なにもしていない」とは笑える。
諸葛亮らが東から侵入してくるまで劉備軍が「なにもしていない」とでも思っているのだろうか。
まあホウ統が生きていたとして何かが変わったかと言うと、
正史ではホウ統の能力が測りかねるからはっきりとはいえないが、特に変わらなかっただろうな
ホウ統の死と諸葛亮の東進とは関連性が薄いわけだし
もし歴史の変更点を探すとすれば入蜀戦の時にホウ統の提示した上策を選んでいたらどうなったかぐらいか
ホウ統生きてれば少なくとも孔明は内政や全体の管理に専念出来たでしょ?まず絶対に失えない荊州に孔明かホウ統のどちらかは居たはず。
荊州から北伐は滅茶苦茶楽だったはずだし。やっぱり攻めのホウ統だからこそ入蜀戦で随行させたんでしょ?ホウ統の死は痛いよどう見ても
>>808 ラク城の包囲そのものが諸葛亮の出発後かのように先主伝にはあるね
劉備に気に入られるだけの何かがあった、ということならわかるが
ホウ統がしたことは何もないと言って差し障りないレベル
参謀として劉備の幕僚やってました、までした事に含めるならそれはそれでいいし
何もしてないってことを訂正しろって言われたら訂正したっていいが
それでホウ統という人物の判断できる程の情報量はない
死ぬ前に黄権を推挙してるじゃない?司馬徽門下の孔明の凄まじい能力を見てもそれに互す能力があったから孔明と同じ軍師なんたらの位授けたんでしょ。
>>810 まず根本の問題として諸葛亮は攻めに向いていないような書き方だが
正史では諸葛亮は軍事的才能に優れているのでホウ統がいたとしても北伐での軍事面では変化無し。
ホウ統に一部隊の将軍としての能力を期待しているのなら、ホウ統が将軍としての能力を示した場面は無いので不適。
また、諸葛亮が内政に専念したとしてどれほどの違いが蜀にもたらされたのか果てしなく疑問。
北伐中でも蜀の内政は滞りなく行われていたようだし、成都には蒋エンらがちゃんといる。
荊州での戦いでも変化があった可能性は低い。
荊州失陥の原因はどう考えても呉の裏切りであり、裏切りが起きた時点で蜀が軍事的に対処する方法は皆無。
これは外交で蹴りをつけなければいけない問題だったので、ホウ統の出る幕は無し。
そもそも劉備生存中の諸葛亮は入蜀時を除けばほとんど内政に専念している。
>>811 ×参謀
○幕僚長
な。
まあ、郭嘉が何もしてないし、曹操が後事を託しても役に立ったか判らないというのと同じくらいには
何もしてないと言えるだろうな。
>荊州失陥の原因はどう考えても呉の裏切りであり、裏切りが起きた時点で蜀が軍事的に対処する方法は皆無。
それは大嘘。
関羽は当初、呂蒙の攻撃を警戒していた。
呉の「裏切り(これも嘘だが)」を予測しえる状況ながらもこれに引っ掛かったのは、
呂蒙と陸遜の計略によって江陵の守備を削ったから。
呉への警戒シフトを継続する、という選択肢を取るだけで、
外交的にも軍事的にも人事的にも、荊州方面は格段に安定する。
だからこれを予見し、関羽を説得できる人材が荊州にいるだけでいい。
別にそれがホウ統であるべきとは言わないが。
丞相諸葛亮時代の蒋エンらでは、残念ながら「ちゃんといる」とは言えない。
格と年齢的に、李厳や魏延を抑えられないから。
ホウ統・法正・黄権といった、政事や軍略に通じ、魏延くらいなら抑えられる人間が
成都や江州に存在するだけで、諸葛亮の負担は格段に軽減され、
蜀の国家的な効率は上昇する。
いや諸葛亮は魏延も李厳もしっかり御していでしょ。
>>815 まあ明確な同盟が有った訳でもないのに裏切りっていうのはおかしいか。
だとしても警戒を維持するだけで荊州を守れると考えているのならおめでたいな。
関羽の北上は劉封らとの連動だからホウ統がいたところで変わらないし、呉は隙あらば攻め込んでくることも変わらない。
警戒が強ければ攻め込んで来ないとも思えない。
4年前には関羽が江陵に万全の状態でいたのに攻め込んできた。
それに江陵の守備兵が多ければ江陵を守っていた糜芳が寝返らないのか?
守備兵が多いければ糜芳が精神的に安定して寝返らないっていうんならそれでもいいんだけど
糜芳の寝返りの理由は通常、関羽との関係悪化だとされてるしなあ
それともホウ統がいれば関羽と糜芳の関係が悪化しないとか?それは希望的に過ぎる
>>817 諸葛亮「しか」禦せる人間がいなかったんだよ。
だから内政も征旅も一人で総括していた。
>>816のうち一人でも健在ならそれだけで諸葛亮の負担が変わる。
>>818 >おめでたいな
後羽討樊,留兵將備公安、南郡。。蒙上疏曰:「羽討樊而多留備兵,〜」
(中略)羽果信之,稍撤兵以赴樊。
これが「史実」の荊州の動きなんだが……。
呂蒙が自分の見立と上疏を無視して、防備厚い南郡にも突っ込む鉄砲玉だと?
215年の攻撃が成功したのは、江水を盾にして関羽主力を足止めしつつ、
防備の薄い江南を急襲したから。
長年の防備備蓄がある荊州の拠点、江陵・公安を正面攻撃するのとはわけが違う。
少なくとも呂蒙がそう判断している。
>>814 幕僚長でもないと思うがな
諸葛亮も軍師中郎将だから、幕僚長が二人いることになるぞ
軍師の付かない中郎将も同時期に確認できるだけで霍峻がいるから
中郎将はもうちょい数居そうだしな
それから郭嘉と一緒にしたらダメだよ
活躍期間に数倍の違いがある
郭嘉は10年くらい働いてるがホウ統は実働1年そこそこだ
入蜀以前は周瑜の死体運んだことくらいしか仕事らしい仕事が見えないし
その仕事もホウ統が周瑜と縁があったことはわかるが能力とか人格とかは全くわからん
ホウ統は劉備中軍を総監する軍師。
諸葛亮は荊州のうち三郡を総監する軍師。
一年そこそこってのは入蜀からの期間だし、
たったそれだけの期間で複数の功績を挙げ、
諸軍の指揮まで取ってるというのはたいしたものだね?
わ、わ。。このスレ熱い。白熱した論戦で携帯からじゃアンカー振る暇ないなwじゃあホウ統有能論は引っ込めます、
引っ込めますけど荊州陥落は関羽が命令にない樊城(字あってます?w)を攻めたのが原因ですよね?関羽が北に主力送らなければ呂蒙が
商人に化けて内部から公安・江陵を陥落させるきっかけすら無かったはずですよ?オレが言いたいのは、ホウ統か孔明のどちらかが関羽の
傍らに居れば関羽の勝手な命令に無い樊城攻撃は無かっただろうって事です。荊州から北伐を敢行してれば兵站輸送は比べ物にならない程楽だったはず。
軍師ってのは幕府の統括監軍職だからね。
近代的な意味での参謀本部の長や構成員と言うのが近い。
俗なイメージの扇仰いで助言するだけの「参謀」とは全然違うよ。
>>822 それ以前の劉備への任官期間は功績どころか役人としたら無能の烙印すら押されてる
魯粛の紹介状と諸葛亮の引っ張り上げによってようやっと入蜀時の地位まで引き上げられるわけ
コネ入社もいいところだな
あと諸軍の指揮はしとらん
部隊を率いて城攻めしたことはあるが、それでそのまま戦死
>>824 いや誰も最初からそんな物語のイメージで語ってないぞ
参謀として実務経験あるとは言ってるが、諸葛亮と魯粛の捻じ込みだから
能力や性格の判断が可能ってわけでもないぞ
>>823 劉封孟達の動きに合わせて漢水流域を押さえようというのが関羽北上のきっかけだったと思われてなかったっけ
そんで偶然にも于禁に大勝してしまったから調子に乗って包囲続けてたら援軍大量に送られて敗走→呉の攻撃受けて死亡の流れだと勝手に考えてたんだけど
ホウ統は諸葛亮と魯粛のねじ込みのお陰で劉備に過大評価されて「善譚,大器之」とされ、
軍師中郎将にまで登って入蜀劉備軍の監理を任せられ、
戦略を左右する進言を複数採用されたすえに「統率衆攻城」したお飾りだったというわけか。
なるほど。永遠に意見が合うことはなさそうだな。
>>826 どっちが先かはわからん。
劉封・孟達が動いたのは関羽が于禁に大勝する前ではあろうけど。
というか、漢水制圧作戦なのだから、三者の行動は同期していると見るのが自然だろう。
>>828 いや、それおかしいですよ。関羽の性格を全く考慮に入れて無い。
>>827 お飾りじゃなくて判断材料がないってこと
評価されましたというけどその評価の中身が我々には不明
>>829 いや、それおかしいですよ。関羽の性格なんて考慮に入れる程確固たる判断材料無い。
>>831 んな馬鹿なw正史(三國志)を記した陳寿ははっきりと関羽の増長した性格が原因で命を落としたと記してます。
関羽は孟達と劉封に呼応したと言うより、劉備が漢中入りした段階で一気に北上する気満々だったはず。呉は留守を狙ったのみだし、
ホウ統か孔明が居れば絶対にさせなかったはず。
>>828 孟達・劉封、それから関羽ってのがほぼ確定してると言っていい
孟達、劉封の派遣が漢中戦直後の夏、関羽の北上が魏に察知されるのが
漢中戦から数ヶ月後の漢中王即位後の秋
>>829 おかしいと言われても知らんがな。
関羽が襄樊を攻撃し始めたのは、関羽の性格ではなくて劉備の命令だろ。
>>832 増長する事と北上する事はイコールじゃない
短絡しすぎ
以下ドラマ三国志 Three Kingsより※フィクションだけど孔明の心情の現れた場面
「北伐が頓挫する旅に荊州に想いを馳せてしまう…荊州さえ我が手にあれば進むに長安まで船と陸路で三日…荊州が無いが為に我が
北伐軍は八百里の深仙を行く…荊州が在ればどれ程良かった事か…」
関羽が勝手な事をしなければ歴史は変わっていた可能性があるのですよ。
>>835 違う
武帝紀でも曹仁が関羽に囲まれてるのが秋7月
于禁が水没するのが秋8月
関羽の北上は漢中王即位後ってのが記述の順番が先主伝、関羽伝両方で共通しててほぼ確定してる
先主伝によると即位は秋なので7月入ってすぐに即位して、関羽に速達で色々授け即出発したってこと
批判する前に確認してくれ
>830
雅好人流,經學思謀,
たとえば王渾は「思謀深重」と評され、
何曾は司馬懿が遼東討伐にでる際に上表して、司馬懿に副左をつけて
「臨敵交刃,又參御右,蓋以盡思謀之功,」を挙げさせるように願っている。
まあ将軍の監督・助言者のことだね。
ホウ統はそういうことに優れていた人物。
関羽の樊攻撃を受け、曹操が長安から于禁を差し向けたのが秋七月だから、
関羽の北上も夏頃だろう。
曹操の漢中放棄が夏五月だから、孟逹と関羽の北上は六月頃じゃないかな。
>>838 その先主伝と関羽伝の記述の仕方に拠って、「順序はわからない」と言ってるのだが。
>拔魏延為都督,鎮漢中。"時"關羽攻曹公將曹仁,禽于禁於樊。
>二十四年,先主為漢中王,拜羽為前將軍,假節鉞。"是歳",羽率衆攻曹仁於樊。
"時""是歳"。いずれも、記述の整理のために順不同になっているか、時期がよくわからないものの説明を
最後に回したか、複数が同時進行していたかの場合に使われる前置き。
たとえば武帝紀の二度の徐州攻撃のあとに書かれる曹嵩の死とか、"是歳,孫策受袁術使渡江"とか。
全て、史書の記述の順番どおりに起きた出来事ではない。
>>839 陳寿がそういう評価をしただけ
それがどこまで実を伴ってるかは全く判断できないな
劉邦みたい、って言ったら劉邦になれるかい?
軍事に優れてましたって評価されてて、実際に何十勝としてるような人物ならまだわかる
ホウ統に関してはそういう材料が乏しくてよくわからないだろ
>>842 少なくとも、劉備と蜀漢王朝はそのように評価し、入蜀での功績多大と看做したから、
季漢輔臣贊に組まれ、諡が追贈されたわけだね。
>>838 横レス失礼。
武帝紀に七月に関羽が曹仁を囲んだなんて書いてない。
武帝紀は七月に曹操が曹仁救援の為に于禁を遣わしたと述べてるから、
関羽と曹仁の開戦は七月以前。
それと劉備の漢中王即位は秋八月(後漢紀)。于禁派遣の後。
従って、関羽の北上は漢中王即位より前。
>>842 ええ!?陳寿三國志は人物評が公正だって評価の高い書物で此処は正史スレでしょ?確かにオレは他の皆さんみたいに漢文スラスラ解読出来ないし
頭ん中にある資料もまだ少ないけど歴史を見る時はその人物が置かれた状況と心理を見なければデータだけ追ってると何かおかしな歴史に
なってしまうよ?貴方はデータも間違えてそうだけどね。
>>841 「時關羽攻曹公將曹仁,禽于禁於樊」は
曹仁を攻めてる時に、于禁とっ捕まえましたって文章なんだが…
挙げられた「データ」だけ見ちゃうと、魏将は蜀将の五倍くらい有能でなくちゃいけないもんな。
なのにしばしば負けているという「おかしな歴史」になる。
>>846 「時に関羽は曹公の将曹仁を攻め、于禁を樊においてとらえた」だよ。
時系列は関羽が曹仁を攻撃→樊で于禁を捕らえる。
>>846 それじゃ語順が英文だろうが。whenじゃねーんだから。
ほらほら!
>>844さんが関羽の独断を証明してくれた!要は関羽は戦争マニアで目立ちたがり屋で劉備の漢中王宣言より
先に呉を舐めて北上しちゃう様な困ったちゃんだったんだってば。荊州さえ陥なければ荊州ルートと漢中ルートから
ダブル北伐出来た可能性大。蜀の敗因はホウ統の死と関羽の勝手な北上だよ。
>>850 曹操の大軍が漢中に張り付いてるんだから、当然牽制のために荊州軍が動くだろ。
この時代の常套手段。
関羽の性格が災いしたのは、その後。
于禁水没の大勝に酔って、戦闘を拡大、長期化させ、後方をおろそかにした事。
面白いなぁ、ちょっと知識積んで出直して来ます。お邪魔しました。
>>850 844だけど、関羽が独断で曹仁を攻めたなんて書いてないからね。
838の示した根拠が誤ってるから指摘しただけ。
夏五月に漢中を落とし、六月頃に孟逹と関羽に北上を命じたんだと思うよ。
>>844 七月には既に曹仁が囲まれてる状態だってのは確かに書いてない
曹仁伝によると関羽がやってくると一戦の記述もなく即座に包囲食らってるので
実質的には一緒ということで
>>848-849 「時」は英語で言うwhenと同じ働きしてることもあるぞ
割と大雑把な時間を指す言葉だってのは確かにそうなんだが
この「時」をwhenのように解釈するなら、
>>(漢中王即位や魏延の人事があり)、時に關羽は曹公の將曹仁を攻め〜
とき‐に【時に】 [副]
1 場合によっては。時々。たまに。「―病気になることがある」
2 まさしくその時。時あたかも。「―戦後の混乱期のさなかであった
の2だろう。つまり、漢中の諸々の出来事と並行して関羽が動いていたということ。
もちろん、大雑把な史書の記述なので、夏秋頃の話、という程度しか限定はできないだろうが。
856 :
844:2011/12/23(金) 04:26:50.75 0
>>854 関羽が曹仁を樊城に包囲したのは洪水の後だよ。
曹仁伝の時系列は
関羽が樊侵攻→漢水氾濫(八月)→于禁水没&降伏→曹仁、数千人と共に樊籠城。
また龐徳伝では樊で関羽軍と合戦して関羽に矢傷を負わせた後、
10日以上の長雨&洪水となっている。
曹仁と関羽は洪水以前は野戦でやりあってる。
>>855 漢中戦と平行してる劉封、孟達は即位前にまとまってるけどな
関羽が即位してさらに魏延の任命の後に話題挿入ってのも変だろ
同時なら劉封・孟達と一緒に書かれなければおかしいよ
>>856 曹仁はやりあってない
ホウ徳はそもそも信用されておらず城外に放置されてるので
必然的に城を包囲する関羽と激突するな
見落としてたのだが、今ホウ徳伝見返してたらホウ柔が出てくるな
ホウ柔が漢中で劉備に仕えてるから疑惑をもたれてる
関羽が曹仁のところに辿り着いた時点で、やはり漢中が劉備の手に落ちてたということになる
即位前か後かは不明だから時系列の決定的な決め手ではないが大分絞れるな
>漢中戦と平行してる劉封、孟達は
>関羽が即位して
ちょっとよくわからない。言いたいことを整理してくれ。
漢中戦と並行して劉封が動けるわけがないだろう。
関羽即位って何?
>>859 すまん
色々付けたり削ったりしてる内に文章狂ってた
関羽の話題が劉備の即位の後でさらに魏延の任命話の後に挿入されてるのに対して
孟達・劉封はその即位の前に挿入されてる
もし両者が平行してたら、同じところにまとめるもんじゃないかい?
つまり劉備の即位に前後して、それぞれの行動は平行してないんではないかと言いたい
>>858 それは大雑把過ぎるだろう。
漢中が落ちていたとは限らない。
>>860 劉封・孟達の動きは漢中王即位前で確定しているが、
関羽の記述は敗死までひとくくり。
漢中の一連の動きと、荊州の一連の動きが「時」で結ばれている。
結局、この記述の順序では事件の順序はわからない。
>>861 「悳兄在漢中」で疑われるということは漢中が曹操のものでなくなった時だけだろ
曹操軍が漢中から撤退するまで、「在漢中」だけならむしろ、お兄さん従軍大変ですね、という可能性もある
つまり既に漢中から曹操軍に関わる人がいなくなった後でないとこの文章は通じない
863 :
844:2011/12/23(金) 05:01:23.13 0
>>358 どうして曹仁伝の于禁降伏後に籠城という流れを無視して、
関羽が樊をいきなり包囲したことになるのさ。
それと龐徳はまず関羽と合戦した後、曹仁の命で樊の北十里に駐屯してる。
樊の北にいる龐徳が何故、南から来る関羽と必然的にぶつかるんだい。
それと劉備即位が八月で、関羽の樊侵攻が七月以前なのだから、
関羽の北上は劉備即位より前で確定でしょう。
>>861 先主伝の24年秋から25年冬まで劉備本人の記録すら抜けてるから
ひとくくりだからと言って時系列不明ってわけでもないと思うのだが
龐柔の話も踏まえれば、関羽の北上開始は劉備が漢中を落とした五月から、
于禁が派遣される七月までの間に絞れるな。
華陽国志だと関羽は樊の包囲中に費詩から前将軍の印綬を授かっている。
>>863 南から来るとしても城を包囲するんだから北にいる遊撃隊ともぶつかるだろう
むしろ南から来る軍に北にいた軍が当たるってことはそれ以外の部分はもうダメだってことでは?
そして樊にまで関羽が手を伸ばすってことは対岸の襄陽も囲まれているね
過去に東から進軍して江陵を囲んだ時も関羽は北側の道を遮断してるし
包囲ってのはそんなもん
>>866 確認して来た
確かに包囲中に印綬を貰ってるな
ホウ徳の兄は漢中にいて蜀に所属してるのでホウ徳が城の外に出るのが5月以降
于禁が援軍に出るのが7月
洪水が8月
劉備即位は秋7月庚子で多分中旬(後漢書)
関羽が印綬を貰うのは包囲後
攻撃開始は5月以降、7月終わるまでのどこか
船便による大量輸送が使えるなら即位以降に進軍開始でも7月に曹仁を攻撃して
その連絡が曹操に行って于禁が出発するのが7月31日ということが可能かもしれない
とりあえず干支の計算全くわからんので誰か計算してくれるとありがたい
869 :
世界@名無史さん:2011/12/23(金) 07:39:34.63 0
えーと
>>868 建安24年の7月に庚子の日は無く、8月の21日にある。
8月に即位したとする後漢紀が正しく、後漢書は七と八を取り間違えたのだろう(転写ミスかも)
という事で劉備の漢中王即位は秋8月21日。
やはり関羽の北上、于禁の出陣は劉備即位より前となる。
別に即位で区切らずともいいんじゃ?
劉備が関羽に命令してたのは何も変わらない。
名無しでいいよ:2011/08/15(月) 23:20:15.53 ID:2fed4jwtO
FNS歌謡祭やHEY!×3の制作会社
株式会社CELL
東京都千代田区麹町2―2―4麹町YTビル
前バリ・REN4・野田らに政治献金した後藤組のフロント企業
メディアトゥエンテイワン
東京都千代田区麹町2―2―4麹町YTビル
>>870 現代からの逆算だと後漢書の曹操の死んだ建安25年正月庚子も存在してないようだ
暦法はしょっちゅう改訂を重ねてて、現代から単純に逆算しても多少ズレが出ると思うので
当時はもしかしたら7月庚子があった、という前提に立って考えるのも悪くないかも
資治通鑑でも7月説を採用してる
8月はもしかすると劉備からの手紙が曹操やその手元にいる献帝に届いた日という推測
>>862 普通なら「属劉備」と言うのに、わざわざ「在漢中」と言ったということは、
「漢中」という二字が魏将らにとって注目に値する時だったってことになる。
漢中攻防戦のさなか、ホウ柔がこれに参加していることを魏将たちは問題にしていた。
少なくとも史書はそう書いた。
漢中が落ちたあとなら、漢中の守将でもない敵の敵の官吏がどこにいるかなんて問題じゃないし、
把握もできなくなるので「在漢中」とは言えなくなる。
>>875 大雨が降った後、ホウ徳を説得する関羽の言葉が「卿兄在漢中」で
やはりこの言葉が出る文脈は漢中が既に劉備の手に落ちた状況を意図して書かれてるだろう
関羽の言葉としては、漢中陥落後と言えるね。
関羽は陥落後の漢中の人員構成を知っているのだから。
だが、魏将側の言葉としては、は陥落後とは言えない。
ただ、この本伝の筆者が蜀側の情報を持っている陳寿だってことに注意。
関羽関係の情報に引きずられて、ホウ悳伝でも「在漢中」と
同じ語で書いてしまった可能性があるので、
一言一句に拘って厳密な時期を割り出そうとするのは危険。
>>874 本筋と関係無いけど建安25年の1月に庚子の日はあるよ。23日にあたる。
悪くないかもって言われても、はあそうですかとしか言えないよ。
暦法上は建安24年7月に庚子の日は無く、8月にはある。
これを覆していや7月庚子はあったと言えるだけの根拠を示して欲しいです。
あと司馬光は七月としか記さず、庚子の部分を削っている。
これは七月庚子という日が無い事から、干支の部分を誤記とみただけ。
八を七と書き間違えた可能性も同等にある。
8月は劉備即位を曹操か献帝が知った時期かもと言うなら、その根拠を示さなきゃ。
関羽の北伐でよく分からないのは、なんえウキンやホウトクたちは水没して、関羽は無事だったの?
七月に庚子がないから八月ってのは理由にならない。
が、月を間違えた可能性と干支を間違えた可能性が同等にあるのだから、
後漢紀と范曄後漢書のどちらを信じるかというしか判断材料が無い。
この場合は成立の早い後漢紀じゃね?
>>879 予め軍船を用意していたから。
温恢伝に「水かさが増しているのに曹仁は備えをしていない」
という温恢の発言があり、魏軍は船を用意してなかったと思われる。
対して関羽は軍船を多数動員していた事が各所に記されている。
漢水氾濫した時、関羽らは船内に退避できたが、于禁らは船がなく水没。
七と八は誤写しにくいが、干支の漢字は誤写しやすい状況もあるだろうって考えもあるが、
反証不可能なので議論は無駄か。
>>881 大水で船内に避難したら死ぬだろw
于禁らは平地に陣取っていた。
北側が決壊したとかの幸運もあるのかもしれない。
関羽の舟艇の用意が威力を発揮するのはその後の于禁軍掃討戦と
樊城包囲において。
>>877 時系列上漢中が落ちてないと兄が漢中にいるだけで裏切るという言葉の説明にならないよ
ホウ徳があまり他伝に顔出さないのもあるけど他伝と矛盾した記述ってわけでもない
陳寿が錯誤してたというにはもう一押し欲しいな
>>878 旧暦計算機でテキトーに割り出したらなかったので無いと思った
オススメのツールかなんかない?
>>885 中央研究院の両千年中西暦轉換が一番。
というか全正統王朝から割拠政権の暦までカバーしてるのはこれだけ。
>>884 ホウ柔が劉備陣営にいて、漢中を攻めているからホウ悳に疑念がもたれる。不自然なものはない。
漢中が落ちた後だからホウ悳の疑念が増すことは無い。
兄との関係からでは。
漢中陥落という曹操に不利な展開が、ホウ悳への疑念の温床になることはありえるだろうけどね。
だとしたら「失漢中」と明言されないのは有り得ない。
魏将にとっては、まさに今漢中がホットスポットだから「属劉備」でも「失漢中」でもなく「在漢中」と
言ったわけだよ。
語句を厳密に検討するならね。基本的に無益な探索だと思うが。
>>878 文字通り上表は皇帝に書類を出すことだから
後漢紀は後漢朝廷の立場で書かれてるので8月に書類が後漢朝廷に届いた
という可能性は排除できない
後漢書では7月に「自称」とあって上表があったことには触れてない
7月に自称、書面の到達が8月、というのも矛盾した話じゃないな
ただこれは後漢書と後漢紀を無理やり整合させるならどういう理屈が必要か
ということで強引に言ってるだけ、正しいとは全く思ってない
あくまでも思考実験ということで
>>888 雨に降られた時点でもホウ徳に城外に追い出されてる
まだ城内で一緒に篭城できる仲間として扱われてないね
魏略ではホウ柔は在蜀とある
魏では漢とか漢中とは書かないで蜀としてるから、これは蜀に居たんじゃなくて
蜀に所属してるってことだろう
この時点で「漢中」が劉備の王号として通用してるって三国志本文では示してるのでは?
>>890 最後の一文までは頷いていたんだが…w
関羽の言葉としては有り得るかもしれないが、
だとしても漢中王に所属していることを示すなら「属漢中」だ。
「在」は無い。
普通劉備を呼び捨てる魏志側の記述としてはなおさら有り得ない。
892 :
世界@名無史さん:2011/12/23(金) 15:18:25.97 O
一般論になるけど後漢寄りのバイアスは後漢紀より後漢書のほうがキツいよね
しかも両方とも後漢には直接の利害関係がない立場で書かれてる
>>881 軍船を用意していたって、いったいどこに?
近くに川がないじゃないかw
陸の上まで船を引っ張っていったのかよw
>>891 漢中王が劉備の号として通用してることはこれは暗喩みたいなものでは?
兄が漢中に在る、ということで投降を呼びかけてるわけだから特にね
しかし陳寿は魏の人の立場で「在漢中」としてるわけだから
ちゃんと意味はあるだろう
君も言うように劉備を呼び捨てたり色々立場の違いを気にして編集してるのだから
魏将だから言わないと切り捨てるのではなく魏将に陳寿が言わせた理由をしっかりと考えるべきだな
>>893 襄陽と樊城は漢水を挟んで向かい合う姉妹都市だぞ
んな回りくどい暗喩をホウ悳伝ごときで使う根拠が無い
>>895 じゃあ関羽軍が漢水の水上交通を好き勝手にできたというのかねw
曹魏水軍はどこ行った。
関羽軍が漢水に艦隊をおいてたとして、船に乗るには関羽軍は一斉に漢水に後退しなきゃならんだろ。
でも戦闘中敵に後ろを見せたら、追撃食らって船に乗る前にやられるぞ。
騎兵は曹魏有利なんだからさ。
孫権なんて、215年の合肥の戦いで、川を挟んで撤退する際に遼来々されて死に掛けてるんだぜ?
>>896 じゃあないでいいよ
言いたいことは在漢中が劉備所属という意味で受け取られてるということなんだから
>>897 関羽が南岸の襄陽をパスして北岸の樊城にいるホウ徳と戦闘に及んでる時点で
曹魏水軍の状態はお察しください
下手すりゃいないんじゃないかな
洪水前から既に曹仁たちは漢水の制水権を失っているっぽいよ
>関羽軍が漢水に艦隊をおいてたとして、船に乗るには関羽軍は一斉に漢水に後退しなきゃならんだろ。
>でも戦闘中敵に後ろを見せたら、追撃食らって船に乗る前にやられるぞ。
>騎兵は曹魏有利なんだからさ。
てか、徐晃が関羽を破ったときも、関羽が撤退するのを追撃して漢水に追い落としてるんだよ。
なぜ同じことを于禁や曹仁はできなかったのか?
ホウ徳率いる騎兵5000という、追撃戦にすごく使いでのある戦力を持ちながら、関羽の撤退を見過ごし、あっさり水没させちゃったよ!
無能かあいつら。
あれ?具体的なホウ悳の兵数とその内訳って全くわからないんじゃないの?
>>901 そうかわからないのか・・・
でもわざわざ七軍とあるからには、一軍ぐらいは騎兵だったのでは。
節子、それ于禁や
>>903 ウホ徳は于禁といっしょに援軍にきたのでは?
ホウ徳は侯音の乱の頃に派遣されてて関羽が来る前から樊城に駐屯してる
それでいて全く信用されずに城の外で1年弱野営して討ち死だから不憫っちゃ不憫
樊城の戦い当時の両軍の兵力ってわかるんかね?
曹仁は前線にいたのに関羽に包囲されてる時点でかなり兵力少なそうだが
>>906 出てる数字とそっから推測できる分
曹仁は人馬数千で樊城に立て篭もった
于禁は七軍を率いて援軍に来た
于禁が捕虜になった時、捕虜の数は三万であるとされた
ホウ徳はわからない
徐晃は新兵ばかりの数量不明の軍で援軍に駆けつけ
それから十二営を援軍として受けた
関羽軍の総数は不明
ただし徐晃軍との会戦に当たって包囲から抽出した兵力は歩騎五千
徐晃に敗北後も襄陽の包囲を維持するだけの兵力があり
総数は数万くらいかと思われる
龐柔についてはおれにも意見を言わせてくれ。
龐柔てのは馬超や龐直とかちごうて文官であったはずだ。
ここのみんなは龐柔が 馬超や龐直と行動を漢中敗走までともにしたことを前提にして議論しているが果たしてそうだろうか?
龐柔は劉備の入蜀以前に、劉ショウにすでに仕えていて士大夫として重用されていたのではなかったっけ?
経歴から官位まで一切不明
ホウ徳伝に名前と蜀にいることだけがポンッと出て終わり
タイミングの研究は大いにやってもらって構わないけど
独断で北上した、というのは当時の軍制からして絶対にありえない
「独断で北上する」ことに付属する各種の命令発動は関羽の一存では不可能というか
仮に関係者全員が子供のようにおそれ憚って実行したとしても劉備には必ず報告があがる
そして劉備の耳にはいった時点で関羽は気が狂ったか
独立謀反を実行してるとして地位権限を剥奪されて終わる
劉備が関羽の独断専行を追認せざる得ない状況だったかもしれんよ。
孫権が劉備にたいしてそうだったように。
自分の子飼いにたいして追認「せざるをえない」ってどういう状況?
一般的にはそれを謀反というんだがw
>>912 孫権は官位の面で言うと呉王になるまでずっと低いままで
左将軍から色々後付けで追加してった劉備を従わせることさえできてない
追認も何もハナから孫権に劉備を認める権利がない
劉備と関羽の関係はおれらの常識でかたることなぞできやしないよ。
語れる
関羽の公的な地位が全て劉備によって任命されている以上
「以心伝心」とか「盟友として行動」とかそんなママゴトは一切ない
え?
孫権と周瑜の間には「以心伝心」がなりたっていたのに?
関羽と劉備の関係が孫権と周瑜の関係ほどあやふやなものなのか?
自家撞着に陥ってるぞwww
自家撞着。
あなたむずかしい言葉つかいますなぁ。
きっとしかめっつらなさってるんでしょうなぁ。
なんつーか、三国時代の人間だけ、現代や他の時代の人間と違う法則で動いてると思ってる残念な子が多いスレだな。
>>920 どうして?
現代だって友情が基本すよ?
あなた少年ジャンプよんだことないの?
じゃあ完全に孫呉の侵略って事か、責任感の強い関羽は荊州を捨て切れずに1000騎で荊州奪還に向かって斬られたと。
劉備の指示で関羽が北上したなら劉備に関羽を留まらせなかった諸葛亮の計算ミスって事だよね。
口説いけど荊州さえ落ちなければ以後の軍略はとてつもなく楽だったのだから
しかし、真相は不明だが劉備の命で北西の蜀軍の動きに呼応して北上するなら何故自らが江陵に残らず主力を全部投じたかね?
実子の関平を残すなり馬良を参軍として関平に付けて代わりに北上するなり。余りにも孫呉への警戒心を欠いているしそこら辺は蒼天の
「蜀は余りにも長いこと関羽を荊州に留まらせ過ぎた」って台詞はあながち間違ってない。
>>922-923 マジレスしてやると関平の年齢は不明 地位も不明
夏侯淵の例を参考にするとテーンエイジャーで「お家」のために従軍していたとみるのが自然
あと劉備は全力で攻勢に出いているのに荊州だけ何もしないとか
後知恵の美味しいところもいいとこ
>>923 若造の関平に独立した軍を率いる事が出来たという考えが演義脳だわ
古参の麋芳が南郡太守として江陵にいたんだから江陵守備の問題を守将の問題に帰すのは間違ってる
>>923,924
うーん(-ω-)勉強になる。確かにそうですね。
>>923 当初は十分に残していたよ。
守りを薄くしたのは呂蒙が病気になり、陸遜がその後継になってから。
手紙の件もあって陸遜を侮った。
そういうことじゃなかったか?
麋芳以上に信頼できる守将って、あの頃の劉備軍でもそんなに多くないと思うんだ。
故郷も財産も投げ捨てて、ひたすら劉備に尽くしてきた古参だし。
ただいえるのは。
孫権にとっても劉備関羽の北上はすげぇチャンスだった。曹操を一気においやってひとつの天下を狙うチャンスだった。
劉備は元手なんかほとんどなかったけど、そういうひとつの天下を手におさめるって夢を持ち続けていた。
だからこその「人が集まってくる負け将軍」なんだ
孫権は目先の荊州がほしいがために江南の土地の支配者でおわってしまった。
どうみても劉備にも関羽にもいや、袁術にすらおとる人間だよな。
国を大きくして保ったんだから、立派な君主さ。
天下を狙って滅ぶのは美しいけど、部下や民衆の立場なら、
変な色気出さないで堅実に国を強くしてくれる方がいいわな。
人民にとっては孫権なんかどうでもいいおっさんだろ。
>>929 逆だろ。
目先の中原という好機に目がくらんで、
荊州という揚州の脇腹を放置するような馬鹿ぞろいじゃ孫呉はなかったってこと。
呉がいくら中原を刈り取って、南北に領土を延ばしても、
荊益雍司隷から中原に雪崩れ込む劉備に勢いで勝てないうえに、本拠が守れない。
関羽に呼応するのは、いずれ劉備に滅ぼされるために劉備の手伝いをすることでしかない。
>>914 孫権は荊州を分割したときに劉備の推挙で車騎将軍。
孫権の実力で荊州を保持している現実の追認。
劉備は益州を得て完全な自立を実現し、行大司馬となった。
三戦板から厨が沸いてるのか
>>933 車騎将軍じゃなくて行車騎将軍だな
相変わらず正式な左将軍と行大司馬自称してる劉備から比べると官位が低いし
行付いたらあくまでも臨時代行みたいなもんで職務を遂行はするけど階級としては低いままでは?
劉備の左将軍は正式には解かれてるからなあ。公孫康が後任になってる。
朝廷的には劉備は前左将軍なので、自称行車騎将軍レベルの怪しさ。
自称の行官でも劉備のほうが格上なのは事実だけど。
937 :
世界@名無史さん:2011/12/24(土) 11:21:27.87 0
>>936 後任の左将軍を実力で追い出せば何の問題もない。
曹操だって、まだ献帝を奉戴していないとき、正式任命されてやってきたエン州牧追い出してただろw
>>936 印綬返還してないから解任も正式なもんじゃないような
>>939 遼東まで攻め込んで公孫康の首を取れば問題ないわけだね。できればの話だが。
>>939 任解かれて印綬返さないってそりゃただの謀反だろw
曹操政権から見ればその通りの存在だけど。
孫権は、朝廷に上表するだけで済ませた臨機の処置という扱いで行官を名乗っているが、
兼官などではなく、きっちり車騎将軍幕府を機能させているよ。
孫権・劉備の勢力圏では建前上劉備の上位として通用した権威と見ていい。
・・・ぽかーん
劉備表權行車騎將軍,領徐州牧。
劉備のおかげでようやく孫権は車騎将軍府下ならば官位を自由にできることになった
これをもってして権威としては孫権>劉備となったとかぶっ飛びすぎて目からウロコだわww
左将軍の権威によって、孫権の権威を実力に見合ったものに引き上げたわけだね。
わからないのならそこまでだ
>>940 でも正式な任官と退官は印綬の返還を以ってじゃなかったっけ?
謀反は謀反だがそれを実力で咎められないなら謀反者の主張は維持されるしな
それから孫権は劉備の上位としては機能してない
劉備が劉キ病死後に荊州牧になる時、劉備自身で上表してる
孫権が後漢から貰った正式な官位は行車騎将軍上表の時も討虜将軍までだろ
問題の発言はここだぞ
>相変わらず正式な左将軍と行大司馬自称してる劉備から比べると官位が低いし
当時の劉備が正式な左将軍ってのが嘘っぱち。ここを撤回してもらわないと話が進まない。
で、謀反将軍の権威と、自称将軍の権威に、そんなに大差があるか? と展開する。
朝廷の威光を背に受ける「正式な将軍」の権威はもはや劉備には無い。
ただし、劉備個人には、中原で歴戦し、左将軍まで登った権威がある。
しかし、現実に劉備を脅かす勢力を持つ孫権の圧力の前に非力な権威だったことは
諸葛亮も言及している(法正伝)。
劉備が上表して、孫権を行車騎将軍にしたのは、両者の力関係を認める儀式のようなもの。
ついでに、劉備の荊州牧は部下達の推挙による。
嘘っぱちではない
後漢から貰った正式な印綬を持ってる状態でそれを返還してない
謀反にはなってるが、それをもって正式な官位を貰ったという権威が消えるわけでもない
撤回する理由が無い
自称将軍と謀反した正式な将軍では価値が違うだろ
自称将軍の価値が謀反将軍より高ければさっさと行大将軍でも行大司馬でも名乗るよ
もっとも、行大司馬名乗った後も左将軍ってのは維持してるんだから、
正式に貰った官位の価値は推して知るものだね
ちょっと間違えてたな
でも部下の推挙だったとしても孫権が絡んでないから
結局孫権が上位として機能してたことを肯定できないね
謀反者が正式な将軍とはなかなか特殊な価値観だなあ。
「正式な印綬」には相当の利用価値はあるよ。
「正式な将軍」と同等の価値を発揮するわけがないが。
劉備が後漢の正式な左将軍としての価値を持っていたら、
同じく「正式な」鎮南将軍・荊州牧劉表から荊州の譲位が成立していただろうねえ。
>>948 それはないだろ
劉表を正式な印綬ごと継承したのは劉ソウだぞ
後で劉キが牧になるのはあくまでも劉備たちによる上表
孫権の行車騎将軍と一緒
劉表存命時代の話だよ。
劉備が正式な左将軍なら、その権威を以って、
劉表の上位者として政治的軍事的行動を統括していたことになる。
それができないのなら、劉備に正式な左将軍としての権威は無い。
それもないよ
劉備は左将軍だが劉表は荊州牧
後漢末期の牧はその統治領域における軍権も握ってるから
荊州における権力は劉表の方が高い
つうか劉表は鎮南将軍だけど、儀同三司の特典を与えられてるので位は公。
だから比公の左将軍でしかない劉備より高位なんだよね。
またちょっと質問すみません。
秦宜禄が袁術に漢王朝の皇族の女と結婚させられたと記述があるけど
この頃の袁術は確か仲皇帝になってたんですよね?
(下ヒが包囲された時の使者、つまり呂布の娘持って来いと返答した時?)
皇帝僭称した者が、なぜ漢王朝の女の縁談を持ちかけたんでしょうか。
たまたま皇族だったとか?
秦宜禄の女絡みの逸話はいちいち胡散臭いような
>>946 仮に劉備が自称左将軍だったとしたら上表もクソもなく
孫権は自称左将軍に任ぜられたニセの車騎将軍なわけでして
なんで孫権は討虜将軍というれっきとした称号を捨ててニセを取るの?
ねぇなんで?
総相 川端達夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
法相 平岡秀夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
文科相 中川正春 在日韓国人法的地位向上議員連盟
厚労相 小宮山洋子 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟 自身の選挙区の太平建設と談合
国家戦略相 古川元久 パチンコ協会政治アドバイザー
韓国人から賄賂を貰っている野田
韓国人の集いに参加している野田
野田は日本人じゃないだろ
>>945 通常の人事で引継ぎの際に印綬を返還するのは、前任者が「解任人事を受け入れました」ということ。
左将軍の印綬を返還していない劉備は「左将軍を解任されたのに受け入れないで朝廷に盾を突く不忠者」となる。
だから、朝廷としては皇帝が任命した現任の公孫康が正式な左将軍。
>>957 しかし劉備も正式な解任手続きは終了してないってことだな
正式もなにも
孫権が車騎将軍を受け入れた時点で劉備はすくなくとも
曹操政権外では左将軍として認識されていることを示している
>>951 牧に基本的に軍権は無いよ。刺史の階級を引き上げたものにすぎないから。
あるとしても刺史と同じく、反乱時に皇帝の使者として太守と郡兵を統括する程度。
乱世に活動した刺史/牧が持っていると思われる軍権の大半は、兼任する将軍位か監軍使者によって保証される。
だからより上位の軍官が当地に存在すれば、郡兵と軍官兵を合わせた周辺軍を総統する権利は、その上位者に帰すのが普通。
後漢・魏の刺史達や冀州牧がそう。
>>955 その答えは
>>959が言った。
荊州・揚州地域ではまったくその通り。
で、その左将軍劉備が孫権を車騎将軍に推挙して任官したということは、
荊州・揚州地域で孫権が車騎将軍として認識されたことを示している
車騎将軍代行な。
じゃあやっぱり劉備の格ってデカいんだね
だから武帝紀では赤壁で劉備に敗れたって記述になるのだろう。
連合軍で最も官位が高いから。
曹操の下にいた頃だって大将軍袁紹、司空曹操、衛将軍董承に次ぐ政権bSだからな。
孫権が曹操と戦うにはもってこいの旗印。
曹操の手駒のうち、劉備は唯一の州牧経験者。
さらに袁術と互角の戦いを演じている。
その上呂布との挟み撃ちを受けたにもかかわらず、しぶとく生き延びた。、
そりゃー曹操も評価するだろ。
ということは孫権は劉備によって権威付けられたということだね
>>967 孫権にとって、劉備は、兄も従わざるを得なかった袁術と互角に戦った怖い相手。
権威付けの根拠よりも権威ある存在になったんだね
すごいな孫権
あくまで行車騎将軍だから、劉備という権威を後ろ盾に車騎将軍代行扱いとなれただけ。
劉備を超えたわけではない。
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■
[説明責任・道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス
空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率
ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意]
>>970 上で孫権のが上って人いるけど、そりゃありえないってことでおk?
劉氏以外は王たらず、という原則には続きがあって
「もし劉氏にあらずして王を名乗るものあらば全力をあげてこれを討て」となっている
当時における劉氏において、曹魏と戦えるだけの実力を持った唯一の存在であった劉備一派が
漢中王になって曹操に対抗した事、魏による簒奪が行われた後で蜀漢を起こした事、などは
この流れからみて正統で自然な事柄
後世において蜀漢正統論が支持されたのもむべなるかな
あれ? 劉氏ではないけど後漢から王に封じられた人居なかったっけ?
975 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 11:37:50.04 0
>>974 だから漢中の王になった劉氏は全力でそいつを討とうとしてたじゃん
「力のある孫権が力の無い劉備と対等の同盟とかおかしい」とよくいわれるが、
中央政界での活躍が著しかった劉備は名声と権威はたっぷり持ってた。
名声と権威があれば無一文でも何とかなってしまうのは、
曹操にボロ負けしても落ち延びた揚州で復活した袁術、
単独で荊州に乗り込んで豪族を従えた劉表など、
意外と前例が多い。
その2人に限らず、後漢の群雄はその手のケースが多いし。
劉備は一流の名士だった盧植の門下であり、孔融や鄭玄、陳紀らとのつながりもある。
この手のステータスは地方の人間では得られないし、地方でもそれが珍重される。
それでいて戦も強いから、あれだけ各地で重用された。
だから劉備からしたら
まさか単独で曹操を撃破してしまうどころか
益州まで乗り込もうとする周瑜が脅威だったわけで
死んでくれたときはほっとしただろうなw
単独じゃないでしょ。
常陸で南朝のために奮闘した北畠親房みたいなもんか。
>>978 赤壁の周瑜軍には、関羽と張飛が1000ずつ率いて参加してた件。
>>981 三戦板って史板住人がいないことをいいことに
演義脳の連中が好き勝手に史実捻じ曲げてるな
>>983 講釈師に「嘘つくな」と起こっても空しい
史実を捩曲げてるのは正史も同じだから…なんて正史スレで言ってみる
長江流域での大敗を大したことなかったように記録したりな
そのスレでタチが悪いのは、演義の話題じゃなく
史実の話題で嘘つきまくってることだな
988 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 19:58:36.46 0
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 09.3
>>974 後漢では、前身の更始政権時代を除けば曹操以外に居ない。
更始政権はちょっと色々特殊だし解ってない事も多いから、曹操以外居ないと言い切ってもいいかもね。
前漢では実は呉ゼイの一族が普通に武帝あたりの時に直系子孫いなくなるまで存続してた。