1 :
世界@名無史さん:
2get
3 :
朱棣と鄭和 東アジア史上最強タッグw:2010/12/01(水) 19:24:07 0
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L::;;,__ ..:::ゝ lヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
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\(___ノ
4 :
世界@名無史さん:2010/12/01(水) 19:30:08 0
明朝皇帝の評価
洪武帝>永楽帝≧弘治帝≧宣徳帝≧洪熙帝≧平均の壁>その他
中国料理屋で多い名前
永楽亭>>>>>>乾隆亭>>>>>>>その他
6 :
世界@名無史さん:2010/12/01(水) 19:38:00 0
読んでおきたい本
・岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』(世界の歴史12) 中央公論社、1998年
・上田信『海と帝国 明清時代』(中国の歴史9) 講談社、2005年
・岸本美緒『東アジアの「近世」』(世界史リブレット13) 山川出版社、1998年
・王莉、児島弘一郎訳『明 在野の文明』(図説中国文明史9) 創元社、2006年
・明清時代史の基本問題編集委員会編
『明清時代史の基本問題』(「中国史学の基本問題」シリーズ4)汲古書院、1997年
・松丸道雄他編『世界歴史大系中国史4 明〜清』 山川出版社、1999年
・『東アジア・東南アジア伝統社会の形成』(岩波講座世界歴史13) 岩波書店、1998年
・『中央ユーラシアの統合』(岩波講座世界歴史11) 岩波書店、1997年
90年代ばかりの著作だな 近年の研究をもりもり盛り込んだ一般向けの明史本のオススメはないの。
8 :
世界@名無史さん:2010/12/03(金) 03:09:59 0
きんたま
明朝体と明太子以外なにもない王朝だろ。
どっちも明と関係無いじゃなかったっけ?w
明朝体っていうけど正確には宋代のものだったような。
11 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 16:30:27 0
>>6-7 90年代でも後半のものだから近年の研究成果は十分盛り込まれているだろう。
00年代に出版された山川出版社の世界史リブレットの明代史に関するものとしては、
・松浦章『中国の海商と海賊』(世界史リブレット63) 2003年
・上田信『東ユーラシアの生態環境史』(世界史リブレット83) 2006年
・岡本さえ『イエズス会と中国知識人』(世界史リブレット109) 2008年
・中島楽章『徽州商人と明清中国』(世界史リブレット108) 2009年
これ以外の文献については、
礪波護・岸本美緒・杉山正明編『中国歴史研究入門』名古屋大学出版会、2006年
で調べろ。
杉山正明は生粋の明朝嫌いだから
その点、気をつけて読むべし。
陳舜臣『中国の歴史』に明代が詳しく紹介されてるよ。
文徴明などのマイナーな文化人まで出てる。
14 :
世界@名無史さん:2010/12/09(木) 05:53:40 0
「生粋の明朝嫌い」→?
15 :
世界@名無史さん:2010/12/09(木) 06:01:43 0
明が暗黒帝国とかいっても
洪武帝や永楽帝だけだろう。
残虐極まりない粛清をやったのは。
萬暦年間の前期あたりは民衆も結構楽な暮らしできたと思うし
政治も充実していたと思うんだけどな。
16 :
世界@名無史さん:2010/12/09(木) 06:36:41 0
永楽帝の残虐ぶりはもっと知られてもいい。
親父に劣らない。
明代後期は儒教の規範が緩んで、
間男を作るような淫らな女も増えたとか読んだけど
そうなんだろうか?金瓶梅はその反映だというけど。
17 :
世界@名無史さん:2010/12/09(木) 11:10:17 0
>>16 もともと中華の人は、グダグダだから、孔子様がこれではいけないと
言って儒教を始めたのだろう。
どの社会でもピューリタンみたいのは20年も続かないよ。
18 :
世界@名無史さん:2010/12/09(木) 12:03:44 0
>>12 『中国歴史研究入門』の「明代」の項目を執筆しているのは
岸本美緒・檀上寛だから安心しろ。
19 :
世界@名無史さん:2010/12/15(水) 13:58:08 0
>>15-17 明末には、西北方面が張献忠や李自成らの流賊によって荒らされる中でも、
東南方面では経済的、文化的に繁栄を謳歌し続けていたしな。
17世紀は大航海時代。
16世紀の弘治帝の頃から引きこもり気味になっても
南の沿海は交易で栄えていた。鄭成功の地盤はそっち方面。
16世紀頃は占城国というところがダミーの貿易特区。
密貿易にはならない特区があったんだよ。
鄭成功って台湾だろ? 清の官憲の目をかいぐぐってチャンパまでの海域をしはいできていたの?
>>22 鄭成功が台湾を支配したのは明の滅亡後。鄭氏の本来の勢力圏は福建の廈門辺りだ。
官憲の目なんか賄賂と実力でどうにかなるからな。それにチャンパの海域を支配し
てたわけじゃない。海禁に対応して日本と中国の私商人がチャンパで交易して日明
貿易のダミー地帯としてチャンパを利用してたんだよ。
それにチャンパの方でも積極的に貿易してたからな。鎖国の時代だって長崎に来て
た清船の中には本当はチャンパ船もあったらしい。
24 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 22:29:58 0
出会い貿易
25 :
世界@名無史さん:2010/12/24(金) 11:05:17 0
>>20-23 鄭成功に関する本としては、
林田芳雄『鄭氏台湾史:鄭成功三代の興亡実紀』汲古書院 2003年
が良さそう。
26 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 14:39:29 0
>>20-25 明代の海域交流史を知るのによい本って、何かありますか?
27 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 15:23:58 0
>>26 俺は以下の文献が役立つと思う。
・上田信『海と帝国 明清時代』(中国の歴史9) 講談社 2005年
・羽田正『東インド会社とアジアの海』(興亡の世界史15) 2007年
・桃木至朗編 『海域アジア史研究入門』 岩波書店 2008年
28 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 16:54:25 0
>>20 「東洋」「西洋」という語が用いられるようになったのも明代だったけ?
29 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 16:05:35 0
>>28 「東洋」「西洋」という語は明代以前からあったが、
明代になって現在の用法に近くなってくる。
14世紀の元代の汪太淵の『島夷志略』では、南海を貿易上の便宜から、
泉州からスマトラのパレンバンまでの線を境界線として「東洋」、「西洋」
に区分していた。
16世紀末の明代には、ヨーロッパ地理学の伝来もあり、広州を通る東経113度線を
基軸に「東洋」、「西洋」に分けた。
「東洋」諸国には、ルソン、モルッカ、ボルネオなどが、
「西洋」諸国には、安南、ジャワ、スマトラ、ムラカなどが挙げられ、
さらに、台湾、琉球、日本は「小東洋」、南インドは「小西洋」、
ヨーロッパは「大西洋」と呼んだ。
30 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 18:56:36 0
31 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 23:48:04 0
>>6、
>>11 明代史ファンに朗報。
・歴史学研究会編
『世界史史料4 東アジア・内陸アジア・東南アジアU 10-18世紀』
岩波書店、2010年
この本では、明代の主要な出来事に関する史料が読みやすい形で紹介されているぞ。
32 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 15:21:55 0
鄭和の容貌ってぜんぜん残ってないのか?
33 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 19:16:35 0
宦官だから中性的な顔つきのはずだよな
大西洋って訳語は日本より明の方がはやかったんだな。ちなみに太平洋やインド洋などはどうなの
35 :
世界@名無史さん:2011/02/21(月) 23:57:01.14 0
age
36 :
世界@名無史さん:2011/03/02(水) 16:14:44.89 0
>>34 太平洋やインド洋については分からん。
「ヨーロッパ」の音訳を「欧邏巴」としたのはマテオ・リッチのようだが。
最近キシモトミオが女だと確認した。
教授に訊いたから間違いない。
38 :
世界@名無史さん:2011/03/22(火) 11:26:55.97 0
明朝と内陸アジア世界との関係はどんな感じになるかな?
39 :
世界@名無史さん:2011/04/16(土) 00:38:26.74 0
明朝と北方世界との関係で言えば、すでに17世紀初頭にはロシアと接触している。
1618年にロシア政府は勅書を携えた使節を中国の皇帝に派遣することを決定し、
トボリスクの軍政官クラーキンは勅命によって使節団の派遣を命ぜられ、
トムスクのカザーク(コサック)、イヴァン・ペートリンを使節として
5月9日にトムスクを出発させた。ペートリンは明朝の都北京に9月1日に到着した。
ペートリンは朝貢使節として扱われたが、貢物を持って来なかったために
万暦帝に謁見を取り次いでもらえず、北京に4日間滞在しただけで帰国の途につき、
1619年5月15日にトムスクに帰還した。
菊池俊彦
「北方世界とロシアの進出」
樺山紘一他編『東アジア・東南アジア伝統社会の形成』(岩波講座世界歴史13)
岩波書店 1998年
40 :
世界@名無史さん:2011/05/02(月) 16:45:52.59 0
age
41 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 03:36:43.14 0
「どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。
ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。※
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。
ノエル・ペリン noel perrin( ダートマス大学英米文学教授)が分析した戦国日本の軍事力(著作「鉄砲を捨てた日本人」より)
※「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
(日本との七年に及ぶ戦争によって我が明は膨大な犠牲を強いられた。
我が国と属国朝鮮に勝算は無かったが、関白豊臣秀吉の死によって戦争は終わった)
明の方が騎兵や大砲の運用じゃ上だろうから
戦いが長引いたらどうなってたかわからんぞ〜
朝鮮の地形じゃ生かせなかったかも知れないが…
明軍は中途半端に火力が強化されててなんか好き
小火器や野戦砲についてはモンゴル騎兵が向かってきたら
一斉にダーンて撃ってその後に突撃みたいな使い方だったから
トリガーメカニズムや銃身の強度が未発達でも構わなかったんだろう。
元末の群雄割拠みたいな状態が数百年続いてたら
ヨーロッパや日本のように歩兵戦や攻城戦が重視されて
火器も発達したかもしれないが。
44 :
世界@名無史さん:2011/05/26(木) 02:33:07.47 0
蔚山城の戦いで戦意不足で捕縛された明将李化龍と
楊応龍の乱を鎮圧した李化龍は同一人物ですか?
明が空前絶後の腐敗国家だった理由は、海禁策と中央集権体制によって、
一国で世界が完結している事にあったと思う。
将来、世界政府というものが出来るとすれば、明のように腐敗して滅びるだろう。
>>45 それよりも宦官が力を持ち過ぎて官僚の評価が賄賂で決まるようになった方が大きいと思う。
47 :
崇禎帝:2011/06/03(金) 14:33:58.50 P
スレには誰もおらんのか
警鐘を鳴らしてみよう
48 :
崇禎帝:2011/06/04(土) 06:00:30.98 P
誰も来ない…
明も終わりか
49 :
世界@名無史さん:2011/06/06(月) 19:57:52.28 0
>>44 楊応龍の乱は、「万暦の三大征」の一つだっけ?
50 :
王承恩:2011/06/06(月) 20:05:35.38 0
>>48 奴才だけはここに控えておりまする!
万歳爺の最後の供奉、仕ります。
王承恩って実際偉いよな。
廷臣の圧倒的大多数が天子を見棄てる中、
最期の最期まで天子に忠義を尽くして付き従った。
52 :
世界@名無史さん:2011/06/08(水) 22:07:52.33 0
>>49 「万暦の三大征」は以下の通り。
・万暦20年(1592)2〜9月:寧夏の降将ボバイ(孛拝)の乱
・万暦20年(1592)4月〜同26年(1598)8月:豊臣秀吉の朝鮮出兵
・万暦25年(1597)〜同28年(1600):貴州省播州(遵義県)の土官、楊応龍の乱
孛拝(哱拜)は、ゲームキャラとして一定の地位を与えられているが
楊応龍(杨应龙)は、辛亥革命の後になっても賊扱いが解けないな。
何せ、秦良玉と対戦しちゃっているのがまずい。
54 :
世界@名無史さん:2011/06/19(日) 15:37:35.61 0
>>39 蝦夷錦というと清代のものが有名だが、明代のものも日本に伝わったようだ。
明朝のアムール川流域の支配には限界があったが、アムール川流域の諸民族は
明朝に朝貢し、その見返りとしてかなりの量の中国製の絹織物を受け取り、
交易品として南に運んだ。
津軽半島の海の豪族・安藤氏の根拠地・十三湊に港町が形成されはじめるのは13世紀で、
最も繁栄したのが14世紀末から15世紀前半。この時期は、北方地域の交易の全盛期と重なる。
中村和之「金・元・明朝の北東アジア政策と日本列島」
天野哲也他編『北方世界の交流と変容―中世の北東アジアと日本列島』
山川出版社 2006年。
明って有能な人材って失脚すると殺されるし、うまく乗り切って天寿を全うしても
代わりに息子が殺されるって酷すぎる。
56 :
世界@名無史さん:2011/06/25(土) 23:12:04.10 0
明朝首辅列表
1、黄淮 洪武三十五年八月進,十一月降。1402年
2、解縉 洪武三十五年十一月進,永樂五年二月罷。1402年-1407年
3、胡廣 永樂五年二月進,十六年五月卒。1407年-1418年
4、楊榮 永樂十六年五月進,二十二年八月降。1418年-1424年
5、楊士奇 永樂二十二年八月進,正統九年三月卒。1424年-1444年
6、楊溥 正統九年三月進,十一年七月卒。1444年-1446年
7、曹鼐 正統十一年七月進,十四年八月卒。1446年-1449年
8、陳循 正統十四年八月進,天順元年正月罷。1449年-1457年
高榖 天順元年正月代,二月致仕。1457年
9、徐有貞 天順元年二月進,六月罷。1457年
10、許彬 天順元年六月進,七月罷。1457年
11、李賢 天順元年七月進,成化二年三月丁憂。1457年-1466年
12、陳文 成化二年三月進,五月降。1466年
13、李賢 成化二年五月復,十二月卒。1466年
14、陳文 成化二年十二月進,四年四月卒。1466年-1468年
15、彭時 成化四年四月進,十一年三月卒。1468年-1475年
16、商輅 成化十一年三月進,十三年六月致仕。1475年-1477年
17、萬安 成化十三年六月進,二十三年十月罷。1477年-1487年
18、劉吉 成化二十三年十月進,弘治五年八月致仕。1487年-1492年
19、徐溥 弘治五年八月進,十一年七月致仕。1492年-1498年
20、劉健 弘治十一年七月進,正コ元年十月致仕。1498年-1506年
21、李東陽 正コ元年十月進,七年十二月致仕。1506年-1512年
22、楊廷和 正コ七年十二月進,十年三月丁憂。1512年-1515年
23、梁儲 正コ十年三月進,十二年十一月降。1515年-1517年
24、楊廷和 正コ十二年十一月復,嘉靖三年二月致仕。1517年-1524年
57 :
世界@名無史さん:2011/06/26(日) 21:17:46.45 0
>>56 こんな一覧表あるのか。すごいな。
このうち生を全うできた人ってどれだけいるんだろう?
58 :
世界@名無史さん:2011/06/27(月) 21:37:24.60 0
>>55、
>>57 官僚が皇帝の命で処刑されることは他の時代においても見られることなのに、
どうして明代の処刑の事例ばかり強調するんだ?
こういう話を延々としてもキリがないだろ。
59 :
世界@名無史さん:2011/06/27(月) 22:17:54.25 0
明は宋代に比べて高官の刑死が多すぎるからだよ。
王陽明について質問です。
陽明は号で、本名は守仁ですが、こんな名前つけて子孫は困らなかったのですか?
避諱があるから、王陽明の子孫は『守』とか『仁』とか言えません。
科挙で論語の『仁』についての問題が出たら困りますよ。
というか、王陽明って子供いたの?
61 :
世界@名無史さん:2011/06/30(木) 22:23:34.12 0
>>60 後代になると、使用できる字がかなり限定されるようになったため、
避諱はある程度緩和された、という話があったような。
62 :
正徳帝:2011/07/04(月) 07:47:47.81 P
月曜日じゃが朕は豹房に引きこもって働かなくてもよいのじゃ
では戦争ごっこでもするか
63 :
世界@名無史さん:2011/07/04(月) 22:39:51.00 0
王陽明の伝記、今読んでいる所だけど、子供はいたっけ?
読了してから伝えるよ。
64 :
ドルゴン:2011/07/30(土) 17:17:05.80 P
やったー\(^o^)/紅夷砲のパチモノできたよー
これで山海関を砲撃してやる〜
65 :
世界@名無史さん:2011/08/19(金) 23:52:56.17 0
>>63 >>63が読んでいる王陽明の伝記のタイトルは何?
それはもう読み終わったのか?
最近明に興味を持った者ですが、2代皇帝の子供が永楽帝によって幽閉されてますよね。
50年程後に解放されたそうですが、幼児期から幽閉されてまともな状態だったとは思えないんですが、どうなんでしょう。
明太祖は多少話は聞いていましたが、永楽帝もかなりなようで。
追放しました。幽閉はしていません。
南のほうで担がれないか心配なので、鄭和船団に動向を監視させました。
68 :
世界@名無史さん:2011/11/06(日) 14:17:27.33 0
朱文圭?
幽閉といっても、牢獄に入れられていたのか、江戸時代の閉門のように屋内なら自由に行動できたのかによって違うんじゃない?
>>68 そうです、朱文圭です。
庶人の身分におとして幽閉されていたことくらいしか自分にはわからないので気になっています。
70 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 23:32:23.52 0
>>68-69 明代には、宗室で罪を犯した者を収容するための施設として「高牆」があった。
「高牆」については、マテオ・リッチ(利瑪竇)やアルヴァーロ・セメード
(謝務禄)も記録を残している。
矢沢利彦
『西洋人の見た十六〜十八世紀の中国官僚』 東方書店 1993年。
72 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 00:30:13.33 0
中国の歴代王朝って、均分相続によって訪れる定期的カタストロフィの
連環をどうして抜本改革できなかったんだろう。王安石・神宗改革の北宋、
大型外航船を作れた明代初期なら海外に雄飛できたかもしれないし、
確立初期の征服王朝なら抜本改革も不可能ではなかったんじゃないの?
何でそんな、安定まで何百年かかるか解らんようなことしなきゃいけないんだよ。
74 :
世界@名無史さん:2011/12/26(月) 00:27:33.57 0
【社会】 金正恩氏が激怒か…哀悼期間中の脱北者に「逆賊3代滅族」の厳罰を指示
1 :有明省吾 ◆BAKA1DJoEI @有明省吾ρ ★:2011/12/25(日) 22:17:25.96 ID:???0 ?PLT(12066)
アメリカの自由アジア放送(RFA)は23日、北朝鮮の新指導者となった金正恩(キム・ジョンウン)氏が
金正日(キム・ジョンイル)総書記の哀悼期間中の脱北者に対して厳罰を指示したことを明らかにした。
韓国メディアは同報道を元に相次いで伝えた。
RFAによると、金総書記の死亡が報じられた19日に両江道恵山市で脱北を図った高氏夫婦と娘二人の一家4人が、
国境警備隊に捕まる事件があり、哀悼期間中の出来事だったため、正恩氏に直接報告されたという。
報告を受けた正恩氏が激怒し、金総書記の哀悼期間中に北朝鮮を脱出しようとする住民は「逆賊」であり、
「3代にわたって滅族させろ」との厳しい処罰に乗り出したと伝えられている。
また、RFAは情報筋の恵山市住民が高氏の親や兄弟も北朝鮮当局に捕まっており、ともに政治収容所に収容されたとみていること、
そしてこのような厳罰に対して現地の住民から苛酷な処分をした正恩氏への怒りの声が多いことも併せて伝えた。
今の北朝鮮住民の意識には変化があり、このようなことで粛清されることへの不満が募っているというのが、
現地情報筋の見解だという。(編集担当:金志秀)
サーチナ 【社会ニュース】 2011/12/25(日) 20:09
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1225&f=national_1225_151.shtml ああ陛下!
金氏朝鮮は陛下の意思を受け継ぐ地上の楽園でありまする!
75 :
世界@名無史さん:2011/12/27(火) 20:54:20.32 0
76 :
世界@名無史さん:2012/01/01(日) 20:56:12.04 0
77 :
世界@名無史さん:2012/01/02(月) 10:07:16.15 0
>>74 小中華を気取っているのかもしれん
まあ、マルクスのことはもう忘れているのかもしれんがww
マサオンは彼なりに朝鮮民族のことを考えているのだろう
一応ネズミ園にも来たことがあるそうだしww
南は物質的には昔と比べて豊かになったかもしれんが、
常に他の国と比べ、アレがない、これがないと不満に満ち溢れている。
これでは餓鬼道じゃないかと
で結論は李朝みたいに国を閉ざして、小中華を気取るだろう
78 :
世界@名無史さん:2012/01/02(月) 18:06:15.89 0
>>74、
>>77 明代史とほとんど関係の無い書き込みするんじゃねえ。
>>75 「北京故宮博物院200選」を見に行った人はいますか?
明代の文物では、どんなものが展示されていたのでしょうか?
79 :
世界@名無史さん:2012/02/07(火) 19:25:13.02 0
>>75、
>>78 「北京故宮博物院200選」で展示されていた明代の文物は、
堆朱、七宝、陶磁器が中心だった。
全体的に見ると、宋代、元代、清代の文物がほとんどだった。
中国では洪武帝と永楽帝どっちが人気あるんだろうか
82 :
世界@名無史さん:2012/03/06(火) 23:48:39.32 0
83 :
世界@名無史さん:2012/03/10(土) 19:24:50.87 0
>>28-30、
>>34、
>>36、
>>82 明代には、ヨーロッパの地理学が伝来して、『坤輿万国全図』のような新しい地図が作られている。
明代に作られたこうした地図は、江戸時代の知識人の世界認識にも影響を与えた点で重要だ。
84 :
世界@名無史さん:2012/03/15(木) 21:46:38.91 0
>>30、
>>83 『坤輿万国全図』の記事の翻訳は以下の文献で読めるぞ。
高橋由貴彦「マテオ・リッチ『坤輿萬國全圖』記事の全訳(上)」『海事史研究』66 2009年。
高橋由貴彦「マテオ・リッチ『坤輿萬國全圖』記事の全訳(下)」『海事史研究 』67 2010年。
明の時代区分ってどうなってるの?
86 :
世界@名無史さん:2012/05/08(火) 18:48:58.15 0
>>83 日本人の中東・イスラーム地域認識にも明代の著書が大きな影響を及ぼしている。
新井白石の『采覧異言』(1713年成立、25年補訂)は、『坤輿万国全図』の漢文の説明を基礎とし、
これに1709年、日本へ潜入したイタリア人宣教師シドーチの尋問によって得た新知識を盛り込んだ
体系的漢文地理書だ。
西川如見の『増補華夷通商考』(1708年刊)は、
主にイタリア人宣教師ジューリオ・アレーニ(艾儒略)の漢文地理書『職方外紀』(1623年)に依拠し、
長崎通詞林道栄の『異国風土記』(1688年)をも参照して記された作品だ。
寺島良安の『和漢三才図会』(1712年刊)は、王圻の『三才図会』、李自珍の『本草綱目』(1578年)を
模範としている。
杉田英明『日本人の中東発見―逆遠近法のなかの比較文化史』 東京大学出版会 1995年。
明の時代区分ってどうなってる?
とりあえず朱元璋の粛清と北元滅亡という事件があるから
最初20年ぐらいで一時代線が引けるよな?
88 :
世界@名無史さん:2012/05/14(月) 11:15:08.72 0
>>85、
>>87 多くの研究で指摘されているが、
明代の時代区分の最大の指標は、何といっても、
銀を用いた貨幣経済の浸透の度合いだろう。
正統期あたりを境に前期と後期に区分できそうだが。
明清代史研究の醍醐味は、檔案(同時代史料)を用いた行政過程の研究、
社会史研究にあり、近年、そうした研究の成果が多く登場している。
>>1にもあるが、明初ばかり、皇帝ばかりに注目するのはよくないだろ。
90 :
世界@名無史さん:2012/06/10(日) 20:38:13.61 0
朱文圭って幽閉の身でよく50年以上も生きてこられたな
91 :
世界@名無史さん:2012/06/28(木) 00:58:11.76 0
>>83、
>>86 日本人の中東・イスラーム地域認識にも
明代の著書が大きな影響を及ぼしていたのは意外だな。
日本にも影響を与えた明代の文化って他に何があるかな?
92 :
世界@名無史さん:2012/06/28(木) 04:53:08.83 0
陽明学
一番影響与えたのは明の禅宗だろうな
元末の頃にはもう「日本にもすでにいい禅師は大勢いるのに何で向こうへ留学する」
とか言われてたけどね。
明代になると向こうから来る人も少なくなるし。
95 :
世界@名無史さん:2012/06/30(土) 01:05:15.30 0
>>93-94 江戸時代には、隠元、朱舜水のように明末清初の動乱を避けて日本に渡った亡命僧侶、儒者はいる。
明代の文化は、近世に形成される日本の伝統文化にも着実に影響を与えたにもかかわらず、
意識されないのが残念なことだ。
96 :
世界@名無史さん:2012/07/22(日) 03:30:11.30 0
>>18、
>>27、
>>37 明代史研究者に関してだが、
現在の東京大学東洋文化研究所所長は大木康(著書は『明末江南の出版文化』など)だ。
ちなみに、前所長は羽田正(任期:2009年4月1日〜2012年3月31日)。
明代史研究に直接・間接に関係する人が東京大学東洋文化研究所所長になっているのは、
明代史ファンとしてはうれしいことだ。
97 :
世界@名無史さん:2012/08/18(土) 16:55:06.45 0
98 :
世界@名無史さん:2012/08/29(水) 17:06:00.26 0
>>91-95 倭冦の影響もあって、明代には、日本への関心がピークに達している。
明代に書かれた袁黄の小説『斬蛟記』は、
道士、許真君による蛟斬りの民間伝説を敷衍し、豊臣秀吉の朝鮮侵略の史実を下敷きにしている。
『斬蛟記』では、秀吉(平秀吉)は、大昔に許真君が斬り殺した大蛟の一部が
日本の銀蛟山に逃れて変化したものとされている。
朝鮮に侵攻した秀吉に対して、
朝廷は、宋応昌を経略、袁黄と劉玄子を参謀として救援に馳せる。
万暦21年(1593)正月7日、袁黄らは道士数人を伴って海を渡り、銀蛟山に至って、怪物を倒す。
すると、それ以後倭軍が攻撃して来なくなったのをみれば、関白の死は確かだった、
という内容の話だ。
万暦21年7月に、戸科給事中の呉応明は万暦帝への奏上において、
日本軍の撤退を関白の死によるものと推測しているが、
「秀吉の死が日本軍の撤退の原因となった」という見方は、朝野で共有されていたようだ。
王勇「中国史の中の日本」尾形勇他『日本にとって中国とは何か』(中国の歴史12) 講談社 2005年。
99 :
世界@名無史さん:2012/08/29(水) 20:04:51.46 0
漢・唐・宋・明・清の皇族はなんとか子孫が残っているね
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが
なぜマルチ?
101 :
世界@名無史さん:2012/09/01(土) 09:22:44.55 O
三藩も李自成に協力して、その後華北に建国すりゃ良かったのに
燕王、晋王、斉王とかになる
呉三桂が李自成に嫁さん略奪されたとかって都市伝説があったような
104 :
世界@名無史さん:2012/09/02(日) 00:33:23.36 0
一番大物の呉三桂が燕王、本籍山西の尚可喜が晋王、本籍山東の耿仲明が斉王というのが
しっくりくるような気がする
105 :
世界@名無史さん:2012/09/04(火) 22:11:05.52 0
>>91-95、
>>98 明を題材にした作品は日本にもある。
南禅寺山門のせり上げで有名な歌舞伎脚本『金門五三桐』での石川五右衛門は、
明国の謀反人宗蘇卿(寧波の乱の関係者宋素卿か?)の子で、
竹地(明智)光秀の養子左馬五郎という設定になっている。
この人奇形?
107 :
世界@名無史さん:2012/12/19(水) 22:24:39.75 0
108 :
世界@名無史さん:2012/12/20(木) 11:58:13.60 0
>>98 そのわりには明史の日本伝は出鱈目が多いみたいだが?
あの時代は現実に日本に渡った中国人だって
たくさんいたし、明にわたった日本人、捕まった日本人も
多くいただろう?
中立的な人間でも、キリスト教の宣教師あたりだと
双方に渡った奴だっていただろうに
これが、朝鮮のほうだと、捕虜になった人がかなり詳しく書いているだろう?
109 :
世界@名無史さん:2013/02/05(火) 13:54:27.76 0
>>98、
>>108 日明交流に関する史料としては、
1451年(宝徳3・景泰2)〜54年(享徳3・景泰5)に、
宝徳度遣明船の一号船に従僧として乗り組み、
京都‐北京間を往復した笑雲瑞キン(言+斤)の『笑雲入明記』がある。
笑雲瑞キン(言+斤)(村井章介・須田牧子編)『笑雲入明記―日本僧の見た明代中国』(東洋文庫798)
平凡社 2010年。
110 :
世界@名無史さん:2013/04/03(水) 02:55:37.28 0
朱元璋の罪。
1.三省を完全に廃止し、その負担がダイレクトに皇帝のそうけんにかかってくるため、それら負担に抗いながらも
無理して政務を続けなくてはならず、結果、名君は早死にし、政治なんてどうでもいい暗君ほど長生きした。
2・科挙を低質化・形式化したことにより、群臣の政治家としての意識は弱く、また、科挙のための勉強が、本当に単なる
受験のためだけの勉強となった。これは清にも受け継がれ、朱子学の大学者も科挙に受かるのに数年を要した。
111 :
世界@名無史さん:2013/04/07(日) 15:22:39.28 P
3.政権維持に必要な文人まで殺しまくったこと
112 :
世界@名無史さん:2013/04/07(日) 21:47:24.94 P
なんか崇禎帝って妙にカッコよくない?
民からも色々と苛斂誅求したりもしたけれど、
それはあくまで明帝国の存続のためであり、
明最悪(歴代帝国で最悪?)の暗君・万暦帝と正反対で、
私費を稼ぐために極度のケチだったのとは対照的。
荒れ果てた明を少しでも立て直そうと非常に政務に熱心だったらしい。
ただ、猜疑心の塊みたいなのが玉に瑕。
何か小さなミスだけでその人は処刑される始末。
崇禎帝だけが空回りして、群臣は殺されるかびくびくしていた。
そんなモーレツ暴君の下で全力で戦えるはずもなく、
ますます戦況は悪化、崇禎帝はさらに苛立ちを増大させ、
臣下はますます怯えて萎縮してしまう。
そんな悪循環と、やることなすこと全てが裏目にでてしまった。
やがて李自成(実は清じゃない)の軍が北京が陥とされて、
紫禁城景山にて長い髪を前にたらした格好で首を吊った。
崇禎帝は
「先祖から受継いできた明王朝は朕が滅ぼしてしまった。
あの世で会わせる顔がないので、顔は隠したまま葬ってくれ」
と遺言を残してこの世を去った。
清史稿にも「甚だしく暗くはあらねども」と記述されている。
万暦帝は定陵見学で後世中国の外貨稼ぎに貢献している
あ、言い忘れていた。
>>112は、崇禎帝は強大な亡国の皇帝で、悪の美学的な方向でカッコいいなと。
>>113 万暦帝は自分の墓や息子の結婚式など私的な理由から異常なまでにケチったからね。
朝廷の大臣が一人だけにしてみたり、さらには一人も大臣が存在しなかったり。
その陵墓がどれほど立派なのかは想像に難くないな。
つか25年も朝廷に顔を出さないバカ皇帝なんて、万暦帝以外聞いたこともないしな。
こういう馬鹿が皇帝にならないよう、清の康熙帝は「皇太子という制度」を廃止しして、
その時々での立派に統治できる次の皇帝となるべき息子の名を記して、
玉座の後ろ(当然皇帝の後ろ=上位に皇帝以外立てない)の額に入れておく方法を考案したんだから。
当然、その息子が非行に走ったり、病気で死んでしまったり等々、好きな時に交換できた。
それで指名されて即位した次の皇帝・雍正帝は政務に熱心すぎて過労死したくらいだから。
康熙帝って歴代中華王朝でも五指に入る名君だな。
対応の難しい反乱にも、不退転を誓い即断即決で臨機応変な戦略で平定したんだから。しかも弱冠二十歳だぞ。
それ以上に凄いのは、国際情勢を鑑みて、本来「中華帝国と対等」という概念の存在しない『華夷思想』を乗り越えて、
清露両国が対等なネルチンスク条約まで締結できたんだから。
ただ、社会進化論を猛烈なF1クラスの逆送で退化したとしか思えない華夷思想まみれの乾隆帝というバカは、
よりにもよって「英王」の名を奉じて派遣された特使を蛮族扱いして三跪九叩頭を求めるなんて、
康熙帝が聞いたら卒倒しそうな、ただの領土拡大主義者・乾隆帝という盛大な大バカもいたけど。
お仕事大変なのはわかりますが、後継者の指名くらいしっかりとお願いしますよ、雍正帝さん。
ていうか、俺は清の衰退〜滅亡の責任の大半はこの馬鹿(乾隆帝)にあると思っている。
一応面会はできたが、成果はゼロ、乾隆帝はイギリスをあくまで下・・・というか一つの属国としてしか見ず、
通商や事件の窓口さえ成立しなかったんだから、イギリスはイギリスで勝手にやらせてもらうという結果が
阿片戦争なんだから。
> 華夷思想まみれの乾隆帝というバカ
当時の清では華夷思想まみれじゃない方が大馬鹿と思われていたんだぜ
>>116 だからって、せっかく康熙帝が作った「先例」を「例外」にしちゃうような男なんだぜ、乾隆帝は。
頑張った康熙帝にそんな仕打ちをしておきながら、「康熙帝の在位を超えてはならない」と意味不明な動機で退位し、
その後は例え自分が負うべき責任すら、何にも責任を負わなくなった。
・・・というより皇帝という最高位に座した完璧な自分が負うような責任はないと、やたらと自信過剰だったし。
自分が見えないんだよ。こういう自信過剰のバカは。
2chでは乾隆帝が何かと不人気だな。
三跪九叩頭やら十全老人やらの尊大ぶりや晩年の寵臣への度を越した贔屓が嫌がられるのだろうけど
明代の皇帝と比べたら全然まともだと思う。
>>115 太子密建を決めたのは雍正帝。康熙帝は三度皇太子を立てて全て廃嫡している。
ちなみに清はヌルハチ以降名君続きだったが、太子密建で即位した乾隆帝以降は…
三跪九叩頭なんて乾隆帝でなくても
中国の皇帝なら誰でも求めるだろ
中華以外は全て蛮族だったんだから
120 :
世界@名無史さん:2013/04/12(金) 11:54:03.36 P
>>118 >2chでは乾隆帝が何かと不人気だな。
やっぱりそうなのか。
傲慢で世界情勢を知ろうとするどころか、
世界なんて所詮は自分の手のひらに載る程度だとと言わんばかりだ。
周辺国を征服しまくったから、それで錯覚してしまった面もあるのかもな。
でも、さすがに明代の超ド級のバカ共と比較するつもりはないよ。
ただ度を過ぎた時代錯誤の中華思想を、乾隆帝ほど信じ切った皇帝は、さすがの明にもいないはず。
>太子密建
煬帝も父・文帝の生前は質素倹約・自己鍛錬に励んでいたっけ・・・
文帝は煬帝に暗殺されたともいわているし。
国名は明なのに暗い時代だな
122 :
世界@名無史さん:2013/04/12(金) 20:18:09.82 0
???
白蓮教の事じゃないよね?
白蓮教じゃないの?
>>121 ところが、暗雲立ち込めていたのは政府絡みだけで、
庶民の活動、特に商業が発展した時代なんだ。
マニュファクチュアの萌芽も出始めていたくらいだし。
文化で言えば、四大奇書に代表される小説も、いかにも庶民向けで明快だ。
126 :
世界@名無史さん:2013/04/13(土) 22:55:32.17 0
一条鞭法による税の銀納化などの社会経済上の変化、
四代奇書や、『本草綱目』『農政全書』などの様々な実学書の登場にみられる文化の発展は、
高校の世界史教科書にも書かれている基本中の基本の事項であるが、
これらについてまともに語ろうとしないのはどういうことだ?
明清代史の醍醐味の一つは、徽州文書などから庶民の生活を知ることなのに。
>>6、
>>11で挙がっている文献で明代の社会経済、文化についてもきちんと学ぼうぜ。
明にとっては大赤字でしかない朝貢貿易を続けられる経済力があったからこそ
もたらされる永楽銭で日本の貨幣経済が発展出来たんだしな。
>>126 ほら、日本の場合、正史が早くに途絶え、
それでも正史と並行して様々な文献が、書写であっても現存していて、
比較的古い時代まで遡れるでしょ?
一方支那では、野史があっても卑しいと正史だけが珍重され、
研究対象として社会史が取り得る史料が少なすぎて、
「清明上河図」のある北宋が精々の上限だからじゃないかな?
ただ一つ問題なのは、日本で正史が途絶えたのと、北宋が成立したのが近い、
つまり、時代を測る尺の目盛りが圧倒的に違うって点かな?
129 :
世界@名無史さん:2013/04/17(水) 01:01:50.37 0
>>128 明代後期については、社会経済に関する同時代史料が豊富にあり、
近年ではこうした史料を用いた社会史の研究成果が多く出ているぞ。
社会史の研究が進んでいるにもかかわらず、
皇帝や宮廷ばかり語ろうとするのは、スレの住人たちの問題だろ。
>>129 >明代後期
そりゃ、あれだけ活発な商業活動をしていれば、明代の社会を知る資料が出てくるだろう。
でも、中国はあまりに広すぎるし、あまりに歴史が長すぎるから、
地域的にも時間的にも比較社会史学が必須であり、やっぱり少々無理があるだろう。
日本や西洋諸国は地域的にの時代的にもしりょうはふんだんにあるけど、
北京だって四川だって上海だって広東だって、「中国(もしくは支那)」なんだから、
「中国における社会史学」というのは難しいだろう。
日本は中国に比べれば歴史は浅いし、国土も狭いから、
ある一地域もしくは二地域の、都市でも農村でも、社会史学の研究の成果として認められているし、
様々な学者が様々地域の社会史学の論文を書いているから、
それらとの積み重ねとして比較社会史学は成立するけど、
歴代、民間資料を軽視して保存なんて考えなかった中国はそうはいかないでしょ?
明は實録が面白いけど、
日本は日記が面白いよね
宮廷も暗い面が多いしアホ皇帝が多いけど
張居正ほか賢宰相が時おり出たおかげで270年以上続いた
>>132 逆に言えば、究極の暗君・万暦帝が親政するよりも、
張居正が政務を担ったほうが、明帝国のためにもなるからね。
結果的には万暦帝の施策は必ずしも間違ってはいなかったってことだ。
それでも結局はバカはバカなんだけど。
ああ、あと英宗(正統帝?天順帝?www)なんてド馬鹿もいたな。
明帝国は暗君の見本市だな。
張居正が政務を執ったのは万暦帝が幼かった頃の10年間だけで
張居正死んだ後の35年間は政治不在の時代が続き
結果として孫の代で滅亡の憂き目を見た
>>133 おっと嘉靖帝と正徳帝を忘れてもらっちゃ困るぜw
同情される面もあるけど実は建文帝も馬鹿だったと思う
もう洪武帝と永楽帝と洪熙帝と宣徳帝以外全員バカってことでいいよ
弘治帝もバカから除外してあげて
馬鹿ばっかでも270年以上超大国として存続出来るとは官僚制恐るべしってことか
官僚制だろうね
後漢も最初の三代だけがマトモで
以後は賢くない少年が帝位に就いて若死にするのを繰り返しながら200年続いたから
初期の段階でしっかり官僚システムの基礎を固めればけっこう持つみたいだね
皇帝独裁と宣徳帝時代から始まる閣臣による票議の導入が王朝の運営
を偶然的に有効的なものにした。
宋のように科挙の門生故吏の関係から生じる巨大派閥による皇帝も収集できない
新旧法党間のような抗争も起きず、張居正もあれほどの派閥を形成しても
死ぬと万暦帝にあっさり一党は崩壊されている。
また唐のように皇帝権力の手足から自立した宦官も明では皇帝権力に寄生するしか
なかった。
明の皇帝独裁の弊害がもろに出たのは創業の朱元璋は別として最後の崇禎帝
が権力の濫用というべき疑心暗鬼から官僚を粛清したことだよ。
禿
144 :
世界@名無史さん:2013/10/25(金) 22:29:51.35 0
明の太祖洪武帝朱元璋と后妃の陵墓・明孝陵に外国人向けの6ヶ国語の石碑発見!「落書きするな」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1382936553/ 明孝陵で6カ国語の石碑発見、清朝政府が外国人に「落書きするな」と呼びかけ
【写真はその石碑】
http://jp.xinhuanet.com/2013-10/28/132836646_21n.jpg 2013年10月25日、中国江蘇省南京市にある明の太祖洪武帝朱元璋と后妃の陵墓・明孝陵でこのほど、
外国語で書かれた石碑2基が発見された。
揚子晩報(電子版)が伝えた。
明孝陵を観光していた徐(シュー)さんは、文武方門東側と門内碑殿東側の2カ所に置かれた石碑に、
中国語ではない言葉が書かれているのを発見した。
石碑の高さは約1.5m、幅は約60cm。碑面の最上部には篆書で大きく「特別告知」と中国語で書かれており、
その下は6つに区切られ、それぞれに異なる言語で文章が書かれているのが見てとれる。
南京市中山陵園管理局宣伝教育所の王韋(ワン ウェイ)氏によると、
この2基の石碑にはそれぞれ6カ国語で落書きをしないよう外国人に呼びかける内容の文章が書かれているという。
清の宣統元年(1909年)、当時の両江洋務総局と江寧府知府会がこれを建てた。
「清朝末期には多くの外国人が明孝陵とその周辺の名所旧跡を訪れるようになったが、
彼らのなかには石碑や建造物などに落書きをする者も多く、当時の政府はその対応に苦慮していた」と王氏は説明。
こうした状況に立ちあがったのが、現在の江蘇省、安徽省、江西省に相当する地域を管轄していた両江総督で、
彼は2カ所の政府機関に6カ国語碑文の石碑を作らせる一方、
明孝陵の参道にある石碑にはすべて木の柵を設けるよう指示。
これにより、石碑にいたずらする外国人観光客は激減したという。
しかし、明孝陵で最も有名な石碑 大明孝陵神功聖徳碑には、
清朝末期にここを訪れたロシア人と思われる外国人の落書きが今も残っている。
(新華網日本語)
http://jp.xinhuanet.com/2013-10/28/c_132836646.htm
146 :
世界@名無史さん:2013/11/17(日) 16:29:22.33 0
質問です。
@創業の功臣の中で1人や2人は粛清をまぬがれて
天寿を全うした者がいると思いますが
その名前を教えて下さい。
A粛清をまぬがれたその人物は
処世術によほど長じていたのか?
それとも運が良かっただけなのか?
>>146 劉基
朱元璋がめっさ信頼していた
暗殺疑惑もあるけれど
>>146 有名どころはこんな感じ
湯和
朱元璋の幼馴染で晋国公、粛清の危険を感じて隠居を願い出て許された。
耿炳文
朱元璋の友人で長興侯、朱元璋が死ぬまで隠居もせずに生き延びるが
靖難の変で永楽帝に処刑される。
朱元璋の粛清と靖難の変を両方生き延びた要人っているのかな
>>149 郭英がギリギリ該当するかな
武定侯に封じられ、妹が妃として朱元璋に寵愛される。
靖難の変で出征したけど永楽帝に許されて病死。
耿炳文も靖難の変の直後は許されて、2年後に蒸し返されて処刑だから
惜しかった。
燕王が城門をくぐろうとしたときに鉄板落として殺そうとした人だっけ?>耿炳文
152 :
世界@名無史さん:2014/02/14(金) 18:51:07.66 0
>>126-131 >野史があっても卑しいと正史だけが珍重され
>民間資料を軽視して
明代史に関する史料の大半は私人の手に成る史料であり、
官僚・士大夫が残した文集は、官撰史料の欠点を補って余りあるほどだ。
随筆のなかでも、沈徳符『万暦野獲編』、朱国禎『湧幢小品』、謝肇淛『五雑組』、
何良俊『四友斎叢説』などは出身地域に限らず広い範囲の多方面の問題に触れていて、
しばしば利用されている。
実録がない崇禎期については、
談遷の『国榷』や著者不明の『崇禎長編』が主要な史料となっている。
これらはいずれも、邸報(一種の官報で、民間の業者が内閣から取材した上諭や上奏の内容、
人事情報などをまとめて内外の官僚に配送したもの。明末には、印刷物の形態で普及する)や
私家著述を用いて詳細に記している。
また、銭一本編纂の『万暦邸鈔』のように、
邸報を用いて私家版の国政記録を作ることも行われていた。
このように私人の手による史料が豊富にあるにもかかわらず、
皇帝や宮廷ばかり語るのは、大いに問題だろ。
153 :
世界@名無史さん:2014/04/20(日) 13:47:07.04 0
ティムールが遠征途上で病没しなかったら、清の代わりに回王朝になってたのか・・・
155 :
世界@名無史さん:2014/04/21(月) 06:13:11.98 0
ど〜やって無敵のモンゴル帝国を排除出来たの?
156 :
世界@名無史さん:2014/04/21(月) 16:24:48.63 0
永楽帝が燕賊簒位の時に「主君に忠義を尽くすその意気やよし。命は助けるが隠居せよ」
くらい度量の大きさを見せてたら文句なしに名君評価するんだけど
怒りくるって十族誅滅とか信じられんことしたもんなあ
157 :
世界@名無史さん:2014/04/21(月) 18:58:38.10 0
158 :
世界@名無史さん:2014/04/22(火) 00:36:23.44 0
質問があります。
明朝の通貨政策は政府がきちんと統制しようと考えていたのでしょうか?
どう見ても行き当たりばったりの支離滅裂としか思えないのですが?
初代は銅銭を鋳造したかと思うと、モンゴルをまねて紙幣を発行して、
たちまちインフレにして信用を失い、
永楽帝は永楽銭を発行したか思うと、嫌われすぎて国内ではほとんど流通
しなくなって、もっぱら海外で使用され、
銅線も駄目、紙幣は信用できないと言って、民間では銀を使用しようとすれば
禁止令を出す始末
でも結局は銀本位制度みたいになってしまったが
159 :
世界@名無史さん:2014/04/27(日) 11:33:58.56 0
>>158 早くも宣徳・正統期には、
官僚が、俸給の支払いを穀物などの現物ではなく銀で行うように要請しているな。
朱元璋の経済観が時代遅れのものなのが痛いな。
既に元朝で銀本位制が定着していたのもあるが
堺屋太一が
毛沢東は現代の朱元璋と言ってたが
そういう点もまさしくそんな感じか
162 :
世界@名無史さん:2014/05/03(土) 07:10:09.18 0
>>161 周恩来も朱徳も最後まで粛清されなかったが。
>>161 堺屋太一は呉ガンの影響受けすぎだから、その評価もどうかと
毛自身も瑞金中華ソビエト主席時代と大躍進の後と二回失脚して二度復活してる
朱元璋は旗揚げして以降失脚したことはないだろう
湯和が公に封ぜられてから粛清されなかったのは
率先して兵権を返上したってのもあるが
中風にかかって身障者同然になったからのもあるな。
>>152 明王朝公式の実録でさえ不完全な抄本しか残っていないのが現状だからねー
ただ『万暦野獲編』や『湧幢小品』をメインの史料として使うのはさすがに30年前までの研究だが
モンゴル史研究の某大家が『国榷』を史料に使って
別の某大家にボロクソにたたかれていたな
漢文史料しか使っていないのに漢文史料もろくに使えないのかとかとか
それって杉山正明?
研究者としては戦後第一世代の人です
明が名前とは裏腹に暗い王朝って誰が言ったの?大半が朱元璋の粛清のイメージで語られてない?
清は無駄に領地はでかかったけど、漢民族には服飾文化を奪われるわ少数民族保護政策で官職は人口比
に合わないほど満州人に割り振られるは散々じゃね?
おまけに清代後期は今の中国に多大な影響を与えた半植民地化の時代でもあるし、別に明を笑えないと思うが
杉山正明は「正明」という立派な名前なのに、よりによってアンチ明の筆頭格の学者になってしまったのだろうか
>>170 20世紀の日本の中国史研究者の大多数が
前王朝の悪口を書いた清朝考証学者の業績の影響を受けたからです。
昔の学者は論文の枕に二十二史箚記をひっぱる人も多かったもんなー
明太祖実録の全約日本語版でねえかなあ。
別に明に限った事じゃないけど読んでみたいけど全約版がない中国の歴史書が多すぎる
京大が満蒙とチベット関連の箇所を抜書きして出版したことがあるけど和訳ではないね
小前亮の「朱元璋 皇帝の貌」て小説読んだけど
花雲が男装の麗人扱いでワロタ。
粛清を省略したのもワロタ
水滸伝七十回本方式と呼ぼう
おまけに乞食坊主の時代から朱元璋なんて立派なお名前を名乗っていらっしゃったな。
重八?誰それ
180 :
世界@名無史さん:2014/06/06(金) 22:59:59.42 0
皇明祖訓を読んだけど、凄くよく書けてるなこれ。
ほとんど修飾語もなく要点をキチンと整理して、大切なことを伝えようとする意図が文章から伝わる。
おそらく朱元璋が秘書を使わずに本当に一字一句を自分で書いたんだろう
洪武帝の詔勅は多種多様な文体で書かれているけど
むしろ口語聖旨のほうが彼の言葉をそのまま伝えている可能性が
まあどれが朱元璋の直筆かなんて問題はそれほど意味がないかも知れないが
183 :
世界@名無史さん:2014/06/07(土) 10:21:31.75 0
そもそも臣下を1ミリも信用していない太祖が子孫に伝うべき大事な文書を
役人に書かせるか?彼の性格的に。むしろここを書きなおした方が…という上奏に対して
死を賜う事によって報いると思う。
手当たり次第に殺したというよりは胡惟庸の獄がいいように皇帝独裁のために
中書省の廃止が目的のように官僚の統制についてはポイントをおさえていると言える。
185 :
世界@名無史さん:2014/06/07(土) 21:36:03.25 0
そもそも廃止するなら何で最初から中書省なんて作ったんだろ?中興の祖とかと違って
武力で国を創った君主なんだからその辺りはいくらでもできただろう。
即位した時から三省を設置しないで六部を皇帝直轄にすればよかったのに。
中書省は元朝を真似しようとしたんだよ
元朝だと蒙古人・色目人・漢人でうまく牽制させたけど
明朝だと漢人だけだから朋党派閥ができちまったんやな
初代宰相の李善長がもろ地縁コネで派閥作ったからね。
お陰で劉基ら非安徽省人が冷遇された。
189 :
世界@名無史さん:2014/06/08(日) 17:01:02.74 0
李善長の評価ってどんなもんなんだろ?
作家とかでは劉基と一緒に張良や韓信に例える人もいれば、陰謀大好きの謀略家で劉基に
嫉妬してる凡人という書き方をしてる人もいるよね。
>>189 例えて言えば前漢のショウ何みたいな立場。
一度も前線に出ず、内政一筋の人物。
劉基や宋濂に比べるとかなり身元不明の人間だよな
192 :
世界@名無史さん:2014/06/10(火) 16:33:10.56 0
途中で病死しなければ劉基も粛清されたんだろうか
193 :
世界@名無史さん:2014/06/12(木) 06:39:34.51 0
いっきに話を明末に飛ばすけど、なんで崇偵帝は北京から南京に逃げなかったんだろうね。
李自成が来るまでは十分な時間があったのに。
南明政権があることから分かるように、華南地域は李自成に荒らされまくった中原地帯と違って
余裕があるのでもしかしたら挽回の機会があったかもしれないのに
194 :
世界@名無史さん:2014/06/12(木) 10:37:12.12 0
>>193 『國君は社稷に死す』と南京遷都進言した臣下に言ったし
皇帝としてのプライドもあったんじゃない?
南京からは史可法が南京兵部尚書として援軍率いたが途中で引き換えしたし。
崇禎16年の段階まで錦州の防衛ラインは清軍を防いでいたし
崇禎17年でも呉三桂や左良玉は健在で明軍はまだ余力を残していたから
各地の部隊を北京に集結させれば勝てると思ったんだろうなあ
後から見れば錦州の洪承疇や祖大壽が清朝に降伏した時点で勢いが変わっちゃったけど
197 :
世界@名無史さん:2014/06/12(木) 16:30:13.94 0
崇禎帝、遺言に
「文官を悉く殺すも可なり」
と書いたくらいだから、余程、臣下を信用できなかったんだな。
みんな銀経済と陽明学が悪いのさ―
鄭マンを凌遅刑にしたのは冤罪だと思う。
200 :
世界@名無史さん:2014/06/12(木) 22:14:44.64 0
景山で首をつったのは皇帝と宦官だけだったのに史書には誰かが見ていたかのように克明に描かれているのはなぜ。
あと、崇偵帝の遺体ってどうなったんだ?
明史には崇禎帝と王承恩が景山で亡くなったってことと
例の有名な遺書を書き残したことしか書かれていないから
見ていたかのように描写しているのは烈皇小識あたりの野史なんじゃないか?
後、崇禎帝の遺体は清朝が改葬している。
202 :
世界@名無史さん:2014/06/13(金) 14:14:20.23 0
清が攻めてくる前に李自成が見つけなかったのかな?
バラバラにして晒すぐらいのことはやりそう、彼の性格的に
遺体が発見された後
李自成が晒しものにしたけれども
その後ちゃんと葬儀は行ってるよ
葬儀の際には遺体に礼服を着せたことは明史にも書かれているが
野史によると李自成自身が葬儀に出席して、墓への参拝も禁止しなかったそうな
205 :
世界@名無史さん:2014/06/14(土) 06:52:24.44 0
>>194 プライドと引き換えに国を失っちゃ元も子もないね。
皇帝が首都で自殺という話を聞いて清に走った人も多かったんじゃないの?
206 :
世界@名無史さん:2014/06/14(土) 07:42:47.01 0
左良玉とか南明政権に加わった人も多かったやん
207 :
世界@名無史さん:2014/06/14(土) 19:10:44.57 0
なんで清は圧倒的に人口少ないのに全土を支配できたんだろ?
揚州十日みたいな残忍な虐殺を各地でやって、髪まで剃れとか強制して成功する理由がよく分からない。
漢族はあきらめの原理が強いのか?
>>207 明代末期が重税・派閥争い・農民蜂起と悪政だらけだったから
弁髪さえ我慢すれば平穏に暮らせる康煕以後の清朝を歓迎した。
明史にかかれてるように億兆離心の状態だったのかね
210 :
世界@名無史さん:2014/06/15(日) 21:42:11.21 0
明末は、朝廷・流賊・満州の三つ巴の大混乱だったと評した学者誰だったっけ?
それはさておき、明末に書かれた本って描写がリアルで面白いね。
揚州十日記はとても捏造やフィクションとは思えない
その前の北虜南倭と党争の影響も大きいからなあ
トップダウンで問題を処理しようとした張居正は総スカンをくらっちゃったね
213 :
世界@名無史さん:2014/06/19(木) 00:03:52.80 0
明季北略の北京が陥落するまでの一週間前後の記事面白いなぁ。
一部には誤伝もあるらしいが、緊張感とリアル感がいい。ヒトラー最後の12日間に通じる面白さがある
214 :
世界@名無史さん:2014/06/19(木) 14:32:44.99 0
陳舜臣の中国の歴史の明末の辺りで国に殉じた文官を列挙している。
215 :
世界@名無史さん:2014/06/20(金) 19:54:56.10 0
日本で明の事が好きという人があまり少ないのは、単に岳飛みたいな有名武将の小説とかが
ないからなんだろうか?それとも、倭寇だの朝鮮出兵だので喧嘩ばかりしてたからか?
人気がないのは明の時代だけではないさ
217 :
世界@名無史さん:2014/06/21(土) 08:36:36.65 0
宋までは比較的人気だと思う。
元寇あたりから雲行きが怪しくなって、民国で爆発的に中国嫌いの風潮が高くなってる気がする
218 :
世界@名無史さん:2014/06/21(土) 19:08:59.21 0
明は馬鹿とひきこもりの皇帝が多くて凋落したとかよく書かれるけど
朱元璋が確立した皇帝独裁体制で、しかも高度に行政事項が発達したあの時代ぐらいになると
皇帝個人ができる事には限界があるだろう。
むしろ能力がないなら、気に入らなければ取り変えが容易な大学士たちに政務を
委任していたほうが、能力もないのに親政に精を出されて国中をひっかきまわされるよりはよかったんじゃないか?
ただし、宦官を使って徴税したり政務に参与させたのはまずかったけど
>>215 それだと向こうから日本近海まで艦隊派遣してきた唐や清は人民共和国並みに嫌われてていいような気が
日本と関わり持たない分には、元のチンギスやフビライ、明の永楽帝や鄭和は英雄だろう。
康熙帝雍正帝の業績を受け継ぎ、開花させた乾隆帝も人気はあるだろう。
けざわあずまさんはちょっと昔は大人気だったぞ
藤子不二雄A先生や横山光輝先生が漫画にもしてるし
222 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 10:45:03.40 0
>>220 フビライ程悪い意味で日本と関わりを持った中国人はすくないと思うが…
中国人であっても、漢民族ではないから・・・
224 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 11:01:19.97 0
唐は半島で一戦交えたといっても、当時としては優れた文物の交流や留学制度等の正式な国交もあったので
日本からの評判は悪くないだろう。阿倍仲麻呂は彼の地で大臣にまで取り立てられてるが、こんなケースは後にも先にもない。
清は阿片戦争あたりから日本に馬鹿にされる原因を作り出した張本人といえる
225 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 11:11:25.13 0
明スレで唐や清の話題出すと洪武帝陛下が嚇怒されて凌遅三千刀されるぞ。
光る 輝く 明るい 洪武帝
227 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 11:16:34.37 0
お前等少しは文徴明や唐寅ら明代の芸術家も話題にしてやれよ。
まるで明代が文化不毛の暗黒時代じゃないか。
宦官を大幅起用するなんて、LGBTの先駆けなんだよな。
230 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 11:54:48.92 0
明の文化の話をするならまず心学だろ
これは後世への影響も大きい
>>229 永楽帝の時は鄭和・イシハと傑物揃いだったから余計宦官依存度が増した。
孫の宣徳帝の時にそれに習えとばかりに宦官養成所の内書堂創立させたのもある。
明はなんか暗い
233 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 14:20:52.98 0
杉山正明みたいなこと言うなよ
そりゃ東廠や錦衣衛の手下がウロウロしたのは確かだろうけど
東廠って時代劇では特殊戦闘技術をもった隠密集団みたいに描かれてたりするけど
実際の活動はやっぱ地味だったりするのかね?
235 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 15:56:08.99 0
東廠にしろ幕府隠密にしろCIAにしろKGBにしろ、
そういうのの活動は実際には物凄く地味だぞ
考えて見ろよ
派手なことやったら意味ないだろ
236 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 18:26:01.70 0
錦衣衛って悪名高いけどNKVD並に粛清しまくってたのは洪武帝の時ぐらいで
後世は別に畏怖の対象の組織ではないだろ。
237 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 23:59:37.87 0
>>236 そうなん?
飲み屋でちょっと魏忠賢の悪口を言ったら東廠に拉致されて殺されたとか何かで読んだけど・・・
死して屍拾う者無し
滅満興漢を唱えた中国人は愚かだった
漢民族が支配する社会は不幸が続く
張居正に失脚させられた高拱が書いたとされる病榻遺言という怪文書があるんだが
読んでると宦官とかと話している時の会話が文語体じゃなくて現代中国みたいな口話で記録されてて面白い。
明代の中国語って今とあまり変わらないのね。
>>236 嘉靖帝即位の際に錦衣衛の人員を10万人前後削減したとあるから
それなりに巨大な官僚機構の一翼を担っていたのだろう。
244 :
世界@名無史さん:2014/06/25(水) 13:00:42.40 0
>>243 あの時代でここまでの巨大組織だとかえって機能不全を
起こしそうな気がするが
現実にアメの傍聴組織でも、ここまでやるかと思えるくらい
盗聴をしまくっているけど、そんなにアメが外交上手とも思えないもんなぁ
むしろライバルのKGBあたりは、アメのそういったやり方を
小馬鹿にして、ハニトラ等人間に的を絞ったやり方を採用して、
アメ以上の成果(スパイ組織限定)をあげていたからな
今の黒い菅直人はアホだからベンガジ事件とかで
やらかしまくってるように外交やスパイとかの扱いが最悪
よくビンラディンを殺せたもんだと思う
ロシアとか中国はその辺の敵失を簡単に利用できるから
上手にやってるように見えるだけなんじゃね?
247 :
明太祖:2014/06/25(水) 14:04:10.97 0
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>>245 朕は皇覚寺で文字を覚えたぞよ!
朱元璋の凄まじいところは、とんでもない努力家で
貧農上がりで歴史を学んで悪所を把握して実際の政治に反映させたところだな。
まさにアジアの巨人、中国屈指の皇帝だと思う
>>242 張居正の時代でも外交文書の翻訳はまだ元朝の蒙文直訳体を使っていたね
>>248 惜しむらくは度を超した、と言うか大虐殺レベルの粛清か。
皇太子朱標や馬皇后が早死にしなければ随分と違ったのだろうが…
251 :
世界@名無史さん:2014/06/26(木) 15:28:34.59 0
後、六部を皇帝直轄にして皇帝にかかる政務の負担が途轍もなくなったのも。
その代替として内閣大学士と司礼監太監が宰相クラスになった。
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l:::::::::. 有? |
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新安王・朱有[火喜](しんあんおう・しゅゆうき)
明の王室の一人で、人を食べるのが大好きな変態。余りの変態ぶりに王位を剥奪されたという。
史書には「性狼戻。嗜生食人肝及腦膽。常以薄暮。伺有過門者。輙誘入殺而食之。其府第前。日未?。即斷行跡。
……乃出帝系。亦宗藩異事也。」とある。
>>250 粛清も好意的に考えれば官僚や知識人の腐敗と民衆への負担という点を考慮した
朱元璋の行動だったすることもできる。実際に朱元璋の発した命令や諸々の政策からは
腐敗への異常なまでの警戒を窺う事ができる。空印の案もその一環だと思う。
自らの権力を保持し続けるためや権力闘争で官僚のみならず民衆まで巻き込んだ虐殺を
やらかした毛沢東やスターリンと同列にすることはできない。
>>252 明の宗室といえば変な奴ばかりが注目されるが
パトロンとして文化の発展に貢献した人間も多かったと聞く
明の皇族って明末には支払う年金にも苦労するほど増えすぎたのに
清の時代には全く出てこなくなっちゃったよね。みんなどこいったんだろう?
李自成や清に殺されても半分ぐらいの家系は生き残ってるはず
乞食坊主だといわれた朱氏の家系だとは、名乗り辛いんだよ。
そこんとこ察してくれよ。
もう皇族じゃないんだから普通の庶民になったんじゃないの?
朱徳とか朱鎔基とか、もしかしたら子孫かも
>>254 空印の案や文字の獄を含めた一連の粛清では数百万人に累が及んだそうだ。
当時の人口から見ても犠牲者の大半は民衆だろう。
それに重臣を排して自らの権限を増したり皇族を重要ポストに就けたりしている。
治世能力に関しては歴代皇帝の中でもトップクラスなのは間違いないが。
ちなみに毛沢東はその点は下から数えた方が早そうだ。
259 :
258:2014/06/27(金) 17:08:30.95 O
>>255 清から延恩侯の爵位をもらってた明の末裔一族がいる
>>257 そのへんの人達は、客家とのハイブリッド家系なので、つらなるとしたら朱子学の朱熹。
262 :
世界@名無史さん:2014/06/27(金) 21:20:47.24 0
>>254-255、
>>260 皇族の数があまりにも増えすぎた明末になると、
皇族も一般の職に就くことが認められるようになり、
崇禎期には、科挙に合格して進士になった者もいる。
>>255 処刑された朱慈煥みたいに姓を偽って逃げて、
子孫は偽った姓のままという人も結構いそう
264 :
世界@名無史さん:2014/06/29(日) 16:47:41.42 0
御史の袁凱が決裁書を持ってきた時。
朱元璋「朕は罪人は殺そうと思うが皇太子は寛大に扱えと言っておる。
汝はどちらが正しいと思うか?」
袁凱「陛下が殺そうとなさるのは法を厳守するため。
太子が寛大に扱えとは慈しみの御心からです」
朱元璋「貴様!二股をかけたな!!使う訳にはいかぬ!!!」
皇帝の嚇怒に衝撃を受けた袁凱は狂人を装って死を免れようとした。
朱元璋「狂人なら痛みを感じないものだ(ニヤリ)」
袁凱の肌を錐で刺して愉しむ皇帝。
堪り兼ねた袁凱はついに悲鳴を上げた。「ぎゃーーーーーーー」
その後、自宅に帰った袁凱は自らに首輪を嵌め犬に扮し
糞を食らう(実際は水飴ときな粉で作った物)などしてようやく狂人を認められ
死刑になることを免れた。
NHKで永楽帝やってた
266 :
世界@名無史さん:2014/07/03(木) 13:52:12.77 0
>>254 こんなのもいた。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ ノ( U \
/ U ~ ヽ
l::::::::: \,, ,,/ |
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ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
◎八大山人朱トウ
1625?〜? 明末清初の画家で明末四僧の一。字は雪個,号が八大山人。
太祖陛下十代の孫。若い頃明を復活しようと運動していたが、
周囲に止められ仏門へ入った。清をあざむくためいつもきちがいの真似をして、
あるいは泣きあるいは笑うという異常な行動をとっていたといい、
毎日アヒャっていたという。書家としても画家としても超有名人で、
司馬遼太郎にもその生涯を描いた作品が有る。
八大山人は科挙を受けるために民籍に下ったって書いてあったんだけど
実際、科挙を受けて尚書や大学士クラスになった皇族っていたのかな?
268 :
世界@名無史さん:2014/07/06(日) 10:22:43.17 0
わざわざ皇族の身分(何もしなくても国から俸給が貰える)捨てて
危険な高級官僚になりたがる人はいないだろう。
269 :
世界@名無史さん:2014/07/06(日) 10:47:02.14 0
皇族で科挙の学力について行けるのはどれほどいるのか・・・
世代が遠くなれば、自動的に貴族ではなくなる清朝ならば自然なんだけどな・・・
271 :
世界@名無史さん:2014/07/06(日) 11:01:33.85 0
>>270 それは明を見てての反省だろう
>>268 中期以降科挙官僚があぶれてきてるのに能力の無い皇族を官僚にしてもなぁ・・・
272 :
世界@名無史さん:2014/07/06(日) 11:14:08.97 0
明代の科挙は八股文重視のため優秀な人材が落第するケースが多かった。
文徴明も四十代まで落第している。
273 :
世界@名無史さん:2014/07/13(日) 11:52:54.70 0
八股文重視の科挙改革で下層階級も合格できるようになったから
一概に非難は出来ない。
>>158 通貨政策を政府が統制できてたのって元までだと思う。
(清の雑種幣制わけわからん)
初期は洪武通宝、永楽通宝、宣徳通宝などを発行していた。
サイズは基本的に、宋銭を踏襲している。というか、これ以下にしたら嫌われるのが目に見えている。
だが、おそらく明代には鉱山開発も盛んではなく、流入銅も十分ではない
(日本の銅山開発が進んだのも江戸時代だろうし)ことで、
一文=一銭(ここで言う銭は重量の単位で、一銭=3.73g≒宋銭一枚の重さ)
で流通させようとすると、発行額<鋳造費用になって発行するだけ赤字になる。
※『宋銭を全部回収して、小さくした新しい銭を発行し直せばいい』と思うかもしれないが、
推定残存量が一億貫文もある宋銭を回収して再発行するのに果たしてどれだけ時間がかかることやら。
銀貨なら出来るんだけどねえ。
そんなわけで銅銭発行で赤字になるのを嫌い、宣徳以降は大規模な銅銭鋳造をしなくなった。
大規模な銅銭発行をしない、だが銭の流通は維持する、となると将来は銭の価値が上がるのが目に見える。
となると『財産を貯蓄するには銅銭が良い』、ということになるのだが、別の問題がある。
『市場の末端レベルでの支払いは、紙幣や銀では額面が大きすぎる』という当たり前すぎる問題だ。
元代からこの問題はあって、民間レベルでは『茶引換券』『塩引換券』などが代わりを担っていたこともある。
これが明では別の方向、つまり私鋳銭の流通に向かって、1480年頃から撰銭の害が上奏されるようになっている。
私鋳銭は主に宋銭の銭銘を使っていた。これは宋銭の方が実績があったというのもあるが、
『永楽通宝や宣徳通宝を私鋳したら罪になるというのは分かるが、宋銭を鋳造して何が悪い』という私鋳する側の論理もあった。
ともかく、私鋳銭が日常取引では使われるようになったのだが、当時の私鋳銭は誰が見ても分かる物だった。
質が悪いとか関係ない。『見た目が新しいからすぐ分かる』当然すぎる結果だ。
この結果、『見た目が新しい銭は嫌→だから正規の永楽通宝や宣徳通宝も嫌』という結果を招いて、明中期は私鋳銭の時代になる。
(以上が銅銭に関する基本事情)
>>158 一方で銅銭の欠点は小額通貨であり、地域間輸送すると輸送費が高くつくことだ。
宋の頃には既に問題になっていて、交子・会子といった手形の流通が発達し、元の紙幣の起源となった。
俺も鉱山や精錬には詳しくはないのだが、銅鉱石というのは一定量の銀を含んでいるのが常らしく、
宋銭を大量発行した結果、金に落とされた時の開封には銀の所蔵が大量にあって
金や地方の政権はその銀の一部を貨幣として使っていたらしい。
元が建前として紙幣本位制にした理由は、
純度が違う地方政権の銀を回収して発行し直す手間を嫌ったのもあると推測される。
そしてその元王朝は、銀を外国との決済でどんどん出していった。
結果、1280年頃の欧州は価格革命以前にしては珍しく、銀が潤沢にあった。
ともかく、元が滅びると逆に外国との交易で銀が再び中国に向かってやってきた。
銀と紙幣なら銀の方を信用するというのは当時の人の感覚としては不思議なことでもなく、
結果、明では紙幣があまり信用されずに銀が流通するという結果を招いて、
一条鞭法の全国実施もそれを追認した結果になった。
で、以上の事実を前にすると王朝の出来る事って無力だと思う
276 :
世界@名無史さん:2014/07/20(日) 12:09:45.97 0
我が太祖高皇帝のとき、開平王はいつも妻のひどいやきもちに悩まされていました。
陛下が侍女を下賜され、王がその侍女の手がカワイイといってよろこんでいたら、
妻は即座にその手を斬ってしまいました。王は憤り、かつ懼れました。
朝廷に出かけたときに、機嫌がよくないのを見て、
陛下が再三詰問するので、王はようやく事情を説明しました。
すると陛下は大笑いして、
「そんなことはささいなことだ。また下賜するから気にするな」
と仰り、酒を飲ませて暖かく慰めました。
その間にひそかに校尉数人を召しだし、王の邸宅に行ってその妻をバラしてくるよう命令しました。
そして群臣に肉一切れずつを賜い、名づけて「悍婦の肉」といいました。
肉を賜っている時、王はまだ朝廷にいて、その場でこれを賜りました。
王はたいそう驚き、感謝して帰りました。
「怖ろしい悪縁の日々もこれで終わりだ。これは未だかつてなかった愉快な出来事だ。
唐の太宗の一億倍も素晴らしい」
万暦帝の優秀さについて。
俗説に惑わされずに語れ。
278 :
世界@名無史さん:2014/07/21(月) 17:16:04.04 0
万暦帝は何故神宗なんて廟号をになったんだろうな
大深度地下土木工事 万暦帝は先駆けかもな
万暦帝といえば、明朝としては久しぶりに銅銭を大量発行したことも業績。
万暦通宝は通称が金辺銭で、もちろん金なんて使っているわけはなく黄銅(現在の5円玉など)なのだろう。
まぁ各地で私鋳銭が乱造されて明銭より宋銭の方が価値のある時代でもあるけどな
>>279 たまたま発掘されたのが万暦帝だけであって、他の12陵も似たようなもんだろう。多分
283 :
世界@名無史さん:2014/07/22(火) 21:41:18.73 0
>>282 明の十三陵のうち、現在一般公開されているのは、
万暦帝の定陵、永楽帝の長陵くらいだっけ?
284 :
世界@名無史さん:2014/07/24(木) 14:30:16.02 0
定陵は共産党が万暦帝の棺ガソリンで燃やしたけどね。
紅衛兵だろ
鄭和はHG
遠征! セイ セイ セイ セイ セイ セイ セイ セイ
287 :
世界@名無史さん:2014/07/27(日) 11:02:08.78 0
明代に王冠という富豪が居た。妾愛人を数十人も抱え、彼女たちが妊娠して
出産間近となると薬で堕胎させた。そしてその胎児を石臼で挽いて挽き肉にした
挙げ句、強壮剤と混ぜて丸薬にして服用にした。
それ以外にも赤子を買い取っては煮て食べた。
やがて悪事は露見し、陵遅の刑に処された。
>>275 紙幣は金朝でも銅銭を抑えた主要通貨になってるよ
元朝が紙幣を導入した理由は
金末元初に地方軍閥が各自で濫発していた紙幣を整理統合するためと
西方との交易のために支配層が銀を独占しようとしたため
明初では物々経済だった民間に銀貨幣が浸透したのは
王朝政府が対モンゴル防衛のために南北の物流を大規模にさせたから、という説があるね
文書史料を使った立論が売りではあるが、他の研究者からみたらかなり冒険的らしいけど
え、単純に銀の流通量が増えただけじゃないの?
初期の麓川三征で銀山ゲットしたし、中期以降は
日本と中南米からの銀が流入したんだろうし
>>290 1453年に明に入った勘合貿易船により、既に南北で銭相場(銀―銅銭の取引価格)
に著しい差が生じていることが報告されていて、
その原因は騎馬民族対策で北方に置いている軍隊の費用を銀で払っていたからであり、
この時点で財政の一定割合を銀が占めていたことが分かる。
一方でコルテスのアステカ征服は1521年、石見銀山で灰吹き法が初めて行われたのは1533年で嘉靖帝の時。
かなり後期にさしかかってる時期にならないとその辺の大量の銀は入ってこない。
それ以前の銀の出所はどこか?
「実は、モンゴルが西に移動させた銀(宋銭を鋳造した時に出た副産物)が貿易を通じて東へと戻ってきたんだよ!」
「な、なんだってー!」
というのが黒田明伸先生の『銀の行進』説
いや、麓川討伐って1440年代の話なんだけど?
それで雲南の銀山と南西シルクロードを完全に抑えたことで
その銀を軍事費、特に北方騎馬民族対策に使う→徐々に民間、さらに南方って流れだろ
元王朝の銀は西方だけではなく南中国にも還流したので
元末明初は江南にかなりの銀が蓄積されていて朱元璋の軍資金になっているから
中国からどれほどの銀が流出したかは慎重に考えないとなあ
それにモンゴル時代に陶磁器を初めとした中国物産が西アジアに輸出されているので
そちらの取引からも西方に流出した銀は中国に還流しているんじゃないか
295 :
世界@名無史さん:2014/07/30(水) 14:53:03.08 0
元時代に蓄積された銀は洪武帝即位の頃には
ムスリム商人があらかた西アジアに持ち帰って
中国には僅かしか残らなかったそうだ。
洪武帝が現物主義経済を選択したのも銀不足がある。
質問です。明の割と早い頃に元史が編纂されていますが、
そもそも『元史』ってタイトルだったんですか? というか、朱元璋の避諱はしてたんですか?
297 :
世界@名無史さん:2014/07/30(水) 22:12:50.28 0
>>296 元璋は諱じゃないんじゃないの?
たしか本名は重八
>>295 洪武帝が大明宝鈔を流通させるために民間の銀取引を禁止しているし
即位前も江南の金持ちから銀を徴収しているので
江南では銀は無くなっていないでしょう
西方に持って行かれたのは華北の銀じゃないの?
>>296 李善長が第一稿を洪武帝に提出したときの上奏や
纂修した時の凡例にもこのタイトルが使われているので『元史』と呼ぶしかないんじゃないかね
あと『元史』だと朱元璋の人名は出さずに彼について書く時は「大明」としているね
例えば
「是月,大明兵与偽漢兵大戦于鄱陽湖,陳友諒敗績而死」とか
避諱ってしてる時としてないときがあるよね?
これってなんの差?
前述の朱元璋の元璋も重八(百歩譲って本名としても)も明一代で公文書に普通に使用されてるし…。
301 :
世界@名無史さん:2014/07/31(木) 21:43:44.36 0
>>299-300 時代が下るほど避諱とされる字があまりにも増えすぎて、
文章表現に支障をきたすようになったため、
避諱は緩和されていった、という話があったような。
>>299 あわてて作らなければ
明史にでてくるヌルハチみたいに我太祖高皇帝とか書けたのにね
元と明は避諱についてはわりとルーズだったらしいね
304 :
世界@名無史さん:2014/08/01(金) 08:42:58.08 0
武則天のように、「照」という字が使えないと世の中が困るから余が名を変えよう、と言えばいいのだが
避諱のことを考えるのか、中国の歴代皇帝は三代目あたりから『普段は使わなさそうな字』が名前に来るんだよな。
南明の皇帝なんて格好つけたかったのか
難しい字を諱に使ってるなあ
明と清を見てみると皇子の排行は避諱の対象外にしてるっぽいね
>307
「胤」「弘」のような場合もあるから必ずしもそうは言いきれない
康煕帝の諸皇子なんてみんな「允」に改名させられてるし
アキナ
サスヘ
310 :
世界@名無史さん:2014/08/09(土) 13:15:47.11 0
鄭成功て今の中国から見たら英雄に入るのかな?
311 :
世界@名無史さん:2014/08/09(土) 15:08:01.46 0
>>310 民国と人民共和国、どちらも偉大な英雄としてる
ただし、英雄として賞賛してる理由が双方で全く違う
312 :
世界@名無史さん:2014/08/10(日) 21:45:33.74 O
紅巾の乱から明の建国の
時代は三国や楚漢に匹敵
する戦乱状態でゲームや
漫画にする題材に成りそう
だけど見掛けない気がする
純粋な日本産だと…コーエーのチンギスハンIVでは要素はほとんどなかったなあ
パラドゲーでもワンオブゼムだし(EUだとどっちかというとティムールの敵ってイメージっぽい)
>>312 ハ陽湖の戦いなんて、赤壁の戦いを上回ってるもんね。
でも洪武の粛清がひどすぎて、爽快なエンディングにならない。
315 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 13:11:38.30 0
チンギスハンIVで出なかった明の初期の功臣のステータス
劉基 政治90 戦闘65 智謀97 BCCB 文化外交登用 機動火攻伏兵
常偶春 政治57 戦闘93 智謀71 AAAB 機動突撃連射城攻
湯和 政治65 戦闘86 智謀68 ABAB 農業建設 突撃火攻城攻
316 :
世界@名無史さん:2014/09/09(火) 02:21:28.42 0
>>314 ポプラ社の呉承恩主人公の「文学少年と運命の書」って小説では、
劉基の子孫相手に呉承恩がそのあたりかなり論じてたな。
赤壁なんて実際しょぼい、三国演義なんてハ陽湖ぱくって孔明の手柄にしてしまってる、
孔明なんてぶっちゃけ奇策は下手みたいな。
ちなみに劉基と常偶春の子孫が戦ったりしてて、
常偶春の子孫は山賊に身を落としてた(むしろ原点回帰か)
明題材の小説少ないからこの人達が取り上げられてて結構嬉しい。
317 :
世界@名無史さん:2014/09/15(月) 07:17:30.54 0
徐達の子孫は明一代ずっと残ってて、最後の魏国公は清に投降したと書いてあるのみで
その後の行方が分からない。どこいったんだろ?
岩波の井波律子『中国人物伝』の四巻は12月だが明で何人くらいになるのかな?
全部で百人以上らしいが。
>>318 明清近代で25人なら明の枠は5人くらいになりそう。
朱元璋、永楽帝、朱熹、張居正、鄭成功、程度?
320 :
世界@名無史さん:2014/09/15(月) 10:35:17.72 0
322 :
世界@名無史さん:2014/09/15(月) 18:38:17.48 0
文徴明、董其昌、徐光啓、マテオ・リッチなど、
文化面での重要人物も忘れてはいかんだろ。
全中華皇帝ワーストクラスの暗君万暦帝は無理かなw
324 :
世界@名無史さん:2014/09/15(月) 18:59:33.68 0
逆にワーストクラスの暴君はと言えば朱元璋は違うね
朱元璋は名君でもあり暴君でもあるから
暴君としての面に限って言っても明が大国だから被害が大きかったというだけで
キチガイっぷりなら南北朝のキチガイ暴君達と比べたらなまやさしいものだろ
325 :
世界@名無史さん:2014/09/15(月) 19:27:35.54 0
全中華皇帝ワーストクラスは金海陵王だろが
鄭和がいない・・・
>>325 明代じゃないし暗君と言うより暴君だろ。
単純な暗君と言う意味ではワーストではないが、
『上司にしたくない中国皇帝ランキング』を作ったら朱元璋が一位だな
>>328 俺だったらイチ押しは高澄だな。
あと雍正帝も大変そうだ。
易姓革命を成し遂げる程の気概と能力を持った一握りを除き、支那の被支配層は、殆んど救いの無い
無明の世界に生き続けたと言っても過言ではありません。そんな被支配層の中に浸透した道教は、
彼らの阿Q性を募らせるだけの阿片的な土俗宗教でしかありませんでした。
結局のところ、支那文明を瓦解させるか、少なくとも抜本的に改変させるかしない限り、支那の阿Q的
被支配層には、そして、究極的には支那の利己主義的な支配層にも、この無明から逃れる術は無かった
わけですが、悲劇的にも彼らは、その手がかりを東方の日本列島における人間主義に求めることなく、
西方の終末論的・救世主待望論に求めることなるのです。
西方の終末論的・救世主待望論の支那版による支那文明への挑戦の第一弾は、どちらも西方から
やってきたところの、マニ教と弥勒信仰を習合させた白蓮教を掲げた、阿Q達による諸叛乱でした。
思い起こせば、14世紀に白蓮教徒が紅巾の乱を起こして元を北に逐った時、支那文明大改変の機会が
一瞬訪れたものの、乱の有力将領であった朱元璋の裏切りによって明が建国されてしまい、それは
単なる易姓革命へと堕してしまいます。
そして第二弾が、旧型欧州文明由来のキリスト教中の終末論・救世主待望論の部分を肥大化させ、
洪秀全をキリストの弟たる救世主に擬したところの、阿Q達による太平天国の乱でした。
この乱もいたずらに人命の喪失と国土の荒廃を齎しただけで、失敗に終わります。
そして第三弾ですが、欧州文明由来の民主主義独裁なる終末論・救世主待望論の痕跡を強く残す
イデオロギー群を、主として日本経由で次々に継受する事で、まずナショナリズムを掲げ、「打倒清朝、
回復中華、樹立民国」を叫んだ辛亥革命が起こり、次いで、ファシズムを旨とする中国国民党とスター
リニズムを掲げる中国共産党の内戦時代となり、最終的に中国共産党が内戦に勝利を収めて、
ここに初めて阿Q達を糾合した形で、スターリン主義を掲げた支那文明の大改変が断行されるのです。
しかしその後、ケ小平及びその後継者たる中共の歴代最高支配層は、スターリン主義は支那文明の
大改変こそ成功させた・・例えば、女性差別の軽減、脱儒教/道教化・・ものの、被支配層の阿Q性
及び支配層の利己主義の矯正には失敗したことから、ついに、東方に本格的に目を転じる事とし、
日本化戦略を発動する運びとなり、まず日本型経済体制の継受を目指し、それをある程度達成した
上で、今度は日本の人間主義そのものの継受に現在乗り出しており、そして将来における日本型
政治体制の継受を目指しているわけです。
332 :
世界@名無史さん:2014/09/17(水) 20:28:08.43 0
朱元璋はかなりの名君だろ。少なくとも民百姓に暴政を敷いた事実は無い。
貧困層出身ということや官僚の粛清を断行して後世の士大夫からは徹底的に嫌われて
史書の評価は低くなってしまったが、政治力や出世してから身に付けた教養は一流レベルなことは
朱元璋の定めた法令や文書を見ても分かる。
以前も書いたが、一連の粛清の犠牲者は数百万に及んでいるのだから
どう贔屓目に見ても民百姓が大半だろう。
334 :
世界@名無史さん:2014/09/17(水) 21:29:11.13 0
数千人とは読んだことあるが、数百万人て?
法令や文書自体は文官が肉付けしてくれるものだろう
336 :
世界@名無史さん:2014/09/17(水) 23:14:49.98 0
>>332 >教養は一流レベル
本当に教養があったのなら、「文字の獄」なんてアホなことはしないと思うが。
「僧」と音が似ているという理由で「生」という字を禁止した点を見ると、
朱元璋の読み書き能力はたかが知れている。
読み書き能力だけに関して言えば、
幼少時から士大夫に教育を受けた建文帝以降の皇帝の方がよっぽど高いだろう。
>読み書き能力だけに関して言えば、
>幼少時から士大夫に教育を受けた建文帝以降の皇帝の方がよっぽど高いだろう。
当たり前でしょう。皇太子として当代最高の学者から教育を仕込まれた皇帝と
一家ほとんど餓死の乞食上がりから皇帝になった人を同じ土俵に立たせるのは間違い。
朱元璋はそこから学を得て知識をつけたのが凄い。
338 :
世界@名無史さん:2014/09/20(土) 15:07:17.56 0
明の皇族で清一代を生き延びた人っていないの?
延恩侯以外で。
元首相の朱鎔基が朱元璋の末裔らしい
うそだろ? 朱鎔基は客家の家系が混入してるんだから、朱熹の家系だろ?
342 :
世界@名無史さん:2014/09/21(日) 02:44:04.35 0
実は朱徳将軍が
南北朝時代(日本のね)と聞くと恐ろしく古い時代という気がするが
明時代というとかなり最近の時代な気がするのはなぜだろう…
記録が歴史が紀元前15世紀以上(殷)から残る中国と6世紀位からの日本を比べたら
高校生の7年前は大昔だけど35歳のおっさんの7年前はつい最近、みたいなもん。
たくさんある王朝ならべると最近まであった清のひとつ前か、って感じになってしまうのかも
346 :
世界@名無史さん:2014/09/22(月) 12:48:13.89 0 BE:474325274-2BP(1000)
>>344 2歳のアメリカ人にとって7年前は遥か古代
以前何かの本(多分右翼系学者)では、明は今の中国人の直接の原型となった王朝で
この辺りから現代に繋がる中華民族の腐敗化と民度の低さが顕在化していると書いてあったな。
腐敗だの民度だのは別として、明はよくも悪くも現代中国っぽさが出始めたという説はなんとなく説得力があったな。
なんでだろ?
348 :
世界@名無史さん:2014/09/22(月) 19:21:59.51 0
>>347 日本人にとってはこんな事情がある
160 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:03/01/02(木) 16:22
明より前の文化、漢字や四書五経、漢の史記とか、
唐の唐詩とか天台宗、華厳宗、浄土宗とか、宋の朱子学、水墨画、禅宗とかは
日本人にとっては中国文化というより
もはや日本の伝統文化の一部となってる。
あまり外国の文化という意識はない。
日本人にとって外国文化としての「中国文化」は明から始まってるように思う。
元寇は中国人というよりモンゴル人の侵略戦争色が強いからその説では元は省略されてるのか…。
350 :
世界@名無史さん:2014/09/22(月) 20:08:28.72 0
元に支配されてるうちに何かが変わったとおいう感じだ
同じことは西方のイスラム世界にも言えるぞ
モンゴル前と後では何かが変わってる
宋代の溌剌とした自由がなくなったって感じ。
元を経た明代の繁栄はなんだがえげつない印象なんだよな。
小説金瓶梅の実際のモデルは宋じゃなくて明だけど
それに代表されるエゴの塊って。
政治がろくでもないからせめて欲望だけは自由に、という。
暗君扱いだけど東京夢華録読むと徽宗皇帝は開封の市民にずいぶん慕われてるんだよな。
皇帝と民衆の明るい交流とかを著者は懐かしんでる。
でも明代にそんな温かな交流が皇帝と民衆の間にあっただろうか。
宋って明と比べてそんなにいい時代か?官僚が党派を作ってくだらないことで足を引っ張り合っているうちに
国が疲弊し、異民族に攻められて滅亡しましたってパターンは明と変わらないと思うが。
しかも南宋は北宋の事例もあるのにたった100年で忘れて同じ過ちで滅亡してる。
なのに明がダメで宋がいいという風潮の原因はやはり
>>348なんだろうか。
>>351のえげつない印象というのは外国としての中国だからか?
>>348 三国志演義や西遊記等の白話小説も日本の文化の一部になってるじゃん
>>348 中国の文化の型というのは宋代までに完成して
明清はそれが民衆に浸透していく時代だから
白話小説然り宝巻等の民間宗教然り
明マニアは必ず読んだ事があるであろう、幸田露伴の「運命」。
作者はあれほどの文書力と知識があるのに建文帝生存説を当初本当の話だと思っていたらしい。
なぜだ
露伴は歴史研究家では無くて文学者だから
無味乾燥な事実では無くロマンのある真実に魅かれたんだろう
建文帝生存説ってそこまで信憑性のない荒唐無稽な話なのか?
明の時代て建文帝自体いないことになってたんじゃないの
>>358 どう考えても荒唐無稽。
多分見つけてその場で殺したんだろうけど、聞こえが悪いから煙の中に消えた事にしたんだろ
明の大臣の服装、スタイリッシュで好きだなぁ。
とある清代のモンゴルの歴史書だと
永楽帝はトゴンテムルの落胤で建文帝は洪武帝の実子
永楽帝は建文帝の首に焼印を押して追放したと書いてる
弘治帝が中興の祖とか名君とか言われてるけど
あれだけ後継者の育成に大失敗してるのにどうなのかなと思う
中興の祖とか名君とか言われているが、別に無謬とも評されてはいないだろ。
そういえば自称十全の皇帝は居たなw
その基準でいくと李世民ですら糞皇帝だな…
某ゲームで使う都合上、明の皇帝の事績をざっと見てみたけど
どいつもこいつも本当にひどいんだよな…
明が出てくるゲームってなんだ、気になる。
戦国史?
いや、For The Gloryっつー洋ゲー(日本語版もあった)
皇帝専制とはいっても
明の中〜後期になると
実際は官僚の集議で政策が決まっていくからな
だって皇帝が放蕩三昧で政務を完全放棄してるんだもん。
>>369 政務をとらない方が暴君化を防いで効率よかったのでは?
専制支配で皇帝が臣民から隔離された存在になってしまうと
官僚層との意思疎通もとれない
現場の状況もわからない
そんな状態でやる気を出されても政治が混乱するだけですよ
その辺の事情を考察した本があって、それを底本にして明代の皇帝を解説したやる夫スレがあったな。
曰く、皇帝が政務に励もうとしても官僚が徒党を組んでやることなす事に反対してくるうえ
下手にこういう輩を死罪にしても後世に暴君と言われるのが嫌だし、何回か衝突してるうちに心底嫌になって
官僚の顔を見るのが嫌になって引きこもるパターンが定例化してるとか。
実際に最初はマジメだったけど、段々堕落したと評される皇帝も多いしね
結論
史書の批判も恐れず、腐敗官僚の首を切り
断固とした処置を取り、大明三百年の礎をたった一人で築いた
太祖洪武帝こそ至高の皇帝
皇帝陛下、万々歳。
政務に熱心な皇帝に限って現実性を欠いた強硬策を主張するし
明代後期の段階でモンゴル征討なんて無理無理
明代中国語って、現代中国語とほとんど一緒でタイムスリップしても普通に通じるって本当?
376 :
世界@名無史さん:2014/10/08(水) 23:58:03.54 0
>>375 明代の人って「〜的」とかは使わないんじゃなかったっけ?
>>375 現代の北京語は清の時代に満州語の影響をかなり受けてるらしいから
ほとんど一緒って事は無いのでは
受けると言っても人口比では100対3ぐらいなんだから
統計的に満州語が入ったせいで中国語が大きく変容するというのはありえないでしょう。
一部の単語とか俗語に影響はあるけど、会話が困難になるということはないはず
>>378 陸軍であります的な影響はあったのでは?
>>376 連体修飾の「〜的」なら元代から使われているよ
それまでは「〜底」だったけど
日本語の、感情的な〜とか具体的な〜の「的」の使われ方は明治時代に
宋代の中国語を再現してできたとか教科書に書いてあったが、これは嘘で〜底が宋代の用語なのかな?
宋代でも〜的の用法はあるけど一般的ではなかったみたいだね
384 :
世界@名無史さん:2014/10/10(金) 19:01:31.78 0
西洋語からの翻訳語に現れる「〜的」は「〜tic」の音写でもある
それとともに漢文法にもちゃんと則ってるわけで
この訳を考えた人は凄い
現代中国だとどうしてるんだろうな、和製漢語使ってんの?
386 :
世界@名無史さん:2014/10/11(土) 00:22:45.09 0
>>384 明代来華の宣教師による訳語「天主」も、うまい訳語だよな。
翻訳語としての「〜的」の用法を作り出したのは幕末から明治の洋学者だが
その背景には江戸時代の知識人が明清の白話小説に慣れ親しんできた歴史的背景がある
明治の和製漢語を作り出す時も中国から輸入した漢訳洋書を参考にしてるしな
江戸時代の学者が西洋の学問を学ぶ場合は麻田剛立のように漢訳洋書から入る人が多数派だったからな
389 :
世界@名無史さん:2014/10/11(土) 12:19:45.69 0
例えばというかほとんど全てが
昔から使われていた熟語を近代的な意味に変えたものだろ
古典読めよ
>>389 例えば望遠鏡、細胞、化学、植物学、陰極、陽極、電気
Telescopeを望遠鏡と訳すのは明末の改暦の時にできたもの
また宇都宮三郎がそれまでの「舎密」を「化学」に変えたのは上海で出版された洋学雑誌『六合叢談』の訳語を参考にしている
392 :
世界@名無史さん:2014/10/11(土) 20:51:20.17 O
「舎密」を「化学」に変えたのは中国で用いられている訳語というのが理由だから
江戸末期から明治初期の知識人は中国信仰が強かったのが漢語を導入した背景の一つかな
日清戦争の後からは逆に和製漢語の流入が盛んになるけど
394 :
世界@名無史さん:2014/10/12(日) 13:44:16.23 0
和製漢語と言ってもその頃に作られたものはきちんと漢文法に合致したものが多く
和製だからと言って別扱いする必要も無いものだった
それに比べて今はもう「無洗米」だからなあ
こんなクソ漢語が作られ使われるような時代になってしまったのか
明治の和製漢語でも「改札」なんていう酷いものも存在はするが
クソと酷いの基準がよくわからん。
古典由来なら秀逸な造語なのか?
良書ある?
397 :
世界@名無史さん:2014/10/12(日) 16:29:33.28 0
>>387 近世の中国語の事はよく知らんのだけど
「〜的」と同じような言葉で「〜地」ってあるよね?
あれはただの当て字かなんか?和製漢語の「〜的」となんか関係あんの?
398 :
世界@名無史さん:2014/10/12(日) 19:26:36.96 0
>>395 「無洗米」じゃ「洗ってない米」という意味になってしまうだろ
399 :
世界@名無史さん:2014/10/12(日) 19:27:12.17 0
昨日、母校の研究室行ったんです。研究室。
そしたらなんか学生がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか就職した同期が座ってて、就職したけど
博士号が取りたくて、退職して院生になった
とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前な、人文系博士号如きで会社辞めて研究室に戻ってに来てんじゃねーよ、ボケが。
人文系博士号だよ、人文系。
なんか嫁も子供とかもいるらしいし。一家4人で無職生活か。おめでてーな。
よーしパパ塾講師のバイト行っちゃうじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、博士号やるからその就職しろとと。
研究室ってのはな、もっとはつらつとしてるべきなんだよ。
テーブルの向かいに座った女といつ恋愛が始まってもおかしくない、
恋するか恋されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。30過ぎのおっさんは、すっこんでろ。
で、やっと35にして博士号が取れたと思ったら、その後の消息が不明なんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、博士号持ってる新卒なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、「私は博士号を持っています」だ。
お前は本当に博士号を取りたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、就職したけど、プライドだけが高くて、社会に順応できなかっただけちゃうんかと。
行方不明博士通の俺から言わせてもらえば今、行方不明博士通の間での最新流行はやっぱり、
同窓生名簿に40近くになっても院生、これだね。
卒業生名簿就職先が空欄。これが通の博士号の取り方。
博士号取得まではにそいつの名前でグーグルで検索すると入ってる。そん代わり35過ぎて博士号取得後は検索0。これ。
で、「あのひと検索」のはずが、いつの間にか「あのひとは今」状態。これ最強。
しかしこれを書くとと次から「留学して日本にいないから」噂を意図的に流されるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、まじめに就職でもしてなさいってこった。
明と朝鮮って、中国と半島が一番仲がよかった時代だよね…。
清と違って武力で属国にさせられたわけもないし、文化的にも事大してたからねえ。
よりによってそんな時に朝鮮に手を出した秀吉も運が悪いというかなんというか
魏忠賢…
ていうか
秀吉に名より実を取る柔軟さがあれば
明との交渉まとまってたよね、朝鮮無視して
>>401 他の王朝が朝鮮にしたこと考えればかなりあたたかいんじゃない?
外国が攻めてきたからなんとかしてくれって泣きつかれて領土割譲も無しに出兵した王朝なんか
皆無やで。日清戦争はちょっと意味合いが違うけど…。
>>403 そもそも、秀吉に柔軟性があれば明遠征をする必要性は全くなかったな。
実際何がしたかったんだろ?失業寸前の武士向けの社会事業?与えすぎた領土の矛先?
認知症
>>404 いや、内部事情はそんなに簡単じゃないよ。
全面的にバックアップした訳じゃないし。
明は朝鮮が通謀してるものと直前まで疑ってたな。
この猜疑心はどこから来たんだろ?
>>407 ヒント、藩屏としての期待値と実績値の差
というかマイナス反応?
土木の変の直前にはエセンが朝鮮に使節を送ってるし
明朝の目の届かないところでモンゴルや女真と通好していたことは十分考えられるだろうな
そもそも朝鮮の地政学立ち位置として中国べったりの外交はありえないだろう
高麗はどちらかというと元寄りで、朱元璋に討伐されかかった時に李成桂が謀反起こして
明との戦争は避けたんだよね。開国の経緯からしてもどちらかというと明マンセーな気もする
しかし李成桂が明朝の冊封した高麗王を勝手に廃位したり
洪武帝が皇女を降嫁させようとしたのを拒絶したりで
明朝は李氏朝鮮に対して良い印象を持っていなかったようだね
李朝実録には北京へ留学生を派遣しようとしたけど永楽帝の猜疑心が強くて許可されなかったという記事が残っている
李成桂のスタッフ自体が元朝とズブズブだった高麗の旧臣が横滑りしてるしなあ
パスパ文字からハングルを作るのに関わったy一族はモンゴルから朝鮮に帰化した高昌ウイグルだし
外交官の趙胖は元の丞相トクトの秘書みたいな事をやっていたし
そんな朝鮮も、明が‘野蛮な’清朝に滅ぼされた後は自らを中華文明の正統な後継者と自負する
小中華思想をひた走りにするのだった。崇偵の年号を内側でいつまでも使い続けるのはその表れ。
話は変わるが、朱元璋に滅ぼされた陳友諒の子孫って朝鮮に流されて李氏朝鮮の両班になったんだってな。
宿敵、朱元璋の子孫が景山の煙と消えたときに彼らは何を思ったんですかねえ
414 :
世界@名無史さん:2014/10/14(火) 21:19:37.52 O
>>411 明は李朝の始祖を親元派の別の李氏と勘違いしてたな
415 :
世界@名無史さん:2014/10/14(火) 22:10:59.58 0
>>409、
>>411 清代の話になるが、朝鮮が北京に送る使節は「燕行使」といったんだよな。
その燕行使の任務の一つには、清朝の機密情報を得ることもあったようだ。
そのための工作費用として、清朝の役人への賄賂となる銀も渡されていた。
明代にも、明朝の役人に賄賂を渡して機密情報を得るということはあったのだろうか?
416 :
世界@名無史さん:2014/10/14(火) 22:15:17.31 0
そんなことやってるのがバレたら厳しく咎められそうだな
さすがに滅ぼされるまではいかんだろうけど
監督官が派遣されて常時厳しく国政を監視されるくらいのことはされそうだな
417 :
世界@名無史さん:2014/10/14(火) 22:30:10.96 O
ヌルハチが女真を統一した時も
使者が行ってその様子を報告してたっけ
>>413 小中華思想というのは清代以前から朝鮮にあって
熟女真に勝手に官職を与えて李朝の藩屏にしようとしたけど
明朝にばれて問題になったことがあるね
>>413 李朝が歴代の王を顕彰する石碑を建てているが
清朝の年号が使われる場合もあって
崇禎紀元との使い分けの基準はいまいちはっきりしないという
420 :
世界@名無史さん:2014/10/15(水) 03:01:44.71 0
しまった、朝鮮の高官を輩出する家になったのは陳友諒の子孫じゃなくて
夏の明玉珍の子孫だった。
明とチベットの関係も歴代王朝の中では穏やかなほうだったな
だってオイラト部政権だぜ。怖くて手がだせまい。
順義王に封じた北元にけん制してもらうしかあるまい。
単純にチベットと中国の関係をいえば、明より清のほうがはるかに穏やかな関係なはず。(清末は除いて)
代々の皇帝がチベット仏教に帰依して守護者を名乗ってたんだから。
チベット仏教は漢族よりもモンゴルとか満州の遊牧民族に受けが良い。
もっとも明にもダライラマから法王を授けられた正徳帝みたいなのもいるけど、あれは趣味の範疇を出ないからな…。
正徳帝は自分から大慶法王と名乗ったんだよ
明はチベットの情勢に介入する意志も実力も無いし
チベットの坊さんも族長も吐蕃のように中国と戦わずに
朝貢して利益を得ることを選んだし
清の場合だとチベットの内部にジュンガルと結ぼうとした勢力が現れたせいで
関係が険悪になることがしばしばだった
宋の時代に大理だった西康や金沙江部分が、土司政権として元や明に組み込まれていたから
そういった土司によって茶馬古道での交易があり、ラサに人脈があったんよね。
ラサが西康や金沙江を怒らせてしまうと、こういった土司たちに攻め込まれてしまうのはその頃からの歴史。
西康や金沙江はモンゴルと手を組んだラサの政権に攻め込まれるほうだよ
>>423 グシ・ハン政権は明のホントに末期だからなー。それまでは統一されない
諸政権がゆるゆると朝貢してたようだし
>>424 清はアムドやカムをごっそりラサから切り離したあたり、穏やかとは言いがたい
側面があるな
431 :
世界@名無史さん:2014/10/17(金) 01:07:38.93 0
清は清の支配維持のために必要だと判断したことは
苛烈な弾圧や武力行使も辞さずに強行するが
それ以外の件では現地の文化や制度を最大限に尊重して
無駄に反感を買わないようにする
>>428 グシ・ハンが来るまでの西康・金沙江で一番勢力を持っていた木土司も
ラサまでは攻め込んでいないからな
清朝の影響を受けて結果的には良い方向に変わったところもあるな
モンゴルは清の支配のおかげで官僚制度が整った面もあるし
434 :
世界@名無史さん:2014/10/17(金) 01:46:24.32 0
しかし、モンゴル人の人口の半分が坊主で
社会が立ち行かなくような事態に陥ったのも清代
しかし現代のモンゴル国が中国の影響に対抗できる文化的アイディンティティはチベット仏教
近代の東アジアの混乱は全て清の責任。
うんこを体に塗りつけてトランス状態になってるような北方の野蛮人が明や周辺国に
侵攻しなければ、朝貢体制という名のゆるい民族自決に基づいた国々ができていたはず。
科挙出身官僚は中国史学では何かと批判の対象になってるけど
漢や南朝みたいな貴族政治や、隋唐みたいな軍閥政治よりも科挙官僚が台頭する
宋・明・清では黄巾・安史・黄巣の乱、節度使の離反みたいな国内がグチャグチャになるような戦乱は
末期以外に滅多に起きないし、250年以上の長期政権が可能になったね。
チベットの場合だと中国への朝貢国のままで
近代になってイギリスの植民地か保護国になってたほうがマシだっただろうなあ
ラサ政権なんか冊封されてなく
流官の駐在大臣が赴任するんだから
朝貢なんかしようがないんだよ。
>>432の木氏土司ですら世襲であっても
雲貴総督や四川総督に監督された
五品官に任官という形がとられ朝貢できなかった。
440 :
世界@名無史さん:2014/10/18(土) 00:11:53.21 0
>>6でも挙がっている松丸道雄他編『世界歴史大系中国史4―明〜清』(山川出版社、1999年)は、
明朝・清朝と内陸アジア(モンゴル、チベット、東トルキスタン)との関係についても詳しく書かれてあっていいぞ。
貴州や湖南の状況みてると、明や清あたりでもぐっちゃぐっちゃ戦乱が起っている。
白蓮教徒の乱や太平天国の乱みたいなやつの前哨戦が内陸の山間地から発生して
広範囲に広がっていくことたびたび。
>>438 現在の中華人民共和国の領土はおおよそ清朝が実力で征服した範囲で
近代になって帰属の不明確な朝貢国は外国に瓜分されちゃったから
あくまで思考実験だけど仮に中国の領域が明末清初のままだったら東トルキスタンはロシア、チベットはイギリスの勢力圏になっていた可能性は考えられるね
445 :
世界@名無史さん:2014/10/19(日) 10:42:16.20 0
交通網の発展は、すなわちそれを維持(街道や水路治水の整備など)できるだけの高度な行政組織があって
はじめてできることだよね。
447 :
世界@名無史さん:2014/10/19(日) 17:57:29.11 0
江南で二期作ができるようになったのと
閘門が開発されたので江南の米を輸送途中で一旦陸に揚げること無く輸送できるようになったからだよ
隋の京杭大運河が第一号です。
449 :
世界@名無史さん:2014/10/19(日) 19:45:47.09 0
>>445-447 明・清代の官職には、
大運河での漕運の管理を担当する河道総督とか総督漕運都御史があるよな。
450 :
世界@名無史さん:2014/10/19(日) 20:53:09.31 0
終わりのほうになると糧秣を輸送する軍人に払う旅費や駄賃を
文官が合法的にピンハネできるようになったんだよね
高校世界史で一条鞭法とか習ったから張居正が明時代を代表する偉大な政治家だと
思っていたが、調べてみると結構えぐくてずる賢い人だったのにショックを受けた覚えがある。
そら(明末の宮庭党争を勝ちぬくような政治家なんて)そう(権道を使うのが常套手段)よ
日本の政治家だってあとで「財務官僚に脅されて消費増税と引き換えに…」
みたいな史料がごっそり出るかもしれん
454 :
世界@名無史さん:2014/10/21(火) 23:12:16.77 0
455 :
世界@名無史さん:2014/10/21(火) 23:49:57.54 0
>>412 李氏朝鮮で訓民正音(今でいうハングル)がつくられたのは、
第4代の世宗の治世下だ。
ウイグル系と言われるy長壽は初代の李成桂のブレーンで、世宗とは全く時代が違うし、
最初期の訓民正音の関係史料に記載されてる、考案当時の関係スタッフたちの氏名の中にも、
y長壽の末裔といわれる慶州y氏を名乗る人物は見当たらない。
出典を明確にしてくれなければ、412氏の書き込みは信頼できない。
>>456 その論文を読んでみたけど、他の研究者の論文の題名を引用してあるだけで、
訓民正音の由来に関する諸学説との比較検討を行なわないまま、断定的に一言書いてあるだけだった。
率直なところ、訓民正音パスパ文字起源説というのは今のところ数多くの仮説の一つに過ぎない。
パスパ文字はアブギダ(アルファ・シラバリーともいう。母音[a]を含む音節文字に他の母音を示す補助記号を付加する文字体系)だけれども、
訓民正音はアブギダの方式の文字ではない。
訓民正音の子音字母の一部に、パスパ文字との字形の類似が見られるとする見解が挙げられることはあるけれども、
子音字母や母音字母を全体として見ると、それらが一致した対応関係にあるとは言い難い。
そもそも、訓民正音パスパ文字説を提唱した人物(ガリ・レッドヤード)自身が、
直接的には対応関係にない子音字母を対応関係ありとしていたりする(訓民正音[j]とパスパ文字[s])し。
というか、2chで、訓民正音について、
なぜか「パスパ文字起源説」ばかりがやたらクローズアップされて、それ以外の諸々の学説が丸っきり等閑視される傾向があるのは、
どうやら、456氏の挙げているその論文が採録された書籍を、2000年代前半にハングル板住民の一人が自分のレスで紹介したことに由来してるっぽい。
そして、その内容がきちんと検討されないままの「パスパ文字起源だ」とする断定的文言ばかりが、2ch住民の間で独り歩きを始めたのではなかろうか。
李氏朝鮮初期の朝廷が様々な民族の出身者を含んでいたこと自体は、或る程度までは事実であるとしても、
とりあえず、
>>412氏の書き込み2行目の前半部分(「パスパ文字…中略…関わった」)は、省くほうが無難だろう。
>>457の1行目の訂正
他の研究者の論文の題名
↓
他の研究者の研究内容が発表された時期
>>457の9行目の訂正
(訓民正音[j]とパスパ文字[s])
↓
(訓民正音[ts](現代韓国語音[ʨ/ʥ])とパスパ文字[s])
460 :
世界@名無史さん:2014/10/22(水) 23:56:30.98 0
>>457 俺は、パスパ文字起源説は
宮脇淳子がシアターテレビジョンで話してて知ったよ
あちらの方が影響力が強いんじゃないか?
ハングルはパスパ文字よりもその元となったチベット文字の方が子音字母は似てる
もともとインド系文字だから起源は一緒だよ
>>460 ジョナストというモンゴル文献学の大家もパスパ文字起源説に賛同しているんで
モンゴル史の研究者には影響力が強いんだよね
ハングルの研究者もパスパ文字の知識がまだ無かったので
学術的にきっちりとした反論が返ってきたのはつい最近のこと
明の官僚の列伝見てると、南京兵部尚書を歴任〜
とかいうのがたまにあるけど、明朝は北京のほかに南京にも六部を設置してたの?
もしそうなら具体的な職務が気になる。華南一体の行政を六部として管轄しているのか、あるいは
ただの名誉職なのか
465 :
世界@名無史さん:2014/11/05(水) 22:39:54.22 0
>>464 南京六部
http://baike.baidu.com/view/1461087.htm はしょると
体力の衰えた老人や左遷された重臣の就く閑職らしいけど一定の権限はあって
戸部
浙江、江西、湖広の税の徴収と都までの輸送
全国の塩引の勘合
兵部
南京地区の四十九の衛所を南京守備らとともに統率
吏部
南京地区の官僚の勤務評定。北京吏部は干渉できない
刑部
南京管轄下の裁判。北京刑部は干渉できない
工部
北京と同じく土木工事
塩引の印刷とその原版の製造
礼部
不詳
みたいなことが書いてある
王陽明の父親って科挙を一位で合格したのに、内閣大学士にも入れず極位は南京六部の尚書だったな。
息子みたく官僚の処世術は下手だったのだろうか…。
467 :
世界@名無史さん:2014/11/05(水) 23:47:36.11 0
>>466 王華の前の状元の曾彦も後の状元の李旻も入閣してなくて
両名とも20年以上仕官しているのにぱっとしなかったんだから
王華はまあまあといったところなんじゃないの?
王守仁伝に息子のせいで左遷されたって書いてあるし
468 :
世界@名無史さん:2014/11/06(木) 16:17:43.48 0
よく勘違いされているけど、「内閣大学士」なる名称の官職はない。
武英殿大学士みたいに紫禁城内に〜〜殿とか〜〜閣という建物があって、それぞれに大学士が居て
これらの集まりを「内閣」と称して政治を運営していたのが実態。
あたかも内閣大学士という名前の官職があって、昔でいう宰相とか丞相みたいな役割を担ってたというのは
世界史の教科書とかでも堂々と記述されてるけど、これは日本でcabinetを内閣と訳して日常用語としてるところから
くる誤解なんだろうか。まあ、明にも首輔と俗称される首席格の大学士はいたけどねぇ…。
>>469 首輔や尚書の歴代一覧はどこかで見られますか?
471 :
世界@名無史さん:2014/11/06(木) 21:38:11.82 0
472 :
世界@名無史さん:2014/11/06(木) 21:55:55.21 0
二京制絡みで面白いのが徐達の子孫
長男の徐輝祖は建文帝の重臣として永楽帝と戦った上に
懐柔のために、大軍を率いて降伏したという理由だけで靖難の功上位にされて俸禄も増やされたのに
永楽帝が南京に入城するのに出迎えないわ、建文帝の旧臣匿うわで
閑職の南京に留め置かれたけど
子孫は公爵で頻繁に南京守備に任命されて、中央から裁量任されて結構自由にやってたし
清が攻め込んだときも南京で伯爵たちと一緒に出迎えたので殺されずに済んだ
四男の増寿は南京の内情を永楽帝に逐次通報していたので建文帝自身に斬られたけど
そのおかげで四男の家系なのに子孫は公爵を貰ってお膝もとの北京に置かれて
(次男は早逝で、三男は世襲指揮使止まり)
子孫は中央の軍の高官を歴任して、皇帝の代理として郊天の儀式したり、直接意見したりして
最後の允禎は北京を守って戦死
清代になると首輔がいなくなって、内閣の上に更に軍機処まで出来たからややこしい。
そういえば軍機大臣には首席の大臣がいなかったな。後半になると曾国藩、李鴻章、袁世凱のような
軍務や外交畑の人間が兼任して首席格になってるようだけど。
474 :
473:2014/11/06(木) 22:06:08.53 0
>>472 清の時代に魏公徐達の家系がどうなったか知らないですか?
中国語のサイト見ても、降伏してから後の事情が全然分からなくて困ってる…
475 :
世界@名無史さん:2014/11/06(木) 23:06:42.52 0
>>474 正史の記述(『清史稿』巻二百四十八「趙之龍伝」)だと
皆で清軍を出迎えたのに趙之龍にだけ官爵与えられて他は放置とだけ書かれてそこで終わりですが
『南疆繹史』や『続明紀事本末』などの稗史では
徐弘基が呉江の袁世奇の元に身を寄せて再起を図ろうとして失敗し一族滅び
系統不明ながら徐達の子孫の徐逸度は李南と名乗って隠棲したとあります
476 :
世界@名無史さん:2014/11/07(金) 17:43:02.67 0
>>469 大学士に冠した殿閣名には、
明代だと、中極殿(明初には華蓋殿。清代には中和殿)、建極殿(明初には謹身殿。清代には保和殿)、
武英殿、文華殿、文淵閣、東閣があるな。
明代では、中極殿大学士が首輔とされている。
張居正は、隆慶6年(1572年)以来、中極殿大学士を務めている。
明代の大学士の序列は、
(1)中極殿、(2)建極殿、(3)武英殿、(4)文淵閣、(5)東閣となっている。
ちなみに徐光啓は、崇禎5年(1632年)5月に礼部尚書兼東閣大学士として入閣し、
翌年7月には文淵閣大学士に進み、10月に亡くなった。
477 :
世界@名無史さん:2014/11/07(金) 21:34:40.27 0
>>476 話がずれるけど
文淵閣というと大学士よりも四庫全書を思い出してしまう
六部をはじめとする京官たちの事務室みたいな、実務を担うところって北京のどこにあったの?
明では大学士達がいるのは紫禁城の中の建物なんでしょ?清だと今の天安門広場の辺りに六部の役所がぎっしり詰まってた
みたいで、紫禁城の中では実務は行われてなかったみたいだけど…、やはり明も同じなのか?
480 :
世界@名無史さん:2014/11/08(土) 19:13:52.50 0
>>469 大学士が宰相・丞相としての実質を備えていたことは、
明代に来華したイエズス会士マガリャンイスも気づいている。
マガリャンイスは、
「かれら(大学士)は古いもの、新しいものを含めて多数の称号、多数の別名を有している。
もっとも普通のものは、「内閣」、「閣老」、「宰相」、「相公」、「相国」などで、
それらは多少のニュアンスの違いはあるけれども、国王の補佐人、助言者、最高顧問を示す言葉である。」
と言っている。
またマガリャンイスは、大学士が宮殿の名前を帯びていたことにも触れている。
「国王がこの大臣たちのだれかに恩恵を与えようとするときには、かれはこの者に宮殿の名のどれかを贈る。
たとえば「中極殿」というようにである。これは「真ん中の最高御殿」の意味である。
そこで人々はこの新しい肩書をかれの通常の(職)名の上に加えて「中極殿大学士某某」と呼ぶ。」
明の地方行政は、朱元璋が息子たちに王位を与えて軍権を与えていたのに対して
永楽帝の代あたりがこれを漸次縮小させ、明末には王位は単なる名誉職以上に意味はないと思っていたんだけど
蜀碧とかその他野史を見てると四川では蜀王が総司令官兼国王として実質的に統治していたかのように書かれている。
戦いのあとで王が死ぬと、城内の人間が新しい主の反乱軍を歓迎しだすとか、もはや実質的な統治者としか思えない扱い。
ほんとのところ名誉職なのか実質的な地方のドンだったのか分からん
王が死ぬと〜×
王が死んだタイミングで〜○
ね
483 :
世界@名無史さん:2014/11/08(土) 21:56:38.22 0
明代の王は内政ができなかったんだと思う
王府の官僚と兵は指揮できるけど
日本の大名のような新田開発したり特産物を作り出したりみたいなことは
所領や領民を掌握していないからできなかったはず
明代の王は藩地に代々土着してかなりの財産をためこんでいたらしく
例えば歴代の蜀王の陵墓などは全国重点文物保護単位に認定されるほど豪華なもの
地域の住民にとっては短期間で転任していく流官よりも諸王のほうが明朝支配の象徴だったのではないだろうか
>>481 張献忠が成都を陥落させた時は蜀王だけじゃなくて、
巡撫と巡按監察御史も一緒に死んでるから、こっちの方がデカイのでは?
>>484 蜀碧でも張献忠と戦うための寄付金を出せって蜀王がせっつかれているな
政治的にどれくらいの権限が与えられていたのかはともかくとして
単なる名誉職とは片づけられない影響力を持っていたようだね
明代の藩王
靖難の変からはじまり、漢王、寧王と、安化王などなど。何度も反乱がおきてるしな。
清だと入関以後にこういった話はなかったんじゃないかな、確か。
489 :
世界@名無史さん:2014/11/09(日) 11:40:16.54 0
やたらと大きい郷紳みたいなもんかな
麾下の官僚と軍隊への指揮権にプラスして
土地を領地として持ってるんじゃなくて
自分で買って地主として持ってるような
清代は叛逆を恐れて辺地で黙認の形で権力持たせてた三藩の他は
大概が北京住まいだったんじゃない?
麗江の木氏土司みたいなものがいっぱいあるのに
呉三桂は実行支配できていたんだろうか?
茶馬古道でネパール経由のインドと交易する利権は
土司政権群が持っていた。
呉三桂と木氏の関係はどうなっていたのだろうか?
>>489 社会的流動性の激しい中国ではすぐ没落する郷紳が多いけど
藩王は明朝一代にわたって王府を継承することが保障されているから
郷紳とは別格の権威を持っていたのではない?
雲南で改土帰流が行われるようになったのは三藩の乱の後
呉三桂は木氏に対していやがらせをするぐらいがせいぜい
清の時代に明朝の末裔っていたんだろうか。
王府とかの末梢まで含めると相当な数がいたんだろうから族滅させられたとは思えん
494 :
世界@名無史さん:2014/11/10(月) 19:43:38.89 0
清朝に保護された延恩侯以外の大多数の元皇族は名前変えて
自らが明の末裔だということも忘れてったんだろうなあ…。
>>495 明滅亡時に王の何人かは「他不知所終」となっているからその子孫もいるのかな?
明末の時点で朱元璋の末裔なんか数十万単位でいたんじゃないの?
朱元璋自身に数十人子が男子がいて、代々リッチな王府とかでぬくぬく贅沢できたんだから。
清とか李自成みたいな流賊に半分殺されたとしてももう半分は無事に清代まで生き延びられたはず
明の元皇族で有名人と言えば八大山人くらいかな
崇偵帝は臣下を殺しまくったってよく評されてるけどそんなに臣下を処刑しまくったか?
アホな粛清は袁崇換ぐらいじゃないの?先祖が朱元璋だけに混同されてる気がしてならない
>>499 有名どころは袁崇換のみだけど、総督7人、巡撫11人が誅されて
兵部尚書も何人か殺されてる
明代をテーマにした中国の時代劇を見てると、朝廷の官僚が着てる服の時代考証がメチャクチャなケースが多いのが目立つ。
むしろ李氏朝鮮時代に一貫して明式の宮廷衣装を着てた韓国の韓流ドラマの方がしっかりした服を着てるのは歴史の皮肉というやつか
洪武帝は唐代以来から名誉職、あるいは規定にすら載らなくなった
宰相職としての丞相を一時復活させたわけだが、これは古来の制度に乗っ取ったというより
元にあった丞相をイメージして設置させたのかな?
明は漢族による復古主義的な政権だと従来言われてたけど、最近だと唐宋より元(モンゴル)の
行政組織に近いという研究が主流だね
あとネタ振りの意味で従来明の制度についての疑問を。
昔から中国では武官は圧倒的に低い位置に据えられてるのが常識。
しかし明以降の官職制度を見てると正一品〜九の枠の上に、「超品」という公・侯・伯の爵位があるわけだけが
中国版wikiでこれらを受爵した人々を見てると、ほとんどが武官上がりで文官はたまにしかもらえてないんだよね。
あの李成梁ですら伯の位を生前に与えられている。
もちろん実権は文官にあったにしろ、官位とか官職の意味では武官は文官より遥かに優遇されてたとしか思えないのだが
いかがだろうか?
優遇されてたというより
武人は軍閥化して軍事力を背景に
実権もってしまう
誰にでも与えられるというわけではないから実力を持った軍人に対する懐柔策かな
もしくは雲南に代々駐屯した黔國公一族や近衛兵を指揮した英國公一族のように
特別な任務に就かせるために与えたか
506 :
世界@名無史さん:2014/11/18(火) 21:17:21.65 0
507 :
世界@名無史さん:2014/11/18(火) 22:07:31.17 0
『明史』154の陳洽伝によれば
宣徳帝の時代でも
成山侯の王通が無謀な作戦を行おうとして
同行していた兵部尚書の陳洽がそれを制止しようとしても無視されている
爵位持ってると、兵部尚書という文官では軍事部門トップの人間でさえ抑えられない
またこのとき惨敗して王通は逃げて陳洽が最後まで戦って死んでいるのに
王通はこの件では責任を問われていない
洪武帝もそうだが永楽帝なんかバリバリの軍事政権ってイメージだけどな。
実際に靖難の変で活躍した功臣に爵位を濫発したり、北は満州南はベトナムまで版図を広げてる。
むしろ建文帝なんか元号通りに文官(腐れ儒者含む)を大切にし過ぎてえらい目にあったけど、時代が悪かったんだろうか。
509 :
世界@名無史さん:2014/11/18(火) 23:43:01.97 0
>>503-507 『大明会典』巻6でも、
「列爵5等(のち3等)は社稷(国家)に軍功のある者でなければ封じない」
と規定している。
文官出身で韓国公に封ぜられた李善長はまさに例外。
爵位は軍功のある者に授ける、という方針は清代にも貫かれている。
19世紀の清末のことになるが、
太平天国討滅で活躍した曾国藩には一等毅勇侯が、左宗棠には一等恪靖伯が、
曾国荃には一等威毅伯が、李鴻章には一等粛毅伯が与えられている
(なお、清代では、漢人に与えられる爵位は侯が最高)。
>>507 皇帝から指揮権を与えられているのは王通で
陳洽はその補佐を命じられているのにすぎないのだから
陳洽が王通を止められなかったのは爵位の有無は直接的には関係が無い
そもそも明の制度が皇帝専制である以上文官と武官は建前としては対等で
実質的な力関係も時々の政治状況や皇帝の意志によって変わってくるわけで
どちらが優位かという問題の立て方では明朝の制度や政治史について見通しの良い答えは返ってこないような気がする
そりゃ建前としてはそうかもしれんけど
文を尊び武を軽んじるのは唐辺りからの風習だからしゃーない。
明もその例外ではない
戚継光が活躍してた時期なんか完璧に文官優位だもんな
>>506 これによると、宮崎先生は明が作った元史の中に明らかに知識人が洪武帝の蛮行を当てこすった
箇所があると主張しているんだが、もし本当にそうだとしたら偉い命がけだな。
朝鮮役で李成梁軍閥の李如松が総兵官として派遣されたんだけど
総兵官は元々文官がつくことになってたが
この時から武官である李如松が就任してる。
中華王朝は理念的に文官優位思想みないなものがあるけど、
そういう慣行をここで破ってる。
実力のある軍閥の威光を無視するわけにもいかなかったんだろうな。
新建伯を世襲した王陽明の子孫は文官から武官に転向してるね
>>515 総兵や副総兵は公侯伯の勲臣か都督クラスの人間が任命されるのが一般的じゃなかったっけ?
公侯伯の超品は明末に至るまで武官がほぼ独占している一方で
武官が持っていた統兵権は明代の中ごろから文官に奪われているし
他にも皇帝の側近や代理としての宦官や地方に代々土着していた諸王の存在を考えると
皇帝以外の勢力に権威や権限が集まらないように巧妙に制度ができていたんだな
まあ分割支配は洪武帝が作り出した明朝の祖法ともいえるけど
公侯伯とか、異例の厚遇を受けてた人たちの家を調べるとほとんどが李自成が北京を落とした際に殺されて
断絶ってケースが異常に多い。
李自成が意図的にこういう家柄を殺して回っていたのか、単に明に殉死したのか史書だけじゃよく分からん。
確実にいえるのは、こういう家柄が北京に集まって暮らしていたという事。
明治時代の華族の東京居住義務と同じようなもんなんだろうか?
>>509 衍聖公はこれらの規定を超越した例外的存在なんだね
上の方で話題に出た張居正を調べてたら息子が三人も科挙に合格してるけど(しかもそのうち二人はそれぞれ首席と次席合格)
不正が露骨過ぎてワロタ。これじゃ死後嫌われて弾劾されてもしょうがないね。
科挙の試験内容はともかく不正なんて出来るのか?
試験監督者と採点者を子飼いの部下にするだけでいいじゃん
何だ科挙のイロハも知らずに書いてたのかよw
科挙の不正なんて割かし簡単にできるよ。
権道政治がまかり通った明代ならなおさら
>>519 名誉職となっていたとはいえ北京と南京の駐屯軍の指揮官職は
明末まで勲臣が就任する重要なポストだった
527 :
世界@名無史さん:2014/11/22(土) 15:58:46.21 0
>>488 なんで漢王なのに所領が山東省なんでしょうか
大岡越前
529 :
世界@名無史さん:2014/11/22(土) 18:38:05.58 0
>>527 徳川時代の国司だって「○○守」という官位を持ってるだけで
○○国なんか行ったことも無い国司だらけだったじゃないか
中国の封号と日本の官職は意味も歴史的経緯も違うからちと例えが悪い気がする。
それに明は基本的に封地=王号(スレでも出た燕王や蜀王がいい例)だから
>>527の質問はもっともだと思う。
俺は理由を知らないけど。
もっとも、洪武期に功臣たちに与えられた○○公○○伯が実際に領土を与えられているかというとそうでもない。
李善長は韓国公だったけど河南に行った形跡もない。徐達の子孫は代々魏公だったけど当然
魏を直接支配してたわけではない。
なぜなのか
531 :
世界@名無史さん:2014/11/22(土) 19:13:32.10 O
洪武帝の息子で山東の王は「斉王」だったから
これは一致している
最初は高陽王だったんだよなぁ >朱高煦
533 :
世界@名無史さん:2014/11/23(日) 09:51:11.52 0
>>516 代々武職の家から文官に転向した例としては、文徴明の家が挙げられる。
文家は代々武職であったが、祖父の文洪が挙人となり、淶水県学教諭になってからは文官となった。
徴明の父の文林は成化元年(1465年)の進士で、永嘉・博平両県の知県となり、
歴官して温州府知府となっている。
文徴明自身は、父・文林と同年の進士、呉寛(1435-1504年)から古文の法を、
李応驕i1431-93年)から書を習うが、進士の試験には26歳から53歳にいたるまで10回の失敗を重ね、
嘉靖2年(1523年)に54歳で歳貢生の資格で京師に夫おもむき、翰林院待詔に任ぜられ、
『武宗実録』の編集に従事した。
李善長は韓国公に封じられた時、免死の鉄券を与えられたけど意味無かったね
韓国なんかに封じられた祟りじゃないか
536 :
世界@名無史さん:2014/11/23(日) 16:37:46.61 0
編集者が南朝鮮の工作員だという可能性が微レ存
なんだよこれww自動ツールか何かで編集してこうなったのか?
そもそも当時は高麗であって朝鮮という地名などないはずだが
ところで明の開祖は朱元璋という名前なわけだが
「元」と「璋」の字は避諱の対象にならんのか?
そもそも前王朝が「元」なんだが、どうやって表記上の問題を避けたんだ?
「圓」なのかな?
「朱」は忌字だから、猪八戒になったまま戻らないとか。本当?
太祖だと字の国瑞を憚って改名する呉良、呉驍フような人もいたけど
諱のほうは明末まで避けられることは無かったみたいだね
歴代の王朝に比べると明の避諱がとてもルーズなことは
万暦年間に沈徳符も指摘していて
天啓や崇禎年間になってようやく厳格になったらしいね
明律だと諱を犯した人間を処罰する規定はあるが
一字のみを犯した場合はその対象にはならなかった
明の皇帝の諱はほとんどが二字だったのでひっかかる人間は少なかったらしい
例外は永楽帝だけか
正統12年に山西の郷試で詩経から問題を出したところ
「維れ周の禎[さいわい]なり」を驍ニ書いてしまって
楚王朱驍フ諱を犯したということで試験官が処罰された事件があったな
その時は俸給の返上を命じられただけだったが
諸王も避諱の対象になるのか、知らんかった…。
ってかあんなに馬鹿みたいに皇族がいるのに一々避諱してたら使える文字無くならないか?
一方、明代に成立した三国志演義の敵役に蜀の前太守、「劉璋」がいるわけだがこれはいいのか?
二字の諱を冒すってどういうケースだ?
単純に元璋と書くとダメなのか、近いセンテンスに元○○○璋○○と書くとダメなのか。
我が国の国家安康のように、官僚を粛清したい時に言いがかりを付けやすい余地を残しておいた
明太祖の知恵なのか?w
そういえば家康は明律とか明の歴史が好きだったらしいな。釣鐘事件も朱元璋の粛清に着想を得てたりして
面白いなその発想、やりそうあの狸
550 :
世界@名無史さん:2014/11/26(水) 22:19:12.17 0
>>548 方広寺の鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」と似たような言いがかりの例としては、
清代・雍正期に「維民止所」(だったかな?)という語が、
「雍正」の号をメッタ斬りにしている、つまり、
「雍」「正」の上部が無い=雍正帝の首を切りとっているうえに、
「民」「所」という字で分断しているという理由で「文字の獄」の対象となったという話があったな。
俺の思い違いも混ざっているかもしれんが。
雍正は皇帝在世中は単なる年号に過ぎないはずなのにダメなんだな。
ということは、当時から「万暦」帝とか「康熙」帝の呼び方は一般的に使用されていたということか。
本来の呼び名はやたら長ったらしい追号と○宗なはずなのに
>>551 非公式だけど、帝号の一種として位置づけされてたのかな?
いわゆる査嗣庭試題案で問題になったのは雍正帝の上諭によれば
>>550の「維民止所」ではなく「正大而天地之情可見矣」(易経)と「百室盈止」(詩経)
この時代には正の字が含まれている年号は縁起が悪いという「一止之象」というジンクスがあって
査嗣庭が科挙の試験に「正」と「止」の文字が含まれている句を出題したことは
「一止之象」の語を示しており雍正の年号を誹謗中傷しているものとされた
処罰した理由はこれを含めて6つあるがどれも言いがかりに近い
「一止之象」を言い出した学者は雍正帝に処罰された将軍である年羹堯の幕僚だったため査嗣庭もその一党だと疑われたのかも
二つの語が同じ句の中にあるならまだしも
別の句の中にある語を結びつけるのだから
牽強付会もいいところで
他に理由があってのいいがかりでなければ雍正帝の被害妄想だな
あの国らしいといえばらしいが
雍正朝の初期には年羹堯や隆科多といった康熙帝の重臣が一掃されているから
その子分だった汪景祺や査嗣庭が巻き添えをくらったんだな
556 :
世界@名無史さん:2014/11/27(木) 09:24:25.09 0
>>543-544 孫の世代にもなると皇帝のほうが滅多に使われない漢字を名前に使って
民間への迷惑にならないようにした。
明の避諱も末期になるとかなり厳格になって万暦以後に出版された書籍は
泰昌帝の諱を避けて「常」を「嘗」 「洛」を「雒」
あるいは天啓帝の諱を避けて「校」を「較」と書き
「由」は欠筆することが多くなる
ただ泰昌帝が立太子された時には洛陽県も洛南県も字を変えられていないし
>>543のいうとおり洪武帝の諱は明末まで避諱されることもなかったとすると
明確なルールはなくてその時代の空気に従うものだったのかもしれない
この間、池上彰が出てる番組で中国特集やってたんだが
池上さんが「今の共産党政権は明代の中国の版図を理想としているんですね〜」とか解説しながら
おそらく永楽帝期頃と思われる、満州(ヌルカン指揮使時代か?)と北ベトナムを領土としてる明代の地図が
グラフィックで出てたね。
これは検討違いもいいところで、本当に明代の中国を理想としてるんなら内外モンゴルは元より、
チベットもトルキスタンの支配が正当化できなくなっちゃうよ。
中国がある時代の地図を理由に領土支配を正当化したいなら、乾隆帝の頃の清朝のものを使わないと。
560 :
世界@名無史さん:2014/12/01(月) 19:59:28.72 0
>>559 リアルで「ネトウヨ」とか使いだした痛い奴に死体蹴りはやめたげて〜
池上ちゃんのライフはもう0よ〜><;
徐達ほどの功績があっても給料一万石ぐらいしかもらえないのに
豊臣秀吉はほとんど功績を上げてないような子飼の武将に数十万石を惜しげもなく上げているね。
中国の皇帝はケチだな
563 :
世界@名無史さん:2014/12/05(金) 22:22:45.07 0
>>562 そりゃ比較が違うわ
徐達は個人の俸禄がそれくらいあって
部下の給料や戦費、諸経費は国が払ってる
21万石の大名は領地の総生産が21万石なので二公一民で収入は14万石
そのうちある程度の土地は家臣に分配されてて他に足軽も養い
軍役や普請に応じて支出しなきゃならない
領内に城を建てるのも治水するのも自腹
564 :
世界@名無史さん:2014/12/05(金) 23:04:12.16 0
封建制かそうでないかの違い
徐達さんの息子は靖難の変に巻き込まれて
そういえば中国の家臣の食封ってどういう制度なんだろ?
四公六民みたいに、荘園の住人の取り分込の支給額なのか、それとも日本の蔵米取りみたいに
ほぼ額面全てが取り分なのか。
隆慶2年に出された動臣の子孫の荘田は百頃に限るという命令から
封地は耕地面積を基準として計算されていたと想像できるし
朱元璋の時代に官田の税率は一畝当り五升三合と定められているので
実収入は額面より多くなることはあっても少なくなることは無かったんじゃないかな
568 :
世界@名無史さん:2014/12/07(日) 09:02:35.85 0
宋までが
官職に対してが「石」表記の俸禄で
食邑は「戸」表記で領地を持っているような感じで
明以降は
両方「石」表記で蔵米取りみたいな感じで
それとは別に自分で買い集めて地主をやっている荘田も持っていたと思う
朱元璋の性格からして身内以外の家臣に領民付の封建的土地支配を認めるような
ことはしなそう
中国人物伝の最終巻、明はあんなもん?
万暦帝はもっと再評価されるべきだと思うんだけど。
レッテルは張られたまま。
571 :
世界@名無史さん:2014/12/07(日) 11:38:37.13 0
万暦帝は「万暦十五年」があるからいいんじゃないかな
日本になめられて攻められた時点で
万暦帝のレッテルは貼られたまま
573 :
世界@名無史さん:2014/12/07(日) 14:28:29.89 0
>>572 秀吉だったら洪武・永楽でも攻め込むんじゃないか?
自分がトップで加藤や島津のような最強の面子が揃うなんて
今後の日本史上二度と来ないだろうと考えて攻め込んだんじゃなかろか
>>568 >>569 朱元璋が功臣に与えた俸禄には禄米と禄田との両方がある
禄田として与えられても徴税権は王朝政府が握っているのが建前だったが
現実には領主が小作米を直接取り立てる場合も多かったので
洪武25年に功臣の禄田を返還させようとしたところ
それに応じたものはごく僅かで、その時に残された禄田が勲臣の荘田となっていった
>>562 外様の徳川家康に関東八ケ国、200万石以上も与える秀吉は異常
常陸は関ヶ原以降だった
スミマセン
>>572-573 某医師があれは秀吉が認知症の初期段階だった故の愚行という見解を出してた。
秀吉が征明をいいだす辺りの秀吉の言動を見てると
計画とかあまり考えずにやっているのがよく分かる。そもそも朝鮮が黙って道を空けるとか
本気で思いこんでいる時点でお察し。
対馬の宗家の苦労がよく分かるよ。
もっとも、泥沼な方向に陥ったのは宗とか小西のその場しのぎ的な対応もでかいけどね。
国書偽造とか。
別に秀吉は晩年もボケたり狂ったりしてねえだろうがよ。
秀吉は現実政治家。
前に九州国立博物館にいったら宗氏が代々こしらえてきた偽造国書の制作に使う
日朝それぞれの偽造印判が大量に展示してあったなあ
583 :
世界@名無史さん:2014/12/07(日) 20:12:34.12 0
>>575 美濃攻略時には重鎮だった稲葉一鉄が領地を減らされたわけでもないのに
相対的に小身になっていったのと同様に
家康に関東やっても
明を占領して加藤や小西などの子飼いに分配すれば
徳川家など物の数にも入らなくなるとか思ってたんじゃないか?
>>582 マニア級にフォントをたくさん持っていそう。
>>575 だって家康は「自発的に臣従」してきたからね…。
三助のアホがとっとと降伏したんでそれ以上の抵抗はできないと思ったから
下ったけど、小牧長久手じゃ戦術レベルで負けっぱなしだったわけだし。
そんなのを本拠地からひきはがそうとするなら、それなりの餌はやらないといけない。
国書の偽造や改竄は前近代のアジア外交では一般的に行われたことで
例えばタイの使節が清朝に提出した国書は
タイ文では対等な国王同士のやりとりとして書かれていたが
漢文に翻訳される時点で皇帝に対する上奏に書き直され
原文はこっそり破棄されたとか
タイは清に臣従してたくせに周辺諸国に対しては宗主国だった。
588 :
世界@名無史さん:2014/12/08(月) 01:05:33.96 0
>>587 まあ、ベトナムもだよな
清に「越南」にしろといわれて調子合わせてたけど
国内じゃ「大南国」「大南皇帝」で
世界を清と南北に分けて統治している国として
チャンパ、ラオス、カンボジア等で国王のすげ替えまでするほど権力振るってたし
589 :
世界@名無史さん:2014/12/08(月) 01:11:23.23 0
宗氏文書のほとんどが今現在韓国にあるからこのあたりは研究が進んでないよな
下手に返還迫ると
全部焼き捨てて「事故だからしょうがないね」とかとぼけられそうだし
朝鮮が清朝に送った宗氏の書契の一部が清実録に収録されてるんだってね
五山文学で有名な禅僧の漢文も本場の文人から見るとかなりこなれない文章だったみたいで
原史料と対照するとかなり読みやすい漢文に修正されてるとか
向こうからすると、「私、日本の使節アル!今度から交易する、よろしある」みたいな文書読んでるような
気分だったんだろうな。
明の時代は八股文の文体が確立して
隋唐なんかに比べれば官の文書はずっと安定しているはず。
でも寺院はもともとヘンテコな鳩摩羅什 不空 玄奘なんかの漢訳を
使っているから僧侶の漢文は主流の文体じゃないはず。
八股文ねぇ
確かに文体「だけ」は整ってるだろうが実用性が。
>>592 禅僧などは宗教的境地を詩で表現しようとするので
一般の漢詩には無い規則があったりして
奥が深いといえば深いが部外者にはわかりにくいのは確か
>>591 日本で漢詩を作ると同じ用語でも中国とは異なるニュアンスで使ったり
日本語の文法に引きづられて構文がおかしくなったりするから
ただ阿倍仲麻呂以外の事例を挙げるなら
胡惟庸の事件に連座して雲南に流された日本僧がいるが
彼らが流刑先で作った漢詩は倭臭が無いので
中国で高い評価を得て『列朝詩集』等の著名な詩集にも収録されている
>胡惟庸の事件に連座して雲南に流された日本僧がいるが
くわしく
>>596 元の順帝の時に中国に来た日本人僧侶10人がそのまま残っていたのだが
胡惟庸が日本と通謀したという疑いをかけられて処罰された際に
事件に連座して雲南の大理に流刑となった
彼らは流刑先では厚遇され後に罪も許されたが
そのまま現地の寺院の僧侶となって客死した
大理には彼らの墓である日本四僧塔も残っている
「滄海遺珠 漢詩 日本人」でググれば関連する論文や記事が出てくると思う
598 :
世界@名無史さん:2014/12/18(木) 15:12:57.26 0
知識人粛清した重八は貧農・乞食坊主時代に余程酷い目にあったのかね?
599 :
世界@名無史さん:2014/12/19(金) 14:00:03.03 0
>>598 知識人というのは政治に対して文句ばかり言うものだ
始皇帝の焚書坑儒だって古代を引き合いに出して今の政治を批判する儒者達がうっとうしかったから
現代でも同じだろ
知識人なんて政治に批判的なのが普通だ
600 :
洪秀全:2014/12/25(木) 13:58:28.57 0
r´ `ヽ
______ | i
/ \ |
/ _ 洪 ヽ ノ 太平天国! 太平天国!
|:::::::: ○ ○ | ー ´ ノ 今日は天兄(キリスト)の
|:::::::::: \__/ | ー ´ ノ 誕生日だよ。
|:::::::::::: \/ | ー ´
ヽ:::::::::::: ノ
rー― ー ´ノ
( ー ´ ノ
ヽ___ー ´
やっぱり太平天国ってクリスマス祝ったんだろうか
どちらかというと上帝(エホバ)と洪秀全を崇めてるよな。
602 :
世界@名無史さん:2015/01/08(木) 11:11:22.41 0
個人的には石達開が好きだ。
最後は大渡河で失敗して投降して凌遅刑で殺されたけど
603 :
世界@名無史さん:2015/02/06(金) 00:30:34.83 0
明代に限らないんだけどさ
中国って凌遅とか酷刑やるけど柱に縛り付けて火刑ってやらないよね
西洋や日本ではやってたのに何でだろ
604 :
世界@名無史さん:2015/02/06(金) 09:47:36.98 0
思いつかなかっただけ。
ま、方法はほかにもたくさんあるのでw
605 :
世界@名無史さん:2015/02/07(土) 15:17:19.12 0
棄市という言葉があるように市場の小屋のすぐ近くで処刑するため引火の危険があるためとか
日本だと生活の場から離れたところで行って非日常的なものだけど
中国だと生活の場で行われてて日常の一シーンみたくなってるのかな
市場に物を買いに来たら死体が晒されてたとか
あるいは
市民を遺体冒涜に参加させるため残しておかなきゃならないとか
日本人だと遺体に触れるのは「穢れ」(衛生的なものから怨念まで含めて)が付くから嫌がるけど
中国人って処刑後に皆で肉を切り取って噛んで辱めるとかあるよね
ああいうの呪われるとか思わないんだろうか
しばらく不衛生な牢にいて殺された遺体を市場に放置して病気が発生したりしないんだろうか
606 :
世界@名無史さん:2015/02/07(土) 17:12:29.05 0
>>592-593 岡田英弘は「科挙は漢字の使用能力のテスト」と言っていたが、
そうであるならば、文体が整った八股文は科挙の受験資格保有者を大いに増やしたことにならないか?
実際、明・清代には、苗族などの異民族出身者も科挙を受験しているわけだし。
八股文は文体が整ってるというより形式「だけ」に拘ったパズルのような代物だろ。
実用性は極めて低いぞ。
608 :
世界@名無史さん:2015/02/07(土) 18:57:00.09 0
なんか明・清の上表文って
全体として読んで意味が分かる古典の一部を切り取って持ってきてるから
その文だけ読んでると意味がよく分からない箇所があるよな
>>603 殷の紂王がやったとされる炮烙の刑
史実かどうか分からないが
610 :
世界@名無史さん:2015/02/08(日) 15:40:01.92 0
>>609 炮烙って実際には肉を焼いて供える儀式の曲解らしい
酒池肉林も餅花みたいに枝に肉を刺して酒池もそれらしいのを作って
それくらい豊かな実りになってほしいという祈りの形だったようだ
ひょっとして紂王がやったと言われているから
やると自分の代で王朝が絶えると思ってやらないのかな?
612 :
世界@名無史さん:2015/02/19(木) 11:16:05.70 0
>>603 古い記録(史記)で項羽が劉邦の身代わりになって捕らわれた紀信を
火炙りの刑で処刑したとある。
613 :
世界@名無史さん:2015/02/24(火) 22:21:26.18 0
うろおぼえなんだけど
「万歴十五年」で
明代は大昔の土地台帳使ってて税率自体はきわめて低く
官僚や胥吏が変則的に徴収したり地主が取るので農民が苦しかったみたいに書いてあったと思うんだけど
明代ってちゃんと検地ができる人間っていたの?
科挙官僚は数学は全然習ってなさそうだし
胥吏はそんな権限もなければやっても何も得がなさそうだし
胥吏が官僚の手足となって実務を請け負ってるので、胥吏は算盤に長けてると思う
官僚が命じるままに税率上げたり下げたり、多少は自分の懐に入れたり
>>613 万暦会計録、山東経会録のような財政の専門書が編纂されているので
明朝官僚の計数能力はそれほど低いものではなかったはず
ただし検地の場合は民戸、官戸と諸王・勳臣の荘園が入り組んでて
土地の所有が複雑になっているので地方官だけでは手に余る
そのため万暦9年に行われた検地では現地の大地主や豪族に調査委員会を作らせ
彼らが出した数字や資料をもとに朝廷への報告書が作成された
当然のことながらかなりの申告漏れがあったようだ
616 :
世界@名無史さん:2015/02/25(水) 01:58:19.71 0
>>613-615 「官」(=科挙の合格者)は科挙を受験しているから儒教の経典については詳しいが、
法律、財務などの実務には疎い。
法律、財務などの実務については、現地の胥吏の方が詳しかったりする。
「官」自身が積極的でない場合には、現地の行政は胥吏に牛耳られる。
「官」が積極的である場合には、法律や財務に詳しい者を幕僚として雇って、
彼らからアドバイスを受けながら任務を遂行する。
出版業が盛んになった明・清代には、
科挙の合格者向けの、法律や財務などの実務の手引書も出版されている。
中華王朝の検地(丈量)は次の手順で行われる
自丈→覆丈→会計
自丈は
>>615で書いたような民間の土地所有者による測量と自己申告
覆丈は官によるチェック
会計で土地台帳が作成される
当然のことながら覆丈が有名無実化して隠田や税負担の不公正が常態化することも起こる
>>613,616
ただ公文書の作成や法知識で科挙官僚を補佐した幕友や
地域社会で官の下請けとして税の徴収や公共事業を取り仕切った郷紳層も
科挙受験の経験者であることが多かったから
儒教的教養と実務的な知識は必ずしも矛盾するものではないんだな
619 :
世界@名無史さん:2015/02/25(水) 17:26:09.93 0
しかし挙人と落伍者とでは天と地の差
>>619 官途に就かない名望家知識人の中では挙人は大物で
場合によっては省レベルの影響力を持つこともあるが
それ以下の生員だって顔の広さを買われて土地争いを調停したり
村祭りを取り仕切ったりして村の顔役として結構忙しいのだ
進士>>>挙人>>>>>>>>>>生員
科挙についてその制度を研究していた時代は
落第生なんて鼻もひっかけられない存在だったが
社会史的な視点を導入するようになってからは
生員クラスも地域社会の指導者として重要な役割を果たしていたことがわかってきたのさ
623 :
世界@名無史さん:2015/02/28(土) 07:23:49.10 0
ま、科挙に受からなくても気にすんな
明が一番繁栄してた頃の名臣の楊士奇や夏原吉だって
郷試も受けてないんだから
624 :
世界@名無史さん:2015/02/28(土) 11:14:10.09 0
楊士奇や夏原吉って建文帝が殺されたとき
最後の土壇場で永楽帝に寝返ったんだよな。
したたかというか・・・。
明の皇帝は人徳薄い
明朝最後の皇帝・崇禎帝が自決した時、殉死したのは宦官一人だけとか
南宋が滅んだ際には殉死者多く出たようだが
初代からしてアレですしおすし
627 :
世界@名無史さん:2015/02/28(土) 13:51:46.79 0
建文帝生存説をみんな笑っているけど
肝心の中国では信じている人意外に多いそうだ。
日本でも弘文帝生存説が千葉県に存在するね
日本の安徳帝や豊臣秀頼、近代の西郷隆盛まで生存説がある
そうあって欲しい、と言う大衆の願望が生み出したモノだろう
その最たるモノが、チンギス・ハンになったとか言う源義経
630 :
世界@名無史さん:2015/03/02(月) 19:44:15.48 0
>>624 黄福(『明史』巻百五十四)なんて
奸党二十九人に入ってたのにちゃっかりそのまま留任ですぐ後に工部尚書やってるからなw
その後も部下への給料未払いとか何か法に触れたとか何回も左遷されてるけど何度も高官に復帰してる
永楽帝南京入城時に李景隆に「こいつ奸党ですよ」って指差されたけど
「お前には言われたくない」って気持ちだったろうなw
631 :
世界@名無史さん:2015/03/02(月) 19:55:31.53 0
>>625 大概の明の皇帝が、有能だが冷酷か、放埓だが大らかかだけど
崇禎帝は放埓で冷酷だから救いようが無いよな
宦官べったりだし
632 :
世界@名無史さん:2015/03/02(月) 21:27:41.70 0
633 :
世界@名無史さん:2015/03/02(月) 21:45:13.84 0
>>629 ヒトラー生存説もヒトラーが生きててほしいという民衆の願望なのか?
>>623 官僚になる科挙以外のルートとして恩蔭(親の七光)や
捐納(献金)があるのは有名だけど
明初は事情が特殊で洪武17年に科挙が始まったにも関わらず
有力者の推薦で進士以外の人間もバンバン重要ポストに登用していたからな
趙翼が詳しく考証しているけれども建文の時の楊士奇も永楽の胡儼も
みんな学識が認められて非進士で翰林院入りしたクチ
景泰になるとそういう事はめったになくなったけど
635 :
世界@名無史さん:2015/03/03(火) 20:41:51.42 0
>>634 洪武・永楽あたりだと現場で苦労してるから人材の良し悪しを判断できるんだろうけど
宮殿の奥で育った世間知らずの皇帝だとそういう判断がつかないから
科挙という判断基準が最も有効なんだろうな
悪名高い錦衣衛だが、
元々は皇帝の側で儀礼に加わるきらびやかな錦衣を身につけた衛兵部隊だったんだね。
最近知った。
文武に通じた超優秀な人材が揃っている部隊だったため、
皇帝が活用したわけだ。
古典暗記猛者の試験馬鹿に比べたら、錦衣衛のメンバーの方がずっと実用的ではある。
637 :
世界@名無史さん:2015/03/06(金) 20:27:04.19 0
>>625 殉死した王承恩だが
wikiの項で「王承恩のみは崇禎帝に忠実で、目立たぬ存在だったという。」
って、なんか二世皇帝混じってるよな
王承恩は、絶大な権力握って、周延儒に魏忠賢の再来と言われたり
京営提督として北京の軍の総司令官やってた超大物だろ
638 :
世界@名無史さん:2015/03/07(土) 07:31:33.30 0
>>636 錦衣衛って皇帝の親衛隊だからねえ
王陽明も武功により世襲の錦衣衛武官職与えられて
それにプラスして伯爵まで貰って
子孫が北京陥落時に殺されてる
親軍としては、二十六衛もあったらしい。
孝陵衛だと陵墓を守るのが任務で、活きてる皇帝に会うことは、皇帝が参拝するときだけ。
錦衣衛は明初時では、厳格な審査と面接、各種訓練に通過できた者が選ばれる。良民であり、前科者は排除される。
万暦帝の時は朝鮮に来た日本軍の情報を収集する任務に錦衣衛が活躍してたとか。