1 :
世界@名無史さん:
>>2 乙。別の板で兵站はただの輸送役だから、
李厳にやらせるのはおかしいと言ってた馬鹿がいた。
>>1乙
いきなり
>>2で言うようなレスとは思えないが、本当にヴァカだなそりゃ
>>3 諸葛亮だって兵站やってただろがボケとレスしたら、
こんな回答が返ってきたw
>それこそ蒋エンらに任せればよい仕事、益州筆頭と思しき李厳には役不足
>しかし、劉備亡き後、劉備に成り代わり諸葛亮自身が筆頭として巨頭体制を敷かねば蜀が分解しかねない状態
>だが、諸葛亮自身にそれまで(劉備の生前)裏方だけに功績が乏しく、
>諸葛亮自身と比肩しかねない人材が功績を挙げれば巨頭体制を築くのに支障をきたす
>故に李厳や魏延などの有望な人材を活かしきることができなかったのではなかったと考える。
>>1乙
南陽出身の李厳がなんで益州筆頭なんだか。
北伐軍の後方支援は早逝しなきゃ費観が担当したんだろうな。
6 :
世界@名無史さん:2010/10/27(水) 23:37:17 0
李厳は江州の留守に李豊を置いて、漢中から後方支援をやってたから、
江州の費観が後方支援を担当する事は無いと思う。
ところで李厳が漢中入りする前の北伐で、後方支援の最高責任者だったのは誰なんだろう?
>>7 漢中太守・督農の呂乂だと思う。漢中入りした李厳は中都護のまま漢中を取り仕切ったとあるから、
たぶん漢中太守が担当するものだったのでは?
一次の頃に漢中にいたのは張裔(補佐として蒋エン)だから
漢中〜前線間は張裔の可能性が強いんじゃないか。
補給が重要任務なのは勿論だが、とはいえ、四次で李厳が漢中に入ったのは
政治色の強いものではあるだろうけどね。
李厳は本来、諸葛亮の留守には成都からの後方支援と首都の守りを
担わなければならないくらいの要人。
しかし長年中央政界から遠ざけられ、近年では巴州設置の上申をして
現地での影響力強化の動きを見せていた。
諸葛亮にとっては、自分の留守中、巴に留めておくことも成都に入れることも難しい。
そこで昇進させつつ李厳の影響力の小さな漢中に置いて動きを封じたのだろう。
その結果が裏目に出たのは双方の不運だね。
10 :
9:2010/10/28(木) 01:27:55 0
>>8 呂乂を忘れていたか。
でも呂乂は北伐期の初期は巴西太守だから、
漢中太守として兵站を担当したのは四次か五次からだろう。
一次 丞相長史 張裔
四次 中都護署(丞相)府事 李厳
五次 漢中太守督農 呂乂
詳細ではない記録から構成するしかないので確信的には何も言えないが、
こんなとこだろう。
勿論、一次でも名の残らない漢中太守が兵站を担ったりした可能性もある。
魏延のあとしばらく太守が置かれなかったのかもしれないが。
四次でも署丞相府事李厳の下で呂乂が兵站の実務を担当していた可能性、
ってのを書くのを忘れていた。
でも四次の兵站失敗の件は呂乂伝で触れられていないので
それを信じるなら五次からかな。
張裔は留府長史だから成都で丞相の事務を代行していたはず。
第一次の時に随行していたのは丞相長史の向朗じゃない?
ただ馬謖を見逃して向朗が罷免された後、第2次・第3次の補給を担ったのが誰か分からなくなる。
張裔が諸葛亮との打ち合わせで漢中に赴いたってのは、向朗が抜けた代わりとして一時的に留府長史の張裔に
に来てもらったのかも。
15 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 05:32:49 0
二次三次は大した規模じゃないんだから
丞相府の残りの人員でも回せるだろう
17 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 11:47:33 0
第二次北伐は遠征軍の手持ちの食料が無くなったら撤退という
シンプルなもの。大規模な兵站とかは必要ない。
第三次は蜀も総勢1万以下程度の出兵じゃないかな?
18 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 12:08:09 0
李厳は蜀ではいらない子だったからなあ。
同僚の支持もほとんどない。諸葛亮が劉備の遺命を尊重したから
地位を何とか保てていただけ。李厳自体は荊州出身のよそ者であり、
益州士人の支持があった訳でもない。
黄権みたいな益州出身の有能な人物が残っていれば、諸葛亮に対抗する
勢力になり得たかもしれないが、益州には黄権と後の馬忠くらいしか有能な
人物がいなかった。黄権は蜀を去ってしまい、馬忠は諸葛亮に引き立てられた
諸葛亮派の人間。
19 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 12:14:29 0
魏延・楊義も勘違い人間。
諸葛亮亡き後に代わる人間を自分が推されると思い込んでいた。
諸葛亮の様態が思わしくないないのに、何も相談されてなかった
時点で自分が後継になることはないと気が付くべき。特に楊義は
にぶいと思う。楊義は諸葛亮は自分の死後は意図的に閑職に左遷
するようにしていたように思う。
魏延は大人しく撤退してれば、地位は保全されたし、功臣として
関羽等と共に諡号が追贈されたかもしれない。
20 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 13:09:36 0
歴史は勝者によって作られるものという大前提を忘れると、こんなとんちんかんなことになる。
魏延は蜀に仕えてたというより、先主に仕えてたみたいなとこあったしね。
>>19 前々から疑問に思ってたんだが、魏延って蜀の将軍の中でそんなに飛び抜けた功績があったか?
要職にあって任された仕事を堅実にこなしていっただけで、大功らしい大功はないんじゃ?
地位が高いのも先帝以来の宿将だからだろうし。諡号が贈られるほどの人物じゃないだろう。
魏延のように失脚することもなく、車騎将軍まで昇った外戚呉懿も諡号はもらってないんだから、
魏延も無理じゃないかなあ。
24 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 20:38:46 0
>>22 席次を飛び越えてまで漢中を任されたことを考えると、
功績はあったと思う。
ただ、魏延は関羽・張飛・馬超みたいな中原での名声は
無いし、夏候淵を討ち取った黄忠、二代皇帝の命を救った趙雲
みたいな決定的なポイントが無い。やっぱ天寿を全うしても
諡号追贈は無理かな?
>>23 諸葛亮死後の蒋エンと呉懿の官位がほとんど差がないんだが、
これは諸葛亮政権における李厳的な役割を、
蒋エン政権では呉懿が担ってたってことなんだろうか?
呉懿さんが兵站にいそしむ姿は想像できないけど、ありえん話でもない
つうか劉備荊州時代からものすごく官位高かった諸葛亮と違って、消炎はいきなり高位になって周囲は納得だったんだろうか
>>25 逆っしょ。
トップの蒋エンが後方(成都)を固めている間、
最重要前線の漢中を守ったのが呉懿。
29 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 21:15:22 0
呉懿・王平は劉備時代から北伐直前までの魏延の役割だろ。
諸葛亮の死後は大規模な遠征なんて20年くらい無かったし。
30 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 21:26:16 0
>>27 根回しは済んでた感じだけどな。
李厳は失脚してたし。皇帝の劉禅は事前に承認済みだし、
諸葛亮の側にいた費イと宮中にいる董允は亮の生前から、
後継は誰かを知っていたと思われる。
根回し済みだった可能性が高いのは、馬忠・ケ芝・姜維あたり
と外戚の呉懿。諸葛亮の死後、あまり混乱もなく次の体制に移行
できたところを見ると、根回しは済んでいたと考えて良い。
>>30 魏延がすんなり成都に戻ってたら、そこでもめてた気がするなあ
32 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 21:38:38 0
>>31 魏延は宰相にはなれんでしょ。
一番困るのは勝手に遠征続行してしまうケース。
だから諸葛亮は撤退に従わない場合は放置を楊義・費イ・姜維
に命じている。命令に従えば地位は保全されただろう。
むしろもめる要素になるのは楊義の方。諸葛亮の死後は飼い殺しが
決定されていたと考えて良い。その証拠に、撤退にかんする指示以外は、
全く諸葛亮からは何も聞かされていない。
魏延は諸葛亮の政治的後継者になるつもりはなかっただろうから、
自分が漢中を任せられて、武勲を挙げる機会を奪われなければ
それなりに大人しくしていただろうけど。
だがそういうポストを与える余裕が蒋エンにあったかどうかが問題だ。
>>30 楊儀以外に文句言った奴がいないから、
根回しが必要ない成都の九卿や尚書クラスの連中も納得はしてたんだろうな。
>>33 呉懿の代わりに車騎将軍・督漢中にして、食邑を加増するだけで十分だったんじゃね?
魏延はプライドが満足する地位に置いておきさえすれば、そんな危険な人物とは思えない。
36 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 21:53:43 0
魏延は政治的野心はなさそうだよな。
関羽と同類の将軍という感じかな。
37 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 21:59:09 0
となると、魏延を殺さなければならなかった別の理由がでてくる。
つまり、魏延は諸葛亮の後継者が誰であるのかを知っていたということだ。
魏延に政治的野心があったら、諸葛亮に閑職に飛ばされてたと思う。
39 :
世界@名無史さん:2010/10/28(木) 22:02:27 0
蒋エン伝みると、おもいっきり反発くらってるように読める俺は目がおかしいのだろうか。
>>39 おかしくない。同意する。
>>37 別に必要はなかったよ。
この事件は北伐軍を指揮する主導権争いが拗れて
楊儀と魏延が自分を正当化するために相手を反逆者と弾劾したから
敗れた魏延が夷三族にならざるを得なかった、というものであって、
計画的な謀殺ではない。
>>39 就任当時、反発してる有力者って誰かいたか?
荊州攻める計画の時に反対続出だったけど、
あれは蒋エンが政権握ってだいぶ経ってからだろ。
粛清された楊儀初めブーたれてる奴は結構いた気がする
43 :
世界@名無史さん:2010/10/29(金) 11:41:07 0
ブーたれた楊儀が流罪になった挙句に処刑されてるんだから、表立って行動は起こせん=名前はでてこないよ。
>>41 政府ってのは史書に名前が残る数人の有力者だけで出来てるんじゃないんだぜ
蒋エン伝にさえ、蒋エンが温和な調整役として波風を立てないように徹したと
繰り返し書かれているのは、官僚集団の心服を得るのにそれだけ苦労していたってことだ。
諸葛亮の後ということも大きなハンデだったろうな。
そういや、諸葛亮死後、蒋エンはまず尚書令となり、
行都護、仮節、益州刺史と段階を踏んで、大将軍・録尚書事になってるな。
同格の奴が何人もいて、蒋エン自身の政治基盤もそんなに強いわけじゃないから、
いきなり大将軍・録尚書事は厳しかったんだろうな。
呉懿の車騎将軍・仮節・雍州刺史の任命の方が早かったから、
もしかして一時は呉懿が外戚として執政する芽もあったのかも。
46 :
世界@名無史さん:2010/10/29(金) 20:00:16 0
段階を踏んでるけどごくごく短期間で大将軍録尚書事まで上り詰めてる。
ところで蒋エンの前任の尚書令は誰だったんだ?
留府長史より尚書令の方が格上って事は、
そいつが諸葛亮の次の政権担当者になっててもおかしくないんじゃないか?
陳震が衛尉になって以降、蒋エンが尚書令になるまで、
誰が尚書令だったか分からんのだが。
誰かわからないくらい影響力が小さかったってこと。
諸葛亮時代、政務の全権は丞相府が担っていた。
蒋エンの尚書令は、皇帝が権限を臣下から回収していく最初の一歩といえる。
丞相府の機構は諸葛亮が死んだ後に解体されたと考えればいいのかな?
司馬や参軍や掾やってた奴も他の官職にスライドしていったと。
向朗が延熙元年時点で行丞相府事やってるから、
同年に蒋エンが開府するまで成都に丞相府があったんじゃないかな。
ずっと代行していたのか、儀式や特別な場面だけのものだったのか
>>50 諸葛亮の丞相府の属官だった連中が、みんな他の要職に転じてるのに、
丞相府を残しといても中身カラッポだろ。
政治は録尚書事−尚書令−尚書の、尚書系統が担当してるから、丞相府に出来ることないし。
向朗の行丞相府事は、漢が良くやってた、儀礼の時に九卿や朝廷の長老に、
宰相職を臨時に代行させるようなものだったんじゃ?
53 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 10:07:31 0
>>40 諸葛亮は魏延を殺そうとはしてないな。
命令通りに殿で撤退すれば地位を保てたし、
従わなくても魏に降伏という道もあった。
わざわざ命が助かる選択肢を与えてくれている。
むしろ始末しようとしていたのは楊義。
後継の宰相は蒋エンにしても、功績ある楊義には
何の要職も与えようとしていない。2の地位すら
与えていない。諸葛亮は死後の体制について何も
彼には語っていない。皆節度のない言動をしている
ことを知っているのに、費イが面会して、誹謗の言葉
を密奏している。良くても飼い殺しの道しか無かったと
思われる。
楊儀って費イに謀殺されたようなものだよな
55 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 10:32:00 0
魏延と楊儀の話題何回目のループだよ。 いい加減秋田 新しい解釈もうでないだろ。
56 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 11:17:27 0
>>55 お前が知らないだけで新しい解釈はいくらでもある。
57 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 13:51:55 0
58 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 13:58:34 0
でもまあ、諸葛亮の後継体制には楊義が最初から外されてたのは
事実でしょう。無事軍を撤退させても要職が全く用意させてなかった
からなあ。費イ・董允・馬忠・ケ芝・姜維等は要職が用意されてた
のにだ。
59 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 17:56:16 0
楊義の中軍師という役職は、
主無き丞相府の軍師だったのかなあ?
>>59 後軍師費イ、中監軍ケ芝、前領軍張翼、右監軍姜維の四人と並ぶ
旧丞相府の軍の最高司令官の一人だった。
他の四人はすぐに要職に転じたけど、楊儀だけは据え置きで棚上げされた形。
61 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 19:19:56 0
>>60 やっぱ楊義のハブリンチョは既定路線だったわけだ。
>>61 諸葛亮死後に楊儀にさせられる仕事って、あとは国政を任せるぐらいだからなあ。
下手に実権のある地位を与えたら、諸葛亮にとっての李厳のような面倒な存在になる。
63 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 21:27:39 0
魏延・楊義は上にしっかり掌握してくれる上司がいて初めて能力が
発揮できるタイプなんだよね。それがいないと、性格が災いして失敗して
しまう。李厳が諸葛亮の死を聞いて落胆のあまり没したのも、自分も劉備や
諸葛亮が上にいたからこそ能力が発揮できたと気が付いたから。自分には誰も
支持者がいなかった。李厳・魏延・楊義は、能力は確かにあったが、度量が
狭く、上に立つ人間ではなかった。性格の欠点を目をつぶってくれる上司がいて
初めて能力が発揮できる人間だったということ。
人格を陳寿にボロクソにけなされてる王平が歴代政権下で重用されて、
天寿を全うできたのはなぜだろう?度量が狭くて、上に立つ人間でないのは、
魏延や楊儀や李厳と変わらないと思うんだが。あの性格なら人望も無さそうだし。
65 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 21:51:14 0
王平は性格悪いと酷評されてったけ?
確かに疑り深く、軽はずみと正反対なことを同時に書かれてたけど・・・
評では忠誠勇武と讃えられている。命令違反をして勝手な軍事行動を
しようとしたことはないし、他人を誹謗中傷したという記述もない。
そんな排斥されるような欠点ではない。
66 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 21:57:45 0
魏延は撤退命令を聞かず、勝手に遠征続行をしようとしたこと、
楊義は時の宰相への誹謗中傷が激しすぎ、もはや放置できないまで
になったこと、李厳は職務怠慢な上に、皇帝や丞相に対して嘘の報告
をし、軍を撤退させてしまったこと。王平の性格的欠点レベルとは
桁が違う重罪レベルのことをした。
蜀の話なんてどうでもいい
来敏は?こいつが天寿全うできたの不思議なんだけど。
69 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 23:54:11 0
70 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 08:16:52 0
>>68 正直、どーでもよい人物だったということだ。
わざわざ殺す価値もないし、そんな面倒なこともする価値もない。
無視すればOKみたいな人だったんだよ。
王平が李厳らと異なるのは当然だろう
国家や政権、公事を煩わす様な余計な自己主張はをしていないし、
任務には忠実に臨み及第点以上の実績をあげ続けている
こういった人物はかえって用いる側にはウケが良い
歴代の執政者から重宝され任用され続けたのも自明
トウ芝もこれに近い
李厳ら三人とは明らかに別物だろう
72 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 09:04:33 0
ケ芝は性格的には驕慢なんだけど、
やっていることは公正で、周囲の人が納得できるものがある。
誰かを陥れようとか、害を与えようという負のパワーがない。
王平とかもそうなんだけど、公事優先で私利私欲が全面に
出ていない。
李厳・魏延・楊義は明らかに公事より私利私欲や個人的感情が
前に出てしまっている。故に排斥される結果となった。
73 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 13:29:13 0
驕慢だけど公平って変な性格だな。
性剛簡,不飾意氣,不得士類之和.
率直強情で、他人を褒めたり融和するような行動を取らなかった。
ゆえに公正であれたのだろうし、不人気でもあった。
75 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 14:14:13 0
魏延も私利私欲があった訳ではないが、
楊義の指揮下に入りたくないという個人的感情で行動した。
李典みたいな、国の大事に私心は挟まないという態度では
なかったな。
76 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 14:57:58 0
>>56 2chのレスで井波律子あたりが相手するとでもおもっているの(藁)
77 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 18:10:33 0
本伝を読む限り、諸葛亮が魏延を始末しようという意図は
感じられないけどな。あくまでも命令聞かなければ放置プレイという
だけだったし。楊義に関しては実権を与えない手はずが出来上がっていた。
李厳のような存在になることを避けたかったのかなと思う。
劉備が諸葛亮と李厳の二人に後事を任せたのは、結果論としては失敗だったのかな?
蒋エン一人に後事を任せた諸葛亮の方が賢明だったのか。
79 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 19:16:28 0
人の寿命はわからんからなあ。
諸葛亮が数年後にポックリなんてこともあり得るわけで、
副を決めておいたのは妥当な措置ではないかと。
諸葛亮も蒋エンの次席として費イを指名している。
費イの突然の落命により、姜維が実権を握ったら蜀はガタガタに・・・
80 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 19:30:13 0
諸葛亮(荊州閥)・李厳(益州閥)
蒋エン(荊州閥)・費イ(荊州閥)・董允(益州閥)
姜維(益州閥?)
81 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 19:45:13 0
>>80 李厳や費イや董允も荊州からの移住組だよ。
益州出身の有力者は黄権や張裔、馬忠、張翼といったところ。
諸葛亮は張裔とは入蜀前から交友関係があったぽい。
姜維への反対は成果のない連年の出兵が原因で、荊州閥と益州閥との
対立とは違う。そんなに荊州閥と益州閥の対立的なものは見受けられない。
李厳は益州出身ではないし、政治的に李厳を支持する勢力もなかった。
>>80 荊州閥、益州閥というものは無いよ。
劉備時代は劉備独裁、諸葛亮時代は諸葛亮独裁、蒋エン時代前半は蒋エン独裁、
蒋エン時代後半以降は集団指導体制。
荊州人も益州人もその他の州の出身者も、出身地ごとに派閥を作って対立する事は無かった。
83 :
世界@名無史さん:2010/10/31(日) 21:22:21 0
呉の張温って、確かに名門の出身で名声も高いけど、
若くて官位も高くないのに何で影響力が大きかったのかとか、
あの程度の事で政界追放されたのかとか、良く分からん。
蜀漢帝国の荊益問題は、対立というより棲み分けだね。
蜀漢が益一州のみの国家とならざるを得なくなったとき、
劉備を筆頭とする州外人集団は、生存の道を自分達の中央官僚機構の中に求めざるをえなくなった。
これは荊州以前からの劉備の旧臣、荊州人士、旧劉璋配下の非益州人、三者に共通する事情となった。
一方、地縁と財力のある益州人士・豪族達は、従来通り土地を直接支配する道を継続した。
建国の元勲である州外人とその子弟は、直接中央宮廷に出仕して高官への階梯を昇っていく一方、
益州人は漢の官制を継いでまず州・郡・県の吏となるのが大多数の例となった。
自然、史書に残る高位高官の名は非益州人が多数となる。
しかしながら、郡県の行政の現場においては、経済力を持ち郡県吏を輩出する益州豪族が根強い影響力を保ち、
太守などの高官でも彼らの力を憚ったり、戦時徴発が思うように進まないケースも多数あった。
ところで前者、州外人士によって主に構成される蜀漢高級官僚集団を総覧すると、荊州出身者の名が特に目立つのがわかる。
登用抜擢に諸葛亮が関与したり、懇意にあった者が多く、これがいわゆる「諸葛亮閥」というものになる。
諸葛亮が独自の派閥を運用し、劉備への圧力を高めようとしたのだ──
などという説もあるが、まあ、それは言いすぎだろう。
劉備が荊州を支配してやっと独自の官僚機構を持とうとしたとき、人事の中心となったのが諸葛亮ならば、
劉備政権中枢に荊州人が多いこと、彼らと諸葛亮との関係があるのは当たり前の話になる。
劉備の流浪の経歴を見れば官僚能力を持つ者を大量に得られたのは荊州時代以降であるし、
諸葛亮が丞相ともなれば自分の縁故のある者を使おうとするのも、
史書に国家の中核を担った劉備や諸葛亮との関係が優先して書かれるのも当然のこと。
帝国初期の荊州人の占める割合の多さを、諸葛亮個人の事情による偏りと見るのは穿ちすぎというものだろう。
そんな事情も中後期には薄れてきて、学問方面を中心に益州人の中央官界進出は増加していく。
85 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 11:04:03 0
諸葛亮死後、「北伐を続行する」と言ったのは誰か?
「こんなことなら魏についているべきだった」と言ったのは誰か?
86 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 15:48:57 0
>.84
話が長い。
要は、外省人と本省人の二重構造に鳴っている今の台湾の政治構造と同構造であると。
明朗簡潔に纏められるだろうが。
たいした内容でも無いのに、話が長い奴は要らないよ。
>>86 確かに俺も
>>84を読んでいて台湾の現状を想起させられたが、
それによって蜀の状況の理解を深めるには、現在の台湾の政治構造を予め知っていて、
重ね合わせられる程度には双方に詳しいことが前提の様に思うが。
むしろ君に他人に対する想像力が欠けている様に思う。
一人一人、詳しい事柄の範囲が異なるってことを前提に話を出来ない方が問題だぞ。
88 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 16:05:26 0
>現在の台湾の政治構造を予め知っていて、
重ね合わせられる程度には双方に詳しいことが前提の様に思うが。
一応、ここ学問板だぞ。
殆どの住民がに基礎教養としてその程度の知識は持ち合わせていると思われ。
>>88 学問板と言ったってなぁ。
近現代史に足を踏み込んでる奴以外では、外省人と本省人の民族構成と、
「戦後から最近まで外省人が政権中枢を支配してきていて、李登輝総統の出現で本省人の官界進出が本格化した。」
という上っ面のところまでしか知らん奴は少なくないだろ。
そういう人間にいきなり台湾持ち出されても理解はし難いよ。
台湾独立支援とかに興味がある奴ならまだしも、
現代の東アジア全般には全く興味ありません触れたくもありませんって奴も居るわけだし。
それ以前にそもそも何か他のものに例えるのは何に例えたとしても荒れるもの
それもかなり横道に逸れて
>>88 ここ学問板だからこそ、安易な類例を持ち出たりして
時代の特殊性への理解を妨げるような真似は慎むべきだと思うが。
「要するに魏は今のアメリカみたいなものである」なんて比喩を書くのは
ソフトカバーのミーハー本止まりだろう。
蜀はやたらと内部対立や性格の問題で失脚した奴ばかりだけど、
そういう奴が他に国にあまりいないのは、
蜀が人材不足だから、変なのでも使わざるを得なかったということだろうか?
93 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 19:55:50 0
蜀から魏に亡命した黄権なんかは性格良かったみたいだな
性格に難のある司馬懿が諸葛亮への手紙に「快男児」というぐらい
評価している。
>>92 ( ̄Д ̄;)
ちゃんと三国志全部読んだ?
95 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 20:13:55 0
もちろんだ。横山光輝の漫画と蒼天航路読破済みだ。
>>94 政争で失脚した奴とか、性格を嫌われて左遷された奴とかはたくさんいるけど、
伝記が立つレベルの人物で、人格に問題があったせいで命落としたり、
官位剥奪の上流罪になったりしたのがこんなに多いのは、蜀ぐらいのもんだろ。
魏や呉は人格に問題がなくても殺されるからな
蜀は人格問題くらいでしか失脚しない、ともいう
胡済なんて失脚ものの大失態犯してるけど、その後も昇進して驃騎将軍なってるよね。
>>96 >人格に問題があったせいで
例えば誰?
官位剥奪や流罪にあった人間は必ず相応の罪状が当てられているはずだが。
まあ人材が少ないからショボい奴でも伝を立てたってのはあるだろうけど
102 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 01:32:08 0
史料が少ないから、しょぼい業績しかのこってなくぃンだろ
103 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 08:52:58 0
>>92 降将で文盲で性格難有りの王平を最前線で使うぐらいには人材いないよ。
蜀は史官が無い国だから仕方ない。
記録大好きな中国王朝(蜀がこう呼べるかは賛否両論あるだろうが)にしては
珍しい例外だ。
何で士官いないことになったんだっけ?
あくまでも蜀ではなく『漢』だから北伐成功して
洛陽にでも復帰遷都してから正式な記録残そうと考えたんでしょ。
趙雲の年齢が不詳なのも史官が無かったから
>>106 いや根拠だよ文献上の根拠
何を根拠に史官なしってことになってんだ?
新校本三國志/蜀書/卷三十三 蜀書三
又國不置史,注記無官,是以行事多遺,災異靡書
没年齢が明らかなのは劉備・劉禅・諸葛亮くらいだからな。
前スレ814-825読め
読めません
蜀には、魏のように私撰の史書を書いたりしてた奴はいなかったのかな?
>>108 何時無くしたのかが書いてないね
劉備のところではなく劉禅のところに書いてあるということは当初からいなかったというわけではないってことかもしれん
史官の有無には後代の学者から災厄祥瑞が記録されてるのに居ないってのはおかしいという突っ込みも入ってる
趙雲の生没年が不明なのは史官がいなかったからという結論付けは無理だ
114 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 19:28:01 0
馬良・馬謖も没年齢が明記されているぞ。
115 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 19:50:49 0
>>99 あれって大失態なのかな。
行軍が天候等で遅れるなんて当時はよくあったと思う。
そもそも動員兵力が限られている蜀が、軍を二手に分けている
のも解せないし。なんか軍隊の現地集合みたいな進軍のような
気がする。
822 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 23:30:48 0
そもそも史官って史書編纂を職務にする官吏じゃないぞ
823 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 23:49:47 0
蜀の記録が乏しいのって、単に蜀滅亡前に蜀の史書を書いた人がいなかったからでは?
魏では私的に史書を書いた人がたくさんいたし、呉では私的な史書の他に国が編纂した史書があった。
824 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/10/18(月) 23:56:17 0
私撰または欽定史書が編纂される前に蜀は滅び、加えて成都が暴動で混乱した。
陳寿は遠く洛陽に居り、現地を巡って史料を蒐集するような余裕がないままに三国志を書き上げねばならなかった。
825 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 00:22:12 0
劉知幾さんは天地の吉兆凶兆を記録するのが史官だと言ってたな
蜀の動きが完全に魏に読まれていたことが原因だから
胡済2号の軍事行動が超人的な速さであってもどうしようもない
後主伝
景耀元年,姜維還成都.史官言景星見,於是大赦,
とある。
後主伝評で陳寿が云わんとしていたのは、
呉の韋昭の様に(国)史を記すものがいなかったとするか、
途中までいなかったとするか、どちらかの記述が間違っているとするか、
難しいところであるな。
>>118 諸葛亮の政治にやんわり苦情を言ってる箇所だから、
冗長な官を省いたという諸葛亮の時代にはいなかったと言うことだろう。
その後いつかわからないが、改めて置かれた。
>>115 どんな理由でも、予定に間に合わなかったせいで負けてしまったら、普通は処罰の対象だよ。
それが国家の存亡にかかわるぐらいの大敗なら、責任問題は免れないだろうね。
前漢の李広が戦闘に間に合わなくて、査問を受ける前に自殺したり。
>>119 歴史書を記録して、後漢の後継者として、自らの正統性と大義名分をアピールしなきゃいけない国なのにね。
>>117 胡済の軍と合流できてれば、姜維ももう少しマシな戦いでできてたと思うが。
完全な状態の軍が至近にいれば追撃を絶つのに絶好の兵力になるからね
そう言えば、三国時代で敗戦責任問われて左遷されたり失脚したりした将軍ってほとんどいないな。
上官に敗戦責任なすりつけられたり、偉い人の機嫌を損ねたりして、
敗戦責任を口実に左遷されたり失脚したり殺されたりした将軍はいるけど。
>>125 王経が姜維に大敗し、中央に召還されたのは左遷じゃなかろうか。
刺史から尚書は昇進だろ。
129 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 01:52:56 0
馬謖
130 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 05:41:56 0
諸葛亮は自ら降格、趙雲も連座して降格。
馬謖は命令違反による敗戦で処刑。後に姜維も自ら降格。
敗戦で責任取ったのはこれくらいか?
曹休なんて計略にかかった上に大敗しても責任問われていない。
干禁が捕虜になったことで虐められたな。
131 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 06:28:39 0
つーか敗戦で降格するというけどさ、有司に付して刑賞を論じと出師の表の言っておきながら、
自分の処分は自分でやるってどういうことなのよ。
132 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 08:55:10 0
>>131 形としては皇帝に降格を申し出、
皇帝が処分を下すという形だと思うよ。
つまり朝廷が処分したということだと思う。
133 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 09:16:14 0
しかし、趙雲は不運だよね。
別働隊を率いたばっかりに、諸葛亮と連座して降格だもの。
全然
元々劉備時代に左遷されてんのに諸葛亮に引き立てられてんだし
劉備時代に比べれば降格したって格段の扱いでしょ
135 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 09:22:23 0
劉備に左遷されてたの?
趙雲はもともと関羽張飛に比べて頭半分落ちるくらいの地位で、それがそのまま継続してただけだろ。
武将としては魏延に追いつかれたくらい(抜かれたかどうかはわからない)
勢力が拡大するにしたがって馬超や黄忠のような大物が入ってくれば上から数えた序列が下がるのは仕方がない。
関張でさえその憂き目にあってる。
137 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 11:14:28 0
趙雲は諡号までもらったからなあ。
2の李厳が前将軍だったこと考えれば、
最高官位が鎮東将軍は相対的には上位だよな。
諡号とかって劉禅の贔屓じゃないのか?
蜀の末期で劉禅がそういうのを濫用してた感じがする
>>125 三国初期まではどこも軍閥の集合体だからね。
軍閥の長が親族など信頼できる者へ権限を分与していたり、小軍閥の長が自前の力でより大きな軍閥に所属していたりして
勢力が出来ているのだから、彼らは信賞必罰による「取替え」が利かない構成員なわけだ。
時代が進んでも皇室自体を支える曹氏や孫氏とその一派はやはり別格だし、魏では司馬氏の台頭が取って代わった。
諸葛亮が自分をも降格したのは、中華帝国本来の法治システムを構成しようとした
動きとは言えるが、諸葛亮が托孤の臣として万機を掌る別格の地位にいるわけだから、
効果があったかは微妙だろう。
140 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 12:47:58 0
http://musou.ldblog.jp/archives/1865902.html [PS3] 真・三國無双6 諸葛誕と王元姫が新規参戦!
木曜発売のファミ通のフラゲ情報より、真・三國無双6に諸葛誕(しょかつたん)と王元姫(おうげんき)が新たに参戦することが明らかになりました。二人共勢力は晋になります。
◯諸葛誕 勢力:晋 (CV:桐本琢也)
諸葛亮の一族にあたる男。真面目な性格で正義感が強いが、視野が狭く対局を見るのは苦手。
◯王元姫 勢力:晋 (CV:伊藤かな恵)
魏の重臣王粛の娘で、史実では司馬昭の妻となる。弱者に優しい賢女だが、親しい人物には遠慮せずに本音を語る。
杜預とか羊コとかライバルの陸抗はでないのだろうか?
>>139 >諸葛亮が托孤の臣として万機を掌る別格の地位にいるわけだから、
効果があったかは微妙だろう。
だからこそ降格を請う事に意味があるんじゃないの?
「自分のような別格の扱いを受ける臣でも例外はない」という法令・命令順守を求める強いメッセージになる。
降格そのものが目的じゃなく、降格による蜀臣全体への意思表示でしょ。
142 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 13:07:31 0
諸葛誕が晋って大丈夫か?光栄さんよ。
143 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 13:09:49 0
司馬氏の天下になるのを最もきらっていたうちの1人なのにね。
144 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 13:49:47 0
>>138 贔屓で諡号が贈られたのは陳シくらい。
後は対外宣伝の為に夏候覇くらい。趙雲は劉禅の命を救ったのは
確かだが、劉備の流浪時代からの功臣でもある。世論も趙雲に
諡号追贈は当然とのことだった。
145 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 13:58:09 0
同じく曹純に捕らえられた劉備の2人の娘は曹純や上司の曹仁に弄ばれたというのに。
端女としてあんなことやこんな事されまくる一生ですた。
>>144 呉と蜀はなんであんなに諡号をケチってたんだろうか?
魏なんて高級官僚や高級軍人には諡号贈りまくってたのに。
148 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 19:19:55 0
簡雍は劉備と古くからの親友で旗揚げから参加してたみたいだけど、
荊州に入るまで何やってたか良く分からんね。
劉備が賊と戦って県丞や県尉やってた頃とか、公孫サン配下として平原にいた頃とか、
徐州にいた頃とか、許都にいた頃とか、袁紹の下に居た頃とか、何してたか想像つかない。
150 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:02:38 0
>>149 元々、劉備のお友達というだけで、
取り立てて何か特技があった訳ではないから・・・・・・
伝記が残っただけでも凄いことだよ。
劉璋には気に入られたみたいだけどね。
151 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:08:52 0
禁酒令での逸話
劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。
簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。
劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。
これどういう意味? なんで劉備笑い出したん?
貶める訳ではないが、これぐらいわかるだろう
153 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:14:10 0
>>151 酒を作る・飲むことに罪を課したのであって、入れ物の所持は関係ないから
155 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:21:57 0
米は酒にすると大幅に減るからな。
日本の江戸時代でも「米を酒とかの加工品にしなければ、農民もみんな米を食べられるのになぁ」という主張がある。
156 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:28:46 0
>>154 ああ、なるほどね。 つまり男女をどうこうといったのは・・・
簡雍なかなか冴えてるやん
157 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:32:38 0
>>151 A 酒造器具をもってるから酒作るに違いない。罰しちまえ。
B ちん○、まん○もってるから淫行するに違いない。罰しちまえ。
Aが認められるんならBもOKだろという皮肉。
>>150 魏や呉なら、この程度の奴の伝記は残らんよね。
そんだけ蜀が人材不足だったってことだな。
>>158 魏略とか陳寿が全然取り上げてない人物もかなり収録してるよ
呉書なんかもそう
160 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 21:43:45 0
>>157 劉備は戦争がしたい。だから食料が欲しい。貴重な米を酒にしたら目減りする。だから禁酒。
孔融も同じような事言ってなかったっけ?
>>161 そう。曹操も禁酒してる。当時はおそらく穀物不足に端を発する禁酒ブーム。
ああいえば孔融
164 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 22:23:28 0
穀物不足ってようするに後漢末からの異常気象起因だろ? いつまで続いたのかね。
>>164 7世紀頃まで。後漢が崩壊してからの長い中国の分裂は、異常気象で食料生産力が激減して、
政情が不安定になった事が大きい。
166 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 22:33:58 0
>>165 霊帝「そうそう。だから朕は悪くない」
仲常侍「わたしらも悪くないのよ〜」
董卓「俺も悪くない」
167 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 22:39:39 0
でも八王の乱や、永嘉の乱の起因は内紛の解決に外患を招き入れたことが原因だし、
苻堅の泗水の戦いもうまくやれば勝てたはず。
少なくとも、隋唐の統一までに晋の長期政権化と秦による全土統一の目と政権安定化の機会は2度はあったと思うよ。
>>166 実際霊帝の治世後期に関してはむしろ後の魏に繋がる様々な改革を行った治世であったとする研究もある。
そして霊帝後期には反乱が起こっていない。
169 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 22:43:42 0
>>168 ほとんど、企画倒れだがな。
曹操が一部パクったぐらい。
売官制度は金さえあれば評判は問わないという意味で唯才主義の先駆かもしれん
>>169 一部ってほど一部でもない。
仮節制度についても霊帝期に完成してるっぽいし。
魏じゃなく蜀や呉がやったことではあるけど改鋳による経済統制の成功例でもある。
>>168 黄巾の乱とか、辺章・韓遂の乱とか、馬相の乱とか、張挙・張純の乱とか、
数万規模の反乱がいくつも霊帝末期に起きてるんですが。
>>167 安定させ難い自然条件だった、というのが問題なわけで。
「完璧最高に上手くやれば統一できた」時期と、
「多少ミスしても統一できた」or「統一可能な条件が整いつつあった」時期を同一視はできないだろう。
>>158 簡雍の立伝を否定するってのは、魏志9や呉志6を否定するのとほとんど同じだよ。
簡雍というのは劉備にとってそういう人間だった。
>>173 魏志9や呉志6は有能で大きな功績があり、高位高官に昇った一族の列伝だろ。
それと劉備の友達で最古参と言うだけで、大した活躍も無かった簡雍は比較にならないだろ。
劉備の使者として往来した、と書いてあるよ。
友達としてベッドに寝そべっていただけだとも思ってるの。
具体例として、挙げられている、成都降伏の使者というだけでも劉備にとっては特筆すべき重要な功績。
簡雍はそのような、劉備に信頼される使者としての任を負う人間だったってこと。
177 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 23:18:54 0
あいつらはいつ死んだのかがわからんのだが、いったいどうなってるんだ
あいつらって誰だよw
いったいどうなってるんだはこっちの台詞だw
>>176 挙兵当初からずっと渉外担当的な役割を果たしてたのかな?
180 :
世界@名無史さん:2010/11/03(水) 23:48:08 0
関羽張飛が目立つけど、劉備軍団の原型って孫乾と簡雍と関羽張飛と劉備自身が劉備軍団の旗揚げ時のメンバーなんかな?
>>180 孫乾は劉備徐州時代の参入だ。旗揚げ時じゃないぞ。
183 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 13:16:35 0
孫乾や簡雍は親族扱い?
184 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 14:33:25 0
孫乾は入蜀前に亡くなっているだろ。荊州時代より前かもしれん。
>簡雍は親族扱い?
劉備の子のうち庶子の母親が何人か名前すらわからないケースがあるな。
単に身分が低すぎたが、滅亡時に記録が散逸したかそれもわからない状態だが、
家臣の中に不自然な昇進を果たしている人物がいれば糜竺みたいなスポンサーや
外戚であった可能性はある。 簡雍がそうとは限らないが、
張飛や糜竺、呉イが主な外戚になるか。
まあ、麋芳みたいに呉に逐電したモノもいるが。
185 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 15:33:56 0
>>184 簡雍はそんな不自然な昇進をしたわけでもないよ。
だから、あんたの論理なら外戚って線は無いね。
187 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 19:12:31 0
読解力のない人だな。簡雍が外戚とはいってないぞ。
188 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 19:17:07 0
ただ、劉備の庶子何人かの母親が不明なのは事実。
後宮で子を成した親族が取り立てられて昇進した例は
支那人の歴史で多いから、血縁関係にある人物が
昇進した可能性はあるとそれだけの話しだ。
中国は割と外戚の害少ない方だと思うがね。
単純に他国と違って外戚等を害悪として糾弾する向きが強かっただけで。
藤原氏やら、北条氏やら、日本の歴史の方が外戚優遇期間が長いし。
西洋だととんでもない巨大な姻族作り上げたハプスブルグとかあるわけで。
両漢代が、中華史で最も外戚の台頭の多かった時代と言われるね。
以後は重要度を失う。皇帝の側近としては宦官が有力になってこれが清まで続く。
糜竺だって別に不自然な昇進をしたわけじゃないがね。
陶謙の別駕、曹操には太守で迎えられるような徐州の要人が全部振り切って劉備について来た。
劉備は将軍幕府を持つようになると彼を従事中郎という厚遇のポストで迎えた。
そのままとんとんと階級を上げて劉備陣営中三指に入る高位を維持した。
どこも不思議なところはない。張飛なんか言わずもがな。
呉懿は逆に、外戚にもかかわらず魏延の下風に立ってた。
どうも
>>184はピントがずれてるな。
192 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 20:11:20 0
ハルヒが魏延に漢中太守とられたのは、どう考えても「小人憐れまず」の性格のせいだろ。
もちろん魏延だって性格に問題がないわけじゃないが、ハルヒはそれよりひどい。
193 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 20:22:11 0
何故に191はそこまで必死なのか。
外戚による人事は漢代だとよくあること。
蜀漢でも同様の人事が行われた可能性があると
指摘されるとよほど不味い理由でもあるのかね?
だから事例を出して反論してるんじゃないの?
外戚人事だっていうなら、どこがそう疑わしいのか指摘せんと
195 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 20:34:00 0
だから外戚なんていってねえよ。
196 :
189:2010/11/04(木) 20:36:59 0
俺については単純にこの期に及んで「支那人」なる呼称を使いながら、
中国史に対する偏見バリバリなことを言い出したんでちょいとカチンと来てレスしただけだからな。
それ以降は今のところこのレス以外レスしてない。
>>195 >>184で
>家臣の中に不自然な昇進を果たしている人物がいれば糜竺みたいなスポンサーや
>外戚であった可能性はある。 簡雍がそうとは限らないが、
>張飛や糜竺、呉イが主な外戚になるか。
って言ってるじゃねえか。
外戚って言葉を使っといて、外戚だから昇進したって可能性を匂わせといて、
外戚なんて言ってないんなら、
>>184で何を言いたかったんだ?
198 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 20:53:44 0
>>196 なんだ粘着君か。
>>197 その3人は実際に外戚だから外戚と指摘したまで。なんの問題があるのかなw
199 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 20:55:50 0
そもそも簡雍はそんなに出世してないだろ。
>>198 お前痴呆?
>家臣の中に不自然な昇進を果たしている人物がいれば糜竺みたいなスポンサーや
>外戚であった可能性はある。
てめえで外戚だから昇進した可能性があるって言ってるじゃねえか。
>>198 中華史に詳しくなければ一見通用するっぽい半端な「一般論」を持ち出して、
その一般論が適用されない事例(劉備陣営)を読み解こうとしたところに問題がある。
劉備の外戚の三者とも、要人だから婚姻関係を結べたのであって、
婚姻関係の後に要人になったのではない。
>>182 誰も突っ込まないけど田予は旗揚げ時の参加じゃないよ
wikiの記述を鵜呑みにしない方がいい
>>201 というより、別の時代でも要人や名門だから外戚になれた例の方が、
外戚になったおかげで要人になれた例より少ないんだよな。
皇帝の正室ともなると、ある程度の家柄は必要だから。
>>203 そうだね。
漢でも卑賤の身分から皇帝個人の寵遇で一躍外戚に、なんてのは中期辺りまでで、
あとは功臣や高官の子弟がほとんど。
おそらく親々の者を側近に配して天子を護らせよという儒学の浸透が働いているのだろう。
後漢の末に儒学を遠ざけた霊帝が何氏を選んだというのも深読みさせられる話だね。
皇帝個人の寵遇で一躍外戚に、なんてのは『前漢の』中期辺りまでで、
だった。
というか
>>203 >というより、別の時代でも要人や名門だから外戚になれた例の方が、
>外戚になったおかげで要人になれた例より『多い』んだよな。
じゃないか?w
簡雍は昭文将軍。縻竺、孫乾に次ぐ序列でおそらくは実務は無い名誉職。
出世した方だとは思うが、年功だろうね。
>>204 霊帝は斬新ではあったけど治安を大悪化させたから従来の政治も超えられなかったわけだ
馬超は別格として、許靖、糜竺に次ぐ配下ナンバー3で諸葛亮の上位。
関張らはもっと下。
「出世したほう」とは控えめすぎる。
210 :
189:2010/11/04(木) 23:10:44 0
>>208 悪化させたというか、異常気象が多かったのと桓帝の失政のツケが大きかった。
あと、治安維持&反乱抑止する為の軍事力が、後漢になかった。
>>208 そもそも、霊帝が治安悪化させなければ、八校尉なんて近衛軍いらんじゃん。
おっと、名前欄取れてなかった。
>>208 いや、動き出したのは全国の治安が転がり落ちた黄巾の乱の後だろう。
霊帝は曹魏へと続く改革を多数打ち出しはしたが、
本人にそれを断行する意志力が足りなかった。
改革派の宦官もいたのに、守旧派の圧力に負けて排除してしまったりしてるし。
それから、短命だった。後漢皇帝の殆どにいえるが、これが改革が頓挫する
最大の原因になった。
214 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 23:15:37 0
こういう流れだろ?
霊帝が売官で大儲け。
↓
売官で役職を得たものは、元を取るために民に高税率をかける。
↓
民の不満によって各地で反乱勃発。治安悪化。
↓
霊帝が治安回復のための近衛軍を作るが、半ばで頓死。
>>213 魏の皇帝も軒並み短命だな
当時の皇帝の食事とかに何か問題あったんじゃない?
>>214 大前提として、110年頃から続く天候不順と流民増加、経済悪化に伴う断続的な反乱増加がある。
後漢滅亡の要因は桓霊期に突然噴出してきたわけではない。
霊帝はおそらくただの凡人だっただろうが、
もともと皇太子でもなく亭侯の家から12歳で突然皇帝に祭り上げられ、
臨朝皇太后や幅を利かせる外戚竇氏、宦官の政争の狭間でイエスというだけの皇帝生活を長年送ってきた。
黄巾の乱が起きたのが28歳の時だが、おそらくその時まで自主的に政治を執ったことなどなかっただろう。
そんな人間が突然英主になれるはずもない。少なくとも俺には無理。
180年代の後漢衰亡の責任を霊帝一人に還元してしまうのは酷過ぎるね。
>>216 黄巾の乱の前から何氏を皇后にして何進を重用してる
単なるイエスマンのやることじゃないよ
>>209 いや、簡雍の序列が諸葛亮より上だとはどこにも書いてないんだが。
縻竺に次いで孫乾と並ぶとだけ記録があるのみ。縻竺の次がすぐ孫乾・簡雍とも限らん。
縻竺との間に間に諸葛亮が入ってたかも知れんし。
219 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 23:38:56 0
>>217 単なる外戚じゃん。後漢ではいつものこと。
>>219 先祖や縁者が朝廷や後宮に多数いたわけじゃない皇后の一族がこれだけ重用されるのは珍しいと思うよ
衛青以来かもしれない
>>220 前漢の王一族なんてそんな感じだよ。
先祖も不明。朝廷にもともと縁者がいたわけでもない。
それなのに藤原氏並みの栄華を誇って、あげくの果てに簒奪。
>>214 取りあえず、売官がそういった事態を引き起こしたかをざっと確認してみたけど、
『後漢書』の範囲内ではそれはないっぽいな。
そういった連鎖が起きたなら記述されても良さそうな物だが、
「銅臭を嫌う」「忠義の士の恨みを得た」という記述はあってもそれ以外の弊害は見て取れない。
反乱を合わせて確認したけど、売官売爵を始めてから黄巾が起こるまでのおよそ七、八年の間、
民衆反乱は0で各種の蛮と鮮卑の反乱しかない。
あと後漢の問題って軍事力の不足から税を課すことが難しくなっていく事が問題だったはずでは。
売官も鮮卑の侵攻をきっかけとした軍事力強化のために行われているし。
ついでに言うと、売官売爵を始めてから黄巾が起こるまでの7、8年の間に、鮮卑の来寇が四回、蛮の反乱が三回。
災害は大疫三回、旱魃四回、地震二回、水害二回、山崩れ一回、雹一回が集中。
んで、とどめに温暖なはずの多数の地域で井戸に厚さ一尺もの氷がはる事件が発生した次の年に黄巾というかたち。
どっちかというと民衆反乱は災害が理由だろうな。
つか、このレベルだと有能なら抑えきることが出来たというものではないのは間違いないわ。
>>220 全然珍しくない。
何皇后を寵愛したこと自体はおそらく霊帝の意思ではあろうが、
皇后の一族は自動的に高官に昇るのが、儒学隆盛後の漢の慣習だった。
「妻の父に対して父子の礼を払うべきか?」「Yes」というわけで、
皇后の父は既に他界していたが、車騎将軍を追贈されている。
それに伴って妻の兄弟らの地位も引き上げられた。
しかし何進らは高官に昇ると、霊帝の周囲にいる宦官らと対立して儒家官僚らと結ぶ。
霊帝は何家を制御できていないわけで、自発的な政策の結果としての何氏厚遇とは言いがたい。
>>218 「糜竺に次ぐ」と書いてあるなら糜竺の次だろう?
変な解釈をするまでもない。
>>222-223 売官で得られた財貨が蓄積された西園が、その名の通り八校尉の駐屯地となったことが指摘されているね。
実際にはそんなにお綺麗なものではなく、横領で消えた額も相応のものになったのだろうが、
霊帝の臨時税や売官は基本的には軍事力増強を目的にしたものだった。
>>221 どの王一族か知らんが、王莽の王一族なら田氏から明確に繋がる系図を持っていて、
『漢書』元后伝の範囲でも
秦の始皇帝に滅ぼされた最後の斉王・田建→(一代不明)→
項羽に任ぜられた済北王・田安→(一代不明)→王遂→王賀→王禁→王皇后
と、かなり詳細な経歴が載ってる。
漢王朝は「自称」と付けたいような口ぶりでもあったが、そこら辺はちゃんと記述してる。
御史の属官や廷尉の属官を近親に輩出してる上に血筋としても結構な貴人一門だよ。
228 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 03:20:49 0
>御史の属官や廷尉の属官
2流っぽいが。
三国志の曹操とか劉備とか孫権よりはましだろうけど。
>>228 曹操は買官した親以外にも、親族に太守格やら何やら結構居たはずだが。
230 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 03:30:58 0
曹操に親族なんていないだろ。
兄弟も叔父叔母も。
確か大叔父が穎川太守、その大叔父の子に長水校尉の人と謁者の人が居る。
違う大叔父の子が尚書令と河間国の相を歴任してる。
あと曹休の父が呉郡太守。
結構な名族の類だと思うよ。
232 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 04:19:44 0
爺さんが宦官なのに、なんで大叔父がいるんだ?
大叔父というのは爺さんと同世代だぞ。
曾祖父の子供が祖父と大叔父になる。
一族の親、祖父世代に二千石三人、比二千石一人、比六百石一人か。
累代二千石とまでは行かないものの、結構な一族の構成だな。
名族って程ではないと思うけど、凡百の豪族とは一線を画してるわな。
235 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 05:01:09 0
宦官ってだけで台無しだが
逆。
宦官曹騰は順帝の皇太子時代から三十年朝廷に仕え、清廉(と伝えられる)で
皇帝や皇太后の信任厚く、特進まで昇った。
ショウ県曹氏の隆盛は曹騰に始まる。当時は宦官の一族や派閥が高位高官を占めて
朝廷や地方の政治を牛耳った時代だから。
>>226 多分初期は横領も酷い物だったろうね。
そう考えると皇帝自身が自ら列肆を作って売り子をやるって発想は、
滑稽ではあるけど即効性を考えると単純に馬鹿に出来た物でもない。
そういや、なんで三国のどの国でも官僚の子孫は結構高い地位に就いたりして名門化してるのに、
呉以外の国では、武人畑一筋の人物の子孫はほとんど活躍が見られないのはなぜだろう?
まず各国の「武人畑一筋」ってのの定義を教えてくれ。
>>239 中郎将から将軍と出世するような奴のことだろう
たとえば諸葛亮
呉では、要地を守る武官らが世兵を与えられて、
豪族的影響力を得ると共にそのまま代々武官として活躍することができた。
漢では、武臣は封地を与えられるが、平和になると戦乱期に獲得した独自の軍事力は
ほとんど剥奪され、一般の臣下・諸侯の群に吸収されてしまう。
(勿論例外もあって、後漢の耿氏は不安定な西方の兵事への通暁を買われて
代々武官の高位に昇った)
武臣の子弟達は、政界に進出しようとすれば文吏・諸生の道を取るしかない。
競争条件が同一となると、戦乱期に武力で成り上がった家と、
代々家学を有し高等な教育を与える伝統を持つ家とでは、
後者の方が平時に出世する率が高くなる。
魏と蜀漢は漢の習慣をほぼ踏襲する。
時代の変化で部曲の私有が一定程度認められてはいたようだが、
父の兵力と任地を子がそのまま世襲する呉のようなことはない。
建国の功臣クラスになるとまた別格で厚遇されるだろうけどね。
外戚となる可能性もあるし、蜀漢の関羽張飛趙雲らの子弟は
具体的な逸話こそ無いが政府の中枢近くで出世している。
242 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 20:19:54 0
例えば三国志で知力60未満で武力のほうが高い部将。
>蜀漢の関羽張飛趙雲らの子弟は具体的な逸話こそ無いが政府の中枢近くで
>出世している。
彼ら子弟が父親と同じ軍人のみちを択ばなかったのは何故なんだろう
それとも官僚にならざるをえない様な理由があったのか、それとも国家の意向や
当人の顕揚欲等からなんだろうか
>>243 軍人は差別される側だから、やらないですむならやらないだけ
世兵制の呉で甘寧の子孫が軍人にならずに、文人の家系になったのはなんか不思議だな。
息子の甘述は尚書。孫の甘昌は太子太傅。こういうのはレアケースなのかね?
元々豪族としての基盤が呉の内部にあるか、ないかの差じゃないかな?
呉は三国の中で一番土豪の力がそのまま残ったらしいな。
そこへ中原や荊州からの移民・落人がやってきたとか。
外来の非豪族出身の軍人でも、父の兵を継いで将軍になったのもいるけどな。
詳細は不明だが、甘寧伝に甘カイの名だけが載ることから見ると、
甘寧の兵と爵位を継いだのが甘カイと想定できる。こちらは罪を得て繁栄の道を絶たれる。
東晋の鎮南大将軍甘卓は、もう一人の子、甘昌の系譜。
おそらくは兵力を継がなかったので、文人となる道を選んだのだろう。
呉では、世兵を持つ者は領地経営や督を通過しつつ功績を上げ、果ては諸大将軍、丞相まで昇る道があった。
中級指揮官から出世して都督になることは殆ど無い魏などとは、「武人」の地位が違っていたのだろう。
そもそも彼らは部曲を経営する行政家としての面を生まれながらに持っているわけで、
武人が「いたずらに武功のみで出世し」などと卑下される漢魏の伝統とは違った社会構成を作っていたと言える。
250 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 22:23:56 0
>>237 官僚の中抜きを排除して直接皇帝財産に、ってわけね。
皇帝としてはとんでもないが、なかなか経済のことを分かっている。
>>238 名士じゃないから人脈がなく、人脈がないからいい仕事を割り振ってもらえず、成果がないからあまり出世できない負のスパイラル。
251 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 22:24:38 0
>>243 建国の英雄の息子がぼんくらだった例は世界史上いっぱいある。
江南に地盤の無い北来名士組で世襲軍人化したのが何人かいるけど、
この連中の部曲はどこから来たんだろうか?
いや…そりゃ今までの流れみりゃわかるだろ
>>235 宦官は悪と見られがちだし、趙高や張譲のような人間の屑が山ほど
いるのも確かだが、本人はまずまずで、付属する縁戚の方の悪が
目立つ例も結構ある。曹騰は典型的な後者で、息子の曹嵩の方が
はるかに悪どい。
そんな逸話あったか?
魏では外戚と宦官の権力が弱いけど、国は長続きしなかったから、
外戚と宦官は帝室を支える権力装置として必要悪だったんだろうか?
外戚と宦官がのさばった後漢は長続きしたし。
257 :
世界@名無史さん:2010/11/06(土) 19:19:44 0
魏が短命なのは曹丕のせい。
外朝の有力な大臣集団を抑え、皇帝権の独立を守るために、
外戚と宦官は有力な手段だったと確かに評価されている。
しかしながら、魏は曹叡が外戚ではなく内戚を重視して曹爽に後を任せたが、
司馬懿に潰された。
皇帝とその親近を固める同姓側近らが京師不在の間に皇太后を抑える
なんて手段でひっくり返されるなら、内戚ではなく宦官・外戚がいても
あまり変わらないだろう。
宦官が重要視されていれば、皇太后に簡単にはアクセスできなくなるけどね。
平時ならそうだが、クーデターで後宮が軍事的に「保護」されちゃった状況ではどうしようもならん。
261 :
世界@名無史さん:2010/11/06(土) 19:58:39 0
>>魏は曹叡が外戚ではなく内戚を重視して曹爽に後を任せたが、
明帝紀を見る限りでは曹叡は暗殺されていますよ。
www
そうかー、そうえいはあんさつされたのかー
>>258 こういう場合、漢なら大臣が政権転覆を図っても、
大抵外戚や宦官の実力者に叩き潰されるよね。
魏ではどうして成功したのか?外戚や宦官より、皇族の方が政治闘争では弱いのかな?
>>264 官僚、有力者たちにもともと魏に心服していないものが少なくなかった
そういう人間が魏の皇族と大臣の中でも有力な者のどちらを選ぶと言われたら、大臣の方に決まっている
皇族の代わりが外戚や宦官でも似たようなものかもしれないが
その上、宮廷の外部の藩国にはそれを牽制できるような実力は与えられていない
だから曹爽がちょっと宮殿を出ただけで一気に形勢がひっくり返る
>>264 そんなことはないと思う。
魏は漢が徐々に指向した皇帝集権体制の正当進化版と言うべき体制を選択している。
曹爽兄弟も、中領軍、武衛将軍の地位を確保し、「親々の者で皇帝を宿衛する」という基本を貫いている。
司馬氏も同時に要職に名を連ねたが、曹爽一派の外にいる形であって、
曹爽一派に政治が牛耳られて意見が通らなくなったのも頷ける構図となる。
ところが、皇帝とその宿衛武官が皆洛陽外へ出払ったときにクーデターを起こしたのだから、
司馬懿の戦略は確かに相当なものと言うしかない。
皇太后の周囲に十分な軍事力があれば、或いはまた状況も変わったかもしれないが。
そこで思いついた漢との差異は、曹芳が幼帝だったにも関わらず、皇太后が臨朝していないらしいこと。
漢では幼帝が立つとき、皇帝に代わって皇太后が政治を視て詔勅を出した。
特に幼帝が続いた後漢では朝廷の権力は皇太后を中心に構築され、親族(つまり外戚)達も
皇太后を自分達の権力のより所とした。
そしてそれ以上に、皇后が生活上必要とする宦官の影響力が増大することになった。
後漢後期、儒家官僚集団どころか外戚さえ宦官の勢力に押されるようになったのは、
皇太后の影響力増加によるだろう。
魏では曹芳を曹爽と司馬懿が直接補佐する形を取ったため、正始の政変の時点で
皇太后の政治的権力はほとんど無い状態だっただろう。
このことが、皇太后の周囲を手薄にし、司馬懿を付け入らせる遠因となったのかもしれない。
中国史上、実力のある藩国が皇室を守るために、中央の権力者を牽制した例なんてあったか?
だいたい、中央を無視して勝手な事してたり、
ひどいのになると反乱起こして中央に取って代わろうとしたりしてないか?
>>267 誰かが中央を制圧して簒奪しようとしたとき、藩国がそれを阻止するというのは中国の封建制の理想形
理想であってどこまで実際に機能したかは別問題だが、それでも抵抗する勢力があるというのは中央を制した権臣への牽制にはなっていたと思うけど
たとえば前漢の呂氏の乱のとき、斉王が反旗を翻している
そこには自分たちが皇帝になろうという目論見もあったとされているが、中央を制圧していた呂氏に対する牽制、抵抗だったのも事実だろう
無い、と言い切る知識は無いが、いつもの例とは言えないだろうね。
藩国は、半独立国と考えられていたから。
外敵からの壁、統治領域を安定させる存在としては認識されていただろうが、
皇室に危機があれば「俺の家が取って代わってやる」と考えるのがむしろ普通だろう。
だから漢は徐々に王国の力を削いでいった。
魏も厳しい姿勢をとったが、漢に比べてあり得ないほどというわけではない。
陳寿の曹丕批判は、藩国の力を強化して地方を統治させる思想を取った
西晋の当時の情勢に大きく影響されたものだろう。
周制回帰という大儀はあるにはある政策だけど、これが西晋滅亡の要因の一つになってしまったが。
>>269 いや王への厳しい姿勢は漢よりも魏のほうがありえないだろ
ギョウ軟禁は司馬懿によるものだけど、監国使者を置いたり国を県単位にしたり頻繁に封地替えしたのは魏独自だぞ
漢も郡国制とは言うものの、王国の規模は郡の半分。
相が太守と同等に行政を取り、中央朝廷の危機になにかできるような力をもつ存在ではなかった。
前漢前期や西晋の体制ならまだしも、魏が後漢程度の郡国体制を維持しても
諸王が司馬懿のクーデターに何か出来たとは言えないだろう。
いや礼制の面での諸王冷遇は、「後漢と比べてありえないくらいひどい」と言ってもいいか。
そこは訂正する。
>>271 諸侯の規模は小さくても、淮南の乱のようなものの展開が大きく変わっていたかもしれない
まあ仮定の話だけど
それ以上に、儒学を学んだ大臣たちが魏を全然支持しなかったのかという問題に行き当たると思う
>>268 時代は下るが、五胡十六国時代前期の華北政権の後趙(羯)の末期がそれに近いと思う。
中央(鄴)で、漢人の実力者冉閔・李農のコンビが皇帝を傀儡にして立て続けに殺害、
簒奪を企てたところで、当時襄国に出鎮していた皇子の石祗が反冉閔で蜂起、冉閔包囲網を
結成して華北全土を巻き込む大乱となった。
軍事力も十分に有していたし、多くの地方官や都督、異民族傭兵も石祗に与したのだが、
冉閔の天才的な軍事手腕により各個撃破あるいはまとめて撃破され、襄国の石祗政権は崩壊
後趙は滅亡に追い込まれてしまっている。
結果としては失敗に終わったが、中央の兵乱の抑止力として機能する可能性があった例として
まあ、石祗自身兄弟間でも若年だったようで、明らかに後継者レースから脱落していたために
地方で燻ぶらざるを得なかった環境が一転して蜂起の盟主に担ぎ上げられてしまった感じでは
あるのだが……。
>>273 司馬懿は結果的に、皇帝と皇太后を抑えているんだよ。
諸王だろうと儒家官僚だろうと、それに歯向かえば法的にも道義的にも魏への叛乱になる。
有利な状況はつくれない。
>儒学を学んだ大臣たちが魏を全然支持しなかったのかという問題
これは正始の変当時ではなく、その後の司馬氏の簒奪に関わることだね。
しかし、中華の思想が根本的にそうだが、儒学も王朝交代を是とする学問だ。
もちろん簒奪は悪だが、時間をかけて非常に上手くやれば、これを「革命」へ変換することができる。
漢に比べて魏の求心力が小さかった可能性は勿論十分にある。なにしろ歴史が浅いからね。
しかし、200年続いた前漢に王莽が取って代わったのは儒学流行の時期。
むしろ王蒙は時間を掛けて民心を買い、影響力を伸ばしつつ、
儒学に則った瑞兆などを演出することで、禅譲へ至る道筋を作った。
クーデターから禅譲まで15年掛けた司馬氏も同じ手法といえる。
儒学は王朝交代を阻止どころか加速する学問になるってことだね。
漢から魏に移行する時は、魏の大臣になったのは、
曹氏の魏王府の大臣ばかりで、漢の大臣から魏の大臣になった人はいないけど、
魏から晋に移行する時は、魏の大臣がそっくりそのまま晋の大臣になってるね。
いったい、何が違ったんだろうか?
曹魏は軍事力を主体に漢を支配した勢力。
魏公王国は曹氏の軍事力を法的に正当化する独自の指揮系統として働いた。
司馬晋は魏朝廷を政治的に支配し、人心を司馬氏へ向けさせることで禅譲を果たした。
ゆえにこそ魏朝廷を司馬氏とそのシンパで固める必要があったし
公王位を得るのは遅くてよかった。
司馬懿のクーデターの時点ですでに司徒が司馬懿シンパだったという
太尉も司馬懿の味方だったよ。三公のうち、二つを抑えてた。
280 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 03:28:44 0
司馬懿シンパなのに、なんでさわやかに排除されなかったんだ?
司馬懿派が勝っているなら、ボケ老人のふりまでしてさわやか一派を騙した理由が分からない。
普通にさわやかを排除すればいい。
司馬懿シンパじゃなくて、単に去就が定まらなかっただけだろ。
281 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 09:06:55 0
太尉の司馬懿が名目なんだから司徒も司空も名目だろ。
282 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 09:09:28 0
>>281 実験のない奴が仲間にいても、さわやかには勝てない。
さわやかってなに?
284 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 11:38:18 0
さわやか→爽やか→曹爽
ああ、頭が世界史板モードだから連想できなかったわ。
さあ俺と三戦板に帰ろうぜ
286 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 12:00:43 0
言ってる意味がわかんねw三戦脳なら真っ先に思いつくだろうに。中身の無い何かを言いたいだけならツイッターで充分だろw
「帰れ」じゃ可愛そうだから穏当に言ってあげた
288 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 13:37:50 0
>>273 魏自体が簒奪政権だからな。
学問のある奴は誰も魏を神聖視していない。
>>276 漢の朝廷は有名無実化していたので、丞相府〜魏王国の臣下がそのまま新政権の中枢を担った。
一方、司馬昭が相国となったのは死の2年前、晋王となったのは1年前。
魏の臣下を自分の幕府に吸収する前に禅譲が行われたので、そういった印象になるのだろう。
あと曹操の場合は内乱の最中に自分で人材を抜擢していったわけだが
司馬一族の場合は政権安定期で、すでに高官にある者(同僚あるいは先輩)を協力者として迎え入れて行った。
>>288 王朝や天子は絶対不可侵で替えが効かないって考え自体が
宋代以前にはなかったんだよ。
そういう意味で王朝を「神聖視」する「学問のある奴」なんてのは
存在するはずがない。
>>289 「神聖視」の意味するところにも関わってくるだろうが
そちらの言い分だと学問のある奴は忠義のために死ぬことがなかったかのようになってしまわないか?
魏晋の交代の際には司馬一族の中からも離反者が出ているのだから
「存在するはずがない」というのはあり得ない。
漢魏の交代から魏晋の交代まで40数年。
魏末の高官には漢魏の交代を経験している者も多く残っている。
これが魏晋の交代に反対する根拠を失う一因になっているのは事実だと思う。
>>290 儒学というのは、端的に言うと「身分ごとに己の役割を果たせ」と教える学問。
この儒学が「神聖視」するのは、天地を祀り、地上の循環を滞りなく進める
祭祀機関としての「天子」であって、漢家、魏家、晋家という個々の家ではない。
この祭祀を正常に運営する義務を天子が怠れば批判に晒されるし、
禅譲という儀式も存在する。
勿論、士大夫にも果たすべき役割があって、その重要な一つに「忠」がある。
しかしこれは、自分を取り立てた「君」に対して「忠」を払うという性質のものであって、
対象は皇帝・天子に限らないし、ましてや「臣民」が先天的に天子・王朝を神聖視して
身を捧げるというような性質のものではない。
だからこそ漢代から、天子は孝廉や高官の子弟といった若い有力者を郎という自らの従卒に
任じて個人的な恩義関係を結び、「忠」の義務を発生させてから官僚として登用するという
システムを用いた。
しかも、この「忠」の倫理は重要度でも最高ではなく、上位に「孝」がある。
朝廷官は確かに自分を任用した皇帝に対して「忠」を払う義務を持つのだが、
それ以上に、自分の家を保ち、父祖の祀りを絶やさず、子孫を繁栄させるという義務を持っている。
名族大姓であるほどその義務の圧力は大きい。
不安定な時代ほど、「孝」を重視して家を守る気風は強くなり、「忠」に殉じる者は減っていく。
魏が建国40年の短さのため、揺るがない伝統を築く余裕が無かったのは勿論あるだろうが、
「簒奪政権だから」「学問のある奴」の支持を得られなかったというような価値観で
魏晋交替が行われたのではない。
>>291 神聖視するのが祭祀機関であったとしても、魏の皇室はその機関としての役割を放棄していない以上、
魏家(という呼び方があるのか知らんが)が神聖視の対象になるじゃないか。
>禅譲という儀式も存在する。
晉書列傳第七宗室
>順字子思,初封習陽亭侯。及武帝受禪,順歎曰:「事乖唐虞,而假為禪名!」遂悲泣。由是廢黜,
>しかしこれは、自分を取り立てた「君」に対して「忠」を払うという性質のものであって
魏の臣下が晋にそのまま移行した話をしているのだが。
そちらの論法で行くと、魏に任用された連中が晋になびくのはおかしい。
>しかも、この「忠」の倫理は重要度でも最高ではなく、上位に「孝」がある。
そんなに単純に言えるなら忠義に殉ずる者は出ないだろうし、邴原伝注にあるような議論は起こるまい。
>「簒奪政権だから」「学問のある奴」の支持を得られなかったというような価値観で
>魏晋交替が行われたのではない。
じゃあどんな価値観によって行われたの?
当然、単純にはいかないよ。
臣下それぞれに葛藤があっただろう。だから禅譲には一定の時間がかかる。
朝廷がある権臣に牛耳られ、賞罰がその手で行われるようになると、
皇家は有名無実化して「忠」を払う対象も、執政する権威も権臣の手に移っていく。
禅譲させられる王朝末期の高官というのは、権臣の意思によって任じられた者達だからね。
建前は「皇帝の臣」だが、実質の君-臣関係は「権臣」と結ばれるようになってしまう。
ついでに瑞兆などの演出が行われ、「天下が移っていく」という意識が醸成される。
伝説のように旧家が望んで「譲」るわけではないのだから、当然この実態は簒奪だ。
しかし朝廷官僚の多くが「天下は次の皇家へ移るべき」と望むから、禅譲が成立する。
>じゃあどんな価値観によって行われたの?
この儀式は儒学によって保障・正当化される。
司馬懿のクーデターの当時は、司馬孚が尚書令であり、太尉の蒋済や司徒の高柔も司馬懿のシンパ。
中央軍の要職である中護軍には司馬師。
司馬懿も実権の無い太傅に棚上げされたものの、督中外諸軍事は保持したまま。
司馬懿シンパの官僚や司馬懿子飼いの人物も、曹爽が専権を振るっていたのもかかわらず、
ほとんど干されたり追放されたりしてない。
本当に曹爽の専横と言われるような状況になってたとは思い難い。
本当に曹爽一派が、専横を振るっていたなら、要職は全て自派の人間で固め、
司馬懿一派は徹底的に干したはず。
>>294 というか、曹氏、夏侯氏以外で反司馬懿だった者の方が少数派だったんじゃないだろうか
後漢でも、外戚や宦官が「専横」して優勢だったとされる時代でも
名前が残っているのは圧倒的に「迫害された側」が多いだろう。
しかし現実には皇帝を抑える側の方が圧倒的に強く、百官はそれに追従していた。
史書は名士や儒学思想から語られるから、これがさらに誇張されて、
あたかも事件前から司馬氏が希望の星だったように語られる。
>>296 いや、事件前の時点で大将軍から太傅になっていた司馬懿は十分希望の星だったと思うが
しかし、曹爽が完全に皇帝を抑えれていたかって言えば怪しいんだよな。
曹爽が権力に繋がるポストで掌握してたのは中領軍と武衛将軍と吏部尚書と司隷校尉ぐらい。
中書とかその他の皇帝側近ポストは掌握してない。
299 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 21:08:47 0
中書も掌握してないか?
300 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 21:19:22 0
何いってんだ。 太傅は実権のない名誉職で、それが司馬懿のクーデターにつながる
動機ともいわれているのに。
>>297 そりゃ一定の「司馬懿派」にとっては希望の星だったろうが、
官僚の大多数が曹爽を憎んでいて司馬懿が強硬手段ででもこれを覆すのを
希望していたとかいうのはないだろう。
302 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 21:21:51 0
姜維と黄皓
思いつき
姜維と共に蜀に降った梁虔なんですけど、史書にはその後大長秋まで昇ったとしか記されていません。
大長秋といえば皇后の元で後宮を取り仕切る長官です。もしかしたら姜維?陳祗?梁虔?黄皓というラインで費?没後の北伐は強力に推進されてたのかも?(だったらおもろいのにな)
外は漢中において仮節録尚書時大将軍督中外諸軍事の姜維が軍権を握り、内は成都において侍中守尚書令鎮軍将軍の陳祗が劉禅の顧問と詔勅発行を担い、
奥は後宮において姜維と同郷の梁虔が大長秋としてあり、陳祗が抜擢した黄門令黄皓を使って劉禅に働きかけさせる。梁虔も陳祗と時期を同じくして死去し、
そのため一人生き残った黄皓が中常侍奉車都尉にとなり、事実上侍中府を牛耳り、呉の張悌が『国の体制が崩れ、宦官が政治を担う』と指摘するような状況になったのであった?。
はいはい、妄想妄想。せめて○○年間に大長秋まで昇ったとか書いてほしかったです。
>>300 督中外諸軍事は保持したままだし、太傅でも呉との戦いで軍を指揮したりしてるから、
完全に実権のない名誉職になったわけではない。
>>302 姜維とともに蜀に降った三人の天水郡吏はいずれも九卿になってるけど、姜維の人事なのかな?
>>303 司馬懿は確かに太傅になってからも実働している。
ただ、尚書事が次第に曹爽の専任になったり、宿衛武官が曹氏に固められて
皇帝に近づけない情勢になっていくのが記されている。
逆に、曹爽一派の皇帝への支配力が大したことないと、
司馬懿のクーデターの動機が説明できなくなるのだが、そこはどう考えるんだろう?
>>302 涼州出身の大長秋が後宮固めの一翼を担ったというのは面白い考えだけど、
黄門は大長秋の指揮下にあるわけじゃないから
梁虔-黄皓という繋がりまでは考えすぎじゃないかな。
>>299 中書監・令の劉放・孫資は当初はそのままだったが、クーデター直前になって二人とも更迭されている
これをどう見るか
>>307 劉放・孫資はいわば旧時代の権勢下だから、曹爽にも司馬懿にも面倒な存在だっただろう。
だが、肝心の正始の変当時に中書近辺を誰が支配していたのかよくわからない。
ただ、のちの夏侯玄の乱の時に彼を持ち上げたのが、当時中書令の李豊、中領軍許允という面子。
許允は政変時に侍中であり、陳泰と共に曹爽説得に派遣されている。陳泰も微妙に司馬氏とは距離を置く立場。
しかし彼らの期待とは裏腹に曹爽は処刑されてしまう。
少なくとも政変から五年後でも「司馬氏派」は皇帝側近周辺を固め切れておらず、
夏侯玄の誅殺と続く曹芳退位によって専断が確立されたということはできるだろう。
>>308 孫資は曹爽死後に中書令に復帰してるから、クーデターのお蔭で実権を取り戻せたことになるな
どちらかというと司馬懿よりだったんだろう
だからこそ曹爽時代に更迭されたのかもしれないが
>>309 もともと、明帝が後事を託そうとした人物たちの中に曹爽は入ってたけど、
その中に司馬懿を強引にねじ込んだのは、孫資と劉放だからね。
311 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 12:49:23 0
黄皓が力を持ち始めたのは、
侍中の董允が死んでからだろ。本当に政治を容喙を始めたのは
陳シが死んでから。あんま大長秋は関係なさそう。
それより有力な侍中がいなかったことが問題かと。
312 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 16:43:45 0
313 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 18:03:29 0
諸葛亮は、荊州を用武の地であると言った。
彼は、四方に拓けたこの地は武力を用いて周辺を切り取ってゆくほかに安定させることは難しい、
ここは守業の地ではなく創業の地、天下に覇を争うための地なのだと見た。
諸葛亮は主君と見込んだ劉備にここはそのような用武の地であるのだから、
ここに拠って西方は益州に侵攻してその地を我がものとし、南方は蛮族を懐け、
東方は孫権と結んだ上で、上将に荊州を任せて北の方、宛、洛(陽)へ攻め込ませる、
そして劉備自らは益州の兵を率いて秦川を窺う、そのように(この地を利用)すれば覇権は成ると説いた。
「襄樊(襄陽・樊城)は中華のへそである。北が制すれば南を攻略でき、南が保持すれば北に対抗できる」
>>311 尚書令を兼ねてた樊建や、尚書僕射を兼ねてた張紹は、
権限で言えば董允や陳祇に匹敵するはずなのに、何やってたんだろうね?
尚書と侍中を握ってたら、内外の最高権力者に等しいと思うんだが。
劉禅が誰を信任するかによる。
侍中は政務を執る皇帝の左右に侍し顧問應對する官だが、
中常侍は宮中に寝泊りし、皇帝の庶事一切を取り仕切って顧問應對する官。
中常侍の管轄は私生活から儀礼まで及ぶ。
皇帝が個人的に信任する特定少数のブレーンからなる独裁で百官を従えようとするとき、
そのブレーンとして常侍が選ばれるのは、この権限と皇帝との距離の近さによる。
316 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 19:42:40 0
應對って何? 読み方すらわからんが
応対
あんまり煽るようなことは言いたくないが、さすがに中学国語あたりからやりなおせと言いたくなる
寶とか圖とか、旧漢字ね(日本でいうところの)
つい戦前までは普通に書かれていた漢字なんだけどね
劉禅が独裁を志して黄皓を使って皇帝権力増大を図ったのか、
それとも黄皓が政治を聾断する野心を抱いて劉禅を利用したのか、どっちなんだろうな?
>>315 劉禅は側近政治による独裁で百官を抑えようとはしてないだろ?
黄皓がのさばったのは、単に録尚書事の姜維がずっと外に出てて、
他の宰相クラスの高官も無能で政治を切りまわせないから、
その間隙に乗じて専横しただけじゃないか?
322 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 21:44:12 0
黄皓が政治を聾断した期間はそんなに長くない。
直接的な蜀滅亡の原因は、姜維の戦果無き大規模遠征と、
段谷の大敗による戦力の損耗による軍隊の弱体化。
黄皓は最後のトドメ役といったところかな。
こいつに全責任がある訳ではない。
>>320 後者だろうね。
黄皓って、蜀滅亡の責任は全くない気がするけど。
黄皓は成都の有力者の一人にすぎないのに、
悪者にされるのはなんかおかしいような。
>>321 別に劉禅が自ら政治を執って国家を主導する理想に燃えていた、などとは言わない。
しかし蜀漢は諸葛亮死後、皇帝とその少数の側近へ政治権力を回収する方向にゆっくりと歩み続けていた。
まず旧丞相府の人員を皇帝直属に回収し、大将軍という外朝の首班を掣肘する力を得、
ついで侍中-尚書令を自分の寵愛する者に占めさせて内政を統括させ、
最終的には国政の枢機を内朝のみで完結させて、尚書台をも執行機関に収めた。
省中・禁中から発せられる「皇帝の意思」が、尚書ら皇帝の手足口舌となる機関を経て
大臣の恣意を許さず各部署に直接浸透する、後漢に限りなく近い体制が最末期には形成されていた。
>>323 少なくとも記録に残される限り、
姜維の伝えた魏の大攻勢の報を握り潰して援軍を遅らせた罪はある。
その他、258年から国政を「專政」して、滅亡時の政府首相格だった
のだから当然責任は他の高官より大きい。
326 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 22:13:42 0
黄皓は魏軍によって処刑されたけど、スケーブゴートにされたんじゃないか?
姜維の北伐には諸葛亮の子、諸葛センや董ケツは反対し、黄皓と一種の同盟を結んで
更迭するよう劉禅にようきゅうしているだろ。 蜀が疲弊していたの事実だし、姜維は
敵多かったんじゃないの。で綿竹で関係者が死んで、黄皓に全部責任かぶせて
劉禅は生き残った。そういうことじゃね?
327 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 22:18:44 0
姜維って大将軍だし、諸軍事もやっていたが、人望あったのかねえ?
鍾会と陰謀めぐらして叛乱おこすも、胡淵という18の餓鬼に襲われて膾切りにされるという
悲惨な最期遂げている。 鍾会や姜維は魏兵の心をつかめていなかったし、
蜀漢の将軍たちも姜維にどれほどしたがっていたのやら・・・大体、主な連中は綿竹で死んで
屍を東観つくられてるだろ。
>>324 いや、諸葛亮死後も大将軍・録尚書事の専制体制が続いたっしょ?
旧丞相府の人材もその下にあった。
侍中の董允が宮中にあって、その専制体制を支え続けた。
陳祇も費イが自分の専制体制を支えるために侍中・尚書令に登用した人物。
皇帝とその側近が執政する体制になったのは、
費イが死んで、後継の大将軍姜維が外征に明け暮れて政治を顧みず、
宮中と尚書を掌握する陳祇が事実上の政権首班になってからでしょ?
姜維が録尚書事の仕事をしてれば、大将軍専制体制は続いてたよ。
>>328 蒋エンは少なくとも専制どころか猛反対くらって最後は皇帝じきじきの命を受け入れている
専制体制なら我意を押し通せただろ
全然専制じゃないんじゃないか
>>329 蒋エンや費イの時代は、宰相がどこにいても、
必ず宰相の決裁を仰いだってほど、宰相の権力が強かった。
蒋エンも群臣の猛反対に遭いながら、遠征の準備を独断で大々的に進めていた。
皇帝の勅命が下ったのは、猛反対した群臣の事実上のクーデター。
その後は蒋エンは事実上失脚して、費イが執政するようになって、
宰相の専制体制は続いてる。皇帝の勅命が宰相を掣肘したのは、この一度のみ。
331 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 23:28:58 0
>>318 前半と後半を繋ぐ言葉として「さすがに」は使い方が間違っております。
>>319 語尾に「ね」を付けるのは書き言葉としても話言葉としても下品です。
学問板での使用は避けるべきだと思います。
他の人が知らない事や分からない事を不必要に批判し「自分は分かっている」「自分は知っている」と主張したいのですか?
それがあなた方の人に対する基本的な姿勢なのですか?
海は死にますか?
>>332 前半と後半をつなぐ言葉は「が」だろう。「さすがに」の使い方は間違ってない。
>>328 録尚書事は宰相ではあるが専制を意味しない。
その権力は諸葛亮の時代から格段に弱まっている
336 :
世界@名無史さん:2010/11/09(火) 09:16:54 0
なんか朝から変な奴がいるな。 言葉狩り厨なんかスルーしろ。
言葉狩りっつーか文法厨だな
海は死にますか?
の時点でネタだろw
旧字体を知らない事に突っ込むなっていう
ネタが分かりにくくてツマラン上に余計な蛇足レスまで付けば
ほとんどの人に理解されずに寒い空気だけ残るんだな
語尾に「ね」を付けるのは下品とかw
ただの言いがかりだし「ね」
執着して何度もレス付けてる奴は余程頭にきてるんだなw
旧字体w
>>334 録尚書事や平尚書事は、諸葛亮死後の蜀では尚書令や尚書僕射経験者が就任してるけど、
姜維だけは尚書系列の高官を経験しないで録尚書事に就任してるね。
生粋の軍人がどうして録尚書事になれたんだろ?
343 :
世界@名無史さん:2010/11/09(火) 19:19:11 0
それだけ人材が枯渇したのでは。
費イが単独の録尚書事になるのを防ぎ、費イの独裁を牽制するためとか。
蜀漢の場合、成都と漢中に権限を分けるときに尚書事が複数立てられている。
姜維はその「漢中府」長官として、費イと権限を分けたことになる。
元々録尚書事は、幼少の皇帝を補佐して行政を執る特別職であって、
勅書・上表などの文書管理や人事考課が主任務の尚書の職責に精通しているかどうかは
あまり関係ないだろう。
尚書を経由するのが当時の士人官僚の出世ルートだったってだけで。
たとえば馬忠は、太守や将軍を歴任して政事・軍事の前線で実行力を発揮してきた人物。
彼は費イの留守の穴を埋めて平尚書事に就いている。
>>344 録尚書事は本来複数立てられるものだからね。
>>345 あの時、わざわざ南中からライ降都督の馬忠を呼び寄せて、
臨時の平尚書事にしたってのが不思議なのよね。
中央での政務に精通してる尚書令の董允を平尚書事にした方が自然だと思うけど。
蒋エンの時は、詔勅で東征を止められるまで、録尚書事は蒋エン一人だったが。
蒋エン政権発足時に漢中の全権を握っていた車騎将軍呉懿は録尚書事じゃなかったし。
>>348 つまりそれによって諸葛亮以来の単独録尚書事専権体制に終止符が打たれたんだよ
>>347 格の問題だろうね
>>348 録尚書事の発祥は後漢前期だよ。
太傅と太尉とその他に分与されるのが通例で、国政を壟断するような一人の権臣が就任した例は曹操が初。
本来は、皇帝(とその側近)集権が進んで弱体化した三公の行政権を、ある程度復活させるために置かれたものだ。
それでも前漢前期の丞相の権限には程遠く、国政の枢機は外戚や宦官に占められ続けてきた。
351 :
世界@名無史さん:2010/11/09(火) 21:25:20 0
録も領も同じなんじゃねぇの?
梁冀は録尚書事じゃなかったか?
辞退してたっけ?
>>350 輔国将軍・侍中・尚書令董允と、ライ降都督・鎮南大将軍馬忠なら、そんなに格違わないんじゃね?
持ってる権力なら董允の方がずっと上だろ。
権力ではなく格の問題。
前漢の領尚書事は、皇帝を宿衛する大将軍などに加官され、
皇帝に侍って政策決定に大きな権限を振るう、国政を摂政するに等しい存在だった。
対して後漢の録尚書事は主に三公に加官され、宮中から出た勅命を奉じて宮廷の外で行政を執る存在となる。
政策決定の権限は大きく減退し、この位置から皇帝の意思を左右することは出来ない。
とはいえ録/平尚書事の特徴は、三公かそれに準じる国家トップクラスの大臣に加官される「宰相」の役だということ。
魏の侵攻が終って董允の平尚書事を解任できても、引き上げられた階級を戻すことは出来なくなる。
漢代には既に詳細な年功序列や考課の規定があった。
既に諸大将軍になっていたり、序列的にそれに近い距離にいた複数の者を差し置いて董允を抜擢するとなれば、
尚書令・侍中としての董允の力が大きいほど、皇帝や諸臣下とのバランスを取ることができなくなるだろう。
>>352 梁冀は単独での録尚書事就任じゃなかったよ。
確か胡広ともう一人誰かで3人そろって録尚書事だったはず。
356 :
355:2010/11/09(火) 21:59:20 0
調べた。桓帝即位時(142年)に大将軍梁冀・大尉胡広・司徒趙戒の3人が録尚書事となっている。
で147年に胡広が大尉を辞職。趙戒が大尉にスライドするも149年に死去。
以後は梁冀一人が録尚書事という状態になったと思われる。
>>354 輔国将軍・侍中・尚書令って国家トップクラスの大臣だろ。
成都の軍権を掌握し、皇帝側近の最有力者で、権力中枢の尚書の長。
これより上は大将軍や録尚書事ぐらいしかないんじゃないか?
曹操の前に最も権力を持った「録尚書事」は梁冀だろうね。
しかしこのとき、既に梁皇后と彼女が信任する宦官が、皇帝の決裁機能(省尚書事という)を掌握していた。
梁冀の権力は、この枢機を預かる宮中勢力と連携し、自らは尚書を平決し行政の長となる、
という連合体制によって形成されていたと言われている。
この梁氏も桓帝の時代にその宦官からの攻撃によって誅滅される。
外戚は宮廷の「外に押し出される」形で権力を弱め、これまでと逆に大臣・名士との連携を深めて
後漢末に至る。
>>357 序列上の話。
輔国大将軍が存在しえるのだから、ただの輔国将軍は「比公」に当たる諸大将軍クラスには及ばない。
それから
>大将軍や録尚書事ぐらいしかないんじゃないか
録尚書事は単独の階級ではないって話を延々しているんだが。
曹操が孫策や孫権を会稽太守に留めて、揚州刺史や揚州牧や四征四鎮将軍などの地位を与えなかったのはなんでだろ?
赤壁までは敵対して無かったんだから、もう少し官位を大盤振る舞いしても良かったのに。
気を遣う程の相手ではないと思ったから。
363 :
355:2010/11/10(水) 19:38:47 0
孫輔とか孫賁とか呉景とかに孫権と同格以上の官位を与えてるから、孫家を分裂状態にさせようとしてたのでは。
たしか曹操も曹丕も最期まで孫権に揚州牧も刺史も与えてない。
>>363 劉表を牽制できる位置にいる孫家が分裂状態だったら、
曹操にとって不利益じゃね?劉表は曹操にとっては不倶戴天の敵だけど、
孫権に関してはいろいろ懐柔策を講じていて、
南方の安定のためには、孫家の安定は欠かせかったと思うんだが。
>>364 袁術の流れをくむ孫権も本来は曹操の不倶戴天の敵なんじゃないだろうか
孫権の権力は長いこと、同族年長者達と相対的なものだったんだろうね。
ただ曹丕が与えたのは呉王+大將軍使持節督交州領荊州牧事だから、
このとき正式に、揚州の主になったことになる。
そもそも曹丕が孫権を呉王荊州牧にしたときの荊州は、揚州を含んでいるニュー荊州だ
それまでの荊州とは中身が全然違うぞ
孫権を討虜将軍に推したのは曹操だよ。
孫策は袁術に反対して一旦献帝に使者を出し、曹操の上表で討逆將軍に任じられる。
同年の建安二年に呉景が王ヲによって揚武將軍を授けられたり、
建安十三年に孫賁が征虜將軍に任じられたり、一方許昌から廬江太守が送り込まれたりと、
曹氏の孫氏への対応は牽制と融和の間を微妙に揺れ動き続けている。
江淮間は長いこと袁術残党が割拠しており、曹孫の直接激突は赤壁までないことから、
曹操にとっては比較的優先度の低い相手だったのだろう。
>>367 すまん、それは見落としていた。
つまり曹丕は、孫権を呉王として江東全域の君主、
かつ荊州牧として江水以南旧荊揚二州の最高行政官として認めたということか。
プラス督交州。
370 :
世界@名無史さん:2010/11/10(水) 21:26:48 0
>>366 孫権の権力が他の一族太守に決定的な優越を得たのは、
劉備の協力を得て車騎将軍・徐州牧を自称した時じゃね?
そして、曹操は死ぬ直前に孫権を驃騎将軍、荊州牧に任命してる。
劉備は孫権の地位を一気に引き上げてるやる代わりに、荊州の統治権を要求したのかも。
したたかだな。
>>370 勿論孫権の優越は次第に強まっていくが、いずれの機会でもまだ揚州牧ではない。
親族連が揚州太守に名を連ねている状態での徐州牧・荊州牧というのは
見るべきポイントだろう。
>>372 孫権が揚州牧になった事は一度も無いぞ。
孫権が荊州牧になった後も、魏は揚州刺史を置き続けた。
その揚州刺史は魏が実効支配する江北のものだから。
>>367の言うとおり、魏は孫権を呉王に封じた翌年(222年)に荊揚の江表(江水南岸)八郡を荊州に改変し、
孫権を牧に任じている。これが実質的に孫権が「(旧)揚州部の牧」になったとき。
この時、旧揚州の江北部は引き続き魏の揚州刺史が管轄し、旧荊州の江北部は郢州刺史部が置かれた。
その年のうちに孫権と曹丕の関係は破綻し、孫権は魏の侯王ではなく、戦国的な独立君主としての「呉王」となる。
魏と呉は荊州と揚州の領域をほぼ旧来のものに戻し、孫権は凱旋した呂範を揚州牧に任じている。
呉は呂範以降、揚州に州牧や州刺史を置いてないけど、なんでかね?
司隷校尉もいないし、揚州の広域行政はどうなってたのか謎だ。
呉の地盤から離れた場所だからこそ強い行政組織や仕組みを作りたかっただろうにな
皇帝直轄地ということだろう。
王朝成立前の呂範を単純に同列にするのは難しいが
王朝成立後、呉が揚荊州の牧に任じたのは陸遜、陸抗、諸葛恪、陸凱、孫リンなどの稀な有力者のみ。
逆に言えば、三州しか持たない呉は、皇帝と太守の間に牧を挟んで
大きな権限を臣下に与えてしまうのをできるだけ避けたと言える。
揚州牧の例はおそらく、東興の役に勝利した諸葛恪の太傅加荊揚州牧督中外諸軍事・陽都侯のみだと思う。
蜀漢も同じ事情が言える。
>>377 蜀は諸葛亮と蒋エンが益州刺史兼ねてたじゃない。
>>378 諸葛亮は刺史じゃなくて牧。
刺史になったのは蜀志による限り蒋エンと費イのみ。
だから呉と同じ事情が伺える。
380 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 16:41:21 0
諸葛恪それだけ大きな権限もっていたら、司馬氏みたいにとっとと簒奪していたらよかったのに
先手取られて族滅かあ ばかだね
司馬氏のどこが「とっとと」なんだ?
ageの人はもう少し考えてから喋れ
382 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 16:59:23 0
また難癖付けくんか。
曹爽を降ろして一気に実権にぎって事実上司馬政権をつくったのを目の当たりにして
孫権に後事を託された孫峻と格がいずれ対立すると予想できたろう。
先に手をうった孫峻に族滅くらうんだから核の負けだろう。
>>382 脇からなんだが、おまえさん見えない敵と戦ってないか?
>>380 諸葛恪は司馬氏ほど圧倒的な士人の支持を得ていたわけでもないし、
政敵も数多く存在した。簒奪しようとしたら、政敵や他の士人にフルボッコに遭ってただろう。
>>382 孫権に後事を託されたのは、諸葛恪と孫峻以外にも、勝胤がいるのだが。
そして、太傅に都督中外諸軍事を兼ねる諸葛恪に対し、孫峻は侍中・武衛将軍。
地位と権限では、諸葛恪は独裁状態で、孫峻は対立できるほどの格が無い。
まだ、太常の勝胤の方が格上。
386 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 19:25:02 0
格を倒した後、対抗できる政治勢力がなくなり、孫峻が独裁しているのだから、
孫権が倒れた後、実質 曹爽(孫峻)VS司馬懿(諸葛恪)と争いと否定できる。
そもそも、文人が圧倒的に司馬懿支持といっている奴がいるが、歴史は勝者が作るものだし、
実際に司馬氏は敵対する文人の排除をすすめていたので、ニ心あっても言えない状態だった。
ま、
>>380の発言しただけで叩いてくる奴こそが見えない敵とたたかっているんだろうね。
387 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 19:35:47 0
そもそも、孫峻と諸葛恪は司馬氏が政権をにぎったのをみて、孫権が後事を託したとき、
何を考えたかその後の行動考えると大体想像出来る。
孫峻は自分を曹爽に見立て、格が呉にっての司馬懿にみえたろう。
どどのつまり、皇族傍系VS力をつけてきた権臣の構図は呉にとっても同じこと!と孫峻は考えただろう。
だから、諸葛恪を暗殺して目を潰し、自分自身は曹爽の立場だが、此処から先の展開は魏の二の舞には
しない!と決心したのだろう。 結局、自分自身は生きているうちは独裁体制を強いて権勢を振るったのだから
正しくわがよの春状態。誤算があるとしたら自分の寿命ぐらいか。
一報、諸葛恪は自分が呉にとっての司馬懿と思われている向きもあると自覚出来なかったか、野心はあったが
機は熟さずなのか不明ながらも結果として暗殺されてしまい族滅の憂き目にあったとこういうことだろう。
諸葛恪は武昌に遷都して孫和を擁立しようとしていたというな。
自分の息のかかった人物を帝位に付けることで、完全に自分の地位を固めようとしたんだろうな。
389 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 20:01:01 0
司馬氏VS諸葛氏が中華を争うならおまえら感涙モノの展開だろ。
>>387 孫峻は諸葛恪が群臣の支持を失ったから、クーデターしただけだぞ?
もともと、この二人は競合関係には無かった。
孫峻はヘタを打って人望を失った諸葛恪の勢力を乗っ取りにかかっただけ。
司馬懿がクーデターで独裁体制を作ってから禅譲まで15年。
この間に二人の皇帝を排除し、少なくとも三つの大反乱を鎮圧し、
一族とシンパで要職を固め、内外の信望を皇帝ではなく自分の方へ向け、
司馬氏自身も三代の代替わりを必要とした。
仮に諸葛恪が皇帝に取って代わる野心を持っていたとしても、
孫権の死から一年しか経っていない時点で「とっとと簒奪」なんて夢想なんだよ。
それを可能にする基盤を整える前に政争に敗れたってだけ。
つい五日ほど司馬氏禅譲過程の話題は出てたはずなのになあ。
しかも、司馬懿はクーデターの時点で、尚書令と中護軍を一族で握っていたな。
諸葛恪の一族が握ってる要職は、権力を掌握する役には立たない外地の一拠点である公安の督のみ。
権力掌握前から、一族に宰相級の人間と、中央軍の指揮権を握ってる人間がいる司馬懿と、
権力掌握後も一族に外地の拠点の一司令官一人しかいない諸葛恪じゃ、
実力は比べ物になりませんね。
>>389 司馬防対諸葛均とかならあんまり見たいと思わんな。
>>387 そもそも孫権に諸葛恪に後事を託すよう勧めたのが孫峻だし、曹爽というより孫資・劉放的ポジでは?
>>394 孫峻はいきなり、孫権に後事を託す人物を推薦するポジションの人物として歴史に登場するよね。
なんでそんなに信任を得ていたのかとか、良く分からない。
396 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 22:48:52 0
>>390 諸葛恪以上の独裁政権打ち立てたその後の業績みると、
権力奪取が目的だと思われるが。
皇帝側近と外の大臣の協力は、本来は幼帝時代に国政を円滑に進めるのに必要なものだからね。
孫権が崩御の際に後事を託したのは以下の通り。
諸葛恪 大将軍領太子太傅 → 太傅(大将軍は元のまま?)
孫宏 中書令領太子少傅 → 孫権崩御に乗じて諸葛恪を排除しようとし誅殺
滕胤 太常 → 太常衛将軍領尚書事
呂據 太子右部督→ 右将軍
孫峻 侍中 → 侍中武衛将軍(典宿衛)
日常の政務及び軍事は、太傅の権威を以って「諸事一統」する諸葛恪の権限が圧倒的に強い。
滕胤は九卿筆頭兼衛将軍として、宮中を警護し中都官を纏め、諸葛恪の留守に政務を代行する立場にいただろう。
孫峻の格は他の面々に比べて低いが、武衛将軍として禁中に宿衛し、政治的にも物理的にも皇帝を守る最後の盾となる。
呂據は右将軍として宮廷警護の一翼を担う。
俯瞰すると、諸葛恪から上表や皇帝から降りてくる勅命が通る道に滕胤・孫峻が位置し、協力することで、
呉国全体の国政を円滑に進める配置となっている。
ところが、合肥攻めに失敗して疑心暗鬼に陥った諸葛恪は、留守中に発布された人事を全て撤回させるなど
自分の権威のみを高める行動に出、さらには孫峻らの管轄である宿衛の人事にまで介入して禁中を支配下に置こうとした。
これでは孫峻らとの協力体制は破綻するしかない。
成功すれば諸葛恪の一極支配体制が成立しただろうが、その前に、皇帝への謁見という無防備になる瞬間を突いた
孫峻によって倒された。
本来なら、滕胤が諸葛恪の暴走を合法的に止めるべき地位にいるのに、
何かした形跡が無いよね。滕胤は善玉イメージが強いけど、単なる無能じゃないかと。
孫権が後事を託した人物で、孫亮体制の維持に役に立ったの誰もいない。
>>395 孫権を護る仕事をずっと続けていたから信任された。
孫峻は本来宿衛武官であって、行政能力や実績が評価される人間ではなかった。
孫権の遺詔を受けた時点でも、別に諸葛恪らと同じ立場から政治を執ることを期待されたわけではなかっただろう。
ところが、宿衛武官としての役割を完璧に果たして諸葛恪を排除した後に、今度は自分一身に権力を集めてしまった。
一転してその後の悪評も無理の無いことだろうね。
>>398 有能な人間がすべて危機管理に優れているわけではない。
まあ、政争やら駆け引きに縁遠い人間だったのだろうね。
>>400 陸遜なんかも危機管理はド下手ってレベルだしな
陳泰なんかも正始の変からの司馬氏の専横を手をつかねて見てるね。
逆にやり手なのが諸葛亮だったりする。
そこは持って生まれたセンスもあるだろうしな。
トップの諸葛恪がいない間に、彼を通さずに太守とかの人事異動が行われたって、
合肥遠征の強行への反発から、建業では諸葛恪の権力を削る動きがあったのでは?
太守ではなくて令長クラス。
その最終決定が遠征中の諸葛恪まで回ってくる取り決めだったのかまではわからない。
>>402 陳泰は司馬師・司馬昭の兄弟と仲が良かったし、どう見ても司馬氏側の人間なんだけどな。
曹髦殺害を非難したと言う注も、陳泰の官位に誤りがあって、信憑性に欠けるし。
>>406 陳泰伝読み直した。確かに司馬氏政権の重要な構成員だわ。すまん。
ただ、だからといって皇帝弑逆を非難したのが信憑性に欠けることにはならないとは思うけど。
陳泰の子孫が衰えてたりするあたりから出てきたんだろうな
誰か西曹掾と西曹属の違いを教えてくれ。
東西曹掾比四百石,餘掾比三百石,屬比二百石
諸葛誕って、司馬一族と縁があって、司馬懿・司馬師親子にも重用されて、
司馬一族の専制に手を貸した人物なのに、征東大将軍になってから、
急に疑心暗鬼にとらわれて反乱したけど、何が怖くて反乱したんだろうか?
司馬一派として、その下で栄達した人物なのに。
412 :
世界@名無史さん:2010/11/12(金) 21:03:53 0
>>411 諸葛誕は親しくしていた夏侯玄が司馬師によって処刑されたために
身の危険を感じたとか
414 :
世界@名無史さん:2010/11/12(金) 21:22:11 0
諸葛瑾
>226年、孫権の江夏攻撃に連動して襄陽に将軍の張覇とともに侵攻したが魏の司馬懿に敗れ、張覇は斬られた(魏志「明帝紀」)。
兄ちゃん司馬懿の前では雑魚過ぎワロタ
>>415 司馬師は当時名声が高かった夏侯玄でさえも
権力者は俺だけでいいんだよという理由で処刑する実行力者だから
当時かなりの権力者でもあった諸葛誕も危機感があったのではないか
>>414 諸葛瑾は軍を率いたら、大抵戦果を挙げてない気が。
諸葛誕と司馬師の仲ってどこに書いてあるんだっけ?
ともあれ、諸葛誕は司馬氏政権に比較好意的な人間だったとは思うが、
彼自身は外で刺史や将軍をやっていて、司馬氏政権の中枢には絡んでない。
確かに司馬氏の独裁成立後も出世しているのだが、
司馬懿の独裁成立以降、
・同僚と言える王リョウ、カン丘倹らの乱(特に王リョウは東方に名声高い人物だった)
・明帝期からの朋友で復職のきっかけにもなった夏侯玄らの被誅
・曹芳の廃位
・司馬師の死
と、地方の大官と中央の権臣一族の関係が悪化していく事件が立て続けに起こっていた。
諸葛誕が疑心暗鬼になっていった理由はこの辺りだろう。
419 :
世界@名無史さん:2010/11/12(金) 22:34:43 0
諸葛誕の出世は諸葛亮の死亡後だろ?亮と万一の通牒を疑われたのか、亮が死んでから重職歴任のイメージあり。
http://syokatutou.chicappa.jp/syokatu/sangoku.html 諸葛壱(字:不明)
読み:しょかついつ 生没年不明
出身不明 呉
将
赤鳥十年(二四七)この年、孫権に命じられ偽って呉に背いたように見せかけ、諸葛誕をおびきよせようとした。
諸葛誕は歩騎一万を率いて高山で迎え取ろうとした。孫権は途中まで兵を進める、さらに高山に出て、兵を潜めて待ち受けた。
諸葛誕はこれに感づいて引き返した。
三国志 呉主伝 裴注所引 江表伝
三国志 孫和伝 裴注所引 呉書
諸葛虔(字:伯松)
読み:しょかつけん 生没年不明br> 出身不明 魏
将
呉の黄武元年(二二二)曹仁に率いられ、朱桓が守る呉の濡須城に向った。諸葛虔は王双と共に油船(油びきのほろのついた船)に
乗り、いくつかに分れて中州を襲った。
しかし、朱桓が配下の兵士や部将たちに指図をして油船を攻撃させこれを拿捕される。
この2人諸葛一族の中でどういう人物なんだ?
上のは諸葛瑾の親族、したのは琅邪諸葛氏系?
>>419 宮廷・京師にて声望を集める名士の一人として明帝に嫌われたという明記あり。
諸葛誕は呉太傅諸葛恪とガチンコやって負けてる。
曹叡は側近政治を推し進めた皇帝だからね。
大功ある司馬懿にさえ、諸葛亮の危険が消えると太尉に任じて兵権を回収するようなことを
きっちりやってる。洛陽で名声を集める人物というは目障りだったのだろう。
>>419 諸葛誕は司馬師や夏侯玄と同年代っぽいけど、
司馬師も夏侯玄も諸葛亮が生きてた頃はそんな偉くないよ?
年代的に諸葛亮が生きてた頃は、まだ諸葛誕は要職に就くような年齢じゃ無かっただけだろ。
>諸葛誕は呉太傅諸葛恪とガチンコやって負けてる。
それはしっているが、魏はその狗を得たりと言われたのはこれ諸葛恪に負けた後に言われだしたのだろうか。
よく亮や瑾と比較されるが、実際は諸葛恪に負けたあとに京雀に謗られたんじゃないだろうか。
「
司馬師
>魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、中護軍(中領軍とともに皇帝の近衛兵の指揮をする役職)に昇進する
景初年間つまり、亮が死ぬ2年前ぐらいからすでに中護軍になっているが。
>魏はその狗を得たり
亮と謹が名声を保って生涯を終えたのに対して、
誕は国家(実質は司馬氏)に反乱して滅びたから言われたんだろう
>>423 誕が、亮と同族だから官職から追われたほどの人間なのだとしたら、
その誕を、司馬氏専横期という不安定な時期に恪と真正面から対峙する職責に
置いておくのはおかしいだろう。
>>425 元ネタは世説新語の中で諸葛誕について言及された次の一句。
「「蜀はその龍を得て、呉はその虎を得て、魏はその狗を得たり」
>>427 そんな基本的なこと説明されても。
なにが言いたいのか分からん。
>>424 景初年間に散騎常侍になって、その後中護軍に昇進したんだろ?
司馬師は夏侯玄の後任の中護軍で、夏侯玄が中護軍になったのは明帝死後。
だから、司馬師は明帝在世中から斉王芳の時代の途中まで散騎常侍。
まあ微妙に疑心暗鬼になりすぎだったんじゃないかという所が原因かね>狛
一戦一敗して狗と呼ばれちゃうなら諸葛氏どころかそこら中狗だらけだよ
竜亮 虎瑾と比較されての話だろう狗誕哀れ
瑾より誕の方が戦強いんだけどな。
瑾と誕対峙したことないじゃん。
ほとんど軍功の無い瑾と、軍功で魏の最高幹部まで昇進した誕を比べれば、誕の方が上だろ。
誕謀反前までの軍功はプラス面だけ見れば
恪>亮>>>誕>瑾
マイナス面も入れれば
亮>>>恪>瑾>>>誕
諸葛恪は合肥の敗戦に耐えられれば呉で最高の功臣になれただろうにな
諸葛恪は臨機応変な将略はあるんだけどメンタルがいまいちなのがな
亮は過労死するし、格は傲慢だし、誕は疑心暗鬼だし、もしかしてメンヘル因子をもつ一族なんかのう。
朱全忠に降伏した夏州節度使の諸葛爽って琅邪諸葛氏の子孫?
諸葛爽は青州の人だから、琅邪諸葛氏とは関係ないんじゃね?
曹真は222年に都督中外諸軍事になってるけど、曹休は都督揚州諸軍事。
それなのに226年に曹真は大将軍になり、曹休はその上席の大司馬。
どう見ても都督中外諸軍事の曹真が魏の軍事の最高責任者に思えるんだけど、
魏の軍人トップは曹休。どっちが偉いのか良く分からない。
そもそも諸葛氏の場合、官制名じゃない特殊な二字姓だから、
唐の李氏みたいな北方民族の帰化名でなければ繋がりはあるんじゃない?
>>439 謹も含めて性格バラバラなのに遺伝もなにもないだろう
諸県侯説を信じるなら前漢発祥の姓だから、それ以降(おそらく後漢末以降)に
全国に散った、かなり血縁の近い姓なんだろうな
忘れられがちな諸葛氏の諸葛緒は、諸葛瑾・亮兄弟や諸葛誕一族とどれぐらい近い関係だったのか気になる。
出身県が同じだから、同族なのはまず間違いないと思うんだけど。
九卿まで昇進した実力者なのに、記録が少なすぎるのが悲しい。
泰山太守やらで頑張ってるのにな。
でもまあ、能力を発揮したのは太守・刺史どまりで、
あとは九卿で余生を送った位の人間はたくさんいただろうから
史書に名が残っただけでも幸運だろう。
田豫は内治でも軍事でも、並の刺史や太守に留まらない特筆すべき功績を挙げた人物。
しかも督青州諸軍仮節や使持節護匈奴中郎将・振威将軍をやってる。
ただ中央と太い人脈がなかったりして、召還されたあと朝廷の要職に就くことは無かったのだろう。
本人の引き際もよかった。
ちょうど曹爽と司馬懿の相克できな臭くなっていた時期だから身を守って生涯を終えたと言えるんだろうな。
450 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 22:45:12 0
田豫は、曹爽と司馬懿の相克の頃には、もう普通なら引退する年齢になってたから、
保身を考えるまでも無く、順当に政治に関与しないで老後を送っただけだろ。
司馬懿の慰留をうけてる
452 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 23:19:34 0
藤原諸葛って人物が奈良時代の?日本にいるけどひょっとしてなんか関係ある?
慰留されても、年だから地位に留まる気が無かったんだろ?
そんなに官職に執着する人じゃないみたいだし。
>>452 取り立てて関係ないと思われる。
せいぜいあやかったとかそんな感じ。
むしろ、高向玄理(曹操の子孫)とか坂上田村麻呂(献帝の子孫)とか
上杉鷹山(献帝の子孫)とかの方がこのスレ受けは良いんじゃない?
ホントかどうかは疑問符な血筋だけど。
455 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 10:17:34 0
諸葛恪と諸葛誕って同時代のヒトなんだよな。
これで蜀で諸葛センが権力を握ってたら、諸葛三国志の完成。
晋では孫が司馬炎の後宮に入った諸葛緒が
>>455 諸葛瞻は261年に行都護・衛将軍・平尚書事。
宗預伝に「諸葛瞻が朝廷を取り仕切るようになった」と書かれてるから、
その頃には権力を握ってた。
諸葛恪と諸葛誕があと数年生きてれば、諸葛三国志実現したかも知れんが、
諸葛瞻が若すぎるから、同時に権力を握るのは無理だったろう。
>>457 諸葛瞻は尚書僕射から平尚書事になったけど、
同時に尚書令董蕨も平尚書事になってる。
二人して権力握ってたんじゃね?
蜀は諸葛亮死後、二人宰相を置くのが通例だったから。
いや、録尚書事姜維がいるから、平尚書事二人と合わせて宰相三人体制だろ?
なんでこんなに宰相が必要なのか良く分からんが。
>>458 蒋エンって一人宰相じゃなかったんだっけ?
漢の宰相はほとんどの場合で二人か三人だよ
魏のように一人録尚書事ってのが珍しいのか。
しかも、宰相職にある人間が臣下中の最高権力者とは限らないときているからめんどくさい
丞相や三公や大司馬や大将軍や録尚書事がお飾りの場合なんて珍しくないもんな。
呉では九卿の平尚書事もいるよね。
劉備は益州平定後、なぜ劉璋を荊州の公安に移住させたのか?
降伏した敵国の君主は殺す気が無いなら手元に置いて、
客分として厚遇して飼い殺しにするもんじゃないのか?
殺しも飼い殺しにもしないで、遠くに移住させるなんて三国時代でも異例だわ。
>>467 荊州の劉ソウ、漢中の張魯の様な例もある
張魯ってギョウで死んでなかった?
劉璋は関羽敗北後、孫権に仕えてるけど、
益州に逃げる気は無かったんかね?
>>467 遠くに移住というより、荊州の拠点という「手元」に置いてるんだよ
>>471 前線の荊州じゃなくて、本拠の益州の方が劉備の目の届いていいんじゃない?
元君主と益州出身者の連携、再起防止策だろ。
劉璋より覇気と能力がある劉循を、
蜀に留めている方がもっと危険だと思うんだが。
ホウ儀や劉循って生歿年不明なんだな。
知らん間に謀殺されたんじゃね
んな事言ったら、大抵の劉備政権の要人が生没年不明だわ。
>>475 そいつらは謀殺するより、実権は与えずに賓客として厚遇した方が、
益州の官吏や豪族や民衆への宣伝効果が大きい。
>>302 いいところを突いている。というか、逆から突くべきなのよ。
姜維と一緒に蜀に降った梁緒、尹賞、梁虔らはこの頃それぞれ大鴻臚、
執金吾、大長秋になっていたけど、蜀が滅ぶ前までに亡くなっている。
彼らは蜀に降った時点でそれぞれ姜維は州の従事、梁緒は功曹、尹賞は
主簿、梁虔は主記にあったことから、概ね20代半ばから30代半ばまでの
割と近い世代で固まっていたと推察される。
三国志内でだと荀ケ、荀攸、鍾繇、郭図らがその位で固まってる事例。
つことは、蜀での彼らの最終官位から考えて割と近い年代で相次いで
亡くなってるのではと考えられる。まぁ寿命のことだから長短あるので
分からんのだけどね。
とするとだ、陳祗亡くなる辺りで一旦姜維への集権が図られてるのに
姜維はあっと言う間に権柄を取りこぼしてるんだよね。
それは梁緒、尹賞、梁虔らが相次いで亡くなり、姜維政権を固める党与
の重鎮が居なくなってしまったからではないかな、と見ることが出来る。
あと関係ないけど誰かリツイートのやり方教えて下さい。
>>478 「公式りついーと」ってのをクリックしてください
アカウント聞いたら、すでにフォローし合ってる相手だったというオチ
>>478 九卿は重鎮といっても儀礼職になってしまってるからね。
執金吾はまだしも、大鴻臚、大長秋が姜維の政権を固める役に立ったかは疑わしい。
もっと単純でいいだろう。
姜維-陳祗-(黄皓)-劉禅と繋がっていたパイプが陳祗の死で切れた。
劉禅は黄皓を親愛し、諸葛瞻と荊州人と中心とする旧来の名士高官閥が復権に乗り出して
相克を開始した。姜維は慌てて成都へ還り、政権掌握を試みたが、
政権を共に支えるような同胞を宮廷に持たなかったために勢力争いから弾き出され、
漢中へ舞い戻るはめになった。
>>482 基本ラインはそうなんだけど、
>政権を共に支えるような同胞を宮廷に持たなかったために
この部分のコアが梁緒、尹賞、梁虔ら、姜維と共に降った涼州や雍州出身者
姜維の党与で陳祗に代わりうる人物が彼らだったんだが、それを相次いで
失って代わりの出来る人物が居なくなったために権柄を取りこぼすことに
なったんではないかということ。
>>480 メアドで検索できるように設定してるけど、それでいい?
彼らが姜維の党与の人間だった可能性は否定しないけど、
政治的実権の無い九卿で終わるような出世ルートの人間が、
姜維が録尚書事になるに当たって彼の権力維持に多大な貢献が出来たとは考えづらいし、
彼らが生きていたからといって陳祗などの後任として黄皓や諸葛瞻に対抗できる権力争いが
出来たとも思えないだろう。
諸葛瞻=菅直人 黄皓=仙石由人
姜維伯約=小泉純一郎
そういや、蜀後期の人物で九卿ってほとんど名前残ってないね。
九卿の実権は三国の中では、呉>魏>蜀だと思う。
蜀だと九卿からその上に昇った人ってほとんどいないんだよね。
出世するのは尚書系列か将軍系列の人ばかり。
呉じゃ太常が副宰相格だからな。
皇帝直属である尚書台が重視される蜀は君主権が強いってことか?
>>487 君主権てより、録尚書事と平尚書事の権力が強いんでしょ?
>>487 呉の太常が丞相の次くらいの地位なのはなぜだろうか?
太常って本来儀礼担当で格は高いけど、あんま実務仕事する役目じゃないよね?
とりあえず呉書の太常を抽出。
顧雍:太常から丞相へ昇格。
陳化:太常と尚書令を兼務。
張彌:守太常として公孫淵への使者に。
潘濬:丞相顧雍の後任はきっと太常潘濬だと言われた。
程秉:周瑜の娘を孫登の姫に迎える際、守太常として派遣される。
顧譚:太常・平尚書時として顧雍の職務を継ぐ。
傅常:守太常として陸遜に丞相の印綬を渡す。
滕胤:孫亮の後見として太常就任。孫亮即位後は衛将軍兼務。
全尚:孫亮と孫綝誅殺を企てる。
姚信:守丞相孟仁と共に孫和の御霊を霊廟に移す。
周処:孫皓が封禅した時に太常として司徒董朝の次に名前が挙げられている、
張夔:滅亡時の晋への降伏の使者。
やっぱり太常は九卿の中でも別格の地位にあったみたい。潘濬なんて太常のまま武陵蛮討伐してるし。
太常は漢では九卿筆頭だったから、尚書系の地位が低かった呉では、
尚書令の代わりのような役目を果たしてたのかもしれない。
皇帝の名代って感じがする。儀典の時とか特に。
>>492 そりゃまあ、太常の本来の職務は儀典担当だからね。
でも、呉では魏や呉の尚書令のポジションに、太常がいる感じ。
丞相が外地にいることが長かったからではないだろうか。
しかも陸遜以降、高位将軍がそのまま昇進する官になり、荊州方面に駐屯するのが普通になる。
一方、皇帝身辺は中書系官僚と宗族が占めて権力を握る。
太常は二者の狭間で宮廷を統括する任を負っていたのかもしれない。
でも、呉の最高権力者が大将軍や太傅で、建業に常駐してる場合でも太常はナンバー2だった。
また、太常が外地に駐屯する事もあった。
確かに丞相顧雍が建業にいる時、太常潘濬が5万人を率いて武陵蛮を討伐してるな。
わけわからん。
確かに太常がここまで重要な役割を果たすのは確かに呉の特色だな。
ちょっと軽く後漢後期の人物見てみたけど、朝廷で重要な役割を果たした逸話の時の官位は、
尚書系が多く、やはり明らかに魏蜀の系譜の方がが正統進化なんだという感じに見える。
後漢の九卿って、活躍した中央官僚や地方長官や将軍の中で、
三公になれない人間の上がりのポストか、あるいは三公への踏み台って感じだね。
呉の大将軍の職責は、おおむね二種に分けられる。
・皇帝を宿衛し、国家の実権を握った者
孫峻 孫チン
・武昌や荊州方面に駐屯した者
陸遜 諸葛瑾 諸葛恪 呂岱 施績
・所在地不明
丁奉
と、建業宮廷を纏める位置にいない者が多い。
太常は潘濬が荊州事を掌っていた時期もあったが、
おそらく顧雍死後、顧譚が太常平尚書事となってから任地が逆転し、
副宰相格として、宰相不在の建業宮廷を纏める職と認識されるようになったのだろう。
数少ない例外期は孫亮即位時の太傅諸葛恪だが、
この時も太常滕胤が衛将軍領尚書事として諸葛恪の副を占めている。
この時には呉の行政体系の中で太常の占める地位が形成されていたのだろう。
訂正。太常が「副宰相」的な地位を得たのはもっと早いみたいだ。
顧雍即位時に張化が太常兼尚書令になってるわけだから。
以降、顧雍-潘濬 や 陸遜-顧譚 と、
正副宰相が内外の統治を分担する慣習が作られたのだろう。
蜀は丞相録尚書事の諸葛亮をピークにして、録尚書事の独裁権限が徐々に後退していったのに対して、
魏は皇帝集権を追及した曹丕・曹叡から一転、実権を握った司馬氏によって
録尚書事が再び権臣専断のポストに使われた、という逆の現象が見られるね。
>>499 丁奉は大将軍になってからも揚州方面以外の軍事作戦に参加してないし、
陸凱の孫皓廃立計画に加わったり、万ケの孫皓批判を聞いたりしてるので、
ずっと建業にいたんじゃないか?
あと、孫峻と孫チンは宿衛武官出身だけど、
宿衛は一族や腹心の部下に任せて、宮廷に臨んで執政していた。
>>501 と言うよりも、始めに皇帝独裁があって、
幼主や経験の浅い君主の補佐として付けられたのが録尚書事。
それが後漢が幼帝続きになることで常設の宰相ポストへと変化していく。
つまりどんどん若年の皇帝が多くなる魏で録尚書事の権力が増していったり、
皇帝が長生きしている蜀で録尚書事の権力が衰えていくのは必然。
>>502 >丁奉
第三のパターンとして、
・新帝即位や政変に伴って京師守備の任を負う
というのを書こうとしたんだけど、調べるの怠った。どうも。
丁奉は行政能力はあまりない人物で、軍事権はともかく、
政治の実権を握ったのは太常衛将軍・平国軍事の濮陽興と、左将軍張布。
と、また太常が出てくる。この時の太常は丞相昇任前の腰掛のような位置。
孫峻・孫チンは、執政と言っても、宮中から幼帝の決裁権限を代行(という名目の独裁)する
のが職責であって、外廷(宮廷)にはいないんじゃないか。少なくとも孫亮が親政を始めるまでは。
行政府である外廷百官を総括する人間は別に必要になる。
孫亮成人後はまた問題が難しくなって、歴史上でも破局に至るが、
どちらにしても大臣が侍って幼帝を輔弼するのは王朝にとって臨時体制だから、
太常の地位を改変するまでには至らなかっただろう。
変わるとしたら孫晧時代で、内朝系の左丞相と外朝系の右丞相が併置されたり、
三公が置かれたりしている。
王凌は曹爽政権下で地方の都督でありながら三公を兼ねるほど栄達してて、
曹爽一派が粛清された後、司馬懿に抵抗したけど、
実は王凌は曹爽の支持者だったのかな?
特に個人の支持者でなくとも昇進はするだろう
車騎将軍儀同三司になったのは曹爽と司馬懿の亀裂が生まれていない頃
太尉に昇格したのは曹爽死後だしな
しかし、三公の位で都督を兼ねたのって、王凌が初めてじゃね?
司空で都督揚州諸軍事は権力と権威が絶大過ぎて、
曹爽が司馬懿に対抗させる目的でもなけりゃ、くれてやるのは危険だと思うんだが。
王凌の年を考えたら、三公にするなら満寵のように中央に召還する方が自然だし。
むしろこの時期の三公が政治権力どころか儀礼的権威も怪しくなって、
高官の花道になってしまっていたことを示すだろう。
もともと三公叙任者が死んだら序列順に繰り上がる性質が強いポストで、
この時期に高齢の先任者が相次いで任命されては死亡している。
241年当時の車騎将軍も一年ほど前に黄権が死んで空いていた。
王リョウの司空任命に当たって宮廷に召還ことさえなかったということは、
宮廷儀礼の運営が司空を必要とせず、都督の任の方が重要だと
認識されていたことになる。
魏の時代で三公と都督を兼任してたの、王凌一人じゃ無かった?
他の都督から三公に昇進した人物は、みんな軍権を手放して都で拝命している。
司馬懿は
王昶も
司馬懿は都督荊豫諸軍事の時は驃騎将軍で、
都督雍涼諸軍事の時は大将軍じゃなかったっけ?
太尉になるのは、大将軍と都督雍涼諸軍事を解かれてからだと思ったけど。
>>513 太尉になってから公孫淵討伐のためまず都に呼び戻されるまでは関中にいて蜀の攻撃を防いでいるから、まだ都督だったんじゃないかなあ
あと曹叡死後に太尉で都督中外諸軍事になっている
そだね。宣帝紀には青龍3年に太尉に遷ったと記述があるだけだが、
その後、
牛金に馬岱を迎撃させた
武都テイ王が来降した
関東の飢饉に長安から粟五百万斛を京師へ輸送した
白鹿を献上して曹叡の返書に「今君受陝西之任」とある
と関西の記事が続いて、その後に公孫淵の乱だから、
太尉司馬懿は3年間関西で都督やってるね。
三公より格上の大将軍や大司馬で都督やってた奴もいるんだから、
三公が都督やってても不自然じゃないよね。
九卿が都督やってたら「おいおい」と思うけど。
魏では大将軍より三公の方が格上になってないか?
>>516 珍しいケースであるのは確かだよ。
大司馬や大将軍は軍官。三公は天子を補佐し天下を教導する典礼官。
だから、三公の典礼上の地位が失われていたのではないか、という話になる。
曹丕・曹叡代は、後漢の礼教主義と晋の周制復古の狭間で儒教的儀礼の地位が下がった時代だった。
三公としての太尉が初めて外に駐屯した例は後漢末の張温とされる。
>>517 大将軍で国政の最高責任者になった奴はいるけど、
一人で国政の最高責任者になった三公はいないぞ?
>>517 本来大将軍は三公の下なのが正規だったけど、
この旧制に戻るのは司馬師のときだからもう少し後。
魏の曹爽、司馬師、司馬昭はみんな大将軍の資格で政権を担ってるね。
三公の方が上なら、董卓や曹操がやったように三公のどれか一つと録尚書事を兼ねて政権を握ればいいのに。
>>522 >>464 大将軍には、皇帝を輔弼して政治を執る古い由緒と権威がある。
三公にはない。そんだけ。
司馬懿って大将軍から太尉になってるけど降格?
位序だけでいうと降格だね。
諸葛亮の危険が去って、各種の戦時専断権を持つ非常置の高位将軍から、
平時体制である常置の職へ「復帰」した体裁になる。
司馬懿が将軍以外の官に就くのは久しぶりだけど。
臣下の兵権を征伐時のみに極力限定する「事訖えて皆罷む」の
将軍本来の慣習は、前漢前期や後漢初ではよくあることだったが、
将軍がほとんど常置の官職となったこの時代に司馬懿に適用したのは、
曹叡の政治感覚の賜物なのだろう。
526 :
世界@名無史さん:2010/11/18(木) 14:38:00 0
人口比でみれば、魏:呉蜀=2:1。
防御に徹すれば国を保つに十分。
司隷 2,820,087
豫州 6,179,139
冀州 5,931,919
?州 4,052,111
徐州 2,791,680
青州 3,709,803
涼州 399,268
并州 687,065
幽州 1,962,888
荊州 6,265,952
揚州 4,338,538
益州 7,242,328
交州 1,114,444
527 :
世界@名無史さん:2010/11/18(木) 16:02:00 0
いいかげん糞の役にも立たない人口表に頼るのはやめようぜ。
528 :
世界@名無史さん:2010/11/18(木) 16:26:28 0
群国志はそれなりに正しいと思うぞ
それなりにってトドのつまりはあまり信頼できないということだよね。
私奴や官奴は反映していないし豪族支配下の住民もどれほど実態を把握しているか疑問
530 :
世界@名無史さん:2010/11/18(木) 18:38:11 0
>>529 常識的に考えれば、後漢の統治が行き届いている中原では奴隷は少なめで、
統治が行き届かない南方では奴隷が多いと思われる。
防御に徹すればというが、曹爽の頃からは圧倒的に魏がおしてないか
ケ艾の遠征まで物量共に魏が圧倒していて剣閣が抜かれると綿竹などで
ほぼ殲滅戦くらって多くの将兵が死に、東観を造られている。
救援に向かった呉も陸抗が永安をせめようが陽動で丁奉が寿春せめようが
魏は蜀漢への攻勢をやめなかった。司馬家はその程度では動くに能わずと
判断したのだろう。
>>529 その通り。糞の役にも立たない訳ではない。
後漢末以降を語るなら晋書の方がいいだろうけどね。
>>532 糞の役にも立たないと発言した人とは別人です。
ようするにいわゆる良民の人口把握が出来る程度。
なら、良民といわゆる奴隷や台帳に載っていない人々など
把握されていない人口の差がどの程度あったかという話になる。
>>531 いや、魏も呉や蜀の侵攻に対する防衛戦では勝ってるけど、
侵攻戦ではほとんど戦果をあげていない。
蜀攻略戦以前の魏の侵攻戦で大きな戦果があったのは対公孫氏戦ぐらい。
535 :
世界@名無史さん:2010/11/18(木) 19:03:06 0
そもそも、国家が把握してない人間を徴兵なんてできないだろ?
国家が把握している良民しか、兵隊に出来ないはず。
戸籍にのってなかったら逃げるの簡単だし。
>>533 それ以前に後漢時代の人口と三国時代の人口はだいぶ違うんだが。
戦乱や飢饉で中原の人口は激減し、南にだいぶ流れてる。
でも、南の人口も後漢時代と比べれば激減してる模様。
537 :
世界@名無史さん:2010/11/18(木) 19:08:15 0
>>536 人口比で見る限り、意外と南方が力を持ってるのは確か。
当時の兵戸が「国家の把握している良民」に入っているのかどうかから考える必要がある
>>535 豪族の部曲はそのまま世兵に転化してる。
特に呉では。
>>538 入ってないっぽいよね。
屯田制時と晋以降の中原の人口差をそれで説明する人も居るし。
>>540 ま、それは一説にすぎないけどね。
根拠は「魏代と晋代の人口差」くらいで、直接的な根拠はほぼ無い。
魏の屯田民が偏戸の籍に入っていなかったために、典農部解散後の中原の戸籍人口が急増した、というなら、
人口比で魏と同等以上の規模を持っていただろう呉の世兵人口はどこにいったんだということになる。
詳細な検討は必要だが、その前にまず言えるのは、戸籍数、つまり国家の管理した頭数を知るということは、
大雑把ながらその地域からくみ上げられる財政収入(貨幣・物納・力役を含む)の規模を把握できるってことだ。
文帝とか武帝とかの諡号ってあるけど、やっぱり、文>武という序列なんだよね?
この諡号ってどのくらい序列があるの?
そこに序列はないというか、諡号の字は業績の内容。
武だと乱を平定したり法家統治を行ったり、私利私欲がなかったり。
文だと博識だったり有徳であったり、部下に頼ることを恥としなかったり礼制秩序を作ったり。
>>544 創業者は大抵武帝じゃない?
文帝は王朝の基礎を築いて平和を招いた皇帝。
>>534 隴を得て蜀を望むとの光武帝の有名な語句があるように、
漢中を抜かれると蜀は丸裸同然。
蒋エンや姜維が曹爽や司馬師の大規模侵攻に対抗できた理由は
峻険の地だったから大軍の理が活かせなかったから。
だからケ艾が発想をかえてなら別ルートでいけばいいじゃないかッと
進行すると綿竹などで殲滅戦になってしまった。
呉の場合は陸遜は侵攻しようと思えばできたけれども、深追いすると魏が
大河超えて建業を狙っているの理解していたから追撃を断念したそれだけの話し。
逆に蜀漢の侵攻作戦の場合は丁奉や陸抗が永安や寿春に攻勢かけても魏は
国力がみなぎっていて2正面作戦余裕だったし、形勢を覆せなかった。
蜀漢は要害の地ではあるが、漢中を抜かれて下腹部に潜り込まれると致命傷を
うけてしまうそういう土地柄だ。
だから今にして思えば蒋エンの漢水を利用して東進し魏興や上庸を攻撃する案は
理にかなっていた。 下腹部を守るたには上庸などを是が非でもとっておくべきで
あった。あの辺とっておけばケ艾別ルート経由でもかなり苦しかったと思う。
>>545 そうでもない。
例えば前漢は高皇帝。
前趙は光文皇帝。
後趙は明帝。
前燕は文明皇帝
南朝斉も高皇帝
北周の実質的創業者の宇文泰は文帝。
隋は文帝。
大切な人を忘れていた。
孫権が大皇帝だった。
古代の諡法にない正真正銘特別な諡は「高」
後漢の光武帝は中興の祖という意味だよ。
軽く確認し直してて思ったのは、やっぱ南朝梁が南朝斉と違う王朝だというのは、
前漢と後漢が違う王朝だという話より納得がいかない。
>>549 魏でも高皇帝はいるしそんな特別じゃない
珍しくないことと特別じゃないことはイコールじゃないぞ?
隋唐なんか煬帝と李淵はいとこ同士だけど別の王朝。
梁斉も似たようなものだ。
明なんか永楽帝で南京から北京に遷都し建文帝の時代をなかった事にして
簒奪そのものを黒歴史にしているが、あれなんか隋唐なみの別政権といっても良い。
日本でも甥を殺して皇位を奪ったのがいたな 一応万世一系となっているがなんだかね・・・・
まあ皇位奪った方の王統がその後陰謀やら暗殺やらで絶えたんだが。別の話となるな。
>>554 姓が違う母方のいとこと、姓が同じ遠縁の一族をごっちゃにするのはどうかと思うぞ
>>551 前漢は一度国家崩壊して新になり、まったくの傍系である劉秀が群雄を討ち滅ぼして王朝を再興された形になっているが、
あそこまでいくとほとんど別物だよ
>>546 呉はしょっちゅう魏に侵攻しては負けてるじゃん。
魏もしょっちゅう呉に侵攻しては負けてるじゃん。
>
>>555 永楽帝は建文帝の叔父だよ。 東漢 西漢、西晋、東晉と別扱いにされるように
前政権の股肱の臣の大半を処刑し、政府そのものを打倒し、南京を引き払って北平にうつったとあっては
ほとんど別物。
大方後世に燕賊よばわりされるが我慢ならないから建文帝の御代を抹殺して明を続けたその程度の話だよ。
>>557 両国は一種の千日手状態で互いに攻めあぐねていた。
蜀漢とは状況が違いすぎる。
群臣の反対と後主劉禅の裁決で中止されたが、蒋?案は
リスク覚悟でやっておいた方が良かった。
>>559 蜀侵攻の時、上庸ルートから侵入した軍は無かったから、
上庸方面を取っててもあまり意味無いんじゃ?
漢中や武都・陰平方面から侵入してくる軍に対して、
上庸を確保する事が防衛上メリットになるか?
「漢中の脇腹」は陰平方面の西側だね。
荊州・子午谷方面は脇といえば脇だが、肋骨通ってる。
秦嶺越えに近い進軍困難な山道だ。
>>546 時代の推移を見落としていると思うぞ。
諸葛亮北伐期では、二正面作戦を強制されると魏の国力が追いつかない危機的状況が再三あった。
「賊の侵攻に対して、中軍が長駆対応せねば撃退できない」という国力不足が、当時の魏の重要な戦略課題だった。
西では洛陽から中軍を率いた司馬懿が「全力を隴西に振り向けなければ諸葛亮に当たれない」と言い、
東では満寵が「水を避けて寿春まで後退したい」と弱音を吐いた。
一方の攻撃側も、蜀は呉との連携による魏中軍の分散を前提とせずに秦嶺を真北に越えることはできなかったし、
呉は中原深く侵攻して平原で魏の陸戦兵力と正面から当たることは出来なかった。
240年代頃までは、このような微妙な均衡が続く。
しかし、魏も統治不安定だった関中・隴西地域の整備に尽力を続けていた。
姜維北伐期になると、蜀は秦嶺を越えた本格的攻勢・長期滞在はもはや不可能になる。
それでも魏軍事力が希薄な隴西へ長駆して何度も優勢な展開を開いたのは姜維の統率力の非凡なところだろうが。
さらに情勢が進んで、魏の長年の隴西鎮撫が実を結び、隴西を兵站根拠地とした数万の軍事活動が整ったとき、
初めて蜀侵攻完遂の条件が整う。
机上では誰にでも思いつくような「漢中の下腹を突く」作戦だが、この準備が現実に整うのは260年代まで待たなければ
ならなかったわけだ。
同時に東方でも、ケ艾の建策に代表されるように淮水下流域の兵站能力強化が図られ、
呉の攻撃に対して洛陽中軍の負担を減少させることに成功していた。
「国力がみなぎっていて2正面作戦余裕」の状況が、263年にやっと到来した末に、魏は蜀漢を滅ぼすことが出来たわけだ。
魏は蜀の侵攻には何度も中軍を援軍に送り込んでるけど、
呉の侵攻に対して中軍を援軍に向かわせる事はあまりないね。
「現地でどうにかしろや」って感じで。満寵なんていつも寡兵で呉の大軍相手にしなきゃいけなかったし。
この違いはなんだ?
司馬懿の政治力だろ
曹真が蜀と戦ってた頃から、明帝は援軍出してたじゃん。
満寵って優秀だよな。 司馬懿VS諸葛亮戦よりむしろ当時の情勢的には魏VS呉が主戦線なのに
司馬懿が新王朝開いたこともあって、司馬懿や諸葛亮ばかりクローズアップされている感があるな
補給がつづかない蜀より呉の方がどうかんがえても魏には重大だと思うのだが・・・・
226年 諸葛瑾の襄陽攻撃に対し撫軍大将軍司馬懿が応戦
234年 陸遜らの合肥新城攻撃に曹叡親征
241年 朱然らの襄陽攻撃に対し太傅司馬懿が迎撃
253年 諸葛恪の合肥攻撃に太尉司馬孚が迎撃
265年 魏晋交替
268年 施績の江夏攻撃に太尉司馬望が迎撃
271年 孫晧の寿春攻撃に大司馬司馬望が迎撃
>>566 蜀の軍勢なんて守り固くしていれば引き上げているだろ
孔明はだたの一度も戦略的大勝利を収めていない
局地的勝利だけで州ひとつとれなかった。
後世の過大評価が目立つが、軍事的には諸葛瑾と対して
変わらん。
>>567 司馬懿は荊州戦線でもかなり活躍してるんだけどね。
ただ、確かに、徐青荊揚四州を主力に、冀州からも兵役が駆り出されていた対呉戦線は、
不安定で展開兵力が限られる対蜀戦線よりも深刻な脅威ではなかったかもしれない。
動員した兵力では東方の方が多いだろうけどね。
それから、三国志及び注釈での扱いの差。
諸葛亮の北伐は一大壮挙であるかのように描かれるが、
呉志では呉の負け戦はさらっと流される(個人の列伝では触れられないこともある。これはどこでもそうだけど)し、
晋成立後の戦は当然魏志ではなく晋書の範疇になるので知名度が低い。
>>569 三国鼎立後、蜀滅亡前に、他二国に攻め込んで戦略的大勝利を収めたとあなたが評価できる人間は誰?
その人間以外は全員諸葛瑾レベルだってのなら、まあ賛同しないが理解は出来る。
「守れば敵は引き上げる」ってのは対呉でもしょっちゅう言われる言葉だよ。
まあ強がりか政治的演出が多分に含まれるだろうけどね。
陸遜VS曹叡戦なんか曹叡の完全大勝利だろ
魏にとっての汚点が赤壁なら合肥新城攻撃の大失敗が
どれほど水軍に打撃あたえたことか。
当時の状況的には司馬懿の蜀戦より陸遜の大敗北の方が
魏にとって大きな意味があった。
>>573 意見が錯綜してるので誰に対してどういう反論しているのかアンカ付けて欲しい
>>575 主張したのは俺じゃないんで正直俺に言われても困るんだが。
>>552氏が定義の認識を失敗してるから指摘しただけで。
とは言っても
>>549氏の意見に反対でもないので、敢えて強いてあげるなら、
・本来の諡法になかったもの。
・漢高祖以降、その王朝の継続性にあやかってか、違う王朝でも幾度か踏襲されたもの。
これでは不服かね?
周瑜の天下二分策って、どの程度実現性あったの?
当時の孫権軍のうち、周瑜指揮下の戦力だけで益州に攻め込んで劉璋を降す事が出来たかな?
諸葛亮や姜維、関羽の北伐については良く話題になるけど、
周瑜の益州取りについては話題にならない気がする。周瑜の死後、呂岱が漢中に侵攻してるから、
孫権の益州攻めの計画は潰えて無かったと思うんだけど。
劉備が益州取れたのも、内応者がいて、
戦う前から蜀の奥深くに軍勢進める事が出来たからだよなあ。
内応者がいなくて、南郡と江夏の兵しか持ってない周瑜にそれができるかどうかと問われると怪しいところ。
>>576 本来の諡法ってのはどこで確認してるんだ?
まさかとは思うが逸周書じゃないよな?
巻き戻してすまんが、
>>573の言う曹叡と陸遜の合肥新城対峙っていつの話?
>>581 孫権が合肥を攻めて、同時に陸遜と諸葛瑾が襄陽を攻めたけど、
曹叡が親征してきて孫権が撤退したってんならあるけど、
陸遜が合肥攻めて曹叡が親征してきて大敗したってのは聞いた事無いなあ。
そもそも、合肥新城が築かれてから、陸遜は一度も荊州を離れてないはず。
人の数だけ三国志はあるんだな
俺も曹叡が親征して、合肥新城で陸遜と戦って、呉の水軍に大打撃与えたなんて初耳だからな。
そんな話、明帝紀にも陸遜伝にも載ってないから、出典を知りたいところだ。
つられて満寵伝調べて思ったが、この太和青龍近辺の時系列、全部三年ずれてるみたいだね
今の話題と関係ないけど
あいや、三年ずれてるのは合肥新城の件だけか。呉主伝とどっちが正しいかわからないが。
ほかにも石亭の敗戦が229年だったり、232年に陸遜が廬江を攻撃してたりと妙なことが多い。
まあ年代の間違いはそこら中にある話だが。
552でも576でもない人間が横槍に横槍を重ねるが、
>>580 漢書張晏注曰「禮諡法無『高』,以為功最高而為漢帝之太祖,故特起名焉.」とある。
その後を見ても、文侯や武侯は存在するが、高侯なんてのはいないハズ。多分ね。
それが正しいなら、『高』は、中華史上に一桁くらいしか持ち主が存在しない、特殊かつ珍しい諡号ということになる。
ついでに、
劉邦が高祖と通称されるようになってしまったのは、「高帝」という諡号での呼び方が奇妙なものだったから
なのかもしれないな。と思いついた。まあ太祖と呼べば問題ないんだけど。
他の地方の都督は、その地方の刺史や都督指揮下の将軍が昇進する場合が多いけど、
なんで都督河北諸軍事だけは、経歴の中で河北の軍事や政治に関与した事が無い人ばかり選ばれてるの?
北方異民族対策の責任者だから、幽州や并州で活躍した人を選べばいいのに。
責任者じゃないから。
実働してないっしょ。
んじゃ、都督河北諸軍事って何のためにいるんだ?
何やったか分かってる劉靖は北方の防御体制構築や民政に大きな業績をあげたが。
>>587 それはその注釈入れた時点でのレアリティだろ
その後王朝の創始者に付くことが結構増えてて現代的な視点で見れば特別とは言い難い
鎮北将軍呂昭って都督河北諸軍事じゃないのかな?
冀州に駐屯してたようだけど、何のために冀州にいたんだろ?
>>592 張晏注は、注釈を入れた時点ではなく、劉邦崩御の時点で、「前例無し」と語っているのだが。
これが「特殊性」の問題。レアリティ=「珍しさ」の話じゃない。
混同するなって前の人にも言われただろうに何を読んでるんだ。
で、
>>587で俺が新たに主張したのは、『高』とは劉邦以降でも、
「王朝の皇帝にしか与えられない」「珍しい」諡だってこと。これが「現代的視点」での解答だ。
別に俺も自分の主張に自信があるわけじゃないが、意図くらいは汲んで欲しい。
>>594 プライド的問題でもう退くに退けなくなってるんだろうから、592には触れないでおいてやれよ
河北の軍事を実質的に担ってたのは、幽州刺史や并州刺史、使匈奴中郎将、護烏桓校尉、護鮮卑校尉とかだろ。
都督がそいつらを指揮下に入れて、大規模な軍事作戦を行った事はない。
漢代のように数万の軍勢を結集して異民族討伐に当たるようなことはなくなったからね。
都督諸軍事の職務には軍政監督も大きなウェイトを占めるだろうから、
>>591の言うように劉靖の例を取れば、その軍政権限は幽州まで及んでいたことになる。
ただ、河北諸軍を直接指揮する将軍として動く可能性がほとんどない職だから、
ギョウに駐留する顕職として名誉職化していた面が強いのだろう。
河北の広域軍政の責任者だったのかもね。
だから、官僚畑の人が任命されたと。
都督諸軍事自体が、魏後期になると皇帝側近や官僚経験者がなる性質のものになるけどね。
侍郎・常侍・尚書・公府掾屬等→刺史→加将軍号→都督
というのが基本パターン。中には侍郎など側近職に召される前に太守のような高官だった人物もいるけど。
河北諸軍事経験者を調べると、
劉靖 黄門侍郎→廬江・河内太守→尚書→河南尹→大司農・衛尉→鎮北将軍假節都督河北諸軍事
呉質 県長令→北中郎将使持節都督幽并諸軍事→振威将軍假節都督河北諸軍事(?)→侍中
陳本 歴位郡守、九卿→鎮北将軍假節都督河北諸軍事
何曾 平原侯文学→散騎侍郎→典農中郎将→黄門侍郎→散騎常侍→河内太守→侍中→司隸校尉→鎮北将軍都督河北諸軍事假節→遷征北将軍
劉靖・何曾を見る限り、中央での経歴では他の都督とさして変わらない。典農や太守経験から、軍事に疎い人物達とは言えないだろう。
呉質は文帝の特別な寵愛があった人物で例外とすべき。陳本の経歴の詳細は分からない。
しかし、他の都督のほぼ必須経歴といえる刺史を経ていないのが面白いところか。逆に司隷関係の官が散見される。
他州の都督で、都督になる前に河南尹や司隸校尉になったのは、経歴が複雑で未拝に終わった王基くらいだろうか。
九卿経験後に外に出た者が二人いるのも面白い。
情報が少ないので確定的には言えないが、
・呉蜀との前線総責任者である諸州都督は、「皇帝の使者」として地方に出た刺史が、実戦を経つつ順次昇進して為る職だった。
・都督河北諸軍事は、それとは違った角度から中央にコミットする、司隸校尉・九卿クラスの人間が転出する職だった。
と推定できる。もしかしたら、冀州が魏の重要な後方財源地域だったことも関係するのかもしれない。
追加
許允 尚書郎→坐職事免→侍中→尚書→中領軍→鎮北将軍假節督河北諸軍事→未発・流罪
許允は司馬懿のクーデターの時は、司馬懿の使者として曹爽に降伏を促す使者をやってて、
司馬懿の党派っぽいんだけど、曹爽一派の夏侯玄に「俺たちはもう大丈夫だ」と言って、
夏侯玄に「全然大丈夫じゃない」と言われたり、司馬一族の政権下で中領軍に起用されたり、
李豊のクーデター計画に巻き込まれた後、司馬師に罠にはめられて殺されたり、
今いち政治的立ち位置の見えない人だ。司馬一族派なのか旧曹爽派なのか良く分からないし、
中領軍という司馬一族からの信任が厚くないと就任できないような要職に就いてたのに、
唐突に殺された理由も良く分からない。
>>599 >逆に司隷関係の官が散見される。
ギョウは洛陽、長安と並ぶ魏の大都市だったから、それも関係あるのじゃないか。
あと廬江太守をやった劉靖は完全に別格だと思う。
>>602 まあ、呉との前線にいたって事だからな。
4人の都督河北諸軍事の中で唯一実戦経験がある人物kも知れん。
冀州刺史を兼ねるのを杜恕に反対食らった鎮北将軍呂昭は、都督河北諸軍事だったんだろうか?
>>601 >>605の中エピソードと合わせても
素行がわるい人物だったようだな。横領が濡れ衣の可能性もあるのだろうか? 死刑にはなってない模様。
河間郡・高陽県の人。代々の名門で、父・許拠は出仕てして典農校尉・郡太守などを歴任した。
名声高く、明帝の時代に出仕して尚書選曹郎となった。職務上の過失で逮捕・投獄されたが、袁侃(魏の名臣・袁渙の子)によって救われた。
刑期満了後に再び出仕し、郡太守を勤めた後に侍中・尚書・中領軍(禁軍の統率者)と昇進した。夏侯玄・李豊らと親しかったが、
彼らが司馬師との政争に敗れて粛清されてもこれに与しなかったために却って鎮北将軍・仮節督河北諸軍事(河北方面の臨時最高司令官)に
抜擢されたが、出発前に公庫から金品を横領していたことが発覚して免職。死刑こそ免れたが流刑地に向かう途上、死去した。
許允は自身も陳羣・韋誕の系譜に連なる印章鑑定の名手であったが、先見の明にかけては夫人の阮氏の方が勝っていた。阮氏
は名門の出身で大変賢明な夫人だったが、容貌が醜かった。結婚初夜の問答で許允は知謀を認め、夫人の知恵で窮地(明帝の詰問)を免れたこともあった。
夫人は許允が鎮北将軍に就いたと知ると破滅を予見していたとされる。
二人の子供、許奇(字・子泰)と許猛(字・子豹)が父の連座を免れて、晋代に高官に登ることが出来たのはこの阮氏の忠言に従ったからといえる。
>>606 嫁が破滅を予見したり、子供に連座を免れさせようとしたりしたところから見て、
許允は夏侯玄・李豊一派だけど、粛清する口実が無かったから、罠にはめて失脚させたみたいね。
でも、司馬師の時代に中領軍(おそらく曹羲の後任)やってたぐらいだから、
曹爽失脚後も旧曹爽派は一定の勢力を保ってたみたいだね。
>>605 息子は殺されていない。
>>606 素行が悪いというイメージはないんだが。
晋書には許允は司馬昭に殺されたという記述があるが、不明。
金品横領についてはまぁ濡れ衣だろ。
あと、結婚初夜の話は誰が聞いたんだというのはあるが。
>>607の記述からみて桓範という人物か、取り付いだ下女から漏れた話が魏志春秋に掲載されたんじゃねえの。
こちらの記述だと、景王に誅殺されたとあるな。司馬昭が殺したという風に解釈できる。
>>608 息の根を止めるのは夏侯玄を誅殺するときだろうね。
許允は曹爽よりの人間だったが、司馬懿のクーデターのときに洛陽にいたから使者にならざるを得なかったんだろう。
(この時司馬懿は洛陽の主だった官を皇太后の勅命で召集させているはず)
許允は、曹爽に勝ち目はないし爵位は保たれるのでひとまずは安全だと信じていた、多くの官僚の一人、と。
そうして油断したところで、大逆不道をでっちあげて誅殺にもっていく計画を知っていたのは司馬師一人。
>>602 前線勤務の職責の中で一人だけ戦場経験のない人間がいたら別格と言えるだろうけど、
後方勤務の職責の中にたまたま戦場経験のある人間がいても別格とは言えないだろう。
それよりも大きな類似が何曾や陳本との間に認められる。
>>609 名士やら貴族の結婚初夜は、古礼に則るなら妻の実家からついて来た女が
結合までをつかず離れずの距離で確認するしきたり
そこから話が実家に伝われば世間に広まる可能性はそれなりにある
後漢の州牧と魏の将軍号を帯びる州刺史ってのは、州の軍権と行政権を一手に握ってるって点で、
権限の大きさは変わらない気がするんだけど、魏はなんでほとんど州牧を任命しないで、
刺史に将軍号を帯びさせるようにしたのかな?
魏では刺史と州都督諸軍事を分割することで、牧の持っていた政権と軍権を分割した。
将軍号を帯びた「領兵刺史」は、郡太守の管轄する郡兵を総指揮したとは考えられるが、前線の州の主兵力はこれではない。
典農部や他州からの兵役で構成される軍部管轄の兵力が存在し、これは複数の将軍によって統率された。
この諸将軍の兵力(将軍号を持つ刺史のものも含む)を統括するのが、都督諸軍事。
刺史と都督を一人が兼ねることになるのは晋に入ってから。諸王が都督と刺史を併せ持つことによって
絶大な権力を持ち、八王の乱の深刻化の一因となった。
616 :
世界@名無史さん:2010/11/22(月) 20:15:04 0
>刺史と都督を一人が兼ねることになるのは晋に入ってから。
マジデ?
正確には魏末かな?
晋書に載ってるくらい末期の人間なら、都督と刺史を兼任してたこともあったかもしれない。
>>615 曹休が揚州牧兼ねたり、夏侯尚が荊州牧兼ねたりしてなかったっけ?
619 :
617:2010/11/22(月) 20:43:53 0
ごめん、もう少し早かった。
都督ではないが248年、監豫州諸軍事のカン丘倹が豫州刺史を兼ねたのをおそらく始まりとして、
カン丘倹の都督昇進、、王基、陳泰、王沈、と、豫州で都督と刺史が同一人が兼ねる慣習が始まったらしい。
これが青州に適用されるのが魯芝の261年。
あとはエン州で司馬チュウが兼ねた。
おそらく豫州や青州は、軍の統括者が必要ではあるが、揚荊に比べて負担が小さい地域なので、
兼任や権限の小さい「監諸軍事」が置かれたりしたのだろう。
620 :
617:2010/11/22(月) 20:49:26 0
>>618 そっちは考えに入れてなかったな。
まあ、王朝成立間もない時期に宗族有力者に与えたものだから、
完成した制度というより、全権委任に形を添えたものだろう。
州牧という制度が、三国魏では時代遅れになっていたのでもあるだろう。
元々は、六百石だった刺史に、二千石相当の人材を任命して郡守への強制力を高めようとしたのが州牧。
つまり当初は、軍事出動や太守外の兵力管轄を前提としたものではなかった。
後漢初には、光武帝に信任される者が「使者」として州牧に赴任した。その中には将軍を兼任することで動乱収まらない州内軍事を統括した者もいた。
後漢末に復活した際には監軍使者という地位でこれを代行した。
基本的に漢というのは、動乱期を除いて、方面軍というものを殆ど持たない(対異民族の校尉や中郎将くらい)国だから、
この州牧制でも統率することができたのだろう。
しかし後漢末の動乱を経て曹操が中原を安定させた時には、将軍らに統率される、郡に管轄されない膨大な兵力を
各前線が抱えることになっていた。曹操はこれを主に護軍による横からの督察でまとめていたが、
建安末に至ると、対呉戦線に必要な大兵力を統一的に運用する必要に迫られた。これが夏侯惇の都督二十六軍だろう。
両者を比較すると、州牧と州都督は、正確には管轄域が異なるために共存することも可能ではあるが、
太守に対して大きな強制力を持つことが特徴の州牧は、都督の台頭と刺史の品秩向上に取って代わられる形で
役割を終え、魏の前線からは姿を消した。
ってところと推測した。
後背地の冀州では継続して牧が置かれていたらしいのは面白いね。
桓範が冀州牧に任命された時、「自分より後輩の呂昭の下に付くのはやだ」って言ってたよね?
当時の呂昭は鎮北将軍。鎮北将軍ってのは、冀州牧にも指揮権があるんかな?
623 :
世界@名無史さん:2010/11/22(月) 21:46:37 0
諸葛京の母親は劉禅の娘なんですか?
>>622 「是時冀州統屬鎮北」とその記事にある以上、そうなんだろうね
魏中期以降、他の三鎮征将軍はたぶん例外無く都督諸軍事を兼任していたと思う。
とすると、鎮北将軍呂昭も冀州を統括するなんらかの都督(河北)であった可能性が高い。
そもそも鎮征は二品・中二千の大官だしね。
冀州牧の品秩が分からないのが問題だけど、二品ほどではない、三品か四品当たりってことなのだろう。
この呂昭というのも全然記述がないけど、
ぐずってたとはいえ桓範の上を行き、
杜恕には「人才ではまたなお易し」と能力は認められてたりと
面白そうな人物だね。
>>625 州牧は後漢では九卿相当。刺史は魏では四品。桓範は「こんなんなるぐらいなら九卿になった方がマシ」と言い、
孫礼が冀州牧を罷免された後、并州刺史になった事が格下げと受け取られてる。
これらの事実から考えるに、州牧は三品相当官だと思われる。
後漢では職責自体は二千石だよ。百官志などの通り。
ただし、後漢末に九卿にいた人物が「もとの秩石のまま」赴任したことで、中二千の位を保持して得ていたと考えられる。
前漢では中二千と二千の間の「真二千」だったという説もある。
董卓政権以降、州牧が無節操にバラまかれるようになる前の、
まだ州牧が地方の重鎮として扱われてた頃に、
九卿かそれ相当の高官からの転出以外で二千石の州牧になった人いる?
いないんでない? 霊帝によって州牧が任じられたのは最初の劉焉らと董卓だけかな。
董卓政権直後に御史中丞韓馥が冀州牧に出ている。
ごめん、董卓のときは霊帝崩御後か。
孫礼のケースは、
冀州牧(?)→結系五歳→城門校尉(四品・比二千)→并州刺史加振武將軍使持節護匈奴中郎將(四品・比二千)
桓範のケースは、
「同じ三品でも、卿なら公に礼を尽くすだけで済むが、牧では呂昭に頭を下げねばならぬ」
と裏読みすることもできるだろうが、
九卿も冀州牧も同じく、野心家にとっては望ましくない暇な職だっただろうから、
「呂昭の下で牧になるくらいなら実権のない卿になった方がマシだ」と読むことも出来るだろう。
呂昭というファクターがある上に職責の重要性は階級では計れないので、ここから品秩を読むのは難しい。
牧になれるなら、卿にもなれるってことだから、牧の方が卿より格上か同格でないと、
この桓範の発言はおかしい。しかし、牧が三品の卿より格上なら、二品だから、
同じ二品の呂昭の下に付く事はない。だから、牧と卿は同格の三品と考えるのが適当ではないか?
だいたい、当時の官品なんて明確になってないだろ
こういった事例から当時の官品を復元することはできても、官品を既定のものとして議論すること自体がおかしい
そういう昇進序列を真っ正直に信じると、五品の単車刺史に過ぎなかったであろう桓範が、卿を視野に入れて発言したのは
夢想ということになると思うけど。
品秩は一応昇進考課の基準として制定されたが、官僚たちは実権のある、あるいは功績を挙げやすい官を重んじたし、
内外異動の都合や皇帝との関係、政局によって左右されてしまって、実際どのように考課されていたのか現代からは殆ど知りえない。
三品の散騎常侍が五品の刺史として転出したり、二品の四征大将軍が召還されて尚書僕射になったりする。
この場合、九卿は実権の無い職となって久しいわけで、「呂昭の下で牧」になるというのは、「卿になる」ことと
比較できるくらい嫌なことだ、というのが桓範の言い分。
卿や牧の階級を比べたり重んじてのことではないので、やはりここから牧の階級は読み取れないだろう。
>>633 唐代に復元されたのが通典や諸史に載ってる。
清代に職官表としてまとめられて、ちくま三国志に載ってる官職表はそれを簡略化したもの。
復元、なあ
どこまで信用できるんだろうな
あまりあてにしない方がいいと思うけどな
信じる以外に選択肢があるかい?
まあ批評は読んでから言ってくれ。
ちなみに、まだ魏略や魏書が残存していた時代だよ。
>>634 桓範は中領軍や都督の経験者。トラブル起こして罷免されて復帰後単車刺史になっただけで、
格的には一足飛びで九卿クラスまで昇進してもおかしくない人物。
「九卿まで昇進してもおかしくない」から、「冀州牧は九卿相当」とは全然言えないと思うけど。
640 :
世界@名無史さん:2010/11/23(火) 10:36:48 0
論点ずらしなのか素でバカなのかわからんなw
〜全然言えないと思うけど。
この口調の奴このスレで度々みるが、揚げ足取りばかりしている印象。
相手にするな。
桓範が卿と比較してるから、牧と卿は同格、なんて論法で階級を想定することは出来ない、と言ってるのに、
揚げ足取りといわれたらお仕舞いだな。
通典の話に戻すわ
例えば石井仁氏の論文『軍師考』に、「通典は魏晋の軍司を五品としてるが根拠は何ら示されていない、
そもそも軍師は漢官じゃなかったし、魏晋では行軍司事として他官と兼任させるものだったから
品秩の無い官職というべき」みたいなことが書いてある
通典の官品が全部根拠を欠くものとまでは言わんが、こういう例もあることは念頭に置いて読むべきだろう
まして通典その他の文献でいきなり官品が示されたのを、清代に至ってそのまま採用したものは
それなりに警戒してもいい
杜襲伝
大將軍曹真督諸軍拒亮,徙襲為大將軍軍師
裴潜伝
明帝即位,入為尚書.出為河南尹,轉太尉軍師、大司農,封清陽亭侯,邑二百戸.
これが兼官なの? 兼官なのは晋の「軍司」じゃなくて?
通典の秩品魏の条が複数の史料から蒐集されたものであることは、旧来の王侯制と五等爵制が併記されていることからもわかる。
魏晋の管制の類似から、互いに情報が流用されたりした可能性もあるだろう。
しかし当時なりに信頼された史料に基づいたものであるだろうし、もとより王沈魏書などで魏の官職志が存在した可能性が十分にある
時代に編纂されたもの。明確な矛盾無く疑っていたら文献史学が成立しないだろう。
ちなみに、晋の部には「軍司」はないようだ。兼官だからかな。
って晋書も調べたら行官の軍司の記述があるのは山濤くらいだな。
646 :
世界@名無史さん:2010/11/23(火) 18:58:16 0
通典の秩品魏の条が複数の史料から蒐集されたものであることは、旧来の王侯制と五等爵制が併記されていることからもわかる。
魏晋の管制の類似から、互いに情報が流用されたりした可能性もあるだろう。
しかし当時なりに信頼された史料に基づいたものであるだろうし、もとより王沈魏書などで魏の官職志が存在した可能性が十分にある
時代に編纂されたもの。明確な矛盾無く疑っていたら文献史学が成立しないだろう。
で?
この文章、全部根拠にならないし、書く意味ないよね。
可能性があるだろう
だけで話が成立しててワロタ
いやごめん。晋代には行官の軍司の記述の方が多かった。
軍師の記述の少なさから見ると、おそらく魏でも、大征伐時に大将軍や太尉のような普段征伐に携わらない地位に置かれる、
普段は空席のポストではあったのだろうけど、行官とまでは言えないだろう。
晋代になると、将軍が任命を請うているように、かつての従事中郎のような、
「幕下に属さない顧問(監督)官を朝廷から派遣していただく」ような地位に定着する。
「派遣される顧問官」という地位が一般の都督級の将軍にまで定着したゆえの記述の増加と見るべきか。
>>646 マジでいってるのか…。
そんなこといったら、千年以上前に書かれた文献を信じる「根拠」なんてのはなくなってしまうのだが。
「誤っている可能性もある。が、新たな史料が出ない限りは信じる」が文献史学の基本だろうに。
魏と呉と蜀の三国だと、軍師の性格が全然違うね。
呉の軍師は軍の最高幹部。魏の軍師は高級将官の参謀長。蜀の軍師は丞相府の幕僚。
同じ名前なのにどうして、こうも職務内容と地位が違うのか?
あと、丞相府の軍師は軍事に強くなさそうな人物も就任してるわけだが、
どういう職掌だったのだろう?魏王国建国後、皆事務職にスライドしてるが。
>>650 「軍事に強くなさそうな人物」というイメージが間違っている、少なくとも当時は軍事について何か期待されるような人物だったということじゃないだろうか
後漢末の「軍師」は、荀攸に付いてのこれが代表的。
「軍國、選舉、及び刑獄法制、みな使して決せしむ」
つまり司空・丞相府で独裁していた漢王朝の行政機能の統括責任者。各種助言もやる。
いわゆる軍事参謀ではなく、広い意味での「幕僚集団」だね。
孫策・権の幕府において「文武の事、一以って昭に委ねる」とされた張昭が車騎将軍軍師になっていること。
軍師中郎将諸葛亮が「使して零陵、桂陽、長沙三郡を督し、その賦税を調して以って軍實に充てる」という役を担ったことからも、
当時の「軍師」は、幕僚長、監督者、という役割を果たしていたと言える。
以上は群雄割拠時代に軍閥が非公式の支配機構を拡大していく上で設けられた任であり、三国が成立すると「軍師」の役割は一旦終わる。
魏の中期以降、征伐にでる大将軍に 朝廷から「軍師」を派遣して、「現地将帥を監督する使者」、いわゆる監軍の役を与え、
これが晋以降に繋がっている。
ということが「軍師考」で研究されている。
忘れてた。
諸葛亮丞相府の軍師、他監軍や典軍など多種の官属が見られるが、
この職掌分担については本当に不明で、同じく石井仁氏も「未分化の状態」だった、とする。
護軍と監軍と督軍と領軍の違いが良く分からない。
あと、魏だけなんで拠点に督○○を置かなかったのか?
>>652 丞相府の軍師は大統領補佐官みたいなものと考えればいいのかな?
そんで魏の軍師は政治委員と。
護軍 諸将の非法弾劾、訴訟を掌る。司法権限は無い。
監軍 将帥の出す各種命令の監督、将軍に対しても中央の命を奉じて監督に当たり、時には収監を執行することもある。
督軍 単純に「督軍」という職名が用いられた例は少ない。常制ではないだろう。ただ州に督軍従事とか、郡に督軍という職はあったようだ。
領軍 同じく「領軍」という職名は曹操と諸葛亮の丞相府以外では羅憲の巴東領軍くらいで職責不明。
ただし、曹操の領軍は中領軍・領軍将軍と発展して、五校三営など宮廷中軍を総領する職となる。
本来の職掌で言えば護軍・監軍に指揮権は無いが、統一する高位の将帥がいない局面では、臨時に諸将を率いる
指揮官を務めることがある。
>>656 蜀では劉備時代に馮習と呉班が領軍になってるぞ?
二人とも夷陵では副将格だ。
>>657 これはすまん、見落としていた。
監軍や護軍と違って、直接一定範囲の兵を領すことを職掌とする、指揮権のある職だったのかもね。
>>658 爨習も諸葛亮の死後に領軍になってるな。
>>656 薛悌や趙儼のように外の軍を管轄する護軍は、むしろ諸将の監督に近いのでは?
エン州大反乱の時、三城を除くエン州全土が呂布に付いたわけだが、
陳宮の知略と張バクの影響力や、辺譲を殺害して名士の失望を買っていたことだけでは、
これだけの雪崩式の離反は説明が付かない気がする。
各郡国の太守・国相や県令、守将などが一斉に呂布になびいたののには、どんな事情があったんだろうか?
>>661 呂布になびいたというよりも、曹操についているのがいやだったから離れた、という要素の方が大きかったんじゃないのかなあ
辺譲殺害すらもきっかけに過ぎず、州内での反曹操感情はそれ以前から思いのほか強かったんではなかろうか
663 :
世界@名無史さん:2010/11/24(水) 20:53:01 0
張バクは関東諸侯の一斉蜂起の主導者なんだから、名声はあるよ。
>>662 何が理由でそんなに嫌われてたんだろうね?
>>663 じゃあ、最近名前が売れてきた武人の呂布なんか担がないで、
張バクがエン州牧になれば良かったんじゃね?
>>661,
>>664 反乱時に曹操が徐州でやっていた大虐殺が原因で名声が地に
堕ちたと考えるのが自然だろう。余りにも酷かったので、曹操を
排除出来れば誰でも良かったというのが真相では?
三国時代には何度か、数万人規模の虐殺が起きてるけど、
それで名声を落とした人物ってのは聞かないな。
話題性からすれば、「董卓抹殺」ってのは大きいと思う。
>>666 数万じゃ済まない。どう少なく見積もっても十数万、おそらく数十万、
この虐殺で、諸葛亮、張昭、張紘などの多くの難民を出した。
>>668 董卓(洛陽)、曹操(寿春)、曹操(南皮)などはいずれも数万単位。
ちなみに官渡で曹操に生き埋めにされた降伏兵は8万。ただ、その
中でも徐州は群を抜いていると思う。
>>667 呂布の人生で董卓抹殺した事が何かの役に立ったイメージはないな。
むしろ、どこ行っても知名度だけは高い厄介者みたいな扱いで。
張バクは実は徐州を狙ってたとかかなぁ。
曹操の虐殺で、曹操に敵対する者は誰でも受け入れそうな雰囲気だし
エン州は恨み買ってる袁紹が近くにいるから呂布を門の犬にしたとか。
後漢書範囲だけど、ちょっと前に遡れば段ケイの異民族虐殺祭りも万単位じゃなかったっけ。
これは賊の一種だから十分の一か?
段ケイ伝の殺害数を信じるなら、十万以上は殺してると思う。
民族浄化論者だったし。
>>669 それらの人士が劉備や孫策、孫権についたのはやっぱりアンチ曹操が動機なんかな。
諸葛氏なんかあそこら辺本拠地だろ? 結構一族しんだんじゃねえのか
>>674 >それらの人士が劉備や孫策、孫権についたのはやっぱりアンチ曹操が動機なんかな。
徐州出身者があれだけ強力な反曹操であったことが三国鼎立を
可能にした大きな要因であったと言っても過言ではない。地元を
追われ、多くの身内を殺された恨みは大きい。
>諸葛氏なんかあそこら辺本拠地だろ? 結構一族しんだんじゃねえのか
間違いなくYESだろうね。
豫州へ董卓配下が略奪にやってきて多くが死んだ、っていうのと似たり寄ったりなことを曹操は徐州方面でやっていたってことだな
その豫州人士が曹操政権の中核となって、
徐州出身者などが呉蜀で活躍したことを考えると、
因果は回るって感じだな。
>>674 徐州人士で曹操に仕えて高位に昇った人間もたくさんいるから、
徐州人士がみんなアンチ曹操ってわけでもない。
呉や蜀に流れた徐州人士は、陶謙の悪政や曹操の侵攻による荒廃、
その後も不安定な徐州政情などから、身の安全のために徐州を離れたと見るべき。
>>674 諸葛一族の諸葛誕や諸葛緒は徐州に残ってるわけだが。
青州兵が危険視されたんじゃねーかな
米軍がアルカイーダを降伏させて自軍の走狗にするようなものだろ?
規模がもう少し小さければ大目に見てもらえたかもしれないが
百万を号す規模となると、周囲から見たら「何この危険思想の持ち主?」みたいに
見られても不思議じゃないでしょ
曹操って他人から「どう思われているか」ってところで、ときどき凄い無神経なときがあるから
誕や諸って徐州大虐殺をリアルタイムで見てない世代なんじゃないの
曹操というのは軍略的なキレはすごいが政治的な心情に無配慮なところがあったのはおそらく確かだろう。
それでも、「徐州虐殺」なる単一の事件そのものが華南への大量難民を生み出したとするには、証拠も、直接被害にあった人物も少なすぎる。
琅邪など徐州北部は直接的な被害にあっていないにも関わらず、逆進して南方への難民を出すというのは不可解だしね。
エン州の蜂起については、よそ者牧である曹操を支える政治基盤が、張バク等エン州有力者の離反によって
一挙に失われたとする方が理解しやすいだろう。
辺譲殺害に代表されるエン州人士の軽視・迫害が、エン州人である張バクの離反を生んだと。
曹操からすれば集権体制の確立に不穏分子の制圧は必要事項だったとなるのだろうけれど。
呂布については、「董卓を排除して献帝を擁立しながら惜しくも敗れた」という看板は相当な政治効果を持っていただろう。
朝廷から直々の救助要請まで来ているわけで。
張バクは、その全国的な政治的影響力を重んじて呂布と親交を結び、エン州牧として擁立した。
魏に使えた徐州豪族の大手というと世説新語でいう琅邪王氏と琅邪諸葛氏とになるのかね。
琅邪王氏は東晉からのイメージが強いが王サンとかが魏の重臣になってるね。
徐州は豪族強かったという話も聞くし、
豪族型のでっかい砦に近い領域持った連中とかだと、
そもそも姓氏によって被害の大小がありそうだが。
>>683 東海王氏や広陵陳氏、広陵徐氏、下ヒ陳氏なんかも大手。
東海王氏→王粛は分かるけど、カヒの陳氏って陳珪が該当するの?
広陵徐氏 徐庶?
広陵陳氏→誰がいるん
>>686 下ヒ陳氏→陳珪・陳登・陳ウ 漢代に三公を出した名門 後漢末に親曹派として活躍
広陵陳氏→司徒陳矯・鎮北将軍陳本・大司馬陳騫 魏代から晋代まで高官を輩出した名門
広陵徐氏→尚書左僕射・侍中・光禄大夫徐宣
曹叡は、燕王曹宇を大将軍に任じて、領軍将軍夏侯献・武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎将軍秦朗などの、
宗室の側近グループに後事を託そうとしたけど、政敵の劉放と孫資が握りつぶして、
曹宇や夏侯献や曹肇や秦朗は失脚したのに、なんでこのグループの中の曹爽だけが失脚せずに、
かえって曹宇に代わりに大将軍になれたんだろう?
宗室側近グループと劉放・孫資の政争の際に曹爽が寝返ったとか、そういう事情でもあるんだろうか?
賢君は佞臣を近寄らせないもの。
暗君が佞臣を好むもの。
そういう意味で曹爽とは互恵関係にあったのだろう。
神輿は「ちょっと足りない」ぐらいがちょうど良い。
夏侯献と曹肇は史料少ないから分からんけど、秦朗は無能な佞臣だから、
この連中と劉放や孫資とはどっちもどっちだったんじゃね?
曹爽は独自に派閥形成して政争に勝って権力掌握して、劉放や孫資を棚上げした腕利きだから、
足りない神輿として担いだんではないと思う。
託孤の臣にはたいてい、内戚か外戚に当たる近親者が含まれるもの。
当初の宗族や幼い頃から関係の深かった血縁集団一辺倒から、
曹爽・司馬懿という内外二頭体制まで持ち込んだのが劉放・孫資の引き出した妥協の限界であり、
曹叡への説得もおそらくは「外朝の高官を軽んじすぎるのはよくない」などという論理を使ったのだろう。
ところが曹爽が結構やり手だったので、権力分散を図りたかった高官名士層が困った。
正始の変へ至る。
曹爽に能力があったなら、司馬懿に降参せず、クーデターに逆襲策を講じていたろう。
しかし、途端場で坊ちゃん育ちの甘さがでてしまい、族滅されてしまった。
独自の派閥を築いた手腕はあるが、海千山千の重臣たちからは
舐められていたんじゃないの。
舐めてる相手に、皇太后を人質にとって皇帝ごと降伏を迫る、なんて手段はとらないよ。
重臣連中に舐められてたら、蜀遠征に失敗した時点で、
そいつらが寄ってたかって引きずり下ろしてたんじゃねえの?
なめていても活用できる権威は活用するさ。
というか、司馬一族は簒奪するまでほぼあの皇太后の命令という形で
自分たちの粛清人事を実行しているのだし。特に曹爽に限った話ではない。
「海千山千の重臣達」でさえ、ここまで強硬なクーデターという形で曹爽排除を期待していたのでは、おそらくないだろう。
しかし司馬懿はここで当初、手段にそぐわない穏健な態度を見せる。
「曹爽一派の職権剥奪だけですむなら」と、協力した人間は少なからずいたはずだし、
曹爽本人もそのつもりで投降した。
ところが突然振って沸いた大逆不道の容疑で一転、曹爽一派は族滅されてしまった。
これで政局は「外朝官僚集団」ではなく、「司馬懿一党」の方へ一気に雪崩れ込む。
夏侯玄誅殺と共に宮廷抵抗勢力の息の根を止め、地方反乱を制圧して、司馬氏専制・禅譲への階段が作られる。
まあ、稀代の権謀が行われたってことだね。
>なめていても活用できる権威は活用するさ。
活用できていなかったよ。
曹爽一派の春を歯軋りして見てるしかなかった。
詔勅を出せるのは皇帝だけであり、皇帝が幼少なら皇太后がそれを代行することもある。
当然、朝廷で権力を握ろうとするものはそれを「活用」する。
当然だが、この絶対性は曹爽にはない。同一に並べてはいけない。
>>697 そういう解釈をされがちだけど、司馬一族は冷遇されてないよ。
司馬懿が名誉職にまつり上げられているだけで、息子たちは
軍役職を解任されているわけでもないし。
はっきりいうと、閑職に追いやられたから司馬一族が巻き返したとの
後世の認識は正中の変や簒奪を正当化するために司馬一族や
それに阿る重臣たちがあとから言い出したことなんじゃねえの。
当時司馬懿はすでに70であり、名誉職への移動自体はあの年齢なら
よくある人事だぜ。
司馬氏は「冷遇」はされてない。一般の他姓官僚としてみればね。
問題は、曹爽一派が皇帝親近を固めて宮中事と尚書事を掌握し、
司馬一族を初めとする官僚集団を、皇帝の決裁権限に関与できない「外」へ追いやったこと。
司馬懿が太傅へ遷ったことはまったく問題じゃないんだよ。むしろ、太傅録尚書事は漢代の筆頭宰相職。
しかし司馬懿は重要な録尚書事の権限を宮廷工作で無力化されてしまった。
これにより、少数の曹爽一派が王朝の政策決定、人事、賞罰など皇帝の決裁権を独裁することになった。
ただ、後漢の宦官専権などは宦官に癒着して利益をこうむる多数派官僚に支持されて長期維持されたが、
曹爽は権力を独占するにとどめたらしい。
ために多数の王朝官僚が抑圧されていると感じ、クーデターを支持する母体となったのだろう。
司馬懿が狡猾な所はそういう抑圧心情や反曹爽感情を利用して
クーデターを成功に導いた後、一気に自分たちが魏の実権を握った
ことだな。
正中の変ってトドのつまりは曹爽一派排除を口実とした魏乗っ取りの企て
だったんだろう。
司馬懿としては、単に振りかかった火の粉を払っただけじゃないかな?
このまま曹爽の権力が大きくなっていけば、
曹爽に比肩する地位の自分がいつ排除されてもおかしくないし。
自分が最高権力を握るか、それとも手をこまねいたまま死ぬかしか、
当時の司馬懿には選択肢が無かった。
魏乗っ取りを真剣に考えて、布石を打ちだしたのは、司馬師からだと思う。
だとしたら曹爽一派に
あそこまで徹底してトドメを刺す必要なくね?
明らかにやる気満々な気がするんだが。
>>703 曹爽一派へのトドメは必要だったと思うよ
ただ、火の粉を振り払うだけなら王凌事件のあとに王たちを監禁する必要はなかったな
司馬懿は耄碌を装って曹爽の油断を誘って、自分の身命を救うことは既に成功していた。
自身は既に70を越えており、託孤の臣の地位と録尚書事の権限を自分ひとりが諦めさえすれば、
司馬氏自体も功臣第一位の一族として存命できた。
それにも関わらずのクーデター、しかも皇帝不在の洛陽を押さえるという博打のような手段に出たのを指して、
「単に振りかかった火の粉を払っただけ」とは到底言えないだろう。
しかしながら、それでもやはり、7このクーデターは0過ぎの老臣が打つには野心的すぎる博打と思えるのは確か。
朝廷の未来を案じて、という面はあったのかもしれないが…。
司馬師の意思かなあ、と思いもするけど、今ひとつ証拠が無い。
706 :
705:2010/11/25(木) 23:05:31 0
すまん7と0が泣き別れしてしまったw
>>704 曹爽一派の残党は、李豊や夏侯玄のクーデター未遂まで一定の勢力を保ってたから、
その中で地方にいる奴が王凌のように皇族を擁立して反乱するのを避けたかったんじゃ?
>>707 それって、地方の王がぽこぽこ反乱するのを危惧するような体制を司馬懿は洛陽で敷いていたってことになるよ。
司馬懿って、軍事では敵の虚を突く大胆な策を得意としてて、クーデターの手口も面目躍如というところだけど、
政治的な野心というか反骨心がそんなに強い人間だったかというのが違和感でもある。
意外と本人は本当に耄碌してて「最後のご奉公ぢゃ!」と張り切ったのを司馬師に利用された…とかいうのは
小説の発想か。
全くあり得ないかといったら、無いわけでもないんじゃないかな。
近代以前の史書ってのは結構結果から逆算して書かれる物だし。
つーか、仕官してからずっと権力欲や野心や上昇志向の片鱗も無く、
政争にも加わらずに時の権力者に忠実に生きてきて、
生まれて初めての政争で半引退状態に追い込まれた、
愚直と言っていい人生を生きてきた司馬懿が、
70過ぎていきなり魏の乗っ取りなんて大それた野心を抱くとも思えん。
クーデター計画は司馬懿の権力掌握のためというよりは、
反曹爽の大臣たちが曹爽を排除するために、司馬懿を旗頭に押し立てたんだと思う。
>>710 とはいえ現代の俺らにとっては、「可能性はある」だけでは歴史の説とは言えないからね。
それなりの推論を立てる必要がある。
>>711 曹丕の時代に既に片腕(の一人)になってる人間に野心がないとは言えないだろう。少なくとも平凡人よりはある。
ただ、組織の規定の階梯を昇るだけの野心と、枠組み自体をぶっ壊してでも上へ行こうとする野心との間には
大きな隔たりがあるはずで、司馬懿がどういうふうにそれを飛び越えたのかがちょっと引っかかってる。
のではあるが、司馬懿が単に大臣に担がれた旗手だとしたら、司馬師だけと謀議して曹爽を殺し、
司馬一族に高位の将軍や軍権を集めて専横体制を作ったことが説明できないだろう。
>>712 司馬孚 尚書令→司空
司馬昭 中護軍→衛将軍
司馬師 議郎→安東将軍
曹爽誅殺後に昇進した司馬一族は、この三人ぐらいだが。
三公一人と高位の将軍二人だけで専横体制は作れないだろうな。
司馬一族より、その他の官僚や将軍の昇進の方が目立つ。
司馬孚 尚書令 → 尚書令加侍中
だよ。ちょうど曹操にとっての荀ケや諸葛亮にとっての董允の地位で、
衛将軍司馬師と共に皇帝の身辺を抑える地位に一気に迫ったことになる。
完全にはいかなかったのは
>>308の辺りで出ているが。
元曹爽派と司馬一族以外で朝廷の実権を握ることになった大臣や将軍というと誰がいるだろう?
夏侯覇みたいに夏侯玄もケツまくって蜀漢に亡命するか、呉にいけば良かったのに。
曹爽は司馬師、司馬昭も公職から追放したかったが、「出来なかった」のでは?
曹爽は軍事的な実績が何もない。
司馬懿は孟達の反乱を防ぎ、孔明の5次に渡る侵略を防ぎ、公孫淵の自立を阻止しこれを滅ぼしたが、
曹爽は蜀漢に大軍をもって攻めるも、姜維や蒋?の働きで漢中を抜けず空しく帰るのみであった。
あの時点で蜀漢を滅ぼすような大功を上げていればほぼまちがいなく名声を揺るぎ無いものにし、
司馬懿は過去の人となったのであろうが。
あと、朱然にも敗北している。
曹爽の軍事的実績はほぼゼロと言っても良い。
>>715 硬骨漢でプライドが高い夏侯玄の性格からして、魏を裏切って他国に亡命するというのは有り得ないだろう。
ところで曹爽が失脚した時、なんで曹爽派の重鎮中の重鎮なのに、
夏侯玄は征西将軍を解かれて中央に召喚されただけで済んだんだ?
他の大物はことごとく処刑されたのに。
蜀にいけば覇同様に皇族待遇だったのにな。
黄皓みたいなゴミカスを処断してくれたろうに
夏侯覇が蜀の皇族だってのは、信憑性の無いヨタなんだが。
あいつが車騎将軍になれたのは、魏の宗室でなおかつ右将軍という高官だったから。
身分の高い降将に破格の高位を与えるのは、良くあること。
魏で車騎将軍になった蜀の鎮北将軍黄権や、呉の鎮軍将軍孫壱、
晋で驃騎将軍になった呉の前将軍孫秀、
呉で鎮北大将軍になった魏の前将軍文欽などはその好例。
>>718 罪状が無い。
せめて軍権を奪って無力化するのがその時点での精一杯だったってことだろうね、
>>716 そうだとするなら、司馬懿が耄碌したことを曹爽は喜ばないよ。
もし、曹爽が司馬懿を公式に排除したくても「出来なかった」とするなら、それは託孤の臣であるため。
先帝に後見を託された臣というのは、当の皇帝でさえ憚る権威がある。
同格の託孤同士とはいえ、大した理由も無く免官できるものではない。
だから曹爽はせめて宮廷工作によって司馬懿を政治の中枢から遠ざけたのだし、
彼の耄碌が本物だと確信すると聞くと喜んだ。
>>720 張飛と夏侯家の娘との子であるの娘姉妹が劉禅の後宮に入り、夫人待遇なんだから
夏侯覇は実際に皇族に該当する。
>>720 「よくあること」だけでは、二人の張后の母がショウ縣夏侯氏であることを否定できないのだが。
>>722 正確には皇族ではなく外戚と呼ぶべきだろう
立場的には呉壱に近いな
725 :
721:2010/11/26(金) 21:27:30 0
ん、なんか勘違いしたかな?
716氏は「曹爽は司馬懿の軍事的能力がまだ必要だったから公式に排除できなかったのだ」
と主張したのだと解釈したから、それは違うんじゃねと反論したんだけど。
そういう主張じゃないのかな。
俺723なので横レスになってしまうが。
>>724 そりゃ指摘するまでもなくそうだけどw
720はそういう次元のことを言ってるんじゃないみたいだよ。
徐州で反乱した劉備の下に夏侯氏がいたくらいだし、豫州牧だった劉備の腹心張飛が豫州人の夏侯氏と結婚していてもまるでおかしくない
小娘をさらっていったって話が与太だっていうならわからんでもないが
結婚はしているだろ。 いくら元勲の娘とはいえ、母親が端女だったら、後宮の夫人待遇にはならんだろう。
ロリコンだとは思うけど。
>>728 拉致だろうが脅迫的に宗族の同意を得たのだろうが、名家の娘を嫁に貰える機会があるなら年齢は関係ないだろう。
張飛はまったくの庶民じゃないにしても、普通ならとても名士と交際できるような家柄・教養の持ち主ではなかったわけだろうし。
>>723 敬哀皇后と張皇后の母が夏侯覇の従妹であることは魏略に見えるが、
そもそも張飛が外出してた夏侯氏の娘を捕らえて無理やり嫁にするような事は、
劉備と曹操が協調してた頃にはできない。
劉備と曹操が決裂してからは、張飛は夏侯氏の娘が外出するような土地にいたことが無い。
よって、この魏略の記事はでたらめ。
劉備が豫州東部の沛国へ影響力があった可能性があるのは、刺史のときと牧のときの二時期。
その殆どの時間を曹操と敵対している。
よって、地元に残留していた夏侯氏を支配下に置くことも、そこから嫁を貰うことも可能。
やっぱりロリコンだろ。
733 :
731:2010/11/26(金) 21:56:42 0
あ、もう一時期あった。呂布に降伏して小沛に駐屯したとき。
この時期が次第に曹操よりになっていく過渡期の頃だね。
なんか2chの三国志関係スレには魏略の信憑性を全否定したくて噛み付いてくる人がいるみたいだけど。
>>731 飢餓状態で自分の子を捨てて、死んだ弟の嫁を救った夏侯淵の性格からして、
兄弟姉妹やその子も不安定な沛なんぞに置いとかかないで、
自分の手元に呼び寄せて大事にしたと思うけどなあ。
夏侯淵系列以外の、曹操とは距離を置いてる夏侯一族が張飛と婚姻した可能性はあると思うけど。
魏における夏侯氏の立場を鑑みれば、蜀の外戚でもある事実はちょっと微妙な地位をもたらす。
張飛が夏侯一族の娘を拐かしたという記述が事実ではないということは、
張飛の妻に夏侯一族の娘がなったということの否定には直結しない。
曹操と距離を置いている夏侯家の一族って想像し辛いが、
いるとしたら宦官の養子なんかになりやがるとは云々とのやっかみじゃねえの。
>>736 自分の手元も負けず劣らず不安定だからな
呼び寄せることが大事にすることとイコールとは限らない
>>735 三戦板でも時々そういう人物がいるが、おそらくは同一人物。
コテハン名乗っていただいて堂々と論陣はればいいのにね。
>>736 夏侯淵が救ったのは死んだ弟の娘ね。
扶養責任者が死んで、孤児を引き取っていた。飢饉にあって、自分の子より亡弟の娘を取ったということになる。
親が生きていて郷里に滞在しているのに、口出しするのは他家への干渉だ。
父親とさえ別行動するのが普通だよ。
ただし、父が死んだときに母の面倒を見るのは子の責任になり、
そのため主君をうっちゃって母の元に帰るとかいうことが起きる。
>>740 なんだ
魏略に何かよほど気に食わない記事があって、それを否定したいがために全体の信憑性が怪しいことにしたいってことなのか?
科挙がない時代は事実上のコネ就職とはいえ、考廉が採用の選考になっていたからな。
母親に孝養を尽くさないと名声に傷がつく。
現代人だと名より実をとるという思考が見受けられるが、あの時代、かなりそういうのがウエイト
占めている。政敵に「驕慢な振る舞いがあった」「豪邸を立てた」とか評判たてられるとかなり
ダメージをうけた。
劉禅と密通をしたとして妻を疑い暴行を振るったら、妻に訴えられて腰斬になった人物がいると
2スレ暗い前で話題になっていたな。
まあ、日頃から立ち振る舞いが驕慢であったとのレスがあったが。
>>738 曹氏と夏侯氏は同県の豪族で代々通婚を行っていた間柄。
宦官云々は今更ないだろう。
しかし、一家の行動の決定権は家父長ごとにある。
総意を取って一族団結して避難することも勿論やるけど。
曹操は当時、非常に野心的に群雄割拠の只中に飛び込んでいった人物。
付いていって功業を立てようとした一族もいれば、安全を図った一族もいるってことだろう。
安全を図った代表者は曹嵩になる。
袁紹が死んで以降は、安定して協力する姿勢を見せただろうけど。
そういや、初期の蜀にも夏侯氏いなかったっけ。
普通の官吏で。
>>745 劉備が占領した直後の広漢太守夏侯纂のことか
普通の官吏どころか大物だわな
幹部クラス
趙雲の同郷の夏侯蘭とか。
まあ、纂もショウ県夏侯氏である可能性は低いとは思うけど。
単純に確率的に。
>>744 孫堅が出世街道を駆け上って行った時、
ほとんどの一族が孫堅の軍に身を投じたけど、
孫静の一族だけは郷里に留まってたよね。
孫一族が袁術に従った時もずっと郷里にいて、
孫策の会稽平定の時になってようやく協力したけど、
その後も官位だけ受けて、積極的に孫策のためには働かなかった。
>>742 魏略は魏に関する記事に関しては、面白いし詳細だし、
陳寿が採用しなかった理由が良く分からんぐらいのクオリティなんだが、
他の国に関する記事は劉禅の記事のように突拍子もない話があるから、
魏に関しては信じてもいいけど、それ以外は話半分に思っとくのがちょうどいい気がする。
しかし、蜀に関する記述と言っても夏侯氏に関する記述でもあるからなぁ。
宗族に関することはそれなりに信頼おける情報源から聴取できたんじゃないか?
魏略が詳しいのは関西方面だというね。
晋代の地方史の先駆けみたいな感じなんだろう。
古代からの略史や蜀呉を書いた典略の一部だとも言うし、
網羅的な国史を書くつもりは薄くて、あまり取捨選択せずに色々載せてしまったので
信憑性がイマイチと言われると。
仲良かった頃に婚姻したが、三国鼎立後になると、
夏侯氏の宗族の中では「そういうこと」になってたとかあってもおかしくはないんじゃね?
>>750 そうなんだよな
区分するならどう考えても「魏に関する記事」だ
夏侯覇が魏を去っても兄弟には夏侯恵みたいに晋で出世した奴までいるんだから
>>751 魏略書いた人は、たぶん司馬遷みたいなスタンスで書いたんじゃないかと思う。
どんな話も拾って書くみたいな。関西軍閥の内情にやたらと詳しいのは、
情報源の中に関西軍閥の関係者がいたからかもね。
>>752 いやー、曹操と劉備の仲が良かった頃に張飛と夏侯氏の娘が婚姻したんなら、
後に曹操の敵に回る孫一族の孫匡と曹操の姪や、曹彰と孫賁の娘が婚姻したことも普通に書いてるように、
ちゃんと普通に婚姻したって書くんじゃないかな?
757 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 01:34:39 0
いや、実際に『魏略』は変わったことが書いてあるから飛びつきがちだけど、書いてあることはデタラメもいいとこ。
そもそも『魏略』書かれたことは蜀が滅びていないのだから、他国の事は憶測でしかない。
758 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 01:34:54 0
書かれたときだな
なんの根拠もなしにそんなこと言っても誰も賛同しないよ。
夏侯覇の亡命とその厚遇のように宣伝価値があるようなことは喧伝もするし、
高官同士の手紙でアピールもある。
公式か非公式かは不明だが交易もあった。
二国の情報の壁は、漠然と仇敵同士というイメージするよりずっと低い。
個人的には何の接点も無い諸葛亮と司馬懿が戦場で対陣すると挨拶の文通するくらいだからね。
>>757 何度も言うようだが、夏侯覇の親戚のことは魏にとって「他国のこと」じゃないだろ
夏侯覇が消えても夏侯和、恵らが魏にいた
だから「夏侯淵の姪が張飛の妻になった」ことは他国からの伝聞ではなく、自国内で良く知られた事項だったと思うべきだ
ただその経緯については「さらわれた」という噂がまことしやかに広まっていたのだろう
(誰かが言ってたように、劉備反乱以降、夏侯淵一族が自家の名誉のため「さらわれた」ことにしたのかもしれない。)
他国の情報であるのは劉禅の皇后の母が夏侯氏であるということと、その夏侯氏は夏侯覇の親戚らしい、ということくらいだろう
そしてそれは魏国内の情報と完全に符合する
劉禅と夏侯覇の会話などはうさんくさいかもしれないし、さらわれたというのは当時の噂にすぎないだろうが、夏侯覇の従妹が張飛の妻になり皇后を生んだということは十分信頼できる内容だと思う
762 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 11:29:29 0
>>761 できるわけねーだろw『魏略』よく読めよ
>>760 結構手紙で雑談しているんだよな。黄権の去就について諸葛亮から聞かれたときは、
快男児であると激賞しているし、いわゆるメル友ではある。
764 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 13:30:02 0
>>763 テキトーなこと書いて惑わすな。何がメル友だよ。
事実メル友だし。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1044918530 正史三国志黄権伝より。黄権はやむを得ず魏に降伏したあと、司馬懿は彼を高く評価し、諸葛亮に手紙を送っています。「黄公衡は快男子です。
普段いつも足下(諸葛亮)を賛美し、話題にしております。」
諸葛亮からの返事は記載がありませんが、返書は出したのですかね?諸葛亮集では魏の王朗たちの降伏勧告の手紙には返書せず、正議を著し、
戦いを宣言しました。しかし司馬懿の手紙はこれらとは違うようなので、返書を送っても良さそうですが…
補足
諸葛亮伝の注によれば、呉の張儼は「黙記」を著し、その中の述佐篇で、諸葛亮が司馬懿に送った書簡を批評しているらしいですが、その書簡の内容については記
載がありません。中身が気になります。
古代から国家間が敵味方である事を問わず、貴族や士大夫が
書簡をやり取りするのは普通にあった事だからな
君臣の縦関係だけじゃなく、横の関係も重視したのは単純な
交誼にとどまらず情報源であったり外交やいざという時に亡命する
場合の手づるにもなったし、基本的には君主が咎めたりもしないし
767 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 13:55:18 0
>>765 じゃあ俺もアイドルに手紙送ればメル友とやらになれるんだな。
768 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 13:59:59 0
>>766 古代って具体的にいつで、どこの国のことなのよ。
>>767 馬の骨が送っても相手にするはずもないだろ。
司馬懿や諸葛亮は都督諸軍事だったり丞相だったりするからな。
互いに好敵手と思うから「司馬懿戦いに出ないから女官の衣類プレゼントしてやるよwwwww」
「ぐぬぬ」 みたいなやりとりがうまれるんだろうが。
曹芳が帝位を廃されたのは、李豊や張緝や夏侯玄のクーデター未遂が原因ぽいけど、
李豊も張緝も司馬師の信任厚い人物だったから、やっぱ曹芳が黒幕だったのかな?
一応、首謀者は李豊ってことになってるけど。
曹芳が曹爽や夏侯玄を支持してたから、司馬師専制体制に我慢ならなかったという見方もできるが。
曹爽に対しては、何のリアクションも起こしてないしなあ。
>>721 畢軌や桓範のような曹爽の与党ではあっても、腹心とは言えないのも殺されてるんだから、
夏侯玄も罪状でっちあげて殺すのはわけなかったんじゃ?
曹爽派の中では一番人望があって、生かしとくとかなり危険だろうし。
>>772 人望があるからこそだよ。
正始の変以降の司馬氏の権力は、一方では皇帝を掌握することによって生まれていたが、
もう一方の軸足をあくまでも無数の朝臣の意思のバランスの上に置いている。
曹爽に近くにいた人間が謀議に参加していたという証言が提出されれば、
朝臣達も 「まあ、奴らならあり得なくも無いか。そうでないとしても自業自得だし」と
なんとか自分を納得させることが出来ただろうが、
当時関西にいた夏侯玄まで累が及べば、司馬氏への不審を徒に煽ることに為る。
政局上の限界ラインが、正始の変で処断された人間と、夏侯玄と共に処断された人間との間に
敷かれたことになるだろう。
んじゃ、同じく関西にいた夏侯覇が身の危険感じて亡命したのも、必要ないことだったんだな。
夏侯覇殺せば、やはり不信を煽るし。
773は考えすぎだろ三国オタによくある考え過ぎ厨
見たように書いているけれど推理小説あたり好きそう
好き勝手にかいてこのスレの定説に仕立て上げて
ドヤ顔したいだけだ。
>>774 夏侯覇には夏侯覇の人間関係や事情がある。
危機を感じるかどうかは個人の問題だよ。
>>775 当たり前の政争のセオリーを、当時の状況に当てはめただけなんだけどね。
深読み=個人や勢力ごとの特殊事情の考察なんて、むしろ何もしてない。
>>776 ようするにおまえの妄想だと認めたということだな。
妄想、独り言は自分のblogでやれ
んじゃ、誰か夏侯玄が正始の変の時に殺されなかった合理的な理由を説明してくれ。
政争や組織心理の解釈をして、妄想だと言われるとは…
例の魏略厨の子だろ
スルーしる
781 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 23:10:00 0
代表的な2ch語の一種に「日本語大丈夫?」とまで聞くほど逆上した人間は久しぶりに見た。
もちつけ。
ドツボに填るばかりだぞ。
784 :
世界@名無史さん:2010/11/27(土) 23:15:54 0
>>782 いや、お前の思考能力を心配してるんだよ。
なんでこんな突然気性の荒い人が二人(?)も噛み付き出してるんだろう。
まあ、ケチとオチがついたし、この話題は切り上げか。
最後に諫言させてもらうと、昨日の魏略うんぬんで叩かれて逆上してるんだろうけど、顔真っ赤になっている時点で2ちゃんに向いてないから、一度2ちゃん自体から離れた方がいいんじゃないかな
これでも今みたいなのが続くならスルーするだけだ
ドヤ顔のおっさんが、脳内妄想した250年代中国の政局談義を語っていてキモイ。
晩酌やりながらここはこうなんだよ!と独り言言いながら必死に入力してそう。
煽り合いはいいから、妄想がどうこうとか言う人は、
夏侯玄が正始の変に連座せずに、召喚されるだけで済んだ理由を言ってみてくれ。
>>788 いや、その件はもういいじゃない。レスくれた人には悪いけど。
じゃあ話題戻そうかって遡ってみたけど、
中後期の魏呉でこんなにレスが続くなんてこのスレも変わったなって思った。
曹爽とちがい、司馬師とも交流があったし、当時都から離れていたから連座の対象にならかっただけだろ。
あ、連座と言うのは、血縁や故吏・推挙などの関係にある人間に自動的に適用されるものだから、
当時の夏侯玄の問題については「なぜ曹爽らと同じく大逆不道の罪を着せられずに済んだのか」と問うべき。
>>791 夏侯玄って、具体的には曹爽とどれくらい同調して司馬懿に敵対していたんだろう
何を妄想しているか知らないが、何晏に曹爽一派の弾劾させて最後に何晏自身をも始末させた。
自分たちはあくまでも皇后の命令という形でやっているしね。
夏侯玄はその後、李豊にかつぎ上げられるまでは召喚後おとなしくしているだろ。
何晏の弾劾という形で一味を始末しているのに自分たちが前面にでては意味が無い。
それだけのはなしだ。
>>792 従兄弟の間柄ではあったが、曹爽のトリマキーズとまではいかない
一族であったから交流があるのは当たり前。
推理小説じゃないのだから、正中の変で夏侯玄が殺されなかったことにそれほどの意味はない。
政局云々と言っている奴がいるが、何晏の助命し手欲しいという心理を逆手にとって彼に裁判させ
最後に何晏自身を刑に処し手法とっているのだし、夏侯玄自体は都におらず、地方から召喚された
から連座できなかったあるいはさせられなかっただけ
そもそも、三族殺し云々は結構ザルで助命される例も多かったんだよね。
パソコンの前で妄想抱いている御仁もいるが、現実は推理小説のようにロジックの連続ではないのだよ。
>>792 あくまで晋代の史書に記されることだけど。
・二人は従兄弟同士。おそらくは夏侯尚の正妻が曹真の姉妹だろう。
・夏侯玄は明帝代に冷遇されたが、曹真が政治を輔弼すると政治の中枢に戻ることになった。
・州-郡-県の官庁の肥大化や中正官の権限の行き過ぎた増大を抜本的に改革するよう求めたが司馬懿に却下されたことがある。
・曹爽が誅されると、征西将軍から召されて大鴻臚となる。これは中立無害者や協力者に対する待遇ではない。
・以降も不遇を託つ身だった。
これらから、司馬氏は夏侯玄を潜在的な敵手として政治的な力を奪い、夏侯玄の側もそれに屈服・妥協・逃避せずに推移したため、
反司馬氏の格好の神輿となり、最終的な破局に至ったとわかる。
自分を大将軍とするクーデター計画自体にどこまで乗り気だったかはわからないけどね。
呉の孫瑜は赤壁で何かしたって記録がないけど、
曹操との決戦に際して、孫瑜の一万の部曲を孫権はなぜ前線に出さなかったのかな?
当時の孫氏の動員兵力の何割かに当たる有力な軍団なのに。
・丹楊太守
・衆一万余なら壮丁は二三千
・「精兵五万があれば自ずから制するに足ります」
「五万の兵はにわかにはあつめ難いが、すでに三万人を選び、船糧・戰具はよういしてある」
そういや、赤壁って孫一族の有力者は誰も参戦してないな。
あらかたは太守やってるからね。
自由に動かせる若い世代はまだ成長してないし。
孫瑜の後任の丹陽太守って誰?あと、孫輔の後任の盧陵太守。
802 :
世界@名無史さん:2010/11/29(月) 05:08:28 0
孫権が赤壁にいったら、揚州の降服派があっという間に降って終了。
焦和の死後、青州には何人刺史がいて、支配地域はどうなってたの?
公孫サンの青州刺史田楷、袁紹の青州刺史臧洪・袁譚、劉備が推挙した青州刺史孔融がいるけど、
正直袁譚が青州を平定するまでの、青州の勢力状況が分からない。
焦和卒
袁紹が臧洪を送る(領域不明)。在任二年、エン州分裂時期の東郡太守へ転。
それより以前、公孫サンに田楷が送られる。河北の斉国に駐留。
臧洪の後任(おそらく)に袁譚が着任。田楷を斉から駆逐。
田楷はしばらく粘るが、劉備は河南へ出奔。
北海太守孔融を劉備が青州刺史に推挙。
河北部を制した袁譚により、孔融が駆逐さる。
孔融、許都へ帰参。
臧洪が青州を平定したと臧洪伝に書かれてるのに、
なぜかその後も青州には田楷や孔融や反袁紹勢力が残ってて、
袁譚が来てようやく追い払われたという不思議。
>>805 だいたい、青州の一部は臧覇たちのテリトリーだったようだし
「平定」ってのを文字通りすべて平定したと考えるわけにはいかないんじゃないか
>>807 臧覇ら泰山諸将の勢力範囲って、孫観の北海以外、
琅邪と、琅邪や東海から分割されて創設された郡ばっかじゃん。
青州を平定したとは書かれてないし、仮に「以降安定した」と書いてあってもその後反乱が起きてるというのはよくあること。
臧洪についていえば、せいぜい元焦和が実効支配していた地域を回復したという程度だろう。
その焦和の支配地域がわからないのだが。一応、刺史治は斉国だけどね。
青州は曹操が赤壁前後まで反乱鎮圧に苦闘しているし、その後も孫観親子が二代に渡って青州刺史という異常体制。
それ以前に名前の残る焦和や孔融も黄巾残党になすすべなく、公孫度軍の東莱上陸を阻む者もなく、
袁譚も統治に失敗していた、という。
郡規模で纏められるような人間が殆どいない中小軍閥の割拠状態だったのだろう。
焦和は群雄割拠以前からの刺史みたいだから、
最初は一応青州全土を支配してたんじゃないの?精強な大軍を率いてたし。
それから負けが込んでどんどん支配領域を食われていったんじゃないかと。
「初平中」とあるのを信じれば群雄割拠以後の任官となるのだけど、
董卓討伐軍に参加しようとしたとあるので董卓によってばら撒かれた刺史の一人か、その直前の任官だろう。
霊帝末期には青州は既に黄巾残党が跋扈する状態だったけど、
焦和が征西を強行して留守にしたので完全に統治能力を失い、以後回復できなかったと。
刺史が本来は直接の統治能力や軍事力を持たず、郡を統率・監督する形で政治や討伐に当たったことを考えると、
青州の郡県各政庁は「軍革尚衆」であったが、焦和はそれを統一的に使えず、各個撃破や離反を招いてしまったという感じなのかな。
焦和は優秀な装備で精鋭の大軍を率いてたそうだから、
集めるところまではうまくいったんじゃない?
各個撃破や離反で勢力を失ったってより、
大軍率いてるのに無為無策だから見放されたんでしょ?
それでも殺されたりしなかったから、最後まである程度の軍事力と勢力は維持してたんだろうけど。
815 :
世界@名無史さん:2010/11/29(月) 23:53:24 0
>>814 反董卓蜂起直前の当時、州規模で統一的な指揮系統を維持できていた刺史っていないんでない?
武功明白な陶謙でさえ、東部の臧覇と指揮権分割しているような状態で、
それ以下の並の刺史なら推して知るべしってとこかと。
劉焉・劉璋時代の南中って、董和が益州太守やって上手に治めてたことぐらいしか分かんないけど、
益州郡以外は実効支配出来てなかったのかな?
劉焉・劉璋時代の南中出身者の官吏も益州郡の人しかいないし。
劉備は蜀平定後、益州以外の南中諸郡にも太守を送り込んでるから、
まあ南中は一応劉璋の支配下にあったんじゃなかろうか。
巴ですらまともに掌握できない劉璋の権力がどんだけ南中に及んでたかは怪しいところだが。
劉璋時代は、比較的近いケン為郡でさえ支配・反乱・鎮圧・繰り返し。って感じで、
越スイやソウカに至ると太守がいたかどうかもわからない。
劉焉時代には、太守を送り込むくらいのことはしていたかもしれないけど。
つーことは、劉備時代になってようやく太守を送りこめたのかな?
劉備は越スイ太守やソウカ太守を任命したみたいだし。
永昌は自立してたのかな?劉璋時代も劉備時代も永昌の動向は不明で、
諸葛亮時代になってようやく分かるから。
ちょっと調べたらわかったこと。
青州刺史
漢中の趙エン([王炎])という人物がいる。兄が右扶風から蜀郡太守に移る(左遷だろう)とき、司空張温に慰められているから、
弟のエンも刺史になったのは霊帝か献帝期のことだろうか。
その政治ぶりは、人事などの請託書を受け取らず悉く相手の目の前で水に投じた、ということしかわからない。
のちに梁国相に遷り、尚書に徴されたが就かずに死去した。
ソウカ太守
劉寵
孤微の出ながら、成都令を初めとする州内県令を歴任し、ソウカ太守となる。
一馬、布衣で郡に入り、質素な生活で郡を教化した。在任九年で無事任を離れた。
綿竹の人なので、ソウカ太守は黄巾の乱以後の着任だろう。
南中志は漢中の張亮則、廣漢の劉寵、ケン為の費詩、巴西の馬忠と名太守として並び称している。
献帝期の青州刺史枠はもういっぱいかw
黄エンが184年頃に青州刺史に任じられたことがある(着任したのだろうか?)
から、趙エンが刺史になったのはそれ以後のことか…
でもまだ刺史には若い人間が多かった時期だろうから、黄巾の乱以前って可能性もあるか。
ってことくらいしかわからない。
四征将軍や四鎮将軍が都督にならない事ってあるの?
征東将軍孟建とか、鎮東将軍曹泰とか、記録上彼らが生きていたと思われる時期には、
征東将軍や鎮東将軍の管轄地域ではずっと別の人物が都督やってたっぽいんだけど。
他姓の三鎮征+都督の形式が成立するのは諸葛亮の北伐開始以後。
別にルールじゃないから例外の存在する可能性もある。
孟建は諸葛亮と同世代。曹泰は曹仁の子。
どっちも諸葛亮の北伐以前に鎮征将軍になるのは、年齢的に不可能と思うんだ。
魏国創生からの規律ではないってこと。
四征将軍は魏王朝創立に伴って二品に引きあげられ、これと都督諸軍事を兼ねるのは
文帝代には、曹休・曹真・夏侯尚のような特別の親族にしか与えられなかった。
明帝代の蜀呉の攻撃の深刻化に伴って、軍令権と監督権を高位の将軍が一身に兼ねる必要のために
生まれたのが三征+都督諸軍事の慣習。
慣習の固定化にはさらに時間が掛かっただろう。
鎮/征北将軍のように、都督を兼ねたのか分からない例の方が多い職もある。
孟建については、司馬懿と諸葛亮が挨拶したときに征東将軍になるくらいの高齢だった可能性は十分ある。
徐庶と諸葛亮だって十歳くらい違うわけだから。
征東将軍は満寵が230年に任じられ、王リョウが241年に車騎将軍に転出するまで空かないようだ。
王リョウと王基の間の空白を利用して、実権の無い名誉職として使われた可能性もある(叙任者が孟建じゃなくとも)。
張楊は袁紹と手を結んだ後、於夫羅に捕まって連行されて、それから何があったか分からないけど、
董卓に河内太守に任命されてる。訳分かんないんだけど、
いつの間にどういういきさつで張楊は董卓の手下になったん?
董卓の函谷関以東を固める政策の一環じゃね?
河南尹を楊懿、河東郡を王邑、弘農を牛輔と董越と段ワイで固めた人事の一環だろ。
袁紹が冀州に掛かりきりになって、河内を維持するには董卓に拠らざるを得なくなった時期かもね。
白波らや於夫羅やらで并州から河内に掛けては相当混乱していたはずだし。
高幹の并州進出との関係は興味深いが。
董卓の長安遷都後の動きを見るに、三河や弘農を放棄したわけじゃないんだよね。
配下を各地に駐屯させて、前線基地として確保して、関東に攻め入ったりもしてる。
そこで一つ疑問。函谷関より東を捨てて関中に引きこもるつもりがなかったんなら、
別に洛陽から遷都する必要なかったんじゃね?むしろ、洛陽にいて大軍を握ったまま、
関東諸侯と対峙してた方がにらみきかせられたんじゃ?
三方の大軍から防御するには洛陽が本拠では縦深が足りない。
後漢の体制的に南陽が敵に回ることを想定していなかっただろうしねぇ。
南陽と連携取れるなら別なんだけど。
南陽から横っ腹を突かれる体制で、しかも実際孫堅が横っ腹を突いてるわけだ。
孫堅が侵攻してきたの、豫州方面からだろ?
地形的に南陽方面から直接洛陽は突けないと思うけど。
北上ルートの途中で行政区分的にちょっと豫州に入ったかもしれないね。ってだけだよ。
南陽も孫堅が根拠とした魯陽も、洛陽の正南。
魏や呉では功臣の二世がかなり文武の高官として王朝を支えたのに、
どうして蜀だけ功臣の二世がほとんど活躍しなかったんだ?
二世がちゃんと育ってたら、末期になっても諸葛亮時代からの老人たちが
第一線に立ち続けなければならないってことにはならなかったんじゃ?
魏呉で王朝を支えた功臣の二世ってどういう層のことかわからないが、
蜀漢で言うとこの辺だろうか。
関興 侍中中監軍
関統 虎賁中郎將
張紹 侍中尚書僕射
張遵 尚書
趙統 虎賁中郎,督行領軍(?)
趙廣 牙門將
多くが朝廷の枢要を支える官に至っている。黄皓の隆盛やら何やらで主導権は取れなかっただろうけどね。
早世した者もおり、滅亡時にまだ壮年だったのではないかという者もいて、
歴史の表舞台に立てなかったのは仕方が無いか。
武臣の子弟と考えると、厚遇されたとも言えるだろう。
創業の功臣の子孫で九卿や四征四鎮四方将軍や尚書令・僕射や刺史クラスまで出世してんの、
魏や呉にはいくらでもいるじゃん?魏や呉や晋なんて二世国家って言っていいぐらい。
だけど、蜀創業の功臣は武人だけじゃなくて文人もいるのに、
その子孫がほとんど要職にいないってのはなあ。
「創業の功臣」というのが誰を指すつもりなのかよく分からない。
魏の都督諸軍事で「創業の功臣の子弟」の占める割合がどんなもんなのかとか。
魏晋で羽振りを利かせた高級官僚の父祖がどれだけ創業の功臣だったのかとか。
創業の功臣って誰よとは確かに思うな。
魏の司馬氏あたりはほぼ文帝からだから違うだろうし。
呉の陸氏、諸葛氏、顧氏あたりも勢力固めてからの現地仕官組だし。
魏の夏侯氏、曹氏あたりは内戚の藩屏枠だし。
魏書第十や第十一や第十二や第十三や第十四や第十五や第十六あたりに伝がある人の子孫の多くが、
魏中期から末期、晋にかけて高官になってるよ。
そりゃただの記録の密度の差だよ。
高官の子弟は高官に出世しやすいが、
王朝を支えたり列伝が立つほどの大物になるのはごく一部。
魏書十と十三は間違いなく建国の功臣列伝。鍾会、王粛が高名か。
十一と十二は曹操が辟召した名士列伝だが、その子孫の位は
>>837と大差ない。
十四は謀臣列伝だが、子弟は出世はしているものの太守から九卿止まりで、
「建国の功臣の子弟」として王朝を支えるようなポジションというと疑問。
十五は「西晋高官の父祖列伝」みたいなもの。
十六の子弟も大方は
>>837のようなものか。
晋建国当初の上公や宰相や上将軍なんて、ほとんどが魏史に列伝のある人の息子なんだけど。
陳矯や裴秀が建国の功臣かい?
「建国の功臣」というフレーズに囚われなければ、
蜀漢でも高官の子弟はちゃんと出世してるよ。
魏晋王朝というのは、曹操が許に基盤を固めてから陳寿が三国志を書くまで、
一世紀近い世代の連なりがあったことを忘れてはいけない。
それだけの時間があれば、「建国の功臣」の子孫は勿論、曹操の時代に若かった1.5世代以下の臣下の
息子の中にも、出世して60歳、70歳の老境になり、ちょうど魏晋交替期の元勲となる者もでてくる。
元勲達は自分の父祖の功績を大々的に語りもする。
陳寿が西晋の史家である以上、現代への連続性という観点からも、それらの逸話を大きく評価する。
三国志はそういう影響の下に書かれたもの。最たるものが司馬氏だけど。
一方蜀漢王朝というのは、劉備が荊州を固めてから数えても半世紀に満たない時間しかなかった。
世代交替と記録が264年で断絶する以上、例えば姜維の北伐を支えた若く有能な人材がいたとしても、
彼は大成せずに終わる(晋に拾われない限りは)。
蜀漢末期の人材が小粒に見えるのは、大方はこの理由に拠る。
「姜維の北伐を支えた若く有能な人材がいたとしても、 彼は大成せずに終わり、彼の記録は歴史に残す価値の著しく低いものとなる」だね。
続けてすまん、208年から264年まで半世紀は越えてるかw
呉の謝承の書いた後漢書の影響を大きく受けた范曄の後漢書でも、
地方太守に過ぎない陸康とかの扱いがやけに良かったりするしな。
蜀漢末に気を吐く人物というと羅憲と霍弋だが、そう見られるのは晋書に伝があるから。つまり晋に仕えたから。
だが、だからと言って、この二人が当時の衰弱した蜀漢軍部で群を抜く希少で優秀存在で、
その二人が偶然運良く無事に晋に使えることになったのだ─
…と信じられるかというと、その可能性はちょっと低いだろうね。
勿論、霍弋と羅憲の優秀さを否定するものではないが。
>>846 徐州や豫州や荊州で劉備に従って益州入りした人士や、
降伏して劉備に仕えた旧劉璋重臣なんかの中では、
諸葛亮の北伐や死後に子弟がいい年になってるのも少なくなかったんじゃね?
そう言う第一世代の子とかは蜀末期には40代や50代の働き盛りになってると思うけど。
40代では政治家や軍人としては若すぎる。諸葛亮みたいな際立った例外でなければ、
多くは「あの重臣の若い頃はこんな有能な働き盛りだった」という形で記録に残されるんだよ。
国家滅亡によって重臣になれず、「働き盛り」で終わった人間は、よほどでなければ記録が残らない。
年齢のことを考えるには、関平を参照すると把握しやすいだろう。
219年に死んだとき、なんの官職も記されていないから、かなりの若死にだったと考えられる。
荊州に落ち着いてから作った子供だとすると、203年生まれで、蜀滅亡のとき生きていて数え62歳。
流浪の劉備軍団の純粋第二世代の年齢上限がこれだろうが、そんな高齢者がそうそういるとも考えにくい。
張飛や趙雲らを初めとする他の子弟には、荊州時代どころか益州時代の子供がいてもおかしくない。
>降伏して劉備に仕えた旧劉璋重臣なんかの中では、
荊益から参入した臣下なら、活躍している子弟がいる確率はぐんとあがる。
まあ偶然の可能性が大きいが、子孫の記述が全然ない劉巴や許靖も、長く流浪して苦労した人間。
単純に子弟の問題ではなく、それを支援する一族の衰弱というのもあったかもしれない。
法正や黄忠のように、周辺環境に問題があったとは考えづらい者も多いが。
854 :
世界@名無史さん:2010/12/05(日) 06:41:04 0
蜀漢の二世が目立たないのは、単純に「配れるポストがなかった」んだよ。
蜀漢は一番弱いから、官位と禄を配りまくるとあっという間に人件費で財政破綻する。
魏と張り合うために、すでにむやみにインフレした将軍位や三公を用意してるのに、二世にまで官位を配れる余裕なんてない。
官位がないから、仕事がない。仕事がないから、目立たない。
適当なこと言ってんな。
皇族や外戚ならともかく、一般の功臣二世に官位を「むやみに配る」ことなんてそもそも三国どこもやってない。
国の背骨になる尚書や雑号将軍や太守クラスは、
4〜50代の働き盛りに任せないといかんと思うけどね。
そして、そういうポストなら歴史に名前が残る機会もあったはず。
魏の雑号や太守クラスの「働き盛り」で終わった人間の何割が記録に残ってる?
父祖に伝記のある人物がいれば、とりあえず名前だけはそいつの伝記に残るわな。
伝記が無くても、何かの拍子で名前程度なら残る事もある。
でも、蜀はその両方とも乏しいね。
それにしても、蜀の人材不足は異常だ。領土が狭いなんて言い訳にならないぐらい異常だ。
220年代に起用された人物が滅亡まで40年近くの間、
軍部と政府のずっと要職を独占している。この新進代謝の悪さはなんなんだろうか?
>>858 そうだろう?
雑号将軍や太守どまりの人間なんて、史書には「単独で残すほど価値のない」くらいの人間なんだ。
カク昭みたいな特別の功績でもない限りはね。
どうも確認しせずに書いてるみたいだから例を挙げるが、
列伝クラスの二世や、羅憲のような特殊事情で知られる人間を考えれば、
蜀書にも多くの子弟が高官に昇ったり、その途上にあったことが記されている。
呂辰 呂雅 李豊 王山 向寵 向充
張ボク 張郁 許クン 来忠 尹宗 黄崇 李球 蒋斌 費承
ケ良 習隆
記録の分量の差を考えれば、魏と蜀漢は大して状況が異なるわけじゃないってことだ。
もし蜀漢にあと30年の寿命があって、滅亡時少壮だった者が成熟する時間を与えられ、
しっかりと記録が残される環境があれば、この数は倍にもなっただろう。
実際、晋に仕官して高官に太守くらいになった人間がこの他に多数いる。
>>861 ん?蜀が滅んだ時の大将軍や左右の車騎将軍や諸大将軍クラスや、平尚書事や尚書令だのは、
諸葛瞻を除いてみんな北伐の頃からの生き残りじゃん。滅亡前に死んだそのクラスのも、
ほとんど諸葛亮執政時代に起用された人間ばかりだし。
北伐当時40代だった人間が、老境や病気で一線を退き、
70代で宮廷の長老格として鎮座しているのは年長者を敬う中華では普通のこと。
張翼と廖化がこれに当たる。漢や魏の三公クラスは大方そんな感じだろうに。
それ以下の、諸葛亮の下で気鋭の若手官僚だった人間が、60代、50代になって
政権の中枢を舵取りすることのどこがおかしい話なんだい?
漫画じゃないんだから30、40代で国を動かすなんてよほどの希少例だよ。
864 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 15:28:59 0
大都督と、都督諸軍事って具体的にどうちがうの。 wikiなんかでは都督って六朝で使用されたとあるが魏でも普通に使われるよな。
大将軍ともちがうし、ポストの上下関係はどうなっているのか。
三国志ゲームで言うと大将軍は官位、都督系は委任。
866 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 15:44:56 0
でも、姜維なんかは大将軍で、なおかつ剣閣にずっと常駐状態だったんだろ。 蜀だけ他の2国と
運用がちがうかな。
このスレじゃゲームがソースってありなのか
>>866 運用が違うから、発達しなかったと捉えるべきだろうね。
>>867 ゲームがソースなのではなく、理解しやすい端的な表現としてゲームに例えた訳だが。
869 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 17:09:49 0
蜀漢だけでなく魏も大将軍で攻めた例としては曹爽の蜀侵攻があるな。
あの時は都督諸軍事でなく、大将軍として軍を率いて、同じく大将軍で有る(247年の蜀侵攻時には姜維って大将軍だったよな?)と戦って敗北したな。
諸葛恪も246年に大将軍になって司馬氏の7万の軍を撃退したり、ぎゃくに東興の戦いに望んだりしているが、都督諸軍事との明確な差が今ひとつわからん。
使える軍の陣容が違うとかかな。 都督だと地方の兵で大将軍だと京師の兵も運用できるとかそんなんだろうか?
870 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 17:20:57 0
曹爽の蜀侵攻は244年。その時曹爽は大将軍・都督中外諸軍事。蜀軍のトップは大司馬行都護蒋琬(実際が大将軍費禕が指揮を執ったと思われるが)。姜維は鎮西大将軍
871 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 17:26:32 0
諸葛恪は大将軍で防衛も侵攻もしているだろう。
姜維も外征結構しているけど大将軍職での魏侵攻では?
872 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 17:30:18 0
あ、格が誅殺された後に孫チンも大将軍として寿春攻防戦(257年)に望んでいる。
おまいら、何でそんなに詳しいの?
ゲーマーなの?
何が情報ソース?
漫画。
>>864 大都督→臨時の総司令官ポスト。
都督諸軍事→方面軍司令官。
>>866 >>871 つーか、姜維は大将軍になる前から都督中外軍事だよ。
>>869 呉には常設の都督制が無いから。督は拠点の司令官だし。
広域軍管区の司令官は都督号帯びて無かったし。
>>871 諸葛恪は東関での大勝後に督中外諸軍事に、孫チンは孫峻が死んだ時に領中外諸軍事になってる。
877 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 19:53:59 0
>>864 >wikiなんかでは都督って六朝で使用されたとあるが魏でも普通に使われるよな。
魏+西晋+北朝+南朝(六朝)時代に使用された。
つまり「魏晋南北朝」時代に使用されたと表記するのが正しい。
質帝か順帝の時に督河西四郡とかいう都督制の先駆けっぽいの設置してたな。
後漢初期は州牧に都督っぽいことをやらせてる。
前線の将軍に州牧の称号を加えて、州内の諸軍の指揮を執らせたり。
これを見ると、別に都督制を導入しなくても、四征将軍や四鎮将軍に州牧を兼任させれば、
それで済んだんじゃないかと思う。
三国志では都督荊州諸軍事と書かれてる夏侯尚は、禅譲勧進の碑文だと都督督軍と荊州刺史の兼務だし、
いつ頃から都督○○諸軍事という呼称になったのか謎だ。曹丕即位後か?
>>879 牧では権限がでかすぎる。軍事どころか太守の行政にまで高位から令を下せる。
だから光武帝は戦乱が終わると大軍縮・地方分権縮小の一環として刺史に戻した。
>>880 禅譲時の勧進文では、曹仁、曹真、曹休、夏侯尚、臧霸の五人が都督督軍。
しかし、五人とも本伝では曹丕が魏王に即位すると都督諸軍事に任じられたとある。
>>879 >>881 光武帝時代の都督っぽい奴だと、名詞ではなく普通に文章、つまり官職にまでは演化していない段階だけど、
張純の太中大夫、使将穎川突騎、安集荊、徐、揚部、督委輸、監諸将営というのがあるな。
そのまま南陽に屯田して元の官職が五官中郎将に昇進した上に更に虎賁中郎将を兼ねてるけど。
権限与えすぎでもはや何が何だか訳解らんが。
>>883 当時の西方戦線に対して、後方地域となる荊、徐、揚州の軍政総督という感じかな。
三州慰撫、糧秣転運、中小の諸将陣営の監察を行う。その実働部隊として穎川突騎があるが、
三州全軍の指揮権を与えられたわけではないだろう。
後漢末三国でいうと官渡前後の夏侯淵の、行督軍校尉・使督エン、豫、徐州軍糧なんかが近いかもしれない。
885 :
世界@名無史さん:2010/12/06(月) 23:08:06 0
都督XX諸軍事が廃れたの唐が節度使を新設してそれと入れ替わる形で廃止されたとの認識でおk?
>>885 都督諸軍事が地方の軍司令官として機能してたのは、南北朝時代までだね。
隋からは総管がそれに取って代わってる。
麋竺が偏将軍に任官した時期っていつ頃なんだ?
曹操が麋竺を贏郡太守に任命するよう上奏した文章を見ると、
既に偏将軍になっていたようだし。
関羽や張飛が中郎将になったのと同時期じゃないか?
でも別駕から偏将軍って破格の出世だよね。
当時の劉備家臣では筆頭扱いだったんだろうな。
別駕は州牧の筆頭補佐官。
州内随一の名士(牧に協力する者のうちで)が招かれるようなポスト。
糜芳も裨将軍とかなっていたんだろうか?
彭城相に任命される前の糜芳の官位が不明だから何とも。
さすがに兄弟で州の高官を占めてるって事は無いだろうから、
別駕の兄とそんなに変わらない格の裨将軍は無いだろう。
中郎将ってところでは?
しかし、なんで軍を一度も率いた事の無い縻竺を偏将軍なんかにしたんかねえ。
昇進させるなら、最初から郡太守にでもしとけば良かったじゃないの。
監軍役の将軍、事務長官役の将軍、顧問応対役の将軍。ゴロゴロいるよ。
あの時期に監軍や事務方や顧問役の将軍なんてほとんどいないじゃん。
劉備が支配した土地よりはるかに広い荊州や益州や揚州でも、
当時は最高の軍職は中郎将だったぞ?
それは軍閥のボスの多くが諸鎮級、つまり平の二千石將軍だったから。
彼らが部下に將軍を置けるようになるのは、左将軍劉備が有効な自分の幕府を設置したり、
孫権が車騎将軍を名乗って以降。
しかし、早くから中二千以上の將軍位を持っていた袁紹、袁術は支配下の有力者に将軍位を署していた。
特に、袁紹の下には奮威将軍沮授がいる。彼の職責は「監軍」であり、
また彼個人も軍隊を直接指揮する能力を持っていたとは考えがたい。
曹操がこの地位まで上昇するのは建安元年のこと。以降、自分の麾下の将に偏裨を初めとして徐々に将軍位を
授け、同時に各軍閥の長へも将軍や牧の地位を与えることになる。
糜竺が劉備と共に曹操へ接近したのはこの建安以降と考えてよいだろう。
将軍位のいいところは、独立的な地位を持つ高官で、かつ、幅広い職能を持たせられること。
糜竺が実際にいつどんな職責を負ったのかは、勿論わからない。
徐州牧として表敬してきた劉備一党の厚遇の証として、有力者に高い官位を与えたものかもしれない。
対呂布戦線において徐州慰撫を行う一角として、それに相応しい称号を与えたのかもしれない。
許都へ帰順した徐州名士に対して、次のポストを与えるまでの厚遇を示す名位だけの存在だったかもしれない。
ただ、鎮東将軍-左将軍劉備の後見人的な立場の糜竺に対して、劉備から半ば独立するような高い地位を
献帝の名において与えたことはポイントだろうね。
続けて兄弟を続けてエン州と徐州の太守に任じて完全な切り離しを目論んだのだろう。
>>895 >将軍位のいいところは、独立的な地位を持つ高官で、かつ、幅広い職能を持たせられること。
都督号が生まれた理由かもな。
黄巾の乱まではほとんど中郎将や太守や刺史が軍事作戦の指揮をとって、
度遼将軍以外の雑号将軍は滅多に置かれなかったのに、
どうして後漢末から急に将軍号所持者が急増したんだろうか?
そして、三国時代になると、中郎将の権限は大幅に小さくなって、
将軍号はまとまった兵を指揮する人間なら、みんな持ってて当たり前なレベルに。
中郎将の何がいけなかった?
将軍=戦時征伐用高級指揮官
だから
本来、丞相・相邦・御史大夫が詔勅起草などから立法・枢機を担ってたのが(秦〜前漢初)、
徐々に職務の細分化や行政機関化によって尚書に立法・枢機を譲り(前漢〜後漢)、
尚書もまた徐々に行政機関化して中書に立法・枢機を譲った(魏〜唐)、
という御史→尚書→中書間の権限の移動と同じじゃないのかな。
900 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 20:12:07 0
>>897 後漢が末期に近づくにつれ、軍人に官位をやる必要が増えた
=軍人が活躍する場面が増えた
=それだけ治安が悪化した
桓帝あたりまでは、戦争といえば敵は匈奴などの異民族が主だった。
将軍号を持つ将軍が少数でも、なんとかなった。
だから将軍号を濫発する必要もなかった。
>>900 後漢の国力を傾けた対羌数十年戦争でも、
ほとんどの期間は最高指揮官は護羌校尉で、
将軍位を持った人物が指揮した事はほとんど無かったと思う。
902 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 21:28:13 0
涼州の三明は将軍号もらってただろ
洛陽から中軍が進発するときに総司令官として将軍が任じられることが多い。
護羌校尉は常置の指揮官
904 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 21:56:17 0
そんだけ将軍の需要があったのになぜ趙雲は田中芳樹のいうところ万軍率いる権限あたえられなかったのだろーか
たしか将軍位ないんでしょ。
光栄の某開発が趙雲オタらしいが、蜀漢の中では許?や典イみたいな君主に侍る近衛兵みたいな感じの人でしかないんでしょ?
>>904 田中芳樹しか見ていないなら、来るなとは言わないから書き込むのはやめてくれ
もう間違いだらけで直す気にもならん
906 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 22:05:36 0
何エラソーにいってんだオイコラ
907 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 22:09:10 0
http://salad.2ch.net/warhis/kako/978/978202456.html 129 名前: 魏延萌え 投稿日: 2001/01/06(土) 11:00
趙雲は、演義はともかく正史では碌な評価ではありません。
王朗や華きん(忘れた)の様に、真っ当な奴が悪玉になったのと正反対ですね。
例えば、長坂橋の話も正史では“劉禅を助けただけだよ〜ん”としか書かれていません。
逆にいえば、親衛隊長のくせに、奥方達を助けられなかったと言う事です。
個人的には、廖化の方をもっと評価すべきだとこ黄巾の乱から三国時代終焉まで戦い抜
いた歴戦の勇士ですから。
130 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/01/07(日) 08:32
はっきり言って筑摩の正史版みたら
趙雲の記述の余りの少なさに笑うぞ。
法正より少ないぞ。
908 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 22:10:24 0
>>904 趙雲の大活躍はほとんど趙雲別伝によるものです
別伝を抜きにすると、古参の勇将以外の評価はなくなる。
909 :
田中芳樹の著作から三国志に関する部分を引用1/2:2010/12/08(水) 22:16:10 0
初めに言っておきますが、「諸葛亮」は中国史上最高の軍師だという方や、「赤壁の戦い」は劉備が曹操に圧勝した戦いだと信じて疑わず、
その認識を決して曲げるつもりはないというような方
は多分あまり気が合わないと思います。
いきなり物騒ですね、すいません。気を悪くした方は謝ります。
しかし、現在日本で広まってる三国志世界があまりに捏造されたものが多くて、しかもそれが史実であるように伝えられているのは少々不公正な気がします。
そもそも、劉備が自分の軍隊と呼べる組織をつくったのは「赤壁の戦い」以後の二〇八年から(それまではただのごろつきと言って差し支えないでしょう)で、
その作戦指揮にあたったのはホウ統です。『三国志演義』で鳳雛と称される人ですね。彼が二一四年に戦死すると、以後は二二〇年まで法正が後任にあたります。
この時期が劉備の黄金期と言えるでしょうね。さて、この二人が死んでから、劉備は呉の名将陸遜に「赤壁の戦い」以上の致命的大敗をするわけです。
それこそ国家的な危機に瀕するような大敗です。その時諸葛亮は「法正が生きていたらこんな戦いは止めさせただろうし、止めさすことができなくても負けなかっただろう」と悔やんでいます
。つまり、彼は軍略家としてはホウ統や法正より劣っていると自分でそう言っているんです。だから彼が作戦指揮にあたってからは魏の司馬懿に軽く一蹴されてしまいます。
だいたい諸葛亮は策謀を弄するような人物ではなく、むしろ法治主義的な政治によって国家を支えた名政治家です。彼がいなければ蜀漢は劉備の死後即座に滅亡なり野心家によって簒奪されたでしょう。
彼はその政治力で三国中最弱の蜀漢を支えました。「泣いて馬謖を斬る」という言葉は彼の法治主義・厳罰主義の政治方針を如実にあらわしています。
つまり、彼は名軍師ではなく名宰相と言えるのではないでしょうか。
910 :
田中芳樹の著作から三国志に関する部分を引用2/2:2010/12/08(水) 22:18:32 0
また「赤壁の戦い」ですが、この戦いは周瑜が曹操を破った戦いです。劉備は周瑜の軍に混じっていただけです。繰り返しますが諸葛亮はこの時点で作戦指揮には関わっておらず、
ホウ統がそれにあたっていました。また「赤壁の戦い」の敗北で曹操が天下を統一する機会を失ったのは事実ですが、別に主だった将軍が戦死したという記述はありません。
しかも、その直後に銅雀台という大宮殿を建造し、華やかな建安文化の基礎を築きます。ところがそのような大々的な土木工事にも関わらず税金は上がらず、国庫は安定していました。
国が傾くどころかすぐに軍事行動を再開している事から見ても、曹操や魏にとって人的にも財政的にも大きな敗北では無かったのは間違い有りません。ただ単に、天下統一が遅れたに過ぎません。
にも関わらず「赤壁の戦い」が史上稀にみる大勝のように伝えられるのは曹操という偉大な名将を後退させたという事実を政治的に宣伝し、士気を高めようという意図があったのだと思われます。
そして、それが『三国志演義』においてさらに誇張・歪曲されたのでしょう。
『三国志演義』の蜀漢で最も人気のある武将五人の地位として「五虎将軍」というのがでてきますが、これは全くの架空でそんな将軍位は実在しません。これは『三国志正史』の『蜀志』にある
「関張馬黄趙伝」という関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人の伝記からとったもので、彼ら五人にそういった架空の地位を用意して権威を強めているわけです。史実では驃騎将軍や車騎将軍等の漢代の
将軍位を用いていたのですが、それよりも五虎将軍のほうが確かに格好いいですよね。ちなみに趙雲は親衛隊長のような身分で他の四人よりずっと下の地位だったのですが、死後その実績と実力が
認められて、他の四人と同列に扱われています。
>>904が世界史板に書き込むには色々と足りないのはわかるが、
>>907みたいな無知に悪意が加わったものよりはかなりマシ。
ま、元の書き込み自体は10年も前のことで、時効だとは思うが。
廖化が黄巾の乱からうんぬんとか田中芳樹がとか、ものすごく時代遅れ過ぎてワロタ
田中芳樹は演義のバイアスを除こうとして、逆方向にバイアスかけてる気がする。
914 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 22:22:52 0
ついでだから聞くが、秘本三国志(陳舜臣)で五丈原の戦いの描写において、司馬懿と諸葛亮が事前に密会して
八百長説を書いているがあれどう思う?
>>913 今でもやってるのかね?
90年代半ば当たりの本ではよくやってたが、あの頃はほんとにちくま正史読んでる三国志オタなんて滅多にいなかった時代だしなあ。
歴史的な三国志像を見るオタ層を作るのに一定の効果はあっただろう、くらいに思ってるが。
劉璋のオカンは面白いキャラだから、
コイツをテーマに小説書いたら面白いとかおもってたら
もうとっくの昔に小説になってたでござるの事よ
>>914 今引用された田中芳樹のエッセイみたいな本で、
田中氏から見た、田中氏なりの史実(ただし今見ると時代遅れ)を伝えようとしてるものはともかく、
小説の描写を「説」というのはちょっと……
陳氏のエッセイや特集なんかで、陳氏から見た史実として言っていたならともかく。
>>902 三明の中で、将軍号を得てからも羌との戦いを指揮したのは破羌将軍段ケイだけだが。
張奐と皇甫規は幽・并担当の度遼将軍。皇甫規はほとんど仕事しないで数カ月で辞めてる。
>>909-910が田中芳樹のエッセイからの引用ってさすがに無いだろw
ホウ統が赤壁の作戦指揮に関わったなんてデタラメ書くとは幾らなんでも思えん。
今ちょっと引っ張り出してきたが、「長江落日賦」には
>>910前半の元になったらしきエッセイが載っていて、
そこでは「三国志」以後に生まれて演義の元になった話を「逸話」とか「フィクション」とか言っているが、
捏造なんて下品な言葉は使ってない。
赤壁の戦いでの曹操大敗の演義描写に対して、史書の記録を挙げ、
「人的資源に損失がなく、財政に破綻を来さず、権力基盤も揺るがない──これは、すくなくとも大敗であるとはいえない。」
としているが、「誇張・歪曲」などとは書いてない。
そもそも小説的な脚色自体を否定なんかしないし、元々三国志演義が歴史にはまった始まりの一つだっていう人だぞ。
だいたい、こんなに文章下手だったっけか?
920 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 23:15:00 0
>>919 ガイエのホンの中国武将列伝読んでみろ。
921 :
世界@名無史さん:2010/12/08(水) 23:19:47 0
>>919 後漢書の軍縮以降、西方征伐へはのべ5人の車騎将軍と9人の征西将軍が派遣されている。
大軍縮が行われて以降、常置の度遼将軍と外戚が長期占めることが多かった大将軍を除いた
征伐将軍としては、この二職の任命が大半を占める。
>>919 >ホウ統が赤壁の作戦指揮に関わったなんてデタラメ書くとは幾らなんでも思えん。
文章が非常に解りづらいのは事実だけど、それは誤読してると思われ。
多分ホウ統が作戦指揮にあたったと書かれているのは、赤壁全体ではなく劉備の軍について。
>>921 そこは見つけたし、web.archiveで消えてる元サイトを探したりしたんだけどさ。
どこのエッセイの引用なのか結局わからなかったんだよ。で、どこで書いてたの?
>>924 あ、そっちはなるほど。了解した。
おまいらの情報ソースが、だんだん分かってきた
ま、wikipediaだのネットのマニアサイトのつぎはぎだけで書いてるのは結構いるみたいだな
>>927 つーか、一番手に取りやすくて、なおかつ基本資料であるはずのちくま版ですら、
誤訳が多すぎてミスリードされる場合が多いから難しいよな。
結局、漢文の漢籍電子文献で読むのが一番確実だと言う。
それでもやはり、ちくま・筑摩版が基本かつ最低ラインだろう。
誤訳云々を差し引いても、日本語ではほぼ唯一の三国時代の基本史料なんだから。
正史の中で三公に昇った人物は誰が居ますか?
相国、丞相、大司馬も含みでお願いします
腐るほど、50人以上はいる。自分で調べろ
匿名相手に、「戦後日本で閣僚になった人物は誰がいますか。全員挙げてください」
ってくらいアホな質問しておいて、匿名に反発されたら「お前には聞いていません」はないだろ。
>>930 どこの国で?後漢?魏?呉?蜀?
大将軍や太傅は言わなくていいのか?
どうせブログかどっかで「自分で調べました」みたいな顔して書くつもりなんだろ
答える必要なし
自分で調べろ、でFA
>>934 後漢は184年以前は要らないです
魏も曹丕の代までで良いです
呉、蜀は要らないです
大将軍は知りたいですね
太傅、太師は要らないです
>>935に同意
ここは中学生の質問コーナーじゃないしな
>>935 そんなの書くわけないじゃん
邪推の9割は的はずれであることを知りなさい
939 :
世界@名無史さん:2010/12/09(木) 18:58:48 0
なんで質問している奴が上から目線で話すの?
そんな態度で誰が教えてくれると思っているの?
礼を以て接してくれた方には相応の礼で返しますよ
粗野な方には不要かと思いまして
>>940 それでは一つお伺いしたいのですが、
184年以降の後漢から、曹丕までと期間を区切った理由は?
正直ね、曹操が献帝を都に迎えるまでの三公は数が多すぎる上に、
歴史的に見てどうでもいい人物が大半なんですよ。
そして、曹操が司空になってからの三公やってた人間は、
他に一人しかいなくて、そいつは空気。そんなの知って何の意味があるのか教えてほしいですね。
ちょっと質問したいんだが、姜維伝とかだと姜維は262年に魏へ出兵して候和でケ艾に敗れたというんだが、
廖化伝の注だと262年に姜維が狄道に出兵しようとし、これを廖化を諌めたっていう話しがあるんだ。
これは狄道目指して姜維は出陣したが候和でケ艾に敗北したという事なのか、
廖化が諌めたのは255年の狄道出兵の時の間違いという事なのか。誰か教えてくれまいか?
>>942 前者としていいんでないかな。
誤字の可能性は常に付きまとうが、それを言ったら何一つ信じられないので、
原文のまま読んで矛盾なく説明できるならそれに従うべきだろう。
262年当時、ケ艾は都督隴右諸軍事で、征蜀時に狄道から進発している(晋書文帝紀)ことから見ると、
この時既に狄道近辺を拠点としていた可能性が高い。
侯和はトウ([シ兆])水の西、いわゆるトウ西にあるようで、ここを経由して狄道を突くという進路は254年の対王経戦と一致する。
ゆえに、狄道を目指した姜維がケ艾と侯和で激突するのは無理のない流れと判断できる。
また、廖化の「兵おさめざれば、必ず自ら焚く」という苦い吐露は、254年の上げ上げムードだった時期よりは、
262年の蜀軍疲弊の時期の言葉と考えた方が理解しやすいだろう。
>>941 いやいや、曹操の司空・丞相期に三公やってた人間は曹操政権を考えるうえで重要だぞ。
御史大夫含めて三、四人くらいいるはずだけど。
>>944 曹操政権時代の三公は御史大夫入れても、司徒趙温と御史大夫チ慮だけだが、
趙温は空気で、チ慮はイエスマン。どっちも個人の影響力はほぼゼロ。
記録も極めて少なくて、無視しても構わない程度の人間と思われる。
侍中・尚書令で実質的な副宰相の荀ケの方が曹操政権では、
比較にならないぐらい重要。
>>940 あなたにつれない態度を取る人間ばかりではなく、あなたの要求に応じようという人間もあなたの全ての態度を見ています。
そして、あなたの今回の行動は「自分に利益をもたらそうとしない人間など知ったことではない」と声高に言っているようなものです。
自分に利益をもたらさない人間に対して快い対応をしたくないと思うのは、立て前はともかく当然のことですが、
それを恣に表現してしまうのは長期的利益をもたらしません。
何故なら、そのような態度自体がそれを見ている周りから見たら快くない事だからです。
そして、快くないことを耐えようとしない人間に対して、自分ばかりが快くないことを耐えるのは難しいことです。
ですから、周りは教え甲斐というものを失って、冷たい態度を取るわけです。
直接相対している相手だけでなく、周囲のことを慮るのは、自分の利益の為でもあるわけです。
また、厳しいことを申し上げますと、世界史板は学問板ですので、
住人は他の住人に対し、自身の論拠ソースを除いてではありますが、
自助努力によって様々なものを探すことが出来ることを前提として求めています。
>>931の内容は無体なものでもなんでもない、割と当然のことなのです。
あと、三公は、「三公歴任表」で検索すれば、恐らく一ページ目の何番目かに出てきます。
一応それを頼りに錦繍中華かあたりで調べ直すとおおよそ確実です。
論文やレポートを書きたいというのでなければ、ですけれど。
>>946 それから、最末期の華キンね。
「無力な、或いは曹操に追従する存在が三公になっていた」と知れるなら、それは有益なことだ。
しかしながら趙温は曹丕を辟召しようとして曹操に排除されている。
辟召によって主客に生まれる恩義関係を思うと、これは反曹操とまではいかなくとも
曹氏の独裁に歯止めを掛けようとする動きだろう。
このような動きが、九卿・大夫格の一部にも見られるように、漢朝廷には残存していた。
元々建安宮廷は、献帝東帰に付き合った功臣と、東帰を聞いて駆けつけてきた
全国に散らばっていた高官名士によって構成されているので、全員が親曹操のはずはない。
それを曹操が時間を掛けて排除または取り込んでいく流れを読み取ることができる。
>>948 司徒・録尚書事の肩書を持っていながら、12年間何もしてこなかった趙温が、
急に曹操独裁に対してアクションを起こすなんて、不自然じゃないか?
曹丕辟召は三公制度の廃止と、自分が丞相になるために趙温を失脚させるための口実だろう。
何もしてこなかったとなぜわかる、というのはおいといて。
その論法が通じるならば、「20年間曹操に協力してきた荀ケが突然反曹操のアクションを取るのは不自然」
というべきことになるが、そうはではないだろう。
当時、他姓の公というのは、それだけ漢臣にとって忌むべきものだった。
建安初期、献帝を擁立して漢朝廷を復興させた曹操を支持して許都に集まった者は多数に昇っただろう。
しかし、曹操が丞相、魏公、王と独裁を強めて簒奪を現実味のあるものにしていくに連れて、
深刻に危惧する者と積極的に支持する者の旗色が鮮明になっていくのは自明のこと。
だから末期に魏諷の乱などというのも起きる。
建安13年に趙温が曹操独裁を牽制する動きを見せても、不自然なことではない。
そもそも趙温が曹操の党与ならば、皇帝に上表して失脚させるのは無意味・有害なわけで、
この時以前から非曹操の立場にある者だったと見てよい。
趙温・孔融・陳群あたりが、どうも不穏な雰囲気だしてるんだよな
真逆が華キンだね。
後漢書の記述などを総合すると
・荀ケの後釜で漢尚書令
・漢丞相軍師
・魏国御史大夫(丞相軍師は据え置き?)
・漢御史大夫
・曹操の死後、献帝に遣わされ曹丕に魏王璽綬と丞相の印綬を授ける
・魏相国
・魏王朝司徒
と、情勢に応じて内外を頻繁に出入りしていることになる。
特に荀ケの後の尚書令と、曹操末・曹丕時代の漢御史大夫は、難しい時期に漢朝廷を抑える重要な役割だろう。
演義で悪党に書かれたのも故無いことではない曹魏派の重要人物。
禅譲のくだりでのあの華キン無双はかっこいいが。
>>950 疑問なんだが、長い間曹操の片腕として、朝政を実質上取り仕切り、
曹操専制体制の強化に尽力してきた荀ケが、
なんであの時点でいきなり魏公就任に反対したんだろうか?
正直、曹操に協力して朝廷の力を弱めて、
曹操の権力を強化する事に邁進してきた荀ケがあそこで急に
曹操のさらなる権力強化に反対した理由が良く分からない。
そもそも、曹操が簒奪を伺える位置にまで来たのは荀ケの力によるところが大だし、
この時代で最高の頭脳の荀ケにそれが分からないとは思えないんだが、
一体何を考えてたんだろうか?
霍光はOK。
でも王モウはNOってことなんかね?
>>953 それは1500年以上議論が四分五裂している話で、以下、あくまで私論という形でしか言えないんだけれど。
丞相・録尚書事曹操ていどの独裁や権力闘争なら、漢の歴史でよくあったこと。しかもそれは、必ずしも悪ではない。
幼帝補佐や、混乱の時代の緊急避難として臣下が権限を集めるのは肯定されており、
同じ託孤の臣の排除・皇帝廃立・礼を失する宮廷運営、と実はかなりやらかしている霍光は、
それでも一代の名相として後世の規範となっている。
漢室を補佐するという名目の下で臣下が栄誉を得るのは、特段悪いこととは看做されていなかった。
しかし、臣下に国公・九錫を与えるとなると話はまったく別となる。
というのは、公とは周公旦の大功の故事に准えて用意される位だが、漢において公位についた前例は王莽しかない。
後漢外戚で最も栄華を誇った梁冀が公位を望み、高官たちが推挙した際、
黄瓊が必死に諫止して蕭何、霍光、ケ禹らでも侯で済んだのだからと説いたように、
前漢の滅亡を経験した後漢にとって、特にタブーとなっていた。
しかも、魏公国は旧来の冀州を越える十郡を領域とし、当時の献帝=曹操支配域の人口の半分にも及ぼうかという
規模を持っていた。これを曹操が領すれば、もはや経済的軍事的に漢朝廷が曹魏に歯止めを掛けることは不可能になる。
『丞相まではよいが国公は駄目』として荀ケの立場を、論理的に解釈すると、以上のようになる。
つまり荀ケは野心があるとしても、それはあくまで漢室を補佐した功臣としてのものであり、
大動乱の時代を収拾する現実的な策として、武略家曹操を「功臣筆頭」として選んだのであって、
王朝を簒奪しようとしたのではないと。
ま、論理だけで政治が進むわけではないんだけど。
じゃあなんで、曹操に対して自分達を覇者と准えるような進言をしたんだという反論もある。
そんな出来すぎな対話は後世の史家の創作だろう、という再反論もある。
皇帝廃立したり、皇后暗殺したりするまでは許されるけど、
公になるのはダメということですね?
>>957 曹操が皇后に手を出したのは建安20年のことだよ
>>958 いや、霍光と王莽の違いさ。
霍光は皇帝廃立や皇后暗殺をやったけど、公にはならなかった。
それなら、漢の朝臣的には許される範囲だったのかってね。
王朝の正常な存続が図られるなら許される。という見解みたいね。
というのも、天と天下が必要としているのは天子個人ではなく、正常な祭祀を執り行い、社稷を伝える意思と能力のある天子だから。
暴君昏主であれば追放してよい、というのが伝統的な中華思想。
>>960 荀ケも曹操が霍光のように献帝を廃立したり、皇后を殺害したりしても、
そこまでは許したのかな?
>>961 荀ケが曹操をあくまで武臣筆頭と捉えていたにせよ、
曹操が帝位につくことを目指していたにせよ、そこは許して居たんじゃない?
どちらにせよあまりいい顔しないだろうけど。
荀ケが、護漢と野心と保身の鼎にどういう重心を置いていたのか、実際のところはまったくわからない。
献帝が漢朝廷の行く末や中原の統一など完全に無視して反曹操勢力を糾合し、大分裂が起こりかねない、
という段になってはじめてしぶしぶ廃立を認めるかもしれないし、
曹操が建安初年にいきなり廃立を強行しようとしても曹操政権安定のためなら黙認するかもしれない。
ただ、皇帝の交代期というのは自然死であっても「常に王朝の危機」と言われるほど不安定な時期であって、
廃立が董卓のような形の暴走であるなら、普通の臣下は王朝のためにも保身のためにも反対するだろうけど。
>>963 昌邑王はそこまではしなかったな。
ただ、朝廷を自分の腹心で固めようとしたら、先手を打たれたってのが真相らしい。
昌邑王と霍光の件は、王が自分の王国から連れてきた旧臣を漢朝廷に多数登用して
腹心にしようとしたから、霍光以下の漢朝旧臣と対立・破局に至ったという流れだね。
だからこそ霍光は群臣多数と皇太后(昭帝の上官皇后であって昌邑王と関わりは無い)の
支持を得ることが出来たと。
曹操の場合、軍事力は圧倒的だが、朝廷は前漢と比べ物にならないほど不安定。
軍事力だけで押さえ込む政権運営は荀ケの最も望まないところであって、
どのラインで「安全な廃立」が可能と看做すかは難しい問題だろう。
曹操は許都を抑える軍事力は圧倒的でも、四方に常に敵を抱えていた。
特に袁紹健在の時代に皇帝廃立なんて真似は不可能だっただろう。
それ以後だって、孫権、劉備、馬超、劉璋らが長く残存している。
董卓のような下手を打ってせっかく献帝の下に集まってきた高官達が
再び諸群雄の元に流出するようなことになったら勢力瓦解の危機。
荀ケの死後でも、皇帝廃立が下の下策だってことは曹操自身がよくわかっていたんでないかな。
じゃあ、荀ケ以外の奴は公や王になって、簒奪ロードを驀進するのは良かったんだな。
簒奪の大先輩王莽は列侯以上の領土もらってないから、公や王に封じられることが簒奪ロードとも限らないような気もする
簒奪に関係なく、高祖の遺命に背く不忠者になるから問題だったんじゃないのか
>>967 最終的に魏臣になった人間は、それをどこかで是認したことになる。
魏公の時点か王の時点か禅譲の時点か。
楊彪のように文帝曹丕の代にようやく腰を挙げた人間もいれば、
曹丕、曹叡の招聘を拒否し続けて241年、ついに応じることなく死んだ管寧の例もある。
三国志は、「漢臣」で終わった人間は対象外だから知名度がないが、
後漢書などには後漢末の高官でありながら魏にはせ参じることなく一生を終えた人間が
多く記されている。
>>968 そりゃ王莽が安国公になった時点では、「公=簒奪」なんかではなかったよ。
なんせ前例が無いから。王莽が簒奪した時点で、忌むべき前例になった。
故事を重んじる国だから、このような前例を非常に気にするし、
専横や簒奪を目論む者は積極的に逆用もする。
特に九錫は、禅譲を目論む者が得る前段階として長く踏襲されることになった。
逆に忠臣として高く評価される諸葛亮に対して劉禅が用意した厚遇が、
「諸葛故事」として国を越えて長く模範例として使用されもした。
安国公じゃないや安漢公だ
>>969 >後漢書などには後漢末の高官でありながら魏にはせ参じることなく一生を終えた人間が
>多く記されている。
詳しく。
この前の三公の人じゃないが、その三文字に答えるにはえらい労力がいるんだが…。
列伝全部ひっくり返さないとならないんだぞ。
>>973 「多く記されている」とまで書いた以上、3、4例くらいはパッと出てくるものじゃないか?
うんまあ調べてたんだけどね。「数多く」というのは間違いだった。ごめん。
というのは、建安まで生きていて曹操から距離を置いたまま死んだ人間というのは多いけど、
そのうち魏が建国される18年まで生きていた人間というのはかなり少なかった。
「はせ参じる」国がいないんじゃどうしようもないわね。
「後漢書」に載る範囲では、だけど>18年まで生きていた人間というのはかなり少なかった
977 :
世界@名無史さん:2010/12/11(土) 05:13:24 0
心があたたまる名すれ
なごんだ
979 :
世界@名無史さん:2010/12/11(土) 13:35:30 0
ジュンイクが漢室を大事に思ってたなんて嘘だろ。
せいぜい曹操と同程度にしか漢室のことを大事に思ってないよ。
ジュンイクの自殺はもっと別の理由。
荀ケは名士の中でも期待の若手って程度の経歴しかないのに、
なんで33歳の若さで曹操の司馬から、
侍中・尚書令なんて大出世しちゃったんだろうね?
県令や司馬までしかやった事がない人が、
この若さでこの地位ってかなり無茶な人事だと思うんだが。
>>980 元は宦官の役職だった守宮令なんて、期待の若手の就く官職か怪しいものだな
なんで大出世しちゃったのって、曹操の腹心だから以外の理由はないと思うが
宦官の幼女を嫁に持ち、清流派の端っこにいる若僧が、
いきなり、上は三公九卿しかないぐらいの朝廷の重臣になっちゃったら、
他の朝臣の反発大きすぎないか?曹操が司空になるより反発大きいと思う。
朝臣の中から、曹操のロボットにできそうな奴選んだほうが良かったんじゃ?
983 :
世界@名無史さん:2010/12/11(土) 22:05:10 0
宦官の嫁をもらってる時点で、もう宦官派の一員で清流じゃないだろ。
そりゃ曹操と気が合うはずだわ。
984 :
世界@名無史さん:2010/12/11(土) 22:26:54 0
荀ケが最初に就職しようとしたのも、濁流の袁紹。
清流との交際がほとんどないじゃないか。
袁紹は黨錮に逆らって多くの儒士を洛陽から逃がした武闘派。
曹操も荀ケも、その辺の霊帝の施政に反発していた層に人脈を作ってる。
>>984 何ギョウとかは清流中の清流なんだけど。
987 :
世界@名無史さん:2010/12/11(土) 22:51:54 0
>>985 それこそ濁流と馴れ合ってた証拠。
清流なら党錮の禁で死んでるw
>>980 尚書令が「期待の若手」の昇進順路の一つだったから…
…といっても、そんなに決まった順路がある職ではなかったようだけど。
後漢の尚書令は、そこに就くまで尚書以外の要職を殆ど通っていない人物もいれば、
太守を歴任したあとで徴された者もいる。
その後の経歴も、すぐに九卿へ昇った者もいれば、太守になって長期間転々とした者もいる。
まあ、朝廷内外から時局にあった適任者を選んだということだろう。
後漢で最も権力を持った尚書令は黄香だろうが、彼は若くして郎中となり、
十年程度で尚書を経由して尚書令まで昇っているから、おそらくこの時三十代だろう。
のちに太守への転出を辞退して再び尚書令となり、二千石に増秩され「樞機を管理した」とある。
和帝の信任と賞与の厚さは謗りを受けるほどだったが、帝の死の直後に魏郡太守へ転出し、
水害に座して免職となり、家で卒した。
黄香ほどの例は特異としても、司空曹操の若い股肱で名士層に顔が広い、
穎陰荀氏の一員という荀ケは、当時の曹操にとって尚書令に当てる格好の人材だった、ということだろう。
>>987 黨錮の「錮」ってどういう意味かしらないんだね
やめやめ
どうも触っちゃいけない人が出てきてるらしい
そもそも濁流というのは、清流サイドが自己を正当化して反対派を貶めるために使ったに過ぎない。
清流の濁流攻撃は現在でいえば、「脱小沢」みたいなもので実は中身の無い権力闘争に過ぎない。
政策や登用人材の違いによって闘争が起きてるのに、中身がないとは無茶苦茶な話だ。
というかこのスレの人間はいつまで経っても予め次スレを立てるようにならないな。
用意してた。立ててみていい?
>>994 頼む。
最近はこの板にしては流れも速いので、970くらいでスレ立てするように書いてくれ。
梅梅
めいめい
梅
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。