1 :
世界@名無史さん:
ダニール・アレクサンドロヴィチがモスクワ大公国に就いたのが1263年
オスマン・ベイがルーム・セルジューク朝から独立を宣言したのが1299年
ともに他民族を支配した大帝国であり、互角の戦いを繰り広げた
永遠のライバルについて語ろう
2 :
世界@名無史さん:2010/10/11(月) 21:37:36 0
この2国はともにポーランドに敗北したことがあるんだな
>ダニール・アレクサンドロヴィチがモスクワ大公国に就いたのが1263年
ダニールって大公の称号得られてたっけ? 重箱の隅ですまんが
露土戦争で圧勝
WW1で東の4帝国は崩壊したんだよな
露土戦争で勝利出来たのは、徴兵で数があったから
西欧から見ればどちらも後進的な蛮族の帝国だろ
8 :
世界@名無史さん:2010/10/11(月) 22:40:43 0
>>3 ダニールはモスクワ公だね、イヴァン1世が大公だった
9 :
世界@名無史さん:2010/10/11(月) 23:15:07 0
ロシア人はマルクス教にかぶれたのに、
トルコ人はマルクス教にはかぶれなかったな
共産主義もさすがにイスラム教の中毒性には敵わないんじゃね?
イスラム圏全般見ると共産主義が成功した例は少ない
11 :
世界@名無史さん:2010/10/11(月) 23:36:03 0
ロシアは1700年までタタールに貢納させられてたし、しかもオスマンの属国のクリミアタタールに
クリミアにそんな力はない
頻繁にコサックに荒らされまくってた上に動員兵力ではとてもロシアには敵わない
ポーランド、リトアニア、スウェーデン、オスマン、クリミアが連携組んでロシアを挟撃してたからね
苦肉の策だよ、実際貢納して攻撃をしのいでる間にウクライナを併合、さらにシベリアまで進出、強大化したんだから大成功だろ
>>13 いやいや朝貢自体なかったよ
ソースの出所ないじゃん
15 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 00:48:37 0
エディルネを破壊したロシア許すまじ。
コンスタンティノープルぶっこわした十字軍とオスマン許すまじ。
クリミア戦争だか露土戦争のころには、
大英帝国がトルコの後ろ盾になってたから、
その頃にはもうライバルとはいえないんじゃね。
>>12 帝政ロシア軍でも18世紀ぐらいまではクリミアに侵攻するのは
難しかったんだよ。途中に人口希薄な荒野があって補給が困難だった。
19 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 13:04:51 O
18世紀まではオスマン優勢だろ
ピョートル大帝もスゥエーデンには勝てても、オスマンには大敗して捕虜になるところだった
>>5 一番長生きしたのはオスマン帝国!
「ヨーロッパの重病人(笑)」より短命なヨーロッパの他の帝国www
当時のロシアはあまり強くない
ポーランドの方が強い
ポーランドはスウェーデン、ロシア、オスマン、全部打ち破ってたからな
26 :
世界@名無史さん:2010/10/13(水) 11:03:14 O
ロシアはオスマンに負けてる
ピョートルでさえ大敗した
オスマンはあの軍事的勝利を全然いかせなかったけどね
あの後ロシア放置して結果的にロシアは東欧最強になるからね
当時のオスマンにとってはロシアよりハンガリー戦線の方が重要だったんだろうが
東欧最強とまでは言えない
むしろオーストリアが無敵状態
31 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 13:17:04 O
オスマンはオーストリア相手には連戦連敗だったな
32 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 16:02:11 0
モンテクッコリやオイゲンといった名将がいたからな
連敗というほどでもない。ケレステスの戦いなんかでは
勝ったと思ってトルコ軍の財宝略奪してたところへ
トルコ兵が戻ってきてやられたり。
ケレステシュの戦いって1596年だっけ?
まだまだオスマン優勢の時代じゃない?
あれはオーストリアがもうほとんど勝つ寸前だったのに
勝ったと思ってスルタンのテントの財宝奪ってダンスしてたりしたらオスマン軍の料理人などの雑用係がいきなり襲い掛かってきて
びっくりして混乱状態で逃げ出す、敗退寸前のオスマン軍が息吹き返して大勝利という
間抜けな負け方をした
あれ勝ってればハンガリー回復は100年早まったかもしれない
36 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:59:30 0
実際レパント以後のオスマンはオーストリアには劣勢だったからな
オスマン帝国はシリアより南のアラビアを捨ててれば、もっと簡単に近代化出来てたんじゃないかな。
38 :
エビちゃん親衛隊:2010/10/16(土) 19:27:26 0
>>5 >WW1で東の4帝国は崩壊したんだよな
米英仏の周到な共倒れ戦略が何十年以上も前からあったのかも知れない。
ロシアとトルコ、戦わせて共倒れさせる。
こんな美味しい状況は棚ボタ的に来た分けではないんだろうな。
WW1で露土両方で民族紛争の時限爆弾が炸裂したような感じだよな。
ウクライナで、コーカサスで、小アジアで、そしてパレスチナで!!!
オーストリアVSロシアVSトルコ 最終戦争では勝者なし
ツァーは殺され、カイゼルは倒され、スルタンは追い出された。米英仏大笑い!アハハハハ
ユーラシア旧帝国と海洋新帝国の権謀術数は格が違う?
39 :
世界@名無史さん:2010/10/16(土) 22:27:04 0
そしてアラビア半島に新たな王国が誕生する。
>>38 ヨーロッパ全体が没落。もちろんイギリスも含む。
41 :
世界@名無史さん:2010/10/17(日) 09:47:06 O
弱小オスマンじゃあロシアに勝てないだろ
レパント以後は勝ったことはない。1600年以後はイギリスの植民地にすぎない
いや、17世紀以後はまだまだ互角
本当に差が付き始めるのはカルロヴィッツ条約以降だけどそれでも大帝が敗北するなど
まだまだ侮れない存在
ロシアが列強になったのは北方戦争の勝利の後
スウェーデンを下して弱体化したポーランドを支配下におくことによって
東欧での競争相手がいなくなった
>>43 競争相手がいなくなったというのは間違い
ポーランドが弱体化した事でプロイセンという更に厄介な存在が現れた
プロイセンの存在忘れてた
ポーランドのおかげで東欧はある程度の安定と平和が続いていたのに
余計なことしたばかりに
ポーランドが強い時も戦争ばっかしてたよ
ロシア帝国は創設者がザコという、稀な例の一つ
49 :
世界@名無史さん:2010/10/17(日) 15:42:44 O
ロシア最大の君主はピョートル?
オスマンはスレイマンだろうな
>>44 プロイセンってロシアにとって厄介なのか?
払うものさえ払えば、ロシアの権利を認めてくれる話のわかるドイツ人って感じじゃね?
>>50 ポーランドと違い強力な中央集権型の国家で軍備水準も西欧並みでぐんぐんと急成長していく
存在はかなり脅威に感じたと思う
そうかな?
7年戦争以外じゃ割りと仲良しじゃん。
プロイセンの矛先は豊かな西ドイツに向かい、ロシアの矛先はバルカン・アジアに向かう。
ロシアにとって厄介なのはオーストリアだろ。
ナポレオンとの交渉で互いに出し抜かれないように鍔迫り合いしてんんじゃん。
それで結局サラエヴォでオーストリアの皇太子が撃たれて・・・ということに
>>53 いや、プロイセンと統一ドイツは別もんでしょ。
統一ドイツは列強全てに脅威と移った。
55 :
世界@名無史さん:2010/10/18(月) 21:11:32 0
エカテリーナ2世の愛人ポチョムキンって
トルコ人を大虐殺してなかったか?
56 :
世界@名無史さん:2010/10/19(火) 00:56:36 0
クリミア汗国を滅ぼしたのはポチョムキンだったな
57 :
世界@名無史さん:2010/10/19(火) 10:26:41 O
ロシアに負けたことがなかったオスマンも、エカテリーナにだけは連敗したな
18世紀後半のロシアトルコ戦争で、じわじわロシアが勝ち始めているけど、
この頃にはすでにロシアVSトルコだけの構図で見るより、
イギリス産業革命の影響も大きかったんじゃないかな。
ナポレオン戦争では、イギリスの対フランスエジプト戦勝利〜エジプト独立とか、
クリミア戦争ではロシアもトルコに味方したイギリスに負けている。
ロシア的な思考だと、近年のグルジアにみるように、
黒海〜小アジアよりカフカス〜中央アジアみたいな思考なのかも。
59 :
世界@名無史さん:2010/10/20(水) 00:21:32 0
>>58 オスマンは早々にイギリスの植民地になったからなあ
18世紀後半にはもうイギリスの属国みたいになってしまったな。
イギリスの機嫌がいい時はロシアに対抗できたが・・・
ブルガリア人大虐殺などしてイギリスの機嫌を損ねた時はロシアと単独で対抗せざるを得ず、大敗
60 :
世界@名無史さん:2010/10/20(水) 07:16:16 0
そのイギリスもインドを失ったら弱小国ですなあw
オックスフォード大学もボローニャ大学みたいなレベルになっちゃうだろうよ
なんか悔しさが滲み出てるレスだな
>>60 インド独立から既に半世紀も経つけど
オックスフォード以下の大学が星の数ほどあるんだが・・・お前の三流大学もな
なんだかんだいってイギリスはまだ影響力あるよな
トルコは下手すると敵国の戦艦横付けできそうな場所に
首都があるのが厳しい
65 :
世界@名無史さん:2010/10/20(水) 18:50:58 0
首都はアンカラやで
イスタンブルと思ってる人多いんかね
67 :
世界@名無史さん:2010/10/20(水) 19:58:46 0
オスマンがイギリスに抜かれたのはいつだろ。
やっぱエリザベス時代?
68 :
世界@名無史さん:2010/10/20(水) 20:13:33 0
嗚呼、ロシア美女と合体したい
>>67 イギリスが西地中海の海賊を退治してた辺りからじゃない?
オスマン帝国の優秀な人材はほとんどバルカン半島の人なのが印象的だな。
バルカンとアナトリア以外はほとんど人材を排出していないし。
そこいら辺もオスマン帝国衰退の理由かな。
イスラム化した東ローマ帝国ですから
ヨーロッパ化した遊牧民の話だろ?
75 :
世界@名無史さん:2010/10/23(土) 13:35:10 0
オスマンは文化面ではしょぼいんだよな
学術面では…
>>75 >学術面では…
もちろん、しょぼい。
多民族の共存とかいっても、これだからね。なんだかな〜。
だけど当時同じアジアの大帝国の中ではまだクオリティ高かったんじゃね?
78 :
世界@名無史さん:2010/10/24(日) 06:20:03 0
モンゴルと十字軍とティムールが破壊したせいで
中東が衰退したのも大きいんじゃないの
それと黒死病に新大陸発見で交易収入大幅減だもんな
オスマン帝国がもうちょっと長く続いてたらアラビア半島で石油発見して
現在まで続いてたかもしれんのにな
>>78 それは、アラブもイランもアゼルバイジャンも、ずっと西欧列強の食い物になるってことじゃね?
オスマンの時代、中東はおまけみたいなもんだからな
大島直政氏はケマル・アタチュルクがいなかったらイスタンブールは陥落
黒海経由で同盟国から物資の援助を受けれるのでロマノフ王朝は滅亡しなかったと評していたね
イスタンブールの戦略的価値凄すぎ
日露戦争のときバルチック艦隊の他に黒海艦隊も極東へ行く予定だったが
トルコに邪魔されて出てこれなかったんだよな。
どちらも無類の女好き強姦好き国家
オスマン帝国は起源はアナトリアだけど、税収と人材は
バルカン半島に依存していたみたいだね。
だから、バルカン半島の領土を失っていくと税収も人材も立ち枯れに
なって言って衰退が止まらなくなったらしいね。
ついでに十八世紀以降はバルカン半島で領土が減った分を
アフリカやアラビアで取り戻そうと頑張って征服地を広げたりしている。
85 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 06:42:05 0
中東が衰退したのはインド航路発見で交易収入が激減したからでしょ
86 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 07:58:08 O
中継貿易以外にみるものがなかったからな
オスマンが発展したのはヨーロッパの香辛料熱のおこぼれ
88 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 08:05:38 0
拡大期はイケイケドンドンだけど
衰退し始めるといろんなところから不満がでてきてダメになっちゃうねえ
アメリカはそう考えるとよく国がもっているとおもう
>>86 でもおいしい思いはしたよな。ハンガリーやらルーマニアやらオーストリア侵略してさ
美女かっさらったんだろ
90 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 18:26:41 0
美少年もかっさらったな
>>84 そもそも早めにアナトリアからバルカンに渡ってバルカンの方で勢力を蓄えた
からな。寧ろバルカンのほうが本国と言えた。
軍事・官僚制度でもルメリ(バルカン)担当とアナドル(アナトリア)担当じゃルメリ
がNo.1でアナドルはNo.2だったしな。
92 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 19:02:05 0
そもそもさっさと首都をエディルネに遷都してたよな
93 :
世界@名無史さん:2010/10/30(土) 20:54:44 O
なんだここ。ザコばかりだな。
ビザンツ帝国がアナトリアを失ってただのバルカンの一国になり
衰退したのと逆パターンなのが面白いな
ところでビザンツ帝国ってモンゴルによく目付けられなかったよね。
東欧はポーランドまで迫り、中東はアッバース朝が滅ぼされて目と鼻の先まできてたのに。
ちょうどモンゴルが興った頃にラテン帝国になっとるわいな。まあ1261年に復興したが。
イルハン朝がビザンツへ攻め込むにはシリアを押さえねばならんが、あいにく途中にマムルーク朝がいる。
また北のジョチ・ウルスはイルハン朝と仲が悪く、マムルーク朝とも同盟し、何度かカフカス越えて南下を目論んだ。
征服したばかりの国内の鎮撫もせねばならんし、いまさら特にビザンツくんだりまで遠征する必要もない。
事情はジョチ・ウルスも同じ。
>>95 ビザンツ近くまで来たが、
遠征中にオゴタイがなくなったか何かで
ヴォルガ川以東に後退したんじゃなかったか。
>>95-97 昔のビザンツ帝国スレにあった書き込みだが、これによると
キプチャク汗国軍はビザンツ帝国まで遠征している。
朝貢もさせてたらしい。
34 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/04/28(火) 09:22:06 0
友好関係というか、金帳汗国側では朝貢国という認識だろうね。
ニケフォロス・グレゴラスの年代記なんかには、1337年に起きたタタール人の
大規模なトラキアへの侵攻について「タタールの君主や貴族たちへの定期的な贈り物」
を届けなかったためとしている。
貢物を送らないと実力で取りにいくよ?っていうタタールのくびきの時代の
ヴィホード(ロシア語で「出て行くもの」)と同じシステムだ。
ロシアは帝国レベルに成長しても遊牧民の襲撃に対処するのが面倒で
ヴィホードを払い続けたから、それこそエカチェリーナ2世の時代まで
タタールのくびきが続いていたとまでいわれている。
99 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 19:54:08 O
ビザンツ皇帝の血を引くロシアが発展して、オスマン帝国を圧倒するまでになるのはおもしろい
ビザンツの皇女もジョチウルスやオスマンへ嫁に行ってたけどな
101 :
世界@名無史さん:2010/11/01(月) 21:06:00 0
ジュチとかキプチャク汗国って言わないとピンとこないな。
キプチャク汗国イルハン国の場合は草原地帯での統治で満足していたからまだマシだ
ロシアやオスマンはそんな甘い連中じゃない、地上がある限り征服地を広げ続ける
103 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 12:09:59 O
オスマンの領土は蚕食されまくって、西アジアの小国になりましたが
ムハンマド・アリーのエジプト独立以後のオスマンは目も当てられないな
105 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 14:38:59 0
んー
106 :
世界@名無史さん:2010/11/02(火) 18:57:30 O
ナポレオンの時代はまだ見れたのか
107 :
世界@名無史さん:2010/11/04(木) 18:24:12 0
>>106 っていうか、ナポリオンの遠征がきっかけでエジプトが半独立状態&イギリスの半植民地状態になったんじゃないの?
108 :
世界@名無史さん:2010/11/05(金) 18:30:06 0
age
109 :
世界@名無史さん:2010/11/06(土) 13:58:44 0
>>103 現在のロシアもソ連崩壊後はとても大国と言える状態じゃない。
1人あたりGDPはトルコもロシアもさして変わらない。
110 :
世界@名無史さん:2010/11/06(土) 14:08:38 0
あんな広大な土地で日本と人口が変わらんからな。
111 :
109:2010/11/06(土) 14:12:53 0
>>110 ウラル山脈以東のシベリア辺りは人が住める地域があまりないからね。
112 :
世界@名無史さん:2010/11/06(土) 14:52:46 0
モスクワに一極集中してるから
モスクワ攻撃されたら終わりだろ
113 :
109:2010/11/06(土) 14:56:44 0
>>112 ナポレオンはモスクワを攻めようとして冬将軍にやられたけどね。
ヒトラーもね。勝てない相手に手を出さない英国はやっぱり賢い。
ナポレオン時代のロシアの首都はサンクトペテルブルク。
ナポレオンはモスクワを落としに行ったのではなく、
敵軍の主力を撃滅するため追いかけていったらモスクワまでおびき出された。
ペテルブルクを囲んでも、背後に敵主力が残っていれば退路を絶たれる。
ポーランドだけモスクワを効果的に攻略したな
117 :
109:2010/11/06(土) 16:29:06 0
>>114 イギリスとロシアって南下政策を巡ってかなり対立したのに、
直接戦火を交えたことはほとんどないんだよね。
ぱっと思いつくのがクリミア戦争くらいだ。
118 :
世界@名無史さん:2010/11/06(土) 17:05:10 0
後ロシア内戦とか
119 :
109:2010/11/06(土) 20:16:41 0
>>116 モンゴルも冬将軍に耐えてモスクワ征服を成功させたよ。
モンゴル襲来当時のモスクワはまだ木製の小さな砦ぐらいなもんだがな。
121 :
109:2010/11/06(土) 22:06:08 0
そういえばクリミア戦争はロシア帝国vsオスマン帝国の戦いなんだよね。
しかも(イギリスやフランスの協力のおかげとはいえ)近代になって
久しぶりにオスマン側が勝った戦争でもある。
まぁ、近代以前ではオスマンもプルート川でピョートルを破ったりしてるが。
ポーランドがモスクワ攻略したのは1610年
1569年のリトアニアの合併から17世紀前半まではポーランドが東欧最強
123 :
109:2010/11/06(土) 22:33:06 0
>>122 第2次ウィーン包囲のオスマン帝国の敗退も
ポーランド王ヤン3世のおかげと言っても過言じゃないからね。
17世紀前半のポーランドはオスマンの大軍を二度破り
グスタフ・アドルフ率いるスウェーデンを破り、ロシアを占領して
これだけ強いのにすごくマイナーな扱いだ
125 :
109:2010/11/06(土) 22:56:33 0
>>124 やっぱり近代のロシアによるポーランド分割や
ナチスによるポーランド侵攻&アウシュヴィッツとかのせいで
強国っていうイメージがわきにくいからじゃないかな?
僕もヤギェウォ朝から共和制期にかけてポーランドが大国だったことは
もう少し知られても良いと思うけどね。
地味に名将が多いんだよねポーランドは
オスマンの対外戦争に駆り出されるクリミア汗国の戦力ってどれくらいなの?
128 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 12:11:35 O
クリミア汗国といえば南ロシアの平原で少年少女を拉致してイスタンブールで売り飛ばしてたんだよね
それはないだろうね
アメリカには黒人の子孫がいる
マレーシアにもインド人の子孫がいる
欧州にもユダヤ人に子孫がいる
トルコにロシア人の子孫はいないからな
ロシア人だけが完全に吸収され痕跡もないとはいかに
130 :
109:2010/11/07(日) 12:33:08 0
>>129 現在のトルコ人の容貌を見る限りかなりの割合でスラヴ系が混血していると思うよ。
基本的にオスマン帝国は民族に関してはいい加減だから
スラヴ人のコミュニティは出来にくいだろうし。
まぁ、スラヴ人=ロシア人とは限らないが。(むしろブルガリア人やセルビア人のほうが可能性高い)
ロシア人の子孫がいても自分たちはトルコ人だと思ってる可能性は充分にあり得ると思う。
トルコっつーかバルカンでしょ
実際クリミアは人さらってた
クリミアはロシアを脅かしたけど
オスマンやポーランドとの共同作戦によってだからね
単体じゃロシアにはかなわんと思う
133 :
109:2010/11/07(日) 12:38:28 0
>>132 オスマンの後ろ盾が無ければもっと早くにロシア領になってたかも知れないね。
リヴォニア戦争で手薄になったモスクワを襲撃したりはできたけど
雷帝率いる主力軍相手にはモロディの戦いで叩きのめされて惨敗しちゃってるけどね
あれが本当の意味での実力だろうな
135 :
109:2010/11/07(日) 13:13:26 0
クリミア・ハン国について詳しい本って何がある?
あそこら辺の地域は良い概説書が少ない気がする。
>>130 それはおかしいな
どんな国・社会でも奴隷・労働者を大量につれてくれば
ある程度同化したとしても生活様式などに痕跡が必ず残るはず
欧州に2000年間同化したユダヤ人でさえ残ってるのに
何故ロシア人に限って完全に吸収され消えるのか?
アラブにつれてこられた黒人でさえアフリカからきた事を理解してるのに
ロシア人の子孫がトルコに大量にいたとして
先祖がロシアからきた事を理解していないというのは不自然な話だな
民族に関してはいい加減な国が奴隷を大量に受け入れるというのも変な話だな
つれてきた奴隷と積極的に混血したとなるとさらにおかしい
137 :
109:2010/11/07(日) 13:33:29 0
>>136 オスマン帝国における奴隷は家庭奴隷が中心的。
スラヴ系の美少年や美少女奴隷っていうのは大半が
性的奴隷や小姓としてだから混血していると考えるほうが自然。
アメリカみたいに奴隷の一括大量購入と言うことはオスマン帝国ではあまり見られず、
個人単位で売り買いされたのがほとんだだから、
アメリカみたいに奴隷たちがコミュニティを持つという事のほうが不自然。
オスマン帝国における奴隷制については
鈴木先生が詳しく書いていたから参考にするといいかも知れない。
後、現代トルコにはスラヴ文化の影響がいくらか見られるよ。
主に料理の面で。
オスマンは帝政ロシアの侵略を受けたチェルケス人ノガイ人タタール人や
圧政から逃れてきた農奴やコサックらの難民も多く引き入れた
139 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 14:17:10 0
>>137 アメリカにもメイド奴隷は大量にいたし混血児は生まれた
でも子孫は残ってるよ
ロシア人だけ全部が混血するというのもおかしい
たとえ性奴隷であってもお互い全く関わりがないというのは不自然
>美少年や美少女奴隷
こんな話は聞いた事がない
若い時期限定か?年をとったらどこに住む?
つじつまがあわない話が多すぎる
嘘が混じってるのでは?
オスマン、ロシア、オーストリア
まさに東欧三国志
141 :
109:2010/11/07(日) 14:29:44 0
>>139 誰も全部が混血したとは言ってない。
ただ、大多数が混血しただろうし子孫が残っていたとしても
自分がロシア人だというアイデンティティーを喪失してる場合がほとんどだろうと言ったんだよ。
民族にいい加減な国だから民族意識なんて育ちにくいしかなり同化してるんじゃないの?
現在のトルコ人なんて3代以上前は家系図を遡れないなんて言われるほど、
他民族と混血しまくってるんだからその中にロシア人がいたっておかしくないだろうに。
これもオスマン帝国が多民族国家だった名残だろう。
ちなみに年をとった性的奴隷は主人によって解放されて自由人になるのが普通。
クルアーンには奴隷を解放することは奨励されるべき行為と書いてあるので、
奴隷を購入してある程度経ったら積極的に解放するムスリムは結構いた。
142 :
109:2010/11/07(日) 14:51:10 0
>>140 この3国は成立時期も滅亡時期もほぼ同じだね。
143 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 14:57:01 0
>>141 おかしい
解放された奴隷はどこに住む?
生活費はどうする?
まるで若い女の奴隷だけ語ってるみたいだが
男の奴隷の結婚相手はどうなる?
男の奴隷と女の奴隷を分離したかのような話が嘘臭い
アメリカの黒人でさえ結婚して家族を持って子孫が残ってる
ごく少数なら消え去っても不思議ではないが
大量に奴隷がつれてこられたとなるとおかしい
オスマン=魏
オーストリア=呉
ロシア=蜀
145 :
109:2010/11/07(日) 15:24:51 0
>>143 解放奴隷がどうなるかなんてそんなもの千差万別だと思うが。
解放されてもそのまま主人の家に住んで仕える場合もあれば、
主人からもらった小遣いや自分で稼いだ金などで独り立ちする場合もあるだろう。
男奴隷だってある程度すれば解放されて結婚する場合もある。
そうして出来た子供は混血児になる場合がほとんどだろうし、
スラヴ人同士で結婚したとしてもトルコ語を話したりして現地に同化してしまうだろう。
っていうか、僕は大量にロシアからトルコへ奴隷が連れて来られたなんて言ってない。
クリミア・ハン国で売られた奴隷の内いくらかは
ロシア本国に農奴として売られたり、ハン国内で使われる場合だってあるだろう。
だから、トルコ本国に連れて来られたロシア奴隷もある程度はいたけど、
アメリカの黒人奴隷ほど割合は多くないと思うよ。
ただ、あなたは
>>129で
>>128の発言を全否定していたから、
「いや、トルコにだっていくらかはロシア人の子孫がいるでしょ、同化しているだけで。」と言ったんだ。(ちなみに、
>>128は僕ではない)
それと、トルコ国内における異民族の同化はオスマン帝国時代よりも
むしろケマルの政策によるところが大きいかも知れない。
>>145 男の奴隷が誰と結婚するんだって話しだよ
支配民族の女が奴隷の男と結婚するかい?
奴隷の男は奴隷の女しか結婚出来ないだろう?
なら必然的に民族として残るだろう
言葉を覚えるのはアメリカの黒人だろうが同じ事
民族性の痕跡すら無くなるというのは怪しい
147 :
109:2010/11/07(日) 15:59:03 0
>>146 奴隷出身のイブラヒムはスルタン・スレイマンの妹と結婚した。
基本的にイスラム圏では奴隷に対する差別がヨーロッパに比べて小さいので、
奴隷出身の男でも儲かれば良家出身のお嬢様と結婚することが出来た。
下克上が簡単に出来たのがイスラム社会の特徴。
それに民族にいい加減なオスマン帝国では「支配民族」という概念は存在しない。
支配層はいたが、支配層に入るには出身民族は問われない。
唯一の条件はムスリムであることだけだ。
それだって地方総督などにはクリスチャンもいくらか存在した。
それと、歴史上ある民族が同化して消えてしまうなんていうのは良くあることで珍しくない。
148 :
109:2010/11/07(日) 16:06:49 0
>>146 後、言い忘れたが民族性の痕跡は僕が
>>137で言ったように
料理などの現代トルコにおけるスラヴ文化の影響がそれに当たるんじゃないか
近代欧米の黒人奴隷が奴隷一般のスタンダードだと思ってる奴が多すぎる
>>149 多分、そういう奴らはオスマンは支配層自体がカプ=クル(スルタンの奴隷)だって
ことが理解できないだろうな。
151 :
109:2010/11/07(日) 16:34:58 0
>>149>>150 まぁ、普通の人にとって奴隷のイメージは「ルーツ」のクンタ・キンテとかだからねぇ。仕方ない気もする。ただ、アメリカの黒人奴隷も元を辿れば売っていたのはアラブ人たちというのがまた複雑なところだ。
152 :
150:2010/11/07(日) 18:37:36 0
現在から歴史を遡って見ていくと、多分絶対に前近代の社会が理解できない
だろうな。
オスマンの奴隷はアッバース朝のトゥルク系軍人やマムルークから見ていけば、
感覚的に近代欧米の奴隷とは根本的に違うと言うのが暗黙の了解になるけど、
現代の感覚での奴隷とか民族とかいう概念に囚われてしまうと、そこから全く
抜けれらない奴がどうしても出るだろうし。
近代史からヨーロッパ史はなんとかやれても、イスラーム史だと、西洋的価値
観で進む近現代とイスラームの価値観の前近代史に強烈な断絶が出来てしまう
から、理解が難しくなるだろうな〜と思う。その辺を自覚できてればいいんだ
けど。
奴隷でもいろんな種類があって
農場や鉱山で働く奴隷は現在でいう奴隷とあんまり変わらんかったみたいね
今のトルコ人の祖先はほとんど昔からアナトリアに住んでた人たちだよ
156 :
109:2010/11/07(日) 19:23:48 0
>>154 今年の夏にトルコへ旅行しにいったばかりだが、
見た目からして欧米から来た観光客だろうと思ってた人が
実は生まれも育ちもトルコ人だったた知って驚いたことがある。
やはり現在のトルコ人はかなり混血が進んでるんだな〜と思ったね。
157 :
150:2010/11/07(日) 19:34:14 0
>>153 そこがややこしい所なんだけどな。古代ローマの家内奴隷とラティフンディ
ウムの奴隷とかじゃ待遇が全然違うところとかな。
まあ、けど現代人が抱くような「非人間」という見方はされてはないけど。
あと、大農場奴隷なんかは、生産効率が悪すぎるから小作制に移行してい
くし、中小農家の奴隷は大切な労働源だから、酷使はできない。
それとオスマンの場合、農業生産の基本は、近世末までチフトリキという、
核家族単位の小農民だ。どこまで奴隷に頼ったかはよく知らないが、アメ
リカのような奴隷制大規模農業じゃないのは確かだ。
鉱山の場合は、まあ自由民であっても大抵過酷な労働条件なのは変わらない。
産業革命の時のイギリスで少年の鉱山労働がかなり大きな問題になってるだろ。
158 :
109:2010/11/07(日) 19:50:30 0
>>157 鈴木先生の著書によるとオスマンにおける農業奴隷の割合はかなり低く、
奴隷のほとんどが家庭奴隷か軍事奴隷だったらしい。
あなたの言うとおり基本的にオスマンの農業は中小農民による自立経営だから
そもそも奴隷を持てるような身分の農民が少なかったそうだ。
18世紀後半ごろからアーヤーンという地方有力者が台頭していき、
彼らによる大地主的な農業経営が行われるが、
その時も労働力を担ったのはそれ以前からいた自立中小農民たちなので、
基本的に農業奴隷はオスマン帝国期全体を見渡してほとんど存在しなかったと言って良いと思う。
けど近代アメリカ奴隷制もそこまで酷使したのかね
黒人が言ってるように虐待しまくってたら非生産的だと思うが
160 :
109:2010/11/07(日) 19:57:01 0
>>159 最近のアメリカ史の研究者の間ではそういう意見も多いみたいだね。
いわゆるアメリカにおける脱・自虐史観のようなものなのだろうと思う。
「風と共に去りぬ」なんかを読むと黒人奴隷の扱いも
言われているほど悪かった訳ではなかったかも知れないと思える。
アメリカの黒人奴隷に関する話はスペインの黒い伝説なんかに通じる所がある気がする。
161 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 20:00:21 0
そもそも黒海周辺には昔から遊牧民いたわけでさ
モンゴル高原からはるばるやってきたと考えるほうが難しい
162 :
109:2010/11/07(日) 20:11:55 0
>>161 オスマンの起源を黒海周辺の遊牧民に求めるというのはなかなか斬新な説だな。
一般的にオスマン帝国の起源に関しては
オグズ族から分かれた遊牧集団の一派だという説と
キョプリュリュ・ヴィテックの唱える異教徒へのジハードに燃えるトルコ系騎士を
中心としたガージー(ジハードに従事する騎士のことらしい)集団という説があるが、
現在はどちらかというと後者の説が有力だね。
君の説もなかなか面白いと思うけど、
ただやっぱりアナトリアのトルコ化はセルジューク朝のせいだという説は、
どうも覆りそうにない。僕もこっちのほうが正しい気がする。
163 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 20:18:14 0
酷使するところじゃ酷使してたんじゃねえの?
家内奴隷とデンジャーゾーンで肉体労働する奴隷とじゃ、待遇が
まるでちがうってのはアメリカもトルコもローマもバビロンもおなじ。
164 :
150:2010/11/07(日) 20:20:56 0
アメリカの黒人奴隷は、待遇が農場主の個性による所があるだろうな。それと
古代ローマの奴隷やマムルークみたいな前近代の奴隷のような階層間の流動性
がないところだし、この頃は文字通りの人種差別視点でしか扱ってないからな。
本質はどう「扱ったか」ではなくて、どう「見ていたか」だろうなあ。
でないと公民権運動が起こるわけないし、同じく黒人奴隷の多かった南米と比
べても、アメリカ国内のレイシズムは露骨だからなあ。
現代問題になってスマン
奴隷でも主人に気にいられた奴隷とそうじゃないので階級差も生じるな
166 :
109:2010/11/07(日) 20:42:15 0
>>164 アメリカに限らず古今東西、奴隷の待遇は主人の個性によるところがあったと思う。
奴隷に対する差別意識がヨーロッパに比べて小さいとされるイスラム圏だって
ザンジュの乱に代表されるように過酷に扱われた黒人奴隷もいたし。
やっぱり、アメリカの黒人奴隷に関する話は
どうも今のアメリカの発展に対する周辺諸国の妬みによる
「黒い伝説」的な雰囲気があるんだよなぁ。
って、アメリカの話はスレ違いか。悪い。
167 :
150:2010/11/07(日) 20:59:16 0
ああ、ザンジュの乱があったな。思い出させてくれてサンクス。
イスラームの黒人奴隷と言うと、ついついオスマン宮廷の黒人宦官が浮かん
じゃうから
168 :
109:2010/11/07(日) 21:36:50 0
>>167 イスラム圏の黒人奴隷の代表的な例としては他にも
オマーンにザンジバルの奴隷貿易なんかが挙げられる。
イスラム圏でも白人奴隷(イスラムにおける白人は黒人以外という意味)に比べて
黒人奴隷は相対的に立場が低いように思える。
オスマン帝国の黒人宦官だって一時的に宮廷政治を操ったことはあっても、
イブラヒムのように奴隷から宰相になったりした者は見たことがない。
オスマンの黒人宦官は中国の宦官ほど政治に強い影響力は持ってなかった。
せいぜい、ハレムの女性たちの権力争いに加担するぐらいで、
後期オスマンで本格的に実権を握ることになる官僚たちに比べれば大した事はない。
169 :
109:2010/11/07(日) 21:38:56 0
誤字訂正
>>168 誤字訂正。
誤)オマーンにザンジバルの奴隷貿易
正)オマーンのザンジバルにおける奴隷貿易
170 :
世界@名無史さん:2010/11/07(日) 21:52:01 0
>>159 しかし南北戦争の時には南軍は北軍に参加していた黒人兵の捕虜を全部殺してるんだよね。
戦争が終わるまで生き残っていた黒人捕虜は一人もいない。「歴史の再検討」も慎重に
やらないとね。
171 :
150:2010/11/07(日) 22:12:46 0
>>168 政治的な影響力や権力じゃなくて、経済的安定性と身分保障のほうだよ。
黒人宦官たちはスルタンのワクフの管財人もやってて、引退後はエジプト
で悠々自適というパターンだったみたいだったからな。
宦官長の立場だと、黒人宦官長のほうが白人宦官長より上で宮廷を取り
仕切る立場だったようだな。ハレムの内じゃまた違った世界だったという
ことだろうな。
172 :
109:2010/11/07(日) 22:27:58 0
>>171 まぁ、ハレムは外の世界と色々な意味で隔離された世界だったからね。
ただ、やっぱりイスラム圏における黒人奴隷は白人奴隷に比べ目立たないし、
ザンジュの乱やオマーンのザンジバル支配などを考えるに、
アメリカほどではないにせよイスラム世界でも
多少は黒人に対する蔑視があったのは事実だと思う。
とはいえ、あなたの言うようにオスマンの黒人宦官たちは
基本的には裕福な暮らしをしていた訳だが。
黒人蔑視はイスラムにも確実にあったな
アメリカの黒人奴隷になど興味はない。
まだモンゴルに蹂躙される前のホクホクの金髪碧目色白のスラブ女を現地で抱き放題だったトルコ人が羨ましい
金髪グリーンアイの美人なら奴隷とも交わるトルコ人はよく解ってるよ
175 :
109:2010/11/08(月) 05:05:08 0
確かにそろそろスレ違いかもしれない・・・
スレタイ通り、ロシアとオスマンの戦績について語るか。
176 :
109:2010/11/08(月) 05:06:41 0
確かにそろそろスレ違いかも知れない。
スレタイ通り、ロシアとオスマンの戦績について語るか。
177 :
109:2010/11/08(月) 05:07:22 0
悪い。手違いで同じの2度送信してしまった。
178 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 07:43:42 0
その点ロシアの皇室はハーレムをほとんど作っていないような気がするが
エカテリーナが男をたくさん作ったのが一番目立つのではないかな
あとロシアの皇室は黒から、白から、黄色から満遍なく女を
買いあさっていないな
>>178 そもそもキリスト教国で愛人はともかくハーレムなんて作れんだろうが。
何言いたいのやらさっぱり分からん
>まだモンゴルに蹂躙される前のホクホクの金髪碧目色白のスラブ女を現地で抱き放題だったトルコ人が羨ましい
>金髪グリーンアイの美人なら奴隷とも交わるトルコ人はよく解ってるよ
これ中世ヨーロッパスレにも書き込んでた白人厨だな。童貞とか馬鹿にされてた。
オスマントルコがモンゴル侵攻より前に出来たとでも思ってるんだろうか。
>>144 ロシア=魏
オーストリア=蜀
オスマン=呉
イスタンブル=襄陽・樊城
>>174 もうこの当時はモンゴル人が奴隷扱いされてた時代だ
大熊のようなコサック兵がアジア系遊牧民の少女拉致してレイプ三昧
183 :
109:2010/11/08(月) 20:25:45 0
>>182 オスマン帝国の時代というのはかなり長いので、
あなたがその内いつの時代を想定して言っているのか不明だが、
オスマン前半期はまだモンゴルもそこまで落ちぶれてないよ。
オスマン帝国自身も一度モンゴル後継国家であるティムールに敗北してるし。
レイプ願望の犯罪者予備軍が増えてきたなあ・・・
>>183 でも結果的にモンゴル後継国家の大半を滅ぼしているから間違いじゃないね
186 :
109:2010/11/08(月) 20:37:37 0
>>185 ロシアがモンゴルの後継国家を全滅させるまでに、結構時間がかかったけどね。
>>186 滅ぼす前から既にモンゴル系国家て弱体化していたからね
立場的には既にモスクワ公国より下の立場
モスクワ・ロシア自身がモンゴルの後継国家じゃね?
189 :
109:2010/11/08(月) 20:48:43 0
>>187 でも本格的にロシアがモンゴルの本格的征服に乗り出すのはイヴァン4世からなので、
オスマン前半期はまだモスクワより立場が下という事はないんじゃないだろうか。
トクタミシュのような名君も出てるし、全盛期ほどではないが、
まだ完全には落ちぶれてないと思う。せいぜいモスクワ大公国と同程度だと思う。
190 :
109:2010/11/08(月) 20:49:41 0
>>188 杉山先生なんかはそういう見方をしてるね。
やっぱり滅ぼす過程で多くの虐殺や強姦はあっただろうな
カザン・ハン国やシビル・ハン国の都市なんて殆どコサック連中に廃墟同然にされたからな
そのうえ生き残った住民にはヤサクを強要し搾り取る
192 :
109:2010/11/08(月) 20:51:05 0
>>189 誤字発見。
誤)本格的にロシアがモンゴルの本格的征服に乗り出すのは
正)本格的にロシアがモンゴルの征服に乗り出すのは
>>189 トクタミシュの時代からだろうね本格的に立場が逆転するのは
モンゴル内部の権力闘争にモスクワが干渉したりもう逆らえない状態
対ナポレオン戦争では珍しく共闘していたんだよな〜
195 :
109:2010/11/08(月) 21:27:48 0
197 :
世界@名無史さん:2010/11/08(月) 21:29:08 0
>>188 モスクワはビザンツの後継国家だ!
これは異論なかろう
>>191 イスマイル要塞が陥落した時、トルコ人4万人が虐殺されている
ロシア人少女を奴隷にしていたオスマン帝国が、ロシアの女帝に蹂躙されるとは、時代は変わったものだ
コサックに遭遇したら絶対に生きて帰れない
馬上からライフルやシャーシュカを使いこなし近代までユーラシアでは無敵の存在
200 :
109:2010/11/08(月) 22:01:30 0
>>196 そうだよ。
この結果、エジプトは完全独立の道を閉ざされる事になり、
以後イギリスとオスマンの宗主権下で生き延びる事になった。
>>197 ビザンツに関しては個人的に井上先生の
「ビザンツ文明はロシアや東欧、トルコなどの各地に遺産を残しながらも中世に滅んだ文明」
という意見のほうに賛同するなぁ。
ビザンツとロシアはやっぱり別物だと思う。
ロシアが異常なまでにオスマンへ敵対視するのはやはりビザンツの仇を取るためではないでしょうか・・・・
202 :
109:2010/11/08(月) 22:22:43 0
>>201 いや、それはないだろう。
オスマン帝国に支配されてる正教徒に対する同情とかはあったかも知れないけど、
「第三のローマ」なんて臣民ですら建前だとわかってる理念のために、
本気でオスマンに戦争しかけようなんて思ってた為政者がいる訳ない。
歴史上の大抵の戦争はイデオロギーのためじゃなくて利益のためにしてたものだと思う。
カフカース方面での戦いってあまり聞かないよね
この辺りってそもそもどちらの勢力圏にも加わらない少数民族が入り組んでた様子みたいだけど
204 :
109:2010/11/09(火) 06:38:59 0
>>203 そもそもカフカス地方の歴史について書かれた日本語の文献がほとんどないんだよなぁ・・・
カフカスの支配権争いは最初はオスマンとイランの間で繰り広げられ、
途中からロシアが加わるんだけど詳しいことはちょっと良く分からないや。
>>201 16世紀頃にはもう「異教徒のツァーリの支配化の
コンスタンティノープル総主教など我々には必要ない」
などという議論まであったそうだ。
実際後にモスクワ府主教がモスクワ総主教に格上げされる。
207 :
世界@名無史さん:2010/11/09(火) 20:56:03 0
ロシアって全然ビザンツの薫りがしないけどな
208 :
109:2010/11/09(火) 21:09:20 0
>>207 正教の国で専制皇帝だから、ある程度ビザンツに通じるところはあるんじゃない?
まぁ、だからといってビザンツの後継国家っていうのは言い過ぎだが、
ビザンツの影響は間違いなく受けているね。
でも、もしロシアがビザンツの後継国家だと言うなら、
オスマンに対しても同じことが言えると思う。
209 :
世界@名無史さん:2010/11/09(火) 21:26:50 0
オスマンはセルジュークの後継者だな
露はやはりビザンツだろ
210 :
109:2010/11/09(火) 21:34:23 0
>>209 学者によってはオスマンをビザンツの後継とみなす人もいるよ。
僕は井上先生の「ビザンツは中世に滅んだ」説に賛同するので、
オスマンをビザンツの後継だとは思わないが、
でもオスマンもロシアに負けず劣らずビザンツの影響を受けていると思うよ。
オスマンもビザンツも支配層の官僚のことを「皇帝の奴隷(カプ・クル)」と言ったし、
政治体制などでビザンツと共通する部分もいくつか見られる。
(官僚機構なんかはビザンツのそれに少し似ているらしい)
211 :
世界@名無史さん:2010/11/09(火) 23:12:28 0
さすがにシャーリアとローマ法じゃ文化が違いすぎる
212 :
109:2010/11/09(火) 23:16:45 0
>>211 ロシアだってローマ法は適用されてなかったでしょ。
それに、オスマン帝国のシャリーアは柔軟なハナフィー派だから、
ローマ法やバルカンの慣習的なしきたりなども
いくらかは法律として取り入れていたと思う。
オスマンの藩属国のワラキア、モルダヴィアあたりじゃ
ビザンツ法が長い間生きてたらしい
214 :
109:2010/11/10(水) 06:20:35 0
>>213 ワラキアもモルダヴィアもビザンツ領じゃなかったけどね。
ロシアはモンゴルの後継者だろ
情け容赦ない残虐性、文化的後進国、軍事力だけ超一流
すべて受け継いでる
216 :
109:2010/11/10(水) 16:54:12 0
そもそも「○○国は○○国の後継国家」なんて言い出したらきりがないと思う。
古代の国家以外はどんな国だって多かれ少なかれ
前にあった国からの影響は受けているもの。
そういうのをいちいち取り上げて「○○国は○○国の後継国家だ」、
「いや××国の後継国家だ」とか議論してもあまり意味はないと思う。
217 :
世界@名無史さん:2010/11/10(水) 18:01:13 0
ヨーロッパの国はローマ帝国の継承者名乗りすぎ
218 :
109:2010/11/10(水) 18:21:07 0
>>217 個人的にはローマ領だったイタリアとかはともかく、
そうじゃないロシアが「第三のローマ」を名乗ってるのには違和感あるけど、
それでも完全に間違いという訳ではない。
ロシアはキエフ・ルーシの後継でもあり、ビザンツ(≒ローマ)の後継でもあり、モンゴルの後継でもある。
オスマンもセルジュークの後継であり、ビザンツの後継でもある。
こんな結論が妥当じゃないかな?
219 :
世界@名無史さん:2010/11/10(水) 20:10:50 0
オスマンがビザンツの後継というのは違和感ありまくりだな
ロシアはモンゴル帝国の全盛期に匹敵する領土を支配したけど、モンゴルの後継というのもおかしい
ノヴゴロドの一領地が発展したものだからな
血統的にいえばロシアはノブゴロドとビザンツだろうね
オスマンは・・・オグズ族が一応先祖に当たるけどギリシャや西欧からも色々嫁いでるからね
221 :
世界@名無史さん:2010/11/10(水) 21:04:54 0
メスマン帝国
222 :
世界@名無史さん:2010/11/10(水) 21:05:41 0
メスマントルコ
それなら双方の前身である
ノブゴロド公国VSセルジューク朝で話をしてみてはどうか?
どっちもアウェーなら絶対に負けるな
片や馬を乗りこなし高度な騎射攻撃を繰り出すマムルーク
片や極寒地帯で敵を疲弊させるヴァリャーグによる焦土戦術
225 :
109:2010/11/10(水) 21:55:23 0
>>223 どう贔屓目に見てもセルジューク朝のほうが大国でしょう。
当時のロシアはまだまだど田舎だよ。
一応ノブゴロドもバルト海からウラル山脈に至る交易でそれなり発展はしていたけどね
ただド田舎であるのは間違いない
ノブゴロドの時代から既にシベリア遠征って行われていたようだね
12世紀には既にヤマル半島へ進出していた
ロシアもオスマンもヨーロッパ世界の辺境だけど、
当時のヨーロッパではこの両国をどう思ってたのかな。
周辺の蛮族が争い合ってるぐらいの感覚かな。
オスマンの全盛期はヨーロッパのほうが辺境です
そりゃカルロヴィッツ条約までのオスマンは一目置く存在だったろう
迂闊に敵にもできないけどオスマンの持つ莫大な富は力づくでも欲しいそんな心境だったろう
ロシアは・・・知らねw
ペテルブルクが出来るまでは辺境の地
233 :
109:2010/11/11(木) 05:24:28 0
>>229 16世紀のオスマン帝国の首都イスタンブルは当時ヨーロッパのどの都市よりも
人口の多い大世界都市で、当時どのヨーロッパ諸国もオスマンを
辺境だなんて思ってないよ。
ロシアのほうはピョートル1世の時代になるまで、
ヨーロッパから辺境のど田舎だと思われてたけど。
234 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 05:39:22 0
ヨーロッパじゃ、オスマンは18世紀のはじめくらいまでは、
アメリカ領やシナ帝国をのぞけば、世界最大の帝国と思われてたよね。
235 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 08:11:36 O
オスマンはいつからイギリスの属国になったんだろ
1798年からかな
黒海の制海権ロシアに取られた頃からかな。
>16世紀のオスマン帝国の首都イスタンブルは当時ヨーロッパのどの都市よりも
人口の多い大世界都市で、当時どのヨーロッパ諸国もオスマンを
それは東ローマが繁栄させたコンスタンティノープル奪ったからだろ。オスマンの手柄じゃないし
まぁトルコ人自体はオスマンでも蛮族の代名詞だったけどな
つまりトルコ人は蛮族だが
支配地域は蛮族じゃないって感じか
そもそもオスマン自身はトルコ人の帝国とか一度も名乗ってない
東ローマが滅亡した当時のコンスタンティノープルは、城壁の中で農業牧畜やるほど人口が減少してたぞ
大帝国オスマンの首都になったから返り咲いたんだよ
ヨーロッパ人がオスマンにいいイメージをもってたはずがない
ベルセルクに出てくるクシャーン帝国みたいな感じでしょ
あれはムガール帝国も混ざってるがとにかく東方の恐ろしい帝国って感じだわ
ヒストリーチャンネルみてもトルコのイメージは半月刀もった浅黒い肌でターバン巻いて馬にのってるいかついおっさん
243 :
109:2010/11/11(木) 17:34:55 0
>>242 確かに、最盛期のオスマンは確かにヨーロッパ諸国から恐れられてたけど、
第2次ウィーン包囲以降はオスマンに対する恐怖心が消えたため、
オリエンタリズムが流行り、オスマンを異国情緒の溢れる
東方のユートピアのように見る知識人もヨーロッパにはいくらかいたよ。
特にハレムなんかは西欧人のオリエンタリズム的憧れの対象となった。
244 :
エビちゃん憲兵隊:2010/11/11(木) 18:16:43 0
19世紀の西欧人のトルコ観>>>>(超え難い壁)>>
>>17世紀の西欧人のトルコ観
19世紀の頃にはもう恐怖は消え、産業革命でやつれた欧州人と昔ながらの生活をする中東人を比較して、
トルコ人やアラブ人が羨ましく思えたようですね。
19世紀の西欧人「はよ〜ん。イスラム教徒が羨ましいですうー。スコスコ
僕もイスラム教徒みたいに嫁さんいっぱい欲しいニャ。そしていっぱい孕ませたいニャ。
スルタンみたいに毎晩沢山の女の子のお尻触りまくりたいニャ。
マホメットが羨ましいニャア!僕も小学生のお嫁さん欲しいよ!!
イスラム教徒の金持ち最強ニャ。他の宗教では真似出来ないニャ。
イスラムこそ男の宗教ニャ。絶倫宗教イスラム最強!!!雄マン帝国ニャー。
毎晩同時に複数の妻を抱くタフさは異教徒には真似出来ないニャ
俺もイスラム教徒の男性のように強い男になりたいニャ。はひふへほっ!」
実際にそれをすると・・・破産ニャ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
バカ オマンコ帝国だろ
それにハーレムきずけるのは極一部の人間だけだ
246 :
109:2010/11/11(木) 18:30:00 0
>>245 確か、林佳代子女史が興亡の世界史シリーズのオスマンの本で、
「イスラームでは4人まで妻を持てたが実際には、
そんなに妻を持っていた男はほとんどいなかった」っていう事を言ってたなぁ
それが可能なら人口比がおかしすぎる
248 :
109:2010/11/11(木) 18:35:13 0
>>244 19世紀になるとオスマン帝国も次々と近代化政策を進めてたから、
西欧人のオリエンタリズムのイメージとは全然違ってるよ。
西欧人がオリエンタリズム的な視線で見てたのは、
オスマン帝国の文化最盛期でもある18世紀あたりのオスマンだよ。
ロシア、オスマン、オーストリア
支配されるなら何処が一番マシか?
>>246 コーランじゃ確かに4人まで妻を持てるってあるんだが、その4人に経済的
待遇も愛情も平等にしなければいけないという条件がついてる。
つまり、複数の女性を持つ財力のない奴、平等に愛せない人間は実質複数
の妻は持てないんだよ。一夫多妻を認めてるようで、実は制限してる内容
なんだな。
251 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 19:53:03 0
>>249 オスマンも初期は必ずしも圧政じゃなかったが、後世になると激しい圧政
バルカンのスラブ人は搾取され、虐殺されまくってるし
アナトリアのアルメニア人の運命はウクライナ人やユダヤ人並みに悲惨
てか当時の東欧でマトモに生活できる国なんてないだろw
プロイセンもポーランドも農奴制真盛り
253 :
109:2010/11/11(木) 20:02:04 0
>>251 一般的にオスマンのバルカン支配は寛容だったと言われてるけど、
19世紀以降になってバルカン半島で民族主義が台頭してくると、
それを鎮圧しようとしてオスマンの支配も抑圧的なものになってきたね。
特にブルガリア4月蜂起に対する鎮圧行為は
当時オスマンに好意的だったイギリスですら非難した。
結局東欧で一番マトモなのはへーチマン国だったな
けどその前のハンガリー支配もあまりおいしくないな
何れにせよ東欧では農奴制から逃れられない
257 :
109:2010/11/11(木) 20:44:18 0
258 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 20:49:01 0
>>237 東ローマ末期は荒廃しまくってたわけで
それを復興させたのはオスマンだよ
259 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 20:50:51 0
オスマン主義が復活するとおもしろいんだが
>>257 でも搾取支配体制に変わりないでしょ
農奴制の代わりにジズヤがある
ムスリムにもジズヤかけてたっけ?
262 :
109:2010/11/11(木) 21:01:57 0
>>260 確かに非ムスリムにはジズヤが課せられるけど、
農民の大多数はムスリムが占めてたよ。
バルカンは違うでしょ
ムスリムへの税は何て言うの?
イクター制はオスマンの場合途中でなくなったんだよね
265 :
109:2010/11/11(木) 21:14:24 0
>>263 あぁ、バルカンの話をしてたのか。
確かにバルカン半島は大部分がキリスト教徒だからジズヤも課せられたし、
ボスニアなどではムスリムによる大農地経営が行われ、
キリスト教徒の多くはムスリムの下で小作人として働いてた。
また、キリスト教徒のいくらかはデヴシルメという強制徴用のもと、
親元から引き離されイェニチェリや官僚にさせられた。
まぁ、これは出世の道でもあったから一概に搾取とは言えないけど、
キリスト教徒の家から見れば無理やり子供をとられただけだね。
266 :
109:2010/11/11(木) 21:24:35 0
>>264 税はトルコ語でVergiって言うらしい。
オスマン帝国の場合、イクター制ではなくてティマール制って言うね。
まぁ、制度的にはあまり変わらないけど。
17世紀頃からオスマン帝国の税制はティマール制から
国家が徴税権を競売にかける徴税請負制に変わったんだ。
従来、この徴税請負制はオスマン帝国衰退の要因と言われてたけど、
林先生なんかは「徴税請負制が中央政府にとって
マイナス要因になるのは18世紀後半からで、17世紀頃はむしろ
国家の収入を増やし高度な官僚機構を発展させる要因となった」と
言っている。最近じゃ、こっちの考えのほうが主流みたい。
267 :
世界@名無史さん:2010/11/11(木) 21:33:05 0
17世紀は明らかに衰退期だよな
オスマンの領土は表面上は拡張を続けたが
イギリス、フランス、スペイン辺りに大差をつけられたのもこの時期
徴税請負制に関しては
ヨーロッパの絶対主義国家でも使われてた
当時としては効率的な徴収法だね
まず中央政府が直接税を徴収するのが難しい時代だから
ただ最初はいいけど一度売り払った徴税権を取り戻すのにそれ以上の金がかかるし
最終的には残念な結果になる傾向があるね
269 :
109:2010/11/11(木) 21:38:30 0
>>267 最近は17世紀を衰退期ではなく
停滞期や変革期とみる考えのほうが主流だよ。
レパントの海戦はオスマン帝国にはほとんど影響なかったし、
オーストリアは第2次ウィーン包囲までトルコ税を設けてオスマンを警戒してた。
一般的にオスマン帝国と西欧との差が確定的になるのは、
カルロヴィッツ条約以降のことだよ。
270 :
109:2010/11/11(木) 21:46:32 0
>>268 確かに18世紀後半からは徴税請負制のせいで、
アーヤーンが台頭するという残念な結果になったね。
でも、19世紀になってマフムト2世が納税者の全国的調査を行って、
税収の中央集権化を図ったから、
徴税請負制による弊害は一応この時期からはなくなった。
オスマンとスペインって最盛期(16C)から停滞期(17C)まで時期的にはちょうど重なるよね
272 :
109:2010/11/11(木) 22:37:34 0
>>271 支配下の諸国(バルカンと中南米)が独立する時期も重なるね。
>>241 >>258 そうだとしても名前は変えないでほしかった。インスタンブールってださい
コンスタンティンとかビザンチュオンのがいい
正式な都市名はオスマン帝国の最後まで「コスタンティニエ」だが。
「イスタンブル」は俗称で、トルコ革命後の1930年に正式に都市名とされた。
275 :
世界@名無史さん:2010/11/12(金) 17:39:59 0
「イスタンブール」をださいとかいうセンスをうたがう
何でも英語読みは充分ださいと思う
イスタンボォ
278 :
世界@名無史さん:2010/11/12(金) 19:34:50 O
まあ、第二次ウィーン包囲時代でも、まだオスマンは強盛だった
ピョートルを捕虜にしたし。
決定的だったのはエカテリーナに対する二度の敗戦だね
279 :
109:2010/11/12(金) 20:11:23 0
280 :
109:2010/11/12(金) 20:20:03 0
>>278 確かに、完全に衰退して「ヨーロッパの重病人」とまで言われようになったのは、
露土戦争に負けた18世紀末から19世紀にかけてだね。
第2次ウィーン方位から18世紀前半までのオスマン帝国は
最盛期に比べれば衰退したけどそれでも、
まだまだヨーロッパの列強諸国の一角を占めていた。
「イスタンブール」のことを言ったつもりなのだが
283 :
109:2010/11/12(金) 20:28:16 0
>>281 あぁ、ごめん、勘違いしてた。
長音を入れるかどうかって事なのね。
そういえばウィキペディアのイスタンブルの記事のノートが
その事で割りと長い間、議論してたなぁ。
>>283 そんなことあったんだ?
自分は漫画の知識
285 :
109:2010/11/12(金) 20:49:34 0
イスタンブールはコンスタンティンを略してイスタンなんでしょ
略しすぎ
「スタンブル」と略したのはスラヴ人のようだが。
スラブ圏での呼称のツァーリグラードの方が格好いいな。
ペテルブルグもまたペトログラートにしてほすい
カリーニングラードもまたケーニヒスベルクにしてほすい
今はドイツ領じゃないからダメです。
292 :
109:2010/11/12(金) 23:27:13 0
>>286 イスタンブルの語源に関してはそれ以外にも、
いくらか説があってまだはっきりと分かってないよ。
他にもギリシャ語で「都市へ」という意味がなまったものだという説もある。
K1のザンビディスってギリシャ人だけど、スラブ系やらトルコ系などの浅黒いアラブ系にも見えないな。
かといってラテン系という感じでもない・けど白人には見える。 不思議だ東ローマ帝国
294 :
109:2010/11/12(金) 23:44:05 0
>>293 スラブもトルコもアラブ系じゃないぞ・・・・。
今のギリシャ人は古代からのギリシャ人の上に、
スラブ系やらトルコ系やら何やらが色々混血してる感じだね。
特にスラブ人は結構な割合で混血してるらしい。
ギリシャに限らずバルカン半島は民族移動が複雑な地域だから、
こういうことはちっとも珍しくないんだよね。
295 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 02:38:30 0
フリ人とかハッティ人とかフリュギア人もいたな。
296 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 02:52:02 0
コーカソイドの混血でよかったよな
ニグロとモンゴルの血が混ざると骨格が変形するから悲惨
ベルベル人とかタルタル人とか
297 :
109:2010/11/13(土) 07:29:29 0
>>295 それらはどっちかというとギリシャじゃなくてアナトリアのほうにいた民族だね。
古代アナトリアは他にもリュキア人やカッパドキア人や
マイオニア人(=リディア人)などがいたけど、ビザンツ帝国時代にギリシャ人と、
セルジューク朝〜オスマン帝国時代にはトルコ人と同化して消えてしまった。
黒海という天然の障壁があるおかげで命拾いしたなロシア
全盛期オスマンならノブゴロドまで北上してたろ
299 :
109:2010/11/13(土) 07:51:23 0
>>298 う〜ん、どうだろう?
全盛期のオスマンと同時代のロシアが戦ったら多分オスマンが勝つだろうけど、
当時オスマンは黒海という天然の障壁がありながら、
クリミア・ハン国を属国化していた訳でロシアが命拾いしたのは黒海よりも、
クリミアやその他モンゴル系国家が間にあったおかげじゃないかな?
しばらくオスマンの制海圏だった黒海よりコーカサス山脈の方が障壁としては有効だったと思う
やっぱあの辺りってチェチェン人やら屈強な土着の部族が居座ってなかなか大国が迂闊に介入できない事からも伺える
だから終始露土戦争の主戦場ってバルカン半島なんだろう
301 :
109:2010/11/13(土) 07:59:40 0
>>300 確かに、最初の頃はオスマンもロシアもあまりコーカサス地方に手を出さなかったね。
両国とも東の方はなんだか放置してた感じに見えるw
303 :
109:2010/11/13(土) 08:03:52 0
>>302 確かにロシア帝国は東方にはこれと言って脅威となる国はなかっけど、
オスマン帝国は東には強国サファヴィー朝が控えてるよ。
何度もオスマン帝国と戦火を交わしたライバル国だ。
304 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 11:41:38 O
シビルハン国やカザンハン国をディスってんのかよ
雷帝の稲妻で滅ぼされた連中だろ
話にならんわ
>>303 ナーディル・シャーの時はよく持ち堪えたと思う
307 :
109:2010/11/13(土) 12:38:16 0
>>304 あぁ、ごめん。その2国忘れてた。
ロシア史はあまり詳しくないんだ。スマソ。
308 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 21:34:31 0
スキタイvsヒッタイトか。
309 :
109:2010/11/13(土) 22:39:21 0
>>308 その2国はどっちも良く知らないのだが、同時代じゃなくない?
310 :
世界@名無史さん:2010/11/13(土) 22:42:02 0
アッバース朝vs唐王朝
311 :
109:2010/11/13(土) 22:44:52 0
>>310 もはやオスマンもロシアも関係ない・・・
もう少しスレタイに沿った話をしようよ。
312 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 13:19:36 O
オスマンとオーストリアについてだが、
1603年にオスマンが勝利してから、1661年からの戦争でセントゴッタルトでオスマンは大敗した。
このときはフランスの動きもあって致命傷にならなかったが、以後ウィーン、ブダ、ゼンダと連敗でオーストリアに勝てなくなった
あの間になにがっあったんだろ
313 :
109:2010/11/14(日) 13:31:21 0
>>312 この間に起きた事ですぐに思いつくのは30年戦争ぐらいだけど、
これがこの2国間の戦争にどういう風に影響したのかはちょっと良く分からないや。
1621年と1633年のポーランドの侵攻に失敗してる
それとサファヴィー帝国にも領土奪われてるけど
また奪い返してるな
315 :
109:2010/11/14(日) 14:00:43 0
そういえば、この時期のオスマン帝国はちょうどキョプリュリュ家の最盛期だね。
三十年戦争ではオスマンロシアともに本格介入はしなかったからな
おかげで荒廃した中欧に変わり台頭できたが
317 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 19:22:37 0
オスマンはサファヴィー朝と同盟くめばよかったのにな
東西どちらにも兵をさかないといけなくなかった
318 :
109:2010/11/14(日) 21:11:24 0
>>317 スンナ派イスラーム国の盟主を自認してたオスマン帝国にとって、
サファヴィー朝とはやっぱり仲良くなりにくかったのかもね。
319 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 21:20:20 0
オスマンとロシアの力関係が逆転するのは、やはりエカテリーナ時代だな
ピョートルは名君だが、オスマンには勝てなかった
320 :
109:2010/11/14(日) 21:22:07 0
>>319 エカチェリーナ2世はトルコに2回も戦争しかけて、その2回とも勝ってるからね。
321 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 21:56:42 0
ロシアも拡大期が終わると衰退はじまったからな
アメリカはいつ破綻するのか
322 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 21:59:30 0
ピョートルはオスマンには勝てなかったがサファヴィー朝には勝った
323 :
109:2010/11/14(日) 22:05:49 0
>>322 ピョートルの時代のサファヴィー朝はもう衰退しきってたからね。
それからしばらく経つと、すぐに内乱が起きて滅んでしまった。
324 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 22:14:39 0
ガングートの海戦でスウェーデン軍を破り、サファヴィー朝との戦いでも活躍した
フョードル・プラクシン提督はピョートル治世下の名将だな。
325 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 22:30:21 0
>>322 サファヴィー朝末期にカスピ海沿岸やテヘラン・タブリーズまで、全部ロシア領になってたんだよな。
次のナーディル・シャーの軍事力がもし強力じゃなかったら、ロシアは返還しなかったかもしれない。
って、昔のスレで言ってた人がいたの思い出した。
326 :
世界@名無史さん:2010/11/14(日) 22:35:13 0
フョードル・アプラクシンはフョードル3世の2番目の妃マルファ・アプラークシナの実兄にあたる。
オスマンはバルカンばかりが注目されがちだけど、
ナーディル・シャー率いるアフシャール朝にも負けて、
領土を取られているんだよね。
オスマンに不利な点を言えば東西南北に敵がいて、軍事力を
分散させないといけなかったのと、その防衛費で重税を課せねばならず、
帝国内の反乱と離反を招いたことかな。
オスマンはどうしてウィーンがあんなにほしかったのか?
ペルシア+ローマの融合体であるビザンティン文明を手にしたから、
今度は究極の美である金髪蒼目のドイツ女が欲しくなって欲が出たのか?
ドイツ人に自然の金髪碧眼は少ない、オーストリアならなおのこと(例:ヒトラー)
あれは北欧発祥の突然変異で、バルト・スラヴ圏のほうがドイツよりよほど多い
330 :
世界@名無史さん:2010/11/15(月) 16:13:38 O
オスマン自体の経済力も下り坂だったよな
ロシアは毛皮をオスマン経由せずに交易できるようになったし、香辛料はインド航路になったし
オスマン自体にめぼしい産物があればなあ
331 :
109:2010/11/15(月) 18:55:05 0
>>330 誰の本だったか忘れたけど「オスマン帝国は自国内完結型の経済だ」って、
どっかで書いてあったのを前に見た気がする。
とは言っても、あの地理的要件からして、オスマン帝国が
全く他国と交易してないって事はないと思うけどね。
僕はオスマン帝国の経済についてはあまり良く知らないが。
>>331 どういう意味で自己完結型としてるんだろう?
オスマン帝国じゃ貧民階級がヴェネツィアの輸入毛織物使ってたし、17世紀には
イギリスのより廉価な毛織物がヴェネツィア製品敗退させてる。
紙も少なくとも膨大な行政文書を作ってたオスマン書記局は好んでヴェネツィア製
紙を使用してた。
そもそもレヴァント貿易で西欧がオスマンに輸出するものがなければ片道切符で輸出入
のバランスが崩れるだけだし、もっと後のアーヤーン時代にはフランスがオスマン産綿
花を原料として輸入してる。
その代わり、フランスのほうじゃ南アフリカのコーヒーと砂糖の輸出は上手くいったけど、
繊維製品はオスマン帝国のニーズに合うものを提供できなかったからこけて、政治力使っ
て圧力かけたけどな。
333 :
109:2010/11/16(火) 05:25:13 0
>>331 僕もそこがちょっと良く分からなかった。
>どういう意味で自己完結型としてるんだろう?
多分オスマン帝国の農業自給率が高いことを言ってるのかなとも思ったけど。
確か、その本はオスマン帝国じゃなくて別の国(オーストリアだったような気がする)について、
書かれた本だったと思うから、それ以上の詳しい説明が載ってなかったんだよね。
オランダへのチューリップ輸出はどんくらいの収益あったのかね?
335 :
世界@名無史さん:2010/11/16(火) 08:06:52 0
金髪碧眼は突然変異ではない。
彼らはクロマニョン人の子孫なのだ。
彼らはそれを隠している。
猿の息子と言われるのが悔しいのだ。
336 :
世界@名無史さん:2010/11/16(火) 08:20:38 0
あのガラス玉のような目
死人のような肌
生気のない薄い唇
しょんべん色の髪
キモイ筋肉
犬のような鼻
馬鹿のように大きな体
いいなあ。うらやましいなあ。
>>333 例えば、アヘン戦争前の清みたいに、他国が清に輸出できるものが阿片しか
なかったって言うなら、「自己完結型」と言えるかもしれないんだけどな。
あるいは、ローマ帝国みたいに、ローマ世界内交易で完結できて、オリエン
トからの輸入品が贅沢品だから、高額関税を特別にかけることができたとかな。
誤爆?
339 :
109:2010/11/16(火) 16:36:23 0
>>337 多分、後者のようなニュアンスで言ってたと思う。
主な商品はオスマン帝国内でまかなえたから、他国との輸出入に頼る事が無く、
自国内で完結した経済だという意味だったと思う。
近世以前はどの国も大概自国内で完結してたけどな
341 :
109:2010/11/16(火) 17:17:49 0
>>340 オスマン帝国の時代はもう近世といっても差し支えない時代だからね。
その著者が言うにはオスマン帝国は近世になっても自国内完結型経済だったから、
他のヨーロッパ諸国と違って近代化が出来なかったという事らしい。
確か、「ハプスブルクとオスマン帝国」っていう本に書いてあった気がする。
今、手元にそれがないのでちょっと確かめられないが・・・・。
ハプスブルク家関係なら著者はヨーロッパ史のほうが専門かもしれないな。
多分、レヴァント貿易史やオスマン史の専門家は違う見解になると思う。
林佳代子女史とか。
343 :
109:2010/11/16(火) 18:41:19 0
>>342 なるほど。
ところで、レヴァント貿易で扱われてた交易品っていうのは主に何なの?
農産物とか織物?香辛料とかも取引されてたのかな?
344 :
世界@名無史さん:2010/11/16(火) 19:07:34 0
ソ連に比べたら帝政ロシアの方がまだマシだった気がする
345 :
世界@名無史さん:2010/11/16(火) 19:16:30 0
日露戦争〜第一次世界大戦辺りまでは関係が良好だったな
>343
産物については、俺が持ってる奴じゃ塩野七生女史の「海の都の物語」が
一番詳しいんだよな。まあ、作家の作品でも、大航海時代が直接レヴァント
貿易に打撃を与えてないことをきちんと踏まえてるし、他の本ともつき合わせ
ても信用できると思う。
ただ、キプロスやクレタ、黒海、イオニア海の諸島の領有権が時代ごと
に変わってるけど、オスマン領になっても経営、中継はイタリア諸都市
がやってるのもあるから、そこ踏まえておいてくれ。
そんで、主に13〜14世紀になるけど、西洋の輸入品としてはやっぱ香辛料だけ
ど、これはほとんどヴェネツィアの独占、他にオリエント・ギリシャからの輸
入品は、ペルシアの生糸にギリシャのワイン、アナトリアの明礬や、シリアの
絹織物等、輸出品としてはキプロスの砂糖に綿花、フィレンツェ織物にフランドル
の毛織物、ドイツの金属製品に錫などの鉱石、木材なんかがある。これにヴェネツ
ィア産のガラス工芸に、もうちょっと後に毛織物、絹織物、紙なんかが加わる。
金銀もドイツ銀がアレクサンドリアで西アフリカ産の金と交換されてる。
このうち、明礬は15世紀にイタリアで明礬鉱脈が見つかったから、輸入の重要性
落ちてるし、キプロスの砂糖も新大陸からの奴隷を使った大量生産砂糖に取って
代わられてる。
他に黒海でのコンスタンティノープル、アレクサンドリア、西洋との中継も
ジェノヴァ、ヴェネツィアがしてるけど、扱ってる品目は上記の他にウクラ
イナの小麦にロシアの毛皮、コーカサスからの奴隷、木材なんかもあるな。
大量生産品じゃないけど、かなり複雑で大規模なネットワークだよ。絹織
物だけでもオリエントと西洋のそれぞれの産品が行き来してるし。
これだけネットワーク化してるし、オスマンがインド洋でアデン押さえた
から、ポルトガルのインド航路の香辛料貿易は、結局レヴァント貿易には
敗退してる。
347 :
109:2010/11/16(火) 21:02:17 0
>>346 わざわざありがとう。
なるほど。明礬っていうのはちょっと意外だな。アナトリアって明礬取れるのか。
やっぱり主に嗜好品が交易の対象となってたんだね。
大航海時代に入っても地中海はまだしばらくは安泰なのね。
この時代の地中海交易はやっぱりオスマン帝国が中心なのかな?
ヴェネチアも無視できないけど。
348 :
世界@名無史さん:2010/11/16(火) 21:08:28 0
香辛料貿易が衰えたのは、新大陸のトウガラシが普及してからかな
ヨーロッパ人の嗜好も変わったらしい
中世末期からは香辛料は貴族のステイタスで
料理にふんだんに使ったけど
近世のいつからか香辛料がステイタスでなくなり
素材を重視する料理が主流になったとか
それで香辛料の価格が暴落したとどこかで読んだな
>>347 制海権はともかく、オスマン商人はあまり西洋に来てないかな。ヴェネ
ツィアのトルコ商館はかなり後の時代に出来てる。
貿易の担い手はやっぱヴェネツィアやジェノヴァ商人だけど、後からフ
ランスやフィレンツェ、更にオランダとイギリスが入り込んでくる。
フランスなんかは同盟国だから、カピチュレーションというスルタンの
恩恵的な商業権利を与えられてる。
嗜好品が多そうに見えるけど、意外に中産階級以上にはないならないで
困るものでもあるんだよ。人間って一回上がった生活レベルなかなか落
とせないからな。
明礬もそうだけど、染色関係品なんかは必需品だし。
>>348 東南アジアの生産地をオランダやイギリスが植民地化してからかな。中継
貿易じゃなくて、直接産地を押さえた上、各国が各地の植民地に移植して
栽培しはじめたからだから、17世紀以降になるかな。
まあ、それらの国の海軍力の向上もあると思うけど。ポルトガルの航路開
拓の頃はまだそこまでの力なかったから、インド航路を独占できなかった。
武力で航路独占して香辛料を独占するって手法にも無理があって、ポルトガ
ルの船員自身がかなりの量をレヴァント貿易に繋がる陸上ルートに横流
ししてたからなw
351 :
109:2010/11/16(火) 23:08:09 0
>>350 う〜ん、トルコ商人ってあまり地中海交易に関わってないのか。
まぁ、塩野先生のことだからいささかイタリアびいきに書いてる部分はあるだろうけど。
やっぱり、ポルトガルの香辛料貿易はレヴァント貿易に
大した影響を及ぼしてないみたいだね。
インド洋の覇権をオランダが担うようになってきた17世紀半ばからが、
レヴァント貿易の衰退期とみて良いのかな?
>>350 17世紀以降だと、オスマン内の域内交易でもヨーロッパの船をレンタルしてるし、
極端な言い方になるけど、オスマン帝国じゃ交易に従事する人間がどこの国で
も構わなかったってことだよ。
香辛料中心のレヴァント貿易は、オランダの台頭がやっぱ大きいな。1625年にヴェ
ネツィア政府は香辛料を「西欧商品」として分類しなおしてるくらいだから、
その辺が転機と見ていいと思う。
>>327 それ以前にサファヴィー朝のアッバース大帝にも領土取られてたような
355 :
109:2010/11/17(水) 19:45:21 0
>>352 なるほど。そこら辺がオスマン帝国が民族にいい加減と言われる所以なのかな?
>オスマン帝国じゃ交易に従事する人間がどこの国で も構わなかったってことだよ。
356 :
世界@名無史さん:2010/11/17(水) 21:42:43 0
ロシアの商人は毛皮貿易で大儲けしてたからな
先進国と交易するのは近代化の上で有利。その点オスマンは後進国にとどまったな
357 :
世界@名無史さん:2010/11/17(水) 21:49:59 0
毛皮貿易なんてアッバース朝のころからやってる
358 :
世界@名無史さん:2010/11/17(水) 21:50:41 0
民族主義勃興以前は宗教のほうが意味があるからなあ
359 :
世界@名無史さん:2010/11/17(水) 22:13:55 0
9割の農奴に支えられた帝政ロシアの圧制経済
360 :
世界@名無史さん:2010/11/17(水) 22:28:02 0
おろしやさん
>17世紀以降だと、オスマン内の域内交易でもヨーロッパの船をレンタルしてるし、
>極端な言い方になるけど、オスマン帝国じゃ交易に従事する人間がどこの国で
>も構わなかったってことだよ。
ふと思ったけど、ビザンツ帝国がヴェネチア商人やジェノヴァ商人に制海権握られたのと
同じ道たどってない?
362 :
109:2010/11/18(木) 04:49:19 0
>>356 別にオスマン帝国だって周辺諸国との交易はしてたでしょう。
>>361 オスマン帝国はたまに負けることはあったけど、
基本的にヴェネチアとの戦いにはほぼ全て勝ってたよ。
>>361 主導権をどちらが持ってるかと、商業への考え方の違いだと思うよ。
経済史とか経済構造はよく知らないけど、少なくとも近世までは制海権は
オスマンが握ってたし、他国に経済を牛耳られることはなかった。
他国がオスマン内で交易することは、前述のようにカピチュレーションと
いう、スルタンの「恩恵」なんだよ。
他国の製品でも良ければ使用される分、帝国内の産業が常に自由競争に
晒されるわけだから、悪い結果だけにはならないだろ。
まあ、少なくとも近世の中国・日本みたいに「閉じた」自己完結型では
なかったということだろうな。
オスマン内のギリシャ正教徒住人が西洋商人とうまく結びつくことで遠
距離交易の財は積んでるけど、それは結局帝国の収入ってことだしな。
ただ、近世末になれば、ギリシャ正教徒住民が経済力を持ちすぎてムスリム
だけじゃなくて他の宗派の正教徒住民の憎悪を煽ってるが。
問題になったのはフランスが18世紀にカピチュレーションの内容を変
えて以来だな。もともと交易の特権持ってることだったのが、特権の対
象をフランスの庇護民にまで拡大したから、キリスト教徒商人たちが、
フランスの保護民になることで、オスマン帝国商人が、帝国の人間じゃ
なくなってからだろう。それと文字通りの安い大量生産品の時代になっ
てからだとさすがに太刀打ちできなくなるし。
このタイプのカピチュレーションはオスマンが受身になってからあちこ
ちのヨーロッパ諸国と結ばされてる。
とにかくフランスは布教とか貿易名目で他国に保護民を作ろうとするし
なあ。
中国でも阿片戦争後に名目上のキリスト教徒になって教会の保護を受け
て官憲の追求を逃れるヤクザや犯罪者が増えて、それが民衆の西洋憎悪
の一因になってるし、タイでも17世紀頃に横柄に振舞いすぎて、一旦フ
ランスは追放されてるしな。
オスマン・ペルシャ戦争て散発的に起きてるけどわりと接戦だね
どちらも本当の目標は違うからねオスマンはあくまでバルカンが主戦場であり
一方のペルシャはアフガンやトルキスタンへの進出をやりたかった
本音ではお互い共存関係で行きたかっただろうけど僅かでも国境線伸ばそうと意地張ってしまうんだろう
オスマン帝国がイラン高原まで進出しても、あんまりいい事がないよね。
そこには、シーア派住民ばかりしかいないのだから、統治も大変だろう。
しかも、サファヴィー朝はシーア派のイマームの子孫としてカリスマ性十分だったし。
アララト山辺りを国境線としたのは、賢明な判断だったんだろう。
>>364 サファヴィー朝の当初の目標は東部アナトリア。イスマーイールはキジルバシュを
扇動して散々オスマンのアナトリア領を引っ掻き回してる。戦争後もオスマンはキ
ジルバシュには手を焼いてる。
オスマンはオスマンで東方の目標は聖地のバグダードを含むメソポタミアとアゼル
バイジャンを含む黒海東岸のカフカス地方。こっちはメソポタミアがオスマン、
カフカスはサファヴィー朝ということで一応手打ち。それでもアッバース1世の時
代も含めて、国境線は散々争ってる。
ちゃんと互いの領土に目的も利害衝突もあって兵を進めてるよ。
368 :
109:2010/11/18(木) 19:06:22 0
>>365 この時代のオスマン帝国はキョプリュリュ・アフメト・パシャの時代だね。
そうか、彼の実績の1つであるクレタ島奪取は物量で押し切って成功したのか。
まぁ、オスマン帝国は基本的に陸軍>>>海軍だからね。
海洋国家であるヴェネチア相手の海戦は少し不利になっても仕方ないね。
(オスマン帝国の海軍だってそれなりに強いけど)
後、これに限らずオスマン帝国が戦争に強かったのは、
基本的には圧倒的な物量で押しまくったからというのも1つの大きな要因なんだよね。
>>368 クレタ島の攻防戦は陸上戦はヴェネツィアの徹底的な拠点防衛だから、陸上
決戦タイプじゃないし、衝突はどうしても海で起こってるから。
一時はイスタンブールも海上封鎖されてる。
そんで、キョプリュリュ・アフメト・パシャの功績というのは、政権を取った
後にその前から四半世紀続いてた戦争を勝つまで終結させなかったことかな。
元々がオスマン内の政争の結果で無理やり出兵した、それほど必要で
もなかった戦争で、双方国力を消耗させただけのようなものだけど。
オスマンは出兵した意地と面子だけで続けたような気がするなあ。
クレタ戦争の終結はさすがの超長期戦に消耗しきったヴェネツィア側の
司令官のフランチェスコ・モロシーニが勝手に開城したから。まあ、
ヴェネツィアも25年もよく攻城戦耐えたと思うよ。
370 :
109:2010/11/19(金) 04:59:06 0
>>369 1つ1つの海戦だったらヴェネチアのほうが有利だけど、
長期戦に持ち込まれたら国力の差でどうしてもオスマン帝国のほうが有利だからね。
クレタ島奪われるのは仕方ない事だったと思う。
結局、彼の時代にオスマン帝国の領土は最大に達して、
スレイマン大帝の頃と並ぶぐらいの繁栄を築いたんだよね。
>>370 >結局、彼の時代にオスマン帝国の領土は最大に達して、
>スレイマン大帝の頃と並ぶぐらいの繁栄を築いたんだよね。
けど、本当はヴェネツィアのほうも経済構造が農業にシフトしつつあった
し、その前から産業構造が変化して海外交易が重点じゃなくなってるから、
ヴェネツィア海軍も当時は確実に質が落ちてるんだよ。
そのヴェネツィア海軍に勝てなかったのだから、これはトルコ海軍の質も
相当低下してることを示してると思うんだけどね。
実際にこの後の第2次ウィーン包囲に始まる戦争じゃ、上記のフランチェスコ・
モロシーニの率いるヴェネツィア軍にペロポネソス半島の拠点一時的に奪わ
れてる。火薬倉庫にされてたアテネのパルテノン神殿が吹っ飛んだの、この
時のヴェネツィアの砲撃のせいなんだけどな。・゚・(ノД`)・゚・。
372 :
109:2010/11/19(金) 06:37:50 0
>>371 元々、オスマン帝国は大陸国家で軍の中心はあくまで陸軍だからね。
成立から滅亡までずっと陸軍>海軍だ。
海軍も決して弱かった訳ではないけど、それでも全盛期を過ぎれば、
ある程度弱体化してしまうのは仕方のない事だと思う。
それでも物量で押し切って勝てたキュプリュリュ・アフメト・パシャの実績は、
それなりに評価する事が出来るんじゃないかな?
>>372 キュプリュリュ・アフメト・パシャの実績は実績だろうけど、クレタ占領に
関しては個人の実績で、オスマン帝国にどれだけのメリットがあったかどう
かだよ。領土が最大なのがその国の最盛期を単純に表してるわけじゃない
のは分かるだろう?
既に言ったように、クレタ戦争を始めたのは当時のオスマン政治家達のある意味
暴走だし、物量作戦はその頃からやってる。もう泥仕合で最後まで踏ん張ったほ
うが勝ちって状態だったんだよ。
イスタンブールの封鎖の解除やその泥沼を終わらせたのはキュプリュリュ・アフ
メト・パシャの政治上の実績にはなったろうけど、彼が最初から主体的にクレタ
戦争を主導してたわけじゃないし、クレタ戦争がオスマンにメリットをもたらす
ものじゃなかったってこと。もう東地中海の重要性は落ちてるんだから。
繰り返すけど、クレタ占領に関してはオスマン領土を拡大したのが功績じゃなく
て、終わらせたのが実績になるんだよ。しかも、それもヴェネツィア側でも意図
していなかった、最前線の司令官の勝手な開城と交渉の結果だから、状況次第じゃ
キュプリュリュ・アフメト・パシャの生きてるうちに終わらなかった可能性もあ
る、偶発的な終了の側面も無視しちゃいけないってことだよ。
いくらなんでもキョプリョリュがスレイマン大帝の時代に並ぶってことはないわ
スレイマンの時代と違ってヨーロッパに対して軍事力が明らかに劣勢になってる
ポーランドのポドリアも占領したがあれはウクライナのコサックがポーランドを裏切って招き入れたから可能だった
実際その直後のホティンの戦いではポーランドに完敗してるし
キョプリョリュは有能な政治家だけどどっちかというと内政でしょ
375 :
109:2010/11/19(金) 17:03:25 0
>>373 なるほど。
でも、
>>346によるとこの頃はまだレヴァント貿易が完全に廃れた訳じゃないそうだし、
東地中海の戦略的重要性が全くないという訳ではないんじゃないかな?
オスマン帝国にクレタ島のヴェネチアからの奪還は自国領に近いヴェネチアを、
オスマンの勢力圏から追い出すという意味もあった訳で必ずしも無意味とは思えないなぁ。
まぁ、泥沼な戦争を終わらせられたという意味もあるだろうけど。
>>374 スレイマン時代ほどっていうのは確かに言い過ぎだったかも知れないけど、
まだ当時のオスマン帝国はそこまで落ちぶれた訳じゃないよ。
軍事力もかつてヨーロッパに対して持ってた圧倒的な優勢とまではいかないけど、
せいぜいヨーロッパ諸国と互角のレベルで劣勢というほどではない。
オーストリアやヴェネチアとの戦いでも勝ち戦はいくらかあったし。
キョプリュリュ家の功績は外交面よりも内政面のほうが大きいのには同意。
いやけどロシアに1700年ぐらいに、オーストリアにも1730年ぐらいに勝っただけで
対ヨーロッパ戦線は17世紀後半以後勝率2割ぐらいじゃね
377 :
109:2010/11/19(金) 17:57:43 0
>>376 そもそも17世紀のオスマン帝国はあまりヨーロッパと戦ってないからね。
17世紀前半までは長い間サファヴィー朝との戦いに明け暮れていた訳で、
キョプリュリュ家が台頭したのはそれが収まって小康状態に入ったのとほぼ同時期。
その後のオスマン帝国のヨーロッパとの主な戦績は、ヴェネチアからのクレタ島奪取、
第2次ウィーン包囲でボロ負け、大北方戦争ではピョートルを打ち破り、
パッサロヴィッツ条約でベオグラードを失うも約20年後に取り返す・・・ってところかな?
18世紀後半からはエカチェリーナ2世のロシアが攻めてきて、
ここら辺になるとさすがにヨーロッパに比べて軍事的劣勢が覆い隠せなくなったね。
378 :
373:2010/11/19(金) 18:16:42 0
>>375 >>346も俺の書き込みだよ。それと
>>350と
>>352もそう。
>>346はあくまでもポルト
ガルのインド洋航路開拓の頃の話。流れで読めば、クレタ戦争の頃にはレヴァント
貿易から大西洋ルートに主流が移っちゃってるのが分かるだろう?
ヴェネツィアの交易国家からのシフトはそのままレヴァント貿易の衰退示してると
言ってもいいくらい。
本気でオスマンがクレタ島欲しかったら、それこそ海軍力が充実してた16世紀以前に
やってる。17世紀のオスマンは軍事的拡大が限界に達した後の構造変換の時代なのは
知ってるだろう?その中でのクレタ出兵だったんだよ。
このクレタ戦争に近い例は第二次ウィーン包囲だよ。あれも軍人政治家の独走だろ。
それと「奪還」じゃなくて「奪取」。奪還じゃクレタ島がオスマン領だったみたいな
誤解与える。
いや第2次ウィーン包囲以外でも目だったところでオーストリアにサンゴタールとか
ゼンタとかでも負けてるし
ポーランドとは17世紀5回戦って戦闘では最初の1戦以外全部負けてる
ポドリア取った時もウクライナ・コサックの誘導で占領しただけでポーランド軍主力との戦闘では負けてんだよね
とにかく戦闘で勝てなくなってるんだよね
380 :
109:2010/11/19(金) 18:32:02 0
>>378 あぁ、「奪還」って書いてしまったか。悪い。
個人的にクレタ戦争は15世紀からのエーゲ海を巡るオスマンとヴェネチアとの争いの、
最後の戦争だというふうに見てるんだけど、
(これ以来エーゲ海は完全にオスマン帝国の内海になったし)
まぁ、当時軍人や官僚の政権争いが激しかった帝国内における
軍人の暴走という側面もあったかも知れないね。
でも、エーゲ海からヴェネチアの影響を完全に排除できたのはプラスだとも思うけどね。
381 :
109:2010/11/19(金) 18:38:25 0
>>379 サンタゴールは良く知らないけどゼンタの戦いは
第2次ウィーン包囲から続く大トルコ戦争の一環でしょ。
さっきの第2次ウィーン包囲での大敗に含めたつもりなんだけど。
後、対ポーランドに関してはそもそも中央のイスタンブルから遠すぎる上に、
オスマン帝国自身があまりこの地域への進出にそれほど熱心でもなかったから、
勝率が低くなるのはある程度は仕方ないと思うよ。
書き方が悪かったね
軍事的劣勢というのは戦闘能力のことね
戦略的に考えればまだオスマンは互角だったといえるかな
戦闘の負けで大幅に崩れることはなかったから
それにポーランドも守勢だったから有利ともいえるか
けどそれでも10万越える大軍送ってたけど
なんでポーランドとあんなに戦争したのかよくわからんが
384 :
109:2010/11/19(金) 18:58:13 0
>>382 個々の軍の戦闘能力だったら30年戦争などを通して、
近代化された軍を持つようになったヨーロッパのほうが確かに上だね。
ただ、林先生によるとオスマン帝国もオーストリアとの長期戦争の後半で、
ヨーロッパの最新式の軍備を備えるようにしたから完全に劣勢だった訳でもないと思う。
>>383 オスマン帝国の基本的な戦術は圧倒的な物量作戦だからね。
オスマン帝国はちょっとした戦争にも平気で10万単位の軍を送ってる。
385 :
373:2010/11/19(金) 19:34:08 0
>>380 >個人的にクレタ戦争は15世紀からのエーゲ海を巡るオスマンとヴェネチ
>アとの争いの、最後の戦争だというふうに見てるんだけど、
第二次ウイーン包囲後、カルロヴィッツ条約までの間ずっと戦争しっぱなし。
条約後はヴェネツィアにペロポネソス半島割譲されてて、取り返すのは次の
18世紀の時代。もう東地中海が辺境と化してる頃だし、ヴェネツィアは農業
国に転換してて、エーゲ海の覇権争いって言うとドラマチックだけど、冷静
に見れば時代遅れなことで国際情勢にそれ程の影響があったわけじゃない。
エーゲ海からヴェネツィアの影響も何も、ヴェネツィアは航海条例で失敗して
オスマンとの戦い以前に地中海貿易への影響力自体がもう減少してるんだよ。
この情勢の中でクレタ島からヴェネツィア追い出して、オスマンにどういう
プラスがあったのか、具体的にきちんと説明して欲しいんだが。
攻め込まれたヴェネツィアのほうじゃ、制海権失っても400年以上自国領だっ
た所だし、エーゲ海の最後の領土に執拗に執着した理由は十分成立するよ。
あえて苦言を言うが、ヴェネツィア史や当時の地中海情勢を無視して領土拡張
と軍事力だけで言っていても、君の言うオスマンのクレタ戦争での意味合いが
伝わってこないよ。物量作戦でも圧倒的優位なはずのクレタ戦争に25年費や
したのは、軍事力はともかく寧ろその頃のオスマン内部の混乱が如実に現れて
るとしか取れない。
キュプルル・アフメト・パシャの実績はその混乱を収拾した政治家としての実
績であって、オスマン帝国にとってクレタ戦争自体はそれほど意味がなかった
んじゃないかと、俺は言ってるんだけど。
386 :
109:2010/11/19(金) 19:51:50 0
>>385 う〜ん、確かに僕はヴェネチア史にはあまり詳しくないから、
当時のヴェネチアがそこまで衰退してたのは知らなかったよ。
まぁ、クレタ戦争の長期化は確かに帝国内の政権争いのゴタゴタのせいだろうね。
僕も
>>375で言ったようにキョプリュリュ家の功績は内政面のほうが大きいと思ってるよ。
確かにこの戦争でオスマン帝国にはあまりこれといった利益はなかったかも知れないね。
ただ、どっちみちキョプリュリュはその泥沼な戦争を最終的には自国の勝利という形で、
終結させられたんだからこれは普通に外交的功績に入ると思うよ。
いくらクレタ島に戦略的価値はなくても、領土を得るというのは税収などで、
それなりの利益は少なからずあるはずだと思うし。
まぁ、僕も少しクレタ戦争の意味合いを強調しすぎてしまったかも知れないけど。
後、カルロヴィッツ条約でヴェネチアが獲得したのは、
ペロポネソス半島じゃなくて、ダルマチアじゃなかったっけ?
387 :
373:2010/11/19(金) 20:10:27 0
>>386 ペロポネソス半島も割譲されてるよ。本によってはモレアとしか書いてない
かもしれないが、ペロポネソス半島のこと。
その後にパサロヴィッツ条約でオスマンに取り戻されてる。君はかなり
オスマン好きみたいだが、それでも把握してないくらい当時のエーゲ海の
制海権が関心引かない問題になっちゃってるってことだよ。
388 :
109:2010/11/19(金) 20:17:46 0
>>387 あぁ、そう言えばモレアが取れられてたね。
当時、オスマン・ヴェネチア双方にとってエーゲ海はどうでもいい存在だったのか。
でも、両国の領土取引の場が主にずっとそこだけった事を考えると、
全く関心がなかったという訳でもないのかな?
特にオスマン帝国にとってエーゲ海を取られるのは、
首都イスタンブルが攻められる危険が増すことにもなるから。
389 :
373:2010/11/19(金) 20:17:49 0
あと追加。
>どっちみちキョプリュリュはその泥沼な戦争を最終的には自国の勝利という形で、
>終結させられたんだからこれは普通に外交的功績に入ると思うよ。
これは
>>369、
>>373で、ヴェネツィアの総司令官のフランチェスコ・モロ
シーニの本国にも無断の開城で、キョプリュリュの能動的な外交ではない、
偶発的要素であることは既に指摘済み。
当時のオスマン帝国やキョプリュリュを過小評価するのは勿論問題だけど、
過大に持ち上げすぎるのも同じくらい問題だよ。
390 :
109:2010/11/19(金) 20:22:42 0
>>389 ふ〜む。キョプリュリュが勝てたのは偶発的要因が大いに強かったのか。
まぁ、確かにキョプリュリュは内政のほうが成果残してるしね。
外交的功績としてはクレタ奪取よりもむしろポドリア獲得のほうが大きいのかな?
パルテノン神殿弾薬庫にしてたら砲弾直撃して吹っ飛んだのって
たしか対ヴェネチア戦争だっけ
392 :
109:2010/11/19(金) 20:25:05 0
393 :
109:2010/11/19(金) 20:30:45 0
>>390に追加。
でも、総司令官を疲労させるほどの物量で押し切ったっていう事でもあるんだから、
全くの偶然とは言えないんじゃないかな?
上手くフランチェスコ・モロシーニに開城を決意させたっていうのも、
キョプリュリュの実力にある程度は入ると思う。
まぁ、それ以前の長期戦争で疲労してたのもあるだろうけどそれはオスマンも同じだし。
394 :
373:2010/11/20(土) 05:08:58 0
>>393 そこまで行くと、何が何でもキョプリュリュ・アフメト・パシャの功績にするた
めの抗弁になるぞ。
繰り返すけど、クレタ戦争はもうキョプリュリュが政権を取る遥か前の四半世紀
前から続いてて、オスマンは帝都の海上封鎖食らうわ、ヴェネツィア側でも負担
が限界でボロボロの状態、もうどちらかが折れても仕方ない状況だったんだよ。
海上封鎖じゃイスタンブル市民に暴動が起こっても仕方がない状況で、当時のオ
スマンじゃそれが大宰相やスルタンの命に直結する事態なのは知ってるだろう?
ヴェネツィアも国力がない分、疲労させるほどじゃなくて、もうとっくに疲労し
てた。歳入より戦時支出のほうが遥かに上回る状態がずっと続いてたんだからな。
オスマン軍の疲労はまだ兵の入れ替えができただけマシなほう。
キョプリュリュが断固とした攻撃を命じたかもしれないが、寧ろキョプリュリュ
のクレタ戦争の軍事的功績はとりあえず海上封鎖を解いたことだよ。
モロシーニの開城は本国を無視したものだから、モロシーニ以外の司令官だったら
開城しなかったかもしれないし、或いはモロシーニが断固として戦った可能性だっ
てある。いずれにしても開城のキャスティングボートはオスマンでもヴェネツィア
本国でもなくモロシーニ個人が持ってたし、オスマン側から開城交渉を持ちかけた
わけじゃない。
キョプリュリュも高齢だったし、これだけ戦争状態が恒例になってたら場合に
よっちゃキョプリュリュの死後だって続いてた可能性があるんだよ。海上封鎖
だって再開されたかもしれない。オスマンやキョプリュリュの能動的結果とする
には、あまりにも不確定要素・偶然の要素が強すぎるんだよ。
これでキョプリュリュやオスマン帝国の功績にクレタ攻略を入れるってのは、
オスマンやキョプリュリュ贔屓にしかならない。
君の主張はエーゲ海からヴェネツィアを排除したことがプラスになったとか、
ほとんど実態を伴わない想像で補ってるだけで、根拠がなさ過ぎるんだよ。
一歩間違えばオスマンマンセーになりかねない危険がありすぎる。
395 :
109:2010/11/20(土) 05:19:52 0
>>394 まぁ、僕だってオスマンマンセーとかするつもりは毛頭ないけど。
つまりクレタ戦争は結果的にはオスマン・ヴェネチア双方にとって大したメリットはなく、
お互いに国力を疲弊しただけって訳か。結果だけみるとオスマンの勝利だが。
396 :
373:2010/11/20(土) 06:43:39 0
クレタ島はそりゃ東地中海の要衝だけど、当時のクレタ戦争にヴェネツィアに
代わって東地中海に進出してきてたイギリスやオランダ、フランスが国家としては
積極的に介入してないだろ?
それだけ東地中海域の重要性が落ちてるんだよ。まあ、双方局地戦に国力注いで
たってことだよ。
397 :
世界@名無史さん:2010/11/20(土) 12:27:25 0
やっぱりレパント以後はオスマンはかなり衰退してたんだな
日本だけでは第二次ウィーン包囲っていう論法になっているが
やはり全世界的にみると、レパント以後の衰退は覆いがたいんじゃないかな
一応、オーストリアには1603年に勝利しているが、1661年以後は連戦連敗で勝てないし
衰えきったヴェネチアにそんなに苦戦するようじゃ、イギリスやロシアに差をつけられるわけだ
そうして苦労して得たエーゲ海の制海権も、100年もしないうちにイギリスに奪われるわけで
398 :
373:2010/11/20(土) 12:50:43 0
>>397 >やっぱりレパント以後はオスマンはかなり衰退してたんだな
誰もそんなこと言ってないが?単純に構造転換の時代でこの時は軍人政治
家同士の争いで混乱してるってだけで、衰退してるとは言ってない。勝手
に誤読しないでくれ。
衰退より停滞だな
他が発展した
もうちょいはっきり書くと
オスマンが停滞してる間に
周りの国が強くなってしまった
401 :
109:2010/11/20(土) 13:50:42 0
レパントの海戦って戦争だけ見るとオスマンの負けだけど、
戦後の状況を見るとオスマンはヴェネチアからキプロスを奪うわ、
スペインからチュニスを奪還するわで、相対的に見ると完敗とは言えないんだよね。
>>400 17世紀前半のオスマン帝国はジェラーリーの反乱など内部でのゴタゴタが激しかったから、
一時的に停滞しただけでキョプリュリュが台頭してからは再び政治が安定して、
ポーランドなどに対外遠征する余裕を取り戻してるよ。
僕がキョプリュリュ家の功績は内政面のほうが大きいと言ったのは、
主にこういった国内政治の安定化を指してたんだけどね。
それでも、まだ戦史的に見ても17世紀から18世紀前半までは、
ヨーロッパ諸国と互角くらいだというのは
>>377>>381>>384辺りで指摘済み。
402 :
世界@名無史さん:2010/11/20(土) 13:59:41 O
17世紀はもう互角とはいえないだろ
互角なのは16世紀後半
18世紀はエカテリーナにもナポレオンにも負けてばかりでかつての栄光はない
403 :
109:2010/11/20(土) 14:13:10 0
>>402 17世紀のオスマンはヴェネチアやオーストリアやポーランドなどと勝ったり負けたりの状態。
優勢ではないけど勝ち戦もあるから劣勢ではないよね?だから互角と言った。
エカチェリーナ2世以降はもはや完全に衰退してしまったというのには同意。
(っていうか僕は同じ事を
>>377で既に言ってる)
俺はウィーン包囲まではほぼ互角
その後は17世紀前半まではやや劣勢って感じだな
ごめん18世紀前半だ
406 :
109:2010/11/20(土) 14:31:06 0
>>404 第2次ウィーン包囲は1683年だよ。なんで「その後」が17世紀前半になるの?
それとも第1次ウィーン包囲の事を言ってるの?いくら何でもそれはない。
第1次ウィーン包囲の後だってオスマン帝国はヨーロッパと積極的に戦って領土拡大してる。
407 :
109:2010/11/20(土) 14:33:06 0
>>405 あぁ、18世紀前半ね。それだったら同意。
完全に劣勢となるのは18世紀後半からだけど、それ以前もちょっと劣勢だったね。
まぁ、大北方戦争でピョートルを捕囚したりもしてるけど。
ナポレオンとの戦いはオスマンの勝利のうちに入るのかな。
それともただのフランスの自滅?
409 :
109:2010/11/21(日) 21:37:56 0
>>408 ナポレオン戦争に関してはイギリスの協力が大きかったとは言え、
一応、結果としてはオスマン帝国の勝利って事になってるよ。
410 :
世界@名無史さん:2010/11/21(日) 22:56:06 0
シャルダンのペルシア紀行よんでると、フランス外交官がオスマン宮廷で
カピチュレーションのために、どれほど苦戦してたかが、赤裸々にえがかれているね。
これは17世紀後半くらいになるのかな?
411 :
109:2010/11/21(日) 23:06:49 0
>>410 その本を読んだ事がないので良く分からないけど、
オスマン帝国がフランスに対して初めてカピチュレーションを結んだのは1536年だね。
と言っても、この頃はまだオスマン帝国によるフランスへの恩恵という面が強くて、
これの内容が不平等条約じみてくるのは18世紀半ば頃からだよ。
この頃、カピチュレーションの内容が恩恵的なものから不平等条約的なものへと変わった。
具体的には両国の関係を対等とし条約の起源を永久にした上で、
オスマン帝国内のキリスト教徒(≒商人)に対するフランスの保護権を認めたんだ。
多分、その本はその時(18世紀半ば)の交渉の様子を書いてるんじゃないかな?
412 :
世界@名無史さん:2010/11/22(月) 17:53:48 O
オスマンの勝利というより、イギリスの勝利だな
プラッシー以後半植民地化が進んでたが、止めになったもん
第一次大戦でインドがドイツに勝ったと言ってるようなものだな
413 :
109:2010/11/22(月) 18:12:49 0
>>412 まだこの頃のオスマン帝国はイギリスの半植民地とは言えないんじゃないかな?
っていうか、ナポレオン戦争からギリシャ独立戦争辺りを境にして、
オスマン帝国はイギリスの半植民地状態になったんだけどね。
後、第1次世界大戦時のインドは名実共にイギリス領だったけど、
ナポレオン戦争時のオスマン帝国はれっきとした独立国として、
第2次対仏同盟に参加してたから戦勝国としても間違いではないでしょ。
まぁ、勝利においてイギリスの協力がかなり大きかった事は否定できないけど。
414 :
世界@名無史さん:2010/11/23(火) 11:38:51 0
オスマン帝国のウィーン会議での扱いを知ってるかい?
完全に弱小国か属国みたいな扱いだぞ
ロシアがイニシアチブを取ったのとは大違いだ
その前もオーストリアやロシアに大敗しているが、
ナポレオン戦争でオスマンが失ったものは非常に大きかった
中国でいうアヘン戦争みたいな位置づけなんだよな
415 :
109:2010/11/23(火) 14:57:05 0
>>414 そうだね。ナポレオン戦争辺りを境にしてオスマン帝国はヨーロッパから、
「瀕死の重病人」と呼ばれるようになるまで弱体化してしまったね。
でも、オスマン帝国もただ黙って弱体化を受け入れた訳ではなくて、
この頃からマフムト2世などの下でオスマン帝国の近代化が始まるんだよね。
今までこの近代化政策は失敗だったと言われてきたけど、
最近の研究によると完全な失敗だった訳ではなく、
ある程度は成功してヨーロッパとそこそこ対等な地位に食らいつけてはいたらしい。
アフリカ分割のベルリン会議などにも参加してるしね。
まぁ、それでも全盛期に比べて大いに弱体化したのは否定できないけど。
416 :
世界@名無史さん:2010/11/24(水) 23:30:19 0
1877−78年の露土戦争のときはトルコ軍の方が装備は近代的で質的に
ロシア軍より優っていたと言われる。トルコ側がまけたのはトルコ側の作戦
のまずさやトルコ軍内部の不和のため。
>>412 エジプト遠征を調べるとエジプトで戦ったのは
オスマンというよりは、在地のマムルーク達みたいだね。
やっぱりそんころには、完全に地方勢力をコントロール
出来なくなってきたのかな。
装備も旧式で、まとまりに欠けるせいか、マムルークの
キルヒレシオは酷い事になってる。
418 :
109:2010/11/25(木) 02:14:19 0
>>417 オスマン帝国のエジプト統治は最初から少し変わったやり方をしてた。
最盛期の頃から基本的に在地のマムルークとイェニチェリの2グループで、
エジプト支配を確立させてたからね。後、ナポレオンもシリアのほうでは、
オスマン帝国の軍ともちゃんと戦ってるよ。
ナポレオンと戦った頃のマムルークって
まだトルコ・モンゴル風の甲冑とか着て騎射で戦ってたの?
420 :
109:2010/11/25(木) 23:45:49 0
>>419 う〜ん、どうなんだろう?そこら辺の資料が少ないからちょっと良く分からないや。
ナポレオン側の記録だと「未だに中世さながらの軍備だったマムルークを、
近代的な軍を備えたフランス軍が倒した」みたいな記述になってるけど。
いくら何でも銃はもってるだろ
だいたいカール5世が戦ったアルジェリアあたりの軍隊も銃はもってたし
兵装ならロシアのコサック兵なんかの方がより中世的
423 :
109:2010/11/26(金) 00:21:25 0
>>421 そりゃそうだろうね。大体オスマン帝国軍自体が銃火器中心の軍隊だったから、
マムルークだってそれを見習って銃ぐらいは取れ入れてたと思うよ。
コサックの兵装は中世と全然似てないと思うが
チェーンメールもプレートアーマーも着込んでないし
426 :
109:2010/11/26(金) 17:05:35 0
>>425 へ〜、それが当時のマムルークの格好なのか。意外と軽装なんだね。
マムルーク朝時代のマムルークはどんな格好してたんだろうか?
中世のが基本重装備だな
イスラムの軽装とヨーロッパの重装と対比されやすいが
あれはヨーロッパに比較して軽装ってだけ、イスラムも全身チェーンメール着込んでいて十分重い
428 :
109:2010/11/26(金) 17:24:04 0
>>427 中世に比べて近世のほうが軽装なのは銃火器の普及なんかも一因なの?
そうだね
430 :
109:2010/11/26(金) 17:30:29 0
>>429 ふ〜ん。やっぱりそうなのか。
じゃあ、中世においてイスラム圏のほうがヨーロッパに比べて軽装だった理由は?
防御に対する思想の違いでしょ
あと中東は暑いからな
十字軍の時代はヨーロッパもチェーンメール主流だったけど
それでも中東は暑くて死にそうだったらしい
中東側も初期はヨーロッパの軍勢とまともにぶつかって散々な目にあった経験からだんだん重装備化していった
432 :
109:2010/11/26(金) 17:46:24 0
>>431 なるほど、ありがとう。
十字軍の頃になるとイスラーム圏も重装備になってくるのか。
イスラーム圏の軍隊について書かれた本って少ないからなぁ。参考になるよ。
434 :
109:2010/11/26(金) 21:31:40 0
>>433 おぉ、ありがとう。
やっぱり遊牧民っぽい騎兵隊って感じに見えるね。
しかし西ヨーロッパの騎士がメイル・ホウバークしか着てなかった頃
ビザンツやイスラム王朝の重騎兵はメイルの上にラメラーの胴鎧まで
着てたりしたからそっちの方が重装甲だと思うが。
西欧でメイルの上にコート・オブ・プレーツ等着けるようになったのは
十字軍が既に衰退していた13世紀半ばぐらいで、それがハタング・デヘル等
モンゴルの鎧の影響じゃないかという人までいる。
イズマイールの戦い
1770年、ロシア帝国の将軍ニコライ・レプニーンがイズマイール要塞を攻略
オスマンは2度と陥落しないようオスマン帝国により徹底して再強化された。
スルタン自慢の要塞は難攻不落であるとされた。
しかし露土戦争(1787年-1792年)の最中、ロシア帝国軍司令官アレクサンドル・スヴォーロフが
1790年12月22日に急襲した。要塞内部に立てこもったオスマン帝国軍は、ロシアからの最後通牒を受けて屈服した。
この敗北はオスマン帝国の悲劇的結末であり、ロシア側はこの地で初めて国歌Grom pobedy, razdavaysya!を歌ったのである。
1791年、アレクサンドル・スヴォーロフはイズマイール陥落を女帝エカチェリーナ2世に報告した。
イズマイールに住むムスリムたちは、女も子供も容赦なく、家から家、部屋から部屋へと強襲された。
3日間の統制の効かない虐殺で40,000人ともいうトルコ人が殺され、数百人が囚われの身となった
オスマンにとって、ナポレオンはWesten impactだったが
ロシアはモンゴルみたいな野蛮人が攻めてきたって認識だったんだろね
>>435 ただイスラム側の記録でも十字軍の重装備に手を焼いた話しがあるからね
同じチェインメールでもヨーロッパ側の方がぶ厚く着こなしてたんじゃないの
イスラムはチェーンメールの上に長衣を着るのが一般的だからそこまでぶ厚くはなかったんだろうと推測してる
439 :
109:2010/11/27(土) 15:40:47 0
>>435 モンゴルの鎧って実際どんな感じなの?
遊牧騎兵のイメージが強いから軽装な感じがするけど。
十字軍時代のロシアじゃ精々ラメラーアーマーが限界だったろう
とてもイスラムや西欧レベルの武装水準はなかった
441 :
109:2010/11/27(土) 23:31:15 0
>>440 十字軍時代のロシアというと、ちょうどキエフ・ルーシが衰退して、
各地の大公たちが分離独立していった時代だね。
十字軍末期の頃にはモンゴルに征服されてるし、
まだロシアには大した軍備はなかっただろうね。
>>440 11〜12世紀の西欧だと鎧といえばメイルしかなかった時代だぞ。
レヴァントに進出したノルマン人なんかはむしろスケールやラメラーを
取り入れて武装強化していた。
モンゴル征服後のロシアで最もカトリック圏に近く教皇から
「ロシア王」として戴冠までされたガリチ・ヴォルイニ公国でも
13世紀後半にはモンゴル式の装備を取り入れた。
444 :
世界@名無史さん:2010/12/01(水) 12:38:37 0
カダフィ大佐は
金髪碧眼ロシア人愛人との愛の日々に夢中で
イスラム革命もアラブの大義も今はどうでも良くなってるらしいなw
数千万年ほど前まではテティス海というものがあって、
それがアフリカ大陸の北上によって消滅してウクライナから中央アジアあたりの広大な平原となったわけだが、
もしもその地殻隆起が実際よりも不十分で、
アゾフ海‐カスピ海‐アラル海が連続した広大な海洋が存在していたとしたら。
現在の国で言えばカザフスタンは海の北岸だけど、北カフカスの諸地域やウズベキスタンやトルクメニスタンは南岸になる。
南岸地域にロシアの影響力は到達したかどうか。
むしろそれ以前に、近世に海洋勢力となり交易で強大化したコサックがモスクワを征服して
全ルーシの首都はキエフになってたりして。
446 :
109:2010/12/01(水) 16:41:14 0
>>445 面白い仮定だね。個人的にはもしそうだと中世における北のステップルート交易が、
史実のように発展できたかどうかが気になる。もしかしたら地中海とは別の内海として、
この海が東西海洋交易のかなめとなったんじゃないだろうか?
>>445 そんな海が存在するとしたら、シルクロードのほぼ西半分が海路になるわけだな。
ルーシvsテュルク以前に先史以来の全世界史が根底からひっくり返るのでは。
448 :
世界@名無史さん:2010/12/03(金) 01:08:40 0
そういえば16世紀のオスマンの宰相ソコル・パシャは黒海・アゾフ海とカスピ海
を直接連絡するためにボルガ河とドン河を結ぶ運河の建設を計画したことがあったな。
449 :
109:2010/12/03(金) 05:29:49 0
>>448 そういえば、そんなのがあったね。
結局、技術的経済的理由で断念したんだっけ?
450 :
世界@名無史さん:2010/12/03(金) 11:06:14 0
当時の土木技術では無理だったらしい。
旧ソ連が当時最新の技術によってボルガ・ドン運河を完成させたのが1952年。
451 :
109:2010/12/03(金) 15:58:34 0
オスマン帝国はスエズ運河の建設も計画したことがあったね。
こっちも同じく技術的な問題で断念したけど。
>>450 ボルガ・ドン運河って世界地図レベルでは平地を開削したようにしか見えないけど
実際にはけっこう高低差があって複数の閘門が設置されているのね。
453 :
109:2010/12/03(金) 19:43:33 0
たとえ失敗したとは言え、ソコルルの時代に計画されたっていう事は、
当時あそこに運河を作るのも全くの夢物語ではなかったのかな?
陸に船を引っ張り上げて横断してたらしいからなあ(連水陸路)
そりゃ運河通したくもなるわなあ
>>452 総延長100km以上で高低差は100mないんだから、人間の目には平坦にしか見えないな。
逆に言うと、その微妙な高低差を把握する精密な測量技術は近代になるまで不可能だったということなんだろうな。
西方ではよく知らないが、閘門の技術自体は既に隋の大運河で使われてる
からな。ただ、閘門がいらないスエズ運河を開通させたレセップスでも高
低差のあるパナマ運河じゃ挫折してるしなあ。理論的には不可能じゃないっ
て話かな。
技術面のほかに資金面の問題もあるしな。オスマンのスエズ運河計画は複数
あったらしいけど、計画破棄の理由に対サファヴィー朝戦争の戦費調達で資
金繰りが出来なくなったのもあるみたいだ。
あと、一応スエズはオスマン以前にヴェネツィアも計画はしたけどマムルー
ク朝の反対で挫折したことがある。
457 :
109:2010/12/03(金) 21:18:42 0
>>456 高低差がない分スエズ運河のほうがボルガ・ドン運河より技術的には建設は楽なのかな?
>>445 そんなところに大きな海があったら、テュルク人は史実のようにアナトリアまで到達できたかしら。
テュルク人が海に慣れ親しんで海洋民族になったかもしれんだろ
それでなくても海岸沿いに進めばアナトリアに着く
460 :
109=オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/04(土) 13:26:31 0
>>458 トルコ人のアナトリアへの移動は中央アジアからイランを通るルートだから、
別に海があったって移動そのものには支障はないんじゃないの?
まぁ、史実とは違って遊牧トルコ人が海を渡ってアナトリアに行ったかも知れないね。
黒海からアラル海まで海続きでつながってたら、そこからさらに川を上って
ギリシア人の植民都市がタシケントやサマルカンドのあたりにまで出来てたかも。
462 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/04(土) 19:39:05 0
>>461 その可能性は大いにあるね。逆に遊牧民が海洋民族となる可能性もあるね。
少なくともスキタイなんかは海の民みたいな存在になってたかも知れない。
川伝いの移動と言えばヴァリャーグの一部がカスピ海東岸まで交易してたそうだけど
凄まじい行動範囲だな
464 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/04(土) 22:09:56 0
>>463 ルーシ地域を通過してビザンツ帝国やイスラーム帝国と交易してたらしいね。
そういやロシア建国の祖といわれるリューリクもヴァリャーグと言われているが
この辺はオスマン家のオグズ族出自と同じで伝説っぽい
466 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/04(土) 22:28:05 0
>>465 リューリク家もオスマン家もどちらも、始まりに関しては多分に伝説的要素が強いから、
未だに学者たちの間で実態を巡って議論が続いてるね。決着は当分付きそうにないけど。
リューリク家は多分ちゃんとした史料が出ない限り、議論が終わらないだろうな。
北海からルーシを抜けてビザンツとの交易があったことが一応はっきりしてるだ
けだから。
オスマン家は当時のアナトリア情勢や、先祖もエルトゥールル以前がはっきりし
ていないんだから、もう出自は当時星の数ほどいたガーズィー集団の一つでオグ
ズ伝説は後付けでいいんじゃね?
468 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/05(日) 06:10:35 0
>>467 オスマン家に関しては多分多くの学者もオグズ族云々が後付なのは認めてると思う。
現在は多民族のガーズィー集団っていう説が有力だけど、
未だにトルコ系遊牧部族だと考える説も根強く残ってるらしいね。
個人的にはガーズィー集団説のほうが正しい気がするけど
エルトゥルルの代までは遊牧してたとか聞いた
470 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/05(日) 12:41:57 0
>>469 オスマン帝国も初期の頃の首都は遊牧民の冬営地的意味合いが強いらしいね。
>>469 それどころか今でも少数ながら遊牧民はいるそうです。
ただ昔みたいにあっちこっち移動できなくて困ってるみたいだそうです。
472 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/06(月) 04:34:02 0
>>471 中央から南東部にかけてのアナトリアは気候的にも地形的にも、
かなり遊牧に適してるらしく、今でも遊牧を続けてる人がいるのもそのためらしい。
オスマン帝国はこの手のトルコ系遊牧民に対して初期を除いては、
基本的に権力の外に彼らを置こうとしていたね。その結果ジェラーリーの反乱などが起きた。
>>472 標高何メートルが境だったか忘れたけど、大雑把に高地は遊牧民、低地は
農耕民の住み分けがされるようになったみたいだな。
権力外というか帝国住民として農耕民と同じように把握しようとしたし、
定住策も勧めたから、反発もでかかった。遊牧民というのはプライド高い
からな。
あと、トルコ系遊牧民の反発としての反乱ならジェラーリーじゃなくてク
ズルバシュの反乱の方が当てはまるだろ。
474 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/06(月) 06:29:50 0
>>473 そうだね。ジェラーリーは農民も反乱に加わってたからね。
クズルバシュのほうが遊牧民的性格は強いか。
オスマンは近代以降に「歴史に名を残す芸術家や文豪、科学者を
輩出することは無かったけど、ロシアは多数輩出している。
ここら辺の違いはやっぱり、イスラム教云々が関わってくるのかな?
476 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/12(日) 00:23:10 0
>>475 イスラム教による印刷機導入への遅れは多少影響してるかも知れない。
近代オスマン帝国だって文豪や芸術家、科学者はいなくもなかったけど、
あまり名が知られてないのはイスラーム云々よりも単に最盛期を過ぎたからだと思うよ。
オスマンがもうちっと頑張ってくれてたら、
イスラム世界唯一の先進国とかなって
異彩を放ってくれたのに。
むしろ地理や歴史を考えれば日本が先進国に
なるよりは可能性が有りそうだったのに。
オスマンは他民族融和政策だったとはいえ
あくまでトルコ人の国であって、もうちっと頑張ったとしても
そこまでイスラムの主流にはなりえなかったんじゃないか
アラブ人主体のエジプトの方が可能性あったんちゃう
アズハル学院だっけ?スンニ派の総本山もあったような
479 :
世界@名無史さん:2010/12/18(土) 18:40:05 0
ロシア帝国がインドにあったらロシア藩国
オスマン帝国が日本にあったらオスマン皇国
481 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/19(日) 21:14:05 0
>>477-478 一応。現在のトルコは中東で唯一、民主主義な先進国だけどね。
経済や政治的にもエジプトよりは上じゃないかな?
482 :
世界@名無史さん:2010/12/21(火) 08:25:09 0
おいおい中東で最も民主主義な国はイランだよ
エマニュエル・トッドをよめよ
483 :
世界@名無史さん:2010/12/21(火) 08:32:10 O
中東は低レベルということか
484 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/21(火) 22:08:47 0
>>482 ごめん、その人の本を読んでないので詳しく。確かにイランの政治体制も、
中東の中じゃ比較的民主的なほうだけど、トルコよりは下じゃないかな?
監督者評議会や最高指導者とかいうものがイランには存在するんだし。
オスマン帝国なんて結局最弱だったな
486 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/22(水) 08:05:16 0
>>485 どこを見てそう言ってるのか分からないけど。最盛期は、
普通にヨーロッパや中東で圧倒的な軍事力を誇ってたでしょ。
487 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 16:16:27 0
>>484 トルコは軍がクーデターおこすだろうがw
アホかw
488 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 16:17:38 0
>>484 エマニュエル・トッドとかジャレジダイヤモンドとか
エドワードサイードとかレヴィストロースとか
イブンハルドゥーンくらいの著作は読んでおかないと話にならない
489 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 16:18:45 0
日本人の人文系学者なんていうのは世界的には全く評価されていないから
日本人学者の本だけ読んで満足しているってのはどうかと思うよw
490 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/22(水) 16:46:17 0
>>487 最近、憲法改正があって軍の権力は大分弱まったよ。
まぁ、まだ施行されてないけど。大体、軍のクーデターってもう30年も前の事だし。
>>488-489 うぅ。エドワード・サイードやイブン・ハルドゥーンとかなら、
一応読んでるんだけどなぁ・・・・。まぁ、エマニュエル・トッドは、
確かに読んでおいたほうがいいかな。今度、機会があったら読んでみます。
>>487 宗教勢力が政権とって宗教政治を始めるとねw
世俗民主主義に対する拘りは建国以来の国是であり、トルコ軍建軍以来の至上命題
実態も見ずに「軍事クーデター」ってだけで偏狭にレッテル貼って思考停止しちゃ駄目だよ
492 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 21:00:58 0
アタテュルク至上主義しか認められないだろうが
それって本当の意味で民主主義じゃないだろ
イランのほうがマシ
世俗民主主義に対するこだわりをアタテュルク至上主義って言ってるの?
494 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 22:08:10 0
アタテュルク侮辱したら罪になるんやで
某国の金日成崇拝とは根本的に違うけどね
496 :
世界@名無史さん:2010/12/22(水) 22:21:11 0
世襲させていないだけ
>>496 真剣にアホですね
金日成=偽物の英雄
アタトュルク=本物の英雄
498 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/22(水) 22:30:01 0
>>492 だから、トルコの軍部クーデターもそれなりに功罪両面あるから、
完全に民主的とは言えないけど、さっきも
>>490で言ったように、
それはもう30年近く前の話だよ。まぁ、10年前にもクーデターでは、
ないとはいえ、エルバカン絡みのちょっとした事件が確かにあったけど。
どっちみち、先述したように、つい最近、トルコで憲法が改正されて、
軍部の力も大分抑えられるようになったから、大分民主的になってるよ。
コテハンは自分が危うくなると
名無史に変身するからな
>>490 :2010/12/22(水) 16:46:17 0
>>491 :2010/12/22(水) 16:58:38 0
こんな過疎スレにいま議論してる話題にすぐ味方が現れて
10分前後で擁護レスするやつなんているわけない
そんな幸運はどんだけ確率の低いことだかねえw
このコテハンは自演ばっか
他の世界史スレでも同じことしてるし
501 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 01:38:45 0
>>499 君、さあ、前にも質問スレで僕に対して自演だとか何だとか言ってた人?
正直、根拠もなしに勝手な事を言われても迷惑でしかないんだけど。
>>500 >>501 こんな過疎スレにまたコテハンと名無史のコンビが
今度は2分以内に現れました
これが自演じゃないとしたら、おまえどんだけ幸運なんだよw
墓穴ほっちゃったね^^
オツガイは24時間コンビニコテハンだからな。ニートなんじゃないカナ
>>501 そんなすぐレスしちゃ、ますます自演疑惑がw
>>503も怪しいが
>>504は間違いなくコテハンだ
自演ばれたんで火消しに必死で工作だと思われ
今度はお前が自演だろって切り替えしてくるはずw
こんな過疎スレのこんな時間にオレとコテハン以外が
カキコしている確率はむちゃ低い
>>505 って言われてもねぇ・・・確率は低くてもゼロじゃないし
後はfusianasanくらいしか手はないけど、もし彼が同じプロバイダだったら疑惑に益々拍車がw
>>506 またレスかよ
もういいってコテハン
今日もあらゆる世界史スレでオスマン帝国語るのに忙しいんだろw
もう寝ろって
目的達成できたからおれはもう寝る
帝政ロシア末期のナショナリズム研究の、
今や一次史料にも成り得るスターリンの論文「マルクス主義と民族問題」は
今のところアカデミズム世界ではどれだけ評価されてるのかしら。
あの論文のスターリンの「民族」(ナツィーヤなのでエスニック・グループじゃなくて「国民」の意味)
定義がもはや今日は通用しないことはさておき、
ロシア=ナショナリズム論としては、後の盛期スターリン時代の大ロシア主義復興と
絡めてかなり面白そうな読み方がなされてしかるべきだと思うのよね。
509 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 07:41:41 0
やっぱり、こういう事があるから世界史板にID導入して欲しいな。
正直、どんなに否定しても水掛け論にしかならないからキリがない。
>>503 とりあえず、今は休みなだけ。別にニートじゃないよ。
普段の平日は朝と夕方以降しかレスしてないし。
510 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 08:21:48 0
>>499>>502>>505>>507 お前さぁ、トルコの軍部クーデターの事、良く知らないでレスした挙句、
それを指摘されて反論できないから、急に「自演」とか言って何とか、
話題を逸らそうとしてるんだろ。大体、僕のレスの内容を良く読めば、
微妙に言ってる事が違うのに気付くだろ。で、最近トルコの憲法が改正され、
もう以前のように軍部がクーデター出来るような状態じゃない事、そもそも軍の、
クーデターはもう30年も前の事で現在とは違うという事に関してどう思うの?
>>508 スターリンの「民族」の定義って現在じゃもう全く通用しないのかな?
場合によっては全く通用しないのは分かるけど、それなりに当時としては、
割りと筋の通った定義だと思うけどね。まぁ、ただ現実の民族問題に、
対する回答としては、いささかお粗末なものではあったかも知れないけど。
個人的にはあの民族論が当時、民族主義の激しかった東欧やバルカン半島で、
どの程度の影響を及ぼしたのかが気になる。ただの抑圧にしか聞こえなかったのかな?
511 :
世界@名無史さん:2010/12/23(木) 11:24:27 O
512 :
世界@名無史さん:2010/12/23(木) 11:38:24 0
>>511 オスマン帝国はアッバース朝カリフをイスラム世界から消滅させて
絶対主義帝国を築いた革新的な国だと思うけどね
ただし学術レベルではたいしたことがなかったのが残念だなあ
>>510 >最近トルコの憲法が改正され
逆にだからこそ機が熟しつつあるんじゃないかと期待してるんだけどな
EU加盟問題とかクルド問題で欧米との国際関係が微妙なのが一番のネック
>>511 単にあなたがオスマンを知らないだけでは?
統治システムとしての 古代ローマ→東ローマ帝国→オスマン の流れを理解してたらとてもそんなセリフは吐けない
514 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 15:58:06 0
>>513 今のエルドアン政権はEU加盟にかなり積極的だし、そのためか、
クルド人政策も大分進めてるし、個人的には結構楽観視できると思う。
オスマン帝国は支配体制においてビザンツやイスラムや遊牧政権の、
良いとこ取りをして、その結果大帝国に発展したという印象だ。
ヨーロッパの病人と見放した発言をしたのチャーチルだったかな。
実際はチャーチルが生まれる前から病人状態でどうしょうもなかったが。
516 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 17:29:54 0
>>515 あれってチャーチルが言ったんだっけ?てっきりもっと前かと思ってたよ。
でも、そんなチャーチルは第1次世界大戦でのダーダネルス作戦が、
大失敗したせいで、一時失脚してしまってたね。「ヨーロッパの病人」と、
言ってみくびってたオスマン帝国に負けて失脚したのは何か皮肉だなぁ。
ケマルは本当の英雄だったな
518 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 17:48:41 0
>>517 ダーダネルス作戦(=ガリポリの戦い)はケマルが、
初めて歴史の表舞台に立った戦いでもあるね。
ただ、前にイスラーム史スレでも言ったんだけど、
個人的に、トルコ近代化の要因の全てをケマルの、
功績にするのは、少し違うんじゃないかと思ってる。
オスマン帝国はそれ以前からいくつもの近代化政策を、
行なってたきた訳で、その蓄積がなければケマルの、
近代化政策も成功しなかったと思う。今のトルコにおける、
極度なケマル崇拝が、オスマン帝国の近代化政策に、
対する評価を曇らせてると思う。まぁ、ケマルの功績を、
考えれば、今のトルコ人の多くが彼を極端なまでに、
崇拝してしまうのも分からなくはないんだけどね。
1970年代の労働党イギリスもヨーロッパの病人といわれたけどな。
>>518 オスマン帝国もハプスブルク帝国も、
前近代的な帝国であり続けるために小手先の近代化改革を図ったものの、
近代主義の理念と矛盾しないような思い切った改革ができなかったために
バラバラになって解体したようなところがあるので、
(両帝国の復古を求めるようなオスマン・ナショナリズムもハプスブルク・ナショナリズムも、
オスマン帝国領下のアラブ人やハプスブルク帝国領下のスラブ人には根付かなかった…)
主張するところは尤もだと思うんだけれども
ケマルが出てこなければ、いずれ前近代と近代の矛盾に耐え切れなかったオスマン帝国が、
ロシア帝国のように社会主義革命で滅亡してオスマン・ソビエト共和国連邦として再編されてた
ifがあったかもしれないと考えれば、トルコのナショナリストとしては尤もなのかもと俺は思ったよ。
私見なので、軽く流しておいておくれ。
>>518 前時代に種が蒔かれてるっていうのは日本の明治維新と一緒ですね。
そういう一つ一つのピースが大事です。
それがなければどんなに強力なリーダーシップがあっても近代化のモザイク絵は完成しない。
522 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 18:47:19 0
>>520 トルコが社会主義化しなかったのは確かにケマルの力が大きいね。
地理的に考えて、社会主義体制に移行してた可能性は充分にあったしね。
523 :
世界@名無史さん:2010/12/23(木) 19:37:16 0
a
524 :
世界@名無史さん:2010/12/23(木) 20:05:53 0
ケマルってスターリンと同じ民族主義者だろ
そんな現実の見れない夢想家以下のifなんてあるわけない
525 :
世界@名無史さん:2010/12/23(木) 20:08:32 0
オツガイ氏は常識レベルのことを長々とかくのはやめてくれ
526 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 20:12:12 0
>>524 ケマルは民族主義者ではあったけど、エンヴェルのような、
極端な民族主義(=汎トルコ主義)は否定してたよ。政策も、
意外と現実主義的だし、悪い意味での夢想家ではないでしょ。
意外とっつーか、むしろ徹底した現実主義者だった気がする。
あくまで現実があって、それに対する目標があって、施策があると言う感じ。
じゃなきゃ一党独裁という禁断の果実を手にしながら、世俗主義、民族主義、共和主義などのケマル主義を貫けなかったと思う。
シャリーア廃止とか諸外国との外交的妥協とかも無理でしょ。
528 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 20:32:10 0
>>527 確かにね。世俗主義への移行なんかはその現実主義的姿勢からか、
かなり慎重に行なってたしね。民族主義も上手くバランス調整して、
あまり極端にはならないそれなりの程度に高揚させる事に成功してるし。
529 :
世界@名無史さん:2010/12/23(木) 22:42:02 0
コンスタンティノープルを死守したのが凄いな
コンスタンティノープルがキリスト教勢力に奪還されたとしたら
歴史的にも凄く象徴的な出来事になっていただろうに
530 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 22:48:50 0
>>529 そこら辺は、完全にケマルの軍才のおかげだね。独立戦争において、
アナトリアに侵入してきたギリシャ軍を塹壕線を駆使して追い払った。
やっぱりw
今日のスレの流れは思ったとおりの展開になったな
ある出来事が起こったあとに、なんで急にカキコが増えたのかねえ
阿吽の呼吸みたいな問答レスの数々
不思議だねえ^^
532 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/23(木) 23:33:00 0
>>531 はいはい、また根拠のない妄言はもういいよ。
直接このスレの話題に関係ないし、水掛け論になるだけで、
時間の無駄だから、それ以上レスしないでくれ。
( ´_ゝ`)プッ
顔真っ赤にしちゃってw
スレの無駄だから、これ以上コザカシイ演技はもうしないでくれ。
じゃあまた明日(・∀・)ノシ
534 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/24(金) 07:47:43 0
>>533 スレの無駄遣いはお前のほうだからね。自演かどうかなんて、
IDのない世界史板では証明不可能だから、いくら言い合っても、
水掛け論にしかならないし、時間の無駄。レスするんだったら、
スレタイの意に沿った内容(ロシア帝国かオスマン帝国関連)だけに、
してくれ。今後、同じような内容を言ってきてもスルーするので。
535 :
世界@名無史さん:2010/12/24(金) 20:15:13 O
露土戦争がコンスタンティノープルをキリスト教世界が奪回する最大のチャンスだったな
アドリアノープルを二度も占領したのに惜しいことだ
536 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/24(金) 20:49:34 0
>>535 露土戦争の時はかなりイスタンブルの近くまで接近してたからね。
確かに、後一歩でロシアに奪われてた可能性は充分に有り得た。
そもそもロシアの目的はイスタンブルの奪回じゃないからな
538 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/24(金) 21:21:45 0
>>537 まぁ、確かにそうだね。でも、ロシアがオスマンに戦争しかけたのって、
基本的には黒海及び地中海への進出(=南下政策)が目的だから、
イスタンブルの奪取も、別にそんなに目的から外れてた訳でもないよ。
まぁ、確かに無理にイスタンブルを奪ってもあまり意味はなかっただろうけど。
ロシアがイスタンブル占領したら列強に対して刺激強すぎるでしょ
特にイギリス
540 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/24(金) 22:20:59 0
>>539 ブルガリアの独立だけでもあんなに神経尖らせて、
ベルリン会議まで開いたっていうのに、もしロシアが、
イスタンブルを取ったら、絶対黙っちゃいないだろうね。>イギリス
コンスタンチノープルを奪還して正教会のコンスタンチノープル、イスラム教のイスタンブールと
分割するのが一番良かったと思う。ボスポラス・ダーダネルス海峡がキリスト教圏とイスラム教圏の境目みたいな感じで。
542 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/25(土) 11:50:41 0
>>541 史実ではトルコ・ギリシャ共にそんな妥協は、
許せなかったみたいだけどね。結局、現在の、
状態のままで、特に問題はない気がするけど。
543 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 16:14:59 0
イスラム圏がいまだにローマの首都を征服していると思うと
感慨深いな
544 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 16:21:16 0
>>541 エディルネとかコンスタンティノープルより西だからな
トルコ人が納得するわけない
545 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 00:27:39 0
>>544 別に、エディルネってそんなに重要かな?テッサロニキや、
イズミルのほうが奪われると痛いと思う。まぁ、前者はとられたけど。
546 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 00:38:02 0
エディルネはオスマン帝国の昔の実質的な首都だったところだからな
アナトリア以東だけがトルコ領ってのはちょっとおかしいわけだよ
547 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 00:47:30 0
>>546 いや、まぁそれは知ってるけど、近代になるとイズミルとかの、
ほうが経済的に発展して、エディルネの重要度も下がってなかった?
あぁ、でも確かに近代のエディルネはロシアとの戦争において、
イスタンブル進軍の前の防波堤となる役割ならあったか。現在の、
エディルネは戦争関係の遺跡が結構多いし。それなりに重要ではあるか。
548 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 00:50:22 0
>>547に付けたし。
まぁ、アナトリアだけがトルコ領っていうのがおかしいのには同意。
アナトリア以外にもトルコ人が多くいたからこそ、住民交換した訳だし。
549 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 00:59:53 0
青年トルコ人の拠点はテッサロニキだったんだな
本拠地はギリシアに奪われたままってのも変な感じだな
550 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 01:05:58 0
>>549 青年トルコ人の拠点でもあるし、ケマルの生地でもある。
ギリシャ人にとられたのは結構痛かったんじゃないかな。
どうにかこうにか、今のトルコとギリシャが合わさったギリシャ正教と
イスラム教の複合国家が誕生したら面白かったのにな。
そうすればEU加盟も楽だし、人口の面でもドイツと同規模の
国家になる。
ユーゴスラビアのようにちょっとしたきっかけで酷い内戦がおこって
破滅的な国家解体迎えるだけだろ。
>>551 アルメニア人大虐殺があるから無理だろ。
ドイツのように認めるのか?、いまさら無理無理
>>552 だね、バルカンがひどい状態なのも、オスマンの過酷な支配が原因だしな
ロシアのほうがよっぽどいい統治している、ソ連はダメだが
554 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 19:07:12 0
1877−78年の露土戦争ではトルコ軍の方が近代装備を持って
いたといわれているのに勝てなかったな。
社会制度面の改革の差が出た戦いだったな
あけおめ!
お前らの話はいつも勉強になる。今年もよろしくな。
556 :
世界@名無史さん:2011/01/02(日) 08:40:45 0
オスマンって過酷な支配していたってどこのソース?
ユダヤ人に騙されてないか?
やつらはメディアを支配してイスラム教徒を攻撃している悪魔の手先だぞ。
557 :
世界@名無史さん:2011/01/02(日) 09:36:42 O
>>556 オスマン帝国はユダヤ人に優しく、また現在のトルコとイスラエルも同盟関係だと知らない陰謀論者乙。
イスラム世界の裏切り者だな。
559 :
世界@名無史さん:2011/01/02(日) 10:44:57 0
>>556 アルメニア人大虐殺、ブルガリア人大虐殺
セルビア、ギリシアへの過酷な虐殺などかなり強圧的支配
特にアルメニア人は過酷に扱われたから、トルコにいい顔はしないよ
大虐殺話は話半分に聞いとけよ。
何の証拠もないから。
561 :
世界@名無史さん:2011/01/02(日) 10:49:02 0
オスマントルコは柔らかい専制として鈴木薫や山内昌之が絶賛しているだろう。
おまえら馬の骨なんか全然評価されてねえんだよ。
とりあえず、前近代のオスマンと、西欧化に努める一方、ナショナリズムの噴出に
おおわらわした近代のオスマンとは分けて考えような。
鈴木薫も林佳代子もその辺はきっちり分けてる。
しかしオスマンのハンガリー支配で人口が減少したそうだが
都市は衰退して牧畜化したとか
鈴木薫だと思うけどあの人、ジェノバやベネチアやアラゴンが地中海支配してた事実無視して
イスラム勃興からオスマンまで地中海はイスラムの海とか書いちゃってるしな
盲信せずにちょっと距離おいて読んだ方がいいよ
564 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 18:43:29 0
>>562 うん。オスマン帝国の支配が過酷かどうかで言い争ってるみたいだけど、
そもそも、近代オスマン帝国とそれ以前のオスマン帝国を分ける必要が、
あると思う。柔らかい専制とか言っても専制は専制だし、オスマン帝国の、
支配を極端に正当化するのも、逆に極端に過酷さを強調するのも変でしょ。
アルメニア人虐殺なんかは近代ナショナリズムの高揚によるところがかなり、
大きいしね。(「だから前近代は過酷な面が全くなかった」という訳でもないけど)
専制は専制だしって前近代と分けて考えるといま言ったばかりじゃないの?
前近代の枠組みでみても欧米より格段に優れていたから研究者が賞賛しているんんだけど。
566 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 18:56:09 0
>>565 いや、だから優れてるのは認めるけど、だからといってことさらに、
オスマン帝国の支配を正当化しすぎるのも同じように問題だからね。
>>563に書かれてるように前近代のオスマン帝国の支配だって完全に、
優れてた訳じゃないし、そこら辺は客観視すべきでしょ。まぁ、僕だって、
オスマン帝国を贔屓目に見てしまう事もあるけど出来る限りそれは避けるべき。
567 :
世界@名無史さん:2011/01/05(水) 20:36:19 0
イスラム世界でのユダヤ人の扱いって、
イスラム教徒と遭遇したら頭を下げてろとか
むしゃくしゃしたら殴ってOKとかそんなんだろ。
オスマン帝国時代でも、偶に優しい権力者や
有識者が出てきて人頭税支払い時の扱いを
優しくするなど、無用の侮辱を加えるなと
提言してくれただけ。今の基準で言うと共生でも
共存でも何でもない。単なる隷従。
568 :
世界@名無史さん:2011/01/06(木) 20:46:53 0
>>560 トレブリンカみたいなものだよな
>>563 同意、日本じゃオスマンは過大評価
>>567 だよな。
オスマンの過酷な支配がなけりゃ、ポーランドやロシアにユダヤ人が移住するわけないし
569 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 08:17:32 0
>>567 >イスラム教徒と遭遇したら頭を下げてろとか
>むしゃくしゃしたら殴ってOKとかそんなんだろ。
こんなこと、クルアーンのどこにも書いてなかったと思うんだけど。
まぁ確かに人頭税なんかの支払い義務があった訳だし、平等とは、
決して言えないけど、圧政という訳でもなかったでしょ。もしそうだったら、
スペインの異端審問を逃れて大量のユダヤ人がオスマン帝国に移住しないよ。
クルアーンにかいていようがいまいが施政者がかってに決めるからなあ。
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/110105/asi1101052352003-n1.htm 犯行の動機になったとされる冒涜罪は、1980年代、政治のイスラム化を図ったハク政権下で改正され、
イスラム教預言者ムハンマドを冒涜した者には死刑を下すと定められた。
以降、同罪は多数のイスラム教少数派のシーア派信者やキリスト教徒などに適用されてきた。だが、昨年11月、
パンジャブ州地裁で、キリスト教の女性が、女性としては初めて死刑宣告を受けたことで、国内外で改めて冒涜罪見直しの声が一気に高まった。
タシール氏は収監中の女性を訪問したほか、同氏に近いザルダリ大統領も女性の釈放に向けて動くなど注目を集めた。
その一方で冒涜罪の見直しに反対する宗教指導者らは、各地で抗議デモを行うなどした。
地元メディアなどによると、冒涜罪で死刑に処された人はいない。だが、大抵は収監中や釈放後に殺害されるという。
今回の女性についても、釈放された場合に彼女を殺害すれば6千ドルの報償を出すとのファトワ(宗教令)が、ある宗教指導者から出されている。
571 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 08:32:14 0
>>570 >クルアーンにかいていようがいまいが施政者がかってに決めるからなあ。
まぁ、確かにそうなんだけどオスマン帝国の為政者が、
>>567で書かれてるような事を決めたって聞いた事ないよ。
施政者とは限らないぜ。
>>567とは別人だが、そういう話は俺も聞いたことあるしな。
大体オスマン帝国といっても全部上意下達とは限らない。
そんなの絶対王政時のフランスでも出来ていない。
ある程度は権限委譲している道理で現地の部族長や
宗教指導者が好き放題やってるんだよ。
聖職者じゃなくて俗人がやっているものだから個人の資質にムラがある。
いわゆる慣習法が勝手にできるという奴だな。
かつてオスマン支配下だったところに名誉殺人が未だに残っている地域が
あるが、オスマンから独立後に急にできたと思うか?
そうじゃないだろう。
オツガイは若いせいかその辺の想像力や市井の経験がまだ足りないと思う。
人の社会の営みや慣習ってのはクルアーンや文物だけで運用されているわけではない、
むしろ禄に教育うけていない族長が自分の差配で勝手に慣習を決めて大体の祖法と
しているケースなんか珍しくない。
預言者ムハンマドは部族制度を解体し、イスラム教をコスモポリタンな宗教を目指した面が
あるが、運用は難しいということだ、そんなもんキリストでも仏教でもよくある話だろ。
それとオスマンの「知事」というのもいろいろいるわけよ。
アリーのエジプトや海賊兄弟が支配していたチュニジアみたいな半独立政権だった
地域も多いしな。
オスマン帝国と一口にいうが、三大陸にまだがる政権でスルタンがどこまで掌握できていたか?
市井の隅々までやれてたというのはちょっとないな。
574 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 09:00:19 0
>>572-573 いや、まぁ僕だってその手の迫害が全くないとは思ってないけどね。
現代だって、完全に国内の隅々まで、国家権力を及ばせる事は、
ほとんど不可能なのに、前近代だと余計に難しいだろうしね。たとえ、
オスマン帝国が中央集権的な国家制度だったとしても。ただ、程度の、
問題はあるでしょ。ユダヤ人に対して全くの圧政だったらオスマン帝国に、
スペインなどから多くのユダヤ人が亡命してきた理由が説明つかないし。
ま、ある地方がヤバかったらマシな地方へ逃げ出すというのもよくある話
苛政猛虎とかそんな感じで
576 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 10:02:57 0
>>575 要は、当時のオスマン帝国のユダヤ人政策は、
スペインとかと比べたらマシなほうってことだね。
確かにオスマン的な寛容が比較的いきわたってたのは
中核部のバルカンとアナトリアくらいかもね
キリスト教の多かったシリア・パレスチナ地域も比較的寛容だったかもな
ただその寛容も前近代レベルの寛容ってことだね
578 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 11:25:18 0
>>577 まぁ、そうだろうね。北アフリカなんかはほとんど、
オスマン帝国の直接支配が及んでなかったからね。
579 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 12:08:35 0
580 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 15:33:41 0
日本を出汁にしてイギリスとロシアのグレートゲームやっているだけだろw
イギリスは昔から他人のふんどしで相撲とって上前はねるのうまいから。
582 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 16:10:19 0
日露戦争なんてイギリスが同盟国じゃなかったら確実に負けてた
それを秋山兄弟の手柄にしちゃうところがダメだよなあ
>>581 >イギリスは昔から他人のふんどしで相撲とって上前はねるのうまいから。
イギリスには、もう履けるふんどしが残っていなかったとも言えるが。
ロシア帝国>>>>>>>>>オスマン
で決定だな
オスマンは野蛮で過大評価
585 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/11(火) 17:44:38 0
>>584 時代も比較基準もちゃんと決めないで「ロシア帝国>オスマン帝国」と言われてもねぇ。
多分、前にオスマン帝国スレで「過大評価」とやたら連呼してたのと同一人物だと思うけど。
586 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 18:36:54 0
余録:EV産業スパイ
「ハンマーをふるう王」とは恐ろしげだが、ロシアのピョートル1世の異名だ。彼は西欧に大使節団を
派遣し、自ら偽名でその一員に加わった。そしてオランダでは東インド会社のドックに職人として入り、
ハンマーを手に造船技術を学ぶ▲だが人の口に戸は立てられず、ロシアのツァーリが職人として
働いているという話はすぐに知れ渡り、「王様の船大工」と評判になった。ピョートルはそんな中でも
4カ月にわたり造船現場の一員として働いた。おかげで彼を産業スパイの元祖などという向きもある
▲ピョートルはその後英国で造船理論を学んだが、理論より現場を優先したところに「大帝」と呼ばれた
彼の非凡さを見ることもできる。その目指すところは西欧の覇権のカギをなす海事や海軍をめぐる
文明の移植であった
ttp://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/news/20110113k0000m070134000c.html
>>584 ピョートル以後はほぼロシア>>オスマンだね
とはいえ、ピョートル時代に獲得した領土なんてほんとチョビットだけど
588 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/13(木) 20:21:27 0
>>587 でも、ピョートル1世はオスマン帝国に負けて捕虜になったりしてるんだけどね。
この頃じゃまだロシアとは互角でしょ。西欧諸国に対しては既に劣勢だったけど。
個人的に、ロシアのほうが強くなるのはエカチェリーナ2世の時代からだと思うよ。
589 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 21:46:25 0
>>586 ピョートル1世が現れなかったら、ロシアはどうなっただろうか?
590 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/13(木) 21:50:55 0
>>589 そのIFはあまりにも大きすぎて答えが出にくいなぁ。彼の西欧化政策は、
その後のロシア帝国が進む路線を大きく決定したからね。影響はかなり大きい。
最終的に北方戦争で勝ったことがでかすぎる
>>591 北方戦争の勝敗が逆だったら、どうなってたかな?
オスマントルコの弱体化も無く、ウクライナも独立してたかも?
ロシアが強大化することも無く、ポーランドが分割されることも無く、
グレートゲームも起きず、日英同盟も日露戦争も無かったかも?
593 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 11:10:09 0
ロシアは北方戦争のころですら後背地が半端ではなくデカイからな。
オスマンとの戦争も皇帝が捕虜になろうが、国家崩壊状態にならねえし
ロシアはいろんな意味でタフ。 ナポレオンだろうがヒトラーなんだろうが全部ロシアの大地が飲み込んでしまう。
西側が熱い戦争にせず、冷戦でソ連を攻略したのは大正解だと思う。
594 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 16:28:40 0
>>593 ピョートルは捕虜にはなっていない。自分自身が指揮していた軍をオスマン側
に包囲されただけ。しかもその時ロシア軍の別動隊がオスマン軍の後方を脅か
していたのでオスマン側としてもほどほどの条件で和平をする必要があった
らしい。
595 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/14(金) 17:02:48 0
>>592 オスマン帝国は大北方戦争でこれといって損も得もなかったので、オスマン帝国の、
衰退と大北方戦争はあまり関係ないんじゃないの?アゾフの奪還ができた程度。
まぁ、でもロシアの強大化がなかった可能性があるから、そのおかげでオスマン帝国の、
弱体化がある程度まで食い止められるということはあったかも知れない。ポーランド分割は、
何とも言えないなぁ。ウクライナ独立は確かにあったかも知れないけどどっちみちいずれは、
ロシアに取り込まれてるような気がする。個人的にスウェーデン・バルト帝国の弱体化は、
なかったとは思うけど、それ以外は何とでも言える気がする。影響の大きさは確実だけど。
596 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/14(金) 17:32:38 0
>>594 あれ?そうだったっけ?思い違いしたてのか。まぁ、とはいえオスマン帝国は、
大北方戦争においては普通にロシアに対して勝ってるんだよね。この頃は、
まだロシア帝国とオスマン帝国の軍事力は互角だったということになるのかな。
確かに捕虜にはなってないね
けどぶっちゃけ捕虜どうこうは大して重要なことではない
大北方戦争に勝ったことが重要
スウェーデンを駆逐して、ポーランドを保護国化
100回捕まってもおつりがくるな
598 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/14(金) 17:42:58 0
>>597 まぁ、そうだね。大北方戦争においてオスマン帝国はあくまで脇役だし。
特に、スウェーデンをバルト海から追い払えたことはその後のロシアの、
一連の西欧化政策・経済発展ということを考える上でもかなり重要だね。
599 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 22:23:12 0
ピョートルが大改革に先立って銃兵隊の反乱を鎮圧したことは
マフムード二世が大改革に先立ってイェニ・チェリの反乱を鎮圧したのと
同じようなものかな。
600 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/14(金) 23:36:16 0
>>599 確かにどっちも旧式で時代遅れだった軍隊が西欧化近代化政策による、
自分たちの地位の低下を恐れて反乱を起こしたという点では似てるね。
601 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 00:58:41 0
>>596 1736-1739年のオスマンとオーストリアの戦争ではオスマン側が勝っている
んだからね。この時点ではまだ互角だったんだろう。
602 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/15(土) 01:00:24 0
>>601 そうだね。「ヨーロッパの重病人」と明確に言われるほどになるのは、
19世紀に入ってからだしね。衰退の兆し自体は既にあっただろうけど。
いや互角とはいえないだろ
その時はロシアには負けてロシアに領土を割譲してる
逆にピョートルに勝利した時にはオーストリアに負けてるし
当時のオスマンは勝率が低いしやや劣勢といえる
領土は割譲してないか勘違い
アゾフで港を作るのを許可されただけか
605 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/15(土) 17:22:09 0
>>603-604 そのアゾフは大北方戦争の時にオスマン帝国が奪還してる。
ピョートル1世がアゾフ奪えたのだってオーストリアの協力が、
大きかったし。確かにオーストリアには負けてたけど、それでも、
1739年にはベオグラードの奪還も出来てる。とは言え、西欧や、
オーストリアに対していささか劣勢だったのは否めないね。でも、
ロシアに対してはまだ勝ったり負けたりを繰り返してて互角だよ。
ロシアとの力関係が逆転するのはエカチェリーナ2世からだと思う。
だからカルロヴィッツの時はアゾフを獲得して
その後プラトでアゾフを失う
1739年の時はロシアは勝利してアゾフで港を作る権益を得るんだよ
もちろんロシアとは互角だとは思ってる
ただ1739年の戦役はロシアも戦ってるってこと
608 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/15(土) 19:45:42 0
>>606-607 あぁ、そうだったね。でも、どっちみち勝ったり負けたりの繰り返しだし、
ロシアもまだ単独でオスマン帝国と戦って勝てるほどの実力はなく、
基本的にはオーストリアとかと共闘してた訳だから、まだ互角だね。
>>602 18世紀後半からかなりの重病人だが。
改革に成功したロシアやプロシアに比較して、遅々として改革が進まず衰退が止まらない。
カピチュレーションはすでに18世紀前半から重荷になっていたし
>>603 まあ、17世紀後半以後は、オスマンは東欧に対しても劣勢だよな
西欧だけでなく東欧にも敗北が続くようになったのがこの時代。
>>605 エカテリーナ以後は完全にオスマンはダメだな
ロシアの国力が伸びたのか、それともオスマンが絶望的状態になったのか
611 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/16(日) 13:46:43 0
>>609 18世紀前半もロシアに対しては互角だったけど、オーストリアや他の、
東欧諸国に対しては劣勢だったしね。17世紀前半は互角だったろうけど。
やはり第2次ウィーン包囲が境目かな。衰退自体は18世紀後半からだけど、
「重病人」と呼ばれるまでに落ちぶれたのは18世紀末から19世紀にかけて。
具体的にはナポレオン戦争やギリシャ独立戦争ぐらいの時期からかな。まぁ、
確かに改革運動はその前から行なわれてたし、その改革も遅々としてたけど。
>>610 どっちもあるね。個人的には前者の理由のほうが大きいと思うけど。
18世紀のトルコはヨーロッパに押されて、既にこの世紀の後半には
ヨーロッパ諸国から「病人」扱いされていた。18世紀末にセリム3世
が改革事業を始めて失敗しているが、そのような改革が試みられたという
こと自体がトルコの衰退ぶりを示している。
オスマン・トルコも常にヨーロッパと交流していた。カルロヴィッツ
条約後は軍事面でかなりの改革もおこなわれている。
しかし大勢を動かすことは出来なかった。
18世紀前半にトルコの砲兵隊がかなり強化されたのは事実だが
それもボンヌヴァルというフランスの軍人に依存していたという所に
トルコとヨーロッパの力関係の変化が象徴されていると思う。
ロシアもピョートル以前の17世紀から、西欧から技師を招いて大砲や
小銃の国産化を始めていた。しかしそれだけだは西欧に対抗できず
西欧に匹敵する強国になるためにはピョートル大帝による政治体制から
社会、文化の面にまで及ぶ大改革が必要だった。
613 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/16(日) 23:09:29 0
>>612 まぁ、カルロヴィッツ条約以後のオスマン帝国は明らかにヨーロッパに対して、
劣勢だったのは否めないね。ロシア帝国はピョートル1世からの西欧化改革が、
発展の源になったと言われてるけど(まぁ、その前から西欧化政策はやってたけど)、
オスマン帝国は西欧化改革を行なったこと自体が衰退の証だと言われてる。まぁ、
決してオスマン帝国の西欧化改革が失敗だったという訳でもないんだけどね。
498 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:48:29 ID:8xTgdSJs
去年、モスクワで実の祖父が102歳で一度も祖国の土を踏まず
亡くなった。
祖父は大陸で現地招集されそのままロシアへ連行されたわけだが
抑留中、日本は爆撃で壊滅してペンペン草も生えないほど荒廃して
妻子も死んでるだろうと思い、逆ナンしてきたパツ金の女性軍医の卵と
ねんごろになって解放後もそのままロシアへ残ってしまった。
しかし自分の祖母や親父はうまいこと引き上げて助かったのだが
戦死公報来たらしく戦後、祖母も再婚してしまったんだがソ連の
末期頃に消息がわかって親戚同士で交流始まったんだけど
後ろめたしいのか祖父だけは1度も日本の土を踏まなかった。
それにしても当時のロシアの女って敵国で有色人種の一回り
以上年上のおっさんとよく付き合えるもんだなと思った。
あと、祖父がいたラーゲリは開放処遇で環境も良かったらしい。
きっとケフィアとか食べてたから長生きできたんだろうな。
エロゲーみたいな展開だな。 ウリも金髪女医がモーションかけてきたらホイホイ乗るニダ
615 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 08:58:15.16 O
オスマンみたいにロシア金髪美少女を略奪さらって奴隷にしたら
後でロシア女帝にフルボッコにされたけど
誇り高いムスリムがロシア女帝に支配されて
616 :
◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:19:29.31 0
ソ連は多民族国家だから人種差別意識は少ないでしょ
特に東は
617 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 09:40:45.64 0
>>615 エカチェリーナ2世にクリミア・ハン国を取られたのはオスマン帝国にとっては、
かなり屈辱的だったらしい。場合によってはカルロヴィッツ条約による領土の、
喪失なんかよりも悔しいみたい。ハンガリーなんかと違って、同じムスリムで、
なおかつトルコ系だったからね。トルコの歴史教科書でもそう書かれてるし。
618 :
◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 15:29:35.78 0
クリミアハン国って今のウクライナだもんなあ
たった200年前までウクライナはイスラム圏だったわけで
619 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 15:59:01.55 0
>>618 ウクライナと言っても南部のほうだけだけどね。キリスト教徒である、
ウクライナ・コサックたちの住む地域はポーランド・リトアニア共和国の、
領土だったからね。クリミア・ハン国だった地域にウクライナ人が多く、
移住してきたのはロシア領になってからで、現在もクリミア・ハン国の、
子孫であるクリミア・タタール人は少数民族としてウクライナに残ってる。
そもそも中世ロシア・キリスト教文化の中心地であるキエフからしてウクライナ領内
>>614 意外にシベリアから帰らない選択を取った日本人、そこそこいたんじゃ
ないかな。スレ違いで申し訳ないが。これは今後どんどん出て来そうな
気がする。
622 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 21:49:20.35 0
>>618 旧共産圏ではイスラム教人口は激減しているからな
623 :
◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 22:05:44.83 0
イスラムよりも共産主義のほうがよっぽど恐ろしいと思うな
624 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 00:07:53.19 O
イスラムも棄教者を殺すなど恐怖で維持してる面が大きいが
かの地では遥かにおそロシアなものがあるからな
ロシアでは正教が華々しく復活しつつあるけど、
共産主義の影響で正教に嫌悪感を持つが故に
なぜかイスラム教に転向してしまったロシアの政治家いたな。
もちろんイスラム世界ではスター扱い。
1)同伴式と現地調達式の違い
2)兵士の頭数の違い
3)被害現地の兵士数と民間人数(男女)の割合の違い
これらの比較検討を経たロスケレイパーソースは?
test
630 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 17:48:52.36 0
オスマンとロシアの違いは正教会とイスラムの違いだけだからな。
イスラムの凋落がオスマンの滅亡を招いた。
貨幣経済で金融をユダヤが抑え、
それをキリスト教勢力(イギリスとスペイン)が味方に付けたから
イスラムが墜ちた?
631 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 18:20:35.59 O
宗教以外にももっと多くの違いがあると思うけど
632 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 18:39:02.52 0
食べ物の違いもあったな。
寒冷地の煮込み中心のロシア料理に比べて
乳製品や野菜をふんだんに使うトルコ料理。両者甲乙付けがたい
633 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 20:14:15.48 0
ロシアもオスマンも出発点では宗教単位に大差ない。
ロシアはイスラムになっていてもおかしくなかったが、
とにかく時の遊牧民集団がイスラム主流だからどっちにも多い。
モンゴル−遊牧民ーイスラムータタール は、
ユーラシア史では切っても切れない関係があるが、
その直系子孫が両国。というか子孫国はたくさんあるけど。
634 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/19(月) 22:30:52.95 0
>>633 確かにロシア帝国もオスマン帝国もどっちも多宗教国家だったからね。
でも、上がキリスト教かイスラム教かという部分が違うんだよね。
まぁそれが近代における両国の力の差になったかどうかまでは分からないけど。
635 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 22:46:30.76 0
>>634 金融の支援を受けれたかどうかで
両者の差が出たと踏んでおります。
キリスト教はユダヤ教を迫害しつつも取り入れた。
なぜうまいことイスラムとユダヤを敵対させることが出来たのか。
やはりイギリスとユダヤ資本の”またそこか”の話になってしまうのか。
636 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/19(月) 22:52:53.64 0
>>635 まぁ、利子を取ることが禁じられてるイスラーム圏の金融業界ではどうしても、
ギリシャ人やユダヤ人のほうが有利になるから確かにその違いはあるかもね。
637 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 23:05:40.03 0
>>636 貨幣経済は人間が作った独特のルールなのだが、
これが近世以降に大きく発展し、
財産をゲーム化出来る仕組みが全世界に浸透した。
それで勢力圏に大きく影響したと思う。
机上で所有物分配を変えられるのだから。
従来の農本経済や遊牧経済では起こり得ないこと。
今のロシアとトルコは、果たして歴史の恩讐を超えたと言えるのだろうか
>>633 ウォッカが飲めない宗教なんて浸透しないよ。
640 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 02:56:33.21 0
いっそ合併してトルシアとかになればよい
641 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/23(金) 06:47:30.58 0
>>639 ウラジーミル1世は近隣の様々な宗教を調べた時にイスラム教について、
酒が飲めないからだめだと言ったと言われてるしね。まぁ、この話自体は、
本当かどうか分からないけど何となく説得力を感じてしまうような話だなぁ。
642 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 07:38:35.50 0
643 :
世界@名無史さん:2011/10/07(金) 19:04:27.48 0
オスマン性奴隷制ウラヤマシス
ロシアじゃ女帝に支配されるからなあ
644 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 20:41:49.42 0
ウォッカは12世紀頃のポーランドで飲み始めたというが、
ウラジーミルが国の宗教を決める時、酒が飲めないからイスラムは駄目だと
いったという俗説があるけど、当時の酒はウォッカだという先入観が
あった。実際ウラジーミルが言ったとされる酒はどんな酒だったんだろうね。
>>644 当時の酒といえば主流はビールと蜂蜜酒とワインだと思う。
気候的に上層階級は西から入手したワインも飲んでただろうけど
一般民だとビールと蜂蜜酒だろうね。
655 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 21:32:04.57 0
で、トルコは?
ところでどうしてロシア人は自分の名前を都市名にしたがる癖があるんだぜ?
アメリカも大体そうじゃね
658 :
世界@名無史さん:2012/02/25(土) 01:54:30.77 O
ロシアはエカテリーナ時代にオスマンに完勝したけど、
なにが要因だったんだろう?
皇帝の力量?、名将の出現?
659 :
世界@名無史さん:2012/02/25(土) 02:03:26.47 0
オスマンの衰退
660 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/25(土) 06:32:52.58 0
>>658 ピョートル1世以来の西欧化政策でそれなりに国力が上がってたからだと思う。
西欧やロシアの発展はオスマン帝国にとってはすでに覆せないほどの差になってた。
661 :
名無し募集中。。。:2012/02/25(土) 21:07:44.29 0
>>656 アレクサンドロス大王にさかのぼる
アレクサンドリア
662 :
世界@名無史さん:2012/02/28(火) 00:00:03.64 0
ロシアはアレクサンドルって君主も多いね
663 :
世界@名無史さん:2012/03/02(金) 09:36:27.47 0
664 :
世界@名無史さん:2012/04/19(木) 16:46:42.17 O
あ
665 :
世界@名無史さん:2012/04/19(木) 17:57:30.29 O
ほ
666 :
世界@名無史さん:2012/07/06(金) 08:32:07.47 O
オスマンはロシアには勝てないな。
バルカンでは強力で大虐殺をしばしばやったり現地キリスト教徒を奴隷にしたりしまくったのに、ロシア相手には何故だか負ける。
667 :
世界@名無史さん:2012/07/15(日) 10:32:32.33 0
シャミールのエピソードをみると、ロシアの寛大さ、懐の深さが良くわかる
オスマンは異教徒を奴隷にして、虐殺する過酷な支配だから、結局ロシアに敗北した。
宗教に関しては、オスマンは狭量すぎる。
668 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/07/15(日) 11:44:27.37 0
>>666 >オスマンはロシアには勝てないな。
必ずしもそうとは言えないけどね。オスマン帝国のほうが勝った戦いも一応なくはない。
とは言え、時代が下るにつれてオスマン帝国側の敗北が圧倒的に多くなってるのも事実なんだけどね。
近代になるとロシア帝国のほうがオスマン帝国よりも強国になってきちゃったからね。
ロシア帝国がオスマン帝国への本格的な進出を始めた頃のオスマン帝国はすでに衰退期に入ってたし。
>>667 最盛期のオスマン帝国は異教徒に対してもそれなりに寛容ではあったけどね。
衰退期になるにつれてイェニチェリなどの増長が目立つようになり始め、
その結果バルカン半島のキリスト教徒がオスマン帝国からの離脱を図るようになった。
一方でオスマン帝国も離反を抑えるためにバタク虐殺なんかをするようになったため、
余計にバルカン半島の離反が強まり、ロシア帝国に傾く傾向が出始めてきた。
ロシアがオスマン帝国にしばしば勝てたのにはこのようなバルカン半島の味方も一因だっただろうね。
とは言え、上でも言ったようにオスマン帝国のほうが勝った戦いもなくはないんだけど。
669 :
世界@名無史さん:2012/12/01(土) 19:25:28.60 0
もし革命が起こらず帝政ロシアのままだったら、果たして第三帝国に勝てただろうか?
スレ違いで済まんが
オスマンが定住化して衰退したのと逆に、
コサックによるシビル併合から膨張を始めたロシアは、
典型的な逆パターンに見える。
その帝政ロシアも限界が来ていたので、
そのままだとしてもオスマンと同じ道を辿ったと思われる。
671 :
世界@名無史さん:2012/12/02(日) 00:35:49.64 0
帝政ロシアのがかっこいい。ソ連とか赤軍とかなんか安っぽいんだよ
>>671 ロシアはいい国だ
何で赤なんかに乗っ取られたのやら
>>669 トハチェフスキー惨殺がないからまずロシアの勝ちだな
674 :
世界@名無史さん:2012/12/09(日) 08:55:11.48 0
イタリア ローマ帝国が地中海の覇者となった
スペイン、ポルトガル 大航海時代の幕を開き、世界を二分した
トルコ アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国を建設
朝鮮 中国の千年属国
半島の歴史もそれぞれだな
675 :
世界@名無史さん:
アラビア半島
インド半島
インドシナ半島
マレー半島