保守
3 :
世界@名無史さん:2010/09/12(日) 16:51:27 0
さっそくネタ投下
赤壁の戦いなんですが、曹操の実際の損害ってどんなものだったんでしょうか?
一部には「たいした被害ではない」という人もいますが。魏書の主要部将の赤壁関連
部分も何も書いてないし。
赤壁直後は曹操もピンチだったのか、そうでもなかったのか……
赤壁直後は曹操もピンチだったのは事実でしょう。
ただそれが戦争被害によるのか、疫病によるのか。
魏の武将に戦死者がいないことから、戦争被害の少なさをいう人もいるが
魏の場合はそもそも雑号将軍レベルの人物の名前がほとんど伝わっていないので
そうした連中が戦死している可能性はあると思う。
あと、疫病で死亡した文武官も明記されていないので
疫病の被害がどれほど深刻だったかはよく分からない。
裴注が採用しなかったからほとんど話題にならないが、英雄記には曹操が赤壁の頃に雲夢で大霧に遭って道に迷ったことが書いてある
戦前・戦後どっちの事件かわからんし被害の程度も伝わらんけど、大所帯が湖沼で迷ったらそれなりに損害は出ると思う
南郡に曹仁と少数の兵を残して、荊州から撤退。
長期にわたる曹仁と周瑜の南郡争奪戦の際にも援軍送れず、
みすみす南郡失陥を許している。
この事から考えるに、兵力的にはかなりの大打撃を受けたと思われる。
中国の歴史に造詣の深い田中芳樹は、
「主要な武将は誰一人死んでいないし、赤壁後に銅雀台という巨大建造物を建築しているのに
税金を上げたなどという記載がないので、大した負けではなかった」
と『中国武将列伝』で主張していますが。
ケ禹を名将と言い切ったことでも有名なあの田中芳樹か。
主観ばりばりで好きな人物贔屓しまくることでも有名なあの田中芳樹か。
普通に負けてる陳慶之を生涯不敗と言い切ったあの田中芳樹か。
という反応が返ってきてもおかしくないぞこの板だと。
>主要な武将は誰一人死んでいないし
主要な武将どころか、戦死者として名前の挙がってる人間がいないことが何を意味するか。
そもそも、「主要な武将が死んでない」ということが大敗北の証拠とならんのではないか。
夷陵の敗北で死んだ蜀将なんて、ほとんどは夷陵のところでしか出て来ないし。
そこで死んだから主要な武将にはなれんかった、とも言えるな。
他の時代でも、大敗で主要な武将の死が確認できないことはよくあるね。
包囲戦ならともかく、野外戦闘では逃げ場がいくらでもあるから。
指揮者は当然護衛もいるし。
「大した負けではなかった」なら、江陵の曹仁を放置して結局江陵も落とされ、その後も荊州にはずっと近づかず、劉備と孫権が一気に大勢力になるのを指を咥えてみていたことになり、曹操はどんだけ愚将なのかと言わざるを得ない
赤壁で理由などはともかく結果として大きな被害を出して逃げてきたなら、曹仁救援すらできなかったことも仕方ないと言えるだろう
つまり赤壁での曹操は「大した負けではなかった」と主張するということは、曹操は戦略眼皆無の愚将、それまでの勝利は偶然と幸運の産物であった、と主張することに等しい
>>12 確かに、赤壁で大きな被害を出したなら理由のある戦術的敗北にすぎないが、
赤壁で大きな被害を出したわけではないなら、理由もなく戦略的敗北を喫してることになるわけだよな。
赤壁の負けを矮小化したのって田中芳樹が最初だったのか
三戦とかヘタな考察サイトが起源と思ってた
>>14 その前から赤壁大した負けじゃない説はちらほら唱えてる学者がいたよ。
相手にされてなかったけど。
赤壁で主要な武将が死んでないと言うのは、
単に死んだ武将の名が残ってないだけじゃないかと。
曹操軍ぐらい大きければ、夷陵のように「名前が出てくるのは自身が戦死した戦いだけ」って武将もいないだろうし。
田中大先生は曹操ダイスキで蜀陣営が嫌いなのが面白いな、と思ったが。
確かに「赤壁で死ななければ伝が残った武将」はたくさんいただろうし、逆に
銅雀台だのは敗戦を別の形でフォローしようとだけかもしれん。
後、赤壁部分の曹操の伝は間違いだらけだったと思うが。つまりは敗戦の記録を
残してなかったんじゃないかという推測も成り立つ。赤壁以後の曹操軍の動きが
分かればそこらへん検証できるのだが。
>>16 銅雀台については、未央宮についての漢の高祖と蕭何のエピソードの類型かもな
威厳を保つためには無理してでもその手の建物を作ることもある、ということだ
>>16 孫権に合肥攻められたけど、すぐに援軍送って退却に追い込んでる。
>>16 でも、蜀末期を舞台にした短編「白日斜めなり」は面白かった
>>18 蒋済伝見るとけっこうギリギリだったことがわかるな、アレも
>>19 夏侯覇が主人公のやつだっけ? あれは良かった。
というか田中大先生の小説はゴミみたいなラノベが売れてて、頑張って書いたであろう
歴史小説(結構面白い)はあんまり評価されないんだよね。
三国志じゃないが「風よ万里をかけよ」は面白かった。
>>20 あの時の合肥の守り主って誰だったんだろう?
そもそも、曹操軍は疫病で撤退したと主張している(『江表伝』)のだから、
名だたる武将が戦死する以前の問題だった可能性もある。
あと、正史にも演義にも出てこない人物だからスル―されているけれど、漢方医学の歴史上屈指の偉人である南陽郡の張仲景(建安年間の長沙太守)が著書『傷寒雑病論』の中で
「余の一族は、もともと二百人にあまるほどいたが、建安元年から10年もたたないのに、死亡するものがその3分の2に達した。そしてそのうち10分の7は傷寒にかかって死んだ」のが著作の動機だと書いている。
これは当時の荊州には疫病が発生する要素が存在し、それが長旅でかつ荊州に不慣れな曹操軍を襲ったために堪え切れずに撤退して、曹仁を救うどころじゃなかったんだろう。
田中芳樹が戦死者が少ないという指摘はあっているかも知れないが、それがイコール曹操軍の被害が少ないと言う結論にはならないだろう。
原因の大半が疫病だとしても、カクの諫言を聞かずあえて江東へ向かったのは曹操だから、曹操の失点になることは否めない
(戦で大敗して命からがら逃げだした、よりはマシかもしれないが)
短絡的に曹操の失点を矮小化しようとすると、大した負けではなかった、被害はそれほどじゃなかった、と結論づけたくなるんだろう
しかしその方が曹操は戦略的に大失敗を犯していたことになる
無理な擁護は本人の見識を疑われることになるからやめといたほうがいいということだな
疫病説を否定する気はないが、そもそも一族は間違いなく南陽にいたと思われるがどうか。
南陽は荊州だが赤壁からはかなり遠いぞ……
そもそも疫病こそ、将帥が死んでない理由が不明になるが。
大敗なら将帥が死んでなくとも、自軍はなるべく将帥を生かそうとしたであろうから
将帥が死なないことにある程度合理的な説明が可能だが、
疫病なら、よもや疫病がかかる相手を選んでくれるわけはないのだから、
有名な将帥がかかってないことの合理的な説明は不可能だ。
200 x 2/3 x 7/10 = 93人か。
凄まじい致死率だが、赤壁に関わらず、三国志に出て来ないのは何故だろう?
10倍の法則からして、死者は9人ほどだったかも知れないw
BS2で赤壁の京劇やってるな
>>26 疫病はある程度かかる相手を選ぶでしょ
将帥の方が衛生、栄養などの環境面、仮に罹患した場合の看病、といった面が兵卒とは段違いだ
将帥は戦死しにくい環境であると同時に、病死しにくい環境にある
もちろん絶対死なないわけじゃないが、相手を選ばないというのはちょっと違う
>>29 しかし217年くらいに文化人がこぞって疫病で死んでないか?
それを考えると衛生、栄養面がどれほどもものかとも思う。
看病しなくても同じ軍旅にあるだけでも感染率はかなり高いんじゃなかろうか。
なんにせよ軍事力による統一がほぼ不可能になったほどには
打撃をうけた、という見方には誤りはないはず
それに軍事的な見地からばかりではなく、これが政権基盤に
どれだけ影響をあたえたのかというあたりも考えていくのも
必要な気がする
孔融の処刑やら三公の廃止やらの後に負けたとなると、
権威も支持もけっこう落ちこみそうな気も
有力な将軍が疫病になったとしても、それで死ななかったら歴史には記述されんだろ?
死んだとしても、そいつが立伝されるクラスの大物じゃないとやはり記録には残らないんじゃないか?
歴史の残るクラスの将軍はたまたま生き残ったけど、
そうでない将軍は結構疫病で死んでたりするんでないかな?
三公廃止と言えば、そのあおりを食って罷免された司徒趙温。
無害な人物というわけでも無く、親曹操派というわけでも無く、
結構な硬骨漢なんだけど、なんで曹操政権下で12年間も司徒やってられたのかね?
よほど侮りがたい勢力を持っていたのか、それとも逆にいてもいなくても問題ない人物だったのか?
後者だろう。
要するに三公廃止の件についてリアクションを起こせなかったということなのだから。
逆に言えば、董卓政権下でも李カク政権下でも三公でありながら何もできず、
政治的に無力だった楊彪はいたらまずいと思われたから罷免されたのか?
楊彪のまずいところって、袁術との血縁というどうでもいい理由しか思い浮かばんのだけど。
>>34 順番が逆じゃね
趙温を不祥事で罷免して初めて「三公制度もうアカン。丞相にしる」って自作自演が出来たんだから
上手いことあからさまじゃない程度に失脚させるチャンスうかがっていたんじゃない?
あと、袁氏を倒したところで趙温を排除しても三公をつぶしても反抗する勢力もいなくなったということかもしれん
それまでは袁氏という敵がいるので朝廷にあまり波風立てたくなかったのかも
>>36 失脚したら素直にもう終わりだと離散できるようなのは徒党とはいえまいて。
普通に連鎖で何らかの出来事があるだろう。
>>35 >楊彪のまずいところって、袁術との血縁というどうでもいい理由しか思い浮かばんのだけど。
名声が高かったんじゃない?
>>33 >よほど侮りがたい勢力を持っていたのか、それとも逆にいてもいなくても問題ない人物だったのか?
勢力は持っていなかった。
しかし後者とも違うと思う。硬骨漢なのは事実だし。
本当にどうでもいい奴なら、そのまま司徒にしといて問題ない。
ただ、曹操は、そうした「ビッグネーム」を完全に排斥して
自分ひとりで朝廷を代表するのを忌避したんじゃないかな。
隠れ蓑的な理由なんだろうと思う。
そしてその必要がなくなり、また、自分ひとりが突出することによる影響を期待して排除した。
>>38 名声が高くて政治的に無力って、お飾り三公としては適任じゃない?
>>39 それだけで勢力が築けるほどの名声ってことじゃないのかな。
歴代三公を輩出しているので、門生故吏は多いだろうし
すぐに派閥が出来上がりそう。
満寵に拷問まがいの取り調べをされた時も、孔融と荀イクが反対しているし。
そして影が薄い御史大夫のチ廬
魏に降って20年以上将軍として国境地方で活躍して大いに武勲を挙げて、孫権を悔しがらせた韓綜。
降伏者ということでそれなりの厚遇は受けていて、孫権を悔しがらせるほどの武勲があったなら、
戦死した東興の戦役の頃にはどれぐらいの官位にあったんでしょうか?
仮節・雑号将軍・郡太守ってところですかね?孟達ぐらいには重用されててもおかしくない感じですが。
孟達は劉備の時代にすでに太守兼雑号将軍(おそらく)で、人格を文帝に愛された。
韓綜はそこまでの地位ではなく、人格にも問題を抱えていた。
孫権は悔しがったけど、それは、寝返った奴がたびたび国境を荒らしたからであって
大いに武勲を立てていたとまでは言えないんじゃないか?
仮節はなく、雑号将軍・郡太守ってところじゃない?
もしかしたら、孫呉の領有する郡の太守(遥任)だったかも知れない。
44 :
世界@名無史さん:2010/09/15(水) 18:44:51 0
献帝紀を書いた劉艾は、董卓の長史でその後、侍中を務めて李カクの朝廷で宗正となり、
曹操の献帝擁立から魏国成立、禅譲まで地位を保ち続けた政治的怪物だけど、
何が凄くて生き残れたのかね?董卓にへつらっていた人物で、
後の朝廷の主流となる董卓嫌いの士大夫からは忌避されてもおかしくない存在なのに。
よほど有能で利用価値のある人物だったのかね?名声が高くて手出しが出来なかったか、
時の権力者に取り入るのがうまかったのか、それとも宗正を務めていることから、
おそらく漢の皇族と思われるのでそれが幸いしたか?良く分からない人物だ。
単に曹魏シンパな皇族なら劉曄など多数がおるしのう。
皇族ポストだから替えがいなかったというのはなさそうなもんだが。
>>44 >後の朝廷の主流となる董卓嫌いの士大夫からは忌避されてもおかしくない存在なのに。
それを言うならカクだって。
おそらく劉艾は面従腹背で、朝廷にあって反董卓工作をしてた連中と繋がりがあったんじゃない?
だから賈クは人との交際を避けて、子供の婚姻にも気を使って慎重に生きたんでしょ?
自分が白眼視されかねない経歴な事を知ってるから。
>>46 あるいは曹操の献帝保護に一役買ってたかだな。
>>47 賈クの場合は李カクにも協力、また、張繍のもとで曹操と対決、息子を殺してる。
劉艾は献帝の長安脱出にも貢献してる。
>>46 鄭泰みたいな立場だったのかな?長安から逃げざるを得なくなった鄭泰よりもうまくやったっぽいが。
曹操政権と献帝とをつなぐ窓口役だったのかもね。
藏洪って袁紹の青州刺史として、青州を平定したと言うけど、
当時の青州には公孫サンの青州刺史田楷が勢力を張っていて、
田楷を青州から駆逐したのは袁譚のはず。
その後、東郡太守に転じたと言うけど、当時の東郡太守は曹操配下の夏侯惇。
友好国の曹操が東郡太守を任命しており、
空位では無い東郡太守を任命すると言う事を袁紹がするだろうか?
しかも、その後の袁紹と藏洪の戦いから考えて、藏洪は曹操領であるはずの東郡を実効支配していた様子。
藏洪伝を呼んでいると、不思議な事が多い。
袁紹って易京城を包囲してるとき蝗害による大飢饉に出くわしてるんだよな
どうやって包囲を続けたんだか…
しかもその上藏洪を兵糧攻めで落としてる
いったいどうやって補給してたんだか
>>52 その辺は昔、調べまくったなぁ。
当時のメモが出てきたけど、グチャグチャで読む気をなくしたw
とりあえず、青州に関しては藏洪は平定していないと思う。
赴任していたことがあるかどうかも疑問が残る。
青州刺史から東郡太守に移ったのは、長安からの使者により公孫サンと和平した時期なんじゃないだろうか。
つまり田楷が刺史として認められたのではないか。田楷のあとの刺史は孔融。
袁譚は曹操に刺史として任命されるから、196年以降の話。
さて東郡太守の話だが、藏洪が治めたのは東武陽。
俺が持ってる歴史群像シリーズの地図だと、黄河の北岸になっている。
東武陽は晋代には陽平郡、司州。晋代では司州が拡大されて魏郡なんかも取り込んでるけど、
この陽平郡に所属する県は、後漢書だと魏郡と東郡に所属している。
なので東郡が、黄河を挟んで南北で分割されていたのではないか。
水経注を持ってる人がいれば、詳細が分かるだろうけど。
>>54 つまり、東郡の黄河北岸は藏洪が、南岸は夏侯惇がそれぞれ太守として分割統治していたということかな?
>>55 そう。冀州東郡というものが設置されたのではないか。
俺としてはそれが一番しっくりくる。
ただ、東武陽と黄河の位置関係がはっきりすれば、説得力を簡単に失う可能性があるけど。
もし曹操が天下を取ったら自分の息子を殺したのを理由に賈クを処刑したかもしれん
最後まで天下取れなかったから賈クは必要だったんだろうな
曹叡の頃に建国の功臣を太祖廟前庭に祀ってるけど、
同じ巻に纏められた荀ケ・荀攸・賈詡はいずれも祀られていない。
59 :
世界@名無史さん:2010/09/17(金) 13:11:09 0
曹操が天下を取っても、カクは処刑しないだろうな。処刑とか追放は織田信長が
やった事だ。林秀貞などが信長によって20年以上前のことを掘り返され追放されている。
まあでもカクは殺されずとも疎んじられる可能性は高いだろうな。
60 :
世界@名無史さん:2010/09/17(金) 13:24:41 0
織田信長wwwwせめて時代は合わせようぜ。
61 :
世界@名無史さん:2010/09/17(金) 13:34:08 0
スマンwでも似たようなことした奴だったら信長としか。高祖・劉邦も晩年は
韓信疎んじてたっけ?
なんでそこで信長がでてくるのかわからんが。
土豪排除や先君の遺臣排除は割と妥当な行為だと思うし、
小勢力のうちはそれを潰すような政争を行うと
勢力の瓦解の危険性を孕んでいてなかなかできないことでもあるので、
賈詡の件とは事情が違いすぎるような気がしないでもない。
劉邦の粛清も信長の例と同じく、集権制を強める効果を狙ってのものでもあるので、集権制が完成した漢武のあとの時代の曹操との単純比較はできない。
また、韓信も楚漢戦争の最中から再三にわたって実際に不服従の姿勢を見せているのでこれもまた賈詡とは単純比較はできない。
処刑なんかするより、生かしておいてちくちくいじめるほうが効くと思ったかも知れないじゃないかw
>>57 それは無いだろう。賈クは降伏してきた人間で、
曹操に仕えてからは高位を歴任してるものの実権の無い顧問格。
生かしておけば天下統一後の政権運営に支障をきたすほど名声や影響力が高いわけでもなく、
性格的にも危険人物ではなく、殺してしまえば単に曹操の狭量さを示すだけ。
そんな愚を曹操は犯さないだろう。
太祖廟に合祀された功臣
大将軍夏侯惇 大司馬曹仁 車騎将軍程c 大司馬曹真 大司馬曹休 征南大将軍夏侯尚
太常桓階 司空陳羣 太傅鐘ヨウ 車騎将軍張コウ 左将軍徐晃 前将軍張遼 右将軍楽進
大尉華キン 司徒王朗 驃騎将軍曹洪 征西将軍夏侯淵 後将軍朱霊 後将軍文聘 執金吾臧霸
破虜将軍李典 立義将軍ホウ徳 武猛校尉典韋 軍師祭酒郭嘉
基準が分からん。武人は当時の曹操軍を代表する人物が選ばれたのだと考える事もできるが、
それにしては李通がいなかったり、曹操軍でやった事と言えば戦死しただけのホウ徳がいたり、
典韋より長生きして出世して功績も多い許チョがいなかったり。
文人・謀臣はほとんど三公クラスしかいないのに、
なぜ九卿止まりの程c、桓楷や司空の属官に過ぎない郭嘉が混じってるのかとか、
大尉の賈クや司徒の董昭がなぜいないかとか、荀ケ・荀攸がなぜいないのかとか。
67 :
世界@名無史さん:2010/09/17(金) 19:08:48 0
うきんもおらんな 当然かもしれんが
68 :
世界@名無史さん:2010/09/17(金) 20:08:19 0
>>66 桓階は死後に太常を追贈されたけど、魏の初代尚書令、禅譲劇の指揮者だよ。
程cは初代三公になれたはずの人間。刺史や将軍に任命されたのもかなり早い。
>>66 曹洪がやけに下位だったり、桓階が現職三公だった陳羣より上位だったり、
建国者曹丕との距離感が影響してるんじゃないかな。
郭嘉は曹奐のころに一人だけ追加で合祀されてて本当によくわからん。
そういうのは本人の出自や子孫の発言力や地位によっても変わってくるだろう
子孫が絶えた荀攸は不利
それに荀ケがいないのは分かりやすいだろ
少なくとも魏王朝としては事実上死に追いやった相手を下手に称揚できない
日陰者扱いは当然と言えば当然
71 :
世界@名無史さん:2010/09/17(金) 20:51:03 0
荀攸の子孫は途絶えたとも言えないよ。
>>70 じゃあ、出自が怪しくて子孫が出世してない武人連中が合祀されてて、
出自がはっきりしてて子孫が出世してる九卿・尚書令クラスが合祀されてないのはなぜ?
ホウ徳と典韋は派手に忠節を示したからだろう
生き残り功績を上げれば官位や爵邑で顕彰されるが、苛烈に命を落としたという場合はこういう形で名前が残るということだろう
記録より記憶というやつだ
特に典韋は曹操の命を守って自分が死んでいるからな
賈クは権門と付き合いを持たず孤立していたこと、董昭は周囲に嫌われていたと思われることが大きいのではないか
李典は一族をギョウに移住させるなど、豪族の首領として曹操に恭順の意を示した代表とみなされたんだろうか
あとは当時の皇帝や有力者に嫌われていたとか、門閥やら何やらのパワーバランスで数が決められていったんじゃないかな
現代だって能力がある者が単純に順番で閣僚になるわけじゃないだろ
いろんな思惑とかが絡んで決められている
それと一緒
李典は合肥がある。
233年に夏侯惇・曹仁・程cが合祀。
243年に20人が大量合祀。
251年に司馬懿が没後3か月で合祀。功臣の序列を最終官位に基づいて並び替えさせる。
※相国を追贈された司馬懿が最上位になる。
262年に郭嘉合祀。
251年にわざわざ官位の高下で並び替えさせてることから、それ以前は官位以外の要素もあったのだろう。
司馬懿は実権握った司馬師の差し金だろうが、郭嘉の合祀がいったい誰の働きかけなのか、よーわからん。
>>75 なんで程cが最初に合祀されたんだろうね?
そんなに当時評価高かったんだろうか?
>>76 233年の詔勅(注より)では
「魏の元勲の中でも特に多大なる功績を立て、生涯を通して忠節を尽し、優れた人格であった者を礼に則り祀れ」
やっぱ荀ケのように晩節やらかしたりもせず、生涯魏の忠実な臣下だったからじゃない?
それか曹叡が個人的に敬愛してたとか。
エン州を守った手柄じゃないの?
曹操のエン州時代当初から曹操に忠実に仕え、官渡でも命がけでエン州にとどまった
曹丕に対して的確な進言をしたこともある
名士などに嫌がられる側面もあったようだが、曹氏に対する功績では荀ケと曹・夏侯氏を除けばナンバーワンと言っても過言じゃないだろう
なんで九卿で終わったんだろうね?魏国成立時三公になっててもおかしくなかったのに、
衛尉止まり。王朗や鐘ヨウや華キンのような全国レベルの名士じゃなくて、
エン州ローカルの名士で功績と忠節のみによって魏の重臣に列した人物だったからだろうか?
一度引退したからかな。
>>80 人肉を兵糧に混ぜたからってことになってなかったっけ?
一度、自分が招聘した人物が謀反を起こすと言う最大級のスキャンダル起こして失脚した鐘ヨウですら、
三公なれたじゃない。
人肉の方は人倫に反してるからなぁ
なれなかったことから理由付けとして引っ張り出した感があるような……。
実際は三公になる前に死んだだけだからな。
とは言え、魏王になった時に三公にしてやっても良かったんじゃないかとは思った。
牽招の経歴が謎すぎる。曹操に仕えてから護烏桓校尉→中護軍→都督青徐諸軍事→
護鮮卑校尉→右中郎将兼雁門太守。なんだか、都督青徐諸軍事に成って以降、
左遷を繰り返してるような気がするんだが、気のせいだろうか?特に失策は無いはずなのだが。
中護軍や都督まで務めた人物が、最後は辺境の太守で終わると言うのも寂しい話だ。
せめて并州刺史ぐらいになってれば、まだ納得もできただろうに。
功績のわりに報われてないと言うか、実は曹丕に嫌われてたのかねえ?
>>87 太平御覧だかに劉備と刎頸の交わりをかわしてて、蜀との内通を疑われぬように
隠忍自重したとかいう碑文の引用があったよーな。
辺境で終わった田豫も劉備の部下だったしな。
あ、田豫は大司農までなったか。
曹操時代の都督諸軍事はそんなに権力の集中する役職じゃないだろ。
刺史も単独ではあまり意味が無い。
そして、異姓の四征将軍+都督諸軍事へ地方軍権の集中が一般的になるのは諸葛亮の北伐開始以後。
それまでの一時期(つまり曹丕時代)は漢代への「正常化」が図られたのか、
中郎将が地方軍を纏めたり都督を兼任することがあった。都督も必ず置かれるわけではない。
牽招はそういう狭間の時代に并州軍事を取り仕切った人物ということになる。
并州の軍事取り仕切るんなら、右中郎将は良いにしても、
雁門太守ってのは資格が軽すぎないか?
右中郎将兼并州刺史とか、護鮮卑校尉とか護烏桓校尉とか護匈奴中郎将とかなら分かるが。
既に中郎将位を持ってる人間に対して、「兼任が太守じゃ資格が軽いから校尉」ってのは制度的におかしいよ?
刺史は単独では、太守の上位者なのではない。
将軍位を持つ刺史が、外敵襲来に際して諸郡兵を糾合して総指揮し、都督を助けるというのはもう少し後から見られるが、
雁門太守の牽招は辺境の統治実務に携わって、統治を回復する功績を挙げている。雁門での魏の支配力がまだその程度だったのだろう。
だいたい普遍的に見られることだと思うが、この時代、支配回復途上にある地域では政治の中心で活躍するのは太守であることが多く、
政治が安定すると組織分化し、なお呉や蜀の脅威が大きな場所で刺史・都督に重要度が移っていったようだ。
曹操に帰順した郡雄組は大抵、将軍号を与えられて列侯に封じられて飼い殺しだけど、
王邑は大司農、段ワイは大鴻臚・光禄大夫、馬騰は衛尉と九卿にまで昇っている。
曹操の朝廷では実権のない閑職とは言え、九卿は九卿。三公の一歩手前。
他の郡雄と彼らでは何が違ってそこまで取りたてられたんだろう?
94 :
世界@名無史さん:2010/09/20(月) 19:09:04 0
蘇則は軍才があるが意外と不器用で率直。そのせいで曹丕に疎まれ左遷
されてしまう。直言したくらいで逆切れして左遷するなよ曹丕・・・。
少なくとも曹丕の器は曹操より小さいのは確実だな。
>>94 曹丕は私怨で群臣の反対を振り切って楊俊や鮑を処刑してるぞ。
たぶん、曹操なら処刑しないだろうって理由で。
曹丕だからなあ。
楊俊に関しては、後継者争いで弟についてたから、仕方ないかなと思わんでもない
>>93 朝廷への貢献度じゃない?
馬騰については、中央に召し寄せるための九卿任命でもある。
>>97 王邑も前後の事情から察するに、中央に召し寄せるための九卿任命みたいだね。
段ワイは皇帝を保護して、李カクを討伐した働きに対する褒賞かな?
二人とも出身地や地方にいた時期を考えると董卓系っぽいけど、かなりうまくやったね。
特に段ワイ。大鴻臚・光禄大夫なんて本当に三公の一歩手前な地位。
王邑って郭援の河東侵攻の時には曹操側だったみたいなんだけど、
その後召還された時、召還されるのを嫌がって、
しぶしぶ召還に応じたものの、後任の太守の杜畿に印綬を渡さずに、
許に直接印綬を持って行って、引き継ぎ妨害行為をしてるんだよね。
曹操に従う気をその時は無くしていたのか、それとも単に河東で割拠し続けていたかったのか
>>99 王邑本人もさることながら、王邑が河東を離れるのを住民も嫌がったとされてるよな
のちに住民が反乱起こしてるし
曹操による召還はコンセンサスの無い一方的なものだったんだろう、いい悪いは別として
>>100 王邑と豪族の癒着構造が出来上がってたんだろ。
反乱を起こしたのも住民ってよりは豪族だし。
>>98 段ワイの李カクを滅ぼした功績は破格だよなあ
たとえ信用できなくても出世させざるをえないよね
董卓の軍部の重鎮の中で唯一生き残った人間じゃないか、段ワイは。
董卓一族を除けば、董卓軍の中で最高位は中郎将。
董卓軍の中郎将
徐栄→戦死
牛輔→殺される
董越→殺される
呂布→処刑
段ワイ→大鴻臚・光禄大夫・郷侯
董卓系で生き残って栄達したと言える張シュウや賈クは、
董卓軍では部隊長クラスだし。
董卓の腹心から、激動を乗り越えて朝廷の重臣に昇りつめた段ワイハンパねえ。
段ワイの場合、賈クへ恩を売っている時のように基本的に鷹揚で人望があったんじゃないかな
その後賈クが降ってから曹操配下で活躍するから益々賈クの恩人ってことで無下には出来ないし
209年には死んじまうからそれは考え過ぎかもしれないけどさ
賈クって能力は買われていたけど、そんなに曹操陣営の中で影響力あったようには思えないな。
むしろ保身のためにそういうのを作らないように努力していた節がある。
段ワイの出世は賈クとはたぶん関係無い。純粋に献帝や朝臣の覚えがめでたく、
曹操にとっても献帝の忠臣でかつ政治的に無害ということで、
引き立てておいて損の無い人物だったからでは?
>>93 飼い殺しされたのはその九卿面子だろう。名位は高いが、政治への影響力は無く、
しかも実権の無くなった漢の九卿。曹操専権の時代では権勢の中枢から程遠い。
一方、将軍に任じられたのは自前の部曲を手元に確保することに成功した連中。
まだ不安定な曹操時代にあって自分の本拠地の近くで兵を擁し続けた者も多い。楊秋とか。
もちろん、権力や兵力は無くとも、侯や卿に取り立てられて曹操に逆らわず安泰の地位を望む者は
少なからずいただろうから、「飼い殺し」が不遇とは言えないが。
スレチだったらすいません
もしよければ該当スレへ誘導願います
漫画とかで三国志の武将って見た目や愛用武器がだいたい同じや似た感じじゃないですか?
あれっていろんな書物や現在も残った像とかを参考にしてビジュアルできてるんですか?
資料が少ない武将だと過去の有名作品のビジュアル継承しただけなんですか?
武将次第でどちらのパターンもあれば両パターンが混ざったのとかもあります?
大概の漫画は現在の三国志演義が成立した明の時代の文物がモデル。
三国志演義→江戸時代の講談→江戸時代の美術→現代の三国志漫画等
→中国の講談→京劇、祠などの衣装→現代の三国志漫画等
といった感じかと。
三国時代当時の美術などを再現している例は少ない。
書物については確かに参考にされている。
後者二つの質問についてはその通り。
他作品のビジュアル継承もあれば、講談、京劇や資料の言葉などから自分なりの像を導きだすものもあり、
それが混ざった例もある。
董昭って、実は曹操に冷遇されてたんじゃないかと思う。
袁紹の魏郡太守から、朝廷の騎都尉を経て議郎から符節令。そこから一挙に河南尹に抜擢。
その後、冀州牧や徐州牧に転任。ここまではいい。新参にしては破格の重用ぶり。
しかし、そこから魏郡太守に転任。明白な左遷人事。それから司空軍祭酒。
一度は河南尹や二州の州牧を歴任した朝廷の重臣が、太守から軍祭酒という秩石の上では明白な左遷。
曹丕が皇帝になってを将作大匠、大鴻臚に昇進。九卿と州牧はほぼ同格。ようやく20年前と同等の地位に返り咲く。
その後侍中、太常、光禄大夫・給事中、太僕と九卿とその他政治の中枢の要職を歴任。
最後に司徒になれたものの、その前二年は行司徒事で正式の司徒になかなかなれなかった。
仕えた当初の高い地位と、冀州平定後の急な降格とその後曹操時代を通じて一貫して低い地位。
曹丕の時代になってから復活。何があったんだろう?経歴から言って、あと10年早く三公になってても、
おかしくない人物と思うのだが。
109って、実は87と同じ人なんじゃないかと思う。
董昭は得意の謀略はもちろん、政治も軍事も優秀だし、謀略の切れは陳宮を連想させる危険な存在
袁紹が消えれば董昭みたいな危険な奴は洋梨
左遷されてからも間接的に荀イクを葬ってるしなw
>>109 そこは考え方を転換するべきだと思うぞ
「太守から軍祭酒という秩石の上では明白な左遷」というよりも、「曹操の権力が強まって司空軍祭酒が太守や牧の経験者がなるような事実上の高官になった」と言うべきなんだろう
平時の秩石は参考にはなってもそれだけで考えようとするとおかしくなる
曹操の府、つまり司空府が政治の中心になっていたということだ
まぁ、実際曹操時代の特に後期は実権と官位の乖離が著しい時期であると考えるべきだろうね。
>>109 >しかし、そこから魏郡太守に転任。明白な左遷人事。
これは左遷じゃないだろう。
この時代の魏郡太守は河南尹に匹敵する重職なんじゃないか?
あと、魏公就任を薦める群臣の並びは
中軍師陸樹亭侯荀攸、前軍師東武亭侯鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠、平虜將軍華鄉侯劉勳、
建武將軍清苑亭侯劉若、伏波將軍高安侯夏侯惇、揚武將軍都亭侯王忠、奮威將軍樂鄉侯劉展、
建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔、奮武將軍安國亭侯程c、太中大夫都鄉侯賈詡、軍師祭酒千秋亭侯董昭、
都亭侯薛洪、南鄉亭侯董蒙、關內侯王粲、傅巽、祭酒王選、袁渙、王朗、張承、任藩、杜襲、
中護軍國明亭侯曹洪、中領軍萬歲亭侯韓浩、行驍騎將軍安平亭侯曹仁、領護軍將軍王圖、長史萬潛、謝奐、袁霸
単なる、帰順した大物から、曹操の腹心を務める人物になったということじゃないの?
曹操の魏公就任の発案者の董昭は外せないでしょ
>>112 司空軍祭酒、つまり司空府軍師団の一員ってわけで、
この人員は知られる限り、丞相府軍師を経て魏が建国されるとそっくりそのまま尚書に転属する。
曹操執政の最高枢機官だね。政治史的にも曹操政権でもっとも重要なポストの一つ。
ただ、肝心の董昭の経歴からは魏公王時代のものが欠落しているが。
その前の魏郡太守も、曹操が冀州を根拠地にしていこうとする中途での「未来の首都知事」であって、
腹心のポストと言える。
董昭は曹操にとって重要な政治的側近の一人であり続けていて、魏建国の建議がそのもっとも大きな功績となる。
腹心という意味では、丞相府の外にいた荀ケなどよりも軍師・尚書連中の方がずっと曹操に近い。
>>116 古い組織論で言うとラインリーダーじゃなくてスタッフって事か?
第二次北伐って、数万の兵を動かして輜重無しで陳倉攻めて、食糧が尽きて魏の援軍も来たから、
ノコノコ逃げかえった戦いだけど、諸葛亮は何がしたくてあの戦いをやったんだろう?
輜重が無ければ、陳倉攻め落としても、いずれ奪回にやってくる魏軍と戦えない。
後方からの補給も多分間に合わない。陳倉維持することすら不可能なのに、
陳倉攻め落とすためだけに数万の軍を動員するってのも変な話だし、
しかも輜重無しで城攻めするってのはさらに変な話だ。戦争目的がさっぱり分からん。
119 :
世界@名無史さん:2010/09/23(木) 19:48:29 0
蜀軍に輜重がないのはいつものこと。
だって輸送に使う牛がいないから(水牛はいる)。
諸葛亮はこれを補うために木牛や流馬を作った。
>>119 輜重無しで大軍を敵地に送り込めるわけないじゃん。
お前の言う通りなら、諸葛亮は予備の武器も食料も持たないで、
何度も魏に攻め入った間抜けということになるが。
そんな軍隊、ほっとけば自滅するのにわざわざ迎撃に出てる魏も間抜けだな。
121 :
世界@名無史さん:2010/09/23(木) 21:15:55 0
>>120 北伐は五丈原まで人力輸送だよ。知らなかったの?
122 :
世界@名無史さん:2010/09/23(木) 21:27:13 0
123 :
世界@名無史さん:2010/09/23(木) 21:44:01 0
>>122 輜重がない=輸送がまったくできない
と思い込んでる奴のほうがアホであってw
>>123 輜重って軍需物資やそれを輸送する部隊の事だろ。
軍需物資と輸送部隊が無くて、どうやって輸送すんだ?
牟田口なみの認識だなw
126 :
世界@名無史さん:2010/09/23(木) 22:46:12 0
>>124 三国時代の「輜重」とは牛を使った輸送部隊のこと。
>>119 蜀に水牛しかいなかったので十分な輜重がなかったというのはかなり怪しい説だよ。
木牛・流馬が人力車とするなら、そして蜀軍が補給の全行程を人力で補っていたのだとしたら、
牛車の十倍の人員が必要になる。戦争なんて不可能。
輸送器具の多少の発明や改良でどうにかなる桁の話じゃない。
先鋒が街亭まで進出した一次北伐なんかそもそも史実になりえない。
木牛・流馬が人力車ならば、隴西への途上や秦嶺には牛車では踏破困難な箇所があり(特に桟道とか)、
その渋滞解消のために効率の良い車を開発した、というところだろう。
>>127 それ、ニセクロのサイトから広まった説だよ。
ロバはいなかったのか?
兵糧は基本現地調達で、包囲戦になったら補給も居るってレベルでしかないと思うが
北伐について深く読み込んだことがないので分からないが
屯田もあるんでしょ?
132 :
世界@名無史さん:2010/09/24(金) 13:15:13 0
「牛」と「水牛」。
外見はほとんど同じで区別つかないんですが、コイツらには決定的な違いがあります。
「牛」は、干草(ほしくさ)を主食とするのに対して、
「水牛」は、水分を多く含んだ生の草しか食べられない。という事。
つまり水牛は乾燥地帯や草の生えていない場所では動けなくなってしまうのです。
魏軍では、農家がヒマになる「農閑期」に牛を借りまして、
それを使って「食料輸送」つまり兵站をカバーしていました。
更に牛車の通れる道を整備し交通網を整え、補給路もバッチリ。
戦場における魏軍の食料事情は、ほぼ問題なくクリアされていました。
孔明も元々は徐州(10国)の出身者。 地図
幼いころより「牛」を使っての食料輸送を見てきたハズです。
そして孔明が劉備に伴って「蜀」に入ったとき、
たくさんの「水牛」がいるのを見て喜んだ。と思われます。
「これだけ牛がいれば、大軍の遠征も可能だ」
しかし、この「牛」に似た動物は、長期輸送能力をまるで持っていませんでした。
正史を見ても、「魏書」のくだりでは、度々「牛」が登場するのに対して、
「諸葛亮の軍には輜重(前線に輸送される軍需品)がなかった」とさえ書かれてまして、
孔明は兵站に相当苦しんだと考えられるわけです。
その良い例が、孔明の大発明とされる「木牛」。
大発明といっても、実際はおそまつな手押しの一輪車で、
食料運搬量も「牛車」より少なく、さらに「牛の歩み」よりも遅いことは確実でした。
こんな機動力のない軍隊で、魏軍に対抗できたのは、
ある意味「孔明」だからこそ可能だった芸当なわけで、
余人にはとてもマネできなかったでしょう。
生の草しか食べられず、ノホホンとしている「水牛」。
ハアハア言いながら、兵士たちが一生懸命に押しているダサい「木牛」。
これらを見ながら孔明は何と思ったのか? 察するに余りあります。
なんだよ「10国」って
>>133 名のある三国志サイトのコピペだな
この記事読んだことあるわ
135 :
世界@名無史さん:2010/09/24(金) 17:57:51 0
蜀には水牛だけで、牛がいなかった云々とかいった説は、
確か某出版社が発行した赤い三国志に関しての本に出てた記事が
元だったと思う。もう20年以上前の本だね。
結構あの本はとんでも説が出てからなあ。
木牛とか流馬は、牛車の輸送に適さない道用に開発された車と解釈するの
が妥当でしょう。遠征の全行程を人力だけで輸送とかではないから。
で、輜重も持たずに城攻めしてすぐ撤退した第二次北伐は、
何がやりたくて起こした戦いなんだ?
補給物資無しで城攻めなんかできないし、
運良く城を落としたとしても、城の維持もその先の地域に攻めいる事もできんぞ?
137 :
世界@名無史さん:2010/09/24(金) 19:00:40 0
第二次北伐は第三次北伐の陽動。
おかげで陳式が簡単に領土を切り取れた。
138 :
世界@名無史さん:2010/09/24(金) 19:17:30 0
北伐でも本格的軍事行動は第一次、第四次、第五次の三回。
第二次と第三次は一連の軍事作戦であり、第二次北伐は元々長駆侵攻は
想定していない。
武都・陰平方面って、別に陽動せんでも、
雍州の軍が来るより先に簡単に攻め落とせるんでない?
魏の雍州方面軍って、関中以外には大した兵力置いてなかったみたいだし。
140 :
世界@名無史さん:2010/09/24(金) 21:17:53 0
しっかり牽制しておかないと、
その地の異民族が魏に味方して、思わぬ事態ということもあり得る。
敵は魏軍だけとは限らない。異民族に魏の援軍(大軍)がやってこない
と悟らせるのは重要。
陳倉方面に攻め入っても、その先には魏の大軍が駐屯してる地域が広がってるし、
撤退したら釘付けにしておけないのでは?
>>131 前線基地の防衛部隊の消費分は現地生産が基本だが、
敵地遠征の消費兵糧まで現地獲得を「基本」とするのは無茶だよ。
孫子も言うように、「努めて」敵に食め、だ。
つまり孫子は、敵領土へ深度侵攻し長期戦に入った場合に、本国からの
長距離輸送を行う負担を軽減するために敵地の物資を最大限活用するよう論じている。
敵地の物資略奪はこの時代諸葛亮も行っているが、
国境近くの緒戦で消費する分まで敵地獲得分を中心に据えたりなんかしてない。
というか、そんなことができるなら二次も四次も撤退しなくていいし五次の屯田の必要も無い。
143 :
世界@名無史さん:2010/09/24(金) 22:14:56 0
>>141 また来るかもしれないと思わせる効果だよ。
魏にとっては遠い僻地の武都・陰平を救う為に大軍を動かした隙に、
関中を突かれるかもしれん。第一次北伐で、趙雲の偽装進軍に引っか
かった苦い経験がある。
流石の魏も石亭で敗れた後だから
一次北伐の時の様に柔軟な戦力投入はできんかったんでないの?
一次では、現実に趙雲が関中に進出する姿勢を示すと同時に隴西へ諸葛亮が侵攻したから効果があった。
曹真にしてみれば二面に分かれた蜀軍の正確な兵数は把握し難いだろうから、
迂闊に趙雲に背を見せるわけにはいかない。だからスタックした。
数百キロの行軍を隔てても蜀にはこれができる力がある。
二次では、せっかく諸葛亮が関中に出たのに、そこから撤退してから陳式が二郡を襲うという遅さ。
陽動の線は無いだろう。
>>142 別に無茶ではないと思う
どちらかというと後方からの補給線で賄おうという方が無茶
何百、何千台の荷車をいったい何往復させればいいのか
補給線が伸びれば伸びるほど現地調達の方が現実的になる
例えば曹操が徐州に侵攻した時なんかはこのやり方だろうな
人がいる邑や郷、城市に飯を購入・徴発・略奪するだけだから包囲戦によって長期間同じところに滞在しては兵糧が不足する
要は現地調達で賄える期間と屯田の成果が出る期間の間に補給の必要性が避けられなくなるんだろうな
緒戦分くらいはさすがに持ってくだろうよ、それは後方からの補給とはあまり関係がないけど
>>146 その緒戦分を持っていかなかった二次北伐はいったいナンなんだって話をしているんだけど
>>147 攻め込んだ先以外の目的があったんだろう
結局陽動の類っていう結論に戻ってくることになるけど
でも、陽動にしては動きが鈍すぎるな。
二次の陳倉攻めは郭淮が張コウに「敵は食糧を持ってきてないから自分達が来るのを知ったらすぐに引く」といってたはず
つまり魏の方も諸葛亮は自分達と長く戦う気がないと見てる
二次は単純に将来の北伐のの邪魔な拠点陳倉城を潰しておきたかっただけなんじゃないか?
少数の兵しかいない陳倉なら20日もあれば陥落させて城をぶっ壊すのには充分と思ったとか
>>146の長文は>142が『努めて敵に食め』で説明しているから
最後の一行以外無駄だって話だってばよ
>>147 緒戦分を持っていかなかったって根拠は何かあるのか?
>>149 でも武都・陰平を取れた
食糧を持ってきてないのが陽動の証
test
>>152 二十日で食糧が切れて撤退してる。
蜀軍の食糧事情は魏にまで知られていた。
>>153 最初から武都・陰平を攻めてても、あっさり落とせたと思うけど。
魏はどうやら、関中以外にはまともに郡兵以外の守備兵置いてなかったっぽいし。
呉の朱拠って文武の才があるって言われてるわりに、エピソードは人柄関連ばかりで、
その文武の才を使って何かをしたと言う記録も無い。
それなのに孫権が即位すると孫権の娘婿となり、建義校尉から左将軍に破格の昇進。
その後、驃騎将軍に昇進して、歩隲死後は丞相代行。
娘婿という事と主君からの実績を伴わない高い評価だけでここまで昇りつめた人物ってそうはいないんじゃないか?
呉の四姓だからじゃね?
>>156 仮にそうだとしても、その関中の兵を陳倉側に向けさせたんだろ
すぐ退いたといっても、それも偽りでまた来るかもしれないからすぐ戻るってわけにもいかないだろう
>>159 第一次北伐で諸葛亮が隴西方面に進出した時、
手薄だった三郡はあっさり蜀に降伏。隴西郡のみ少ない兵力で孤軍奮闘。
しかし、その後も魏の軍事力は関中方面に偏ってて、隴西の防備は強化されてない。
蜀がどこを攻めようが、雍州の軍は蜀が攻め入って来ない限り関中から離れない。
そして、陳倉は関中方面。もともと関中方面にいて動かない軍を関中に向けて何の意味があるのか?
>>159 初めから陽動の予定だったら、
「州郡兵を総括する雍州刺史郭淮が二郡救援に駆けつけようとし、諸葛亮本隊の接近を察知して諦めて撤退した」
なんてタイミングで二郡を攻防している時点で、陽動作戦自体は大失敗。
この事実経過から逆算して陽動という作戦意図を推測することはできない。
陽動なら、「諸葛亮が陳倉を攻めているので郭淮は動けない。その間に陳式が二郡を制圧した」でなければいけない。
もちろん、天水郡兵などが陳倉救援に借り出されていて、結果的に二郡方面が手薄だったことはありえるが、
元々関中兵は張コウに率いられて荊州へ動員されていたのに、
時間差を置いて 張コウが関中兵と洛陽兵を引き連れて戻ってくる時間を置いてから二郡を攻めている。
つまりこれが陽動なら、初手の攻撃で戦域全体の魏兵力が格段に増し、危険度が上がるのを待ってから本命を攻めた
ことになる。不合理な推測だね。
>>155 やっぱり、それか。
二十日で食糧が切れたのを何故「緒戦分を持っていかなかった」とするのか。
また、魏側まで知っていたというが、魏略の記事だぞ?
陳倉を早期に陥落させる計画が狂ったため、戦略を変更したとも十分に考えられる。
史記の項羽伝を読めば
行軍における最低限の兵糧量は三日分のようだね
>>162 仮に陳倉を早期に攻略できたとして、二十日分の食料しか無い蜀軍はどう動けばいいんだね?
進軍したら食糧が尽きるし、退却したら無駄な出兵をした事になる。
どちらにしても狂った作戦計画だ。
>>162 魏略の記事と陳壽の見解が一致しているから信頼できるんだよ
>>163 それは三日分の兵糧で章邯までいけるわけないから史家の歪曲はひどいもんだねって引用のこと?
あ、ごめん、注釈じゃなく本文に記事があったか。
これ船を焼いて三日の食料しか持たず、味方を必死の背水の陣に追い込んだという話だろう。
「三日」が正確かどうかも問題だが、そもそも伝説的な奇策の逸話であって、普遍化できない。
>>164 横レスかも知らんが、話がズレてる。
陳倉陥落自体が目的かも知れないし、
陳倉を拠点に、魏の援軍と野戦でもして打撃を与えるつもりだったのかも知れない。
ともあれ、緒戦分の糧秣は持っていたというのが結論じゃないか?
>>145 いや、俺も確認せずに、というか、記事を混同して書いてしまっていてスマンが
魏側の認識は張コウ伝の本文に書いてあるな。
魏側、少なくとも張コウは諸葛亮の兵糧が長期戦に耐えられないと認識。
しかし、陽動その他の目的とは見なさず。
曹真は陳倉が攻撃目標とされることを予期して城を改築させた。
このことからも、陳倉陥落自体が戦略目標となることは不自然ではないだろう。
>>168 二十日分しか食糧が無ければ、陳倉を数日かけて落とした後でも、
魏の援軍が到着する前に食糧尽きるわ。
>>169 >二十日分しか食糧が無ければ、
これどこに書いてあるの?
>>170 蜀が陳倉を攻めた時、二十日で食料が尽きたからじゃね?
>>168-169 別に一城落とすだけでも戦の成果としては十分あるからね。
当時、魏は対呉攻撃中で、関中・河南の戦力はだいぶ東へ振り向けられ、手薄な状態だった。
蜀が陳倉改築を知っていたとしても知らなかったとしても、
陳倉が大散関の出口の真正面、漢中から関中を防御する最大の要衝にあることに違いは無い。
戦力が手薄な隙に防御設備を破壊し、民衆を略取できれば実効的にも精神的にも効果は大きい。
短期的局地的な作戦の見返りとしては大きいし、この時代民衆の略取は常套手段なので合理的に説明できる。
第二の目的としては、呉を支援して東方から魏の戦力を引き剥がすことが考えられる。
実際荊州から張コウが召還されたわけだから、この可能性が正しいなら計画は成功していることになる。
>>171 追撃してきた王双を斬ってるわけだし、完全に食料が尽きて戦争出来ない状態なわけでもないだろう。
当初はカク昭を交渉で降伏させる、または数日で陳倉を抜くつもりが、当てが外れた。
魏側の援軍と陳倉を相手に長期戦を行うには兵糧が心もとないので撤退、の方があり得る話なんじゃないか?
>>173 そりゃそうだ。ゲームじゃないんだから数字が「0」になってから撤退してたら不慮の事態に対応できない。
「長期戦を行うには兵糧が心もとない」兵站で、どうして諸葛亮が出兵したのかって話をしてるわけで。
>>174 そりゃ「20日分しか兵糧がなかった」「緒戦分の兵糧すらなかった」と主張する人たちに言ってやってくれ。
>>167 うーん、確かに論理的な飛躍があると指摘されればそうなんだが
三日分で妥当だと思うよ
西洋でも確かそんな感じだった
>>175 緒戦を耐えられない兵糧しかなかったんだから、「緒戦分の兵糧すらなかった」だろう?
漢中から出発して往復で仮に二ヶ月分くらいあったとしても、戦場に二十日しか滞在できないなら
この時代の陣取り合戦では緒戦分に満たないというしかない。
>>176 魏延の長安攻めの輜重を持たず兵士に食料を携帯させるという特殊な計画でも、10日(以上)行軍して戦闘を想定してるんだぜ。
攻城・陣取りがメインの時代に三日分で何ができる?
安定して絶え間ない輜重のピストン輸送があるなら、前線の部隊が数日分しか持たないってことはありえるかもしれないが。
いやそれでも少ないか。
中国で三日ってのは、宛から新野を攻めようとして現地に到着した時点で食料が尽きるような距離。
スケールが違うんだよ。
でも戦闘部隊がそんなに輜重携帯してたら遭遇戦に対応できなくねと思わんでもない。
敵がそんな状況とわかったら意地でも野戦挑むと思うな。
>>178 三日分で移動ができるんだよ
食糧のある地域までね
>>180 異民族相手の騎兵戦でなければ、敵と接触する前に有利な戦場を設定し設営するんだよ。
だから遭遇戦というのはめったに起こらない。
孫武の兵法からこれはほとんど変化しない。
>>181 新野が敵地だったら、敵がよっぽど油断してない限り数万人の兵糧を永続調達するなんて無理だよ。
つーか、緒戦分(三日分?)を携帯+敵地調達をメインにして大軍の食料が賄えるなら、
兵站線が切れて撤退や総崩れなんて起きないんだが?
四次の諸葛亮はどんだけ無能なんだよってことになるよ?
>>182 別に永続なんて言ってないよ
現実的に敵が防衛できるのは兵を多数振り分けた城か砦くらいだろう
ひとところに留まって(ここが重要)長期戦をするとなると後方からの補給が必要になるっていう話
ていうか多分兵站のイメージが根本的に自分とは違うな
膨大な数の輜重を何往復もさせる補給線なんてのは交通事情からも必要な牛馬・荷車の数からも時間と距離の問題からも現実的じゃない
河川を上手く利用しない限りは大抵兵站の計画は失敗する、てか利用しても上手くやるのは難しい
軍隊の基本は現地調達で蝗の群れのように一つの地域を食い荒らしたらまだ食糧のある別の地域に移っていく
故に一地域に留まる攻囲戦が長引いたら兵糧は不足し後方からの補給が必要になる、それが上手くいかなければ撤退
っていうのが俺のイメージ
ちなみにこのイメージを作ったのはクレフェルトの補給戦っていう本
魏武は屯田の収穫を四方に備蓄して輸送の苦労をなくしたという 孔明も真似していたかもな
まあ正直北伐の資料が手元にないから何とも言えんのだが
それは欧州近世の話。
当時は兵站が傭兵個々人の自己負担で、しかも商人から買う不安定なものだった。
肝心の給養も滞ることがしばしばで、だから過酷な現地徴発や略奪が行われ、その負担で地域が壊滅することがままあった。
欧州は近代化の課程でこの未熟な後方システムを整備していった。
中華の「兵糧は現地調達」というのは、前線駐屯地の話(
>>142) それは別に曹操の発案ではないし、三国が広く実行していること。
だが、大軍が遠征すればその前線の集積地から兵站線を伸ばさねばならないから輜重が存在する。
別に常時ピストン輸送しているわけではないようだ。官庫にあらかじめそんな備蓄があるとはかぎらないしね。
戦が長期化するごとに民間に戦時徴発を掛け、牛馬と力役を動員して前線へ送ったりする。
だから後方から兵站を充足させるポジションが古来重要視された。
ちょっと不明確だな
「大軍が遠征すればその国境線の集積地から敵国深部へ兵站線を伸ばさねばならないから輜重が存在する」だ。
近代化の過程、と簡単に言うが
実質的には自動車が軍事的に利用されるまで改善できなかったよ
鉄道を敷いても駅から前線への輸送が大変で
車を取り入れてからも数が足りなくて馬車に頼ることがあった
結局は輸送の方法が牛馬に限られることが問題なんであって、それは中国も同じ
傭兵時代は現地調達の被害が特に酷かったっていうだけ
>>177 >緒戦を耐えられない兵糧しかなかったんだから
言葉遊び&結果論だろ、こんなの。
>この時代の陣取り合戦では緒戦分に満たないというしかない。
じゃあ何日分なら緒戦分と言えると認識しているんだ?
答えてくれないので、あらためて書くと
魏側は諸葛亮の行軍を陽動その他とは見なしていないし
兵糧が20日分しかなかったとする根拠を示して欲しい。
188 :
世界@名無史さん:2010/09/26(日) 14:56:10 0
第二次北伐は示威作戦だよ。
魏延と呉壱が侵入した作戦も同じ。
長く敵地に留まるつもりがない作戦。
魏の将張コウはそれを見抜いていた。
陳倉が陥落すれば、周辺住民を拉致して
漢中に移住とかはさせたかもしれないが、
土地の確保はそもそも計画してない作戦。
関中方面に兵を出しておけば、魏側は守備兵力を
分散配置しておく必要が出てくる。第三次北伐の為の
陽動作戦と言われるのはその為。
武都・陰平があっさり手に入ったのは、魏側の守備兵力
分散効果。
武都・陰平って曹操時代の末には実質的に放棄してないか?
あっさり手に入ったのはそれが理由だと思うが。
>>189 そうだとしたら、逆にその時まで蜀側が取らなかった理由を教えてほしい
>>190 理由は知らんよ。
取りあえず楊阜伝読めとしか。
192 :
世界@名無史さん:2010/09/26(日) 16:00:06 0
>>189 完全に放棄という程ではないだろう。
魏軍も陳式の迎撃に出撃してるわけだし。
大軍を動員してまで維持する必要はなかったとは
思う。
>>187 諸葛亮の意図が示されない以上、結果論で測るしかないんだよ。
二次北伐は「食料が尽きて撤退した」と陳寿に明記されている。
むしろ、「逆逆して帰還する猶予があるんだから二十日分しかないとは言えない」と言うような言葉遊びを辞めてくれと言いたいのだが。
数ヶ月に及ぶ押し合いが普通のこの時代の戦争で、二十日しか戦場に滞在できなかった。その結果が全てだ。
>魏側は諸葛亮の行軍を陽動その他とは見なしていないし
>>172で答えた
>兵糧が20日分しかなかったとする根拠を示して欲しい。
>>174で答えた
>>186 技術的問題で兵站が不安定なのは自明だよ。それを補うために現地からの収奪ってのは当然あったよ。
それを理論化したのが孫武だと何度も言ってるじゃないか。
しかしそれが補給のメインなのではない。
孫武の兵法は、軍を敵国深部に進出させての決戦を主眼とした兵法だ。
「敵に食め」も、敵国深部への長距離輸送の困難を解消するために説かれている。
逆に言えば、周辺地域からの広い徴発が可能になっている状態だからこそ「敵に食」むことができる。
国境の城砦を落とすか落とせないかで侵攻が止まっている「緒戦」から現地調達に頼るような
貧弱な後方体制で構わないなんて言ってるんじゃない。
>>193 >諸葛亮の意図が示されない以上、結果論で測るしかないんだよ。
諸葛亮の意図を見ようとするのに結果論で測るんじゃ本末転倒。
陳倉を早期に抜いていれば「緒戦分」はあったことになる。
陳倉の攻略期間に狂いが生じたであろうことは十分推測される。
それを無視して、兵糧だけにフォーカスするからおかしくなる。
>二次北伐は「食料が尽きて撤退した」と陳寿に明記されている。
退却する側が発表した理由が正しいとは限らない(ex.赤壁)。
もちろん無視すべきではないが。
>数ヶ月に及ぶ押し合いが普通のこの時代の戦争で、二十日しか戦場に滞在できなかった。その結果が全てだ。
明帝紀注には、20日で撤退したことと同時に、魏の援軍が来たことも理由づけされてるのに
なぜ20日という部分だけ切り取って議論するのか。
>
>>172で答えた
>>172では短期的、局地的な作戦の可能性を指摘している。
それが目的であれば「長期戦を行うには兵糧が心もとない兵站(
>>174)」での出撃はあり得るし、
であるならば、作戦が必要とする兵糧はあったことになる。
そちらの論理は矛盾してないか?
>
>>174で答えた
いや、答えになっていない。
20日で尽きたのではなく、20日で撤退したことが分かるだけ。
>>195 ああ、じゃあわかった。
陳倉が予想外の抗戦をしたために、諸葛亮が初期に企図した『緒戦』の期間を延長させらて、時間切れとなり、二次北伐は失敗した。
と、訂正すればいいOK?
>20日で尽きたのではなく、20日で撤退したことが分かるだけ。
陳寿が兵糧が尽きて撤退したと書いてるから、20日で尽きたとわかる。
諸葛亮は二十日以内で「緒戦」が終わると考えていたが、現実には緒戦は終わらなかった。
だから「緒戦に足らない兵糧で出撃した」ように史書からは見える、と。
はいはい万歳。
もし皮肉で言ったつもりなら文献史学に触るのやめたほうがいいよ
そりゃお前だろ
202 :
世界@名無史さん:2010/09/26(日) 18:34:32 0
_,,.. -──-- 、.,_/⌒ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,.::'"´::::::::::::::::::::::::::::::_;:,! i ノ'-、 /. 何. 道. あ .大
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::i´ _,ゝ+‐'- _ノ |. と. 端. な .丈
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::[_'ーァ' |`ヽ ), |. も. の. た 夫
,':::::::::;::::::::::::::/|::::::::::::::::::::;:::::!、__,ハ、_ノ、_,.>. |. .思. 石 の で
|:::::::;'::::::::/_/__|:::::/´|:::::::ハ:::::::';:::::::::::';::::|.〉 | っ. こ 存 す
|:::::::|::::::/|:/__ |:::/ |::::/‐!-:::::i::::::::::::|:::|. .|. て. ろ. 在 よ
レ、__|ハ_| ' ̄`ヽ' レ',.==、/|:::/|:::::|:::|. .|. い. の な
|:::::::|:|"" `i/:::|_ハ|:::|.... |. ま よ ん
|::::::从 ' "",ハ|::::|ノ::::::|. .|. せ. う. て
ノ::::/|:::|ヽ、 「 ̄`i ,/::::|::::|::::::i::::',. <. .ん に
∠、:::::|:::|へ|`ヽ、.,__‐'_,,. イ/::::/|:::|::::::ハ::::|.. .|. か 誰
レヘ、|_,>イ | /`レ'、/:;ハイ::::|/ ', ら も
,..‐''/ .| |/ / /`' 、ハ'" ヽ、
/_,r/ |/ / /_ とヽ.  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〈Y (_,イ / / Y___) ',
_ハ.', |. / / | |
,.r''"ヽア`r」、__/____ ___! ,.-、 |
/ 、 ヽ._|、ノキ (><) ̄´ュ7 ヽ-' ',
、 ヽ,.イヘ〉、へ、.,________,,.ァ'"-‐ 、_ ノ-‐ァ、
:アー'´:::| ヽ!ー'^ヽ-ヘ-/_) /|:::::/7
>>199 陳寿が書いたことすら信じられないなら、後はお前の脳内妄想をソースにするしかないな。
>>203 へー、陳寿が書いたことは無条件で信じるわけか
>>204 裴注と比べてあからさまな矛盾が無ければ
そのあからさまの境界は主観だろうに。
>>204 なんだかんだ言って陳寿が一番信頼できる史料である事に変わりは無い。
>>136のせいで
いつものまったりスレがこんな有様に
>>205 裴注もなあ。
あれで逆に惑わされてる気がしないでもない。
陳寿だけを盲信するつもりはないが。
もっと竹簡とか発掘&公開されねーかなーw
曹丕って在位六年の間に三度も孫権を攻めて負け続けてるけど、
孫権の面従腹背を放置して、代わりに蜀を攻めてれば、
勝てたような気がしないでもない。
蜀漢なんてゴミ国家眼中になかったんだよ。
曹丕的にも国家的にも
ゴミならなおさら早期にケリ付けないと国家としての理性が疑われるよ
曹操でさえ尻込みしたように、関中も反乱の芽があるし険阻だしということで早期には出来ない事情があったんだろう
蜀より呉の方が魏としては脅威だったんだろうな。
蜀は呉さえ潰せば、簡単に滅ぼせると思ってたんだろう。
前に天下統一した光武帝も、荊州と揚州取ってから、
関中と隴西と荊州の三方面から蜀に攻め込んでるから、
曹丕もその再現をしたかったのかもしれん。
>>194 うーん
まず現地調達と敵地調達を混同してないかな
前者は後者を内包するより広義の概念ね、自国内の現地調達も含む
孫子が自国への負担を減らす理由からなるべく敵国で調達しろと言っているのは知っているよ
しかしそれは別に「現地調達がメインではない」という主張の根拠になってないんだが…
後方体制が貧弱だから現地調達に頼るっていうのも論理の飛躍だね
後方体制に頼って兵糧が届くのを待つ理論的な行軍をすると時間的空間的地理的に規制され軍は著しくノロマになる
だから戦略的に後方支援との連携は後回しにされ現地調達が優先られるのは別に不思議ではない
むしろそれが奇襲的な性質を持つ侵攻なら当たり前のやり方だろうな
>>210 最初のは魏が優勢で、後の2つは途中で中止だろ
>>215 あれだけの規模の軍を起こして、最低限重要拠点の奪取か主力の撃破ぐらいはできなければ、
負けと言って良いと思う。
前半生の石勒は現地調達しながら中原を荒らしまわっているな。
本拠地なし、兵站なし。
別にこれは遊牧民だからどうのという話ではない。
各地の士民が砦を作ってそこに籠城し始めたら、掠奪することが出来なくなって途端にピンチに陥っているから。
>まず現地調達と敵地調達を混同してないかな
混同してるのはそちら。敵地調達の話をしてるのに曹操の屯田などと的外れの例を持ち出したのはそちら。
遠征軍の補給がいつでも「現地調達がメイン」で賄えるとしたら、本国からの輜重隊が撃破されて総崩れになったり、
長雨で補給が滞って撤退を強いられたり、出陣先で屯田をしたりすることは起きないね。それでは当時の実情に反するね。
比重の問題とかいうのは言葉遊びだよ。敵国の近場に物資の集積所でもあれば当然、それを最大限利用するだろうが、
なければどうしようもない。敵地の民衆が一戸ごとに蓄えている物資を徴発するには、支配を安定させて
兵士を派遣せねばならないので手間と人員が必要になる。
「三日」とか「二十日」でどうにかなる問題ではない。
少なくとも諸葛亮の北伐のように、先手を取れるにも拘らず敵国中心部・人口密集圏へ深入りすることがなかった、
奇襲的な性質の著しく低い戦争では当てはまらない論理だね。
防備の薄い地域へ奇襲をかけてものすごい勢いで略奪しまくって移動し続けるなら敵地調達で賄えるかもしれない
ぶっちゃけ、劉備の軍事的能力ってどの程度のもんだったのよ?
無能では無いと思うんだけど、どの程度有能なのかも分かりにくい。
戦下手の諸葛亮では口出し出来ない程度には有能。
練度の疑わしい現地調達の兵で軽く後方攪乱してるだけでも、
曹仁クラスが守備隊割いて劉備より多い兵で出て行かないと鎮圧出来ない程度には有能。
>>221 劉備はどんな兵でもそれなりに戦える形にするし負けが見えれば一目散
勝てそうだと思えば1年でも2年でも粘って補給の続く限り戦う
陸遜はそういう劉備の強烈な精神力に対して根負けせずに夷陵で大破した
あまりにも見事な陸遜勝利だから劉備の負けっぷりばかり目が行くけど
それ以前には1年以上前線を後退させ続けた薄氷の勝利だった
劉備ってのは劇的に華々しく勝つわけじゃないけど
地道な戦争やらせたら三国志でも随一じゃないかなと思う
チート級ではないが最高クラスに入るって感じだな
大局的な戦略は置いといて、戦術指揮官としてはかなり優秀
226 :
世界@名無史さん:2010/09/28(火) 11:37:03 0
1年以上対陣なんて曹操でも諸葛亮でもできへん。
>>225 いやチート級の精神の持ち主だよ
心が折れずに最期まで戦う奴ってのは厄介
実際、陸遜に負けてからも白帝に留まって虎視眈々と荊州狙ってるし
敗戦後のボロボロな状況でも陸遜に脅迫とも受け取れる手紙書いてる
陳登が英雄と評価するのも事績を見ればよくわかるな
228 :
世界@名無史さん:2010/09/28(火) 12:58:59 0
あの時代で半年も対陣すれば、食糧不足や疫病で、戦わずして軍が崩壊して撤退なんて珍しくない。
劉備の戦ではそれがない。
精神力は確かにチート級だw
あそこまでしぶとい奴は他にいない。
他の時代でも延岑か小田氏治クラス。
仮に宇喜多秀家に憑依したら大坂まで泳いで来るレベル。
230 :
世界@名無史さん:2010/09/28(火) 13:03:47 0
劉備にあと5年寿命があれば、長安ぐらいは取れてたかもな。
231 :
世界@名無史さん:2010/09/28(火) 15:58:05 0
恐らくそれは無理。
劉備はチート級には勝てないしなー
233 :
世界@名無史さん:2010/09/28(火) 18:29:14 0
曹操は死んでるから大丈夫
>>229 小田氏治じゃ大したことないな
せめて長尾景春級じゃないと
劉備を破ったのって、初期の黄巾と戦ってた時代除けば、
曹操とか高順とか曹仁とか陸遜とか、時代を代表するクラスの名将ばかりなんだよね。
一流だけど超一流ってほどじゃないんだろうな。
高順が一流かってと微妙。
部隊規模の将帥で、たまたま長文の具体的な逸話が散逸せずに残った幸運だろう。
それよりは少し幸運が少なかった楊奉、郭シ、樊稠らを初めとして、一世代に何人もいた程度の良将ってところか。
曹仁も曹操、陸遜と並べるとやや見劣りする。
劉備って、戦術能力では数百人単位の部隊指揮から、数千、数万の戦役まで全部85点近辺。組織能力は全域で90点以上。という感じ。
だから、局地的に戦術能力が高い戦術家に当たれば負ける、大局観の優れた名将に当たっても負ける。
劉備のような軍閥の長としての組織力がない素の軍人であっても、安定した軍閥に所属していれば劉備の軍を破ることはできる。ってとこか。
ゲームのパラで表すなら80後半位の戦争指揮能力で
軍の士気低下が大幅減になるスキルつきってあたりか
数百人単位の部隊指揮なら、劉備はイマイチなのでは?その規模の部隊を率いて黄巾と戦ってた頃は、
勝って官位を得る→負けて官位を失うの繰り返しだったし。
劉備が武将として安定した力量を発揮し出すのは、公孫サン配下で数千の兵を率いるようになってから。
それ以降もおそらくは数千以上の兵しか率いる事は無かったと思うし。
242 :
世界@名無史さん:2010/09/29(水) 21:53:07 0
高唐県令だった時、賊に負けて官位を失ってるが、
それ以前の安喜県尉や下密県丞は自ら官を棄ててるな。
>劉備が武将として安定した力量を発揮し出すのは、公孫サン配下で数千の兵を率いるようになってから。
数は力って話じゃねぃ?
力=兵数×兵質×武装度×戦術×戦略
曹操や孫策の配下って、おそらく数百の兵ぐらいしか率いてなかった当時から、
強かったのがわんさかいるからなあ。
劉備はその対黄巾時代で勝率がいいから出世したんだよ。
布衣の立場から私党を集めて義軍として参加して、せいぜい五年程度で県令まで出世してる。
乱世ならではだが、20代の県令なんて孝廉出身でも到達するとは限らない超スピード出世。
中央官吏未経験にも関わらず、年齢的には曹操と互角ぐらいの速度で以後も守相・将軍・牧と階段を駆け上がっている。
当時は地方の朝廷権力が崩壊していく劣悪な戦況だったわけで、当然負けたこともあるだろうが、
地方高官や群雄達からの劉備が一貫して高い評価理由というのはシンプルな「劉備軍の強さ」にあったのだろう。
旗揚げ当初なんて孫堅も曹操もよく負けてるしなぁ。
30代で左将軍だからな。あのまま曹操のもとにいたら、40代で三公になれたかもね。
>>248 なんかものすごい勢いで飼い殺しの階段上ってないか?
それw
>>249 元群雄で名声が天下にとどろいててしかも危険人物なんて、
飼い殺す以外使い道ないだろ。
微妙なところだね。飼い殺すには有用すぎるが、魏国の中核に入るには名声が大きすぎる。
閻柔や鮮于輔、もう少し中央に近くて臧覇のように、主戦場以外の不安定地域の鎮撫。
老域に入ったら呼び戻されて名誉職の高位将軍ってとこか。
劉備は既に名誉職の高位将軍じゃん。あの時点の曹操にとって左将軍の劉備は、
外に出して鎮撫の任にあたらせるには大物過ぎる。あのまま中央で飼い殺しにする以外ないのでは?
左将軍の上なんて、三公か大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍ぐらいしかないぞ?
お前らは曹操が劉備ラブってことを忘れてる。
曹操は劉備を使いこなそうとするだろう。
それは成功しないだろうけど。
丞相:曹操
相国:劉備
>>252 現実には左将軍で飼殺さず袁術討伐に向かわせたわけだけどね
左将軍・豫州牧という名実伴う鬼のような待遇。
曹操が漢を滅ぼして自分の勢力で取って代わろうとする以上、
劉備ほどの大物を自分の勢力下に回収するのは現実的には至難だったろうな。
257 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 01:44:21 0
劉備ラブって言うより、単に行き当たりばったりで景気よく官職をばらまいただけにみえる。
曹操って結構いい加減だし。
東洋史学者岡田英弘氏の言葉。「漢文というのは情報伝達が主な任務で、人間感情を表現する
文学には向いていない。例えば、日本人は漢詩を読み下し文で読んでわかったつもりになって
きたが、それは漢詩を日本語に置き換えることで、日本語の情緒を味わってきたにすぎない。」
そもそも人間同士がもたれ合い、信頼しあうことが前提となっている日本社会と、人間不信が根底にあり、
人間同士が食い合う中国社会とでは、根本的な成り立ちが異なる。宮城谷さんの小説にしても、日本人作家
の描く中国は情感豊かに描かれているが、これって結局は、日本語の世界が作り出した日本人向け自己満足
の世界じゃないの。
黄文雄氏は台湾民主運動家の出身だが、氏の本の中にこういう話が出てくる。イギリスの外交官マカートニーは、
清朝の乾隆帝に謁見して通商貿易を求める。乾隆帝から拒否され帰国の途につく。そのとき、北京から広東まで
戻る旅で見聞したことを本に書き残す。その本に書かれていることは、中国の都市は城壁で囲まれているが、
そこを一歩出ると魑魅魍魎がうごめく世界だったと。治安などかけらもなく、人が人を食い物にするおぞましい
世界として描いている。これが三国志の時代から何も変わっていない清朝全盛期の話だ。同時代の日本が、
宿場町が整備され、庶民の旅が容易だったことと比べると、雲泥の差だったと黄氏は述べている。
むしろ
日本で生まれ育った日本人で中国語・漢語の文章の方に情感や情景のリアルさをより感じたり、
中国で生まれ育った中国人で日本語の文章の方に情感や情景のリアルさをより感じられる人がいたら、
そいつは何かを超越してるか全く何もわかってないかのどちらかだと思うがのう。
言語は文化であり、生活や風習や伝統や歴史と不可分のもんだぜ?
盛大な誤爆
耳に心地よいからと、独立運動家の意見をそのまま容れるのは感心しないな。
彼らの反中は、当然のことながら日本でいえば学生運動やってた左翼の反日よりも過激であってしかるべきものだぞ。
何せ左翼と違って違う国だと主張しているわけだから。
それだけ強いバイアスがかかってるものを、都合がよいからと採用すると、文全体の信用度が落ちるよ。
実は黄文雄はただでさえ保守系の軍ヲタなどからの信用も薄い人物だし。
264 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 09:52:25 0
「保守系の軍ヲタ」自体が社会から信頼されてないけどなw
>>263 結論自体に異議を挟むつもりはないが論法が無茶苦茶だな…
>>245 その曹操は徐栄にボロ負けだし、孫策も祖郎に大敗してるよ。
やっぱり烏合の衆じゃ高が知れてる。
曹操は黄巾相手にも何度も負けとるね。
呂布相手に退いたのは仕方ないにしても。
やっぱ数の差があるときは別だろうなー。
個人の能力を重く見る例が多いけど、そういうのはやっぱ史実じゃ少ないよ。
268 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 15:15:00 0
野戦だと、余程相手の司令官がアホでない限りは、
装備や練度が同程度なら、勝つのは数が多い方。
そう言う意味では、諸葛亮の第四次北伐の野戦で、
魏軍の攻撃を退けたのは、結構凄いことなんだよね。
劉備にくらべたら全然凄くない
袁術って戦下手、悪政を敷く、謀略や外交の手腕も微妙。
名声も人望もさほど高くない。あるのは家柄と高官を歴任した経歴だけ。
それなのにどうして一時は天下の二大勢力まで昇りつめたんだろうねえ。
当時は三公を出した名門や皇族や名士が地方で割拠してたから、
四世三公の家柄も他の郡雄をリードする武器にはならないし。
失敗したからけなされるわけで、うまくいってりゃそういう疑問を抱くまでもなくきちんと功績が描かれていたろうさ。
>>270 謀略だけは超一流だろ
名声や人望も皇帝になる前まではなかなか
273 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 19:46:22 0
>>270 まず北を制圧してそれから南へっていう袁紹の戦略は、
曹操がそのままパクルほど出来がよかったんで。
外交もそんなに悪くなかった
孫親子がいたのもある
というか、孫呉は袁術の継承者だろ。
>>272 袁術は謀略は大したことしてないんじゃないか?
名声人望は高かったんだよ。
ただ、皇帝を名乗って潰れてしまったから、
袁術に近かった人間がその後の世の中を生き残るためには
「俺は実は袁術には反対だったんだ」と称する必要があって、
そのために悪し様に言われる逸話が多数残ったんであって。
277 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 20:39:06 0
曹操は最初は名声高くなかった。
宦官の養子の子孫だったしね。
それが暴虐な董卓に果敢に戦いを挑んだことにより、
名声が大きくアップした。
278 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 20:53:27 0
董卓と戦う=献帝と戦うなんだがな。
後にその献帝を擁立してしまうあたり、曹操の戦略は全然一貫してない。
>>276 孫堅を仲間に引っ込んで董卓を洛陽から追い出したり、、曹操に負けてもすぐに揚州に割拠したり、リョフを使って劉備の本拠地を乗っ取らせたりしてるだろ
曹操が適当で、調子のりで、一貫性もなくうろうろしてただけなのはみんなわかってるだろ。
下手すりゃ袁紹の影響下で戦い続けて袁紹の勢力拡大して終わりだったかもしれんわけで、
奉戴で戦略転換できてよかったんじゃないの。
袁術の名声と人望が高かったと言うソースを、
「袁術は男気があった」「袁紹と名声を競っていた(けど不利だったらしい)」以外にお願い。
>>282 こういうのは謀略と外交を区別するのは難しい
要するに、皇帝になる前の袁術は謀略と外交と名声や人望は優れてたと
284 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 21:19:58 0
袁術「呂布クン、今こそ劉備を裏切りなさい」
呂布「徐州取ったどー!」
劉備「うわー」
劉備「降服します」
袁術「よしよし」
劉備「呂布に」
袁術「えっ」
劉備「えっ」
呂布「えっ」
だから、名声と人望が群雄の中でも際立って優れていたと言うソースをください。
>>281自身が既に触れている。
後漢末の群雄というのは、8割方が漢の名士高官なんだよ。
動乱期に入って群雄として勢力を固めた者達の中でも袁術と袁紹が抜きんでた名声人望を持っていた。
(もっと名声の高い高齢者は多くいたけど、朝廷に残ったり混乱で死んだりして群雄にはなれなかった)
この当時、名士として信望や高官の官歴・人脈というのは、群雄になるにも、群雄を支えるにも、
非常に大きな力を持っていた。混乱した地域を治める政治力を持っているのは第一に政治家だしね。
だから袁術は群雄勢力を築くに相応しい人望と名声を持っていたわけだ。
そこから勢力を維持拡大するには、軍事的能力や「乱世流の政治力」が不可欠だろうけどね。
朝廷の名士、乱世の英傑たらず。というわけだ。
>>278 そんなことないよ。
酸棗諸将は董卓打倒は誓っても、それは献帝打倒にはつながらない。
君側の奸を除くという大義名分での挙兵は成立する。
曹操と戦った劉備は献帝を否定していたかと言えばそんなことないんだし。
最近、曹操の献帝奉戴について色々言ってる人がネット上にいるけど
根本的に間違っていると思う。
>>287 でも、袁紹と交友のあった名士なら名前たくさん出てくるけど、
袁術と交友があった名士は名前が出て来ない。
袁術が袁紹の所に出入りして、自分とは付き合おうとしない名士の悪口を言って、
人にたしなめられたりしてる。名声や人望がある人がこう言う事するかな?
290 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 22:43:23 0
>>288 袁紹は献帝無視して新皇帝擁立しようとして、その相手から断られるという、あまりにもみっともない失敗をしてるじゃんw
真っ当な群雄の一人でちゃんと曹操が弔った袁紹はともかく、
早すぎる帝位僭称をした袁術とそこまで仲が良いといってしまったら後の世では身の破滅じゃないかな。
292 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 22:46:45 0
>>290を以て
>>288を否定する材料と成り得ると思い込めるところに知力の限界があるのだと思う。
>>288が、理解出来ない人のために説明しないからこういう事態になるのである。
>>290 そう、袁紹はね。
曹操は献帝を奉じる戦略を持っていなかったとする人たちは
曹操=袁紹の配下という間違った認識に立っているから、そういう誤解をしてしまう。
曹操は袁術の配下だろ?
295 :
世界@名無史さん:2010/09/30(木) 22:56:10 0
>>292 関東諸侯は誰一人献帝を取り戻そうとか言ってないからw
>>295 袁術が献帝は霊帝の子供じゃない、って言っていたという証言ならあるな
>>296 袁紹がそう言ったのを袁術が否定した話なら三国志の袁術伝の注にあるな。
なるほど、袁紹は献帝ごと潰す気だったんだな
>>289 だからそれは
>>276なんだよ。
後漢王朝健在の時期に二人の名声が並び立っていたことは後漢紀などにも載っている。
袁紹というのは党錮に抵抗して危険を顧みず名士を救った逸話もあって、個人として袁術より一枚上手の印象ではあるが、
それ以上に、短命に終わった魏から距離を置く立場を表明するために利用されている面もある。
袁紹と袁紹派の人間は、「後世の史家が持ち上げても問題ない」し、「持ち上げることで後世の人間達が自分の立場を表明する」
受け皿にもなっているわけだ。田豊・沮授を初めとして野史の記述が豊富なのはそういうこと。
袁術の場合は皇帝を「僭称」して滅んだために、その方便がまったく使えない。関わったことは触れずに済ませたいし、史書にも書きたくないという陣営なわけだ。
袁術派に属して終わった人間が、字さえまともに伝わらないのはそういう理由になる。
字さえまともに伝わらないのは、その後に曹操に仕えることが無かったからだろ。
沮授だって字は伝わっていないんだし。
田豊 郭図 逢紀 審配も曹操に仕えてないよ
田豊が進言した戦略ってエグいよな
要は曹操が国力を蓄えられないようにかき乱せってわけで
一番被害を受けるのは民草だろう
お優しい袁紹様が取り入れなかったのも無理はない
303 :
世界@名無史さん:2010/10/01(金) 00:32:59 0
頭数だけはそろえたけど食糧不足で機動力がなく、
結局官渡に立てこもるはめになって我慢比べ。
我慢比べなら当然食糧不足の曹操が不利で、「もうご飯ないから帰るわ」と泣き言言う始末。
304 :
世界@名無史さん:2010/10/01(金) 00:39:38 0
食糧不足、人手不足の曹操は華麗な機動戦でカタをつけたかったはずだが、
先鋒の顔良と文醜を破ったあたりで袁紹は慎重になってしまい、
曹操は手も足も出なくなって官渡に篭城。
食糧不足の曹操は篭城戦こそ避けたかった。
だって食料が足りない側が負けるのが確実だから。
勝つために非情になりきれなかったところが袁紹の限界であり、
また魅力でもあったんだろうなきっと。
非情だったらついてこない人も多分たくさんいたろう……
非情云々と関係なしに寿命ってことはどうなんだろう?
官渡後の死は敗戦のショックが引き金ということであったとしても
戦死じゃないから、死んでおかしくない要素はあったわけだし
生年を146年だとすると54歳、曹操にもたもた当たっていたら
統一の道筋をつける前に寿命が尽きてしまうと思ったんではないだろうか。
結果的に負けたから、もっと慎重にあたるべきだったと言えるけど
曹操に勝った後まで視野にいれていたからこそ、戦を急いだ気がするんだが。
戦力的にも裏切りがなければ普通に勝てていた気もするし。
曹操が官渡まで押し込まれたのは、劉備の対応に追われたのも大きいだろう。
308 :
世界@名無史さん:2010/10/01(金) 07:20:54 0
>>285 >>289 名声や人望なんて、
今風に言えば内閣支持率みたいなもんだよ。
鳩ポッポなんかも、就任当初は凄い支持率だった
だろ。
何となく人気がある場合もある。名門出身というだけ
で高い評価なんてざらでしょ。食客みたいな連中は、食わして
もらえば高い評価する。
>>308 名士の名声と言うのはそんな安っぽいもんじゃないんだが。
名声を守るためなら、世俗の利益や時には命でさえも賭けなきゃいけない。
名士にとって名声は命よりも大切な最大の財産であり、
名声を失う事は社会的生命を断たれることになり、死に等しいから。
個人的な人気や名門のコネなんかとは関係なく、
名士にふさわしい言行があって、それが格上の名士や郷論に評価されれば、
寒門出身者でも名声を得て名士になれるし、
名門出身者でも品行が悪くて、世論の評価が低ければ名士とはみなされない。
官渡の戦いで不思議なのは、兵力が少ない上に本拠地と戦場が近くて兵站線が短いはずの曹操が食糧難に苦しみ、
兵力が多い上に黄河を渡っていて兵站線が長い袁紹が烏巣を奇襲されるまで食糧に困って無かった事だ。
曹操はよほど中原の疲弊が酷くて、満足に食糧を集められなかったのかな?
袁紹も前年まで公孫サンと長期戦を戦っていて、食糧を蓄える余裕が無かったように見えるんだけど、
そこはギョウで兵站を担当していた審配の手腕だろうか?
311 :
世界@名無史さん:2010/10/01(金) 20:33:51 0
曹操の支配していた地域は、
戦乱で逃げ出した人とかがいて、戸籍に載ってないから
徴税できなかったのでは?
袁紹は戦争はしてたけど、支配地域は安定しており、
戸籍に載っている人が多いので、徴税しやすく、兵糧を
集めやすかったのでは?
そもそも豫州自体曹操が本拠兼生産拠点にしてたけど袁紹のテリトリーで、しかも州牧は劉備
生産力があっても満足に送れなかった
冀州も公孫サンや黒山賊との戦いでかなり荒れてそうな気がするんだけど。
314 :
世界@名無史さん:2010/10/01(金) 21:23:30 0
>>310 曹操陣営は本当に単純に食糧不足だったと見るのが正解だろ。
食料がないので曹操軍は機動戦ができなかった。
動けないなら篭城するか逃げるしかない。
諸葛亮の北伐も、食糧不足でたびたび撤退を強いられてる。
その上、曹操は袁紹に対抗するために無理して兵力をかきあつめているはず。
1万の兵を養える食料しかないのに兵が2万になったら、持ちこたえられる期間は半分になる。
>>313 公孫サンは平民には甘いから略奪とかはあまりしてなさそうだし、黒山賊は簡単に撃退した
>>291 一応袁術の政治的立場は皇帝肯定だから
曹操に皇帝奉戴されて逆賊認定受けたら新しい立場をとらないとダメだろ
その結果が漢帝否定なだけ
早すぎるんじゃなくて曹操の謀略にやられたんだよ
あと袁術が大した事ないって言ってるやつはもう少し袁術の機転を評価すべき
最期こそ失敗したものの常に先手先手で動いてる
>>314 任峻伝では、任峻が補給を絶やさなかったから勝てたと書いてて、
食料不足をさんざん書いてる他の伝との落差が激しいんだけど、
これって任峻の無能さを隠すための糊塗?
当時曹操が影響力を持っていた地域は、エン州・豫州・司隷・徐州・揚州北部というところだけど、
豫州は潁川の隣の汝南でさえ親袁紹の蜂起があり、劉備の造反がある始末。
徐州方面は臧覇に任されていたが、青州方面に対応しなければならない。
司隷でも司隸校尉鍾ヨウが鎮撫とヘイ州からの南下に備えるのが精一杯で、物資を送った程度。
揚州刺史の劉馥も州内統治に追われているし、戦場から遠すぎる。
袁紹の南下に直接動員できた人員・物資は、長年の本拠地のエン州戦力+潁川周辺の一部くらいだろう。
で、冀州とエン州ではこの時生産力に雲泥の差が付いていた。
>>317 任峻が上手くやっててなお一杯一杯だったんだろ
曹操も豫州があそこまで袁紹にやられるとは思ってなかったんじゃないかな
>>317 あの輸送法は輸送効率は決して良くないからな
というか奪われる可能性が高いから「一部でいいから取られずに届いてくれ」っていう輸送法だ
あれはあれで任峻の機転だと思うけど、食料は一部しか曹操まで届いていなかったのもその通りなんだろう
任峻があの方法を取らなかったら、食料いっぱいになっていたか食料まるで届かないかの完全な博打になっていた
一応は計算できる量をちょっとずつでも確実に送れたんだから、そこは評価していいだろう
袁紹軍の兵站能力がずば抜けて凄いんだよ
じゃなきゃ易京城を陥とすことなんてできない
>>320 任峻の機転は、大規模輸送によって投入できる護衛の兵力を増やし、一度に確実に届ける方法だろ?
>>317 補給は上手くいっていたが、補給する資源がそもそも少なかったってことなんだろう。
>>323 屯田がものごっつう上手くいってたんじゃなかったっけ
鍾ヨウによって長安から輸送された馬2000も武帝期で運用されてる騎兵の数と比べると1/3以下の600となっているし
換え馬等の予備とか考えても減りすぎだから、補給も結構な部分が逃散、妨害されてるんじゃないかな
曹操軍の騎兵の全てが鍾ヨウからの補給で成立しているはずがないし、
曹操軍の騎兵の全てが局地戦で曹操が直接動かせる手元に集中しているはずもない。
比べられない数字だよ。
曹操軍の後方は荒らされまくって壊滅寸前
袁紹軍は冀州の支配はほぼ完璧
別働隊の戦いは袁紹の勝ちだな
別働隊というと臧霸が青州攻めたはずなのに、刺史の袁譚は官渡まで出陣できてるな。
もしかして臧霸日和見したとか?劉備に呼応しちゃおっかな〜って感じで。
青州方面から東を迂回して許へ雪崩れ込まれないだけちゃんと守ってると言っていいだろ
劉備が反逆して徐州の治安が悪化して、臧霸は徐州から動けなくなったんだろうな
戦略レベルでは袁紹の圧勝
劉備の影響力が凄いな。
単に東方のアンチ曹操一派が蜂起しただけなのか?
>>331 徐州はアンチ曹操じゃない奴の方が少ないんじゃねえの?
曹操がアメリカなら徐州は今のイラクみたいなもんだろ
涼州じゃ張白騎が暴れるし、馬騰は日和見だし。
荊州じゃ劉表が袁紹に呼応して宛まで北上。
益州じゃ劉表と組んだ趙韙が劉璋を成都に包囲。
揚州じゃ孫策が離反して北上企てるし。
中華全土を見渡しても、曹操サイドが押されまく印象(序盤だけだけど)
>>333 益州には別の益州刺史送り込んでるから、劉璋は曹操サイドじゃないんじゃね
>>333 てか曹操は袁紹を官渡で戦術的に打撃を与えて撃退しただけで、戦略的劣勢は結局覆ってないだろう。
袁紹が本格遠征する力をしばらくの間奪うことが出来たが、黄河沿岸の袁紹支軍と鍔迫り合いするのが精一杯で、
周辺領域を固めるためにあちこちに出兵する必要もあった。
状況が覆るのは袁紹が死んで袁家が分裂してからで、それでもギョウを落とすのに二年掛かけて袁尚の留守を狙う必要があった。
総国力的には最後まで曹操の劣勢は変わらなかった。
一方的な武力介入じゃなくて、こちらの刺史を受け入れて従えば劉璋様は九卿にしますよ〜って言ってるから、
馬騰みたいに曹操・献帝政権の傘下に入ってるって感じだったんじゃね。
劉表っつー共通の敵いるし。
曹操が献帝を擁立した段階で劉表が既に袁術と同じく「朝敵」の扱いになってるのがすごいな。
袁劉同盟の一方を高位を与えて取り込み、一方を撃つ、と。
撃破し切れずに官渡までずれ込んだのが締まらないけど。
338 :
世界@名無史さん:2010/10/02(土) 19:20:20 0
>>337 劉表は李カクの残党を受け入れてるから放っておけない。
曹操が献帝を奉戴したことに対して「返せ!」と唯一いちゃもんをつけられる立場。
339 :
世界@名無史さん:2010/10/02(土) 19:24:45 0
劉表が受け入れたのは張繍、賈ク。
李カクの残党って言うか、董卓の残党だな。
こいつらに城と兵をプレゼントしてる時点で劉表の目論見が透けて見える。
340 :
世界@名無史さん:2010/10/02(土) 19:41:43 0
>>337 南に袁術・劉表・孫策
北に袁紹
曹操はどんだけ包囲されまくりなのか。
中原割拠型政権だとよくあること。
袁術はなんであのタイミングでエン州に侵攻したの?
南陽を食いつぶして、劉表から荊州を取れそうにないから、
基盤が弱くて勝ちやすそうな曹操にぶつかってったの?
>>342 李カクの派遣した正当な兗州刺史金尚が曹操に追い払われ、袁術を頼ってきたからじゃね?
曹操をニセ兗州牧として討つ大義名分を得たことになる。
なぜ豫州の牧守を自称して割拠しなかったんだろう。
>>338-339 といっても、袁紹・袁術派勢力は李カク政権時代に官位を貰って献帝を認めてるんだぜ。
献帝東帰の流れから曹操が李カクを許さないという立場を取るとしても、
その残党ごときの存在が劉表の政治選択を縛るということは無い。
この時代は敵味方の変転が激しすぎてそんなことに構ってる余裕なんてどこも持ってない。
袁紹は不平がありながら献帝=曹操体制をとりあえず認めた。
劉表は自らの判断で距離を置いたのか、曹操から一方的な通告を受けたのか。
袁紹の支援が受けられない状況に身を置いてまで袁曹派から離反するのも解せないので、
曹操による袁劉同盟の分断工作ではないかと思うのだが。
>>344 豫州(特に東部)って大勢力の空白地帯なんだよね。
袁術も曹操も豫州出身にも関わらず、自分の郷里を本拠にすることはなかった。
袁術は揚州刺史の座を奪い、徐州伯を名乗ったことから、主眼はこの二州に置いていたと見える。
程近い豫州東部への影響力はあっただろうけど、西部への進出の様子が見られるのは197年ごろと遅い。
エン州・徐州・揚州などと違って、豫州の取り合いは不活発だ。
曹操も199年の段階で劉備を豫州牧として統治委任状態にしていることから、
潁川周辺以外はよほど治安状況が悪かったんじゃないかと思うが。
>>346 汝南郡項県・征羌県、沛国沛県、東郡穀城には袁術が築いた遺跡が残っているという。
豫州は袁術の力が拠点を築けるほどに浸透していたのでは?
>>346 治安が悪かったんじゃなくて袁氏の一族郎党関係者が多すぎて曹操にとっては難治の地だったんだろ
曹仁が一か八かで出張らないとどうしようもないような行動がいきなり行った劉備に出来る時点で
袁氏の影響力の強さを読み取れない理由もない
空白に見えるが後々まで時間かけて袁氏に反抗されているだけじゃないか?
349 :
世界@名無史さん:2010/10/03(日) 15:01:22 0
徐州や豫州で負けっぱなしの袁術が、なんで揚州をあっという間に平定できるほど強くなったの?
江東もすごい勢いで孫策に切り取らせてしまった。
孫策は後で縁切り状をたたきつけるが、それまでは袁術の一武将なわけで。
>>347-348 その割には、袁紹と組んでいた時代の曹操がまともに豫州進出していないし、
袁術が西部の陳国まで進出したのが197年ごろと遅いんだよ。
193-196年辺りが空白期間。もちろん両者が派遣した刺史がいただろうが、積極的な動きが見えず、
曹操-袁術間の交戦も193年のフルボッコ以後196年以前は途絶えている。
ところで
>>347はどんな史料?
袁術の最盛期なら汝南郡まで手を伸ばしていても不思議ではないかもしれない。
沛国は袁術が徐州攻略の橋頭堡に使った地域で、数回通過したかもしれない。
(沛県を制圧したことがあるのかはともかくとして)
東郡穀城ってのは無いだろう。エン州の北部、冀州と接する曹操が最初に太守になった土地だよ。
>>350 袁紹は袁術の目が消えるまで袁氏から認められていなかったのでは?
大分後まで袁氏で目立った連中は袁紹の血族を除いて袁術の手元にいることや
息子を一族の誰かに養子に出したりしてるのはそれらの一族内部での勢力図と無関係じゃないと思うよ
袁紹本人は妾の子で生家ではない別の家に養子に出されてるし
袁氏内部での発言力があったか怪しい
袁術はかなり早々に部下である孫堅を豫州刺史として故地を抑えに行ってるし
史書に載ってない部分でかなり豫州と関係あると思う
精査してないから俺も結構当てずっぽうで悪いんだが
>>352 袁紹はそれで説明できるかもしれないが、
袁術が南陽を捨ててからのことが疑問なんだ。
第一に、袁術は郷里の汝南を素通りして、まずエン州に進出し、敗れると揚州に移った。
揚州刺史と徐州伯を名乗り、主戦場をこの二州に置いている。これが193年のこと。
それ以後、史料に散在する袁術がらみの将や太守の大半は揚州に派遣されているし、
徐州の陶謙・劉備・呂布へちょっかいを出す記述が多く見られるのは周知の通り。
袁術にとってこの時期、豫州およびその先にいる曹操の影は非常に薄い。
193-196年頃は袁術にとっても淮南を中心に基盤を固める時期だっただろう。
で、陳王寵と国相の駱俊を殺して陳を奪うのはやっと197年。
袁術の本貫地汝南郡汝陽は、陳国境のすぐ西南にあったりする。
もちろん、袁紹・袁術両勢力とも豫州に刺史などを派遣していただろう。
エン州呂布の乱時に日和見した(結末は良く分からないが)豫州刺史郭貢はおそらく
袁紹側の人間と考えられるように。だけど、この時期(193-196頃)の
豫州官府関係者は名前しか分からないくらいに史書に記述が乏しい。
ゆえに袁紹(曹操)・袁術両勢力にとって、主戦場と言えない関心の薄い地域だっただろうと
考えられるのだが。
>>251 古今図書集成で「袁術」とか「公路」で検索かけると出てくる。
あと穀城なんだがよく読むと拠点があったんじゃなく、県内の沅漕洲という場所で袁術と曹操が対陣した。
そのため別名「袁曹洲」と呼ばれる、だそうだ。
豫州は曹氏の故地でもあるから曹操よりも袁術を強烈に支持したなんていう
不名誉な記載は減るだろうという勝手な予測の元に考えてみた
豫州が史書にあまり出ないのは孫堅を豫州刺史とした時期に一度袁紹と争った後
ほぼ完全に袁術がキープしてたのではないかと愚考する
そういう前提だと主戦場どころかもうガッチガチで曹操が入り込めない程の完全な支配力だったので
(というか袁術自身が豫州における土着の豪族だし)係争どこのレベルではなかったということになる
袁術がその後、揚州徐州を狙い続けたのは大勢力のいない空白地と見てではないだろうか
陳を落とすまでの袁術は朝臣楊彪と婚姻関係にあったりして尊皇っぽいことしてる
こちらはイデオロギーの問題で落とすのを待ってただけという理由付けができる
徐州は元々が土豪の強い土地柄でまとまりも悪いところで更に陶謙が死んで四分五裂してる状況
袁紹とそのシンパ曹操の勢力圏になるくらいなら手を突っ込んで寸土でも切り取りたいのが人情では?
揚州は呉を故地とする孫堅、呉景等が配下にいて豫州程ではないにしても他に比べれば強固な支配が見込める
さらに大勢力がいないし関東有数の強兵の産地でもあるからこちらも出来るだけツバ付けときたい場所
とまあ8割妄想だな、これは
>>355 横レスだが
それだと、袁術が南陽を食いつぶして外に出て行かざるを得なかったことと矛盾する。
豫州の糧秣を南陽に運び込めば良かったんだから。
しかも曹操にちょっかい出して破れた袁術は一気に揚州まで逃避行するし
徐州攻めるのに陸康に兵糧を要求しなければならなかったりするし
やはり豫州を手にしていたとも思いづらいな。
豫州はもともと袁紹と袁術が配下を通して奪い合った地で
曹操の立場からすれば袁紹との対立が明確になるまでは豫州に手を出せなかったんじゃないの
袁術が豫州を支配していたとすれば、
争奪戦の対象になってない豫州に本拠を置かずに、
わざわざ前線の宛や寿春に本拠を置いた理由が分からないな。
袁術は豫州にはほとんど影響力なかったんじゃないの?
支配していたとしてもせいぜい汝南あたりぐらいだろう。
袁術の征南将軍孫香が汝南で死んだと言う記述があるから、
少なくとも汝南には袁術の勢力は及んでいただろう。
じゃあ袁術豫州制圧妄想継続な
>>356 南陽を手放すのは単純に食い潰したからというわけではないと思う
それに南陽は北側を山に囲まれた盆地で、豫州の側から輸送しようとすると多大なるコストが掛かる
大規模な水路も俺の調べた限りだと南陽は漢水と連携するんだが豫州方面との連携が上手くない
北から袁紹・曹操、南から劉表の圧力が掛かるので南陽か、豫州かどっちかを切り捨てる判断に迫られる状況で
有能な軍人である孫堅を失って軍事的に退行してる袁術は散々絞った南陽を捨てたんではないかと思う
係争地である豫州北部が封鎖されると豫州-南陽の連携は一層厳しくなり各個撃破もあるし
南陽を考えなければ淮水水系一つに勢力圏が納まり上手い具合に輸送路が繋がる
>>357 それならば尚更、袁紹一の子分である曹操は豫州から袁術の影響を排除しなけりゃダメじゃないか?
決裂するまでの袁紹と曹操の関係は親分子分なんだし
>>358 係争地に近いところに本拠を置くのはその後の孫権もやってること
上でも述べたけど寿春は淮水水系にあって河水で綺麗に豫州と繋がってる
宛てのは寿春と同じように水系の抑えの一つ
イク水の源流が弘農にあって遡ると直行で洛陽を狙える急所
南陽の孫堅を打ち払えなかった董卓が即座に長安に引っ込むのはこのせいだと思う、正史にはそう書いてないけど
劉備が夏侯惇を焼き討ちする博望もこの水系の抑えの一つだったりするが余談過ぎた
>>359 そんな親分子分なんて単純な関係ではないでしょ
袁紹の上書によって東郡太守に就いたまでならそうとも言えるかもしれないが
エン州牧には袁紹と関係なく就任している、この時点ですでに自立傾向
後に陳宮が裏切ってどん底に落ちた時に袁紹から「自分の援助を受けろ」と言われて断っていることからも分かる
配下と同盟関係の中間くらいのもんでしょ
そういう状況で勝手に豫州に手を伸ばせば同盟的な関係さえ崩れかねない、下手すれば袁紹と袁術が手を結ぶ
袁紹からすれば曹操が力をつけ過ぎるのは困る
曹操からすれば、十分な力をつけないうちに袁紹の敵意や警戒を買いすぎるのは困る
その微妙な力関係が豫州への遠慮を生んでるんじゃないの、ってこと
>>355 >>359 >そういう前提だと主戦場どころかもうガッチガチで曹操が入り込めない程の完全な支配力だったので
そうすると、袁術が遠く寿春に本拠を置いたことがやはり説明が付かない。
係争地近くに本拠を設けるというのは、本拠に軍事力が集中するため、敵軍に対して攻守の便が良いからだ。
(建業は無論、対董卓戦で袁術が南陽を支配したように)。
袁術は豫州を安全な後背地と出来る場合のみ、寿春を本拠地かつ前線拠点に使用できるが、
それは揚州・徐州方面を戦線正面と設定るするものだ。
しかしそれでは、袁紹=曹操勢が後方を食い荒らすのを阻止できないし、
安定した一州(豫州)を他勢力に先駆けて手中に収めているはずの袁術が
中原・関中の争奪戦に完全に背を向けたことになる。
194-196年に掛けて、エン州は長期の分裂状態にあったのに、豫州を支配するはずの袁術は隣の州へ
手を出してもいない不思議が残る(徐州の分裂には手を出したが)。
最終的にエン州を掌握した曹操の名誉のためにも、曹操が袁術の攻撃を耐え凌いだ、
などという逸話の一つもあっていいはずだ。
やはり193-196年ごろの袁術は、新本拠地揚州の掌握に時間を費やしていたと見る方がいいだろう。
>>360 袁術の支配下にないと仮定しても、だ
曹操も袁術も手を出さない、しかも人口の多い豫州
いくら遠慮したってこんな危なっかしいものを放置しておけるのか相当疑問だな
誰かが群雄として立つか、群雄の誰かが手を伸ばす地域じゃないかね
いくらなんでもこの放置っぷりは異常
強い豪族乱立地帯だったとか>豫州
袁氏以外は魏で勃興したみたいに言われるが、結構後漢後期あたりから袁氏以外も高官連発してるわけで。
豫州は黄巾の勢力が強かったから、なかなか手が出せなかったんじゃ?
あと、陳国の劉寵みたいに郡国や県レベルに割拠する強力な独立勢力がたくさんいたんでしょ?
豫州の人口が多いかというと疑問で、確かに後漢最盛期には屈指の大州だったが、
晋代までには激減している。後漢後期からの混乱で衰退した中原地域の一つだろう。
曹操は徐州侵攻頓挫のあと呂布の乱のため、196年まで対外拡張する力がなかった。
許チョの伝などを見ても汝南やショウ付近が大勢力の支配下にあった様子ではないので、
中小軍閥が凌ぎを削る地域だったのだろう
許チョが防御していた正確な時期がわからないのが難だが。
豫州の諸勢力が具体的に袁氏に靡いたのは、袁紹南下によって「天下の帰趨は定まった」と
多くが旗色を鮮明にした時では。
地勢的には、豫州の淮水流域は豪族地帯だというね。
天水農業が可能な低地に、古くからの豪族がっちり食い込んでいて、国家権力はなかなか手を出せなかった。
代わりに、王朝は大規模灌漑によって新しい農地を作って小農民に与えた。
しかし後漢の国家権力の衰退によって新農地が維持できなくなり、小農民の経済が破綻して流民が大発生したことが
後漢後期の混乱の主要因の一つ。経済と治安の混乱はやがて大豪族地域へも波及し、
最終的には豪族主導の大規模な人口流出に至った。
妄想に付き合ってくれて感謝な
>>361 史実でも袁術の行動は董卓死亡後完全に東部に向かってる
袁術が李カクと結んでいる事とこれは無関係じゃないだろう
エン州の撹乱に対して反応してないのは一度揚州で広げてしまった戦端の収拾に四苦八苦していたんだろう
揚州で手一杯というところは俺も同じ意見だ
ただそれは二正面を避けるという意味で、そこが新たな本拠地だったからというわけではないよ
背後が混乱してるならそこをかき回さず放置して逆を取りに行くというのはよくある話
曹操が混乱に収拾付けて背後から襲い来るタイミングを袁術が見誤っていたのだと俺は思う
>>363 強い豪族の並立する地域なら尚更不可思議
汝南、潁川に黄巾の残党が居る、それも数万単位で
その上そいつらは袁術配下でしかも孫堅に付いている
豪族が乱立しているならまず黄巾がどうしてここまで大きな顔をしているのか?
曹操に寝返ったから青州黄巾と同様に黄巾の残党扱いされているだけで
こいつらは本当のところ豫州の土豪で袁術にしっかりと懐いてる連中じゃないのか?
曹操の故地だから袁術勢力圏下として扱われてないだけでさ
>>364 黄巾は袁術支持だし袁氏も袁術支持
他に何に支持されると袁術は豫州支配認定されるのか?答え:袁氏以外の豪族
というわけで上段にて俺の妄想を展開している
>>365 徐州頓挫の前に「袁術を寿春に追いやった」戦いがあるけども
見事に豫州の手前で追撃を止めている
俺はこの曹操の袁術追撃にもかなり疑問を持っている
とある地域の把握人口の激減は必ずしもその地域の人口の衰退を意味しないんじゃ。
特にその地域の豪族が強力である場合は。
黄巾の一部が豪族含む名士層から出ている可能性もあるから、
豪族の乱立と黄巾の我が物顔は両立しうるような。
黄巾は張角名士説を採らずとも、将軍号を真っ先に用いていることからも、
後漢初の例ではより緑林集団の性質に近く豪族の可能性は高いし。
>>369 結局豫州の黄巾=豪族ということになると袁術は豫州豪族から支持されていたということになる
豫州黄巾が袁術を支持して孫堅と一緒にいたことは正史にあることなので
>>367 袁術の本体が揚州支配に四苦八苦していたとしても、
安定した豫州支配を遂行しているはずの代理人(刺史?)が保有している兵力があるだろう。
それに黄巾残党が加わるというなら、なおさら余剰兵力は膨大なものになる。
しかし、二年にも渡るエン州分裂の末に袁術派らしき陳宮や張超が追い詰められて逃亡を図っても
静観しているというのは、いくらなんでもおかしいんじゃないか。
エン州は必争の「四戦の地」、袁紹軍が中原に流れ込む蛇口となる場所だ。
>>371 袁術は手を出しているでしょ、陳辺りを境界に曹操から撃退されてるだけで
曹操は献帝を向かい入れて袁紹から完全に自立する頃に豫州へ手を伸ばし出す
それまであそこは曹操と袁術に挟まれる緩衝地帯自体であって
よほど力のある奴じゃないと手を出せないでしょ
>>371 豫州原資に揚州攻略してるし故地な上にせっかく安定支配してるので豫州からは絞れない
「黄巾数万」が実質「数万の民衆」ってのは青州黄巾からも伺える
豫州の人口に比べれば数万規模の一族といわれても小さく感じるが、
それらから支持を受けているともなれば十分州の支配をしていると言える(完全支配とは段々言えなくなって来た)
ま、まあ袁術は豫州を支配してたともいえなくもないかもしれないような気がしてこないか?
張超、陳宮は袁術派じゃなくて単なる反袁紹では?
敵の敵は味方だが助ける義理もない、同盟者でもないはず
エン州で争ってる頃は明確な連携って取ってたっけ?
>>372 陳より北西にある潁川の黄巾も袁術を支持してるし豫州一帯が袁術支配下と見ていいでのはと思う
陳は単にイデオロギーの問題で見逃されてるだけでないかな?
>>374 それは孫堅が死ぬより前、つまり袁術がまだ南陽にいた頃の話でしょう
それに潁川黄巾党は袁術を統治者として支持していた、というより味方していただけでその場しのぎの利用し合う関係であった、と考えるほうが妥当では?
実際、「後には孫堅の方に近づいていった」とあるわけで
196年、曹操が武平・潁川に攻め込んだ時にも袁術は特に援軍を送っていないように見える
話はそれるけど袁術軍ってオフラや楊俸・韓暹、黒山の残党みたいのが集まる吹き溜まりみたいな場所だよな…
>エン州で争ってる頃は明確な連携って取ってたっけ?
張バク(張超じゃなかった)、陳宮が反袁紹なのは明らかで、袁術と不仲ではないのに、
明確な連携を取ってないから問題なわけで。
袁紹勢力(曹操)がエン州を固めるのを引き伸ばすための支援するのは当然の選択。
それをしなかったのは実力的にできなかったのではないか。
>豫州黄巾
支配下においてなくとも現地勢力と連携することは可能。
諸葛亮が軻比能を雍州間近まで呼び寄せることが出来たり、
陳登が揚州軍閥を支援して孫策を牽制したり。
黄巾と書かれているのだから、素直に、まだ大勢力の再統治に組み込まれていない、
信教組織を維持した独立勢力だったと受け取っておいた方が自然だろう。
むしろ、支配下に置けない地域を有利な情勢に保って置くための外交じゃないだろうか。
>>375 >話はそれるけど袁術軍ってオフラや楊俸・韓暹、黒山の残党みたいのが集まる吹き溜まりみたいな場所だよな…
それいったら曹操軍も徐晃や張遼みたいなのが集まる吹き溜まりだよ
陳は劉寵が単独で弩で黄巾を寄せ付けなかった経緯があり、
結局占拠にも暗殺という手段を用いているから、陳だけはそもそも豫州云々とは別問題として、
厄介な弩をどうにかする方向にリソースを割くより、計算可能な緩衝地帯として置いておく方が、
利害に適っていたのではないかい。
暗殺って手段は厄介な相手を倒すときにもちいるものだから。
劉寵は自分の民の生活が安定して居ればそれでよく、対外的に手を出す気は無かったようだし。
イデオロギー云々より単純に暗殺の用意でもないと手が出なかったと思われる。
袁術の陳国への野心を露わにするきっかけの一つに漢家の否定があったにせよね。
陳国の場合は、意思を持った王が支配する封国ということもある。
群雄風情が簡単な気持ちで縄張り争いを仕掛けられるところじゃなかった。
ということでは?
曹操・袁紹の関係で言えば、
ソウ洪が張超救援に赴こうとして、袁紹に兵馬を借りようとした事実がある。
曹操が袁紹の部下であるなら、包囲を解くよう命令を出してくれと要請すれば済む話だ。
他にも曹操が袁紹の部下でなかったと示す証拠はいくつもあるな。
>>377 徐晃や張遼は主君が負けただけで個人としては有能な人材って感じだけどさ
オフラたちは凄く負け組臭がするというか…
歴史の表舞台にも立てないザコキャラの集まりというか…
>>375 原文だと「初應袁術,又附孫堅.」とあって
後になってから孫堅に付いてったわけでなくハナから袁術の求めに応じて孫堅に付いていってることになると思うんだ
初め袁術に従ってたけど曹操に負けて降ったという文章だから袁術の後誰かに従ったり独立したりという情報はない
書いてあるままだと豫州はやはり袁術に支配を受けてたと読める
196年になってから何もしてないように見えるけど袁術の軍事力はいよいよ揚州制圧の〆に掛かってて
そっちに手が回らなかったと見ていいのではないかな
袁術の軍事を支えてた呉景や新進気鋭の孫策なんかは完全にそっちに回されてる
豫州黄巾が数いるんだからちょっと守っとけよって思ってただろう
>>376 原文だと袁術に応じて孫堅に附き従っていることになる
連携ってレベルでなくて見事な従属じゃない?
>>379 逆に曹操が袁紹の部下だったっぽい証拠も色々あるな
袁術による対袁紹同盟で冀州北部やその周辺まで曹操がパシらされてるし
臧洪が張超救おうとしてる時って臧洪が直前に東郡太守に任命されてるんだよね
曹操が袁紹の部下でないなら自分の領分を随分と気前良く差配させてるってことになる
でもそれって同盟関係ならありえないと状況だろ?
人事権ってのは処罰権や資金と並んで権力の根幹だし、
この時期まで曹操は袁紹に人事権を握られていたという証左じゃないかね
臧洪は曹操の盟友である張超の部下でもある
臧洪の張超に対する忠誠度は極めて高い
袁紹は曹操の兄貴分といったところだな
>>381 黄巾勢力が「應」「附」したからと言って、その地域が支配下にあったことには全然ならないよ。
豫州が一元的な黄巾支配体制にあったという別証があるならともかく。
むしろ、黄巾残党は袁術・孫堅に「從」「屬」してすらいなかったことになる。
袁術の豫州への影響がその記述だけでは、やはり揚州に退避した時期の袁術は
豫州への支配力を失っていたと見るのがいいだろう。
袁術には、揚州まで逃げるんじゃなくて、
豫州に腰を落ち着けて平定して根拠地とするという発想はなかったのかね?
一族の根拠地だし、味方する勢力はいるし、その気になればいくらでも支配固められたと思うんだけど。
「一族の根拠地」だけに袁紹のシンパも多かったのでは
初平3年の陶謙が音頭をとった朱儁を盟主とした反董卓同盟再結成の動きに豫州の二千石が何人か参加してる。
豫州が誰に帰属していたかの手がかりになるかも。
この時の陶謙ってどういう立ち位置なんだろう。献帝の正当性を(一応)認めてるから反袁紹だろうか?
だとしたら豫州も袁紹の劉虞擁立を面白からずって雰囲気があったのかも。
陶謙の独断で劉備が豫州刺史になってるからねえ
豫州東部は陶謙の勢力下だったのかもね
豫州西部の賊や豪族はは袁術よりの独立勢力かな
東部と西部も反曹操になる要素は十分
>>383 「附」ってのは「自分の意思で従う」の意で使われてるぽい
従属とは違うが袁術の求めに応じて孫堅を選んでるってことだね
袁紹伝で豪侠がやたらと袁紹に「附」してたりするし
曹操が献帝を奉戴すると関中は皆曹操に「附」したとある
「完璧な支配」というには程遠いが何だかんだで袁術は豫州を掌握してたんじゃないか
問題は孫堅死後、應袁術・附孫堅してた連中はどうなったか、だな
こればっかりは想像するしかないので、あとは徒手空拳で揚州奪った袁術と考えるか
豫州を抑えつつ揚州を奪った袁術と考えるかは解釈次第という結論に落ち着くか…
もう少し地図と記述を付き合わせると何か判るかもしれないな
>>385 シンパは一緒に袁紹と冀州行っちゃってない?
豫州出身の名士が袁紹配下に結構いるぞ
>>387 東部の中心をなす沛の国相は初平3年の時点で袁忠。陶謙の同盟案に参加してる。
袁術・袁紹と同族であり、曹操を法を以て処罰しようとしたという袁忠が陶謙と結んでいる。
袁忠の後任はおそらく陳珪。陳珪がアンチ袁術、曹操シンパなのは明らか。
たぶん豫州東部(というか沛国)は陶謙の死を境にして、アンチ袁紹陣営から袁紹・曹操陣営に鞍替えしたんじゃないかな?
もしくは陶謙を継いだ劉備の主導かもしれん。
390 :
世界@名無史さん:2010/10/04(月) 20:39:34 0
>>389 結果、袁術の次のターゲットは劉備になるのだった。
>>388 少なくとも、汝南は袁術の勢力下だったんじゃないかな?
袁氏の門生や食客が多数の兵を擁して割拠してるし、寿春との連絡も悪くないし、
袁術の征南将軍孫香が汝南で死んだと言う記述があると言う事は、
汝南に袁術の重臣がいてもおかしくない状況下にあったと言う事だ。
袁術の將軍が汝南で死んだというのは197-199頃なら十分あり得る
陶謙は群雄割拠初期は袁術・公孫サン派だった可能性が高い(武帝紀。記述には疑問もあるが)
初平三年、西進を考えていた朱儁が、未だ南陽に留まる袁術の支援を受けていた可能性は結構あるだろう。証拠は何も無いけど。
陶謙はこの時、徐州と豫州・エン州の一部にまたがる中原東部に緩やかな影響力を持っていたと考えられる。
しかし、袁術が揚州に移った時点で徐州へ食指を伸ばすため、袁術・陶謙の仲は一気に悪化する。
孫策が劉ヨウ討伐へ出る194年にはこの情勢は固まっていた(孫策関係者の各伝に詳しい)。
さて、朱儁推挙に名が見える汝南太守徐キュウは後漢書に立伝される人物で、
192年以降、許都へはせ参じるまでの間に東海相へ転任した。
のちに二守相の印綬をまとめて朝廷へ返還していることから、勿論真っ当な転任ではなく、
乱世の情勢変化ゆえの勢力移動と考えられる。
東海国は徐州の一国なので、時期的には、完全に袁術と関係ない、
陶謙との友好関係に則った異動と看做すことができる。
が。汝南郡そのものの帰属を推定するには今ひとつ足りないかな。
>>381 >臧洪が張超救おうとしてる時って臧洪が直前に東郡太守に任命されてるんだよね
いや、直前でもないんじゃないか?
それと、このスレの最初の方に書いたけど、
臧洪が赴任したのは東武陽で、当時のエン州の管轄下にあったかどうか分からない。
あと、袁紹派、袁術派の二項対立で見る人が多いけど
俺はそれに疑問を持つ。
陶謙なんか、陶謙派というべきじゃないかね。
徐キュウが献帝の許昌遷都時に都へ招聘されたとき、袁術に身柄を拘束されたという。当時の徐キュウの官職はおそらく東海相。
東海から許へ向かう途中で袁術に拘束されるって、袁術が豫州になんらかの影響力を持っていた証左になんないかな。ちょっと無理があるか。
あと徐キュウが汝南太守の印綬も持ち続けていたってのは、後任の誰かを敵視してたってことかな?
河東太守の王邑が曹操の派遣した後任の杜畿に印綬を渡さず、上洛して直接返還したような感じで。
袁術がらみだとよくあることだけど、徐キュウもこの辺の行動は辻褄が合わない。
徐州から安全地帯を行くならまっすぐエン州に入ればいいのだから、
袁術に捕まるような道を行く時点でおかしい。
自分の意思で袁術へ身を投じた可能性はある。
汝南太守の印綬の方は、後任が存在しなければ持って行かざるを得ない。
当時朝廷の人事なんて通らない時期だから、
徐キュウも敗北か統治困難で徐州へ避難したということだろう。
徐キュウって袁術が死ぬと、袁術が持っていた伝国璽を手に入れたんだよね?
実は袁術に仕えていて、死ぬまで側近にいて、伝国璽を手土産に許の朝廷に身を投じたのでは?と思う。
仮に袁術が皇帝になったときには反対したとしても、それまでは袁術の近くにいたんだろうとは思う
>>394 曹操の東郡太守着任時も治所は東武陽
同じ郡を治める人間がそれぞれ同じところを治所にしているわけで
袁紹の任じる東郡太守の治所が東武陽という見方でいいだろう
>臧洪が赴任したのは東武陽で、当時のエン州の管轄下にあったかどうか分からない。
という見方をするのは難しくないか?
>>399 臧洪と同時期に夏侯惇が東郡太守で、濮陽に駐屯している。
夏侯惇の東郡統治は、呂布から三城固守したときに多分失われてるな。
そのあと、曹操が二年掛けて州を奪還する間、袁紹も自分に近しい人間を太守に送って影響力確保を狙ってたんだろう。
臧洪は名高い名士であって、袁紹や曹操らと力の差はあるが、半独立の基盤を持っていたと。
袁紹と曹操との間も上下関係というより、力の差のある友好関係というところ。
だから臧洪は張超救援を嘆願することもできた。
この頃は大きな軍閥といえど、他の州の刺史や太守らへの支配力ってこんなものなのだろう。
402 :
世界@名無史さん:2010/10/05(火) 13:47:06 0
この頃袁紹は公孫讃と争ってなかったか?東郡に影響力確保を図ってる余裕なんて
あったのかな?
公孫サンとは一進一退だったが、195年に鮑丘(魚陽にある)で大勝を得て完全な優位を確立したようだ
本格的に進出する余裕が無かったからこその臧洪という見方も出来る。
公孫サンは四州に刺史を任命して、黄河南岸まで影響力を広げていたから、
公孫サンと戦うとなれば、冀州に進出してきてる本軍だけじゃなく、
他の州に存在する公孫サン方勢力とも戦わなければならなかった。
実際、曹操に黄河の南の公孫サン方勢力を討たせているし。
臧洪を東郡太守に任命したのも、背後を固めるためだろう。
袁紹からみて、曹操つかえねーって雰囲気になった時代もあったんだろうな
407 :
世界@名無史さん:2010/10/05(火) 20:09:24 0
>>406 呂布と陳Qにボコられたときとか。
ぶっちゃけ袁紹的には、河北を平定して南下するという戦略を実現させるための時間稼ぎしか期待してなかったと思う。
こう考えると、曹操があちこちの勢力を手当たり次第に叩きまくった理由が分かる。
袁紹が河北を平定するまで、南で大勢力の誕生を阻止すれば、後は鎧袖一触。
曹操は後に袁紹の戦略をパクって北から南へ向うが、そのころには南に孫権の勢力が成立してしまっていた。
>>407 曹操が袁氏を滅ぼす間の失われた数年間が無ければ中原勢力が勝っていただろうな
でもその数年間が無いと曹操は中原を平定できなかった
そうならない可能性があるとすれば、曹操が最後まで袁紹の友軍であり続けるか、曹操が官渡であっさり負けるというIFくらいか
>>405 194-195年頃には、袁紹にとってはそういう悪い時期は過ぎてるよ
冀州の地盤固めもかなり進んでいただろうし、袁譚が青州を席巻しつつあり、公孫サンを幽州まで押し込んでいる。
徐州では新州牧の劉備が秋波を送ってきている。
>>406には同意だけど。
曹操にとっては呂布に掻き回された「失われた二年」が痛い。これがなければ中原の勢力拡大が順調に進んでいただろう。
まあ、そういうifの歴史でも史実と同じように袁紹に勝てたかというと、分からないが。
呂布と戦ってた二年の間に他の勢力が強くなったわけでも無し、
逆に中原の勢力はみんなしてgdgdになってったし、
エン州支配を不安定にしていた強力な劉岱時代からの
州の有力者や有力豪族を一掃できたから、無駄でもななったと思う。
劉岱戦死って、実は諌止した鮑信の思惑通りだった…なんて事はないか
曹操をエン州牧に迎えたいのが本心で、という具合の
裏付ける材料なんて無いけどさ
>>411 あの時点でのエン州牧就任は死地に放り込まれるのと同然だぞ?
青州黄巾に勝てなければ、牧の地位どころか命すら危ういんだからな。
手元にある兵は少ないだろうに軍律の整わぬ州兵をあてに100万の敵に立ち向かうなんて無茶するよな
曹操さんも陳宮さんも
>>413 すでに州内の一太守がやって撃退に成功してるからね
撃退したと言うより、城に籠って守りを固めて、短期間で攻め落とせないと悟ったから、
食料不足の青州黄巾が転進しただけじゃねーの?
>>410 中原がみんなでグダグダやってたからこそ、一人図抜ける機会を失ってしまったのがエン州の乱での曹操。
徐州失陥する劉備も同じだけど。
曹操の場合、官渡で袁紹を撃退したあとも中原平定に兵を繰り出さねばならなかった。
袁氏を滅ぼすのに7年も掛かったのは、つまりはそれだけの体力がなかったから。
エン州再統合から袁術と対決して中原を安定させる時間がないままに袁紹と戦端を開かざるを得なかったのが、
結局は最後まで響いて魏の版図を決定してしまった。
>袁氏を滅ぼすのに7年も掛かったのは
こういう言い方はよくされるけど、
俺は「7年も掛かった」とは全く思わないんだよな。
ま、でも曹操が2年早く北へ攻撃できる態勢になるなら
官渡に対応する戦いは公孫サンを易京に囲む袁紹に対して曹操が攻め込む逆の形になるよね
4州にまたがる勢力を誇り、異民族とは友好関係を保ち、10万の兵と主要な幕僚や将を失っても、
なお強大な軍事力を誇る袁氏を、戦乱で荒れて情勢が
不穏な中原を根拠地とする曹操が滅ぼすのは容易な事じゃないと思うんだ。
結局、袁尚と袁譚が分裂して抗争を始めたのに付け込んでようやく倒せたわけで。
袁氏を7年で倒せたのは、むしろ時間をかけずにやれた方だと思うんだ。
>>417 そりゃ、曹操と袁氏の「史実の」勢力差を考えれば七年は妥当な数字だよ。
勝てたのがそもそも不思議なくらいなんだから。
その「史実の勢力差」が付いてしまった大きな要因が、曹操にとってはエン州の乱って話でね。
漫画や小説では、袁紹は曹操にしてやられてばっかり、若い頃もいいように
扱われてた、みたいな描写が多いが、実際はどうだったんだろう。
門地から考えてもせいぜい「気の利く子分」みたいな関係だったと思うのだが。
官渡で一撃で破られたような印象あるけど、曹操もぎりぎりだったのでは。
袁紹はかなり過小評価されてるんじゃないかな。
>>420 張バクや応劭や鮑信のような自分が任命したわけじゃない半独立勢力、
あるいは同盟勢力のような太守や国相が州内の郡国を治めていて、
その他にも外部から扇動されたら郡県や豪族が簡単に呼応するような不安定なエン州支配じゃ、
勢力を広げようにも苦しいんじゃないか?
エン州の乱は州内の不安定要素となる在地勢力を排除して、
郡国の直接支配を可能にして、エン州支配を強化したという点において、
むしろ曹操の飛躍にはプラスになったんじゃないかな?
仮に呂布との戦いが無かったら、曹操は太守や国相や有力豪族などの強力な在地勢力の意向を無視できず、
地盤が不安定な州牧で終わってたと思うよ。
袁紹が攻めてきたら一気に程cが孤立無援になるエン州の支配って強化されていたんだろうか?
>>421 官渡は南下してきた袁紹を敗北寸前で逆転勝利してギリギリ追い返したってだけで、
寸土も得てないんだよね。この時の曹操がいかに苦しかったかは、
魏書の各所に載ってる。烏巣奇襲直前の曹操の勢力は半ば瓦解しつつあった。
>>423 エン州の豪族が雪崩を打って袁紹になびかなかっただけでも上出来じゃないか?
豫州では豪族や黄巾がこぞって袁紹になびいてたぞ?
>>422 在地勢力に対して、曹操が相対的に力を増していけば問題ないんだよ。
史実でも二度徐州に攻め込んで戦闘では勝てる力を既に持っていたわけだ。
そうやって軍閥が拡張していくほど、当然、一派閥の占める割合は全体の中で小さくなっていく。
この時代に限らず、群雄はそうやって、初期の連合体制から君主権を確立していく。
曹操の場合特に、遠征するのは専ら曹氏を中核とする軍団であって、
別にエン州名士豪族勢に軍事基盤を委ねていたわけじゃないし、
(都合の良い仮定だが)史実通り献帝の権威を手中に収めれば、
政治面でも一部の名士や豪族に牛耳られることもなくなる。
>>426 戦闘で強くても、在地勢力にそっぽを向かれたせいで曹操は三城以外、
ほぼ州を挙げて寝返られたんでしょ?その程度の弱い地盤なら、
勢力拡大してもどこかで破綻するよ。
話を蒸し返してすまないが
曹操に打ち破られて袁術が九江に逃げた時の話がどうも腑に落ちない
距離や速度を考えると淮水水系を利用して移動したことになるわけだが
散々に曹操に敗れた後だとしたって袁術は数人、数十人とかじゃないんだから
船を用意するだけでもかなり前準備が必要だと思うんだ
豫州を完全支配ってのはもう妄想のままでいいんだが
この時期の大移動している袁術は船を用意できる程には
豫州の連中からは支持、支援されてたってことにならないかな?
劉備みたいに評価が低いイメージが強いのって他にいるかな?
430 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 01:51:44 0
>>428 死んだ孫堅が船持ってたのを吸収したんじゃないのか。
速度を計算できるほどの情報があったかな
ていうか前準備で語るなら南陽で調達すればいいんじゃね
孫堅が船持ってるってのはどこでわかる?
そして孫堅の船団が仮にあったとして、その船団はどこで入手したのかな
入手した船団の移動経路も気になるところだ
433 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 02:25:32 0
>>432 荊州がらみの勢力はみんな船使ってるから、長沙周辺を治めた孫堅も持ってるはず。
劉表、黄祖、劉備、関羽、みんな船持ってる。
>>431 南陽からだと他の水系から淮水行ってそっから豫州へ遡行する必要ないか?
曹操に負けたからってそう簡単に船が迂回して辿り着けるとは思えないんだが…
水経注で南陽から豫州へ抜ける道探してみる
具体的な時間的な話は193年春に各地を逃げ回った袁術がもう193年夏には九江にいるってことかな
僅か3ヶ月の猶予で封丘→匡亭→封丘→襄邑→太寿→寧陵→(ワープ)九江
武帝紀の記述の順序だと曹操が定陶に帰る前にもう袁術は九江にいたことになる
435 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 02:32:46 0
春、夏って時期区分だけなら正確には三〜六か月じゃね
>>437 それも一回は淮水に出てそっから遡行しないとだめじゃない?横の連結あったかな?
439 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 09:35:03 0
>>438 ていうか、淮水流域も袁術の支配に入ってるって考えたほうがいいんじゃね?
劉表はまだ荊州全土を治めきってたわけじゃないし。
そういう考え方をすると豫州のかなりの範囲が袁術の支配下だったとしないとダメなんじゃないかな
441 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 16:01:34 0
>>440 袁術は陸では弱いからw 流域しか押さえられなかったとも考えられる。
孫堅と周昂の戦いは最後どうなったんだっけ
流域抑えるってことは交通の要衝を支配してるってことじゃないかね
流域だけでも抑えていれば結構何とかなると思うんだ
三国志に出てくる大きな都市は水運に関係してるところが結構あるしね
袁術ってさ
孫堅や孫策を使わずに戦に勝ったことあったっけ
結構あるが
劉備を蹴散らしてる時だって孫策も孫堅もいない
446 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 19:29:10 0
>>445 あれは呂布を劉備の後ろで蜂起させたからだろ。
劉寵暗殺といい、袁術はこの手の謀略が得意だよな。
447 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 19:31:36 0
劉備の斜め上加減が袁術の謀略を上回る
袁術「呂布クン、今こそ劉備を裏切りなさい」
呂布「徐州取ったどー!」
劉備「うわー」
劉備「降服します」
袁術「よしよし」
劉備「呂布に」
袁術「えっ」
劉備「えっ」
呂布「えっ」
劉備「うわー」
↑
この状態の劉備に全財産と妹差し出した麋兄弟ってすごいな。
石亭で勝ったり負けたりしたあと、呂布に手紙送って寝返らせる。劉備は撤退。
広陵奪った劉備と交戦して再び勝つ。劉備は兵糧が尽きてボロボロで撤退。
450 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 20:03:27 0
>>448 その後、劉備は呂布にボコボコされて麋兄弟の命運を賭けた財産投資はパー。
群雄割拠最初期の時代なら、中小軍閥の勢力網なんてスカスカだよ。
袁術が自分で揚州刺史を駆逐できるくらいの兵力を従えてたんなら
豫州横断くらい簡単に出来るだろうし、道々協力を申し出る人間もいただろう。
支配下でなくても問題ない。
孫堅、孫策を使わずに勝った相手は
記録に残っているのは劉備とか袁遺
その他、寿春に移転後あちこちの郡県攻めてるし
それら全てを孫策が指揮してたわけじゃない
>>452 とはいっても、自分で指揮してあちこち転戦したタイプではないんだろうね
徐州攻めのような大戦でも将に任せてるし。
まあそれは別に袁術の不名誉にはならないけど。
>>451 だが袁術は南陽捨てて陳留へ出てきた
南陽にいた戦力を全てを連れないで出てくるわけもないだろう
匡亭で負けた後も幾度か城へ立て篭もって曹操に対処してる
問題なのはそれだけの兵を運ぶ手段として船をどうやって調達したか
もし兵士見捨てて自分だけ逃走するなら一言くらい書かれてもおかしくない筈なんだよなぁ
寧陵は豫州の北側で九江は揚州の北で寧陵から一気に九江まで駆け抜けてるわけで
豫州横断を簡単に短期間でやってのけてることになる
劉備攻めのときは袁術自身が出張ってたんだっけ
内と戦い外と結ぶ袁術・袁紹の戦略は正しかったんだろうか
先主伝によると
「袁術が来て先主を攻撃した。先主と術が対峙して一月過ぎた。」
ただ袁術がどこまで前方に出向いたのかは不明。
呂布を徐州に攻めたときの大将は張勲。
帝位僭称して間もない頃。
>>442 後漢書袁術伝に「周キンを撃ちて之を走らす」とあるから
袁術側の勝利
>>450 しかし、最終的に麋竺は蜀の安漢将軍。政治のトップ諸葛亮とほぼ同格の待遇。
麋芳は南郡太守。劉備陣営でも最大級の大郡の太守。裏切らなければさらに栄達できただろうに。
麋兄弟の投資は一族の繁栄という意味では成功したと言って良い。
460 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 21:04:04 0
>>458 そこまでいくのに、20年ぐらい劉備にくっついて大陸横断やるはめになったわけでw
>>454 >簡単に短期間でやってのけてることになる
具体的にどこの記述のどのくらいの短期間なわけ?
>>460 全財産賭けた投資の見返りが帝国の重臣の座なら、安い買い物じゃない。
463 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 22:11:10 0
>>462 徐州で魏の高官になってもよかったんじゃね?
なれたかどうかは分からんが。
まあ曹操に付いて二千年名を残す人間になれたかというと
難しいだろうね
465 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 22:24:56 0
糜威と糜照ってゲームも出てこなければ、カード化もされないよな。
466 :
世界@名無史さん:2010/10/06(水) 22:30:42 0
そりゃあ関興らと違って、演義や他の小説で活躍があるわけじゃないし
>>461 上に書いた
陳寿の本文だと豫州の北の端から揚州の北の端まで一気に移動したかのように書いてあるしな
>>463 劉備が曹操に降ってから、兄弟して郡太守に任命されてるけど、
縻兄弟の能力と名声じゃ、並いる名士の中から頭角を現して、
歴史に名が残る地位まで昇れたかどうかと言うと微妙だね。
糜さんは2つほど不思議な話があるよね、なんで糜竺さんを選んだのかなぁ。
>>467 寄り道せずにまっすぐに、の可能性はあっても、短期日に、とは言えないよ。
史書の時間経過なんて、紀で年月が明記されてても怪しいのが多いのに
列伝の年代が省略された記述をそのまんまに読んでたら「遠征に出てすぐ帰ってきた」
戦ばかりになってしまう。
そりゃすまん。言うことは別に変わらないけど
距離的には新野から逃走した劉備と比べても
たいして変わらないんじゃないか?
>>472 一応袁術の移動の期限はちゃんと切られてるよ
袁術が南陽から移動を開始して九江に辿り着くのが193年春の間
それから揚州を奪うのが193年夏、曹操が定陶に帰るのも同じ頃
後漢書の献帝紀に8月に馬日テイを派遣したとあるから袁術が落ち着いたのはそれ以前かな
こうして見るとスケジュールがギチギチ
馬日テイが長安を8月に出発したことが袁術のスケジュールとどんな関係があるの
余裕を持って考えて、400キロを一ヶ月で踏破すると考えると、
春(年初)から秋(八月)の間に起きている一連の袁術の動きの中では、
どこも無理が無い皇帝に見える。
皇帝じゃねえや行程w
あ、やべ
初平3年と4年の記述を勘違いしてた
普段読んでないからちょっと時系列がおかしくなったので整理して出直すわ
拙くてすまんかった
479 :
世界@名無史さん:2010/10/07(木) 01:01:06 0
>>476 訓練された歩兵や騎兵なら無理はないが、袁術勢力の大移動だから。
家臣の妻子や輜重に使う牛車を大量に引き連れていたはず。
長阪で曹操に襲われた劉備よりはマシだっただろうけど。
元々董卓討伐で集まった軍団だよ。
しかも、この時期の兵卒は既に傭兵化してる。
お貴族様の大移動なんかじゃないんだよ。
名声さえあれば、ほとんど身一つで現地に乗り込んでも兵力と資金を集めることが出来る時代。
兵力は流民などから集める募兵にシフトして久しいし、
見込みがあれば現地の官吏や豪族が力を貸してくれる。
だからホイホイと根拠地を移動できる。
>>481 という誤解をしてるだけじゃ?
誰しも利のないところに投資はしたくないだろ
483 :
世界@名無史さん:2010/10/07(木) 04:12:41 0
>>482 曹操にボロ負けし、南陽という根拠地を失った袁術に魅力なんてないだろ。
ある程度の戦力を率いていたなら別だが。
袁術は「有名人」なんだよ。多くの人間に知られているということは、
それだけで数を集める中核になる。
>>287-
>>309辺りが触れているが、後漢時代に勃興した「名士」という階層は
現実的な力を持つ存在なんだ。
金も兵力も持ってなくとも、協力者が集まってくる。
劉備、曹操、孫策、劉表、みんなそういう逸話があるだろ。
袁紹・袁術というのはその最たる者だった。
フルボッコされて逃げ出した源頼朝がいつのまにか味方をごっそり連れてきた・・・
なんて話も他所の国にあるしな
486 :
世界@名無史さん:2010/10/07(木) 16:35:47 0
でも袁術は揚州の豪族と仲良くしてないじゃん。
>>486 全国区の名士ともなれば、まったく地盤が無い知らない土地でも、
豪族の方から協力を申し出てくる。
揚州逃亡後の袁術の安定した地盤と言えば江北だけだが、
江北奪取の鮮やかな手際を見る限り、揚州豪族の中でも、
江北の豪族は袁術に味方したと考えられる。
袁術配下と言えば、琅邪出身の人物がやたらと多いのだが、
袁術は徐州にも人脈があったのだろうか?
どんな縁があって琅邪の人物が多く配下になったのか気になる。
のちの孫呉政権もそうだけど、
治安悪化した徐州からの避難地に淮南が使われたからだろう
でも琅邪人ってそんなにいたっけ?
>>489 恵衢、劉勲、諸葛玄、趙cとか。
恵衢と劉勲は袁術の故吏だった。たぶん袁術が琅邪相やってた頃の属官。
491 :
世界@名無史さん:2010/10/07(木) 20:01:43 0
裸一貫で江南に飛び込んだ劉ヨウが、あっという間に大勢力を築けるんだから、袁術だって出来る。
劉ヨウも相当な人物だからな
袁術の江東進出を防ぐだけの求心力があった。
>>491 劉ヨウは三公の甥で兄は州刺史で、自身も高名な名士でしかも許劭を従えてるから、
名士層や豪族層への求心力は抜群。名士である上に漢が正式に任命した刺史で、
大物名士を従えてるとなれば、裸一貫じゃない。官位と名声と言うこの時代で最も物を言う財産を持っている。
そもそも劉ヨウは親族に会稽太守がいて相当慕われててそのコネもなかったか?
裸一貫とは言い難い気がするが。
看板の他に地盤ももってりゃそら求心力あるわな
>>494 三公になった叔父が会稽太守やってた事ある。
しかし、劉ヨウは別に会稽を地盤にしたわけでもないし、
会稽太守王朗と連携した形跡もない。
劉ヨウの地盤は丹陽。
>>490 袁術が琅邪国の相やってたって記述は史書には無いはずだが。
二千石クラスの官なら、伝の中に記述されても良さそうなものだけど。
他の群雄は歴任した二千石以上の官どころか、六百石や千石程度の官でも記述あるよね。
498 :
世界@名無史さん:2010/10/07(木) 21:40:57 0
>>496 少なくとも王朗は揚州牧の劉ヨウに好は通じてると思うぞ。
でないと賊として討伐されるし、中立なら孫策が来たときだって抵抗したり逃げたりしないだろ。
>>498 丹陽しか支配してない上に、袁術と対峙してる劉ヨウと誼を通じて無くても、
討伐される心配もないと思うんだが。劉ヨウに味方してるなら、
静観してないで援軍ぐらい出してもいいと思うんだけどね。
呉郡太守許貢や誰だかわからない豫章太守も静観してたから、
王朗も中立して静観してたと思うけどね。
袁術に味方してたならともかく、中立なら袁術の味方じゃないってことだから、
孫策が攻めてきたら抵抗だってするだろ。
>>485 頼朝は「貴族」かつ「武家の棟梁」だから。
袁術や劉ヨウが力を持ったのは、漢の正式な高位高官だからだろう。
つまり、地方の豪族はまだまだ弱く、正式な役人を簡単には拒めなかった。
ソウ洪伝によれば、劉ヨウと王朗はおそらく三著の朗の時代に同期で
誼も通じていたと思う。
ただ何らかの理由で軍事的な連携は取らなかっただけで。
三署郎を三著の朗って書くのはやめてくれお願いだから
そいつはごめんね
>>500 同期だから仲が良いとも限らないが。
それに劉ヨウが江東に渡ってからの王朗やその他の太守との関係は、
どこにも記述が無いから、記述するほどの関係は無かったと見るのが自然では?
504 :
世界@名無史さん:2010/10/07(木) 23:42:00 0
しかし、丹陽一個だけでは、江北を押さえた袁術と対峙は出来ないだろ。
しかも丹陽の一部はすでに呉景らに切り取られてるし。
その上、劉ヨウにはどうやら自前の水軍まで持っていたようだ。
>>500 いんや、正式の官位を持っていることは一つの力ではあるが、
その強い権威はもはや崩れてるよ。
だから群雄が勝手に任命した官僚と、朝廷の正式な官僚が互角に抗争できた。
袁術や劉ヨウが持っていた力というのは、教養・豪族階層に影響力を持つ個人の名声だ。
名声・信望のある人間が官を名乗ってこそ、
朝廷の権威の崩れた地方で政治的な強制力を働かせることが出来た。
後漢時代というのは、そういう個人の権威を成立させる場としての地域のソサエティと、
それを連結する全国区のネットワークが醸成した時代だった。
>>504 劉ヨウと袁術が抗争を始めて、孫策が出陣するまでせいぜい一年程度。
その間、袁術は同時並行して江北各地の平定に兵力を分散していることが
孫策の事跡からだけでもわかる。
対劉ヨウに投入されたのは呉景らだけで、袁術本隊が動いたわけでもない。
互角以上に渡り合っても別に不思議じゃないだろう。
506 :
世界@名無史さん:2010/10/08(金) 00:46:45 0
丹陽は九江より人口多いし、対抗は可能。
許貢っていったい何者なんだろう
まっとうな経緯で太守にはなってなさそうだよね
>>507 呉郡都尉だったが、太守の盛憲を追放して呉郡太守を自称した。
盛憲は朝廷が任命した太守だったことから、
許貢もまたもともとは朝廷に任命された都尉だったと考えられる。
許靖と昔馴染みで、江東に亡命してきた許靖を保護している。
黄祖って孫氏に負けても次にはまた万単位の兵力を用意してるし、
しばしば孫氏の領内に数千単位の部隊を送り込んでるし、
半端じゃない兵力を持ってたっぽいんだけど、
江夏一郡の太守がどうしてそんな大軍を養えたんだろうか?
510 :
世界@名無史さん:2010/10/08(金) 19:49:27 0
>>509 1 孫氏の苦戦をごまかすための誇張
2 劉表からの援軍
3 黄祖の支配領域はもっとでかい
対揚州戦線の頭目みたいな将だからね
しかし、北は曹操、東に孫権、西に劉璋と三方に敵対勢力を抱えている上に、
南の交州にも手を出すなど、四方と戦ってる劉表が黄祖だけにそんな大軍を与えたり、
大勢の援軍を送ったりできるものだろうか?
黄祖の持ってた兵力はせいぜい一万程度で、優秀な軍事能力で孫氏を苦しめていたのではないか?
劉璋には五斗米道がいたし、曹操には袁紹がいたから
比較的孫氏に力入れること出来たんじゃないの?
514 :
世界@名無史さん:2010/10/08(金) 21:08:54 0
>>513 劉備を雇ってトン兄たちを撃退させてるし、北だって安心できる状況じゃないぜ。
西は大丈夫だろうけど。
北は張繍の保有戦力が主力で、防衛線が主。
劉表の本隊は緊急時に支援するのが主な仕事。
南は南で呉巨のような人間を派遣して半自治的な体制。
劉璋との戦いはあまり大規模ではなかった模様。
一方、孫策・権との戦いは江夏に攻めてきた呉軍相手に守るだけ、のような
少数局地戦じゃないよ。
江夏戦線のみならず長沙─豫章間で活発な相互侵攻が行われていた。
劉表時代の主戦場は東にあった。
でも、長沙=豫章間の戦線は劉磐の担当で、黄祖の管轄外だったような。
517 :
世界@名無史さん:2010/10/08(金) 21:32:38 0
劉磐の軍勢も相当大規模だったと思われる。
州牧が与えられる最高位の軍職である中郎将が劉磐の指揮下に入ってるぐらいだからな。
江夏の黄祖と長沙の劉磐の二人が対孫権戦線の最高司令官だったんだろう。
>>505 俺の書き方も良くなかったが
>だから群雄が勝手に任命した官僚と、朝廷の正式な官僚が互角に抗争できた。
つまり群雄は、漢の役職を部下に与えることを根本にしてしか地方支配が出来なかった。
朝廷から正式な役人が来た場合には、神経を使って対応する必要があった。
たとえば袁術の、劉ヨウの刺史着任への対応がそれだ。
>袁術や劉ヨウが持っていた力というのは、教養・豪族階層に影響力を持つ個人の名声だ。
いや、曹操の青州平定などを見ても、豪族という利益集団は、名士的な影響力には易々とは屈しない。
袁紹の支配時代には豪族が跋扈し、それを正すには軍事力が必要となった。
>名声・信望のある人間が官を名乗ってこそ、
公孫サン、公孫度など例外も多い。
また孔融、華キン、王朗らを見ても、特に豪族の強力を得られていたかは疑問。
>>518 >朝廷から正式な役人が来た場合には、神経を使って対応する必要があった。
>公孫サン、公孫度など例外も多い。
>また孔融、華キン、王朗らを見ても、特に豪族の強力を得られていたかは疑問。
正式の官僚が一応の優位を得た可能性はあるが、それも個人の実力が伴ってこそだね。
そこで挙げられている人間は全て、後漢の全国支配体制が崩壊する前から官僚・名士・将帥として
名声を博していた人物だよ。
一般に、豪族は経済的支配力によって定義されるもの。
名士は社会的名声によって定義されるもの。
…ではあるが、後漢代が下るに従って、その構成する階層は
現実的にはかなりの程度融合していたことがわかっている。
豪族はもはや儒学を中心とした教養を身に付けて
地方官に打って出なければ朝廷に影響を及ぼすことが出来なかったし
知識階級となった豪族は名士が拠って立つ郷論を左右した。
大雑把な計算になるが、一つの郡国には平均20弱の県国があり、おそらく数百の郷があった。
後漢末の動乱で四分五裂した郡に太守として乗り込んだ名士が、仮に10%の豪族の支持を得られたとしたら、
郡内で圧倒的な軍事力を保有することになっただろう。それができるのが「名士」の力。
群雄割拠初期の「支配」というのはおそらくそういうことだ。
その後、鎮圧や慰撫を以って郡内の支配を強化していく。それもおそらく誰もが通った道だ。
>>519 >そこで挙げられている人間は全て、後漢の全国支配体制が崩壊する前から官僚・名士・将帥として
>名声を博していた人物だよ。
それは卵と鶏の関係であって、実力があるから名声を獲得し、朝廷からも任用されるわけで。
>豪族はもはや儒学を中心とした教養を身に付けて
>地方官に打って出なければ朝廷に影響を及ぼすことが出来なかったし
この辺がよく分からない。
歩シツを冷遇した焦征羌、蘇則を冷遇した師亮など、
官位や名士的な価値観に依らない豪族はいっぱいいるように思うのだが。
また、名士と豪族の融合があったとしても、そうした層の意思決定が名士的価値観に依るとも言えないのでは?
どんなに名声のある役人でも、現地の豪族の利益と対立した場合は協力は得られないだろう。
正直、名士っていう概念が、渡辺先生とかも仰ってるけど信用できない
考え方の一つとしては面白いけどそれだけで説明付かない状況も多いし
それで全てを説明した気持ちになって思考停止してると思う
名士ネットワークという一種の社交界で有名な奴だからってだけで協力しようなんてアホな状況起こり得るか?
522 :
世界@名無史さん:2010/10/08(金) 23:57:02 0
>>521 豪族は実は超貧弱で、基本的に後漢の官僚や名士に従属することしかできてない。
実際豪族から群雄になりあがった奴はゼロのはず。
名士ってのは、付き合いだけじゃなくて人格や能力を認められてないとなれないものだから、
有名人で人格者だったり、能力があったりする奴になら協力しようって奴が出るのは不思議な話じゃない。
524 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:01:47 0
>>523 >人格や能力を認められてないとなれないもの
「名士内で評価しあう」って時点ですでに内輪の自画自賛にしかならん。
お前は「この人は創価学会で実力を認められた人です!」って紹介されたら支持するのか。
>>524 学会員なら支持するだろ
名士を支持するのはそういう「名士のコミュニティ内の人間」ってことだ
526 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:20:24 0
>>525 名士コミュニティは狭い。
劉ヨウについて揚州に行った許劭も、現地採用はできてないはず。
なにしろ大史慈ごときに居場所があったぐらいだw
>>521 名士って言い倣わしてるけど、別に渡辺氏の発明した概念じゃないよ。
黨錮の変や後漢の豪族士大夫特有の知識人階層のことは古くから論じられている。
渡辺氏は晋以降の貴族社会へ結合する定義として「名士」という言葉を定義しただけ。
>>524 そのたとえで言うなら、その「学会」は当時最先端の政治・経済・天文・文学・史学etc...のほぼあらゆる学問分野を
網羅し、富裕教養階層の絶対多数が所属するコミュニティだった。
そのコミュニティで評価されることは、即座に高い社会的地位を獲得することだった。
だから「名士」とか「高士」と呼ばれるんだよ。
>>526 太史慈って、そのまんま「名士」と史書に明記がある人物なんだが…
529 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:30:22 0
>>527 >そのたとえで言うなら、その「学会」は当時最先端の政治・経済・天文・文学・史学etc...のほぼあらゆる学問分野を
>網羅し、富裕教養階層の絶対多数が所属するコミュニティだった。
>そのコミュニティで評価されることは、即座に高い社会的地位を獲得することだった
因果関係が逆。
名士の中で評価が高かったとされる八俊なんて、そもそも役人や皇族や富裕者から選んだものだ。
だから地位の高いものや役人の割合が高くなるのは当然w
>>529 役人や皇族や富裕者以外の言論なんてそもそも漢武時代か現代にしか存在しないと思うが。
531 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:34:17 0
>>528 そりゃ、記録を残したのが大史慈が死ぬまで仕えた孫呉だったからだよw
大史慈の評価がズタボロだったのは、劉ヨウの反応みりゃ分かるじゃん。
実際、やばくなった途端劉ヨウを見捨てて逃げちまったしな。
532 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:37:26 0
>>530 名士だから高い地位につけたのではなく、
高い地位にあったり経済力があったりしたから教養を持つことができ、
結果として名士になれた。
こういうことだよ。
>大史慈の評価がズタボロ
評価の俎上にのってなかったから怖くて使えなかったって話じゃなかったか?
534 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:48:49 0
人脈や婚姻関係によるヒキすらないまったくの寒門出身者が、名士社会で評価されたことで一躍高官に!
なんて例は実はないはず。
そういう奴が名士になるには、まず兵士になって叩き上げ、その後で学問して将軍になって、それからようやく、といったところ。
>>532 その「因果関係が逆」だからと言って、これまでここででた「名士論」にどんな影響があるんだろう?
なんか議論の核心を見失ってないか?
>>519で
>一般に、豪族は経済的支配力によって定義されるもの。
>名士は社会的名声によって定義されるもの。
>…ではあるが、後漢代が下るに従って、その構成する階層は
>現実的にはかなりの程度融合していたことがわかっている。
と既に触れられているんだけど。
両者は相互に相通じる関係だったわけ。
富裕層であるほど教育を受ける時間も評価を得る機会も多い。
一方で、貧賎から苦学して教養を身に付け、名士社会に加入し、
高官に昇ったことで代々続く富裕な名家となった例も枚挙に暇が無い。
536 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:55:08 0
>>533 劉ヨウが「怖くて使えない」と思ってたのは確かじゃないかなー。
ただし、「信用ならない」という意味で。
そもそも、劉ヨウは太史慈のことは知ってたはず。
だって同郷だから。
そして、同郷だからこそ、太史慈が故郷にいられなくなった原因である上章ビリビリ事件も知っていたはずw
>>527 その定義した概念が信用できないってこと
単純に名声ある人を名士というのは概念もクソもあったもんじゃないただの言葉だし
>>530 そんなわきゃない
秦は民間の学者を迫害したとして焚書坑儒なんて逸話が残されてるだろ
食うに困る極貧じゃ勉強もせんが、貧乏人が成り上がりのために勉学する話は春秋戦国時代でも結構ある
蛍雪なんて言葉も残ってるように、貧乏人でも勉学をしている
そういう国家運営に関する勉学を納めた人間がいたら、そいつらが言論を持たない理由がないんだが
538 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:57:20 0
>>535 単に、親族間のつながりや地位によって出来た人脈を、
「名士」とかいってそういう特別な種類の人間が存在したかのようにおかしくないかい?
>>534 小作人だった侯瑾とか貧窮ぶりを伝えられた鄭玄とかいるんですけど。
540 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 00:59:50 0
太史慈がいかに信用できないかは、孫策に敗れた劉ヨウが逃亡するとき、
さっくり劉ヨウ勢力から離脱してしまった点を見れば明らか。
一応仕えてたなら主君に殉じてついてけよw
>>534 鄭玄、陳寔…
ていうか後漢書読もうぜー
>>535 豪族が名士層と被っていたとしても
豪族が名士に結びつくという結論にはならないと思うんだが。
だいたい、豪族と名士という二つの立場は矛盾するものだし。
>>537 >その定義した概念が信用できないってこと
>単純に名声ある人を名士というのは概念もクソもあったもんじゃないただの言葉だし
なんだ、氏が論文中で設定した「名士」の定義を知らないのか。
別に渡邊氏に味方するわけでもないしその論に諸手を挙げて賛同してるわけでもないが、
あなたとはこれ以上名士論について話さないほうがよさそうだ。
豪族と儒学思想が矛盾するのは事実だが、
豪族連合政権である後漢が初めての儒教国家であり、
豪族の伸長とともに儒教が発展したのもまた事実。
キリスト教の清貧思想と貴族制は矛盾するが、その矛盾は近代に入っても是正されなかった。
原理としては矛盾するものでも個人や集団の中では折り合いつつ同居するのが普通の人間社会だね。
>豪族連合政権
別に地方の豪族が権力を握っていたわけではないでしょ
548 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 01:25:44 0
>>539 鄭玄は小役人出身とはいえ学問できる程度には裕福だった。
とはいえ、鄭玄が名士ネットワークの中にいたかはかなり微妙だろ。
人材推挙の例が孫乾だけではなぁ…。
侯瑾は知らん。
549 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 01:28:11 0
>>542 どうせ、姉や妹がどっかの役人や太守の妻だったりするんじゃねーの?
てか、1例や2例な「例外」で済んじゃうんだけどねw
550 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 01:31:48 0
>>549 逆に、たまたまどこかの有力者に見込まれて、その娘や妹を妻にもらったことが出世の契機、ってのもよくあるなぁ。
結局婚姻関係頼みと。
この時代の「貧」「賎」というのは、
「本来出世できる地位でない社会的経済的階層の者」くらいの意味ね。
二語で検索すれば相当する人物はごろごろでてくるよ。
日本的賎民とか小作農のような者だと思って、
「役人になれたんだから賎民のはずがないじゃないか!」
って思ってるなら定義が悪い。
冬に凍えていた賈逵はどっちなんだ?
後漢中期以降になると、豪族と地方官庁のコミットが深くなり、固定化する。
定期的に朝廷に官吏を送り込める大姓・大族は無論、
功曹などの郡吏になれる有力豪族と、
県廷止まりの中小豪族との間には厳然たる区別があった。
劉備とか孫堅は、その意味で郡県レベルでは有力な一族の出身だと言うことになる。
陳寔はそれ以下の家の出身だった。
>>544 三国志の中で「名士」という言葉が出てきてもヒステリックに分析する必要はない
名声ある人を名士と呼ぶのはこれは概念もクソもあったもんじゃないただの一般的な名詞だから
だが渡辺先生の提唱する「層」としての名士ってのは信用ならない
あたかもこれらが現実的な集団として存在して層を形成しているというのは強引過ぎる
知らんものに首を突っ込む程身の程知らずじゃないって
お前のそういう無駄に相手を侮るところよくないよ
>>554 「話さないほうがよさそうだ」とか向こうが勝手に白旗上げてくれてるんだから、こっちから絡む必要もないだろ
ほっとけばいいじゃん
556 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 02:28:09 0
>>542 後漢でも学問のあるやつを取り上げることはよくあったことだが、
これを以ってして名士ネットワークの一員とは言えまい。
557 :
世界@名無史さん:2010/10/09(土) 04:56:13 0
劉虞が幽州を支配してた間、公孫サンは何万もの兵を擁して冀州に攻め入って韓馥・袁紹・黄巾と派手に戦ったり、
四州に刺史を任命するなどやりたい放題なんだけど、
劉虞は後に十万の兵を動員して公孫サンを攻めてるから、幽州の土地と兵力は劉虞のものだったと考えられる。
そうすると、公孫サンが率いた大軍はどこから集めたの?どこの土地を補給源にしてたの?
公孫サンと劉虞をあわせれば赤壁曹操並の動員能力だよな
>>560 冀州北部
公孫サンが最期を迎える易京も冀州北部にある
冀州すごいな
13州最強か
異民族の連中も動員しまくってる
てか異民族の数が異常に多いよね
遊牧民は部族の男丸ごと兵士に使えるから。
>>564 公孫サンって異民族に嫌われてたんでないの?
公孫サンは異民族に人望がある劉虞と対立してたし、
劉虞を殺した後、その残党が異民族と結託して大軍集めて公孫サンを攻めてるし。
袁紹は烏丸に単于号を乱発したダメ男。
単于が乱立すれば烏丸の勢力が分散するんだから一概に駄目ともいえないんじゃない?
>>562 冀州に攻め込む前から結構な兵力持ってたんじゃないの?
十万の兵を持つ韓馥を撃破してるし。もともとの根拠地は幽州にあったんじゃ?
幽州の民は異民族との戦いで兵士としての技量を身につけてるから兵士になれる人口が多い
それに幽州は黄巾や董卓の被害が少なかったから余力がある
公孫サンと劉虞がそれぞれ数万の軍を抱えても養っていけるほど、
幽州が豊かとも思えないんだけど。華北でそんな豊かな州、冀州だけだろ。
公孫さんは黄巾党を打ち破ったあたりが絶頂だと思うが
韓馥の冀州譲渡や
袁紹の渤海太守位譲渡との前後関係がよく分からないんだけど
>>574 専業兵士とは限らないからね
中原は流民を吸収した徴募兵が主体となって兵民分離が進んだが、
公孫サンが主力にした幽州騎兵は遊牧民の習俗に近い生活をしていた者だろう。
>公孫サンが主力にした幽州騎兵は遊牧民の習俗に近い生活をしていた者だろう。
そうなの?
にわかには信じがたいが。
董卓のような者達だと思えばいい。
幽州や涼州の辺境では、漢民族でも馬騰の父のように移り住んで異民族の雑居するようになった者が前漢から多くいた。
特に騎馬の扱いに長じて騎射を能くする者は、朝廷が騎兵を徴募するときに優先して厚遇され、
特に対異民族に有効な戦力となった。
公孫サンもまた長年異民族と戦ってきた将校であり、その率いた騎兵兵力は特に異民族と断りが無い箇所が多いので、
上のような漢人兵力が主体だったのだろう。勿論異民族も含まれただろうけど。
というか幽州付近では一般の士大夫でも普段から乗馬に親しんでいたんだろうな。劉備のように。
いや、白馬義従は義従という呼び名からして間違いなく異民族騎兵だろ。
義従については確か後漢書の羌の所などで説明されてる。
湟中義從って西羌胡の種族名だと思うよ。
張掖に住んでいた部族。
すくなくとも幽州の「白馬義従」とは関係ないだろう。
581 :
世界@名無史さん:2010/10/10(日) 11:33:48 0
涼州と幽州は繋がってるだろ
おいおい共通点をそうやって無視してったら話にならんだろ。
涼州と幽州って真反対じゃないの?
>>578が幽州と涼州をひとくくりにしたからこうなった
朝廷からの呼称で使役されてるものに使われている呼称なんだからなんらかの共通性をもっていると見るべきじゃないか?
義従羌胡の話はケ訓伝にあって、ケ訓が従えた湟中諸胡のうち少年勇者數百人を従軍させて
「以為義從」としたことが始まりと見える。
これを受けて後漢書には義従胡の記述が数多くある。
「義從羌胡并力破之」
「縁邊義從羌胡八千騎」
「匈奴、屠各、湟中義從、西羌八種」
「時湟中義從胡北宮伯玉等叛」
「義從役久,戀郷舊,皆悉反叛」
三番目を見ると一種の種族名として各異民族と同列に置かれており、
下二つを見れば、「義従」なる者が「義に従う者」としてただ一般的に形容されているのではなく、
あの部族名、ないしは特定の契約を結んだ集団の固有名詞であったことがわかる。
これと羌胡に関わらない「義従」の使い方を見ると、班超伝、
「將馳刑及義從千人就超」
とあり、これは後漢に一般に見られた刑徒動員と徴募兵になるだろうから、異民族とは特定できない。
以上から、「白馬義従」が異民族兵だったと特定するならば、
・異民族が漢人に従って戦うことのみを一般に称して「義従」と言った
・公孫サンが西羌胡の兵を入手し親衛隊として置いていた
のどちらかの証明が必要になるだろう。
もちろん、「白馬義従の中には異民族兵も含まれていた」なら全然反対しないけど。
>>584 涼幽に限らず、揚荊益などの辺境部には当地の異民族の習慣に染まった漢人は普通にいたんだけど
なんか誤解してない?
あ、義従の例なら三国志の方がたくさんあるじゃないか
梁習伝
「乃次發諸丁彊以為義從」
趙雲伝注
「將義從吏兵詣公孫?」
甘寧伝注
「招懷亡客并義從者」
これらの主体は漢人だろうね。
異民族の習慣に染まったって、遊牧して暮らすということ?
その場合って税はどうなるんだろう。
幽州はそれまでの漢族のタブーをやぶった趙が胡服騎射を導入した伝統がありますからね。
ただ、揚州や荊州はどうでしょうか?
楚漢争覇の時代から300年もたっていませんし、前漢には百越が存在していました。
荊州蛮も元々は苗族が建国した楚の遺臣の子孫と見る向きもあるそうですね。
元々漢族自体が黄河流域に暮らしている人々の集団程度の意味しかなく、春秋戦国を通して
夷が討伐されていくので境界があいまいさを残しているといった方が大きいですね。
なお、オルドスなどに暮らしている回族になると土着化したアラビア人やイスラム化した漢人が
同一視していくなかで境界線不明になっていき、外部からでは区別がむずかしくなった例もありますからね。
家それぞれじゃないかね
董卓の家は羽林騎になれる「良家」であり、農耕を(も?)行っていたが、
董卓が騎射を左右に射ち分けるという驚異的な技術を身に付けたことから、馬に相当慣れ親しんだ生活を送ったと推定できる。
(普通の士大夫は日常では車を使い、馬に乗るのは付き従う従僕の仕事とされた)
馬騰の父は羌族と雑居したとあるから、自身で放牧に従事していた可能性は高いが
普通に馬騰が官吏になっていることから、依然編戸の籍を持っていて、勿論税を収めていたことになる。
>>590 >楚漢争覇の時代から300年もたっていませんし、
経ってますよ。
確か西暦180年で382年目になります。
あと、光武帝が南方制圧にも突騎を頻繁に起用しているので、
これが土着している例もあるかも知れません。
>>590 >なお、オルドスなどに暮らしている回族になると土着化したアラビア人やイスラム化した漢人が
アラビア人なんかいるのか?
元々元はオルドス方面から色目人を伴って中原に侵入してきたから
当然いますよ。 というか、オルドス流域はそもそも内外蒙古の地ですから。
ただ回族は出自が地方によっても違うし、漢化された人々もおおく、その真逆の
事例も多いから外部から見ると本当にわからない。
それは段落分けだけではなく、但し書きとして時代の注記が必要な記述かと思うが。
趙は大部分が冀州だな。
幽州も入ってるけど。
>>594 なんかアラブ人をイラン、トルコ、ウイグル、ソグドなんかと混同してない?
ウィキの色目人の項目だと、
>色目人とされるのは中央アジアのウイグル人、チベット人、およびその西方に住む
>テュルク系・イラン系のムスリム(イスラム教徒)定住民たちである。
こうあるけど、アラビア人については触れていない。
蒲寿庚を知らないの? 知らないなら調べてご覧。
アラビア人は三国時代には中国に入ってきてないからスレ違い。
回族も三国時代にはまだ中国にいないからスレ違い。
若い二人のすれ違い。
>>599 それは例外的な存在じゃないのか?
それをもってして「土着化」とか言われてもって感じなんだけど。
あー、あと
>歴史家の伊原弘によれば、近年「アラブ人説」は学会では後退しつつある。
とある。
その蒲寿庚以外にアラビア人の土着化を示す情報があるなら教えてほしい。
桑原氏の著書以降、五代から元にかけてアラビア人やペルシャ人の支那貿易は有名だお。
末期の南宋も蒲氏の財源に頼ったぐらい大きな存在。
まあすれ違いだけど。
>>578 しかし、当時幽州を支配して、土地と軍事力を握っていたのは幽州牧劉虞。
それなのに中郎将に過ぎない公孫サンは渤海から侵入してきた黄巾を討った時に二万の兵を擁している。
劉虞から授けられた兵とも思えないし、地盤となる土地があるわけでもない公孫サンが、
なぜ幽州の兵とは別にこれだけの大兵を有していたのか?
南漢はアラビア人の国という説もあるね。
>>605 ちょっとググった限りでは、それはオルドスに土着化というのとはだいぶ違うような気がするが…
俺は東洋史の人間でもないので、単に受験世界史レベルの持ち前の知識との齟齬があって
気になってるだけなんだけどね
とりあえずストップだ。
>>590が下段で語りたいのは、民族間の同化が容易に起こりうるし、シームレス化していく可能性もあるという話だろう。
特に漢人という人種がそうなりがちな傾向があることは、趙匡胤の出自問題なんかをみればわかる。
アラブ人がどうのというのは本題からすれば横道にそれた問題だろう。
あと、
>>590は違う時代のことを持ち出すときはこれからは但し書きをつけてくれ。
但し書きを見て改めて違う時代の話題であることを確認することで
周りも心理的にブレーキがかかり余計な話題の広がりは少なくなるはずだから。
>>606 劉虞が幽州牧であっても、明白な対立にならない限り公孫さんが閉め出されていたわけではないだろ
張純・丘力居の乱と戦い続けてきた公孫さんが敵味方を吸収しながらそのくらいでかくなるのは別に不思議じゃないんじゃない
地盤の問題で言うなら騎都尉・中朗将時代にどうやって補給を受けていたかって話だと思うけどな
たぶん劉虞が公孫さんを攻めるまでは劉虞が兵糧出してたんじゃね
>>591 >普通の士大夫は日常では車を使い、馬に乗るのは付き従う従僕の仕事とされた
でもそれとは別に馬術は士大夫の教養じゃないの?
>民族間の同化が容易に起こりうるし
そうなんだろうか。
イスラム教徒に限ってはそういうこともあるだろうが。
趙匡胤についてはくわしく知らないが、それは異民族の漢化ということだろうし
長城内の漢民族が異民族化・遊牧民化する可能性の証左になるのかね。
>>606 「中郎将に過ぎない」ではないんだ。
公孫サンが中郎将になるのは牧制が復活する188年以前。
この時点で後漢朝廷には、常置の度遼将軍と西方討伐を担う車騎将軍(張温や皇甫嵩・朱儁など)くらいしか将軍が置かれていない、
まだ「平時体制」だった。前後将軍が復活するのは188年。
それまで、各地の反乱鎮圧の最高軍官が中郎将だった。
のちの劉虞と歩調を合わせた昇進(両者の和平を求めるサインだろうけど)を見ても、
幽州牧監軍使者劉虞の節度を受けて公孫サンが実戦指揮の全権を担当する、というのが、
朝廷の期待した役割分担だろう。
>>611 一般的な教養課目として馬術があったとは聞いたことが無いけど
(車よりも乗馬が尊ばれるのは東晋以降)
乗るくらいのことはたいていの士が出来ただろうけどね。
前漢では胡床に座る人間も出てきており、漢では胡化が進行中でした。
また、騎士などといった徴兵科目もありますから、前漢においてはですが、乗馬はある程度の人間は触れていたのではないでしょうか。
それこそ一時期は宰相の息子も徴兵されてますから。
光武帝、曹操、劉備らは乗馬を好んで居たようですし、特に光武帝の例に着目すれば、
それが教養であるかは別にして、新漢期には乗馬の習俗が荊北の豪族には広まっていたのではないかとも考えられます。
人間、奨励されていることばかりが行われるわけではありませんから。
もっともそれが遊牧民レベルに達していたかについては別問題です。
新漢期分析には、とりあえず穎川突騎なるものが何者によって構成されていたのかを分析すべきかも知れません。
また南越王趙佗(広東省に本拠)が趙の出身であったことは有名でしょう。
彼は漢字を用い漢朝とよく似た職官を置き、郡県制を強化して漢人国家を作り上げつつも、同時に婚姻を含めた越人との同化政策を推し進めました。
同時に漢が、常山郡真定県にある自分の親の塚の保護をした知らせにに喜んで漢に謝罪し貢物を送っているあたり、儒者的とすらいえます。
漢人が胡化していたことを鑑みれば、ある程度胡の影響はないとは思えません。
特に彼は趙人ですから。
ただ、これもまた決定打たり得ないでしょうね。
漢と違い馬の調達の問題もありますし。
>>613 つまり公孫サンは幽州の軍勢の総司令官的立場にあると解釈すればいいのかな?
だから、その後も冀州に攻め入るなど、私戦に幽州の軍勢を使えたと。
>>616 確定的ではないけどね。
中郎将はそのくらいの地位だ。
>>545 >豪族と儒学思想が矛盾するのは事実だが
矛盾するのか?
儒教は万民平等な社会は標榜していない。
親兄弟、あるいは君臣の身分秩序を守り、助けあって暮らすのが理想。
本来的に身分、格差を認めている。
独立自作農=儒教的ってのはおかしい。
619 :
世界@名無史さん:2010/10/10(日) 21:42:49 0
護烏桓校尉や郡国の兵もあるから、幽州の兵を自由に動かせたわけじゃないのでは?
幽州に駐屯する対異民族の指揮官たちの中で、
最も大軍を擁していたのが公孫サンというだけではないかと。
>>618 君臣的な身分秩序を乱すんだよ。
奴隷抱えてる時点で、私臣をかかえてることになる。
人を無条件で諱で呼べるのは親か君だけだが、奴隷はこの規定から外れる。
その存在は儒教の礼制的にはNGだ。
また儒教的には君と臣と民に対する差別規定があるだけで、民同士については基本平等だ。
だから王田制という発想が出てくる。
豪族という存在はそれを乱す。
豪族はほとんどが商業を間接的に生業とするが、これも儒教的にはNGだ。
儒教は平等を標榜していないというのは間違っている。
基本的に儒教は平等に近いことを主張していて、その例外規定、あえて言うなら「矛盾」が君臣関係なんだ。
だから墨家はそれが矛盾だと指摘した。
儒者が普段から平等を唱えていなければ、そもそも矛盾は発生しない。
儒教を身分制の全てを絶対的に認めていると思っているならそれは間違いだ。
>>618 追記するなら、儒教が認めているのは「理想化され」「簡略化され」た周代の身分制だ。
現代日本人がイメージする旧弊としての身分制みたいのを詰め込んだ存在だとか、
存在する身分制を無批判に継承するものだと思っているのならとんでもなく間違っている。
基本的に儒教というのは、現状批判から始まるし、現状批判のためのロジックとして存在するんだよ。
どれだけ「自由」かどうかはともかく、
中郎将は皇帝親衛軍の司令官という地位で以って、
地方軍事の総括を代行する権限を与えられることがある。
「征伐武官」である将軍の任命が激減した後漢では
大反乱鎮圧や異民族の鎮撫に中郎将が動くことが多かった。
黄巾の乱が顕著な例で、四人の中郎将は太守や刺史を指揮下に置いている。
後漢初期では将軍を指揮下に置いた例もある。
將軍とは所属と性格が異なり情勢によって流行り廃りがあるだけで、
決して本来の中郎将は地位の低い官というわけではない。
で、188年以前というのは、後漢末・魏晋南北朝の「将軍号乱発期」の直前に当たる。
というか、公孫サンって幽州行った当初烏桓突騎率いてたような。
乱発される前の中郎将は官位は低くても中央直属の要職ってことだもんな
>>320 しかし奴隷自体は存在していた。
魏志倭人伝に卑弥呼が生口を200人ほど魏帝曹丕に献上していたし、
後漢から三国にかけては儒教的国家とはもはやいえないのではないか。
そもそも、儒教に反する宦官が売官行為に伴なう贈賄の横行が社会不安を
呼び寄せたのが黄巾の乱の遠因だし。
そもそも、後漢の成立そのものが皇統の傍系に過ぎない劉秀を豪族が助けて
連合政権として樹立された経緯がある以上、武帝の頃の漢の理想像はもはや
実現不能。 まつりごとはあくまで建前と本音の間にあるものだ。
X320
○620
白馬義従って烏桓にも恐れられたっていうあたり、漢民族のエリート騎兵隊だったのかな?
>>626 >魏志倭人伝に卑弥呼が生口を200人ほど魏帝曹丕に献上していたし、
豪族が抱える私奴と国家の抱える官奴を混同するのはいただけない。
ただ、『後漢書』劉寛伝の事例などを見るに後漢後期に至っても私奴は減っていなかったとも考えている点ではある程度同意。
だけど、私はそれでも通説を覆せるほどの証拠だとは考えていない。
儒教的価値観が民にまで浸透したのは間違いなく後漢であるし、
その価値観に背く腐敗が存在することは、当時の国や民の理想像がその価値観からかけ離れていたことを意味しない。
むしろ、儒教的価値観に背くことを腐敗と見なし、民がそれに反発していること自体が、儒教的価値観の浸透の証左だと考える。
>>626 横槍なのかもしれないが、なんか反論する相手を間違えているみたいだぞ。
理念(名士の標榜する儒学)と現実(豪族優勢になっていく社会)との間に矛盾があるのは確かだが、
その「建前と本音の間」で後漢の儒教社会が発展していったというのが、
>>545>>620の言わんとするところだろう。
それを否定して、「儒教を標榜する名士社会と豪族社会は共存できない」と言ってるのが
>>618ら
と、横槍。
公孫サンと異民族の関係の悪さを考えると、
漢民族の騎兵の可能性が高いんじゃないかと。
儒学の「国教化」が社会的政治的に成立するのは武帝じゃなくて光武以降というのが今の通説だからね。
>>621 >>618も間違っていないぞ。
だが、最大の問題はそれは宋儒の思想であって、このスレで出されても困ると言う点。
烏桓突騎は烏丸族の真似をしてる漢族だという話もあるしな
張温の西方遠征の時に徴発した烏桓突騎3千騎の指揮官がどうやら公孫瓚だったらしい。
で幽州から涼州へ長安へ向かう途中、給料未払いが原因で烏桓が反乱。結局従軍もせずに帰還。
これがきっかけで公孫瓚は烏桓嫌いになったのかな?
636 :
世界@名無史さん:2010/10/11(月) 05:19:24 0
公孫サンはどんどん人間嫌いになってくよなー
637 :
世界@名無史さん:2010/10/11(月) 05:59:03 0
商人とか占い師は好きだったんでしょ?
義兄弟の契りを結んだ人がいるくらいだから。
公孫サンに冷遇されただろう儒士層の視点で史書が書かれているわけだから
ある程度割り引いて考えなくちゃいけないだろうけどね。
それにしても易京要塞の詳細な描写は俄かに信じがたいものがあるが…
公孫サンは易京に籠って天下の動静を見守ってれば、
いずれ復活する機会もあると本気で思ってたんだろうか?
ほっとけば袁紹がどんどん大きくなるだけだと思うんだが。
>ほっとけば袁紹がどんどん大きくなるだけ
つ官渡
易京を落とさなければ、史実より遙かに早く南下することになり、
曹操は史実より準備不足の状態で相対する羽目になりかねなくないか?
あの時点では曹操が袁紹と張り合うほどデカくならなくても、同盟者である袁術がその代わりをやってくれると思えただろう
そして黄河を境に対立する袁紹を黒山賊と呼応しながら背後より撃ち、袁術から委ねられた河北で力をつけ偽帝袁術も倒す
新王朝の開始、国名は燕
これこそ勝利の方程式ですね^^
易京を落とさないまま南下したら、黒山賊と公孫サンの連合軍が背後から冀州を衝くだろ。
そういう大胆な作戦に出られないのが袁紹、と根拠無くイメージで言ってみる。
>>644 董卓から逃げるのに縁故なさそうな東北方面に逃げてるだけでも十分大胆
というか何進に吹き込んでる策略はどれも大胆
袁紹が慎重な人間なら、冀州取るのにあんな綱渡りみたいな手は使わなかったと思う。
冀州取るには、あんな綱渡りみたいな手しかなかったんじゃないのか?
若い起業家時代は大胆でも、年をとって会社も大きくなると慎重居士になるのは別に不思議なことじゃない。
袁紹、南征の時も慎重論を退けて、決戦を選んでるな。
袁紹は曹操との対比によってイメージが作られてしまうことが多いからな
652 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 00:39:58 0
武帝と光武帝とは、混同して間違いやすい
劉秀って光り輝く武帝っていうことか つよそうだね。
654 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 12:09:41 0
中国では漢字一文字の武帝のほうが偉いらしいよ。
正式には孝武じゃなかったっけ?
明の洪武帝
って素人的には洪水連想して縁起悪そうにみえる。 武帝でよかったんじゃね
考の諡は亡き父とかいう意味だから省略されてたんじゃなかったっけ?
X光り輝く
○再興、独立を意味する「光復」からとられて中興の祖の意=光武帝
こういう三戦から流れて来たっぽい、今更な話題を話す人員を受け止めるのもこのスレの役目なのかな。
660 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 17:23:31 0
武を光(あき)らかに示すだと思ってた。
武帝というのは武にすぐれた皇帝ではなくて戦乱を沈めて統一した皇帝のこと。
662 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 19:24:20 0
石亭の戦いでは豫州刺史賈逵は満寵を率いてるけど、当時の満寵は前将軍。
刺史より明らかに九卿相当の前将軍の方が官位は上。
しかも、当時の賈逵は節を持っておらず、満寵は節を持っている。
どう見ても満寵が賈逵を指揮する立場なのに、なんで賈逵が満寵を指揮してるんだ?
663 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 19:34:17 0
皇帝の使者として。
研究によると「督」の字は必ずしも統属関係を示さないという。
石亭の戦は、曹夏侯氏以外に大きな権限を集中させることを避けていた時代の最末期。
賈逵は諸将の上に立って指揮権を掌握したというよりも、
側面から監督する、刺史の任と似た職務を負ったのだろう。
刺史が上位の将軍に対して監督権を行使した例って他にある?
刺史が監督できるのって州内の郡国の太守ぐらいじゃない?
将軍を監督するのは監軍や護軍の役目では?
>>661 同じことだろ。暴力により政権を確立した
>>665 刺史としてではなくて使者として。
原文「帝使逵督前將軍滿寵〜」。
皇帝によって戦時権限を与えられたことになる。
668 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 23:31:42 0
満寵伝って本文に裴松之注が紛れ込んでるよな。集解だと指摘されてるのかな。
発石車ってやぐら全て打ち砕いたとか書いてあるけれどそんなに命中率が高いもんだろうか
671 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 23:57:22 0
672 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 23:59:48 0
多分、城壁正面を全部埋め尽くすぐらい密集してて、どこ撃ってもあたる状態だったんだろ。
673 :
世界@名無史さん:2010/10/12(火) 23:59:52 0
太和二年 領豫州刺史
ここから
三年春 降人稱呉大嚴 揚聲欲詣江北獵 孫權欲自出
寵度其必襲西陽而為之備 權聞之 退還
ここまで
秋 使曹休從廬江南入合肥 令寵向夏口
>>673 注が紛れ込んでいると判断できる根拠も教えてもらえると嬉しい
675 :
世界@名無史さん:2010/10/13(水) 01:27:08 0
>>673 俺も根拠を教えてもらえると嬉しい。
そのあたりだと
太和二年領豫州刺史が賈逵伝と合わない。
曹休が兵を進めたのは三年じゃなくて二年だよね。他の伝もそうなってるよ。
っていう指摘なら集解にある。
三国志本文も複数の史料の編纂には違いないから
陳寿が考証を間違えれば原史料のミスがそのまま残ることはあるだろうね。
一年、二年、三年なら単純に移し間違え疑惑も生じるなw
満寵って張遼の後任の前将軍だったんだな。
つまり、満寵と徐晃や張コウが同格の四方将軍だった時期があるのか。
胸が熱くなるな。まあ、満寵も戦歴では五将軍に次ぐくらいの宿将だしな。
682 :
世界@名無史さん:2010/10/13(水) 19:57:36 0
>>678 攻城兵器のやぐらは密集しないと効果が薄い。
兵にやぐらを登らせて、城壁の上に兵力を流し込むのが目的だから。
道路に例えると分かりやすい。
一本の道路からは一度に1台の車しか進めなくて渋滞起こすが、
道路が二本あれば、一度に2台の車が進める。
守る側にしてみれば、1人の敵兵と10回戦うより、10人の兵が一度に襲い掛かってくる方が怖い。
満寵って文官のイメージあんだけど実際は武官だったの?
この時代は実質的には文官とか武官とかの区分けは存在しないと思って良い。
>>683 この時代、地方官でも兵を率いるし、文官や武官の厳密な区別なんてないんだが、
満寵は汝南太守の後は将軍位を歴任している。汝南太守の時も武功あり。
>>683 684の言うとおりだが、それを抜きにしても満寵の就任した官はずっと将軍だな
しかも、魏では最高級の将軍だね。
つうか、対蜀漢は司馬懿、対呉は満寵がそれぞれのトップじゃないの?
>>678 じっくり月日をかけた場合、壊れたやぐらは簡単に直せるんじゃないかな?
袁紹側は外に材木を調達できるのに比べて曹操側は岩弾の補給もままならないだろうし
>>689 失敗したら坑道戦術に鞍替えし、それも失敗したら後は持久戦に突入。
しかし一番曹操が苦しんだのが持久戦だった。
うーん、それもなあ
失敗したから切り替えというより同時進行で進めてただけじゃないのかな?
曹操も打ちに坑道を掘ったところで大して解決にならないような気がするのは気のせいだろうか
いつまで三国無双シリーズって司馬懿が対呉でもでしゃばるんだろ?
どーも蜀方面の武将ばかり優先されすぎだよな。
満寵とか出せよ。
司馬懿は荊州都督としても活躍したから。
無双ってのでどんだけでしゃばってるのかしらんし、ここで言わなくていいけど
694 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 02:44:14 0
孫呉征服は司馬氏の功績だってことが強調されてるんだろ。
正史準拠。
楽進、李典、諸葛誕、胡奮、文欽、呉質、羊枯、杜預
諸葛恪、孫峻、陸抗、丁奉、張布、孫?、孫皓
三国無双6にはこのぐらい呉と対呉関係の魏武将を追加で入れてくれよ。無論顔つき前提
後、孟達、司馬師、司馬昭、ケ艾、鍾会、?丘倹、司馬炎、賈充
697 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 17:21:39 0
ケ艾「ぼ、ぼくはおにぎり食べたいんだな」
なんで曹真の後任の対蜀司令官は張コウじゃなくて、司馬懿なの?
劉備時代から蜀と戦った経験が豊富で、
車騎将軍の高位にあった張コウなら都督として適任だと思うんだけど。
700 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:01:50 0
劉備は益州入りしたときになんで漢中攻めなかったのよ。
張魯は曹操が来たらあっさり降ったんだから、劉璋から支援を受けていて、かつ荊州を握ってる状態の劉備軍ならどうにでもできるだろ。
曹操の南下は、馬超たち関西諸将がしばらくストップしてくれるはず。
その間に漢中を押さえて、漢中と荊州から二正面で脅せば、ボンクラ劉璋も諦めて益州を差し出すしかなくなる。
劉備がだらだらぐずぐずした上、益州陥落までに1年以上かかるというどうしようもないノロマな戦をしたせいで、
曹操は関西諸将を薙ぎ倒して漢中まで取ってしまった。
その結果、益州陥落から間がなく内部を固められていない劉備政権は内乱頻発。
曹操が「蜀まで望んじゃうのかっこ悪くね?」とかかっこつけて帰らなかったら、蜀漢はそこで終わってた。
劉備が先に漢中をとっていたら、北伐のスタートも、漢中争奪戦ではなく涼州が舞台になってたはずで、諸葛亮の北伐をずっと前倒しできた。
諸葛亮も過労死しなくて済んだし、蜀の名将たちが一杯生き残ってる状態で北伐をやれた。
惜しいことだなぁ。
701 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:07:11 0
曹操に先手を打たれて漢中を奪われた時点で、すでに益州は終わってるだろ。
蜀滅亡のときも鉄壁の漢中を抜かれたことが原因なわけで。
まず何が何でも漢中確保。これをしないでどうする劉備。
702 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:16:43 0
「孫権殿が曹操に攻められてやばいから救援しに行こうというのに、劉璋殿はろくな援軍もよこさねぇ。キレたぜ!」
なんていう無理がありすぎる逆ギレより、
漢中攻略を成功させた功績でもって人身収攬する方がよっぽど確実だろ。
つ結果オーライ
704 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:24:09 0
劉備のときは漢中取られても滅びなかったのに、
なぜ劉禅のときは漢中取られたら滅んだのか。
705 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:28:28 0
>>698 曹真の後任は張コウでほぼ間違いない。
三国志は司馬懿の功績は大に、司馬懿の罪は隠す。
>>700 曹操はなぜ蜀に侵攻しなかったの?
戦乱が収まったばかりの涼州、関中から兵站をさらに伸ばすことが難しかったからじゃないの
707 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:35:53 0
劉備が漢中を攻めなかった理由は魯粛が関羽を攻めたから。
曹操が蜀を攻めなかった理由は、内部の反乱を警戒したから。
708 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:38:37 0
人材の優劣で言えば、漢中を守ってた魏軍には夏候淵、張コウ、郭淮、杜襲など、
蜀軍が戦った相手の中でも最高レベルの強敵が揃ってるだろ。
この難敵たちが、蜀漢の生命線ともいえる漢中にすでに陣取っているところから逆転した劉備はすごい。
709 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:45:14 0
>>707 長阪の戦いじゃ、曹操は兵站が追いつかないのを逆手にとって、少数精鋭の騎兵で劉備軍を追撃させて大戦果を得ている。
同じことが出来ないでもないだろう。
まして、劉備は蜀を取ったばかりのところを曹操に攻め込まれたものだから、もう毎日反乱が起こるような事態になってた。
>>709 実際に曹操に蜀攻めを提案した者もいたから、当時の戦略的視点でも不可能とは思われていなかったのだろう
ただ、危険な綱渡りには違いないし、何より肝心な曹操が守りに入っていた
赤壁までのテンションなら攻めていただろうが
>>709 曹操が益州を攻めてる間に孫権が北上してきたらどうすんのよ?
712 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 20:58:54 0
>>711 どうせ益州方面においてる兵力が、孫権への反撃に間に合うはずないし。
諸葛亮も孫呉と連携しようとしたが、結局魏の正面兵力が減らなくて突破できず。
素朴な疑問なんだが、長安から建業までの移動は何日くらいかかるんかな?
輜重をつれた軍隊と、馬を代えながら急ぐ要人ではだいぶ差はあるだろうけど
714 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 21:21:28 0
司馬仲達が孟達を不意打ちしたときは、15日間の行軍で速いということになってた。
>>712 いや、だからさ。魏が守ってる時ならそりゃ正面兵力は減らないだろうよ。
でも、曹操率いる主力が益州みたいな行軍にえらく手間取る土地に攻め込んだら、
その間曹操の主力は益州に釘付け。正面兵力も主力軍に引き抜かれて減るよ。
>>700 曹操「漢中は鶏肋」
楊脩「殿の真意はこれこれこうだ」と周囲に得意げに解説
曹操「てめー孔融か? 漢の丞相の心を覗きみるとは!首はねい!」
>>709 劉表死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は江南に逃亡した。曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長坂で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、
妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせて、矛を小脇にして「我輩が張益徳である。
やって来い。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思い切って近づこうとはせず、そのため先主は助かった。
たかが20騎でしかまもってない殿軍など余裕で虐殺できたのになんで突っ込まないんだろうね。 ヘタレ多すぎだろ。
>>712 演義の影響が強すぎて、あたかも諸葛亮VS司馬懿がメインだと思われているが、実際は、
明帝VS碧眼児の巍呉戦がメイン。 巍呉戦で呉が大敗しているのだから、蜀ごときが
何をしようと魏はびくともせず孺子魏延が長安進撃主張しようと丞相は占領しても維持できないと
して相手にせず。 終
>>701 >曹操に先手を打たれて漢中を奪われた時点で、すでに益州は終わってるだろ。
そんなことないだろ。
別に、漢中と蜀は一体じゃない。
南北朝時代だって、分割して統治されたりしている。
つ隴を得て蜀を望む
光武帝の時も漢中方面からはそれ程押せてないけどな。
岑彭の水軍に長江戦線押しあげられた事の方が大きい。
722 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 21:59:19 0
>>719 蜀滅亡のときだって、漢中が落ちた後はもう消化試合じゃん。
>>722 漢中を抜いた後、剣閣で足止め食らって、一時は撤退考えるところまで魏は追い込まれたんだが。
陰平方面から侵入した軍が蜀にとどめを差した。
そりゃあ正面から行くからだろ。
徹底抗戦主張する向きもあったが劉禅がヘタレすぎるだけ
バーカ
725 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 22:10:59 0
>>723 武将なら誰だって迂回突破ぐらい考え付くわ。
漢中が落ちて大兵力を失い、予備を剣閣に注ぎ込んだから、迂回に対応できる兵力がなくなった。
考えつけば行える訳じゃないし、迂回移動は多くの人員と兵站を消費する。
また迂回道というのは当然整備されていないことから、連絡が途絶えることもしばしば。
だから考えた上で除外することはよくある。
>>725 解決したじゃん。
劉備のときは漢中失陥に際し大兵力を失ってない。
劉禅の時は失ってる。
漢中どうこうというより拠点陥落にかかるリスクだわそれは。
>>725 当時の誰でも考え付いた迂回戦略を可能にする国力を付けるのに魏は30年掛けたわけだが。
まさに机上の空論だね。
729 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 22:36:40 0
>>728 曹操が馬鹿なので、誰か別の将軍に大兵力を任せるということが出来なかっただけ。
>>727 漢中にはそれほど大兵力はいなかったんだが。
蜀で最大の戦力を有していたのは沓中から剣閣に後退した姜維軍。
それに成都からの援軍が加わった。
陰平からの迂回はギャンブルだった。兵力も補給も乏しく、
敵地の中で孤立して立ち枯れになる可能性も高かった。
劉備のときは、劉璋の下で漢中攻略にかかる前に曹操が荊州に攻めてきた。
荊州に追い出されて元の木阿弥になるのを恐れたか、劉備はここで劉璋と手を切る羽目になった。
上手い戦略かどうかはわからないが当時の判断という奴だろう。
劉璋を降した直後は、孫権が荊州を「奪還」攻撃を掛けてきて時機を失った。
漢中を制圧した夏侯淵・張コウ軍はさらに攻勢を掛けて巴を荒らしまわったが、
地力では策源地で防御戦を行う劉備の方が上で、張飛の反撃を皮切りに
曹操を相手にしても陽平関を守り通し、漢中放棄へと導いた。
以後40年に渡り、険阻な秦嶺山脈を盾にする蜀は幾度かの魏の攻勢を凌いだ。
しかし同じ時間の間に、隴西・涼州方面での影響力争いは徐々に魏の優勢へと傾いていった。
姜維の段谷の敗戦とその後の政局変化が決定的となり、
蜀軍は軍事的にも政治的にも隴西へ長駆して魏と争う力を失い、
魏は隴西を大兵力を支える根拠地化することに成功した。
263年、魏は三方五路から大兵力を以って蜀へ侵攻を開始した。
姜維はこれまで漢中に集中していた防衛線を東西に広げ、自ら隴西戦線に駐屯するなど対応したものの、
魏は大軍を生かして複数の戦線を突破し、四川盆地へ雪崩れ込むことに成功した。
漢中の漢楽二城や剣閣は固守しても戦力は各所に分断され篭城するのみという状況に陥り、
成都は劉禅の決断により降伏を決定した。
732 :
世界@名無史さん:2010/10/14(木) 22:59:12 0
>>730 そりゃ生姜のバカが兵力を引き抜いたからだろうが。
生姜のバカが兵力を引き抜かなければ、漢中で魏軍を止めてたわ。
>>729と
>>731がマンツーマンでお互いの矛盾を解消してから書き込んだほうが良いね。
いつの時代でも、魏が漢中を迂回する発想と国力を有しているなら、漢中だけで敵を止めても意味が無いんだから。
734 :
733:2010/10/14(木) 23:19:16 0
なんか間違ってた。
729と732だ
とどのつまりは、いろいろと史料をあげて
773 名前:taro[] 投稿日:2010/10/14(木) 19:58:23
AD220年・・・・つまり漢から魏への禅譲の年、ね
漢が滅んで魏帝国が成立した年
魏の成立と同時に短里が里数記事の大半を占めるようになる
これだけ見ると古田〜氏の「魏西晋短里説」が正しいように思えるけど、でもそうはいかない
またある年代以降、一気に短里が姿を消す
それがAD250年
短里は、AD220年代からAD240年代の、正味30年間だけ使われてる
AD240年代の終わりに何があったか・・・・・・高平陵事件だよ(AD249年)
これ以降、権力が曹氏から司馬氏に移る
曹氏が実権を失って「短里」も効力を失うんだわ
「魏西晋短里説」が間違ってるのは「三国志」だけじゃなく、「晋書」からも分かる
「晋書」は、基本長里で書かれてる。東晋時代の話だけじゃなく、西晋時代の話もね
短里とおぼしき記事が出てくるのは魏代・・・それもAD220年代〜AD240年代の記事に限られる
(それこそ司馬懿の話とか、、ね)
と主張しているのだが、これ本当に彼の言い分は妥当なのか?多くのコテや名無しが疑問もっている。
ちょっと彼の主張を検証してくれ。
孟達は房陵や上庸攻略の功があるのに、将軍号を加えられるなどの昇進は無し。
途中から参加した劉封のみ中郎将から将軍に昇進して、孟達の上司に。
この不公平な待遇は何なんだろうか?そりゃ孟達も蜀への忠誠心を失うだろうな。
738 :
世界@名無史さん:2010/10/15(金) 19:39:21 0
>>732 守備で大勝をする為と姜維は説明してるが、
実際は段谷の大敗以降の将兵の不足を、守備兵力を後退させて
外征軍に充当しようとしたのだろうな。秦嶺山脈で魏軍が足止め
されていれば、他の進路の魏軍も深入りはできんかったし。
つまりだ、姜維は段谷の敗戦で弱体化した、自らの権力基盤である
中央軍の将兵の補充を漢中守備の劣化で実現したわけだ。結局は王平や
劉敏が危惧したことが現実になってしまった。
>>738 でも、鐘会は五千の兵が籠る城二つをそれぞれ一万の兵で包囲してから素通りすると言う、
一歩間違えれば後方連絡線を絶たれかねないギャンブルをして、
その他の小さな拠点にも兵を割いて包囲するに留めて漢中を抜いてる。
いちいち拠点を攻めてたら、あっさりと漢中は抜けなかったはず。
漢中失陥は姜維の戦略のまずさと言うより、鐘会の大軍の利を生かした用兵の巧みさによるところが大きいと思う。
>>739 劉封は益州平定時には副軍中郎将。
上に将軍が大勢いる事を思うと、特別に優遇されてたわけでもない。
将軍に昇進したのも他の諸将と比べると遅い。
劉封は養子だし、劉禅が生まれたあとだと、存在微妙。
諸葛亮なんか劉封排除論だったし、蜀漢にとって
要注意人物だったの間違いない。
副軍中郎将という字面と果たした役割からすると、
劉封は劉備の養子として、劉備から派遣されてその代行となり諸将を統監する役割を
果たしていたと言える。
上庸を制圧してからの将軍への昇進は、新たに将軍が多数所属することになったこともあるだろう。
これ自体は別に不自然な流れではないね。
「不公平な待遇」でもないし、「特別に優遇されてたわけでもない」のでもない。
ハッキリいって荊州を失うと同時に彼の利用価値が消滅した。
元々荊州を治める上で荊州の豪族から養子をとった面もあるのだろうし、
用がすんだから、死を賜ったんだろう。
酷すぎる見方だな
孟達に誘われた時点で魏に下っていれば良かった。
荊州の利用価値だけの存在なら荊州奪回戦の先陣を切らせればいいわけで
>>745 劉備は元々人格者ではない。張飛傳にも先主は妻子を見捨、張飛にわずか20騎で殿軍を命じて自分だけ逃げた。
そういう男である。
やばくなったら全部見捨ててまっしぐらに逃げるのが大将のお仕事。
それを護って次につなげるのが部下のお仕事。
>>748 問題が二つある。
現代の平和的倫理観で歴史を見てはいけない。
あなたから見てある行動が「酷薄」と映ったからといって、他の全てまでも「酷薄」な論理で動いていると思ってはいけない。
>>747 荊州を失い、また上庸を失い、劉備と諸葛亮に排除の口実を与えてしまった。
劉邦の死という粛清人事をもって宗族将軍といえども軍規を正すという実例を
征服した益州の将軍たちに見せた(実際は養子であるから劉備の懐は痛まないし、
お家騒動の目も積んだ。 諸葛亮が排除論の先峰をきった史実を鑑みても、
劉備と事前に打ち合わせた寸劇であろう。
>>743 荊州に派遣されてからは、どうやら関羽の指揮下にあったっぽいので、
劉備の代行とか諸将を統監とかそんな重要な役割ではなく、
単に上庸方面の守将に過ぎなかったのではないかと思われる。
短里、長里ってなに?
>>749 張飛傳を記したのは陳寿。
陳寿自身が
>>717のように書いている。蜀出身の彼にすら劉備の行動は先述のように思われたのであろう。
>>750 それは史書に書いてあることだろう。誰も反対しないと思うよ。
荊州統治の利用価値云々は「史書に書いていないこと」。
その要素をまったく否定するものではないが、
わざわざ露悪的な文体で唱えるほど主要因ではないだろうね。
>>753 漢代に書かれた史記や漢書でさえ、劉邦の逃げっぷりをこれでもかと書きまくっているのだが、
司馬遷や班固はそこに非難や軽蔑の意味を込めたのだろうか?
違うだろうね。
君主(皇帝)の逃亡を記すってのは別段侮辱に値することではなかった。
特に、敗戦での臣下の忠勇が示される場合。君臣の親密な間柄を示す格好の材料になった。
劉備という男、袁術を裏切り、呂布を裏切り、曹操の信頼も裏切り、丞相排除の陰謀が露見すると、また逃亡する。
後年も荊州は借用の約束であったのに、居座り続け、口実を儲けて返さず、自らは漢の宗族と自称しながら、劉璋を
攻めて之を逐う。
このような人物が果たして信義に篤いといえるのだろうか。どうも首肯しかねる。
劉備が信に叛く行動を取ったのは二度。
左将軍豫州牧に任じられながら、袁紹に走った(多くの人間と同じ行動を取っただけだろうけど)。
劉璋を計画的にだまし討ちして益州を奪った。
あとは別に大したことはしてない。
そもそも、陶謙、劉表から食客、客将の身であった男か何時の間にやら徐州や、荊州の支配者面である。
劉備玄徳なる男、人を見捨て逃亡し、呂布にすら信用できないと言われるほど群雄に良い評判が無い男も
珍しい。景帝の玄孫なる自称も怪しい事この上なし。
>>756 袁術wwwwwww
それに先に裏切ったのは呂布
なぜ劉備は孫堅のように地元に戻って基盤をつくらなかったんだろう?
なんか言葉遣いが笑えるんだがw
>>758 徐州は陶謙に譲られたことも知らないのかい
>>757 漢の丞相排除を企図し、呉が孫堅、祖茂の屍を超えて黄祖を倒してとった荊州に居座り続ける
男の行動がたいしたことがないって?
よく呂蒙が関羽、劉備の死に関わったとして蜀厨から評判悪いが、元々は劉備が魯粛との約束を
履行しないからだろう。
この男、背信ばかりで中身がない。だから呂布傳にもこの男こそ信用できないと言残されるのだ。
劉備は「武勇と信望」を群雄達に買われて厚遇され続けた。
群雄達にもっとも高い評判を受けた群雄と言える。
まあ、三国志補正ってのはあるだろうけど。
タク郡タク県という「地方都市」に居を構え、孝廉を輩出する一族が、
それなりの系図を持っていなかったとしたら、そっちの方が不自然。
劉備の代ではじめて皇族を自称したとしたら
タク県劉氏はあり得ないほどの政治音痴集団だったことになる。
>>762 劉備の周辺がそう喧伝しているだけ。
荊州や益州にもいえるが、あの男の譲られた系の話は
信用ならない。
彼の言動は不誠実、行動のみを抽出すれば、真の奸雄は劉備だと明らか。
>>763 そこで呉、しかも孫堅が出てくる時点でなんか歪んでる
>>760 劉備の一族は地元で割拠できるほど有力な一族じゃなかったし、
有力な群雄はたいてい出身地以外の場所を根拠地にしてる。
劉備の曹操暗殺計画については二通り考えられる。
一つは、献帝の勅命を受けて悪臣曹操の排除計画に参加した(史書通り)
これなら劉備は忠臣と評価される。当たり前だけど。
そのあと曹操を「裏切った」のも義に基づいた行動になる。
もう一つは、董承の計画は全然知らずに徐州で「反乱」しちゃったけど、
董承らが斬られたのを見て「実は俺も勅命受けて参加してたんだぜ」と宣伝した可能性。
袁紹派に大きな手土産をもたらし、自分の名声も上げる一石二鳥の手。
呉がいつ荊州を実効支配したんだ?
荊州に一瞬だけ駐留してポックリ逝った周瑜の死後、劉備が荊州に基盤を築くことを黙認したら
新しい根拠地が見つかれば荊州を明け渡すって口約束だろ
早い話が開戦回避(延期?)の為の方便で、魯粛辺りは効力の薄い上に不利な条件とわかってただろ
周瑜死後のゴタゴタや赤壁で退けたとはいえ、魏への対応を考えれば劉備と領土争いで小競り合いしてる場合じゃないからな
荊州を追われ、江南に逃亡した劉備、彼は根拠地も失い、呉との同盟を諸葛亮と魯粛の働きで成し、赤壁は周瑜の策、黄蓋の大功で大勝を成した。
劉備との戦いは不利であったと曹操傳に簡潔にあるのみで、劉備はおろか、関張の戦働きも不群である。
赤壁の戦いは孫曹の戦いであり、劉軍の戦働きは史書に簡潔に示されるその程度のものでしかなく、孫が不憫と貸与した荊州の地を返還しない
屑だよね
曹操傳とか不群ってなんじゃらほい
曹操傳=曹操伝。
伝は傳の異体字というか、略字じゃなかったかな。
不群については俺も解読出来ん。
続後漢書の話なんじゃないか?
蜀漢正統主義者なんだろ
続後漢書まではカバー出来てないなぁ。
俺の予想は単純に特に考えもなく曹操伝と書いてしまっただけの台湾人説を唱えてみる。
髀肉を皮肉を見抜けn(ry
>>752 807 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/10/14(木) 22:58:45
短里、長里というのは、相対尺度だと思われます。
100里くらいまでは、1里=80mだけれど、
1000里は300里くらいに、万里は千数百里くらいに縮小しないと実際の距離と一致しない。
絶対尺度というのは、実は、科学常識を教え込まれた現代人だけが持つ特殊な常識なのではないだろうか?
781 :
752:2010/10/16(土) 00:59:59 0
祖茂は死んでないでしょ
演義とゴチャゴチャになっているんだろう。
正史では祖茂は孫堅の身代わりにしんでなどいない。
董和と董允は親子なのに、なんで別々に伝が立てられてるの?
親子で大物だった人物でも、みんな子は父の伝の後に附伝が立てられてるのに、
董和と董允の親子だけが唯一別々の伝なのが不思議。三国志で唯一の例なだけに陳寿の意図が分からない。
>>786 本紀じゃなくて列伝で親子が別々なのって、他には劉焉伝と劉璋伝ぐらいしか思い浮かばないんだが。
陸遜伝と陸抗伝が分かれてないのが不思議。
董和は益州太守から掌軍中郎将になってるけど、どうして将軍じゃないんだろ?
太守クラスの人間が政治の中枢に携わる地位になるなら、将軍になっててもおかしくないと思うんだが。
むしろ「太守クラス」内でも格差があったことの証左だろう
第一董和の職権で将軍だったら誰と並ぶと思う?
董和は署左将軍府事だから、将軍だったら軍師将軍・署左将軍府事の諸葛亮並みの地位になるな。
794 :
世界@名無史さん:2010/10/17(日) 17:15:31 0
>>785 子供の方が大物政治家だったからでは?
諸葛亮等と四英なんて言われたくらいだし。
それと、董允が長生きしていれば、宮中の乱れもなく、
黄皓の専横も無かったという、陳寿の思いも込めたものと
思われる。
法正の護軍将軍って、単に揚武将軍から昇進した上位の雑号将軍なのかな?
それとも中護軍の上位互換の護軍将軍なんだろうか?
後者なら、法正の権力はとんでもないことになるんだが。
上位互換でいいだろう
陳平に近い
>>795 正しくは、「漢中王の」「中護軍の上位互換の護軍将軍」だろうな
法正の権力は漢中王の国内の軍には及ぶが、諸葛亮が取り仕切る大司馬府の方には及ばなかったと思われる
尚書令は下に吏部があるから、文官の人事を掌握。
護軍将軍が中護軍の上位互換なら、武官の人事と近衛軍の軍権を掌握。
ついでに言えば尚書令は丞相のいない漢中国では行政のトップ。
臣下としては政治と軍事の両方の最高権力を保有してるわけだ。
強力ではあるが最高権力ではない。
両者は王の枢機官として機能する。
外府で実務を掌握する将軍・卿、
特に「相」と評された諸葛亮らの仕事を
評価監督して王の判断を仰ぐ役目。
劉備という強力な君主、「最高権力」者の存在を抜きにしてはいけない。
そういや、漢中王の太傅は許靖だけど、丞相、もしくは相国と御史大夫がいないな。
漢中王国を建国する時に参考にした前漢の制度なら、
王国には太傅の他に丞相と御史大夫がいなくちゃおかしいんだが。
なんでこの時点で諸葛亮を王国の丞相に据えなかったんだろう?
この時法正はたぶん諸葛亮の仕事は監督する立場にないけどな
法正が監督したり枢機を預かったりしてたのはあくまでも漢中王国の仕事だから
漢中王の官位に就いていない諸葛亮とは別系統
802 :
無名氏:2010/10/18(月) 04:35:04 0
。。。
>>801 そこまで厳密な区分があったかは疑問。
左将軍府の人員はあらかた王廷へ移り、劉備への集権体制が取られている。大司馬府の実体は窺えない。
諸葛亮が漢中王の指揮系統に服さないならば、それは同時に劉備の「相」としての実権を失うことになる。
804 :
世界@名無史さん:2010/10/18(月) 11:50:47 0
劉備政権なんて軍閥なんだから、
そんな杓子定規の規定があったのか?
細かい取り決めや、権限の及ぶ範囲の決定なんて、
諸葛亮が丞相になってからじゃないのか?
法正は劉備の側におり、軍謀をめぐらす相談役という程度、
諸葛亮は政治全般を統括する股肱の臣。最終的な判断は劉備が
行うという程度の大雑把な組織じゃないかな。官位は名誉程度
のもの。
形成途上にしてもそこまでおおざっぱでもないだろう。
旧来の将軍を吸収して卿や尚書令を置き、左将軍府の人員を尚書として尚書台を設置するということは
王を中心とする法制と礼制が整備されつつあったことを示す。
劉備軍閥が劉備との個人的な関係の集体から国家組織機構となったのは
まさにこの時だ。
劉備が漢中王に即位した時の四方将軍の中で、
後将軍黄忠だけが仮節を与えられてないんだけど、
やはり黄忠は他の三人より一段下の扱いだったんだろうか?
まあそういうことじゃね。
「仮節」の及ぶ範囲とか、仮節という制度が発生したのがいつかとか、色々問題はあるようだけど。
宦官黄皓で思うのだが、蜀漢や呉でそういうチンポない人まで手が回るようになったのは
皇帝宣言直後?まさかそれ以前から宦官いるはずもないだろうし。(漢王朝の臣下と言う立場あるし)
>>808 王の段階で王の後宮はあったと思われるから、漢中王になって以降は宦官がいても不思議じゃないよ
>>807 仮節は後漢には既にあったみたい。
持節や使持節よりは歴史浅いみたいだけど。
>>808 タマはないだろうけど、チンポはあるんじゃないかな
劉備の妻妾で名前分かっているの麋夫人などメジャーどころ以外では誰がいるの?
>>812 呉皇后、甘夫人、孫夫人以外は名前分かってない。
劉禅の異母弟の劉永、劉理も母親の名は不明。
蜀はつぐつぐ記録の質が悪いよな。 まともな史官いなかったのかね。
孫権の方の妻妾は?
>>815 有名どころが謝夫人、徐夫人、歩夫人、王夫人(二人いる)、潘夫人。
マイナーなのは袁夫人、謝姫、仲姫、趙夫人。
>>814 たとえ史官が充実していたとしても蜀の敗亡を考えればほとんど意味ないぞ
>>807 >>810 取りあえず軽く『史記』『漢書』『後漢書』『後漢紀』を調べた限りでは、
・使持節 『史記』レキ商伝、『漢書』田タン伝の高祖がレキ商に与える同一の記載が初出。(ただしちくま訳だと割符になってる)
・持節 『史記』司馬穰苴伝が初出。
(ただし、「使」者持節であるので使持節の方かも知れない。その場合は周囲に「使」字の見あたらない漢文帝の時期が初出)
ということでこの上記二つについては、大まかに前漢初以前には既にあったものと見なしていいかも。
・仮節 『後漢書』『後漢紀』双方とも一致して霊帝中期初出。
霊帝の軍制改革によるものかもしれない。
だとすると調べれば調べるほど霊帝は面白いことしてるな。
しかし、魏や呉なら伝記作るまでも無いってレベルの奴も列伝立てられてるし、
魏や呉でも名前は頻繁に出てくる重臣だけど列伝が無いって奴は多いから、
蜀の史官がいなかった事が、人物の記録に乏しい事とは関係ないと思うな。
呉書などをみると、250年以降の孫権の醜態まで逐一載せていて政争の様子が手に取るように分かるぞ。
これが蜀漢になると、権力抗争は結構行間を読み取らないと難しい。
誰と誰の権力抗争とか?
そもそも史官って史書編纂を職務にする官吏じゃないぞ
蜀の記録が乏しいのって、単に蜀滅亡前に蜀の史書を書いた人がいなかったからでは?
魏では私的に史書を書いた人がたくさんいたし、呉では私的な史書の他に国が編纂した史書があった。
私撰または欽定史書が編纂される前に蜀は滅び、加えて成都が暴動で混乱した。
陳寿は遠く洛陽に居り、現地を巡って史料を蒐集するような余裕がないままに三国志を書き上げねばならなかった。
劉知幾さんは天地の吉兆凶兆を記録するのが史官だと言ってたな
曹洪って曹操の旗揚げから長い戦歴を誇り、親族武将の中核として活躍して、
驃騎将軍までに昇進したわりに一度も仮節を与えられた事も都督になった事も無くて、
権限では当初は格下だった曹仁や夏侯淵どころか、
下の世代の曹真や曹休や夏侯尚にまで追い抜かれてるんだけど、
いったい曹洪の何がダメだったんだ?信用度・能力・功績ともに曹操の親族では屈指だと思うんだが。
827 :
世界@名無史さん:2010/10/19(火) 19:18:10 0
そうだね。
曹操時代までは、曹仁に次ぐくらいの権限を与えられている。
曹丕も王即位・禅譲の重要な時期には丁重に扱ったが、その後に罪に落として公職から追放。
(曹休・曹真・夏侯尚らはこの時期に各方面の抑えを担当)。
曹叡の時代に復帰することができたが、老齢もあっただろうし、時代が変わっていたので
実権を握ることなく名誉職で終わった。
てか。
>>826 数日に一回くらいの割合で単レスで質問投げてそのまま放置していく人って何がしたいの?
自分のサイトのネタ集めとか?
あ? ネタ拾いしたらダメだとかいうルールでもあんのか?
あらかじめ宣言してくれたらいいよ。
「自分のサイトで書くネタを集めてますが疑問があります」って
>>828 でも、曹操も曹洪には節も諸軍を統括する役目も与えてないんだよ。
もともと格下だった曹仁や夏侯淵は節を与えられたり、
諸軍を統括する権限を与えられたりしてるのに。
位だけは高いけど、棚上げされて実権を与えられてないような。
親族武将の中で曹洪だけがどうしてこういう扱いなのか不思議だ。
>>829 ん?何言ってんの?
833 :
世界@名無史さん:2010/10/19(火) 19:38:18 0
曹丕が若い頃、曹洪に借財を申し込んだが断られた。
それを恨んだ曹丕がいじめたんだろ。
>>832 曹操時代に都督になれたのは夏侯惇・夏侯淵だけ。節を受け征南将軍まで昇った曹仁がそれに次ぐ。
この三人が飛びぬけているだけで、
曹洪はそれに次ぐ第四位の役割をこなしている。陰平攻略とか。
曹丕時代初期も、衛将軍から驃騎将軍と、二夏侯亡き後で魏の中枢を抑える役割を曹仁に次ぐ
位置で果たしている。
その後、罪に落とされた。
おっと追加。
曹洪が元々夏侯淵や曹仁より格上だったか。そうじゃないだろう。
記録上、曹洪はエン州再平定の直後(196頃)にはじめて校尉になっている。
曹仁は対袁術戦・徐州陶謙討伐の前後(193頃)に校尉になっている。
夏侯淵はエン州再平定戦から献帝奉戴の頃、既に陳留・潁川という要所の太守を歴任している。
ついでに夏侯惇は、エン州牧となった曹操のあとを受けて東郡太守になっている。
これらから、彼らの序列は従軍初期から変わらず、惇>淵>仁>洪 の順。
836 :
世界@名無史さん:2010/10/19(火) 19:54:46 0
曹洪は曹操の立ち上げ時期に協力してなかったから親族の中での外様扱いということか
夏侯惇のように立ち上げの最初から従っている人物というのはやはり特別なんだろうね。
年齢の問題もあるのだろうけど、曹洪の実年齢はわからないが。
838 :
世界@名無史さん:2010/10/19(火) 20:04:39 0
曹休なんて190年には加入してるだろうし。当時15歳くらいだろw
ほぼ小姓扱いの年齢の「古参」と、部曲を率いて即戦力の「遅参」とじゃ比べ物にならないだろ。
遅参曹洪が参加した時点で曹休の地位を跳び越してる。
>>834 非親族の于禁や楽進や臧霸や徐晃も節を与えられてるのに、
曹洪だけ一度も節を与えられた事が無いってのは、
明らかに夏侯惇や夏侯淵や曹仁とは差つけられるどころか、
非親族の武将と同程度の扱いじゃないか?
たぶん一族の長老として衛将軍や驃騎将軍になったんだろうけど、
活動は見られないし。
外に出て権限を与えられているのは厚遇や信頼の証だけど、途中からずっと中央にいるってのもそれはそれで厚遇の証
>>819-824 蜀に史官がいなかったなどという説は諸葛亮に対するいわれなき侮辱である、
という清代の学者の主張があることを、易中天という人の本で読んだ。
>>835 曹洪が校尉になったのは195年頃じゃない?
天子奉戴前に中郎将に昇進してるようだから、
1年もたたないうちにすぐに中郎将になってる。
天子奉戴後、諫議大夫になってるし。
曹仁は対袁術戦の前に別部司馬で校尉を代行。
その後、天子奉戴まで昇進してない。
天子奉戴後、議郎。
夏侯淵は別部司馬・騎都尉から郡太守に昇進した時期が不明。
官渡戦の時期も校尉を代行したとあるから、当時の本官は太守。
天子奉戴時に昇進しなかったとは考えられないので、
太守に任官したのは天子奉戴の時と考えられるのが妥当ではないか。
この三人は河北平定のあたりまではほぼ横並びのように思われる。
>>835 爵位という点では洪>仁のように読める。
>>841 まず張遼らが与えられた節が制度化された「仮節」なのか、という問題があるが、それはおいといて。
曹夏侯一族の秩石の上昇自体、トップクラスの外様将軍連と比べて遅いんだよ。夏侯惇を除いて。
夏侯淵でさえ正規の将軍になったのは漢中攻略後(217年?)。それまでは行官に過ぎなかった。
曹仁が征南将軍になったのも218年。
集解では曹仁伝に注して、曹操の一族ゆえに階級を低く抑えられたのだろうという見解が採録されていたが、これに賛同する。
曹操の親族は階級こそ低かったり将軍の仮任官だったりしたが、内外の護軍、典軍、領軍などという角度から諸将軍を督察した。
この傾向は曹丕の王即位から禅譲の時期に一族に与えられたポストからも伺える。
肝心の曹洪は、おそらく219年に「都護」将軍に任じられている。
これはまさに、曹洪が夏侯淵・曹仁に次ぐ地位だったこと、他の同族達と同様に内外の諸軍を統監する役割を担う一人だったことを
如実に示している。
>>844 天子奉戴後に太守になったのは曹仁も同じだね。
夏侯淵は奉戴前に陳留太守、遷都に伴って潁川太守ではないかと考えているが、根拠はない。
まあともかく、196年前後に太守として要所を固めている(要所度では淵が上だが)二人に比べると、
曹洪は頭半分落ちるだろう。
有力者の任官が太守から護軍など軍官に移り、将軍号を持つ部下が増えていくのは官渡前後から。
天子奉戴の当初、曹洪は別軍として天子を迎えに西征している。
曹仁なども陶謙征伐時に別軍を任されているが、
あくまでもそれは作戦行動の一部だった。
それを考えると、曹洪が頭半分落ちるとは言えないんじゃないか。
>>846 曹洪は行官じゃなくて正規の将軍に南征前に任官してるよ。
その後、都護将軍に昇進してる。
でも、諸将を率いたり、重要拠点を守ったりなどの役割はほとんど担ってないね。
鷹揚校尉→揚武中郎将→事N将軍→都護将軍と、
トップクラスの外様将軍とほとんど同じ出世コース。
ああ、事N将軍は見落としていた。すまん。
これに「行」が付かないとなると、曹洪が将軍になったのは確かにかなり早くなり、
208〜218年ごろ、官位では曹洪が曹仁を越えていたことになるね。
亭侯になったのは同じくらいか。
記録の密度や正確さに、伝ごとに差があるようなのが引っかかるけど。
>でも、諸将を率いたり、重要拠点を守ったりなどの役割はほとんど担ってないね。
これはわからない。
たとえば、丁斐は建安年間に典軍校尉という曹操の襲官という名誉ある地位で、
「總攝内外」していた。おそらく許都の皇帝中軍を掌握していたのだろうが、
当然武勲もなく、曹爽伝注以外に丁斐の名前が出ることはない。
だからといって、これが要職でなかったことにはならない。
史書の記録の偏りってこんなもの。
都護将軍曹洪が管轄したポストは史書に載らない(おそらく魏王軍のどこか)のだが、
曹氏や司馬氏が類似の職名で一族に中外軍を統括するポストを充てた多くの例を見れば、
曹洪だけが無役であったとは看做せないだろう。
調べなおしてみたら、曹洪は曹操に魏公に就くよう薦めた時点で中護軍だね。
下弁攻撃時は都護とある箇所が複数あるので、これが都護将軍だろう。
すると荊州攻撃時の功績で事N将軍というのはおかしいと思うが。
荊州攻撃時まで別軍を率いた活躍が多い曹洪の武勲が210年頃以降途絶えるのは、
曹操に随行して丞相軍を統率する任を分担していたからだろう。韓浩らと同じ事情。
都護将軍時も曹操の本隊から抽出された諸軍を率いて邀撃に出たという感じだから、
曹操期後半の曹洪の主な役割は、曹操直下での護軍・都護系統のものだったことになる。
(間に事N将軍として外に出ていた時期もあるかもしれないが)
その後、漢中失陥と夏侯淵喪失に伴って一時西方の守りを任せられるが、
直後曹操の死によって、曹丕の即位と王朝交代を支えるために中央に呼び戻されると。
黒山賊の張燕は一時期盛んに袁紹と戦ってて、
公孫サンも易京に籠城した時、援軍を頼んでるけど、
それ以降河北に侵攻してきた曹操に降伏するまでの動向が分からない。
官渡の頃とか袁紹敗北後に冀州が混乱してた時とか、何してたんだろ?
袁紹が攻め込むから反撃してただけだろ
元々何か戦略目標があって行動してるんじゃなくて
割拠自体が目的の集団
某アルピニスト(チベット支援活動をしている)の掲示板で、日中双方の投稿者による熱い論戦が
繰り広げられていました。中国人留学生を名乗る連中は、「戦時賠償金の代わりに、日本の奨学金
をもらってやっている」と言い放ち、どんなことでも正当化するのです。しかし日本での聖火リレー
が無事終了すると、まるで潮が引いたように突然消えてしまいました。
その統制ぶり、マインドコントロールの恐ろしさを見せつけられました。日本に住んでいても、
中華思想は変わらないようですね。これは情報の戦いであり、心理戦・神経戦です。
三国志を読んで、「悠久の中国」などと夢を見ている場合ではありません。
三国志は本の中の話ではない。現在進行中の現代史そのものです。
日本語でおk
中国語でおk
チベット語でおk
859 :
世界@名無史さん:2010/10/21(木) 12:55:08 0
三国時代の悠久の中国は、自称漢民族の祖先である異民族に滅ぼされてしまいました。
最近読んだ「李衛公問対」という兵法書に面白い話があるので、ご紹介しましょう。唐の太宗は王朝の支配を
確立した英雄ですが、軍師にこう問いかけます。「戦いを始めようとする場合、占いの結果は無視してよいもの
だろうか。」
軍師はこう答えます。「それはいけません。そもそも戦争とは心理的な操作です。吉兆を予知する占いを利用
することによって、頭の良い者だろうと貪欲な者だろうと、思うように使うことができます。」
「ただし占いの悪い結果を無視して出陣し、大勝を収めた例も多くあります。この態度は正反対のようですが、
根本の考えは同じです。わたしが占いを無視しないほうがいいと申したのは、これを活用する時機があるという
意味です。成功の基本が天のお告げではなく、人間の行動にかかっていることは言うまでもありません。」
中国の兵法書は、神秘的な思想を肯定しながら、人間の実行動に重きを置き、「相手の心理を読んで、その弱点
を突いて優位に立て」という点で一貫して揺らぐことはありません。
馬鹿はスルーでおk
孫策死後の廬江の帰属が分かりません。
時によって魏が支配してたり、呉が支配してたり、なんかよく支配者が変わってる印象があるのですが、
いつの間にか変わってる感じでいつ攻略されたとかそういう記録があまりありません。
なんで廬江をめぐる攻防は記録が少ないのでしょうか?
分割状態。っていうか主戦場だろ
廬江に属する県調べてみ
いや、主戦場は九江郡のような気が。
廬江はたとえば、vは魏領になったと思えば、呉が落としたり、その後また魏領として出てきたり、
呉領として出てきたり、何が何だか良く分からないのです。
>九江
多分合肥のことを言ってるんだろうけど、呉軍が合肥にいるのは何年かに一度の大攻勢のときだけ
俺、争点航路と高島忠夫くらいしか読んでない新参と言うにもおこがましいトーシロだけど、
皆、すごい三國志への情熱!
普通に感心した。
たとえば皖県は、孫権の支配力低下につけこんで曹操が廬江太守朱光を送って基盤固めを企図する。
対して皖攻略戦が行われたのが建安19年。
以後は基本的に呉領だろう。
廬江郡とキ春郡は呉領だな。呉が何度か攻めた六安は漢の時代は廬江郡に属してたはずだが、
魏の時代は何郡だったんだろ?あと、キ春軍が九江郡から分割されたのか、廬江郡から分割されたのか分からない。
869 :
世界@名無史さん:2010/10/21(木) 22:25:09 0
六安は安豊郡
安豊って豫州じゃなかったっけ?
>>868 魏にもちゃんと廬江郡はあるよ。
ちゃんと調べてないが、おそらく呉王孫権の離反後に両者が廬江郡を置くことになったのだろう。
六安は魏領廬江郡。
淮南、廬江、安豐は晋の東遷後に豫州に組み込まれる。
キ春は江水北岸、後漢代の廬江西端と江夏東端から分割。
西の郡界は漢水の合流点に近い。
江東に攻め入った時の孫策と呉景ってどっちが指揮権上だったのかね?
孫策は行殄寇将軍。呉景は督軍中郎将。
孫策の方が上官だろ。
>>874 代行と本官だと中郎将の方が上位だろ
将軍と中郎将は必ずしも命令系統上の上下関係を意味しないし
江東に展開する袁術派諸軍を総指揮させるために将軍位を仮任命したのだと推測できるね。
ちなみに当時の孫策の本官は折衝校尉。
孫策が将、呉景が軍監じゃね?
むしろ、先に江南の袁術軍を指揮していた呉景が将で、
後から派遣された孫策が軍監では?
どんなレベルであろうとも指揮権を持つ者を軍監とは言わんだろう。
孫策も呉景も別々に動いてるっぽいから、江東侵攻軍に統一された指揮権はないようだな。
中国の史書って簡潔過ぎて説明不足だよね
だからこそ脳内補完する悦楽の余地が生まれるんだろうけど…
三国志って紀伝体の国史なんだが…
たとえば「日本平成史」って、A4ハードカバー十巻の史書があったとして、
それに公務員服務規程や公職選挙法が載ってないから説明不足って言うくらい的外れ。
だから?編年体よりはマシってレベルにしかなってないでしょ?
だから「中国の史書」と言ったんだけど
編年体の「中国の史書」もあるが
>>885 いや、だから両方とも簡潔過ぎて説明不足って意味だよ
>>883 いや、そんなレベルまで行かなくても戦争や政略の中核や、その理解に必須の力関係や背後事情まで丹念に読み込まなきゃ分からない、あるいは読み込んでも分かりようがない
ってレベルの記述が多すぎると思うが
>理解に必須の力関係や背後事情まで丹念に読み込まなきゃ分からない、
>あるいは読み込んでも分かりようがないってレベルの記述が多すぎると思うが
読むだけで力関係や背後関係までくまなく理解できる「史書」なんてあるかな?
くまなく、とかそういう極論で誤魔化そうとしないでいいよ
例えばトゥキュティデスと比べたらどうよ?
>例えばトゥキュティデスと比べたらどうよ?
知らんがな(´・ω・`)
>>888 あれは史記と同じで著者の主観や創作がだいぶ入ってるから。
すまん、濁点が一個抜けてたわw
トゥキュディデスだな
>>890 入ってるのは演説部分とたまにあるドラマチックな描写くらいでしょ?
>>890 なんかそういうレベルじゃなくさ
西洋の史家と違って中国の史家は最初から細かい説明をする気が薄い気がする
文章を簡潔に簡麗に整えることばかりに気をはらって
あるいは出来事を一般化しようとしすぎて
なぜ「くまなく」と書いたことが「極論で誤魔化す」ことになるんだ?
>>892 「くまなく」が「完全」に近い意味で用いられたなら
「それは完全ではない、故に説明不足だ」という極論が可能になるからだよ
程度の差の問題なのに
まあ思い過ごしだったら侮辱になるな、すまない
>>891 西洋の史書は文学。
中国の史書は記録。
>>891 『戦史』は戦史書。
『三国志』などは紀伝体史書。
同質の情報が記載されているべきと思う理由が分からん。
その時代の秀でた人物数百人の生涯が項目立てられていないトゥキュディデスは、
時代の様相を知るには不適格で大雑把な史書だってことになるが、どうだい?
>>895 戦史と後付けで名付けられてるだけだしなあ…
戦争を通して人間や人間社会の本質を描こうとした、そういう歴史に対する態度は東西でさして異なるものではないと思うけど
その中でさえペリクレスを筆頭とした人間たちは時代の様相映す鏡として上手く描かれてると思うよ、数の問題じゃなくてね
同質っつか人物を描くためにもある戦争や政略の状況における意味が分からないと理解できないでしょ?
紀伝体だから、でそういうところまで言い訳にできるわけじゃないと思うな
歴史学が戦争や政争を記すものだと思ってる人はよくそういう勘違いをする。
呉景 203年に突然死んでいるけど、暗殺、謀殺された可能性はないの?
前近代は健康な人間が突然死ぬのが当たり前だよ
だから平均寿命が30代とかになる
平均寿命は乳幼児の死亡率が大きく下げる要因だったと思われ。
すみません。質問させてください。
蒋済伝に、蒋済が三州論を書いて曹丕の南征を諌めたけれど、
曹丕がそれに従わずに南征を実行し、結局行き詰まり、
立ち往生している船を蒋済がなんとか淮水に導いたという話が載っています。
これは、曹丕の三回の南征黄初三年222年・黄初五年224年・黄初六年225年のどれに当たるのでしょう。
自分としては黄初六年のことかと考えてるのですが、
確証が持てないのでいます。
よろしくお願いいたします。
そもそも「中国の史書って簡潔過ぎて説明不足だよね」と思ったことがない
なんだよ「よね」って。
>>901 曹丕が広陵を攻めた時の話だから、黄初五年の時。
>>903 レスありがとうございます。
しかし、黄初六年の時にも広陵に行ってます。
それに、黄初五年のときは、徐盛が長江沿いに偽の城壁を作り、
長江の水嵩が上がっていたというのと、
蒋済伝での長江が凍って入れなかったという記述が矛盾すると思うのですが。
906 :
905:2010/10/23(土) 10:19:27 0
主語が抜けてた
江水が凍ったのは六年の話、ね。
907 :
世界@名無史さん:2010/10/23(土) 10:31:16 0
船が通ることができないくらい凍っているのなら、歩いて攻めればよかったんじゃね?
>>906 すみません。
蒋済伝にあるのは水道難通で、長江が凍ったとは書いてありませんでした。(標点本P451)
文帝紀とまじってました。
よく河が凍る話がでているが、中国の「河って海のような広さなんだろ。 日本の戦国時代がプチ氷河の影響による土一揆などの社会不安が一要因といわれているように、
異常気象が黄巾の乱の原因のひとつだったのかねー?
この時期は世界的な寒冷期で、農業生産が大きく落ち込んだんよ。
中国だけじゃなくて、ローマとかにも大きな影響を与えている。
後漢は中期以降から異常気象がひどくて、それが政情不安や経済の混乱や反乱の頻発につながった。
それに加えて異民族の絶え間ない侵攻。黄巾の乱以前から、かなり危なかった。
楊奉が元白波なら、それに従ってた徐晃も白波に属してたってことになるのかね?
騎都尉になってるから幹部クラスだね
曹操の有力な将軍の中では、徐晃は唯一あからさまに賊やってた人間ってことになるのかな?
楊奉も哀れな男よ…
郡の役人となったってあるから、元白波とは言い切れない。
騎都尉になったのは「車騎将軍」楊奉の下で賊を討伐したからで、
天子の東遷に従って手柄を立てたということかも知れない。
詳しい経緯が曖昧なまま楊奉の幹部になっているという記述は「お察しください」っていうことだろ
本人や子孫にしてみればあまり明るみにしたくない部分なんだろ
詳しい経緯が曖昧だから元賊なんて言いきれない。
徐晃の子孫だって別に繁栄していないし。
「賊」ってのは山賊強盗の類じゃないよ。
官位を受けずして(或いは蜂起後剥奪されて)武装、反乱した者のこと。
傾向としては、朝廷が機能していた時期に反乱していた者は賊と書かれやすいが、
機能崩壊後に割拠した者はそうは書かれない。
その構成員は当地の豪族、つまり官吏や知識人の出身母体であることが大いにありうる。
というかそういう階層じゃないと兵民を統率できないだろう。
だから官吏だったから賊ではないとは言えず、そういう政治的な立場にいたからこそ
蜂起に参加することになった可能性もあるし、
韓暹・楊奉らが献帝東帰を助けたのも政治的感覚のある出身だったからだろう。
徐晃伝で「お察しください」なのは、最終的に賊として斬られた楊奉にわざわざ車騎将軍と
書かれていること。一時は漢の官位を受けた者だということを強調して、賊の一味だったこと
(徐晃が白波でないとしても、献帝を巡って曹操と「不当に」争った立場なのは間違いないから)
を曖昧にしているわけだろう。
山賊強盗の類ではない、武装勢力であれば、別に曖昧にする必要もない気がするけど。
曹仁だってそうだし。
白波賊 → 後漢朝廷に反乱した叛徒
曹仁 → 治安の空白に乗じて割拠していた零細軍閥
張遼や張燕は賊?
923 :
世界@名無史さん:2010/10/24(日) 16:34:48 0
張遼の跳梁
張遼は 何進>董卓>呂布(王允)となんだかんだでずっと政権派にいる。
呂布が献帝を擁した曹操と敵対していた当時は曹操側の文書上賊と呼称されただろうが、
史書での呂布は群雄扱いで賊と書かれない。
張燕は黄巾の乱の時期に蜂起した。史書でも「賊」と書かれる。
近隣の反乱と合同して黒山と号し、形だけの降伏で「河北諸山谷」の支配権を認められたりもしたが、
その後も司隷侵入と官軍との戦闘を繰り返した。
張燕や張魯などの群雄が降伏後、名誉職と列侯の位をもらって政治や軍事の実務には携わらなかったのに、
なんで張繍だけは兵を率いて前線に立ってたの?
張繍がそこまで大物じゃなかったから+率いた部曲と指揮能力が有用だったから
927 :
世界@名無史さん:2010/10/24(日) 19:56:58 0
「曹操の息子を殺したものでさえ、曹操は信頼して使っているのだぞ!」というアピール
鮮于輔や閻柔は公孫サンが滅んだ後、袁紹に従ってたのか自立してたのか良く分からない。
>>925 官渡〜河北平定の時はそれだけ切羽詰まってたってことなんじゃないの?
張遼採用、呂布殺害と処遇に差があるのははやはり劉備の言動が大きいの? あと陳宮は見せしめ殺害?
頭目の呂布は政治的都合。
その他大勢は降伏したかどうか
>>930 呂布は生かして使うには大物すぎるし、信用ならない。
陳宮は曹操は許そうとしたけど、自分から断った。
張遼は何度も主君を変えてるから、降伏する事に抵抗は無かったし、
そんなに危険人物でも無い。
高順を処刑した理由だけは良く分からない。
>>932 曹操は反乱した賊を討伐してるんだから、
降伏を受け入れなけば普通は軍法に基づいて刑罰を下す。
この場合は「斬」。
高順は呂布命な所があったから、呂布が死んで降伏するとはおもえないぞ。
高順は諫言は聞き入れられないわ、冷遇されるわ、信用されないわ、呂布に仕えていい事無かったのに、
どこに忠義を尽くす価値を見出したんだろうか?
それでも取り立てられたからには忠を尽くすってのが当時の節義のあり方。
勿論、なかなか実行できた人物はいないけどね。
そもそも高順は呂布が取り立てた人間なんだろうか?
張遼のように旧丁原軍時代の同僚のような気がするんだが。
それはわからないよね
本貫も字も不明の人物だから
エン州人や徐州人の可能性さえある。
陳宮と同じく主犯の一人だったのでは?
陳宮と仲悪かったから、あの主犯の一人と言う事は無いと思う。
>>928 曹操政権下の陳登みたいな立ち位置じゃないか?
前から疑問に思ってたんだけど客将と臣下の具体的な違いは何
>>941 陳登は後に別の郡の太守に配置換えされたりしてるから、
鮮于輔のような土着で半独立の軍閥とは違うと思う。
>>943 俺が言いたかったのは、協力的な、地方の勢力ではあるが
完全には同一の指揮命令系統には入っていないということね。
陳登よりさらに半独立的と言われる分には個人的には異論はない。
呂布がまだ健在のころの陳登とか
袁紹戦たけなわのころの臧覇とか。
はじめは半独立的だが、中央の権力が安定していくに従って
段々と臣下の地位に回収されていくわけで、境界線はないことが多いだろう。
あるとすれば、中央召還とか全然影響力のない場所への配置換えを飲まざるを得なくなったとき。
陳登は国替えされて腐ってゲテモノ食いに走ったのかな
東城郡はおそらく漢末魏初くらいしか存在しない郡でよくわからないが、
後漢書や晋書に載ってる県を調べるにむしろ下ヒに近づいた感じがするぞ。
おそらく孫権が帰服して境界線が定められたときの異動なんだろうけど。
949 :
世界@名無史さん:2010/10/25(月) 11:46:05 0
ttp://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102501000026.html 「曹操陵」、日本で初報告 奈良で11月、中国研究機関
日中韓3カ国の研究者が3〜4世紀の王墓について報告し合う
公開講演会「東アジアの王墓と桜井茶臼山古墳」が11月3日、奈良県橿原文化会館(同県橿原市)で開かれる。
中国考古学研究機関のトップが参加。
中国河南省文物局が昨年12月に「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の陵墓と発表し、
注目されている王墓について日本で初めて報告する。
中国社会科学院考古研究所の王巍所長が来日。
「曹操高陵の発見と中国の墳丘墓・王墓形成」をテーマに講演する。
曹操は三国時代(3世紀)の魏の基礎をつくった後漢末期の武将として日本でも有名で、
研究者だけでなく、ファンにとっても貴重な機会になりそうだ。
河南省文物局は2008年12月から被葬者が分からなかった同省安陽市の王墓の発掘を始め、
曹操本人のものとみられる遺骨や、曹操を示す「魏武王」と刻まれた銘文が見つかったことから断定し、発表した。
一方、中国の一部の専門家からは疑問の声も出ている。
問い合わせは奈良県立橿原考古学研究所、電話0744(24)1101。
2010/10/25 06:55 【共同通信】
中国こそ 関羽評価しすぎ
953 :
世界@名無史さん:2010/10/25(月) 20:41:56 0
南郡平定後、周瑜と呂蒙が偏将軍、程普と呂範は裨将軍になってるんだが、
やけに呂蒙の地位高くね?荊州の総司令官格の周瑜と同格で、
軍の長老の程普と呂範より格上。なんでこんなに地位高いんだ?
954 :
世界@名無史さん:2010/10/25(月) 21:23:42 0
955 :
世界@名無史さん:2010/10/25(月) 22:01:22 0
呂布が史書で袁術と同格の群雄であるかのごとく過大評価されたことがそもそもの原因だろうに
>>953 賀斉も同時期。
可能性としては、呂蒙伝に時期の脱落があるというのも考えられるが。
とはいえ呂蒙は赤壁前に既に中郎将、つまり孫権軍部の最高幹部クラスになっているわけで、
あり得ない昇進というわけでもない。
また裨将軍が偏将軍より低いとは必ずしも言えないことが、むしろこのケースからわかるだろう。
両者とも将軍より低い官というのは共通しているが、
裨将軍は将軍の、つまり孫権の副将(まさに「裨將」という)というニュアンスがあり、
偏将軍は将軍より少数の独立部隊を率いるというニュアンスがある。
裨将軍から偏将軍に昇進してるケースが結構あるから、
偏将軍>裨将軍なんじゃないか?
裨将軍から偏将軍への昇進は魏の五将軍ぐらいだと思う。
ただ後漢書だかの百官志では偏将軍>裨将軍だったとは思うが。
孫呉において、明確に序列があったかどうかは不明。
また、どちらかの就任だけ明記して、偏裨間での昇進が省略された可能性もあると思う。
昔なら司馬兄弟出せって言ってただろうけど、最近それより皇甫嵩とか盧植がみたいな。
どっちにせよ無双モードのメインラインからはほとんど弾かれるんだし、
盧植みたいに正史で特徴的な武器の記載のある武将増やせばいいのに。
無抵抗の宦官皆殺しのボーナスステージかよ
なんで袁紹は冀州を取った後、騎都尉・別駕に過ぎない沮授に、
奮威将軍なんて群雄並みの高い官位を大盤振る舞いしちゃったのかね?
他の袁紹陣営の重臣は、官渡あたりになっても別駕や治中や太守や中郎将や監軍や護軍止まりだったのに。
>騎都尉・別駕
群雄を除いてはトップクラスの軍部高官と冀州人を代表する州牧首席補佐官
華北の勢力の実質が冀州・豫州連合なのはそれこそ魏末まで変わらないことだしな
曹仁伝に、曹純が劉備の娘二人を捕らえたとあるが、劉備の娘2人はどうなったの
殺されたんじゃね?
>>970 やっぱりそういうことかなあ きつい話だわな・・・・。
いや、袁紹さんに合理性を求めるなよ
>>971 冀州名士は魏書に伝記がある人は少ないけど、
伝が立てられてない人なら結構いる。
>>972 殺されずに奴婢になったかしたと思う。
>>974 そりゃそうだけど、相対的に考えて、冀州・豫州連合と呼べるような状態じゃないと思う。
他州に比べても少ない。
>>975 豫州がやたら多いだけで、他の州はほぼ横並びじゃないかな?
>>975 主犯か連座でない限り婦女をわざわざ殺す意味はないから
奴婢の方が自然だね
>>971 袁一族の地盤で、多くの人士が袁一族と運命をともにしたため、
少ないのは当然。それを考慮するとむしろ多い方だと思う。
>>978 それは日本の現在の感覚。普通にあっちや日本の江戸初期以前は
老若男女問わず殺す。そもそも、漢末期は人口は2割まで減ったこと
をお忘れなく。これだけ人口が減った例は他にはドイツ30年戦争ぐらい。
曹純に弄ばれる奴隷姉妹・・・・同人誌になりそう
981 :
世界@名無史さん:2010/10/27(水) 12:14:26 0
耳がやたらでかくて腕が長い姉妹でもか?
>>979 それこそ現代日本人の感覚。
昔に遡るほど人命が軽いだろうって思い込み。
古代中国ってのは労役国家なんだよ。
重罪人でも機会があれば労役であがなったり、数年に一度の恩赦で全て免除されたりする。
それが終わるとあっさり公職に復帰したりして、懲罰の感覚が薄れていたのではないかとさえ言われる。
奴婢はその一環。
罪人の家族は、連座で死罪のケースでなければ官奴婢として没収されて労働力に還元され、
土木事業や官府の庶務、兵役の重要な位置を占めるサイクルが出来上がっていた。
人口が減ったのとは全然まったく関係ない。
前近代では戦争や刑罰では人口の半分以上を殺しつくせはしない。
というか、奴婢は戸籍人口に入らんので、人が減った理由の一部にそっちに編入された可能性を考える人もいるな。
>>981 それは仏教的聖人表現らしいけどな。
実際どうだったかというとわからん。
現代だと北方は美人多いって言われるらしいが。
でも囚われた腐女子の運命は似たり寄ったりだもんな。
呂布の娘は孫策のハレムに入れられたし、張飛が捕らえた夏侯淵の孫娘(幼女)は張飛の子をうんだ。
曹操や曹丕も袁家の妻子を後宮に入れているし、とらわれたり、滅亡した妻子は良くて妾、悪くて奴僕の
運命が待っている。
まあ、庶民はもっと酷いけど。 杜預が虚仮にされて、呉の城を屠城したり、司馬懿が公孫淵の領内の15
歳以上の男子を尽く殺して塚つくったり、酷いものである。
>>985 戦争での屠城や虐殺と、取った捕虜の処理を混同してる。
庶民だけが略奪されるわけではないし、庶民だから奴婢になれずに殺されるわけではなおさらない。
しかも15歳以上云々のようなケースの標的は、政治的な力のある一定の階層の人間。
まあ司馬懿の件はどこまで本当かわからんけど。
司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り、遼東の制圧に成功した。しかしその後の処置は苛烈なものであった。中原の戦乱から避難してきた人々が
大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺し、京観を築いたという。
これについて『晉書』は、「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。
『晋書』には次のような話を載せる。江陵の守備側が、杜預の頸に瘤があったことから、犬の頸に瘤に見立てた瓢をくくりつけたり、
木の瘤を「杜預頸」と称してからかった。杜預は城を攻め落とすと、その住民を皆殺しにしたという。
988 :
世界@名無史さん:2010/10/27(水) 14:05:45 0
晋書って何を元に書かれているんだろうか
>>987 つまりそういう大量虐殺は全体としては珍しいケースだから史書に残ったということだな
>>990 曹操の徐州大虐殺・董卓の洛陽略奪・焼却・遷都の件について。
そろそろ次スレ
>>995 諦め悪いなw 魏の武帝自らやっている虐殺が司馬懿、杜預にいたるまで
つづいていると言うことは魏のみならず、当時の軍が民間人虐殺をタブー視
していなかったということ。
そもそも、私奴や官奴などの横行によるによる戸籍不記載だけでは漢帝国盛期の人口から
わずか2割程度の人口にまで転落せんよ・・・・。
当時の群雄割拠期にこういう事は珍しくなかったと思われ。
戸籍人口の問題を甘く三杉
取りあえず次スレ立つまで黙れやバカども
999 :
世界@名無史さん:2010/10/27(水) 15:44:43 O
ふう
次スレになったらやらない
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。