>>247 本拠地に州牧や州刺史を置くと言うのは蜀でもやってる。
いずれも軍事・政治両方の大権を握る最高指導者が兼任してるけど。
陸遜が荊州牧ってことは、孫権は荊州の軍事と政治は陸遜に委ねていたのだろう。
>>248 蜀の劉禅と孫権では全然違うだろ。
孫権は親政している。
陸遜が荊州を委ねられるのは建業遷都以後だし、
諸葛瑾や歩騭という陸遜に匹敵する上将が要所を治めてるので
荊州丸々委ねられたとも言い難い。
蜀末期の将軍号インフレはなんで起きたんだろうね?
劉備即位直後には○○大将軍はいなくて、驃騎将軍や車騎将軍の下は安漢将軍や輔漢将軍や四鎮将軍。
諸葛亮時代も驃騎将軍や車騎将軍の下は征西大将軍が一人。
その後も○○大将軍は二〜三人ぐらいしかいない。
それが末期になってベテランの将軍はみんな○○大将軍になって、驃騎将軍や車騎将軍も左右に分割された。
たかだか全兵力10万程度の軍隊でこんなに高級将官を量産して何の意味があったんだろうか?
与えられる俸禄や権限には限界があるんだから
肩書きを増やすしかないんじゃない?
将軍号には俸禄つかなかったっけ
爵位ばらまくよりは安上がり
みんなジジイになったからだろ。
魏ならジジイになれば三公があるが
蜀ではジジイを三公という名の引退をさせる余裕はない。
呉も三公がない時代が長くてインフレ起こしてたぞ。
晋は晋で三公で収まりきらず、太宰、太傅、太保を設置。
大将軍、大司馬とあわせて八公と呼ばれる。
魏の三公は定員三人の果てしなく狭き門なんだが。
老人への花道ポストとしては、九卿、光禄大夫などがあった。
不思議なのは三国時代の文武官はなぜ一部を除いて、70、80の老齢になっても、
官職を退かないのかという事なのだが。
70代の将軍や尚書・尚書僕射・刺史なんてザラにいるし、
80過ぎても三公や九卿や顧問職や名誉職に収まってる。
生涯現役が当たり前の時代だったのか?
>70代の将軍や尚書・尚書僕射・刺史なんてザラにいるし、
そんなに多くない
>80過ぎても三公や九卿や顧問職や名誉職に収まってる。
ほとんどいない。三公も珍しいけど、80過ぎて九卿って誰かいたっけ?
一般的には50代で将軍や刺史や尚書、60代で上位の将軍や尚書令や九卿、
70代で三公や驃騎将軍や車騎将軍や衛将軍や光禄大夫ってところが一般的なコースのような。
80行く前にはだいたいの奴は死んでるだろ?
それでも、60や70過ぎたあたりで引退しないのが不思議だが。
だいたい在官のまま死ぬよね。
退官して家で死ぬってのは珍しい。
王平は十文字しか字が読めなかったけど、彼の地位ならデスクワークかなり多いよね?
蒋エンの幕府の事務を取り仕切ってた事もあるし、
経歴的にデスクワークはそれなりにできたはずと思うんだけど、
字読めなくてどうやってデスクワークこなしてたんだろ?
高い地位になっても文字を殆ど知らかったら単なるアホだと思う
文書を作成する時は口述したものを人に書きとらせてたらしい。
しかし、文書を読む時はどうしてたんだ?やっぱ人に読んでもらってたのか?
>>262 そう思っちゃうお前が単なるアホだと思う。
>>263 石勒は部下に漢書を読ませて、張良が出てくると「信頼できるのはこいつだけだな」と言ったとか。
>>264 自分を宣伝するコピーを真にうける奴がアホだろ
最初はそうだとしても、いつまでも不勉強なままなんだよ
>>265 お前は大企業の社長はみんな英語が堪能だと思ってそうだなw
そんなのは部下に任せればいい。
高い地位になったからこそ学ぶ必要がない。
魏延って漢中平定後、鎮遠将軍になってるけど、
劉備が漢中王になる時の上奏文の中では頼恭が鎮遠将軍なんだよね。
劉備が皇帝になってからも魏延も黄権も鎮北将軍だし、
蜀は将軍位がかぶっても問題ない国だったんだろうか?
それとも、記録に無いだけで頼恭が鎮遠将軍になったり、
黄権が鎮北将軍になる前に、魏延は別の将軍位に移ってたんだろうか?
質問です。
例えばですね、曹操が朝廷を握っているのに、敵対している陣営が奏上して
官位を任命してもらったりしている場合があるのですが。
これって
「一応奏上して正式に任命してもらったという形を取った」というだけのことなのでしょうか?
まさか日本の戦国時代の朝廷みたいに献金して官位を買ったりはしてないでしょうし。
>>268 上奏して皇帝から官位をもらったと言う形式を整えてるだけで、
実際は上奏文用意するだけで、上奏は行わないし、
形だけ整えて勝手に任命したり名乗ったりしてるだけだよ。
270 :
世界@名無史さん:2010/09/02(木) 20:50:42 0
じゃぁ、只の詐称じゃんw
自陣営だけに納得させる(といっても、お約束だって誰もがわかってたけど)ための大義名分ってことね
詐称でも、最終的に勝てば、それまでやったことは正当化できるさ!
まあ、勝てないんだが。
>>270 そう。皇帝に上奏して正式に許可を得て与えられた官位以外は全部詐称。
でも、そんな官位でも支配地域内では通用するから、
無意味なわけでは無い。軍を動かすにも土地を治めるにも、偽物でも官位は必要だし。
273 :
268:2010/09/02(木) 21:39:49 0
お答えどうもです。やっぱりそうですよね……。
後漢書では形式上は献帝から任命されてるはずの曹操の官位や爵位も自称扱いだぜ
献帝擁立後の官位や爵位も?
>>275 夏五月丙申,曹操自立為魏公,加九錫
まあこんな感じだ
ちなみに劉備の漢中王も自称扱いだから公平ではある
後漢書ではいつから、献帝の名で発行された官位が自称扱いになってんの?
>>277 曹操の場合、曹操が献帝を保護してすぐの司隷校尉や司空からのきなみ全部
>>278 董卓や李カクの発行した官位は本物扱いなんだ。
あと、司徒趙温や尚書令荀ケも自称扱いなのかな?
>>279 違うよ
董卓の太尉とかも「自」って付けてるよ
趙温とか他の三公は無し
荀ケは本紀に特に書いてないはずだが、『後漢書』では漢の忠臣扱いだから曹操とは別腹だろう
これくらい自分で見てくれよ、世界史板なんだし
州牧や四鎮将軍や四方将軍クラスの群雄は、
あたかも自分に任命権があるかのように振る舞い、
太守や都尉や県令や中郎将や校尉を大量生産してるわけだけど、
こういう場合もやはりいちいち上奏して任命してもらうという形を取っていたのかな?
なんか、このクラスの群雄になると、上奏しなくても太守や都尉や県令や中郎将や校尉を自由に任命できる権利
当たり前に持ってそうな錯覚に陥る。
>>282 校尉は将軍の部隊長みたいなものだから、任命権が実際あったかもしれない
また県長や郡の属官は太守に任命権があった
しかしほかの官は勅任官なので、そもそも「上奏して任命してもらう」のも通常のルートではない
「皇帝が任命する」のが正しいやり方だ
「上奏して任命してもらう(形を取る)」ことは、おそらく非常事態だからとか皇帝が選ぶのを待ってられないとか理由をつけて行ってるだけで、権限の行使とは全く違うと思わないといけない
後漢末を見るに、太守や都尉や中郎将や県令も自由に任命されてるように思える。
特に中郎将と県令はかなり乱発されてるような。
さすがに将軍を好き勝手に任命するのはほとんどいないが、
中郎将は気軽に任命できて、将軍を気軽に任命できないのはなぜだ?
任命する奴も将軍だから。
中郎将も太守も将軍が任命するには高過ぎる地位のような?
それとも、朝廷が機能してた頃の中郎将や太守と、群雄割拠してからの中郎将や太守の重みは違うのか?
>中郎将も太守も将軍が任命するには高過ぎる地位のような?
そうは言っても群雄は将軍でしかないんだから、
高すぎる地位だろうが太守なんか任命せねば話が進まないだろ。
正史に出てくる人物を網羅しているのって「群雄銘々伝」でもOK?
名簿的な何かならwikipediaとかでも足りるんじゃないの
編集してる連中の大半はその手の本とちくまソースで書いてるはずだし
世界史板の住人ならどこがおかしいかの嗅覚は働くと思う
>世界史板の住人ならどこがおかしいかの嗅覚は働くと思う
>世界史板の住人ならどこがおかしいかの嗅覚は働くと思う
>世界史板の住人ならどこがおかしいかの嗅覚は働くと思う
そんなに俺のレスを気に入ってくれたか
魏では張遼・楽進・于禁・徐晃・朱霊・文聘などたたき上げの武人は、
いくら武功があってもほとんどが四方将軍止まりで、
張コウや臧霸のように四方将軍以上の地位にまで昇進した人物はほとんどいませんが、
早死にした李典・李通あたりも長生きしてもやはり四方将軍止まりだったんでしょうか?
長生きすれば誰だって
純粋な野戦指揮官からの叩き上げ組で車騎将軍になったのは張コウだけだが、
張コウと他の連中と何が違ったのだろうか?
車騎将軍なんて長生きしただけじゃなれないよな?
魏の中後期だと胡遵が衛將軍になっている(晋書だと車騎將軍)。
魏だと四方将軍→四征将軍・都督→車騎/驃騎/衛または三公/九卿ってのが流れなんじゃない?
胡遵って、「文武に優れ」って触れ込みだし、時代が時代だから叩き上げの武将では無いのでは?
あと、魏では四方将軍→四征四鎮将軍・都督より、
将軍号を帯びた刺史→四征四鎮将軍・都督→車騎驃騎衛将軍または三公か、
将軍号を帯びた刺史→九卿で上がりが一般的なパターン。
中領軍と中護軍の職務の違いを教えてくれ。
中領軍や中護軍と、ただの領軍や護軍の違いは、中軍所属か外軍所属かの違い?