1 :
世界@名無史さん :
2010/04/26(月) 23:00:20 0
ポーランドは中世の大国ですが、 第一次世界大戦後の戦間期も列強とは言えないまでも、 それなりの大国でしたよね?ソ連と戦争して勝ってますし。 ピウスツキの元で国力も経済力も軍事力も増大しましたし。 その上、ドイツともソ連とも不可侵条約を結んでいて、 旧連合国とも関係良好で、国としては順風満帆だったはずなのに、 なぜ第二次世界大戦が始まるとあっけなく敗北してしまったのでしょうか? 内政でも外交でもうまくやっていた大国がこんなにあっさり敗北する理由が良く分からないです。
あっさり敗北したのはフランスも同じだろ フランスもポーランドも戦争準備が万端ではなかったという事
マキャベリは劇作家やってたようですが、作品は残ってるんでしょうか?
>>5 戦争準備が万端じゃなかったとしても、
防衛戦なら戦いながら態勢を整えていくということもできたはずです。ソ連のように。
フランスやポーランドほど国土が広くて軍事力があれば、
十分に可能だったような気がするんですが、
それができないぐらいあっさり敗北したのはなぜですか?
軍事的な要因だけではここまであっさり負ける事は無いような気がするのですが。
>>7 >それができないぐらいあっさり敗北したのはなぜですか?
「戦いながら態勢を整えていく」ヒマがなかったからこそ、あっさり敗北したんじゃないか
フランスの場合、マジノ線で防衛するはずが、あっさり迂回されてその防衛戦略がいきなり
破綻し、当時としては画期的なドイツの電撃戦で一気に叩かれ、首都パリを落とされた
それにフランスの国土が広いといっても、ソ連とは比較にならない
両国ともべたーっと平地が広がる国だから防御戦には不向きだしなあ
ソ連が戦線を下げたことでドイツが一時占領した地域は フランス本土の倍以上もの面積になるのだが フランスが同じようにやったら、海にでも防衛線をひいて 海中で生産しながら国防態勢を整えればいいとでも言うのかね
ポーランドとドイツの国境は長大で平坦、マジノ線のような堅固な防衛ラインもなかった。 国内にはヴィスワ川やサン川という天然の防壁があり、進軍を阻む湿地帯や森林もあるので、 フランスは「ドイツが攻め込んできたら、そこまで撤退して防衛線にしたらどうか」と助言していた。 しかし国土の西側にはシロンスク(シレジア、シュレジエン)などの重要拠点があり、 北西部にはドイツが返還を要求していた「ポーランド回廊」やグダンスク(ダンツィヒ)があった。 これらを渡してしまうと、途中で停戦したとしても、国際社会がドイツによる占領を承認してしまうおそれがある。 結局は防衛軍を国境線に長々と展開したり、広い国土に分散配置したりしたもんだから、 防衛ラインが破られるとガンガン攻め込まれてしまった。 また外交面では、ポーランドは一応英仏と同盟を結んではいたが、 「ドイツが攻め込んできたらこいつらも動くだろー」と思ってたら全然助けてくれなかった。 宣戦布告して陸軍を国境まで進めたがほとんど攻め込まなかったので、世にこれを「まやかし戦争」と呼ぶ。 しかもドイツと密約を結んでいたソ連まで攻め込んできたので耐え切れるわけがなかった。 しょーがないので政府と海軍は国外脱出して英仏に逃れ、亡命政府を樹立してドイツとソ連に徹底抗戦した。
ウクライナ人は、キエフ公国崩壊以降、 ソビエト建国によるウクライナ共和国建国まで、 民族国家を持てませんでしたが、 あれほど豊かで人口が多く文化も発展している地域が、 なぜ長い事外国の支配下に置かれていたのでしょう? ロシアやポーランドのように、独立国として長い歴史と強力な実力を持った国ができても、 おかしくない地域だと思うのですが。
>>13 キエフ以降はそのポーランド、ロシアに支配されてヘーチマン国家の部分もあったんで
別々に支配されたことから利害や文化の不一致が起こり国を挙げての一致団結が出来なかった
近代以前に「ウクライナ民族」なんぞおらん。みんな「ルーシ」か「コサック」ぐらいのもん。 スラヴ人があのへんに住み着くようになったのもせいぜい6世紀以後で、 紀元前からずーっと遊牧民を主体とした部族連合が黒海北岸の豊かなステップを支配してきた。 キンメリア・スキタイ・サルマタイ、ゴート・フン・アヴァール、ハザール・キプチャク・モンゴル、みんなそうだ。 豊かだからこそ狙われやすく、平原だから攻め取りやすい。(キエフ以北は森と湿原だから攻めにくいが) こうした部族連合だって、「独立国として長い歴史と強力な実力を持った国」ではあった。 キエフ大公国分裂後、その旧領はルーシ諸侯による群雄割拠状態となり、 モンゴル(ジョチ・ウルス)が諸侯の上に立ってからもモスクワやトヴェーリ、ノヴゴロドなどが争い続けた。 西部には「ハールィチ・ヴォルイニ大公国」というそれなりに強力な国家ができ、 ローマ教皇から王号を認められたこともあったが、結局14世紀末にはポーランド・リトアニア連合に敗れた。 17世紀半ばのコサック大反乱で独立したものの、今度は正教徒のよしみでモスクワ大公国につけこまれて支配されてしまった。 クリミア半島周辺にはジョチ・ウルス系のクリミア汗国が残ったが、ここは現代でもウクライナから半独立状態にある。
なんでどこの国でも時代を問わず、塩って専売される運命にあるの?
どこの国でも時代を問わず、国家財政が厳しくて、収入源がほしいから
適量の塩分を摂取しないと人間は死にます。
まあ、どこの国でも時代を問わず、は言い過ぎだと思うけどね 商人が自由に塩を交易していたところ・時代もある
商人の権力が強いパターンですね
>>17 塩という物産は、塩田で製塩したり岩塩を掘ったりして得るので、海岸地域と岩塩鉱山さえおさえて
おけば独占、管理を比較的しやすい(それでも闇塩は出回るんだけどね)
しかも、冷蔵庫のなかった時代には、食品の保存に必要な物資なので常に高い需要がある
香辛料解禁、闇香辛料という語句をあまり聞かないのは何故なんでしょう
>>24 スパイスほどの保存性は持っていないながらも、
収穫時期を外れなければ、ハーブがあったからと考えられます。
オレンジピール、フェンネル、ローリエ
これらの系統のハーブは、広く世界に分布しており
日本の場合も、山椒、セリ、タデ、シソなどが栽培されていました。
26 :
世界@名無史さん :2010/04/29(木) 17:32:31 0
>>23 二千年以上前から「冬にできた氷(それ専門の池があったらしい)を地下に埋め
食べ物を保管する氷室」はありましたけど?さらにそこから氷を取って夏にカキ氷にしてましたけど?
真冬でも凍ることがない地方ではどうしてたと?
それが庶民に行き渡るほど安価で利用が容易ならいいけどさ 23の主張を覆すに至らないのは自明だろ 何でそんなに仰々しく書いたの
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。 もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。(マタイによる福音書 第5章13節) まあ、お菓子はともかくとして、ぜんぜん塩気の無い料理を考えてもご覧なさい。 氷室やシャーベットがあっても、肉なんかを調理するには味付けが必要だと思うよ。
30 :
世界@名無史さん :2010/04/29(木) 17:51:00 0
中世ヨーロッパにおける神聖ローマ皇帝になる前段階の ドイツ王っていうのは何ですか? 東フランク王が別名として残ったのですか?
昭和の日を汚すフライング馬鹿発見。 よって
>>26 は逝って葦。
フライングが何か知らんが、
>>26 は反論の仕方がトンチンカンすぎる
33 :
世界@名無史さん :2010/04/29(木) 18:48:25 0
スイスってハプスブルク家の発祥の地ってことは、 もともとは貴族とか封建領主とかがいたはずなのに、 独立後は市民と農民と木こりの国になっちゃったよね。 貴族とか騎士はどうなったの? 亡命?皆殺し?爵位を捨てて平民になったの? 貴族や騎士などの領主層で独立派についた連中は、 そのまま上層農民(地主)や商人になったり、 ハプスブルクについた連中は国外に退去したりとか、 そんな解釈でいいんだろうか? 18〜19世紀に、外国から来て滞在してる外国貴族ではない、 スイスのもとからの伯爵とか男爵なんていないよね。
きっと26はシベリア住みなんだよ
>>30 フランクの別名が残ったというより
ドイツが本来の名なんじゃないの
名目上の名前としてのフランクがローマに変わったのでは
>>30 ドイツ王は、もちろん、ドイツの王です
実際にドイツ全体に王権を行使できたかは別として(中世ドイツは諸侯の力が強いですからね)、
名目的にはドイツという地域の王なわけです
「神聖ローマ帝国」と「ドイツ」はイコールではありません
>>33 ハプスブルグに付いた連中は国外に逃げた。
領主層はそのままスイス盟約者団の指導者層にシフトした。
スイス盟約者団は共和国とは言え、
市民と農民が支配する国で無く、身分制は厳然としてあった。
>>36 諸侯の力が強いところと言えばドイツですが
諸侯の力が弱いところと言えばどこですか?
レンブラントの「夜警」の市民隊(市民自警団?)は 警察権なんかはもってたんでしょうか?
>>39 まるっきり逆じゃねえか。
ドイツと同じで日本は諸侯の力が強い。
それが諸侯が弱い朝鮮や中国との違いになった。
>>41 諸侯が弱い中朝ってホントですかねえ
軍閥のイメージが強いので、諸侯も強いイメージがあるんですが
というより最強諸侯が簒奪王朝を創始するようなイメージ
>>42 中国は、いろいろありますよ。土司という世襲官職がありましたからね。
通訳を立てないと話が通じない土司地域に逃げ込めば、
これまた一発逆転もあるわけですよ。
地形戦もあるし、吊橋や桟道が着脱可能だったり、自動小銃が運用されてたり・・・
古代を除けば中国は東アジアでは飛びぬけて 中央集権が強い国が成立する地域だな。 やはりそれを可能にする諸侯の弱さがあると思う。
だって土司・旗主(≒諸侯)といっても、現在の人口が20万人程度の規模しかないぜ。 その諸侯も相互に言葉が微妙に違っていて通じにくい疑心暗鬼状態。
46 :
世界@名無史さん :2010/04/30(金) 13:42:40 0
中国は、平穏期には中央政府がとてつもなく強く、諸侯は存在しないか、単なる地方官。 戦乱期になると、諸侯が強くなり、独立するか、中央政府に取って代わろうとさえする。
ローマからビザンツにかけてもそんな感じかな
48 :
世界@名無史さん :2010/04/30(金) 18:53:44 0
なんでインドから東は大英帝国が征服するまで四則計算や幾何学といった 科学という概念を知らなかったのでしょうか?これは人種の脳の構造に関係ありますか?
結局、諸侯が弱くなるのは中央集権体制が完成して、 常備軍と官僚制が王権の道具として国内を支配した時だけでしょうかね? 中央集権体制が完成してないのに、もともとの王とその直系の一族の所領と軍事力が、 他の諸侯の所領や軍事力を圧倒的に凌駕してて、相対的に諸侯が弱いみたいな国は無いんでしょうか?
>>49 国=中央集権 連邦=諸侯連合としたら
非中央集権&一族支配は持続可能ではありません。
王弟とか王の叔父などの一族が、地方の勢力とそれぞれ結びつくので
創業者が死ぬと、一族同士のバトルロイヤルが即スタートします。
明の朱棣をみていればわかるように、燕王として地方勢力と結びつき
甥を追放して自害させ、自分が皇帝となり中央集権化を推進しました。
>49 中央集権をどう考えるかにもよるが徳川幕府がまさにそれなんじゃないか
52 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 02:13:01 0
「圧倒的に凌駕」ってのがどの程度か分からんけど、宋代以降の中国みたいに諸侯が事実上存在しない とこ以外の国家ってたいてい「相対的に諸侯が弱い」だろ。だからこそ一国に纏まってるわけで。
宋代にはでっかい国持ち諸侯があるじゃん。 西夏とか遼とか金とか。 お給料が遅配すると、軍隊で首府にまで攻めてくる、厄介な大諸侯が。
どう見ても独立国っていうか敵国です …別に中華の皇帝って世界全部のご主人さまじゃないのよ 普天の下、率土の浜とはいうけれど
>>53 宋代は、巨大な世襲地方官たちだらけだなw
澶淵之盟、海上の盟、慶暦の和約というように、既に獲得している勢力圏を安堵し、国境地帯の土地の加封をし、 定期的にお給料を支払う代わりに、宋を盟主、自国を臣下として振舞う約束をしている。 ってことは、形式的には、遼、金、西夏が、宋に封じられている諸侯だということになる。 歴史は見方がいろいろあるわけで、視点を変えれば、遼、金、西夏の、継承、内政、軍事、 第三国との関係に於いて、宋が全く介入できなかったことを以って、宋、遼、金、西夏が 全く別個の国家で、諸々の盟だの約だのは外交条約だとも言える。 逆に、力関係、盟・約の際の交渉の経緯をみて、遼や金が正統、宋は領土を剥ぎ取られたり、 徴税を強いられている属国だとも見ることができる。 日本では、宋、遼、金、西夏がそれぞれ独立している相互に外国という見方が多いけれど、 欧米圏の東洋史研究者では、遼・金が支配国、宋が属国という考え方が主流。支那圏でも、 元朝の感覚では、遼・金が正統・宗主国で、宋が属藩という考え方だった。 明朝とか、現代の中国では、最初の、宋が盟主・宗主で、遼・金、西夏が属藩という見方を いまだにしている。
西夏を外して、遼・金と宋で見るとある種の緊張関係があるな。
59 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 04:51:43 0
>>57 むしられかたの程度によるのでは?「エサをまいて武闘派エビスをおとなしくさせる」
という戦略は漢代からやっている半ばお約束事項みたいなもので、それを以って「中原は
北方牧畜国家の属国」とするのはやや早い。支那の国家予算の51%以上を金だの遼だのに
毎年貢いでいれば経済的な植民地だろうけど、軍権・君主擁立権・司法権・徴税権を持っている
支那宋代に属国はないだろ。
>>51 徳川幕府は「諸侯が強い」典型例だな。
独自の軍事権、通貨、貿易、外交権も一定維持している。
いや諸侯の冊封に関与して、取り潰しすることもあるという点で、徳川幕府は強力だよ。 その中で九州の薩摩とかは特異な存在で、貿易や外交の権限委譲が他の藩と違う。
>>46 平時が強力な中央政権で崩壊しかけてる時は違うというのは
あてはまらないんじゃないか。崩壊時はどこでも似たもの。
ドイツや日本の様に制度体制として諸侯が強いのを強いって言うんだろう
63 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 11:19:21 0
イギリスが1600年にオランダが1602年に設立した東インド会社のことですが 会社そのものは本国にあったのか現地にあったのでしょうか?
>>57 そういう見方もできると思うが、だったら東ローマ帝国だって時代によってはササン朝などの
属国だったと見るべきだな>欧米圏の研究者
西欧も(東)ローマ帝国の属国だったしな
古代や中世の支配機構を現代の国家に擬制して考えるから無理が生ずる。
>>59 とすると、宋が遼や西夏に貢いでいたのは、国家予算の何%ぐらいなんでしょう。
日本がアジアにODAを貢いでるぐらいでしょうか。
>>66 どっちかっつーと、ローマ教皇領の属国だろ
70 :
世界@名無史さん :2010/05/01(土) 16:33:26 0
>>70 いや存在するから
どれだけ金がかかるかを計上してそれから課税するシステム
なので年によって税額がまるで違うというのがアチラの税制
「セン淵の盟」(1004年)では、宋は遼(契丹)に毎年絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることになっている。 1042年には絹・銀双方を10万ずつ上乗せすることになり、宋が1120年に金と結んだ「海上の盟」まで続く。 一方、西夏は1044年に宋と「慶暦の和約」を結び、毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を宋から西夏へ送るとした。 のちに銀7万2000両、絹15万3000匹、茶3万斤に増額。 よって、両国へ送る歳幣を併せると、最大で銀27万2000両、絹45万3000匹、茶3万斤となる。 が、11世紀中頃の宋の歳入は、物納・銭納併せて1億2000万貫にも達したという。 物価などを調べると、宋ではおおよそ金0.1両=銀1両=米1石=絹1匹=銭1貫。 じゃによって、銀と絹だけなら銭に換算して72万5000貫ほど、歳入の1%にも満たない。 セン淵の盟の時、使者が指三本を出したので皇帝は「300万か、しかたない」と呟いたが、 「いえいえ、絹と銀あわせて30万です」と言ったら喜んだという伝説さえある。 また、遼や西夏に流れ出た財貨は、かえって両国の宋の生産品への需要を喚起し、輸入品を購入するために宋へ還流してきたともいう。 しかし宋は軍事費や官僚への給料など歳出も莫大だったので、王安石らが出て財政再建に取り組むことになる。
>>72 遼と西夏に多額の歳弊を送って、平和を金で買っていたのに、
どうして軍事費がかさむん?戦争しないなら、
後漢のように大規模な常備軍持たずに軍事に金かけなくてもいいじゃん。
>>73 水滸伝のモデルになった国内反乱がいくつかあるんですよ。
王慶(楚地方〜湖北省南部)
方臘(呉地方〜江蘇省南部)
田虎(山西省南部)
王慶のことは、水滸伝でも物凄い分量の紙面割いていますよ。
西夏や大理なんかと違って、楚地方の住民は、
平和を金で買うのに応じてくれる相手ではないのです。
王慶は「楚王」と名乗っているんだから、覇王項羽がのように
めちゃくちゃ強く、尋常な相手ではないんですよ。
失礼^ ^; 王慶は「楚王」と名乗っているんだから、覇王項羽がのりうつったように めちゃくちゃ強く、尋常な相手ではないんですよ。
カネで買った平和は信用できん。 それに宋の軍隊は貧民対策でもあり、老兵や雑役兵がずんどこ増えた。 なにしろ「まともな人は兵にならぬ」というのがシナで、こいつらを解雇すると治安が激悪になる。 また水滸伝に見られるように、国内にも無数の盗賊がうろちょろしており、 こいつらを抑えるためにも軍隊は必要だったが、兵隊は質より量という発想だった。
内乱に送り込む軍隊と警察の違いって何ですかね
一応、軍隊は自己完結性がありインフラを自力で整える組織。 でも、現代中国だと「武装警察」のほうが 軍隊よりも装備も練度も上だったりするので、何ともグレーゾーン。
>>77 今の日本は特殊で、警察と軍が別組織だけれど、元来は同じもの。
警察が軍の一部署だったり、警察の上位組織に内務軍があったりする国が大半。
つまり、宋は兵士をたくさん雇用対策で雇ってたから、軍事費がかさんだのね。 あと、宋の軍隊は対外戦争向けじゃなくて、反乱軍や盗賊向けの国内の敵に備える軍隊だったのね。
軍隊、機動隊、警察官が駆けつける内乱・騒乱・犯罪の線引きはどこですかね
>>60 徳川幕府に外交権ねぇよ。
オランダとの交渉にしたって通商のみだし、吉宗が発注した象を江戸に送るに際して
天皇が先に見る、天皇がご覧ずるから象に官位官職が付くという有様。
黒船のときには勝手な約束をしたがために朝廷から政権担当能力を否定されて
徳川支配体制が崩壊させられている。
>>81 警察が手に負えなければ機動隊。機動隊の手に負えなければ軍隊。
それが唯一の線引き。
>>82 天皇、朝廷が主体となって外交を執り行っていた訳ないだろ
あくまで権威でしかないんだから権威として利用されてただけ
徳川家から法律でがんじがらめにされた当時の天皇にそんな権力は無い
幕府の直轄領は、江戸時代には「天領」とは呼ばれとらん。支配所とか公儀御料所と呼んだ。 明治維新でそれらを天皇の御料地にしたから「天領」というのじゃ。
そもそも、勝手に鎖国政策(当時はそうは呼ばれてなかったけど)をとったのは家光なんだから、 それを解くのも徳川幕府の勝手なはずなのに、わざわざ朝廷に許可を得ようとするから 話がややこしくなるんだ どうでもいいけど、吉宗より先に天皇が象を見たのは、単に長崎から江戸に連れてくる途中に 京があったから先に見ることができただけのことで、外交権とはまったく関係のない話
室町時代には足利義満が「日本国王」に封じられたりしたしなあ って日本史板じゃなかった
>>88 一応、日本には皇帝がいるから、国王が他所の皇帝にも
二重に冊封されていても全く問題なかったのですよ。
ヴェトナムの国王も、二重冊封の形式をとっていた時期があるので
ツリー状のヒエラルキーになっているわけではありません。むしろスター型とかネット型。
いや、中国は他国の皇帝なんか認めんし 日本国王はそのまま日本の支配者を指すだろ そもそも将軍職なんざ中国じゃ幾らでもある訳で そんな高位でも無い官職じゃ通商に支障でるから日本国王にしたの
>>91 中国の皇帝は、日本の天皇もベトナムの大皇帝も承認してないからシカトしているだけだよ。
あくまでも、日本もベトナムも国王が外交をすれば、実務上支障をきたさないもの。
「天皇?誰それ?」と無視をして、国王が持ってきた文書を処理すればいいんだから。
皇帝は建前上、同時代には全世界にただ1人でなきゃいけないからな 実際には中国だけでも同時代に何人もいたりするけど 三国時代とか南北朝時代とか五代十国時代とか
>>81 基本は法律、憲法だが
軍隊が第三勢力だったりする場合もあってな
現在のタイとか、治安維持に軍隊派遣ししたら反逆された例なんぞ腐るほどある
95 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 02:39:55 0
>>87 有害な夷狄を追っ払うが征夷大将軍の本来の職分だし、徳川家光の官職は征夷大将軍だよ。
追っ払う、入境を差し止める、というのは正当な職務職権だよ。
改めて入境を許す、貢を許す、条約を結ぶとなると、外交だから、朝廷の持分で、徳川政権の
持っている、内大臣だの左大臣だのの内政権でもなければ、征夷大将軍の職分でもない。
日本史については日本史板でやんなさい
>>48 逆に考えるんだ
近代数学はインドなど東方から無知なヨーロッパ人にもたらされたと。
「算術の古典に触れる」五十嵐善英 群馬大学名誉教授
h
ttp://www.jaist.ac.jp/~uehara/la/46/igarashi.html >2次方程式, ax2 + bx + c=0の解法は, 628年頃にインドの数学者, プラマグプタによって示されました.
9世紀にバグダッドあたりで活躍したアラビア人数学者, アル・フワリズム (Al Khawarizmi, 780−850頃)
の著した算術書, 「インドの数の計算法」(そのラテン語訳の題名は, ”Algorithmi de Numbers Indorum”)
によって, 2次方程式の解法はヨーロッパに伝わりました. この書は825年に著され, 加減乗除の算法,
2次方程式の解法, 幾何学, 零の記号を用いた10進記数法などを取り扱っています. アラビアで発達した
代数学は, 方程式の解を求めることが重要なテーマでした. 2次方程式の解法で見られるように, 整数,
分数と共に, 平方根などの根数も数として取り扱うようになりました. 中世ヨーロッパの大学では,
アル・フワリズムの算術書は数学の主要な教科書として 500年にわたって用いられていました.
98 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 04:42:44 O
ドイツはバトルオブブリテンに敗れた後もイギリスを空襲していたのですか?最後にドイツ空軍がイギリスを空襲したのはいつですか?V1、V2ロケットによる攻撃は除きます
99 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 05:43:19 0
>>97 でもパンパンステイツの世界史ではそんなこと教わりません。ウソを
つくな。数学の起源は古代ギリシャのタレス。
質問です。紀元前数十年ころに書かれた死海文書は何を媒体とした文書なのでしょうか? 羊皮紙ですか?
101 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 09:02:29 0
昔欧州のどこかで市民の暴動が起きたときに 対応策を訊かれた領主が喘息持ちで 咳き込みながら言った言葉を側近が勘違いして 市民を殺戮した、というような話を何か怪しい本で読んだのですが 実話でしょうか? もしそうなら、どのようなやり取りだったのでしょうか。 よろしくお願いします。
103 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 18:58:25 0
>>61 だから「取り潰し」の権限があるのもそもそも「諸侯の独立性」が
前提としてあるからじゃねえかw 諸藩が自立してないならそんな権限も必要無い。
土司・旗主程度で「強い」と主張できるなら日本の諸侯に至っては「超強い」。
王朝末期に中央政府を倒す云々なら実際に諸侯の外交軍事経済的な独立性が
温存されていたのが倒幕の元になった。
つまり日本はドイツと同じく諸侯が強く、それが中央集権で諸侯が弱い中国や朝鮮との
違いになったって事だな。
>>65 なんでビザンツだのササンだの出てくるか分からんが、
どっちにしろ中国は属国だったって事に変わりないって事か。
>>80 いや、対外戦争向け(防衛主体)でもあった。
遼や西夏と盟約を結ぶ前段階では何度も戦争があり、そのたびに宋の兵士の数が増えている。
西夏は一時は長安まで攻め取ろうとしたし、契丹は燕雲十六州にとどまらず華北への侵攻を重ね、
宋が成立する以前には開封を占領したことすらある。結局は維持できず撤退したが。
盟約を結んだあとも、宋で内紛などがあれば、周辺諸国は歳幣を吊り上げるためもあって何度か攻め込んできた。
そういうときに「平和なので軍隊がありませんでした」では、国が滅びるかそれこそ属国にされる。
最後には金に滅ぼされて皇帝が捕虜にされ、南へ移らざるを得なくなったわけだが。
ビザンツが1000年かけて東方の超大国からバルカンの片隅に追いやられるまで、 徐々に衰退していった理由を教えてください。 ユスティニアヌス大帝の中興も一時的なもので、 面白いようにヨーロッパの後進国やイスラム勢力に領土むしられて行きましたよね? 敵が強過ぎたのか、ビザンツの内部に問題があったのか? それとも、あの時代にあれだけの広大な領土を維持し続けること自体が 当時の政治機構や技術力の限界を超えていたのか?
マケドニア朝時代の繁栄も少しは思い出してください…
>>105 河南省とられたら、北朝としての宋朝オワタ\(^o^)/だろう。
南へ移ったら、湖南とか江西に楚人らしき勢力が多く残っていて、かなりの宣撫工作が必要だ。
税金はガチでとらないといけないし、どうやってきびぎひ働かせるか。
外国人が作ったの世界史年表図みたいなのを見たいんだけど、検索しても目ぼしいものがヒットしない アレはなんて検索語で調べれば良いですか?
>>106 あんな文明の十字路で、一千年にもわたって国家が存続したのはすごいと思わんかね。
111 :
世界@名無史さん :2010/05/02(日) 22:54:15 0
>>106 食うか食われるかの戦乱時代、神の名の下にどんな蛮行でも許される中世という時代に
相対的に弱ければ毟られる、強ければ毟っ取る。ただそれだけ。
ユスティニアヌスの大帝国が崩壊したのは、 相次ぐ大遠征と大建築事業に国力が追いつかなくなり、さらにペストが大流行して人口が激減し、 ササン朝との戦争では膠着したのちに多額の和平金(歳幣)を支払うことになり、 それを補うために重税をかけたら経済と財政が破綻し、など多くの要因がある。 またヘラクレイオスがイスラムに敗退したのは、直前までササン朝と大戦争を続けていて、 帝国の国力が疲弊しすぎていたためもある。このため結局はエジプトもシリアも失った。 それでも超大国となったイスラムに長らく対抗できた理由は、 国土の周囲を山脈と海に囲まれ地の利を得ていたこと、 皇帝への中央集権を進めて国家体制をより強靭なものに作り変えたこと、 勇猛な異民族を軍隊に加え、軍管区(テマ)制という効果的な国防体制を整えたこと、 「正教を奉じギリシア文化を継ぐローマ人」として団結を強めたこと、などがあげられる。
やがて西欧ではフランク王カールが皇帝に擁立され、地中海世界は三分される。 フランクはさほど海へ進出せず内陸で分裂し、実質はイスラムの独壇場。 だが9世紀末以後、アッバース朝も衰退して各地に諸侯やカリフが分立し、 テュルク系・イラン系軍閥が入り乱れて群雄割拠の様相を呈する。 長らく雌伏していたビザンツは、テマの反乱を終息させると外征を再開。 北シリア・南伊・バルカンを統一して中世の最盛期が現出する。 かつてのユスティニアヌスのように国が傾くほどの大戦争もなく、大いに繁栄した。 ところが、国内では軍事貴族による大土地所有が進み、帝位争奪が深刻化。 また愚帝や女帝や宦官が次々と現れ、国政を惑わした。 そうこうするうちに、北からはハンガリーやスラヴ人がバルカン北辺を襲い、 西からはノルマン人が来て南伊を奪い、東からテュルク人が来てアナトリアを制圧。 ついに皇帝アレクシオス1世は「専制君主」であることを諦め、 大貴族に封地(プロノイア)を安堵するなどして味方につけ、帝国を「大貴族による連合共同体」に作り変えた。 この体制は100年ほど帝国を持ちこたえさせたが、愚帝兄弟やヴェネチアが…
114 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 00:52:55 0
115 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 00:57:37 0
東洋史について質問なのですが、よく柔道などで「互いに同じ礼をする(頭を下げる」のは 「弁別する」という意味の「礼」において矛盾してるのではないかと思いますが、東洋の 宗教的価値観ではこれは問題ないのでしょうか?というか彼らはいったい何に対しておじぎを しているのでしょうか? 第二です。漢字について。あの字は今も昔も大体ひとつの字に対して単純な単音でもって発音・発声しますが、 古代はもしかしたらもっと長い音を持っていた、ということはないでしょうか?
>>115 第二の質問に関して
(1) 古代とは、具体的にどのあたりを想定してますか?
殷商、周、春秋戦国、 秦漢,唐(三十六字母)
(2) 長い音とは何ですか?
子音+母音(二重母音, 長母音も含む)+子音(N, NGなど), 声調アクセント
このパターンから外れて 子音+母音+子音+母音+子音 みたいな長い音節構造で一字ですか?
頭を下げる行為は世界中で見られる訳で それらはほとんどの場合相手への感謝、敬意の意を表すもの 別に極東に限って見られる習慣じゃないし いちいち地位関係や儒学などの狭義で考える必要はないんじゃないか 柔道の礼の意味も第一にはおそらく対戦相手へのものとしてあると思うが 一応心身を鍛えることを目的としているので精神修養的な意味合いと それから道場内に神棚とかも置いてあるから神道的な万象への感謝も含みそう
皇帝や支配者の前での平伏が象徴化されたものじゃないのかなあ。 犬は降参するとお腹を上にするとかで、哺乳類の遺伝子に組み込まれた何かが起源かも。
119 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 01:58:18 0
ニューススレで「中国人はバカなので知っていることを体系化して理論となすことが できなかった」とありましたが、アジアは欧米と違い、なぜ経験則から一歩も進まなかったのでしょうか?
120 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 01:59:41 0
たとえば「壊血病に野菜が効くというのは中国人は欧米人より一世紀早く 知っていたが体系化し理論化することができなかった」という類です。なぜでしょう?
>>115 100年成立の漢字辞典説文解字に音も載っているけど
今と変わらない
123 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 02:59:24 0
>>87 いや、外国からの使節に官位を与えるというのは、当時の外交儀礼。洋の東西を問わず
前近代では、派遣元と赴任先と両方から役職を貰っているのが普通。
で、象に、そこらの大名よりも高い従四位上の官位がついている。
国持大名でも従四位下が大半だということを重視しろよ。
>>123 象に官位をやったのは、ウサワの象を天皇が見たがったから、天皇に正式な拝謁ができるように
官位を与えただけのことだろ
いくら当時の朝廷でも、動物を使節扱いはしないって
動物を使節と認めたら、そんな外交使節をよこす国は、日本をバカにしていることになる
(もし仮に、日本が清に、芸のできるサルを使節だと言って送ったとしよう、清の皇帝はそのサルを
使節として扱うだろうか? そのサルの芸を見たがるかもしれないが、使節とは思わないだろう)
幕末ならいざしらず、吉宗時代の天皇は、ほとんどの大名には、別に会いたいと思うような理由はない
それよりは珍しい動物、象を見たいだろう
なら、象に大名以上の位を与えたって別になんらおかしくはない
一日警察署長みたいなものだろうなぁ
カラカラ浴場は何故浴場なんでしょうか 総合施設(風呂を含む)ではないんですか?
127 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 07:00:31 0
なんで漢字って字は複雑なのに音は趙単純なんだろね。 エジプトの神聖文字も発声は単純なのかな?
字の複雑性と音の単純性に因果関係ってあるのか?
129 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 07:29:57 0
どこが"趙"単純なんだか 中国語の発音が複雑で微妙なのはよく知られていることだが
漢字が複雑なのは(単純な漢字もあるけどな)、象形文字だからだ。
131 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 07:59:38 0
>>129 それは存じてます。ですが例えば日本の大和言葉みたいに
長く説明するような発声じゃありませんでしょ?それがどうしてなのかと疑問に感じたのです。
>>131 大和言葉は無理やり当てはめただけのことで
五十音は短いだろ
133 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 08:40:57 0
音素のことを聞いているのか、単語のことを聞いているのか、127氏は両方をごっちゃにしているのでは?
宗教改革後に カトリックが力の回復を狙って宣教師をアジアに送った・・というのは学校授業の範囲内な訳ですけど カトリック側が主体の日本や東南アジア、インドに対して 韓国等はプロテスタント側主体ですよね? アジアにおいては後発だったプロテスタントが、カトリックを角逐できたのはどういった理由でしょうか
ヨーロッパにも参勤交代みたいな制度ってなかったんですか?
ソマリアで一番頭いい人と俺ってどっちが頭いいのかな?
>>135 制度としては無かったが、王権が強い時は政治的理由から、
首都と領地を往復して暮らす諸侯は少なくなかった。
参勤交代と違って、付き合いや宮廷に食い込むという利己的目的だが。
中央集権が確立した後は、王の寵愛次第で運命が左右されたので、
命令しなくても自然と貴族は首都に集まり、宮廷に出入りした。
>>136 お前に武装勢力の指導や支配地域の統治ができるなら、お前の方。
>>136 ここでそんなこと聞いてるくらいじゃたいしたことないから
ソマリアの方
じゃあ東大の期末で下位の成績取るやつと、ソマリアで一番頭いい人は?
「頭がいい」のと、「学校の成績がいい」のは違うぞ 高学歴なバカや、その逆の人間はいくらでもいる
どんな悲惨な後進国も ハーバードに留学できる官僚候補の勝ち組居るのが悲しい現実 あ、でもナウルとかは国民全員馬鹿そうだなw
ソマリアの歴史や民俗とあんまり関係ないな。板違いなレスだ。 学歴板にでも逝ってください。
144 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 14:50:46 0
シャンハイ万博の中国館は、皇帝の冠をモチーフにしたデザインだそうだが、 皇帝の冠って社会主義の人民共和国のパビリオンにはふさわしくないんでは?
ルーピー鳩山は東大出てスタンフォードだしなあ
いくらルーピーでも祖父はあの人・・・・ と思ったらこの人もソビエト連邦との国交樹立くらいしかやってなかった
>>144 「東方之冠」は、明や清のタイプではなく、秦や漢の四角タイプですね。
天が落ちてきても、四つの柱が支えるから無問題・・・という風水思想なのです。
皇帝でなくても、四角の帽子を被るとよいのです。
ウイグル族には六面体の帽子を被る集団があるので、西域から入ってきた発想かもしれませんね。
天山南路のホータンあたりが該当するんじゃなかったかなあ。
おそらく秦は、天山南路のウイグル族祖先と「朋友」でしょう。
秦漢の時代でも天山南路あたりで交易をやっていたので、ついに西域文化が上海にまで達したと見ては?
>>127 本当かどうか知らないけど北に行くほど単語が短くなるなんていうね
ちなみに漢字が複雑なのは漢字の90%を占める形声文字が
大まかな意味を表す部首と音を表す文字との合成で作られているから。
>>148 音が単純でも声調があるから、フォント数もいっぱい必要なのですよ。でも単語は短くなる。
逆にマレーシアの言葉は、声調がないので、何音節も連なって単語が長いです。
日本でも、イントネーションで同音意義語を弁別する地域は、早口でしょう?
>>149 音韻数が多ければ単語は短くでも種類が確保でき
音韻数が少なければ単語が長くなると言うのはそのとおりだろうね。
ちなみに日本は音韻数が87から50に減っているな
ソマリアって、民族はソマリ人、言語はソマリア語、 宗教はイスラム教スンニ派でほぼ統一され(マイノリティはいるけど)、 インド洋貿易の一大センターとして発展しててもおかしくない位置にいるのに、 なんであんな状態になってしまってるんでしょう… 対岸のイエメンも紀元前から発展した国だったのに、今は最貧国だし
>>150 >ちなみに日本は音韻数が87から50に減っているな
NHKのせいですか
>>151 バーレ独裁政権による長年の失政と、
バーレ政権を打倒した反政府勢力が分裂して、
軍閥として内戦を始め、さらに新興のイスラム武装勢力が加わって、
内戦が泥沼化したから。
154 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 18:16:12 0
ソマリア人って聖書に出てくるサマリア人の末裔?
イエメンにいたシバの女王の子孫がエチオピア王家というのだから、 サマリア人の子孫がソマリア人でも何の不思議もない。
ソマリアの語源は、ヌビア語で「(肌の)黒い人々(の国)」の意 一方、サマリアの方はヘブライ語で「見張り塔のある場所」 なので、全然違う
フランスの宮廷貴族と地方貴族と法服貴族の違いを教えてください。 特に宮廷貴族と地方貴族の違いが分かりません。 宮廷貴族と地方貴族の違いは、生活の場の違いだけでしょうか? それとも、身分や特権も違うのでしょうか?
宮廷貴族や地方貴族は「帯剣貴族」とも言われる、いわば武家領主。 法服貴族はブルジョワジー(町人)出身で、裁判官などの官職を買った者。 帯剣貴族のうち、宮廷貴族はヴェルサイユで王に仕えてる名門貴族や廷臣で、 地方貴族は田舎住まいの地主というか郷士のような者。 当然、宮廷貴族の方が格式も高いし、王からばく大な年金ももらっている。
159 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 21:42:37 0
>>151 帆船の時代なら、風待ち・潮待ちがあるし、操船のための人員が多いから水や食料の補給も必要、
船足が遅いからときどき上陸して休ませないと人員が働かなくなる、情報の蓄積や通信が未発達
なので当地から次の寄港地までの地理・気象に詳しい水先案内人を雇い入れる(前の寄港地から
連れてきた案内人を降ろす)ということが、必要。
今の船は船速が速いし、情報や通信の発達で、途中寄港の必要も少なくなっている。
船・人が立ち寄らないなら、港に商機も無いわけだから、そりゃ廃れる。
後背地にしても、他地域からみて魅力的な産品も無ければ尚更。
>>134 韓国がプロテスタント主流なのはまずアメリカの影響だ
じゃあなぜアメリカ当地経験のフィリピンがカトリック主流か、と言われたら返答に詰まるが。
>>160 フィリピンはアメリカに統治される前は、カトリック国のスペインに支配されていました。
アメリカがフィリピンを取った頃には、既にカトリックが深く根付いていました。
>>140 期末とか言ってる時点でお里が知れるよ。
163 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 22:43:23 0
「隣人を愛せよ」のところを「日本人を強姦せよ」と解釈するようなのが プロテスタントなのか?
儒教の影響の方が強いので 自分に関係の深い人には優しいが縁の無い人はどうでもいいの
プロテスタントの語源は「抗議する者」の意だ ほら、いつも何かしらに抗議してるだろ、かの民は
なんでお前らは彼らにそんなに興味があるんだ 普通は彼らなんか眼中にもないだろ
167 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 23:15:59 0
なんでカペー朝って呼ばれてるのかな? 「カペー」ってユーグのあだ名で合羽の事なのに ロベール朝とかユーグ朝なら分かるが
汝の隣人を強姦せよ、だろjk
>>151 民族は同じでも、その下に部族があり、氏族がありで、
おのおのが離合集散して争っています。
彼らが自民族の起源だと主張する「アラブ民族」だってそんな感じ。
171 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 23:39:51 0
イギリスは新大陸の植民地をどのようにしようと思っていたのでしょうか? たとえば、将来的には本国と同じように選挙区を設けて議員を選出させ、ロンドンで新大陸出身の議員が演説できるようにしようとしたとか、 あるいは永久に国王の荘園扱いで利益を吸い取り続けようとしたとか。 独立戦争が起こらなければ、その後の13州の歴史はどうなっていたのでしょうか?
172 :
世界@名無史さん :2010/05/03(月) 23:42:45 0
将来的にはカナダのようにしたかった でもティーパーティー派が地域エゴを発揮して潰した これが真実
そのカナダの制度にしても、裏切り者のワシントンたちが 反逆を起こしたという手痛い教訓があったればこそじゃないか?
174 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 00:06:45 0
イギリスがローマ帝国のような政体を目指していたらなあ、と思うよ。 たとえばガンジーあたりを(インド総督経由で)首相に選出すれば、彼はそのエネルギーをインド独立よりもコモンウェルスの存続発展に注いだだろうし。
>>174 それはありえんな。インドがコモンウェルスの中にある限り、
インドの労働力と資源はコモンウェルスに搾取され続けるから。
インドが自国の労働力と資源を自国の民衆のために使うには、
独立するしかなかった。
袁世凱って、死亡した時期(皇帝取消しと全く同時期)的に見て、どう考えても暗殺くさいんですが そういう説ってないんですか
>>173 ちがうな
アメリカはピューリタンの各州がティーパーティーの思想のもとに分離主義でできた国
カナダはピューリタン主体じゃないからそもそものところでちがう
ティーパーティー思想というのは、個人の権利特に財産権の絶対化 どのような法律よりもまず個人の財産権が優先され、あらゆる法律は個人の財産権の 絶対化に矛盾してはならないという考え それに対して同じピューリタンでもベンジャミン・フランクリンはジョン・ロックの 社会契約の思想を受けて、財産権は絶対化されないという考えに立って連邦を築いた 戦争のきっかけとなったティーパーティー派は徹底的な個人エゴだが、 戦争をきっかけとして連邦を築いた当地のブルジョワたちはそれと異なったロックの政治哲学に 基づいて国家を築こうとした
179 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 02:19:27 0
>>176 袁世凱が死んで一番得するのは誰か? という事ですなー
ちょうどいいタイミングで死んだとか、死んだことによって誰かが得をしたってだけで、暗殺説が 出るってのも、なんだかなー 人間誰でもいつかは死ぬ その死んだ時が、たまたま、どこかの勢力にとってちょうど都合のいいタイミングになることだって そりゃあるだろ 敵の多い権力者、国内が多事多端な権力者ほど、そのちょうどいいタイミングも多いから、 そのたまたまのタイミングになる確率もぐっと高くなる 極端なことを言えば、権力者なんて、いつ死んだって、誰かにとってはちょうどいいタイミング になってしまう それに、権力者が死ねば、必ず誰かが得をするのは当たり前 暗殺説を唱えるなら、それ以上の説得力のある根拠(関係者の証言とか、検死記録とか)が 欲しいところだ
181 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 07:14:03 0
歓迎されると思った皇帝即位が朝野の猛反発にあって落ち込み、 立ち直れずに心身のバランスを崩してやがて死んでしまったのである。
帝政施行をあきらめてから3ヶ月も経った頃に暗殺してももはや意味ないだろう。 玉座を狙っている時でなければ。
183 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 09:50:59 0
いや、周囲は大総統もやめるよう騒いでたのに、 本人は皇帝取り消し後も大総統(ていうか独裁者)の座に居座ってたから。
徐世昌は袁の腰巾着だし、黎元洪は直後に大総統になったけど傀儡に等しいから考えられない。 外国勢力は帝位は認めてないけど、北京政府の存在そのものは必要としてたから可能性としてはなぁ… やっぱ殺ったとしたら、段祺瑞か馮玉祥辺りだろうか?
185 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 10:58:52 0
中華書局が発行している歴代皇帝表には袁世凱が載っていたりする
中国における時代別の米と小麦の収穫率の変遷を教えてください。
インドは紀元前から1947年の独立に至るまで、ほとんどインド人の手によって統一された事は無く、 常に外部からの侵入者に支配され続けるか、分裂するかのどちらかですが、 なぜインドは紀元前からずっと世界の人口と富の数割を有する先進地域なのに、 中国のように統一される事が少なく、外部からの侵入に弱かったのでしょうか? また、インドから外部に攻め込む勢力がほとんどなく、 インドが常に攻められっぱなしなのはなぜでしょうか?
>>186 無茶言うな
現代では米のがだいぶ多いはずだよ
インディカ米だけどな
>>186 それに対する時代ごとの体系的なデータが無い。
あと、中国では米と小麦以外の雑穀もたくさん作られていた事も忘れてはならない。
それでは、漢代と宋代限定では分からないでしょうか?>米と小麦の収穫率(そのほかの穀物も分かるようなら知りたいです)
地域ごとに分けて考えないと意味ない質問だし、厄介だな 時代によって中(華的政権システムの及ぶ地域に含まれる)国の範囲は変動するんだし、 作物の比率は地方ごとに全く違うし
そのほかの穀物ということで 気候が寒冷で稲作に不向きな北方で、 モロコシ、蕎麦、大麦もあったな
もともと、粟や黍が黄河流域の主要作物。 米という漢字は本来「粟の実」を指すもので、稲は長江流域のもの。 国家を意味する「社稷」の「社」は土地神、「稷」とは黍のこと。 周の始祖である后稷は、文字通り農耕の神であった。 小麦や大麦は、前漢時代に西域からようやく伝わったようだ。
>>187 インドのような多民族地域を統一するのがそもそも困難なことなんだよ
インドを統一するなんて、ヨーロッパを統一するようなもの
「中国のように統一されることが少なく」と君は言うが、むしろ、中国の諸王朝がなぜあんな
多民族の広大な地域を統一できたのか、と疑問に思うべきだ
そっちの方がよっぽど異常
そういえば戦国時代や秦時代は食料が不足気味で、 食わせてやれないという理由で40万だの30万だのの捕虜を処分してたな 生産効率が高い穀物が普及していなかったことも原因の一つか
196 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 20:29:32 0
イギリスやドイツの歴代首相 のやめ方を教えてください イギリス、ドイツが日本の首相と比べてなぜ長命なのか 調べたいので 日本だと森や福田みたいに自分だと選挙に勝てないから辞任とか おおよそ理解不能な辞め方とか普通にありますが
辞め方もなにも、ヨーロッパの首相の退陣は、ほとんどが、選挙で負けたからでしょ 選挙前に自分から辞めちゃうなんてめったにない
>>196 いろいろある。任期が切れた頃に支持率が低迷してて、
これ以上首相を続けることが困難な場合や、
やるべき仕事を終えたから任期切れを期に辞めるとか、
党内の反対勢力に権力闘争で敗れて辞めるとか、
単に長くやって引退したくなったからとか。
もちろん、この首相じゃ選挙に勝てないからと、
辞任に追い込まれる場合もある。
http://www.geocities.jp/hanxiaowudi/0r.html ぐぐってたらこんなのを見つけたが、全体的にクラクラするほどシナ贔屓なので真偽のほどは知らん。
とりあえず欧州よりははるかに肥沃で、古代から大人口を養えたのは確かだろう。
「三国志」なんかによると、漢代〜魏晋には1畝(約2アール)あたり平均3斛(約60リットル)の収穫があり、
長江下流域では1畝あたり5斛(約100リットル)で、西方の辺境地域の三倍の収穫があったという。
江南・湖北はのちのちまでシナの穀倉地帯となるが、漢人から見れば蛮族の跋扈する密林の異域でもあった。
楚・呉・越・孫呉などはそうした湿潤なフロンティアを開拓し、南朝以後の繁栄の基礎を築いていった。
一方、黄河流域(中原)は時代が下るにつれて森林が消滅し、洪水や戦乱で農地が荒廃し続け、
遊牧民の闊歩するステップ地帯となった。ただ水さえあればそれなりに肥沃なので、灌漑農法が盛んになった。
>>196 日本の首相は、党人事の内部要因で決まってきた。
総裁も、兼任する首相も、自民党の中の派閥間で持ち回りの名誉職だ。みんななりたい名誉職だから、
短期間で引きずり下ろしもするし、短期間やれば満足する。
理解不能でもなんでもない、首相やって御前に呼ばれて、引退の時には勲章貰って、満足だからだ。
法的な根拠のある形式からすると、国会で首相を選び、首相が少なくとも半数の閣僚を国会議員から選ぶ、
ということになっているけれども、実際には、派閥ごとに美味しい利権のある閣僚ポストを取り合った後
その派閥から予め決まっている閣僚を選び出すという暗黙の約束の上で首相となる総裁を選ぶ。
高級官僚の人事異動の内示が出るのが7月〜8月。自民党の派閥・族議員と、省庁の中での派閥とは密接な
関わり合いがあって、省庁の内部抗争が一段落しないと、閣僚の割り振りも決められない。
そういう事情があるから、解散・選挙・自民党総裁の交代なんかが晩夏から秋口に行われる。
ついでに言うと、こういう事情が外国まで知られているから、ちょうど時期的に美味しい靖国問題なんかで
中国や韓国が揺さぶりをかけてきたりもする。
201 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 20:49:26 0
同じとは言え それでもイギリスでは2年以上 ドイツでは平均5年はやってるのって 日本の内閣とシステム的に決定的に違うところってどこなの? 個人的には鳩山の前のここ5代のうち4人は低質なネガキャンに国民が振り回されたものによるものだと思うが 派閥の存在で国民が疑似政権交代で満足してるってこじ付けのような気がするが
>>200 >高級官僚の人事異動の内示が出るのが7月〜8月
これをやめるだけでずいぶん違うように見受けられますが
キャリアは馬鹿だな
203 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 20:57:30 0
>>200 憲法制定に専念したいから辞めたり
欧州情勢がドイツがソ連と組んだから辞めたり
桂西園寺みたいに特に理由もないのにライバル政党のトップに首相の座を譲渡したり
して短命である事は戦前からのならわしかと
どうしても辞めざるを得ない状況ならともかく
困難な状況であっても、首相という座をあっさり捨て去るのって普通なのか?
>>203 居座らなければ復帰できる
伊藤や吉田のように
居座った感がなければそれでおk
205 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 21:02:38 0
>>203 第一次・第二次伊藤と第一次・第二次桂は、戦前としてはかなりの長期政権だが。
例にあげるなら、昭和10年代の内閣の方が適切だろう。
206 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 21:07:27 0
明治時代は元勲世代によるたらい回しというか持ち回りの感が強い。 その次は山県閥の桂と政友会(伊藤系)の西園寺のキャチボール。 吉田については、保守系が自由(民自)と民主との二大政党だった上、 社会党が第一党になったから下野せざるをえなかった。 政権復帰もスンナリいったわけではない。 当初は吉田を嫌うGHQ民政局の横やりで別の人物になりかけてた。
207 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 21:29:25 0
>>201 たしかにマスコミが右向けといえば右
左向けと言えば左と
テレビがちょっとネガキャンしたらすぐに影響を受けまくって支持したりしなかったりする
日本の政治にたいする意識はイギリスドイツとは決定的に違う。
特にこの十年顕著になってる
佐藤までは病気を除いて吉田、岸、池田、佐藤と長期政権が普通だし
角栄以降は完全に派閥争いが問題になってる
福田は言わずもがな
鈴木は首相になるつもりのない人間のいてもたってもいられなくなった末路だし
海部は竹下派の支持を失ったから勝ち目なく降りたいという完全なる傀儡そのもの
宮沢は竹下派の完全に竹下派の派閥争いの巻き添えだ
森以降は小泉以外はネガキャンで世論が振り回された結果
あと参院選で負けたら、なぜか首相を辞めなきゃいけないという変な風潮を作った橋本
>>199 蛮族を追い出して、稲作やめて稷とか大麦作ってたかもしれませんよ。
陸稲であれば、また話はかわりますがね。
湿潤なフロンティア(笑)
湖南・貴州・江西なんて、「天に三日の晴天なし、地に三里の平地なし、人に三分のお金なし」が実態ですよ。
南方でもよさげな場所は、南詔国なんかが先に押さえていて、現代まで居座り続けているし。
趙宋ぐらいになって、わーっと繁栄してきたんかもしれませんよ。宋代以降の遺構は本当にいっぱい残ってます。
そろそろ政治板でどうぞ
ああ、宋代に福建省で稲作が世界で初めて行われたんだったかな。
??? 宋代に稲作が世界初??? 意味不明 明らかにそれ以前から稲作は行われるが?
福建省は4000年前ぐらいから継続的に稲作が途絶えていない! 中国4000年の水田稲作の伝統は一度も途絶えたことなどないわ!
世界史なんでも質問スレッド74
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1268867591/639-646 639 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 00:57:01 0
越人は、宋(960-1279年)まで稲作をやっていませんが
641 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 01:04:12 0
稲作は行われていましたが
その担い手は越人ではないみたいです
643 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 01:12:02 0
「宋史」食貨農志上一農田の部に現れる閩が
稲作の担い手です
わーったわーった 次だ次
215 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 22:14:36 0
福建人は長江文明人そのもの。そんじゃそこらのシナーより偉いのよ。
>>199 今回の件で検索して最初にというか唯一ヒットしたのがそのHPだったのです。
が、自分の決して豊富とは言えない知識でさえそれと分かるほどの嘘でまみれていたので……
(シナ贔屓とローマ敵視がすごい事になっていて)
私の知識では前漢末期の人口6000千万が一つのピークで、後漢末から三国にかけて激減。
宋代になってからようやく6000万の大台に回復、その後一億に達したので農業面で何か革新
があったのかなと。
単に開拓が行われただけかもしれませんが、生産効率向上はどうかなと。
217 :
世界@名無史さん :2010/05/04(火) 22:34:50 0
> 解散・選挙・自民党総裁の交代なんかが晩夏から秋口に行われる。 55年以降に絞ってみて、解散が「晩夏から秋口」に収まるのは 第35回 1979年10月7日 日曜日 68.01% 衆議院解散(1979年9月7日) 第41回 1996年10月20日 日曜日 59.65% 500 衆議院解散(1996年9月27日) 第44回 2005年9月11日 日曜日 67.51% 衆議院解散(2005年8月8日) この3回だけじゃね?自民党総裁選はこの20年くらいほとんど9月下旬だけど。
>>216 まあそれこそ、福建で細々と栽培されていた南ベトナム原産の「占城(チャンパ)稲」が、
北宋の真宗皇帝の命令で江南に移植されて広まった、というのがあるな。
二期作も可能な早稲品種で、病虫害や風雨・旱魃・痩土にも強く、長江下流域の穀物生産高を飛躍的に伸ばしたことで有名。
ただインディカ種の赤米であんまりおいしくはなく、日本では下等米とされたとか。
>>199 それ、現代の中国の収穫倍率と二千年前のローマ(及び西アジア)の収穫倍率を比べてねーか?
と思って調べたが現代の中国の収穫倍率がまったく検索にかからない。(もちろんそれ以外の時代のも)
なんでだぜ。
>>199 このページの出所不明なデータは全部捏造と思って問題ない。
水田稲作で、1畝あたり6斛が現代の数値では? 日本1反10俵(作柄100の年)ぐらいが、続けられるかの水準点って聞いたことがある。 水質に問題があるなら水準点いってても、農業止めたほうがいい。 山間地は6俵、河口地域で14俵ぐらいで、収穫倍率は一律ではない。 ゲロマズ品種を選べは16俵までいくらしいね。最近作っているやついないからわかんね。 飼料用なら20俵ぐらいいくかも。どうせサイレージするんだから味は関係ない。
全部は言いすぎ。8割くらい。
とりあえず日本の場合、技術的には素朴であろう奈良時代でも、 米の収穫倍率が7倍〜25倍。平安〜中世では10倍前後、現代では140倍という。 米という作物は非常に栽培効率がよく、シナでも豊かな地域ならばこれぐらいあったかも知れない。 華北では麦と雑穀(粟・稗・黍・高粱)を主に作っていた。 唐宋の頃からは麦米二毛作が行われて生産が増え、麺類や菓子などが発達した。 シュメール文明の最盛期では麦の収穫倍率が30〜70倍にもなったが、塩害で壊滅。 欧州では中世通して3〜4倍もあればいいほうで、多くは大麦やライ麦、豆類を作った。 また豚を森で肥育して食料の足しにもしたという。それでも毎年のように飢饉があった。
豆の栄養価は高いが、豆だと土地が痩せるんじゃなかったっけ 三圃式で休耕田があればいいんだが
>>223 美味しくなったところで、蒙古襲来。
濃厚飼料としても穀類は魅力的。草原がなくても馬が使える。
>>223 シナでの麦の収穫倍率は?
あと、宋代とそれ以前の主要穀物の倍率の違いが知りたいです。
麦は土地を痩せさせ塩害を起こすが、豆は根粒菌が窒素固定を行うので、土壌に養分を取り戻す働きがある。 麦畑のまわりに植えとくと肥料が少なくてすむし、栽培するのに水も余りいらん。 もっとも、連作すると土壌中の養分バランスが崩れたりして連作障害を起こすが。
その辺の中国の農政書って今から見て どんな風に評価されてんの? 役立つ点もありそうだけど間違ってるとか オカルトがかってるのもある?
シナは経験則しかないし、現代にそれら農業書物から得られる定理はなにもないことが すでに証明されている。ようは考えるだけ無駄。
>>187 それは「インドがどこからどこまでか?」を決めたのがイギリスだから。
その範囲にぴったり重ならないと歴史上「統一」がなされてないことになる。
つまりいつもの「産業革命の詭弁」です。
歴史上の出来事いったんは自分の頭で考えてみましょう。
次ー
234 :
世界@名無史さん :2010/05/05(水) 11:46:12 0
ここで「方程式の起源はメソポタミアまでさかのぼる」とか教えられましたが、 wikipediaでは「イギリスのロバート・レコードが起源」とかかれてました。ここの住人はウソツキですね。
235 :
世界@名無史さん :2010/05/05(水) 11:47:41 0
しっしっ
白人に逆らうアジア人の質問はいつも同じ。低IQの僻み?
237 :
世界@名無史さん :2010/05/05(水) 15:34:11 0
なぜ中国人は人民服を着るのをやめたのだろう? 20年くらい前にくらべると、着用している人が皆無に近くなっているのだが。 一方、昨年秋の建国記念式典では胡主席が黒の詰め襟スーツでビシッと決めていた。 あれは人民服なのだろうか?
そういえば日本人も平袴を着用する人が皆無に近くなってるなあ なんでだろう。本当に不思議だ
今じゃあ 平袴を着用する人=ヤンキー だからなあ
なんとかひとつデータを見つけた。 南宋初期の『鶏肋編』によると、北宋が滅亡して多数の難民が南へ逃れ、彼ら北人の食べる麦の価格が暴騰した。 それまで南方では麦作が少なかったが、利益になるし冬小麦は免税されるしで、競って作られるようになったという。 米と比べると麦の収量は少なく、保存も難しいが、冬小麦は洪水の害を避けることができるという利点があった。 同じ頃、江南に麦の裏作を奨励した『救荒民活書』には「十倍全収」とあり、収穫倍率が10倍だとしている。 目的が麦作の奨励だから誇張はあるかもしれないが、西欧では3倍そこらなのでその3倍。 なぜこれほど差があるかというと、穀物栽培にかける情熱と手間ひまが、シナでは上古以来大きかったせいもある。 シナ人も家畜は飼うが、欧州・中東ほど多くはないし、牧畜民でもないかぎり乳製品を作らない。 これはまあなんというか、文化風土の違いですな。
麦類がシナ地域でいつごろから栽培されたのかは諸説ある。 大麦は雲南・チベット・四川などで野生種から独自に栽培化されたとも(特に中国人学者は)いうし、 商代(紀元前15世紀頃)に西方(中東かチベットか)からシナ本土へ伝来したともいう。 そのため、甲骨文にある「來(来)」が「麦」という漢字の原型とも言われる。 チベットでは現在でもツァンパといって、炒った大麦や裸麦を粉にし、水などで練って食べる。 遅くとも前漢代には麦作があり、『漢書・食貨志』や『氾勝之書』によれば、陝西・甘粛地方での麦作が奨励されている。 また「東では麦と米を多く植える」との記述もあるが、この「東」とは山東や安徽地方を指すらしい。 魏晋頃の『廣志』には、涼州(甘粛)や鄭県(河南)などに産する小麦の品種がいくつか記載されるが、収穫量などのデータは不明。 北魏末の『斉民要術』には、雑穀・蔬菜と麦を組み合わせた二年三作の輪作方式が記されている。 このように、華北では広く麦が輪作用に栽培されるようになったが、南方にも一応は麦があった。 唐末期に雲南の風土を記した『蛮書』は、水田稲作と大麦・小麦を組み合わせた輪作について触れている。 しかし南方の麦は水分が多くて柔らかく腐りやすく、麺にするとブヨブヨするとか。
>>237 80年代後半に放送していたNHKの「大黄河」では、
中国の一般市民の多くはまだ人民服スタイルだった。
ところが最近はペキン・シャンハイのような大都市は当然として、
農村部ですら人民服の人は見かけなくなった。
>>240 草木性の植物しかないところは、牧畜民中心でやらざるを得ないです。そこは、環境次第。
>>241 六条麦か裸麦なら東アジアの野生種起源だろうけど
二条麦は、ヨーロッパ系で西方起源です。二条麦だと主張したら嘘。
>>242 現役世代だった人が世代交代したからだよ。
人民服しか作ってなかったのは、昔の地主であろうと小作人だろうが
同じ服を着させてわからなくする意味があったんよ。
でも、イスラム系の人達は、旗袍の伝統を受け継いでいる
襟のついた人民服を着るのは抵抗あって、コートの下にも着なかったっぽい。
ウイグルは「俺達は、満州族じゃねぇ」と昔から衣装が違っていた。
『シルクロード』のほうはブレザーである可能性高そう。
江沢民が天皇陛下主催の晩餐会に出席したとき、 一人だけタキシードではなく人民服(平服)を着ていたので非難されたが、 「人民服は中国の民族衣装だから正装だ」と反論したとさ。
>>245 問題ないだろ
ハワイの人がアロハを着るのと同じ理屈
南方の土人がちんこケースつけてるようなもんだね。
>>194 >>231 ありがとうございます。インドが長い間統一されなかった理由は分かりました。
それでは、なぜインドはずっと外部から攻められっぱなしだったのですか?
インドの国力なら一部を支配しただけでも、
外部からの侵攻を跳ね返すだけでなく、逆に外に攻め込むこともできたと思うのですが。
251 :
世界@名無史さん :2010/05/05(水) 19:43:45 0
白人のIQはアリストテレスに見られるように3万くらいが平均で、 戦闘力はアレクサンドロスに見られるように53万、本気出して一億くらいあったから。
”インド”全体じゃないが、地方政権みたいなチョーラ朝が東南アジアの大国シュリーヴィジャヤに攻め込んでるんだけど それをもってしてもずっと外部から攻められっぱなしで、外に攻め込むことができなかったと定義しているのだから、 人類史上外部に攻め込むことができた勢力なんて存在したことがなかったことになる だからインドに限ったことじゃないな というわけで、インドは、とする質問前提が成り立たない
インド亜大陸という、広大かつ豊穣な大地があるのに、 なんで貧相なよその土地まで攻め込まねばならんのだ。
ムガル帝国が英領インドと同じ領域を持たなかったのは何故ですか
>>252 数少ない一例をあげて、インドは攻められっぱなしじゃなかったと言われても困ります。
インドの歴史の大半においては、
圧倒的に中央アジアからの侵入を受けた回数のほうが多いじゃないですか。
逆に中央アジアに攻め込んだことはほとんどありません。
その理由を知りたいんです。
攻められっぱなしとは言いましたが、
一度も攻め込んだことがないとまでは言ってません。
>>253 しかし、広大で豊穣な大地を持つ中国は、
分裂時代でもしばしば貧しい北方の草原地帯や西方の乾燥地帯に攻め込みます。
別の国だからです。
>>254 ムガル帝国の全盛期でも、インド全土を支配できなかったからです。
歴史上、インドを完全に統一したのは英領インドだけです。
じゃあインド亜大陸の国々は、なぜ中央アジアの遊牧民…アーリア人、サカ、クシャーナ、エフタル、フーナ、 テュルク・モンゴル系ムスリムなどに攻め込まれっぱなしで、逆に攻め返せなかったか? インド(北インド)から中央アジアへ攻め込むには、ヒマラヤを越えてチベットへ行くわけにもいかんから、 必然的に北西のパンジャブからカシミール・パミール方面へ行くか、ハイバル峠・ヒンドゥークシュを抜けてアフガンへ抜けるか。 古くから交易路はあったが、どちらもかなりの高山地帯で、剽悍な蛮族も多数いる。 ここを大軍率いて通るとなれば、兵站や兵種(歩兵・戦象・戦車)の問題もあるし、騎馬兵が駆け抜けて行くのが一番。 インドにも馬は産するが、特に騎馬民でも遊牧民でもないのが大勢だし、そもそも熱帯の人々なので寒さには弱そうだ。 中華の帝国は、確かに北方や西方に攻め込んでるのも多い。 しかしインドほど南方に位置しておらず、唐や金のように元来が北方民族の立てた王朝だったりする。 漢が匈奴に対抗できていたのは、専制君主が全国を統一し、官吏を操って人民に重税をかけ、 戦争や長城建設に酷使し、北方で長年戦ってきた半分遊牧民のような騎兵隊を駆使できたから。 たとえば六朝や南宋の北に、直接天山やゴビやモンゴル高原があった場合、そこへ攻め込めるか?というと難しそう。 南京に興った明はどうかといっても、モンゴルの支配体制自体にガタが来てた時期ではあるし、 永楽帝の北伐以後は、逆に攻め込まれて皇帝が捕虜になる始末。
西太后って、列強のせいで何度も都落ちする羽目になってるのに なんで近代化に頑なに反対したわけ?変法運動が成功してりゃ清朝は今でもあったかもしれないのに…
近代化が皇帝及び自分の権限縮小を意味すると気づいたから
光緒帝が変法派と結び、邪魔な西太后の幽閉を図ったと袁世凱に告げ口されたためとも、 変法派が伊藤博文と語らって「中日英米の四国合邦」を提案したのに驚いたためともいう。 仲が悪い光緒帝が推し進めた変法を支持したり、海外の連中に指図されたりするのは感情的に嫌だったのだろう。 彼女には別段「国をよくしよう」という政治信念はなく、自分だけが福禄寿に恵まれていればよかった。 義和団事件以後は西太后も変法派の政策を少しずつ認めたが、結局は主導した袁世凱の専権を招く。 西太后の死後ほどなくして、辛亥革命で清朝は瓦解した。
浅田次郎の小説なんかじゃ、太平天国辺りで滅びるはずだった清朝を20世紀まで存続させた 功績は西太后のものみたいな書かれ方してるけど実際どうなんでしょうねぇ。
263 :
世界@名無史さん :2010/05/06(木) 00:16:47 0
普通の歴史の本では、曾国藩とか李鴻章とかの漢人官僚の功績ということになってるけどね。
太平天国も、清を滅ぼすには力不足だろ 地方政権を作るのがせいぜいで、とても清を滅ぼせるほどの勢力じゃない
>>202 何をやめろと?
人事異動?内事?
やめようと思ったらやめられるようなものなのか?
266 :
世界@名無史さん :2010/05/06(木) 01:52:43 0
太平天国の乱は、朱元璋のような簒奪者が出てくる事なく、大まかには カルト教団の反乱の域をでることができなかった。 地方政権も作れなかったのはある意味当然だろう。
>>212 4000年前のそこらへんって中国といってしまっていいのかなぁ
朱熹先生はそう主張しているみたいだけど
越の始祖である夏王朝初代の禹王の陵墓が会稽山にあるというが、あれは浙江省か 良渚文化が洪水で滅んだ後、北上して黄河中流域に住み着いたのが夏人って説もあるらしいが
禹王の陵墓は複数あるらしいよ
>>257 産業革命のレトリックに気づかないバカは歴史板から去れよ
「艦隊山越え」の絵を見てもよくわからんし、描写が正確である保証があるかわからんしで質問したいのだけど、 軍船を載せて運んだのは車輪付きの台車? それとも丸材を並べて敷き詰めた上を転がしていった?
油を撒いて滑りをよくしたんだっけ?
橇に乗せたんだよ
中世の大国だったハンガリーがオスマンに負けて、 あっさり征服された理由を教えてください。 ハンガリーは衰退したから、オスマンに負けて征服されたのですか? それとも国力は充実してたのに、オスマンがさらに強かっただけですか? あれだけ広大な王国が、なぜあっさり征服されたのですか?
あっさりといっても、ニコポリスの戦いからモハーチの戦いまで130年ぐらいは持ちこたえてるじゃないか。 それもハンガリーは、選挙王政になってポーランド王や神聖ローマ皇帝に王位を兼ねられ、 大貴族が分立して国内をまとめあげること自体が大変な上、継承争いやら農民暴動やらヴァルナでの大敗やらで大混乱していた。 マーチャーシュ1世はとうとうオスマン帝国を味方につけ、その後ろ盾でウィーンを陥落させたが、 彼の死後は再び弱体化し、スレイマン大帝のもとで絶頂期を迎えていたオスマン帝国の大軍に敗れ、実質的に滅亡した。 まあヨーロッパ規模で「大国」と言っても、三大陸にまたがるオスマン帝国には勝てなかったわけです。
オスマン帝国って、すごく進んだ機械文明を持ってたんだね。
>>279 すべて古代ギリシャのものをパクっただけだけどなw
正史「三国志」には、烏丸・鮮卑・東夷伝はあるけど、 重要ではあったはずの匈奴や西戎の伝がないのはなぜでしょう。 注や後漢書や晋書にはあるのに。
蜀は、西戎そのものズバリだろ? 魏には、匈奴が河北省西部あたりで深く食いくいこんどるし。
>>282 西晋は、魏の時代に移住させた匈奴の石勒などにより
洛陽を追放されて江蘇省の建業(いまの南京付近)へ移った。
その後、北から鮮卑が押し寄せてくるわ、西は氐や羌が定住化して
居座っているわで、晋の政府はどんどん東南に逃げるしかなかったと考えられる。
その立場からの目線だから、晋は匈奴だ西戎だと区別して書けるのだろう。
唐の時代は異民族のおかげで、漢語の音も語順もばらばらになったから
漢文の丸暗記(八股文とか)が科挙の科目になったといわれている。
>>282 匈奴は三国時代には内地に移住して漢化しているから、
まったくの風俗を異にする異国の異民族というわけじゃないから、
伝を立てる必要がない。
西戎は涼州や雍州に漢民族と混じって居住してて、
風俗も文化もだいぶ漢化してて、
小規模なグループごとにまとまって住んでるだけで独自の国を持っていなかったから、
伝を立てる必要がない。
>>284 西晋を滅ぼして華北に割拠した鮮卑だの匈奴だの氐や羌だのは、
だいたい漢地に住みついて漢化していた連中で、
純粋な意味での異民族の侵入とは言えないような気がする。
単に漢人政権が転覆され、在留異民族がそのまま居住地域に割拠して、
ドンパチやってただけのような気が。
ツングースが豚を持ち込み、西戎が羊を持ち込んで バイオテロを起こしたのかと思っていたよ。
西戎は、蜀漢や馬超、張魯の勢力なんかがそれかもしれん。 南蛮は、孫呉や交州の士氏にあたるだろう。どれも一応は漢人だが。 三国志に東夷伝があって、魏と通好のあった西域諸国(大月氏など)の伝がないのは、 晋王室の祖である司馬懿が東夷(遼東)を平定したのに対して、 彼のライバルであった曹爽らに西域諸国を朝貢させた功績があり、 これを黙殺して晋を称揚したのだ、と岡田英弘センセは唱えている。 後漢書は東晋の次の劉宋で編纂されたし、晋書などは唐の太宗が作らせたもんだが、 陳寿はもともと蜀の人で、晋が成立し呉を滅ぼした直後に三国志を書いた。 なので、当時は三国時代の関係者やその一族が多数生き残っており、いろいろ配慮して書かねばならんかったわけ。
辛亥革命は、ナショナリズムが高揚した結果起きた反動革命だって本当ですか? 帝政の担い手であるはずの地方郷紳が革命に加担したが証左だとか… また、郷紳が革命に加担したのも清朝が満族であることが大きな原因で、もし漢族の帝政だったら 中国が共和制になることはなかったというのはありえるんでしょうか? ソースは大学の教授です。
どちらの大学の、どのような政治的立場の教授ですねん。 毛沢東かて地主の子ですがな。
国民党軍って、ナチスのSSみたいに国家じゃなくて政党の軍隊って意味? それとも共産軍との区別の便宜上にそうよばれてるだけで国軍なの?
北洋軍閥(北京政府)→軍閥割拠→蒋介石の国民革命軍→中華民国国軍 中国工農紅軍(中国共産党の軍)→八路軍・新四軍→中国人民解放軍 もともとみんな軍閥だから、党も軍も政府も渾然としていた。 国民革命軍なんてソ連のコミンテルンの支援で成立しとる。 モンゴルでウルス(人の集まり)が国を指すようなもんか。
293 :
世界@名無史さん :2010/05/08(土) 13:46:57 0
どこかの寓話で「占いが効果がないのではない、その証拠がないからダメなんだ」 とかいうような話をしてた人の名が思い出せません。だれか知ってる人いますか?
19世紀半ばくらいのグレートブリテン島の人口、 もしくはアイルランドを含む連合王国の人口ってどれくらいでしたか?
科挙って言われてるほど難しくないんじゃない? 圧倒的に識字率が低い中で試験して、毎回300人ぐらい採用してるんでしょ? 富裕層の家に生まれてれば、環境的にそんなに内容が難しいってわけではないじゃないでしょ。暗記だけなんだから。 どうも宮崎先生の本の影響で難しい試験というイメージが定着しすぎてると思う。
297 :
世界@名無史さん :2010/05/08(土) 18:54:49 0
そうだよな。古代ギリシャにその淵源がある欧州の官僚登用試験なんて極めて合理的で 民主的だ。経験則しかない支那の科挙なんてハトの脳みそほどで解ける。
299 :
世界@名無史さん :2010/05/08(土) 19:23:41 0
ん。 四書五経を丸暗記して、そのどこでも1巻程度を完璧に書き出せる能力が最低あればいいんだからな。 試しに史記の項羽本紀原文をそらで書き出してみてくれ。
広東に割拠していた軍事的にはそれほど強力ではない地方政権に過ぎなかった、 蒋介石の国民革命軍がなぜ、たった二年の北伐で中国各地に割拠する軍閥や、 強大な軍事力を誇る北京政府を破り、中国全土を統一できたのでしょうか?
統一してないよ 沿海部だけみても張学良と李宗仁がそのまま温存しているもの
道々の軍閥勢力と離合集散しつつ、なんとか北京には入城できたといったところだべ 北伐終結つっても、奉天の張学良が「そっちの旗を掲げるから俺の領地に来るな」と言った程度 すぐに軍閥同士の血で血を洗う内戦に突入じゃ
>>300 実態は既に東アジア版の冷戦だったから。
ソ連の傀儡になったり、アメリカの手駒になったりで
背景の親玉の思惑と勢力で変わる。
日本の手駒の張学良とグダグダな感じなってるのもそれ。
背後の日本そのものには逆らえないから、日本の介入や勢力操作で
その都度混乱がおき、宗主国の出先の現地軍閥だけでは決まらない。
最終的に過激な日本の軍人の一部が暴れてhotwarになって勢力がはっきり分かれたおかげで、
長い紛争も決着する結果となった。
>>303 ( ´ο`)その記述では決着した年代がよくわかりませんが
19Cイギリスの選挙法改正について、 資本家と労働者はどうやって区別されたんでしょうか?納税額でしょうか>
306 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 16:59:47 0
質問スレで書く事じゃないかも知れないけど、ちょっとご意見頂きたくて書かせてくださいな。 ドラクロワって『民衆を導く自由の女神』で有名になくらいで、客観的に見ても大してに絵上手くないよな…。 新しい事やってるふうにも見えないし、好みと言われるほど、芸術的詭弁を発信してる風でもなし。 技術でいったら少し前のダヴィットのほうが数段上だし、画風もドラマチックで明快だ。 逆に印象派のような下手を逆手にとったヘタウマというわけでもなく、まあ上手い日展とかの素人ってレベルだ。 顔がタレーランに似てるといわれるが、ちっとも似てないしよ。 だいたい『七月革命』の絵がもてはやされるって…、そりゃまあ大きな事件だろうけど、歴史的背 景の意義も非常に曖昧だし。 どういうこちゃね。
308 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 17:43:33 0
あの絵は、斃れた国王軍の兵士が何で下半身裸になっているのか理解できない。 なんで?何か寓意でもあるの? ブルボン王朝の存続は不可能だったのかね。 正統王朝なのに勿体無いことをした。 シャルル10世がアンリ5世に譲位した時に、 ルイ・フィリップが摂政になって、 という風には持っていけなかったのか?
309 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 18:14:53 0
ルイ・フィリップは「ナポレオンよりはましだが、それでも簒奪者」 だと正統王朝派の貴族達からは看做されていたらしいな。 多くの貴族は邸宅の鎧戸を鎖して正統王朝の為に「喪に服した。」 ルイ・フィリップの宮廷も資本家やごく一部の貴族の寄せ集めの感があったようだ。 その代わり国王一家は至極家庭的だったとか。
>>305 資本家・労働者という区切りはないが、保有財産や年間に支払う家賃・地代の額に応じるので、
結果的に資本家やブルジョア、ジェントリ(郷紳)に選挙権が偏った。
これに抗議して、選挙権拡大を求める労働者らがチャーティズム(人民憲章運動)を起こした。
英国には地方行政区分としてカウンティ(州、農村部)とバラ(都市部)があり、
カウンティに住むのがカントリーマン(田舎者)、バラに住むのがブルジョア(都市民)。
改正以前の選挙法では、下院の選挙権は年価値40ポンド以上の有産者とされていた。
1832年の第一次改正では、以下のものに選挙権が与えられた。
州選挙区:年価値10ポンド以上の自由・謄本土地保有者と、年50ポンド以上の地代を払う借地人
都市選挙区:年価値10ポンド以上の家賃を払う者
1867年の第二次改正では、以下のものに選挙権が与えられ、選挙権所有者は倍増した。
州選挙区:年10ポンドの地代を払う定期借地農と謄本土地保有者
都市選挙区:1年以上にわたる住宅の占有者たる戸主と、1年以上にわたって年価値10ポンド以上の貸間に居住している者
この頃の工場労働者の年間賃金は30ポンド前後という。
その後も何度か改正が続き、男女普通選挙が成立したのは第一次世界大戦後になる。
http://www.kobemantoman.jp/koukourekishi.htm http://www.satani.org/sur/sur070.html
外交的な失敗で対外的な権威は揺らいでいたものの、 内政面で安定してて、統治も支持基盤も盤石だったはずのナポレオン三世の帝国が、 なぜ普仏戦争の敗北だけで崩壊してしまったのでしょうか? 普通なら講和して賠償してそれで終わって、 体制が崩壊することはありませんよね?
10万の大軍率いて出撃したのに1ヵ月半で皇帝もろとも全軍が降伏して捕虜になり、 元帥も17万の大軍を率いていながら大して戦わずに降伏し、 アルザス・ロレーヌを奪われたばかりかパリまで占領され、 敵国王がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位したっつー体たらくなのに、 誰がそんな皇帝を支持するか。
ナポレオン三世の利権に絡む人が支持すると思います
314 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 20:38:22 0
>>52 亀レスだけど、少なくとも14〜15世紀ぐらいまではヨーロッパでは
諸侯の力が大きい国は多かったでしょ。
フランスやドイツ、モスクワ大公国なんかでもその位の頃までかなり
諸侯の力は強かったしね。
ルイ14世の頃のフランスでさえ、貴族勢力は結構強くて中央集権化は
ゆっくりとしか進まなかったし。
まあボナパルティストはいたけど、皇帝の権威も吹っ飛んで、英国へ亡命しちゃったしなあ 敵軍が駐屯してるうえに民衆暴動も起きてる状況で「皇帝支持」とか言ったら吊るされそうだし
>>314 その頃のヨーロッパで諸侯の力が弱い国があったら教えてほしい。
317 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 21:03:10 0
古代ギリシアの頃のペルシア軍兵士って、 モンゴロイド顔だったんですか?
その通り。ペルシャは鼻が低くのっぺりとした顔つきで、 尚且つ黒人みたいに肌が黒かったらしい。 対してアレクサンドロス三世が 率いたギリシア軍は金髪碧眼長身で古英語(現在のドイツ高原語)を話していた。 彼が東方で集団結婚式を挙げたので占領地のインド人も鼻が高くて白人みたいな 風貌してる。
320 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 21:21:32 0
>>288 完全にそうとは言えないかもだけど、かなりそういう面はあるよ。
辛亥革命以前に出版された『革命軍』という本の中には、
「わずか500万人の禽獣同然の満州人を皆殺しにし、260年間残虐に耐え忍んできた
大恥辱を洗い流さん」と書いてあるんだけど、そのように強烈な民族意識で
革命をとらえる人も少なくなかったんだ。
実際にこの本が中国の国内外で100万部以上も売れていることも考慮すると、
ナショナリズムと満州人に対する反感が当時そうとう高まっていたことは疑いないと思う。
こうして清朝の鉄道国有化問題に反対する暴動と、各地の革命軍の呼応が
あいまって革命が起こったんだね。
映画「300」ではクセルクセスが黒人だったな。
ありえんだろ
323 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 21:43:17 0
>>316 確かに弱い国あったら俺も知りたいw
その頃のヨーロッパの諸侯って大体どこの国でも力あったからね。
14〜15世紀よりは前の時期だが、イギリスのノルマン朝は征服王朝だったこともあって王権は強かったよね。
でも、諸侯の力が弱かったと言い切れるレベルでもないだろうしなあ。
>>323 スウエーデンのヴァーサ朝あたりは比較的王権が強くて、諸侯が弱いイメージがある。
325 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 22:25:28 0
>>321 その映画じゃ、顔出しの主なペルシャ人がほとんど黒人だよな。
モンゴル顔というならまだしも、なんで黒人やねん。
ギリシア人が古英語を話す、ってどういうことやねん。
単に今夜「300」がテレビでやってるだけだろ。
>>325 あれは視聴者に人種主義的な嫌悪感を催させようとして完全に失敗した良い例だよ。
『300』はペルシャをアメリカ、スパルタをキューバ辺りと置き換えて見てみるとかなり面白い。
圧倒的に富裕で最新の兵器を使いこなし、様々な人種から成る腐敗したペルシャ帝国はイラク戦争のアメリカのアナロジーとして見ることが可能だし、
貧しく原理主義的だけれども、強い精神性を持った小国スパルタはジャコバン的な社会主義者のアナロジーみたいだ。
>>323 ポルトガル
329 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 22:57:19 0
>>324 改めて詳しく調べてみたんだけど、同時代ならば
やはりノルマン朝は他のヨーロッパ諸国よりは圧倒的に王権が強かったようだ。
征服王朝であったことと、封建制のシステムに関係があったみたい。
封建制は他の国は擬似的に他の有力者に王が土地を与えるだけだが、
ノルマン朝では王が直接奪った土地(ヘプターキー7王国)を諸侯に配分していたし、
王が国土に持つ所領の割合も他の国よりも多かったとか。
さすがにこれだけ条件が揃えば諸侯の力が弱かったと言えるかも?
少なくとも他国と比べものにならないのは疑いようはないけど。
330 :
世界@名無史さん :2010/05/09(日) 23:12:30 0
>>328 ありがとう。
そういや、ペルシャとは違うが学校の試験で
『古代ローマを現在の国家に例えるとどこか。その理由も答えよ。』
みたいな問題が出題されたことがあったなあ。
そりゃ酷い悪問だな アメリカとでも答えておけばその教師は満足したのかい?
>>310 ご回答&URLありがとうございました。
>『古代ローマを現在の国家に例えるとどこか。 現代中国 >その理由も答えよ。』 サビニ婦人の略奪に見られるように、他者から見て迷惑千万な 行為でも、愛国的で勇敢・熱情的と自讃するところなど 古代ローマも広いし、見方を替えりゃどんな答えも出てくる 回答:日本(理由:国民が風呂好きだから)
古代ローマにもフルーツ牛乳はあったのかなぁ
映画300は、序盤でのスパルタも、十分蛮族扱い ペルシアはそれ以上の蛮族扱いってだけの話 ギリシャもペルシャも、ハリウfッド的には蛮族
>>328 あれは自由と正義のために戦うスパルタがアメリカで
独裁者と隷従のアジア人がイラク人じゃないの?
崇高な使命で命をかけて戦っている中小賢しい連中が戦争に反対するがそいつらは愚か者で
放っておいたらテロという脅威に国を蹂躙されてしまうぞと
今ギリシャで起きてる暴動は、こんな300みたいな連中が暴れてて、 こんな300みたいな警官がそれを止めようとしてるんだろ。 世界の株価の暴落はこの程度で済んでよかったと思うべき。
338 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 13:32:23 0
な?アレクサンドロス神話とかヘレニズム神話を唱えてるやつが どんな奴かわかっただろ?300の世界観を日本人は信じてるんだぜ。バカだねえ。
/、____ ___ミ ,イ{_} |_(_)_j.(.)| r- . |j ,ィ=‐ ─‐-外ニ . Y、 f三f=tァ | |::. Vシ ` ̄ .::ヽニ ばっかじゃねえの? |〈_.,.r、ー、 ,ィ|ソ `笊竺竺ミ i|l|lfュ |l ゝ-イ ノl|l|l「 /livili|l|{il|イl|l|l|ソ ヾl|l|l|l|l|l|l|l|イ´ 、(こ`^「 ノ /ィ
特殊例を「日本人は」に摩り替えるのはやめてくれ
あの映画のギリシャの白人軍は現在の英王室を中心としたWASPを 現してるんだわな。ダメリカって本当に分かりやすくて面白い。
342 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 17:19:48 0
ナポレオン戦争以後から第二次世界大戦の間の近代において、大型河川で海軍が戦闘或いはその他の軍事行動をした例を知っていたら教えてください。 ちなみに私はパラグアイ戦争のみ知っています。
343 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 18:43:21 0
米軍駐留経費負担のうち、日本の「思いやり予算」にあたる「直接支援」で比較すると 日本(34億5千7百万ドル)は2位の韓国(4億6千5百万ドル)の7倍超。ドイツ(8百万ドル) の432倍です。同盟・友好国24カ国全部合わせたものの、4.6倍にもなります。 在日米軍が使用する面積は東京23区の1.6倍
344 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 18:46:03 0
ペルシア人って黒人だったの?
34億ドルが高いか安いかという問題だと思うが まぁ安いだろ、確実に 5兆も使ってる自衛隊をもっと縮小すればいい 陸上自衛隊とか何に使うんだって思う 専守防衛なら日本は空と海を守るしかないだろ だいたい現代の戦争は人員数より質なんだから自衛官は減らして兵器を拡充しろ それか自衛官に公共事業や海上保安庁の業務などを一部やらせろ
南北戦争では河川砲艦がけっこう活躍した。 1862年2月10日のエリザベスシティの水上戦、1863年1月9日のアーカンソー・ポストの戦いなど。 米英戦争でも水上戦闘は多かったが、これはまあナポレオン戦争中か。
一次大戦で植民地の奥地まで河艇で運んで何かやってたね>英や独とか 組織系統的に海軍なのかは知らんけど 日中戦争、長江や珠江のかなりのところまで、駆逐艦や水雷艇が遡上した これは海軍の所属で間違いない 他に平底の砲艦とか巡視艇を大河用に常備してたけど、海軍の管轄なのかな?
348 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 19:22:48 0
342は、「”海軍”なのに河川や湖沼で活動するのはこれいかに?」と言いたいんだろうさw
モンゴルが中央アジアや中近東や中国や東欧と言ったありとあらゆる土地で勝ちまくれたのはなぜですか? 遊牧民が強いと言っても、一つの民族集団がこれほど広範囲にわたって征服を続けた例は、 皆無のような気がします。他の遊牧帝国とモンゴルは何が違ったのでしょうか? ナポレオンやヒトラーですら征服できなかったロシアですら、 モンゴルはあっさり征服してますよね?
一つの民族集団じゃないよ
モンゴルはクソ寒いモンゴル高原で生き死にしてきた連中なので、ロシア名物の冬将軍攻撃が効きません。 焦土作戦とかも、スキタイ以来遊牧民のが本家。
352 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 20:38:18 0
ある欧州騎士「やぁやぁ遠き者は音にも聞け近き者は寄って見よ。 我こそは武運赫々たるボレスラフ大王の第一の家臣トルロワ侯爵 オゲギャギャオゲギャムッウーッウーオゲギウーオゲギャムッウーッウーッオゲウーオゲギャムッウー・・・」 モンゴル兵「まずは訳のわからんことを怒鳴ってるあいつからやっつけろー」 ある欧州騎士「うわ、なにをする。まだ名乗りは終わってないぞ・・・ あ゙ーーーっ、やられたーーーっ」
353 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 20:47:36 0
>>344 モンゴロイドだよ。たぶん、朝青龍とか白鵬とかと同じような顔。
>>176 どう考えても暗殺。死亡のタイミングと後の段取りが都合よすぎる。
やったのは孫文たちというよりは北京政府内部の人間の仕業だろう。
355 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 21:04:58 0
FIDファイルで落としたエロ動画をFLVに変換できません。 どうしたらいいでしょうか?ファイルの名前変換でも出来ませんでした。
356 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 21:32:27 0
始まったときからなんだかつまらなかったが、 クセルクセスが黒人だったところででさすがにあまりに馬鹿らしくて見るのやめて映画館でた>300
357 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 21:33:46 0
>>344 ペルシャ人はアーリア人で白人だよ
ペルシャの前はあの地域はイランと呼ばれ、イランとはアーリア人の土地の意味
そして今の国名もイラン
つまり、アーリア人の国という意味
358 :
世界@名無史さん :2010/05/10(月) 21:39:10 0
しかし、イル・ハン国時代のミニアチュール(細密画)を見ると、 描かれているペルシャの貴族は中国人と見まごうようなナヨッとした容姿で、 のっぺりした薄味の顔なんだが。 とてもコーカソイドやアーリア人には見えない。
>>358 まず、イル・ハン国の支配層自体がモンゴル系遊牧民
そしてダリウスやクセルクセスの時代のペルシャはいつだ?
ペルシャ帝国の君主がモンゴル顔だったら、なんとなく親近感を覚える。
>>349 「あらゆる土地で勝ちまくれた」はあきらかに言い過ぎ
東南アジア方面ではチャンパなどに侵攻したが、結局は失敗している
特に、ベトナム人の密林ゲリラ戦には(後にアメリカ人がベトナム戦争で苦戦したのと同様に)
苦しめられた
インド方面にも何度か侵攻したが、ハルジー朝に撃退されている
中東では、アイン・ジャールートの戦いで、後にマムルーク朝エジプトの王となるバイバルスに
撃破されて、シリア侵攻に失敗
日本を攻めた弘安の役は言うに及ばず
とうてい「あらゆる土地で勝ちまくれた」とは言い難い
>>362 あと、ジャワでも負けてるね。
まあ、あれだけ無節操に攻めまくれば負けが多くなるのも当然。
それでも幾多の国を滅ぼしてあれだけの広大な領土を黄金の一族で支配したんだから、
あらゆる土地で勝ちまくったって言っていいんじゃないの?
モンゴルが征服した中央アジア、中国、中近東、東欧、いずれも気候も風土も文化も全然違う土地だぞ。
そんなに転戦しまくって、征服できたのは、
これまでの遊牧民族が手を伸ばさなかった地域まで無節操に攻めまくったからかな?
それ以外にもモンゴル特有の強みがあるような気がしてならないんだが。
ユーラシア全体に、これといって図抜けた強国がない分裂状態だったのもある シナは金と南宋と西夏、中央アジアは西遼とウイグルとホラズム、 中東はアイユーブ朝やテュルク・フランク系諸侯国、ルーシはキエフ公国が分裂中 ビザンツ帝国も同時期にフランク人が滅ぼしてしまって、ラテン帝国とニカイア帝国になっとる それにモンゴルはいわば「多国籍部隊」で、有用な人材や兵器はどんどん取り入れた 投石砲や火薬もモンゴルの遊牧民が開発したわけではないし、情報戦にはムスリムの商人が活躍した さすがにあまりにも広がりまくって、各ウルスの連携が取りにくくなったが
>>364 風水師がカレーズの水脈発見して渇水攻めとか
人材起用が半端ではなさそうだ。
征韓論から韓国併合への流れについて 不平士族の再就職先、日本本土の防衛戦略、植民地獲得での経済繁栄など さまざまなことが目的として挙げられていますが 当時の日本側の、庶民レベルでの世論というのはどういうものだったのでしょうか ひょっとして未開な隣国を開国してさしあげよう的な押し付け善意が多数派ですか?
今のイランでも白人っぽい顔の人、青い目の人はいるよ
>>366 韓国併合の先駆として台湾問題があります。宮古島の商船が島嶼である台湾に漂着した際に船員が殺害されました。
既に開港していたはずの清国が誠意の無い対応をしたことが原因で、台湾人を征伐せよという世論が興り、台湾出兵が行われています。
1860年 北京条約 清国開港(台湾も含む)
1871年 牡丹社事件@台湾
1873年 征韓論下野事件
1874年 牡丹社事件未解決 → 台湾出兵
1877年 西南戦争
1894年 東学党の乱→ 日清戦争
1895年 台湾割譲
1897年 大韓帝国成立
1910年 日韓併合
未開な隣国という意識は、牡丹社事件をきっかけに発生したかもしれませんね。
もちろん、これは1874年を近隣諸国が庶民レベルの視野に入ってきた原点とした場合の話です。
369 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 07:36:48 0
クセルクセスはむしろ金髪碧眼の白肌だった可能性が高い 当時のアーリア人の上の方の社会層はみんなそう 彼らは征服した土地でだんだん原住民と混血して代わっていったが、 古代ペルシャ時代はまだ最高の社会階層は原住民との混血が進んでおらず、美しい白人
370 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 09:08:20 0
女真・満州族って遊牧民なの? なんかイマイチ彼らの実態が分からない。 名前や髪型や服装はモンゴル人とそっくりだがゲルで生活してるようではないし 彼らの住んでいる満州地方って大草原や砂漠と言うよりも薄暗い森林とか荒地みたいな所でしょ? 何だか気味悪いよね、「七大恨」とかそんな精神してる連中だからあまり快適な暮らしを送れてないんだな
371 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 10:04:41 0
高校の副読本で覚えた、Xerxes:ザークスィーズ、Drius:ダライアス、Thermopylae:サーモピリー、Sparta:スパータ などが40年過ぎた今以て耳から離れない。
372 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 10:14:49 0
Drius:ダライアス→(訂正)→Darius:ダライアス
インドのカースト制度も、もとはヴァルナ(色)といって、 白い肌の征服者(アーリア人)と黒い肌の被征服民(ドラヴィダ人、ダスユ)を分けるためのもの。 まあ日焼けして褐色になったアーリア人もいただろうけど。
ま、映画「300」は蛮族・大日本帝国をイメージしたもんだから、クセルクセスが白人じゃあマズいだろw 言ってることはエラソーな「武士道」だが、騙まし討ちでも何でもありの侵略行為 戦国武将に似せた指揮官 忍者のイメージそのままの戦闘部隊 他国の技術をパクったとりあえずの最新兵器 基本的人権も無い「臣民」という名の家畜人ども これらに加えて「現人神」とくれば、もうそのまんまだもんww
と、朝鮮人が申しております。
376 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 13:26:29 0
>>370 牧畜民だったが遊牧をしている部族はそう多くなかった
東シベリアの森林のように豚などのの家畜を飼える土地であればそういう定住型の牧畜を行い、
土地が痩せてくるとだんだん移動するようになってついに遊牧民となる
豚は移牧に向かないからだんだんと羊に移行する
古代ゲルマン人の生活と似たようなもんだな
>>377 ゲルマン、スラブ、バルトな
つまり東南欧の故地から離れて北ヨーロッパに出て行った印欧語族の北方集団
寒冷な森林の民同士、生活様式に似る部分で出るのもしかたない
380 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 14:18:37 0
満州族による中国や朝鮮への南下支配はゲルマンやスラブによる 西・東ヨーロッパにおけるそれぞれの南下支配と構造が似ている
でも満語を喪失してしまい、単語レベルで漢語の中に残るのみ。 ゲルマンやスラブはそういうことが無い。
382 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 15:09:04 0
イベリアに行っちゃったゴート人やフランスに行っちゃったフランク人やシチリアに行っちゃったノルマン人は? ダキアに行っちゃったスラブ部族も
383 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 15:09:57 0
中部イタリアにいっちゃったランゴバルド人とかも
満州族の属するツングースに関しては エベンキ族がモンゴル族と同化、オロチョン族は極めて少数化 スラブやゲルマンみたいに元々の言語集団が残っていないんだっけ?
何千年も遡れば、山西の黄土高原のあたりも森林に覆われており、 それがずーっと連なって遼東や満洲まで延びていた。 そこにいたのが北狄や山戎で、のちの満洲族とそう変わらない狩猟牧畜民。 遼東や満洲に居残ったのが東胡や粛慎(ジュルチン)、南下したのが商(殷)人であろう。 ツングースとは東胡の転訛というより、テュルク語で「豚」を意味するそうで、 遊牧民が卑しむ豚を飼っていたことからの蔑称という。 商の始祖である契は、天帝の妃「簡狄」が玄鳥の卵を飲んで産んだとされる。 同様の神話は東胡の末裔たる鮮卑や夫余、高句麗、韓族、満洲族にも伝わっている。 なお金の完顔部は、始祖の函普が「高麗」から来たと『金史』に明記される。
どっかの辺境に移住させられた少数のグループがいて、結果的にそこにだけ、満州語が 残ってたんじゃなかったっけ?
>>385 感精型神話は豊臣秀吉にもあり、小瀬甫庵(1564-1640)の《太閤記》にも
"母懐中に日輪入給ふと夢み、已にして懷姙し、誕生しけるにより"という表現があります。
>>386 新彊の錫伯族の中に3万人ぐらい話せる人がいるみたいだ。錫伯族籍自体は約20万人。
モンゴルは有名な狼祖伝承だが、チンギス汗の先祖ボドンチャルは日光感精で生まれてるな 遠く離れたギリシャ神話にも、黄金の雨によってペルセウスが孕まれたとかはあるが
>>357 映画「300」ではペルシャ人は黒人でした。あとアレクサンドロス三世が
滅ぼした都市にも黒人とイスラム教徒のテロリストがいたのは余りにも有名。
イスラム教が生まれるはるか前の時代なのに…
でアレキサンダーは金髪碧眼長身で、 古代ギリシャ連合軍にはドイツ人とイギリス人たくさん居た。 そしてモンゴル帝国を上回る征服地にキリスト教を広めたんだそうな。 そのときのアレックスの言葉「私は勝利を盗まない」だったのは 余りにも有名。その後も世界征服できたが部下が「カラードをいじめるのは 健康に良くない」と進言したのでロンドンに帰って死んだ。彼の 子孫にニュートンやダーウィン、ブッシュ一族などがいる。
江戸時代の日本には「アレキサンデルという大王がキリストの教えを広めた」という珍説があったらしい。 (講談社現代新書「キリスト教と日本人」より)
アレクサンドロスは白人の心の支えなんだよな。彼に黒人の形質(髪の毛が チンゲみたいに縮れてる)とかあったら、かなりファビョルよw
オーストラロイドも黒っぽい肌に金髪縮れ毛ですが。
当たり前だろ。オーストラリアまで行ったアクキサンドロス三世の 軍隊が現地で「集団結婚式」を挙げて白人の形質を残したんだから。
396 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 19:36:12 0
ええいくだらん、ええ加減にしなさいっ 次だ次
じゃあ話題を変えよう。 「古代ギリシャ人は英語の他にどんな言語を話していたか?」
韓国語に決まってるだろ
日清戦争で、戦ってたのが北洋軍だけで、 その主力が失われたから負けたというのは分かるんですが、 清政府はどうして他の地域に駐屯している軍隊を動員して、 日本軍に当たらせようと思わなかったんですか? 洋式化して最新鋭の装備を揃えた軍隊は 北洋軍以外にも多数あったと記憶しています。 それらの軍隊が一斉に動けば、 国力が圧倒的な清は簡単に日本に勝てたと思うのですが。
その当時のチャイナは欧米ラテン白人などに輪姦(まわ)されており、 とてもじゃないが日本の軍だけを追い出しに軍をかき集める、なんて ことはできなかった。支那のオマンコにはイギリスのブラッドプディングが、 ケツの穴にはフランスのパゲットが、口にはドイツのヴァイスブルストが、 他にもありとあらゆる穴という穴に白人のディックが刺さってた。 そんな状況でどうやって日本だけを追い出せる?バカいうなよ。
中国の郷紳は共産党政権で根こそぎ根絶されたけど、朝鮮版郷紳ともいえる両班は韓国に残ってて 田舎では隠然たる勢力を保持してたりはしないの?
>>399 北洋通商大臣をもって北洋軍と呼ぶのはありでしようが
清国の時代は、まだ北洋軍閥と固定された呼び名があるかどうかチト疑問です。
××総督 ××巡撫と呼ばれた地方軍をむやみやたらと動かすと
地方の治安維持や国境監視に影響があるので、動員しずらい面がありますね。
特に、陝甘総督軍とか東三省総督を動かすのは、ロシア絡みになるので
アイスホッケーでいうパワープレイに相当してしまいます。
403 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 20:11:42 0
女真・満州族は狩猟民族と言った方が適切かな? しかしどうも彼らは農耕もおこなっていたらしい、それでいて漁業や牧畜も営んでいた アイヌとかと似たような生活様式でもあるな それと住居はゲルではなく木造のバラック小屋や地中を掘り起こした穴蔵みたいなのらしいぜ なんというかコイツら全体的に不気味なんだよね しかも薄暗く湿気った気候で縄張りに迷い込んできた漢民族や高麗人を見つけて集落に拉致していくんだぜ? ましてやあんなツングース系の顔立ちなんだから尚更気持ち悪いよな あの徽宗や欽宗もさぞかし怖かったんだろうな
>>399 広い支那の南から北へ兵を動かすだけで一大事。無理。
そもそも大清帝国の正規軍なんてものが何の役にもたたないからこそ
軍閥なんぞに大権を授与してるんであって、他の軍閥にとっては
担当地域外での出来事に関しては権限が無いので動きようがない。
さらに言えば、他の軍閥から見て、別の軍閥の兵力が削がれるのは
悪い事ではないので動くメリットがない。
唐末の藩鎮みたいな連中に「蛮族が攻めてきたから遠征して戦え」と言っても動かんわな。
西太后のせいで、お金もなかったし
当時の軍閥らしい軍閥って北洋だけじゃないの 東北軍閥だって北洋から出たんだろ
軍閥のよりどころって何ですか? 財閥なら企業、学閥なら学校ですが、軍閥なら軍隊? 正規軍では共有されない意識が軍閥なら共有されるとは?
>>408 学閥とか派閥とは意味が違いますよ。
漢民族なんていっても、地方地方によって元の異民族の文化が濃くなっていくから
全国一律の正規軍なんてのが無理なんです。
唐末の藩鎮みたいにならないためには、行政官のように定期的に異動させるのが一番ですが
口語が地方地方によって違うので、治安維持や金融経済は現地勢力を使わないと治まらないのです。
>>408 軍閥のよりどころは指導者にとっては軍隊と土地。
兵士にとっては飯が保証されてることと仲間意識と地元意識。
日本で言う「戦国大名」が近いかもしれん。 薩長閥とか閨閥とか陸軍閥とかは、体制内部に入り込んでいるから別次元。
412 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 22:20:12 0
軍閥ってのはつまり「赴任地からアガる収益」を中央政府に送らず(数を ごまかす)、中央からくる異民族撃退のための支援物資をフトコロに入れて地域の首長などに 勝手な采配で分配してやるわけよ。そしてその内「旗揚げ」して皇帝に なるための実力総選挙に出て最後まで生き残ってたのが次の皇帝。支那は この歴史の繰り返し。
>>401 両班は素封家なので、道とか広域市のレベルまでの影響力を持ってませんでした。
しかし、もっと狭い地域限定でならば勢力を持ったはずです。
その辺は、特化した板で個別に聞いていったほうがいいでしょう。
>>409-412 民族なんてのは想像の共同体ですが
それを共有し得ないほど言語が分かれているということですね
地方閥と呼ばないのが不思議なぐらいに
>>414 軍閥なんて日本語訳がよくないんだろうね。
416 :
世界@名無史さん :2010/05/11(火) 22:41:41 0
Warlord → (日本語) 軍閥, (漢語) 軍閥 どっちが先なんだろw
>>401 財閥、サムスンなんかの創始者は地方の両班で大地主だったそうだから、まさにそれだろうけど
確か俳優にも両班の一族で、実家は立派な伝統家屋ってのがいたはず
まあしかし両班身分自体併合時代に廃止されてるし、両班の資格として官吏としての奉職以外に
肉体労働しちゃいけないってのがあったから、そうそう意識も変えられなかった人びとは
その後の親日だ反日だってのと朝鮮戦争も合わせて大体淘汰されちゃったんじゃないの
中国映画「ウォーロード」の中国語原題は「投名状」だったな
大日本帝国が存続してたら今の韓国みたいな国になってたって本当?
421 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 09:49:34 0
知るか!
ハプスブルク家の、マリア・テレジアの棺についてです 正面の骸骨がかぶってる王冠 背面に刻まれた2つの王冠 3隅の女性がそれぞれ持ってる王冠 ・神聖ローマ帝冠 ・オーストリア大公冠 ・ボヘミア王冠 ・ハンガリー王冠 それぞれこれのどれかだと思うんですが、数が合わないんです 詳しい方いらっしゃいませんか?
>>385 >天帝の妃「簡狄」が玄鳥の卵を飲んで産んだとされる。
どうかんがえても嫁の不倫のメタファーです
どうもありがとうございました
424 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 11:42:22 0
>>403 森林が豊かだから農耕もやれば牧畜もやり狩猟もやり漁業もやり採集もやりで、
牧畜を除けば日本の縄文と似たようなものでは?
425 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 11:57:34 0
>>422 帝国、ドイツ王国(女王として)、オーストリア大公国、ハンガリー王国、
クロアチア王国、ボヘミア王国、マントヴァ候国、ミラノ公国、
ガリツィア=ロドメリア王国、南部オランダ、パルマ公国、トスカーナ公国、ロレーヌ大公
帝冠1、王冠5のはず
426 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 12:04:44 0
結婚して、ってのを除く(皇帝は別と考える)と 帝国、オーストリア大公国、ハンガリー王国、 クロアチア王国、ボヘミア王国、マントヴァ候国、ミラノ公国、 ガリツィア=ロドメリア王国、南部オランダ、パルマ公国 となり、帝冠1、王冠4、大公冠1の計算
アナトリアの一君侯国だったオスマンが、やがてアナトリアやバルカン半島を制圧し、 中東やエジプトまで支配して、地中海世界を支配するターニングポイントになったのはどこでしょうか? 長年の地道な積み重ねによるものですか? それとも、どこかでオスマンの発展を運命づける名君が出現したり、 決定的な改革が行われたのですか? そういう決定的なことが一度ではなく何度かあったのなら、 全部教えていただけるとありがたいです。
太郎2世(○○王としてはターロウ3世、××王としてはタロー1世) ヨーロッパ人は何故別の名前をつけませんか
ラテン語ではタロルスで統一されます。
>>428 ヨーロッパではもともと名前のバリエーションが少ないうえに、
貴族や王族の家柄だと、家ごとに伝統的に良く使う名前が決まってるから。
あと、ヨーロッパでは親子が同じ名前なんて事も珍しくない。
>>427 オスマンの子オルハンがブルサを首都とし、初めてバルカン側にも進出。
オルハンの子ムラト1世がバルカン側のエディルネを首都とし、イェニチェリ軍団を作り国制を整備し、
エジプトのカリフから「スルタン」の称号を得て実質的な帝国を築く。
ムラトの子バヤジットは欧州の十字軍を撃破するが、ティムールに敗れて帝国は一時崩壊。
それでもなんとか再統合を果たし、ついにメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼす。
しばらく国内を整えたあと、セリム1世の代で一気にエジプトのマムルーク朝を撃破、
シリア・パレスチナからアルジェリアまでを飲み込む地中海帝国となる。この膨張は火砲をいち早く導入したことも大きい。
スレイマン1世(大帝)は欧州・中東に遠征して勝利を重ね最盛期を築くが、以後は大宰相に国政が委ねられ、基本的に守成の時代となる。
432 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 21:01:20 0
>>423 偉人の出生はすべて吉兆がないとダメなの。黒い鳥(高貴な男性の象徴)、
なんて最高の祝辞だよ。劉邦は竜の子孫だしね。
433 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 21:47:26 0
>>427 二代オルハン:オスマン朝で最初の本格的首都プルサを整備。
三代ムラト1世 :征服地を大幅に拡大。中央集権化を大幅に進める。
当時最も先進的な組織と技術を持ったイェニチェリを初めとする常備軍を建設。
七代メフメト2世 :コンスタンティノープルを陥落させる(これが一番オスマン帝国の発展の上では大きいんじゃないかな)
陥落後、公衆浴場・賃貸店舗・ハンなどの施設を作り、東西交易の一大中心地としたことにより、経済力が大幅に上昇した。
また、同都市の人口回復を図るため、帝国各地からの自発的移住や強制移住を行ったが、その中の非ムスリム達も大変貢献した。
より具体的に言えば、彼らの持つ種々の技能やネットワークが役に立った。
9代セリム1世 :チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝に大打撃を与え、その脅威を当面取り除く。
彼の最大の業績は、マムルーク朝を滅ぼしてイスラム世界の古来からの中核地域であるエジプト・シリア
を支配下に置き、かつ二大聖都メッカ・メディナの庇護者となったこと。
これにより、オスマン帝国はイスラム世界において高い権威を持つに至り、イスラム世界を代表する国家となった。
また、オスマン帝国の経済の基は遠隔地間商業の利益と農業生産にあったが、
カイロは当時の地中海世界を代表する国際交易都市であったし、エジプトそのものも優れた穀倉地帯であった。
10代スレイマン1世:この頃がオスマン帝国の全盛期。
対外発展の時代でもあったが、対内的にも君主専制・中央集権的な帝国体制が確立した時代でもあった。
彼は何度も親征を行い、領土を大幅に拡大し、
海軍もアルジェリア水軍の長であるフズール・レイスの帰順により、巨大な海洋戦力を持つに至る。
スレイマン1世の『君主専制・中央集権的な帝国体制』については具体的に書くべきだろうけど、
大体こんなもんかな。
日露戦争の戦死者数って、両軍とも十五万人そこそこだけど これって10年後に起こる第一次世界大戦と比べたときに圧倒的に少なくない? ロシアはあまり本腰入れて日本と戦争してなかったってこと?
二国間戦争と世界大戦じゃ違って当然っていうかー
436 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 22:06:34 0
>>434 その頃のロシアは第一次革命が起こってて、力をフルに出せなかった面もあるし、
第一次世界大戦のような航空機・潜水艦・毒ガス・戦車といった新兵器がまだ使用されてなかったことが大きいんじゃないかな?
厳密に言えば潜水艦は南北戦争の頃にもあったけど。
当時の航空機・潜水艦・戦車って殆ど役に立ってなかったぞ。 初めて使用されたから有名になったけど。
奉天会戦も、ほんまはロシア伝統の戦略的撤退で日本軍をヘトヘトにさせたんだが、 ロシア側も大被害を被って士気も下がるわ、総司令官は皇帝に罷免されるわで、しばし反撃不能になってしまった。 この間にバルチック艦隊が来てたから、これで海軍をぶっ潰して猛反撃すべえ、と思ってたら日本海海戦で負けちゃうし。
439 :
世界@名無史さん :2010/05/12(水) 23:40:27 0
>>437 少なくとも潜水艦はかなり役に立ってたよ(特にドイツ)。
その他のはある程度って感じだけど。
一番の理由は重火器(特に機関銃)の発達と塹壕戦の広まりによって戦争が長期化し、
総力戦という戦争形式が生れたことじゃない?
>ロシア側も大被害を被って士気も下がるわ、総司令官は皇帝に罷免されるわで、しばし反撃不能になってしまった。 というよりロシア軍の多くは実はポーランド人で初めからロシアのためになんか戦う意思がなかった。 そのためポーランド地下政府と日本政府がポーランド人兵士の大量脱走を謀って、 ロシア兵が日本軍側へ突撃してきたときに彼らが「マツヤマ!」と叫べば撃たないで 彼らを日本軍陣地へ迎え入れることにした。 計画はうまくいき、大量のポーランド人兵士が日本軍に無事に合流、 国際法にのっとって愛媛の松山の捕虜収容所に送られた。 松山の収容所ではポーランド人たちを暖かく扱い、松山の地元の市民たちもやってきて、 いろいろ差し入れをしたり、ポーランド人たちと酒を飲んだり スポーツや花札をしたり一緒に道後温泉に浸かったりして楽しく交流したという。 その後彼らが母国ポーランドへ帰り、ポーランドの人々に日本で起きた「信じられない出来事」について、 いろいろ話し、ポーランドで「日本人は素晴らしい人々だ」という評価が広まった これはポーランドの親日が決定したできごとであった ロシアが日本を叩き潰そうとした日露戦争の副産物は、 日本とポーランドとの友好を深めるというロシアにとって思いがけない、 あってはならない結果となってしまった。
その後ポーランド陸軍は日本陸軍に最新の暗号法を徹底的に教えてるんだよね 当時はルヴフ学派のポーランド論理学が世界最先端の論理学を 展開していたこともあり
MATSUYAMA!の逸話はもっと知られてもいい
>>444 まぎれもない実話
捕虜収容所からの外出も完全自由で
ポーランド人たちは街に出てきて松山の人たちと交流し、
伊予鉄道は海水浴イベントを開いてポーランド人たちを招待し、
地元の人と楽しいひと時を過ごした
道後温泉での温泉体験は彼らにとって衝撃的だったらしいw
連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅したとき 松山のポーランド人たちは狂喜乱舞し、みなで万歳三唱をした
ブレイブハートでそんなシーンあったな アイリッシュが突撃してきたが近くまで来たら急にニコニコしてスコティッシュと握手っての それと同じか<マツヤマ!
>>448 そっちはロシア人兵士のほうが主体の話だが、
どういうわけか少なかったロシア人の話が強調されているので、
この逸話の主体だったポーランド人が松山で受けた待遇やエピソードが
ほとんど端折られて、副次的な扱いにされている。
ちょっと政治的。
>434 >日露戦争の戦死者数って、両軍とも十五万人そこそこだけど 戦死傷者数 >これって10年後に起こる第一次世界大戦と比べたときに圧倒的に少なくない? 参戦数と死傷者数は比例する比較するのが間違い あと、クロパトキンから「日本が欧州の小国と互角に戦えるまで百年はかかる」と言われるほど 当時の日本は貧しく動因能力も欧米ほどではなかった >ロシアはあまり本腰入れて日本と戦争してなかったってこと? 開戦当初のロシア軍は予備兵が主力。ポーランド兵は一割といったとこ レーニンは日露戦争を評し「最早戦争は傭兵や一部の階層の者達のものではなく全国民に関わる」 と語っている WWTでの戦死傷者が多いのは後方の政治家・軍上層部が前線の実情を知らないまま戦闘を続けさせたから 機関銃を備えた陣地への迫兵突撃は死体の山を築くだけで無駄であることを理解するのに彼らはそれだけの数を必要としたってこと 後のヒトラーの台頭に対し英仏の融和政策と国民の支持には、そうなるだけの理由があった
一割もいたのか それじゃ大量脱走されたら戦局に影響するわな
情報もダダ漏れするしな
しかし、帰国したポーランド人捕虜はロシアに処罰されたんじゃね? 敵前逃亡どころじゃないし
ポーランドが独立して(第一次大戦で独立運動が本格化して)から帰国 彼らのほとんどは独立ポーランド軍に合流 それまで日本政府から充分な生活費を受給して、 松山市内に家を建てて住んだりしていた
そりゃまあそうかって10年以上も日本で暮らしてたのかよ しかしポーランドが話題になると妙に食いつきがいいな
本スレが荒らされまくってるから ポーランドの話したいやつらが板内で難民になってんだよ
>>434 他の人たちが回答していることに加え、第1次大戦では、非戦闘員にも多数の戦死者が出たことも見逃せない
日露戦争の主戦場が中国東北部で、人口密度も低いし、それぞれの相手国の本土ではなかった(地元民の
協力はほしいから、そうむやみやたらと地元の非戦闘員を攻撃するわけにもいかない)
戦死者は戦闘員が中心
これに対し、第1次大戦の主戦場はヨーロッパ
人口密度も高いし、戦争の当事国の領土だ
敵部隊自体や要塞、軍港のような軍事施設だけでなく、都市そのものが意図的に砲撃、爆撃の攻撃対象と
されることが格段に多くなり、戦闘員だけでなく、非戦闘員にも多大な犠牲が出た
また、第1次大戦の戦死者の数字の中には、インフルエンザ(スペイン風邪)の大流行によって前線で病死した
兵も含まれている
ロシアが徴兵制を導入したのっていつからでしょうか。
塹壕戦で膠着状態にあったんだから、民間人の死者なんてたかが知れてるだろ。 戦争から派生した飢餓状態は別として。
>>460 第一次世界大戦で、戦闘員の死者900万人
非戦闘員の死者は1000万人
非戦闘員の方が多く死んでいる
462 :
世界@名無史さん :2010/05/13(木) 12:22:25 0
選挙王制を選んだポーランド=リトアニアは、 いったい何を考えて選挙王制なんて制度を選んだんでしょうか? 王位が世襲じゃないと、王位継承のたびに混乱が起きるし、 選挙で選ばれた王だと力が弱くて、国を守るには頼りないと思うんですが。 選挙王制が世襲王制に優る点があったとでも思ったのでしょうか?
有史において最も規模の大きい局地戦って何ですか ライプチヒですか?
>>463 王の力が強ければ、貴族が押さえつけられる
シュラフタ(ポーランドの貴族)たちが、作り出した選挙王制度なんだから、
王の力が弱い方が都合がいいのは当たり前
混乱だの、国防だの、そんなことは彼らにはどうでもいい話
ローマ皇帝も神聖ローマ皇帝も、中世後期のボヘミア王やハンガリー王も選挙制だが。
>>464 奉天会戦。日本軍25万とロシア軍31万の計56万人が衝突した人類史上最大の会戦。
>>465 それはいいすぎでは?
王だけが国政を考えていて、貴族は私欲だけを考えていたなんてことはない。
>>461 それって戦争による貧困とかロシア内戦を含んだ数値だろ?
>>468 まあ、「どうでもいい」は言いすぎたが、この時代は国家というものへの意識が低かったのも確か
そもそも、国家という概念が今とは違う
貴族の領地はそれ自体が国家内の小さい半独立国だし
貴族にしてみれば、自分の権力や領地の方が王国全体よりも大事だよ
鎌倉将軍とかは宮家を迎えてたこともあるしな 御輿は軽くてパーがいい、とはいわんが… でも貧乏貴族を担いでみたら意外に有能だったりもした事例もある
有能かどうかの基準は庶民からどれだけ搾取できるか、という時代でも 民が強い方がより搾取できるなら迷わずそうすべきではないですかね 愛人に税金をぶっこんだほうがより搾取できるなんて考えるものなんですかね?
>>462 アレクサンドル二世ですね。
ありがとうございました!
>>465 >混乱だの、国防だの、そんなことは彼らにはどうでもいい話
そうでもない
絶対王政による中央集権国家が出現する前はどの国でも常備軍は持たず、
戦争のたびに各地の貴族たちが手兵を率いてきて国内連合軍を作るのがデフォだった
16世紀までのポーランド・リトアニアはそれで滅茶苦茶強かったから、その制度自体に特に問題は
露呈していなかったんだな
そこで制度の欠陥は、周囲の絶対王政中央集権国家との闘争で露呈してきた
しかし問題に気づいたときは時すでに遅かった
特にリトアニアの成り上がり貴族のラジヴィウ家の本家が生意気に公家を名乗って神聖ローマに接近して、
ラジヴィウ王国として共和国から独立しようとした
>>470 >そもそも、国家という概念が今とは違う
>貴族の領地はそれ自体が国家内の小さい半独立国だし
実質上の帝国だったのさ
カトリックの国だから西方教会の秩序に乗っ取って、帝国を名乗るのを憚っただけ
そのかわりRzeczpospolitaすなわち「共和国(=連邦)」を名乗った
r〃〃〃 f7⌒ろ) l‖‖‖ || f灯 |‖‖‖ || | | |儿儿儿._」??⊥厶 〔__o____o_≦ト、 . i / ⌒ ⌒ ヽ ) !゙ (・ )` ´( ・) i/ | (_人__) ∪ | \ \ `ー' / / ー- 、 . ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃 / rク\ . / | ̄r少}¨ ̄〃 / /′ ヽ 〃 l | l| | l| 〃 / / └ヽ / ?E l |l | |l/″ / ! 厂 \ く, Y ! l」fレト! / | / 1 丿 | | 丿} じ’ / | / | / l | `¨ / レ′ | 真の思考停
>>471 >御輿は軽くてパーがいい、とはいわんが…
>でも貧乏貴族を担いでみたら意外に有能だったりもした事例もある
ポーランドの最後の王スタニスワフ2世もそれだ
まるで一橋慶喜のようなタヌキだった
477 :
世界@名無史さん :2010/05/13(木) 23:36:49 0
>>467 奉天会戦はあくまで史上最大規模の会戦であって最大ではない。
起こった当時は有史以来最大の会戦だったけど。
ソンム会戦とかクルスク会戦の方が規模は大きいよ。
これよりも大きい作戦も実施はされてるけれども、完全に局地戦の
範疇を超えてるからなあ。
1日で勝敗決した中ではライプツィヒが最大じゃないの
3B政策・3C政策は日本だけの用語だって言われますが、これらの用語の初出は何なんでしょうか?
480 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 01:52:09 0
>>479 日本で戦前から学術書・教科書ともに使用されていたということだけは間違いないみたいだ。
しかし、その政策を行っていた当時のドイツ・イギリスの本の中にもそのような表記があったという
明確な痕跡は見つかっておらず、この単語が生れた理由は今でも謎となっている。
ただ、第一次世界大戦の戦争責任をめぐる論争が1920年代に行われ、
その頃アメリカの研究者がドイツの「B−B−Bの政策」に、他方ドイツの研究者も
イギリスの「ケープーカイロとカイローカルカッタを結ぶ野望」について言及しているそうだ。
日本でもその頃アジア進出の機運が高まっていたから、そのような議論について関心が生れた可能性が高いみたい。
だから1920年代か30年代始め頃の日本の学術書辺りが初出なんじゃないかな?
教科書だと研究の成果を反映するのに最低でも5〜6年はかかるからね。
あんまり参考にならなくてスマン。
>>463 特に強い王はいないが、対外防衛上だれかを立てて
結束しなければならない場合、そうするしかない。
>>474 ありがとう。俺が言いたかったことを言ってくれた。
もちろん今と国の形は違うのは当たり前だけど、どの国も等族議会を持っていて貴族が政治に関与していた。
政治に関与する、あるい政治権力を欲するということは、愛国心というか国家への帰属意識がなければできないことだとと思う。
なんつーか高貴なる義務とでもいうやつかな。
ヨーロッパの議会制はそういった等族議会の系譜を引いていると思うんだよ。
フランス大革命だって三部会から起こったもんだろ。
>>482 フランスの三部会や英国の議会は、もともと国王の側が(主に戦争費用確保目的で)
臨時税の徴収を認めさせるために召集したものだぞ
>>480 ありがとうございます。
戦前の学術書や教科書をすごく読みたいんですが、どうすれば。。。
485 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 07:02:07 0
>>471 >でも貧乏貴族を担いでみたら意外に有能だったりもした事例もある
>>476 ハプスブルク家の皇帝ルドルフ一世もな
>>482 Norman Daviesはこの当時のポーランドの政治制度を評して、
「満場一致と個人の自由の両立を実現していたこの素晴らしい共和国理念は、
王と市民の間に存在する至高の理解によって維持されていた。この理念は
非常に高度に知的な人々によってのみ機能していた。であるから常備軍も持たず、
(フメリニツキーやルボミルスキのような)不条理な叛乱者たちを抑えつける手段も
以前は必要なかった。このポーランドの叡智が残虐な力に屈服したとき、
共和国は崩壊の危機に陥ることになったのである。ルボミルスキの叛乱は共和国の
頭痛であると言われたが、この頭痛は致命的なものだったのである。」
と言っている
彼の言う「非常に高度に知的な人々の叡智」が
その「高貴なる義務=ノーブレス・オブリージュ」のことであるのは言うまでもない
共和国があまりに巨大化して雑多な政治文化を持つ多くの民族を抱え込んだため、
政治文化がポーランドほど成熟していない地方の貴族の身勝手な参政権行使によって、
共和国は崩壊へ至ったのである、ということは間違いない
>>483 つまりパブリック・コンセンサスを形成するためだよ
>>482 ポーランドではすべての貴族が制度的には完全に平等な参政権を持っていたので、
>>486 で書いた「非常に高度に知的な人々によってのみ機能していた。」というのも、
全人口の1割を超えるポーランド貴族(シュラフタ)のすべてのことを指す
これは建国時のアメリカ合衆国で参政権を持っていた人々の割合よりも多い
独立13州のアメリカがブルジョワ民主主義ならば、
ポーランドはそれ以上の貴族民主主義だった
むしろアメリカこそ、ブルジョワ層による擬似貴族民主主義だと考えてもいい
コアであるポーランド王国ではもともとはしっかりとノーブレス・オブリージュの常識があったが、
リトアニアと合同して共和国となり王国版図もウクライナまで拡大していくにつれ、
「ポーランド」の政治文化に馴染まない人々も政治に入ってきてしまったんだな
489 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 10:46:51 0
>>484 国会図書館が一番いいんじゃないの?
一般の古書店では検定を受けた教科書なんて扱ってないしね。
値段は高いと思うが、都内なら神保町とか馬場なんかの古書店にも学術書はあるかもしれん。
しかし、タイトルすら分からないのにそういう本とか論文探すのは難しそうだね。
>>474 >カトリックの国だから西方教会の秩序に乗っ取って、帝国を名乗るのを憚っただけ
>そのかわりRzeczpospolitaすなわち「共和国(=連邦)」を名乗った
ポーランドあるいはポリト連合が帝国に成ろうとした(王が皇帝になろうとした)
形跡は全くないんだが…ソースきぼんぬ
そもそもポーランドは王位の保持者を王国の所有者でなく管理人とみなしており
王の財産と国家財産の別やシュラフタ達を含む全会一致の指針が
quod omnes tangit 全ての者に関わる事は全ての者によって決す と決まっていた
だから神聖ローマ皇帝という「一人だけ突出した位」というものにシラけた態度をとってる
「都市の領主でさえそこの平民の同意なくしてその都市を譲渡することはできない」
(領土割譲を権力者の一存で強行できるお前のとことは違う、という皇帝ジギスムントへの書簡)
「皇帝とは何ぞや。我々の隣人にして我々の王と対等の者である」
(カール4世を激怒させたポーランド使節の言葉)
第一市民(王)と元老院(シュラフタ)と市民というSPQRの伝統を守るのがポーランド「共和国」
であり、皇帝を戴く神聖ローマなどよりよっぽど由緒正しい、という認識であり
帝国と名乗れないから共和国、などというのは全く逆だ
491 :
474 :2010/05/14(金) 12:08:37 0
>>490 あんたの言うのと全く同じ意味で書いたんだが、「憚った」という表現が誤解を招いたか?
ポーランドによるロシア征服を開始したヴァーサ朝の王も
教皇からオファーされた帝冠の戴冠の話を断ってるしね
ポーランド=リトアニア共和国には下位の(準)国家を纏めて
統一国家の形態にしている帝国構造があったが、ただしポーランド人は
ドイツ人が自国を「帝国」と名乗ることの馬鹿馬鹿しさを、一番よくわかっていた
492 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 12:57:30 0
>>484 教科書は『日本教科書大系』がある。けっこういろんなところが所蔵してるよ。
493 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 16:52:31 0
もし日本が ハルノートを受諾して日米戦争が起きなかったら 第二次大戦、戦後はどうなってたでしょうか?
494 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 16:59:21 0
第二次大戦も戦後もありませんがな
495 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 16:59:29 0
>>493 日本の財政政策にコミットして日本国債を買い支え
イコール「復興援助計画」の前倒しでしょう
今のギリシアのなどPIGS諸国の金融支援みたいなのを米国が実施
その代わり満州地域の権益を独占できない制約がつくでしょう
中国では県令を三年やると一生遊んで暮らせるって言われるぐらい、 収賄や税金のピンハネがひどかったそうで、 明代や清代には国家の税収数年分に匹敵する財産を貯め込んでた人間すらいたそうですが、 そんな状況でまともに国家予算なんか組めるものなんでしょうか? 中国は結構派手に公共事業や軍事行動や外交に金をぶっこんでるので、 税金を派手にピンハネされるのが普通の状態でもなお、 莫大な国家予算を組めるほどの経済力があったのでしょうか?
戦間期、アメリカとイギリスどちらが優位に立っていると当時の人々は思ったんでしょうか?
>>497 明や清の江蘇や浙江なんかだと、その地域には、地主層が現れて、
一族から科挙合格者を継続して出しています。
勝ち組自由主義みたいな気風が、明や清の時代からあったみたいですよ。
旨みを知っていたから、一族から官僚を出すのにも一所懸命だったのでしょう。
全ポストが江南出身で独占されたわけではないですが、膨大な経済力があったのでしょう。
賄賂はシナ文化の根幹を成しており、上は官僚から下は賎民まで賄賂なしでは生きていけない。 下々からの賄賂は上へ上へと集まっていき、最終的には皇帝(中央政府)のものになる。 多少溜め込んだところで、上への賄賂が足りねば密告や讒言で財産没収になることも日常茶飯事。 地方役人の首切りができなくなった中央政府は力を失い、国は分裂・衰退する。
もともと「官」は地縁・人脈・学閥からなる富裕層・特権階級の集まり。 賄賂をいかに集め、自家と子孫のために財産(大土地所有)を増やすかが官の本業。 実務は「吏」が行うが、彼らにとっても賄賂は大事な賃金であり、 「官」から徴税業務などを請け負ってピンハネするのが仕事。 そんな官吏の親玉が国であり皇帝なのです。
というか「吏」は給料が無い。 給料が無い以上、手数料と賄賂の中間のような料金を民衆から徴収し、それで食っていた。 国家公認でそういう体制だった。
503 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 20:26:38 0
私設秘書を養うカネがないのに 愛人にはつぎ込むカネがある これっておかしくないですか
1.始めに民ありき。皆様の福祉のためにこういう予算を組みましたので、税金を集めます。 2.始めに国ありき。国のお偉方のためにしっかり年貢と人頭税を払い、忠義を尽くすがよい。
506 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 21:04:19 0
「欧米には公金横領がない」 「支那はワイロが文化」 「欧米という天国がある」 「白人は民主主義だ」 パンパンの子孫の歴史ってこんなのばっか。
はいはいパンパンパンパン
508 :
世界@名無史さん :2010/05/14(金) 21:50:10 0
はは、自分の立場が良くわかってるじゃないか。これからも白人に 慰めものにされた有色人種として、惨めな生を続けろ。パンパンの子孫。
>>505 納税の義務
納税するために勤労する義務
教育を受けさせて納税する機械装置を再生産する義務
泣くしかねえな
生存の義務はないのに
510 :
世界@名無史さん :2010/05/15(土) 07:51:50 0
世界で初めてピュタゴラスの三平方の定理に異を唱えたバカってだれでしょうか?
そんなもん最初に提唱した時にさんざんやりあったんじゃねーの?
欧州の過去・現在の王家はみんな親戚なんですが、こういう地域って他にあったんでしょうか?
日本の東北とか
イスラムの諸王朝はマホメットの子孫つながり モンゴル、元、中央アジア、ペルシャ、ロシアはジンギスカンの子孫つながり
そういえばムガール帝国もモンゴル系だった
チトーのユーゴスラビア共産党が、独自路線を選択して、 ソビエトと対立してコミンフォルムを除名されたのはなぜですか?
517 :
世界@名無史さん :2010/05/15(土) 20:54:11 0
>>516 ティトーは中央統制的計画経済を実施するソ連の社会主義とは異なり、
労働者中心の自主管理制度を目指した訳だが、それはスターリンのユーゴに対する
厳しい干渉と、ソヴィエト型官僚主義の非効率性を克服するためだった。
特に、ユーゴはパルチザン闘争において小作農たちが大活躍して、彼らは解放後に土地を得たわけだが、
ソ連の指令通りに小作農の土地を取り上げ、土地を集団化すると混乱が起こり国そのものが崩壊する恐れがあった。
だからユーゴはそれに逆らった。
ユーゴがソ連を怒らせて除名された理由は幾つかあるけど(バルカン連邦の構想など)、この農民の土地集約問題が
一番スターリンを激怒させたみたい。
こういった政策をスターリンは、自らの陣営の結成を乱すものと判断して、
「民族的偏向」の名の下にコミンフォルムから除名したっていう流れ。
なんか分かりにくくてすまん。
518 :
世界@名無史さん :2010/05/15(土) 21:03:23 0
>>516 あと、ユーゴはソ連の力を借りずに国を自主解放したということも
でかかった。
連投すまん。
スターリン主義って、結局はソビエト・ロシアを盟主とする帝国主義だしなあ
>>516 どうして旧ユーゴは、ハンガリーやチェコのように、
ソ連軍の侵攻を受けなかったのですか
521 :
世界@名無史さん :2010/05/15(土) 23:45:43 0
>>520 ティトー自体はスターリンが送った暗殺者に何回も狙われてたけどね。
本当かどうかは知らんがティトーもスターリンを殺すぞなどと脅したとか。
ちなみに一番暗殺計画が多く立てられた人物はド=ゴールと言われてる。
ハンガリーもチェコスロバキアも、ソ連と直に国境を接していた。 特にハンガリーは平原が多いので攻め込まれやすい。 一方ユーゴは、ソ連から攻め込むには中東欧の衛星国を通らざるを得ず、 山岳が多いのでゲリラ的防衛戦には向いていた。 また断交直後からソ連軍の侵攻を予期して軍事力を強化し、 チェコ事件後は「全民衆防衛」という国民皆兵的な防衛ドクトリンをも整備した。 おかげで国民の多くに武器がいきわたり、内戦勃発後の泥沼状態にも一役買ってしまったが。 あと、ユーゴからアドリア海を渡れば即イタリアなので、 ソ連軍がユーゴに侵攻したら西側も動揺して軍隊を送ったかもしれん。
523 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 00:09:22 0
マール社の「100年前の世界の王室」という本で ベルギーには王冠がなく、戴冠式ではなく国会で宣誓式をやるという記述があったのですが、本当でしょうか 検索すると「(現王)アルベール2世の戴冠式で〜」というものも出るのですが 関連して、王国の成立に当たっては教皇か高位聖職者が塗油して冠を授けるものだと思っていたのですが、 ナポレオン1世が濫発した衛星国の王位やウィーン会議で決まったそれは、誰が神の祝福を保証したのでしょうか? ネーデルラントやこのベルギーについても、独立したから王国になった、としか書かれていないのですが 詳しい方、ご教授下さい
たまにはアルバニアのことも思い出してあげてください
>>523 ローマの教皇権がナポレオンを止められたら、そもそも皇帝位を得る事が出来ない
(西)ローマ皇帝(インペラートル)の系譜を引くのは神聖ローマ皇帝だから
フランスのカトリックを復権させるために教皇はコンコルダートを行ったが
結局ナポレオンの皇帝即位というイレギュラーを見逃し、後がグダグダになった
ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体したし、仰る通り王国公国を濫造して何でもあり状態にしてしまった
教皇はナポレオンを破門とかしてみたが後の祭
まあそれがなければヴィクトリア女王がインド「皇帝」になったり
明治日本の天皇号の訳がEmperorになることもなかったろうが…
528 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 03:52:23 0
そういう風に考えると近代欧州って古代支那の周みたいですね。
529 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 07:09:56 0
530 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 09:59:16 0
>>530 Ost-Indischen(東インド)とある。
馬車か牛車の姿。刀は片手持ち。両手持ちのもある。
遊牧民のような辮髪でなくなぜか髷。襟が朝鮮のように左まえ。
台座の文字が蒙古パスパ文字っぽく半切組み合わせ。こりゃ、キッチュな絵だな。意味不明。
532 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 10:30:24 0
533 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 10:31:39 0
535 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 10:41:13 0
>>534 たぶん日本や中国から輸入した陶磁器に描かれた絵がもとになっていると思う
どうりで地域ごちゃまぜのわけだ
537 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 10:46:20 0
いまだってヨーロッパ人の極右は「アジアなんか全部同じだ(Asians are all the same.)」って言うから
日本人だってアフリカなんか全部同じだと思ってるけどね
539 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 12:12:31 0
下は下を見下すものさ
540 :
530 :2010/05/16(日) 12:15:20 0
野良仕事から帰ってきたらいっぱいレスが! みんなありがとう! 伝聞で書いたとか大概だなw でも結局この像の元ネタはなんなんだろう? 千手観音あたりかな? 体の部分に顔とかあるけど…
陶磁器にこんな絵があるのか?w なんか他の絵もすげーな 勘違いがいっぱい
「日本誌」邦訳版によると、
>>530 の挿絵のタイトルは「三十臂観音」でした。
挿絵があるページの話題は、主に信長の比叡山焼き打ちで、比叡山の頂上には「三十臂観音」があると書いてありました。
よってこの絵は明王院千手観音(を想像して書いたもの)だと思われます。
530はなんかで三十三間堂の伝聞を元に描いたって聞いた事あるけど別の絵だったか
>>542 こういうヘンテコアジアのノリの絵はマイセンの磁気にもある
>>546 ちっちゃいのが残念だけどそれっぽいわ
なんかこの本欲しくなったw
548 :
530 :2010/05/16(日) 12:43:44 0
549 :
世界@名無史さん :2010/05/16(日) 13:39:32 0
>>524 カストロ本人は600回以上暗殺計画があったって主張してるよねw
本当ならド=ゴールより多いね。
ヒトラーも実際にはもっと多いんだろうが、少なくとも42回は暗殺計画があったとか。
>>529 それは初めて聞いた。
近世欧州には、完全な想像だけで架空の風俗や言語まで作り上げた「台湾誌」という奇書を残した人もいる
フランス革命のきっかけは、当初は貴族の国王の政策に対する反抗から始まったと聞きますが、 それがどう回りまわって、王制や貴族を打倒する大衆革命に発展したのでしょうか? 貴族への課税から三部会招集に至る流れは分かるんですが、 そこからどうしてバスチーユ襲撃など民衆が動き出すのかわかりません。
>>551 久しぶりに全国三部会が開かれる
自由主義的貴族(啓蒙貴族)が第三身分と共に国民議会を名乗る
そこから革命
第三身分=国民議会ではなくて、
全国三部会・第二身分議員の一部(啓蒙貴族)と全国三部会・第三身分議員(農民は含まない)=国民議会
>>552 しかし、フランス革命は議会革命ではなく、暴力革命でしょ?
国民議会が結成されたことと、バスチーユ襲撃などの民衆暴動はどうつながるんですか?
>>553 バスチーユ
民意の合った第三身分議員の財務長官(事実上の財務総監)を
王妃・王弟が独断で解任したから
そこから亡命が相次ぎ、ヴァレンヌ逃亡事件を経て
国王は国民の味方ではない、処刑すべき、となった
>>553 なんておばかなの??
貴族階級が国王にたてつく為に三部会なんてものを開いてしまったのよ。
パンドラの箱を開いてしまったのよ。
平民の票を取り込んで2/3でフランスを牛耳ろうとしたのよ。
でもひとたび意見をいわせたら大衆はこわいのよ。
どんどん発言しちゃうのよ。
止めようとした貴族どもも国王と一緒に血祭りなのよ。
貴族だけでは絶対王権には勝てない。
アメリカは保守的でカナダはリベラル的だと言われるんですが、 いつ頃からこうなったんでしょうか?
そうなのか? きっとテキサス州がアメリカの領土になったときからじゃないかな?
質問というか探してるんですが… 世界地図なんですが各国が擬人化されているものをしりませんか? アメリカとアフリカはなくドイツやトルコ、日本等は軍人の姿なんですが ロシアだけ蛸で各国に食指を伸ばしているという図なんですが… 日本人が書いた絵らしく西蔵とかがあった気がします 知っている人いませんか?
《ヘタリア》で固定観念持ってしまうと、論理的思考停止になるので 娯楽作品だと思って接すればいいよ。
ロシアはクマでしょ。
>>562 おおすげぇw
コンセプトとしてはこんな感じだった
あと情報が小出しで悪いが中国が情けない表情してたのを思い出した
唐の時代に税制が物納の租庸調制から、銭納の両税法に変わったのには、 どのような背景があるのでしょうか? 農民にとっては、物納の方が、収穫物を一旦換金しなければならない銭納より楽だし、 農産物の相場が変わって、農産物の価値が暴落した時に銭で税金を納めるのは負担が重く、 税収が不安定になると思うのですが。
>>564 つまり国家の側からすれば税収が安定して手間もかからないという事になる。
>>564 あー、これでは説明が足りないな。農産物の価格の変動に関係なく決まった額を納めさせる訳だから
税収が安定する。暴落した時はそれなりの救済策を考えれば良い。
物納だと、農村の代表者が役場まで運ぶ負担が大きくてね 農民側の不満をさすがに無視できなくなってきた これが第一の理由かどうかは知らないが
>>564 逆に考えると、農村の余剰労働力は商工業者になるのもOKで
街道整備・通行料徴収の動きが各地で起きれば
流通ネットワークができて、商人が動きまわれるようになるわけ。
ネットワークが整ったら、次の段階に進み、地方軍閥が「楽市楽座」的に
一括してインフラ税をとって運営する選択肢もでてくる。
農村復興→郷鎮企業→戦乱疫病→農村復興→郷鎮企業
唐・五代・宋だとサイクルが現れているのではないだろうか。
多少、重商主義に走る地域が出てもよいわけで
銭納付のほうが、余剰労働力の活性化を促すわけね。
地租改正をwikiでみてごらん。 日本のことだけど事情は同じだったんじゃないかな。
>>569 これだ!ありがとう!
昔持ってた画像は壁紙サイズだったが贅沢は言うまい
しかし似たのがもう一枚あるとは思わなかった
思わぬ収穫があったよ
年貢軽減、地租軽減 重税にしてインフラを整備してくれという歴史的主張はどこですか 重税にして軍事費に充てようという主張以外で
地租改正のレスはノイズだろ
>>572 通行料や店子家賃の上がりで、国税払ってもかまわないってことだろう。>銭納
地券なんて世帯ごとに課税する方式と唐の徴税代理人方式は直接関係ないよ。
575 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 00:42:54 0
>>564 もう既に書かれてるけど、貨幣経済が進展したことと商業を活性化させたいってのが一番の理由でしょ。
実際に当時は商業発展の影響で貧富の差が広がり、没落した農民が荘園に
吸収されるなんてこともあったみたいだし。
こうなると均質な農民もいなくなるから自動的に租庸調制自体も崩壊しちゃうしね。
両税法施行後も実際には現物納が相当多かったようだね。
576 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 01:04:03 0
575だけど、よく読むと文章おかしいな。 人口増加や商業発展が貧富の差を広げ、没落した農民が荘園に吸収されるようになる。 ↓ 従来のような納税法ではうまく立ち行かなくなった。 今までと体制は変わるけど、貨幣経済も浸透してきたし、農民にも貨幣を持たせて商業活動を活性化させよう。 こうなると(以下略)だな。 連投すまん。
古代ローマのインスラは5階建てが基本だったそうですが、実際にその高さの遺跡って残ってるんでしょうか? ウェブ上で見られる写真のほとんどは1階部分かせいぜい2階までで3階以上があるのが分かる遺跡写真を みたことがないので。
578 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 01:23:00 0
中国の建築物に関して質問です。 歴史上清代までで最も高かった楼や塀は高さどのくらいでしょうか?
579 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 01:51:43 0
>>578 昔の大雁塔は約90m(今は64m)あったらしいが一番かどうかは知らんな。
580 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 02:34:53 0
マンハッタンの摩天楼みたいに高層建築がずらーっと林立するのはどこが 早いですか?ニューヨークが最初でしょうか?
582 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 05:45:22 0
すごいですね!パルミラやインドみたいにアレクサンドロスが征服して建てさせたのでしょうか?
583 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 10:47:07 0
>>582 殆どの高層建築は16世紀以降に建てられたものって書いてあるから時代が違うでしょ。
それに確かイエメンまではアレクサンドロスの支配は及んでないよ。
584 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 11:15:14 0
ハドラマウトってぇと南イエメンか。 旧北イエメンだったら地震がよくあるから、やわな建物は駄目なんだわな。
インスラは上部ほど低価格・安普請で、軽量化のために木造部分が大きくなった。 2000年も経てばそんなもんは腐るし、ローマが戦乱や火災と無縁だったはずもなく。
焚書・坑儒で儒学者を生き埋めにした歴史は後世の政治的意図による脚色に過ぎないと聞きましたが本当でしょうか
>>582 戦争に備えた集団防御態勢が長期間続いて、ああなった。
脚色ったって、後世の皇帝も言論弾圧はいっぱいやっとるぞ。 天下を統一して専制国家を作るためには必要だったんじゃろ。
西ヨーロッパやインドなどの多民族多言語多文化地域は長いこと統一されませんでしたが、 それに劣らぬ多民族多言語多文化地域である中国には、 なぜ何度も統一国家が成立したのでしょうか? 正直、西ヨーロッパやインドが長いこと分裂状態だったのに、 中国だけに統一国家が何度も樹立された理由がよくわかりません。 あれだけの多民族多言語多民族地域なら、 むしろ戦国時代や五胡十六国、南北朝、五代十国のように、 数カ国に分裂したままでいる方が自然な気がするのですが。
>>589 中国には黄帝以来統一されてんのが正常という思想がある。西ヨーロッパは『ガリア戦記』みても
『ゲルマーニア』みても自由を愛しローマに支配されるのは大嫌いな民族だと判る。ガリア人同士
あるいはゲルマン人同士でもよほどの事が無いとまとまらない。
インドは知らん。
漢字や梵語の共有がない新彊は仲間外れだがね。
統合に向かう時期と分裂に向かう時期を繰り返しているわけだが、 そのスパンがヨーロッパよりもかなり短いことで、 表面上は何度も統一国家が樹立したように見える
ヨーロッパが統合に向かった時期なんてあったっけ? 何度か超大国が出現したことはあっても、 ヨーロッパを統合するほどの力も意志もなくて、 ずっと分裂したままな気が。
カルロス1世
595 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 21:08:22 0
596 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 22:38:48 0
アーリヤ人とアーリア人 テストで書くならどちらがベターでしょうか
google先生はアーリア人だろ、って言ってるな。
ありゃまたこりゃまた人
>>586 秦を倒した漢と、その漢の司馬遷をはじめとした歴史家たちによって、また、儒教徒たちによって
より誇張されたという面は確かにあるだろう
坑儒といっても狙われたのは儒教だけではなく、むしろ儒教はついで
戦国末期には、かなりあやしげな思想家も多く、論理をもてあそんでるだけの者や、自分の思想
を売り込んで権力者に取り入ろうとする者、始皇帝自身もひっかかった詐欺師みたいな方士とか
が横行していたわけで、思想統制よりもむしろ、そういった世を惑わすあやしげな思想家連中を
一掃しようというのが焚書坑儒のメインの目的だった
600 :
世界@名無史さん :2010/05/18(火) 23:52:39 0
>>586 後に儒学が官学化したこともあり、多少大げさに言われたようだが、
大弾圧(儒者460人余を生き埋め)があったのは確かみたい。
脚色があったことは事実だけれど、脚色に過ぎないってのはちょっと言いすぎだね。
まあ、中国の諸王朝は、前の王朝けなすのが仕事だからな。
603 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 00:25:08 0
>>597 どうもです
アーリア人で覚えてたんだが山川がアーリヤで不安になった
どっちでも平気そうだな
アーリア(Aryan)人 とか アーリヤ(Aryan)人 ってかいとけばいいんじゃない?
605 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 00:42:52 0
>>604 結果として同じ答えでも、そういうのは解答を採点者に選ばせるという
ことだから下手すりゃバツになるよ。
普通に書いたほうが無難。
606 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 09:47:37 0
日本史板から来ました。1339年頃記されたとされる日本の歴史書「神皇正統記」に、 「伏犧氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六」とあります。 訳すと「(もろこしでは)伏犠以降、三十六の王朝を数えるが」 というような意味ですが、三十六王朝の内訳はどうであると思われますでしょうか。 五胡十六国とか、五代十国とか、何をどう数えていいものやら。 ご教授いただきたい。神皇正統記成立時の王朝は元です。
>>606 一年は約360日で、1日は十二支によって区切られる
こうしたものを割っていくと6の倍数が残る
なので36もそうした因縁の数字であって
中身に具体的な内容が入るかは怪しいんじゃないの
608 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 11:01:48 0
八重桜とか千羽鶴とかと同じということか。
試しに、俺の独断で数えてみるか たぶん、夏を実在と考えていただろうから、夏から初めるとして 夏、殷、西周、東周、秦、前漢、新、後漢、魏、蜀漢、呉、西晋、東晋、 五胡十六国は小国が多いので無視して北朝は北魏、北斉、北周、 南朝は宋、斉、梁、陳 統一後に隋、唐、武氏の周 五代十国も十国は小国が多いので無視して五代のみカウントして 後梁、後唐、後晋、後漢、後周 その後は、北宋、南宋、遼、金、元 お、合計33で、割と近いぞ まあ、自分で書いておいてなんだけど、神皇正統記を書いた北畠親房が、 西周・東周とか前漢・後漢、北宋・南宋みたいな分け方をしたり、王莽の新や 武氏の周を正統王朝に数えるとも思えないけどね
まあ、数字に意味があると思い込むのは危険なことだよな。 五胡って書いてあるから五部族だ!と思い込むのと同じw
611 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 12:27:55 0
始皇帝が粛清したのは現代日本でいえば創価学会だとかのカルト、そして 職業左翼(腐れ儒者)。法律に関するものや技術・農業に関する 実業家は生きた。 だが彼は皮肉なことに今で言えばテレビなどで「科学的に証明された」とか 「これは現代科学の結晶です」だなどと吹聴されて信じた 長寿の薬を飲んで始皇帝は死ぬ。
前漢・後漢みたいな分け方もなにも、それは全く別の王朝じゃんか
ヨーロッパで中世末期から広く行われたシャリヴァリですが、どうして音楽をつかったのでしょうか?(どんちゃん騒ぎ) あとシャリヴァリは今現在でもなにか形を変えて受け継がれているのでしょうか? たとえばカーニバルなど
615 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 18:35:22 0
>>579 支那の唐代は建物が無駄に高かったと聞いたことがあるけど
どのくらいの高さだったのかな?
清の洋務運動が失敗に終わり、 日本の明治維新やタイのチャクリ―改革による近代化が成功したのはなぜでしょう? 清には何が足りなくて、日本やタイには何があったから、近代化の成否が分かれたのでしょうか?
運
金
何をもって「近代化の失敗」というのだね?
>>619 政治制度や産業、技術、軍事力などを近代化できなかったことです。
近代化の失敗を定義するとき、「近代化」という言葉を使ってはダメ 帝国とは皇帝のいる国です、って例えと同じだからね(神聖ローマは例外として) 間違ってはいないが意味がない さて「近代化」だが 政治制度が近代化される必要はない 中央集権化さえされていれば足りるからだ 外敵に負けないだけの単位で統一されていればそれで良し 清は支配者そのものが外敵だった それだけのこと
622 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 20:45:14 0
>>559 亀だけど、もしや「滑稽欧亜外交地図」では?
似たものじゃなくて捜してるものそのまま見つかるかもしれないから検索してみなよ。
>>620 中国は「中体西用」という字の通り、儒教官僚の統治・王朝体制・伝統的社会を
温存して、西洋の技術を取り入れるものであったため、政治・社会変革はなされず表面的な
改革しか出来なかった(日本・タイは一応近代的な司法・行政などを取り入れた)。
また、当時の近代的企業の多くは、有力洋務官僚が私物化してしまうケースが多く、
場合によっては官僚個人の金儲けの場と化して、「富国強兵」に容易に結びつくものではなかった。
他にも要因はあるが、要するに当時の中国人のプライドの高さと、官僚の腐敗が大きな失敗の要因だったことは間違いない。
背景を言えばそういうことなんだろうけど、直接的には西太后のせい
中国の近代化は成功してるじゃんか。
日本だって本当の近代化はいつなのか。
中国、日本、朝鮮の近代化の理由は西欧列強による侵略、植民地化への恐怖であった。
627 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 22:27:00 0
>>622 パンパンの子孫は欧化することが誰よりも大切で誇らしいからな。
興味深いことにいわゆる「近代化した」国はタイを除いてすべて滅んでいる。これは
非常に興味深い事実で、パンパンの子孫の国をはじめ、他のアジアの国は
全部これで国が植民地になるか軍隊に占領されているのだ。だとしたら
近代化とは間違った道であり、結果を生むものなのだ。なぜこんなことに
なったのか?それはやはりパンパン列島みたいに「すべてを欧州基準にしてしまう
ことが近代化である」と勘違いしてしまったからだろう。
清朝・江戸幕府・オスマン帝国は近代化する途上で倒れたが、 中華民国・明治政府・トルコ共和国は近代化を進めた。
629 :
世界@名無史さん :2010/05/19(水) 22:30:41 0
彼らが絶対基準なら、他の国はどんなにがんばったって追いつけない。 途中でルール自体を変えてしまうからだ。だから「近代化した」なんて バカのひとつ覚えみたいに目出度がってる国はいつまでたっても欧米に 追いつけず、マヌケないたちごっこに翻弄されているのだ。歴史を学ぶ 後学は是非とも「近代化」という話がなんなのか、考えてほしい。
幕末のアジアが西洋化ではなくイスラム化をやっていたら オスマン帝国を見習え!とやっていたら 中東から極東まで広がる大イスラム圏が出来ていたかも
近代化のゴールはルールをつくる側になることだよ。
近代化のゴールはルールをつくる側になることだよ。
次。
近代化のゴールはルールをつくる側になることだよ。
635 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 01:15:42 0
>629 そりゃどこでも同じだな。シナなんて大北方や西方の奴隷だったのに、 文化風俗や習慣を理由に自分たちは野蛮人連中とは違う 立派な中華の民族だ!みたいなアホな考え持ってたじゃんw 外見もさほど変わらないのに生活やき着る物とか考え方が違うぐらいでそうやってんだから。 それがアジアの伝統。 それがいきなり白人の編み出したレッテルを基準に「モンゴロイド同士の団結」とか 「アジアの仲間」とか言ってるヒットラーユーゲントのパンパンみたいな連中居るだろ。 「勝手にアジアだの白人の価値観を押し付けるな。人種が近かろうが シナだの朝鮮みたいな連中と仲良くできるかボケ!」となるのが誇りある自分ある人間。 モンゴロイドだのアジアだの白人のパンパンみたいな基準で動かないのがまっとうな大人物。
636 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 01:32:26 0
>>627 近代化してないアジアの国は例外なく半植民地か植民地にされてるけどな。
まあ、日本が欧米妄信のあまり失敗した面もあるが。
>>629 >>671 同一人物?
暴論ではあるけれど、近代化は一言で言ってしまえば経済力と科学力(軍事力)と言えるよね。
政治制度だが近代化する必要は無い」
>>まあ、国力が相手国より圧倒的に上回ってれば問題ないよね。
乾隆帝の頃の清は議会制などは無かったが、世界最強の帝国だったしね。
しかし、清のような専制君主制の場合、君主の意思そのものが国家意思となりうる
政体だから、暗愚な君主なんか出てきたら困るわな。
「近代化」についてだが、確かに肯定されるべき面の方が多いけど、悪い面もあったよね。
それは手放しで喜べるものでなかったことも間違いない。
日本の貴重な美術品なんかも欧化政策の中で海外に流失してしまったり、海外でも高評価の仏教美術も
破壊されたりしてしまったからね。
他にも日本は西欧化はしたものの、ヨーロッパにおけるキリスト教のような強力な
精神的支柱がなかったから、あまりヨーロッパ的なものは根付きにくかった。
だから、それに代わる物として政府(特に伊藤博文など)が天皇を利用したからそれが戦争に
つながっていってしまったという面も見逃せない。
>>637 劉備は漢の皇室の分家の末裔だから後漢の正当な後継者で、曹操は後漢から天下を簒奪した悪党、という構図。
>>637 それ日本だけでしょう?
劉備は後漢の皇帝と同姓だからネ
北京とか西安でわ曹操が一番魅力的な人物です
香港だと周瑜,重慶なら諸葛亮と近所びいきなのは事実だけどー
>>639 中国人は長年関羽を関帝(神様)として祀ってきたんじゃないのか?
っていうか三国志演義読んでないのか?
曹操は、宦官の孫だったり徐州で大虐殺やったり儒者を弾圧したりしたので、在世当時から大悪人としての風評が大きかった。 劉備はまあ、やってることはただの弱小軍閥の親玉なんだが、「漢朝・劉氏」で売り込んだので当時から評判はよかった。 シナ人の多くは今も漢民族と自称するし、孔明・関羽・張飛とか民衆に人気のある武将もいるし、判官びいきもあるし。 陳寿が三国志を書いたのは晋の時代だが、晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので、 前代の魏はあんまりよく書かれず、陳寿の母国であった蜀漢は正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた。 また晋が江南へ移ると、もといた華北よりも江南文化をひいきにするようになったが、 孫呉をあまりもちあげると治安上よろしくないので、民間に人気のある蜀漢を持ってきて称揚した。 習鑿歯という人は蜀漢に仕えた人物の子孫だったが、東晋の末に軍閥の桓温が帝位を簒奪しようとしたので、 「魏は簒奪者であり、晋が蜀漢を滅ぼしてようやく漢が滅んだ」という蜀漢正統論を説いたという。
まあ、蜀を実際に倒したのは魏の軍なんだが、すでに司馬氏が完全に実権を握っていた頃。 漢人が北方民族に圧迫されてたのと、魏が漢を簒奪し蜀を苦しめたのを重ね合わせ、 北伐を繰り返した蜀の孔明を善玉にしたのが原因のひとつではあろう。 関羽が神格化されたのは意外に遅く、唐宋の頃にようやく護法神として信仰された程度。 「関帝」とされて信仰が国家規模で盛んになるのは南宋以降になる。
643 :
637 :2010/05/20(木) 04:24:59 0
ありがとうございました!
644 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 05:21:59 0
十八史略は堂々と蜀漢を正統として扱っているんだよな
645 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 07:25:35 0
>>630 ルネサンスはイスラム科学の取入れだろう。
646 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 07:31:42 0
>>636 だから近代化したって植民地・敗北したよ。しかも
いわゆる近代化した国々や地域はもう欧米がすべての基準なので
みんな欧米の奴隷になってる。
これは韓非子でいうところの
「強い奴に媚びへつらう横の同盟(植民地)か、弱い奴同士が連合して当たる(
欧米化)したところでどうにもならない。本当の対応策とはまさに自分自身の国が
独自に強くなることなのだ」って説が欧米以外の国々でできなかったからだ。
日本帝国なんて単純なものだよ。上海や自国で白人の真似をして偉ぶってみても、
いざホンモノの白人がくれば自分たちの価値などなくなる。だから第二次大戦に
日本に同盟する近隣諸国はなかった。当たり前だ、やってることは白人と同じなんだから。
今の支那だってそうさ。文明運動などといって、そんなに西洋がいいならさっさと
全大陸が香港みたいに白人に支配されりゃいいじゃないの。この自己矛盾はこれからの
アジアにずーっとつきまとい、結局いったい何者か分からないアジア人が糸の切れた
タコみたいに世界で恥をさらすはずだ。アジア人はこんなことでいいのだろうか?
ヒトラーの対米観はどのようなものだったのでしょうか?
「邪悪なユダヤ人資本家に牛耳られた、劣等な有色人種のうようよいる、腐って汚れた国」という程度。 第一次世界大戦ではアメリカがドイツに宣戦布告し、大兵力を送り込んでドイツ帝国を崩壊させてしまった。 ヒトラーもドイツ軍に兵士として参戦していたから、アメリカを嫌うようになるのは自然だろう。 実は裏で手を組んでいた、なんて陰謀論もあるが。
遼の領域って、北方には国境線て概念がなかったんすかね? 国境が必要なのは南部に抱える定住民族政策の面なのかな
11世紀の始めごろには契丹がモンゴル高原へ進出し、鎮州建安軍という大規模な屯田基地を置いた。 また、大興安嶺西麓からヘンテイ山地まで東西800kmにわたる「嶺北長城」を築き、 北方森林地域との国境線としている。長城とはいうものの、深さ2mほどの塹壕と土壁があるぐらいだが。
タイとビルマが清との冊封関係から離脱したのはいつなんでしょうか?
>>650 に便乗質問。遼はモンゴル高原を根拠地としてしっかり抑えてたけど、
金はどうしてモンゴル高原を部族ごとの自治に任せた間接支配したんでしょうかね?
遼の領域を引き継いだ金がモンゴル高原の直接支配だけはしなかった理由が良く分からない。
契丹が高原に進出したとはいえ、河川があり牧畜や農耕に適した、比較的肥沃な部分を囲い込んだ程度。 また契丹とモンゴル系諸部族はともに遊牧民で、言語も文化習俗もよく似ていた。 しかし女真族は森林の民であって遊牧民ではなく、草原よりもずっと肥沃なシナへの進出が優先された。 だから遼はシナの北辺しか支配できなかったが、金は華北のほぼ全域を支配し、征服王朝となった。 契丹が滅んで圧力が弱まると、遊牧民たちは勢力を増し、モンゴルのカブル・カンを筆頭に金へと攻め込んだ。 しかしケレイトやメルキト、タタルなどの遊牧国家も強大化していたので、金はこれらを相争わせて間接統治を図った。 ただ、金の隷属下におかれていた契丹人はのちに南下するモンゴルと合流し、金軍を連戦連敗させている。
>>649 アメリカの財界の大物がナチスを支援してなかったっけ?
656 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 20:27:35 0
ちゃんとフォードモーターって書けばいいのに。というか当時は全部の国が ナチスだったんだよ。人種差別、宗教差別なんてして当然だったんだから。 第二次大戦で戦勝国側になったのはユダヤ人が強くなったのをいいことに、 全部ドイツのせいにして自分たちは優良な自由の民です、なんて逃げを打った。 当然ユダヤは見抜いているんで、欧州のキチガイ白人帝国を金融面で崩壊させた・・ ざまあってやつだね。白人は絶滅した方がいい。
657 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 20:29:53 0
特に醜く逃げ回ったのがダイエーオゲレツ帝国さんでさ。ユダヤが 強くなったら手のひらを返して「私たちは前からナチスに反対だったのです」 なんてIQ80前後の奴くらいしか騙せないようなキャンペーンをはってさ。 で、結局戦後はユダヤにすべての金融資産を管理されてやんのwアホかw ウソツキ帝国の最後なんてこんなもんさ。最後はかならず誠実が勝利する。 その点ではユダヤの金融帝国もそろそろ限界かもね。
次
>>652 清の冊封国は大抵植民地化されて、冊封体制から外れて行った。
ビルマは完全にイギリスに併合された1886年。
最後の冊封国朝鮮が離脱したのが1895年だから、
タイの離脱はそれ以前と思われるが、
タイ以外に自主的に冊封体制から離脱した国は無いので、
いつ頃離脱したかは良く分からない。
ヒトラーの対米外交やナチス時代の独米関係に関しては、どの論文や文献が 詳しいでしょうか?
662 :
世界@名無史さん :2010/05/20(木) 23:02:19 0
>>656 俺の記憶違いかもしれないけど、確かブッシュJrのじいちゃんも
ナチスと取引して設けたよね。
663 :
世界@名無史さん :2010/05/21(金) 00:38:31 0
儲けただった。 連投スマン。」
>>654 遼の支配域と、華北と呼ばれている地域は、ほぼ一致するんだれど、そこはどうなのよ?
大体、華北が支那圏になったのは、明朝の後半以降だよ。
それまで一進一退というか、北方民族が漢人を支配する拠点というか。
>665 遼の支配域のうちで最も重要ドメインは遼寧でしょう 金は宋を杭州まで追いやったのでもっと広いドメインです
667 :
世界@名無史さん :2010/05/21(金) 06:43:35 0
domain 領地、領土、領域、分野、土地所有権
中華を二分するなら淮水以北が華北(中華本土の北部)でいいんじゃね? 細かく分ければ黄河・淮水・長江で三分割できるけど
遼の支配域は、西は河西回廊の入り口から、北限はゴビ砂漠の南縁、南は淮水。 遼の支配域と、華北と呼ばれている地域は、ほぼ一致する、で間違い無いじゃん。
西夏と北宋涙目
>>671 キミの用語が通じにくいから、地図のURLを貼れば?
黄河の流れる「中原」こと華北平原は、北は大興安嶺、南は長江か淮水、東は青島、西は函谷関に接する大平原だが。 まあモンゴル以後は「中華」の範囲が大きく広がるからなあ。
宋代の中国で紙幣が出現した背景を教えてください。 銀行もない時代に中央政府が紙幣の信用を保証できるほど、 当時の経済制度が成熟していたとも思えないのですが。
>>675 いや。
紙幣というのは信用を保証してもらえるから流通するわけじゃないんだよ。
必要だから便利だからやむを得ないから流通するんだよ。
もちろん、二種類の紙幣があったとして片方の紙幣がかならず金に交換できるという信用があるならそちらを民衆はほしがるだろう。
信用の無い紙幣は受け取ってもらえないだろうさ。
でもそれしかなければ流通してゆくんだよ。
しかもいきなり押し付けたわけじゃないだろう。
民間でその先駆となるような書き付けタイプのものが既に重宝されてたんだろう。
民間の信用よりも国家の信用の方が「普通は』上だからね。
兌換紙幣から不換紙幣にきりかえたときのことを考えてご覧。
なにがおこるんだ!ってね。心配してたけど何も無かったよね。
それと宋はすごい経済が充実してた。 朝まで空いている飲食店が初めて可能になった時代なんだぞ。 実際、宋の経済力で金も日本も西夏もみんなやしなってたんだからなぁ。。
>>676 それは国民国家と言う形がある程度確立されていたからだと思う。
元の交紗は長期的には失敗したし。
こっ 国民国家ぁ?
つ 藩札 太政官札から紙幣が始まったわけじゃない
鎌倉時代にすでに為替手形があったんだよ
宋や金や明の「紙幣(交子・銭引・会子・宝鈔)」も結果的に失敗した。 軍事費の増大や商業の活性化で需要が増えたから乱発し、額面価値が暴落して、ついに兌換できんようになって紙くずになった。 のちの欧州でも何度も同じようなことが起きている。 もともとシナの貨幣は最低額面の銅銭ばっかりで、これを何百枚、何千枚と持ち運ぶのはひじょーに重い。 しかも唐末には銅山が枯渇し、藩鎮が割拠して領内からの出銭を禁止した。 で、民間の商人は銭(塩や茶の場合も)を「兌換準備金」とする手形(牌)を作って切り抜けた。これを藩鎮や王朝がパクって紙幣とした。 でも結局はモンゴルが通貨としてた「銀」が世界経済とつながり、明代以後はシナでも中東・西洋と同じく銀が基軸通貨になる。 アヘン貿易なんかも銀で支払われたのよ。
銀は枯渇せんかったの?銅より埋蔵量も少なそうだし、希少価値も高そうなんだが。 明や清では銀で納税してたから、商取引以外でも銀の流通量はハンパでなかったと思うんだが、 銅は枯渇したのに、どうして銀は枯渇しなかったの?
納税されたものをまた還流してたから。ぐるぐる回せばいいだけで。
つ のちの欧州でも何度も同じようなことが起きている なぜヨーロッパに限定するのか 軍票の有名な国家の国民なのに
銀は新大陸で大量にとれた時期があったからさ。 でも銀がたりなくなったんだぜ、中国
銅銭は戦国時代から南宋まででも1500年は続いたが、銀を通貨にしたのは数百年間のことだし、 シナや中東だけで産出する銀を使ってたらそのうち枯渇したかもしれんけど、 お隣の日本国では金銀が産しますし、南蛮貿易では欧州や中南米産の洋銀(カルロス・ドル)が入りますわな。
688 :
世界@名無史さん :2010/05/21(金) 22:00:30 0
>>687 実は戦国時代の頃の日本の銀の産出量は世界一だったって説あるよね。
銅も明治頃、日本は世界有数の産出国
宋軍は中華の歴代王朝軍でダントツの弱さだったそうですが何が原因でしょう?
692 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 01:31:12 0
>>683 今の日本を考えて御覧。通貨で形になってるのは紙の札が基本通貨だけれど、流通している貨幣のなかの
何十分の一だけが実際の紙の札になっている。
紙の札にしても、最高額面のもの(一万円札)の枚数が流通量が突出して多い。
決済手段としての通貨は実際の貨幣の流通量の極めて少ない割合あれば十分なんだよ。
>>680 藩札が藩の財政悪化で増刷されて価値が暴落しまくったのは近世財政史では常識だが?
694 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 08:14:09 0
中国の兵馬俑って科学的調査や他国の調査を全部拒否してるって本当ですか? だとしたらかなり胡散臭くいですよね?
695 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 08:31:13 0
映画・アラビアのロレンスで、金庫に入った土侯が札束の山を見て 「金などどこにもない!」と落胆する場面が思い浮かんだ。
697 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 08:54:46 0
世界的に権威のある国際機関ユネスコが世界遺産の認定するのに
審査もしていないと疑う理由がない
ユネスコが審査をしていないというのなら、むしろそのソースがほしい
つーか、その前にまず、
>>694 にソースはあるのか?
699 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 10:02:21 0
ソースは無いんだねw 分かった もう捏造確定ってことで
中世ヨーロッパ(西欧)の共通語というか、現代の英語のように異なる言語を母国語にしている外国人同士の会話に用いられる言葉は何かありますか? ラテン語だけでしょうか?フランス語はまだですよね。
>>699 「ソースがないと捏造確定」という君自身の論理により、
>>694 の「中国の兵馬俑って
科学的調査や他国の調査を全部拒否してる」は捏造確定
ゆえに、調査はされている 証明終了
702 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 11:17:43 0
>>701 誰もそんなこと言ってないぞ
文系ってやっぱ論理的思考力低いな
>>700 東アジア圏における漢語
会話よりも、主に筆談だけど
イスラム圏におけるアラビア語
コーランはアラビア語のもののみが正統で、各国語訳はその解説書扱いだから
イスラム教の聖職者はアラビア語が必修
704 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 13:18:32 0
>>694 ウソです。
兵馬俑博物館のHP見れば載ってます。
>>703 中世ヨーロッパって限定されてるだろ……
現代のように母国語の違う国民がすぐに接触できる時代じゃないからなあ 大国ならその国の言葉を訪れる人間は喋ったし 中世ローマ(ビザンツ)帝国なんかは中世ギリシャ語使ってたから 使者にもそれを喋れる人間を寄越したけど
707 :
703 :2010/05/22(土) 14:50:00 0
ああ、すまん、中世ヨーロッパの共通語(当然ラテン語のことを言ってると思った)は、現代の英語と 並列にされて、それら中世のラテン語や現代の英語ののような「外国人同士の(中略)言葉」と 解釈してしまった イタリアあたりの知識人はギリシア語も学んでいる者もいるけど、ラテン語ほど広く通用は しないな そもそも、西欧ではそういう知識人自体が修道士ぐらいのものなので、いずれにせよギリシア語も ラテン語も、庶民には無縁だけど
>>492 日本教科書大系は初等教育の教科書のみがまとめてあったので、
そもそもWW1の背景についての記述自体がありませんでした。。。
ジェファーソンはなぜ反連邦派を貫いたんでしょうか?
710 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 17:02:39 0
なぜアジアはイギリスに民主化されるまで四則計算や幾何学さえなかったのでしょうか?
711 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 17:06:04 0
ごめん、気が動転した。
>>710 とりあえず、そろばん教室通おうか、な?
いつものバカだ、相手にするな。
アメリカの建国初期に強力な中央政府の樹立を主張する連邦派と 各州の自治・主権を主張する州権主義をとる反連邦派が対立し、 その後も連邦派と反連邦派の対立が続きましたが、 この対立はいつ、どんな形で収束したのでしょうか? また、連邦派と反連邦派はそれぞれどのような理由から、 このような主張を行ったのでしょうか?
イスラエルに法的な死刑制度がないのはなぜですか? あんな紛争国なんだから死刑がいくらあっても足りない気がするんですが…
四則計算ができなくて困る人はいても、幾何学ができなくて困る人は社会人にはあまりいないはず。 つまりそういうこと。必要がないから学ばなかった。 もっとも、欽天官とか一部の人は必修だったけど。
>>715 死刑制度を採用するかどうかと、紛争を抱えているかどうかは関係ないから。
テロや暴動を起こしたパレスチナ人やその指導者は問答無用で軍が殺すから、
別に裁判にかけて死刑にする必要ないし。
>>716 四則計算も幾何学もかなり古くから中国では発達してて、
四則計算はある程度学があるか、商売してればできて当たり前。
幾何学も職業上必要な人間なら身に付けていたし、
趣味でやってる在野の数学者もいたけどね。
幾何学が趣味って皇帝もいたぐらいだし。
そもそも、アジアはまだ民主化されてねぇ(中国とか) けど、四則計算と幾何学は既にある 質問の前提から間違ってるじゃん
720 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 20:34:24 0
>>714 対立自体は反連邦派のジェファソンが政権を握ると、
連邦派の勢力は次第に弱まり、なくなっていったって感じ。
721 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 20:54:42 0
今でもざっくりと分ければ、民主党が連邦派、共和党が反連邦派の流れにある。
722 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 21:13:18 0
>>718 シナに数学の概念ができるのはイギリスに民主化されてから。
ついで幾何学の概念をシナが知ることが出来たのはイエズス会の宣教師が明を
文明化させたとき。それ以前は経験則で手作業で建物を建ててた。
平方根も知らなかったのでシナの建物ってなんだかいびつだろ?
定規とか分度器もイギリスが持ち込んだ。このときになって初めて直線(水平)という
概念をシナは知ることになる。ところでシナ世界が方程式を知るのはずっと後の
20世紀後半。
723 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 21:17:42 0
>>719 アレクサンドロス三世が今の中国の陝西省に到着したとき、すでに民主化運動は
進んでいた。だがアレクサンドロス率いた軍の将校であった始皇帝は民主化はシナに合わないといって独裁政治を行った。
>>722 どこでそんな歴史学んだんだ?
第一、中国はイギリスの手によって民主化されたことなどないし、
古代から幾何学は中国でも発展してるんだが。
定規とか分度器も古代から存在してる。
数学が発展したのはヨーロッパだけじゃないんだよ。
>>721 民主党が中央集権志向で、共和党が地方分権志向ってこと?
でも、南北戦争前後では民主党が地方分権主張してて、
共和党が中央集権を推進してたような気が。
だからバカに触るな。 それとも自演か?
>>722 日本の法隆寺が中国数学のサルまねで建立した事実も知らないのかよ……。
日本人がまともに数学に関心を持つのは江戸時代以後だから仕方ない話だけどよ。
728 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:01:39 0
>>725 721の書いてることは間違い。
連邦派が共和派、反連邦派が民主党の流れを汲んでる。
729 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:08:00 0
730 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:12:31 0
>>724 シナで初めて幾何学を記した書物はイエズス会が持ち込んだ「ピュタゴラスの定理」という
本。イギリスが香港と上海の一部を民主化させて学校を建てたときに方程式や数学といった
科学の基礎知識をシナ土人に教えた。このときになってシナに科学という概念が根付く。それ以前は
まさに経験則の世界で、手作業と勘で建物をたてたり土地区画整備をしてた。
731 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:13:50 0
ちなみに江戸の日本人に数学や科学の概念を教えたのはオランダ人。
732 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:19:04 0
なんでこの板はIDが表示されないんですか?
733 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:20:14 0
呉智英が言ってたっけ「アジア人が飛行機を飛ばせないのは経験則の世界だから」って。
NGワード:アレクサンドロス 経験則 四則演算 幾何学 白人 パンパン ピュタゴラス オゲレツ まだまだ増えそうだな
736 :
世界@名無史さん :2010/05/22(土) 22:53:32 0
17世紀の張献忠という人物が四川省の人民を300万人も殺戮したってのはマジですか? なんか石碑も立ってるらしいですが
経験則が悪いのかどうかしらないけど。 中国ではかなり高度な学問も技術も発明されたし実用化されていたんだよ。 中国起原の学問は思ってるよりも多いよ、きっと。 ただ、天才がすごい知識や技術を発見、発明してもね。 それを秘密にしちゃうんだよな。 一子相伝とか弟子相伝の秘法にしちゃう。 しかも神仙の導きでさずけられたとかってかたちで神秘化しちゃう。 だから哲学にならずに宗教化しちゃうんだ。 後世のひとが先人のゴールをスタート地点に出来ないし多くの人が知識を共有して発展させてゆくことが出来なかったんだよ。 それくらい知識や技術を秘密にする中国人。 パクリ大国だもんね。
>>737 日本人も社外秘にするだろ
企業内でしか共有されない
ノーベル賞クラスの発見であってもだ
>>736 事実です。2年で300万人殺しました。
300万なんて絶対嘘。 独ソ戦のドイツの戦死者がそれぐらいなのに、銃どころか刀槍ばかりの連中に300万もの虐殺は不可能。 三万ぐらい殺したのを誇張したんだろ。
最先端の特許的知識は日本も欧米もそうだよ。 でも過去の歴史についていってるのさ。 それも基礎的な科学知識のことをいっているのさ。
300万も殺したら人がいなくなっちゃう。。 つか皆殺しだったのかもしれんけど。。
>>740 当時の中国には銃と大砲が山ほどありました。
>>742 本当にいなくなったんだよ。
四川は張献忠のせいで住民が皆殺しになったから、
元からの住民がいなくなって、
清代に他からの地方から移民した人間の子孫ばかりになった
疫病がプラスされれば、都市や近郊の人口は激減するよ。
大量に処分するときは基本的に「生き埋め」 その穴も処刑される人間に、交代制で掘らせる そうすれば100万人くらい簡単に処理できます
でも住民みなごろしにして政権なりたたんでしょ
747 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 00:09:52 0
>>736 張献忠が多くの人を殺したのは間違いないだろうけど、
殆どは清の蛮行によるもので、それを死んだ張献忠に押し付けたという説もあるよ。
もっと期間の長いアジア・太平洋戦争の日本の戦死者でさえ310万、アウシュヴィッツでも250〜300万
位の死者数なんだからそれはありえないと思う。
>>743 多いって言ったって割合的に考えればそんな多い訳ないし、300万は誇張と言われてるよ。
それに刀なんて2〜5人位も切ればすぐダメになるみたいだし。
あくまで俺の推測なんで叩かれるかもしれんが、
張献忠に恐怖した四川の住民逃亡→あまりにも人がいなくなったので死んだように見える
→産業とか農業がダウンしたので政府が移民を奨励みたいな流れだったんじゃないの?
何言ってるんだい ポル・ポトは総人口が1000万人くらいなのに300万人を殺したり スターリンとかも1000万単位で殺してるだろ。 閉鎖的な国では自国民の大量殺戮は他国の軍隊を殺すよりもはるかに簡単
理由はなんだったの?
シナ共産党は35億人殺したらしい。
古代ギリシアで、奴隷の内訳は如何様なものだったんでしょうか? 何人が何割くらいだったのか知りたいです。
古代ギリシャの民主制は民主制とはいえ、その都市の市民権持ってる連中限定の民主制であって、 現代の民主主義とは意味合いがぜんぜん違う
現代だって外国人は参政権ないし、18以上にならないと選挙権ないし、女性や黒人が選挙権ゲットしたのも ここ数十年の話というほど違っているわけでもないがね。
あ、しまった日本は20以上で18以上はアメリカその他諸外国か
ポルノは21歳からで選挙権は20歳から 選挙権は18歳からでポルノは21歳から どちらもおかしくないですか
756 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 14:04:59 0
>>751 少なくともスラヴ人は多かったみたいだけどな。
あと、小アジアからの奴隷も多かった。
同民族の奴隷もいたがそれは少数で、異民族が中心だった。
ちなみに、ローマでは黒人(特にエチオピア人)が人気あったみたい。
>>756 ありがとうございます。
スキタイ人って奴隷になってたんでしょうか?
というのも、漫画の「ヒストリエ」でスキタイ人がカルディアの奴隷になってたので、あれ?と思いまして。
>>757 あの地域の遊牧民は、古代から近世に至るまで奴隷の一大供給源。
>>752 古代ギリシャの場合、民主制というのは、貴族合議制(貴族内民主制)という意味。
欧がギリシャを理想化したあまりの言い方で、日本語としては誤訳に近い。
760 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 16:49:32 0
奴隷は白人全般だったのだけど、白人至上主義者が奴隷はロシア人だけだった、 と主張して始まったのが「スラブ」が奴隷という意味になったいきさつ。
761 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 16:53:38 0
>スキタイ人がカルディアの奴隷になってたので むしろ普通のことだろ。どうして「あれ」と思った? スキタイが軍事的に有利なはずなのに、とか?
>>781 そうです。
それと、ギリシア人がそこまで遠くで活動するはずがない、と勝手に思い込んでいました。
みなさん回答ありがとうございました。
地中海の都市国家の多くは、最初は王政だったが、王系が絶えたり貴族会議(元老院)が王を追放したりして「共和政」になった。 しかし中産市民が軍事的・経済的に実力をつけ、だんだん政治に参加するようになった。 ギリシャの貴族はもとが部族長とか大土地所有者とかだったので、中産市民の台頭にともない多くが没落した。 そのうち下層市民も「おらたちがガレー船漕いでるから戦争に勝てるだ」とか言って参政権を要求。 数としては下層市民の方が多いから、こいつらを扇動して民主的に政権をとったのが僭主。 こうしてアテナイでは、ついには資産資格によらず「全市民(成人男性)に」直接の参政権が与えられ、 そこらの漁師のおっさんがくじ引きで執政官に選ばれたりもしたが、市民権は代々の血筋によるものだった。 だから、ソクラテスは資産的には貧乏だが立派にアテナイ市民だったし、アリストテレスは外国人だったのでアテナイ市民になれなかった。 スパルタは鎖国してたし王政だったので、そもそも共和政ですらないが。 ローマの場合も、共和政になった当初は元老院と平民集会があり、参政権も資産により不平等だったし、 市民権も(ギリシャよりは鷹揚だが)ローマ市の住民とその子孫にしか与えられなかった。 同盟市戦争後はイタリア半島の住民にまでローマ市民権が拡大し、その後もローマ市民はどんどん増えたが、 それなりに特権が伴うので、3世紀初頭まで帝国人口の1割程度だった。
スキタイったって王侯貴族から遊牧民、商人、農民、奴隷といろいろいる。 トラクスやエウメネスはそれこそ、トラキアという辺境地帯にいた、はぐれもんのスキタイだろ。 ギリシャ人が当時から黒海北岸まで殖民して奴隷貿易をやってたのは漫画「ヒストリエ」に描いてあるし。
キプチャク平原やスラブやアナトリアが古代からの奴隷の供給地だったのに、 なぜ近代になってから新大陸開発などに、 これら古来からの奴隷供給地の奴隷が使われず、 黒人奴隷が使われるようになったのでしょうか? 白人奴隷を使えなくなった理由があったのでしょうか?
アフリカから直接買い付けた黒人奴隷は「原価が安かった」
・西アフリカも西ヨーロッパ(特にイベリア・英国)も南北アメリカ大陸も、大西洋に面しています。 ・その頃、バルカン半島とアナトリアにはオスマン帝国という大国がありました。 ・白人奴隷はポーランド・リトアニア連合やヴェネチアを介して主に中近東へ送られました。 ・クソ暑い中南米のジャングルなどにスラヴ人やタタール人を連れて行くと死にます。 ・内陸民族のスラヴ人やタタール人が暑くて広い大西洋を渡るとショック死します。(嘘) …まあ、北アメリカには18世紀末からスラヴ系の開拓移民がかなり行ってますが。(ポーランドが滅亡したので)
769 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 18:42:05 0
>>766 エキゾチックな要素を好んだ面もある。
フランス革命のちょい前のフランスでは、黒人の御者(馬車のね)を使うのが趣味が良いとされてたみたい。
770 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 20:05:48 0
既にロシア帝国にシベリアという広大な開拓地があったから わざわざアメリカへ行く必要などない
771 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 20:40:42 0
>>766 既にできあがっている政権体制に対して戦争を仕掛けてまで奴隷狩りして収支があうの?
772 :
世界@名無史さん :2010/05/23(日) 20:53:05 0
>>765韓国人も世界中を植民地にして奴隷貿易してましたよね。 古代ギリシャ人と韓国人は祖先が同一であるという研究報告もされています。
古代韓国人は、かつてユーラシア大陸とムー大陸の全土を支配した世界最大最高の民族である。 彼らは白人を奴隷として使役し、古代韓国語でペクチョン(白丁)とは白人を指している。 またシナやアフリカやアメリカに人類文明をもたらしたのも当然韓国人である。 だが、古代韓国人は余りにも発展した文明の暴走によって自ら滅びた。 現在は韓半島と呼ばれる小さな国土に細々と生き残っていると伝えられる。 民明書房韓「大韓大皇帝国の復活」より
Julius Caesar はジュリアス・シーザーでなくユリウス=カエサルだったり populares がポプラレスだったりするのは 本当にギリシャ語に準拠した結果なのでしょうか 便宜上日本独特の訓令式ローマ字読みしただけではないかと思うのですがどうでしょう
>>772 キリストも韓国人
ってどこかのスレにあった。真偽不詳。
そのころ、韓国ってなかったんだけどと思った。
ギリシャ語ならΙο?λιο? Κα?σαρα?(イオウリオス・カイザラス)?
Cthulhu はクスーリューではなくクトゥルフだったり Nyarlathotep がナイアーラトテップだったりするのは 本当に彼らの名前を彼らの発音器官で発声した結果なのでしょうか ああ窓に!窓に!
時々電波を受発信している人が来るのは仕様ですか?
>>778 Wikiによるとラテン語は公用語でギリシャ語は準公用語らしいですね
どちらが一般的だったのかは知りませんが
>>779 これはいいまとめサイトですね
ありがとうございます
>>781 何時の時代の話してんのか判らんけど、「カエサル」についてはローマ人だからラテン語でってことだと思うが。
ギリシャ語とラテン語、世界言語の覇権が移ったのは何時ごろですか
>>782 日常だけでなく公文書や元老院の演説でもラテン人は皆ラテン語を話していたんですか?
785 :
世界@名無史さん :2010/05/24(月) 03:25:57 0
>>748 明朝末期は近代的国家じゃないんだからw
国家レベルで虐殺をするにも一定の技術や道具が必要なんだぞ。
戸籍制度だって完備されたもんじゃないから、数の上での人口が減ったんでしょ。
そんなに暴虐な兵隊が暴れまわってれば隣の省とかにも逃げたことも十分考えられる。
もっとも、その過程で病人も出たり餓死したりもするだろうし、相当な数の人間が犠牲になったとは考えられる。
すくなくとも、張献忠の軍隊が直接的に300万も殺害できたわけがない
ギリシャ語は地中海世界ではラテン語より広く通じ、オリエントから南伊までギリシャ語圏。 ローマ人も多くがラテン語とギリシャ語のバイリンガルだったが、元老院や公文書や軍隊ではラテン語で統一した。 ネロはギリシャ語圏のことはギリシャ語で、ラテン語圏のことはラテン語で演説したという。 日本にいるとバイリンガルが特殊能力と思いがちだが、別にそんなことは無かったぜ。 のち西欧では教会ラテン語が共通語になるが、東ローマ帝国では7世紀頃からギリシャ語が公用語になった。
わぉ〜韓国語が古代世界から現代にかけて、アジアの公用語になったのと同じですね。
>>759 中近世ポーランドの貴族民主政「黄金の自由」と同じだな
アメリカ建国当初の民主政も実質的にブルジョワ間世襲制的になってしまっていたのでそれに近い
>>762 スキタイ国民がいて国民が少しでも他国に襲われたら国家を挙げてこれを守る
とでも思ってんの?
当時の国家なんてそんな風じゃないよ?
>>766 スラブについては単純にスラブ帝国なんて統一国家がないから
スラブ人とはいえ奴隷になったのは他国に隣接する地域の住民だけ
しかも遠隔地のスラブ人がそういった地域のスラブ人を狩って奴隷として売り払った
>>788 アルタイ系諸語やツングース系諸語を全部韓国語と考えるとそうなる
そういうふうにひっくるめることの是非はまた別として
古代ギリシャ語も同じだよ。あの時代に「偉大な人たちが話してた(という ことになっている)」のが古代ギリシャ語なんだから。
ローマ帝国では不況や好況があったんでしょうか?
あらいでか。
どうでもいいんだが、ユリウス・カエサルって呼び方は氏族名と家門名であって 個人名のガイウスはありふれてるからってハブられてるよね 織田信長でいうと平(氏)・織田(家)みたいな
イラク戦争のフセイン大統領とか。 サダム・フセイン・アブドラマジド・アルティクリート サダム 個人名 フセイン 家父長名 アブドラマジド 始祖名 アルティクリート 采地名
欧米の植民地帝国がやがて植民地を維持しきれなくなって、 なし崩し的に植民地を手放したのはなぜでしょう? 植民地帝国の経済の繁栄ぶりを見る限り、 植民地の市場と原料と資源を独占する利益より、 植民地を維持するコストの方が高いとも思えないのですが。
特定の個人が思う思わないにかかわらず、 維持コストの方が高くついたから
原料と資源なんてのは一次産品だから景気後退局面で簡単に暴落する そのとき必ずマネー供給が過剰になる(貨幣の悪化) そうなるともはや貨幣が価値を失い帝国は一気に崩壊へ向かう これ、いつもおこるシナリオ いちばん最近の典型例はソ連
>>798 欧州の植民地をアメリカが引き継いだだけで植民地支配は変わっていない。
>>801 そういう地域で米ドルを公式な通貨として流通させておらず
あくまで現地通貨を建たせ、マクロ的不均衡が生じると為替相場でヘッジしているから、
昔の欧州の植民地帝国主義とはちょっと毛色がちがう
近年はチャイニーズやインド人やコリアンが アジア・アフリカの土地を買いあさったりはしてるけどな
>>802 欧州植民地帝国だってそうしてたぜ。つまり刈り取るまで育てるんだよ、
有色人種を。パンパンの子孫なんて自国が植民地じゃないなんて思ってるから気楽なもんさ。
>>796 ミナモト・アシカガ
ミナモト・トクガワ
こうだったのか
余はオダにしてトヨトミにしてトクガワである
むしろ織田(氏族)・弾正忠(家門名)じゃないだろうか 織田氏の本姓って藤原だったり忌部だったりするから
>>798 フランスなんかはそう信じて植民地を手放すのをgdgd引き伸ばした挙句
ww2後の独立戦争やら紛争に巻き込まれて更に国庫を疲弊させた
イギリスだとインドなんかは19世紀の時点で反乱多発と往復運賃でアシが出始めており、
その結果中国ではあくまで租借地として小規模経営してみたり、
日本には破格の条件で鉄道敷設を手伝ってやったりと、
単なる収奪よりもまともな交易(不平等条約がある限り対等ではないが)相手を育てるようにこの時期に方向転換している
808 :
世界@名無史さん :2010/05/24(月) 23:14:10 0
>>798 「植民地の市場と原料と資源を独占」するのはすっごく大変だぞ。
植民地が豊かであればあるほど、そこにいろんなものを供給してやらないと
いけない。アジアだと仏領も蘭領も結局それが出来ずに、香港・シンガポール
が存在しないと経済が回らないようになってた。無理に関税上げても
密輸が増えるだけだし。
809 :
世界@名無史さん :2010/05/24(月) 23:15:28 0
>>807 個人的にはポルトガルの方がひどい気もするけどね。
イギリスの植民地経営は確かにうまいと思う。
810 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 00:16:23 0
第二次世界大戦後のドイツ占領時代についての質問です。 三占領国の中でもアメリカやイギリスはどうしてドイツと距離をおこうとしたのか、 そして何故フランスだけは違ったのか。 教えて頂けたら幸いです。
じゃって国境接した隣国じゃろ?
812 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 00:29:12 0
>>811 ちょ、そんな理由で本当にいいんですか。
自分としては仏と独は中が悪いイメージなんでそのような理由にピンとこなくて(汗)
なんか経済やらの戦略があってのことなのかなぁと。
>>808 香港は成功した例だね。中国みたいに自力じゃ近代化できない国は
ああした面がプラスになった例もある。満州も台湾も似てるし、現代の新自由主義での発展も。
刈り取るというより、香港自体が地方の港レベルから
一大発展。香港人は中国返還嫌がってイギリス人になりたがった。
この辺がいくらアメリカの豊かさあろうが、本土復帰を熱望した沖縄との違いか。
冷戦で嫌々了承だとか、土人ウヨみたいなの除けば、米軍基地も基本嫌がられてるし。
この辺がプライドや能力と民度の高い先進国の日本と後進国の違いだな。
>>814 >香港人は中国返還嫌がってイギリス人になりたがった。
当時の生活レベル(所得レベル)は
香港>>中国
だったからでしょ
次
フランスがなんか占領時代のドイツに手厚い援助とかしてたっけ?
818 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 01:44:24 0
>>817 思いつくのはアデナウアーの西方政策かなぁとか思ったりしたんですが、どうやらそれよりも前にフランスは歩み寄ったりしているようなので違うのかなぁと
あとアメリカやイギリスはどうして距離をおいたのかも未だにはっきりとした答えがだせません(汗)
819 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 02:09:20 0
>>815 >所得
当時アメリカの方が所得が高かったのにアメリカ統治を
拒否した沖縄人とえらい違いだなw
文化や歴史の誇りとかもないんだろうね。
300万人以上がイギリス籍やパスポートを保持したまま。
豊かなアメリカ在住の黒人でさえXに改名したマルコムや非アングロサクソン名に戻した
イタリアアラブもいるというのに。よっぽどジョンやベティとか下賜された名前の方をありがたがったのか。
距離を置いたっていうか、そもそも戦争やってた敵国だし、米英的には海の彼方の国だし。 中東欧に広大な共産圏が広がってしまったので、欧州が復興せんと防波堤にもならんから援助はしたけど。 欧州大陸部にあるフランスとしては、西ドイツだけでも味方につけとかんと死活問題じゃね?
821 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 02:16:07 0
またパンパン論者がきてるのか。 勝手に民主党と心中してろ。
戦時中のアメリカではモーゲンソー・プランといって、ドイツを解体して産業をぶっ潰し、 無害な農園国家に変えてしまえ的な懲罰計画が提唱されていた。 提案したモーゲンソーはユダヤ系だったから分からんでもないが、 占領後はこのプランに沿って財閥解体とか非ナチ化が行われた。 が、あんまりドイツを苛めるとWW1後のように第二のヒットラーを生み出すやも知れず、 東にはソ連が「鉄のカーテン」の向こうで虎視眈々と西側諸国を狙っていた。 モーゲンソーに入れ知恵したのはソ連のスパイじゃねえの、なんて説もある。 こりゃやばい、てんで欧州復興が進められ、(西)ドイツは急速に国力を回復しましたとさ。 フランスは無理やり戦勝国に名前をつらねたものの、復興は進まねーわ植民地は次々と独立宣言するわ、 なんで米英ソにペコペコしなきゃなんねえんだ、俺は欧州の大国だぞと吠えてみても、どうにもこうにも発言力がない。 じゃあ気に食わないがドイツを味方にして、第三極になってやれとドゴールあたりが考えたようだ。
823 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 04:21:28 0
>>820 >>822 なるほど!これは参考になります!本当に助かりました!
そしてこんな時間までおつきあいして下さって本当にありがとうございました。
824 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 04:24:45 0
・・・おh、眠気のせいか言語にに乱れが。 最後の最後ですいませんでした(汗)
参考文献の出典が古すぎてお話にならない、と何スレか前に出ていたな。
>>825 嘘。帝政期に財政改革がおこなわれて以降、
属州には盛んに投資が行われるようになり、住民の生活水準も向上した。
828 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 17:03:09 0
はっはっは、香港は植民地としてうまくいっただとよ。 じゃあ日本も植民地としてうまくいってるわな。 植民地にされるということがどういうことか、 世界史を考える人は見てみるといい。
次
>>817 第一次大戦後、敗戦国ドイツからむしり取りすぎて、ナチスの台頭を招き
ひどい目にあったから、少しは反省したんだろ
中央アジアやインドにまたがる大帝国で、 ササン朝を圧倒するほどの勢力を誇ったエフタルが、 なぜササン朝と突厥の挟撃を受けてから、 数年であっけなく滅びたのでしょうか? エフタルはその頃既に衰退していたのでしょうか?
832 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 18:40:46 0
なぜコンスタンティノープルから東はイギリスが民主化させるまで 「ユークリッド原論」といった幾何学の基礎を知らなかったのでしょうか?
突厥が超強かったから
知らなきゃ天体観測なんて出来ない。
835 :
世界@名無史さん :2010/05/25(火) 20:07:52 0
なぜイギリス人はユークリッド幾何学をローマ人が持ち込むまで知らなかったのでしょうか 彼らは世界でもっとも知能指数の高い白人民族のはずなんですが
エフタルが滅びたのはのう… 王蟲を怒らせたがゆえじゃて…
>>835 ユークリッド原論を書いた古代ギリシャ人は実はアングロ・サクソンだったという
説がある。つまり子孫が再び持ち込んだだけ。
ローマが持ち込んだとしたらそのときいたのはケルト人とかじゃね。
ちがう、そのときからアングロ・サクソンは居たんだよ。そうじゃないと 「白人は古代ギリシャ人の直系子孫である」という説が崩れるじゃないか。
次
アングロ・サクソンとは、アングリア(イングランド=アングル人の土地の意)のサクソン人という意味であり、 サクソン人がイングランドに上陸したのは5世紀頃だ つまり、アングロ・サクソンなる民族はそれ以前には存在しない 古代ギリシャ人がアングロ・サクソンとは、妄説もはなはだしいw
アレクサンドロスがバビロンで死んだというのは、後世の嘘である。 彼は西のイタリアに攻め込んでローマ帝国を建設し、ヨーロッパをも征服した。 またブリタニアの原住民を殲滅したあと50万人のギリシャ人を殖民させ、アレクサンドリア・ロンディニオンを築いた。 彼らの子孫はアレクサンドリア人を名乗ったが、これが訛ってアングロサクソンとなったのだ。 そしてアレクサンドロスは大西洋上にあったアトランティス大陸(ケルト語でアヴァロン)をも征服し、宇宙へ旅立った。 さらには不老不死の肉体を得て銀河帝国を築き上げたとされ、3000年後に地球に帰還すると言い伝えられている。
>>842 じゃあなんでロースロイスのシンボルマークは古代ギリシャの宮殿なんだよ?
もしかして:ロールスロイス 次
つまりローマ人が持ち込んだとすればブルトン人が居た時だから、ローマ人が去ってから持ち込まれたって訳だな。
847 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 11:55:05 0
アジアに幾何学の図形の製図方法とその面積の求め方を記した本ってないの?
848 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 12:44:17 0
李氏朝鮮には車輪を作る技術がなかったって本当ですか?
>>848 本当です。朝鮮通信使は日本の車輪を見て、画期的な新技術だとびっくり仰天して絵図面に書き取って帰っていきました。
それが、来るたびに同じことの繰り返しで朝鮮通信使が途絶するまで続きました。
真似しようとしてもどうしても真似できなかったのです。素直に頭さげて日本の技術者に教えてもらえばよかったのに
余計なプライドがそれを許さなかったのです。
850 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 16:14:04 0
851 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 16:16:21 0
>>847 その前に全国のローカル神社めぐりしてみろ
852 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 16:17:58 0
というか朝鮮には曲げ輪の技術が無かったので大きな車輪が作れなかったとか 小さいのは作れて使われた
853 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 16:18:44 0
李氏朝鮮の鄭東愈が、1805年にこう書いている。「他国にあって朝鮮には無いものが三つある。針と、羊と、車である」 まずもって車(車輪)を使うには、道路が平坦に整備されている必要がある。 だが朝鮮の道は狭くてデコボコで、川に橋をかけても技術が未熟なのでよく落ちたという。 首都を防衛する必要もあったのかも知れないが、19世紀末でもこの有様だった。 またそもそも、車に乗せるほどたくさんの物を運ぶような物資の流通もなければ、人の動きも無い。 馬やロバの背に乗せてパカポコ運ぶ程度。偉い人は輿に乗るか、人力引きの一輪車に乗って運ばれたというから、 まったく車がないわけではないが、江戸時代に使われたような大八車のたぐいは全然なかった。 多分、朝鮮では労働者とか職人を蔑視する風習があったから技術が失われたのだろうが、それにしても想像を絶する。
唐の府兵制による徴兵制が崩壊して、 節度使の常備軍に軍事力を頼るようになったのはなぜですか? 徴兵制でまかなっていた中央で統制できて信頼できる軍事力を、 軍閥のような節度使の軍事力に置き換えるのは、 国内の安定上危険と思うのですが。
>>854 確かにそれは想像を絶する
羊はなくても問題ないし、車はないと厳しいけどそれでもある程度は人力と荷駄でなんとかなるだろう
しかし、針なしで、どうやって服を作ってたんだろう……
>>856 針は支那からの輸入。日本も品質の高い中国産針を輸入してた時代があった。
>>854 > まずもって車(車輪)を使うには、道路が平坦に整備されている必要がある。
なるほど、地方地方で分断されていたっていうことか、
今でも、地方意識が強いらしいのは、そのなごりだな
中国領または中国の地方政権国だったから、主なものは中国から輸入すればよくて、
中国の食料生産担当地域だったんだ
どっちかというと朝鮮人参生産担当地域な感じが
>>855 府兵制によって国境を防衛することが困難になったから。
まず、徴兵で集まるのは戦闘の素人な農民兵ばっかりで、国境にはりつけて防人にするのがせいぜい。
しかも兵役は義務なので、その間の収入とか給金というものはなく、手弁当で辺境へ行くしかない。
大事な働き手をひっこぬかれた農家は納税や労役が果たせず貧窮し、
均田制で割り当てられた本籍地を捨てて逃亡するか、大土地所有者の小作人になってしまう。
そうすると税収そのものも減るし、徴兵すべき成人男子がいなくなる。
すでに防人にされていた人々は、交代要員が徴兵されなくなるので長い間故郷に帰れなくなる。
こうして、府兵制システムそのものが国を食いつぶすようになってしまった。
遠征の時は、こうした防人よりも臨時の募兵の方が役にたち、「行軍」と呼ばれた。
彼らは騎馬戦闘もこなす戦闘のプロで、お上から給料も出た。辺境に置かれた都護府の兵はだいたい行軍だった。
そのうち行軍は臨時雇いではなく常備軍となり、彼らをまとめる連中が節度使(藩鎮)となっていく。
節度使を中央政府が統御できているうちはよかったが、ついに安史の乱が勃発して統制が効かなくなったわけ。
全ての道はローマに通ず なぜコンスタンティノープルには通じませんか
>>855 府兵制といった国民皆兵制度は、本来農耕民族には向かない、騎馬遊牧民族向きの制度なのです。
兵農一致が騎馬遊牧民族に適していて、兵農分離が農耕民族に適しているということです。
それは世界史的に明白です。どの騎馬遊牧民族も農民・武士(騎士)といった職能分離が起きなかった。
騎馬遊牧民族は成員一人一人が農民でもあり武士(騎士)でもあるのです。
それに対し、どの農耕民族も農民・武士(騎士)といった職能分離が起きました。
それはなぜか。騎馬遊牧民族は土地を個人所有しないからです。領土全体が集団所有の牧場と同じだからです。
草原を移動しながら家畜を食べさせていけばよいので、個人所有の意味も無いし、定住が不可能だからです。
よって騎馬遊牧民族は生業と兵役をいつでも切り替えられることができる。兵役が終われば、すぐに生業に
復帰可能です。ところが、農耕民族はこうはいかない。兵役についている間に土地が荒れ放題になるか、
誰かに奪われるかどちらかです。兵役から戻っても生業に復帰することができません。種を撒いて、これから
収穫に入ろうかという時期に兵役に借り出されれてしまえば残された女子供だけでは間に合わないのです。
だから府兵制は農耕民族である漢民族には大変評判が悪かった。兵役に動員しても、戦場を離脱して元の土地に
舞い戻ってしまうのです。こうして府兵制は機能しなくなってしまったのです。
863 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 21:50:15 0
>>861 その手の「俺のトコは偉大な都市だ」って言い方はどこの国にもあって、
それをパンパンの子孫は欧州だけ紹介するから誤解を受けるんだよ
共和政ローマの軍団兵は?
>>861 ローマ式街道は、紀元前以来「都市ローマ」を出発点としていた。
(ローマ帝国域内の)全ての道はローマから発する、ともいえる。
コンスタンティノープルは、西欧の防衛を事実上放棄した中世ローマ帝国の首都として建設された。
なので、そこから/そこへ全ての道が通じているとはいえなかった。
もちろん西欧からも東方からも海陸の道が通じてはいたが。
モンゴル人はいつ頃から箸を使い始めてそれが定着したんですか? 遊牧民というと馬上で干し肉とかかじってそうなイメージでした。
>>862 遊牧民は確かに移動性に優れるだけど、遊牧民が府兵制を導入していたわけじゃないから説明になってないかと。
府兵制は唐の専売特許じゃないし、国民皆兵制度が「農耕民族に対して」上手く機能していた状況は東西の区別無しにある。
共和制ローマの市民軍もハンニバル戦争位までは問題なく機能していた。
近代ではフランスの徴兵制もある。フランスは工業化もしたけど、それでも欧州随一の農業国でもある。
中国の府兵制の元祖は西魏だけど、その時点では上手く機能していたようだ。
というか、本来なら農地と一体の農耕民を戦わせるために府兵制がある、つまり農耕民用の制度なわけで、
それを語るのに遊牧民を用いるのは違うよね。
府兵制が立ち行かなくなった理由を語るなら、
>>860 の様にシステム自体の歪みや崩壊について述べるべき。
モンゴルでは、主に羊肉を塩茹でして食べる。 それを素手でつかんで食べるか? そんなアホな。 シナからはツォイバンという焼きうどんなどの麺類も伝わったが、 焼きうどんを素手で食べる人はあまりおらん。 というわけで、モンゴル人も普通に箸を使う。
>江戸時代に使われたような大八車のたぐいは全然なかった 何がソースか忘れたが大八車は日本オリジナル(らしい) 2,30年前ホビージャパンという雑誌に、独補給部隊が対ソ戦の特別装備として手押し車を配備していた記事があったなとググったら wikiに「手車(てぐるま)ともいう。ドイツでは手押し車を俗にKipp-Japaner (日本人) と呼ぶ。」とあって笑ってしまった 本当に海外では人力輸送にこういうものを使わなかったのだろうか?
870 :
世界@名無史さん :2010/05/26(水) 23:32:55 0
洛陽はかつて異民族が生息する土地のど真ん中にあえて建都されたという。 理由は天子に不正の意があったとき、異民族からの襲撃を予測して 自らを戒めるものだったからという。それとは別に周代、冊封諸侯から 等距離にある土地に天子の都を建てたという。つまりすべての中原の都市は 洛陽に通ずるのである。 史記
>>869 そういや、人力車もリヤカーも、日本で発明されたものだったね(リヤカーは和製英語)
たぶんヨーロッパでは、車は人が牽くものではなく馬やロバなどの動物に牽かせるものって
感覚が強かったんだろう
犬のパトラッシュにまで車を牽かせてるし
諸葛孔明の木牛流馬が運搬用手押し車の類ではないかとも言われるが…
>>869 >本当に海外では人力輸送にこういうものを使わなかったのだろうか?
道の状態が違うからということは無いのかな
日本は土の道、
向こうはごつごつした石、がれきの道で、車に適さなかったため、
代わりに馬や、船(沿岸、河川)、あて推量だけど。
中国のシルクロードの写真を見ると、今でもロバにひかせた車が使われている。
>871 アインシュタインが日本に来て人力車に乗るよう促されて 「こんな非人道的な乗り物は許されない」と、ぶちぎれたという話があるね
876 :
862 :2010/05/27(木) 00:12:04 0
>>867 >国民皆兵制度が「農耕民族に対して」上手く機能していた状況は東西の区別無しにある。
一時的になら、どんな制度であろうと巧く機能することは有り得る。しかし農耕民族には本質的に無理があると
説明したのだ。共和制ローマも自由市民が没落して軍制改革を余儀なくされた。
府兵制は、兵農一致の騎馬遊牧民族と兵農分離の農耕民族の制度を折衷したような制度だが、それでも
漢民族には無理があった。無理があったからシステム自体の歪みや崩壊が起こったのだ。
何が「べき」か知らないが、「システム自体の歪みや崩壊」が何に起因するかを説明して悪い理由が分からない。
騎馬遊牧民族が兵農一致で何も問題ないのに対し、農耕民族はどんな制度を導入しても、あちらを立てれば
こちらが立たず、二律背反の問題が生じて、必ず破綻する。4000年の中華文明でも軍制については四苦八苦して
ああでもない、こうでもないと制度を変えまくりだ。結局、農耕民族にしっくりくる軍制は無いのかもしれない。
うわあすげえ暴論
西魏の府兵制は、もともと職業軍人(府兵)を数家族が共同で支えるというような仕組みだった。 府兵は納税と労役が免除され、名誉ある自弁の戦士として戦ったので士気も高かった。 それ以前の魏晋・北朝でも、職業軍人の家は「兵戸」「鎮」として、一般の農民より高い地位を得ていた。 しかし、隋唐ではこの特権を取り払って、すべてを一般の民戸とし、しかも成人男子3人に1人という高い割合で徴兵した。 広がりすぎた国土を防衛するために兵員を増やさざるを得なかったのだが、これでは歪みが生ずるのも当然。 カラカラ帝がローマ市民と属州民の区別を撤廃してしまったような失政ではなかろうか。
共和制は最強無比で絶対に王制に勝つはずなのに、ローマが滅ぶわけ ないじゃないか。バカねえ。
しっしっ
え?兵戸だの営戸だのって、かなり低く見られてただろ? 少なくとも高い地位ってこた〜ないよ。 高く見られていたのは北方の軍鎮だろ。奴らは遊牧民中心だよ
だーからぁ、胡と漢が入り混じってたのが当時の現状なの。 漢人だってこんな戦乱時代に農耕しかしないわけないじゃないの。馬超みたいに混血だってするわさ。 胡人にも没落したり混血したりして農民だか牧畜民だかやってたのが山ほどいたの。 そういうのに職を与えて国内外を安定させるためにやったことなの。 兵の身分が低いっても、何万人もの官営武装集団に発言権がないてか? 遊牧民にしか戦闘はできんてか? 経文をうだうだ唱えてれば天下が治まるてか? 1か0かの極論しか考え付かんのか?あ?
884 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 01:11:51 0
質問ですが「ガリ勉マンで受験勉強がすごくでき、後に天才と呼ばれる科学者になった人」って いますか?
885 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 01:15:12 0
今のタイは富裕層・中間層と貧困層の対立が激化し、国が分断状態です。 ほかの国でも今のタイと同じような状況に陥った時期があると思うのですが どうやって克服したのでしょうか? 日本の場合だと、敗戦後の農地解放や税制改革(相続税、贈与税の導入など) で解決し、 ロシアの場合だと革命によって富の再分配を行ったとわかるのですが。 アメリカは貧富の格差が激しいと言われていますがタイのような状況に陥らなかったのは なぜでしょうか?
野口英世。
>>885 ニューディール政策。
あとは経済系の板へいって、キーワード貰って調べるとよろし。
888 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 01:58:16 0
日本の場合は占領軍によって反って階級を固定されてしまったんだよ。 支配者にとって、被支配者は自分に忠実な犬である方がいいからね。 問題は解決なんてしてないよ?皆同じというウソをいまもずっとつき 続けている。 アメリカの場合、貧富の格差と共に「階級の固定」があって、金が 一部の大企業にしか集まらない。確かアメリカの5%の人がアメリカの富の 90%を所有していると聞いた。さらに貧しいといえどもメシだけは食えるでしょ? 人は食を犯されない限り、命を危険な行為に晒さないので威勢が上がらないのでは ないだろうか?タイの場合は民衆の動きじゃなくてかつての権力者が人を雇って 暴動をやらせてるらしい。つまり単なる政争。
>>884 「ガリ勉」とか「受験勉強」というのはどうか分からないが、
例えばカール・フリードリヒ・ガウスなんかはそれに近いんじゃなかろうか。
891 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 06:32:32 0
>日本の場合は占領軍によって反って階級を固定されてしまったんだよ。 はぁ?
892 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 10:41:59 0
張良は劉邦の配下としてすごく活躍したのに、なぜ彼は劉邦の死後 ショウカやソウサンみたいに出世しなかったのでしょうか?
体調不良のため
>>892 当人にその気がないから。
史上まれに見る見事な引き際と言われている。
張良は元々「韓」のために動いていたので、
厳密には漢朝の股肱という訳でもなかった。
んで、目的も達成したし、権力闘争は御免つーことで
半分外様の気楽さもあって非常勤の顧問のようになった。
>>392 張良は呂雉の複雑さをよく知ってたから、
呂雉が自分を頼ってくるように仕向けたとも考えられる。
呂雉は、蕭何や曹参のような沛県勢力ではないし
張良自体も、韓の新鄭の出身で「親藩」の沛県勢力ではない。
保身を図るためには、いろいろ考えがあったのかと思うが。
>>892 保身のためと考えるのが妥当だろう
張良は、劉邦や呂后の性格をよくわかっていたし、また、たとえば呉が楚に勝った後に伍子胥がどんな運命を
たどったか、越が呉に勝利した後に范蠡どうしたかなどの、歴史知識も当然あった
だから彼には、この先、漢王朝創業の功臣達、その中でも特に、後から加わったいわば外様の家臣たちが
やがてどうなるか、容易に予測できた
劉邦に疑われたり、呂后に嫌われたりしたら最後だ
だから、「狡兎死して走狗にらる」ことにならないよう、先手を打って事実上隠遁し、「自分は老荘思想に傾倒して
いるので世俗的な権力欲はありませんよー、無害な存在ですよー」、とアピールすることで保身した
重装歩兵が、古代ギリシアのポリスが民主制に移行する原動力となったそうなんですが、 他の地域(オリエント以東)の歩兵も同様に参政しようとした例はあるんでしょうか?
>897 日本の鎌倉幕府がそうだろ 公家や平氏の政権に関東の武士が不満を高め、自分たちの政権を求めて樹立したんだから
>>897 必ずしも民主制とは限らないが、市民の軍役参加が政治的発言権の増大に結びついたことはある。
参政の形態はまちまちだが、世界的・普遍的に起こったことでもある。
例えばヘンリー5世が赤痢で死んだとかヨーロッパでペストが流行ったとか、今では原因や病状が解明されているわけだけど 実際に当時の医療技術・知識ではきちんとわかっていたの? すでに解明されていたのか病状だけ記録されていたのを後になってから研究されたのか、あるいは一部の地域では解明済みだったのか。
ウイルスや細菌は発見されてなくても、赤痢とかペストとかいう「病名」は当時からあっただろ。 ボッカッチョの『デカメロン』に当時の黒死病の有様がまざまざと描写されているが。
当時の診断でも正確だった場合もあれば、現代の見地でよくよく分析してみると違ってたという場合もある 似た症状が現れるけど、実は異なる病原による別の病気だったということが現代になって判明したものもあるし 昔は病気の種類が少なかった というのは、表面的に類似した病気をいろいろと一緒くたにしていたから
大恐慌後の植民地を持つ諸国のブロック経済が、 景気回復に寄与したのはなぜですか?
ペストって言葉自体、もともと固有名詞ではなかったんだよ。 今で言う風邪みたいなもの。風邪にもインフルエンザから夏風邪やらいろいろあって、原因となるウイルスはちがうだろ? そういう感じ。
JFK暗殺事件の際最低でも3発、場合によっては5発の弾が発射されたと 言われてますが、流れ弾に当たった観衆が居ないのはなぜですか?
906 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 21:26:43 0
>>888 アメリカで上位5%の人が富の9割持ってるってのは俺もなんかで読んだが、
07年の国連の国勢調査では上位2割でも46%とあったな。
まあ、調査法なんかによっても大分違うんだろう。
あと、日本は昔の方がどうみても階級的な差はあったと思うけどな。
イギリスでもビクトリア女王治世の頃は上位2%の人が国の9割の富を持っていたらしいが、
今はかつての貴族の子孫でも貸家の家賃も払えなくなった人とか、ボートで暮らしてる人もいるとか。
93年出版の本なんで今は分からんが、ネルソン提督の子孫は今はお巡りさんと書いてあった。
>>898 ただ、当の頼朝自身はそこまでの踏ん切りが無かった。
それが頼朝の生きているうちはそのカリスマで抑え込めていたが、死後にさまざまな対立となって噴出し最後には源氏将軍の断絶に至った。
908 :
世界@名無史さん :2010/05/27(木) 21:56:22 0
・福田首相は中国講演で歴史認識について村山談話をかみくだいて語った。 ・だがそれは、日本人に向かって言ったのでも、日本人が聞いていたわけでもない。 ・こういう大事なことは、日本に向かってこそ語りかけるべきだ。
>>888 日本人は小泉竹中改革後ユダヤの奴隷という意味ではもはや皆ほとんど同じになってしまった
ホリエモンみたいなのがもう出てくるとも思えんし今は国民総奴隷化計画完了後じゃないかな
アメリカは頭のいいユダヤ金融資本が動かしている国だから
自由があるように演出するのはうまい
>>906 888は何かの陰謀論の本読んだアホだろ。
相手にするな。歴史と社会動向の指標見たらそんなアホな話にならん。
どうでもいいけど、
>>904 は「固有名詞」の使い方を間違っていると思う
聖人や聖女と認められる場合、一体どのようにして決められるのでしょうか。 wikiからで申し訳ないですがジャンヌ・ダルクのページには 『聖職者たちも、ポワティエでの3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めた。』 とあり、その少し前にはシャルルの王としての秘密の話によって信じられたとあります。 例え王太子が信じても教会側(聖職者達)が認めなければ聖女にはなりえないと思うのですが、 では聖女かどうかの判断にはどういったことが行われていたのでしょう? 身辺調査の後、裁判のように本人の目の前で認める側と認めない側の争いがあったのでしょうか。 それとも本人から話を聞いた後聖職者達で協議し一人でも反対する人間がいれば認められなかったのでしょうか。
>>910 支配する側にとって、支配する地域に大きな権力者が生まれることは分裂や
内乱の要因になりえるので、占領地は徹底して権力を分散させる。ホリエモンは
マネーゲーム側の人間だが、支配者に逆らいそうなので粛清された。他の
面々も日本人を家畜小屋から外に誘いそうなので失脚させた。だが在日の孫などは
日本人を憎悪してるから生かされた、単にそれだけ。ユダヤ人だのモンゴル人だの
といったように世界帝国はすべて騎馬民族的だ。彼らは囲いを作って人を飼うのさ。
農耕民族は土地依存ゆえに彼らの支配から逃れられないんだよ。
哀れだねえ。
916 :
世界@名無史さん :2010/05/28(金) 15:32:06 0
>>914 列聖のプロセスは今も昔も同じ
wikiの列聖の説明と自分の言いたいことはだいたい同じ
いまバチカンではヨハネ・パウロ2世の起こした奇跡を捜している
ソ連をぶっ潰して冷戦を終わらせたのは十分に奇跡だとおもうがバチカンの基準ではそうじゃないらしい
シャルルと彼に仕える聖職者たちが認めたのは、「ジャンヌが聖人や聖女であるか」じゃない。 農民の娘ジャンヌが「大天使ミカエルや聖女からの、シャルルの王位継承に関する秘密のお告げを受けたか」だ。 多少のカリスマ性はジャンヌにはあったし、それを士気向上などにある程度利用することは可能だった。 のちの異端審問では、彼女が「天使や聖女のお告げを受けた」ことは否定され、悪魔の声だったことにされた。 また教義上では、生きた人間が聖人や聖女に列せられることはない。 生前に大きな宗教上の功績があった上で、殉教したか、あるいは「死後に2回以上の奇跡的現象を起こしたか」 (遺体が腐敗しなかったとか、遺体に触ったら病気が治ったとか)によって、教皇庁の厳正な審査により列福・列聖される。 ジャンヌが列聖されたのは20世紀になってから。それも宗教的というより政治的な理由で、 衰退するカトリック教会が人気を取りたかったためと、フランス政府が国民の愛国心をかきたてるため。 フランス国内でも、ナポレオンが国民的英雄としてもちあげるまでは、ほぼ無名の人物か、異端の魔女扱いだった。
そういう奇跡を今も信じてるんですねえ。その一方インドなどの霊媒師を 批判してるんですねえ。白人って矛盾概念という話を知らないんですかねえ
NGワード:白人
白人はバカだ イスラム教徒はバカだ 日本人はパンパンだ シナ人は豚だ 黒人は奴隷だ オレだけが聡明で天才で世界を支配する権利がある といいたいんだろ ばーか。
>>916 >>917 返答ありがとうございます。
>また教義上では、生きた人間が聖人や聖女に列せられることはない。
このあたりは当時は奇人や変人として扱われていた人が後世になってから作品や思想が
評価されて有名になったのと似たような考え方だと思って良いのでしょうか。
>農民の娘ジャンヌが「大天使ミカエルや聖女からの、シャルルの王位継承に関する秘密のお告げを受けたか」だ。
>多少のカリスマ性はジャンヌにはあったし、それを士気向上などにある程度利用することは可能だった。
ジャンヌを利用するにしてもお告げを受けましたというだけではとりたてられません……よね?
後の裁判でもシャルルに話した内容は口にしなかったそうですし、そうすると他の人間は内容のわからない『お告げ』によって
ジャンヌを戦争に使ったことになります。
当時のフランスは百年戦争中でしたがそんな曖昧(悪い言い方かもしれませんが)な人間を使わざるをえない状態だったのでしょうか。
それと戦争後の裁判においてジャンヌは陰部の確認をされたそうですが、そういった行いはジャンヌを認めるかどうかの
協議の際にも行われたのでしょうか?
行われたのであれば他にもこういった検査があったというのを教えてください。
日本語は、漢字、ひらがな、カタカナ、最近はアルファベットとローマ数字と4種類の文字を使い、 日本語(ひらがな)、漢語(漢字=昔の外来語)、外来語(カタカナ)、アルファベット(最近の外来語)と使い分けて、 外国語を非常に取り込みやすくなっていますが、 同じように、数種の起源の異なる文字を使い分けている言葉はありますか。 いまではアルファベット、ローマ数字は世界共通なので除くとして。 (例外はあるけど、イランでは数字までペルシャ文字で参った)
>>921 >>また教義上では、生きた人間が聖人や聖女に列せられることはない。
>このあたりは当時は奇人や変人として扱われていた人が後世になってから作品や思想が
>評価されて有名になったのと似たような考え方だと思って良いのでしょうか。
生きてる人間ってのは、これから何をしでかすかわからないんだよ
ある市が、その市を有名にしてくれた芸能人に名誉市民の称号を与えたら、その芸能人が
犯罪事件を起こしたので慌てて取り消した、なんてこともある
名誉市民ぐらいならかわいいものだが、バチカンが正式に認めた聖人には、カトリック社会に
おいて非常に高い宗教的な権威が生じてしまう
その人物がスキャンダルを起こしたら聖人と認めた側も権威が落ちるし、あるいは、その人は
聖人の名を利用して政治的な影響力を行使したり、プロテスタントのように教義解釈に口を
出してきたりするかもしれない
だから、バチカンは生きている人間は絶対に列聖しない
>聖人認定 上でも書かれてるが、「生きた聖人」は教会権威の屋台骨を揺るがすおそれがある 生前からカリスマ的人気があったアッシジのフランチェスコも、異例に早いとはいえ死後2年目に列聖された 自称メシアは無数にいるが、まともな教会はイエス以外は誰一人承認しとらん ヒンドゥーやイスラムの「聖者」の場合は、別に彼らを認定する教会組織はないので、 普通に民間から宗教的カリスマとして尊敬されている >曖昧な人間 曖昧だろうがなんだろうが、「天使さまのお告げを受けた乙女っこが味方じゃー」とか叫べば士気はあがるだろう お告げの内容は「フランスを救え」「シャルルさまの味方をしろ」「くそったれのイングランド人をぶっ殺せ」など、群集にはどうとでも噂で広がる 民衆にとっては、傭兵が毎年暴れまわるわ重税はおっかぶさるわ、もう自称メシアが何人出てきてもおかしくない状況だった >陰部の確認 当時、魔女は両性具有だとか、陰部に悪魔のキスマークがあるとか、悪魔とセックスした傷跡ができるとか信じられていた そこに針を突き立てても痛くないというんだが、魔女としたい検査のときは内側に引っ込む針(つまり痛みを感じない針)を使ったりしたらしい ジャンヌを魔女だとしたがった裁判では当然チェックしたし、ことによるとレイプしたかも知れないが、 彼女を利用したシャルルたちがいきなり魔女扱いはせんだろ、たぶん
ジャンヌ・ダルクの事で気になったのですが、 百年戦争はなんであんなにこじれまくったんでしょう? 双方戦い疲れて休戦しては、また戦い始めるのを何度も繰り返してるし。 正直、イギリスはどうしてそこまで、フランス王位に固執したのでしょう? また、フランス諸侯が一致団結してイギリスに対抗しなかった理由は?
>>922 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9 のことならアラビア数字というのだが。
ローマ数字は、1はI、2はII、3はIII、4はIV、5はV、・・・。
数学ではアラビア数字を使用して、時計の文字盤とか、シリーズ物の順番など趣向でローマ数字も使われる。
こういう柔軟な表記法は日本文化だけです。ほとんどの国は国民が共通して使える言語に四苦八苦しているのだ。
どうして火薬や羅針盤といった文明は古代ギリシャ人が発見された後、 中国人が再発見するまで数百年間失われていたのですか?
928 :
世界@名無史さん :2010/05/28(金) 20:27:40 0
>>922 いや、アルファベット文字圏(表音文字)の方が外国語を取り入れやすいよ。
外国語の発声をアルファベットで配列すればいいだけなんだから。
SUSHI TEMPURA そんなもん覚える前に NIIPPON NIHONを覚えろと思いますが?
>>927 古代ギリシア人は火薬なんて発明してません
中世(ビザンツ時代)に、シリア系ビザンツ人カリニコスが発明したという「ギリシアの火」は「ギリシア火薬」とも
訳されますが、これは、石油などから作った可燃性の液体を噴出して火炎を吹き付ける兵器で、今でいう火炎
放射器です
>>925 くわしく話すと非常に長くなる。
そもそも「百年戦争」というくくりが近代のもので、1337年から1453年までの一連の戦争を恣意的にまとめてある。
その前には、アンジュー家の内紛につけこんだ百年にわたるフランス王の領地拡大戦争があった。
もともとカペー朝は、西フランク王家断絶後に、パリ伯が有力諸侯に推戴されて王位を得たものにすぎない。
その勢力はパリとせいぜいオルレアンにしか及ばず、大諸侯には全然歯が立たなかった。
それを「国王」という権威や内紛を利用してじりじり領土を広め、どうにかこうにか国王らしい勢力を築いていた。
これでは、諸侯が一致団結するどころの話ではない。
この過程でわりをくったのが西のアンジュー家で、せっかく大領地を得ていたのにイングランドとアキテーヌしか残らなかった。
彼らはまだ「イングランド王位も持っているフランス人の大諸侯」でしかなく、フランス語を話しフランス名を名乗っていた。
だから、カペー朝が断絶してヴァロワ伯が跡を継ぐや、フランスの王女を母に持つイングランド王は、
「われこそ正統なフランス王なり」と宣言し、反ヴァロワ派の諸侯や都市を糾合することができた。
で、黒死病や農民暴動や財政難で何度も休戦を繰り返しつつ戦ううち、
だんだん両者に「英国」とか「フランス」といった意識が芽生え、ついに彼らは「別々の国」となった。
しかしシェークスピアなぞは「英国は長い戦いのすえフランスに勝利をおさめ、両国をひとつにした」といい、
ジャンヌを「正当な英仏の国王に歯向かった魔女」として醜悪に描いている。
また戦争終結後も、長らくイングランド王は「フランス王」を称号のひとつとして名乗り続けた。
932 :
世界@名無史さん :2010/05/28(金) 22:31:35 0
イングランドとか西フランクとかそんなに簡単に当時は王族の手にあっちから こっちから、ポンポンと手渡せるような土地だったんですねー
領地は大貴族の不動産だから、その土地の住民の意思は基本的に関係ない 婚姻政策でかき集めたり、遺産相続で一族に分配相続させたりできた
王権は王の私有財産だからね
>>921 シャルルは母親の不義の子ではないかという疑いがあって、
もしそれが本当なら王位は継げない。
しかしジャンヌは神のお告げでシャルルが国王の正統な子だと言って
シャルルが戴冠式をして王位に就くのを助けた。
新しい国王が誕生したことでフランス人は国王の下にまとまり、
これがフランス軍がイギリスに反撃する原動力になったので、
ジャンヌのカリスマ性が高まった。
つまり当時のフランス人にははジャンヌのお告げを信じたい要素があったのだ。
国王は自分の出自に自信を持ち、臣下は新しい旗印を得て軍を立て直すという…。
936 :
世界@名無史さん :2010/05/29(土) 01:45:42 P
一次世界大戦後の東欧の国境線の移り変わりについて知りたいです 自分でも調べてみたのですがそもそも東欧がどの国を指しているのかよくわかりません 東ドイツ西ドイツみたいなものでしょうか 漠然とした質問ですいません
>>935 源氏の棟梁の下にだと集結しやすいみたいな話なんだな、きっと
ユダヤ人や黒人という定義は、 過去に1%でも血が入っていたら、見た目に関係なくそうなんですか? ホロコーストや公民権運動などでよくわからんです。 絶対的な基準をお教えください。
どこまでがバルカン諸国ですかね
>>939 この世に絶対的な基準など存在しない。幼稚な幻想は捨てなさい。
女王陛下の御臨席になられる英国議会開会式の手順を詳しく書いたURL、誰かご存知の方、 いませんか? あの時代絵巻の手順って事ですよ。
>>939 参考までに、こんな話がある
オーストリアを占領したナチス・ドイツは、ユダヤ人作曲家の作品の上演を禁止したのだが、
シュトラウスだったか誰だったか、オーストリアの作曲家の1人の先祖が改宗ユダヤ人だった
ことを表す史料がある教会から見つかった
その作曲家の作品はあまりに人気があったので演奏は禁止はされず、ただ、その史料が
ナチスの手で改竄され、そいつの先祖がユダヤ人であることは隠された
944 :
939 :2010/05/29(土) 12:54:43 0
>>943 Kingsblood Royalという小説をご存知か?
945 :
939 :2010/05/29(土) 13:13:38 0
アメリカでは見た目は全くの白人、金髪、青い目でも 黒人と認識され、黒人扱いされてる人がいる 公民権運動で白人差別主義者に潜んで暴き出したのもその人たちだ なぜ、その人は黒人と認識されてるのか? その人自身が1/128とかに黒人の血が入ってると宣言したから そこが我々日本人にはわからん なぜ、宣言しただけで、微々たる血で黒人扱いされなければ ならないのか? その社会的、歴史的背景を説明して欲しい
>>945 黒人の血は真っ黒、だから黒人という
古代ギリシャ人の末裔である白人の目から見ると、
その色の違いは一目瞭然である
日本人にも血が穢れているエタヒニン人がいますが、
これは外国人には見分けがつかない
しかし日本人には穢れた血はすぐに見分けがつく、そんな感じです
神聖ローマ帝国が選帝侯制度などという、 明らかに君主権の弱体化につながる制度を採用した理由はなぜですか? また、ハプスブルク家が事実上帝位を独占するようになってからも、 選帝侯制度が廃止されなかったのはなぜですか?
選挙みたいな感じで権力者を選ぶのはアチラではよくある事 周囲から承認されることで名分を得る的な意味もあるのよ
>>947 いや、元々君主権は弱体だったのだ。選帝侯制度が導入される前から、これ以上ないぐらいに
弱体なのです。純然たる封建制度による農業国で皇帝の支持基盤が全然ない。
封建領主と農奴に二極分化していて、中産階級が全然育たなかったからでもある。
誰も皇帝権の強化を望んでいないのだ。ハプスブルク家が事実上帝位を独占するようになったと
いってもハプスブルク家が最有力な封建諸侯というだけです。他の封建諸侯も以前として
相応の実力を持っていることにかわりはない。
強大な外敵に脅かされた経験もない神聖ローマ帝国は皇帝権の強化を望む動機もなかった。
皇帝権の強化を望む皇帝の支持基盤も無かった。だから神聖ローマ帝国は中世国家のままで
19世紀まで存在しえたのだ。
>>939 ユダヤ教徒だったら「ユダヤ人」。
血統は関係ない。
しかしヨーロッパではたとえキリスト教に改宗しても、
過去にユダヤ人だった、ユダヤ教徒だったというだけで
差別してきた歴史がある。
>>945 黒人の定義はアメリカの差別の歴史を現しているもので、
「黒人」そのものの定義ではない。
たとえ見た目が白人でも「黒人の血が混じっているなんて汚らわしい!」なんて
思う人たちがいたわけだ。
仏教徒=ブッダ人
ご先祖を辿って20万年も遡れば、金髪碧眼の白人も ネグロイドのミトコンドリアイブにたどり着くわけだが
953 :
世界@名無史さん :2010/05/30(日) 11:40:56 0
日本が幕末にアメリカと和親条約を結んだとき、開港したのは下田と箱館だけだったが、 そのすぐあとにロシアと結んだ条約では長崎も開港している。 ということは、アメリカには最恵国待遇が適用され、長崎も開港されたと考えるべきなのか? それとも、アメリカに長崎が開港されたのは通商条約まで待たねばならなかったのか?
19世紀、日本や清は不平等条約をてんこ盛りで結ばされましたが、 同じくアジアで数少ない独立国であるタイも、 やはり不平等条約を結ばされまくったのでしょうか?
なるほど。いくら外交努力しても第一次世界大戦の戦勝国になっても、 不平等条約の撤廃は難しかったのですね。 植民地化されるか、独立を保てても不平等条約結ばされるかしかなくて、 当時のアジアは本当に不幸ですね。
959 :
世界@名無史さん :2010/05/30(日) 21:22:13 0
ていうか、いまの日本って明治の元勲がなんとかして解消しようとした状況にもどってるよな。 陸奥や小村が生きてたら泣くぞ。 まあ、これも勝ち目のない馬鹿みたいな戦争をやらかして、派手に負けたからだが。
次
961 :
世界@名無史さん :2010/05/31(月) 08:36:36 0
明治維新自体が間違った行いだったから、その延長としての欧米の神格化によって 自らの位置を失った日本がダメになるのも当然では?
962 :
世界@名無史さん :2010/05/31(月) 09:14:22 0
はあ?
>>957 アジア人の不幸は白人を神様だと認めてしまったことに始まるんでねーの?
964 :
世界@名無史さん :2010/05/31(月) 10:49:28 0
965 :
世界@名無史さん :2010/05/31(月) 11:11:33 0
やっぱ江戸の惰眠が超痛かったよね・・あのときイスラム科学者でも 招いていれば白人の侵略なんて起こらなかったのに
ベトナムは長く北のキン人支配地域と南のチャム人支配地域に分かれて、 別々の国家としてやってきましたが、なぜ途中から一つの国家になったのですか? 文化から言っても民族構成から言っても、別々の国としてやっていった方が、 ちょうどいいような気がするのですが。 なんか、無理やり二つの国をくっつけて一つにしてるような感じがします。
>>966 キン人チャム人の識別って不可能です。
一応、チャム語が話せるかという基準を使って
民族識別が可能らしいですが、チャム語使用者は10万人です。
968 :
世界@名無史さん :2010/05/31(月) 19:24:55 0
>>965 お前の個人的な感想書き込むスレじゃねーから
そういう中身のないグチ吐きはよそでやれ
民族構成からすると、ベトナム国民の9割がキン族だ。 ベトナム戦争なんかの時代には再び南北に分裂したものの、南ベトナムがチャム族の国家だったわけではない。 一応チャム族による独立運動なんかはあるが、カンボジア国内にいる方が多い。 宗教的には、祖先崇拝とシヴァ神とイスラム教アラウィー派が習合して奇怪なことになってるらしいが。
真蝋・林邑・占城の王朝というチャム族が王の国家が中部のフエのあたりにあった。 18世紀の王朝滅亡後も貴族として存続していたが、反乱が原因で19世紀に宗家の当主が刑死。 一部のムスリムのチャム族は、海南島に逃げていて、回輝語話者の回族として存続。
>>969 >>970 へえ、初耳
遺伝子的にはチャム族も多いのだろうが、もともと違いが少ないし、
習俗もキン族に同化して消えたんだろうな。
負けた国は、少数民族化して流浪の旅
真蝋はクメール人のアンコール王朝では?
973 :
世界@名無史さん :2010/06/01(火) 00:59:58 0
ベトナム(漢字で書くと越南)は越人の国じゃないの?もう越は滅んだあつかい?
漢字で越人と書くと、タイ系民族を意味して、タイ人とかシャムとかチワン族を示します。 漢語で、京族とか安南人と書かれていれば、それはベトナム人です。
広東省のあたりは中国の領土じゃなかった時期が長いからね
百越と表現すると、京族も含まれてくることがあるのでややこしい。 「越」に関しては、百○という言い方が割合よく使われる。 百濮というとモン・クメール系の他に、パラウン系や京族が入ってくることがある。 数字が前についている民族の表現は、同系の民族が多くに分化しているということを示している。 その数字も語呂あわせ的だが、100の場合はリストを作らないとわからない程多いという意味。
978 :
世界@名無史さん :2010/06/01(火) 09:47:24 0
現在の越人ってもともと長江流域にいたんだよね? それが次第に漢族の流入とともに押し出されたという見解であってる?
>>978 南の六朝時代の始まりから史書を追うと、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)に
中原の覇権をとられて、江蘇・浙江・安徽・湖北のほうに追いやられたことが
詳しく詳しく書いてあっても、先住民がどうこうとは詳しく書いてないのです。(
>>282-287 の数レスで似た話題)
だから、ある程度共存していたと考えられます。例えば三国の呉が越系の宣撫工作をしています。
時代が下って、唐末の黄巣の乱から趙宋までの間に、五代十国の時代があり
再び古漢族の南下運動が始まります。趙宋が金に中原を追放されると
先住民の同化政策が積極的にとられて、越系の民族は、華中から消滅します。
趙宋は同時に楚系の苗族にも同化政策をします。元の時代には貴州省に残っていた苗族が移動開始し
もっと南へ進出し、明や清の時代には、苗族は弾圧されて東南アジアもほうにも進出していくわけです。
戦国時代とか漢ぐらいの時代は、呉より南に住んでる民族をまとめて漠然と越と呼んでるような印象だなあ
981 :
世界@名無史さん :2010/06/01(火) 12:29:07 0
南下した古い漢族のうち、もとの言語を保持した集団が客家だろうな。 移動時期が、五胡十六国の時か五代十国なのか違いがあるけど 民族移動をしたからといって現地人化せずに、固有の文化を守った集団が客家。 明代以降は、客家の強制移住があって、地域が拡散していきカオス度が増す。
983 :
世界@名無史さん :2010/06/01(火) 14:04:08 0
客家が発火点となった騒動もあるし
そろそろ次スレを頼む
986 :
世界@名無史さん :2010/06/01(火) 16:46:17 0
ごろごろさんでした
ニュージーランド、カナダ、オーストラリアはなぜ本国イギリスよりも早く女性参政権が認められたのでしょうか?
明は洪熙帝、宣徳帝の仁宣の治以降、 外では外敵に侵略され、内では暗君続きで内政が乱れ、 中興期もないまま200年も存続してきましたが、 なんでこんな状態で分裂もせずに200年も存続できたのですか?
>>988 その暗君をとりまく宦官たちが、一種の秘密警察機関を掌握し、密告によって情報を
集めていたので、中央には、分裂しようにもその核となるリーダーが現れなかった
現れたとしても、すぐに罪を着せられて消されてしまった
一方、民衆側も、いろいろ不満はあっても、自分自身や家族が食っていける間は、
反乱はおこさない
反乱に失敗して鎮圧されたら、殺されちゃうわけだからね
>>987 労働力不足に苦しんだことが女性の社会参加を促し、それが女性参政権獲得につながった。
オスマン帝国も、スレイマン大帝の死から300年以上も暗君ばかり続いて内外ガタガタだが、 国政を取り仕切る大宰相がどうにかこうにかやっていた。 また倭寇も韃靼(タタル・オイラート)も、交易に関して有利な条件を得るために侵略はしたが、 明を根こそぎ滅ぼしてしまおうとしていたわけではない。 親王たちは王府という大荘園に封建されたが、初期には軍権を与えられていたので反乱を起こしたこともある。 しかし宣徳帝の時代に軍権を剥奪され、藩鎮のように自立した軍閥とはなれなかった。
明といえば、あとはKYな暴れ方をするミャオ族か・・・
明にせよオスマン帝国にせよ、暗君ばかり続いたというのは、逆に言えば、皇帝自体は別に暗君で あっても大丈夫な国家運営システムができていたということ 暗君が国家財政を無駄に浪費するのは困りものだが、それ以外の政治や軍事に関しては、暗君で あっても問題ない むしろ、政治や軍事についてなまじやる気のある皇帝が出るとかえって混乱する 崇禎帝がいい例で、彼は少なくとも皇帝としての自覚と責任感を持っていたという点においてはけっ して暗君ではなかったが、やることなすことすべて裏目に出て明を滅ぼした
>>987 昔の英国では、良家の女性は妻や母や娘として家にいるべき存在であって、社会に出るべき存在とは
思われていなかった
もちろん、社会で働いている女性もいたが、そういう階層は低く見られていた
だから本国では「女性に参政権? なにをバカな、政治は男がするものだ、世間知らずの良家の女性や
教養のない庶民の女に政治のことがわかるか」ってな感じになる
それに比べると、本国から離れた植民地では、女性も大事な労働力として開拓地を男性と共に切り開い
てきた歴史がある
また、伝統ある貴族のような家はあまりないので、良家と庶民の差もそんなにない
だから、女性の地位が本国よりも相対的に高かった
995 :
世界@名無史さん :2010/06/02(水) 00:12:41 0
今の英国の貴族って北欧系が90%?土着系のはどれだけなのかな
スコットランドには土着系も残ってそうだが
997 :
世界@名無史さん :2010/06/02(水) 01:52:05 0
自宮僧に関する質問には未だ誰一人として返答出来ぬのかゑ? 痴れ者ばかり打ち揃いおって!!!!!!!!!
998 :
家電.com :2010/06/02(水) 02:00:38 0
鄭和様サイコーだわ タマが無いのが残念ね ,--v--, , '´ ̄`ヾ , '´ ̄`' 、 . .i〈レノルレi.〉. i 〈リλル〉i (\i从゚ - ゚从i i从゚ - ゚从i `ゝ.(つ日_と)__(つ日_と)_ / \ ___x_\ .<\※ \______|i\__|_ヽ. / ヽ\ ※ ※ ※|i i|.====B|i.ヽ \`ー──-.|\.|___|__◎_|_i‐> \  ̄ ̄ ̄ ̄| .| ̄ ̄ ̄ ̄| \| CCTV |
1000 :
世界@名無史さん :2010/06/02(水) 05:39:07 0
1001 :
1001 :
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