_人人人人人人人人人人人人人人人_
> ゆっくりしていってね!!! <
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孟獲は漢人かどうかで論議されて盛り上がってたな
てか、正史蜀伝って記載内容が乏しいよな
誰か蜀について、詳しく書いてある書物知らないか?
6 :
世界@名無史さん:2010/02/13(土) 17:15:12 0
前スレの人達がまだ来てないようなのでage
前スレのラストは983かな
7 :
董卓:2010/02/14(日) 20:47:12 0
きましたwwwwwwこんばんわwwwww
8 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 21:27:17 0
三国時代こそ中国にとって空前絶後の暗黒時代。
三国鼎立が続いたのも華北の人口が消滅寸前だったから。
9 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 21:59:20 0
>>8 曹操は魏王になったとき、司隷を潰しました。そして司隷全部と雍州の一部と幽州の一部と并州の一部は全て冀州に纏められました。
そして、曹操は膨れ上がった冀州を漢王朝から貰いました。冀州の民はほとんどすべて曹操の私物。つまり荘園農民です。
曹操没後も曹一族が所有する農民は膨れ上がり、その人数はなんと魏王朝の人口よりも上でした。
司馬炎が晋王朝を立てたときに人口が倍増するのはこれが理由です。華北には人口はいなかったわけではなく、
単純に魏王朝が管理する戸籍から曹氏一族が私的所有する農民は除外されていただけだったのです。
>>10 魏帝国では、曹家の力が抑えられていたと聞いたのですが、実態はそうでもなかったのでしょうか?
政治的な顕職からは遠ざけたものの、私領主としては莫大な富を持っていたということですか。
また、曹操の息子たちは王などに封じられていますが、この時代の王とはどういう立場だったのでしょうか?
11 :
董卓:2010/02/15(月) 10:32:09 0
曹丕が一門を冷遇し、政治・軍事の権力を与えず司馬氏等有力氏族の台頭を招く
事になった。この時代の王は「名のみの存在」と言えるかもしれない。(楚王・曹彪
がいるが実際の楚地方は呉の領土であり曹彪が赴けるわけがない)君の言うとおり一地方
の領主にすぎなく、財力だけはあったかもしれない。そして曹彪は皇族・王である事を理由に
政争に利用されてしまうのである。
魏帝国が晋帝国に取って代わられた後、曹一門はどうなったのでしょうか?
王朝が交代したからといって、王室の私有財産が簡単に剥奪されたとも思えないのですが。
曹氏庶家に与えられていた荘園への不入権のようなものが剥奪されたということかな。
13 :
世界@名無史さん:2010/02/16(火) 00:37:44 0
>>9 晋朝の方が、皇族や権臣に多大な領邑をばらまいてる気がする。
あと、発表された戸数って臣下の賜った領邑を包含してるのか、除外してるのか、
俺は分からないんだけど、どっちか分かってるの?
また、どちらかと断定する根拠はあるの?
あと、司隷はつぶされてないんじゃないか?
>>8 暗黒時代の定義にもよるが、五胡十六国の方がよっぽど暗黒時代だろ。
>>12 溜めこんだ財産まではどうか知らないけど、
王から公かそれ以下に格下げされるのに連動して領邑もばっさり減らされてると思う。
14 :
9:2010/02/16(火) 01:53:48 0
俺は華北の人口は激減していなかったということを示しただけで、それ以外のことはわからん。
>>10 名目上は曹一族が支配していたけれども、実質支配していたかと言われると疑わしい。
おそらく魏皇帝の名の元に、司馬懿司馬師司馬昭が利益を吸い上げていたのだろうと思う。(推測)
それから司隷って消滅したんじゃないの?と思ったけど曹丕の時代に元に復活したんだったかな。
石井仁の『曹操魏の武帝』によると
212年 河内郡・東郡・鉅鹿郡・広平郡・趙国から14県を割いて魏郡に編入。
213年正月 漢代の14州から古代の9州への変更
豫州・・・・・・司隷の弘農郡・河南郡を併合
冀州・・・・・・司隷の河東郡・河内郡・馮翊郡・扶風郡・幽州・并州を併合
エン州
徐州
青州
荊州・・・・・・交州を併合
揚州
益州
雍州・・・・・司隷の京兆郡及び涼州を併合
この結果、涼州・幽州・并州・交州および司隷校尉が消滅した。
213年5月 曹操が魏公となり冀州の10郡を得る。
図で表すとこうなる
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org658595.jpg 紫で囲まれたのがもともとの魏郡
水で囲まれたのが212年に拡張された魏軍
赤で囲まれたのが213年の魏公国の範囲。
15 :
9:2010/02/16(火) 01:54:08 0
263年に司馬昭の晋公国が誕生するんだけれども、そのときに貰っているのが
太原・上黨・西河・楽平・新興・雁門 ・河東・平陽・弘農・馮翊の10郡。
この時点では曹魏の本拠地である冀州は削られていないことがわかるが、
司馬一族の本拠地である司隷校尉部は曹魏から切り離されたことが伺える。
264年に司馬昭は晋王となり晋王国が誕生するとさらに10郡加えて全部で20郡となる。
この増えた10郡の詳細は書いていないのでわからないけれども、
逆に考えると書いていないということは書けなかったということで、すなわち
魏郡を除く元の魏王国が保有していた領土が全て削られたのだと思われる(推測)
16 :
9:2010/02/16(火) 02:10:53 0
たぶん間違いだらけだと思うので、誰か訂正してください。僕は三戦板に戻ります。
>>14 黄河以北を冀州に取られただけで、司州は残ったと思い込んでたわ。
太原とか組み込まれなかったのは僻地だから?
并州はまるごと冀州だから、太原も冀州じゃないの?
21 :
世界@名無史さん:2010/02/23(火) 18:08:12 0
卑弥呼が曹操の息子から金員を貰ったのか
卑弥呼は、曹芳時代だから息子じゃないだろ?
23 :
世界@名無史さん:2010/02/24(水) 08:45:23 0
呉には朝貢しなかったの?
24 :
世界@名無史さん:2010/02/24(水) 21:04:22 0
>>4 蛮人に顔が利く漢人といったところかな?
もっとも、蜀自体が中原から遠い国だからなあ、
魏にしてみれば、蜀は漢人が政権の中枢にいる
異民族国家という感覚だったかも。呉も同様かな。
だから、無理して呉・蜀を併呑しようとしなかったのだろう。
当時の中原の人達の感覚と、今の人達の感覚は中国の大きさ
が違う。
25 :
世界@名無史さん:2010/02/24(水) 21:11:58 0
>>5 『華陽国志』とかも内容的には『三国志 蜀志』と変わらないみたい。
『水経注』とかも断片的な話が出ているくらいみたい。
26 :
董卓:2010/02/25(木) 00:15:15 0
22に言う。前魏(曹魏)第二代皇帝・明帝・曹叡の時だろ。
>>26 最近の一説には、曹芳のときに来朝した記録があるらしく
年代としては曹叡と被るところがあり、曹叡死去してからなのか
はっきりとしたことは、不明らしいよ
また当時、公孫淵が取り締まっていたから、恐らく皇帝拝謁したのは
曹芳じゃないのかな?
28 :
世界@名無史さん:2010/02/27(土) 20:45:24 0
蜀では四鎮と四征将軍のどちらが偉いの?
それに大つくともっとわからん。
一般的な将軍の尊卑は魏の官制で語られるけど、
呉や蜀とは違ったはず。違いとかが比較されている
書物とかありませんか?
>>24 魏が古代九州とかで呉や蜀の地域の行政区分も勝手に変更してるからそれはない
30 :
世界@名無史さん:2010/02/28(日) 18:11:57 0
215年の荊州問題で、呉は零陵を奪取したのに、
何故返還したのですか?
そんなにいらない土地だったの?
奪取と実効支配は別
あと双方妥協したってこと
32 :
世界@名無史さん:2010/02/28(日) 19:44:39 0
豪族に支持されなかったとか、蛮族が跋扈してとか?
33 :
世界@名無史さん:2010/03/01(月) 06:19:18 0
零陵は蒋エン、劉巴、劉敏とかが出身者だったけ?
34 :
世界@名無史さん:2010/03/02(火) 21:22:02 0
零陵・武陵は必戦の地というわけじゃないからな。
漢人・蛮人が雑居し、蛮人の方が多いくらいでは?
赤壁後に劉備があっさり占領してるのもその為だろう。
戦闘らしい戦闘もしてないのにね。名目的に支配してただけ。
どっとの所領でも実は良かったのでは?
35 :
世界@名無史さん:2010/03/06(土) 13:26:24 0
『三国志集解』の日本語訳はないの?
>戦闘らしい戦闘もしてないのにね。
記述がないだけで、戦闘の詳細は分からないだろ
それに武陵太守の金旋は戦死してる。
あと、蛮人に関しては、武陵には多いだろうが、零陵については分からない。
37 :
世界@名無史さん:2010/03/06(土) 19:18:38 0
ただ、あっさり劉備に占領された感じはするな。
曹操陣営も放棄した感じが強い。
38 :
世界@名無史さん:2010/03/06(土) 22:12:45 0
長沙はともかく、武陵・零陵・桂陽は当時はかなりのど田舎だったんだろう。
名目的領土だったという感じなのでは?
江陵を守るので精一杯だったからあっさりめに見えるだけだよ
放棄というかそこまで手が回らなかったんだろう
ちゅうか、賈クが「統治を確実な物としろ」って言っているからな。
それなりにリソースの要ることだったんだろうし、それを放棄してでも軍事行動を起こしたのだから、
その失敗の結果としては、維持が出来なくなったんだろう。
>>38 田舎、ではないな
当時あの辺は成長著しい地帯だし貿易関係もあって桂陽なんかはかなりの発展速度だった
42 :
世界@名無史さん:2010/03/07(日) 06:34:38 0
曹操は荊州を制圧した後は、
惰弱な劉章がいた益州を制圧した方がよかったのでは?
なんか圧迫するだけで降伏しそうだし。長江の中上流域を
制圧し、水軍の教練してから呉を攻めれば良かったのに。
>>42 どうだろうなぁ、いざとなったら息子が一年頑張ったしな。
防戦籠城に徹すればそれなりに時間はかせげそう。
そうなれば背後で隙を狙って良からぬ事を考えるやつが国内国外ともにいるだろうな。
44 :
世界@名無史さん:2010/03/07(日) 09:40:04 0
長安一帯を先に制圧し、漢中を併呑して北方からと
荊州方面から同時に攻め込むと勝負が早くつくかな。
劉備の蜀攻略戦も、諸葛亮や張飛・趙雲が東から侵入
してきたら戦線が一気に動いた。
45 :
世界@名無史さん:2010/03/07(日) 21:24:53 0
まあ、益州攻略が先か別にして、
曹操が荊州統治を安定を優先させていたら、劉備が領土を得ることは
無かっただろうな。呉も張昭を初めとした降伏派の名士が更に力を増した
でしょう。
それは袁紹の存在が大きかっただろうし、劉表存命のときは、曹操と敵対していたから、
荊州の優秀な人材たちなら、抑えることはできたと思うよ
王濬みたいに益州で軍船量産すれば夷陵の敗北は無かった
孔明知力低すぎ
■王濬の無敵艦隊について
王濬が独立して益州で、劉備みたいになっていたら、無敵の軍船なんて作れなかったよ
それだけ当時の蜀の国力が乏しかった
■諸葛亮について
国力乏しい蜀が、魏と対等に渡り合おうとして、諸葛亮は、軍事政治を一人で担った
結果がどうあれ、真似できることではない
■夷陵の戦いについて
この敗因は、陸戦による敗北であって、当時軍船を担当した黄権は被害を受けていない
陸遜の火計で退路を断たれた蜀軍は挟撃されて敗北した
陸遜が見事だったそれだけ
以上、主張したいなら勉強し直してこい
49 :
世界@名無史さん:2010/03/08(月) 21:15:33 0
三国志の時代でも、局地戦の勝敗だけでは国を滅亡に追い込むことは
はできなかった。まして大国魏に小国の蜀が戦争するなんて、当時としては
諸葛亮くらいしかできないことだったでしょう。同じことした姜維は国を
滅亡に追い込んだ。231年の北伐では攻撃をしかけた魏軍を撃退するなど、
諸葛亮は野戦は得意だったようだ。追撃に出てきた王双や張コウを討ち取ったり
している。正攻法の戦闘は強かったが、奇襲みたいなものは不得意だった感じかな。
置いてけぼりになってやむなく魏に降り、
対外アピールの為に厚遇を受けた黄権の心境はいかばかりか…といつも思う
北伐してないでじっくり軍船作るの優先して呉を滅ぼしてから魏と戦えばいいじゃん
孔明知力低すぎ
52 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 06:08:58 0
国力の低い国同士が戦争で疲弊すれば、
国力が大きい国が得するばかり。知力が低い人が珍論を吐いている。
ゲームではうまくいったんだろうよ
知力とか言ってる奴を相手するなよ。
55 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 17:21:03 0
56 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 20:02:21 0
呉が滅亡したのは、ほとんどの名臣が世を去り、孫皓が暴虐の限りを
尽くした段階でないと滅ぼせなかった。蜀だって、劉禅が宦官に惑わされ、
姜維が北伐でしばしば敗戦して、国力を消耗してた段階で滅んだ。
諸葛亮の存命当時では、野戦の作戦能力が如何に優れていようと、一国を
滅亡させることは不可能だった。その証拠に、221年の劉備即位から
蜀滅亡まで、ほとんど三国の国境線は移動が無かった。
曹操と呂布が戦って疲弊するのは袁紹に得をさせただろうか
呂布や袁紹は長年戦い続けて国力を疲弊し尽くして名臣が世を去ったために滅びたのであろうか
孔明知力低すぎ
>>57 曹操と袁紹はいずれ破綻するとは言え官渡前の一時期まで蜜月だった罠
かまってちゃんに触るなよw
つか、それ放置してても笑えるレベルだろw
60 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 01:10:19 0
魏(晋)も内部分裂の危機が幾度かあったけど、本格的な分裂は遂に起こらなかった。
呉蜀がいるかぎり、結束し続けることになる。
思うんだが北伐よりは軍船量産のほうが勝算高いんじゃねーか?
呉を併合したあと魏に勝てるかどうかはともかく
64 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 04:44:11 0
呉が日本を征服して金銀を調達してれば魏にも楽勝間違いなしだった。
そうか蜀は東南アジアに進出すべきだったのか
66 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 06:17:08 0
>>57 軍閥同士の闘争と国家同士の戦争は意味が違うのだな。
軍隊を支える経済体制がまるで違う。呂布や袁紹が生存した
時代は軍閥同士の闘争の域を出ていない。諸葛亮の時代は
国家間の戦争。ここら辺はゲームしかしない人にはわからん
だろうな。
>>57 すくなくとも袁紹は自分の手で名臣・名将を遠ざけて
有効に活用できなかったのだがな。
あと、それなりに長い時間をかけて滅ぼされているんだが。
しかもその間、兄弟で相克するという愚かしさ。
敗者の敗因が、勝者の勝因より大きかったのは周知のところ。
ゲームなら顔良とか文醜とか田豊とか麹義がこぞってでてくるし
君主の猜疑とか、派閥の概念ないからわからんわな
ゲームしかやってないから知らなかったが皇帝に登極するとたちまち経済体制が変質するものなのか
勉強になったよ
>>67 その名将名臣()たちは自分達から遠ざかってるわけだが
袁紹によって粛清されてる連中のかなりの数が内訌始めてる
71 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 22:23:00 0
>>68 権力の正統性を宣伝する儒者・名家がいるかいないかのちがい。
春秋時代と戦国時代の違い
>>71 なんだかなーな回答
華北にしろ、荊州にしろ名士、儒家はいたよな。
どうすれば勝ち残れたとかじゃなくて、軍閥から国家に変貌したプロセスが知りたい。
それとも本質的に違いがないのか。
>>73 儒家云々はどうかと思うけど正当性を喧伝するかどうかの違いってのは当たってる
大事なのは「俺国家!」って言う事とそれが実効性を持ってるかってことだろう
実際近代国家も定義としたらあんま変わらんし
軍閥は統率者への帰属意識の強い私兵集団的要素が色濃く
制度や組織の序列ではなく、情実で任用されることも多いし
統率者の在不在で容易に変容することが多い。
基本的には、既存の国家より認証されない武力集団であることが
多く、領内におよぼす支配力の影響に根拠が希薄であることも
特徴のひとつとなりえる。
国家はそれを制度(律など)で組織の序列を明確化し、統率者への
忠誠心もさることながら、集団として形成される組織=国家へと
その帰属意識を高めている。
独自の税収や流通をもつ場合もあり、軍閥より明確に単一的なものと
して確固することもできる。
また祭典や儀式によって、国家であることの正当性を喧伝し、うちにあっては
支配の根拠とし、領内に広く認識させている。
その祭典や儀式をなすためには百官の体裁が必要になり、開国にあたっては
王府に百官を置いて、それぞれの部署を明確にしている。
軍閥は一代で潰えることが多く、国家は二代以降続く場合が多い。
そして長命政権となるには、二代目、三代目あたりが、初代に劣らぬ
勤勉さを有している条件が必要でもある。
二代目にせよ、統治への責任能力を欠いていれば、軍閥とそう変わらぬ
短命さで幕を閉じる場合がある(参照-五代十国時代)。
経済基盤とかはそんなに違いを感じないんだが…
>>70 自分から人材が遠ざかるような人事を行っているのは
君主の不手際と無能を示すものでしかない。
それにしたって、袁紹が健在なうちはそれほど破綻してないな。
破綻するのは、死後の後継争いによってであり、そこを曹操に
つけこまれている。
>>76 たとえば、并州の岩塩・鉄などを支配領域にもった軍閥は強かったりもするし
淮南や益州の肥沃な大地と塩地もしかり。
そういったところに根付いた軍閥は、やがて開国することも多いし、割と
頑強さをもっている。
軍閥はどうやって徴税していた?
漢帝国の徴税機構をそのまま受け継いでいたのか
>>69 皮肉のつもりで言っているのかもしれないが
軍閥政権と国家としての体裁を整えた政権とじゃ
拠って立つ礎が違う。
放浪集団(小軍閥)だった劉備が、益州に入って
王制から称帝へと段階を踏んだとき、国家として
自立できた例を見てみるとよい。
じゃあ呉だと孫策が軍閥率いてた時代と孫権晩年の国家体制だとどう経済構造が変わってるわけ?
82 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 10:13:11 0
孫策の時代はまだ国家体制なんて代物ではなかったでしょ。
江東の名士との折り合いも悪かったしね。軍事力で支配していただけで、
まだ豪族や名士の支持がなかった。孫権の時代になって、北来の名士と
地元豪族の名士が揃って出仕するようになって初めて国家の体裁を整えた
という感じだろう。
それは例えば袁紹の軍閥では望めない品質の支援ってこと?
なんていうか議論が噛みあってないよね
たとえば
>>80だけど、領土が量的に増えるんだから当たり前じゃんって感じの話で
軍閥と国家は経済の質が全く違うという出発点からどんどんずれてきてる
そもそも何が違うのか全く提示されていない
86 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 13:10:17 0
たぶん軍閥では、混乱期だと戸籍の把握もできてないと思うよ。
国家が成立し、制度ができあがると、戸籍管理もしっかりしてくる。
戸籍管理は徴税と兵役に大きな影響がある。
>>85 経済の質って、法や制度の整備によって大きく変わるんだよ。
軍閥程度では、ほとんどが押し入り徴税で、戸数の把握なんか
ほとんどない。
それを毛筆で整備するのが、国家への一歩だろうに。
良民レベルでの経済を言うなら、この時期の隷属的小作人と
荘園、豪族と、軍閥との関係をある程度理解してからにしてくれ。
こんな本一冊どころか、シリーズで書けそうな凄い内容
こんなところで逐一書けもしないし、そこまでの資料は持ってない。
88 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 14:27:29 0
隷属的小作人と荘園を支配する豪族(知識層たる名士の血族と重なる)が軍閥の幹部に採用される。
地方の徴税は、そいつらの息のかかった者を使う。
損するのは軍閥に食い込めずうまく立ち回れなかった豪族。よほどの評判のある名士の一族で無い限り荘園や奴隷を奪い取られる。
89 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 14:41:28 0
信憑性は疑問だが、
諸葛亮が劉備に荊州の戸籍の把握を劉表に勧めろと進言したという
話がある。戸籍の整備は徴税と兵役の基礎。つまり経済力と軍事力の
強化になる。
単なる軍閥だと支配地域を管理・運営するノウハウを持った知識人が
いなかったりする。こういう軍閥は例外なく淘汰された。曹操、孫権、
劉備は支配地域を統治するノウハウのある知識人がいたから一国の主に
なれた。諸葛亮が劉備が死去するまで一貫して内政にだけ携わったのは、
土着勢力ではない劉備が益州の支配を確立するには、諸葛亮の優れた政治
手腕が必要だった。国家体制がある程度できていたからこそ、夷陵の戦の
大敗で滅亡することなかったし、数度の北伐でも国が滅亡することはなか
った。ただ、姜維は諸葛亮のような経済・政治的な配慮がなく、たびたび
敗戦したので、国力低下を招いて蜀滅亡の原因を作ってしまった。
なるほどね
つまり既存の徴税システムを完全に覆す(異民族を呼び込む)とかで無い限り勝算は限りなく薄くなるんだね
あの時代だと、漢王朝だって戸籍把握していないと思うがなぁ。
漢も、「当時としては」という注釈付きでも、まともに把握出来ていたのは桓帝あたりまでだろうね。
ちゅうか、戸籍上の人口で漢超えるのも、貴族豪族対策がまともに機能するのも確か北宋以降だしな。
93 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 15:43:52 0
戸籍ってのも、豪族の所有する奴隷や隷属民を奪うことなんじゃないの?
94 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 15:53:57 0
豪族としては劉備のような軍閥がやってきたら、自分の息子を家来に差し出すか、娘を差し出すかしないと既得権益が守れないのでそうした。
>>93 そういうこと。
歴史的に見て、たびたび豪族の反発を招いている。
北宋の主戸客戸政策は、小作人(佃戸という)の豪民への自由契約的な
労働者としての位置づけとし、奴隷的な性格を薄め徴税に還元できるように
していた。
そのため、これまでなら荘園内の小作人は納税戸として計上されていなかった
のが、ある程度計上されるようになる。
(ただし異説あり)
>>91 いわゆる山林亡命の徒というやつと、荘園に逃げ込んで農奴となる人らだな。
戦火や不作で租税が払えず、国から与えられた土地を放棄して逃げ出す。
前者になれば賊だし、後者なら小作人で、どちらも国の戸籍上からは
ないものとなる。
また、そういった棄てられた土地を、豪族が手に入れ(兼併)さらに豪族の
荘園が広がり力を増す。
そうすれば、小作人や山林亡命の徒を養い、私兵とすることもできる。
これは国家としても、相当に遠慮すべき勢力となりえる。
下手に権益を奪おうものなら、地力がある分、軍閥化しやすい。
李典とかそういう感じだったっけね?
96 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 16:51:54 0
で、ゲーム脳の人は諸葛亮の知力がなんだって?
97 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 18:15:50 0
諸葛亮の北伐には蛮兵がかなり含まれていたという説もあるな。
南中やフ陵郡から移住させた移民で編成した無当や赤甲といった部隊がいることはいる
王平が無当監であった事なんかはわりと知られているはず
南中の統治でも現地の移民族で編成された部隊が駐屯してるし
魏や呉は説明がいらないほど更に有名だろう
99 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 21:41:54 0
孟琰なんかも南方の出身。
彼が漢人なのか蛮人なのかはわからんけど。
孟琰は北伐にも参加している。最終的には輔漢将軍まで
昇進している。輔漢将軍はエリートコースの人が就任する
将軍号。北伐に参加させたり、軍資を供給してもらったり
してるから、南方人もそれなりに優遇しなくてはいけなかった
のだろう。
将軍号ってどんな意味があったのかな。
軍隊での権威の指標。必ずしも実権とは結びつかない。
近代の軍隊の階級と勲章を組み合わせたようなものかな。
つまり戸籍の整備を進めながら軍船量産してれば蜀は勝てた
孔明知力低すぎ
>>101 戸籍の整備をすればいい・・・か。
なるほどの全ての豪族を敵にまわしつつ、魏と戦い、呉とも戦うと・・・。
いいね、それ採用!
103 :
世界@名無史さん:2010/03/12(金) 06:30:07 0
>>100 蜀の場合は護軍とか領軍、都護とかが実際の軍隊指揮権なのでは?
将軍号が立派でも、単なるお飾りという場合もあったみたいだし。
>>101 軍船の量産で民を使役すれば、また民は逃げ出し逃戸となるぞ
括戸政策するにしても、その要因を作っているようじゃあ無理。
ゲームばかりじゃなく、もう少し政治史を学んでおいで。
だいたい呉と戦っている間に魏に攻められることのほうが
よほど死活問題ではないのか?
基本的には、将軍号の高低は軍令権を示す。
都護や監軍、護軍というのは軍律を許にした諸軍の監督・監察権を示す。
軍令権 :一般的な指揮権
監督・監察権 :軍事裁判・憲兵の指揮権
て感じでおk?
司馬穰苴の例にもあるように、中華は伝統的に統帥と監護の二重支配を重んじてきた文化を持っていて、その権限は流動的。
将軍と護軍・監軍が併置されている場合には、日常的に将軍が発した軍令が適切に履行されているかの監察や不正の弾劾を掌っていたと考えられる。
ただ、裁判権は皇帝または節の持主(多くは将軍)にあるので、「護軍」が行ったのは中央へ不正を弾劾するところまでだろう。
魏の都督諸軍事や蜀漢の漢中督・南中督などは、両者の役割が一身に纏められたもの。
逆に、ワントップとなるべき高位の将軍が不在の戦域では、護軍が複数の将軍を統監して綱紀を粛正し、さらには実戦の総指揮を執ったこともあったようだ(後漢の刺史もこれと似た感じ)。
若年寄と目付けといったところか。戦国でいえば侍大将と戦目付けか。
つっても指揮権と監察権のはっきりしない分離していない部分もあったのか。
近代の軍隊は、そういう組織の問題を一つ一つ整理して出来上がったものなんだろうな。
近代軍の参謀に当たるようなシステムはあったのでしょうか?
五胡から南北朝期を扱った書籍で、参軍が出世の重要ポストとして重要だったと読んだのですが。
彼らの職権等はどう規定されていたのでしょう?
>>108のレスをカキコしたものですが、ところどころ日本語がおかしいので訂正、要約。
五胡十六国から南北朝期を扱った書籍で、参軍が出世コースとして重要だったと読んだのですが、参軍とはいかなるものなのでしょうか。
ご教示願います。
110 :
世界@名無史さん:2010/03/13(土) 10:01:40 0
馬謖も参軍だったね。
街亭戦の功績で、王平も参軍に取り立てられた。
正史の記述を見た限りでは
ピーク時の強さって呂布より張遼の方が上だよな…
張遼が呂布を強く意識してたかどうかは知らんが。
>>111 正史の伝は、本人に都合の良い解釈が多い
だから、張遼は正史正当な魏の部将だから、
上のように書いてあっても不思議ではない
個人的には総合的にみるに、強さだけは呂布が一番だと思うけどな
113 :
世界@名無史さん:2010/03/16(火) 21:17:31 0
個人の武芸なんてわからんよ。
大事なのは指揮能力と兵の練度だから。
張飛なんかも、『三国志演技』を読んでいると、
なんだか個人の武勇・武芸が優れていただけに思うが、
正史では、魏の名将張コウを地形を利用して撃破するなど、
単なる武勇だけの人間でなかったことが書かれている。
趙雲も武芸よりは、不利な状況下での冷静な撤退が上手い将軍
みたいだしね。個人的な武芸はわからない。
>>113 まあな。正史で「武勇に優れている」というのは、戦に強いってことだから。
戦の強さと個人的武勇はほとんど関係ない。
確かにほとんど一騎討ちなんてやってなかったしな
しかし、その点でいうと、呂布、許チョあたりは本当に武芸達者だったんだろ
関係なくはないが、
「武勇の誉れ高かった(戦術指揮的な意味で)」という人物は
後付けでかっこいい武勇譚が付与される可能性があるから細部まで真実かはわからない。
数多くある武勇譚のどれが創作でどれが真実かはもはや確かめる術はない。
117 :
董卓:2010/03/16(火) 23:03:53 0
武勇譚のみならず、物事の創作・真実なんて誰にもわからない。
いやそういう十代若者の主張みたいなことじゃなくてね
なんでひとをころしちゃいけないの?
120 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 05:52:24 0
許チョは曹操のボディガードだからな。
役職上武芸も必要。
121 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 06:59:04 0
黄忠も自ら夏侯淵の首級を取ったとは書かれていない。
配下の兵の誰かなのだろう。そういうのは全て指揮官の功績となる。
敵の大将を自ら討ち取ったのは、顔良を討ち取った関羽くらいでは?
関羽が配下の兵的立場だったからじゃないの?
関羽はちゃんと将軍として部隊指揮官扱いだが?
関羽張飛は、万兵に匹敵すると、正史にもあるし、他伝でも称えている
つまりは、武芸に通じているといっても過言ではない
演義みたいな人間離れしたものじゃなくてね
125 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 10:02:50 0
関羽・張飛はスタートは劉備の護衛隊長といったところ。
武芸に秀でた人物でもあったが、実戦指揮官としても実力があったという
ことだろう。趙雲も同じ感じかな。ただ、趙雲は関羽・張飛みたいに中原
の名士に武勇を認められることは無かった。後主の時代になり、現皇帝の
命を救ったせいか、急速に名声が上がり、没後に諡号を追贈されるまでに
なった。た劉備の子供の一人を救ったのと、皇帝を救ったのとでは評価が
変わるのは当然。古い家臣なのにに、あまり優遇されてなかった趙雲が、
劉禅即位後、中護軍征南将軍、短期間に鎮東将軍に昇進し、魏延と同等に
まで官位を進めたのは、そうした事情があったものと思われる。北伐敗北
後の降格は、諸葛亮との連座でしょう。おそらく第一次北伐では諸葛亮と
作戦を主導する立場にあったと思われる。
>>125 趙雲の官位が低いのは劉備生前はずっと対呉戦反対論ぶちかましたせいで登極時の昇進でハブられた
劉備死後の昇進はそれらの是正も込みだろう
>あまり優遇されてなかった趙雲が
というのには賛成しかねるな
入蜀時に別働隊任されたのは張飛、諸葛亮、それから趙雲
ちゃんといい仕事貰えてるし、いい結果も出して評価されてる
まあ趙雲伝の記述だと諸葛亮「が」趙雲と張飛を率いていた、ってことになってるので
諸葛亮の超優遇っぷりに比べると優遇されてなかったとも言えるが
127 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 15:30:17 0
趙雲があまり官位が上がらなかったのは、諸葛亮に次ぐ地位にあった
李厳が趙雲生存時には前将軍だったかでしょう。李厳以上の地位には
なれないようになっていた。魏延が征西大将軍に昇進したのは、李厳
が更に高い地位に昇進した時。
それと、趙雲は関羽や張飛、黄忠よりもやや若い世代だったかもね。
年齢も官位に関係してくるでしょう。
だな
趙雲が官位低かったのは、まったくもって
>>126見当違い
129 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 17:18:00 0
第一次北伐時の位では、
家臣第一位は丞相の諸葛亮、次席が前将軍の李厳。
将軍位では後将軍の能無し劉エンが李厳と同等。だけどこいつは誰も頼りにしてない。
鎮東将軍の趙雲、鎮北将軍の魏延は軍部では李厳に次ぐ立場だったのでは?
第一次北伐では偽装進軍ではあるが、趙雲は別働隊を率いている。
曹真がこの偽装進軍に引っかかったのも、趙雲が重鎮だったからだろう。でな
ければ全力で防ごうとはしないはず。
劉備死後から北伐までの蜀は、
丞相諸葛亮とそれに次ぐ連中の官位の差が開き過ぎてるよね。
なんでだろ?諸葛亮に権力を集中させるためにあえて、
他の実力者に高位を与えないようにしたのかな?
131 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 18:47:58 0
趙雲って老将のイメージがあるんだが。
132 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 18:55:00 0
ホウ統・法正は既に死去している。
名声・実力的に諸葛亮の対抗馬はいない。
李厳も劉備に劉禅の補佐を命じられたけど、
諸葛亮への信認とは度合いが違いすぎる。
それと夷陵の戦いで黄権や馬良といった重臣候補
も失ってしまった。
133 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 19:00:21 0
>>131 そいつは『三国志演義』の北伐での話の影響でしょう。
享年は60数歳くらいだったのでは?
134 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 21:01:30 0
趙雲と陳到では死後の扱いがだいぶ差がついたな。
没年から10数年程度では陳到は官位・功績が趙雲に次ぐと評された
のに、死後30年くらい経過すると、趙雲は諡号を追贈され、
『三国志』に伝記を立てられた。
陳到の記述は『季漢輔臣賛』と李厳伝に僅かに記述があるのみ。
他の書物から注釈に登場することも無かった。
趙雲は武勇と言うより馬術に優れてたんじゃないかという印象
しかし、正史を読む限り趙雲が馬術に優れていることを匂わせる記述は全く無い。
>>127 公孫サンのところにいた段階ですらある程度指揮を任されてるし
逆に劉備よりも年配の可能性の方が高いと思うぞ
>>137 公孫サン時代の趙雲の具体的な活躍は、劉備の下に付けられて、
徐州救援に赴いたことしか無いんだが。
平原国相で数千の兵しか率いていない劉備に付けられるぐらいだから、
地位を高く見積もってもせいぜい数百人程度の兵を率いていたにすぎないだろう。
司馬とか校尉とか都尉とかじゃなくて、主騎という他にはどこにも出て来ない官職だから、
実際はさらに低い地位で数十人を指揮する程度の地位である可能性が高い。
趙雲が指揮する兵力が数百人にせよ、数十人にせよ、その程度の兵しか指揮できない地位では、
四州に勢力を張り、数万の兵を擁し、刺史や太守を大勢配下に擁する公孫サンの配下としては、
ある程度指揮を任されていたとは言えないだろうな。
>>138 兵卒のリーダーだった、程度の認識でもいいけどその手のリーダーはやはり年配の仕事だぞ
若くして役職をゲットするには前歴でよっぽど華々しいことしてる、もしくはコネ
趙雲にはどっちもないのだから、やはりある程度年齢行ってたと見るべきでは?
140 :
世界@名無史さん:2010/03/19(金) 12:42:47 0
公孫サンは名士や豪族の子弟は優遇してない。
占い師やら商人やらを優遇したり、義兄弟の契りを結んだりしている。
従来の基準での尊卑の判断はしていない模様。
だから、趙雲が劉備よりも年長だったという根拠にはならない。
なんで公孫だけ敬称つきなの?
むしろ呼び捨てだと思うが
>>139 劉備は20代のうちから私兵を率いて転戦していたが。
同じように地盤もコネも無い状態から、
リーダーシップや武勇で頭角を現して、
20代で兵を率いる地位にいた人間は乱世にあっては珍しくない。
趙雲もこの時代数多くいたそのクチの中の一人じゃないかと。
>>140 別伝によると趙雲は立派な外見だからと地元の人間に担がれる形でリーダーとなって公孫サンの元に仕えてる
公孫サンが能動的に選んだのではない
こういう場合、外見だけでなくある程度の人柄や前歴、年齢など諸々のファクターが絡んでくるし
趙雲が若くして云々と考えるのは難しくなる
別伝は八尺の長身の上、姿、顔つきが雄々しく偉丈夫とあるからに、
後の武勇を考え、豪傑だから推挙されたとするべきと思うが?
>>145 雲身長八尺、姿顏雄偉で豪傑だってなるなら、
長八尺餘、姿貌甚偉と書かれた劉表も豪傑かね?
違うよね
豪傑というか偉丈夫だな>劉表
趙雲は抜擢前に武勇を示したのだろう。
>>147 いや、ちゃんと読んでよね。
後の武勇を考え、と書いてるでしょ。
趙雲の武勇が劉備に仕えていきなり覚醒したのでもない限り若いうちから、
武勇に優れてたとすべきじゃないかな?
>>148 別伝にはそういう事は載ってないな
また、雄偉を漢和辞典で引くと「武勇に優れた」という意味はない
「大いに優れた」という意味だな
「〜に優れる」「大いに〜である」という強調の意味を持つ言葉だそうだ
>>149 後の武勇を考えても、その時点で豪傑かどうかは判らないよ
その時点じゃガタイがよくて見栄えするから推挙されたとしか書いてないしな
>>151 そりゃそうだが、趙雲がいきなり強くなったのでもなければ、若い頃から強かった。
見るからに強壮だったと連想するのは変かな?
趙雲別伝だって、後に示された忠勇を踏まえて構成してると思うんだけどなぁ
深読みしすぎかな?
指揮者としての知勇や忠義は別伝でも非常によく書かれてるが
個人としての武勇、豪傑的な描写はあまり別伝で見られないよ
154 :
世界@名無史さん:2010/03/19(金) 20:31:50 0
趙雲の個人的武芸に関しては正史の本伝・別伝ともにない。
劉禅の命を救ったことに関する武勇伝も存在しない。
長阪・漢中・北伐の戦役での記述の特徴は、どれも敵に追撃された
時の話であること。撤退戦を上手に行うタイプの将軍だったようだ。
諸葛亮が第一次北伐で囮軍を指揮させたのも、曹真の大軍相手でも、
趙雲ならば大敗せず、任務を全うするだろうとの判断だったかもし
れない。
第一次北伐で趙雲が降格処分になった理由は明らかではない。
私は第一次北伐の作戦計画策定に関わりが深かったからではと推測し
ている。魏延も作戦提案をしているが、こちらは却下されている。
数十騎で突撃したり、とって返して敵陣から張著を迎え入れたり、
豪傑的と思うのですが。
少数ではだめで、あくまでも個人でなければと言うのなら、豪傑ではないでしょう。
156 :
世界@名無史さん:2010/03/19(金) 20:54:36 0
>>155 ここでいう武芸は演義でてくる一騎打ちみたいなものでは?
黄忠・趙雲を果敢・勇猛によって武臣となったと、漢の功臣を
引き合いに出して評価している。そういう意味では豪傑でしょう。
兵を任せられる条件としての「武勇に優れ」というのは、当然ながら指揮能力としての武勇のことだろう。
個人の武芸というのは、多くの武将の経歴では特筆されない要素。
趙雲別伝をまるごと信じるならば、趙雲は、勿論演義のように二十歳前後の若者とは考え辛いが、劉備よりは年下と推定できる。
劉備は、界橋の192年に数え32歳
当陽の208年に48歳
死去の223年に63歳
一次北伐の227年に生きていれば67歳
いや70過ぎても前線出てくって例は希少ながら絶無ってわけでもないぞ
159 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 05:32:43 0
趙雲は劉備が流浪時代から使えていた将軍。
ほとんど能無しだった劉エンが古くからの家臣ということで、
厚遇されてたことを考えると、戦功のある趙雲が官位があまり
上がらなかったのは、年齢が加味されたとしか思えない。
諸葛亮時代に魏延と同等の将軍位まで引き上げたところを見ると、
魏延と同世代か、やや上の世代くらいじゃないかな?
>>159 いや上でも行ったけど劉備の皇帝即位時に趙雲は官位上がってない
これは年齢のせいだけではないよ
他の連中は結構一気に官位上昇するイベントだったってのに趙雲はそうではなかった
年齢だけでこうも見事に取り残されるものかね?
161 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 10:14:57 0
老将なのに取り残されたのか、老将だからこそ取り残されたのか、
判断に苦しむな。
162 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 14:44:53 0
呉との戦争に反対したからでは?
劉禅が即位したとたんに昇進してる。
北伐直前には魏延と同等まで官位を進めている。
>>159 劉エンが厚遇されるようになったのは、劉備死後。
劉備が生きてる間は郡太守止まりだった。
劉エンの出世はたぶん諸葛亮による派閥人事だろうね。
趙雲の官位が関羽や張飛や馬超や黄忠より劣るのは、
純粋に戦功や名声が彼らより劣っていたからだろう。
しかしまあ、益州平定後に雑号将軍になれたんだから、
十分高い評価は受けていたと思うよ。
この時期に雑号将軍になった人物は、劉備陣営の重鎮ばかりだからね。
公孫サンが袁紹と五分で戦っていた時代から兵を率いていた趙雲と、
益州攻略戦から戦歴が始まる魏延では、明らかに趙雲の方が上の世代だろうね。
後に魏延が趙雲と同等の官位になったのは、魏延の能力と戦功が趙雲を上回っていたからだろう。
>>160 蜀科制定に加わったり、反乱平定などで活躍して、
政治軍事の両面で功績のあった李厳や、
巴平定や漢中平定戦で大活躍した黄権、
古参家臣中最大の重鎮糜竺なども、
皇帝即位時に官位上がってないけどな。
>>162 呉との戦争に反対したのは、皇帝即位後だよ。
あと、劉備が生きてる間は昇進が頭打ちだった趙雲が、
劉禅の時代になってから急に昇進したのは、
劉エンが昇進したのと同じように、
古参家臣の取り込みを図った諸葛亮による派閥人事じゃないかね?
165 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 16:14:05 0
劉禅が皇太子になったのは、劉備の死の数年前。
劉禅はただの子供の一人でしかかったし、母親も婦人の一人。
劉禅が即位すると、趙雲は一躍皇帝とその母親の命の恩人になった。
そうなると俄然待遇はよくなる。代替わりすると、寵臣が変わるのと
同じだろうな。それと、諡号の由来のように、規則を守り、厳格で
まじめな性格なので、政権運営してた諸葛亮との波長も合ったのだろう。
箕谷で降格したのを考えれば、諸葛亮の派閥としてもおかしくないと思う
諡号だってすぐにはおくられず姜維らの意見によって追贈されたくらいだから
「後主の恩人」だけが昇進に関わっていたと考えるのは不自然
167 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 16:41:45 0
>>166 趙雲は第一次北伐の作戦の主導的立場だったんだろうな。
囮軍が擁州方面軍の主力と対峙して、負けて撤退しても処罰されんだろう。
それどこか軍需物資を失わず撤退している。作戦の失敗に関しての責任だ
ったのだろう。
168 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 19:48:51 0
姜維は生前の趙雲にあったことあるのだろうな。
わざわざ諡号追贈を上奏してるくらいだから、軍人として尊敬してたの
かもね。順平侯という名前もよく考えられている。
>>168 姜維が蜀に降ったのは228年。趙雲が死んだのはその翌年なんだよね。
しかも趙雲は箕谷の敗北後、前線で屯田していて、
姜維は丞相府に倉曹掾として勤務していたから、ほとんど接点は無い。
何回か会ったかもしれないが、軍人として尊敬するほど趙雲の人柄を知る機会は無かったと思う。
170 :
世界@名無史さん:2010/03/20(土) 21:37:57 0
趙雲は屯田中に死去したのかな?
>>170 歴史に残る箕谷の敗北後の最後の事跡が屯田で、
しかも屯田したことは三国志には載っていない。
三国志に載っているのは、箕谷の敗北後降格され、その翌年に死んだと言うことだけ。
だから、屯田中に死んだのか、病んで漢中か成都で療養してる間に死んだのかは良く分からない。
>>163 そりゃ糜竺はすぐに病気になって死んでるから官位は上がらん
李厳は漢中戦後も順調に戦果を挙げて普通に昇進してる
黄権もそうだが、新入りを上げ過ぎると古参に悪いだろ
173 :
世界@名無史さん:2010/03/22(月) 15:01:19 0
糜竺・簡擁・孫乾とかは古参だけど、
後年諡号は追贈はされてないんだよな。
古参の家臣では関羽・張飛・趙雲だけなんだよね。
簡擁は流浪の時は頼りになるけど、
組織の中で出世できるタイプとは思えないな。
簡擁は、劉備にとって最古参で気心知れた精神的支えというだけでok
>>174 劉備軍が組織化された時には既に序列三位の高官になっていたので問題ない
それから、蜀漢末に立て続けに諡号が追贈されたときの顔ぶれが
武功臣に偏っているという問題もあって、末期の窮状を推察できる。
また、旧来爵位は武功に対して与えられるものという観念もあったので、
文官の影が薄くなっていくのは仕方がない傾向。
>>173 古参だけど、諡号を贈られるほどの功績もないからな。
>>174 組織の中で出世するような野心もないから、
益州攻略後に将軍号貰って好待遇受けて、
実務には携わらない地位で満足したんだと思うよ。
>>176 爵位は武功に対して与えられることが多いが、
諡号は文官武官関係なく贈られることが多いね。
まあ、蜀で諡号贈られたの、
末期の追贈以前は実は文官のほうが多いんだけど。
文官は陳祇だけっしょ
179 :
世界@名無史さん:2010/03/22(月) 17:53:34 0
諸葛亮・ほう統・法正・蒋エン・費イは文官・武官という区別はできない
よ。文武両方を統括してた立場だからね。
孫乾とかも将軍になってるけど文官なのか?
文官、武官という分け方は不可能だよ
定義ができない
いやいや。
官と職をごっちゃにしてないかい
文事(のみ)に携わるのが文官。当時は主に文吏と呼ばれた。
文事とは、つまり、文章・文書を管理する職のこと。
各種の一般の公文書をはじめとして、典籍や章句の取り扱いを含む。
武官もまた、当時は殆どそう呼ばれないが、
「文」能力に対比される「武」はある程度定義づけできる。軍の指揮や盗賊の捕縛など、
「文」に拠らずに令を出し、また兵卒などとしてそれに従事する仕事を「武」と呼んだ。
最末端では、亭に属して盗賊などを捕縛する補吏が「武吏」と呼ばれた記述がある。
「文」という官僚能力を持たない者というニュアンスを含んで「武人」「武将」ということもある。
というわけで県令・太守や丞相のような総合管理職は文官とも武官とも言わないのは
>>179の通り。
孫乾などは将軍位に就いているが、兵を率いたとは考えられず、
当時大司馬左将軍でしかなかった劉備が最高幕僚に相応しい地位を与えるために
便宜上与えた官と考えられる。孫乾の事績からいって「文官」と呼んでいいだろう。
あ、丞相は漢代ではほぼ「文吏」か。特に太尉が置かれている場合は、内事のみに携わる職だっただろう。
太尉(または「印綬を有する大司馬」)が置かれない場合、丞相は軍事(≠武事)も統括していたが、
それも文書に基づくものだったと思う。
しかし、曹操や諸葛亮は名実共に「万機を掌る」権限を有して軍を統率しており、文官とも文吏とも言えない。
吏っていうのは、実際に現場でその職務に携わる者のことで
地位的に言えば、中級以下の実務者のことを指すので
丞相を文吏っていうのは、違和感ある。
そこは官、あるいは文官でいいと思うのだが。
漢代史上の「文吏」っつーのは特別に職責上の法家官吏を指すんじゃなかったっけ。
漢代の用語研究の成果としては。
>>184 官と吏は違うからね。
官は官僚。吏はヒラの事務員。
>>184 職制階級上の「吏」と、人物の能力評価としての「文吏」は違うよ。
蕭何も文吏と呼ばれている。これは後者。
孝廉に選ばれた者の能力選抜では、「諸生」と「文吏」に分けて試験が課されている。
そこでは、諸生とは儒をはじめとした古典に通暁する者で、文吏とは文書管理能力を持つ者。
魏の益州刺史、蜀の幽州刺史なんかも名前で何やってんだか分からん役職だな。
夏侯尚の荊州刺史とかなら、ああそこ守ってんだなとか分かるけど
遥領というやつであって、肩書きと扶持はもらえるけど
実際に認知に赴くことはないってやつ。
でしょ。たぶん
普段は宮廷内サロンで清談に興じているだけ、とか
呉では軍の重鎮に魏領内の州の牧を兼任させてたな。
太守の遥領もあるね
韓当の永昌太守とか凌統の沛国相とか
なんで爵位にしないで、官職にするのかと思ったけど
官職には手当てがつくんだよな。
>>193 まあ、部下を敵国の領内の州牧や刺史や太守に任命し、
その土地の領有権を主張するのは、
後漢末から有力群雄が良くやってきたことだけどね。
>>194 爵位は世襲だけど、官職は一代限りだから、
ある人物を厚遇したいなら、爵位を与えるより官職の方が安上がり。
立派な人物の子が立派とも限らないしな
孫権の初期なんかは血筋の良さや財力のない人物を何人も厚遇してるし
爵位より官職のほうが遥かに手軽だっただろうね
実際に任地に赴くことが可能な刺史・太守と遥領とではどっちが厚遇してることになるんだろ?
>>196 それは圧倒的に現地に赴任する刺史・太守だろ。
軍政両面の大きな実権があるし、
実績や名声あげてさらなる出世の足がかりにするチャンスがあるし、
やろうと思えば私腹も肥やせるし。
遥任では俸給を受け取ることしかできない。
>>194 呉蜀の話だと、盟約で魏を倒した後に全土を二分割統治する、という建前にしたから、
体面上それぞれ統治予定区域の刺史を任命する必要があった。
有力者に割り振られたので、一部現在までその記録が残っている。
実際的な使い方としては、姜維の涼州刺史や馬謖の越スイ太守のように、
これから侵攻or鎮圧予定に対して、地域の長官の名目で軍事計画に参与した(と考えられる)
ようなものもある。
なるほど、惟任日向守みたいなもんだな
大義名分って大事
>>198 いつの時代でも、侵攻予定や鎮圧予定の土地の長官を任命して、
そいつに侵攻や鎮圧の指揮を執らせたりすることは良くあったよ。
後漢末でも有力群雄はみんなそれやってる。
鎮圧・平定後にその地を与える、みたいな保証の意味もあるの?
普通は平定したら昇進する
その地を与えてしまっては封建制になる。
>>201 鎮圧・平定後にその地に正式な刺史・太守として赴任することが多いかな。
鎮圧や平定のための指揮をとるために長官職を与えられ、
鎮圧・平定後に昇進したり、別のポストに移ったり、
また別の土地を鎮圧・平定するために、そこの長官職に任命されることもあるけど。
205 :
董卓:2010/03/24(水) 22:16:36 0
つーか日本の官位付けと中国の官位付けって似てるよなw。例えば姜維。
「涼州刺史」だけど実際は涼州は魏の支配下、赴ける訳がない。そして直江兼続。「山城守」
実際京に赴任してないだろww。この時代の官位ってどういう効果を狙ってたのかな?権威付けかな?
>>205 姜維の涼州刺史は、涼州侵攻作戦中の涼州における軍政を姜維が仕切るという実務が伴った役職。
直江兼続の山城守は単なる箔付けのための肩書き。
日本における官位は、平安時代以降は基本実務の無い箔付けのための肩書きだが、
中国における官位は一部の名誉職を除けば、実務を伴った役職。
全然位置付けが違う。
>>205 やはりおまえは糞コテだな
董卓に失礼なレベル
すぐ上の流れくらい読めばいいのに
209 :
世界@名無史さん:2010/03/25(木) 14:16:55 0
蜀末期の姜維への涼州刺史から益州刺史への移動の画策は、
狙いは姜維の出兵権の剥奪だからな。ただ、全く国境を接していない州の
刺史何の権限があったかは不明。
>>209 蜀と涼州は国境接してるだろ。
あと、呉と蜀が国境接してない魏の内地の刺史や州牧任命したのは、
魏を倒した暁の領土分配協定ができて、それに則ったもの。
権限は無い。魏と本気で戦い、ゆくゆくはそれらの州まで攻め込んで支配してやるぞと言う意気込みを、
ポーズとして示したもの。
211 :
董卓:2010/03/25(木) 18:46:53 0
207に言う。スマンなあ初歩的な所が分ってなくて。
日本と中国の官位付けの違いが知りたかっただけ。日本は解ってたけど、中国の官位付けは余り知らなかったからなあ。
206さん。丁寧に教えてくれてありがとう。
>>211 つうか、おまえは208にこそ、なにか言うことがあるだろw
213 :
董卓:2010/03/25(木) 19:40:36 0
スマンww。208さんもありがとう。お前の言うとおりだわ。
214 :
世界@名無史さん:2010/03/25(木) 19:46:53 0
官位は実権があるのか、名目なのかわからんところがあるよね。
将軍位の上下も魏・呉・蜀で違う。
四鎮・四征将軍なんかは、魏では四征将軍が上位だが、
蜀では四鎮将軍が上位。鎮・征の後に大が付くとまた変わってくる。
当時の人はどう理解してたのだろう?
215 :
董卓:2010/03/25(木) 20:29:43 0
「山城守」を例に挙げてみる。
「山城守」であるが京にいず、且つ官位が機能していない→名(名目・肩書き・箔付け)
「山城守」であり、且つ京にあり官位が機能している→名実(名目・官位が機能している)
というのは日本だが、中国は
206、210、214の言った通りの所があるのだろうな。
>>214 魏では大将軍>驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍>四征大将軍>四鎮大将軍>雑号大将軍>四征将軍>
四鎮将軍>四方将軍>四平将軍・四安将軍・雑号将軍
蜀では大将軍>驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍>四征大将軍>四鎮大将軍>雑号大将軍>四方将軍>
四鎮将軍>四征将軍>四平将軍・四安将軍・雑号将軍
呉では大将軍>驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍>四征大将軍・四鎮大将軍・雑号大将軍>四方将軍>
四征将軍・四鎮将軍・四平将軍・四安将軍・雑号将軍
こう思っとけば間違いない。呉の四征将軍と四鎮将軍の地位の低さは格別。
また、呉では大将軍の上に上大将軍がいたりして、呉の将軍号の序列は本当に謎。
三国志に記されている情報は全部嘘
中国人による完全な捏造
空想の産物
西遊記のほうがまだ信用性があるレベル
野史の集成である三国演義はまだいくらかましな記述を残しているが、
それでもやはり捏造の波に飲まれて晋などというデタラメ国家を本物のように扱っている。嘆かわしい。
1930年代に出土した三国旧志に基づく反三国演義こそが最も史実に即した記録なのである。
蜀漢は天下を統一していたのだ!
>>216 別に謎でもなく、将軍制では呉が漢旧来の官制序列を最も忠実に引き継いでいる。
(他には左右丞相制とか漢の旧制を復活させたものがちらほらあったりする)
蜀漢は後漢末の(主に曹操による)四鎮将軍成立と地位向上を継承している。
魏はそれに加えて九品官人法で官秩を再整理したのでかなり変わっている。
>>215 知識以前に、学問板でそのコテつけてることに疑問感じないの?
三国志のスレで三国志の登場人物そのままの名前をコテにしてるのがそもそもマナー違反
222 :
世界@名無史さん:2010/03/27(土) 11:32:11 0
すまん。コテやめた。
封侯で一番ランク下なのは○亭侯でいいの?
曹操の武平侯は郡?県?
>>223 食邑を有する列侯の中で一番ランクが低いのは亭侯。
その上が郷侯。その上が県侯。
亭侯と郷侯はそれぞれ○○亭侯、○○郷侯(○○は封地の地名)と呼ばれるが、
県侯のみ○○侯と呼ばれる。
曹操の武平侯は県侯。武平県は予州陳国に属する県。
>>193 韓当の永昌太守については疑問があるんだよな、俺は。
呂範の彭沢太守みたいに、一時的に設置された郡じゃないだろうか。
永昌太守に任命されたのが南郡奪取後で、この南郡奪取というのが赤壁直後なのか
関羽討伐時なのかによっても話は変わってくるのだが。
俺は赤壁直後じゃないかと思っていて、そうなるとその時期に永昌太守の遥任というのは微妙すぎる。
>>216 蜀では、王朝成立後は四鎮将軍>四方将軍じゃないの?
あと呉だが、四征と四鎮の地位が低いって論拠はあるの?
俺の記憶の限りでは、他国と変わらない印象なんだけど。
上大将軍については、当時の家臣団の人数を考えて設置しただけだと思うな。
孫権が皇帝に即位した時の上将の構成は
陸遜(上大)諸葛瑾(大)步騭(驃騎)朱然(車騎)全j(衛)呂岱(鎮南)孫韶(鎮北)朱桓(前)朱拠(左)潘璋(右)
これを見ると、四方と四鎮の上下関係は微妙だと思う。
呂範がもう少し生きてたら、上大将軍の上に大司馬として君臨したのだろうか。
226 :
世界@名無史さん:2010/03/27(土) 20:41:01 0
>>225 輔匡が鎮南将軍から右将軍になっている。
北伐直前には諸葛亮の次に高位である李厳が前将軍。
趙雲が鎮東将軍、魏延が鎮北将軍。この二人が李厳より
官位が上である可能性は低い。蜀では四鎮将軍よろ四方
将軍のほうが上だろう。
宗預と張翼の昇進例を見ると、
宗預の昇進例は、後将軍→征西大将軍→鎮軍大将軍。
張翼の昇進例は、征西大将軍→鎮南大将軍。
趙雲の昇進(降格)事例は、征南将軍→鎮東将軍→鎮軍将軍(降格)
魏延の昇進例は、鎮北将軍→征西大将軍。
どうも、宗預・張翼の事例を見ると、四征大将軍は四方将軍より格上、
四鎮大将軍は四征大将軍よりも格上、鎮軍大将軍は四征大将軍より格上。
趙雲が四鎮から鎮軍への降格だったことも考慮すると、鎮軍は四鎮よりも下
つまり、四征<鎮軍<四鎮<四方<四征大<鎮軍大<四鎮大という図式が見えてくる。
ただ、輔国・輔漢・安漢がどのくらいのランクかは不明。
227 :
世界@名無史さん:2010/03/27(土) 20:44:44 0
鎮軍将軍は雑号みたいだけど、陳シみたいな皇帝の寵臣が就任して
るところを見ると、それなりの格だったのでは?
>>226 安漢・輔国・輔漢は四征より格上じゃないかな。もしかしたら四鎮将軍よりも格上かも知れん。
姜維が征西将軍から輔漢将軍に昇進してるし。
安漢将軍だった王平は四鎮将軍を経ずに鎮北大将軍に昇進してるし。
董允・糜竺など政権中枢の高位の文官が安漢将軍号を帯びてるし。
>>227 鎮軍将軍は、どこの国でも雑号将軍としては最高クラスの格だよ。
文官を四征将軍や四鎮将軍にするわけにはいかないから、
陳祇を鎮軍将軍にしたんだろうね。安漢将軍や輔国将軍になれなかったのは、
陳祇の格が軽すぎたからだろうね。
蜀漢の鎮軍将軍は基本的には京師の抑え。宿衛兵か諸校尉か、どちらかの統監者か
雑号将軍だと思うのが間違い
輔漢将軍とか鎮軍将軍は特別な職務と格の将軍位だと思った方がいい
ていうか蜀漢の将軍自体、数が少ないので雑号化の度合が小さいんじゃないか?
蜀の将軍は国の規模考えると多い方だよ。
それもかなり乱発してる。数百人程度しか率いない人間が将軍号持ってたり、
他の国なら方面軍率いるような四鎮四征将軍や諸大将軍が、
一部隊しか率いてなかったり。
いや。
蜀漢建国後の列将軍は、護軍や都督などとの兼任か、功績を挙げた太守の加官などで占められている。
つまり将軍という高官に任じることで他職に対して命令権の優越を示すことと、
独自の領兵を持つことがその意味だろう(都督や護軍だけでは本来兵を率いる事ができないから)
魏のように野戦部隊を持っているだけの将軍、というのは殆ど見られない。
蜀漢では「四征将軍」というクラスは基本的に発達しなかったようだね。
(魏延弾劾の上奏でなぜか征南将軍が二人いたりするけど)
諸葛亮の時代の間に整理されて、漢王朝伝統の征西将軍のみに回帰したのだろう。
四鎮の方は、後漢末の群雄にばら撒かれた「諸将軍の中でも高位」という地位を踏襲し、
趙雲ら古参武人の時代が終わると地方の鎮撫者に与えられる要職に落ち着いた。
劉備が鎮東将軍経験者ということもあるのかもしれない。
諸大将軍は基本的に、諸将軍のうちの「資格重き者に大を加える」というものだから、
功労を積んで位格が高められているだけで基本的な職掌は元の将軍と変わらないはず。
すると、
上公 丞相>大将軍
公 空席
従公 驃騎>車騎>諸大将軍
中二千 四方将軍>九卿
二千 諸将軍(うち四鎮が高位)>太守
比二千 中郎将・校尉
後漢とさして変わらない序列になるだろう。
235 :
世界@名無史さん:2010/03/28(日) 17:55:15 0
もうすぐサタンがあらわれる。
サタンは、キリストそっくりな姿をしている。
最初のうちは、平和の使者としてふるまい
ノーベル平和賞を受賞する。
ヨーロッパ連合の軍事総統にえらばれ、権力の座につく。
権力をもったとたん、恐怖政治をしき、
全人類に「獣の数字」をつけ、コンピューターで
全人類を奴隷化する。
宗教戦争をひきおこし、ユダヤとイスラムの全面戦争を画策する。
悪魔の軍団(ニセ救世主の十字軍)を組織し、
世界を征服する。
世界中の都市で死体の山ができる。
ヨーロッパ連合が、中国を侵略し、
かつてなかった戦争をひきおこす。
自ら救世主を名のる男を警戒しなさい。
>>225 確かに、あの永昌郡なら何でわざわざそんな僻地に遥任するのか分からんね
郡を一時的に設置するのは珍しくないしそっちのほうが頷ける
ただ、わざわざ被る名前の郡を置くというのは疑問だ
本当は別の地名だったのを誰かが写し間違えたのかね
しかし、写し間違いを疑うなら、
普通に孫権の勢力範囲の郡名の写し間違いの可能性と変わりない気がする
>>236 予章、廬陵には建昌、南昌、東昌、西昌といった県があるから、
その辺の誤記かなと想像したことはあるよ。
でもまぁ、何とも言えない。
ただ「韓当の永昌太守は遥任」という見方に疑問が差し挟まれないのには
ちょっとだけ待ったを掛けたいカンジ。
>>237 劉備死後、孫権が南中に手を伸ばしてた時期なら、
韓当が永昌太守を遥任するのも分からなくも無いんだけど、
その時期は孫権は雍ガイを永昌太守に任命してるしな。
結局、韓当が益州の永昌太守を遥任するのは、
いつの時期でも有り得ないことなんだよな。
可能性があるのは周瑜が指揮を取って益州に侵攻しその地を孫瑜に任せるという計画が動いていたときだろう
240 :
実際現地の人と会話して解明へ:2010/03/29(月) 11:41:01 0
241 :
世界@名無史さん:2010/03/29(月) 20:42:36 0
>>234 魏延の征西大将軍というのは微妙な立場だね。
諸葛亮が漢中に駐屯してるから、漢中の責任者としての役割は低下している。
かといって、望み通り別働隊を率いることもなかった。官位・爵位は上がっても、
劉備時代より権限が縮小しているように思う。後の鎮北大将軍の王平や鎮南大将軍
の馬忠は
魏延が征西大将軍に就任したということは、陳到はこのときには死去してたのかな?
確か征西将軍で白帝に駐屯、李厳の指揮下だったはず。
>>241 劉備時代の漢中の防衛司令官と言う独立した指揮権は無くなったものの、
代わりに諸葛亮率いる主力軍の副将格に収まったわけだから、
権限としてはそんなに代わりは無いのではないかな?
軍部内の序列的にも丞相諸葛亮、驃騎将軍李厳、車騎将軍劉エンに次ぐナンバー4だけど、
劉エンは実務に携わらなかったから、李厳失脚後は、実質的には押しも押されぬナンバー2だし。
陳到が最後に史書に登場したのが226年、魏延が征西大将軍になったのは230年だから、
この間に陳到が死んだのかもね。ちなみに征西将軍陳到の上司の李厳は輔漢将軍だから、
征西将軍から輔漢将軍に昇進した姜維の例と合わせて考えると、輔漢将軍>四征将軍ということが分かるね。
243 :
世界@名無史さん:2010/03/29(月) 22:09:37 0
>>241 文章が切れてしまった。
馬忠・王平は辺境の責任者という権限があったと言いたかった。
>>242 ただ、諸葛亮は魏延を信頼してなかった。
自分の死後、制御しがたくなることも予期していた。
だから五丈原の撤退は楊義に任せ、魏延が命令に背けば、
放置という処置まで考えていた。結局は名ばかり2。
撤退は愛弟子の費イ・姜維に魏延の監視をさせている。
楊義も諸葛亮は排斥しようと考えていた節もある。
側近とも言えた楊義に、後継者は蒋エン・費イであることを
全く伝えていない。諸葛亮の後継者である費イの密奏で楊義
は流刑。その後に逮捕されて自害。
魏延・楊義は専門分野の能力は評価していたが、全く後継者として
は考えていなかった。それどころか、自分の死後は厄介者になるのを
予見して始末している。
>>241 魏延は趙雲死後の最後の宿将として、格式高い征西+大将軍(蜀漢初の諸大将軍)と、
格としては文句なしだけど、それだけに武人としての孤立が目立つね。
国家と軍事組織が整理されて、武人の時代から都督の時代に移っても戦場にあったことに、
悲運の一因があるのだろう。
車騎将軍まで昇りながら、多くの戦役で誰かの督護に甘んじていた張コウと共通したところがあるね。
>>243 自分の軍事的な片腕としては信頼してたと思うよ。
大軍を与えて単独行動させなかったのは、
全部を自分で掌握してない時が済まない諸葛亮の性格と、
大軍を与える兵力的余裕が無かっただけで。
後継者にしなかったのは、その器じゃないと思ってたからだろ。
諸葛亮は信頼してると言う理由だけで、器が足りない人間を後継者にするほど甘い人間じゃない。
監視させたのは、魏延が自分以外の人間に従わないだろう事を知ってたからだろう。
>>244 蜀の諸葛亮時代は、諸葛亮が全軍を率いてて、地方の都督以外はどんな高位の軍人でも、
諸葛亮の指揮下で戦場に出る以外、活躍の場が無かっただろ。
魏延の軍事能力は地方の都督にして後方を守らせるには惜しいし、
諸葛亮が前線の全軍を率いているのだから、その下で実戦部隊トップとして軍事能力を活用させるのが、
一番魏延にとってもベストだろ。
>諸葛亮が前線の全軍を率いているのだから、その下で実戦部隊トップとして軍事能力を活用させるのが、
>一番魏延にとってもベストだろ。
そうだね。
総督の下の「実戦部隊トップとして軍事能力を活用」までしか昇れなかったのがこの時代の武人の悲哀なのよね。
張コウは曹操存命ならそのまま西方の軍権預かる立場になれたのかな?
夏侯淵後の関中方面司令官って誰がやってたんだろ。
248 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 06:48:18 0
魏延みたいな武人は冷遇されていく時代だったんだな。
まだ諸葛亮は趙雲や魏延みたいな武人に、先帝の功臣として気をつかってた
ほうかな?
魏延が大人しく命令に従って撤退してたら、漢中の司令官として余生を送れた
のかもしれない。時代の流れを読めなかったのが悲運だった。その点、王平は
身の程を知った身の処し方だった。性格もそれなりに問題があったようだが、
凶事を招くようなことはなかった。『漢書』を人に読ませて勉強してた効果かな?
基本的に学がないと冷遇される国じゃなかったっけ
中原を抑えてる魏は特にその傾向が強かった
逆に開拓途中の呉は武力を持った開発領主の連合体だから
文人は移住組で発言力が弱い。
曹操は初期に潁川清流派と組んで、天子奉戴と新政府作りを共同でやってるから
最初から文人中心の政権だった。
>>247 夏侯淵戦死の翌年に曹真が鎮西将軍として、雍州・涼州の都督になってる。
曹操は決して親族以外の人間に都督クラスの軍権を与えなかったから、
張コウが西方の都督になることは無かっただろうね。
>>248 魏延のような叩き上げの武人は動乱期や建国期には重宝されて出世するけど、
国の体制ができてくると、文官上がりの政治も軍事も両方出来る軍人の方が重宝されるからな。
魏延のように建国期生き残りか、王平のようによほど最高権力者の信頼が厚くないと、
軍事しかできない叩き上げの武人は厚遇されない時代だ。
>>249 三国どこでも学が無い人物は出世できなかったよ。
王平とか丁奉とかは例外中の例外。
>>250 武力を持った開発領主も基本、家柄と学のある豪族だから、
文人と出身母体は変わらんのだがな。
>>251 いや王平は文字を知らないだけで学自体はあるだろ
例外でもなんでもないよ
>>252 豪族と名族は違うだろ
太原の王氏、清河の崔氏、范陽の盧氏みたいに郷党の世論をまとめて
世の流れを作ってたオピニオンリーダーみたいな役割を果たす豪族が
呉にはいたのかな?
郷論が沸き起こること自体が社会の成熟を表す事柄みたいなものだから
中原豪族と江南豪族が果たしていた役割を分別することに何の違和感もない。
255 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 17:33:53 0
>>251 >>243 魏延は大人しく五丈原から撤退してたら、
地位を剥奪されるようなこともなかったでしょ。
その後も生きていれば、漢中の責任者として生涯を
終えていたはず。楊義の指示と聞いただけで逆上し、
勝手な行動をしようとしたのが命取り。
諸葛亮は魏延に生きるチャンスは与えている。
命令通りの行動をしていれば、地位も功績も失うことはなかった。
建国の功臣として諡号も追贈されてたかもしれない。
楊義が失脚するのは既定路線。
大軍事行動が終了すれば、お払い箱になるのは決定的だった。
魏延を誅殺しても、中軍師の地位を与えられただけだった
のを見れば明らか。諸葛亮にしてみれば、楊義の方が自分の
死後に厄介な存在と思っていたのかもしれない。
>>254 まさに陸氏であり顧氏だね。
豪族が全て名士ではないが、豪族は名士の有力な出身母体であることには違いない。
しかし勿論、彼らは王朝の方針までを左右するような「オピニオンリーダー」には成れていない。
魏晋と違い、呉の官僚豪族勢力は君主の専制権の強い抵抗を受け、
少なくとも宮中での支配権を取れなかった。
一方、呉特有の世兵制度は、張氏、諸葛氏、(貧困からの成り上がりながら)歩氏のような
外来士人を豪族として呉領内に土着化していく効果があったように見える。
家ごとの家風に差はあるものの(蜀漢と違い)本貫地による地位格差や、文人武人の別が少ない
理由の一つなのだろう。(そもそもの江東の「蛮風」というのも有力な一つとして。)
呉の高級官僚は様々な出身地や人柄・派閥が混在しながら、世兵を持ち地方軍官を経て
大司馬・丞相まで出世していく。彼らが国家の行政部である「外朝」を構成する。
その文武を交えた強力な官僚豪族に対抗するためにも、呉では中朝官や皇族、後宮を中心として
皇帝の専制的意向を盾にし、時には操ろうとする「内朝」政治が発達し、
後漢朝廷と似た権力闘争が繰り返されたのだろう。
>>254 呉の四姓とか、会稽の四姓とかは、その役割果たしてたと思うが。
江南には江南の名士社会があり、中央へのパイプもあった。
>>255 魏延は五丈原から撤退したとしても、
征西大将軍にして、実質的な軍部のトップに立ってしまうから、
あの性格なら漢中の責任者に大人しく収まることは無いんじゃないかなあ?
諸葛亮の後継者たらんとして、蒋エンらと抗争を繰り広げたり、
姜維のように功名心に駆られて北に兵を進めたりしそう。
259 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 19:12:45 0
諸葛亮が王平を重用した背景には、
魏延を抑えたいという考えもあったのかなと思う。
もちろん王平が有能な軍人だったのは言うまでもないけど。
第四次北伐では、魏延は諸葛亮の直卒下だったけど、
王平は別営を守らせたりしている。馬謖の失敗で知識人官僚の
軍事独占は頓挫したが、知識人官僚に好意的な軍人の重用に
切り替えた。王平を育成して、魏延を抑えていこうという
意図が見える。
このスレ何時来ても魏延と王平の話してるな。
261 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 19:28:24 0
魏延と王平は両人とも武人なんだけど、
時代の流れに乗れたか、乗れなかったという観点で対照的存在。
263 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 20:10:20 0
もう陳到の話は終わったのでは?
264 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 20:53:02 0
蜀で益州豪族出身の高級官僚は誰?
>>259 一雑号将軍である討寇将軍の王平では官位が低過ぎて、
征西大将軍の魏延の対抗馬には成り得んよ。
せめて四方将軍か安漢か輔漢か輔国ぐらいじゃないと。
魏延は自分より官位が上の車騎将軍劉エンと対立した時、
劉エンを成都に召還させたほど、諸葛亮がはばかる実力者なんだから。
車騎将軍ですら対抗できない魏延は一将軍に過ぎない王平にとっては、雲の上の人間だよ。
>>261 時代の流れとか言う漠然としたものじゃなくて、
諸葛亮以外の人間に従えたか従えなかったかの違いに過ぎないと思う。
>>259 それは単に詳しい記述が残っているかどうかの差だよ。
王平や魏延クラスの将軍なら総大将と別の屯営を構えるのが当たり前で、
実際五次では魏延は先鋒となって諸葛亮から十里は前進していることが記されている。
魏延に許されなかったのは、一万というような大軍で独自の戦略的機動を取ること。
馬謖の派遣は、高位の将軍一人の判断に遠隔の軍を支配させることを諸葛亮が好まず、
丞相参軍を派遣することで丞相府から軍を制御しようという目論見であって
馬謖に軍を「支配」させようというのとは違うと思う。
>>264 豪族または名家と明確にわかる人物といえば張翼だね
蜀漢全史で最も大きな権力を持てたのは馬忠だろうけど
>>264 蜀書に立伝されてる中では、大司農秦フク、益州治中彭ヨウ、輔漢将軍・留府長史張裔、蜀郡太守・越騎校尉楊洪、
諫義大夫費詩、諌議大夫杜微、太常杜瓊、太中大夫尹黙、中散大夫・右中郎将李セン、光禄大夫ショウ周、
鎮北将軍黄権、安漢将軍・ライ降都督・建寧太守李恢、雲南太守呂凱、鎮南大将軍馬忠、鎮北大将軍王平、
盪寇将軍張嶷、左車騎将軍・冀州刺史張翼、射声校尉楊戯。
269 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 21:37:26 0
黄権も益州出身だが、
魏にやむなく投降したので、蜀での出世はできなかった。
黄権が蜀に残ってたら、諸葛亮も少しは楽だったろう。
降伏した時点で鎮北将軍。既に十分すぎる以上、黄権は蜀で出世していると思うが。
蜀でもトップクラスの高位の将軍だぞ。
271 :
世界@名無史さん:2010/03/31(水) 05:44:18 0
鎮北将軍が二入いたことになる。
ダブってもよいのかな?
二入?
「ふたいり」で変換しちゃったんじゃね。
>>274 魏延と黄権。まあ、魏延の方が先に任命されてて、黄権が鎮北将軍になった時、
魏延が他の官位に移ったと言う話も無いので、
黄権の鎮北将軍は、鎮東将軍か鎮西将軍か鎮南将軍の誤記ではないかと思う。
276 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 19:50:10 0
『季漢輔臣賛』でも黄権は鎮北将軍になってる。
この当時は定数はなかったのでは?
北側の軍隊を指揮してれば、
その人の格よって○北将軍なんて称号を与えたのでは?
官位もっと制度化したのは、劉備の死後だと思う。
>>276 しかし、征西将軍黄忠は西側の軍隊を指揮していたわけじゃないからな。
さすがにその論には無理がある。
あと、劉備の生前も官制が未整備だったわけじゃない。
二人の鎮北将軍は謎としか言いようがない。
278 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 20:46:04 0
陳到は征西将軍で永安に駐屯してたし、
後に宗預も征西大将軍で永安駐屯軍の指揮をしていた。
方角としては成都より東だ。
趙雲の征南将軍・鎮東将軍もわからないな。
あんまり軍管区とは関係なさそうにも思う。
279 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 21:01:03 0
馬岱は平北将軍で魏領に侵入して負けたという記事が『晋書』には
あるらしいな。大規模な軍事行動ではないが、一応北側への侵攻になるから
平北将軍なのか?
将軍の同じ名号が複数に与えられるというのはまあ有り得ないだろうが、
魏延・趙雲辺りの時代までは武功によって高位に上った武人が多いから、
名号が示す職掌よりも当人の功績に合わせて空席にどんどん昇進させた
(というか将軍号を創っていった)という感じかもね。
281 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 21:16:25 0
『華陽国志』も黄権は鎮北将軍と記載されてるのかな?
されてる
魏延も蜀漢建国時に鎮北将軍
>>278 魏延も張翼も征西大将軍で北伐に参加してるな。
>>279 関係ないと思う。平北将軍なんて、雑号将軍と一緒。
平西将軍でも平東将軍でも平南将軍でも北に侵入する指揮官としては変わりなかったと思う。
>>280 蜀は魏延・趙雲のいた時代以降も名号で職掌が決まることは、
四鎮将軍以外は無かったよ。
方面軍を指揮しない四征将軍、数千しか指揮しない諸大将軍は何人もいたよ。
>>283 征西は、後漢では涼州征伐の総督、または車騎将軍の副として用いられた。
後漢盛期に複数人の任命者が存在する数少ない由緒の高い將軍号。
四征將軍が方鎮都督の帯びる将軍号として確立した魏と違い、
蜀漢では特別な地位を維持したのだろう。
>>286 征西将軍姜維、征西大将軍張翼、輔国大将軍董厥、右車騎将軍廖化、驃騎将軍呉班・鎮西大将軍胡済
・征西将軍姜維、征西大将軍張翼
征西の価値は
>>285 ・輔国大将軍董厥
同時に平尚書事。
大将軍を筆頭に、漢の高位将軍は政治的役割の方が強い。
尚書事に関わるポストを兼任することと、
京師や宮中での領兵権を持って皇帝の近衛となることが主な役割。
そもそも野戦指揮官ではない。
・右車騎将軍廖化、驃騎将軍呉班
上に同じく。
勿論、宿将の名誉職としての意味も強いだろう。
・鎮西大将軍胡済
前任と思われるのは鎮西将軍姜維。
姜維が衛将軍・大将軍と昇進しているが、
鎮西には隴西征伐軍の副将的なポストということが共通している。
289 :
世界@名無史さん:2010/04/06(火) 14:24:12 0
何進大将軍は実戦ゼロ
290 :
世界@名無史さん:2010/04/09(金) 21:21:13 0
張翼は鎮南大将軍で北伐に参加したりしている。
陳到は征西将軍、宗預は征西大将軍で永安の守備をしている。
蜀はあんまり方角は関係ないないのかな?
趙雲の鎮東将軍も軍管区ではなさそう。
魏延の征西大将軍、姜維の鎮西大将軍は意味がありそうだけどね。
王平の鎮北大将軍、馬忠の鎮南大将軍はそのまま漢中・南方の鎮守
として意味がわかる。
>>290 宗預は生粋の文官で軍事的功績が全く無いのに、征西大将軍まで昇進してるね。
董厥のように国政を担うために中央軍を掌握する必要があったわけでもないのに。
宗預の尚書→屯騎校尉→後将軍に昇進・永安駐屯→征西大将軍昇進はかなり不可解な人事なんだが。
他にも高位の将軍は大勢いたはずなのに、なぜ軍歴の無い宗預が永安を任されることになったのだろう?
末期の蜀は不可解な人事が多いが、宗預は特に不可解だ。
292 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 07:02:05 0
>>291 呉との戦争の危険性がかなり低下したからでは?
宗預が兵を預かるようになったのは、費イが存命の頃。
政治が乱れていない時期。
費イなんかも、北伐には参加しているけど、
役回りとしては楊義なんかと一緒。野戦指揮官ではなかった。
しかし、大将軍に昇進、実戦で曹爽の侵攻軍を退けている。
この当時の高官は文武両方に才能がないとダメだったのだろう。
ケ芝なんかも外交官的なイメージが強いが、呉との修交交渉以降は
将軍として北伐に参加し、反乱の鎮圧を征伐したりしている。
293 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 10:13:31 0
尚郎なんて諸葛亮に長吏を罷免されてからは、
ほとんど学者としての活動なのに左将軍になっている。
結構将軍号はいい加減な付与のされかたしてるよ。
称号という存在そのものが結構その場のノリでって感じがするわけだが。
(山陽公の方が上位ではあるけど)劉協と劉禅が共に公の爵位を与えられてる辺り
晋もとい司馬政権の首脳は魏でなく蜀を正統として扱う予定もあったのかと思ってしまう…魏で落ち着いたが。
正史を語るならもっと深く調査すべし
>>292 国政を預かった費イと、地方の司令官の宗預では違うぞ。
蜀の大将軍は録尚書事を帯びるのが慣例で宰相的役割。
むしろ野戦指揮官ではできない。武の才能が無くてもできる。
あと、宗預は文の才能を示す実績はあるが、武の才能を示す実績は無い。
それなのに征西大将軍まで昇進して、一方面の守りを任されたのは不思議なことだ。
ケ芝は文武両方に実績があるから、車騎将軍も納得できる。
宗預は文の実績しか無いのに、征西大将軍だから変なんだ。
>>293 四方将軍は漢代以来、九卿と同格で朝議に参加する資格があるから、
九卿クラスの文官や、顧問格の老臣が就任することも珍しくなかった。
297 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 15:27:12 0
ケ芝も北伐までは特に軍人としての功績はない。
この当時の高官になる連中は、文・武両方の仕事がこなせないと
そもそも勤まらない。馬忠とか張翼なんかも文・武どちらの仕事も
こなしている。無学なイメージがある王平も決して軍事バカではない。
宗預が軍事に関わることが遅かったのは確かだが、
それが軍の仕事ができないという訳でもないと思う。
298 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 17:13:09 0
入りて相、出でて将だっけ?
>>297 文官一筋の人間や武官一筋の高官も多いんだがな。
まあ、確かに高位の武官は文武両方の仕事をこなした人間が多いが。
高位の文官は尚書令や三公九卿クラスでも文だけしかやってこなかった奴が多くない?
>>291 屯騎校尉は京師の守備の官。
つまり宗預は、侍中・尚書として長年忠勤したことで信任を得、
60歳過ぎてから兵権を与えられて宮廷の守備に付いた。
後将軍は本来、君主や大将軍の「偏裨」たる将で、中央の官であり、
中軍を率いて征伐にも赴いた。宗預の派遣は「信親の側近を要地に派遣する」
という伝統的な基本則に合致する。
征西職は陳到の「故事」に倣って永安守備の長が任命される慣習が出来ていたのかもしれない。
鎮軍将軍もおそらくは京師の兵権を掌握する官だったのだろう。
前後左右将軍は後漢では殆ど置かれなかったが、
前漢での伝統的な役割は主に二つ。
一つは、宮中に宿衛し、「近戚に内を主らせ」「姦軌は萌動するを得ず而して破滅」させるために、
「爪牙の官の備を以って不虞に備え」るもの。
この文で推薦された辛慶忌が右将軍と左将軍を歴任しているように、
前後左右将軍は、皇帝を宿衛する代表的な将軍職だった。
第二には大将軍などに従って征伐に出ること。
勿論蜀漢王朝の前後左右将軍の何人かは、上のような由緒を利用した
名前だけのお飾りだった可能性も十分ある。
>>297>>299 宗預個人の能力や、当時の人事方針は定かではないが、
似たような経歴で獅子奮迅の活躍をした羅憲の例があるのだから
それほど飛び抜けたものではないとしても、
宗預も全く軍事に無知な人間だったとは断定しがたいね。
後漢にも盧植という例がある。
都督級の人間に必要なのは戦略理論や大きな意味での統率力であって
戦場での細々とした采配をする必要はなかったのでもあろう。
303 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 19:04:56 0
宗預は呉に何度も使者として赴いているので、
呉に関しての知識は蜀1だったでしょう。そういう意味では
適任だったのでは?
呉に攻め込まない限りは、
守備を固めておけば、実戦部隊の指揮官が戦ってくれる。
総司令官は情報を元に総合判断ができる人間が適任。
>>300 しかし、三国で皇帝の側近経験者が要地の守備に派遣された例は少ないような。
地方官や将軍職を歴任した人間が要地の守備を任されることが多かったように思う。
>>302 宗預は発揮する機会が無かっただけで、実は軍事能力があると評価されてたのかね?
その割には屯騎校尉に任じられた時のケ芝の嫌味が気になるが。
軍事能力を評価されてる人間には、あんなこと言わないよな?
宗預は兵を預かるようになったのが60過ぎてからだし、将軍職に就いてからも何もしてないから、
宗預の軍事能力については本当に分からんね。弁舌や実務能力には優れていたけど、
戦略理論や統率力に優れていたどうかも本当に記録が無いから分からないし。
>>303 なるほど。軍事能力を買われたんではなく、呉の専門家としての任命か。
確かに戦う機会が無ければ、国境には相手の事情に通じた人間を置いとく方が便利だからな。
ということは、宗預は実際に永安で戦いが起きたら、自分では軍を指揮せず、
実戦はその下の武将に任せてることになってたのかな?
305 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 20:22:56 0
司馬懿なんかも、
孟達討伐戦まではそれほど軍事経験はない。
諸葛亮も南征までは成都攻略戦の増援軍を引率した
くらいしか軍隊指揮経験はない。
陸遜なんかも同様。だから実戦経験豊富な劉備や関羽は侮った。
全軍・方面軍司令官に生粋の武人が就任するの希でしょう。
だけど意外と豊富な軍事経験が無くても活躍してしまう人がいる。
総司令官は個々の戦術よりも、大局的な判断ができる人が望ましい。
これは今も変わらない。
>>304 曹夏侯氏や孫氏がまず第一の「側近」だね。
で、単に「地方官」というが、まず光武帝以降、刺史というもの自体に「皇帝の使者」という性質がある。
とりあえず魏の異姓都督を調べると、
散騎侍郎からいきなり将軍へ転出した陳泰
丞相属・吏部郎から(太守を経ているが)刺史となった出た胡質
文帝の太子文学・散騎侍郎という長年の勤めから洛陽典農・刺史となった王昶
青州とのすったもんだを交えながら 中書侍郎、尚書を経て、いきなり刺史・将軍となった王基
太守から一旦散騎常侍に召され、その後刺史となった王リョウ
平原侯文学として明帝(だろう)の側近を長く勤め、洛陽典農から刺史となったカン丘倹
御史中丞・尚書から刺史へ出た諸葛誕
司馬氏専横期、司馬氏の小飼として頭角を現したケ艾・鍾会
例外の方が少ない。
これらのことから、魏もまた後漢の慣例を継いで皇帝の側近を刺史として派遣し、
功績を挙げれば最終的には都督まで昇進させる、という原則を取っていたことが判る。
もう少し早い時期では、曹操の側近を長く勤め、文帝の撫軍将軍として信任を得た後、
明帝代に都督荊州諸軍事になったときが初めての本格的な実戦指揮と考えられる司馬懿。
曹操の従事・西曹属から転出した満寵もその類と言える。
勿論、魏の都督達はおおむね将軍になるまでに実戦経験を積んでいる。
それに比べれば、実戦未経験(と考えられる)宗預が督永安になったのは、
呉方面の緊急度が少ないことも大いに影響しているだろうが、
「信親の側近を要地に派遣する」という基本則に準じたものだということには漢魏と変わらない。
世兵制の強い呉だとまた様相が変わって来るけど。
>>306 なるほど。刺史や将軍になる以前の官歴は気にして無かったから、
都督は太守や刺史や将軍を歴任した後になるものとばかり思ってたわ。
あと、曹夏侯氏の都督は将軍出身で、側近としての職務には就いてなかったから、
側近出身とはみなしてなかった。
劉靖や郭淮のように君主の側近を経験せずに都督になったパターンの方が珍しいのかねえ?
308 :
世界@名無史さん:2010/04/10(土) 21:14:25 0
宗預は張飛と共に入蜀してなかった?
入蜀の時に実戦経験はあったかもよ。
>>307 郭淮ももとは丞相府の属員で、張魯を降した後に漢中に残り、
以後、司馬・護軍・刺史という「目付け」の色が濃い職で夏侯淵を補佐したり
張コウらを監督している。将軍に任じられたのは都督になったのと同時。
おおむね時代が下るほど都督の「側近」経験の割合は上がる。
遡って曹操の時代だと、中央集権が成立していないから、地方の有力者や
大きな武力を持つ者を牧や刺史に任じる(任じざるを得ない)ことになっただろう。
豫州牧劉備が代表例だし、曹丕の時代までその勢力が残存した例が臧覇。
もっと遡ると、形だけ将軍・牧の位を与えて軍閥の独立体制を追認することになる。
文帝曹丕は、孫権征伐の名目で大軍を東へ動かし、その威圧の元に、
思うに任せない徐青州の人事を一新したという説がある。
魏の中央集権が安定を見たのはこの時だろうね。
>>308 確かに張飛に従って入蜀してるが、その程度の従軍経験が重要拠点の永安を任される決め手になるとは思えない。
>>309 郭淮はもともと曹丕の属官で、曹操の側近では無かったような気が。
>>311 曹氏に関わった最初の官は曹丕の五官中郎将門下賊曹だが、
その後丞相府の兵曹議令史なる職に就いて漢中へ従軍し、そのまま夏侯淵の司馬に転属している。
>>312 曹操が献帝擁立してから、曹操に仕えた連中は、生粋の武人や元の地位が高かった奴除いたら、
大抵司空府や丞相府の末端の属官経験してね?
それに司空府や丞相府の末端の属官は、側近じゃなくて単なる下級官吏のような気が。
魏延が漢中太守に抜擢された理由がやっぱり良く判らん。
ホントに「入蜀時に付き従った部隊長」程度だったん?
霍峻は入蜀前は中郎将で、蜀平定後に梓潼太守、裨将軍。
魏延は入蜀前前の官位は不明で、平定後に牙門将軍。
霍峻の兄は部曲(私兵)数百人を集め、霍峻はそれを引き継いでいた。
魏延は部曲を率いて入蜀に従った。
なので、おそらく入蜀の時点でもそれなりの地位にいたんじゃないか?
趙雲、黄忠の下に霍峻、陳到なんかがいて、それと同格かその下。
荊州の人材では、州の従事として劉備に仕えた人物が多いが
それ以外、役人あがりとは記述されず、軍人として出世した人間では
輔匡、劉邕、馮習、張南なんかがいる。
そして平定後から漢中奪取までが5年ほど。
おそらくその間も、そして漢中争奪戦でも手柄は立てているだろう。
当時の劉備陣営のメンバーを考えれば、入蜀前のメンツの中では別に下位ではない。
ただ、張飛や趙雲、黄忠を出し抜いたのは驚きなのだろうが。
入蜀後のメンツにはもっと高位の者もいるけど、劉ショウからの寝返りで出世した者も多いからね。
>>313 逆っしょ。曹操に直接属したり辟召された人間だけがのちに出世して史書に名を残している
固有の軍事力を持っていた「大将」連を除いて
>>315 蜀平定時で将軍位まで持っていた実戦指揮官型の人物というの自体、一桁しかいないだろうからね。
魏延は十分、黄忠らと同じ第二グループに入る
>>316 そりゃ、三公・丞相の属官や辟召は官僚ならほとんど誰でも最初に経験するもの。
そこから地方官や中央官僚に登用されるのが一般的なコース。
そもそも、三公や丞相の属官になったり辟召されたりしないと、
官僚としてのスタート切れないのよ。
公や丞相の属官になったり辟召されたりするって、そんなに特別なことではないの。
問題はその後で、属官から県令あたりになって、そこで史書に名前を残さず消えてく人が一番多いの。
>そりゃ、三公・丞相の属官や辟召は官僚ならほとんど誰でも最初に経験するもの。
そんなわけない。
辟召は最大五人の公いた後漢最盛期でも年間数十人以下。数人かもしれない。
毎年200人前後の孝廉より遥かに関門が高い超エリートコースだよ。
曹操の丞相府がいくら巨大でもその属官になるのは大変なことだ。
史書に名が残るクラスの超大物はそんな経歴の持ち主が多いってこと。
>>319 孝廉になってから三公の府や丞相府に招かれて属官になることは、
後漢の頃から当たり前のコースなんだが。
三公の府も丞相府も、その属官は一部の上級属僚を除けば、
いくらでもいる小役人で、中央に推挙される人間なら誰でも通るコースだよ。
双方とも同じこと言ってるけど価値観の違いでまったくかみ合っていない。
どういう基準で「当たり前」と言ってるのかよくわからないんだけど、
六桁の官吏がいた中で、毎年二百人が「当たり前」というのは、
「史書に残る人間なら当たり前」ってこと?
公府は20〜40人程の掾属によって構成され、被辟召者の主な任官先になっていたが、
それが「小役人」ということ?
323 :
322:2010/04/11(日) 15:36:08 0
>>322 孝廉からなれる中央官僚末端の郎中や郎・令史や、地方官僚末端の県令・県長と比べると、
三公府や丞相府の属官地位はかなり低いんだが。
>>324 秩石ってこと?
孝廉によって就任する郎官は二百石。そこから転出する習慣だった県長・尉・丞は四百石から二百石(県令には成れない)
辟召によって就任する公府掾属は掾が比三百石,屬が比二百石(トップの東西曹掾は比四百石)
そこから転出する習慣だった侍御史は六百石。しかも本物の皇帝側近官。
双方とも、功労の順序を飛び越えて短期間に高官に出世する見込みのある推挙制度だということは間違いないが、
孝廉より辟召の方が希少で価値がある制度だよ。
孝廉は察挙制度の中でも最もポピュラーなもの。
326 :
世界@名無史さん:2010/04/12(月) 20:07:36 0
>>314 費詩伝の関羽とのやりとりを見ればわかるよ。
赤壁後、荊州南部の平定、益州平定は荊州にいた人物や兵員の力によって
達成できた。彼らを優遇しないことには、荊州・益州支配が安定しない。
その端的な例が黄忠、魏延の大出世なんだ。もちろん本人の功績があるの
だけどね。
それが荊州を失陥し、益州のみの支配となると、劉備入蜀前に益州に在住して
いた人物の投与が必要となる。
どこに投与するの?
…ってツッコミ以前もあった気がする
しかし実際のところ、劉備時代に権力を握ったのは、
「劉備古参の荊州外人士」+「劉璋古参の益州外人士」
なんだよね。政治に関わりそうなポストで厚遇された荊州人は
早死にしたホウ統くらいで、黄忠や魏延は外様武官に過ぎず、
劉巴や李厳は「旧劉璋派有力者」であって、荊州平定に貢献していない。
勿論それなりのバランスはあるのだろうけど、
二種類の古参派閥によって二州の地元人士の頭を抑える、というのが
劉備時代の基本方針。
特に黄忠は記録や類縁の少なさから名士豪族の出身とは看做し難く、
黄忠の出世を荊州人優遇政策の一貫と見るのは難しいと思う。
名士豪族にあらずんば荊州人にあらず
ってこと?
この時代の土地支配には二通ある。
土地に根ざす名士豪族を優遇して権力分散の形で人心を安定させる(
>>326の考えだろう)のと、
名士豪族の力を奪って、血族や古参の臣と官僚機構を組み合わせて集権支配するのと。
黄忠(や魏延)が名士豪族ではないと仮定したら、
荊州失陥前に将軍級になるほどに優遇された荊州の名士豪族はほぼゼロとことになる(益州人もほぼゼロ。例外黄権)。
とすると、
>>326の「彼らを優遇しないことには、荊州・益州支配が安定しない」
という論旨は成立しなくなる。
漢中王の九卿になった南陽の黄柱という人物がいるけどね。
実権とは程遠い立場だし、礼で見ても許靖・ホウ義・糜竺・簡雍・伊籍らトップ集団に及ばない。
326と327では「彼ら」という言葉が指してる対象が違うな
そうだね。
武人の優遇はむしろ在地社会の不満を買って不安定要因となる可能性があるからね。
黄忠や魏延の出世だけから、それを荊州安定政策の一環と見るのは難しいってことだね。
>武人の優遇はむしろ在地社会の不満を買って不安定要因となる
そんな例あったっけ?
周制復古が見られる前漢後期から、武功によって高位に昇る事を卑下する風潮が生まれており、
土地の有力者や教養ある者は、武功しか無い者に上に立たれるのを嫌った。
三国期に入っても継続している。
武功のみで官に就いた青年期の劉備は、督郵や平原の名士に侮られている。
孫権は呂蒙・蒋欽・周泰のような小飼の武人を督として豪族や名士の子弟揃いの諸将を制御しようとしたが反感を買った。
黄蓋は当初、「いたずらに武功のみで官位に就き」と、部下の文人達に謙っている。
武人ではないが、正統な経学の素養の無い「小人」を重んじた陶謙や袁譚は名士連の反感を買い、史書にまで汚名として残されている。
なるほどね。
でも魏延みたいに遠く漢中で出世することまで嫌うものなのかね。
だとしたらよっぽど嫌なやつらだなw>名士豪族
荊州に残った人間たちが、黄忠や魏延の出世に興味を持たないとしたら、
なおのこと彼らの出世を荊州安定政策の一環と見る視点は有り得ないことになっちゃうじゃないか。
俺は「黄忠や魏延の出世だけから、それを荊州安定政策の一環と見るのは難しい」と言っているだけだよ。
336 :
世界@名無史さん:2010/04/13(火) 07:56:24 0
黄忠の出世は入蜀時と夏侯淵を討ち取ったという武功に報いたものだろう。
四方将軍への起用は諸葛亮が疑義をはさんだくらいだし。特に荊州出身だから
優遇したという訳ではなさそうだ。
魏延の漢中総督の地位は世論では意外という反応。
逆に諸葛亮や法正あたりは賛成だったのでは?
荊州云々は関係なさそうだけどね。劉備だけで人事が決定
する訳ではないと思うので、諸葛亮・法正は賛成だったの
では?
337 :
328:2010/04/13(火) 08:21:00 0
>『荊州南部の平定、益州平定』は『荊州にいた人物や兵員の力』によって
>達成できた。彼らを優遇しないことには、『荊州・益州支配』が安定しない
『』内がポイント。
これと327の『名士豪族』『荊州人優遇政策』論が噛み合ってない。
338 :
世界@名無史さん:2010/04/13(火) 08:56:14 0
劉備の東征も、単に関羽の敵討ちということだけではなく、
荊州が失陥してしまうと、自分の政権基盤だった荊州士人の勢力が
弱体化するからだろ。何せ入蜀から七,八年しか経過してないのだ
から。劉備の敗戦は王朝崩壊になりかねない事態だった。
諸葛亮は荊州失陥後は、益州在住の荊州名士・士人と益州出身の名士・士人
を上手く取り込んで政権を安定させた。陳寿が諸葛亮を絶賛するのはこうした
政治手腕にある。
>>337 名士豪族を度外視し、当地に任官するわけでも無い武将を昇進させて
在地社会を安定させる手法というのを俺は知らない。
教授を願う。
340 :
世界@名無史さん:2010/04/13(火) 13:27:30 0
武功のほうが知的能力、いわば「総合能力」を必要とするだろう。
武功というのは首をいくつ斬ったとか先登したとかで数量的に加算される功績
文によって治められる官僚体制が定着した漢代では低く見られた。
後漢末の一時期には軍閥に直属して貢献する武臣が出世したが、
魏蜀では三国が鼎立して代が替わるにつれて、
都督制に見られるように軍部も官僚制度に回収されていき安定する。
というのが俺の理解だが。
>>340 それが後漢末三国時代の一般認識だったとわかる箇所は?
342 :
328:2010/04/13(火) 17:07:35 0
まず、そもそもの問題は>314『魏延が漢中太守に抜擢された理由』
それに対し>326は
>『荊州南部の平定、益州平定』は『荊州にいた人物や兵員の力』によって
>達成できた。彼らを優遇しないことには、『荊州・益州支配』が安定しない
まず最初のポイントは「彼ら」って表現が何を指すかってことだろう。
>327は326が黄忠や魏延を荊州の代表者として優遇抜擢を受けたと主張してると解釈して
黄忠や魏延は諸々の理由で荊州の代表者たりえず、彼らを優遇したところで荊州の名士
豪族は不平を感じこそすれ、優遇されたとは感じない。ゆえに326の理論は
まったく的外れである。と、とそんなふうに批判していろいろ書いている。
次のポイントは『荊州・益州支配』って言葉で、このせいで327に火がついちゃったんだが
少し変じゃないか、魏延と黄忠の話なのに「益州」が含まれてるんだぞ。327式に解釈した
場合「黄忠魏延優遇→荊州名士豪族へのアピール」のはずなのに「益州」は余分だ。
思うにこの『荊州・益州支配』って表現は『荊州南部の平定、益州平定』って言葉の続きで
「この時代の土地支配には二通ある云々」等の名士豪族論とは関わり合いのない
漠然と当時の劉備の支配領域とその政権を指すだけの言葉の可能性が高くないか。
要するに326を物凄く噛み砕いて書くと「戦争で武功を挙げた連中への論功行賞を渋ると
劉備政権が不安定化しちゃうよ」程度の書き込みだと理解すべきだと思う。
えーと、あと
>名士豪族を度外視して在地社会を安定させる手法
だっけ?
名士豪族の力を奪って、血族や古参の臣と官僚機構を組み合わせて集権支配
してみたらどうだろう。なかなか言い考えだと思う。
>名士豪族の力を奪って、血族や古参の臣と官僚機構を組み合わせて集権支配
魏延や黄忠の出世から、どのようにしてその政策を伺ることができるの?
>>342 横槍入れるなら勝手に他人の論を解釈代弁しない方がいいぞ
326に迷惑だし諭自体も複数の考えが混ざって破綻していくから
実際訳わからん
言うなら自分の意見を言うべき
こういうところでTVドラマなんかを例えに出すと馬鹿にされたり笑われたりするんだろうが、敢えて出すw
「武則天」という中共製作のTVドラマの中で、「李氏は武力で天下を取ったが、武氏は文で天下を取ったのだ!」(だから、李氏より武氏の方が上だ)といったセリフがあった。
唐代にこういう意識があったかどうかは定かではないが、少なくともドラマの視聴者である現代中国人にはそのような意識があるようだ。
銭ゲバの主人公が「世の中銭ずら」と言ったからって
少なくともドラマの視聴者である現代日本人にはそのような意識があるようだ。とか思うのかおまえ。
347 :
328:2010/04/13(火) 20:56:39 0
>327に勝手に他人の論を解釈代弁しない方がいいぞ
という趣旨のレスをしたら
>勝手に他人の論を解釈代弁しない方がいいぞ
と言われてしまった。
亂曰已矣哉
>>326 「荊州南部の平定」が、「荊州にいた人物や兵員の力によって達成できた」とする根拠はあるの?
>>327 >劉備時代に権力を握ったのは、「劉備古参の荊州外人士」+「劉璋古参の益州外人士」なんだよね。
そんなもんは、「権力を握る」の定義によるんじゃないの?
それに功績のある古くからの臣が権力を握るのは当たり前。
重職には益州人も就いてる。
それと劉巴や李厳は「劉璋古参の益州外人士」でも「旧劉璋派有力者」でもない。
どちらも、己の才覚によって劉備に重用された人物。
>>348 貴方が他人のレスに投げかけている、
「根拠」と「権力の定義」について教えてください。
350 :
世界@名無史さん:2010/04/14(水) 20:01:25 0
>>348 劉備は荊州南部を領有すまでは寸土の土地も領有していない。
家臣といっても、諸葛亮・関羽・張飛・趙雲などの限られた人間しかいなかった。
諸葛亮と関羽等以外の家臣は、ほとんど荊州南部領有後に家臣になった。
兵員に関しても同様だろう。益州平定を可能にしたのは荊州南部で
動員された兵なのは明らか。
>>350 新野(後の義陽郡)の人材については顧慮する必要があるだろうけどね。
あと、荊州の人・兵によって益州平定が可能になったのは確かだろうけど
「彼らを優遇しないことには、荊州・益州支配が安定しない」というのはどうもね。
>>349 根拠でも論拠でもいいが、「荊州にいた人物や兵員の力によって達成できた」という主張を
少し説明をして欲しかったということ。
そもそも荊南平定の状況は詳細不明だし、
荊州の人材も多くは「州の従事」として劉備に仕えたと記述される。
劉備が州牧になったのは荊南平定後なので、そこらあたりの整合性について話を聞きたかった。
「権力の定義」だが、たとえば
>>329は「将軍級」というような言葉を使っている。
しかしそれも疑問で、では太守はどうなのかとも思うし(益州人は太守を多く輩出)、
黄柱がなった少府を「実権とは程遠い立場」とするのも分からない(なんか矛先が
>>329にズレたが)。
「実権」というのが劉備の意思決定に影響を与えられる立場だとするなら、
古参以外はほぼ皆無、例外となるには個々の才覚が一番重要だろう。出身地なにほどのものか。
そもそも俺は劉備陣営の派閥論みたいなもの全般を訝しく思ってる。
「劉璋古参の益州外人士」 が重用された、というが
その出身地はそれほど重要じゃなくて、要は劉璋政権の幹部がそのまま高い地位についただけ。
李厳なんかは名のある降将として劉璋に重用され、また劉備に降伏して高い地位を貰ったが
劉璋の古参でもないし、人的ネットワークからは外れた偏狭な人物。
優秀な人物だから抜擢した、というような見方をなぜしないのだろうか。
禅譲>>[越えられない壁]>>放伐
353 :
世界@名無史さん:2010/04/15(木) 20:12:52 0
李厳が重用されたのは有能なのはあるけど、
有望な人物がかなり枯渇していたのもある。
諸葛亮に次ぐ人物の候補としては、ホウ統、法正、黄権、馬良
といった人物が劉備逝去前にいなくなっている。
悪い言い方をすれば、繰り上げ2だった。
他にいなかったとしか言いようがない。
354 :
世界@名無史さん:2010/04/16(金) 20:37:17 0
李厳って周りからは、
なんでこいつがこんなに出世するのと思われてたみたいだね。
だから李厳派閥は存在してなかったみたいだし。罷免に対して
庇う奴もいなかった。
355 :
世界@名無史さん:2010/04/17(土) 09:56:20 0
諸葛亮は公平な政治が当時からも讃えられていた程なので、
諸葛亮独裁体制でもほとんど反対者が出なかった。李厳は同じ郷里の人
とも上手くつきあえないし、職務怠慢と嘘の報告をしたのだから、誰も
味方する人がいなかった。別な言い方をすると、託孤の臣として一番
尊重してくれたのは諸葛亮。その諸葛亮を裏切ったら、誰も味方はいな
かったと言うべきか。
李厳は蜀科を制定した一人
政治軍事において活躍した人だぞ
尚書令にもなっているし
357 :
世界@名無史さん:2010/04/17(土) 18:54:49 0
李厳が仲良かったのは費観くらい。
その費観も早死している。陳震伝や季漢輔臣賛に見えるように、
有能ではあったが、トゲのある人物で、同郷の人さえ寄せ付けない
偏屈な人物。劉備や諸葛亮といった人物が上で庇護してくれないと
能力が発揮できないタイプの人物。魏延や楊義も同じタイプだ。
失脚した後だからそう書かれる。
李厳を描くためではなく、
「李厳の将来を見越ていたこいつはすげーんだぜ」というわけでね。
359 :
世界@名無史さん:2010/04/17(土) 20:12:59 0
黄権や劉巴、馬良が健在だったら、
李厳がbQになることはなかったでしょ。
李厳がナンバー2になれたのは明らかに先任の法正・劉巴が早世したからだが、馬良よりは上
黄権とはポジションが違うから微妙だな
黄権が生きていても尚書令のような職に就いたかどうか
361 :
世界@名無史さん:2010/04/17(土) 20:25:36 0
黄権は諸葛亮が引き上げるでしょう。
本人が有能であるし、諸葛亮との個人的信頼関係もある。
それと、益州士人の優遇のアピールにもなる。
馬良は侍中だったからなあ。一応エリートコースでは?
ただ、寥立みたく左遷されたケースもあるか・・・・・
李厳は漢中王推挙の連名に代表の一員で名を連ね、
蜀科の編纂責任者の一人。「興業」という名号を貰い、
つまるところ早くから劉備政権そのものを支える一角を占めている。
「一角の中では若輩で末席」、というくらいの地位だったわけだろうけど。
363 :
世界@名無史さん:2010/04/17(土) 22:31:43 0
364 :
世界@名無史さん:2010/04/18(日) 04:54:11 0
蜀が意外と豊かだったのは事実かもな。
そうでないと、諸葛亮の連年の北伐は不可能だったろうし。
365 :
世界@名無史さん:2010/04/18(日) 09:22:49 0
もう少し法正が存命だったら、
諸葛亮と法正のどちらが丞相になっただろう?
人望では諸葛亮が断然有利だと思う。
ただ、劉備存命なら法正の寵愛ぶりみると、
あるいはとも思う。
立場としては勿論諸葛亮。
法正はそのまま尚書令で「皇帝の喉舌」。
劉備が存命ならこのままで内外のバランスが取れる。
367 :
世界@名無史さん:2010/04/18(日) 19:37:51 0
法正も劉禅時代だと自滅したかもね。
劉備が上にいるから能力が発揮できた人物というべきか。
ホウ統・黄権は存命・蜀に残っていれば、諸葛亮に次ぐ
重臣になってたと思う。
劉備は人使いは上手いよな。
関羽・張飛・魏延・法正といった有能だけど、性格的に
大きな欠点がある人物を自在に使ってから。
ケ芝はどうして車騎将軍にまでなれたんだろう?
呉への使者としては活躍したが、
軍人としては顕職を歴任しているだけで、ほとんど功績が無い。
20年間江州督の地位にいて、良く兵卒を統率したが、
江州は前線でも不安定な土地でも無いし。
それなのに漢中を守っていた鎮北大将軍王平や、
南中を守っていた鎮南大将軍馬忠より地位が高いし。
劉備時代からの宿将だったから、功績や軍事的能力と関係なく車騎将軍になれたんだろうか?
蜀漢の高位将軍は部隊指揮官という意味での軍人ではなく、政治家としての能力が必要とされる地位だったし、
督江州はなおのこと、呉との折衝能力や人脈が必要な職責だったから
370 :
世界@名無史さん:2010/04/20(火) 19:51:46 0
>>368 馬忠はもう少し存命なら、もっと高位に就いた可能性は高い。
蒋エン、費イと国の方針を協議するくらいだから。実質蜀の3くらい
だったのでは?
ケ芝は諸葛亮よりも年上で、しかも70歳過ぎまで生きていた。
長年の功績に報いたのだろう。王平ももっと長生きなら、更に
上の称号を貰ったかもね。死ぬタイミングもあるのだろう。
>>369 督永安なら分かるけど、督江州って呉と折衝する機会ないだろ?
蜀にとっては完全な後方地域。李厳も江州にいたことあるから、
ケ芝は漢中への後方支援を期待されてたと考える方が妥当じゃないか?
>>370 馬忠は大将軍になってもおかしくなかったと、陳寿が言ってたからな。
大将軍は無理にしても、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍になって、
録尚書事を帯びる可能性はあったかも。
ケ芝の車騎将軍は蜀漢の宿老としての人事かな。
王平もあと10年生きてたら、車騎将軍になれたのだろうか?
372 :
世界@名無史さん:2010/04/20(火) 20:39:11 0
>>371 諸葛亮の死後の序列は、
1 蒋エン、2費イ、3 馬忠・董允、bS姜維という感じでは?
江州督というのは、漢中・永安の両方の後方支援だろうな。当然呉の情勢
に詳しい人間がよいことになる。
>>371 督永安と督江州は両立しない。
督江州がある場合は永安はその管轄下。
つまり、北方は王平、東方はケ芝、南方は馬忠という図式の横並び。
>>372 ライ降都督とはいえ、奮威将軍では、侍中の董允とは同列とは言えないし、
輔漢将軍で中軍を率いる姜維よりは序列低いのでは?
車騎将軍で督漢中の呉懿がナンバー3で、馬忠は単なる南中の守将で政権の主要メンバーでは無いような気が。
馬忠が政権の主要メンバーになったのは、漢中に行った帰りに鎮南将軍になってからのように思う。
>>373 なるほど。確かに王平が北、ケ芝が東、馬忠が南で功績を挙げたと絶賛されてるね。
ケ芝が王平や馬忠に匹敵する功績をあげたとは思えないんだけど、
呉に備えると言うのはそれだけの大仕事だったのかな?
普通に反乱鎮圧している
蜀漢は軍事政権なので三方の将軍は平時から治安維持の最高責任者だっただろうね
376 :
世界@名無史さん:2010/04/21(水) 20:11:17 0
>>374 功績と言っても、
軍功だけが功績じゃないからね。
政治・外交込みだから。
ケ芝が呉との修交を成功させたのは、
戦闘する以上の功績。あの修交が無ければ、
諸葛亮の南征と北伐は難しかった。
孫権が敬意を払う程の人物が、対呉方面の責任者
なのは、蜀にとっては無形の抑止力になる。
>>376 同じく呉との修交で功績を挙げた宗預が軍事経験も無いのに永安の都督になったのも、
ケ芝が江州にいたのと同じ意味があるのかな?
対呉方面の責任者は、呉との修交で功績にあった人間をあてるのが慣例だったのかな?
南中都督から永安都督に転じた閻宇も、記録に残ってないだけで、
若い頃は呉との使者として活躍したのかも。
副将の羅憲も呉への使者を務めているし、
蜀の東を守るのは、呉とつながりのある人物が選ばれてたのかも。
378 :
世界@名無史さん:2010/04/21(水) 21:26:39 0
永安はあんまり大都市ではないだろ?
軍事拠点としては重要だけど、東部方面の
行政の拠点としては不向きなんでしょ。
江州は今の重慶。蜀の重要都市には重鎮が
必要でしょう。
>>378 その割には、蜀の督江州もしくは江州都督は費観とケ芝の二人しかいないね。
費観は巴郡太守兼江州都督で、後に振威将軍を加えられた程度の低い地位でしか無い。
まあ、李厳も前将軍として江州に駐屯していたことがあるし、
ケ芝は前将軍として督江州になって任地で車騎将軍に昇進してるから、
費観の資格が例外的に軽過ぎただけで、
江州は軍部のナンバー2クラスが駐屯してもおかしくない土地で、
漢中に次ぐ要地だったのかも。
380 :
世界@名無史さん:2010/04/22(木) 05:20:29 0
李厳が2だった時代は、
他の人の官位が李厳以上になることは無かった。
趙雲の官位があまり高くなかったのは、
趙雲が存命中は、李厳が前将軍だったから。
武人では李厳と同等にはなれなかった。
費観も年齢・功績を考えると、そんなに高い地位には
できない。長生きしていれば、もっと高官になっただろう。
>>380 いや、趙雲の鎮東将軍は、かなり高い官位だぞ。
実戦部隊では魏延の鎮北将軍と並ぶ最高級の官位。
蜀では四鎮将軍は都督になってもおかしくない地位だし。
382 :
世界@名無史さん:2010/04/22(木) 10:02:34 0
蜀漢は成都を中心とした蜀、江州を中心した巴、
それと漢中、南方の四地区という感じで責任者置いていたのでは?
その上にあって統括するのが丞相・大司馬・大将軍といった役職の人。
対魏で戦争状態だと最高責任者が漢中に行く。呉とはケ芝の修交以降は
友好関係が持続したので、江州に最高責任者が常駐することはなかったが、
呉との関係が緊張状態になれば、最高責任者が江州に出向くことになった
だろう。
おまえらおちつけw
387 :
世界@名無史さん:2010/04/22(木) 20:05:59 0
ケ芝は70歳過ぎてからの車騎将軍就任。
年功から考えれば、そんなに不思議な人事ではないと思う。
費イなんか実戦部隊の指揮をさほど経験してないのに、
曹爽の侵攻軍を撃退している。ケ芝は第一次北伐で趙雲と共に
囮軍を指揮した実績もある。そんなに戦争の心配がない対呉
方面では適任でしょう。一番防衛が難しい漢中は王平みたいな
実戦経験豊富な将軍が赴任している。
>>379 振威将軍は劉ショウが漢朝から任命されていた職。
費観は劉ショウとは血縁関係にあり、
劉ショウが呉に降った関係で費観が位を継いだのだと思う。
ただの雑号将軍ではないと推測している。
>>387 ケ芝は諸葛亮死後、督江州になるまで前軍師・前将軍として軍を指揮しているよ。
当時の蜀の中央軍は中軍師楊儀、後軍師費イ、右監軍姜維、
前軍師ケ芝、前領軍張翼の五人体制で運営されていたから、
ケ芝は中央軍のトップ5の一人だったわけだね。
それに前将軍だから、中央軍のトップ5から地方の都督への転出も、
車騎将軍への昇進も順当なものだね。
中央軍の指揮も地方の都督も実戦指揮官よりは、政治軍人向きの仕事だから、
政治家寄りのケ芝には適任だったろうね。
江州に20年駐屯して、軍をきちんと統率して、漢中の次の要地である江州の治安を安定させ、
呉への抑えと漢中方面の後方支援を全うしたことが、ケ芝の大きな功績だと思う。
馬忠や王平のような派手な武勲はないけど、国には欠かせない仕事。
390 :
世界@名無史さん:2010/04/22(木) 21:20:02 0
>>389 中央軍トップ5で楊義だけがはぶられたんだな。
後の4人は最高クラスの官位にまで昇進している。
話題豚切るが、呉の軍部の最高幹部の軍権がどの官位に基づいてるのか分からない。
大司馬に上大将軍に大将軍に驃騎将軍に車騎将軍に衛将軍と正式の将軍がいて、
その他に左右都護や左右都督や左右軍師のような加官があって、
将軍と都護や都督や軍師を兼任している者もいれば、
驃騎将軍だけの歩隲のような者もいる。
都護や都督や軍師を兼任していない将軍には軍権が無いのかと言えば、
兼任してない歩隲のように軍権のある者もいるので、それはなさそう。
大司馬や上大将軍や大将軍や驃騎将軍や車騎将軍や衛将軍の官位だけで十分軍を指揮する資格あるのに、
都護や都督や軍師の位は何のためにあるんだろうか?謎だ。
軍権というのは多種で複雑な構造を持っている。
本来、漢の将軍は節鉞を擁し、遠征軍の幕僚人事から遠征の監督、実戦指揮、戦果報告まで一手に掌握する絶大な
権限を持っていたが、後漢末の動乱で軍事機構が膨れ上がって複雑化・常態化し、
また将軍号が価値下落によって本来の権限を失うと、指揮官としてではなく側面から大組織を監督する役職が必要になった。
また、群雄はこの監督役を通じて遠方の将帥の暴走を統制した。
基本的には将軍号が麾下への軍令権を示す。護軍は将軍をも対象とする監察や訴訟弾劾。
都護は西域都護の例や呉では荊州方面に置かれたところから見ると遠隔地の軍政監督を行っただろう。
督・都督が、管轄諸軍への軍令権を主に示した。
特に魏の都督諸軍事は、一州規模の軍政監督から諸軍の指揮までを一括する、旧来の将軍に近い権限を持っていた。
軍師というのは少なくとも曹操の元では、幕僚集団を構成し、丞相府の決裁実務を総攬する役職だった。
孫策・孫権に政軍の一切を委ねられた張昭や、軍師中郎将として三郡を監督した諸葛亮の例を見ると、他の二国でも同じような「管理職」だったのだろう。
節は皇帝の代行者として、現地での人事や高官の拘束など、強制執行権を持つ。
鉞は軍事専断によって「賊」を斬る権限。
つまり、魏の持節諸征将軍都督諸州軍事というのは、分散した権力を再収拾して一身に帯びた役職ということになる。
また、大将軍・驃騎・車騎・衛将軍という高位将軍は、伝統的に、宮中に宿衛して京師の人と情報の出入りを掌握するという権能を持っている。
その皇帝との距離の近さから政治に参与することも多い。
394 :
世界@名無史さん:2010/04/24(土) 19:09:16 0
呉の場合は丞相といっても、
それほど強烈なリーダーシップを感じないな。
蜀の場合は後主が宰相に政治を任せていたせいか、
諸葛亮・蒋エン・費イと三代の宰相が政治・軍事を総覧
して采配を振っていた。
>>394 呉の丞相は皇帝に代わって国政を取り仕切る職じゃなくて、
群臣の筆頭に過ぎないから。
あと、呉は皇帝親政がデフォルトだったから、
丞相が権力振るう幕が無かったともいえる。
あと、太常の権力がやたらと強くて、丞相権力を掣肘していると言うのもあるかもしれない。
呉の太常は副丞相格だから。
あと、大将軍や大司馬やその他の高位の将軍も国政に関与していたのが、
呉の丞相権力を弱めた一因かもしれない。
呉の政権運営は、丞相と太常と力のある九卿と武昌にいる荊州の最高責任者と高位の将軍の合議制だから。
黄巾賊ですか?
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=pol_30&k=2010042400251 大会実行委員会は、会場に来られない県民に対し、大会統一カラーの黄色を身に着けるよう呼び掛けている。
那覇市のサッカーバー店長池間弘章さん(46)は23日から店先に手製の黄色い旗を掲げており、「イデオロ
ギーではなく、基地がいるかいらないか、県内移設に『ノー』と言えるチャンスがあるなら声を上げて意思表示
をしようと思った」と話す。また、同市のタクシー運転手の男性(52)も25日はフロントガラスの端に黄色の
画用紙を掲げるといい、「県内移設反対という意向を訴えたい」とした。
397 :
世界@名無史さん:2010/04/24(土) 21:32:32 0
>>395 二宮事件はその重臣間の闘争になったからなあ。
皇太子派は客観的に見れば正論なのだが、処罰された人間が多数。
歩隲のような名臣でさえも、正当性がない魯王に荷担するという
不可解な行動があった。
蜀の場合は公平で政治に熟達した人間が宰相として
三代続いたので、権力闘争が呉に比べるとマイルドだった。
李厳や魏延・楊義の失脚は、誰が見ても当然の報いという感じで、
特に失脚した人間の擁護をする勢力は無かった。
>>395>>397 孫権は自分のリーダーシップで臣下の複雑な連合体をまとめてきた人物で、
皇帝になってからも自分の意志で専制する体制を志向したんだろうね。
そこで両漢と同じく、中書などに政治権力を持たせ、内朝に基本的な政策決定を行う枢機の場を構築した。
丞相以下外朝の高官は、内朝から発せられる「皇帝の意志」をそれぞれの任地で受けて行政を採る執行機関となった。
ところが厄介なことに、呉の外朝官らには、世兵を持つ豪族がおり、学問に通じた名士もいて、
後漢よりもさらに強い影響力を持っていた。
二宮の変は、皇帝の専制志向に従って寵愛を受ける孫覇を推す派閥と、
礼制を盾に取って孫和を推す派閥の抗争ということになるのだろう。
>>397 二宮事件には裏があるんじゃないかと思う。
でないと、重臣が真っ二つに割れて、
正当制があるはずの孫和派の重臣だけが軒並み失脚して、
皇位を伺う正当制のない孫覇派の重臣が皆昇進して、その後の国政を牛耳るなんて事態にはならない。
あれは孫和を取り巻く重臣を粛清して君主権を強化したかっただけで、
孫覇はそのための道具として使われただけで、
孫権が残す重臣と粛清する重臣の踏み絵にされただけなんじゃないかと思う。
>>395 なんか言ってることが矛盾していない?
>あと、呉は皇帝親政がデフォルトだったから
>呉の政権運営は、丞相と太常と力のある九卿と武昌にいる荊州の最高責任者と高位の将軍の合議制だから。
それと
>あと、太常の権力がやたらと強くて、丞相権力を掣肘していると言うのもあるかもしれない。
>呉の太常は副丞相格だから。
これは何か根拠があるの?
呉の太常の権力が強いと思われる場面なんかあるか?
潘濬が異民族討伐したりするが、それは太常の権力とは別だろうし、
太常よりも上大将軍の方が上だと思うが。
>>397 >歩隲のような名臣でさえも、正当性がない魯王に荷担するという不可解な行動があった。
これはもう明確に歩夫人ー孫魯班とのつながりだろう。
名臣とは言ってもその程度だったということだ。
>>398 >ところが厄介なことに、呉の外朝官らには、世兵を持つ豪族がおり、学問に通じた名士もいて、
本当にそうなんだろうか。
世兵を持っているのは皇帝の親族や子飼いの武将、側近あがりの上将も多く、
またそうした世兵制度が皇帝権力の確立を妨害したとも思えない。
>後漢よりもさらに強い影響力を持っていた。
孫権は怖いものなしのやりたい放題だと思うけどな。
>>400 むしろ豪族官僚連中が強い勢力を持っていたからこそ、
孫権は皇帝の独立した枢機機関である「内朝」を構築して抵抗することを目指したし、
彼らと対立したときに強権発動にならざるを得なかったのだろう。
外朝官僚が常に孫権と対立するわけではない(全jとか歩隲とか)が、
礼教や古制を盾にして「賢人を登用せよ」などと、
皇帝の権限を分散させようと図る傾向があるのは漢代から変わらない。
勿論、これを官僚集団の野心とか造反とか決め付けるのは不当だろう。
天子が祭祀に徹して己を慎み、礼制を重んじて賢人に政治の実務を任せる、
というのは古代からの美徳であり、立派な政治思想の潮流だから。
それから横レスだけど、
>呉の政権運営は、丞相と太常と力のある九卿と武昌にいる荊州の最高責任者と高位の将軍の合議制だから。
合議制というよりは分権体制というほうが良いと思う。
皇帝権の強い時代というのは、光武帝が宿将である雲台二十八将の兵権をあっさり返上させて
封地に押し込め、大軍縮ができたりする、そういう時代。
二宮の変で陸遜が死んだ後も何年もごたついて、反対者に罪着せて排除しなければならない
ような時代は皇帝権が強いとは言えない。
陸遜の死は半分自爆だからなあ
丞相荊州牧があんな空気読めない言動したらほっておいても国が割れる
廃立に反対するにしても皇帝を刺激しすぎた
まして呉録が正しいとしたら、いわば皇帝をスパイしていた疑惑の容疑者だから、あの扱いもやむなしだ
それでも皇帝の側が謝るというあたりが当時の権力の限界だな
>>401 >むしろ豪族官僚連中が強い勢力を持っていたからこそ、
>孫権は皇帝の独立した枢機機関である「内朝」を構築して抵抗することを目指したし、
同意できないな。
豪族連中がそれほど強大ならば、「内朝」とやらを構築も出来ないだろう。
それが出来たのは、豪族連中が、かたや被征服の土着組、かたや北方からの難民組の、
弱い勢力だったからでは?
それに対して孫氏は武力で江南を平定し、君主権が強かった。
孫権が気を使ったのは、張昭、朱治、呂範、賀斉などの、兄の時代からの功臣たち。
それと賢者を登用することが「皇帝の権限の分散」とは言えないだろう。
>>402 >皇帝権の強い時代というのは、光武帝が宿将である雲台二十八将の兵権をあっさり返上させて
>封地に押し込め、大軍縮ができたりする、そういう時代。
これは相対的な問題なんじゃないの?
俺は中国史全般を知らないけれど、同等のものがどれほどあるのか。
また、それと同等でなければ皇帝権が強いとは言えないのか。
>二宮の変で陸遜が死んだ後も何年もごたついて、反対者に罪着せて排除しなければならない
>ような時代は皇帝権が強いとは言えない。
反対者に罪着せて排除できるんだから皇帝権は強いと思うんだけどな。
それと、何年もごたついたのは、皇帝権が弱いからではなく、
孫権が決断しなかったというだけだよ。孫覇への寵愛が続かなかっただけ。
>>403 >丞相荊州牧があんな空気読めない言動したらほっておいても国が割れる
ところが、あれだけ死人が出ているのに国は割れないんだな。
>>404 そう、相対的問題なのよね。
漢の皇帝は、成人さえしていれば、内朝を構築して「皇帝の意志」を少なくとも官僚集団に強い強制力を及ぼすことができた。
皇帝やその側近に抵抗する可能性のある高官が現れても、武装できない殿中に呼び出して即誅殺なんてことができた。
だからこそ、内朝に所属する外戚や宦官が権力を握ったとき、外朝を圧迫し、地方政治まで思うが侭にする素地となった。
孫権は到底そこまで及ばず、高官が反抗的でも簡単には処断できず、内と外が拮抗する政争状態になった。
勿論魏末の皇帝のように権臣に思うが侭にされるような弱い皇帝ではない。
孫権には強いリーダーシップと意志があったが、外の豪族官僚達にもそれぞれ独自の強い勢力基盤を持っていた。
その衝突が二宮の変というわけだ。
>孫権は到底そこまで及ばず、高官が反抗的でも簡単には処断できず、内と外が拮抗する政争状態になった。
そこまで及ばず、と言うけど孫権の意思が確認できないでしょ。
「孫権はそうしたかったけど出来なかった」と言えるかどうか。
孫権は創業者であって配下の武将とは個人的な紐帯があるのだし。
それに俺は「簡単に処断」出来ていると思うけどな。
>外の豪族官僚達にもそれぞれ独自の強い勢力基盤を持っていた。
>その衝突が二宮の変というわけだ。
二宮の変は「皇帝vs有力豪族官僚」じゃない。
それに二宮の変から「外の豪族官僚達にもそれぞれ独自の強い勢力基盤を持っていた」と演繹できないと思うが…。
孫権の意志というのは、孫覇寵愛で確定している。
最終局面に至るまで、処断されたのは孫和派ばかり。
結局のところ処断しているのだから、「処断したくなかった」とか「個人的な紐帯がある」というのは通用しない。
しかし、皇帝権が優勢な時代では、法的に出るなら党錮のように邪魔な一党を明白に公職追放できるし、
そうでなくても政治の失敗を問責するだけで自殺に追い込むこともできる。
讒言や別件に事寄せて処断するというのは、官僚集団の強い不信を呼びかねない強硬手段。
そういう手段で、しかも一網打尽ではなく個別的に排除していかなければなかったのが孫権の弱み。
>二宮の変は「皇帝vs有力豪族官僚」じゃない。
「皇帝専制とその支持派官僚vs礼制志向・権力分散支持派官僚」だね。
呉の官僚がまさに「豪族官僚」であり、漢や魏・蜀と比べて強い力を持っていたことは至るところで判る。
兵どころか任地まで世襲し、魏の刺史や都督のような中央からの派遣官で制御できない。
将軍は政軍両面で功績を挙げながら大司馬・丞相まで出世する。下手に扱えばそのまま叛乱という危険を常に抱えている。
代々の兵を領する指揮官が、それを携えたまま要所の督、中央の高官まで出世して
取り上げることが容易ではないわけだから、他国と比べればその力はほとんど恐ろしいものがある。
最近の話題とも絡むちょっと面白い展開だな
魏の都督の人物像については
>>306以降
蜀の四鎮級高官についてはケ芝絡みで
>>368以降がやっている
>>407 >孫権の意志というのは、孫覇寵愛で確定している。
それなら魯班が画策したように、孫和を廃嫡すればいい。
だが、そもそもは孫和の母の王夫人を寵愛していたように、孫権は一貫していない。
魯育は太子廃立に反対していたし、耄碌した孫権が娘と後宮に振り回されたのが実情だと思うな。
>最終局面に至るまで、処断されたのは孫和派ばかり。
楊竺が処断されたのはそれより前の段階と推測される。
また、240年代半ばに処断された連中は、二宮の変と同時進行した讒言合戦も大きな原因であり
皇帝権云々と絡めるのはどうか。
>結局のところ処断しているのだから、「「処断したくなかった」とか「個人的な紐帯がある」というのは通用しない。
なんで通用しないの?
>高官が反抗的でも簡単には処断できず
「結局のところ処断しているのだから」というのはこれと矛盾しない?
結果として処断しようが、処分に至るまでに逡巡があったと仮定して、
その理由を皇帝権の弱さと見るかそれ以外の原因と見るかと議論しているのだと思ったが。
>「皇帝専制とその支持派官僚vs礼制志向・権力分散支持派官僚」だね。
いやいや、孫覇派には歩氏、全氏など「豪族官僚」として地方の指揮権を持っている連中が
太子派と同じようにいる。
二宮の変で一番謎なのは、正式に立太子された孫和の派閥と、
寵愛を受けてるだけで孫和に代わって太子に立てようという意思を孫権が示したことのない孫覇の派閥の抗争が、
双方の取り巻きだけの抗争じゃなくて、両派に多数の重臣が加わって、
まさに国を二分する抗争になったこと。
孫和派には陸遜・顧譚・顧承・吾粲・張休・朱拠・諸葛恪・勝胤・施績・丁密
孫覇派には全j・全寄・歩隲・呂岱・呂拠・孫弘
孫覇派に付いた重臣も、孫和が皇帝になられたら困る連中じゃないし、
なんで孫覇に付いたのか良く分からない連中が多い。
孫和派に付いた連中の動機は分かりやすいんだけど。
二宮の変の裏には、深刻な重臣の権力闘争があったのか、
それとも後継者争いに便乗して権力を握ろうとした連中が集まって話がややこしくなったのか?
潘濬や諸葛瑾や劉基のような、野心が無く身を挺して派閥抗争を止めそうな人物が
既に死んでいたことが惜しまれる。
誰がどちらに付くか、というのは日頃の人間関係が大きく絡むから必然的な要素ばかりではないだろう。
しかし、呂岱はよくわからないが、全氏は孫魯班を通じて後宮と繋がりがあり、歩夫人はその母。
外戚として皇帝の専制に依拠するのが「得」な立場にある。
>結果として処断しようが、処分に至るまでに逡巡があったと仮定して、
>その理由を皇帝権の弱さと見るかそれ以外の原因と見るかと議論しているのだと思ったが。
「やる力があるけどあえてやらなかった」。にしては処断の方法が拙過ぎる。
孫権にもっと強い専制的支配権があるのなら、公職追放や、封国に送り返すようなことをやればいい。
漢の一人前の皇帝は臣下がうるさくなったときそれをやってきた。
わざわざ罪状をつけて処断するというのは幼少だった皇帝が権力を臣下から取り戻して権力を確保する
ような時にやるような「抗争」で、強い皇帝がやることではない。
>>410 その孫和派とされる連中が潰された時期ってバラバラで理由も別々だから、いっしょくたにするとワケ分からなくなるよ
陸遜死亡事件に絡んでるのは孫権と陸遜、吾粲、陸胤、楊竺くらいだもん
多分他の奴はよく分からないうちに事件が進んでたはず
やはり張昭の存在が大きかったんだろうな。
孫権と群臣、双方に対して重石たり得たのは張昭くらいだし、
>>411 >誰がどちらに付くか、というのは日頃の人間関係が大きく絡むから必然的な要素ばかりではないだろう。
これはまさにその通りなんだけど、これを言ったらそちらの主張の「豪族官僚」〜といった、
出身背景を重視した派閥抗争という側面は小さくなるのでは?
俺は、利害関係etcではなく、個人的な人間関係がメインの派閥抗争だと思うけどな。
>外戚として皇帝の専制に依拠するのが「得」な立場にある。
朱拠だって全氏・歩氏と変わらない。
それに、厳密にいえば全氏も歩氏も外戚ではない。
>「やる力があるけどあえてやらなかった」。にしては処断の方法が拙過ぎる。
呉では皇帝権が弱く、孫権も思い切った処断をなかなか執れずにいたため、
結果として拙い処断となった、と言いたいの?
>孫権にもっと強い専制的支配権があるのなら、公職追放や、封国に送り返すようなことをやればいい。
交州配流はそれに当たるんじゃないの?
というか、この時期の処断についての認識がだいぶ違う気がするなー。
まぁ俺もいちいち調べ直さずに書いてるからアレなんだけど。
でも、太子についたから処刑されたんじゃなくて、
讒言が横行して、それによって処刑されたのも多いし。
後継者問題によって政争が惹起されて、個別に処断された、というのが問題。
「短期日に、かつ波風を抑えて穏便に」する力がなかった。
配流は重い刑罰。禁錮や封地送りは官職に就けなくなるだけ。
朱夫人は朱夫人で、後宮内の対立で孫和派にいる人物だから朱拠が太子につくのは当たり前。
孫和が即位すれば得するのが朱氏で
孫覇が即位すれば得するのが全氏。
歩氏はたまたま皇帝の寵愛を優先したというだけ(夫人の意志ではないかもしれないが)
言いたいのは、「豪族官僚が大きな力を持っている」ということだけ。
官僚個人が皇帝の意に忠実なのを選ぶか、礼制遵守を選ぶかは個人の思想や人間関係の問題。
皇帝にとっては、豪族官僚が大きな力を持っていても皆自分に忠実でならば問題ない。大事に扱う(孫権初期のように)
しかし、ひとたび自分の意志を阻害する主張をして来た時、容易にならざる「敵」となる。
この脅威は漢や魏の比ではない。
呉の皇帝権が強化され、官僚への支配体制が確立するのは
孫権死後、孫峻ら宗族高官を中心とする抗争の結果でというのが皮肉ではある。
>「短期日に、かつ波風を抑えて穏便に」する力がなかった。
いや、孫権が解決を図っていないから短期的に決着しなかっただけだろう。
孫権は孫和を廃立するわけでもなく孫覇の優遇を続けたわけで、
そもそも太子派の連中を処罰する正当な理由がないもの。
もし孫権が太子を廃立しようとし、それに対して政争が巻き起こったなら別だが。
>朱夫人は朱夫人で、後宮内の対立で孫和派にいる人物だから朱拠が太子につくのは当たり前。
こんな事実なかったと思うが。
>孫覇が即位すれば得するのが全氏。
しかしこれは外戚云々とは関係ないでしょ。
全寄が孫覇とは近しかったが、姻戚関係にあるのは孫亮だし。
>官僚個人が皇帝の意に忠実なのを選ぶか、礼制遵守を選ぶかは個人の思想や人間関係の問題。
いや、皇帝は孫和を廃立していない。
>この脅威は漢や魏の比ではない。
ついに漢だけでなく「魏」が出てきたけど、本当にそうだろうか。
そもそも「豪族官僚」という言葉が俺にはよく分からない。
各地の司令官となったのは、豪族ではなく孫権の側近あがりの連中だと思うが。
>>416 呉の皇帝権が強かったのって、孫休と孫皓の時代だけど、
その時代でも皇帝が逆らえない官僚や将軍はいた。
>>417 孫策時代から孫権時代初期にかけては、
豪族から官僚や将軍になったのもいれば、
北方からの移住者から官僚や将軍になったのもいれば、
側近から官僚や将軍になったのもいれば、
孫氏一族から官僚や将軍になったのもいるが、
その二世からは親の地盤や兵士を引き継いで豪族化してるだろ。
>>418 孫権の方が、孫休と孫皓より明らかに皇帝権は強いだろ。
>豪族から官僚や将軍になったのもいれば、
>北方からの移住者から官僚や将軍になったのもいれば、
>側近から官僚や将軍になったのもいれば、
この辺りは雑じゃないか?
俺が側近と書いたのは、諸葛瑾・歩騭・朱桓らを念頭に置いたんだけど、
彼らはそれぞれ移住者であり、豪族だ。
>その二世からは親の地盤や兵士を引き継いで豪族化してるだろ。
孫権存命時は一世が多く生き残ってるし、
「呉の皇帝権は弱い」と主張する側が念頭に置いてるのは一世の連中じゃないか?
それと任地は変わるので、それをもって豪族と呼称するのは適当かどうか。
諸葛瑾・歩隲らも含め、揚州外名士も世兵を与えられて豪族化するのが呉の傾向。
つまり軍官なら一代で豪族化する。
任地は変わっても、兵士は維持され、それを独自で養うための食邑が与えられる。
呂蒙が死んだ武将の兵を貰うことを謝絶し、それが立派なことと言われたように、
将帥同士で利益を保護しあう傾向も認められる。
つまり、呉の各将軍が所有する兵力は、将軍が養う私有兵であり、将軍につよい忠誠を払う傾向がある。
個人の持つ部曲兵は魏にも蜀にもある程度いたと考えられるが、
魏では、軍事力の主体は軍官僚機構に管理される兵戸から動員されるため、中央集権が確立している。
蜀漢はおそらく徴兵制。
呉には、京師に直轄する中軍以外の圧倒的多数が、諸将軍の私兵によって構成されている。
>つまり軍官なら一代で豪族化する。
領邑数千を貰い受けた魏の諸将だって「豪族化」してるだろ。
>呂蒙が死んだ武将の兵を貰うことを謝絶し、それが立派なことと言われたように、
>将帥同士で利益を保護しあう傾向も認められる。
違うだろ。
これは兵の世襲が確実でなかったことの証左。
>諸葛瑾・歩隲らも含め、揚州外名士も世兵を与えられて豪族化するのが呉の傾向。
兵を預かることを豪族化と呼ぶのがしっくり来ない。
食邑が兵の維持のために授けられるものならば、
将軍位の上昇下降によってそれも変動するわけで。
つまりいつでも皇帝が介入できるじゃないか。
それは豪族じゃないだろ。
周瑜の食邑は魯粛が、魯粛の食邑は呂蒙が引き継いだ。
じゃあ好きなように名づければいいんじゃない?
公的権力が介入できない、私的な資源をもった者が豪族ということかな
425 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 14:39:48 0
魏は曹操の方針かなにかしらんが、基本的に部下に一万以上の兵を任せたことない。
張遼のようなスーパースターでさえほとんど数千規模。
>>425 曹操の時代だけだよ。曹丕の時代以降は一万以上の兵を単独で預かって戦ってる将軍もいる。
曹操の時代でも曹夏侯氏の将軍は万余の兵を預かって戦ってるが。
曹操配下に数万の兵を任せられる人材がいなかったのか、
それとも曹操が曹夏侯氏以外の将軍を信頼してなかったのかは分からんねえ。
曹操配下の名将も、ほとんどは数千から数百の兵を率いたり、
一つの城を守ったりして活躍した人物ばかりだったからねえ。
張遼も数千の兵を率いれば無敵だっただろうけど、大軍を率いる器だったかどうかは分からないな。
いずれにせよ、曹操配下に韓信や李靖のような大軍を預けられる名将がいたら、
曹操も天下取れたかもね。曹操さえ釘付けにしておけば魏に負けることはないと言うのは、
劉備と孫権が実証済みだからね。
>曹操の時代でも曹夏侯氏の将軍は万余の兵を預かって戦ってるが
宗族と宗族も同然の夏侯兄弟にしか大兵力は任せられなかったわけだろう。
後ウキンぐらい?
>>427 明確に数万の兵を預かったのが分かっているのは于禁だけ。
あと、関羽を破って曹仁を救援した徐晃も、
数万の兵を擁すると思われる関羽の包囲陣を正面から破っているから、
やはり数万の兵を率いていたと考えて良さそう。
あと、夏侯淵戦死後に一時的にその軍を指揮した張コウもやはり数万の兵を指揮したと考えられる。
429 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 17:22:11 0
徐晃に対しては「戦場に行く途中で自分で募兵しろ!」という無体な命令。
張コウは夏侯淵が戦死という非常事態での代理指揮官。
明確にわかるのでは、張コウは諸葛亮の二次北伐に対して関中都督として三万の諸軍を率いている
張コウが都督になれたのはそのときだけ。昇進はするものの、以後も曹真と司馬懿の督を受けている
張コウ死後は完全に文人出身都督の時代
431 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 17:50:08 0
その頃の張コウは、残り少ない曹操のオールドガーズだからなぁ。
于禁の七軍三万もだが、いずれも窮余の臨時編成の感が強いね
文帝時代は徐晃も張コウも計画的な征伐では常に
夏侯尚らの督を受けているわけだし。
とはいえ、于禁の魏王国左将軍仮節鉞というのは凄いが。
曹操時代なら、臧覇の統率していた軍の規模も万余に達するんではないか?
臧覇は別格。
青徐州は曹操時代に半自治状態で臧覇らが代行支配し、
曹丕の時代になってやっと朝廷からの統治に成功したという学説があるくらい別格。
ただの武将じゃない。
>>434 徐州は曹操が自ら殺戮したから直接支配なんて簡単に出来るわけがないからなあ
青州は青州で黄巾などの反乱者の根城
曹操がこれらの地を味方に付けておくにはワンクッション置くしかなかったんだろうな
>>435 まあ、曹操の屠城が当時の政治情勢に大きな影響を与えたような話はないんだけどね。
ただ後漢末の群雄の動向を見ると、冀エン豫を維持した袁紹・曹操らと、
青徐の陶謙孔融らの東西温度差が見て取れて、地方意識というのはあったのかもしれない。
それから青州は80年位前から流民問題が発生して後漢の斜陽の最初の一手となった
荒廃地域だったし。
>>435 青州は袁譚が一時期直接支配してて、
曹操に攻められるまではそれなりに安定してたから、
そんなに治めにくい土地では無かったのでは。
徐州の臧覇一味による分割統治は北部だけで、
南部は直接統治してたね。
>>436 しかし、曹操の徐州侵攻で江東に避難した徐州名士が、
後に呉の政権中枢に大勢入ってる事を考えると、
一般民衆もまた相当な数が避難先として江東を選んだと思われるから、
間接的には曹操の屠城は江東の政治情勢に影響を与えたな。
438 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 20:38:53 0
第一次北伐の曹真を牽制した趙雲軍の兵力はどれくらいなの?
諸葛亮2万
馬ショク1万
趙雲1万
ぐらいではなかろうか。
>>437 安定はしていない。袁譚は悪政を敷いたため戸籍から人がいなくなったと言われている。
もっとも、袁譚個人の罪よりも青州の状態ががそれだけ酷かったのだろうけど。
>しかし、曹操の徐州侵攻で江東に避難した徐州名士が、
そういう記述も無いはずだよ。それぞれが避難した時期は判らない。
諸葛亮は叔父の予章太守が敗北したためだし、
張昭他の人物も「危険を逃れて」くらいしか記述がない。
徐州出身者の多い呉王朝で、曹瞞伝のような書まで書かれる険悪な関係だったのに、
徐州屠城への非難はさっぱり出てこない。
徐州は(おそらくは)霊帝の末年にも黄巾の残党が蜂起して、
陶謙と臧覇が討伐に着任しているわけだから、やはり酷い状態だったのだろう。
それから、エン州・豫州・冀州・司隷の中核部が曹操の重要拠点として優先的に整備され、
その間の放置期間を臧覇らに丸投げしていた、ということもあるだろうし。
>>440 そうだな
荊州に曹操が来たら牧が降伏してるのに吏民が数万も劉備に従って避難してるのも、徐州での評判というよりはそれ以後も恒常的に(曹仁伝にあるように)屠城をやってたからだろうしな
>>441 中小群雄が跋扈して掠奪まがいを繰り返した時代だから、
特段珍しいことでもなかったんだろうね。
>>440 しかし、その割には袁譚は青州の兵力あてにしてるし、
王脩が青州の兵を率いて袁譚を救援に向かってるよね。
戸籍に人がいなくて、青州統治が安定してなければ、
青州の兵力をあてにして戦うことも、
青州から救援が来る事も無いと思うんだが。
徐州は陶謙が刺史になった後、中原からの避難民が移住してきて、
曹操に攻められるまで経済的に繁栄してる。
張昭他の人物が「逃れた危険」は曹操の侵攻と
それによって引き起こされた混乱状態と考えるのが妥当じゃないだろうか?
曹操の侵攻を契機に徐州は大混乱してるし。
>青州
だから勿論、袁譚に礼遇された名士層の意趣返しの誇張も含まれる。
ただ、青州というのは既に110年代に、中原で最初の衰退が始まった州で、
その後も治安不安定の記録が続いている場所ってこと。
>徐州
大混乱と言ってもその後の劉備は二年間何事もなかったしね。
呂布は袁術を撃退しているし。
それに、具体的に曹操が屠城したとされるのは下ヒ周辺の五県であって、あとは通常の戦闘。
関中から陶謙の庇護を求めて集っていた民衆は、曹操のために壊滅したと言われるし、
陳寿が敢えて武帝紀に書いたように、屠城の規模は決して小さなものではないだろう。
特に、根拠地をやられた陶謙政権にとっては大きな打撃だっただろう。
が、徐州全体の治安や人口移動に関わる種類のものだったかと言うと、大いに疑問が残る。
他の地域での大量の避難民の発生は、数年の「暴政」によるものか、
治安当局による強制移民によるものというのがパターン。
李カクの陳留・潁川攻撃は掠奪で被害が甚大だったとはいうが、
エン州や豫州全体が不安定化したりはしていない。
>>439 囮と時間かせぎにそんなに割合を裂くのか?
446 :
世界@名無史さん:2010/04/27(火) 08:41:05 0
あんまり少数だとわかると、
牽制にならないのでは?
>>444 曹操が徐州を攻めた時、徐州全土が恐慌状態に陥り、
下ヒの相が江南に逃亡し、その煽りを受けて広陵太守が殺されると言う、
正真正銘の大混乱が起きてるのだが。
その後の徐州が外敵の侵攻はあったものの、
比較的統治が安定していた事を考えると、
呉の徐州名士が避けた「危険」と言うのは、
曹操の徐州侵攻とそれにともなう徐州全土の大混乱では。
それ以外に徐州が避けるべき危険に見舞われたことないし。
もし蜀が魏を滅ぼして献帝を見つけちゃったら、劉禅は皇帝の座を譲ったのかな?
献帝が死んだという前提で、漢王室復興のために劉禅を皇帝に立てたんだから
献帝を蜀が見つけちゃったら大義名分失われるんじゃないのかなぁ?
ひょっとして殺してしまって全てなかったことにするとか。
蜀側の文書に、献帝について何か言及してる部分ってあるんですか?
張昭が陶謙のために作った辞を見る限りは
やはり曹操の徐州侵攻こそが一番のインパクトだと思うな。
>>448 適当にごまかして、献帝に劉禅の帝位を認めさせる儀式でもして、
献帝は王か公にでも封じてお茶濁すんじゃないの?
>>449 張昭、陶謙のために投獄されてるのに、
陶謙のために辞を作るなんていい奴だよね。
まあ、呉の資料では陶謙は良く書かれてるし、
陶謙を褒めるのが当時の呉の方針だったんだろうけど。
曹操の大きな汚点の一つであり、呉にも被害者の多い徐州侵攻を叩くために、
相対的に陶謙を善玉に仕立て上げたんだろうね。
当時の価値観からすると、察挙を受けた相手には、たとえそれに応じなくても
礼儀を尽くすのが筋だったようだね。
452 :
世界@名無史さん:2010/04/28(水) 20:59:50 0
蜀漢(自称季漢)は、自分たちを東漢を継いだ別の王朝と看做しているわけだから、
元に戻すってのは有り得ないだろうな
光武帝だって劉嬰や更始帝およびその血脈に帝位を返したりとか遠慮したりとかはしてないよ
敬意は払ってもね
蜀も同じ事
>>452 季漢って「漢の末期」って意味だと思ってたけど、自称なの?
>>452-453 ってことは北伐もあくまで反乱の鎮圧みたいな認識(立場的に)ってことなのかな。
呉と同盟組んでたときも、孫権は呉王で配下みたいな捉え方を根っこでは考えてたように。
まあ劉備が漢中王と名乗った時点で、献帝のことは既にさて置いてるんだろうな。
>>454 蜀があったうちに作られた季漢輔臣賛っていうタイトルを見るに、季漢は自称ではないかもしれないけど蜀存在時から使って問題ない言葉だったんだろうね
高祖だって季だったんだし、末っ子ではあっても別段ネガティブな意味には思わなかったのかも試練
>>455 漢中王の時点では一応献帝は意識してるでしょ
もちろん、内心では献帝に何かあるのを待ち望んでいたかもしれないけれど
>>456 仮に関羽の北伐が成功して、許が陥落して、献帝が劉備陣営の手中に落ちてたらどうしたんだろ?
そのまま献帝を傀儡に漢中王として権力を握るか、それとも禅譲を迫って劉備が皇帝になるか。
まあ、勝手に漢中王名乗った時点で、献帝の事なんか考えてないのは明らかだが。
>>454 前漢・後漢(当時は中漢と呼んだ)に続く「末っ子の漢」という意味。
王朝は永久に続くのが前提だから、「これで最後で永久に続く漢」ということになる。
>>457 漢中王は当然劉邦を意識しているだろうが、
劉邦は「漢王」であり、劉備は「漢王朝に制定された『漢中郡』を国として封じられた王」。
名分としては、むしろ巧妙に正当化されている。
漢中王のまま北進に成功しても拙いことは無いよ。
勿論、献帝に実権を返したりなんかしないだろうが。
史記だって、最初は太史公書なんだから、名前って後からでも変わるような気がしないでもない
460 :
世界@名無史さん:2010/04/29(木) 12:39:11 0
劉備も諸葛亮も、献帝に対する忠誠心は皆無だろうな。
献帝が在位している時は、劉備は帝位には就けなかった。
流石に傀儡とはいえ、漢王朝復興を掲げている人間が、今上
皇帝を無視して帝位には就けない。
献帝が在位している間というのは、名目的には曹氏も王に留まっているということだから
劉備も王のままで問題ない。
「帝位には就けなかった」と言う必要はないね。
劉備の即位は曹氏が帝位に就いたから、対抗上自分も帝位に付いたって感じだね。
なぜなら、曹氏が皇帝で自分が王のままなら、対等の格で勝負できない。
自ら退位した献帝をへの忠誠を大義名分として、
既にこの世に存在しない後漢の漢中王として、
奉じる皇帝もいないのに曹氏の王朝に対抗するよりは、
自分が即位して漢を継ぐと表明した方が手っ取り早い。
誤解していけないのが、「漢に対しての忠誠」と「献帝に対しての忠誠」は重なる時期もあるがイコールではないということ
劉備は唯一の漢の皇帝であったから献帝が皇帝であった間は献帝に並ぶようなことはしなかったが、
献帝が皇帝の座を保持できなくなった以上、その理由がなんであれ献帝に義理立てする必要も理由もなくなる
漢が簒奪された(蜀の視点では)以上、漢に対して忠誠を尽くし永続させるための唯一の方法は別の皇帝を立てること
で、その時点で一番有力な皇帝候補が劉備であったというだけのこと
その辺り、孫権が訳わかんないな。
形式的には漢王朝から皇帝の座を正式に譲り受けた曹丕と、
漢王朝が続いているという名目で皇帝になった劉備はそれほど問題ないけど、
孫権は何の拠り所があって皇帝になるんだろ。ある意味袁術とやってること一緒だよね?
そのわりに「私は最期まで漢に殉じる」という朝臣や、
漢への忠誠を理由に、皇帝を擁する曹操に仕えた連中が、
誰も「漢が簒奪されたから、それを継ぐ劉備の漢に仕えましょう」とはならなかったよね。
既に皆天命は漢から魏に移った事を悟って魏に仕えたか、
劉備の漢がパチモンの漢であることが明白だから、誰も相手にしなかったか。
>>465 そういう朝臣は吉本の乱などであらかた駆逐されたからね
もちろん、そういう人間がいたからって即座に劉備に従うというものでもない
漢への忠誠=献帝への忠誠ではないと同時に劉備への忠誠ともイコールにはならないから
また別の候補を立てるとか、献帝復活を画策するとかも選択肢になるから
何より、中原の人間はいくら漢に義理立てしたくてもわざわざ蜀まで行くのは物理的に困難だ
>>464 孫権の皇帝即位は、単に他の二国と位の上で対等な地位になっておきたかったのと、
皇帝になるのに十分な実力があって、それを家臣団が望んだからだよ。
孫権が皇帝になればポストも増えて出世できるし、王の臣から皇帝の臣にランクアップするわけだし。
分裂時代の実力者が何の根拠も無く帝位を自称するのは、珍しい事でもなんでもない。
後漢末や三国時代にはそれが袁術と孫権の二例しか無かっただけで、
他の時代には一州や数郡を支配しただけで何の根拠も無く皇帝に即位する奴がわんさかいた。
>>467 いやいや後漢後期にも勝手に天子を名乗った「賊」は無数にいたよ。黄巾の乱のかなり前からいる。
袁術は歴史に正統と認められなかった「僭称」勢力の最大の一人ってだけ。
その意味でも、孫権が皇帝を名乗るのは当時の心理としては別段飛躍ではないよね。
さらに孫権の場合、漢(丞相曹操)に臣従し、禅譲を行った魏に引き続き臣従して
呉王位と九錫を貰って「正式な半独立国」の地位を得、礼制と官制を整備してから登極する、
というなかなか良い手順を踏んでいる。
>>450 >相対的に陶謙を善玉に仕立て上げたんだろうね。
陶謙が丹陽出身であることもかんけいあるんじゃないか。
呉末の陶璜、陶濬兄弟は丹陽秣陵の人で、父の陶基は交州刺史(晋書陶璜伝)。
呉の政権を支えた重臣の家系。
>>457 >まあ、勝手に漢中王名乗った時点で、献帝の事なんか考えてないのは明らかだが。
当時は曹操も王になって久しく、ついに漢が終わるという認識が蔓延していただろうから
漢中を奪い返して漢中王即位というのは強烈なインパクトだったろう。
蘇則のような、漢への思いを残した連中はたくさんいただろうから。
漢から魏への禅譲劇を牽制するという意味でも重要な一手であり
単に劉備の権力欲による即位ではないと思う。
>>468 >その意味でも、孫権が皇帝を名乗るのは当時の心理としては別段飛躍ではないよね。
ただ孫権も、皇太子は立てるけど、その諸弟を王に封じるのがとても遅い。
この辺を見ても、正当性の無さのために慎重になる部分は多かったのかなと思う。
>>468 なんで魏は孫権みたいなやばくなったら臣従して、危機が去ったらすぐ背くような奴に、
王位と九錫を気前よくくれてやったんだろうね?
禅譲が済んで一安心したから、大盤振る舞いしたくなったんだろうか?
半独立国に王位と九錫をくれてやれば、いつ自立されても文句言えないのにね。
即位当初の魏の文帝の呉への騙されっぷりは哀れすぎる。
執拗に三度も呉を攻めて失敗ことと言い、文帝は呉に対してはまったくいいとこなしだ。
>>469 陶謙が丹陽出身とは言え、丹陽での勢力を背景に活動した人物じゃないから関係ないと思う。
陶謙が呉で持ち上げられたのは、単に曹操の敵で、陶謙が曹操に攻められて多くの人が江東に避難した事が、
孫権陣営の政権構成に大きな影響を与えたからだと思う。
呉が既に魏に臣従する意志を示しており、江東と荊州を実効支配して短期の討伐が難しい以上、
ケチって蜀に鞍替えでもされたら目も当てられない。
222年の夷陵の役に乗じた三路侵攻が魏の外交方針の転換点だが、
これが失敗に終わったことで呉が完全に「敵」に回る。
224年と225年は、呉を討伐するという名目ながら、主戦場の廬江・九江を通り越して
広陵まで赴き、しかもろくな攻撃をしないという出兵であって、
>>434のようなことが指摘されている。
つまり222-223年の方針転換と攻撃失敗により、青徐揚州の政治的緊張が上昇したことの
フォローが224年と225年に行われたのだろう。
赤壁直後の曹操も似たようなことをしているね。
472 :
世界@名無史さん:2010/04/30(金) 16:26:29 0
蜀漢には義陽郡の出身の有力家臣が多いよね。
義陽郡は新野のあたりみたいだけど、魏延とかは
劉備が劉表の居候時代から付き合いあったのかな?
>>472 魏延が劉表時代から劉備と付き合いがあるような身分だったら、
人材不足の劉備軍では、入蜀時は部隊長程度では無く、
一軍の指揮を任されるぐらいの地位になってたと思う。
474 :
世界@名無史さん:2010/04/30(金) 16:53:36 0
ケ芝、董厥、胡済、燓建なんかも義陽郡出身で高官に出世している。
ケ芝は先に益州に逃げ込んでいたようだが。
>>474 董厥、胡済、樊建は諸葛亮の属官から国家の最高首脳に上り詰めてるので、
荊州閥のなかでも義陽閥と言うのがあったのかなあ?
ケ芝は経歴と性格的に派閥に属するタイプじゃないから、
義陽閥には属してなかっただろうが。
良く考えると、諸葛亮の遺した派閥が政権を牛耳ってた蜀において、
諸葛亮派閥生え抜きでもなく、どこの派閥にも属さず、何一つ政治的な立ち回りも行わずに、
車騎将軍まで昇進したケ芝は異質な存在だな。
476 :
世界@名無史さん:2010/04/30(金) 17:48:07 0
諸葛亮自体が公平だったでしょ。
益州出身の張裔が激賞したくらいだし。
あくまでも諸葛亮に見いだされた人が、その後も活躍しただけ。
李厳・寥立や尚朗なんて左遷されたし。ケ芝も文武に非凡な才能
があるから重用された。ケ芝みたいな性格でも出世できたのは、
諸葛亮の度量の広さによるものである。あの魏延でさえも、渋々
ながら諸葛亮には従ってたし。
477 :
世界@名無史さん:2010/04/30(金) 19:24:58 0
諸葛亮が死んだ後に露呈された魏延の政治オンチぶりは、姜維を軽く越える。
478 :
世界@名無史さん:2010/04/30(金) 19:59:32 0
魏延は武人だからな。
朝廷が武人の魏延に遠征軍の全指揮権を与えるわけ
無ないことが理解できてなかった。
姜維が無謀な遠征をしなければ蜀は暫く存続したかもね。
それより、勝率の悪い軍事能力の方が問題なような気がする・・・・
防衛ラインを下げる戦略も、結局は敵が漢中を席巻して失敗
だったし。王平・劉敏が否定したことをやらかした。
>>476 しかし、ケ芝の出世が諸葛亮の度量の広さによるものなら、
ケ芝が諸葛亮死後も後ろ盾も無く、誰も寄せ付けない性格で、
蒋エンや費イとのつながりも無かったのに、
楊儀のように遠ざけられることもなく、用い続けられたのは不思議。
楊儀もケ芝も能力はあって、性格の悪さでもいい勝負なのに、
何がこの二人の運命を分けたのだろうか?
>>478 姜維が北伐を繰り返さなくても、中原は復興してて魏と蜀の国力の差は開く一方だったから、
せいぜい運命が10年延びたぐらいでは。
漢中防衛ラインが変更されなくても、いずれは破られてたと思う。
481 :
世界@名無史さん:2010/04/30(金) 20:19:40 0
楊儀は人を誹謗中傷したりして業務に支障が出る。
自分の能力を過大評価し、諸葛亮の後継になれると思う程、
思い込みの激しい性格。劉巴や魏延との確執をみればわかる。
ケ芝は剛直で敬遠はされるが、人から憎まれている訳ではない。
別に待遇に不満を漏らすわけでもない。ある意味、筋が通った尊大さ
だったのだ。
>>482 蜀落とすまでは晋王朝が成立しなさそうだけどな
>>473 >人材不足の劉備軍では、入蜀時は部隊長程度では無く、
魏延は蜀平定後に牙門将軍だから、入蜀時に校尉ないし中郎将であったろう。
それは「部隊長程度」とは違うだろう。
>>484 他の入蜀で活躍して平定後に昇進した将軍の伝記には、
皆入蜀前の官位が明記されている。
将軍で無かった霍峻ですら、中郎将だったということが明記されている。
一方、魏延は「以部曲隨先主入蜀」とあるのみ。何の官位に就いてたかすら分からない。
中郎将クラスと言う事は無いだろう。伝記に明記する必要が無い程度の低い地位でしかなかったのではないか。
中郎将や校尉クラスなら、中郎将や校尉として入蜀した事が明記されててもおかしくないはずだ。
魏延だけ官位の記載が無いと言うのはおかしい。牙門将軍は最底辺の将軍位で偏将軍や裨将軍よりも格下なので、
よほど大きな軍功をあげて、小さな部曲の指揮官から、中郎将や校尉を飛び越えて牙門将軍に大抜擢されたのだろう。
>>485 大功績を挙げた霍峻ですら中郎将から裨将軍にやっとなれたのに、
牙門将軍になった魏延がそれ以前は校尉未満ということは考えられない。
>伝記に明記する必要が無い程度の低い地位でしかなかったのではないか。
もっともっと低い役職についた連中だって史書に記述が残る場合はある。
>魏延だけ官位の記載が無いと言うのはおかしい。
陳寿は呉懿のような者ですら「事跡が伝わらず、伝がつくれなかった」としている。
入蜀前の魏延の官位が伝わっていなくてもおかしくない。
「一隊長として劉備に従い」とかいう、ちくま訳に引きずられてるんじゃないか?
魏延字文長,義陽人也。以部曲隨先主入蜀,數有戰功,遷牙門將軍。
一方、
霍峻字仲邈,南郡枝江人也。兄篤於鄉里合部曲數百人,篤卒,荊州牧劉表令峻攝其眾。
表卒,峻率眾歸先主,先主以峻為中郎將。
魏延に関して言えば、魏延は勇将ではあるだろうが、名将なのかという疑問が付きまとう。
具体的な戦功と言えば、益州平定で功を挙げて将軍に抜擢され、
陽谿で魏の費瑤・郭淮を破ったぐらい。まあ、確かに郭淮を破ったのは評価されてしかるべき事だし、
人並み外れて勇猛と評され、劉備に漢中の守りを任され、諸葛亮もその武勇を頼りにし、
その武名は呉の孫権の耳にまで届いていたのだから、
勇将であることは間違いないのだろうが、名将と言うには具体的な戦功の記録が少な過ぎる。
なんだか、軍の重鎮で勇名が高いけど、具体的な戦功に乏しいという点で関羽に共通するものを感じる。
まあ、蜀は資料が少ないから、漢中の守りを任されたのも、漢中戦で大きな功績をあげたからかもしれないし、
北伐でもずっと従軍してるから、諸葛亮に従って功績があったからこそ、勇名が轟いて、
劉備にも諸葛亮にもその武勇を頼りにされたのかもしれないが。
資料が少ないがゆえに戦功の記録が少なかったのか、それとも記録するべき大功は無かったけど、
地味ながら重要な役割を果たし続けて評価されたのか、いまいち分からない。
488 :
世界@名無史さん:2010/05/01(土) 18:33:22 0
魏延は臆病な諸葛亮が身の回りからはなさなかったからね。
>>479 楊儀もケ芝も費イも北伐軍の最高幹部グループだけど、
諸葛亮の死後に実権を握ったのは彼らではなく、成都留守役の蒋エンだった。
これは事前に知らされていない人事だった。
楊儀はそれに反発して不穏な言動をしたため排除された。
費イやケ芝は蒋エンの主導権を認めた。
それが分かれ目だろう。
490 :
世界@名無史さん:2010/05/01(土) 19:22:04 0
ヒィー!
>>489 どうして諸葛亮は事前に蒋エンを後継者にする意向を北伐軍の幹部連中に知らせておかなかったのかね?
事前に知っていれば、「諸葛亮の言う事だから仕方ないか」と楊儀も認めたのかもしれないのに。
あと、魏延が撤退命令に従わなかった件も、
極秘裏に楊儀たちだけに「自分が死んだら撤退するように」と命令せず、
魏延にも生前から同様の命令を与えておけば、魏延も素直の従ったと思うのだが。
楊儀と魏延の死は、諸葛亮の無用な秘密主義が招いたような気がしてならない。
うまくやれば諸葛亮死後も楊儀は蒋エンの副官として、
魏延は督漢中として、能力を発揮できたかもしれないのに。
ただでさえ人材の少ない蜀において、無用に楊儀と魏延を死なせたのは、国家の損失だ。
>>491 そのようにしたとして、魏延が大将軍蒋エンに従って、大人しい漢中督辺りで余生を終えると思う?
>>492 魏延は性格が悪いだけで、正式に諸葛亮から命令を受けても無視するような
信用に値しない人間だとは思わないのだが。
>>493 車騎将軍あたりに任命して厚遇して、蒋エンが魏延のプライドをうまく満足させれば、
大人しく従ってたと思うけどな。魏延は基本的には上位者に逆らわない人間だし。
>そのようにしたとして、魏延が大将軍蒋エンに従って、大人しい漢中督辺りで余生を終えると思う?
これって演義のイメージなんじゃないかなぁ?
呉懿だって大人しい漢中督で余生を終えたわけだし。
でもその時期にだって北伐してる形跡はあるよね。
馬岱が侵入してるし。
>>492 >どうして諸葛亮は事前に蒋エンを後継者にする意向を北伐軍の幹部連中に知らせておかなかったのかね?
「この北伐の最中に自分は病死すると思います」みたいなことは言えないだろ。
それに蒋エンは留府長史であって、それが仕事を継ぐのには違和感がない。
楊儀はハナから自分を蒋エンより格上だと任じていたので、後継を秘密にしていたのは関係ないだろう。
魏延に関しては状況が色々と狂ってるので何とも言いようがない。
朝政に預からない、武官の自分が本当に諸葛亮の後継としてふさわしいと思っていたのかどうか。
楊儀への敵対心から戦争継続を主張したが、
そこをクリアしていたら「大人しい漢中督」になっていたかも知れない。
いや、大人しくはないかも知れないが、姜維のようなポジションかな。
魏延は「その時点での北伐軍の総大将(代理)」になろうとしたのであって、
諸葛亮死後の蜀全体の最高位を望んでいたわけではないと思うんだが
もっとも、諸葛亮死後に北伐で何らかの成果を上げれば蜀の最高位に昇り得ただろうから同じ事か
>>495 呉懿は外戚だが、官位は魏延よりも下。
「史書の」魏延は、李厳追放後は諸葛亮に次ぐナンバー2で、蜀漢初の諸大将軍叙任者。
劉備に荊州から付き従い、在世中に高位将軍を努めていた最後の生き残り。
行政や政治基盤ではなく、戦場での武功を中心に頭角を顕し、その自負の強い武人。
蒋エンらより年齢も格も一回り上。
これは諸葛亮だからこそ制御できたのであって、その死後、年下の蒋エンらでは制御できなくなる
ことは容易に察しうる。
楊儀は初めから魏延を信じず、費イは魏延を欺いて、半ば「叛逆」を誘発させる役割を果たしたが、
その成り行きには上の様な懸念がある。
諸葛亮死後、督漢中・征西大将軍(或いはもっと上の)魏延の北伐が、呉懿の下で馬岱が北進した程度の話で
終わるのか。
魏延の「叛逆」は魏延一人の責任ではないが、費イ・楊儀らの懸念は的確だったという他はない。
>>497 魏延にそこまでの北伐への執念があったかと問われると、
無かったような気がするんだよね。
諸葛亮死後、全軍の指揮権を引き継いで戦いを続けようとしたのも、
魏延に撤退命令が下ってなくて、魏延は軍中最上位者の自分が指揮権引き継いで
戦い続けるものだろうと信じていたからだろうし。
長安奇襲案もあくまで北伐を諸葛亮がやると言ったから案を出したにすぎないわけで。
魏延は生きていても北伐はやらなかったと思うよ。本質は命令に忠実な軍人で、野心はないから。
北伐の野心がない人間が、現に北伐をやっている丞相を臆病者と言ったり、
その総司令官が死んだのにも拘らず一旦撤退さえ拒絶したりするのだろうか。
諸葛亮死後、魏延が撤退せず、楊儀ら(のみ)の帰還を促したということは、
最小に見積もっても魏延に漢中を掌握する野心があったことになる。
これを成都から制御できないということは、つまり漢中が半独立軍閥と化すことになる。
この状態で「北伐しないよ」とか言ったとしても、
楊儀・蒋エンら文人グループらにとっては何の安心にもならない。
だからこそ、楊儀は諸将の同意を取って魏延直属軍以外挙っての撤退に及んだし、
そうされた魏延は激怒して軍道を焼くという行為に及んでしまった。
>>499 延常謂亮為怯,嘆恨己才用之不盡。
謂は「思う」って意味らしい。
ちくま訳でもそうなってる。
臆病者だと言っていたわけじゃない。
>>501 その「思う」は「内心だけで思っている」の意ではない。というかそんなものだとしたら誰がそれを知り得るのか。
「謂」は「評論」「告訴」「説」「称呼」「認為」の意。つまり「魏延は常に諸葛亮を怯だと考えていた」ということ。
説文解字では
謂、報也。
とある
504 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 10:29:53 0
魏延は野心というより、
周りが敬遠してることを、自分を畏怖してくれている、
認めてくれていると勘違いしたこと。たぶん漢中独立とか
軍閥化とかは考えてなかったと思うよ。漢中は長らく諸葛亮の
事実上の直卒下だったからね。事情さえわかれば、周囲から理解
されると思っていたにすぎない。実は嫌われ、あまり信用されて
ないことに最後まで気がつかなかった。だから兵士が四散しても、
漢中に出奔するということをしてしまった。
楊義に関しても自分への朝廷や諸葛亮の宰相候補としての評価が高くない
ことに気がついてなかった。諸葛亮の後継の話は、蒋エン本人と侍中の董允、
それと費イは知っていたと思われる。諸葛亮は自分の死後は排斥やむなしと
判断していたと思われる。魏延の置いてけぼりと同じ処置と思われる。それで
も一緒に遠征に加わった費イは慰めようと思ったが、反逆コメントをしてしま
ったのでやむなく密奏。そして流刑。
魏延・楊義の共通する特徴は、
自分の支持者がほとんどいないことに気がつかなかったこと。周囲の評価と
自己評価の認識のズレが産んだ悲劇だった。
なんかここの住人魏延の話ばっかしてる気がする
みんなよっぽど魏延好きなんだね
506 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 11:08:33 0
魏延・楊義・李厳の失敗は現代にも通じる話だからな。
仕事は出来るけど、性格的な問題で失敗しちゃう人は沢山いるから。
曹操とか諸葛亮みたいな人物なんて、そう簡単に見かけることはない。
才幹はあっても、身から出たさびで破滅する人は何時の時代でも
存在する。そういう意味で親近感はあるのかも。
>>502 >その「思う」は「内心だけで思っている」の意ではない。というかそんなものだとしたら誰がそれを知り得るのか。
>「謂」は「評論」「告訴」「説」「称呼」「認為」の意。つまり「魏延は常に諸葛亮を怯だと考えていた」ということ。
「考えていた」と「内心だけで思っている」の違いが分からんのだがw
というか、こんなの陳寿が状況から推察して作文したんじゃないのか?
もし「常に言ってまわっていた」のなら問題になるだろ。
だったら断言の文体で書くわけないじゃないか
問題になるはずのことに目を瞑ってもらっていたことが厚遇されていたってことだろ
これ以外にも厚遇されていたことが分かる例はいくらでもある
>>508 >だったら断言の文体で書くわけないじゃないか
随分と史家を信頼してるんだなw
>これ以外にも厚遇されていたことが分かる例はいくらでもある
総大将を臆病者と言ってまわってもお咎めなしなんて信じられないな。
>「考えていた」と「内心だけで思っている」の違いが分からんのだがw
俺も書いてからそう思ったw
「常に評価していた」。の意ね。つまり魏延の常日頃からの言動だったということ。
具体的な魏延の言葉を陳寿が引用していないので、勿論作文には当たらない。
「謂」が創作だというなら、陳寿の文章に信頼できるものなどなにもない。
>もし「常に言ってまわっていた」のなら問題になるだろ。
問題だよ。だからこそ、諸葛亮がそれを黙認していたことが評論の対象になる。
「魏延は諸葛亮も遠慮する最後の大物武人だった。
だからこそ諸葛亮が死ぬと同時に破滅した」
vs
「魏延はそんなに大したことないし、諸葛亮死後も大人しくしているだろうから
諸葛亮や費イらが魏延を情報から隔離して破滅に追いやったのは不当」
どっちの魏延像を支持するか。
どちらかと言えば前者だが、その二択は何か違うだろう。
諸葛亮は魏延の問題点に目を瞑り、その有能さを発揮させてやった。
後ろ盾にもなってやった。だから、魏延は好き勝手が出来た。
その諸葛亮が消えた事で、魏延は破滅した。
魏延の傲慢さが、決定的な問題とならなかったのは、諸葛亮という重石があったからで、
それが無くなったのなら、滅びるのは当然の帰結だったともいえる。魏延の身から出たさびだな。
>だからこそ諸葛亮が死ぬと同時に破滅した
これってやや文学的な表現であって、これで納得してよいものか。
諸葛亮がいるからこそ魏延は存立しえた、というのであれば
後継者に蒋エンを任命した諸葛亮はどう思っていたのか。
魏延排除は諸葛亮の計画なのかという話になってくる。
まさか、蒋エンを後継者にしたら自然と魏延が破滅してなくなる、などとは考えていないだろう。
>>514 諸葛亮の意思の話をしてるんだが。
それに、もし魏延が大人しく撤退していたら?
「魏延が破滅したのは当然」というのは文学だろう。
516 :
512:2010/05/02(日) 14:34:57 0
俺は514じゃないんだが、勝手に話が進んでびっくりした。
>>515の言うとおり、魏延が撤退に異を唱えてからの流れを無意識に前提にしてたから、
文学と言われるのも致し方ないかもしれん。
諸葛亮の意思は、遺言を信用するかどうかで少し変わるか。
信用するなら、命令無視するなら放置で、と言われる程度には見捨てられているし、
捏造であるにしても、蒋エンを後継者に認定する以上、魏延が結局、後継足り得ないと判断されたのは明らか。
楊儀らなんかと同じく、能力には信用を置いても、指導者にはなりえないと判断したんだろう。
その後の事に関しては、どこまで想定していたかは分からん。
魏延の場合は性格のみならず官位もネックになるし、抹殺まではいかずとも、むごい事になるとは想定していたかもね。
517 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 14:51:57 0
諸葛亮死後は、蒋エン1、費イ2という路線は、
遅くとも李厳失脚後くらいには決まっていたと思われる。
当然、諸葛亮死去後に楊義が担当職務が無いことも決まっていた。
何よりも、諸葛亮から何も聞いていないことが、楊義のその後が
ある程度決まっていたことを示唆している。
魏延に関しては、大人しく殿で引き上げてしれば、官位を失うような
ことは無かっただろう。何か命令違反や反逆を企てたわけではないから。
ただ、後の姜維みたいに北伐の司令官になるようなことは許さなかっただ
ろう。官位は上がるけど、実権はあまりない状態かもしれん。
諸葛亮が漢中に駐屯するようになってからは、魏延が実際に采配ふることが
無かったと思われる。諸葛亮に不満を持っていたのは、その辺なのかもしれない。
>>515 文学的というのは別に否定しないしそれが主論でははいから修正しても問題ないが、
一応反論すると、
「当然」ではなく「だからこそ」。
歴史というのは結果論だからね。ifはない。
諸葛亮が死んで、後継者候補には比較的若い世代しかいなくなった。
それが魏延の破滅の大きな要因となった。これが歴史に起きた結果だ(と俺は判断する)。
諸葛亮の意志の方だが、
漢中丞相府ではなく、成都とのコミットが大きい蒋エンを選んだと言うことは、
自分の死後の蜀漢運営に、皇帝の権威と、それを有効に活用できる後継者が必要だ、
と諸葛亮は判断したのだと推察できる。実際、蒋エンはまず尚書令という皇帝の権威を代行可能な
職に就いた。
勿論、死後早急に魏延が破滅することまでは諸葛亮の予定に含まれていたのかはわからない。
が、遺言の内容からして、楊儀らの権威だけでは魏延を抑えることは困難だと予測していたのはわかる。
つまり、蒋エンを後継者にすることによって、皇帝の権威によって魏延(や結果的には楊儀ら)を
抑えることが「諸葛亮の意志」だろう。
どういう理由で
>>518は蒋エンは後継者として妥当ではないと考えるの?
自分には妥当にしか思えないんだけど
とても妥当だと言っているつもりだけど。
「妥当でない」と考えなければ
>>518の最後の段のような「特別な狙いがあったから」なんて発想にはならないだろう
裏の意図なんてものが浮き上がるのは、それが不自然であるから。
妥当であれば、ただ単に妥当だから蒋エンが後継者に選ばれたってだけの話だ。それで終わる。
>>518 確かにこっちの言葉の選択が誤っていたようだ。
謝罪する。
皇帝の権威を利用する、というのは頷けるものがある。
だからこそ、後に劉禅の詰問という形で蒋エンは政治的大打撃を受けたわけか。
陳祗なんかはもろに皇帝の権威を利用して、他者の不満を抑制している様が見えるし、
蜀は本当に皇帝の権威が強い。
523 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 15:24:31 0
仁とは考えの異なる人間の仲を調整し、組織としてまとめ上げる能力である。
仁なるかな曹操! 仁なるかな諸葛亮!
>>521 人の採用について、その人の能力のみが純粋に評価されることはないし、
人の能力が人の置かれた環境から独立して発揮されることは有り得ない。
その人間の置かれた立場・思想・権威・人脈・年齢・経歴等と不可分のものだ。
「蒋エンは、諸葛亮死後の蜀漢を有効に運営できる人間だった」。
それだけのこと。
ただまあ、諸葛亮の後継者として即座に心服を得たわけではなかったことは
蒋エン伝に記されているけどね。
他の逸話も見るに、蒋エンは強い指導力を発揮するよりも、
人間関係を調整することに重点を置くタイプだったことが伺える。
リュウビって偽善者でうさんくさくない?
526 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 16:32:51 0
>>518 魏延が諸葛亮死後に絶大な権力を持つことはない。
諸葛亮が心配したのは、総帥である自分が敵領土内で
死去し、統帥の混乱を敵に突かれるのを恐れただけ。
魏延が北伐を希望しても、費イ時代の姜維みたく、最大でも
1万程度の兵を動かせただけだろう。北伐開始以来、諸葛亮が
漢中に在住し、魏延が指揮を執るようにはなっていない。
だから楊義と指揮権抗争に敗れて漢中に出奔しても、簡単に
殺害されてしまう。漢中の行政組織は魏延の命令では動かない
のだ。
むしろ自分の後継について楊義に何も知らせてないのはかなりの
こと。楊義自身は一番の諸葛亮の側近と思っていたのだ。しかし、
楊義支持者が出てこなかったように、既に朝廷と中央軍には根回しが
終わっていた。おそらく、費イ、姜維、董允、馬忠、ケ芝、呉壱あたり
までは根回しが済んでいたのではないだろうか。
>>518 >歴史というのは結果論だからね。ifはない。
>それが魏延の破滅の大きな要因となった。これが歴史に起きた結果だ(と俺は判断する)。
この辺に繋がりの悪さを感じるのだが。
「魏延は諸葛亮の下で活躍したが、諸葛亮の死後、滅んだ」これは歴史の中の結果だが
「だから、魏延は諸葛亮の下でしか存立しえなかったのだ」
これを主張するのに「歴史というのは結果論だから」というのはミスリードだろう。
それと、諸葛亮の「意思」についてだが、
>漢中丞相府ではなく、成都とのコミットが大きい蒋エンを選んだと言うことは、
言ってる意味がちょっと分からん。蒋エンは丞相府の留府長史だろう。
俺が「諸葛亮の意思は?」と聞いたのは
もし魏延の「反逆」が当然の帰結だとするならば、
諸葛亮がそれをいくらか予想し、対策も講じていたはずだから。
魏延がとりあえずは撤退命令に従っていたらどうだったか。
「歴史にifはない」とする立場ならこれを議論する必要はないかも知れないが、
もし「魏延の破滅は当然だった」とするなら、これも議論する余地があるんじゃないか。
とりあえず撤退し、しかし漢中の守将として成都からしてみれば「目の上のタンコブ」となる。
ここで果たして呉懿のような立ち位置になるのか、あるいは緊張関係になるのか。
緊張関係になった時、どのような結果が待ち受けるのか。
俺は、魏延が望んだような(しかし本心は分からない。陳寿が作文しているだけ)
「諸葛亮死後に魏延がその仕事を引き継ぐ」ようになった可能性は低いとは思うが、
しかしだからと言ってすぐさま魏延が破滅せざるを得ないような状況でもなかったと考える。
姜維は費イの同格か格下。
魏延は蒋エンより一回り以上格上。
状況が180度近く違う。
個人の持つ「資格」と、そこから生まれる影響力というのは、
当時の政治に於いて大きな比重を占めた。
特に遠隔地ではしばしば官位序列によっては制御できないため、
「君権を代行する使者による監察」という考えが発達した。
個人の持つ「資格」を重視する考えは逆に官制にまで流れ込み、
諸大将軍のように任務は据え置きのままで「資格の深い者には大を加える」
という職まである。
楊儀の件はそこまで断言できない。
蒋エンの後継者就任は、丞相府の成都への帰還と、
行丞相事左将軍向朗への権限委譲に伴う規模縮小、
皇帝直属への属官回収などと平行して行われたと思われるから
そんなに事前の根回しがなくとも、丞相府属員の反発は少なかっただろう。
(蒋エンが後継者と言っても、費イ、姜維らを初めから大将軍の属員にしたりしたわけではない)
楊儀が人望溢れる人間だったら別の展開があっただろうけど。
>>527 >「だから、魏延は諸葛亮の下でしか存立しえなかったのだ」
>もし魏延の「反逆」が当然の帰結だとするならば、
そんなこと言ってないので問題ない。
歴史の事件が起きるのは「当然」なのではない。
起きた事件の要因を説明するのが歴史の仕事だというだけ。
530 :
528:2010/05/02(日) 17:18:16 0
「資格」じゃなかった。単に「資」だね
531 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 17:31:02 0
魏延は官位は高かったが、
政治を司るようなことはなかったと思うよ。
政治に関与できないということは、大規模な軍事行動も
できない。兵を集め、遠征の段取りをするのは政治の仕事
だから。皇帝と有力な政治家の支持なくして、魏延の北伐
司令官はあり得ない。
>>529 >>512 >魏延の傲慢さが、決定的な問題とならなかったのは、諸葛亮という重石があったからで、
>それが無くなったのなら、滅びるのは当然の帰結だったともいえる。魏延の身から出たさびだな。
これは別の人か?
>諸葛亮が死んで、後継者候補には比較的若い世代しかいなくなった。
>それが魏延の破滅の大きな要因となった。これが歴史に起きた結果だ(と俺は判断する)。
いや、これも同じこと言ってるでしょ。「諸葛亮が死んだ『から』魏延が破滅した」って。
それとも「当然」の定義についての議論からしなくちゃいけないのだろうか。
それと、俺は諸葛亮の「意思」(意志じゃないよ)についても聞いているんだけどな。
もし諸葛亮が後継に任じた蒋エンらと魏延との対立が不可避としか予測されないならば
それについて諸葛亮が対策を講じているはずだし、魏延の破滅は諸葛亮の計画とも推測されていく。
それの可否にまで言及してしかるべきだと思うんだけど、そこには口を噤んでいるように見える。
>>528 呉懿だって「一回り以上格上」だと思うけどな。
魏延、呉懿の問題以前に、蒋エンが軽いから。
権力関係は時代時代で変わっていくわけで、魏延が生き残っていれば新たな権力のバランスが構築されるだけ。
魏延が漢中を抑えていようが、蒋エンが尚書令、そして大将軍・録尚書事として政権を握れば
魏延だって好き勝手は出来ない。まして彼には人望がないんだし。
もちろん、費イ・姜維とそっくりの関係にはならなかったろうが。
533 :
512:2010/05/02(日) 17:44:19 0
>>532 それは俺だな。違う人だわ。俺は522以降発言していない。
534 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 18:08:53 0
そもそも魏延は北伐論者とは言えない。
劉備時代から第一次北伐直前までは専守防衛に徹し、
とくに北伐を主張する言動の記録はない。
魏延の献策は、あくまでも諸葛亮の北伐という枠組みでの作戦
でしかない。姜維の北伐は宮廷を牛耳る陳シが認めていたから
可能だった。政治面でのバックアップがないと不可能。
魏延が北伐を主張して抑えが効かなくなる可能性は低い。有力政治家
とパイプのない魏延には北伐主導は不可能。王平伝を見ると、漢中の
兵力は守備兵全体で3万弱。例え魏延が漢中に全権をふるえたとしても、
遠征に投入できる兵力はせいぜい1万前後。大規模な北伐は中央軍を
掌握してないと不可能だろう。
李厳が失脚してなかったら話はややこしかっただろう。
李厳は劉備に後事を託された一人だし、諸葛亮に次ぐ地位だった。
諸葛亮と朝廷との間で後継は蒋エンと決まっていても、政治的摩擦は
避けられなかったかもしれない。
>>532 >それと、俺は諸葛亮の「意思」(意志じゃないよ)についても聞いているんだけどな。
>>518で答えた。
蒋エンは諸葛亮不在の成都丞相府を代行していた。
首都の行政実務を実質上取り仕切る地位だったわけだ。
呉懿と比べているが、
>>497に呉懿に当てはまる特徴はいくつある?
「もしも」、魏延が呉懿と同様な、上司批判や独断専行を行う危険の無い人間だったら、
そのように周囲に看做されていなかったら、諸葛亮の遺言や楊儀・費イの撤退計画にも
もっと参与できたし、その後穏便に漢中府を任せられた「かもしれない」。
だが史実の魏延の性格はそうではなかった。それだけのこと。
北伐。議題が混乱しているね。
魏延は漢中都督の座を争って敗れたわけじゃないから。
「丞相府の人間は先に帰れ。俺は残って諸軍を統率する」と言ったのが問題なんだ。
動員十万と言われる北伐軍の大半を、魏延がそのまま掌握し続ける。
仮に魏延が北伐論者ではないとしても、魏延に掌握された「漢中」が(魏延は事がうまく進めば
本拠を漢中に定めるだろうので)文人の制御を拒絶する危惧はぬぐえない。
というか現に拒絶してしまったわけだ。
「新たな権力のバランスが構築されるだけ」。うん、歴史を見る人間にはただそれだけのことだ。
だが当事者にとっては座視できない問題だ。楊儀は「新たな権力」の主導者になりたいと思っているわけだから、
楊儀は諸軍の同意を取って魏延に無許可で全軍撤収を開始した。幕府の属員たちも皆協力した。
李厳が失脚していなかったら、普通に後継者になるだけ。
李厳なら魏延を抑える見込みもあるから、その身は逆に安泰になる。
李厳と言えば、不思議なのは、劉備死後尚書令と言う政権ナンバー2の官位を与えられたのに、
すぐに尚書令を解任されて、仮節・光禄勲・都郷侯と栄誉ある地位を与えられたものの、
政治の実権からは遠い地位に置かれた事。まさか、光禄勲が尚書令より重い地位と言う事も無いし、
これは左遷ではないか?その後、前将軍を経てようやく驃騎将軍に昇進して、
ナンバー2にふさわしい官位を与えられるが、ナンバー2なのに尚書令解任から驃騎将軍就任まで、
官位が軽すぎる。李厳の六年間の雌伏が不思議だ。
中都護はどうやらそんなに重い資格ではないようだし。
537 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 19:42:12 0
李厳の次に尚書令になったのは誰?
>>537 陳震(と考えられる。間に記録の漏れがある可能性はある)
>>536 諸葛亮が、李厳との二頭体制になるのを嫌ったからだろうねえ。しかもかなり徹底的に。
その間、永安を鎮撫し、前将軍となり、江州に大城を築き、東方を統属下に置くという
重い任を与えられてはいるが、託孤の際の「諸葛亮の副」という役割には全然及ばないだろう。
「統内外軍事」だから左遷どころか尚書令よりずっと重要な地位に就いたんだと思うんだがな
>中都護はどうやらそんなに重い資格ではないようだし。
と思った根拠が知りたい
540 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 20:01:08 0
李厳が尚書令に任命されたとはいえ、
実態は永安・江州鎮撫。諸葛亮が生徒にいるので、
あんまり政務とは関係なかったのでは?
諸葛亮が丞相時代はさほど尚書令がさほど重みを感じない。
尚書令が重みがあったのは、劉備時代の法正と蒋エン・費イ時代
だけでは?
>>539 んにゃ、李厳の中都護と尚書令はほぼ同時。
尚書令は詔勅・上表を管理掌握する。
中都護は軍部全体の管理(訴訟や人事など)を掌握したと考えられる。
劉備の委託の時点では、李厳は丞相録尚書事諸葛亮の政事軍事両面に渡る「副」だった。
しかし永安から成都に帰還できず、官位通りの職責を果たせたかどうか疑問で、
225年ごろに尚書令の職も正式に奪われている、というわけ。
(都護は据え置き)。
陳震が尚書令になったのは建興三年に尚書になって以降
少なくともそれまでは李厳が尚書令だったんじゃないのかねえ
そもそも解任された、左遷されたという認識が誤ってるんじゃないか?
>>536 >劉備死後尚書令と言う政権ナンバー2の官位を与えられたのに、
李厳が尚書令になったのは劉備の生前。
劉備が東征に失敗して永安に戻ってきて、そこで呉との外交をやることになった。
ちょうど劉巴が死んだ(成都で?)ので、李厳を後任にしたってだけ。
馬良が生きていたら馬良かも知れないし、陳震が側にいたら陳震だったかも知れない。
いずれにせよ、ピンチヒッター的な役割だろう。
>>535 >漢中丞相府ではなく、成都とのコミットが大きい蒋エンを選んだと言うことは、
結局、蒋エンはどこにいるというのがそちらの主張なんだ?
それに
>>518の主張では、諸葛亮は「皇帝の権威」で魏延を抑えようとした、と言っているように読めるが
それは、「格が違う」「年齢が違う」ということで魏延を制御不能とするそちらの意見とは違うよね。
諸葛亮が間違っていたという認識なの?
>呉懿と比べているが、
>>497に呉懿に当てはまる特徴はいくつある?
呉懿も経験のある将軍であり、名門の家柄であり、外戚である。
つまり、客観的要因では大差ないよ。
違うと言えば、それは正史で指摘されるように「性格」なわけで。
となると、「格」「年齢」を持ち出した議論は適当ではなくなるだろう。
>文人の制御を拒絶する危惧はぬぐえない。
これは呉懿だってそうでしょ。
>仮に魏延が北伐論者ではないとしても、魏延に掌握された「漢中」が(魏延は事がうまく進めば
>本拠を漢中に定めるだろうので)文人の制御を拒絶する危惧はぬぐえない。
>というか現に拒絶してしまったわけだ。
いやいや、だから、これは撤退時のゴタゴタだろう。北伐軍の中での主導権争いにすぎない。
いざ蒋エン政権が発足して、そこでどうなるかって話をしてるんだよ。
>>541 >しかし永安から成都に帰還できず、官位通りの職責を果たせたかどうか疑問で、
>225年ごろに尚書令の職も正式に奪われている、というわけ。
劉備が死んだ時点で尚書令は解任だろう。
在外尚書令なんてあり得るんだろうか。
>>540 >諸葛亮が丞相時代はさほど尚書令がさほど重みを感じない。
これは蜀に限ったことじゃない。
尚書令より尚書僕射が実権を握ってる場合もあるし、吏部尚書が強いこともある。
もちろん中書監・中書令・侍中も無視できない。
諸葛亮幕府同様に李厳幕府を重慶で開かせてくれという要求が常にあった。
それを許す諸葛亮ではない。
しかし政敵の粛清はあくまでも法の精神にのっとって行うのが彼のやりかた。
馬謖を斬った刀があればこそ李厳も葬り去ることができたのだった。
>>543 >結局、蒋エンはどこにいるというのがそちらの主張なんだ?
いつの時点の話?
>いやいや、だから、これは撤退時のゴタゴタだろう。北伐軍の中での主導権争いにすぎない。
では、徹底時のごたごたについては
>>536の意見でよいこととして、
「諸葛亮の意思」について。
>それは、「格が違う」「年齢が違う」ということで魏延を制御不能とするそちらの意見とは違うよね。
楊儀にしろ誰にしろ、残された丞相府属員では「格が違う」「年齢が違う」ので魏延を制御できないし、
事実諸葛亮の死後にそうなった。
ただし、成都に職務上の権限と人脈があり、丞相府留府長史で実務手腕に優れ、
立場上劉禅(及び董允ら有力内朝官)と日頃から接触していた蒋エンならば、
「皇帝の権威を有効に活用できる」ので魏延以下を制御する見込みがあっただろう。
それが
>>518で示した「諸葛亮の意思」の推論。
魏延はそれを知らずに死んだわけだから意味がないけど。
呉懿は、蜀を定める前からの劉備の旧臣ではない。
つまり「新参には好き勝手やらせん」という意識が芽生えにくい。
しかも外戚。つまり現在の地位は皇帝の権威に強く依拠するものであるため、
皇帝から離れて独断専行の危険はむしろ少ない。宮中が政争で割れていれば別だけど。
「自分自身の」功績に強い自負を持つ魏延とは対極の存在。
>>544 本来ありえないかもしれない。が、
・章武二年,先主徴嚴詣永安宮,拜尚書令.
・三年,先主疾病,嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主;以嚴為中都護,統内外軍事,留鎮永安.
・先主病篤,託孤於丞相亮,尚書令李嚴為副.
だから、託孤を受けた時点で李厳は尚書令。少なくとも尚書令から中都護に遷ったわけではない。
李厳の中都護は中外の軍事を統べると言うわりには、
実際に李厳が任された仕事は永安や江州の管轄。
実際の官位は光禄勲から前将軍を経てようやく驃騎将軍に昇進して、
名実ともにナンバー2にふさわしい地位に。
李厳が名実ともに蜀のナンバー2になったのは、
驃騎将軍になった時で、それ以前は託孤の臣であるにも関わらず、
冷遇されていたのではないかと思う。
あのさ。
なぜ劉備が永安で死んだのかわかるか?
>>549 成都に帰る気力が無かったからだろ。
呉に備えるならしかるべき将軍に大軍預けて置いておけばいい。
むしろ成都に戻れなかったんじゃないのか?
家に入れてもられなかった。
かーちゃんの呉皇后がこわかったので
家宰も呼んで永安に立て篭もったんですねわかります
劉備の生前から劉禅補佐の諸葛亮を中心とした幕府体制は既に始まっていた。
支配域は蜀な。
だからこそ劉備の「不肖ならば、きみよろしくとってかわれ」ですよ。
これは現状追認です。
一方で劉備も巴を中心にした統治を行っていた。
李厳はそれを引き継いだんだよ。
だから蜀を管轄する諸葛亮、巴を管轄する李厳。
二人に後のことを託したんだろ?
554 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 21:59:22 0
>>548 李厳が永安で鎮撫に当たっていたころは、
対呉敗戦直後であり、緊張した状態であった。
呉との同盟関係が軌道に乗ってから江州に陣営を
移している。
219年の漢中攻防戦以降は北方はほとんど戦闘がない。
諸葛亮が北伐開始をするまでは比較的平穏だった。
222〜226年頃までは対呉方面の方が気がかりだったのだ。
呉との同盟関係が順調になり、曹真が漢中侵攻に及んで
李厳を漢中にこさせている。北方の戦線が重要になったから。
219〜227年くらいまであ魏延は特に戦闘らしい戦闘はしていない。
北伐時代に比べるとかなり重要度が低い感じがする。劉備が漢中督
に張飛を任用しなかったのも重要度からも当然だったのかも。
>>546 >いつの時点の話?
蒋エンの居所に関してはこちらに読み間違いの部分があった。すまない。
>では、徹底時のごたごたについては
>>536の意見でよいこととして、
なぜ
>>536なんだ?
誤記か?
>それが
>>518で示した「諸葛亮の意思」の推論。
つまり諸葛亮は、皇帝の権威を活用した蒋エンならば魏延を制御できると思っていた。
というのがそちらの推論。
それに同意見なの?
それともその見立ては間違っていたと言いたいの?
繰り返しになるが、撤退時のゴタゴタではなく、
おそらく漢中督となる魏延と、成都の蒋エンの政権の両立が可能かというのが当初の議論だろう。
>呉懿は、蜀を定める前からの劉備の旧臣ではない。
蜀を定める…っていつだよ。
>「新参には好き勝手やらせん」
蒋エンは新参ではないだろう。
>しかも外戚。つまり現在の地位は皇帝の権威に強く依拠するものであるため、
>皇帝から離れて独断専行の危険はむしろ少ない。宮中が政争で割れていれば別だけど。
外戚であることをかさに着て独断専行なんていくらでもあるだろう。
>「自分自身の」功績に強い自負を持つ魏延とは対極の存在。
これって結局、「格」でも「年齢」でもなく、性格の問題ってことじゃん。
>>553 待て待て。「劉備の生前から諸葛亮を中心とした幕府体制は既に始まっていた」というならある程度言えるだろうが、
「諸葛亮が劉禅を補佐して」「劉備も巴を中心にした統治を行っていた」というのが東征の時期を示すならば、
それは一年半程度、その後諸葛亮は永安に呼び寄せられて、劉備の命令系統と一本化している。
劉備の巴蜀治世全体と比べてあまりに短い。それで現状追認云々は言い過ぎ。
劉備死後に巴-蜀の分割統治が行われたというのはいいと思うけどね。
蜀全体を把握できないうちに東征を開始したのだから(劉章のころから支配できてたのは蜀の一部だけだったらしいじゃん?)
負け犬将軍劉備が成都に戻れなかったのはたしかだろう?
>>554 呉との関係は劉備存命時にもある程度修復されていた。
李厳が江州に移るのは、呉との関係ではなくて、諸葛亮の漢中出陣に対応して。
中央の有事、あるいは漢中との連携に備えるということだろう。
>北伐時代に比べるとかなり重要度が低い感じがする。劉備が漢中督
>に張飛を任用しなかったのも重要度からも当然だったのかも。
張飛を重要視するからこそ、漢中に配さなかったということ?
だが、任命された時の魏延の発言からも分かるように、主たる任務は防衛なのだから
結果として戦乱がなかったからといって漢中の地位が軽かったということはないだろう。
>>556 釣りじゃないのか?w
>>では、徹底時のごたごたについては
>>536の意見でよいこととして、
>なぜ
>>536なんだ?
>誤記か?
すまん、
>>535 >蒋エンは新参ではないだろう。
>外戚であることをかさに着て独断専行なんていくらでもあるだろう。
ちょっと言い方が拙かった。少なくとも呉懿は蒋エンより遅い参入ってこと。
それから、漢の外戚が権力を振るうには、制度上、皇帝または臨朝皇太后の
信任を必須とする。この場合は成都からの制御に都合のいい存在。
>それともその見立ては間違っていたと言いたいの?
間違っていたかどうかなんてわからないよ。だって魏延はその前に死んだから。
それでも魏延は暴走したかもしれないし、漢中都督で大人しくしたかもしれないし、
兵力を奪われて驃騎将軍辺りで余生を送ったかもしれない。
言えるのは「諸葛亮の判断は理に適う」ってことまでだ。
>>558 呉との関係修復後も長らく李厳は永安に駐留してた事になるけど、
それはなぜ?ケ芝の派遣による完全和解後も李厳は永安にいるよね。
ぶっちゃけ、ナンバー2とは名ばかりで、
諸葛亮の独裁体制には一緒に後事を託された李厳が邪魔だから、
国境に左遷されてたんじゃないかと。
確かなことがひとつある。
魏延は私利私欲で動いたのではなく、蜀という国家の未来、故劉備への忠によって行動した。ってことだ。
魏延はもっとほめられてよい。
>>560 諸葛亮との関係で言えば、李厳の処置は権力から離す「左遷」だろうが、
巴の政治的重要性で言えば「左遷」の一言で収まるほど小さくないってことだね。
対呉外交・軍事だけではなくて実質の巴都督として機能していたのだから。
>>561 全権掌握した丞相が死んだ後に副総司令官が遠征軍全軍の掌握を望むのは絶対に国のためにならない
>>559 >少なくとも呉懿は蒋エンより遅い参入ってこと。
これは苦しいと思うけどな。
蒋エンは劉備時代はペーペーだよ。
>間違っていたかどうかなんてわからないよ。だって魏延はその前に死んだから。
>それでも魏延は暴走したかもしれないし、漢中都督で大人しくしたかもしれないし、
>兵力を奪われて驃騎将軍辺りで余生を送ったかもしれない。
>言えるのは「諸葛亮の判断は理に適う」ってことまでだ。
この可能性を議論していたんだと思ったが…
>>550 手紙見る限り突然の死だからだけどな
「ロクに病気もしたことなかったし今回のもちょっと腹壊しただけかと思ったらもう死ぬぽ」って感じ
気力も野望もあって荊州狙って延々と永安に居座ってたけど成都に戻る体力もなくなる程の大病に罹って死亡
>>565 劉備が永安に戻ったのは222年の8-10月頃。
12月には病気を知った黄元が叛乱し、
翌年2月に諸葛亮が呼び寄せられ、
死んだのは4月。
>>562 結局、李厳は重要な職務だから永安に置かれたのか、
それとも重要な職務だけど権力からは切り離す意味で永安に置かれたのか良く分からないね。
劉備から後を託されたってことは、副丞相的な役割を期待されたと思うんだけど、
そういう人物が地方に置かれたなら、どんな重要な役目でも後を託された人物に与える役目じゃないね。
>>567 地方におくことを低く見すぎじゃないか?
いくら修好しつつあったとはいえ交戦したばかりの対呉方面に置かれたというのは副丞相だからこそ、と考えた方がいいと思うが
>>569 首都鎮守と遠征軍総司令をナンバー1と2で分けるのはよくあるが、
諸葛亮は自分が北伐しても李厳を成都に戻したりはしなかった。
これが「共に権限を分担すべきナンバー2」に対するものならば、ひどい冷遇だろう。
元々、丞相録尚書事と尚書令中都護では格にかなりの差があるわけではあるけど。
まあ、李厳の永安駐留が、劉備による詫孤の目論見に相応しくない不当な処遇だったかどうかは難しい問題だが、
李厳が「ナンバー2」に相応しい権限を繰り返し求めたことと、諸葛亮がそれを拒絶し続けたことは確かだ。
>>570 そうなんだよね。李厳が政権ナンバー2なら、諸葛亮が成都を空けて遠征する時は、
成都で代わりに政務を取り仕切るべき立場なんだよね。
でも、諸葛亮不在時に成都で政務を取り仕切ったのは諸葛亮の置いた人間。
明らかに権力から遠ざけられている。
東晋では地方の司令官が中央に召還されることを喜ばなかったし、
李厳は巴州設置を進言していたりもする。
遠ざけられていたとは思わないな。
李厳が漢中に入った時なんかは、息子をわざわざその名代に任命してるんだし。
晋の「地方司令官」というのは、州都督+高位将軍+刺史+持節という絶大な権力を持って軍閥化し得たのだから、戻りたくないのは当たり前。
李厳は当初将軍でも刺史ですらもなく、巴三郡全域にどこまで軍事権限があったのかも明瞭ではなく、蜀漢の政治権力は成都に集中していた。
両者の権勢は比べ物にならない。
だから李厳は権限を強化するために巴州設置を求めたが、諸葛亮はそれすらも拒否した。
懐柔策として諸葛亮は李豊を江州都督に任じた。
>>573 >李厳は当初将軍でも刺史ですらもなく、
将軍だったろ。それとも輔漢将軍の位は剥奪されたという認識なのだろうか。
そして蜀漢が益州1州のみしか支配していないことを考えれば
州都督や刺史に地位にいないことは問題ではないだろう。
中都護として長江流域に権限を及ばしたことは推察される。
少なくとも、巴東郡と巴郡は管轄下だったろう。
>蜀漢の政治権力は成都に集中していた。
しかしでは成都に李厳以上の権力を握った者は諸葛亮以外にいたかと言えば、いないだろう。
>だから李厳は権限を強化するために巴州設置を求めたが、諸葛亮はそれすらも拒否した。
「それすら」とは言えないと思う。
結局、蜀の時代を通して州の分割はなかったのだし。
刺史ではないというのは、郡県の民政を監督する権限がないということで、
李厳の監督権限は軍事に限定されたことになる。
ましてや、兵戸が確認できない蜀漢だから、魏と違って兵力の供給源を掌握したのは郡県と考えられる。
李厳の都護は魏の都督諸軍事のような直接的な権能とは言い難い。
中央朝廷に所属していれば、魏の中護軍のように人事考課に大きな力を振るった可能性もあるが…。
これは「中央にいない尚書令にどれだけ権限があるのか?」と同じ問題だね。
>将軍だったろ。それとも輔漢将軍の位は剥奪されたという認識なのだろうか。
うん。劉禅時代に入ってから「都護」「尚書令」としか呼ばれていないからね。
>中都護として長江流域に権限を及ばしたことは推察される。
江州に遷った後なら、護軍陳到を統属しているように、その可能性は高いだろう。
李厳の地位と権限が段階的に強化されていくのは認める。
>しかしでは成都に李厳以上の権力を握った者は諸葛亮以外にいたかと言えば、いないだろう。
いないね。当時の蜀漢は諸葛亮の巨大な丞相府に強大な権限が集中していたわけだから。
李厳は序列としては「ナンバー2」であるが、詫孤の臣としては余りにも隔たりが大きすぎるナンバー2だ。
>>575 >詫孤の臣としては余りにも隔たりが大きすぎるナンバー2だ。
ここの見方の違いなのだろうか。「詫孤の臣」に重きを置き過ぎというか。
当時からすれば当たり前の「隔たり」だったんじゃないの?
劉備の生前に長きに渡ってその幕府を取り仕切っていた諸葛亮との「隔たり」は当然だと思う。
李厳は太守を長く勤め、朝政を預かったのはわずかな時期。
以下、妄想だが、楊洪あたりが永安にいたら、同様に詫孤の臣になっていたかも知れないと考える。
>うん。劉禅時代に入ってから「都護」「尚書令」としか呼ばれていないからね。
蜀の都護の職掌はハッキリしないが、監察権だけで、指揮権はもたなかったという見方?
賛同しがたいな。
>中央朝廷に所属していれば、魏の中護軍のように人事考課に大きな力を振るった可能性もあるが…。
これは結局、ナンバー2の仕事がなにかってことなんじゃないだろうか。
曹操の時代、留府長史には色々な人間がなっているが、彼らがナンバー2だとは言い難い。
もちろん、洛陽、許都、ギョウと重要拠点が点在していたという事実があるとは言え。
蜀においては、例えば、録尚書事と侍中の兼任のようなものを想像する人もいるかも知れないが
俺からすると、それは巨大な権限に過ぎるように思う。
李厳がナンバー2だとはしても、「そこまでのナンバー2」ではないという意見。
>当時からすれば当たり前の「隔たり」だったんじゃないの?
>>541でも
>>570でもそれと似たようなことを言ったけど、それが当時の「当たり前」だと言うなら、
あなたの意見との差異はそんなにないね。
諸葛亮と、法正・劉巴死後の繰り上げ尚書令とは本来大きな格の差がある。李厳は「副」にすぎない。
ただし、伝統的に「託孤の臣」というのは、非常に大きな存在。
先帝のお墨付きによって自動的に高い権威を持ち、新しい皇帝も遠慮せねばならない相手だった。
「託孤の臣」は普通は複数で、中央政権を分掌した。
にも拘らず、李厳は数年間中都護に過ぎず、成都の政治に預かれず、驃騎将軍になっても開府も許されなかった。
曹叡の許で陳羣に次ぐ席だった司馬懿と自分を比べているのが象徴的で、
「託孤の臣」「臣下ナンバー2」のはずの自分の現実の権限に、李厳自身が不満だったのは間違いないだろう。
>蜀の都護の職掌はハッキリしないが、監察権だけで、指揮権はもたなかったという見方?
東方に有事があれば李厳に指揮権が与えられただろうが、それはあくまで有事の話になるだろう。漢の刺史や曹操の護軍と同じだね。
諸軍に対して中央から独立した軍令権を平時から持ったのはこの時代では「督」「都督」の権限。李厳の場合は督江州がそれ。
「中都護・督江州」の官位からでは巴三郡全域の郡兵を動かす権限を持っていたとは考え難い。
>>577 李厳も実質上は督江州に過ぎず、結局、後の督江州ケ芝と同程度の権限しか持ってなかったわけだ。
政権ナンバー2で託孤の臣にしては、あまりの冷遇だな。
督江州の重要さを考えると、重鎮が就くべきポストとは言え、
本来中央で諸葛亮の次席重臣として政務に参与すべき李厳に与えるポストでは無いな。
579 :
世界@名無史さん:2010/05/03(月) 06:16:43 0
永安の鎮撫にあたれと命じたのは劉備じゃなかった?
諸葛亮には国を奪ってもよいとまで言っている。その諸葛亮にとって
李厳が邪魔になるような地位になれるわけないじゃん。諸葛亮に全権委任
する方針は、劉備の方針だよ。
ケ芝は車騎将軍になってから督江州になったけど、李厳は前将軍の時には
江州から永安あたりまで指揮していた。小国の蜀にとっては重責を任された
とおもってよい。
>>579 諸葛亮が劉備に絶対的権限を委譲されて後を託されたとか。。
そんなのは後付けじゃないのかな?
諸葛亮がほぼ全権を掌握した状況を後の人がみて「ありゃ、先主が信頼してすべてを託したんだよ、良く期待にこたえたし。」って。
つか。むしろ出師の表なんかで諸葛亮自身がそういうことをいってるじゃないか!って意見もあるだろうけども、ありゃああいうことを書いて自分の立ちイチの正統さを蜀内で確認する作業が必要だったってことじゃないか?
「わざわざ出兵かよ。それも大掛かりな。。丞相って常勝でもないし。。」って反対意見もあったんでしょ?
劉禅だってわざわざ出師の表で「亡き先帝からおまえのこともふくめてこの私にすべてまかせるから!って言われてるんだぞ。かってなことするなよぼうや。」って釘を刺さないといけなかった。
劉備亡き後の主導権争いは実は生前から始まっていたのであり、ほうようとかりょう立とかが排除されていった過程がそれ。
劉備死去時点でも李厳なんて実力者がいた。
ほかにもライバルはいたはずだよ。
そんなにすんなり諸葛亮=後継者って路線が定まっていたとは思えないな。
>>580 >諸葛亮が劉備に絶対的権限を委譲されて後を託されたとか。。
>そんなのは後付けじゃないのかな?
諸葛亮は劉備の生前から丞相・録尚書事・假節。
絶対的権限を委譲されたと考える方が自然だと思うけど。
このスレって妄想を書くスレなの?
>>580 ケ芝が督江州になった時は前将軍。その前は中央軍の前監軍。
重職だがナンバー2というわけではない。
車騎将軍に昇進したのは、督江州になったから10年以上経ってから。
当時の督永安は不明だし、東の守りはケ芝が担当していたと史書にあるので、
おそらくケ芝の管轄は李厳と同じく江州から永安あたりまで。
また、李厳は劉備死後、尚書令を解かれて、仮節と実権の伴わない中都護の職を授けられたものの、
尚書令より実権の少ない九卿の光禄勲から、やはり九卿相当の前将軍に遷る。
これは諸葛亮と並んで後事を託された託孤の臣としては、あまりに官位が低過ぎる。
また、督江州は重責だが、ナンバー2で先君から後事を託された人物のする仕事では無いな。
驃騎将軍になって官位の上ではようやく本来の地位にふさわしいものになったが、
成都で諸葛亮北伐中の国政を代わりに代行したり、
諸葛亮に次ぐ重臣として朝廷で国政に携わったり、
諸葛亮の代わりに軍を率いて北伐を指揮したりなど、
本来ナンバー2が担うべき仕事はまったく任されていない。
督江州は重責だが、託孤の臣で尚書令だった人物がする仕事じゃない。
李厳は諸葛亮とともに国政を執る事を期待されて、尚書令に任命されたのだろうから。
>>582 劉備はおそらく、自分の死後は諸葛亮に国政を完全に委ねる事を考え、
その補佐役として国政に参与させるべく、李厳を尚書令として、
諸葛亮とともに後事を託したのだろう。
結局、李厳は政治の中枢から遠ざけられ、尚書令を解かれた後は、
官位も長い間九卿クラスのまま据え置かれ、最後にようやく官位だけは諸葛亮に次ぐものになったが。
>>584 >仮節と実権の伴わない中都護の職を授けられたものの、
中都護が実権を伴わないという根拠はあるの?
最近、都護や護軍の職掌を分析して、将軍位より重いと主張している人が出没してるけど。
>尚書令より実権の少ない九卿の光禄勲から
尚書令を重視しすぎでは?
魏晋では中書の方が上。要は時の権力関係でどうとでも変わるだろう。
まして李厳は劉備が永安駐屯時に、劉巴の死に応じて任命されていて、臨時の意味合いも強い。
>これは諸葛亮と並んで後事を託された託孤の臣としては、あまりに官位が低過ぎる。
諸葛亮と「並んで」というところが主観的じゃないだろうか。
>督江州は重責だが、託孤の臣で尚書令だった人物がする仕事じゃない。
これも主観に感じられてならない。
>李厳は諸葛亮とともに国政を執る事を期待されて、尚書令に任命されたのだろうから。
>その補佐役として国政に参与させるべく、李厳を尚書令として、
それなら劉備がそう遺命するでしょ。
実際には李厳は永安の鎮守にあたるわけで、これが劉備の意思から外れていたとは思えない。
>諸葛亮の代わりに軍を率いて北伐を指揮したりなど、
>本来ナンバー2が担うべき仕事はまったく任されていない。
諸葛亮でも李厳でもない誰かが北伐していたなら話は別だが
諸葛亮しか北伐していない以上、これは言いがかり。
第一、曹真の侵入に合わせて漢中に後詰として入り、そののちには兵站担当。
十分にナンバー2としての職務だと思うんだけど。
>官位も長い間九卿クラスのまま据え置かれ、最後にようやく官位だけは諸葛亮に次ぐものになったが。
李厳より上が諸葛亮だけなら何の問題もないんじゃない?
廖立なんかは自分がナンバー2になれずに李厳の下に置かれたことが不満だったみたいだけど。
586 :
世界@名無史さん:2010/05/03(月) 14:47:59 0
諸葛亮が蜀の最高権力者になれたのは、諸葛亮より高位の連中が軒並み戦死、暗殺、病死してしまったからだろ。
暗殺って誰よ?
戦死も分からん
589 :
世界@名無史さん:2010/05/03(月) 15:34:20 0
関羽は荊州で戦死。
張飛は部下に暗殺。
劉備、法正、馬超、ホウ統は病死。
黄忠は老衰。
ホウ統も戦死だった
「諸葛亮より高位の」って言うから訊ねたんだが・・・
>>585 中都護は内外の軍事を統べるとあるが、
李厳の軍権は永安や江州にしか及ばず、
実際に内外の軍事を統べていたのは諸葛亮。
中都護と言う官位に実権が無いのは明白。
諸葛謹は軍事的功績一度も立ててないのに、なんで将軍職を歴任し、大将軍になったんだろう?
最初が長史・中司馬と文官スタートで、役割的にも孫権のよき相談役だったから、
そのまま文官コース歩んでいけば良かったのに。
相談役として適任な諸葛謹を、孫権がなぜ不向きな将軍として起用し続け、
功績も無いのに昇進させたのか良く分からない。
昇進させたければ文官として昇進させれば良かったのに。
関羽の北上開始って、どうも単独行動という感が否めない。
他の将軍との連携が全く取れてない気がする。
後背に置いてきたのは反感バリバリの奴らばっかだったし、
関羽軍の数的にも、あんな進撃の苛烈さにはかなりの無理がある。
かといって孟達たち援軍の動きも悪くて、やられるべくしてやられちゃった。
といういか孟達や劉封はあんな大規模な戦いなら初めから参加しても良さそうなもんだけど。
この北上って、本当に劉備本営の考えなの?この連携の悪さは
劉備が漢中を取ったことで、関羽がチャンスだと勝手に行動を起こしちゃったのを
劉備達がそれに合わせる形で後手後手に対処してたんじゃないの?
>中都護は内外の軍事を統べるとあるが、
それは違うんじゃないか?
以嚴為中都護,統內外軍事,留鎮永安。
それに
>李厳の軍権は永安や江州にしか及ばず、
これって「実権の伴わない中都護」という主張と矛盾するように思うが。
>実際に内外の軍事を統べていたのは諸葛亮。
その根拠はあるの?
例えば李厳の管轄領域に諸葛亮はどれほど干渉できたと思う?
その根拠となるような記述があるのだろうか。
>>593 地方の司令官は自分の側近あがりを置きたかったんだろ。
諸葛瑾とか歩騭と朱桓とか。
>>593 まあ司馬懿だって単独で軍を率いた経験は孟達戦からだし。
袁紹は官渡の戦いで負けたせいで滅びた
と聞きますが
なぜ一回の対戦だけで衰退していったのでしょうか
袁紹は圧倒的な兵力をもちながら何故ウソウを落とされたのでしょうか・・・
>>598 官渡だけでほろびたんじゃないよ。
でも官渡以前は袁紹が圧倒的有利とされていた。世間的にも。
それが曹操の方が有利になったってことでしょ?
昨今の国政選挙でもそうだけど、勝ち馬にいっせいに乗るからね、諸勢力は。
>>596 歩隲と朱桓とかはまだ分かるんだよ。武勲があるから。
しかし、明らかに武勲のない諸葛瑾を将軍として起用し続けて、
大将軍にまでして大軍預けた理由が分からない。
明らかに向いてない事何度もやらせるのは人事が上手な孫権にしては、
例外のような気がする。
>>598 官渡の戦いで負けた後も袁紹の勢力は健在。衰退もしてない。
失われた戦力を補充する時間さえ与えられれば、袁紹はまた南下しただろう。
袁氏の衰退は、袁紹が曹操と再戦する前に死んでしまい、
後継者問題で領土と家臣団が分裂したことに始まる。
それでも袁氏の勢力は強大で、滅ぼすまで曹操は七年もかけているが。
あと、鳥巣に駐屯していた兵力は1万。曹操が奇襲した時に率いていた兵力は5千。
奇襲なら、覆せない戦力差ではない。その間、袁紹の圧倒的な兵力は二手に分かれ、
曹操の本営攻略と鳥巣救援に向かっていたが、どちらも間に合わなかった。
たしかに諸葛瑾に軍事的才能があったのかもしれないけど、そういう証拠が無いよね。
>>600 孫権は魯粛の後任に厳シュンを起用しようとしただろ。
それと諸葛瑾が軍事に向いていないとは言い切れない。
関羽の討伐に参加して将軍位と県侯の位を与えられてるから、武勲もあったのかも知れない。
>>593では中司馬を文官としているが、これは武官だろう。
孫権の直下で軍を束ね、その仕事ぶりが評価されていたのかも知れない。
呉録の記事では、はなばなしい勲功は無かったが兵を損なわず領土を守った、とある。
こういう武将も必要だろう。
諸葛瑾だと荊州の統治がうまくいっただろうなぁ
曹操のやった鳥巣奇襲てのは非常に難しく危険な賭けであって、日本でいうなら信長の桶狭間奇襲に似てる。
むしろ失敗例も多くて賤ヶ岳の佐久間盛政とか小牧長久手の池田勝入斎なんかがそうだけど、はなばなしく全滅してしかも本軍も撤退せざる得ない状況になるのだ。
成功させた曹操の勘というかセンスというか、すげぇよ!
>>中司馬を文官としているが、これは武官だろう。
そのとおりだね!
司馬は機甲部隊の長官みたいなものだよね?
兵糧が奪われたら退くことすら難しくなるから
そのまま曹操の本営を攻撃するわけにはいかなかったんですね
それで大敗北したのか
ありがとうございました
ちなみに中入り戦法という。
大相撲でよく言うだろ? 中入り後の勝敗がどうたらこうたら。。
全然?関係ないけど。
>>607 大敗北ではなくて撤退せざるえない状況になるってこと。
そこにつけ込んで追い打ちで大勝利に持ってゆくのが曹操のえらさだよ!
つか。
大勝利でもなかったと思うんだけどな。
大攻勢にでてきた河北軍を引き上げさせた、ばんざーい!って感じではなかったかな?
赤壁みたいなかんじかな?
>>600 その場合でいう「武勲」、当時のいう「武功」というのは、やや短絡的に言えば、価値の低いものと看做されていたから。
まともな朝廷が機能している時代は、直接兵を指揮するのを専業にするような武人が武功によって昇進できるのは
せいぜい中級指揮官辺りまでだった。
(優れた騎兵戦能力が必要な対匈奴戦は別だったようだけど)
しかし乱世になって武功を挙げる機会が爆発的に増えると、これを積み重ねて高位に昇る者もでてくる。
後漢末のいわゆる武将たちとか、光武帝の雲台二十八将の多くとか。
しかし、乱世が落ち着いて朝廷の機能が回復してくると、大局的な視野と政治感覚、監督能力を持つ
武将たちの上位に戻ってくる。
呉はまだしも武功が重んじられた国だったが、諸葛瑾は中華本来の将軍に近い特徴を持った人物だと言えるだろう。
ちなみに諸葛瑾は孫権の長史から中司馬を歴任しているので、将軍になるまでに軍事を十分経験している。
>>603 厳シュンを起用しようとした理由も謎なんだよな。
まあ、あの時の荊州には込み入った事情があるから、
軍事的才能より政治的調整能力ある人間置いときたかったんだろうけど。
軍事に向いてないとははっきり言い切れる。
何度も出兵したけど、一度も戦果をあげた事が無い。
功績があったなら、功績があったと伝記に明記されるはず。
はなばなしい勲功は無かったが兵を損なわず領土を守ったというのは、
単なる消極的な用兵に苦しい弁護してるだけだ。
将軍府の司馬は名目上は武官職だが、実質は補佐官。
荀ケも曹操に仕えた時の最初の官職は司馬だが、兵は率いてないし、完全な補佐官扱い。
>>610 しかし、諸葛瑾以外の呉の高位の将軍は、皆それなりの武功があるんだよね。
それに加えて大局的な視野と政治感覚、監督能力を持っている。
諸葛瑾だけが軍歴だけは重ねてきてるけど、功績が無い。
>>612 人間の集団だからそのくらいの幅があるのは当たり前だよ
世兵制の関係じゃないのん>諸葛瑾
信頼できる人間に余った兵士の軍権を預けたかったとかそんな感じ。
陸そん、呂蒙。あの辺は江南の有力氏族なんだよな。
有能な臣下だったけど孫権にとっては煙たかっただろうな。
そのあたり諸葛瑾 なんかそういう出身じゃないし、まじめくんだし、孫権のお気に入りだったんだよな。
>>614さんのいってることが正解かも。
>>611 軍事の中で、出兵して戦果を挙げるなんて一番最後の部分だよ。
現代でいえば職業軍人の戦闘部隊の仕事。
当時の軍官は、現代の制服軍人の任よりさらに広い範囲の仕事を恒常的に監督せねばならなかった。
>>615 呂蒙は全然違うよw 本人は歩卒上がり。
周瑜の死後、孫権は一時、呂蒙、蒋欽、周泰など、元々学もコネもなかった武人を信頼する小飼にして派遣し、
諸将を監督させる政策を取ったことがある。
陸遜の世代以降は世兵の第二世代に高官が占められる。
諸葛瑾はその狭間にある世代とは言えるね。
車騎将軍から呉王になって、官僚機構が編成される時期、
孫権にとっての「信頼する側近」の質が変わっていたのだろう。
>>614 信頼できる人間に軍権を与えて体制を強化するだけなら、
要衝の守りや首都の防衛を任せればいいと思うんだけど。
勝てないのにわざわざ軍事行動に起用する必要は無いと思うんだけど。
>>616 じゃあ、諸葛瑾は出兵なんかしないで、向いてない戦闘部隊の仕事もしないで、
後方からさらに広い範囲の仕事を恒常的に監督してれば良かったのに。
>>611 >はなばなしい勲功は無かったが兵を損なわず領土を守ったというのは、
>単なる消極的な用兵に苦しい弁護してるだけだ。
そんなのはお前の勝手な言い分だろうw
吳錄曰:曹真﹑夏侯尚等圍朱然於江陵,又分據中州,瑾以大兵為之救援.
瑾性弘緩,推道理,任計畫,無應卒倚伏之術,兵久不解,權以此望之.
及春水生,潘璋等作水城於上流,瑾進攻浮橋,真等退走.
「雖無大勳,亦以全師保境為功.」
大勲は無かったが、軍を保ち防衛に成功したことが功績とされた。
要衝の指揮官としては、失点が少ないというのもポイントじゃないの?
>将軍府の司馬は名目上は武官職だが、実質は補佐官。
軍事の補佐官、だろ。
>荀ケも曹操に仕えた時の最初の官職は司馬だが、兵は率いてないし、
どうしてそう言えるんだよ。
>>615 呂蒙は有力氏族でない上に、江北の出身じゃなかったか?
>>618 >じゃあ、諸葛瑾は出兵なんかしないで、向いてない戦闘部隊の仕事もしないで、
曹魏にだって、攻めには強いけど守って負けたり、守りには強いけど攻めて負けたりの将軍がいるじゃないか。
>>618 荊州占領の時に呂蒙に従って後方に兵を充填してるところは要衝を守ってることにはならんの?
事跡無くとも兵の存在だけで抑止や糧道確保の面で重要な役割にはなるぜ。
>>619 大軍を率いて救援しに行ったのに、何もせずに敵が撤退するの待ってただけじゃん。
江陵の中の連中が頑張っただけで、諸葛瑾は大軍率いてたのに何もしてないじゃないか。
何もしなけりゃ、そりゃ軍も保てるさ。江陵の連中が力尽きてたら、この用兵はどう評価されてたのかね?
結果として敵が撤退したから、諸葛瑾も救援ご苦労さん的な意味で功績とされたんじゃないかね?
司馬は将軍府では「こいつ明らかに文官か参謀だろ?」って奴が任命される場合が多いよ。
軍事の補佐官とはいっても兵は率いない。参謀か軍務の処理の補佐。
荀ケは完全に曹操の参謀として活動してるし、
エン州反乱の時も留守を預かっていたものの兵は率いておらず、
責任者として指示を出したり交渉したりしてるけど、防衛は指揮してない。
残った三城の防衛は各城の守備兵にゆだねてるし、
荀ケのいる城は東郡太守夏侯惇を呼びよせて守っている。
>>620 だから、ずっと要衝を守ったり、抑止や糧道確保に徹してれば良かったんだ。
荀ケは兵站担当だもんね
>>621 >江陵の連中が力尽きてたら、この用兵はどう評価されてたのかね?
いや、力尽きてないからw
だから諸葛瑾の判断は正しかったとして手柄と認められたわけだ。
こんなこと言い出したら、あらゆる戦果を疑問視し、
あらゆる武将を批判することが出来てしまうだろう。
>>621 呉の偏将軍だった潘璋の司馬の馬忠は文官かね?
>司馬は将軍府では「こいつ明らかに文官か参謀だろ?」って奴が任命される場合が多いよ。
だからそもそもの、文官や参謀に対する認識が間違ってるんだろ。
>>624 この時の江陵はかなりヤバい状況で、落城寸前のところまで追い詰められたところを、
朱然たちがなんとか持ちこたえたんだよ。落城しなかったのは奇跡としか言いようが無い状況。
だからこそ、江陵を守り抜いた朱然の勇名は鳴り響いた。
その間、諸葛瑾は何してた?大軍率いて傍観してただけじゃん?
包囲軍が強力でまともにぶつかったらやばいと判断して戦わなかったにせよ、
それならそれで計略を立てるとかしても良かったのに、何もしなかった。
判断が正しかったと認められたのは、結果として江陵が落ちずに、
諸葛瑾が何もしなかったから大軍に損害も出なかった。ただそれだけの事に過ぎない。
朱然の功績のおこぼれをもらったようなものだよ。本来褒められるような事じゃない。
>>625 下級指揮官としての司馬と、将軍の属官としての司馬は違う。
馬忠は潘璋の下の下級指揮官。
将軍の属官として参謀役や事務処理に当たった人は、
数が多過ぎるからいちいち列挙しないけど。
小説の北方三国志では
朱然が守る城は魏の最重要目標だと呉が気付いていた
魏は何方かに別れて進軍してたんだよね?
でも、狙いは朱然が守る城ただ一つ
諸葛謹は囮の魏軍にまどわされなかっただけのことじゃないの?
だから無用な戦闘はひかえた
無知な素人の考えです。
>>622 一体どういう軍事組織を想像してるんだ。
昔の光栄三国志みたいな武将一人が1万人の1ユニットを率いてばらばらに攻撃するみたいな?
地域の都督や高位将軍が総司令官として戦域の総指揮を取って戦争を遂行する。
そういう辺り前の事をこの時代の誰もがやっていただけだよ?
>>626 >包囲軍が強力でまともにぶつかったらやばいと判断して戦わなかったにせよ、
>それならそれで計略を立てるとかしても良かったのに、何もしなかった。
こんなの勝手な推測だろ。
何もしなかった?アホかよ。
>>627 >馬忠は潘璋の下の下級指揮官。
根拠はあるの?
そもそも将軍の下にあって軍務を処理していたのなら
武官でないとは言えない。
そっちの言い分では「兵を率いる」と「軍務」は乖離したものらしいが。
諸葛瑾「私は朱然を信じるぞ。助けなぞ無用だ。」
632 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 01:49:44 0
黄権がいれば、恐らく費イの後ぐらいには丞相になっていただろう。
惜しいことをした。
蒋エンって史実ではどんな評価なんですか?
634 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 10:08:36 0
>>632 蒋エンの前の間違いでしょ。
たぶん、黄権は年齢的には費イよりかなり上だよ。
もしかしたら諸葛亮より年上かもしれない。
黄権がその後も蜀にいたら、李厳を無理して副にしなくても
よかっただろう。諸葛亮との信頼関係もあるし、益州の士人対策にも
なる。政治・軍事両面でも良き補佐役になっただろうね。
>>633 諸葛亮の亡き後、
よく国を全うしたという評価だね。
賢明な宰相という評価と思って良い。
ただ、物語的には面白みがないので、
『三国志演義』では、ほとんど無視された存在。
黄権がいればと仮定するなら、馬良がいたらどうなってたか。
この人、評判だけはいいよね。
636 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 10:41:10 0
age
黄権、魏に降ってからは鎮南将軍として側近になってるよね。
側近なのに鎮南将軍はおかしいよね?
それから益州刺史と河南尹を兼任して、車騎将軍に昇進してる。
魏での黄権は完全な官位だけ高い窓際の名誉職しか与えられてないように感じるけど、
河南尹は河南を統治する要職だよね?
ということは、普通に魏でも実務に携わってて、
その功績で車騎将軍まで昇進できたということか。
皇帝の側近や河南尹ってことは、仕事があったことになるからね。
>>635 劉備の生前に既に侍中だから、夷陵で死なずに、
劉巴が死んだ後も生きてれば、李厳の代わりに尚書令になれたんじゃないの?
諸葛亮との親密さを考えても、諸葛亮体制下でも重用されて、
漢中の丞相諸葛亮、成都の尚書令馬良という体制で北伐に臨めたのでは。
中央政界での実績が蜀科制定しか無くて、あとは輔漢将軍と言う高位の将軍とはいえ、
政治的には地方の一太守に過ぎなかった李厳よりは尚書令にふさわしいし、
人格的にも諸葛亮にとっては使いやすいだろうから、
ナンバー2ながら敬遠されていた李厳とは違って、良い諸葛亮の片腕になれたと思う。
639 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 17:00:33 0
その後も存命なら、馬良は出世したとは思う。
ただ、侍中になっても、寥立みたく閑職に移され、その後に
放逐された人間もいるし、郭攸之みたく員数合わせの人も
いる。馬良はイマイチ実績がわからない。
その点、黄権は実力がはっきりしているし、
益州の士人対策にもなる。諸葛亮との個人的関係も良好。
魏の文帝や司馬懿が感心するほどの人物。蜀は惜しい
人材を失った。劉備が馬忠に初めて面会した時、黄権を
引き合いに出したところを見ると、その無念さがわかる。
比較された馬忠はその後大活躍。
>>639 諸葛亮との親密な関係を考えれば、
信用できる馬良が閑職に移される事は無いと思うな。
出世街道驀進じゃね?
黄権が降伏しなかったら、どれぐらいの地位にまで行けたかね?
李厳は地方の都督で終わって、代わりに黄権が諸大将軍や車騎将軍までいけたかもしれんね。
641 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 17:25:56 0
>>640 諸葛亮存命中なら黄権は驃騎将軍くらいまでは昇進したのでは?
諸葛亮死去後まで存命なら、大将軍とか大司馬まで昇進したかも。
>>639 馬良は諸葛亮と関係の深い人物。義兄弟であったと推察もされる。
また、失点の目立つ廖立とも異なる。
黄権の実力は疑いなしだが、朝政に参与したかどうか。
643 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 17:42:21 0
馬謖も軍事に参与してなければ、
それなりに名声を残したかもな。
黄権ってなんでそんなに実力が認められてるんですか?
645 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 19:00:24 0
漢中攻略の基本戦略を立案したからだろ。
>>641 諸葛亮在世中に驃騎将軍なら、李厳と同じコースを歩んで、
同じような起用法されたのかな?
諸葛亮死後に生きてたら、確実に大将軍・録尚書事ぐらいにはなれたな。
黄権に匹敵する経歴の持ち主が李厳ぐらいしかいないが、
黄権がいるなら李厳は地方の抑えに回されただろうから。
>>644 漢中戦での功績と仕えた主君すべてに信任された人柄と人望と、
高い戦略的見識と実務能力。
647 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 20:30:31 0
寥立が出世できなかったのは、
長沙太守の時に敵前逃亡したから?
敵前逃亡ぐらいいいじゃん。軍人じゃないんだから。
>>647 長沙太守の時に敵前逃亡した後、侍中に昇進してるんだが。
劉備死後左遷されたのは、諸葛亮が制御できない人間で、
なおかつ諸葛亮体制に不満を抱いているけど、
それに目をつぶって使い続けるほど能力のある人間では無かったから。
劉備にしか使いこなせない人材ってのがあったんだよな
黄権伝を読んで、黄権が魏で河南尹という要職を任されてる事に驚いた。
普通は高位の投降者なんて、高い官位と爵位を与えて飼い殺しがデフォだと思うんだが。
黄権には、飼い殺しにしておくにはもったいないと思わせるほどの能力と評価があったんだろうか?
ただの投降者として厚遇するだけでなく、魏のために仕事を与えて働かせるべきと魏の朝廷は考えたんだろうか?
黄権が河南尹を任された理由を知りたい。
>>650 蜀書はそういう人材のオンパレードだぞ。
654 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 22:13:04 0
逃亡の罪は問われず、
漢中王の側近になったのだから、
寵遇と言ってよいのでは?
馬良は劉備が皇帝即位してから侍中に
なってるから、寥立と馬良は同時期に侍中
になったのかな?
>>653 太守よりははるかに要職だから、昇進じゃね?
馬ショクが小山に陣取ってしまって魏軍に水路を絶たれ大敗しましたが
なぜ魏延はその後方に陣取らされてたんですか?
馬ショクと一緒にいさせればよかったのではないでしょうか
そういえば黄権が河南尹になったってどこに書いてあるの?
俺見つけられないんだけど、原文でお願い
後領益州刺史徙占河南
黄権でなければ河南尹と解釈して疑わないところだね
後領益州刺史,徙占河南
>>658 やっぱそれか
「占」には「自分の居所とする」という意味がある
つまり「領益州刺史になったが、(益州に赴任することはできないので)河南に移住してそこを居所とした」という意味になる
そもそも「占」に官位を移る、昇進する、といった意味は無いようだし
また「徙」も通常「場所を変える」の意味だ
「徙」には左遷の意味もあるようだが、万が一それだとしても益州刺史から河南尹は左遷だったことになる
つまり、「益州刺史と河南尹を兼任して」「河南尹は河南を統治する要職」「普通に魏でも実務に携わって」というのは誤読から生まれた誤解ということ
黄権は任地が無い益州刺史に任命されただけで実権のある職務は与えられてないということにしかならない
車騎将軍も功績によるものとはちょっと思いがたい
終生洛陽にいたと考えられる人物が、河南に「徙占」するのはおかしいね
「徙」は移る、移動する、の意味で、地方官の異動には普通に使われる言葉。
これだけでは左遷を示さない。
それから、仮に黄権が河南尹に任じられていたとしても、実権があったかどうかは当然別の問題。
それは
>>657の問いと
>>658-659の回答の主旨ではない。
>>594 地形的に益州は他の州から要害で隔てられていて孤立している感じ。
逆に言えば荊州の関羽がいた場所はこの益州から孤立していた。
連絡が不備なのも仕方ないんじゃないかな。
664 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 10:48:46 0
蜀は漢中を攻略したばかりで、
再度魏軍が漢中に侵入してくる可能性があった。
関羽敗死の情報を聞いてもすぐには軍事行動はできない。
しかも三峡の出口は呉軍に抑えられてただろう。
それと関羽が後方守備兵を攻撃に投入したり、他の荊州
の士人と不和で業務に支障があるという事まで把握していな
かったかも。
ホウ統が生きてれば
諸葛亮が関羽のサポートをできたのにね・・
>>664 そんな時期なのになんで関羽は魏に攻め込んだのかなぁって。
完全に勇み足じゃん。並の勇みじゃなかったから魏全体が大混乱だったけどw
667 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 12:31:25 0
関羽の北伐は漢中方面から魏軍を引き離す為の作戦だったのでは?
それが予想外の戦果に調子に乗りすぎたというか・・・・・・・・・・
関羽単独で大征服なんて想定してなかったと思う。
>>665 その場合はホウ統がそのまま益州に留まって劉備の補佐役を務め、
諸葛亮が荊州に残って政治を担当したと思う。
>>666 >>667 当時の魏の情勢を考えると、内部がゴタゴタしてて漢中再遠征どころではない。
逆に劉備は曹操を破り、意気上がっている。大して戦力も消耗していない。
関羽の北上は、実は単独の作戦ではなく、しばらくしたら劉備も漢中から、
北上する予定があってのではないかという気がする。
関羽の戦力単独で北上はどう考えても危険すぎる。
669 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 15:42:51 0
>>668 諸葛亮が荊州に留まることはなかったと思うよ。
ホウ統戦死前に益州に呼び寄せているから。新領土統治には
諸葛亮の政治能力は必須。だからこそ呼び寄せたのだ。
単なる増援だけなら、張飛・趙雲だけで十分なはず。
671 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 17:50:35 0
荊州は領土といっても、
実質は江陵中心の南郡くらいだからなあ。
益州が国の根幹になる。だから統治の為に諸葛亮を呼び寄せた。
南郡だけなら関羽に任せよいという判断だったのだろう。
守備に徹している間は関羽は無難に防衛していた。
>>655 >太守よりははるかに要職だから、昇進じゃね?
形の上ではそうなんだけど、実権のある職から引き離したのかなって気もする。
劉備は王宮に籠ってるタイプじゃないし、侍中なんて、かつての簡雍みたいな「話し相手」なんじゃないか?
まぁそれは重要ではあるんだけど。
673 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 19:03:44 0
諸葛亮伝を読むと、
劉備が荊州南部を領有した後、諸葛亮が
長沙・桂陽・零陵を治めたと記録されている。
武陵ははぶかれてるんだよな。
蛮人天国だったのかな?
長沙・桂陽は呉に返還しているので、実質は南郡と零陵
を支配していただけかもしれない。関羽総督時代の零陵
の統治はどうなってたかも不明。
>>671 でも、軍事的には魏と呉の両方に備えなければならない要衝だ。
関羽は政治センスや戦略眼が怪しいから、関羽一人に任せず、
信頼できる副将や参謀を送るべきだったと思う。
能力のある武将と文官を荊州に残さず、
根こそぎ益州に連れて行き、関羽の補佐役を置かなかったのは失敗だったな。
>>672 侍中は殿中の奏事を司り、枢機に参与する重職。
ただの皇帝の話し相手じゃなくて、国政に参与する要職。
一郡の太守よりはるかに実権は大きい。
>>673 劉備は武陵を降しているから、武陵だけ諸葛亮以外の別の人物が統治してたんだと思う。
武陵は異民族が多いから、軍事も統治もできる人物を特別に置いたんじゃないかな?
だから、関羽が荊州総督になってからも劉備陣営は武陵を統治してたと思う。
諸葛亮やホウ統などなどの人たちって
司馬キに教えられて傑物になったんですか?
なら司馬キって何者?
どうやって諸葛亮らのことを傑物だと見抜いたのかな?
676 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 20:02:11 0
>>674 そんだけ蜀は人材不足だったんだよ。
ホウ統は戦死してしまうし、策謀は見るべきものがあっても、
法正は恨みを抱いた人に恣意的に権力で報復する人だった。
劉備がいなかったら、法正も自滅していたタイプだよ。
黄権とかは誠実な人間だけど、流石に降伏して間もない人を
要地の荊州は任せられない。劉備陣営の人材では、益州を統治するので
精一杯だったのだろう。
677 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 20:14:16 0
侍中の定員て何人?
>>676 新しく益州で加えた益州の官吏をそのまま起用すれば、
荊州から人材を根こそぎ連れて行かなくても、
益州統治に必要な人材は十分に確保できたと思うのだが。
副将なら益州攻略で新たに将軍号を得た古参の将軍か荊州出身の将軍を置けばいいし、
荊州統治には荊州から連れてった人材を何人か戻せばいい。
益州を攻略して益州の人材を傘下に加えて、
荊州の人材を根こそぎ益州に連れて行って、
益州には人材があふれているはずなのに、
それを少しも荊州に回さなかったのは不可解だ。
趙雲や荊州出身の李厳あたりが荊州にいれば、少しは変わったと思うのだが。
>>674 実権という言葉がまずければ、実務かな。
国政に参与するといっても、実務はなくて要は意見具申じゃないの?
>>677 ちくまの巻末の職官表だと4名だったはず。
だけど、魏の曹丕の時代は入れ替わりが激しくて、5人いる時期もあるようにも思えるし
蜀、また漢中王の時代に何人いたかは分からない。
枢機に預かると言えば、将軍号を与えられていた糜竺以下のあの連中はどうなったんだろう。
>>678 荊州にも人材はいたけど、歴史に名を残さなかっただけかもよ?
馮習とか張南とか、夷陵の戦いで初めて目にするような高官が他にもいたのかもしれない。
>>673 その記述から、劉備は武陵を支配していなかった、呉が支配していたと言う人もいる。
黄蓋の没年や武陵太守になった時期が不明なことが色々と絡んでる。
俺も一時期かなり考え、該当箇所を読み込んだが、なんとも言えない。
呉書見聞サイトのBBSでも議論になっていたので、それを見るのも有意義かも知れない。
680 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 21:59:18 0
馬良が武陵の五渓蛮を見方に引き入れ工作してる。
呉も蜀も直接統治していたとは言い難い気がする。
筑摩書房の正史三国志の付録の地図見ると、色々な
蛮族の名前が書いてある。統治していたとしても、
幾つかの街だけだろう。
漢人が多く居住してたのは臨沅くらいじゃないかな?
確か寥立は臨沅出身。零陵は黄蓋の他、蜀の重臣である
蒋エン、劉敏、頼恭なんかの出身地。それなりに漢人が
住んでいたと思う。
>>679 殿中の奏儀を司るのは立派な実務。
皇帝のそばにあって、国政に関する意思決定の会議に参加して、
意見を言うのも立派な実務。
ただの意見具申するだけの顧問ではなくて、
国政の意思決定に参与するメンバー。
>>681 やっぱり言葉の感覚の違いがある気がする。
俺からすると、皇帝がNOと言えば終わってしまうわけだから
実権や実務という言葉から遠い地位に思えるんだよね。
権限がないわけだから。
それを軽く見ているわけではないよ。
晋で賈充と対立した任トは、賈充サイドの工作にあって
侍中から太子少傅に、さらに吏部尚書に「左遷」された。
実務は増えたが、皇帝との謁見の機会が激減し、影響力を失った。
吏部尚書なんて権力の中枢のイメージなんだけどね。
劉備からすると「廖立は現場に立たせるには危なっかしいが
アイデアを出させるだけなら問題がない、最終判断は俺がするから」
という感じだったんじゃないか、という印象を俺は持ってる。
まぁ印象だから、反論があっておかしくないけど。
>>680 魏晋の王業も武陵の出身。
五渓蛮の存在はあるけど、支配領域はある程度はあるんだから
当然太守も置いたと思う。
>漢人が多く居住してたのは臨沅くらいじゃないかな?
県が設置されたのは漢人が住んでいた場所じゃないの?
異民族が多いところは県じゃなくて「道」を置くんだっけ?
>>682 どんな実務と権限のある官職でも、皇帝がNOと言えば終わってしまうことに変わりはない。
あと、皇帝と国政について直接議論したり意見を言ったり諮問に答えたりするのは、
皇帝を中心に回っている帝国では立派な実務であり、絶大な権限。
あと、蜀において侍中の国政における権限は尚書令に次いで、
皇帝でさえ一目置かざるを得ない重職だった。
劉備時代の廖立は押しも押されぬ重臣。
だからこそ、劉備死後、李厳より地位が下になることに不満を持った。
>>683 曹操が劉表配下の劉先を武陵太守に任命しているし、
荊州降伏後は金旋を太守に任命していて、
後に金旋は劉備の攻撃を受けて殺されているから、
後漢末の武陵の領有権は劉表→曹操→劉備と移っていて、
実効支配も行われていたと思う。
実効支配出来ない土地に劉備がわざわざ攻め込んで、
太守を殺すとも思えないし。
侍中というのは、皇帝が接する文書を取り扱い(省尚書事)、
専門知識を以って決断と情報を制御することができる役職。
後漢では中常侍と共に側近の双璧をなした。
権臣が皇帝との繋がりを維持する場合にも抑える事が必須の職であり、
曹操にとっての荀ケ、諸葛亮にとっての費イ・董允、姜維にとっての陳祇が
これを果たした。
魏の四征四鎮将軍の人事を見ていると、
地方の刺史や中央の官僚から任命された人物が多く、
軍歴はあまり重視されてないように思います。
軍人上がりの将軍出身の四征四鎮将軍というのはほとんどいません。
せいぜい、地方官で将軍号も帯びていた人物が任命されるぐらいです。
魏の四征四鎮将軍は方面軍司令官なのに、
軍事能力より政治能力が重視されたのですか?
魏の四征四鎮将軍に軍事能力のある人物がいても、
だいたいは政治能力も兼ね備え、
地方官として業績のあった人物で、軍事能力はおまけのように思います。
孟達って正史でも名将なんですか?
>>684 >どんな実務と権限のある官職でも、皇帝がNOと言えば終わってしまうことに変わりはない。
そうなんだけど、現場の人間に命令を伝達するには時間がかかるでしょ?
>あと、蜀において侍中の国政における権限は尚書令に次いで、
>皇帝でさえ一目置かざるを得ない重職だった。
これは劉禅の時代。
>だからこそ、劉備死後、李厳より地位が下になることに不満を持った。
でもそれに対する諸葛亮のコメントを見ると、李厳>廖立で当然、という認識があるように思う。
ところでここで、「李厳でさえ卿になっておらぬのだから」とあるけど
これって九卿待遇ってことなんだろうか?
>>689 荊州南部から独自に北上して魏の房陵郡を陥してるから、超名将と主張する人がいてもおかしくなかったりして。
>そうなんだけど、現場の人間に命令を伝達するには時間がかかるでしょ?
特に皇帝という地位は儀礼と警護の分厚い壁に阻まれていて、情報の出入力に手間隙がかかる。
その分厚い壁のもっとも内側、皇帝の隣にいるのが侍中という職。
>特に皇帝という地位は儀礼と警護の分厚い壁に阻まれていて、情報の出入力に手間隙がかかる。
孫権や司馬炎を見る限り、こんな認識はないなぁ。
曹叡なら分かるけど。
>>689 数少ない戦績を見る限り有能な武将とは思うけど、
名将というほど輝かしい武勲や戦歴は無い。
>>690 たいていの実務には皇帝は口を挟まないが、
たまに気まぐれを起こしてNOと言われたらおしまい。
特に国政の要職にある大臣や、都督クラスの将軍の場合、
皇帝が口をはさんでくる可能性が多いので、
その場合はいくら権限があっても皇帝のNOには逆らえない。
李厳>廖立で当然と諸葛亮は思っていたけど、
廖立はそう思ってなかったから不満を持ってたんだろ?
>ところでここで、「李厳でさえ卿になっておらぬのだから」とあるけど
>これって九卿待遇ってことなんだろうか?
九卿待遇でいいと思う。まあ、すぐに李厳は光禄勲に昇進して卿になってるんだけど。
でも、廖立が最初から九卿待遇を求めていたとは思えないな。
尚書令あたりになりたかったんじゃない?それがダメなら九卿になりたいって感じで。
>>693 権限だけじゃなくて、時間差の問題を言っているんだけどな。
侍中にポカはないけど、都督や太守にはあり得る。
実務に関わっているわけだし、それは違うと思っても、命令が届くのに時間がかかる。
ま、結局は劉備が廖立をどう思っていたかという想像の話なんだけど。
>廖立はそう思ってなかったから不満を持ってたんだろ?
そうだけど、侍中経験者だからといって優遇されるわけじゃないということ。
そこまで絶対的な地位ではない。
「三国志」しか知らない、と言われて「三国時代」の話だから、と切り返すような了見しか持たない人間は
歴史系板で偉そうに語るな。知識量以前の問題だ
>>695 廖立が李厳の下風に立ちたくなかったのは、
侍中だったからじゃなくて、性格と才能に対する自負の問題だろ。
廖立は「我こそが優遇されて国政を補佐すべき」と思ってたんだから。
あと、侍中はなまじ皇帝のそばにいる分、
皇帝の機嫌を損ねたり、変なことを言ったり、
間違った意見を言って、それが国政に影響したらポカになるよ。
皇帝の側近というのは、言いたいこと言って皇帝のそばにいれば失敗のない、
生易しい地位じゃないよ。
田豫は戦歴が古くて、北方異民族や呉との戦いで大功があっただけでなく、
郡太守や州刺史として高い統治能力を示したのに、
なぜ四征将軍になれなかったのだろう?
州刺史から四征将軍になると言うのはお決まりのコースだし、
政治能力と軍事能力を兼ね備えた田豫なら適任と思うのだが、
なぜ州刺史以上に進めずに中央に召還され、
衛尉という九卿の一つで格式は高い物の実権のない名誉職で終わったのだろうか?
やはり二度の讒言が効いたのかな?
それさえなければ田豫は征北将軍か征東将軍あたりになれたんだろうか?
四征というのは、時代によってずれはあるが、基本的に雍涼・荊豫・揚州の三方の前線と、河北の四ケ所の都督に与えられる将軍号。
(都督河北は名誉職的な地位だったかもしれない)
田豫の官位は、汝南太守・殄夷将軍都督青州諸軍事のあと、
使持節護匈奴中郎将・振威将軍・并州刺史。
四征級の最高官に次ぐ位置まで昇っている。十分だよ。
州刺史から都督になるのがお決まりコースなのではない。都督まで昇るのは刺史より遥かに狭き門なのだから。
都督になった者が多く刺史を経験しているというだけのこと。
昇進より早く老境が訪れれば、召喚されて公卿に栄転するのは普通のことなので別に不思議ではない。
もっと世渡りが上手ければ昇進も早くてその分もう少し上まで昇れたかもしれない? とはいえるかもしれないが。
>>702 劉備よりやや下の世代で、公孫サンの配下だった人物だから、
魏の時代にはもう相当な年だったのかもね。
でも、魏には70前後の歳で都督をやっていた
満寵や王凌や郭淮のような人物だっていたんだから、
田豫だって老境になってからの都督昇進はあって良かったと思うんだけどね。
陳寿も田豫が州刺史で終わったことをもったいないと評しているし。
個人としては州刺史→九卿は十分栄達した部類に入ると思うけど、
田豫の能力と功績ならもっと上に行けても良かったと思うんだ。
田豫が満寵や郭淮に劣るとは思えないんだ。
運がなかったのかね?世渡りが下手だったのかね?上に行くには年を取り過ぎていたのかね?
704 :
世界@名無史さん:2010/05/07(金) 20:15:38 0
>>700 諸葛亮は廖立をホウ統一と並び賞したからね。
なんでそんなに褒めたのか不明ではある。実績もイマイチだったし、
謀臣として活躍した訳でもない。まあ、本人も諸葛亮に次ぐ才能と
自負していた。
>>699 劉備について語っていたんだから、当然三国時代の皇帝の話を振っているのだと思ったが?
>>691には侍中とあってそれまでの話題に即しているし、一般的な皇帝の話題と思えなくて当然だと思うけどな。
まして意味不明なのが
>>694だw
>>700 もちろん生易しくはないけど、劉備の目が届くし、ポカとなるかどうかは劉備の決定しだい。
>>704 逆じゃないかな?
李厳より上か下かはともかくとして、
劉備にも諸葛亮にも高く評価されて侍中まで勤めた人物が、
劉禅即位に伴って急に長水校尉などという日常実務のない職に移ってしまう。
なぜか? と。
大した実績や活躍もなく抜擢されたようにみえるのはホウ統の軍師中郎将も同じ。
しかしそうではなくて、ホウ統も廖立も、平素から識見を示して名声もあり、
従事などとして劉備に仕えて実績を示していたから中郎将や太守という高官に任じられたわけだろう。
別に不明なことではない。
賈逵と冷苞ってどちらが優秀なのでしょうか
>>706 追加。
劉備政権に果たした役割、という点では、明らかに廖立より李厳の方が遥かに上。
だからこそ、法正・劉巴死後の繰り上がりとはいえ尚書令にまでなった。
その上託孤の臣となってしまったのだから、他の臣がこれを覆して李厳の上位に就くというのは
短期にはまず考えられない。
廖立が李厳の下に就いたことを快く思わずに不平をたらしたとするなら、先帝の遺志への不満の表明にもなる。
ただし、ここでは「李厳等の下」と複数形なのも問題。
廖立は「諸葛亮の次」という自負心が強く、李厳一人の下風に立つことへの不満に加えて、
「游散」の地位に左遷されて多くの人間の活躍を外から見ることになった境遇への怨みも覚えていた。
と、つまり廖立の不満は、李厳を厚遇するなどした先帝劉備の人事その他と、自分を左遷してろくでもない人間に運営されている
劉禅体制の、両方に向かっていることになり、李邵、蒋エンへの不穏な「立計」へと繋がる。
>>703 脛に傷持つ経歴だからよくないんじゃね?
元劉備配下ってのは運以前の問題だろ
しかも、曹魏における大派閥の頴川出身な陳羣と違って地元は幽州
ここまで揃えば運だけじゃあないでしょ
明帝時代になってから、地方に配置されていた曹一族の都督が死ぬと、
代わりに一族以外の武将が任命されるようになった。
夏侯尚死後の都督荊州諸軍事は二年空いて司馬懿。
曹休死後の都督揚州諸軍事は満寵。
曹真死後の都督雍涼諸軍事は司馬懿。
その後、魏において夏侯玄と夏侯儒以外、曹一族の都督が任命されることはなくなった。
軍においても、曹一族の将軍が主力の指揮官として戦うことはほとんどなくなった。
その代わり、曹一族は側近として起用されるようになり、
明帝が死に際に、当初は主要な側近と思われる燕王曹宇、領軍将軍夏侯献、
武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇、驍騎将軍秦朗など、
曹一族やそれに準ずる待遇を受けた人物らに後事を託そうとするほど重用していた。
曹操時代や文帝時代は曹一族は軍の主力や地方の都督として起用され、
明帝時代になると、軍の主力や地方の都督には曹一族ではなく、
異姓の武将が起用されるようになり、
曹一族は側近として権力を握るようになった。
文帝時代から明帝時代にかけて、曹一族が軍権から切り離され、
代わりに宮廷で権力を握るようになったのには何が理由で起きたのだろうか?
宮廷組織の整備と、曹叡時代の外敵の脅威の増加だろう。
他姓の四征将軍+都督の形式が整備されるのは、曹叡時代半ば以降。
>>306の通り、「皇帝の側近からの派遣」が刺史を経て都督へ昇っていくのもほぼ期を一とする。
つまり曹丕の時代は、対呉を中心とする最前線の地方軍権は、
大将軍やその予備軍級の同族曹氏の大物の権威によって支えられてきた。
(同族以外の都督は四方中郎将が任じられるなど地方集権が行われないこともあった。
この点、曹丕は漢代的な中央集権を一旦は目指したように見受けられる)
しかし、曹叡の時代になると、諸葛亮の北伐などに対抗するため、
州単位の現場での強い集権と組織力が必要になった。
そこで、四征級高官+都督という形式に他姓の専門家が任命されるようになった。
曹氏の重鎮は、中央宮廷から皇帝を支えて地方を制御し、有事の際に中軍を率いて
地方へ駆けつける……という形式が理想だったのだろうが、まもなく司馬懿のクーデターによって
曹氏の権限は失われてしまったので、その形式は定着することなく終わった。
>>711 仮に曹叡が当初予定していたメンバーに曹芳を補佐させて、
地方を異姓の将軍が抑えると言う構想が実現していたら、
歴史はどうなっただろうね?
曹爽以外の有力な曹氏が劉放と孫資のせいで失脚せず、
曹氏が宮廷で皇帝を支えて、地方の異姓の都督を制御すると言う体制が
確立していたら、曹爽の専横と司馬氏のクーデターによる曹氏の没落もなく、
魏は曹氏の補佐役に支えられて長続きしていたかね?
713 :
世界@名無史さん:2010/05/09(日) 14:48:04 0
蜀は何で西陵をしっかり固めて、
有力な家臣に治めさせんなかったのだろ?
西陵が押さえられていてら、例え江陵が呉に襲撃
されても、後に奪還も難事ではなかっただろう。
>>708 劉備在世中の李厳は輔漢将軍・犍為太守。反乱鎮圧の功により、
輔漢将軍という格式の高い将軍号を受けているものの、
李厳が外征に参加した記録はないので、
輔漢将軍という高い称号は戦功に対する報酬で、
高い格式を与えられたもののあくまで権限と役割は一郡の太守。
中央政権での活躍は蜀科平定の時しか無い。
一方、廖立は侍中。中央政権の要職で皇帝の側近のトップにして、
国政の枢機に参与する地位。
格式が高い将軍号を有していて格式だけは高いものの、
あくまで一郡を統治して一郡の兵を指揮する権限しかない過ぎない李厳と
皇帝の側近のトップである廖立では、
明らかに廖立の方が地位も劉備政権における重要度も上。
廖立が劉備に対して「自分の待遇が李厳らより悪い」と不満を抱く事などあり得ない。
廖立が不満を抱いたのは、劉備死後、既に皇帝の側近のトップであり、
諸葛遼に次ぐ地位に就き得る立場であり、またそうなるべきだと自負していたにも関わらず、
自分が諸葛亮に次ぐ地位を与えられず、九卿の地位を求めても拒絶され、閑職に移されたから。
あと、不思議なのは法正死後から諸葛亮時代にかけての尚書令、
劉巴、李厳、陳震のうち、劉巴、陳震は尚書からの昇進なのに、
李厳だけが将軍兼郡太守からの昇進であること。
尚書から選ぶのが筋だと思うのだが、なぜ何人もいる尚書を差し置いて、
郡太守の李厳が尚書令に選ばれたのだろうか?
劉巴が死んだ繰り上げで尚書令になったとはいえ、
尚書まで全員死んだわけじゃないのだから、
郡太守の李厳ではなく、尚書の中から適任者を選べばいいと思うのだが。
>>413 西陵は劉備が荊州を領有してた頃は、夷陵という地名だが。
荊州は関羽の担当だから、夷陵の守将も関羽の指揮下だったのだろう。
夷陵のような重要拠点は軍事能力だけの将に任せられないから、
劉備が適任な守将を派遣するとすれば、
文武両道の李厳、黄権、孟達あたりが適任だろうが、
孟達は前線の太守、黄権は劉備の腹心。
李厳は郡の統治の他に反乱を討伐するという役目がある。
能力的にも適任でなおかつ夷陵に動かせる有力な将がいない。
716 :
世界@名無史さん:2010/05/09(日) 15:56:29 0
結果的には三峡の出入り口を押さえられたのが後々まで響いた。
李厳の役割は太守どころの話ではない。
役職を越えた「政権有力者」格。
>>362
718 :
世界@名無史さん:2010/05/09(日) 16:16:57 0
>>717 漢中王推挙には、名声は高いけどさほど官位の高くない人物や
地位は高いがあの上奏文でしか名前を見かけない人物や、
政権有力者とは言えないレベルの地位の人物まで、
政権有力者に混じって名を連ねていて、
あのメンバーは劉備政権の有力者だけが名を連ねているわけでないことが分かる。
あのメンバーに李厳が名を連ねていても、それが政権有力者であることにはつながらない。
興業将軍という将軍号を李厳に与えたことに意味はないだろ。
他の雑号将軍と同じ。深読みしすぎ。
蜀科制定には加わってるけど、あとはずっと郡の統治や反乱鎮圧しかしてないね。
政権有力者ならもっと中央の政治に関与するか、
重要拠点の守備を任されてもいいと思うんだけど。
尚書令になる前の輔漢将軍の称号を保持する高位の将軍ではあるけど、
実質的な権力は他の郡太守と変わらんだろ?
上表文の名義は4つに分けられる。
馬超の「客人格」、許靖以下の「左将軍幕府内幹部」、諸葛亮以下の「外郭部最高幹部」「他一百余名」
そもそもこの時点で将軍号を持っているだけで劉備陣営の幹部級ということになるが、
うち、左将軍幕府の代表者は許靖、ホウ義ら。益州で名高い名士を劉備は自分の幕下に加えて
人心の安定を図ったことが読み取れる。
幕府外の名を見ると、劉備とは独立した幕府・権限を持っている最高幹部の筆頭が諸葛亮。
いわずもがなの関羽・張飛、大功を挙げて征西将軍になった黄忠、
劉備から劉禅初期の朝廷儀礼に大きな力を示したと考えられる頼恭に、法正、李厳と続く。
もちろん、これが有力者の全てではないが、それは名前が載っていることの価値を減じはしない。
将軍号は適当に付けられるものではないし、当時の劉備は特にその組織内での役割を示すと考えられる
名号を多く付けている。翊軍、秉忠、昭コ、副軍など。
劉備が漢中王を名乗るまで、部下達は臣下ではないし、法令上も劉備の指揮系統に入る存在ではなかった。
彼らは劉備の「股肱」「謀主「爪牙」「賓友」という個人的な繋がりによって集団を維持しており、
実態も、劉備を支持する者達の連合政権という面が強い。ここでは、将軍の名号も同じく政権内の役割を暗示している。
かれら幹部級の有力者は、一人一人が半独立した権威を持っていて、
李厳もまた、劉備に半は帰服しつつも、半ばは劉備を協賛する、さまざまな角度から「政権を支える」側の人間の一人だった。
蜀平定直後のケン為太守として法正や張飛と共に地方鎮撫を担う一角を占め、
「興業」という号を与えられたことは、それを強く示している。
横レスだが
>劉備が漢中王を名乗るまで、部下達は臣下ではないし、法令上も劉備の指揮系統に入る存在ではなかった。
それは実際的な関係を無視しているだろう。
>彼らは劉備の「股肱」「謀主「爪牙」「賓友」という個人的な繋がりによって集団を維持しており、
それこそ「臣下」と言い換えることが出来る。
>実態も、劉備を支持する者達の連合政権という面が強い。
劉備とその他の者の立場の差は明確。
将軍以下の武官の地位にしろ、太守の地位にしろ、左将軍なり行大司馬の劉備によって任命されたもの。
>ここでは、将軍の名号も同じく政権内の役割を暗示している。
秉忠、昭コの役割が分からない。
>かれら幹部級の有力者は、一人一人が半独立した権威を持っていて、
これはないよ。
劉表、劉ショウ、劉備と仕える相手を変えてきた、まして益州外部人の李厳にいったい何の権威があるのか。
あるとすれば、それは劉備から与えられたものしかない。
722 :
世界@名無史さん:2010/05/09(日) 19:15:21 0
李厳に権威があったか?
結論から言うとあまり無かったという答えが正しい。
まあ、功績があったのは事実ではあるけどね。
李厳の権威があるとしたら、それは崩御直前に諸葛亮の副に
指名されたことと、その後の諸葛亮の引き立てが権威の基であった。
陳震伝にあるように、郷里の人さえ近づけないと評されたように、
有能ではあっても、支持者がまるでいなかった。諸葛亮が荊州・益州
の双方の士人から支持されていたのとは大きな相違がある。
一番の後ろ盾だった諸葛亮に職務怠慢と虚言を糾弾されると、群臣の
中で支持するものは皆無だった。
諸葛亮が最大の後ろ盾で権威の源だったからこそ、
諸葛亮の死は李厳にとって官職に戻る機会が永久に去ったことを意味する。
他の群臣には李厳の支持者はいないのだから。
>>721 >それこそ「臣下」と言い換えることが出来る。
言えない。群雄が「君主」として立つときにそれまでの個人的な任侠関係から、官僚的君臣関係への質的変化が起きるとされる。
劉邦軍閥について最も言われることだけど、三国それぞれの創業者にも同種の個人的紐帯関係が認められている。
>劉表、劉ショウ、劉備と仕える相手を変えてきた、まして益州外部人の李厳にいったい何の権威があるのか。
当時、名声を挙げたり、部曲を擁して政治に就くことで、独自の求心力を持つ有力者がいた。豪傑、名士、英豪などと呼ばれる人物。
劉備がそのまさに代表格だった。
そして劉備ら群雄達は、中小の有力者を収攬することで大きな軍閥を築き、領域を実効支配するために有力者たちを内外に分散配置した。
むしろ多数を渡り歩きながら厚遇されている人物は、自分自身の独立した影響力・求心力に強く持っていることになる。
劉備と他の部下との間には、当然厳然とした上下関係があるよ。
しかし群雄勢力全体を維持しているのは、劉備の極一的支配力ではなく、もっと分散的なもの。
だから群雄は、自分の権威を確固たる法礼に保障されたものにするために、公王や帝位を求める。
724 :
世界@名無史さん:2010/05/09(日) 19:21:19 0
李厳・魏延・廖立・楊義の失敗の共通した特徴は、
尊大・狷介な性格な為に助けてくれる同僚が皆無だったこと。
そのことに本人が気がついていなかったこと。
劉備や諸葛亮という度量の大きい指導者がいて初めて
能力が発揮できる人間。そのことを本人に自覚が薄かったことが
身の破滅を招いた。
劉備生前の李厳には、有力者と言えるほどの権威は無かったな。
あくまで便利で使い勝手の良い部下。あまり大きな権限も与えられていない。
将軍として郡の兵士を指揮する権限と、太守として郡を統治する権限のみ。
それがどうしていきなり尚書令になり、
諸葛亮とともに託孤の臣になったのか不思議でならない。
劉備は李厳の何を見込んで託孤の臣としたのか?
有能な地方官はいくらでもいるし、軍功と言えば反乱を鎮圧しただけ。
蜀科を制定した政治能力を見込んだんだろうか?
いずれにせよ、託孤の臣になれるような大物とは思わない。
太守は民事と軍事を掌り、郡将ともよばれた漢代地方行政の最高官。
郡雄達はみな、新たな統治領域に乗り込むと、太守に腹心や親近者を置いた。
支配機構が安定して軍事が対外戦争に集中するようになってはじめて、
地方の民政と軍政の分離が明確にされ、太守は軍事では都督などの下に就くことになり、相対的地位が低下した。
劉備が荊州益州時代初期に張飛を転任させて群の政軍を統括させ、安定を見た後に中央に呼び戻しているのが
象徴的だね。
>>723 >言えない。群雄が「君主」として立つときにそれまでの個人的な任侠関係から、官僚的君臣関係への質的変化が起きるとされる。
なんか言葉の定義の争いに入ってしまいそうだ。
「群雄が「君主」として立つとき」というのがどの時点と言いたいのか分からない。
漢中王までは「君主」ではないと?
それと「個人的な任侠関係」を「君臣関係」と対峙させてるけど、どれほど違いがあるんだろう。
「個人的な任侠関係」というのは、実際には「個人的な任侠的主従関係」であったのだから。
まして李厳は戦場で降伏した人間。
>そして劉備ら群雄達は、中小の有力者を収攬することで大きな軍閥を築き、領域を実効支配するために有力者たちを内外に分散配置した。
これはもっと個別の案件ごとに見ていかないと、実際の状況から乖離すると思うよ。
劉ショウにとっての王商やホウ羲などはこれに当たるかも知れないが
劉備陣営にはこれに当たる人物はほとんどいないと思うんだが。
自分の土地を捨ててきたり、あるいは征服された者たちばかりだから。
>>726 張飛の場合は、曹操軍が三巴に侵入してきたことへの対応だろう。
>漢中王までは「君主」ではないと?
>それと「個人的な任侠関係」を「君臣関係」と対峙させてるけど、どれほど違いがあるんだろう。
少なくとも明確に分離して論じられてる。
中華帝国は官僚制と祭祀礼教が極めて強い拘束力を持つ文化圏であり、それに準じて政治理論が立てられてきた。
群雄というのはそれを両方とも持たない存在だから、個人的な紐帯関係を醸成することが重要になって来る。
だから、創業君主の厚い信頼を受けた功臣が建国後の官僚秩序を受け付けずに云々ということも起きる。
>劉備陣営にはこれに当たる人物はほとんどいないと思うんだが。
馬超、ホウ義、許靖、劉巴、黄権、李厳、呉懿、向朗、張裔。
一方で、古参の臣もこれと交差するように要所に配置されて群雄の集権に寄与する。
関羽、張飛、諸葛亮、趙雲、など。
>>728 うん。地方での軍事的な対抗のためにも有力者が太守に任じられる。そういう時期だった。
>>726 確かに劉備が益州を取ったばかりの時の太守は要職だったかもしれないけど、
漢中を取って、益州統治が安定して、劉備が皇帝に即位する頃は、
当初ほどの重要性はなくなってるね。
李厳は益州が安定した後もずっと太守のままだった。
輔漢将軍という格式の高い将軍号はもらってるけど、
外征に動員されたり、重要な拠点を任されたりしてないから、
功績によって与えられた権限を伴わない名誉職のようなもんだな。
夷陵敗戦までの李厳は、しょせん将軍兼郡太守止まりの人材で、
腹心とも有力者ともいえない存在だったんじゃないか?
それがいきなり尚書令になり、託孤の臣になるから不思議だ。
>>728 でも、その時期が過ぎたら、有力者は郡太守から離れてもっと高い地位に就いたよね。
李厳が郡太守に留められたってことは李厳が劉備政権の有力者ではないってことだよね。
>>730 単純に、ケン為の安定が回復されなかった。でいいだろう。
李厳が、尚書令前任の法正や劉巴よりは「有力者ではない」とは言えるが、
・成都時 興業将軍・ケン為太守 →有力者の一員
・蜀漢成立時 輔漢将軍・太守留任 →?
・詫孤の臣・中都護尚書令 →とても有力者
と年代が移行するなら、蜀漢建国時だけ理由もなく極端に重要度が下がり、
劉備の死の直前に理由もなく突然ナンバー2に駆け上がった、などと
「不思議」な解釈するよりも筋が通る。
太守の実務から離せない李厳をその場で報いるための輔漢将軍昇進であり、
本来事後を任せるべき法正・劉巴らが急逝したための「繰り上がり詫孤」である、と。
朝廷の欠員に伴って、外にいた有力者を内側に呼び戻した形になる。
廖立などは序列的に視野に入らない。
それから、劉備亡き後の劉禅体制を守り立てるためには、
侍中や尚書台にいる文書管理に優れた人間よりも、統治の実務に秀でた人間を諸葛亮の副にすべき、
という判断もあったかもしれない。
>>729 >馬超、ホウ義、許靖、劉巴、黄権、李厳、呉懿、向朗、張裔。
裸一貫で劉備に縋りついた人間、降伏した人間ばかりじゃないか。
集権に寄与する有力者などとは全く思わない。
彼らが力を発揮するのは、あくまでも劉備によって地位を保証された時だけ。
>>723には
>しかし群雄勢力全体を維持しているのは、劉備の極一的支配力ではなく、もっと分散的なもの。
とあり、要は程度問題なのだろうが、
俺は群雄勢力全体を維持しているのは、劉備の極一的(?)支配力と言って差し支えないと思うんだけどな。
>かれら幹部級の有力者は、一人一人が半独立した権威を持っていて、
>李厳もまた、劉備に半は帰服しつつも、半ばは劉備を協賛する、さまざまな角度から「政権を支える」側の人間の一人だった。
やはり、こんなレベルの人材は一人もいないと言わざるを得ない。
それと
>中華帝国は官僚制と祭祀礼教が極めて強い拘束力を持つ文化圏であり、それに準じて政治理論が立てられてきた。
>群雄というのはそれを両方とも持たない存在だから、個人的な紐帯関係を醸成することが重要になって来る。
そうは言っても、王朝でありながらも個人的な紐帯関係を失った曹魏などは簡単に滅んだよ。
>彼らが力を発揮するのは、あくまでも劉備によって地位を保証された時だけ。
>やはり、こんなレベルの人材は一人もいないと言わざるを得ない。
違うよ。地域を安定統治するには彼らの力が必要だった。
馬超や許靖が、一人一人代替の利かない人間だったのではない。
領域への支配力を強めるために、彼らのような独自の名声を持つ「有力者」が多数必要だった。
複数の権威と人間が重層的に影響を及ぼし、濃度を増していくのをイメージしてくれ。
>そうは言っても、王朝でありながらも個人的な紐帯関係を失った曹魏などは簡単に滅んだよ。
簡単ではない。幼帝即位とクーデターと幸運を交えて、皇帝から権威を引き剥がし、
実権を握って賞罰の権限も自分のものとして、禅譲にこぎつけるまで10年以上掛けている。
漢にも、十年、または数十年に渡って「政治を壟断した権臣」は多数いたが、
そのほとんどは皇帝や他の臣下の反撃で滅ぼされた。
簒奪に成功したのは王莽だけ。皇帝の権威を覆すのはそれほど難しい。
>>731 郡太守であったということより、
輔漢将軍という高位の将軍であったということを、重視した方がいいのかね?
郡の安定のために太守に留めておいたけど、
格式の高い輔漢将軍の官位を与えて国家の重臣として扱うみたいな。
それなら、託孤の臣になったのも不思議ではないかもしれない。
当時の蜀に輔漢将軍クラスの高位の将軍で政治にも通じた人物はいないから。
単なる事務屋ではなく、文武の実務に優れた人間に劉備は後を託したかったのかもしれないな。
>>733 >実権を握って賞罰の権限も自分のものとして、禅譲にこぎつけるまで10年以上掛けている。
曹芳が引きずり下ろされる時に臣下は何をしてたんだって話。
後漢末の将軍たちは軍事能力だけで起用され、
戦場での武勲で成りあがってきたけど、
三国の体制が強化されるようになると、
軍事能力一辺倒の将軍は姿を消して、
政治能力と軍事能力を兼ね備えた将軍や、
政治能力しか無い将軍が主流を占めるようになったね。
どうして、三国時代になってから、
叩き上げ軍人や親族軍人が目立たなくなって、
政治軍人が目立つようになったんだろ?
親族将軍が減ったのは各軍閥が、信憑性とか実体はどうあれ、
一応王朝としての体裁を整えるようになったため、名分上の問題から反乱リスクが減った。
漢王朝が滅んだことで、軍閥として立っても、独立元の政権と並び立つことができなくなった。
そのため、親族や個人的な繋がりを持つ人間を将軍に据える必要性が減った。
政治系軍人が出てきたのは統制が各王朝の中央に戻ったため。
あと各地方の安定が出来た結果、対外戦争があるとはいえ、
軍閥時代は無数といえるほどあった功績を立てる機会が減り、
結局名士系の方が起用されやすくなった。
あと、群雄割拠の時代と体制が固まった三国時代では、
将軍の役割が違うのかな?
群雄割拠の時代は戦いに勝つだけでも良かったけど、
三国時代では任地の統治や事務処理もおこなったりしなければならなくて、
三国時代の将軍は実質兵を帯びた行政官で、
軍事指揮は下の実戦指揮官に任せて広い視点から彼らを統括する立場になったのか?
丁奉のような実戦叩き上げ組から将軍になることは、
地方官や中央官僚から転出して将軍になるより難しいように思う。
>>737 戦争が少ない時代は名士系軍人の方が起用されやすくなる理由はなぜですか?
戦功で成りあがるたたき上げの軍人がいなくなったから、
軍人も官僚の一種になってしまったと考えるのが適切でしょうか?
中央が軍を統制できて、地方が安定してる時代は、
政治軍人が中央軍を指揮したり、地方を守っていた方が都合がよいのでしょうか?
>>739 前漢では前期はどちらかというと軍人や列侯出身の政治家が政治も行うと言う感じで、
中期以降は軍功で成りあがった軍人が大臣になるという感じであったと記憶しています。
後漢でも異民族との戦いで成り上がった軍人が大臣になると言うことが多かったですね。
まあ、軍人が地方官に任命されたり、逆に文官が反乱鎮圧を命じられたりすることもありましたけど。
でも、三国時代のように戦功のない官僚が普通の人事で将軍に任命されることは無かったと思います。
>前漢では前期はどちらかというと軍人や列侯出身の政治家が政治も行うと言う感じで、
>中期以降は軍功で成りあがった軍人が大臣になるという感じであったと記憶しています。
>後漢でも異民族との戦いで成り上がった軍人が大臣になると言うことが多かったですね。
誰のこと??
李広のような騎兵戦術の専門家くらいしか思い付かないが。
>>741 >戦功で成りあがるたたき上げの軍人がいなくなったから、
>軍人も官僚の一種になってしまったと考えるのが適切でしょうか?
そうですね。
戦功が少ないのですから、新たな人材を抜擢していく際、多くは知識や知能で能力を判定するしかなくなります。
必然的に学問や政治的実務を出来る人が高評価を受けるようになります。
>後漢でも異民族との戦いで成り上がった軍人が大臣になると言うことが多かったですね。
後漢は因果関係が逆です。
名のあるレベルの軍人に任ぜられるのは基本外戚です。
外戚の昇進過程に軍があるため、大官に軍出身者が多いというだけの話です。
後漢の場合事情が特殊でして、初期の大軍縮以降、皇帝不在と対外戦争の名将続出で緊張感がたりず、
人口が増えてもろくに軍を揃えなかったため、中央軍4万と北軍の中心、黎陽営以外にろくに軍がありません。
そのため、軍人のポストがほとんど無いために、軍人の高官は外戚系と、
初期から対異民族に活躍した一族である段氏などに多くを占有されることになりました。
また、大臣に任じられるのは外戚以外には軍人より学者や学者の家系出身者が多いです。
袁氏や楊氏なんかもこの類ですね。
何しろ試験制度による登用が一般的ですから、不正がない限り知識がある方が優位に立てます。
そして恵まれた基礎教育を受けられる豪族層を周縁に包含しつつ、そのままそれが階級化していくのが後漢の歴史です。
むしろ、軍功しか背景がない大臣は初期に呉漢が居たくらいかと。
>>742 いちいち名前をあげるのが、面倒なくらいたくさんいますが、
前漢初期の大臣は軍人か列侯出身。
中期以降で言えば、武帝の匈奴討伐や南越討伐で成り上がって、
その中から九卿クラスの大臣になる人が出ています。
公孫賀や李蔡のように丞相になった人すらいます。
それ以降には衛尉を務めた范明友や趙充国がいます。
後漢では九卿を歴任して太尉を務めた段ケイや、
大司農になった張奐がいますね。
>>744 全体からみるとごく一部だね
「名前を挙げるのが面倒なくらい」どころか「これくらいしかいない」という気がするのは気のせいかな
ところで不思議なことがあるのだが、
劉備の予州時代からのお気に入りの部下で、
益州平定後は固陵太守になり、
劉備が漢中王になっても皇帝に即位しても昇進しなかった劉エン。
漢中王推薦の署名にも名を連ねてないから、
劉備陣営では古参と言うだけで大した地位ではなかったのだろう。
それが劉備が死んで劉禅が即位すると、いきなり都郷侯に封じられ、
衛尉・中軍師・後将軍になり、李厳に次ぐ蜀のナンバー3に大抜擢。
やがて車騎将軍に昇進し、李厳失脚後は蜀のナンバー2。
そんな高い地位にも関わらず、劉エンは諸葛亮に随行して、
議論や風刺を行うだけで、軍を率いたり国政の実務に就いたりと言ったこともない。
挙句の果てに魏延と対立して、成都に召還されている。
おそらく諸葛亮体制下で最も出世した人物だが、
何の功績や政治的意図があってこんな大抜擢を受けたのか良く分からない。
議論する以外に大した能力もなかったようだし、
最古参と言う以外取り柄のない人物。人望もあったようには思えないし。
なんでこんな役に立たない人物を諸葛亮は重用したんだろう?
馬ショクが小山に陣どった場合でも勝てる方法ってあったんでしょうか?
小山に陣を敷いた時点で負け確定なのでしょうか?
>>746 というかむしろ、劉備が皇帝に即位したときにはそれほど大規模な改組は行われなかったというのが
一つの理由だろう。
漢中王の時点で九卿や尚書台などが具備されており、
帝号を名乗った時点では丞相・司徒・驃騎車騎・侍中など本来は王にない官職に
一部の者が組み込まれただけ。
で、普通は大規模な昇進が行われやすいのは後継の皇帝が立ったとき。
>>747 相手が無能な将軍で、水を断つことを考えず、
やみくもに突撃してきたら、高所に陣取る馬謖は有利に戦えたかもしれない。
>>748 それにしては、一郡太守から、功績もないのに九卿に一挙に昇進して、
侯に封じられるって有り得なくね?
しかも、国のナンバー3になったんだぞ?
劉エンは本来なら昇進すべき人材なのに、大規模な改組がないせいで昇進が遅れ、
新帝が即位してようやく能力と功績にふさわしい地位に就いたってわけでもなし。
地位が低くて功績も能力もない奴が、急にあんなに出世した理由を知りたいんだ。
>>749 益州平定直後から太守になっているわけだから、かなりの高位だね。まあ遙任の可能性が高いのだろうが。
当時劉備が信用できる部下を派遣できるような太守席なんて10かそこらだろう。関羽、張飛、法正、李厳らと同格。
(益州南部の太守は地元豪族に与えていたように思う)
その上は賓客・側近扱いの許靖、糜竺らや、諸葛亮くらいしかいないわけだから。
時代の移り変わりによって上位者が死んでいき、後主即位時まで生き残っていた劉エンは、
自然と第三位のポストに収まったことになる。
752 :
世界@名無史さん:2010/05/11(火) 20:26:10 0
許靖なんかは人物評価が中原で有名だったけで高位だった。
ただ、実権があったわけではない。
劉エンは劉備に大事にされていた人間だし、雅の心がわかる人間として
寵遇する必要があったのでろう。結構身分の高い家柄だったのかもしれない。
趙雲や魏延といった人物は、そんなに出自が高いわけでもなく、関羽・張飛・馬超
のように中原の名士達から武勇を評価された訳でももない。だから古参の武将でも、
無能な劉エンより位は下。まあ、現代社会の感覚で考えてはいけないかもね。
身分制度は厳然としてあったのだから。
むしろ身分制度がかなり柔らかくなっていた時代だよ
754 :
世界@名無史さん:2010/05/11(火) 20:35:44 0
時勢には疎いとの評価だったけど、荊楚の名族の頼恭なんかも
高い地位に就いている。身分制度が柔らかくなったのも確かなんだけど、
旧制度を引きずっている面もある。
そもそも、二千石から中二千石への昇進はそれほど特異な抜擢か?
この時代、間に他の官秩はないだろ?
上位者の死去、引退、不祥事、地方赴任による玉突き人事かも知れんし。
>>751 遙任じゃないと思うけどな
巴郡の一部(のちの巴東郡)を独立させたものだそうだし、征服したばかりの巴・蜀の抑えとして自分の信頼できる人間を置きたかったんだろう
>>754 旧制なんかじゃないよ。
そもそも皇帝の仕事の半分以上は祭祀なんだから。
三公九卿の職務というのは前漢後期ごろから行政運営から遠のいていくが、
天子の臣として「まつりごと」を担う役割を保持し続けた。
許靖や頼恭というのは国家運営に必要不可欠な能力の持主だった。そんだけ。
758 :
世界@名無史さん:2010/05/11(火) 20:44:04 0
中国の地方知事にも遙任があったの?
>>758 三国時代、刺史の遙任はあった
太守クラスでもあったかどうか
だいたい劉エンの場合劉備の支配域だから遙任にはなりえない気がするが
>>749 単なる年功序列って考えればいいのかな?
李厳のように将軍号を帯びたりもしていない単なる太守だから、
そこまでの重臣とは思ってなかったよ。
越儁太守の馬謖と同じ程度の地位と思ってた。
将軍号を帯びていない太守の上位者なら
尚書や益州治中従事や侍中や他の九卿などがいるだろうから、
彼らを飛び越えていきなり李厳の次の地位と言うのは、
有り得ない人事だと思ってた。
>>755 太守からいきなり九卿という例は少ないね。たいてい将軍号を加えられるか、
尚書などの太守以上九卿未満な地位に昇進してる。
>太守クラスでもあったかどうか
儀與尚書令劉巴不睦,左遷遙署弘農太守
>>761 楊儀がいたか、教えてくれてサンクス
ここから分かるのは、遙任なら遙任だって分かるように書いてくれそうだということだな
つまり劉エンは遙任じゃなさそうだ
>>760 まあこの時代の人事は制度的に年功序列と勤務日数の数字評価に基づいていたからね。
群雄劉備の部下達が具体的にその制度によって昇進していたとは思わないが、
年功による昇進序列や上下意識はかなり強く持っていただろう。
尚書令の権限はともかく、尚書はもちろん尚書令も太守よりかなり低い階級だよ
>>760 まって、尚書は太守の上か?
実権はともかく、大分格下な気がするが。
>>764 それは漢の話でしょ?
三国では尚書令は実質上の副宰相格で、
魏では九卿の上、三公を直接狙えるポスト。
蜀でも丞相や大将軍や録尚書事に次ぐ副宰相格だよ。
尚書は太守より上。魏では太守から尚書に昇進した例は多いが、
尚書から太守に昇進した例は無い。
蜀でも劉備の時代にケ芝が広漢太守から、尚書に昇進してるよ。
逆に尚書から太守に昇進した例は無い。
>>763 年功序列にしては、劉エンの場合、
太守から九卿・列侯の間の官職をすっ飛ばしてるから、
抜擢と言った方がいいような気がする。
他にも劉備時代からの将軍号を帯びた有力な太守や、
中央の高官はいっぱいいるわけで。
ライ降都督・使持節・交州刺史李恢あたりの方が、
官位的にも、益州の政治を別駕として担当した経歴からも、
(劉備時代は太守よりも益州別駕や治中の方が格上。
彭ヨウが益州治中から江陽太守に左遷され、不満を漏らしている)
使持節という強力な権限を委ねられていたことからも、
よほど九卿に昇って李厳に次ぐ地位になってしかるべきだと思うのだが。
年功と個人的な恩顧で朝廷内の序列が李厳の次になっただけのことだから、
権限や能力で語っても仕方ないと思うけど
>しかるべきだと思うのだが。
と言われても実際にはそうならなかったんだからしょうがないよな。
>>766 蜀漢は漢だよ。
んで、漢では尚書令は秩一千石。尚書は六百石。
もちろんただの一千石ではないが、太守から尚書への異動は、
宮廷の内外移動に価値があるのであって、昇進とは呼ばない。
太守から尚書のような宮中官に異動するような人物は、元々宮廷内に仕えていたような
側近官の可能性が高いはずだ。「派遣先から戻った」ようなもの。
太守から九卿に昇進する場合は、政治的実権のないポストにあてがう「最後の花道」の可能性が高いだろう。
ただし、衛尉将軍というのは、具体的な政務は執らないだろうが、幼少の皇帝を守るために宮廷を直衛する
大官として、皇帝の親近者や忠誠の厚い者がしばしば当てられた職。
数少なくなった旧臣の一人の劉エンが太守から呼び戻されて任じられる職として相応しいと言えるだろう。
>>768 劉エンは年功だけで李厳の次になれるほど、年功積んでないと思うんだ。
特に功績もなく、ただ長く仕えてたってだけで。
あと、個人的な恩顧って諸葛亮との恩顧のこと?
それなら、諸葛亮時代になって急に引き立てられたのも分かる。
劉備との恩顧なら、気に入られてただろうけど、
特に信用されていたとかそういうことは無いと思う。
>>770 蜀漢と漢の官制は全然違うよ。
ケ芝は地方の下級官吏から始まって、
県令や太守を歴任した後尚書になった。
他にも似たような経歴の人間は何人かいる。
あと、蜀に太守から直接九卿に昇進したのは劉エンしかいない。
というか李厳の次になったのは朝廷での並び順とかの話で権力とか出世とはまた別なんだし、そんなにこだわることではないんじゃない?
>>772 いや、権力は無いのは分かってるけど、
李厳が光禄勲だった時に、同じ九卿の衛尉になってるし、
いくらなんでも太守からそれは出世しすぎだと思ったんだ。
それから何もしてないのに出世を重ねて
後将軍、車騎将軍と官位では李厳とほぼ同等だろ?
だから、裏に何かあるんじゃないかと。
「何か」というと?
(1)実は有能
(2)賄賂など裏取引
ぐらいしか思い浮かばないな。
>>771 >特に功績もなく、ただ長く仕えてたってだけで。
それが「年功」なんだけど。
勤続日数を基本値にして、挙げた功績も日数に換算して一定値が溜まると
昇進論功の対象になるというシステム。
というか、この数日言われてるけど太守の階級と権限を甘く見すぎ。
>>771 >他にも似たような経歴の人間は何人かいる。
こう言うときはちゃんと調べて挙げようよ。
ケ芝が例外である可能性を全く否定できてないよ、その言い方だと。
逆に宗預は尚書(魏の三品、比六百石)から屯騎校尉(魏の四品・比二千石)に転出してる。
取り立てて問題は挙げられておらず、年功昇進っぽいことが匂わされてる。
三国職官表にも尚書は「蜀承漢制」と書かれているようだし、実質はともかく、格としては官秩がそのまま相当したと見るべきだろう。
単純に当時のケ芝のケースは若いから、実権に近い尚書に移る方が望ましかったと見るべきうじゃないか。
ケ芝は劉備直々の面会で認められて県令に派遣されたもの
地方の下級官吏から始まって、県令や太守を歴任した、というのは張嶷や張翼のような人間。
地方の県令や太守を歴任して尚書になったと言えば、
呂乂がいるな。しかも、こいつは蜀郡太守の後、尚書になってる。
漢中太守もやってるし、
蜀郡太守や漢中太守よりも尚書のほうが重職なのだろう。
779 :
世界@名無史さん:2010/05/12(水) 09:19:07 0
いきなりの出世といえば、
諸葛亮だっていきなりの大出世だぞ。
入蜀当時は軍師将軍だし、劉備が漢中王即位当時も
軍師将軍のままだった。それが劉備が帝位に就いたら、
いきなり丞相だぜ。
劉エンは年功以外にも、単純に抜擢の失敗例って可能性もあるわけよな。
もうろくしたことが特筆されてるわけだし、案外そっちが実体に近いのかもわからん。
逆にものっそい悪い業績ばかり残されてることから、本当に劉禅が妻を奪おうとしていた不祥事を疑ってみるのもありかも。
まぁ、史書の記述を疑えばきりがないけど。
>>779 それも不思議だよね。諸葛亮は益州平定以前からの最有力家臣で、
漢中王即位の推薦文にも名を連ねた実力者なのに、
劉備が漢中王に即位しても昇進せず、軍師将軍のままだった。
だけど、劉備が遠征する時は成都の留守を任されて兵站を担当し、
蜀科の制定にも携わっている。
漢中王即位時は法正が尚書令になって護軍将軍も兼ねてるから、
法正が漢中王劉備の宰相格と言っていい地位になった。
これで諸葛亮は官位では法正に追い抜かれたから、
劉備は法正に政治を任せて、
諸葛亮は重臣の一人としてそれを支えると言う構想を持っていたのかね?
それとも法正の昇進はあくまで漢中平定の論功行賞で、
あいかわらず諸葛亮は軍師将軍の官位のまま、
劉備の幕府を取り仕切り、政務を総覧する権限を持っていたのか?
軍師将軍よりは、益州平定後に任じられた署左将軍府事という地位に着目したい。
軍師将軍から一気に丞相になれたのは、漢中王時代になってからも劉備の幕府を取り仕切り、
事実上政務を総覧していたからではないか?
782 :
世界@名無史さん:2010/05/12(水) 17:33:26 0
何かの本には、諸葛亮を中心とした荊州派閥が力がありすぎるので、
法正を重用したと書いてあったな。真偽のほどはわからない。法正は
益州出身でもないから、法正一人では劉備の庇護無しには存立できないよう
な気もするんだよね。諸葛亮は益州出身者からも公平な政治を讃えられた
程だから、法正が諸葛亮の対抗派閥を持つような事態は考えにくい。
恣意的に人を殺してしまう人間だし。法正がその後も存命なら、おそらく
李厳のような最後となるのでは。
渡邉かその受け売りの本じゃないの?
劉備が諸葛亮を起用したのは才能でなく名士の求心力が狙いであって
政権内では劉備と諸葛亮は対立していたという
諸葛亮は荊州派閥で自分に権力を集中させようとして劉備は諸葛亮に対抗するためどーたらこーたら
784 :
世界@名無史さん:2010/05/12(水) 19:09:35 0
法正の重用はホウ統が戦死して策謀を預かる相談役が
いなくなったからだと思うけどな。諸葛亮は政治と後方支援担当という
役割分担。諸葛亮が丞相なったのも、その役割を反映したもの。
諸葛亮の荊州閥に対抗云々というには、法正にはバックボーンに
なる勢力が無い。劉備の寵愛だけが頼み。あの話はやや想像力を膨
らませ過ぎのような気がする。
>>782 やはり、劉備は法正を諸葛亮の代わりの宰相役と考えていたのかね?
法正が生きていたら、法正が丞相になったのかね?
法正は実務能力はあるけど、人望も百官をまとめる統率力もなさそうだから、
尚書令止まりだったと思うけど。
君主の庇護無しに地位を保てない程度の人物は、宰相にはなれないよ。
宰相には能力だけじゃなく、人望と百官をまとめる統率力が必要だ。
そして、それがあるのは諸葛亮だけだ。
>>783 劉備存命当時の諸葛亮は荊州閥の実力者の一人だけど、
君主権を脅かすほど巨大な存在とは思えないな。
諸葛亮は個人的な人望や人脈はあったけど、
孫権にとっての張昭や曹操にとっての荀ケのように、
劉備の権威を脅かすほど巨大な名声があったわけじゃないし。
786 :
世界@名無史さん:2010/05/12(水) 19:42:21 0
法正は自分で軍隊を統率とかもしなさそうだな
統率能力としては黄権の方が上だと思う。黄権が蜀に残ってたら、
諸葛亮が丞相、副が黄権という体制に自然となったのでは?
法正は代替わりした時は立場が微妙になったかもね。
李厳は南方か呉との国境の司令官という立場で終わってたかも。
ある意味、その方が後世の評判は良かったかも。
>>781 漢中王体制でも、軍師将軍諸葛亮は普通に事務方トップ(許靖の下、九卿の上)
と考えられるから丞相就任は順当な横滑りだよ
>>786 法正は一応将軍号帯びてたけど、軍隊を統率すると言うよりは、
政治の実務を処理したり、策謀を練ったりする方が主だからね。
劉備死後も生きてたら、諸葛亮の副として政務を処理したり、
一緒に戦略を練っていたのではないか?
諸葛亮にいなかったのは、策謀に長けた相談役だから。
法正が生きてたら、黄権や李厳は諸葛亮の副ではなく、
最高位の軍司令官の一人として地方の鎮守にあたっていたと思う。
>>787 実権の上では事務方トップなのは確かだろうけど、格式では九卿のほうが上なんじゃないかな?
軍師将軍が九卿の上ってソースあったっけ?
まあ、諸葛亮の丞相就任が順当な人事なのには同意。
諸葛亮以外適任者がいない。
呉の張昭が丞相に推された時も綏遠将軍だったしね。
諸葛亮には軍師将軍と言う官位以上の実権と実力と人望があったのだろう。
漢の将軍は二千石以上。
諸王の九卿は二千石以下。
所属が違うことを念頭に置かないといけない。
皇帝即位を薦める部分でも、許靖、諸葛亮、頼恭の順で記されている。
これは陳寿の「地の文」だが、実際の上表文を簡略化したものの可能性は
それなりにある。
うっかりしてた。諸王が許されるのは九卿ではなく六卿だったと思うけど。
つまり漢の軍師将軍>漢中王の国の丞相や九卿ということ
実務上も劉備の軍閥の実質的な中核である左将軍府・大司馬府の取りまとめなんだから問題は無い
劉備が漢中王になったときに諸葛亮が入るような場所は無かっただけのこと
すでにもっと上の地位にいたから
だから諸葛亮が劉備の皇帝即位で丞相になるのも特別な抜擢ではない
劉備軍閥の元締め的な立場であったことは変わらず、その立場の者がつくべき官が変わっただけのこと
792 :
世界@名無史さん:2010/05/12(水) 20:42:26 0
黄忠は漢の征西将軍であり、漢中国の後将軍ということなの?
>>790 後漢の通常の諸侯王はそうだけど、曹操や劉備の国では漢初の制度を使うことにしてたから、たぶん九卿揃ってる
>>789 なるほど。諸葛亮の軍師将軍は漢の官位で、
漢中王劉備の九卿は漢中国の官位だから、
諸葛亮の軍師将軍のほうが上なのね。
劉備は益州平定時に将軍号ばらまきまくったから、
漢の官位って感じがしなかったわ。
てことは、縻竺の安漢将軍やその他孫乾や伊籍や簡雍など、
劉備の古参側近連中の雑号将軍、
趙雲や魏延や李厳のような雑号将軍の方が、
九卿よりも格上なのか。
>>791 確かに夏侯惇も漢の伏波将軍で、曹操から「君は臣下として扱わない」と言われてたけど、
特別扱いを嫌がって魏の前将軍になってたよな。
諸葛亮の軍師将軍は漢の官で漢中王の尚書令や九卿より格上と考えると、
確かに昇進する必要がないわな。実務上でも事実上のトップだし。
ところで漢中平定後に魏延が受けた鎮北将軍や法正が受けた護軍将軍は、
やはり漢の官なんだろうか?
>趙雲や魏延や李厳のような雑号将軍の方が、
>九卿よりも格上なのか。
そこまではわからん。
同じ二千石だった場合、どのような宮廷序列を設定したのかは
許靖>糜竺>諸葛亮というように明記がある場合以外、推論しようがない。
或いは、「同じ階級の場合諸王の陪臣は漢の直臣より必ず下」、という規則でもあった場合、
九卿や前後左右将軍に任じられた者は宮廷序列は低下した、という可能性もある。
しかし、序列は大事だけど、唯一の原則ではない。
劉備は漢中王即位に伴って、荊益統治とは別に宮廷機構を整理する必要がでてきた。
そのための太傅、卿、尚書、四方将軍などという任命が行われたのであって、
例えば四方将軍と他の将軍との間に上下関係が生まれたとは考え難い。
しかし、昇進とは限らないとしても、覇府の中にあるのは非常な栄誉だっただろうし、
尚書令のように側近に位置するのは序列以上の権力も握っただろう。
孫策死後、程普・周瑜とともに軍権を委ねられたはずの呂範だが、
それから赤壁までほとんど軍事行動に参加していない。
赤壁までの八年間で参加した軍事行動は203年の黄祖討伐と、
その帰り道の賊徒討伐のみ。208年の黄祖の討伐では呉の守備を委ねられ、
赤壁に参戦した後は223年の魏の三路征伐まで実戦参加なし。
ずっと後方の守備。しかし、官位はどんどん上がっていく。
孫策時代は主力として各地の攻略に参加した呂範が、
どうして孫権の時代になって、いきなり軍事行動に参加することが少なくなったのだろう?
それでも官位が上がっていくということは、
後方守備の総司令官的立場になったのだろうか?
孫権時代になってからの孫権軍中における呂範の立場がいまいちわからない。
張松って法正くらいの実力あったんだろうか。
劉備が益州の人材使うにあたって、法正や孟達の方をまず優遇しそうなんだけど。
案外、劉備を益州に招くのを反対してた奴らの方が誠実で能力ありそう。
>>797 益州乗っ取りの陰謀では、法正が計画の中心になって、
張松は蚊帳の外に置かれてて、劉備が荊州に帰るそぶりを見せた時、
事情を知らずにあわてて劉備を引きとめる手紙を送って内通が露見して処刑されたから、
あまり能力は無かったと思われる。
益州の事情に通じていて、有力豪族で劉璋政権の重鎮だから、
劉備の益州統治には役に立っただろうから、
能力とは無関係に高いポストは与えられたと思うけど、
法正ほど重用はされなかったと思う。
孟達は宜都太守に任命されたから、まあ重用された方か。
裏切りの報酬としては悪くない。
益州乗っ取り計画の中心になって、
蜀郡太守・揚武将軍と言う破格の待遇を受けた法正には及ばないが。
張松が生きてた場合与えられたポストは、
広漢か巴郡の太守に将軍号ってあたりだろうか。
黄権は楊阜とならび称せられる人材だったよね。
>>800 それってかなり微妙な評価じゃね?
楊阜が有能なのは確かだけど、
策略を立てる能力と実務能力と指揮能力を高いレベルで兼ね備えた黄権と
並び称すのはちょっとって感じ。
黄権が微妙だとはいわないが、ちょっと誉めすぎだろう
黄権楊阜って石碑に彫り込んであったって聞いたよ!
で、曹操と楊徳祖がその謎を解いたという。
804 :
世界@名無史さん:2010/05/14(金) 23:29:01 0
(高島俊男『三国志きらめく群像』より)
登れやこの山 見ようぜ海を 水面ひろびろ にょっきり山だ 木々はびっしり 草々茂る
秋風つめたく 大波起こる 月も太陽も ここから昇る きらきら銀河も ここから出るぞ
素敵じゃないかよ 歌おうぜ、さあ
初冬の十月 北風びゅうびゅう 空は真っ青 地上は霜だ 朝はくだかけ かりがね渡る
つばめは隠れて ひぐまは眠る 鋤鍬しまって 収穫山積み はたごはととのい 旅人を待つ
素敵じゃないかよ 歌おうぜ、さあ
故郷離れて 北地は寒い 流氷ただよい 舟は進まぬ 地面は凍てつき 冬草はびこる
川は流れず 氷を踏みゆく 隠者は貧しく 任侠横行 嘆かわしいかな 悲しみつのる
素敵じゃないかよ 歌おうぜ、さあ
亀は長生き それでも死ねる 天駆ける蛇 最後は土くれ 駿馬は老いても 千里を思う
烈士の暮年は 壮心やまず 人の命は 天命なれども 大事に使えば 長持ちするぞ
素敵じゃないかよ 歌おうぜ、さあ
806 :
世界@名無史さん:2010/05/15(土) 14:09:18 0
ところで、孫堅って呉夫人の妹も嫁にしてたらしいね。
姉妹丼かよ。
蜀の尚書令歴任者
法正→劉巴→李厳→陳震→蒋エン→費イ→董允→呂乂→陳祇→董厥→樊建
劉備時代の尚書令法正・劉巴は諸葛亮に次ぐ国政のナンバー2と言った感じだが、
諸葛亮時代の(李厳は厳密には劉備時代に任命されたが)李厳、陳震は影が薄く、
しかも陳震が229年に衛尉になった後は、234年に蒋エンが就任するまで空席。
その間、歴史に名の残っていない人物が尚書令を務めていた可能性もあるが、
いずれにせよ諸葛亮時代は尚書令は軽視されていたと思われる。
しかし、諸葛亮死後は再び国政ナンバー2の地位となり、
費イは蒋エンを、董允・呂乂は費イを輔佐した。
陳祇は劉禅親政を輔佐。姜維をしのぐ権力を誇った。
しかし、董厥、樊建に関しては何をしたか明らかになってない。
劉備時代強かった尚書令権力が諸葛亮時代に弱くなり、
諸葛亮の後継者時代は再び強くなり、
陳祇に至っては内政面での最高権力者に等しい権力を有したのに、
陳祇死後の尚書令は再び影が薄くなっている。
蜀の尚書令権力の強さの移り変わりは、何によるものが大きいのだろう?
録尚書事?
>>809 しかし、蜀ではっきり皇帝権力が強かったと言えるのは、
劉備の時代と費イが死んだ後だけじゃね?
でも、皇帝権力の弱かった蒋エンや費イの時代も尚書令の権力は強かった。
蒋エンの時代に皇帝権力が弱いとは言えない。
このとき既に、尚書令と中監軍を遣わすという形で蒋エンの遠征計画を撤回することが出来た。
直後、費イが大将軍録尚書事に取って代わり、以後、蒋エンの政治的事績は途絶える。
皇帝権力は諸葛亮の時代より格段に強くなっており、さらに増強されていく傾向が見える。
費イの死後は侍中尚書令の陳祇が宮中から実質的に政治を握り、
さらにその死後は宦官の黄皓が、本来皇室の衆事を取り仕切り顧問応対を勤めるという
中常侍の官のままで政治を専らにしている。
後ろ盾も名声も無く、魏では中郎・郡の参軍という低い地位だった姜維が、
蜀に降伏したとたん、軍勢や城を手土産に降伏したわけでもないのに、
いきなり丞相府の高級属官や将軍に抜擢され、亭侯に封じられ、
その後中監軍という軍の主要ポストに昇進し、
諸葛亮死後も昇進を続け、諸軍を統率したり、
蒋エンや費イの腹心として用いられ続けたのはなぜ?
名士でもなく人脈もない人間が才能だけで昇進できる時代じゃないし、
姜維の伝記の前半は昇進したという記録だけで特に功績については記されていない。
何が姜維の出世の原動力になったんだろうか?
>>812 手土産なくても降伏は重大だろ。
黄権が魏で出世したのは軍勢を率いて降伏したからかと言えば、違うだろう。
あとは本人の才覚でしょう。
>>812 中郎・参軍事が、ぶっちゃけ高い地位。
同時に降服したと名がある者達より、一人だけ数段高い。
二十代でその地位を得ていた人間だから、
仮に能力がなかったとしても厚遇するのが諸葛亮にとっては自然なこと。
もちろん、能力がなければいきなり辟召して丞相府に置いたりしなかっただろうけど。
>>813 降伏した時の黄権は蜀の鎮北将軍で高名な将軍。
大物が降伏すれば、宣伝効果を狙って高い官位を与えるのはあたりまえ。
しかし、姜維は中郎で郡の参軍。降伏してもそんなに重大な影響のある大物では無い。
普通なら多少官位は昇進しても、いきなり国政と軍政の中枢である丞相府の高級属官に任じられ、
将軍になり、亭侯に封じられるほどの厚遇は無い。
それからずっと、姜維は国の中枢にいる。
よほど諸葛亮に気に入られたのかね?
でも、それだけなら諸葛亮死後も特に功績が無いのに昇進し続けられないから、
実は姜維は一般的なイメージと違って政治力に長けていたのだろうか?
>>814 確かに中郎は八品官で、他の郡の属官連中と比べると格段に官位高いけど、
県長と同格で県令より下じゃん。
仮に県令が降伏したとしても、降伏即将軍や亭侯にはなれんわ。
中郎は皇帝を宿衛する高級近衛士官だよ。同じ品秩でも価値が違う。
その資格のままで郡参軍事ということは、つまり、
郡府に直属しない、皇帝から派遣された軍事顧問官という地位。
ともあれ一次北伐で得られた人材の中で、おそらくは姜維がトップの
「格」を持っていた。それが厚遇の大きな理由の一つだろう。
>>817 中郎は本来宮廷で皇帝の側近にあって仕えるエリートコースで、
それが地方に出されて州どころか郡の参軍事なんかやってるから、
てっきりエリートコースから外れてドサ回りやらされたたのかと思ってた。
郡に中央から直接派遣された参軍が必要とも思えないし。
まあ、低い官位とはいえ、第一次北伐で蜀に降った中で一番姜維が官位が高かったのが、
厚遇された理由の一つかね?いきなり倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯は厚遇しすぎだと思うが。
県令か丞相府のただの掾か中郎将がせいぜいだと思うが。
破格の厚遇しても、太守がいいところだな。常識的に考えて。
参軍事というのは後漢末に創設された官だが、そういうものだったようだよ。
本来は将軍府に派遣されるものだが、長史や司馬のような属官ではなく、
将軍を「敬せず」という特権を与えられていた。
監軍や従事中郎、軍師と同じ系譜の官だね。
で、諸葛亮は丞相府の属官に将軍位を与え捲くっている。
これらの将軍の多くは、軍事に関わって諸軍を監・護し、姜維のように練兵に関わることは
あっただろうが、本来の将軍の権限である「領兵」、軍令権下の兵力をそれほど多数持っていたとは思いにくい。
倉曹掾・奉義将軍よりは太守の方が遥かに実権が大きいだろう。
>>819 そうか。倉曹掾で奉義将軍で亭侯と言えば、
破格の待遇と思ってたが、実際はそんなに権限なかったのか。
丞相府の高級属官で将軍なら、太守より権限大きいかと思ってたよ。
実際、諸葛亮死後国政を担ったのも、丞相府の高級属官出身者ばかりだし。
権力への近さでいえば、丞相府の高級属官兼将軍>太守だと思っていたよ。
まあ、権力への近さと権限の大きさは異なるけど。
そう言えば蜀は太守にも将軍位ばらまいてたね。
蜀での将軍位は一部の伝統ある将軍位を除いて、
かなり軽いと考えていいんだろうか?
軽いというよりも、将軍号があれば宮廷序列がぐんと高まる。封爵もそうだが。
その意味では姜維の奉義将軍・当陽亭侯は政治宣伝の含まれる割合も高いだろう。
(もちろん軍事に関わる将軍という実質もあるだろうが)
丞相府の属官の権威を高めるためになぜ諸葛亮が将軍を多用したのかはわからないが、
功労の高い者への昇進代わりという面はあるだろう。
皇帝が政治の中心なら、卿・中郎将・校尉・尚書・侍中などに転属昇進という道があるが、
当時は丞相府が蜀漢の政治の中心となっていたため、有能な功労者を成都へ栄転させられない。
楊儀のようなタイプに功労に報いるための方策として将軍位という意味はあったと思う。
漢臣であった劉備時代末にも同じような傾向があった。
>権力への近さでいえば、丞相府の高級属官兼将軍>太守だと思っていたよ。
権力への近さでいえば、それはそう。
監軍・護軍クラスの高級属官である必要があるが。
>>821 まあ、劉備が縻竺や孫乾や簡雍や伊籍など、
属官にするには格が高すぎる側近の文官に将軍位を与えたのと同じような意味かもね。
将軍位でしか高い待遇を丞相府の属官に与えることができなかったから、
諸葛亮は将軍位を属官に与えまくったと。
>>822 姜維は諸葛亮の生前に倉曹掾から中監軍に昇進してるから、
権力に相当近い地位にいた事になるね。
二宮の変の時、孫権が孫和派の重臣の朱拠や顧譚や張休や吾粲らを片っ端から処分し、
陸遜まで憤死に追い込んだのに、
孫覇派の重臣は楊竺以外処分されなかったのだろうか?
250年に孫和廃太子、孫覇自殺を命じるまで、
孫権の意思は孫覇立太子にあったのだろうか?
そのために孫和派の重臣ばかり処分していったのだろうか?
そういうことになるだろうね。
孫覇が寵愛を受けたと明記されているし。
しかし楊竺の処断をきっかけに臣下の孫覇を推す力も衰え、
寵愛も次第に薄れていって、両成敗という形となったのだろう。
826 :
世界@名無史さん:2010/05/17(月) 19:51:26 0
>>823 姜維の異例の厚遇は、
本人の才能と涼州方面への宣伝の両方だろう。
諸葛亮は馬良や李紹よりも才能が上と評価してるくらいだし、
ケ芝も姜維の才能は高く評価していた。蒋エンもどうやら
評価していたことがうかがえる。蜀漢上層部に才能が高く評価
されていたのは確かではないだろうか。
それと、涼州方面の攻略を狙っていた諸葛亮は、才能ある涼州出身者
を厚遇することにより、涼州方面の士人の支持を狙ったものと推察される。
>>824 顧譚や張休は二宮の対立というより、それと同時進行の讒言でやられた。
朱拠の処罰は末期。
基本的に太子を守る立場の方が孫権とぶつかるんだから
太子派が多く処罰されて不思議はない。
だが孫覇立太子の意思は不明だろ。
>>825 >しかし楊竺の処断をきっかけに臣下の孫覇を推す力も衰え、
楊竺処刑から二宮対立終息まで時間があるよ。
民は富み、食料は豊富で大勢の流民を受け入れて繁栄していた徐州の政治が乱れ始めたのは、
陶謙を補佐していた有能な人材である別駕趙cが広陵太守に、
治中王朗が会稽太守に転出してからだと思う。
その後、小人の曹宏らを重用しだしたり、刑罰や行政が不当なものになったり、
ケツ宣と組んだり、エン州に侵攻したり、サク融を重用して物資を横領されたり、
彭城国の相薛礼を圧迫して江南に亡命させたり、乱れ放題。
このいきなりの統治の乱れっぷりは、陶謙を補佐する人間が、
趙cや王朗から、曹宏などに変わったからではないだろうか?
あと、縻竺は趙cの後任の別駕っぽいが、この徐州の政治の乱れに際して何をしていたのだろうか?
陶謙の悪政と縻竺の別駕就任は結構関係ありそうな気がする。
陶謙時代の縻竺の動向は謎だ。
糜竺は豪族かつ名士というタイプで、
陶謙の「小人を登用した」という評にはそぐわないんだよな。陳親子の存在もある。
負けた側だから欠点が誇張されたのはあるだろうが、
一方で張昭の追悼の美文なども当てにならないから、
徐州の政治の実態を掴むのは難しい。
832 :
世界@名無史さん:2010/05/19(水) 08:26:07 0
中護軍という役職は要職なのですか?
>>832 超要職。魏では首都防衛軍を指揮する中領軍の副将兼参謀長的存在で、
首都防衛軍の人事も担当していた。
中領軍とともに首都防衛軍を指揮する要職。
諸葛亮の死後、華陽国志によると、蒋エンが尚書令となって国政のトップになった時、
中軍師楊儀、後軍師費イ、前軍師ケ芝、前領軍張翼、右監軍姜維が中央の軍政を掌握したようだけど、
中軍師も後軍師も前軍師も前領軍も右監軍も丞相府の役職だよね?
あくまで丞相配下の軍の要職で、単独で軍政を掌握する権限ないよね?
中軍師楊儀、後軍師費イ、前軍師ケ芝、前領軍張翼、右監軍姜維は誰の指揮下にいたんだろう?
尚書令に丞相府の軍高官を指揮する権限があるとは思えないし、
名目上は行丞相事向朗の指揮下にでもいたのかな?
丞相府は諸葛亮の死後も解体されなかったのかな?
蒋エンが大将軍に昇進してからなら、大将軍府の属官として、
その指揮下に入ったとも考えられるけど、
それまでは一体誰の中軍師・後軍師・前軍師・前領軍・右監軍だったんだろう?
835 :
世界@名無史さん:2010/05/19(水) 15:16:35 0
>>833 中護軍征南将軍・趙雲は要職に就任したということですか?
>>835 要職だろうね。魏と蜀では中護軍の職務も細かいところでは違うだろうが、
中央軍の指揮官という点では代わりないから。
837 :
世界@名無史さん:2010/05/19(水) 16:27:55 0
劉備没〜北伐直前の蜀軍は、
漢中の守備隊の指揮官が魏延、中央軍の指揮官が趙雲、白帝の指揮官が李厳
みたいな感じだったのかな?
北伐直前には南方の司令官が李カイ、李厳は江州まで管轄を増やして、白帝の指揮の
陳到を指揮下に置く、諸葛亮は趙雲と共に中央軍を率いて漢中軍と合流。成都の守備隊は
尚寵が中領軍として指揮。こんな配置だったのかな?
>>837 中護軍は中央軍の主要な指揮官の一人で要職ではあるけど、
中央軍の総司令官になれるほど高い地位では無い。
漢中の魏延や永安の李厳、
南中の李恢と比べるとはるかに低い軍権しか持っていない。
北伐時は諸葛亮は趙雲率いる中護軍の部隊を含む中央軍の部隊の大半を
成都から引きぬいて連れて行き、漢中入りして魏延の軍と合わせて北伐軍を編成。
残りの成都に残った部隊を向寵が指揮したのだろう。
ちなみにどうして白帝城というのかしってるか?
新末後漢初の公孫述が長江北岸、今の重慶付近の山中の要衝に築城した際に、
白い気が白龍の如くたち上るという瑞祥があったため、
伝承上の白龍であり、西方を守護する神でもある「白帝」にあやかって付けられた。
また、西漢を火徳赤帝、新を土徳黄帝とし、成家を金徳白帝とする継承も意識していたと思われる。
といったところか。
皇帝ー王=白帝
>>838 中護軍というのは、護軍都尉、護軍中尉、護軍将軍などと変遷するが
皇帝や大司馬、大将軍らが出征するときに置かれる戦時職で、
中軍をはじめとする動員諸軍の総督事務を最高司令官に代わって行ったものと考えられる。
三国時代になると戦時が常態となり、中護軍も常設化し、権限も人事考課、訴訟、監察などに寄っていく。
中護軍自らがその職のまま司令官となった例はなく、趙雲も劉禅か諸葛亮の下に属することになるはずだが、
魏や周瑜などの例をみるに権限は常備軍全軍に拡大している。
地方ぬ駐屯する諸軍を法的に統制できる、督・都督のような「司令官」職とは立ち位置が異なる職。
>>842 周瑜の中護軍も実質は主力の指揮官の一人で、
軍の監督業務は都督呂範が担当していた様子。
趙雲の中護軍も中央軍の指揮官の一人という程度のもので、
軍の監督業務は帯びていなかったのではないか?
中護軍が人事考課、訴訟、監察など、
監督業務を行っていたのは魏だけではないかと思う。
魏と呉と蜀では、同じ官職でも序列や役目が違うし。
趙雲って本当に長坂波で一騎のみで敵中を駆けたんですか?
>>843 周瑜は廬江や丹陽方面などを守った主力指揮官としての建威中郎将と、中護軍の二官を持っていた。
孫策は周瑜を中護軍に任じて荊州討伐に追従させたことから、
周瑜は少なくとも孫策の遠征に従う諸軍を督察する権限があったことになるだろう。
そのような権限を持っていたからこそ、孫策死後に巨大な権限を張昭と分けることになった。
護軍の本来の職掌が野戦軍を率いる指揮官などではなかったのは漢代(或いは秦)からのこと。
陳平は周勃、灌嬰のような諸将から讒言を受けて罷免の危機に陥ったが、
劉邦は逆に陳平を護軍中尉に任じて「諸將ことごとくを護」させた。
これによって諸将はそれ以上何も言えなかった。これが漢の護軍中尉の始まりで、
中護軍、魏の護軍将軍へと発展する。
呉でも監察・弾劾を担う役だったのは蒋欽伝に明記されている。
呂範がなった都督というのは曹操創設の都督諸軍事ではなく、
孫策が「小職」と言及し、同時代に複数の例があり、晋代の二品将軍幕府にも
營軍、刺姦、帳下の三都督が存在したように、
将軍の幕府下で直属の軍兵を監督する役職だっただろう。
846 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 08:39:04 0
つーか、周瑜って孫策死後の6年ぐらい何やってたの?
空白が不自然なんだが。
若い当主が突然死んで、予想される事態はなんだろう
喪に服す
>>846 中央の守りに当たっていたか、豫章や丹陽あたりの守りを固めていたんじゃないか?
孫策死後、ほとんど動きが無いのは、
程普・周瑜とともに軍権を預かった呂範も同じ。
不安定な江東の情勢に置いて、
程普が動き回って各地を平定し、
周瑜と呂範が後方を固めるという体制ができていたんじゃないかと。
軍のトップ3のうち、2人を後方の守りに当てても不思議じゃないくらい、
当時の孫権の江東支配は不安定だった。
850 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 21:13:28 0
>>838 諸葛亮が漢中に常駐することにより、
魏延は官位は上がっても、実質的指揮権は剥奪された感じだろ?
囮軍とは言え、曹真軍を牽制する重要な任務は趙雲に任され、
失敗に終わったとはいえ、街亭の守備も魏延に委ねられることは
なかった。
曹真の侵攻軍への防御も諸葛亮が指揮権を握っていた。呉壱と共に
侵攻したことがあるが、こいつは小規模侵攻。重鎮で外戚の呉壱もいるから、
魏延が指揮していたのは1万以下だろう。その後の北伐も一部隊の長でしか
なかった。諸葛亮が漢中に来る前は、守備隊とはいえ万を超える軍を統率
してたのとはだいぶ違う。
>>850 諸葛亮の北伐が始まってからは、漢中軍は消滅してるから、
魏延は北伐軍のナンバー2に収まったんだと思う。
単独での任務が少ないのは、諸葛亮と共に行動して、
副将格として主力部隊を統括していたからではないか?
852 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 21:41:32 0
あんまり信頼されてなかったでしょ。
格として副将クラスだったけど。
なにせ置いてけぼり命令まで食らってるし。
そもそも、諸葛亮の死後の撤退の指示が、
楊義・費イ・姜維の三人が受けている。
副将が何も知らないとはあり得ない。
>>852 命令系統の問題
魏延は軍人としては諸葛亮に次ぐが、丞相府での順位は丞相司馬でかなり偉いことに間違いはないが
その面で見ると楊儀が諸葛亮の次に最も高い長史となってる
丞相府が主導して一連の北伐を実行していたので当然ながら諸葛亮亡き後は楊儀に裁量権が回ってくる
>>852 でしょ。って。
魏延にも指示出してるだろ
最重要の殿だぞ。
魏延の方が拒否したんだよ
魏延に命令が出されたのは諸葛亮の死後、楊儀を通してであって、
諸葛亮の遺言の場に魏延が参加することは出来なかった。
これだけでも相当の屈辱だね。
屈辱?このスレ魏延好きが多い事は知ってるけど
魏延に親身になるあまりおかしな事言ってないか?なんなの屈辱って
>>855 秦の始皇帝の臨終に宦官の趙高が臨席できたおかげで権力を握れたけど、始皇帝の下で権力や地位の点で趙高>蒙恬・扶蘇だったわけではないだろ
実際に近くにいたかどうか、近くにいられる地位だったかどうかの違いでしかないよ
>>856 征西大将軍まで昇った人間が、遠征地で丞相に後事を託されず、
長史を通じて命令を聞かされる。普通に屈辱だろ?
なんか変なベクトルで見ないでくれよ。
>>858 後事を託されなかったのはかなり複雑な思いだっただろうが、
長史を通じて命令を聞かされるってのは屈辱じゃなかったと思うけど
どうだったら屈辱じゃないの?
死の床に呼ばれて、遺言を受ける者の一人に列することができれば屈辱ではない。
>>860 戦場で対峙してるときにいきなり抜け出しても大勢に影響ない将軍だったということか?
>>862 その考察してる奴、叙情的で論理的とは程遠いけど
>>862 「大胆な仮説」でしなかいね。
魏延の乱はおおむね感情と行き違いと派閥の話なんだよ。
諸葛亮は、魏延が従わなければ置き去りにしてもよいとまで言って、
のちの人間関係や魏延の立場を考慮していない。
これを信じるならば、自分の死後に魏延が制御できなくなることを
十分に視野に入れていたことになる。
そんなに遠距離にいたのなら自らの手紙を送るなどでもいいさ。
諸葛亮がその気ならいくらでも魏延の機嫌を取れたが、それをしなかった。
それだけ魏延が不安定要因と看做されていたということであり、
残された楊儀・費イらにとってはさらに輪を掛けて深刻な問題だった。
故に二人は諸葛亮よりも酷薄な態度を取った。
火種は遅かれ早かれ着火した可能性が高いが、
北伐からの撤退という非常に速いタイミングでの魏延の暴発に至ったのは、
派閥からくる配慮の不足と行き違いに拠る。
>>864 俺は本当に諸葛亮の意思だったのかを疑うべきだと思ってるよ
魏延が殺されて得をしたのは楊儀でありショウエンやヒイであるわけだから
あのあたりの話ってどうもうさんくさい
ショウエンを後継に密かに指名してたって話を含めて、諸葛亮のやることが陰湿でエグすぎる
諸葛亮のそばにいて、場合によっては遺言を独占できたかもしれない連中ばかりが揃って得をしているのもクサイ
魏略のほうが正しいんじゃないかと思うくらいだ
楊儀は大嫌いな魏延を殺した以外、まったく得をしてないと思うが。
成都に戻ったら閑職に回されたし。
>>866 魏延が暫定ナンバー1になったら楊儀は一気に生命の危機
まずはこれを脱した
それに閑職になったのは当時の楊儀には窺い知れないことだし、ショウエンたちや劉禅との関係での話しだから
少なくとも魏延に指揮権を渡してしまうよりはずっと得をしているじゃないか
>>862 他板に出て行って、スレを消費して自分の主張を披瀝して、反論があったら相手に
「お前は知らないだろうから口を出すな」
「これが定説だ」
というのは考察をしたとは言えないような。
結論を検証するために、その立脚点の検証をしようとするそれ以外の人間の方が論理的に思えるが。
考察を「披瀝した」ということは、まさか「丸呑みしろ」ということではあるまいし、ああやって反論が来ることは予想しなければいけなかったような。
>>865 うん、その可能性はなくはないだろう。
全ては楊儀らの跡付け弁明という可能性。
まあ、そうすると、魏延が完全に一方的な被害者ということになってしまうんだけどね。
>>869 魏延と冷酷だったことにされた諸葛亮が被害者だな
よくわからんが
正史の記述によると蒋エンって諸葛亮が外征していた時成都を守って諸葛亮の後方支援してたんだろ?
これって劉備時代の諸葛亮の時とまったく同じ
だから蒋エンが諸葛亮の後継者と目されても当然なのになぜ陰湿でエグイんだ?
>>868 ??
軍事的側面からの考察の一例を紹介しただけだけど。
考察してる奴の人格とかの話じゃなくて、軍事面での合理性から考えたこういう説もあるよと
反論があるなら反論あるでいいじゃないか。物事は様々な側面から考えるべきだから
>>871 事実上抵抗の可能性を考慮しつつ魏延をそのまま置いていけと切捨て、
序列や功績、本人の自負では楊儀>ショウエンであったのにあえてショウエンを選んだとすれば、楊儀だってタダで済むとも思えない
魏延も楊儀も勝手に死ねば?いやむしろ詩ね
みたいな遺言だと思うんだ
思うんだ って言われてもな。。。
みんな仲良く三方丸く治まる様に遺言して
魏延と楊議の内訌で国が滅びでもしたら
先の見通せない政治家だったと評されていたろうな。>諸葛
魏延おいてけ → 戦闘になってしまって焦った楊儀らのでっち上げ
後は蒋エンに任す → 成都に残っていた劉禅と蒋エンによる政権安定のためのでっち上げ
と、いう可能性はあると思うが、
諸葛亮の本意だとしても別に問題はないし、
諸葛亮の人柄も、別に政略を忌み嫌う潔癖家ってわけじゃないので
史書の通り信じておいて構わないだろう。
何をどうやっても非難ってのはあるもんだと思うけどね
876 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 02:23:38 0
魏延は大人しく撤退してれば、
地位保全はできただろう。再び漢中の司令官として
余生を全うできた。勝手に北伐を続行しようと考えたの
が破滅を招いた。それと楊義の命令は聞けないという
個人的感情を爆発させたことがいけない。
魏延が殿をして撤退していれば、魏延が殺されることは
無かった。
楊義は軍を無事撤退させたても官職に追いやられる運命だった。
諸葛亮は楊義には後継者に関しては全く聞かせていなかった。おそらく、
後継者指名の話は、蒋エン、費イ、董允と姜維の四人程度が知るだけ。
楊義左遷は諸葛亮死後は既定路線だった。
結果だけみると、魏延は排斥・殺害される運命だったように思われるが、
実際には大人しく指示通りにしてれば、天寿も地位も全うできた。反対に
楊義左遷は完全に出来上がっていた。諸葛亮の死後は担当部署は最初から
無かった。
877 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 04:36:24 0
魏延の長安強襲は単純に距離から考えてアウト。
山塊を駆け抜けて長安に到達するまでに曹魏の援軍が先に到着しとるわ。
それを5000ぽっちの兵で何とかしようとか狂気の沙汰。
878 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 07:39:26 0
第一次北伐での魏側の反応みれば、
仮に長安を陥落させても、関中の出入り口を押さえる兵力がないので、
結局は長安は奪還され、奇襲部隊は全滅するだろう。
879 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 08:20:05 0
魏延の提案は第一次北伐のあった228年じゃなくて、諸葛亮が漢中入りした227年。
1年近くも無駄にした状況で考えるから不可能だと思えるだけで、電撃戦しかければ勝算はあった。
無駄にした ×
物資集積等大人数での軍事行動のための準備 ○
ロジスティクスが発達した現代ですら数万人規模の軍事行動は結構準備に時間かかるってのに…
兵站の概念が全然無い人っているよな、なんなんだろう
テレビゲーム感覚なんだろうか
882 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 09:28:52 0
>>880 魏延の5000人のみなら食糧の備蓄もそんなにいるまい。
魏延兵五千人だけ出兵させるのか 酷だなw
884 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 09:57:08 0
長安だけ確保してもダメなんだって。
逆に長安で蜀軍が孤立してしまう。スターリングラードの
戦いみたくなってしまう。長安を確保すると共に、
函谷関方面からの街道を確実に封鎖できる兵力がないと、
ただ兵力を損耗するだけ。
885 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 11:17:49 0
>>881 平坦無視の作戦は帝国陸軍以来の伝統では?
日本人が兵站苦手なのは、日本は散兵戦が一般的で、また、信長の上洛の時に禁止した件をのぞけば、
戦国期を通して近隣の村落から切り取り放題で、兵站の問題を解決してきた伝統も手伝って、
ごく一部の吏僚を除けばあんまり兵站の概念が理解できなかったのもある模様。
言葉通じるの当たり前だったしね。
まぁ、最近は前回の大戦の失敗から概念も普及してきたけど。
一方言葉通じないのも、そこらの集落が城塞化してるのも当たり前で、
おまけにそもそも広すぎて略奪する集落さがすのも一苦労な大陸だと、
兵站概念が発達しないことにはやってけないからねぇ。
関中は大豪族多いし、5000人くらいだと略奪も中々難しい気はするけど。
887 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 12:14:55 0
魏延の長安奇襲作戦は、
『魏略』が出典だったけ?
本伝には諸葛亮とは別に1万の兵を率いて別の道から
侵攻したいという希望を持っていたとは書いてあるが、
長安奇襲策は出ていない。『魏略』は結構いい加減な
記事が多い。
本伝だと潼関で合流するつもりだったようだな
長安・潼関を攻略するというのは、魏略案よりも難易度が高いと思うけど
889 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 14:51:18 0
>>888 潼関で落ち合うとなると、
諸葛亮と魏延の侵攻ルートはどうなるのだろ?
その前に長安と潼関だけ確保しても、
関中諸軍を壊滅させて関中を確保する時間と兵力は無いだろうし、
隴西諸軍や洛陽の軍も動き出すだろうから、
結局諸葛亮と魏延の軍は長安を取ってから潼関で合流しても、
関中諸軍と隴西諸軍と洛陽からの援軍に囲まれて孤立して
壊滅するだけなんじゃないかと思う。
891 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 15:44:00 0
>>890 荊州が確保できていて、
洛陽方面に対して牽制できれば、
魏延の作戦も可能だったかもしれない。
荊州を失陥していた北伐時には諸葛亮の計画の
方が成功の可能性があるし、負けても痛手になりにくい。
事実、馬謖が敗戦しても、諸葛亮は数度の北伐を実施できる
余力があったし、諸葛亮の死後30年国を存命させることも
できた。
まあ、国が続いてなにかよかったのか、というと疑問なんだけど。
さっさと負けておいたほうが、民にはよかったのかもしれん。
>>891 そりゃまあ、益州一州しか保有しておらず、
荊州の呉を攻められない以上、
諸葛亮には全力で雍州を攻めるという選択しかないからな。
894 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 17:27:40 0
そうなると、
関羽の罪は重いよな。
罪?
誰に対しての?
>>895 荊州の失陥は、広大な領土を失い、
さらに国家戦略の幅を狭めたという意味において、
蜀という国家に対する罪。
国家に対する罪とは、またすごい表現が出てきたな。
雍州と涼州を両方とって、ようやく天下三分が実現できるくらいの戦力差だからな。
攻め取った場所を恒久的に自領にしていくにはじわじわいくしかないかもしれん。
馬超が生きていたらもう少し涼州を味方につけやすかったんでわ。
涼州に対する影響力については馬岱じゃ荷が勝ちすぎたかな。
899 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 20:44:09 0
馬岱は影響力皆無でしょ。
だから伝記の残らなかったし。
>>898 馬超の影響を受けた豪族や異民族の集団は、
馬超が涼州占拠した後、夏侯淵の討伐軍に徹底的に潰されたんじゃないかな?
ただ、馬超は名声が高いから、攻め込んでくれば、
魏の支配の弱い地域の郡県が呼応する事はあったかもしれない。
>>889-890 ・奇襲で長安攻める。
・夏侯楙逃げる。
・長安落とす。
・関中軍が集結の指揮官と拠点を失う(隴西には郡県以外に軍備が殆どないと考えられる)
・洛陽からの中軍が迫る前に潼関を占拠し、短期間持ち堪える。
・後からやってきた諸葛亮の大軍で関中各所を制圧、隴西を靡かせる。
・関中確保。
という感じだろう。
無茶苦茶難度と幸運度高いが。
>>879-880の言う通り、現実的には蜀軍の漢中集結を魏は把握していたわけだし
(だから司馬懿の孟達奇襲がある)
蜀が軍備を整えるころにはこの提案は時代遅れになっていた。
逆に言えば、情勢が変わった時点で魏延をそんなに責める必要はなくなる。
まあ魏延はそれ以後も長安直撃の進言を行っていたようだが、
その詳細はわからない。
>>890 隴西諸軍は動かないだろ。
むしろ蜀につきかねない。
なにしろ関中隴西・の地元民って魏に征服された格好だからな
異民族もそう
魏への反感から蜀に対し好意的であった可能性は高いと思う
ちょっと昔から疑問に思ってたんだけど
なんで孟達は魏に投降したあと、蜀との境目にある郡の太守になったんだ?
いつでも裏切ってくださいって言ってるようなものでは?
905 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 22:03:44 0
>>903 それはあるな。
第一次北伐では諸葛亮にあっさり降伏した郡もあったし、
姜維の北伐でも、段谷の大敗以前までは比較的好意的とい
う感じだった。段谷の大敗以後、隴以西の地でも争乱が発生
し不安定になったという記述がある。
諸葛亮や姜維の隴西方面への出兵は、この地方は魏に批判的で、
蜀に気脈を通じる勢力があった感じがする。また曹爽の蜀侵攻失敗
で、関中隴西の住民は疲弊させられた恨みもあっただろう。
>>904 確かにその心配もあるけど、
影響力のある人間を要所に配置して実質統治を委任するというのも一つの手段だから。
で、孟達は曹丕には信任されてた。
907 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 23:08:27 0
孟達は劉封を降伏の手土産にしたかったんだろうな。
「劉備は養子にも見捨てられる愚か者」と宣伝できるし。
>>907 劉封より地元に影響力のある申儀を手土産にできたから、良かったんじゃね?
申儀だけ連れてきても、孟達はこれ以上望めないぐらいな厚遇受けてるし。
俺もちょっとした疑問があるんだけど
曹操が荊州に攻めてきたときに、劉備に荊州を奪って維持する実力があったのかな?
先主伝とかには「荊州取れるけど忍びないのでやめました」的に書いてあるけど
本当は取れなくはないけど、維持しようとしたら火傷しそうだから
忍びないってことにして孫権のところにいったような気がしてならない
910 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 05:22:02 0
>>909 劉備軍に城攻めやれる戦力なんかないだろ。
もたもた攻城戦やってたら、すぐに曹操がやってきて挟み撃ち。
赤壁後のオセロゲームを考えたら、
劉備がその気を見せた時点で劉表遺臣団に混乱が起きるんじゃないか?
そのまま襄陽に割拠は無理にしても、長坂の敗戦はなく、
もっと緩やかに南下出来ていたかも。
成功するなら劉表軍団をそっくりそのまま手中にすることを意味するので、
仮に襄陽を維持できないにしても今後の展開がまるで違う。
>>910 ものすごく単純に考えるとそうなると思うんだが、そんなことも分からない諸葛亮だったのかということだろうな
>>911の言うような混乱に乗じようとしたのか、もっと楽に攻め取れるような何か(城内の人間の手引きや密約)があったのか
劉ソウの元でも臣下がみんな曹操への降伏をよしとしていたわけでもないことは王威の件からも分かる
劉備たちは江陵もまるで自分の城ででもあるかのようにすんなり入れることを前提に計画立てているし、劉ソウ降伏で素直に曹操になびいた奴の方が少なかったくらいなんじゃないか
仮にいやいやであっても、行動を起こす核になる人間がいなければ人は烏合の衆にさえなれない。
襄陽の核になる劉jとその一派は降服を決めたのだから、それに多勢が靡くのは当然。
しかし、そこでもし、もう一つの核となる劉備があらわれたら…。
ということはあり得たかもしれない。
まあ、そもそも伝説めいた逸話だけどね、これ。
915 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 10:27:05 0
普通に読めば、蔡瑁が先手を打って劉表を殺して曹操を迎え入れたんだろうから、劉備側がどうこうできるはずがない。
916 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 10:27:55 0
諸葛亮が劉表や蔡瑁と姻戚関係があるというのも1580年に書かれた書物が初出の嘘八百だしな。
そんなもんがあったの?知らなかった。
ってかそいつらと孔明が婚姻関係があったからってどうだっていうんだろう。
そもそも誰か諸葛亮の話してたっけ?
920 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 11:06:04 0
921 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 11:06:26 0
襄陽記がどうかしたのかも知らないで
>>916みたいなことを言ったのか?
923 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 11:34:06 0
襄陽記には、蔡瑁の父の蔡諷は姉が太尉張温に、長女を黄承彦に、末女を劉表に嫁がせたという記述がある。
つまり蔡瑁は、張温・黄承彦・劉表の義理の兄弟であり、
諸葛家は黄家を通じてそれらの家と繋がっていることになる。
これが「諸葛亮と劉表・蔡瑁姻戚説」の、確認できる初出。
もっとも、諸葛亮が黄氏を娶った時期は厳密にはわからないが。
こんなに遠いんじゃ姻戚関係とは言わない、とかいうのはナシね。
「1580年に書かれた書物」とやらにもっと近い婚姻関係の記述でもあるなら別だけど。
それなら諸手を挙げて「それはデタラメだ」に賛成する。
張温と蔡瑁とは義理の兄弟じゃないなw 伯父甥の関係
926 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 11:51:48 0
>>924 確かにググると襄陽記には、蔡瑁の父の蔡諷は姉が太尉張温に、長女を黄承彦に、末女を劉表に嫁がせたという記述がある。
けど、三国志のどこの註釈にそれが書いてあるんだ?
「1580年に書かれた書物」とはいったい何のことを言ってるんだろう
それが気になって仕方ない
>>926 なぜ三国志の注釈に含まれている必要があるの?
>>927 俺も気になる。
>>916が初出と勘違いしてるだけで、
ちゃんとした研究書の類かもしれないし。
そもそも『襄陽記』云々は
>諸葛亮が劉表や蔡瑁と姻戚関係があるというのも1580年に書かれた書物が初出の嘘八百だしな。
この発言に対する反論なんだから三国志の注釈に書かれている必要はないな。
>>924 仮にもっと近い婚姻関係が書かれてても、それは勘違いを惹起したというだけのことで、
今回の話題とは直接の関連性がないように思うが。
930 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:14:09 0
>>襄陽記には、蔡瑁の父の蔡諷は姉が太尉張温に、長女を黄承彦に、末女を劉表に嫁がせたという記述がある
これがどこに書いてあるのか?という話なんだけど。
>>930 『三国志集解』だと劉表伝の集解で引用されている
「襄陽耆舊傳」となっているが、これが習鑿歯撰の襄陽耆舊記と同一のものであることは隋書と旧唐書の経籍志から明らかだ
933 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:32:46 0
>>931 サンクス
>>襄陽記には、蔡瑁の父の蔡諷は姉が太尉張温に、長女を黄承彦に、末女を劉表に嫁がせたという記述がある
確かに
>>931の『襄陽記』にはその文章が書いてあるけれども、『襄陽記』は散逸しており、現在の形になったのは1906年。
1956年に刊行された『三国志集解』の作者が、「諸葛亮伝」の『襄陽記』註釈で上記の文章を取り上げているが、
これの典拠を1584年に書かれた『襄陽府志』としており、『襄陽記』とはしていない。
おそらく現在流布している『襄陽記』の当該文も、『襄陽府志』を典拠にしているものと思われる。
>>933 >これの典拠を1584年に書かれた『襄陽府志』としており、『襄陽記』とはしていない。
劉表伝注の集解でも諸葛亮伝注の集解でも引用元は「襄陽耆舊傳」とだけなってて典拠が「襄陽府志」だとは書いてないんだけど、どこを見れば分かるんだ?
教えてくれ
935 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:45:55 0
>>934 すまん、『集解』じゃなかった。
1990年の陳翔華『諸葛亮形象史研究』だった。
最初は何の話だったっけ?
916は「襄陽府志」の内容は嘘八百だと言ってたのか?
でも何を根拠に嘘だと断定したんだ。
937 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 13:06:06 0
938 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 13:07:13 0
もっと言えば陳寿の『蜀書』に言及されていないどころか、裴松之にさえスルーされてるから。
劉備が荊州を取ってたらって話題にムリヤリ諸葛亮の姻戚関係の話を捩じ込んできたから
何言ってんだコイツと思ったら最終的には
>>933-935を披露したかったのか(*´∀`)σ)д゚)コノコノー
それとも>916と>933は別人?
>>938 んなもん嘘だと断定する根拠にはならんわ
941 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 13:21:37 0
>>937-938 史料を当たるに際し、その態度は危険だと思うなぁ。
信憑性が薄れることは事実だけど、断言出来ることじゃない。
陳寿や裴松之とて、今みたいに現存する全ての史料を当たることが出来るわけではなかっただろうし。
裴松之の様にあれだけ多くの史料をあたれば漏れることもあり得るだろう。
断言すると確かにセンセーショナルにはなるけどね。
CMとかと違ってこういう場でのセンセーショナルさは、
結局その主張は正しかったのか間違っていたのかを忘れさせてしまって望ましくないんじゃないかな。。
このスレもIDが表示されたら便利なのになぁ
で、本題に戻すと、劉表死後、劉備が荊州を乗っ取ることは現実問題として可能だったの?
可能だったのに何らかの理由であきらめて逃げたのか、
不可能だったから、綺麗事を言ってごまかして逃げたのか?
いずれにせよ、劉備が諸葛亮に言った荊州を取らない理由は嘘だと思う。
劉備の性格からして、あんな綺麗事を理由に自立するチャンスを放棄するわけがない。
劉備の性格からしてって
劉備と会った事あるの?
>>944 劉ソウですら心情的には親劉備派だったこと考えると
乗っ取る事自体はそれ程高難度ではないだろう
ただ現実問題としてそんな急造の体勢では曹操と対抗して維持することは難しいと思われる
北の防壁だった南陽は劉表が物故する際に後継体制の構築中劉備が襄まで来てる間に落ちてるし
まず防衛体制自体が破壊されたところからスタート
乗っ取りという汚名を着てまでそんなマイナススタートは劉備としたら恐ろしくて出来ないだろう
947 :
931:2010/05/23(日) 15:52:18 0
昼寝してる間に終わってた。結局なんだったんだ?w
>>946 手勢の数千だけで南下するよりは不利ではないだろう。
>>947 それ以上の不利だから劉備はやらなかった
親劉備派がいるのに実際の行動は親劉備でなかったという事は
反劉備親曹操な奴がいたってことでもある
>>948 荊州の主な重臣十五人が曹操に降伏して列侯に封じられてる。
カイ越や蔡瑁、韓嵩、劉先、傅巽など、ほとんどが劉表政権の中枢メンバーばかり。
県令や従事クラスの文官や校尉、中郎将クラスの武官が劉備を支持しても、
大豪族でなおかつ重臣が曹操を支持していたらどうにもならない。
>>949 劉ソウ自身も褒賞貰ってるし、それは単純に親・反の差ではなく
「立場の高い人が降った」という事実に対しての顕彰であるとは思うんだがね
>>950 むしろそれだけ大盤振る舞いして繋ぎとめないといけないくらい反曹感情が強かった可能性もあるんじゃなかろうか
>>951 劉表のブレーン連中は、
官渡の頃からさんざん「皇帝を擁している曹操に味方しろ」と言ってて、
曹操から官位もらった奴もいるんだが。
>>951 この時期はまだ覇権は曹操っぽいよなーって機運が残ってた時期だし
大盤振る舞いはそれに合わせて「降伏者には寛大だからサクサク降ろうぜ!」的なメッセージだと思う
どの国、どの時代でも「初めから私は○○が天下を取ると思っていました」的なアレを鵜呑みにするのもなぁ。
有力豪族がそう根回しすりゃそういうことになるだろうし。
>>949の挙げたメンツで劉先なんかは逆に曹操に対し、使者として対面したときに本人に、
「お前が佞臣だから皇帝のもとへは行けない」と目の前で言った逸話持ちだったりするし、
勿論逆にこれが魏が倒れてから、北の王朝には従わなかったという経歴を作る意図で作られた話かも知れん。
なんか考えてて、どちらの意図にせよ「どういう考え方をしていたか」を、本人の著作もないのに云々するのって、
ループになりそうかなと思い始めた。
第二段落 三行目
>北の王朝には従わなかったという
を
>北の王朝には簡単には従わなかったという
に訂正
だね。この手の先見の明とか、戦場一騎駆けとか、進言したけど主君が従わなかったので負けました、
とかいうのは後世に創作されやすい部分だからあんまり解釈にマジになることじゃない。
ただ、この逸話が書かれた時点で「歴史上の人物をこのように印象付けようとした」ということは、
歴史上の人物の実相とは違うところで歴史の重要な判断材料になるが。
957 :
世界@名無史さん:2010/05/24(月) 10:47:13 0
>>949 だいたい劉表が持ってる兵力って、そういう重臣の兵力がほとんどだろ。
劉表直属の兵力は、劉gが持ってる1万ぐらいしかないんじゃね。
太守を筆頭として中郎将、校尉、従事クラスが即ち、
劉表政権を支える豪族・名士から構成される幹部グループだね。
県令はちょっと落ちるだろうけど。
別駕や治中は別格として、一般的に州の従事は県令より格下。
別駕や治中や太守や都尉は別格で、
中郎将や校尉や県令や県長が劉表政権を支える主な幹部クラスじゃないかな?
黄忠や霍峻は劉表の中郎将だったから、
劉表政権でも結構な地位だったんじゃないかと思う。
劉表って政権?
>>959 一般の従事というと諸郡従事だろうが、
別駕や治中には重要度で落ちるとしても、そもそも格は同じ扱いだし、
太守や県令長を監察して牧刺史に報告する役職。
後漢では二千石太守以下の郡県の業績考課を百石の諸郡従事が握っているとまで言われた。
州牧が軍閥の長の場合、別駕や治中が重んじられたように、重要な職。
ただし、太守自身が独立性の強い中小軍閥だった場合には無力だろうけど(江夏太守黄祖はこちらの部類だろう)
諸葛亮の第一次北伐では三郡ほど離反したってことだったけど
その三郡は蜀漢にどんな利を見出したのだろうか?勢いを恐れたのかなぁ
それとも魏の政治に反発したから呼応したのだろうか?
元々隴西はまだ支配が強固な地域ではなかった。
しかも、劉備の死後、対蜀の防備は疎かになっており、
長年この地域に関わっている郭淮も刺史に転属して、将軍などの軍官は確認できない。
郡県の兵くらいしか配備されてないところにいきなり数万の大軍が押し寄せたのだから
一斉に靡くのも無理はない。
ただ、天水太守が冀県に立て篭もったように、本当の意味で全部の城市が諸手を上げて
一斉に降服したのではないだろうけど。
隴西太守の游楚が諸葛亮の北伐時に
「危ないから今のうちに私の首を手土産に降伏すればいいぞ」と
官吏や豪族たちに言っていたように、
雍州西部は防備が手薄で抗戦するより、
諸葛亮の大軍に降った方がいいと考えた官吏や豪族が多かったんだろうね。
三郡が降伏したのは、本当に諸葛亮の大軍が怖かっただけだろう。
その証拠にちゃんと太守の游楚が防備策を講じて、
官民一丸になって抗戦した隴西郡は諸葛亮の撤退まで持ちこたえてる。
ばちょーんの遺徳でしょ
隴西とかみたいな交易での重要地、また匈奴防衛における要衝でもある地域は漢代通して結構、
外戚や皇帝親族の利権地だから、そこら辺では馬氏やケ氏、来氏のコネが生きたのかも。
三つの一族とも、羌や隴西関連での武勲や、異民族に対する穏和な統治での名声持ちの家系でもあるし。
>>960 世襲してることからも、一種の軍閥と見るべきだし、まぁ政権と言って良いんじゃね。
河北四州を支配する袁紹の政権の場合は、
官渡の時は軍の最有力者が別格の奮武将軍沮授で、
それに次ぐのが都督郭図と淳宇瓊。護軍逢紀や将軍荀顔良と文醜も有力者だな。
統治面の有力者は最有力者が青州刺史袁譚と幽州刺史袁煕と幷州刺史高幹で、
政治方面の有力者が冀州別駕の田豊と冀州治中の審配。
この二人の権限は他の州の別駕や治中と違って、冀州を越えて、
袁紹政権全体の政治と軍事を取り仕切っていたようだ。
その他の有力者は荀ェ・許攸・辛評といったところだろうか。
彼らは官職が明記されてないで参謀だったと思われるから、
大将軍府の長史や司馬、従事中郎といった高級属官あたりだと思われる。
これらの最高幹部に次ぐ袁紹政権を支える幹部は中郎将、太守、都尉、
各州の別駕・治中等の従事、大将軍府の従事中郎や参軍事や主簿、
と言ったところだろうな。
969 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 16:47:25 0
>>959 黄忠は曹操占領下で太守韓玄の配下に留め置かれているから、
長沙の有力者だったのかな?
逆に劉備は諸葛亮や関羽・張飛・趙雲などの有力・古参
の家臣を最初は荊州に残し、黄忠、魏延、霍峻といった荊州出身
の家臣を益州奪取に連れて行っている。
そういえば素朴な疑問なんだけど
劉備が何故直々に益州に行ったの?
劉障に信頼してもらうため?
劉璋に信頼されるためと、
劉璋を攻めたあとの益州統治を行うのは劉備以外にはできないからと、
基本的に劉備は自分で主力を率いて攻めにいく人間だったから。
972 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 18:06:37 0
>>970 劉備は元々は色々の軍閥を渡り歩いていた傭兵隊長。
赤壁後に荊州南部を獲得していたが、世間的イメージは昔の
傭兵隊長だったのだろう。だからすんなり益州に入れた。
これが根拠地がある人間だと警戒されて入国はできない。
当時はまだ荊州南部を獲得して僅かな期間であり、世間的にも
軍閥と見なされていなかったという事情がある。
>>969 黄忠はもともと南陽の人。地元の豪族では無い。
しかし、中郎将として長沙に駐屯してるうちに
土着して半軍閥化したのかもしれない。
曹操が韓玄を長沙太守に任命した時、
黄忠を偏将軍に任命して韓玄の配下としたけど、
太守の下に偏将軍を置くなんてかなり異例な人事だよね。
それだけ黄忠の長沙における実力は大きかったのか?
劉備が黄忠を重用した背景には、
黄忠が長沙で有していた強力な軍事力があったのかもしれない。
974 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 20:26:04 0
曹操は黄忠の軍事力を長沙の安定支配に利用しようと考え、
劉備は益州攻略の戦力として利用したということなのかな?
黄忠は江南の領袖。
つか。
長江上流には黄氏が根をはってたんだよ。
黄蓋だってそう。
黄権だってそう。
別の郡出身の同姓が宗族的紐帯を持っていたかは甚だ疑問
宗族的紐帯はないだろう。
でもあの辺の名家だったんだよ。っていいたいわけ。
偶然だよ。
後漢の黄氏といえば江夏黄氏だが、
後漢末では黄エンを最後に姿を消す。
逆に、荊州の他の黄氏は政治に頭角を現さない。
黄忠が一定の豪族だった可能性は否定しないが、
「黄氏」が何か特別な存在だったのではない。
強いて言えば荊州に多い姓だったのかもしれない、という程度。
そう。それをいいたかったんだけど??
名家と言いたかったんじゃないの?
俺は有り触れた姓だと言ったんだけど。
あのな。
中国ではな。
ありふれた姓ってのは名家の証拠なんじゃい!
ありふれた姓かどうかと、名家であるかどうかは関係ない。
名家であるかどうかは家の財力と歴代の当主の官位と名声と地元での影響力による。
何をいきなりw
そりゃ多少の財産持ってる家なら、相応の家系を名乗っただろうよ。
例えば黄氏なら
「我が家は舜帝にエイ姓を賜り黄国に封じられ、国を失いし滅ぼされしのちは
楚国に仕えた春申君のXX代のちの末裔でござい」
てな具合。
でもそれが即ち漢代で名家かというと、嘘だよ。
遠い祖先に偉人がいたかなんて役に立たない。
数百年掛けて分家、移住するうちに隆盛する家、零落する家千差万別なんだから。
広い土地と財産を持ち、郷里に多くの宗族を擁して血縁的紐帯を結び、
相互扶助を行って子弟に教育を学ばせ、或いは家学を伝え、
地域にあっては郷論に影響を及ぼし、
政治にあっては太守に働きかけて功曹のような高級郡吏を輩出し、
ゆくゆくは朝廷に送り込む。
そういうことを続けて来た宗族が「名家」なんだ。
同県同姓ならば、その一族に属していたと言えるだろうけど、
郡も違い系譜も明らかではないのでは、同姓だということなどまったく当てにならないと見て良い。
>>983 いや系図の創作なんて古今東西当たり前のことだから…w
【三国时期】
盖 公、权 公、忠 公
祖 公
すげぇぞ!
黄祖さんも同族だぞ!
しかも先祖は黄帝じゃん!
名家じゃんか!!
何言ってるんだみんな?
李世民は老子と李信と李広の子孫だし、独孤信は光武帝の次男、沛献王輔の子孫だし、楊堅は楊震の子孫だし。
ジャッキーチェンは房玄齢の子孫に決まっているじゃないか。
>>986 どこかの占い師だかの黄さんのサイトで、
自分の祖先の分家に南陽黄氏(黄忠)と零陵黄氏(黄蓋)をきっちり入れてるけど
黄祖さんをざっくり無視してるとこがあってな…
よかったな、黄祖さん…
ジャッキーチェンは孫悟空の子孫だ!!
991 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 22:21:37 0
桂陽出身の有名人はいる?
江夏黄氏の末裔が江戸前期に薩摩の国に移住した。
その子孫が明治になって大阪んでてきた。
そしてその子孫がやきうが滅法上手で阪神タイガースに入団して活躍したんだぞ。
江夏 豊 だよ。
行ってみる
立った!立った!王朝(次スレ)が立った!
残り少ないレスだが教えてくれ。当時、五行による王朝の交代の浸透具合はどうだったの?
黄巾党が出てるくらいだから、農民のレベルまで浸透していたとしてたと思うんだけど、
その王朝交代と、漢(火)の存続って相反するよね?(それとも後の世の後付だったのか?)
この五行に対する魏、呉、蜀の思惑が分かるようなエピソードがあるなら教えて欲しい。
もの凄いわかりにくい質問文だなと思った。
「後漢末頃、漢王朝が既に徳を失い、次の王朝にバトンタッチされることが、世論として一般的な、自明のものとなっていたのだろうか。」
という質問であってる?
☆まず、前提となる五行説を知っているか否かについて。
この時代、農民はおおよそ三つの種類に分かれる。
豪族、小作人、農奴だ。
農奴は五行説を知らん可能性が高い。蜂起はしてもおそらくは煽動者のスピーカーとなっただけだろう。
小作人は半々だろう。
一部の良心的な豪族が小作人に対し情をかけ多少の便宜をはかる例くらいはあったように思うし、
実際侯瑾のように小作人をしながら自勉で儒学的名声を勝ち取る例もあった。
ただそういった小作人の多くは、第五訪のように同時に豪族の縁者でもあった可能性が高いと見られている。
確実性のある話としては、豪族の縁者であれば知っていたであろう、ということだな。
ちなみに豪族はほぼ知っているだろう。名士≒豪族であり、概ね豪族は儒学的知識をもっているはずだ。
☆世論としてどうだったか。
桓帝期以降は帝を名乗る人間も増えているため、豪族系にとっては自明のことと考える人が多かったように思う。
軍が少なすぎるため、国内の野心を潰すことも外敵から国民を守ることも出来なくなっていることが決定的な要因だろう。
加えて、桓帝の父、順帝の代から宦官の腐敗が始まっており、災害も頻発し始めている。
農奴階級や零細農民などはここら辺のトリプルパンチから、黄巾党の煽動者に身を委ねたと思われる。
但し、支配階級はというと、儒学の普及のせいか名士など豪族一般で言えば末期に至っても忠臣は少なからずおり、
曹操が抜擢して将来を嘱望された高官などからも何度か叛乱も起こっているため、
王朝交代を信じない勢力も、大勢に影響を及ぼさない範囲ではそこそこ居たと見るべきかも。
>この五行に対する魏、呉、蜀の思惑が分かるようなエピソードがあるなら教えて欲しい。
元号の色、あと皇帝即位関連の文章近隣の瑞祥系のエピソードをよく見るといい。
999 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 06:20:13 0
何番
1000 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 06:21:46 0
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。