>>951 劉表のブレーン連中は、
官渡の頃からさんざん「皇帝を擁している曹操に味方しろ」と言ってて、
曹操から官位もらった奴もいるんだが。
>>951 この時期はまだ覇権は曹操っぽいよなーって機運が残ってた時期だし
大盤振る舞いはそれに合わせて「降伏者には寛大だからサクサク降ろうぜ!」的なメッセージだと思う
どの国、どの時代でも「初めから私は○○が天下を取ると思っていました」的なアレを鵜呑みにするのもなぁ。
有力豪族がそう根回しすりゃそういうことになるだろうし。
>>949の挙げたメンツで劉先なんかは逆に曹操に対し、使者として対面したときに本人に、
「お前が佞臣だから皇帝のもとへは行けない」と目の前で言った逸話持ちだったりするし、
勿論逆にこれが魏が倒れてから、北の王朝には従わなかったという経歴を作る意図で作られた話かも知れん。
なんか考えてて、どちらの意図にせよ「どういう考え方をしていたか」を、本人の著作もないのに云々するのって、
ループになりそうかなと思い始めた。
第二段落 三行目
>北の王朝には従わなかったという
を
>北の王朝には簡単には従わなかったという
に訂正
だね。この手の先見の明とか、戦場一騎駆けとか、進言したけど主君が従わなかったので負けました、
とかいうのは後世に創作されやすい部分だからあんまり解釈にマジになることじゃない。
ただ、この逸話が書かれた時点で「歴史上の人物をこのように印象付けようとした」ということは、
歴史上の人物の実相とは違うところで歴史の重要な判断材料になるが。
957 :
世界@名無史さん:2010/05/24(月) 10:47:13 0
>>949 だいたい劉表が持ってる兵力って、そういう重臣の兵力がほとんどだろ。
劉表直属の兵力は、劉gが持ってる1万ぐらいしかないんじゃね。
太守を筆頭として中郎将、校尉、従事クラスが即ち、
劉表政権を支える豪族・名士から構成される幹部グループだね。
県令はちょっと落ちるだろうけど。
別駕や治中は別格として、一般的に州の従事は県令より格下。
別駕や治中や太守や都尉は別格で、
中郎将や校尉や県令や県長が劉表政権を支える主な幹部クラスじゃないかな?
黄忠や霍峻は劉表の中郎将だったから、
劉表政権でも結構な地位だったんじゃないかと思う。
劉表って政権?
>>959 一般の従事というと諸郡従事だろうが、
別駕や治中には重要度で落ちるとしても、そもそも格は同じ扱いだし、
太守や県令長を監察して牧刺史に報告する役職。
後漢では二千石太守以下の郡県の業績考課を百石の諸郡従事が握っているとまで言われた。
州牧が軍閥の長の場合、別駕や治中が重んじられたように、重要な職。
ただし、太守自身が独立性の強い中小軍閥だった場合には無力だろうけど(江夏太守黄祖はこちらの部類だろう)
諸葛亮の第一次北伐では三郡ほど離反したってことだったけど
その三郡は蜀漢にどんな利を見出したのだろうか?勢いを恐れたのかなぁ
それとも魏の政治に反発したから呼応したのだろうか?
元々隴西はまだ支配が強固な地域ではなかった。
しかも、劉備の死後、対蜀の防備は疎かになっており、
長年この地域に関わっている郭淮も刺史に転属して、将軍などの軍官は確認できない。
郡県の兵くらいしか配備されてないところにいきなり数万の大軍が押し寄せたのだから
一斉に靡くのも無理はない。
ただ、天水太守が冀県に立て篭もったように、本当の意味で全部の城市が諸手を上げて
一斉に降服したのではないだろうけど。
隴西太守の游楚が諸葛亮の北伐時に
「危ないから今のうちに私の首を手土産に降伏すればいいぞ」と
官吏や豪族たちに言っていたように、
雍州西部は防備が手薄で抗戦するより、
諸葛亮の大軍に降った方がいいと考えた官吏や豪族が多かったんだろうね。
三郡が降伏したのは、本当に諸葛亮の大軍が怖かっただけだろう。
その証拠にちゃんと太守の游楚が防備策を講じて、
官民一丸になって抗戦した隴西郡は諸葛亮の撤退まで持ちこたえてる。
ばちょーんの遺徳でしょ
隴西とかみたいな交易での重要地、また匈奴防衛における要衝でもある地域は漢代通して結構、
外戚や皇帝親族の利権地だから、そこら辺では馬氏やケ氏、来氏のコネが生きたのかも。
三つの一族とも、羌や隴西関連での武勲や、異民族に対する穏和な統治での名声持ちの家系でもあるし。
>>960 世襲してることからも、一種の軍閥と見るべきだし、まぁ政権と言って良いんじゃね。
河北四州を支配する袁紹の政権の場合は、
官渡の時は軍の最有力者が別格の奮武将軍沮授で、
それに次ぐのが都督郭図と淳宇瓊。護軍逢紀や将軍荀顔良と文醜も有力者だな。
統治面の有力者は最有力者が青州刺史袁譚と幽州刺史袁煕と幷州刺史高幹で、
政治方面の有力者が冀州別駕の田豊と冀州治中の審配。
この二人の権限は他の州の別駕や治中と違って、冀州を越えて、
袁紹政権全体の政治と軍事を取り仕切っていたようだ。
その他の有力者は荀ェ・許攸・辛評といったところだろうか。
彼らは官職が明記されてないで参謀だったと思われるから、
大将軍府の長史や司馬、従事中郎といった高級属官あたりだと思われる。
これらの最高幹部に次ぐ袁紹政権を支える幹部は中郎将、太守、都尉、
各州の別駕・治中等の従事、大将軍府の従事中郎や参軍事や主簿、
と言ったところだろうな。
969 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 16:47:25 0
>>959 黄忠は曹操占領下で太守韓玄の配下に留め置かれているから、
長沙の有力者だったのかな?
逆に劉備は諸葛亮や関羽・張飛・趙雲などの有力・古参
の家臣を最初は荊州に残し、黄忠、魏延、霍峻といった荊州出身
の家臣を益州奪取に連れて行っている。
そういえば素朴な疑問なんだけど
劉備が何故直々に益州に行ったの?
劉障に信頼してもらうため?
劉璋に信頼されるためと、
劉璋を攻めたあとの益州統治を行うのは劉備以外にはできないからと、
基本的に劉備は自分で主力を率いて攻めにいく人間だったから。
972 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 18:06:37 0
>>970 劉備は元々は色々の軍閥を渡り歩いていた傭兵隊長。
赤壁後に荊州南部を獲得していたが、世間的イメージは昔の
傭兵隊長だったのだろう。だからすんなり益州に入れた。
これが根拠地がある人間だと警戒されて入国はできない。
当時はまだ荊州南部を獲得して僅かな期間であり、世間的にも
軍閥と見なされていなかったという事情がある。
>>969 黄忠はもともと南陽の人。地元の豪族では無い。
しかし、中郎将として長沙に駐屯してるうちに
土着して半軍閥化したのかもしれない。
曹操が韓玄を長沙太守に任命した時、
黄忠を偏将軍に任命して韓玄の配下としたけど、
太守の下に偏将軍を置くなんてかなり異例な人事だよね。
それだけ黄忠の長沙における実力は大きかったのか?
劉備が黄忠を重用した背景には、
黄忠が長沙で有していた強力な軍事力があったのかもしれない。
974 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 20:26:04 0
曹操は黄忠の軍事力を長沙の安定支配に利用しようと考え、
劉備は益州攻略の戦力として利用したということなのかな?
黄忠は江南の領袖。
つか。
長江上流には黄氏が根をはってたんだよ。
黄蓋だってそう。
黄権だってそう。
別の郡出身の同姓が宗族的紐帯を持っていたかは甚だ疑問
宗族的紐帯はないだろう。
でもあの辺の名家だったんだよ。っていいたいわけ。
偶然だよ。
後漢の黄氏といえば江夏黄氏だが、
後漢末では黄エンを最後に姿を消す。
逆に、荊州の他の黄氏は政治に頭角を現さない。
黄忠が一定の豪族だった可能性は否定しないが、
「黄氏」が何か特別な存在だったのではない。
強いて言えば荊州に多い姓だったのかもしれない、という程度。
そう。それをいいたかったんだけど??
名家と言いたかったんじゃないの?
俺は有り触れた姓だと言ったんだけど。
あのな。
中国ではな。
ありふれた姓ってのは名家の証拠なんじゃい!
ありふれた姓かどうかと、名家であるかどうかは関係ない。
名家であるかどうかは家の財力と歴代の当主の官位と名声と地元での影響力による。
何をいきなりw
そりゃ多少の財産持ってる家なら、相応の家系を名乗っただろうよ。
例えば黄氏なら
「我が家は舜帝にエイ姓を賜り黄国に封じられ、国を失いし滅ぼされしのちは
楚国に仕えた春申君のXX代のちの末裔でござい」
てな具合。
でもそれが即ち漢代で名家かというと、嘘だよ。
遠い祖先に偉人がいたかなんて役に立たない。
数百年掛けて分家、移住するうちに隆盛する家、零落する家千差万別なんだから。
広い土地と財産を持ち、郷里に多くの宗族を擁して血縁的紐帯を結び、
相互扶助を行って子弟に教育を学ばせ、或いは家学を伝え、
地域にあっては郷論に影響を及ぼし、
政治にあっては太守に働きかけて功曹のような高級郡吏を輩出し、
ゆくゆくは朝廷に送り込む。
そういうことを続けて来た宗族が「名家」なんだ。
同県同姓ならば、その一族に属していたと言えるだろうけど、
郡も違い系譜も明らかではないのでは、同姓だということなどまったく当てにならないと見て良い。
>>983 いや系図の創作なんて古今東西当たり前のことだから…w
【三国时期】
盖 公、权 公、忠 公
祖 公
すげぇぞ!
黄祖さんも同族だぞ!
しかも先祖は黄帝じゃん!
名家じゃんか!!
何言ってるんだみんな?
李世民は老子と李信と李広の子孫だし、独孤信は光武帝の次男、沛献王輔の子孫だし、楊堅は楊震の子孫だし。
ジャッキーチェンは房玄齢の子孫に決まっているじゃないか。
>>986 どこかの占い師だかの黄さんのサイトで、
自分の祖先の分家に南陽黄氏(黄忠)と零陵黄氏(黄蓋)をきっちり入れてるけど
黄祖さんをざっくり無視してるとこがあってな…
よかったな、黄祖さん…
ジャッキーチェンは孫悟空の子孫だ!!
991 :
世界@名無史さん:2010/05/25(火) 22:21:37 0
桂陽出身の有名人はいる?
江夏黄氏の末裔が江戸前期に薩摩の国に移住した。
その子孫が明治になって大阪んでてきた。
そしてその子孫がやきうが滅法上手で阪神タイガースに入団して活躍したんだぞ。
江夏 豊 だよ。
行ってみる
立った!立った!王朝(次スレ)が立った!
残り少ないレスだが教えてくれ。当時、五行による王朝の交代の浸透具合はどうだったの?
黄巾党が出てるくらいだから、農民のレベルまで浸透していたとしてたと思うんだけど、
その王朝交代と、漢(火)の存続って相反するよね?(それとも後の世の後付だったのか?)
この五行に対する魏、呉、蜀の思惑が分かるようなエピソードがあるなら教えて欲しい。
もの凄いわかりにくい質問文だなと思った。
「後漢末頃、漢王朝が既に徳を失い、次の王朝にバトンタッチされることが、世論として一般的な、自明のものとなっていたのだろうか。」
という質問であってる?
☆まず、前提となる五行説を知っているか否かについて。
この時代、農民はおおよそ三つの種類に分かれる。
豪族、小作人、農奴だ。
農奴は五行説を知らん可能性が高い。蜂起はしてもおそらくは煽動者のスピーカーとなっただけだろう。
小作人は半々だろう。
一部の良心的な豪族が小作人に対し情をかけ多少の便宜をはかる例くらいはあったように思うし、
実際侯瑾のように小作人をしながら自勉で儒学的名声を勝ち取る例もあった。
ただそういった小作人の多くは、第五訪のように同時に豪族の縁者でもあった可能性が高いと見られている。
確実性のある話としては、豪族の縁者であれば知っていたであろう、ということだな。
ちなみに豪族はほぼ知っているだろう。名士≒豪族であり、概ね豪族は儒学的知識をもっているはずだ。
☆世論としてどうだったか。
桓帝期以降は帝を名乗る人間も増えているため、豪族系にとっては自明のことと考える人が多かったように思う。
軍が少なすぎるため、国内の野心を潰すことも外敵から国民を守ることも出来なくなっていることが決定的な要因だろう。
加えて、桓帝の父、順帝の代から宦官の腐敗が始まっており、災害も頻発し始めている。
農奴階級や零細農民などはここら辺のトリプルパンチから、黄巾党の煽動者に身を委ねたと思われる。
但し、支配階級はというと、儒学の普及のせいか名士など豪族一般で言えば末期に至っても忠臣は少なからずおり、
曹操が抜擢して将来を嘱望された高官などからも何度か叛乱も起こっているため、
王朝交代を信じない勢力も、大勢に影響を及ぼさない範囲ではそこそこ居たと見るべきかも。
>この五行に対する魏、呉、蜀の思惑が分かるようなエピソードがあるなら教えて欲しい。
元号の色、あと皇帝即位関連の文章近隣の瑞祥系のエピソードをよく見るといい。
999 :
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