蜀は実は魏より豊かな国だった

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1無名武将@お腹せっぷく
鉱山資源と塩の専売で、装備ははるかに魏より上
魏は物々交換が主流だったが、蜀は貨幣経済が主流だった
2無名武将@お腹せっぷく:2010/04/13(火) 08:21:43
>>1
ソース
3無名武将@お腹せっぷく:2010/04/13(火) 09:02:48
サンタクロース
4無名武将@お腹せっぷく:2010/04/13(火) 12:00:51
余裕のヨン様
5無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 06:48:31
馬氏の5常 末子最も登山家
6無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 09:25:05
魏のように戦乱の主戦場になっていないし、呉のように異民族と難民だらけということも
ないだろうから、一人あたりのGDPは蜀が一番高い可能性は十分あるな。
7無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 12:43:10
問題は人が居ないことだ
8無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 14:49:27
一人当たりのGDP的に考えればそうかもな
9無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 15:34:20
まともに兵糧も用意出来ないのに豊かとか…
10無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 15:36:46
あれは糧道の問題であって
蜀の国内の問題では無いのでは?
11無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 15:46:30
GDP総額が違うだろ。
魏は ビルゲイツから ホームレスまで
ショクは ・・・
12無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 17:50:20
現代では一人当たりのGDPが高いと技術力が高かったりするけどな
13無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 18:39:49
武器の質も魏より蜀の方が良かったって話は聞くな
14無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 19:01:35
鉱山資源が豊富だからね
生産力は下回るが、魏の方が養わなければいけない人間の総数が多いから一人当たりのGDP的には豊かと言えるかも
15清一色:2010/04/16(金) 20:53:19
魏の場合、貨幣経済をぶっ壊した董卓の影響が後々まで響いたんだなぁ。
16無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 20:57:03
住むなら成都、働くなら洛陽、遊ぶなら建業
17無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:44:36
日照時間少ないのに農産物まともに作れたのか?
18無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:47:27
三国時代では魏の騎兵戦に対抗するために蜀では歩兵の武器、特に弩の配備に力を入れた。
政府直轄の工房では高度に規格化、分業化され、威力(石)、製造年、製造工房、製造責任者など
が刻まれていた当時の最先端の兵器だった。

蜀が魏に対抗できた理由のひとつに独自で鉄鉱山を抑えていたことが大きく、これは鉄製の武器や
防具の製造以外にも、鍬や鋤など農具にも使われ、灌漑などの土木工事でも威力を発揮した。
19無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:53:41
魏についていえば物々交換が主流だったのは事実


歴史上も悪名高い董卓銭は鉄製貨幣で、価値が低い粗悪品。丸くて穴のあいた円形だから見た目がひどい。
そんなのが魏の市場貨幣を駆逐していた。

董卓銭は大量にあるのも問題。中原は森林荒廃で200年以上再改鋳するための燃料がなかったから
魏、晋とも何の手も打ててない。 全てトウ卓の悪政のせいだが、ハイパーインフレになすすべもなく

その点、蜀は鋼材資源豊富だったから、劉巴の貨幣制度改革で物価は安定してた
20無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:57:22
ちなみに呉は国家成立前は豪族割拠で漢にも服してない地域が多かったので金銀はそこそこあったが
会稽や特定の街でしか貨幣流通は基本的ではなく豪族に収められるのも物税だったので長江流域で貨幣経済があったくらい
孫権が董卓銭500枚にあたる貨幣をつくってみたりしたが本格流通にいたらず、魏に準じた税体系になったと思われる
当時の魏地域で近年大規模な出土貨幣(貯蓄されていたものがそのまま埋まったもの)があり数万枚に及ぶ銭の種類を類別した記事があったが
内訳は董卓銭96%、後漢末期以前の良貨3%、蜀直百銭(前述の蜀で鋳造された貨幣)1%
蜀だけ貨幣がまともに税としても使えていたようだが蜀でも絹が貨幣のかわりに税で納められる地域もあったようだ
21無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:59:18
鉱山が蜀地域に集中、呉にも多少はあったが魏の中原は当時の技術で掘れる鉱山は枯れていた
改鋳しようにも燃料である木材が不足(当時は寒冷化の為暖房用に大規模な森林伐採で禿山状態。蜀は人口が少ない為木炭が無事入手可能)
結果金銀も蜀に集中していった(金や銀は国家間の貿易で主に使用。王侯以下の所有は原則禁止)


兵装にも違いはあった
蜀軍は鉄製防具が標準だったが、魏は司令官クラスですらほとんど皮製装備だった
22無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 22:02:17
魏、晋は漢の時代税は銭と穀物だったのを絹布と穀物、繭綿(木綿は当時の中国にはなく綿といえば繭綿)に変えている
董卓が大量に乱造した董卓銭が銭の流通のほとんどになってしまった為銭の価値が大きく低下した為。
蜀では董卓銭100枚の価値を持つ貨幣が鋳造され魏、呉でも流通した。
(董卓銭は円形で穴があいてるだけで文字なしの粗悪銭。それでも鉄銭より価値が高いがそれ以前流通していた通貨の数十分の一の価値)

ちなみに三国を統一し誕生した晋は、なぜか三国の悪い部分だけ承継したといわれる
23無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 22:09:41
当時の一人当たりGDPなど知る良しもないが
多分
蜀>>>呉>>魏
24無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:28:49
>>24
晋って、なんであんなにクソな王朝だったんだろうなw
司馬昭、司馬炎、カ充、杜預とか日本のネット限定で過大評価されすぎ
まともなの、張華ぐらいだろ

伝統的な歴史学者の方がはるかに正しい
25無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:44:10
誤爆ったスマソ
26無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:44:14
ちょうか?
27無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:45:34
>>26
スマン誤爆だから許せ
28無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:47:38
>>27
ちょうか、気にするな
29無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 00:56:07
蜀の治安はどうだったんでしょう。蜀は昔、流刑地だったので犯罪者が多かったと
思うのですが、三国時代には治安は安定したのかなぁ
30無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 09:57:21
単純に答えだけで言うならNoだがな
蜀は塩の専売制で塩税を三国中最も高く設定していた
諸葛亮はそのことで配下の役人から「塩税高すぎだから下げるべき」という進言を受けている(結局税率下げなかったが)
魏呉ではそのような高率の塩税を設定するまでもなく
租税等と屯田による収入で財政が回っていた

むしろ安定した貨幣経済が蜀で運用されていた裏には
商業収入に頼らざるを得ない蜀の苦しい財政事情が見え隠れすると思われる
特に滅亡時の資産目録を見ればわかることだが蜀にはとにかく金銀がなく
輸出用と思われる絹製品ばかりが大量にある
31無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 14:19:17
>>30
どの質問に対する答え?
32無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 14:27:46
>>30
一州としてはかなり豊かだったが、数倍の国力を持つ魏に対抗するために
高率の統制体制を敷いていたため、国家としてはぎりぎりの綱渡りだった、ってとこだね。
経済も人的資源も根こそぎ国家運営に投入されたため、大敗から建て直す冗長性がない国だった。
33無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 15:30:35
逆にそういう統制体制だったから、
蜀という地のポテンシャルを活かせなかったというのはあるかもな。
34無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 15:35:53
諸葛亮の手腕で益州のポテンシャルが最大限に生かされた結果が史実だろうよ
漢魏伝統の緩やかな統治体制では一州が40年も魏に対抗するのは不可能だった
35無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 15:41:30
大日本帝国に通じるものがあるな
36無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 15:48:50
現代的に言えば、そういう統制をするから返って経済が活性化しなかったりするんだよ。
税率下げた方が良いと当時でも言っていた人がいるし、まず一つの案としては間違ってないと思う。
実際何十年も蜀は存在した訳だし、長期的に経済を活性化させる事を考えるのは非現実的という事は無い。
経済が活性化すれば、結果的に軍事力も高まる。
あとは人口も増えるだろう。
37無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 15:50:23
要は蜀は魏より豊かだったけど、
もっとずっと豊かになる方法があったんじゃないの?
て事。
38無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 15:59:50
強い外敵がいない国ならばそれが正しくて現実的だっただろうね
39無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 16:52:52
>>29
確かに、滅亡時はすっからかんの状態だった。それは事実。
しかし、それは孔明やキョウイの幾度となく行われた北伐が原因

しかし、貨幣改革や専売制が成功した後の、北伐前の蜀の財政は魏呉とほとんど遜色ないほど潤っていた。
魏の1/10の人口で、それだけの金があったというわけだから推して知るべし。


>>38
まあ、北伐しなきゃ結構やれていたと思うが。
結果論だけど蜀軍は、アウェイで二倍の魏軍相手に戦えるほど、兵装が良かったわけだから。
蓄財と内政に勤めて、引きこもっていれば結構長く続いたと思うよね。魏晋呉ののちのぐだぐたぷりを見ると。
40無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 17:00:11
魏を襲ったハイパーインフレは、年率62400%〜124900%
とも

これでは貨幣の信用なんて無きに等しい。
おまけに君でも僕でも作れちゃうくらい簡単に作れる代物だから、私鋳銭がでまわり
董卓滅亡後もどんどん増えまくった。
魏から続く隋以前の統一王朝はこの大量に出回った董卓銭を改鋳できる力がなく
その後200年猛威を振るった。
董卓は確かにいろんな悪事を犯したが、影響力が最も大きかったのは董卓銭の開発だろう
41無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 17:05:29
二倍は言い過ぎだが、隴西で魏と優勢に渡り合えるほどの数量と質を投入できたのが
そもそも蜀の統制体制の賜物だから、>>36の政策ではそんなことは不可能になる。

加えて、魏も国力を伸張する 
魏が、漢中を西回りして天水-武都を経由し四川盆地へ直接侵攻することができれば、
漢中駐留軍と戦わずに巴蜀と漢中を分断できる。
それには、超長距離の兵站と兵員供給体制が必要になり、雍州、特に隴西の基盤固めが必須になる。
その作業を遅滞させるというのが、諸葛亮や姜維が隴西を主戦場にした理由のひとつだろう。
北伐を回避することは難しい。
42無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 19:05:37
>>29
蜀に入ったときに諸葛亮や法正たちが法律を新たにして
厳しく罪人を取り締まったって話を聞いたことある
43無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 19:10:47
魏の経済含め 国力成長率と
蜀の成長率が『仮に』同じとしても差が開く一方だったでしょ。

あそこで打って出なかったら 一生負けないまでも 100%の負けが待ってただけだし。
そういう意味では北伐は正解だったと思う。
44無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 19:18:47
魏もいい時期の曹操と曹叡に対応力があるだけであとは不穏に見える
45無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 19:39:29
魏は魏で、最も荒廃した中原部を抱えているわけだから、その安定に力を取られながら
二国に対応する軍備を増強せねばならなかった。
地方には荒廃した土地に汲々としながら既得権を死守しようとする豪族が頑張っていて、
全戸的な徴兵制度など夢物語だった。

それを克服するために設立されたのが屯田と兵戸制度で、
これは部曲兵や流民から耕作者を募集することで、兵糧・兵士・力役の供給源とする制度。
与えられる田地は公田なので、小作料として高率の負担を掛けることが出来る。

この制度のため、魏は全戸口の割には兵員数が少なく、呉蜀の同時攻撃に劣勢を強いられるなど
苦戦が長年続いた。
しかし、屯田地は典農官という軍官が直接管理したため、朝廷の強力な中央集権下に主力軍団を置くことができた。
司馬晋が魏をのっとりながらもこの制度は揺るがず、重なる叛乱を鎮圧し、最終的には蜀・呉を滅ぼす原動力になった。
姜維の北伐と段谷一戦の大敗で前線と成都に亀裂が入った末期蜀や、
もはや利なしとみた豪族が次々離反してしまった末期呉に比べて、
魏晋が最終的に勝利を得た大きな要因と言えるのだろう。
46無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 21:39:15
>>31
ああ、すまんすまん、スレタイに対してだ
47無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 21:45:52
>>36
ところが魏は今で言えばある程度自由主義的に関税を引き下げ商業を振興しようとした結果
呉蜀の銭が流れ込み自国の通貨の信用が失墜して終いには銭の発行停止と再開を繰り返すハメに陥ってる
三国時代的な経済は一種の統制経済の下にないと上手くいかないってことだ

三国時代前後の2世紀〜3世紀は中華世界よりも、インドやメソポタミア、
さらにその西の地中海世界の経済成長が著しくて
国家がしっかりと商人に首輪付けておかねば東側では国富が流出してしまうと思われるしな
48無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 01:27:12
西方貿易はどれくらい国家財政に寄与してたんだろう?
蜀が飽くまでも関中に拘った理由は、南北シルクロードの利を押さえるためだという
小説もあったよね
49無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 12:46:55
>>6
蜀は普通に異民族だらけじゃ無いのか…?
50無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 12:50:27
>>48
そこまでいくと大風呂敷を広げ過ぎな感じがする
51無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 18:58:03
>>48
正直なところ交易拠点としての涼州は割りとどうでもいいでしょ
元々蜀からは始皇帝の整備した道路が西蔵と越南方向に伸びてて無理に西北の拠点に拘る必要はないし
シルクロードの担い手だった遊牧民達は中国人の考える城郭なんて簡単に無視して動けるだろうし
実際、姜維時代の北伐は本来魏の勢力圏で城などの拠点はガッチリ魏に抑えられてるのに
蜀軍は全く意に介さず遊牧民から補給を受けているところから見ても
制限はあったとしても蜀が北方と交易できなかったわけではないと考えていいだろう
蜀としたら商人に多少上前撥ねられても長距離交易のリスクを取る必要性を感じないほどの絹生産力と品質を誇ってただろうし
交易路確保のためと言い張るのは難しくないかな
52無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 22:21:40
この時代は唐辛子は中国に存在していないだろうから
四川料理は辛くなかったの?
53無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 22:24:51
岩塩で塩辛かった
54無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 23:10:34
>>53
四川の塩は岩塩のみならず塩水を汲み上げて作る塩井塩も忘れちゃいけないっていうか
むしろ岩塩よりも塩井塩の方がメジャーだったくらい

金持ちは全員自前の塩井持ってたと言われるくらい四川では普及してた
55無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 02:17:22
>52
でも生姜は名産だったみたいだね
56無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 10:00:00
>>30
蜀が豊かだったのは、鉱山の他、塩がどこでも採れたところだと思う。

高率の塩税というけど、原価が安ければ高率になるんじゃないの。
57無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 12:57:14
結論から言うと、北伐をしなければ勝手に魏と呉は潰れて蜀が勝者になれたということ。
58無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 18:18:09
とか言うアホって未だに居るんだな
59無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 18:26:03
>>57
北伐をしなければ姜維は魏のまま。孔明死後、魏延がのさばり
あっという間に魏に滅ぼされたと思います。
60無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 18:30:43
ぶっちゃけ

劉障統治時代と劉備統治時代のどっちのほうが国民は豊かにやってたの。
放漫とはいえ税金安くて、戦争なかった劉障統治時代を懐かしむ声はなかったの。
61無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 19:35:07
「国民」と言っても、益州で豊かだったのは豪族達。
他の地域と同じく、益州でも、飢饉と漢の統治の緩みに乗じて豪族達が小農民の土地を兼併していた。
また、劉璋が放漫と言っても、益州豪族を野放しにしていたのではなくて、
劉璋の権力基盤である東州兵を野放しにして益州人を抑圧していた(と、英雄記は言う)。
一方で東州兵も、ホウ義の乱に見られるように必ずしも劉璋に忠誠を誓う一枚岩ではなかった。
劉璋にそれらの混乱を収拾する力がなく叛乱も断続的に起こっていた。
そのため劉備が乗り込んで来た時に帰順する者が続出した(と、蜀書はいう)。
勿論、打って変わった統制政治に、「失敗した!」と思った者がいないわけではないだろう。
劉備時代以後も叛乱は各地で続出している。
62無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 19:39:18
>>60
劉障時代は武将や豪族同士の内戦ばかりで、
東州兵が民衆を苦しめていたりして、統治は安定していなかった。
それに比べれば、戦争はあっても全部益州の外で、
治安の安定していた劉備や劉禅の時代の方が、
民衆にとっては暮らしやすいだろ。
63無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 20:14:14
>>56
原価の問題じゃなくて官製塩の値段を上げる事で税金を取ってるんだよ
だから塩の値段を上げれば民衆は苦しむって話だろ
64無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 21:38:02
塩の密売人が高額で売りさばいても、それでも官製塩に比べたら
安くて高品質って話を聞いた記憶が蘇って来た
65無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 02:20:46
日本でも塩の売買が自由になったのってついこの前なんだな
そいえば博多の塩の宣伝やりはじめたのけっこう最近だ
66無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 02:33:46
>>63
王連はそれやって税金搾り取って出世した人だよね。
王連が塩の専売の責任者になったら、
税収が大幅にアップしたそうだから、さぞアコギな商売したんだろう。
67無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 10:14:51
>66
中間搾取とか無くしたんじゃないの
68無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 12:23:10
>>66
当時は官→商人→消費者という形で流通経路が成立してる
だからこそ違法製造者と密売人の暗躍する隙間が生まれる

密売人を取り締まりつつ、消費者に直接塩を売る施設(塩販売所を増やすとか)や
塩を使った金融システムなど(古代ローマ的な)法整備をしっかりと構築する事で利益を一気に増やすということは可能だろうね
69無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 19:24:58
>>67
諸葛亮の厳格な統治下で中間搾取なんかできたかどうか疑問。
諸葛亮なら、そういうことする奴がいること見越して、
ビシバシ取り締まるはず。

王連は厳しく塩の売買を取り締まり、
密売ができないようにして、塩の値段も上げて、
庶民生活の犠牲の上に塩の売り上げを飛躍的に伸ばしたのではないか?

>>68
しかし、密売は取り締まらない方が民衆としてはありがたいんだよね。
密売塩の方が安くて質がいいから。王連が塩の専売を担当したら、
税収が激増したという記録があるだけなんだよな。
直接塩を売ったり、法整備をするなど画期的な政策を行っていたら、
同じく経済政策で手腕を振るった劉巴のように記録が残ったと思う。
70無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 19:31:26
塩の密売人が民衆のヒーローになるのは唐代以降だと思ったが
漢三国代の専売で>>64>>69のような問題が発生していた史料ってあったっけ?
71無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 20:31:54
>>69
民衆の犠牲って言うが、景気がいい時、塩や鉄の値段が上がったからと言って文句言う奴はいまい?
劉備や諸葛亮は同時に上手くやっただけだろ
蜀は一州としたら非常よい収入を持った州なわけだし

>>70
おいおい、塩鉄論がどうして出来たのかも知らないのか
72無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 20:43:50
廖立伝に

「王連のような俗物がのさばっているから、民衆が疲弊してこのような事態を招いた。」

とか言ってたような気がする。
73無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 21:21:05
>>71
塩鉄論に、官制の塩が高くて質が悪いので密売人が横行しているって話しあったっけか?
74無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 23:55:54
つーか本当の意味での「市民」の声なんて史書にはのこらねーからな。
そんなもの国のプロパガンダがいくらでも操作するし。
ただ一州で十州を統べる大国と正面から何年も戦争体制をとってたんだから、普通に考えて民衆の生活に何の支障も出なかったなんて事はありえねーよ
戦争やらなくたって餓死者が出るような時代なのに
75無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 00:21:25
「戦争によって民衆の生活にマイナスの影響が出た」と「民衆が疲弊した」
は必ずしもイコールで結ばれるとは限らないだろう
マイナスの影響が出たとしても生活していけるのなら問題ないわけだし
76無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 00:32:05
>>73
単純に市場原理だろ
官製で相手と競争しなくていいと思ってれば必然質は下がる
逆に密売人は市場原理の元で品質改善にある程度努める
77無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 00:39:25
>>74
そんな意味のない一般論じゃなくてさ。
蜀漢の統制政策下で、益州の民が決して安逸とした暮らしをしていたわけではないのは
>>32以下の流れでわかるだろう。

だが、だからといって、
「密売は取り締まらない方が民衆としてはありがたい」とか「密売塩の方が安くて質がいい」とか
妙に具体的な情勢を前提に語ってるのはなにか史料があったっけって話だよ。
それともずっと後の時代のイメージで語ってるだけなの? と。
78無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 00:50:56
一般論は大概の事例で通じるから意味があるんだろ。
79無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 00:55:31
後漢書の桓帝紀、霊帝紀
晋書の武帝紀、恵帝紀

によるとこの時代は統一されてても国としてgdgdなのが窺えますね。
軍閥が割拠して分裂抗争してるような状況の民衆生活は悲惨かと。
彼らのような昏君と違い英雄とされる曹操や諸葛亮、孫権が統一したとしても
有効な対策を取れたんでしょうかね?
80無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 00:57:23
>>73
官製の塩鉄は質が悪い、という記述は漢書食貨志に見えるな
81無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 01:04:25
>>76
武帝の塩鉄専売で言えば、この制度が始まった一方の切っ掛けとして、
山東の大飢饉に富豪が乗じて塩鉄の取引で暴利を貪り、貧農を使役して苦しめた、
という背景がある(もう一方は勿論軍事費問題)
そこで好き勝手やっていた「徒食浮浪の民=商人」を官吏に登用してしまうことで、
その流通を監督する、という目論見だった。
この統制は上手く運用されたわけではなく、官の塩鉄の質が悪いという問題は確かに見られたようだ。
世論の反発の結果起きた議論が纏められたのが「塩鉄論」になるが、
そこでは儒学的な農業重視思想と共に、国家が「天下と利を争う」のをやめて
元の自由経済の状態へ戻せというのが政治的な力を持っていたことが伺える。
その後ろ盾が霍光だったりする。

貨幣や土地売買などでもそうだが、当時は朝廷もそう簡単に流通に手を出せない
放任経済なので、不安定な時ほど細民兼併豪族伸張の危険が高かった。
塩と鉄はそれに利用される代表格。
これを抑制するというのが、塩鉄専売の二つの目的のうちの一つだね。
82無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 01:05:12
>>79
国としてgdgdだったのは後漢通じて北方系の遊牧民が侵攻しまくってたからだろうね
対応のための戦費で国家財政が傾いてた事があちこちに散見される
その結果極端なインフレが起こってて桓帝に大銭の発行で対策すべきと言う建策がなされているけど
どういった理由かは不明だが桓帝は結局実行しなかった

霊帝が即位すると桓帝のやり方ではダメだと痛烈に批判して売官含めた強引な経済政策で国庫に金を集めて
皇帝直属の常備軍を整備してる
その直後に霊帝が死んで台無しになったがね
83無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 14:19:58
>>79
分裂後の乱世で、あらかた統一前の膿は絞り出されてるし、
曹操も諸葛亮も孫権も分裂時代の困難な状況で、
戦いながら内政に力を入れて、安定した治世を作り上げたから、
戦いが無くなったら、彼らなら有効な施策ができるんじゃないかな?
晋が統一されてるのにgdgdだったのは、ひとえに武帝と恵帝と権臣の無能によるもので、
統一当初は誰がやっても有効な対策が取れなかったと言うほど悲惨な状況では無かった。
84無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 14:25:15
>>82
あと、後漢は幼帝続きで外戚や宦官が自分の利益しか考えない政治を行い、
官僚と豪族の間に構造的な癒着があり、
収賄や税金の横領で腐敗した官僚が地方を治め、
そのツケがすべて民衆に回ってきたというのもある。
霊帝はなりふり構わず大金を集めたけど、民衆にはまったく還元しなかったな。
85無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 14:47:28
>>84
民衆に還元しなかったことなんて指摘するまでもないでしょ
基本的に支配層の利益があってその維持のために民衆が居るのがこの時代なわけだし
86無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 15:06:17
>>85
いや、後漢でも光武帝や明帝は民衆にも還元したんだが。
他の時代でも民衆に還元した皇帝はいくらでもいるぞ。
87無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 15:19:26
>>86
民衆に還元してるんじゃなくて民衆に還元することで不利益をこうむる奴に対する攻撃
有名な光武帝の奴隷解放令なんてのは奴隷を使って荒稼ぎしてる豪族への牽制に他ならないわけで
88無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 16:12:56
>>87
豪族抑制も民衆還元も両方の目的があると思うな。
光武帝も明帝も民衆がどうなってもいいという人物ではないし。
89無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 16:34:11
>>88
民衆に還元してるんじゃなくて自分が税金を取る自由民増やしてるわけで
見た目はいいけど狙いは民衆還元とかそういうぬるい話じゃない
90無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 17:11:33
だいぶスレ違いな話が続いたが、実際蜀は魏より豊かだったのかね?
降伏時に国庫にあった穀物は、魏の揚州方面での屯田の一年分の収穫にも遠く及ばないし、
人口が100万いないのに、兵士と官吏がそれぞれ10万ぐらいいたから、
相当苦しかったような気がするのだが。
91無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 18:30:45
>>83
三国ともに分裂したまま膿み出してるような
体力のない国から自滅気味に力尽きていったし
92無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 18:35:33
孫権の山越討伐は歴史的意義がすごそう
93無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 19:28:50
>>89
単純に考えて、皇帝集権を目指すならば、豪族の伸張を防いで
「中農」以下の庶民を豊かにし、直接徴税する、というのはこの時代のセオリー。
その目的のもとで民衆が豊かになったという時代があるとするなら、
その事実はまず認めなくては歴史研究にならない。
真の目的は…なんてゴネるのは筋違いだよ。
94無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 20:58:09
>>90
あくまでも「面積あたり,人口あたり」の話でしょ
国全体で考えたらそもそも話にならないのだし
(局地的には対抗できたということだけど)

>>93
>その目的のもとで民衆が豊かになったという時代があるとするなら、
後漢はともかく蜀漢で民が豊かになったという形跡はあるのか?
諸葛亮とその派閥の自画自賛を除いて
95無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 21:17:50
>>93
劉備の中央軍が瓦解した蜀漢において、そんなことやったら、あっというまに滅亡だよ。
諸葛が豪族と結びつくことで権力基盤を確保したことくらい常識だろ。
96無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 21:22:36
>>93
そらそうだ、セオリーだよ
民衆に還元するのもしないのもこの時代それは取り立てて着目するポイントではないのに
延々と民衆に還元したのどうのと言う奴がいるからおかしくなるわけで
97無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 22:01:43
>>94
豊かになった可能性を吟味する以前に、
「豊かになった事実があったとしてもそれは問題じゃない」
という態度を繰り返してるから悪い態度なんだよ
98無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 22:05:56
>>95
諸葛亮が結びついたのは独自の名声政治基盤を持つ「名士」。
田地や田客を抱えて独自の巨大な財政基盤を持つ「豪族」ではない。
蜀漢は「豪族」が持っていた権益を解体し、法治の元に
人・民を公正に扱って朝廷から直轄統治する方針を取った。
99無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 22:38:23
名士って大体豪族の出身じゃん
違うのもいるけど、稀だよね
100無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 22:45:01
>>94
いや、国庫にある穀物かき集めても、
兵10万を数カ月養える分の備蓄すらない国が豊かとは到底思えんのだが。
豊かな国なら、国庫に穀物や銭がうなってるはずだろ?
それとも、豊かなのに税金安かったから、国庫の備蓄が少なく、
蜀の民は魏の民より豊かだったとでも言うつもりか?