/_,, ⌒ ::::::::::::\
/ \\゙.l | / ::// ̄● ̄ ̄/ ::::::::\
|● ::::::| . | | / :::: / :::::::::://u :::::::\
/i,.\_:::::::| u::::: / :::::::::// :::::::::\
/ \( (\|. ::::::. // ̄) ) :::::::::\
/ u ) )_ ^ ^  ̄ ̄ ,,、( ( i し./ :::::::::::::\
/ / /__,,____,/ ̄ \ ))u ノ ( ::::::::::::::::::::\
/ ヽ |.. | /└└└└\../\((\ '~ヽ :::::::::::::::::/
\ ) し ∨.|llllllllllllllllllllllllllllllll∨lllll| ) / / :::::::::::::::::/
\⌒ | |.|llllllllllll;/⌒/⌒ 〕 ::u::::::::::::::::/
| | |.|lllllllll; ./ . . | ::::::::::::::::::::/
3 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 22:18:16 0
(´・ω・`)
4 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 22:22:27 O
新しいスレ立てると2〜5位までは、変なのがくるのは2chの御約束ですね。
|┃三 ..,, -.―――--;;.、
|┃三 (;,イ;,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;ヽ
|┃ /;}' ..... ........"ミ;;;;;;:}
|┃ |} .) ( /:::;:|
|┃ ≡ |} .-=・‐. ‐=・=- `i;;;|
|┃ | 'ー .ノ 'ー-‐' ト'{
|┃ .「| ノ(、_,、_)\ }〉} _________
|┃三 `{| ___ \ !-' /
|┃ | くェェュュゝ | < 話は全部聞かせて貰ったぞ!
|┃ i゙ 、_ ー--‐ ,,, ';;{ \ 伽耶は日本の植民地だ!
|┃ 丿\  ̄ ̄ _;;-"ヽ \
|┃ ≡'"~ヽ \、_;;,..-" _ ,i`ー-  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃ ヽ、oヽ/ \ /o/ | ガラッ
6 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 23:11:48 O
任那「日本府」。
その頃日本なんて国は存在してないのに日本府。
ありもしないものをどう考察するのか。
8 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 23:16:28 0
■ 任那
朝鮮では、任那あるいは任那日本府の存在を認めない学者が多い。
任那は高句麗の広開土王碑に現れるのが最古例である。中国正史のの宋書や
、三国史記などの朝鮮の史料にも現れるので、任那が朝鮮半島に存在したこと
は確かであろう。
五世紀前半に、倭王済(せい)や武(ぶ)は、客観的存在である中国の南朝の
宋から、「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)
六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」 とう爵号を与えられている。
この爵号は、当時の倭国が朝鮮半島に軍事的な影響力を保有していたことを示している。
しかし、倭国が、この地域を占領して植民地化したわけではなく、韓の諸国は独立して
いて、倭国に貢ぎ物を送るような関係であったのだろう。
安本先生は、「任那日本府とは、諸国から貢ぎ物を集めて倭国に送るための出先機関」
ではないかと述べる。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku235.htm
.__
/__|__
/_了 ゚Д゚) 林ライル本部祭りはこちらでありますか?
(|〆/|)
/|  ̄ |
∪ ∪
986 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2009/05/15(金) 00:19:12 0
『日本書紀』とはいっても『百済本紀』からの引用というかたちで述されており、
『釈日本紀』には「任那倭宰」の注釈もあるから、『百済本紀』では「倭府」と
あったものが引用書写される際に「日本府」としたものではないか。『日本書紀』
「継体天皇紀」には、509年の条にやはり『百済本紀』を引用して、「久羅麻致支
弥(クラマチキミ?)が日本(倭国)よりやって来て、「任那の日本の県邑」に住
んでいる百済人の亡命者を、3代、4代の子孫に至るまで探し出して、百済に移管
して戸籍に登録した、と記している。亡命者の子孫が3代、4代を経るには、「日
本の県邑」そのものが少なくとも100年以上の歴史を経たものでなくてはならない。
509年の段階から1世紀余さかのぼった年代というと、「高句麗好太王碑文」に記さ
れた、倭軍が朝鮮半島に出兵して百済・新羅を破って臣民にしたたとされる辛卯年
すなわち391年が思いうかぶ。つまり、「倭府(日本府)」「任那のミヤケ」「日本
の県邑」いずれも同じものであり、それは倭軍の兵站基地のような性格のものだった
のではないか。
まずこの辺から、考察していていこうぜ!
11 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 06:15:45 0
989 :986を添削してさしあげるのだ:2009/05/15(金) 06:08:12 0
『日本書紀』とはいっても『百済本紀』からの引用というかたちで述されており、
『釈日本紀』には「任那倭宰」の注釈もあるから、『百済本紀』では「倭府」と
あったものが引用書写される際に「日本府」としたものではないか。
『日本書紀』「継体天皇紀」には、509年の条にやはり『百済本紀』を引用して、
「久羅麻致支弥(クラマチキミ?)が日本(倭国)よりやって来て、「任那の日本
の県邑」に住んでいる百済人の亡命者を、3代、4代の子孫に至るまで探し出して、
百済に移管して戸籍に登録した、と記している。
亡命者の子孫が3代、4代を経るには、「日本の県邑」そのものが少なくとも100年
以上の歴史を経たものでなくてはならない。
509年の段階から1世紀余さかのぼった年代というと、「高句麗好太王碑文」に記さ
れた、倭軍が朝鮮半島に出兵して百済・新羅を破って臣民にしたたとされる辛卯年
すなわち391年が思いうかぶ。
つまり、「倭府(日本府)」「任那のミヤケ」「日本の県邑」いずれも同じもので
あり、それは倭軍の兵站基地のような性格のものだったのではないか。
986 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2009/05/15(金) 00:19:12 0
『日本書紀』とはいっても『百済本紀』からの引用というかたちで述されており、
『釈日本紀』には「任那倭宰」の注釈もあるから、『百済本紀』では「倭府」と
あったものが引用書写される際に「日本府」としたものではないか。『日本書紀』
「継体天皇紀」には、509年の条にやはり『百済本紀』を引用して、「久羅麻致支
弥(クラマチキミ?)が日本(倭国)よりやって来て、「任那の日本の県邑」に住
んでいる百済人の亡命者を、3代、4代の子孫に至るまで探し出して、百済に移管
して戸籍に登録した、と記している。亡命者の子孫が3代、4代を経るには、「日
本の県邑」そのものが少なくとも100年以上の歴史を経たものでなくてはならない。
509年の段階から1世紀余さかのぼった年代というと、「高句麗好太王碑文」に記さ
れた、倭軍が朝鮮半島に出兵して百済・新羅を破って臣民にしたたとされる辛卯年
すなわち391年が思いうかぶ。つまり、「倭府(日本府)」「任那のミヤケ」「日本
の県邑」いずれも同じものであり、それは倭軍の兵站基地のような性格のものだった
のではないか。
まずこの辺から、考察していていこうぜ!
13 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 12:09:34 O
>>10 釈日本記って鎌倉時代になってから日本書記の補強で出した書物だろ。
「日本府」と書いてあるのは年代的に矛盾があるのに気づいて無理矢理直した可能性がある。
任那日本府だろうが倭宰だろうが捏造の可能性が高い。
>>13 自分の国が捏造好きだからと言って、他国までそうだと考えてはいけない
15 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 15:05:42 O
3代4代あとでもわかったっていうのは、住民の管理がきちんとしてたことを意味しないか?
>>13 逆に、なぜ鎌倉時代になってねつ造しなければならなかったのだろう。
天皇家と鎌倉との関係は微妙だし。
>>16 釈日本紀が作られたのはちょうど、元寇のころだからね。外国勢に
圧迫されていた時期であることを考える必要がある。
とはいえ、全くのねつ造を書くかというと、それは疑問だが。
18 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 22:02:16 0
(´・ω・`)
魏志東夷伝 邑婁
穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。
射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年〜226年)には反乱を起こした。
掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。
>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!
坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる
風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。
晋書 『粛慎、挹婁伝』
井戸も釜戸もない、甗(むしき)を作り、四、五升は食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、
{{足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる。}} 凍った肉はその上に坐って暖める。
土には塩も鉄もない(前漢代の塩鉄なら専売制度を意味するが)。木を焼いて灰を作り、その灰汁
を注いで、これを食す(意味不明)。
風俗は皆、髪を編み、{{布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る}}、径は尺余、これで前後
を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰る。その後に婚礼をする。
妻は貞淑だが(未婚)女性は淫乱、若尊老卑。死者はその日に野原で葬儀を行ない、木組みの小さな
槨(ひつぎ)を作り、豚を殺して、その上に積み、死者の糧(かて)となす。
>>12 「任那の日本の県邑」は「任那日本府(安羅日本府)」とは別物だと思います。
それが出てくる継体3年条の直後に、同6年条として、いわゆる「任那四県割譲」
問題の記事がありますが、両者は関連した出来事を記述した記事なのではない
でしょうか。
「任那の日本の県邑」というのは、百済人が大勢亡命してくる位置にある
わけだから、百済のすぐ南、全羅南道の栄山江流域、馬韓の地にあったと
推定される「任那四県」の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁に相当すると考える
のが自然。
もっとも、この地が「任那」であり「日本の県邑」であったというのは、
『日本書紀』独自の史観というか編纂方針によるものであって、敷衍して、
倭領だとか倭王の直轄地だとするのは、事実とは認めがたいと考えられます。
ただ、倭王が馬韓における軍事専断権を主張し、認められていることから、
この地域の城邑に倭軍が在来勢力の承認を得て駐屯していた可能性は高い
と思われます。同地域に5世紀末から6世紀前半にかけての前方後円墳が多数
存在するのも、倭を積極的に支持する同盟勢力がいたことの証左でしょう。
さて、「任那の日本の県邑」に多数亡命していた百済人の送還問題と、
「任那四県割譲」問題との関連について考えてみます。
前者は、百済と「県邑」(馬韓諸国)とのあいだで長年の紛争問題となって
いたと思われます。高句麗に圧迫され、領域を狭めていた百済はおそらく
領民に対し過重な収奪や徴兵を行っていたのでしょう。それに耐えかねた
一部の民が「県邑」へ亡命し、人的資源を失うわけにはいかない百済は
送還を要求し、倭国にも協力を要請したと考えられます。
しかし、たぶん送還は不十分な結果に終わったのでしょう。
不満を抱いた百済は、この送還問題と、縮小する一方の領土問題を
一挙に解決するため、「県邑」の併合というか侵略に踏み切ったのが、
いわゆる「任那四県割譲」問題なのだと思われます。
23 :
世界@名無史さん:2009/05/16(土) 17:02:59 0
百済というのはどういう国だったんだろうね。文化人や官僚として多くの中国人
がおり、王族としては高句麗人すなわち中国化した貊族がいた。王室には多く倭
王の係累がおり、宮中には倭人が多かっただろう。また、駐留していた武人にも
倭人系が少なくなかっただろう。捕虜や交易の民としては弁韓や辰韓の民もいた
んだろうが、肝心の馬韓人の影が薄い。民族国家の態をなしていないことは確か
で、単に「百済人」とか「百済からの渡来人」と言った場合、それが韓族を意味
するものとは言えないように思うのだが、どうだろうか。
25 :
世界@名無史さん:2009/05/16(土) 23:13:31 0
>>22 日本書紀の「日本県邑」という表現は「日本が租税を徴収することができた土地」程度の理解で必要十分ではないでしょうか。
敷衍すれば、現地に「王(キミ、キシ)」クラスの支配者がいなかった、ぐらいは考えられます。倭王直領などとは確かに言いすぎ、考えすぎだとは思いますが。
4県割譲は、侵略・併合という側面が皆無ではないまでも、一応の形式としては(大伴金村を通じて)倭王(継体天皇)の了承を取り付けた、合意による平和的な国境変更だったでしょう。
あの時点でほとんど唯一の頼りである倭国を敵に回すほど百済は外交音痴ではなかったはず。
任那域内諸国や日本朝廷内の動揺、反対、不満はさぞ大きかったでしょうが。
>>25 つまり、韓国に日本は領土奪還すべきというわけか、
早速軍事行動おこそうぜ!
29 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 00:33:22 O
しかし文字を持たない民族である昔の倭人に
海外遠征までするような国家や海外領土を運営できるのかね。
30 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 00:38:07 0
普通に文字をもったチョソンの子孫が日本を支配し、大和政権をつくったと認めるべきだろう。
神武は東方を侵略し、大和=奈良で即位したが、奈良は朝鮮語で首都を指す。
したがって、朝鮮の王族が海を渡り、日本の諸部族を征服し、奈良で即位した
これが日本国王の由来だろう。
>>30 それを裏付ける考古学的発見は ま っ た く ありません。
逆に倭人が4〜5世紀に半島に進出していた事を裏付ける考古学的発見なら幾らでも出ております。
天皇公認日本書紀で神武東征は史実とされている。
自分の国の歴史書を否定するのかね
33 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 00:58:06 0
文字を持たずに征服を行った民族なんていっぱいありますけど。
モンゴルなんていい例だし。
>>32 日本書紀のどこにも神武が朝鮮の王族とは書かれておりません。
従って自分の国の歴史書を否定した事にはなりません。
そもそも日本書紀自体1000年以上前の書物ですので現在の研究の結果と合わない部分を取捨選択するのは当たり前ですね。
日本書紀は 史 料 です。聖書でも教典でもありませんので。
37 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 01:06:21 0
「古谷洋一」とかいう名前の変態チョンが北九州小倉あたりの呉服屋(小売り屋)の家に居たらしい
田舎者の常として東京に憧れて青学(青山学院)なる最底辺の学校へ通わせて貰っていたけど
当時から変質者として悪名高かったそうだ(なにしろバドミントン部で皆から嫌われていたとか)。
その後、京都の呉服問屋にお情けで入社させてもらったくせに、恩を仇で返すような真似を繰り返し、
今でもあちこちに迷惑をかけて回っているという風評が聞かれるとか。
この性格異常者に関係している人、一度でも関わりをもった人は要注意だろう
なにしろ無知無教養を絵に描いたようなド低能かつ愚鈍な阿呆で、無論恋愛とも文学とも無縁な山出しだ
ホモフォビアのオカマだという話もあるが、こんな気持ち悪い変態を相手にする人間は絶対に存在しないと断言できる
カネを払ってSMプレイをしようとしても風俗店から断られたという話もある。
こいつを見かけたら、すぐに叩き殺してしまうべきだ!
日本を没落させた元兇たる在日代表とも言えるクズだからね
(九州にはこの種の流入半島チョンが多いらしい)
38 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 02:07:42 0
神武は東(朝鮮半島)から海をわたり、大和を征服して王朝をたてたんだろうな。
40 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 02:10:57 0
継体がやっちまったんだな。磐井が西郷ドンに見える。
41 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 03:55:48 0
チョソン人(朝鮮人)というのは、新羅が半島南部を統一してから長い時間を
かけてつくられた民族でしょ。それ以前は、漢人、倭人、弁韓人、馬韓人、辰
韓人など多くの種族が混住していたわけだ。
もっと言えば
百済人=高麗人=李氏朝鮮人というわけでもない。
どうもこれらの民族は言語が異なっていたらしい。
例えば高麗の郷歌とかは朝鮮語では読めない。
おっと訂正
×百済人=高麗人=李氏朝鮮人
○新羅人=高麗人=李氏朝鮮人
44 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 04:41:09 0
耽羅が高麗に帰属する前は、高句麗・新羅・百済・耽羅の4国があったはずなのに、
なぜ「四国時代」と言わないんだろう? 済州島は韓国の領土とは認められていな
いのか?
魏志東夷伝 邑婁 >>古代韓民族成りすまし邑婁人(現在韓国人)発見<<
穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。
射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年〜226年)には反乱を起こした。
掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。
>>204 『晋書』粛真・邑婁伝には下記も載ってるよ!
坐るときは両脚を投げ出して座り、足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる
風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る。
晋書 『粛慎、挹婁伝』
井戸も釜戸もない、甗(むしき)を作り、四、五升は食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、
{{足を脇に挟んで(猿が坐って物を食べる姿勢)肉を食べる。}} 凍った肉はその上に坐って暖める。
土には塩も鉄もない(前漢代の塩鉄なら専売制度を意味するが)。木を焼いて灰を作り、その灰汁
を注いで、これを食す(意味不明)。
風俗は皆、髪を編み、{{布で丈の短い上着(チョゴリの事か?)を作る}}、径は尺余、これで前後
を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰る。その後に婚礼をする。
妻は貞淑だが(未婚)女性は淫乱、若尊老卑。死者はその日に野原で葬儀を行ない、木組みの小さな
槨(ひつぎ)を作り、豚を殺して、その上に積み、死者の糧(かて)となす。
>>41-45 日本は倭国大乱以前は多くの国々別れ酋長制国家が乱立した野蛮国だったんだが、
別々の種族がいたとでも主張するつもりかな?
朝鮮民族は今でも国が2つあるように、古代は国々が多く乱立し、勢いは
今の満州から日本列島まで広範囲に及んだ。
朝鮮民族の未回収の土地は広く、いずれは回収せねばなるまい。
48 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 05:23:25 0
49 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 05:59:55 0
高句麗好太王碑文によれば、
391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする。
399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。
400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた。
404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う。
407年 万を超える倭が進出。
ということで、『晋書』によれば、413年には倭国が東晋に遣使している。さらに『宋書』によれば、
421年 讃が宋に遣使。武帝、称号を授ける。
438年 珍が宋に遣使。安東将軍倭国王とされる。
443年 済が宋に遣使。安東将軍倭国王とされる。
451年 済が使持節都督六国諸軍事を加号される。
462年 興が宋に遣使。安東将軍倭国王とされる。
478年 武が宋に上表文。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王を授かる。
とあり、さらに502年には梁の武帝が倭王武を征東将軍に進号している。
>>44 日本史の中で、沖縄(琉球)が特異なのと一緒。まぁ、半島に
住んでる人間はハナから済州島住民を馬鹿にしてるからでも
あるんだろうけど。
51 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 06:49:36 0
これによれば、少なくとも5世紀には倭国は文字を使って外交をおこない、朝鮮
半島南部に軍事的支配権をもっており、宋はそれを認めたことがわかる。稲荷山
古墳鉄剣銘の「辛亥年」は471年というのが定説で、これはすでに5世紀には大和
政権の支配は東国におよんでいたことを意味し、倭王武の上表文の内容と整合す
る。5世紀はまた、大仙古墳や誉田山、陵山、河内大塚山、ニサンザイなどの巨大
古墳が河内平野に築かれ、岡山地方にも造山、作山など、それに次ぐ規模の巨大
古墳がつくられている。これは、王権の巨大さとともに朝鮮半島に出兵した吉備氏
の富強を物語る。このような事実をもとに推論すると、百残(百済)、□□新羅の
「□□」は、任那または加羅であろうと思われる。400年の「新羅救援の高句麗軍が
接近すると倭賊は任那・加羅に退いた」の記事は、倭国が任那・加羅に橋頭堡を築
いてその支配に成功したことを意味するのだろう。そうすれば、倭王武の称号が「使
持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」であることも、すんなり
理解できる。「弁韓」がないのは、それは倭国が実質的に支配した地で「任那・加羅」
であることが周知の事実だったからなのであろう。そうすれば、韓国国内の前方後円
墳の分布や「任那の日本の県邑」の問題が矛盾なく説明できるのではないか。
52 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 08:00:20 0
これによれば、少なくとも5世紀には倭国は文字を使って外交をおこない、朝鮮半島南部に軍事的支配権をもっており、宋はそれを認めたことがわかる。
稲荷山古墳鉄剣銘の「辛亥年」は471年というのが定説で、これはすでに5世紀には大和政権の支配は東国におよんでいたことを意味し、倭王武の上表文の内容と整合する。
5世紀はまた、大仙古墳や誉田山、陵山、河内大塚山、ニサンザイなどの巨大古墳が河内平野に築かれ、岡山地方にも造山、作山など、それに次ぐ規模の巨大古墳がつくられている。
これは、王権の巨大さとともに朝鮮半島に出兵した吉備氏の富強を物語る。
このような事実をもとに推論すると、百残(百済)、□□新羅の「□□」は、任那または加羅であろうと思われる。
400年の「新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた」の記事は、倭国が任那・加羅に橋頭堡を築いてその支配に成功したことを意味するのだろう。
そうすれば、倭王武の称号が「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」であることも、すんなり理解できる。
「弁韓」がないのは、それは倭国が実質的に支配した地で「任那・加羅」であることが周知の事実だったからなのであろう。
そうすれば、韓国国内の前方後円墳の分布や「任那の日本の県邑」の問題が矛盾なく説明できるのではないか。
53 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 08:15:02 0
任那なんてなかったんだよ。
54 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 08:32:28 0
気ままな任那
55 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 08:43:42 0
314年 満州の森林地帯に住んでいたツングース系貊族の建てた高句麗が漢人の地を侵略し、楽浪郡を滅ぼす。
346年 百済建国。
346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城を包囲して激しく攻める(『三国史記』新羅本紀)
356年 新羅建国。
364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。(『三国史記』新羅本紀)
369年 百済と結び新羅と交戦。加羅諸国を支配(『日本書紀』神功紀)
369年 百済王世子が七支刀を倭王に献上(石上神社蔵七支刀銘文)
382年 新羅と交戦(『日本書紀』神功紀)
391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする(広開土王碑文)
393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった(『三国史記』新羅本紀)
397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る(『三国史記』百済本紀)
399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた(広開土王碑文)
400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた(広開土王碑文)
402年 新羅、倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣(ミシキン)を人質に送る(『三国史記』新羅本紀)
404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う(広開土王碑文)
405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位(『三国史記』百済本紀)
405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃(『三国史記』新羅本紀)
407年 倭人が東部と南部へ侵入(『三国史記』新羅本紀)
407年 万を超える倭が進出(広開土王碑文)
414年 高句麗長寿王が広開土王碑を丸都(中国吉林省集安)に建立する(広開土王碑文)
427年 高句麗が華北進出をあきらめ、平壌に遷都し、朝鮮三国時代がはじまる。
56 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 08:47:31 0
55によれば、それぞれの史料は互いに矛盾しない。要するに、4世紀の後半から
5世紀の前半にかけて、倭国が北上し、高句麗が南下して、かつての三韓の地は
草刈り場と化したということじゃないか?
57 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 11:02:53 0
倭・百済・任那の関連年表
346年 近肖古王により百済が建国される(首都は漢城(ソウル漢江南岸))。
369年 百済王世子が七支刀を倭王に献上して倭済同盟が成立。
369年 百済と結んだ倭が新羅と交戦して加羅諸国を支配。
371年 百済の近肖古王が楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させる。北魏にも高句麗攻撃を要請
427年 高句麗が丸都から平壌に都を移す。
443年 百済、宋に入貢。
472年 百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める
475年 百済は首都漢城を落とされ、蓋鹵王戦死。
476年 百済、熊津に遷都。
490年 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
512年 大伴金村、任那4県(上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁)を百済に譲る。
513年 五経博士段揚爾、百済より来日。倭国、任那の己文・帯沙を百済に譲る。
527年 近江臣毛野、割譲地奪還に出発。
529年 近江臣毛野、朝鮮半島にて失政。
537年 倭国、朝鮮半島出兵。
538年 百済、扶余に遷都。百済聖明王が倭王に仏像・経典をおくる。
540年 大伴金村、任那問題で失脚し、引退。
547年 百済、新羅に攻められ、日本に救援をあおぐ。
551年 百済・新羅・任那、高句麗と戦う。
554年 倭国、百済救援のため兵1000人・馬100匹・船40艘をおくる。僧曇慧と五経・易・暦・医博士らが百済よりおくられる。
562年 倭国が新羅に派兵、敗れる。新羅が加羅(任那の官家)を滅ぼす。
58 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 11:22:07 0
>>57 訂正
371年 「北魏にも高句麗攻撃を要請」の部分削除。
59 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 12:28:11 0
369年 百済王世子が七支刀を倭王に下賜
60 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 12:34:55 0
今までの議論をまとめると、
1.任那日本府はあった
・「日本を任せる」という意味で朝鮮(加羅?)の機関であった
・日本列島内にあった
2.任那日本府はなかった
・当時「日本」はなかったから日本府もなかった
・文字も使えない倭人が出兵できるはずがない。後世の創作の可能性が高い
3.任那日本府はなかったが和府(倭府)はあった
・領事館・通商部・外交施設のような機関
・駐屯地・将軍府・屯田兵・軍団司令部のような組織
・船着き場・貿易港・倭人居留民の保護と統治のための機関
・租税や貢租を徴収するための機関
・総督府・統監府のように韓族を対象とする統治機関
の大きく分けて3つあり、1.と2.は半島方面の方の意見のようですが、あまり説得力がないようです。
3.にしぼって議論しませんか。
また、「任那の日本の県邑」「任那の4県」「任那の官家(ミヤケ)」などとの関係はどうかも検討課題
です。
>>59 「王世子」が「王」に対して「下賜」はできない。そもそも、この王世子は「人質」なのだからw
62 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 14:42:06 0
そもそも、この倭王も百済王の「侯王」にすぎないけどな。
63 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 14:43:36 0
百済王
↓
王世子
↓
侯王たる倭王
「侯王たる倭王」とはどこに書いてますか?
>>62-63 倭王が百済王に服属していたことを示唆する史料はありません。
逆はありますけどね。
66 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 15:00:23 0
三国史記ですら百済が倭国に人質を差し出したと書いてあるんだから、これは
『日本書紀』で明記しているように「献上」でしょ。
67 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 15:09:09 0
まあ、これについては表面と裏面では別の場所で刻字されたという説もあるね。
韓国人は高句麗は朝鮮人の王朝だと言っているけれどそんな根拠あるの?
すでに前スレにて朝鮮半島南部は水田遺跡・古墳などの考古学的遺物遺跡により
倭(日本)の文化圏であったということが確証されています。
弥生・古墳の時代に安羅に置かれたヤマトノミコトモチがどういう性格のものであったかを
考察するスレです。
お間違いなきように。
王がいるというのに、王子が同盟相手に刀を「下賜」するなんてことが
ありえますか? いくら何でも非常識すぎる意見だと思うが。王子は、
国を代表する権能をもたないからこそ、人質にもなるわけでしょう。
71 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 19:06:48 0
>>68 韓族にとっては憎むべき侵略者のはずだがねー。ま、高句麗が楽浪郡を滅ぼした
からこそ、韓族も活躍の機会を得たとは言えるかもしれないが。
中国史料における任那 [編集]**『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる。
『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、
加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
朝鮮半島史料における任那 [編集]**朝鮮半島史料では任那は次の2つの記載しかない。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立) : 大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、
ここでの任那は金官伽耶を指すとされている。
『三国史記』(1145年成立) : 本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
>>69 確証なんてないだろう
日本が半島を支配していたなどという前提が当たり前では話にもならない
古代では韓国が日本を支配していたという前提で話されたら日本人はどう思うのか?
遺跡も見つかっていないし文献上の根拠も乏しいのに任那「日本府」があったことになっては堪ったものではない
現段階では存在が疑わしいという域を出ていない
仮に存在していても半島の鉄と日本人奴隷を交換していただけの場かもしれない
そんなものをさも存在していたかのように語るのはおかしいのではないか
>>73 で?君は結局、自分が認めない限り存在しないとしか
言ってないんだが。
任那が存在していた当時、中国の支配から脱したとはいえ、
朝鮮半島にはまだ王権といえるほどの強大な権力はなく、
のちに朝鮮半島の主体になった新羅などの民族や
中国人や倭人が渾然と存在していた地域に過ぎない。
大きく分けて4種類の民族が共存していた。
南部にいた倭人(日本人)にとってはそこは貴重な鉄の生産地だったし、
中国人にとってはかつて支配した植民地を再び奪還しようとしての地域。
北方から移入してきた人種(主に扶余族)。
そして、以前から朝鮮半島に存在していた人々がいた。
現在のようになっていくのは、三韓がようやく王権らしきものを確立してから。
それ以前の「加羅」などの地域は支配地域も小さく、
王権というには脆弱な力しかもっていなかった。
倭人が任那を持っていて、半島に直接間接の影響を及ぼしていたのは当然のこと。
>>73 半島を支配していたなどとは言っていない。
文化が及んでいたと書いた。
魏志、古墳の存在、勾玉の出土、高句麗との争い、日本書紀、
日本式(九州式)水田遺跡などからみても、半島に日本人(倭人)が進出していたのは間違いない。
文化だけが渡るなどということは難しい。当然人の行き来があって文化がわたる。
ほかの地域を経由して文化が伝わったということであれば、倭人が渡ったということは無いだろうが、
さすがにそれは不自然だ。
当然文化が伝わった経緯・システム・出来事が存在する。
その1つが任那日本府だろう。
そして任那日本府がどういったものであったのか考えようということだ。
任那日本府を否定する人は日本が朝鮮を支配していなかった。
支配していたとはいえない。
だから統治機関である任那日本府などない。
ゆえに任那日本府などというものについて考えることのすべてが不必要とまで考えを広げ、
徹底してほかの説まで排除してしまう問題がある様に思う。
外交使節だったかもしれない、倭人の統治する地域だったかもしれない、交易の場所だったかもしれない、
軍隊の駐留所だったかもしれない。
いろいろな説を考えてみませんか?
78 :
世界@名無史さん:2009/05/17(日) 23:34:52 0
>>73 まず「日本府」という記述は『日本書紀』中にみえるわけだが、それは『百済本紀』の引用
として掲げているわけでしょ。であるなら、まるっきりの創作であるという可能性は低いわ
けだ。常識的に考えて。もちろん、些細なものを大仰なものとして記述している可能性もあ
るのだが、その割には日本人のハートを鼓舞するものではなく、実にショボいかたちでしか
登場して来ない。実際問題として、中国の史書、朝鮮半島の史書、満鮮国境付近の金石文
(高句麗好太王碑文)のいずれもが、倭軍が朝鮮に出兵し、高句麗や新羅と戦闘をまじえた
ことは共通して記されているわけだ。それさえ、認められないというのなら、こんなところ
に出入りしない方がよい。宋も、朝鮮半島南部の軍事的優位性を中途半端なかたちであれ
認めているわけでしょう。まあ、あなたの言うとおり、半島の鉄と日本人奴隷を交換してい
ただけの場かもしれないよね。それなりの根拠があれば、そういう結論もありえるだろう。
ただ、「そんなものをさも存在していたかのように語るのはおかしいのではないか」とおっ
しゃるが、「ない」と考える方が無理があるわけで、存在しないかのように語る方がよほど
おかしいわけ。同じ屁理屈を、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返されたって、誰も納得しない
んですよ。
>>77 個人的には、そのすべての性格を併せ持った機関だったのではないかと思ってるんだけどな。
「広開土王碑」に書かれてるような大規模な軍事行動の為には、ある程度の規模の軍隊を駐留させる橋頭保がなければ不自然だ。
また、百済、新羅を一時的とはいえ服属させていたと言う記述もあるので、外交及び本土との連絡を行う出先機関がなければこれも不自然。
日本及び半島の文物の分布から見て、両者の間に交易があった事も間違いないと思われるので、その為の拠点も必要だろう。
同時代の加羅が小国の分立状態にあったらしいと言う事は確かそうなので、近代の列強の植民地と同様のものと考えるのは間違っていると思うが、こうした複合的な出先機関はあったと考える方が自然だと思う。
「魏書東夷伝」で、邪馬台国が伊都国に置いていたとされてる「一大率」と似た性格のものだったのではないだろうか。
>>73 いい加減、実在したかしないかの議論より実態の精査を進めていくべきなんだがね。
個人的には畿内と出雲・九州の争いを経て日本は全国政権を作り上げ
勢いに乗って海外遠征までするようになり、また最終的にそれに失敗することで
危機感を募らせ、より強固な中央集権体制に移行していったという流れは非常に納得できるし面白いと思うね。
日本は島国でただなんとくまとまって出来た国家ではなく、よりダイナミックな国際関係の必然により作り上げられた国な訳だ。
朝鮮半島の歴史を知る上でもその方が理解が進むと思うがどうか。
地勢的な問題もあると思うんだよね。つまり、古代の朝鮮半島では、それぞれの地域で、
谷間を基盤とする地域の自立性が強く、地域的な特徴が明確で、これを基盤として国家が
つくられていった。主要な農地も畑地なわけだ。それに対し、日本の場合は水田を中心に
した集約農業で、どんどん沖積地に進出していった平野の文化だから、文化の共通性が目
立つわけなんだね。加えて、朝鮮半島諸国家の場合は北方や中国の強力な圧力があるけれ
ども、日本では、これがほとんどまったくみられない。このことが、両国の歴史にあたえ
た影響は大きいと思う。最終的には、新羅は倭人の勢力を追い出し、貊族の勢力を追い出
し、百済を滅ぼして、唐の侵略を防いで、いくつもの河谷をひとつの領域下に統一したわ
けだから、これは快挙と言わざるを得ないと思う。
82 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 01:08:30 0
もともと住んでいたが、領地を広げ、やがて衰退してちゃんちゃん
中国史料における任那 [編集]**『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる。
『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、
加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
朝鮮半島史料における任那 [編集]**朝鮮半島史料では任那は次の2つの記載しかない。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立) : 大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、
ここでの任那は金官伽耶を指すとされている。
『三国史記』(1145年成立) : 本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
>>29 倭人は1世紀には既に漢から金印紫綬を受けた王がいます。
中国語通訳がいないと中国とも朝鮮半島諸国とも外交交渉不可能です。最低限、中国語通訳が極めて古くからいたはずです。
当然、漢字を操る官僚もいたはずです。
>>30>>38 記紀によれば神武天皇東征前の根拠地は朝鮮でなく、日向です。
「奈良」は記紀の初期天皇の代には登場しない、比較的新しい地名です。今の奈良盆地は大和朝廷初期には単に「やまと」と呼ばれていました。
「ナラ」は朝鮮語で首都を現わしません。現代朝鮮語では「国」を現わします。(大和朝廷成立期の3〜4世紀の朝鮮語で「国」「首都」を何と言ったか知りませんが。)
奈良の都の勅定された正式名称「平城京」は中国語で「平らな都市の首都」という意味ですから、当時の日本人は「奈良」を「なら地(ならされた土地、平坦な土地)」という意味で理解していたはずです。
「使人、自ら大夫と称す」(『後漢書』東夷伝)
「大夫」は中国語なのだから、相当古くから政治外交分野における語彙の中国語化は
進んでいたのじゃあるまいか。
>>80 その後の秀吉の朝鮮出兵と日清日露戦争を見ていくと、南下する大陸勢力と
北上する海洋勢力という構図がずっと繰り返されていることが分かる。
鎖国前には東南アジアにも日本人が進出していたわけで、鎖国で一端中断した
拡張的運動が明治維新以後再開され、太平洋戦争まで続いたと見ることが出来る。
>>84 奈良が朝鮮語だと言う説は俺も妄言だと思うんだが、「奈良」という地名は比較的早い時期に存在した可能性はある。
『古事記』の仁徳天皇の段に磐之媛の歌があって、その中に「前略)あをによし 奈良をすぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり」と言う部分がある。
この事から、古代における「奈良」は、今の奈良市周辺の平坦地を指す、ごく狭い地域の呼称だったと考えられている。
これについては「大和」も同様で、『和名抄』の城下郡大和郷、現在の大和神社周辺を指す地名だったと思われる。
岩波書店が悪い
89 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 18:10:22 O
>>80 単に国内統一した勢いっていうか、その頃の日本には鉄の資源採掘場所を海外遠征してでも抑える必然性があったってことじゃないかな。
おそらくは出雲との戦いでヤマトは鉄器の重要性を見にしみて知ったんだろう。
こういう発想は最初から鉄器を持ってた勢力より、そうした連中に散々苦労した勢力でないとなかなか出ない気がする。
苦労して出雲や九州を統一したヤマトにとって、鉄資源の確保に動くことは重要かつ必然的な流れだったのだろうね。
>>85 「おい、倭国だかなんだかから来たっていうのはお前らか?
お前らの身分は?」
「わ、わしらは国では偉いんですじゃ。帝(みかど)に直接口をきけるぐらいですじゃ」
「ふうん、俺たちの身分で言うと『大夫』ぐらいか?」
「そんなもんだと思いますじゃ」
「わかった。じゃあ、大夫『格』って事にしてやる」
なんて経緯があったんジャマイカ?
>>90 てか
>>85にちゃんと書いてあるじゃないか。
自称大夫。
まあちょっと嘲笑されたのかもしれんし、
中国の事よくしってるなという意味もあるのかもしれん。
93 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 19:47:56 0
>自分から大夫といったとある
書いてあるから絶対に正確と言えるかな。
>>90の言うような経緯があったけど、記録的にそう書いたかもしれないし、それはそれで面白い。
ま、事実などもうわからないのだから、
「書いてあるからそれが正しい。本を読め。逆らうな」
といわれれば従うしかないのだが。w
おれは皇帝だとか言ったら笑ってくれたかな
95 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 20:18:40 O
自称とわざわざつけてるからな。
言わされたというのはないわ。
皇帝につぐときに大夫に相当するものですとか言えばいい。
もしくは倭人が来たで済む。
陳寿のように字を削る人が自称といれてるんだから、自称は間違いないと思う。
ごめん。
一連の携帯からの書き込みの者だけど、
自分の考えに凝り固まって余裕がないかもしれん。
反省
97 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 20:35:16 0
「漢と我々の国とはどちらが大きいのか」とたずねた夜郎国の使者は、
漢の帝から「この夜郎!」と罵られたのだろうか。
98 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 20:51:51 0
>>68 中国人も、高句麗を建国したのは貊族、朝鮮半島南部に住んでいるのは韓族と
いうふうに明瞭に区別しているんだけどね。倭国でもまた、高句麗は「こま」、
三韓は「から」と区別している。肝腎の韓国人がそのへんを曖昧にしているね。
高句麗の事績を「わが民族の事績」というふうに引き寄せたいんだろうか?
99 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:00:49 O
八幡神の「ヤハタ」てはヤハ・タでありこれはカラ(韓半島南部)の異称である。
ヤハとは柔す(ヤハス)のことで「柔らかくする」「おとなしくさせる」「平定する」という意味。タとは処(ト)の意味であり「土地」「場所」「領地」「国」の意味である。
つまりヤハタ=ミマナである。
ヤハタ神は任那の守護神であったと思われる。任那滅亡後に北九州地方に移住した任那人達が八幡信仰を持ち込み九州でも信仰されるようになったのであろう。
101 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:20:44 0
「任那」と「加羅」の関係が今ひとつわからない。
倭の五王のなかで、済も武も「六国諸軍事」の称号があたえられているが、
「任那」と「加羅」はともに併記されている。これは、どのように理解すべき
なんだろうか。「加羅」を「から」と読むのならば、それはむしろ韓族の言葉
ではなくて古い日本語とも解することができる。この理解を前提に考えると、
かつての弁韓のうち、韓族の住した地が「加羅」で倭人の居住した地が「任那」
というふうには考えられないだろうか。つまり、弁韓一帯はすべて倭国の勢力下
にあった。だから「六国」のなかには「弁韓(弁辰)」はない。旧弁韓地域のう
ち韓族が住んだ地域は日本にとって最も身近な「韓(から)」だから「加羅」の
名があたえられ、「伽耶」はそれを韓族のことばで言い換えたもの、そして「任
那」は倭人居留地だったのではないだろうか。
倭人も半島に居住して数代を経ると韓民族化していったのだろうね。それが
いわゆる「韓子(からこ)」と呼ばれる人たちだったのだろう。
103 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:28:25 0
金春秋を上まわる英雄は韓国にはいないはずなんだが、なぜか李舜臣だとか安重根なんかが
英雄になっているな。正気の沙汰とは思えないね。
104 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:31:09 0
あの国では、「日本(倭国)に屈辱を受け」+「日本(倭国)と戦い」+「日本(倭国)に何らかの損害を与えた」という
三点がないと、英雄じゃないのかもね。w
105 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:37:31 O
>>80 さらっと畿内にヤマト王権が自生したような事を書くなよ。
土器や木器しかない畿内王権がどうやって半島から鉄器や先進文明を取り入れた九州王朝に太刀打ちするんだよ。
神武東征神話見てもヤマト王権が征服された畿内の政権なのはまず間違いないだろ。
>>105 残念ながら北九州の初期古墳と畿内の初期古墳には、形式、出土品ともに明らかな差異がある。
前スレからさんざん言われてる事だが、考古学的には神武東征なんぞ何の裏付けもない。
そもそも九州王朝とやらの存在すら、ヤマト王権に比べればあいまいな根拠しか持ってない。
古田やそのシンパが一般に受け入れられないのはそのせい。
107 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:45:23 0
『魏志』倭人伝には、正始元年(240年)のこととして「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」と
いう記録がありますね。卑弥呼は魏の皇帝に上表文を送っていたんですね。
108 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:47:06 0
一応、近江からも鉄は出るだろ。
109 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 21:49:58 0
>>105 >さらっと畿内にヤマト王権が自生したような事を書くなよ。
それ以外の可能性なんてないだろ。
古田の九州王朝説はガセが多いとしても
稲作や鉄器が伝来したのは九州だし金印も出土してるから
独自に中国や朝鮮半島と外交していた可能性は高いだろう。倭の五王が九州の王だったというのもありえない話ではない。
当時後進地帯だった畿内が一体どうやって九州や出雲を征服したのかは依然として謎ではある。
神武東征も神話ではあるが、なぜこんな話が残っているのかは検証に値するのでは。
111 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 22:13:58 0
1世紀の「漢倭奴国王」には金印紫綬があたえられているが、これは楽浪郡守にあたえら
れた銀印、また戦後発見された「夫租薉君」や「夫租長印」の銀印よりも上位である。
また、同じ1世紀半ばには韓人の蘇馬ィを「邑君」に任じて楽浪郡南境の安定を図ったと
いう記事が『後漢書』にみえるが、これが中国の史書における「韓」の初出だ。そこでは、
韓人蘇馬ィに「漢廉斯邑君」の称号が与えられている。倭が「国王」なのに対し、韓は
「邑君」というふうに2つもランクが低い。『魏志』によれば、卑弥呼にも金印紫綬が与
えられ、大夫難升米と牛利には銀印青綬があたえられている。このあたりを見ると、古代
の中国王朝は一貫して朝鮮半島よりも日本列島を重視していることがわかる。これは、や
はり人口多く、王権が巨大で、産品も豊富であったからなのだろう。『隋書』にも、「新
羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使
いを通わせ往来す」とあり、倭国が百済や新羅に対し、優位な立場にあったことがわかる。
112 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 22:17:15 0
>>110 2世紀ころだと、畿内は後進地帯とはいえないでしょ。稲作や鉄器の伝播は
紀元前4世紀(あるいはそれ以前)の話だし。
113 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 22:21:02 0
>>104 ねじ曲がったナショナリズムだよな。ハッキリ言って、アメリカにおけるワシントン
よりもよほど偉大だよ。実質的な建国者と言ってよい。
>>110 >当時後進地帯だった畿内
この認識がすでに古い。
畿内や吉備は弥生後期から大人口を擁する地域で、環濠集落等の遺跡も多い。
古墳時代に入ると、遺構、遺物の多さは他地域とは比較にならない。
纒向遺跡に至っては、既に都市と言えるだけの規模を備えている。
近年では、弥生時代から瀬戸内海を動脈として、海外及び他地域との密な交流があったと考えるのが通説になっている。
115 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 22:29:13 0
征服王朝説の江上ですら、弥生時代後期と古墳時代前期の連続性は疑いないものとして
いるね。それが、古墳時代中期以降とは文化的に断絶しているというのが「征服」の根
拠だったわけだ。もっとも、今では「断絶している」という認識は成り立たないという
見解が大多数を占めているが。
116 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 22:35:35 O
>>114 しかし鉄器の出土数が明らかに九州に偏っているのはどう説明するの?
畿内ヤマト王権自生説や巻向研究者は銅鏡の出土とかはよく挙げるけど、
鉄器については目をつむってる気がするけど。
弥生時代に出土した鉄器のほとんどは九州のものな訳だし。
117 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 23:01:47 0
>>116 「ほとんどは九州」というのは少しオーバーじゃないかな。確かに7割方は九州地方から
出土しており、偏在傾向は否めないけどね。九州では、弥生中期前半には手斧やヤリガン
ナ、刀子などが国産化され、日常品化していったらしい。ただまあ、鉄は何度も何度も
鋳なおされるもので、リサイクルが前提だからね。出土したものだけでは全貌はわからな
いのではないかな。当時としては、刀や剣も鍛造ではなく鋳造だったろうから、武器と
しての威力がどれほどのものかは少し疑問だね。
>>116 純粋に地理的な問題。
2世紀当時の鉄産地として『魏書東夷伝』に記されてる朝鮮半島南部に一番近いのは北九州だからね。
交流もそれだけ密だったと考えて間違いはない。
ただ、当時の鉄器のほとんどは鋳鉄器であり、硬度、生産性いずれにおいても青銅器と比較してそれほどの優位がある訳ではない。
そして青銅器の出土数で言えば、畿内と出雲の出土数が他を圧している。
また、鉄器に限っても、河内や吉備の領域においては、佐賀や長崎のそれに匹敵する量が出土している。
鉄器の集中の事実のみを持って、北九州の先進性を論じるのはどうかと思う。
そもそも、九州で最も多くの鉄器が出土しているのは、当時もっとも半島との交流が密だったと思われる北九州では無く、熊本だしな。
補足。
銅鏡の出土が取り上げられるのは、それが大陸の王朝との交流の密度、或いは大陸からの職能集団の渡来を判断する有力な材料になるから。
これも鉄器の分布とは違う確度での、先進性を計るバロメーター足りえる。
>>25 亀レスですが。仮に租税徴収が実現できていたとしたら、それはきわめて
直轄地に近い存在でしょう。
たしかに、全羅南道の栄山江流域の情勢については文献史料が乏しく、
倭との関係も考古資料からの推量によらざるを得ないのですが、その場合
注目すべきは、やはり当地域において十数基発見されている前方後円墳です。
すでに、1980〜90年代以降の発掘調査によって、北部九州の影響が濃い
横穴式石室が用いられていることや、円筒埴輪に類似した土製品が墳丘の
周囲に立て廻らす例があることなどが明らかにされています。
しかしながら、それらの前方後円墳を構成する要素は倭系のみでなく、在地系、
百済系、加耶系のものも含んでいることが指摘されており、前方後円墳の
被葬者は、周辺諸勢力と複雑に結びついていたと言うべきでしょう。
栄山江流域の前方後円墳の被葬者については、在地の豪族とする説、
倭人の豪族とする説など、諸説紛々ですが、この地域がそもそも北部九州と
強い結びつきをもっていたとすれば、前方後円墳は両者の関係の所産である
と考えてよさそうです。雄略天皇の時代には、百済へ東城王を護送する任務
に筑紫の豪族が起用されていますが、その道程からすれば、栄山江流域の
豪族の協力が欠かせなかったはずです。
古墳の被葬者が倭人なのか在地人なのかは判断を留保せざるを得ませんが、
筑紫の豪族と在地の豪族の両者は婚姻などで強く結びつき、ともに百済を
支援したり、あるいは百済を牽制する関係にあったと思われます。
そのような栄山江流域が「四県割譲」によって、百済に併呑されてしまった
結果、北部九州の豪族らは百済よりも新羅との関係を模索するようになり、
それが筑紫君磐井の「反乱」につながったのではないでしょうか。
「四県割譲」が百済による併合・侵略であって、とても平和裏に行われた
国境変更などではなかったことは、筑紫の豪族の動向や、後に任那復興を
呼びかけた百済に対する加耶諸国の冷淡な態度から窺えると思います。
>>116 纏向遺跡では、5つの地点から鍛冶関連遺物が出土しているそうですが、
注目すべきは北部九州の鞴(ふいご)羽口が出ていること。
北部九州から鍛冶技術(者)が導入されたと見るべきでしょう。
とはいえ、同遺跡における九州系土器の出土はあまりに少量なので、
九州勢力の移動などはまず考えられないところです。
122 :
25:2009/05/19(火) 00:10:57 0
>>120 >亀レスですが。仮に租税徴収が実現できていたとしたら、それはきわめて
>直轄地に近い存在でしょう。
「租税徴収」という言い方がまずかったでしょうか。要するに、中国の柵封体制のミニ版のようなイメージ(と言ってしまうとまた逆方向に言いすぎ?)ですが・・・
中国伝統の柵封とは何だったのか?と言えば、第一義的には、外周の低コスト安全保障政策であったわけです。
軍事的にヒネるのは簡単でも、文化的相違などの理由で軍隊駐留による直接統治ではコストがかかりすぎる場合、その隣接地域を安上がりに味方に付け、帝国の安全を維持できるのが柵封体制でした。
朝貢は取っていたにせよ、使節の滞在費すら中国側負担であり、結局多くは「持ち出し」勘定だったわけで、柵封には収奪・搾取・自己富裕化(儲け仕事)としての意味はほとんどありません。
任那には、日本の大豪族の首長(キミ)クラスの大物が支配する地域(クニ)が多くあったでしょう。そういうところからは、日本府が首長を通じて貢納(といっても経営コストをペイする程度の)を取っていたでしょう。
しかし、そういう大物がいない地域ではどうしていたか?
そういう地域が書紀に言う「県邑」だったのではないか、というのが私の言いたかったことです。
そういう県邑の小物どもから(下手をすれば直接に人民から)いかに低コストで(苛斂誅求による造反や日本役人のオーバープレゼンスによる高負担なしで)そこそこの税を徴収するか、が日本府による任那統治の課題だった、と。
最低限、日本府を通じて税を徴収する以上、本土の領土と完全に同一には見なせないと思います。
123 :
25:2009/05/19(火) 00:12:18 0
>>120 >「四県割譲」が百済による併合・侵略であって、とても平和裏に行われた
>国境変更などではなかったことは、筑紫の豪族の動向や、後に任那復興を
>呼びかけた百済に対する加耶諸国の冷淡な態度から窺えると思います。
百済の立場に立って考えてみれば、あの環境で倭国のご機嫌を損ねるのはキ○ガイ沙汰です。東には宿命のライバルあり、北にはひたひたと迫る現在の脅威あり・・・
錆びた刀ではあっても、かつては高句麗まで攻め入った南の「伝説の強国」カードをいつでも切れるようにしておかなければ、とても生き残れない状況(実際滅びてしまいましたが)と判断するのが常識的です。
四県割譲が御説の通りの性格のものだったとしたら、百済朝廷はビスマルク並みの外交的天才か、よほどの外交音痴(あるいは内部対立で政策が一貫しなかった?)か、いずれかだったのでしょう。
124 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 04:52:18 0
任那日本府の権限がどれほどのものだったかということに尽きるのかもしれません。
日本府(倭府)は、畿内の政権の意向を無視して独断で行動するケースも少なくない
ように見受けられますが。。。
百済としては、高句麗の脅威があったときには倭軍は頼りになる同盟軍だったが、
高句麗の南下が一息つくと、逆に邪魔になるような、そういう存在だったかもし
れないですね。本当なら、百済は、北朝の勢力と組んで高句麗を挟撃する戦略を
採用すべきだったかもしれないが、南朝との関係が親しすぎてそうもできなかっ
た。文化的には、洗練された六朝文化の導入がはかられたわけだけれども。
6世紀後半の華北では、大規模な廃仏がおこなわれるが、日本や新羅ではまさに
この頃から仏教文化が興隆する。華北における廃仏が、朝鮮半島や日本列島など
周囲に何らかの文化的・政治的影響をあたえたものだろうか。
126 :
22:2009/05/19(火) 05:42:56 0
>>122 『日本書紀』には「県邑」「四県」とともに、「哆唎国守」の記述も見え、「四県」は
それぞれ国というべき規模をもっていたと考えられます。
『魏志』に馬韓には五十余の国があるとされますが、栄山江流域の勢力は
それらの系譜を受け継ぐ小国家群と見るべきでしょう。たとえば、「四県」の
ひとつ「牟婁」は、『魏志』にある「咨離牟盧國」「牟盧卑離國」のいづれか、
あるいはそれらが統合された国なのではないでしょうか。
そして、栄山江流域には前方後円墳のほかにも、在地系の円墳・方墳から成る
古墳群も多数存在することから、「四県」のそれぞれに金官や安羅に匹敵する
首領・大豪族がいたことは間違いないように思われます。
この地域へ倭がどのように関わったかは、文献的には、「哆唎国守穂積臣押山」
「四県」「県邑」等の記述から窺うほかありませんが、まるで地方行政官の如き
「哆唎国守」の訓は「たりのくにのみこともち」であり、その意は哆唎国に在る
倭王の使臣でしょう。「国守」という語感からは少々遠いイメージと言えます。
倭国による貢租等の取立てがあったのかどうかは不明ですが、この地を獲得した
百済に対して、倭が「四県の調」を要求していない点は注目されます。新羅に対して
執拗に「任那の調」(実質は金官国における特恵的交易権等の代償でしょう)を
求めた態度とだいぶ異なるわけで、貢租取立てのようなことが「四県」において
存在したとするのは疑問が残ります。
日本人はどうしても朝鮮に支配されていた事実をみとめたくないんだね・・・・
>>123 倭国へ貢納を行っていたような土地を指して、困ってるからウチに下さいという
のは、普通に考えて、倭王の御機嫌を損ねるに十分な要請だと思うのですが。
ところが、そのような土地を百済はぬけぬけと請い、倭王である継体天皇も
それをすんなりくれてやるわけです(皇子や臣の一部は反対しましたが)。
しかし、このくだりはどうも『日本書紀』独特の自己中心的かつ華夷秩序的な
史観による無理な筋立てのように思われてなりません。そもそも「県」「国守」
という用語自体がそうであるわけですが。
むしろ、実際の「四県」は倭王の判断で割譲できる性質の土地ではなく、
倭の影響は強かったものの、独立した小国家群だったと考えるべきで、
そのほうが状況的にも資料的にも整合しましょう。
継体からすれば、「四県」の地は筑紫の豪族を通して関与するに過ぎず、
倭王が直接どうこうできる土地ではなかったからこそ、百済による併合を
請われるままに了承するしかなかったのでしょう。逆に百済にすれば、
倭王の後ろ盾を得ることができれば、「四県」の在地首領やそれに味方する
筑紫の豪族の抵抗をスムーズに排除できるという強かな目論見があったもの
と思われます。
百済による「四県」併合により、筑紫の豪族らはおそらく恨みを呑んで、
そこから手を引いたと思われますが、おそらく彼らの不満を糾合したのが、
北部九州の大首領である筑紫君磐井であり、そこに新羅が接近したのでは
ないでしょうか。
継体にしてみたら九州の豪族の権益をおさえる方が
国内の統治には有利と考えたのかな。
四県に対しての中央からの影響力が薄く、柵封のような関係だったとして。
百済からは人材を献上させたりしてるので、
まとめて徴収できたらいいやみたいな考え方だったのかも。
『日本書紀』によれば、継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年も
かかっていることになっており、百済では、そういう倭国の混乱を知っていて強行
手段に出たという推論は成り立たないものだろうか。そのときの王は、日本生まれ
の武寧王(斯麻王)だったから、事情に明るかったんじゃないかな。
131 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 06:47:48 0
任那のことを「倭」とも呼んでいたようですね。倭人居留地だったのでは?
132 :
22:2009/05/19(火) 07:40:38 0
>>128=22です。
>>125 倭と百済が親密で高句麗に対して共同戦線を張っていたとしても、
それぞれの思惑が必ずしも合致していたわけではないでしょうね。
当然と言えば当然ですが。
>本当なら、百済は、北朝の勢力と組んで高句麗を挟撃する戦略を
>採用すべきだったかもしれないが、南朝との関係が親しすぎて
>そうもできなかった。
実際に百済は北魏に遣使して、高句麗への膺懲を請願していますね。
うまく誤魔化されてしまいますけど。それどころか、『資治通鑑』や『南斉書』
によると、その後百済は北魏の軍に攻撃されてさえいます。
>>129 大陸や半島への関与するにしても、九州の豪族を抑えなくては無理ですよね。
継体は肥後宇土地域の大豪族火葦北君と個人的に強い結びつきがあったと
されますが、それは筑紫君や火君への牽制ともなったことでしょう。
>>130 >『日本書紀』によれば、継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年も
>かかっていることになっており
私は一本の7年説をとっていますが、やはり、継体にとって、倭の王権の
混乱を収拾することがまず最優先課題とされたことは想像に難くありません。
百済がその混乱に乗じて「四県」の併合に打って出たことは十分ありうると
思います。和歌山県の隅田八幡神社人物画像鏡銘により、もともと継体は
即位以前より武寧王とつながりを持っていたとする説も有力であり、継体の
親百済的態度が百済の行動を助長した可能性もあります。
なぜ大和朝廷という歴史的呼称を頑なに拒否して、わざわざヤマト王権だとか大和政権だとか
次々と言い換えなければ気がすまないのでしょうか?
>>133 考古資料から、古墳時代以降の大和に強大な王権が存在したのは確かだが、その実態が未だ不明瞭だから。
古墳の分布から判断される王権の中心地も、三輪山麓、河内平野等、分散しているし、「大和朝廷」と言う語で一括りにするのは実態に合わない可能性が高い。
なので「ヤマト王権」や、もっと細分化した「三輪王権」「河内王権」等の名称が採用されているのが現状。
名実ともに「大和朝廷」と呼んで良いのは、飛鳥時代に入ってから、欽明朝期以降の話だろう。
135 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 11:55:26 0
それがし、壬申の乱以降ではないか、と思ふ
136 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 11:55:55 O
>>134 スレチかも知れないけど、ヤマト王権の中心が移動した理由ってわかってないんだよね?
王朝交替説とかあったけど今はどうなってるんだろ。
天武以前の記録で意図的に隠蔽されたものもあるんだろうな。
>>134 王権なら分散していてる実態に即していて朝廷はそうではないという理由は?
大和と書かないでヤマトと表記する理由は?
聖徳太子を厩戸王などと言い換えているように、大和朝廷という
単語を使用したくないというイデオロギー的理由が絡んでいるのでは?
>>137 「朝廷」と言うのは皇帝や天皇を中心にした統治組織を指す用語。
分散してるかどうかに関わりなく古代の王権を指す用語としては不適当。
>>134が言いたいのはそう言う事だろう。
>>103 新羅の始まりは秦からの移民だし、金春秋は高句麗、倭、唐となりふりかまわず
救援を請うあたりが卑屈だし、唐には息子らを人質に送りつけるほどの属国根性ぶりが
英雄と言うにはあまりに貧相だろ。
結局百済や高句麗を滅ぼしたのは唐の軍勢あってのことだし。
大国に挟まれて、見事に難局をのりきり、国を存続させただけではなく、
果実の全てを取って半島を朝鮮人のものにした。
現代につづく朝鮮人というものを作った。
偉大な功績だと思うよ。フランク王国が西フランクと東フランクに別れてフランスとドイツができた位の影響があると思う。
文武王だね
いや、しかし新羅以後、半島は何度も対外勢力に負け続けているので
それでは、なぜ半島を維持できたのか説明できないな
結局、支那と北方勢力のどちらかに荷担して一方に必ず恩を売ることが出来たので
どちらにも事大が可能だったことが一番の原因なのでは?
基本、中国は敵対する勢力を滅ぼすのであって、朝貢する勢力は滅ぼさないだろ。
なぜ朝貢し続ける朝鮮を滅ぼす必要があるのか?
自分、オカルト板の住民ですが、海底遺跡スレでリンクが張られていました。
そっから飛んできました。
自分の仮説では、大和政権の正体はズバリ「小氷河期時代に台湾から沖縄にかけて存在していた
小大陸の子孫が立てた政権でないかと考えています。
まず、日本人の中でも南方系は実際に象を追って日本にやってきたそうですし、地質学的にも、
大陸〜台湾〜沖縄〜西南諸島あるいは本土にかけて繋がっていたと考えられます。
このルートによって
・稲作が中国南部から直接伝来した
・鉄器もヒッタイトからの鉄文化が直接南部から日本に伝来した。
・大陸系の影響を受けない三輪王朝の古墳なども説明できます。
1986年、沖縄の宮古島沖で、海底遺跡が発見されました。
これは古代の人造物で、かつては文明を持つ大国であったものが、
海底に沈んでしまい、この生き残りがヤマト王権をつくった神武の軍勢ではないでしょうか?
・古事記ではアマテラスオオミノカミが太陽神として描写されていますが、おそらく古代エジプトの信仰が
交戦したヒッタイトの鉄文化とともにインドのドラビタ系民族から東南アジアそして南中国に
つたわり、そこから沖縄にあった古代帝国につたわったものでしょう。
よく日本人が、どこが発祥かはっきりわからないという事柄が話題になりますが、
もともとの故地が海の底に沈んだのならはっきりわからない理由も説明できます。
何よりも、古代の出雲や火の国や筑紫の国よりなぜ、神武〜ヤマト王権がすぐれていたかも
説明できます。
理由は単純、大陸〜半島〜筑紫・出雲・火の国などの王権よりも、大陸から古代琉球付近で
鉄器や、太陽神信仰があった人々が技術で優越していたから他勢力を圧倒した。
ただそれだけの話なんです。
おそらく、神武(1人ではない何世代もの勢力の象徴)とされる人々は瀬戸内海でなく、太平洋を渡ろうとしたが、
黒潮に押されて日向の地に到着、そこから再度出航するも、機内に再度流され、そこから内部に侵入し
定着したのでしょう。
今は海中に沈んでいるため、思うように発掘作業が進んでいませんが、琉球沖にある遺跡の、
研究調査が進めば、古代の日本人のルーツとなった政権が白日のモノとされるでしょう。
一日もはやく真実が明かされるよう願ってやみません。
与那国もそうだが沖縄の海底遺跡は地方振興のためのガセネタって結論出てるだろ。
スレ違いだから別でやれ。
148 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 21:37:10 0
百済・高句麗の文化というのは、朝鮮文化ではなく中国文化だからね。新羅統一があって
はじめて民族文化を発展させる土壌が生まれたというべきでしょう。新羅が独立王国とし
て存在したからこそ『三国史記』なる史書も編まれたし、高麗王朝や朝鮮王朝につながる
政治的領域が形成された。新羅による半島統一がなかったら、朝鮮人は現代中国における
チョワン族やミャオ族と同じような地位に転落していただろうと思う。ハングルも生まれ
なかったに違いない。
149 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 23:04:43 0
まだ人口密度が低かったから倭人が住んでも半島人は気にしなかったんじゃないの?
その頃は土地はいくらでもあったっていうかさ。
継体は大伴金村の力添えがなかったら即位できなかったかもしれないから、金村の
任那割譲策に抗しきれなかったのかもしれませんね。それが512年から513年にかけ
ての出来事であり、527年にはおそらく、その不満もあって筑紫国造磐井の乱が起
こる。いっぽう同年には近江臣毛野が割譲地奪還に出発するも、失敗する。奇妙な
ことに大伴金村が任那問題で失脚して引退するのが540年だ。割譲より20数年を経
ている。もとより、これは単なる言いがかりなのかもしれないが、にしても、取り
上げるのが遅すぎる。百済が扶余に遷都したのが、538年ということだから、その後
ということになる。そして541年には、いわゆる「任那復興会議」が開催されるとと
もに、同年には、百済と新羅の同盟が成立する。これは、547年に百済が新羅に攻め
られたため、ごく短期間の同盟ではあったが、宿敵といってよい両者が結束した数
少ない例となる。このようにみてくると530年代の後半から540年代の中ごろにかけて、
百済と倭国の同盟が決定的に崩れるような何か、それまで朝鮮経営にたずさわってき
た大伴氏が失脚するような何か、あるいは百済の国都陥落を招くような重大な何か
(これらは一連のできごとかもしれない)が起こった可能性も考えられる。
151 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 23:15:45 0
『日本書紀』の仁徳天皇の事績をみてゆくと、河内の北河(淀川)の溢水を
防ぐために茨田堤(まむたのつつみ)を築くとき、新羅人を労役に使ったと
いう記述がある。これは、ちょうど倭軍が高句麗を攻め帯方の界を侵すとい
う高句麗好太王の碑文に記された5世紀の初頭から「倭の五王」の最初の王
讃が東晋に遣使した頃、つまり410年代にかけての頃と思われる。新羅の人
びとも、このとき捕虜や奴婢として倭国に多数送られたのかもしれない。
新羅は北朝にも南朝にも朝貢して安全保障に努めているね。そしてまた、百済が
高句麗に奪われた漢城を奪っている。そのために百済とも一時休戦している。こ
のあたり、結構したたかだ。磐井の乱を唆したのだとすれば、畿内王権の急所を
抑えているとさえ言える。高句麗は広開土王、長寿王以降は君主に恵まれなかっ
た。狩猟民や遊牧民の場合、優れたリーダーが現れると急成長するが、リーダー
に恵まれないと瞬く間に衰退し、農耕民の勢力に押されてしまう傾向にあるよう
だ。
154 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 23:41:22 0
山城なら弥生時代にもあるけどね。
高句麗は前漢の時代から唐まで続いた王朝だからね。
個人のカリスマでできた国と同一には語れないでしょう。
しかし、歴史の長さの割によくわからないことだらけなのね。
156 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 00:28:41 0
342年には前秦の慕容氏が丸都に入城して故国原王が逃亡、慕容コウは先代の
高句麗王(美川王)の墓をあばいて屍をとり、王室歴代の秘宝と捕虜の男女
5万余人をたずさえて、王宮を焼き丸都を破壊したという記録がありますね。
楽浪郡を滅ぼしてから百年余りも山のなかの丸都に首都を置き続けたのも不思
議な話だ。鴨緑江をまたぐ交易の上前や鴨緑江の通行料を収入源にしていた
ものなのか。あるいは軍事的な要地だったのか。現代を基準にすると、いかに
も不便な土地柄という気がしてならん。
>>148 それ間違えているよ。
新羅は統一されてから中国式の官制を取り入れていってる。
逆に統一以前、白村江よりかなり前は夷俗の官制を
取り入れていたらしい。
つまり、日本の影響が非常につよかったんだよ。
白村江の戦いで倭は半島から完全に駆逐され、新羅が日本の干渉を排除し、
中国の歴代政権と兄弟の関係になる図式が生まれた
>>156 不思議でもなんでもない。
高句麗は慕容氏だけでなく、南からは百済や倭にも首都を落とされている。
ようするに彼らは近隣諸国から常に軍事的圧迫をうけていた。
新羅や百済ら韓族が高句麗に滅ぼされなかった理由は、倭の軍事的支援もあるが、
敵が多すぎたから。
交通が不便というよりも、当時の軍事情勢からかんがえると非常に守りづらい地勢だったのではないだろうか。
159 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 07:03:38 0
>>158 倭・百済が丸都城を陥落させたというのは何年のことか、また、その出典
史料は?
慕容氏というと燕だと思うが
前秦て前燕を併呑したあと高句麗攻めしたか?
161 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 10:16:14 0
162 :
訂正します:2009/05/20(水) 16:53:12 0
>>156 おお間違えたわ。
×前秦
○前燕
のマチガイ。ごめんなさい。
163 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 18:31:58 0
※鳩山一郎首相(鳩山由紀夫民主党代表の祖父)を袋叩きにした朝鮮進駐軍
其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に
對する集團暴行・傷害事件がある <その、集団>
翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居
たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き
飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民
が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収
するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立
てた <軽井沢、鉄道、この>
其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃお
かしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋
叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなか
ったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった
痛々しい顔で帰京した <それ、たちまち>
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に
不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう <いかに、これ>
直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地
も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が
多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪さ
れた 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐる
のは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ
三国人の不法行為
http://1st.geocities.jp/koreapeacenow2001/didi/sangokuzin.htm
>>150 >いっぽう同年には近江臣毛野が割譲地奪還に出発するも、失敗する。
割譲地奪還ではなくて、新羅に破られた南加羅(ありひしのから、金官国)、
碌乙呑*(とくことん)の回復では?
それから、「任那四県割譲」の後も百済の進撃は止んでいないことに注目
しなくてはなりません。
『日本書紀』によると、「四県割譲」の翌年、継体7年(513)6月、百済は
伴跛国(はへのくに)に奪われた己汶(こもん)の還付を願い出ています。
さらに同年11月、百済の姐弥文貴将軍が、新羅、安羅、伴跛の使者と
ともに倭へやってきて、結局、己汶と滞沙(たさ)を百済に賜っています。
このとき、伴跛は珍宝を献じて、己汶の地を乞いますが、倭はこれを拒否、
翌8年3月、伴跛はこの処置を怨み、子呑と帯沙に築城し、満奚と連結させ、
烽候(烽火台)、邸閣(兵器庫)を置いて倭に備える…といった具合です。
165 :
164:2009/05/20(水) 22:14:53 0
伴跛国は慶尚北道高霊にあったという加耶北部の代表勢力で、『日本書紀』
には「加羅」の名でも頻出し、『三国史記』には「大加耶」の名で登場する
有力な国。斉の建元元年(479)に加羅国の荷知が朝貢していますが、
これは伴跛すなわち大加耶の嘉悉王であるといわれます。
内陸国の伴跛が斉へ遣使するためには外港とそこまでの連絡路を得る
必要がありますが、それが蟾津江流域である己汶とその河口の滞沙
(帯沙、多沙)であったと思われます。
百済の主張によると、伴跛が自領である己汶を奪ったとのことですが、
これは明らかに虚偽でしょう。「任那四県」のさらに東にある地が百済領で
あったとは到底考えられません。己汶は伴跛の同盟国ないし従属国
であり、外海への重要な通路だったはずです。むろん、倭がこの地を
百済に賜ったというのも、事実とは言い難く、実際は百済に対して援軍
などを派遣したということでしょう。
結局、倭は伴跛ではなく百済を支援することで、己汶は百済の領有に帰す
わけですが(滞沙はこの時点ではなく、後年の領有とする意見がある)、
このため、伴跛は自国から蟾津江口の帯沙まで築城し、百済および倭との
戦争に備え、また、新羅との国境にかけても四城を築いて、交戦状態に
入るという複雑な様相を呈してきます。
継体9年(515)には、百済の将軍姐弥文貴の帰国に物部至至連と五百艘の
水軍をつけて百済に遣わしますが、帯沙江で伴跛に急襲され大敗します。
物部連は汶慕羅(もんもら)嶋に逃れたものの、翌年百済使に救出される
まで動けないという有様。この後任那関係の記事はしばらく途絶え、
21年の近江臣毛野の任那派遣(とそれに続く磐井の乱)に至ります。
* 碌乙呑の「碌」字は石偏ではなく口偏。
166 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 02:15:55 0
167 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 02:30:04 0
確実に存在した
>>161 特に二枚目の不自然さは何度みても笑えるな。
まぁ流石に飽き気味だが
169 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 13:24:09 0
>>166 神武東征の説話は、その頃の国際環境の変化に対応して生まれた、起源の新しい
説話のようですね。防衛ラインが対馬・朝鮮海峡・北九州周辺まで後退した結果、
南九州の勢力を敵にまわせないということから創作された話と考えれば、辻褄が
合う。磐井の乱の二の舞を避けるための深謀遠慮か?
あまりに遠すぎて配慮にきづかねえよ
171 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 14:29:07 O
白村江の敗退との関係は分からないが、散々苦労して九州を平定したヤマトが
併合の正当化の為に流布した神話という可能性は高いと思うな。
歴史の中で類型は見られるのかい?
畿内が九州王朝を簒奪したことを覆い隠すために
東征説をもちだしたというならまだしもそのころには畿内の勢力の方が圧倒的なわけで
わざわざへりくだる必要はないと思うが
権威のでかさだけなら出雲のほうが九州より大きいし
新興勢力の畿内が出雲に気を遣わず、九州に気を遣う理由がない
どう考えてももっと早い時期の成立だろ
畿内が九州と同盟、あるいは併合したのは少なくとも出雲より早くないと
つじつまが合わんと思うが
法隆寺再建論争が昭和14年の若草伽藍の発見によって決着したり、明治年間に石上神宮で七支刀が
発見されて、百済王子が七枝刀を天皇に献上して同盟が成立したことが確かめられたわけだから、
『日本書紀』の記述はかなり正確で信頼できるものと言ってよいのではないか。任那日本府も創作
ではなく、実在の租税徴収機関・統治機関であろう。そのことによって、さまざまな問題が矛盾な
く説明できるわけだし。
174 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 18:35:44 0
白村江の敗退後、ヤマト王権はそれまで対外的に通用していた「倭国」の国号を
「日本」に改めており、さらに、初の正史『日本書紀』の編集がはじまった。こ
こでは、倭国はヤマタイ国以来の原点にかえって日の御子が国を治める隣保同盟
としての日本(ヤマト)、太陽神を崇める祭祀王としての天皇ということが、あ
らためて確認されたんじゃないかな。将来に対する非常に強い危機感があって、
あるいは、ひとつの時代が終わったという実感なり気分なりがあって、はじめて
歴史は編まれるものではないだろうか。白村江の戦いと壬申の乱は、十分それを
痛感させるだけの古代史上の画期だったと思うんだがねぇ。
177 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 21:24:00 0
『晋書』によれば、413年に高句麗王高l(長寿王)の使者と倭王讃(仁徳
または履中)の使者が連れ立って東晋の朝廷を訪問しているが、これは高句
麗にとっても倭国にとっても南朝との通交の最初だったようだ。百済王は余
句(肖古王)以来、代々東晋に通交していたが、416年には百済王余腆(腆支
王)が使を派遣して朝貢している。
この件で興味深いのは倭王讃のことを、「倭王倭讃」と記述していることで、
倭王は自らの姓を「倭」であると東晋に申告していることだ。百済王の姓で
ある「余」は祖先が扶余系であるという伝承に由来するらしいが、倭王はそ
うでない。「倭の地の王」であることをここで既に強調している。やはり、
「倭の五王」は倭の地で自生した土着の王権であり、外来王である可能性は
きわめて薄いのではないだろうか。
178 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 21:27:27 O
>>174 歴史の編纂が王朝の誕生と共に始まるものだとすると、日本のそれは天武の即位した後の8世紀からということになる。
ヤマト王権が激しい内戦の末に全国を統一したり、海外遠征までしたのだとしたら、何故その頃の王朝は記録を編纂しようとしなかったのだろうか。
少なくとも支配者層は外交上の必要もあったから、文字の記録の存在は知っていただろうし。
逆に言うとそうした記録すら持たない政権に海外遠征や海外領土の運営が出来たのだろうか。
>>174 いや、単に対外圧力による、自我の目覚めだと思うが。
唐に侵略される危機によって俄然自国のみの権益だけでなく
日本という世界概念まで失う危険性がでてきたのであり
この世界の危機に際して、ギリシアのポリスのように一致団結したのではないか?
天皇家の国は、金庫番だったアテネのような存在にすぎんかったのかもしれんが
かといって、古墳群が示すようにすでに有力な勢力を形作っていた
国家連合の盟主であったこともちがいあるまい。
大胆な簒奪はなかっただろう
当時の稲作が盛んに行われていた地域は、緯度を考えると
九州の筑紫平野が有利であったことはまちがいないし、
その次に、大阪、琵琶湖周辺になるのでは?地図見るに
濃尾平野が開拓されるのは大分あとだし。
九州が太陽神信仰のはじまりの地と比定されるのが妥当だよ
さらに、たくさんの人口をかかえることが可能になった新興勃興勢力の
先駆けだったとも見ることができる。
金印、委の奴の国王印が福岡からでたことは
ヤマタイ国が九州にあったかはともかく日本黎明期には
中心地が西日本にあったのはどうしようもなく否定しがたいだろう
180 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 21:44:16 0
歴史の編纂は、中国大陸や朝鮮半島の伝統ではひとつの王朝なり時代なりが
完全に終わってから始まるものだね。
だけど、日本書紀は放伐も禅譲も書かれていないね
それどころか、最初の正史である史記のように通史でもない
王朝の交代が示されていない、
さらに史記の存在は知っていただろうが
これより古い歴史を捏造する意志もなかった。
あまり穿った見方はするべきではないね
182 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 22:00:07 0
>>178 たぶん海外という感覚はなかったんだろうね。弥生時代から多くの倭人が住んで
いて楽浪郡との交易に従事していたのだろうから。おそらくは、馬韓には王がお
らず、非常に野蛮な生活をしているというのに対し、辰韓には王がいて礼儀をよ
くわきまえて文明的な生活を送っているという『魏志』の記述は、辰韓の方が楽
浪郡・中国大陸と北九州・日本列島との交易ルートに沿っていて、その中継貿易
で栄えていたのだろうと思う。馬韓はその交易ルートから外れていたのだろう。
博多にあった奴国の王に、後漢の光武帝の時代すでに金印紫綬が与えられたのは、
このルートのまさに交易のカナメの位置にあったからなのだろう。壱岐・対馬が
日本人の土地であり続け、逆に韓族は歴史的に一時的な占領すらできなかったこ
とを考えれば、倭人は朝鮮半島南部至るところに居留地をつくって生活していた
のだろう。それを利用したからこそ、倭国は大規模な軍事行動を半島で展開でき
たのだし、新羅や百済に対しても外交的優位を長いあいだ保ちつづけることがで
きたのだろうね。
183 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 22:02:48 0
歴史の編纂が「ひとつの王朝なり時代なりが完全に終わってから始まる」のが
伝統、ってのはその通りだと思うんだけど、「国号の変更」ってのもそうなんじゃ
ないかな、と考えた時
もしかして「南扶余」時代の百済は「百済」ではなかったのかもしれない。
「百済記」ほかの百済の史書は「南扶余」時代に書かれたとか?
(中国式に「次の王朝」の権力者が?)単なる思い付きではあるけど。
「倭→日本」に王朝の断絶か革命かを見たがる論者が、「百済→南扶余」には
それを見ようとしない(ように見える)のは何なんだろうね。
伽耶諸国の名前の混乱も、「(王朝の断絶かなにかによる)国号の変更の可能性」
という観点で論じたものがあってもよさそうなのに、あんまり見かけないよね。
184 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 22:07:54 0
南朝の勢いが盛んだったのは五胡十六国いりみだれていた
晋、宋までで、梁、陳は弱すぎて話になんないよね
後漢三国200〜晋250〜西晋崩壊の300〜前秦崩壊の400〜北魏華北平定450〜隋唐600〜
日本が南朝をひいきにしていた理由は百済のせいか、それとも後漢からの流れなのか
ともかく、日本国の形成時期は支那もつねに荒れていたわけで
意外と息の長かった半島周辺の国家に注目しすぎても当時の情勢を見失うのではないかと。
要参考
>>55-57
185 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 22:08:49 O
>>183 そもそも王朝交替説や征服王朝説は、戦前の天皇家万世一系を軸とした歴史観に対する批判が目的だから
今の日本の野党と同じで他国のアラには興味がないんだろう。
186 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 22:11:55 0
和田あつむ先生も河内王朝論、三王朝交替論は否定されているね。
中国の歴史書は現在の政権の支配を正当化するために、前政権が徳を失ったことを
書くんだが、日本の歴史書は現在の政権(天皇)の支配を正当化するために、神の子孫
であることを書いている。
両国の歴史書は少し異なっているように思うが、実は日本の天皇が打倒され、新政権が
誕生したことがないために、易姓革命という概念を持ち出す必要がなかっただけだな。
中国の歴史書も秦の時代がずっと続いていたら、日本の歴史書のようになっただろうね。
188 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 22:31:22 0
>>187 日本の歴史書ってなんのことだよ。
具体的な名前をあげよ。
フランスに巨大な領地を持っていたイングランド王家が、百年戦争によって
国民国家、民族国家の君主へと変貌した。大陸への橋頭堡カレーを失って完
全な島国となったエリザベス女王統治のイングランドがスチュアート朝時代
にスコットランドと同君連合を結んだ。さらに、名誉革命によって議会王政
が成立した後の同君連合は、やがて島の名「グレートブリテン」を正式な国
号とするようになる。
たとえがまずいかもしれないが、イギリスで長い年月をかけて興起した事柄、
これに類した事柄が一挙に起こったのが、660年代から670年代にかけての倭
国ではなかったんだろうか。倭国から日本への改称も、支配領域の変更とい
う事情も含んでのことではないんだろうか。
民族黎明期ってのは殷にしても周にしてもけっこうながくつづくもんだよね
(どちらも帝国じゃないし、領土としてむっちゃ小さいけど)
日本の黎明期ってどのへんにおくのかしらね
日本の縄文弥生の区分はあいまいでよくわからんが
陸稲は6000年前だっけ?そのくらいにはじまっていたらしいし
弥生人の渡来が紀元前900年くらいから断続的にはじまり
紀元前2世紀には水田稲作がはじまっていたことを考えるとだね
ここに黎明期をおくべきか
それとも魏志の邪馬台国に原始的な国家像を仮託してここを黎明期とするか、
選ぶなら、おれは、前者をえらびたいね
でないと、200年やそこらで利害いりみだれた大乱という高度な国際関係が生まれるということは
ありえないと思うから
>>187 そうかも、でも、始皇帝は、社しょく(日本で言う氏神)をまつらなかった
泰山で封禅の儀をおこなって、天という、より広い概念によって中華をひとつにまとめたよね
ていうか中華概念の誕生がここでおこった
日本で言う高天原か?!
でも、それよりもっと一神教的で皇帝の強制力はつよい。
>>184 山東半島をどっちが支配していたかとか。
まあ普通に南朝のほうが文化も高いし、
正統派だと認識してたんだろう。
>>189 国民国家の成立はフランス革命の後だから。
ノルマンがフランスに進入して大量領土を奪ったとき
フランスは、領土をみとめてやることでなんとか臣下という形をとらせた。
そして、ノルマンの領主が、フランスに土着した後、ブリテンに攻め入り
イングランド王におさまったのがノルマンコンケストで
フランスの家臣ながら、イングランド王というへんな状況がおこったんだよ
百年戦争によってなんとかフランス王が面目躍如したが
そもそもロアール川以北はノルマンの土地という意識ができあがっていたほど
フランス王はフランス国内に影響力はなかった。
つーか、おまえこりもせずまた征服王朝説か
193 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 23:16:35 O
>>192 189は制服王朝がどうのってことじゃなく、
イギリスがフランスの領地を失ったことでイギリスらしくなったと、そう言いたいんじゃないかな。
倭とは朝鮮南部の倭人も異民族もを含んだ名で、
日本とはそれを含まない地域だと言いたいんじゃないかな。
イギリスがフランスのことを振りきるのは、
実はウィリアム3世の時代らしい
>>183 百済の南扶余への国号変更は泗沘(所夫里)に遷都した聖王16年(538)
とされますが、これに先立つ継体23年(530)、帯沙津を「扶余(くだら)
に賜ふ」と『日本書紀』にあり、もしかしたら、聖王(聖明王)が即位
した523年に「扶余」への変更があったのかもしれません。
ただ、聖明王は武寧王の子であることは疑えず、王系の変更などがあった
とは考えられません。また大陸の史書には国号変更のことは見えないので、
おそらく正式なものというより、高句麗への対抗意識あるいは国威発揚
などの意味合いが強いものだったように思われます。
>>191 倭の遣使朝貢の開始と終結は、江南政権の山東半島の獲得と喪失に
ほぼぴったり連動していますね。
195 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 00:42:19 O
聖王が武寧王の子奈々はっきりしてても、肝心の武寧王が…
196 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 06:17:19 0
制服王朝w
197 :
193:2009/05/22(金) 06:26:54 O
>>1 任那日本府の話は、日韓の歴史学者は非常に幼稚。
このへんの歴史の中で、もっとも重要な要素は中国なのに。
なぜなら、倭王は中国の皇帝に半島の軍事統括権を認めてもらおうと
何度も外交交渉している。
が、そういう話が全く抜け落ちている。
広開土王碑文をみても分かるが
西暦4世紀中頃から、倭国は朝鮮半島へ軍事侵攻し、
それを高句麗は、侵略行為だと痛烈に批判している。
だから、西暦5世紀から、倭国は中国の皇帝に朝貢して
朝鮮半島の諸国の軍事を担当する官位を貰おうと
外交交渉している。
で、ここで、もし、中国の皇帝に認められたら、
倭国の朝鮮半島への軍事行動は、全て中国皇帝の権威の下にあることになり、
倭国の軍事行動=中国の軍事行動となる。
これは、対高句麗との紛争において重要な要素になってくる。
199 :
189:2009/05/22(金) 09:18:30 0
>>193 そういうことを言いたかった。ありがとう。660年代から670年代にかけて、半島では高句麗・百済の滅亡が
あり、日本では壬申の乱があって、それに前後して、最古の律令や天皇号の採用、初の戸籍など、立て続け
に改革をおこなった。また、双方にかかわることとして、白村江の戦いがあった。それ以降の常識で、それ
以前のことを理解しようとしても難しいんじゃないか。現代の感覚で百年戦争を理解しようとしても難しい
ように。イギリスがフランスの領地を失ったことでイギリスらしくなったのと同様に、新羅の統一によって
朝鮮人は朝鮮人らしくなったし、日本は完全な島国になったことで日本らしくなったんじゃないか。
421年
宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。
おそらく安東将軍倭国王。(『宋書』倭国伝)
438年
宋に朝献し、
自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、
正式の任命を求める。(『宋書』倭国伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、
許される。(『宋書』倭国伝)
443年
宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)
451年
宋朝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。
安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)
462年
3月、宋孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年
11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没し、弟の武立つ。
武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」
と称する。(『宋書』倭国伝) (ワカタケル大王の銘文ーー672)
478年
上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。
(『宋書』順帝紀、倭国伝)
479年
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年
4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、
倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)
202 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 16:33:50 O
いい加減に、イギリスとフランスの関係とパラレルに古代日朝関係史を見ようと
するのをやめたらいいのに。似てるところはあるかもしれないけど、似てない
ところもあるのに、その「似てないところ」を切り捨てる方向にしか働いてない
でしょ。
例えば、フェニキア人を倭人、カルタゴを倭、ローマ帝国を中国に重ねて、日本
を「滅ぼされなかったカルタゴ」と考えても面白いけど、「そりゃねーわ」って
思う人のほうが多いでしょ。英仏の例え話も、本来はその程度に無茶で荒唐無稽
のはずなんだよ。
203 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 17:23:58 0
ここでパラレルターンしよう
204 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 18:36:47 O
話が当時の朝鮮半島や倭の情勢に流れてるみたいだが
このスレの命題は「任那日本府」の実態についての考察だろう
それが当時の北東アジア情勢の話にしかならないということは
それだけ任那日本府については実態がないということだろう
遺物も残っていなければ明確な文献も残っていない
存在そのものが立証できないのに語る理由などあるのか?
205 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 19:50:36 0
>>204 語る理由があると考える人が語ればよいのであって、語る理由がないと思う人間は
書き込む必要はないのでは。
206 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 19:52:15 0
>>202 「そりゃねーわ」とは思わないよ。つづけてくれ。
207 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 20:12:08 0
日本が中華国家への朝貢を止める隋唐の頃まで、一貫して宮中での
次席は、東の2番目で半島の国より上席だったはず、確か、久しぶりに
使節を送った時、新羅かどこかの半島の国と同列になりそうになり、古来
からわが国は半島の国より上席だと抗議して慣例通り上に座ったことも
あったはず。直接的な脅威でありまた征服王朝さえ作った北方の遊牧帝国
の次席と見做されていたこと、半島の権力がはるかに列島の権力より中華帝国
と親密であったにもかかわらず上位と古来から考えられてきた事実は、日本府
の実在の傍証にはならないか?
ならんだろ。別のアプローチが必要。
>>207 唐時代かな?確かしらぎが上席だったのを「日本に貢ぎ物を送っている国が何故」
と抗議したから阿倍仲麻呂のとりなしで日本が上席になったて話あるな。
210 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 20:35:25 0
漢字も読めない韓国人たちが「任那日本府」の話題について、何の根拠もなくきわめて感情的に
しか振る舞わないことはたいへん残念に思う。すなおに各国の文献資料を読めば、任那の実在は
疑いない。韓国では、任那があったとされる地域を「加羅」または「加耶」と呼び、それぞれ独
立した小国の総称であるというふうに事実をねじ曲げて、任那日本府の存在は決して認めようと
しない。しかし、『宋書』によれば、任那と加羅が別の地域であることは明白で、広開土王碑に
も「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」
の記述がある。当時の倭国が、朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させていることは、高句麗側資
料からみても既に立証がなされている。また、朝鮮の歴史書『三国史記』にも、倭国の南朝鮮に
おける圧倒的な軍事的プレゼンスが記録されているのであり、「任那日本府」とは駐屯地などを
兼ねた倭国の朝鮮半島における拠点として実在していたことはほぼ間違いない。韓国人が、いく
ら認めたくなくても、これだけ各資料が日本の朝鮮支配を明記している以上、認めざるを得ない
のではないか。
正倉院の新羅戸籍文書というのはどう?
212 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 20:44:26 0
実在は間違いないでしょ。問題はその性質がどのようなものだったかだ。当時の
国際関係がどのようなものだったかは、このことを考えるときに最も重要なこと
ではないのか。
「遺物がない」って言われたって、そもそも韓国じゃ発掘調査の件数は日本の
何百分の一から何千分の一でしょう。見つかるはずがないし、もし万一、遺跡
を見つけたら、韓国政府は100パーセント間違いなく遺跡を破壊する。そん
なことは根拠にならんだろ。
そうだね、半島には中国は別としても日本程の古い資料や記録もない。日本府否定論者は、歴史研究の基本、原典研究を曲解してるように思われる。
215 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 23:12:22 0
>>194 >倭の遣使朝貢の開始と終結は、江南政権の山東半島の獲得と喪失に
ほぼぴったり連動していますね。
そうなのか。おもしろいな。いや勉強になるよ、このスレは。倭王武
も上表文のなかで、倭国から中国に達するには、百済まで行って、そ
こから船に乗る(「道は百済を経て、船舫を装置す」)という記述が
ある。そうしてみると、倭国→百済→山東半島→江南 というルートが
見えてくる。
ところが、高句麗は無道であり、倭国の保護下の諸国を攻撃して掠奪や
殺人を働く(「しかるに、句麗は無道にして、見呑せんことを図欲し、
辺隷を掠抄してやまず」)。そのため、中国との交通がうまくいかない
から、「済」はこの状況を打開するために大軍を動員して高句麗を攻めよ
うと計画したが、「済」と「興」があいついで亡くなり、後を継いだ自
分も服喪中で未だこの計画は実現していない、とつづく。
この上表が認められて、「六国諸軍事」(ただし、百済への配慮から六国
には百済は含まれず)の称号が与えられたのだから、これは、そのような
客観的事実があったと見なすべきだろうね。
>>215 他で書いたことのコピペ改変ですが。
倭の江南政権への遣使朝貢の開始を、東晋の義煕9年(413年)とするか、
宋建国の翌年(421年)とするか、議論が割れているものの、いづれにせよ、
東晋の驍将劉裕による山東半島占領(410年)が契機だったことが、
川本芳昭氏により指摘されています。
同氏によると、山東半島は日本列島と江南地域を結ぶ往還路における
経由地であったと推定されており、江南政権によるこの地の獲得維持
こそが、倭をして遣使朝貢を可能ならしめたと言えます。
同時に、この地の喪失は倭をはじめとする東夷諸国の遣使に困難ないし
不全をもたらすことを意味します。事実、450年代以降、北魏によって
淮水地域および山東半島が奪取、領有されてしまいますが、これにより、
雄略の遣使は前回から15年もの間隔を空けてしまい、ついには途絶に
至ったと考えられるのです。
217 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 23:53:44 0
「百済」とか「句麗」という半島国家が明記されているのに「海北」とは
朝鮮半島じゃない、九州だぁ!とか主張しているHPがあったなw
韓国人の歴史研究ってのは、基本的に、自分にとって都合のよい「語呂合
わせ」以上の何物でもないwwww
だいたい、コンクリートで石を積んで檀君陵が発見されたw とか、現代の
米を焼いて「世界最古の炭化米」が見つかったw と騒いで喜んでいるレベル。
大学教授ですら、日本の小中学生より知識がないんだからあきれるよwww
韓国の場合は王仁の遺跡
221 :
世界@名無史さん:2009/05/23(土) 09:12:30 0
223 :
222:2009/05/23(土) 09:44:30 0
【客観的事実ベースで考えることが必要】
韓国には、前方後円墳韓国起源説のように、日本の文化はすべて韓国から
来たと主張する学者がいる。また、李進熙氏のように、任那日本府は日本の
ねつ造であるとして、その存在を頭から否定する学者がいる。
今回の発掘で、あらたに、5世戸後半から6世紀前半にかけての、朝鮮半島
南部と日本の関係を示す遺物などが確認されたが、このような事実に即して
考えると、この時期に、日本の影響力が、朝鮮半島南部に及んでいたとする
のは、妥当なのではないか。
任那日本府については、宋書など、中国文献にも記載があり、現在の政治的
背景や、民族感情とは別に、客観的な情報をもとに判断すべきである。
これが学問的姿勢というものではないか?
224 :
世界@名無史さん:2009/05/23(土) 09:58:13 0
>>218 韓流「自己絶対正義」の心理構造 「諸君!」2006年4月号
関川夏央(作家)/古田博司(筑波大学大学院教授)
古 日韓歴史共同研究委員会も似てますよ(笑)。当事者なのであまい詳しくはお話できないのですが、
たとえば意見が対立しますね。日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、
韓国側は立ち上がって、「韓国に対する愛情はないのかー!」と怒鳴る(笑)。
関 「ない!」と答えてはいけないのですか(笑)。
古 さらに「資料を見てくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、
再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのです。
関 歴史の実証的研究では韓国に勝ち目はないでしょう。事実よりも自分の願望と言うか、
「かくあるべき歴史の物語」を優先させるようですから。
(中略)
古 民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、
それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなんですね。
当然、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる。
櫻 それは、韓国の大学の歴史研究者ですか。
古 イエス。これは韓国の伝統的な論争の流儀であり、思考パターンなのですね。
李朝時代の両班の儒教論争も、みなこれですから。
要するに、「自分が正しい」というところからすべてが始まる。
しかし、実はこの「自分が正しい」という命題は実証不可能なんです。
この思想が突出したものが、北朝鮮の主体思想に他なりません。
その本質は何かといえば、「自己絶対主義」にほかならない。
したがって、何をやろうと、彼らの「正義」は揺らがないのです。
226 :
世界@名無史さん:2009/05/23(土) 10:12:59 0
ここにも自己絶対正義の人がいるね。座談会のことを「協議」って呼んでいる人。
「協議」によって「通説」が決まるって考えている人w
座談会に参加してる面々見ると、結構な学者じゃないか。
かなり異端説採ってる人たちなのか?
228 :
世界@名無史さん:2009/05/23(土) 10:38:53 0
>>227 日本の学者は「任那日本府説にはこだわらない」と言っているのに対し、
韓国の学者も「韓国南部に存在した倭をどう理解するか」と言っている。
日本府説というのは、日本府が統治機関だったという説のことだから、
実在までも否定しているわけではないのでは? その中身をどう理解す
るかってことだろ。
教科書について言えば、明らかに韓国の方が問題なんだけれどもね。日本の
歴史教科書は、中国の歴史書や高句麗広開土王碑文などの史料、あるいは考
古資料を提示して、これらの資料からどんなことが言えるかというふうに理
論的な研究態度をも育成するようなつくりになっているけれども、韓国には
そういう要素は皆無だし、史料批判を経ないで自民族中心主義的な内容を盛
りこむの終始一貫している。現代の韓国人の自尊心を損なう事実は教えない
方針が貫かれている。『宋書』や前方後円墳のことは教えられていないでしょ。
>>219 韓国ってここが高天原だって石碑たててなかったか?
で、日本の学者も賛同しているって向こうの新聞にでてたと記憶するが
>>230 この石碑が客観的証拠だとか言い出しかねないからな、アッチの人ってw
233 :
世界@名無史さん:2009/05/23(土) 22:52:42 0
任那日本府の存在が日本書紀にしか認められない以上、
まずは日本書紀におけるその姿を検討してみるほかない。
日本の“進歩的”歴史学者のかつての姿。
昭和42年の時点の日本史学はどういう状態だったか?
『日本古典文学大系』月報(昭和42年3月)より。(石田英一郎執筆)
「・・・たとえば北鮮の学者が、日鮮同祖論は帝国主義者の妄想だなどといえば、日本の進歩的
歴史学者は、なるほど同祖論はバカ気た間違いだったと言い、またその同じ歴史学者が、神功
紀そのままに、大和朝廷が未曾有の大作戦を半島に展開したからこそ、騎戦の技術をはじめ、
大陸の進んだ武器や文化が日本に伝わったのだ、などと論ずるようでは、われわれには、それ
こそ何がなんだかわからなくなる。どうも、日韓鮮いずれの学者たるとを問わず、この種の論議
には何か一本欠けたもののあるような気がしてならない。」
日本史学はこの時代から進歩しているのか?
235 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 00:25:00 0
>>234 石田英一郎が歴史学者とは知らなかったねw
236 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 01:53:56 0
任那日本府の存在か〜 ある意味邪馬台国論議より難しいね。
韓の倭国人ってどんな顔立ちの人々だったのだろう?
この辺の人達が北からの玉突きで日本人になった分けですね。
でも韓国より北朝鮮人のほうが日本人に近い顔だね?呉越系かな?
そういや、日本史で根強く武烈天皇と継体天皇との間に天皇家が血統的に
断絶している説というのがあるが、あれの根拠はただ、
「継体天皇は応神天皇5世の孫だから血統が怪しい」というだけのことなんだな。
しかし、世界史レベルだと5世程度離れた子孫が王位に付くのは珍しくもない。
東アジア史だけでも後漢光武帝は前漢景帝6世の孫。
南宋孝宗は北宋太祖7世の孫、理宗は同じく9世の孫。
新羅の元聖王に至っては奈勿王の12世の孫。
なんであっちのは良くて、こっちのだとアカンのやら
万世一系に対してそうじゃないよと言いたいだけだから気にしなくていい。
むしろ天皇になるに、天皇の血を引いていることが
継体天皇のときには条件となっていたことに注目したい。
鎌倉幕府の将軍は血筋などどうでもよかったし、
江戸幕府ですら、親王将軍を立てようという動きがあったのだから。
>>239 かもしんない。
でも応神もことさらに血筋であることを強調してるし。
中国の思想がはいってきても、入ってかたからこそかもだけど、
革命の思想だけはことさらに拒否した体質は注目すべきかな。
もし、血筋でないのなら、孟子の思想は正当化するのに好都合だし。
>>237 劉秀と前漢の繋がりは当時でも微妙だったと思う。
五世の孫だったらそれはもう別の王朝というレベルだけどな
243 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 11:20:07 0
劉備の「蜀」だって、本当の国号は「漢」なんだよな。彼我の違いを感じる
ね。
244 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 15:32:10 O
江戸期の閑院宮家だっけ?あれから出た天皇で何世?
245 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 16:27:45 0
>>244 光格天皇ですね。
閑院宮家3世で東山天皇の4世孫ということですね。
外国なら閑院宮朝とでも言うべき王朝交代があったわけですね
権力を手放して政治を外部に任せてたからこそさしたる混乱も起こらず
新王朝だなんだと言う話にもならずにすんだだけで
247 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 18:27:16 O
いやあそんだけ等親離れてたらもう別だよ。
天皇家が姓を名乗ってなかったから助かったようなもので。
万世一系というにはちとおこがましいね。
継体天皇にしても応神天皇5世の孫だしね。
249 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:19:46 0
>>248 いや「一系」ってそういういいmじゃないし…
250 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:25:49 0
>>246 そういうの王朝交代っては言わないんすけどw
でもカペー、ヴァロア、ブルボンは別の王朝だぜ?
252 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:42:13 0
まあ、それはシリカ法ってのを調べればわかるかもねw
朝鮮26代の高宗ってのも、5世孫のはずだよ。ついでに調べれば?
じゃあそれも別王朝とカウントすべきだな
てかそこで朝鮮の話を振ってきたってことは俺のこと朝鮮人だとでも思ったの?
254 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:44:17 0
てか、サリカ法だったぜ。間違えた。
255 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:44:33 0
>>249 そういう意味だよ。カペー朝とかスチュワート朝とか
断絶したら別の王統と考えるものだよ。
ネット右翼にはつらい真実だけどねw
サリカ法典だよね?
257 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:47:07 0
>>253 カウントすべきかどうかはわかんないね。世界共通の基準が
あるわけではないから。
258 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 19:50:47 0
断絶だと思いたいなら、そう考えればいいんじゃない。自分ルールって
ことさえわきまえれば。正直、どうでもいいよ。言っておくけど、おれ、
249じゃないから。「万世一系」には興味がない。
そうだな
万世一系つったって南朝北朝に別れてたり壬申の乱があったりだからな
万世一系について、世界の例出したって仕方がないだろ。極めて
日本的な問題なんだから。
つーか、スレチだし、学術が問題にすべきことでもないと思う。
261 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 20:20:30 0
>>251 フランス革命で王権剥奪されたルイ16世は
ルイ・オーギュスト・カペーと呼ばれてるから
フランス人としては王朝名変わっても同一家系って認識はあったんじゃない?
262 :
sage:2009/05/24(日) 20:37:20 O
天皇家断絶してないんで。
断絶してから言ってくれ。
はいここまで。
おいおい、自分の語りたいことだけ語ってはいここまでってすげえな
何も言わずスレチだからはいおしまいとかならわかるが
264 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 21:13:44 0
>>261 フィリップ6世はヴァロワ家初代シャルルの子だけど、祖父はカペー朝のフィリップ3世
だからね。王の孫だから、当然、同一の家系という意識があったでしょう。ただ、叔父
や従兄弟たち(カペー家)があいついで死んでフランス王位を継承し、やはり従姉にあ
たるイサベラの配偶者がイングランドのプランタジネット家のエドワードだったわけだ。
サリカ法によれば王女のフランス王位継承は認められない。しかし、イングランドの習
慣では男女双系で女王も成立する余地があるから、百年戦争へと発展したわけだ。イサ
ベラにしてみれば、祖父、父、3人の兄弟みな王だから、フィリップ6世の祖父が王だ
といっても、それより血筋は遙かに近い。自分の方が遙かに継承者に値すると考えても
無理はない。ヨーロッパでは、国際結婚が常態なので、日本でいうお家騒動は全部戦争
になってしまうんですね。ブルボン家はもともとカペー家の支流だし、ヴァロワ朝の王
家とも婚姻関係を結んでいる。ブルボン家初代の王アンリ4世の最初の王妃マルグリッ
ド・ド・ヴァロワ(王妃マルゴ)も父・兄弟みな王だったが、やはり3人の王は結局後
継者なくして若く死んでしまう。ここでもサリカ法の規定によってアンリ4世が唯一の
王位継承者となった。ただし、この人は新教徒だったので宗教戦争に勝ち抜かなくては
ならなかったが。
つまり他所から見たら王朝交代してるだろという感じだけど
日本人がそんな事無い万世一系だというので
ああそうなんだと周りも合わせてくれてると言うことだな
266 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 21:49:38 0
結論からいえば何が王朝の断絶に相当するかは、狭いヨーロッパのなかでさえ
細かい違いがあるわけ。マリア・テレジアが女帝になったことに対し、サリカ
法の立場からは継承権なしとみなされてオーストリア継承戦争が起こったように。
劉備なんて前漢(…後漢じゃないですよ!)景帝の子、中山王劉勝の子孫を名
乗っているが、本当かどうかわかったものではない。もし、本当だとしても十
何世孫なのか。それを普通は断絶とみなしがちなわけだけれど、宗族という独
特の家族制度をもっている世界では、それを連続あるいは再興とみなすわけだ。
少なくとも建前の世界では。そしてまた、中国では王朝(姓)が変わると国号
すら変えてしまう。王奔の新だとか則天武后の周だとかね。外戚だろうが皇后
だろうが(というか儒教式だと必然的なのですが)異姓ならば別の国なんです
ね。ヴァロワ朝であろうが、ブルボン朝であろうがフランスはフランスという
のともまた違う。
相続法、家族制度、婚姻制度、国号との関連など、地域によって生活文化が全
然違っており、それぞれの宗教観・世界観で体系づけられているから、一般論
でもって王朝の連続(または断絶)を簡単には言えないですよ。まあ、「万世
一系」については、伊藤博文による定義があったはずですね。しかし、それは
基本的には戦後では採用していない世界観ですし、学術的話題というよりはイ
デオロギーの話題なんじゃないでしょうか。
267 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 21:52:42 0
万世一系はイデオロギーであって学問ではない、て結論だな
万世一系と呼び習わしているものをフランス王家持ち出してちがうってやつは消えろ
万世一系じゃない→なくてもいいじゃん的空気をつくろうとしているだけだろ
・フランスは王朝名の変更によって王朝交代しているように見えるが
実は男系継承はつづいていたから日本で言うところの万世一系が最近までつづいていた
・日本は万世一系という男系継承を現在までまったく途切れることなくつづけてきていいるが
フランスに限って言えば、王朝交代はしていても、男系継承はつづけていたので
フランス的に言えば日本は王朝交代をしていると言える
と今度から正確に書けよ デマゴーグ野郎
そもそも、アジアの王朝交代は易姓で決まるから
男女の血にかかわらず王の家族の血筋のみを重視して王朝交代とするヨーロッパのものと
同列に論ずべきじゃないんだよ
>>268 「万世」というのは「そのようにあれ」という願望を含んでいますからね。
ともあれ、史学的に「王朝」に断絶があったのか否か、あるいは、
「王朝」自体確立していたのか否かを問うことは意味があると思います。
>>266 南北朝の斉から梁は同姓なんだよな
他に例あるっけ支那王朝で
中国は別姓の奴養子に持ってきて皇位継がせたりしてるのに
「アジアの王朝交代は易姓で決まるから」キリッって言われてもwwww
>>269 自分と意見がちがうから消えろとまで読んだ。
鮮卑は部族集団だから、血がつながっていなくても
優秀なら養子にとってそいつを部族の長にいただいていた
まだ、デマとばしてるやつがいるのかよ
万世一系じゃないと言うヤツはディスインフォメーションもいいところだな
どうせキチガイチョンじゃねえの
つまりアジアにおける王朝交代は必ずしも血筋によらない、ということだね
>>277 むしろ、天皇=半島系みたいなことを言う奴が万世一系を
支持してる気もするが。
君が信じたい万世一系にケチをつける気はないよ。ただ、
信仰やイデオロギーに近いってことも事実だろ。
>>278 政権の初期だけのイレギュラーだけだから基本血筋だろ
柴宋は一応外戚だし、
後唐も養子といっても、権力闘争による皇帝位の簒奪と言っていい
ぜん魏は養子でも国号を代えている
281 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 22:19:56 0
日本の場合は、相続としては男系なんだけど、女帝は許容されてきましたから
ね。そしてまた、臣籍降下も数代後で、王の子がいきなり封土をもつ貴族になっ
て「臣籍」的な立場になっちゃうフランスともまた違いますから。俗な言い方
が許されるのなら、天皇家を脅かす外敵が少なかっただけでなく、国内的にも「万
世一系」が成立しやすいような制度・組織だったとも言えるかもしれません。
逆に言えば、それほど「万世一系」という国柄は古くから大切にされていて、こ
れは中国、および中国的原理と張り合う意味もあるのかもしれませんが、何とかし
て皇室をつなげていこうと先人たちが努めてきたこともまた言えるんじゃないかと
思います。ちなみに、大伴家持が既に天皇の家系の長さを褒め称える歌を詠んで
いますね。
>>279 信じるの次元じゃない。男系継承はつづけているのだから万世一系
ここをまずゆるがすな
男系継承たる万世一系に疑わしいところがあるということとこれは別問題なんだからな
だからさ、学術の問題にはなりえないって何度も言われてる
だろ。このスレでも他のスレでも。日本書紀に書かれてる
武烈天皇と継体天皇も、日本書紀の記述が仮に事実だと
しても微妙だし、そもそも継体天皇の出自が本当かなんて
言い出したらキリないじゃん。まして、世界の王朝と比べて
断絶した、してないなんて言ってもどうしようもない。
>>282 だから、男系継承自体、書物で語られるようになってからを
前提にしてる。言い出したらキリがない問題。
284 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 22:35:56 0
>>282 「ゆるがすな」という御意見は学術的というよりは、やはりイデオロギーに近い
ものになってしまうと思いますよ。そういう先入観は排除して検証しようという
ことにしてかないと、仮説も立てられないし、検証もできない。
仰せのとおり「ゆるがすな」という御意見にしたがうとして、じゃあ、268さんは
いつから「万世一系」が始まったとお考えですか? 言い換えれば、倭国の実質的
な初代王は誰だとお考えですか?
285 :
284:2009/05/24(日) 22:37:37 0
何だか文章ヘンですね。
誤記訂正。
×268さんは
○282さんは
あと、南北朝時代があるから二系だと言っているヤツ
一つの男系系統で統一されているのだから万世一系で問題ないだろ
その時代に二系双立してたから二系?、馬鹿かよ。同じ一系からの流れだろ
イチャもんレベルのいいわけすんな
ほんとに馬鹿なゆとりがいるから、「万世一系じゃない」という印象だけを広めればいいと
思ってんのかしらねえが、どーでもいいネガティブサンプルで事実をゆがめんな
偏向もはなはだしい
男系が尊ばれる、あるいは義務であるか→歴史書・史実から見ても事実
では、本当に全てそうして続いてきたか→微妙
支持派も不支持派も、結局のところこの二つを混同しがち。そして、
全く関係のない他国の王朝を言い出すからとつぼにハマる。
>>283 いやさ、おまえ矛盾してんだよ
疑わしいと言っているのも万世一系を示している書物を調べてそう言ってるだけだろ
おまえの万世一系じゃないという説もイデオロギーレベルじゃねえか
嘘臭いだけで、嘘と確定しているわけじゃないし
本来なら推定無罪で万世一系の方が現実的な態度だろ
死後があるかないかと言えば、そんなもん死んで見なきゃ分からんわけで
本来なら暫定的にどちらでもないという判断がまともな立場だ。
だが、現実的な問題なら、決定的な反証が判明しないかぎり
従来の主張を尊重するのだが道理だ。
おまえの態度の方がおかしい
学術的な態度でさえないよな?
いや万世一系ってのは分裂しちゃ駄目だよって定義されてるんだよ
「皇祚は一系にして分裂すべからざる」って
だから南北朝で分裂した時点でもう破綻してるの
と言うかこの定義は南北朝を無視して作られちゃってるの
259の書き込みが何を問題にしてるのかも理解できてなかったの?
290 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 23:05:47 0
南朝は詐称
>>289 だからさあ、おまえの恣意的な解釈だけ優先させんなと言っているの
「皇祚は一系にして分裂すべからざる」
天皇が即位することは一系だけで、二つに分かれてはならないってことだろ
確かに、一度に二系が同時に即位すればこの文意に反している。
でも、一という意味を時系列上の数ととらえると万世一系ではないが
血統の数ととらえると万世一系と言えるだろ
しかも、同時に二系に分かれてはいけないという意識は働いていたのだし
事実、統一されたのだから、前者の意味でも、万世一系の原則が働いていたと言えるだろ
これを前者の意味で万世一系じゃなくなったからどうでもいいは
恣意的な解釈すぎる。
よく考えても、おかしいのはおまえだ
292 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 23:10:32 0
継体天皇に関していうと、「応神五世孫」というのが非常に微妙なんですよね。
というのも「応神」がはたして実在の天皇なのかということを言う人がいるう
えに、「五世孫」は律令の規定でギリギリ「皇親」とされた範囲内なのです。
継体が、征服によって即位したとか王位簒奪をおこなったとは思っていませんが、
当然、これは血統としてはつながっていないものをつなげたのではないかという
見方も出てくるわけです。もちろん、それには反論もあって、やはりそれなりに
当時も血統が重んじられており、五世孫までのうちからやはり探し出したのだろ
うという意見もあるわけなのです。「継」というのは血縁関係を伴わないのだと
か、いろんなことが言われるわけですが、前方後円墳をつくっているところをみ
ると文化的には渡来系の人物でないことは確かでしょう。もしかしたら、女系で
深くつながっていたかもしれない。
このへんは、連続、断絶どちらもそれなりに説得力があるので、わかりません。
立証するといっても、新史料の発見は望めないわけです。
まあ、これを踏まえたうえで感慨をもらすことを許してもらえるなら、もし仮に
断絶であったとしても、これを連続として描くことで中国とは別の原理、中国と
対抗できる原理として「万世一系」を構想したとしたら、7世紀の末から8世紀初
頭にこれを構想できた人というのは凄いなと思う。事実、これによって中国、あ
るいは欧米に対しコンプレックスを抱かずに張り合う原動力として作用した場面
が多々ある。
それこそ恣意的な解釈ってやつじゃない?
二つの血統が皇位につくんならそれは分裂と言う言い方はしないでしょうが
それに万世一系じゃなくなったからどうでも言いなんて誰も言ってませんよ
あなたは良く考える前に他人の書いた文をよく読みなさいよ
結局、ちがうと断定できないのだから
学術的には不明、よって従来の万世一系であるという説をとるのが筋なんだよ
だからその万世一系は定義からもう外れちゃってると
>>293 あのなあ、こっちが下手にでてるのに態度がでかいんだよ
要するにお互いがお互いを認めなかったんだから
各方の言い分は自分が一系で相手は偽物だろ
単に第三者的に見るとどっちもどっちってだけの話なんだよ
二系が認められていたというわけではないのだから
おまえの恣意的な解釈だけで勝手に二系にすんなという話
つかスレチだろ
だからよぅ
万世一系じゃないって言ってるヤツらは
今度から万世一系じゃない”かもしれない”と”かもしれない”を入れろ
それで万事解決だ
嘘はいかんよな
相手のことをおまえ呼ばわりしといて下手にで出ていたつもりとはなんという新解釈
要するにお互いがお互いを認めず偽者だと言い合ってたんならそれが分裂ってことだろうがよ
南朝北朝に分かれて戦争してるんですよ?そういうの分裂してるって言うんじゃないですか?
300 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 23:33:15 0
日本人のひとりとして皇室は大切だと思うし、守るべきものだと思う
のだけれど、別に「万世一系」が歴史的事実として帰納されるからで
はないな。言ってみれば、この国に生まれた歴史的な付き合いの長さ
みたいなもので。南北朝が二系だとしても、だからといって価値が下
がるというものではないと思うし。もっと、力を抜いてくださらない
と、皇室ファンは皇室嫌いになってしまいますよ。そしてまた、歴史
を皇室中心に描くのには反対ですね。古墳時代だと、どうしても王権
に目が向いてしまうのは仕方ない部分もありますけどね。
>>299 だから、そこはへりくだってわざわざ二説に分けて、解説してやっただろ
分裂してるとも分裂してないとも断定してねえ
そんなもん、主観の問題になるからな
だが事実として、血統の一系は守られているし、並立の危機意識もあった。
それは、何より万世一系が存在していると当時の人間が思っていた証拠じゃねえか
だから、万世一系じゃないというのは明らかに間違いだし
万世一系であると断定することは疑わしいが、こう判断する方が妥当だろって言ってんだよ
どこかまちがっているか?
つか「万世一系」自体があやふや過ぎる概念だからねえ。
「万世一系」の語が出現するのはおそらく幕末維新期以前には遡らない。
幕末維新期の国史教科書である『国史略』には「世を歴て天皇は正統一系なり。
万世に亘て革まらず」とあり、「万世一系」と同等の概念と言っていいと思う。
また『大日本帝国憲法』第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」
とあるが、「万世一系」そのものについては説明がない。
誰が即位して誰が即位していないのかは、皇統を考える上で非常に重要であるにも
かかわらず、『国史略』は北朝の天皇を歴代に数え、一方『帝国憲法』のほうは
周知のとおり南朝を正系とし、北朝を代数に含めない。
「一系」が歴代の列なりを指すのか、それとも神武から当今までの、即位していない
皇親をも含めた父子一系の系譜を指すのかもはっきりしない。まあ、後者はあきらかに
『帝国憲法』のいう「万世一系」とは異なるようだが。
何が間違っているかと言うと
さっきからあなたが言っている万世一系というのは明治に入ってからの概念だと言うこと
南北朝期の当時の人間の認識と言うのは関係ありません
明治になってから定義された万世一系という概念から外れているのだ、とさっきから言っています
と言うかそこを理解して言い返してるのかと思ってたのに違うのかよ
で南北朝の頃は持明院統と大覚寺統に皇統が分かれてます
これは解釈の差だとか主観の問題とかそういうことではありません
で、これは分裂すべからずと言う定義からは明確に外れてます
わかりますか?天皇の血は初代からずっと続いてるとか
ずっと男系で継承してきたとか言う主張ならともかく
万世一系という概念は作られた時から破綻してるんですよ
304 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 23:46:10 O
天皇家万世一系とかにこだわってるやつはなんなのかね。
いまだに戦前のイデオロギーに固執してるというべきか
征服王朝説をやたらに否定したがる連中と同じだな
排他的な島国根性というべきか
明治になって「万世一系」と言い出されるまでは、皇統の連続性については
北畠親房の『神皇正統記』以来の「正統」の概念で説明されてきた。
これは、神武天皇から当今までをとにかく父子一系でつないだ系譜概念だが、
この手法だと当今を誰に設定するかで、「正統」に数えられる、逆に「正統」から
切り捨てられる天皇がまったく変わってくるという問題が生じてしまう。
しかしながら、純粋に「一系」を追求するならば、この手法は最適と言える。
万世一系であるかないか、大切な問題なのかも知れない。
しかし、
べらんめえ口調で相手をお前呼ばわりして目上口調で話す人の話しぶりを見るのは、
論理が通っていても不快なものだな。
万世一系である可能性は高いし、そう信じた方が話は納得しやすいとは思うがね。
307 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 23:52:35 0
まあ、そういう言い方が許されるんなら、万世一系でない人間などいないわけ
ですよね、イエス様以外は。イエス・キリストは処女マリアを聖母としている
から、少なくとも男系継承ではないということになります。
皇室というのは、「万世一系」ということをはずしても充分に長いし、それゆえ
文化財などもたくさん残されてきた。正倉院とかね。これは、ありがたいことで
す。危機に際したときにまとまることができたのも、海外の文物を受容するとき
に際しても、皇室の存在が大きいわけですね。「万世一系」などという、つまら
ないイデオロギーより、ずっとずっと皇室そのものの方が大切だと思うけどなぁ。
このイデオロギーは、学術研究のうえでも、皇室そのものに対しても、よくない
影響しかあたえないと思っていますよ。そういう観念的なものをはずした実際の
歴史の方がずっとおもしろいし。
308 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 23:52:56 O
単に万世一系という言葉の問題だろ
明治憲法の意味で使ってるやつはいねえよ
たとえば世論と輿論があるそうだが
輿論は御輿の論で、世の人がこれだとかつでいる論
世論は世上の論で、いきあたりばったりの論
らしいが、誰か、この意味で分けて使っているやついるか?
おまえは西部邁かって話だよ
>で南北朝の頃は持明院統と大覚寺統に皇統が分かれてます
まーた話かわったな
これは同時に二系が並立する話でさえねえ
どっちも同一系統で統一されている
ただ、二つの枝でかわりばんこに登板してたってだけだろが
>>304 私は「万世一系」を学術用語として使うことにためらいを覚える者だけど、
征服王朝説ははっきりいって根拠に乏しいと思うよ。
>>304 話になんねえな
単純にイデオロギーの問題じゃねえって言ってるのに
またサヨクが思考放棄かよ
そんなに自分がイデオロギーがないってんなら
じゃあ、おまえは自分の財産捨てろよ
おまえが自分のもってるもんが自分の財産て考えもどこにも根拠のないイデオロギーじゃねえかよ
312 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 00:00:43 O
そもそも万世一系なんてことに一体なんの価値があるのかね
こんなもの有り難がってるのは日本だけだし世界からみたら異常
むしろ現代まで二千年も同じ王家に支配されてる なんて恥だと思う
日本人はまるで奴隷なようだ
なんかもうなんて言ってやったらいいのかわかんなくなってきたよ
万世一系という言葉の意味を定めずに曖昧なまま使ってて
それで良しとするんならそりゃ会話が噛み合わない筈だわ
また話が変わったって二統並立は同じ話の範疇でしょうが
てか変わりばんこじゃなくて同時期に両方とも自分が天皇だと
名乗ったから分裂なんじゃありませんか
>>312 はいはい、そんなこたあどうでもいんだよ
万世一系じゃないって話は論破されたってことでいいか
諸説あって、日本国内でもいまだに完全な定説となっていないのに、どうして
>論破されたってことでいいか
などと乱暴なことを言えるのかなぁ。
日本以外の国で論破されたのだろうか?
どういう意味で万世一系って使ってんの課を説明しろよ
>>315 万世一系じゃないとか言う方が乱暴だろ
皆、南北朝があることも知っているのに万世一系と呼び習わしているのは
男系継承を万世一系と思っているからで
この意味ではたしかに万世一系なんだから
学術的な意味で検証しているヤツの方が慎重に言葉の意味を定義した上で使うのが常識的。
にもかかわらず、万世一系じゃない、だあぁ?!
しねばいいと思う
万世一系は政治性の強い言葉だと思う。非常に曖昧模糊としてる。
意味するところは天皇は血筋で選ばれて、その血筋は過去から未来まで途切れることなく続く。
天皇の血筋でないものは天皇になれないってことだよね。
応神や継体や後播磨の国で発見された皇子が天皇に即位してるけど、
彼らが即位した第一の理由は徳でも、軍事力でもなく、
天皇家の血筋であるってことだよね。
血筋第一主義が古代において確立されて、現在まで続いてること
これを表す為に作った言葉が万世一系であるともいえるんじゃないかな。
みんながそういってるから間違ってないじゃあ駄目だろ
まさにあなたの言うとおり、周りに流されずに慎重に検証しないと
で、こっちは万世一系の定義された意味からすると
破綻してるよと言ってるわけだけど
と言うかお前のほうは学術的な意味では使ってないわけね
>>304 征服王朝説てのは論外なんじゃ。あれこそ日鮮同祖論・軍国主義の焼き直し、
戦前のイデオロギーだと思いますがね。現に、征服王朝論を唱えたのは、全
員、ナチスの御用学問だったウィーン派の「民族学」をかじってきた連中で、
まあ、日本の文化人類学創生には貢献したかもしれないが、当初の関心が「生
存圏」などに偏っていて、モロ侵略的な内容だったみたいですよ。「民族の優秀
性」みたいなことさえ言えれば、実証はどうでもいいみたいなところがあって、
文化の多様性は捨象してしまうんですね。征服王朝説に感化されちゃうと、もの
の見方が歪んでしまうような危惧をもちます。
322 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 00:30:53 0
>>312 >世界からみたら異常
それでいいんです。だから、大切にしなきゃいけないんですよ。
一系というものを、親から子、子から孫へと続いていくものとみなすと
兄弟間の即位すらあってもうこの時点で一系じゃなくなるよね。
でも一系ですという。
近い将来、今の皇太子のあとは皇太子の甥にうつる可能性が高いよね。
でも一系というだろう。
てことはね、親子間のみで皇統を伝えていくことを一系というわけじゃないんだな。
あくまでも天皇家の即位の歴史を現実を見て、あとから作った言葉なんだから、
言葉の意味を狭めて現実を非難してもしょうがない。
現実が先にあって、後から現実を説明する為にできた言葉なのだから。
当時の政治体制を補強するために出てきた言葉だからな
天皇制を説明するために作られた言葉なのに
いや万世一系はイデオロギーじゃない学問だと言う奴が暴れだすから
>>309 「万世一系」を明治憲法の文脈から切り離して、学術用語として使えるか
といったらそれは無理だろう。「万世」は、皇統は永続されるものだという
願望が込められたイデオロギーだし、「一系」は実態を示していない。
>ただ、二つの枝でかわりばんこに登板してたってだけだろが
二つの枝を「一系」とは普通言わない。南北朝ふたつの皇統があるが、
源は同じというなら「一姓」のほうがまだ相応しいように思われる
(『愚管抄』では「種姓」の語を用いている)。
それじゃ何故明治以降好んで「万世一系」の語が用いられたかというと、
北朝の皇室が南朝を正系とした上で皇統の連続性を主張するという倒錯を
貫くためであり、また「姓」の語が忌避されたためだろうね。
横レスだが、万世一系のお話は日本史板で、別のスレをたてて議論したらどうだろうか。
327 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 05:56:25 O
>>325 とるあえず君が間違い。二本だろうが一系なのだよ。
言葉の意味を狭めてはいけない。
328 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 06:31:04 0
>>325 「万世一系」という言葉は南北正閏論争よりも先だろ
>>327 南北朝の評価については、武烈天皇と継体天皇あるいは壬申の乱、
または伏見宮家以上にどうとでも議論できるし、それこそ神学論争
みたいなもんでしょ。江戸時代は、武家的には南朝(徳川家の祖先を
新田氏とする考えがあったため)公家的には自分たちの祖先である
北朝。頼山陽に到っては、中国的な禅譲論で南北朝を理解しようと
してる。そして、明治になってしばらくは意外と問題にならず、両統説。
ところが、末期に桂内閣への攻撃のために掘り起こされて政治問題化。
結局、明治のナショナリズムの元になった大日本史(徳川方の資料
なのがなんとも皮肉)を根拠に南朝が正統とされる。ところが、天皇家
は当然北朝の末流なので、祭祀は両統のまま。戦後はまた、実態を
重視して両統説。
万世一系と言う言葉を作った人たち、つまり伊藤博文ら
明治の元老からすれば国民をまとめるための方便の一つに
過ぎなかったんじゃないのかな。周知の通り、江戸時代は庶民
が天皇を感知する機会は滅多になかった訳で、ありがたみを
強調するためにはそれが一番手っ取り早かったように思える。
元老の桂がこれで痛い目に遭うのは皮肉だが、逆説的に
南北朝正閏論は元老達の力が衰え制度に抗えなくなった
証左なのかも。
そもそも、世界史板にこんな、上から目線で、偉そうで、我が強くて、
偉そうなべらんめぇ口調で、自分の説以外を唱える人は罵倒しまくって、
好き勝手さわぐキャラは最近珍しいですな。
生暖かい目で育ててやろうか。どんな子に育つかな。w
万世一系という言葉についてだけでもいろいろ問題あるのに、この小さな
日本史的なキーワードを、世界史板の「任那日本府」スレで声高に固執
するって発想がなんとも。www
あだ名はべらんめぇだな
336 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 08:25:33 0
「上から目線」てのは去年あたりからの流行語だな
とりあえず中国の南北朝が半島情勢にあたえた影響についてはなさない?
万世一系の議論は日本史板に隔離スレを設けてそちらでやってくれ。
>>337 中国の南北朝という概念が日本に入って、その実体はともかくとして国内に
二つの朝廷が存在してもいいんだ! という発想が生まれたということかな?
そもそも万世一系はイデオロギーで学問じゃないでしょといったら
いやイデオロギーじゃねえ学問だとファビョるから
学問的に言ったら万世一系はその言葉が作られた時から既に破綻してるんだよといったら
何言ってんだそれで通ってるんだからいいんだよ俺は学問的な正確さを求めてないんだという
どっちなんだよwwww
つかさ、相手してた人が絶妙な煽り方してるよね
基本普通に書いてるのにたまに本音混ぜるような文体で
いつまでスレ違いの議論やるつもりなんだ?
日本古代史の流れとしては
王権の進捗にともなって日本列島にヤマトの権威と支配が広まったように
半島南部にもその権威と支配が広まったのかな
その後半島にある程度力を持った国ができてくると、
半島の倭人ではない人達は、半島の勢力の方に惹かれるようになったのかなあ。
南朝との外交と軍事力でつなぎとめようとしたけど、
肝心の南朝がふるわなくなって、結局半島の勢力に任那が飲み込まれいったっていうのが
流れなのかしら。
344 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 17:08:54 0
関門海峡くらいならともかく、対馬海峡+朝鮮海峡を挟んだ王権の
経営が古代では難しいのは誰でもわかること。
しかしフェニキア人は海を越えてルシタニアを支配した
そしてローマはカルダゴを滅ぼし、海をこえてブリタニアを支配した。
古代朝鮮帝国も同様だとなぜ日本人は理解できませんか?
>>345 内海の地中海と比べれてもねぇ…。対馬海峡や朝鮮海峡は、
別に難しい海という訳でもないけど。
ブリタニアは地中海でもなければ内海でもありません。
ちなみにローマはカルタゴと戦う以前に海難事故との戦いでもありました。
>>346 対馬海峡や玄界灘、日本海は、季節によっては世界有数の荒海ですよ?
ヨーロッパでは問題のない設計で建造された艦艇が、第四艦隊事件で風雨にやられています。
優秀な朝鮮民族は荒波をモノともせず、倭人を征服した。
>>349 対馬海流は平均で時速2Km程度。源流の黒潮の5〜7kmとは
比べ物にならないほど安定してる。
352 :
世界@名無史さん:2009/05/25(月) 19:57:54 0
冬の季節風、春一番
安全かどうかなんて言ったらキリがないと思うね。特に、
現代的な意味で言い始めたらなおさら。ただ、海流に
ついては当時の知識としてあったかは疑問。と言うのも、
科学的に観測されたのは15世紀になってからで、それ
以前は経験的なものでしかなかった。あと、対馬海流に
ついては今でも議論になってるくらい複雑。
阿部比羅夫はよくあの時代東北や北海道まで水軍を指揮したもんだな。
>>349 第四艦隊事件はわざわざ台風に突っ込んだ人災面が
強い。だいたい、三陸沖じゃん。
>>353 北前船や若狭湾〜琵琶湖間ルートの整備を見ても、
古くから知識されてたのは確実だと思うけど。
人口と兵力動員数で日本と朝鮮半島諸国が違う可能性高いな。
流石に古代の細かい統計は不明だが、大体朝鮮半島全体の二倍位の人口が日本列島の人口になってるな。
あと日本は背後に有力国家がないし。
>>323-340 おまえらうらやましいな ひまそうで
結局、世間で呼び習わしている、日本を体現する皇位が神武に連なるある一つの男系継承によってでなされてきたという意味での万世一系
がゆるがない事実として扱われてもなんら問題ないってことだな
じゃあ、学術的に煩瑣な問題をことさらにあげて
イチャモンレベルのけちつけてるやつはしねってことでFAな
よいこのみんあは万世一系じゃない→どうでもいいと印象操作してる輩にだまされないようにね
チャオ
>>357 その通り。世間一般で言われていることと学術は違うし、学術的に
証明できないからと言って信仰してはならないとは限らない。
イエスの復活や三位一体が科学的でないから信じてはならない、
などナンセンスだ。
と言うことで、スレチな議論終了。
なんだ終わった話を今更
昨日暴れてた人か
360 :
世界@名無史さん:2009/05/26(火) 07:05:24 0
ただまあ、任那倭府というものが実在したとして(実在したとは思っているが)、
それが最初から倭王直属なのかというと、そうではないような気がする。大和の
意向を無視して動くことも多々あったわけだし、それこそ当時の航海技術等も考
えると、地理に詳しい人つまり対馬・壱岐の人びと、あるいは北九州の勢力の人
びとの力を借りた、というより、それに依存したかたちでの半島進出だったので
はないか。対馬・壱岐は、種族としては倭人で、邪馬台国連合には入ってし、交
易のために南北を往来していたのだから、居留地が南北つまり弁韓と北九州にあ
ったのだろう。それがだんだん、ヤマトの王権に組み込まれていく過程でさまざ
まな機能を持たされるようになったのではないか。
むしろ列島と半島に分かれてすんでた倭人が
列島側がヤマト王権を形成していくのと併せて
半島側で任那日本府になったのではあるまいか
>>361 半島における倭人の密度や広がりがどれほどのものだったかということですね。
ただ、「夫れ、楽浪海中に倭人あり」の漢書地理志の記述からして、半島に倭人
がいてもそれほど多数はいなかったような気がしています。加羅の前身だった
と思われる「狗耶韓国」については、邪馬台国連合に含む読み方と含まない読み
方があるが、どちらにしても「韓」の種族名が付されているわけですし。壱岐・
対馬というのは今でこそ辺境みたいな位置にありますが、当時は(というより室
町・江戸期も含め)交易や漁労の民として航海に通じ、地理にも明るく、倭韓両
種の言語にも通じていたんじゃないか。そうしないと生きていけなかった部分も
あって幼い頃から鍛えられていたんじゃないかな、と思う。そこを重視しないと
現代を単に古代に投影したような民族優越論(これは、日韓両方あるわけですが)、
あるいはそういうあまり根拠のない優越意識を前提にした議論になってしまうん
じゃないかなと思う。
戦国末期の宋氏による二枚舌外交も酷かったからな
大和政権が朝鮮半島に「任那日本府」を設置した
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/korea/1240836716/ 「つくる会」主導の歴史教科書、検定合格 歴史改ざんは許されない
(抜粋)
内容を見ると、事実を歪曲した記述が多い。
例えば、4世紀後半、大和政権が朝鮮半島南部の伽耶地方に「任那日本府」を設置した
としているが、これは朝・日両国の学界で公式に否定されて久しい。また、独自の年号を
使ったのは東アジアで日本だけだとの記述もある。
「朝鮮併合」については「日本の安全と満州の権益を守るためだった」とし、植民地支配も
「近代化」のためであったと強弁している。
アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼称し、侵略の事実を曲げ肯定、美化している。
旧日本軍による「従軍慰安婦」問題の言及は一言半句もなく、「創氏改名」、徴用徴兵など
については申し訳程度に記している。
これらはむしろ「南京大虐殺、朝鮮人強制連行、従軍慰安婦は嘘、旧敵国のプロパガンダ」
と言い張る彼らにすれば当然の帰結だろうが、要は「日本の戦争は正しかった」と教えることで、
再び戦争に命を捧げる国民を育てようというのだろう。
(全文はソースで)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/01/0901j0427-00003.htm
ETV特集 「日本と朝鮮半島2000年(2)“任那日本府”の謎」
放送日時:5月31日(日) 22:00〜23:30
放送局:NHK教育
◇“任那日本府”の実態
▽韓国に存在する前方後円墳
▽最新の発掘調査
▽朝鮮南部と倭の関係性ほか
一回目が酷い内容だったからわかりきってるけどね。倭の朝鮮支配を認めたくない人の
一方的な主張に終始するんだろう。日中韓の史料を合わせれば倭の半島支配は推して知るべしなんだが
369 :
世界@名無史さん:2009/05/26(火) 20:03:24 O
一回目ひどかった。
日本府否定派と肯定派をならべるんでなく
否定派とあったかどうか不明派を並べてた
>>364 あえて「任那日本府」のことばを使う必要はないと思うが、「朝・日両国の
学界で公式に否定」という言い分もまるっきりのデタラメだね。
371 :
世界@名無史さん:2009/05/26(火) 20:33:24 0
まあ先入観を捨てて見てみよう。
372 :
世界@名無史さん:2009/05/26(火) 21:13:52 0
729 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2009/05/26(火) 20:34:30 ID:S94w7yS2
NHKのETVの偏向が激しかったので質問したら、以下の返答が来ました。
おまいらどう思いますか?
---------------------
NHKからこんな回答が来たんですが、どんなもんでしょう?
--------------------
ETV特集をご覧いただきましてありがとうございます。
ご連絡が遅くなりまして誠に申し訳ありません。
番組担当者よりご質問にお答えします。
(1)日本の事は「倭」と呼び、半島の百済や新羅や高句麗の事は「韓国」と呼んだ理由はなんですか?
お答え
古代の事を取り上げている時には、日本は「倭」またはヤマト政権、ヤマト王権とよび、朝鮮半島は「百済」「新羅」「高句麗」と
言っています。
(2)広開土王碑には倭が百済、新羅を臣下に加えたの記述があるのを視聴者に隠していた理由はなんですか?日本が朝鮮
半島南部を支配していた事実を隠すと、番組の趣旨は大きく変わるはずです。
お答え
ご指摘は 碑文の永楽6年の記述「倭以辛卯年来渡(海)破百残□□ 新羅以為臣民」の部分と思います。この直前に「百残
新羅」は高句麗の「属民」だったのに、倭が渡ってきてその百済新羅を破った。だから広開土王は百済新羅を攻めるのだと
いう流れで、高句麗の朝鮮半島南方攻略の理由が記述されていきます。碑文に書いてあることを事実と見る見方もありますが、
倭が百済新羅を破るほどの脅威をもっていたので、高句麗王が百済、倭を攻めるのだと、南方攻略の大義にしているという
解釈もあります。現在では、大方 が後者の見方です。広開土王碑に記された時代、「日本が朝鮮半島南部を支配していた」
ということは、現在日韓双方の学会で実証されていないと考えます。
(3)番組の内容が韓国視点で韓国の都合の良い話ばかりで作られています。
お答え
そのような視点で作っているわけではありません。日韓の研究者の方々の最新の研究成果をもとに、学術的にも信頼度が
高いと言われる成果に依拠して作っています。
今後とも、NHKをご支援いただきますようお願いいたします。
お便りありがとうございました。
「ETV特集」担当NHK視聴者コールセンター
その程度の粗雑な質問に対する回答としては問題ないと思う。
みんな すまないね
アホをひきとりにきただけだから、関係ない人は軽くスルーしてくれたまえ
>>358 >証明できないからと言って信仰してはならないとは限らない。
>イエスの復活や三位一体が科学的でないから信じてはならない、
おまえは頭が弱いなあ、サヨクに多いタイプだ
信仰は反証不可能な問題をとりあげる
例えば、「信者は死後天国に行ける」という命題。
死後天国があるか証明しようがないよな
だから、信者が死後天国に行けなかったと反証をあげることができない。
よって、これは宗教的な範疇の問題になるというわけだ。
しかし、「皇位の継承は古より代々男系継承たる万世一系である」という命題は
男系継承が止まるという事実によって万世一系ではなくなるという反証が可能。
よって、この命題は宗教の範疇ではない、ということだ。
わかったかい?ド低能在チョンw
むしろ、唯物史観というわけの分からん予定概念によって
革命闘争に取り憑かれている共産主義者どもの方が熱狂的な共産信仰に走っている
進歩的、差別的、合理的、理性的、こいつらの言葉の使い方はことごとく
自己中心的な解釈による誤用 アホかと
ただまあ、万世一系説というのは韓国・朝鮮人をむしろ鼓舞するイデオロギー
なんですよね。神武が朝鮮人だったら、皇室は朝鮮人ということになる。遠古
より日本人は朝鮮人を崇め奉っていたことになる。だから、征服王朝説にこだ
わるわけです。そのためにはいろんな理屈をひねり出すわけです。
>>375 関係ないわりにやけにイデオロギーだって強調するねwww
もう一度上見てこような
韓国は天皇にかぎらず日本のものはすべて半島からやってきたっていってるから
どうでもいい。すばらしいともてはやされた途端に在日認定
もう病気だからほっとくのが吉
377 :
世界@名無史さん:2009/05/26(火) 21:52:03 0
>>364 何をもって「公式」と言っているんだろうか? 学問に公式も非公式もないと思う
が。検定を合格したのなら、まずは慶賀というべきだな。むしろ、これが機縁となっ
て、倭国の半島への武力進出について検証が本格化していくことを望む。
馬鹿を引き取りに来られたそうだが、私はあなたにお引き取り願いたい。
理由は、あなたが馬鹿だから。あなたも同じ病気らしいが、ほっとくの
が吉だとは思わないので。
とにかく「万世一系」の概念をどうだこうだする議論はスレ違いでしょ。
男系父系の王統がいつ成立したかという議論ならまだしも。
>>378 負け惜しみの愚痴は日記裏にでも書きなさい
>>379 おっしゃる通りですね。関係ない人には出て行ってもらいたい。
>>382 なんだこいつw
ちょっかいだしといて、話かけんなとかwww
知的障害者か?
>>383 いいから出ていけよ。せっかく学術的な話で盛り上がっているのに。スレチだろ。
はいはい わかたよ坊主
>だから、万世一系と男系継承は同じ意味じゃないし、万世一系はもはや反証など
>の問題ではなく、無理があるイデオロギーだと何度も指摘されてるだろ。これを
>理解するには、信仰でしか説明できないってことだよ。
だからそれは、疑わしいというレベルや一系という意味をどういう視座におくか、
など煩瑣な問題をことさらにとりあげているだけだろ?と言ったじゃないか
そりゃ、血筋にはいく筋にも流れがあって、〜流と別れていくが
神武に連なる一系であることが重要なことなんだよ
しかし、だからといって、後継は一系であればどの流れからの立太子も平等の権威をもつという
わけではない。それで、一系と言った場合、代々皇位についてきた一流にその最大の意味をおくし
その一流が途切れるまで最大限の保護をおこなう必要があり、
皇統の問題に対して、表現のあやがいろいろあったわけだ。
だが、皇統は代々男系継承で行われるべきだとされており、
これを世間一般では現在、万世一系として取り扱われいるのだろ
ニュースを聞く限り、少なくともおれにはそう聞こえるわけだ。
たしかに”万世一系”という熟語の初出が明治にあり、原義に照らし合わせれば
この言葉が、古代より守り続けられてきた継承の原則を正確に表すものではないのだが
明治においてあたかも古代からの原則として扱われ、
現在においてさえ、そう扱われている以上、万世一系という言葉は
本来の継承原則たる男系継承をも、その意味の中に内包していると言える。
つまり、万世一系と男系継承は意味がオーバーラップしているのだから
これを単純に否定することは危険だし、軽率なんだよ。
だから、単純に万世一系じゃない、と言った場合、それは学術的な意味をもつほど
説得力のない文意なのだから、まちがっているとして構わんだろ。
なんかまちがったこと言ってる?
まあ、学術的なやつらが意図的なのか、あまりにも象牙の塔にひきこもって
万世一系の意味の変容について論述してないから問題なわけだが。
>>372 王碑の改竄説が完全に否定されたら、次は内容に屁理屈ですか。
公平な立場で研究する気の無いやつは性質が悪いな
390 :
世界@名無史さん:2009/05/27(水) 00:32:03 0
>>388 どうも言っていることがよくわからん。要するに、世間一般で万世一系と
認められているから万世一系だということか?
まあそう言う事だな
けどこいつは言ってることがころころ変わるから相手にしてもしょうがないよ
万世一系はイデオロギーだといわれて論破されると学問だと言い直す
それも論破されるとまた学問じゃない皆がそう言ってるんだからそうなんだと変なことを言い出す始末
>>372 よくまあここまでデタラメを…
どこのだれが
>高句麗王が百済、倭を攻めるのだと、南方攻略の大義にしているという
>解釈もあります。現在では、大方 が後者の見方です。
こんな見方してるんだよ。
山尾とか言うキチガイ左巻き?
韓国に媚びへつらうのがサヨクの証みたいな気持ち悪い今の流れはどうにかならんのか?
俺も自分のこと左翼であろうと思ってるが372は無いわ。
学問に政治を持ち込むなよなと思うぜ。
日中韓どこの国の史書にも半島南部は倭の領域だったと書いてあるのに。
>>394 社会学、人文学の学者なんて学問乞食の最たるものだろ
曲学阿世を常とするクソどもばっかりだ
396 :
世界@名無史さん:2009/05/27(水) 01:49:46 O
社会学って役にたたんよなぁ
倭の領域=倭人が定住していた地域
と考えると、韓国南部は倭とも百済、新羅とも違う、カヤ文化をもつ人が定住していたことが
遺跡から明らかになっているから、倭の領域とはいえない。
しかし、倭の領域=倭国に外交的に従属していた地域
と考えると、別に韓国南部に倭人が定住している必要はないので、倭の領域ともいえなくはない。
ただ、その場合なにをもって従属していたと証明するのか問題となる。
カヤの古墳から、大阪の古墳から見つかった卍型の青銅の装飾品が見つかってるが、
これだけでは友好国ではあったと言えても、従属国とであったとは言えない。
カヤ王族が倭に人質を出していたとかいう文章でもあればいいのだが。
半島南部は倭の領域とは言い難い。倭の領域にしては各国がフリーダムに
やりすぎ。
『日本書紀』では任那も百済も新羅も同じく藩国扱いしつつも、
新羅はほぼ常に敵国であるのがデフォだし、任那を侵略しつづける。
百済も勝手なお願いをして任那に食指を伸ばす。任那諸国はそれぞれ
倭の意向に関係なく百済・新羅と結びあるいは戦い、ときには倭軍をも襲う。
倭の領域とはとても考えられない。
399 :
世界@名無史さん:2009/05/27(水) 03:05:41 0
『前漢書』地理史・{燕地条}
樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云
「楽浪の海中に倭人あり、百余国に分かれて、時おり朝貢してくる。」
『前漢書』地理史・{燕地条} 顔師古注
魏略云倭在帶方東南大海中依山島爲國度海千里復有國皆倭種
『山海経』第十二「海内北経」
蓋国 在鉅燕南倭北 倭属燕
「蓋(ケイ)国は鉅燕(きょエン)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」
蓋国とは、朝鮮半島最北部に蓋馬(ケマ)高台という高原地帯があり、
そこに蓋馬市が有る、直ぐ南には倭が有り倭は燕に属する。
後漢書に光武帝が倭奴国に金印を与えた記事がある。後漢書記事では
「倭奴国奉貢朝賀、倭国極南界、光武賜以印綬」とあり、 ... (倭奴国は)
倭国の中の極南界(南の果て)である」と解読していた。
>>397 倭の勢力下でない加羅の北にある百済新羅が倭に人質を送り、更に北の高句麗と倭が激しく戦う…
なんとも奇妙な話です
>>393 気持ち悪いどころの話ではなくNHKはもうほぼ完全に乗っ取られた。
ジャパンデビューもETV特集も、NHKは現在民主党政権が誕生している
前提で製作していたはずだ。民主党政権ならこのような捏造番組は問題になる
どころかむしろ推奨され異論反論は弾圧されるだろう。
そして皇太子殿下が天皇となれば女系を認め皇室と国家を全面解体する
ことが可能となる。
ところがそのような計算は狂い、麻生は解散を引き延ばし小沢は退き
北朝鮮は暴走し始めた。私見では中国と北朝鮮の崩壊は近い。
歴史上日本は何度も絶体絶命というところで救われてきたが、今回も
麻生が踏みとどまったおかげで日本と国体が救われることになるだろう。
>>400 百済からは滅亡寸前に王子の豊障が送られてたけど、これ以前はないよね?
新羅からは王子クラスの人が送られてきてたっけ?
そもそも、東アジアにおいて従属関係にあるというためには、人質だけで
足りるのだろうか。新羅は唐に人質を送って百済高句麗を滅ぼす軍隊を
送ってもらっているが、これは従属といえるのだろうか。
>>400 そうだね。そのあたり一貫した説明が欲しいところだね。
軍隊が集結し補給をうける拠点がないと
軍隊動けんわな。
中国史料における任那 [編集]**『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる。
『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、
加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
朝鮮半島史料における任那 [編集]**朝鮮半島史料では任那は次の2つの記載しかない。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立) : 大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、
ここでの任那は金官伽耶を指すとされている。
『三国史記』(1145年成立) : 本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
>>391 はぁ?どこらへんがコロコロ変わったよ?
足りない人間は話に入ってクンナよなw
あと、サヨクでなくて左翼を人道主義とかんちがいしてはいけない
単に過激な改革側が人道的なことを喚いて無理を通すってのが実情だよ
407 :
世界@名無史さん:2009/05/27(水) 22:05:50 O
新羅は王子の未斯斤を倭に送ってるでしょ
408 :
世界@名無史さん:2009/05/27(水) 23:07:46 0
舒明は義慈元年に倭国に派遣された男らしいよ。
410 :
世界@名無史さん:2009/05/28(木) 13:17:17 0
問はれて名乗るもをこがましいが 知らざあ言つて聞かせやせう
411 :
世界@名無史さん:2009/05/28(木) 21:49:15 0
なんで外人は万世一系にこだわんの?
どうでもいいじゃんそんなこと
412 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 12:04:16 0
>>397 青銅製の武器系祭器、鉄鏃、弥生土器などの倭系の遺物も近年洛東江流域の
遺跡からかなり出土しているが、これはどう判断するんですか?
DVDレコで
>>365の番組説明見ると、任那日本府があったという言われてきたが、
70年代以降の新発見でそれも怪しくなってきたようなことが書いてあるが・・・。
少なくとも70年代以降、朝鮮側の主張が不利になってきたことは確かだな。
朝鮮南部に日本特有の遺物が多数発見、広開土王碑の改竄は完全に否定
415 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 12:43:51 0
まさかと思うが、分国論の焼き直しじゃないだろね。
416 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 12:48:28 0
4世紀末から5世紀前半にかけて倭が高句麗と軍事衝突した、百済・新羅の王子
を人質に得ていたという朝鮮半島の史書や金石文、5世紀中ごろから後半にかけ
て、中国南朝が倭の朝鮮半島の軍事的優位を認めたという中国の史書、5世紀後
半から6世紀前半にかけての前方後円墳の半島南部における分布、これをどう考
えるかだな。それぞれ少しずつタイムラグがあるから、これを時系列的にどう解
釈するかが大切だと思う。
417 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 13:59:53 0
山尾さんて人は朝鮮史の専門家ではないし、考古学の成果にも詳しいわけでは
ないから、本来ならテーマに対しあまり適任ではないような気がする。もしか
したら、適任ではないからこそ、選ばれたのもしれないね。朝鮮人プロデュー
サのお眼鏡にかなったのでしょう。
419 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 22:46:22 0
6,7世紀頃、朝鮮半島から、仏教や文字等の文明が伝わる以前の日本は
お互い、意思疎通するにもアウアウアって身振り手振りでコミュニケーションをとり
体に刺青をし、鹿の骨を焼いて占いしたり、
意思疎通もうまくできないから、年中戦争したり、
一部に稲作は伝わっていたが
多くは森で団栗をひろい、弓矢でイノシシを追いかけているような遅れた民族だった。
一方、その頃の大陸や半島では、
儒教やらの哲学を論じるほどの高度な文明を誇っていた。
これだけ大きな差があったのに
何とか明治維新で欧米の文明を手本にし、アジアではいち早く
強国になった日本。
古代の時代は、日本にとって非常に恥ずかしい時代でもある。
420 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 23:00:07 0
>>419 万葉集や古事記を読んだことがありますか?
>>419を読んだ感想
大陸や半島のように現代が非常に恥ずかしい時代で無くてよかった。
422 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 23:21:47 0
423 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 23:48:25 O
おまいら釣られるんじゃないw
こいつは多分日本人
なあ、殺人予告したら、すぐ警察がくるって話があるじゃん
もし朝鮮と戦争になったら、ここで冗談交じりに日本は半島の属国なんだよと言っても
敵性外国人のスパイ活動の可能性ありって警察が家までくるってこともありえんのかな
で、ねらーがアホだ、だから言ったのにとさわぐ風景がくりひろげられるみたいな
まー朝鮮なんて速攻でフルポッコだけどな
テポドン撃たれたら対応できるとは思えないけどな
一発ならともかく同一目標に核積んでない囮も一緒に発射するだろうし
飽和攻撃されたら対処能力超えるんでない?
そして外務省が仕返しに遺憾の意を発射
その場合東京壊滅だから仕返しするのはどこの外務省?
今回北朝鮮は本気だよ。武力衝突にまで発展すると見たほうがいい。
429 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 11:47:37 0
430 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 11:53:10 0
>>418 これで江上波夫の説は完全に崩壊しそうな感じだ。騎馬民族説に取り付かれて
いた人びとは、もう一回古代史を勉強しなおす必要があるな。
431 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 18:30:06 0
432 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 20:29:37 O
>>431 箸墓古墳の埋葬者と言われている「ヤマト・トトヒ・モモソヒメ」は、4世紀中頃の人物。
卑弥呼は3世紀中頃の人物。しかも卑弥呼の墓は円墳。直径100歩、145メートル。
3世紀中ごろ、皇室の先祖は九州にいた。ちなみに神武天皇は3世紀末頃の人物。
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。年代の推定が古すぎる。学者は年代推定をやり直したほうが良い。
もしも箸墓古墳が卑弥呼の墓なら邪馬台国とヤマト王権は無関係。
>神武天皇は3世紀末頃の人物
根拠は?
もしかして倭の五王からの比定ですか?
卑弥呼の墓が円墳なんてどこに書いてるのさ。少なくとも魏志倭人伝には無いが
435 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 22:13:57 0
後円部の大きさが直径100歩というのは、確かに 箸墓古墳=ヒミコの墓 という推定の
有力な根拠ではあったね。
436 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 22:30:56 0
「おおいに冢をつくる」の「冢」はそのような具体的な大きさを意味してるのかな?
437 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 22:34:45 0
見落としだった。↑は取り消し。
卑彌呼以死大作冢径百餘歩徇葬者奴婢百餘人
しかし、百人の奴婢を殉葬するなんてことがあったのだろうか。
この記述はちと怪しい気がする。
大きさは信じるけど殉葬者のほうは信じないってどうなの?
殉葬を否定する記述なり何なりが出てるわけでもないのに
いや、大きさも信じてない。
魏尺に従えば
>>432のいうとおり145メートルほどだろうから
箸墓古墳には墳丘全長としても後円部のみの長さとしてもあわない。
それと、この前後で奴婢を殉葬をともなう墓というのは例がないはず。
奴婢の殉葬をともなう、ね。
ということは奴婢の死体が100体くらい出てくる墓が卑弥呼の墓か。
まだ発掘されてないようだな。もしくは箸墓の下に100体あるかも。
箸墓って宮内庁管轄でまだ発掘されてないんだよね?
>>444 墳丘のどこかに殉死者百人が埋まってるという人もいるが、
一族ならともかく奴婢を神聖な王の墓に入れることはないと思う。
見つかるなら墳丘の外だろうが、おそらく発見されない。
この王墓の記事は魏使の報告によって書かれたものではないのだろう。
447 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 01:36:13 0
伝聞にもとづく記述だろうから、正確でない部分もあるかもしれない。ただ、墓の
本体は後円部だろうから、墳丘全長が278メートルで後円部の径150メートルと計測
されているのだったら、径百餘歩すなわち魏尺では150メートルほどでわりと正確な
記述ってことにならないかな。前方部が後世に付け加えられた可能性があることも
指摘されているし。百人の奴婢を殉葬というのは、仕えた婢(はしため)が千人と
いう記述と辻褄を合わせた可能性はあると思う。その時点で、近畿に原始神道による
隣保同盟ができていたというのはやはり驚きだ。これがヤマト王権のもととなったの
だろう。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすると、台与の墓はどこかが気になってくる。そ
して、倭国の実質的な初代王は2人の巫女の一族で土着の崇神大王(ハツクニシラス
スメラミコト)ということになるのではないだろうか。
纒向遺跡が最初の王都だとすると、「親魏倭王」の金印もそのうち見つかるかもしれんな。
円丘部分の長さについては譲るとしても、箸墓古墳の祖形として
纒向石塚古墳やホケノ山古墳があるのをみると、
箸墓の方丘部があとから付け加えられたものとは考えにくい。
>>449 なるほど。それもそうですね。ところで、古墳の編年は今まで土器を基準にしてきた
わけですよね? 放射性炭素による年代測定ってのは、かなり正確なものなんでしょ
うか?
>>450 それを説明する知識を持ち合わせていないけれど、
放射性炭素によるほかに、出土木片の年輪による年代測定法も
試みられており、纒向石塚古墳の周濠内で見つかった板切れは
AD177年+αという結果が得られたとか。
>>450 年輪年代測定なら、信頼性が高いですね。絶対年代そのものと言ってよい。周
濠はAD177年には既にできあがっていたことになる。ちょうど、その頃というと
いわゆる「桓霊の間」ってことになりますね。箸墓が240-250年とすると、およそ
70-80年。3代から4代其の國、「もと亦男子を以て王となす。 住まること七八十年、
倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち一女子を共立して王となし、名づ
けて卑弥呼という」の「七八十年」という数字にピッタリ合致することになるな。
453 :
452:2009/05/31(日) 08:13:18 0
タイプミス修正
年輪年代測定なら、信頼性が高いですね。絶対年代そのものと言ってよい。周
濠はAD177年には既にできあがっていたことになる。ちょうど、その頃というと
いわゆる「桓霊の間」ってことになりますね。箸墓が240-250年とすると、およそ
石塚古墳から70-80年後ということになりますね。3代から4代というところで
しょうか。『魏志』倭人伝の「其の國、もと亦男子を以て王となす。 住まること
七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち一女子を共立して王と
なし、名づけて卑弥呼という」の「七八十年」という数字にピッタリ合致する
ことになるな。
454 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 08:27:27 0
日本のみなさん
おそらく卑弥呼の王朝を倒した、百済の王族神武であり、邪馬台国を滅ぼしてわが都として奈良と名づけたのだろう。
古代朝鮮語で、奈良は首都を意味する。そして神武は「東征」後、奈良をつくり即位し、倭征服事業をおえた。
455 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 08:32:49 0
文旨不明
┏┓ ┏┓ ┏┓ ┏━━━┓
┏━┛┗━┓┏┓ ┃┃ ┃┃ ┗━━━┛
┃┏━━┓┃┃┃ ┃┃┏━━┛┗━┓┏━━━━┓
┗┛ ┃┃┃┃ ┃┃┗━━┓┏━┛┗━━━┓┃
┏┛┃┗┛ ┃┃ ┃┃ ┏┛┃
┏┛┏┛ ┏┛┃ ┏━┛┃ ┏┛┏┛
┗━┛ ┗━┛ ┗━━┛ ┗━┛
∧_∧ ∧_∧ .∧__(\ ∧_∧. ∧_∧ ∧_∧
⊂<`∀´ヽ><ヽ`∀´> <`∀´| | <ヽ`∀´> <''`∀´''>⊂ < `∀´ >'つ
(⌒ て).( ) ( ) ⊂ て)( ) \ /
レ'\ ) | | | く く\ \(___三フ| つ| |⌒I │
レ' 〈_フ__フ <__,,〉<__〉レ' 〈_フ__フ. (_) ノ
┏━━━━┓ ┏┓ ┏┓ レ'
┗━━━┓┃┏┓ ┃┃┏┛┗━━┓
┏┓┏┛┃┗┛ ┏┛┃┗┓┏━┓┃┏━━━━┓
┃┗┛┏┛ ┏┛┏┛ ┃┃ ┗┛┗━━━━┛
┗┓┏┛ ┏━┛┏┛ ┃┗━━┓
┗┛ ┗━━┛ ┗━━━┛
457 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 09:42:53 0
「蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし 年は甲子にあり 天下は大吉」
黄巾の乱(AD184)前後の中国大陸の激動は、東アジア各地に大きな影響をあたえた
ことになる。楽浪郡にいた中国人たちは慌て、周囲の情勢を調べようとする。北満
州にいた夫余族、南満州の森林地帯にいた貊族は勢力拡大の機会をうかがう。それ
まで北九州が独占的に中継していた大陸中国との交易特権が揺らぎ、倭人全体に占
める優越した立場を失い、没落の傾向をみせる。いっぽう、対馬・壱岐の人びとは
船に乗り、直接「南北に市糴」するようになる。瀬戸内ルートと東日本の勢力はヤ
マトを中心に政治的・宗教的な連合を結んで、この動揺に対処しようとする。その
過程で大乱もあったが、卑弥呼が現れていったん終息した。
総合するとこんな感じ?
458 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 10:46:23 0
10年くらい前に書かれた通史もどんどん古くなってしまうな。15年以上前と
なると情報やデータが古すぎて使いものにならない。
459 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 12:39:47 0
>>59 天皇への献上品だね。
百済は王を日本へ人質として送ってるくらいだからね。
天皇へも頭さげるでしょ。
460 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 22:11:33 O
NHKage
この板は初めてなんだが、任那は日本支配下だよな?
何をもって支配したと言うのか、示してもらわないと…。
462 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 23:37:45 0
番組では4つの説が紹介されていたな。
1.倭の王権による恒常的な統治機関
2.倭の王権が一時的に派遣した外交使節団
3.安羅に居留した倭人の組織
4.百済王が安羅に派遣した百済の倭系官僚による組織
韓国の学者は4を主張していたが、日本の学者は3ではないかとしていた。
あの番組は爆笑物だね。最初に任那日本府が教科書から消えたことを説明。
でも、次に倭の影響受けていた根拠が出る→朝鮮学者が史料無しの妄想を言って否定。
でも、また次にも倭の影響受けた遺跡が発見→同上
の繰り返し
● 日本への核攻撃や天皇射殺だらけの韓国映画ドラマ ●
92年 MBCテレビ「憤怒の王国」
ドラマに「天皇の狙撃」という場面があり、外交問題になりかけた。
がMCBは「このドラマはフィクションです」とテロップしただけだった。
95年:映画「ムクゲの花が咲きました」
韓国大続領が、東京など五都市に広島原爆の五倍の核爆弾を投下。
上映中に韓国民は「早く日本を滅ぼせ!」と大合唱、
韓国・映画振興公社選定の「優良推薦映画」にも選ばれた。
99年:映画「幽霊(ユリョン)」
韓国の潜水艦が日本に核ミサイルを撃ち込もうとする内容。
実際は打ち込まなかったので韓国人から大不評だった。
01年:映画『サウラビ』 ←これ注目!
日本刀で武装した百済人が日本を開拓して植民地にする内容。
「歴史的事実を元に製作。日本人の祖先は韓国人です」と、
海外での宣伝工作でも用いられている。
06年:映画『韓半島』
なかなか進展しない南北統一に嫌気がさした韓国大統領は、
「日本の妨害活動が原因だ」と被害妄想を極度に膨らまし、
日本に核ミサイルを撃ち込む。
465 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 23:56:01 0
>>463 まあ、NHKは日韓友好を背負わされていて、その路線から逸脱することは許されない
んだろうね。韓国の何人かの学者は百済を過大に見たがるのは、国民感情からして
理解できなくもない。最初、韓流の歴史ドラマが流れたときには、「何だこりゃ」と
思ったが、思っていたよりは穏当な内容だった。
466 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 00:16:27 0
>>462 1の説はボードに一度文字が出ただけで、
番組の構成上ではまったく無視されてましたよね。
いやまあ別に予想通りだからいいんですけど。
それにしても、韓国側が報告書を書いてないんで
前方後円墳からの出土品をNHKに撮影させないっていう
ナレーションには思わず口からコーヒー吹きました。
なんで報告書を18年間もほっとくのかとw
467 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 00:27:32 0
任那四県とか際どかったね
468 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 00:29:54 0
>>466 まあ、そういう意味ではあの国には学問の自由ってのはないんだな。日本人には
見せられないものがたくさん出土しているんだろうw
469 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 00:35:14 0
トモエ形の刀のツバ?とか、50bクラスの前方後円墳とか
よく見せてくれたとも言える
470 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 00:46:33 0
おもしろいと思ったのは、栄山江流域というのは百済の支配の及ばない地域として
百済の南側に長いこと存在していたということだな。倭王武(雄略大王)の「六国
諸軍事」の称号のなかに「慕韓(馬韓)」が入っているのは、「百済が支配しない
馬韓」という意味なんだろうか。
>>469 >トモエ形の刀のツバ?
盾の飾り金具。
472 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 01:51:27 0
スペシャル見たが
帯金式短甲の出土地に香川県に赤丸が無かったぞ〜NHKボケー!
普通に川上古墳(円墳)から出土(太刀、横矧板鋲留短甲)
して地元で展示もしてるのに!これって秘密?いっちゃった〜
因みにすくりゅ型の盾飾りも出たよ〜
473 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 02:04:41 0
>>470 倭がもし栄山江流域を慕韓の後裔と見なしてたと仮定すると
秦韓・任那は慶南ってことになる?
5・6世紀当時の倭の方針は半島南部の小国分立状態の維持だったと
思ってるんだけど、詳しい人いない? ・
474 :
22:2009/06/01(月) 06:15:13 0
おもに『日本書紀』の記述から読み取れることですが、雄略が専権を振るった
5世紀後半の外交方針というのは、高句麗に圧迫される百済をひたすら支援する
というもの。しかし、6世紀に入ると、百済も領土拡張のために南下を開始し、
馬韓(慕韓)諸国や加耶諸国への野心を顕わにし、倭も内外からその外交姿勢
の見直しを求められるようになっていたと考えられます。
6世紀初頭の倭王、継体は百済の求めに応じる形で、「任那四県」(馬韓諸国)
や己汶、帯沙の領有を次々認め、百済の半島南部への進出を許す一方、
新羅の侵攻を受けている金官など加耶諸国の支援のために近江臣毛野を安羅に
派遣してもいます(結局「任那」の主要国である金官は滅ぼされてしまうけど)。
しかしながら、このあたり倭の外交姿勢の矛盾が現れているように感じられます。
加耶諸国にとっては、新羅同様に百済も危険な存在であることには変わりなく、
そのような危険を引き込む(ことに同意する)倭にも反感を覚えていたはずです。
実際、加耶北部の主要国伴跛の攻撃を受けています。
百済は、倭にとって先進文化をもたらす重要なパートナーであると同時に、
倭との関係の深い加耶地域を脅かす危険な存在でもあったわけです。
どちらも切り捨てられない継体にとって、半島外交は難しい舵取りとなった
ことでしょう。
やがて、こうした継体の外交姿勢は磐井の「反乱」を招き、ひいては辛亥の変
の遠因になったように思われます。まあ、辛亥の変というか継体の死については
現状分からないことが多すぎですが。
475 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 07:33:08 0
半島南部への拘りは征服王朝の始祖神武が百済人であると考えると霧が晴れたように、
全てのキーワードがつながりますね。
965 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2009/06/01(月) 07:18:43 ID:JAGbVR5M
いやひどい番組だったな。
歴史は科学なのに、あの国では願望なんだよな。
韓国の国内でやる分にはかまわんが、なんで、NHKが毒電波流す必要があるんだよ。
966 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2009/06/01(月) 07:45:41 ID:WkNW7DFU
願望というより宗教でしょ。朝鮮は時代を超えて日本よりも上位だったはずだ、
っていうのが教義の。その宣伝機関を買ってでてるNHKは恥を知れ。
韓国の歴史ネタはこのところますますオウム真理教に似てきた気がする。
周囲の状況を含めてね。
967 名前:すも[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 07:50:26 ID:ERvt39Kt
今回、そんなに酷かったか?
具体的に頼む。
968 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 08:12:50 ID:o/o4ys+y
前方後円墳があるのだから、どうみても
日本の支配が及んでたのは明らかなんだから
何でそんなに仮説をいっぱいたてて、
朝鮮人に遠慮してるの?
朝鮮の願望による推理に何の意味があるの?
普通に日本の支配が朝鮮南部に及んでたで
いいじゃない。朝鮮人のアクロバティックな
言い訳聞いてるだけで痛々しいわ。
いや、墓の形は文化の伝播という意味もあろうよ。
日本にも百済式の墓とかあるし。
それだけで単純に支配従属関係と見るのは無理。
なぜ前方後円墳が作られるようになったのかが問題だわな。
それはたぶん任那と通商するために常置されてた倭の機関の
倭人の墓と言う可能性もあるだろう。
478 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 15:31:24 O
あのさあでっかい墓をつくろうと思ったら、何が必要だと思う。
当然つくるだけじゃなくその後の維持管理も必要なんだよ。
盗掘されているのに維持管理しているとは不思議な話だね。
日本人はなんでそういう嘘をつくの
480 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 19:35:45 0
維持管理できなくなったから盗掘されるのだがなも
481 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 19:48:08 0
言われるほどひどい番組ではなかったでしょ。少なくとも、金錫亨「分国論」とか
李進熙「日本府創作説」「好太王碑文改竄説」みたいなバッタモンじゃなかったし、
江上「騎馬民族説」みたいな既に根拠レスになってしまった仮説でもなかった。宋
書倭国伝は引っ込んでしまったが、高句麗好太王碑文や日本書紀の記述、半島から
見つかった前方後円墳をはじめとする倭系の遺構・遺物を、少なくとも無視はして
いなかった。それを「どう考えるか」ってところで韓国の学者の姿勢は確かにいく
らかナショナリスティックではあったが、それにしたって一応「そう思う根拠」は
掲げていたでしょう。「韓国の国内でやる分にはかまわん」というのは、実はそう
ではないと思う。共通の資料をもとに自らの根拠を掲げて推論や仮説を言い合う分
には、議論や対話が可能なのであって、自分の願望通りの歴史観をNHKが提示して
くれないからといって「酷い」とか「毒電波」というのはフェアではないね。
482 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 20:05:20 0
石上神社七支刀、隅田八幡宮人物画像鏡、百済武寧王陵、江田船山古墳、今城塚古墳など、
資料解釈でも特にねじ曲がった解釈もなかったと思うよ。むしろ、あれだけ幅広く資料に
あたっているのは、なかなかないし、再放送があるんだったら、もう一度視たいくらいだ
と思った。諸説あるものについては、全部紹介していて、別に韓国人にだけおもねった内
容とも言えない。第1回は視ていないんで何とも言えないが、今回のものについては、少
なくとも合格点があげられるんじゃないかな。もっとも、韓国人学者の説にはうなづけな
い点もあったことは確かだけど。
話を聞く分には、BBCみたいに最新の遺跡や遺物による科学的な結果から
導き出されたいくつかの学者の説を紹介するという形ができていたのかな。
強引にどれかの説を有力説とするのがいままでのNHKだったからなぁ。
『継体紀』に出てくる安羅の高堂(たかどの)に相当しそうな遺跡が
あるってのにもびっくり。
485 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 21:04:51 0
>>484 そうそう、そのあたりはNHKが外堀埋めるような緻密な取材をしていると感じた。そもそも、
資料の圧倒的に少ない時代なのだから、あの番組が別に決定版というのではない。これから
も遺跡の発見や年代測定・編年研究上の新知見も現れるだろう。研究の現段階での通過点を
示すうえではコンパクトによくまとまっていたように思う。
486 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 21:15:59 0
栄山江流域の前方後円墳が何なのかについても4説が掲げられていたな。
向こうの学者の意見などどうでもいいという意見もあるようだけど、
遺跡の発掘に携わっている人々の見解を知るのは重要。
それをそのまま放送したというのは評価できる。
488 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 21:35:16 0
確か、この4つだったと思う。
1.百済王家が在地首長に造らせた…高句麗との対抗上、中国南朝の技術の導入や倭国勢力との提携を敵にアピールした
2.倭と提携した在地首長が造った…百済の進出や領有化に抵抗した栄山江流域の在地首長が倭人勢力と提携して造った
3.百済に仕えた倭人官僚が造った…百済にとって新領土となった栄山江流域の支配を倭人官僚に委ね、在地勢力を牽制した
4.半島へ大量に移住した倭人がつくった…甕棺墓の存在から、九州の諸勢力が大量に移住する国際環境のなかで造られた
こんな感じじゃなかったかな?
いや、甕棺墓は在地の豪族の墓だといってた。
横穴式石室が九州と栄山江流域で共通するとのこと。
490 :
世界@名無史さん:2009/06/01(月) 22:14:31 0
>>481 いや酷い番組だったよ。
そもそも任那日本府否定は、その金錫亨「分国論」とか
李進熙「日本府創作説」「好太王碑文改竄説」みたいなバッタモン
を論拠としたものなんだよ。
そしてそれらが否定されていることについては番組は無視。
前方後円墳をはじめとする倭系の遺構・遺物にしても、単に九州北部とだけ繋がりがあるかのようにしか紹介していない。
教科書問題で韓国からの政治的圧力がかかり
教科書から任那日本府が消された事実についてもも無視。
それどころが番組初っ端から任那日本府説が過去のものであるかのような説明がなされた。
フェアでないのはこういったNHKの報道姿勢。
>>482 七支刀ついて言及するなら、七支刀が百済から日本に献上された経緯について「日本書紀」に書かれた新羅征伐に始まる神功皇后記の記述内容を紹介しなければならないのに、そこは無視。
百済武寧王について言及するなら、武寧王が日本で生まれ百済に渡ったのは、武寧王の母が百済が倭に人質して差し出した王族に付随して来日したことについて言及しなければならないのに、そこは無視。
又、「三国史記」にも時期は異なるが5世紀初めに百済が倭に人質を差し出してきた記述があるのにそこは無視。同じ頃、新羅も倭に人質を差し出していた「三国史記」の記述も無視。これらは当時の国際関係と任那情勢を知る上で無視してはいけないことだ。
他に当時の国際関係と任那情勢を知る上で参考になる「宋書倭国伝」の記述で
倭王が、使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王、又は、使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王の地位を主張し、宋はこのうちの百済を除く地位を認めた。こういったことも無視。
とにかく任那日本府を裏付けるような内容は、いくら重要であってもひたすら無視ばかり。
反面、「日本書紀」を曲解した韓国人が学者の盲説は次から次へと紹介。
こんな偏向が許されるなら歴史なんて何とでも捏造歪曲ができるということになる。
>>487 政治的に任那日本府説があってはならないことを前提とする韓国学者のナショナリズム史観を無批判に放送するなら、
一方の任那日本府説を肯定する意見も紹介しなければフェアじゃないだろ。
>>488 前方後円墳の解釈にしても要するに任那日本府を否定する意見しか紹介しないわけだ。
>>489 横穴式石室は九州だけのものじゃなくて5世紀末には近畿の前方後円墳でも用いられるようになっている。にも拘らず、番組で九州の古墳だけの特徴であるかのように紹介し、馬韓地域が北部九州とだけ関わり、大和王権とは係わっていないかのような内容を放送していた。
近隣国との関係となると全くアンフェアになるNHKの体質にはウンザリする。
韓国側の学者の意見は、
主体は百済で、倭人は、傭兵として雇われていたただけ
傭兵の倭人が多かったので、「倭が攻めてきた」と碑文に残った
みたいな、主体は朝鮮側にあり、という主張が多かったね
1000年後、秀吉の朝鮮征伐や日韓併合も「主体は朝鮮。」とされてしまうの
だろうか
495 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 00:09:07 O
韓国の古墳はなかなか取材が許されない。
日本で紹介するならどうしても韓国に配慮する形にならざるをえないのは容易に想像がつく。
番組のDが在日なのもそうした配慮からだろう。
その結果、普段紹介されない遺構を多く見れたのは良かったが、公平に見て紹介される学説が韓国側によりすぎてたのは否定できない。
古墳に葬られているのが倭人であるという最大の可能性を無視して、
韓国人学者の「葬られているのは百済の地方役人だと思う」という意見を結論のように紹介、それに加えて百済の情勢を都合よく解釈して解説していたあたり
無理矢理にでも「倭と百済は対等な関係」という印象を演出したい制作順の意図がミエミエだった。
任那、半島西南部の倭の支配も絶対認めようとしない感じ
中世フランスに領土を持っていたイギリス勢力をフランスが追い払ったり、
スペイン王国がレコンキスタで半島からイスラムを追放したり、
と同じようなもので、認めてもいいと思うのだが
百済の王の墓が20bで
西南部の10数個の墓が50〜70b
というのは、ちょっとスカッとした
つーか古代史を現代の朝鮮人の劣等感によって歪めるって…
そういうことをやってるから永遠に劣等感がぬぐえないってわからんのかね。
わかってたら朝鮮人やってないか。
>>494 『倭の軍備は遅れてるから百済の武具を身に付けていた。それでも高句麗は
それを「倭」と誤認した。』 には笑った。
きのうも、日本には鉄がなかった、って
何度も自慢してたね
>>496 朝鮮は勝てたことがないから。
独力で何かを為しえたことがないから。
>>1000年後、秀吉の朝鮮征伐や日韓併合も「主体は朝鮮。」
とされてしまうのだろうか
李王家に批判的な勢力や反乱軍が、秀吉や日帝を傭兵として呼び込んだが、
余りに目立ったので倭賊の乱入、倭乱として記録かな?。
503 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 01:12:49 0
>>491 あの程度で「ひどい」っていうのも何だかね。。。番組のなかでは「分国論」
「日本府創作説」「好太王碑文改竄説」は主張されていなかったと記憶するが。
というか、俺的には、もともと韓国における古代史研究なんて、そこからス
タートしてしまっているんだから、そこから脱却しただけで、かなりまともに
なってきたという印象だけどな。
ないものねだりしても仕方ないわけで。
少なくとも今は、同じ資料をもとに検討したり議論したりできる状況でしょう。
以前は、そうではなかったわけ。創作説・捏造説というのは、議論の余地がな
いわけなんで、それにくらべりゃ、格段の進歩ですよ。。。で、いちおう「任
那日本府の謎」というタイトルだったし、少なくとも、日本府否定先にありき
の議論ではなかったでしょ、進め方としては。『日本書紀』に記された任那日
本府の実態は何かってことをテーマに据えたわけだから。
ちょっと前までは、「任那日本府」という言葉が出る時点で拒否反応というの
が大方の韓国人の反応でしたよ。だからまあ、あの韓国人学者だって、われわ
れからみればアレだが、韓国の国民からすれば、あれですら日本人ベッタリに
みえるかもしれない。
で、番組では4つの説が提示されたわけだが、それ以外の説を主張したければ、
根拠を掲げて主張すればいいんだし、韓国人学者の説が妄説だと思うのなら、
その主張の矛盾点を指摘すればいいだけの話。何も感情的になる必要はない。
「偏向だから」という批判は、あまり意味がないのでは?
504 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 01:25:55 0
>>499 だから、そのあたりは古墳に副葬された豪族の甲冑と実際に戦った兵士の防備とが
同一であるわけがないでしょ。そういうふうにコツコツと矛盾点をつついていけば
彼の説も崩れるわけです。むしろ、言わせておけばいいのですよ。屁理屈みたいな
ものは淘汰されるわけだから。
>>494 いくら傭兵が多くても傭兵を雇った国を書くよな。
なんでまず常識的な考え方を言わないんだろう。
朝鮮人の屁理屈に対抗しようという意味の番組だったんだろうか?
素っ頓狂なものの考え方に対しては、鼻で笑って無視すればいいのに。
507 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 01:54:16 0
認めたくないものを改竄とか創作とかやってきて向き合わなかったから、今そのツケ
を払わされているんだと思うよ。威勢よさそうにみえても内心は痛いんじゃない?
苦し紛れの詭弁みたいなのが多くても、向き合うだけ立派だと思うけどな。いや、皮
肉じゃなくて。
3chで面白い番組やってたけどその話してんの?
なるほど
韓国人に言わせとく番組なのか
510 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 03:59:50 0
>>503 >>491を否定しすぎじゃないの?
以前に比べてよくなったという話とそれでもおかしなところが
たくさんあるってのは別の話だろ。
以前よりマシだとしてもそれでもまだひどいところがあるなら
それを指摘してもいいはずで、それを否定するのはいかがなものかと思うよ。
511 :
田5作:2009/06/02(火) 04:02:27 O
俺的妄想によると半島南部の原住民はもともと日本人の祖先の倭種で今の朝鮮人の祖先は内陸から馬で攻めて着て定着したのでわ?とか思う
劣勢になった半島の倭人が本州に移住して渡来系と言われたんじゃない?
512 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 04:39:14 0
>>503 確かに経緯はその通りだね。
日本の学者が韓国行って話し合っても、あっちの学者は
「任那日本府」の「み」の字も認めないってぼやいてたのが
つい最近までの話だから。それに比べれば隔世の感がある。
「三国史記」や「日本書紀」のいわゆる「質(むかはり)」の記述や、「宋書倭国伝」の記述に
触れなかったのも、そこまで広げて言及すると、
解釈の部分で議論が紛糾するという理由だったかもしれない。
まあ、それにしても一般の視聴者相手に番組作ってんだから。
経緯なんて知らない人も見てんだから、「偏向」だって怒る人がいても
それはそれで無理ないと思うよ。
>>503 >あの程度で「ひどい」っていうのも何だかね。。。番組のなかでは「分国論」
「日本府創作説」「好太王碑文改竄説」は主張されていなかったと記憶するが。
任那日本府否定論がこれら盲説の産物であるんだから、即ち任那日本府否定論自体が盲説にすぎないということなんだが、そこをNHKは避けている。
>少なくとも、日本府否定先にありきの議論ではなかったでしょ、
いや否定が先にありきの番組内容だ。
番組冒頭のナレーション
「古代朝鮮半島南部は任那と呼ばれ日本が支配したと考えられてきました。 しかし、最近韓国南部で発掘が相次ぎ通説を覆す交流の実像が浮かび上がってきました。」
つまり冒頭から任那日本府説は過去のもので、今は覆されているとNHKは言ってる。
>進め方としては。『日本書紀』に記された任那日本府の実態は何かってことをテーマに据えたわけだから。
神功皇后から始まる『日本書紀』の長い記述をほとんど無視して『日本書紀』に記された任那日本府の実態は何かってことをテーマに据えて進めるなんてあり得ないだろ。
『日本書紀』の内容に『好太王碑文』『宋書』『三国史記』の内容を照らし合わせることで当時の国際情勢を追究し、その中から任那について考察してこそ歴史の真相に近づくじゃないの?
でも番組ではそいった姿勢は見られず、視聴者に任那日本府の存在を感じさせるような具体的記述については恣意的に無視された。
>それ以外の説を主張したければ、
根拠を掲げて主張すればいいんだし、韓国人学者の説が妄説だと思うのなら、
その主張の矛盾点を指摘すればいいだけの話。
任那日本府を否定する主張は大量に流した割には、それに対する反論は一切取り上げないNHKの報道姿勢の不公平で、NHKが番組で取り上げてこそ公平な報道姿勢だろ。
そこが問題なのであって2chで反論できるからNHKの偏向報道が許されるというものじゃない。
>>505 >「在安羅諸倭臣」を日本府の本質とする日本人学者の説が紹介されたけれど、『日本書紀』の記述に即した妥当なものと思う。
あれが妥当って冗談きついよw
『日本書紀』の神功皇后以降の記述を延々と無視した上で、
任那の衰亡期になってからようやくその時期の記述だけを摘み出して、それもほとんど人物名を羅列したたけ。こんな放送内容が任那日本府の本質ってか。
>検索してみたら、これらの古墳の年代は5〜6世紀ということで、同時代の栄山江流域の古墳との関連性は主張できると考えます。
だから、5〜6世紀は近畿の古墳でも横穴式石室は採用されているんだから九州だけの存在じゃない。石室構造も近畿やその他地域の古墳の横穴式石室とも特質すべき違いはない。
石室内部に塗られたベンガラにしても九州だけのものではなく、初期古墳から見られる日本の古墳の全国的特長。その特徴を持った前方後円墳が馬韓地域に存在するのに、番組では九州とだけの関係に限定していた。
馬韓地域と倭の関係を九州のみに限定し、大和王権中枢との関係については無かったことにしようとするNHKの報道姿勢は
各種歴史史料で半島に進出している倭が百済や伽耶に雇われた庸兵だとか主張して、大和王権の半島への進出を無かったことにしようとする韓国の姿勢と軸を一にする行為。
515 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 05:04:59 0
>>505 「在安羅諸倭臣」についてはそれでいいけど、
あくまで倭王とは無関係の別勢力って紹介じゃなかったっけ。そこが問題。
@4世紀の「七支刀」の銘文
A5世紀初頭:「好太王碑文」の、倭の半島進出についての記述と
書紀と三国史記で一致している百済・新羅の「質」についての記述
B5世紀:「宋書」の、倭王が「六国(七国)諸軍事」の地位を主張したという記述
と、王権の支配圏の広がりを証明する鉄剣銘
C「継体紀」や「欽明紀」の記述
D「隋書」に記述された百済・新羅の倭国観
これらの史料つき合わせて見て、当時の半島南部に王権直属の出先機関があったと仮定するのは
決して取るに足らない荒唐無稽な説とは思えないけどな。
むしろ当時の倭王が列島および半島南部に対して、軍事・警察を主とする
安全保障上の一定の権限を主張し、大方認められていたように読める。
考古学的史料もそれを否定するような性質のものではない。
492がいうように、そういう出先機関があったという説が一切「ない」のは
公平な紹介ではないし、決して「妥当」だとは思えない。
韓国人学者の説も推測に過ぎないし、あの書紀の史料批判に明確な根拠なんてないんだから。
可能性がある以上紹介すべきで、それは戦前の歴史問題とは話が別でしょ。
>>503 >韓国の国民からすれば、あれですら日本人ベッタリにみえるかもしれない。
そういうこっちゃねえだろさ。どこの国の国民がどうこうなんて関係ない。
学問的見地から見て問題のある内容を、さも「これが新事実です」みたいにテレビ放送する
のはどうなの? ってことだろ。
>>505 >考古学では北部九州と近畿のそれは構造が異なる別の型式とされているようです。
「考古学では」ってなんだよ「考古学では」って。
まず俯瞰と流れで見ろよ。「考古学」っていうならさ。
テレビも学校も車もない時代に、情報や技術の伝播や敵味方の峻別がどう行われていた
のかを想像してみれくれよ。まずはさ。
>関連性は主張できると考えます。
そらなんだって「関連性は主張できると考え」られるさ。
ナスカの地上絵だって、「UFOとかとの関連性は主張できると考えます」って人だって
少なからず存在するんだから。
>>504 いや、俺が言いたかったのは、百済の装備を付けてる倭人を百済と誤認したとか、
倭の装備を付けてる百済軍を倭軍と誤認したなら判るけど、百済の装備を付けてるのに
倭軍と誤認したなんて変な話しすぎるという事だ。
519 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 12:46:11 0
520 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 12:46:26 O
番組が古代史について「ウリナラ創造論」を脱して「インテリジェントデザイン
史観」程度には柔軟性を見せていることは評価すべき、みたいなことを言われ
てもね…。
521 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 12:52:35 0
番組のリベラルな見方のつもりが相反して任那どころか百済までもほとんど日本の属国だったことを裏付ける証拠ばかりだったよw
>>492 任那日本府説をVTRで紹介しなかったのは、もともとは第一回と同じように
嘘を塗り固めたプロパガンダ番組にする予定だったが、抗議が殺到したため、
急遽VTR映像を編集しなおし表面上公平なように取り繕った番組に作り変えたが、
もともと取材していなかった任那日本府説などはVTRで取り上げようがなかったため。
NHKの報道姿勢解析にも歴史と同じくらいの注意を払う必要があるよw
半島にあった日本の勢力を駆逐したって見方は
自慢にならんのかね?
向こうの人はそうは考えないのかね?
弱小国が力をつけて大勢力を時には利用し時には戦い遂に半島を統一したってのは
物語にならんのかな。
最初っから凄かった。俺最強じゃないと物語としてダメなのかね?
向こうの人の古代物語(古代史じゃないよ)はオレTUEEEEじゃないとダメなのかな。
>>488 半島南部がもともと倭人がすんでいた地域だったという視点ははずされているのな
>>503 なんで、NHKでそれを流すんだよ?
韓日友好のための譲歩だろが要するに
526 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 17:06:22 0
日本人は歴史解釈に遠慮しすぎだね。百済はある時期から
完全な倭勢力の属国なわけで内地国よりもっと下の扱いなわけだ。
王族も倭の大伴クラスの官僚に血を塗り替えられたのではないか。
NHKは押せばひくらしいからどんどん圧力かけたほうがいいな
つぶれるまで
墓の装飾なんか見ると、同じ部族つまり倭人の墓としか思えない。
中国古文献、倭の五王、などは完全無視だったな!
韓国の大学教授は偉く成ったもんだな!!!!!!
南インド方面から交易海人民が持ち込んだと思われる、
突帯文式甕棺墓、支石墓、箱式石棺墓、子持ち壷(楽器)、
金属(カネ類)、稲作、などは話題にならんね?
**突帯文式甕棺墓、稲作と言えば弥生の始まりなんだけど?
>>523 古代の朝鮮は強国で、日本よりも遥かに優れていた、あるいは
文化を教えてやった。そして、今の日本文化は全部、韓国が元。
極端に言えば、そういう史観だから無理でしょ。
>>523 それは俺も思う。
日本書紀は新羅を悪く書いてるけど、裏を返せば
艱難辛苦を乗り越えて倭の勢力を排除して最終的に半島統一に到った経緯を書いてあるともいえるのね。
現在韓国人が、古代の朝鮮半島への倭の進出事実を否定したり、日本書紀の内容を否定するのは
そうした倭の排除に奔走した新羅人の努力と成功を抹殺もしくは矮小化することになると思うんだけどね。
しかし、空撮で、前方後円墳をいたるところに見た時は
日章旗がはためいているような気分がしたな
ここは、倭(日本)なんだぞーって
>>514 >任那の衰亡期になってからようやくその時期の記述だけを摘み出して
「任那日本府」の初見は『日本書紀』の欽明2年4月条であり、
その設置もおそらく継体の治世末期から欽明の治世初期にかけて
のことでしょう。安羅滅亡とともに姿を消していますから、
主な活動時期は欽明の時代にあると言えます。
たしかに『雄略紀』にも「任那国司(みまなのくにのみこともち)」
「日本府(やまとのみこともち)の行軍元帥等」の活動が散見されます。
前者は倭王の使臣、後者は倭王の派遣した将帥と思われ、特に後者は
任那における倭の軍営の存在を示したものともとれます。
しかし、以後引き継がれた様子もなく、『欽明紀』の「任那日本府」も
まともな武力を有した様子がないので、たとえ雄略の時代に軍営が
存在していたとしても、一時的なものに過ぎなかったと考えられます。
>石室構造も近畿やその他地域の古墳の横穴式石室とも特質すべき違いはない。
横穴式石室の地域的諸相については、柳沢和男氏や土生田純之氏の研究
が代表的なようです。ともあれ、前方後円墳というスタイルの墓なのだから、
近畿の影響は否定すべくもない。その上でその横穴式石室に北部九州の
濃い影響が見られるという話でしょう。これは亀田修一氏、吉井秀夫氏が
主張していますね。
『雄略紀』に百済が高句麗に滅ぼされた直後、倭から百済へ東城王が筑紫の
軍士五百人によって護送され、筑紫安到臣、馬飼臣が水軍を率いて高句麗軍
を討ったという記事があります。百済への経路上には栄山江流域の勢力がある
わけで、北部九州と栄山江流域との関係を考える上で示唆的と言えましょう。
このへんは放送でも触れられていたような気がします。
536 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 23:08:29 0
>>515 >あくまで倭王とは無関係の別勢力って紹介じゃなかったっけ。そこが問題。
無関係と言ってましたか?「倭王の使節」という主張だったような。
『欽明紀』によると、その官人が新羅の服を着て、新羅に内通する
という有様ですから、たしかに別勢力というか、「任那復興」を建前
とする倭王の意思には反しているのかもしれませんね。
>むしろ当時の倭王が列島および半島南部に対して、軍事・警察を主とする
>安全保障上の一定の権限を主張し、大方認められていたように読める。
雄略の時代まではだいたいそうなんでしょう。
しかし、それ以降は肝心のタイトルを失ってしまうし、倭の王墓の規模
が縮小しているのをみると、王権そのものに相当な動揺があった様子が
窺われます。また、『日本書紀』の記述にも、半島への関与は目立った
ものがほとんど見られない。それまでの軍事的プレゼンスはかなり後退
していたと思われます。
したがって、それまで倭の軍事力を頼っていた百済は代わりに新羅と手を
結んだのでしょう。『三国史記』新羅本紀には、高句麗の攻勢に対して、
百済と新羅が共同戦線を張り、新羅には加耶が援兵を送ったという記述が
見られます。
(537の続き)
『継体紀』によると、継体の即位によって、百済への支援が再開されるも、
磐井との戦争で頓挫。その後、近江臣毛野が金官など加耶南部の支援の
ために安羅へ派遣されたにもかかわらず、新羅軍三千人の攻勢の前に、
毛野は全く手を出せず、加耶南部の中核であった金官は滅ぼされてしまう
という体たらくです。
さて、「任那日本府」がこの時期に存在したのならば、軍事拠点にしろ、
出先機関にしろ、その名が『継体紀』に登場しそうなものですが、全くもって
見られません。
このことは、「任那日本府」が、前代から継承されてきた軍事や経営の
拠点などではなく、継体治世末期における金官や卓淳など加耶南部諸国
の滅亡という危機的状況に対応する形で登場したことを示すものでしょう。
>>535 「任那日本府」の言葉の初見がどの時期かは重要じゃないの。
各種歴史資料から見て半島における倭の影響力が最も強かったのは4世紀末から5世紀中期ぐらいまで
『日本書紀』を読んでも雄略以降半島における倭の影響力が衰退しているのはよく判ること。
「任那日本府」の言葉が衰亡期の記述に登場するからといって
盛期である4世紀末から5世紀中期ぐらいまでの各種史料の記述を無視した上で
ひたすら任那衰亡期の記述ばかりを取り上げて
それが長期にわたる任那の実態を表すかのような言い草はインチキ手法。
>>535 >『雄略紀』に百済が高句麗に滅ぼされた直後、倭から百済へ東城王が筑紫の
>軍士五百人によって護送され、筑紫安到臣、馬飼臣が水軍を率いて高句麗軍
>を討ったという記事があります。
で、これを命じたのは誰か?
そこが欠落してるのよ。
>>540 失礼。雄略が傍においていた東城王を百済王に即位させた記事です。
それに筑紫の勢力が関わったのは、彼らが栄山江流域の勢力と緊密な関係
にあったからでしょうね。
>>120に少し詳しく書きましたが。
緊密な関係があったからとかじゃなくて
単に筑紫が半島に近いから
筑紫の軍が半島に派遣を命じられただけだろ
みなさんは最初からあの番組にチャンネルを合わせてたんですか?
おらは、天地人の内容にガッカリしてたところへ、たまたま
韓流ドラマの百済の騎馬隊が映り、かっこいいなーと思って
見続けたらこの番組だった次第
ごめんね、高尚な話をしてる最中に
NHKが寒流ドラマを垂れ流すのは
ウリナラ史観流布の布石だったのね。
545 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 01:12:12 0
546 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 01:13:38 0
547 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 01:22:27 0
日本書紀に筑紫の軍士が派遣された記事があるように
栄山江地域の前方後円墳が筑紫など北部九州人の墓という可能性は十分にある。
しかし、NHKの番組では日本書紀の記述を部分的に引用する割には
日本書紀の本筋にあたる内容は紹介しない。
栄山江地域の前方後円墳の被葬者倭人説についても
北部九州の勢力が大和王権中枢の意向とは無関係に在地勢力と結び、
勝手に半島に渡り墓を築いたかのような内容。
549 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 03:26:59 0
倭王の権力がどれほどのものかというのが焦点になるんだろうか。百済王が倭王に
王子を人質に出しているように、王権相互の関係でいうなら、倭王が百済王に対し
て優位にあったことは動かせないが、かといって、倭王は倭の領域あるいは日本列
島に対し直接的に人民を支配していたかというとそうではなく、地方豪族を通して
の間接支配だったわけで、それは3世紀の卑弥呼の時代から6世紀の大化の改新、あ
るいは天智の諸改革まで約300年間つづくわけですよね。その間、部民制などによっ
て宮廷の整備はなされるが、当時は朝鮮半島も日本列島も領域的支配ってものがま
だ完全には確立されていなくて、倭国なり百済国というハッキリした領域があって
それを倭王なり百済王なりが統治するというよりは、むしろその逆で、倭や百済の
王権があって、その権力が直接的ないし間接的にでもおよぶ範囲を倭なり百済なり
と称しているような状態じゃなかったんだろうか。
白村江の戦いにもし勝っていたら、どうなったんだろうか。
栄山江流域に百済が復興されて、倭系豪族が大量に移住して百済の官僚や武人と
なったという可能性もあるね。ただし、中国では江南勢力が自立していないから
維持していくには困難がつきまとっていただろうとは予測される。
そうなったら
栄山江流域は、任那に返してほしいところだな
キムという韓国人学者がさかんこだわっていた「倭系官僚説」というのも、現代の韓国人の
国家観からすれば、まさに「諸刃の刃」というふうに感じたね。何で、そうも重要で際どい
ポイントに限って倭人官僚が脈絡なく登場するんでしょうか?って疑問が逆に生じてしまう。
彼の意に反して、むしろ、百済という国は、トップは百済王を戴くものの実質的には倭人政
権で、ヤマト王権の傀儡もしくは保護国だったということになってしまう。
万世一系への亀レス。
徳川慶喜って何世孫なんだろ。
吉宗は家康の曾孫だよな。
平将門は桓武五世?継体ってそんなもんか。
万世一系はいいかげんやめよう。キリスト教圏みたいに一夫一婦制だったら
「万世一系スゴイ!」ってことになるけど、江戸時代まで一夫多妻で、海外
からの征服や植民地化がなかった環境で「万世一系スゴイ」って言ってもア
ナクロニズムだよ。だいたい、俺は秋篠宮より愛子タンについていきたい。
これから皇室も一夫一婦制でいくとするなら、女系認めないなんてナンセン
スでしょ。
556 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 07:27:53 O
やめようとか言いながら自分の意見は開陳するのね
>>555 「万世一系」なんてくだらないイデオロギーのために皇室そのものの存続を
危うくするような馬鹿馬鹿しいことをやめようというのが私の意見です。
>>534 前方後円墳が分布している地域だけ気候が日本と同じ温暖湿潤気候
560 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 09:50:59 0
>>557 本来は、危うくないんすよ。
だって、本当は、元皇族まで入れたら皇位継承できる人結構いるんですから。
561 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 10:20:06 0
まあ、敗戦時点で昭和天皇の男兄弟が4人、男子が2人もいて、
60年後にこんな後継者難になるとは誰が予想できたか。
>>560 皇族で継承できる人は少ないでしょ。
元皇族ってのは、もう皇室の人間ではないので、皇位継承するには法律の改正が必要ではないの?
今のご時世でそんな法律を立案して審議したら、右翼左翼共に大騒ぎになって、まともな論議ができないでしょ?
十分危ういと思うけどね。w
いい加減にしろよスレ違い
564 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 11:40:22 0
>>562 女系天皇OKにするのも法律改正が必要なのは違いないすよ。
あと、経緯を知ってれば、思ってらっしゃるほど右翼左翼どうこうって感じの話でもありません。
旧皇族が皇族でなくなったのは、元はGHQの政策で皇室財産国が取り上げちゃったのが
原因なだけですから、別に皇室財産を戻して旧皇族を皇族に復帰しろとか
言わんが、ちょこっとルール作り直したらいいだけです。
どうするか具体的に考えてる人もいるんじゃないすかね、世の中には。
右翼左翼ってより、騒ぐとしたらアホなフェミニストでしょうけど、
大部分の人は伝統の継承と男女差別の区別もつかないようなアホとは違うと思う。
>>563 任那日本府があったころもそのあともずっと続いている天皇の伝統を守りましょう
・・・・あ、ちょっと強引でしたか・・・スマソ
任那スレなのに天皇の万世一系を語るなよ。スレ違いだ。
568 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 14:40:45 0
どのスレも基地外チョンの書き込みアラシがひどいよ。
組織的にやってるのかな。
当番とか決めて。
儒教圏では、やっぱ日本の皇室への羨望が強いんだろうな。
自分達はどっかで国づくりを誤ってしまったのでは、と思ってんだろう。
南の大統領は在任中必ず犯罪、北など凶悪暴力団、国際犯罪組織、大量殺人犯の組長だ。
569 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 19:11:59 0
1回目にででた山尾幸久って人、共産党の新日本出版社から
本出してる人じゃん。
どーりでエキセントリックな主張をするわけだ。
570 :
万世一系:2009/06/03(水) 20:01:34 0
本スレは、非常に水準の高い人が多く驚きました。
拝見すると、一部の方に「万世一系」への誤解があるのでは?と気付きました。
まず万世一系とは、万世直系と異なります。
傍系も含めての同一の血統が続いていることを言います。
第26代継体でも、南北朝でもこの原則は崩れていません。
実は記録のある限り、この原則は一貫して崩れていません。
これは外国の王朝には例がなく、世界で唯一日本だけのことです。
この日本の特色を表すために生まれた言葉が「万世一系」です。
この研究に対する権威的な書は以下の通り。
◎『萬世一系の天皇』 里見岸雄 錦正社 昭和36年
ロングセラーで、今だに錦正社から発行されています。著者は法学博士ですが、
本スレのような研究をされている方は、揃えておくと発想が深まるものと思います。
、
だからその話題は他でおやんなさいな
572 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 20:45:33 O
任那について議論が深まるのがよほど都合が悪い人がいるみたいだね
573 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 20:47:41 0
>だいたい、俺は秋篠宮より愛子タンについていきたい。
御前の都合なだけじゃん
あの番組の日本側の先生解説で、日朝古代史総集編の
1時間半番組やってほしいものだ
>>574 チャンネル桜にでも要望してみるか。名前なんだっけ?
倭の半島支配が否定しようが無いから、よほど焦ってると見える
「万世一系」が日本の皇室の特質のひとつであることは確かだが、別にそれだけが特質ではない。こ
れは他の方も指摘されているが、いわば近代に入ってからの観念、皇室の政治的利用のために発見さ
れた観念、あえていえば「後知恵」にすぎない。そんなものが古来からの「伝統」であるはずがなく、
ましてや、旧皇族を皇族に復帰させてまで守らなくてはならないような「伝統」であるはずがない。
むしろ、中国・朝鮮と比較した場合の日本の際だった特徴としては、アマテラスという女神が皇室の
祖神として崇められていることであり、厩戸皇子の活躍した推古朝、最初の都城藤原京を造営した持
統朝、平城京遷都の際の元正朝、大仏開眼供養のときの孝謙朝など、女帝も政治的・文化的に非常に
重要な役割を担っていることである。卑弥呼、台与から北条政子に至るまで、危機に瀕したとき「女
王」が現れ、そのカリスマ的な力によって危機を脱するという史実の多さ、それこそがむしろ、日本
の伝統とさえ言える。
また、少なくとも「天皇」号を称してからは、他国の属国になったことがなく、独立を保ってきたこ
と、そのことこそが、守るべき伝統であるといえる。仮に足利義満が王位を簒奪して息子の義嗣が天
皇になっても男系継承としての「万世一系」はくずれない。「万世一系」というのは、それほどスゴ
イことではなく、それほどユルイことなのだ。
このスレにおける万世一系論者の支離滅裂な没論理性、気持ち悪いまでの排他性、無知なくせに謙虚
さのかけらもない傲慢な態度、自分の意見とは異なる意見は「チョン」「基地外」「池沼」というレ
ッテル貼りをみていると、こんな者どもにありがたがられる「万世一系」ならば、むしろ「万世一系」
なる観念とは積極的に、かつ永久に訣別した方が日本のためであり、皇室のためでもあると心から確
信する。
フェミニストでも外国人でもなく、単なる一国民、保守主義者のひとりとして言わせてもらう。実は、
女性天皇を実質的に排除している現行皇室典範こそ、反伝統的なのである。「万世一系」こそ、祭祀
王からはじまった皇室の連綿たる伝統を無視するものである。政治権力を超越してきた皇室の超越性
をむしろ政治的に活用しようとする下世話で底意地の卑しい発想の最たるものである。
579 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 22:23:15 0
スレを攪乱させたい人が1人でやってるんじゃないかと思えてきたよ。
580 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 22:37:46 0
百済についてはどうなんだろうか。高句麗と同系だとして国号や首都に「扶余」を命名したり、
自らの姓を「余」としている割には、最初から最後まで一貫して反高句麗の立場を崩していな
い。新羅とは同盟できる余地があっても高句麗とはその余地がないということは、どういうこ
となのだろうか。単に地勢的に隣接しているからということに還元できるものなのだろうか。
前書いて別の意味でさわがせていたものだが、578とはちがうよ
空気よんでromるぐらいする
なにやら最近のイデオロギーに影響されているっぽいアホっぽい578といっしょにしないでくれ
かなり大きな組織だったんだろうね。
自称してもそれを記録せざるを得ないし、
結局は認めないといけない。
ひょっとしたら南朝は百済を通じて半島をコントロールしたいという野望があったかもしれない。
けど倭を無視することは出来なかった。
そういうことかもしれない。
>>575 続いていなくたって別に問題はないんだけどな
そういう生物学的な問題よりも伝統を尊ぶ文化こそが日本が誇るものなわけで
天皇家は事例の一つにすぎない
百済というのは、倭の属国
ということでよい?
585 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 22:58:27 0
百済の王権が扶余系っていうのも、ポーランドのサルマティズムとかスウェーデンの
ゴート起源説みたいなものだったかもしれないという可能性はあるよね
586 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 23:09:36 0
倭の属国であるなら、じゃあ、逆にどうして扶余系を主張しなくては
ならなかったのか。なぜ王墓は前方後円墳ではないのか。
応募安全保障のため?
587 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 23:09:55 0
例の番組で韓国の教授が
「栄山江流域は五世紀には百済に属していた中国の文献にもそうある」
って言ってたがそういう記述あるの?
百済というのは、任那領ぶんどったり
危なくなると救援求めてきたり
一体なんなんだろうね
158 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2009/06/03(水) 22:35:57 ID:xIiZQf4m
>>157 現半島人が欲しいのは、半島における居住の正当性なんだよ。
半島に、日本の支配が秀吉以前の太古に在りましたなんて認めたら、
秀吉と、近代日本の半島出兵に正当性を与えてしまうわけだ。
「昔の領地を返してもらうために攻めた、併合した」ってな。
だから自分たちがもし、古代半島の新羅や百済の民の子孫でなかったとしても、
倭式の前方後円墳が各地から見つかっても認めるわけにはいかないわけ。
成りすますしかないいんだよ。自分たちの存在を嘘で包んでも。
我々日本人は少なくとも数千年にわたってこの島で、移民、渡来民を
上手く吸収しつつ、また数百年の鎖国で文化や血を凝縮し、近代まで歴史をつむいできた。
これって彼らから見たら、うらやましくて仕方ないんだよ。
嘘をつかなくても居住の大義名分がある人間たちってのがさ。
だから今、日本国内でも売国政治家操って必死だろ?「日本列島は日本人だけのものじゃない」って動き。
これって彼らの日本国居住の大義名分がないからなんだよ。
こちらにしたら 当然 認めるわけにはいかないが、彼らも必死なんだわな。
590 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 23:19:30 0
>>587 「耽羅が百済に朝貢した」という記述を拡大解釈したんじゃないんだろうか。
そういうふうにしか聞こえなかったが。いずれにせよ、大したことは言って
いないから、言わせておきゃいい。取材しておいて神功皇后のことなんか放
送したら、今度は取材させてもらえなくなる。データを揃えないとトータル
なことは言えないのだから、些細なことは目をつむった方がよろしい。偏っ
ていようがいまいが、さしあたって、根拠を出して言っているのか、その根
拠がだれにとっても納得のいくものなのかってことが大切なんじゃないの?
591 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 23:43:02 O
>>590 主語が抜けてるせいかさっぱりわからない。
できれば主語を統一してもう一度書いてもらえないでしょうか
ちくしょー見逃しちゃったぜ。
いつか再放送しないの?
例の番組での韓国の教授って
「日本書紀にはこう書いてある。しかしよく読むと・・・」
っていうのが多かったね
まあ日本書紀よく研究してるところは良い、とは思ったが
アホっぽいと言われたものだが。
「万世一系」みたいなことを未だに主張しなくてはならないというのはハッキリ言って
異常だと思う。そんなものに依拠しなければ成り立たないような愛国心ならば、むしろ
持つなと言いたい。
単純に自分の住んでいる国だから好き、長い歴史が好きで、他国の支配を受けなかった
ことが誇り、それでいいじゃないかと思う。そこに理屈をつけなきゃならない嫌らしさ、
浅ましさ、すぐに排外主義に結びつく狭量さ、そういうのは「日本人として」イヤだと
思う。男系にこだわるってことは、「腹は借り腹」という考えにしがみつくことでもあ
りますよ。この考えを「世界に出して」恥ずかしくない、胸を張れるって思えます?
アホといわれても、俺はそうは思えん。
皇室を危うくするってのは、別に皇位継承者の数が先細りするってだけじゃないですよ。
皇室観として健全かということも含んでいる。外国人からみて不健全で気持ち悪いもの
だったら、やはり皇室を危うくするものだと思う。
万世一系と排外主義とを
直接的に結びつけるのは如何なものか?
男系にこだわる事は現代においてはY遺伝子がずっと受け継がれてるって事で意味が有る訳だが。
597 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 00:06:44 0
>>590 「耽羅が百済に朝貢した」という中国の史書の記述を、キム氏が拡大解釈したんじゃ
ないんだろうか。つまり、耽羅(済州島)が百済に朝貢したということは、百済の服
属国になったということであり、当然、耽羅と百済のあいだにある栄山江流域は百済
に服属しているはずだ(←無理あるでしょ&朝貢だけだったら倭国に対してもしてい
る)。
私にはそういうふうにしか聞こえなかったが(←今思い出したが、百済王が南進の兵
を挙げたという記事はどこかにあるらしい)。
いずれにせよ、キム氏は大したことは言っていないから、言わせておきゃいい。
NHKは、取材しておいて神功皇后のことなんか放送したら、今度は取材させて
もらえなくなる。
日本の学者も、データを揃えないとトータルなことは言えないのだから、些細
なことは目をつむった方がよろしい。
偏っていようがいまいが、さしあたって、根拠を出して言っているのか、その
根拠がだれにとっても納得のいくものなのかってことが大切なんじゃないの?
これでいいでしょうか。
ちなみに、耽羅を半島の勢力が直接支配下に入れたのは、新羅滅亡後の高麗朝
の初め頃だったと思う。元は、高麗から切り離して直轄地にして放牧場にした
のではなかったかと思う。
>>592 シリーズ10回が終わったら
まとめてやるかも
599 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 00:09:37 0
575→ 頼っている文献が、たま出版的トンデモ本、偽史カルト本。
578→ 長々書いてるが、どうも女系・女帝の区別ついてない。
足利義満の息子が「皇位」についても…に至っては哀れなくらい。
単なる偏った趣味・愛好家のレベルか。
「任那」以外については、基本的な知識の欠如が目立つ人がいる。
600 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 00:19:16 0
>>599 「万世一系」が後知恵であることは事実でしょう。
歩いて来た道を振り返った時、そこに歴史が存在している。伝統も同じ。
それを「後知恵」と言われてもねぇ。
603 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 02:26:43 0
604 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 02:45:24 0
レスくれてるから一応。
>>537 「王権と無関係の別勢力」は強調されてたように思ったけどな。勘違いかな。だったらスマン。
まあ「倭王に派遣されておきながら命令に反して不軌の行動をとる臣下」と「別勢力」は
全く意味合いが違うでしょ。
書いてることは、大枠異論はないよ。「書紀」や「三国史記」に載ってることだからね。
「出先機関」って書いたのは「軍事拠点」の意味でもないし「前代から継承されてきた」
ものとも書いてないよね。4〜7世紀の史料をあげたのはそういう意味じゃないんだ。
「在安羅諸倭臣」についてはそれでいいって書いたはず。
欽明期に、倭王の命を受けて安羅に特派され一定の権限・任務を持って駐在した「諸倭臣」がいたのなら、
それは王権直属の出先機関じゃないの?そういう意味だよ。
>それ以降は肝心のタイトルを失ってしまうし
>それまでの軍事的プレゼンスはかなり後退していた
4〜7世紀の史料をあげたのはそういう意味じゃないんだ。
倭王が六国(七国)諸軍事の地位を「主張」、安全保障上の一定の権限を「主張」と書いたのは
そのタイトルを実際南朝が認めたかどうかが問題なんじゃない。5世紀の間ですらそのタイトルを
持っていた時期は限られている。そうではなく5世紀前半〜後半一貫してそのような地位を
「主張」し続けている、つまり列島及び半島南部に対してそういうスタンスで臨んでいる
という事実が垣間見える点が重要なんだよ。そこには「新羅」ばかりか「百済」も
含まれている。もちろん軍事的な「直接支配権」なんかじゃない。書紀を鵜呑みにしても
そういう解釈は生じ得ない。倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の分立状態の安定的維持、
それらの「安全」を「保障」する存在として君臨する「倭王」ということだよ。
南朝のお墨付きは雄略期に失われるけど、中国のタイトルは政治的手段のひとつだから。
内向きには「治天下大王」を名乗っていた。この立場は実質半島南部の安定を保てなくなった
からとか、王権が弱体化したからといって変わるものじゃない。中国のタイトルの
あるなしに関わらない「倭王」のステータスだ。
604のつづき
そして、書紀に記される半島南部諸国の「倭王」に対する態度は、「倭王」に対しこのような権限を
「大方認めていたように読める」それは「継体紀」でも「欽明紀」でもそう。
百済が堂々と南進するにつけても表面上は倭王にお伺いを立てに来る。伴跛も己モンの地を
乞うためにまずは倭王に遣使する。新羅も侵略の一方で倭に遣使するし、呼び出しにも応じる。
倭王の側も失われた小国復興のために、新羅を呼んだり百済に要請したりする。百済王もそれを拝命するわけだ。
「隋書」の、百済・新羅が倭を「大国」として「敬仰」していたという記事はこうした文脈に沿っている。
これらは、当時の列島及び半島南部に、「倭王」にそうした一定の権威を認める緩やかな政治的枠組みあるいは雰囲気があった
ことを示唆する。
それらが上手くいかなくなったこと、王権が弱体化し、権威が揺らぎつつあったこと
小国分立の安定維持が建前と化し、実際は百済や新羅の領土的野心が顕わになりつつあったことなどは別の問題。
野心や恨みを含みつつも表面上は「倭王」の顔は立てていた。
こうした「政治的枠組み」の存在は、各種史料をつき合わせていけば十分に仮説として
成立しうるものだ。だとすれば、このような背景の下、「倭王」がその責務と権限において
半島問題の調停及び更なる悪化を防ぐため、一定の権限を「倭臣」に与え、
安羅に特派し駐在させることは自然なことといえる。それが本来の「みこともち」の意義だから。
「みことのり」を受け持つ者、長期か短期かにかかわらず、
ある任務・権限を与えられてそれを遂行し、復命する者だからね。
欽明期の「みこともち」は「諸倭臣」の集団、あるいは機関の呼称と読めるけど、
継体期の「毛野臣」なども「みこともち」と表記されていたとしてもおかしくない。
「倭王」の意思を伝えるだけの使節も「みこともち」だ。
ただそれは単なる海外使節団じゃない。「治天下大王」の建前で派遣される「倭臣」だから
当然ニュアンスが違う。軍営だけが権力の実体じゃない、
倭王権ははじめから半島の直接支配なんか望んでない。継体以前は九州に対してすらそうだから。
606 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 04:10:41 0
>>597 NHKの番組を観てキムさん解釈に私もあららと思っいました。
栄山江流域を任那四県にしたくないキムさんの拡大解釈ですよね。
『三国史記』によると、百済は「親征至武珍州」まで。
私的には、武珍州まで到達した時点でなぜ耽羅が遣使したかを考えると
面白いのではと思っています。
>>549 同意します。専制を実現したといわれる雄略の時代でも、
倭王の権力は絶対的なものであったとは言い難いと思います。
近畿の王墓とされる巨大前方後円墳は、他と隔絶した規模と
規格をもつことで、王の権威権力の強大さを示すわけですが、
規模規格によって権力の大きさが規定されるということは、
同時に王の権力が相対的なものであるということでもあります。
であればこそ、倭の五王は劉宋から倭王たることの承認を得て
いたのでしょう。倭王であることが自明であれば、それの承認を
わざわざ外部から調達する必要は無いのですから。
したがって、倭王による列島各地の豪族への統制は決して
厳格なものではなく、それゆえ、豪族らは勝手に他の豪族と
関係を結んだのでしょうし、時には海を越えて加耶諸国の王や
豪族と関係を結んだ可能性も十分ありえましょう。北部九州と
栄山江流域との結びつきもそのような文脈上にあると思われます。
>>587 6世紀でなく、5世紀と言ってたんですか?
6世紀だったら、521年に梁の蕭繹(後の元帝)によって描かれた
『職貢図』のことだと思ったのですが。
川本芳昭氏によると、その「百済国使」の条に「有二十二檐魯。
分子弟宗族為之。旁小国有叛波・卓・多羅・前羅・斯羅・止迷
・麻連・上己文・下枕羅等附之」と書いてあるとのこと。
ここでは、加耶北部の雄「叛波」(伴跛、大加耶)や「多羅」
そして「斯羅」(新羅)など明らかに百済の領域に含まれない
独立国が百済の附庸国とされており、あくまでも百済の主張する
版図が記されたものと思われ、そのままには受け取れません。
しかし、「任那四県」に続いて、継体7年(513)頃に併合された
己汶を指す「上己文」が挙げられており、この時点で「任那四県」
が百済の領有に帰していた傍証とみることは可能です。
また、「下枕羅」は耽羅を指すと思われます。『継体紀』には
その2年に百済と初めて通じたという記事を載せますが、
『三国史記』によると、すでに5世紀末の文周王の代に朝貢、
東城王の代に軍事的圧力をかけていますね。
>>604 >それは王権直属の出先機関じゃないの?そういう意味だよ。
異論ありません。
>>605 >これらは、当時の列島及び半島南部に、「倭王」にそうした
>一定の権威を認める緩やかな政治的枠組みあるいは雰囲気が
>あったことを示唆する。
その枠組みこそが「治天下大王」の「天下」であるということ
でしょうか。継体や欽明の時代にはすでに形骸化していたと
考えられますが、潜在的に強大な軍事力をもつ倭の面子を立て
ようとする雰囲気があったことは、御説のとおり、たしかに
否定できませんね。
>「倭王」の意思を伝えるだけの使節も「みこともち」だ。
>ただそれは単なる海外使節団じゃない。「治天下大王」の
>建前で派遣される「倭臣」だから当然ニュアンスが違う。
>軍営だけが権力の実体じゃない、
ですね。倭王の特命を帯びた使節だったと思います。
ただ、倭王が「任那復興」というのをどこまで本気で考えて
いたのか、ちょっと分からないところですが。安羅を新羅や
百済から守るつもりくらいはあったのでしょうか。
連投失礼。
>>523 小中華思想のヒエラルキーでは相容れない思想だ。
日本人は「絶対悪」なんて言う輩は嘲笑するが、彼らは大真面目だ。
冒頭のカヤと後半の栄山江流域を分けたのか?
カヤ慶尚道は朝鮮右翼の根拠地なのな。よって絶対不可侵な存在。朝鮮儒教において
栄山江流域=全羅道はヒエラルキーの最下層なので、比較的自由な議論が可能なのだ。
関西人が東北民を馬鹿にする感じを100倍濃縮。
>>580 南北朝の代理戦争かな?かつ正統プヨ争奪戦w
>>610 > カヤ慶尚道は朝鮮右翼の根拠地なのな。よって絶対不可侵な存在。朝鮮儒教において
> 栄山江流域=全羅道はヒエラルキーの最下層なので、比較的自由な議論が可能なのだ。
その全羅道が差別されているという理由も、儒教とは相容れないそれ以前の
倭の文化の影響ではなかろうか。北から南下して大陸文化が倭とつながっている
海洋的文化を駆逐したから最下層に落とされたのではなかろうか。
自国の歴史を何が何でも否定的にとらえるという、まことに妙なことが罷り通る
国は日本しかないでしょうな。戦争の傷跡は深いものよ
616 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 20:55:19 0
617 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 20:57:52 0
>>608 >6世紀でなく、5世紀と言ってたんですか?
はい そうです。栄山江流域は5世紀に百済に服したため6世紀に倭が割譲したとは考えられないと言っていました。
>>590さんの
>「耽羅が百済に朝貢した」という記述を拡大解釈したんじゃないんだろうか
ということもその直後に言ってたのですが
自分には栄山江流域が5世紀には百済に属したという中国の文献があるように聞こえたので
そうしたものがあるのでしょうか?
全羅道vs慶尚道の対立構図って、軍事政権時代からじゃねえの
619 :
世界@名無史さん:2009/06/04(木) 21:49:05 0
http://7538315.web.fc2.com/mimananihonnfu.html 石澤:キムさんはこの問題についてどのようにお考えになりますか。
キム:日本書紀によれば6世紀始めから出てきますが倭系の人が百済に
渡って官僚となり、地方長官として活躍しています。穂積臣押山(ほづ
みのおみおしやま)という人がその地域の地方長官であったと記されて
います。こうした点から倭系の人で百済にきて地方長官として働いてい
た人達と関連がある墓ではないかと思います。私はヨンサンガン流域の
状況を検討してみる必要があると思います。『三国史記(朝鮮半島の歴
史書)』によると470年代に今のチェジュ島、当時の耽羅(タンラ)
国が百済に朝貢を行わなかった為、百済の王が今のクワンジュ(光州・
チョルラ南道)まで軍隊を率いてやってきます、すると耽羅つまりチェ
ジュ島が降伏し朝貢をしたという記録があります。少なくとも5世紀後
半には今のヨンサンガン流域はもちろん、チェジュ島までも百済の影響
下にあった事が文献上で見ることが出来ます。それでは、百済がすでに
掌握した地域なのにも関わらず、何故倭系の墓があらわれているのか。
それは、この地域が倭から百済に入る通り道にあたるからです。政治的
な関係によってではなく、百済との交流が活発に行われる事によって自
然に産まれたものだと考えられます。
石澤:この辺りがですね、任那四県にあたるのではないかという議論も
昔からあるんですけども、この点についてはどんな風にお考えでしょうか。
キム:任那四県というのは基本的にはヤマト政権が韓半島南部を200
年間支配した事を前提にする事で成り立つ話しです。少なくとも、中国
の記録によれば5世紀後半にはすでにヨンサンガン流域は百済の影響下
に入っています。ところが日本書紀の任那四県の記述は6世紀前半にな
ってあらわれます。こうした点からもヨンサンガン流域が任那四県とは
一致しないという事ができます。
アナウンサー、この辺りが任那四県説ツッコミ
GJ!
621 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 00:09:43 O
王自らが光州まで進軍しないと耽羅を朝貢させられなかったとも言えるわけで
622 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 00:17:44 0
>中国の記録によれば5世紀後半にはすでにヨンサンガン流域は百済の影響下
>に入っています。と
どの話?
623 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 02:09:42 0
>>622 >どの話?
『 三国史記』百済本紀
王以耽羅不修貢賦親征至武珍州 耽羅聞之遣使乞罪乃止
(百済王は耽羅が貢賦をおさめないので親征して武珍州(現在の光州)に至る。
耽羅はこれを聞いて遣使して謝罪)
だと思います。キムさんは470年代と言っているようですが498年の話です。
『三国史記』と聞くとホツマツタエとか言うムー本に感じて仕舞うな!
625 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 03:44:26 0
>>623に追記です。
この『三国史記』の記述をもって
「栄山江(ヨンサンガン)流域が百済の影響下にあった」とは言えないはずなのに、
そう断言してしまうあたりが韓国の学者(キムさん)の現在の限界かと思われます。
>>620 そのツッコミでの結論は任那四県を否定ということなので、
石澤アナはどちらかというと韓国よりでしたよね。
石澤アナの質問に森さんが答えづらそうに意見を述べていたのが印象的でした。
まあ、あくまでも私的な印象ですがw
石澤アナ、教科書の記述変遷のところで「任那と習ってきた」と
懐かしんでいるように感じたよ
627 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 10:08:37 O
628 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 10:30:27 0
>>627 ごめんなさい。起きがけに勢いで書いちゃいかんなと…。
中国の件は見落としてるし、476年に耽羅は文周王に朝貢はしてるし。
しばらく反省部屋に入ってます。
629 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 11:34:17 0
623ですが、該当するような記述ということで
てっきり『三国史記』のことだと思いこんでました。
思いあたる中国の記録がないので、お詫びといっては何ですが、
反省部屋からちょっと出てNHKコールセンターに電話で早速問い合わせてみました。
…えーと、「わからない」という回答です。
んー、なんの記録だろ? また反省部屋に戻ります…。
反省だけなら猿でもできる。
汚名返上できるのが人間だ。
159 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2009/06/03(水) 23:38:58 ID:7etiz1eh
第1回の韓国人ディレクター一行、
取材にうちにきたよ・・・・・
うちの教授・・・・誘導尋問みたいな引き出しを突っぱね、
最後まで唐の影響がおおきいって言い続けて、
高句麗との関係をいわなかった。
結果、まる二日の取材にかかわらず、
扱いは一瞬だった。
でも、これでよしだよ。
シナリオ書いてからくるなよな。
632 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 11:50:05 0
陰陽で太極なわけだが
それはどうも4つ象があるようだが
>>588 今の日本と韓国みたいな関係なんじゃない?
日本から独立したから日本が嫌いがテーゼだけど無視されたら困る韓国と
自由主義陣営だから韓国の面倒みないといけない日本
米国から強く頼まれたから面倒見ているだけでしょ。
それ以前は放置プレーしていたわけだし。
637 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 22:54:00 0
>>632 向こうでも指摘されてたけどあれは巴紋だな。また一つ日本との関係を示す物が出た。
>>606 >私的には、武珍州まで到達した時点でなぜ耽羅が遣使したかを考えると
>面白いのではと思っています。
耽羅と栄山江流域勢力とのあいだに何らかの結びつきがあったの
でしょうか。例えば、耽羅王を上位とする同盟関係とか。
それゆえ光州まで百済軍が押し寄せたところで、代表者である耽羅
から講和がなされた、とか。自分で言っておきながら全く論拠に乏しいw
ただ、5世紀後半、栄山江流域というか全羅南道一帯は百済によって
常に圧迫を受けていたことはたしかでしょう。一時的滅亡から回復
をはかる百済にとって南侵はいちばん手っ取り早い方法だったはず
ですから。
問題は倭王や北部九州の勢力がそこにどう絡むかですね。
また耽羅すなわち済州島は北部九州から栄山江流域、そして百済へ
至る通り道にあるわけですが。
NHKは韓国の支配下にあるようだな
番組のなかで「日韓関係」あるいは「韓日関係」ということばがよく出てき
たが、たいへん違和感をもった。あったのは倭と新羅の関係であり、倭と百
済の関係だったはずである。
新羅による半島統一によってはじめて民族文化を発展させる土壌が生まれた
のである。中国の文物を取り入れたから、あるいは外交的に親中国路線を採
用したから、民族文化が損なわれるというのはきわめて短絡的で皮相的なも
のの見方である。
新羅が、徹底して国際政治のリアリズムに立脚して、それこそ、なりふりかま
わず独立を保ち、最終的に倭の干渉や唐の直接支配をはねのけて民族国家をつ
くったからこそ現代の朝鮮人の文化があり、生活がある。
中国大陸と日本列島にはさまれた回廊のような朝鮮半島にあって、統一と独
立という難事をふたつも成し遂げたことは、つくづく偉大なことである。一
見、三国のなかで最も後進的で小国と思われていた新羅で、なぜそれが可能
だったのだろうか。
642 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 08:20:42 0
>>639 耽羅は三韓とは異なる種族である州胡人が住んでいた土地ですよね。地勢や位置など
の面では対馬に似ている。対馬の場合は種族としては倭人だったわけですが。
ここもまた、農業だけでは生活していけない島だったと考えられるから、海民的要素を
もっていて、中継貿易をおこなっていたのではないでしょうか。もしかしたら、栄山江
流域地方に州胡人も進出して居留地を形成していたかもしれないですね。
大和政権・・・百済
筑紫磐井・・・新羅
という関係があったということは
統一前の新羅を、韓国と同一・同類と考えて敵視するのも
「ちょっと違う」のかも
州胡人っていうのは、倭人の親戚みたいな人々ですか?
645 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 08:52:03 0
『三国志』や『後漢書』によれば、州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑のように
髪を剃り、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛や猪を飼い、
船で往来して韓と交易したとある。倭人とも違う種族のようだ。
>>638 「倭の影響」みたいなことがすんなり言えるようになってきたのは、韓国
歴史学界も多少は進歩してきた証拠だな。
鮮卑系ってことは、満州あたりにいた人が南下し
半島人、倭人がいる場所を避けて住み着いた
ということだろうか
どうなんだろうね。髪を剃るってところが鮮卑と類似するといっても、鮮卑系とまでは
いえないように思うが。ただ、漁撈よりは牧畜を重要な生業としていたことは伺われる。
済州島と言えば伝説に倭から使者がどうたらこうたら
650 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 15:59:56 0
倭人といっても江南から移り住んだ農耕民・渡来人、それ以前から住んでいた北方系の毛人・蝦夷、南方系海洋民・海人と
多民族混在の地であって「日本人」なんてのは強いて言えば「倭国王に従う人々」というくくりでしか存在しなかったのではないかと
そんな日本人にとってはアラエミシやツガルの蝦夷よりは百済人あたりの韓人のほうがよっぽど近しい存在ではなかったか
>>650 韓人の多くも倭王にしたがっていたからね。日本人としてのアイディン
ティティは長い年月をかけてつくられていった。朝鮮人も、それは同じ。
新羅統一以前の文化は中国文化とはいえても朝鮮文化とはいえない。
倭人=小さい人=南洋系海洋民族の総称とか。
室町のころの「偽」倭寇と人種構成(鮮人台湾シナ)が一緒かもしれませんね。
653 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 17:20:10 0
>>630 >>634 該当部分をまだ発見できないにもかかわらず、反省部屋からのこのこと出てきました。
このままでは妖怪人間ベム状態orz どなたかお助けをw
>>639 >耽羅と栄山江流域勢力とのあいだに何らかの結びつきがあったの
>でしょうか。例えば、耽羅王を上位とする同盟関係とか。
606だったりもしますので節操なくレスします。
その辺はご想像におまかせします(わー、いい加減w)。
前方後円墳の現時点での出土位置をみると、地形も関係しているようですが、
武珍州含む付近の東と南の方面は栄山江流域勢力のコントロール下に
置かれていないと推測されます。長興郡・宝城郡あたりから前方後円墳が出てくると
前提が崩れるかもしれませんが、地理的なことだけからいえば、
百済が耽羅にたどり着くには光州から南下することも考えられるわけです。
半島南沿岸部の勢力分布がどのようになっていたかにもよりますが、
耽羅と栄山江流域勢力は上下関係ではないという選択肢もあるでしょう。
百済が武珍州に到達した時点で謝ったことによって妄想もふくらむのですが、
進軍方向を知るために耽羅にはもうちょっと謝るのを待ってほしかった。
謝るの早すぎだろと耽羅に小一時間w
>問題は倭王や北部九州の勢力がそこにどう絡むかですね。
そうですよね。磐井の件もあるのでどうなんでしょうか。
韓国側のさらなる調査報告が待たれるところです。
654 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 22:16:44 0
正直、日本人の起源が朝鮮半島だったら嫌だな〜と考えていたけどw
レス読む分には、どうやらその危険性は回避されたし安堵してます(´・ω・`)
655 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 22:28:23 0
百済滅亡で日本列島に逃げ出した韓人も日本人の一部だよ
656 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 22:33:10 0
新羅が滅亡するときに百済などの国名が復活したことをかんがえたら、
まだその頃でも、人種が違うという感覚があったのかな。
百済と新羅は同族なの?
659 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 23:19:08 0
朝鮮の被差別民が旧百済人じゃないかと思うんだが
660 :
世界@名無史さん:2009/06/06(土) 23:26:01 0
>>658 広くとらえれば韓人ということだが、『魏志』東夷伝などによれば
流域ごとに馬韓と辰韓などがあり、風俗などは異なるようだ。20世
紀にはいった韓国併合直前でも、朝鮮半島では方言がきつくて違う
道の出身者同士では意思の疎通が難しかったというから、言語も相
当違っていた可能性もある。馬韓と帯方の地を中心に百済が、辰韓
の一部からは新羅が勃興していたが、支配階級は違っていた可能性
がある。百済は扶余系で高句麗と同族と称している。これは、韓族
ともまた異なるツングース系の貊族で、確かに王墓には積石塚があ
り、高句麗と共通の要素をもっている。また、王子が倭国に人質に
出されていた可能性から倭人を妻女にむかえることが多かったと推
測される。660年に唐と新羅の同盟軍が百済を攻め滅ぼしたとき、宮
殿にいた女官約3000人が奴隷として辱めを受けるよりはと、断崖か
ら川に自ら身を投げたといわれている。そういうことから推察して、
新羅と百済は、少なくとも上層レベルでは同族意識はほとんどなかっ
たのではないかと考えられる。
661 :
660:2009/06/06(土) 23:34:23 0
(書き直し)
広くとらえれば韓人ということだが、『魏志』東夷伝などによれば
河川の流域ごとに馬韓と辰韓などがあり、風俗などは異なるようだ。
20世紀にはいった韓国併合直前でも、朝鮮半島では方言がきつくて
違う「道」の出身者同士では意思の疎通が難しかったというから、
言語も相当違っていた可能性がある。
朝鮮半島では、馬韓と帯方の地を中心に百済が、辰韓の一部からは
新羅が勃興していたが、支配階級の種族は違っていた可能性がある。
百済の王家は「扶余系」で「高句麗と同族」と称している。これは、
韓族ともまた異なるツングース系の貊族で、確かに王墓には積石塚
があり、高句麗の王墓と共通の要素をもっている。また、百済では、
王子が倭国に人質に出されていたことから、倭王の王女をふくめて
倭人を王家の妻女にむかえることが多かったと推測される。
さらに帯方郡の故地をかかえることから、漢人官吏も多くいたこと
であろう。
660年に唐と新羅の同盟軍が百済を攻め滅ぼしたとき、宮殿にいた女
官約3000人が奴隷として辱めを受けるよりはと、断崖から川に自ら
身を投げたといわれている。
そういうことから推察して、新羅と百済は、少なくとも上層レベルで
は同族意識はほとんどなかったのではないかと考えられる。
つまり韓人の民衆の上に、異人種の王族が支配していた国?
クレオパトラのエジプトみたいなもんかな?
新羅ももとは秦からの移民が住民だったという記述もあるから、韓人ではないのかもね。
朝鮮南西部の前方後円墳から人骨は発掘されてないのだろうか。
13基もあればどれかは人骨あるだろ。そうすりゃ倭人か、韓人かすぐわかるだろうに。
もう10年以上たって半分しか発掘してないとか、遺物の報告書つくってないとかありえんww
大伽耶滅亡の際の新羅真興王は、領土を四方に広げていったが、
・丹陽赤城碑(忠清北道丹陽郡)
・昌寧碑(慶尚南道昌寧郡)
・磨雲嶺碑(咸鏡南道)
・黄草嶺碑(咸鏡南道)
・北漢山碑(ソウル特別市)
など「真興王巡狩碑」を各地に建てている。王みずから新しく得た地を
訪ねるなどして新附の地の民からの支持を得たことが、新羅による半島
統一を可能にしたのではないだろうか。
665 :
世界@名無史さん:2009/06/07(日) 09:29:39 0
任那なんてなかったんだよ。おまえら、いいかげんに目を覚ませよ。
そうだよな半島全部倭人のものだもんな。w
667 :
世界@名無史さん:2009/06/07(日) 10:55:54 0
「任那」とは?
田中俊明(朝鮮史)…朝鮮・中国の史料では任那を伽耶諸国の汎称として
用いることはなく金官伽耶を指すものと結論。『日本書紀』においても特
定国を指す用法とともに総称としての用法も認められるが、後者は『日本
書紀』独自の特殊な用法。
吉田孝(日本史)…『日本書紀』が伽耶諸国を総称して任那と呼んだとす
る従来説を批判、中国・朝鮮の史料では任那は金官伽耶単体を指すもので
あり、『日本書紀』の任那の用法は任那加羅(金官伽耶)を指すと同時に
任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指す特異な用法。
権珠賢(朝鮮史)…日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料におけ
る任那と加耶の全用例を精査。任那は特定の小国の呼称ではなく、百済に
も新羅にも属さなかった諸小国の呼称であり、任那の範囲と加耶の範囲は
一致しない、また、任那という呼称は倭国と高句麗による他称であるとす
る。
668 :
世界@名無史さん:2009/06/07(日) 23:16:21 0
>>663 報告書ないって・・・どれだけ闇に葬られたのかorz
>>642 居留地、なるほどそういう考え方もありますよね。
耽羅には栄山江流域と同じく砲弾型の甕棺が埋納された首長墓が
見つかっているそうで、両者に通底する基層はありそうです。
>>653 >前方後円墳の現時点での出土位置をみると、地形も関係しているようですが、
>武珍州含む付近の東と南の方面は栄山江流域勢力のコントロール下に
>置かれていないと推測されます
不思議なことに武珍州というか光州の中心部一帯には前方後円墳を含め、
古墳が見つかっていないようですね。このあたりは栄山江の東岸だから
いかにも遺跡がありそうなのに。少し離れてるけど、光州郊外の月桂洞
古墳(1号、2号)をこの地の首長墓と見るべきか…
末松保和、田中俊明の両氏は「任那四県」の哆唎(たり)を栄山江東岸に
比定していますよね。市街地ゆえに発見されていないだけなんでしょうか。
栄山江の豪族たちが高句麗に圧迫されて南下してきた百済を牽制するため
当時既に貿易商人として移住してきていた倭人や倭系韓人にわざと倭の前方後円墳を
作らせて倭の勢力が裏についていることを百済にアピールしてたんじゃあるまいか。
だから有力豪族が住んでる地域では前方後円墳が発掘されず、
倭系の人々が移住していたと思われる空白地帯に前方後円墳が作られたのでは?
また、百済の武寧王陵より大きい前方後円墳が作られていることから、
百済の勢力下にある者がこれらを作ったとは考えられない。
百済と敵対していた栄山江の豪族が急造したとするのが素直。
百済の南下してきた時期だけに作られてるし。
さらに、日本書紀の任那四県の割譲の話と符合してるといえなくもない。
つまり、栄山江地域は百済にも新羅にも属しておらず、独立勢力だったが
そのために安全保障として倭を後ろ盾としていたに違いない。しかし、倭は
百済のほうが大切だったので栄山江と手を切ったんだろう。
ところでこの番組見逃したけど、NHKオンデマンドで見れたよ。
315円の有料だけど見る価値はある。オススメ。
672 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 10:09:40 0
教科書から、「任那」が消え、カヤが表記される理由がわからない。
673 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 10:10:35 0
古代史のシナの文献にも日本書紀にも、そう書いてあるだろが。
674 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 10:30:12 0
前方後円墳について、NHKで紹介された4説のテキトーなまとめ。
(1)百済が在地の豪族に造らせた。《忠南大学・禹在柄副教授》
百済が栄山江流域を支配した後、弔問に訪れた高句麗の使節に対し
背後に倭がいることを訴えるため一時的に採用した百済の地方首長の古墳。
(2)栄山江流域の在地豪族が造った。《宮崎大学・柳沢一男教授》
栄山江流域の在地豪族が百済からの圧力を牽制するため、交流のあった北部九州の
前方後円墳をビジュアル的に採用。
(3)栄山江流域に移住した倭人が造った。《徳島大学・東潮教授》
北部九州の前方後円墳と多くの共通点。北部九州の倭人が前方後円墳を造った。
栄山江流域は、倭が512年に百済に割譲した任那四県にあたる。
(4)百済に協力した倭人が造った。《慶北大学・朴天秀教授》
百済の南方攻略に連動して、百済が派遣した倭人が在地勢力が少ない地域に造ったもの。
あとはスタジオにて、
《東洋大学・森公章教授》
ヤマト王権の前方後円墳や百済の武寧王陵との規模の比較から百済の支配下にあるか疑問。
埋葬者は在地首長あるいは在地化しつつある倭人。
《高麗大学・金鉉球教授》
百済の地方長官として働いていた倭系の人たちと関連がある墓。百済の支配下の地域だが、
倭から百済に入る通り道なので倭系の墓が自然発生。栄山江流域は任那四県ではない。
>>671 そんなもの金払ってのが分からない。どうせそのうち再放送されるだろうから。
もっともとくに第一回は放送事故として二度と放送されない可能性があるが。
>>第4代脱解(だっかい)尼師今(にしきん)在位年数24年
この尼師今(にしきん)とは(錦ニシキ)の事で「錦の御旗の(錦)」。
皇軍を率いる征夷大将軍の印、先導者の事。
さすがにそれはないわ
あんまキムチみたいなこと言うなよ恥ずかしい
678 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 18:51:29 O
日本は悪い見本があるから冷静になれるな。
679 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:07:00 0
>>674 徳島大学の東潮教授の説がいちばん自然に思えるな。豪族の墓であることを考えると、
(1)・(2)はあまりにも作為的すぎるし、墓は同時に子孫のためのものであることを考え
ると政治的解釈にすぎるように思う。(4)は、あの流域に13基集まっていることの説明
がつかないし、(1)(4)ともに百済王墓よりも規模的に大きいことも説明できない。(3)を
基本として、可能性としては(2)もありえたってあたりが妥当じゃないかな。別に日本人
学者の肩をもつわけではないが。
>>676これの事か→→ 稲飯命(イナヒのミコト)は新羅王
『新撰姓氏録』右京皇別下新良貴条は、「是出於新良国 即為国主 稲飯命出於新羅国王者」
とあり稲飯命は新羅王の祖であるとする説を載せている(朝鮮の歴史書『三国史記』新羅本紀
・脱解尼師今紀では、「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」とあり新羅の4代目の
王にして昔氏王統の初代である脱解尼師今は倭国の東北千里にある本多婆那國の出であると
されており、関連性が見られる。
681 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 02:03:03 0
付与系:高句麗→百済王族→倭王族
韓系:新羅・百済
北九州の豪族→朝鮮半島に進出→のちに朝鮮を統一
684 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 10:18:51 O
官僚って言葉をもってきてるあたりに、作為的な物を感じる。
貴族、豪族ではない。あくまで官吏、卒。朝鮮南部で倭人がいても、大勢力ではない。
そういいたいのだけど、王朝に仕えてる人、貴族、豪族も下っ端役人含めて官僚ですって言い訳もできる。
685 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 10:37:37 0
そもそも6世紀代の時点でそれほど官僚制が整備されているとは思えないね。
686 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 11:16:05 0
官吏の「吏」と官僚の「僚」は同じ意味で、官に雇われる役人のこと
>>678 冷静にならなくていいからちゃんと反論してください
688 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 19:12:14 0
NHKのETV特集見たけど
朝鮮の国だったのね
箸墓古墳が卑弥呼の墓であることがほぼ確定的となったことによって、
1.邪馬台国が直接ヤマト朝廷の母胎となり、対外的に倭国を代表したこと。
2.三世紀中葉において日本列島を覆う国家連合、宗教同盟が形成されており、政治組織
の成熟は朝鮮半島諸国家より進んでいたこと。
3.日本列島初の王都はマキムクであること。
4.宗女壱与が女王となったことから、女系による王位継承が認められていたこと。
5.騎馬民族説は完全に破綻したこと。
などが言えるのではないだろうか。
________. | ・・・読めないニダ
||| | \____ __
||| | )\ ∨
|||
>>689. <⌒ヽ ヽ
||| \ ( ´ー`) ∧∧
|||_________V( 丿V^ ●∀´>
|,,| |,,| ヽ ( と ,)
ノ ) | |〜
.し`J,,.
>>689 そうすると、なぜ男系にこだわるようになったんだろう。
大王一族以外の社会はその後も両系で続いて、現代に
至るけど。
騎馬民族とかいうんは電波近いものなんで止めてほしい。
取り上げる価値すらないから。
たとえ否定の文だとしても。
倭人官僚も一緒ね。
693 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 05:59:39 0
縄文文明は日本海沿岸全域で活動してたから
古代は同じ文化圏だよ
朝鮮半島にはその後中原の支配下になったけど
南端に先住民がしつこく残っただけw
東アジアの民族は大元はだいたい同じだから、大陸育ちと島国育ちが居るだけで
694 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 06:13:07 O
七王国=三韓
デーンロー=倭
イングランド=新羅
っていう例え話はどうだろう。
695 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 06:14:57 0
>箸墓古墳が卑弥呼の墓であることがほぼ確定的となったことによって
そういう法律でもできたのか?
日本人が船に乗って日本列島までやってきたとき対馬まで行って
そこから先に進むのをやめたと考えるのは不自然。
当然その先、つまり半島南端まで達したはず。
そのとき大陸から南下していた人々がすでに半島南端まで達していたか。
半島南端まで達していたとしてその地域が南下民族(韓人)の完全な支配下にあったかどうか。
おそらくは完全には南端まで達していなかったため、半島南端は
南下した人々と北上した人々の雑居地域化していたのではないだろうか。
あるいは沿岸部あたりは船を巧みに操る北上民族(倭人)の居住地となっていた。
NHK見た?
ちゃんと韓国南部で抜歯された倭人と思われる人骨が発掘されてるし
倭の土器もいくつか発掘されてる。交易があった証拠。
古墳時代には前方後円墳もある。
しかし、韓国南部の住人の主体はあくまで韓人であって、倭人は少数。
商人や移住者としていたんだろうな。
古代は韓人というのは倭人の俗称だったはずだが
699 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 11:18:32 0
>>691 特亜とわたりあっていくには、女系継承は不利だったのかもしれんね。
どっちにしろ畿内説の方が今のところ有力だな。景初年間の銅鏡が畿内で出てるしな。
701 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 13:04:54 0
まあ倭人は使われていた身分だったんだろう
>>700 任那畿内説というのは初めて聞いた
kwsk
百済を信じて割譲したのは間違いだったのか
だが五行博士を呼んだメリットは大きいはず
704 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 13:14:04 0
ETV特集は面白かったな
倭人より半島の人間が以下に優れていたかがわかった
706 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 13:35:20 0
>>701 倭国に人質として差し出されていた王子が百済王になったことを考えると、
ちょうど、近代における「韓国統監府」の日本人官僚みたいなものだった
かもしれんな。
百済王子と言っても倭系だったから、倭王は身内意識で任那四県を割譲し
てしまったのかもしれん。それが現地の倭系住民の頭越しにおこなわれた
のなら、継体に対する不満が出てきて無理はないな。
707 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 13:43:03 0
>>705 いいかげん邪馬台国がヤマト国だってのに気づけ
もうちょっと粘って半島の領土維持してりゃ、記録や遺物ももっと残っていたろうに。
おしいのう
>>697 交易じゃなくて定住と考えろ。交易というと長崎の出島のようなイメージが湧くが、
そんな一時定住程度では前方後円墳など造るわけがない。
710 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 15:16:16 O
711 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 16:03:07 0
可能性として特殊な例を出すことも大切ですよね。
韓人豪族が倭の古墳の様式を模範した可能性は?
>>706 百済王家は扶余系ではないのですか?
======[ 文 明 の 滅 亡 と 環 境 カ タ ス ト ロ フ ィ ]======
安田喜憲(国際日本文化研究センター教授/環境考古学)
http://www.kit-rg.jp/rep2005/rep2.html ・・・・ 過去の気候変動や災害の歴史を研究していくと、気候変動は緩やかな波動で変化
するのではなく、きわめて破断的に変動してきたということがわかってきた・・・・
・・・・ このグラフは過去12万年の気温変動を示したものですが、それこそ5年、10年の単位
で激しく上下している。 それが当たり前なんだということがわかったわけです。・・・・
・・・・ グラフの左、1万年前以降を見ると、振れ幅が小さくなっています。
気温変動の振幅が小さいためにわれわれは文明を発展させることができたんです。
・・・・ 温暖化の影響をもっとも受けるのはわれわれが住むモンスーンアジア・・・
1万5千年前もまず日本列島から長江流域にかけての生態系が劇的に変化し、
われわれは新しいライフスタイルを打ち立てる必要に迫られました。
それが土器革命です。 日本の縄文土器がそれです。
このエリアではヨーロッパなどと比較して約500年も早く温暖化現象が起きたことが
わかっています(*3)。
・・・・ 例えば4200年前に激しい寒冷化が起きています。
この時にメソポタミア文明や私たちが研究している長江文明といった古代文明が
干魃にやられて崩壊したわけです。
そして当時、東アジアではこの気候変動を受けて大民族移動があったんです。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
それは北方に住んでいた畑作牧畜民が大挙して南下してきたんですが、それに
押し出される形で海岸に住んでいた人々がボートピープルとなって、日本に稲作漁労
をもたらすわけです(*4)。
714 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 18:12:47 0
>>713 >海岸に住んでいた人々がボートピープルとなって、
これだけだとあまりにアンビバレントすぎるなぁ
こいつが言ってるのどこの海岸だよ?
朝鮮半島か?それとも中国の江南地方か?
715 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 20:59:32 0
>>689 >4.宗女壱与が女王となったことから、女系による王位継承が認められていたこと
女子から女子に継承しても女系とは限らないよ
宗女と記されているから男系女子じゃないのかな?
斎宮は皇統の男系女子が継承してるし
716 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 21:02:59 0
>>712 百済王家そのものの出自は扶余系(←これも実は高句麗と対抗するための政治的
主張であり、本当のところはわからないが)だとしても、
1.日本生まれ、倭国の宮廷育ち
2.父は倭国に人質に出ていた
3.母語も倭語(日本語)
4.墓誌にも「志麻王」を名乗り、継体天皇にも人物画像鏡を贈呈している
5.倭軍の護衛によって辛うじて百済に帰還し、その武力を背景に即位した
となれば、武寧王を「倭系の王」と称しても何の問題もあるまい。これくらい倭
と親しい間柄であれば、継体も同族意識をもって任那四県の割譲を決めたのでは
ないか。
4世紀代の百済王(初代とみなされていた仇首王)は、おそらく高句麗の将軍で
帯方攻略の際、その地を基盤に独立したのであろう。だからこそ、高句麗長寿王
は「旧これ属民」と主張しているであろう。その高句麗が、満州の北扶余を侵掠
したときに、民衆宥和と侵掠正当化のために扶余系を名乗ったから、百済も扶余
系を名乗らざるを得なかった。そのあたりが妥当な推量と思える。扶余が高句麗、
百済と次々に征服したなどというのは、根拠のまったくない妄想であり、空想に
したって整合性がない。
>>715 「宗女」をどう捉えるかで、また解釈も違いますわねぇ。
前の男系王の子孫なのか、単に卑弥呼の親族と言う
意味なのか。ただ、前後の文脈から考えると、前者は
少し無理かな…。もっとも、卑弥呼の親族だからと言って、
女系とも限りませんが。
>>716 倭系というのは倭人の血統が入ってないと言わないよ。
1〜5だけでは倭出身としか言えない。
単語は正確に。
719 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 21:39:22 0
>>718 倭人系とは言ってない。そもそも武寧王は傍系なんだし、倭王の力によって
即位できたわけだから、他の系統と識別して倭系と称するのは何ら問題がな
い。
>>709 ずっと前から定住していたならなぜ特定の一時期だけ前方後円墳が急に作られ、
それ以後作られなくなったのか?
>>719 たとえば、日系というとき、それは日本人の血が入ってる外国所属の人のことだろ。
倭系という言葉を使うなら、同じように、倭人の血が入ってる百済所属の人になるはず。
なのにあなたは倭系という言葉を倭出身、親倭、という意味で使っている。
不正確な使い方では?
722 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 22:09:02 O
>>721 国境や風俗があやふやなで、国民といったものが存在しない古代なら
出身をして倭系といってもさしつかえないのでは
しかし、この場合百済王族であることは明らかだからね。
それは武寧王にはあてはまらない。
>>722 系って言葉は残念ながら、今も昔も血筋を言います。
現在の勧告の大統領イ・ミョンバクも大阪出身だが日系とは言わないわな。
在日韓国人も日系とは呼ばないし。
まぁ、百済王家が何人か倭に人質出してて、倭が百済に人質を出してないことからすれば
百済のほうが倭に助けを求めていた形と考えられるが、そんな百済のしかも武寧王が
栄山江流域に南下して勢力圏においたことをどう考える?
おそらく栄山江流域こそ日本書紀にいう割譲された任那4県だと思うんだが。
これは従属国が宗主国にすることではないよね?
727 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 23:25:33 0
武寧王の子孫のうちの一部は日本に帰化して和氏を名乗り、その一族から高野新笠が
出るから「和系」だったらよいのかもな。
状況的には、それが最も無理のない推論だと思うね。
>>727 そりゃ逆では?
日系ブラジル人が日本人の血を引くブラジル所属の人という意味だから
倭に帰化した以上倭に所属することになったので、武寧王の子孫は百済系倭人となる。
>>729 その時代に土着した外国人について、帰化という言葉を使うなって
いう変な主張をする人たちがいてね…。
731 :
世界@名無史さん:2009/06/11(木) 11:21:35 0
それを言い換えて「渡来人」と言うんだが、これには「日本人となって定住する」という意味合いが乏しくて・・・
渡来人という単語も戦後左翼が押し付けたものという話を聞いたことがあるが、
戦前はどういう表現をしていてなぜ戦後渡来人というようになったのか?
>>732 上田正昭はとくに左翼というわけではなかったように思うんだがね
かといって右翼でもない
まあ中道的なかんじ
帰化人という言葉にイデオロギー臭を感じたから渡来人にした
昔なら「天つ神」と呼んでいた神々が帰化人・渡来人のことだろう
なら天つ神はもっと左翼的だな
戦後の一時期は「日中関係」という表記すら反動的とされて
「中日」「ソ日」と書くのが中立的だとされていたからな。
記紀の上代の記述は全否定するのに天孫氏が大陸系と主張してみたり。
735 :
世界@名無史さん:2009/06/11(木) 18:56:33 0
>>733 高天原から天降ったのが「天つ神」なのであって、帰化人は人間ではあっても
神々の系譜にはつながらないと考えていたのだよ。いいかげんなことは言うも
のではない。
>>732>>733 別に渡来人も間違いではないけどね。土着するつもり
だったか、一時的な亡命のつもりだったかは知りようも
ないし。ただ、歴史的な経過だけ見れば、帰化人に軍配が
上がりそう。
帰化したら倭人
「帰化」は華夷主義ないし中華主義が前提になっている語だから
単なる海外からの移住とか土着とは違う。
帰化の申請を受けたら、どのような者であっても、その王は
保護を与え、移住先や生業を確保してやらないといけない。
そういう内実が伴ってくるのは、やはり律令施行以降に限定される。
740 :
世界@名無史さん:2009/06/11(木) 23:00:16 0
>>736 高天原=江南(古い時代)、朝鮮半島(その後の時代)
741 :
世界@名無史さん:2009/06/11(木) 23:52:33 0
根拠は?
漢の時代にも、匈奴との国境近くの城で匈奴とか異民族を漢民族に「帰化」させていた
と聞いたことがあるが、これと同じように考えれば、百済からの亡命者が大和朝廷から
百済王(くだらのこきし)とか新しい氏をもらったことは「帰化」と言えると思うのだが。
743 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 04:53:49 O
言えるどころか、その場合「帰化」こそが正確な表現でしょ。
「渡来」という表現だと、理由も目的もなく、渡り鳥のようにただ渡って来たとい
う意味に転落してしまうよね。多くの場合、倭王のもとで活躍するため、あるいは
朝鮮半島での争乱を避けるためにやって来たのだから、「帰化」の方がむしろ適切
であろうと思う。
>>729 「百済」という種族はおらず、種族としては「貊族」ないし「韓族」なわけだ。
百済は多民族国家なわけだから、血統主義の用法だと「百済系」という言葉は、
ちょっと矛盾だね。「百済出身」ということになるんでは?
>>692 騎馬民族説というのは、今となってはトンデモ説になってしまったけど、データの
ろくにそろっていない60年前では仕方がないのでは? 仮説の検証には失敗した
ものの、仮説を提唱する行為そのものには意味があるんでないの?
>>740 高天原が天界だなんてあるわけないしな
現実的に見たらこれは大陸のことだろうな
748 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 07:31:29 0
>>747 自作自演乙。現実的にみれば大陸は大陸だろw
知恵者のスクナビコナは常世から来て常世へ帰ったというが、
地理的に見て常世は明らかに朝鮮半島であろうが、あるいは江南?
いや江南は地理的に考えにくい
常世はやはり朝鮮半島と考えるのが最も自然
>>747 大陸と言う概念がなかったからな
高天原を朝鮮半島に同定すれば全ての疑問が解決する
751 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 07:34:41 0
神々の国=韓半島
高天原はいわゆる弁韓と辰韓の総称と見て間違いなかろう
753 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 07:46:42 0
考古学の成果から言うと、卑弥呼の連合政権で最も中核となったのは吉備の勢力のようだね。
754 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 08:28:18 0
高天原が実在していれば、方向や距離、
その他いろいろ具体的な実像が少しは伝わっているでしょう。
高天原である事を少しは裏付けられる出土物を上げてから議論しましょうね。
755 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 09:50:39 0
歴史のない国では、神話のトンデモ解釈が歴史の代用になるんでしょうなw
『魏志』全体のなかでも「共立」という用語は、王位が正統に受け継がれなかった
場合にのみ限定されて使用されているという。『魏志』における卑弥呼の記述は、
もはや、一部族的国家が権威と力で他を征するというような状況にはなかったこと
をあらわしている。この倭国大乱の状況を打破すべく、筑紫、吉備、播磨、讃岐、
あるいは出雲、近畿勢力のどこか一つではなく、これらの国々の総意のもとに、ま
ったく新しい倭国として、その権力の中枢がヤマトに建設されたのであろう。それ
が邪馬台国と考えられる。3世紀前半の宮都マキムクの都市規模はすでに1キロ四
方、巨大な運河をともない、3世紀後半には1.5キロ四方にもおよぶ。それは弥生
時代の巨大遺跡、唐古・鍵遺跡の6倍、藤原宮や平城宮の規模に匹敵する。実在の
うたがわしい神武から9代の天皇を除けば、文献的にも、初期の都宮はマキムクに
集中する。ヤマトモモソヒメを大市の箸墓に葬った、とされる大市は、文字通り、
大きな市場だったのではないか。
>>745 扶余系倭人というほうがいいかもね。
>>740>>747>>750 高天原という単語を使ってる日本書紀が朝鮮半島のことを百済とか新羅とか任那とか
言ってるんだから、別物と考えるのが筋だろうよ。
おそらく、天皇家が他の倭人と違って天から支配権を認められた特別な存在とする必要があったから
高天原という架空のものを作ったんだろうよ。現実世界に存在を求めるべきものではない。
ただのフィクション。
モンゴル人や中国人が天から支配権を認められたと言うとき、その天がどこにあるか考えるか?
ただのフィクションだよ。現実に存在するものではない。
高天ヶ原は明らかに神の聖性を高めるため仮定したものだから、
地上にはないとおもうよ。
759 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 00:46:54 0
天照が君臨し、スサノオが追放され、神武が出立したのが高天原
彼らに実在のモデルがあるとすれば高天原は地上に実在したことになるし
彼らが当時の天才ファンタジー小説家による創作なら高天原など存在しないことになるだろう
神話なんぞどうでもいい。
朝鮮南部に確かにあった日本型古墳の存在。
高句麗と倭の覇権争い
百済と新羅の伸張。倭の後退。
南朝との関係。北朝に広まった仏教と新制度。それに対応する諸国家の動静。
歴史事実がいっぱいあるのだから、それらについて語り合わない?
761 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 04:36:09 0
半島南部には倭人が住んでいた
そいうことじゃね?
762 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:18:38 0
>>760 だから高天原は大陸なんだって。
カミムスヒの息子がスクナヒコで彼は西の海のかなたから船に乗ってきたと記紀にはっきり書いてある。
すなわち古代韓国から来た。
763 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:20:55 0
キチガイ極右にとってはどうしても認めたくない事実 → 高天原・常世=中国大陸・朝鮮半島
キョクウはものすごい屁理屈で否定するwww
俺のような中道右派は高天原が大陸であることは自然に受け入れられる事実
764 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:24:20 0
>>759 >神武が出立したのが高天原
日向って書いてあるだろうが。
>>762 夜須川がある九州では?
765 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:30:11 0
神話は神話。
どこにもない場所。
天国と解釈していいんじゃないのか?
なんで、どこかに比定する必要が?
なんだかファンタジーと事実とをごっちゃにしている人がいるようだけど、
神話の考察は考察であるのかもしれないが、
ここは、多くの遺跡、文献などから、整合性のある、
半島南部に確かにあった歴史・人の営み、
半島南部と諸国家との関わりの歴史・事実を考察するとこだからね。
まだ、倭人官僚とか言い出す方が学問に近いよ。
767 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:33:23 0
神話は事実の出来事を象徴化したもの
それぞれの神はそれぞれ集団である場合が多い
高天原が大陸であることがもっとも自然な結論
ニニギは大陸(カラクニ)から来て日向に落ち着いたことは100%間違いない
何を否定しても無駄
ここはまず認めないと日本古代史学の狂気はおさまりそうもない
768 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:34:37 0
スサノオはまちがいなく半島人(のある集団、あるいはその頭領)
とにかく高天原=大陸の事実を無理やり否定するような極右的バイアスはやめようぜ
それはもはや学問ではない
>>760 そのあたりを諸史料、考古学的知見に基づいて語れる人間は
このスレにはおそらく3、4人くらいしかいない。
だから、語れない奴は適当にかじった神話の断片でこじつけよう
とするんだな。それに乗っかってる奴もいるが。
771 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:41:09 0
この板にもIDが欲しい
772 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:41:38 0
>>770 屁理屈ご苦労
実際は黒であるものを白といいくるめる作業は到底学問とはいえない
君らの主張は理解したからよそでやれ。
初心者の質問ってとこがあるから、そこで日本神話について考察するスレはどこにあるかきいてきな
774 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:48:31 0
>>768 >スサノオはまちがいなく半島人(のある集団、あるいはその頭領)
その「間違いなく」という言葉の根拠は?
信頼できる史料もしくは疑う余地のない証拠はあるの?
>>774 記紀だね。
記紀と矛盾する事実が一切ないということは、科学的にはそれが正しいということに他ならない。
776 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:51:57 0
>>769 >とにかく
の事実を無理やり否定するような極右的バイアスはやめようぜ
>それはもはや学問ではない
では、学問的に問うが、「高天原=大陸」説が正しいという検証はなされたのか。
否定はともかく定説となったという確認が取れないものを「事実」と強弁している
のであれば、「それはもはや学問ではない」。
777 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:52:49 0
>>776 検証した人々を左翼ときめつけてバッシングして身の危険さえ感じさせるような日本の古代史学は狂気そのものだろうが
778 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:53:22 0
>>776 おまえの態度のほうが「もはや学問ではない」
779 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:54:00 0
>>775 >矛盾する事実が一切ないということは、科学的にはそれが正しいということに他ならない。
それは科学とは言えない。記紀が正しいという根拠をまず提示するのが科学ではないか。
780 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:54:53 0
>>779 いいえ科学です
矛盾する点がないということはそれを認める以外にないということです
あなたの態度は恥そのものだ!
学問する資格はないね
781 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:55:38 0
>>778 「おまえ」と呼ぶような者に学問を語る資格があるのか疑問。
一方的な断定に疑問を呈すると、自分の主張が全否定されたと思い込んで必死で反論する態度は、
学問的でも科学的でもない。
反論などしていないのだが。w
782 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:56:06 0
所詮はキョクウ思想による確証バイアスがかかっているから大陸説が感情的に受け入れられない、それだけ
こいつらは精神がチョンなんです
783 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:56:48 0
>>781 反吐が出る
おまえは2chで暴れるだけにしておきなさい
紀要なんかに書くなよ
784 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:56:59 0
>>780 では、記紀に書いてあればつねに正しいのだね?
そうであれば、貴兄は学問ではなく信仰を論じているらしい。
失礼した。
神学論争であれば小生には関与できない。
785 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:57:58 0
>>783 貴殿が自分のキーボードになにを吐こうと自由。
「紀要」など知らないので答えようがない。w
786 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:59:19 0
>>784 まず自分がされるような批判(「信仰」「神学論争」)を相手に投げつけて、さも相手がその批判の対象であるかのように見せかける
定番のレトリックですな、信者君
おまえのようなキョクウを実際の学問の世界から排除し2chに隔離こと、これが正しい
787 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:59:42 0
788 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 09:01:29 0
紀要を知らない?
789 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 09:02:19 0
>>785 え?紀要を知らないって、どういう意味?
790 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 09:02:52 0
首長居館のランクと首長の階級性を次のようにまとめることができる。
規模 隔絶性 濠 葺石 突出部 内部区画 祭祀 手工業 前方後円墳
Aランク 大形 ◎ ◎ ○ ○ ◎ ◎ ◎ 150メートル前後
Bランク 中形 ○ ○ △ △ ○ ○ △ 120メートル前後
Cランク 小形 △ △ × × △ △ × 100メートル以下
Dランク 極小形 △ △ × × × × × 50メートル以下
Aランクが中央豪族(王)、Bランクは地方豪族(王)、Cランクが大共同体の長(オウ)、Dランクが小共同体首長。
これでいくと、栄山江流域の前方後円墳はCランクに相当する。倭人社会では大共同体の首長ということになりそうだ。
>>790 同じ地方では社会的階級の違いになるだろうが、
地方が違うとかき集められる人員の数も含めてその地方ごとの経済的事情にもよるのでは?
だからそれだけでは最後の行のようなことは言えない
792 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 09:15:18 0
>>791 確かに、これは国内での調査例・分布例をまとめたものだ。4世紀代では、このランク
はかなり歴然としていたものらしい。また、このうえに「特A」ランクに相当する大王墓
があるということだ。しかし、この大きさが序列として意識されていたとするなら、「本
土でいえば県主(あがたぬし)のレベル」くらいの主張が、墓にこめられていたんじゃ
ないだろうか。首長居館が見つかれば、もっと様々なことがわかるんだろうけれど。
政治的な違いも経済の違いにつながる
大和では一帯を政治的に統一する過程が進んだためそれだけ資源が集中できる
大古墳の多い毛野でもそうだ
ただし伽耶などではそういう統一が大規模には行われなかった
1.弥生文化の人の概念では「日本と朝鮮半島」の二元論じゃなかったこと
2.古い時代に伽耶が先進地域で、後に先進文化が日本列島側にシフトしたということ
と考えれば、すべてうまくつながる
毛野も不思議な地名だな。
毛深い人が住んでいた説、毛が穀物を意味する説、いろいろあるが、
実は絹国なんじゃないの?
実際に栃木や群馬では養蚕が盛んだった。
毛野国は大和を介さず独自に大陸と交易していたというが、ならば
古い時代に大陸から人と共に絹製造の技術が入ってきたんじゃないか?
BS2 13:30
あなたのアンコール サタデー
[字]ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(2)「“任那日本府”の謎」▽(3:04)[字]ホリデーにっぽん「サヘルとフローラ〜イラン人親子の東京物語〜」
なんか高天原大陸説で煽ってるやつがいて笑ったw
>>790 そのCランクでさえ、武寧王陵より大きいのか。
朝鮮では臣下のものが王墓より大きくすることが許された?
それとも栄山江の埋葬者は百済に属してなかった?
>>795 栃木や群馬の養蚕は江戸時代のイメージが強いが・・・
あそこらへんは高麗群だっけ?朝鮮からの亡命者が移住してから技術が移転したと考えるほうが妥当のようなきがする。
799 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 10:34:41 0
毛野国はすでに紀元前から養蚕をやってる
大和がやってくるまであそこが大陸と独自に貿易を行う豊かな大国であったのはそのため
絹は毛野国の主要輸出品
>>799 いまでもトツグの田舎者はキをケと発音してケをキと発音するからな
802 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 10:42:41 0
馬=マァ=むま=うま
梅=メイ=むめ=うめ
絹=?=ケン=けぬ=きぬ
ということで、元来は中国語かもしれん。
そこで江南説ですよ
804 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 10:51:26 0
>>790 >>797 でかさの重要性ってどの程度なんだろうね。
武寧王陵は小さいけど内部は驚くほど精密で水準が高かったよ。
805 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 10:53:36 0
駒や牧のように古代語では馬は「マ」が基本で二音節に引き延ばして「ムマ」「ウマ」
ということらしいが、朝鮮語ではmal、満州語ではmor、蒙古語ではmorinと、いずれも
l音またはr音がある。日本語の「マ」にはlまたはr音がない。これは、中国語のmaから
来たものと考えられる。日本列島に騎馬文化を持ち込んだのは、おそらく楽浪郡あたり
の漢人だったのだろう。
>>804 少なくとも倭の領域では、規模は重視されていたものと考えられるから、栄山江流域は
百済に服属していなかったとみるのが妥当なんじゃあるまいか。
807 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 10:57:14 O
>>768 スサノオが半島人だなんてどこにも書いてないだろ。
高天原から新羅に降りて「こんなところにいたくない」と言って帰ってきたってだけで。
6世紀中葉に砂鉄による製鉄が日本列島でおこなわれるようになったのが、半島政策の
転機となったのではないだろうか。砂鉄が素材鉄として活用されるようになると、何が
何でも洛東江流域に進出しなければならないという動機は薄くなる。むしろ、砂鉄が素
材鉄として活用されるのならば、山岳地帯と海岸とのあいだが狭小な日本列島は、一転、
鉄資源に恵まれた地域になるのだから。ただし、4世紀から5世紀にかけての武力進出
や交易によって、半島南部のあちらこちらに倭人の居留地・駐屯地ができあがっていた。
そこで、倭の王権としては居留民や駐屯兵の保護に乗り出す必要が生じたが、それは、
ヤマト王権としては、もはや死活的問題ではなくなっていた。そこで、北九州の勢力を
用いるという間接的な手法を採用した。そのため、ヤマト王権への帰順が遅れ、倭国内
での地位が相対的に低いシナノなどの新興勢力が半島進出に活路を見いだした。
…という推論はいかがだろうか?
古代の養蚕は華北、朝鮮と
華南、日本は別の種類の蚕だったらしい
とどこかで書いてる人がいた
脱皮する回数が違うので糸の種類が違うのだとか
810 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 12:53:32 0
今日の13時30分からBS2で、
ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(2)「“任那日本府”の謎」の再放送があるよー。
先月末の放送を見損ねた人は、どうぞ。
811 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 13:33:01 0
いきなり韓流ドラマとか言ってるw
キチガイ番組だろ?
確かに江南の緑豊かなクリークの風景などをみると、「日本の風景」と称しても
違和感がないね。それにくらべりゃ、華北や満州、朝鮮は別世界だ。
鉄、鉄ってうぜえな。w
武器として役に立つが、当時はそれ以上の物ではないだろ?
814 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 14:01:53 0
倭の五王を徹底的に無視してるなw
この頃はそこそこ仲が良かったのに今は・・・
816 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 14:37:22 0
鉄を精製するのは技術がいるが、鉄を産出するからって必ずしも先進国とは限らんな
ヒント:ヒッタイト
ヒッタイトは元々アッシリアの植民地
817 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 15:08:32 0
結局、任那日本府はあったんじゃん。
なんで、教科書から削ったんだよ。
歴史歪曲だろ!!
もう一度番組を視たんだが、キム教授は何だか確信犯的にウソをついている
ように思った。『三国史記』を引用しておいて、あとになって「中国の史書
では…」などと言っている。「政治的な理由によるものではなく、自然発生
したのだ」とか。。。歴史学は人為を扱う学問だから「自然発生」なんてあ
りえんw
819 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 15:37:30 0
番組をいくら見ても、任那日本府を教科書から記述した理由が分かりませんでした。
韓国の圧力で削ったということが結論でしょうか?
番組をいくら見ても、任那日本府を教科書から削除した理由が分かりませんでした。
韓国の圧力で削ったということが結論でしょうか?
821 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 15:46:59 0
>>819 日本府の性格がはっきりしていないから削除したということじゃないかな?
韓国からの政治的圧力があったかどうかはよくわからんが、日本府が歴史教
科書から消えたのは随分前の話だよ。以前の韓国歴史学会は、頭から「任那
日本府はなかった」の一点張りだった。日本人学者がそれに配慮したという
ことはあったんだろう。
しかし、「的臣」「吉備臣」など中央・地方の豪族が参加したんだから、統治
機関でないにせよ、倭の王権がまったく無関係だったというふうには思えない。
やっぱり、NHKの編集方針は問題アリだね。
822 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 15:47:05 0
任那なんてなかったんだよ。
任那日本府があったということは、韓国の学者も認めるようになったわけだ。
824 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 15:50:25 0
関係ないが、横断歩道で店広げる韓国のおばちゃんにビックリした。
825 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 18:36:49 0
任那日本府はともかく、百済・新羅が倭に人質を送ってたことまではきちんと教科書に書いて欲しい
>>820 沖縄の集団自殺に軍の命令などなかったという事実はすでに資料で
裏付けられているのに、声がでかい左翼に「配慮して」いまだ教科書に
載り続けているし、マスコミはあたかも軍の命令が事実であったかのような
報道を続けている。
このように堂々と事実が歪曲され洗脳が続けられている例は枚挙に暇がない。
827 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 19:22:18 0
「軍の命令があった証拠が無い」と「軍の命令は無かった」は全く別モノな
別に、軍が関与してないんだから、集団自殺は教科書に
書かなくてもいいし、日本が正しかったとはならないけどね。
左も右もそういうごまかしをする。
教科書とか集団自決の話をしたければ該当のスレへ
830 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 21:31:03 0
テレビの馬鹿どもは団塊とともに滅びるだろ
朝鮮史研究というのは、戦前は国史の一部として発達したという経緯があるからね。本来ならば
東洋史の一環として中国史との深い連関で研究されなくてはいけない。ところが、朝鮮半島が日
本帝国から離脱したために、朝鮮は一時歴史研究における空白地帯になった。戦後、朝鮮史研究
は急速に衰微してしまったわけだ。いっぽう、独立した韓国・北朝鮮はそれまでほとんど興味を
はらってこなかった「自民族の歴史」をあらためて書かなくてはならない羽目に陥った。新しい
民族のアンデンティティを求めるあまり、中国に対しては半島が受けた影響はまったく無視し、日
本に対しては半島があたえた影響を、それこそ捏造してまで強調するという病的なナショナリズム
史観が猛威をふるった。日本では戦後、朝鮮史研究に無関心になってしまったために、このような
半島人の民族主義的な主張を無批判に受け売りすることが流行してしまったわけだ。
確かにそれは言えるね、リアルタイムだった文革だって礼賛した学者やマスコミが沢山いた訳だし、ましてや、古代史なんて相手の言いなりなんじゃない?研究者の人間性を疑う。
祖国の誇りより歴史の真実をとるなんて人間性を疑う
というのが韓国
最初から立っている土俵も考え方も違うのでどうしようもない
韓国の歴史学というのは
天動説みたいなもんか
いや、天動説はありのままに見たものだから、まだましか
ファンタジー(空想、幻想)みたいなもんかな
835 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 08:55:48 O
天動説でいいんでない?
神が世界を作ったという信仰に立てば地球中心に世界は動くべきという考え
上下朝鮮はウリは偉大なりという信仰をもつ宗教国家だろ。
>>834 天動説は16世紀までは、パラダイム的には紛れもない
「科学」だったのですよ…。
>>835 天動説を支持してた人間は、全てが信仰からそれを支持して
いた訳ではありません。天文学的には、天動説の方が当時は
優れてたからです。
天とか、あんなでっかいものが動くと考えるほうがおかしい
とは、コペルニクスの言葉
839 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 09:15:21 0
自分たちが中心という考え方を天動説に例えて揶揄しているのに。
理解できないなんて頭悪いね。
素直にごめん例えが悪かったって言えば良いのに
自分の過ちを認めず相手が悪いとかキムチみたいなこと言うなよ
どうでもいいがおまえらはアンカーつけろ
>>810 BS見れないから、誰かレコしてうpしてー!
日本府ってさ、要するに日本領事館のある日本人街みたいなもんだろ
普通そう考えるわな
別にノルマン・コンクエストのような戦いがあったわけでなし
844 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 10:27:24 0
そんなもんです
845 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 10:29:38 0
横浜中華街について考察するスレ
>>843 未だに「倭館」って地名が残っているくらいだからな。日本人町は半島南部にいくつか存在しただろう。
「倭館」はテーグの近所だが、話題の鉄鉱山門前町のような位置にある。
肝心の半島鉄鉱山遺跡の話は聞かないが。
>別にノルマン・コンクエストのような戦いがあったわけでなし
どう解釈すれば良いのか、ややこしい言い回しすんなよw
朝鮮総督府が朝鮮史研究を禁止したなんていうのは大ウソ。京城帝大では終戦まで
朝鮮史研究は続けられている。総督府も初学者向けに『朝鮮史のしるべ』という小
冊子を出しているが、これは、実に手際よく朝鮮史の要点がまとめられており、非
常に冷静で科学的な叙述がなされている。決して、いわゆる「停滞史観」で書かれ
ているわけではない。韓国の現代国定国史教科書のように、楽浪郡400年について全
く無視しているわけでもない。コンパクトではあるが得ることの多い名著だ。
夢の世界に迷い込んだ住人が朝鮮人なんだよ
彼らの住みやすい世界は夢の中にしかない
850 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 13:49:38 0
お前ら強いな
俺は負けたよ
>>843 中世に東南アジアに日本人が日本人街を作ったが、それと似たようなものと考えれば違和感ないな。
ただ、倭が百済に軍事力を貸してるって点が、任那日本府と東南アジアで違うんだよな。
852 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 14:19:29 O
南朝鮮は倭の勢力圏だった史実に対する立命館大教授の反論趣旨は「日本は信用できない」だからな。
任那日本府の存在を否定している奴らは話が通じないバカだけ。
>>851 今風の言い方で言えば、
百済から任那の日本領事館を通じて同盟国である大和の政府に軍事支援の要請があり、それに応じる形で軍を貸与した
と、いうこと
854 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 16:18:31 0
訂正
百済から任那の日本領事館を通じて同盟国である大和の日本政府に軍事支援の要請があり、それに応じる形で軍を貸与した
だな
日本が1066年のヘイスティングスの戦いのようなことをやって半島南部に上陸し伽耶一帯を制圧して日本府を建てた
ってのも極端すぎる解釈
>>846 倭館は中近世の日本人居留地だよ。任那日本府とは関係ない。
念のため。
>>855 でもねえ、好太王碑文や日本書紀や南朝への上奏文等々
コンクエストを暗示する史料は多いけどね。不明瞭な暗示だから、どうとでも解釈が可能だが。
まずは伽耶に日本人町ができて、外交の必要から領事館が建った
広開土王碑の碑文で日本へ朝貢していたというが、その時点で朝貢していたかわからない
朝貢がはじまったのは建設よりあとの時代、日本人コミュニティーが大きくなってからだと思うが
その後いろいろいざこざがあって、日本から軍隊を送って新羅を属国化する等して解決した
と、二段階で考えたほうがすっきりする
この頃の東アジアの歴史について書いたいい本ない?
九州の官庁 = 太宰府
南部朝鮮の官庁=任那日本府
では?
領事館説はないわ、軍事支援するっつっても後方支援するくらいならまだしも
身内を犠牲にするってことは日本独自の権益が半島にないと説明できんからな
あのへんが日本領でなかったのなら百済は属国、保護国ということだ。
実際属国だと思われてた可能性が高い。
信玄と謙信の戦いを傍観するしかなかった将軍みたいなもんで
中央では任那のいざこざは地方勢力同士の小競り合いという処理をされて
ちょっとやばいなと思いつつ黙殺するしかなかった。
百済は倭王に恭順の意を示しているし、在地勢力とのいざこざという名目なら
他の豪族も似たような口実を使っていたはずだし口をはさめない。
だから中央は任那を取り返すほどの大義名分を用意し
大和連合勢力に軍事出動を発令することができなかった。これが妥当
862 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 20:26:16 0
まったく意味の解らない理屈で反論されてもなあ・・・
もうちょっと日本語上手くなってからにしたほうがいい
自分の願望では歴史は変わらない
もう少し自分の感情をうまく表現できるようになってから書き込もうな
中国の歴史資料を読むと思うけど(特に後漢以前)、辺境の国名や地名は、現地での呼び方を聞いてそれをそのまま当時の発音で漢字に当てはめる例が沢山ある。だとすれば、半島南部は当時、どのように発音され、その由来は何系と言える?
パルティアはなんで安息なんだ?
アルシャクからだろ
常考
>>808 百済官人として突如あらわれた感のある斯那奴(科野)氏だけど、
一方で金刺舎人や他田舎人を称し、欽明や敏達の宮廷に出仕しても
いたんですよね。それにしても、どんなきっかけで百済の宮廷に
仕えることになったのか。そして、斯那奴姓の百済官人はどういう
位置づけにあったのか。倭のエージェント、あるいはその逆か。
また、科野氏は百済と倭の両王権を天秤にかけていたのか。
信濃と百済の取り合わせが少々意外なだけにいろいろ想像させる
ものがあります。
>>813 鉄は武具以外にも農具としての用途も重要です。
欽明が百済に対して麦種一千石を賜っていますが、
背景には鉄製農具による農業生産の向上があったはず。
また鉄製農具は古墳造営にも威力を発揮したことでしょう。
その重要性は現代の原油にも比すべきものかと。
歴史書に任那日本府の記述があり、半島南部であれだけの日本式墳墓や副葬品が大量に出てくると
これが西洋史だったら、居留地とか領事館とかレベルではなくて、カルタゴ・ノウァやロンディニウムや
ケーニヒスベルクみたいに「植民地」があったてことでFAなのにな。なぜかそうならない。
誰かこの辺の事情を世界史板住人にもわかるようにガンダムに例えて説明してくれ
869 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 07:21:08 0
素朴な疑問。伽耶と任那は別モンなの? それとも、ほぼ同じ地域をさすの?
>>868 ケーニヒスベルクは都市としての建設の始まった14世紀から17世紀までポーランドの属国で
あったドイツ騎士団領→プロイセン公領の都市
17世紀にオリヴァ条約でポーランド王国がプロイセンの宗主権を放棄して独立
ドイツ騎士団が入植した13世紀であっても国際的にはポーランド領
このように任那とはかなり歴史が違うので、単純に比べてはならないことは歴史学の常識
きみは自分の無知を棚に上げて思い上がってはいけないよ
>>868 文書資料のない後進地域だったから
まともな国があれば官僚制があって文書が残る
それより、ローマ行ってみろよ
2000年前の建物をまだ使っていたりして驚くぞ
吉野ヶ里とかまきむくとか、はずかしくなる
873 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 10:22:55 0
なんか必死だな。
そりゃ嘘や拙速な結論がまかり通りそうになれば必死で抵抗するさ
875 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 11:14:23 0
どっちもどっち。鈍感すぎるのもなんだが特定の用語に敏感すぎ。
なら嘘にせよなんにせよデタラメな結論はやめることだな
877 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 11:50:07 0
火消しが早すぎると思っただけ。
なぜ「嘘」や「拙速な結論」なのに「まかり通りそう」になると思うんだろ?
だったらそんなに心配しなくていいでしょ。ガンダムの例えってやつ見たかったしw
話が通じなさそうだからいいや。
いまのイデオロギーじゃなく、当時のイデオロギーのほんとのところが知りたいなあ。
火消し早いかなぁ・・・
それとね、いまでも当時でもイデオロギーによる解釈はいけないよ
実態がどうなのかを調べるのが学問さ
879 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 12:15:25 0
まあ、倭国が大量に朝鮮半島に派兵したり、半島国家から倭国に対しては人質が
差し出されていたことは、東アジア各国の文献資料すべてに共通して叙述されて
いることだから、そこのところはハード・ファクツとして共通理解を図るべきだ
ということでしょ。その逆ではないのだから、そこは日韓の教科書等でも明記し
ていく必要があるんだと思う。
そこは異論は無いのだが、そこからなぜ君のような結論が出るのか、というのがおかしいんだよ
その事実と
>>858とは矛盾しないだろう?ならなぜ植民地という発想になるのかな?
しかもケーニヒスベルクについても誤解しているきみが?
つまりきみのは何でもイデオロギーで解釈して結論しようとしているわけだよ
881 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 12:41:35 0
880
>しかもケーニヒスベルクについても誤解しているきみが?
それたぶん別人なw 当たり前だけど一人で答えているわけじゃないと思うんだが。
IDつけばいいんだけどな。あとイデオロギーについても誤解してるようだけど
もうこれ以上発言しないよ。
882 :
881:2009/06/15(月) 12:44:04 0
あと教科書等に明記云々ってのも言ってないから。ややこしいなw
IDぐらいでればいいのにな
この板
>>874 >そりゃ嘘や拙速な結論がまかり通りそうになれば必死で抵抗するさ
日本の古代史は「嘘、大げさ、紛らわしい」学説のオンパレードで
そこへ韓国朝鮮の(自称)学者たちの珍説が交錯しカオスの世界となっている。
「百済や新羅は大和に文明を教えてあげました」が真なら
「半島南部は大和の植民地」も真である。なぜなら両説とも極論だからだ。
多分古代史において、足して2で割るような落し所を探すの無意味だと思う。
真実は極論の中にあるだろう。古代はそういう社会構造だったんだよ。
>>884 そのどっちでもない。
上の方にある単なる日本人町と領事館が真だろ。
886 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 14:25:26 0
堂々巡りw
>>885 >日本人町と領事館が真だろ。
まあこれも妄想の産物だけどなw 証拠はアルカ?
倭国が献上した生口のタコ部屋かもしれんぞ?
証拠はある
矛盾しないこと、これ自体がevidence
889 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 15:58:48 O
史料による証拠を考えれば任那日本府があったし、百済や新羅は人質を差し出す従属国だった。
証拠を無視して妄想に逃げる人間は学問に向いていない。
一行目を否定してるわけじゃないのがいつになったら理解できるんだろうか
>>889は?
ループって怖いね
チョンに多いよね
なんだろ?植民地くんは何に起こってるんだろ?自分の主張が通らないから?
894 :
×:2009/06/15(月) 18:42:59 O
895 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 19:08:32 O
百済も新羅もちょっとデカい邑に過ぎないんだけどな。
ID表示欲しいね。
朝鮮学校ではいまだにベトナムは金日成様が米帝から守ったって教えてるのかい?
【NHK(=コリア放送協会) も応援!日本文化=韓国文化】
6月14日(日) NHK教育〜ETV特集「”韓流”はどこからきたのか 映画人たちの熱き日々」(22:00-23:30)
NHK 今後の「韓流自作」放送予定 (笑)
6月15日(月)NHK-ハイビジョン 韓流映画『B型の彼氏』(2005年 韓国)
6月16日(火)NHK-ハイビジョン 韓流映画『四月の雪 ディレクターズ・カット完全版』(2005年 韓国)
6月17日(水)NHK-ハイビジョン 韓流映画『大統領の理髪師』(2004年 韓国)
6月18日(木)NHK-ハイビジョン 韓流映画『デイジー』(2006年 韓国)
6月19日(金)NHK総合 【新】韓国ドラマ「スポットライト」
6月19日(金)NHK-ハイビジョン『HIP KOREA”韓流”最前線Rain/イ・ビョンホン』〜新世代のスーパースターRainと韓国を代表する俳優イ・ビョンホンの素顔に迫る/注目を集める韓流パワーの背景を探る
6月20日(土)NHK-ハイビジョン『HIP KOREA”韓流”最前線Rain/イ・ビョンホン』(再)〜新世代のスーパースターRainと韓国を代表する俳優イ・ビョンホンの素顔に迫る/注目を集める韓流パワーの背景を探る
6月21日(日)NHK-BS2 韓国ドラマ「スポットライト」
6月22日(月)NHK-ハイビジョン 【新】韓国ドラマ「スポットライト」
6月26日(金)NHK総合 韓国ドラマ「スポットライト」
899 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 21:22:57 0
もう犬HKは潰れていいよ。
任那植民地説を否定する「唯一」の材料は高麗1145年編纂の三国史記。
三国史記の記述、特に年代は正確であるとの定説があるようだ。
ただ三国史記に記載が無いから記紀の捏造だと言っちゃうのは、どうかと思うが。
ネトウヨが独裁政権作って、大東亜戦争の正史を編纂するようなもんだし。
正史とはどだいナショナリズムとは無縁ではいられない。
まあ、高麗1145年って宗主国なしで自由気ままな半島最良の時代ではある。
モンゴルの台頭は、この後にやってくる。
それに資料として新しい三国式に根拠をおく理由がないよな
そんなのが認められるなら、おれが今から新しい歴史をつくってやんよ
>任那植民地説を否定する「唯一」の材料は
任那植民地説を証明する証拠も無い。また植民地はありえない。
植民地ではなくて、日本人町と領事館だっただろう。
別に「植民」したわけじゃないからな
なんなのこいつ
905 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 22:59:36 0
889 名前:世界@名無史さん 投稿日:2009/06/15(月) 15:58:48 O
史料による証拠を考えれば任那日本府があったし、百済や新羅は人質を差し出す従属国だった。
890 名前:世界@名無史さん 投稿日:2009/06/15(月) 15:59:29 0
一行目を否定してるわけじゃないの
植民地というと戦前の朝鮮とか台湾みたいな?
フランスの県という意味で使われるプリフェクチャーってもともと属国という意味です
908 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:03:49 0
植民地君必死すぎ
きみ、いくらでも反駁できるよ
属国とは違う
prefectのofficiumという意味<プリフェクチャー
911 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:11:56 0
高句麗好太王碑に出てくる「倭」というのは、ヤマト政権(倭王権)ではなくて、
北九州あたりの海賊集団だったという説もあるな。
912 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:15:53 0
三国史記の新羅本紀に頻出する4〜5世紀の「倭」の襲来というのも、
ヤマト政権(倭王権)の進行というより、倭寇的な海賊集団という説もある。
たしかに倭は倭人の意味だという説もあるね
具体的に大和を指したかどうかは不明だから
中世の「ドイツ」みたいなものでは?
これはドイッチュラントのことじゃないから
あとは「バイキング」とか
スウェーデンやデンマークのことじゃないし
説がある、じゃなくて資料の名前出して具体的な説明を頼むよ
915 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:20:34 0
君が言ってる植民地君はたぶん別の人だよ
最近書き込んでなかったし
植民地って近代帝国主義国家によるものしか知らないような人もいるみたいだけど
古代ギリシャ人が小アジアやイタリア半島南部やシチリアに都市を建設したり
古代ローマ人がライン川沿いに都市を建設したのがもともとの植民地だから
任那日本府の存在はありうるが、今で言う植民地政府だったのか?領事館だったのか?
どちらか一方であり続けたのか?
だとすれば証拠は?
でないとすれば当初はどういう存在だったのか?
日系ブラジル移民なんかは「殖民」だな。ややこしい。
古代ローマの植民地はローマ市民と原住土人とどちらが多かったのだろうか。
土人はそもそも都市生活なんかしない
建設当初の都市住民はほぼ100%ローマの軍人とその家族だよ
なんかループしてるような…
任那日本府の実態については少し前のほうで
ある程度論点が整理されてなかったっけ
徴税や徴貢の機能はなかった
すなわち植民地政府ではない
伽耶一帯に何らかの影響力があったためこれは今で言う領事館であったと解釈するのが最も自然
時代によって倭(倭国か倭人か)がここ任那を通じて半島に軍事力を行使したことは充分ありうる
しかし植民地政府のような機能、それを証明する証拠は一切ない
>>917 訳に問題があるんだろうか
フランス南部は植民地から属領に格上げされたけど、ローマ人がすんでたわけじゃないよな
植民するまでもなく以前から倭人が住んでいたという可能性を考えろ
>>923 > 徴税や徴貢の機能はなかった
百済新羅を含めてそれを明示した個所が日本書紀に多数あるけど(朝廷の屯倉もあるでよ)
捏造偽書らしいから、嘘なんでしょw
>>923 なんかずっと稚拙なレベルの話しかしてないようだけど
直轄地でないかぎり、税をとれないよ。朝貢、華夷秩序には入ってないが
百済は和国に対して極東アジアの派遣者として貢ぎ物はしてるだろ。
領事館は近代国家概念における直轄地と同義。外国にて治外法権である唯一の場所です。
>>926 それは100%
いわゆる弥生文化で弥生人が当初から住んでいたのは対馬海峡の両岸
中国ではこれのうち朝鮮半島側をもともと「韓」と呼んでいる
930 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:40:37 0
植民地君、ちょっと黙ってて
新羅に任那の取られた分の調を要求して収めさせたらしいから、取ってたんじゃないのかね税を
932 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:43:48 0
>>927 その任那の屯倉ね、それ本来は朝貢のものと違うだろ
いきなりそれが植民地の証拠かよ、おい
>>931 いつの話なのかよく調べてから言ったほうがいい
任那日本府が設置されていた時代ずっとかね?だとすればそのずっとだったという証拠は?
全般的に言いえるのは、今の主権概念から考える植民地観も
ローマ的な都市における植民地観もあまり役に立つとは思えない。
また、アメリカ型の移民を目的とした植民から、資源を目的とした
熱帯植民地型までさまざまだし、どちらに当てはめろと言われても
無理がある。
935 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:47:19 0
まあいずれにせよ、植民地とは違うよ
こんなのまで植民地だとか言い出したら、きりがないよ
じゃ新大久保は韓国の植民地だとか言い出しても文句言えなくなるわw
2ちゃんねらが、すれっからしのセミプロネット民に変貌した昨今
これだけ釣れる釣堀はそうざらにないな。特にリベラル系方面の方々を。
>>935 あれは実質のっとりだが、任那はもともと倭人がいた地域なんだろ
>>927 『宣化紀』に各地の豪族に命じてそれぞれの地にある屯倉から
那津の官家に穀物を運ばせたという記事があるけど、倭の王権が
大規模な軍隊をこの地に集結させようとしていた可能性はありますね。
では、半島でどうやっていたかというと、残念ながらあまり具体的な
記述は見えませんが。
>>938 927の日本書紀云々は撤回します。
931の人が例示してくれたけど六世紀の末から七世紀の初頭らしいので。
>>936 イデオロギーは関係ないよ
イデオロギーは歴史学から排除すべきもの
のっとりも見方を変えてあっち側の立場になると、「征服」になる
「雄飛」とも言う
>>941 そうだね、だから新大久保の在日は強制送還するべきだね
イデオロギーは置いといて
特別在留資格というのがそもそもおかしい
例の鉄ていを武力を背景に収奪すれば立派な植民地だがな。と荒唐無稽な仮説はいくらでもw
ローマもスペインとルーマニアの属州で銀と金を採掘してなかったかな?
>>940 まあ実際のところ植民地ではなかっただろうな。
で、任那が何をやっていたかというと、当初や通常は領事館的な業務、
ときどき植民地政府的な業務
これでだいたい本来の姿だろう
そりゃ植民する側は自分たちの都合で植民するわけで現地人のために植民するわけじゃないからな
植民地じゃないからどうでもいい
しかし、朝鮮戦争で徴兵義務を放棄して逃げてきた難民を在日といっていつまで保護する必要があるのかと
>>946 任那と任那日本府を混同してる。
『日本書紀』でもそのへんはしっかり書き分けられてる。
混同してないよ
このコンテクストで任那と書けば日本府のことだってわかるだろ?わからなかった?
逆に考えるが
任那に倭人が住んでいた事は明らかだけど
そのとき、そこに「倭人以外の民族」がいたことを示す史料はない?
だとしたら、日本人町説も領事館説も成り立たないのでは?
東亜板あたりだと日本が任那どころか百済・新羅を植民地にしたことになってる。
間違いを指摘すると「チョン乙」。多分ここに植民地うんぬんと書いてるのもその類だろう。
まあ、属国だろうな
>>952 おまえ国民国家のイデオロギー持ち込んで何が楽しいの?
もっと前の代には南部は倭人が住んでた、という記述があるわけだし
継体23年〔529〕
・3月、百済王が下??国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。
物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。
加羅王は、この港は加羅に宮家(屯倉)が置かれて以来、
朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。
加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、
新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。
>>953 東亜板見ると、まさにミイラ取りがミイラになってるよな
住民の思考がすっかりチョン化してる
嫌韓から呆韓、呆韓から笑韓へ
語るべきは過去の人々のイデオロギーについて。
真実に近づくには研究しなきゃいけないことでしょ。
てか「イデオロギー」って禁句なの?w
韓国の前方後円墳だけでいくつ解釈があると思ってる?
批判するより自説をきちんと補強していったほうがいいよ。
どう見ても倭勢力の証拠です ほんとうに(ry
964 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:15:35 0
逃げんなよ。
おまえは近現代の国民国家の民族イデオロギーで見ているから余計に問題なのさ。
歴史学をやる資格のないクズ。
結局、植民地派は東亜住民か・・・
だから誰に語っているのかとw
これまでの成果をもって植民地と結論したら、それこそ皇国史観と馬鹿にされるのがオチだ
>>968 >それこそ皇国史観と馬鹿にされるのがオチだ
だめだってそういう言い方しちゃ。それもイデオロギーw
皇国史観と揶揄されるとき、何が馬鹿にされているのかを良く考えたほうがいい
二種類ある
植民地だろ
近代的な意味での植民地じゃなかっただけで
972 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:23:56 0
チョンてアホだね そりゃ半万年属国なはずだわ
どう考えても植民地じゃないな
公国史観といえばくつがえると思っている馬鹿
>>973 だから思考法でチョンの真似しちゃいけないよ
植民地とか
978 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:25:47 0
>>976 言わなくてもくつがえるものはくつがえる
証拠出してから話そうぜ チョン
いくら考えても植民地じゃないんだが、植民地だという客観的証拠は?
結局は単なる東亜板住民による自己満足スレでした
こうなることは解っていた
あらら、せっかく
>>958について考えようと思ったら
罵りあいになっちゃったね。次スレは立つのかしら。
983 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:28:48 0
東亜住民は感情ばかり先に立って「証拠は?」と聞かれると
黙るか、的外れの資料を出して証拠だと言い張るかどっちかしかない
これはチョンの発想なのよね
だから、類友というか、チョンを相手にするのはチョン思考の連中だけってことだな
チョンは証拠が出せないようです。
985 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:29:51 0
さあ、あとは埋めてね東亜住民君
347 <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん New! 2009/06/16(火) 01:27:42 ID:KKcGwTbl
百済は朝鮮半島にあった日本の属国
現在の南北朝鮮とは何の関わりもない国
いいかげん学習してくれ・・・
最後まで、植民地だった証拠がないままだったな
>百済は朝鮮半島にあった日本の属国
>現在の南北朝鮮とは何の関わりもない国
状況証拠がかぎりなく、こう示しているな
チョンが哀れでならない
>>986 >いいかげん学習してくれ・・・
2chでそれ言っても無駄
韓国人に考古学は無理なんだよ
歴史の本の3分の一が日本植民地時代の記述なんだから仕方ない
992 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:35:29 0
すげえ!皮肉が通用しない
>>934が言っているように、近代的な主権概念を排した植民地
というのは想定できないし、じゃあローマ的な植民都市だった
かといえばそもそもローマの概念をなんで東アジアの情勢に
使うのかってことになる。
結局、右も左も朝鮮人もイデオロギー以前に、自分が想定したい
歴史を押し付けあってるだけ。今の研究だけでは植民地と言える
かは断定できないし、仮に西洋史における植民地に近い存在で
あっても、それを植民地というべきかはまた別の問題。
日本史板のスレよりはマシだったけど
やっぱりまともな議論になりにくいテーマだったね。
日本書紀すら読んでない連中が書き込んでるし。
どっちの説の人間もチョンチョンって、すごいな。言うのやめなよ。
ここ、意外とまじめな人が多いみたいだしw
>>993 結局それが正しい
いまの段階で植民地だったとか結論したら馬鹿すぎる
植民地、植民地いうわりにはどういう内実のある
統治なのかも示されない。だめだこりゃ。
998 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 01:39:42 0
翡翠や円筒埴輪などの出土品で倭人文化圏内もしくはそれと深い関りがあったことは確認されるが
そもそも倭人勢力が自力で半島や中華帝国と継続的に交流するなら自前の中継基地は不可欠
実際、新羅の統一によって半島から倭人勢力が駆逐されて以降は危険な黄海直行ルートを取らざるを得なかった
>>993 大和王権がそれほど権力をもっていなかったのだから
植民地という言い方が適当とは思えないが
倭人の勢力下にあったことはまちがない。
任那がもともと倭人にとって九州とそれほどちがわないくらい
なじみ深い土地であったのだから。
次スレはいらないね!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。