1 :
世界@名無史さん:
>>2が紹介してくれた最後のHPに載っている乗馬用の具足?がモンゴル風な感じだね
例の黄金人間に似てなくもない
スキタイは埋葬法がクルガンなど特長あるが
後の鮮卑族が建国した代〜北魏の王族もスキタイのクルガンの外観に似た古墳作っていますね
勿論、細部に違いがあるだろうが
4 :
世界@名無史さん:2008/12/27(土) 20:16:55 0
cernenkoの研究によると、
>>2の具足は発展型です。始めは牛革製です。
その上に、青銅や鉄の板を縫い付けるようになりました。
スキタイとモンゴルの比較で興味深いことは、
スキタイは初期の農耕社会から、牧畜技術を発展させ遊牧民となったであろう。
モンゴルは狩猟社会から直接遊牧民となったであろう。です。
スキタイは確かに野蛮人ですが、農耕社会や都市文化の重要性を知っています。
モンゴルは西進して、農耕地に侵入した時、水路をすべて破壊します。
イラクやイランでは、モンゴルに破壊され干上がった水路がいまでも残っています。
モンゴル進入時に人口が10分の1に激減したそうです。
>モンゴルは西進して、農耕地に侵入した時、水路をすべて破壊します。
モンゴルの都市虐殺も凄い。モンゴルのバグダッド虐殺(1258年)の85万は、
都市虐殺では今でも世界記録だからね。第2次大戦時、ドレスデン(13万)、
広島(26万?)も全然届かず、ワルシャワ(80万)さえ届かなかった。ちなみに、
アウシュビッツは殺人工場であって、都市ではない。
また、モンゴルはジェノサイドも凄かった。ちなみに、ソグド人はタジキスタン
一帯を除き、チンギスハンにより絶滅させられた。
モンゴルに情報を提供して、ホラズムへの侵略を唆したのは、イラン系商人らとされる。
契丹人が金に反旗を翻したように、トルコ人支配に打撃を与えようと、当初はイランに
良かれと考えて、モンゴルに積極的に協力したとされる。
バグダッドのカリフらも、ホラズムを牽制する為に、モンゴルをイスラム世界へ招き
寄せたとされる。
>>4 スキタイと農業という事でありますが、ウラル山脈からミヌシンスク盆地に
いたる黒土地帯の半農半牧民らは、中世にどうなってしまったのでしょうか?
匈奴の圧迫により、月氏、トハロイ、サカらが、インド、バクトリア方面へ
大移動しましたが、彼らはオアシスルートの民でありました。
彼らのはるか北方黒土地帯の民は、西方のサウロマタイとアランらと同様
にこの大移動には参加しなかったようであります。
黒土地帯の民は、サカ族らの南下後に砂漠地帯へ南下して、康居や烏孫と
呼ばれるようになったのでしょうか?
黒土地帯の民は南下せず、やがてフン族らに追い払われ西方に向かい、
西方の同族らに合流して、ビザンツ領に大移動したスラブ人となったの
でありましょうか?
>>5 モンゴルの大量殺戮主義は、タタールのくびきを経て、ボルシェビキらに受け継がれていたね。
>>6 これが、ソグド人絶滅と、第2次大戦のワルシャワ蜂起でさえ破られなかった
史上最悪のバグダッド大虐殺を招いたんだから、歴史って皮肉だねぇ、
10 :
世界@名無史さん:2008/12/28(日) 20:00:22 0
バグダット陥落の時、カリフは羊の袋に入れられ、踏み潰されて死亡。
>>バグダッドのカリフらも、ホラズムを牽制する為に、モンゴルをイスラム世界へ招き
>>寄せたとされる。
後世の歴史家の解釈では?
モンゴル兵を傭兵として自国の軍隊に組み込むのならわかるが、
モンゴル軍を集団として越境させることはあまりにも危険。
そこまでカリフもお人よしではないと思います。
ホラズム遠征においてはムスリム商人がチンギスハンに積極的に協力し、
情報を提供したり、チンギスハンの為にトゥルケン・ハトゥンとムハンマドの離間工作までしている。
ホラズムもこれほどの裏切り者、離反者を出していたのだから相当人心を失っていたのだろう。
12 :
世界@名無史さん:2008/12/28(日) 21:29:24 0
ホラズムでも支配層は 遊牧騎馬民族で、
被支配層は、農耕民、商人、職人。
被支配層は支配層が入れ替わるだけと思ったのだろう。
しかし、モンゴルは無差別の大虐殺をする。使えそうな職人以外皆殺し。
モンゴルは農耕地を牧草地に変えようとしたのでは?
モンゴルは灌漑設備がこの州域の文明の基盤ということを理解していなかった。
大虐殺がされたというヘラトで発掘された人骨は2〜3万体程度で
モンゴルは実のところ「精一杯」虐殺しても80万〜100万とかは到底実際のところ不可能だったが、
虐殺を大げさに言いふらすことで相手が畏怖して戦意を失い降伏してくる効果を狙った。
まあ実際目の前でひっつかまえては首を切り
ひっつかまえては頭を潰しってやってりゃあ
1万も100万も皆殺しのおそろしさとしてはおんなじだけどな
>>10 オトラル事件当時、カリフ・ナシールがモンゴルに使節を派遣したと噂され、
その事にシャー・ムハンマドはたいそう警戒心を強めたそうだ。
16 :
世界@名無史さん:2008/12/28(日) 23:08:03 0
>> 虐殺を大げさに言いふらすことで
虐殺数は誇張かもしれません。
しかし、農耕地の荒廃から穀物不足で大量餓死が起きたことは否定できません。
産業革命以前の最大都市バグダットの人口を維持するためには、
広大な耕地が必要です。
アッシリアやバビロンの支配者の碑文は、灌漑施設を維持し、多くの
人口を養ったことを誇らしげに書いています。
私が言いたいことは、スキタイはモンゴルのような文明の破壊者ではなかったと
いうことです。
>>7 よくわかんないけど
気候の変化も関係すると思う。
平均気温の上下でも民族移動が起きる。
>まあ実際目の前でひっつかまえては首を切り
>ひっつかまえては頭を潰しってやってりゃあ
>1万も100万も皆殺しのおそろしさとしてはおんなじだけどな
1万殺して100万殺した恐怖を与える意味で心理的には「効率的」な効果があった。
ラウジッツ文化を壊滅させたのはスキタイだと推測されている。
スキタイはモンゴルのような文明の破壊者ではなかったという見解は
モンゴルの破壊による被害者は歴史を書いたが、
スキタイの破壊による被害者は歴史を書かなかった違いもあるのではないか。
20 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 00:51:28 0
>> ラウジッツ文化を壊滅させたのはスキタイだと推測されている。
スキタイがラウジッツ文化に属する城を2、3破壊したことは事実です。
しかしラウジッツ人が全滅したとは考えられません。
例のラウジッツ人の墓に埋まっていたスキタイ財宝ですが、
これは両者の休戦条約かもしれません。
ラウジッツ文化が停滞するのは、スキタイ戦争の100年後です。
この停滞も、防御のための大規模な城が建設されなくなったということです。
21 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 00:58:33 0
>>スキタイの破壊による被害者は歴史を書かなかった
ベンヤミンの歴史論ですね!
歴史とは勝者の正当化であることは確かです。
私は敗者の視点も重視しています。
フン族やモンゴルが勝利しローマやイスラム、ヨーロッパが敗北するような
「野蛮人」が勝利し「文明人」が敗北すると「暗黒の歴史」と書かれる一方で、
ローマやスペインがケルトやインカを滅ぼすような
「文明人」による「野蛮人」に対する勝利、絶滅は「栄光の歴史」と書かれることに注意しておく必要がある。
マッサゲタイのトミュリスが遠征してきたペルシャのキュロスを返り討ちにしたことを
西欧・ユダヤは文明人であるペルシャのキュロスが傲慢な野蛮人のマッサゲタイのトミュリスに虐殺されたように書きたて、
決してトミュリスは侵略者のキュロスを打ち破った傑物とは決して称えない。
謎めいたキュロスの死は、マッサゲタイにとっても不幸であったとされる。
キュロスの死後、結局カンビュセスやダレイオスらに力ずくで、マッサゲタイ
らはペルシャに服属させられたとされる。
キュロスとトミュリスの結婚が実現していれば、マッサゲタイ側の犠牲もより
少なかったはずであろう。
トミュリスの息子とキュロスの死は、いわばオトラル事件のようなものであろう。
暗黒かどうかは戦後の世界が決めるんだろ
土人が勝って無秩序に陥るか文明人が勝って文明化されるか
この結果に視点もクソもねえよ、なんか知ったようなこと言ってるが
>>12 チンギス・ハンは、ホラズムを支配するよりも、軍事的脅威として
殲滅する事を優先したとされる。
チンギス・ハンは、西夏とカラ・キタイを恐れていなかったが、
金とホラズムを恐れており、当初から徹底的に破壊し尽した。
チンギス・ハンは、ホラズムが自国に攻めて来る事を恐れた。
ホラズムのシャー・ムハンマドには、後世のチムールのような、
東方大遠征の計画があったとされる。
チンギス・ハンとシャー・ムハンマド、まさに13世紀のスターリンとヒトラーですな。
26 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 20:15:04 0
>>19 ラウジッツ文化
630BC頃 防御用の城が建設され始める。 スキタイが現れただろう。
500BC頃 Polanowice城が破壊される。
しかし新しくStarosiedle城が建設される。
ナイセ川の東側が荒廃し、スキタイは姿を消す。
残ったラウジッツ人は、南への通商路を切断する。
考古学の見地からは
スキタイはラウジッツ文化を壊滅しなかったと考えられています。
ロシア人が暗黒史としてきた「タタールのくびき」だが、
実際はロシアの正教勢力はその「タタールのくびき」の下で発展したという事実だったという。
しかしこの時代をロシア・西欧史観は一方的に野蛮だったと弾劾する傾向がある。
>>26 スキタイがラウジッツ文化を壊滅出来なかった事には、ダレイオス1世率いるペルシャ軍
の黒海沿岸遠征の影響が考えられますな。
29 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 21:44:31 0
スキタイ男性にはクーバードcouvadeの習慣があったそうです。
出産した女性の傍らに数日間横になって、女性の苦しみを真似して、
号泣したそうです。
周りの男たちは見守り、応援したそうです。
スキタイ社会が母系から父系に移行する段階にあったという説の根拠です。
スキタイ人はやはり謎めいてますね。
30 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 22:04:41 0
>> ペルシャ軍の黒海沿岸遠征の影響
私もそう思います。スキタイのラウジッツ遠征軍は急に呼び戻された。
即急にラウジッツ人と和平を結んで、引き返す必要があった。
でないと、100年間戦った相手の聖なる墓地に財宝など埋めません。
カンビュセスのマッサゲタイ遠征は順調だったというが
同じ頃にエチオピアに送った使者が散々侮辱されて追い返されたのに
腹を立てたカンビュセスは方向を変えてエチオピアに向かったという。
おかげでマッサゲタイは打撃は受けていたものの滅亡だけは免れたという。
>>29 キリスト教以前のスラヴ人にもその習慣があったって聞いたことがある
33 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 15:32:54 0
クーバードcouvadeについては二つの仮説があります。
仮説 1
出産の苦痛をもたらした悪霊を男性が苦痛を真似ることで自分に引き寄せる。
仮説 2
苦痛を共有したことで、父親が子供に対する権利を主張する。
どちらにせよ、スキタイ人は感情移入の能力はあったということです。
34 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 16:23:32 0
婚姻論で興味深いのはケルト人社会です。
カエサルによると、ケルト人はグループ内乱婚です。
グループ内では誰とでも性交渉を持つことは許され、それがグループの
結束力となります。
結果として、母親も子供も誰が父親か分かりません。
ゲルマン人は基本的に一夫一妻制でした。
ローマ人はこれを見て、驚愕しました。
>>34 カエサルが紹介したそれはケルト人じゃなくてブリトン人
ケルト文化圏ではあるが、いわゆるケルトのガリア人とはまたちがう
>>34 だいたいなんで藪から棒にそんな話をしだすんだ?
ケルトだとか、そんなものはスキタイと関係ないし興味ないから来るなよ
>>34 ケルト人にもゲルマン人にも全く興味ないからスレ違いの話すんなよ
>>34 ローマ人は、ブリトン人とゲルマン人のいずれの方に驚愕したのだろうか?
39 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 18:13:04 0
皆さん すいません。 スキタイ派の私です。
スキタイの婚姻制度がケルトと似ているという仮説です。
カエサルの De dello Gallico の5.14では、
neque multum a Gallica differunt consuetudine.
ケントの住民の風習はガリア人とあまり異ならない。とあり、
それから女性の話になります。
ちょっと記憶違いでした。ラテン語をしっかり読むと、
女が産んだ子供は、実際父親がだれであれ、処女を奪った男の子供と見なされるです。
スキタイは「エナレス」も興味深い。
男が性的不能になると女装して暮らすという奇習。
類似した風習はどこかにあるのかね?
>女が産んだ子供は、実際父親がだれであれ、処女を奪った男の子供と見なされるです
これ、夜這い上等の風習とセットであっちこっちにあるんだが
中国にも日本にもあるぞ
42 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 10:00:00 0
>>39 似てねーよ馬鹿
ガリア戦記は全然関係ない、地域も時代も
43 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 18:07:39 0
>>性的不能
とうとう騎馬民族弱体化論の核心にきましたね。
恒常的な馬上生活は、下半身の血行障害を引き起こし、
ペニスの縮小化、男性ホルモンの分泌減少、性衝動の減退に至ります。
所謂スキタイ病です。
勇猛な騎馬民族は時間と供に女性化して、戦えない集団になってしまう。
王族は休憩するでしょうから、問題ないですが、
遊牧スキタイはこの問題に苦しんだでしょう。
馬上生活に急激に移行したアパッチも同じ問題を抱えていました。
なるほど、元来の総人口だけでなく、出生率でもスラブ人や漢人にかなわなくなるわけですな。
45 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 20:43:31 0
女性化した男性はアナリヤーと呼ばれました。
女性が馬上生活を続けると女性ホルモンが減少して、男性化が起きるそうです。
アマゾンがこれでしょう。
>>43 最近、自転車でも同じことが言われているね。
47 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 22:02:24 0
昔から「受験勉強」でも同じことが言われている
東アジアは受験地獄で机に向かっている時間が特に長い
48 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 13:47:22 0
騎馬民族インポ説を言い出したのはヒポクラテスです。
ここから私の憶測
このことをアレキサンダーがアリストテレスから聞いて、
「ペルシャ騎兵恐るにたらず、欲求不満のペルシャ女性は我々を快く迎えるであろう。
ヘタイロイ騎兵が弱体化する前にペルシャを征服しよう」と思った。
でもアレクサンドロスはマッサゲタイに苦戦してたような
50 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 22:07:07 0
ヘロドトスによると、マッサゲタイは河で漁労もしていたもよう。
女性化の問題は小さかったのでは?
ペルシャとスキタイは遊牧にあまりにも特化と適応をしたのでは。
アパッチの報告は1850年頃の医師の報告です。アパッチは少年時から
自分で歩こうとはせず。ちょっとした距離でも馬に乗ったそうです。
51 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 23:17:52 0
>>46さんのご指摘の通り、欧米で自転車インポ説が出て、
アメリカとドイツで医学的な実験が行われ、結果は
狭いサドルに乗っている時、ペニスに流入する血液の量は70%に減少する。
広いサドルにする。立ちこぎをする。
が奨励されています。
匈奴やモンゴルでは女性化の話は聞いたことが無い。
匈奴以降は鐙があったので、睾丸の圧迫が少なくなったのかもしれない。
53 :
世界@名無史さん:2009/01/03(土) 00:16:38 0
私もそう思います。人類は鐙に救われた。
確か鐙はパルティアの発明。
ちなみに、フランク人はポワティエの戦いで鐙を知り、すぐに取り入れます。
オスプレイ・メンアットアームズの挿絵では、サルマチア人の影響なのか、
ゴート族らが鐙を使用しているように描かれている。
55 :
世界@名無史さん:2009/01/03(土) 05:19:56 0
革製の鐙はBC3世紀から使われ始める。たぶん各地でスキタイ病が問題となった。
皇帝Maurikios I(590)が、ゴートの鐙をほめる。
フランクはゴートと小競り合いをするが騎兵の重要性を認識しない。
フランク軍の主力は歩兵、ピピンは768に馬を召集し始める。
ゴートの鐙が金属制であるか確証はないようです。
確認できるのはアヴァール
池◆◆◆田◆◆◆大◆◆◆作の本名はソ◆◆◆ン・テ◆◆チ◆◆◆ャク。
小◆◆泉◆◆純◆◆一◆◆郎、小◆◆沢◆◆◆一◆◆朗は朝◆◆◆◆鮮◆◆◆人。
9◆◆◆11では小◆◆◆型の水◆◆◆爆が使用されている。
http://r◆◆◆i■ch◆◆◆ardk◆◆◆osh■im◆◆◆izu.at.we◆br◆y.in◆f◆o/
創◆◆◆価の◆◆保◆◆◆険金殺◆◆◆人事◆◆◆件。
オ◆◆◆ウ◆◆◆ム事◆◆◆件は、統◆◆◆◆一・創◆◆◆◆価.北◆◆◆朝◆◆鮮の共◆同犯行である。
C◆◆◆I◆◆Aが監◆◆修している。
http://www15.o◆◆cn.ne.jp/~oy■◆◆ako■◆◆don/kok_web■site/ir■ig◆◆◆uc■hi.h◆◆◆tm
与◆◆◆◆党も野◆◆◆◆党もメ◆デ◆◆◆ィ◆◆アも全◆◆部朝◆◆◆鮮◆◆◆人だった。
http://jb■bs.li■vedo■or.jp/b■◆◆bs/read.c◆gi/ne◆◆◆ws/20■◆◆92/11◆◆57◆94◆■13◆◆06/
2◆◆チ◆◆◆ャ◆ン寝るは「■とう◆◆◆◆一■教■■会■」が 運◆◆◆営して「個◆◆◆人じ◆◆ョ◆う◆ホ◆◆う」を収集してる。
駅◆◆前で「■手◆◆◆◆◆相を見せてください」 と「カ◆ン◆ゆう」してるのが「■と◆う◆◆◆一◆◆■教■■会■」。(カ◆◆◆◆ルト宗■教)
ユ◆ダ◆ヤ権◆力の◆子◆分→2◆ち◆ゃ◆ん運◆◆◆◆営=「とう◆◆◆一◆教◆会」上層部=層◆化◆上◆層◆部=自■民党清■和会=野党の朝■鮮■人ハーフの政治家=
与党の朝◆鮮◆人ハーフの政治家=金◆正■■日(キ◆ム・ジ◆ョン◆◆◆イル )=読◆◆売サ◆ン◆ケ◆イ=小◆◆◆沢◆十◆朗。
毎◆日■■■新聞◆◆◆スレを荒◆◆◆らしてる◆奴◆◆らも「◆とう■■■一■教■■■会◆」。
荒らしは洗◆◆◆脳するために「ネ◆ト◆ウ◆◆◆ヨ」などのレ◆◆ッテ◆ル◆付◆けレ◆スを何◆千◆◆回もする。
現◆◆◆実には「ネ◆ト◆ウ◆◆◆ヨ」などは存◆◆在し◆◆ない。
http://c◆ha◆ng◆◆◆i.2ch.net/te◆◆st/r◆ea◆d.cg◆i/m◆◆s/12◆30◆36◆◆◆33◆8◆5/
57 :
世界@名無史さん:2009/01/03(土) 16:45:10 0
>匈奴以降は鐙があったので
金属製の鐙の導入と徹底化は、モンゴル高原が先行した。
これがテュルク系 モンゴル系遊牧民がイラン系遊牧民を凌駕した理由のようです。
テュルク系 モンゴル系の睾丸がより強いことを証明した医学的研究はまだありません。
58 :
世界@名無史さん:2009/01/03(土) 17:45:01 0
鐙の導入は、乗馬に不慣れな中国人らの方が、さらに先行していたとされる。
鐙は戦国時代の趙が最初だとされている。
しかし趙で始まった鐙は騎馬に不慣れな漢民族よりも
塞北の騎馬に慣れた遊牧民の武力を強化させる結果をまねいた。
鉄鉱石は、中国の産出量が多いため、ということかな。(今でも)
ウクライナ、カザフ、イランも産出しているけど、少し。
山西省辺りは、鉄鉱石が取れる地域だったはず
10世紀の五代十国時代だけど、沙陀系勢力が強かったのも
拠点である山西省が、鉄鉱石がよく採れる事も一因だったとか
62 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 11:50:36 0
enarees, anarier, anarieis でたくさん文献が出てきます。
さらに興味深いことは
enareesが、蔑視や排斥を受けずに、スキタイ社会で崇拝され保護されたことです。
仮説 1
enareesはシャーマンの原型
仮説 2
インポの悪運を一身に引き受けた英雄
ヒポクラテスは冷酷にもスキタイ人は大抵インポになると診断しています。
63 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 13:23:39 0
>>60 古代に最初に鉄が出たのはヨーロッパではスカンジナヴィア南部とウクライナ東部
その後はポーランド南西部
このあたりでは鉄器の生産が盛んだった
64 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 14:56:43 0
>>60 スキタイは鉄器文化。鐙を作る技術はあったはず。
鐙を作るための鉄の量はそれほど多くないのでは?
私はスキタイの貴族制度に原因があったと思いますね。
金属製の鐙を導入してしまうと、長期間の訓練は必要ない。
貴族階級の存在意味がなくなってしまう。
ちなみに、enareesは富める貴族階級に多かったそうです。
テュルク系 モンゴル系社会はまだ分化が進んでいなかった?
>>64 軽装弓騎兵には、鐙は必要なかったからではないだろうか?
重騎兵のランスチャージの方は、鐙がないと落馬してしまうとされる。
胡服騎射を苦手とする農耕民らは、重装槍騎兵を採用せざるえなかった
とされる。
鮮卑や契丹など東胡系らは、遊牧の伝統を守るよりも文明指向が強く、
胡服騎射よりも重装槍騎兵の方を好んだとされる。
モンゴルと戦った西夏と金も、人馬ともに鎧で固めた超重騎兵が主力で
あったとされる。
パルティアは重装弓騎兵が好きだったが
67 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 17:28:47 0
Junkelmann や connollyの研究によると、
ランスチャージをするためには鐙は必要ではなく、安定した鞍の方が必須。
鐙は馬上で立ち上がるために必須。
69 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 21:33:15 0
>>68 ヒッタイトの後です。
bc8世紀以降の鉄器文化では、ケルト系のハルシュタット、ラ・テーヌ以外、
ゲルマン系 Jastorf Harpstedt-Nienburger
スラヴ系 Lausitz その他2,3
が確認されています。
70 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 22:21:29 0
>農耕民らは、重装槍騎兵を採用せざるえなかったとされる。
この説には説得力ありますね。
乗馬の下手なフランク人も重装槍騎兵を選んだ。
72 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 07:23:48 0
>>64 スキタイはチュルク系でもモンゴル系でもなく、クルガン系(印欧語族)だよ。
広義のイラン系。
>>67 実際、史上最強のランサーである後の世のポーリッシュ・ウイングド・フッサールは
それ以前の中世の槍騎兵よりは軽装。
まあ鉄の質が良くなって軽装でもいけるようになったのかもしれないが。
ポーランド槍騎兵は武田騎馬軍と違って鉄砲の時代でも平気でランスチャージしていたから
ポーリッシュ・フッサールの鎧は当時の鉄砲玉ぐらいは跳ね返すんだろう。
74 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 08:09:57 0
>>72 広義のイラン系。 は当然。
スキタイは貴族制社会、つまり貧富の差がはげしかった。
貴族が金属製鐙を嫌ったのでは?
チュルク系やモンゴル系社会は格差がなかったので鐙が一律で導入できたのでは?
と質問した。
75 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 08:24:08 0
>鉄砲の時代でも平気でランスチャージしていたから
これは時代錯誤の集団自殺行為では?
単に鉄砲を採用しただけでは、歩兵の騎兵に対する優位は余り無いような
槍に変わる銃剣の採用(対騎兵の意味あり)
西欧のような訓練された戦列歩兵(あるいはソレを常備軍として運用できる国家)の出現
これら等の要因で、歩兵でも騎兵に対抗できるようになったが
それでもナポレオン時代まで騎兵は威力を発揮したわけだし
最もこの頃には、3兵戦術の一角としてでああるが
そして19世紀中期以降は、歩兵火器の発達でランスチャージは自殺行為へ
77 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 10:11:23 0
イエニチェリの鉄砲隊はチャルディラーンの戦いで騎兵隊を壊滅。
ナポレオン騎兵も敵の歩兵陣が万全なときにランスチャージなどはしない。
敵の陣営が崩れかけたときが鉄則。
シーザーやハプ家のルドルフ1世も騎兵突撃は最後にしている。
ナポレオン騎兵が活躍したのは初期だけ。
78 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 17:22:25 0
マッサゲタイに戻りますが、
トミュリスの息子がenareesだったと私は考えております。
宴会でキュロスに「インポ野郎」と罵られ、自殺した。
トミュリスは
「enareesになってしまうのは、騎馬民族の運命。それをなじるとは」と激高した。
トミュリスはアマゾンの原型。
ロシアの研究者によるとスキタイ系騎兵の25%は女性という結論。
強き母はあわれな息子の代わりに戦った。
この伝統は確かにスラヴに受け継がれたかも、
ヒトラーの地下壕に最初に突入したのは、ロシアの看護婦隊です。
これはドイツ側の証言です。
>>74 重装槍騎兵の出現こそが、貧富と身分の差を激しくさせたのでは?
騎馬民族は、軽騎兵がおとりなって、重騎兵が待ち伏せする戦術を基本と
していたとされる。おとりとなる平民出身の軽騎兵は必ず犠牲者がでる一方、
貴族の重騎兵は鎧冑に身を固め悠然と待ち伏せしていたとされる。
80 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 17:54:39 0
>>79 納得しました。
本来なら貴族の方が、金属製鐙と重武装を促進するはず。
しかしパルティア貴族はいつまでたっても、自らを軽騎兵として描いています。
これはドイツ哲学でいう、理想と現実の分離ですか?
>>75 武田騎馬隊は馬で突撃はするが刀で乱戦にするのが目的。
鎧も非金属製が主だったため当時の鉄砲で粉砕された。
ポーリッシュ・ウイングド・フッサールは長大なランスを持って直線的に高速で突撃し、運動エネルギーがものすごい。
しかもほとんどは敵陣を通過して向こう側に行き、体制を整えてまた高速で直線的に突撃。
そうすると敵陣の鉄砲の射程距離の圏内に突入しても「ほんの数秒」で敵陣に到達する。
そのため撃たれるものはほとんどいなかった。これが非常に有効な戦術で、
ポーランド軍は16世紀から200年間このやり方を続けることができた。
イェニチェリが相手にしたセルビアやハンガリーの騎兵と、ナポレオン騎兵のユサールは
軽装騎兵のため甲冑がしっかりしていない。この点が武田家の騎馬隊と同じで、鉄砲に弱かった。
ポーリッシュ・ウイングド・フッサールは同時代の他の騎兵と異なり「重装騎兵」であって
その甲冑は鉄砲隊相手のランスチャージに特化しており、他の騎兵突撃と違い、
戦闘の最初に突撃する。
ヤン3世王の騎兵隊がウィーンのトルコ軍にチャージしたのも戦闘の最初。
相手の陣が構えられていたとしても突撃が可能だった。
(陣に柵やディッチなどが作られていた場合はもちろん別のやり方をとった)
>ヤン3世王の騎兵隊がウィーンのトルコ軍にチャージしたのも戦闘の最初。
1683年9月12日の戦闘は連合軍左翼とトルコ軍右翼がヌスドルフで衝突したのがはじまり。
ポーランド軍は左翼にいて、騎兵を展開して突撃をおこなうのが可能な開けた地形に到達したのは
午後になってからだった。
その日朝からトルコ軍右翼と戦っていたのは連合軍左翼というか、
正確には左翼にいたポーランド軍の歩兵隊だね
ムスタファ・パシャはソビエスキ王率いる突撃騎兵がやってくるまでに
なんとかウィーンを陥落させようと焦っていた
それを妨害する目的でポーランド歩兵がトルコ軍との戦闘を開始していた
>>78 トミュリスを妻に迎えようとしていたとされるキュロスが、
そんな事を言ったと想像させる記録があるのですか?
85 :
世界@名無史さん:2009/01/07(水) 07:29:52 0
トミュリスがキュロスに送った通達者の言葉、
それと
Spargapisesが女性的に描かれていえる。キュロスがSpargapisesを女性的な人物と判断している。
Spargapisesはペルシャの贅沢に誘惑されるだろう。
Spargapisesはワインで寝込んでしまい、最後まで起きない。
キュロスがSpargapisesの拘束を解く。Spargapisesを見下している。
Spargapisesが変わった、特殊な人物であると考えるさせるように筋が進む。
Spargapises=enareesが隠されたコード。
この話ではキュロスは全く主役ではない。
トミュリスのSpargapisesへの愛とキュロスへの復讐がテーマ
まあでも
Spargapises=enarees論は誇大解釈ではあるかもしれません。
シパルガピセスがエナレスならば、カンビュセスの王位継承の脅威とはならかったであろうな。
87 :
世界@名無史さん:2009/01/07(水) 18:18:09 0
訳によって解釈の違いはありますが、
トミュリスが言いたいことは
ペルシャ人はワインに酔って、いつも暴言を吐く。
息子は勇気は十分、ただワインに負けた。
息子を返せ! です。
>>83 82の一行目は「連合軍右翼」を誤って左翼と書いたので訂正します。
両軍布陣図を見れば分かるがヌスドルフはポーランド軍のいた左翼とは反対側で
そこのトルコ軍を最初に攻撃したのはザクセン兵を含んだオーストリアの部隊。
↑また間違った。
訂正するべきなのは2行目ですね。正確にはこうです。
「1683年9月12日の戦闘は連合軍左翼とトルコ軍右翼がヌスドルフで衝突したのがはじまり。
ポーランド軍は右翼にいて、騎兵を展開して突撃をおこなうのが可能な開けた地形に到達したのは
午後になってからだった。」
左翼で攻撃を開始したのがオーストリア兵だった点については訂正はありません。
2000年の「グラディエーター」をきっかけに、「キング・アーサー」、「アレキサンダー」の
ような史劇がハリウッドで復活したが、ポーリッシュ・ウイングド・フッサールが活躍
するハリウッド大作が、最近制作された事はあるのであろうか?
ヤン・ソビエスキとプリンツ・オイゲンは英雄として、ジャンヌ・ダルクや ナポレオンよりも、
はるかに申し分がないと思うのだが、これまでハリウッドで映画化された事はないのであろうか?
>>90 なんか話が噛み合ってない気がするのだが
そもそものポイントはウィーンの戦闘の最初にポーランド騎兵が突撃したかどうかだったわけで
だから
>>82と
>>88-89で「連合軍のどの部隊が最初に戦い始めたか」という話をしてきたのだけど
それに対するレスの
>>83と
>>90では「左翼にポーランド兵がいたかどうか」という話になっている。
>>83も騎兵の話だと思ってレスした後でよく見たら歩兵の話を返されていた。
なんだかよく分からない。
93 :
世界@名無史さん:2009/01/09(金) 15:05:41 0
これまでハリウッドで映画化された事はないのであろうか?
もうリング物語で、パクられている。
あれはウィーン攻防戦がモデル。
>>93 たしかに、あれはそうみたいだね。
ローハン騎兵のデザインは、ゴート族やサルマチア人がモデルみたいだったね。
ファンタジーだから、ウイングド・フッサールそのものの方が、インパクトが
あっただろうな。
95 :
世界@名無史さん:2009/01/09(金) 15:35:21 0
ソビエスキ王はこの戦闘の総指揮者。
連合軍はTulln付近で7日に合同。ポーランド軍が遅れてきたのではない。
戦闘開始12時間後にポーランド騎兵は突撃。
大勝利後、トルコ軍追撃を拒否し、軍馬を休ませた。
その後トルコ軍が残した物資を略奪する。
これは当然の権利。
ソビエスキ王は教養高く、ヨーロッパの戦史を知っているはず。
虎の子の騎兵を最初に突撃させるはずがない。
>>95 ちょっとまてw
敗走する敵軍が残した食料等を得るのは略奪じゃないだろ
ナントカ(思い出せない)獲って言うだろ
戦利品
>ソビエスキ王は教養高く、ヨーロッパの戦史を知っているはず。
>虎の子の騎兵を最初に突撃させるはずがない。
>>81への反論?
100 :
世界@名無史さん:2009/01/10(土) 07:46:05 0
>>99 日本語のwikiの描写は間違い。
11日 連合軍到着
12日 4時頃 歩兵攻撃開始
17時頃 ポーランド騎兵、ドイツ騎兵突入
ソビエスキのファンとしてはウィーンでのポーランド軍を相対化せんでほしい
これもし本隊がドイツ軍だったら歴史書ではポーランド軍の存在は無視されるんだろうなw
102 :
世界@名無史さん:2009/01/10(土) 15:52:00 0
ソビエスキはカラカウ・アカデミー修了後、ヨーロッパ各地に留学。
専攻 戦術、政治、文学。その後トルコ領に潜入。トルコ語習得。
当時のヒーローですな。
Kahlenburgの会戦はソビエスキと彼の将軍が立案。ドイツ側はノータッチです。
ドイツのwikiには、このように載っています。
>>101 いや俺もソビエスキは好きだが「ポーランド軍を相対化」って何よ? よく分からん
あと日本語のwikiをソースにした話なんて出てきてたっけ
>>104 中世〜ルネサンス期だとポーランドのフサールの時代じゃないな
>>105 ヤシンスキという人がやってる英語のサイトで「ポーリッシュ・ルネサンス・ウォーフェア」というのがあるけど
扱ってるのは16〜17世紀、当然フサールについても1ページ丸ごと詳しい解説がある。
>>107 ああなるほど、それでルネッサンスだと思ったのか
ポーリッシュ・ルネッサンスという、ポーランド独特の宗教改革・対抗宗教改革期の文化芸術運動があって、
これはいわゆるルネッサンス(14-16c)の後の時代(16-17c)
最初の方だけルネッサンスと時代的にダブるか
スキタイの最後はクリミアで細々と続いていたのを西から来たゴートが滅ぼしたというが、
18世紀まで存続していたクリミアゴートはスキタイを滅ぼしたゴートの子孫なのかもしれない。
111 :
世界@名無史さん:2009/01/22(木) 15:50:40 0
フン族のスレの方が盛り上がっていますよ!
112 :
Decide One's Fate ◆D/w5oCAtaw :2009/01/22(木) 19:59:20 0
OSSETIA IS ONE!
113 :
☆匈奴とスキタイ☆:2009/01/22(木) 22:45:28 0
スキタイなら...
ウズベキスタン!!
ウズベキスタンといえば...
ANoRAという歌手(You came素敵♪)
ANoRAってスキタイと関係あるかも?
114 :
世界@名無史さん:2009/01/22(木) 23:42:51 0
バンコクなら...
タイスキ!!
サカがサカでサカー
116 :
Decide One's Fate ◆D/w5oCAtaw :2009/01/31(土) 22:33:32 0
OSSETIA IS ONE!
(デイリースポーツオンラインより)
http://www.daily.co.jp/gossip/2009/01/29/0001676497.shtml >ATSUSHI、命の尊さに感動
>テレビ番組でナビゲーターに挑戦したEXILEのATSUSHI=都内のスタジオ
>テレビ番組でナビゲーターに挑戦したEXILEのATSUSHI=都内のスタジオ
>人気ユニット「EXILE」のボーカル、ATSUSHI(28)が28日、都内でフジテレビ・
>関西系「LIFE IS BEAUTIFUL2」(2月1日、後4・05)のナレーション収録を行った。
>ATSUSHIは昨年に続き同番組でナレーションに挑戦する。
>ロシア・南オセチア共和国、ベトナム、日本(岐阜)での問題を抱えた女性の出産を通じ、
>命の尊さを学ぶドキュメンタリー。涙もろいというATSUSHIは「感情を抑えるのが大変だった。
>(次回があれば)ぜひ現場へ行ってみたい」と真剣なまなざしで語った。
だいたい重要なことは一通り前スレで網羅してるんだよな
118 :
ほんわかぱんつ ◆iMkK2JmDbs :2009/04/05(日) 15:09:53 O
日本には、スキタイの血が流入しているのは確定的に明らかである。
120 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 04:13:49 0
>>118 円墳の分布の東限であり騎馬民族征服王朝に支配されていたことは事実。
厳格な身分階層社会は室町中期(応仁の乱)まで維持されていた。
「兵(つわもの)」=軍事貴族(本来の武家)であり人種的にも圧倒的多数の
百姓とは別物。
武士の起源=富裕武装農民説もデタラメ。
日本は応仁の乱以降、人種的平等(混血)の道を歩みだしたと言えよう。
121 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 09:30:55 0
円墳は「クルガン文化」であってもっとスキタイよりも広い概念
スキタイ=クルガン=R1a=スラヴ
∴スキタイ=スラヴ
123 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 22:27:07 0
本来の日本の武士(軍事貴族)≒スキタイの後裔と言える。
124 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 22:46:22 0
円墳、重装騎兵、「弓馬の道」、支配層による鉄製品の独占
これらは古代日本が騎馬民族によって実力支配されていたことを物語っている。
125 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 22:51:22 0
庶民の視点で言えば日本は鎌倉時代に初めて鉄器文明に突入した。
126 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 23:09:28 0
アッララララーイ アッララララーイ
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( ・∀( ・∀( ・∀( ・∀( ・∀・)・∀・)・∀・)・∀・) 人 ガッ!
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>>118-125 /
スキタイは壮麗な黄金文化で有名だが、
草原で金を溶かすだけの燃料をどうやって手に入れたのか?
壮麗と言っても遊牧民の手前、黄金の建築物のように大々的な物は作らず、
身の回りの装飾品に止まっている。これらの装飾品はスキタイ人自身が作ったのではなく
スキタイ人の想像した造形をギリシャやペルシャの職人に注文して作らせたとされている。
129 :
ほんわかぱんつ ◆iMkK2JmDbs :2009/04/14(火) 00:37:50 O
スキタイがどうやって日本に渡って来たのかが謎。
スキタイに船で海を渡る技術があったのか?
ゴート人やスラヴ人は黒海を押し渡ってるが
131 :
ほんわかぱんつ ◆iMkK2JmDbs :2009/04/14(火) 00:49:11 O
スキタイが日本に渡って来たのはいつ頃なのか?
日本で騎馬が始まった時期と一致するのか?
132 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 01:04:16 0
ソグド人や契丹人や高句麗人は来たかも知れんが「スキタイ人」は来てないと思う
133 :
ほんわかぱんつ ◆iMkK2JmDbs :2009/04/14(火) 01:13:47 O
高麗はスキタイの末裔。
134 :
ほんわかぱんつ ◆iMkK2JmDbs :2009/04/14(火) 01:17:56 O
巻物(長い紙に筆記して巻いたもの)はスキタイ起源か?
古代朝鮮にも巻物はあったか?
135 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 01:19:30 0
日本の円墳からは馬甲冑が出土しているし埴輪には馬や外洋航行可能と思われる船を
模った物もある。
応神から雄略朝までの4世紀後半から5世紀。しかし前方後円墳の時代と被るので
実際にはもっと後代の5世紀末から6世紀の王統断絶から継体朝期があやしい。
>>130 スラヴ人の海賊は一時期エーゲ海まで荒らしまわっていたが
ゴート人はたしか陸路でドナウ川越えたんでなかったっけ
137 :
ほんわかぱんつ ◆iMkK2JmDbs :2009/04/14(火) 01:36:47 O
スキタイの筆記具は何があるの?
羊皮紙に羽ペン?毛筆?
スキタイ人じゃないけど、ヘロドトスとかの時代はまだ石版に書いてたとか何かで読んだような・・・
>>136 3世紀にゴート族は、海からエフェソスを襲撃した事があるそうな。
黒海北岸に到達したばかりの頃は、まだ騎馬民族化していなかったのだろう。
スキタイ系騎馬民族は
スキタイ→(原スラブと混血)→サルマタイ→(さらに原スラブと混血)→現スラブ
そういった黒海北岸のイラン系遊牧民はフンの侵入以後はテュルク系に同化してしまった者が多いのではないだろうか。
142 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 15:36:13 0
スキタイって今のウクライナの黒海あたりが起源だとされてる民族だけど
なぜ突然歴史から消えたの??モンゴルに騎馬戦術とか馬乳酒を教えたのも、
スキタイ人でしょ。なのに、文化も歴史もその存在から消えてしまった。
せめて、その名残として食べ物くらいは残ってもいいはずなのに。
例えば、馬乳酒はなぜ消えたの??何千年も飲んでいる飲み物なのに
遊牧民が消えたとたんに廃れるということは馬乳酒はおいしくないの??
143 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 15:40:45 0
消えたんじゃなくて、おそらく伝染病で人口が激減し、
それで他民族と混血融合し、オリジナリティが消えたんだよ。
シュメール人やバビロニア人、カッシート人などと全く同じ。
平地を走り回っていた民族は、だいたいこのように消えていく。
144 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 16:42:45 0
ロシアとかウクライナの民族衣装の起源は遊牧民からきてるのかな??
中央アジアと少し似てるような気がするんだよね。東欧あたりは、スキタイ人が
遊牧してたところなので食べ物でも音楽でもいいから、何かかしらその時の
名残が残っててもいいはずだ。ひょっとしてヨーグルトの起源は、モンゴルあたりで
飲まれてる馬乳酒のなのかな??
145 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 10:34:18 0
スキタイ=クルガン=R1a=スラヴ
短絡的だが、たぶん当らずと言えども遠からず。
血統的には、今の南部のロシア人からウクライナ人あたりの先祖か。
ただスキタイの言語そのものはイラン系であった可能性が高い。
そこから考えると旧ソ連南部のイラン系ということになるが、
オセチア人ぐらいしかめぼしい民族は残っていない。
つまり、ケルト人と同様、今は違う言語系統の民族に吸収されたと
みるのが妥当か。
>>142 スキタイ(遊牧スキタイ)サルマタイに負けて有力者の統治が消滅した後、
農業をやっていたスキタイであるプロトスラブ人の社会に同化して
両者が合わさってスラブ人になった。
>>144 ロシアやウクライナはスキタイ的な精神文化を持ってる。
思考方法がスキタイそのもの。
西のスラブはケルトやゲルマンと混血しているから
ロスケ共ほど野蛮じゃない。
>>145 イラン系言語とスラブ系言語は語彙や発音に共通した部分が多いため、
やっぱりスキタイの子孫はスラブでしょう。
スラブ語の「神様(ボグ)」をはじめとした語彙はイラン系と共通、
100を「スト」と発音するのもはイラン系と共通の訛り。
147 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 10:55:27 0
インドで純潔の白人種の外見を維持するパルシーは、
言語・人種両面で、ロシア人やウクライナ人の兄弟民族ということか
148 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 13:38:32 0
そうでないと理屈に合わないと思うが。
最もブロンド現象はそれほど進んでいないとは思うけどね。
ロシアが、イランの核開発を支援するのも、互いに兄弟民族だからか
150 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 16:54:49 0
ヴァンダル人スラブ系説がWIKI英語版などに書かれている。
サルマタイ人はポーランド貴族の先祖と考えられていたな。
ガイセリックらは、ヴァンダル族とアラン人の王と称していたとされる。
ヴァンダル族がスラブ系ならば、ゴート族らよりもアラン人の言語が
比較的解りやすかったので、アラン人と一体化したのだろうな。
ヴァンダル人=ポーランド人説か。
ポーランド、チェコ、ザクセン地方などに住んでいた西スラブ系は周囲とは違う独特の文化を持っていて
ロスケともかなり違うために、ヴァンダルとはゲルマン・スラブ第一波・ケルトの3者混血で
それが基礎となっていたところに6世紀に東から来たスラブ第二波と混血して消滅、
その子孫が現在の西スラブではないかともいわれている。
中世の「ポーランド」というのは今よりずっと広い概念で、
広大な地方の系統の異なる様々な言語の部族の貴族が数世紀かけて
徐々にポーランド語で結ばれてきたものだから、サルマタイの子孫も混じってはいるはず。
しかし17世紀ごろのポーランド貴族は、血筋はともかく文化的にはサルマタイ直系だと思っていた。
いずれにせよロスケはじめルーシはスキタイの子孫だろう。
あの野蛮さを見れば一目瞭然。
伝説によれば、ヴァンダル族は、ゴート族やランゴバルト族らがスカンジナビア
からヨーロッパ大陸側に上陸する時に、大陸側に既にいたとされる。
156 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 23:15:30 0
人種学者ピッタールも、すでに20世紀前半に、
ゲルマン民族の一部は北欧人(所謂北方人種)とは無関係と主張している。
ポーランド人は南部の諸地方だとあちこちでいろんな形のバグパイプを吹く習慣があるんだが、
ヴァンダルがスラブとゲルマンに加えてケルトの文化を持っていたならオーパーツじゃなくて、
ちゃんと説明が付くね。
北欧に印欧語を持って東方から現れたのはアーリア系原ゲルマン人で、
当時既に長い間北欧に住んでいたのが言語不明の金髪の北欧人。
フィン人のようなウラル系言語じゃないかな。
原住民の方が金髪が多かったらしく、アーリア人はこれと混血して
独特の風貌を持った北ゲルマン人になった。
ロシア大陸の方では元から北欧にいたのが同じようなウラル系金髪民族。
そこへ、それまで原スラブとスキタイが混血してできたルーシ人がやってきて、
ルーシ社会にどうかしてしまった。これがロスケども。
>>157 ガリチアと呼ばれているから、まさにそうなのだろうね。
160 :
世界@名無史さん:2009/04/19(日) 11:30:23 0
>言語不明の金髪の北欧人。
これが原印欧語族の集団と混同されてきたが、
ノルマン人は、基本的にイベリア人が脱色してああなったのだと思う。
フィンランド・エストニア人のルーツはもう少し東方だったのかもしれない。
ブロンドは原印欧語族の集団にも見られただろうが、
今の北欧人ほどフェアーな色ではなかったと思う。
金髪が北欧中南部を中心に同心円的な分布をしていることから、
基本的には北欧で数千年かけて生成されたことは疑いがないと思うが。
なまじ、現在印欧語を話すものだから、アーリア人と混同されている。
まあ、あと10〜20年もすれば遺伝子情報の分析で判明するだろう。
ここがはっきりしないと、人種的な価値観が歴史に持ち込まれて困る。
アーリア人種とか、人種は歴史のタブーとか振り回されすぎ。
161 :
世界@名無史さん:2009/04/19(日) 12:09:42 0
>>159 このガリチア出身の集団が、イスラエルを、コネと人脈で支配しているそうな
キブツも、彼らの運営するエリート集団育成の母体
嘘つきで、身内びいきな連中だという。
スピルバーグの映画『ミュンヘン』の原作に載っている話。
語り手は、モサドのオリンピック・テロ報復ヒットマン・チームの一員だったが、
ガリチア人ではなかった
>>160 言語不明の金髪の北欧土人は非印欧語族で、しかもウラル系のフィン人とも違う。
R1bのやつら。
これがユトランド半島を中心にして北はスカンジナビア、フランス・ドイツ・ポーランド北部に住んでいた。
そこへ、それに遺伝的に近かった印欧語族(アーリア人)R1aが東方からやってきてR1b土人と混血した。
>>161 なぜか昔から「リトアニアのユダヤ人」と呼ばれているやつら。
おそらくリトアニア大公国が領土を広げたときに黒海周辺で大公国に取り込まれたユダヤ人。
14世紀にドイツで迫害されてポーランド王国のマウォポルスカへ大量移住してきたユダヤ人とも
地理的に近くなったから、両者は多少は混血したと考えるのが自然。
しかし両者は外見がかなり違うらしいが。
カーク・ダグラスとダスティン・ホフマンみたいに違うのか
165 :
世界@名無史さん:2009/04/19(日) 22:54:54 0
カーク・ダグラスは小柄ながら、普通に二枚目の白人だな
>>146 ケルト人やゲルマン人がスキタイ人より野蛮でなかったという根拠は?
スキタイ諸部族は、アッシリア時代にはかなり好戦的で強大であったとされるが、
ローマ時代には好戦的でなくなり、匈奴やゴート族らに駆逐されてしまったされる。
ケルト人とスキタイ人、ゲルマン人と匈奴、スラブ人とトルコ人がそれぞれ同世代
の蛮族であり、同じ頃に野蛮人の代名詞となったとされる。
スキタイがケルトより野蛮だというのは
逆に考えればスキタイの勢力の方がケルトの勢力よりも遥かに強大だったとも言える。
169 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:59:14 0
R1bは北方人種の分布と近似してるが、
東ヨーロッパの金髪系の遺伝子はR1aか?
ちょっと違うような気がするが。
気がするだけでは何にもならん。
実際のデータを見てみれば一発じゃろ。
R1bが金髪が多い、フィン人とも違う非印欧語族(非アーリア人)で、
いまのゲルマン語族に残るウムラウト系の母音の訛りをもっていた狩猟採集の石器人。
R1aは印欧語族(アーリア人)で、R1bほどではないがこれも金髪がそこそこいて、
クルガン文化と青銅器と農業(牧畜と穀物)を携えて黒海北岸あるいは西岸の一帯
(いまのウクライナからルーマニアドナウデルタにかけて)の故地から
とくに紀元前4000年紀に大量に周囲へ拡散、東は中国西部まで(トカラ)
西はイベリアやヒベルニア(アイルランド)まで。
R1bもR1aもR1からの派生だから、R1の時代以前に金髪が出現していた
R1bのほうがR1aよりも金髪が増えただけ。
両者が混血したのが現在のドイツやポーランドあたりからユトランドやスカンジナビアにかけての
バルト海南北岸一帯の地域で、後のゲルマン語族。
イランやインドの方面へ向かったグループの一部が現地の非印欧語族の原住民と混血、
言語の発音がサテム化してインド・イラン語族となる。
それがこんどは西へ戻るように進出(スキタイなど)、進出先にいたグループ(原スラブ・原バルト)と接触、
原スラブ(農耕スキタイ)・原バルトの言語全体の発音の仕方がサテム化してスラブ語やバルト語となる。
遊牧民のスキタイ王族滅亡後に言語の発音ごと集団全体が原スラブ(農耕スキタイ)や原バルトに取り込まれ、
集団としての遊牧スキタイは消滅。
>スキタイ(遊牧スキタイ)サルマタイに負けて有力者の統治が消滅した後、
>農業をやっていたスキタイであるプロトスラブ人の社会に同化して
>両者が合わさってスラブ人になった。
>遊牧民のスキタイ王族滅亡後に言語の発音ごと集団全体が原スラブ(農耕スキタイ)や原バルトに取り込まれ、
>集団としての遊牧スキタイは消滅。
その仮説だとなぜ遊牧スキタイだけ農耕民と同化する道を選んだのか謎だな。
古代は知らんが、中世で黒海北岸の遊牧民集団が東からの新たな遊牧民の侵入で瓦解するときは
一部はハンガリーや平地ルーマニア〜ブルガリア方面へ逃れて
他は侵略者の傘下に入るパターンが多い。
有名な例だと、クマン人が滅ぼされたときはスラヴ人よりむしろモンゴルに同化して
テュルク系のいわゆる「タタール人」を形成する基礎の一つになっている。
>>173 アヴァールもサルマートもスラヴにかなり同化吸収されている
これも有名な例
だから原スラヴに遊牧民が吸収されていくのは珍しくない
古代の遊牧民は栄枯盛衰が激しすぎて、モンゴルの例にみるように負けた相手の上層は皆殺しだから
森の牧畜民や農耕民だった原スラヴ(農業スキタイ)のもとに逃げ込むしかない
クマン人がヨーロッパに接触したのはキリスト教世界が成立した中世以後
それでもロシアでは大半がロシア民族に吸収され、かろうじて残っている程度
モルドバなど、ルーマニア系の地域でも、そこで吸収同化され消滅
ハンガリーのクマン系もそう長くないうちに消滅するだろう
さらにタタール人について、リトアニアン・タタールはリトアニア大公国を経て
ポーランド民族に吸収された
>>174 そりゃ定住農耕地帯に逃れた連中は同化吸収されただろうが、ステップ地帯に残って
モンゴルのマンパワーとして再編された中下層部族民もかなりの割合でいたはずだ。
ジョチ・ウルスで一世紀もたたないうちに公用語がキプチャク・トルコ語になり
モンゴル語は外交文書でしか使われなくなったあたりを見ても、相当数の
クマンやカンクリ等テュルク系が取り込まれたことがわかる。
ジョチ・ウルス系の諸集団でも形質的にモンゴルの血が濃いのと薄いのがいた。
ユスポフ公家の先祖が属していたノガイ集団なんかは前者だったらしい。
ちなみにモンゴル侵攻の頃のクマン人は、ドミニコ会がクマニア司教区なんてのを作って
布教してるかと思えば正教徒もいて、一部にはムスリムもいるという状態で
後のタタール人とロシア人のようにはっきりとした宗教対立があったわけではなかった。
で、スキタイ人がサルマタイの抹殺の対象になりうる指導層だけでなく、
>>171のいうように
「集団全体」がわざわざ定住農耕民に同化する道を選んだとしたら何故なのかと。
>>175 いたはずだって・・・そんな痕跡らしいものが一切ない
証拠らしいものが一切ないのにいたとか言われてもねぇ・・・
スキタイ+原スラブ=スラブ成立説は状況証拠がすべて支持しているから
いちばん可能性があるんだけど、きみの言うモンゴルのマンパワーだなんて100%ありえない
そもそもスキタイとサウロマタイは明確に異なるのであろうか?
アルサケス朝とササン朝のように連続している点が多いのでは?
スキタイのスラブ化は、ゴート族やフン族らに牧草地を追われた
からではないだろうか?
一般に、アッティラのフン帝国崩壊後に、スラブ民族の大移動が
始まったとされる。
アルサケス朝とササン朝が連続してる?
そんな今までの定説を全く覆す新説いつ出たんだ?
支配者じゃなくて一般民衆が、ということでは?
対一般民衆政策でもおかしいだろ
アルサケス朝は被支配下のギリシャ系にもセム系にも一般的に宥和的で部族連合的政体だったが
ササン朝は民族主義的で中央集権的だ
>>178 ササン朝時代においても、スーレーン家、カーレーン家、ミフラーン家など
パルティア諸侯らが存続していたとされる。
根拠にならん
スキタイが、サウロマタイにステップから森林へ追い払われて、スラブ人に同化していったか
どうかに関して、ササン朝がパルティア人を領内から一掃しなかった事を例としただけだが?
>>176 >いたはずだって・・・そんな痕跡らしいものが一切ない
>証拠らしいものが一切ないのにいたとか言われてもねぇ・・・
もしかして
>>175の最初の2行しか読んでない?
森でどうやって暮らすかというのはステップ遊牧民のスキタイは知らなかったんだろうな
一方スラブ(プロト・スラブ)はそれまで森や沼沢地帯ですでに何千年も暮らしていたからまったく苦労しない
>>181 パルティア人は定住化して遊牧から農耕へ生活が移っているから例えにならん
187 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 17:07:33 0
スキタイ人の子孫といえばインドのJat族だろ
キンメリア人のアナトリア移住、サカ族のインド移住、西ゴート族やブルガール族のバルカン移住の
様な民族大移動が、ギリシャ人やローマ人らが記録していないので、スキタイ領の住民の多くは、
追い払われずに、サウロマタイの支配下となったのではないだろうか?
ゲルマンのキンブリ族の様に、スキタイの残党がケルト世界に侵入したと言う記録はなかったとされる。
189 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 21:05:58 0
やはり地理的な面も考えると、
スキタイの子孫はウクライナ人の一部とみるのが順当。
ルーマニアもスキタイらの子孫ではないだろうか?
ダキア人の居住地は、トランシルバニアだけだったらしい。
ローマ帝政期にハンガリーのドナウ河以東はヤジキ族、
モルダビアとベッサラビア、ワラキアはロクソラン族らの
居住地、ドブルジアは属州スキティアだったされる。
191 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 22:09:41 0
やめなさい。必死でスキタイの子孫がスラヴであることを否定しようとする馬鹿。
定説なんだからここで咆えても無駄だ。
今現在スキタイに最も近いのはオセットだというが。
モンゴル帝国時代もアス族の名で活躍している。
スキタイの子孫がスラヴであることを否定しているわけではない。
スラブに同化してアント人呼ばれたスキタイ以外に、ローマに征服されたり
ローマ兵になったりして、ラテン化したスキタイもいたはずであろう。
スキタイって、別に一枚岩の純血遊牧民族国家とかじゃないんだろ?
>>194 北方の遊牧・半定住民・定住民を総称してスキタイだからねぇ。
>>181 それはパルティアとサーサーン朝の連続性の証拠にはなりえない
なぜならそれら貴族はサーサーン朝に服属したにすぎない
しかもパルティア時代のような半独立的な存在としては許されず
サーサーン朝においては帝国官職を強制させられた
サーサーン朝はパルティアの連続どころかパルティアを完全に否定し排斥したのが事実である
サーサーン朝の初期には北東イランの支配権確立のためアルサケス朝(パルティア)の存在を否定しカウィ朝という架空の王朝を作り
そのカウィ朝とサーサーン朝の連続性を強調した
4Cのフワダーイ・ナーマグにはアレクサンドロス(イスカンダール)の侵入後は小君主分立時代としてパルティアの存在を無視
シャーナーメでもパルティア時代は51ページに及ぶが内48ページはパーパクとサーサーンの逸話であり
実際のパルティアは3ページしか書かれていない
アレクサンドロスの記述が122ページにも及びパルティアの冷遇された記述とは好対照だ
197 :
175:2009/04/23(木) 01:31:14 0
クマン人がモンゴルに吸収されることが100%ありえないって話の根拠マダー?
>>196 スキタイが、サウロマタイに皆殺しにされたのか、サウロマタイに支配されて
いたのかについて、メディア人らに殲滅されたアッシリア人のようにではなく、
パルティア貴族がササン朝時代にも存続していた事について例にしただけなのだが?
ここで騒いでも歴史は捏造できないんだが?
ここはスキタイ・スレだろ?ササン朝とかはどうでもいいんだがw
まあスキタイのその後はどうなの?という意味でまったくの無関係でもないでしょう。
>>200 なんら証明する遺物が一切出ていないスキタイがスラブだと断じているレスは棚上げか
もともとこれを論じている人間がいいかげんなパルティアとサーサーンの連続性などと言い始めたから
ちょっと二、三意見しただけの話
別に他にレスるつもりはないね
最近のここはトンデモ説論ばかりがまかり通って全然自分の知識の向上に役に立たないし
>>202 おまえがトンデモなんじゃないの?なんでそんなにスキタイ→スラブに必死なのよ?
好き嫌いで歴史を勝手に解釈するなよ
204 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 21:26:32 0
「スキタイ人がスラヴ人になった」という明確な証拠はあるのでしょうか?
どこの誰がどの本で定説だと言っているのでしょうか?
>>202 パルティアとサーサーンの連続性と言っている奴は、スキタイがスラブだと断じている奴に質問しているみたいだぞ。
206 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 23:24:32 0
でもさあ、歴史的事実が確定していればこのスレないと思うよ。
みな想像で話しているのだから。
そのあたりよく考えろよ。
208 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 23:54:14 0
ソース出せるか、似非歴史愛好家君。(笑)
209 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 23:57:07 0
こいつ読んでたら俺も腹が立ってきたんだが
>>208 自作自演で複数を装ってるな
スキタイは今のスラヴだろ。何で喧嘩してるの?
211 :
208:2009/04/24(金) 00:18:13 0
そんなに暇人じゃない。
今日も11時過ぎに帰ってきたばかりだ。
おいおいお前ら。罵倒のし合いはやめてくれ。
せっかく近頃賑やかになってきて面白い話が聞けると喜んでいたのに。
説の批判が説を言う人の人格の批判みたいになるのは勘弁な。
間違ってる所があったら謎かけするんじゃなくてズバリ指摘して正してくれ。
スレ読んでるのあなたとあなただけではなく見物人もいるんだから
個人的なやりとりされると話が見えなくて困る。
213 :
175:2009/04/24(金) 09:45:09 0
で、
>>176のクマン人がモンゴルに吸収されることが100%ありえないって根拠は・・・
214 :
世界@名無史さん:2009/04/25(土) 09:24:12 0
クマン人は全部かどうかはわからないけど、
ハンガリーに逃げてきて、
バトゥのモンゴル軍と闘ったけど、
たぶんその後、パンノニア平原に定住したので、
今のハンガリー人のごく一部を形成しているはずだ。
>>173 >遊牧スキタイだけ
スキタイの土地(スキュティア)に当時住んでいたのはステップの遊牧スキタイ人(王族スキタイ含む)と
その北に住んでいた農耕スキタイ人(農民スキタイ人含む)だけだから、
サルマタイに滅ぼされて逃げたのが「遊牧スキタイだけ」なのは当然のことだろう?
パンノニアに逃れた集団は最後には紀元前4-3世紀ごろの好戦的なケルト部族の侵入で絶滅
少なくとも文化的には完全に消滅したからそれ以降の痕跡も一切残っていない
その後のパンノニアはローマ人やダキア人の支配するところとなる
スキタイはサルマートに敗れ、サルマートに吸収されたり
一部はクリミアに残存して後にゴート人に征服、吸収されたり、
様々な民族に吸収されながら消えていったと思われる。
負けて吸収される場合は勝ったほうに支配される隷属民になるのが
インドからヨーロッパまでの印欧語族の掟
言語から考えるとスキタイの大半はスラヴになったんだろうね。
>>215 そもそも
>>173を読んでれば分かると思うが、「遊牧スキタイだけ」ってのは農耕スキタイ等と比較して
言っているのではなく、歴史上ポントゥス・ステップにいた他の様々な遊牧民と比べてという話。
農耕スキタイと遊牧スキタイって、言語や文化がだいぶ異なってそうだな
単に上のほうがスキタイと名乗ってるから、下々もスキタイ国家の臣民ということになってるだけだろ
>>215 サウロマタイの西進が紀元前260年頃で、ケルト人のバルカン南下が紀元前280年
とされるので、サウロマタイとケルト人の勢力拡大は、ほぼ同時期のようである。
五胡十六国時代の華北みたいに、非支配層は一定して漢族だけど、
支配層はころころ変わっていたなんてこともありえるからなぁ。
>>220 それ読んで思い出したけど、明が元を倒して中国の支配者になったあと
趙という苗字の使節を日本へ送り出したら
「たしか元寇のときに来た使者も趙という名前だった。こやつはモンゴルの密偵に違いない」
といわれて斬られそうになったことがあるそうだ
スレ違いすまそ
>>224 そこは結論が出ていない
なにしろ書かれたもののない時代だから
考古学的にはPrzeworsk文化とWielbark文化という、現在のポーランドを中心地域とする古代文化で、
墳墓や埋葬や副葬品などの特徴から原スラヴ、ゲルマン、ケルトの3つの文化が混じっていたと推測されている
スラヴに特徴的な火葬が多いため原スラヴが多かったことも推測されるが、
肝心な場所の多くで中世より都市建設されたため、大規模な発掘が行えず、証拠が発見されにくい
特に重要な場所の多くは古い教会の基礎部分になってしまっている
アステカ帝国のティオティワカンの大神殿の場所にメキシコシティー大聖堂が立てられてしまったのと同じで
宗教的に封印されてしまっている
まあヴェネツィアもウェネト人(ウェネティー)が住んでいたところにあるわけだが
ヴェンド人と関係があったりするのかね
ひと昔前の本では、ラウジッツ文化をイリュリア人によるものだとする記述があったな。
アドリア海岸とラウジッツとでは、随分と場所が離れており、不可解な記述であったな。
ロシアのエルミタージュ博物館シベリア室のマルサドロフ氏の近年の研究によると
スキタイは東から西へでなく、西から東へ移動したのではないかという説を出している
確かに氏が証拠として出しているゴルディオン古墳群など西方のクルガンと
それより約200年後の年代の東方のアルタイのパジリク、バシャダルのクルガン群を比べると
埋葬法や出土する遺物はほぼ同一といっても差し支えないぐらい均質的である
またパジリク5号墳ではアケメネス朝のタイル画にある獅子像とほぼ同一の毛織物が出土し
スキタイとアケメネス朝との関係を継承している
また先の尖った戦士の帽子もアルタイのウコク高原で発見された
これほどの均質的な埋葬法、遺物の一致はスキタイの東方移動が確実性のある説であることを証明していると思われる
逆を言えばスキタイ外民族で埋葬法や遺物に同質的な物がほとんど見受けられないならそれはスキタイ文化を継承したとは言い難い
229 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 12:56:37 0
なるほど、西から東という説も面白い。
そうすると乗馬方法とか匈奴などモンゴロイド系の民族に伝播したのに
合理的な説明がつく。
掘るとこ掘ればちゃんと目に見える形で出てくるんだな。
231 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 17:55:11 0
ゴルディオンはトラキア系のフリュギア人が作った町だろ。
それじゃあミダス王が騎馬民族になっちゃう。
西←スキタイ→東
と移動しただけだろうが
>>231 フリュギアを占領していた頃のキンメリア人らの墳墓の事なのでは?
234 :
世界@名無史さん:2009/05/01(金) 20:58:28 0
マッサゲタイ=スキタイ人?
イラン系遊牧民=スキタイ、サウロマタイ、アラン、パルノイ、マッサゲタイ、サカロウライ
236 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 09:59:44 0
マッサゲタイとスキタイは同じなの?
237 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 12:04:25 0
スキタイは対象が広すぎて、現在の民族へのつながりを
明確に指摘することは難しいよ。
イラン系とスラブ系が混在しているみたいだからね。
238 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 14:17:08 0
「スキタイは、東方のマッサゲタイに追われて、キンメリア人の地を奪って住み着いた」(ヘロドトス)。
マッサゲタイがスキタイと文化的に近かったかどうかも不明。
239 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 14:18:44 0
パシュトゥー、バローチは?
>>238 その当時、サウロマタイはどこにいたのだろうか?
スキタイかマッサゲタイの一部だったのだろうか?
241 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 16:01:51 0
東方から来たのでなく、アラクセス川(現・アゼルバイジャンのクラ川)を越えて移住してきたと、
ヘロドトスはいう。
またヘロドトスは「彼らは自らが地上で最も新しい民族であると考えている」と書いてあるので、
現アゼルバイジャンあたりの混合集団だったのでは?
ヘロドトスによれば
スキタイ人:ドナウ(イストロス)川からドン(タナイス)川まで
別種のスキタイ:ドン川以東の荒野に住み、スキタイ王に属しない
アルギッパイオイ人:ウラル山脈の麓の森林地帯に住み、木の実を常食とする
獅子鼻で顎が張り男女とも禿頭、服装はスキタイ風だが独自の言語を話す
イッセドネス人:ペルシア語でマッサゲタイ、スキタイ語でイッセドネス
ヴォルガ川やウラル山脈の東方(カザフスタン)に住み、習俗はスキタイ風
アリマスポイに追われてこの地に移住し、スキタイを黒海北岸へ追いやる
アリマスポイ人:スキタイ語で「一つ目」を意味する種族 カザフスタンの東方、ジュンガリア盆地の遊牧民
黄金を守る怪鳥グリュプスの群れ:アルタイ(黄金)山脈に棲む
ヒュペルボレオイ人:北風(ボレアース)の彼方に住むモンゴル高原の遊牧民 さらに東方には海(北海、バイカル湖)がある
243 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 19:18:57 0
アルギッパイオイ人の居住地は現在のタタール人の住んでいるあたりかな。
カザフスタンよりは北方に分布していたようだ。
するとフィン・ウゴール語族と関係があるのかもしれない。
>>242 別種のスキタイ=サウロマタイみたいですな
ゲルマーニア人がいわゆるゲルマン人とケルト人とスラヴ人の混在の総称だったように、
スキタイ人も色んな言語の集団の混在だろ
遊牧スキタイでさえ一言語の一民族と言えるかどうか怪しい
この時代の歴史は長かったしイラン系とスラヴ系の交流は明らかになっているから、
当初の遊牧スキタイが東方から来たイラン系だったとしても、
実際はだんだんんとスラヴ系も混じってきていたとしても変じゃない
246 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:19:42 0
西イラン語としての「スキタイ語」というのは、王族スキタイの人名から推定された、ということですか
247 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:28:00 0
でも、スキタイ帝国として長続きしていたら、言語も統一されていたはず。
248 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:36:58 0
「スキタイ」というのは、あくまでギリシャ側からの他称である。
黒海方面の民族をさして「スキタイ」と記録していたのだから、その実体もそれぞれ異なっていたはず。
249 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:42:25 0
ドナウ川一帯から黒海北岸を越えて東へ広がる一帯が「スキュティア」という地名
そこに住んでた人たちの総称がスキタイ(スキュティア人)
統一国家なんかない
250 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:43:37 0
スキタイ人は誤訳
スキュティア人が正しい
スキタイ人では「スキュティア人人」という意味になってしまう
251 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:50:16 0
スラヴ人(捕虜として拉致されてきた奴隷除)が黒海沿岸の平原に住み着いたのって、クリミア・ハン国が、
エカチェリーナ2世にあぼーんされたあと植民されてからじゃないの?
252 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 16:12:28 0
なるほど、ではこれからスキティア人とするか。
これなら以前とあまり違和感なく言い易い。
>>251 それは近代ロシア時代のこと
スキタイ時代のいわゆる原スラヴ人がどうだったかほとんどわかっていない
文化圏やヘロドトスの記述から判断すると、原スラヴ人がすでにそこに住んでいた可能性が高いとされる
254 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 17:23:44 0
モンゴル支配以降、遊牧民がイスラム文化圏に加入してから、
キリスト教スラブ人との間に「民族的境界線」が明確になったんでしょう。
255 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 17:38:06 0
>>241 スキタイは、メディアのキュアクサレス大王らにより中東から追い払われたので、黒海北岸に移住したと言う事なのだろうか?
そもそも、アケメネス朝時代に黒海北岸にいたスキタイは、アッシリアと戦ったアシュクザイの末裔なのだろうか?
アシュクザイの末裔=別種のスキタイ(ドン川以東の荒野に住み、スキタイ王に属さない) なのでは?
257 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 18:02:08 0
イラン系遊牧民
258 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:23:17 0
ノーノー、イラン語群の遊牧民
テュルクやモンゴルだって、近代的な「民族」「人種」で構成されてるわけではなく
話す言葉や属する政治勢力によってそう呼ばれてるだけだからな
アメリカ先住民はいるが「アメリカ合衆国民族」はいないし、
英語話すからってみんなアングロサクソン民族ってわけでもない
260 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:50:30 0
たぶんスキタイ王国の一部支配層を指して「スキタイ」と呼んでいたはず。
ただし、ヘロドトスもバカじゃないから、それが一色ではなく、
各種雑多の混合体というのは指摘している。
残念ながら、古代だからそれ以上の突っ込みはなし。
だから、ここでこのような議論になっている。
261 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 20:22:41 0
「遊牧民」も自明のことだったのだろうか?
支配層は戦士にして交易路保護者だったはず。
おいら あんたのことがすきたい!
>>261 たしかヘロドトスはスキティア人(スキタイ人)を
・王族スキタイ(遊牧生活から派生した支配部族で戦士)
・遊牧スキタイ(一般の遊牧民)
・農耕スキタイ(農業かつ工業)
・農業スキタイ(その他の農耕民)
に分けている。
そのうち王族スキタイと遊牧スキタイは東方から来たイラン語群系の人々が主体と推測され、
農耕スキタイと農業スキタイは原スラヴ語族(プロト・スラヴ人)が主体と推測されている。
その北方に人狼の習慣があるネウル人(ネウロイ)等がいて、
これらも原スラヴあるいは原バルト人あるいはその両者が完全に分化する前の種族と推測されている。
その向こうにアンドロパゴイつまり食人族がいてこれはフィン系と推測されている。
アシュクザイ→安息?
安息はアルサケスでしょーがつ仮面
266 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 00:45:55 0
王族ほど混血、マルチリンガルだったはず
>>242 イッセドネス=マッサゲタイ&サカロウライ、アリマスポイ=トハロイ?、ヒュペルボレオイ=丁零?
丁零はすなわちテュルク(のちの突厥、鉄勒)である。
『山海経』ではケンタウロスのような半人半馬(人間の体に馬の脚)の異種族として想像された。
一目国も『山海経』に記載があり、ユーラシアの東西で似たような怪物種族が伝承されていたようだ。
269 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 17:09:38 0
ギリシャ人は騎馬を一切知らなかったの?
ギリシャの市民は密集した都市の生活だからたくさんの馬は育てられないし乗馬なんかもってのほか
271 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 21:26:25 0
>>269 うまに戦車を曵かせることは知っていても、人が馬の背中にまたがって一個の生き物のようにのりこなすなんてしんじられなかったんだって。
272 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 21:59:59 0
人類の、馬に対する関係の進化:
食う→車を引かせる→乗る
「コーカサス」の名称は古代スキタイ語で「白い雪」を意味する「クロカウシス」が語源であるという。
>>273 スキタイというか、ずっと古い時代の多神教時代のイラン系の諸部族の言葉で「一番高い」とか
「精霊のいる場所」とかの意味のCafcuhだったはず。
各地の伝説でNoahの子孫の一人の人名として出てくるCaucasがCafcuhから派生しているとか。
275 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 02:23:48 0
ちょっと質問があるんですけどスキタイ人を滅ぼしたとされるサルマタイ人は何故消えてしまったのでしょうか?
それとアラン人はサルマタイ人の一派というのは実のところ本当でしょうか?
いや、消えとらんぞ
諸民族と混交した末にアスト(オセット)族になってモンゴル帝国に加わった上、
今グルジアとロシアで揉めてる南北オセチア共和国に住み着いておる
大半はルーシを通じてスラヴ語系の民族に吸収同化されているはず
278 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 12:21:23 0
ソグド人、ペルシャ人など他のイラン語系集団に吸収されたのでは?
イラン語だからイラン語は単純すぎ
地理的要因、経済的要因、文化的要因を総合して考えなければ
280 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 15:15:14 0
最終的に衰亡したのはモンゴル軍に黒海沿岸、北コーカサスが征服されてからだろう。
山岳地帯に追い込まれる。
残った者はモンゴル軍団に組み込まれる。
スキタイの習慣をよく残していたのはコサックだろ
コサックはポーランドから見てもロシアから見ても辺境の連中でならず者だったからスラブ語を喋っていても生活習慣が異なった
またスキタイ=スラヴ論争か
よそでやってくれ
283 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 17:14:45 0
スキタイなんてクリミア半島のギリシャ人職人につくらせた金ぴかアクセサリーと大麻吸引以外に文化あったの?
逆だろ?
スキタイ=非スラブ論のほうがおかしいよ
スラヴに関しては状況証拠的には矛盾しないからなにも排除する必要はないわな。
286 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 22:57:25 0
スキタイは多様過ぎる。
でも中心はイラン系騎馬民族であるのは確か。
ただし、被支配民族はわからない。
19世紀中ごろまで帝政ロシアがキリスト教の教化の手が及ばなかった為に
黒海北岸にはまだイラン系で部族固有の信仰を奉じた遊牧民の部族が残存していたらしい。
289 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 01:36:32 0
>>277 >大半はルーシを通じてスラヴ語系の民族に吸収同化されているはず
それは一体いつの時代の話だ?
291 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 10:47:57 0
数世紀にわたって間断なくスキタイ類縁民族の同化・融合過程は続いた。最後的にはコサックに吸収され山岳地帯のオセット人だけが生き残った。
292 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 11:10:49 0
>>290 チェルノレス文化とその後のチェルニャコフ文化時代だろ?
293 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 11:16:31 0
チェルニャコフ文化が衰退するとほぼ同時にスラブ人が書かれた歴史に登場してくる
その文化がチェルニャコフ文化のカブるから
スキタイ→チェルノレス文化→チェルニャコフ文化→スラブとちゃんと連続している
スラブは純粋なスキタイではなく、プロトスラブとスキタイとゲルマンとダキアとサルマートその他の混合で
言語はじめプロトスラブの伝統が優勢だったからスラブになった
スキタイの一部はカフカスの山に逃げ込んで土着の連中と混血して現在のオセット人になった
294 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 11:33:28 O
世界史板一の良スレだな、ここ、面白いし勉強になります。
>>293 スキタイ+チェルノレス文化(農耕スキタイ)がチェルニャコフ文化へ発展したんでしょう?
同時代のミログラード文化とかいうのも入ってきてるかも?
296 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 21:36:57 0
ローマ軍団の兵士としてブリタニアに駐屯し、アーサー王伝説の原型を持ち込んだという説もある。
>>295 チェルニャコフ文化にはゴート人も強く関わってるからヴィエルバルク文化も混じってる
ゴート人はスキティアのある一定の地域を支配して交易でもしていたと思われる
暴力による支配というより、商売による支配関係だったのではないかと思う
プロトスラブ人が穀物や家畜を作ってそれをゴート人が仕入れて遠くへ売りに行ったという感じだろう
そのため特にあの土地になかった動植物その他の名称に関してスラブ語にはゴート語からの借用語がかなりある
そして西のプロトスラブ人(ルギイ人=ヴァンダル人?)とも関わっているからプシェヴォルスク文化や
あとザルヴィンツィ文化も多少は影響しているかもしれないがそこはわからない
ミログラード文化の影響は見られるし、それに関する記述はヘロドトスの『歴史』に出てくる
299 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 19:05:29 0
かつて信じられていた「歴史的事実」が検証され、
変更されていくところに、まだまだ歴史学も進歩の余地ありだなと思います。
青森あたりであったな
昔の家屋では古代ユダヤ人のように家畜小屋が居住家屋と同じで
子供が生まれたときに新生児の額に十字架を書いたりするから
状況証拠的に昔、青森にキリストが来訪したとかいう妄想話が
301 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 02:03:22 0
イッセドネス=烏孫説あるんだね。
>>301 月氏の大移動以前、烏孫や康居はどこにいたのだろうか?
サウロマタイ(黒海北岸)
アラン(カスピ海北岸)
パルノイ(ホラサン)
マッサゲタイ(シル・ダリヤ東岸)
サカロウライ(セミレチエ)
トハロイ(ジュンガリア)
アシオイ?=月氏(甘粛)
匈奴(オルドス)
丁零(外蒙古)
東胡(シラムレン河流域)
アファナシェヴォ文化→アンドロノヴォ文化→カラスク文化→タガール文化→パジリク文化→タシュティク文化→?
305 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 03:41:34 0
>>291 モンゴルに攻め滅ぼされモンゴルの仲間にされたのが元のアスト軍団である。
306 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 03:43:58 0
>>296 アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ
C・スコット・リトルトン+リンダ・A・マルカー 著 辺見葉子+吉田瑞穂 訳
1998年 青土社
インド=ヨーロッパ語族の一派である、インド=イラン語派のうちの北東イラン語派に属する、北東イラン民族(スキタイ人、サルマティア人、アラン人)の文化的・歴史的背景と、
アラン人の後裔であるオセット人の、半神的英雄たちを主人公とする「ナルト叙事詩」から、アーサー王伝説との類似を考証し、ケルト起源節が定説とされているアーサー王伝説の、スキタイ起源説を提唱する。
スキタイが起源なのではなくもっと古くからのクルガン文化が起源だろう
クルガン人の時代から考えればスキタイなんか全然新しい
308 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 21:22:24 0
スキタイはシベリアにもいたの?
寧ろスキタイなど遊牧民の遺跡は時代的にシベリアでから西へと伝播したとも見れるとか。
スキト・シベリアン文化なんてのがあるぐらいだからな
テュルク人もシベリアの森林からモンゴル高原などへ進出した
牧畜の文化が中央アジアで始まって東西に広まったんだろう?
そこから遊牧の文化も発生してまたそれが東西に広まって
313 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 11:57:00 O
昔、現在のヨーロッパの人達への重要なDNA供給源として、西アジアから農耕技術を携えて来た集団と東からクルガン文化を携えて来た集団の重要性について読んだことがあるけど、現在この説は支持されているのでしょうか?スレ違ですいません。
ギンブタスのクルガン仮説のことだろ?
支持されているどころか、裏づけとなるDNA調査の結果が出てきてすでに定説となりつつある
315 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 17:51:38 O
なるほど定説になっているんですか、源ヨーロッパ文明はクルガンがもたらしたという説については、どうでしょう?
源ヨーロッパ文明ってなに?印欧語族が東方から持ってきた文化のこと?それはだからクルガン仮説そのものでしょ
遊牧の起源は、2つ考えられているよね。
一つは、農耕文化から分岐。
囲いの中で飼っている家畜が先にあって、その家畜を太らせるために草地に連れてゆく。
それが、段々と農地のある場所と、家畜の草地とが離れて、移動距離が長くなり、野営を始める。
ついには農地のある本拠地に戻らず、移動する野営で周年殆ど生活するようになったのが、遊牧。
もう一つは、狩猟起源。
周期的に移動する野生動物の群を追いながら狩って生活するうちに、群の移動や、繁殖固体に
干渉する形で馴化し、群を保ったまま特定の群と人間の生活単位(家族や旗・盟)との関係を濃密
化することで家畜化。
狩猟文化から直接遊牧文化が生じた、農耕文化とは全く独立して生じたという説は、それなりに
魅力的だし、比較的新しい遊牧文化、たとえば極圏ユーラシアのトナカイ遊牧なんかは、18世紀以前には
狩猟文化圏だったことが判っているから、スキタイ遊牧文化が農耕とは無関係に生じたような錯覚もして
しまいそうだ。
遊牧文化の起源なんてそりゃもうスキタイなんかより何千年も遡る話になる
319 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 16:24:47 0
スキタイ人の王族の墓とかが南ロシアとかで発見されてるんだけど、彼らが
移動しているときに使っていたテントって発見させてないの??
ウクライナなんか韃靼人が住んでたし。オペラで有名な曲で韃靼人の踊りって
曲があるし。
320 :
世界@名無史さん:2009/05/16(土) 12:14:15 0
ただ新石器時代以降の東方からの人口流入は現人口の10%程度と
言われているけどね。
極論すれば、世界史地図などに出てくる印欧語族のヨーロッパへの移動は、
言語レベルの話で、血統的には、すでにその前に大半の分布は
固まってしまっているというのが有力になっている。
これはインド亜大陸も同じ。
>>320 現人口の10%(EUの地域でいえば4000万人)もあったらいまごろヨーロッパは東京以上の過密地帯になっているだろう
322 :
世界@名無史さん:2009/05/16(土) 18:46:21 0
ごめん、その子孫が現在のヨーロッパの人口の10%相当という意味。
ヨーロッパでのアーリア人(クルガン人=印欧語族)マーカーR1aのキャリアは10%じゃきかない。もっといる。
このマーカーが非常に少ない地域もある、バスクなど。
逆にヨーロッパでこのマーカーがもっとも多い地域は中欧のポーランド。
ヨーロッパではポーランドを中心としてR1aは中欧と北欧に多く、西欧に少ない。
東欧も東に行くほどR1aが減少するが、中央アジアでまた増える。
324 :
世界@名無史さん:2009/05/18(月) 01:27:17 0
スキタイってモンゴル系も混じってたの?
325 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 23:55:49 0
インド・サカ朝はスキタイでしょ?
326 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 16:31:21 0
327 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 16:51:10 0
328 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 09:19:23 0
329 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 19:58:46 0
>アーリア人(クルガン人=印欧語族)マーカーR1a
ときどき出てくるけど、決め付けすぎ。
それだとブロンド系の白人と上手く結びつけられない。
印欧語族の発祥は、アナトリアが有力じゃないのか?クルガンがもたらしたDNAは確かにヨーロッパの遺伝子構成に寄与してるが、このスレで言われる程大きいとは思えないのだが。
331 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 20:53:28 0
アナトリア発祥説も次第に有力になりつつある。
ただあそこは地理的に不便な面がある。
ウクライナのほうが東西南へ拡散しやすいと思うが。
ただウクライナで何千年も平穏で暮らせるかという問題はある。
>>329 R1のうちR1a系もブロンドがかなりいる
ただしその親戚で印欧語形成よりも古い時代ヨーロッパに住み着いたR1bのほうがブロンドが多い
実際にそういう分布になっている
いずれにしてもR1から分化したのがR1aとR1bでどちらもブロンド系
R1aが最も多いポーランド人を見ると少し白っぽい、いわゆるアッシュブロンドが多い感じがする
>>330 クルガン人の持ってきたR1aは最大の要素で、これがヨーロッパを決定した
333 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 20:43:45 0
印欧系がシベリア、中央アジアにブイブイの頃、チュルク・モンゴル系はどこで小さくなっていたのですか?
中央アジアやシベリアのイラン系遊牧民を
インド・ヨーロッパ系と意図的に歪曲・強弁していたのは
イギリスがインド支配を正当化しようと目論んだ政治的表現だといい。
東胡はマンチュリア
匈奴・丁零・柔然はバイカル湖南方〜モンゴル高原
鮮卑は大興安嶺山脈〜華北
高車・突厥はアルタイ山脈西南麓〜中央ユーラシア
>>334 わけわからんことを言っとるなあw
インド・ヨーロッパ系とはまずは言語のことであって、イラン系はまぎれもなくインド・ヨーロッパ系だろうが
このインド・ヨーロッパ諸言語の元になったインド・ヨーロッパ祖語がどう成立してどう分化したかというと
黒海周辺でまず発生して拡散し、
その後に発音がサテム化した一種の「ファッション」がイランからインド北部のあたりで発生して拡散した、と
「インド・ヨーロッパ系」という表現はイギリスがインド支配を正当化するための政治的表現だという。
「アーリア人種」はナチスのイデオロギーの根幹だが元々はイラン系を指しており、
西欧優越史観による観念「インド・ヨーロッパ系」とか「アーリア人種」は実際の
古代イラン系遊牧民とは異なる
338 :
世界@名無史さん:2009/05/22(金) 23:55:18 O
元々アナトリアで産まれ細々暮らしてた印欧租語を話す連中が気候の温暖化につれて、コーカサスを通り黒海からカスピ海方面に拡散し増殖、その後少しずつ分化やがて気候の変動により東西に移動 かな?
遊牧民の遺跡はシベリアから西へと伝播しているし、
新しい遊牧民は概ね東から西へと移動している。
キンメリアが東から来たスキタイに追われ、そのスキタイはマッサゲタイに追われたという。
古代に活躍したイラン系遊牧民が西欧白人を源流とするのは西欧優越史観のこじつけではないのか。
モンゴル人やトルコ人は古い遊牧民なのか?
一番新しい移動は、18世紀オイラト人のカルムィク部が、アルタイ山あたりから
カスピ海西岸に移動しているが。
>>338 印欧語族は農業、とくに牧畜がすぐれていたと言われる
初期は豚、後に羊や牛
印欧語族進出以前のヨーロッパでは、牧畜技術が遅れていて、狩猟採集のウェイトが高かった
>>333 >>340 モンゴル人やトルコ人は、元来は森林地帯の狩猟民だったとされる。
コーカソイドはステップ気候により生じた人種だったとされるので、
青銅器時代まではモンゴル高原のステップにもコーカソイドが分布
していたと思われる。
スキタイ人の祖先らが半農半牧民であった頃、圧倒的な人口差で
モンゴロイドの狩猟民は手も足もでなかったが、コーカソイドらが、
寒冷乾燥化により農耕を放棄して人口が減少、さらに遊牧化により
土地に執着しなくなったので、モンゴロイドは、コーカソイドらを
追い払い、遊牧民となる事が出来たと思われる。
343 :
世界@名無史さん:2009/05/23(土) 19:47:15 0
まあ、原印欧語族の直接の子孫は現在の話者の一部だろうな。
モンゴロイドはウラル・シベリアで原コーカソイドから分派したという。
遺跡からはコーカソイド、モンゴロイドの遺骨が混在していることも多く、
コーカソイドとモンゴロイドが異なる人種集団として敵対していたようではない。
遊牧民はコーカソイド、モンゴロイド関係なくあまり人種の違いには拘らなかったよう。
345 :
世界@名無史さん:2009/05/24(日) 20:04:58 0
サカ族=スキタイでよろしいですか?
>>345 2chで学問的結論を求めるなんて・・・
>>340,
>>342 チンギス・カンを代表とするモンゴル諸部族は元々は大興安嶺の奥地を本拠地とした
半遊牧半狩猟の生活をしていたらしい。それが12世紀にチンギスの曾祖父カブル・カンという
人物が部族連合体としての一応のまとまりを作り、徐々に高原中央部へ進出をはじめ、チンギスの
父イェスゲイの時代に高原中央部のケレイト王国と境を接するようになった時に、ケレイト内部の
紛争からケレイト王トゴリル(のちのオン・ハン)と同盟関係を結ぶようになった。カブル・カン
から特にこのイェスゲイの時代に周辺の諸勢力とも本格的な抗争や同盟を結ぶようになりはじめる。
ただ、モンゴル諸部族とケレイト、ナイマン、メルキト、タタルなどのモンゴル高原東部・中部の
勢力とは言語的に近い関係にあったらしい。後代の伝承でチンギスは西方のウイグル語(テュルク諸語の
有力言語)は話せなかったらしいが、ケレイト、ナイマン、メルキト、タタルといった勢力と言語的な
障壁があったような話は伝わっていない。
348 :
世界@名無史さん:2009/05/26(火) 04:16:11 0
チュルクの先祖は鉱山奴隷だったという伝説があるらしいね。
>>345 スキタイと言う名称はギリシャ語、ペルシャ語でスキタイの事をサカと呼んだとされる。
ペルシャ人は、中央アジアと黒海北岸の遊牧民らが近縁であると、見做してたとされる。
しかしながら、中央アジアのサカ族らは、月氏に追われて、アフガンとインドに移住した
とされるので、スラブ人の祖先ではない事は言うまでもない。
スキタイが2つに別れてそれぞれ他民族(スラブ、インド・アフガン)に同化されたということか
ないし3つ(スラブ、オセット、インド・アフガン)
イランを征服したパルティアは違うのか
>ないし3つ(スラブ、オセット、インド・アフガン)
オセット人まで含めていいなら、アラン人が西はブルターニュから東はモンゴルまで拡散
>>351 シースタンのパルティア諸侯スーレーン家はサカ族そのものだろうな。
>>352 マグリブのヴァンダル王国の国王は「ヴァンダル族とアラン族の王」と称していた。
また独演会か
仕事見つかってないらしいな
日雇いは可哀相だね
と、無職は暗い部屋で呟いた。
中国の史書に「塞」と記されている勢力がペルシャでいうところのサカにあたるとか。
何がスラブだよ
現在のロシア圏の歴史学会でもスキタイとスラブと関連性に言及する人間は殆どいない
スキタイがサルマティアに駆逐されドニエプル河口とクリミアに押し込まれてしまうが
その地をスラブ民族が制圧したのは18世紀だ
スラブがスキタイやサルマティアの文化を継承した形跡は遺物が全く出土しないことで否定されるし
そもそも馬具等スキタイやサルマティアの騎馬文化自体を全く継承していない
またその後に黒海北岸に栄えたチェルニャホフ文化も遺物からスラブと関連がないことは証明されている上
フン族侵入後、チェルニャホフ文化の遺物や家屋形式、埋葬法が同じ遺跡群は
南仏、スペイン北部、イタリア北中部(移動した東西ゴート人の居住地域)に移動している
近年のロシア圏の歴史学会でもそれを追認している
スキタイ文化研究でも有名なコルトゥホフ(Koltukov)は1999年に出した著作で
チェルニャホフ文化の担い手は黒海地方に移動してきたゴート人(のみ)で年代は220〜230年代としている
>>358 住人のまともなやりとりの腰を折って
学術的根拠もなく、遺跡名も出なければ、具体的な遺物指摘もないスキタイ=スラブ論の終りなき異常な連レス
→白々しい質疑応答自演
→住人ヅラした自治レス(延々と続くスキタイ=スラブ論には全く出てこなかったのを見てもわかるように↑の自演)
お前のやり方はもうウンザリ
俺は住人たちや新参者たちの遺跡遺物研究の討論をROMっていたいだけであって
貴様の延々と続く空想話なんか見たくねぇンだよ
わかったかクソが
農耕スキタイの風習がスラヴの伝統に通じるところがあるというから、
スラブがスキタイとは無関係と断言するのも無理がある。
>>360 お前バカか
農耕スキタイと農民スキタイの違いも知らんのか
それ以前に農耕スキタイは農産物を自ら消費するために生産するのでなく
換金用商品として生産するのに過ぎないのであって本来は遊牧が生業だよ
スキタイ風騎馬文化のないスラブとどこに接点があるんだ?
あるんなら具体的な遺物例を十数点ぐらい示せ
くだらん三、四十年前の廃れた仮説なんか引きずり出すな胸糞悪い
>それ以前に農耕スキタイは農産物を自ら消費するために生産するのでなく
>換金用商品として生産するのに過ぎないのであって本来は遊牧が生業だよ
>>360じゃないけど詳しく
できればその辺について詳しい書籍も(日本語か英語なら)知りたい
>>362 はいはい他人のふりして自演はもうやめようね
もうパターンは見切ってるよ
そちらが万人が認めるようなスキタイとスラブの関連を決定づける具体的な遺物示せ
ヘロドトスに「ネヴロイ」と記されている農耕民がスラヴの祖先ではないかという説は広範に見られるが。
>>363 肝心なところで逃げるんだな。邪魔だよイデオロギー厨。
おまえみたいなのが学問を破壊するんだよ。
スキタイがプロトスラブと共に、スラブの先祖の大集団だったことを支持する証拠しか出てきてないだろ。
矛盾点があったら指摘してみろ。
スラブは古くから騎馬の習慣もあった、ただし広大な湿地帯を本拠としていたから庶民は馬に乗らなかった、
ただそれだけの話だな。
本当に邪魔だよおまえのスレ汚し。
以下スラヴの話題禁止
367 :
362:2009/05/29(金) 20:23:07 0
で、農耕スキタイが遊牧+商品作物栽培をやってたってソースは・・・
368 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 20:31:12 0
まあ、スキタイというのは、かなり広い概念だからね。
370 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 21:40:25 0
>>361 >くだらん三、四十年前の廃れた仮説
いやいやw
三、四十年前から一般に定着して、それを支持するevidenceがどんどん現れてきている仮説
おまえはゲッベルスみたいなもんか
>>365 ふぅ〜
帰って見てみれば・・・働きも学校にも行かずお暇な事で
お前、粘着ぶりや自演パターン見てわかったわ
コーヒースレにいたコルシツキーの宣伝屋と同一だろ
何がソースだよ
日本人出したら途端に名誉毀損に等しい罵倒して謝罪もせず逃げ出したんだろ
とてもじゃないが日本人は出せんな
が、それ以前にヘロドトスの書自身読んでないことがバレバレだぞ
彼ら(農耕スキタイ)が穀物を栽培するのは自分たちの食用のためでなく、他に売却するのが目的である
(ヘロドトス4巻17節)
ネウロイはスキタイ風の慣習を持っている
(ヘロドトス4巻105節)
ネウロイを原スラブでないかと説いたのはグラーコフ(Grakov)だ
しかしこの説を出したのは38年も前であり、今では否定されている
しかもヘロドトスは農耕スキタイとネウロイをはっきり区別しているんだがね
先に釘を刺しておくが、《農民》スキタイはヘロドトスが「家畜を繁殖させる者達」というスキタイ語を誤って聞いたもので
実際は定住の農耕民でなく商業に従事しながら牧畜を行う牧畜民ではないかとアバーエフ(Abaev)は説いているな
>>365 あとよ
スラブは古くから・・・
ってとこ
スラブじゃなくて日本、中国という語句に置き換えても読めるよな
もう自演はやめとけ
バレバレで見苦しいから
コーヒースレでも見てるし
あと遺物出すんなら遺跡の何号墓から出土のものって書いてくれな
それにスキタイのそれと対応する年代が離れていないスラブ側の遺跡の遺物の詳細もな
まあ出すのは永遠に無理だと思うがね
お前が自発的にこのスレから去るのなら俺もここではROM専に戻るけどな
ていうか本来はお前のようなジコ虫相手にしたくないんだけどね
373 :
世界@名無史さん:2009/05/29(金) 22:55:15 0
>>371-372 なんだおまえが勝手に曲解してファビョってるだけじゃんw
ネウロイ≠原スラヴ
ネウロイ+農耕スキタイ(原スラヴ)+遊牧スキタイ=スラヴ
ということだよ
おまえの反論は全く的外れなので、ただ五月蝿いだけだから、お願いだからもう来ないでくれスレ汚しさんよ
>>371-372 俺にもおまえに言わせろ。
キチガイよ、消えてくれ。
それより反論するなら、そんな頓珍漢な引用ではなく、
全ての遺跡の出土物についてスラヴとスキタイが関係ないことを証明してからにしてくれ、な。
ま、永遠に無理だろうがね。
だって、あらゆる証拠がスラヴの先祖の一つがスキタイであることを証明しているからね。
イデオロギーで歴史をコリエイトしようとしてもなぁ〜w
>>373 スキタイの文化自体継承していないスラブには関係ないしょ
ていうか早く考古学的物証出せよ
考古学的物証なければ空論に過ぎないね
サルマティアでも構わんぞ
例えばクヴァシノ古墳の二孔式轡とスラブのどこぞの墳墓から出土した二孔式轡は類似してるとかね
期待は全くしてないがね
俺もこんなスレ汚ししたくねぇんだからさ
早く出せよ物証を
なんだかんだノーガキこいて逃げてるだけじゃないかよお前は
>>374 はいはい自演はやめようね
お前ごときの趣向に合う人間なんか世界広しといえどもお前自身しかいないよ
コーヒースレと同じパターンでやるか普通
池沼かよ
まあ世界史板にID制導入されればお前の自演独演会にピリオド打たれるがな
遊牧民族っぽくっていいじゃない
379 :
世界@名無史さん:2009/05/30(土) 02:27:58 0
>>375-377 おまえさ、数年前に市原宏一の中世前期のドイツにおけるスラブ遺跡の本だけをネタ元にして
スラブの存在を否定しまくってて、そのネタ元がすぐにバレたと同時に
そういう専門書を読んで勝手な解釈をしているド素人だとバレてケツまくって逃げたやつじゃない?
遺跡の話するところがそっくりだ。
いつも自分のイデオロギーで決め付けた結論が先に立っているんだな。
しかも懲りずにまた出たか。救いようがないな。五月蝿い蚊は死んでればよかったのに。
いずれにせよ、携帯厨がうざいことは確実
>>379 お前のネタ本・・・市原氏?
残念でしたブッー!
なんでお前のような池沼に深夜や働いている平日の昼に付き合わなあかんのよ
逃げてんのは抽象論や揚げ足取り、意味のない罵倒に終始して納得する遺物を全く出さんお前だろ
38年前の仮説発表からただ一つのそれを立証する遺物が出てないんだから無理もないわな
まああんたがそこまで人を罵倒するぐらいまでの《プロ》なら素性を公開したら
言ってることが苦笑するほど本論回避してるとしか思えんけどな
このパターンはコーヒースレで経験済みですから俺は何言われようともナーンも痛くないですがね
俺はただくだらん空想論を延々と独演しているお前を排除して正常なスレにもどしたいだけ
おそらくそれと同じ想いの人は少なくなくおられると思いますね
俺もこんなくだらん事にいい加減拘束されたくないんすがね
孤独な2ch命のお前と違ってこれからお付き合いで出かけなあかんのでな
今日はこれで終わっとくわ
382 :
世界@名無史さん:2009/05/31(日) 06:59:09 0
「自分たちの食用のためでなく、他に売却するのが目的である」農民?
農家だって余剰を売らないと生活できんだろう。全く自作農産物を食わない農家?
携帯厨うざい
コーヒースレとか得意げに言ってる人がいるが
何のことかさっぱりわからんので他所でやってくれんか。
>>384 なぜ今までスラブ屋が散々荒らしてる時には何も言わなかった
いい加減にしろよ自演は
>スラブ屋
こういう表現を使うところでもう完全に荒らし確定
>>385 荒らし一人だけなら無視すればいいが
積極的に相手をする奴がいるとものすごい勢いでスレが荒廃する
>>387 御忠告を真摯に受け止めます
他スレのいきさつもあり、大人げなかった
すまない、このスレでは以降ROM専に戻る
味方を作ろうと敬語を使うところが大人気ない
荒らしはとりあえず消えろ
この世からも
ドニエプル河畔に入植したゴート人はイラン系遊牧民から騎馬戦闘を取り入れて軍事力が強化されたという。
しかしユスティニアヌスの西方侵攻ではゴート族が
東ローマの騎射兵になす術もなくバタバタ射倒されてたらしい。
本格的な遊牧民流の騎兵戦闘は取り入れなかったのでは。
ロシアなんかでもモンゴルに征服される前は騎兵は剣やランスで戦ってたようだ。
>>391 そもそも東ゴートがウクライナにいた頃のサルマタイやアランの戦術はコントゥスをもっての騎馬突撃がメインだと思ったが
393 :
世界@名無史さん:2009/06/07(日) 19:09:05 0
とにかくアジア系騎馬民族の馬上弓射術は相当なものだったらしい。
フンも800年後のモンゴルも敵なしだったからね。
パルティアンショットもお忘れなく
395 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 06:23:58 0
>ユスティニアヌスの西方侵攻ではゴート族が
東ローマの騎射兵になす術もなくバタバタ射倒されてたらしい
そのときのゴート人はすでに支配者として官僚化してしまったのだろう。
そもそもゴート族は、どうやってサルマタイに勝って、黒海北岸の覇者となったのだろうか?
当時サルマタイらが農民化していたので、ゴート族は征服することが出来たのだろうか?
>>396 自分らの住んでるところの一帯を農地にしたんだよ
遊牧民のサルマタイは農地には住めない
あとゴート人は根っからの商売人だから、金の力で懐柔
サルマタイとガチで戦争して征服したとか、そんなんじゃない
>あとゴート人は根っからの商売人だから、金の力で懐柔
ゴートがそんな感覚に長けていたとは思えん
そもそもアドリアノープルの会戦のきっかけが、フン族から逃れて
ローマ領内に亡命したらたちまち悪徳商人にたかられて
身ぐるみはがれて蜂起というただの蛮族ぶり
ちなみに戦闘にはなぜかアラン人も加わってた
んじゃウクライナのチェルニァコフ文化の遺跡に多量に見られる活発な商売の痕跡は
チェルニァコフ文化をゴート人とともに構成していた原スラブ人のもの
この商売の担い手がゴート人でないならば、消去法でウクライナの原スラブ人がヨーロッパからアジアにかけての
広い地域を雄飛して活躍した商人だったと結論
それだとサルマタイを金の力で懐柔したってソースは一体?
>>399の言うようにゴート人が戦争ばっかりするただの野蛮人で
原スラブ人が平和主義で優秀な産業人だったでいいじゃないか。
402 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 10:59:46 0
>>398 フン族も加わっていたよ。
なぜかでもなんでもなく、
当時はルーア〜アッティラ王朝のような統一勢力は
フン勢力(手下のアラン族含む)には存在しなかった。
あったにしても有力部族間の緩やかな同盟くらい。
だから金次第で小グループは雇える。
西ゴートがフン族の攻撃を受けたときに、
西ゴートの傭兵となって仲間に弓を引いたフン族のグループもいる。
ゴートは一枚岩じゃないからな
単なる部族連合だから
404 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 11:21:01 0
>>396 アラン族は、ゴートにしてみれば
ドン川の向こう側に住んでいる不気味な連中という感じで
征服して召し使っていたわけではない。
現にフン族の先遣隊として攻め込んできたときにはフルボッコにされてるし。
実態は
>>397に近いと思う。
アラン族にしてみれば何か騒がしい連中が大勢きてうざいけど
ドン川の彼方には腐るほど土地があるからこだわらずに明け渡したという感じでは。
>>404 あと多分気候が関係していると思うな
当時ウクライナで遊牧がしにくく、どうしても農耕しないといけないという気候になっていた可能性は?
>>402 アドリアノープルの戦いにフン族? アンミアヌス等の史料に記載があるの?
Yes
>>399 唐代のウイグル可汗国では、オルドバリクなど都城には多くのソグド商人らが
住み着き、ウイグル人らの多くは城外で放牧していたとされる。
中世以降の東欧では、都市には多くのドイツ移民が居住しており、スラブ人の
地主貴族と農奴ら城外に居住していたとされる。
チェルニァコフ文化時代のゴート諸国も同様だったのではないだろうか?
>>404 ローマ帝政期、ヤジキ族とロクソラン族の地からドン河いたる地がサルマチア、
ドン河からアラル海にいたる地がアラニアと呼ばれていたとされる。
サルマチアは肥沃な黒土地帯だが、アラニアはゴート族らにとって不毛の荒野
だったと思われる。アラン族はゴート族に土地を明け渡したりしてはいない。
409 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 22:06:44 0
>>408 ゴート族が来る前はドン川の西側にも
アラン族がいた可能性は大きいので
こういう言い方をした。
410 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 22:11:15 0
>>408 史書に見られるエルマナリクの東ゴート王国には
スラブ人が存在したような形跡は全くない。
東ゴートの集落の周辺に異民族集団が居住して
活発な商業活動を行っていたなら、
当時の史家も東ゴートと彼らを区別するはず。
>>408 スラブの土地にゴートがやってきて、耕していない不要な狭い土地を地主から譲ってもらう
↓
ゴートが集落を作る一方、スラブ人は地主の家と農家の小規模集落を中心に広い土地で農業
↓
ゴートが商売して物品が溜まる&集落が大きくなる&墓なども増える
↓
ゴート消滅
↓
(何世紀も後)
↓
ウクライナで古代人の集落跡が次々と発見される
↓
点在する大きい集落跡と墓(土葬)、さらに多数の小さい集落跡と墓(火葬)が発見される
↓
学者がチェルニァコフ文化と名づける
↓
遺物の多い大きい集落は土葬とヴィエルバルク文化と共通しているからゴートと判明
粗末な農具が多い小さい集落は火葬とプシェヴォルスク文化やザルビンツィ文化と共通しているからスラブと判明
↓
ドイツ人学者:ゴートがスラブを支配した
ロシア人学者:スラブが基幹的な住民だった
↓
どっちの解釈も民族主義的な現代から見た一方的な解釈であり、実体とは異なっている可能性が高いと思う ←これ俺
いちおう、この時代のスラブは、プロト・スラブのこと
>>410 嘘言っちゃいけない
エルマナリクがいたと思われる当時のゴート人居住地域からは同時にスラブの遺物があちこちで出る
ゴート人は絶対に火葬はしないから、火葬の痕跡がたくさんあればこれは一切ゴート人のものではない
チェルニァコフ文化はスラブがスラブとして歴史に登場したプラハ・コルチャク文化と共通しているから、
この火葬はほぼ間違いなくスラブ人の生活の痕跡
主に大きな集落に住んだゴートと、
散在する小さい集落に住み広い地域で農業をしていたスラブは長い間平和的に混在して、
スラブの地主がゴートの卸売業者に農産物などを売る形で相互扶助の経済が成り立っていた
と見るのが自然
この仮説の真偽を確認するのが考古学者の仕事
413 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 22:28:49 0
なるほど分かった。
そうなると、フン族の来寇を受けた原スラブはどうなったんだろう。
414 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 22:37:13 0
自己レス。
ゴート族が住んでいたのはウクライナ南部のステップ地帯で
原スラブが住んでいたのはウクライナ北部やポーランドの森林地帯か。
全然違うところに住んでるじゃん。
現代の感覚では近所かもしれないけど。
要するにゴート族は平地で商売。
スラブは森林地帯で農業をやっていたと。
で、それを後代の考古学者がまとめて一つの文化にしてしまったと。
スラブがゴート族周辺で商業やってたというのはただの妄想か。
その疑問を追究して実態を明らかにしていくことが学者の役目じゃないのか?
俺個人の仮説を持ち出して申し訳ないけどね、
1247年のモンゴル人のポーランド来襲の例を参考にすると、
フンはその大きい集落=街を襲ったんじゃないのか?
略奪する品物がたくさんあるから
当時はポーランドの都市が次々に襲われたが、農村ではまったく無視されたところも多かった
フンにとっても農村を襲っても効率悪いし周辺の地理もわからないし何の得もないだろ
そしてアヴァールのヨーロッパ来襲の例を参考に考えると
スラブの農村はほうっておくか、かえって地主たちと結んで味方にして、
一緒にゴートを襲ったほうが得
なぜなら、ゴートが蓄財していたら、おそらくスラブの地主たちとしては
ゴートの連中が暴利を貪っていると考えていた可能性もある
これは実際アヴァールのときに、スラブがアヴァールと同盟してフランク人を襲ったから
昔だから商売のルールなんて明確な法制化をする前で、そういうのは慣習法でやっていたこと
だとそれば街の住民が有利になる
郊外の地主としては富が街の住民の豪商にだんだん握られるようになるから
かなり不満が溜まって、時に軋轢を起こす
これはヨーロッパではよくあること
>>414 そんな住み分けしていたのは、もっとずっと前の、このスレのスキタイがいた時代の
チェルノレス文化時代
417 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 22:46:15 0
ヨーロッパでは町人と貴族っていつも喧嘩してるよな。
418 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 22:52:15 0
>>416 じゃあ何でローマ人がスラブ人のことを認識できてないの?
ローマもドン川西岸の状況については把握していたよ。
さらに、ゴート族の近くに住んでいれば民族移動期の破壊の
巻き添えを食って、少なからず一緒に東ローマ内部に移動してくるはずだし。
居住地が北部森林地帯なら理由は分かるんだけど。
チェルニァコフ文化におけるスラブ人居住地の遺跡の位置を教えてくれる?
419 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:01:37 0
>>415 フン族の先鋒の電撃的な侵攻スピードから考えて
農民を引き連れていた可能性はないし
圧倒的な軍事力から考えて、いちいち味方につけるメリットもない
東ゴートの崩壊は一瞬だったし、
西ゴートのアタナリックの対抗策はフン族のスピードについていけず
後手後手にまわっている。
それに小さな村ならそれだけ略奪もすぐすむ。
先行した部族はスルーしたかもしれないが、
後続の部族がスラブの村を見逃す理由はない。
>>418 最初の質問、タキトゥスの記述を参考にすると、
ローマ人はゲルマン語とスラブ語がはっきり区別できていない
タキトゥスは互いに言葉が似ていると言ってる
当時は統一したゴート語などないし、統一したウクライナ語もない
各言語の多数の方言がごっちゃになっていたからローマ人がドン川西岸地方について
そこの住民の言語の違いを把握できたとしたら、そのほうが驚き
俺は学者じゃないから遺跡の場所まで知らないが、
スラブ語にはゴート語からの借用語がたくさんあるんだよ
特に実際のモノの名前が多い
ということは、ゴート語を使っていた大集落=街がそれぞれの地域での文化のハブだったことは明らか
農村に住むスラブの人々がゴーとのところへやってきていろいろな珍しい文物に触れて、
スラブの人: 「これは何だ?それは何だ?」
ゴートの人: 「ああ、これは○○、それは□□だよ」
スラブの人: 「ふ〜ん、○○と□□かぁ、なるほどね」
なんて会話がしょっちゅう行われていたに違いないんだ
ほかに考えられないだろう?
>>419 電撃的?そう猛烈でも素早くもなかったはずだが
フンは略奪が目的だから、フンにしてみれば町を襲えば充分
スラブのいる農村はむしろフンの連中とうまくやってしまったかもしれん
アヴァールのとき実際そうだったよ
マジャールのときも、近代ハンガリー民族主義ではマジャールが
スラブの住民を武力で殺しまくって一帯を支配したと言っていたが、
いまのハンガリー人の国史に詳しい人に言わせると、実はどうもそうじゃないらしい
422 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:11:28 0
>>420 ヘロドトスは王族スキタイ、農耕スキタイ、農民スキタイの区別をきちんとしてるのに
(スキタイという言葉でくくられているところからして
文化的には相似していたと思われる)
タキトゥスともあろうものが、
言葉がよく似ているというだけで、
生活スタイルや居住圏の違いを見抜けないとは到底思えないな。
423 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:17:16 0
>>421 アヴァールとフン族は違う。そこから認識すべきでは?
東ゴートについてはあまりにも崩壊が急激で徹底していたため
詳しいことは分かっていないが、
アタナリックの戦いについてはある程度分かっている。
まずドニエステル川の沿岸に先遣部隊を派遣して陣を築いた
対岸には東ゴートの残党も陣をかまえていたらしい。
しかしフン族は彼らの裏をかいて道を急ぎ、ひそかに渡河すると
背後から彼らを奇襲して撃破した。
さらに後退陣地に撤退するところを途中で追いつかれ完全に粉砕された。
>>422 タキトゥスはゲルマン語部族とスラブ語部族との言葉の違いは認識できなかったが
(実際に、ヴェンド人について言葉が似ているためゲルマン人に入れるかどうか迷っている)
生活スタイルや居住場所の違いははっきり認識しているんだが
とにかく当時のローマ人はゲルマンとスラブの言語が区別できなかった
だとすれば、生活スタイルや居住場所が違っていても
それはそういうものなんだと思っていても何の不思議もないので、
生活スタイルや居住場所が違っていた自体は、彼らが別民族だと認識していたという証拠にはならないよね
>>423 同様のものが同様のシチュエーションで遭遇すれば、同様の考え方に沿って行動するだろう?
歴史が繰り返すのはそのためだ
すくなくとも、フンは電撃戦とやらであっというまにウクライナに侵入してゴートを追い出した
なんてのは幻想
実際はゴートのエクソダスはもっと長い時間で起こった
移動すると決め手からは速いがね
カエサルのガリア戦記でもガリア人やゲルマン人の部族は、移動すると決めて荷物を纏めてからが速い
426 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:22:43 0
>>421 >マジャールのときも、近代ハンガリー民族主義ではマジャールが
>スラブの住民を武力で殺しまくって一帯を支配した
そりゃ支配を目的としているなら穏当な手段もとるだろう。
しかしフン族のゴート征服の場合は、
以後東ゴート族はフン族の手下になって
略奪遠征を繰り返すか、ローマの傭兵となるかして、
商業で栄えていた王国は完全に破壊されてしまった。
その爪あとは遺跡にもはっきり残っているというがね。
その中でスラブ族の遺跡だけはきれいなままだったというの?
427 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:23:08 0
sage氏は理系っぽいな。
428 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:25:40 0
>>424 >実際に、ヴェンド人について言葉が似ているためゲルマン人に入れるかどうか迷っている
ちゃんと区別できてるじゃないか。
ゲルマン人にいれるにしても、ゲルマン民族の一種族のヴェンド人となるだろう。
仮にスラブ人がゴート族近辺に住んでいたなら、
それこそ農耕ゴート人でも名づけて記録するだろう。
ヘロドトスのように。
>>426 だからモンゴル来襲とか見てみればわかるじゃん
街は必ず襲うが、農村はほっとく場合が多い
農村の人たちは恐がって外へ出てこないしそれぞれの数も少ないからこわくない
街を必ず襲うのは略奪したくなるお宝があるからだよ
お宝を奪われたらたまらないから町の住民のゴートはフンと一応戦ってみて、
歯が立たないと知ったら反対方向にみんなで逃げるに決まってるだろ
恐ろしいフンが恐ろしい来るフンが来るって周囲に言いながら移動するに決まってるから
その話が伝言で伝わってそのうちみんな一斉に逃げていくことになる
>>428 タキトゥスやヘロドトスの見た各部族は完全にそれぞれの居住地に分かれて住んでたんだから
区別して記録する必要もあるが、
その辺に一緒に住んでたなら区別して記録なんかしないだろ
431 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:30:36 0
>>425 違いが大きすぎる場合にはそれをはっきり認識すべきだね。
>すくなくとも、フンは電撃戦とやらであっというまにウクライナに侵入してゴートを追い出した
>なんてのは幻想
>実際はゴートのエクソダスはもっと長い時間で起こった
>移動すると決め手からは速いがね
幻想も何も当時の史書に、376年にゴート族の難民が
ドナウ河沿岸に溢れ、ついに制止を無視して
一斉に渡河しだした様子が描かれているからね。
432 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:33:06 0
>>429 はぁ?モンゴルは農村も略奪しまくってるけど。
農村以外のどこから兵糧を手にいれるの?
町で食い物を手にいれようと思ったら
相当数を虐殺しないと兵隊は養えないよ。
433 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:35:01 0
>>430 じゃあフン族も区別しないよww
区別もできないくらい近所ならいきがけの駄賃で
余裕で略奪できるわなwww
>>431 そりゃもう最終段階でみんな荷物を纏めて集まってきてからの話だろ
スラブの人たちは「ゴートの連中は大変やのうwww」などと丘の上のお花畑で
タバコみたいなものでも吹かして眺めてたなんて、いかにもありそうだ
百姓が:「なまじっか金持ちになるもんやないな」なんてな
領主様が:「俺が面倒見たるから安心しろ」なんてな
こういうのもポーランドやロシアの文学に似た会話が出てくる
屋根の上のバイオリン弾きの、あれはユダヤの家族だが同じことやってる
>>432-433 モンゴルが農村を皆襲ったわけじゃないのはみんな知ってることなのに
モンゴルがどうやって食料を調達していたかというと、
小麦を供出させてうどんを作る、そこへ自分たちが連れて来た羊を潰して肉をとってそれを
ゆでてそこへうどんを入れて塩で味を調節してゴルリなんとかという肉うどん
村の人もお礼にと羊をもらったり、逆に塩をもっていってやったり
そういうまったりした時間が長い
436 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:40:37 0
>>434 最終段階も何も、西ゴートとフン族が接触して
戦争になり一方的にボコられて
ドナウ河の沿岸に難民が押し寄せたのは、
全てこの376年の、たった一年のできごとなんですけど。
一年もあれば電撃戦やないやないか?
電撃戦ってどういうのか知らんのやろ?
438 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:42:21 0
>>435 >モンゴルが農村を皆襲ったわけじゃない
要するに襲った農村があるのは認めるんだねwww
戦争のまっ最中に君がいったような悠長なことをしている暇が
あると思うか?頭大丈夫?
>>438 つまんない話すんなよ
なにがどうあってほしいわけ?
440 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:43:48 0
>>437 俺は電撃的とは言ったが、電撃戦とは一言も言ってないけどな。
もうまともな反論もできなくなった?
>>440 俺が出している仮定を否定する根拠に乏しいんだが?
自分のが一番説得力があると思うよ
肝心なところでちゃんと検証されているから
あんたが認める認めないは、俺の問題じゃないんだ
あんたがどれだけ真面目かという問題なんだよ
442 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:47:59 0
チェルニァコフ文化の遺跡にはフン族の破壊の跡が顕著に見られる。
ここまではおk?
君の主張を裏付けるには、
これらの遺跡のうち、スラブ系の遺跡がゴート族の大集落に
近接して存在しており、かつ破壊の跡が見られない、
ということが示せればいいんだけど。
443 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:52:41 0
>>441 それは君が現実を認めたくないからだろう。
君の意見だとスラブ族の遺跡だけはまっさらなままでなければならないが、
実際にはチェルニァコフ文化には広範な破壊の跡が見られる。
ローマの記録にスラブ人が出てこない件について君はいろいろ言い訳しているけれど、
ほかの民族についても、どの系統かの分類の当否は別にして
きちんと区別できているのに、スラブ人だけ区別できていない、
という君の説は明らかにおかしい。
444 :
世界@名無史さん:2009/06/08(月) 23:55:54 0
>すくなくとも、フンは電撃戦とやらであっというまにウクライナに侵入してゴートを追い出した
>なんてのは幻想
>実際はゴートのエクソダスはもっと長い時間で起こった
そしてこれは史書に矛盾する、ただの妄想。
445 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 00:14:51 0
>>434 > 百姓が:「なまじっか金持ちになるもんやないな」なんてな
> 領主様が:「俺が面倒見たるから安心しろ」なんてな
フン族が通ったあとに領主様なんて残ってないんだけど(笑
これが中世脳ですか?
>>411 スラブの土地にゴートがやってきて、ゴートが肥沃な土地をスラブから奪う
↓
スラブらは北方の森林地帯へ追い払われ、ゴートが肥沃なステップに定住する
↓
フン族がゴートらをステップから追い払う
↓
アッティラの死でフン帝国崩壊
↓
スクラヴェンニ、アント等スラブ諸族らがビザンツ国境まで南下する
>>415 >当時はポーランドの都市が次々に襲われたが、農村ではまったく無視されたところも多かった
>フンにとっても農村を襲っても効率悪いし周辺の地理もわからないし何の得もないだろ
シュラフタ共和政期のポーランドやウクライナにしょっちゅう略奪に来てたクリミア・タタール軍は
農村も普通に襲ってるが
448 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 04:42:24 0
>フンにとっても農村を襲っても効率悪いし
昔から洋の東西を問わず農村は食料の供給源として超重要じゃんwww
農村を襲うのが効率悪いとか基地外の発言としか思えんwww
どうでもいいですけどケンカは止めて!
451 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 09:17:17 0
仮説に証拠要求してるのがいるなw
452 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 13:29:50 0
>>449は反論できないアホのせめてもの抵抗に見えるな
>>451 証拠がないならそれは仮説ではなくただの妄想。
>>443-444を参照。
チェルニァコフ文化は火葬、土葬の別があるとおり、
複数の民族によって担われた文化だが、
全てフン族によって破壊され絶たれている。
スラブ系の遺跡だけ避けられていたという事実は全く存在しない。
>>452 やっぱり必死の連投だったか。どうしょうもないな。
454 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 13:58:12 0
>すくなくとも、フンは電撃戦とやらであっというまにウクライナに侵入してゴートを追い出した
>なんてのは幻想
>実際はゴートのエクソダスはもっと長い時間で起こった
長い時間というのがどれくらいか分からないが、
民族の交代が徐々に行われたというならそれは完全な妄想。
東ゴートも西ゴートも、おそらくは臨時的なものにすぎないだろうが、
王権のもとに団結して組織的に、反攻やドナウへの避難を行っている。
フン族もこれらと決戦して撃破する実力があった。
遊牧民族のグループは平時は集まっても数家族くらい。
それ以上集まると牧草が足りなくなる。
しかしアラン族の征服に始まるフン族の軍事行動は
数家族単位が寄り集まった烏合の衆の五月雨式の攻撃によるものではない。
普段はほとんど実態がない、氏族とか部族とかいう上位概念に基づいて
大軍団が組織されていたのだろう。
455 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 13:59:21 0
>>453 それしか反論のしようがないのなら君は救いようのないアホだな。
>>455 反論なんかしてねーよwおれはじめっから傍観者だし。妄想乙。
おまえの相手の方の仮説とやらはおもしろくて、検証に値する。
だが、
>>454や
>>442-448も含めておまえのはまったく説得力がないよ。
457 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 20:18:34 0
>>456 (失笑)
説得力も何も大半は事実を述べているだけなんだがwww
本物の低能だなwww
458 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 20:23:45 0
妄想1:フン族はスラブ系の村だけ避けて通ったニダ!!
現実:遺跡を見ればそんな事実はありません。
妄想2:当時はポーランドの都市が次々に襲われたが、農村ではまったく無視されたところも多かった
現実:シュラフタ共和政期のポーランドやウクライナにしょっちゅう略奪に来てたクリミア・タタール軍は
農村も普通に襲ってるが
妄想3:フンにとっても農村を襲っても効率悪いし
現実:昔から洋の東西を問わず農村は食料の供給源として超重要じゃんwww
妄想4:実際はゴートのエクソダスはもっと長い時間で起こった
現実:
>>454 妄想5:
>>442-448は同一人物による必死の連投に見えるんだが。
現実:(失笑)
459 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 20:29:32 0
仮説さんのミスは食料調達の重要性を全く理解していないことだね
軍事行動の基本。金は食えません
スーパーマーケットに行けば食料品が腐るほどある現代に慣れすぎている
同一人物認定厨については仮説さんとは他人ということにしておこうwww
460 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 20:39:36 0
ハングリーな時代、もっとも値打ちのある宝は食い物だったのでは?
農民を拉致して自分の縄張りに住まわすというてもあったぞ。
フン族らの目的は、農民らを追い払い、農地を自らの放牧地にする為だったのでは?
ギボンの記述にはゴート人を徹底的に叩いた記述はあるが、
農耕民を殲滅したという記述は無かったと思う。
支配民族であるゴート人は徹底的に叩いたが
被支配民族の農耕民は年貢を納めている限り
あまり手を出さなかったと思われる。
反攻したら情け容赦ない懲罰隊が派遣されたという記述がある。
463 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 21:37:00 0
チェルニァコフ文化が破壊されたという事実があるのに
今時ギボンとか持ち出して何言ってんだよwww
いい加減中世の封建主義的な統治法と
ポスト・ローマ期の蛮族のあり方を混同するのはやめたら?
反抗したら容赦しなかったというから街や村を焼き払うぐらいのことはしただろう。
ブルグントが血祭りにされたように。
465 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 22:01:45 0
>>460 時代には関係なく軍隊に飢えはつきもの
何の生産性もない大集団がまとまって行動するわけだから
466 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 22:09:37 0
375年の歴史的出来事がかなり強烈であることは疑いがない。
ゴート族はまとめて避難したんだよ。
>>465 フン族の場合馬にも食わせなきゃならんしな
ポスト・ローマ期のフン族とアヴァール族らは、スキタイやサウロマタイらのように
黒海北岸ではなく、パンノニアを本拠地したのは何故だろうか?
黒海北岸のステップの牧草が、乾燥化や寒冷化でスキタイ時代よりも減少していたのだろうか?
469 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 23:11:07 0
パンノニアならアルプスを越えればすぐイタリア
ソフィアを通過するルートを通ればすぐコンスタンティノープルに到達する
交易に有利。当然戦争にも。
と考えます
470 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 23:21:15 0
ルーアがパンノニアに王国を築き始めた頃、
東ローマ帝国はパンノニアを取り戻そうとして
下パンノニアまでは奪還したという
パンノニアの場合は南ウクライナと違って
こういう圧力がかかる
サルマタイなどはこれに対抗する力がまだ無かったんだろう
そこにガラ・プラキディアによって半島から追放された
アエティウスがやってきて、援軍と引き換えに
パンノニアの支配権をルーアに承認する売国的な取引を行った
471 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 23:49:11 0
連投さん今晩も暴れてますねwww
472 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 23:55:11 0
連投認定厨さんはいつも発狂してばかりですね(苦笑
黒海北岸にはフンの後にもハザール汗国やクリミア汗国など遊牧国家が出来ている。
アッチラの時代もボルガ河畔でアヴァールと戦ったり
カフカースからペルシャ方面への遠征も何度かしている。
フンはパンノニアを支配したからといって黒海北岸を放棄したわけではないと思う。
474 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 00:12:13 0
>>472 ああいたの?さき上のほう見たら昼間もいるね?なんで?仕事は?
475 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 13:53:28 0
そうだね。アルメニア人とペルシャの争いにおいて、
アルメニア人にフン族が加勢した件だね。
フン族の加勢によってペルシャはアルメニア人への譲歩を余儀なくされたという。
ただカフカスで活動していたフン族は
パンノニアに集結したフン族の大部分とは独立した集団である点は
おさえておくべきだと思う。
そのフン族は部族名をハイランドゥールといい、
首長はエランという名前だったという。
カフカス方面でフン族とイランの紛争が起こった時期は
アッティラは西ローマへの遠征直前で
よそに介入できるような状況ではない。
476 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 13:56:22 0
>>474 (苦笑)
他人の私生活の心配をするより、
学術板で妄想しか語れない自分の脳みその心配をしなさいww
>>475 アッティラの西ローマ遠征の直前の時期には
ハイランドゥールとペルシャの争いは起こっていない
流れを整理すると次のようになる
449年から450年の間にカフカス山脈南部のアルメニア人が
ペルシャに対し反乱を起こし、カフカス北方へ通じる山道を占拠し
カフカス北部のハイリンドゥールに援助を求める
しかし直後にアルメニア人の内部に裏切りが発生し、
カフカスの拠点はペルシャに奪還される
ハイリンドゥールは表立った動きは控える
452年にハイリンドゥールはカフカスを越えてペルシャに侵入し
一通り略奪したあとカフカスの北に帰還する
ペルシャの王ヤズデギルドはこのフン族の活動のために
アルメニア人と講和せざるを得なかった
その後ペルシャはカフカスの護りを強化した
460年にハイリンドゥールは今度はペルシャ側にたって
アルメニア人の反乱を鎮圧した
これを最後にハイリンドゥールの記録は途絶える
478 :
世界@名無史さん:2009/06/10(水) 16:00:01 0
首長はエランという名前だったという。
⇒ひょっとして、ペルシャ語の大将軍のこと?
>>478 自分はペルシャ語のその単語は知らないが
あなたの言うとおりならその可能性は高い
480年に死亡したアルメニア人の歴史家の記録によるものだから
民族移動期のフン族の王(おそらく実際は有力部族一個のリーダー)
がゴート族の歴史家によってゴートの名、バラミールで記録されているように
同じことがペルシャ統治下のアルメニア人によって行われたのだろう
480 :
447:2009/06/10(水) 20:29:53 0
481 :
髭骸 ◆ABXPF5oE0I :2009/06/14(日) 17:39:03 O
モンゴル人の祖先はスキタイですか?
482 :
世界@名無史さん:2009/06/14(日) 17:52:17 0
スキタイって朝青龍顔の弁髪オヤジの集団?
483 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 06:10:03 0
>>481 トルコ人もしくはツングース
>>463 欧州人が歴史を捏造するのはいつもの事じゃん、アジアと違い捏造だらけ
チェルニァコフ文化は破壊されたというよりも、
担い手の住民が他へ移動してしまったためにそこにはなくなったということだな。
西へ移動した住民はプラハ・コルチャク文化を担ってヨーロッパ最大民族「スラブ人」としてついに歴史に登場した。
>>482 フレディーマーキュリーみたいなおっさんの集団
486 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 16:38:48 0
>>483 >アジアと違い
>アジアと違い
>アジアと違い
488 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 17:05:19 0
漢籍にでてくる民族でスキタイにあたるのは大月?
塞=サカなのでは?
490 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 22:25:10 0
>>485 確かにパジリク古墳の壁画に描かれてるオッサンはフレディそっくりだよなw
491 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 20:11:48 0
パジリク古墳の壁画に描かれてるオッサン⇒典型的な白人
典型的な白人という割には彫が浅い。
髪もブロンドではなくブルネットっぽい。
フレディーってイランからの移民の子供だよな確か
494 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 19:12:39 0
インドだろ。
495 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 23:01:12 0
t
親がインド系のゾロアスター教徒でしょ。
497 :
世界@名無史さん:2009/07/01(水) 19:54:38 0
典型的な白人というのは地中海人種。
コーカサスという言葉の語源はスキタイ語から来ている。
厳密に言えばコーカソイドと西欧白人はかなり違う民族
コーカソイドって民族名じゃないだろ
500 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 11:22:14 0
>コーカソイドと西欧白人はかなり違う民族
人類学の基礎からやり直せ。
もしかして「コーカソイド」をカフカスの諸民族という意味で使ってるのでは
502 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 07:11:11 0
スキタイから話をずらすな。
まあ第2次ウィーン攻囲の攻撃の順番とか夢中になって話し合ってる奴らがいても
誰もスレ違いだボケとか突っ込まないスレだから
504 :
世界@名無史さん:2009/07/26(日) 05:26:48 0
キルギスとスキタイはかんげいあるの?
505 :
世界@名無史さん:2009/07/26(日) 06:02:21 0
キルギス人にスキタイの血少しは混じっているかなあ、と言う程度。
ウイグル帝国と戦ってた頃に金髪碧眼のキルギスが多かったらしいがイラン系遊牧民との関係は不明
507 :
世界@名無史さん:2009/07/26(日) 09:53:27 0
遺伝子上はコーカソイドと共通する部分をかなり有している。
これは中央アジアの諸民族共通だけどね。
510 :
世界@名無史さん:2009/07/26(日) 19:00:06 0
印欧語族の移動はBC1500年頃の寒冷化が引き金というのが定説だけど、
騎馬民族の登場はもう少し遅れるわけだよね。
その数百年が騎馬技術が進歩していた期間ということかな。
騎乗技術というより騎乗に適した馬の品種改良じゃね?
512 :
世界@名無史さん:2009/07/26(日) 19:43:26 0
そうかもしれないね。
とにかく個人ないしは小さな騎馬集団から、
民族単位の騎馬軍団までスケールアップしたということだろうね。
だから歴史書にも民族名で登場してくる。
513 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 08:52:13 0
イラン遊牧民は全員スキタイかその親類?
クルド人とかはメディア人あたりが先祖らしいけど
515 :
世界@名無史さん:2009/08/04(火) 05:24:44 0
実はアフガン?
スキュティアの住民の総称がスキタイ(=スキュティア人)
そのうち遊牧民が遊牧スキタイや王族スキタイ
農耕民が農耕スキタイや農耕スキタイ
農耕民は後にスラブの基幹集団へ
遊牧系のスキタイは衰退して周辺の集団へ吸収消滅
517 :
世界@名無史さん:2009/08/04(火) 19:00:52 0
イラン系遊牧民
518 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 03:01:46 0
テュルク系が台頭する以前のシベリアって中東風の顔の濃いスキタイ人が活動してたってことか?
519 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 06:38:28 0
シベリアの西部はそうだね。
520 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 14:42:29 0
>>519 中東風の髭の濃いオッサン→ノッペリ顔の辮髪ジジイ→色白の碧眼ロスケ
まぁー大陸の歴史なんても人の移り変わりだしね
521 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 19:53:39 0
スキタイ人原住地はどこですか?西シベリア、ウラル山脈南部?それとも黒海あたりでスラブと混血で形成?
スキタイのみならずインド・イラン系の原住地は、おそらくカザフスタンであったとされる。
523 :
世界@名無史さん:2009/08/06(木) 22:47:15 0
たからさほど人口支持力はない。
アーリア人の直系の子孫はインドでもそれほど多くない。
遺伝子研究からも証明されている。
524 :
世界@名無史さん:2009/08/10(月) 15:46:54 0
スキタイ人原住地⇒カザフスタンからウクライナ
ウクライナの先住民キメンメリオス人は、印欧語族であるとされるが、
スキタイやアランと同じくイラン系であるかは不明であるとされる。
印欧語族と判るくらいなら、当然、イラン系かどうか判るだろ。
なにいってんだよ。
古くからキンメリオス人は、トラキア系であるする説があります。
アルメニア人がキンメリア人の末裔である可能性がありますが、
キンメリア語=アルメニア語ではなく、高度な文明人であった
先住のウラルトゥの影響で、かなり先住民の語彙を取り入れて
変質したであろう事が想像されます。
528 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 18:49:46 0
人名だけでは、第一に使用していた言語までわからんよ。
香港中国人のように。
529 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 18:55:15 0
キンメリア人の時代はイランあたりで始まった印欧語のサテム訛化ブームの前の時代だろうが
議論が時代の順番を無視してトンチンカンだな
ミタンニの支配層は、インド・イラン系であったとされる。
インド・イラン系ってのがそもそも意味不明、両者はまったく別人種
ミタンニの支配層は、イラン系であったとされる。
533 :
世界@名無史さん:2009/08/23(日) 01:07:45 0
イラン系なんだろう
534 :
世界@名無史さん:2009/08/27(木) 23:55:48 0
>>1スキタイに興味あるからやって来たが、根本的に違うから言わせてもらう。
このスレを読むのは昨日今日であるが、あまり2chに深入りしないのでよろしく。
サクソン人(ザクセン人)が「我々の祖先はスキタイ人だ」といっている。
サクソンはドイツを中心にルーマニアに移動したりしながら、最初のドイツ王国を作っている。
イングランドに入りアングロ・サクソンにもなっている。
ともかく商売がうまい、その土地を牛耳り、貴族にもなる。
サクソン人やアングロ・サクソン人はその進出は狩猟民族のそれであり、獰猛蛮族であるが、
一方文化の形成や経済の発展には飛躍するものがあり、
ヨーロッパのケルト系ガリア原住民には成し得なかった偉業であるのは皆の知っている通り。
今日の資本主義社会形成はユダヤとサクソンとの共同で(他民族も混じって)出来たものである。
これは民族が戦争などで交じり合い、互いに相克して出来た。
このスレに欠けているのは民族の大移動だ。
スラブを子孫とするのは農耕系スキタイ人(農民系?農耕系は商売が基本だから)といわれている。
遊牧系スキタイ人はようとして知れないといっているが、
紀元前3世紀にサルマタイ人に紀元前1世紀に東ゴート人に打ち滅ぼされたというが絶滅した訳ではない。
ヘロドトスの『歴史』から計算して当時のスキタイ人の国民人口は少なくとも350万人いた。
その後、匈奴を軸に東方から押されて西に大移動したのを深く研究する必要がある。
遊牧系が黒海北岸から東欧にちっこく移動するはずがない。元々彼らの庭なのだから。
中央アジアで相克があって、ヨーロッパに現れたといえる。
535 :
世界@名無史さん:2009/08/28(金) 00:23:52 0
>>534の続き
ちなみにサウロマタイ人はサロマタイとは違うとあるが、
『歴史』にでてくるサロマタイはスキタイとアマゾンとの婚姻で出来たとされる。
その後、匈奴等と混合したのがサウロマタイ(サルマイタイ)人といわれる。
サルマタイ人は帝政ローマ時代にブリテン島に多く駐在していた。
アーサー王伝説はサルマタイ神話と一致するという。
サルマタイ人がスキタイの東に位置していたのだから、
スキタイがドイツ辺りのザクセンにいてもおかしくはない。
ローマのカエサルの『ガリア戦記』(BC58-51)と『歴史』(BC430)の間を埋め、
ザクセンの始祖ウィドウキント(730〜808)を埋めるのが鍵と思われる。
この人物は矛を持っていて、スキタイには見えないのだが・・。
むしろ、サルマタイに近い?
536 :
世界@名無史さん:2009/08/28(金) 02:52:54 0
古代スキタイは寧ろドイツなど中央ヨーロッパに遠征・略奪していた痕跡がある。
ラウジッツ文化はスキタイの来襲で崩壊したとも言われているし、
ザクセン人はゲルマン狩猟民でスキタイのようなイラン系遊牧民とは明らかに系譜が異なる。
ザクセン人はスキタイ人の子孫というより
どちらかというと古代スキタイにしばかれたラウジッツ人の子孫である可能性が高い。
根本的にヨーロッパ人はスキタイ系遊牧民を野蛮人として恐れており、
ヨーロッパ人がスキタイ人を肯定的に捉えるのは
イギリス人がインドを征服したアーリア人種(敢えてスキタイ系遊牧民という表記は避ける)
ぐらいで、そのスキタイが中央ヨーロッパを座圏したことには口をつぐむ傾向がある。
したがって、結論として遊牧スキタイが農耕スキタイに吸収されて成立したのがスラブである。
540 :
世界@名無史さん:2009/08/28(金) 10:19:28 0
>>536 ばかやろう、間違った方向に行っているから教えてやってんだ。
>>537 スキタイによるラウジッツ文化圏に破壊は、フン族による東ゲルマン諸族移動がスラブ人の勢力拡大に至ったように、
ゲルマン人の南方への勢力拡大のチャンスになったとされる。
542 :
世界@名無史さん:2009/08/29(土) 12:15:10 0
>>540 皆黙ちゃった。きつく言ってごめん。自由に発言してください。
つい、農民のことばかり言っているからスキタイは狩猟、戦争が本命だからね。
農民だけでは安全の確保はされないからね。
スキタイ人はイラン系ではない、コーカソイド、白ロシアだ。
ペルシャ人が『歴史』当時20万人といわれるが、スキタイの領土と人口は圧倒的に多い。
古代ローマ人もペルシャのそれを上回らない。
旧約聖書によると、スキタイはパレスチナに現れたという。
又、ギリシャ後期アテネはペリクレスの統治下、
スキタイはギリシャの傭兵として雇われていたが、その強さをギリシャ人は記録している。
ヘロドトスはペリクレス本人にも会っている。
スキタイからすると傭兵の数は微少、外部と交わるのを極端に嫌ったようだが。
後年、匈奴等東方から押されて所謂玉突き現象で民族の大移動が起きる。
原因は気候変動だ。
中央アジアは世界史の隠された宝庫だ、文字を持たないから史実が明らかにされなかったが、
それが彼らの強さなのだと思う。富や権力を蓄積していく過程や敗退の悔しさは明かさない。
ユダヤ人は記録でメソメソと泣くが、中世これを多いに学んだと思う。
543 :
世界@名無史さん:2009/08/29(土) 12:35:06 0
>>534 今のユダヤ人の主流と言われるアシュケナジーは遊牧民族のハザールの末裔らしいね
彼らも多分スキタイ系だろうな
そう考えると今日の資本主義社会形成はスキタイ人の末裔の影響は大きそうだな
ハザールは西突厥の一派では?
突厥はスキタイの末裔だと思ってた
ハザールの領民の多くは、トルコ化したアラン人だったようだね。
中世ハザールの領域は、ローマ帝政期のアランの領域とほぼ重なる。
唐側の記録によればハザールは突厥の一派で、突厥の弱体化とともに自立したとある。
>今のユダヤ人の主流と言われるアシュケナジーは遊牧民族のハザールの末裔らしいね
>彼らも多分スキタイ系だろうな
>そう考えると今日の資本主義社会形成はスキタイ人の末裔の影響は大きそうだな
スキタイなど遊牧民の活動地域で商業を担っていたのはソグド人と言われるが。
>ハザールの領民の多くは、トルコ化したアラン人だったようだね。
ソース
>スキタイ人はイラン系ではない、コーカソイド、白ロシアだ。
さりげなく凄まじい珍説。
>>542 お前があまりにもバカだから、放置されていただけだが。
552 :
世界@名無史さん:2009/09/04(金) 12:20:48 0
遊牧民に牧草地がないと食うしかない家畜と、金ピカのアクセサリー以外に富の蓄積なんかあったの?
553 :
世界@名無史さん:2009/09/04(金) 21:00:09 0
スキタイにとっては基本的に富とは蓄積するものではなく略奪するものであって、
必要に応じて周辺のペルシャやギリシャを襲って略奪し、
兵士達に戦功に応じて気前よく分けたので、富は最終的には大して蓄積しない。
モンゴルなどでも富は貯めないで分配してしまったという。
遊牧生活では富を蓄積すると持ち運びに難儀し生活に支障を来たす為と思われる。
>モンゴルなどでも富は貯めないで分配してしまったという。
>遊牧生活では富を蓄積すると持ち運びに難儀し生活に支障を来たす為と思われる。
それは違うな。
モンゴル帝国では何しろ戦争が無くてもクリルタイやら公式行事のたびに
金糸織りの礼服やら財貨をものすごい数の将兵や関係者に分配しなければならなかったので
莫大な財宝のストックや奢侈品の生産設備まで必要とした。
イルハン朝はヴァン湖上の孤島にハンの宝物庫を設けていたし、ティムールは
サマルカンドの宮殿の地下に各国から略奪した金銀財宝を蓄えていた。
元朝では大都とその周辺。
556 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 20:39:43 0
>>550 イラン系?そんな馬鹿な。その史実を明らかにせよ。
イランは当時のペルシャ。ダレイオスに遠征されたスキタイがイラン系?そんな馬鹿な。
古代ギリシャ北方の史実にはスキタイとガリアしか出てこない。
ゲルマニアと称したのはカエサルだが、カエサルや古代ローマにはゲルマンの中味は把握されていない。
タキトウスの『ゲルマーニア』の解説にゲルマニア人の体質を論じて
ヘロドトスのスキタイの記述からの転用だといっているが
その記述に
「彼らはその人口の巨大さににも関わらず、身体の外形が、鋭い空色の眼、ブロンドの頭髪、
長大にして剛強な体躯・・。」とある。
又、同書紀元後1世紀ゲルマニア民族図にはサルマタイもサルマテァも記述されている。
スキタイを意識して書かれていると解説しているのだし、到底イラン系ではない。
>>540 史実を明らかにせい。
一般的にマッサゲタイ・スキタイ・サウロマタイを「イラン系遊牧民」と総括して表記される。
少なくとも「白ロシア系遊牧民」などという用語は寡聞にして聞いたことが無い。
558 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 21:02:35 0
>>557 それは「イーラーン語族」の間違いでしょ。
所謂印欧語族、アーリア系のこと。
今のイランとは全く違う話。
少なくとも「ロシア系遊牧民」という新説にくらべては
「イラン系遊牧民」という語彙は一般的。
今現在のイランとは異なるからといっても今現在のロシアとつなげて
「ロシア系遊牧民」などと表現するよりは正確と思われる。
>>556 イラン系というのはペルシャよりはるかに広い範疇なんだが
>>556 お前、基礎知識なさすぎ。
>>542か?
にしても、ソグド人が何ゆえにイラン系と言われているのかすら
知らないだろ。まともなお勉強をやり直して出直せ。
563 :
世界@名無史さん:2009/09/08(火) 23:35:51 0
556はペルシャ語とイラン語派を混同しているとおもわれ
「ペルシア」は古代国家の名、民族の名、言語の名で伝統的概念、
「イラン」は現代の国名で現代的概念、っていうふうに覚えちゃったんだろうね
「イラン」はアーリアと同じ語源で古くからある呼称、それを近代になって復活させた
「ペルシア」はパルス湾岸地域を指す地域名に由来し、こちらも古くからある呼称
言語学ではペルシア語は印欧語族・インド=イラン語派の中の一言語に分類される
イラン語派にはペルシア語のほかに古今のソグド語やタジク語やクルド語、ワハン語など
様々な言語が含まれる
イラン系言語とそれを話す民族を、確かにペルシア系と呼ぶこともあるが、
学術的にはそうなっていない
邪馬台国にしろ本職の学者から見た市井の研究家って
こんなんだろうなと頭痛くなる流れだなw
そういや昔セルビアとクロアチアの初期の支配層は黒海北岸からやってきた
イラン系遊牧民だったという説がある、という話をしたら
自国史を歴史の古いペルシアに結びつけるための捏造だろうという
訳の分からないレスが返ってきたことがあったが、そういう勘違いだったのか。
567 :
世界@名無史さん:2009/09/09(水) 23:08:28 0
印欧語族のイーラーン語派であって(イラン語派でもよいが)、イラン系という言葉はない。
人種を指しているのではないからだ。
間違いが発展していくスレだ。
そうなん?
例えば人種的には多様な、東はヤクートから西は共和国トルコ人まで含む同系統の言語を話す諸民族を
「テュルク系民族」と呼ぶことは普通に行われているが。
「フィン・ウゴル系」も人種的には多様だな。
こういう場合「系」というのははじめから言語系統を指して言っているものだと思っていたが、違うの?
なんでイラン系と言ってはいけないのかよくわからんレスだよね
ラテン系、ゲルマン系、スラブ系、インド系はよくてもイラン系は駄目とかよくわからん
>>567 なんかもうずっと人種と民族・言語がしっちゃかめっちゃかだから
さっさと19世紀にでも帰った方が良いよ。
567=556=542かな。いい加減見苦しいから、消えろ。
558もだろ。読んでると頭痛くなってくるw
573 :
世界@名無史さん:2009/09/10(木) 20:21:11 0
>>568 そうでいいです。言語族と人種を混同していたからね。
言語族は学説に過ぎないから
専門家は印欧語族のイラン語派と断り書きを入れる。
今のイランは紀元前1200にコーカサスから南下したアーリア人だという。
スキタイの出現は紀元前1400だから年代的には逆だ。
もっともイラン人も元はコーカソイドだが。
ペルシャの始祖キュロス2世がアラブ人の話をしていた時に
「我らはアラブ人ではない。コーカサスからやって来たアーリア人だ。」と言っている。
>>550が違うから始まったこと。
民族移動や印欧語族を論じる時に断り書きを入れるのはヒットラーの歴史的過ちがあるからだ。
「我がゲルマン民族の起源は人類最古であるインド・ヨーロッパ人のアーリア人で最も優秀にして・・」
(ゲルマン民族という固有は無いし諸部族の集まり、インド・ヨーロッパ人アーリア人も裏付けはない)
>>573 だからさー、君が「イラン系」をイラン・アーリア人しか指さないと思ってるから突っ込まれるんだって。
スキタイをイラン・アーリア人の意味で「イラン系民族」と言ってる人はこのスレに居ないぞ?
あと「白ロシア」の意味理解してる?
>>573 ゲルマン系はジャーマン(ドイツ人)だけではないし
イラン系もイラン人だけでない(と言うのは既に書き込まれているか)
スラブ系もイラン系も似た所があるから、以外とスキタイがスラブ系と近縁だとか言うならばともかく
白ロシアってなんや?
577 :
世界@名無史さん:2009/09/13(日) 16:39:04 0
>>573 >スキタイの出現は紀元前1400だから年代的には逆だ。
そんなに古くはないだろ。
もっともスキタイの最も古いアルジャン古墳が紀元前800年代で、その後西へ行ったのだから黒海沿岸への到達はもっと後になる。
578 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 17:11:23 0
579 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 19:19:35 0
まあ、民族というか語族と人種とは混同しやすいからな。
例えば、「現今のペルシャ人は古代ペルシャ人の子孫」と言った場合、
古代ペルシャ語を引き継いだ話者という意味では正解だが、
古代ペルシャ人の血統的な意味での子孫かというと、よくわからないな。
まあ、何割かはそれに該当するのだろうがね。
もう少し遺伝子研究が発達・普及してくると解明されるかもしれないが。
例えば、イギリスのアングロ・サクソン人と言った場合、
言語的にはゲルマン大移動のアングロサクソンの承継者ではあるが、
血統的には当時の原住民の影響のほうが強いのだそうだ。
それで、その当時の原住民はケルト語話者だが、
これがゲルマン大移動の数百年前に侵入したケルト人の、
血統的な意味での純粋な子孫かと言うと必ずしもそうではないらしい。
長くなるのでここで止めるが、よく調べてみてください。
現今のペルシャ人は十中八九古代ペルシャ人の血統的な意味での子孫だよ
>>573 アーリア人の流れはシリア→カフカス→キプチャク→東欧
↓
カスピ海のこっち側→インド、な
年代も紀元前13000〜5000年頃の先史時代の出来事
582 :
世界@名無史さん:2009/12/29(火) 16:17:06 0
>>579 金髪碧眼の一番多いフィンランドがウラル語族だもんな
ケルトの生き証人みたいなスコットランドのゲール語の話者が
ノルマン人との混血で金髪・碧眼・長身だったりするしな
584 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 16:23:21 0
585 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 09:21:30 0
これでまたイラン人や「アーリア人」についてのメチャクチャな知識が再生産されていくんだろうね。
586 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 12:31:36 0
587 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 16:06:45 0
>>583 ケルト人はあとから来た印欧語族の新参者
もともといたのはゲール語とかみたいなケルト語とはまったく違う言語を話していたブリテン諸島の原住民
ピクト人とか言われてる連中とその仲間
バスク語に近い言語を話していたんじゃないかという話
そこへ東欧から好戦的なアーリア人がどんどんやってきたわけだがその第一波がケルト人
588 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 16:07:20 0
「ゲール語とかみたいなケルト語」とはまったく違う言語
と読んでくれ
ケルト族はアーリア人じゃねーしw
590 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 18:11:24 0
ケルト人は典型的なアーリア人だが?
なに?おまえはヒトラーのアーリア人種の定義を信仰してるの?www
591 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 18:17:04 0
ヒトラー基準だとスラブ人もジプシーもアーリア人じゃないからw
むしろロマほどアーリア人の生活様式を守ってきた連中もいないだろうに
592 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 18:49:27 0
世界最古の遊牧国家か
印欧語族を総称してアーリア人と呼ぶのはやめようぜ 混乱を招くから
594 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 19:19:54 0
ケルト語は印欧語の中では最東端のトカラ語と近いと言われている。
わりと早い時期に分離していったはず。
ロマはインド発祥だから間違いなくアーリア人じゃね
ロマは北西インドからヨーロッパにかけて「馬車で」移動する、これ重要。
スキタイ人が着るような服ってなんていうんですか?
あとはあの独特な鍔なし帽子とかの名前とかも…
フリギア帽だっけ
違うっぽいね
600 :
世界@名無史さん:2010/04/12(月) 19:11:03 0
597>>
ああ、七人の小人の帽子みたいなやつか。
古代ペルシアではあの帽子をティグラハウダーと呼んでいた気がする。
服はロシアのルパシカに似た長袖のシャツを着ていたと思う。
まあ、スキタイの服自体ルパシカの原型となったようなものだけどね。
601 :
コピ改:2010/04/19(月) 18:41:18 0
ナチの理論では印欧語族は金髪碧眼高身長の白人であり、
その白人的要素を最も残したゲルマン民族こそ純潔であり優秀とするものだったが、
印欧語族にもっとも近い民族と人種はなにか?と看板どおり受け取れば、ゲルマン民族よりも
金髪碧眼の多いスラブ民族の方がより近いのはほぼ確実。
そして現在のスラブ人の居住区こそ、印欧語族の原住地である。
人種的正当性、地理的正当性から
南スラブからウクライナ辺りの人種が最高優等民族ということになるまいか。
ウクライナは本当のところロシア発祥の地でもあり、本家本流だ。
スラブ人こそ本物のアーリア人である。
本家本流のアーリア民族スラブ人がイランや
中央アジアを支配することは正統であり、
イランにスラブ人をどんどん移住させて中央アジアを白人の地に戻すべきである。
ナチの滑稽なイラン=ゲルマン同祖主義に比べたら、こっちの理論の方が正統だ。
602 :
世界@名無史さん:2010/04/19(月) 18:55:01 0
俺さ、前、衛星放送見てたときイランの国営放送のニュースで
イランの政治家が演説する場面を聞いていたけどペルシア語の発音とか
話し方とかロシア語にそっくりでびっくりしたこと覚えているわ。
>スラブ人こそ本物のアーリア人である
スラヴ直系の祖と推測される農耕スキタイは遊牧系スキタイとは民族的に異なる。
例えれば匈奴の支配下にあった漢民族を匈奴と同一視するようなもの
604 :
世界@名無史さん:2010/04/20(火) 15:04:23 0
>>602 100をケントと発音する(ケントゥム訛り)でなく、サトと発音する(サテム訛り)の系統だからな。
サテム訛りはどう考えてもバビロニアあたりのセム語の発音の印欧語への影響。
そしてイラン民族(「イラン」とは「アーリア人の国」という意味)を通じて
(おそらくイラン系と言われるスキタイを通じて)スラヴ人に影響して、
それでいまのスラヴ人がサテム訛り。
東西に広がった印欧語族の地理的に真ん中のあたりでサテム訛りが始まって、
そのサテム訛りトレンドはそこから東西に広がっていっている
だから西端のケルト語、東端のトカラ語はサテム訛りに全く影響されていない
605 :
世界@名無史さん:2010/04/20(火) 15:07:50 0
>>603 ヘロドトスは農耕スキタイと遊牧スキタイの言語的な区別はついていない。
それを無視して「民族的に異なる」などと斬って捨てるような暴力的結論はおかしいよ。
どのような民族ももとは異なった民族が混じりあって出来上がるものだからその過程にあると、
生活様式がことなったり、言語が異なったリする。
スキュティアの地で起きていたのもまさにそういった状態であったと考えるのが妥当。
全く同じ民族ではなかったにせよ、全くの別民族であったという結論は100%なし。
そういうの言い張ったのは昔のドイツ人に多い。独特の差別主義。学問ではない。
>どのような民族ももとは異なった民族が混じりあって出来上がるものだからその過程にあると、
>生活様式がことなったり、言語が異なったリする。
>スキュティアの地で起きていたのもまさにそういった状態であったと考えるのが妥当。
なら要するに当時は「異なった民族」だったってことでは?
今現在で古代イラン系遊牧民に近いのはスラヴ系よりもオセットなどカフカース系
>>606 同化過程にある段階だから、水と油のように異なるわけでもない
互いに影響しあって混じりあって新たな民族形成が行われていく途中
ところがロマン主義のイデオロギーはリジッドだからそういう動的な視点がない
スキタイはスキタイ、スラブはスラブ、ゲルマンはゲルマンで線引きしてしまうが、そんな単純なもんじゃない
今のスラブ人というのは何千年か前に印欧語族の中から
イラン方面とロシア方面へ分かれていってすっかり別物になっていたのが
その紀元前の千年くらいの間に再び出会って若干混じり合ってる頃に
ヘロドトスなんかにはそれぞれ遊牧スキタイと農耕スキタイとして認識されて
紀元後には再び一つになって今に至るってことでいいのかな
遊牧スキタイはプロトスラブじゃないよ。農耕スキタイはプロトスラブだが。
そういうあとで再び合流というのは印欧語族のもっと昔の2グループの分化とその後の合流としては見れるけど、
スラブの分化・合流ではないよ。
スラブ語は西アジアや南アジアの独特の訛り(サテム訛り)や語彙が一部入ってきているから、
古代のいずれかの時代にあっちの人々がだいぶ混血してきたことはガチ。
それが遊牧スキタイかどうかは決定的な証拠はないが、
時代的・地理的に見て最有力ではあるとは言える。
>>601 ロシア、イラン、インドのアーリア同盟か
612 :
コピ改:2010/04/26(月) 20:08:06 0
少なくとも歴史学者や考古学者は特定の民族集団との関連性を研究しているし
日進月歩で研究が進んでいるのも事実。
かつてのアーリアン学説は衰えたが、印欧祖語やプロトアーリアン説が否定されたわけじゃないよ。
まあ、あれだ。印欧祖語や原印欧語族の存在を前提として語った場合、
スラブ族の方がゲルマン族よりも近いのは確実だ。前提はナチも現在の正史も変わらない。
その前提から導き出される結論をナチが間違えていただけ。
前提を踏襲した上で、その前提にもっとも合理的に適合するのはなにか?
そこからちょっとだけ飛躍した話である。
613 :
コピ改:2010/04/26(月) 20:11:45 0
まずナチが好きなアーリアン学説をおさらいしよう。
印欧語族の発見はヨーロッパ人に衝撃を与えた。
当時、言語の伝播と人種民族の移動は同時に行われたと考えられ
その考えが、ペルシア、インド、ギリシャ、ローマの大文明はアーリア民族
アーリア人種の一派に よってなされたと解釈された。
そしてアーリア人が移動するにつれて混血し
現在のイラン人、ラテン人、ギリシャ人となり、
最もアーリア原住地の住民に近く純潔に保たれた種こそゲルマン人であるという考え方が
ノルディック至上主義だ。
この説は現在では主流ではない。
614 :
コピ改:2010/04/26(月) 20:44:26 0
しかし、ヨーロッパ人を言語学的、文化的に改造した原印欧語族が偉いということに変わりは無い。
そこでもう一度たずねてみるのだ。
原印欧語族的特徴を最も有する民族は誰かと?直系の子孫と名乗るに最も相応しい民族は誰かと?
まず地理学上の問題だ。印欧語族の原住地を中央アジアと取るかウクライナと取るか、これは大した問題ではない。
その一帯と考えることもできるし、ここで一番重要なのは相対性である。黒海沿岸は現在のかなり有力な説だ。
仮にカスピ海周辺としても全体の広がりから考えれば誤差の範囲で同じ地域だ。
黒海東側はヨーロッパと非ヨーロッパの境目だ。
そして南ロシアは地理的にはグルジアより中国の東トルキスタンより
そしてイランの上に辺り地理的にほぼアジアだ。カスピ海と黒海の間
つまり南ロシア辺りが(非ヨーロッパ)が印欧語族の先住地と考えられ、
クルガン族の遺跡が南ロシアで発見されている。ウクライナにかけても発見されている。
クルガン族こそ印欧語族の祖であるという説は現在の歴史学の定説に近い。
ヨーロッパ人の中ではスラブ人こそが印欧語族の原住地に最も近いところに住んでいる、これは確実だ。ゲルマン人やラテン族よりは正統性がある。
またスラブ人の原住地はドナウカルパチア山脈、現在のハンガリー、ルーマニアの辺りとする説が有力だ。南スラブ族をスラブ人の亜流と見る輩がいるが、南スラブ族こそスラブ故郷に最も近い地域に住んでいる。そして原印欧語族に最も近い容姿をしていると考えられる。
西ウクライナ説も有力な説の一つである。ウクライナのステップ地帯はイラン・アーリア系のスキタイ人のテリトリーでもあったことは広く知られている。
スラブ民族の原住地カルパチアも現ウクライナ領に跨っており、山脈の麓に沿ってルーマニア辺りまで南下すれば容易にパンノニア平原へたどり着ける。
スキタイはそこを通り道にするたび、プロトスラブと交流と混血を緩やかではあるが繰り返したと考えられなくも無い。
スラブって実は欧州で一番ミステリアスな民族だな
言語的には全体としてある程度統一性が保たれているのに、生活習慣は東・西・南でかなり違う
しかもその生活習慣の分化がキリスト教受容後ではなく、どうも古代のかなり古い時代に行われているらしい
なのにやっぱり言語は全地域で比較的通じるという
言語で歴史を残すいわゆる歴史時代が浅いだけに、古代のスラブ人の実像はさらにミステリアス
×言語で歴史を残す
○文書で歴史を残す
実際オセットなどカフカース系諸民族の方がスラヴより遥かに民間伝承や風習に
スキタイ・イラン系遊牧民の影を残しているのにそれを無視してスラヴこそスキタイの後裔!
と怒号するのは強引。
618 :
世界@名無史さん:2010/05/10(月) 11:30:21 0
スラブ民族の分布域はゲルマン人よりも幅広く
601>>で述べられたようにスラブ人はゲルマン
より肌が白く、金髪で青い瞳を持つ人々が多いが、
それ以上に暗色の髪で深緑の瞳を持つ人々も多い。
赤毛や雪のように白い銀髪もいる。
本家筋のイラン人はセム・ハム系、
トルコ系民族との混血や日照時間の
長い環境に住み続けていたため肌が
浅黒くなってしまっている。
特に深緑の瞳は、黒髪のインド・イラン人や
中央アジアのアーリア系民族にも見られる特徴で、
現在の人類学者での間では、アラブ化する以前の
ペルシア人や、先住民族と混血する以前のインド人など
古代アーリア民族の姿を知る手掛かりとして注目しているようだね。
オセット民族も原印欧語族の特徴を強く受け継いでいるし、
彼らの住む北カフカスも古代アーリア民族の
原住地の範囲にあった事は言うまでも無いだろう。
619 :
世界@名無史さん:2010/05/10(月) 11:48:23 0
オセット人などのカフカス人と遊牧スキタイ人はもっと前に同じ集団から分化してしまったものだろ
だからカフカス人はカフカス人のまま現代まで残る
スキタイ人は原スラヴ人に吸収されて同化消滅、スラヴ人となる
スキタイ人がカフカス人になったんじゃないよ
絶対にね
ヘロドトスの記述ではケルト人が赤毛という記述はあるが、
スキタイ人は毛深いとあるだけで毛髪の色に関する特に記述は無いようだが。
原スラブは金髪・長頭・白肌・碧眼の北欧人種だった可能性が高い
というのも、9世紀のスラブの墓を調べると
彼らは火葬の習慣があったので肌や目や髪の色はわからないが極端な長頭
一方、スキタイ遊牧民や小アジアのキンメリア人などは頭は長くないが鼻が高い
現代のスラブは両方の人々が混在している
よってスラブは原スラブと遊牧スキタイの混血であることはほぼ間違いない
これからのスキタイ研究はこのミッシングリンクを追う作業になる
ロシアやウクライナではそのような研究がされているが資金不足で後回しになっている
墓は9世紀以前の、だな
6世紀とか、はっきりスラブのものだとわかっているもの
スキタイ人はユダヤ人に暴行を加えたり略奪したりはしたようだが、
(旧約聖書でユダヤ人はスキタイ人を洪水のように例えて恐れている)
今現在のスラヴ人のように憎しみを込めたポグロムはしていない。
ユダヤ人に対する姿勢がスキタイ人とスラヴ人では違い過ぎる。
アシュクザイ → アシュケナジー=ユダヤ教徒になったスキタイ
そもそもハザールはトルコ系でイラン系ではないが。
それよりはスキタイの流れを組むアランまで遡れるカフカースのオセット族の方が信憑性がある。
トルコ人は元来モンゴロイドだったとされるが、言うまでもなく、
東欧系ユダヤ人はコーカソイドだ。
アナトリアのトルコ・イスラム化したビザンツ人らと同様、
ハザールはトルコ・ユダヤ化したアラン人ではないだろうか?
>>623 ポグロムといえばスラブというよりもウクライナ人
17世紀のフメリニツキーの乱はホロコーストと双璧をなすヨーロッパ・ユダヤ最大の悲劇とされている
そしてウクライナ人こそ実はスキタイ人の直系の子孫で、
実はウクライナ人は言語がスラブ化したスキタイ人
ついに意見が一致して結論でたな
キンメリア → カッパドキア、アルメニア
ラウジッツ文化人 → ヴェンド → ポーランド
スキタイ→スクラヴェンニ → チェコ・スロバキア&南スラブ&東スラブ
サウロマタイ → アント
ロクソラン → ワラキア、モルダビア
アラン → オセチア
サカロウライ → シースタン、ラジプート
スクラヴェンニは、サウロマタイに牧草地を追われたスキタイではないだろうか?
ポーランド人以外のスラブ民族は、ほぼスクラヴェンニの末裔だとされる。
6世紀以降のスラブ民族の拡大は、スクラヴェンニの拡大であったとされる。
アントは、ゴート人に土地を奪われて、遊牧が困難になり農民化したサウロマタイ。
602年のアヴァールの攻撃で大打撃を被ったアントは、スクラヴェンニに吸収された。
スキタイはオリエントやイスラエルを荒らしまわり各地で略奪や暴行を重ねていたが、
ウクライナ人のようにユダヤ人を憎悪して標的にしたわけではなく、
イスラエルを蹂躙した際にはそこにユダヤ人がいたので略奪・暴行しただけで、
戦利品が目当てであってウクライナ人のポグロムとは違い
ユダヤ人が憎くてイスラエルやオリエントを蹂躙したわけではない。
>ロクソラン → ワラキア、モルダビア
これどういう事? 詳しく
>>628 まったく同じじゃないけどスラブについては自分と近い認識だ
同時代の文化圏で言うと、
すでに原スラブが西のプシェヴォルスク文化と
東のザルビンツィ文化に分かれていたことがわかってるからね
ポーランド、チェコ、スロバキア、ソルブなどはプシェヴォルスク文化の系統のスラブ人で、
6世紀に急拡大していったのがザルビンツィ文化→チェルニァコフ文化→
キエフ文化・プラハ=コルチャク文化の系統だ
前者は西スラブ人の人口的基幹、後者が東スラブ人の人口的基幹だろうね
>>629 そんなことまではわからないよ
資料がないんだから
文書でもあれば細かいいきさつもわかる可能性があるが、ないんだから
レフ、チェフ、ルスのスラブ人三兄弟の逸話というのがあって、
レフは「俺は西へ行く」、チェフは「じゃ俺は南へ行く」、ルスは「じゃ俺は東へ行く」と言って、
それぞれ分かれ、レフはレフ人(ポーランド人)、チェフはチェコ人、ルスはルーシ人(ロシア、ベラルーシ、ウクライナ)に
なったそうだが、これ実はもともとはレフとチェフの二兄弟の話でルスの部分は近世に追加されたものだそうだ
いまでもチェコでは二兄弟の話がデフォで、三兄弟はポーランドで定着している
つまりこのレフとチェフの二兄弟の話がプシェヴォルスク文化の西方文化の原スラブ人の話だった
そこでポーランドでルスが追加された時代を見てみると、
ポーランド=リトアニア共和国がルーシ(ウクライナ)を併合しモスクワ大公国に侵攻して
モスクワを占領したた時代と一致する
ということはつまりポーランドによる対ルーシ政策の一環として、
いわゆる「同祖論」による文化戦略により昔話にルスが加わったと考えられる
チェコに伝わる話では
レフ:「俺は北の地に残って北を探索してみる」
チェフ:「俺は山を越えて南へ行ってみるよ」
と言ったらしい
そこでレフは北へ向かうとすぐに白い鷲が飛んでいるのを発見、これは吉兆だとして
追いかけていくと白鷲はある高い木の上にある巣(ポーランド語でグニェズ)に舞い降り、
雛たちに餌を与え始めた
これこそまさに吉兆であるとしてその木の近くに当時のスラブの神様の聖堂を建てて、
その古スラブ神道の聖堂の近くに村を作って住むことにした
その村がグニェズノといい、聖堂のあったまさにその場所には10世紀に
キリスト教の首座大司教座が建てられ、以来現在までポーランド首座大司教座がある
これがポーランド、グニェズノ市の創立
チェフはプルタヴァ川の右岸(チェコ語でプラハ)にちょうど良い地の利の場所を見つけ、
そこに村をつくって定住を始めた
これがチェコ、プラハ市の創立
だからルスの挿入は不自然すぎるんだよ
スキタイ人(ルーシ人)はこの話に入ってこれるはずがない
>>631 チェルニァコフ文化=大ゴート王国
キエフ文化=アント
プラハ=コルチャク文化=スクラヴェンニ
ボヘミアではボエムスだけが来たんであって、レフも後付けだけどな
>>636 東欧に行ったゴート人は統一した王国は築かなかった(けなかった)んじゃ?
大ゴートなんかなかったろ
また、スキタイ人の勢力が盛んだった時代のゴート人はヴィエルバルク文化だろ
このヴィエルバルク文化がヴィスワ川を遡ったために原スラブ人が西と東に分断されて、
西がプシェヴォルスク文化、東がザルビンツィ文化となってそれぞれ独自に進化発展
当時のゴートは部族ごとにバラバラに部族国家的組織があってそれが合従連衡してただけ
全体としてヴィエルバルク文化→チェルニァコフ文化
そのうち力の強いいくつかの部族は纏まって後に西のイタリアやイベリアの方へ行ってしまった
そのときの政治的必要性からまとまりがそれぞれ東ゴート王国、西ゴート王国になったんだろ
力の弱いゴート部族はキエフ文化やプラハ=コルチャック文化の原スラブ人に吸収されて
どんどんスラブ化してゴートとしては消滅、東スラブ人となる
クリミアではクリミアゴート人がフン・アヴァール・ハザール・タタールと
支配者は変わりながらも、帝政ロシアにクリミアが併合されるまで確認されているというが。
帝政ロシアの同化政策で消滅した。
チェコ・スロバキアはプラハ・コルチャク文化に由来するのではないだろうか?
ビザンツの記録では、スロバキアがスクラヴェンニの本拠地だと考えられる。
スクラヴェンニは、ロンバルト族のイタリア移住後に、スロバキアからボヘミアと
パンノニア経由でバルカンに移住、ボヘミアとバルカンがスラブ化したとされる。
ウクライナのアントも、ワラキア経由でバルカンに移住しようとしたが、
スクラヴェンニを配下とするアヴァール族に阻まれたとされる。
>>639 クリミアにいたために地理的にスラブ化されなかったんだよ
黒海沿岸地方はモンゴル系やトルコ系の連中の力が強かった
後のキエフルーシやリトアニアやポーランドでさえ黒海沿岸での支配力は弱かった
そしてついに帝政ロシアによって完全にスラブ化して消滅
クリミア・ゴート族はむしろタタール人に吸収されたのでは?
クリミア・スキタイを滅ぼしたのはクリミア・ゴートか?
>>643 正教徒になって、クリミア・タタールの支配下に入って、
その後ロシアの支配下に入って、エカテリーナ2世がクリミアから追い出して
ロシア国内にバラバラに強制移住させてロシア化して滅んだんだよ
>>641 クリミア半島は、ビザンツ帝国とオスマン帝国に保護されていたからね。
ゲルマン人とくにゴート人は根っからの商売人だから税金をけっこう払ってたからな
滅ぼしちゃったら税収が減る
648 :
世界@名無史さん:2010/05/24(月) 18:58:54 0
よく考えてみれば,ゴート人も得体の知れない連中だよな。
東ゲルマンと言う集団に属していると言うことはわかっているけど
原住地が何処なのかよくわかっていない。
南スウェーデンにイェーテボリやゴトランドと言う地名があることから
17世紀にスウェーデンこそがゴートの本拠地だと主張する民族主義が起こって
グスタフ・アドルフ大王が一種の東方生存権をやらかしてる。
ゴート語にはノルマン語と共通する所が見られているそうだけど
チェコからウクライナに広く分布しているためスカンジナビアが起源とは
断定できない。
それに東ゲルマン語自体、地理的に北欧より東方系の影響が強い
(例、王様の名前。トティラだのアタナギルドだの)
最近じゃ東ゲルマンと考えられたヴァンダルも
中心がスラヴ系だという説が有力視されてるし
ひょっとしたらゴートもヴァンダル同様、多数派を占めていた
スラヴ系やイラン系に吸収されて,もはやゲルマンとは呼べない程に
多様化した集団ではないかと想像してしまう。
実際そんなとこだろ
18世紀頃にヴァンダルはポーランド人の実の先祖だという主張が出て
どうせサルマート主義の名残だろうとDQN扱いでそれは20世紀半ばまでそうだったが、
結局は共産主義が崩壊したあとのここ20年ぐらいでガラガラポンで研究してみたら、
もしかしたらヴァンダルもサルマートもポーランド人の支配層の先祖かもしれないというのが
どうも当たらずといえども遠からずという状況になってきたわけだから
ヴァンダル=ヴェンドという事なのだろうか?
クリミア半島の最古の住民は、ケルト系のシメニア人だとされるが、
シメニア人=キンメリア人なのか?
ゴート族は、ワラキアの先住民ゲタイ人に由来しているのだろうか?
ヴェンドつまりヴェネト人は集団の名前から土地の名前に摩り替わった
集団だったヴェネト人は南下してヴィエンナ(ウィーン)やヴェネツィアを作って消滅した
故地はヴェネト人の土地と考えられそこに住んでるのは言語的に別の集団でも
ヴェネト人(=ヴェンド)と呼ばれるようになった
だからポーランド・リトアニア・ラトビアにかけての一帯のヴェネト以降の古住民は、
たとえスラヴ系でもバルト系でもヴェネト人=ヴェンド人と呼ばれた
クリミアの古住民は必ずしもケルト系だったわけじゃなく
文化的な分化がまだはっきりしなかった時代のケルトと同祖の文化集団だろ
時代的にはキンメリアと関係無きにしも非ずだろう
652 :
世界@名無史さん:2010/05/24(月) 20:24:40 0
もう1つ得体の知れない連中と言えば
中央アジアやウイグルのトハラ人だ
一方はタクマラカン砂漠のオアシスに暮らしていた
ヨーロッパ系の農耕民族。
もう一方はアフガン北部のトハリスタンと呼ばれる地域で
活動していたアーリア系騎馬民族だ。
後者は北インドから中央アジアにかけてクシャーナ朝と呼ばれる
一大帝国を築き、大乗仏教を発展させた偉業を持つ。
漢書や魏書は彼らの国を大月氏国と呼ぶ。
この大月氏が気になる。
彼らもアーリア系とされており、匈奴との勢力争いに敗走した後
バクトリアに移住。クシャーナ朝の前身となる大月氏国を建国した。
一部はタクラマカンに留まり小月氏と呼ばれたが
その後は知られていない。
後に楼蘭やクチャ(亀茲)などの小国が現れる。
住民はヨーロッパ系のケントゥー語を話すトハラ系農耕民とされる
(彼らが小月氏?)
ここで考えられるのはどのような言葉を話していたかだ。
トハラ人(月氏)は元来中央アジアで広く用いられた
ストー語を話していたがギリシア系住民や、
ローマ人との混血交流でケントゥー語化。
または本来ケントゥー語を話していたが匈奴から逃亡するにつれて
イラン系と合流しストー語化したか。
ところでフンザやヌリスタン(カラシュ)には
白人風の風貌を持つ人々が暮らしている。
ギリシア人の末裔と言われているが
もしかしたらトハラ系かも知れない。
簡単なこと
もともと印欧語族はケントゥー的な発音だった
その後西アジアの印欧語族の間ででストー発音が発生し同心円状に流行していった
トハラ人は印欧語族のうちの西アジアの人々の発音が
(おそらくセム・ハム系の発音の影響を受けて)ストー化した時代より前に
すでに中国のほうへ移住が済んでしまっていた
西アジアからストー発音が流行として同心円状に広まっていったから
インド・イランあたりは全部ストー化
ストー化の西の端がスラブ・バルト、東の端がインドあたり
だからそこから砂漠地帯をはさんでそのまた東に行っちゃったトハラ人では
ケントゥー発音がのこった
スキタイもイラン系だといわれているが、だとすればスラブあたりのストー化は
ぴったり符合する
ヘロドトスの時代、サウロマタイは東にマッサゲタイ、西にスキタイ、
と大勢力に挟まれたどちらかとういうと弱小集団だったが、
その後マケドニアのフィリッポス王相手ににスキタイのアタイアス王が戦死、
マッサゲタイもアレクサンドロス王の遠征は撃退したようだが、勢力は衰えた。
サウロマタイはこの空隙を縫うように勢力を拡大している。
ローマ時代にはダキアなど辺境を脅かしていたのはスキタイではなくサルマートになっている。
スキタイ人もサルマート人も人数的に少数派の支配層が交代しただけであって、
じつは集団の大半は同じ連中とその子孫
スキタイ人=サルマート人=キエフ・ルーシ人=ウクライナやベラルーシなどの東スラブ人
スキタイとサルマートは古墳発掘である程度の文化的共通性が確認されるが、
イラン系遊牧民のスキタイ・サルマートとノルマン系牧畜民のルス族とは文化・風習は完全に断絶している。
ルス族っルーシーつくった連中の事? スキタイとルーシーとでは全然時代も場所もかけはなれているじゃん・・・・。
ルーシ・イン・ザ・キエフ・ウィズ・ダイヤモンズ
キエフ・ルーシは北欧のバイキングの子孫である自覚はあったと思うが、
古代スキタイ王国の継承者であるという自覚は無かったし、
この地にかつてスキタイ王国が存在したという認識すらなかったのではないか。
スキタイ人=サルマート人=キエフ・ルーシ人と無理やり繋げているが、
歴代の中国王朝のような政権が変わっても中華を継承しているという意識を持っていたとは思えない。
東ローマ帝国の文書では「スキタイ人」として記されるが、
まあ古典にならって当てはめただけだしなあ
まぁ、遺伝子調べたら結構類縁性は認められると思うが、それと
現代の我々が普通に考える民族や国家という共同幻想を彼らが持っていたかというと別問題だよな。
ああいうのはあくまでもナポレオン戦争移行の国家観点であり、日本では明治以降の考えに過ぎない。
それ以前は例えば日本でいうと日本という「セカイ」の中での領邦国家といった方がしっくり来る。
幕府とか将軍様というのは庶民の世界観になく特に地方の諸侯の治める民の間では江戸など文字通り
別の「クニ」だったのだから。
何がいいたいかというと、今日我々が考える遊牧民族の勢力や境界線も実際は数多の「部族」の連合政権
にすぎず、その支配体制も中央集権的な近代国家のそれとはにつかない非常にゆるいものであった。
なるほど血族関係などは重視されもするが、それが発展してかつて個々に何々がありゆえに我々がなりたつと
いうような連続性は意識してない。いや考えもしなかったのではないか。
遊牧民は基本的に文書記録を残さんから、考えてたかどうだかすら分からん
当時は定住民も大してかわらんし
>>656 >ノルマン系牧畜民のルス族
>>659 >キエフ・ルーシは北欧のバイキングの子孫である自覚はあったと思うが、
おいおいちょっとまてよwww
ルス族がゴッソリとノルマン系だなんてなし崩しにそういうデマが定着したとはwww
ルーシの支配層の一部は確かにスカンジナビア方面から来たが、
かれらがスラブの現地住民たちによって支配層に組み入れられたのは、
スラブの現地住民たちが部族ごとに互いに対立して利害関係が複雑だったため
そうしてノルマン人とスラブ人のそれぞれの支配層が混血して一体化して支配層となった
そしてこの地の膨大な基幹人口はスラブ
世界中でよくそういうことがある
そしてスキタイ人の基幹人口とルーシの基幹人口は同じ家系で時代が違うだけ
つまりスキタイ=ルーシ(東スラブ)
664 :
663:2010/05/25(火) 00:58:33 0
>>661 そういうことだよ
そういう前提がちゃんときっちり認識されてないから
>>656とか
>>659みたいな変な
考えを持つようになる
キエフ・ルーシはノルマン人がスラブ人を支配した構造じゃないよ
日本の皇室だってもとは九州の神官だろ
それが、互いに利害が錯綜してニッチもサッチもいかなくなった大和の豪族たちにとって
便利だったから、地元の豪族たちの家系との混血を条件としてお神輿されて
わりとすんなり受け入れられた
神武東征
マジャール人って遊牧民だったけど、定住したら牧畜民ぐらいに落ち着いたよね
マジャール人は、ゴート族と同じく、もともとは騎馬民族ではなかったらしい。
ゴート族がサルマチア人の騎馬戦術を模倣した様に、マジャール人はブルガール人
やハザール人らの影響を受けたとされる。
マジャールは遊牧民というより、移牧民だったんだろ
・遊牧民は家を持たず、幕屋に住んで家畜と一緒に広い地域を回遊する(モンゴル、ベドウィンなど)
・移牧民はある場所を決めて定住して家を建て、季節ごとにその周辺を移牧して回る(スイス、チベットなど)
マジャールがもうヨーロッパへ行っちゃった後、
西シベリアの大地でブルガールが栄えた
そのブルガールがヨーロッパへ行っちゃう前の10世紀、
ペルシャ出身のアッバース朝イスラム帝国の学者イブン・ファドラーンがあのあたりの土地を回って、
記録を残してるが、往路の分はあるが復路の記録が散逸してしまって、発見されてない
往路は肝心のブルガールの話がありーの、ボルガ川で見たルース人の葬式ありーの、
ハザール・ユダヤ王国に関するいろいろな聞き書きがありーのだが、復路の記録が散逸してしまってる
この復路の分にはきっとウクライナあたりのスラブ人の記録があるにちがいない
671 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 06:34:34 0
マジャル族も謎多いよな〜
フン族との同祖説があったりフィン族との分派説もある
特に気になるのがマジャル族の長で「ブルツ」という奴がヨーロッパ中を荒らし回り
「血の男」と呼ばれ恐れられたって話がある
当時の人々はマジャール人には大して興味なくて
ブルガール人に興味あった
彼らにとってはブルガール人がミステリアスだった
なお、ハンガリー人はマジャール人7部族とハザール人3部族の連合体
673 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 11:30:14 0
個人的にはアヴァール族の方が謎多い
674 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 23:14:44 0
キエフルーシは遺骸を船に乗せて火葬するという
ヴァイキングの風習をもろに残している。
一方でスキタイ・サルマートは土葬で古墳を残している。
スキタイの古墳は結構規模が大きいが,サルマートはこじんまりしているという違いもある。
まさに三種三様なこのそれぞれの民族を同じ土地にいたからというだけで
"="で片付けてしまうのは彼等の文化を大きく誤解する事になる。
ルーシの首長層がヴァイキングの末裔という伝承はきっと正しいんでしょう
しかしながら末端がそうかといえば別問題だからねえ
ルーシの支配層は明らかにヴァイキングと現地の東スラヴとの混交だよ
どちらの習慣も残しているからね
そのルーシと抗争していたハザールもトルコ系遊牧民と現地の東スラヴが混交していた可能性が高いが。
遊牧民という点ではスキタイと同じハザールだがスキタイのような金細工やグリフィンのような遺物は稀。
で、だから全部最後はスラヴ化して東スラヴとなる
他民族を自分たちに同化して消滅吸収してしまうパワーではスラブ無双
>他民族を自分たちに同化して消滅吸収してしまうパワーではスラブ無双
つユダヤ人
漢民族が一番同化能力強いだろ。北方系も南方系もなんでもかんでも人口圧でのみこんでしまうから。
紀元前500年の中国東北部から白人のDNAが見つかってるくらいだからな
古代から中国北方にはイラン系ソグド人がいたことは普通に史書にも記されているし
中央アジアのユダヤ人みたいな感じだったのかな
>>680 いや、スラブ
完璧に
ユダヤはこのパワーではスラブに敵わない
言語という基準ではヘブライ語を話さない者は、ユダヤ教徒であってもユダヤ民族ではない。
ハザール・アシュケナジーは、ユダヤ教徒であるがユダヤ民族ではない。
それではスファルディもミズラヒムも誰も彼もユダヤ民族ではないことに。
そもそも長い間ユダヤ民族が消滅していて近年復活したということに。
あとUSAの膨大なユダヤ教徒もユダヤ民族ではないことに。
ヘブライ人
イスラエル人
イスラエル国民
ユダヤ人
ユダヤ民族
ユダヤ教徒
むう
もはやヘブライ語もイディッシュ語も話せないユダヤ教徒はユダヤ民族じゃないだろ
それに比べ、スラブ人は他民族を吸収してその母語までも奪ってしまうのだが、
しかもこれについては近代をのぞけば暴力的にそれを行った形跡が無い
なんとなく代が下るうちにマターリとみんなスラブ語を母語にするようになってしまう
ここが不思議
強制しないのがかえって良いのかもな
スラ部活動
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< ピエロギ
( ) \_____
│ │ │
(__)_)
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< ドブロブ肉
( ) \_____
│ │ │
(__)_)
691 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 15:27:22 0
>>689 スラブ語は語彙に外国語からの借用語が多いが、意外にそういう柔軟性があるところも何か影響していそうだ
スラ部活動
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< イシュトヴァーン
( ) \_____
│ │ │
(__)_)
693 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 17:42:32 0
トハラ人=月氏(ケントゥー語)
↓
大半 大月氏 一部 小月氏
ペルシア、サカ(スキタイ)の影響で遊牧生活 タクラマカン砂漠内オアシスに定住
(ケントゥー語話者多数?) (後の小河墓遺跡?)
↓ ↓
匈奴との勢力争いに敗北。バクトリアへ逃亡 楼蘭王国 亀茲王国
↓ ↓
大月氏国建国 繕鄯国 安西都護府
↓ ↓
クシャーナ朝 ウイグルに吸収併合
(インド・スキタイとの混血によって既にストー語化) (文化的・言後的にウイグル化)
↓
フンザ、ヌリスタン?
694 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 18:35:32 0
>>689 それに比べ、スラブ人は他民族を吸収してその母語までも奪ってしまうのだが、
しかもこれについては近代をのぞけば暴力的にそれを行った形跡が無い
なんとなく代が下るうちにマターリとみんなスラブ語を母語にするようになってしまう
ここが不思議
強制しないのがかえって良いのかもな
優秀かつ有能なやつなら自国民だろうと異民族だろうと文官や軍司令官へ
昇格できるという騎馬民族国家の特徴だよな。
これはモンゴルに限った事じゃなくスキタイ人やサルマタイ人(アラン人)
の影響も深層部にあるのかも知れない。
余談だけど雷帝ことイヴァン4世は自国を第三のローマ帝国と自負していたが
まさにそれを地で行っていたことになる。
古代ローマ人は建国神話で現在の小アジアのトロイを発祥地としていたが
トロイ戦役の舞台である小アジアはスキタイやヒッタイトも活躍していた。
あの強大な他民族を擁した帝国を築けたのは
ラテン人の祖先に当たる民族が本来小アジアに住み
スキタイやヒッタイトの国家制度を取り込んでいたためかもしれない
695 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 19:30:31 0
ロシアの起源についてはノルマン系のルーシ族が建国したと言われる。
その根拠としてロシア語にはノルマン語由来の単語が用いられていることだが
実際は少数派でヴァンダルと同様スラヴに吸収されてしまっている。
もうひとつの起源にサルマタイ人の部族、ロクサラン人やルフス・アスの名が
縮まってルスになったと言う説がある。
そういえば北オセチア共和国にルスラン・カラエフと言う格闘家がいるが
ルスランと言う名こそアラン族やロシア・スラヴの深い繋がりを示していると考えてしまう。
696 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 19:44:58 0
ロシアの起源についてノルマン系ルーシ族が建国した伝承から来た説がある
実際ロシア語にはノルマン語由来の単語が見られるが
ヴァンダル同様スラヴ系に吸収消滅してしまい、ノルマンの文化は
まったく見られない。
もう一つはサルマタイの部族ロクサラン人やルフス・アスの名称が縮まって
ルスと変化した説。
そういえば北オセチア共和国出身の格闘家にルスラン・カラエフがいるけど
ルスランという名自体
アラン族とロシア・スラヴの繋がりが如何に深いかが頷けそうだ。
697 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 19:47:03 0
>>695、696
二つも書いてしまった。すまん。
>>693 それでわかった
文化大革命の頃、多数のウィグル人がパキスタン北部に逃げたらしいが、
もともと近かったんだね
>>693 非印欧語族(匈奴、月氏、烏孫、エフタル → フンザ?)
印欧語族(マッサゲタイ、サカ、トハラ → ラジプート、シースタン、トハリスタン)
大月氏 → クシャーナ朝(イラン人に同化)
小月氏 → 羯(中国人に同化)
小河墓遺跡(紀元前1800年頃)
チャタル・ヒュユク文化やトリポリエ文化に類似する農耕文化、非印欧語族の可能性あり
砂漠化により彼らがこの地を去った後、イラン人がオアシス都市を建設→楼蘭王国
楼蘭王国(イラン系)、亀茲王国(トハラ系)
700 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 21:34:00 0
トリポリエ文化ってスラブ系じゃないか?
原スラブでククテニ・トリポリエ文化と言うのを聞いたことあるぞ
トリポリエ文化とかは人種はコーカソイドだけど、言語は不明だとしか言いようがないな。
文字が無いんだから言語なんかわかるわけない
ところがククテニ・トリポリエ文化はチェルノレス文化へ移行している
で、これがスキタイやスラブに続いているので連続性がある
エボリューションですな
ご先祖様から代々伝わりながら進化してきたのよ
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < プシェミスル
( ´∀`) \_____
トハラ(言語)とトハラ(民族・地名)に関係があるかどうかは定かではない
トハラは西側に荒野があったおかげで
インド・イラン系に始まった印欧語のサテム化の流行が届かなかった
スキタイなどのサテム語勢力がほとんど来なかったんだろう
一方でサテム化の西端では、
スラブやバルトの先祖がサテム語勢力と深いかかわりがあったため、
発音がサテム化した
しかも彼らが「神」をボーグとかブークとか呼ぶのはイラン系の言語からの影響
まあ100%遊牧民系スキタイ人の影響だろう
インド・ペルシャ系の言語は欧州諸語からほど遠いけどな
印欧語族なんていう括り自体が不可解
えっ
ぜんぜん遠くないんだが
ゲルマン、スラブ、バルト、ペルシャ、ヒンドゥーあたりは互いに非常によく似ていると言われる
発音に関してこのうちゲルマンだけイランあたりで始まったサテム化の流行が
届かなかった、というだけ
×ヒンドゥー
○ヒンディー
ぜんぜん遠くないんだが[[要出典]]
ゲルマン、スラブ、バルト、ペルシャ、ヒンドゥーあたりは互いに非常によく似ていると言われる「誰に?」
素人の独自研究レベルだな
イラン・インド語派なんて、元々政治的作為を持って無理矢理取り込んだインド語派に
ペルシャ語を後付けしただけの天動説的な似非学問が産み出した役に立たない非合理な分類
711 :
世界@名無史さん:2010/06/04(金) 18:43:13 0
そりゃすげえ、ぜひ理論を学会に提出してみせてくれ
インド・ヨーロッパ語族を否定できるなんて並大抵の学者じゃできないぞ
ウィリアム・ジョーンズって何か政治的意図を持ってたの?
713 :
世界@名無史さん:2010/06/04(金) 23:18:50 0
>>710 インド・ヨーロッパ語族の否定こそ要出典。
ゲルマン、スラブ、バルト、ペルシャ、ヒンドゥーあたりは互いにそっくり
これ不要出典
なぜなら常識レベルだから
>>710 自分は出典や提唱者について言えるということですね
あなたの学説に興味あるので参考文献など教えてください
こんなあからさまな釣りか、さもなきゃ電波に反応しなくてもw
716 :
世界@名無史さん:2010/06/05(土) 00:15:26 0
>>710 お前はどうせウラル・アルタイ語族とかは信じてるんだろうなww
アレクサンドロススレでスキタイの女王を孕ました話をきいたが、くわしくおしえてくれ。
アレクサンドロス4世の母ロクサナの事じゃないか
>>712 東インド会社の職員なんだから持ってない方がおかしいわなぁ
720 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 21:25:00 0
スキタイ人は動物意匠で有名な金属細工のみならず
優れた木製品や絨毯、タペストリーなども残している。
特に木製品や織物類はスラヴに継承されているだろうね。
しかし何故スラヴの人々は金属細工を受け継がず木製品や
織物類を選んだのかは疑問だ。
>>717 アマゾン族の女王タレストリスはアレクサンドロスを
訪ねてこう言った。
「私はあなたの勝利と武勇の評判を聞いて、あなたに
お目にかかり、あなたの遠征のお手伝いに私の資力と
兵力を捧げにやって参りました。
いま、あなたのかくも美しく、若く、逞しいお姿を拝
見いたしましたが、この私も、あらゆる点で完全であ
りますので、私と臥所(ふしど)を共になされてはい
かがですか。
世界中でもっとも勇ましい女性と、今生きているうち
でもっとも勇ましい男性との間に将来、偉大にして稀
有な何ものかが生まれ出ますように」
アレクサンドロスは、その地に十三日間逗留して、そ
の間、勇ましい女王のために出来る限り楽しく宴を張
った。(ディオドルス・シクルス17-16)
アマゾン族の女王タレメネスは垂れ目であった
彼女の娘で、次代女王のタレストリスは栗が大きく、垂れ下がっていた
男色の嗜好があったアレクサンドロスに対し、
女王はファルス(陽根)とも見まがうほどの勇ましい栗で夜毎慰め、
アレクサンドロスは女王に耽溺しその地に十三日間も逗留したという。
なお、当時のアマゾン女王の家系タレス朝では遺伝的に乳も垂れ気味であったと言われているが
片乳を切り取るアマゾンの習慣のため、その肉体的欠点は目立たなかった(ミャシタス・ミンメイウス1-3)
>>720 当時の工業生産は職能集団ごとにわかれていたのが普通だから、
金細工をやっていた職能集団は集団ごとその後のサルマートやアヴァールやブルガールなどに
受け継がれていったのでは?
スラブにも金属工芸あったがスラブの場合、金を主体とした経済活動を
行う習慣が長い間存在してないから、金細工によって換金の容易な流動資産を
身に着けることに興味がなかったことが最も合理的な推測だと思われる。
金を重宝するのはもともとは遊牧民など
遠方へしょっちゅう移動する人々だった。
彼らにとっては資産は金に交換しておくのが最もよい蓄財法。
それに対して、定住民にとって金よりも大事なのは牧草地を含めた農地や狩猟地や水系。
つまり土地。
そこで衣食住に関わる全ての生産が行われ命を繋ぐから、土地が最も価値のある財産。
実際に原スラブは長い間一定地域に留まっている。
スラブが拡大して行った時代には土地のほかに金銀が重宝されるようになる。
スラブ人の姓には土地に関わるもの(スキーなど)と、
父親の名前に関わるもの(ッチなど)と、
職能に関わるもの(ックなど)と、3つある
これは古代からの土地本位制、後に加わった金本位制、
後に発展した職能集団、との関連が見られる。
遊牧民と貿易商人が、特に金を重宝する。
スキタイの金はトラキアなどで産出したものが多い
ブルガリアではその後も金細工が栄えている
やっぱりスキタイ消滅後にスラヴ人の間に定住同化しないまま拡散した一部の遊牧民の間に
職能集団として細々と残ったんだろう
後のジプシーがインドからやってきて流浪しながら鍋釜やアクセサリーを作っては
売って回っているのと同じ
昔は遊牧民でも流浪民でも定住しない人々は金属細工を得意とした
なるほど
金は持ち運びが容易ということね
土地は持ち運びできないもんな
>>724 土器よりも耐衝撃性に優れる金属器は、遊牧民と遠隔地交易商人には必需品だろうね。
東西交易品が絹から陶磁器になったので、陸上交易は海上交易に取って代わられた。
>>727 ミャオ族の巨大銀飾
あれは中国の金属加工では先頭集団らしいね。
焼畑農民もいるミャオ族のほうが、漢人のよりも芸がもっと細かい。
文化の流れる方向として、ミャオ族→漢人やその他の民族かな?
>>720 クロスステッチといえば、ミャオ族の物量は凄まじい。
ミャオ族は少数民族とはいえ、中国国内だけでも900万人もいるらしい。
元々楚の指導者層は苗族という説もある。ただ、清末の太平天国の乱の乱で
回族同様に虐殺されてる。回族は未だに人口が回復していないときく。
苗族はどうだかしらないがね。
貴州省は麻薬や人身売買などのメッカで中国でもかなり貧しいところ。
>>731 回族は信仰を捨てたら、話している言語の民族に戻るからマクロな人口統計は意味ないかも。
中国回族やトルコの戒律は、アラブのイラスム教とは一緒ではなくて、アラブの常識とは違うみたい。
アラブのイスラム原理主義者につけこまれないように、現地化ルールによる信仰のようだ。
ロマ、ミャオ族とくれば、平泉黄金ジパングが
スキタイみたいに遊牧民・流浪民と関係があるかどうか、知りたくなってきたぞ。
>>735 後のサンカはジプシー的な職能流浪民でこれも関係あると思うが、
平泉が栄えた時代については交易商人と大いに関係がある(金売り吉次など)
貨幣経済が本格化したので
スキタイのような遊牧民、ゴートやノルマンなど一部のゲルマン人のような貿易商人
といった人々は売買する物資の対価として、貴金属を流動資産として用いた
原スラヴ人が数千年間もの長い間一地域に定住していたことを解説した論文がネット上に出てる
それだけ彼らにとっては色々な意味で良い土地だったんだろう
>>736 スキタイは貨幣経済の伝道者というわけか。
何かの価値保存ツールは、移動性のある集団のほうが必要性が高いからね。
>>735 一応、契丹、渤海、遼、金、モンゴルとは交易してたらしいよ
もっとも、より南の山陰地方は中国と交易していたから
遊牧民どうこうは関係ないと思うが
長い間平和に暮らしてた原スラブの人々のところへ
気候が変わって森林や沼沢地が後退したせいか遠くから遊牧民や交易商人が
頻繁にやってくるようになってきてそれまでそこになかった価値観を持ち込み、
社会が急激に変動して行った苦悩が感じられる。
立松和平の出世作に『遠雷』というのがあるが、あれを連想してしまった。
当時の原スラブ人の間にもあんな感じの葛藤はあったんだろうなあ。
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < ヴァリャーギ
( ´∀`) \_____
742 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 14:40:50 0
スキタイ人については京都大学学術出版会から公刊された「西洋古典学事典」に
かなり詳しく載ってるぞ。
しかも史料や王家の系図付きで。
743 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 00:54:04 0
オセット神話はアーサー王伝説だけではなく
案外ロシア民話にも採り入れられてるかも知れない。
オセット神話の勇者バトラズの母親は昼は蛙の姿を取り月夜は美しい人間
の姿になる
ロシア民話「蛙になった王女」の話でも昼は蛙の姿だが月夜に魔法が一時的に解けて
美しい人間の王女の姿に戻る。
そしていずれも夫によって昼の姿を周囲に知られ去っていってしまう
(ちなみにバトラズは父親の力こぶから生まれてくる)
オセット神話と海は深い関係を持つ。バトラズの母親は海神の娘で
マリア・モーレヴナのモーレヴナはロシア語で海の娘を意味しており
キリスト教以前のスラヴ神話とオセット神話の繋がりをものがたっていそうだ
状況証拠からするとスキタイの大半がスラヴ人(原スラヴ)に混じっていって
全体がスラヴ人となっていったという説はかなり信憑性が高いように見える
ただ単に文書などの決定的証拠がないだけであって
スキタイが散り散りになったとき東の山の中へ逃げていった一団が
オセットなどのコーカサス系諸部族になっただけではないか
もちろん彼らも現地の山岳原住民(原オセットなど)と混交して
インディアンとモンゴル人が同じ人種であるのと同じぐらいどうでもいいな
状況証拠からするとテュルク人に取り込まれていった説のが自然だろw
たぶんどれも間違っちゃいないだろ
遊牧民は離合集散するものだ
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < 鉄門
( ´∀`) \_____
>スキタイが散り散りになったとき東の山の中へ逃げていった一団が
>オセットなどのコーカサス系諸部族になっただけではないか
>もちろん彼らも現地の山岳原住民(原オセットなど)と混交して
アス族がずっと山岳地帯にいたとでも思ってるんだろうか
モンゴル侵攻前はドン河流域まで分布してたんだが
スキタイに見られた末子相続の風習はモンゴルにはあるがロシアは均等して相続する。
宇文部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < レビラト婚
( ´∀`) \_____
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < スロバキア
( ´∀`) \_____
段部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < ムモチジン
( ´∀`) \_____
蒙兀活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < 室韋萌古
( `ハ´) \_____
ところで鮮卑とかスキタイとかは髪型はどんな感じ?
満州族の辮髪みたいな独特の剃り上げとかはしてたのかな
>>755 つ 『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳
髡頭 〜 なんか剃り上げしてたみたいだよ。
>>756 サンクス
スキタイはながいままかな
アマゾン(女系戦闘種族)の元ネタになったらしいし
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミΛ川Λ彡 < 索頭
彡 ´∀`ミ \_____
スキタイも鮮卑も多くの部族の末裔がどこかで生きていると信じたい
旱魃で全員餓死しちゃったとかだと悲しすぎる
>>759 > スキタイも鮮卑も多くの部族の末裔がどこかで生きていると信じたい
DNA的末裔でなく、文化的末裔残っているといいね
鮮卑拓跋部と慕容部は、餓死せず漢人に潜伏して血縁的末裔がいるだろうけど
文化はどっかへ行ってしまったのかも。
スキタイも生き残った部族の血縁的末裔が、スラブ系民族かチュルク系民族の中に
いるだけの状態だろう。
サルマート→アラン→アス→オセットとスキタイの文化の流れは現存
北京官話はアルタイ的な部分があるとも聞いたが
有史以来アルタイ系と接触しているので
どいつから取り入れたものやら
ウクライナでもキエフ・ルーシないしガリチア・ヴォルヒニアまではスキタイの伝統は残ってた
>>764 五胡十六国時代に助詞・介詞か増えていることかいな?
アルタイ化ではなくチベットビルマ化なのかもしれないけど。
清の時代にはチャチチュチェチョ化とer(アル)化音という変化は有名アルね。
今では、じゃなくて、
ヴォルヒニアはラテン語や英語の呼び方
ヴォルィーニはウクライナ語やベラルーシ語の呼び方
え? wikiみると、ラテン語風にロドメリアともよばれるとあるけど、ヴォルヒニアなのw
>>768 > ヴォルィーニはウクライナ語やベラルーシ語の呼び方
ポリーニ(ピアニスト)って、ひょっとするとウクライナ系の家系だったのか
>>769 wikiの記述を真に受けちゃう女の人って‥
ヴォルィーニ(ヴォルヒニア)地方にあるヴォロドミールという町の名がラテン語のロドメリアの由来
しかも近代にオーストリア帝国で成立したガリチア・ロドメリア王国はなんと領内にヴォロドミールを含んでいないw
ガリチアの方の薀蓄も頼むぜ。
ボヘミアやガリシアと同じく、ガリチアもケルト人に由来する地名なんだろう
ケルト起源だと言ってる人もいるが少数派
というのは語源がぜんぜん違うのがはっきりしているから:
語源はあの地域に13世紀ごろ住んでいたハリショイ族
当時はマジャール人と同盟していた部族で、ユダヤ教ともイスラム教徒とも言われる牧畜民
実際、これより数世紀前のハザール汗国に
アルシヤ(ハルシヤ)というイスラム教徒の戦士の部族がいるが、
ハリショイはたぶんこれ(ハリショイはギリシャ語、アルシヤは現地語に近い発音)か、
これの一部と言われている
ハリショイ族はトルコ系かスラブ系の牧畜民なのだろうか?
アルシヤ(ハルシヤ)は、インドのハルシャみたいでイラン系みたいだな。
スキタイ時代にもシンドイ族と言う名の部族が黒海北岸にいたとされる。
しんどそうな部族だな
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < サライェヴォ
( ´∀`) \_____
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < チャーハン
( ´∀`) \_____
>>777 もう一ひねりが必要です。
起承転の転がない。
ガリチアのユダヤ人とか聞いたことある気もするが、
ディスアボラがあっととはいえ、連中はスキタイとも関わりあったのかなー。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < アシュケナジム
( ´つ`) \_____
西欧から来たアシュケナジムと東欧から来たハザール人と両方が集まっていたのが
昔のポーランド・リトアニア
伝統的にユダヤ人に対する寛容政策を採っていたため
クルドのアディアバネ王国もユダヤ教に改宗してたけど陰謀論方面では影が薄いなあ
ゴート族らがアリウス派キリスト教徒となっていたように、アラン族らにも
すでにユダヤ教とかが伝播している事は充分ありえただろうな。
ステップはソグド商人が牛耳っていてユダヤ商人が出る幕は無かったよう。
モンゴル時代にイル=ハン国で結構ユダヤ人が重用されていたもよう。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミΛ川Λ彡 < 耶律
彡 ´∀`ミ \_____
ダレイオスのスキタイ遠征の頃、ボスポロス王国の動きに関してヒストリアイが沈黙しているのが解せない。
クリミアのタウロイというスキタイ系民族が、スキタイへの協力を拒んだという記述があるのにも関わらず。
タウロイはキンメリア人の末裔じゃないかな?
タウロイは海賊稼業で生計を立てているという民族で
クリミアに殖民してきたギリシャ人を浚って生贄にしていたというから
ギリシャ植民者の築いたボスポロス王国とは真っ向から対立していたと思われるが、
ヘロドトスはタウロイとボスポロス王国の関係に関しては触れていない。
791 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 10:54:13 0
>>775、776
ハリショイはパキスタン北部のカラーシャ
(別名ヌリスタン)と関係があるのだろうか?
>>790 当時は国の辺境地帯で人さらいがあっても、
さらわれるのがよっぽど地位の高い人でないかぎり国際問題なんかにゃならんよ
ホメロスの書いたトロイア戦争が本当にあったかどうかわわからんが、
あの原因としてお姫様がさらわれたとホメロスが書いたのは、
お姫様がさらわれたならそりゃ国際問題だよな、というコンセンサス・説得力があったから
そうでもない平民が僻地で他国人にさらわれても国は知らんぷりするのが当時の常識
さらわれすぎて税収が落ち込んできたらはじめて国が乗り出してくる
千年以上先の話だがジェノヴァ人もクリミアのカッファを拠点にタタール人その他を売り飛ばしまくってたな。
タタールもロシア人を売り飛ばしまくってたしな
アッバースに対する欧州の主要な輸出品も白人奴隷
スラ部民族ってスレイブ民族だったの?
ボスポロス王国という国家が黒海北岸にあったというが、
ダレイオスの遠征時には全く登場しないことから、その当時は
軍事的にはスキタイに従属的な立場だったのではないだろうか。
>>795 ダジャレのつもりだろうけどガチ
「スラブ」自体に奴隷の意味はなく古スラブ語で「話す人」を語源とする自称と言われている
しかしビザンツ帝国にスラブ人(中世ギリシャ語でslabos)の奴隷が多かったために
かわいそうに奴隷の代名詞となり中世ラテン語に乗って西欧にスレイブという言葉が広まった
798 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 21:06:00 0
>>795 スラヴ民族の「スラヴ」と言う語源はロシア語で
「栄光」を意味するСлава(スラーヴァ)から来ているようだ。
詳しいことは解らないけどスラヴ民族=奴隷と言うイメージが定着したのは
ヴァイキングやドイツ騎士団が暴れ回っていた時代なんじゃねえのかな。
北欧人は船でヴォルガ経由でヴィザンティウムや小アジアと貿易してたし
ドイツ騎士団に至っては現在のポーランドやバルト3国に領地を持っていた。
「いいですか?暴力を振るって良い相手はスラヴ人共と異教徒共だけです」
「死んだ正教徒はいい正教徒だぁ!!」
って言う具合に多神教や正教会を信仰していたスラヴ人や
バルト人を動物や家畜と同等に見なしていたとも考えられる。
>>798 重箱の隅を突くようだがビザンティウムや小アジアへ行くならドニエプル河〜黒海経由だ。
なんでヴォルガを遡ってカスピ海に出なきゃならんのだ。
そっちのルートはテュルクやハザールやタタールが押さえてるな
河川や湖を利用すれば、黒海からバルハシ湖まで水上の道が通じてる
>>795 スラブが先、スレイブが後だな
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < ポーリュシカポーレ
( ´∀`) \_____
>>798 スラヴ民族という概念は中世のスラヴ人には全くなかったから、
スラヴ人が別のスラヴ人を狩って奴隷として売り飛ばしていたりした
ボヘミア(モラヴィア時代含む)やポーランドのスラヴ人たちは東の方のウクライナなどのスラヴ人を狩ってきて、
マグデブルクの奴隷市場で売って儲けたので草創期の国力が拡大した
のちに最大の奴隷市場がマグデブルクやマインツからプラハに移って、
だからプラハは神聖ローマの首都となるほど重要な街になったんだよ
というかそのせいで利に敏いドイツ人に目つけられてボヘミアはドイツ人の支配下に組み込まれた
一方、ポーランドは岩塩が大量に採掘されるようになったのでそれで儲かるから奴隷の売買は要らなくなった
それが続いてついに数世紀後にタンネンベルクの戦いにつながる遠因となってる
まるでアメリカの南部諸州がボヘミア、北部諸州がポーランドみたいな感じと考えればいい
経済史おもろいわ
あとボヘミアやモラヴィアには銀鉱山が多い
恐らくボスポロスなどのギリシャの殖民都市は軍事的にはスキタイ系勢力に従属していたと思われる。
経済的に協力する代わりに軍事的な安全の保障を受けるという形は
匈奴とオアシス都市の関係でも見られ、遊牧国家のあり方としては自然。
軍事的にも政治的にもスキタイに従属していた、の間違い
ボスポロス王国の重要輸出品たる穀物は遊牧地帯でもある大草原が
出所だろうから対立するのは無茶というもの
807 :
世界@名無史さん:2010/07/09(金) 09:18:58 0
>>799 ヴォルガをそのまま南下してゆけば
当然カスピ海に出て、そこでペルシャと交易していたようだ。
また、カフカスの目前まで進むと西へ101キロ離れた場所に
ドン河が流れており、そこから船を降りて陸路を徒歩で移動してから
ドン河に停泊している船に乗り換えて
ビザンツや小アジアへむかったんだろう。
>>794 その時期のロシア人が白人だったかどうか。そもそも、まだロシア人になってないだろう?
>>808 考古学では、当時のスラブ人がかなりの長頭の白人だったことがわかっている
いまのスラブ人がそれほど長頭ではないのは、バルカンや黒海南岸その他の地方の、
短頭で浅黒い肌の人々が入ってきて混血したから
>>804 ボスポロスってローマ帝国の属国だったろ
スキタイ人じたい既にサルマタイ族に滅ぼされたんだし
>>808 色素の薄い白肌と金髪が一番多い地域はバルト海沿岸〜ベラルーシ付近だよ
その周辺こそ白人に典型的な外見の出所、頻繁に奴隷狩りされたのもね
ボスポロス王国はスキタイの時代に既にあり、ダレイオスのスキタイ遠征の頃は交易が盛んだったということになっている。
ウィキによれば周辺のスキタイ勢力からは独立していたというが、当時の勢力関係から見てペルシャとスキタイの間に割って入って
独立を維持するなどというのは並大抵のことではない。
ヘロドトスの記述ではペルシャの遠征軍に対処する勢力としてのボスポロス王国は登場しない。
ボスポロス王国のあるクリミアにおける軍事的な勢力はタウロイというスキタイ系部族となっている。
>>809 白人なんて概念が出来たのは15世紀かそこらじゃん。
それ以前は白人なんてものは無い。
15世紀〜18世紀あたりは、白人の概念が出来ところで、コーカソイド=白人ではなくて、
肌の色や骨相の殆ど同じでも、スペイン人やイタリア人は白、マクレブ人やアラビア人や
ペルシャ人は黄色、同じ街に住んで血も混ざってるユダヤ人まで、黄色だという。
キリスト教徒なら白かというとそうでもなくて、アルメニア人やシリア教会派の門徒も
黄色だという。
じゃあ何が白人かというと、地中海の北側で、ローマ帝国の文化的影響の強い地域で
中世までにキリスト教徒化した集団に属する人……くらいしか説明しようがない。
ウクライナステップの住民の骨相は大昔から、多分、コーカソイドだったろうけれどな。
>>807 ヴァイキングについての本を読めば分かることだが、ドン=ヴォルガに限らず連水陸路は
船を下りて徒歩で進むのではなく、船を引きずっていく。
いずれにせよビザンチン帝国へ行きたいならそっちは恐ろしく遠回りだ。
「ヴァリャーギからグレキへの道」って、聞いたことない?
>>809 アケメネス朝以前の中央アジアでも、サカ族ら遊牧民は長頭で、
ソグド人やバクトリア人など定住民は短頭が多かった。
ソグド人らの祖先は印欧語族ではなかったのかもしれないね。
現代では黒人でも黄色人種でも印欧系言語を話せるんだぜ
意味不明だなソグド人もバクトリア人もペルシャ帝国の誕生より後に成立したものだろうに
アッシリアが強引に軍事力による統制支配を強化したのは
北方で遊牧民の勢力が大きくなっていたという裏事情があったのではないか。
中国古代の秦が強引な軍事力による統制を行った裏に匈奴などの
遊牧勢力が台頭しつつあった事例と重なる。
アッシリアは、北方への備えが不十分で、キンメリア人やスキタイの侵入を
許してしまい、カルデアとメディアに援軍を与えてしまった。
これを教訓としたアケメネス朝は、コーカサス山脈まで平定して、スキタイや
サウロマタイへの備えを固めた。
アケメネス朝は、さらにトラキアを属州として死守したのならば、マケドニアの
台頭を抑止出来たと思われる。
アッシリアとアケメネス朝は、ともにエジプトなど南方を重視し過ぎた事が
命取りとなったようだ。
中国古代の秦の場合は、むしろ始皇帝によりオルドスを追われた匈奴が、
陰山北方の荒野でより完全な遊牧民となり、かえって脅威になったようだ。
始皇帝は、匈奴をオルドスから追わずに、手懐けて他の遊牧民に対する
傭兵にすべきだったと思われる。
秦は匈奴や月氏や烏孫の類は手懐けてたでしょ?
兵馬俑みてもあちこちから来たように色々な格好しているじゃん。
秦なんかもともと半農半牧っぽい生態で
得体のしれない化外の民じゃん(笑)
漢の張騫とかがムキになって匈奴を屈服させようとしたからマズーなのよ。
>>820 秦が軍事に傾斜した国だったのは、商オウの変革以降連綿と続いた伝統
いい加減なウソ書くなよw
>>821 マケドニアが台頭した時期は支配が弛んで中央への税の流れが滞ったり
離反や分離が常態化していた時期だからトラキア死守も糞も無い、不可能
>>822 当時のオルドスにいたのは、中山や楼煩のような漢族ではないが遊牧民でもない集団
万里の長城の建設における北方への大規模な動員、
秘密警察紛いに密告を奨励し不平分子を摘発するなど、
匈奴と対峙するにおいて秦はそれまでの法治主義を逸脱した
過酷な統制を行いかえって滅亡を早めた。
前漢の武帝は?
>>825 五戸の制は管仲以来の中国の伝統だし秦においても同様、法治主義の基本
農民の年数十日の労役や罪人や官奴隷の公共工事駆り出しも一緒
いい加減なウソ書くなよ
反乱が起きたのは趙高の無理矢理過ぎる胡亥擁立劇と
その後の無茶苦茶な処刑乱発と乱雑な運営が原因
大規模かつ強引な動員で不平不満が高まり密告による捕縛が増大したのは
匈奴に対する長城建設が始まってから。建設に伴う酷使による大量に犠牲者が出る
記述が見られるのも匈奴に対する長城建設が始まってから。
長城建設はそれまでの動員とは明らかに規模が違うし手法も強引だし犠牲者も桁違い。
スキタイスレだぞ。
匈奴の話題で粘着するなよw
アッシリアと秦が強引な統制を行った背景には
共に北方に遊牧民の勢力が存在していたことがあるのではないか。
北に行くほど強くなる
エスキモー最強だな
北極海上帝国か、そういえば聞いたことあるな
>>824 アケメネス朝は、マケドニアが台頭した時期には、とっくにトラキアのみならず
エジプトも放棄していたが、エジプトを再征服した。
アケメネス朝は、エジプトよりもトラキアへ出兵して、マケドニアを妨害すれば
良かったように思われる。
匈奴は、中山国が建国した頃には、陰山の北方にいたようだが、中山国が
滅亡した頃には、陰山の南で秦と国境を接するようになっていたとされる。
トラキアをめぐってはマケドニアのフィリッポス王とスキタイのアタイアス王が争っている状況で
この方面のペルシャの勢力はこの頃になると後退していたのでは。
この当時すでにアケメネス朝は、エジプトとトラキアを領有しておらず、
リディアでギリシャ諸国と接していた。
>>833 オルドスは秦の領有で、北河地方が趙の領国のはず
当時のペルシャにはもう余力無いでしょ、豊かなエジプトならまだしもだけど
>>821 ヨーロッパ人は絶対に認めないが(笑)、
そもそもアケメネス朝「大ペルシア帝国様」からみれば、
ギリシア諸国なんて、ペルシア帝国中央が手玉に取って弄んでいた、辺境の属国群に過ぎない。
その属国群のさらに山奥の外れから、突然変な覇王が出現して、
大帝国様をあれよあれよと言う間に一刀両断で滅ぼしてしまうんだから、
「博多の倭奴国に突然変な王様が出現して、
朝鮮半島を攻め上がり、後漢を滅ぼして中国全土を瞬間だけ手中にして、ついでにベトナムに向かう」
くらいの、荒唐無稽な話が、現実に起きたと言うこと。
すでにダレイオス王が手痛い目にあっている「大国スキタイ」と、
属国ギリシアの辺境のマケドニアでは、全然位置づけが違う。
対策しろとか言うほうが_。
すでにダレイオス王が手痛い目にあっている事ではギリシア諸国も同様では?
アケメネス朝とギリシア諸国 = ローマ帝国とゲルマン諸族
アケメネス朝とスキタイ = ローマ帝国とパルチア帝国
つってもその「大ペルシア帝国様(笑)」というのもせいぜい
手玉にとって弄んでた辺境の属国群に
大群で攻め込んで征服しきれずすごすご引き下がる程度だけどね。
マケドニアのフィリッポスがスキタイのアタイアスを破って敗死させたことは、
日本で例えれば今川義元が織田信長に敗れたぐらいのインパクトを周辺諸国に与えたのではないか。
この勝利でマケドニアはトラキアを勢力圏に収め、後のアレクサンドロスの東方遠征の基礎が築かれた。
>>839 距離が遠いし遠征するのに不向きな土地だからね
同様に隋唐帝国ですら4度朝鮮へ攻め込み、いずれも大敗を喫してる
それに前近代は産業技術や学問水準と軍事力が一致しない
晋も唐も宋も明も末期は北方のトルコ・モンゴルやツングース系国家に征服されたし
唐は高句麗と百済を滅ぼし新羅を服属させたというが。
隋は3度高句麗に遠征して3度とも大惨敗
唐も太宗が2度遠征していずれも敗れてる、どちらも当時世界最大の帝国
当時は途中の満州を進軍するのがものすごく大変だったようです
高句麗は突厥と同盟しており、
隋唐は高句麗を攻撃するにしても突厥への防備もしなくてはならなかった。
ペルシャがギリシャを攻撃しながらもスキタイへの防備にも怠りができなかったのに相似している。
>>845 北の遊牧国家が脅威だったのはまた別の話で高句麗遠征とは無関係
高句麗やギリシャ地方遠征での困難は
>>844にある通り、主に移動と輸送
どちらも陸の難路と遠く離れた距離に難渋、海路の輸送も距離と難儀さを解決できず負けちゃったという
ペルシャも隋唐も遠征軍が、無駄に大軍過ぎたのじゃないかな
狭く食料の乏しい土地に、大軍を派遣してしまったのじゃないかな
三国時代のこの地域に君臨していた公孫燕の反乱を司馬仲達は一度で平定したが。
軍勢は隋唐に比べ桁違いに少ない。
古代マケドニアのスポットライトはアレクサンドロスとダレイオスの対決ばかりだが
意外かもしれないがフィリッポスとアタイアスの対決もその後の歴史に対する重要なファクターではないのか。
フィリッポスが敗北したのならば、当然の事ながら、アレクサンドロスの東征も
ありえなかったであろうから、スキタイ&アケメネス朝のイランの黄金時代は、
東から匈奴と西からローマが押し寄せてくるまでは、継続し続けたであろうな。
東の匈奴と西のローマ、ともに始皇帝とハンニバルの大攻勢で、帝国化したようだ。
始皇帝とハンニバルらの猛攻がなければ、匈奴は後の西夏王国レベル、ローマは
イタリア統一で安定終了したと思われる。
ローマはポエニ戦争以前から拉致と略奪を生業にし拡張政策をとっていた軍事国家
ポエニ戦争も1次2次3次ともローマ側から始めた戦争
匈奴も拉致と略奪が年中行事で、大国化もモンゴル高原の統一を進めた必然の結果
カルタゴがシチリア攻め込んだから第一次ポエニ戦争
ハンニバルが殴りこんできたから第二次ポエニ戦争
カルタゴ滅ぼすべしって大加藤がうるせーから第三次ポエニ戦争
カルタゴの原状回復行動に対してシチリア占領を目論むローマが同盟を破棄し侵攻したのが、第一次ポエニ戦争の原因
国力を回復しつつあったカルタゴを叩くために城下の誓いすら破棄してカルタゴ侵略したのが、第二次ポエニ戦争の始まり
カルタゴの軍事力弱ってるからボコって略奪&市民を奴隷にして儲けようぜ、と皮算用して始めた第三次ポエニ戦争
平和で先進的な通商国家カルタゴに対して貪欲で野蛮なローマ帝国は云々
文明的で先進的なローマに対して残虐で野蛮なフン族は云々
秦が諸侯を統一した動機の大きな要因の一つは匈奴など遊牧勢力の台頭。
そして匈奴が周辺民族を制圧して帝国化したのは秦が強大な統一国家を築いたことへの対抗。
とマッチポンプな展開だったのではないかと推測。
アッシリアが強力な軍事国家を築いたのはスキタイなどの遊牧民への対抗。
スキタイが周辺民族を従属させて大勢力になったのもオリエントにおける帝国の成立への対抗。
秦が諸侯を統一した最大にして唯一の動機は統一
匈奴の動機も遊牧国家側が中国に対抗する必要性は乏しいので別の理由
秦が諸侯を統一した最大にして唯一の動機は天下統一。
一方、匈奴が周辺民族を制圧して帝国化したのは、
秦が強大な統一国家を築いたことへの対抗。
アッシリアが強力な軍事国家を築いたのは、
アラムなどの南の遊牧民やフルリなど山岳民への対抗。
スキタイらは帝国末期に中東に侵入して来た。
アッシリア=ローマならば、アラム&フルリ=ケルト&ゲルマン
キンメリア&スキタイ=アラン&フン
当初からアッシリアが、北方遊牧民への対策を最重要視して、後のペルシャのように
コーカサス山脈まで平定していたのならば、キンメリア人がカッパドキアに移住する
事は、おそらく不可能であったと思われる。
言うまでもなく、スキタイに追われたキンメリア人は、南ではなく西へ向かわざるえ
なくなったはずである。
黒海北岸の西方パンノニアに移住したキンメリア人は、ケルト人やエトルリア人らの
脅威となり、ケルト人の西方移住が加速して、スペインが完全にケルト化、さらに、
北アフリカにまでケルト人が移住する事になったかもしれない。
秦は統一した後、匈奴に向けてその兵力、人員を総動員して長城を建設し遠征を行っている。
この経過からして統一することで匈奴の脅威を取り除こうとしたと見ても良いのではないだろうか。
蒙恬による匈奴遠征は、この時期に方士が持参した預言書に
「秦を滅ぼすものは胡なり」と記載されていたことから、
胡族(匈奴)討伐の動機になったとも言われる。
後にこの胡とは匈奴の事ではなく、二世皇帝の胡亥の事だと言われた。
南越や?越に対しても遠征してるけどね
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
< バーバ・ヤーガ
\_____
南の越に対する遠征は大国の示威的なもので、
統一した国力を根こそぎ注ぎ込んだ匈奴に対する動員規模とはかなり違う。
秦は匈奴に対して国運を賭けたと言っていいほどの財力、人力を投じている。
古代メディアの美術品の造作にスキタイの影響が確認されるというが、
"遊牧民は破壊ばかりして創造性に乏しい"というのはいわゆる"文明史観"
の偏見ではないのか。今穿いているズボンですら遊牧民に起源を持つというし。
>>866 数十万の軍勢を何年にも渡り動員し各地に殖民を送り込み郡県を設置したよ
示威的などとは到底言えない
交趾郡に動員者を置き去りにしたから
ベトナム語に漢語が大量に流入しました!?
おぃおぃ
北方に動員された人員には多数の逃亡者が出ていて
人員の確保に苦労したという話はあるが、
南方の動員がそのような混乱に見舞われたという話は出ていない。
長城建設は逃亡者が続出し社会不安をきたすほどにまでなっており、
北方への動員は秦の屋台骨を危うくするほどの影響をきたしている。
匈奴への動員と越への動員を比べると匈奴に対する動員の方が
秦の国力を傾けるほどの影響をもたらしたといえると思う。
>>869 ベトナムまでいかずとも、中国南部は戦国時代には中華の版図じゃないよ
>>870 南蛮遠征でも多数の逃亡者が出て人員確保に苦労したよ
北方と違いすぐ風土病が蔓延するしな、南征は特に罪人を大量投入した
司馬遷の記述では匈奴への過剰な人員の投入が国力を消耗させ秦の滅亡の要因となったと強調されているが、
越への遠征にそのような特に思い入れた記述は無かったと思うが。
アッシリア人もスキタイのような騎馬弓兵を編成してたようですが
武霊王の胡服騎射の時のような葛藤があったりしたんでしょうか?
ペルシャ帝国がスキタイ人を傭兵に雇って自軍に組み込んだように、
アッシリアもスキタイ人を傭兵として雇い騎兵隊を編成したと思われる。
>>874 いや、それが実はアッシリア人による騎馬弓兵隊を編成していて
しかも遊牧民と違って下手だから2騎1組で一人が弓を放ってる間に
もう一人が手綱を掴んで併走するという非効率的なことをやってたw
スキタイ人ならありえないと思うけど
アッシリアはスキタイと盟約を結んでその騎兵を借りたりした時期もあり、
戦国における趙のような遊牧民への拒否感情はあまり無かったのでは。
>>875 アッシリアの弓兵隊は、射手と大盾を持つ兵士の二人一組が基準だった。
戦車も射手と御者の二人一組だったので、騎馬弓兵隊もまず二人一組で
スタートしたのだろう。
>>872 思うのは勝手、南越遠征にも同様の記述はあるよ
>>874 ペルシャ人は元々北方遊牧民の出身だけど
アッシリアはイラクの民族だから話が違う
中国ももともとチャリオットで戦ってたけど
アッシリアのような過渡的な戦法はなかったのかな?
戦国末期でも騎馬隊に加え馬車隊も残存してたから、過渡的な部隊は無かったんじゃね?
弓兵は馬車隊に乗り、当時はまだ騎射をしてなかった気がする
前漢あたりまではたしか戟や戈を振り回して戦う軽騎兵?
武霊王の胡服騎射みたいのは特殊なケース?
882 :
世界@名無史さん:2010/07/22(木) 22:57:52 0
シュメール=夏
古バビロニア=殷・商
アッシリア=周 キンメリア=犬戎
新バビロニア=秦
アケメネス朝ペルシア=前漢 スキタイ=匈奴
パルティア=後漢 アラン=鮮卑
ササン朝ペルシア=隋・唐
シュメール=夏
アッカド=殷・商
古バビロニア=周 ヒッタイト=犬戎
アッシリア=秦
新バビロニア=漢 メディア=匈奴 スキタイ=月氏
アケメネス朝ペルシア=なし
パルティア=鮮卑(北朝)
ササン朝ペルシア=隋・唐
スキタイはアッシリア滅亡の後もオリエントに居座って各地で略奪を働き、
メディア王キャサクレスがスキタイ王マディエスを計略で謀殺して
ようやくオリエントから追い払ったとか。
メディア王キュアクサレスは、スキタイの支配から独立後に、アッシリアを滅ぼしたのでは?
>>881 特殊ケースというか、戦国中国の軍隊の主力は徴兵された兵士だから
騎射出来る兵は少数の職業軍人と一部の素質ある兵士くらいだったんじゃね?
効率悪いけど、馬車兵なら馬扱えなくても弓の技能だけでいけるし
馬に関わる人間も弓の扱いがダメでも馭者役や長物振り回すのは務まるからとか
887 :
世界@名無史さん:2010/07/24(土) 05:05:22 0
スパルタの社会は王族(祭祀集団)や平民の下に奴隷がいた。
また、女性も山野を駆け回り武器を取って戦う
祖先が騎馬民族だろうな
スパルタの祖先が騎馬民族だとするとその祖先が騎馬を放棄したのは牧草地が無いからなのだろうか。
むしろスパルタの祖先は騎馬集団に追われて黒海方面からギリシャに落ち延びてきたのではないだろうか。
>>887 アテナイもコリントスも平民の下に奴隷がいたけど
というか、ギリシャ世界は奴隷の数とその扱いの過酷さに関しては当時随一
>>888 スパルタの祖先は、鉄製武器と騎馬戦術で、青銅製武器と戦車のミケナイに勝利
したとされる。アナトリアでも同様に、フリギア人らがヒッタイトに勝利したとされる。
圧倒的な戦闘力の差により、ミケナイとヒッタイトは殲滅されてしまったのであろう。
さらに、スパルタの祖先らは、鉄製武器を装備するペリシテ人を、クレタ島から追い
払う事に成功したとされる。
>>882 シュメール=夏
アッカド=殷・商
古バビロニア=周 ヒッタイト=犬戎
アッシリア=秦 ウラルトゥ=趙 エラム=斎
新バビロニア=楚・漢 リディア=東胡 メディア=匈奴 スキタイ=月氏
アッシュール・バニパル=始皇帝 キュアクサレス=冒頓単于
ナボポラッサル=項羽 ナボニドゥス=劉邦
メソポタミア=中原ならば、イラン高原=モンゴル高原だろうな。
冒頓単于が、東胡と同じく月氏も配下に加えたのならば、北と西の
双方向から同時侵攻可能となり、楚・漢から華北を奪い、匈奴は
アケメネス朝ペルシアの様な帝国になったかもしれない。
武帝以降の漢帝国は、南方民族による大帝国だから、
中東だとアケメネス朝ペルシアよりもアラブ人による
イスラム帝国の方だろうな。
ウマイヤ朝=前漢
アッバース朝=後漢・魏 後ウマイヤ朝=蜀 イドリース朝=呉
スキタイと言っても
カフカースに根拠地をおいた第一王朝期と
黒海北岸を拠点にした第三王朝期は異なる王統であるとか。
第三王長期はのちにルテニア人(ウクライナ人・ベラルーシ人)になったプロト・スラブ人の一つだろうな
スラブは関係ねーだろw
あいつらは遊牧民じゃない
>>893 スキタイはカフカース以南に侵入した部族と
黒海北岸を征服した部族に分裂したのだろう。
そもそもスキタイって民族名かどうか確定してたっけ?
何もかも引っくるめてスキタイと呼んでいたような
王様のいる部族がスキタイで、彼らが支配・連合している部族・都市国家などもまとめて「スキタイ」と呼ぶ
だからギリシャ系スキタイ人もいればペルシャ系スキタイ人もいるだろう
フン族もそんな感じだな。アッティラが西ローマへ侵攻した頃には遊牧騎兵より
ゲルマン人の歩兵の方が多くなってたらしいw
ヘロドトスが記している「王族スキタイ」は第三王朝のことを指すと思うが、
聖書で登場するパレスチナにいきなりやってきて略奪を働いて
ヘブライの民が洪水に例えて恐れた"スクテヤ人"とか
アッシリアを荒らしまわった"アスグス"はカフカースを
拠点にした第一王朝を指すのではないか。
スラヴ人がスキタイの子孫だとすると
ユダヤ人「われ等を虐げたアッシリアは神の怒りをかって滅ぼされた!」
スラヴ人「いや,それうちの先祖のスキタイだから」
などという会話になるはずだが、聖書の歴史記述にスラヴ人は異論を挟まない。
神がスキタイに「南へ行ってアッシリアを滅ぼすがよい」と告げたせいなんだよ
終末になるとゴグやマゴグも神に呼び覚まされるであろう
スキタイが信仰していたのはヤハウェの神じゃないし。
スラブは後の時代に成立しているからスラブの先祖がスキタイやハザールやサルマートやいろいろな先祖がいる
この時代は原スラブ人であり集団的にはっきりしていないが互いにゆるいつながりがある状態
原スラブ人のうちコアとなった人々は農耕民で農耕スキタイ
遊牧スキタイは集団として壊滅し農耕スキタイに吸収され、スラブとなった
>>901 国家体制の滅んだたくさんの古代民族を吸収、支配、同化、消滅させて巨大化していったのがスラブ民族だから
国家が滅んでも民族の文化や伝承は滅ばないし、
吸収されたということは伝承や文化も吸収される。
スラヴ人がスキタイを吸収したとするなら伝承や文化も吸収されたはずで、
スキタイの伝承が残っていれば聖書の言う歴史をすんなりと受け入れられるはずが無いし、
エジプトやアッシリアが強大な圧制者という記述もスキタイ的な視点では一笑に付す程度のことだが、
「アッシリア?あの鈍間w」「エジプト?黄金差し出して土下座したので引き上げてやったw」
しかしスラヴ人はユダヤ教的"メシアニズム"を簡単に受け入れてしまっている。
まあスキタイがスラブの先祖か否かなんてどうでもいいけどな
DNA鑑定なり言語分析なり勝手にしてくれ
水戸蒟蒻?
>>906 チェルニャコフ文化だっけ?スラブ化しても遊牧スキタイっぽい文化があとあとまで残っていた
チェルニャコフ文化じゃなくて、チェルノレス文化だ
>>907 学問でそういう価値づけをした時点できみは失格。退場処分だね。
スラブ人の先祖がスキタイ? 無い無い
スラブ人は長い事テュルク化したサカ人やモンゴル化したテュルク人の支配下に置かれてたんだし
>モンゴル化したテュルク人
それは逆では。
>遊牧スキタイは集団として壊滅し農耕スキタイに吸収され、スラブとなった
サルマタイに吸収された可能性は?
>>913 ジョチ汗国とかチャガタイ汗国はモンゴル化したテュルク人でしょ
モンゴル人少ないし
916 :
世界@名無史さん:2010/07/27(火) 10:00:36 0
スラブ嫌いが相変わらずウヨウヨと
>スラブ嫌いが相変わらずウヨウヨと
誰?
>>906 国家の滅亡とともに民族の文化や伝承も滅んでしまう場合も少なくない。
ビザンツ帝国→オスマン帝国では、キリスト教徒のアナトリア人は
イスラム教徒のトルコ人になってしまった。
>>901 >>906 アッシリアと交戦したスキタイとスラブ人らを支配したスキタイは、常識的に考えて別に部族だろう。
スラブ人らが中東でのスキタイの武勇伝を知らなくても、少しも不思議ではない思うな。
オセチア人にとって、アラン族とともにカルタゴを征服したヴァンダル族みたいなものだろうな。
オセット活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < オセチ料理
( ´∀`) \_____
>>919 オズクナーメは色々な伝承を取り入れつつオスマントルコにも大元にも伝承が残ってるし
文化や一般的な伝承は忘れ去られても、民族の英雄譚は後々まで伝わるもんじゃないか?
>>919 そういえばヴァンダル族も言語の異なる複数の部族の連合で、
南へ向かった部族群はゲルマン語系、故地に留まった部族群がスラヴ系(原スラヴのひとつ)で、
後者は実はポーランド人やチェコ人の先祖だという説もあるね(西スラヴ語族の起源)
昔は俗説扱いされていたがプシェヴォルスク文化の研究で再度この可能性が浮上
>>921 アッシリアと交戦したスキタイとスラブ人らを征服したスキタイは、常識的に考えて別の部族だろう。
スラブ人らが中東でのスキタイの武勇伝を知らない事は、少しも不思議な事ではないと思われる。
アッシリアと交戦したスキタイの多くは、そのままアッシリアの故地に入植して、クルド人とかの
祖先となったのではないだろうか?
いや不思議だろ、トルコ人に突厥を祖先とする意識があったり
オスマンにもオズク族の叙事詩が伝わってたのだから
というか、そもそもスラブ人はスキタイの子孫じゃあないだろ、生活習慣や習俗が違う
クルド人はどの部族でも古い古い歴史があって
チュルクやアラブの側からすると、先住民っぽいのだが。
スラブが騎馬を獲得したのが考古学のキエフ文化の時代で火を見るより明らかにスキタイから連綿と続く習俗だろうに
必死で否定する人、そこまでスラブが嫌いか?個人のイデオロギー優先なんじゃ学問を語る資格はないよ
>スラブが騎馬を獲得したのが考古学のキエフ文化の時代で火を見るより明らかにスキタイから連綿と続く習俗だろうに
詳しく
>>926 このスレはスラブ嫌いが常駐しているから。
部分継承はありえても、どう見ても直系ではないスラブにこだわりすぎだろ、むしろ。
厳密な意味でスキタイの直系なんてないよ
そんなこと言ったらスキタイが滅亡したことと矛盾してしまう
ところがサルマートがスキタイと一定の並立期を経たスキタイ直系とすれば、
サルマートを吸収したウクライナのスラブ人が直系と言ってもよい存在になる
サカの直系がシースタンとラジプートならば、
キンメリオイの直系はアルメニアで
スキタイの直系はクルドとドブロジャ、
サルマタイの直系はワラキアとモルダビアで
ダキアの直系がトランシルバニア
>>927-928 だからスラヴ嫌いって誰よ
そもそもスキタイ→大部分スラヴ化ってのに突っ込む=スラヴ嫌いって思考回路がわからん
スキタイってそんな素晴らしいものに思われてたか?
こういうのを見るといつも思うんだが
紳士的とは言わないまでも、自分の考えを論理的にぶつけ合う話し合いが
どうして出来ないんだろうか
2chだからという訳ではあるまい
少なくとも2〜3年前はもうちょっと自分の考えのぶつけ合いが出来ていた
>>926 スキタイ人は風呂に入る習慣が無く水に入る事を嫌う、という記述と
お水大好き、湿地帯や沼沢地での戦いが得意なスラブ人じゃ
先祖と子孫に認定するには矛盾し過ぎてるんだよ
>>934 江戸時代以降、世界有数の風呂好き日本人も、平安時代の貴族は
風呂になんてめったに入らなかったけど、何か?
>>934 数千年のスパンの話なのに風呂の習慣で反論とかw
さすがに笑っちゃいます
>>935 ジョチ汗国の部族も北へ帰った元の部族も、風呂に入る習慣も水を好む性質も無いよね
あと、読解力不足みたいだけど「水に入る事を嫌う」は入浴したがらないって意味じゃないからw
川や湖を含めたありとあらゆる水域のこと
それに、平安時代の日本人は普通に沐浴してるよw
遊牧民のモンゴル人も沐浴なら好きなんだが?遊牧スキタイだって同じだろう
ただ単に遊牧に出るとそう簡単に沐浴できる場所がなかったから沐浴しなかっただけで
それは現代のモンゴルでも同じ
歴史には、スキタイ人は水が嫌いで沐浴をせず、布を濡らして体を洗うと書かれてるし
現代のモンゴルもゲルに住むような人達はあまり風呂に入らないし沐浴もしない
それに引き換えスラブ人は水辺に住み、泳ぎが得意とある、いくら何でも真逆の習俗にはならん
基本的には水の有無、気温、湿度によるのかな
水があっても寒過ぎるとダメだろうし
乾燥していると、少々暑くてもそれほど必要を感じないだろうし
>>939 むしろ宗教的な理由だろう
モンゴルのヤサでは水を汚すと神の怒りを買うという理由で沐浴も禁止されていた。
チャガタイが西方の征服地でそれを厳格に施行したために
ムスリムが困ったってのは有名な話。
>>934 騎馬を獲得したのはスラヴ人だけかよ、って突っ込みたくなる
>>926と同レベルだな。
昔どっかのスレで「日本は刀伊の入寇を撃退したからヌルハチにも余裕で勝てるよ」
といってた人がいたのを思い出す。
>>942 そう言う教えができるのも、それだけ水が貴重だからだろうね。
やはり環境要因が一番大きい。
文化は理由や必要があって興廃するんですよ。
同じくスキタイ人がスラブ人のようにわざわざ進んで水辺に居を構え
漁労を以て生活し、小舟や水泳を多用する侵略方法を採りはしなかっただろうね
キプチャク平原に住んでいた様な民族は特に。というか話す言語が全然違うか、スキタイとスラブじゃ
946 :
世界@名無史さん:2010/07/31(土) 10:42:25 0
当時スラヴ人は存在せず、原スラヴ人となる言語的に共通性があると思われる複数の集団が存在した
そこへスキタイやサルマートが入ってきて社会変化が起こりスラヴ人が完成した
947 :
世界@名無史さん:2010/07/31(土) 10:45:38 0
スキタイの言語は確定していないがイラン系のサテム語と言われる
スラヴ語も元はゲルマンと同様の欧州北方系と推定され本来はケントゥム語であったとされているが、
後にイラン系の影響を色濃く受けて現在はサテム語となっている
結論としてスキタイの言語がイラン系であるというのが本当ならば、
原スラヴ語を全体的にサテム語化したのはスキタイが同化した証拠になりえる
スキタイがスラヴ化したのは確実
スキタイ=スラブ否定厨のプロパガンダスレ
漁労民と農耕民と牧畜民が統合して一民族になった例なんか世のなかにいくらでもある。
世界的にはむしろ漁労民だけ、農耕民だけ、牧畜民だけといった民族のほうが珍しい。
>原スラヴ語を全体的にサテム語化したのはスキタイが同化した証拠になりえる
同化でなくともスキタイとの共存、または支配下で変化が起こった可能性は?
大いにあるわな。
そしてやがて政治勢力を保てなくなったスキタイは離散し、一部はスラブに吸収されたのだろう。
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < ねぎまわし
( ´∀`) \_____
"甩葱歌"でggrると面白いよ
やたらとスラブ人に拘ってるのがいるけど、なんなの?
どう考えても蓋然性低いけど、ただの思いつきにしちゃしつこいし
その手の書籍が出版されてんの?
蓋然性劇高。
近代の歴史学はゲルマン=ロマン主義イデオロギーによる
有無を言わさぬスラブ完全否定が伝統。
何よりもまずスラブ否定から仮説を立て、その仮説に都合のよい資料を積み上げる。
現在もその政治的歴史学の残滓が多量に見られる。
>>951-952 まずは各地域の部族集団ごとに共存あるいは支配・被支配の関係があって
密接な交流をしていたことは明らかだから、その時代に
原スラブ人のうちスキタイなどといったステップ遊牧民と交流の深い集団から
徐々にスキタイの語彙や発音を取り入れていき、
そのうち離散したスキタイが一部原スラブに同化していく過程で
言葉の変化が加速したと考えるのが、ごく自然ではないかと
>>955 ヘロドトスが言うように一部スキタイが原スラブなのに彼らと遊牧スキタイ関係の蓋然性が低い訳なかろう
君が政治的なだけだ
ゲロノイはスラブだったのだろうか?
>>956 >近代の歴史学はゲルマン=ロマン主義イデオロギーによる
>有無を言わさぬスラブ完全否定が伝統。
スラブとスキタイが関係あったらゲルマン派に何の不都合があるの?
>>957-958 つか遊牧スキタイが「一部」じゃなくて「大部分」スラブ化、農耕民化したと主張してるから突っ込まれてるんじゃないの?
割合なんかわかるはずないが、かなり多数であったのは間違いないだろう
というのも言語考古学で言われる、スキタイ接触時代に起きたとみられる
(原)スラヴ語の大規模な発音変化(ケントゥム→サテム)から
これはあくまで遊牧スキタイが言語的にイラン系であったというのが前提だが、
いまスキタイがイラン系でないと言い張る学者の方が珍しい
人狼民族ネウロイはスラヴやバルトの先祖の一部だろう
>割合なんかわかるはずないが、かなり多数であったのは間違いないだろう
>というのも言語考古学で言われる、スキタイ接触時代に起きたとみられる
>(原)スラヴ語の大規模な発音変化(ケントゥム→サテム)から
>>951
支配下にあった時代に言語変化が起きたのだろうが、その後スキタイが瓦解した際には
散り散りに他の遊牧民に吸収された者が一番多いんじゃないか?普通に考えて。
生活形態も違う現スラヴに入ったのは一部だけだろ。
既に言葉が通じていたら言葉の通じるほうに同化するだろう
というよりも、それ以前の時代から通婚等による同化過程が既に長い年月あって、
一部の語彙は共通化が進んで、
最後にスキタイの諸部族が崩壊した際は適当にバラバラになってあちこちに吸収されたんだろう
スラブ語のボーク(意味は「神」)などといった主要語彙はどうかんがえてもイラン系の単語だが、
あの地域で原スラブに親密に接触したイラン系言語はスキタイかサルマートしかいない
(スキタイ語がイラン系言語だとして)
近代の国民教育のようなものが行われていない時代に
自民族の基本語彙までが言語系統の異なる他文化の語彙と置き換わるというのは、
これを被支配の結果だとするのは考えにくく、
語彙が置き換わる元となった文化を持つ他民族の同化の結果と考えるのが自然だろう
しかもその、自民族に同化した他民族系の家系が自民族の中心的集団(貴族層)に
より色濃く混血した場合では、この傾向が顕著になる
原スラブ人が農耕民であったにかかわらず父称を使う古いスラブの習慣は
遊牧民の習慣から来たものだろう
たとえばスラブ語にはイラン系語彙とともにゴート系語彙も見られるが、
語彙を確立していった古い時代のスラブ人がゴートと接触した時代のゴート人は、
そこまで深くあるいは大量にスラブに同化していかなかったと思われる
というのも、ゴート語由来のスラブ語彙は言語的には辺縁的な価値の単語に多く含まれ、
名詞においては、原スラブ人があまり知らなかった地理的に遠方の
海の知識に関するものが非常に多いからである
ゴートは4世紀に西欧に行った集団も大きいが、
ウクライナに残った集団も大きい
彼ら居残りゴートの血筋を現代まで追うならば彼らの子孫もウクライナ人やロシア人になったと
考えるのが妥当だが、既にスラブ人は自らの語彙を確立していたので、
中世以後にスラブがゴートから取り入れた語彙は寡聞にして知らない
>>966 当然ステップの遊牧民の方がより言葉が通じるうえに文化も習俗も似通ってるわけで
そっちへ同化なり集合なりする割合が大きいでしょ
>>967 スラブ語にスキタイ語と類似する単語が多いのは
被支配者の側が支配側の使う言語から影響を受けた結果だろうし
ウクライナ地方にしても、テュルク系国家が西へ伸びてくる以前は
ずっとスキタイ系の遊牧集団が割拠していたのだから、その影響と考えるのが自然でしょ
>そっちへ同化なり集合なりする割合が大きいでしょ
しかし実際しなかった
スキタイ消滅後に印欧語族系の遊牧民は
後にサルマートが勢力を拡大するまでしばらくあの地域では痕跡を消す
>被支配者の側が支配側の使う言語から影響を受けた結果だろうし
そういう関係では基本単語でそういうことは言語学的には滅多にない
そういう場合外来語は受け入れる側にとって新しいものや概念を表す辺縁語彙におこる現象
ま、要するに君のはただのイデオロギーによる偏見だ
どうしようもないな
>>970 痕跡が消えたんじゃなく、農耕民が記述しなくなっただけなw
キプチャク平原はテュルク化するまでいつの時代もイラン系遊牧民の割拠した場所
被支配者側の公に使用されない言葉が、平民層でも徐々に支配者側の公用語へ置き換わるのは
エジプト、中央アジア、イスラム圏、欧州、ロシアなどなど、歴史的にもよくあること
>スキタイ消滅後に印欧語族系の遊牧民は
>後にサルマートが勢力を拡大するまでしばらくあの地域では痕跡を消す
というよりサルマタイが侵入してきて滅ぼされたんじゃなかったっけ?
973 :
世界@名無史さん:2010/08/05(木) 18:17:13 0
>>967 大ハズレ。
ロシア人の人名で父称があるのは、第三のローマだから。
ブルガリア人の場合も同じで、ブルガリア帝国が、名目上、東ローマ帝国の廷臣となったから。
遡れば、ヘレニズム時代のギリシャや共和政時代のローマに由来を持つ。
ぶっちゃけて言うと、アラビア人の名宣で、個人名 家父長名 大祖名/部族名 というふうに、
二番目に家父長名が来るのも、ローマ起源。
ゲルマン人の侵攻を激しく受け、ガリア人を祖とする人の割合も多い西欧の場合、家父長名が
名宣から落ちて、門地名/屋号名が正式の名宣に必須となるが、この習慣は西欧の影響の強い
クロアチアやポーランドで当たり前になって、名宣は、個人名 家名となる。
うげ、屋号を苗字にしているうちの家系って、clan名が不明なんやね
>ゲルマン人の侵攻を激しく受け、ガリア人を祖とする人の割合も多い西欧の場合、家父長名が
>名宣から落ちて、門地名/屋号名が正式の名宣に必須となるが
アイルランドやスコットランドの「マク〜」「フィッツ〜」
北欧の「〜セン」は?
976 :
世界@名無史さん:2010/08/05(木) 19:48:26 0
ここはスラヴスレですか?
スラ部活動
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ < はい
( ´∀`) \_____
ローマ起源、すなわちエトルリア起源か
979 :
世界@名無史さん:2010/08/06(金) 07:27:23 0
スラブ否定活動に邁進します。
980 :
世界@名無史さん:2010/08/06(金) 07:29:12 0
>>971 じゃあスキタイは徐々にスラブに支配されて衰退して消滅したんだね
主従関係が逆転したんだ
ブルガリアやロシアがスラブ化した事と同じ事なのではないだろうか?
>>980 知識無いのに粘着質とか最悪だな
スキタイやその他サカ人系の遊牧民はテュルク化して消えた
スラブは何の関係もない
>>982 あーあ、とうとう言っちゃったね反スラヴ主義者
反スラヴのイデオロギーよるプロパガンダが確定
これで完全に君の書き込みの信頼性ゼロになったよ