グルンヴァルト祭りは世界最大の中世ページェント。
298 :
世界@名無史さん:2010/07/12(月) 12:17:38 0
日本人は知らなくて良い。日本猿は知る資格が無い。
299 :
がしゃーん、がしゃーん:2010/07/13(火) 19:11:48 0
中世最大の欧州決戦グルンヴァルトで盛り上がらないって、いくらなんでもこの板偏りすぎだろw
母集団の底辺を構成する2chでこれなんだから海外で日本人の歴史学者が相手にされないのもなんとなく想像できる気がするね
ポーランド厨うぜーな
>>300 おまえが一人で息巻いてるだけだろ?10年間も、らしいな
ドイツ関係のスレに延々AA張り続けてるバカ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1274194455/l50 85 :世界@名無史さん:2010/06/25(金) 22:00:24 O
ドイツ関連スレとか見たけど
なんでドイツスレを攻撃してるのが反ポーランドなん?
どう見ても反ドイツだろ
結構AA貼ってる奴はこの反ポーランドとか言ってる奴の仕業
っていうのが真相という気がしてきた
だって反ポーランドならドイツスレにわざわざ貼るまどろっこしことせんだろ
それにドイツ関連スレをよく見ると
スレ題外れてやたらポーランドをヨイショしてる奴の方が目立ってるしな
怪し過ぎ
86 :世界@名無史さん:2010/06/26(土) 00:06:24 0
ポオタは単にみんなポーランドが好きだと思い込んでるちょっとかわいそうな人だから。
延々AA貼り続けてる病気の人の頭の中は常識じゃ計り知れない。
87 :世界@名無史さん:2010/06/26(土) 00:07:44 0
あ、つまり、いわゆるポオタ ≠ AA厨ってことな
304 :
世界@名無史さん:2010/07/14(水) 11:21:52 0
あっ晒しとこage
グルンヴァルトの戦いなんて延々と持ち上げてるのポーランド厨だけだから
誰も興味ねーから一人で自慰してろ
305 :
がしゃーん、がしゃーん:2010/07/14(水) 11:25:29 0
306 :
世界@名無史さん:2010/07/14(水) 11:30:00 0
素早いレスだね
一日中ここに張り付いてるんだな
307 :
がしゃーん、がしゃーん:2010/07/14(水) 11:32:06 0
365日張り付いています
しかしポヲタでもAA厨でもありませ〜ん♪(AA厨はあんただしw)
ただの歴ヲタで〜す
>>299読めばわかるっしょ
308 :
世界@名無史さん:2010/07/14(水) 11:34:43 0
反ポーランド=AA厨と決め付けてる辺りがもうね…
ぶっちゃけ、毎年の事なのに、今年初めて知った人間の馬鹿騒ぎには付き合えない
自分で1度くらい行ってから出直して来い
310 :
がしゃーん、がしゃーん:2010/07/14(水) 11:40:57 0
>>308 グルンヴァルトの戦いやその前後はおもしろいんだからスレの邪魔すんなよAA厨
311 :
がしゃーん、がしゃーん:2010/07/14(水) 11:41:58 0
何でも同定厨
だが行った事がないので話題は出せない
まさに引きオタらしいな
反ポAA厨はしつこいからな
みんながポーランド大好きだと思い込んでる可哀想な人だからな
ポーランドが否定されるのは絶対に許せないんだろう
中世最大の会戦はラス・ナヴァス・デ・トロサの戦いでは?
話題を全てポーランド関連へ持って行きたいからでしょうな
グルンヴァルトの戦いが重要でないとは言わないが、その程度の重要さの戦いなら幾らでもある。
政治的な影響ではブーヴィーヌの戦いとか、軍事的な面では金拍車の戦いとか、
中世らしからぬ戦死者だらけのタウトンの戦いとか。
グルンヴァルトは戦いとしてはその程度で、現代の歴史祭りそのものが話題になるから有名になっただけ。
まあある意味じゃ中世オタのビッグサイトだから興奮するのもわかるが。
グルンヴァルトのお祭りは、むしろ素人さんやファンタジー系の人の方が喜ぶ話題だろうな。
政治的影響とか言うならマンジケルトの戦いに匹敵するのはなかなかないぞ?
ビザンツ帝国軍7万にセルジューク朝軍3万という規模も凄いが
これがなければ十字軍も起こったかどうかすら怪しい。オスマン帝国は確実にない。
319 :
世界@名無史さん:2010/07/15(木) 07:44:01 0
320 :
世界@名無史さん:2010/07/15(木) 07:45:29 0
× 世界最大の合戦祭「グルンヴァルト」がついに開始された
○ 世界最大の合戦祭「グルンヴァルト2010」がついに開始された
321 :
世界@名無史さん:2010/07/15(木) 07:50:12 0
グルンヴァルトはドイツやチェコからも参加者多し
ドイツ人は二派に分かれ、
一方はドイツ騎士団やリヴォニア騎士団、
もう一方はプロイセン連合の市民軍でポーランド軍に参加して宿敵ドイツ騎士団に戦いを挑む
チェコは勿論フス派軍
ターボル戦車を持ち込むのか
322 :
世界@名無史さん:2010/07/15(木) 07:52:27 0
× もう一方はプロイセン連合の市民軍で
○ もう一方は後にプロイセン連合となるドイツ人の市民軍で
>>319 >クラクフではポーランド大統領とリトアニア大統領が国家式典
おいおいその写真は左からトゥスク首相、コモロフスキ大統領、シコルスキ外相だろ。。
リトアニアのグリバウスカイテ大統領は
記事には来てると書いてあるから来てるんだろうがその写真には写ってない。
>>318 それをいうならそもそもヤルムークの決戦でアラブ軍に負けてなければ・・・
>>321 >チェコは勿論フス派軍
>ターボル戦車を持ち込むのか
それは明らかに時代考証が間違ってる
更に遡ってユリアヌス帝が負傷死しなければ・・・
いっそ時代を広げてもっと広範囲の仮装を集めれば良いのに。
ワールシュタットの時のドイツ・ポーランド連合VSバトゥのモンゴル軍とか。
ワールシュタットにチュートン騎士団の部隊がいたかどうかは議論があって
ヤン・ドウゴシュの年代記に後世に挿入された記述ではないかといわれている。
実際戦死したはずの騎士団長ポッポがそもそも就任したのがこの戦いの10年以上後で
天寿を全うして埋葬された記録も残っているという。
>>324 グルンヴァルトの戦いの頃はフス派いるだろ
>>328 ボヘミアから7000人のフス派が義勇兵としてポーランド軍に合流している
ポーランド・リトアニア軍は全体としてドイツ系の王侯貴族(騎士団等)の横暴に困った人々が
ポーランド王に頼った市民軍的な要素が強かった
ヤン・ジシュカも参加している
フス派の人々はバルト海の海水を瓶に入れて「スラブ人が同胞どうし協力してバルト海沿岸まで支配した」記念に持ち帰った
甲子園みたいなものか
ターボルはその10年ぐらいあとにジシュカによって発明されたことになっているが、
その原型も既に使われていたとも言われる
>ターボルはその10年ぐらいあとにジシュカによって発明されたことになっているが、
>その原型も既に使われていたとも言われる
興味深いので出典を教えてくれ
オスプレイのThe Hussite Wars 1419-36によると「タンネンベルクの戦いで
輜重隊以外に荷車が使われた形跡はない」そうだが
民族・国籍を問わずポーランド王のもとに集まって戦ったっていうのがいいな
>>332 あのー、フス派戦車の原型の話は・・・?
334 :
329:2010/07/19(月) 10:30:19 0
>>330 >>333 フス派の戦車については英語のwikiで読んだのでへぇと思って覚えていたが、
さっき見たらそこの記述がなくなっていた
というより以前はBattle of Tannenberg (1410)のタイトルで、その記事にチェコ人義勇兵のtaborのことが書いてあったが、
いまそのタイトルの記事はなくなっていて、
かわりにBattle of Grunwaldの記事がある
ドイツ国粋主義の臭いがプンプンする「タンネンベルクの戦い」の名称はもはや使われていなくて、
「タンネンベルク・・・」の記事名はおかしいということになったのだろう
>>332は別の人
>フス派の人々はバルト海の海水を瓶に入れて「スラブ人が同胞どうし協力してバルト海沿岸まで支配した」記念に持ち帰った
甲子園みたいなものか
これは、ジシュカの死後の話ではないですか?
確か、ヤン・チャペクに率いられたフス派軍が遠征した時の話かと。
第二次トルンの和約につながった十三年戦争のときか?
337 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 08:23:48 0
>>331 元々ポーランド・リトアニアが多民族を支配していたのでは?
これは意外と知られていない事実だが、ポーランド・リトアニア合同(後にポーランド・リトアニア共和国)では、
階級(貴族かどうか)や宗教(キリスト教徒かどうか、後にはカトリックかどうか)による支配構造はあったが、
民族(ポーランド人かどうか、あるいはリトアニア人かどうか)による支配構造はなかった
リトアニアにいたっては公用語まで中世東スラブ語のルーシ語(ルテニア語)
>336
ちがいます、所謂「華麗なる長征」とか「偉大なる行軍」とか言われている
外征時の話。
340 :
世界@名無史さん:2010/07/21(水) 09:37:56 0
>>339 ポーランド王国・ドイツ騎士団戦争(1431-1435)のとき
タンネンベルクの名前がドイツ国粋主義のプロパガンダに使われたのは1410年の会戦ではなく
第一次大戦中の1914年にロシア軍へ勝利した時のこと。
当初その戦闘は「オルテルスブルク−ギルゲンスブルク間の戦い」と呼ばれていたが、
ドイツ軍の中佐が広大な戦場の一角に中世の会戦で有名なタンネンベルク村があるのに気づき
「あのタンネンベルクでの二度目の戦いでスラヴ人への雪辱を晴らした」といって喧伝された。
>>334はそれと混同しているのだろう。
1410年7月15日の戦闘についていえば、戦場の近くにグリュンフェルドとタンネンベルクという村があり
どちらの近郊の戦いでも間違いではない。
×ギルゲンスブルク
○ギルゲンブルク
>>343 >>334は1410年の会戦の呼称としてのタンネンベルクを「ドイツ国粋主義の臭いがプンプンする」
などといっているが、グルンヴァルトと同じで単に戦場の近くにそういう名前の村があったという
理由で出来た呼称にすぎない。
国粋主義に絡めた呼称の恣意性を指摘するなら1914年のいわゆる「第2次タンネンベルクの戦い」
についていわれるべきだろう。
まあ
>>334は「グルンヴァルトはポーランドの現行の地名だからOKだが
タンネンベルクはドイツ語だからドイツ国粋主義」と思い込んでるだけかもしれないが。
そういう意味じゃないと思うんだが
中世最大の会戦はやはりラス・ナヴァス・デ・トロサの戦い