1 :
世界@名無史さん:
正史に沿った話しならOK。
2 :
世界@名無史さん:2008/11/03(月) 12:08:46 0
2ゲット
5 :
世界@名無史さん:2008/11/03(月) 15:00:19 0
6 :
世界@名無史さん:2008/11/04(火) 11:43:59 0
やっぱ出世が遅いのかな?
魏延と楊儀がいなくなって徳したのは蒋苑・費偉か。
亮死亡後、後釜を狙っての政争とみるのが自然かな。
魏延と楊儀両方一族皆殺しにされたし
8 :
世界@名無史さん:2008/11/04(火) 15:39:17 0
諸葛亮は生前から自分の死後は蒋苑に任せるよう後主に言っている。
費偉も諸葛亮の車に同乗させるなど将来の宰相候補として周囲にそれと
なく知らせている。魏延も楊儀もそこらへんの空気が読めなかったのが
致命的。空気読めずに暴走して身の破滅。似たもの同士だったわけです。
おまいらレッドクリフは見たか?
いろいろと突込みどころのおおい映画だったけど、
雑兵同士の戦闘シーンは割合よくかけていたと思うけどどうよ?
足先を鎌みたいなものできりつけて転倒したところをおしつつんで殺したり、
騎兵を縄で身柄さらって歩兵が取り囲んで捕殺するあたりは感心してみていたが、
あの辺の戦闘シーンは当時の時代考証的に正しいの?
10 :
世界@名無史さん:2008/11/04(火) 15:58:46 0
>>7 確か楊儀は流刑にされただけだよ。
流刑地で自害した。妻子はその後に蜀に帰還している。
三族が処刑されたのは魏延の一族。
魏延は以前から態度が横柄だったそうだから
そのへんもあったんだろう。
敵が多すぎて誰も魏延についていかなかったんだろうな。
13 :
世界@名無史さん:2008/11/04(火) 18:57:04 0
いずれにしろ魏延は勇将ではあっても、全軍の総帥としては誰も期待してなかった
わけさ。
>>8 確かにヒイがいずれ宰相になるであろうというのはそのエピソードから周知だったろうし、丞相長史となったショウエンもまたしかり
だが、諸葛亮死亡直後のあの時点だと、諸葛亮が密かに皇帝に言っていたという後継のことは楊儀も魏延も知らなかったはず
そのとき、魏延、楊儀はもちろん、呉壱なども地位で明らかに上位にいたわけで、いきなりショウエンが来るっていうのは読みきれなくても仕方ないんじゃないのかね
ショウエンについては、大将軍まで一気に駆け上がったことについて周囲もついていけてなかった困惑気味のようすが記されている
ところでショウエンの前任丞相長史張裔って蜀人でしかも呉の捕虜になったりしてても、ショウエンより上位だったんだな
長生きしてたらこいつが後継になってたんだろうかね
15 :
世界@名無史さん:2008/11/04(火) 20:59:47 0
魏延はあくまでも北伐の続行を望み、遠征軍の司令官に昇格すべきと望んだだけ。
自分が宰相になろうとは思っていなかったと思われる。
楊儀は無事遠征軍を帰還させた統率力と年功が蜀中第一で思い込み、宰相になるのが
当然と考えていた。
同じ諸葛亮の後継狙いでも魏延と楊儀では意味が違うと思われる。
魏延としてはあくまでも軍人として遠征軍の采配を思う存分ふってみたいと
望んだのだろう。
諸葛亮は魏延・楊儀は自分の死後は制御し難くなるので排除すべきと考えていた
かもしれない。諸葛亮は魏延が撤退に同意しなければ置き去りにしろと命令した
り、楊儀が帰還した後にはほぼ左遷状態になったことから察せられる。
先に左遷された李厳が諸葛亮の死を聞いて落胆した死んだのは、能力があっても
素行が悪い人間を何とか使ったくれるのは劉備や諸葛亮みたいな高い統率力がある
人物のみだと左遷されてから気がついたから。
魏延と楊儀は結局は劉備と諸葛亮が上にいたからこそ能力を発揮できただけの話し。
その二人が世を去れば厄介者になるだけだった。
魏延はその狷介な性質にくわえて寒門で叩き上げって出自と経歴も
影響してるかもしれんね
当時はこの手の人間は士大夫層からは場合によっては極端に嫌われるし、
支持も人望も得られにくいだろうし
レッドクリフの話題きいてるのにスルーすんなよ
>>15 確かに諸葛亮は、苦労してまで使った割には自分の死後の二人の扱いは冷たかったな。
魏延にとって見れば、諸葛亮の遺言からは弾かれて、費イに今後を打診されたにも関わらず
撤退は事前に知らされなかった。激怒すること自体は当然だ。
楊儀からすれば、丞相府軍を任せられたことで後継者に指名されたつもりでいたのに、
帰ってみたら「実は丞相は蒋エンを指名してたんよ」とか言われる始末。
しかしその二人は結局不満を顕わにして排除され、跡を継いだ蒋エンらはよく劉禅を補佐した。
劉封の件を見ても、諸葛亮は意外に人物眼があって政謀も辞さない人間だったのだろう。
21 :
世界@名無史さん:2008/11/06(木) 16:44:06 0
諸葛亮で人選に疑問が持たれたのは馬謖くらいだろ。
まあ馬謖も軍の前線指揮官としては不適格というでけで、文官としてなら
そこそこ使えたでしょう。
南蛮で反乱起こされる太守は文官として有能なのか
太守が文吏だと思ってる時点で×。
特にこの時代の呉や蜀で中央からちょっと離れれば、
兵事に長けた人間でなければ太守は務まらない。
で、流れから判断すると反乱起こされた太守って馬謖のこと言ってるの?
いつどこの太守に?
馬謖は越?太守になってただろう
25 :
世界@名無史さん:2008/11/06(木) 18:53:39 0
そん時は別に反乱なんて起きてないのでは?
それと名前だけ太守でも任地に実際は行っていないということもある。
南方が蜀の勢力圏になったのは諸葛亮の南征後でないか?
>>15 >蜀中第一で思い込み
>采配を思う存分ふってみたいと
>考えていたかもしれない。
>落胆した死んだのは
>使ったくれるのは
すまんが難解過ぎて読みにくい。接続詞も活用してくれ。
27 :
世界@名無史さん:2008/11/06(木) 18:59:31 0
>>23 蜀や呉なんて漢人居住区のすぐ近くに蛮人が住んでいて、時々反乱が起こる。
それを鎮圧するには配下の兵を率いて指揮しなくてはいけないからな。
てか、南蛮の反乱て、呉の陰謀ではなかったのかい?
29 :
世界@名無史さん:2008/11/06(木) 19:45:48 0
蜀も荊州南部の蛮族を利用して呉を攪乱しようとかしてる。
蜀本軍が敗北して、馬良が殺害されている。
>>24 すまん、確かにメン竹・成都令、越スイ太守とあるな。
とはいえ越スイには赴任していないだろう。劉備の死後高定が自立状態だったとあるから、
年齢から考えて、馬謖は南方征伐の計画立案に太守の資格を得て参画したということになりそうだ。
31 :
世界@名無史さん:2008/11/06(木) 20:39:44 0
第一次北伐はなんで趙雲は囮軍だったんだろ?
常に別の道から行きたがってた魏延でもよかったのに。
たぶん趙雲の軍なんて全部合わせても1万に満たなかったのでは?
それで曹真の数万の軍隊と戦って敗れたといって責任とらされるのは
なんとも理不尽。あれはどうしてだろう?
趙雲が囮だったのは重用の証。
乱暴に言うと軍隊というのは重要度の高い順に分遣される。
諸葛亮は李厳を分けて後方と兵站を任せ、次に趙雲を分けて
散関で曹真の主力と対峙させ、次に馬謖を分けて先鋒とした(失敗)。
魏延でなくて趙雲だったのは、まあ年功序列と解釈してもいいかもしれないけど。
ぶっちゃけ魏延は能力はともかく性格が難しい(逆に言えば諸葛亮は劉備のように
魏延を心服させられなかった)から、手元に置きたかったのかもしれない。
…というのは、後の顛末を知る者の勘繰りかもしれないが。
降格させられたのは、趙雲も北伐の計画立案の一人だったからではないか
と言っている人がいたが、まあ、不明。
ともあれ、趙雲が失敗して責任を取らされる地位にあったというのは確かだ。
33 :
世界@名無史さん:2008/11/07(金) 17:14:29 O
絶望的とも言える長阪で幼主を守りぬいたくらいだからな。
主は子供を置き去りにして遁走。信頼感は抜群なのは間違いない。
仮節というのは、どういう権限があったのでしょうか?
「軍での生殺与奪権(絶対命令権)」だと思えば、いいのでしょうか?
また、仮節は状況に応じて与えられたり取り上げられたりするものなのでしょうか?
教えてください。
ググればいいと思うよっていうかちくま正史のどこかに注釈があったじゃない。
具体的にどう行使されたのかはちょっと難しい問題だな。
36 :
世界@名無史さん:2008/11/08(土) 23:06:50 0
節ってのはあれでそ?
軍隊の指揮官が振りかざしている杖みたいなもんでしょ?
節を委ねる=軍隊の指揮権を任すってことではなかった?
仮の節なんだから一時的な指揮権?
軍隊っていうか、もっと政治的なものじゃなかったか?
外交権とか無かったか?
38 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 10:47:55 0
仮節は軍令違反者を処分できる権限でなかった?
軍令違反なら自分の判断で処刑できる。
ここ最近の「?」の出現率にワロタ
仮節は、もともとは君命を帯びた使者に与えられるものであり、
「使命達成のために強行手段を取れる権利」を表す。
転じて、「職務上の影響下での生殺与奪権」を示すようになった。
蜀では、五虎将軍のカンウ、チョウヒ、バチョウが、
魏では方面軍最高司令官のチンタイ、ショカツタンが、
呉ではイリョウ戦の際、蛮族鎮圧に赴いたハンシュンが仮節になっている。
>>34 「節」は基本的に三等級
使持節>持節>仮節
「使持節」は平時・戦時に関わらず官秩二千石以下の官僚・民をその場で
処断する権限
「持節」は官位を有さない民のみを処断する権限
戦時は「使持節」と同等に二千石以下を処断する権限も有す
「仮節」は戦時に限り、軍令違反者を処断する権限
調べてみたら本当に難しい問題だった。
仮節という言葉は、漢代盛期では前漢平帝の時代に太僕王ツら八人に節を仮(貸)し、分けて天下の風俗を観覧させたという記事、
その後は謁者に節を仮して高官を逮捕させたという話くらいにしか見られない。
その後はずっと下って、何進が袁紹を司隷校尉に任じ仮節としたという件に飛ぶ。
以降、仮節は群雄や権臣に与えられ、後漢末では、彼らの独自の司法権を認める職権と化した観がある。
その後、三国の高位の軍将にも与えられるようになり、
晋代には使持節、持節の下で「軍法違反者を処罰する権利」と軍事に限定することが定められるわけだが、
後漢末・三国時代にどのように行使され、変遷していったかはほとんど不明だな。
異民族に捕まって、節を振り回して羊狩りしてた奴とかいたからな
節については最低でも漢書諸葛豊伝を読んでないと話にもならない
>>41 戦時に限りってことは「敵前逃亡とは許せん、死刑だ」って将軍が思っても
仮節がないと死刑ができないの?
それとも戦時には、必ず与えられる権限だったの?
>>45 それが難しいんだな。
漢代には「戦時」というものが殆どなかったから。
それに対して後漢末は、非常置だった将軍号が乱発され、それをもって軍閥の地方独立を追認することになり、
戦時が常態となる。また権臣の董卓、李カク、曹操らも軍権を握り続けた。
仮節というのはそのような政治状況で発展したもののようで、それが三国の成立によってどうやって
臣下の武時に限定する権限に収束していったのかはよくわからない。
仮節は基本的に車騎将軍以上のような高位の将軍号に付属することが多かったが、
では雑号将軍には一兵卒を裁く法がまったくなかったのかというと疑問だ。
漢王朝が非常に中央集権の強い国であったのは確かで、例えば地方行政では、郡の丞や県令どころか県丞までが
中央によって任命される官であり、左官と呼ばれ、太守が勝手に任免することが出来なかった(らしい)。
将軍の属官もそのようであったなら、「仮節」というのはそれを超えて高級の属官を処罰する権利であり、
軍事には専権が許されるという慣習を制度化したものだといえる……のかもしれないが、何分ちょっと調べたくらいでは確証がでてこない。
史書の精査を要すると思われる。
47 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 15:20:17 0
>>40 五虎将軍というのは『演義』の話しだよな。
列伝に関張馬黄趙伝というまとめなので『演義』では五虎将軍とか
名前を付けたが、どうも当時の名声としては関羽・張飛・馬超の
三人が劉備が爪牙という認識だったみたい。黄忠と趙雲は名声で
三人に劣り、手柄で諡号を賜るまでになったという感じだ。
48 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 17:53:41 0
>>46 どちらかというと司令官の権威付けという意味合いの方が大きいかもね。
49 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 18:45:06 0
趙雲の話題が出てたけど、
223年に中護軍・征南将軍になってけど、
中護軍は首都防衛、征南将軍は南方方面司令官と字面だけだとどっちが
主の任務なのかわからない。蜀みたいな小さな国だと軍管区があいまい
で名前と職務が一致しない場合もあるみたい。
仮節なんかも本当にどこまで権限があるかは何とも言えない。
馬超は劉備のところに来てすぐ死んじゃった印象がある。
まだ若かったのに、実にもったいない。彼がもう少し長生きしていればと
無念な思いに駆られる私は蜀ヲタです。
呉でも早死にが多い。惜しい人材が若く死んでいくのは実に残念。
51 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 20:02:31 0
馬超は有名人ではあったけど、軍司令官としては何とも言えない感じでは?
実戦での指揮では黄忠、趙雲、魏延、呉壱、王平とかの方が上手かったかもよ。
まあ、独自の勢力を保持していたことがあるという点では関羽や張飛もおよば
ないけどね。
52 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 20:11:18 0
>>50 むしろ失っていなければという無念さを感じるのは黄権だよ。
彼は知謀に優れ、漢中奪取にも彼の知謀が生かされいる。何よりも
諸葛亮と信頼関係が厚く、彼が蜀にいれば、李厳のような不誠実な
人間を重用しなくてもすみ、諸葛亮の良き補佐役、相談役として
活躍したことだろう。
53 :
世界@名無史さん:2008/11/09(日) 20:55:30 0
刺史という役職も面白い。
蜀では姜維に無益な出兵を辞めさせるために、涼州刺史から益州刺史に
させようという話しがあった。大将軍という地位以上に涼州方面に出兵する
のに重要な役職だったみたい。
益州刺史になれば四川盆地に戻らざるを得ないからね。
侵攻先の刺史や太守の名分で立案や作戦に参加したということはよくあったようだ。
>>49 中護軍は、宰相や皇帝が軍を率いる場合に置かれ、兵を領し法を司る「護軍」に類するもの。
要職とはいえ、属官であり、趙雲には格が釣り合わない。そのため引き続き将軍号を帯びたんだろう。
馬超は挙兵して関中を切り離した知名度(或いは政略)や
潼関の奮戦は目を見張るものがあるが、
雍涼州の騎兵を失って人に使われる立場でどれだけ力を発揮できたかというと
どうだろう、という感じかな。
56 :
世界@名無史さん:2008/11/10(月) 03:57:44 0
>>54 趙雲の中護軍というのは丞相の属官だったのかな?
なったのが223年だから呉と修交して、数年後に南征する時期。
58 :
世界@名無史さん:2008/11/10(月) 07:02:00 0
法正は確かに策術は優れているけど、性格が・・・・・・・・・・
劉備死後存命でも、李厳と同じ感じになる公算が高かったとおもう。
諸葛亮の補佐役としては黄権の方が適任だったでしょう。
59 :
董卓:2008/11/10(月) 09:22:01 0
レッドクリフの戦闘シーンは凄かったな。
60 :
世界@名無史さん:2008/11/10(月) 17:41:10 0
レッドクリフは『演義』が基でしょ?
話題的には旬だけど、スレッド的には主旨に合わないから話題的にスルー
されてしまう。
61 :
世界@名無史さん:2008/11/10(月) 17:48:52 0
>>53 蒋苑が姜維を涼州の刺史にしてくれと上奏してたな。
62 :
世界@名無史さん:2008/11/10(月) 19:02:18 0
領軍と護軍とはどうちがうの?
気になったので勉強がてら調べた。
護軍の発祥は秦漢にさかのぼる。秦代には護軍都尉と呼ばれ、
漢初には陳平が護軍中尉に為って諸将を監察した。これは皇帝直属だったが、
武帝の時代に大司馬に属した。
後漢では非常置となったが、班固が征伐に出る大将軍竇憲の中護軍になるなどしている。
曹操が丞相府で韓浩を護軍としたのはこの流れを汲むものだろう。
魏になると護軍将軍として皇帝の直属に戻り、武官の選任も担当した。
(そのため賄賂を取るのが常態だったと夏侯玄伝にはある)
領軍を制定したのは曹操で、その時代の機能はよくわからない。
魏になると領軍将軍は五校、中壘、武衛の三校尉を束ねた。
これは京師周辺を守護する防衛軍の長ということになる。
宋書には護軍将軍は外軍を掌握し、領軍将軍は内軍を掌握するとある。
内軍が皇帝直属の首都防衛軍なら、外軍は機動軍だろうか。
第五次北伐の際に洛陽から派遣された秦朗の討蜀護軍が、
討蜀の任を負った護軍なら、魏の時代に既にその役割分化はあったのかもしれない。
ただし、そのような職権を持っていなかった曹操時代に、
領軍の史渙がどのような職責を持っていたのかはよくわからない。
両者は禁兵(近衛兵)を司るため、魏の時代、曹夏侯のような皇族や、
後には司馬家の一族、また彼らの特の寵臣が多く任じられる
政治的にも重要な職だった。
>>63 中軍校尉(西園八校尉)史渙が領軍、中領軍になっているというのは割と重要なんじゃないかな
当の西園八校尉が実働してないからなあ
西園に駐屯した近衛軍の八部隊、ということくらいしか。
遠征用の部隊だったのだろうけど。
ググってみたら論文が一本あるんだね。
66 :
世界@名無史さん:2008/11/11(火) 06:17:27 0
趙雲が諸葛亮派の将軍とみなされるのは
劉備死後に中護軍となり、諸葛亮が漢中に駐屯すると一緒に漢中へ、
敗戦の責任も共にとったという経歴からの推察なのかな?
67 :
世界@名無史さん:2008/11/11(火) 06:31:02 0
『出師の表』に出てくる尚寵も中領軍になってるね。
ペースはそんなに変わらんと思うが。
70 :
世界@名無史さん:2008/11/11(火) 15:29:53 0
うま
71 :
世界@名無史さん:2008/11/11(火) 19:39:13 0
李厳がいなければ趙雲や魏延はもっと出世してたよ。
寥立伝に李厳ですら卿になってないのだから云々というくだりが出てくる。
劉備から諸葛亮の副に指名された李厳より他の将軍が上になるわけには
いかなかったのさ。
72 :
世界@名無史さん:2008/11/12(水) 22:09:33 0
我が子が不肖の子ならば、君、其れにとりてかわり皇帝になるべし。
これは史実?
作り話?
史実かどうかはともかく、陳寿の諸葛亮本伝にある。
君の才は曹丕の十倍あり,必ず國を安んじて終には大事を定めるだろう。
若し嗣子が輔けるにたるならばこれを輔け、不才の如くなら君は自ら取るべし。
つかここは史書読んでない人間のための質問スレなのか?
74 :
世界@名無史さん:2008/11/12(水) 22:38:12 0
けち!
質問に答えてくれたっていいじゃないか!
ケチっすかw
まあそういうことでいいよw
76 :
世界@名無史さん:2008/11/12(水) 22:49:16 0
劉備というのは阿斗なんてどうでも良かったんじゃないのかな。
子供なんていくらでもオレのチ*ポさえ健在ならつくれるんだよ!ぐらいのことは言ってただろうし。
77 :
世界@名無史さん:2008/11/12(水) 22:58:44 0
俺も質問アリだと思うけど
78 :
世界@名無史さん:2008/11/12(水) 23:00:51 0
質問が多くなったらスレ立てれば良いし
ところで典農中郎将が指揮する兵士って、屯田民が逃げ出すのを監視する兵士ってことだよな?
監視と限定するわけにはいかないけど。
屯田というのは民屯軍屯を問わず、「軍の管理下にあり兵糧を提供する田地」だから、
典農中郎将というのはその管轄地の司令官ということになる。
その部下は守備の他司法や行政も行っただろう。
82 :
世界@名無史さん:2008/11/13(木) 06:34:06 0
>>76 人間は死んだ後のことはどんなに偉い人間でも自由にならないということを
知っていたのさ。豊臣秀吉の遺言は死後はほとんど反古にされただろ?
劉備の死後は諸葛亮が実質上のトップになるのだから、諸葛亮に全てを
託するしかかなったのさ。もちろん諸葛亮の誠実な人柄は十分理解していた
とは思うけどね。それほど利発でない息子が下手に権力をもって国を崩壊
させるより、諸葛亮に任せて息子の帝位を保ったほうが安全だ。もちろん
諸葛亮が帝位を簒奪する危険性は低いという読みはあった思う。
劉備にしてみれば、根無し草の傭兵部隊の隊長が一国の主にまでしてくれ
たのは諸葛亮のお陰という想いもあっただろう。彼に帝位を奪われてもしか
たがないという考えもあったろう。
質問に答えても話題が広がらないどころか
質問者の反応さえないから詰まらんのだよなあ
>>81 いや、監視だけとは思ってなかったけどさ
大きな目的として逃亡を防ぐ意味があったのかな、って思っただけでさ
奴隷農場から奴隷が逃げるのを監視してるイメージで
85 :
世界@名無史さん:2008/11/13(木) 11:33:35 0
>>72 自分の死後は諸葛亮に頼むしかなかったからな。
劉備にしてみれば息子を輔佐してくれというのが本心だったと思う。
だけど諸葛亮次第というのが現実。他に輔佐する人もいない。
死に臨んで素直な自分の考えを述べたと思ってよいと思う。
劉備臨終前後は諸葛亮が国家そのもので、彼がいなければ国そのものが
消滅の恐れがった。
>>84 その辺の事情だと、袁渙伝や国淵伝をみても屯田政策が軌道にのるまでは
苦労も多かったみたいだね
こう言っておけば諸葛亮は皇位を取ったりしないだろうという計算だった、
ってのもよく聞く話だよね
89 :
世界@名無史さん:2008/11/13(木) 16:41:43 0
>>88 まあでも、諸葛亮に頼るしかなかったのは事実でしょ。
劉禅が自分で人材を抜擢して政治をやっていけるなんて、劉備も流石に
期待してなかっただろうし。計算というよりも諦めといった方がよいかも。
お前に任せる以外の選択肢はないと。
李厳は劉備もそんなに期待してなかったでしょ。
ほう統、法正、黄権といった逸材は既になく、諸葛亮に万が一のことがあった
場合にやってくれといった程度の遺言だったと思うよ。
出師の表には自分の庵を三度尋ねてそれに感激して孔明は劉備についたってあるけど
これが三顧の礼のソースなの?
91 :
世界@名無史さん:2008/11/13(木) 19:04:48 0
>>90 異説はあるけど、本人が言っているのだから信憑性が高いと思う。
逆に本人が言ってるからそういう過去になったともいえる。
それに関して発言してる一次史料が出師の表だけだし。
出師の表のような重大な公式文でいきなり出鱈目は言わないだろうね。恥掻くだけだから。
史実にしろ、劉備・諸葛亮の信頼を強調するための政治宣伝にしろ、
そんな話があるというのは当時周知のことだっただろう。
出廬当時の関係者でまだ生存してるやつらもいるんだし、
嘘は書かんじゃろ。
95 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 05:34:23 0
たぶん荊州出身者には有名だっただろうね。
「後出師の表」は、「前出師の表」から見ると何か違和感がある。
97 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 07:08:50 O
劉備って、才能はともかく、その出自も含め、人から崇拝されるタイプだったんだろうね。
正史『三国志』注の『魏書』によれば、外は暴徒の侵入を防ぎ、内は経済的な恩恵を十分に与え
身分の低い者を差別しなかった。尊敬されるに値する統治者と言えるな。
劉備は曹操、呂布とかの一流どころには苦戦したが、郡の兵力があれば、黄巾賊には負けないくらいの
実力はあったんだろう。
裴松之くんのさ、
おそらく陳寿さんが却下したんであろう種本からの異説引用を何ページも連ねた挙句、
でもやっぱりこの異説は信ずるに値しないってオチ、
ずっこけます。
いや、あれは異論に先手を打ってる感じでいいんじゃね?
>>99 「後出師の表」は『黙記』には載ってるが、『諸葛亮集』には載ってないと書いてあるだけど
表立って批判はしてないような
裴注はいい味だしてるな
出過ぎてる感もあるけど
別にずっこけなくてもいいよ
史書とは後代に残す記録であるのと同等に、現代へ向けての論でもある。
諸葛亮伝などで顕著だが、裴松之が異説を引用してから批判する節は、
当時の同僚史家や一般の史書読者への「裴松之論」の開陳であり、
南宋当時の三国史観の焦点を知ることが出来る良い史料だ。
別伝や家伝の類への言及が殆ど無く、人口に膾炙していたという
献帝春秋や山陽候戴紀を特に批判したのはそのためだろう。
104 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 23:19:07 0
孔明に悪評が無いのはなぜなのか?
陳寿が諸葛亮信者だから。
裴松之が諸葛亮信者だから。
晋代に冷遇された益州の人間が郷里の素晴らしさを訴えるのに最適の人材だったから。
106 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 23:24:34 0
陳寿はむしろ孔明に恨みをふくんではいなかった?
>>106 そこから説明しなけりゃいけないのか…?
wikipdiaで陳寿の項を読むのが早いよ。
>>106 恨みを含みつつ「諸葛氏集」を編集したんだとしたら恐ろしいな
109 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 23:29:36 0
誰からも悪口を言われない権力者なんてありえるのか?
飾り物ならいざしらず。
実際にその裁きで他人への死刑宣告をする事もある、負け戦で多くの人民の父を、夫を、息子をころしてしまう事もある。
信じられないな。
でも孔明は例外なんだな。。
死刑宣告でもう逃げ場のない状況なら、恨み言を言わないのが士人の嗜みだろうけどね。
せっかく自分ひとりの首で収まる状況で下手なこと言って、一族に累が及んだりしたら目も当てられない。
だから辞世の際には従容と綺麗なことを言うのが最後の処世術。
復帰の望みがあるなら当然反省の弁を書いて皇帝や朝廷を持ち上げておく。
111 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 23:37:12 0
日本でいえば石田三成なんかは恨まれた。
竹中半兵衛?よくわからん。
黒田孝高は人気が有ったようだ。でも孔明とは違うタイプだね。
112 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 23:40:40 0
後漢末には青龍刀なんて無かったらしい。
関羽って一体何をふりまわしてたんだろうな。
>>110 逃げ場のない状況なら、士人の嗜みは「投獄や処刑になる前に自殺」だね
主や周囲の温情で「病死」「憤死」と認定してくれれば罪が及ぶこともないから
ジュンイクとか陸遜がそれ
確かにその道もある。
刑として「自裁を命じる」というのは、周囲に累を及ぼさないための処置だったろうし。
でも死刑であろうとも勅命であるならば従容と受け入れるという美徳もあるから、
ケースバイケースじゃないかな。
このままだと周囲まで立場が悪くなる一方、という状況なら、
先手を打って自殺するというのもあったのだろう。
115 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 00:25:32 0
拷問を受けながら嬲り殺されたりするぐらいなら毒を飲んだ方がいいよなぁ。
116 :
99:2008/11/15(土) 00:29:04 0
>>100 >>103 いやあの、裴注の意義はいちおう承知してるつもりでっす。
ただちくまの細かい文字で何ページも読んだ後に「これ嘘だから」ってやられると、
分かっててもツッコミの上塗りをしたくなるというか…
彼のツッコミ屋精神はキャラ的に好きなんだけどね。
>>112 列伝で顔良のくだりは「刺した」って書いてあった気がするから、
槍か戟みたいなやつじゃないかい?
117 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 00:34:47 0
顔良、文醜って実在の人物だったんだねぇ。
顔が良い と 醜い っていかにもいかにもって思ってたんだけど。。
>>116 本当に嘘かを考えるものだ、そういうときこそ
120 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 16:01:12 0
>>109 まるっきり批判者がいなかったわけではないみたいよ。
李ばくという人物は諸葛亮に批判的で、諸葛亮が死去した時に後主に
これは喜ぶべきこと言って、後主の怒りをかって処刑されている。
彼は馬謖の処刑に反対して諸葛亮に左遷されたみたい。
それ以降含むところがあったようだ。
121 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 16:09:05 0
>>116 まるっきり嘘の史料なら載録するなとも言いたい。
122 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 16:12:06 0
>>114 曹操は漢に代わって魏を建国するという目的があったけど、
陸遜みたいな名臣を死なせた孫権の場合は完全に老害。
>>121 当時こんな噂が立ったとか、
この国はこの人をこういうキャラで売りたかったんだなとか、
そういうのの参考になるから、嘘でも記載してくれて良かったと自分は思う
124 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 19:02:11 0
『演義』のネタにはなったしね。
125 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 19:13:23 0
世間なんて噂話で成り立ってるんだしさ。
いいんじゃないのか。
126 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 19:20:14 0
陸遜ってのは呉の有力豪族の頭ですよ。
殺しておかないと孫一族が危なかったのさ。
127 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 19:20:58 0
ただ、まるきっきり真偽の解説が書かれていなかったら
問題だけどね。
128 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 19:33:03 0
孔明とかは日記を残してなかったのかな?
129 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 19:40:10 0
きっといつか四川の山奥の洞穴から孔明日記集が発見されるとおもう。
130 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 20:24:01 0
関羽の北伐はありゃ、関羽の独断かいの?それとも劉備の指示かいの?
131 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 21:11:22 0
>>130 一応は漢中攻略戦に呼応した作戦だったのでは?
上庸なんかも攻撃・占領してるし。ただ呉に備えた後方の守備兵まで
投入してしまったのは関羽の独断だと思われる。
作戦的にはそんなに悪くはない。
事実、大功をあげる寸前までいったのだから。
魏の主力が涼州方面にいる隙に、荊州を攻撃したのは悪くない。
ただ、呉への外交政策と無防備が関羽の大失策を招いた。
132 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 21:13:00 0
つまり劉備の指示だったという意味ね。
劉備が命じたという明記はない(はず)
上庸攻略のタイミングから考えて当然東西の連携が意図されていたはずだけど、
その割には劉封への援軍の命令が徹底を欠くなど、劉備を頂点に整然とした指揮系統
が成立していたともちょっと考えにくい。
三国志のミステリーの一つだと思う。
134 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 21:27:34 0
援軍無しでよく頑張った、関羽チャン。
135 :
世界@名無史さん:2008/11/15(土) 21:43:08 0
>>133 一つ考えられるのが、関羽の行った作戦の方が陽動作戦。
つまり漢中支配を決定的にするために涼州方面の魏の主力に対する牽制策。
当然、上庸攻略作戦も同じ路線。ただ思わぬ大戦果をあげた関羽が暴走。
作戦計画にないことを始めた。
劉備にしてみれば魏軍の牽制が目的であり、それ以上の作戦計画自体が存在
しなかった。上庸攻略軍との連携など想定してなかった。
関羽が全て命令通りにして死んじゃいましたじゃ都合が悪いから
情報操作したとか、そういう可能性はないの?
いや、イメージ的には関羽暴走なんだけど
どこからどこまでが命令通りなのかが問題になる。
孫権への侮辱、兵糧強奪、南郡の防備削減etc
呉との外交が鍵だと思うぞ。
孔明さんの戦略だと、呉は上手く利用したいという設定で、
絶対に敵対すべき相手ではないでしょ。
戦線拡大もさることながら、呉を相手に勝手な外交を展開したのが関羽の過ちでしょ。
関中方面の作戦を有利にするため、
中原に脅威を与える命令は出てたかもしれないけど、
そっち方面で戦端をひらくというのはどう考えても下の下。
そんな命令は出さんでしょ。
139 :
世界@名無史さん:2008/11/16(日) 04:40:37 0
外交の失敗が原因だろうな。
140 :
世界@名無史さん:2008/11/16(日) 07:24:51 0
馬謖の失敗も拠点確保という使命を忘れて、
砦に籠もらず失敗、関羽も牽制という使命を忘れて譲陽攻略を目論んで
対呉の守備兵まで繰り出して失敗。勝手に役目以上のことをやって
失敗すると大変なことになるという事例だね。
141 :
世界@名無史さん:2008/11/16(日) 08:31:49 0
確か大雨のお陰で干禁が捕虜になったりと調子に乗りやすい状況ではあった。
おまけに呂蒙、陸遜の計略に気がつかない。荊州を任せるのは諸葛亮クラスとは
言わないまでも、後の蒋苑とか費偉クラスの実力じゃないと無理だったのかも。
142 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 06:29:50 0
荊州総督は関羽以外なら誰が適任だっただろう?
143 :
董卓:2008/11/17(月) 09:25:43 0
陶謙についてどう思うか?
正史よみたくなったが、書き下し文つきでネットで読めるところないですか。
書き下だし文は無理
漢籍完訳でググれば一部を和訳している有志が見つかる
146 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 18:30:39 0
関羽と信頼し合えた文官がいなかったってことでしょ?
関羽はいわゆる知識人どもを軽蔑し辱めたらしいから。
元祖共産党員みたいな性格。
147 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 18:35:41 0
考えてみれば李厳と諸葛亮って権力争いをしたんだな。
諸葛亮の足をこっそり引っ張ろうとした李厳が更迭されたわけか。
148 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 19:00:55 0
孔明というのは法家の徒だったんだよね。
泣いて馬謖を斬ったのも、法家だからだよね。
149 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 20:02:43 0
>>147 関羽が一目置く知識人は諸葛亮くらいだったのでは?
関羽は馬超をどんな人物かと諸葛亮に尋ねている。軽んじている人間に
わざわざ尋ねたりしないだろう。しかも、煽てられたら客に手紙を見せび
らかして喜ぶ。つまり諸葛亮を一目置いているからこそ、その評価が
嬉しかったのさ。
150 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 20:30:37 0
まぁ、諸葛亮が関羽の尊敬を勝ち取ったのは殴り合いの喧嘩で関羽をぶちのめしたという実績があってのことなのだが。
151 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 20:41:18 0
でないと関羽を「ヒゲ」呼ばわりなんてできんよな。
152 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 20:51:47 0
諸葛亮・張飛・趙雲が入蜀するまでは、関羽は諸葛亮の指揮下だったんだろうな。
分権体制だっただろうね。
襄陽太守で北に面した関羽は対曹操の要だっただろうけど、
張飛や諸葛亮を命令系統の下には置いていない。
荊州牧の権限を劉備が握り続けたので。
関羽が正式に督荊州になっても、武の関羽、治の潘濬という分権が成立していた。
>>145 じゃあ、アマゾンあたりで手軽に買える(書き下し文つき)の正史本を推薦希望。
できれば1000円以内で。
>>150 諸葛亮が喧嘩で勝ったってマジ?正史読んでないけど。
正史=無双 ??
>>155 身長八尺と明記されてる諸葛亮のほうが関羽より堂々たる体躯
体格がものをいう喧嘩では諸葛亮が有利
159 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 22:03:07 0
羽、亮ヲ侮リテ之ヲ試サントス。
互ヒニ肉袒シ、相撲リテ力ヲ競フル也。
乃チ亮、羽ニ遥カニ勝レリ。
羽、礼ヲ施シテ曰ク。
我、君ニ遠ク及バザル。願ワクバ非礼ヲ許シ給へ。
(以下略)
160 :
世界@名無史さん:2008/11/17(月) 22:27:55 0
白羽扇は鉄製でかなりの腕力が無いと扱えなかったという。
たけえなオイw 図書館でかりてくるか・・・・。
>>162 ガタイがよく、農作業で鍛えているし、士大夫のたしなみとして弓馬の道にも通じてただろう
ちなみに1尺=24pが目安となりますので、諸葛亮は190以上
>>161 一冊なら千数百円で読み応えもあるし、そんな高い気はしなかったよん。
きっとまとめ買いじゃなく、週一くらいのペースだったからだと思うが。
儲けさすのがけたくそ悪いが、ブック●フで地道に探すって手もあるかな。
蒼天にネタとして取り入れて欲しかったな<体格云々
そもそも身長とか体格とか、史書の通りに信じるのはどうかと。
誇大表現っていうか、英雄だから格好良くしようとしてる。
171 :
董卓:2008/11/18(火) 10:09:42 0
つーか董卓の身長ってなんぼ?
英雄だったら、関羽もちあげないか? 神様なんだぞ。
奉られるようになったのは諸葛亮が先だよ
陳寿が書いた時代にもうまつられていta?
諸葛亮は後世の創作で持ち上げられすぎて食傷気味だ。
持ち上げられていない陳寿の記述が一番いい。
176 :
董卓:2008/11/19(水) 10:20:19 0
関帝廟。
何度も書いているが、趙雲の記述が少ないのが不満だ。
関張馬黄趙のうち、一番長生きしたのに記述が少なすぎる。
特に記述がやっと詳しくなるのは劉備の死後。
それ以前は何もやっとらんかったわけではないというのに。
新しい資料が発見されないかなあ…というより、毛沢東が焼いた資料の中に
実は趙雲の直筆の書類とかあったり、趙雲の家の家系図とか当時の肖像画とか
があったりしたんではないかと日々煩悶している私…どうして誰も毛沢東を
止めなかったのじゃああああ! てか、その性悪女房も最悪じゃあああ!
資料返せボケ!
趙雲は別伝込みなら記述多いと思うがな
家系図や肖像画などあってもどうせ講談・演義以降の作り物だろ
本気で本物が見たいなら朱然墓のように趙雲墓が出土するまで長生きすることだ
誰も指摘しないから本当なんだろ。
出典?それおいしい?
孔明は関羽を美髭公とか言って機嫌とってた話もあるしな
182 :
董卓:2008/11/19(水) 18:38:06 0
某三国志の本である奴が「顔良が一番強い(一騎討ち)」っていってたけど、
顔良ってどれくらい強かったのだろう?
183 :
世界@名無史さん:2008/11/19(水) 19:19:54 0
他に関羽が関係良好だった士大夫はいるだろうか?
王甫?(実在したかどうか私はしらぬ。。)
ただ言えるのが孔明がきっとあのころの(今の地方公務員のような)士大夫の中でも異色で有言実行のひとであっただろう、むしろ不言実行だったかもしれない、ということだ。
何でもかんでも気配りしながら自分でこなしていたというあたり、関羽に認められる実直さがあったのでしょう。
趙塁が荊州で麾下にいたんじゃなかったかい?
ちくま読み直すのメンドイのでいいかげんですが。
185 :
世界@名無史さん:2008/11/19(水) 19:33:31 0
wikiで調べてみますた。
王甫は実在してたらしい。。でも夷陵の戦いで戦死しているから関羽との関係はよくわからない。。
趙累はむしろ武将の分類?士大夫出身かどうかもわからない。関羽に信頼されていたのは確かみたいだ。。
>>179 学会では昔からソースのかかってないお好み焼きはただのゲロとよくいわれるじゃないか。
ソースはたぶん正史でしょ?ここは正史スレなんだから?
ざっと調べてもそんなのは無い。
189 :
董卓:2008/11/19(水) 22:40:25 0
つーか顔良ってどれくらい強かったん?
なんか急激にレベルが下がった気がするな
三戦から流入したのか
関羽と関係があった士人といえば主簿の廖化だが、
良好だったかは解らないな。
192 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 04:18:35 0
>>191 蜀に帰りたい一心で呉に死んだという偽情報まで流している。
本伝に記述はないが、そんなに悪い思い出はないのかもね。
193 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 06:59:05 0
>>177 黄忠も記述はあんまり多くはないよ。
本伝の記述しかないし。関羽・張飛・馬超は中原の名士の間でも有名人
だったから記述も多いのだろう。
かわいそうなのは陳到だよ。
古参の家臣なのに伝記すらない。途中裏切って連中ならともかく、最後まで
忠誠を尽くしたのに伝記すら残っていない。諡号までもらった趙雲とは天と地
ほどの差がある。
可愛そうも何も
輔臣賛の引用が無ければ一箇所か二箇所くらいしか
記述が無いくらいの武官じゃないか
相応の扱いだよ
195 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 08:09:30 0
孫乾・簡擁みたいな人だって伝記が残っているのに・・・・・
196 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 09:20:47 0
寥化も一応伝記は残っている人物なんだけど記載が少ないな。
官位も車騎将軍という高位に昇っているのだけどね。70歳過ぎまで
現役将軍として頑張って、蜀滅亡まで存命していた。
華々しい戦功が無かったせいか宗預伝に付載というかたちになっている。
なんか定期的に陳到の名を出す奴がいるな。趙雲アンチか?
何やったかほとんど分からん人物をかわいそうとも何とも思えるはずもない
最後まで忠誠を尽くしたけど名前が残ってない奴なんてゴマンといる
趙雲と同列じゃなかったから当然だろ。…ってやりとりも前にあっただろ
198 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 10:54:19 0
陳到の場合は『季漢輔臣賛』に名声・功績が趙雲に次ぐという記載に
引っかかっている人がいるのだろう。諡号を追贈される程の功臣に次ぐ程の
将軍なら伝記が残っていて当然なはずとね。
もっとも呉壱の伝記が残ってない方が不思議だよね。
将軍としても軍功があったようだし、劉備の外戚でもあった人物の
事跡が伝わっていないとは、これ如何に?
199 :
董卓:2008/11/20(木) 14:19:09 0
つーかここ、正史って言ってるけど、主に蜀メインか?
蜀好きが多いだけ。
流れを変えたければネタふっちくり。
201 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 16:25:28 0
まあ、日本だと吉川英治の『三国志』あたりから関心をもった人が多いからね。
おれも一番しっかり読んだのは『蜀志』だし。それと、比較的日本では曹操が人気
あるのも吉川『三国志』の効果だね。あの小説は曹操を単なる悪党みたいな書き方
してないし。印象が薄いのが『呉志』。これも小説効果だろうな。
202 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 19:06:19 0
考えてみれば、劉備の流浪時代の武臣は
関羽、張飛、趙雲、陳到。確かに趙雲に次ぐ功績ではあったかもしれないが、
その下もいないんだよね。『季漢輔臣賛』の趙雲・陳到と並び称したのは、
劉備の流浪時代からの武臣という括りなんだね。そう考えると、かたや
諡号を追贈され、伝記も残っているのと、簡単な記載が残っているだけという
差が出てもおかしくないんだよな。
古参ってだけで伝が残りゃ世話ないわな
他にも古参だけど伝がない人物もいるじゃん
陳到は姓名字官位が残っただけ当時からも後世からも功績が評価されたと言える。
205 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 19:28:37 0
陳到よりショウチョウの方がレア
207 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 20:28:29 0
o
208 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 20:45:36 0
尚寵は伝記は残っている。
呉との戦いで1人無傷で撤退し、劉備に有能だと言われた。
「出師の表」の中で軍事のことは尚寵に諮問するようにと書かれている。
中領軍に昇進し、240年に蛮族との戦闘で戦死したらしい。
主将が戦死するほど蛮族が強かったのか、傷がもとで死亡したのかは不明。
209 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 20:54:30 0
列伝や歴史書というものがどういう物なのか。わかってないのでしょうか?
別に偉いからといって伝が立つわけでは有りません。
その人の行動、生涯を語る事がその時代背景を説明する事に成るような人間。
そういう人の伝が立てられているのです。
考えてご覧なさい。
だから盗人だってやくざだって悪徳役人だって伝は立つ。
皇帝とはいえ伝が無い人だっているでせう。
今の日本でいうのなら、今上陛下の伝など歴史的には意味なかろう。
だけど梅川みたいなかすみたいな強盗でも伝を立てる意義があるでしょう?
あの時代をかたるには、あの銀行強盗事件をかたるべきだし、犯人の生い立ちをかたる必要があり、最終的に高度経済成長時代の光とヤミをかたる事に成るのだから。
陳到の伝がないのはそういうこと。
陳到さんは立派な人だったろう。
伝がなくとも尊敬しましょう。
>>209 まあそうなんだけど、現代日本史を紀伝体で書くなら天皇の事跡は本紀に書かれるよ。
漢書以来の理想的な紀が立てられるだろう。
211 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 21:10:54 0
伝が立つなら総理大臣でしょう?
皇室は明治、昭和は立つ価値があるだろうけど。
日本の場合編年体のほうが紀伝体よりもしっくりくる。
2ch伝が立つのか・・・
>>209=
>>211?
ちょっとwikipdiaで「紀伝体」を調べてから、漢書か後漢書の本紀を一読してきなさい。
探せば部分的に訳文があるから。
>>213 電脳利用者列伝とか有り得そうで怖いな…というのは冗談だが、
犯罪者列伝にはネット絡みやマニア関係の犯罪者が立ち並ぶだろうな。
時代を象徴するものだから。
215 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 22:15:35 0
わざわざ見に行きはしませんが。
本紀というのは
「誰々の御代にこんなことがあった。」というものでしょう?
皇帝さんそのものの業績、人となりを掘り下げる物ではないでしょう?
そういう形ならば歴代天皇よりも、なおさら歴代首相の伝を連ねていった方がいいでしょう?
この内閣でこういうことがおきた、という形式で。
216 :
世界@名無史さん:2008/11/20(木) 22:27:13 0
美空ひばり、ビートたけし、石原裕太郎
このクラスは列伝の価値有り。
>>215 まったくその通り。
ゆえに「今上陛下の伝」などという代物は紀伝体ではありえない。
どんなに業績が高い人物が続いたとしても歴代天皇の伝が連なることはありえない。
>>215>>217 横槍失礼。
魏書に「曹操伝」が無いように、
そもそも本紀は皇帝の伝としての性質も持ち合わせてるっしょ。
武帝紀での陳寿の評は、そのまんま曹操の評価だし。
だから皇帝でも云々というのは元より論の外じゃないかい?
とは言えまあ、正史の列伝が「偉人伝」的な性質のものじゃない、ってのは賛成です。
>>218 紀の記述を皇帝個人の事跡の描写に重きを置くか、その時代の事件の概説に重きを置くかは
編者の方針による。前者の代表は史記で、後者の代表は漢書。
そこじゃなくて、紀伝体で皇帝(天皇)の伝を立てると言うおかしさが問題。
>>219 なるほど。話の流れをよく分かってなかったみたい。すまんこす。
っと、ここで話題変更とネタ振り。
袁氏や荀氏、司馬氏と、豪族層と思われる名門が色々ありますが、
三国時代の豪族や名家って、どんくらい影響力を持ってたんでしょうか?
所要する土地の広さや財産、中央・地方の政界との繋がり方とか、
具体的な立ち位置について、いまいち明確なイメージが持てません。
それと、東晋期には琅邪・王氏と謝氏がたいそうな羽振りだったと色んなとこで目にしますが、
三国の頃も特別勢力が強かったんでしょうか?
上に挙げた諸氏と同程度なのかいな?
>221
豪族と貴族の違い。魏の頃から土着的背景のない人たちが
官僚化を通じて貴族化していった。西晋頃になると、この
傾向がはっきりしてきて、東晋は最初の貴族文化の時代に
当る。貴族制度は血統主義なので琅邪王氏なんかが珍重さ
れたんだけど、東晋成立時の功臣を輩出したというのも貴
族化に拍車を掛けた。日本史で喩えると大和朝廷と平安朝
の違い。謝氏を考えると平安朝に大和朝廷時代の豪族が混
じってると考えればいい。土着勢力が未だに有力な田舎に
居候してたのが東晋。当事は南北でシステムが微妙に違っ
てたんだ。
223 :
世界@名無史さん:2008/11/22(土) 16:04:39 0
句扶とはどんな人物だったの?
王平と同郡(巴西)漢昌県の人。忠勇ェ厚、戰功しばしば有り、功名爵位は王平に次いだ。
官は左將軍(華陽国志では右将軍)に昇り、宕渠侯に封じられた。
のちに張翼と廖化が並んで大將軍となると、時人語って曰く、「前に王と句あり、 後に張と廖有り」。
以上。
225 :
世界@名無史さん:2008/11/22(土) 21:03:30 0
句扶は字が伝わってないんだよな。
しばしば話題になる陳到は字は伝わっている。
句扶は諸葛亮の南征・北伐に加わったかも不明。
活躍はしたんだろうな。戦功をあげるとしたら、南征・北伐・興勢の役
と異民族の鎮定くらいか。
226 :
世界@名無史さん:2008/11/22(土) 21:07:43 0
『華陽国志』には袁淋と高翔という将軍の名前が出てるな。
高位には昇進したようだが、具体的にどんな働きをしたか
皆目わからん。
227 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 01:25:36 0
>>226 『三国志』では李厳を罷免する上奏文に名前が出てなかった?
228 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 07:05:02 0
呉蘭・雷銅って正史には記載が少ししかないんだな。
ゲームの話しをして悪いが、某ゲームの武力の数値が結構高いから
記述が多いのかと思ってた。
演義では劉備入蜀で抗戦してかなりいい勝負をした二人だからね
230 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 10:55:56 0
王平、句扶は叩き上げの印象だね。
231 :
董卓:2008/11/23(日) 13:10:31 0
王平って文字が少ししか読めなかったらしい。
232 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 13:13:53 0
馬謖は秀才だってけど、諸葛亮の意図がわからず。
王平は無学だったけど、諸葛亮の意図を理解していた。
諸葛亮は街亭という拠点を確保してほしかった。敵軍の首級を幾つあげる
などはどうでもよい。馬謖は勝つことを望んで山に陣をはってしまった。
>>226 句扶の字は孝興だよ。華陽国志に載ってる。
234 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 16:41:05 0
蜀の叩き上げ将軍
趙雲 黄忠 魏延 陳到 王平 句扶
こんな感じかな?
>>233 じゃあ、句孝興を日本語で読んでしまうと
「こうこうこう」
だな
236 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 19:20:43 0
呉蘭・雷銅は曹洪の軍と戦って全滅したんだっけ?
それは呉蘭の通りです
238 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 19:41:42 0
卓庸も謎の人物だよな。
黄忠と共に征蜀で先鋒勤めたらしいけど、
その後の記述が全くなし。
陳式も武都・陰平の平定に功績があるのに伝記なし。
その後の活動も不明。陳寿の父とする説があるが真偽不明。
確かに別軍で二郡を平定するほどの高位の人物なら
陳式はもう少し名前が残ってもよさそうなのにな
240 :
世界@名無史さん:2008/11/23(日) 21:15:24 0
自分の父親だからワザと書かなかったとか。
陳寿の父が陳式なんて史書からはまったく窺えないと思うんだが
真偽不明以前の問題だろ
避諱の慣習では、どんな公式文書でも父の諱を書くのは避けねばならない。
今読める当該部署が陳寿の書いたままのものなら、名がそのまま書かれている
陳式が陳寿の父ということは無い。
(武都陰平を攻略したのは資治通鑑などでは陳戒とされているが、
漢中戦で徐晃に敗れたのは三国志と同じく陳式となっている)
因みに陳寿の父が馬謖の参軍(参軍の参軍ってなんだ?)をして連座したという話は
晋書陳寿伝にあるのだが、それが陳式だとは書かれていないし、陳式はそんな低い位階じゃない。
諸葛亮もコン刑にした人間を翌年重要な局面で派遣したりしないだろう。
…陳式説を唱えたのって誰だ?
243 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 00:44:22 0
呉蘭の字が雷銅なんですよね。
>>242 どんな公式文書でもって部分だけは流石に言い過ぎなので撤回を求めたい所。
そうなの? 例えば?
246 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 02:20:25 0
陳式の息子が陳寿で、その子孫が陳建民、陳建一であることは常識でしょ。
247 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 04:27:36 0
>>242 『晋書』は結構いい加減な記載があるの?
しかしこのスレは自演がおおそうだな
249 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 10:38:20 0
陳式が陳寿の父という根拠は確かに無いらしい。
出所がわからん俗説だな。
>>245 たとえば皇帝への返書で「臣父○○」と書いたりすることがあるね。
できるだけ避けはするが、絶対に使わないというわけでもないよ。
251 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 14:45:05 0
『華陽国志』にも陳式に関して武都・陰平の平定に関して
以降は記載がない。当時は異民族が蟠踞する僻地だったんだろうから、
魏の方も早々に退却しているし、蜀もさほど重要な将軍を用いる必要が
無かったのかも。諸葛亮が丞相に復帰するためだけの作戦だったかも。
>>250 ああ、あった。公孫淵陳羣薛瑩陸抗とぼろぼろでてくるな。
不勉強でした。
253 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 20:31:35 0
>>242 このスレッドと同じ発想かもしれんぞ。
陳式は意外に重要な任務を行っている。だけど、どうしても記載しなくて
はいけないことしか記録していない。父親だからワザと最小限の記述に
留めたに違いないと。
254 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 22:05:36 0
どうして陳寿は陳到の子孫であるという推理が出てこないのかふしぎ。
256 :
世界@名無史さん:2008/11/24(月) 22:54:51 0
陳式というと太極拳しか思い浮かばん。。
陳武に見えてしまう自分は呉厨
チンキムに見えてしまう自分は元厨
陳戒が実名で、陳式が避諱という新説について。
260 :
世界@名無史さん:2008/11/25(火) 19:33:23 0
『資治通鑑』の作者の書き間違いかもしれないな。
字も似てないこともないし。手書きで書けば、間違いだってあるさ。
パソコン時代だって、変換ミスはあるからね。
僻地とはいえ、単独で軍を任せるほどの将軍が官位も伝わっていない
のは不可解。
>>259 避諱で「字形が似ているだけで音も意味も違う字」を使うことはまずありえない
書き間違いの方が可能性が高い
エンホの子でさえしっかり書いている晋書で、陳寿の父が歴史上知られている人物ならまず間違いなく記録するよ
そこに載ってない以上、それ以上はどう考えても妄想の域を出ない
閻圃の子は閻サンの父だから、そりゃ載ってるだろうなぁ。
言いたいことは分かるが、あんまり補強にはなってないかも。
263 :
世界@名無史さん:2008/11/25(火) 23:51:19 O
だからぁ
小キョウはふたなりなんだって!
マジだから!
264 :
世界@名無史さん:2008/11/26(水) 06:30:37 0
>>239 何で武都・陰平の平定軍の指揮官が魏延や呉壱でなくて陳式なの?
魏延と同格の将軍なんていっぱいいるよ
266 :
世界@名無史さん:2008/11/26(水) 09:35:04 O
誰?
267 :
世界@名無史さん:2008/11/26(水) 15:40:14 0
武都・陰平攻略戦は諸葛亮の丞相復帰のための作戦。
魏にしても、大して重要じゃないから放棄した。高位な将軍に作戦を
させる必要もなかった。魏延や呉壱が兵を率いて平定すれば、蜀bQの
李厳よりも高位になる可能性がある。全体のバランスを考えると、
さほど高位な将軍を使った方が都合がよかったのさ。
268 :
世界@名無史さん:2008/11/26(水) 17:24:12 0
>>265 第一次北伐直前なら李厳が上位、同格が趙雲くらいじゃないか?
たぶん陳到は格下だろうな。近衛軍だけど尚寵も同格だった可能性もあるな。
魏延・趙雲の諸鎮将軍は比較上位(と推定される)が、雑号。
つまり将軍と言われる者は大方魏延・趙雲と同格ということになる。
(偏将軍・裨将軍の問題が残るけど)
二人はその集団の中で、上位の席次だった。
270 :
世界@名無史さん:2008/11/26(水) 20:40:37 0
>>269 爵位も関係あるかもな。
223年劉禅が即位すると、趙雲・魏延・費観・尚寵・呉壱が亭侯になっている。
古参ながら陳到が亭侯になるのは226年。上記の5人よりも格下扱いなのだろう。
李厳は223年に都郷候になっている。やはり趙雲や魏延よりも格上扱いということ
か。
271 :
世界@名無史さん:2008/11/26(水) 23:05:25 0
尚寵って実は若手ではなかった?
272 :
世界@名無史さん:2008/11/27(木) 05:48:01 0
尚朗の甥っ子だったな。
間違いなく趙雲や魏延より若かったと思うよ。
満寵って文官のイメージがあったが
実際はバリバリの武官もとい将だったのね。
文官なんて存在したっけ?
文吏と呼ばれる人種はいた。
文官という語は見当たらないが、まあ机仕事しかしない官をそう呼んでもいいだろう。
満寵は警察、監察の仕事が評価され、高じて反乱鎮定や対蜀呉の戦線ために太守、将軍、刺史になった人だね。
将軍なんざみんな文官だ
魏延のあれな。
西部戦線の拠点である長安に、補給線が届かない山道を通って
兵五千で奇襲し、夏侯楙があわくって即座に逃げだすことに賭ける大博打。
まともな幕僚が一人いて夏侯楙の尻叩いて篭城したらそれだけで全滅必至。
それも蜀漢が魏を倒すというのはただお題目だと魏が油断しきっていた時代だから
まだ主張された案であって、姜維の時代にそんな戯言言う人間が軍にいたら
丁重に後送されるのがオチだろうね。
ごめん、三戦板と誤爆した
>>277 それ、いい案だと思うがなあ。
負けても損失は五千だし、魏延を葬り去ることもできるし、勝てば大勝利だし、
やってみてもよかったと思うがなあ。
兵5000の隊が惨敗するのと、5000の兵が一兵も帰らないのとではダメージはわけが違うよ。
しかも指折りの宿将で、高位にあり、能力的も不可欠な魏延を失うとなれば、
その後の諸葛亮の地位にも蜀漢の戦争遂行能力にも大きな影を落としたことは間違いない。
諸葛亮は文官?武官?
中郎将→将軍→丞相なんだけど
282 :
世界@名無史さん:2008/11/27(木) 22:48:42 0
魏延の策は孔明の本隊が魏主力軍と対峙している間に少数の精鋭でもって本拠地を攻撃するというものでしょ?
>>282 違う
魏延が少数の精鋭で長安を急襲
諸葛亮はその後から大軍を率いて魏の増援が来る前に長安に入る
魏の主力と戦うのは魏延と諸葛亮が長安で合流してからの話になるはず
284 :
世界@名無史さん:2008/11/27(木) 22:53:38 0
赤壁
>>282 違うよ。魏の主力が押っ取り刀で洛陽から駆け付けるには二十日は掛かるから、
夏侯楙が逃げ出せば長安の兵糧を確保し防備を固めるには十分だから
諸葛亮は後から本隊を率いて渭水沿いに来てくれるのでも十分間に合う。
という策
>>281 中郎将や将軍は武官。当たり前だね。
286 :
世界@名無史さん:2008/11/27(木) 22:54:54 0
ハンニバルのピレネー越えみたいな作戦か?
288 :
世界@名無史さん:2008/11/27(木) 22:58:48 0
相手が夏候モだもん。絶対成功したよ。
>>287 おk。
ただし文官と武官で二色刷りのあんたの脳内を改定する必要はあると思うが。
290 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 00:02:17 0
洛陽から長安ってそんなに日数かかるんけ?
20日?
江戸ー大坂間は飛脚なら8日間で着いたというのに。
まず動くのは禁衛の即応兵力だけど、
編成して戦力化して兵站用意して出発して行軍して毎日炊き出しして到着するのに
そのくらい掛かったということだろう。
つか東京大阪間は直線距離で500キロ、しかも江戸時代の街道だろ?
洛陽長安間はざっと直線300キロ、しかも函谷関が作られるような難所もある昇り道を
軍隊が20日というのは相当早いな。
純粋に最短時間を言ったんだろうね。
>>279 やってみてもいい、と軽くいうけど、その全滅する可能性のある5千の中に
君は参加したいかね?
>287
この時代には文官と武官の差が殆どない。できるヤツが
軍隊も指揮する。文官と武官がハッキリと別れてくるの
は100年ほど後の西晋末期なんだ。軍戸ってな蔑称が伴う
けどもね・・・orz
296 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:09:10 0
>>288 相手が逃げ出すなんて保障がどこにある?
城門を閉ざして籠城されたら、軽装備の奇襲部隊の攻撃なんて役に立たない。
5000の兵が全滅は必定。
297 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:34:37 0
漢中太守だった魏延に勝算がなかったはずがない。
思いつきではなく周到な調査を重ねた上での献策であったことだろう。
悔しかっただろうな、魏延。
でも君の悔しさを理解している後世の人間もいるからな〜
298 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:41:54 0
後年、晋が蜀を攻略したときにはトウガイは剣閣を迂回した。
山中の間道を突破していきなり綿竹を攻略した。
魏延と同じ策だよ。
299 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:48:35 0
>>283 長安を占拠しても、周りの都市が蜀に見方しなかけらば、
長安の町中で蜀軍が包囲される可能性もあるのさ。長安が占拠できれば
全てが上手くいくというもんでもない。土地の支配が出来なければ意味
がないのさ。
馬謖の失敗も土地の支配・拠点の確保という任務を忘れたから。
魏兵の首級を幾つあげても、拠点の確保、先に占領した地域の支配が確立
できなければ意味がない。そいつを忘れて大勝を狙って、山上で包囲された
のは痛い。
ケ艾は綿竹を自力で攻略し一息つくことができた。
魏延の策は夏侯楙が逃げ出すことを当てにしている。
それが最大の違い。
その差を生み出した綿竹と長安の違いは色々考えられるけど、
まあ、魏延の目算が正しいのなら、魏延の策はケ艾のものより
さらにハイリスクなものだと言える。
>>299 それは違う。魏延の策では、魏延の目標は長安一城と当面の兵糧だけ。
あとは諸葛亮の本軍がやってくれるのでそれまで城を保てばいい。
302 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:55:23 0
>>301 もっと危ないジャン。
長安という点だけを確保しても意味ないよ。
本隊の進軍に何らかのトラブルが出たら終わり。
それに、もし長安に火をかけて逃げ出したら兵糧すら確保できない。
そう、ナポレオンのロシア遠征みたくね。
馬謖もそうだな。
馬謖の仕事は、街亭一点を保ち、魏の援軍が蜀に寝返った西方三郡へ進むのを阻むことだけ。
面の確保(と張コウの始末)は諸葛亮の本軍がやってくれるはずだった。
304 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:57:03 0
なんでやねんな。
とうがいの策こそリスキーだろ。
まさかあんな事をする馬鹿がいると思ってなかったから成功したんだろ?
蜀の対応次第では包み込んで殲滅されるかもしれない危険な策だ。
義経の鵯越えの坂落としといい、成功するときは成功する。そして成功させるのが英雄だ。
魏延は英雄になる資格はあった。
ちなみに鵯越の坂落としは無かったという説もあるが。
305 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 19:59:19 0
こういう奇策は成功させるセンスのある指揮官がいたのかどうかということなんだよ。
まぁ成功しないだろうな。
>>302 点の確保こそが先鋒の最大の任務だよ。
大博打の奇襲だということ以外は魏延の策は常道だ。
10万の大軍が前進するのを阻むトラブルってよほどの長雨くらいだと思うが、
それで諸葛亮が間に合わなかったらもはや天命のレベルだな。
因みに俺は277、280、285、300だから魏延の策に同調はしてないよ。
>>304 >成功するときは成功する。そして成功させるのが英雄だ。
それは現に成功させた英雄についてしか言えない言葉だ
309 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:03:58 0
しかし長駆迂回して相手の油断しているところを狙う。
こういう戦術でしか大勝利は無い。
赤壁こそそう。
官渡もそう。
危ない、危険!との意見も有った烏巣の焼き討ちを成功させた。
しかもするからには一番センスがあるオレ様が、と曹操自ら指揮をしたんだな。
310 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:09:07 0
日本でも戦国時代に流行った作戦。
中入り。と言ってね。相手の前線を迂回して後方を攻める。
うまくいけば相手側の戦線が一気に崩壊だね。
桶狭間なんか、今川義元のクビまでは偶然かもしれないが、作戦としては中入りだった。
失敗したのが小牧長久手。
311 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:09:16 0
>>304 相手に無能な指揮官がいないと成功しないよ。
当時の魏の面々の実力を考えると無理だろうね。いずれは大軍の重圧で
放棄しなくてはいけなくなるだろう。司馬仲達・曹真・張こう といった
名将が続々と援軍として来たらどうなると思う?
>>311 その前に諸葛亮が到着するというのが魏延の策。
313 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:14:28 0
桂馬の高跳び、歩の餌食。
下手な指揮官だとそう成る。
でもうまく桂馬を活用する棋士もいる。
つまりは孔明が
「私はセンスの無い棋士ですんで。てへw」と言う感じだったわけだろ。
魏延がかわいそうだ〜
>>313 かわいそうとか低いレベルの所まで話を落としていいのなら、
だったら諸葛亮を追い落として遠征の総指揮を取る器になれなかった魏延が悪い。
そこまで行かなくても諸葛亮に戦略構想を任せられるだけの能力と信頼を持たなかった魏延が悪い。
315 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:19:05 0
砂漠の嵐作戦だって中入りだ。
圧倒的な空軍力を米軍はもっているから危険でも何でも無かったけどね。
316 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:19:44 0
ゲームと違うからね。
姜維が王径を破り、魏軍が万単位の戦死者を出しても国家が揺らぐことは無かった。
姜維が段谷で大敗したら蜀には大打撃となった。5000の兵が全滅するかもしれない
リスクは蜀には無理なのさ。国力を考えると西方の辺境から少しづつ魏領を蚕食していく
しかない。
317 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:24:07 0
>>316 つまりは孔明の北伐は魏に本格的攻勢の準備をさせない様に積極的防衛を行った。
それが狙いだった。
といいたいのだろ?
中入りと簡単にいうが、歩騎の時代に5000人で長野から名古屋を奇襲するのに匹敵する話なんだよ。
319 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:27:49 0
つまるところ。
太平洋戦争の日本とアメリカみたいなものか。
320 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:30:16 0
魏延と5000人が消えた。
どこにいるんだ?
わわ!
長安にぃ!
意外だっ!油断してた〜 降参します、魏延さま〜
となるはずだったんだよ!
321 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:32:12 0
兵力で劣る国が強国に勝つ方法は2つだけある
・調略による内部切り崩し
・軍事的天才によるそれまでの既成戦法を覆す革新的な手段
孔明・姜猪程度では所詮不可能だったのである
322 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:32:49 0
>>317 それもあるけど、蜀に不足している物資の確保もあったと思うよ。
これは幾人かの学者が指摘している。ある意味南征と同じ考え方なんだよ。
ほとんど政治的混乱も無い魏にまともに戦争しかけて、魏を制圧できるなんて
本気では考えていないと思うよ。
諸葛亮が何度も遠征しても国家破綻しなかったのは、
戦争によって物質的に得られたものがあったと考えるが妥当。そうじゃなきゃ
「民に怨声無し」なんてことはないよ。つまり魏軍との決戦が主目的の魏延と
物資確保が主目的の諸葛亮では作戦構想そのものが違うのさ。
>>322 強制移動はともかく、物資は初耳だな。例えば何?
324 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:36:56 0
魏の前線の水寨を一個一個しらみつぶしに攻めていって優勢にもってゆく。
そんな考えでは孫権は滅んでいました。
赤壁!赤壁!
周瑜という天才が乾坤一擲の大勝利を可能にしたのだ。
そして魏延は天才であった。うん。
325 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:38:42 O
麦だろうな。
326 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:38:57 0
自軍より大軍を打ち破ったといえば韓信や義経居るが、こいつらの戦法はそれまでの常識から外れてる。
リスキーといえばリスキーだが、戦術は常に紙一重の物で計算家の孔明ではそれが理解できなかった。
327 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:41:31 O
麦、馬、牛
328 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:43:04 0
日本だって真珠湾奇襲を成功させている。
怖くて怖くてすぐに南雲は逃げ帰ってきたが。
329 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:44:32 0
一張羅の艦隊を大事にしたというところでは南雲忠一はんは正しかったのか。
330 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:45:40 0
>>327 なるほど。
蜀には牛馬が不足していたからロボット牛馬をつくったほどだもんなぁ。
あれは桟道が険しくて物資を運ぶのが困難だったから作っただけだよ
歴史を変える奇策というのは、思いつきで成功するものではない。
彼我戦力の的確な分析に基づく計画立案。
それだけのリスクを負って尚成功させる実力があるという上下からの信頼。
運用、開戦、決戦に至るまでに必要とされるそれぞれ異なる現実の実力。
不測の事態に単独で対処する応変の智謀。
一点の戦果を政治レベルまで拡大しうる戦略・政治力。またはそれを担当するバックアップ。
それらを全てクリアして初めて奇策は成功する。せめて実行に移されなければ評価のしようがない。
故に、こと「奇策」においては特に実行されなかった策を、
後代の人間が評して「成功の可能性はあったのに」などというのはナンセンス。
333 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:49:51 0
蜀では麦は収穫できないの?
334 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:52:54 0
魏延が思いつきで献策する人とは思えない。
普段はまじめな人だったと聞く。
きっと長安内部にも内応者を準備していた事だろう。
麦はこの時代下田で作られるもの。北方で上等な穀物は粟。
ただし蜀で作られた米は、播種量で陸作の穀を大きく上回る。
馬はいいね。姜維なら戦力化できただろう。
牛は資料的根拠がない。
>>324 黄蓋のことも忘れないであげてくださいw
ケ艾・鍾会が蜀を平定した戦いから、ケ艾が逮捕されるまでの益州から洛陽への
通信伝達速度が速過ぎる気がするな。伝書鳩でも使ってるのかな。
>>334 魏延がまじめな人だったってどういう事?
献策つか自分を引き立たせる為の作戦が取り入れられなかったから
逆恨みしてただけじゃんか
338 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 20:57:06 0
>>337 あんたこそ正史読んでるのか?
魏延というのは謹厳実直な人間であったと書いてあるだろ。
>>328 奇襲、占領して真珠湾の燃料使って・・・って感じだしなぁ。
341 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:00:50 0
>>339 手元に本なんかおいてあるかよ!
昔読んだ記憶ではそうなのだ。
正史も読んだことがないやつがここに来るなよ
ファンタジーは三戦でやれ 厨
343 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:10:35 0
昔読んだと言っておろうが。
344 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:21:14 0
正史の文面のみを金科玉条の様にあがめたつまつって自由な発想もできない。
諸葛亮にも限界があって欠点も有った、その事をふまえた上でも尊敬されるべき人間であったという陳寿のスタンスも理解できていない。
そういう正史至上主義者、孔明絶対主義者が好き放題にしていいスレではないぞ、ここは。
そうだろ?みんな?
いつから諸葛亮の欠点を問題にする流れになったんだ?
諸葛亮の「応変の軍略は或いは得てとするところではなかったのか」と、
魏延の策の成功確率とは何の関係もないだろ?
346 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:25:02 0
>>342が仕切ったらこのスレにはぺんぺん草も生えなくなっちまうよ。
いろんな意見があっていい。
時には荒らしも来てもいい。
そういう千客万来のおもてなしの心を失ってはいかんぞ、342よ。
だって、ここは「正史三国志」のスレだろ?
例え客に刺され死んでもな。
史書に基づいた色んな意見を言ってくれ。
自分の怠慢と過ちさえ認めないのは「意見」とは言わない。
350 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:35:42 0
>>348 すぐそういう変な論理の飛躍をさせるんだから!!
あなたって人は!
351 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:39:00 0
では、ここに書き込む人は
オレの言った事の証拠はちくま文庫の何巻、何ページ何行目!
と言える人でないといけないという事にしましょう。
>>351 そうしようぜ
オレハちくまとか陳寿の三国志だけじゃなくても三国志に関する史書ならなんでもいいと思うけどな
>>351 別にそこまで厳密じゃなくてもいいけど
基本的にそもそもここはそういう場所でしょ
そうしないとファンタジーを語る輩が出てくるからね
まあ言われなくてもだいたいの話は分かってる人しか来ないでほしいと思う
355 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 21:51:52 0
魏延がどういう人柄か。
論証もできずに史書に詳しいというのか。
魏延が粗忽でがさつで。
緻密に成功可能な計画を立てられたわけが無い。
なんて印象こそ演義からの発想でしょう?
漢中の太守として占領地の行政も取り仕切って執政もなく魏に付け入られるミスも犯していない。
魏延の計画を無謀と斬り捨てる発想こそ乱暴ではないでしょうか。
>>355 魏延がどういう人物か、具体的事例を10行ほど引用準備しているけど、
毎回自分の妄想で適当言い散らかすだけのあんたに
一方的に労力使って情報開陳して説明してあげるのは癪だしめんどいから嫌だ。
せめてネットでも漁って魏延が謹厳実直な人間であったと論証してから
出直してきてくれ。
魏延は孔明が自分の案を受け入れなかったから恨みに思ってたのは確かだし
あまり人と交わるのがうまくなかっただろう人である事は魏延伝ほかにも記されてるよ
へんなヤツが沸いてるなぁw
359 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 22:25:38 0
でもな。
赤壁、官渡、夷陵、綿竹。
以後の歴史のターニングポイントに成る様な戦闘には奇襲が存在しているという事実は否定しようも無いんだよなぁ。
こういう時って、どうして中華書局じゃなくてちくまなんだろう。
361 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 22:34:48 0
魏延ってどう見ても北伐当事最強の武将だろ。
郭ワイとかボコボコにしてるし。
363 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 22:44:38 0
>>359 つーか戦力で負けてるのに正攻法でやる馬鹿は居ないだろ(孔明を除く)w
>>363 戦力で負けてるから正攻法がよくないという道理はない
戦力で負けていても正攻法で勝ち続けてついには帝国転覆させた奴もいる
365 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 23:09:13 0
>>364 そんなこと、どの書籍のどこに書いてあるんです?
366 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 23:10:54 0
あぁ。 アレクサンダー大王か。
>>363 司馬懿と郭淮が自ら語っているが、魏は正面戦力で決して有利ではない。
動員能力搾り切って主戦場に投入しなければ負けると言っていた。
369 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 23:22:51 0
>>364 軍事の正攻法は力押しだぞ、力で負けてるのに力押ししてどうすんの?
要するに孔明は馬鹿正直な奴でとても軍事には向かない奴
たまにはこんな馬鹿が湧いたほうがスレが活性化するけど
正直、魏¥を買いかぶり過ぎだな
サゲないあたりいかにも厨房臭が漂ってるけどな
>>369 戦力に劣っていても正面から会戦で勝つという事例はままある
軍事の正攻法とは、
第一に敵に勝てる戦力を作り上げること
第二に会敵して勝てる戦略状況を作ること
ここまでは諸葛亮は見事な手腕でやり遂げた。これが出来ずに戦いを始めるなら話にならない。
第三に「力を尽くせば勝てる」という彼我戦力差である場合、正面から戦端を開かない(詭計を使う)こと
ここが諸葛亮にできなかった。そのため魏将たちが智謀で凌ぐ隙を与えてしまった。
少なくとも魏将の伝や司馬懿の紀にはそう書かれているね。
374 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 23:54:26 0
つか。
北伐でまともに会戦してる?
城攻めとかしてるけどお互いに主力決戦はさけてる雰囲気なんだけど。
375 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 23:58:05 0
姜維が決戦!決戦!!と言う姿勢だったのと比べるとね。
376 :
世界@名無史さん:2008/11/28(金) 23:59:40 0
>>373 いや全部失敗してるやん、とくに戦略下手は大問題
377 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 00:09:19 0
>>374 芝居と一回したぐらい、双信には完全に手を読まれてフルボッコにされた
>>374 第四次でしてる
注釈に概要が載ってるけど司馬懿がケッチョンケッチョンにされてる
晋書だと司馬懿の勝ちって書いてあるから、ある程度蜀軍にも被害は出たんだろう
四次北伐では、司馬懿が秦嶺方面の防備を無視して、洛陽から持ってきた兵力で
そのまま主戦場に突っ込んで来て五分の形成にしてしまったので、
互いに敵を破るには陣攻めをしなければならなくなった。
野戦を望んだのは諸葛亮の方のようで、出戦した郭淮らを魏延らが叩きのめしたりもしたが、
結局司馬懿が守りを固めて時間切れ。
五次では、兵站の不備を補うために諸葛亮が五丈原に設営してる間に
司馬懿が突っ込んできて渭水を渡っったため(背水の陣)、
主戦場が渭水南岸に限定されてしまった。司馬懿の主戦力を引きずり出して
破るために諸葛亮が挑発したりもしたけれど時間切れ。
姜維の247年の北伐では、姜維が隴西まで遠出して暴れまわったが、
駆けつけた郭淮が自分の主戦力で長駆して姜維と決戦するのを避け、
後方基地の陰平太守廖化を攻撃することで撤退を誘った。
253年では、姜維が全権を握り大軍挙って出陣し、王経を野戦で破って
三県を下し、その住民を移住させるという戦果を挙げたが、
急行軍で駆けつけた陳泰が王経の城を攻める姜維の後ろを取ることで撤退を強いた。
魏蜀の主将同士の会戦が実現するのは256年の姜維とケ艾。
武城山に篭るケ艾に対して姜維はその背後に回り、拠点の上ケイを目指した。
(「中入り」によってケ艾に決戦を強いたのだと思う)
そして起きたのが段谷の戦い。
皮肉にもそれが魏蜀戦争のターニングポイントとなった。
381 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 01:18:24 0
>>379 第一次第二が双信が相手、一回目は馬食斬ったやつ
二度目は完全に進出路読まれて1000人の兵が守る城も落とせず撤退
まぁ演技だと芝居相手になってるけど
383 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 01:29:15 0
384 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 06:25:15 0
>>364 敵国が政治的に混乱して崩壊寸前だったり、
政権基盤が脆弱だったりすると、少ない軍隊で大軍を破って、敵国を殲滅なん
てこともあるかもしれない。
諸葛亮の北伐時は魏は政治的には絶頂期。局地戦で数回勝利を収めたくらいでは
どうにもならんのさ。むしろ博打をうって大敗したら致命傷になる。敵領土の蚕食
を狙った諸葛亮の作戦は間違いではないのさ。政治的背景を無視してゲーム感覚で
戦争を見るのは間違い。
>>政治的背景を無視してゲーム感覚で 戦争を見るのは間違い。
ならば当時の社会情勢や世論なども加味してみれば?
ただ闇雲に戦ってるだけじゃないぞ、諸葛亮は。
会戦をぐぐってみれ
>>381 一回目は諸葛亮自身は戦ってないし曹真は趙雲の囮部隊に引っ掛かった挙句ほぼ何もしないまま終了
二回目は篭城してるところを落とせず終了なのは正しいが
この時は篭城って普通年単位で可能なものなのに1ヶ月程度しか城攻めしてない
理由は長安から出てきた救援部隊の情報を入手して会戦を避けて諸葛亮が退いただけで曹真は会戦で勝利はしてない
しかも返す刀で王双を斬りつつ武都陰平を落としてるもんだから政治的に曹真が追い詰められてやんの
389 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 11:12:37 0
>>388 確かに曹真は孔明に総合的に見て負けてるね
司馬懿も局地戦で連敗して、張郃を討ち取られたりと散々
やっぱり孔明は戦争強いわ
孔明=ヤン・ウェンリーだが、曹操や懿=カイザーラインハルトだよ
ようするに局地戦には強いが、大局においては、一度も戦略上の
優位を覆さなかったし、なし得なかった。
時代のあだ花にすぎないし、所詮は中原から堕ちていった敗残政権だ。
あの地の政権に有史以来三代続いた政権は「無い」
これが全てなんだよ。
>>390 最初の封地が蜀と漢中だけだった漢は含まないの?
392 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 12:57:24 0
孔明が死んでゆくときにどのように言い残していったのだろう?
ワシでなきゃ無理。ひたすら守っておけば? って?
393 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 13:03:16 0
もしそうならやっぱ、天才的なひらめきの有無が勝敗の必須条件に成る。
でもね。
局地戦の駆け引きならそれなりのセンスの持ち主は孔明後もいたと思う。
394 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 13:09:51 0
大局的な方針は無かったのだろうか?
無かったのだろうね。
蜀はじり貧。
そういうことだもんね。
関興や張包が夭折したことが惜しまれる。
馬良だって若死にといっていいだろう。
法正も若くして死んだ。
馬岱の詳細な伝記がないということは、たいして活躍しなかったのだろうか。
関興はともかく張苞なんて若死に以外の記述がないだろ
演義の話か?
>>390 >>時代のあだ花にすぎないし、所詮は中原から堕ちていった敗残政権だ。
正しいとは認識できるが、好意的になれない。
398 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 18:16:57 0
正史を読むと張ギョクなんかすごい能力がある。
出自のためか昇進に限界があったみたいだが。
399 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 18:57:43 0
>>388 自身は戦ってないって?馬食を先方に起用したのは諸葛だぞw
単なる局地戦じゃなく、先方大将が敗れたから蜀は全軍が崩壊して退却せざるえなかった
諸葛亮のアレは間違いなく人選ミスだわな
ただ、経験不足なのを考慮してか、わざわざ副将に経験豊富な王平をつけてやってる
その王平の諌めを無視して、命令違反、采配は煩雑となると、諸葛亮の任命責任だけとは言えん
また、これをもって人を見る目が無いとする説もあるけど、
諸葛亮が推挙して劉備が認めている人物もおり、諸葛亮幕僚らも活躍はしている
そして楊儀は劉備らも評価してるしな
勿論、優れているとも言えないけど
401 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 19:47:02 0
基本的に軍隊はトップがダメだと全てダメになる
たとえ部下に優れた人間が居てもそういう意見を採用しないからな
402 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 19:59:54 0
あの時期の蜀は孔明の独裁体制であった。
>>399 わかったから早く「会戦」をぐぐってくれ
>>402 それはかなり疑問
李平失脚までは独裁体制と呼べる程のもんじゃないと思うが
その李厳を前将軍に任じて漢中で兵站を任せるという人事自体、
諸葛亮が一人で判断して劉禅に上表したものだと諸葛亮自身が言明している。
ナンバー2の人事さえ裁量する力が諸葛亮にはあった。劉禅に任せられていたというのが正しいか。
ともあれ丞相府の独立と権力の集中度では曹操に匹敵するだろう。
ただし曹操の場合は、独裁を担保する基盤は群雄時代からの強力な独自の軍事力だった。
曹操は冀州牧を兼ね、魏公となり王と昇進することでその基盤を合法的に維持し続け、
後漢王朝の権威と朝廷の権限を完全に骨抜きすることで曹丕の代の禅譲に繋げた。
>>401 まさしく馬謖の事だね。部下に優れた王平がいても、意見を採用しなかったんだから
優秀な部下の進言を取り入れなかった、というけど、孔明は全部が全部進言を受け入れてないわけじゃない
また、蹴った策についてだが、そうするのも理由がある
例えば魏延の長安奇襲も、夏侯楙が撤退するのをアテにしてるけど、
300km以上の距離を10日以内に、兵站が続かない状況で軍を率いて踏破とか、マジ無理
また、後の対応の速さから見て、状況が発覚してから曹真が長安に入るまで、さほど時間は必要ないと考えていい
つまり、魏延の当初の目標=夏侯楙がビビって逃げ出す、は
兵站が期待できない状況で、動きを敵軍に悟られる事なく、神速で長躯せねばならず
しかもそれによって疲弊した軍勢を見て、夏侯楙が恐怖して長安から逃げ出してくれて初めて成功する
そこまでして得られるのは長安という点のみ。しかも諸葛亮が来るまでの間、魏軍を長安で受け止めなければならない
魏延の案は、自身への過剰な信頼と、敵軍の情報の不足から生まれた特攻作戦でしかない
407 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 22:42:58 0
孔明は実に細かなことまで自分が行った。
むち打ち以上の刑罰への裁断は自らしたんだっけ?
それは他に人材がいなかったからだとか言う意見もあるけれどそうではないだろう。
蒋えん、費いなんか見事に後をきりもりしている。
蒋えんに至っては努力家ではなく天才肌でやるべき仕事をさっさとすませてしまって酒を飲んでいたらしい。
才能は他にもいた。
だけど孔明が使いこなす勇気がなかったのだろう。
よくいるよ。
自分で何から何までしない事には安心できないタイプ。
廖立なんか使いこなしてあげてほしかった。
つか、そもそも諸葛亮に、北伐に、
魏を攻める滅ぼす意志があったか否かって問題になるよな。
大義名分はともかく、
奪われた荊州の代わりに、北への交商ルートを開く事が目的ならば
魏延の提言した長安攻めなんて「ちょw おまw はりきりすぎw」なわけで。
409 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 22:45:14 0
たぶん馬謖の失敗が孔明をビビらせたんだろうけど。
>>407 人に任せる大度が諸葛亮に欠けていた、とは誰でも言うことだが
そう言うだけでは、完璧じゃないよね人間だもの。という話にしかならんなあ。
411 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 22:54:18 0
黄巾の乱以後の戦乱で荒廃していた中原が魏の成立以後、次第に復興していった。
南方に逃げていた民衆だって故郷が平和になれば戻っていこうと考えたものも多かった事でしょう。
まして漢中や荊州が争奪の場になったら尚更の事。
412 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 22:58:05 0
年を重ねるほど国力の差がついてしまう。
つまり魏を攻めるのなら孔明のあのタイミングでぎりぎり。
本気で攻めには行ったんだと思うよ。
ひらめき作戦は出てこなかったけど。
>>408 諸葛亮の頃、戦力的的には魏の征西軍を撃破するのは無理じゃなかったようだし、
それができれば長安くらいは確保できただろう。すると魏には遷都の可能性が出てくる。
それで魏を滅ぼせるかはともかく、相当の戦果を挙げる望みはあった。
逆に、雍・涼の確保なり交易なりが真の戦略目標だったとしても、
それを安定させるには漢中への逆侵攻の可能性などは排除して安全圏にせねばならず、
長安確保は必須だろう。
蜀と諸葛亮はそれに失敗し、魏と諸将は防衛に成功した。というのが結論だと思う。
>>411 残念ながら晋代に至っても中原は全く復興しなかった。
少なくとも比較上は、益・揚・荊・冀州が大人口を維持し続けた。
それが魏の苦戦の大きな理由だと思う。
415 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 23:06:48 0
>>410 いろんな才能や考え方を取り入れて使いこなす事が出来なければ指揮官としては失格。
後は誰がいいでしょうか?だなんてわざわざ聞かないといけなかった状況。
後の指示をそれなりにしたというあたりはさすがだけど。
>>407 蜀科って法律を新しく策定してまだ間がないから
自分で裁決して判例作りしてたと見る人もいた
使いこなす勇気とかそういうレベルじゃなく判例も法律として認識し
法整備に一生を費やしたんだろ
417 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 23:11:57 0
たしかに関中を奪取し維持できた可能性はある。
函谷関があるからね。
董卓だって勢力を維持し続けた。
>>415 >いろんな才能や考え方を取り入れて使いこなす事が出来なければ指揮官としては失格。
大事な条件の一つではある。が、諸葛亮の場合は、勝ちきれなかった理由の一つであろうけど、
大敗・衰亡の要因となるほどではなかった。
結論:指揮官失格の烙印を押すほどの大きな欠点ではない。
>後は誰がいいでしょうか?だなんてわざわざ聞かないといけなかった状況。
論外。なぜかは三国志…は読めないんだったか。ネットでも漁って自分で調べてくれ。
419 :
世界@名無史さん:2008/11/29(土) 23:53:23 0
最初の北伐で長安さえ落としてれば涼州は手に入ったろうし
情勢も変わって魏内部や呉も何らかの変化があったかもしれない
一時北伐の目標は長安じゃないよ。
421 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 00:15:18 0
>>420 そりゃ長安にはかすりもしなかったしな、それ以前に惨敗敗北
まあ、長安が蜀の戦略を見るうえで、長期的には攻略目標に入ってたのは確かだろう
で、長安は落とす上で最良の作戦(というより前提)は諸葛亮の選んだ隴西で野戦軍を撃破するというものだな
魏延の策では不可能、論拠は
>>406に書いてある通りだ
長安の陥落が魏延の作戦では不可能と言っていい以上、取らぬ狸の皮算用でしかない
否定するなら、長安奇襲の勝算を提示してくれ、成功の可能性が全く見出せないんだ
まあ試しに、ここで袁術が中華を支配するぐらいの幸運があって、長安奇襲が成功したとしよう
魏延は潼関で孔明の率いる軍と合流するつもりだったそうだが、
魏延の兵で潼関も落とすとなるとさらに難易度は跳ね上がる
さらに武関方面は南陽に司馬懿がいる。司馬懿が孟達の時のように速攻をかけてきたら魏延は詰む
また、魏延案で長安を落とせているという事は、曹真の軍勢はほぼ無傷だから、これとも戦わねばならない
結局、魏延案で長安を落とせても守り通せない。まず野戦で曹真らを破るのが長安を落とす大前提だ
まあそれ以前の話として馬謖がやらかしたが。諸葛亮を責めるとしたらそこだな
423 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 00:18:56 O
結局三国志の最後ってどうなったのですか???
424 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 00:39:34 0
>>422 魏延の策は成功する確率高いよ。
当事の長安はほとんど備えなく、まったく警戒してなかったため守将もボンボンだったし。
425 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 00:52:47 0
もういいではないか。
>>422さんが魏延の策なんて論外っておっしゃっておられるんですから。
>>424 隴西で諸葛亮が戦った時期から見て、漢中を出た辞典ですでに曹真、張コウらが洛陽を出陣してるのは分かるか?
ほぼ間違いなく、長安に先んじるのは魏軍。魏延は長安に大戦力が篭もった状態で到着する
よしんば先んじたとしても、増援が来るのが確約となれば、防衛戦力の士気は下がらん
夏侯楙は無能だが、この状況では逃げ出さんだろう。圧倒的に魏軍優位だ
>>406であげた長躯が軍の強さにどれだけ影響を及ぼしていると思う? 鎧兜を着て、兵糧も積んで長距離全力疾走
しかも調べなおしてみたら400kmだったし、進軍ルートは桟道と峻険な山道ときた
アイアンマンレースも真っ青。落伍者、脱走者もおおいに出るだろうな、到着しても五千の精鋭は少数の弱兵に成り下がってるわ
魏延の武名を恐れて夏侯楙が逃げ出す? このザマで相手が逃げるかは大いに疑問だな
>>424 そもそも、君の言葉は魏延案成功の可能性を示すには至らない
長安がほとんど備えがない→漢中出陣時点ですでに曹真らが長安に出陣している
守将もボンボン→曹真が入った時点で、指揮権は移る
反証が提示できる以上、成功する確率を上げる事さえ出来ない
また、魏延が言う、自分がいけば夏侯楙は逃げ出す、というのは非常に楽観的かつ根拠の薄い自信によって導かれたもの
曹真に先んじて到着し、ボンボンの夏侯楙を相手にしても、曹真率いる増援が後背にある以上、防衛を決断するのは当然。
そしてその時点で魏延軍は全滅が確定し、しかも代替作戦も取れず全軍撤退は必死
第一次北伐は馬謖の敗退以上の悲惨な結果に終わる
長安が取れれば一番いいよ、でも回りくどくても野戦で敵軍を撃滅せんと話にならんのよ
428 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 01:36:29 0
魏延が提案したのは魏が蜀の北伐知る前だろw
だから孔明の北伐に震撼したと記してる
つまり、まず長安奇襲案の成功率が高い、という
>>424の発言は撤回するわけか
分かった、出来れば長安奇襲が成功する論拠を示して欲しかったが
で、だ。魏延が提案したのが北伐前だというが、どの資料のどこにそれを示す記述があるのか詳しく教えてくれ
ま、少なくとも北伐前に提案したにしろ、彼の案が成功率の薄い、自己過信から生まれた案だというのは、
その程度じゃ揺るがせられない
また、魏延がつねづね長安奇襲案を出していた、というのは無視するのか?
>>427 ちょっと待った
魏延の成功の見込みが非常に低いことに口を挟むつもりはないが、
諸葛亮が漢中にいた時点で曹真が長安に向かっていたという話はどこに書いてある?
明帝紀にも曹真伝にも諸葛亮の侵攻に天水ら三郡が呼応したので曹真が派遣されたとしか書いてないのだが。
>>430 ああ、すまん。確かに論拠出してなかったわ
まず、この北伐が二月中旬に曹叡が長安についた頃には終息している
そうなると、張コウが二月十日過ぎには、馬謖を撃破している事になる
で、孟達を寝返らせたのが227年、北伐を起こしたのが228年、この一連の動きに長い期間が置かれたとは考えにくい
孟達の一件、また二月中旬に終わってるという事が裏づけになり、
諸葛亮が漢中を出たのが年の初め辺りと推測できる、つまり最短で一月初めに出陣してるわけだな
街亭から長安までは都合300km、通常で20日、強行軍でも10日から2週間はかかる
となると曹真ら率いる歩騎5万は、遅くとも一月下旬には長安に到着している計算になる
長安から洛陽までの距離は、通典によれば850里(450km強)、通常行軍で一ヶ月、強行軍でも半月はかかる
となると一月初旬には洛陽を出陣してる事になる
従って、諸葛亮が漢中を出た頃には、その行動は察知され、すぐさま五万の大軍が送られた計算になる
ま、ここらへんはほとんど他所の受け売りだけどな
ただ、これで曹真の行軍速度がこれ以上だと査定すると、いよいよ魏延案は絶望的になっちゃうし、
これより遅いとすると、諸葛亮が北伐を開始する前に出陣しているというミラクルが発生してしまう
432 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 02:32:51 0
>>432 根拠もないし、論拠もないね
また、こちらは君の眼と勘の精度を知らないし、的中しているとは到底思えない
魏延の作戦の成功率を六割と定義したいなら、
挙げられた反証に対して、論拠があり、論理に基づいた反論を行うべきだったと思うよ
少し熱くなりすぎてスレの空気壊した感があるんで、ここらで消えるわ
>>431 曹真は洛陽から出発だろうけど、曹真が督する「諸軍」はたぶん洛陽出発じゃないよ
>>431 なるほど。
でもそれは諸葛亮と馬謖の行軍速度を計算していないね。
漢中から街亭まで、山脈を迂回すると短く見積もっても400キロはある。
しかも渭水盆地の比較的整備されていた道ではなく、国境近くの過疎地帯の進軍だ。
>>431の計算で通常行軍で一月かかるというなら、
諸葛亮らが一月初旬に漢中を出たとするなら、祁山周辺の平定・鎮撫時間や
三郡の呼応連絡時間を完全に無視して馬謖を前進させ、
二月初頭にギリギリのタイミングで張コウに先んじて街亭に到着した上で
瞬殺されないといけない(山に布陣して陣を構築し汲道を絶たれる時間は?)
一次北伐の各種逸話からは、そのようなスピード勝負だった様子は窺えないのだが。
つまり諸葛亮の漢中出陣はもっと早く前年末と見たほうが良いだろう。
ただし、孟達が司馬懿に敗れたのは228年の正月だとあるから、
諸葛亮の出陣が前倒しになるというなら、西進と孟達の調略は平行して行われた
作戦ということになる。
…とまで考えたところで趙雲の存在を思い出した。
散関を出るとわざわざ喧伝して曹真を誘っているのだから、
曹真はやはり諸葛亮が祁山に出現する前に漢中の不穏な動きに警戒して
既に行軍を始めていたということになるな。
そうでなければ同方向へ囮を出す意味がない。曹真の洛陽発を早めるだけだから。
>>434 この場合の問題になる張コウが洛陽より西に駐屯していたとは考えづらいが。荊州にいたかもしれない。
>>436 張コウは問題にならないんじゃない?
曹真の軍が先に着いて趙雲の疑軍にひっかかった
張コウはその後に曹叡の指示で諸葛亮迎撃に向かった
曹真5万が先に着いていたことになるんだから
438 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 14:03:54 0
つうかなぁ〜
街亭がそれだけの要地なんだったらすぐに要塞化しておけよ。。
陳倉とか、魏のほうはちゃんと手をうってるってのによぉ〜
孔明のミスだろ。
439 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 14:33:43 0
魏は一回目のホクバツの後に陳倉に城をつくって備えている。
これは長安の守りにいかに不安をいだいていたのかってことだよ。
陳倉だけでは無く、諸所の間道への防備も固めたと思うよ。
魏延の策にも理があったのではないかな。
440 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 14:41:00 0
まぁね。
つくづく感じるのはね。
馬謖ってのもここの正史マニアみたいなやつだろうなってことだね。
王平「閣下。ここは山の麓で陣をはっておくべきです。そういうものです。」
馬謖「馬鹿か?お前? 孫子にそんな馬鹿な事書いてないだろ? 高いところの方が見晴らしも良い、重力を味方に付けるので戦いやすいのだ!
どれだけの重力が味方に成るのか計算式を見せてやる。高低差x投げ下ろす石の重量=** 圧倒的だろーが!?
山の上に陣をしけ!」
王平「、、、。」
三戦板にいた例の馬鹿だなこいつ
正史マニアというか、発言に資料による論拠がない、妄想だから叩かれて追い出されたのに
ま、発言内容を見直していく事に意味はあるだろう
さて、街亭が用地だったなら要塞化しておけ、というが、
それほど時間があるわけない、蜀は侵攻軍、しかも馬謖は先鋒なわけで
到達時間はこれ以上を望んでも意味はない、というか馬謖の役割は諸葛亮の本軍が来るまでの足止めだ
要塞という言葉の定義がどういうものかによるが、完全防備を調える時間はない
そもそも蜀の狙いは野戦での敵撃滅にある。その大略を理解していたら、要塞化なんて発想はそうそう出てこないと思うが
君の発言からは、なにがなんでも諸葛亮の所為にしたくてたまらんらしい、という事しか読み取れないね
奇襲案に関しては上でいろいろ書かれてる通り、アウト
まして間道を固めたとするならば、当然奇襲案の侵攻ルートである子午道も固められている
その上、夏侯楙はもういない、さらに言うならこの奇襲は長躯どころじゃない
説明は面倒なんで他所から引用する
アレクサンドロス大王の話になるが、彼も、エクバタナからラガイまでの約300kmを、僅か11日で踏破した事があった
その時は、歩兵の多くは途中で落伍して置いていかれ、騎兵もまた、馬が力尽きて倒れるなどして落伍していった
これは魏延より距離も短く、日数も僅かだが長い。それでこれだから、魏延がどうなるかは想像に難くない
馬謖は、自身に都合のいい面しか見ずに大敗したという点で、君にそっくりな人物だね
442 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 15:08:02 0
信長、秀吉。
>>441 馬謖様〜 立派な御講義ありがとうごぜえますだ。
ところで三戦板とかには行った事も無いのだが。
>>442 おや、三国志・戦国板にいないという事は違うのか
妙なところでカタカナを使ったり、論拠の無い発言が似通っていたから誤認したのかな
君みたいな妄想全開の手合いが何人もいるとか、あまり考えたくないのだけれど
でさ、煽るだけで俺の発言に対しての反論はないのか
君の言葉は感情論ばっかりで、これっぽっちも道理が通ってないんだよね
俺も感情的になりすぎてる気はするけど、街亭要塞にすべきとか、奇襲案に理があるとか、
まともに検証して出した結論とは思えない、感情論先行で理屈も屁理屈だ
あと馬謖は正史マニアみたいな人物とか言って煽ってるが、
最低限正史(もちろん他の資料も)を読まずにどうやって歴史を検証できるっていうんだ? 歴史資料を検証するんだろ?
しかもここは三国志正史スレだ
>>442 王平がごとく文盲なの?みじめだから消えなよ
445 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 15:36:29 0
では一番の問題点を指摘してやる。
漢中からよーい、どん!で長安まで全速力で駆け抜ける必要など無い。
奇襲というものは隠密行動であるわけで速度が速い方がいいが、あらかじめ近くまで潜行しておいて偵察してから一気に攻めかかるのが普通と思うけどね。
孔明の本隊は他所に向かう様な偽装も必要だろうけど。
奇襲を成功させるための手だてはいろいろ有るだろう。
呉に陽動してもらうとか。
そういう可能性を考慮もせずに日数計算ばっかしてるからお前は馬謖様だといってるのさ。
>>437 そんな悠長なことやってたら
>>431の計算では二月中旬に街亭に付けないよ
>>441 >ま、発言内容を見直していく事に意味はあるだろう
ナイナイ。街亭の位置も馬謖の役割に知らない発言だよ439は。論ずるに足らず。
447 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 15:49:43 0
街亭で諸葛亮が野戦で決戦をするつもりだった?
どこにそんな事を書いてあんだ?ばーか。
街亭は補給路の要でもあり衢地であった。
なにがなんでも守るべきポイントであり、そんなことはホクバツ開始時点からわかってたことではないか。
最初からそれなりの指揮官を派遣して守らせておかないと行けない場所だろ。
それでも手が回らなかったわけだろ。
魏にだってそういう手薄な部分はあったはずだよ。
最初のチャンスを逃した後の魏延のこだわり方は無用とおもうけどな。
>>445 遠く離れたこの二国の作戦が、同時期に行いうるには相当な同調が必要になるな
さらに、呉では準備を重ねた曹休誘い込み作戦が実施されている
また呉の計算違いで、孔明が撤退したもんだから張コウが呉方面までやってきたりもしてるな
陸遜の戦略は国家をまず富ます事(やや語弊があるかもしれんが)にある
北伐と同時に侵攻作戦を行ってくれる可能性は低い
さて、奇襲に関してだが、近くに潜伏するというが、この場合、本軍と同調する為の連絡が必要になり、発覚する可能性があがるな
まず第一次の場合は孔明がどう動こうが、動いた時点で曹真が長安に来る。曹真らが長安を出陣した後も、
この奇襲策の要である夏侯楙はいまい、第二次以降に関しては論ずるに値しないな
>>445 いつからキミオリジナルの長安奇襲作戦を検討するスレになったんだここは?
問題は魏略に述べられている魏延の策の成否なんだが。
>>448 >街亭は補給路の要でもあり衢地であった。
違う。ぜんっぜん違う。どんな似非ガイドブックを読みながら書き込んでるんだ?
451 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 16:12:12 0
だがわざわざ防備の増強された陳倉を後になって攻めている。しかも魏の援軍がくるまえに撤退しているな。
そんな中途半端なことをするくらいなら魏延の策の方がましだというのさ。
>>447 馬謖を出したのは諸葛亮の重大なミス、失策どころじゃない失策と言っていい
ただ、ベテラン王平を補佐につけているのに、馬謖は進言を退けた、というのは無視できん
街亭に関しては
>>450が書いてくれてるのでいいや
また諸葛亮が野戦を望んだというのは、状況から見て考えやすい
最終的に長安を狙うというなら、それしか手がないからだ
隴西において敵主力を撃破し、明帝を相手とする魏との第二回会戦に勝利する、これが長安を得るための最善手
長安を得れば北西部における影響力は一気に跳ね上がる。防衛戦略にしても積極攻勢戦略にしても、ここを狙わない手はない
またわざわざ明帝がここに来てるのだから、向こうもここを重要地点と見ていると考えていい
最低でも、街亭の戦いは張コウを馬謖が足止めし、諸葛亮本軍が叩くつもりだったと見るのが自然
453 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 16:19:34 0
それならわざわざ曹真の本軍を趙雲のおとり部隊に引きつけさせる必要があるのか。
さっさと野戦で決戦しちまえよ。
あとから張かふとかが援軍で来ちまうとますます相手方が有利になんだからさ。
矛盾してるよ。
天水ら三郡の支配を固めることで曹真を西へ誘引できるから
逸を以って労を撃つ
>>445 魏延の長安奇襲はその「漢中からよーい、どん!で長安まで全速力で駆け抜ける」という策だよ?
しかも10日程度で
あと5000人規模の軍勢を潜行させるのは無理
アメリカ人の妄想したNINJAとかじゃないんだから
そんな大規模な動きしたらすぐバレるよ
史料読んでから討論しようよ
ここは妄想、空想何でもありの三戦や中英、歴難とかじゃなくて「世界史板」なんだから
史料に基づいて、ね
>>451 防備が増強された陳倉を後になって攻めている、というのは、蜀の情報網の弱さを示している
明帝紀集解には「諸葛亮はもともと陳倉城は粗悪だと聞いていたのに
実際に見てみるとよく整備されていたので意外に思い、その城内にカク昭がいると知って大いに驚愕した」とある
つまり、諸葛亮は陳倉が脆弱であるという情報を信じて出陣したわけで、防備が増強されたのを知ってはいない
諸葛亮の進軍ルートを変えてくるのを読み、防備を増強した曹真が優れていたという事でもあるが、
この一時だけで戦略能力の多寡を量れないのは、一次北伐で曹真が趙雲に誘き寄せられ、分断されてた事からも分かる
さて、カク昭が守っていた陳倉だが、防備が増強されているとはいえ、寡兵だった
数万対数千人だからな、諸葛亮が攻城に踏み切ったのも分からないではないが、これは救援が来るまで諸葛亮相手に持ちこたえたカク昭が凄すぎた
これはカク昭死後、あっさりと魏が陳倉を放棄した事から分かる
>>453に関しては、
>>454が説明してくれてるから、語る必要も無いだろう
>>453 各個撃破は軍事の基本でしょ
また魏書見てると涼州の各郡を順次攻略してた
涼州全土を切り取りつつ張コウ足止めしたいわけで
そこに曹真まで一緒に来たら止まるもんも止まらんよ
涼州を制圧、魏の長安方面軍壊滅を同時に狙ってたにしても行き成り会戦はありえないって
>>456 またそっから1ヶ月しない内に即座に武都と陰平の攻略に取り掛かって成功してるし
ただの失敗じゃないよね
失敗を上手くリカバリーしたのかもしれないが
>>457 ×基本
○基本の一つ
「軍事の基本」は他にも腐るほどある。どれか一つが他に優れるわけではない。
>>459 それ以外の基本がないなんて誰も言ってないんだが
何故にそこに突っかかる?
>>ここは妄想、空想何でもありの三戦や中英、歴難とかじゃなくて「世界史板」なんだから
史料に基づいて、ね
ばかにするなー
中英でもこんなヤツ相手にしないぞw
ここをみていると何年か前の日本史板を思い出す。
三戦厨という蝗が食い荒らして砂漠化。
そして過疎。
蝗というには、数は少ないから、そこまでの脅威にはならんな
最初に飛んでくる蝗は数匹だろうさ…
質問厨が最初の一匹
スキャンダルでも起きなきゃ板越えて蝗なんて来ないよ
ワシは魏延を信じる、どう見たって魏延の方が軍事に精通してたし進撃ルートも知ってたはず
魏延が諸葛を臆病者といってたのは当然だ!
遥か古のことを論評したりタラレバ語ってる不毛なこのスレで必死に煽りあいすること自体が
更に不毛である
>>467 面白いと思ってやってるんだろうけど全く笑えないよ。
三戦板行ったほうがいいと思う
「どう見たって」
の説明がない以上、首肯できないな。
それとは別の「どう見たって」を無視するのは子供のわがままだ。
>>467 魏延には魏延なりの勝算もあったと思うよ
それは否定しない
多分根回しもしてるんだろう
でも諸葛亮はそれら全部ひっくるめても採用できない、勝算がないと思う理由があったんだろう
諸葛亮はそれら全部ひっくるめてもさらにリスクの少ない方針で行きたかったのだろう
街亭で魏軍を止めて涼州切り取りって時点で既に大博打
魏延案はハイリスクローリターンだからねえ
長安を維持できれば大きいけど、魏延のだと長安を得てから維持するまでにまた綱渡りだ
根回しもしている、と思いたいけど、魏延の自信過信、というよりも自分を見ただけで敵が逃げるという
戦略的とは思えない、ちょっと僥倖を恃みすぎな点を見ると、根回しさえしてるかどうか……
楊条の反乱も、魏延の根回しによる内奥とは思えない
そうだったなら、それを含めて諸葛亮説得しないと意味がない、というかそれならまだ検討されたろうに、
そのような発言は見受けられない
また魏延は散民の穀で、つまり徴発によって兵糧を賄おうとしてたわけだし、その後の統治に支障が出る
この点でもローリターン
>>473の言う事ももっともなんだが、馬謖がやらかす前は、その博打は半ば成功しつつあった事を考えると、
諸葛亮が魏延案を却下したのは必然だったと言える
つまり、一次北伐の諸葛亮は博打を恐れたのでなく(馬謖任用というひどい博打もある)、魏延の案に勝算を見込めなかったから
切ったと見るほうが自然
もちろん魏延に能力がなかったとは言わない
むしろ当時の蜀では屈指の指揮官だろう。たたき上げ故、軍事に精通していたのも確か
戦術レベルでの功績は非常に大きいし、漢中防衛線の構築にも功績がある筈
ただ、戦略レベルでの進言による功績は劉備時代のものでもない(太守任命の抱負をそう見るのも出来なくはないが)
自身を韓信に比すぐらいの自尊心(実質の能力はとても韓信と同レベルとは思えない)が
戦略発想の根幹にあり、また自身に都合のいい僥倖を恃んだものである以上、これを評価する事はできない
まあ蜀の情報戦能力は、二次北伐で諸葛亮が陳倉の状況を掴めなかったように、高いレベルにはなかったから
それを理由に擁護できるか、と思ったら、その後も何度も同じ進言してるんだよな……
そろそろ誤字の修正や、文章の構成に気を配ってみたらどうだろうか
内容はよくても、そのせいでマイナスイメージになりかねない
477 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 22:49:00 0
涼州のみをおさえてみても魏の本軍を叩きつぶすか、長安を抑えて函谷関で関中を遮断してしまわない限りは獲得した土地を保全などできない。
だから街亭で敗北したらすべて投げ出して撤退せざるをえなかった。
第一次ホクバツで孔明が考えていた事が今ひとつよくわからない。。
どうみても涼州の確保を優先している。その後で決戦?
先に長安を抑えてしまえば涼州なんかほっといても手に入るのに。
478 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 22:49:57 0
その理由、説明を誰もできないのだろう?
先ほどの発言を翻してすまない
>>473のやつなんだが、もしかすると街亭で魏軍を止めてる間に涼州を切り取るって考えてるのかな
そうだとするならば賛同できない
街亭に馬謖が向かう前に、蜀軍は祁山を攻め取り、三郡が寝返ってる
街亭を抑えなきゃいけないのは、ここを取られると祁山を境に蜀軍が分断されるから
馬謖は先鋒だったわけだし、諸葛亮率いる本軍が街亭に向かわず、まだ涼州切り取ってるってのは考えにくいと思う
>>476 すまん、今後は気を使ってみる
魏延案反対派はみんな「長安を抑えられないから駄目」と言ってるのに
一人で長安を完全に確保した後の話をされても反論しようがない。
481 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 22:53:50 0
>>街亭を抑えなきゃいけないのは、ここを取られると祁山を境に蜀軍が分断されるから
そういう場所を衢地っていうんだろ。
482 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 22:56:05 0
>>480 魏延案で長安が確保できたかどうかなんかおれも知るかよ。
だが絶対無理!と否定できるすごい自信が不思議なだけ。
>>479 その点は馬良伝に明記されているよ。
亮は進んでも拠とするところ無く ,軍を退かせ漢中に還った。
馬謖は本隊に先行して大軍が拠点にする場所を敵より先に確保する
というごく普通の先峰の役割を担っただけ。
>>482 では、魏延案についてこのスレ住人の間に意見の相違はなかったということだな。
めでたしめでたし。
485 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:00:54 0
大軍が拠点にするところってどういう場所?
補給路がつながっている、いろんなところへ進撃、退却できる道がつながっている。
そういうことだろうが。
486 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:02:03 0
>>484 無理か無理でないかなど考証不可能といっている。
>>485 違うよ。とっとと一次北伐の地図探して来い。
オンラインにあるから。
>>486 そらまあ、お互いの行軍速度もどれくらいの兵を持っていつ出発したのかもはっきりわからないし、そもそも魏延の進言がいつなされたのかも明確ではないからなあ
489 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:11:50 0
なぁんだ。街亭で魏軍と決戦をしようとしたところ先鋒の馬謖が負けたってことかよ。
そりゃ孔明の責任だろ。
>>486の論が大いに破綻をきたしている…
つまり、論じても始まらないから、無双の話でもしようということだな!
491 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:13:03 0
軍事は計算だけでは出来ない、瞬時に判断する直観力が必要だ。
政治的才能がある奴でも、軍事的才能が無い奴がいるのもそのため(逆も然り)。
魏延は普段から魏の情勢を一番調べてたろうし、豊富な戦歴からこれは成る可能性があると踏んだのだろう。
492 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:14:27 0
>>490 ちなみにおれは魏延の作戦はうまくいったはずと言ってた方とは別人だからな。
493 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:15:57 0
>>491 そういう数値で計測できない能力や背景は一切無視するのがここのしきたりですから。
>>486 そうだねえ、史料には国力や戦力の情報は残るので、
国力全体、またはある程度の大きさの戦域においてどちらが有利と言うことは出来るが、
「奇策」というものは成功可能性の情報が残らない、そもそも残せる種類ではないものが多いので、
それを後代の人間が判断するのは本来不可能。
と、
>>332が言ったのに
>>334に反論されちゃってそのまま150レスグダグダが続いてしまったんよね。
このスレってレスが増えるときは大体そんな感じ
496 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:20:17 0
>>493 でも軍事的な大成功はそういうもんだろ。
平家を破った義経の戦術だって博打みたいなもん、義経がやらなかったら平家に負けてたかも知れん。
>>492 待てよw
いつ摩り替わったんだよ。読み直してもナチュラルに応答が連続しているぞ
498 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:27:32 0
はっきり言って孔明には統帥に必要な度胸がなかった。
この時点で統帥不向きじゃね?
499 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:32:58 0
天才の存在を否定し全ては必然であったとして歴史を解釈する見方もある。
英雄が時代を作るのではなくて、時代が英雄をつくるって考え方だね。。
それもまた良し。
だけどみんなは諸葛亮の才能を高く評価している。
天下三分の計が魏呉蜀の鼎立を生み出したと信じている。
>>486 それを上で考証する中で、魏延案が成功しない理由が大量にあげられた
それを打ち消し、成功の可能性を示す反証を、君は提示できていないね
>>488 そうだね。ただ、行軍速度に関しては
>>435などでも考証してくれている
どれくらいの兵であったか、いつ出発したかは上のレスを見るといい
ある程度であるし推測だが、参考に出来る
魏延の進言がいつなされたかは分からない
だが、つねづね進言していること、受け入れられない不満から罵詈を吐いていたことは記載されている
>>489 任命責任を問うなら、まさにその通り
王平をつけてやったのも無駄になったわけだ
>>491 普段から魏の情勢を一番調べていたかどうかは分からない
だが、夏侯楙の件を把握していたから、ある程度把握してたのは確かだろう
問題は、この案に関して曹真が先に来る可能性がすっぽり抜け落ちてる事だな
曹真に先んじれる可能性が低い事は、上に述べた通り
先んじれても問題が次々に出てくるのはすでにほかのレスで示されている
>>498 魏延案を退けた事を度胸がなかったとするなら間違いだね
そのうえ、論理が右斜め上に飛躍しすぎだ
501 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:35:57 0
そういう一人の才能が歴史の行く末を変える事があるということを信じているのならば、魏延の一見とっぴに見える献策でも斬り捨てることなぞわれわれのしていいことではないよ。
502 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:41:45 0
>>500 実際の距離もわからない。
地図上の直線距離から推測するだけ。
どのくらいの行軍速度が可能であったのかも、時代も地域もちがうアレクサンダーマーニュスをもってこないと話はできない。
魏軍が駆けつけてくるまでの日数計算だってそう。
あまりに自分勝手な計算式ではないか。
503 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:43:16 0
そんなものを土台に議論なぞ出来るか。
504 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:43:43 0
孔明の作戦は常に消極的でリスク無くそうとばかり。
こんなの軍事じゃ敗北思想。
>>499 横槍の上499の趣旨とずれるが、
三分の計が本当に新野当事の劉備に対して提言されたものかどうかは、
確かに「史書に書いてある」以外に判断しようがない。
しかし、荊州争奪戦以後、劉備がその戦略方針を完全に転換し、
荊益州の奪取と負けない基盤の確保に動いているのは事実。
その方針転換の原因(蜀漢から見れば功績)を誰に帰するかといえば、
「史書に書いてある」から諸葛亮、ということになる。
これは奇策でもなんでもないよ。戦術的な「詭計」、「実を以って虚を突く」と
同列には論じられない。
どこから反論したらいいのか解らない
>>501-504のうちどこまでが同一人物なんだ。二人はいるようだが。
507 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:47:25 0
天下二分の計のパクリ。
>>507 戦略に奇策や独創は存在しない。常道のみ。パクリも何もない。
ただ個々に異なる時代と状況においてその常道をいかに正しく示せるか。
そこに能力の高低が出るだけだ。
509 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:50:54 0
>>505 だから諸葛亮の献策がなければ魏呉並立か魏による統一が当然の成り行きだっただろ?
歴史の向きを変える才能はありうる。
魏延の献策がのちの歴史を変えた可能性もありえるし、その才能をもっていなかったと否定する事はできないっていってるの!
510 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:51:56 0
>>508 何に方針を置くかが戦略だから独創はあるよ。
511 :
世界@名無史さん:2008/11/30(日) 23:54:22 0
>>509 別に孔明の献策というより呉の戦略方針が二つあって。
呉が蜀を統治する策と、劉備に蜀をまず統治させる方針。
>>503の発言だが、これは君の度重なる妄言に常々抱いてきた事だよ
少しは資料や地図を見て、当時の事を調べて発言してくれ
>>501の議論放棄とも言える発言から見て、君に議論をしようとする考えがあるとは思えない
魏延の献策が歴史を変えうる可能性を検証しようともしない以上、その才能を持っていたと言う事は出来ない
そして、魏延案が成功しない理由を述べた際、これを打ち消す反証を君は提示できなかったね
成功率皆無だったとは言わない。だが、成功率が著しく低く、さらに成功しても維持できんというのは
これまでの検証を見れば分かるよね
納得できないなら反証を示しておかねばならなかったのに、君はそれをしなかったのだから
>>509 そりゃ「可能性」はあるよ。
しかし俺達に出来るのは残されたデータから非常に大雑把な「計算」をすることだけだ。
それによると大方の意見は魏延策に対して「非常に困難」と回答を出す。
その計算を覆す「天才」(または「僥倖」の)可能性はifの世界になってしまう。
魏延の才能はといえば、結果を考えれば『持っていなかった』と言うしかない。
>>314にも通じるが、素質・才能というのは開花してこそ初めて素質才能と呼ばれる。
成功者だけが、「奴には才能があった」と呼ばれる。
「魏延は歴史を変える天才だったかもしれない」とは確かに言えるが、
その論法を認めると「夏侯楙は天才だったかもしれない」と同じように言えてしまうんだ。
あなたの論法は歴史の論法ではないんだよ。
514 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 00:06:59 0
>>512 なんでわけわからぬお前の計算を否定する証拠をこちらが見つけないといけないんだ?
言ったもん勝ちかよ?
もっと納得できる説明をあんたがする方が先だろ。
>>479 いや第一次北伐時に「蜀の誰か」が涼州の切り取りであちこち攻めてる
涼州切り取りってのはそいつらを指してるつもりだった
張既伝の游楚とかの話見ても、呼応して反乱した三郡だけでなく、どうも蜀の誰かが涼州にいるっぽい感じなんだよね
諸葛亮が街亭に行かないとは言ってないつもり
というか馬謖は諸葛亮の先鋒だし諸葛亮本隊もそこに向かうでしょ?
>>502 一舎=十里=一日の無難な行軍速度
この話が史料にまとめられた漢代の一里って0.5kmくらいだったかな
軍隊は一日数km程度しか移動できないもんらしいね
これは輜重抱えた軍だし春秋時代と漢代じゃ輸送技術も大分違うけど
その辺考えても10日で長安行くっていう魏延案がどれだけ無謀なもんか推測できると思うよ
さあ、そろそろ魏延は終わりにして曹操の墓暴きについて語ろうぜ
518 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 00:24:25 0
魏延の作戦は、専門家では五分五分といわれてる。
>>518 その専門家が誰で、その論がどのようなものかを提示してくれ
>>519 少なくとも東洋史の教授はそんなコメント本気ですることはまずないけどな
522 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 00:28:36 0
>>516 魏延案がどれだけ無謀って、当事の名将だぞ?
つまり魏延はお前が考えることすら考えず無謀に提案したということか?どの程度で長安につくかも知らずに。
>>522 知ってるだろ
知ってて敢えてやっちゃうぞっていう案じゃないか
だから「無謀」なんだよ
524 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 00:33:11 0
525 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 00:36:29 0
孔明が奇襲反対した理由って退路立たれるからでしょ。
長安への距離がどうとか聞いたこと無いけど。
>>524 だから、それは誰なのか人名で答えないと駄目でしょ
>>524 お名前とその見識を発表した論文かなんかをよろしく
>>525 まず距離からして無謀って話ね
次に長安の大きさも5000人じゃ抑えられない大城
さらに敵の大将が逃げるので大丈夫というその無謀さ加減
「 聞夏侯楙少,主婿也,怯而無謀.今假延精兵五千,負糧五千,直從褒中出,循秦嶺而東,當子午而北,
不過十日可到長安.楙聞延奄至,必乘船逃走.長安中惟有御史、京兆太守耳,門邸閣與散民之穀足周食也.
比東方相合聚,尚二十許日,而公從斜谷來,必足以達.如此,則一舉而咸陽以西可定矣.」
地理から考えれば「子午谷に当たってから十日」の意だと読むのが自然だろうね。
魏延が建策した時点では蜀がすぐにも攻めてくるとは魏で思われていない
(少なくともそういう前提での建策だろう)
だから曹真らの軍は出発はおろか編成もされていないような段階だろう
で、子午谷から10日で長安に到着し速やかに長安を制圧できれば、おそらく同時に出発した諸葛亮が20日までの間に到着するだろう、という見込みだ
実際の戦いではまず曹真をわざと誘っているから曹真は早くも到着しているのであって、最初に蜀来襲の報が届いたときに魏は驚愕していたくらいだから、魏延が何の前触れもなく長安を攻めたら夏侯楙や曹真らが万全の体制で待ち構えているかどうかは怪しい
夏侯楙が逃げ出すという希望的観測以外は、魏延の策はそんなに無茶は言っていないようにも思う
>>529 戦力および長安占拠の過程見込み以外は、確かに奇襲の定石だと俺も思う。
しかしそれはそれとして、
趙雲・ケ芝を囮にした作戦、曹真は早々に洛陽を発っていた説、
また前年の司馬懿の孟達への強攻策(戦時の専権を行使)からも、
魏蜀の緊張は既に高まっていたと見たほうがいいのかな。
諸葛亮の北伐は、軍事的には対応が出来なかったにしても、政治的には奇襲ではなかったのか。
「劉備死後音沙汰無かったので諸葛亮が来寇したと知ると魏は大騒ぎになった」という話とちょっと矛盾する。
諸葛亮がいきなり祁山に現れて三郡切り取られたのは完全に予想外で、
それについては動揺は激しかったのだろうけど。
531 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:04:18 0
北伐でルートは3つ。
子午動=狭く険しいが、長安に直結。(魏延案)
陳倉道=普通の広さ、武功群に出る。
斜谷道=広くて通りやすい。西部の過疎地帯に出る。(孔明案)
魏延は西部に居る魏軍は油断してる、長安を守る太守は縁故で成り上がり、臆病で奇襲に対応する策が無い、そもそも子午道から来るとは思ってないと提案した。
532 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:07:55 0
そもそも曹真は西部の監視役で蜀の監視役じゃないでしょ。
必死になって魏延マンセーしてるやつの目的がわからない。魏延の策は成功率の高いもので
魏延は素晴らしい将軍だったと言いたいのか?それともその進言を却下した諸葛亮は無能だった
と言いたいのか?見事に反証されてムキになり、自分の発言すら把握できなくなってるのか?
>>531 いやそんなことはもう誰もが承知してるんだけど。
その「縁故で成り上がり、臆病で奇襲に対応する策が無い」夏侯楙が、
だからといっていきなり逃げ出すことがありえるのか、幕僚が頑張る可能性はないのか、
そもそも敵が逃げ出すことを期待して作戦を立てて良いのかというのが問題なんだろう。
>>530 而卒聞亮出,朝野恐懼, 隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮.
「にわかに亮が出たと聞き」、だから、これは諸葛亮が成都を出陣して漢中に陣を張り、
北征するという情報が魏に伝わった時点で動揺が広がったのだと解釈すべきなんだろうな。
(防備はそう短期間に整えられないから)
そんな政治情勢で気を吐いたのが司馬懿や曹叡だと。
と自己レス。
>>528 漢文から考えるとそうは読めないんだけどな
>>536 漢文から考えると
而北不過十日可到長安
でないの? 因みに原文には票点はない。
>>537 「十日かからずに」でしょ
十日じゃなくてもっと短い
540 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:24:18 0
>>535 そこが魏延と孔明の違いだろ。
魏延は部下に知恵あるものが居ても(例:王平)、トップが無能ならそういう意見を採用するはずないし問題ないと見てる。
孔明は、もし知恵者が居てしかもその案を素早く巧みに採用したらどうすんだ!いや、それどころバカどころか実は天才だったらどうするんだ!と反対した。
>>540 なら、戦略としては諸葛亮が全面的に正しいね。
追い詰められた状況でもない限り、主将の無能を当て込んで
戦略を立ててはいけないから。
>>539 10日丁度と10日かからない、だと結構差があるけどなぁ
10日かからないってことは1日、はまあ無謀にしても3日〜9日くらいのどっかなわけだし
じゃあ
>>528は
>地理から考えれば「子午谷に当たってから十日と掛らず」の意だと読むのが自然だろうね。
と訂正すべきだね。
なんだ、それだけか。
544 :
543:2008/12/01(月) 01:29:36 0
ごめ「十日を過ぎず」だ
545 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:33:46 0
>>541 魏延は蜀と魏は国力差がある、まともに組み合っても勝てない前提で戦略的奇襲案を提案してる。
第一魏延は歴戦の勇将で、魏と国境接する漢中の太守を5年以上努めたベテラン。
546 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:36:42 0
>>541 >主将の無能を当て込んで
そんな事言ったら戦なんて出来ねーし、大体韓信の戦法なんて敵将の心理を計算して作戦立てるじゃねーか。
>>545 国力差はあるが投入される兵力差は無い。
これもこのスレで一昨日辺り長々と語られたこと。
だからこそ陳寿は、諸葛亮がついに事を成しえなかった理由を
「応変の軍略は得手ではなかったのか」と、戦域以下の戦術能力に疑問符を打つ形で評している。
まともに組み合っては勝てない兵力差に挑んだのなら、贔屓を引き倒すにしても
「少数の兵で互角に渡り合った」とか言うよ。
でもそんな評をした人間は敵味方誰もいない。魏側は冷や汗をかき通しだ。
>>546 韓信は明らかに劣勢なのに攻め取れという無理気味なミッションを要求されてたからな
どっちかというとああせざるを得なかったということだろう
そういう戦法を使わずになんとかなりそうならそっちを選ぶってことだよ、韓信だろうが誰だろうが
550 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:44:59 0
>>547 戦略的奇襲とは戦術上の範囲ではない奇襲に決まってる。
出来るよじゃなく、勝つための戦だ。
敵の心理を読むなんて当然のやり方だろ。
秀吉なんて人間の心理読みで天下取ったようなもんだし。
>>546 1.計算すると当て込むは違う。魏延の策は後世から見てあまりにも期待の度が過ぎると見える
2.奇策について、現に成功した策と実行も出来なかった策を同列に並べるなと何度言ったら
>>550 んだからその「戦術上じゃない奇襲」って何さ?
553 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:52:46 0
>>551 >計算すると当て込むは違う
意味不明、敵はこうだろうと当て込んでそれを作戦の計算に入れるんだろが。
大体奇襲というのは、相手が警戒して無いだろうと言う前提だから奇襲というんだろが。
あて‐こ・む【当て込む】
[動マ五(四)]よい結果を期待して行動する。当てにする。「ボーナスを―・んで背広を新調する」
けい‐さん【計算】
3 結果や成り行きをある程度予測し、それを予定の一部に入れて考えること。「多少の失敗は―に入れてある」「―された演技」「―外」
555 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:55:05 0
>>555 だからそれは何だい?
ちょっと抽象的過ぎるよ
557 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 01:59:34 0
>>556 抽象的というが戦略は範囲が広いからこっからここまでというのは無い
相手に勝つための方向性全てが入る
戦術はある特定の範囲内の戦闘など限定される
>>557 んで戦略的奇襲とは何?
具体的に何を指してるの?
559 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 02:02:49 0
そもそも魏延がの提案を蹴った孔明は第一次北伐で見事に大失敗してる。
その後も上手く行かず結局何事もせず終わった。
560 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 02:03:50 0
>345 名前:世界@名無史さん 投稿日:2008/11/28(金) 21:23:44 0
>いつから諸葛亮の欠点を問題にする流れになったんだ?
>諸葛亮の「応変の軍略は或いは得てとするところではなかったのか」と、
>魏延の策の成功確率とは何の関係もないだろ?
すぐこういう都合の悪いレスは無視するんだから!!
あなたって人は!
>>559 んで戦史研究家が魏延の策が成功率五分五分だと言った論文はどれ?
>>504系列の赤字さんは、いったいどれほどの「戦史」をしっているんだろうねぇ
まずは戦史研究家の名前を教えて欲しい。
つぎに戦略的奇襲の実例でなくていいから、具体例としてそういうものを
想定しているか文章にして現して欲しい。
ちなみに、陳倉、子午谷両方面から京兆に進出しようとして失敗した例が後世にある。
そのときの状況を簡単にでも説明できるかいな?
いよいよ都合が悪くなって諸葛亮叩きをはじめたが
あっさり
>>561に看破されててワロタ
565 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 10:37:19 0
>>
>>545 真珠湾攻撃なんかも、奇襲には成功してるけど戦争には負けてるだろ。
日本軍の南方占領も迅速だったけど、結局は戦線で日本軍が孤立しただろ。
戦闘に勝つのと戦争に勝つのはイコールじゃないんだ。
特に魏は圧政を敷いていたわけでないので、長安を攻略して魏軍を迎撃
す体制になっても、結局は蜀軍が敵地で包囲されているという危険性が
大きい。西方から段階的に魏領を削り取り、支配権を確立していかないと
結局は領土を維持出来なくなり放棄しなくてはいけなくなる。
>>548 諸葛亮集によれば、兵数も対等でなく、本来守備に回るべきところで
攻撃に回ったため、連年戦争しても、勝てなかった。
>>563 確かに本来の意味での漢民族(曹操や孔明の子孫)は日本にいるよ。
でも中華人民共和国(含朝鮮半島)にはいないんだ。
大陸中国の民族は中世以降完全に浄化されてしまった。
だから日本人と中国人が遺伝的に近縁にあるというのは間違いだよ。
>>560 戦略的奇襲が具体的にどの事例を指してるのか全く不明なんだけど
君の言う戦略的奇襲って具体的に誰のどんな行動、ないし発案?
570 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 15:23:17 0
蜀が荊州失陥後は、魏・呉・蜀の国境線は南方や北方の辺境地区以外は
蜀の滅亡までほとんど変わっていない。当時は如何に国境線を大きく変更する
敵国の領土を奪取するのが如何に困難だったかがわかる。国力が蜀の数倍する魏
ですら、蜀の領土深くに侵攻を成功させたのは、姜維の度重なる出征による国力
疲弊と政治の腐敗が重なるまで不可能だった。陸遜は劉備に大勝しても、蜀の領土
深くに軍を進めることはできなかった。局地戦で奇襲や計略を用いても戦果を上げ
ても領土を奪い取ることは非常に難しかったことがわかる。
魏延の計略を過大評価している人がいるが、当時の情勢を考えれば、一時的に長安
を奪取しても、他の拠点が健在なら長安で蜀の奇襲部隊は包囲される状態になり、本隊
が思わぬ苦戦や天候で行軍が計画通りに進まない場合は奇襲部隊は全滅か降伏を余儀なく
される。つまり全てが蜀に都合良く進展した場合のみ成功の可能性がある作戦と言える。
司馬仲達や陸遜のような名将でも対呉・蜀、対魏戦で領土を敵国から奪い取ることはでき
なかった。重要拠点をしっかり抑えていると、まず大きく負けることが無いことが当時の戦争
だったわけだ。当時を代表する名将ですら大きく領土を奪い取ることが不可能だった。まして
魏延程度の作戦ではといったところだろう。
そういう意味では第一次北伐の馬謖の判断ミスは非常に重大だった。
街亭という重要拠点の防衛を放棄して、敵軍に大勝すること望んだ。それを逆手に取られて
敗北した。拠点確保に失敗したからせっかく得られた領土も保持できなくなるから損害が増
える前に撤退した。231年の北伐でも、諸葛亮が魏軍に野戦でしばしば勝利しても、重要
拠点を魏がら奪えないから結局は撤退。攻める方が兵力を集中し、分散した敵陣営を個別撃破
できるように思いがちだが、当時は要害に立てこもり防御を固めた方が有利で敵軍を撤退に
追い込めたのだ。
571 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 17:40:23 0
守備軍を個別撃破できる条件は全て野戦をしてくれる場合だね。
実際は要害を占拠して守りを固めた状態になる。こうなると、攻撃軍の
数が多くても結構守りきれてしまう。特に相手は遠路をやって来て、大軍な
ので兵糧の心配をしなくてはならない。そうこうしているうちに兵糧切れで
攻撃軍が撤退。
244年の曹爽の蜀侵攻も、漢中の守備軍は3万にも満たなかったが、先に
要害を占拠した蜀軍が終始有利に戦闘を進めている。魏軍は隘路の進軍に難渋し、
物資の供給に事欠くようになり、蜀の援軍が漢中到着と共に撤退している。
赤壁の戦いは軍閥同士の闘争。
野戦が主体で、軍閥の支配地域の統治が脆弱なので、一度敗戦すると一気に崩壊
する危険性があった。諸葛亮の北伐時代は国境線の要害を占拠した守備軍との戦闘
が主体。野戦に乗ってくれても、相手に壊滅的ダメージを与えない限りは再び要害
に立てこもり、戦線が膠着する。時間が経過するほど大量の物資を消費し、遠路物資
を輸送する必要がある遠征軍が不利になる。
572 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 17:48:00 0
つまり、諸葛亮の北伐の頃は相手が相当なバカでない限りは
守備する側が圧倒的有利と言える。それでも、231年の北伐で
は司馬仲達の攻撃軍を野戦で撃退し、撤退時に追撃してきた名将
張コウを討ち取るなどの戦果を上げた諸葛亮の軍事的才能は相当
高いと評価できる。司馬仲達が「奇才なり」と賞したのはけっして
お世辞ではなかったということだろう。
573 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 20:06:41 0
諸葛菜を崇拝してるのは演技厨ぐらいだろ。
劉備の軍事面を支えたのは法正・コウケン・魏延とか、政治も荘園・ヒイ・トウインが諸葛の代わりを務めた。
諸葛が過大評価されてるのは忠義者だからで能力的なものではない。
ちゃんと正史読んでたらそんな結論にはならないと思うがな
ちょくちょく書き込んでる
>>573は「諸葛」って表記で見分けがつきやすいな
>>570-572 異議が一つ。
当時、魏の主力軍は曹真・司馬懿の頃は恐らく長安、陳泰の時代でも上ケイに駐屯していた。
祁山経由で隴を狙う、姜維に至ってはさらに西の隴西を狙うという戦略は、先手を打って侵攻する
ことで魏の征西軍を誘引し、守備軍の地の利を減殺するという策だ。
五次北伐のようにそれを初期目標としない例外はあるが、作戦の第一段階に於いて蜀漢が理想的に
雍州西部州軍を打ち破れば、西方に於ける攻守は逆転する。
言うは易いがこの遠距離の行軍には高度な統制力と練度を必要としたと思われ、これを破綻無くこなし
続けた諸葛亮と姜維は演義的師弟関係が創作されるに足る似た者同士だといっていい。
片や魏将達は、開戦当初「国境線の要害を占拠した守備軍」などではなく、遠距離を急行して
戦場へ駆けつけねばならない立場にあった。軍事戦略規模において、少なくとも蜀の兵站が
続いている間は、「相当なバカでない限り」負けないというほど魏は楽な立場ではない。
だからこそ、その軍事戦略面で作られた不利を戦域内の行動で覆してきた魏将達が名将として地位を
高め、局地的には張コウが馬謖を破ったことが特筆されるんだ。
逆についに勝利を掴めなかった諸葛亮は陳寿に「応変の軍略は得手ではなかったのか」と評され、
姜維は張嶷に「智力では敵に劣るのだから」と言われることになる。
北伐期を通して、強兵統率の蜀漢とそれをいなし続ける魏という形で状況は進んだ。
それを打破して反抗の基点を作ることになるのがケ艾というわけだ。
577 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 21:11:24 0
>>576 主力は長安にいても、ある程度の拠点防衛の体制は魏は出来ている。
それに兵糧の蓄積なんかも前線にはあったはず。漢中からはるばる兵糧を
運ぶ手間があった蜀は長期滞在では、かなり魏より不利でしょう。
堅陣に立て籠もった敵を攻撃するには最低でも3倍の兵力が必要と言われています。
これを「攻者三倍の法則」なんて言うそうです。3倍というのはあくまでも最低の
数字で、要害や城に立て籠もる敵を倒すには5倍の兵力でも困難かもしれません。
例え蜀軍5万で攻めかかっても、要害にたてこもる相手1万の守備軍を撃破するの
は容易ではありません。戦国時代なんかで、包囲軍の方が圧倒的に兵員が多いのに、
城攻めがしばしば失敗する事例を見るとわかると思います。逆に野戦では余程将兵の
力量差がない限りは兵力差がそのまま勝敗になります。
更に遠征軍の三分の一は後方支援です。
全軍3万としたら、実際に戦闘する兵員は2万程度。
拠点・拠点に物資の集積があると、守備側は輸送に裂く兵員は少なくてすみ、
戦闘に参加できる兵員が増えます。単純な動員兵力だけでは戦闘戦力を比較
することはできません。
>>573 もうね、小学生じゃないんだから、ちゃんと書こうよ。
それだけでヴァカにしか見えない。
579 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 21:33:05 0
244年の曹爽の侵攻の時は攻守が入れ替わります。
主将の曹爽が有能でなかったのもありますが、それでも蜀の守備軍は3万に届かず。
対する魏は十数万の軍勢です。もし魏が兵を何手にか分ければ、蜀側も少ない兵力
更に分散しなくてはいけません。だから蜀の守備側では敵の侵攻するにまかせて漢・楽
二城を固守すべきとの意見が多かった。それに対して漢中の総司令官の王平と劉敏の
二将は敵に平地に侵入されると、漢中の農作物を兵糧に充てられてしまい、長期包囲を
可能にしてしまう。北伐以来実戦経験豊富な王平は要害を先に占拠して立て籠もれば
大軍相手でも支えきれるとしてすぐに行動に移ったのです。
魏軍は関中からの物資輸送に費やす手間暇と先に要害を占拠されたこと、そして隘路に
より大軍の利点を生かせず、蜀の本国からの援軍の到着により実質的兵力的優勢を失い
撤退した。
580 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 21:43:47 0
>>577 軍隊は半数がやられると全滅と同じなんだってね。
組織的戦闘力喪失と判定されるそうだ。
半分どころか1/3も死人出たら壊滅、全滅の類だよ
582 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 22:26:33 0
諸葛はたいした事無い、これは史実。
583 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 22:30:18 0
長安落とした馬長>>越えられない壁>>>軍事能力無しの諸葛菜
扶養義務強制化もなし、
本人確認遺伝子鑑定もなし、
諜報機関もスパイ防止法もない
今の日本。
こんな糞法ができたら、
10年もたたぬうちに,
日本の都道府県庁近くにに、
警官隊すら立ち入れないスラム街である「モスキート街」が誕生する。
これが、国籍法改正から5年たった日本の姿だ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5399555 近未来、日本に流入した無数の外国人により日本の大都市には、
警察が近寄れぬ、外国人だけのスラム街が複数出現した。
>>577 >長期滞在では、かなり魏より不利でしょう。
これには全く同意。拠点防衛の体制というのも、ビや陳倉では完全に当てはまる。
でも、さらに西ではどうだったかというと非常に心もとない。
県城単位では兵糧も兵も持っていただろうけど、それで蜀漢の本隊に対抗できたかというと、
そんな戦いの記録さえ残っていないことからも殆ど出来なかったと見ていいだろう。
蜀の侵攻予想地域に護る兵力もないのに兵糧だけ備蓄しても意味がないし、
そもそも雍州西部に兵糧が蓄えられないから司馬懿や郭淮が駐屯できなかったといえる。
よく出ているのは、231年の北伐。諸葛亮の天水への侵攻に対して、
洛陽からの総力を挙げて司馬懿が急行したが、急進ゆえに兵糧がなかった。
そのため諸葛亮が上ケイの穀物を刈ろうとすると魏の諸将はこれを恐れ
(司馬懿がさらに急進して諸葛亮に肉薄しこれは阻止した)、
またのちには郭淮が現地の羌族の私家から穀物を徴発しなければならなかった。
戦後、司馬懿は成國渠(水路)と臨晉陂(堤)を修復して関中の穀物を充足させ、
上ケイへの殖民を進言している。これが後の上ケイの征西将軍駐屯に繋がるようだ。
これが、魏側も兵站に不安があり、十分な兵力と行動の自由を得られなかったことが窺える事例。
その苦戦を覆して、蜀に『堅陣に立て籠もった敵(自軍)を攻撃』させる状況に持ち込んだのは
司馬懿ら現場の知略の賜物であって、初めから戦略的な有利が魏に確立されていたわけではない。
陳泰の時代になればこの苦戦は大分解消されているが、それでも姜維が初めて大軍を
起こした253年の戦いで手痛い打撃を蒙っている。
これは「狄道まで進んで守れ」という陳泰の指示を王経が聞かずに野戦を挑んだからだが、
王経の視点からすればより前進して野戦を挑まざるを得ない、羌族他の隴西切り崩し戦略を
姜維が取っていたからだろう。
一次と五次の北伐で、諸葛亮は十万の大軍を動員したと思われる。
当時、洛陽の即応能力は曹叡直率の大軍が進発してさえ五万。
疲弊し情勢不穏の長安以西に、さらに五万の兵を動員し、糧食を供給する能力が
あっただろうか?
蜀漢と魏の司隷以西の戸籍人口を考えれば、この戦力の拮抗は納得できるものだ。
もちろん、蜀が動員力の一杯を使っている一方で、魏が本腰を入れて戦時体制に入れば、
さらに多くの兵と兵糧を東から集めることができただろうけど。
だからこそ呉との共闘が図られたわけだね。
587 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 23:01:04 0
正史には魏延の策が無謀で粗忽で無茶な方法であったとは書いていないのだろう?
長安で戦闘した場合の勝敗の行方はいざ知らず、奇襲自体はそんなに自滅的な行為ではないとの評価だったんではないのか?
陳寿だって魏延はアホだなんて書いていないだろう?
孔明が採用しなかったこと、それを魏延が恨んでいたこと。
それだけでしょう?
陳寿が「それ、魏延は粗忽のもの也。尾籠な献策で国を傾けんとす。」とか書いてたなら別だけど。
>>587 そもそも魏延の策の引用元は裴松之注の魏略の記事。
陳寿の与り知るところではない。
589 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 23:07:59 0
ならば本当に魏延がそんな献策をしたのかどうかさえうたがわしいものだね。
>>586 最後の北伐時なら10万に対応できる供給力はあったでしょ
晋書にちゃんと最後の北伐前に運河整備の記録あるし
>>589 魏略の否定したいならもう少し魏略の史料批判してからにすればいいんじゃない?
魏延が常々別働隊を率いたいと言ってたのは本文にもあるし魏略だからと頭ごなしの否定は難しいよ
>>589 疑わしいかもねえ。
それが結論でいいかい?
593 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 23:14:46 0
つまりは晋の時代の人々にとっては魏延の策がとくに無茶な実現不可能な策ではなかったのはたしかでしょう?
>>590 それが既に稼動していたかはわからない。
また武功近辺で有効化されていたとしても、五次の北伐も隴西だったらどうだろう。
五次北伐の時でも、秦嶺を超えて現れた諸葛亮に対し、
司馬懿が渭水北岸に初めから陣取っていたわけではない。もっと北にいただろう。
晋書武帝紀によれば、諸葛亮に先手を打つ機会があった。
「亮が勇者なら山に沿って東へ進むはずだ」
これは諸葛亮が渭水を北に渡って司馬懿を阻止し、魏本国と雍州西部が切断されるのを
危惧したものだろうか?
ともあれ、諸葛亮は西へ進んで五丈原の防備を固め、屯田した。
その隙を突いて司馬懿は渭水を渡り、主力同士が渭南で対峙する図式を作ってしまった。
こうなると、諸葛亮の本軍は司馬懿を撃破しないことには行動の自由が利かず、
司馬懿は『堅陣に立て籠も』れば時間を稼ぐことができる。
その状況を作ったのは司馬懿の戦場の選択であって、魏国の戦略的兵站的優位ではないんだ。
間違えた
×司馬懿が渭水北岸に初めから陣取っていたわけではない。もっと北にいただろう。
○司馬懿が渭水北岸に初めから陣取っていたわけではない。もっと東にいただろう。
597 :
世界@名無史さん:2008/12/01(月) 23:56:13 0
孔明「ふぅ、魏を倒し後世に名を残すか〜」
魏延「待たれよ!、私に兵を分けてください私一手で長安を陥落させて見せますぞ」
孔明「ム・・私は蜀で一番偉いんだぞ!軍事書も読んでるんだぞ!賢いんだぞ!ケチつけるな」
魏延「所詮生兵法ですな」
孔明「たかが軍人めがワシには向かうのか」
598 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 00:04:30 0
でも魏延が孔明に重用されていたのは確かだとおもう。
一軍の将としての活躍しかない武人が、戦略に於いて教養のある兵家に勝るというのは少数例だろうね。
必ずしも諸葛亮と魏延に当てはまるとは限らないが。
600 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 00:14:56 0
むしろ教養ある兵家で名将って少ないな〜?
古来軍事的天才は余計な教養は持たないのに多い
持論が正しいと思い込み異論には声を荒らげるマニアのスレ
孫武
孫濱
呉起
管仲
楽毅
項羽
曹操
紆余曲折はあるが皆学問を修めたり、商売をしていたり、累代武門の人間だよ。
本物の天賦の才こそ稀なケース。韓信や霍去病か。
まあ魏延に教養が無かったかというと、断定は出来ないのだが、
とにかく魏延の長所とされるものに「戦略眼」はない。
>>602 楊儀に庸奴とか罵られてるし教養ある方が怪しい
それもそうだっけ
>>600 三国時代の名将で無教養なのってほぼ居ないような…
王平・・
あれは文盲という意味ではそうだけど、
口述筆記させた文は道理に適い、
史記、漢書を人に読んでもらって大略をつかみ、論じては要旨を捉えていた
とあるから、まったく教養がないか、というとどうだろう
教養の範囲をどこに定義するかが問題だけど
どっちにしろ魏延には大した実績なんかないんだよね。
郭淮に勝ったぐらいか?見所って
>>608 実績は詳細不明だが蜀入り時、漢中攻防戦の時にあったらしい
ただどういう傾向の能力か、どういう傾向の活躍かってのは不明なだけで
>>609 そういう、詳細も出典も不明な事柄を『あった』とは言わない。
>>610 いや正史に「功績があったので」という趣旨の事は書かれてるよ
「どんな功績をどうやって挙げたのか」が不明なだけ
612 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 10:39:06 0
>>595 敵地に深く侵入すると、
孫子でいう重地という状態になる。
敵に取り囲まれた状態になる。これはいち早く待避しないといけない。
実際問題として、支配権も無い敵地に深くは入り込むなんて芸当は
難しいのさ。そいつは計画ではなく、賭けになってしまうからね。
諸葛亮だけでなく、魏や呉の武将もそんなことはしないだろ。
それが当時の現実だったのさ。
613 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 11:26:29 0
>>585 記録には無いけど、
西方にもある程度の守備陣営があったと思うよ。
無ければもっと奥に侵攻できたでしょ。
第一次北伐で侵攻されているから、第五次北伐時では全くの無防備なんてこと
はないと思うよ。ま、魏軍の西方軍が到着するまで持ちこたえるくらいの配慮
はあったと見るが妥当。魏もウカウカはしてなかったと思うけど、それなりに
備えはしてたでしょ。
それと退路を無視して中入りは無理でしょうね。
中入りしても、敵軍が野戦を避けて遠巻き包囲していったら悲惨な結果に
なるからね。屯田して兵糧の確保と退路を確保した上での侵攻は妥当だと
思うよ。昔の日本軍では地図を見ただけで無謀な作戦考えた人もいたけど
ね。
>>612 実例はいくらでもあるんでセオリーだけでの否定は難しいよ。
公孫サンの南進とか袁紹の官渡戦とか劉備の入蜀とかだってそれでやってる。
同じことやって失敗したのが曹操の烏桓征討。
張遼の奮闘でまぐれ勝ちできたけどね。
曹操はかつて囲魏救趙だと言って黒山賊を大破したこともある。
要するに現地勢力が寝返ったら敵地が敵地じゃなくなるわけね。
615 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 13:35:19 O
北伐時に現地勢力が寝返る見込みは?
616 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 13:55:15 O
実際寝返ってるよね
天水とか
617 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 17:10:07 0
【文化】 「三国志好きは、ゲームから入るからかアキバ系のオタクが多い」 ジャニーズ系顔のひきこもり男性、三国志の遺跡めぐり本出版へ
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1228201073/ ★遺跡めぐり旅行記「三国志男」出版 さくら剛さん きっかけは「脱・ひきこもり」
・自宅で過ごすことが多く、ゲームばかりやっているという男が、一念発起して海外を放浪する
旅に出た。目指すは、「三国志」の舞台である中国の遺跡の数々。小学生のときにテレビゲームで
三国志の世界にはまり、以来20年にわたってゲームや漫画などでその世界観に親しんできたという。
そして、「赤壁の戦い」から1800年の今年、旅の珍道中をつづった“旅行記”『三国志男』を出したのである。
三国志男こと、さくら剛さんは昭和51年に静岡県で生まれ、名古屋の大学を中退後、お笑い芸人を
目指して上京した。しかしすぐに挫折し、“ひきこもり”生活に入った。
「今日、こうして人と会って話すのは2週間ぶりです。電車に乗ったのもいつ以来かな」
身だしなみに気をつかうタイプじゃないと思いきや、アイドルグループ「嵐」の二宮和也に少し似ている。
何度か、そう指摘されたこともあるのだという。出版社広報の女性も「あっ、そういえば…」。
中国を180日間旅して回ったが、当初は1〜2カ月で帰るつもりだった。が、収集癖に似たような
生来のこだわりが思いとどまらせたようだ。「遺跡を回り出したら、とまらなくなってしまった。あらかじめ
大まかなプランを立てはしていたのですが、やっぱりあそこにも行かなきゃとか」
蜀の武将・趙雲の大ファンで、彼が大活躍した「長坂坡の戦い」の舞台となった遺跡などでは興奮の
連続だったという。趙雲はこの戦いで、主人の劉備の子・阿斗を懐に抱えて戦い、見事救い出した。
「その遺跡がある長坂坡公園周辺を回るときは、事前にかなり下調べをしましたよ。阿斗を趙雲に
預けた母親が身を投じたという井戸から出発したのですが、その井戸は人の体ギリギリサイズの幅で、
『ホントかよ』とつっこみたくなりました」。事実、『三国志男』の中でつっこみを入れているのである。
(
>>2-10につづく)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081202-00000091-san-soci
618 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 17:11:38 0
この秋、「赤壁の戦い」を描いた映画「レッドクリフ」が公開された。「大三国志展」など各地で三国志に
まつわるイベントも盛りだくさんで、14日には初の「三国志検定」が行われる。萌えアニメや
ゲームも登場し、9月には「神戸三国志伽哩」というレトルトカレーまで発売された。こうした一連の
動きを、“三国志男”はどう見ているのか。
「大歓迎です。僕の中で、『三国志』好きはオタクなのです。あるテレビ局が番組で三国志好きを
集めたところ、ほとんどがアキバ系だった。ゲームから入る人が多いからかな。でも今回のブームで
その裾野が広がれば、もっと自由に三国志を語れる雰囲気ができるのではと、実は期待しています」
なお、ブームにあやかった(?)『三国志男』はすでに3刷まで増刷され、1万7000部を出しているという。
ところで、自称ひきこもりの彼がどうして旅に出たのだろうか。
「ひきこもりから脱却したかった。友達もおらず、さすがにヤバいと思いました。お寺に修行に行く感覚で
出発しました。自分をキツい環境にほうり込めば、何かが変わると期待していましたね」
しかし、半年たっても何も変わらなかったという。そして、30年も体に染みついた性格がほんの
数カ月で変わるわけがないと、悟った。
「でも旅はいい経験になりました。これまで三国志を『ドラゴンボール』や『北斗の拳』と同じように
フィクションとしてとらえていたのですが、中国で諸葛孔明の墓なんかを実際に見て、自分の中で
史実とフィクションの境目がはっきりした。ゲームをやる場合も、臨場感という別のステージを
楽しめるようになったところです」(以上、一部略)
619 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 17:21:28 0
袁紹とか公孫さんとかは軍閥でしかない。
領土というよりも、勢力圏といった方が適切。
どこまで統治できてたか疑問。群雄割拠時代と赤壁戦以降とは
戦争の質た違うと考えた方がよい。劉備の入蜀も益州の統治者があまりに
バカすぎたから可能だっただけで、普通の頭なら劉備を引っ張り込んだりしない。
しかも兵員や軍需物資を供給してやるなんてね。
諸葛亮が魏と戦ったような国家間の戦争とは質が違うよ。
第一次北伐で敵に備えがないから天水などを一時的に得ることができた、
それ以降は魏も蜀の侵攻に警戒しているから、基本的には周りの敵陣営を
無視して敵領土に深く侵入するのは不可能になった。
最後の北伐だって大きく中入りは難しかっただろう。
退路を断たれる危険もあったしね。
>>619 俺が言ってるのはセオリーだけじゃ計れないってことだから、
それだけ言い訳が必要になるってことは、やっぱセオリーだけじゃないってことだよ。
個別の状況からの判断になってくる。
621 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 19:50:34 0
魏延の不満はどこにあったのか。
孔明に決して干されていたわけではない。
個人的武勇もあり(一騎打ちなんかしなくて強いやつがボスなら兵は安心しただろう。)、現場の指揮官としては頼もしかったのではないか。
ただ、魏延は自分の才能、つまり戦略眼に自負するところの有る人間だったのだろう。
そのあたりが彼のプライドの高さと結びつくのだと思われるのである。
実際、彼にはそういう能力があった。(と思う。)
入蜀や漢中制圧時にはその才能をみせたに違いない。
だから劉備は彼を抜擢したのだ。
ただ惜しむらく。
北伐時には彼のそういう自負心を満たす様な機会はなかった。
現場指揮官としての役割のみを求められたのである。
622 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 19:56:55 0
おそらく劉備の生きていた頃はかなりの自由があったのだろう。
伸張期でもあったしね。
「おう。魏延、それおもしろそうだな、じゃあ一遍、やってみろや。」
そんな感じではなかったか。
623 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 20:18:06 0
>>621 魏延は特に戦略を披露したという記述はほとんどないよ。
長安奇襲作戦も信憑性の低さが指摘される『魏略』が出典だし。
漢中総督になったときも、勇ましい言葉で賞賛はされたけど、何か戦略らしき
ものは披露していない。同じ叩き上げでも、魏の張コウみたいな蜀軍の皆恐れた
将軍という感じではなさそう。ちらかというと関羽や張飛のスモール版といった
ところ。
諸葛亮が死去し、引き続き魏延に北伐の指揮を任せるなど朝廷が許す可能性は低いし、
自分が煙たがられているのに、諸葛亮の後継者として他の諸将が望むことなんかがあり得ない
ことを読めないところを見ると、やはり戦略眼があるとは言えない。魏延のしたことは反逆と
見なされても仕方がない行動で、こんな幼稚な行動に出てしまう将軍は流石に蜀の全軍を指揮
して北伐など到底不可能としか言いようがない。プライドの高さは実質以上の自信過剰だった
のだろう。
624 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 20:43:30 0
会った事も無い遥か後の世の人間にここまで馬鹿にされては魏延もさぞ悔しかろう。
625 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:02:34 0
ところで正史を読んでイメージが変わったのが劉ショウ。
決して凡庸でもない、腑抜けでもない。
結果をみればバカボンということかもしれないが。
626 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:09:16 0
>>624 楊儀の行く手を阻もうとして、王平に一喝されて配下の兵が逃げ出した事実。
兵隊にも魏延に非があると思われいた。そんなことも読めなかったのは知略が
無い証拠だし、戦略眼など無いと言ってよい。大体、何を根拠に自分が諸葛亮
の後継者に推されると思っていたのか不明。
627 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:13:08 0
やっぱ諸葛亮が魏延に別働隊を任せなかったのは正解じゃない?
漢中の国境線を援軍到着まで守り抜くが精一杯といったところでしょう。
過剰な自信を持っていなかった王平の方が能力的には上。
>>626 不明じゃないんだが
普通に将軍としては蜀で2位番目の地位に就いていたのは確かだ
1位は諸葛亮だから諸葛亮がいなくなれば軍のトップは魏延で間違いないから
政治的に上手く立ち回れば後継者とは言わないが軍に限って言えば掌握可能だった
っていうか、魏延の主張は「遠征は俺がいるから継続しようぜ」であって「俺が後継者」じゃないでしょ
なぜか魏略では諸葛亮に後を託されたのは魏延だとされている
これは全く根拠のない流言なんだろうか
それともクーデタを起こした楊儀やヒイらによって隠された真実を伝えてるのだろうか
630 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:49:30 0
先主に漢中を保つ秘策を捧ぐ。これ彼の智なり。
その配下が故郷を慕ふるがため彼を離るるを知って咎めず。まさに仁なり。
陳倉において王双を斬る。これ勇なり。
大(曹操)につかえずして小(劉備)をたすく。これ侠なり。
事成らずして敵に奔らず、甘んじて誅をその身に受く。これ忠なり。
馬孟起との友誼を忘れずして、その甥にその頸を授く。まさに義なり。
まさに魏延文長こそ智仁勇侠忠義を全て備えた得難き人物であったと言えよう。。
631 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:53:49 0
>>629 『魏略』の記事のいい加減さの一つだろ。
長安奇襲案の相当に怪しいというところだ。
>>628 魏延を遠征継続するというだけと考えていても、
蜀が全力で動員した軍勢を任せるということは、実質後継者にしたということと同義。
軍権はそれだけ重かったわけだ。楊儀だって撤退完了したら、即刻全軍の指揮権は無くなった。
魏延はそこら辺の意味がわかっていなかった。蜀では大規模な遠征の指揮官は政治・軍事を総攬
する宰相クラス。一階の武人でしかなかった魏延に任されるわけもない。そんなことも理解
できずに、楊儀への個人的憎しみを爆発させて墓穴を掘った。最初から器ではなかったわけさ。
その後に逆説の接続詞はつかないか?
>>631 いい加減さ、で終わらせて思考停止していいんだろうか?
捏造だとしても、どうしてそんな捏造をやったのか、どうしてそういう流言があったのか
もちろん、魏側とすれば諸葛亮後の政権担当者が悪者であるほうが政治宣伝的には好都合だから、ヒイやキョウイが正当な後継を倒した奸賊となったほうがいい
しかし、だとしてもそういう流言が説得力を持つ程度には、魏延は諸葛亮に信頼されたNo2で、諸葛亮死後に指揮を引き継いでも不思議じゃないと魏でも思われていたということだな
634 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 22:06:23 0
きっと孔明がさ。
「わたしのあとは魏延ちゃん、あんたが引き継ぐんだからね、がんばってよ〜」とか言っておだててこきつかってたんでそ。
635 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 22:19:17 0
まさに孔明は元祖悪人上司と言ってよいのぅ。
小学生だから、ここはスルーだ
638 :
世界@名無史さん:2008/12/02(火) 22:27:34 0
>>636 いいえいいえ。
あなたのキモさには到底及びませんです。
>>631 同意義ではない
全然ない
丞相府は別に存在してて権能がそこに集中しているから
軍だけ引き継いでも後継者足り得ない
軍と幕府の両方の権限を握って初めて後継者だろ
まあ、諸葛亮亡き後の漢中軍権の後継者として車騎将軍呉懿が存在するわけだから、
軍権を握る=宰相クラスと直結するわけではない。
とはいえ蜀漢にとって漢中軍権は極めて重く、魏延がそれを握るのを
官僚士人達が望まなかった、ましてや北伐続行など何をかいわんや。
というのは確かだと思う。
丞相府が漢中に置かれた際、魏延は督漢中じゃなくなってるというのも大きいな
つまり北伐軍は丞相府の軍に区分されるわけだ
だから撤退時には丞相長史であり、
遺言に従った楊儀が撤退を指揮するのは成り行きからいえば当然ということになる
逆にいえばそういった国家機能の仕組みを全く理解できていなかったという事から
魏延の器があくまで前線の猛将レベルに留まっていたという良い証左になるんじゃないかな。
魏延はいわば戦略家の下でこそ力量を発揮するグエン・バン・ヒューだよ。
>>612>>613>>619 「重地」の解説は、諸葛亮が「武功に出て而して東」した場合についての反論なんだろうけど、
それがどうなったかは解らない。if話だからね。
それはさて置いて異論三つ。
孫武の理解を間違えている。
孫子は九地篇で「絶地」「重地」など地形の不利を説いているが、それを踏まえて、
敵主力と一戦し打ち破る戦略を
つまり、「敵領土深くに迅速に進入し、敵地の穀で兵糧をまかない、敵が防備体制を崩す拠点へ
進軍するなどして主力を有利な地点へ誘引し、一挙に決戦すべし」だ。
後漢末三国では孫武の時代と政治状況が異なり、重地に侵入する利点は少なくなったようだが、
「敵地深く侵入して決戦」というのは、中国の古典兵法では、一か八かというような賭けではなく、
むしろセオリーなんだ。
さて三国時代の侵攻作戦では、「国家間の戦争」だということがまさに問題になる。
数万を擁する侵攻軍が『敵に取り囲まれた状態になる』には、侵攻軍に対抗できる「戦略的な機動軍」が
防衛側に複数存在しなければならない。
しかし、天水郡六県は晋代で戸数八千五百。五掛けして一城辺りの人口七千人強。九割は農民だろう。
計画して徴兵し、太守の指揮下に置くならいざ知らず、敵の浸透を阻む国境防備を担うにはまったく足りない。
敵の数万の侵攻軍の存在は圧倒的で、これを包囲するに足る兵力など雍州や涼州には存在しなかった。
編成し得るとしてもこれを統一して運用する刺史クラスの指揮官が必要になる。
それと続発する反乱に対応するため、三国時代は後漢代に比べて州府の権限が大幅に増大した時代だった。
反乱に対応するために刺史が動くことが多くなり、州都督諸軍事が設けられて蜀呉からの任務を統括するようになった。
州郡県と連なり増大した官僚を削減するための夏侯玄の建議では、省略されるのは郡であるべきとされた。
その州軍だが、北伐の時代、雍州刺史は郭淮、陳泰、王経と、いずれもそれなりの兵力を有していたと思えるが、
上位者の州都督諸軍事と同じく雍州東部に駐屯しており、西部の国境防備の任には就いていなかった。
さらに、当時の雍州は輪を掛けて政情不穏の地域だった。
実数は不明だが、官府に把握されない不服従の部族が多くの人口を抱えていた。
代表的なのが羌族。郭淮が官の人口に組み込むために討伐を繰り返したが、そのために
羌族と繋がりがある姜維が侵攻すると「敵に取り囲まれた状態」になるどころか
魏に叛して兵站や雑役を提供することになった。
そして諸葛亮以後の隴西防備について。
姜維はおそらく、孫武の九地篇の理論をこの時代で実践しようとした将の一人だろう。
隴西は敵国奥深くとは全く言えないが、それでも魏の主力軍を誘引するに足る土地だった。
祁山付近の防備を突破乃至迂回して羌族から兵糧を確保し、費イの時代には兵一万で涼州西平郡
まで到達している。その後全権を握ると、狄道・河関・臨?と雍州最西部の三県を抜いた。
救援にやってくる郭淮、陳泰の軍を破ることは出来なかったが、魏二将もトウ水流域を行き来し
渭水を船で通行までする姜維の本隊を補足撃滅することは、ついに出来なかった。
拠点の防備の例としては、ケ艾が狄道・隴西・南安・祁山に触れているが、これは渭水からトウ水流域に
広く点在する要所というべき場所で、国境付近とはいえず、しかも守り切るには兵力が足りないと
ケ艾自身が語っている。
これらのことから、250年代に至っても、蜀漢には「魏領土(雍州)奥深く」に進入する能力と環境、
なにより戦略的選択肢が備わっており、魏には隴西国境近くに於いてそれを防ぐ力がなかったことがわかる。
つまり諸葛亮が隴西を志向して戦略を立てていたのは大正解という事だね。
コピペする文を間違えた
>>643 7、8行目
孫子は「絶地」「重地」など地形の不利を説いているが、それを踏まえた上で
敵戦力を撃滅する戦略を説くのが九地篇の眼目だ。
ね。
>>645 方針としては良いのだろうね。しかも諸葛亮の時代ではもっと東の上ケイなどを戦場に出来ている。
一次では馬謖の失敗、四次では諸葛亮の現場での慎重さと司馬懿の果断さのために結果が出なかったが。
第四次の場合は天災(長雨)と人災(李平)という気もするけどね。
649 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 06:21:41 0
相手が決戦に乗ってくれればの話しだよな。
自分に有利な局面に敵を乗せて勝つために全ての兵法軍学が存在するんだよ。
何言ってんだ
いつまで詭弁のガイドラインに忠実なヤツ相手にしてんの?馬鹿なの?死ぬの?
653 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 17:34:13 0
>「敵領土深くに迅速に進入し、敵地の穀で兵糧をまかない
この辺が孫子が二流の戦略家である所以だろうね。
戦争状況にある以上、敵側も糧食確保に前もって動いていること、
さらに一歩進んで積極的な徴発・焦土戦術的なものを取っていたらどうするのか、
不案内の敵地で円滑に確保する事の困難さ、食糧確保に費やされる事での
本来の戦争戦略にかかる負担と無駄、こういった事を考えればリスクが極めて高い。
秀吉が大返しの時前もって早馬で沿道沿いに、
食料や補給の確保させておいた優れた兵站重視の姿勢と対照的。
朝鮮出兵では輸送のゲリラ戦とかでは失敗はミスだったが、それでも孫子のはじめから
「敵地に穀に負う」という戦略思想で行くのとは根本的に異なる。
秀吉が一流とすれば孫子はかなり見劣りするね。
>>653 あのさー、いつから俺理論に基づく史上の人物の戦術能力を批評する展開になったの?
今やっているのは、北伐期の魏蜀の将達がどのような目標、環境、理論によって攻防を繰り広げたかであって、
彼らと他の時代の誰かと比べて優劣を論評することではないはずだが。
その上で乗ってみると、戦術というのは、時代によって変化する。
その時代と土地の政治、経済、産物、気候、将兵の文化・心理・習俗によって戦術理論の最適解は異なる。
ナポレオンの機動戦術が17世紀の傭兵達に運用できたか? 一次大戦の技術水準で電撃戦が行使できたか?
孫武の戦術能力や理論を批判するなら、それが春秋期の社会や国家に適合しなかったことを論証
せねばならないのであって、まさか秀吉を持ち出すとは、ナンセンスもいいところだ。
更に言えば、古代において、兵糧確保の基本は現地調達。
長期滞留するなら周辺に兵員を賄うに足る生産力が無ければいけないし(だから軍屯が発明された)、
侵略軍は早期に支配を確立して軍隊に飯を食わせる政治システムを作らねばならない。
大軍であるほど周囲の食料を吸い上げるので、枯渇を避けるために土地を移動し続けるということも起きる。
遠距離大規模な兵站線が作られるのは、大抵、大動員が掛けられる侵攻作戦のときだ。
多く農民を徴用して行われるこの体制は長くは続けられない。自国の農業に負担が掛かりもするし、
輸送に徴用される人員や牛馬自身が兵糧を消費し続けるからだ。それも莫大に。
食糧運搬というのは、それに『費やされる事での 本来の戦争戦略にかかる負担と無駄、
こういった事を考えればリスクが極めて高い』ことなんだよ。
それが完全に解消されるのは近代国家の高度な生産性と輸送力が成立してからのことだ。
だから旧日本軍は時代遅れの現地調達をやって失敗した、と言われる。
孫子というのはそういう事情を考慮に入れて、軍を編成し、開戦、決着までの軍隊の一連の運用の手順が
記された書だから、一度読んでみるといい。
秀吉の大返しの場合、道沿いに予め兵糧を用意できたのは自分の勢力圏内だからだろうね。
それは優れた判断と手腕だけど、今回の話題の引き合いに出すのは不適格だよ。
>ナポレオン
ナポレオンの強さの要因はいくつかあるが、その中でも徴兵制による大量の兵員の動員力と
驚異的なまでの機動戦術があったとされる。
そしてナポレオンの機動戦術は補給部隊を切りつめる事にあった。
現地調達や徴発を主体としたため、スピードの負担になる兵站要員を最小化したわけだ。
しかしこれではロシアなどでは焦土戦術という相手の攻勢的な補給戦術をとられたため
大軍はかえって負担となり、補給が原因で一気に壊滅した。
>勢力圏
いくつか勢力下にあったとしても当時の秀吉の行軍速度は常識はずれの速さだったわけ。
だから光秀も十分な用意のできないま迎撃戦を強いられ敗北した。
仮に秀吉が退却ルートの兵站面に気を配っていなかったら、途中で徴発や略奪に頼らざらなくなり、
その分行軍速度も弱まり、光秀に利を与える事となってしまう。その辺がすごいわけ。
また鳥取攻めの時の様にあらかじめ現地の食料を買占めさせたりとか、
領民を城に追い込んで補給に更に負担を与えたりとか、平坦面での賢さを示す話が多い。
ナポレオンと同じく大兵力動因に特徴あるが、ナポレオンとは違って補給にもしっかり目を配っており
世界的に見ても一級の戦略家である事を示す。
>>654 だから兵站の重要さが分からなかった孫子は二流であり、
時代を越える書物としては一段劣ってるって事。
しっかり兵站に目を配っていたが、輸送の技術面で失敗するのと
最初から兵站思想が無くて略奪・徴発目的で失敗するのとは大きく異なる。
孫子は後者だ。
戦費圧迫や輸送の困難を踏まえて兵站の重要性を指摘した(現在残る)史上初めての軍学家の孫武を
「兵站の重要さが分からなかった」と言う時点で論外だなあ。
もういいから元の話に戻ろうよ。
正史は読んでないとレスしちゃいけないのに、孫子を語るのに孫子は読まないんですね
ナポレオンの強さは近代国家的な国民軍にあったと言われる。
その国民軍は、近代的な強力な支配力を持ったロシアが総動員して仕掛けたかつてない規模(多分)の焦土作戦に敗れた。
(広域的な意味での)戦術が時代によって攻防相克しつつ変化していくという良い証左だね。
>>656 孫子読んでないんだな
格好いい
補給は重要
でも自前で補給するとお金掛かるから略奪しようね!
って書いてあった気がするけど気のせいなんだろうね
詭弁のガイドライン
例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合
あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
1.事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
2.ごくまれな反例をとりあげる
「だが、尻尾が2本ある犬が生まれることもある」
3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
4.主観で決め付ける
「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」
7.陰謀であると力説する
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
8.知能障害を起こす
「何、犬ごときにマジになってやんの、バーカバーカ」
9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
10.ありえない解決策を図る
「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」
11.レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
13.勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「犬が哺乳類ではないと認めない限り生物学に進歩はない」
16.全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検査するのは不可能だ(だから、哺乳類ではない)」
17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」
18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは犬の広義の非哺乳類性であり、哺乳類であるかどうかは問題ではない。話をそらすな」
19.権威主義におちいって話を聞かなくなる。
「生物学の権威じゃないおまえには犬について議論する資格が無い。生物学者に意見を聞きたい」
さて何個該当するかな?
664 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 21:10:19 0
こういう判断材料がすくない話題で正論なんて出てきませんし出せませんよ。
水掛け論ってやつですわ。
こういう議論に勝つか負けるかってのは最早詭弁も含めたスキルの問題だからな。。
はい6番
666 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 21:25:04 0
ではあんたは11と18かな。。
あんたって誰w
他人の境界が区別できないお子様に2chはむずかしいwww
668 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 21:38:58 0
おまえさんのこと。
>>666 今までの行いを見る限り全てに当てはまるお前が言えた口かよ、と横槍を入れてみる
語調や論調、知識の無さと知性の無さが同じだから、すぐ分かるわ
670 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 21:43:51 0
>>669 あれ?おかしいな?
今日うまれてはじめて「2チャンネル」というものを知ったインターネット初心者の私になんて濡れ衣を。
こわいとこですね、ここ。
>>670 こやつめハハハ
嘘をつくにしてももう少しマシなのがあったろうよw
672 :
世界@名無史さん:2008/12/03(水) 21:56:51 0
つまんねえ流れだ
残念ながら、この手の匿名同士の議論で、『判断材料が少ないのでこれ以上は水掛け論』
という高レベルまで話が煮詰まることは稀だ。今回も水を差された。
まあ、それでもついやっちゃうわけだが。
高レベルな議論だったか?
最初から不毛なやり取りでしかなかっただろ
だから稀なんだよ
補給の大切さを分かっている、しっかり行とうとしているが、ゲリラ、船舶等々現場の運営上の問題でできないというのも
失敗は失敗でありミスには変わりない。しかし兵站の重要さを認識上でのミスであるのだから
長期的には改善のいかんによる。基本的な姿勢は正しいのだから。
対して孫子のように敵地の略奪・徴発で補う戦略思想は
その根本的な面での欠陥があり、失敗は失敗でも小手先の改善ではすまない。
致命的、深刻なものがある。基礎的、発想の土台の傷であって、長期的に見れば破綻は免れない。
現代人が解釈するとき、「孫子」には二通りの意味が生まれる。
一つは春秋時代の戦争形態を知る一級の史料として。
もう一つは、三千年前から不変と言われる戦略の基本則の宝庫として。
孫子に記される文言は春秋期特有の応用実践のためのものだが、
時代を異にして読む者はそこから無数の戦略原則を導き出すことが出来る。
「智将は努めて敵に食む」とは自国の国家経済の消耗を避けて敵地の経済力と物資を利用し
同時に敵を消耗させよという意味であり、「彼を知り己を知らば」は情報分析と客観性の指摘、
「先ず勝ちて先に」は戦場で会敵するまでの戦略的選択の重要性を説いている。
「敵に食む」も時代によって実地の応用は変化を遂げてきた。ヴァレンシュタインの軍税や
秀吉が現地の食料を買い占めたのもその一変種で、広義に見れば占領地の生産地化も
それと言えるかもしれない。
経済本などに孫子兵法を銘打つものが多いのも、そんな不変の基本則を学べるためだ。
(そんな本が孫子を正しく解説しているかは別として)
三国時代の武官達も当然孫子を読んだだろうけど、彼らは当然、自分の時代と環境に合わせて
解釈し、適切な基本則を選択して有効な応用方法を導き出したことだろう。
後代の人間が孫子を読んで、文面を一歩も出ない解釈しか出来ずに自分の時代性を無視した
略奪に及んだり、そんなことは不可能だからと破棄したりしたとしたら、それは漫画的な硬直石頭参謀だよ。
孫子についてはこんなとこ。
俺もう疲れたからあとはパス。
>>677のターン
「詭弁のガイドライン・パターン12を発動!」
「このトラップは対戦相手の出した攻撃を無視し、1ターン時間を巻き戻し同じ攻撃を繰り返す効果がある」
「な・なにぃ!ならば俺のターンもう一度ドロー!ふふふ、コレで貴様も終わりだ。食らえ!」
※繰り返し
680 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 00:17:20 0
民の種籾を取り上げて兵糧と成す様であっては大義の有る戦とは到底、申せますまい。
た 種ぇ
682 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 00:23:54 0
とりあえず魏延に嫉妬した諸葛が奇襲案を避けたということか
>>682のターン
「詭弁のガイドライン・パターン4を発動!」
「この攻撃は対戦相手の手札からランダムで一枚のカードを強制的に場に召還する効果がある」
「な・なにぃ!オレのカードが勝手に防御態勢で場に出ていくだと!」
あ、春秋時代の兵法家としての孫武をフォローしておかないのも落ち着かないので出戻り。
>>678は兵法書「孫子」が何故「時代を越える書物」として三千年の命を保っているのか、
についての俺なりの理解。
で、孫武の実地戦略としては、作戦篇にて遠征軍を進発させる段の留意事項を説き、
「兵は拙速を聞くも、未だ巧及をみざるなり」
と謂い、国家財政に過度な負担を掛ける長期戦を戒め、速戦を説いている。
ただでさえ軍の編成、武装、兵糧の確保と進発までに莫大な資金が投じられるのに、
それに加えて長期戦で それだけで国家が転覆してしまう。
そのため、経済的負担を軽減するための具体的な策として、次の段では敵地では「努めて敵に食め」と説き、
現地で調達する穀物一鐘は自国から輸送する二十鐘に相当すると言っている(これは形式的な数字だろうけど)。
本国から三度も兵糧を輸送することがあってはならない、また次の段で捕えた兵車や武器を有効に再利用せよとも謂う。
そして「故に兵は活を貴びて久しきを貴ばず。故に兵を知るの将は民の司命にして国家安危の主なり」。
と結論付ける。
「自国財政の収支と民衆の疲弊を鑑みた速戦即決」がこの篇の眼目だ。
兵站線を軽視して足りない分を徴発で補えと読んでしまったら、誤解どころか誹謗著しいものになるだろう。
685 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 19:38:11 0
>>682 魏延は武勇だけの勘違い将軍だろ?
だいたい、蜀の朝廷が諸葛亮の死後に魏延なんかに遠征軍の指揮を任せる
と思ってたところが身の程知らずの勘違い。せいぜい安全に撤退してこい
と言われるのが精一杯。日頃傲慢で周りから煙たがられているのに、自分が
支持されると思っているのも勘違い。諸葛亮の遺命通りに撤退する本隊を
阻もうとするなんて、反逆と見なされてもしかたがない。こんな判断力が
欠如した将軍に総司令官なんて無理。人に使われてなんぼの人だよ。
686 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 19:54:47 0
いつまでやってんだか。。
つか。
魏延の死後に祠も建てられたんだから民衆からはいい司政者であったんだろ。
べつにむちゃくちゃな人間でもなかろうに。
われらに魏延をけなす資格無し。
あんたもおれも死んでも祠なんかたたんだろ。。
>>685 コレ、今まで魏延持ち上げてたヤツだろ。
文体を変えても同じ感じがするな。
しかし、その魏延を斬った馬岱は、魏延よりも強かったのだろうか。
正史では全然記述が見当たらないのだが、三国志には、結構大きな
業績を上げているのに一度きりしか名前が出てこない武将が時々
見られる。なぜ記述がないのか不思議。
単に資料が残っていなかっただけか、あるいは散逸したか…
それ以降歴史の流れに関係してこなかったんだろ
三国志にはさっぱりだが、晋書には牛金に敗れたとある。
まあ晋書を信用できるかどうかは別として。
漢中に逃げだそうとした魏延を斬ってるわけだから、
第五次北伐には参加してたと見るべきか。
魏延は先に南谷口にたどり着いて迎え撃とうとしてるし、
馬岱が本土から楊儀に送られた増援部隊って事はなさそうだ。
資料を全て信じれば、五次北伐に従軍するが目だった戦績はなし。
魏延を討ったが、後に軍を率いたら牛金に敗北したという事になるな。
>>688 馬岱は実は、諸葛亮の死の翌年に出陣して牛金に撃退されたりしている。
まあ、軍の瓦解した叛将を斬ったというのは、史書に一文で書かれるくらいの業績だということだろうね。
それだけでも大したものだけど。
一事を以って名を残した人物というと、馬超に包囲された冀城から単身援軍を呼びに行き、
捕まって援軍は来ないと言えと脅されたが、逆に城中を励ましてついに殺された閻温などか。
692 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 23:45:24 0
馬が牛に負けたのか。
>>691 後漢末にもそんな鳥居みたいなヤツがいたのか。
なんか隋末にもいたように記憶するし。
694 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 08:02:02 0
馬超の一族の馬岱なのか?
同姓同名の別人の可能性も・・・・・・・
>>693 春秋時代にも解揚という晋の大夫の例があるしね
696 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 11:29:09 0
趙雲が第一次北伐後に鎮東将軍から鎮軍将軍に降格になったけど、
これってどの程度の降格なの?
諸葛亮は丞相から右将軍に降格。
これで三階級降格だから、趙雲はどんな処分だったんだろ?
その話はもういいよ
>捕まって援軍は来ないと言えと脅されたが、逆に城中を励ましてついに殺された閻温などか
武田軍につかまって、援軍はこないといえ!と脅されたが、逆に
援軍が来る!とぶっちゃけて殺された
鳥居元忠とかいうやつの講談の元ネタですか?
定期的に趙雲の話題にしようとする奴がいるな。1人か2人か知らんが。陳到の奴と同一人物だろうか
元忠が長篠前に死んでたら、誰が伏見城で討ち死するんだよ
強右衛門だろ
とりあえず講談の元ネタなのか?
>>699 中の人は、某光栄の趙雲マニアさんじゃないでしょうかW
703 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 15:28:42 0
>>699 うーん。
まあ、どうでもよいのでは?
とりあえず正史に沿った話題だし。
孫子の話を延々とやっているよりマシだ。
704 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 15:40:41 0
>>696 魏の官制でいくと四鎮将軍は二品。
鎮軍将軍は三品。だから一階級降格となる。
ただ蜀は魏と官制がちがうようで、四鎮>四征のようですし、
四鎮・四征よりも前後左右の方が階級が上のようです。諸葛亮は
降格後も実質蜀のトップですから、官位的に同等なのは前将軍の
李厳のみ。後は諸葛亮よりも下の官位だと推察されます。
鎮軍将軍は後に劉禅の寵臣の陳シがなっています。
陳シは実質的な権力は大将軍・姜維よりも上だったと言われています。
こういう寵臣がなる官位であることを見ると、それなりの格式の
将軍号だったのではないでしょうか。
705 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 18:19:04 0
たしかスネ夫のご先祖が鳥居強右衛門だよな。
706 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 18:51:31 0
磔に成った褌一丁のすねえもんの姿をデザインした旗指物が戦国時代に既にあったと聞く。
五代末にもいるよ。
元ネタといえば、元ネタなんだろうね。
708 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 21:05:29 0
>>691 『晋書』はどれだけの信憑性があるんだろうね?
確か牛金が不可解な理由で毒殺されとか書いてあったような・・・・・
蜀志にも魏志にも馬岱が魏領に侵入したという記述もない。
国境の小競り合いだから、陳寿も記事にしなかったという可能性もある。
710 :
世界@名無史さん:2008/12/05(金) 21:41:06 0
諸葛亮も決して知識人ばかり重んじていた訳ではないんだよな。
魏延もそれなりに昇進させてたし、知っている漢字が10字程度の
王平を街亭戦後には破格の昇進させている。
本当は諸葛亮も大局観のある将軍が喉から手が出るほど欲しかったんだよ。
楊儀と魏延を足したような文武兼備の人物が居ればよかったんだが。
多分、ケ艾や陸抗みたいな人材が手に入ったら小躍りして喜んだんじゃない?
つ【姜維】
軍事の枠を越えた大局観とはいかないが、
諸葛亮が姜維に与えた仕事と官職を見ると
後には大軍を統御し運用する役割を期待した
のだと想像できるし、その点では姜維は
北伐戦線に参加した誰よりも上手くやった。
実際に姜維は諸葛亮から褒めちぎられてたな
まさかあんな戦闘狂になるとは思わんだろう
諸葛亮は姜維のことを「馬良をもしのぐ」みたいなことを書いていたけど、
うっそだろー、オメー、人を見る目あんのかよー…と思ったのは俺だけではないはず。
むしろそこは、用いてすぐに兵の教練に当たらせ、のちには護軍や監軍を任せる姜維と
同種で比較できる人物として扱ったという点で、馬良の人間性に迫ることが出来る
数少ない取っ掛かりだと思っている。
717 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 06:04:17 0
姜維は政治との両立ができなかったということでしょ。
軍事的才能だけでは勝てんのよ。
718 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 07:12:19 0
>>712 諸葛亮は確か姜維を高く評価はしていたけど、
20年先のことまで考えていたかはわからんな。
むしろ姜維の北伐思想を醸成させたのは蒋苑時代でしょう。
蒋苑は後主に姜維を涼州刺史にしてくれと上奏している。蒋苑も遠征の
意志はあったが、病気で実行できないでいた。蒋苑伝を読むと、姜維の
北伐は諸葛亮死後の蒋苑時代に考えられた感じがする。
719 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 07:41:45 0
>>715 正史を読むと馬良も凄く活躍した印象はないぞ。
え、スネ夫の先祖は骨皮道賢じゃないの?
樊稠
世界史スレにも三国志スレがあるのか
樊稠とか徐栄ってここではどのくらいの評価?
723 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 12:51:13 0
内政の実績の評価はわかりにくいからなぁ、史書では。
でも沙マカを味方に引き入れたのが馬良ではなかった?
夷陵の戦いでしゃまかと一緒に戦死してるんだよね?
姜維って羌族を味方に引き入れているからそのへんで馬良さんと比較されたとか?
724 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 13:03:55 0
諸葛亮も馬良も姜維はみんな戦争大好きだね。
725 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 13:29:53 0
徐栄は立派な人物で有ったらしいね。
樊稠は兵士に信望があったので李カクに警戒されて殺された
馬良は外交能力は秀でてると思う。
孫権にも評価されているし少数異民族を味方につけたのも彼だし。
若くして亡くなったのが実に惜しい。
728 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 16:43:52 0
>>724 馬良は劉備に命令されただけだろ。
>>727 確かに戦死なければ諸葛亮の良き補佐役になったかもね。
夷陵の戦いは黄権と馬良を失ったのは痛い。黄権も蜀に残っていれば、
戦略面で諸葛亮に良き助言をしただろう。李厳みたいな不誠実な人間を
持ち上げて使う必要もなかったはず。
729 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 20:18:33 0
>>727 蜀は外交が上手い人多いよな。
ケ芝、宗預、費偉なんかは孫権に高く評価されている。
諸葛亮も赤壁の前には、孫権が決戦に踏み切らせるのに大きな役割を果たした。
諸葛恪と費イの酒席での悪口合戦とか目に見えるようで笑える
全容が知りたいくらいだw
確かに黄権は惜しかった
733 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 21:06:00 0
黄権は諸葛亮との信頼関係も厚かったし、
益州出身者だったからバランス的にもbQにふさわし人物だった。
夷陵の戦いも、劉備が黄権を側に置いて意見をしっかり聞いていれば、
あれ程の大敗にはならなかったかもしれない。何を思ったか主戦場から
外した。
有能な副将を傍に置いたら人材の無駄使いだろうに。
でも蜀漢全体で黄権がそこまで高い地位だったかなあ。
735 :
世界@名無史さん:2008/12/06(土) 22:04:47 0
馬良にとっては荊州は一族の故郷だよ?
そりゃ、必死になって戦った事だろう。
736 :
世界@名無史さん:2008/12/07(日) 05:22:16 0
>>731 関羽ですか?
まあ、張飛や魏延に外交させても同じですね。
737 :
世界@名無史さん:2008/12/07(日) 05:25:36 0
馬良の兄弟はそんなに優秀だったのだろうか?
名前が後世まで残ったのは馬良と馬謖のみ。馬謖は不名誉な
残り方だし。他の3人の兄弟は何処に使えたのだろうか?
皇族でも権臣でもないのに五人とも史書に名前が残るような出来杉兄弟なんて三千年でもそうそういるかよ
739 :
世界@名無史さん:2008/12/07(日) 14:06:46 0
そうすると諸葛亮兄弟は優秀だな。
三人は記録に名を残し、二人は伝記がある。
しかも違う国だからな。
諸葛亮は権臣じゃね?
まあ瑾と亮の兄弟はすごいけど
>>736 ハァ?何言ってんの?
関羽が外交において決定権を持った事はないよ
決定的な外交ミスしたのは劉備だろ
どんな?
743 :
世界@名無史さん:2008/12/07(日) 16:10:12 0
関羽が孫権とあまり融和的でなかったのは確か。
ただ、呂蒙は孫権に荊州奪取を進言しており、
隙を狙っていた。いずれは争う運命だったと思われる。
外交の決定権はなくても、基本路線をご破算にしたのは、関羽の態度じゃないのか。
そういうのを、外交感覚の失調というのだろう。
そもそも孫権は一旦和睦したとはいえ、荊州「奪還」の姿勢を明白にしていたからね。
「狗に虎の子はやれぬわ」は、その記述を信じるならば「そらぞらしいことを言うんじゃない」
というニュアンスに読める。それがなくとも孫権は荊州を攻めただろう。
が、呉と友好的でなければならなかった劉備陣営の基本方針からみれば、
関羽の態度は弁護できないが。
746 :
世界@名無史さん:2008/12/07(日) 18:47:59 0
その孫権に対して警戒心を緩めて守備兵を手薄にしたのはいただけない。
関羽ははじめから孫権を信用してなかったし防備もきちんとしていた。
問題は外交感覚とかいうより、陸遜を侮って兵力配置を誤ったこと。
それも外交感覚からくる戦略の不備では?
関羽の才略は、その末端の戦術に特化されて、大局観が足りなかったのは
多くが指摘するところだと思う。
戦争するにはまず、政治と外交が肝。
分権するなら、他人の意見を容れる度量も要求される。
さて、関羽の欠点とはなんだったか。
>>748 分権されてないし
軍事以外のことを関羽が担った事はない
そこが劉備体制の欠点というか、劉備がワントップすぎたんだよな。
古参で要地を任せられるのは武人ばかり、士人名士は新参で資格が軽い。
麋竺くらいの古参で、五十歳くらいで統治能力に優れた士人が一人いれば
荊州刺史を任せる選択もあったのかもしれないが。
751 :
世界@名無史さん:2008/12/08(月) 06:17:45 0
十数年前までは劉備は領土を持っていなかった。
そんな状態で士人名士が家臣になるわけがない。諸葛亮が使えてくれたのも
奇跡的だったろう。
「孫子が言いたかったのはそういう事ではない」というのは
君が無理やりえこひいきして解釈してるだけ。
「糧は三たびは載せず。用を国に取り、糧を敵に因る、故に軍食足るべきなり」
「饒野に掠むれば三軍も食に足る」
これを敵の物品の利用や、敵地での具体的な戦術の文章の中で語られれば
石頭の参謀でなくとも徴発・略奪の現地補給を連想するのは不可避と言ってよい。
>>653であげたようなリスクへの考慮が足りない時点でナポレオンと同じく二流。
あとナポレオンの勝因として挙げられるのは城塞戦を避けた事が指摘される。
城攻めになると、一気呵成にはいかず長期化する事が多い。そうなると当然兵站が弱く
徴発志向のナポレオンでは自ずから限界が出てくるわけだ。
野戦にしてもプロイセン軍が対ナポレオンでやったように
消耗戦術を使ったらどうするのか、消耗戦で長期化すれば兵站に負担がかかり、
遠征してる側が不利に追い込まれるのは必至。
時々、アホが朝鮮出兵を例に挙げて補給が無かったとか電波飛ばすが、
秀吉はナポレオンとは段違いにレベルが違う。家康というリスク要因がありながら西端にまで移動して城下町さえ建設して外交、兵站、情報の根拠地を作り上げている。二流のナポレオンとは格が違うわけ。
大軍による長期的な城攻めさえも何度も成功させ
補給の妙をうかがわせる話は賤ヶ岳の戦いでも報告されいる。
小田原攻めのときは局地的には補給の難があったような話もあるが全体としてはほんの少しの瑕僅にすぎない。少なくとも「略奪すればオケ」みたいなのが世界でも当たり前だっ状況を考えれば、
世界的に見ても超一流と言って間違いない。
ナポレオンや孫子を一回りもふた周りも上回るスケールの大きい一流戦略家なわけだ。
754 :
世界@名無史さん:2008/12/08(月) 14:56:17 0
経営で例えるなら
秀吉方式
「ライバル企業を倒せ。新設子会社や新部門を設立して会社全体で万全の姿勢を取る。
今までの経験から推測して十分な人員や予算も用意した。またその都度報告を行えばさらに追加の援助や補充は受ける用意がある。
とりあえず状況が落ち着くまで本社としても十分なバックアップ姿勢はとるつもりだ。
ただし未知の新規市場なので不確定要因も出てくるかもしれないので100%の保障ではない」
孫子方式
「ライバル企業を倒せ。本社の予算や人員を割くのはマイナスになる。
最低限の予算でいけ。補充はほとんど行わん。ライバル社の地盤地域で利益を上げ、
その利益でもって自転車操業すればよい。そうすれば自動的に相手の取り分も減るし、
「相手に食む」ならこちらは支出がゼロで済む。
なあに、俺の机上の皮算用だと利益は上がる見込みだから大丈夫だ、ガハハハハハ」
どちらが正しいかは言うまでも無い。
「是の故に軍に輜重なければ則ち亡び、糧食なければ則ち亡び、委積なければ則ち亡ぶ。」
補給の重要性を大々的に謳ってるぞ
「善く兵を用うる者は、役は再び籍せず、糧は三たびは載せず。
用を国に取り、糧を敵に因る。故に軍食足るべきなり。」
こちらは長期の出征による兵站の負担、出費の負担、人的資源の負担はよくないと言っている
「故に軍食足るべきなり。」は「敵からの略奪による補給があるから食料が足りるようになるんであって自前だけじゃ足りない」という意味
>>754 孫子方式はリスクは避けろ、だぞ
アホなこと言うな
初っ端が「戦争はやらん方がいい」で始まる兵書をなめんな
>>752 先に結論を出してから、時代と状況を無視して自分に都合良いところを抜き出しているようにしか見えない。
なんで孫子とナポレオンと秀吉の戦略を実地応用面で同列に語ることができるんだろう。まったく理解できない。
さらには、ナポレオンの戦略を素晴らしく通史的に語る価値があるなとど言った人間など誰もいないのに
一方的に持ち出して一方的に批判している。
秀吉の戦略を批判した人間など誰もいないのに一方的に持ち出して一方的に弁護している。
論点が分散して持論を無意味化させるだけ。何の意図があるんだろう。
いい加減スレ違いだからやめようや。
語りたい年頃なんでしょw
とりあえず言っておく
孫子もナポレオンも秀吉も正史・三国志とは関係がない
正史との比較検討に用いるならともかく
それだけで語るならスレ違いだ
兵站線・制海権保ってドロ沼の朝鮮戦役に延々補給なんて続けてたら早晩家康待望論が
起こって秀吉政権なんて死ぬまでもなく崩壊だろ。
755の孫子先生が言うがごとく愚策。
まあ孫子なんてどうとでも使える抽象的な書物だが。
761 :
世界@名無史さん:2008/12/08(月) 18:42:05 0
もちろんハナから兵タンを無視したわけではなくて重視してたのだろうけども。
曹操もカエサルもしばしば兵に窮乏を強いる様な状況で戦っていますね。
これは勝利への千載一遇のチャンスでは兵タンを無視してでも無理してでもつっこんだということと思うんですね。
もちろん、馬鹿な指揮官がそれをすれば無意味有害な根性論になるでしょう。
結果論では有るけども。
762 :
世界@名無史さん:2008/12/08(月) 18:45:25 0
でもここの人はやっぱ蜀が好きなんだね。
曹操と… カエサル??
ふ〜ん
764 :
世界@名無史さん:2008/12/08(月) 18:49:32 0
ちがいます?
>>761 日本人って兵站って概念が希薄なんだよね。
国土は狭いし土地が豊か。砂漠なんて無いしなw
だから先の戦争の時物凄い被害を出した。
決戦を強いるには現地略奪がベストなんだよ。
兵站線保つってことは、自由な機動が困難になるから。
背後連絡線気にしながら自由に騎行戦術なんてとれないでしょ。
騎行戦術取り続ければよっぽど恐れられてない限りは、戦術的対応をとらざる終えない
放置してりゃ国内での求心力がなくなるから。
767 :
世界@名無史さん:2008/12/08(月) 19:19:51 0
モンゴルの強さなんかをおもうと。
兵タンって萌えキャラみたいだなw
ところで蜀は岩塩は十分に採れたのかな?
特産地らしい
巴・蜀・の・塩!
条件の違いなど考慮せずに
秀吉マンセーしてるのがいてワロタ
三国志スレじゃなかったっけここ
三国志スレの存在が気に食わないんじゃね
774 :
世界@名無史さん:2008/12/09(火) 18:11:23 O
当時は絹の生産はどうだったのだろうか?
三国時代と日本の戦国時代を並列に語ろうとするのは
コーエーゲームの呪縛に陥っていることを示す顕著な症例。
あ、あとナポレオン、カエサルなどなど。
プラスして、アレクサンダー、韓信、チンギス・ハーンとくればもうね。
それ以外は語ろうとはしな(ry
776 :
世界@名無史さん:2008/12/09(火) 18:35:06 0
まぁ一ついえるのは法制と義援に嫉妬した諸葛は大したことなかったというだけさ
構うと同じ話がループするだけなので、エサをあげちゃいけません。
779 :
董卓:2008/12/09(火) 19:08:08 0
姜維は志は一流。実力(政治・軍事的才能)は三流。諸葛亮は志は一流。政治手腕も一流。軍事的才能は二流。
董卓は志(野望)は一流。政治手腕は三流。軍事的才能は二流。腕力は一流。
バカがいてバカがいる。そしてバカのスレになる。
781 :
世界@名無史さん:2008/12/09(火) 19:29:46 0
諸葛亮は司馬懿が「奇才なり」と言ったくらいだから
やはり軍事的才能は高かったと思うよ。2ちゃんねらーの屁理屈よりも
数億倍重みがある。
野戦は強かったのは事実じゃない?
司馬懿も231年の北伐では負けているし。
攻城戦とか奇襲戦は得手ではなかったという感じでしょう。
>>778 荒れてる方がレスが進む… ああごめん、ぶたないでっ!
>>779 魏で姜維に勝てた奴はケ艾以外はいないんだがそれでも軍事的才能が三流?
魏で諸葛亮に勝てた奴は誰一人いないんだがそれでも軍事的才能が二流?
勝つ必要がないのに勝とうとするのは二流。
それに勝敗とか強弱は相対的なものでしかない。
勝たなければ、少なくとも勢威を以って隴西の勢力動向を蜀漢寄りにしなければジリ貧。
郭淮らが盛んに出兵して羌族などを平定していった時期だからね。
姜維が必要もないのに遠征したとか思ってる?
「勝つ必要がないのに勝とうとするのは二流」というのは、前の文を見ると諸葛亮への評価のようだ。
諸葛亮はむしろ危険を冒してでも勝ちにいくべき局面で勝とうとしなかったと評されることが多いのだが。
見事に1レスだけでスレが糞化していくwww
釣堀乙wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
糞ではないと思うが
sageる事を知らずまともな考察もできないで何でコテをつけたがるんだろうな
自説を一切枉げずに同じ主張しか繰り返さない詭弁厨に
俺sugeeeしたい奴がおなにー反論を繰り返すだけのスレは糞だな
三戦… いや、よそう。
794 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 18:19:39 0
>>781 でも一方では孔明は戦機を知らない、策は多いくせに実行する決断力は無いと格下扱いしてるね
戦場での知略では自分に分がある、という話だね
796 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 18:55:33 0
知略と言うより、戦機をつかむ勘や決断する勇や胆力が無いという事でわ?
孔明は失敗しないように失敗しないようにという戦略しか取れない。
797 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 20:24:00 0
自軍が必勝の条件を整える事は大切だけど、それを待っていてはチャンスが過ぎ去ってしまう事もある。。
取れない、じゃなくてそれ以外の選択肢がそもそもなかったのではないか?
司馬懿が戦略的超劣勢であっても、悠然とそのように評することができるかどうか。
馮道曰く「博打は気の勝負。銭が多い方は気が強くなって思い切った賭けが
できて勝てるが、銭の少ないものは守りに入り、思い切ることができずに負ける。
いくさも同じようなことじゃよ」と。
あんま関係ないか。
確かに総国力的には、諸葛亮の本軍が大敗するようなことがあれば
そのまま蜀漢の滅亡に直結しかねないのだから、諸葛亮の慎重さにはそれなりの理由がある。
雍州の戦域レベルの話だと、司馬懿がそれほど優勢だったことはないけどね。
800 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 20:45:18 0
ホクバツで魏の領土を侵食したとして。
維持するのならそれなりの軍団をはりつけだよね。
蜀にそれだけの国力はあったのか?というはなしになってしまうよ。
801 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 20:49:28 0
蜀は徴兵制?
802 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 20:52:25 0
少し不利になればすぐ漢中に帰ってしまうんではいみないやん。。
803 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 21:00:03 0
関羽みたいな戦略家のホクバツを全面でバックアップしなかった、できなかった劉備、孔明の負け。
三戦板に帰れ
帰順時に人口90万に対して兵数10万というから、これは徴兵名簿に載っていた最大動員数だろう。
>>800 軍の主力になる精鋭は一部。
長安以西での魏の支配は決して安定しているとはいえないから、県単位では積極的に帰順した者に任せ、
蜀はその管理を行い要所に駐屯しておけば賄えると思う。
>>799 あんま詳しくないけど、どうなんだろう。
魏という国レベルでみれば、当然一方面に傾けられる総兵力は蜀一師より多いでしょうし
損耗に対する補填も、安心感が得られるレベルだと思うんですよ。
「多少無理してでも、敵に打撃をあたえるべし」
的な、一兵一殺戦術もあるいは、選択できる余裕があるかもしれない。
しかし司馬懿は一臣下なので、やはり与えられた兵力で最大の成果をあげないといけない。
でないと、負ければ更迭→降格、閑職送りとなってしまう。
まぁ、これでは諸葛亮の有する心理的負担とは比べ物にはならないか。
これを踏まえたうえでみると、諸葛亮のおこした攻めのいくさは、やはり驚嘆すべきものだなぁ。
後蜀時代に陳倉、子午谷の両道から京兆を目指したことがあったけど
急行した敵軍に、子午谷の出口を防がれて進退窮まり、陳倉でも孤立してしまってアボンした。
条件からなにから全然違うけどさ。
807 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 21:16:27 0
曹操相手に漢中をむしりとった戦いなんかも不利な戦いでしょ。
呉相手に消耗していたという曹操側の事情が有ったにせよ、ね。
>>806 四次北伐で司馬懿は洛陽の中軍を直接率いて迎撃に出たが、その軍を割いてビや陳倉の守りを固めることを主張する
将に対して、「その前軍だけでは諸葛亮を御し得ない」と全軍で隴西に向かった。
郭淮は、費イに与えられた兵一万を持って遠く涼州へ進出した姜維を退ける任に当たったが、その部下達は、
「兵を二手に分けては、進んでは姜維を御しえず、退いても(後詰で要害に構える)廖化を落とせない危険があるので、
集結したまま両者の連絡を絶つべきだ」と主張した。
(結局郭淮は、本隊を以って廖化を攻撃することで姜維の後退を誘い、決戦することなく姜維の行動を封じ込めた)
戦場では魏はそんなに楽な戦いをしたわけではないと思える。
勿論、「まだ後ろがある」という魏将の心理的余裕は軽視できないと思うけど。
>>807 毟り取った時点では曹操は引き上げていたんだから
兵力的には圧倒的に劉備が上だっただろう。
その後再奪取に来た曹操は大軍だったろうけど。
810 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 21:21:11 0
孔明が上表している。
先主時代からの精鋭がどんどん年老いてリタイアしてゆく。
早いうちに勝負をかけなきゃと。
徴兵された兵士以外にも兵力があったのかな?
811 :
世界@名無史さん:2008/12/10(水) 21:23:17 0
>>809 そう。
局地的に優勢になった状況で一気に攻勢をかけた。
話は変わるが、カン丘倹がなった平原侯文学の平原侯って曹叡だよな?
813 :
董卓:2008/12/11(木) 08:45:14 0
というより蜀が魏に勝つなんてほぼ不可能。日本が太平洋戦争でアメリカに勝つ
ぐらいに不可能に近い。魏の人口は2500万人(?)に対し、蜀は100万人(94万人?)
国益も違えば、動員できる兵数の限界も違う。単純に考えれば分かる事。だから諸葛亮
の考えた「天下三分の計」は乱世を長引かせただけ。
お前つまんないし碌な考察もできないんだからコテやめた方がいいよ
815 :
董卓:2008/12/11(木) 13:26:36 0
そうかもしれないがそーいうお前もつまらん。つーか2チャンネラー自体つまらん
816 :
董卓:2008/12/11(木) 13:30:34 0
つーか俺の言ってるとこのどこがどう間違ってんねん?実際蜀が魏に勝てるなんて
ほぼ不可能やろ。そんな事も分からんお前に碌な考察できないなんて言われた無いなあ。
心外やわ。お前もコテやめた方がいーんちゃう?
817 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 13:40:07 0
コテの意味間違ってた。すまん。
折角コテつけてくれてるんだから、ありがたくNG登録しとけ
819 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 15:11:44 0
孔明が総司令官や総参謀長だったら日露戦争は完全に日本負けてたな
>蜀は100万人
それ以下の遊牧民に何度も中国全体がフルボッコされてきたから
状況や戦術次第でどうにかなったかもしれん。
821 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 15:45:03 0
三国時代なら
魏数百万
呉200数十万人
蜀100万人前後
>>815 2ちゃんねらー嫌いなら来んな
>>816 間違っている事とつまらん事とは別だ
コテも分からんうちはROMれ
コテつけるのは5年は早い
>>813 とりあえず、出師の表の内容を踏まえた上でそういう話をしてくれないか。
824 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 16:52:15 0
日露戦争時の国力比較なら
帝政ロシアは常備兵で日本の15倍、国家予算は日本の8倍
孔明なら国力差あるから負けましたとなりそうだな
天下統一がクリア条件のゲームやってればいいよ。
同じ目線で語らんでくれ。
しかし劉備の人物観は本物だな。
なんの実績も無い、たかが27の青二才の孔明。その本質を見抜き、いきなり政権のトップに据えた。
恐らく最も重視したのは能力ではなく、その人柄。
唯才是挙の曹操とは明らかに一線を画する人材登用。
愚直なまでに真面目な孔明は先帝の自分に求めたものを理解し、その在り様をそれこそ命を懸けて守り通そうとする。
政治家としてここまで理想的な人物って他に居るのだろうか?
出師の表の下り、俺でも涙を禁じえない。
827 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 19:20:58 0
828 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 19:25:13 0
弱国の燕に使えて強国の斉を退治した楽器の方が凄いけどな
出氏の票も楽器意識して書いたようだし
829 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 19:30:43 0
>>826 君主への忠を全ての上におく。なんてのは儒教的倫理であって法家の徒であった諸葛亮にはなんだかそぐわない。。
劉備だってそのことをふまえた上で、いざとなればおまえが君主になりて理想を実現せよ。と言ったわけでしょう。
830 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 19:34:59 0
晏嬰、管仲が理想であったわけだし。
831 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 19:51:04 0
孔明ってわしの才は政治は寒中、軍事は楽器に匹敵するとか言ってたんだっけ
832 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 19:58:57 0
孔明はやっぱ後方支援で補給や兵站専念し、統帥は魏延にしてたほうが良かったんじゃ
劉備は魏延の事よほど買って漢中の太守にしたわけだし
漢字の変換が誤植である許容を超えすぎている。
頼むから、まともに書いてくれ。
でないと、どんな正論も笑い飛ばされてしまう。
834 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 20:34:51 0
うむ。
まさにセイロンだ。
お茶の名産地の様にセイロンだ。
王平や張嶷は正史だと一流の名将なんだよな
836 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 20:39:19 0
張嶷ってすんごい親分肌。かっこいいぐらい親分肌。
>>832 督漢中と遠征軍の総帥では統率する規模が一桁、下手すると二桁違う。
もっと大規模広域の指揮の経験が無ければ魏延にその能力があったとは見做せない。
838 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 20:56:58 0
孔明なんてさらに統帥素人です
839 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 20:57:03 0
>>832 あんた、魏延に惚れてるね?
あんた、魏延のなんなのさ?
840 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 21:13:04 0
諸葛亮は確かにたぐいまれなる奇才であったろう。
しかし彼には彼の才能しかなかった。
先主はどうであったか。
彼の才は諸葛亮の1/3いや1/10であったろう。
だが彼は諸葛亮の才能を信じ、魏延の才能も信じ、廖立の才能も使いこなし、関羽もにこにこ、張飛もうきうき。
そういう人であったのだ。
まさに蓋世の英傑である。
>>838 諸葛亮が劉備に仕えたうち11年間、兵力の編成統率任務を専らとしていたのに
何を以って素人と?
あ、13年間かな
実戦経験がないとか、そんなレベルじゃないかなと。
844 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 21:44:52 0
魏延が即戦力型指揮官であったのに比べると。。
845 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 21:49:24 0
>>841 孔明がやってたのは補給だろ、統帥や作戦はやってません
「即戦力型指揮官」、つまり武人というのは総司令官になれる器じゃないんだよ。
少なくとも漢魏の時代はそう考えられていた。
魏の武人達の中で、方面司令官クラスになった人間が何人いる?
張遼、文聘などはそれなりの教養があったと思えるのだが、魏の四方将軍止まり。
張コウが長生きして驚異的に車騎将軍まで昇ったが、それでも曹真・司馬懿の下だった。
高級士官教育課程なんてないしね。
(その方向を個人的に示して、子飼の武人に大任を与えて
成功してみせたのが孫権だ。これは驚くべきことだと思う)
仕事に必要とされる能力の方向が全く違う話なんだよ。
848 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:12:54 0
>>846 あれは後詰で入っただけ
>>847 だから孔明は補給後方支援役で統帥や作戦家向きではない
>>848 >あれは後詰で入っただけ
どこからそんなデマ拾ってきたの?
興味あるから教えてよ
昔太甲有罪,放之三年,思庸克復,為殷明王。又魏文帝懼於見廢,夙夜自祗,竟能自全。及至明帝,因母得罪,廢為平原侯 ,為置家臣庶子,師友文學,皆取正人,共相匡矯。
晋書閻?伝
これが正しいとすると三国志は曹叡が実質廃嫡されていたことが抜け落ちている
851 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:18:58 0
>>849 デマじゃなくそうだろ、劉備が先鋒として蜀に入り
孔明が援軍や補給の為に入った
852 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:20:34 0
>>847 武人の東郷平八郎は日本連合艦隊の司令官でしたが何か?
>>851 デマかどうかは一先ずいいから、そのネタをどこから仕入れてきたのか教えくれ。
個人的にだがものすごく興味がある話なんだ
>>852 論外
854 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:26:44 0
>>853 論外って何ですか?ちゃんと答えてくださいよ?
大体即戦力型司令官とか意味不明
>>854 即戦力型指揮官とやらを持ち出したのは844だから、定義は彼に聞いてくれ。
で、時代も教育も思想もまったく異なる人間を比較するのがまず論外。
しかも東郷平八郎は士官教育を受けた職業軍人。これが第二の論外。
海軍軍人が出世すれば司令長官まで昇れるのは帝国軍の官制上当たり前の話。
しかもイギリス留学ってのはエリートって事じゃないの?
俺は良く知らないけど引き合いに出したんだから詳しい事だろうと思うが。
東郷平八郎はイギリス留学して軍事その他諸々について学んだ高級軍人じゃん
前線で頭角現して出世したとでも思ってるの?
つーか100年前の日本の軍事制度と1800年前の中国のそれを比較するとか頭沸いてるだろ
858 :
董卓:2008/12/11(木) 22:44:10 0
つーかコテつけなくちゃ誰が誰なのか意味不明。
おい、825。誰がゲーム目線やって?つうか民衆にとって何よりの幸せは
「平穏な暮らし」やろが?それと俺が言ってる「天下三分は乱世長引かしただけ」
ってのは結果論。それくらいわかれ。それと2チャンネラー嫌なんは時たま鬱陶しいこと
いうからや。
859 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:45:28 0
>>855 東郷はエリートじゃないですが?留学は当事普通だし
東郷は古い軍人の為海軍改革の時切られかけたほど、連合司令官になった時もほとんど全員が意外に思った
陸軍の総参謀総長だった児玉も正規の軍人教育受けた人間じゃないし
釣れますか
などと文王
側により
>>859 で、それを1800年前の中国と引き比べることに
何の意味が?日本近代史板いきなよ
なんか厨が増えてる
たまげたなあ
864 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:53:45 0
魏延は即戦力型司令官武人だから総司令官の器にない
とか意味不明な事行ってる孔明厨が馬鹿にしか見えんけど?
まともに反論できず逃げ出す
865 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 22:54:41 0
866 :
董卓:2008/12/11(木) 22:57:18 0
とっても偉大なチーンギースハーン(爆)
すいません。
867 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:01:42 0
曹操は不良グループのリーダーだった。
劉備もロシュクも不良少年のボスだった。
他人を率いてゆく能力ってのは生まれつきのものがあるし、小さい頃からの訓練もある。
そういう能力を持った指揮官の下なら兵士だって漢中から長安までトライアスロンを喜んでする。
だが頭でっかちの新米教師みたいなのが行進!行進!って怒鳴ってみたところでうまくいくものかなぁ。
それを孔明は一応やってみせたから偉い。
でも、やっぱ曹操とかに比べたらまるでまるで。だったのではないのかな。
868 :
董卓:2008/12/11(木) 23:04:45 0
そーやろな。まあ曹操に比べたらなあ。
>>864 士官教育を受けたことがない下士官が将軍や艦隊司令官になるようなことが近代軍でめったにあると思う?
歴史に特筆されるような話になるよ。勿論そういう将軍も中国史上にはいることはいるがね。
漢代の「士官教育」に当たるのは、正式の先生について経典を学び、教養を身に付け、組織を動かす術を身につけること。
この場合、政事と武事は切り離せない。皇甫嵩朱儁公孫サン呂布司馬懿満寵姜維ケ艾杜預。
彼等は全員官吏からの出世だよ。そういう人種は「士人」と呼ばれる。劉備も士人。しかも後漢書に伝が立つ一流の学者に学んだ人物。
それに対して、教養はないが武事で出世した人物は「武人」と呼ばれ、軽視され、一軍の将以上になることは稀だった。
蔑視観もあるが、そもそも組織を運用する術を身に付けていないわけだからね。
>>851の返答がまだ来ないのだが、きっと答えてくれると信じて用意した謝礼を先払いしておく。
先主が葭萌から還り璋を攻めると,亮と張飛、趙雲等は衆を率いて江を泝(遡)り郡縣を分定し、先主と共に成都を囲んだ。(諸葛亮伝)
飛は諸葛亮等と流を泝上し,分けて郡縣を定めた。江州に至り,璋將巴郡太守嚴顏を破った。 (張飛伝)
先主は葭萌から還し劉璋を攻め、諸葛亮を召した. 亮は雲と張飛等を率い、江を泝って西上し,郡縣を平定した。
江州に至り,雲を分遣して外水に従いて江陽に上り, 亮と成都において會った。(趙雲伝)
諸葛亮、張飛、趙雲等江を泝(遡)り,巴東を降ろし下した。入巴郡に入った。(中略)
趙雲は江州から江陽、ケン為を分定した。飛は巴西を攻めた。亮はコ陽を定めた。巴西の功曹襲ェは飛を迎えた。
璋の帳下司馬で蜀郡の張裔は亮を拒み,柏下に於いて敗れた。裔は退き還った。(華陽国志先主伝)
史料によって異同はあるが、疑えないことは一つ。
当時、劉備は北から成都へ向かったが、益州の地形とラクの要害に攻めあぐねていた。
そのため益州を線ではなく面で平定し、東から成都を圧迫するために三人の将が呼ばれ、「郡縣を分定」したわけだね。
以上が、入蜀の際に諸葛亮が果たした役割の史料から窺える解釈だ。とっといてくれ。
「諸葛亮書生説」を採る人は(まあその説の是非はいいとして)、諸葛亮の入蜀時の功績は? と問うと必ず口を揃えて
「後詰」というんだよね。その後詰というのは兵站管理とか後方鎮撫とかいうニュアンスを伴う。
史書は勿論、演義ではそれに輪を掛けて将として活躍しているのに、そこから導き出されるはずがない見解が
ここまで揃うと、どこかに共通のソースがあるんじゃないかと思えるんだよな。
個人的な興味とはそういうこと。期待している。
>>851
871 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:13:11 0
魏延
実戦経験豊富、劉備に蜀の守りの要である漢中の太守に大抜擢された
東郷
実戦経験豊富、山本権兵衛に連合艦隊総司令官に大抜擢された
873 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:16:41 0
>>872 つまり孔明より魏延のほうが統帥に適してたというわけさ
874 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:18:54 0
>>874 韓信はその歴史に残る稀有な例だね。軍人がみんな韓信になれると思ってるの?
項羽は楚の将軍を務める家に生まれた超エリート。
だから項羽の武才を低く見る必要はないが、「大抜擢」とは正反対の例だな。
>>874 そもそも韓信も官吏からスタートしてるんだよ
878 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:24:13 0
魏延だって土民の出ではなかろうよ。
879 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:26:40 0
項羽はエリートとか言っても楚は既に滅亡してるんですが?
近現代の軍を持ち出すなら、まず、高級士官というものが兵器・戦術・戦略等の長年の研究によって
導き出された高度な教育によって養成されるものだということを弁えていなければならないだろうな。
「叩き上げで大抜擢」の好例を近代軍人から探そうとするなんて軍学舐めんなとしか。
882 :
とうたく:2008/12/11(木) 23:31:09 O
こう羽は方亡国の王子。
883 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:32:04 0
>>880 日露戦争で上に立った連中は幕末からの実戦上がりだが?
逆に大東亜戦争時はみな正規の教育受けた秀才上がり
>>879 史記項羽本紀を見てごらん
叔父項梁が剣や兵法を教えている
軍事エリートの家だから、祖国が滅んだ後でもエリートとして培った知識は受け継がれていたんだよ
>>878 土民ではなかろうがね。ていうか土民といわれるほど低い出身の人物が三国志にどれだけいるか怪しいけど。
しかし、教育を受けるには金と時間が掛かる。
楊儀に庸奴と言われた以上、魏延が十分に高度な教育を受けたとは考えづらいな
887 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:36:00 0
>>884 つまり独学というわけですね?しかしながらあれだけ強かった
そもそも学問なんていったら、日本の戦国時代の武将なんてほとんど軍楽や学問なんてありませんよ?
信長、秀吉、家康にしてもそこそこの文字知ってたくらいで
>>887 >独学
………秦の時代に学校教育があったとか思ってないだろうな?
>>887 伝統芸能を親から子に受け継ぐのを独学とは言わないだろ
君は言葉の使い方がちょっとおかしい
890 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:38:43 0
関羽なんてそうではなかっただろう。
塩の密売商人とかだろう。
差別意識満々の士人を嫌って侮蔑したのはそういうことだろうなぁ。
891 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:39:11 0
だからどうして戦国時代日本と後漢末期〜三国時代中国を比較するかね
>>887 今度は戦国時代に逃げるのかよ。
似たような教養レベル同士の戦いならいい勝負が出来るのは当たり前だよ。どっちが上という問題じゃない。
三国時代に適した兵法と組織運用の話をしてるはずなんだが。
「戦国武将は軍学の研究なんかしなかった」とか言ったら多分日本史方面から袋叩きにされるだろうけど、
俺は詳しくないので藪に手は突っ込まないことにする。
諸葛カクを防いだ張特ってタク郡の人なんだね
張飛と同族?
894 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:43:22 0
895 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:46:34 0
>>892 おいおい教養で戦なんてできるはずねーだろ
教養人の北条早雲なんて孫子の兵法とか知ってたろうが実戦じゃ役に立たないと自分で軍法作ってんだから
896 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:50:27 0
>>889 なんで項羽より教養あった叔父はやられちゃたんだろうね
なんだこの短絡思考は
898 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:51:37 0
本当に後漢末に士官教育なんてしていたのかよ?
乃木希典
長府藩士 少年時松下村塾に入塾
児玉源太郎
百石の武士の長男 13歳で父をなくして困窮 24歳で熊本鎮台の准参謀
立見尚文
桑名藩士、昌平坂学問所で学ぶ
奥保鞏
小倉藩士、15歳で知行三百石
大山巌
薩摩藩士、江川英龍に砲術を学ぶ
東郷平八郎
海軍士官学校出身、官費イギリス留学
出世も頷ける面々だね。
900 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:56:11 0
山県有朋はいかがですか。
>>900 時代の流れを変えた側の人間を持ち出してどうするの?
902 :
世界@名無史さん:2008/12/11(木) 23:58:51 0
>>899 コネで入った乃木以外は全員実戦上がりのたたき上げ
903 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:01:00 0
家柄、容貌、学問の三点で評判が為され、
その評判が大きくモノを言った世界なのよ。後漢末〜三国時代は。
その点、一つ押さえといてくれないと話にならんぞ。
比較に出た楚漢抗争期、日本戦国時代、日露戦争期とは思想が全く違う。
>>902 だから? 傭奴と言われた魏延と
>>899の大方の人物とは立場に格段の差があることがわからないの?
905 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:03:23 0
では実際の能力とはちがった問題ではないか。
>>905 魏延が教育の無さにも関わらず10万の兵士を統率する歴史上稀な能力を持っていたとするならば、
そのような能力を持っていたのに抜擢されなかった証拠を史書から論証せねばならないだろうね。
907 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:06:07 0
>>904 何の立場かね?魏延も蜀の守りの要である漢中の太守やってんだけど?
しかも軍人としての実績もある
つーか釣られすぎだろ
なにこの耐性ねーヤツら?
910 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:09:39 0
>>905 実際の能力ってなに?
どうやって計るの?
911 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:13:39 0
ここまでの孔明厨
魏延は即なんたらで武人だから司令官の器ではない(能力の話)
↓
正規の士官教育受けてない軍学がないから(学問の話)
↓
出身・容姿・学問で差別された(能力とまるで関係なくなってる)
矢印が出たらおしまいだな。はい解散
913 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:15:57 0
つまり士人層でないと幹部候補生になれなかったってことだろ。
能力主義ではなかった時代のお手盛り名将ですか。
曹叡廃嫡が『三国志』で隠蔽されていることに興味を示さないとは、寂しいねえ
915 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:16:42 0
917 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:21:21 0
第一魏延って無学だったの?少なくても軍事には精通してたと思うが?w
>>917 おまえは少しは他人の質問にも答えたらどうだ?
>関羽もにこにこ、張飛もうきうき。
おい楽しそうでいいなコレ
>>917 5000人を率いて要害に駐屯し戦場で上手く指揮できる人間が、
5万人の「街」を率いて丸ごと300キロ移動させる能力を必ず持つと思う?
両者の間に存在する巨大な隔たりに思いを致せば、「士人」と「武人」の差が
少しは見えてくるだろう。
お前らそんなに文王に声かけられたいのか
922 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:32:25 0
>>920 相変わらず意味不明ですな、両者の間に存在する士人と武人の差とやらわ具体的にどの点ですか?
第一次北伐で学問あったエリートを使って失敗したあたりですか?
923 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:53:33 0
>>920 ううむ。
なんだかんだのらりくらりともっともらしい理屈をもてあそぶよのぅ。
まるでおまえさん、孔融ではないか。。
「ああ言えば、孔融。」
>>914 ちょっと興味を示してみたが
閻サン伝には、因母得罪,廢為平原侯,とある。母の甄氏が誅されたのは黄初二六月。
魏志文帝・明帝紀によると、黄初二に斉公、三年三月に平原王。
「母が罪を得因りて」だとすると、曹叡が平原侯だった期間は最大九ヶ月。
ちょっと厳しくね?
>>922 わからないのか…
もうちょっと社会を学べばいいと思うよ
市役所の仕事と自衛隊の連隊の仕事を同列に語れるかどうかを
926 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 00:59:49 0
アメリカなんか州知事から大統領になった人が多くいるというのに。
ハートマン軍曹はゆくゆくは総合参謀本部議長の器だ、といってるようなもんだからな
928 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 01:05:22 0
ケネディ少尉は大統領に成りましたが。
929 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 01:06:27 0
詭弁のガイドライン出すか?
士官は少尉から始まるんだけど…
>>929 やめとけ。
解っててやってるけど、時代も状況もまったく異なる事例を比べる時点で
今までのは全て詭弁、ていうかお遊戯だよ。
目も当てられないくらい当てはまる。
確信的な釣りだとするなら、論敵の質問に答えて詳細を詰めるようなことをせず、
次から次へと新たな類例を持ち出して話題を拡散させまくるってのは
結構皆知ってる手なのかな。三国志系スレ巡ってたらあちこちで見るんだが
>>924 むしろ、その明帝紀の「平原王」が誤りまたは嘘で、曹叡はずっとカン丘倹伝や晋書何曾伝の言う「平原侯」だったんじゃないのかなあ
つまり王にはなっていない
>>934 でも、平原王の記述は文帝紀にもあるよ
三月乙丑,立齊公叡為平原王,帝弟エン陵公彰等十一人皆為王.
勿論陳寿が編纂したものだから、元になる史料が間違っていれば全部間違うことになるけど、
高堂隆が為平原王傅。王即尊位,是為明帝。だから曹叡が王だった時期があるのは間違いないだろう。
すると王に封じられたのはいつか? というのが問題になる。
>>935 京兆王礼を後継ぎにと考えていた時期は曹叡は平原侯に貶されてたんじゃないかなあ
王→侯だったのか、侯→王だったのかはなんともいえないが、三国志の中だけでも王も侯も記述があるから、どちらの時期もあったということになるのかな
そもそも県侯に文学の官があったのかが問題になりそうだ。
群王の師、友、文学は厚遇される名士のポストだった。それと同様のものが県侯にも?
まして毋丘倹はそのとき郷侯の地位にある。県侯の下につくには不適格じゃね?
…と思ったんだが、あるっぽいな。臨シ侯(曹植)歴城侯(曹徽)文学というのがちらほら。
魏以降には見当たらないが、それを以って「漢末にはあったが魏晋ではなくなった」というのは強引だろうな。
二人の平原侯とその属官の前後関係でもう少し詰められそうだけど、時間ないのでまたにする。
あ、「二人の平原侯」は曹叡と曹植ね。各種の記述のどこかに間違いがあるのは確かで、
だとしたらこの近辺に誤りの理由がある可能性は高いと思う。
中国の官僚体制をまったく理解していないアホが、ながい武人体制の脱皮
にようやくこぎつけた日本と同列に語っている…
>>858 董卓(笑)
それがゲーム目線だっつうの。それくらいいい加減理解しろよ。
天下統一? それで戦争がなくなってみんなハッピーってか?笑わせるな。
世情が統一へと動く原動力は?
広大な中華を支配するのに、当時の体制はどういったものでその利点と不備は?
各地の人口密度は、中華を覆うのに足りるのか?
最終的に三国に落ちついたのはなぜか?
が、わかっていれば、ゲーム目線は撤回しても良い。
そしてわかれば、そんな小泉一行レスみたいな「〜なだけ」とかいう
思考の浅い台詞は出てこなくなるよ。
940 :
とうたく:2008/12/12(金) 12:25:20 O
は?何言ってんの?お前?どー考えても天下三分とか悪戯に乱世長びかしただけやん。お前もそれぐらい理解しろよ〜。諸葛亮と姜維の北伐で1番負担かかるの民衆やっつーの。それくらい分からんのか?頭大丈夫か?
で、天下三分がないとして、誰が「天下統一」をするんでつか?
天下統一(笑)? それって、どこからどこまででつか?
要するに、統一王朝の漢を滅ぼしたヤツが一番悪人だな!
唯才って言ってるけど、その反動なのかな。
才能重視で行くからこそ、最重要の役職には能力より信頼性を取ると。
そうする事で、裏切りの心配なく才能のある人材を使うことが出来たんじゃない?
誤爆ね悪い
945 :
董卓:2008/12/12(金) 18:43:48 0
941。答えたろ。この当時だったら中華思想とかあるから中国一帯(河北・江東
・巴蜀)までが天下や。でも実際には、天下ってのは世界全域や。そー考えると、本当の
意味で「天下統一」した奴なんて一人もいない。チンギスハーンあたりが今の所(近代史を含む)の
歴史の中では一番天下に近かった。よーするに中国も「天下の一部」ってわけ。
>>945 漢よりも狭くなっちゃうのか
そうかそうか
>>945 突っ込みどころ満載ってやつね。
中国の中央集権体制の優れたところと、後漢末の群雄が割拠できた意味もわかっちゃいない。
なにが天下は世界全域だよ。文化圏すらもわかってないし、たとえ便宜上いわゆる
「中華本土」においてさえ、地域的な差異があって、融合させるのは難しいというのに。
ひとつの支配体制で塗り上げられることが目的と思っているそれが「ゲーム脳」だというんだよ!
948 :
董卓:2008/12/12(金) 19:15:15 0
じゃあ、豊臣秀吉が日本統一して「天下統一」したって言われてるけど、あれは
なんやねん。どー説明するねん。誰もひとつの支配体制で塗り上げられることが目的とか
一言も言ってないよな?俺が言ってるのは「天下の範囲」やぞ?分かってるか?
ボケナス共。じゃあ、中国も三国・隋・唐・元て行くうちに勢力でかなってるけど、
それはどう説明するんや?お前は「糞脳」やなあ(笑)
949 :
董卓:2008/12/12(金) 19:17:43 0
946。間違えた。すんまそん。あの当時は漢の支配してたとこまでが天下や。
で、天下統一されたら、次はどうなりますか?
>>948 そうなんだ?
具体的にはどこからどこまで?
952 :
董卓:2008/12/12(金) 19:23:53 0
人に聞く前にまず自分が言わんかい。
つうか、人口の変遷で支配領域などいくらでも変わっていくのに、「天下」でひとくくりにしようってのが、そもそもの間違いだろうが。
>>中国も三国・隋・唐・元て行くうちに勢力でかなってるけど
お前は戸数を念頭に置いたことがないのか?
あと、周辺勢力の減衰によって版図拡大することもあるが、それは内地の空洞化を呼ぶ遠因ともなる。
唐がなぜ崩壊したか、その説明ができるのか?
宋以後の中国人民の人口がどこまで増えたか知っているのか?
翻って、後漢末から三国時代初期にかけての、人口は?
その分布に、断層があると読みとれんか?
もっぺん、概説書から読みなおしてくるんだな。
954 :
董卓:2008/12/12(金) 19:31:36 0
はいー。腐れ儒者ー。知識だけー。誰もそこまで聞いてなーい。概説書ってなーにー?
>>952 お前が言う漢の支配してたところってどこ?
自分で「漢の支配してたとこまで」って言うからには
漢の支配してたところは把握してるんだよね?
厨房の質問に真面目に答えるスレはここですか?
とりあえずその感情丸出しで読みにくい関西弁を何とかしてくれ
秀吉は外すとしてもこの場合の天下=帝国でいいのかな?
957 :
とうたく:2008/12/12(金) 20:06:36 O
把握してるけど説明下手やから無理。
笑えるw
董卓オモロイw
959 :
とうたく:2008/12/12(金) 20:17:13 O
普通に頭には出てるんやけどどう説明したらいーんやろ?酒泉くらいまでは支配してたよな?
>>956 中国は基本的に中央集権になったから、その威令がとどく範囲が
「支配体制側が」主張する天下でしょうね。実質。
建前は、むろん中華思想にいわれるように、全世界ではあるけど
それを盾に取ったところで、机上の空論もいいところ。
地方の末端にいたると、往々にして中央の指示に従わなくなる
これも建前上は、中央に隷属してはいるけど、実質は独立した状態。
もっと詳しく言えば、「より独立色の強い」地方ということになる。
>>954 だから、ゲームしてろって最初から言ってるだろ?
今はなんのゲームにはまってんだ?ん?
962 :
とうたく:2008/12/12(金) 20:29:50 O
そーいうお前は何のゲームにはまってるんや?ん?
レイトン教授のやつw
964 :
とうたく:2008/12/12(金) 20:36:08 O
兄貴がやってる。あれおもろい?
概説書読む合間にやってる。
いい息抜きになるぜ。
966 :
とうたく:2008/12/12(金) 20:43:36 O
あれ謎解きやんかな?確か?
話題の脱線にがっつくのは追い詰められていた証拠だぞ。もうちょい言動を制御しとけ
>>967 問い詰めも脱線も全部自分がやってたりする。
でも、この辺でやめとくわw
969 :
とうたく:2008/12/12(金) 20:56:48 O
すいませんなぁ。知識が浅はかなもんで。一応言っとくけど、ゲーム観抜きで書いてたから。
知識が浅いんじゃない、考え方が単純というか短絡なんだ。
ゲーム観も、自分が認識していないだけで、言行にはその匂いが
ぷんぷん漂っている。
戦争主体の考え方とか、英雄の個人的資質を重視し追求するところとか。
当時の社会的正義を知るには、その国家体制を知ることから始めるのは基本。
諸葛亮が何を言おうが、分立混乱の責任を彼一人に帰すのは、暴論だろう。
レイトンおもろいよ。頭の体操になるから、兄ちゃんが終わったら貸してもらいな。
971 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 21:32:53 O
天下三分がなかったら、もっと早くに天下はギに帰していたのでは?とふと疑問に感じたから書いただけだ。あまりゲーム観いれたつもりはないよまあ単純な発言やねん。
972 :
董卓:2008/12/12(金) 21:43:30 0
チーンギースハーン。
↑気分。
973 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 23:00:04 0
天下三分は魯粛のせい、奴が呉で出世する為に諸葛を手駒にし
孫権と劉備を使った
今度は諸葛の人か。三戦板から千客万来だな
975 :
世界@名無史さん:2008/12/12(金) 23:27:16 0
実際戦略家として魯粛>諸葛だし
976 :
938:2008/12/13(土) 01:06:24 0
予想以上に面白かった。まず主な曹植関係者の経歴
曹植
211年正月、封平原侯。214年、徙封臨シ侯。217年、搨u邑五千,并前萬戸.(曹丕が太子になった年)
ケイギョウ
辟司空掾、入為丞相門下督,遷左馮翊,為平原侯植家丞、後遂以為太子少傅,遷太傅.侍中尚書僕射,
賜爵關内侯,出為司隸校尉,徙太常.黄初四年(223年)薨 .
應トウ(建安七子)
被太祖辟、為丞相掾屬.轉為平原侯庶子,後為五官將文學.二十二年(217年)卒
鄭袤
初為臨?侯文學,稍遷至光祿大夫.泰始七年(271),以袤為司空,固辭不受,終於家 .
任カ
會太祖創業,召海内至コ,カ應其舉,為臨シ侯庶子、相國東曹屬、尚書郎.文帝時,為黄門侍郎。
高堂隆
太祖召為丞相軍議掾,後為?城侯徽文學,轉為相.?初中,為堂陽長,以選為平原王傅.王即尊位,是為明帝.
遷陳留太守。徴隆為散騎常侍,賜爵關内侯.遷光祿勳.(明帝在世中に死去)
977 :
938:2008/12/13(土) 01:11:19 0
続いて曹叡。間違えた、高堂隆はこっちだ。
曹叡(明帝紀より)
年十五,封武コ侯,黄初二年(221)為齊公,三年(222)為平原王.以其母誅,故未建為嗣.七年(226)夏五月,帝病篤,乃立為皇太子.
高堂隆
太祖召為丞相軍議掾,後為歴城侯徽文學,轉為相.黄初中,為堂陽長,以選為平原王傅.王即尊位,是為明帝.
遷陳留太守。徴隆為散騎常侍,賜爵關内侯.遷光祿勳.(明帝在世中に死去)
カン丘儉
儉襲父爵,為平原侯文學.明帝即位,為尚書郎,遷羽林監.以東宮之舊,甚見親待.出為洛陽典農 .遷荊州刺史.
徙為幽州刺史,加度遼將軍,使持節,護烏丸校尉.
遷左將軍,假節監豫州諸軍事,領豫州刺史,轉為鎮南將軍.正元二年(255年)正月,舉兵反。閏月斬儉。
何曾
魏明帝初為平原侯,曾為文學.即位,累遷散騎侍郎、汲郡典農中郎將、給事黄門侍郎.遷散騎常侍.
出補河内太守,徴拜侍中,母憂去官 .嘉平中(249年-254年),為司隸校尉.(晋)武帝襲王位,以曾為晉丞相。
エイ臻 曰く
及文帝即位,東海王霖有寵,帝問臻:「平原侯何如?」臻稱明コ美而終不言.
閻サン 曰く
及至明帝,因母得罪,廢為平原侯,為置家臣庶子,師友文學,皆取正人,共相匡矯.
曹植関係者と曹叡関係者とでは、平原に封じられていたのは十年未満の時期の差だが、
その官僚の経歴には明らかな世代差がある。毋丘倹や何曾の「平原侯」が実は曹植だったということは
この点からも考えられないだろう。
さらに「三国志」内でも衛臻が「平原侯」に触れて……
あー、違うや。これは曹叡のライバルだった東海王霖を、年少で才有りと言われた曹植に比して
「平原侯はどうか?」と言った場面か。衛臻は曹植の明徳美を称賛だけして、ついに曹霖には触れなかった。
ともあれ、曹叡が平原侯だったのか、それに文学の官があったのかは、また今度考える。
?人嚴白虎 等各萬餘人,處處屯聚。?景等欲先?破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」
厳白虎ってさ、厳 白虎じゃなくって厳白 虎なんじゃねえの?
そりゃこの時代なら二字名より二字姓のほうが多いだろ
981 :
とうたく:2008/12/13(土) 06:25:08 O
いや、この場合、厳 白虎だろ?ショクにも厳 顔とかいうやついるしな。
>>981 いや(笑)。
>>979の引用文みると、って話だろうに。
厳白って姓を他に聞かないし、たしか親族で厳なんとかっていなかったか?
983 :
董卓:2008/12/13(土) 08:38:53 0
どっちなんやろうなあ(苦笑)厳、か厳白なんか。
984 :
とうたく:2008/12/13(土) 10:33:46 O
弟に厳ヨとかいうやついたから、絶対 厳 やわ。 でも正史に厳ヨとかいうやつおったけ?
985 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 12:25:48 0
割と二字名は多かったよ。
986 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 12:27:36 0
同じ様な例では張燕=張飛燕があるね。
987 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 12:40:56 0
wikiには 厳虎が正解、厳白虎はあだ名となっている。
988 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 12:44:31 0
むかし、王子服については「おうじ+ふく」って思い込んでいた。
たぶん「おう+しふく」なんだろうな。
郭攸之は「郭 攸之」?
ゴツトツコツはゴツ・トツコツなのか
キンカンサンケツはキンカン・サンケツ?
スレタイ百回見直してから来いよ
>>991 姓名のくぎりがあるかもあやしい当て字だな。音写っていうの?
祖郎?嚴虎之徒(孫策伝注江表伝)
厳虎=厳白虎だろうから、姓が厳ということだろうな
世界史板なんだから、資料に即して語ろうよ
2ちゃんなんだから、そんなこと言ってもな・・・
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。