1 :
世界@名無史さん :
2008/08/03(日) 11:17:00 0
↑百年戦争とテルシオの話ばっかだな
百年戦争はクレシーはじめ弓矢大活躍の伝承が残ってるし テルシオは弓矢が絶滅した直後の戦術だからじゃね? まあ「弓矢の歴史」では無かったわな でさ、何で「リアリティ」とか付けるの?頭悪いの?
オスマントルコのシパーヒーって鎖帷子とかしか着てなかったらしいけど西洋の装甲騎兵と互角に戦えたんですか
>>5 西洋も14世紀くらいまでは鎖帷子とかしか着てなかったし
その装備で他の文化圏に侵攻しても互角以上に戦えてたよ
騎士っていうとプレートアーマーを想像する人多いけど
そういうのは騎士が消える寸前の非常に短い期間だけだよ
原色ギラギラの奇妙な盾と兜に鎖帷子、ってのが殆ど
7 :
世界@名無史さん :2008/08/04(月) 14:31:52 0
ニコポリス十字軍(1396年)のブルゴーニュとかの騎士はプレート着てるのもいたかもしれないけど トルコ軍の本陣に突入してフル凹にされてたような。
>>5 鎖帷子といってもラメラー(小札)や丸盾のような胸当てと組み合わせられたものが多いよ。
特にラメラーはテュルク系にとっては馴染みの深いものだったから。
メイル・ホウバーク相手なら剣での刺突もけっこう有効だったみたいですね。 ベネヴェントの戦いではドイツの騎士はコート・オブ・プレーツを装備してたけど フランス側は「剣を振り上げた隙に腋の下を刺す」という戦法で対抗している。
少なくと板金鎧の普及のせいで、従来の剣やフレイルや短弓が圧倒的に不利にはなったんだよな だからこそ無駄に熟練した長弓兵とか数と一発の威力で勝負するクロスボウ兵とかが活躍したんだし
鎧と武器のシーソーゲームだろ 鎖帷子を打ち抜くクロスボウに対向するために板金鎧が出て 板金鎧に対向するためにフレイルや鋼鉄製クロスボウとかが出た
>>11 うろ覚えだがフレイルはフス戦争の頃にも使ってたような
>>13 頃にもつーか、ヤン・ジシュカ考案って説もあるぐらいのもんだし。
それ以前から一般的に使われてたのはメイスだろう
そういやフレイルってなんかヘボいイメージあるんだけど 実際はどのくらい威力あんの?やっぱメイスより上なの?
板金鎧を凹ませるくらいの威力はあるんだろ、多分
>>15 チェコ人が書いた中世の武器防具の本の英訳では
"A Flail such as this in the hands of the country peasants, who were accustomed to using it,
must have been a terrifying weapon, which could bash the finest helmets and plate armour of the
crusaders to smithereens."
とか書いてたけど、「最高級の兜や板金鎧を粉砕することができた」という部分について
具体的な史料を引用しているわけではない。
誇張かもしれない。地元の話だし。
Hodetin Ordinance(詳細不明)の規定では、フス派の戦車一台に配置される人員は 御者2名、ハンドガン兵2名、クロスボウ兵6名、フレイル兵14名、ハルバード兵4名、 大盾兵2名だそうで、フレイル滅茶苦茶多い。 長柄武器は戦車と戦車の隙間を守るのに役立ったそうですが、そのスペースで 一度に戦うのは一部で残りは交代要員みたいな感じ?
>>18 フレイル兵=農兵じゃないか?
矢面に立たせる使い捨て交代要員かと
日本で言うところの足軽みたいなもんか
>>15 両手持ちのは遠心力で相当破壊力があるらしい
使い方も簡単で、振り上げて振り下ろすだけ
農民は元になった殻竿を使い慣れていただろう
>>18 フス軍の戦術は戦車で敵を押さえ、ハンドカノンやクロスボウの火力で撃退
敵が退却し始めたら戦車の連結を解き、歩兵が追撃というものだったらしい
最後は敵騎士がフェイントで退却したのに乗せられ、追撃したところを逆襲され崩壊した
22 :
世界@名無史さん :2008/08/08(金) 00:29:53 0
ハンドカノンってどんなの?銃の祖先ってやつ?解説してるサイトとか書籍ない?
薔薇戦争って、ほぼ完成形の板金鎧を装備した騎士参加の戦争の割には、貴族とかの犠牲者が多い。 むしろ、鎖帷子とかで戦っていた時代の方がマシだった感じ。 結局、戦局を左右するのはその他大勢の雑兵たちで、劣勢になってそういう連中が大挙逃亡してしまえば、 板金鎧を装備した騎士などは逃げ遅れてフルボッコにされるだけということか?
>>24 小型化した大砲
もののけ姫の石火矢みたいなかんじ
ただしあれと違って前装式だけど
なるほど。リンク先のwikiの図が先から火を噴いてるように見えたけど、石が飛び出してるわけか。
>>25 後期百年戦争からの流れで
下馬騎士同士の斬り合いがメインになってたからでは?
>>25 一番大きいのは、「相手の貴族を捕虜にせず、容赦なく殺した」事じゃね?
王室の争いにかこつけて、英国じゅうの貴族が政敵や仇敵を殺そうとしたのが薔薇戦争だから
大抵の高名な貴族は捕虜にされる事も無く(たぶん格好いいセリフと共に)ぶち殺されてた筈。
で、一人殺すとその息子が「復讐」して、復讐された家の息子がまた復讐、っていう無限ループ
あと、騎士が下馬して戦うようになったのに
「相変わらず指揮官(貴族)は前線で勇敢に戦うのが通例」だった事と
「百年戦争以降の農民兵が長弓兵ばっかりになってた事」も大きいかも
薔薇戦争は酷かったらしいな。確かタウトンだっけ?雪解けで戦場が沼地になってたせいで 21世紀の現在に至るまで英国本土で1日に出た死者の最高記録として君臨し続けてるのって
同意。 薔薇戦争は、身代金目的の中世の他の戦争とは異質ですね。
>>30 数値の誇張とかは知らんけど、とある資料によれば
ランカスター軍が114名の騎士達が率いる60000超(Wikipediaだと42000)
ヨーク軍96名の騎士達が率い48660(同36000)っていう馬鹿みたいな軍勢で
ランカスター軍の戦死者が名士44名を含む20000人、ヨーク軍が8000人(騎士1人)
軍勢の数と戦死者と、どっちも諸説あるわけだろうけど異常な数(英国一)である事は確か。
雪が降ってるせいで地面が泥になってて、
長弓による無駄な死者を出さないために白兵戦が必要で、
勝敗を決したのが側面からの攻撃なせいで軍が混乱してて、
下馬して戦ってたせいで効率的に逃げる事が出来なくて
あげく追撃する貴族も歩兵も相手をぶち殺す気マンマンで、
しかも逃げる途中で橋が落ちた、っていう最悪の状況が原因だろうな
ばら戦争はイギリス版の三十年戦争みたいなもんだしな 他国の介入が最小限だったから被害は比較的軽微に済んだが フランスや神聖ローマが介入してたら三十年戦争みたいになってたかも知れん
三十年戦争と違って王権は強化されたけどな 外国の傭兵とかも入ってこなかったから民衆の被害は少なめだし
35 :
世界@名無史さん :2008/11/26(水) 10:18:11 0
板金の部分でも銃弾食らったらやばいのは一緒だから大丈夫
でもヴァレンシュタインは三十年戦争のリュッツェンの戦いで 装甲をつけた騎兵は戦い続けられたが装甲のない騎兵は壊走したのを見て 騎兵にキュイラスを支給するように指示を出したそうだ。
いいれす
39 :
世界@名無史さん :2009/01/15(木) 11:50:04 O
戦争に暮れた時代、為政者が民衆の不満を反らす為に魔女狩りか。
40 :
世界@名無史さん :2009/01/15(木) 11:59:30 0
チェコのフス派がグルンヴァルドの戦いでポーランドへ義勇兵として行って活躍した話はどう? ドイツ騎士団を相手にチェコ人歩兵がどういう活躍をしたかがいまいちわからないんだが
連合軍の一部分だけでタボール戦術やられても邪魔そう
邪魔だなw
43 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 09:54:48 0
キングダムオブヘブンみたいに騎兵のランスチャージ同士で正面から激突するような例は実際にあったんでしょうか?
44 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 11:03:19 0
>>40 フス派は動きが鈍いからグルンヴァルドでは後方に控えていただろ
その直後のマルボルクの城攻めのときに大砲や投石器を持ち出した
46 :
世界@名無史さん :2009/02/07(土) 11:10:53 0
>>45 むしろ当たってなさすぎ。というか一度に撃つ量が少なすぎ。
スウェーデン軍はその映画みたいにマウリッツ風のカウンターマーチを使わず
6列の銃兵に一斉射撃させたりと凄まじいことをやっていた。
スウェーデン軍が斉射戦術を使うといっただけで何で崇拝とかいわれなきゃならないんでしょうか?
>>46 いや実際全くといっていいほど当たらないよ。50m程度の距離までは。
同君連合国軍重装騎兵はそこから約5秒でス軍銃兵のラインに到達してしまう。
その5秒間にいかに弾を当てるか、だが実際そんな場面で冷静に銃を撃つのは無理すぎる。
散り散りになって左右方向へ逃げるしかない。
フッサール重装騎兵の突撃はまず砲兵部隊が砲弾やロケット弾で相手の隊列を混乱させ、
頃合を見計らって開始されるから、敵軍は銃兵の隊列を整えるのも困難。
この重装騎兵を持つ同君連合軍に対抗する場合、いろいろ戦術を工夫して
とにかく突撃をさせないこと、これに尽きる。
突撃されたら、自軍がどれだけ銃を持ってようとその時点でおわり。
>>45 の動画は、実際そういう風になってス軍側が壊滅した場面。
50 :
世界@名無史さん :2009/02/10(火) 14:21:25 0
>いや実際全くといっていいほど当たらないよ。50m程度の距離までは。 >同君連合国軍重装騎兵はそこから約5秒でス軍銃兵のラインに到達してしまう。 >その5秒間にいかに弾を当てるか、だが実際そんな場面で冷静に銃を撃つのは無理すぎる。 >散り散りになって左右方向へ逃げるしかない。 当時の西欧のマスケット銃兵は狙って撃ったりはしないよ。 西欧ではマスケットの不正確さを「敵戦列に一度に飛ばす鉛玉の密度を濃くする」 もっと平たく言えば「数撃ちゃ中る」という方法でカバーした。だから一斉発射するわけ。 17世紀のスウェーデン軍に従軍したロバート・モンローは帰国後体験談を出版しているが 敵騎兵が突撃してきたとき、通常縦深6列の銃兵隊が3列にまとまり(前3列の兵士と兵士の隙間に 後3列の兵士を入れて超密集隊形をとった)、1列目が膝射、2列目が前かがみ、3列目が 立射の体勢をとって一斉に発射した。 ロバートによると「彼らは一瞬でそれほど大量の鉛玉を敵騎に浴びせたので、敵の隊列は 大きく破壊された」。 また3列ずつ斉射するという方法もとられた。 グスタフ・アドルフは漸進斉射てのもやってたけど、これは多分歩兵相手の戦術だと思う。 斉射戦術においては、充分な密度の銃兵が位置について銃口を前に向けていれば、狙いを 定めたりする必要はなかった。敵騎兵が有効射程に入った後で銃兵がやるべきことといえば 極端にいうと合図と共にトリガーを引くだけだった。
スウェーデン兵はシュヴァインフェダーという対騎兵装備も使っていた。 「ポーランド軍の工兵シルドクネヒトは、自らが書いた教範『ハルモニア・フォルタリティス』 <Harmonia Fortalitiis>のなかで、つぎのように克明に描写している。 『(16)26年、スウェーデン軍のマスケット銃兵はわれわれポーランド軍に対して、銃架のかわりに、 長くて頑丈なパイクで立ち向かった・・・・・・各先端には長さ2スパン(1スパンは約23cm)の スパイク、さらにその後ろに鉄の逆鉤が取り付けてあり、「スワインフェザー」と称されていた。 突撃に際して、マスケット銃兵は地面にしっかりとこの「スワインフェザー」を突き刺し、わが ポーランド軍騎兵に向かってスパイクの先端が真っすぐ馬の胸部に向くよう斜めに傾けた。 それからやや後方に引き下がり、スワインフェザー越しに銃を発射した・・・・・・この作戦が スウェーデン側で使われたのは2年足らずにすぎなかった。中止の理由はわからない。 おそらく持ち運びに不便だったことや、戦闘相手が常に騎兵とは限らなかったことなどによる ものであろう・・・・・・騎兵との戦闘でそれほど有効な作戦がかえりみられなくなったことは、 その当時の私にとっても大きな驚きだった・・・・・・』」 (リチャード・ブレジンスキ 『グスタフ・アドルフの歩兵』 pp22-23)
でもやはり槍騎兵の突撃に有効なのはパイク兵の方陣だっただろう。
フサールのランスは歩兵のパイクより長かったのでパイク兵の戦列に突撃できたという説があるが
参考図
ttp://www.hussar.com.pl/panel/uploads/2008/07/028.jpg 一見説得力のある話だけど、パイク兵の縦深が1列や2列じゃないってことを忘れてる。
パイク兵の方陣てのはスペインのテルシオだと縦深20〜30列、オランダ式だと10列、スウェーデン軍でも
6列はあった。そのうえ個々の横隊も
>>45 の映画でやってるよりも密集して並んでいた。
それがハリネズミのようにパイクを突き出して槍衾をつくって待ち構えてるわけだ。
フサールが可能な限り密集して突撃したとしても(馬の幅があるからパイク兵と同じ位密集するのは無理だが)
ランスで先頭から一人か二人は倒せても、次の瞬間にランスが敵に当たるのと同じぐらいの衝撃力で
自分と乗馬が槍衾に当たることになる。
というか馬だって鋭く尖った物体が無数に突き出したところへ突っ込んでいくほど馬鹿な生き物ではない。
>フッサール重装騎兵の突撃はまず砲兵部隊が砲弾やロケット弾で相手の隊列を混乱させ、 >頃合を見計らって開始されるから、敵軍は銃兵の隊列を整えるのも困難。 フサールは足の遅い砲兵隊が射程距離に達するまでいちいち攻撃を待ってたりしないよ。 当時の会戦では騎兵は普通左右両翼に配置され、まず敵の左翼か右翼の騎兵を撃破して それから中央の歩兵部隊の側背を突いて崩す(ポーランドだと中央まで騎兵ということもあるが)。 例えばクルシノの戦いではフサールがさんざん波状攻撃をかけてモスクワ軍の左翼と中央が 壊走したあとでやっと歩兵と大砲が追いついてきているし、コーケンハウゼンの戦いでは フサールがスウェーデン軍の左翼と右翼を撃破した後、中央の歩兵を攻撃したが崩れなかったので そこで仕方なく大砲を前進させている。キルヒホルムの戦いでは突撃前に砲撃しているが これは偽装退却につられて中央の歩兵部隊がポーランドの砲の射程内まで前進してきたからだった。 ちなみにこの戦いでも最初に行われたのは敵左翼への突撃。
>>50-53 なにやら必死に能書きを垂れているようだが、
ポーランドとの戦争でスウェーデンがフッサール重装突撃騎兵を相手に勝利したのは1度
しかないのを知っているかね?
それこそがそこに言及されている「1626年」のラトビアにおけるグスタフ・アドルフ対
ヤン・スタニスワフ・サピエハ将軍の戦闘だった
サピエハ将軍の後を引き継いだスタニスワフ・コニエツポルスキ将軍はすぐに軍を集めてプロイセンへ向かい、
1万人の自軍で2万人以上のグスタフ・アドルフ軍を撃破、その後も決戦ではスウェーデン軍相手に無敗
グダニスクでの戦いでは、グスタフ・アドルフはラトビアでサピエハ将軍に勝利した戦術を改良し、
パイクを多用し自陣を強力化してコニエツポルスキ将軍と対峙したが、
すでにスウェーデンの戦術を知り尽くしていた将軍は、グスタフ・アドルフの挑発に乗らず
敵陣との距離をうまく保って敵軍の銃兵の射程距離の外へスウェーデン軍を引き出して戦い、
敵大将のグスタフ・アドルフに重傷を負わせることに成功し、スウェーデン軍が退却して終結
その後コニエツポルスキ将軍は国会に戻って火器と銃兵の充実の必要性を訴えた
決戦でほとんど勝利できないスウェーデン軍がポーランド国内を荒らすことができた理由は、
小規模部隊を広く展開して行うゲリラ戦術にあったのだよ
つまり、砲兵による砲撃と重装騎兵突撃による決戦を戦術の主体とするポーランド軍は
大きな部隊を結集しなければならなかったため
大規模な決戦を避けて自軍をほとんど密集させなかったスウェーデンを掃討することができなかった
大規模決戦を避けるスウェーデン軍のこの戦い方は1628年の段階になって顕著になり、
「こんないたちごっこではきりがない、これでは国庫の疲弊が進むだけだ」
と考えたコニエツポルスキ将軍はポーランド国会で、敵の小規模部隊を掃討するために
必要な軍隊改編を訴えている
いずれにせよ結局、グスタフ・アドルフはポーランドの名将スタニスワフ・コニエツポルスキ将軍に
一度も勝ったことがない
× 決戦でほとんど勝利できない ○ 決戦でまったく勝利できない
>>54 スタニスワフ・コニエツポルスキは無敗の将軍
ただし一点間違いがある
サピエハは元帥で、コニエツポルスキは大冠元帥(大冠ヘットマン)だろ
だからコニエツポルスキの前任は義父のジュウキェフスキ
大冠元帥になったのが30歳そこそこで、その後の戦闘では無敗という天才
ジグムント3世(スウェーデン王ジギスムント)を支持しグスタフ・アドルフに不満を抱いてながら
渋々グスタフアドルフの下にいた多数のスウェーデン兵が、
寝返ってコニエツポルスキの率いるポーランド軍に入隊している
ふむ、これは勉強になる。
>>54-56 あのー、自分の主張のどの辺が突っ込まれてるか理解してる?
>>50-53 では、そちらの
>>49 の書き込みでのパイク&ショットの歩兵戦術に対する認識と、フサールの突撃に
必ず砲撃が先行するという主張と、「突撃されたら、自軍がどれだけ銃を持ってようとその時点でおわり」
という部分について反論してるんだが、それに対するレス(正直反論のつもりなのかいまいち確信がもてない)
が何で「スウェーデンがフサールに勝ったのは一度だけ」になるの?
そういった個々の戦闘の帰趨は当然そちらも知っているという前提で、どうやって戦ったかっていう具体的な
レベルの話をしてるんだが?
まさか歩兵を一回のランスチャージで正面突破できなかったら即敗北を意味するとか思ってる?
>>58 相手の陣を崩してそこへ突撃する、その最初の崩し方が時代時代でいろいろ違うだけじゃないか?
ポーランドは長弓使ったりタボール使ったり投石器使ったりタタール人の軽弓騎兵で遊撃させたりロケット使ったり大砲使ったりしてたよな。
敵軍は自陣が崩されたあと、ついにポーランド騎兵に突撃されて串刺しフィニッシュ♪と。
ちがうの?
相手の体勢を崩してから自分の型で勝負を決めるって、まるで相撲みたいだな
>>58 ちゃんと反論しているつもりだったんだがね?
箇条書きしないとわからないのかな?
じゃ、そうするべ↓
>パイク&ショットの歩兵戦術に対する認識
ラトビアでヤン・サピエハがフサール決戦突撃を使うもののグスタフ・アドルフに敗北
これが1626年のラトビアでの敗北
>フサールの突撃に
>必ず砲撃が先行するという主張
この議論であるポーランド・スウェーデン戦争ではそうなっている
上記のサピエハのラトビアでの敗北を受けて、スタニスワフ・コニエツポルスキが戦術を改良
敵が自陣を固めてもそれを崩すコニエツポルスキの画期的戦術の前に
グスタフ・アドルフはなす術なく敗北を続けた
>「突撃されたら、自軍がどれだけ銃を持ってようとその時点でおわり」
それはそうとしか言いようがない
この議論であるポーランド・スウェーデン戦争のグスタフ対コニエツポルスキの戦闘は
毎度のごとくグスタフがポーランドのフサール重槍騎兵の決戦突撃を受けて終了
まるで時代劇のお約束事みたいに
1628年にポトツキ将軍の3000人のポーランド軍がヴランゲル将軍の8000人のスウェーデン軍に敗北しているが、
これはポーランド側が兵力面で圧倒的に不利だった上フサールがごく少数しかおらず、ここの主旨に合わない
この戦いを挙げて絡まれると嫌だからな、先まわりしておく
62 :
世界@名無史さん :2009/02/12(木) 01:55:09 0
この頃の軽騎兵の近接武器ってどうやって使うの? 基本的には、重めの武器を持って加速して引っ掛けるような使い方と 想定して良い?
ヨーロッパ式軽騎兵の戦術はメレーだろ 短銃とサーベル 馬上でめんどくさくなると降りて戦う 上のポーランド・スウェーデン戦争では当初スウェーデン騎兵はほぼ軽騎兵のみだった 次第に重装騎兵のフッサールを真似してくるようにもなった 下手糞で大して強くなかったけどな タタール・コサック式軽騎兵は遊撃からメレーまでオールラウンダー 持っている武器も短銃、サーベル、弓、槍、なんでもあり
たまたまスタニスワフ・ジュウキェフスキとスタニスワフ・コニェツポルスキについていろいろ読んでるんだが、 この2人は思想・政治・軍事すべてでまさに偉大なる人物だと思った。
65 :
世界@名無史さん :2009/02/12(木) 20:44:51 0
>>61 >>パイク&ショットの歩兵戦術に対する認識
>
>ラトビアでヤン・サピエハがフサール決戦突撃を使うもののグスタフ・アドルフに敗北
>これが1626年のラトビアでの敗北
ヴァルホフの戦い?
フサールが突撃してきたら歩兵が何もできずに逃げ惑って蹂躙されたなんてことは起きてないので
そちらが
>>49 で示している歩兵戦術への認識を補強する材料にはならないと思うが。
>>フサールの突撃に
>>必ず砲撃が先行するという主張
>
>この議論であるポーランド・スウェーデン戦争ではそうなっている
>上記のサピエハのラトビアでの敗北を受けて、スタニスワフ・コニエツポルスキが戦術を改良
>敵が自陣を固めてもそれを崩すコニエツポルスキの画期的戦術の前に
>グスタフ・アドルフはなす術なく敗北を続けた
「ポーランド・スウェーデン戦争」を論じるのに、何でコニェツポルスキが指揮をとって以降に話を限定する
必要があるのかよく分からないのだが、とにかくそれ以降の戦闘で有名どころを見ていくと
グスタフ・アドルフが尻を撃たれたときはヴィスワを渡河中の襲撃で、そもそも砲で陣地を崩して
突撃という戦いではない。
グダニスクの戦いでは、1日目はスウェーデン軍が陣地から出てこなかったので、自軍陣地に戻ろうとした
フサールが沼地の細い土手道で奇襲されて敗走、2日目にはスウェーデン軍がポーランド軍陣地に
砲兵隊まで連れてきて総攻撃をかけたが、グスタフ・アドルフとヨハン・バネルが被弾、指揮を引き継いだ
ヴランゲルは全軍に攻撃を中止させて、モトワヴァ川沿いの陣地に立てこもって夜を待ち、闇にまぎれて
1日目にいたチェヒの陣地へ戻った。これも砲撃&突撃で壊走ってパターンではないね。
最後の戦いとなったトシチャノはほぼ完璧な騎兵戦。グスタフ・アドルフはヴァレンシュタインからの
援軍がコニェツポルスキと合流する前に叩こうとして、騎兵と少数のマスケット兵(スウェーデンの騎兵は
装備も馬も貧弱なので随伴銃兵に斉射させてから突撃していた)だけ突出して行動していたが間に合わず、
フサールとコサックとドイツ人のピストル騎兵に撃破されて再集結してはまた撃破、というのを繰り返して、
結局歩兵と砲を待機させていたシュトゥムまで敗走。その後特に妨害も受けずに全軍マリエンブルクまで
後退できたようである。
他に
>>54 でいうところの「大規模な決戦」っぽいのって1626〜29であったっけ?
>>「突撃されたら、自軍がどれだけ銃を持ってようとその時点でおわり」
>
>それはそうとしか言いようがない
>この議論であるポーランド・スウェーデン戦争のグスタフ対コニエツポルスキの戦闘は
>毎度のごとくグスタフがポーランドのフサール重槍騎兵の決戦突撃を受けて終了
>まるで時代劇のお約束事みたいに
とりあえず上のレスを参照。
ポーランド軍が敵軍を突撃で派手に歩兵含めて丸ごと崩壊させてたのは、どっちかというと
>>53 でこちらが例に挙げたあたりの時代だね。
>1628年にポトツキ将軍の3000人のポーランド軍がヴランゲル将軍の8000人のスウェーデン軍に敗北しているが、
>これはポーランド側が兵力面で圧倒的に不利だった上フサールがごく少数しかおらず、ここの主旨に合わない
>この戦いを挙げて絡まれると嫌だからな、先まわりしておく
しかしクルシノの戦いなんかでは、5倍の兵力をもち防御陣地の背後にいた敵軍をフサールだけで
右翼以外壊走させているな。まあパイク&ショットの編成を取り入れていたとはいえ当時のロシアと
スウェーデンの歩兵を同列に語っていいのかというのもあるが。
このときポーランド海軍がスウェーデン海軍を撃破してるんだな
クルシノの戦いの解説希望
クルシノ(Kluszno)の戦い(1610年7月4日)概略 <ポーランド軍> 司令官:スタニスワフ・ジュウキェフスキ(階級:大冠ヘトマン、他国の大元帥に相当) 兵力:6800人(うち約5600人がポーリッシュ・ウイングド・フッサール重装騎兵)+予備12300人=総計19100人 野砲2門 <ロシア・スウェーデン連合軍> 司令官:ドミトリー・シュイスキー(ヴァシーリー4世の弟) ジャコブ・ド・ラ・ギャルディ(スウェーデン将軍) 兵力:35000-40000人(ロシア人、スウェーデン人、フィンランド人、フランス人、ドイツ人、イギリス人) +予備48000人=総計83000-88000人 野砲11門 <結果> ・ポーランドの圧勝(露・端連合軍は包囲され降伏) ・死傷者:ポーランド軍400人、ロシア・スウェーデン連合軍5000人 <戦闘後> ・ポーランド軍は、スウェーデン軍が二度とロシア方につかないことを条件に安全な帰国を許可 ・スウェーデン側将兵数百人はポーランド軍に入隊
日本ではマイナーな国の歴史もこうやって見ると興味深いもんだな。
これまた天才将軍のスタニスワフ・コニェツポルスキもジュウキェフスキの愛弟子だろ?娘婿だし
>>70 >・ポーランド軍は、スウェーデン軍が二度とロシア方につかないことを条件に安全な帰国を許可
スウェーデンとの国家連合やロシアとの戦争を視野に入れての判断だと思うが、それでも優しすぎね?
スウェーデン人なんか奴隷にしてトルコに売っぱらっちまえばよかったのに
79 :
世界@名無史さん :2009/03/11(水) 00:46:13 0
80 :
世界@名無史さん :2009/03/11(水) 00:59:41 O
>>73 m2twのチュートン騎士団キャンペーンで中世東欧史の面白さに目覚めた俺が来ましたよ。
>>78 ウクライナ人邪魔
イデオロギー最優先の捏造歪曲歴史ばっかり
とっとと消えろウクライナ
ロシアとウクライナは特に性質が悪いよね。
>ウクライナの歴史家ムィハーイロ・フルシェーウシクィイによれば、 >彼はその時代においてウクライナ・ポーランドはおろか、 >全ヨーロッパで一番の富裕な貴族であったという。
誰だよそんな糞ソースで糞記事書いてるの?
85 :
世界@名無史さん :2009/03/11(水) 02:39:17 O
どこの国にもネトウヨやネチズンみたいなのがいるってことか
少なくとも日本のはソースなしで電波書くようなやつはいない
>>80 俺はヘタリアの中世編で興味持ちました。サーセンwwww
>>87 そんなのあるんだ。つーかロンバルディア都市同盟vsバルバロッサとか全然ヘタレなイメージないんだが、中世だと。
むしろジェノヴァ傭兵のクロスボウは脅威だったんだよね。
>>86 >フェリペ2世はフィリピンをも帝国の版図としていたが、わが豊臣秀吉はそこに「朝貢」を命じたのだった。
>フェリペ2世の耳に達したかどうか知らないが、驚いただろうね、スペインも。
>歴史書の脚注程度にしかなるまいが、とにもかくにも、16世紀日本は世界帝国の覇権に挑戦したのだった。
なんて電波な事を書く新聞もあるがな。
>>87 中世ってか近世編じゃね?
中世に関しては、タンネンベルクの話と黎明期のハンガリーの話しか無かったような?
>>89 以前シチリアの晩鐘事件のときのアラゴン海軍についての専著を読んだけど
それによると中世の地中海で最も優れたクロスボウ兵といわれていたのはカタロニア人だったそうだ。
イタリアの戦争で有名なコンドッチェリ(傭兵)も初期は百年戦争の小休止で 流れてきたフランス人とかイングランド人、あとドイツ人も多かったみたいね。 ジョヴァンニ・ド・メディチとかチェーザレ・ボルジアの頃になると たしかイタリア人兵が大勢だったと思うけど。
ポーランド(・リトアニア同君連合)→ウクライナ→ロシア←朝鮮(大韓帝国)←大日本帝国
いつぞやのロシアのグルジア侵攻の時 ポーランドとバルト三国が非難声明出したけど この四ヶ国がロシア非難すると説得力あるよなあw
98 :
世界@名無史さん :2009/03/11(水) 22:15:15 0
ウクライナ=コサックの国
大韓帝国=ムサ(武士)の国
>>96 オランダ人傭兵は三十年戦争とかぐらいしか聞かないような
102 :
世界@名無史さん :2009/03/12(木) 01:09:08 O
武藤敬司=ムタ
>>101 傭兵ではないが、そのころのポーランド軍の主力銃歩兵はオランダ人移民のポーランド市民。
突撃歩兵や砲兵はポーランド系平民にくわえ、チェコ人移民とドイツ人移民とスコットランド人移民のポーランド市民。
ポーランドやロシア以外は? オレンジ公とジャコバイト戦争で戦ったようなオランダ兵は傭兵とはまた違うだろうし
105 :
世界@名無史さん :2009/03/12(木) 22:22:27 0
マウリッツ
ホチム(Chocim/Khotyn)の戦い(1621年9月2日〜10月9日)概略 <戦いの種類> ・城攻め(ホチム要塞とその周囲に巡らしたポーランド軍陣地と、 それを完全に包囲して攻めるトルコ軍との戦い) <ポーランド軍> ・総司令官:ヤン・カロル・ホドキェヴィチュ(大リトアニアヘットマン) ・司令官:スタニスワフ・ルボミルスキ(レジメンタシュ=副将軍) ヴワディスワフ・ヴァーサ(ポーランド王国王太子) ペトロ・コノノヴィチ(アッタマン=コサック集団の頭領) ・兵力:5〜6万人 ・主兵力:ポーリッシュ・ウイングド・フッサール1万8000と、 多民族歩兵1万2000人(主にポーランド人商人と、オランダ・ドイツ・ スコットランド・スウェーデン・チェコからの移民ポーランド人商人) ・副兵力:コサック軽騎兵とコサック歩兵(総勢2万5000〜3万) <トルコ軍> ・総司令官:オスマン2世(スルタン=皇帝) ・司令官:オフリーリ・ヒューセイン・パシャ(サルダーリ・エクレム=帝国首相) テミール(カーン=タタール集団の頭領) カニベック・ギーライ(モルダビア公兼ワラキア公) ・兵力:20万〜25万(内訳は不明)
<経過> ・ポーランド軍の援軍が近くのカミェニェツ・ポドルスキ要塞まで到達したが、 その先はトルコ軍によって足止めを食らい、ホチム要塞へ補給不能になる (カミェニェツ・ポドルスキ要塞はサッカーのドイツ代表ルーカス・ポドルスキの 先祖の居城といわれる) ・ホチム要塞は包囲されるうちに、武器弾薬が枯渇してくる ・ホチム要塞が包囲されるなかの9月24日、それまで昼夜を問わず老体に鞭打って 指揮をしていたホトキェヴィチ大ヘットマンが過労で倒れ死亡、 副官(レジメンタシュ)のルボミルスキが後をひきつぎ戦いを継続 ・トルコ軍もあまりの大所帯の遠征のために補給、特にトルコ軍の場合は食料が 間に合わなくなり飢餓状態となる ・両者ともに戦いを継続することが困難となる <結果> ・不完全ながらポーランド軍側の勝利(篭城成功) ・死傷者はポーランド軍1万4500人、トルコ軍4万2000人 ・ホチム要塞にて停戦条約が結ばれ、疲弊したトルコ軍は退却 ・スルタンのオスマン2世は腹いせに自軍のイェニチェリの責任を追及して粛清 ・これでイェニチェリの恨みを買ったオスマン2世は翌年のイェニチェリの反乱で殺害される
108 :
世界@名無史さん :2009/03/13(金) 00:56:57 0
何ぞや?
110 :
世界@名無史さん :2009/03/18(水) 21:44:12 0
ポルディーがポーランド人なのは知ってるが、あいつ貴族だったのか!
それよりオスマン2世が殺された原因が
>>106-107 の戦いに失敗したことだったのに注目しろよ・・・
112 :
世界@名無史さん :2009/03/18(水) 22:12:30 0
おーいおまえらいまNHK見てる? 鉄砲で鋼鉄の鎧を撃ってるぞ かなり近い距離から撃っても鎧が弾を跳ね返してる 上の方に騎兵の甲冑vs歩兵の鉄砲の話があるからさ
113 :
世界@名無史さん :2009/03/18(水) 22:21:50 0
>>112 そのとき歴史が動いた?
戦国期に西洋から輸入された甲冑でも紹介されたの?
多分、徳川家康の鎧の話じゃないかな? 確か胴の部分が西洋式の鎧の奴
南蛮胴具足ってやつだな。たぶん。
鉄砲の弾が何発か当たって凹んでる南蛮具足ってあるよな。 どこの所蔵だっけ。
伊達の試し胴?
119 :
世界@名無史さん :2009/03/20(金) 23:35:55 0
>>119 >西洋甲冑と日本の甲冑の強度実験
>古銃研究家の澤田平氏(堺鉄砲研究会)の協力で射撃場で正式に許可を取って行った
興味深いな。
ポーランド騎兵ウイング・フッサールが突撃戦法で200年間も欧州に覇を唱えたのは 一つには甲冑の進化のおかげとも言える
122 :
世界@名無史さん :2009/03/21(土) 18:30:53 0
胸甲騎兵も至近距離の銃弾を跳ね返せるというのと せいぜい斬撃を防げる程度か破片で死なない程度、銃弾には無意味 と2つの説がありますね どちらが正しいのやら ワクテカ
>>116 胴と頭の部分だけ頑丈な南蛮風にして
他の部分は動かしやすいように旧来の当世具足にしてるんだっけ?
124 :
世界@名無史さん :2009/03/21(土) 22:53:06 0
>>121 東の騎馬民族との戦いを想定していたからね。
125 :
世界@名無史さん :2009/03/21(土) 23:15:26 O
つまり機動性を重視してたわけか
スウェーデンやロシアとの戦いにも投入され成功している 対トルコ戦争とは違う戦い方になるのは当然として、いずれにせよフッサールは成功
国土が馬鹿デカかったからな。
128 :
世界@名無史さん :2009/03/22(日) 23:41:01 0
北のスウェーデン、西のプロイセン、東のロシア&タタール、南のオスマン帝国 それぞれに違った対応をしなければならなかった。
>>128 プロイセン公国はポーランドの西じゃなくて北東あるいは東
当時のポーランドの真西隣はザクセンでポーランドの友邦
131 :
世界@名無史さん :2009/03/23(月) 00:28:33 0
ポーランド貴族は、目上の者や知事・代官に対しては謙虚で愛想がいい。 同僚ともうまく付き合う。しかし目下の者に対しては傲慢で手に負えない。 …彼らは勇敢で武器の使用に巧みである。なぜならポーランド人にとって戦争でない時はないからだ。 彼らはほとんど絶えず、トルコ・タタール・モスクワ・スウェーデン・ドイツなどの君主たちと、 しかも同時に数カ国と戦争をしているからだ。 ギョーム・ル・ヴァスール・ド・ポープラン著『ウクライナ誌』(1660年)より
>>131 ポーランド貴族のメンタリティーが日本の武士階級とまったく同じというのがおもしろいな
133 :
世界@名無史さん :2009/03/23(月) 21:51:29 0
勇猛なるポーランド獅子
いまNHKでロシアやってるが、ロシア人が現代までキチガイみたいに意固地でいるのは 17世紀にポーランドが「民主主義」と「カトリック」を広めようとしてモスクワに攻めてきたからだろ。 そこに出ているコサックだってポーランドに反抗してヘーチマン国家を作った「反乱コサック」の子孫を 専制ロシアが今でもずっと操っているだけ。馬鹿なやつら。 民主ポーランドの思想や政策に賛同した「登録コサック」は正式なポーランド貴族になって ポーランド人化している。
タタール西征のとき、リーグニッツでは負けたけど 結局、クラクフを守り抜いたんだっけ? ハンガリーのべーラ4世は負けてどこか逃亡したよね。
校長:「アメリカはアメリカの幸福、ロシアはロシアの幸福」 ↑国家でしかモノが見れない国家主義の典型的な愚か者。
137 :
世界@名無史さん :2009/03/23(月) 22:53:28 O
>>135 いや、確かポーランドのデカい街2つが蹂躙されたはず。
クラクフだったかどうかは忘れたが。
>>135 スレの扱ってる時代と違うだろ
クラクフは陥落した
リーグニッツでモンゴルに戦いを挑んで戦死したヨーロッパ連合軍の総大将ヘンリク2世がクラクフ大公
(ポーランド王国空位分裂時代のクラクフ大公領、シレジア公領、大ポーランド公領の兼任君主)
ハンガリーでは何故か英雄に祀り上げられてるベーラ4世
>>137 陥落したのはクラクフとサンドミェシュ
この2都市の古いポーランド人諸侯はほとんど絶滅し、街は皆殺しで無人になった
モンゴルはすぐに撤退した
ヘンリク2世の普段暮らしていたヴロツワフ(ブレスラウ)は先手を打って焦土作戦を取り
全市民が避難、モンゴル人はすぐに撤退した
ヘンリク2世の遺体は今もヴロツワフのフランシスコ会教会に埋葬されている
彼は左足の指が6本あると当時の記録にあり、
1832年に発掘調査が行われ本当に6本の指がある左足を持った彼の遺体が確認された
彼の五男は後にザルツブルクの大司教になっている
>>134 ポーランド・リトアニア・スウェーデン連邦を目指して幼年からポーランドで
教育を受けたスウェーデン人のポーランド国王ジグムント3世がカトリック狂信者で
ロシア人貴族(ボヤーレ)を無理やりカトリックに改宗させようとした
ポーランドの大元帥ジュウキェフスキと
ジグムント3世の長男でモスクワのツァーリとなったヴワディスワフ
(後のポーランド国王ヴワディスワフ4世)の2人は
ジグムント3世と対立した多民族思想の民主主義者/自由主義者
ボヤーレたちをカトリックに改宗させる意図はなく、多数のボヤーレたちが支持した
ジュウキェフスキは国王との対立があまりに深刻化したためポーランドへ帰国
ジグムント3世は民主主義者/自由主義者の息子がツァーリになることに反対し、
自分がツァーリになると言い出して手勢を率いてモスクワに居座りボヤーレたちと対立、
それから後は皆がよく知るごとくもう滅茶苦茶
以後ロシア人はあんなふうに「意固地」になったままプーチンの現代に至る
>>139 ベーラ4世の場合、
決戦の戦場からとっとと逃げ出したのを「腰抜け」だとして非難する向きと、
モンゴル撤退後の復興政策を賞賛する向きと、二種類の評価がある
ハンガリーでこういう正反対の評価があるのは、
近代以降のハンガリー人が比較的国粋主義の強い国民性を持っているからだろう
ロスケはDQN中のDQN 筋金入りのDQNだな
ちょっと調べてみたんだけど、 アンリ・ボグダン著「東欧の歴史」P57 に1241〜1242年のタタール侵入について、 >「ポーランドの首府クラクフはその攻撃によく耐えてタタール軍を撃退した。」 と書いてあるが、これは通説とは違うトンデモ説か? ネットで調べても、やっぱクラクフは破壊されたと書いてあるサイトが多いな。 破壊されたが陥落はしてないとか。
>>142 なんか日本で北条時宗が「たまたま自然災害に救われただけのただのラッキーボーイ」か
「元軍を退け国難を切り抜けた若き名執権」かで評価が分かれてるの思い出すなw
そういやポーランドだとヘンリク二世って
モンゴルに勇敢に立ち向かった人として結構人気あるんだっけ?
>>144 クラクフは陥落している
それまでのクラクフの諸侯はみな勇敢に戦いほとんど戦死した
クラクフの土着有力貴族が少なくなったため後にヴワディスワフ1世に
よるポーランド再統一が実現した
モンゴル撤退後にクラクフ諸侯が自分たちの利権のために呼んできた
チェコ人の外様の王(ヴァーツラフ3世)を暗殺しプシェミスル朝を絶滅したのは
まちがいなく彼だろう
プシェミスル家に恨みがあったわけではないが、クラクフの諸侯を抑えてピャスト家の
ポーランドを復興させるためにやったこと
とりあえず時代的にスレ違いじゃ?
スレタイが「中世〜ルネサンス期ヨーロッパの戦争のリアリティ」だからいいんじゃないか? むしろ17世紀は範囲外?
>>145 愛されてるようだね
男は負けるとわかっていても戦わなければならないときがあるということか
実際はそれだけではなく、ピャスト家の復興を望まないクラクフやシレジアの諸侯や
ポーランドの再統一と強大化を警戒するドイツ人やチェコ人の諸公が、
戦場で無気力に戦って逃げた
スレ違いって、13cはモロ中世だろ。
すまん、スレタイをちゃんと認識してなかったわ
てゆうかあらかたポーランドスレじゃないか
152 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 02:51:40 O
>>145 時宗に対しては後者の評価が殆どだろ。
今時前者のような評価するなんてよほどのバカサヨだ。
>>151 じゃあ次はイングランドのロングボウについて話すか
>>151 西欧史ならば現在の西欧主要国の歴史がそのまま通じるのでそれぞれあるが
中欧から東欧にかけてのこの時代になると
当時の唯一の大国だったポーランド(ポーランド・リトアニア連合)抜きで語るのはまず不可能だから
まあいいんじゃないか。
>>153 いや、別にここ中東欧史スレじゃねーし。
どっちにしろ教科書にはポーランドは載らないんだけどな。
156 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 10:01:03 0
載せないと。ヨーロッパ史を理解するために重要な国だろ。 ポーランド史が抜け落ちているとドイツもロシアもスウェーデンもフランスも理解できない。 いわゆるミッシングリンクになってしまう。
157 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 10:03:28 O
高校レベルでなら普通に載ってるよ。ヤギェウォ朝ん辺りから。 中学レベルだとポーランド?リトアニア?どこっすかそれ?って感じだが。
ポーランドは事実上ドイツやロシアの周辺史扱い やっぱりいくら大国でも近現代に国が消滅すると支配国の歴史の中の周辺史にされてしまうのさ 個人的には興味深くて、新しい発見が多いから好きな国だ
つーか、近世以降のポーランド=リトアニアはともかく、中世ポーランドはハンガリーより完全に下じゃね
ハンガリーの下?馬鹿言ってんじゃないよ
161 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 11:48:06 O
東ヨーロッパの歴史でのハンガリーの位置付けはアジアでいう朝鮮半島
ここ最初のほうはいい感じに濃い戦史スレだったのに・・・
164 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 18:13:28 0
鳥取市の誘致企業リコーマイクロエレクトロニクスにアルバイトに行っていた。 勤務態度不良でリコーのアルバイトをクビ同然で辞めた。 その後、鳥取市のテスコという工場に勤め真面目に働いていた。 「真面目に働いているのはリコーに対する報復(あてつけ?)」という噂でテスコをクビになった。 直後、テスコの社長から雇用保険の書類をとりに来るよう泣きそうな声で電話があった。 噂は嘘だと知ったのだろう。 雇用保険の手続きのため職安に行った。 職安の次長と相談すると、口止めをされた。 職安と会社は連絡を取り合っていたらしい。 しかし噂は狭い鳥取市である程度広がっているようだ。 リコーマイクロエレクトロニクスに電話を掛けた。 「君はうちのような一流企業が組織ぐるみでやったとでも思っているのかね?」 「そんなことはありませんけど」 「じゃあ会社には関係ないじゃないか」 しかし公的機関(職安)も巻き込んだ組織ぐるみの人権侵害の揉み消しである。
166 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 21:47:17 0
ポーランドとハンガリーは歴史的な対立がないから今でも仲が良いんだってな
騎士→傭兵主体の流れは日本の騎馬武者→足軽主体の流れを彷彿とさせて面白いな。 どちらも武勲や個人戦重視→集団重視への流れだし モンゴルとの会戦で辛酸を舐めた点でも共通してるし。
対立というか歴史的に接点あった? なんか近い割にはあまり互いに干渉してないような。
双方ともチュートン騎士団の被害者。 てかチュートン騎士団の鎧兜がカッコ良すぎるんだが。 何あのバッファローマンみたいな角。マジ燃える
中世後期〜近世には、ハンガリー王・ポーランド王・ボヘミア王を兼ねてたこともあるやんか ヴワディスワフ3世とかヴァルナの戦いで戦死してるし
トランシルヴァニア候のステファン・バートリがポーランド王になってるしな
>>168 その当時スロバキアが存在してたとでも思ってるとか?
ポーランドとハンガリーはいつも隣国だった
隣国なのに仲が良かったというのは珍しいと思われるかもしれないが、
ポーランドはリトアニアとも仲が良かったし後のザクセンとも仲が良かった
ボヘミアとの仲はあんまりよくないけどな
>>174 ボヘミアは他人の窮地に付け込む悪い癖があるから
ある事件でポーランドのピャストの当主がとうとうブチ切れて
ボヘミアのプシェミスル朝を絶滅している
ボヘミアは自分たちが追い出してポーランドを頼って行ってしまった聖職者が
後に異教徒への布教で殉教して聖人になると
その聖遺物を「ボヘミアのものだから返せ」と迫るとか
どこかの国によく似た精神構造を持っている
なんでポーランド史スレになってるの・・・しかも殆どのレス戦争のリアリティ関係ねーしw
178 :
世界@名無史さん :2009/03/25(水) 02:44:59 0
実に最強のポーランド軍であったとさ
ポーランドとかハンガリーとか朝鮮臭ぇ ロシアやオーストリアにギャアギャア騒ぐのな いつまでも過去の栄光に縋ってんなよ
180 :
世界@名無史さん :2009/03/25(水) 03:23:15 O
確かに近代のポーランド史はそれまでの反映ぶりが嘘のような悲惨の一言だよね。
>>197 おいおい、どっかと一緒にするなよ。
どっかの国は過去の栄光なんて一瞬たりとも存在しないぞw
>>180 ポーランド衰退の最大の遠因は新大陸開拓。
日本と西洋で中世末期までエリート重装騎兵を中核とした軍制だったのが なぜか両者とも14世紀になると歩兵の重要性が増して 近世には傭兵・雑兵足軽の時代になる(しかも鉄砲長鑓がメイン) というのは何か意味があるのだろうか?
どうだろう?日本の場合は徐々に山城での攻防戦が増えたからってのが主な原因だと思う。 あと武士を重装騎兵とするのはちょっと違くね? 武士の場合、平安鎌倉期ですらケースバイケースで大幅に戦い方が変わってるし。 それ言うとヨーロッパも勿論そうなんだが、日本は ヨーロッパ以上に歩兵・騎馬・弓兵のカテゴライズが曖昧だし。 ヨーロッパの場合は、むしろ徐々に封建制度が崩壊していく過程に注目したらいいかも。
中世日本の騎馬武者って指揮官クラスだもんな 日本の中世といえば弓で打って薙刀と太刀で馬ごとぶった切りの乱闘だろ これはこれで強いわけだが 密集槍歩兵で防御して重装槍騎兵で突撃する組織戦とは違う
まあ組織より個人主体と言い出したらルネサンス以前のヨーロッパもそうだがね。 もっと正確に言えば少数のグループ主体と言った方がいいか。
第一次世界大戦の前半ぐらいまで、騎兵は欧州戦の花形であり続けた。
第一次大戦どころかポーランドじゃ1940年ぐらいまで 槍騎兵がいたらしいね。あくまでも偵察兵の役割だったけど。
アフリカ南部では、少なくとも1960年代から1980年代ぐらいまで哨戒に騎馬が活躍してた。 黒人のゲリラは銃や弾薬を担いで一日数十キロ移動するから徒歩じゃとてもかなわんとかで。
日本の武士はヨーロッパの感覚では軽装騎兵だよ
>>189 アメリカやポーランドにはいまでも槍騎兵はいる
現在は儀仗用だが
たしかポーランド人の若い将軍が槍騎兵戦法をアメリカに伝えたのでルーツは同じ
ポーランドの槍騎兵戦法ってフランスの騎士がやってたのと 何か違うの?
>>184 >なぜか両者とも14世紀になると歩兵の重要性が増して
飛び道具の性能向上、てのが14世紀に共通して見られるような気がする。
ヨーロッパではクロスボウの威力が増加して特殊な器具を使わないと
引けないようなものまでその頃になると現れてくるけど
日本でも太平記の頃には徒歩の弓兵に遠距離から大鎧が
ぶち抜かれるような例が軍記物語に見られるようになるそうで
弓の性能の向上を反映してるのだとか。
あと銃が実戦に投入されるのも14世紀だな。 最初はクロスボウのほうが威力があったとか何かで読んだようなw
百年戦争で騎士が下馬して戦うのが画期的だったみたいに言われるけど 実際にはけっこう昔から行われてたのだとか
ローマが崩壊してガリアにフランクが覇権を確立したころには純粋な騎乗戦闘専業の騎兵は衰退し始めた もともとフランク自体が歩兵主体であったから騎乗戦闘専業の騎兵は征服したブルターニュのケルト人や南仏の西ゴート人から召集した フランク自身も騎馬部隊を編制したが、あくまで騎乗歩兵 騎乗戦闘専業の騎兵、騎士が復活させたのは10世紀頃ノルマンディーに居住したフランス化したノルマン人 ギョーム公率いるノルマン人がイングランドのハロルド王を圧倒したのも ハロルド王率いる軍が旧態依然な騎乗歩兵で重装騎兵であるノルマン騎士に勝てなかった この戦の直前ハロルド王の軍はスタンフォードブリッジで最後のヴァイキングといわれたノルウェー王ハラルド3世を破っているが このノルウェー軍には騎乗戦闘専業の騎兵はいなかった これ以降、騎士は西欧諸国で広まり、南伊ではノルマン騎士によりムスリムからシチリアを奪還した それとほぼ同時期ビザンティンのタグマ(中央機動軍)重装騎兵化しバルカンと小アジアでの覇権を回復した
199 :
世界@名無史さん :2009/03/26(木) 13:50:13 0
ロジェール1世は僅か250騎でシチリアをイスラムから奪還した
200 :
世界@名無史さん :2009/03/26(木) 14:41:51 O
ようやくスレタイ通りらしい流れになったw
>>194 それ暴動鎮圧のための警察の機動隊だし、
それにこういう暴動対応の騎馬警官はどこの国でもこういう訓練をしている人員がいる
>>193 ・中世騎兵のランスが相対した敵の騎兵を馬上から突き落すのに使われたのに対し、
ポーランド騎兵は主に陣を構えた敵歩兵に対して使用(しばしば敵歩兵のパイクよりも長い)
・攻撃した後も再度隊列を整えて攻撃し、それを繰り返す
・甲冑が鉄砲に対応していて、致命傷を受けづらい
・全身をくまなく覆う重い甲冑のため混戦時のために常に従者を必要とした中世の騎兵と異なり
身軽なので混戦になっても騎乗のまま槍を捨ててサーベルや短銃を使って戦える
こんなところじゃないか?
>>196 スペインがテルシオを初めて組織した時はマッチロック式火繩銃とクロスボウの混成部隊とパイク部隊との組み合わせだったから
まだ出来て間もない火繩銃だと信頼性がなかったのかも知れない
ともあれスペインはこの火繩銃でフランスの重騎兵とパイクの混成部隊を破り欧州最強国にのし上がったことになるね
このスペインのテルシオを破るのはマウリッツ指導下のオランダであり、ヴァサ朝のスウェーデンであるわけだが
この時期は17世紀以降だからルネサンスは終わっているのでこのスレとは関係ないな
>>192 カシミール・プワスキだろ。ワシントンDCのフリーダム・プラザで
大群衆を相手にマーティン・ルーサー・キングがI Have A Dreamの演説を
したときの映像で背景に映る騎馬銅像がプワスキ像だよ。
>>203 スペインの黄金時代が16世紀だとすると、15世紀の最強国はフランス?
スペインはじめヨーロッパが本格的に海外進出する前はポーランドじゃね? タンネンベルクで勝ってから150年ぐらいはポーランドの天下だった気がする。
海外進出とヨーロッパ本土での軍事力が何か関係あるん? 十六世紀のイングランド軍なんかはいまだに薔薇戦争さながらの長弓とビルフックで武装した歩兵が大半で (長弓と火縄銃はどちらが優れた兵器か、なんて議論を大真面目にやっていた)士気も練度も低かったが 接舷戦闘より砲撃を重視した海戦術だけは時代の先を行っていたのでw スペイン軍を海上で撃破したりしてるけど
>>205 戦域をヨーロッパ大陸に限定すると
―中世の始まり―
6世紀 ビザンツ→アヴァール、ランゴバルト
7〜8世紀 フランク、ブルガール
9〜10世紀 ヴァイキング、マジャール、
10〜11世紀 ビザンツ、ノルマン人(〜12世紀、英・南伊)、神聖ローマ(オットー大帝のみ)、ハンガリー(11世紀〜)
ヴェネツィア(11〜16世紀、海軍)、ジェノヴァ(11〜14世紀、海軍)
12〜13世紀 フランス、イングランド(ヘンリー1世、エドワード1世)、神聖ローマ(ホーエンシュタウフェン朝)、モンゴル(13世紀)
14世紀 イングランド、フランス、リトアニア(アルギルダス大公、ヴィタウタス大公)、アラゴン
セルビア(ステファン・ドゥシャンのみ)、オスマン(14世紀後半〜)
15世紀 フランス、スペイン(カスティリア、アラゴン)、オスマン、ブルゴーニュ公国
16世紀 オスマン、ハプスブルク家、フランス、イングランド(16世紀末〜)
―ルネサンス終了―
とにかく14世紀後半〜16世紀は欧州の陸上ではオスマンが最強、次いでテルシオ採用後のスペインとフランス
スレの範囲外だが17世紀は陸上ではフランスが最強で、次いでスウェーデン
海上はオランダ、イングランドだろうな
209 :
世界@名無史さん :2009/03/27(金) 13:53:04 0
>>206 スペインとポーランドがガチで当たることは一度もなかったから
地理的な理由で、両国は住み分けしてる
ただしオランダ人の動向がおもしろい
スペイン王室に徹底的に迫害されたオランダ人が大量にポーランドへ移民して
ポーランド人になった
>>208 そうやって意図的にポーランドを抜くのは良くない態度
ワラキアにはバヤジット1世を2度に渡り破ったミルチャ老公 メフメト2世を夜襲で襲ったヴラド3世 隙を突いてトランシルヴァニア、モルダヴィアを占領したミハイ勇敢公がいる。
>>208 14世紀 ロシア(ドミトリイ・ドンスコイ)、ワラキア(ミルチャ老公)
15世紀 アルバニア(スカンデルベク)、モルダヴィア(シュテファン大公)
ハンガリー(フニャディ・ヤーノシュ、マーチャーシュ・コルヴィヌス)
214 :
世界@名無史さん :2009/03/27(金) 14:35:25 O
ドンスコイで思い出したけど昔ナムコでドンスコイ大相撲ってゲームがあったね。
>>208 14世紀 ポーランド(ヴワディスワフ2世)
15世紀 ボヘミア(ヤン・ジシュカ)
16世紀 ポーランド(ヤン・タルノフスキ)
リトアニア(イェジー・ラジヴィウ)
ロシア(イヴァン大帝、イヴァン雷帝)
15世紀後半〜 スイス 16世紀末〜 オランダ もな。
ウクライナの英雄イェレミ・ヴィシニョヴィエツキ ベラルーシの英雄コンスタンティ・オストログスキ ・・・
219 :
208 :2009/03/27(金) 15:53:18 O
220 :
208 :2009/03/27(金) 15:55:21 O
>>216 確かにそれも入れようかと思ったのですが
スケール的にどうかと思って外したんですが
別に付け加えても構いません
221 :
208 :2009/03/27(金) 16:03:18 O
>>212 そうですね
失念致しました
付け加えて下さい
あとフス戦争のヤン・ジシュカに関しては優秀だと思いますが、特定国家所属でないので外しました
222 :
208 :2009/03/27(金) 16:18:31 O
ヤン・ジシュカを認めると イタリアで活躍した傭兵たち 冷酷なイングランド人ジョンヴァンニ・アクードことジョン・ホークウッドや 独力で仏軍や皇帝軍も破ったジャンガレアッツォ支配下のミラノ公国のイタリア人傭兵ヤコポ・ダル・ヴェルメも入れないと不公平になりますね
フランチェスコ・スフォルツァもね。
>>223 そうなると国家と優秀な個人と分けた方がいいですね
個人だけだと11世紀に僅かな兵でアイルランドを征服したアングロ・ノルマン人のストロングボウも入れたくなるし
チェーザレ・ボルジアは?
226 :
224 :2009/03/27(金) 16:29:42 O
スマソ、12世紀でした
>>225 チェーザレ・ボルジアよりルネサンス最後の傭兵隊長
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレを挙げたい。
>>227 そこのAlex Kというのは何か勘違いしているだろ。
「ポーランドの貴族」というのは(ポーランド・リトアニア)同君連合の貴族で
そこにはベラルーシ人やウクライナ人やロシア人などのルーシ人も
同君連合の国民ならば「ポーランドの貴族」に入るんだよ。
「ウクライナ人だからポーランド人ではない」←1792年以前はこういう言い方は誤り
当時は「ポーランド」といえば同君連合のこと。
ポーランド王国だけを指すわけではない。
単なる民族主義者だろ。なんかもう好き放題だな。
>>230 >彼はその時代においてウクライナ・ポーランドはおろか、全ヨーロッパで一番の富裕な貴族であったという。
ここは捏造だろうが、ヴィシニョヴィエツキが優れた軍事指導者であることに変わりはない。
wikipediaでは韓国関連の記事と同じことがウクライナ関連の記事におきているということ
ポーランド・リトアニアの英雄であるヴィシニョヴィエツキを 現在のウクライナ人共がとやかく言う権利はないよな
そろそろポーランドスレかウクライナスレでやっていただけないでしょうか
ポーランドポーランド言ってるのは、古代朝鮮帝国がヨーロッパまで制した大帝国 とか言ってるのと同じ様な一方的な執拗さだな。 気持ち悪い。
ポーランド史はこれまであまりに過小評価されていた 重要度はドイツやロシアと変わらない このポーランド史は単なるポーランド民族史ではなく、中世から近世にあったポーランド、 つまりポーランド=リトアニア同君連合共和国の歴史な 同時代ならば、神聖ローマ帝国よりも、プロイセンよりも、オーストリアよりも重要
>>236 朝鮮帝国とかいう、実際はなかった国の歴史ではなく、
ポーランド史は、中世から近世にかけてヨーロッパ最大最強を誇った巨大国家の歴史
それが後のヨーロッパ史、ひいては世界史に決定的な影響をおよぼしているから
知らなければならない
239 :
208 :2009/03/28(土) 00:09:26 O
>>205 そうですね
やはり百年戦争終了後の15世紀後半はオスマンを除けばフランスが最強と認めざるを得ない
フランスの重装騎兵、スイスパイク傭兵、ガスコーニュの弩兵の組み合わせに勝てる軍は同世紀後半には見られない
勿論それ以前の百年戦争期全般のイングランド軍やオスマンでさえ勝てなかったアラゴンの無法者傭兵団アルモバルカス
フーリドリヒ2世配下のドイツ重装騎兵とムスリム軽騎旧兵、軽装歩兵の混成軍とかいるけど
安定的強さを見せたのはフランス軍でしょう
そしてそのフランスにとって代わって欧州最強国にのし上がったが本格的銃を導入し兵制改革したスペイン
その転換期になったのが1503年のチェリニョーラの戦いでしょう
勿論、この時点でも欧州「戦域」ではオスマンが両国より最強といえるでしょうが
その最盛期のオスマンも大兵を派遣し占領を試みたマルタ島上陸戦では惨敗してますから絶対的強さというわけでもないですからね
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
242 :
208 :2009/03/28(土) 00:17:34 O
ヤン・ジシュカはどのような戦法で勝利したのでしょう?
>>222 それを言うならロジェ・ド・フロル等配下のアルモガヴァレスも特定国家所属でないような。
>>243 荷車で野戦陣地を築いて騎兵の攻撃を無力化するという割と昔からあった戦術。
245 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 13:49:25 0
てかヤン・ジシュカは無駄に過大評価されてない?
246 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 13:54:57 0
弟子のプロコプのが実力的には上だと思う。
戦った相手が能力的にはともかく肩書きだけはこれ以上ないぐらい立派だったからじゃね。
アルモガバルスだかアルモガヴァレスはどういう戦法で勝利?
検索したらWikipediaにも項目あったのなw 読んでも戦法はよく分からんけど
ミラクル・ヤンは魔法が使える
252 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 14:56:47 0
・・・
>>251 フランス騎士もトルコ兵もビザンツ兵もたぶんそう思ってたよ。負けたけど。
>>248 邦訳が出てるジョン・ホークウッドの伝記にちらっと触れられてたけど
「軽歩兵でありながら騎兵にまで突撃するという大胆さで既知のあらゆる戦術を撹乱した」
といったことが書かれていた。
ローマの補助軍みたいな変な奴らだな。
重騎士でも馬の失踪の勢いがなければ割りと互角に戦えるのでは?
ただアルモガバルスは後に新大陸発見でも物議をもたらす軍税方式取ってたから せっかく戦闘で勝っても奪回した地域の住民を怯えさせてしまう
>>257 捕虜にしたギリシャ人をヴェネチア商人に売り飛ばしまくってたんだよなw
ちなみにホスピタル騎士団も似たようなことやってた
>>184 しかもなぜか両者とも近世になると両手剣術が流行する
中世までは、馬がポニーだってのもあって移動に馬を使いはしても、徒歩で切り合っただろな。
>中世までは、馬がポニーだってのもあって え?
アラブ馬が入るまでは、そだよ。 しかも、カール大帝の頃ぐらいまで鐙(あぶみ)がなかった
ローマ軍の馬上戦闘時に落ちないための四隅に突起がついた鞍とかケルト人の発明じゃなかったっけ
中世〜近代辺りまでの軍の形態とか戦争の方法の移り変わりとかについて分かりやすい入門書とかないですか?
>>267 中世ならMedieval Warfare Source Bookって面白いですよ
暗黒時代、中世初期、中世盛期、中世後期に分けてそれぞれ
兵種、編成、戦術、装備などについてざっと解説してる
>>268 ありがとう。洋書か……中々手を出しづらい
日本語では何かないでしょうか
一番とっつきやすいなら、もしかしたら新紀元社の武器甲冑図鑑かな・・・既読だったらすいません。 時代ごとの防具や軍装の紹介がメインだけど、なぜそのような装備になったかという 戦術などの背景も一応簡潔に書いてあります。
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確かにコピペ出来てないなw
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保守
275 :
世界@名無史さん :2009/09/06(日) 14:54:41 0
戦死者の数ではのどかなもんでしょ
人口そのものが現代より遥かに少なかったんだもの。
人口がン十パーセント減ったり、のどかなもんだな。
>>262 両手剣の発生は、やはり甲冑の発達によって、手持ち盾の必然性が薄れたからだろうか?
>>279 ずばりそうでしょう。鎧で防御を補える分、両手持ちで攻撃力を上げたのだろうね。
でも、安心しきれず飾り程度の小さな盾を持つ人も居たという。
そうか? 近世ヨーロッパの両手剣持ちは主に鎧とかろくすっぽつけてないパイク持ちの歩兵相手のものだった気がするが。
ドイツの決死隊や突撃隊は確かに一番槍?として敵の槍隊に突撃してたね。
283 :
世界@名無史さん :2009/12/28(月) 01:57:29 0
ナヴァレットの戦いを解説したサイトない?
284 :
世界@名無史さん :2009/12/28(月) 04:02:02 0
ナヘラの戦いを解説したサイトない?
>>281 それは敵パイク兵の槍ぶすまに対して、打撃力の強烈な両手剣で穂先を切り落として穴を開けていくためではなかろうか?
いや、実際にそんな使い方が出来たのかどうかはしらんが。
>>281 そりゃドッペルゼルドナーだ。
「中世への旅 農民戦争と傭兵」によると
「それでドイツのランツクネヒトの指揮官は、倍給傭兵、つまり特にいい武器を持った連中を
第一列におき、彼らが矛槍あるいは太刀をかまえて突撃した。もっと正確に言えば、それは
全然突撃などではなく、敵の槍をはね飛ばすために体を回転させながら腰をひねって武器を
あちらこちらに振り回すだけであった。ほかの兵は、敵に突撃するために突破口を利用した。
しばしば第一列と第二列に、留鉤銃で射撃して隊列に突破口を開くために、銃兵がおかれた」
15世紀のリンゲックの武術書の英訳を読んだことあるけど、フルプレートを着た同士の
両手剣での戦いなんかも扱われていて、基本的に相手の装甲の隙間を狙った攻撃を重視する。
日本でいうと介者剣術みたいなもんだ。
両手剣でパイクをぶった切ることは不可能ではないだろうが、方陣組んでじりじり近付くというシチュエーションで、大振りして遠心力を利用するのは難しそうだな。
>>287 重装剣士のいる最前列だけ人数が薄いのかと思ってたけど
どこで聞けばいいか分からんので、ここで。違ってたらすみませぬ 中世の戦争って騎士達がメインだと思うんすけど、騎士ってピンキリあれど、そこそこな身分ですよね? 戦争に参加した者全てが騎士じゃないですよね? 騎士の下に一般兵みたいなのが付いてたんでしょうか だとしたら、その兵士って普段はどうしてたんですかね? まさか全部を王城とかで囲ってた訳じゃないですよね?
290 :
世界@名無史さん :2010/06/14(月) 23:34:39 0
>>289 騎士以外でも自由農民は封建的従軍義務があって非常事態には召集されてた。
有名なイングランドの長弓兵もその階層。
あと騎士の従者とか、大貴族お抱えの兵隊とか、都市の防衛には全市民が動員されたり。
盗賊や犯罪者を赦免とひきかえに従軍させたりもしてた。
装備は基本的に自弁 従者は主人が用意してくれるが、自由人は全員自弁で装備を用意する 最底辺の人間が使う武器がスリング
292 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 22:04:34 0
グルンヴァルトの戦い600周年記念日 本日現地では超派手な催しがあるらしい
293 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 10:33:15 0
294 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 11:28:54 0
295 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 11:48:34 0
296 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 12:02:39 0
グルンヴァルト祭りは世界最大の中世ページェント。
298 :
世界@名無史さん :2010/07/12(月) 12:17:38 0
日本人は知らなくて良い。日本猿は知る資格が無い。
299 :
がしゃーん、がしゃーん :2010/07/13(火) 19:11:48 0
中世最大の欧州決戦グルンヴァルトで盛り上がらないって、いくらなんでもこの板偏りすぎだろw 母集団の底辺を構成する2chでこれなんだから海外で日本人の歴史学者が相手にされないのもなんとなく想像できる気がするね
ポーランド厨うぜーな
>>300 おまえが一人で息巻いてるだけだろ?10年間も、らしいな
ドイツ関係のスレに延々AA張り続けてるバカ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1274194455/l50 85 :世界@名無史さん:2010/06/25(金) 22:00:24 O
ドイツ関連スレとか見たけど
なんでドイツスレを攻撃してるのが反ポーランドなん?
どう見ても反ドイツだろ
結構AA貼ってる奴はこの反ポーランドとか言ってる奴の仕業
っていうのが真相という気がしてきた
だって反ポーランドならドイツスレにわざわざ貼るまどろっこしことせんだろ
それにドイツ関連スレをよく見ると
スレ題外れてやたらポーランドをヨイショしてる奴の方が目立ってるしな
怪し過ぎ
86 :世界@名無史さん:2010/06/26(土) 00:06:24 0
ポオタは単にみんなポーランドが好きだと思い込んでるちょっとかわいそうな人だから。
延々AA貼り続けてる病気の人の頭の中は常識じゃ計り知れない。
87 :世界@名無史さん:2010/06/26(土) 00:07:44 0
あ、つまり、いわゆるポオタ ≠ AA厨ってことな
304 :
世界@名無史さん :2010/07/14(水) 11:21:52 0
あっ晒しとこage グルンヴァルトの戦いなんて延々と持ち上げてるのポーランド厨だけだから 誰も興味ねーから一人で自慰してろ
305 :
がしゃーん、がしゃーん :2010/07/14(水) 11:25:29 0
306 :
世界@名無史さん :2010/07/14(水) 11:30:00 0
素早いレスだね 一日中ここに張り付いてるんだな
307 :
がしゃーん、がしゃーん :2010/07/14(水) 11:32:06 0
365日張り付いています
しかしポヲタでもAA厨でもありませ〜ん♪(AA厨はあんただしw)
ただの歴ヲタで〜す
>>299 読めばわかるっしょ
308 :
世界@名無史さん :2010/07/14(水) 11:34:43 0
反ポーランド=AA厨と決め付けてる辺りがもうね…
ぶっちゃけ、毎年の事なのに、今年初めて知った人間の馬鹿騒ぎには付き合えない 自分で1度くらい行ってから出直して来い
310 :
がしゃーん、がしゃーん :2010/07/14(水) 11:40:57 0
>>308 グルンヴァルトの戦いやその前後はおもしろいんだからスレの邪魔すんなよAA厨
311 :
がしゃーん、がしゃーん :2010/07/14(水) 11:41:58 0
何でも同定厨 だが行った事がないので話題は出せない まさに引きオタらしいな
反ポAA厨はしつこいからな
みんながポーランド大好きだと思い込んでる可哀想な人だからな ポーランドが否定されるのは絶対に許せないんだろう
中世最大の会戦はラス・ナヴァス・デ・トロサの戦いでは?
話題を全てポーランド関連へ持って行きたいからでしょうな
グルンヴァルトの戦いが重要でないとは言わないが、その程度の重要さの戦いなら幾らでもある。 政治的な影響ではブーヴィーヌの戦いとか、軍事的な面では金拍車の戦いとか、 中世らしからぬ戦死者だらけのタウトンの戦いとか。 グルンヴァルトは戦いとしてはその程度で、現代の歴史祭りそのものが話題になるから有名になっただけ。 まあある意味じゃ中世オタのビッグサイトだから興奮するのもわかるが。 グルンヴァルトのお祭りは、むしろ素人さんやファンタジー系の人の方が喜ぶ話題だろうな。
政治的影響とか言うならマンジケルトの戦いに匹敵するのはなかなかないぞ? ビザンツ帝国軍7万にセルジューク朝軍3万という規模も凄いが これがなければ十字軍も起こったかどうかすら怪しい。オスマン帝国は確実にない。
319 :
世界@名無史さん :2010/07/15(木) 07:44:01 0
320 :
世界@名無史さん :2010/07/15(木) 07:45:29 0
× 世界最大の合戦祭「グルンヴァルト」がついに開始された ○ 世界最大の合戦祭「グルンヴァルト2010」がついに開始された
321 :
世界@名無史さん :2010/07/15(木) 07:50:12 0
グルンヴァルトはドイツやチェコからも参加者多し ドイツ人は二派に分かれ、 一方はドイツ騎士団やリヴォニア騎士団、 もう一方はプロイセン連合の市民軍でポーランド軍に参加して宿敵ドイツ騎士団に戦いを挑む チェコは勿論フス派軍 ターボル戦車を持ち込むのか
322 :
世界@名無史さん :2010/07/15(木) 07:52:27 0
× もう一方はプロイセン連合の市民軍で ○ もう一方は後にプロイセン連合となるドイツ人の市民軍で
>>319 >クラクフではポーランド大統領とリトアニア大統領が国家式典
おいおいその写真は左からトゥスク首相、コモロフスキ大統領、シコルスキ外相だろ。。
リトアニアのグリバウスカイテ大統領は
記事には来てると書いてあるから来てるんだろうがその写真には写ってない。
>>318 それをいうならそもそもヤルムークの決戦でアラブ軍に負けてなければ・・・
>>321 >チェコは勿論フス派軍
>ターボル戦車を持ち込むのか
それは明らかに時代考証が間違ってる
更に遡ってユリアヌス帝が負傷死しなければ・・・
いっそ時代を広げてもっと広範囲の仮装を集めれば良いのに。 ワールシュタットの時のドイツ・ポーランド連合VSバトゥのモンゴル軍とか。
ワールシュタットにチュートン騎士団の部隊がいたかどうかは議論があって ヤン・ドウゴシュの年代記に後世に挿入された記述ではないかといわれている。 実際戦死したはずの騎士団長ポッポがそもそも就任したのがこの戦いの10年以上後で 天寿を全うして埋葬された記録も残っているという。
>>324 グルンヴァルトの戦いの頃はフス派いるだろ
>>328 ボヘミアから7000人のフス派が義勇兵としてポーランド軍に合流している
ポーランド・リトアニア軍は全体としてドイツ系の王侯貴族(騎士団等)の横暴に困った人々が
ポーランド王に頼った市民軍的な要素が強かった
ヤン・ジシュカも参加している
フス派の人々はバルト海の海水を瓶に入れて「スラブ人が同胞どうし協力してバルト海沿岸まで支配した」記念に持ち帰った
甲子園みたいなものか
ターボルはその10年ぐらいあとにジシュカによって発明されたことになっているが、
その原型も既に使われていたとも言われる
>ターボルはその10年ぐらいあとにジシュカによって発明されたことになっているが、 >その原型も既に使われていたとも言われる 興味深いので出典を教えてくれ オスプレイのThe Hussite Wars 1419-36によると「タンネンベルクの戦いで 輜重隊以外に荷車が使われた形跡はない」そうだが
民族・国籍を問わずポーランド王のもとに集まって戦ったっていうのがいいな
>>332 あのー、フス派戦車の原型の話は・・・?
334 :
329 :2010/07/19(月) 10:30:19 0
>>330 >>333 フス派の戦車については英語のwikiで読んだのでへぇと思って覚えていたが、
さっき見たらそこの記述がなくなっていた
というより以前はBattle of Tannenberg (1410)のタイトルで、その記事にチェコ人義勇兵のtaborのことが書いてあったが、
いまそのタイトルの記事はなくなっていて、
かわりにBattle of Grunwaldの記事がある
ドイツ国粋主義の臭いがプンプンする「タンネンベルクの戦い」の名称はもはや使われていなくて、
「タンネンベルク・・・」の記事名はおかしいということになったのだろう
>>332 は別の人
>フス派の人々はバルト海の海水を瓶に入れて「スラブ人が同胞どうし協力してバルト海沿岸まで支配した」記念に持ち帰った 甲子園みたいなものか これは、ジシュカの死後の話ではないですか? 確か、ヤン・チャペクに率いられたフス派軍が遠征した時の話かと。
第二次トルンの和約につながった十三年戦争のときか?
337 :
世界@名無史さん :2010/07/20(火) 08:23:48 0
>>331 元々ポーランド・リトアニアが多民族を支配していたのでは?
これは意外と知られていない事実だが、ポーランド・リトアニア合同(後にポーランド・リトアニア共和国)では、 階級(貴族かどうか)や宗教(キリスト教徒かどうか、後にはカトリックかどうか)による支配構造はあったが、 民族(ポーランド人かどうか、あるいはリトアニア人かどうか)による支配構造はなかった リトアニアにいたっては公用語まで中世東スラブ語のルーシ語(ルテニア語)
>336 ちがいます、所謂「華麗なる長征」とか「偉大なる行軍」とか言われている 外征時の話。
340 :
世界@名無史さん :2010/07/21(水) 09:37:56 0
>>339 ポーランド王国・ドイツ騎士団戦争(1431-1435)のとき
タンネンベルクの名前がドイツ国粋主義のプロパガンダに使われたのは1410年の会戦ではなく
第一次大戦中の1914年にロシア軍へ勝利した時のこと。
当初その戦闘は「オルテルスブルク−ギルゲンスブルク間の戦い」と呼ばれていたが、
ドイツ軍の中佐が広大な戦場の一角に中世の会戦で有名なタンネンベルク村があるのに気づき
「あのタンネンベルクでの二度目の戦いでスラヴ人への雪辱を晴らした」といって喧伝された。
>>334 はそれと混同しているのだろう。
1410年7月15日の戦闘についていえば、戦場の近くにグリュンフェルドとタンネンベルクという村があり
どちらの近郊の戦いでも間違いではない。
×ギルゲンスブルク ○ギルゲンブルク
>>343 >>334 は1410年の会戦の呼称としてのタンネンベルクを「ドイツ国粋主義の臭いがプンプンする」
などといっているが、グルンヴァルトと同じで単に戦場の近くにそういう名前の村があったという
理由で出来た呼称にすぎない。
国粋主義に絡めた呼称の恣意性を指摘するなら1914年のいわゆる「第2次タンネンベルクの戦い」
についていわれるべきだろう。
まあ
>>334 は「グルンヴァルトはポーランドの現行の地名だからOKだが
タンネンベルクはドイツ語だからドイツ国粋主義」と思い込んでるだけかもしれないが。
そういう意味じゃないと思うんだが
中世最大の会戦はやはりラス・ナヴァス・デ・トロサの戦い