1 :
世界@名無史さん:
2なら小中華
3 :
世界@名無史さん:2008/04/18(金) 23:43:38 0
韓国同様、漢字を捨てたのが悔やまれる国
4 :
世界@名無史さん:2008/04/18(金) 23:48:22 O
なぜかみんなフランス植民地時代の話はしたがらない
アオザイっていつごろから定着したの?
明朝ではなく清朝期だと思うけど、韓国や日本みたいに明朝以前の合わせ襟式の
衣服はベトナムには伝来しなかったのかな?
18世紀頃らしいが
アオザイ以前はどんな格好していたのでしょう。
8 :
世界@名無史さん:2008/04/23(水) 21:08:33 0
多少漢化した人びとがベトナム人口の大多数をしめる「キン族」(ベト族)で、
漢化を受け入れなかった人々がムオン族だということだ。
ムオン族は簡単な腰巻と上衣でしたっけ。
アオザイ以前は明朝式衣服 というわけでもなかったような。
キン族も元々先祖は中国南部にいたはず。
南下していって南方種と混血したり、新たな南下漢族と混血したりして
今のキン族が形成されていった。
ホーチミンとかにもなぜかフンダオ将軍の像があったりするが
当時あのあたりはなぁ
ベトナムにいる華僑・華人っていつごろからどのくらいいるのでしょうか。
特に、戦前北部に20万、南部に120万という事だけど
なぜ南部に多いのですか?
当時の仏印時代の国勢では
1879年のコーチシナ華人は4万4000人
1931年の華人人口はコーチシナに20万、トンキン5万、アンナン1万人
僑生(混血)はコーチシナに7万人
1936年には仏領インドシナ全体で32万6000人の華人在
1940年代からは第二次大戦の混乱を避けて新規に移民してくる華人を結構受け入れているようです
満鉄の資料で仏領インドシナでは
1923-33間に60万人華人が入国、47万人華人が出国 とあるから
仏印時代から華人の出入国が結構激しかったもよう。
やはり大戦前と大戦後あたりに華人が大量にインドシナに入植している。
南部は交易が盛んだから華人の出入り多い
1927には広州コミューンが国民党軍に鎮圧されて中国人が
チョロンに大量に逃げてきたりしているみたいだね
17 :
世界@名無史さん:2008/05/25(日) 12:38:24 0
■ベトナムの偉大なる黎帝国興亡■…ちなみに黎朝は「れ・ちょう」と読む。
■初代・黎利(高皇帝)
陳朝復興を掲げ、あの永楽帝に喧嘩を売った漢。もともと地方豪族に過ぎ
なかったが、阮廌と共に挙兵、ベトナムから明軍を一掃する。1428年に大越国を
建国し皇帝を名乗る。…え?陳朝の復興はどうしたんだって?そんなの楚の
項羽と同じ方式で抹殺ですよ。
(注意・黎利が取ったのは北ベトナムのみ、当時の南ベトナムは国も文化も
異なっていたのだ。)
■五代皇帝・黎思誠
南ベトナムのチャンパー王国を攻撃し、同国の都を占領。属国化させる。また
ラオスへ出兵し多大な戦果をあげ帝国の最盛期を築いた。内政面では均田制、
科挙制など中国化を進めている。
■衰退および滅亡(威穆帝・襄翼帝・昭宗・恭皇)
1500年代に入ると威穆帝、襄翼帝ら皇帝の暗殺が繰り返され弱体化、各地の
将軍が軍閥化していった。特に強大だったのは莫登庸、鄭綏、阮淦らである。
やがて、二大軍閥の莫登庸が恭皇、鄭綏が昭宗をそれぞれ擁立して争い、
莫登庸が勝利。1527年、彼は恭皇に禅譲を迫り、帝位につくこうして偉大なる
帝国は滅んだ…。だが、黎帝室の権威はいまだ健在であり、極めて利用価値が
高かったためそう簡単には終わらないのである。
18 :
世界@名無史さん:2008/05/25(日) 12:38:51 0
■しぶとく生き残る、黎皇室■
■反莫戦争 ⇒ 帝政復興 ⇒ 鄭氏専横
莫登庸の簒奪に阮淦が黎室復興を掲げ挙兵、やがてその実権は娘婿だった鄭氏に
握られる、やがて莫登庸の子、莫茂洽が討たれ黎室の復興は成るのである。
だが、もはや黎皇室は鄭氏に完全に支配された。
■黎帝室、実権回復の最期の大勝負!!!そして完全滅亡…。
ベトナムは莫氏討伐で活躍した、鄭氏および阮氏に支配されている状態が続いた。
両氏は当初は良好な関係にあったが、17世紀に入ると犬猿となり泥沼の鄭阮100年戦争
をはじめるのである。
…だがこの大乱世に英雄が登場した。阮文三兄弟が阮氏に反乱を起こしたのである。
特に次男の阮文恵はもはや手の付けられない圧倒的な強さで東洋のナポレオンの異名を
馳せたのだった。この大乱世に黎帝・昭統帝は最期の望みを託す。
阮氏、鄭氏、阮文恵が共倒れになれば、黎帝室の復興も可能であると。
阮文恵はやがて、阮氏、鄭氏を滅ぼし。昭統帝は大清帝国より援軍に
よって一挙に復興を成し遂げようと試みたが、阮文恵の前に大清軍も
壊滅。黎帝国はここに完全滅亡したのであった。
こうして、ベトナムは阮文恵の西山王朝によって統一…されたわけではない、
乱世はもうしばらく続くが、すでに黎朝とは無縁の話である。
19 :
世界@名無史さん:2008/05/25(日) 16:01:38 0
>>4 北部(トンキン保護領)と中部(アンナン保護国)は一応、阮朝の形式的支配が残されたが、
北部は中部と切り離され、実際にはフランスの直轄領と変わらなかった。
アンナンでは第一次大戦中まで科挙が実施されており、ホーチミンの父親も科挙に合格し、
ごく短期間、「知県」をつとめていたが、阮朝政府の高官と対立して野に下った。
華僑がタオって呼ばれているがタオって「船」って意味なんだよね?
船で来たからタオなん?
道教の道(タオ)じゃねぇの?
中国人の本に書いてあったけどタオは舟の意味だよ。
ホア(華)に比べて蔑称的なニュアンスがあるそうだ。
タオは漢字の「艚」のベトナム語音。
船舶などの交通手段が発達すると華人が東南アジア各地に進出していった
25 :
世界@名無史さん:2008/05/27(火) 08:46:19 0
26 :
世界@名無史さん:2008/06/04(水) 09:16:55 0
27 :
世界@名無史さん:2008/06/15(日) 21:46:58 0
タイは華人との混血が進んだのにベトナムではあまり進まなかったのは何故?
28 :
世界@名無史さん:2008/06/23(月) 10:47:26 0
なぜタイで混血が進んだのかだが、
第一次大戦後タイでは政府主導のナショナリズム運動により
国民の同化政策が推進された。
この時、華人新聞や華人学校に圧力がかけられ多くが廃止された。
そのため華人の子弟はタイ人向けの学校でタイ語で教育を受けねばならず
その結果タイ語は解かるけど中国語は両親が喋る方言しかわからず
中国語を読むことも中国史も知らない。でもタイ語の読み書きはできる
と言う華人がほとんどになった。
一方ベトナムはフランス植民地だったため、ベトナムへの同化政策など
まったくおこなわれず、華人は華人学校に通うかフランス式の学校に
通うかでありベトナム人に同化しなかった。
他の東南アジアも全て欧米の植民地だったために状況は似たり寄ったりで
特に香港と並んでイギリス植民地の要だったシンガポールには何世代にも
渡って英語で教育を受けたため中国語がわからないどころか、独立後でも
英国王室への忠誠心を忘れない華人が大勢いた。彼らには現地マレー人と
の混血など思いもよらなかったろう。
王朝時代を比較してもタイと比べベトナムは華人との混血は進んでいないね
30 :
世界@名無史さん:2008/06/23(月) 19:05:18 0
そうなんだ! じゃ何で混血が進まなかったんだろう。
やっぱりベトナム人の中国人嫌いが原因かな?
なんせベトナム史のほとんどは中国からの侵略とそれに対する抵抗の歴史だから
>>29 あんたは何でだと思う?
31 :
世界@名無史さん:2008/06/23(月) 19:49:26 0
ベトナムは民族の独立と統一のために巨大なフランス・アメリカと戦い
最後には南ベトナムの傀儡軍を倒してサイゴンを解放した。
まことに感動的な話だけど、たしかサイゴンとその周辺のメコン・デルタ
って元カンボジア領だろ。でメコン・デルタの北は元チャンパ王国領
いまでもしっかり、カンボジア人とチャンパ人が住んでる。
そのへんベトナムの教科書ではどう教えてんだろ?
>>31 チャンパはてっきり絶滅したと思っていたが、今でもいるの?
もう400年くらい前に滅んでいるでしょ
33 :
世界@名無史さん:2008/06/23(月) 20:13:43 0
チャンパ王国はとっくのむかしに滅んだけどチャンパ人はいるよ。
小中学校まではチャンパ語とベトナム語の両方を習い
高校と大学はベトナム語で勉強
特に問題は起こさずベトナム人とも上手くやってるみたい・・・・表向きは
チャンパ人と言うよりはチャム族
ベトナム人と言うよりはキン族
かな?
35 :
世界@名無史さん:2008/06/24(火) 09:13:35 0
そうだったっけ?
日本で言うと日本人・大和民族・倭人みたいな?
王朝時代から居住地などを区別していたから華人との混血はすすまなかった。
阮朝の皇帝がシャムの対華人政索が融和的過ぎるとおどろいたとか。
資料名思い出したら書く。
仏印時代も華人はキン族より優遇されていたようだが、そうしたことで中国人への嫉妬とかはなかったのだろうか。
37 :
世界@名無史さん:2008/06/24(火) 21:52:08 0
ベトナム人にカンボジア人のことを聞くと
『あいつらはバカだから力仕事しか出来ない。オレ達は難しい仕事でも出きる』
と言う。
『じゃあ中国人とベトナム人をくらべると?』と言うと
『・・・・・あいつらはズルイ』と言う。
政府の政策うんぬん以前に劣等感があるんだろうね。
ベトナム人には複雑な物資の流通はむずかしく
小売りぐらいしか出来なかった。大規模商業が出来ないわけじゃないけど
華人との競争には勝てなかった。
商売でベトナム人が華人に勝つには政府と結びつくか、もともと地主や官僚で
有利に立っているかどちらか、でなければ華人を迫害するか追い出すか
38 :
世界@名無史さん:2008/06/26(木) 10:44:57 0
あとベトナム人の華人嫌いはライバル意識もあるかな、
タイ人と華人はまったく別の文化だけどベトナム人と華人は、ほぼ近い
と言うよりベトナムの文化は中国のコピーが多い
特に西洋化以前のベトナムはそうだった。
それだけに『南の中華』とか言い出して『皇帝』を名乗ったり
タイやカンボジアを属国扱いしたり(面と向かってはしないけど)
とにかく中国への対抗意識が強かった。
もっとも相手の中国はまったく問題にもしてなかったけど
ベトナムもそれを知っていてそれだけに余計ライバル意識も強かったようだ。
39 :
ty270410:2008/06/26(木) 11:48:05 0
>>38 面白いですね.歴史的に劣等感を持ちながらも,ライバル意識を
持っていたというわけですね!
歴代の君主は中華帝国に朝貢して「安南王」や「大越王」に封じられ
ながら,国内では皇帝号をしょうしていた・・・・
いわば「小中華帝国」ですね!
朝鮮半島とは全く違いますね.
統一新羅,高麗,李氏朝鮮・・・代々国内でも王を称した.
「高麗史」では,中華帝国をはばかって「本紀」を立てず,
「世家」に歴代の王を記述している・・・・
ベトナムの漢文の史書では「本紀」を立てたのだろうか?
私は,戦時中に刊行された日本語の「安南通史」(冨山房発行)しか
見ていないが・・・・・
まあ、遣唐使時代の日本みたいなものだろうね。
中国に朝貢して属国の王として扱われつつ、国内では皇帝を自称。
ちなみに遣唐使は、元旦の朝賀に列していた朝貢使節です。
天皇は玄宗皇帝から「日本国王・主明楽美御徳(すめらみこと)に勅す」
という勅書を与えられています。
41 :
名無しさん:2008/06/26(木) 21:01:10 0
中国は対等の外交を認めないからね。
臣下扱いに甘んじるか、中国向けと国内向けに分けて誤魔化すか
でなければ戦争して打ち負かすかしかない
42 :
世界@名無史さん:2008/06/26(木) 21:23:28 0
>>41 しかし、朝貢貿易というのは結構儲かったもので・・・
表向きは下手に出ながら、馬鹿をおだててやってうまいことやってたのが、たいていの
朝貢国というものではないかな、と。知らぬは中国ばかりなり、ってね。
権威に服してたというよりも、利益を取ってたんだよ。日本もベトナムも。
>>43 臣下に恩恵を施すのが天子の務めで、それによって権威を得られればメリットはある。
それに(特に海路だと)遭難のリスクを負うのは朝貢国側だからある種のバランスは取れてるのかも。
45 :
世界@名無しさん:2008/06/27(金) 22:46:20 0
>>42 これは有意義な内容だ。特に
広東語とベトナム語は似ていると私が言うと、
中国人は「ベトナム語と一緒にしないでくれ!」と少し怒った調子で言った。
と言う内容と
「ベトナムはもともと中国のものだった。」と中国人は言う。
と言う内容をつなげると
ベトナム語と中国語は別言語であり、なおかつ一緒にされるのは不愉快だが
ベトナムは中国のものだ、となる。
ぜひベトナム人の感想を聞いてみたい。
46 :
世界@名無しさん:2008/06/27(金) 23:01:02 0
>>43 >知らぬは中国ばかりなり、ってね。
【知らない】と言うより【知ろうとしなかった】、さらに【知りたがらなかった】だろうね。
日清戦争で清国が敗れたときの言いぐさも
『東海で倭人が暴れて手がつけられないので、やむなく土地(台湾)と
金(賠償金)を与えておとなしくさせたが、今後もこのようなことが起こる
とどうにもならない、ぜひとも改革が必要である』
とまるで、だだっこにアメを与えておとなしくさせるような言いぐさで
敗戦を直視する姿勢が見られない。しかもこれでも改革派なのである。
で、えーと、何が言いたいかというと・・・・・だめだ話がつながんない
>>2 漢字を捨てたのは悔やまれるが、トルコ語同様、
外人でも真似て書けるアルファベットにしたのは良かったね。
字は真似れても発音が難しいが。
48 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 16:21:44 0
今世界中で使われている文字は漢字、仮名、ハングルを除けば、ほとんど
エジプトのヒエログリフが元になっている。ヒエログリフとは元々漢字と
同じ表意文字だったエジプト文字をエジプト在住の外国人が表音文字として
使ったのが最初、これが次第に変化してフェニキア文字という
原アルファベットになりそれがギリシャ文字とアラム文字に分かれた。
ギリシャ文字が英語、ロシア語、フランス語などのアルファベットの
元である。一方のアラム文字がヘブライ語、アラビア語はもとより
インド、東南アジア、モンゴルなど漢字をのぞくアジア文字の原型に
なっているもちろん表音文字だ。もしアラム文字が発明されず
ギリシャ文字が全ての表音文字の原型になっていれば世界中の人が
アルファベットを使えるようになっていただろう。
(注)むかしの仏教の僧侶は梵語(インド・サンスクリット語)が理解できた。
>>48 つまり世界中の文字は漢字かヒエログリフのどちらかが元になってるということ?
50 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 20:54:36 0
毎日新聞記者のベトナム戦争従軍記を読んだ。
ベトナムは100年近くフランスの植民地だったがそのためだろうか
上流階級は相当にフランス化していた。
フランス風の屋敷に住みフランス風の服装をしてフランス風のパーティーに
出かける。
友人とは両頬にキスをするフランス風の挨拶を交わしフランス語で
フランス文学や芸術の話に打ち興じる。
パーティーのメンバーが全員ベトナム人でも全く同じ、
『文学や芸術を論じるにはフランス語の方が楽』
と言い、『あの人はベトナムの学校しか出ていない』とは軽蔑以外の
なにものでもない。
この人たちが南ベトナム政府の高官である。
この人たちが『ベトナムの学校しか出ていない』一般民衆をどう見ていたのか
一般のベトナム人がこの政府高官連中をどう見ていたのか想像がつく
それでもこの連中が有能かつ誠実で成果を上げていれば我慢できる。
だが連中の無能不誠実は有名であり、国家予算のかなりの部分を私物化し
外国に多額の財産を保有していた。共産主義に対する評価はともかくとして
精錬潔白でよれよれの作業着を着ていた北の指導者とは対照的だった。
>それでもこの連中が有能かつ誠実で成果を上げていれば我慢できる。
>だが連中の無能不誠実は有名であり、
それがフランス化と言うものだ。
52 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 20:58:51 0
>>49 >つまり世界中の文字は漢字かヒエログリフのどちらかが元になってるということ?
正確に言えば違うだろうけど、現在世界で読み書きしている人口の90%以上はそうだろう。
>>48 ハングルもモンゴルのパスパ文字が起源じゃないか?
54 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 21:08:08 0
>>51 >それがフランス化と言うものだ。
細かく言うと
(1)元々のグエン朝の腐敗堕落した政府高官
↓
(2)フランス植民地時代も引き続き政府高官になる
↓
(3)フランス人にへつらいベトナム人をバカにする
↓
(4)アメリカの影響下に再び政府高官に
↓
(5)アメリカの金で私腹を肥やす
55 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 21:13:21 0
>>53 >ハングルもモンゴルのパスパ文字が起源じゃないか?
そうなのか?
でも韓国のなんとか王が発明したって聞いてたけど、さっそく【半島○×スレ】に書き込まねばなるまい
ネタ元希望!
56 :
世界@名無史さん:2008/06/28(土) 21:14:41 0
グエン朝の科挙官僚=儒教知識人より、
コーチシナの買弁的な成り上がり者の方が腐敗の温床だろう。
57 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 21:16:54 0
なるほどな! も少し勉強しよう。
>共産主義に対する評価はともかくとして
>精錬潔白でよれよれの作業着を着ていた北の指導者とは対照的だった。
共産も資本主義も関係無いんだよな
要は「清貧を通した指導者は人を魅了する」だけの事
ホーチミンみたいな人が共産主義者として世に出たのは悔しいね
どの国、どの思想でもカリスマがあったろうに。
59 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 21:29:04 0
しっかし東南アジアでアメリカが支援した国ってろくなことにならん
上手くいったのはタイぐらいか?
あすこのプーミポン国王は掛け値なしの有能誠実
『農民の生活向上』を心がけてしかも成果を治めていた。
(1)プーミポン国王が農村開発に力を注ぐ
↓
(2)現金収入になる作物が出来る
↓
(3)プーミポン国王、農作物の加工に力を注ぐ
↓
(4)作物を加工して付加価値が出て高く売れる
↓
(5)農民がタイの国産品を買うようになる
↓
(6)タイの工業が発展
60 :
世界@名無しさん:2008/06/28(土) 21:32:59 0
>>58 >ホーチミンみたいな人が共産主義者として世に出たのは悔しいね
そういう時代だったんだろうね。あの時代は本当に有能で誠実な人間が
共産党に入った。ほんと人材のムダ使いだったわ
>>60 まあ国を護り統一に導いたホーチミンは無駄じゃあないんだろうけど。。
共産主義もベトナム人の手にかかれば使いよう、方便だったのかも。
>>55 言い方が悪かった
パスパ文字を参考に作られた、という意味
あと世宗王な
>>46 朝貢がただの貿易に過ぎないとは普通に分かってやってたよ。
それも中国側が相手より多くを出すのが原則だから、
朝貢は回数を規制していた。
64 :
世界@名無史さん:2008/07/13(日) 11:16:00 0
ベトナムといい朝鮮半島といい、漢字文化圏の国って君主制に冷淡だよな。
半島の北半分は今でも熱心に君主制維持してるじゃん。
66 :
世界@名無史さん:2008/07/13(日) 17:11:28 0
そういう独裁世襲政権とかいう意味じゃなくて、正式の本物の君主制のこと。
本当は君主になりたいけれど
それしようとすると他国の援助があまり期待できなかったからじゃないの?
当時の米国やソ連がたいした家柄でも無い奴を君主にするなんて許すはずないし
68 :
世界@名無史さん:2008/07/13(日) 19:04:20 0
金日成が政権を獲得した時点では、世襲化まで考えてなかったのでは?
ジョンイルの政権継承は、金日成の労働党での地位が揺るぎないものとなり、
政権が長期化し個人崇拝が確立した上での結果だし。
正式じゃないかもしれんが本物の君主制だと思うぜ、今の北朝鮮は。
70 :
世界@名無史さん:2008/07/14(月) 21:32:23 0
ローマ帝国初期が思い出されますなぁ
結局カエサルの血筋がだな、効いているんだよね
71 :
世界@名無史さん:2008/07/15(火) 19:51:13 0
共産主義国家は数あれど、本当に世襲にしちゃったのは稀有のことだよね。
旧ソ連の書記長は世襲なんてさらさらなかったし、中国ですら世襲なんて考えられない。
ほかも大体そう。息子に位を譲った例はないと思う。
北朝鮮は正に最後の君主独裁制だ。
以外なところでは、キューバが今後どうなるか予断を許さないけど。
72 :
世界@名無史さん:2008/07/16(水) 07:25:55 0
カストロの弟への権力移譲は、世襲というより同志、補佐役へのバトンタッチと考えるべき。
世代的にも同じだし、革命期から苦楽をともにし、ずっと政権内で補佐してきてたから。
蒋介石と蒋経国
74 :
世界@名無史さん:2008/07/17(木) 18:25:26 0
>>73 一応、厳家淦という総統が間にはさまってるから、単純な世襲ではないよ。
なぜ少数のフランス軍にコロリとやられたんですかね
>>72 弟もいい年だから、超短期政権で終わりそうだな。
カストロに息子っていないのかよ。
そういやインドもインディラ・ガンジーっていたな。ネルー一族がまだ力を
持っているのだろうか?
>>75 装備の差でしょ。機関銃を相手にしたら、何万人の小銃部隊を集めたって勝てません。
そういや黒旗軍はどうだったんだろう
カストロは三人息子がいるけど、
一人も政治家にはしてないと聞いたことがある。
農地改革で父親の農園取り上げたから家族とも折り合い悪くなったし、
娘の一人は合衆国に亡命しちゃったぐらい。
実はベトコンと最初に国家レベルの関係を持ったのはキューバだったりするけど、
それぐらいキューバは共産ベトナムが好きな国だったりする。
ベトナム民主共和国を最初に承認したのは中華人民共和国だったはずだが。
79 :
世界@名無史さん:2008/07/20(日) 11:16:33 0
いまなお、中国やベトナムでは族譜の編纂や見せ合いっこが盛んである。
文革やベトナム戦争の頃は、族譜は封建制の象徴として多くが破棄されたが、
こっそり隠していた者も多く、改革開放の時代になって再編集が行われた。
ベトナムでは若い世代のために、ローマ字横書きの族譜も作られている。
80 :
世界@名無史さん:2008/07/20(日) 11:19:55 0
結局のところ、中国やベトナムを見ていると、社会主義は外国勢力からの独立と、
それと癒着した腐敗した旧体制を打倒するための手段であった気がする。
世の中が安定すると、共産党一党独裁の下での資本主義社会になってしまった。
>>80 ホーチミンやカストロはあくまで民族主義者であって、その実現のために
共産主義者のお面をかぶっているだけだからねい。
82 :
世界@名無史さん:2008/07/21(月) 19:37:27 0
そこに気づかなかったアメリカは自ら敵を増やしたようなもんだ。
>>79 日本も家系図流行った時期あったね。
別のスレで、東アジアの国は結構混血しまくってるんじゃない?みたいな話に
「俺は家系図でずっと遡っても純日本人だ!」みたいに熱くレスしてる人を見た。
日本人にとって家系図って大事なものなのかな。
武家や貴族を除いて
ほとんどの人は江戸中期までさかのぼるのが限度だからなぁ。
85 :
世界@名無史さん:2008/07/29(火) 11:22:53 0
ベトナム共産党は多党化へのソフトランディングを調整中
かつてのルーマニア、フィリピン、韓国のような政変で政権を失う事はないだろう
選挙でカンボジア人民党が多数派になってる現状見れば
ベトナムで選挙しても結果的には与党におさまってくんじゃなかろうか
名前は共産党→労働党 にでも戻せばいいし
>>82 アメリカと敵対していたからこそ共産主義を選ばざるをえなかったと思っていたが、ちがうの?
初期にはホーチミンはアメリカにフランスからの独立の後援役を要請していたが、
アメリカがフランスを支援する為に無視していたら
ソ連陣営にいってしまった。
カムラン湾使用権など良い条件をアメリカに提示していたし
抗日戦のときはOSSから援助を受けていたし
ホーチミンは対米感情は本来は悪くなかった。共産主義に入ったのも
先進国の政党の中でベトナムの独立を支援したのが共産党しかなかったからといわれる。
88 :
世界@名無史さん:2008/08/01(金) 23:15:28 0
フランスでは共産党だけがベトナムの独立を支持していた
89 :
世界@名無史さん:2008/08/01(金) 23:50:29 0
フランスとイギリスの植民地支配比較では水道整備が全然違うと聞いたよ
ハノイの給水塔は観光名所の一つになってるな
あとフランス時代の刑務所とギロチン
91 :
世界@名無史さん:2008/08/02(土) 00:58:19 0
フランス時代の刑務所ってどのくらいあるの?
北から南まで
92 :
世界@名無史さん:2008/08/02(土) 01:09:12 0
南北津々浦々
独立宣言だっけ?
「フランスは学校よりたくさんの監獄を作った」っての。
94 :
世界@名無史さん:2008/08/02(土) 10:35:49 0
フランス殖民治下ではカトリック教徒とか官吏や地主くらいしか学校に通えなかったからね。
日本は一応台湾や韓国では教育制度を整備したけど。
白人の異人種に対する差別意識の深さだろうね。
1962年の南ベトナムの識字率は15%。
十年後は80%で、しかし高等教育を受けれたのは一握り。
植民地時代、識字教育なんて大多数の一般人には殆ど無縁だった。
hoshu
97 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 12:01:36 0
age
98 :
世界@名無史さん:2008/12/04(木) 22:58:40 0
崑崙国
>>52 インドのデーヴァナーガリー文字およびその支流の文字が含まれていないので、
7割程度だと思うが。
>>99 それもアラム文字の影響があるんじゃなかったっけ?
102 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 22:21:01 0
阮朝が復活したら面白いな。
103 :
世界@名無史さん:2009/01/11(日) 11:05:09 0
ナイトクラブの皇帝とか夜の帝王とか言われた人が最後の皇帝だった阮朝に、
そんな信望はないだろう。
子孫はフランス在住で娘はイタリア貴族のアジスアベバ公に嫁いだし。
アジスアベバなんてーと、エチオピア人っぽいねw
105 :
世界@名無史さん:2009/01/18(日) 00:29:48 O
阮朝の系統は、ゴ=ディン=ジェム元南ベトナム大統領で終わると見るべきだろう。
彼の時代は、フエの人脈が指導層に多かったわけだし、古き良き時代を懐かしむホーチミン市民もたくさんいる。
>>103 アジスアベバ公?
アオスタ公の間違いじゃないの
20世紀のしかも10年程度しか自国領にならなかった土地に公爵位が出来るとは思えんが
107 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 05:20:56 0
108 :
世界@名無史さん:2009/02/10(火) 14:55:21 0
現在、独裁者と呼べる人はいないよね
>>103 クォン・デは結構人気あったんじゃなかったっけ?
110 :
世界@名無史さん:2009/04/08(水) 00:30:00 0
ホー・チ・ミン氏の一生とその足跡…功績も弊害も
分け隔てなく著している日本語の書籍はありませんか?
知識ゼロのレベルで物語ヴェトナムの歴史読んだんだけど、次は何読めばいい?
固有名詞(特に人名)が覚えられないのと、時系列が前後しててちょっと把握しにくかった。
113 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 10:46:42 O
アイゼンハワー政権の対ベトナム政策の特徴について具体例と一緒に教えてほしいです!
ホーおじさんって、ひろゆきに似てるよなw
115 :
世界@名無史さん:2009/05/19(火) 19:29:15 O
チュウ夫人こと趙嫗は長さ三尺の乳房を肩に乗せていたというけど、ホントかね?
116 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 14:16:41 0
日本史板の会津厨は、ベトナム共和国(南ベトナム)をどう思っているんだろうか。
立場から考えると、同情してそうだけど。
それに、ベトナム戦争の頃は、南を実際以上に悪く報道したこともあったし、
確かに賄賂などの問題はあったけど、政策しだいでは、韓国みたいな道を選べる
こともできた?
117 :
世界@名無史さん:2009/05/20(水) 21:52:40 O
長さ三尺なら胸囲八尺?
英雄の身長一丈と同じで誇張だろ。
118 :
世界@名無史さん:2009/05/21(木) 21:25:35 O
趙嫗はベトナムの伝説か?
三国志呉書とかにあるなら史実だろう。
ホーチミンの、スターリンのサインのエピソードとか、
川で膝まくりしてカメラに笑ってる写真とか最高なんだが
ベトナムはチャンパ王国の人達にひどいことしたよね(´・ω・`)
>>116 解放戦線と北ベトナムという強力な敵を抱えていながら、
軍部・政府の分裂が激しくクーデターが連発してる時点で、
軍事政権下の韓国には足下にも及ばない状態。
「分裂に勝る利敵行為は無い」は、北ベトナムのホー主席の金言
「政策しだい」その政策だが、
国内の政治・経済の実権は少数の寡占勢力が抑え、米国が注ぎ込むドルはこいつらが分配。
軽工業振興にすらまともな投資はされた形跡がない。
指導層にしてみたら、産業振興に貴重なドル(=自分の分け前)投入するよりも。
反共戦争援助にアメからドルと物資をじゃんじゃん貰った方が楽だし得。
経済の下支えになるべき農業は、大地主の妨害で農地改革すら覚束ない状態。
挙げ句の果ては、農民を父祖の地から切り離して収容する天下の悪政「戦略村」。
そんで貧農層は、よりましな政策を求めて解放メンバーorシンパに。
>>110 ちょっと古いけど
講談社の人物現代史シリーズ8「ホー・チ・ミン」(1979年刊)なんてどう?
筆者は元毎日新聞外信部長で、ベトナム戦争当時はサイゴン支局長。
戦争終結後、毎日新聞を追い出される形で退社し、フリーになった人
123 :
世界@名無史さん:2009/07/06(月) 02:47:21 0
124 :
世界@名無史さん:2009/07/06(月) 04:04:53 0
>>123 マニアックすぎて日本語字幕あっても分かる人間は日本人だとせいぜい二桁じゃなかろうかw
ttp://www.cnn.co.jp/usa/CNN200907060024.html 2009.07.06 Web posted at: 22:28 JST Updated - CNN
ベトナム戦争時の米国防長官、マクナマラ氏が死去、93歳
(CNN) 米紙ワシントン・ポストによると、ベトナム戦争時代に米国防長官を務めた
ロバート・マクナマラ氏が6日早朝、ワシントンの自宅で亡くなった。93歳。家族が明らかにした。
自動車大手フォードの社長を経て、1961年に国防長官に就任。
ケネディ大統領とジョンソン大統領の時代に国防長官を務め、
結果的にベトナム戦争の拡大路線に寄与した。
68年に長官辞任後、13年間にわたって世界銀行の総裁を務めた。
晩年は核兵器使用を反対する意見を述べていた。
マクナマラ氏を長時間にわたってインタビューしたドキュメンタリー映画
「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」は、
アカデミー賞でドキュメンタリー長編賞を受賞している。
>>126 THAI SU TRAN THU DO=太師陳守度
李朝を簒奪して陳朝を立てたチャン・トゥー・ドーの話だな。
>>123の2番目の写真の優男が、陳家出身の娘を皇后にしたばっかりに、
生まれた次女に陳守度の圧力で帝位を譲らされた挙げ句、乞食坊主にされて狂死した
李朝ラスト2番目の皇帝・恵宗役みたいだ。
この次女こと李朝のラストエンペラー(昭皇)と、自分の甥を結婚させて譲位させ、
陳朝の太宗を仕立て上げたのも陳守度。
陳守度自身は帝位にはつかなかったものの実権を掌握。恵宗の后を自分の妻にするは、
昭皇姉妹以外の李一族を皆殺し、恵宗の女官は周辺部族の族長に贈るなどやりたい放題。
ベトナムでも「外道の大悪人」として名が高い。
太宗の兄、安生王・陳柳の妻は李昭皇の姉だったが、叔父の陳守度の圧力で離縁させれられ、
太宗の2番目の皇后にされている。キレた柳は反乱を起こすが鎮圧される。
その息子が陳興道だから、ドラマに登場してるかも知れん。
いいねいいね
朝廷の服装とか見たいし、韓国や中国だけじゃなくてベトナムの時代劇作って欲しい
まあその為には日本メディアが番組買わなきゃいけないけど…
第1次元寇 1258年
ベトナム皇帝太宗(タイトン)、司令官チャン・フン・ダオ
モンゴル大汗モンケ、司令官ウリャンハタイ
南宋攻撃のための領内通過を要求し拒絶されたモンゴル軍が雲南から侵攻
首都昇竜(タンロン)を落とす。太宗は偽りの和議を乞い、元軍が撤退を開始すると同時に追撃。
食糧不足と暑気、熱病ですでに弱体化していた元軍は壊滅。
第2次元寇 1285年
ベトナム皇帝仁宗(ニャントン)、司令官チャン・フン・ダオ
元皇帝太祖(フビライ)、司令官トゴン、アウルチ、ウマール
元軍タンロン城占領、陳朝はタインホアに遷り抵抗。
占領前に各城の食料を焼き払い、元軍の輜重を狙うゲリラ戦術を多用し足腰を揺さぶる。
弱体化した元軍への援軍をハムトゥー、チュオンズオンの迎撃戦で破り、
タンロンから撤退する元主力軍も追撃を受け壊滅する。
アウルチ、ウマールは捕虜になり、トゴンは銅製の砲身に身を隠して辛くも脱出。
タインホアへ落ち延びる際「賊勢かくの如し、朕まさに降らん」と弱音を吐いたニャントンに
フンダオが「まず我の首を討ち、降られよ。我ある限り大越は滅びず」と激励した故事は現地で有名。
第3次元寇 1288年
ベトナム皇帝仁宗(ニャントン)、司令官チャン・フン・ダオ、ファム・グー・ラオ
元皇帝太祖(フビライ)、司令官トゴン、ウマール
例によって元軍はタンロンを占領。フンダオは宿敵・チャンパ王国と盟約を結び、
時の王・ジャヤ・シンハバルマン3世と誼を通じて対元共同戦線を張る外交手腕を見せる。
また、諸路の民兵にゲリラ戦を命じ、輜重船や荷駄隊を徹底して襲い、
夜襲を繰り返して暑さに弱る元軍をさらに苦しめる。
フンダオは350年前にゴー・クエンが南漢軍を破った計略を応用し、バックダン江の戦いで
旧南宋水軍からなる元艦隊を全滅させる。ラオ将軍は陸上で攻勢をかけ残兵を掃討。
前回の元寇で「二度と大越は攻めない」と誓書を書いて助命・釈放されたウマールが再び捕虜に。
和議のため元へ船で送還されるが、途中で斬殺され、死体は海へ捨てられる。
130 :
世界@名無史さん:2009/07/19(日) 02:29:06 0
>>129はベトナムの民族主義者が乗り移ったかのような書きぶりだなw
> 第1次元寇 1258年
> 食糧不足と暑気、熱病ですでに弱体化していた元軍は壊滅。
とか真っ赤な嘘だろ。ウリャンハタイは大越・南宋領を突っ切ってクビライと合流してる。
131 :
世界@名無史さん:2009/07/19(日) 10:08:58 0
ベトナムのアオザイは、チャイナドレスと同じで満州族起源の衣装だという。
あんな南方で北方民族の衣装を着て、辛くないのだろうか。
ま、冷涼乾燥気候の西欧で生まれた「スーツ」を全世界で着ているが。
マクナマラもベトナム戦争は「wrong」だったと述べたが、
「bad」だったとか「evil」とかは使わなかった。
さすがにそこまでは認めないんだろうな。
>>130 日本が元に戦闘に勝ったなんて大嘘
まず二度とも対馬、壱岐で日本側は蹂躙され惨敗
しかも二度目は侵攻が予想され防備設備が施されていたはずなのに
第二に鎌倉の騎馬武者は重装備だがあくまで騎乗弓手で直接打撃用の武器は長刀だけで
そもそも馬上槍すら存在しない(馬上槍が発明され打物騎馬武者が現れるのは南北朝期)
しかも和馬は遺跡から出土した遺骨から体長129cm程度のポニーで
蹄鉄なぞなく草履まがいのものを履かされていたため重装備の武者を乗せたままのギャロップはほぼ不可能
しかも去勢技術もないため、集団使用に限界がある
従って鎌倉の騎馬武者が対外勢力の軍とはまともには戦えない
日本に侵攻した元軍には蒙古人はほとんどいない(絵巻物に描かれている甲冑を着込んだ蒙古人はごく僅か)
弘安の役の江南軍10万は南宋の敗残した老兵で屯田目的のため武器より農具の保有量が多かったのは引き揚げ船の遺物からわかる
結局のところ対日侵攻軍の司令官は対ベトナム侵攻軍の司令官のような大物でなく、たいした戦歴もない無名の将
にもかかわらずベトナムと違い日本は相手の逃げ道が海しかないのに敵の高級武人を一人も捕虜にできなかった
第三回遠征がなかったのはそれに使用する艦船を全て第三次ベトナム侵攻用に使用したためだ
134 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 03:37:48 0
>>133 しれっとsageで嘘書くなよ。
弘安の役では防塁を用いて九州での水際防御に成功してる。
> 引き揚げ船の遺物からわかる
分かってない。農具が出てきたけど屯田目的の移民船団と断定
できるような量が出てるわけではない。鷹島海底遺跡からはてつ
はうをはじめとして大量の武器も見つかっている。
> 第三回遠征がなかったのはそれに使用する艦船を全て第三次ベトナム侵攻用に使用したためだ
これもそんな証拠はない。管轄地域が全然違う。
モンゴル軍はポニー馬だったから強かった。
>>135 常時使われてる遊牧民の馬とそうでない馬との違いもわからんのかw
137 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 19:42:43 0
モンゴルを撃退してもすぐに朝貢するようなクズ国家と
日本を比較するなよ。
>>136 近世ほど大きくなかった当時のヨーロッパの軍馬と較べて
「ネズミのよう」
と言われた軍馬にまたがってた兵隊さんが
ヨーロッパやイスラム圏でもいい戦いしてたらしいよ
139 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 02:53:40 O
>>137 武力で破った後、強大国・中国の最後の面子だけは立ててやり、
再度の侵攻と干渉を防ぐという戦略は、
歴代ベトナム政権の対中国外交の基本なんだが。
何をもってクズとか言うのかね。
140 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 03:32:16 0
>>137 撃退しなくても天竜寺船派遣したり朝貢した室町幕府とかどうなんの?
>>137 白村江で圧倒的多数で唐軍に戦ったにも関わらず惨敗して
来たしない唐軍にブルッて国内各地に城造って防人置いてたのはどこのヘタレ国家だよw
いちいち日本を引き合いに出さなくていいから
素人としては
>>129のどのへんがまずいのか知りたいね
今の経済規模は段違いだが、
歴史的に日本とベトナムを比べたがるのって何となく解る気もする。
感情移入し易いと言うか・・・
沖縄がベトナムみたいだったら、歴史は少し変わっていたのかな。
>>144 ポニーというかそれ並の小型馬。
近代ヨーロッパ馬がでかいのはアラブ産の大型馬を選び抜いて
掛け合わせて人造的に作ったもの。一種の奇種。
見栄えはいいかもしれんが鈍重で、小回り利いた小型馬のヒットアンドアウェイの
モンゴル戦法に重武装に騎士は翻弄された。
>>145 ほう。じゃあ日本の在来種も小型だったから荷物運び程度にしか使えなかったというのは
嘘で、実際は甲冑武者を乗せていい働きをしていたのかな?
>>147 荷物運び程度って、叩かれまくりの鈴木史観やん。日本史板や戦国板で
それを主張したらぼこぼこに叩かれるんで注意。
149 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 01:11:06 0
ベトナムは戦争して勝ったといわれたが
勝って手に入った利益は何があったんですか?
独立
戦争なんて一部の利権者を除いたら、勝っても負けても無益なもんだろ
アメリカが勝ったところで失った大勢の若い命に見合うものは得られまい
152 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 15:49:38 0
>>152 ずっと親元で生活してたら良いんじゃないですか?
>>146 沖縄で使ってたらどうなってたんだろうね。
とゆうか、枯葉作戦って負のイメージや情報が多すぎて、
本来の効果がどれほどあったのか知らないんです。
ま、何処でも使って欲しくないものだけどね。
155 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 20:05:25 0
ベトナム史じゃないかもしれないですけどベトナム経済ってなぜ発展してきてるんですか?
中高生に分かるレベルで解説お願いします
人口が割と多いから経済規模もそれなりになる
BRICsび次ぐものでVISTAの一角「V」でもある
大雑把に言えば、発展途上国ってのは発展するもんなのよ
早いか遅いかの違いだけで、遅けりゃ牽引されるからね
他の途上国で発達して無いところをみると内紛が必ず起ってるから、
ベトナムは独立してるため国内が安定していて発達してると予測
yahooで見つけたんですが
・経済的には遅れていたがさまざまな社会主義的規制を緩和したこと
・背中が山岳地帯で唯一ぶつかる中国ともうまくつきあうようになったこと
・海洋国家という有利性を活かせること
の三つを教えてください
>>159 もともと何ちゃって社会主義で、
戦争に勝つために、共産化したんじゃねーか?ってベトナム人すら言ってる。
で、実をとる性格だからドイモイで路線変更。
今は難民やらアメ人やら呼んでノスタルジーを売り物にしてる。
元々は海のシルクロードと言われる海洋文化の交流点。
海産物は豊富。養殖技術など日本でかなり研修してる。
農業でも勤勉。豊富な大地で米を輸出してるくせに、日本の農業勉強しまくり。
当の日本が自給率低いと言うのに・・・
北と南で経済などの格差はあるんでしょうか?
また対策とかはされているんですか?
発展途上国らしく、地理的な南北格差ってよりは
都市部と農村の格差が激しいですね。中国と同じ。
対策は、遅れてます。
格差対策よりは発展が先。ってのは途上国の必然でしょう。
民族問題もあり、山岳民族らから参選させるなど、多少配慮はしてますが、
そこはまだ共産圏なので、中国よりマシかな?って程度。
163 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 23:35:15 0
ベトナムでは内紛のような国内で揉め事はないんですか?
あんまり大きいのは未だ無いかな。
タイやインドネシアレベルまで行けば出てくるかも
火種としては、少数民族。ラオス、カンボジア人など。
政府がなだめれるかどうか。
南北では経済格差こそ少ないが、やはり歴史から、確執は大きい。
ただしこれも、幸いな事に若者がどんどん増える人口ピラミッドなので
あまりこだわらない層が増えている。
イケイケの戦争教育をしている割には、アメリカや韓国に対しても拘らない。
隣国にして、商売を取られてる中国だけは別。
南沙問題や、川上の治水や公害の問題もあるし。
内紛があれば表か裏か、中国が介入してくるから怖い。
今や弱小のくせに、中国とは、やりあう気まんまん。
その時は、イケイケのくせに被害者づらして援助求めてくるから、助けてやれ。
166 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:02:18 0
>>164 > 若者がどんどん増える人口ピラミッド
それは過去のこと。
大泉啓一郎『老いてゆくアジア』とか読んでみ。
>>166 えーっと・・・文脈で、
戦争にこだわらない層が増えてるって話なんですが。
戦後暫く経てば増加率は減るもんですよ?
鉄道、道路、高圧送電線という、
国の「血管」に当たるインフラが貧弱だというのは、アキレス腱じゃないか?
169 :
世界@名無史さん:2009/10/01(木) 14:02:30 O
びぇとなぁ〜む
ほぉ〜つぃむぃん
>>168 だから日本に新幹線作りたいって言ってきてる
171 :
世界@名無史さん:2010/01/23(土) 00:44:07 0
確かに>韓国時代劇
殺陣は更にワイルドだが
173 :
世界@名無史さん:2010/03/04(木) 18:23:44 0
知ってる人いたら教えてくださいな。
チャンパの首都って、海浜都市だったんでしょうか?
それとも内陸都市だったんでしょうか?
清盛が計画してごく短期間ながら遷都した福原京は、典型的な海浜都市でした。
また、その後の頼朝の拠点の鎌倉もそうです。
当時の東アジア各国では、海洋貿易が大いに発達し始めていましたが、
それでも、首都機能そのものを海浜都市に置くというのは珍しい例だったと思うので。
175 :
世界@名無史さん:2010/04/20(火) 20:06:40 0
176 :
世界@名無史さん:2010/04/21(水) 02:43:33 0
平安・鎌倉の頃なら海浜都市ではない。川沿いだけどちょっと内陸に入ってた。
でも、福原も瀬戸内海が川みたいなもんだから海浜都市とは言いにくいな。
177 :
世界@名無史さん:2010/04/23(金) 01:47:44 0
174で質問した者です。
お答えくださってありがとうございます。
なるほどね、この当時のチャンパは内陸首都を置いていたんですか・・・。
思うに、やはり福原京も海浜都市ではないでしょうか。
確かに瀬戸内海はいわゆる外海ではないですけど・・・。
細い内海沿いに都を置いた例を挙げれば、コンスタンティノープルなどもそうだと思いますし。
死にたい