1905年のウェールズの信仰復興運動は異彩を放っている。その理由は、ケビン・マクルアの説明
によると、この運動の中心人物メアリー・ジョーンズ女史が、ウェールズの片田舎のあちこちに神秘の
光を集めることができたからである。
おそらく、これまでウェールズで報告された現象の中で最も驚くべきものは、エグリンの謎の光で
あろう。しかし、現在では、この光やそれが与えた霊感、そして幻想的な伝道師メアリー・ジョ
ーンズ女史のことを話す人はほとんどいない。メアリー・ジョーンズ女史の周辺で目撃された不可視
な光は、若き福音伝道師エバン・ロバーツが指導した1905年のウェールズのメソジスト信仰復興運動
を背景として現れたものだった。
ウェールズは長い間熱狂的な信仰復興運動の中心地だった。その結果、たとえ一時的にせよ、
多くの人々が改宗し人生のあり方について劇的な変革を経験した。最後の復興運動が始ま
る1904年9月のころには、伝統化した一つの型がすでに定着していた。1859年の大復興
(11万という驚異的な人の数が改宗したといわれている)以来、1866年、1871年、1882
〜1883年、1887年、1892年、1893年と、大きな地方の復興運動が続いた。
1905年の復興運動に関するある研究によると、「改宗者個々の人が救済を体験するという
神秘的な教養」が語られ、ここでは「罪の認識が感情の高揚を生み、その頂点で人は自分が
すでに救われていることを悟る」とされていた。伝道師は説教壇の上から罪人たちを糾弾
し悔い改めるものには天のみさかえが約束されるのだと、言葉巧みに吹き込んだ。信者で
あふれる礼拝会は、一度に何時間もぶっ続けで行われた。
しかし、この復興運動に限って、まもなく特異な性格が見られるようになった。エバン・ロバ
ーツは、彼独自の戒律の基礎を、彼自身が直接天使やキリスト本人からから授かった幻視に置い
ていた。メソジスト派は、神秘主義やその他のカトリック的特質とは相容れない宗派であり、ロバーツ
は、彼独自の文字通りのお告げを重視する伝道方針を、厳しく批判された。こうした批判
もあって、後年になって当時の復興運動を覚えている人が少ないのだろう。確かに、フランス
のルルドやポルトガルのファティマなどのカトリック信仰の中心地では、聖母マリアなどの神霊が現れたと
いう話も珍しくはない。しかし、メリオネスシャーの敬虔なメソジスト教徒は、巡礼や霊場といったた
ぐいのものを好まなかったのである。
しかし、エバン・ロバーツが展開した宗論も、ある驚異的な現象の前にささいなこととして色
あせてしまった。その驚異的現象とは、メリオネスシャー州(現在のグウィネスズ州)のバーマスとハーレフの
間にはさまれた小村エグリンの農夫の妻、当時35歳のメアリー・ジョーンズ女史にまつわるものだっ
た。
百聞は一見にしかず
エバン・ロバーツが授かった幻視のような体験は、しばしば主観的であり、本人だけにしか体験
できないものである。したがって、本当にそうしたことが起きたのかどうかを証明するこ
とは困難である。しかし、メアリー・ジョーンズの場合はそんなものではなかった。彼女は、ほか
の人間お目にもちゃんと見える現象を引き起こしたのだ。彼女は幻視を体験し、いくつも
の動く光に囲まれ、人の姿をした神から託宣を授かった。彼女は、自分がメリオネスシャー州全土
に振興復興を押し広めるための巫女に選ばれたのだと固く信じた。こうした体験から、彼
女は地元の礼拝堂で夜の祈祷会を始めた。やがて、ほかの人々も光を目撃し、幻視を見る
ようになった。そして、彼らは改宗したのである。それぞれの新聞が独自の記事を報道し
たが、その第1報を伝えたのが、1905年1月13日付きの「カンブリアン・ニュース」である。この
記事は、彼女の改宗活動の成功を伝えるとともに、光の現象について触れ、彼女が見たと
主張していた光は最近まで彼女自身が考え出した伝道方法の一つと思われていたが、いま
ではほかの人々にも光が見えるようになった、と報じた。
266 :
、:2008/07/21(月) 07:47:53 0
先週ジョーンズ女史はペンサーンで行われた祈祷会に出席し,これに数百人の信者が集った。
この礼拝所は鉄道の路線から見える場所にある。マーハーンスレスの男が運転する汽車がちょうど
ここを通過しようとしたとき、ドンという大きな音とともに合体した。「もう二度とあんな
ものは見たくない」と、この運転手は自分の体験談の中でそういった。一緒に乗っていた
彼の助手もこの光を見ている。
すでにこのころは、ジョーンズ女史と彼女の光はカンブリアン海岸の一帯に知れ渡っていた。この
独自の戒律の出現は、有力各氏の記者を何人も、海とタリボント駅の中間にあるイスローフォードの小
さな農家に引き寄せたのである。ここで彼らは、普通の田舎女にしか見えない彼女の経歴
を調べてみた。そこでわかったことは、心霊現象や超常現象の中心になる多くの人々と同
様に、彼女が子供時代や青春時代に不幸な環境に育ったことだ。彼女は幼いころに両親を
なくし、姉に育てられた。やがてその姉も死に、メアリーは生涯2度と神を信じようとは思わ
なかった。
最初の晩の祈祷会は、ジョーンズ女史の星と光がはじめて現れた記念すべきものとなった。こ
の星の出現を予告するかのように、オーロラに似た光のアーテが現れた。アーチの一方の端は海まで
延び、もう一方は 丘の頂上まで延びていた。その長さは優に1・6kmはあった。そし
て、小さな礼拝所をあふれんばかりの穏やかな光輝で包んだ。それから間もなく、あのほ
しが現れ、その輝きで礼拝所を満たした。
同じ記事の中でエバンズは、この星や光には知性があるらしく、人や状況に反応していたよ
うだ、と書いている。
星は特定の家の上に浮かび、その家の屋根を、周囲の暗闇の中にくっきりと浮かび上がら
せた。エグリン分教区にこの光が現れると、必ずその家から改宗者が現れ、次の祈祷会に姿を
現した。、、、、、星は彼女が礼拝を行う礼拝所の屋根の上で静かに輝き、そのとき祈祷会の厳
かな雰囲気が著しく高められた。
267 :
、:2008/07/21(月) 07:50:05 0
キリスト教専門誌「ブリティッシュ・ウイークリー」の執筆者の1人エルベット・ルイス師は、、ほかの記録に
も、改宗者の出る家の上にそれに先だって光が現れるという同様の出来事が帰されている
と指摘した。彼は、バーマスのメソジスト派の牧師がこの事実を立証できるとし、ほかの人々もこ
の報告を真剣に受け止めるべきだ、と述べた。現地に赴いた記者の多くは、自らもこの光
の目撃者となり、そのほかの信頼できる目撃者の氏名と住所を紙面に載せることができた。
ベライア・エバンズの名が真っ先に活字になったのは、おそらく彼が地元の人間だったためだろ
う。1905年2月9日付の「デイリー・ニュース」の紙面に、次のような記事が載った。
お茶の後、私たちは3kmはなれた礼拝所まで足を運ぶことにした。同行のメンバーは、
私のほかにハーレフのルーウェリン・モーガン師とダフリンのロジャー・ウィリアムズ師、そしてもう一人であるジョ
ーンズ女子は外出着に着替えて同行した。彼女は外に出るとすぐに引き返してきて、こう告
げた。「もう少し待ちましょう。光はまだきていません」
5分後また外に出た彼女は、急いで戻ってくると言った。「出かけましょう。光が来ました
から」
この知らせを聞いて、それとわかるほどの動揺を見せたのは、メンバーの中で唯一の懐疑論者
だった。ちょうど私たちがカンブリアン鉄道の踏切を渡ったとき、ジョーンズ女史が南の空のほう
に注目するよう私たちを促した。彼女の話を聞いている間に、私たちと丘の中間の、目測
で3kmばかり先の地点に、突然、大きな輝く星が現れた。それは燦然たる白光で、ダイヤモ
ンドの輝きにも似た目を射るようなきらめきを、全体から発していた。
「汽車のライトじゃないのか」と懐疑論者が言った。
「いいえ」と答えたのはジョーンズ女史だった。
「汽車にしては場所が高すぎます」
まるでそれを証明するかのように、星は突然、山のほうへ向かって飛び上がると、次の瞬
間にはまたもとの位置に戻り、今度は猛スピードでまっすく私達の方へ向かってきた。そ
のとき、パーマスからやってくるまぎれもない汽車の轟音が聞こえてきた。
「やっぱり汽車だと思ったんだ」と懐疑論者が安堵のため息とともに言った。なんという
石頭だろう!
「いいえ」とジョーンズ女史はきっぱりと否定した。「汽車のライトはまたあそこまできていない
わ」
268 :
、:2008/07/21(月) 07:51:46 0
そして、最初現れた光とはずいぶん様子の違う別の光が、例の星よりもやや下方に見えて
きた。光は二つとも明らかに私たちのほうへ向かって突進してくる。汽車が間近にまで来
たとき、星のほうは消えた。轟音を轟かせながらすごい勢いで汽車が通り過ぎた。しかし、
星が消滅して助かったとばかりに懐疑論者がほっとため息をつきかけたとき、また例の星
が、先ほどより近くに現れたのだ。しかも、これまで以上にまばゆく輝いていたのだ。そ
して消えた。
「まだよ」とジョーンズ女史が言った。その一瞬後、たったいま星が消えた場所から3km離
れた山腹の上空に光がまた突然現れ、燦々と降り注ぐ陽光のようにヒースの茂みを照らし出し
た。光がまた消えたかと思うと、2kmほど離れた北の方向にまた現れ、私たちがこれか
ら行おうとしていた谷間を旋回していた。
そして、メアリー・ジョーンズの光は次々と姿を変え、やがていかなる論理的説明もできなくなっ
てしまうのである。
1905年のメアリー・ジョーンズのウェールズ伝道活動に寄り添った不思議な光は、一体なんだったのだ
ろうか。ここでは引き続き、宗教的熱狂をもたらしたこの奇妙な物語と、そのUFOとの
かかわりを取り上げることにする。そして、この光をまやかしだと主張した当時の説につ
いても考察してみる。
メリオネスシャーの女預言者ことエグリンのメアリー・ジョーンズ女史に関する目撃報告は、彼女が有名にな
るに連れて、地元紙や全国紙、および「オカルト・レビュー」などの記事に登場するようになる。
英国心霊研究協会(SPR)は、1905年の「会報」に、大きくページを割いて詳細な記事を掲
載しているが、この調査は郵送によるアンケートを使って行われたものだった。しかし、交霊会
や幽霊騒ぎに慣れた経験豊富な心霊研究家であっても、次のような報告を、果たしてどう
説明できるだろうか?その報告とは、「デイリー・ミラー」の通信員が、復興運動の祈祷会からの
帰り道で出くわした怪事件である。
先頭の車には、ジョーンズ女史とほかに3人の婦人が乗っていた。私の車には、明敏で抜け目
無いロンドン子の「デイリー・ミラー」のカメラマンが同乗した。私たちは急カーブを曲がり急な坂を下
りながら、川沿いや川沿いの薄暗がりの道を猛スピードで突っ走った。あの夜の恐ろしい
ドライブを、私は忘れはしない。私たちは押し黙ったまま、すでに5mの道程を走りすぎて
いた。私はすでにあきらめていた。もう真夜中だし、まもなくバーマスに着く。その時だ。突
然、何の前触れも無く、柔らかいかすかな光が足元の路上を照らし出したのだ。光はたち
まち私たちの周囲に広がり、まるでこの上なくやわらかいライムライトの光を浴びているかのよ
うに、幅18mくらいの範囲の小石や小枝が1つ残らず見えた。何か大きな物体が、空と
地面と中間でふいに口を開け、その内部から光を降り注いでいるかのようだった。ふと、
打ち上げ花火だろうかとも思ったが、それは似ても似つかぬ代物だった。私はすぐに空を
見上げたが、すでにその光は頭上の空で薄れ掛けていた。それは、灰色の楕円形の物体で、
半ば開いたその開口部から白い光の核をのぞかせていたようだった。その開口部が閉じた
とたん、すべては再び闇に包まれてしまった。
270 :
、:2008/07/21(月) 07:59:45 0
1905年に、いったい誰がUFOのことを知っていたのだろうか?
この一行は、また別の現象も目撃している(この件については、ベライア・エバンズとダフリンの
警官の証言も残っている)。1905年の初め頃、礼拝所の近くの道路沿いには、好奇心に駆ら
れた見物人が、例の光が現れるのを期待して毎晩集まっているらしい。「デイリー・ミラー」の記
者は、こう語っている。
ちょうど幅1mくらいの、この上なく明るい青い光の棒だった。それは、礼拝所から数メ
ートル離れた道路でギラギラと輝いていた。棒は、ほんのしばらく道路の反対側にとどま
っていたが、やがて棒の一方の端の塀に向かって伸びてきた。それは塀を乗り越えてはこ
なかった。私たちがただ呆然と見ていると、ちらちら振動するきらめきが棒の端から端ま
ですさまじいスピードで走り、そのまま何もかも消えてしまった。
また、「デイリー・メール」の記者は、バーマス駅から徒歩で数キロ行ったところで、こういう体験
をしている。
礼拝所の上空に火の玉が浮かんでいた。それはどこからともなく、瞬時にしてそこに現れ
た。火の玉はじっと動かず、強烈な黄色い光を放っていた。私の目測では、礼拝所の2倍
の高さ、地上から15mくらいの位置にあったようだ。火の玉は1分半ほどそこにいて、突
然消えた。そのまま何分か過ぎたところ、2つの光が礼拝所をはさんで両側に突然現れた。
その光は互いに90mくらいの距離を隔て、礼拝所の屋根より30mくらい上にあった。そし
て30秒くらいさんさんと瞬きもせずに輝いていた。それから、この二つの光は明滅し始め
た。10秒間ほどして、明滅をやめた。この距離から見ていると、大きなまばゆい自動車の
ヘッドライトのようだった。
271 :
、:2008/07/21(月) 08:00:53 0
こうした報告例はいくらでもある。しかし、星や光と称されたこの現象の正体を知るため
に、本当に役に立つのだろうか。どうすれば原因を探っていけるだろう。現実に実態のあ
る光が存在したのだろうか? それとも、ジョーンズ女史の信奉者たちは、彼女に光が見え
るといわれ、その暗示の力で幻を体験しただけなのだろうか? 星や光が見えたのは、彼
女が現場にいたときだけだったのではないのか?この現象が起きたのは、小さな一地域だ
けではなかったのか。もしそうなら、礼拝所の近くにある沼地が解明の鍵になるのではな
いか?つまり、こうした光は、沼から沸いたガスが自然発火したものではなかったのだろ
うか?
もし本当に、この現象がエグリン礼拝所の周辺だけで起きたものだとすれば、目撃報告された
ものについてはいくつかの仮説が考えられる。たとえば可能性の1つとしては、だれかが、
人を担ぐために礼拝所の裏の丘にランタンを持って登った、ということも十分に考えられ
るだろう。あるいは、礼拝所そのものの明かりや、この地区に点在する農家の灯、遠くの
セント・タッドウォール燈台の光などを見間違えたのかもしれない。1980年代のUFO研究家にとっ
てはよく見れなかった光も、この時代にはまだほとんどいなかったはずだ。自動車のヘッドラ
イトは珍しかった。その反面、汽車のライトは蒸気機関の騒音のせいで間違えようが無かっ
た。さらに、飛行機の音は(特に夜間は)ほとんど聞こえなかった。
しかし、ウェールズの光を分析していくと、おいそれとは片付かない問題点が出てくる。この
星や光の出現や、さらにその後起きるほかの異常現象は、どう見ても、メアリー・ジョーンズの存
在と関係ありそうだ。それに、こうした現象が目撃された場所には、地理的制約がまった
くなかったようだ。1905年4月20日付の「バーマス・アドバタイザー」に、次のような記事が載
っている。
メリポネスシャーの女預言者こと、エグリンのメアリー・ジョーンズ女史は、今週レクサム分教区で復興運動の祈
祷会を行っている。月曜日の午後の祈祷会に出席した婦人数人は、ジョーンズ女史が説教をし、
祈りをささげている間、彼女の頭上に光が浮かんでいるのを見た、と断言した。
夜の会では、彼女が盛んに熱弁をふるい、一心に祈りを捧げている間、礼拝所にいた大勢
の人が光を目にした。最初は、彼女が説教を始めてまもなく、稲妻のような光がきらめい
た。2度目は、彼女がエグリン分教区の光について説明を始めたときに現れた。そして3度目
は、彼女が祈りをささげているときに見えた。彼女は説教の途中でこう語った。これまで
彼女が訪れる場所には必ず光が現れたが、2つだけ例外があった。でも今はもう、光が自
分についてこない場所には、神が自分を導かないことが分かってきた、と。光を伴う彼女
の来訪は、その分教区に一大センセーションを引き起こした。レクサム(現在はクルウィド州に属
す)は、ウェールズ地方の中ではエグリンの反対側に位置する。
1905年7月23日、ジョーンズ女史が近くに伝道にやってきてから3週間ほどたったころのこ
とだった。若者のグループが、グラモーガン州のポンティープリーズの近くのイニシブウルで行われた祈祷
会から帰宅する途中、驚くべき体験をした。彼らは地元紙の記者にこう語った。「空にとて
も大きな輝く火の玉が現れたんです。それには、地面のほうへ突き出したまぶしく輝く2
本の腕がありました。この腕の間に、ほしずくのような光がいくつか現れて、明滅しなが
ら揺れてました。10分くらいそのままでしたよ」
タイラースタウン医師が、SPRの質問に答えて、1905年5月27日に起きた事件について詳述し
ている。
土曜の夜、午後十時ごろのことです。私は妻といっしょに帰宅の途中でした。妻が、リバナス
礼拝所の上空に山腹近くで輝いている光に気づき、私に教えてくれたのです。それはチーズ
皿くらいの大きさの火の玉のようでした。それはじっと動かずにいました。私はすぐに、
この火の玉の位置に注意しました。まさか、山の上に誰かが明かりを持ってたっているわ
けではなかろうと、その可能性の有無を確認しようと思ったのです。
その場所は道からずいぶん離れていました。
1905年4月、ランゴレン地方の3人の牧師が独自の調査結果を「バーマス・アドバタイザー」に提供
した。この3人は、ディー・バレーのある地区を視察に行った。ジョーンズ女史は、この土地
では宗教上の悩みを抱えた人の家の上に光が現れるのだと語っていた。そこで彼らは、「大
きな火の玉が2つの地上から上昇し、突然、赤い光をほとばらせて飛び散った。3つ目は、、、
同じような光がブロンシーシルトのほうへ飛んでいった」のを見た。3人とも「女預言者の来訪に
伴って起きた何か不思議な現象を身をもって体験した」と確信した。ウェールズ全土の目撃者
から寄せられた、冷静で信頼性の高い数多くの報告とあわせて考えると、このケースも現実に
起きた神秘的現象と見て間違いないだろう。いたずらのケースには当てはまらないようだ。
これまでにUFOとの関連をほのめかした新聞も何紙かあるし、この信仰復興運動に伴っ
て起きた現象と、その他のすでに立証された超常的事件との関連は明白である。次の「オカル
ト・レビュー」の記事が、事件の規模の大きさを暗示している。
大宇宙の盗人、大暗黒宇宙の番人 >>
違うな逆か、、、、大宇宙の番人、大暗黒宇宙の盗人、、か、、、、。