1 :
GWB :
2006/08/18(金) 12:27:17 0 ジンギスカン=源義経は、歴史的真実でした。そのことを、ここで検証しましょう。 Ghost Writer Brotherhood (完全なる代筆友愛団)より 愛をこめて
クソスレおめでとうございまーす
時空警察によるとだな・・・
4 :
GWB :2006/08/18(金) 17:16:09 0
じゃ、まず手ごろな文献から紹介しましょうか。歴史の全般を概観するためには 次の文献が適切でしょう。 「成吉思汗の秘密」高木彬光(1958年 光文社 復刻版 780円) 江戸時代の1644年に徳川家光が編纂を命じた『本朝通鑑』続編に文献上始めて 源義経が死んでいなかったという記述(「俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦 夷島存其遺種」)があらわれます。 これ以降は義経が北海道に逃れ、彼の地で神として祭られているという記述が 多くなります。 ◎御曹子しま渡 (甲和 1052) ◎続本朝通鑑 林羅山/鵞峯著 1670年 (321−248) ◎本朝武家評林 遠藤元閑著 1700年 (323−162) ◎義経勲功記 馬場信意著 1712年 (石崎324.1−2) ◎大日本史 水戸彰考館編 1720年〜 (321−192)
5 :
GWB :2006/08/18(金) 17:19:29 0
さて、『鎌倉実記』(1717年)の中で、「金史別本」という本があってそこには 源義経が中国大陸に渡った、と書かれていると紹介されています。 このことは当時かなり衝撃的だったようで、新井白石も義経の中国大陸行きに大 きな関心を示しています。 1783年の『国学忘貝』に、「図書集成」には「朕姓源義経之裔其先出清和故号国 清トアリ清ト号スルハ清和帝ノ清ナリ」と書かれていることを紹介しています。 つまり、中国の清王朝の先祖は源義経で、清という国号は清和源氏からとったと いうのです。 後になって「金史別本」も「図書集成」も偽書であることがわかるのですが、 江戸時代の中頃になって、義経は北海道を抜けて中国大陸に足跡を残した、 という伝説が生まれてきます。けれども、まだ源義経はジンギスカンになっ ていません。 ◎鎌倉実記 加藤謙斎著 1717年 (324.1−12) ◎読史余論 新井白石著 1724年 (320.4−6) ◎新安書簡 新井白石/安積覚 1721年 (041−8) ◎国学忘貝 森長見著 1783年 (041−90) ◎桂林漫録 桂川中長著 1803年 (041−156)
6 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 17:21:25 0
「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校、東宮鉄男を中心にソ連と接する満州に 屯田邦人兵を大量に送り込むべく、国策満蒙開拓移民がはじめられた。 1932/8/16、リットン調査団による満州国査察が行われる前に千名の武装移民が 閣議決定されたのを皮切りに、27万の開拓移民が終戦のその年まで行われた。 当初、日本人による満蒙開拓は困難であるとの見解であった政府も、1938/1/8 拓務省、文部省、農林省が「花嫁百万人大陸送出計画」策定し、国内向けに一 大満蒙情扇活動が政府により行われた。 この時、拓務省は満州関係の新興宗教家や郷土民俗学の研究者に盛んに助成を 行った。満州・蒙古の民族性が如何に日本民族と似ているかを喧伝する為であ り、満蒙開拓への大衆の関心を集めさせ、移民希望者を募る目的であった。 ジンギスカン=源義経説もこの頃、形成されたイデオロギー的色彩を強く放つ 情扇活動であった。源義経は講談・歌舞伎レベルでも国民に広く親しまれてい た人物であり、広くロシア・西欧まで接する大帝国を築いた蒙古帝国のフビラ イは、日本陸軍の思惑に適うものだった。 拓務省は積極的に蒙古の習慣・風習・文物について共通性を見つけるよう徹底 指導した。また東北部の各地に義経の縁起伝承を国策として造作・発表した。 開拓移民候補として最も多く計画されていたのは岩手等、東北の農民であった からである。 かくして大戦は日本の敗北に終わり、関東軍と拓務省の描いた王道楽土五族協 和、夢の別天地の名の下、27万の開拓団は中国残留孤児など多くの悲劇を生 み、それは現在もまだ続いているのであるが、ジンギスカン=源義経説のイデ オロギー的宣伝活動の残渣が今も残されているのもその一つである。
7 :
GWB :2006/08/18(金) 17:24:02 0
長崎のオランダ商館に医師として勤務していたドイツ人のシ−ボルトは、 自らの著書『日本』において、友人の吉雄忠次郎が源義経はジンギスカン になったことを確固として信じていると記しています。 そして、この「世界史的大事件」に歴史家が注目するようにとも書いて います。こうして、義経がジンギスカンになったということが世間に広 まりました。 最終的に、この伝説を決定づけたのが日ユ同祖論者でもあった 小谷部 全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』でした。 松山巖氏は、この本が出版 された後の読者の声をまとめて、大陸に向かう日本人を鼓舞するのに大 いに役立ったと指摘しています。 (「英雄生存伝説と日本起源論異説」『ユリイカ』1989年9月号)。 ◎日本 シ−ボルト著 1832年〜 (210.08−61N) ◎成吉思汗ハ源義経也 小谷部全一郎著 1924年 (320.4−263) ◎中央史壇 第10巻第2号 1925年 (320.4−265)
8 :
GWB :2006/08/18(金) 17:31:41 0
>6 確かに、ジンギスカン=源義経説は、1938年頃においては、日本政府による大陸殖民 政策を容易にするための情扇活動でもありました。 しかし、21世紀になった2006年8月の今日、ジンギスカン=源義経という歴史上の見解 は、まさに歴史的真実であったと考える研究者が増えているのです。
9 :
GWB :2006/08/18(金) 17:53:13 0
源平合戦で数々の武功をたてた源義経は、兄の源頼朝に嫌われ、鎌倉幕府から追われる。 いったんは平泉(岩手県平泉町)の奥州藤原氏にかくまわれるが、1189年、源頼朝 の圧力に屈した藤原氏の襲撃を受けて自害した、というのが今までの通説の歴史でした。 しかし、最新の研究では、源義経は平泉では死なず、北海道経由で大陸へ渡った後、そ の天才的な戦術を駆使してモンゴル帝国を建設し、ジンギスカンと名前を変えて歴史に 再登場したということが事実であったと認識されつつあります。 平泉から鎌倉幕府に運ばれた源義経の首は別人(影武者の杉目小太郎行信)のものだった と推測されています。神奈川県藤沢市にある白旗神社に埋められている首の遺骨を掘り 出して、将来、ジンギスカンの墳墓が発見された時に備えて、科学的にDNA鑑定をして おこうという意見もあります。 公式の歴史記録では、義経なる首の腐敗を防ぐため、酒のおけに浸されて鎌倉幕府に 送り届けられた首は、1189年6月13日に鎌倉に到着しています。旧暦の6月13日は 今の8月にあたり、義経の死から鎌倉到着まで43日もかかったのは、義経の首を腐ら せるための奥州藤原氏側の時間稼ぎだった、と考えられています。 一方、ジンギスカンの前半生も謎に包まれています。当初、テムジンと名乗っていた ジンギスカンはニロン族の出身で、父の名はエゾカイだったされていますが、この「ニロン」 とはニホンがなまった言葉であり、「エゾカイ」は蝦夷海(北海道の海、現在の間宮海峡)、 「テムジン」はテンジン(天神)のなまりであると考えます。 さらに「源義経」の音読は「ゲン・ギ・ケイ」で、それが当時のモンゴル語のなまった発音で 「ゲンギスケイ――ゼンギスカン――ジンギスカン」になったと考えられています。
10 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:11:39 0
『吾妻鏡』の文治5年(1189年)4月30日には「豫州入持佛堂先害妻子次自殺」とあり、 源義経の死があっさりと片付けられている。しかし、源義経は死なずに衣川を脱出した という伝説がその直後から始まる。同じく『吾妻鏡』文治5年6月に「十三日辛丑泰衡 使者新田冠者高平持参豫首於腰越浦言上…件首納黒漆樻浸美酒高平僕従二人荷擔…」と ある。この部分の記述が「首実検の道中に日数がかかり過ぎている」などと伝説の端を 発する部分である。 以下に、偽史や怪文書的偽文書の類を示すが、これらは直接原典にあたることが困難な ため、二次資料以上の孫引きである。岩崎克巳の『義経入夷渡満説書誌』(1943年)の ように、この種の文献を網羅的にリストアップしたものもある。また、作家の海音寺潮 五郎の『得意の人失意の人』の中にある随想作品「義経と弁慶」には義経不死伝説や弁 慶の伝説と並んで、偽史等についても詳説されている。さらに、大阪中ノ島図書館の大 阪資料古典籍室ではこのような文献のうち所蔵しているものを展示していた企画もあった。
11 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:12:50 0
そもそも、義経の蝦夷渡海説は、林羅山・鵞峯父子が徳川幕府の命令で編纂した『本朝通 鑑』(1670年)の義経の条に、「俗伝又曰衣河之役義経不死逃到蝦夷存其遺種」(第79巻) とある。異説と断った上で「衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今 ニ存ス」云々と記した辺りに端を発しているらしい。 アイヌ研究者として有名な金田一京助はこの俗伝について、御伽草子にある『御曹子島渡』 の義経伝説が、和人を通して北海道のアイヌに伝播したものであろうという仮説を立ててい る。アイヌたちは物語を通じて義経のことを語るようになっていく。義経本人ではなく義経 物語が蝦夷へ渡ったということになる。 徳川光圀の『大日本史』も異説として渡海説を載せている。『大日本史』義経列伝には末尾 の割書きに「世代義経不死於衣川館遁至蝦夷…天時暑熱雖函而浸酒焉得不壊爛腐敗就能辨其 偽哉然則義経偽死而遁去乎至今夷人崇奉義経祀而神之蓋或有其故也」「相距ること四十三日、 天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能く その真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇 奉し、祀りて之を神とす。けだし或いはその故あるなり。」とある。
12 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:16:10 0
これを大幅に展開させたのが馬場信意の雑史『義経勲功記』(1712年) であり、義経は蝦夷の棟梁となり子孫を残したと記している。馬場信意は 京都の人で武田家の名称馬場美濃守信房六世の孫だという町学者である。 これよりも以前に、沢田源内という者が『金史』の「別本・列将伝」とい う中国の書物に義経の息子で義鎮という者が大陸に渡って、金の将軍にな ったという記述があると言い出し、この説が相当に世間を賑わし惑わした 模様である。 碩学の新井白石などもこれに関心を示している。もっとも、新井白石は一 文披見の後には書簡に「文字の拙き一句として見るに足るべくも候所なく 覚え候」云々と記して一蹴した。但し、蝦夷への渡海説は完全には否定せ ず、『読史餘論』(1712年)や『蝦夷志』(1720年)ではこのような異伝 があることを記している。
13 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:17:41 0
『蝦夷記』には「アイヌ人等は祀壇を設け義経を祀り、これをオキクルミ といい、飲食する毎にいのりをささげている。」また「蝦夷地の西部の地 名に弁慶崎というのがある。一説によると義経はここから北海を越えて去 ったと。寛永年間に、越前の新保の人が難船して韃靼の地に漂着した。そ の年は癸未寛永二十年であった。清の皇帝はその人を連れて北京に入り、 一年余とどまらせてから、勅して朝鮮におくり、朝鮮から日本に送り返さ せたが、その者の言に、奴児干部の人家の門戸には神像をかかげてあった が、それは北海道で見る義経の画像に似ていた。なんとも珍しい話である。 」という内容が記されている。渡海説を肯定するものではないが、噂話と して紹介している程度である。この沢田源内の説は源内自身が捏造したも ので、彼は有名な偽書作者であり、近江では偽系図作りを仕事にしていた 人物であった。享保頃の学者である篠崎東海がこれを偽書と看破したこと が篠崎東海の著書『東海談』にある。この沢田源内の偽書を取り込んで義 経を蝦夷からさらに大陸へ渡らせたのが、京都の町医者で町学者である加 藤謙斎の『鎌倉実記』(1717年)である。ここには「金史列将伝曰範車国 大将軍源光録義鎮者日東陸崋仙権冠者義行子也」とある。金の範車国に源 光録という将軍がいて彼は日本の源義行の子であるという。義行は義経の 改称であり、こちらを使う辺りが手が込んでいる。つまり、ここでは、義 経が蝦夷地から大陸に渡り、その子孫が清朝の祖となったという説が展開 されているのである。この『鎌倉実記』も馬場信意の『義経勲功記』も史 書というよりも小説である。伊勢貞丈は『義経勲功記』と『鎌倉実記』を 偽書とした上で『安斎随筆』(1784年)の中で、応永の中頃(14世紀初頭) に坂東で謀反を起こした小山悪四郎隆政という者が北上して蝦夷に渡り奥 蝦夷の長者の婿となったということがあり、この悪四郎の事跡が義経のこ ととして誤伝されたと述べている。
14 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:21:13 0
この次に話題になった書物が森長見の『国学忘貝』である。 ここでは、清から渡来した『古今図書集成』一万巻中の『図書輯勘』と いうものがあり、この書物の序文に、清朝の祖先は義経であると明記さ れていると記されている。「西土今ノ清編集アリシ図書集成ト号スル書 一万巻アリ。新渡ニテ其部ノ内、図書輯勘ト云ヘル百三十巻アリ。清帝 自ラ序ヲ製作アリ。其略文トテ、朕姓源義経之裔、其先出清和、故号清 国トアリ。清ト号スルハ清和帝ノ清ナリト云々」とある。清国で編纂し た『図書集成』という叢書は全部で一万巻ある。宝暦十年に清人汪縄武 なる者が持って来たのを、明和元年に幕府の文庫におさめた。その叢書 の中に『図書輯勘』なる書が三十巻ある。それに清の乾隆帝の序文が付 いている。その序文に朕の姓は源で、義経の裔である。先祖が清和の出 なので、清国と号したとある。 もっとも、森長見自身が、『図書輯勘』を読んでいたわけではない。彼 はある儒者からその話を聞いたと書いており、伝聞情報であることも同 時に明記している。この手の話が当時流行っていたことが判る。さらに、 この『図書輯勘』は相当に有名になっていたらしく、大坂の狂言作者並 木正三の遺作『和布苅神事』の中で常陸坊海尊に「義経は蝦夷から千島 に渡り、唐土高麗を攻め平らげ四百余州に清和源氏の名を輝かさん、清 朝の清は清和の謂に他ならぬ」と言わせているほどである。これは結局、 蘭学医で戯作もこなす桂川中良(戯作の筆名は森島中良)が実物を閲覧 し誤りであることを証明した。彼の著作『桂林漫録』にその経緯が記さ れている。
15 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:22:22 0
「自分はかねてから『国学忘貝』に言う所の『図書集成』の中の『図書 輯勘』なる書を見たいと思っていたところ、この頃兄桂川甫周が幕医で あるお陰で見ることが出来たが、『図書集成』の中には『図書輯勘』な る書はない。総目録を検しても見当たらない。従って、乾隆帝の自筆の 序文などあろうはずなし。」という旨を記している。『図書集成』は17 63年に日本に持込まれ、翌年には幕府の紅葉山文庫へ納められている。 他は長崎の官庫にも納められているであろう。これを閲覧できる人間は 少なく、幕府の書物奉行ら少数の関係者に限られる。そのため嘘も暴か れ難いというかもしれない。その後、伴信友が『中外経緯伝』(1846年) の中で、国学者中島広足からの伝聞として、よりエスカレートしたこと を書いている。中島広足は長崎に滞在したおり、中国語の通訳である水 野某から以下の話を聞いた。「ある日、水野が中国人の商人江芸閣に訊 ねた。『図書集成』に清帝が『朕姓源義経之裔』と書いた話はよく聞く が本当か。すると江芸閣は『図書集成』のことはよく知らないが、清朝 の祖が日本人だということは知人から知らされたことがある。『玉牒天 潢世系』という本に、そのことが書かれていると応答した。」という。 また、『図書集成』は松浦静山の『甲子夜話』などにも記されている。 『金史』の「別本・列将伝」は捏造された書物であるが、『図書集成』 は実在する叢書である。この辺りがもっともらしく、影響も大きかった ものと考えられる。この辺りまでくると、民間伝承ではなく、明らかな 作意がある。知識人によるかなり悪質な悪戯である。
16 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:24:10 0
海音寺潮五郎の「弁慶と義経」には経済雑誌社の『大日本人名辞書』の源義経 の項目にある記事として、詳細不明の古老の談が、記載されている。 それによると「鄭成功が明朝を護って清朝を苦しめていた頃、清朝では彼の母親 が日本人であることから、その縁で日本政府が援助することを心配した。事実、 鄭成功は幕府に援助を要請し、当時の将軍徳川家光は諸大名を集めて検討をした。 清朝では日本に使者を送り、清朝の皇帝は日本人の末裔であるから清朝を支持し て欲しい旨を伝えたという。証拠の物件として古い日本の鎧の草摺りを添えてお り、この品と文書は幕府が秘蔵していたが、明治になってから宮内庁が保管して いるという。」とのことである。 また、明治になってからのこととして「ある者が、伊藤蘭嵎(伊藤仁斎の第五子、 紀州藩儒)と智景耀という坊さんの書いたものの中に『明和三丙戌五月、新渡ノ 図書集成六百套九千九百九十六巻中ニ輯勘録三十巻有リ』云々とあるのを写して、 当時の儒者団体であった斯文会に提出し『清国と善隣の交わりを結ぶようになっ た今日、この点が明らかになれば、まことに工合がよい。よろしくお調査を請う』 と頼んだ。斯文会の蒲生重章という大学の漢学教授であった人は、早速に当時の 清国公使黎庶昌に質したところ、その返事は『わが皇上の先祖は金源の後に出て いる。貴邦の源氏とは関係ない』というものであったという。」という記事が載 っている。 これらが、『吾輩は猫である』の例の記述の元となったのであろう。
17 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:26:07 0
義経不死伝説の最終形態が成吉思汗つまりチンギス・ハーンと同一人物で あるとする説である。 この説を初めに唱えたのはドイツ人医師シーボルトである。彼の著書『日本』 (1832年)に初めて文字として記されている。「『日本』第一編日本の地理 とその発見史 第五章日本人による自国領土およびその近隣諸国保護国の発 見史の概観 義経公の奥州から蝦夷への敗走(1189年)」の注の中に以下の 記述がある。「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸へ の脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期に あたっている。『東蒙古史』には「豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川 の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もな くチンギス・ハーンははじめオノン河のほとりに立てられた九つの房飾りの ついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」と記さ れている。 シーボルトは日本滞在中に、オランダ語通訳の吉雄忠次郎からこの話を聞い たという。19世紀にはもうこの話はあったことになる。しかし、当時の日本 の文献にはその様な記録が全くない。あるいは義経の中国脱走説を耳にした シーボルトが何らかの勘違いによってチンギス・ハーンに付会したのかも知 れない。シーボルトは1829年に国禁の日本地図を入手したため追放されるが、 1859年に再び日本に戻ってきた。そして1861年からは幕府の顧問として仕事 をしている。彼は仕事で蕃書調所へ出向くと、義経=成吉思汗説を吹聴して いたという。当時、蕃書調所にいた西周がシーボルトからその話を聞かされ たことを『末広の壽』(1869年)に記している。 しかし、一般の日本人には知られていなかった話であろう。
18 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:27:22 0
このシーボルトの説を踏まえて、これを敷衍し発表したのが末松謙澄である。 彼は、明治初期にイギリスのケンブリッジ大学に留学しているが、ここで卒業 論文として提出されたのが「Identity of Great Conquer or Genghis Khan with Japanese Hero Yoshistune」である。末松謙澄は、『源氏物語』の初の英訳者 であり、帰国後官僚から政治家に転身した人物であるが、日本を清の属国と見 るような当時のイギリス人の誤解を正そうとして敢えてこのような説を唱えた のだという。 この論文の複写が日本に伝わり、偶然それを目にした慶応義塾の学生内田弥八 が、著者に無断で邦訳し刊行したのが『義経再興記』(1885年)である。この 書物は、原著者の名を記さず、「内田弥八訳述」とし、山岡鉄舟が題字を寄せ、 漢学者の石川鴻斎と土田淡堂が序文と頭評を寄せている。既に江戸時代に否定 された諸説を証拠として挙げるなど粗雑な構成であるが、これが義経=成吉思 汗説の最初である。
19 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:30:18 0
その後、この義経=成吉思汗説は小谷部全一郎の『成吉思汗ハ義経也』(1924年) で一世風靡する。この俗説の流行に対して、『中央史壇』誌は専門誌として、専門 家の原稿を集め「成吉思汗は源義経に非ず」という臨時増刊を刊行している。(18 25年)この小谷部全一郎は日本人とユダヤ人の祖先が同一である説など、突拍子も ないことを書く人物であり、『成吉思汗ハ義経也』も今日で言う「トンデモ本」の 類であり、歴史家としては無視してもよいものである。 当時の評判が無視しきれないものであったことが推測できる。しかし、小谷部全一 郎はその後も『成吉思汗ハ義経也―著作ノ動機ト再論』(1825年)を著して反論し、 さらに『満州ト源九郎義経』(1935年)を刊行している。当時はシベリア出兵が失 敗に終わった時代である。 日本人がアジアを雄飛するという、果たせなかった夢を義経伝説で補完していたの であろうか。大陸に対する領土的野心が時代とともに膨張していた当時、義経=成 吉思汗説は大陸侵略のプロパガンダとして利用するには格好の噂であったと考えら れる。1937年、年末の12月12日から『満州日日新聞』がとんでもない記事を連載し 始めた。義経の墓が大陸で発見されたというものである。約二週間にわたるキャン ペーンが行われている。その題字には「問題の義経の墓蹟・公主陵に在った!!」 「義経の墓、現存説有力化!!」「『源義』経として信仰する土民達」「連載・成吉 思汗は義経か」とある。
20 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:31:07 0
1932年は満州国建国の年である。日本が南下を狙うロシアとの長年にわたる抗争の 末、何万人もの犠牲の上にようやく手に入れた領土である。しかし、五族協和の謳 い文句とは裏腹に、中国における排日運動、国際的な孤立を生む。義経=成吉思汗 の伝説が、大陸侵略を正当化するために利用されたのである。現存する小谷部全一 郎宛の書簡には、大川周明からのものに「貴下の心術に関し如何はしき邪推をめぐ らすに至っては実に言語道断、ただあきれるの外無之候、あのような心をもって歴 史を研究して居てはとても英雄の真骨頂は分かるまじ」と小谷部全一郎を擁護する 文面が見られる。また、千葉刑務所に服役中の甘粕正彦は「義経在天の霊もさぞか し満悦の事と推し貴台の為めに喜び且つ祝し居り候」と私信を送っている。おおよ そ、小谷部全一郎の説がそのような層の人々に支持されていたかが伺える。 さらに、小谷部全一郎の大陸における成吉思汗遺跡の調査は、日本陸軍に大きく支 援されていたことが判っている。この時代、小谷部全一郎の研究は無意識であれ、 二十一個条要求以降の日本北方国策の野心と一体化し、大アジア主義的構想へ利用 されたのである。
21 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:32:32 0
そもそも、義経の蝦夷脱走説自体が、徳川幕府のアイヌ統治政策に利用 されてきた経緯がある。1799年に北海道の平取に義経神社ができているが、 その創建者は幕府の蝦夷地御用係近藤重蔵であった。しかもそこに安置さ れた義経像は近藤重蔵に酷似していたという。 ここには幕府側がアイヌを統治し人心を掌握しようとする意図が明らかに ある。明治政府も1880年に北海道用として、アメリカから三台の蒸気機関 車を購入し、それらの汽車に「義経号」「弁慶号」「静号」と名付けてい る。明治天皇による最初の北海道行幸にも「義経号」はお召し列車として 使われている。ここにもアイヌの融和政策が伺える。義経人気、判官贔屓 を政策誘導に利用した悪質な作意であり、アイヌ文化への冒涜であり、到 底許されぬ行為である。そして、義経=成吉思汗の伝説は、モンゴルおよ び中国への冒涜である。 もっとも、彼の地の人々にとっては取るに足らぬ噴飯ものの噂に過ぎない かも知れない。 義経伝説は「判官贔屓」の日本人の心情をうまく利用しながら、その裏 側で常に北方国策の影を引き摺りながら成長していったのである。
22 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:35:29 0
義経=成吉思汗伝説に類似の伝説が中国にもあり、チンギス・ハーンも 若干これに関連している。チンギス・ハーンを始祖とする元王朝最後の皇 帝である順帝の出生に関する伝説である。 順帝はチンギス・ハーンから数えて八世の孫であるが、フビライから数え て十一代皇帝である。兄弟や従兄弟による継承が多かったためである。順 帝は八代皇帝の明宗の長男であるにも関わらず、父が死ぬと皇位は叔父で 明宗の弟にあたる文宗が継承した。モンゴルでは兄弟相続が多く、父が死 んだ時順帝は十歳だったので、これは特別奇異なことではない。文宗は死 ぬとき、皇位は自分の子にではなく、本来、兄の明宗の子が継承すべきで あるという遺言を残している。この頃になるとモンゴル皇帝も権臣の傀儡 となっており、明宗も実力大臣のエルティムールに殺されたのである。文 宗は実子をそのような目に遭わせたくないので、兄の子に皇位を押し付け たようである。順序からいってこれも特殊なことではないが、特殊なのは 明宗の長男ではなく、弟の寧宗が継承したことである。長男である順帝は、 父の死後、高麗の大青島へ流され、次いで広西に移されている。十代の少 年に特別悪行があったとは思われないが、それでも遠隔地に流されている のは特殊なことである。
23 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:36:34 0
これには特殊な理由があると考えられる。明宗は若い頃モンゴルで人妻を見初 めて譲り受けたことがある。ところが彼女は既に妊娠していた。当然、前夫の子 でありチンギス・ハーンの血統を伝えた子ではない。明宗が死んだ時、未亡人と なった正夫人がこの秘密を重臣に漏らしていたという。そのための追放というこ とである。 ところが、弟の寧宗は即位50余日で死んでしまった。玉座を空席にしておくこと はできないので、順帝が取り敢えず呼び戻されて即位したのである。順帝は在位 中に、自分が明宗の実子ではないということは、叔父の文宗の邪言であるという 詔書を出していることが、正史の『元史』に載っており、この噂は当時誰もが耳 にしていたことであることが推測できる。
24 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:38:01 0
ところで、フビライが南宋の首都臨案(現在の杭州)を陥落させ、6歳の幼帝であった 恭帝および南宋の皇室の人々を北京に連行したのは、順帝即位の58年前である。恭帝は 瀛国公に封ぜられフビライの娘を妻とした。しかし、彼はまもなくラマ教に入信し出家 している。この時18歳である。ラマ僧となった彼はラマ教圏であるモンゴル地方を巡歴 したが邁来廸という女性と同棲している。偶然、モンゴルを旅行していた皇子時代の明 宗が皇族待遇を受けていた瀛国公と会い、邁来廸を見初めて譲り受け、やがて彼女が生 んだのが順帝であったという。順帝が生まれた1320年に瀛国公は50歳であり、この噂話 に年齢的な不都合はない。順帝の在位は36年に及んだ。モンゴル支配下の漢人たちは、 抑圧された環境の中で密かに、今の天子は実は南宋恭帝の実子であり漢族の血統であっ て、モンゴル人ではないと噂話をしてカタルシスを感じていたのであろう。朱元璋の明 軍が北に攻め上って来ると順帝は諸臣の反対を押し切って北京を明け渡し応昌府まで退 いてそこで死亡している。そして元は滅亡した。南宋を滅ぼしたモンゴル王朝が南宋の 後胤に滅ぼされたと人々は言い合ったという。順帝の血統については本人の反論が正史 に載っていることからも、危ういものがあるが、南宋皇室の血統にあるというのは強引 な付会であろう。
25 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:39:19 0
ただ、この伝説は義経=成吉思汗伝説に似ている。滅びた南宋への判官贔屓 によって形成されたものといえる。 しかし、順帝の伝説が、抑圧された漢民族たちの精神的な慰めとして機能して いたのに対し、義経=成吉思汗伝説は日本のアジア侵略の際、宣伝に使われて いる。 日本人は、薄命の英雄を再び活躍させたいと思う日本人の心情が、架空の世界 で義経を欧亜大帝国の創始者としたのが判官贔屓であるが、これを政治的に利 用し国威掲揚および侵略の正当化の方便として使用したのは、かなり悪質な政 策誘導であると言わざるを得ない。
26 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:40:34 0
世界三大美女として、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町の3人を列挙することが ある。 この3人が等価に並ぶのは、おそらく日本の国内だけであろう。この3人が選択さ れるというのは、どう考えてもおかしい。クレオパトラや楊貴妃が世界的に著名な 女性であるのに対して、小野小町は謙虚なくらいローカルな存在である。エジプト 人や中国人は小野小町という名すらも知らないのが一般的である。義経=成吉思汗 伝説についても同じである。日本へやってきて、初めてこの話を聞いた中国人やモ ンゴル人はさぞかし驚いたであろう。 自国の国民的英雄、民族の誇りとでもいうべき英雄が、実は同じアジアの成金小国の 出身、第二次大戦でアジアの国々に多大な迷惑と損失をもたらした国の出身だと言わ れて、気分を害した人も少なくないはずである。モンゴルからの留学生は、「ジンギ スカン」という名称の羊の焼肉料理があることにすら、驚いていたし、呆れていたく らいである。
27 :
GWB :2006/08/18(金) 18:41:49 0
>10-22 すばらしい研究成果です。この調子で発表してください。本日のわたしは、文筆の仕事が終わり、 これから土日の休みに入ります。そして、ペットのうさぎちゃんとリラックスしてすごすので パソコンはやりませんから、次の月曜日に、ここを見るのを楽しみにしております。
28 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:42:16 0
この義経=成吉思汗伝説を歴史ロマン、夢のある話で片付けてしまっていいものではない。 高木彬光の『成吉思汗の秘密』(1958年)がミステリー小説として楽しまれた半世紀前と、 情報化国際化が浸透している現在では時代が違う。『成吉思汗の秘密』は日中国交正常化以 前の小説である。実際、井沢元彦の『義経幻殺録』(1986年)では、義経=成吉思汗伝説は 新鮮味が無くなったためか、清朝が義経の末裔であるという伝説を取り上げている。このミ ステリー小説は、清朝つまり満洲国の傀儡皇帝を清和源氏の末裔に仕立て上げる軍部の策略 を、芥川龍之介と明智小五郎が解明し阻止するというオールスター総出演のエンターテーメ ントである。 上述のように義経伝説は、その時代時代に応じて、その姿を変えてきた。21世紀にこの種の 伝説が存続し得るかどうかは疑問が残るところである。特にこの義経=成吉思汗伝説などは、 チンギス・ハーンの生涯が明らかになってきた今日では伝説として成立し難くなっている。
29 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:43:48 0
今までチンギス・ハーンの生涯で不明な点が多かったからこそ、その前半生が源義経だ と言われたのである。モンゴル人が文字を手に入れたのはちょうどチンギス・ハーンの 時代であり、まとまった文献資料として整理された記録が存在するのが半世紀以上も後 になってからである。さらに、そうしたモンゴル語の歴史記録がほとんど原形のまま伝 わっていない。 そもそも、那珂通世が『成吉思汗実録』として日本語訳したことで有名な『元朝秘史』 ですら歴史記録というよりは、チンギス・ハーン廟の祭神縁起であり、特にチンギス・ ハーンの前半生についての史料的価値は少ない。 ただ、最近はチンギス・ハーン陵をはじめとする考古学的遺跡の探索や調査が進み、中 国やモンゴルとの学術交流も行われているようである。 チンギス・ハーンの前半生が明らかになるにつれて、義経=成吉思汗伝説は消滅していく であろう。高木彬光の『成吉思汗の秘密』のように、途中で義経がテムジンと入れ替わっ たという解釈もできるかもしれないが、それはあくまでの小説の中でこそ可能なことであ る。ただ、伝説の内容や形態がどのように変化しようとも、今後も義経=成吉思汗伝説が 語られるときには、この伝説がかつて日本の侵略を正当化する宣伝に使われたものである ことを充分に認識しなければならない。
30 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:45:37 0
【 参考文献 】
須永朝彦『義経』書物の王国20 国書刊行会,2000年.
長山靖生『偽史冒険世界』筑摩書房,1996年.
井上章一「幻想の往還〜源義経」日中文化交流叢書10 大修館書店,1996年.
岡田英弘『チンギス・ハーン』中国の英傑9 集英社,1986年.
前嶋信次『ジンギスカン』新偉人伝聞子24 金子書房,1960年.
梶原正昭訳注『義経記』日本古典文学全集 小学館,1976年.
高橋富雄『義経伝説』中公新書115,1966年.
「義経は生きていた?」歴史への招待6 NHK出版,1980年.
柳田國男『東北文学の研究』定本柳田國男集7 筑摩書房,1968年.
金田一京助『アイヌ文化論』金田一京助全集12 三省堂,1993年.
高木彬光『成吉思汗の秘密』角川文庫,1973年.
井沢元彦『義経幻殺録』,1986年.
丘英夫『新ジンギスカンの謎』叢文社,2002年.
中津文彦『ジンギスカン殺人事件』角川文庫,1986年.
まずはググってからスレ建てを。
>>
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/yositune.html
31 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:48:19 0
コピペだし。
32 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 19:16:50 0
夏休みなんだなぁ・・・ それにしても今夏の書き込みにはやたら読み疲れするのが多い。
33 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 19:39:10 0
太平洋のムー大陸と源義経=ジンギスカン伝説 は戦前の日本による政治的意図のような気がする。
34 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 19:52:25 0
陸軍おかかえ教団だった某K教や、T文書のK神社は、今も旧軍関係者 の支援で成り立ってるらしいしね。現代でも国策謀略してるのでは?
36 :
GWB :2006/08/21(月) 09:17:03 0
源義経=ジンギスカン説は、もはや、戦前の政治的なプロパガンダの遺物などではありませぬ。 状況証拠は微細に検証され、あとは物的証拠が出てくるのを待つだけです。 そもそも、文字もなく、短弓に皮製の軍装しかなかったモンゴル人が、あのような大帝国を築 けるわけがありません。 2万人のジンギスカン軍の一人ずつに松明を5本もたせて、敵対する 5万人の大軍に夜襲をかけて、相手を驚かせて敗走させる戦術なども、源義経の戦術と同じです。
37 :
GWB :2006/08/21(月) 09:39:25 0
誰でも、ノストラダムスの あの有名な予言詩はご存知だろう。 1999年7の月 恐怖の大王が空から降ってくるだろう アンゴルモアの大王を蘇らせるために その前後の期間 マルスは幸福のもとに支配するだろう 実は、キリスト誕生は現在の西暦でいうと西暦7年の出来事かもしれないのだ。 ノストラダムスがキリスト教を強く意識していることは明らかだが、ということ は『1999年』という年も、キリスト誕生後1999年と考えるのが妥当なの ではないだろうか。とすると、ノストラダムスの言うところの『1999年』は 西暦で言いかえるならば、1999+7=2006年ということになる。
38 :
GWB :2006/08/21(月) 09:40:10 0
さて、エチオピア暦という暦があって、熱心なキリスト教徒であるエチオピア人 が用いている暦であり、ノストラダムスは、それをもとに予言詩を書いた。 エチオピア人はアレクサンドリアから継承した独自の暦を用いているのだ。 エチオピア暦は太陰太陽暦であり、月の区分は太陰暦によるが、太陽暦とのズレを 補正するために、9月末に数日付け加えるのである。そして、もっとも特徴的なの は西暦より7年遅く始まっている点であろう。それはなぜか。答えは簡単だ。 エチオピア人はキリスト生誕が西暦が想定するより7年後のことであると想定 したためである。西暦のキリスト誕生年は正しくないことが判明している。 西暦よりエチオピア暦の方が正しい可能性は十分にあるのだ。 このように、現在においても実際に使用されている年号である”エチオピア暦” をベースにして、ノストラダムスが予言詩を残した可能性は否定できない。 ちかみに、7月とは9月のことである。 そう、もう過ぎ去ったと思っていた『1999年7の月』は、実はまだ訪れてい なかったのである。しかも、この2006年という年の前後の期間には、ある計画 が推し進められようとしている。 それがアンゴルモア大王(源義経=ジンギスカン)の復活計画だ。そして、このスレは、 その計画に従っている、極めて強い霊的なパワースポットなのだ。
39 :
GWB :2006/08/21(月) 11:56:05 0
40 :
世界@名無史さん :2006/08/21(月) 13:14:31 0
それにしても世界史板で「ジンギスカン」とは・・・
41 :
世界@名無史さん :2006/08/21(月) 22:59:14 0
>>39 関東軍や拓務省が聞けば、喜びそうな話題だな。
42 :
GWB :2006/08/22(火) 16:07:34 0
モンゴル相撲のルーツは、源義経(ゲンギケイ〜ゼンギスケン〜ジンギスカン)がモンゴル人にやらせた日本の相撲にある。 モンゴル人の横綱・朝青龍が、このジンギスカン即位800周年の時期に、相撲発祥の地である日本において君臨している ことも単なる偶然ではない・・・だろう。
44 :
GWB :2006/08/23(水) 09:07:13 0
>43 変な宣伝は迷惑です。 ここは、まじめな歴史研究の発表場ですから。
45 :
GWB :2006/08/23(水) 16:06:13 0
> 「ゲンギスケイ――ゼンギスカン――ジンギスカン」 中世モンゴル語やテュルク語の音韻法則からは、「ゲンギスケイ――ゼンギスカン」の変化も 「ゼンギスカン――ジンギスカン」の変化も普通起きない。外来語がテュルク語、モンゴル語に 移入された場合でもこのような音の変化の現象はまず聞かれない。 あと「ゲン・ギ・ケイ」から「ゲンギスケイ」変化した時に「ギ」と「ケイ」の間のs音の起源も謎。 「ケイ」が「カン」に変化したのも謎だけど。トルコ語の挿入子音と同じものだろうか? テュルク語や中世モンゴル語風に発音されるのであれば、「ゲンギゲイ」や 「ゲンギュゲイ」みたいなものに なるだろうから、ことさら「ゲンギスケイ――ゼンギスカン」に音が飛躍する必然性が感じられない。 あと「ニルン(nirun)」は背中、脊梁を意味する niru'u から派生した単語で、中世モンゴル語の 段階では「ニロン」とは普通呼ばれない。 「イェスゲイ」はモンゴルの聖なる数字の「9」(yesü-)の男性形容詞。女性形容詞は yesülün は 女性に使われる。ちなみに「イェスルン」ないし「イェスイ」という名前でタタル部族出身のチンギス・ カンの皇后だった人物がいる。彼女の姉で同じく皇后になった「イェスゲン」という人物も知られている。 もっともモンゴル語には yez-、 ez- の音をもつ語はまず無いのでやはり厳しい。音写(transcription)では 無くて意訳の類いと解釈しているのだろうか? あと「源義経」は「ゲン・ギ・ケイ」と音読みして「蝦夷海」の部分は「えぞカイ」と湯桶読みされて いるが、これもその背景が良く分らない。
47 :
世界@名無史さん :2006/08/23(水) 22:41:20 0
東宮鉄男の亡霊をいつまで追いかけているんだ。
48 :
GWB :2006/08/24(木) 15:51:39 0
>46 源義経がモンゴル平原でジンギスカンとして即位した800年前当時のモンゴル語は、 現代のモンゴル人・朝青龍から教えてもらうまでもない。発音を知る文献がない ので、現代言語学の観点から推測するしかないだろう。
「チンギス・カン」という発音については「ジンギス」ではなく 「チンギス」と呼んだ方がより妥当だということが分かったのは13〜14世紀初頭のペルシア語資料、 ラテン語資料、さらにはパスパ文字などの研究が戦後進展したお蔭で一般に認知されるようになった。 ここではモンゴル語の音韻的特徴として語末のs〜zが交換が可能なので「チンギズ」とも呼んでいたらしい 事はペルシア語資料やウイグル文字、パスパ文字などからも判明している。しかし、これらの資料には語頭の 「チ」の部分はch音かj音のみでg音やz音を持つ文字で書かれた例は見付かっていない。 13世紀当時のモンゴル語のテキストはウイグル(式モンゴル)文字によるものやパスパ文字、 さらには一部のペルシア語文献ではアラビア文字などで転写されているためどう言った発音だったかは おおよそ再構成できる。イントネーションとかはさすがに無理だが、子音と母音の構造、特に母音調和や 音の清濁についてはパスパ文字と『元朝秘史』の漢字式モンゴル語、『集史』のアラビア文字表記などが 大きな手掛かりを与えてくれる。 一方元朝時代の漢字の音韻については1382年(洪武15)にモンゴル人学者火源潔らによって編纂された、 漢語と蒙古語の対訳語彙集を核とする『華夷訳語』で大体分る。各単語の語義と音声を漢字やその他の文字で 並記しているため、当時の中国語の音声を知るうえでも極めて重要なの資料なのだが、そこで使われている 文字の発音からすると、「源義経」では「げん・ぎ・けい」などにはならず、「ユアン・イ・ジン」とか そんな風になるらしい。現在の北京方言などに近いそうだ。 というわけで、「源義経」が(ゲンギケイ〜ゼンギスケン〜ジンギスカン)という変化をした、という意見から、 「源義経はチンギス・カンである」と結論することは、そもそもそのような音韻の変化を起こしたと言う意見 そのものが文献学的にも言語学的にも立証され得ず、物証・傍証も存在しない根拠薄弱な立論であるため、 これによって源義経とチンギス・カとの言語的な因果関係を論じるのは不可能なことだと言わざるを得ない。
>「チ」の部分はch音かj音のみでg音やz音を持つ文字で書かれた例は見付かっていない。 するとGhengiz Khanとかいう表記はどっから出てきたのですか?
51 :
GWB :2006/08/25(金) 09:36:52 0
>49 スバらしい言語学者さまがいらっしゃりますね。感心致しました!!! それじゃあ、「元」という国号は何と発音するのかな? 「源」とおなじく「ユアン」って発音したの? んなぁこたぁないでしょうに!
52 :
GWB :2006/08/25(金) 09:46:16 0
53 :
世界@名無史さん :2006/08/25(金) 09:59:07 0
じゃー源義経=ジンギスカンでいいんだね?
54 :
GWB :2006/08/25(金) 11:30:24 0
当然です。
お杉の本では大元(ダイオン)・ウルスとか書いてたな。
56 :
GWB :2006/08/25(金) 20:02:24 0
お杉の本って何。 参考までに、正しい書名・著者名をおしえてください。
57 :
世界@名無史さん :2006/08/25(金) 20:13:20 0
モンゴル帝国史とチンギスを語っているのに お杉こと杉山正明教授を知らんとは、こいつモグリだな。
チンギス=義経というには水戦が下手過ぎ。 西夏攻撃では黄河決壊に失敗して自陣を水浸しにしてしまい敗走したり、 インダス河ではジェラール・ウッディーンが河に飛びこんで泳いで逃げるのをむざむざ取り逃がしている。
59 :
世界@名無史さん :2006/08/25(金) 22:59:39 0
そもそも、チンギスには名前の明らかな親兄弟がいたのに、 一体いつ、どうやって赤の他人が入れ替われたんだろうねえw
60 :
世界@名無史さん :2006/08/26(土) 07:31:33 0
この説の最大の問題は、チンギスハーン←義経の言語。
61 :
GWB :2006/08/28(月) 20:11:04 0
>57 あ、杉山正明先生のことね。 >58 戦史のことは、もっと詳しく調べてみないことには。現地指揮官が誰だったとか。 >59 義経は影武者を使ったりしていたぐらいだから、経歴をもらって成り代わることぐらい朝飯前だろう。 >60 話す言語は現地人に合わせないとね。日本語は通じませんから。部下のよこす報告書など、読む言語は漢語でさせていた。
当時のモンゴルの行政文書はウイグル文字だろ?
64 :
世界@名無史さん :2006/08/29(火) 13:41:05 0
この説は事前情報がないと突飛な感じを受けるでしょう。 小国の日本に住む者がそんなわけあるかと……。 もともと日本の東国武士は中国北方や高句麗、満州、鮮卑などが 住んでいた地域にいたのです。というか彼らそのものだったと言えます。 弥生人が渡って来るまで、縄文人が何千年も住んでいたなどと 考えているのは日本人だけでしょう。 隣りの中国で何千年も前から始まっている事が なぜ何千年も日本に伝わらないと思うのでしょうか。 日本には春秋戦国時代よりはるか以前から大陸の勢力争いで 移動してきた部族が何度も進入しています。 採集期、農耕期、王権成立の異常な遅さは 天皇家の正当性が無くならないように重ねた模造が今もアカデミー に残っているからです。洗脳が解けていないのです。 さすがは最古王朝ってわけです。 天皇家はどのように発生したか? ほんとに鉄と銅は同時期流入なのか? 古墳時代から平安期の間に何があったのか? 馬はいつ日本に来たか? どのように武士は発生したのか? お答えしましょう。
65 :
世界@名無史さん :2006/08/29(火) 13:42:15 0
東夷の字が表すように夷は弓+大、大きな弓を使って恐れらた 騎馬民族です。日本の武士の弓は大きいですよね 平安期の日本の東は蝦夷地と呼ばれています。夷が住んでいたのでしょう。 彼らは鉄の刀を使っていました。鉄は金+夷ともかきます。夷の金属なのです。 もともと日本列島は夷が住んでおり、大陸のどこからか天皇家が 進入し、条坊制や漢字など大陸文化バリバリの平安貴族はそのまま 東の民を夷と呼んだのでしょう。夷は混ざってはいるでしょうが 縄文人や弥生人だけの末裔ではありません。というか縄文人、弥生人 という分類はあまりにも乱暴といえるでしょう。 天皇家が東に勢力を伸ばすにつれ 北に押し上げられ彼らが元々住んでいた地域を目指したのは当然といえます。 幕府というものは大陸からの侵入者である朝廷に対抗し、 彼らが作り上げたものでしょう。馬術、弓、鉄の刀、 朝廷とは正反対の武家の文化。対抗して幕府をひらいた事、神道に対して 仏教に重みを置いていること。彼らは北方騎馬民族の末裔である と考えられる要素ばかりだと思います。 鎌倉幕府の次の室町幕府が京都に近いのは西の朝廷に睨みを利かせる ためでしょう。本来彼らの方が戦力は上でしたが、気候の変動で食料が 取れなくなったかなんらかの理由で、一時的に衰退したため 大陸のどこかの王朝の末裔の侵入を許したのえでしょう。 その後回復しもとの武士の世となったというわけです。 廃仏毀釈のすさまじさも朝廷と武士が元来からの別勢力だと 思わせます。 私は、ジンギスカン=源義経という説の真意はわかりませんが東の民族 には勢力関係や民族的に大陸北方を目指す素養はあったと思います。
66 :
世界@名無史さん :2006/08/29(火) 14:05:34 0
さらに言えば 彼ら騎馬民族は民族色は北方民族やモンゴルの文化から推測するに青 だろうと思います。 平氏は赤旗、源氏が白旗 赤鬼、青鬼は彼らのことで、勝利した白、源氏は鬼にはならなかった ということではないでしょうか? 鬼という概念は朝廷側が使い始めたとするなら 元寇が青鬼という可能性もありますかな。 北海道が蝦夷ヶ島といわれていたりしますが 北方ルートで追い出される彼らの住む、鬼ヶ島だったのではないでしょうか。
>>50 1710年にフランスのフランシス・プチ・ドラクロワ F. Petis de la Croix とい人物が出版した
『大ジャンギスカンの歴史』(Histoire du Grand Genghiscan)という書物が、西欧における
近代歴史学上での最初のチンギス・カンやモンゴル帝国についての研究だって言われているから、
アラビア語やペルシア語のジーム(j)をローマ字転写するときのフランス語読みに由来するんだと
思う。>Genghiscan/Genghiz Khan
フランス語は語頭にgeが来る単語は/3e/や/d3e/(ジェネラルとかの「ジェ」。数字の3で代用)
の音などで発音し、カナで綴る場合普通ジャ行が使われるから「ジェンギスカン」と読むらしい。
プチ・ドラクロワについては鏡台から出された杉山先生の本の序文に出てくるね。ドーソンはどう綴っていたか…
プチ・ドラクロワが使用したのはティムール朝時代後期頃に作成されたらしい『集史』のパリ本や
同じ頃に著されたミールホーンドの『清浄園(ラウダト・アル=サファー)』の写本で、この頃の
写本は、『集史』が作成された頃のモンゴル語などの単語は重要な部分でもちゃんと厳密にp音や
ch音の文字(点が3つ)で綴らずに、b音やj音の文字(点が1つ)で済ませてる場合がよくある。
まあ、方言差や言い回し的に元から厳密に区別されてたわけでも無いかも知れないけど。>b/p、j/ch
だから、欧米での綴りは同時代資料と言うよりも後世の写本の綴りに基づいたものが慣例的に使われて
いるから、グユクの即位に立ち会ったプラノカルピニのジョヴァンニ修道士の報告で使われている
Chingiscan みたいに同時代性の高い綴りはあまりされて来なかったんだと思う。最近はそうでも無いけど。
>67 つまりイスラム史料を元に西洋語で書いたらそうなったと。
69 :
GWB :2006/08/30(水) 17:59:51 0
言語学的に分析をしても、やはり源義経=ジンギスカン=Genghiscan だ。 そもそも、二人の顔、肖像画だって似てるわ。
ジョチ・カサル、カチウンとテムゲ・オッチギンはどっから来たと言うのだ
>>69 え? 「アラビア語やペルシア語のジーム(j)をローマ字転写するときのフランス語読み」
って書いてあるから、元のモンゴル語とは関係ないってことじゃんw
72 :
GWB :2006/09/01(金) 21:32:10 0
>71 元のモンゴル語って何? 800年前のモンゴル人の言葉の発音は推測するしかなく、ましてや証明できる学者は一人もいない。
73 :
GWB :2006/09/01(金) 21:51:09 0
800年前に9つの白旗を立てて即位したジンギスカン。 白旗は源氏の旗 義経は9番目の子供 幼名九郎 牛若丸 九郎判官義経(くろうほうがんよしつね) 判官とは、現在の警察官と裁判官の権限を併せ持つ 判官とは、平安時代の諸官司の幹部の四等級の官、すなわち長官、次官、判官、主典のうちの第三位を指す。 そして「判官びいき」とは、『広辞苑』によると、源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。 転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓(ひいき)″といわれる。 「判官びいき」の判官が、源義経を指すということは、次のような事情がある。 これはもちろん、平氏打倒のさいの賞罰にも当てはまる。だがこの頼朝の狙いは、暴力装置としての 「武士(もののふ)」層を、相互に牽制させることによって分断支配しようとする後白河法皇の政治手法 と真っ向からから対立するものであった。1184(元暦元)年6月、朝廷から三河、駿河、武蔵の三カ国を 与えられた頼朝は、源氏一族をこの三国の守(かみ)に任命する。しかし、頼朝は義経の戦功にはなんら の考慮もはからいもしなかった。自らの戦功を誇る義経にとって、それは大いなる不満であった。 そこに付け入ったのが、後白河法皇である。同8月、法皇は義経を検非違使・左衛門少尉に任命し、9月には 従五位下に叙し、10月には院内の昇殿まで許した。 この点から見ると、義経は御家人体制に対し、自覚的に叛旗をひるがえしたのであり、あるいは後白河法皇 の老練な政治的策謀に乗せられただけなのであり、なんら「判官びいき」を受ける余地はない。 では何ゆえに、義経は「判官びいき」というような言葉が生まれるほどに同情されたのか。 これは、鎌倉方に占領され、植民地となった東北の現地侍層や百姓たちの反鎌倉幕府という感情が込められて いるが故に、長く義経伝説とともに語られたのではなかろうか。義経追討を利用した頼朝は、1189(文治五)年 9月奥州藤原家の平泉政権を打倒した。そして、陸奥・出羽両国の各郡・郷・庄園にはことごとく鎌倉方武士の 諸氏族が分化し、地頭として支配した。ここに奥州は鎌倉幕府の直轄地として蝦夷から完全に切り離されたので あった。
>70に答えろよ
mwnkk' tnkry yyn kwycwntwr y'k' mwnkqwl 'wlws wn t'l'y yn q'n-w crlq 'yl βwlq' 'yrk'n-dwr kwyβ'sw βwsyr'δwkwy 'y'δwq'y
>>72 >>49 の人が
「13世紀当時のモンゴル語のテキストはウイグル(式モンゴル)文字によるものやパスパ文字、
さらには一部のペルシア語文献ではアラビア文字などで転写されているためどう言った発音だったかは
おおよそ再構成できる」
と言ってるけど?
チンギス=ハーンのハーンって称号名とちゃうの? 柔然あたりの言葉が語源じゃなかったっけ
可汗ですね。
79 :
GWB :2006/09/13(水) 17:46:37 0
>70 知らん。 >76 再構成なんて不可能です。日本の聖徳太子の飛鳥時代の話言葉すら再構成できないのですから。聖徳太子の時代のものと 推測されるペルシャ語聖書の断片が発見されたりしているように、日本語のルーツも謎なのです。ヘブル・アラム語が 日本語のルーツだろうと考えてます。 >77 称号などではない。わからないから後世の学者が「そうではないだろうか?」と考えているだけのことです。 それにしても「日経新聞」に連載されている堺屋太一の「チンギス・ハーン」は、何を読者に知らせたいのかが理解できない。 源義経=ゲンギケイ=ゲンギスケン=ジンギスカンであることを証明したいのか、何なのか?
81 :
GWB :2006/09/15(金) 09:48:17 0
>80 ウィキペディアね。 見たよ。 素人が寄稿しているのがウィキペディアで、その歴史経緯も誤解だらけですよ。 そもそも、チンギス・ハーンという発音は、モンゴルが共産主義ソ連の支配下に入って以来、ジンギスカンが ロシア語化され、チンギス・ハーンというように発音されるになったに過ぎないんだよ。 例えば、日本語のイエス・キリストは、イエス当時の言葉のアラム語では、イエシュア・マーシアハで、ギリシャ語 では、イエス・キリストになり、ロシア語では、イスース・ハリストスになるのさ。 「カ」とか「キ」がロシア語では「ハ」になるんだよ。 ヨーロッパに最初に伝わった「ジンギスカン」という発音が原語に忠実であったのであって、 さらにさかのぼれば、ゲンギスケン、ゲンギケイ(源義経)になる。 カン(ハーン)は、称号というよりも、当時のモンゴル原住民によるジンギスカンに対する尊称 にすぎない。
違う。 「チンギス・ハーン」は明朝や北元時代になってから、チンギスもオゴデイやモンケ、クビライのようの 「カアン」(ハーン)と呼ばれていたと勘違いないし権威付けされるようになってしまったために 『モンゴル文字での綴り』が「カン」(ハン)から「カアン」(ハーン)に書き換えられた。 (大元朝後期ないし末期の資料に「チンギス・カアン」と誤記しているものが数例だが存在する。 『元朝秘史』の「成吉思"可罕"」という綴りもその頃の影響と考えられている) 社会主義時代以降、外蒙のモンゴル語がキリル文字へ移行した際にそれがЧингис Хаанと綴られ、 そのため日本語ではこの近代・現代モンゴル語の発音に近い「チンギス・ハーン」という綴りが多くなってしまった。 本来の綴りに従えば「チンギス・カン」か「チンギス・ハン(こちらはテュルク語、ペルシア語準拠)」が妥当。 だから、ペルシア語やアラビア語圏などの西方の資料の方が近現代になるまで「チンギス・ハン」の綴りの 方がちゃんと生き続けている。wikiにはその辺の事情が省かれているが。 > ゲンギスケン、ゲンギケイ だから12世紀のモンゴル語や非モンゴル語の資料を探しても「チンギス・カン」の「チ」の音はch音かj音に 該当する文字で綴られたものばかりで、g音やz音、k音の文字で綴られた資料は存在しないと何度言ったら・・・ シリア語の年代記はsh音で綴っていたりはするが。
>>81 >「カ」とか「キ」がロシア語では「ハ」になるんだよ。
違う。
キリストの頭の子音は"KH"であって"K"ではない。
KHという音がロシア語ではX、ラテン語ではKで当てられているだけ。
ロシア語も知らないくせに適当ほざくんじゃねえよ。
84 :
GWB :2006/09/15(金) 20:41:01 0
>82 83 君は、>49と同一人物なんだろ?W くどいよ。だが、はっきりと何度も教えてやろう。 マルコ・ポーロは、『東方見聞録』を残したヴェネツィア商人で旅行家だが、『東方見聞録』によれば1271年にイラン・中央アジアを 経て上都に入り、皇帝クビライに謁見した。その後、20年間、「元」に仕えながら中国周辺の各地を巡り、1292年、泉州からイランの イルハン朝を経て帰国した。このマルコ・ポーロが「ジンギスカン」の正しい発音をヨーロッパに伝えたんだよ。 1710年にフランスのフランシス・プチ・ドラクロワ F. Petis de la Croix とい人物が出版した『大ジンギスカンの歴史』(Histoire du Grand Genghiscan)という書物が、西欧における近代歴史学上での最初のジンギス・カンやモンゴル帝国についての研究だって言 われている。そして、マルコ・ポーロが伝えていた「ジンギスカン」という正しい発音から、彼の著書において「Genghiscan」と表記 したのであって、アラビア語やペルシア語が影響しているなんてのは、史実無根の真っ赤なウソなんだよ。 だから、Genghiscan/Genghiz Khan は、「ジェンギスカン」と読むべきだというフランス語学者もいるようだけれど、Jingiskhanとか、 Gengiskanと発音することがマルコポーロ以来の正しい発音なんだよ。 それと、ロシアに友人をたくさん持ち、13回の渡航歴のある人に向かってロシア語を知らないということは、君の浅はかな邪推にすぎ ないんだよW
85 :
GWB :2006/09/15(金) 21:12:15 0
さらに画期的な史実を教えよう。 1221年、第5回十字軍に従軍したアッコンの司教が、「プレスター・ジョンの孫の ダビデ王がペルシアを征服してバグダードに向かっている」との報告をもたらした。 これは実は、モンゴル帝国のジンギス・カンのことである。 「東方にはキリスト教国の大王プレスター・ジョンがいる」という伝説が、マルコポーロ 以前の西欧に既に広まっていた。このプレスター・ジョンの孫を求めて、1245年と1253年 にフランシスコ派の修道士がモンゴルに派遣された。 当時、西欧に伝えられた話では、「ジンギス・カンの義父、ケレイトのオン・ハンが プレスター・ジョンだったが、ジンギス・カンと争い殺された」というものであった。 モンゴルに滅ぼされたケレイト、ナイマンなどの遊牧国家のいくつかは、実際に ネストリウス派キリスト教国であり、モンゴル帝国にもネストリウス派キリスト教徒 は多かったので、このような話になったと思われる。 この後、プレスター・ジョンは完全に伝説となり、聖杯伝説などと結び付けられたり するようになったが、実際に、わが国の聖徳太子の残した弥勒菩薩像(国宝第一号)の 指の印が、イエス・キリストの聖画の指の印と同じ、三位一体の聖書の神を示している 以上、飛鳥時代の日本には確実にキリスト教が伝来していたのであって、その日本国 の天皇こそ、西欧において伝説となったプレスター・ジョンに他ならない。そして、 聖徳太子自身もキリスト教徒であったことは、その馬小屋で生まれた等というイエス・ キリストの出生物語と同じであることからも判明している。その聖徳太子が側近にして、 原始キリスト教徒であった秦河勝に「再臨するイエス・キリストの象徴」として仏教的 な装いをつけている「弥勒菩薩像」を贈呈したのも、同じキリスト教という信仰を共有 していたからに他ならない。
86 :
GWB :2006/09/15(金) 21:19:45 0
以上みてきたように、Genghiscanという表記と発音は、アラビア語やペルシア語 とは全く無関係であり、西欧の十字軍や フランシスコ派の修道士やマルコポーロ らによって直接、モンゴルの発音が西欧に伝えられたことに由来している。 源義経(ゲンギケイ)〜ゲンギスケン〜ジンギスカンとなったことは明白だろう。
87 :
GWB :2006/09/15(金) 22:03:54 0
モンゴル学者の杉山氏は、マルコポーロの実在を否定しているが、『東方見聞録』の中には 実際にクビライの近くにいなければ到底知りえないことが数多く記載されているので、 『東方見聞録』は複数のヴェネツィア商人の記録を纏めた物ではないかとも考えられる。 当時、モンゴル帝国の整備した交通網によって、ヴェネツィア商人のみならず、数多くの西欧人 がモンゴル帝国の各地を訪れていたことが各種記録に残されている。 『東方見聞録』の中において、日本のことをジパング(Zipang)の名 ではじめてヨーロッパに紹介したことでもよく知られている。 ここで日本は「黄金の国ジパング」と紹介されているが、マルコポーロは 実際に日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話的な話となっている。 黄金の国〜というのは中尊寺の金色堂についての話を聞いた処に因っている。 中尊寺といえば、日本史における源義経の最後の地であり、奥州藤原家の本拠地 であり、鎌倉の頼朝によって滅ぼされたとされる源義経と奥州藤原家は、共に 大陸に渡り、アムール河沿いにモンゴル中央地域へと進軍したことが想起されるのだ。
>>79 おいおい。史書で可汗の”実弟”とされている彼らの名前だされて
「知らん」とは何事かwww
ジョチ・カサルを知らんとは、貴様ど素人だなw
彼らが実弟じゃないってなら、その根拠を提示しなw
残念。
>>49 と
>>82 は確かに自分が書いたが
>>83 は誰か他の人が書いたものだ。
ロシア語での外国語の転写についてはあまり良く知らないし。
> アラビア語やペルシア語が影響しているなんてのは、史実無根の真っ赤なウソなんだよ。
ちょっと待った! 引用するのは構わないが、プチ・ドラクロワの研究の特徴については、
杉山先生などの著作での説明をちゃんと読めばそんな事実無根な結論は出るはずが無い。
同じ
>>49 での説明を何故中途半端に省くのかね?
> プチ・ドラクロワが使用したのはティムール朝時代後期頃に作成されたらしい『集史』のパリ本や
> 同じ頃に著されたミールホーンドの『清浄園(ラウダト・アル=サファー)』の写本で、
起源がモンゴル帝国時代やその後継政権で製作されたモンゴル側の資料を駆使したという、ここの部分が
重要だからこそ、プチ・ドラクロアの研究が「近代的歴史学」の先駆と看做されるのであって、マルコ・
ポーロの部分あそれほど重要ではない。特にペルシア語やアラビア語の資料は漢語資料と並んでモンゴル帝国側の
直の情報が書かれている。モンゴル政権側が作成したり、それと直に対抗したりした勢力が製作した資料が
当時のペルシア語でありアラビア語の資料だ。しかも成立年代は漢語資料である『元史』よりも1世紀近く
場合によっては1世紀半ほど早い。
日本の平安時代の研究をするのに日本に現存する資料が豊富に有るにも拘わらず、宋朝や高麗側の
資料を第一とするなどということが無いのと同じだ。
90 :
GWB :2006/09/15(金) 22:49:53 0
ジョチ・カサルは、ジンギスカンの弟とされている。 そして、怪力で弓の名手と言われ、かなりの戦功を立てたとされる。 金国遠征の際、左翼軍として参加し、1213年に遼西方面に進軍してから 史料に名が現れなくなるので、その頃に戦死したのだろうか。 ジョチ・カサル。その正体は、武蔵坊弁慶ではないのだろうか。 回答は、今後の研究成果に期待する。
91 :
GWB :2006/09/15(金) 23:02:46 0
>89 杉山氏に対して「アラビア語やペルシア語が影響しているなんてのは、史実無根の 真っ赤なウソだ」とわからせてあげようよ! 杉山氏は、ここで述べているような十字軍やヴェネツィア商人の活動について無知なんだろうな。 杉山氏には「もっと勉強しな!」の一言だねW
>>89 の続き。
さらに、欧州側には1246年にモンゴル皇帝グユクからインノケンティウス4世に宛てたペルシア語による
勅書と、グユクの宮廷にローマ教皇の使節として派遣されたプラノ=カルピニのジョヴァンニ修道士の
ラテン語による報告書がバチカンに現存する。
そこでチンギス・ハンはラテン語で Chingiscan と綴られており、グユクは Cuyuccan であって、
Gengiskan などではない。勅書本文ではチンギス・ハンは Jinkiz khan と書かれている。
○バチカン図書館のサイト
ttp://asv.vatican.va/it/doc/1246.htm ペルシア語やアラビア語による勅書は文字の点をあまり打たないのが特徴。
これの15行目冒頭に「チンギス・ハンと(オゴデイ・)カアン」"جنكيز خان و قاان"
(Jinkīz khān va Qā'ān)と書かれている。
(1941年にいままで忘れられていたこの勅書を再発見した東洋学者P.ペリオは
چنگيز خان و قاآن Chingīz khān va Qā'ān と綴っている。
最近の研究では14世紀にはまだ چ ch音や گ g音の文字は開発されず、 جj音や ك k音の文字で代用されていたと考えられている。
ペリオは『東方見聞録』の校訂を行ったことでも有名)
中世モンゴル語ではウイグル文字式モンゴル語の CYNNKIS X'N-などから復元された、 Čingγis "Qan" であって、
そもそも「カン」は"k"音ですらない。ジョヴァンニ修道士の報告の方がマルコポーロよりも40年は早いし、
最古のマルコ・ポーロの写本でさえも14世紀前半のものだ。
> さらに画期的な史実を教えよう。 これもちょっと待った! 画期的な「史実」ってどういう意味だね?!(汗 「史実」は歴史上実際にあったこととかのことで「画期的」とかいう問題ではないだろう。 それは普通、歴史の「捏造」とか言わないかね。
94 :
GWB :2006/09/15(金) 23:09:30 0
今年2006年は、ジンギスカン即位800周年である。 若き日のジンギスカンである源義経と、その世界制覇の情念をもたらした美貌の白拍子の 静御前に対して、盛大な祝福をしよう!
お杉ってマルコポーロの実在否定してたっけ?
モンゴルの起源は日本ニダ みたいなこと言われると、日本のモンゴル政略の正当化 とかダークなこと考えてしまう
>>91 「史実無根」だとという聞き慣れない術語もそうだが、そういうお花畑な全開な妄言は
中世フランス語やラテン語の文書が読めるようになってから言いたまえ。
ロシア語のKとKhの使い分けって実際どうなってるんだろうな。 中国を表すのは「キターイ」だが途中のイスラム圏では「ヒターイ」だし。 汗は「ハーン」だけどそれとは別に「カガノビッチ」なんて姓があったりするw チンギス裔は普通「ツァーレヴィチ」というので別の系統だろうか。 ロシアの反ユダヤ主義者の本ではハザールの末裔とか書いてたが。
99 :
GWB :2006/09/17(日) 22:51:07 0
ロシア語の質問には、何でも回答しよう。 ところで、ジンギスカンを漢語にすると「成吉思汗」となる。これはジンギスカン自身が、そのように当て字をした。なぜか? 源義経は、平家を滅亡させた後、鎌倉へ凱旋しようとするも、兄の頼朝によって受け入れられず、仕方なく京都に戻った。 その京都では後白河法皇が頼朝追討の院宣を出し、それに激怒した頼朝は大軍を京都に向かわせた。 義経と、その愛人の静御前は、大和国の吉野に逃げるが、鎌倉側によって静御前は捕らえられてしまう。 この直前、すなわち1185年、義経26歳、静御前19歳のとき、二人は再会を誓った。しかも義経は、この狭い日本国ではなく、 「大陸の大王になって迎えにくる」ことを静御前に誓約して生き別れたのであった。 このような経緯から、源義経は1206年47歳にして、モンゴル全土を制覇し、大陸の大王になるに至り、静御前との誓約を果た すために「成吉思汗」とという当て字をしたのであった。その意味はレ点を打つとわかる。 静御前との「吉」野の誓い「成」りて 水干(「汗」)を「思」う、というものである。 水干とは白拍子の静御前のことだ。 清和天皇の末裔にして、幼少より漢文や大和言葉による返し歌に慣れ親しんだ義経なら ではの、静御前に対する「返し」なのだ。
>>99 КитайがХитайにならなかったのは何故?
>>日本語のルーツも謎なのです。ヘブル・アラム語が 日本語のルーツだろうと考えてます GWBの話はなかなか面白いけど 日本語の語源がへブル・アラム語だということは 日ユ同祖論を取っているの? ちょい気になったので
103 :
世界@名無史さん :2006/09/18(月) 07:21:23 0
バトゥ率いるモンゴル諸軍は、ジンギス・カンのホラズム遠征やもう少し後のフレグの西方遠征 に匹敵する規模の大軍団だったらしいが、バトゥの弟シバンが率いていた本営軍所属の前衛部隊 が1万人だったこと以外は、『世界征服者史』や『集史』といったモンゴル側の資料では明確な 数字がまったく出てきていない。 また、ベーラ4世が敗走してからオゴデイの訃報によって撤退するまでのモンゴル諸軍の行動は、 ほとんど明確な記載が無いため具体的なことが分かっていない状況だ。そのため、ハンガリー遠征 の後半については、欧州側の資料に残る記録をつなぎ合わせることによって全体を復元しか方法が 無い。ハンガリー側の年代記などによれば、モンゴルが撤退する直前には、旧都エステルゴムなど が壊滅寸前になっていたことや、同じ時期にウィーン近郊にモンゴルの偵察部隊らしきものが出没 していたらしいこと、クロアティア、ダルマティア方面がベーラ4世を追っていたカダンの軍に よって劫略されていたらしいことが分かっている。トランシルバニアもアルバユリアが池沼が多か ったため陥落を免れていたことなど以外はハンガリー王国のほとんどの地域は劫略されていたらしい。
104 :
世界@名無史さん :2006/09/18(月) 07:22:42 0
さて、ウィーン近傍でのオーストリア連合軍によるモンゴルとの遭遇についてだが、 これは2回程あったらしい。エステルゴムの包囲攻撃の最中と重なるようだが、 最初1241年8月に、ウィーン近郊の守備塀100人に満たないヴィーナーノイシュタット 周辺にモンゴル軍の部隊が現れたらしい。規模はよくわからない。
105 :
世界@名無史さん :2006/09/18(月) 07:28:24 0
これに対し、バーベンベルク家のオーストリア公フリードリヒ2世(在位1230-1246年)が 中心となって 周辺諸国の王侯が迎撃に出たようだ。マシュー・パリスの年代記によると、 このオーストリア連合軍に参加したのはフリードリヒ公の他には、プシェミスル家の ボヘミア国王ヴァーツラフ1世(在位1230-1253年)、カリンティア公(現ケルンテン州)の 恐らくシュパンハイム家のベルンハルト2世(在位1202-1256年)、ツェーリング家の ヘルマン5世(在位1190-1243年)、アドリア海沿岸の主要都市アクィレイアの総大司教 (これが誰だかよく分らなかった)らだったようだ。 しかし、この時モンゴル軍部隊は交戦する間も無く早々に撤退したらしい。オーストリア 連合軍はこれを勝利と見なして有りもしない戦果を誇大に喧伝していたらしい。 ここら辺からよく分らないのだが、エステルゴムを壊滅させたのち、カダンはベーラ4世を 追撃するよう派遣され、そのままダルマティア方面へ下ったらしい。 ベーラ4世はブラティスラヴァへほうほうの体で逃げ出し、ここで フリードリヒ公と接触 して加勢を頼んだようだが、公はウィーンをはじめとするオーストリア地方への租税の 免除とその賠償を要求し、さらにそれにも満足せずドナウ東方がモンゴル軍によって劫略 の憂き目に合っていたにも関わらず、ドナウ西方のハンガリー王国の諸地方を劫略し、 ジュール市を占領さえしたらしい。 ベーラ4世はカダアン率いるモンゴル軍が追撃してくるとの情報を得ると直ちにダルマティア 地方へ逃走。そのままアドリア海まで逃げ延びた。一方フリードリヒ公は、翌年の1242年に ウィーン近郊のクロイスターノイブルクで再度モンゴルの部隊と遭遇したらしい。そこで 撤退する部隊を追撃して一部と交戦、捕虜を8人得たらしいが、そのうちの一人が例の イングランド人だったらしい。他の7人についてはどのような素性かは良く分らなかった。 取り敢えずオーストリア連合軍のウィーン近郊でのモンゴル軍との遭遇については、 マシュー・パリスの年代記に載っている情報だが、オーストリア大公フリードリヒに ついてもドイツ・オーストリア史に明るく無いので、詳しい方にこの時期のドイツ・ オーストリア地域の王侯たちの動静について伺いたいところ。
107 :
GWB :2006/09/19(火) 10:05:31 0
>100 Китай キタイが Хитай ヒタイにならなかったのは何故? ロシア語のКитай キタイとは中国人のことだが、ロシア語においては、そのような変換はない。 俺が言いたいことは、人名というものは、その国内においても、ましてや外国においては、世界の 各国で、その人名の呼び名が違うということだ。 高校生の使う世界史の参考書の冒頭においてもフリードリッヒ大王などの名前が世界各国で異なっ ている一覧表を載せているように、名前の呼び方が国と時代によって違っているなんてことは 高校生なみの次元の常識なんだよ。 ましてや、「ジンギスカン」のことを「チンギス・ハーン」と現代モンゴル公用語のロシア語化した 名前で呼ぶべきだとか、アラビア語の文献では「チ」と発音しているから「チンギス」と呼ぶことが 正しいとか、まったくもって馬鹿らしいお粗末な話で低能だけが執着していればいいことなんだよ。 むしろ、重視すべきことは、その名前の由来とか意味であって、世界各国で発音が違うことは当り まえなんだから、ここで述べたように「ゲンギケイ」が「ゲンギスケン」になり、「ジンギスカン」 になったとか、義経の思いが「成吉思汗」という漢字名に込められているという考察の方なんだ。 ドイツの友人は、驚くことに「ゲンギスケン」と発音していたよ。これがマルコポーロ以来の西欧 に伝わっている「ジンギスカン」当時の、より正しい発音だと思う。 (本来は、「ゲンギケイ」だったと思う)
108 :
GWB :2006/09/19(火) 10:30:06 0
>102 日本語の語源がへブル・アラム語だということは 日ユ同祖論を取っているの? そのとおりです。「ひふみよいむなやこと」など、すべてがへブル・アラム語です。 このような渡来人の言語が、縄文人の言語と交じり合い、現在の日本語になったと考えております。 大和(ヤマト)とはヤ・ウマトであり、へブル・アラム語で「神の民」という意味です。 このような研究は、ユダヤ人の故ヨセフ・アイデルバーグ氏などが実証しており、現在の イエラエル大使のエリ・コーヘン氏も支持しております。大使とは一緒に伊勢神宮に参拝しま したが、彼は「この神殿の造りは古代イスラエルの幕屋とまったく同じだ」と言っておりました。 ところで、源氏の信仰していた八幡大菩薩とは、全国にある八幡神社の総本宮である大分県の 宇佐八幡宮の神様ですが、その正体は、「イヤハタの神」であって「秦氏の神」です。つまり 聖書の三位一体の神です。「イエフダーの神」つまり「ユダヤの神」という説もありますが、 その場合、「ヤハウェ」ということですが、ヤハウェ=三位一体の神なので同じ神様です。 源義経は、この神様につき動かされて、神様のご計画に従って世界帝国を建設したのだと思います。
>ロシア語のКитай キタイとは中国人のことだが、ロシア語においては、そのような変換はない。 説明になっとらんよ。なぜそのような変換にならんのかと聞いてるんだろう。 >ドイツの友人は、驚くことに「ゲンギスケン」と発音していたよ。 ドイツ語ではGenghis KhanとDschinghis Khanの両方の綴りがあり得る。 後者では「ジンギスカン」という発音になる。 たった一人の「友人」とやらの実例出して証明した気になるのを「馬鹿らしいお粗末な話で低能だけが執着していればいいこと」っていうんだよね。
110 :
GWB :2006/09/19(火) 12:39:45 0
ロシア語のКитай キタイ(中国人)は、ロシア語では、やはりキタイ(中国人)でしょうW それを、なぜ、「ヒタイ」と変換しないのかと言われても・・・。 ギリシャ語のキリスト、英語のクライストは、ロシア語でハリストと変換している例を示した ので、外国語の「キ」とか「ク」が、ロシア語では「ハ」になっていることを知ってもらえば いいだけのこと。
111 :
GWB :2006/09/19(火) 12:44:23 0
国号の「元」とは、「源氏」に由来しているんだよ。 「われらの先祖の姓は源といい、さらに、その祖先は清和という」と。
いずれにせよなんだか超こじつけくさく感じてしまうのは。
113 :
世界@名無史さん :2006/09/19(火) 13:04:43 0
「Китай」をローマ字にすると「Kitay」では? もし「Хитай」なら「Khitay」で、ヒタイとなるだろうけど。
>110 ひょっとして、Китайが外来語じゃないと思ってる? >113 Kitajって表記もたまに見る。
>>111 『元史』世祖本紀 至元八年十一月乙亥条に
「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義」
とあるので国号は「大元」。「元」は飽くまでも略称。
> 「われらの先祖の姓は源といい、さらに、その祖先は清和という」
ソース。
>>110 >ロシア語のКитай キタイ(中国人)は、ロシア語では、やはりキタイ(中国人)でしょうW
>外国語の「キ」とか「ク」が、ロシア語では「ハ」になっている
この矛盾に気づけないのは低脳だけ!
取り敢えず、紀元前後のアラム語の文章を読んだ事のある経験から一言言わせてもらうが、 日本語には、ヘートやテートやツァデーの文字で表される発音が無いうえ、関係詞や前置詞も無く、 VSO構文でもなく、まして3子音を語幹として各々の子音の前後に特定の子音や母音が挿入して 単語を作るようなセム語的な特徴が一切ないので、日本語がヘブライ語やアラム語を起源としている という説は成り立たない。
118 :
GWB :2006/09/19(火) 20:50:18 0
>115 元から明へ、そして清へと歴史は流れたわけだが、清の太祖であるヌルハチをはじめ、 清王朝の王たちは自らを「元」のジンギスカンの末裔であると考えていた。 その清王朝に伝わっていた門外不出の文献に書いてあるが、その詳しいことは手元に 資料がないので今は教えられない。これから調べて、ここで公表しようと思う。 調べてみればわかることだが、中国人(漢民族)とは異なる民族が中国全土を支配していた のであった。それが元であり、清であったが、この辺の歴史は、現在の中国人たちにとって 急所であり、隠しておきたいようだ。隠しておきたいのみならず、元も清も中国人の国だ という具合に歴史を捏造している。清が中国を支配していたのであって、明治時代の日本は、 その清王朝の末期に日清戦争を戦ったのである。そして、満州国の建国も清王朝のラストエンペラー たる溥儀が滅満興漢運動(支配者の満州人を滅ぼし、漢人の国を興そうという革命運動)を逃れて、 日本大使館に援助を求めてきたことに始まるのだ。満州地域には馬賊と匪賊は居留していたが 近代国家がなかったため、溥儀の願いを聞いて満州国を建国し、その皇帝にしたのであった。 この満州国は侵略をして建国をしたのではない。国際連盟の多数の加盟国によって承認され、建国さ れたのである。
119 :
GWB :2006/09/19(火) 21:06:49 0
>117 アホか。ヘブライ大学のシロニー教授その他が、日本語のヘブル・アラム語との類似性を 説いているのであって、文法的特長だけで、日本語とヘブル・アラム語は一切無関係だと 決め付けることはできないのだよ。 ここを歴史の真実を暴くスレにしたいのだから、既成の常識的な価値観に縛られた通俗的 な論説は止めて欲しいものだな。 はっきりと言おう。日本語には古事記の神名の中にヘートやテートやツァデーの文字で表さ れる発音があるし、関係詞や前置詞も有る。それと、VSO構文や3子音を語幹として各々の 子音の前後に特定の子音や母音が挿入して単語を作るヘブル語の特徴は、中世ヨーロッパで 発達した文法であって、紀元前のヘブル語の文法特徴ではない以上、日本語の形成には無関係 であっても何の不思議もないのだよ。もっと勉強して欲しいものだなW
120 :
GWB :2006/09/19(火) 21:14:04 0
さらに言おうか。ヘブル語が3子音を語幹とするなんてことも決め付けであって事実ではない。 それに、子音の前後に特定の子音や母音を挿入して全ての単語をつくるなんてことも虚構論だ。 いったい、どこで、そんなエセ・ヘブル言語学説をつかまされたのかね?W 俺は、こうみえてもヘブル語のトーラーの巻を持っているし、読み込んでいるんだよ。
121 :
GWB :2006/09/19(火) 21:34:36 0
ここのスレを荒らそうとする連中は「エセ言語学」を持ち出す奴がいるので、エセ言語学に とどめを刺そう。そのために、聖書の言語であるヘブル語を例にとって、言語が歴史的に どんどん変化するすることを論証しておこうと思う。 旧約聖書が書かれた紀元前430年以前から新約聖書が記された時代までの間に重要な変化が起 きた。その最大の変化は言葉の変更でした。旧約聖書が書かれた紀元前430年以前から新約聖書 が記された時代までの間、アレキサンダー大王の遠征に伴う侵略を受けたことによって、 ギリシャ語教育政策の影響を受けてヘブル語は激変してしまいました。地中海のすべての国を ここで取り上げる事は大変複雑ですので聖書の舞台となったイスラエルと言う小さな国を取り 上げてみましょう。旧約聖書のほとんどの部分はイスラエル民族の言葉であるヘブル語で記さ れていまが、この430年の間にすっかり混乱し、新約聖書の時代にはイスラエルの地方では アラム語が話されるようになり、しかもイスラエルを含む地中海世界全体の共通語として ギリシャ語が一般化されたのです。それゆえ、新約聖書はギリシヤ語で記される事となった のです。その経緯も簡単です。戦争が起こり、地中海世界を支配した国が変転したからです。 旧約聖書の時代はイスラエル独立国家でした。それが新バビロニヤ帝国のネブガデネザル 大王によって消滅し、エジプトや周辺諸国に翻弄されました。紀元前536年頃のメドペルシャ 帝国によるバビロン帝国の滅亡を経、さらに紀元前330年頃にアレキサンダー大王によって ギリシヤの属国になり、さらに紀元前26年頃にはローマ帝国の属領になる経験をしたのです。 それは単にイスラエルと言う小国のみならず地中海世界全体に言える言葉の変化でした。
122 :
GWB :2006/09/19(火) 21:53:05 0
この様な歴史背景の中で、ギリシや語で人々に聖書を紹介する必要が発生し、紀元前200年ころに 旧約聖書が最初に翻訳されたのです。その聖書が七十人の翻訳者でなされた事から一般にギリシヤ 語訳旧約聖書の事を70人訳と言います。 なお、当時の人々は一般に文字を理解せず話したり、聞いたりする程度の語学力であったため、 文書化されるに当たって、文語にはなされず、朗読されたものを文盲の人々が頭で情景に変換して 聖書を理解したと思われます。 言葉の変更はいつの時代にも他国の侵略による事が多いのですか、この時代こそは まさに激動 の時代であり、言葉の変更は一部の身分や地域にとどまらず、永続する広範囲な変化となったの でした。サンダー大王によってギリシヤの属国としてのギリシャ語化され、さらに紀元前26年頃 には ローマ帝国の属領になってグリーク・ローマン語化される経験をしたのです。それは単に イスラエルと言う小国のみならず地中海世界全体に言える言葉の変化でした。 ここではこれ以上詳しく記す事を控えますが、この様な歴史背景の中で、ギリシや語で聖書を 紹介する必要性が発生し、紀元前200年ころに旧約聖書が最初に翻訳され、その聖書が七十人の 翻訳者でなされた事から一般にギリシヤ語訳旧約聖書の事を70人訳と言います。 なお、当時の人々は一般に文字を理解せず話したり、聞いたりする程度の語学力であったため、 文書化されるに当たって、文語にはなされず、朗読されたものを文盲の人々が頭で情景に変換して 聖書を理解したと思われます。しかも、北イスラエル王国がアッシリアによって支配されたのは 紀元前722年であり、この失われた10部族が長い年月をかけて海路や陸路で日本列島に渡来した 以上、その間にヘブル語の文法や文字などが激変してしまったことは当然すぎることとして理解 できるのです。
123 :
GWB :2006/09/19(火) 22:04:44 0
聖書の列王記などを読んでも、ヘブル語で羊皮紙に記されたトーラーは非常に 高価なのもであるばかりでなく、神殿に1つ安置されているほど貴重なもので、 一般の人々は、それを手に取ることも、目にすることもなかったことがわかり ます。そのなある時、神殿の改築のため、神殿の壁を壊したら、そこから羊皮紙 のトーラーが出てきたというので、国王が、それを読んで感涙にむせんだことも 記されています。当時ですら、このような状態であった以上、ヘブル語を使って いたイスラエル人が紀元前に日本列島に渡来したとしても、そのヘブル語の痕跡 は、現代日本語の中のいたって日常的な言葉(ひふみ・・等)と、言語を律する大枠 (文法に規制されない単語の羅列等)に集約されて現れていることも理解できよう。
124 :
GWB :2006/09/19(火) 22:10:11 0
以上をもって、「ゲンギケイはジンギスカンではない」とするアラビア語やヘブル語の 発音やら文法だのといった「エセ言語学」を持ち出すことを禁止したい。 もっと、動態的な歴史考察にエネルギーを使わないと、せっかくのスレがもったいない。
このスレも終了でよろしくおねがいします。
126 :
世界@名無史さん :2006/09/20(水) 08:06:14 0
>>81 >そもそも、チンギス・ハーンという発音は、モンゴルが共産主義ソ連の支配下に入って以来、ジンギスカンが
>ロシア語化され、チンギス・ハーンというように発音されるになったに過ぎないんだよ。
すると20世紀までモンゴルで「ジンギスカン」と発音してた?
127 :
GWB :2006/09/20(水) 08:57:55 0
>115 118 1783年の森長見『国学忘貝』にある「図書集成」には 「朕姓源義経之裔其先出清和故号国清トアリ清ト号スルハ清和帝ノ清ナリ」と 書かれていることを紹介しています。つまり、中国の清王朝の先祖は源義経で、 清という国号は清和源氏からとったというのです。 偽書だというレッテルを貼って闇雲に葬り去ろうとするよりも、ネット時代の今、 清の太祖ヌルハチなどの血統や発言を検証してみるべきだろう。 >126 そうです。モンゴルが共産主義ソ連の支配下に入って以来、ジンギスカンの研究者 や賞賛者は収容所送りになったり処刑され、その民族的記憶の抹殺を図られ、歴史書 の改ざんがおこなわれたのでした。 丁度、戦前の日本が「大東亜戦争」で戦争を開始したにもかかわらず、敗戦するなり 言論出版のすべてが「太平洋戦争」と表現することをGHQから強制され、それが今日ま で定着してしまっている現象と同じです。
128 :
GWB :2006/09/20(水) 09:33:02 0
強固な民族的アイデンティティを持っているユダヤ人ですら、外国に支配されることで、 ヘブル語の混乱と亡失を体験しているのです。 強固な宗教や文字を持たない遊牧民であれば、なおさら、その言語は変化し混乱し亡失 してしまいます。
>>84 >このマルコ・ポーロが「ジンギスカン」の正しい発音をヨーロッパに伝えたんだよ。
ユール・コルディエ版の東方見聞録ではChinghis Kaanと表記してるけど。
אנה בררכב בר פנמו מלך שמ– על עבד תגלתפליסר מרא רבעי ארקא חבל אחא ברת חלפתא בר ברעא זבדעתה בילח אלול
表示されてねーよ
132 :
GWB :2006/09/21(木) 07:59:23 0
>129 モンゴルがロシア語文化圏に入った後に出版した本なので、つまり最近のフランス人なので、 翻訳出版する際に ロシア語の人名表記にならったのにすぎません。 クビライをフビライとか、他にも様々なロシア語化が散見されます。
>>116 に対する反論がないなあ?(笑
>はっきりと言おう。日本語には古事記の神名の中にヘートやテートやツァデーの文字で表される発音があるし、関係詞や前置詞も有る。
ソースは? 古事記の時代の発音をどうやって同定したのか是非教えて欲しいな。
>言語が歴史的にどんどん変化するすること
んなこたー知ってるよ。はっきり言って19世紀言語学の領域だ。
ヘブライ語が使用されなくなったなんて例よりもグリムの法則挙げる方が適当だと思うけどな。
で、
>>110 がグリムの法則に反している件に関してはどうなのよ?
>>132 いや、初版が1870年らしいのでモンゴルはまだ清領です。
クビライはCublay Kaanとなっている。
135 :
GWB :2006/09/22(金) 16:39:47 0
>133 ソースは、ヨセフ・アイデルバーグ氏などです。 古事記には、例えば、タカミムスビ、カミムスビという神名が出てくるのですが、 これはヘブライ語のタカンマシャッハ、カムムシュッハという発音が日本語化し た神名です。ヘブライ語のヘート(Ch)やテート(Th)やツァデー(Ts)の文字で表され る発音があるのです。これらの同定は、古事記の神様の働き等の内容とヘブライ語 の意味を比較し、その両者の一致をみたため、そのように結論したまでのことです。 例えば、タカンマシャッハとは天と地との仲介者という意味で、それはタカミムスビ の神様のお働きと同じことなのです。 はっ? グリムの法則とは1800年代後半にドイツ人のグリムがドイツ語の音韻変化の規則性 を発見し、それを暫定的に「法則」と呼んでいるわけで、あくまでもドイツ語の音韻変化 に関する法則であって、ロシア語にはグリムの法則なんてものは適用できないし、そもそも 無関係なんだよ。 >134 初版が1870年「らしい」・・・ ? ともかく、翻訳の翻訳なんだからさ。近代になってからの。 故人の墓に行って「何を根拠に?」って聞いてみたら?
>>1 さんはモンゴル時代まですっ飛んでってください。
137 :
世界@名無史さん :2006/09/22(金) 19:08:04 0
いままでのレスを見るとジンギスカンはロシア語の漢語を略したものであるという事実が 妥当であると思うが(アジア関連の事なのにフランス語が関与してる事が不可解)、 言語つながりでなぜ義経はモンゴル語を理解できたのか?元の人物(ジンギス・カン) と入れ替わったとしたらすぐばれるのではないか!?
138 :
GWB :2006/09/22(金) 20:20:38 0
>136 精神的には すっ飛んでますよ。 >137 義経はモンゴル語を理解できたのか?「カムイ義経」による解説をしましょう。 大陸に渡った当初は、もちろん話せなかったことでしょう。しかしアムール河 の上流地域には、奥州藤原家と交易のあった部族の助けを受けていました。 それに、現代でもフィリッピンから日本に出稼ぎにきている、日本語をまったく 知らない人でも半年もすれば、日本語がペラペラになっています。これはオーバー ステイを摘発している入管職員の間では常識です。義経も、半年もすれば十分に 話せるようになっていたことでしょう。 義経は、鎌倉から京都へ大軍が攻めてきたことを知り、勝算無しとみて、大和の 吉野に逃げましたが、その吉野からどうやって奥州平泉まで逃げることができたの か不明です。変装したのかもしれません。このような百戦練磨の武人にして人心 掌握に秀でた人物なら、モンゴル原住民の両家の系図を取り込み、それにふさわし い伝説を作り、その人物になりきることも容易だったと考えています。 ことも容易
139 :
GWB :2006/09/22(金) 20:26:04 0
>137 訂正: 「モンゴル原住民の良家」です。 >アジア関連の事なのにフランス語が関与してる事が不可解 マルコポーロ以前より、ヴェネチアの商人や、その他の西欧人はモンゴルと交易をしていました。 モンゴル帝国の創始者・ジンギスカンの噂は、いち早くイタリア・フランス・ドイツなどの西欧 に伝わっていたのです。
>>135 >初版が1870年「らしい」・・・
ネット上で1871年と書いてるページがあったので一応。
どのみちヘンリー・ユールは1880年に死んでるので同じことなんですけどね。
地の文ではChinghis Kaan、脚注ではChinghiz Khanと書き分けてるので
中世フランス語の原文の表記をそのまま使ってるのでは?
>>137 >ジンギスカンはロシア語の漢語を略したものである
このスレの中で誰もそんなこといってないけど・・・
>>1 は「チンギス・ハーン」がロシア語、「成吉思汗」は義経の造語だと主張し、
>>46 は「チンギス・カン」がイスラム史料からの転写で「ジンギスカン」になったと主張している。
> ヨセフ・アイデルバーグ やはり例のトンデモの人が出て来たか・・・ アラム語文も中世モンゴル語のローマ字転写もスルーされたなw
142 :
世界@名無史さん :2006/09/23(土) 17:03:45 0
↑誰に言ってるんだろう?
143 :
世界@名無史さん :2006/09/23(土) 17:15:27 0
まあジンギス・カン=源 義経と断定できても血は絶えているわけだが
144 :
世界@名無史さん :2006/09/23(土) 18:44:45 0
>>143 ジンギス・カンのY染色体は特定されている
源氏の子孫のY染色体を調べればOK
145 :
世界@名無史さん :2006/09/23(土) 20:04:54 O
50の読みだと正にゲンジ カンかゲンギ ケイに近いね! 因に義経のフルネームは?
>>144 それってテムジンの直系の子孫じゃなくてアフガンのハザラ族から採取したってやつだろ?
147 :
世界@名無史さん :2006/09/24(日) 02:06:29 0
ハルハ・モンゴルの王族でも探した方がまだなんぼかましなデータが取れるんじゃないの。
>>135 >あくまでもドイツ語の音韻変化
>に関する法則であって、ロシア語にはグリムの法則なんてものは適用できないし、
OK君が比較言語学の基礎の基礎すらわかっていない事がよくわかった。
グリムの法則のキモは、ある言語の音韻が変化するときには例外なく変化しなければならないというところにある。
例えばドイツ語のdは英語ではthで実現する。例外に関しては全て納得のいく説明がなされている。
君が外国語のkがロシア語でxで実現すると主張するのなら、KitajがXitajにならないという例外に対して説明できなければならない。
説明できないのなら、外国語のkがロシア語でxになるという推論そのものが誤りだったという事だ。
>タカミムスビ、カミムスビという神名が出てくるのですが、
>これはヘブライ語のタカンマシャッハ、カムムシュッハという発音が日本語化し
>た神名です。
「タカミムスビ」「カミムスビ」のどこにchやthやtsがあるんだ?
「古事記の神名の中にヘートやテートやツァデーの文字で表される発音がある」とは言わんだろこれ。
chやthやtsが古事記でs(か?)で実現するというのなら、ヘブライ語の膨大な数の単語に関して同様の関係がある事を証明できなければならないわけだが、
偶然この2神が同じでした、などというのではあるまいな?
150 :
GWB :2006/09/27(水) 09:29:18 0
>147 何か、そういう統計調査をした人がいるようですね。それだけ、世界史的影響力を持っているということですな。 >149 外国語のkがロシア語でxになるという推論そのものが誤りだったという事だ えっ? 「キ」リスト、「ク」リストが、ロシア語では「ハ」リストになっていると言っているんだよ!! 君は、ジンギスカンの歴史的真実を封印しておきたい中国共産党員で、日本文化と日本史の中にある 世界史的つながりを否定して、日本人が目覚めることなく、中国共産党の歴史観の奴隷のままでいる ことを画策しているんだろ? だから、わけのわからんエセ言語学を持ち出して、煙にまこうとしているんだろ? 止めてくれよ。 ヘブライ語の表記は子音のみで表記されてきたので、発音するに当っては「schu」など多様なバリエーションが推測可能です。 例えば、最も重要な「創造神の名前」ですら、正しい発音を知らされていない神職以外の一般のラビは、イェフエー、エホバ、 ヤー、ヤハウェなどと発音してきましたし、ラビ以外の一般人に至っては、アドナイ(主)、テトラグラマトン(神聖四文字)、 エロヒム(神)などと、隠語化された名詞で「創造神」を表現してきたのです。 そして、その「創造神」が712年に編纂された古事記・序文において「造化参神」とされ、そこから働きに応じた様々な神々が 産まれて来たのであって、元は一つなのです。例えると、「日本」を表現するのに北海道・東京都・大阪府・・・とか、富士山・ 東京タワー・金閣寺・・・などと、無限ともいえる名詞が次々と出てくるわけですが、その名詞の全体が「日本」であるのと同 じことです。このようなことは、証明するというよりも、「どう考えるか」という人間側の考え方の問題であって、考古学のよ うに遺跡から何かを発掘して客観的事実を証明するという問題ではないのです。
何故世界史板に立てたのか。オカ板ならもっと盛り上がっただろうに・・・。
152 :
140 :2006/09/27(水) 10:10:06 0
スルーしないで・・・
153 :
149 :2006/09/27(水) 15:16:16 0
うわ、中共呼ばわりかよ。勘弁してくれよ今更マルクスなんて。 >えっ? 「キ」リスト、「ク」リストが、ロシア語では「ハ」リストになっていると言っているんだよ!! だからさあ。それ以外のものでkがxになってないものがある以上、この変化は別の要因が絡んだ可能性があるでしょ。 言うに事欠いてエセ言語学かよ。こんなん19世紀の言語学で既に基礎知識だぞ。 全部、もしくは少数の例外を除いてほぼ全て変化したってことが論証できない限り、「ロシア語でkがxになりました」なんて言えないの。 >ヘブライ語の表記は〜以下 それまとめると何とでも言えるってことだよねえ。 「どう考えるか」という人間側の問題? そりゃ結構だが証明の手段がもたらされているのにそれを無視して妄想に浸ったって説得力ないんだよ。 まとめると証明する気ありませんってことじゃん。 たんなる妄想垂れ流しのくせに人を中共呼ばわりするんじゃねえ、オナニストが。
154 :
GWB :2006/09/27(水) 19:10:37 0
>140 もう、わかってよ。このスレを全部読んでないでしょ? 表記そのものが現代のものですって! >153 ああ、いいよ。そんなこと。君のこだわり=「ロシア語でkがxになりました、なんて言えない」は、それはそれで正しいんじゃないの。 >中共呼ばわりするんじゃねえ、オナニストが。 へぇー、君がW中共じゃなくて安心したよW
んじゃこのスレも終了ね。
156 :
140 :2006/09/27(水) 23:10:54 0
>>154 読んでますよ。あなたがユール・コルディエ版はモンゴル共産化後の
翻訳だといったので、こちらが19世紀の本ですと指摘し、その点に関して
それ以後反論をいただいておりません。
あと、
>>132 のレスに関してもう一つ疑問なのは、モンゴルでの表記が
変わったからといって中世の写本にあるスペリングを、翻訳の際にそれに
合わせて変える必要がまったくないということです。
最後に、「ジンギスカン」の表記がみられるのはF、FG、TA、VA、P、
その他の中でどの系統の写本ですか?
>>153 >それ以外のものでkがxになってないものがある以上、この変化は別の要因が絡んだ可能性があるでしょ。
元々そういう話でしたっけ・・・
157 :
GWB :2006/09/28(木) 16:49:26 0
ユール・コルディエ版を調べようと思い、数年間、日本に滞在して日本語学校に通っていた パリ在住のロシア人女性にメールをして、パリの図書館に出向いてもらい、「東方見聞録」 を調べてもらっている。しかし・・・・・
158 :
GWB :2006/09/28(木) 17:00:26 0
1710年にフランスのドラクロワ F. Petis de la Croix とい人物が出版した 『大ジャンギスカンの歴史』(Histoire du Grand Genghiscan)という書物 のタイトルにあるように、1710年のフランスでも「Genghiscan」と表記して いるんだから、いくら「チンギス」が正しいと主張したところで、悪あがき にしか見えない。 恐らく、マルコポーロの「東方見聞録」の原書や 最古の文献は一般人は 閲覧できないのではないかと思う。(非常に高価なため) 丁度、日本で「古事記」などの古文献の閲覧に制約が設けられているのと同じ。
159 :
GWB :2006/09/28(木) 17:06:15 0
>156 「モンゴルの共産化後」ではなく、わたしは「モンゴルがロシア語文化圏に入った後、」と述べたのです。 それに「東方見聞録」を議論するならまだしも、近代のユール・コルディエ版を議論するのは無意味だよ。 従って、F、FG、TA、VA、Pの系統について話すのも、エネルギーの無駄。アカデミックな価値無し。
このスレでの討論も無駄っぽい。
> プチ・ドラクロワ
だから、プチ・ドラクロワの研究は当時フランスが保持していたラシードゥッディーンの『集史』や
ミールホーンドの『清浄園』といった「イルハン朝、ティムール朝の『ペルシア語』で編纂された歴史書」
の写本をベースに書かれたものだと何度言えばw
ちなみに、コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンの『モンゴル帝国史』だけど、原題は、
『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』
Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson,
"Histoire des Mongols, depuis Tchinguiz-Khan jusqu'a Timour bey ou Tamerlan"
といい、全部で4巻もので1834年から翌1835年にかけて出版されている。
ドーソンはモンゴル時代とそれ以後ののペルシア語アラビア語文献を手広く踏破して、これに
当時フランス語に翻訳された漢籍や、アルメニア語、シリア語の歴史文献の情報を加えて執筆
している。ドーソンは「チンギズ・ハン」(Tchinguiz-Khan )と書いているが、仏文で
ペルシア語やテュルク語の「チ」の音をどう表記するか苦労が忍ばれる綴りだw
>>160 これほどアカデミックな議論から程遠い或いは不可能な思考をするコテが存在するスレも珍しいw
162 :
140 :2006/09/29(金) 08:56:36 0
>>157 わざわざそうしなくてもプロジェクト・グーテンベルクで読めるけど。
>>158 まともな大学は利用者のチェックが厳しいですからね。
向こうでは学部生でも1年生は借りれない所があるとか・・・
>>159 当時ロシア語圏に入ってたのはブリヤートぐらいですが?
>それに「東方見聞録」を議論するならまだしも、近代のユール・コルディエ版を議論するのは無意味だよ。
>従って、F、FG、TA、VA、Pの系統について話すのも、エネルギーの無駄。
F、FG、TA、VA、Pは14世紀の写本なんだけど。
163 :
149 :2006/09/29(金) 12:18:10 0
>>156 >元々そういう話でしたっけ・・・
ダメだよ突っ込んじゃあ。
私が明らかにしようとしたのは、そもそもGWM氏が言語学そのものを根本的に知らないってことなんだから。
論証済んだし、これ以上やっても空しそうだからこの辺で切り上げるわ。
最後に言わせて貰うと、
>へぇー、君がW中共じゃなくて安心したよW
レッテル貼りをはじめるのは議論に詰まった人間のやることだぜ?
もし私が中共だったとしても、君の議論が正しかったということの論証にはならない。
164 :
世界@名無史さん :2006/09/29(金) 15:45:50 0
GWBだな
初歩的な疑問だが、 モンゴルに到るまでの水と食料はどうしていたのだろうか?あと馬とかも。
166 :
GWB :2006/10/01(日) 00:42:23 0
平泉からの義経一行の行程は、神社伝承や民間伝承として残っております。 資料を見ていないので、今、記憶のままにお話しすると、農民から米など を徴用した記録が残っており、また、義経の愛馬が荷物の負担に耐え切れ ずに途中で死んだりしました。このような経験が、後に一人につき5頭の 馬を与え、荷物は、その一頭に運ばせ、残りの四頭は疲弊しないようにし、 常に馬力(戦闘力)を保つというゲンギケイの行軍戦略につながったと考え られます。 それと、武士と農民の違いなのですが、これは搾取する側と される側の 関係、支配者と被支配者の関係にあります。 これを現代に置き換えると、 金融資本家(投資家)とサラリーマン(投資に無関心な勤労者)という形にな ります。 武士たるものは、戦いを専業とする支配者であり、その支配地域における 水と食料を徴用する手段は、心理的にも軍事的にも色々な手段があるわけ です。近代の満州地域においても、満州国を建国するまで、その土地に住 み、農業を営んでいた人々は、税金ならぬ年貢(農作物)を 馬賊や匪賊に 搾取され続けていたのでした。「別の馬賊の棟梁に納めた」と言ったとこ ろで、まだ次に取り立てにきた別の馬賊に年貢を納めなければならなかっ た無法状態からすれば、農民にとって「満州国は天国だ」たったのでした。 義経にとって思い出深い愛知県の知多(半島)という地名は、現在のロシア のチタとして残っていますが、アムール河などの大自然の恵みも豊富です から、その面からも 水と食料の心配は無用だったでしょう。
じゃあ、お前が日本海のどっかの港から、手漕ぎ舟で大陸まで渡って、 そっから馬を捕まえてモンゴルまで行ってみろよ。 あぁ、そうかいっぱいいっぱい砂金固めたヤツ持ってたんだっけ?便利だなw。 義経にとって思い出深いヒライズミって地名はあったっけ?
1はモンゴル800周年記念のお祭りにでも 「ジンギスカンは日本人!ジンギスカンは日本人!!」 って叫びながら突入していったのかな
「武士と農民の違い」って話はこのスレのどこに出てきたんだろう
171 :
世界@名無史さん :2006/10/06(金) 05:53:21 0
生き抜けたかを言ってるのでは・
172 :
世界@名無史さん :2006/10/06(金) 14:09:47 O
もういいじゃん、チンギス・ハンは義経で。 んで、弁慶は?
過去ログにカサル=弁慶説が出てる
ざっと読んだが、モンゴルを漢文化圏だったと思ってた人が相手を中共呼ばわりしてたのが笑えた。
176 :
世界@名無史さん :2006/10/07(土) 13:06:18 0
ここでジンギスカン=源義経であるという史実を なんとか否定し打ち消そうとしている人たちの目的はなんだろうか? この事実が一般的になって困ることでもあるんだろうか? モンゴル人はこの説に同意しているというのに
>>176 だって源義経って、鎌倉で首検分しているでしょうw
178 :
世界@名無史さん :2006/10/07(土) 14:06:31 0
それは替え玉。これ定説。
それ言ったら何でもアリくせえな。
替え玉(影武者)が死んだ説 @明智光秀 A B C D E F G H I
181 :
140 :2006/10/08(日) 09:41:04 0
コテは止めたの? で、パリ在住のロシア人女性にメールした結果は・・・ (何でそんなことする必要があったのかよく分からないが)
182 :
世界@名無史さん :2006/10/10(火) 03:12:46 0
ふと思ったんだが影武者一人って言う枠組みをとってみないか?蝦夷地に行ったのも 影武者で頼朝の目をくらませる為とか(北海道にそうゆう伝説が残ってるぐらいだし) 本物は一番の盲点である壇ノ浦の付近とかさ。
183 :
GWB :2006/10/11(水) 18:55:56 0
ロシア語だと外来語のh音は必ずkh音に変わるよね。 k音はそうでもないが。「キモノ」「カタナ」とかそのままだし。
どう考えても19世紀後半以降に立てられモンゴル族でも満州族のものでもない 西欧的な建物を400年前の民家と紹介をしていて、中央アジア史学の金字塔的作品である 『モンゴル侵入までのトルキスタン』は問題ないけど著者の名前を「バントルド」というのは ちょっと目眩を覚えた。
>バントルド Бартольд 氏のことですか・・・
188 :
140 :2006/10/13(金) 07:47:37 0
「ウルグ・べク」は以前図書館で借りて読んだな。 ティムール死後の内乱を詳しく書いてたのでありがたい。
189 :
世界@名無史さん :2006/10/16(月) 22:42:38 0
確かにマルコポーロが見たというフビライの大汗宮殿の風俗・習慣は 日本皇室のものと一致しているというシーボルトの指摘があったね。
ごめん、俺は義経もジンギスカンも詳しくないんだが、この二人の『性格』と『才能』はまったくの別人としか思えないんだが。
192 :
漢語の見地から・・・ :2006/10/21(土) 15:55:16 0
GWBさん。 ロシア語を持ち出すまでもなく、成吉思汗は現代中国語の発音だと CHENG JI SI HAN(チェンジスハン)、ジンギスカンよりも、チンギスハン に近い発音に思えます。 無論、古代中国語の音で検証しないと何にもなりませんけどね。 もっとも、鉄木真(テムジン)=TIE MU ZHEN(ティエムジェン)と現代 中国語ともそう差異はありません。 源義経=ゲンギケイ=ジンギスカン=成吉思汗の当て字を、自らつけた のだったら、他の言語を持ち出すより、 日本語音読→源義経=ゲンギケイ(の古代発音) 中国語発音→成吉思汗=CHENG JI SI HAN(の古代発音) を比較するほうが先だと思いますよ。 個人的にはジンギスカン=源義経が真実だったらいいなとは思いますが 歴史的考察の見地からは、どうかと思います。
193 :
世界@名無史さん :2006/10/21(土) 16:05:44 0
そもそも仮に事実だとしても動機不純で 義経=テムジン説の成立は難しいと思う。 1.何で義経はモンゴル語を覚えたのか? 2.何で義経は名前を日本風から蒙古風に変えたか? 3.何で義経はモンゴルに移住したのか? 4.何で義経は日本を捨ててモンゴルに同化する道を選んだのか? 5.何で義経はモンゴル人として生きる道を選んだのか? 特に不明なのが2のなぜ名前を日本風から蒙古風に変えたのかと言う事だ。 日系アメリカ人ですら名前は日本風のままで変更して無いのに 義経が日本の文化を捨てて蒙古人に同化した理由が解らない。
スレに関係ないかもしれないが元代に「倭」はどういう発音だったんですか?
195 :
世界@名無史さん :2006/10/22(日) 00:45:43 0
>194 現代語ならWO(ウォ)っていう発音。 元代は、御免なさい。わかりません。 ただ、日本語の音読みも「わ」だから、おそらく「ウォ」と「ワ」 に近いか、もしくは旁の「委」のWEI(ウェイ)に近い音だと 思うんだけど・・・
197 :
世界@名無史さん :2006/10/24(火) 02:42:45 0
198 :
世界@名無史さん :2006/10/26(木) 15:12:41 0
>193 1 簡単ジャン その国(地方)で活躍したければ現地語を覚えるべし 朝鮮人 力動山 大山倍達 ・・・・・ 2 その社会に受け入れられるためには言葉を覚え名前を現地風にし 習慣を身につけるのは常識 3 モンゴル移住は征服しやすかったから 義経は大陸にわたり女真族や高麗軍と戦い蒙古草原にでた 野蛮人の蒙古で近代的な軍隊経験ある義経には無人の野をゆくが 如しであったろう 4 戦争の天才である義経は兄(頼朝)のいる日本に遠慮し世界征服をめざした
>3 モンゴル移住は征服しやすかったから > 義経は大陸にわたり女真族や高麗軍と戦い蒙古草原にでた > 野蛮人の蒙古で近代的な軍隊経験ある義経には無人の野をゆくが > 如しであったろう 釣りですか?
当然釣りなのだろうw
201 :
GWB :2006/11/03(金) 10:08:22 0
マルコポーロの東方見聞録の原書は閲覧できなかったな。 しかし、中国語との比較という視点は重要なご指摘。
202 :
GWB :2006/11/03(金) 10:11:40 0
台湾人の知人によると、台湾の中学校の教科書には、はっきりと 「ジンギスカンは、日本の鎌倉時代の武将・源義経であると考えられる」 と掲載され、台湾人は、それを当然のこととして考えている、とのこと。
そんな間違いは正してやるべきだな。
204 :
漢語の見地から・・・ :2006/11/04(土) 15:06:04 0
ちょっとゴーグルで「成吉思汗」と「源義経」で検索してみると、台湾、 大陸(中共)ともにいろいろ紹介されていますね。(漫画、ゲームの影響か) すべて見たわけではないですが、なんとなく大陸(中共)は、日本人の馬鹿話 (批判的)として、台湾は日本で言われている一説(客観的?)、と いったスタンスで取り上げている様子。 ただ、さすがに台湾の教科書には「成吉思汗=源義経」とは記載はないと思 いますよ。 もしあるというのであれば、その出版社と、発行年を確認できます?
残念ですがジンギスカンの血液型はA型、義経はB型でした。 今クソスレを終了致します。
206 :
世界@名無史さん :2006/11/04(土) 20:45:01 0
ヌルハチが、織田信長だったという説はないの?
207 :
GWB :2006/11/08(水) 18:46:47 0
すごい研究書を手に入れた。それは「成吉思汗は源義経」(頚文社 昭和52年)だ。 3人の共著であり、精緻な検証を繰り返していく構成になっている。 俺は、この本に没頭し、熱中し、感激し、今でも、うなされているよ。
208 :
GWB :2006/11/09(木) 08:57:05 0
>204 在日の台湾人の筑波大学院修士課程卒業の女性ががそう言うんだよ。ご自分で。 >205 血液型? いつ、どこの何に彼の血液が残っていたのかな? >206 ない。 源氏の家紋は笹リンドウで、ジンギスカンも同じ。いまでもモンゴルには、その紋を誇っている人がいる。 もう反論の余地無し。
209 :
世界@名無史さん :2006/11/09(木) 09:28:53 0
んで、義経はいつどのようにモンゴル語を習得したのか、と。
> 今でも、うなされている かわいそうに。それでは確かに如何ともし難い。
まだやってんのか とっととモンゴル行ってハーンにでも即位してこい
>源氏の家紋は笹リンドウで、ジンギスカンも同じ。いまでもモンゴルには、その紋を誇っている人がいる。 詳しく
>>208 >いつ、どこの何に彼の血液が残っていたのかな?
遺骨や遺髪からも血液型は検出可能です。
伊達政宗の遺骨を鑑定してB型と判明したこともあります。
(『独眼流正宗』が放映された昭和62年当時の話題なので、平成生まれならご存じなくても当然かもしれませんが)
>遺骨や遺髪からも血液型は検出可能です。 テムジンは墓すら見つかってないはずだが >平成生まれならご存じなくても 西洋史と中国史と日本史しか視野に入ってないあたりが むしろ昭和時代の人って感じがするが
>>212 チンギスハーンが即位式のときに笹竜胆の旗指物(?)を立てさせたと伝えられてるよ。
で笹竜胆の紋が源氏の紋というのも間違ってないけど、源氏といってもたくさん流れがあって、
『笹竜胆は源氏の紋のうちの一つ』
でしかないよ。
ちなみに義経が笹竜胆の紋を使っていたとは、少なくとも俺は聞いたことが無い。
GWB氏にはぜひ根拠を示してもらいたい。
> チンギスハーンが即位式のときに笹竜胆の旗指物(?)を立てさせたと伝えられてるよ。 勿論、そんな話しは聞いた事が無いが、 チンギス即位のおりに「9本足の白い房のついた纛(旗指物)が立てられた」という話は有名。 『元朝秘史』では 「寅の歳、オナン(河)の源に集いして、九つの脚ある白い纛をうち立てて、(大クリルタイを開き、) チンギス・カハンにカンの称号をここにおいて(正式に)捧げ(奉っ)た」 とあり、『元史』では「元年丙寅、帝大會諸王羣臣、建九游白旗、即皇帝位於斡難河之源。」、 さらに南宋の趙珙の『蒙韃備録』では「成吉思之儀衛、建大純白旗、以為識認、外此並無其他旌幢」 とある。『集史』にも 「祝福と吉兆によって、バルス・イルすなわち虎の年、従ってヒジュラ暦602年(ラジャブ月)に入り、 また春の初めに、チンギズ・ハンは九本の脚の白いトク(纛)をうち立てるよう命じて〜」 と同様のことが書かれている。 モンゴル語に「笹」や「竜胆」にあたる単語があるかは知らないが、少なくともチンギス即位について 書かれた代表的な史料には「笹竜胆」なる旗指物の話しは出てこない。
トゥグって脚が9本だったのか。 ・・・なぜか9本並べて立てるものだと覚えてましたorz
>>217 白い九つの房のついたトグ(纛;tuq/tuγ)なのは確からしいけど、
「九つの脚ある」という説明をしている部分が、具体的な形状について
今一つ良く分らない表現で、今に至るまで研究者たちの頭を悩ませている。
ただ、恐らく14世紀に描かれた頃の原画をかなり忠実に写したと考えられる
『集史』パリ本の挿絵のチンギス・ハン即位場面に描かれているトグを見ると、
複数の赤い脚があり、それぞれの枝先に白い房が垂れている姿をしている。
ttp://gallica.bnf.fr/scripts/mediator.exe?F=C&L=07817139&I=000001 ↑4行目の朱字で「チンギス・ハン」と書かれているすぐ後の部分に、
چينگگيز خان فرمود
تا توقى سپيد نه پاية
برپاى كردند
Chīngkīz Khān farmūd tā Tūqī-yi sapīd-i Nah Pāya bar-pāy kardand
(九本の脚の白いトク(纛)をうち立てるように(チンギス・ハンは命じて))
と文章が続いている。(写本本文では文字の上下の点は結構省略されている)
(『集史』では読みようによっては単純に「九脚(きゅうきゃく)のトグを」とも読めるけれど)
右端に見切れているので6つの房しか描かれていないが、どういった形状の
ものだったのかわずかながら伺いしることができる。
219 :
世界@名無史さん :2006/11/12(日) 17:31:38 0
義経って清和源氏だろ 笹竜胆って村上源氏じゃなかったっけ?
220 :
世界@名無史さん :2006/11/13(月) 02:28:04 0
>>218 イスラムの絵画ってときどき立体化したらどうなるのかよく分からない物体が出てくるなあ・・・w
大事なものの割に半分しか写ってないし。
構図を見る限りでは右に続きの絵がある訳でもないんだろうけど・・・
チンギスハンの子孫はかなりいるはずだから、彼らの遺伝子と 義経の遺伝子をくらべてみたら?
>>220 ついでに、チンギス・ハンの後ろに描かれている緑色の妙な物体は、ゲル。
恐らくフェルトを緑色の染料で染め上げ、金糸で唐草や花鳥を縫い込んだ
すさまじく豪華なもの。モンゴル王侯のゲルがいかに金をかけた物だったかが
伺い知ることができる。大河ドラマみたいなのでここまで再現しようものなら
予算の殆どがゲルふたつみっつ作っただけで吹っ飛ぶ可能性大。良く見ると
チンギスが着ている外套の裏地がテン皮なのが分る。
お杉先生だったか森本先生の説明だったか忘れたけど、当時のモンゴル君主は
クリルタイのとき、自分の居室ないし政務を行っているゲルの前に玉座を出して座り、
その左右に親族たちや幕僚、将軍たちを配して催していたそうだ。
そのため、真ん中のチンギスの背後にある金色の鳥が止まっている衝立てみたいなものが
玉座の背もたれみたいなもので、ピンク色のところが玉座の座面、赤地に金の飛雲のところは
その側面と見て良い。チンギスのすぐ後ろの紺地に縦に金の飛雲がある四角いものは、
クッション。
ttp://gallica.bnf.fr/scripts/mediator.exe?F=C&L=07817173&I=000001 ↑ジョチの嗣子たちのゲル。様々な色のものがあり、三角錐形のものも見える。
当時の青の染料はマメ科の植物から採ったインディゴか場合によってはラピスラズリを
使ったりしたとも聞くので、どちらにしてもえらく贅沢なもの。
ttp://gallica.bnf.fr/scripts/mediator.exe?F=C&L=07817183&I=000001 ↑を見ると基本的に現在のゲルと大して構造が変わらなかったことがわかる。
223 :
世界@名無史さん :2006/11/13(月) 10:19:27 0
224 :
世界@名無史さん :2006/11/13(月) 12:34:21 0
1 義経は戦争名人の武将である。したがって衣川で無様な討ち死にはしない。 頼朝は3回にわたり藤原秀衡に義経を差し出すように催促している。 誰でも鎌倉が攻めてくるのは分かるというもの。座して打たれるのは武人にあらず。 2 秀衡の義理の弟は十三湖の安東水軍の棟梁である。シベリヤ貿易でしこたま儲けた 男であり大陸と蝦夷に情報と人脈があった。、船は記録によれば縦50M横15Mの巨船を 数艘所持していた。 3 基衡、公衡の遺骸がない。公衡と思われていた髑髏は秦衡のものであった。 義経は衣川より一年前に部下200人と大陸をめざし蝦夷地にわたった。 4 鎌倉に義経の首が届けられて後一月ほどで鎌倉は藤原追討に出立した。 本物の首なら秦衡は恩賞をもらってしかるべきである。 5 それからジンギスカン出現まで12,3年あるので言語の習得には十分である。
225 :
世界@名無史さん :2006/11/13(月) 21:34:30 0
トンデモ説ですな。
226 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 17:11:46 0
6 ジンギスカンは笹竜胆の兜印、源氏の紋は笹竜胆 7 ジンギスカンの即位は九流の白旗(源氏は白旗) 8 思成吉汗(吉野成る水干を思う)の隠し名 9 元の建国は(源)とどう意義 10 ジンギスカンは皮の蒙古の鎧ではなく鉄製と記録 11 辞世の言葉 「我天命によりここに死す、今は恨み無し。只故山に 帰りたし」 恨みとは頼朝、故山とは日本
227 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 17:18:06 0
元は滅びて草原に帰り義経の子孫は満州の女真族のハーンとなる。 その子孫ヌルハチは万里の長城を越えて清国を建国 その「清国」のいわれはその先祖、清和源氏によるとある。 したがって満州国皇帝 溥儀は義経の子孫である。
したがって中国の領土は本来日本固有のものと考えられる。
229 :
世界@名無史さん :2006/11/15(水) 15:18:14 0
1 ジンギスカンは無口・文盲とある。(元朝秘史)異国人(日本人)である 義経は出自がバレないように無口文盲を装った。 2 蒙古文字はジンギスカンが創らせたものであるが母音はアエイウオである。 これは東北人にアイウエオを発音させるとアエイウオとなる。(方言から 見る古代史)これは義経の部下(東北人)によって文字を創らせた証拠となる。 3 蒙古相撲は日本が伝えたものである。
230 :
世界@名無史さん :2006/11/15(水) 16:41:26 0
満州国皇帝 愛新覚羅溥儀が日本刀をもって軍装している意味がわかるだろう。
231 :
GWB :2006/11/15(水) 19:19:40 0
さらに研究は続いていくが、このようなテーマがNHKで取り上げられたり、映画化されない理由は、 学者も政治的指導者も、「これは真実であり、時がきたら全世界に衝撃を与える」と承知している からなのだろう。 義経すなわちジンギスカンが死ぬにあたって自らの墓を秘匿したのも、その墓には、鎌倉時代の 軍刀・軍装やら義経の遺品が納められているからに他ならない。モンゴルにおいて権力を維持拡大 しようとしていた義経と、その藤原一族従者一同としては、当時のモンゴル人には何が何でも 「ジンギスカンは日本人である」ということを隠す必要性があった。このことは、現代社会におい ても同じことで、例えば、戦後の日本で成功をしようとした大山倍達や力道山が「日本人である」 と宣伝しながら、実は「バリバリの北朝鮮人であった」ことと同じことなのだ。多くの日本人は、 いまでも「戦後日本人のヒーローだ」と信じているがね。W
精神衛生には気をつけろよ
233 :
世界@名無史さん :2006/11/16(木) 21:10:43 0
2ちゃんねるの板って、明らかに(日本史のね)院生レベル以上の人たちがけっこういる板と、 そうじゃない草莽(褒め言葉です)の人たちによって書かれているここのような板との落差が あって面白い。それにしても日本も韓国も変な民族主義史観が跋扈してウンザリだなー。
234 :
世界@名無史さん :2006/11/17(金) 19:51:37 0
8月15日がジンギスカンの死去した日。 京都鞍馬寺では毎年その日に義経の法要が営まれる。
235 :
世界@名無史さん :2006/11/17(金) 20:02:44 0
↑旧暦の8月15日だから新暦の9月15日ね。
朝日放送系列のこの番組の工作員だったわけか 11/18 19:00 謎の英雄伝説SPチンギスハン史上最大の帝国800年目の真実
238 :
GWB :2006/11/19(日) 00:57:52 0
8時から10chで「ジンギスカンの歴史」をやっていたが、堺屋太一が日経新聞に連載しているとおりの 単調な内容であった。 だが、その墓を探求したシーンは興味深かった。その墓が発見されたとき、 中から何が出てくるのだろうか? 天照大御神の子孫である清和天皇の末裔である名門の源氏出身である源義経は、平氏を滅ぼし、連戦連勝 の戦の天才であり、まさに「天神さま」と人々に慕われていたのであった。この「天神さま」がモンゴル の現地人の間で「テムジン」になり、1206年にモンゴル平原一帯を征服し、統一国家の君主として即位し たときに、源義経=ゲンギケイ〜ゲンギスケンと名乗って 自らが源氏の義経であることを宣言して即位し たのであった。 近代モンゴルがロシア語文化圏に組み入れられてから「チンギスハーン」と発音されるようになったが、 元来は「ゲンギケイ」 と発音すべきなのである。マルコポーロの「東方見聞録」は、モンゴル帝国の 先進性と、黄金の国ジパングを紹介しているが、源義経と奥州平泉の藤原一族一党の故郷が、現在まで伝 わる金色堂などにおいて黄金をふんだんに使っていたことを マルコポーロが 伝え聞いたためであるし、 当時のモンゴル人を日本人の武将たちが指導していたことが想起されるのだ。 ドイツ語では、現在でも「ジンギスカン」とか、「ゲンギスケン」と発音しており、旧西ドイツのロック グループ「ジンギスカン」のヒットソング「ジンギスカン」は誰でも聞いたことがあるだろう。
239 :
GWB :2006/11/19(日) 01:03:05 0
番組の中で、フランスの図書館に保存されているマルコポーロの「東方見聞録」(羊皮紙に書かれた原書)が 出ていた。何でもフランス歴代国王の一番大切な蔵書だったそうだ。もっと詳細な記述内容や文字表現を追及 して欲しかったのだが、番組の研究テーマがピントはずれなのだから仕方あるまい。
240 :
世界@名無史さん :2006/11/19(日) 01:47:33 O
番組でやってた幼少期の兄弟コロシの話などまさに義経の過去を置き換えた話だしな。一番は鉄製品が日本から渡った証拠だな。
241 :
世界@名無史さん :2006/11/19(日) 01:55:00 O
弁慶岬から最短距離で真っ直ぐ左に行くと、なんとモンゴル しかも今まででなかった鉄が使い出される。番組ではカーン=称号古来から伝わると言ったが実際はチンギスが作った。
242 :
世界@名無史さん :2006/11/19(日) 02:12:40 O
造ったと言うか名前の可能性もあり、後に称号となり解釈されたケース
>242 をいをい。 突厥の可汗なんかは「皇帝」と訳されてるぞ。 で、モンゴル語でもチンギス=ハンの時代は"qagan"とつづられてる。 チンギス=ハンがハンの称号を復活させたと言うほうが正しいのでは?
モンゴル高原はモンゴルの領土ではない スレとか立ちそう
>>243 実はチンギス・カンは、生前もその後も大元朝などモンゴル帝国時代を通じて、
「成吉思汗」と書かれた事は無かった。
チンギスの晩年にサマルカンド駐留中に会見した華北の道教系の宗教勢力全真教の指導者、
長春真人こと邱處機の旅行記である1228年脱稿の『長春真人西遊記』、
>>216 で触れた
『蒙韃備録』、『黒韃事略』では揃って「成吉思皇帝」と書かれている。
また、モンゴル帝国側でも、オゴデイ、モンケ時代に建立された少林寺の碑文漢文面でもやはり
「成吉思皇帝」と書かれていた。これはクビライ以降の大元朝でも一貫してこの表記か
「祖宗」などと称されている。
上述の番組でクビライを「フビライ・ハン」と書いていたようだが、これは明らかに間違い。
アルタン・ハ−ン時代のように近世のモンゴル語ならq〜χに音韻が変化しているようなので
「フビライ・ハーン」と呼んでもまあ間違いでは無いが、モンゴル帝国時代の中期モンゴル語の段階で
「"フ"ビライ」に「"ハ"ーン」とするのはいささか配慮が足りない。クビライが即位後に名乗ったのは
X'X'N(Qa'an)「カアン」(=「ハーン」)であって、X'N(Qan)「カン」(=「ハン」)とは名乗っていない。
「チンギス・ハン」は問題ないが、「フビライ・ハン」ではモンゴル皇帝になっていないことになる。
『元朝秘史』では「成吉思可罕」と書かれているが、大元朝後期頃から、ウイグル語の俗文書などで、
CYNKKIS X'X'N「チンギス・カアン」という例が多く見られ、庶民層ではある種誤記される場合が頻繁になって
いたようで、『元朝秘史』の表記は大元朝末期から明代初期のこのような俗称の影響によって本文を
修正してしまった結果では無いかと考えられている。(小澤重男先生、松川節先生などの論文を参照のこと)
> モンゴル語でもチンギス=ハンの時代は"qagan"とつづられてる。
チンギス「在世中」に"qagan"(カアン)と書かれた資料は寡聞にして知らない。いわゆるイェスンゲ紀功碑でも
CYNKKIS X'N(チンギス・カン)にしていたはずだが・・・
246 :
GWB :2006/11/20(月) 11:48:33 0
例のTV番組では、ジンギスカンの持っていた世界地図がアップされていたが、驚くことに日本国内が「播磨国」、「阿波国」というように 当時のモンゴル人が知りようも無い驚くほど精緻に記載されていたことだ。これは、源義経主従が日本の地図を持っていたためであると思う。 また、ジンギスカン自身の衣服や武具や日用品の「たった一つたりとも発見されていない」こと自体、不思議なことで、これはジンギスカン が自らの墓と同様に自ら使用していた衣服等を徹底的に断固として秘匿したためであろう。 出てきたのは、「モンゴルウルス」と彫りこま れた遺跡だけだという理由は、ジンギスカン=源義経であることを徹底して隠す必要があったためであろう。 それと、ジンギスカンの国際性は、異民族である日本人ならではの発想であり、遊牧民たるモンゴル人の発想であれば、自民族たるモンゴル 人のみを最優先した思想に基づいてモンゴル帝国を統治したに違いないのだ。 中国語では、「経」のことを「ハン」と言うので、間違いなく、源義経こそが「ジンギスカン」なのだ。その墓の発見のために400もの調査隊が 現地入りしているそうだが、いつに発見されるのだろうか?
チンギス・ハンが使ったとされる笹竜胆に似た紋章のソースある? 清和源氏も笹竜胆を使ったんじゃね?
和賀氏 笹竜胆 (源頼朝落胤/武蔵七党横山党後裔?) 和賀氏が用いた「笹竜胆紋」は清和源氏のシンボルとされ、源頼朝の紋であったともいわれる。『勧進帳』や 『曽我の仇討』などの歌舞伎でも、源氏を表現するものとして見られる。頼朝が「笹竜胆紋」を自らの紋章として 用いた可能性は否定できないが、当時、頼朝が笹竜胆紋を家紋として用いたとする確かな記録も見いだせない。 それは当然のことであって、当時、家紋は一部の武家を除いて定着していなかった。また、頼朝は源氏の氏の 長者であって、そのシルシは白旗ぐらいであった。家紋は名字を表わすシルシであり、氏から分かれたものが用いた。 つまり、氏の棟梁である頼朝が家紋を用いることはなかったのである。 とはいえ、笹竜胆紋を用いる武家は、頼朝ともっとも近い流れの家である清和源氏為義流・同氏義時流の諸氏であり、 頼朝の落胤を称する奥州の和賀氏やその一族の本堂氏らであった。これらのことから、「笹竜胆紋」が頼朝の家紋で あったとされるようになったものであろう。 「笹竜胆紋」は清和源氏のシンボルというよりは、同じ源氏でも村上源氏の代表紋であった。ある書物によれば 「久我家では成人になると、"竜胆たすき"の紋付を着…」とあることから、村上源氏である久我家が竜胆の家紋を 使っていたことが知られる。『大要抄』には、中院宗輔の車文が竜胆であったことが記されている。中院氏は、 久我氏と同じく村上源氏の一流である。その他、六条・岩倉・千種・久世などの村上源氏流公家が竜胆紋を用い、 播磨の守護職であった赤松氏も村上源氏の裔を称し、三つ巴紋に加えて竜胆紋も用いた。
ところで、和賀氏にゆかりのある宮城県刈田疱瘡神社本殿の蟇股に見える和賀家の紋は、
「石畳に立合雲」と「笹竜胆」で、和賀氏関連の遺物にも「石畳紋」が見られる。
また、和賀氏を継ぐかたちとなった本堂氏は定紋に「八つ石畳紋」を用いている。
これらのことから、和賀氏は石畳紋を本紋とし、笹竜胆紋が頼朝の紋であるといわれだしてから、
頼朝とのゆかりを示すために「笹竜胆紋」を用いるようになったのではないだろうか。
このことは、平家の出自を称する家が、平家の代表紋といわれる「揚羽蝶紋」を用いる事例と通じていて、
家紋の由来伝説の一典型といえよう。
ちなみに、近世南部藩士星川忠平正輔が編纂した盛岡藩士諸家の系図集『参考諸家系図』を見ると、
南部氏に仕えた和賀氏一族の家紋として、
名字 家紋
和賀氏 笹龍胆紋 立合雲紋 石畳紋
太田氏 石畳紋 四目結紋 向白鳥紋 三階菱紋
猿橋氏 石畳紋 舞白鳥紋
岩崎氏 石畳紋
鬼柳氏 石畳紋
藤根氏 八石畳紋
本堂氏 石畳紋 笹龍胆紋
が記されており、嫡流は「笹龍胆紋」、庶流は「石畳紋」を用いたことが知られる。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_waga.html
250 :
GWB :2006/11/20(月) 14:52:21 0
>247 いままで見てきたように、古来より繰り返し追求されてきた歴史問題なのだが、 「成吉思汗は源義経」頚文社の佐々木勝三ら共著(昭和52年)のP-96、P-114とか、 最近では新国民社から出ている鹿島f「義経=ジンギス汗 新証拠」(昭和62年)の p-165に図とか写真入りで掲載されているよ。
おまえらいいかげんにしろよw
252 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 15:38:55 0
ジンギスカンの墓をさっさと掘り返せや。 仁徳天皇陵もな。
253 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 16:26:00 0
偉大なるかな義経 その類まれなる才能を兄頼朝に妬まれ 追跡を振り切り蝦夷に渡る 蝦夷では「ホンカン様」とアイヌの熱き歓迎を受け 蝦夷大将軍となる 連なる兵(つわもの)約200 安東水軍の船を待ち大陸に渡る 女真族、高句麗と戦いつつ何時しかテムジン(天神)となり 蒙古草原に入り一部族を征服する テムジンは父は蝦夷海となのり青き狼の子孫と称す 義経はここに日本人であることを止めたのだ 類まれなる天才武将である義経はモンゴルの統一をめざす
254 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 16:34:11 O
笹竜胆 チンギスでぐぐれば最後のほうに掲載してる所があるよ まったく同じではないが似てる。それに何を象ったかというと笹以外のなにものでもない。
255 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 23:48:56 0
>>243 単純に音韻変化で、kagan → ka'an → kaan
母音・有声音に挟まれたgは、古今東西、よく脱落するよ。
256 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 00:27:37 0
>>254 その写真おかしくないか?
建物の紋章は右の笹竜胆そのものだが、左の笹竜胆もどきに赤の点線が打ってある
257 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 00:30:25 0
ロシアのナホトカ建物の紋章(笹竜胆) 蒙古軍の帽子につけられていた印(笹竜胆) 蒙古軍の帽子の笹竜胆のソースある?
258 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 07:02:06 0
g
259 :
馬鹿1号 :2006/11/21(火) 07:20:33 0
2日ほど掛けて一通り読みました。大変楽しく拝見しました。 そこで個人的に疑問がでてきます。皆さんとは違い低いレベルの質問になりますが 義経=ジンギスカンとして 何故義経はモンゴルで皇帝になったのだからはっきりと日本色をださないのか? 義経がモンゴルで生きていると分かったら頼朝が攻めてくると思っていたのでしょうか? この時代に文字も確立されたようだけれども、そこに日本の記述がないのは 何故? また、義経の部下の誰かがモンゴルに渡って国を作って、義経を思って 笹竜胆などを真似たなんて事はないの?
260 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 11:44:43 0
>256 極真会館の大山倍達、力動山、最後まで日本人になりすましましたね。 芸能界にも腐るほどその手の人はおります。 現地での成功は現地人になりきらねばできません。 ジンギスカンの服・剣・アクセサリー何一つなく墓の存在もいまだにわかりません。 いまも各国400組の発掘隊が蒙古ではたらいています。この墓が発見されれば ジンギスカン=源義経は照明されるはずです。 テレビ朝日「ジンギスカン」によればジンギスカンは日本の詳しい地図を 所有していたといいます。年代的に義経がぴったりです。 義経の32才以降の記録はなくジンギスカンの32歳前後までの記録はないのです。
261 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 15:55:26 0
昔でどうやって言語の壁を超えるんだろうか・・ しかも上に立つになると言葉がますます重要になってくるし。
262 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 19:45:25 0
チミねえ、昔から通訳はいるんだよ。 ちなみにジンギスカンは蒙古語に関しては文盲だったそうだが 従者に漢字でメモを取らせてたそうだ。漢字は読めたらしい。
側転しながら「ジンギスカンは日本人!ジンギスカンは日本人」と叫んで妹の部屋へ突撃。
>>262 >ちなみにジンギスカンは蒙古語に関しては文盲だったそうだが
蒙古語に文字は無かったんじゃないか?
> 従者に漢字でメモを取らせてたそうだ。漢字は読めたらしい。 ソースきぼん。 チンギスがウイグル人書記にウイグル文字で言行を記録させていたことは 『長春真人西遊記』とかにも載っているが、チンギス自身がウイグル文字や 漢字を読めたという話しは聞いた事が無い。
>>265 ペルシャの文献にあると鹿島が書いてた。
268 :
世界@名無史さん :2006/11/22(水) 10:44:14 0
武将というものは残虐なものだよ。 かなり後のことだが北条早雲も反逆者の首を子供まで刎ねたと言うし、信長の 比叡山3000人虐殺も記憶に新しいところだ。しかし北条早雲は平定(天下までいかないが) 領民を大事にし善政を施いた。信長も楽市楽座を実行したりずいぶんと良いことを している。ジンギスカンも楽市楽座のようなものをつくったがすでに義経のころに そんな考えがあったのだと思う。天下統一のちのジンギスカンはすばらしい 善政を施したのも無学目盲の人間にはできぬことだ。偉大な思想家とも堺屋太一は評価している。 遊牧民に偉大な思想家など生まれたためしがない。やはり日本の英雄義経にして 可能なことだ。
蒙古人が残虐だというのはロシア人やシナ人が流したデマだよ。
>>269 なんでも当の蒙古人も誇張したらしい。実態以上に恐ろしく見せて戦わずに降伏させようとしたとか?
271 :
世界@名無史さん :2006/11/23(木) 00:42:25 0
トルコではジンギスカンはトルコ人だと思われている。
俺の知人で米国生まれのトルコ人でJenghis という奴がいる。
彼の父はMichigan Techの教授である
http://www.me.mtu.edu/meem/facultybio/miskioglu.html 。
はじめてJenghisに会ったのは1987年でおれがMichigan Techの
大学院生になったばかりの頃で、そいつにJenghis と言う名前は
モンゴルの英雄ジンギスカンと関係あるのか、と聞いたところ、
「関係あるどころか、ジンギスカンそのものを意味する。
ジンギスカンはトルコ最大の英雄だ。トルコではジンギスカンは
トルコ人だと信じられている。だから、男子誕生の折には息子に
Jenghisと名づける親が多い。」。2001年にUniversity of
Minnesota at Morrisを訪問したときにあった数学科の学科長は
トルコ人であった。彼に上記のことを話すと、
「全く其のとおりだ。」といっていた。
トルコ語でのJenghisの発音はジンギスとジェンギスの
中間くらいの感じだった。
モンゴル滅亡後は色んな国でこぞってハーン位を主張したんだっけ?ティムールとか。
「ハーン」はモンゴル帝国から元で それより格の下がる「ハン」がイランや南ロシアや 中央アジアにいたって感じじゃないですか ティムールはアミールですね
>>271 トルコ人は天皇もトルコ人だと思ってるそうだな。
275 :
世界@名無史さん :2006/11/23(木) 13:22:48 0
いわゆるトゥラニズムだね。それは。
ティムールの場合はアミール・グールカーン(キュレゲン)としか名乗らず、 子孫たちであるティム−ル朝の君主たちはスルターン・だれそれ・ミールザーと 名乗りはしたけど、「ハーン」はおろか「カーアーン」は一人も名乗っていない。 たまに古風な「高邁なるハーカーン」なんて形容が出てくるけど、君主号なのかは 微妙。かりに「ハーカーン」がティム−ル朝の君主号であっても、「ハーン」 「カーアーン」はチンギス・カン家に占有されたものとして別格にあった。 ただ、サファヴィ−朝やムガル朝では「ハーン」は貴人に与えられる尊称のひとつに 過ぎなくなり、チンギス・カン家の人々の専称としての意味はもはや失われていた。 オスマン朝ではスルターン、パーディシャー、ハーンがいずれも君主号として使われた。 中央ジョチ系の諸政権では、「ハーン」はチンギス・カン家の首長の専称として 長らくその地位を保ち続けた。しかし、ヒヴァ・ハン国のイナク(宰相)であった コンギラト家出身のムハンマド・アミーンは、傀儡化していた「ハーン」に代わって 権力を掌握し、イナクのイルテュゼルに至って1804年に自ら「ハーン」を名乗り コンギラト朝を開いた。次代のムハンマド・ラヒーム・ハーンは19世紀の中央アジアで 最大の勢力を保った。それ以外にジョチ家の勢力の系統で「ハーン」を名乗った 非チンギス裔の政権というとあまり聞かれない。
>>266 鹿島某についてはまったく知らないが、
普通、チンギス・カンについて書かれたモンゴル帝国時代のペルシア語文献といえば、
非モンゴル政権側の資料として、マフムード・アン=ナサウィーが1241年頃にアラビア語で著した、
ホラズム・シャ−朝のジャラルッディーン・マングビルニーの伝記である『ジャラ−ルッディ−ン伝』と、
完成から程なくして翻訳されたそのペルシア語版。
1260年に、デリー・スルタナト政権の奴隷王朝の君主ナースィルッディーン・マフムード・シャーに
ジューズジャーニーが献呈した『ナースィル史話』の二著がある。
一方、モンゴル政権側の資料としては、どちらもイルハン朝系のものになるが、
1260年に擱筆されたアターマリク・ジュワイニーの『世界征服者史』。ホラズムシャ−朝史としても名高い。
イルハン朝の君主ガザン・ハンの命によって編纂が開始され、1314年に完成したラシードゥッディーンの
『集史』。モンゴル史の記述部分についてはガザン自身の口述に大きく依っているとはラシード自身の言。
以上の四著が知られているが、特に「チンギス・カンがヒターイーないしチーンとマーチーンの言葉、文字を
理解した」的な記述があるという話しは聞いた事が無い。長春真人との会見でも常にチンカイら中国語が出来る
官僚たちが通訳していたことが『長春真人西遊記』には書かれてはいるが。
278 :
世界@名無史さん :2006/11/24(金) 06:49:11 0
>>274 ,トルコは第1次世界大戦で負けるまで数百年間に渡って大帝国だった。
トルコ人は朝鮮人のような卑劣な真似はしない。
天皇を同胞認定するのは世界最低の劣等人種の朝鮮人だけ。
>>278 いやそうでもないぞ。昔、新聞に載ってた有名な話だ。
確かかつてのトルコの王家に天皇の宮中儀式と似た習慣があったそうだ。
まあ天皇に関してはユダヤ人が同祖だと昔から言ってきたわけだが。
日本にもキムチ臭い連中はいるんだな
何? 1のこと?
もっと根本的に。 義経は確かにこと戦争に関してはプロ中のプロ。これは間違いない。 ただし義経は野戦での駆け引き等であり、いわば「戦術のプロ」 大戦略家であったチンギス・ハーンとは「どちらが勝るか」ではなくその才能の分野が違うと言っていい。 また、チンギス・ハーンが偉大な政治家でもあったのに比べて片や義経は後白河法皇に丸め込まれるわ、兄頼朝を激怒させてしまうわで政治力は皆無と言って差し支えない。 一見似たように見える二人だが、例えて言えば張飛と曹操くらいの人間的な違いがある。 少なくとも、持って生まれた政治的センスだけは年齢を重ねても改善される事は殆どあり得ない。 言語やらなんやらより余程決定的証拠とも思えるのだが・・・ むしろ源義経=ジャムカである、とでも言われた方がまだ信じる事が出来そうな俺。
283 :
漢語の見地から・・・ :2006/11/29(水) 04:05:48 0
>238 ドイツ語では、現在でも「ジンギスカン」とか、「ゲンギスケン」と発音 「ゲンギスケン」は英語表記のGENGHIS KHANをドイツ語読みしているだけでは。 ちなみに、ロックグループのジンギスカンもドイツ語バージョンではDSCHINGIS KHAN 英語バージョンではGENGHIS KHANと使い分けています。 >246 中国語では、「経」のことを「ハン」と言うので、間違いなく、 言いませんよ・・・ 漢音でケイ、呉音でキョウ、唐音でキン、現代中国語ではジン(JING)。
>>279 朝鮮人とトルコ人は同レベルというオチかw
溥儀がチンギスハンの子孫でその祖先が義経なら俺達も連中を笑えんなw
285 :
世界@名無史さん :2006/11/29(水) 09:05:03 0
風ふけば桶屋が儲かる
>10 ジンギスカンは皮の蒙古の鎧ではなく鉄製と記録 あの辺の地域にも鉄の甲冑はあったはず たしか現在のトゥヴァ共和国の辺りで出土してた
>226 >6 ジンギスカンは笹竜胆の兜印、源氏の紋は笹竜胆 笹竜胆は村上源氏の代表家紋です。 宇多源氏も家紋に使用していたようです。 この当時公家の源氏が笹竜胆を使用していたという資料はあるようですが、 武家の間で笹竜胆を使用していたという資料はなかったはずです。 源氏(清和源氏)=笹竜胆というのは江戸時代に入ってから作られた俗説であって、 義経が笹竜胆の紋を付けていたと言う一次資料かそれに近しいものが出てこない限り、 笹竜胆のついた義経関連の遺物とか遺跡は江戸時代以降の捏造の可能性が高いです。
そもそも蒙古人と日本人って同祖じゃん。 天皇一族はバイカル湖畔からきたそうだし。
>>246 引用開始
>当時の中国の共通語(古官話)での「源義経」の大まかな発音は
>yuεn−(ng)i−king ですね。
>これが「ゲンギス」と聞こえるかどうかは・・・ご自分でご判断ください。
引用終り
291 :
GWB :2006/12/05(火) 19:45:35 0
>283 何をいってるの? 中国人が、台湾人が、「経」を「ハン」と発音すると言い、 実際にそう発音しているのだから、あなたの考え方が間違っているんだよ。
292 :
漢語の見地から・・・ :2006/12/06(水) 03:14:00 0
>291 残念ながら聞いたことはありませんね。 少なくとも通常使われる発音にはありません。 何かの隠語でしょうか? もし本当なら出典を明確にしてもらいたいものです。 それに貴方の反論はおかしいですね。 考え方が間違っている? 考え方じゃなくて、事実、発音がそうか、そうでないかです。 貴君は>44で「まじめな歴史研究の発表場」と書いておられますが、研究する のであったら、在日台湾人の筑波大学の大学院生が言っていることであれば、 無条件に信じるその姿勢は問題であると思います。>208 その他にも友達がこういっている、中国人、台湾人がそう言っている、 ドイツ人、ロシア人がこういっている等等、伝聞が多いように思います。 本当に研究をしてみようと思っていますか? それとも自論にとって、都合のいい表層的な情報を集めているに過ぎないので はないでしょうか? ちゃんと検証をしないと、知らぬ間にウソを垂れ流していることにもなりかねませんよ。 自分にとって都合のわるい情報に接した場合、その可能性を受け入れることは 貴君にできるのでしょうか?
そんな根性あるわけないでしょ
295 :
GWB :2006/12/06(水) 16:28:29 0
>292 あっ、そうそう。俺の間違い、中国語では「汗」を「ハン」と発音する、ということ。 「経」は「ジン」と発音する。この件に関しては、あなたは正しい。 「成吉思汗」は、中国語では「チェン ジ シ ハン」と発音するそうだ。 ちなみに、「源義経」は、中国語では「イェン イ ジン」と発音するので、「ジンギスカン」 という発音とは、かなり隔たりがある。 もともと、中国人つまり漢人は蒙古人やウィグル人や満州人などよりも、かなり程度の低い民族 とみなされていたので、満州人が支配層である清朝が、近代の日清戦争で終焉するまで、 漢民族は被支配的立場に置かれていた。従って、中国語で「ジンギスカンヲ」どう発音するかは、 まったく度外視してよいことだ。 そんなことよりも、本日夜8時から12chで「みのもんた歴史ミステリーSP」を見よう! 日本人のルーツがよくわかるだろう。僕の親友が古代イスラエル人問題に関連したインタビュー に応じて出演しているからねW
GWBってのはとんでもないホラ話を吹く奴だな。
297 :
GWB :2006/12/07(木) 08:56:19 0
「みのもんた歴史ミステリーSP」を見た。面白かった。 今度は、このスレを取り上げてもらいたいものだW
こいつの親友ってだけで信憑性ががた落ちだなあ
299 :
GWB :2006/12/08(金) 08:46:37 0
>298 おまえの親友の顔が見たいよ、犯罪者や在日だろうがなW
300 :
世界@名無史さん :2006/12/09(土) 12:16:18 0
300ゲット
だんだんコイツも態度が売り言葉に買い言葉になってきたなw
そう思うならそもそも「売り言葉」をすべきではないのでは。 モンゴルを漢文化圏だと思っていたような人のいうことを事細かに反論して 追い詰めてしまうのも見ていて可哀相だ。
ダーウィンの進化論みたいに巻き返せるといいねw
304 :
GWB :2006/12/15(金) 17:48:50 0
俺は、ダーウィンの進化論を否定する、創造論の立場なんだよ。 すべての生命が、いまある完成した形で神によって創造されたと考えるね。 ただし、馬のひづめが変化したように、部分的変異が生じたことは認めるよ。
305 :
GWB :2006/12/16(土) 00:07:11 0
そうすれば、義経がモンゴルに渡りジンギスカンとなったのも、神の力として全て説明がつくね。
306 :
世界@名無史さん :2006/12/16(土) 03:14:17 O
大陸移動説なら巻き返せるで
義経=チンギス、創造論と来たら次は何だろう UFO? ユダヤ人陰謀論?
308 :
GWB :2006/12/18(月) 09:14:38 0
人類は滅亡する!
なんか複数の人間が一つのコテで書いてないか
310 :
GWB :2006/12/21(木) 11:46:21 0
>305 >308 僕のコテハンを使って、スレ荒らしをするのは止めてくれないか! ところで、あの宇野正美は、源義経・楠正成・徳川家康・明治天皇の正体を研究し、真実を追及しはじめたね。 「これらの正体を理解せずして、日本人の明るい未来は開けない」と宇野正美は信じている。 ただし、「秋篠宮殿下と紀子様の、帝王切開をして生まれた男の子は、皇室を維持していくために、日本を支配 している、ある一族によって取り替えられた」という主張は、国賊的な妄想としか言いようがないが・・・。 このようなことを、彼の(株)リバティ情報研究所に 毎月5万円を払ってまで彼の講演CDを購入している僕の友人が教えてくれたよ。
西郷がロシア帝国に亡命したって伝説もあるくらいだからトンデモ自体はいいが 義経ってチンギスと正反対の性格だろ。 仮にも中央アジアまで侵略するような男ではない 義経なら、金朝と仲良くしながら細々と高原で羊を飼ってる
312 :
世界@名無史さん :2006/12/21(木) 12:22:15 0
義経は世のため人のため、そして兄のために戦った。 お家再興のために身を粉にして働いた。 言わば、利を求めずに生きる義の人であった。 しかし、結果として兄に追われる身となった。 必死に戦ったその報いがこれか・・・ 疲れ切った彼が呟いた一言が 「仁義、好かん・・・」 その言葉を耳にした弁慶は 「それ、いいっすね!いけてるっすよ!」 んで、ジンギスカンになったの。
>>1 のいいたいのは、義経が蝦夷でアイヌに捕まりジンギスカン鍋にされたということだ。ちゃんと文章読め。
314 :
GWB :2006/12/22(金) 10:37:54 0
>311 >義経ってチンギスと正反対の性格だろ。 性格は置かれている環境によって変わるものだ。善良な虫も殺さないクリスチャンの米兵だって、 イラクの戦場に身を置けば、イラク人の暴徒に対して機関銃を乱射したという。 文字が無く、和歌や申楽のような繊細な文化も無い、野蛮なモンゴル原住民を統率していくため には、おなじく野蛮で残酷に振る舞い、動物を調教するように行動し指導する必要があったはずだ。 このようなジンギスカンの内面は、非常に高貴で文化的に洗練されていたことは、その死にあたっ て、ホラズムを占領した際に妾にした、元敵将の妻が後追い自殺をしたこと等に現れていると思う。
じゃあそのロジックが出る頭も環境の影響ってことか?たまには外国で休暇とってきた方がいいぜ。
一度はモンゴルに行ってみたいが、草原地帯は夏だと でかい蚊とか羽虫とかいっぱいいるそうだが気にならんかなあ
「蒼天航路」の原作者が昔書いたマンガ「文と武」の中で
高麗人が「文字というものをもたないモンゴル人は
野蛮そのものだ」!」とセリフを吐いていたのを見て
「ウイグル文字も知らないで元が舞台のマンガ書くなよ・・・」
と唖然とした記憶が蘇ってきた。ありがとう
>>314
318 :
世界@名無史さん :2006/12/23(土) 04:35:30 0
なんか、自分の都合のいい様にしか論が展開していないぁ・・・ まるで、「犬は四本足である。四本足なのは犬である。猫も四本足である。 よって、猫は犬である。」的論法だな。。。
この、GWBみたいに、キチガイのフリをすればアラシをやっても良い、なんて事を 本気で考えているヤツ、ってのは、実際のところ「自分が演じていると思い込んでいる」 ソレとは種類の違うキチガイなんだね。 あんまりキチガイの相手をすると、病気を悪化させてしまうので、ホドホドに しといてくれ。
>この、GWBみたいに、キチガイのフリをすればアラシをやっても良い、なんて事を >本気で考えているヤツ 彼は本気で言ってるのではなく釣り師だということ?
>>320 >彼は本気で言ってるのではなく釣り師だということ?
ちょっと違う。
彼は『本気で言ってるのではなく、自分を釣り師だと思い込んでいるキチガイ』
なんだよ。
実際問題として、『こんなに長期間に渡ってキチガイの振りをする』のは精神衛生上
かなり危険な事なんだが、ソレが普通に出来ている、という時点で既にカレは正常な
精神状態にはない、と考えていいだろう。
もちろん本人は全く気づいていないだろうがね。
だから、キミたちが彼の相手をすれば、それだけカレの病気が進行する事になるので、
カレが可愛そうだと思うなら、相手をするのは控えた方が良いだろうね。
とはいえ、キミたちが『人間が壊れるところを見てみたい』、というのなら私には止める
事はできないが。
322 :
GWB :2006/12/26(火) 18:00:55 0
ここまで、かなりの読みごたえがあったと思う。 現代史における主導権は、北朝鮮の金正日のごとく、その学習組とか、スパイ組織が暗躍することで、 日本人の手から奪いとられてきたわけだ。その原因をたどれば、大日本帝国による自発的終戦後、 敵対する連合国GHQによる日本人に対する思想検閲と洗脳工作、そしてソ連と中国共産党による赤色工作 にある。戦後61年経った今、日本人は、ようやく、外国による思想検閲と洗脳工作の呪縛から解放されつ つある。 日本人が自らの過去の歴史を正しく理解するとき、未来の歴史における主導権も、外国から取り戻せるのだ。 日本人に対して謀略の限りをつくしている北朝鮮の背後には、それを操っている中国共産党がいる。彼らは、 歴史教育と歴史認識の重要性を知り尽くしており、ある一つの民族を思いのままに従属支配するためには、 その歴史を捏造し、真実の歴史を覆い隠くすことが一番効果的であることを知っている。それゆえ、清朝が 中国人の国だったとか、日本軍が進軍する以前の満州地域には近代的国家があったとかいう虚偽宣伝を繰り 返すのである。毛沢東によれば、日本軍と国民党軍の衝突に至った盧溝橋事件は、中共の仕組んだ謀略であ ったし、朝鮮人に対する従軍慰安婦問題とか、創始改名問題とか、ともかく、あらゆる歴史を全部、ウソと デタラメで塗り固められてきたのが、現在の日本人なのである。そして、その日本人のなかにも、部落民の 末裔とか、左翼思想に洗脳された人々とか、外国人に歴史的・精神的に奴隷化された人々がいて、同じ日本 人を、それも真実の歴史を伝えようとする日本人を誹謗中傷している。しかし、時は来たのだ! 日本人が 自らの輝かしい真実の歴史に目覚めるときが! ジンギスカンの築いた世界帝国は、これから日本人が創るであろう、諸民族が統一された世界政府の原型である。
どうしたら話の主題がいきなり800年先にぶっ飛ぶんだ? それにグローバル化して余計に民族意識が強まってる時代だろうが。
325 :
世界@名無史さん :2006/12/31(日) 12:49:30 0
326 :
世界@名無史さん :2006/12/31(日) 12:57:40 0
327 :
世界@名無史さん :
2006/12/31(日) 13:06:56 0 >>325 のスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
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