>>84 > オーストリアに向かった部隊は主に何人で構成されて
結論から言うと、全くの不明。これについては調べた限りとりとめも無い話になってしまうのだが・・・
バトゥ率いるモンゴル諸軍は、チンギ・ハンのホラズム遠征やもう少し後のフレグの西方遠征に匹敵する規模の
大軍団だったらしいが、バトゥの弟シバンが率いていた本営軍所属の前衛部隊が1万人だったこと以外は、
『世界征服者史』や『集史』といったモンゴル側の資料では明確な数字がまったく出てきていない。
また、ベーラ4世が敗走してからオゴデイの訃報によって撤退するまでのモンゴル諸軍の行動は、ほとんど明確な
記載が無いため具体的なことが分かっていない状況だ。そのため、ハンガリー遠征の後半については、欧州側の
資料に残る記録をつなぎ合わせることによって全体を復元しか方法が無い。ハンガリー側の年代記などによれば、
モンゴルが撤退する直前には、旧都エステルゴムなどが壊滅寸前になっていたことや、同じ時期にウィーン近郊に
モンゴルの偵察部隊らしきものが出没していたらしいこと、クロアティア、ダルマティア方面がベーラ4世を
追っていたカダンの軍によって劫略されていたらしいことが分かっている。トランシルバニアもアルバユリアが
池沼が多かったため陥落を免れていたことなど以外はハンガリー王国のほとんどの地域は劫略されていたらしい。
さて、ウィーン近傍でのオーストリア連合軍によるモンゴルとの遭遇についてだが、これは2回程あったらしい。
エステルゴムの包囲攻撃の最中と重なるようだが、最初1241年8月に、ウィーン近郊の守備塀100人に満たない
ヴィーナーノイシュタット周辺にモンゴル軍の部隊が現れたらしい。規模はよくわからない。
>>85の続き。
これに対し、バーベンベルク家のオーストリア公フリードリヒ2世(在位1230-1246年)が中心となって
周辺諸国の王侯が迎撃に出たようだ。マシュー・パリスの年代記によると、このオーストリア連合軍に参加した
のはフリードリヒ公の他には、プシェミスル家のボヘミア国王ヴァーツラフ1世(在位1230-1253年)、
カリンティア公(現ケルンテン州)の恐らくシュパンハイム家のベルンハルト2世(在位1202-1256年)、
ツェーリング家のヘルマン5世(在位1190-1243年)、アドリア海沿岸の主要都市アクィレイアの総大司教
(これが誰だかよく分らなかった)らだったようだ。
しかし、この時モンゴル軍部隊は交戦する間も無く早々に撤退したらしい。オーストリア連合軍はこれを勝利と
見なして有りもしない戦果を誇大に喧伝していたらしい。
ここら辺からよく分らないのだが、エステルゴムを壊滅させたのち、カダンはベーラ4世を追撃するよう派遣され、
そのままダルマティア方面へ下ったらしい。ベーラ4世はブラティスラヴァへほうほうの体で逃げ出し、ここで
フリードリヒ公と接触して加勢を頼んだようだが、公はウィーンをはじめとするオーストリア地方への租税の
免除とその賠償を要求し、さらにそれにも満足せずドナウ東方がモンゴル軍によって劫略の憂き目に合っていた
にも関わらず、ドナウ西方のハンガリー王国の諸地方を劫略し、ジュール市を占領さえしたらしい。
ベーラ4世はカダアン率いるモンゴル軍が追撃してくるとの情報を得ると直ちにダルマティア地方へ逃走。
そのままアドリア海まで逃げ延びた。一方フリードリヒ公は、翌年の1242年にウィーン近郊のクロイスター
ノイブルクで再度モンゴルの部隊と遭遇したらしい。そこで撤退する部隊を追撃して一部と交戦、捕虜を8人
得たらしいが、そのうちの一人が例のイングランド人だったらしい。他の7人についてはどのような素性かは
良く分らなかった。
>>86の続き。
取り敢えずオーストリア連合軍のウィーン近郊でのモンゴル軍との遭遇については、マシュー・パリスの年代記
に載っている情報らしいのだが、自分は原書が手許にないので確認できない。オーストリア大公フリードリヒに
ついてもドイツ・オーストリア史に明るく無いので、詳しい方にこの時期のドイツ・オーストリア地域の王侯たちの
動静について伺いたいところ。勿論当時の彼らにありがちな白髪三千条な戦果はまま置くとして。
モンゴルの偵察部隊は派遣される規模も、その場によってまちまちで一概にこれと決まっていない。
だから件のシバン率いる1万から100、あるいは10までと幅が有り過ぎる。何らかの年代記に具体的な数字が
載っていれば別だが、これもなかなか信用できる数字かどうかはまた問題があろうけども。