【江東】長江流域の歴史【江南】

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1世界@名無史さん
黄河文化と起源を別にし、次第に中原文化に組み込まれて行き。
晋代以降、中華文化の中心地として栄えた長江流域。

を好きなだけ語ってください。
2世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:51:33 0
戦前の日本では揚子江と呼んでたね。下流の一部の名称に過ぎなかったんだが。
3世界@名無史さん:2006/04/22(土) 22:04:43 0
楚や呉越について語るマイナースレですか?
41:2006/04/23(日) 09:49:31 0
>>3
そう。
あと越族とかの周辺民族。
マイナーだけど、煮詰めれば濃い話ができそうだから。
5世界@名無史さん:2006/04/23(日) 14:45:54 0
五代十国時代の南唐も含んでくれよ。
当時の文化の最先端国家。
6世界@名無史さん:2006/04/23(日) 16:38:28 0
長江流域のよしみでこちらも宜しくね。

【何升】雲南の歴史【大理】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1087063677/l50
 
7世界@名無史さん:2006/04/23(日) 22:33:39 0
超古代タイ文明スレ?
8世界@名無史さん:2006/04/23(日) 22:36:18 0
イナモリストーンスレと呼び換えてもいいな
9世界@名無史さん:2006/04/24(月) 17:15:23 0
めんたま飛び出ます。
10世界@名無史さん:2006/04/29(土) 09:03:08 0
古代には象がいたらしい
11世界@名無史さん:2006/04/29(土) 16:39:05 0
>9
三星堆遺跡の青銅人面のアレかね?
縦目の王は蚕叢だったっけな。
12世界@名無史さん:2006/04/29(土) 16:52:42 0
平和にくらしていた長江の諸民族を
黄帝を旗手とする中原の連中が虐殺しまくって支配したのです。
13世界@名無史さん:2006/04/29(土) 23:40:36 0
ここで訊いていいのかわからんのですが、
楚など南方にいたという「ジ」という動物は
今のサイとは違うんですかね?
どんな動物なんでしょ?



こんな漢字です。
14世界@名無史さん:2006/05/04(木) 22:32:42 0
何かネタを振らないとこのまま沈むだけだぞ>>1
ただでさえ情報少ない上に、他に過疎スレが沢山あるのだ。
楚や呉越なら春秋戦国検討委員会の方に書込むだろうし、
南唐だって五代スレに普通は書込むだろう。呉や南宋なんて言わずもがなだ。
15世界@名無史さん:2006/05/04(木) 22:36:10 0
江南出身の文化人でも語れば?時代別に。
例えば黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」
16世界@名無史さん:2006/05/04(木) 22:39:24 0
スレ立て人が責任持ってネタ振らないと
こういうマイナースレはドロドロ下がっていくだけ。
ネタ振りの力量のない者はスレ立てるな。
17世界@名無史さん:2006/05/04(木) 22:50:50 0
このスレの将来を占ってしんぜよう

検索したけど、情報がないよ

スレをたてればネタがイパーイ!

ネタふれゴルラー

触れないよ

コピペーあらし

定期あげ

からあげ
18世界@名無史さん:2006/05/05(金) 13:05:13 0
日本人は古代長江流域に住んでいた民族の子孫だって言えば盛り上がるよ。
19世界@名無史さん:2006/05/06(土) 06:54:02 0
>>13
青木良輔『ワニと龍』平凡社新書によると、
-----------------------------------------------------------------
また、「龍」と同じように、姿を消したことによって字が交替したと見られる例が
他にもある。「兕」というのがそれで、殷の頃には黄河流域にもいたサイのこと
である。現在、この動物は「犀」と表記されているが、やはり寒冷化による接触
の途絶が字の交替をもたらしたらしい。(P.76)
-----------------------------------------------------------------
とのこと。当初は「兕」と表記されていたサイが、気候の寒冷化によって中原から消滅。
その後、一時的に温暖化した際にサイの生息圏が北上、あるいは逆に、中原文化圏が
南方に拡大したことによって、再びサイと接触。その時は「犀」の字を当てたらしい。
20世界@名無史さん:2006/05/07(日) 20:32:00 0
20ゲット
21世界@名無史さん:2006/05/09(火) 05:10:15 0
何も話題がないまま2週間経過。
22世界@名無史さん:2006/05/20(土) 00:03:37 0
いよいよ長江に三峡ダムが完成オープン。

世界最大の発電量(一つで九州電力の総発電量を上回る)

世界最大のコンクリート(崩壊したWTCの200本分)

世界最大の貯水量(日本の全ダムの貯水量の2倍弱)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:200407-sandouping-sanxiadaba.jpg
23世界@名無史さん:2006/05/20(土) 17:38:02 0
この間索道suodaoでわたったね。
24世界@名無史さん:2006/05/20(土) 22:59:20 0
中国最大の淡水湖ってどこですか?
25世界@名無史さん:2006/05/20(土) 23:15:01 0
>>22
そして、世界最大の自然破壊と世界最大の強制移住・・・
26世界@名無史さん:2006/05/20(土) 23:22:05 0
>>23
まさか野猿とかw
27世界@名無史さん:2006/05/26(金) 23:57:33 0
>>26
前回のウルルン滞在記でワイヤーと滑車のやつが登場したなあ。
28世界@名無史さん:2006/05/27(土) 00:32:56 0
>27
残念でした。あれは怒江でサルウィン川上流だよ。
29世界@名無史さん:2006/06/24(土) 21:47:38 0
鋼索以前は割り竹を編んだケーブルを張り渡したそうな。
意外と強靭で耐久性も優れていたので、今でも吊り橋に使われているとのこと。
30世界@名無史さん:2006/07/02(日) 00:55:40 0
「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。蛙と亀は穴を
 共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。ざんばら髪の君には長者の相なく、
 入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、建康(今の南京)に住まいし、
 ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言
 ふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が
 代用飯、茶が飲物代わり。じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)を
 クチャクチャ。手には豆寇{共にクサかんむり}(ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛
 む。中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、
 鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。        」

* 六世紀に書かれた「洛陽伽藍記」より *

華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味そう!
31世界@名無史さん:2006/07/02(日) 00:59:46 0
呉越系弥生人=倭人はアジアのバイキングらしいな!後の福建人もはいるか
日本列島、琉球、台湾、フィリピン、百済、グアム、も呉越人の植民地?
みんなビンロウ文化圏 (百済は違うか)、海の女神馬祖(マーツ)
日本でも松(マーツ)は神聖な木だし(門松)、祭り、祀る、とも関係有りそう
ビンロウて美味いんかな口真っ赤にしてクチャクチャ噛んでるけど。
32世界@名無史さん:2006/07/02(日) 01:01:34 0
この板に江南地方出身の方、居られませんか!
居られたら、教えてほしいんですが。
古代の発音で倭人と越人が同じ(WO)ヲニンと
発音すると聞いたのですが本当ですか。
33世界@名無史さん:2006/07/02(日) 01:09:45 0
呉越系弥生人=倭人とも言う。が朝鮮半島南部に移民、彼らの勢力によって、
加羅、新羅、クダ羅(百済)、耽羅(済州島)、末羅(松浦半島)比羅(平戸)
と大和勢力(呉越系弥生人と縄文人のハーフ)による、連合国家樹立かな?
34世界@名無史さん:2006/07/02(日) 01:22:07 0
アジアで鵜飼い漁と、れんこんを食べる民族は
日本人と江南人だけやと、聞いた事有るな?

これ、ほんとの話
35世界@名無史さん:2006/07/02(日) 06:12:15 0
「越」は、中古音γiwat、粤音jyt。
「倭」は、中古音iwe/ua、粤音wo
だから、古代に同音であった可能性は低いんじゃないかな。
36世界@名無史さん:2006/07/02(日) 06:34:25 0
呉音で「倭」は、「ヰ」に近い音だったのかな?
37世界@名無史さん:2006/07/02(日) 06:41:54 0
wo→wi(あるいはその逆)という変化は、ありえたのかな??
中古音、粤音以外に、この発音があれば、可能性もあるけど…
38世界@名無史さん:2006/07/02(日) 07:50:31 0
>>32

ひょっとして、元記事はここですかい?
http://blog.readymade.jp/tiao/archives/000884.html

>「越」の古代音は「wo」であり、「倭=wa」に通じる。

「古代音」というのが、時期・場所など漠然としていますが、
こちらのブログ主氏に直接聞いてみてはいかがだろうか?
39世界@名無史さん:2006/07/02(日) 23:54:15 0
アホ!
「越」は入声なんだから古代音で「倭」と同音なわけが無いだろ!
40世界@名無史さん:2006/07/02(日) 23:57:40 0
自分も真っ先にそれに気付いた。
諸橋大漢和に上古・中古音が載っていた希ガス。
41世界@名無史さん:2006/07/03(月) 01:12:30 0
入声が消えてるんだから、古代音じゃなくて中近世の発音だろう。
しかも江南の方言だというなら、多くの方言が今でも入声を残しているから、かなり限定されてくる。
42世界@名無史さん:2006/07/03(月) 13:01:26 0
ここでも、倭と越は同じ発音だったと指摘している人がいるな。
やっぱ、ガセネタを発した奴がどこかにいるなのかな?
てか、実際の発音は同だったんだろうね?

http://www.esri.jp/~nobu/asia/shiryou/shouyou/chou3.htm

>上流域「倭(wo)」
>下流域「越(wo)」
43世界@名無史さん:2006/07/04(火) 00:54:32 0
9世紀だったかな倭名類ジュウ鈔とか言う本に
鬼を呉人はオニと言い越人はキと発音すると書いてるな。
44世界@名無史さん:2006/07/04(火) 07:31:56 0
へー。そうだったっけ?
余談だけど、「倭名類聚抄」では、トラの語源は楚語の「於兔(オト)」に由来するとも
書かれているよ。
45世界@名無史さん:2006/07/04(火) 07:49:32 0
>>43
>>44
やっぱり長江流域の人たちと関係があるのかな・・・

他人の空似だったらそれはそれで面白いけどw
46世界@名無史さん:2006/07/05(水) 18:31:50 0
そりゃ関係有るでしょ
いつ頃出来たか知らないけど寧波(ニンポウ)ニッポンと言う港町も有るし
日本で言えばアメリカ行きのメリケン波止場といった所かな
47世界@名無史さん:2006/07/05(水) 19:22:14 0
私の独り事
呉人→オニン→オニ(赤鬼、青鬼)→(呉人は赤鬼、魏人は青鬼)軍旗の色かな?
越人→ヲニン→ワニ(動物のワニ、出雲神話ワニ=サメ、王仁族、和邇氏)越人の軍旗何色かな?
縄文人にとって恐いものオニ、ワニ、サメ、なまはげ
48世界@名無史さん:2006/07/05(水) 21:16:50 0
比叡山延暦寺の伝教大師最澄も江南天台山で修行してるしな
日本人にとって先祖の土地って感覚かな、この前の戦争で上海、南京、爆撃したんで
先祖のばち当たった。
49世界@名無史さん:2006/07/05(水) 23:18:05 0
バーカ、先祖なわけないだろw
50世界@名無史さん:2006/07/06(木) 06:28:25 0
>>46
さすがに、寧波(ニンポー)は、日本(にっぽん)じゃないでしょw
日本は、(中国から見て)日が昇る国という意味でしょう。
51世界@名無史さん:2006/07/06(木) 12:00:45 0
長江文明は黄河文明に同化吸収されて滅んだと聞く。
太古の昔、黄河発祥の権力に長江のそれが負け、逃げ惑ったいくつかの部族が
黒潮(対馬海流)に乗り九州までたどり着き、土着の倭政権を打ち倒し、
「大和」を作ったのかも試練
52世界@名無史さん:2006/07/06(木) 16:38:46 0
別に滅ぼされたとしても海まで渡って逃げようとはせんだろう
53世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:17:21 0
朝鮮へは逃げただろうね。陸続きだからさ。
54世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:23:41 0
>>53
それはギャグで言っているのか?

>>52
越南やタイのほうに逃げる罠。
55世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:26:21 0
より深く古代史を勉強ハセヨ。
56世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:27:16 0
遺伝子を調べると日本の米のルーツは長江河口域らしいな。

それと、九州北部と朝鮮半島南部に対馬海峡を挟んで初期の弥生文化が栄えている。

弥生人は越から来て対馬海峡の両側に住み着いたのかも。
57世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:29:38 0
大国主命の治世を助けた少彦名命が来た常世の国というのは朝鮮南部だろ。

だから対馬海峡の両側が倭人の地域だったに違いない。
58世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:30:56 0
徐福伝説もあるし、その説も一理あるな。
59世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:31:12 0
>>56
中国人怖いよ〜w
60世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:31:54 0
地図で見ると上海と九州は案外近い。
61世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:33:38 0
うわ〜中国人に包囲されてる〜ww
62世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:34:30 0
>>59
そんな時代は漢民族はまだ長江河口域に勢力を伸ばしていない。

いくらもしないうちに漢民族に攻められて越が滅亡するが、越人は漢人とは全く違う言葉を話していたという。

どんな言葉か判然としないが、シナ系ではないだろう。
63世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:37:44 0
米だけでなく人間の遺伝子も調べたいものだが、もう中国人はごちゃまぜになってしまって、
長江河口域独特の遺伝子マーカーなんて見つからないだろうな。
64世界@名無史さん:2006/07/06(木) 18:46:52 0
>>58
本当に徐福が日本(平原広沢)の「王」になったかどうかは疑わしいが

徐福の一団(3000人だっけ?)に相当する技術集団がやって来て

地元民に農業その他を伝えたというのがなんだか一番ありえる気がする。

徐福は一説には秦氏の先祖だというが、そんな感じでいいだろう。

文献や伝説では限界があることだし、あとは考古学などの成果をじっくり待つしかない。
65世界@名無史さん:2006/07/06(木) 20:09:22 0
>>60
鎌倉時代の僧円月が博多と寧波を行き来してるんだけど、その時の記録に
4〜5日で渡航出来ると書いてるな(波静かで順風の時)
黒潮の支流、対馬暖流と西風に乗れば寝てても九州につくよ
今でも上海のごみが対馬あたりに流れつくよ、越前クラゲも
中国春秋時代の呉、越の海軍力なら訳ないよ。「赤壁の戦い」「呉越同船」
で世界一の操船技術がある。「臥薪嘗胆」の忍耐力もあるし
日本人も辛抱強いだろ!
66世界@名無史さん:2006/07/06(木) 20:37:56 0
>>65
「赤壁の戦い」は春秋時代じゃないぞ・・・

海流に乗れば簡単に九州に着くのか、遠いようで近かったんだな。
67世界@名無史さん:2006/07/06(木) 20:38:26 0
よし、エチゼンクラゲという名前はよして、
発生地にちなんで「呉越クラゲ」と呼ぼう!
68世界@名無史さん:2006/07/06(木) 20:50:26 0
>>59
中国人と一括りに言うけど、弥生頃の華北人と江南人は別人種だよ
今は混血してるけど、江南人は東南アジア人に近い人種
漢和辞典に華北の漢音と江南の呉音が載ってるだろ
日本人と東南アジア人はどっか近しい気がする、初めて会った人
には照れから来るハニカミのしぐさをするしな。
69世界@名無史さん:2006/07/06(木) 20:59:26 0
>>66
すまん「赤壁」は三国時代やったな、勘違い!
70世界@名無史さん:2006/07/06(木) 21:20:12 0
>>65
確かに寝ていても着く場合もあるが、季節風の吹く時期とかはかなり厳しいよ。
一番いいのは、半島をつたい、渤海へ到達するコースだと思うがな。
71世界@名無史さん:2006/07/06(木) 21:41:13 0
>>70
またその逆も比較的楽チンだと思われ。
72世界@名無史さん:2006/07/06(木) 22:01:44 0
>>70
あるいはそのコースを取ったのかもしれない。
ただ、それだと朝鮮半島北半に着いてしまい、当時の米作には季候風土が適していない。
他者を受け入れない因業で好戦的な原住民もいただろうし。
その場合、結局は半島西岸を南下したと思う。
彼らが徐福の率いる一団だとすれば、平原広沢を求めていたから、
なおさら半島北半に定住したとは考えにくい。
73世界@名無史さん:2006/07/06(木) 22:14:28 0
当時中国に渡るには三ルートが有ったんだよ
1、山東朝鮮の北ルート2、寧波北九州の直行ルート3、琉球台湾の南ルート
自然と共に生きてる人達だから季節風の風向きを考えながら
現代人より遥かに知識、知恵が豊富だよ。それでも危険は付き物だけど
74世界@名無史さん:2006/07/06(木) 22:31:42 0
>>72
徐福は知らないが、半島国家同士でも、内陸を通らずに海岸線を辿って移動するのは、
新羅・百済の時代か行われていたように思ったが、思い違いか?
東シナ海ぶっちぎりルートは、極めて危険。
東シナ海航路が一般化したのは、造船技術と航海技術が進歩してからだと思うけど。

>>73
へー。
黒潮ルートは渡来コースとしてはあまり注目されていないね。
一番労力が少なくて住みそうなんだが、決め手となる移住の証拠が出てこない
からだろう。このルートでは、稲も入ってきていないようだし。
75世界@名無史さん:2006/07/06(木) 22:38:03 0
>>73
つづき

渡来の話は余談だけど、実際に、渡航の際に沖縄経由ってどの程度使われたの?
76世界@名無史さん:2006/07/06(木) 22:59:48 0
ヴェトナム戦争終結後、南ヴェトナムから筏のようなボートやボロ船に乗って大量の難民が日本まで流れて来たわけだが・・・。
(台風やらなんやらで死んだのも大勢いたらしいが。)

黒潮は、福建省あたりからの日本への密入国ルートでもあったんだが。
(これは比較的最近だな。)
77世界@名無史さん:2006/07/06(木) 23:04:19 0
残念なのは北ルートに比べ直行、南ルートに関わった人達は文字を
知らない為記録が残っておらず学問的にはあまり知られてないだけ
うわさは広まっていた呉の孫権伝だったかな、に載ってるな
倭人の国へ軍団を引き連れて行こうとしてたはず、来たかも知れんな。
78世界@名無史さん:2006/07/07(金) 14:13:39 0
ほらよ、燃料投下。

1.継体天皇陵問題

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku195.htm
79世界@名無史さん:2006/07/07(金) 14:25:17 0
>>74
>造船技術と航海技術が進歩してからだと思うけど。

いや、これらはむしろ退化している。
遣隋使や遣唐使に使われた船は大きいが非常に不安定だったし船足もノロかった。

大昔の、丸木舟におそらくアウトリガーの付いたタイプが一番安定して効率的だった。
80世界@名無史さん:2006/07/07(金) 14:35:06 0
>>78
TNX、やっぱり倭人は揚子江河口域から東シナ海を直接横断してやってきて、
朝鮮半島南部と九州北部に住み着いたとしか考えられない
徐福はあながち作り話とはいえないな
81世界@名無史さん:2006/07/07(金) 17:23:35 0
縄文人でさえ黒潮にのって南九州、紀伊半島、八丈島を行き来してるし
それにポリネシア人、ミクロネシア人はすでに一万年ほど前から島々を
行き来してる、ハワイの遺跡なんか一万七千年前だよ
古代の海洋民を馬鹿にしてるな千キロ〜三千キロなんて庭だよ
東シナ海なんてちょっと大きい湖、陸地を馬で行き来してるもんには
想像が付かんだろうけど。
82世界@名無史さん:2006/07/07(金) 18:19:03 0
>>79
申し訳ない、具体的なソースを提示してくれるとなおありがたいのだ。
83世界@名無史さん:2006/07/07(金) 18:47:50 0
84世界@名無史さん:2006/07/07(金) 21:53:44 0
>>83
これは酷いなぁ…
海洋国家がこの体たらく。
85世界@名無史さん:2006/07/08(土) 12:45:07 0
>>83
弥生開始以前に列島以外のどこか別の場所からの渡来が相次いだということは、
当時の丸木舟に毛が生えたような舟の方が、転覆もせず、小回りも聞いて操縦
しやすかったのかもナ。
86世界@名無史さん:2006/07/08(土) 14:30:36 0
東夷観の成立

http://shinjuku.cool.ne.jp/jiangnanke/book/jnihonzo/nihonzo_1-3.htm

中華に対する倭人の位置づけ
87世界@名無史さん:2006/07/09(日) 17:10:38 0
なんか夢のある話だな。

弥生文化朝鮮半島起源説よりずっと気持ちがいい。
88世界@名無史さん:2006/07/09(日) 18:17:11 0
黒潮ルート、江南、これらは歴史ヲタにとっては隠れた人気スポットだからなー

司馬遼太郎なんかもそうだと思うが、中高年にも人気が高い。最近では、若年層
の間でも人気が広がっていると思う。日本人は、基本的に三国志・水滸伝ヲタが
多いから、『政治以外』の分野では中国人気が高いんだろうよ。日本人で高句麗
ヲタなんて、滅多に聞かないからなあw
89世界@名無史さん:2006/07/09(日) 20:02:33 0
この頃よそのスレで江南地方の陶器がどうのこうのと言う方が居られるけども
あまり船に乗った事が無い方の様ですね船にとって浮力が命、武器以外
重い物は極力乗せない(だから日本では木のわんが発達)それに船がゆれて
転がって直ぐ割れてしまう、だから焼き物にはあまり感心がない米は必要
倭人国に着いて米を炊くぐらい縄文土器でも竹筒でも出来る
90世界@名無史さん:2006/07/09(日) 20:30:08 0
日本人にとって春秋、戦国、三国時代と言うとすぐ遠い中国の昔の話と
思ってるけど、実はそうじゃないんですよ大きな戦乱が有ると何時の世でも
敗残兵、難民があふれ逃げ迷うその者たちが海に逃げた場合船を漕ぐ体力も無い
風と潮の流れに任せたら九州の島々に着いた此処には敵も居らんし住んでみるか
と言う具合に成るんじゃないかな。
91世界@名無史さん:2006/07/09(日) 20:31:06 0
少し読みにくいので、できれば句読点を入れてくださいm(_ _)m
92世界@名無史さん:2006/07/09(日) 20:37:25 0
NHKの某世界遺産番組で“(長江流域から)弥生時代に稲作とともに鵜飼が伝わった可能性がある”
と放送していました、そう言えば。ここ2〜3日、やたらと“鵜飼”とい言葉を目にするので、
何か気になって仕方がありません。
93世界@名無史さん:2006/07/09(日) 21:25:07 0
皆やたらと鵜飼いの話してるね、たしかに日本の鵜飼いには、古代の
姿がよく残ってるけど(奈良時代)たしか上の方に、ちっぽけな冠帽
ちんちくりんの着物、まさにあの姿だね奈良時代の人は、良く冠帽を
かぶってたからね。
94世界@名無史さん:2006/07/09(日) 21:41:00 0
>>86の「東夷観」に付け加える事は「蜃気楼」だな。
95世界@名無史さん:2006/07/09(日) 22:01:42 0
あぁ、蜃気楼ね。あれは、蓬莱幻想をかきたてたはず。
96世界@名無史さん:2006/07/09(日) 22:18:50 0
呉の孫権も蜃気楼に、とりつかれた一人だね
必死に倭人の国を探してたな、失敗したみたいだけど
夷州には着いたが、壇州には着かなかった。
97世界@名無史さん:2006/07/09(日) 22:23:07 0
要するにに今では弥生文化のルーツは古代朝鮮王朝でなく江南にあった可能性が高いと?
98世界@名無史さん:2006/07/09(日) 22:27:47 0
>>92-93
[鵜飼と長良川]
http://www.city.gifu.gifu.jp/kankou/ukai_00.html

鵜飼について↑
鵜匠のいでたちは、なかなか興味深い。

>>97
王朝というよりも、それ以前の文化の方にリンクするものがあるんじゃないの?

99世界@名無史さん:2006/07/09(日) 22:33:50 0
>>98
それ以前って古朝鮮?騎馬民族説?
100世界@名無史さん:2006/07/09(日) 22:43:43 0
純粋な騎馬民族なんて、モンゴル以外は、半島にも来てないんじゃないの?
扶余も半農半牧だし。騎馬民族なんて、妄想の賜物だって言うことでそ。
101世界@名無史さん:2006/07/09(日) 23:06:27 0
>>99
王権ができる以前の農耕文化ってことだろ
102世界@名無史さん:2006/07/09(日) 23:10:07 0
江南地方、呉ー呉服、越ー越前、越後の越の国、米のふるさと
な〜んとなく魂がゆさぶられるんだな、学問とか理屈じゃなく
先祖の魂が呼んでる様な。
103世界@名無史さん:2006/07/09(日) 23:16:10 0
今、雲南にいる苗族は呉、ベトナム人は越に住んでいたが、
どちらも戦争に負けて、南に逃げたものだけが生き延びた
104世界@名無史さん:2006/07/09(日) 23:45:49 0
>>103…しれっとトンデモを書かないこと。呉越なんて詳細不明なのに。
105世界@名無史さん:2006/07/10(月) 00:02:03 0
>>101
弥生文化が朝鮮半島最南部に定着する前も古朝鮮は稲作文化だったの?
106世界@名無史さん:2006/07/10(月) 07:11:28 0
>>105
「古朝鮮」
漢の武帝に4郡を設置(BC108)される以前の古代朝鮮国家の総称で、
具体的には、檀君朝鮮、箕氏朝鮮、衛氏朝鮮を指すが、韓国人は、
漠然と李朝と比較して“古朝鮮”と呼ぶことがある。

朝鮮半島と日本の弥生文化は、完全にイコールではなくて、かなり
違いがあると思うんだけど、なぜこういうことになっているのか、
という事を一度じっくりと考えた方がいいんじゃまいか?
日本人も韓国人も混血がかなり進んだ民族なので、混血具合が近く、
現代人同士の遺伝子距離が近くなっているが、それでもかなり違う。
例えば、直接の渡来が無くても日本人とチベット人の遺伝子距離は
最も近い方だが、これは、直接チベット人が渡来したというよりは、
さまざまな民族と混血する過程で、たまたまよく似た遺伝子構造に
なってしまったのだと思う。

>>104
>呉越なんて詳細不明なのに。

メジャーな民族なので、不明ということは無いのでは。
呉・越が大陸のどこまで攻め上ったか、秦の始皇帝によってどこへ
移住させられたか…とかは、大陸の古文書に詳しく書かれていると
思うけど。

半島から列島への移住者は多かったと思うけど、じゃぁ、半島に住み
ついた連中がどこからやって来たのか?と考えた事が一度でもある?
“半島”で思考が停止してしまうから、現代の朝鮮人と同一視して、
研究が全く進まなくなっているんだと思うよ。
107世界@名無史さん:2006/07/10(月) 07:13:24 0
>>105
稲作の歴史に関しては、残念ながら日本列島の方がはるかに古いのよ。
縄文焼畑の時代からだから。
108世界@名無史さん:2006/07/10(月) 18:12:18 0
じゃなんで古朝鮮の農耕文化なんて言うの?
朝鮮半島の最初の米作はいつ?
109世界@名無史さん:2006/07/10(月) 18:33:12 0
タレモソンナコトハイテナイジャナイノカ?
110世界@名無史さん:2006/07/10(月) 18:45:41 0
>>108
3000年ぐらい前じゃなかった?
日本は、縄文時代からだから5000〜6000年前でしょ。
(もちろん、素朴な焼畑式)
それより古い稲作跡が半島で見つかるといいね。
111世界@名無史さん:2006/07/10(月) 19:06:44 0
>>110
>それより古い稲作跡が半島で見つかるといいね。

いや、ただ>>97から教えて君やってただけで、
米作が朝鮮起源でなくても別にかまわないんですが。
江南なら江南で不満はないですよ。
ただ、朝鮮で日本より古い稲作の痕跡があったりすると、
弥生文化江南ルート説に影が差すので、それはちょっと、と思っただけで。
112世界@名無史さん:2006/07/10(月) 19:46:56 0
普通に考えて、「雲南→長江流域→山東南岸→三韓・多島海→北九州・瀬戸内」の順だろ。
「白頭山イデオロギー」(豆満江から珍島・莞島まで一括りにして、均一な朝鮮民族の住まう
土地とみなす朝鮮版単一民族神話)で物を見るからおかしくなるわけで。

というか、日本の単一民族神話は随分と相対化されたけど、朝鮮のそれは(南北分断という
政治状況もあってか)随分と手付かず。例えばこのスレのように、日本史分野にもその弊害
は現れているから、対岸の火事というレベルでもない。そろそろ真剣に再検討が必要だろう。
113世界@名無史さん:2006/07/10(月) 19:53:18 0
じゃ、やっぱり朝鮮の方が農業も日本より進んでいたんですね?
114世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:01:33 0
三韓は韓民族の元ですが。
115世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:10:17 0
>>114
>>106をよく読め、話はそれからだ。
116世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:13:29 0
三韓は韓民族以外の何者でもない
117世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:15:03 0
ちがうよ韓民族の元、本家はワイ狛人だよ、虎が好き、飛び跳ねる事が好き
って韓伝に書いてるよ。
118世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:18:50 0
ここは韓国人の話を、する所じゃないよ、他所でやってよ。
119世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:21:30 0
朝鮮ネタになると無駄にスレが伸びるから止めろ。
120世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:23:32 0
↑ご免韓伝じゃなかった、東夷伝。
121世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:23:45 0
>>115
>>114が韓民族=現代朝鮮人と思っている」と思ったんだじゃないの?

昔は半島南部の韓人と九州北部の倭人は同じ文化圏を形成していたらしいね。
122世界@名無史さん:2006/07/10(月) 21:05:30 0
>>116
これ以上はスレを伸ばしたくないんだけど…

“朝鮮人”が誕生したのは、かなり歴史的に新しい事だと思ふ。
それから、『三国志』などによると半島南部に倭人が住んでいた事も
書かれているでしょう。
朝鮮半島は、雑多な民族が居住する複雑な時代が長く続いたんだと
思うよ。
それから「韓族」と現在の朝鮮人は、人種というか民族が異なると
思うよ。後にツングース系の民族に支配された存在だと思うのだが。
むしろ、倭人との民族的繋がりが深い連中だったんじゃないかとも
思う。南方風俗の影響もあったんじゃないかと思うんだけど。
123世界@名無史さん:2006/07/10(月) 21:22:44 0
>>110
紀元前4000年ぐらいかも。
ただし、日本の縄文時代の稲(所謂遺伝子b)と種類がちゃうのだと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6

wikiがソースなんで怪しいが、半島南部に縄文人が住み着いていたらしい
という話は良く聞くね。
124世界@名無史さん:2006/07/10(月) 21:36:52 0
>>123
倭人と縄文人は違うんだが。
125世界@名無史さん:2006/07/10(月) 21:58:04 0
>>124
よく読め!
倭人のほかに、縄文人も乱入していたらしい。
126世界@名無史さん:2006/07/10(月) 21:58:55 0
倭人の存在については、中国の古文書をどうぞ。
127世界@名無史さん:2006/07/11(火) 00:27:56 0
>>123
紀元前4000年!!すごい!
朝鮮人ってそんなに先進的だったの?
128世界@名無史さん:2006/07/11(火) 01:41:56 0
>>123
藪蛇だったのでは?
129世界@名無史さん:2006/07/11(火) 06:14:33 0
wikiをソースにしちゃだめよ。
130世界@名無史さん:2006/07/11(火) 06:17:17 0
>>127
>朝鮮人

頭がおかしいと思われるから“朝鮮人”なんて言わないでね。
その時代だったら、倭人かも知れないよ。
なんでこういう阿呆なのかしら。
tころでその昔の遺跡から、ちゃんとした稲がでてたっけ?
131世界@名無史さん:2006/07/11(火) 06:36:45 0
面白いのでリンク。

http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/ineha.html

「稲はどこから来たか」
132世界@名無史さん:2006/07/11(火) 07:07:31 0
>>112
>「雲南→長江流域→山東南岸→三韓・多島海→北九州・瀬戸内」

これは違うんじゃないのかな?
雲南の稲作は、長江よりも新しいでしょう。
133世界@名無史さん:2006/07/11(火) 07:25:12 0
>>123>>128
朝寝鼻貝塚のものは6400年以上前かも。
134世界@名無史さん:2006/07/11(火) 09:56:55 0
135世界@名無史さん:2006/07/11(火) 15:02:38 0
半島を経由したケースとして考えられるのは、
淮河(わいが)の周辺から黄海をを渡り、今日の韓国南部から九州に達した伝播経路であろう。

つまり、古朝鮮史と一致する。
136世界@名無史さん:2006/07/11(火) 15:04:12 0
稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれます。
その後、稲作は、この地域から北上して黄河流域まで一部伝わり、
さらに東進して朝鮮半島には約4000年前ころに伝わりました。
日本には、約2500年前に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から渡来して
水田稲作が始まったとする考えが、土器や石器あるいは人骨の研究から有力です。



つまり韓国の稲作の歴史は4000年、倭国の稲作は2500年。
137世界@名無史さん:2006/07/11(火) 15:05:58 0
西日本の水稲以前の米や雑穀も、
こうした朝鮮半島を南下して定着した雑穀畑作の流れで理解すべきであろう。
138世界@名無史さん:2006/07/11(火) 15:07:12 0
日本の文化は韓国起源です。

ありがとうございました。
139世界@名無史さん:2006/07/11(火) 17:58:27 0
>>135-138

一応資料ぐらいは読もうよ。

1.基調講演 イネと稲作の日本史
http://inoues.net/study/japonica1.html

140世界@名無史さん:2006/07/11(火) 19:09:03 0
やっぱり水田の先進的稲作は韓半島から来ました。

ありがとうございました。
141世界@名無史さん:2006/07/11(火) 19:10:26 0
韓半島から水田など先進的な稲作が伝わる前は
倭人は「焼 畑 の 陸 稲」でした。

焼畑〜kkkk


ありがとうございました。
142世界@名無史さん:2006/07/11(火) 19:30:52 0
倭 人 は 焼 畑 kkk
143世界@名無史さん:2006/07/11(火) 20:46:31 0
ニダー人には理解不能でした、先生すいません。
144世界@名無史さん:2006/07/11(火) 21:04:40 0
ここは長江流域史のスレなので
半島史は半島史のスレでやってくれ。
145世界@名無史さん:2006/07/11(火) 21:34:33 0
>>141
朝鮮半島の在来種には無い古代の稲が発見され、現在も主流であるところが
大きなポイントなんじゃないのかね・・・
146世界@名無史さん:2006/07/11(火) 22:06:34 0
子供や外国人にも読めるように、振り仮名付きでご紹介、、

〜日本の歴史新聞〜 (株)学習研究社

「イネのDNA(ディーエヌエー):大阪、奈良の遺跡(いせき)の炭化米(たんかまい)
が中国の水稲(すいとう)と一致(いっち)!」

http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0108_3.html

www
147世界@名無史さん:2006/07/13(木) 16:06:26 0
『呉』(ゴ、グ)は、どうして和語で(くれ)と言うのかな?
日暮れ、夕暮れ、日が沈む方の国、日が沈む方向を目指せば着く国、
西は琉球では(いり)日が海に入る方向
倭国は日が出る方角の国、日の生まれ出る本の国、『日本』
148世界@名無史さん:2006/07/13(木) 18:08:04 0
わし、わしら、われ、われら、わら、わあら、わたし、わて、わてら、
おれ、おれら、おら、おらら、おのれ、おいら、おまえ、おまえら、おぬし、おぬしら、
きみ、きみら、きさま、きさまら、
自分、他人、を表す言葉、主に【わ群】【お群】【き群】これって民族の違い?
149世界@名無史さん:2006/07/14(金) 00:14:40 0
>>148
民族の違いを考える前に、もう少し日本語の歴史を勉強しましょう。
150世界@名無史さん:2006/07/14(金) 00:25:56 0
>>148
うりなどの【う群】も入れて
151世界@名無史さん:2006/07/14(金) 02:47:57 0
>>151
「うぬ」「うち」とかがそうか。
152世界@名無史さん:2006/07/14(金) 10:05:04 0
うち:用例

うちのお父ちゃん…
うちのお母ちゃん…
153世界@名無史さん:2006/07/14(金) 13:36:04 0
ウリのナラ
154世界@名無史さん:2006/07/14(金) 14:43:29 0
>>147
呉(くれ)

イ)昔、日本で中国を指して呼んだ呼び名。日の暮れる西方の国の意。
奈良時代の日本では、江南の呉の地方を中国の代表と考えたので、
呉の字を用いた。

ロ)中国から渡ってきたものをあらわすことば。「呉竹(くれたけ)」、
「呉服(くれはとり・ゴフク)」             『漢語林』


「呉(くれ)」というのは、いわゆる『日の没する処』という意味だそうです。
日が暮れるの「くれる」から来ているらしい。
155世界@名無史さん:2006/07/14(金) 14:44:49 0
↑『漢語林』じゃなくて『漢字源』の方だったわ
156世界@名無史さん:2006/07/14(金) 16:32:45 0
南朝を正統と分かっていたってのがすごいよな。
まあ、4世紀半ばまでは華北は大混乱だったってのが
大きいだろうが・・・
157世界@名無史さん:2006/07/14(金) 17:34:59 0
熊本県八代市の河童伝説で、古老達の間に奇妙な言葉が言い伝わっている
それは「オレオレデライタ」古老も,はっきりとは意味が解らんらしい
それでも何人かの者は「呉人呉人的来多」だと聞いた事が有ると言うんだ
「呉の人達が来た」と言うらしい、すると呉人の事を古代の八代辺りの人は
オレと発音したのか?中央語と地方語では随分違うからな?どう思う
158世界@名無史さん:2006/07/14(金) 18:03:38 0
>>157
そういう説もあるが、文法がおかしいので考えにくいと思う。
159世界@名無史さん:2006/07/14(金) 21:15:59 0
「越南」はベトナムと書くけど、ベトナム人はどう発音するの
160世界@名無史さん:2006/07/14(金) 22:06:32 0
>>159
Viet Nam(ヴィエッ ナム)だよ。
161世界@名無史さん:2006/07/15(土) 00:11:06 0
>>157
「オレオレデライタ」じゃ全然古代風の発音じゃない、近世音だよ。
162世界@名無史さん:2006/07/15(土) 07:01:35 0
>>161
河童信仰自体が近世のものでしょう。
163世界@名無史さん:2006/07/16(日) 00:08:03 0
>>154
呉服(くれはとり)
はとり=「機織」の意味。
秦氏、服部氏なども「機織」関係に由来すると思われる。

これねぇ、「呉○○というのは、朝鮮半島から伝わった文化です」
と高校時代の日本史の授業などで教わったのだが、 奈良時代から
江南を正統視していたということは、直接呉地方と関係があると
見て正解だったのだろう…
164世界@名無史さん:2006/07/16(日) 19:19:28 0
超過疎スレだったのに、日本史がらみになると
ワラワラと人が涌いてくるのねw。
165世界@名無史さん:2006/07/16(日) 21:30:01 0
距離的に九州よりも華南に近い沖縄には
同じ時代に渡来した形跡は特に見付かってないんですよね。海流の関係なんでしょうか。
漢代の古銭はときおり出土するようでが。
166世界@名無史さん:2006/07/16(日) 23:02:38 0
中国本土から半島を南下して日本にたどり着くコースが最も
安全で多用されたからだと思いますけど。
167世界@名無史さん:2006/07/16(日) 23:15:39 0
>>166
たしか、九州北部の勢力(朝鮮半島南端も含む)がそのコースで魏と通じていたので、
奈良の勢力が太平洋側から呉に通じていた、
というのが古田説にあったような記憶が・・・。
168世界@名無史さん:2006/07/17(月) 01:44:13 0

【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、濊狛」人  】

(イルクーツク=連合ニュース) 金兵曹記者 ="バイカル湖隣近の少数民族
エベンキ族'は現在までアリラン'と `スリーと'という単語を使っています"
アリランは迎える、スリーは感じて分かる『アリランスリー』と'は
古代北方シャマニズムの葬礼文化で 「魂を迎えて別離の悲しみをたえる」と言う
今は朝鮮族も忘れてしまった、意味だったことに推定される"と強調した。
エベンキ族の祖先は「熊と人間の女との間に生まれた」と檀君神話と同じで有る。
沃沮人はオンドルの発明者、虎が好きで体を浮かす様な舞をする、ソッテも大事。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1661088&st=writer_id&sw=wakatakeru

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
169世界@名無史さん:2006/07/17(月) 06:37:53 0
>>167
奈良時代の倭国が呉を偏愛していたのはその為なのか?
170世界@名無史さん:2006/07/17(月) 15:41:41 0
濊狛とは「白き狼」という意味。

韓人は高貴であることからそう名づけられた。
171世界@名無史さん:2006/07/17(月) 16:00:00 0
>>170
それ、意味が違うと思いますよ。
それから、濊・狛≠韓人では?


172世界@名無史さん:2006/07/17(月) 16:06:00 0
濊と貊。
173世界@名無史さん:2006/07/17(月) 17:56:09 0
↓呉服つながりスレです。↓

【次は】漢服を語れ【漢流だ】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1152790938/150
174世界@名無史さん:2006/07/17(月) 18:03:17 0
>>170
韓人=倭人(主勢力)+中華、カラ半島北西部、からの難民、移民、商人

どうも韓の文字が付いてるので韓国人は韓違いしてるね。
175世界@名無史さん:2006/07/17(月) 18:57:07 0
韓人はBC2333年に自らの王国を築いた。
176世界@名無史さん:2006/07/17(月) 20:15:37 0
↑2333は覚えにくいね、鮮人は偉いから3333のほうが良いよ覚えやすいしね。
177世界@名無史さん:2006/07/17(月) 20:39:06 0
>>169
日本は平安時代「姫氏国」と言う、うわさが広まってたみたい
「日本書紀 私記」に書かれて意るな,当時の人は別に疑問を感じなかったんだろうな。
178世界@名無史さん:2006/07/18(火) 12:41:46 0
>>177
“姫氏国”に関する具体的な資料を探そうと思うとなかなかヒットしないのだ。
ポルトガル人が、「中国人が日本の事を姫氏国と呼んでいたのを聞いた」とか、
「日本書紀 私記」とか、「野馬台詩」などといった、伝聞や日本側の資料ばかり
が見つかる。
「野馬台詩」が、あれだけ日本人の恐怖心をかき立て続けたということは、かなり
のショックだったのだろうとは思われるのだが・・・(歌舞伎の演目や、地方のお祭り
にまで発展してしまっている。)

中国側の資料希望。
179世界@名無史さん:2006/07/18(火) 22:15:13 0
なんだかよくわからないけど、とりあえず「後漢書 東夷伝 倭」の一説を張っておきますね。

會稽海外有東鯷人,分為二十餘國.又有夷洲及澶洲.傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家.
人民時至會稽市.會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者.所在絶遠,不可往來.
180世界@名無史さん:2006/07/18(火) 22:18:53 0
一説じゃなくて一節と書くべきなんだろうけど、2ちゃんで気にする人は少ないと思う。
181世界@名無史さん:2006/07/18(火) 23:03:31 0
>>178
「野馬台詩」というのはかなり陰惨かつ不愉快な詩で、東海姫氏国(日本)が、
天皇100代目にして国家滅亡し、最後は壊滅状態になり何も無くなってしまう
事を予言したものらしい。吉備真備が唐で読むように指示されたものだそうで、
この詩の解釈をめぐって、日本中がちょっとしたパニックに陥った形跡がある。
もっとも、現在の天皇は100代を経過しているし、もし本当にそういうものが
存在したとしたら、日本人に対する中国人の嫌がらせかも知れない。

なんか恨まれる事でもしたのかなあ?
182世界@名無史さん:2006/07/18(火) 23:32:59 0
誰が詠んだか知らないけど、外国人が詠んだものは高尚なもの
ってのが基本でしょ。それに末法思想にも受けたんじゃないの。
183世界@名無史さん:2006/07/19(水) 00:08:18 0
第100代 後小松天皇
1382.6.1〜1412.10.14
日とてらし土とかためてこの国を内外の神のまもるひさしさ(後小松院集)

suretigai suman
184世界@名無史さん:2006/07/19(水) 01:12:28 0
一休さんのお父さんだな
185世界@名無史さん:2006/07/19(水) 02:28:11 0
>>181
>なんか恨まれる事でもしたのかなあ?

やっぱ聖徳太子の例の隋の煬帝への手紙を中国人は根に持っていたんじゃねーの?

野馬台詩だと立教の小峰先生の本がいいらしいね。
みんなのネタ元はそこから?
186世界@名無史さん:2006/07/19(水) 07:51:18 0
>>185
これのことだろうか?
http://iwanami.co.jp/BOOKS/00/5/0023190.html

『野馬台詩の謎』小峯和明著 定価3,360(←高いっ!)

>9世紀初頭に中国より伝来、近世・近代に及ぶまで、さまざまな解釈を
加えられ未来記として読まれ続けた「野馬台詩」。

近代まで解釈論争が起こるとは…どんな物凄い影響力だ…。
187世界@名無史さん:2006/07/21(金) 16:37:43 0
>>185
根に持つとしたら、白村江の戦い(663年、天智2年)の方じゃないか?
聖徳太子は古過ぎる。
日本は、702年に栗田真人を派遣して、中国と正式に国交回復している。
(ついでに国号を、倭国から「日本」へと正式に改める。)
吉備真備が遣唐使として渡ったのが、716年だ。
188世界@名無史さん:2006/07/21(金) 16:44:19 0
南京大虐杀!!
189世界@名無史さん:2006/07/21(金) 18:45:56 0
>>188
中国人は普通、大量虐殺の事を“屠殺”といいますね。
でも、7世紀後半の事なので、直接関係ないでしょう。
190世界@名無史さん:2006/07/21(金) 18:48:36 0
>>189
あ、野馬台詩は、9世紀初頭でしたね。
191世界@名無史さん:2006/07/22(土) 00:25:25 0
>>186
友達が持ってるっていうから借りて読んでみる。
192世界@名無史さん:2006/07/22(土) 00:41:22 0
(*U_U*)音楽に国境は ありませんでした
http://www.youtube.com/watch?v=3leC1nC5sVI
193世界@名無史さん:2006/07/22(土) 18:09:19 0
いい曲だね〜♪
194世界@名無史さん:2006/07/22(土) 20:09:29 0
>「呉(くれ)」というのは、いわゆる『日の没する処』という意味だそうです。
日が暮れるの「くれる」から来ているらしい。


これ聖徳太子が小野妹子にもたせた国書の文言が元なんかねえ

195世界@名無史さん:2006/07/22(土) 21:29:08 0
>>194
聖徳太子の手紙で問題になったのは、“日没する処”云々じゃなくて、中国の
皇帝に対して「天子」とのたまった点でしょう。
日が暮れるだの没する処だのといった言い方はごく一般的で、実は気にする程の
事でもなかったんではないかと思われ。
奈良時代の日本は、呉を中国の代表と考えていたようだから、侮蔑の意味は
当然全く無く、「そう言えば呉って西にあるよね。」って感じで単純に「くれ」
と呼んだんでは?
196世界@名無史さん:2006/07/23(日) 01:09:36 0

長江河口付近から日本への人々の移住

 中国の周代の後半(東周時代:春秋戦国時代=BC771〜BC256)には中国各地に
封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、互いに争いを繰り返し次々に淘汰
されていきました。負けた国の王やその一族は、殺されたり奴隷にされたり、あるい
は新天地を求めて韓半島さらには日本まで渡ってきたと言われております。そのよう
な中、春秋時代の末期に長江河口付近では呉と越が争い、越に滅ぼされた呉王夫
差の親類縁者は海に逃げて日本に漂着したと伝えられます。紀元前473年のことで
す。晋書などに「倭人自ら(我々は周の王族で呉国の創始者である)太伯の後(子
孫)であると謂う」とありますが、倭人の伝承を書きとめたものと考えられます。「資治
通鑑」(1084年成立)という中国の史書には、「周の元王3年(BC473)、越は呉を亡ぼ
し、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」という記載があるようです。また日本側に
も「新撰姓氏録」の記載など呉から日本への移住を裏づける文献も豊富です。以上
から北部九州の甕棺文化は長江河口地域を追われた呉の人々によってもたらされ
たと考えれば、すんなり理解できるように思います。
197世界@名無史さん:2006/07/23(日) 01:14:23 0
>>186
ハードカバー本だし、一般に売って部数を稼ぐ本じゃないし。
198世界@名無史さん:2006/07/23(日) 06:24:56 0
>>196
あちこちで見かけるが、ソースはこれかね?

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page011.html
199世界@名無史さん:2006/07/23(日) 15:43:57 0
みつかった、ざんねん
200世界@名無史さん:2006/07/23(日) 16:16:31 0
>>181
「野馬台詩」(の全文と解釈)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn59.htm
東海姫氏国、百世代天工。
右司為輔翼、衡主建元功。(ry

実に酷い詩だ…
当時の日中関係も、現在と同じように殺伐としたものだったんだろうか?
201世界@名無史さん:2006/07/27(木) 14:58:55 0
むかし、越劇の野外公演(もちろんタダ)を観たことがあるが、
出演していたのは、すべて女性だった。
つい最近、男優も存在するという事を知ったが、滅多にお目にかからない。
最近は、宝塚と盛んに交流していて「中国の宝塚」というのを売りにして
いるようだから、本当に、男性は隅に追いやられているんだろうな…
202世界@名無史さん:2006/07/28(金) 20:01:15 0

【黒色磨研土器】 縄文後期(BC11C〜13C)

 縄文土器のうち、表面をヘラなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の
土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を
中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもちロクロを使用したと思われる、
黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶の関係をかんがえなければなりません。

**鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と
環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版の青銅器
と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている
http://www.himawari.ed.jp/nuki_e/nukigawaiseki.htm
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu1-1.htm
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/category/hakubutsu/kouko2.html
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/siryoukan/kannai.htm
203世界@名無史さん:2006/07/28(金) 20:05:04 0
う〜ん 黒陶と黒色磨研土器は一緒か〜
204世界@名無史さん:2006/07/28(金) 21:02:30 0
>>202
17番の「陶釜」なんて雰囲気がよく似ているんではないかい?
他にも色々あったが、面倒なので一個だけにする。

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
205世界@名無史さん:2006/07/28(金) 21:34:15 0
>>204
たしかに陶釜に似てるな、こりゃ江南の黒陶だな。
206世界@名無史さん:2006/07/29(土) 00:12:44 0
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/gallery-793.html

これなんかもかなり雰囲気が出ていると思う。雰囲気だけどね。
207世界@名無史さん:2006/07/29(土) 18:17:51 0
>>202
もし本当に轆轤使ってたら、大変な事じゃないの中国では紀元前2000年頃
日本では紀元後400〜500年頃と、どっかで見たけどな。
それが1000年近く古くなる。
208世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:31:56 0
http://www.kurikomanosato.jp/to-siba-sangyo4.htm

司馬遼太郎の評価って、今どうなってるんだろうね?

>>154
金達寿が「呉(くれ)は朝鮮語のクル?に由来するかも…」なんて
言って、司馬遼太郎が「そうかも知れない…」とリップサービス的に
相槌を打っていた時代があったなんて、信じられんよ。
ちょっと考えただけでも、「バカくせーよ」と思うもんな・・
209世界@名無史さん:2006/08/01(火) 19:27:10 0
呉ってのは本は三国呉から来てるの?
それとも春秋時代の呉?
210世界@名無史さん:2006/08/01(火) 19:30:36 0
>>208
朝鮮語の「クル」ってどういう意味?
211世界@名無史さん:2006/08/02(水) 08:22:19 0
212世界@名無史さん:2006/08/03(木) 18:35:21 0
>>210
>朝鮮語の「クル」ってどういう意味?

くだらな過ぎてよく覚えていない。検索してもヒットしないから、ほぼ完全な
妄言なんだろう。
ちょっとした漢字字典を引けば「中国江南地方を指す」とか「中国を指す」、
「呉(くれ)〜〜とは、中国伝来のものを指す」と書いてある。
常識が通じる時代になって、本当に良かった。数々の電波が払拭される日を
切に願う。
213世界@名無史さん:2006/08/03(木) 18:53:23 0
中国江南地方を指すのは「呉」の「字」。
>>210は「クレ」の「音」が朝鮮語「クル」に由来するというお話なんじゃないか?

まあ、信じ難いけど。「クレ」は>>154のとおりだろうね。
「クレ」=日が沈む方向 / 「暮れ」、「暗い」、「黒」と一緒。
反対語は
「アケ」=日が昇る方向 / 「明け」、「明るい」、「赤」
214世界@名無史さん:2006/08/03(木) 21:11:23 0
倭人伝に出てくる邪馬台国の国名とか官名、呉音っぽいな
「奴」漢音ではド、な、の、「馬」バ、ま、「母」ボ、も
倭人は呉音に近い発音、発声してたんかな?
となると江南地方出身て事になるな、呉音は仏教からと習ったが。
215世界@名無史さん:2006/08/03(木) 21:17:46 0
いやmかbか、nかdかについて言うと漢音ってかなりローカルだから。
216:2006/08/05(土) 18:16:08 0
詳しい説明キボンヌ。
217世界@名無史さん:2006/08/06(日) 01:34:39 0
>>157
亀レスだがポルトガル語の古語で
「オーレ!オーレ!デライタ」=さあ、さあ、みんな遊びましょう
が語源という説も。(オレオレデーライタは祭りのはやし言葉)
バテレン追放令で人里を追われた宣教師が、八代の海辺に住み着いたものがカッパだとか
218世界@名無史さん:2006/08/06(日) 01:51:27 0
>>217
カッパは子供の足を引っ張って、水の中へ引き込む伝説が有るけども
実際は宣教師が、娘、子供の奴隷売買(布教費用)をしてたらしい
(海賊と組んで)神隠し、なんかもその類だろうね。
219世界@名無史さん:2006/08/06(日) 02:00:59 0
>>218
ハッ! 宣教師はだから頭頂を剃っていたのか!
220世界@名無史さん:2006/08/06(日) 02:21:27 0
イエスズ会って、大名をそそのかして、
日本占領をたくらんでいたんでしょ。
宗教は隠れ蓑というか兼業
221世界@名無史さん:2006/08/06(日) 02:25:30 0
>>218
宣教師は直接奴隷売買に関わってたのか?
222世界@名無史さん:2006/08/06(日) 02:28:49 0
>>220
占領つかカトリックは政教一致が原則だったから
当時の日本の政治を神の恩寵の下、つまりバチカンの政治支配の下に引き入れるのが
イエズス会の目的だったのでは?
223世界@名無史さん:2006/08/06(日) 10:58:44 0
>>218
なんや知らんが、ポルトガル商人が日本人の青少年を満載した船(事実上の奴隷船)
をしたてて、東南アジアやその他の地域へ頻繁に向かっていたという話は聞いた
ことがある。

南欧のハポンさんとかは関係がないの?(全然、江東・江南とは関係ないネタだが)
224世界@名無史さん:2006/08/06(日) 12:13:46 0
>>157 >>217
「オレオレデライタ」が「呉人呉人的来多」だというのは無理があるな。

「呉」がオ〜ウとなったり「人」が「レン」となるのは北京語など官話系。
現代呉方言なら「呉人」は「ングゥ ニン」のようになる。

官話なら「的来多」では意味が通らない。文字の順番を入れ替えて、
「来的(=得)多(ライタトゥオ)」なら「たくさん来た」の意味になる。
同じ意味で呉語なら上海語の「来勒多(レラッドゥ)」のように
「得」以外の助詞を使う可能性もある。

むしろ日本語で「それそれ出られた」と解く方が自然。
s>h>ゼロと言う音変化は他方言にもあるし、
明治以後の方言の変容は非常に激しかったので、
助動詞「らる」がrの脱落という変化を経た後に、
その尊敬用法自体衰退したと考えたほうが納得いく。

>>219
218を根拠に考えればそれは逆。宣教師が頭頂を剃っていたから
ザビエル禿のカッパ像が浸透したことになる。
あるいは頭頂の禿げた河童像がもともとあり、それが宣教師と重なったのかもね。
225世界@名無史さん:2006/08/06(日) 12:25:36 0
>>216
日本漢音は唐代長安音を元にしており、
「馬」バ「梅」バイ「母」ボなどがbで始まるのは
陝西省近辺のmb-という特徴(今もある)の名残り。
この特徴は福建語などの例外を除いて
結局中国では全国には広まらなかった。

漢〜三国の江南音と朝鮮漢字音と日本呉音が似ているのは
よく言われるね。呉音は仏教を通じて伝わったというより、
その前はみんな呉音だったのが、遣唐使以後漢音を使うよう
勅令が出たものの徹底せず、特に寺院では仏教用語によって
大量に保存されたとみるのが正確。
226世界@名無史さん:2006/08/06(日) 13:20:11 0
中世キリスト教会の最高権威はコンスタンチノープルだよ事実上は。(ビザンチン滅亡後はクレムリン。)
その権威が政教一致していたからカトリックも実はそれを理想としていた。
実現できなかったのはゲルマンガリア系の部族の王を従えられなかったからだな。
227世界@名無史さん:2006/08/06(日) 14:05:59 0
>>225
日本を「ジッポン」って発音するのは、何音になるの?
228世界@名無史さん:2006/08/06(日) 15:03:48 0
>>227

不思議な事は、古くからあった呉音系の「ニッポン」「ニホン」が現存し、
新しく発生した漢音系の「ジッポン」が消えてしまった事です。
これは推測に過ぎませんが、日本人は、外国人に対する時にだけ、中国語を意識して、
自国の事を「ジッポン」と言い、自分たち同士では、「ニッポン」「ニホン」と、
言い続けていたのかも知れません。

現代の北京語では「リーベン」と発音しますが、南部では「ジッポン」と発音している 地域も
残っているようです。 ジャパンのルーツは「ジッポン」を「ジパング」に聞き 間違えたまま世
界に広めてしまったのは、マルコ・ポーロだったのです。 ...
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/japan.html
http://blogs.yahoo.co.jp/chiebukurar/9040049.html
229世界@名無史さん:2006/08/06(日) 18:43:41 0
誰でもいいから、教えて。

http://www.cjkvbbs.net/read.php?tid=190

すでに既出ですが、中国の掲示板に越と倭の古代の音の関連性を指摘するスレがありました。(日文)
これって、どーなんですかね?さすがにそれは無いような気がするんだけど・・・・・
230世界@名無史さん:2006/08/06(日) 19:53:48 0
>>229

古代発音で越人(Woヲニン)=倭人(Waワニン)Wo=Waで、似た発音と思われ
越智の越がどうして(ヲ、オ)と発音するか、わかると思います
ヤマタノ、ヲロチが古志の国から来たのも案外、越智=ヲロチかも


http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm
231世界@名無史さん:2006/08/06(日) 19:57:07 0
    ↑
地球儀のすぐ上に書いてます
232世界@名無史さん:2006/08/06(日) 22:16:41 0
いやん馬韓っ、そこは百済なの♪
233世界@名無史さん:2006/08/06(日) 22:38:22 0
>>229
このスレの上のほう読めば分かるけど、アリだよ。

弥生人は中国の越からの渡来で、対馬海峡を跨いで北九州や山陰と、朝鮮半島南部に住み着いた説。
それによると倭と越からの転訛だという。
中国には、長江河口域の越人は漢人系統つまり中国語とは異なる言語を話していたという記録もある。

コメのDNA調べると日本のコメは長江河口域のコメが原種で、この説を裏付ける。
その他徐福伝説や、蓬莱伝説とかいろいろ。
234世界@名無史さん:2006/08/07(月) 01:35:34 0
日本語・ドラヴィダ諸語同系説を立てた藤原明の説では、
ドラヴィダ人はインドシナ・雲南を経由して江南に至り「呉」という国を立て、
そこで遭遇した原住民を「狩りをする人」と名付けた。

呉が滅んでから日本列島に至り、そこにいた原住民に
やはり同じ名前をつけた。

ヴェッダ(人)−越−ウェタ(穢多)はすべて同一語源であるという訳。
235世界@名無史さん:2006/08/07(月) 06:45:22 0
ヴェッダと越と穢多が同一言語なんて、聞いた事がないぞ…
236世界@名無史さん:2006/08/07(月) 06:45:53 0
同一「語」源の間違い↑
237世界@名無史さん:2006/08/07(月) 07:52:42 0
>>229
なぜか、国民的美少女コンテストのスレが立ってる。
林丹丹への投票を呼びかけているレスがあったw
238世界@名無史さん:2006/08/07(月) 07:57:43 0
>>237
別に呼びかけてはおらんか。
なんか、話題になっていたようだね。
239世界@名無史さん:2006/08/07(月) 09:48:04 0
中国系の女の子は
可愛い娘は滅茶苦茶可愛いからな。
240世界@名無史さん:2006/08/07(月) 15:12:39 0
中国にも前方後円墳が沢山有ったっぽい件 ↓

http://www.banri.net/naniwa/kofun/

古墳の発掘をやった人は、見ただけですぐに分かると思う。
どなたか解説よろ。

※個人的には、古墳の上に公園や民家を建設するセンスが全く理解
できない。アホちゃうか?
241世界@名無史さん:2006/08/07(月) 15:43:07 0
「目が疲れてきたので、この辺りで止めにします。
判断力が麻痺して、何でも古墳に見えてくるわぁ・・」

暇なやつだなぁ…

>※個人的には、古墳の上に公園や民家を建設するセンスが全く理解
>できない。アホちゃうか?

日本もそんな場所たくさんあったはずだけど…
242世界@名無史さん:2006/08/07(月) 16:13:00 0
>>233
>中国には、長江河口域の越人は漢人系統つまり中国語とは異なる言語を話していた
今もそうだよ、広東語とか福建語は北京語と違う系統。
北京の人は、上海では言葉がわからないという意味では、日本人と同じ外国人
243世界@名無史さん:2006/08/07(月) 16:30:32 0
発音が違うだけで漢字に直せば大して違いはないじゃないか
244世界@名無史さん:2006/08/07(月) 17:37:58 0
>>242
「系統」と「通じるかどうか」は別の基準。

現在の漢語諸方言に関して言うなら、通じないといっても系統は同じ。
ただ音変化の結果の「なまり」が強すぎて通じないというのが大勢。

東北や沖縄の方言を聞き取れないからといって、これらが日本語とは
系統を異にする言語だ、という事にはならない。

東北にかつて蝦夷が住んでいたことと、東北方言の系統とは別問題。
245世界@名無史さん:2006/08/07(月) 18:17:03 0
>>241
どうでもいいが、中国に前方後円墳(しかも、頭でっかちの初期型)が
数多くあって、それが発掘調査されていない可能性が高い事の方が、
大問題なのではないだろうか?
日本の学者を明日にでも派遣して、共同調査させるべきだと感じるのは、
俺だけなのか?
246世界@名無史さん:2006/08/07(月) 18:24:19 0
>>242-244
上海語って、こういうやつ?
     ↓
我脱儂辣辣一道个辰光就講上海閑話好哦?
247世界@名無史さん:2006/08/07(月) 18:33:18 0
>>246
ちなみに普通はでは、

我跟你在一起的時候就説上海話可以嗎?

となるらしい。
248世界@名無史さん:2006/08/07(月) 22:04:02 0
>>244
> 現在の漢語諸方言に関して言うなら、通じないといっても系統は同じ。
そう?
http://72.14.235.104/search?q=cache:HKHk8xAtKQIJ:ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%9D%B1%E8%AA%9E+%E5%BA%83%E6%9D%B1%E8%AA%9E+%E7%B3%BB%E7%B5%B1+%22%E8%A8%80%E8%AA%9E%22&hl=ja&ct=clnk&cd=2&lr=lang_ja
Wikipediaの広東語項(cash)
広東語(カントンご)は、中国語の方言のひとつ。中国南方を中心に話される言語で、粤語(えつご)とも言う
タイ系の基層の上に、古中国語がかぶさってできたクレオール言語であったと考えられる。
249世界@名無史さん:2006/08/07(月) 22:22:02 0
>>248
そう。だってそこでも「方言」て言ってるじゃんw

「基層」というのは主に音韻特徴(それと一部の文法、語彙)を指すことが多い。
クレオールにも系統はあり、文法と語彙の大半を漢語が占めている以上
タイ語ではなく漢語。印欧語比較言語学の基準に照らしてもそうで、
Tok Pisinが印欧語族ゲルマン語派である以上に広東語は漢語だね。

橋本萬太郎説のようなクレオール化という考え方は面白いんだけれど、
挙げている証拠は個々の方言のほんの一部であることも事実で、
さらに中国語の内部に踏み込んでみると、共通点の方が圧倒的に多い。
そこでもクレオール言語「であった」って言ってるでしょ。
250世界@名無史さん:2006/08/07(月) 23:06:51 0
>>246-247
どう見ても「漢語」(の方言)だよ。
251世界@名無史さん:2006/08/07(月) 23:10:53 0

八咫烏,八咫鏡の話

咫というのは、中国(周の時代)の一寸に当たる単位で大きい意味も、八咫烏は
『日本書紀』では頭八咫烏と表記され、頭が八寸もある大きな鳥を意味する。
また足は三本であったという。これは太陽神の使いであるからで、
「太陽には三本足のカラスがすむ」という中国の神話に基づくものであろう。

八咫烏と言えば紀(キ)の国、熊野神宮、周王朝の姓は姫(キ)咫は周の一寸
これはなんか、クサイな!!八咫烏は東方扶桑の木の枝から昇と言う。クサイな。
252世界@名無史さん:2006/08/08(火) 22:53:26 0
ここの連中が詳しそうだから、燃料投下。

http://kij.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/08/post_94fd.html

>山下さんは、関西語は中国語の影響を受けた一種の声調言語だとも
言っておらられる。
253世界@名無史さん:2006/08/08(火) 23:01:13 0
>山下さんは

シベ超?
254世界@名無史さん:2006/08/09(水) 08:07:10 0
>>253
NHK「日本語なるほど塾」のテキストでの話しだと書いてあった。
255世界@名無史さん:2006/08/10(木) 20:50:42 0
東北弁の訛りというか音の濁り具合もなんか朝鮮語と似てる。
平安時代に百済帰化人が大量に植民した影響があるんじゃ
ないのかな。百済語自体よくわからんけど。
256世界@名無史さん:2006/08/10(木) 21:52:31 0
縄文語だと思う。
隼人(鹿児島)と蝦夷(青森)の言葉は抑揚が似ている。
257世界@名無史さん:2006/08/10(木) 21:54:47 0

   /~~⌒~⌒~⌒~ヾ
  /            )
  (   /~⌒⌒⌒ヽ )
   (  ξ    、  , |ノ
    (6ξ--―●-●|
    > 、   ) ‥ )
      ヽ_ _ ー=_ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ \
  /⌒  - - ⌒ /\   / " \|
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\ \|≡∨  ∨| (6------◯⌒つ|
  \⊇  /干\| |    _||||||||| | ----------
    |       |  \ / ι_/ / <ワシがサクヅョホぅ口ぅ人ジャ!
    ( /⌒v⌒\_ \____/       ----------
パンパン|     丶/⌒ - - \
    / \    |  |     / |
    /  ノ\__|  |__三_ノ|  |
   /  /パンパン|  |      |  |
  /__/     |  |      |  |
          ⊆ |     | ⊇
258世界@名無史さん:2006/08/10(木) 21:55:56 0
>>255
>平安時代に大量に殖民した

殖民?百済滅亡後の、王侯貴族の都への「亡命」の事かな?

殖民=国外の未開拓な土地への経済的開発を目的とした移住の事だと思うが。
259世界@名無史さん:2006/08/11(金) 01:14:29 0
万葉集を古代発音で読むと
タガログ語っぽくなるという話を聞いたことあるけど
縄文語とか越、呉との関係ってどうなの?
260世界@名無史さん:2006/08/11(金) 02:05:07 0
>>258
都へ亡命してきた百済系氏族の東北植民の事だろ。
261世界@名無史さん:2006/08/11(金) 07:49:31 0
>>255
現在の韓国語は、「新羅語」が発展したものだという事だから、現代韓国語の
イントネーションと東北弁が似ているように聞こえても、単なる「他人の空似」
だと思います。百済語と新羅語は、かなり異なっていたんじゃないかとも言われて
おり・・・よく分からんです。

かなり大雑把で批判があるものの宝来博士のmtDNAの解析によると、北海道民(和人)には、
アイヌ・琉球など「縄文系」と思われる住民に特徴的な遺伝子タイプがダントツに多かった。
道民の多くが東北出身だという事を考えると…やはり、あのイントネーションは「縄文系」
だと考えざるを得ないように思うが、みなさんどうだろう?
262世界@名無史さん:2006/08/11(金) 07:57:26 0
ちなみにこれが、(若干大雑把に過ぎるものの)宝来聰のmtDNA解析である。

http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm

これによると、道民(東北出が多い)の57%が「アイヌ」「琉球」など
縄文系に特徴的な遺伝子を持っている事が分かり、他の地域と比較して
もダントツ(但し九州は無い)な事が分かる。
263世界@名無史さん:2006/08/11(金) 07:59:30 0
しかも、韓国人に多く見られるタイプが、本土(静岡)と比べてはるかに
低い。よって、個人的には「縄文」系の影響だと思う。
264世界@名無史さん:2006/08/11(金) 15:21:33 0
東北弁は朝鮮語よりフランス語に似てると思う。
古代にフランス人が大量移住したのではないだろうか。
265世界@名無史さん:2006/08/11(金) 15:59:40 0
>>264
ひょっとして秋田弁のこと言ってるw?

「そだばぁ、あんだばよ〜ん…」ていうしゃべり方するらしいね。
266世界@名無史さん:2006/08/11(金) 23:35:57 0
古代って、フランスはケルト人移住地区で、
フランスはまだ成立していない
267世界@名無史さん:2006/08/12(土) 01:32:04 0
朝鮮語と日本語東北方言の似てる(?)特徴をいくつか挙げてみる。

1.母音
朝鮮語の非円唇のウ(eu)の響きがいわゆる「ズーズー弁のウ」に少し似て聞こえる。
しかし朝鮮語の非円唇のeuは円唇母音のuと意味を区別する役割を持つから
非円唇なのであり、両者の区別のない日本語特に東北方言では一律に非円唇化が
起こっているので、音韻論的には全く似ていない。

2.子音
どちらも閉鎖音が語頭で無声音、語中で有声音(いわゆる濁音)で現れる現象がある。
しかしこの現象を持つ朝鮮語の「平音」が激音(無声有気音)や濃音と対立するのに対し、
日本語東北方言の「母音間で濁音化する清音」は「母音間で前鼻音化する濁音」と
対立してはじめて成立する現象である(例:柿kagi vs 鍵kangi、的mado vs 窓mando)
朝鮮語にはこのような前鼻音化は全く存在しない。従って両者は位置づけが全く違う。
なお濁音の前鼻音は中世までは全国的現象であったと考えられている。

3.イントネーション
高低アクセントを失って全体の抑揚が尻上がりになる現象は朝鮮では近世になってからの
もので、500年前のソウルの中期朝鮮語には声点の記録があり、この特徴は慶尚道方言などに
残っている。同様の現象は九州中部や北陸、茨城から福島県浜通り地方にかけてなど
日本各地にあるが、東北全域の現象ではない。

以上から「他人の空似」です。
268世界@名無史さん:2006/08/12(土) 02:42:28 0
>>266
フランス語はラテン語のケルト訛りだから、
秋田にはケルト人が移住した可能性が高い。

つまり東北は日本のフランス。
269世界@名無史さん:2006/08/12(土) 02:43:09 0
ホクリクのフランス人。

東北は全員フランス人の子孫。
270世界@名無史さん:2006/08/12(土) 03:41:04 O
えっと
ここ長江スレだよね
271世界@名無史さん:2006/08/12(土) 03:53:32 0
え?そうだっけ?
272世界@名無史さん:2006/08/12(土) 05:17:54 0
一応、江東江南スレです;
273世界@名無史さん:2006/08/13(日) 19:54:09 0
フランス語はゲルマン訛りだろうが
274世界@名無史さん:2006/08/15(火) 20:34:09 0
>>273
ケルト訛りのラテン語だよ。狭義にはガリア訛り。ゲルマン訛りじゃないよ。
275世界@名無史さん:2006/08/15(火) 23:38:34 0
広東語とか福建語って、北京の中国語と
文の構造とか、基本語彙、指とか水とか、も同じなの
276世界@名無史さん:2006/08/16(水) 12:58:24 0
>>275
語学板の広東語スレ等で聞いてみてはいかがでしょうか?
277世界@名無史さん:2006/08/16(水) 13:06:18 0
ケルトの影響なんて今ごろ残ってないよ
ケルトの本拠地はガリアでなく中部ヨーロッパだけど
ドイツ語もイタリア語もスラブ諸語にもケルトの影響なんてほとんどない
当然フランスにもない
実際フランク族侵入後と以前で発音が大きく変わってるし
フランス語のケルト訛り説はクセジュかどっかの糞古い本の残りカスみたいな説だろ
278世界@名無史さん:2006/08/16(水) 14:34:22 0
>>277
フランス語はラテン語のケルト訛りだよ
279世界@名無史さん:2006/08/16(水) 17:22:08 0
Help us!
http://en.wikipedia.org/wiki/Kofun_period
http://en.wikipedia.org/wiki/Yayoi_period
http://en.wikipedia.org/wiki/Asuka_period

騎馬民族征服説、奈良百済説、列島韓語説、天日矛説、
等々の、奇説珍説に“根気強く”対抗できる方、熱烈歓迎。
280世界@名無史さん:2006/08/16(水) 17:43:44 0
おう、要するに韓国起源説に対抗して江南発祥説で押していけばいいんだな

やったるで
281世界@名無史さん:2006/08/16(水) 18:09:22 0
(中国)日本学研究機関組織一覧
http://www.japanology.cn/
http://www.japanology.cn/zdrbs/jigou_yilan.html
         ↑
さすがに中国の大学と古代史で合作してみたらヤバイだろうか?
江南の大学は、特に研究が進んでいるようなんだが。
騎馬民族を蹴散らしてくれそうだ。

近現代史は、両国の政治が絡んで絶対に無理だけど(!)
282世界@名無史さん:2006/08/18(金) 08:05:48 0
>>279
ハン板から来ました。

日本語で議論できる場も設けました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Talk:Asuka_period

英語の苦手な方も是非お越しください。
283世界@名無史さん:2006/08/18(金) 09:15:46 0
>>282
操作の勝手がわからないので食いつきにくいなぁ
284世界@名無史さん:2006/08/18(金) 11:18:41 0
とりあえず、世界史板か日本史板の英語版対策スレの住人にでも聞いてみれば?
2ch検索すれな、それ関連のスレがボロボロ出てくるよ。
285世界@名無史さん:2006/08/18(金) 11:41:50 0
そんなスレどこにある?
286世界@名無史さん:2006/08/18(金) 12:32:49 0
>>285
ハン板の「朝鮮人のWikipedia(ウィキペディア)捏造に対抗せよ 12」
というのは、大入り満員でついさっき終了したみたいだ。12まで行ってる
からもうすぐ次スレが立つだろう。中国対策も含まれるとしているが、99%
は朝鮮対策のようだ。


日本史板に「Wikipedia英語版の日本史を語る」ってのがある。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1146906434/

英語板にも「ウィキペディア(Wikipedia)英語版に挑む」ってのがあった。
その他諸々。

最初にアカウントを取らなきゃいけないらしいが、若干面倒な事は確か。
287世界@名無史さん:2006/08/18(金) 13:55:53 0
Wikipediaはアカウント取らなくてもそのまま書き込めるよ
288世界@名無史さん:2006/08/18(金) 16:51:13 0
そうだっけ?!
よかった。
289世界@名無史さん:2006/08/19(土) 01:14:17 0
IPアドレスなんて毎日のように変わるからサインインがいやならそのままIPユーザ書き込みでも匿名性はおk
290世界@名無史さん:2006/08/19(土) 16:18:06 0
>>289
お兄さん、書き込みなれてるクチだね?
俺も英語は苦手だけど、とりあえず頑張ってみるよ。
291世界@名無史さん:2006/08/20(日) 07:16:58 0
>>278
英語とポルトガル語モナー
292世界@名無史さん:2006/08/25(金) 15:53:04 0
>>286
13が立ったみたい。

日本の古代史が徐々に正常化しつつある。
以前は、三韓の影響>>>>>>>>>>>>中国の影響、だったのが、
普通に、中国の影響>>韓国の影響、ぐらいになりつつある。

Kofun_periodは、相変わらず猛烈だけどw
293世界@名無史さん:2006/08/25(金) 22:29:32 0
しかし現代史やる時にいちいちその国の文化が
ヨーロッパ文明の影響で・・・とか
当たり前すぎていわないような気がする。

中国文化の影響は歴史を通じて
中国の周辺諸国に共通した当たり前の事態じゃないか。

むしろ中国の文化じゃなくて
中国を中心とした東アジア全体の文化じゃないのか?
294世界@名無史さん:2006/08/26(土) 00:37:13 0
いやヨーロッパでもローマ文化の影響云々の話は普通にするから、
古代日本への中国文化の影響を語るのはいいんじゃないの?

朝鮮は日本と中国の出先機関で、単なる接触地に過ぎないはずだけどね。
295世界@名無史さん:2006/08/26(土) 00:40:48 0
少なくとも漢字の使用法に関してはほぼ半島から受け継いでいますな。
296世界@名無史さん:2006/08/26(土) 00:46:22 0
【日韓】 金容雲漢陽大名誉教授「日本語は全て古代韓国語から始まった」[08/25]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156518337/all
297世界@名無史さん:2006/08/26(土) 07:36:51 0
古朝鮮語自体の復元不可能ですが。
298世界@名無史さん:2006/08/26(土) 10:57:15 0
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%AA%9E

>日本語は言語学的に非常に複雑である。アルタイ語系や南島語系と密接な関係があるが、中国語の影響も
大きく受けている。本来は漢藏語系の特徴と考えられる声調(たぶん関西方言の事を指摘している)や量詞も
吸収しており、この事が日本語の研究を非常にややこしくしている。(前7段目 日訳)


日語は文法的にはアルタイ語の特徴を持つが、実際には、系・統・不・明・言・語w
299世界@名無史さん:2006/08/26(土) 11:28:11 0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E(日文版)

>なお近縁の言語は琉球語しか専門的に認められていない。

やはり系統不明。
300世界@名無史さん:2006/08/26(土) 11:32:42 0
世界の端っこで色んな系統の言語が混ざって出来た訳だから
系統不明ってのは当たり前ではないかと。
301世界@名無史さん:2006/08/26(土) 12:25:39 0
日本語は琉球語も含め一語族を形成すると見た方が自然。
明治維新までは国境を越えたら言葉が通じないのが普通だった。
文字に書き語源をたどればようやく同族だとわかる程度だった。
302世界@名無史さん:2006/08/26(土) 12:35:03 0
>>299
>日本語は[主語+述語]という構造とは別に[主題+解説]という構造を有している。
この構造(主題優勢言語en:Topic-prominent language)は東アジアに分布する
中国語、朝鮮語、ベトナム語、マレー語、タガログ語なども有し、珍しいもの
ではない。

さ〜て、ますます訳がわからなくなって来ましたよ〜
303世界@名無史さん:2006/08/28(月) 01:42:09 0
言葉はややこしいから、
日本と共通の神話とかエチケットは?
304世界@名無史さん:2006/08/28(月) 04:01:28 0
日本神話ってかなり広範囲に共通の要素がある。
ポリネシア・インドネシア型の説話が目立つけど
アメリカインディアンとかギリシアに共通の要素まである。

>>302
何盛り上がってんだか知らないけど構造や語順といった類型特徴は
言語の系統と直接関係ないよ。

系統不明、なんてたまたま大語族を形成するほど適度に近い別言語が
過去たかだか数千年に分化したかどうかの差でしかない。
朝鮮語なんか日本語よりよっぽど系統不明、アイヌ語もしかり。
古アジア諸語なんて類型特徴から見た寄り合い所帯で語族をなさないし、
アルタイ語族も現在の通説では成り立たない。ツングース・モンゴル・チュルクで
おのおの一語族を形成すると見た方が実態に近い。
3者の共通点はこれまた類型特徴しかない。音韻対応が少なすぎるからだ。
印欧語やセム語みたいなのがむしろ異常。
305世界@名無史さん:2006/08/28(月) 10:26:13 0
強いて言うならば、南島語・アルタイ語混合起源説が主流なのか?
306世界@名無史さん:2006/08/28(月) 11:53:19 0
>>305
日本語系統論はもとより、比較研究自体が主流ではないしな。

アルタイ語-朝鮮語(大野晋'60s)、
タミル語(大野晋'80s、朝鮮語説と矛盾はしないという)、
ドラヴィダ諸語(藤原明)、南島語(村山七郎)、モンゴル語(小沢重男)、
ビルマ語+アイヌ語(安本美典)、シナ・チベット語(西田龍雄)、
アイヌ語(片山龍峯)、レプチャ語(安田徳太郎)…

重なるものもあるし、あまり言及していないがアイヌ語や南島語を基層に
挙げているものもあるし、単に同系だというだけで起源だとは明言しないものもある。

80年代後半に朝鮮語を万葉集を解いたのは李寧煕、朴炳植、
藤村由加(ヒッポファミリークラブの合同PN)は、
いずれも言語学の常識的手続きを全く踏んでいない。
これ↓をじっくり見てほしい。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%E3%80%80%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%AA%9E&lr=
307世界@名無史さん:2006/08/28(月) 13:15:31 0
>>306
金沢庄三郎ってのは何なんだ?
渡来人朝鮮起源説でも頑張っていたが、語学の方面でも朝鮮語起源説を
唱えていたのか。
単に朝鮮が好きなだけなんだろうな。
308世界@名無史さん:2006/08/28(月) 13:20:22 0
試しにたった今ググってみたが「日韓同祖論」どころか「日鮮同祖論」てのが
真っ先にヒットしたな。
秦氏の語源を古朝鮮語に求めたのも、この爺さんなのだが。
309世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:05:07 0
戦前は日韓併合→内鮮一体の時勢だからむしろ日本から出てる。

ただし高句麗・百済・任那を夫余系ツングースと見て日本語と結びつけ、
今の朝鮮語は新羅系であまり似ていない、と考えるのが大野晋。
高句麗語との比較は白鳥庫吉が最初だが、韓国の学者は
その事すら言及しないお行儀の悪さ。
310世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:20:34 0
>>309
そしてそのお粗末な説に基づき、wikiで工作をする…か。
311世界@名無史さん:2006/08/29(火) 06:54:42 0
>>292
リンク先貼っておくか。
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1155650440/

某過激派を相手に不毛な戦いを続けているような雰囲気も無きにしも非ず…
312世界@名無史さん:2006/08/29(火) 13:36:01 0
>>309
白鳥よりも内藤湖南の方が先じゃなかったかな?
313世界@名無史さん:2006/08/29(火) 15:11:02 0
ここでは新村出になってるね↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
wikiだけど「工作」のあとは今のところ見られない。
手軽に読めるので一応おすすめ。

ただしタミル語説に触れるなら藤原明のドラヴィダ語説は不可避だと思うし
(大野説と相互補完的な内容が見られる)
アルタイ語説の中でも小沢重男説に言及した方がいいと思うし、
昔の月刊言語に連載されていた西田龍雄のシナチベット語説も入っていない。
小沢・藤原はどちらも昔の講談社現代新書で出ている。
314世界@名無史さん:2006/08/30(水) 10:42:49 0
>>313
[日本語」の項目に関してだが、

>1世紀頃から、漢字と共に古典中国語からの借用語が大量に流入した。

1世紀というのは「漢委奴国」を念頭においての事に違いないだろうが、
実際にはどうだろう?
もっとも、和語に通じた漢人を介するにしても、中国語に通じていないと、
朝貢も外交もできない訳だが。
315世界@名無史さん:2006/08/30(水) 12:52:16 0
>>314
呉音も三国期の江南音だというから、
1世紀はちょっと早すぎるようにも見えるが、
それは呉音以前の漢語系外来語かもしれない。

馬(むま、うま)、梅(むめ、うめ)、竹(たけ)など、
通常は訓読み(和語)とされているものの中に、音読みに近い
発音のものがあって、こららが呉音以前の漢語借用語だと
考えられている。「佛」をホトケと訓ずるのもそうで、
ホトが入ったあとに「のようなもの」を意味する接尾辞ケが
付いたと見られている。

呉音の流入を体系的な学問が入った4,5世紀と見たとき、
それ以前の断片的な借用は、漢人との接触の始まった
と見られる1世紀から4,5世紀に起こったと考えているんだろう。
資料全然見ないで書いてるんで自信なしw
316世界@名無史さん:2006/08/30(水) 14:25:23 0
関西地方のジジババは「んま(馬)」「んめ(梅)」と発音する。
最初に「うま(馬)」「うめ(梅)」という言葉が入って来た時には、
どのように発音したんだろう?
317世界@名無史さん:2006/08/30(水) 14:30:18 0
ジジババ語用例:

んま(馬)が走る。
んめぼし(梅干)を漬ける。
318世界@名無史さん:2006/08/30(水) 14:45:20 0
東北でもウじゃなくてンになる。
福岡のタモリとそれを真似るコージィ富田も
「旨(んま)いんだよ」という。

平安かな文学でもよく「むめの花」と書いた。

全国的にそうだったと言う話は
国語学関係の本に載ってた筈。
319世界@名無史さん:2006/08/30(水) 14:56:56 0
>全国的にそうだった

関東でも「んまい(旨い)!」「んめ〜!(旨え〜!)」等。

この「ん」を頭にくっつける習慣は何か?
320世界@名無史さん:2006/08/30(水) 19:03:28 0
単に語頭に母音がくるのが気持ち悪く感じたからじゃない?
321世界@名無史さん:2006/08/30(水) 21:45:09 0
振り出しに戻って、日本に流入した時の「馬」「梅」「竹」のオリジナルは、
どういう発音だったんだろう?「ma」「me」「ta」ではないと思うが。

日本語では、「むま」「むめ」「たけ」

>>313
「日本語」のリンクを辿っていくと、まれにX線のような鋭い電波に出会えます。
有志は改修にチャレンジしてみてください。
322世界@名無史さん:2006/08/30(水) 22:35:02 0
馬・梅は中国語で「ma-」・「mei」だから「ma」・「me」で良いんじゃない?
それから語頭に撥音がくっ付いて撥音がu母音に変わったか、
語頭にu音がくっ付いて訛って撥音に変わったんじゃないか?
323世界@名無史さん:2006/08/30(水) 22:39:22 0
日本に流入した時の漢語の語頭が「ng」だったて事は無い?
324世界@名無史さん:2006/08/31(木) 00:33:47 0
馬ma
は、中国語、日本語とも、モンゴル系からの輸入語じゃないの?
325世界@名無史さん:2006/08/31(木) 10:42:52 0
「うま」「うめ」「うまい」という綴りの「う」をUと発音すること自体が
綴りに引きずられたもので、新しい現象だ。
326世界@名無史さん:2006/08/31(木) 10:54:04 0
>>320
それなら他の母音で始まる単語もぜんぶ変化をこうむってる筈。
国語辞典でア行の単語がいくつあるか確認するといい。
それらは気持ち悪くなかったのか?
そうじゃなくて、「馬」「梅」「旨い」には共通の何かがあるんだよ。

>>322
実際の撥音と綴りは別問題だから、
撥音だからといってンで表記したとは限らない罠
文部省唱歌の「お馬の親子」でもommaと発音するように指導している。

綴り字発音であって歴史言語学的な意味での音韻変化ではない。
327世界@名無史さん:2006/08/31(木) 12:24:46 0
漢字の上古音、中古音
これによると、馬の上古音は「mag」中古音は「ma」or「ba」

http://www.dai3gen.net/gishi02.htm
328世界@名無史さん:2006/08/31(木) 12:27:39 0
>>327
誤 「ba」
正 「mba」=「んば」←注目
329世界@名無史さん:2006/08/31(木) 14:39:15 0
梅の中古音は、mui→mbui
330世界@名無史さん:2006/08/31(木) 20:04:00 0
『日韓同祖論』という妄説がある。
学問的な根拠がまったくない、まさに妄説であり、狂説である。
日本人と韓国人が、何の関係もない別種の民族であることは、
両民族の言語を分析すれば すぐに理解できる。

【日本語】 【韓国語】        【現代北京語】
空(そら)→ ハヌル          コン
稲(いね)→ ビョ           タオ

白(しろ) → ヒンセク        パイ
白い(シロい)→ ヒダ         パイティー(白的)
頭(あたま)→ モリ          トウ
目(め)――→ ヌン          ムー
手(て)――→ ソン(またはパル)   ショウ
足(あし)―→ ダリ          足(ツー)、脚(チアオ)
331世界@名無史さん:2006/08/31(木) 20:04:52 0

犬(いぬ)―→ ゲ           犬(チュアン)、狗(コウ)
猫(ねこ)―→ ゴヤンイ        マオ
虎(とら)―→ ホランイ(またはボム) フー

刀(かたな)→ カル          タオ
弓(ゆみ)―→ ファル         コン
槍(やり)―→ チャン         チアン

比較してみれば、まるで違う言語であることが分かるであろう。
『日韓同祖論』がいかに馬鹿げた説か、理解できますね。
332いつの間にか語学スレ化…:2006/08/31(木) 21:59:34 0
333世界@名無史さん:2006/09/01(金) 10:28:18 0
>>313
>西田龍雄のシナチベット語説

西夏文字や東巴文字の研究で有名な先生?
334世界@名無史さん:2006/09/01(金) 12:10:32 0
>>333
そうです。月刊『言語』という雑誌で70年代後半か80年前後だったかに、
そういう連載をされていました。興味があったら公立の大きな図書館か
大学図書館などで探してください。
335世界@名無史さん:2006/09/02(土) 06:07:18 0
>>334
西田説の評判はどうなんもんだったんですか?
336世界@名無史さん:2006/09/02(土) 12:43:54 0
>>335
もし反応があったとすれば『言語』誌上のお便りコーナーに
何か載っていたかもしれません。単行本では↓のようなものも
出ています。

岩波講座 日本語 12 日本語の系統と歴史
大野晋、柴田武編集 風間喜代三ほか 岩波書店 1978 409p \2000
 *チベット・ビルマ語と日本語(西田龍雄)

たぶん一冊の本になってベストセラーになったり週刊朝日がセンセーショナルに
取り上げたりしないかぎり論争自体が盛り上がらないのでしょう。
日本語系統論自体が言語学の中心的話題から大きく外れた「時代遅れ」の
テーマとみなされているからです。
337世界@名無史さん:2006/09/03(日) 01:33:47 0
秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比
黒山郷を本貫とする秦羸(エイ)姓田主などという人名が見えており、秦羸(エイ)姓は
本来の秦 (エイ)姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い
意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは
秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、
姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。
338世界@名無史さん:2006/09/03(日) 01:45:19 0
ヘブル語って不思議です!皆さんはどう思いますか!日本とユダヤの関連について。
※最初の☆マークを日本語とし、後の★をヘブル(ヘブライ)語の日本語発音表記と
して対比します。
◆(名詞) ◆(動詞) ◆(形詞・他)
☆匂い:★ニホヒ        ☆歩く:★ハラク ☆辛い
☆糸 :★フト          ☆滅ぶ:★ホレブ ツァラー(悩み)
☆腕 :★ヤド ☆照る:★テウラー ☆駄目
☆言葉:★キタバ ☆黙る:★ダマム ★タメ(汚れている)
☆侍 :★シャムライ(守る者の意) ☆走る:★ハシ(急ぐ)
☆県 :★アグダ(集団の意) ☆眠る:★ヌム ☆晴れ:★ハレ(栄光)
339世界@名無史さん:2006/09/03(日) 02:56:38 0
>>337
そういう伝承を持つという点において興味深いと言うにとどめたい。

むしろ秦をなぜハタと訓じたか、あるいはハタという氏族になぜ秦の字を
宛てたのか、という点がもっと興味深い。
340世界@名無史さん:2006/09/03(日) 04:25:29 0
>>339
彼らはペルシャ人やヘブライ人をも含んでいた中国西域の多人種混合の遊牧系民、始皇帝
の臣民であった。秦の「はた」は、漢借で「波多」、または「波陀」で、意味として旗のほ
かに着物の生地のことをさしていると言われている。
インド系の語彙で、タミル語の Pat−am(布地、旗、タコ)が「はた」と変化した。
(PがHに変化する)。(小野 晋 日本語とタミル語対応表から)
秦氏らは布地の代名詞として「はた」と呼ばれるようになったのだろう。「秦」が「はた」
と読まれるようになった理由に、「はた」が「はたおり」の「はた」からきているという説
は、やはり本当であった。タミル語の祖語であるシュメール語では「カダ」(綿織物)であ
る。シュメール語→タミル語→日本語に単語が流れこんでいることを感じ取ることができ
る。やはり織物業がすべて元になっている。明快単純にいえば、江南渡海系ハタ族は幡、
西域系ハタ族は秦と区別できる。
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html
341世界@名無史さん:2006/09/03(日) 04:26:53 0
ヘブル語って不思議です!皆さんはどう思いますか!日本とユダヤの関連について。
※最初の☆マークを日本語とし、後の★をヘブル(ヘブライ)語の日本語発音表記と
して対比します。
◆(名詞)                      ◆(動詞)
☆匂い:★ニホヒ                 ☆歩く:★ハラク
☆糸 :★フト                   ☆滅ぶ:★ホレブ
☆腕 :★ヤド                   ☆照る:★テウラー
☆言葉:★キタバ                 ☆黙る:★ダマム
☆侍 :★シャムライ(守る者の意)       ☆走る:★ハシ(急ぐ)
☆県 :★アグダ(集団の意)          ☆眠る:★ヌム
☆主 :ナシ(長の意)               ☆許す:ユルス(取らせる)
☆子供:★コタン                 ☆憎む:★ニクム(復讐する)
☆草 :クシュ(わら)               ☆商う:★アキナフ(買う)
☆水 :ミツ                    ☆祓う:★ハーラー
342世界@名無史さん:2006/09/03(日) 04:27:42 0
☆鎖 :ケセリ(つながり)            ☆忌む:イム(ひどい)
☆槍 :ヤリ(射る)                ☆休む:ヤスブ(座る)
☆明日:アティド(未来)              ☆死ぬ:シナー(眠る)
☆帝 :ミガドル(高貴なお方)          ☆泣く:★アナカー(うめく)
☆尊 :★マクト(王)               ☆積る:★ツボル
☆飛鳥:★ハスカ(住居)
☆禊ぎ:ミソグ(聖別)

◆(形容詞・他)
☆辛い:ツァラー(悩み)
☆駄目:★タメ(汚れている)
☆エッサ:★エッサ(持ち上げる)
☆エンエラヤー:★エァニ・アハレ・ヤー(我はヤハウェを賛美する)
☆晴れ:★ハレ(栄光)
☆ありがとう:★アリ・ガド(私は幸せです)
343世界@名無史さん:2006/09/03(日) 05:53:33 0
大秦国(ローマ帝国ユダヤ、パレス チナ)=秦国(シナ、チナ中国)
=秦氏(ハタ、倭国)=八幡(やはた)=大秦寺(景教、キリスト教)
344世界@名無史さん:2006/09/03(日) 06:21:49 0
>>338
>>341
>>342
う…、ここはヘブライ語スレではないのですが…
ヘブライ語は、ヘブライ語スレか中東スレに移動してください。
もしもレスする場合は、強引にでも江南に結び付けてくださいよ。
345世界@名無史さん:2006/09/03(日) 11:06:26 0
>>330-331
奈良百済説が再び盛り返してきたから、wikiを見張っておいてよ。
346世界@名無史さん:2006/09/04(月) 21:57:58 0
奈良百済?いよいよ幻覚症状が出てきたか。キムチ禁止だな。
347世界@名無史さん:2006/09/04(月) 22:55:41 0
ちょっと前には、蘇我氏も紀(木)氏もKoreanになってたよ。
348世界@名無史さん:2006/09/05(火) 01:47:25 0
korea の wiki に反撃
349世界@名無史さん:2006/09/06(水) 07:56:43 0
>>348
ハングル版は閑散としていて殆ど何も書かれてないよ。
大盛況なのは、英語版と日本語版だけ。
350世界@名無史さん:2006/09/09(土) 14:46:33 0
351世界@名無史さん:2006/09/09(土) 15:56:05 0
>>350
日本皇室与朝鲜之间的血统关系

2001年12月18日,明仁在他68岁生日前的记者会上,首次提及日本皇室与朝鲜半岛之间的关系。
在《日本书纪》里有详细的记载。他承认自己的祖先,即桓武天皇的母亲是百济(古代朝鲜半岛南西部国家)
武宁王的后裔。

桓武天皇の母が百済の血筋を引いていることについて今上天皇が言及した際、
韓国では「天皇家は韓国人の血筋を引いている」として話題となった。
しかし、征服王朝である百済において、扶余族たる百済王族と民衆とでは言葉すら
通じないほどの民族的差異があったとされる。
そもそも、百済の民衆と現在の朝鮮半島に暮らす韓国人との間にすら血統的連続性は
ないことから、「韓国人の血筋を引いている」という表現は明らかな誤謬である。
352世界@名無史さん:2006/09/09(土) 18:07:46 0
>>351
アチコチにコピペが貼られているんだが、、、
>>351の日本語は、中国語の訳じゃないからね。
たぶん>>350で紹介されているスレのコピーだから。
そのまま貼ったら、日本人も中国人も意味わかんないから。
貼りまくってもいいから、一応リンク貼ってくれ。
353とりあえず:2006/09/09(土) 18:13:52 0
351





百済王も新羅王も日本人の血入りまくりでしかも百済皇女が
日本に越しいれしただけだから
普通に考えても天皇の祖先は朝鮮人とはならんわな





354とりあえず2号:2006/09/09(土) 18:31:51 0
北東アジアの中で、奈良百済説を信奉しているのは、
ホロン部だけだということがハッキリしたな。
355世界@名無史さん:2006/09/09(土) 19:45:14 0
唐(江南)−日本(畿内)−大宰府

の関係って恒星・惑星・衛星の関係そのものじゃないか?
>>32>>214とか見てると畿内で発生した古代の日本の文化は江南の文明の一部を貰って出来上がったみたいだし。
これも地球が太陽の一部で出来たのと同じだ。
最後に江南文明とその文化圏がモンゴル帝国の大遠征によって崩壊した現象は、
太陽が全ての惑星を巻き込んで大爆発を起こす超新星爆発と似てる。
こう考えると文明というものの構造が次第に解明できてくる。
356世界@名無史さん:2006/09/09(土) 19:50:50 0
呉音と漢音ってどっちが中国古代の中原の音を伝えているの?
357世界@名無史さん:2006/09/09(土) 21:49:55 0
すこぶる陰気で活気も左程無い掲示板だけど、一応紹介しておこうか、、、

<憶江南文化論団>
http://www.yijiangnan.net/bbs/index.php

さーみんな、適当に交流しようぜー。
358世界@名無史さん:2006/09/10(日) 02:52:57 0
中国もいい加減年貢収めんとなw
万里の長城は穴だらけで、つらも北方人種化極めてんのにw

中心性を北方に移せよ。
359世界@名無史さん:2006/09/10(日) 07:28:55 0
>>358
アニメとエロゲと古典と古代史ぐらいしか両国民意が気投合できるネタは

無いのだが、特に中国の方は反日が高まり過ぎて、それすらも焼け石に水で、

殆ど効果が無い状態なのだよ。
360世界@名無史さん:2006/09/10(日) 09:49:22 0
>>358
両国民の決定的対立を防ぐ為に、江南派の学者が日本へ講演しにやって来たり
もしていたようだが、逆に「南京は捏造です」等と無関係な事を言われたり、
友好派が国内世論冷却化の為に、中国の掲示板で日本のよさをアピールしたり
もしていたが、こちらも「親日派」とレッテルを貼られて、完全に焼け石に水
だったようだ。

オマイはただの「陰謀」だと切り捨てるだろうが、みんな縁の下で胃を痛くして
苦労していたんだよ。それとも核戦争をやりたいのか?
361世界@名無史さん:2006/09/12(火) 16:41:29 0
>>350
日中韓越人が四つ巴になってコメントするという状況下で、危ういバランスを保っている
貴重な板と言える・・・・・・・・
362世界@名無史さん:2006/09/12(火) 17:15:44 0
どのスレも半島が絡むと、みんな詰まらんスレに成るんだよ何で?
コメントが資料提供などの学問的じゃ無く、政治臭がしてつまらんのだよ。
363世界@名無史さん:2006/09/12(火) 18:36:54 0
>>362
>どのスレも半島が絡むと、みんな詰まらんスレに成るんだよ何で?

確かにそうだな、、、
資料に目を通すと途端にウリジナルに目が行ってしまい、とりあえず撲滅に
乗り出したくなるんだろう。

誰でもいいから江南・江東にちなんだ普通の歴史話をしてくれ。

じゃあ適当に、、、、
飛鳥〜平安時代の江南との繋がりってどうよ?
道教とかは?
本来は、ネタがあり過ぎて困るはずなんだよ、この地域は。
364世界@名無史さん:2006/09/12(火) 18:43:24 0
>>355
>の関係って恒星・惑星・衛星の関係そのものじゃないか?
>>32>>214とか見てると畿内で発生した古代の日本の文化は江南の文明の一部を貰って出来上がったみたいだし。
>これも地球が太陽の一部で出来たのと同じだ。
>最後に江南文明とその文化圏がモンゴル帝国の大遠征によって崩壊した現象は、
>太陽が全ての惑星を巻き込んで大爆発を起こす超新星爆発と似てる。
>こう考えると文明というものの構造が次第に解明できてくる。

クワスク...
365【ダナン発】歴史としてのベトナム戦争【最終便】:2006/09/12(火) 20:35:17 0
歴史としてのベトナム戦争を語りましょう。
本当にアメリカの軍事介入は必要だったのか。
代理戦争として戦後の冷戦構造、アメリカの覇権の歴史に与えた影響などなど。
366世界@名無史さん:2006/09/12(火) 20:38:48 0
誤爆スマソorz
367世界@名無史さん:2006/09/12(火) 23:53:01 0
中国のベトナム侵攻も語りましょう
まだ謝罪なしのようです
368世界@名無史さん:2006/09/13(水) 10:15:00 0
>>363
>道教とかは?

【中国は儒教国家ではなく道教国家ではないのか】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1149767147/
369世界@名無史さん:2006/09/13(水) 12:15:34 0
365 :【ダナン発】歴史としてのベトナム戦争【最終便】:2006/09/12(火) 20:35:17 0
歴史としてのベトナム戦争を語りましょう。
本当にアメリカの軍事介入は必要だったのか。
代理戦争として戦後の冷戦構造、アメリカの覇権の歴史に与えた影響などなど。


366 :世界@名無史さん :2006/09/12(火) 20:38:48 0
誤爆スマソorz


367 :世界@名無史さん :2006/09/12(火) 23:53:01 0
中国のベトナム侵攻も語りましょう
まだ謝罪なしのようです
---------------------------------------------------------------
↑ ↑  ↑  
オマイラ島流し… ^^;
370世界@名無史さん:2006/09/13(水) 19:05:48 0
これは、亡命してきた秦人が、土着辰韓人の言語とは異なることの一端を説明
している。また、辰韓の中において、秦人は城柵を作っていたという意味は、
つまり、一族はかならず楼のなかで身を寄せあって暮らしていたということだ。
秦人は、城郭をつくりその中で集団生活をする慣習をもっていた。このことは、
あたかもユダヤ人のがヨーロッパにおいてゲットーのなかで暮した習慣に似て
いる。秦人は結束力が強く、他国に移住しても城柵をめぐらして、土着の民と
たやすく混血してゆくこともなく、土着文化に容易に溶けこまなかった集団
だったといえよう。
371世界@名無史さん:2006/09/13(水) 19:08:03 0
○秦人がつくる城柵は円形だった

 現代中国の広東省(かんとんしょう)と福建省(ふっけんしょう)、
江西省との狭間に1500メートル級の山脈がある。山間部に円楼
(えんろう)と呼ばれる円形の城郭(木造)を作って集団生活をして
いるのが客家と呼ばれる人々である。彼ら客家も始皇帝の末裔とされ、
北方から来てここに定住した。(*注)彼らは中国古代音を残す客家
方言を話す。数字の読み方は、日本と一番近く、いっ、にー、さむ、
しー、うん、るっ、ちっ、ぱっ、きぃぅーと読み上げ、中国のいー、
あーる、さん、すー、うーとは言わない。客家の意味は外来の客、
ゲストという意味で、その名前からして転移住者であった。彼らは
集団自衛生活が特徴であり、五家族をもって連帯責任を課している。
一人の違反者がでると、全員が処罰される。
372世界@名無史さん:2006/09/13(水) 19:10:27 0
 客家方言を持つ彼ら始皇帝の子孫が渡海したのが、AD284年すぎ
のことならば、AD300年頃から作られた応神、仁徳天皇の大古墳
(最大の仁徳天皇陵、応神天皇陵はその次の規模を誇る)は、これらの
人々が建設した可能性が高い。始皇帝の大墳墓、大治水工事、万里の
長城などの大規模工事は始皇帝が奴隷を15万人も使って建設したもので、
すべて始皇帝一代で手掛けたものだった。また、さらにわたしたちが
古代の航海がもっとハイテクで盛んだったと見直すと、実に面白い
文明論が生まれてくる。馬王堆の漢墓は長江の中域にあり、水運と海運で
わずか9日ぐらいで大和につながっている。秦一族は弓月王集団が来る
以前から海運を利用して国家的規模ですでに、多数が来朝していたのである。
373世界@名無史さん:2006/09/13(水) 19:19:47 0
茨田は「万牟多」と表記される。姓(かばね)は天皇が授けるもので、
姓をもつ氏は、まだまだ少なかった。しかし、「まむた」は、渡海人
のもともとの姓ではない。茨田連(まむたむらじ)もまた、渡海人集団
だった。呉国の王、「孫晧」の末裔で、茨田勝のもともとの姓は「孫」さん。
呉国から遣ってきた氏族だった。堤根神社という神社が延喜式神名帳にあった。「彦八井耳命」という、茨田氏の祖神が祀られていた。
374世界@名無史さん:2006/09/13(水) 19:59:24 0
亡国の暴君「孫晧」(そんこう)は「孫権」の次男の子、孫に当たる
孫晧には21人の子供が居た、茨田の連が孫晧の子孫か。
茨田とは大阪市と門真市にまたがる地域である。
375は〜い、晩酌に名曲でもいかが〜?:2006/09/13(水) 21:17:29 0
作詞:西城八十
作曲:服部良一

一、
君がみ胸に抱かれて聞くは
夢の舟歌 恋の歌
水の蘇州の花散る春を
惜しむか柳がすすり泣く

二、
花を浮かべて流れる水の
明日の行方は知らねども
水に映した二人の姿
消えてくれるな何時迄も

三、
髪に飾ろか接吻しよか
君が手折りし桃の花
涙ぐむよなおぼろの月に
鐘が鳴ります寒山寺

東宝映画「支那の夜」主題歌
昭和十五年八月
コロムビア10063
霧島昇・渡辺はま子唄

最近では、平原綾香が歌っていた。
      ↓
学生が演奏する「蘇州夜曲」
http://www.youtube.com/watch?v=w48po1Yorrk
曲はいいが…歌が下手。
376世界@名無史さん:2006/09/13(水) 22:13:47 0
客家は山西省のあたりから早くとも東晋時代ごろに
南下を始めたと言われている。
始皇帝の頃なんて早すぎ。
377世界@名無史さん:2006/09/13(水) 22:36:16 0
>>375
学生の下手めな演奏よりも、こっちの方が優雅だな。
かなり短いが。
http://www2.gol.com/users/minehaha/contents/cd_omoide.html(蘇州夜曲プロ版)
378世界@名無史さん:2006/09/14(木) 11:24:37 0
>>350
政治とは無関係、と断った上で一言。

学術交流を目在している論壇いうことですが、韓国歴史愛好者と称される方が、
皇室の歴史等に関して博識を披露されています。
我没有看过日本古代的资料,宦官应该有的(日本の古代の資料に目を通した事はないが、
宦官は存在したはずだ)というように、資料を無視してレスることもあり、鵜呑みに
し過ぎない方がよいでそう。

それから、アイヌ=蝦夷というのも、ハッキリしたわけではないですね。
379世界@名無史さん:2006/09/14(木) 16:51:47 0
客家と云えば円楼、弥生頃の環濠集落と関係無いかな。?
380世界@名無史さん:2006/09/14(木) 17:08:48 0
>>379
時代的に無関係のようだよ。唐〜元だから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E5%AE%B6
381世界@名無史さん:2006/09/15(金) 11:08:51 0
客家語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E5%AE%B6%E8%AA%9E

日本語は唐代の中国語の影響を大きく受けているから、客家語の発音に近い。
382世界@名無史さん:2006/09/15(金) 12:44:04 0
新スレ立てました。
【厨】中国板を強制ID制にしないか?【工作員】
http://ex9.2ch.net/test/read.cgi/accuse/1158274729/l50

後で管理人に提出する予定です。
383世界@名無史さん:2006/09/15(金) 22:04:26 0
  ↑
中国板に貼られていたやつは、なぜかあぼーんされていたな。
384世界@名無史さん:2006/09/15(金) 23:39:32 0
ID制は勘弁してくれ
自作自演がやりにくくなる
385世界@名無史さん:2006/09/16(土) 00:02:15 0

384 :世界@名無史さん :2006/09/15(金) 23:39:32 0
ID制は勘弁してくれ
自作自演がやりにくくなる
386世界@名無史さん:2006/09/16(土) 02:06:38 0
>>384,385
自演乙
387世界@名無史さん:2006/09/17(日) 13:27:52 0
>>381
朝鮮語、ベトナム語の漢字音も唐音が基礎だそうだが、
これは偶然の一致だろうか?
唐滅亡以降、各国で独自文化が自立しだして
中国の発音に追随することをやめたせいだろうか。
388世界@名無史さん:2006/09/17(日) 14:45:13 0
>>387
>朝鮮語、ベトナム語の漢字音も唐音が基礎だそうだが、

日本語の「唐音」といった場合には、厳密には、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E9%9F%B3
を指すけど。
389世界@名無史さん:2006/09/17(日) 14:47:43 0
390世界@名無史さん:2006/09/17(日) 14:56:25 0
>かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、
これらの語は漢音の普及を推進する側からの蔑称であったらしい。中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、
それ以外の地域の音、特に長江以南の音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の
音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。

>唐滅亡以降、各国で独自文化が自立しだして
中国の発音に追随することをやめたせいだろうか。

最初に根付いたものの影響が大きかったんじゃないのかな?
日本語も、何だかんだ言って「呉音」が一番強烈でしょう。
391とんでもなく亀レスですが:2006/09/25(月) 16:31:30 0
>>212
くれ 【呉】
(1)古く、中国の呉(ご)の国をいった語。江南地方をもいい、また、広く中国を意味した。
(2)中国伝来の事物である意の複合語を作る。
「―竹」「―楽」
三省堂提供「大辞林 第二版」より

>朝鮮語の「クル」ってどういう意味?

クレが「高麗」の略だという説もあったようです。
辞書には滅多に載っていませんが。
392世界@名無史さん:2006/09/30(土) 23:50:00 0
age
393世界@名無史さん:2006/10/01(日) 13:00:22 0
YAP+遺伝子が東アジアでは日本とチベットにしかないのは何でだろう?
だれか教えて!  韓国や中国からは出ないんだって?。
394世界@名無史さん:2006/10/01(日) 13:08:28 0
雲南からは出てるでしょう。
395世界@名無史さん:2006/10/01(日) 13:21:59 0
雲南からも出てるの?
この遺伝子、縄文系アイヌ人から88%も出るらしいな。
396世界@名無史さん:2006/10/01(日) 15:02:25 0
>>395
出てるよ。
http://219.238.6.200/article?code=01YC0226&jccode=06
注目するとしたら、

Naxi(納西)族37.5%と25.5%
チベット族36%
Zhuang(壮)族21.3%
Miao(苗)族11.8%
Dai(幾)族

ぐらいかな。
中国の雲南大学が調査をしていたから、
Yunnan YAP+でぐぐればヒットするはずだけど。
397世界@名無史さん:2006/10/01(日) 22:38:38 0
今日は、たまたま民族の起源について、ある教授と話をしたのですが、ユダヤ人に
多くみられるCohen(聖職者の意味で、これに因んで名づけられた)と、アジアの一部
で認められるYAPと呼ばれる染色体の領域とが、いずれもY染色体上にあって、それ
が民族の起源のマーカーになっているのが面白い、という話になりました。

上の話どう思う。
398世界@名無史さん:2006/10/02(月) 17:00:38 0
>>396 日本史板にこう言うのが有ったけど、どうなの?

日本人種のYAP+と東南アジア辺りのYAP+は別種ですよ。

ゆえに日本人種は中国南部や東南アジアとは無関係。

日本人種のYAP+はht1。
東南アジア・中国南部あたりに微かに残るYAP+はht2。
白人や黒人のYAP+はht3。

◎YAP+マップ

http://www.geocities.com/londonross1/china3.png
http://native.way-nifty.com/./native_heart/images/y_chromosome.jpg
399世界@名無史さん:2006/10/02(月) 18:04:34 0
460 :月光仮面 :2006/10/02(月) 15:20:02
>>457
日本のYAPはチベットの子孫とされている。出現するのは縄文開始時代という。
豪州キリスト教関係専門サイトでは東南アジアのYAPは日本の海外交易による
ものではと推測している。
400世界@名無史さん:2006/10/02(月) 23:14:42 0
これをみると、アメリカに渡ったには、
チベット−日本系のように見える
401世界@名無史さん:2006/10/03(火) 18:50:26 0
>>400
そうなの?
402世界@名無史さん:2006/10/04(水) 08:34:33 0
>>400
ようするに、チベット−日本の間に釣り目の新モンゴロイドが北から、割り込んできたんだろ。
たぶん、シベリアの氷河の一角にでも長い間、閉じ込められていたに違いない、デーモンみたいに。
あいつらの繁殖力は異常。
403世界@名無史さん:2006/10/05(木) 07:39:19 0
>>402
>チベット−日本の間に釣り目の新モンゴロイドが北から、割り込んできたんだろ。

あ、、今なんか目から鱗が落ちた気分。

>あいつらの繁殖力は異常。

中国大陸をことごとくシノドント歯列に変えてしまうぐらいだからなー。
原住民テラヨワス...
404世界@名無史さん:2006/10/05(木) 09:06:18 0
やはりチベット人も日本人みたいに垂れ目なんだろうか?
405世界@名無史さん:2006/10/05(木) 19:21:04 0
325 名前:名無しって何ですか?:2005/12/27(火) 07:14:19 ID:YevwbuuZ
         ________   
       /:.'`::::\/:::::\   
      /::            \
     /::.  /"""  """\ ヽ
     |::〉   ●"    ●" |  
   (⌒ヽ             |) ←セロイwwwwww
    ( __     ( ∩∩ )    |
      |  、_____  /   
      ヽ   \____/  /
       \        /
         \____/

         竹石 圭佑
      (1986〜 愛知県名古屋市)

在日中国人の両親を持つ為か、日本語のアクセントがおかしい時が多々ある。
小学生の時に万引きで補導されたらしく、その頃から既に歪んだ性格であった考えられる。

中学・高校時代…意中の女子には露骨にちょっかいを出して気を引こうとし、また、その時の言動は挙動不審で相手に好意があることがミエミエな為、非常に痛々しい。
でしゃばりで、なぜか偉そうな態度をとっていたが、不良学生相手にはビクビクしながら機嫌をとっていたという不可解な面も併せ持つ。
また特に自分より力の弱い女性教員や女子生徒等を格好の的としていたので、その様な人間には異常に高圧的な態度をとり、馬鹿にし、いつも幼稚な悪口や悪質な嫌がらせを考えて楽しんでいた。

相当な目立ちたがり屋で「地球は自分を中心に回ってる」という性格。しかし、何の能力・才能の欠片もなく、ヘラヘラしていただけなので精神が不安定だったとも考えられる。あだ名はダメ石(何をやってもダメなくせに口八丁なので)→デメ石(非常に出目金に似た顔なので)。

愛知県の底辺の大学に通ってるが、名古屋大学医学部を目指しているらしく、医学生になった自分を日々妄想している。
余談だが、KAT-TUNの田中聖をライバル視しているらしい。
406世界@名無史さん:2006/10/05(木) 22:56:19 0
>>404
さあね、あんまり「垂れ目」とは聞かないけど。目は細い方じゃないの?

最近殺伐とした雰囲気だからガラリと趣を変えてこんなのどうどう?

〜〜江南写真館(イラストもあり)〜〜

http://www1.cts.ne.jp/~katsujyu/c12%20kawabe%20no%20ie.html ←イラスト!
http://j-fashion.cocolog-nifty.com/photos/china/cimg0832.html
http://www.ex.biwa.ne.jp/~abinadi/sub11.html
http://www.asiafinest.com/forum/lofiversion/index.php/t72256.html
http://chibaphoto.jp/kousyu/saiko.html←個人的にごっつい懐かしい風景。

水質汚染が最近酷いという話を耳にするけど、こうして(写真で)見るといいもんだね。

江南の風景は、はっきりいって変わり過ぎ。
残すべきは残して欲しいと切に願う今日この頃。
407406:2006/10/05(木) 22:59:00 0
そうそう、一昔前はこんなんだったし。(最近年寄りのように…)
        ↓
http://www1.cts.ne.jp/~katsujyu/c12%20kawabe%20no%20ie.html ←イラスト!
408世界@名無史さん:2006/10/05(木) 23:05:59 0
あー、それから、江南と言えばこの人なわけだが…
どうしようね、この怪しげな商品。
http://www.plastic-rouge.com/souten/t_syuyu.htm
409世界@名無史さん:2006/10/08(日) 18:59:32 0
日本人種のYAP+と東南アジア辺りのYAP+が別種なのは事実。

日本人種のYAP+はht1。
東南アジア・中国南部あたりに微かに残るYAP+はht2。
白人や黒人のYAP+はht3。

ゆえに日本人種は中国南部や東南アジアとは無関係。

残念でした(嘲笑)

◎YAP+マップ

http://www.geocities.com/londonross1/china3.png
http://native.way-nifty.com/./native_heart/images/y_chromosome.jpg
410我是日本人種:2006/10/09(月) 17:49:36 0
ズッコケてよろしいですか?
411世界@名無史さん:2006/10/11(水) 11:28:14 0
中国の歴史に関する娯楽・文学は三戦板のご利用を

http://hobby8.2ch.net/warhis/
412世界@名無史さん:2006/10/11(水) 21:17:17 0
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
413世界@名無史さん:2006/10/11(水) 21:20:11 0


まーだ宝来mtDNAデータのトリックと欠陥が分からない脳弱が
いるようなので、簡単に説明しておくと、

朝鮮半島も中国大陸も、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない
地域であったのにもかかわらず、宝来mtDNAデータには北方アジア人に
関するタイプのデータが一切出てこない。

しかも、調査サンプルに北方アジア人のサンプルが一つも入っていない。

つまり、宝来mtDNAデータは北方アジア抜きの偏向調査で出された
偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと
錯覚させるだけの極めて悪質な欠陥データに過ぎないのである。

414世界@名無史さん:2006/10/12(木) 10:45:03 0
>>409>>412>>413
考古学と政治の話は別板でやれ。
http://academy4.2ch.net/archeology/
415世界@名無史さん:2006/10/13(金) 05:23:42 0
KBS 2006-10-11 米国務長官「米、北韓を攻撃しない」
http://rki.kbs.co.kr/japanese/news/news_detail.htm?No=25020
KBS 2006-10-12 ロシア政府 北韓に人道的レベルの食糧援助実施
http://rki.kbs.co.kr/japanese/news/news_detail.htm?No=25039

KBS 2006-10-12 中国 米ロに特使派遣へ
http://rki.kbs.co.kr/japanese/news/news_detail.htm?No=25040

OhmyNews 2006-10-11 米紙「悪の枢軸政策が外交危機を招いた」
北朝鮮が成果の見方
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002269

416世界@名無史さん:2006/10/13(金) 22:25:35 0
■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■
1 :日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:36:31
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

何で酒器も玉器も龍信仰も亀卜も全く伝わっていないのかね?

渡海すると記憶喪失になって故郷の文化は全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は朝鮮無文土器が影響した弥生土器と遼寧式(満州式)青銅器と
支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591
417世界@名無史さん:2006/10/14(土) 13:07:31 0
418世界@名無史さん:2006/10/14(土) 20:34:12 0

 1.倭人

弥生時代初期に、中国の江南(長江の流域以南)から日本列島へ渡来してきた集団は
倭人と呼ばれていました。3世紀後半の中国の史書『魏志倭人伝』(通称)には、倭
人に関する詳細な記述があり、その特徴として「稲作、貫頭衣(着物の祖形)、断髪
(ザンバラ髪)、黥面・分身(いれずみ)、潜水漁労、歌垣」などが挙げられていま
す。  この『魏志倭人伝』の中の一節があまりにも有名であることから、一般的に
「倭」が日本の古称であることはよく知られています。「倭」の語義には諸説ありま
す。当時の日本列島人が「ワ」と自称していたとか、漢民族が日本列島人の身体的特
徴から「倭(背が低い)」と呼んだとか。この「倭」という名称も、大和朝廷の勢力
拡大とともに、マイナスイメージの語義を持つ漢字表記を避けて同音の「和」「大和」
へ変更され、対外的には「日本」と自称するようになりました。
419世界@名無史さん:2006/10/14(土) 20:36:48 0
従来は、このように「倭人=日本人」と考えられてきました。しかし、日本列島
だけにとらわれず、広く東アジア全体から倭人の歴史を見渡すと従来の説とは違
った「倭人」観が浮かび上がってきます。このような立場から倭人を考察してい
る研究者に、古代史・文化人類学者の鳥越憲三郎(※1)がいます。鳥越(※1)は
、倭人の特徴を「稲作と高床式住居」とし、新しい「倭人論」を展開しています
。以下、鳥越(※1)の説に言語学や歴史学の成果を加味しながら、倭人の歴史を
紹介していくことにしましょう。  時代をもっとさかのぼると、日本列島の倭
人とまったく同じ特徴を持つ倭人と呼ばれる集団が江南にも居住していたとの記
述が散見されます。初出は、周代(紀元前11世紀〜同8世紀)のことを記した史
書『論衡』。このことは、漢民族が日本列島人の身体的特徴から倭人(背が低い
人)と呼ぶようになったというよりは、江南にいた「倭人」が日本列島に渡来し
たことにより、日本列島人も倭人と呼ばれるようになった、ということを示して
います。
420世界@名無史さん:2006/10/14(土) 20:39:01 0
ここで注意しなければならないのは、現代の江南に住む中国人と周代に同域に住んでいた
倭人とは異なる集団であった、ということです。この地域が漢民族の支配を受けるのは、
さらに時代が下った秦・漢の時代。黄河流域の漢民族は、竪穴式住居(土間式)に住む
畑作民、長江の倭人は、高床式住居に住む稲作民で、それぞれまったく文化の異なる民族
だったわけです。中原の漢民族は、このような江南の居住民を、未開の民と見下していま
した。  倭人は、言語学的にはタイ語系であったと考えられています。華北の河川が
「河」であるのに対し、江南の河川「江」はタイ語語源ですし、江南の中国語方言(上海
語、広東語)の基層もタイ語と考えられています。これらのことは、倭人がタイ語系であ
ったということを物語っています。このように考えると、現代の江南人は倭人が漢化した
集団ということになります(幾多の民族移動があったので、実情はもっと複雑でしょうけど)。
421世界@名無史さん:2006/10/15(日) 00:06:23 0
>>418-420
じゃあ、何で当時の江南の主要文化だった「印文陶」や「越式鼎」や
「酒器」や「玉器」や「楽器」なんかが一切伝わってねえんだ?馬鹿!

歌垣が確認されるのは8Cに入ってからだし、和歌自体、4C以前の歌が
全く確認されてないんだぜ。

いい加減な妄想で創作をバラ撒くな馬鹿チャンコロ!
422世界@名無史さん:2006/10/15(日) 15:09:29 0
単純に「酒器」や「玉器」を所有するような王侯貴族が渡来したとは限らないんでは。
庶民が来たなら高価な祭器などは持っていなかったはず。
423世界@名無史さん:2006/10/15(日) 18:34:51 0
>>416
>原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

漢字については、土器片に刻まれた漢字(多くは一文字)などは存在
したはず。それが楽浪経由か、大陸人が直接持ち込んだものかは不明。
金印の件もある。

ただし、漢字が伝わった時期については、詳しい事が判断できる段階には
ない、というもの。
早くとも紀元1世紀以降に伝わったと考えられている。       以上 
424世界@名無史さん:2006/10/15(日) 22:45:59 0
>>422
アナタバカアルネ

それは青銅器。

実際の酒器はほとんどが陶製。

つまり器形も伝わってないって事だ。

竜文、雷文、蛇文、鳳凰文などの文様もな。

それに実際の玉器も貴重な軟玉だけが使われた訳じゃなくて、
どこにでも手に入る水晶や瑪瑙が多く、器種も凝った彫刻だけではなく、
多くがj、壁、佩、三叉形玉などの非常にシンプルなデザインの方が
多いんだよ。

例えば、壁なんてのは円盤の真ん中をくり抜いただけの単に5円玉と同じ器形。
425世界@名無史さん:2006/10/15(日) 22:47:28 0
>>423
アナタバカアルネ

漢字じゃなくて原始漢字と書いてあるだろ。

つまり漢字の前身の篆書などの事だよ。

それに渡来人が来た弥生前期後半はまだ春秋時代でまだ漢は無いよw

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
426世界@名無史さん:2006/10/16(月) 00:24:45 0
>>425
江南の歴史や文化に詳しいですか?このスレに興味があるから、たぶん
詳しいと思うんですよ。

例えば伝統演劇。江南には「越劇」というものがありますが、これは
「中国の宝塚」(但し男性俳優もいる)と言われていて、日本でも女性を
中心に大変人気があります。
http://homepage2.nifty.com/baogege/yueju30index.htm

中国には、その他に「京劇」や「徽劇」や「川劇」や「粤劇」等ありますが、
その違いや成り立ちについて説明してくれると、演劇ファンは喜ぶと思う
んです。

最近雰囲気が重いので、たまに「息抜きネタ」の提供をご協力をお願いします。

それから、コピペを大量に貼るのは少し控えてくれるとありがたいです。
激しいやり取りは、考古学板か日本史板でやってください。
427世界@名無史さん:2006/10/16(月) 00:26:48 0
ああ、それから「閩劇」というのもありましたね。
とにかく演劇は豊富です。
京劇は200年ぐらいしか歴史が無いんですよ。意外と新しいでしょう?
428世界@名無史さん:2006/10/16(月) 00:35:41 0
リンク切れ臭いですね。>>426

http://www.cctvdf.com/j/column/daifu_column02.php?chinaculid=41&syoriid=3&nowpage=1
越劇も歴史は非常に新しいんです。
429428:2006/10/16(月) 07:03:57 0
>>426
大丈夫だ。ちゃんと接続できますた。普通に見られます。
430世界@名無史さん:2006/10/16(月) 07:18:52 0
>>424
>壁なんてのは円盤の真ん中をくり抜いただけの

それは「壁(かべ)」じゃなくて、「璧(へき)」でしょう。
こういう面白い伝説がありますよ。
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/fav/kashinoheki.html
431世界@名無史さん:2006/10/16(月) 14:27:28 0
もし>>418-420が言うように周代の江南から渡来人がやって来てBC10Cに
弥生時代が開始したならば、日本最古の水田遺跡である菜畑遺跡や板付遺跡
からは印文陶や鼎やその擬似物が出てくるはず。

ところが実際は、菜畑遺跡や板付遺跡からはそんなものは一切出てこず、
その代わり朝鮮無文土器やその擬似物が出てくる。
432世界@名無史さん:2006/10/16(月) 14:30:03 0
しかし、それ以上に大切な事は、弥生時代が開始して300年くらい後の
遺跡からでないと渡来人骨なんか出土しないという事だ。

つまり、水田技術、無文土器技術、農工具技術を持ち込み弥生時代を
開始させたのは渡来人骨の持ち主ではないという事なのである。

弥生時代の途中からようやく青銅器とともに渡来人骨が出土し始める訳だが、
その渡来人骨は朝鮮半島の古代人骨とは形質が異なり、彼らが持ち込んできた
青銅器は中国青銅器とは器種や器形や文様などで大きく異なっており、
満州から朝鮮半島に見られる細型青銅武器文化と一致するという事である。

これらの情報から読み取れる事は、水田技術、無文土器技術、農工具技術を
持ち込んで弥生時代を開始させたのは朝鮮半島南部と交流していた縄文人自身
であるという事と、弥生時代の途中で渡来人骨の持ち主が満州以北から満州式
の青銅器をたずさえて朝鮮半島を抜けて九州北部までやって来たという事である。
433世界@名無史さん:2006/10/16(月) 22:51:28 0
弥生中国人は土器が好きだな、なかなかネバッコイな土器土器。
434世界@名無史さん:2006/10/17(火) 17:05:22 0
>>418-420は稲作と高床式住居を弥生開始時に伝わったと言っているが、
今は両方とも縄文中期には既にあった事が大矢遺跡や桜町遺跡から
分かっている。

しかも縄文中期以前に既に江南に出現している水田、鋤などの
農耕具、黒陶や彩陶、釜・甑・鉢などの器種も一切伝わっていない。
435世界@名無史さん:2006/10/17(火) 17:16:31 0
一般的ではないし、各地で建て方が大分違うけどね。
436世界@名無史さん:2006/10/17(火) 18:15:11 0
437世界@名無史さん:2006/10/18(水) 22:42:34 0


河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。
こんな骨笛は鳥類の骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,
鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。同時の原始人は木下に隠れて,
網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ飛んでくる
んです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも
一部分の中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具は
やはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm
438世界@名無史さん:2006/10/18(水) 22:43:05 0


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、塤(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
439世界@名無史さん:2006/10/18(水) 23:07:33 0
弥生時代の日本には縄文時代から続く石笛・土笛と朝鮮経由の琴が
あるくらいで、江南の河姆渡遺跡には既にある骨製や竹製の縦笛の
「簫」も、石製の打楽器の「磬」も、その他、青銅製や竹製や木製の
楽器の数々も弥生時代には全く伝わっていない。
440世界@名無史さん:2006/10/19(木) 00:19:11 0
       GET OUT OF HERE !!
AND GO HOME !!!

http://academy4.2ch.net/history/
http://academy4.2ch.net/archeology/



ここは反日スレじゃないから安心してください。
441世界@名無史さん:2006/10/19(木) 00:20:01 0
米倉涼子さんが生放送中に放屁、脱糞の可能性も
http://news20.2ch.net/test/read.cgi/news/1160977310/
442世界@名無史さん:2006/10/19(木) 00:29:33 0
>>439
それから、共通点を無視して無いものばかりを論っても、意味が
ないし、単なるコチコチの「反中原理主義」的な方とは話ができ
ませんよ。


日本史板か考古学板で思う存分熱弁をふるってください。
自スレをお持ちなら、こちらもそちらに足を踏み入れませんので、
それで御相子にしましょう。
443世界@名無史さん:2006/10/19(木) 01:40:32 0
もう終わりじゃないか?
時代的に学者が鉛筆舐めなめ出来んのも。
444世界@名無史さん:2006/10/19(木) 07:27:52 0
445世界@名無史さん:2006/10/19(木) 15:59:12 0
>>442,444

彼(439)は日本史板の弥生中国人のスレ主です、どうも日本人の先祖を朝鮮人
に誘導したいみたいで何処のスレでも、土器を武器に他の説をしつっこいほど
否定します、無視するとセロイ人のコピペ貼りであらします、困ったもんです
朝鮮人が日本に対して誇れる物は土器しか無いので、なかなかしつっこいです
気の毒な方なので、やさしく見守って上げてください。
446世界@名無史さん:2006/10/19(木) 18:22:07 0
>>445
>日本人の先祖を朝鮮人に誘導したい


いやいや。

お言葉ですが、

主要な物証一つ出せやしない、出したと思ったらウソと捏造、全ては妄想と
マスターベーションで固められた中国誘致のデムパと創作しかできない、
馬鹿で、無知で、恥知らずな糞チャンコロむき出しな君とは最初から頭脳の
出来が私は違うので、形質の一致しない朝鮮なんかに渡来人を誘導した事
など一度もありませんよ(嘲笑)
447世界@名無史さん:2006/10/19(木) 23:04:10 0
 稲作民である倭人の故郷は江南であったかというと、実はそうではありません。
1万2000年の稲作の歴史から見ると、江南で稲作が始まったのはそんなに古くな
いことが明らかになっています。それでは、倭人の故郷はいったいどこだったの
でしょうか? 諸説ありますが、最近の調査・研究では、イネの原生種が生育す
るアッサム(インド北東部)・雲南(下図の円の部分)ではないかとされていま
す。野生のイネを食糧とし人工栽培に成功、それとともに稲作に適した高床式住
居を発明。これが、倭人の誕生ということになります。
448世界@名無史さん:2006/10/19(木) 23:05:53 0
 7000年前、倭人はこの2つを携えて長江を下り東シナ海沿岸に到達しました。
4000年前、漢民族の進攻より苗族が圧迫されて南下した際、倭人は上流と下流
に分断され、下流の倭人は「越人」と呼ばれるようになりました(越と倭の古
音は、ともに「wo」)。さらに、春秋時代(紀元前8世紀〜同5世紀)には
「呉」や「越」を建国。史書では、呉・越人の特徴として「稲作、断髪、鯨面
・分身、潜水漁労」が挙げられていますが、これらの諸特徴は『魏志倭人伝』
の倭人とまったく同じです。そして、戦国時代、これらの人々は呉・越の滅亡
による戦乱と混乱をさけるため、「ボートピープル」となって中国大陸を脱出
、稲作と高床式住居を携え、江南とよく似た気候(照葉樹林帯)の日本列島西
部に到着しました。これが、弥生時代の幕開けとなったのでした。
449世界@名無史さん:2006/10/19(木) 23:07:57 0
東へ移動した倭人の一部は東シナ海を渡り日本列島に到達したのに対し、漢族に
吸収されてしまった倭人や南や西に移動した倭人もみられました。現在の重慶市
付近にあった倭人の国「巴」は秦の全国統一のとき吸収され滅亡、前漢時代には
漢化されていた、と『史記』は述べています。西南方も倭人の国「夜郎国」
「テン国」などがありましたが、秦・漢そして蜀による侵略で、すべてが滅亡し
ています。倭人が最後に雲南に建国した「大理」も13世紀、元のフビライの攻
撃により滅亡、大挙して河川沿いに南下、タイ・ラオスを建国。また、一部の民
族は武力により山岳地帯へ追い込まれていきました。
450世界@名無史さん:2006/10/19(木) 23:09:08 0
「なぜ高床式住居が日本やタイにあるのか」という第3章の問題の答えですが、
「稲作民である倭人が武力で故郷を追われ、移住先の日本やタイに高床式住居
を持ち込んだため、両地域に酷似した建築物がみられるようになったから」と
いうことになります。これは、現代日本人と現代タイ人が同系・同根というわ
けでなく、それぞれの民族を形成することになる多くの要素の中で、「倭人」
が共通する要素であった、ということです。
451442:2006/10/19(木) 23:17:46 0
>>446
唉,,,,好心腸竟招來了惡果(頭痛),,,!
超級嫌中厨,你到底是哪國人?!

中國人?日本人?朝鮮人?!

我已経拒絶了,可你還是老來,真討厭,,,,,!!!
我真討厭你,滾出去吧!
     ↑
意味、解りますかね?


YAPのコピペにしても突っ込みどころは有りますよ。
まず、チベットを初めとするYAPは日本人と同程度で、「僅か」じゃないです。
チベット系の納西族などは、チベット人よりも多いぐらいです。
チベット人のYAPは、日本人のYAPのお兄さんタイプらしいですね?
この辺りは、日本史板や考古学板の常連が詳しいんじゃないかと思いますが、
とりあえず、そちらのセミプロさん達と喧嘩して下さい。
http://academy4.2ch.net/history/
http://academy4.2ch.net/archeology/
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1157966128/l50


いずれにせよ考古学関連の話は、鬱陶しいので少々辟易しています。
眩暈がしますので、もう荒らしに来ないでください。

お願いしました。
452世界@名無史さん:2006/10/19(木) 23:23:27 0
>>447>>450
とりあえず、乙です。
疲れているときは、超級嫌中厨氏に無理に対抗する必要はないですよ。

彼のパワーは人並みはずれて凄まじいですから^^;
453世界@名無史さん:2006/10/19(木) 23:28:13 0
>>445
遅ればせながら、お気遣いどうも^^

とりあえず、超級(ry氏はこちらへ誘導しました。
http://academy4.2ch.net/history/
http://academy4.2ch.net/archeology/
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1157966128/l50
454世界@名無史さん:2006/10/20(金) 07:52:37 0
>>451
唉,,,,好心腸竟招來了惡果(頭痛),,,!
超級嫌中厨,你到底是哪國人?!

中國人?日本人?朝鮮人?!

我已経拒絶了,可你還是老來,真討厭,,,,,!!!
我真討厭你,滾出去吧!
     ↑
ある書物の文章が、そのままキメ台詞になっています。
それが分かれば、「超級嫌中厨」は、かなりの通。
以前中国語の資料を引用していたようですが、解るかな。。。
455世界@名無史さん:2006/10/24(火) 22:58:37 0

 2、高床式住居と神社建築

稲作と高床式住居を携えて日本列島に移住した倭人は、米を籾のまま高床式の穀倉へ
保管しました。冬の間、穀倉で守られ種籾の穀霊は、翌年の春に新しい生命を再生さ
せ、秋には豊かな実りをもたらすと考えられていました。「テン国」時代の遺跡から
出土した青銅器に、収穫期に人々が稲束を高床式の穀倉に運ぶ情景が描かれたものが
あります。その上に描かれているのが、3羽の鳥です。現在のタイの少数民族の間で
も、鳥は「神が天降りるための乗り物」だと信じられています。青銅器の絵画は、そ
の倉が単なる穀倉ではなく、「農耕神が鳥に乗って天降っている聖なる建物」である
ことを示していたのです。
456世界@名無史さん:2006/10/25(水) 18:07:10 0
弥生期の鳥信仰は北東アジアから伝わったものですが何か?

稲作も高床式建築も縄文時代中期には既に見られますし、

当時の長江下流域の文化だった印文陶も、陶製の鼎も、
尊、爵、瓢などの陶製の酒器も、簫、管などの骨製や竹製の縦笛や
磬などの石製の打楽器の楽器類も、

なーんにも伝わっちゃおりませんよ。

中国人は日本人の先祖のようなふりをしないように。
457日本人〜:2006/10/25(水) 23:01:27 0
糟粕。。。



去吧、去吧...

>>456
突っ込むと暴れるから敢えて突っ込まないけど、
ひょっとして、このスレの住人と仲良くしたいのかな…?
どうすりゃいんだろうね?こういう人は。

しかもここの住人達、最近多忙で、あまり書き込んでないと思うんだが。
458世界@名無史さん:2006/10/25(水) 23:22:06 0
日本人という、実体の存在しない妄想の概念と
古代九州(?)で刺青(中略)といった文化と生活形態をもった
集団に一体何の関連性があるのでしょうか。
その集団を倭人と呼ぶとして、なぜその倭人が日本人という近代西洋起源の
妄想概念とイコールになるのかまったくもって意味不明です。
そのへんの非論理性を論理的に説明してくれないことには、
この手の話には納得行かないものがあります。
459日本人〜:2006/10/25(水) 23:30:26 0
>>456
>中国人は日本人の先祖のようなふりをしないように。

そういうモマイさんこそ、中国国籍の朝鮮族とかじゃないのー?

こんな過疎板で、過激な発言を繰り返しても意味ないよ。
在没什麼价値的2ch上、你這様做毫無意義。
460世界@名無史さん:2006/10/25(水) 23:45:25 0
>>458
日本は元々移民の国。
461世界@名無史さん:2006/10/26(木) 19:20:50 0
>>460
では、いつ、どこの、どういう集団が移民したのかね?
462世界@名無史さん:2006/10/26(木) 22:37:02 0
鳥越さんには、根強いファンがいるのかな…?
しばらく前には、ヘブライ語ファンが飛び込んで来ていたし…
463世界@名無史さん:2006/10/31(火) 17:33:11 0
日本で出土した高床式穀倉の絵画には、1〜2世紀までさかのぼるものがみられ、
様式も「テン国」のものと大差ありません。後に大和朝廷が伊勢神宮を建設する
ときも、「稲の産屋」である高床式穀倉を神殿として継承、現在に至る神社建築
が確立したと考えられています。日本から遠く離れたタイ山岳民族の住居と、私
たちが普段身近に接している神社の本殿にこのようなつながりがあったとは、驚
きです。実は、このように酷似しているのはこれだけではないんです。
464世界@名無史さん:2006/10/31(火) 17:35:24 0
3、村の門と鳥居

アカ族の集落の入り口には写真左のような門が設けられていて、「村の門(ロコーン)」
と呼ばれています。この写真は、リトルワールドのタイ・アカ族の住居(29)へいたる
道の途中に建つものです。アカ族の集落では、村の門で、村の外と内が区画されています
村の入り口に門を建てることにより、悪霊が村の中に侵入するのを防ぎ、村人を守ってい
るのです。タイの山岳民族では、鳥は「神が天降りるための乗り物」であることは上述し
たとおりですが、アカ族の村では、この門の上にさらに木彫りの鳥が設置されています。
これは、天から神々が門の上に降り、悪霊が村に侵入するのを見張っているからだといわ
れています。
465世界@名無史さん:2006/11/02(木) 11:44:10 0
>>463
ブラジルのアマゾン奥地の裸族、先住民族も高床式の住居だったぞ。
割りに人間が考える普遍的な住居なのでは。
466世界@名無史さん:2006/11/02(木) 16:26:23 0
そーら、おまえらの妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
467世界@名無史さん:2006/11/02(木) 16:27:51 0
そーら、おまえらの妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
468世界@名無史さん:2006/11/02(木) 16:29:10 0
そーら、おまえらの妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた高床式の倉庫の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
469世界@名無史さん:2006/11/02(木) 16:30:12 0
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
470世界@名無史さん:2006/11/02(木) 16:32:28 0
そーら、おまえらの妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
471世界@名無史さん:2006/11/02(木) 18:15:21 0
>>466-470
嘿嘿嘿……。楽死了〜!


>>463>>464
写中文吧、、那个↑臭小子不会漢語。


ここ面白れーから、日中友好漫談スレにしようぜ。
472世界@名無史さん:2006/11/02(木) 21:40:00 0
日本列島でも、タイの山岳民族でみられるような木彫りの鳥が、弥生時代の遺跡から
出土しています。それも住居跡ではなくて、村の出入り口にあたる場所でです。これは
古代日本でも、アカ族と同様の門があったことにほかなりません。村内に悪霊が侵入
するのを防ぐ目的で建てられていた門は、やがて、より神聖な場所である神社の入り
口に建てられるようになっていきました。これが「鳥が居る門」、すなわち「鳥居」
ですね。写真右は、熱田神宮の鳥居です。比較してみるとその形態はそっくりです。
相違点は、神社の鳥居には貫(下段の横板)があるけれど、アカ族の門にはないこと。
アカ族の門は毎年建てられるので補強は必要なかったのですが、鳥居は恒久的施設に
するために補強が必要だったと考えられています。つまり、アカ族の門が鳥居の原型
というわけですね。
473世界@名無史さん:2006/11/02(木) 21:42:55 0
 ここまで読まれて「これは間違っている」という民族学ファンのために補足
します。アカ族は北のチベット高原から来たチベット・ビルマ語族で、タイ語
系の民族ではありません。つまり、タイ語系の「倭人」ではないわけです。
なぜ、チベットから来たアカ族が、タイ語系民族の文化を持っているかと言う
と、強文化圏のタイ族の影響で固有の文化と入れ替わってしまったからだとさ
れています。民族の言語・文化が、強文化圏の影響を受け、固有の言語・文化
を喪失してしまうことはよくみられます。身近な例としては、日本語の影響で
固有の言語が衰退した北海道アイヌ語や琉球列島諸方言などが挙げられます。
また、本土の日本人も明治維新以降、欧米文化の影響を受け、固有の文化を
一部捨てました。現在、ちょん髷を結って着物を着ている人は、相撲の力士
以外に見ないですものね。
474世界@名無史さん:2006/11/02(木) 21:45:02 0
よくわからないが、北海道アイヌにも「プゥ」という高床式の穀倉があったよ。
475世界@名無史さん:2006/11/02(木) 21:54:25 0
>>474
あれは東南アジアの系列とは別の北方型高床倉庫の流れを汲むものらしい。
北はアラスカ北極海岸のイヌイトにまで分布する。
クマの食害からサケの干物などを守るよう頑丈に築かれたものが多く、
東シベリアから北米大陸太平洋岸にまで広がっているもの。
宮岡伯人の著書にそのへんが詳しいよ。
476世界@名無史さん:2006/11/02(木) 22:22:00 0
日本の中部地方の山岳地帯には「せいろう倉」と呼ばれる、
角材を井桁に組んで壁にした蔵がある。
477世界@名無史さん:2006/11/02(木) 22:24:02 0
正倉院だけだと思ってたよ。<蒸籠組み
似た工法が雲南〜四川の民家にあるが、接点はあるんだろうか?
ただし日本のはなぜか倉庫のみで居住用のはないようだね。
478世界@名無史さん:2006/11/02(木) 23:47:02 0
ところで、土蔵と板倉、高床式倉庫とではどれが物を保存するのに最良なのかね。
火災の危険はさておいて。
479世界@名無史さん:2006/11/03(金) 12:02:06 0
>>478
保存する物と環境に依るだろ
480世界@名無史さん:2006/11/03(金) 14:27:09 0
しかし弥生時代は米は高床式倉庫に納めていたが、江戸時代は土蔵に入れていたよ。
まぁ、火災の危険考えれば土蔵が一番安全だが。
481世界@名無史さん:2006/11/03(金) 15:08:50 0
そーら、江南長江妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
482世界@名無史さん:2006/11/03(金) 15:09:40 0
そーら、江南長江妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
483世界@名無史さん:2006/11/03(金) 15:10:55 0
そーら、長江江南妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた高床式の倉庫の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
484世界@名無史さん:2006/11/03(金) 15:11:52 0
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
485世界@名無史さん:2006/11/03(金) 15:12:26 0
そーら、長江江南妄想をさらに虚しくさせる神様からの贈り物だw


ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
486世界@名無史さん:2006/11/03(金) 22:53:32 0



とりあえず、多重投稿してる椰子、一度でよい。
すごく読みにくい。
487世界@名無史さん:2006/11/03(金) 22:55:54 0

それから、江上騎馬民族vs鳥越倭族スレ等を立てたらよかろう。
488世界@名無史さん:2006/11/04(土) 09:19:05 0
>>481-484
よくわからないので一遍聞いてみたかったのだが、ロシア沿海州、満州、
モンゴル、北朝鮮北部地域の基層文化や民族を溺愛し、台湾人やチベット人
を忌み嫌っている理由は(通常の反共右翼は、台湾人やチベット人が好きだ。)?
そして、YAPなどはあるが、日本人固有と呼べる遺伝子が特に存在しない事実や、
身体語の南島語との関連などを頑固に無視する理由する理由は何なのだろうね?

たぶん個人的なアイデンティティーによるんだろうが、日本人というのは
“なんちゃって”単一民族だからね。

朝青龍も白鵬も個人的に好きだが、おまえのような馬鹿が吼えるせいで、
嫌いになりそうだよ。
489世界@名無史さん:2006/11/04(土) 09:21:32 0
いや、「日本の高床式倉庫は江南起源」という論があったので、
「ツングース系の北方民族も高床式倉庫を持っている」と
コピペしまくっているんだよ。
490世界@名無史さん:2006/11/04(土) 09:28:24 0
アイヌ語にも南島語的要素が濃厚に認められるというね(村山七郎説)。
アイヌ語の文法構造は複統合語的で、古アジア諸語に近いが。

>>488
そういえば韓国ではアルタイ語研究の本がよく出ているね。
(中略)
モンゴル系日本人なんていくらもいないだろうし、
嫌う相手は別のような(ry
491488:2006/11/04(土) 09:48:23 0
>>490
>嫌う相手は別のような(ry

なんだかな・・
チベット人が大嫌いらしいから、ウヨでもないのだろう。
中共が嫌いなら、なおさら不自然な気もするんだが。

モンゴル人や満州人は、特に大好きというわけではないが、「高潔」で「正直」、
「勇敢」という印象がある。だから、馬鹿げたコピーは貼らないと思ってる。

本物のモンゴリアンやマンチュリアンは、非常に迷惑してると思う、まじで。
492世界@名無史さん:2006/11/04(土) 17:31:20 0
>よくわからないので一遍聞いてみたかったのだが、ロシア沿海州、満州、
>モンゴル、北朝鮮北部地域の基層文化や民族を溺愛し、


溺愛するも何も、弥生土器の基礎となった無文土器、支石墓、細型青銅武器、

これらは全部、満州を中心とした北方アジアから朝鮮半島にかけて
広がっていた文化だが何か?
493世界@名無史さん:2006/11/04(土) 17:38:07 0
>台湾人やチベット人を忌み嫌っている理由は?

ただ単純に、



 お ま え み た い な 奴 が い る か ら 



日本人のふりをして、頭の弱い人間に対し、創作を何千回も執拗に
繰り返し、刷り込み洗脳活動をしているから。

これではどんなウソでも本当になるわな。南京大虐殺のようにな。

華南人は日本の先祖のようなふりをしないように。
494世界@名無史さん:2006/11/04(土) 17:42:11 0
しかし貴州、雲南あたりの風土や文化に日本と似たものがあるのをどう説明する?
照葉樹林帯の文化。
495世界@名無史さん:2006/11/04(土) 17:52:05 0
>日本人固有と呼べる遺伝子が特に存在しない事実


宝来mtDNAデータだろ?

あれは宝来解釈が間違っているだけ。

あれはむしろ逆。

日本人には日本人固有のmtDNAというものがあるが、中国人や韓国人は
南方から北方アジアに至るまで、2つのmtDNAで占められているだけで、
固有のmtDNAというものが無いと解釈すべき。

宝来mtDNAデータは北方アジア抜きの偏向調査で出された偏向データ
である上に、しかも、解釈のし方も極めて愚劣。
496打倒「偽」日本人!:2006/11/05(日) 12:58:28 0
>>494
>日本人のふりをして、頭の弱い人間に対し、創作を何千回も執拗に
繰り返し、刷り込み洗脳活動をしているから。

嘘つくな。

日本人は「台湾人チャンコロは、ジャングルでバナナでも食ってろ」
なんて言わないぜ。
自分こそ、何民族なのか堂々と名乗れよ。

台湾人に敵意を燃やしてる国なんて、そうザラにはないが。
中国のバ漢族工作員ならやりかねんが、台湾の独立を促すような
発言は慎むはずだし、満蒙独立運動家は、なお更言わないぜ。
497世界@名無史さん:2006/11/05(日) 13:07:40 0
>>493
>日本人のふりをして、頭の弱い人間に対し、創作を何千回も執拗に
繰り返し、刷り込み洗脳活動をしているから。


その言葉、そのままそっくりお前に返す。
498世界@名無史さん:2006/11/05(日) 16:36:05 0
■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■
1 :日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:36:31
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

何で酒器も玉器も龍信仰も亀卜も全く伝わっていないのかね?

渡海すると記憶喪失になって故郷の文化は全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は朝鮮無文土器が影響した弥生土器と遼寧式(満州式)青銅器と
支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591
499世界@名無史さん:2006/11/05(日) 16:37:15 0
■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■
1 :日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:36:31
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

何で酒器も玉器も龍信仰も亀卜も全く伝わっていないのかね?

渡海すると記憶喪失になって故郷の文化は全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は朝鮮無文土器が影響した弥生土器と遼寧式(満州式)青銅器と
支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591
500世界@名無史さん:2006/11/05(日) 16:39:19 0
■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■
1 :日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:36:31
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

何で酒器も玉器も龍信仰も亀卜も全く伝わっていないのかね?

渡海すると記憶喪失になって故郷の文化は全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は朝鮮無文土器が影響した弥生土器と遼寧式(満州式)青銅器と
支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591
501世界@名無史さん:2006/11/05(日) 16:50:56 0
>>496
日本人種の日本民族だが何か?

おまえ何か勘違いしてないか?

じゃあ、日本民族を代表して言ってやろう。

普通の日本人は朝鮮人も中国人も台湾人もアジア系害国人なんか
全部大嫌いですよ。

特に、台湾人みたいな醜く汚らしい南方人なんか大嫌いですよ。

それが日本人の本心だ(嘲笑)
502世界@名無史さん:2006/11/05(日) 18:13:05 0

ここにもでたのか・・・>>501は「生粋」の日本人ですよ。
別板でも有名

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/geo/1070186882/l50
503世界@名無史さん:2006/11/05(日) 18:26:20 0
いっそここまで主張するならコテやるべきだ。

504世界@名無史さん:2006/11/05(日) 18:30:55 0
>>501
>普通の日本人は朝鮮人も中国人も台湾人もアジア系害国人なんか
全部大嫌いですよ。


それって、お前だけだろう。
つうか、モンゴル人もアジア系なわけだが?


モンゴル人と同祖でも構わんが、“お前”とだけは、同祖になりたくないわい。


何でこんな変人が日本人を自称しているのか、理解に苦しむぞ;
日本人のイメージを損なう目的で工作している北朝鮮のスパイじゃないのか?

>>502
へえ。
505世界@名無史さん:2006/11/05(日) 18:41:07 0
>>503
本当だな。

しかし、ツングースにこだわる理由が分からん。
中国人も朝鮮人も北方人と混血を極めているわけだから、
自動的に「兄弟民族」になってしまうのだが、
その辺のトリックに気がついているんだろうか?
あの北方マニアは。
506世界@名無史さん:2006/11/05(日) 18:43:26 0
>>504
日本人としても台湾人みたいな劣等南方人種と同祖なんかに
絶対になりたくないです(嘲笑)

中国人・台湾人は二度と日本人の先祖のようなふりをしないでくれ。

気色悪い。
507世界@名無史さん:2006/11/05(日) 19:15:14 0
>>506
お前な〜あちこちに板持って活躍してんだから、
コソコソしないでコテにしろよ!

実は遠まわしな、日漢満蒙同祖論者だったりしてw
508世界@名無史さん:2006/11/05(日) 19:51:45 0
日朝同祖論者だったはず。

卑弥呼は朝鮮みたいな発言もしてたはず。

彼は生粋の日本人ですから

509世界@名無史さん:2006/11/06(月) 13:51:54 0
>>508
日韓同祖論は陸続き時代の名残としての土着系の部分では支持するが、
渡来系の部分では全く支持していないが何か?

日本の弥生期の渡来人骨と弥生期以前の朝鮮半島の古代人骨は
一度も一致した事が無いのだよ。

朝鮮半島では既にBC1Cから灰陶(楽浪瓦質土器、三韓瓦質土器)が焼かれ、
様々な器種が登場し、漢字文化が始まっている。

卑弥呼ほどの権力者が朝鮮半島からの渡来者なら3C前半には灰陶(須恵器)
が登場し、漢字の文献が何らかの形で残っているだろうね。
510世界@名無史さん:2006/11/06(月) 16:53:43 0
>>509
>>493
>華南人は日本の先祖のようなふりをしないように。

・・・這个呆子莫非是華北人?

こやつの言い分をじっくり吟味するとだ、漢族、朝鮮族、チベット族、ベトナム人などが
「漢族同胞」となるわけだが、日本人とツングース系諸民族が同祖だとすると、それらと
混血したシニーデも同祖ということになる。
つまり、五十六族協和が成立し、中国の分裂も起こりにくくなり、日本人をも懐柔できる
という、なかなか優れた戦略だ。
頭がいいな、ほあべいれん…


だが、日本人を偽ってベトナム人やマレー人を侮辱するのは破廉恥な行為で、
悪意満々だ。 一个字、操!


これからお前は、日本語禁止。中国語で書き込みなさい。懂了嗎?
511世界@名無史さん:2006/11/06(月) 21:30:41 0
>>508
>彼は生粋の日本人ですから

一応三国志(演義の方か?)なども読んでいるようだし、秦氏は中国系だと
言っていた。だから、捻くれ中国人の可能性もある。
常日頃から「沖縄人は北方系」「アイヌも北方系」と主張しているので、
分断工作をしているわけではないようだ。

驚きだったのは、今年のW杯のオーストラリア戦の直後に何もなかったかの
ように、「弥生人は朝鮮半島を通り過ぎて来た・・・」と書き込んでいた
らしいことだ。
右翼なら、悔しさのあまり七転八倒し、書き込む余裕など全く無い。

日本人と中国人は同祖だが、中国人は老大(一番上のお兄さん)だよ!
っていうタイプの人かもね。
弥生土人の子孫になるのは嫌だが、古墳期以降の偉大なる中国系移民の子孫
ではありたいようだ。
512世界@名無史さん:2006/11/07(火) 14:10:21 0
>>510−511
おまえら、書いてて恥ずかしくないか?

チャンコロ丸出しで。

中国人の自画自賛しかしていない。

日本人なら恥ずかしくて、とても書けた内容じゃないよ。

中国人は男女問わずドアの無い便所で平気で尻を出して大便ができ、
手も洗わないほど羞恥心の無い人類集団だと言うが。

全くその通りだな(嘲笑)
513世界@名無史さん:2006/11/07(火) 14:40:17 0
まあ朝鮮人は台所と便所が同じで平気で尻出して大便ができ、
手も洗わないでそのまま料理を作るという清潔な集団ですからね。(激笑)
514世界@名無史さん:2006/11/07(火) 18:42:08 0
>>513
結局何族かまでは分からんし、朝鮮族の可能性も高い
んですが、彼を見かけた時は、大哥(兄貴)!とでも
呼びかけてやって下さい。


彼が正気を取り戻し、日の当たる道へ戻ってくる日を
気長に待つとするかな(´_`)
515世界@名無史さん:2006/11/08(水) 15:55:11 0
>>513
いつも朝鮮人認定ご苦労さんw

中国蛆虫くんw

私は単にデムパ嫌いの日本人種の日本民族だよ。

何度も言わせるな。

じゃあ、おまえらチャンコロにとって変わって、このスレで俺様が
本当の長江流域の歴史文化と同時代の日本の歴史文化との文化比較って
特別講座をしてやろうか?(嘲笑)
516世界@名無史さん:2006/11/08(水) 20:09:46 0
>>515
>私は単にデムパ嫌いの日本人種の日本民族だよ。
 何度も言わせるな。

我不能相信你説的話!

>このスレで俺様が本当の長江流域の歴史文化と同時代の日本の歴史文化との
文化比較って特別講座をしてやろうか?(嘲笑)

勇気あるなあ。
スレの住人に代わって、燦然と輝く江南の歴史を宣伝するつもりか?
血は争えん。お前はやっぱり地地道道的中国人吧?


お前、心を入れ替えないと日本人に嫌われてこの国に住み難くなるが、
知らんぞ。
517世界@名無史さん:2006/11/08(水) 20:43:02 0
しかし、リアルにモンゴル族だったら、本当にショックだ。
518世界@名無史さん:2006/11/09(木) 02:03:51 0
国籍は日本人こころは朝鮮人

その名は帰化・在日
519世界@名無史さん:2006/11/09(木) 02:36:22 0
(嘲笑)
520世界@名無史さん:2006/11/09(木) 21:21:13 0
長江流域では約5300年前には既に灰陶時代に入り、約3400年前には既に施釉陶時代に入る。


良渚(りょうしょ)文化【浙江省】(紀元前3300?〜紀元前2200?)
1936年、浙江省余杭市良渚鎮で400近い遺跡が発見されました。
馬家浜文化を継承して発展し、高水準の玉器が特色です。
絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造が行われていました。
http://www.allchinainfo.com/history/period/changjiang.html


◎呉城文化

江西省樟樹市呉城鎮。紀元前1400年?〜紀元前1000年?黄河文明とは異質な
青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
521世界@名無史さん:2006/11/09(木) 21:32:39 0
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
522世界@名無史さん:2006/11/09(木) 22:06:06 0
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
523世界@名無史さん:2006/11/09(木) 22:49:47 0
>520
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E

上のウィキペディアに「稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。」と記載されているのだけど、
どうして「稲作を行っていた事」から「その住居は高床式であった」といえるのですか?
524世界@名無史さん:2006/11/10(金) 08:52:35 0
「生粋の」日本人ってw
ハン板では「私は生粋の日本人だが〜」と言い出すやつは
ホロン部と決まってるw
525世界@名無史さん:2006/11/10(金) 14:59:26 0
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm


●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
526世界@名無史さん:2006/11/10(金) 15:24:35 0
雷文・方格文・条痕文・S字文などの型押の幾何学文様(印文)が
全く伝わっていないっ!


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
527世界@名無史さん:2006/11/10(金) 15:43:56 0
見よ!

灰陶・原始磁器が伝わっていないだけではない。
印文土器の型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


印文土器(印紋土器、印文陶、印紋陶、幾何印紋陶)
http://www.dnes.mlc.edu.tw/~lisa/vessel.jpg
http://www.gg-art.com/c/c22c04vc.jpg
http://individual.utoronto.ca/timzhao/tea/teapot/pic/054.jpg
http://www.yhwt.com/upfiles/2004717175633.jpg
528世界@名無史さん:2006/11/10(金) 15:58:56 0
>>523
その調子でどんどん質問してやれ。
彼奴の主張する古代史の範囲は、
高句麗と渤海の版図にピタリと納まる。
529世界@名無史さん:2006/11/11(土) 17:58:03 0
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/index.php?[[%BB%B0%C2%AD%C5%DA%B4%EF]]
530世界@名無史さん:2006/11/11(土) 18:00:57 0
長江流域では約6000年前に三足土器の鼎が登場し、漢代まで代表的な器形であった。


2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.ht
531世界@名無史さん:2006/11/11(土) 18:18:42 0
532世界@名無史さん:2006/11/11(土) 19:07:13 0
>>525-531
嵐うざいから悪金にしてもらうか?
結局、ただの高句麗・渤海厨による嵐なんだろう。
533失礼だから、質問に答えてやれ。:2006/11/11(土) 21:51:32 0
523 :世界@名無史さん :2006/11/09(木) 22:49:47 0
>520
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E

上のウィキペディアに「稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。」と記載されているのだけど、
どうして「稲作を行っていた事」から「その住居は高床式であった」といえるのですか?

>>525-531
自分のスレでやるならともかく、関係ないスレで暴れるのはよせな。
質問にも答えずコピペ荒らしばかりだと、規制版に突き出す。

>>1
スレ主、いるか?
どうしようか、この北方厨。
534世界@名無史さん:2006/11/12(日) 19:41:39 0
●中国青銅器について
----------------------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と入れ替わる戦国まで
の数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に形・文様・銘文に特色を残していきました。
中国青銅器は他を圧倒するほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たして
いたと容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧がうまく調和し、
数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
535世界@名無史さん:2006/11/12(日) 19:45:20 0
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
長江流域の代表的な器形である鼎などの三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



536世界@名無史さん:2006/11/12(日) 21:38:14 0
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。足の長い鼎。陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=UTF-8&search_x=1


537世界@名無史さん:2006/11/12(日) 22:03:41 0
>>534-536
他人のスレを潰し目的で、コピペ荒らしするのは
アク禁対象になるぞ。

規制板
http://qb5.2ch.net/sec2chd/
538世界@名無史さん:2006/11/13(月) 14:56:59 0
●中国青銅器の文様


饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
539世界@名無史さん:2006/11/13(月) 15:33:08 0
540世界@名無史さん:2006/11/14(火) 14:33:59 0
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
541世界@名無史さん:2006/11/14(火) 14:44:37 0
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が強く
あらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの地方の
主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが現れる。
この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、曲線が多い
もので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形がある
から、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、あるいは「鳥篆」
と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
542世界@名無史さん:2006/11/14(火) 15:02:29 0
543世界@名無史さん:2006/11/14(火) 15:23:14 0
544世界@名無史さん:2006/11/14(火) 18:39:06 0
>>542
おい、おまい今度は百度に変なもの貼ったな?
思いっきりツングースマンセーで、「日朝満蒙同祖論」を
展開しとるがな。
最終的に「日漢同祖」を主張しているのが笑えます。
なんちゅう、回りくどいお馬鹿さんじゃ、この変態華北人、
もしくは朝鮮族。
しかも「日本人種」ってww
普通、日本人、日本民族、倭族、和族、大和族とか言うはず。


日本人种与中国南方人尤其是典型旧华人差别
(日本人と中国南方人とりわけ典型的旧華人との違い)
http://post.baidu.com/f?kz=135733594
545544:2006/11/14(火) 18:41:01 0
(日本人と中国南方人とりわけ典型的旧華人との違い) ×
(日本人種と中国南方人とりわけ典型的旧華人との違い) ○
546世界@名無史さん:2006/11/14(火) 18:54:52 0
http://post.baidu.com/f?kz=135733594
>亚洲民族的渊源~满族属于阿尔泰−通古斯族

・・・。
どうかコピ馬鹿厨房が本物の満族さんではありませんように(南無南無...)
547世界@名無史さん:2006/11/15(水) 12:59:11 0
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、塤(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
548世界@名無史さん:2006/11/15(水) 13:37:25 0
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
549世界@名無史さん:2006/11/15(水) 15:19:14 0
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさーっぱり伝わっていないっ!
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨さえ無い。


上から河姆渡遺跡の骨哨、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://www.toray.co.jp/event/music/images/mus_b045.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg
550世界@名無史さん:2006/11/16(木) 17:53:47 0
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
551世界@名無史さん:2006/11/16(木) 18:15:16 0
鉦は湖南省、江蘇省、浙江省などの長江流域一帯で主に出土しており、
江南の百越で甚だ流行したそうですよ。

日本の弥生遺構で印紋土器、越式鼎、鉦なんて出土しましたっけ?(嘲笑)


鉦 打擊樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
徵都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html

●鉦
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

●越式鼎
http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=UTF-8&search_x=1
552世界@名無史さん:2006/11/17(金) 17:17:52 0
BC11C頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
553世界@名無史さん:2006/11/17(金) 17:21:05 0
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶????釉陶????原始磁器????鼎????尊????

弥生時代開始時の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しない摩訶不思議なものばーっかり(嘲笑)



554世界@名無史さん:2006/11/17(金) 20:35:56 0
ここは【江東】長江流域の歴史【江南】であって、日本人のルーツがどうのこうの語る所ではない。
555世界@名無史さん:2006/11/17(金) 21:59:55 0
我把第555駁獲得了!
556世界@名無史さん:2006/11/17(金) 22:42:20 0
>>554
もっと言ってやれ!
>>555
よかったね、これからもドシドシ書き込んでくれや。
557世界@名無史さん:2006/11/17(金) 23:25:10 0
今日行った図書館の検索で前の人が長江流域のなんとかという
本を出してたな。消し忘れてたよ。
558世界@名無史さん:2006/11/18(土) 19:25:52 0
BC11C頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
559世界@名無史さん:2006/11/18(土) 19:35:22 0
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]




両面神人頭像??鐃??玉器??ゲン??鼎??伏鳥双尾虎??[金專]??

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)



560世界@名無史さん:2006/11/19(日) 00:52:35 0
『左伝』読んでると、呉越って途中からいきなり登場して
血で血を洗う抗争の話で盛り上がるんだよね。
何なんだろあの唐突さは。
561世界@名無史さん:2006/11/19(日) 10:17:25 0
>>560
覇権争いがテーマだから、それ以前の歴史はどうでもよいものと
認識されているとか?

NHKの新日曜美術館はたまに面白いのをやってるな。
又何か面白い特別展でもやらんかなぁ・・
562世界@名無史さん:2006/11/19(日) 10:23:53 0
日本人はやはり朝鮮人の奴隷なんだな
563世界@名無史さん:2006/11/19(日) 10:24:56 0
>>560
それ以前から呉や越は存在していたが、史書にのるほど
めだってきたのはあおのころからということじゃね
564世界@名無史さん:2006/11/19(日) 14:26:05 0
810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 15:54:14 ID:OA3DKhQi
>>808
>多くの中国人知識人は
日本人のルーツについて興味は持っているが、
北回り、水平東進、南回りについて
フラットに議論してるよ。

タイムリーだ。これ面白いから読むといいよ。
北京大学の論壇だが、各自が自由に意見をぶつけ合っている状況が
よく分かる。統一された見解などは、存在しないようだ。
http://www.pkucn.com/viewthread.php?action=printable&tid=171673

但し、日本人のルーツはホットな話題の一つでもあるらしい。
ところで、南部の大学の状況に詳しい椰子いる?

>>562
遺伝子問題は是にて終了。
中国でも同じようなのが沢山湧いてるね。
565世界@名無史さん:2006/11/19(日) 16:27:30 0
周代の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。
http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm

566世界@名無史さん:2006/11/19(日) 16:31:24 0
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心



印紋陶?????原始青磁?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


567世界@名無史さん:2006/11/19(日) 16:53:26 0
やはり稲作のルーツは朝鮮半島か
568世界@名無史さん:2006/11/19(日) 19:54:03 0
絶対違うウヨ!
569世界@名無史さん:2006/11/20(月) 00:14:12 0
>>567
江南説は一世風靡した事もあって、中国でも人気が高いよ。
日本人のルーツで朝鮮を強調するのは、主に朝鮮関連の人達だ。
向こうの掲示板を見れば分かるが。
このスレの住人はリベラルが多いんじゃないのか?

>>560
江戸や明治のちょっとした爺さんなら「左伝」ぐらいは暗記してたかもね。
昔の日本人にとっても「経典」だったはずだから。
570世界@名無史さん:2006/11/20(月) 00:24:34 0
>>569
嗚呼でも、あの鳥越氏の倭族論でも朝鮮半島南部を含んでいたっけな。
どっちみち、東アジアの連中は、殆どが同祖という事になるんだろう。

異常なまでに半島を強調するのは病気だと思うが。
571世界@名無史さん:2006/11/20(月) 01:17:58 0
>江南説は一世風靡した事もあって、中国でも人気が高いよ。

でも遺伝子分布図をみると江南地方と日本人の遺伝子ってまったく似ていないよね
http://www.pkucn.com/viewthread.php?action=printable&tid=171673


華北、朝鮮半島、日本の遺伝子分布がよく似ているが、江南はインドシナ半島方面と
遺伝子が良く似ていると思うんだけどね
572世界@名無史さん:2006/11/20(月) 01:19:40 0
>>571のちょっとつながりにくいから
こっちでどうかな

http://www.geocities.com/naverfan/MinzokuKigen01/
573世界@名無史さん:2006/11/20(月) 01:24:51 0
ただ倭の5王の乱の頃の中国って5胡の侵入や南北朝時代があったから
華北の中国人が江南に南下したりはしているし、言葉もアルタイ語化したり
しているけど、それを考慮しても江南と東南アジア系の遺伝子が東北〜半島の
それと比べてまったく似ていないんだよね。

どうみても日本人と朝鮮人と華北あるいは北方系の塞外民族の方がずっと近いように感じるんだが
574世界@名無史さん:2006/11/20(月) 07:16:49 0
>>573
>日本人と朝鮮人と華北あるいは北方系の塞外民族の方がずっと近いように感じるんだが

日本人の遺伝子は複雑で、南方あり、北方ありというのが正しい。
その中には、少数でも江南系が含まれると思われる。
要するにそういうことだ。
宝来聰は一部の人に極めて不人気だが、日本人が雑多な民族の混合体
であったことを示唆していると思う。言語的にも。

その辺を柔軟に認めるなら大いに結構だ。
575世界@名無史さん:2006/11/20(月) 07:29:10 0
http://www.pkucn.com/viewthread.php?action=printable&tid=171673

>中国的壮族、苗族、佤族、基诺族、维吾尔族、汉族,马来西亚的Bidayuh、Temuan、
Jehai、Kensiu都具有不同的遗传结构,彼此都可以明确区分;但是韩国人、
日本人以及琉球岛人的遗传结构非常相似,往往不能区分彼此。汉族人(HAN)实际上
存在很高的混合遗传成分,占优势的有两种成分,一种属于壮族的主要成分,一种属于韩国人、
日本人等共有的主要遗传成分,并且两种成分在汉族人群中的比例相当,前者占30.9%,
后者占34.4%。

ここでも日本人と沖縄、韓国人が遺伝子的に非常に近いことが分かる。
漢族は、チワン族に多い遺伝子30.9%、日本人や韓国人に多い遺伝子が
34.4%を占めるらしい。もちろん、華北と華南では非常に違うから、
それを全てをひっくるめた「漢族」の遺伝子状況であろう。
576世界@名無史さん:2006/11/20(月) 07:38:40 0
胡が華北に侵入する以前、つまり呉や越の頃の長江流域の人々の遺伝子分布って解明されているの?
解明されているなら今の日本人と比べてどうなっているのか知りたい
577世界@名無史さん:2006/11/20(月) 07:55:39 0
日本て遺伝的には北方アジア色が濃くて、でも、食文化は稲作とか照葉樹林文化圏なわけね。
そこが、不思議という事ですかね。
578世界@名無史さん:2006/11/20(月) 16:49:37 0
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
579世界@名無史さん:2006/11/20(月) 16:57:41 0
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
580世界@名無史さん:2006/11/20(月) 16:58:47 0
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
581世界@名無史さん:2006/11/20(月) 18:01:05 0
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像



黒陶??釜??罐??鉢??盤??器台??甑??彩陶??笛??
土器面に豚??陶豚??骨耜??木耜??陶魚??人頭像??

7000年前の長江流域の出土物は日本の縄文遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)

黒陶、釜、盤、彩陶、たて笛、豚文、陶豚なんか弥生時代に
なっても出土しませんよ(嘲笑)

582世界@名無史さん:2006/11/20(月) 18:14:38 0
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑、灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様などが
縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


583世界@名無史さん:2006/11/20(月) 18:47:20 0
>>571
>でも遺伝子分布図をみると江南地方と日本人の遺伝子ってまったく似ていないよね
http://www.pkucn.com/viewthread.php?action=printable&tid=171673
>華北、朝鮮半島、日本の遺伝子分布がよく似ているが

似ていないとは書いてないんじゃないの?
各民族(便宜上、華北と華南とする)の遺伝子の成分比率は異なるものの、
基本的な部分で共通する点が多く、日本人と華北、華南人は同祖と言っても
過言ではないが、日本人にはYAPがあるし、細かく見ていくと異なる点が
多々ある。我々の祖先はどこから来たのか?というスタンスで、あらゆる
角度から検討しているみたいだ。
584世界@名無史さん:2006/11/20(月) 18:59:41 0
>>576
>胡が華北に侵入する以前、つまり呉や越の頃の長江流域の人々の遺伝子分布って解明されているの?

古杉て、ハッキリとは分からないんじゃないの?
この北方絶賛の素人小論文にも、日中共同江南人骨調査隊の事が書いてある。
縄文末〜弥生開始時期にはすでに北方人の影響が強いのか、同時期の日本の
人骨と形質やDNAの一致が見られるようだ。
http://post.baidu.com/f?kz=135733594
585世界@名無史さん:2006/11/21(火) 17:38:26 0
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
586世界@名無史さん:2006/11/21(火) 17:41:03 0
>これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。
>「この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)



587世界@名無史さん:2006/11/22(水) 01:13:45 0
考古学板でしてこい
588世界@名無史さん:2006/11/22(水) 19:38:21 0

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://blog.kaisetsu.org/?cid=14234
589世界@名無史さん:2006/11/22(水) 19:40:21 0
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった





原始青磁どころか、灰陶さえ伝わってない事実には一切触れない
スットボケ南京博物院(嘲笑)




590世界@名無史さん:2006/11/23(木) 10:58:08 0
このスレ、半分以上のレスが考古学板の話題になってるな。
華中・華南王朝の話でもいましょうや。
591世界@名無史さん:2006/11/23(木) 16:14:29 0
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
592世界@名無史さん:2006/11/23(木) 16:15:03 0
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など





BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)





593世界@名無史さん:2006/11/23(木) 18:19:35 0

江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

渡海すると記憶喪失になって故郷の文化を全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は朝鮮無文土器の影響を受けた弥生土器と支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
594世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:34:22 0
********** :100: 倭人の故郷 ***********

中国の長江下流域には古来倭人とよばれる人たちが住んでいました。前掲の
『川海経』、『漢書』(一世紀成立)、『論衡(ろんこう)』(一世紀成立)
そのほかの書によると、長江南部のほかに、朝鮮半島南部、日本などにも倭人
はひろがっていました。倭人ということばの意味は、背がまるくてひくい人
とか、中央から遠い土地の人とか、従順な人とか、もともとあまりよい意味
ではありませんでした。
595世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:38:06 0
右のような歴史の書物をしるした中国の中央の人たちからみて、異なった文化を
もった遠い国の人々を多少見下げてこのようによんだものとかんがえられます。
倭人が住んでいた江南の地にはまたふるくから越人とよばれた人たちが住んでい
ました。彼らのことは、『呂(ろ)氏(し)春秋(しゅんじゅう)』(四世紀)、
『漢書』顔氏(がんし)古注などに「百越(ひゃくえつ)」として登場してきます。
たとえば、『漢書』の顔氏古注には「交趾(こうし)(現在のベトナム)から会稽
(かいけい)(現在の浙江省)に至る七、八千里のあいだに、百越が入りまじって
住んでおり、それぞれに違う姓をもっている」と説明されています。長江にそっ
て南側の地に多くの越人が住んでおり、なかでも下流の江南地方に住んでいた人
々がとくに倭人とよばれていたことになります。

596世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:41:03 0
この百越に属する種族にどのような種類があったかについても記録がのこっています。
漢代の儒教経典『周礼(しゅうらい)』そのほかによると、於越(于越)、南越、区呉、
駱越、南揚、甌人、目深、夜郎などの名があがっています。現在の中国五十六の少数
民族のうち、チワン族一三三七万人、プイ族二一二万人、スイ族二八万人、トン族
一四二万人、リー族八一万人、タイ族八三万人、高山族四〇万人などが、むかし越人
とよばれた人たちの子孫であったことがわかります(『百越史論集』)。
この百越は、新石器時代晩期ごろからそれぞれの土地に住みついたであろうといわれ
ています(前掲『百越論集』および『壮族通史』)。中国の新石器時代晩期は、紀元
前五千年くらいまでさかのぼりますので、日本では縄文時代、それも早期とよばれる
時代にあたります。そのころから中国南部、それも海岸地帯を中心に住みついた越人
たちも、やがて北方に商、周などの王朝が成立しますと、その統治にはいる民族も
あらわれ、さらに春秋戦国時代を経て、秦、漢などの強力な統一国家が生まれますと、
その支配に組みこまれて歴史の表舞台からは姿をけしてしまいました。

597世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:44:33 0
しかし、商、周の下にありながらも、しだいに力をたくわえていった越人たちの一部は、
紀元前八世紀に犬戎(けんじゅう)の侵入をうけた周(西周)が弱体化して、春秋時代が
きますと国をつくる種族もあらわれました。越と呉(ご)です。
越は、いまの浙江省の紹興を中心に勢力をもった国で、百越の一つの於越(おえつ)
(于越(うえつ))の人たちが、紀元前七世紀のころに建国しました。これにたいする呉
は、やはり百越の一つであった句呉(こうご)の人たちがたてた国で、現在の江蘇省の
太湖の周辺にひろがり、越ととなりあっていました。
『史記』によると、呉を建国した太(たい)伯(はく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男
でしたが、後継者問題で身の危険を感じ、この江南の地にのがれて文身(いれずみ)
・断髪し、後継者となる意志のなことを表明して句呉と称したといいます。こうした
事情を知って、この地の人々千余家が彼にしたがいました。建国の時期は不明ですが、
越にすこしおくれたのではないかといわれています。

598世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:47:15 0
紀元前四七三年、春秋時代の末、呉は夫差(ふさ)が王の時代に越王勾践(こうせん)に
よってほろぼされました。このときに、呉の国の越人たちは朝鮮半島に亡命し、さら
に日本へわたったとおもわれます。
中国の六朝(りくちょう)時代の歴史を記述した『晋書(しんじょ)』(七世紀成立)や
『梁書(りょうじょ)』(七世紀成立)に、中国を「おとずれた日本の倭人が、自分た
ちは呉の太伯の子孫だと名のったとあるのは、彼らがこのときの亡命者たちにつなが
る人たちであったことをしめしています。また、日本の広島、高知、大分などの地名
に呉が多いこと、室町時代の京都の僧侶中巌円月(ちゅうがんえんげつ)(一三〇〇〜七五)
の著書『日本書』に、日本の神武天皇が呉の泰伯の子孫だとしるしてあるのも、この
事実に対応しています。

599世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:51:45 0
呉をほろぼした越王勾践は、北上して山東半島の南側、亜熱帯性気候の北限にある現在の
青島(チンタオ)市の西南方の琅邪(ろうや)に一時都をうつしました(漢代成立の『呉越春秋』)
。ここからは海峡をへだてて朝鮮半島は目と鼻の先です。越人はことに航海術にすぐれて
いた人たちでしたので、すぐ朝鮮にわたり、その南の端に自分たちの故郷と似た風土の土地を
発見して住みつき、さらに環境条件のよく似た日本へもうつり、海岸低地に居住したとおもわ
れます。また、紀元前三三四年ごろには、越が楚によってほろぼされました。このときにも
大量の越人が、朝鮮半島や日本へわたったとみられます。このように、日本や朝鮮半島への
越人の渡来は幾次にもわたっていました。これが、日本や朝鮮の倭人でした。
中国の学者たち、ことに考古学者たち は、百越に共通する文化的特徴として、
「印紋陶(いんもんとう)文化」をあげています(『百越史論集』『壮族通史』など)。
つまり紋様のついたやきものであり、そのなかにはいわゆる土器もふくまれますので、
日本の縄文土器や弥生土器との関係も生まれてきます。

600世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:55:14 0
しかし、越人の文化はやきものにかぎりません。
『三国志』(三世紀成立)の「魏志東夷伝」の倭人の記事、一般に『魏志倭人伝』
とよばれる資料には、日本の倭人の習俗がかなりくわしく記載されています。
海の魚をとって生活し、航海にすぐれ、目立つ習俗として、文身、断髪、蛇や竜に
たいする信仰、貫頭衣(頭からすっぽりかぶって顔を出す袋型の衣装)、航海にお
ける持衰(じさい)(犠牲者をあらかじめえらび、航海がうまくゆけば手厚くもてな
し、うまくゆかないとすべての責任を負わせて殺害する習俗)、双系的親族組織
(父方、母方双方の血筋をたどることのできる親族制度)、歌垣や妻問い婚、
一夫多妻制、ヒメが聖(神祭り)を担当しヒコが俗(政治)を担当するヒメヒコ制
、王殺し、などをあげることができます。これらは、いずれも越人の住んでいた
中国南部、ことに江南の習俗とかさなっています(大林太良氏『邪馬台国』中公新
書、一九七七年)。

601世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:57:44 0
『魏志倭人伝』にみえる邪馬台国の記述は、二世紀末から三世紀の事情をつたえるもので、
考古学の時期区分では、弥生時代の後期後半にあたる。したがってこの記事は、日本の弥
生時代の記述としても読むことができます。『魏志倭人伝』によれば、「稲や苧麻(ちょま)
を植え、蚕から絹糸をつむぎ、絹織物や綿織物を生産する」とあり、水稲耕作がひろくお
こなわれていたことがあきらかです。
越人の一部である倭人が、中国の江南から日本へもちこんだ文化が、日本の弥生文化の重要
なものを形成したことは疑問がありません。



602世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:05:11 0
縄文文化を象徴する縄文土器の出現は、約一万三千年まえにさかのぼり、終末期は、
最近、約三千年まえにもとめる説が有力となってきたことについてはまえにのべま
した。いずれにしても日本の縄文時代は約一万年つづいていました。つづく弥生時
代は、約三千年まえから、古墳の出現する三世紀前半、いまから約千八百年まえと、
これも最新の研究ではかんがえられるようになりました(『朝日新聞』二〇〇三年
八月二八日朝刊など)ので、千二百年ほどつづいたことになります。この縄文・
弥生の両時代に、もちろん、中国南方からさまざまな文化がこの列島にながれこん
でいました。
縄文文化の源流については、これまでに、北方起源説、南北起源説、大陸南方起源説
(照葉樹林文化論)など、スケールの大きな学説が提出されたことがありますが、
いずれも成立せず、結局、縄文時代一万年の文化を説明するには、黒潮にのって島伝
いに北上した東南アジア系文化、東漸(とうぜん)した大陸系文化、南下した北方文化
の三種の幾重にもわたる重なりとしてかんがえ、地道な実証にもとづく小さな学説の
累積が必要です(拙稿「中国江南の遺跡と縄文・弥生文化」『日本人はるかな旅4 
イネ、知られざる1万年の旅』NHK出版、二〇〇一年)。

603世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:07:42 0
日本文化とふかい関りをもった江南の文化遺跡の各時代はつぎのように整理されます。

河姆渡遺跡   約七千年まえから五千五百年まえ

馬家浜文化   約六千年まえから五千年まえ

良渚文化    約五千二百年まえから四千二百年まえ

馬橋文化    約四千年まえから二千七百年まえ

これを日本の文化区分にあてはめますと、縄文時代の早期から弥生時代前期にあたり
ます。この時代の日本文化に江南文化があたえた影響を稲作文化以外に注目して検討
してみます。

604世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:12:45 0
黒色磨研土器
縄文土器のうち、表面をへらなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。
この種の土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめ
し、ことに九州を中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもつ黒色磨研
土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、江南
の各遺跡から多量に出土している黒陶との関係をかんがえなければなりません。
異物混入土器
胎土中に植物繊維の混入されている土器を繊維土器といいます。縄文早期後半
から前期前半の土器群に一般的にみられる特徴です。繊維は素地土(そじど)の量
をしのぐほど多いものから、かろうじて発見できる程度の微量のものまで多様な
種類があり、そこには地域や時代による差があります。分布は主に東日本に顕著です。
また、熊本県宇土(うと)市曽畑(そばた)貝塚出土の土器を標準形式とする曽畑系
土器は、多量の滑石粉末を混入するという特異な制作技法に特色があります。この
製作法は、朝鮮半島を中心に分布する櫛目文系土器にみられる貝殻粉末混入の制作
技法と比較することができます。このような縄文時代の遺物混入土器の源流は、さか
のぼって植物繊維を混入させる河姆渡遺跡などの江南地方から出土する土器群の
製作技法にもとめることができます。環東シナ海一帯の土器製法との共通性がうか
びあがってきます。
605世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:15:40 0
高床式建築
高床式の建物は、長江流域およびその以南でもっとも普遍的にみられる建築様式です。
河姆渡遺跡をはじめ、羅家角、銭山漾(せんざんよう)、香草河(こうそうが)などの
遺跡にみられ、長江下流の浙江省、江蘇省から中流域にひろがっています。日本では
弥生時代以来一般化しましたが、縄文時代にも、長野県阿久(あく)遺跡、青森県三内
丸山(さんないまるやま)遺跡など、高床構造の建築物を想定しなければならない遺構
群はかなりの数にのぼります。この様式については、食糧をネズミの害からまもるた
めの貯蔵庫説や、儀礼的・宗教的な用途を推定する説などがありますが、源流につい
ては江南の地を無視できません。
骨角器
獣や鳥、魚の骨、角、歯牙などを素材として製作された用具を骨角器といいます。
縄文時代にもっとも多くもちいられたのはシカとイノシシで、とくにシカの角と骨が
よくつかわれました。このほかクジラの骨も使用されていました。製品としては、
漁労具、狩猟具が多く、簪、櫛、耳飾、首飾、腕飾、腕輪などの装飾品、彫像、刀
などの祭祀用具も出土しています。このような縄文の骨角器と類似の品は、中国の
江南の各遺跡からも、はるかに多量、多種類、多彩なものが出土しています。

606世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:18:32 0
栽培植物
縄文時代には多くの植物が食糧に利用されました。それらの植物のほとんどは野生
種でしたが、なかには栽培植物もかなりの種類になります。イネ、エゴマ、ヒョウ
タン、リョクトウ、オオムギ、ソバ、アズマビシ、オオクサなどです。これらはほ
とんどすべて江南の遺跡からも出土するものであり、大陸から伝播した可能性がき
わめてつよいといえます。
信仰・祭祀
縄文時代には、太陽信仰、地母神信仰、蛇信仰、樹木信仰、生殖器信仰などが存在
し、それらにかかわる祭祀もおこなわれていました。これらはすべて、大陸、こと
に長江流域にも存在しました。両地域の文化交流の結果とかんがえられます。
日本人の形成について、最新の研究成果はつぎのようにまとめることができます
(馬場悠男「形態と分子からみる日本人の起源と形成に関する研究」)。アイヌ人
が縄文人の子孫であることは確実です。琉球人は、アイヌ人ほど明確ではありませ
んが、やはり縄文人の血をうけています。弥生人は、シベリアで発生し、中国や
朝鮮半島を経由して、北部九州や山口地方に渡来していました。

607世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:22:22 0
さらに、出土品から判断されることをこれにくわえますと、縄文人も中国南部や朝鮮半島
を経由して本土にひろがったグループがありました。
人的にも文化的にも、日本とこれまでみてきたようなふかい関係にあった中国南部。そこ
に古代から居住しつづけてきた少数民族の社会につたえられた神話が日本神話に影響をあ
たえていないはずはないというのが、本書執筆にあたっての私の基本の考えです。
日本神話の最初に登場してくる国生み神話と中国南方の少数民族神話との関係についてお
話ください。
まず『古事記』によって国生み神話の内容をまとめてみましょう。
別天つ神五柱、つづく神世七代の神々の最後に登場したイザナギ・イザナミの男女神は、
天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖な
る柱のまわりをめぐって夫婦となりました。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗しました。
しかし、天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々
をつぎつぎと生みましたが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死んで、黄泉
国へいきました。妻を追って黄泉国ヘいったイザナギは妻のつれもどしに失敗しました。
筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは、身体からアマテラス、ツクヨミ、スサ
ノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させます。スサノオは父の命令に不満をも
ちます。

608世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:27:10 0
『日本書紀』や『先代旧事本紀』で注意される点をつぎにあげます。
第五の一書によると、イザナギ、イザナミの両神にセキレイが結婚
の仕方をおしえています。
『日本書紀』の正書にはイザナギの黄泉国訪問の話はなく、二人は協力して自然や
神々を生んでいます。イザナミの死は第五、第六、第九、第十の一書にみられます。
第五では紀伊国の熊野の有馬村に葬られたとあり、第六以下の一書になってはじめ
てイザナギの黄泉国訪問をはじめ、三貴子誕生の話が出てきます。
『先代旧事本紀』にも黄泉国訪問譚はみられます。
この国生み神話の成立についてこれまで提出された研究は、大きく日本独自の神話
を中心にかんがえる説と海外神話の影響をかんがえる説に二分できます。それぞれ
代表的な論を紹介しましょう。
全体として淡路島が重要な位置を占め、イザナギをまつる神社や伝承にかかわる
地名が淡路島やその周辺地に多いことから、この地方の海人集団につたえられて
きた島生みの神話が王権神話にとりいれたものであろうとする説があります
(岡田精司氏『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年、その他)。

609世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:30:04 0
『古事記』仁徳天皇の箇所に、天皇が淡路島を遠くご覧になって、
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば
淡島 おのごろ島 あじまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ

と詠んだ歌がつたえられています。この「淡島 おのごろ島」は国生み神話の
オノゴロ島と同一の地名とみられます。この点に注目して、宮廷祭儀の八十島
祭(やそしままつり)を神話成立の背景にかんがえる説が提出されています
(岡田氏前掲書)。八十島祭は淡路島を目の前にのぞむ難波の海辺で、「大八
洲の島々の霊」を新帝に付着する目的で、天皇の即位の儀式としておこなわれ
ました。
つぎに海外神話の影響をかんがえる説をみておきます。まず、海洋をかきまわ
してオノゴロ島他を生成する神話にポリネシアを中心に分布する島釣り神話の
影響を想定する説がおこなわれています(松前健氏『日本神話と古代生活』
有精堂、一九七〇年、松本信広氏『日本神話の研究』平凡社、一九七一年)。
イザナギ・イザナミの結婚から神々の出産、そしてイザナミの黄泉国への退隠
にいたる一連の神話を、天父と地母の結合と万物の生成で説明する天父地母型
とかんがえる説があります。この型の神話はほとんど世界全域に分布しており
、イザナギ・イザナミ神話もその系列に属するものとしています(松村武雄氏
『日本神話の研究二』培風館、一九五五年)。


610世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:32:08 0
イザナギ・イザナミ神話そのものを洪水兄妹婚神話として説明する論も大勢の神話
学者が展開しています。『旧約聖書』にあらわれるノアの方舟伝説、東南アジア、
中国のハニ族・ヤオ族の洪水神話などがこれまでに提出されてきました(松村武雄氏
『日本神話の研究二』培風館、一九五五年、福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興
出版、一九八五年、など)。
これまでの諸説はそれぞれに日本の国生み神話の成立を解明するには不十分です。
たとえば八十島祭は国生み神話に淡路が重要な意味をもって登場してくる事実を説
明しています。しかし、八十島祭でこの壮大な神話のすべてをつくすことはできま
せん。また世界の洪水神話は、逆に、ひろがりをもちすぎ、日本神話との関係を特
定することができません。

611世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:35:23 0
国生み神話はさらにつぎの各要素に分解できます。

ア 混沌のなかから男女神が出現する

イ 男女神の柱めぐり

ウ 最初の結婚の失敗とやりなおし

エ 妻の死

オ 三貴子の誕生

カ 三界の分割統治

キ 一子の不満

この七要素のすべてを説明しきる原神話をもとめることは無意味です。『古事記』
の序文で太安万呂がのべているように、日本神話は各種の原材料に編集と整理が
くわえられているからです。ことばをかえれば、日本の王権神話は独自の構想力が
生みだした神話なのです。そのことを承認したうえで、しかし、すくなくとも複数
の要素をそなえた原型の探索はつづけられなければなりません。包括する要素が多
ければ多いほど、その原型とみなされる神話は日本神話とふかい関りをもっていた
はずです。

612世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:38:22 0
大林太良氏が紹介された中国江蘇省の「三官伝承」(「イザナギ・イザナミ神話と中国
の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社、一九九六年)は、右の七要
素のうちすくなくとも六つの要素がそなわっているというおどろくべき内容の伝説です
。三官とは、中国の道教の神々で、天神・水神・地神の三神です。大林氏はつぎの六つ
の要素に分類して、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。

海に囲まれた島に夫婦

夫婦別離

生まれた子を流す

夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る

三子は三つの宇宙領域の代表者となる

三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満
613世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:40:56 0
この三官伝承は明代成立の長篇小説『西遊記』第九回「陳光芯、任に赴いて災いに会い、
江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしていて、日本にあてはめますと中世以
前にはさかのぼれない話です。大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になった
のは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ
神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたので
はないか」という仮説を提示しておられます。
先の日本神話の七要素のうち、イを欠き、ウとエの順序を入れ換えただけの一致は不思
議にさえ感じられます。大林氏が指摘されるような日本の国生み神話の原型は呉越の地
、中国の長江流域に存在したのでしょうか。
中国の長江流域、貴州省東南部、湖南省西南部、広西チワン族自治区北部などにトン
(イ同)族とよばれる少数民族が住んでいます。この民族のことはこれからもたびたびふ
れることになりますので記憶しておいてください。トン族の人口は一九九〇年の調査で
は二百五十万人余りでした。祖先は百越の一支族で、江西省の吉安府を発生の地として
当初は東南沿海地方に居住していたといわれています(『中国少数民族事典』東京堂出
版、二〇〇一年)。

614世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:44:13 0
このトン族の人たちがつぎのような信仰と神話をもっています。彼らの信仰する最高
の神は薩神、薩歳、薩瑪などとよばれる女神です。薩はトン族のことばで祖母、歳は
十二支の最初の子、瑪は大を意味します。したがって薩神は祖母神、薩歳は最初の祖
母、遠いむかしの祖母、薩瑪は大祖母、偉大な祖母の意味になります。トン族の人た
ちは、彼らがたべる水稲は薩神の子孫の張良張妹(姜良姜妹とも)が耕作したものと
つたえています。この二人は薩神の威力をすべて継承した神々でした。このあたりの
トン族の信仰についてはトン族出身の女性民俗学者劉芝鳳氏の『中国イ同族民俗と稲
作文化』(人民出版社、一九九九年)の記述にしたがっています。
トン族にはつぎのような神話がつたえられています。
張良、張妹は七人兄妹でした。二人のほかに雷、竜、蛇、虎、虫の兄たちがいました
。天が旱魃となったとき、張良は雷に雨を降らせるようもとめましたが、雷は承知し
ませんでした。争いとなって張良は雷を牢にとじこめてしまいました。雷は張妹に水
を飲ませてくれるようにたのみました。張妹は肉親の情から雷に水をあたえますと、
水を飲みおわった雷は牢をやぶってにげさりました。はげしくいかった雷は洪水をお
こし、万物をすべてほろぼしました。そのときに薩神は瓜の種を張妹にあたえました
。張妹は瓜の殻を船として兄の張良とともに命がたすかりました。ただ洪水は幾年も
ひかず、九年目にはじめて水がひきました。高い土手は平地となり、逆に平地は突起
して高い峰になっていました。すべての人類は死にたえ、たった二人のこされた張良
と張妹は夫婦となりました。


615世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:47:19 0
張妹は、三か月目に妊娠し、九か月目に帯が解けて男子を生みました。頭があっても
耳がなく、眼があっても足がなかったので斬りくだくと人類となりました。手の指が
落ちてとがった峰となり、骨が落ちて荒々しい岩石となり、頭髪は落ちて万里の河川
となりました。頭蓋骨が落ちて土手や田となりました。歯は黄金や白銀になり、肝や
腸は地に落ちて長江大河になりました。野牛や野鹿がふえ、山や峰がひろがり、一対
の団魚、長江と大河、三百六十四の姓氏などが生じ、洲ができ、県ができました。さ
らにまた薩神は人類を生みました。瑶人の祖先は八面山の斜面に居住し、漢人の祖先
は天下にひろがって住み、トン族の支族の坦人の祖先は潭渓や九宝に居住して大きな
田で魚を養殖し、水田にもち米をそだて、芦笙やチャルメラを吹いてたのしくくらし
ました。税をおさめず、門戸をとざさず、朝の食事、夕の食事に心をわずらわせるこ
とはありませんでした。
このトン族の神話は、先にあげた日本神話の七つの要素のうち、ア、ウの二つをそな
えているにすぎません。日本の国生み神話の原型としての資格は欠いているようにみ
えます。ただ、まったく無関係と片づけてしまえない興味ぶかい一致点のあることも
事実です。
おなじトン族の神話に異伝があります。いかった雷が大洪水をおこし、張良・張妹の
兄妹だけが生きのびるまではおなじです。そのあと以下のように展開します(劉芝鳳
氏前掲書)。

616世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:49:28 0
洪水が何年もひかないものですから張良は雷に水をひかせるようもとめました。雷は
十二個の太陽をつれてきて水をかわかして洪水をひかせました。しかし、土地もかわ
いて裂け、草一本生えません。張良は太陽を射て十個を射おとしました。そのうちの
二個は東におちて東方の水徳星となりました。二個は南におちて南方の火徳星となり
ました。二個は西におちて西方の金徳星となりました。二個は北におちて北方の木徳
星となりました。二個は中央におちて中央の土徳星となりました。兄と妹は結婚して
人類は繁栄しました。
このトン族の神話はきわめて明瞭に木火土金水の五行観念とむすびついています。日
本の国生み神話にも、これほどあらわではありませんが、五行観念がみとめられます。
『古事記』神話で国を生みおえたイザナギ・イザナミの両神はつぎに神々を生みます。
そのなかに五行観念がゆきわたっています。
617世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:52:22 0
土 石土毘古神・石巣比売神・天之狭土神・国之狭土神・波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神

水 速秋津日子神・速秋津比売神・泡那芸神・泡那美神・頬那芸神・頬那美神・天之水分神・国之水分神

木 久々能智神

火 火之夜芸速男神(又の名は火之R毘古神、火之迦具土神)

金 金山毘古神・金山毘売神

おなじ五行観念は『日本書紀』の各一書にもみることができます。土、水、火、金、木
などの神々がそれぞれ登場してきます。
いうまでもありませんが、五行観念は古代中国で誕生しました。その観念が日本神話に
みられるということは、日本神話の源流の重要なものが中国にあったことをしめしてい
ます。張良、張妹の二人が七人兄妹の最後の二人であるなどというのも、イザナギ、イ
ザナミの両神が神世七代の最後であるという日本神話の構成とよく似ています。

618世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:54:24 0
トン族の薩神は張良・張妹の祖先神です。その関係がそのままに日本の国生み神話に
反映しています。その関係はつぎのように整理されます。

祖先神     子孫の兄妹神     

薩神      張良・張妹

天つ神     イザナギ・イザナミ

薩神は民族の祖先神であり、日本の天つ神にあたりますが、それだけにとどまらず、
日本のアマテラスの性格もあわせもっています。この点の理解ができますと、長江
流域神話と日本神話の関係の展望がさらにひらけてきます。

619世界@名無史さん:2006/11/24(金) 12:24:58 0
えんえんとコピペしている奴気持ち悪すぎ 
620世界@名無史さん:2006/11/24(金) 13:32:46 0
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
621世界@名無史さん:2006/11/24(金) 15:21:20 0
>>594−618
印紋陶とはスタンプ方式で型押しされた、雷文・方格文・条痕文・S字文・波状文などの
幾何学文様が器面全体に施された土器の事で、印紋軟陶でも、灰・ 灰白・黄白色など灰陶が
中心なのだが、日本にはそのような文様も灰陶も全く伝わっていない。日本の土器と関係が
あるようにうそぶくのはやめましょう。

続いて、縄文後期後半に一時的に出現した黒色磨研土器ではあるが、鼎、鬲、盉、尊、爵などの
三足器や酒器など、やはり同時期の中国土器の器形が全く無い。しかも、その頃(BC15C前後)の
中国では既に黒陶の時代ではなく、灰陶が中心の時代であって、原始磁器が普及し始めた頃である。
ゆえに同時期に朝鮮半島で普及していた黒色磨研土器が九州北部に影響したものと見るべきである。

続いて、高床式建築はシベリア一帯、アムール地方や沿海州、アメリカ大陸まで見られる建築様式
です。 長江流域だけの様式のようにうそぶくのは今後一切やめましょう。

続いて、骨角器であるが、河姆渡遺跡に特徴的な、骨哨(骨製のタテ笛)、骨耜(骨製の鋤)が
全く伝わっておりません。同遺跡の木製の農耕具が伝わってない事自体おかしいのである。
622世界@名無史さん:2006/11/24(金) 17:14:19 0
台湾の国民的英雄は17世紀の中期を生きた鄭成功です。明朝再建のために清と
たたかい、敗れて大陸を追われ、当時台湾を支配していたオランダ人を追放して
台湾に拠り、大陸反攻の機会をねらいましたが志の途中39歳の若さで亡くなり
ました。台湾をオランダから解放し、大陸へ攻めのぼる機会をねらったというの
が、台湾人の心情にうったえるのでしょう。
623世界@名無史さん:2006/11/24(金) 17:15:53 0
鄭成功は日本人にとっても英雄でした。成功の父親は明国の人で鄭芝竜と
いいました。よくいえば貿易商、ありていにいえば海賊でした。芝竜が
日本へ亡命していたときに九州平戸の田川氏という女性とむすばれて生ま
れた子福松がのちの成功でした。彼はわずか7歳のときに父にまねかれて
明にわたり、明の滅亡後はその皇帝の遺族をまもって明国復興のために戦
いました。
624世界@名無史さん:2006/11/24(金) 17:17:45 0
父が清国にくだったのちも厦門(アモイ)を拠点に清とたたかいましたが、
しだいに追いつめられていきました。ちょうどそのころ、成功は日本へ使
いをおくって何度か援軍をもとめています。その手紙の内容が『華夷変態』
という、長崎からはいってくる大陸の風聞をまとめた書物におさめられて
今日につたえられました。原文はカタカナ書きですが、漢字を当てて分か
りやすい文になおしてみましょう。
「それがし、日本にて生まれたれば、もっとも日本を慕う心深し。今艱難
の時分なれば、憚りながら、日本より我を伯父甥の如く、兄弟の如く思し
召して、恵みの心あらんことを願ふ。それがし、生まれいづる国なれば、
懇ろの志をおこし給ひて、数万の人数を貸し、大明へ渡し給はば、大きな
る誉れ、末代に残り給はらん。」

625世界@名無史さん:2006/11/24(金) 17:20:15 0
この要請に応じて徳川御三家の一つ紀州徳川の当主頼宣は軍勢をひきいて明に
渡ろうとして、幕府に止められたといいます。鎖国令下の日本が、大陸へ軍を
派遣することなどはとんでもないことでした。
しかし、大陸の鄭成功の戦いの情報は長崎を介して日本へもたらされ、日本人
の同情心、愛国心、同胞意識などを刺激したようです。そうした機運に注目し
た近松が正徳五年(1715)に竹本座の人形芝居の台本として書き下ろした
浄瑠璃が『国性爺合戦』でした。この作品は空前の大当たりになって、三年越
し十七か月間、連続上演をしました。

626世界@名無史さん:2006/11/24(金) 21:07:29 0
主人公は和藤内(和でもない唐でもないという洒落)、のちの鄭成功です。日本に
生まれて大陸へわたり、異母妹の夫で地方軍閥の甘輝将軍を味方につけ、ほろびつ
つある明の皇室のために驚天動地の活躍をします。窮地におちいると伊勢神宮をは
じめとする日本の神々が援助の手をさしのべ、成功の母が日本人としての誇り、大
義に殉じる信念を吐露しつつ異国の地で自害するなど、鎖国下に海外への道をとざ
されて鬱屈した当時の日本人の心情をしたたかにくすぐる趣向が各所にほどこされ
ています。
鄭成功は、明国皇室の姓の朱を名乗ることをゆるされ、国姓爺(国の姓を名乗る立
派な人の意味)とよばれました。近松がその姓を性と表記したのは、彼の筆癖(自
筆書簡などに姓を性と表記した例があります)であったか、あるいは時事トピック
スであったので、わざと遠慮して一字変えて表記したともかんがえられます。
『国性爺合戦』の大当りに自信を得た近松は、そのあと『国性爺後日合戦』『唐船
噺今国性爺』と後編を書きつぎ、国性爺三部作とよばれています。

627世界@名無史さん:2006/11/24(金) 21:09:46 0
中国本土の鄭成功にたいする扱いは揺れうごいていました。台湾と中国とのきびしい
政治事情を反映して、戦後、しばらくは反逆人としての評価がつづいていました。お
そらく、文化大革命のあとくらいからだろうと思いますが、〈民族の英雄〉(『漢語
大詞典』など)とよばれるようになりました。国民的英雄ではなく、民族の英雄とい
う呼称が注意されます。
私も現地をおとずれたことがありますが、鄭成功が最初の拠点とした福建省の厦門に
は、金門海峡にむかって大きな銅像が建てられ、大勢の観光客がおとずれていました。
こうした評価の変更には、台湾解放の功績のほかに、彼が再興のために戦った明が漢
民族の国であり、その相手の清が満民族の建てた国であったという理由も大きいと思
います。
628世界@名無史さん:2006/11/24(金) 21:12:16 0
先週たずねてきた小俣喜久雄君が土産に持参してくれた『伝奇性的一生 鄭成功』
(安平鎮文史工作室・2002年)という書によりますと、台湾各地に鄭成功をまつっ
た神社が70箇所あります。その他、鄭成功にかかわる伝説や記念物をつたえる地
が50箇所を超えます。
あきらかに台湾では、鄭成功は歴史上の人物から伝説上の神になっています。彼が
剣を挿した場所から泉がわきだした、糧食の尽きた兵士たちのために無数の魚を海
上に出現させた、などの奇跡が彼にまつわりついています。
小俣君は新しい研究テーマとして鄭成功をえらぶようです。日本の芸能について知
識をもち、現在台湾に在住している日本人としては最適の課題だと思います。単に
史実や伝説の紹介・研究から一歩進めて、〈神または伝説の発生機構の解明〉とい
う新しい研究分野を確立して欲しいと願っています。

629世界@名無史さん:2006/11/24(金) 23:08:08 0
薩摩人はトン族か?
630世界@名無史さん:2006/11/24(金) 23:18:39 0
今の薩摩人は頼朝の鎌倉武士の子孫だろ。
下々の庶民は隼人の末だろうがな。
631世界@名無史さん:2006/11/25(土) 12:13:09 0
>>621-628を4行にまとめてくれ。読む気しないから。
632世界@名無史さん:2006/11/25(土) 17:38:49 0

◎戰國時代陶質編鐘在吳文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化藝術節上,
一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。這批距今2000多年仿青銅器
的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹說,這裏是吳文化發源地。這批新出土的文物,除編鐘、
鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種陶器共五十多件。
這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。
經考古專家初步鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,在全國罕見。
633世界@名無史さん:2006/11/25(土) 17:39:29 0
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙塘萬安橋村
村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏一個大土墩上發現了
“古董”。工作人員認出是極有價值的陶制編鐘。第二天即趕到現場。這個大土墩是
五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分古陶器被挖出,村民見是陶土做的,
沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用
1噸半卡車裝了滿滿一車。隨後,他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對
來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖墩文化遺址,已有一大批距今6000年
至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,彭祖墩是長江
三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處歷史文化遺址,是當代研究
太湖流域人類文明發展史最好的歷史資料。該鎮的鴻山南麓有一座被譽為“開發江南
先祖”泰伯之墓,距今已有3196年曆史。現在,後宅鎮又新出土的2000年前的古編鐘,
作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身份顯赫?還是當時這塊地主是個文化
“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
634世界@名無史さん:2006/11/25(土) 17:55:50 0
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。



編鐘?????鐃?????磬?????缸?????罐?????
壇?????鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????
有乳釘紋?????水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????



いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

635世界@名無史さん:2006/11/25(土) 18:33:41 0
先週たずねてきた小俣喜久雄君が土産持参で、今夜も来てくんないかなー
636世界@名無史さん:2006/11/25(土) 19:08:15 0
小俣喜久雄は台湾と全く無関係なテーマの研究者のはずだが?
637世界@名無史さん:2006/11/25(土) 20:24:41 0
>>613,614

トン族の祖先神薩神と日本神話のアマテラスの類似性について,くわしく
教えて下さい。
638世界@名無史さん:2006/11/25(土) 22:29:51 0
>>637 トン族について少しずつコピしときます。

トン族が居住する湖南省、貴州省、広西チワン族自治区の三地区は、アジア稲作文化の
発祥地の一つともいえますので、私は幾度も現地調査をおこなってきました。ことに二
〇〇一年の夏には長期の調査をおこない、薩神信仰の実態もかなりあきらかにすること
ができました。薩神は民族の祖先の女神、稲の神という本質をもっていますが、それだ
けにとどまらず、太陽神、実在する歴史上の英雄という性格もあわせそなえています。
薩神は稲の神でもあります。トン族の人たちのために山を開き、田圃をつくって水利を
ととのえ、豊作をもたらしたのは薩神であり、また彼女の子孫である張良・張妹の夫婦
神でした。人々は薩神に感謝し、田の畦で祭りをおこない、稲草を家にもってかえって
かざります。これは薩神に家族の保護と一年の風雨順調、五穀の豊穣、家畜の健康を祈
願するためだといいます。あきらかに薩神は稲魂です。

639世界@名無史さん:2006/11/25(土) 22:32:12 0
トン族が他方で万物の神として崇拝の対象にしているのが太陽です。彼らの住居、服装、帽子、
身体の飾りなどに円形の太陽の造形物をみることができます。トン族の男女は雨具としては用
をなさない紙製の傘を冠婚葬祭のさいや日常によくもちいます。この傘は太陽を象徴するもの
で邪悪なものをしりぞける働きがあるとされています。この薩神と太陽の両者が同一の神格と
みなされています。
薩神と太陽が同一神格であり、民族の祖神としての女神、稲魂、太陽神の三位一体であること
をもっともよくしめす祭りが三年に一度の小さい祭り、五年に一度の大祭が正月におこなわれ
る薩神の祭祀です。
日本の新嘗祭ときわめてよく似た構造をもっているこの祭祀について貴州省の苗族自治州黎平
県口江郷の例で説明しましょう。この祭りは大きく三つの部分から構成されます(参照、ビデ
オ『天地楽舞 中国五十五少数民族民間伝統芸能大系 トン族 解説書』日本ビクター・1997年)。
640世界@名無史さん:2006/11/25(土) 22:34:14 0
(1) 薩神を迎える儀礼

この儀礼は村の広場で展開しますが、そのまえに薩神をまつっている祠堂で長老の巫師に
よる招神の儀礼がおこなわれます。このときに祠堂の扉がひらかれ中の本体を見ることが
できます。おどろくべきことに内部の神体は半開きの古傘です。傘は太陽であり薩神でも
あるのです。儀礼の場所はそのあと広場にうつります。広場の中央には祭壇がもうけられ、
魚、卵焼き、豆、酒などと、大量の稲束が供物としてそなえられています。祭壇の正面に
は八人の男たち長椅子にかけており、彼らはすっぽりと頭から黒い布をかぶっています。
やがて巫師たちの祈祷のうちに八人の男たちは奇声を発してとびあがり、膝を小刻みにふ
るわせて神がかりになってゆきます。彼らは祭壇にそなえられた稲の束を食べ、酒を飲み、
はげしく身体をふるわせます。小鈴をふりながら歌をうたい、となえ言をしていますが、
しばらくして一人、一人に巫師が息をふきかけ、正気にもどります。

641世界@名無史さん:2006/11/25(土) 22:37:38 0
(2)芦笙舞

神と人の交流です。薩神への感謝を表現します。

(3)男女掛合いの合唱

神と人の交流のなかで、神への感謝をあらわし、神を送ります。
この祭りの全体は、神迎え、神人交流、神送りという素朴な三部構造をとっています。
その点は日本の新嘗祭や神嘗祭と同様です。
興味ぶかいのは(1)です。黒い布を頭からかぶって神がかりになってゆき、息をふき
かけられて正気にもどる経過は、長江流域の諸民族にひろくみられる憑霊型のシャーマ
ン儀礼の形式をおそっています。私は苗族の女性シャーマンにそのタイプをみたことが
あります。それと複合しているのが、祖先神の稲魂と子孫が幽暗の場所で一つに合体し
て稲を食する新嘗の儀礼です。しかもその祖先神は太陽神であり女性神です。ここに日
本のアマテラスとの一致点が四つみとめられます。
642世界@名無史さん:2006/11/25(土) 22:40:05 0
アマテラスと薩神との重要な符合はもう一つあります。
アマテラスは神話上の神であるとともに、現在も継続する日本の王権の祖先です。
アマテラスから五世代のちに天皇家の初代神武天皇が登場してきます。アマテラス
は歴史上の実在人物ともかんがえられています。
これとまったく同様に薩神も隋唐時代の女性英雄杏ジ(女扁に尼)(きょうじ)と同
一視されています。伝説によると、ある村に杏ジとよばれる才色を兼ね備えた娘が
いました。都から派遣された役人が租税として糧食だけではなく、田畑までとりあ
げようとしました。耐え切れなくなった村人が反乱をおこし、杏ジはその先頭に立
って闘い、役人を殺害しました。皇帝は怒って大軍を派遣し、杏ジは村人を指揮し
てその軍をうちやぶりました。しかし、官軍がその村をやきはらおうとしたので、
杏ジは高い崖のうえから投身自殺しました。後人は彼女を記念して祭壇をきずき神
としてまつりました(劉芝鳳氏前掲書)。
643世界@名無史さん:2006/11/26(日) 09:40:30 0
>>634
文字化けし過ぎてて全然読めない。
自力で漢字起しして、ついでに丁寧な日本語訳も付けてくれ。
644世界@名無史さん:2006/11/26(日) 11:31:41 0
コピペ君にそんな事出来るわけが無い。
645世界@名無史さん:2006/11/26(日) 12:53:05 0
>>642
随唐時代の女性侠客とアマテラスとの一致というのは、
宗教学の分類的には意味があるが、それが民族の足跡と
いっちしたものと見るのはいくら何でも無理。
646世界@名無史さん:2006/11/26(日) 17:32:53 0
おまたがキクおクン
647世界@名無史さん:2006/11/26(日) 18:58:49 0
>>645
ミョギョンゴングス何某よりはましかも…w
しかし、神話は面白い。
たとえ古事記等が大陸を意識したものであったとしてもだ。


このスレは静かにsage続けるのがいいのかもな。
648世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:30:45 0
◎无锡鸿山越国贵族墓考古硕果累累

●发掘了长57米的“中”字形越国特大型贵族墓,首次揭示越国贵族墓地的埋葬制度
和等级制度●惊现种类齐全的庞大的越国地下乐器库,为深入探索越文化提供了丰富的实物资
料和全新的研究方向本报讯 鸿山越国贵族墓地位于江苏省无锡市锡山区鸿山镇东部,这一地区
现保存着大小规模的土墩近百座,分布于东西约6、南北约4公里的范围中。经国家文物局
批准,自2003年3月—去年12月,南京博物院考古研究所和锡山区文物管理委
员会组成联合考古队,对鸿山镇开发区范围内的土墩进行抢救性考古发掘。

本次发掘较完整地揭示了越国贵族墓葬在同一墓地中的分布规律,并将墓葬分为小型、中型、
大型和特大型墓,代表了越国贵族的5个等级;7座墓葬共计出土了2000余件随葬器物,
其中丘承墩越墓为仅次于浙江绍兴印山越王墓的越国第二大墓,出土的1100余件器物中,
绝大多数为精美绝伦的成组成套的青瓷礼器、乐器和玉器,为江浙一带已发掘的越国贵族墓葬中等
级最高的随葬器物。
649世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:31:29 0
小型墓2座:老坟墩、邹家墩 其中邹家墩,土墩外形为长圆形馒首状,近东西向,长34.5、
宽23.5米,墩顶高出周围平地1.5米。墓葬为平地起封,分为3层:第一层为耕土层;
第二层为灰褐封土,质密较硬,墓坑中填土与之同;第三层为黄土,内夹灰块土,质稍硬,
为堆筑墓坑的堆土。墓葬位于土墩近中部,为四周堆土筑成熟土坑,方向115°,
长3.88、宽2.34、深0.35米。随葬器物近50件,主要置于墓坑西部,
原始青瓷器有盂、盅、器盖;硬陶器有坛、钵、盅、器盖;夹砂陶器有甑和鼎足;
泥质陶器有鼎、罐、盆、器盖、璧、纺轮;玉器有管、环、璜、龙形佩和龟形佩;青铜器有环等。

中型墓2座:曹家坟、杜家坟 其中曹家坟,土墩外形为长方形覆斗状,保存完好,土墩
近东西向,长35、宽26.9米,高出周围平地2.9米。墓葬为平地起封,分为3层:
第一层为耕土层;第二层为墓葬封土,灰褐色,质密较硬,墓坑中填土与之同;第三层为黄土,
间有灰块土,质稍硬,为堆筑墓坑的堆土。墓葬位于土墩近中部,方向110°,长8.75、
宽2.25、深1.95米。随葬品主要置于墓坑西部,近100件,原始青瓷器有器盖;
硬陶器有坛、碗、盅、器盖、纺轮;泥质陶器有盆、羊角形器、璧;玉器有璧等。
650世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:32:55 0
大型墓2座:万家坟、老虎墩 其中万家坟,长方形覆斗状土墩,近东西向,长47.4、
宽38.8米,高出周围平地3.8米。墓葬为平地起封,分为2层:第一层为耕土层;第二层为
黄褐土封土,质密较硬,直接覆盖墓葬随葬品。墓葬位于土墩近中部,直接在表土上铺垫
木料而构筑,垫木先纵铺3条东西向垫木,在垫木上再南北向横铺60余根稍有加工的木料,
长16.68、宽5.07米,方向107°。该墓在封土完成后通过人工挖洞在墓葬上方
对封土进行焚烧,使墓室上方形成了3米厚的红烧土。随葬器物500余件,主要置于墓葬的
东部和西部,釉陶器有圆炉盘和铃形器;硬陶乐器有于、丁宁、句、钮、甬钟、磬、铃
形器和座等,硬陶礼器有盉、盘、三足盘、炙炉等,生活用品有坛、罐、碗、钵、器盖等;
泥质陶器有鼎、盆、璧、羊角形器、纺轮等。
651世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:33:30 0
特大型墓1座:丘承墩 土墩外形为长方形覆斗状,近东西向,原封土长68.2、宽40.6米,
从墓底计高3.95米。墓葬位于土墩近中部,竖穴深坑,方向110°,平面为“中”字形,
通长57米,分为墓道、主室、后室3部分,主室还用木板隔成南北侧室。墓道长21.2、宽
3.65米;主室长23.6、宽6.3米;后室长11.9、宽3.2、深3米;墓道南壁近底部
有长圆形壁龛,底部稍深于墓道,龛长3.4、宽0.9、高0.5米;墓道和后室的前后还有排水沟。
该墓早年被盗,主室、后室、壁龛均受扰动。随葬器物1100余件,玉器约40件,其中葬玉有覆面
和带钩,佩玉有龙形佩、双龙佩、龙凤佩、龙首珩、璧形佩、龙形、环、瑗、鸱形管、管和动物造型的凤鸟、
奔兔等,以及琉璃珠、管和枭形饰等,剑饰有格和首,此外还有玉削、玉等;青瓷器中,乐器100余件,
有三足缶、于、丁宁、钮铎、句、钮、甬钟、磬、铃形器、座等,其中缶、铎、座为首次发现的
越国乐器;礼器200余件,有盖鼎、鼎、盖豆、盒、壶、扁腹壶、盉、盘、三足盘、、鉴、盆、甑、
炉盘、温酒器、虎子、璧、羊角形器等,生活用品有杯、盘、碗、盅、筒形钵、碟、器盖等;硬陶器有鼎、
坛、罐、器盖等;泥质陶器有盆、璧、羊角形器、纺轮等;另有4件琉璃釉盘蛇玲珑球形器。青瓷乐器主要
出于壁龛中,玉器和青瓷重器主要出于主室东部,羊角形器和璧主要出于主室中部,而绝大多数随葬品集
中出于后室。
652世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:35:12 0
丘承墩出土的众多精美器物尤其是许多高等级青瓷礼器、乐器和玉器的首次发现和确认,并以蛇为主要装饰而
构成的独特风格,展示了越国最高等级随葬品的风采。

玉带钩长5.8、宽3.6、厚1厘米,青白玉、局部受黄褐色沁,正面4条长蛇,蛇身饰细鳞纹,穿过中心的
圆环并盘绕四周,钩作蛇首状,饰鳞形纹和线纹,间以谷纹和斜方格纹,背面光洁,有一圆扣。整个器物应用了圆雕、
透雕、高浮雕、浅浮雕、微雕、阴刻、减地等各种工艺,带钩未见使用痕迹,为罕见的越国贵族葬玉。

玉覆面长7.8、宽5.8、厚0.2厘米,青白玉,大部分白化,夹有花斑,整体长圆形,两耳略外凸,
各有2穿,正面以条带分为4区,各雕一浅浮雕龙纹,周边间以云纹、斜线纹和细方格纹,背面光洁内弧,雕刻
手法有减地、浅浮雕、阴刻、钻孔等。龙纹玉覆面标明墓主的身份与诸侯相当或略低于诸侯。琉璃釉盘蛇玲珑
球形器,底径6.5、高6.3厘米,泥质陶,低温琉璃釉,以8条蛇盘成圆圈状,一蛇口衔另一蛇尾部
而组成玲珑球形,并以点状的蓝色琉璃釉绘成蛇头和蛇身的纹饰。玲珑球是首次发现的最高规格的越国随葬器物,
其用途当为象征王权或神权的神器。
653世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:36:06 0
青瓷三足缶3件,与其他乐器同出土于壁龛中,为首次确认的乐器,亦证明渑池会上蔺相如请秦王为赵王击缶,
确有此类乐器。口径40、通高24.2厘米,缶作深腹盆形,内外施青黄色釉,口沿和上腹部饰细蟠虺纹,
两兽首状宽耳,另两侧有一对称的蜥蜴匍匐在口沿,蜥蜴的两前肢攀在沿上,而口衔缶沿,造型夸张生动。

青瓷座也是首次发现的越国青瓷乐器,因同时出土4件,并与钟、、铎、于、丁宁、句共出,故将其
定为座。孔径9、座底径41、通高18厘米,座身为覆钵形,中有管状插孔,施青色釉,座以数道凸弦纹分隔,
饰蟠虺纹,下部有4个衔环的铺首,上部有6条堆塑的蛇,蛇身饰鳞纹,弯曲作游动状,头向上昂,两尾相交。

青瓷温酒器2件,亦为首次发现的越国礼器,盘口径31.8、通高9.5厘米,温酒器口径26.4、
通高9.5厘米,施青色釉,下为承盘,三蹄足,四兽首附耳,口及盘的上部饰蟠虺纹,内可置炭;温酒器下有三足,
置盘内,侧面有4个铺首衔环,上饰蟠虺纹及13个圆孔,内可盛水,上可置酒杯温酒。
鸿山越国贵族墓地的5个等级 根据墓葬的封土规模、墓葬结构和随葬器物的种类、质地、组合关系,7座墓葬可以分为5个等级:
654世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:37:31 0
第一级别为丘承墩,该墓封土为长方形覆斗状,规模宏大,且为墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面为“中”字形,并有壁龛;
随葬器物中青瓷礼器数量众多,气势恢弘,器类齐全;青瓷乐器既有中原式的钮、甬钟、磬,亦有越式的于、丁宁、
铎、句、铃形器、座,还有以往从未确认的缶,乐器的数量和品类可与曾侯乙墓相媲美;玉器中,既有葬玉、剑饰,亦有佩玉,
而成双成对的龙形佩、双龙佩、龙凤佩、龙首珩、龙形等组成的佩玉,当为春秋战国时期最高等级的佩饰;此外还随葬琉璃釉盘蛇玲珑
球形器等象征特殊意义的器物;第二级别为老虎墩,该墓封土亦规模宏大,且为长方形覆斗状,埋葬方式为平地铺木,随葬器物
中除生活用品外,还包括成组的原始青瓷乐器和硬陶礼器、乐器;第三级别为万家坟,与老虎墩的封土规模和平地铺木的
葬制相同,然随葬品中仅有成组的硬陶礼器、乐器而不见原始青瓷乐器;第四级别为曹家坟、杜家坟;第五级别为老坟墩、邹家墩。
这4座墓葬均无成组乐器随葬,从封土规模和墓葬大小看,曹家坟和杜家坟均为长方形覆斗状封土,老坟墩和邹家墩则为长圆形馒首状
封土;曹家坟和杜家坟的墓葬也大于老坟墩和邹家墩,随葬器物的数量约为老坟墩和邹家墩的一倍,然中型墓和小型墓在随葬
器物的丰富程度上则差别不太明显。
655世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:41:15 0
手打ちでやれ。うざいから。
656世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:43:29 0
鸿山贵族墓葬的特征与价值 鸿山贵族墓葬的特征大致可归纳为以下几点:1、长方形覆斗状或长圆形封土;
2、除特大型墓葬为深坑墓外,皆为平地起封;3、除特大型墓葬为“中”字形外,其余皆为长条形墓葬,
大型的还有垫木或分室用的木板等用于构筑墓室;4、随葬器物主要为原始青瓷器和硬陶器;5、特大型
墓葬的随葬品中有组玉;6、随葬器物中常见原始青瓷或硬陶的句、于、丁宁、铎、羊角器、璧、
铃形器以及越式鼎、筒形钵、盅、器盖等;7、高等级的器物纹样中常见蛇。这些特征中多为越国墓葬独有,
其中墓葬形制和随葬品的质地、器形、器类与浙江绍兴印山越王墓、以及安吉、海盐、长兴等地的越国贵族墓
葬相同,尤其明显的是均随葬陶、瓷礼器和乐器,如于、丁宁、句、钟、甬钟、磬、铃形器、缶、
座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形钵、盅、器盖等;而以蛇为器物纹样也是越人图腾崇拜的体现。可见鸿山贵族
墓地与春秋晚期和战国早期的越墓相同,具有明显的越国特征。根据墓葬的规模、形制和在墓地中的位置,
以及随葬器物的数量、种类和等级推测,鸿山贵族墓地中丘承墩墓主的等级应为仅次于越王的越国大夫,
此墓主室和后室总长仅次于绍兴印山越王墓,远高于其他中小型越国贵族墓,而出土的随葬器物则是目前已发掘的
越国墓葬中等级最高、质地最好且器类最为齐全的。
657世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:44:13 0
鸿山越国贵族墓地7座墓葬的随葬品中,皆有完全相同器物,如坛、钵、碗、盅、器盖等,其年代应相同;
而大型或中型墓葬中则有造型相同的钟、、磬、铃形器、璧、羊角形器等,其年代亦应相同;而从印纹
硬陶和原始青瓷基本生活用品的形态、仅见麻布纹和米字纹等纹饰以及器物的组合关系,根据长江下游土墩墓的
分期,其年代应为战国早期;出土玉器中,尽管有少量纹饰保留春秋晚期特征,
而绝大多数玉器的造型和纹饰都呈现战国早期的特征。因此鸿山越国贵族墓地的年代可定为战国早期,即越国
最强盛的越王勾践时期。

鸿山越国贵族墓地中,丘承墩位于墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬则围绕在丘承墩的东南呈扇形
分布,墓葬与墓葬之间既有一定的分布规律,又存在着严格的等级差别,是本次考古发掘最重要的收获之一;
丘承墩墓为目前仅次于绍兴印山越王墓的越国第二大墓,而丘承墩出土的大批精美绝伦成套成组的玉器、
青瓷礼器和乐器,应为迄今为止江浙一带所发现的最高等级的越国随葬器物,也同样是本次考古发掘最重要的
收获之一。其墓地的完整性和礼器、乐器组合的完整性,尤其是越国的礼乐文化中将中原系统和谐地融入越系
统中,为越国史的研究和解决一系列春秋战国时期的重要学术课题提供了一批极为珍贵的实物资料,对于越文化乃至
百越民族史的研究和越国考古学的研究将起着积极的推动作用。
http://www.gzww.net/w%5Fstudy/display.asp?id=185
658世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:56:20 0




いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、 鼎、罐、盆やら、酒器やら、原始磁器やら、印紋硬陶やら、
さーっぱり見た事も聞いた事もない物まで、もう、ありとあらゆる
摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

何でこんなイイモン日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)


659世界@名無史さん:2006/11/27(月) 06:16:06 0
>>648-658
ここでやれ。



滿洲國臨時政府
http://www.manchukuo.org/index.htm
660世界@名無史さん:2006/11/27(月) 15:18:29 0

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
661世界@名無史さん:2006/11/27(月) 15:19:47 0
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
662世界@名無史さん:2006/11/27(月) 15:21:33 0
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
663世界@名無史さん:2006/11/27(月) 15:22:10 0
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
664世界@名無史さん:2006/11/27(月) 15:22:48 0
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
665世界@名無史さん:2006/11/27(月) 15:32:10 0





いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、越式鼎やら、酒器やら、原始磁器やら、印紋硬陶やら、
もう、さーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、ありとあらゆる
摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)



666世界@名無史さん:2006/11/27(月) 16:47:16 0
あれ、トン族のみなさんどっかに行きました。
667世界@名無史さん:2006/11/27(月) 16:49:39 0

平和憲法を改悪して戦争だけはやりたくない 

軍隊を持って戦いたいなら、改憲派が戦えばいい!!

もしも、戦争になれば護憲派は第3国で戦争が終わるのを待つ。

私は護憲派ですから、絶対に戦争には行きませんよ。

第3国で見守っている。

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history2/1161480502/l50

668世界@名無史さん:2006/11/27(月) 17:03:56 0
トン族の信仰や神話が日本の国生み神話の唯一、直接の源流となっているのでしょうか。
669世界@名無史さん:2006/11/27(月) 17:06:17 0
ちがいます。私はトン族神話が日本の国生み神話の唯一、直接の源流などとは
考えていません。日本の国生み神話で重要な要素になっている男女神の柱めぐ
りが、トン族神話にはありません。その一事だけでも唯一の原型とはいえません。
670世界@名無史さん:2006/11/27(月) 17:08:41 0
日本の王権神話は一つの原型にもとづいて形成されたものではありません。
いりくんだ複数の素材から編集、構成された総合的な体系です。その素材
のおそらくもっとも大切な部分が、中国南部の少数民族社会に、これも複
雑にいりくんだ総合体として存在しています。総合体としての日本の国生
み神話と、これも総合体としての中国南部の少数民族神話とのあいだに、
重要な対応関係があるというのが、私の基本的な考えです。
671世界@名無史さん:2006/11/27(月) 17:10:55 0
具体例で説明しましょう。中国南部のミャオ族につぎのような洪水神話がつたえられています。
大昔、天から雷鳴とともに雨が降りそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を
用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたあと、雷はるす番の子どもた
ちの兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天にとび去
った。雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中に埋めるようにいいのこした。二人の子ども
がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷の怒りで大洪水になり、地上の生き物は
すべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。


672世界@名無史さん:2006/11/27(月) 17:12:49 0
あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、
妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚すると約束した。兄は大きな木のまわりをめ
ぐりながら妹を追いかけた。兄は急に向きをかえて妹をつかまえた。結婚して間もな
く生まれた子は、手足のない肉の塊であった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神
にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解
け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した。(君島久子『中国の神話』
筑摩書房、一九八三年)
673女真≠朝鮮:2006/11/27(月) 18:22:37 0
>>>>648-658
もしくはここでやれ。

莫強した騎馬民族!
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=73309


中国大使館の皆さん見てますか?
日本人の振りをした人が、東北地方を蹂躙しています。
恐らく、満族ではありません。
日本生まれの軟弱者ですが、磔刑にしてやってください。
674女真≠朝鮮:2006/11/27(月) 18:27:03 0
>>648-658

ついでに、日本人にも解るように日本語の訳をつけてみな。
全訳。機械翻訳無しでな。

675世界@名無史さん:2006/11/28(火) 14:56:43 0

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
676世界@名無史さん:2006/11/28(火) 14:57:50 0
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
677世界@名無史さん:2006/11/28(火) 14:58:49 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
678世界@名無史さん:2006/11/28(火) 14:59:23 0
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
679世界@名無史さん:2006/11/28(火) 15:52:16 0




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


弥生時代開始頃の江南の出土物は日本の弥生遺跡から全く出土しない
摩訶不思議な物や文様ばかり出土するんですねえ(嘲笑)


680世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:30:21 0
 こちらのほうがトン族の神話よりも日本神話との類似性を多くもっています。
前章で分析した七つの要素のうち、「ア 混沌のなかから男女神が出現する」、
「イ 男女神の柱めぐり」は完全にそなえていますし、「ウ 最初の結婚の失敗
とやりなおし」も、肉塊を生み、その理由を天の神にたずねにゆく途中で、包み
がとけて地におちてしまうという筋のなかに多少変形しながら保存されています。
じつは、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、
いわゆる洪水神話は、中国の南部で九十話ちかくも発見されています。はやく
中国のトン族出身の民俗学者林河氏は五十八話を紹介しています(『儺史―中国
儺文化概論―』台北東大図書公司、一九九四年)。私じしんはさらにこれに二十
七話をあたらしくくわえています。

681世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:32:46 0
それらの神話の分布状況を、民族の居住地域によって整理してしめすとつぎの
ようになります。

雲南省・・・38種  貴州省・・・15種  湖南省・・・11種  広西チワン族自治区・・・7種  四川省・・・5種 
 海南島・・・4種  湖北省・・・3種  

内蒙古自治区・・・3種  遼寧省・・・3種  福建省・・・1種  台湾・・・1種  河南省・・・1種 
 青海省・・・1種  黄河辺・・・1種  黒竜江省・・・1種

総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって分布している例
があるからです。

682世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:35:15 0
 いわゆる洪水神話の分布の中心は、近東地方、インド、東南アジアからオセアニア
にかけての地域、南北アメリカ大陸であり、アフリカやヨーロッパ、中央・北アジア
ではあまり発達していないか、欠如しているといわれています。このような広い分布
にたいして、大きく三つに分類できる説がこれまでに提出されています(田村克己
「洪水神話」『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年)。

(一) 世界的大洪水という歴史的記憶がこのような洪水神話のひろがりを生んだ。

(二) 地方的な大洪水が洪水神話を各地に独立に発生させた。

(三) 神話上のモチーフや意味内容の共通性がみとめられ、影響・波及関係をかん
がえなければならない。

683世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:37:19 0
中国南部の洪水神話にかぎったばあい、以上の(二)と(三)をかんがえなければ
ならないでしょう。中国北部にほとんど流布していないのは、河川や湖沼の多い南
部の地域の特殊性をかんがえる必要があり、主として(二)の理由がはたらいてい
るとみることができます。またこの地域の洪水神話がきわめてよく似た構造をもっ
ているのは(三)を考慮しなければなりません。

中国南部の洪水神話にはきわめて注目される研究がこれまでに提出されています。
村上順子氏の「西南中国の少数民族にみられる洪水神話」(『東アジアの古代文化
 別冊』大和書房・1975年)です。氏の結論の部分だけをはじめに引用して、あと
で説明をくわえることにします。

684世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:39:22 0
西南中国地方の少数民族たちの間にみられる洪水神話は、洪水の原因においては、
ミャオ・ヤオ族に多くみられる闘争型のものと、イ語系所属に多くみられる予告
・懲罰型のものとに大別され、それぞれが、避水具、生き残った者の構成に差異
を生じさせている。

闘争型の場合の避水具の与えられ方は、生き残るべき者に対してのみであるのに
反し、予告・懲罰型の場合には、生き残らないものにも一応は与えられる。また
生き残る者も、闘争型の場合には兄妹を主とする同胞であるが、予告・懲罰型の
場合には同胞以外に、男一人だけということもあり、この場合には天女との結婚
譚と結びつくことがある。また、要素E(同胞婚の結果)、F(切り刻むモチーフ)
、G(人類起源)は語形別、神話の型別とは無関係であって、生業形態と深い関
係を持つものである。

685世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:42:10 0
 同胞配偶の禁忌の緩和のために、同胞の配偶者を求めての放浪、結婚をすすめる
第三者の介在、神占い、不具児あるいは邪悪なもの等の生み損じが語られるが、神
占いの型は臼によるものと煙によるものが種族を越えて最もよく知られている。も
のめぐり系の神占いは、ミャオ・ヤオ族共にみられるが、イ語系諸族においてはみ
られず、また、数量的なものから判断すると、本来、臼系統の担い手はミャオ族で
あり、煙系統の担い手はヤオ族であったのではなかろうかと思われる。

イ語系諸族においても、ミャオ・ヤオ系と共通の神占いの型はみられるが、ミャオ
・ヤオ族の場合に比べると数量的に少なく、また、その流布種族も耕作民的要素の
強いものに限られている。狩猟民的要素の強い種族で、天女との結婚という形をと
るものには神占いの要素はないから、イ語系諸族にみられる神占いのモチーフは、
イ語系諸民族本来のものではなく、西南中国地方という地域性の問題に帰した方が
よいのではなかろうか。


686世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:45:13 0
 村上氏は中国南部の洪水神話を闘争型と予告・懲罰型に二分します。この区分法
はウィーンの神話学者レオポルド・ヴァルクが東南アジア(インドの一部も含む)
に特徴的に分布している洪水兄妹婚神話を、

一 原初洪水型  二 宇宙争闘洪水型  三 宇宙洪水型  四 神罰洪水型

に四分類した説(大林太良『神話と神話学』大和書房、一九七五年)を適用した
ものですが、村上氏は独自にこれまでに紹介された多くの神話を分析してつぎの
ように説明します。

ミャオ族の場合、雷公とその闘争相手については「天上のA―F(雷)と、地上
のA―Zieの二人兄弟は、財産を分けることで争っていて仲がよくない」、
「雷公と姜央の兄弟二人は、分家するにあたり、雷公が値打ちのある一切のもの
を持っていき、姜央は田を耕す牛さえも皆なくしてしまった。ある時、姜央は、
雷公に牛を借りて田を耕した後、雷公の牛を殺して食べてしまったので、雷公は
大層怒った」などとあるように、互いに兄弟関係を持つとされており、又、二人
は天に住む者と地に住む者との象徴でもある。

687世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:47:23 0
 闘争の直接きっかけとなるのは「雷公の大嫌いな鶏肉を食べさせた」、「最も嫌いな、
鶏糞をこやしにしてつくった野菜を食べさせた」とか、「蜂を雷公の家の窓から入れた」
とかである。又、雷公を捕える理由に、「老母の重病を癒すために必要な雷公の心臓を
取ろうとして」というものもある。

こうした形の闘争型洪水神話は、湖南省の西部、貴州省の東北部、貴州省の東南部等の
地に分布している…略…。

また、ヤオ族の場合においても、洪水の原因が、雷公との闘争結果に帰結されることは
ミャオ族の場合と全く同じである。

これにたいし、懲罰型についてはつぎのように説明しています。
688世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:50:22 0
イ族の「人間が悪くなったため、Tse−gu−dzihが天の門を閉じて」とか、
「天に住む有力者、額梯古自が、腹心の召使い阿碧を地上の人間に殺されたため」
とか、ナシ族の「五人の兄弟と六人の姉妹の結婚により天地が穢れたため天神が」
とか、リス族の「天神の怒りにふれて」とかのように、至高神的性格を持つものの
懲罰の結果にあるとして、洪水の原因の明確なものもあるが、ミャオ・ヤオ族にお
ける闘争結果に求められる程、明確なものではない。

ただし、パイ族の場合には、「盤古が竜王の第三子(紅魚)を捕えたため、その報
復として、竜王が洪水をおこす」といったミャオ・ヤオ型の闘争結果が原因になっ
ている。概して、イ語系諸族においては懲罰型、ミャオ・ヤオ語族においては闘争
型をとることが多いといえよう。

闘争型ほど明確ではないが、懲罰型の傾向がイ語系の少数民族にみられるというこ
とです。


689世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:52:56 0
もうすこし、村上氏の論を紹介しましょう。イ語系、ミャオ・ヤオ語系という
区別は村松一弥氏の四つの文化圏設定(「現代中国諸民族考―民間文学研究の
ためのー」『東京都立大学 人文学報 36号』1963年)によっています。

T 南部山地居住農牧民文化圏

U 南部山地焼畑耕作民文化圏

V 南部河谷居住水稲犂耕民文化圏

W 南部狩猟栽培民文化圏

イ語系とはTに属するチベット・ビルマ語群の高原農牧民、ミャオ・ヤオ語族
はUに属します。

また、村上氏は、エヴリーヌ・ポレ=マスプロの提出した洪水・動物始祖神話
の仮説的テーマ(大林太良氏前掲書)に手直しをくわえて


690世界@名無史さん:2006/11/28(火) 23:12:12 0
もういいから呉越や六朝の話しようぜ。
691世界@名無史さん:2006/11/28(火) 23:53:27 0
>>690
呉越系のドラマ日本でもやらんのかねえ?

しかし、何を勘違いしたのか護憲派のコピペとか痛いな。
692世界@名無史さん:2006/11/29(水) 17:07:32 0
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
693世界@名無史さん:2006/11/29(水) 17:09:09 0
長江流域では約5300年前には既に灰陶時代に入り、約3400年前には既に施釉陶時代に入る。


良渚(りょうしょ)文化【浙江省】(紀元前3300?〜紀元前2200?)
1936年、浙江省余杭市良渚鎮で400近い遺跡が発見されました。
馬家浜文化を継承して発展し、高水準の玉器が特色です。
絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造が行われていました。
http://www.allchinainfo.com/history/period/changjiang.html


◎呉城文化

江西省樟樹市呉城鎮。紀元前1400年?〜紀元前1000年?黄河文明とは異質な
青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
694世界@名無史さん:2006/11/29(水) 17:10:56 0
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁、原始青瓷)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
695世界@名無史さん:2006/11/29(水) 17:47:49 0
696世界@名無史さん:2006/11/29(水) 20:56:51 0
だって、俺らじゃ作り方もしらんし、
自分の周りにある物を見よう見真似で作って焼いてみただけでプロと比較されるとお門違いだぜ
それにだ、俺ら貧民じゃあいうものは使うところか見たことすらねーよ
697jia Riben ren=jia Zhongguo ren!:2006/11/29(水) 23:21:46 0
>>692-695
Cao!

Ni zhe ge chou xiaozi...
Hutu de bu ke jiu yao !

Dajia kankan,nei ge shagua huangcheng ta shi Riben ren huozhe Zhongguo ren!
Ta tiaobo lijian Ri-Zhong , Ri-Tai he Ri-Yue deng de guanxi a!!
698世界@名無史さん:2006/11/30(木) 14:11:16 0
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
699世界@名無史さん:2006/11/30(木) 14:12:51 0
雷文・方格文・条痕文・S字文などの型押の幾何学文様(印文)が
全く伝わっていないっ!


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
700世界@名無史さん:2006/11/30(木) 14:13:41 0

見よ!

灰陶・原始磁器が伝わっていないだけではない。
印文土器の型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!



印文土器(印紋土器、印文陶、印紋陶、幾何印紋陶)
http://www.dnes.mlc.edu.tw/~lisa/vessel.jpg
http://www.gg-art.com/c/c22c04vc.jpg
http://individual.utoronto.ca/timzhao/tea/teapot/pic/054.jpg
http://www.yhwt.com/upfiles/2004717175633.jpg
http://www.china-ikuta.jp/shohin/photo/zoom04.jpg

701世界@名無史さん:2006/11/30(木) 14:34:34 0
>>696
残念。

富裕は青銅器、貧民こそ灰陶。

海を越えても毎日見てきた器形や文様を忘れるなんてありえないし、
そんなものは焼き手に注文すれば良いだけの話。

稲作を伝えておいて、それ炊飯するための調理具である鬲や鼎、
飯を盛り付ける様々な食器類、肉や魚を煮るための調理具である鼎
などが一切無い事自体、そこからもう話がおかしいのである。
702世界@名無史さん:2006/11/30(木) 16:24:29 0
>>701 昔の限られた移動手段の中で荷物を多く持つかな、
できるだけ身軽にすると思うよ。
俺なら持っていくとしたら工作器具と食料だけにするかな、必要なものは現地調達。
703世界@名無史さん:2006/11/30(木) 17:18:43 0
>>702
誰が土器自体を持ち込む話なんかしたんだよ。

701は脳みその中の故郷で毎日見てきた器形や文様の記憶に
決まってるだろが。このスットボケが。
704>>698-701:2006/11/30(木) 18:37:14 0
697 :jia Riben ren=jia Zhongguo ren!:2006/11/29(水) 23:21:46 0
   “偽日本人=偽中国人!”

>>692-695
Cao!
“Fuck!”

Ni zhe ge chou xiaozi...
“テメーこの野郎…”

Hutu de bu ke jiu yao !
“馬鹿に付ける薬はねえなっ!”

Dajia kankan,nei ge shagua huangcheng ta shi Riben ren huozhe Zhongguo ren!
“おいみんな、見てみろよ、あいつは日本人や中国人を偽ってる馬鹿野郎だぜ!”

Ta tiaobo lijian Ri-Zhong , Ri-Tai he Ri-Yue deng de guanxi a!!
“奴は、日中、日台、日越なんかの間で離間工作やってる香具師なんだよっ!!”
705世界@名無史さん:2006/11/30(木) 19:24:06 0
ネット暴走族、誰にもかまって貰えないんで、他に迷惑かけて喜んでる
半島、サヨ人に多いタイプだね遺伝病だからしかたないよ。
706世界@名無史さん:2006/11/30(木) 19:29:03 0
孫悟空に、ふみつけられてる金豚(キントーン)って半島人じゃないか
707世界@名無史さん:2006/12/01(金) 14:36:21 0
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。

http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html
708世界@名無史さん:2006/12/01(金) 14:37:26 0
長江流域では約6000年前に三足土器の鼎が登場し、漢代まで代表的な器形であった。


2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.ht
709世界@名無史さん:2006/12/01(金) 14:38:09 0
710世界@名無史さん:2006/12/02(土) 00:57:32 0
なんで伝えなあかんねん
711世界@名無史さん:2006/12/02(土) 17:38:54 0
●中国青銅器について
----------------------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と入れ替わる戦国まで
の数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に形・文様・銘文に特色を残していきました。
中国青銅器は他を圧倒するほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たして
いたと容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧がうまく調和し、
数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
712世界@名無史さん:2006/12/02(土) 17:40:05 0
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
長江流域の代表的な器形である鼎などの三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



713世界@名無史さん:2006/12/02(土) 17:40:49 0
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif
http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=UTF-8&search_x=1



714世界@名無史さん:2006/12/03(日) 17:42:35 0
●中国青銅器の文様


饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
715世界@名無史さん:2006/12/03(日) 17:43:21 0
716世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:17:59 0
−碧眼児−孫 権 伝

非 凡 な る 相

孫権。字は仲謀(ちゅうぼう)。呉の初代皇帝である。孫権が生まれたのは182年。
黄巾の乱勃発の2年前で,孫堅が下邳県の丞をやっていた時である。孫権は顎が張
っていて口が大きく瞳にはキラキラした光があったという。孫堅はそうした風貌を
喜んで高貴な位に昇る相だと考えたという。
ちなみに良く言われる碧眼に紫のひげと言うのはどこから出た話なんだろうか?紫
のひげというのは,孫権が合肥の戦いで張遼に奇襲を受けた時に,『さっきの紫髯
(あかひげと振り仮名が振ってあります。脱色したような感じだったのでしようか
?特に珍しそうな書き方ではないので,結構この手の髯の持ち主はいたのかも知れ
ません。)

717世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:21:42 0
背が高くて足が短く,馬が達者で弓のうまい者がいたがあれは誰だ?』と,張遼が
捕まえた呉の捕虜に聞いたという記述があり,そこから来た話かもしれない。碧眼
というのは,私が見た限りどこにも記述がないような??もしかしたら意外な所に
あるのかもしれない。なにせ孫権関係の記述はやたらありますので全てを把握する
のは大変なのです。しかし背が高くて短足で,でかい口となると今の基準ではカッ
コ悪いですね。まあ安定感はありそうですが。
いずれにしても孫権は人並み外れた風貌をしていた。この人並みはずれた風貌とい
うのは,この時代結構重要だったのかもしれない。劉備も身長7尺5寸,(180センチ
弱。この頃なら大男でしょう。)手を下げると膝まで届き,振りかえると自分の耳
を見ることができたという『貴方,人間ですか??』という風貌である。袁紹も立
派な風貌の持ち主だったようですし,曹操のように小男で特徴がないのに英雄足り
得たのは珍しい例でしょう。孫家の人間はその点ではかなり風貌の面で得をしてい
たのかもしれません。

718世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:24:30 0
さて孫権が生まれたのは富春の実家だと思われる。が,孫権は,父孫堅が黄巾討伐
参加すると同時に舒に移る。この時まだ2歳。また孫堅が長沙太守に任じられた時
は6歳。孫策伝でも述べたように,孫堅は長沙太守になって以降は荊州に単身赴任
していたようで,孫権は父孫堅の面影はほとんど記憶にない可能性もある。あった
としても孫堅が実家に戻って孫権と会うのは稀だったろう。それくらいその頃の孫堅
は多忙だった。さらに父孫堅が荊州で戦死した時,孫権はわずか9歳である。その後
兄孫策に従って江都に来るが,陶謙の迫害を受ける。そこで孫権は母と共に長江を
渡り曲阿に住む。兄孫策は孫一門復興のため,家族と離れ,袁術に従うことになる。
しかし袁術と揚州刺史となった劉繇の関係が怪しくなってくると,再び孫権親子に
危機が訪れる。
719世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:27:00 0
曲阿は劉繇の本拠地であり,袁術側の孫策の親兄弟が安全に暮せる場所ではなかった
のである。そこで孫策は朱治に命じて,母と孫権ら兄弟を呼び寄せ阜陵(長江北岸)
に移住させる。その後,兄孫策が劉繇を破ると,今度は袁術との関係が怪しくなって
くる。丹陽郡を巡って袁術と孫策の関係が微妙になってくるのである。こうなると今
度は逆に長江南岸の方が安全になる。そのため阜陵から曲阿に舞い戻る。この頃の
孫権親子は結構危険な橋を渡っている。一つ間違えれば生命の危機もあった。兄孫策
もそうだが,孫権もまた成人するまで各地を転々としている。乱世に生きる者の常だ
ったのだろうか?
720世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:28:39 0
曲阿に戻り孫策軍に合流した孫権だが,孫策はかなり早くから孫権を政治の表舞台
に立たせている。孫権はわずか15歳で陽羨県の令に任命されるのである。これは一
つには孫策の一門でも信用できる人物が意外に少なく,15でも実弟である孫権を起
用せざるを得なかったのかもしれない。孫賁・孫輔ら孫策の一族は袁術旗下という
感覚の者が多く,完全に信用できるものは一族と言えど数は少なかった。そのため
孫策は少しでも早く孫権・孫翊らに経験をつませ,孫一門の一員として自立させよ
うとしていたとも考えられる。しかしそれだけではなさげである。この後の記述や
孫策が死ぬ時の遺言を見ても,孫策は孫権を孫一門の柱となりうると考えていたよ
うなのである。
721世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:35:00 0

暴 君 ? 名 君 ? 若 き 日 の 孫 権 事 件 簿
---------------------------------------------------------

孫権が孫一門の一員として政治の表舞台に出てくるのは,15歳の時に陽羨県(ようせんけん)
の令に任じられてからである。この頃の孫権の逸話としては,まず陽羨県公費使いこみ事件が
ある。遊びたい盛りの孫権は,公費をお小遣い代わりに使ってしまう。(それも一度や二度で
はない。)陽羨県の功曹(政治面での補佐官)をやっていた周谷(しゅうこく)は,孫権のた
めに会計の監査があると帳簿を書き換えて,孫権に罪が行かないようにしたらしい。
しかも孫権の公費使いこみはコレだけではない。次にお小遣いをくれない呂範おじさんを恨む
事件が勃発する。孫権は陽羨県の公費使いこみだけでは飽き足らず,当時会計職を預かってい
た呂範の所に行き,『呂範おじさんはお金持ってるんでしょー。お小遣いちょうだい。』
とやる。それに対して呂範は,『孫策様の許可がないとあげられません。』
と,さすが堅物という反応を見せた。孫権はこの事で呂範を恨んだらしい。うーん,やっぱ
暴君なのか孫権。




722世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:37:37 0
さらに,孫権のティーンエイジの逸話として,油断して周泰に大怪我を負わせる事件が
ある。(こんなんばっかしや^^;)孫策が六県(おそらく丹陽東部の孫策の影響外だ
った六つの県を指すのだろう。ということはこれは太史慈討伐の時と考えられる。)の
山越を討伐に行った時,孫権は兵千人と共に宣城にいた。しかし孫権はタカをくくって
防御柵も作らずノホホンとしていた。・・と,そこに山越の賊が襲いかかってきたので
ある。(しかし山越ってホント神出鬼没ですな。江東の治安はかなりひどかったらしい。
)やっと孫権が馬に乗った頃には,孫権のすぐそばまで賊が侵入して孫権の馬の鞍を切
りつける者すらいる始末。孫権危うし!!っうか油断しすぎ!!。そこで必死の防戦を
したのが周泰である。周泰は全身傷だらけになりながら孫権を守り抜き,賊を追い払っ
た後昏倒し,しばらく人事不可能となる重傷を負う。もしこれで周泰が死にでもしたら,
孫権は孫一門の優秀な武将を身代わりにしてしまう所だった。その後の孫権の軍の動か
し方を見ても,孫権自体は軍事的才能はないと言って良い。断言してしまおう^^;。
後に大胆さを曹操に誉められたりもしているが,それはどちらかというと軍事的には無
謀に近い出来事であり,よく考えたらあまり誉められたものはない。(後で書きます。)
それに孫権自身が軍を率いた場合の勝率が低すぎるのである。まあ相手が百戦錬磨の
曹操軍の名だたる武将たちだったという点はあるが。
723世界@名無史さん:2006/12/05(火) 17:39:47 0
こう見ると,孫権はダメ君主のようだが,この後の部分が孫権の二面性を示している。
孫権は自分が当主になると,自分のために公費使いこみを隠蔽してくれた周谷を用いず
お小遣いをくれなかった呂範の方を信任する。また周泰に対しては,周泰が督(軍の
総大将)となったとき,周泰が低い身分の出身だからと言って周泰の指示を聞かない
武将たちの前で,周泰の体の傷を指し,あれはあの時の戦いの傷,これはあの時の戦
いの傷・・と,周泰が命を張って自分を救ってくれた事を示すのである。この事があ
ってから周泰旗下にあった徐盛や朱然も周泰の指示に従うようになる。
孫権の君主としての優秀さの一つはこういう面にある。人材の使い方がうまいのである。
これは自分自身で動きまくった孫堅・孫策とは一線を異にする。まさに孫策が言った
『軍を動かして天下分け目の戦いを挑むという点ではオレの方が上だが,優秀な人材を
使いこなし江東を守る点ではお前の方が上だ』というのは的確な人物評と言えるのである。
724世界@名無史さん:2006/12/05(火) 20:36:21 0
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
725世界@名無史さん:2006/12/05(火) 20:37:04 0
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が強く
あらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの地方の
主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが現れる。
この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、曲線が多い
もので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形がある
から、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、あるいは「鳥篆」
と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
726世界@名無史さん:2006/12/05(火) 20:37:54 0
727世界@名無史さん:2006/12/05(火) 23:13:36 0
>>716-723
非常有意思...!

遊んでるな...お前w
また続きよろ。

>>717
曹操って実は小男なんだよね。
昔のアニメに金髪碧眼大男の曹操が登場していたようだが、
ああいうのは、何なのだろうなぁww
728世界@名無史さん:2006/12/06(水) 00:58:08 0
六県って地名だよな
729世界@名無史さん:2006/12/06(水) 11:13:37 0
孫 権 の 人 物 像
----------------------
孫権は陽羨県の令に任じられた後,朱治に推挙され,朝廷(曹操)から奉義校尉代行
(ほうぎこうい)の官位を与えられる。曹操から返礼で送られて来た使者の劉琬は
『孫家の人間はみな優秀だが,短命だ。だが,孫権は人並み外れた風貌を持ち,骨格
も非凡で高貴な位に上る相がある。しかも長寿だろう。』と言う。いささか作られた
話という気がしないでもないが,孫権は父孫堅や兄孫策とはちょっと違った雰囲気を
持っていたのかもしれない。孫堅・孫策はよく似ており,まさに親子という感じなの
だが,孫権はちょっと違う感じがするのである。

730世界@名無史さん:2006/12/06(水) 11:15:25 0
孫堅・孫策は即断即決で,思い立ったらすぐ行動というタイプである。が,孫権の場合,
結構決断には時間をかける場合が多い。赤壁でも降服か抗戦か悩みに悩みぬく姿が見て
取れる。おそらく孫策なら即決で抗戦だろう。悩むなど考えられないのである。逆に,
孫権は,部下の能力を最大限に発揮させるという意味では一枚上かもしれない。もちろん
孫堅も孫策も見事に部下の掌握はできていたが,どちらかというと部下の能力を自分の
能力に吸収するような感じで,結果として孫堅・孫策がダントツで目立つ。部下の行動
はあくまで孫堅・孫策の優秀さに直結していくのである。この辺は曹操の感じに近い。
しかし,孫権の場合ちょっと違う。孫権より,部下であるはずの周瑜や陸遜の方が活躍
が目立つのである。これは部下であるはずの関羽や張飛・孔明の方が目立つ劉備にむし
ろ近い。
731世界@名無史さん:2006/12/06(水) 11:17:38 0
この差はなんだろうかと考えて見ると,最終的には曹操・孫堅・孫策は自身が優秀な武将
だったのに対して,孫権・劉備は自身の軍事能力はさほどでなかったため,部下を信任し
て戦闘を代行させるしかなかったという点での違いである。劉備も孫権も自身が軍を率い
た場合,手ひどい敗退を食らう事が多いのである。こういうタイプの君主は,常に部下の
離反が潜在的に脅威としてあったはずである。軍事功績を挙げすぎた部下の扱いをどうす
るか?これは孫権に与えられた命題といってよい。劉備は古くから侠の精神で結ばれてい
た関羽・張飛がいたので,荊州を関羽に任せる事ができた。しかし孫権の場合は周瑜・
陸遜らとは,劉備と関羽の関係ような精神的な強いつながりで結ばれたものではなく,
あくまで君主と司令官代理という関係である。だから陸遜も最後は不遇の死を迎えて
しまう。(そう考えれば関羽も戦死であり,こういう関係は長続きしないのかもしれま
せん。長続きしてしまうと最終的には司馬懿のように,司令官代理に立場を奪われる
可能性大ですし。)だから孫権の場合,その時々の司令官代理との思想や立場的バラ
ンスの上を微妙な政治感覚で切りぬけて行くという性格がどうしてもクローズアップ
されてくるわけです。
732世界@名無史さん:2006/12/06(水) 11:19:19 0
また,孫権自身には建国の戦いがなく,孫策が切り開いた土地を受け継いだという性格
をもっています。そのため初期の孫権はあまり君主として強い立場ではなく,これまた
君主として部下をどう扱って行くかという問題を抱えています。だから初期の孫権は気
を配りすぎではないかというほど,自国の武将たちに対して気を配ります。そういった
背景もあり,君主としての孫権は,孫権をめぐる状況の中で次第に作られていき,成長
していったと言えるかもしれません。早熟のようなイメージを受けますが,孫権の業績
を見ると,その中盤〜後半が最も優れており,(終盤は老害がでます。)その初期は,
孫権は色々と決断の失敗をしています。赤壁前後の呉は一大飛躍のチャンスでしたが,
孫権の判断ミスでチャンスを逃してしまったというイメージが拭い去れないのです。で
すから私の孫権評は彼は成長型君主だったというものです。
733世界@名無史さん:2006/12/06(水) 11:21:03 0
ただし終盤は老いて判断ミスをします。元々孫権自身がもっている資質は決して曹操
や孫策のように生まれ持っていたものではなく,苦労と気配りを続けるうちに成長し
たという,劉備に近い評価が当てはまるように思います。さらに付け加えるならば,
孫権はその柔軟性という意味では劉備より評価されてよいとも思っています。ただこ
の辺は人によって考えが違うでしょう。少なくとも正義という意味では孫権は非道で
す。当時の儒家たちにも評判は良くありません。ただ正義で国は養えませんから,
君主としては曹操には及ばなくとも,一流であったと言ってよいと思っています。
もっと言うと,孫権って曹操や孫策に比べて身近に感じられる人物です。失敗もあり,
悩む姿があり,部下の病気に右往左往する姿あり,敗戦して命からがら逃げる姿あり,
泥酔して暴言・暴挙に出て反省を強いられる姿あり・・・,なんとも人間っぽいでは
ありませんか^^;。
734世界@名無史さん:2006/12/06(水) 11:23:05 0
さて,孫権は199年〜200年にかけての劉勲・黄祖討伐の一連の軍事行動に武将として参加
している。おそらくこれが孫権の本格的な初陣であろう。特に目覚しい働きはなかったら
しく,ただ参加したという記述しかない。この辺を見て,孫策は(ああ,権は武将として
の才能はそんなでもないなぁ。)と思ったのかもしれない。逆に注の江表伝には計謀を練
る時には常に孫権が参加したとあり,そういった政治的能力・外交能力を評価していたの
かもしれません。
735世界@名無史さん:2006/12/06(水) 15:37:07 0
邪馬台国は孫権と対立してたんかな、魏と同盟してるし
孫権は倭に討伐軍送ってるし(失敗したが)実は狗奴国、呉軍だったりして?
736灰陶ルパン:2006/12/06(水) 16:56:28 0
なんか用事ある?
737世界@名無史さん:2006/12/06(水) 19:03:00 0
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
738世界@名無史さん:2006/12/06(水) 19:04:11 0
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
739世界@名無史さん:2006/12/06(水) 19:05:23 0
見よ!

古代中国のさまざまな楽器が弥生時代にさーっぱり伝わっていないっ!
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨さえ伝わっていない。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://www.toray.co.jp/event/music/images/mus_b045.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
740灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:10:35 0
このスレ弥生中国人がレス数稼ぐ為の自作自演スレか?ぼろもうけ
741灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:20:04 0
>>739弥生中国人おれも応援するよ。ちょっと廻してくれよ。

江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

渡海すると短期間で記憶喪失になって故郷の文化を全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は紅陶無文土器の技術の弥生土器と支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
742灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:21:23 0

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。


743灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:22:39 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
744世界@名無史さん:2006/12/06(水) 20:18:10 0
そんなに江南じゃない、江南じゃない、朝鮮発、朝鮮発って言いたかったらそっちでやってください。
ここは長江流域の歴史を語るスレだ。
呉越同舟がどうだとか六朝文化がああだとか語るスレだ。
見よ!は考古学板でやってくれ。
745世界@名無史さん:2006/12/06(水) 20:58:43 0
おまえあほ?

どこに朝鮮発だと書いてあるの?

アムール発ですが何か?

朝鮮半島など東岸を船で通過されただけ。
746世界@名無史さん:2006/12/07(木) 19:28:59 0
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
747世界@名無史さん:2006/12/07(木) 19:29:51 0
鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの長江流域一帯で出土し、
江南の百越(越族)の間で甚だ流行したそうですよ。




鉦 打?樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
?都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html


748世界@名無史さん:2006/12/07(木) 19:30:51 0
ところで、日本の弥生遺構で印紋土器、越式鼎、鉦なんて出土しましたっけ?(嘲笑)



●印文土器
http://www.gg-art.com/c/c22c04vc.jpg

●越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif

●鉦
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg


749世界@名無史さん:2006/12/08(金) 00:43:14 0
おっレス数かなり伸びたな、弥生中国人ガンガレあと「251」レスじゃ
日本史板もがんばれよビッグボーナス出るど〜〜〜う。
750世界@名無史さん:2006/12/08(金) 23:15:21 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.htm
751世界@名無史さん:2006/12/08(金) 23:16:12 0
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶????釉陶????原始磁器????鼎????尊????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しない摩訶不思議なものばーっかり(嘲笑)



752世界@名無史さん:2006/12/09(土) 00:30:23 O
長江文明って、主に現在の苗族・瑶族ですよね?
753世界@名無史さん:2006/12/09(土) 00:36:29 O
日本に来た人達だろ?

みゃお族
754世界@名無史さん:2006/12/09(土) 01:00:27 O
日本に来たのは、古代タミル人じゃないんですか?
755世界@名無史さん:2006/12/09(土) 16:36:02 0
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
756世界@名無史さん:2006/12/09(土) 16:39:33 0
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????
鼎?????伏鳥双尾虎?????[金專]?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)

757世界@名無史さん:2006/12/09(土) 17:18:18 O
遺物でしか分析できない馬鹿はけーん
758世界@名無史さん:2006/12/09(土) 21:01:43 0
今のこのスレの状態はあれだな。

もうわかりましたから!
759世界@名無史さん:2006/12/10(日) 12:25:18 0
で、これが長江文明と関係するの?
760世界@名無史さん:2006/12/10(日) 17:26:12 0
周代の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。
http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm

761世界@名無史さん:2006/12/10(日) 17:26:48 0
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心



印紋陶?????原始青磁?????


弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


762世界@名無史さん:2006/12/10(日) 18:40:45 0
おっレス数かなり伸びたな、弥生中国人ガンガレあと「238」レスじゃ
日本史板もがんばれよビッグボーナス出るど〜〜〜う。
763世界@名無史さん:2006/12/10(日) 22:08:32 0
コピペは削除対象です。
764世界@名無史さん:2006/12/11(月) 18:53:24 0
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
765世界@名無史さん:2006/12/11(月) 18:54:35 0
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
766世界@名無史さん:2006/12/11(月) 18:55:18 0
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
767世界@名無史さん:2006/12/11(月) 18:58:58 0
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像


黒陶?????釜?????罐?????鉢?????盤?????
器台?????甑?????彩陶?????笛?????
土器面に豚?????陶豚?????骨耜?????木耜?????
陶魚?????人頭像?????


7000年前の長江流域の出土物は日本の縄文遺跡から全く出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)

768世界@名無史さん:2006/12/11(月) 19:16:03 0
おっレス数かなり伸びたな、弥生中国人ガンガレあと「232」レスじゃ
日本史板もがんばれよビッグボーナス出るど〜〜〜う。
769世界@名無史さん:2006/12/11(月) 19:19:28 0
楽して金儲けとは>>1もやるな。
770世界@名無史さん:2006/12/12(火) 23:58:34 0
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・?などの器種、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



771世界@名無史さん:2006/12/13(水) 17:19:08 0
おっレス数かなり伸びたな、弥生中国人ガンガレあと「229」レスじゃ
日本史板もがんばれよビッグボーナス出るど〜〜〜う。
772世界@名無史さん:2006/12/13(水) 19:21:01 0
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
773世界@名無史さん:2006/12/13(水) 19:22:03 0
>これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。
>「この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない
低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




774世界@名無史さん:2006/12/14(木) 19:12:22 0

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://blog.kaisetsu.org/?cid=14234
775世界@名無史さん:2006/12/14(木) 19:13:31 0
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった





原始青磁はもちろん、灰陶さえ伝わってない事実には一切触れない
スットボケ南京博物院(嘲笑)




776世界@名無史さん:2006/12/15(金) 23:56:31 0
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
777世界@名無史さん:2006/12/15(金) 23:57:26 0
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)



778世界@名無史さん:2006/12/16(土) 00:45:37 0
そういや華南に一層近い沖縄など南西諸島では古代中国の遺物などは
出土しているのだろうか?
戦国時代の銅銭や王莽の新銭などが本島から見付かっているらしいが。
779世界@名無史さん:2006/12/16(土) 19:33:02 0
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
780世界@名無史さん:2006/12/16(土) 20:10:36 0
>>778
貨泉だろ。

ほとんどが楽浪郡を介して入ってきた楽浪遺物。

沖縄にも刀貨などが出土してはいるが、沖縄に限らず日本全国、
印文土器や陶鼎と学会承認されている土器の出土はまだない。
781よろずこ:2006/12/16(土) 23:21:52 0
と学会??
782世界@名無史さん:2006/12/17(日) 16:05:39 0

◎戰國時代陶質編鐘在?文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是?文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
783世界@名無史さん:2006/12/17(日) 16:06:21 0
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
784世界@名無史さん:2006/12/17(日) 16:07:14 0
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。



編鐘?????鐃?????磬?????缸?????罐?????
壇?????鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????
有乳釘紋?????水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫からは日本の弥生遺構では
さーっぱり出てこない摩訶不思議な物や文様ばかり出るんですねえ(嘲笑)

785Jia nanzihan:2006/12/17(日) 19:00:25 0
>>783
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年

じゃぁぴぃじぇんぐぃだちゅうとぅうぇんうぅしぃだんでぃつんみん
ふぁ〜しぃえんだ。じんにぇん…



台湾人の我が北京語で読んであげたアルよ(^ヮ^)ニコーリ


ムカつくから中国語のコピペ貼るのは止めろ。
日本人のまがい物は日本語の貼れ。
786世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:12:46 0
◎无??山越国?族墓考古?果累累

●?掘了?57米的“中”字形越国特大型?族墓,首次?示越国?族墓地的埋葬制度
和等?制度●?????全的?大的越国地下?器?,?深入探索越文化提供了?富的?物?
料和全新的研究方向本?? ?山越国?族墓地位于江?省无?市?山区?山??部,?一地区
?保存着大小?模的土?近百座,分布于?西?6、南北?4公里的范?中。?国家文物局
批准,自2003年3月?去年12月,南京博物院考古研究所和?山区文物管理委
?会?成?合考古?,??山???区范?内的土??行?救性考古?掘。

本次?掘?完整地?示了越国?族墓葬在同一墓地中的分布?律,并将墓葬分?小型、中型、
大型和特大型墓,代表了越国?族的5个等?;7座墓葬共?出土了2000余件随葬器物,
其中丘承?越墓??次于浙江??印山越王墓的越国第二大墓,出土的1100余件器物中,
?大多数?精美??的成?成套的青瓷礼器、?器和玉器,?江浙一?已?掘的越国?族墓葬中等
?最高的随葬器物。
787世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:13:32 0
小型墓2座:老??、?家? 其中?家?,土?外形???形?首状,近?西向,?34.5、
?23.5米,??高出周?平地1.5米。墓葬?平地起封,分?3?:第一??耕土?;
第二??灰褐封土,?密?硬,墓坑中填土与之同;第三??黄土,内?灰?土,?稍硬,
?堆筑墓坑的堆土。墓葬位于土?近中部,?四周堆土筑成熟土坑,方向115°,
?3.88、?2.34、深0.35米。随葬器物近50件,主要置于墓坑西部,
原始青瓷器有盂、?、器盖;硬陶器有?、?、?、器盖;?砂陶器有甑和鼎足;
泥?陶器有鼎、罐、盆、器盖、璧、??;玉器有管、?、?、?形佩和?形佩;青?器有?等。

中型墓2座:曹家?、杜家? 其中曹家?,土?外形??方形覆斗状,保存完好,土?
近?西向,?35、?26.9米,高出周?平地2.9米。墓葬?平地起封,分?3?:
第一??耕土?;第二??墓葬封土,灰褐色,?密?硬,墓坑中填土与之同;第三??黄土,
?有灰?土,?稍硬,?堆筑墓坑的堆土。墓葬位于土?近中部,方向110°,?8.75、
?2.25、深1.95米。随葬品主要置于墓坑西部,近100件,原始青瓷器有器盖;
硬陶器有?、碗、?、器盖、??;泥?陶器有盆、羊角形器、璧;玉器有璧等。
788世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:14:27 0
大型墓2座:万家?、老虎? 其中万家?,?方形覆斗状土?,近?西向,?47.4、
?38.8米,高出周?平地3.8米。墓葬?平地起封,分?2?:第一??耕土?;第二??
黄褐土封土,?密?硬,直接覆盖墓葬随葬品。墓葬位于土?近中部,直接在表土上??
木料而?筑,?木先??3条?西向?木,在?木上再南北向横?60余根稍有加工的木料,
?16.68、?5.07米,方向107°。?墓在封土完成后通?人工?洞在墓葬上方
?封土?行焚?,使墓室上方形成了3米厚的??土。随葬器物500余件,主要置于墓葬的
?部和西部,釉陶器有?炉?和?形器;硬陶?器有于、丁?、句、?、甬?、磬、?
形器和座等,硬陶礼器有?、?、三足?、炙炉等,生活用品有?、罐、碗、?、器盖等;
泥?陶器有鼎、盆、璧、羊角形器、??等。
789世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:15:30 0
特大型墓1座:丘承? 土?外形??方形覆斗状,近?西向,原封土?68.2、?40.6米,
从墓底?高3.95米。墓葬位于土?近中部,?穴深坑,方向110°,平面?“中”字形,
通?57米,分?墓道、主室、后室3部分,主室?用木板隔成南北?室。墓道?21.2、?
3.65米;主室?23.6、?6.3米;后室?11.9、?3.2、深3米;墓道南壁近底部
有??形壁?,底部稍深于墓道,??3.4、?0.9、高0.5米;墓道和后室的前后?有排水?。
?墓早年被盗,主室、后室、壁?均受??。随葬器物1100余件,玉器?40件,其中葬玉有覆面
和??,佩玉有?形佩、双?佩、??佩、?首?、璧形佩、?形、?、?、?形管、管和?物造型的??、
奔兔等,以及琉璃珠、管和?形?等,??有格和首,此外?有玉削、玉等;青瓷器中,?器100余件,
有三足缶、于、丁?、??、句、?、甬?、磬、?形器、座等,其中缶、?、座?首次??的
越国?器;礼器200余件,有盖鼎、鼎、盖豆、盒、?、扁腹?、?、?、三足?、、?、盆、甑、
炉?、温酒器、虎子、璧、羊角形器等,生活用品有杯、?、碗、?、筒形?、?、器盖等;硬陶器有鼎、
?、罐、器盖等;泥?陶器有盆、璧、羊角形器、??等;?有4件琉璃釉?蛇玲?球形器。青瓷?器主要
出于壁?中,玉器和青瓷重器主要出于主室?部,羊角形器和璧主要出于主室中部,而?大多数随葬品集
中出于后室。
790世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:16:06 0
丘承?出土的?多精美器物尤其是?多高等?青瓷礼器、?器和玉器的首次??和??,并以蛇?主要装?而
?成的独特?格,展示了越国最高等?随葬品的?采。

玉???5.8、?3.6、厚1厘米,青白玉、局部受黄褐色沁,正面4条?蛇,蛇身????,穿?中心的
??并??四周,?作蛇首状,??形?和??,?以谷?和斜方格?,背面光?,有一?扣。整个器物?用了?雕、
透雕、高浮雕、浅浮雕、微雕、?刻、?地等各?工?,??未?使用痕迹,?罕?的越国?族葬玉。

玉覆面?7.8、?5.8、厚0.2厘米,青白玉,大部分白化,?有花斑,整体??形,?耳略外凸,
各有2穿,正面以条?分?4区,各雕一浅浮雕??,周??以云?、斜??和?方格?,背面光?内弧,雕刻
手法有?地、浅浮雕、?刻、?孔等。??玉覆面?明墓主的身?与?侯相当或略低于?侯。琉璃釉?蛇玲?
球形器,底径6.5、高6.3厘米,泥?陶,低温琉璃釉,以8条蛇?成?圈状,一蛇口??一蛇尾部
而?成玲?球形,并以点状的?色琉璃釉?成蛇?和蛇身的??。玲?球是首次??的最高?格的越国随葬器物,
其用途当?象征王?或神?的神器。
791世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:16:51 0
青瓷三足缶3件,与其他?器同出土于壁?中,?首次??的?器,亦?明?池会上?相如?秦王??王?缶,
?有此??器。口径40、通高24.2厘米,缶作深腹盆形,内外施青黄色釉,口沿和上腹部??蟠??,
??首状?耳,???有一?称的蜥蜴匍匐在口沿,蜥蜴的?前肢攀在沿上,而口?缶沿,造型夸?生?。

青瓷座也是首次??的越国青瓷?器,因同?出土4件,并与?、、?、于、丁?、句共出,故将其
定?座。孔径9、座底径41、通高18厘米,座身?覆?形,中有管状插孔,施青色釉,座以数道凸弦?分隔,
?蟠??,下部有4个??的?首,上部有6条堆塑的蛇,蛇身???,弯曲作游?状,?向上昂,?尾相交。

青瓷温酒器2件,亦?首次??的越国礼器,?口径31.8、通高9.5厘米,温酒器口径26.4、
通高9.5厘米,施青色釉,下?承?,三蹄足,四?首附耳,口及?的上部?蟠??,内可置炭;温酒器下有三足,
置?内,?面有4个?首??,上?蟠??及13个?孔,内可盛水,上可置酒杯温酒。
?山越国?族墓地的5个等? 根据墓葬的封土?模、墓葬??和随葬器物的??、?地、?合?系,7座墓葬可以分
?5个等?:
792世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:18:25 0
第一???丘承?,?墓封土??方形覆斗状,?模宏大,且?墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面?“中”字形,并有壁?;
随葬器物中青瓷礼器数量?多,气?恢弘,器??全;青瓷?器既有中原式的?、甬?、磬,亦有越式的于、丁?、
?、句、?形器、座,?有以往从未??的缶,?器的数量和品?可与曾侯乙墓相?美;玉器中,既有葬玉、??,
亦有佩玉,而成双成?的?形佩、双?佩、??佩、?首?、?形等?成的佩玉,当?春秋?国?期最高等?的佩?;
此外?随葬琉璃釉?蛇玲? 球形器等象征特殊意?的器物;第二???老虎?,?墓封土亦?模宏大,且??方形覆斗状,
埋葬方式?平地?木,随葬器物中除生活用品外,?包括成?的原始青瓷?器和硬陶礼器、?器;第三???万家?,
与老虎?的封土?模和平地?木的葬制相同,然随葬品中?有成?的硬陶礼器、?器而不?原始青瓷?器;第四???
曹家?、杜家?;第五???老??、?家?。?4座墓葬均无成??器随葬,从封土?模和墓葬大小看,曹家?和杜家?
均??方形覆斗状封土,老??和?家?????形?首状封土;曹家?和杜家?的墓葬也大于老??和?家?,
随葬器物的数量??老??和?家?的一倍,然中型墓和小型墓在随葬器物的?富程度上?差?不太明?。
793世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:19:37 0
?山?族墓葬的特征与价? ?山?族墓葬的特征大致可???以下几点:1、?方形覆斗状或??形封土;
2、除特大型墓葬?深坑墓外,皆?平地起封;3、除特大型墓葬?“中”字形外,其余皆??条形墓葬,
大型的?有?木或分室用的木板等用于?筑墓室;4、随葬器物主要?原始青瓷器和硬陶器;5、特大型
墓葬的随葬品中有?玉;6、随葬器物中常?原始青瓷或硬陶的句、于、丁?、?、羊角器、璧、
?形器以及越式鼎、筒形?、?、器盖等;7、高等?的器物??中常?蛇。?些特征中多?越国墓葬独有,
其中墓葬形制和随葬品的?地、器形、器?与浙江??印山越王墓、以及安吉、海?、??等地的越国?族墓
葬相同,尤其明?的是均随葬陶、瓷礼器和?器,如于、丁?、句、?、甬?、磬、?形器、缶、
座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形?、?、器盖等;而以蛇?器物??也是越人??崇拜的体?。可??山?族
墓地与春秋?期和?国早期的越墓相同,具有明?的越国特征。根据墓葬的?模、形制和在墓地中的位置,
以及随葬器物的数量、??和等?推?,?山?族墓地中丘承?墓主的等????次于越王的越国大夫,
此墓主室和后室???次于??印山越王墓,?高于其他中小型越国?族墓,而出土的随葬器物?是目前已
?掘的越国墓葬中等?最高、?地最好且器?最??全的。
794世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:20:09 0
?山越国?族墓地7座墓葬的随葬品中,皆有完全相同器物,如?、?、碗、?、器盖等,其年代?相同;
而大型或中型墓葬中?有造型相同的?、、磬、?形器、璧、羊角形器等,其年代亦?相同;而从印?
硬陶和原始青瓷基本生活用品的形?、??麻布?和米字?等??以及器物的?合?系,根据?江下游土?墓的
分期,其年代???国早期;出土玉器中,尽管有少量??保留春秋?期特征,
而?大多数玉器的造型和??都呈??国早期的特征。因此?山越国?族墓地的年代可定??国早期,即越国
最?盛的越王勾践?期。

?山越国?族墓地中,丘承?位于墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬???在丘承?的?南呈扇形
分布,墓葬与墓葬之?既有一定的分布?律,又存在着?格的等?差?,是本次考古?掘最重要的收?之一;
丘承?墓?目前?次于??印山越王墓的越国第二大墓,而丘承?出土的大批精美??成套成?的玉器、
青瓷礼器和?器,??迄今?止江浙一?所??的最高等?的越国随葬器物,也同?是本次考古?掘最重要的
收?之一。其墓地的完整性和礼器、?器?合的完整性,尤其是越国的礼?文化中将中原系?和?地融入越系
?中,?越国史的研究和解决一系列春秋?国?期的重要学???提供了一批??珍?的?物?料,?于越文化
乃至百越民族史的研究和越国考古学的研究将起着??的推?作用。
http://www.gzww.net/w%5Fstudy/display.asp?id=185
795世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:22:05 0




いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、鼎やら、盆やら、盂やら、?やら、?やら、酒器やら、
龍形やら、亀形やら、虎子やら、羊角形器やら、磬やら、鈴形器やら、
鱗紋やら、蛇紋やら、龍紋やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
さーっぱり見た事も聞いた事もないシロモノまで、
もう、ありとあらゆる摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

何でこんなイイモン日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)


796世界@名無史さん:2006/12/18(月) 20:22:45 0
くどい
797世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:34:16 0

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土?近百座。南京
博物院考古研究所及錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年
12月期間,對該範圍?土?進行搶救性發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承?就出土1100餘件精美
成套的青瓷禮器、樂器和玉器。根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、
質地、組合關係,7座墓葬可以分為5個等級:
798世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:36:24 0
第一級別為丘承?,該墓封土為長方形覆斗?,是墓地中唯一的深坑墓,
墓坑平面為「中」字形,並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量?多,器類齊全;
青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、
鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、劍飾,亦有佩玉,
而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首?、龍形?等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象?
特殊意義的器物; 第二級別為老虎?,該墓封土亦為長方形覆斗?,埋葬
方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外, 還包括成組的原始青瓷樂器
和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎?的封土規模和平地 鋪木的
葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;
第四級別為曹家墳、 杜家墳,為長方形覆斗?封土;第五級別為老墳?、
鄒家?。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形 饅首?封土。
799世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:38:02 0
鴻山貴族墓葬的特?大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗?或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的
還有?木或分室用的木板等用於構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、
璧、鈴形器以及越式鼎、筒形、?、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰
崇拜的體現。
800世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:41:35 0
這些特?中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類
與浙江紹興印山越王墓以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,
尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、丁寧、勾、?、甬鍾、磬、
鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、?、器蓋等;根據墓葬的
規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山
貴族墓地 中丘承?墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室
總長僅次於紹興印山越王墓, 遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物
則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、 質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、?、器蓋等,其年代
應相同;而大型或中型墓葬中則有造型相同的鍾、?、磬、鈴形器、璧、
羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶和原始青瓷基本生活用品的形態、
僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游土?墓的分期,
其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋?期特?,
而?大多數玉器 的造型和紋飾都呈現戰國早期的特?。因此鴻山越國貴族
墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的越王勾踐時期。
801世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:42:59 0
鴻山越國貴族墓地中,丘承?位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬
則圍繞在丘承?的東南呈扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,
又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的收穫之一;丘承?墓為
目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承?出土的大批精美成套的
玉器、青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國
隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的 收穫之一。其墓地的完整性和禮器、
樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入 越系統中,
為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為
珍貴的實物資料, 對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究
將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
802世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:45:20 0




いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、越式鼎やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、
龍形やら、龍鳳佩やら、具座やら、羊角器やら、筒形やら、
もう、さーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、ありとあらゆる
摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)


803世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:50:07 0
>>802
中国には数多くのゴッドハンド先生が居るw
804世界@名無史さん:2006/12/20(水) 18:19:14 0

●考古發現一罐鴨蛋?了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土?墓,這些墓聳立在山巒崗地、
平原叢林中,遠遠看上去,就像是一個隆起的大土?。它們代表著西周至春秋
戰國時期江南特有的土著文化。目前經初?探?,在鎮江周邊約有5000多座土?墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土?墓進行
了搶救性發掘,先後發現了46座西周到春秋時期的土?墓,出土文物4000多件。
昨天,來自全國各地的10多位考古專家不僅實地勘?了考古現場,還商討如何
保護土?墓的發掘成果。
805世界@名無史さん:2006/12/20(水) 18:23:26 0
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、?、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000
多件文物,把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王
寨花頭的2號?裡出土的文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面
居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還
特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院考古研究所副所長林留根?,
出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這?人家?製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐
在南農大的博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀
70年代,發現第一罐蛋的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家
們也?不出個所以然。因此,古人如何?製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,
雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,能?住雨水,而且罐子裡面有封泥,
這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了蛋殼是完好外,蛋青蛋?
怎樣?考古專家?,現在只能先保護,然後再研究
806世界@名無史さん:2006/12/20(水) 18:24:42 0
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46?人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物
可以看出,當時人們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。
不過,在句容天王寨出土的一個青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽?紋大瓷罐,
也讓專家們好奇。在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這
個瓷罐上的花紋看上去像孔雀尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作
出來的?這也是一個謎。
807世界@名無史さん:2006/12/20(水) 18:26:37 0
保護土?墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土?墓,因為從墓葬出來的都是不太?錢的陶器殘片,
但由於修路、修水利等原因,?年都有成百座土?墓被破壞了。這次寧常、
鎮?高速公路沿線有6座土?墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境?為
建高爾夫球場平整40多座土?,句容境?座土?因工程建設被毀,句容郭莊
鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,金壇一大型商代遺址被鎮
政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家
們呼?,將江蘇土?墓納入大遺址保護體系,與各市縣?鎮的經濟發展和社會
發展規劃相融合,防止建設性破壞,同時在對土?墓群進行調?的基礎上,
選擇幾個典型土?墓進行解剖,並修建遺址博物館,以帶動周圍土?墓群的
整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.h
808世界@名無史さん:2006/12/20(水) 18:28:09 0




盞???????????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の出土物は日本の弥生遺跡から全く
出土しない摩訶不思議な物や文様ばかり出土するんですねえ(嘲笑)



809世界@名無史さん:2006/12/20(水) 19:27:21 0
粘着くどい
810世界@名無史さん:2006/12/21(木) 01:13:04 0
悪質なコピペは、さくっと削除依頼
あと、アク禁願いすればよい
811世界@名無史さん:2006/12/21(木) 20:54:24 0
どうですか?

原爆を落とされた心境はw
812世界@名無史さん:2006/12/22(金) 17:36:46 0
原爆に例えるのはチョン人のとくちょう、とうとう化けの皮を剥いだな!!
813世界@名無史さん:2006/12/22(金) 19:32:37 0
どうですか?

もはや朝鮮人に仕立てる事くらいしかできない論理破綻の
完全敗北者になったご心境はw
814世界@名無史さん:2006/12/24(日) 16:32:36 0

◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
815世界@名無史さん:2006/12/24(日) 16:33:39 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
816世界@名無史さん:2006/12/24(日) 16:34:14 0

◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた高床式の倉庫の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
817世界@名無史さん:2006/12/24(日) 16:35:19 0
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
818世界@名無史さん:2006/12/24(日) 16:36:18 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んで
おり、ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は
森の中の定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。
定住村も季節村も川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに
離れており、そばには高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
819世界@名無史さん:2006/12/24(日) 16:36:50 0
ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
820世界@名無史さん:2006/12/25(月) 16:21:50 0
甦る長江文明−稲作と操船の民

中国文明といえばこれまで多くの人が黄河文明を想起する。たしかに黄河流域は
中国文明発祥の地であることは間違いない。漢代に司馬遷が著した「史記」には
、黄河流域に栄えた夏、殷、周などの古代国家が存在し、春秋戦国時代を経て
秦・漢帝国が成立したことが記されている。

それ以来の中国史は主に黄河中心に記述されてきた。中国文明が内陸から周辺
地域に広がり、朝鮮やベトナムなどの半島に成立した国や、日本のように海に
囲まれた国を含めて、中国を中核に東アジア世界が成立しても、黄河文明は
その中心として意識されてきた。中国といえば誰しもが茫漠とした内陸砂漠に
つらなる大陸をイメ−ジするようになり、北中国の北京、西安、万里長城は
観光の目玉として史跡の筆頭に掲げられ、今なお多くの人が押しかけている。

821世界@名無史さん:2006/12/25(月) 16:24:10 0
たしかに黄河文明は中華の誇りだが、それだけが中国文明ではない。南中国には長江
(揚子江)が流れ、古くから稲作と操船の民の生活があった。中国の風土は「南船北馬」
、「南稲北粟」といわれるように、黄河流域の半乾燥地帯では畑作農民と草原の遊牧
民か混在し、長江流域の湿潤地帯には稲作農民と船を操るのに巧みな海民が交じり合っ
て生活していたのである。

その風俗は「北儒南道」の言葉が示すようにかなり大きく異なっていた。黄河流域では
父系家族で旭日を信仰し、上下秩序の厳しい掟を維持して、自然を改造しそれに働き
かける人間の行為を尊重していた。だが、長江流域の生活はそれと対照的に、母系ないし
は双系家族で日輪を母として信仰し、男女差の少ない生活秩序を保ち、自然環境に順応
することが尊重されていた。

822世界@名無史さん:2006/12/25(月) 16:26:54 0
黄河の黄と長江の緑は中国文明の基調だが、 黄土地帯の写真と長江流域の青々とした
風景を比べて見よう。 左は甘粛省蘭州付近、右は四川省成都付近のもようだが、黄河の
黄と長江の碧はまさに対象的だろう。

乾燥した黄土での麦栽培は容易ではなく、作物の生育に必要な保水の問題を解決する
ためにも、家族が男性中心に協力しあって、住みやすいように自然を改造する以外に
生きてゆく方法はなかった。そこに儒教的秩序が作られ黄河文明が成立した。だが、
長江流域は温暖で水が溢れ、自生した稲が生えていた。そこに自然に順応する道教的な
生活が展開していた。
823世界@名無史さん:2006/12/25(月) 16:29:12 0
この黄河流域とは自然環境も風俗も異なった地域の生活は、前者は「馬の文化」と
よばれ、後者は「船の文化」とよばれているが、秦・漢帝国の成立とともに、この
長江流域の「船の文化」は「馬の文化」に組み込まれ、黄河中心の歴史に埋没されてきた。

だが、日本人に「三国志」で馴染まれている魏晋南北朝時代や、唐宋変革期には長江
流域が大きく発展している。宋代以降の中国も南中国を機軸にして、内陸ではなく
海洋を舞台に発展していった。しかも、そうした南中国の発展は秦・漢以後に限った
ことではなく、それ以前の紀元前一万年頃からの長江流域で始まっていたのである。

824世界@名無史さん:2006/12/25(月) 16:45:33 0
>>チョットご無沙汰してるまにレス数伸びたな。

おっレス数かなり伸びたな、弥生中国人ガンガレあと「176」レスじゃ
日本史板もがんばれよビッグボーナス出るど〜〜〜う。
825世界@名無史さん:2006/12/25(月) 16:48:58 0
漢文は読めんから止めてくれよ!
826世界@名無史さん:2006/12/25(月) 17:06:52 0
これまでに黄河流域の約8000年前の裴李崗(はいりこう=河南省)の遺跡や、
磁山(河北省)遺跡の発掘で、約6000年前に半坡などの集落で小麦や粟など
が栽培されていたことが明らかにされ、それが黄河文明の起源にされて、
ひいては中国文明の中核に押し上げられてきたが、長江流域の生活はそれより
古く、また早期に都市文明への歩みを進めていたことが、最近に解ってきた。
827世界@名無史さん:2006/12/25(月) 17:08:37 0
長江下流域の河姆渡(かぼと=浙江省)遺跡で約7000年前に稲が栽培されていた
ことが発見され、さらに引き続いて約9000年前の彭頭山(湖南省)などの稲作
遺跡の発見が相次いだ結果、長江流域の発展は黄河より早期に始まっていたこと
が明らかになってきた。メソポタミアの農耕発祥が約7000年前、長江流域はそれ
以前に稲作を開始していたのである。 
828世界@名無史さん:2006/12/25(月) 17:11:35 0
メソポタミアの小麦栽培が広がってエジプトを含むオリエント文明が発展し、
さらにやや遅れてインド文明のもとになるインダス文明が、インダス河沿いの
モヘンジョダロで発足している。いずれも黄河文明と同様に小麦の栽培を基礎
にして発展したものだったが、長江流域は穀物栽培ではメソポタミアと肩を並
べながらも、そこでは稲作がすでに開始されていたことになる。

829世界@名無史さん:2006/12/25(月) 17:13:04 0
この長江下流域の河姆渡遺跡が1986年に発掘され稲作栽培の事実が報道されると、
世界の人々が驚いたのは当然だろう。その後の調査・研究によると、この長江の
稲作農業は「萌芽期(BC10000−9000)」、「耕前期(BC7000-5000)」、
「耜耕期(BC5000-3000)」、「犁耕期(BC3000-2000)」に区分されている。 
830世界@名無史さん:2006/12/25(月) 18:39:51 0
>>825
そんなに難しくないよ。内容的に。
831世界@名無史さん:2006/12/25(月) 18:53:36 0
内容的に難しい難しくないとは別問題でコピペしてる人たちは双方いい加減にやめないか?
このスレ、全然江東や江南の歴史スレじゃなくなってただのコピペ荒らしの煽り合い会場になってるぞ。
832世界@名無史さん:2006/12/25(月) 20:38:06 0
一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。こ
れをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」という
結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説と合わなか
ったからだ。

 さらに同遺跡の下層には別の遺跡があり、推定で二万dから三万dにものぼる鉄滓(て
っさい‖製鉄した後の残留物)が発見されたほか、縄文式とも弥生式とも異なっていて、
中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものとよく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土し
ている。
http://www.minyu.co.jp/shasetsu/0305gatsu/0523s.html
833世界@名無史さん:2006/12/26(火) 17:50:00 0
最初に発掘された 河姆渡遺跡の稲作は「耜耕期」にあたる。牛や水牛などの骨で作られた
耕具が、水田を耕起して水平にするのに使われていた。 この時期の遺跡からは大量の炭化
米が出土しているので、長江中下流の広い範囲で稲作が展開されていたことがうかがえる。                                              

青々とした森と河川に囲まれた長江流域の稲作・漁労民は、太陽・樹木・鳥・目玉などを
崇拝していた。河姆渡遺跡の象牙に刻まれた「双鳳朝陽文」にみる、太陽の火炎を中心に
二羽の鳥が向かい合っている図は、そうした稲作民の信仰を象徴している。
834世界@名無史さん:2006/12/26(火) 18:55:29 0


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
835世界@名無史さん:2006/12/26(火) 19:23:42 0
>>832
最近、弥生前期の遺跡から鉄器が出土するらしいけど、どうもこの頃には
国東、東広島、丹後、地方で製鉄が行われてたみたいだな、稲作には鉄器が
使われていた説、必要説と合致する。特に国東半島からは数箇所の遺跡で
鉄滓の跡が見つかってるな。
836世界@名無史さん:2006/12/26(火) 20:18:19 0
炊飯用の三足土器や中国青銅器が出てこないところを
見ると、製鉄技術や土器片はやはり倭人自身の手で持ち込まれたもの
と見るべきだろう。

饕餮文の土器片はおそらく瓦だろう。

饕餮文は青銅器では周代も中頃になるとほとんど作られなくなり、
主に瓦にだけ使われるようになる。

中国で饕餮文の瓦の生産が最も盛んだった地域は燕。

山海経には倭は燕に属すと記されているし、燕が製作地と
思われる鉄斧が比恵遺跡から出土している。

倭が朝鮮半島を通して燕とも交流があったという証拠と言えるだろう。
837世界@名無史さん:2006/12/27(水) 21:08:31 0
歌垣は8C頃の筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,
これをいたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,
人々が集まりことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,
日に日に弥栄え,千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と
詠われた。これより後,富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には
人々が行き集い,歌や舞が供され,宴が繰り広げられるようになった
・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
838世界@名無史さん:2006/12/27(水) 21:09:47 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
839世界@名無史さん:2006/12/28(木) 19:36:36 0
刺青はBC50Cの日本が最古。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
840世界@名無史さん:2006/12/28(木) 23:07:30 0
紀元前5,000年に「日本人」はいたの?
一見問題ないようにみえる点が実は大切なところだと思う。
中韓にもいえることだけど。
841世界@名無史さん:2006/12/29(金) 23:37:27 0
半月型石包丁は満州南部から。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




842世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:17:20 0
鵜飼は満州あたりから。



「吉林の鵜飼」昭和12年・9分
満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくいあげて
吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html


843世界@名無史さん:2007/01/05(金) 18:58:19 0
この長江下流域の河姆渡遺跡が1986年に発掘され稲作栽培の事実が報道されると、
世界の人々が驚いたのは当然だろう。その後の調査・研究によると、この長江の
稲作農業は「萌芽期(BC10000−9000)」、「耕前期(BC7000-5000)」、
「耜耕期(BC5000-3000)」、「犁耕期(BC3000-2000)」に区分されている。
844世界@名無史さん:2007/01/05(金) 19:00:42 0
最初に発掘された 河姆渡遺跡の稲作は「耜耕期」にあたる。牛や水牛などの骨で作られた
耕具が、水田を耕起して水平にするのに使われていた。
この時期の遺跡からは大量の炭化米が出土しているので、長江中下流の広い範囲で稲作が
展開されていたことがうかがえる。 
845世界@名無史さん:2007/01/05(金) 19:02:52 0
青々とした森と河川に囲まれた長江流域の稲作・漁労民は、太陽・樹木・鳥・目玉などを
崇拝していた。河姆渡遺跡の象牙に刻まれた「双鳳朝陽文」にみる、太陽の火炎を中心に
二羽の鳥が向かい合っている図は、そうした稲作民の信仰を象徴している。
846世界@名無史さん:2007/01/06(土) 17:14:57 0
太陽が朝に昇り、夕べに沈む自然の循環は、豊かな水の育てた森の生命が永劫に循環する
シンボルであつたばかりでなく、稲作農民の生産のメルクマ−ルだった。いつ種籾を播き
、いつ苗床をつくり、いつ田植えをし、いつ刈り取るかという農作業は、きわめて緻密で
綿密な作業であり、その指標が太陽の循環であった。

そして朝に飛び立ち、夕べにねぐらに帰る鳥の姿は、太陽とともにあって森の永劫の命の
再生を助けるものと考えら、それはまた長江流域の鵜飼とも結びついていた。さらに目玉
信仰は森の神々の目であり、人の目は人の生と死の凝集するところと考えられていたようだ。

847世界@名無史さん:2007/01/06(土) 17:16:31 0
こうした太陽や鳥や目玉の信仰は、河姆渡遺跡ばかりではなく、長江中流域の湖南省
高廟遺跡や上流域の三星堆遺跡にもみられ、長江流域の稲作民の信仰だったが、それ
と同時に各地の遺跡から丸木舟や櫂などと一緒に鯛や鮫の骨、鯨の背骨も出土している。

それは彼らが稲作民であると同時に漁労を営む海の民、川の民であったことを物語っ
ていた。彼らの生活は、『史記』の李斯伝には「百越の民」と記され、道教文献の
『荘子』や『南華真教』には、「越人は断髪文身(髪の毛を短く切って体に刺青をする)」
とあるように、その習俗は操船と漁労と稲作に適応していたのである。

848世界@名無史さん:2007/01/06(土) 17:18:26 0
こうした稲作・漁労の生活は、次の「犁耕期」になると、農具は骨耜から石犂になり、
稲作農業は大きく発展し、その範囲も長江の南北に拡大し、それとともに水運も発達
して、中国最初の都市化として知られるようになった「良渚文化」が形成された。

良渚文化(BC3300-2200)の範囲は、長江デルタにある巨大な湖=太湖を中心に、南
は銭塘江を越え、北は江蘇省北端に及び、西は無錫を含む広範な地域に渡っていた。
その中心地にある莫角山遺跡には巨大な基壇があり、日干し煉瓦づくりの神殿がそび
えたち、屋根や柱は朱色や黒色で鮮やかに飾られて、明らかに中国最初の都市の存在
を示していた。

849世界@名無史さん:2007/01/06(土) 19:10:43 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子はまげを露出した髪型で、頭に木綿を巻いていたと書かれている。



http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf


850世界@名無史さん:2007/01/06(土) 20:54:52 0
一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。こ
れをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」という
結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説と合わなか
ったからだ。

 さらに同遺跡の下層には別の遺跡があり、推定で二万dから三万dにものぼる鉄滓(て
っさい‖製鉄した後の残留物)が発見されたほか、縄文式とも弥生式とも異なっていて、
中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものとよく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土し
ている。
http://www.minyu.co.jp/shasetsu/0305gatsu/0523s.html
851世界@名無史さん:2007/01/06(土) 21:19:14 0
836 :世界@名無史さん :2006/12/26(火) 20:18:19 0
炊飯用の三足土器や中国青銅器が出てこないところを
見ると、製鉄技術や土器片はやはり倭人自身の手で持ち込まれたもの
と見るべきだろう。

饕餮文の土器片はおそらく瓦だろう。

饕餮文は青銅器では周代も中頃になるとほとんど作られなくなり、
主に瓦にだけ使われるようになる。

中国で饕餮文の瓦の生産が最も盛んだった地域は燕。

山海経には倭は燕に属すと記されているし、燕が製作地と
思われる鉄斧が比恵遺跡から出土している。

倭が朝鮮半島を通して燕とも交流があったという証拠と言えるだろう。
852世界@名無史さん:2007/01/08(月) 20:19:07 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代エジプトから見られ、今も世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
853世界@名無史さん:2007/01/08(月) 20:22:53 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣をまとい、
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
854世界@名無史さん:2007/01/08(月) 20:25:54 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html

<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
855世界@名無史さん:2007/01/08(月) 20:26:30 0
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss

アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
856世界@名無史さん:2007/01/09(火) 22:01:35 0
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いた
のが、アフリカ、中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、
縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html
857世界@名無史さん:2007/01/09(火) 22:02:34 0
歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm

大昔の人は、わざと前歯を抜いたり削ったりしたようです。この風習は
世界中で確認されていますが、日本でも石器時代や縄文時代の人骨の
調査から、下顎前歯や上顎犬歯を抜歯する風習があったと言われています。
http://www.shopfucoidan.jp/ns9.html
858世界@名無史さん:2007/01/09(火) 22:03:24 0
健康な歯を規則的に抜き取る抜歯の風習は縄文前期から認められ、
後・晩期人骨の若年以上の成人は抜歯されていたと云う。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/tsukumo.html

佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
859世界@名無史さん:2007/01/10(水) 20:30:12 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
860世界@名無史さん:2007/01/10(水) 20:31:22 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
861世界@名無史さん:2007/01/10(水) 20:33:06 0
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
862世界@名無史さん:2007/01/10(水) 20:33:56 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んで
おり、ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は
森の中の定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。
定住村も季節村も川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに
離れており、そばには高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
863世界@名無史さん:2007/01/10(水) 20:34:26 0
ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
864世界@名無史さん:2007/01/11(木) 19:19:10 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
865世界@名無史さん:2007/01/12(金) 15:10:46 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
866世界@名無史さん:2007/01/12(金) 18:28:12 0
弥生中国人、2ちゃん閉鎖だって失業だな!気が済むまでコピペしとけ!!!
867世界@名無史さん:2007/01/13(土) 21:26:50 0
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
868世界@名無史さん:2007/01/13(土) 21:28:23 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
869世界@名無史さん:2007/01/14(日) 20:01:37 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
870世界@名無史さん:2007/01/15(月) 20:53:35 0
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm


871世界@名無史さん:2007/01/16(火) 21:21:10 0
鵜飼は満州南部を経由している。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
872世界@名無史さん:2007/01/16(火) 23:45:29 0
>>871
日本人の先祖はキタイ・エベンキ。
873世界@名無史さん:2007/01/17(水) 20:41:19 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代エジプトから見られ、今も世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
874世界@名無史さん:2007/01/17(水) 20:42:43 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
875世界@名無史さん:2007/01/17(水) 20:43:28 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
876世界@名無史さん:2007/01/18(木) 21:14:19 0
歌垣は8C頃の筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,
これをいたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,
人々が集まりことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,
日に日に弥栄え,千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と
詠われた。これより後,富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には
人々が行き集い,歌や舞が供され,宴が繰り広げられるようになった
・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
877世界@名無史さん:2007/01/18(木) 21:18:33 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
878世界@名無史さん:2007/01/21(日) 18:48:55 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。



http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf


879世界@名無史さん:2007/01/22(月) 19:25:08 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
880世界@名無史さん:2007/01/22(月) 19:27:56 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
881世界@名無史さん:2007/01/22(月) 19:30:41 0
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
882世界@名無史さん:2007/01/22(月) 19:32:36 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んで
おり、ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は
森の中の定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。
定住村も季節村も川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに
離れており、そばには高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
883世界@名無史さん:2007/01/22(月) 19:34:38 0
ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jp
884世界@名無史さん:2007/01/23(火) 17:32:12 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
885世界@名無史さん:2007/01/24(水) 19:11:19 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
886世界@名無史さん:2007/01/25(木) 10:29:44 0
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
887世界@名無史さん:2007/01/25(木) 16:18:18 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
888世界@名無史さん:2007/01/26(金) 15:19:51 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
889世界@名無史さん:2007/01/27(土) 19:37:32 0
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



890世界@名無史さん:2007/01/28(日) 20:08:34 0
鵜飼は満州南部を経由している。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
891世界@名無史さん:2007/02/05(月) 19:32:05 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
892世界@名無史さん:2007/02/05(月) 19:35:17 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
893世界@名無史さん:2007/02/05(月) 19:38:28 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
894世界@名無史さん:2007/02/24(土) 19:10:07 0
歌垣は8C頃の筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,
これをいたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,
人々が集まりことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,
日に日に弥栄え,千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と
詠われた。これより後,富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には
人々が行き集い,歌や舞が供され,宴が繰り広げられるようになった
・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
895世界@名無史さん:2007/02/24(土) 19:20:41 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
896世界@名無史さん:2007/02/25(日) 19:23:59 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたとなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



897世界@名無史さん:2007/03/03(土) 23:46:17 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
898世界@名無史さん:2007/03/10(土) 20:52:27 0

◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
899世界@名無史さん:2007/03/11(日) 17:02:38 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
900世界@名無史さん:2007/03/11(日) 19:17:41 0
900ゲット
901世界@名無史さん:2007/03/11(日) 23:42:36 0
 
902世界@名無史さん:2007/03/12(月) 15:54:10 0

◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
903世界@名無史さん:2007/03/13(火) 17:14:12 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
904世界@名無史さん:2007/03/14(水) 17:19:44 0

ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。

http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html
905世界@名無しさん:2007/03/14(水) 21:09:34 0
黄河流域で発生した人類の癌細胞
906世界@名無史さん:2007/03/15(木) 13:09:39 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
907世界@名無史さん:2007/03/17(土) 19:10:54 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
908世界@名無史さん:2007/03/18(日) 20:06:52 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
909世界@名無史さん:2007/03/18(日) 20:16:49 0
>>238
では、なぜインドシナ半島や中国南部からの人種がよせ集まって
形成されたタイ人と日本人のHLAハプロタイプは同じものが
ほとんど無いのかね?

HLAのハプロタイプは、いったん形成されると何十万年かそれ以上も
維持されて、そう変化しないのだよ。
910世界@名無史さん:2007/03/18(日) 22:42:41 0
鳥居の起源を商に求める見方もあったような。
911世界@名無史さん:2007/03/19(月) 19:38:33 0
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
912世界@名無史さん:2007/03/19(月) 19:43:17 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
913世界@名無史さん:2007/03/20(火) 22:09:17 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
914世界@名無史さん:2007/03/21(水) 21:26:36 0
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



915世界@名無史さん:2007/03/23(金) 23:13:40 0
鵜飼は満州南部を経由している。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
916世界@名無史さん:2007/03/24(土) 19:09:35 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
917世界@名無史さん:2007/03/24(土) 19:13:37 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
918世界@名無史さん:2007/03/24(土) 19:17:11 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
919世界@名無史さん:2007/03/24(土) 20:02:36 0
そういえば鳥越憲三郎先生が亡くなったね。
先生の「なんでも倭族」説には賛成できないが、
精力的な調査には頭が下がるし、珍しい習俗の
紹介は非常に楽しませてもらった。

安らかにお休み下さい。合掌。

920世界@名無史さん:2007/03/25(日) 20:27:16 0
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
921世界@名無史さん:2007/03/25(日) 20:31:43 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
922世界@名無史さん:2007/03/26(月) 17:24:39 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたとなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf




923世界@名無史さん:2007/03/27(火) 13:21:38 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
924世界@名無史さん:2007/03/28(水) 16:23:50 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
925世界@名無史さん:2007/03/28(水) 16:28:52 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
926世界@名無史さん:2007/03/29(木) 17:15:07 0

◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm

ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html
927世界@名無史さん:2007/03/29(木) 17:19:21 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
928世界@名無史さん:2007/03/30(金) 13:06:34 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
929世界@名無史さん:2007/03/30(金) 13:13:40 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
930世界@名無史さん:2007/03/31(土) 18:32:22 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
931世界@名無史さん:2007/03/31(土) 19:00:45 0

中国四川省、成都近くの三星堆から出土した青銅仮面の「龍」は鼻に
縦飾りがあるのみならず、人間の顔をしているところが最も目を引く。

そこで、「人間の顔をした龍」という特徴を念頭に『山海経』の記載内容を
洗うと、大荒北経と海外北経に登場する「燭龍」と「燭陰」といった怪物が
目に止まったわけである。

大荒北経に次のような記載がある。

「西北の海の外、赤海の北に章尾山という山がある。そこに人間の顔をし、
 蛇の体をもつ赤色の神が住んでいる。『直目』で『正乗』である。
 この神が目を閉じた時は天下が夜を迎えるが、彼の目が開いた時は
 天下が昼になる。彼は食わず、寝ず、休息せず、風雨も彼の指示を仰ぐ。
 彼はその神通力でもって天下隅々の暗いところを照らすため、『燭龍』
 と呼ばれている。」


これはまさに爬虫類人の記録ではないか。
発光する目、圧倒的なテクノロジー、どれもデーヴィッド・アイクの定義している
レプティリアンの特徴にぴったりと当てはまる。
932世界@名無史さん:2007/04/01(日) 18:59:43 0
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
933世界@名無史さん:2007/04/01(日) 19:01:48 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
934世界@名無史さん:2007/04/02(月) 16:42:08 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
935世界@名無史さん:2007/04/03(火) 17:24:36 0
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




936世界@名無史さん:2007/04/04(水) 14:53:02 0
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの
日中に行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で
船にすくいあげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
937世界@名無史さん:2007/04/05(木) 18:59:51 0
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
938世界@名無史さん:2007/04/05(木) 19:01:55 0
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
939世界@名無史さん:2007/04/05(木) 19:04:34 0
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
940世界@名無史さん:2007/04/06(金) 16:49:17 0
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
941世界@名無史さん:2007/04/06(金) 16:51:22 0
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
942世界@名無史さん:2007/04/07(土) 18:25:49 0
コピペが凄いな。
とういか、まだあったのかこのスレ。
943世界@名無史さん:2007/04/07(土) 22:57:05 0
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf




944世界@名無史さん:2007/04/08(日) 11:05:46 0
結髪分身は、越人じゃなくて呉人のほうじゃなかったか?



などと言ってみる。
945世界@名無史さん:2007/04/08(日) 21:24:51 0
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm

日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。

※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
       【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
       【土・日】21:00?24:00

http://www.ch-sakura.jp/index.html


947世界@名無史さん:2007/04/09(月) 20:19:25 0
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
948世界@名無史さん:2007/04/09(月) 20:21:44 0

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
949世界@名無史さん:2007/04/10(火) 15:38:48 0
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
950世界@名無史さん:2007/04/10(火) 15:43:35 0

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
951世界@名無史さん:2007/04/10(火) 22:07:27 0
スレが終わる前に聞いときたいんだけど、
ここのコピペ坊は一体何がやりたいの?
952世界@名無史さん:2007/04/11(水) 16:50:34 0

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
953世界@名無史さん:2007/04/11(水) 16:54:44 0
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
954世界@名無史さん:2007/04/12(木) 17:34:22 0
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
955世界@名無史さん:2007/04/13(金) 12:46:21 0
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
956世界@名無史さん:2007/04/13(金) 17:08:42 0
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
957世界@名無史さん:2007/04/14(土) 18:24:40 0
ここもコピペ便所と化したな・・・もうだめぽ
958世界@名無史さん:2007/04/14(土) 21:14:55 0
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
959世界@名無史さん:2007/04/14(土) 22:01:19 0
縄文文明は世界最古の文明。
さすが神の民族。
960世界@名無史さん:2007/04/15(日) 11:55:06 0
960
961世界@名無史さん:2007/04/15(日) 14:18:43 0
>>959
糞文明
さすが糞民族。
962世界@名無史さん:2007/04/15(日) 14:25:53 0
明らかにネタ切れを起こしてるな
963世界@名無史さん:2007/04/15(日) 14:40:54 0
最初からネタ切れで、途中から日本古代の話が延々続いてるだけ。
呉越や長江流域の遺跡の話なんかありゃしないw
964世界@名無史さん:2007/04/15(日) 16:18:11 0
てか、殆どコピペだろ。
965世界@名無史さん:2007/04/15(日) 19:07:11 0
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




966世界@名無史さん:2007/04/16(月) 14:45:00 0
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
967世界@名無史さん:2007/04/16(月) 22:16:31 0
コピペもマンネリ化
968世界@名無史さん:2007/04/16(月) 22:18:03 0
 
969世界@名無史さん:2007/04/16(月) 22:19:03 0
マンネリもコピペ化
970世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:38:10 0
970
971世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:40:26 0
 
972世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:41:55 0
 
973世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:42:39 0
 
974世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:43:13 0
 
975世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:44:40 0
 
976世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:58:06 0
 
977世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:59:58 0
 
978世界@名無史さん:2007/04/17(火) 10:01:04 0
 
979世界@名無史さん:2007/04/17(火) 11:48:43 0
■江原啓之=現代のラスプーチン■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1174566314/
980世界@名無史さん:2007/04/17(火) 14:45:47 0

【良い子悪い子普通の子】 イモ欽トリオ 【山口長江西山】
http://tv11.2ch.net/test/read.cgi/kyon2/1170163431/
981世界@名無史さん:2007/04/17(火) 14:47:38 0
 
982世界@名無史さん:2007/04/17(火) 14:49:41 0
 
983世界@名無史さん:2007/04/17(火) 14:50:53 0
 
984世界@名無史さん:2007/04/17(火) 14:52:02 0
 
985世界@名無史さん:2007/04/17(火) 14:54:20 0
 
986世界@名無史さん:2007/04/18(水) 11:11:31 0

【良い子悪い子普通の子】 イモ欽トリオ 【山口長江西山】
http://tv11.2ch.net/test/read.cgi/kyon2/1170163431/
987世界@名無史さん:2007/04/18(水) 14:18:54 0
うめ
988世界@名無史さん:2007/04/18(水) 14:19:46 0
たて
989世界@名無史さん:2007/04/18(水) 14:21:44 0
てみ
990世界@名無史さん:2007/04/18(水) 14:23:04 0
てる
991世界@名無史さん:2007/04/18(水) 14:24:00 0
けど
992世界@名無史さん:2007/04/18(水) 23:23:35 0
 
993世界@名無史さん:2007/04/19(木) 09:12:54 0
 
994世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:46:32 0
ゼノギアスって結局なんなの?
http://game11.2ch.net/test/read.cgi/gsaloon/1151922574/
995世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:50:37 0
995
996世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:52:13 0
うめ
997世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:54:50 0
よ〜し修学旅行の班決めするぞ〜
http://ex22.2ch.net/test/read.cgi/campus/1174273979/
998世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:56:55 0
 
999世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:58:15 0
次スレ


【良い子悪い子普通の子】 イモ欽トリオ 【山口長江西山】
http://tv11.2ch.net/test/read.cgi/kyon2/1170163431/
1000世界@名無史さん:2007/04/19(木) 11:59:17 0
1000
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。