1 :
世界@名無史さん:
@宋と遼
A宋と金
B宋と西夏 のどれかでレポートを書かなくてはいけないのですが、どなたか手伝ってもらえませんか?
参考文献なども載せていただけると嬉しいです。
5 :
世界@名無史さん:2005/07/08(金) 20:24:21 0
読めません・・・助けてください!!!!!!!
6 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/07/08(金) 20:37:02 0
7 :
世界@名無史さん:2005/07/08(金) 21:53:03 0
ありがとうございます、上記の内容はどこにあるのでしょうか?
8 :
世界@名無史さん:2005/07/08(金) 22:48:02 0
二十五史を選んで「開做(同じ字がないので似た字で代用)」とあるところをクリック
↓
「新校本宋史」(あるいは遼史・金史)をクリック
↓
あとはおまいの根性次第だ!w
9 :
世界@名無史さん:2005/07/08(金) 22:52:27 0
10 :
世界@名無史さん:2005/07/08(金) 22:56:17 0
以前の宋王朝スレでも単発質問から始まったのだ。
11 :
9:2005/07/08(金) 23:22:35 0
>>1
@宋と遼、なら
1 先ず「五代」の「後晋」建国の際に「燕雲十六州」が「遼」の支配下に入り、
以前の「北魏」に連なる「浸透王朝」とは性格を異にする「征服王朝」が
成立したこと。その後の「金」、元、清も征服王朝であること。
2 燕雲十六州の回復は五代の混乱を収拾して中国を統一した「宋」(「北宋」)の
国是となったが、宋の太宗以来の過剰な文官優位の政治によって、宋の軍事力は振るわず
(「真宗 宋」で検索せよ)、燕雲十六州の回復は果たせなかったこと。
3 その後宋は、遼末期の混乱に乗じて、金と結び燕雲十六州を回復しようとしたものの、
逆に金との関係がこじれ、首都開封を落とされ皇帝・欽宗、上皇(前皇帝)・徽宗を
北方へ連れ去られた(「靖康の変」)。そして、欽宗の弟である趙構が南遷して杭州で
皇帝を宣言し、金に奪われなかった淮河以南の地を確保して宋を再興し、これ以降は
「南宋」と呼ばれること。
カッコ内をググって、資料をつなぎ合わせ一本のストーリーにすれば、単位は来る。
参考文献は、大学の図書館で五代・宋代に関する文献を探して開いてみて、このストーリーと
見当外れでないことを確認したら、その書名を書いとけ。
アチキも修士論文と学会発表は宋と遼の関連だったが分野が違いすぎるかもな…。
『宋会要』と『全遼文』、『郡斎読書志』てなのならいいかも知らんが『遼代の仏教』
だとか『龍龕手鏡』だとかになるとかなり分野が限定される。
「宋の工芸品は世界一イイイイイイイイィィィィィィィィ!!!!!!」
「景徳鎮はぁああああ・・・!!」「世界最強!!!!」
って書くと100点だお。
14 :
世界@名無史さん:2005/07/09(土) 00:01:40 0
宋と後周で書いてくれ
15 :
世界@名無史さん:2005/07/09(土) 18:13:25 0
北宋が中国のルネサンスと公言する学者多すぎるな。
16 :
世界@名無史さん:2005/07/09(土) 19:54:43 0
>>15 仮にルネサンスだとしてもあと断絶するからなあ。
チャンコロの歴史はそればっか。
百家争鳴で古代にあれだけの思想を生んでおきながら・・・
マオなんか「百花繚乱」とか言った後に大粛清だからなw
司馬遼太郎が言ったように
中国は春秋戦国がピークなのか。
19 :
世界@名無史さん:2005/07/10(日) 23:30:20 0
>>9 えっと、21日までデス(●´ェ`●)
みなさんヽ(。・ω・)ノ゛☆ありがd☆ ヾ(・ω・。)ノデス★
ここが単なるレポートスレで終ると消えたスレが犬死で悔しい。
>>1は責任もってこのスレを盛り上げるべきだ
21 :
1:2005/07/11(月) 22:41:39 0
出来ればソースきぼんでぅ・・・
A4の用紙を6〜8割埋められるくらいの感じでレポート形式にしてください(●´ェ`●)
>>20 レポートが終わったら、みんなで宋について語るスレにし(σ´Д`)σYO!!
>21
A4用紙何枚分だ?
それから分野の政治、宗教、民族、文化、外交など色々あるぞ。
どういう内容で書きたいのかはっきりさせんとどっちつかずのヘンなレポート
のままだぞ。
23 :
1:2005/07/13(水) 10:52:30 0
>>22 1枚でぅ。
そにかく宋と遼・金・西夏とのかかわりなら何でもいいみたいです。
作ってくださる方の好きな分野でおkでぅ(●´ェ`●)
24 :
世界@名無史さん:2005/07/13(水) 11:41:18 0
そんないい加減なレポートだったら、Googleで"宋"、"遼"、"金"、"西夏"と
検索すればそのまんまのものがゴロゴロひっかかるわい。
それから世界史板に遼(契丹)やら金(女真)やら西夏、西遼と言ったキーワード
のスレッドがごろごろしとる。「宋を語る」スレッドは倉庫入りしたようだが、
長文のカキコも結構あるからそれ写せ。
26 :
1:2005/07/14(木) 00:40:03 0
>>25 ヽ(。・ω・)ノ゛☆ありがd☆ ヾ(・ω・。)ノでぅ★
出来ればここで作ってしまいたいんですが、協力してくださる方いらっしゃいますか?
>>26 なんか自分で作るというより、作ってもらおうとしている雰囲気がするんだが
28 :
世界@名無史さん:2005/07/14(木) 01:21:55 0
>17
亀レスだが、「百花斉放百家争鳴」ぢゃなかったか?
30 :
1:2005/07/15(金) 10:22:43 0
>>26 ・・・確かにorz
自分1人の力じゃ無理なんで協力していただきたいんですけども、
そのように感じられてしまったらすみません・・・(´・ω・`)
謝辞にはちゃんと「にちゃんねらーに感謝」と書いておけよw
32 :
世界@名無史さん:2005/07/15(金) 13:17:23 0
>>30 とにかく資料ググって書いてみれ、ウプしたらみんなで添削してくれるよ。
つ『大学生のためのレポート・論文作文術』(講談社現代親書)
嫁
34 :
1:2005/07/16(土) 10:00:05 0
>>11を参考にしながら自分なりに作ってみたんですが、少し短いみたいでぅ・・・
A4のレポート用紙10枚分くらい(約400文字くらい?)を足したいのですが、
何を足せばいいでしょう?
長文ですが読んでみてください・・・
中国の南朝における五代十国の時代、南朝の第3代目の王国「後晋」建国の際、石敬瑭は契丹の援助を受けた。
その際契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(現在の北京である燕州・現在の大同である雲州)を中心とす
る万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲した。
燕雲十六州の回復は五代の混乱を収拾して中国を統一した宋(北宋)の 国是となったが、宋の太宗以来の過剰
な文官優位の政治によって、宋の軍事力は振るわず、燕雲十六州の回復は果たせなかった。そしてその後晋も2代
10年で滅び、モンゴル系の契丹族の遼の支配下に入るようになった。そして 以前の北魏に代表される「浸透王朝」
とは性格を異にする、「征服王朝」とよばれる王朝が成立した。その後の「金」、元、清も征服王朝である。
遼は916〜1125年に満州や中国北部を支配した国であり、渤海をほろぼした後、唐の滅亡に乗じて華北にも
進入した。契丹文字をつくるなど民族の独自性をたもつようにしながら,領土内の農耕民の社会にあわせた支配をした。
その後宋は、遼末期の混乱に乗じて、金と結び燕雲十六州を回復しようとしたものの、 逆に金との関係がこじれてしまった。
首都開封を落とされ、靖康の変において欽宗・徽宗を 北方へ連れ去られたが、欽宗の弟である趙構が南遷して杭州で 皇帝を宣言し、
金に奪われなかった淮河以南の地を確保して宋を再興し、これ以降は南宋と呼ばれるようになった。
35 :
110:2005/07/16(土) 12:32:49 0
36 :
世界@名無史さん:2005/07/16(土) 12:39:33 0
中国では異色な馮道の乱世での処世哲学とそれに対する反発が
宋の基調低音を作った可能性もある・・などという自分なりの妄想を
付け加えたりすると、喜んでくれる人もあるかも知れないw
馮道より高校の教科書でも出てくるような澶淵の盟を先に書け。
38 :
世界@名無史さん:2005/07/16(土) 15:40:47 0
>>34 >>11のキーワードちゃんとググったか?
A4用紙1枚では収まらずに、何を削るか苦労するはずだぞ。
>中国の南朝における五代十国
五代十国を南朝とはいわないのです。「中国の五代十国」で十分です。
>「征服王朝」
征服王朝という概念そのものが現在問題になっているのですが、
大学のレポートであれば、まああんまりこだわらずともよいでしょ。
>馮道
礪波護『馮道』中公文庫がいい参考文献になりますよ。
>宋の軍事力は振るわず、燕雲十六州の回復は果たせなかった。そしてその後晋も2代10年で滅び〜
時系列が変。
征服王朝に「ウィットフォーゲルが提唱した概念」と注釈を(ry
42 :
1:2005/07/19(火) 02:24:44 0
みなさんのご指摘を受け、少しだけ直してみましたが長さは変わっていません・・・
400字付け足すとして、例文を載せていただけるとうれしいです。
中国における五代十国の時代、南朝の第3代目の王国「後晋」建国の際、石敬瑭は契丹の援助を受けた。
その歳契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(現在の北京である燕州・現在の大同である雲州)を
中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲した。
そしてその後晋も2代10年で滅び、モンゴル系の契丹族の遼の支配下に入るようになった。
そして 以前の北魏に代表される「浸透王朝」とは性格を異にする、「征服王朝」とよばれる王朝が成立した。
その後の「金」、元、清も征服王朝である。
燕雲十六州の回復は五代の混乱を収拾して中国を統一した宋(北宋)の 国是となったが、宋の太宗以来
の過剰な文官優位の政治によって、宋の軍事力は振るわず、燕雲十六州の回復は果たせなかった。
遼とは916〜1125年に満州や中国北部を支配した国であり、渤海をほろぼした後、唐の滅亡に乗じて
華北にも進入した。契丹文字をつくるなど民族の独自性をたもつようにしながら,領土内の農耕民の社会にあわせた支配をした。
その後宋は、遼末期の混乱に乗じて、金と結び燕雲十六州を回復しようとしたものの、 逆に金との関係がこじれてしまった。
首都開封を落とされ、靖康の変において欽宗・徽宗を 北方へ連れ去られたが、欽宗の弟である趙構が南遷して杭州で皇帝を宣言し、
金に奪われなかった淮河以南の地を確保して宋を再興し、これ以降は南宋と呼ばれるようになった。
ちなみに参考文献は『五代と宋の興亡』講談社学術文庫 周藤 吉之 講談社
『遼史』 中国古典新書 島田 正郎 明徳出版社
ということにしてみました(´∀∩*)
ただ年表を文章にしただけの様であまり面白みが無いように思うけど…。
軍事力の振わない北宋がなぜ遼の圧迫を受けながらも存続できたのか、と言うところ
を書いてみるのもいいし、遼と金の関係と言うのにも踏み込んでみてもいいと思う。
文化面、経済面から考えると面白いかもよ。
>南朝の第3代目の王国「後晋」建国の際、
「南朝の」はいらない
45 :
1:2005/07/20(水) 15:42:48 0
最終的に出来たレポートでぅ(●´ェ`●)
中国における五代十国の時代、第3代目の王国「後晋」建国の際、石敬瑭は契丹の援助を受けた。その歳契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(現在の北京である燕州・現在の大同である雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲した。
そしてその後晋も2代10年で滅び、モンゴル系の契丹族の遼の支配下に入るようになった。そして 以前の北魏に代表される「浸透王朝」とは性格を異にする、「征服王朝」とよばれる王朝が成立した。その後の「金」、元、清も征服王朝である。
「征服王朝」とは在米独人東洋学者のウィットフォーゲルが提唱した概念である。
燕雲十六州の回復は五代の混乱を収拾して中国を統一した宋(北宋)の 国是となったが、宋の太宗以来の過剰な文官優位の政治によって、宋の軍事力は振るわず、燕雲十六州の回復は果たせなかった。
日本ではあまり知られていないが、この時代には馮道という人物がいる。彼は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。彼は「五朝八姓十一君」
(5つの王朝、8姓にわたる11人の皇帝)に仕え、宰相としての在任期間は20年に及ぶ。節度使出身である五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝達には農民に対する哀れみの心は少なく、時に暴走する皇帝を諌め続け、時の民衆に敬仰された。
後世、特に朱子学的見地からは売国奴、変節漢と呼ばれ、司馬光なども痛切に批判している。しかし一方で馮道は当時の人々には大いに尊敬され、また後世の歴史家の中でも馮道を弁護する者もいる。
46 :
1:2005/07/20(水) 15:44:05 0
遼とは916〜1125年に満州や中国北部を支配した国であり、渤海をほろぼした後、唐の滅亡に乗じて華北にも進入した。
契丹文字をつくるなど民族の独自性をたもつようにしながら,領土内の農耕民の社会にあわせた支配をした。
その後宋は、遼末期の混乱に乗じて、金と結び燕雲十六州を回復しようとしたものの、 逆に金との関係がこじれてしまった。
首都開封を落とされ、靖康の変において欽宗・徽宗を 北方へ連れ去られたが、欽宗の弟である趙構が南遷して
杭州で 皇帝を宣言し、金に奪われなかった淮河以南の地を確保して宋を再興し、これ以降は南宋と呼ばれるようになった。
『五代と宋の興亡』講談社学術文庫 周藤 吉之 講談社
『遼史』 中国古典新書 島田 正郎 明徳出版社
47 :
1/2:2005/07/20(水) 20:48:21 0
>>1 時系列的にはこうなる。
遼(りょう、916年−1125年)は、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)の王朝。
現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(遼太祖)が907年に契丹可汗位に
つき勢力を蓄え、916年天皇帝と称し年号を神冊と定めた。当時、中国本土は五代十国の分裂時代にあり、
遼太祖は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、東は渤海を滅ぼして、満州からモンゴル高原東部までに
及ぶ帝国を作り上げた。更に二代耶律徳光(太宗)は、五代第三代目の「後晋」建国に際して、華北の燕雲
十六州(現在の北京である燕州・現在の大同である雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)の
割譲を受け、渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼は
モンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と中国式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を
発展させ、最初の「征服王朝」と評価されている。
一方、中国本土においては、五代最後の後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(宋太祖)が、
後周の最後の皇帝から禅譲を受けて宋(そう、960年−1279年)を建国した。宋太祖の後を継いだのは弟の
趙匡義(趙光義/宋太宗)であるが、宋太宗は兄の事業を受け継いで中国の統一を果たし、燕雲十六州の
奪還を図り北伐軍を起こしたが失敗した。宋太祖・太宗は、唐が各地に節度使の割拠を許し、続く五代十国
時代の騒乱に至ったことに鑑み、各地の有力者の勢力を削ぐとともに、殿試を実施するなど科挙制度を
本格的に運用し始め、宋三代真宗(宋太宗の子)の代には名実ともに文臣官僚制が完成の域に達した。
このことは皇帝独裁権の確立をもたらしたが、同時に過度の文官優遇により軍事力の衰退をもたらした。
48 :
1/5:2005/07/20(水) 20:53:55 0
配分間違えた。。。
遼(りょう、916年−1125年)は、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)の王朝。現在の内モンゴル自治区の
東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(遼太祖)が907年に契丹可汗位につき勢力を蓄え、916年天皇帝と称し年号を神冊と
定めた。当時、中国本土は五代十国の分裂時代にあり、遼太祖は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、東は渤海を滅ぼして、
満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。更に二代耶律徳光(太宗)は、五代第三代目の「後晋」建国に際して、華北の
燕雲十六州(現在の北京である燕州・現在の大同である雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)の割譲を受け、渤海旧領と
あわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と中国式の
定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の「征服王朝」と評価されている。
49 :
2/5:2005/07/20(水) 20:55:32 0
一方、中国本土においては、五代最後の後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(宋太祖)が、後周の最後の皇帝から禅譲を
受けて宋(そう、960年−1279年)を建国した。宋太祖の後を継いだのは弟の趙匡義(趙光義/宋太宗)であるが、宋太宗は兄の事業を
受け継いで中国の統一を果たし、燕雲十六州の奪還を図り北伐軍を起こしたが失敗した。宋太祖・太宗は、唐が各地に節度使の割拠を許し、
続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、各地の有力者の勢力を削ぐとともに、殿試を実施するなど科挙制度を本格的に運用し始め、
宋三代真宗(宋太宗の子)の代には名実ともに文臣官僚制が完成の域に達した。このことは皇帝独裁権の確立をもたらしたが、同時に
過度の文官優遇により軍事力の衰退をもたらした。
50 :
3/5:2005/07/20(水) 20:56:58 0
遼六代聖宗は内部抗争を収めて中央集権を進め、1004年には宋へ遠征軍を送った。宋真宗は親征軍によりこれを迎え撃ち、宋を兄、
遼を弟とするものの、毎年絹20万匹・銀10万両の歳幣を宋から遼に送ることで和睦した(澶淵の盟)。これにより、遼と宋の間には
100年以上平和が保たれた。また、遼の侵攻と同時に、西のタングート族は西夏を称して宋に反旗を翻していたが、こちらにも財貨を
送ることで和睦した。つまり、宋は金で平和を買った訳でであるが、宋代の経済的・文化的繁栄にこの和約が果たした役割は大きい。
51 :
4/5:2005/07/20(水) 20:58:05 0
遼は、宋からの歳幣により経済力をつけ、西の西夏を服属させる事に成功し北アジアの最強国となった。同時に、豊かな財政を背景に
文化が高まり、中国や中国との通商路を西夏に閉塞された西域から様々な文物を取り入れて、その繁栄は頂点に達した。しかし一方では、
遼の貴族層が奢侈に流れるとともに強力な武力は失われていき、服属諸民族からは収奪に対する恨みを買っていた。
52 :
5/5:2005/07/20(水) 21:00:53 0
女真(ジュルチン)族は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の按出虎水(アルチュフ川)流域にあって遼に服属していた。しかし、遼の
過酷とも言える搾取を受け、完顔部出身の阿骨打(金太祖)が遼に反乱を起こし、1115年には按出虎水の河畔で自らの王朝(金:女真語で
アルチュフ)を建て遼に反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、これを見た宋は、1120年に金との間で遼を挟撃して
分割し宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束した(海上の盟)。しかし、宋の弱兵は燕京を攻略できず、金が燕京を陥れ宋に割譲し、
遼最後の皇帝天祚帝は燕京を放棄して西走した(1121年)。金太祖は1123年に死去するが、弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、
逃れていた天祚帝を捕らえ遼を完全に滅ぼし内モンゴルを支配した(1125年)。この時、一部の契丹人は王族耶律大石に率いられて中央アジアに
移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた。一方、燕京を手に入れた宋軍は、遼の残存勢力と手を結んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京を
割譲した金に対する背信行為を繰り返したので、これに怒った金太宗は、宋に侵攻して華北を席捲し首都開封を包囲した。宋では徽宗が退位し
欽宗が新たに即位して金の包囲に耐え、金も一旦和約して北に引き上げた(1126年)。金軍が去るとまたしても宋は背信して和約を破ろうと
したので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させ、皇帝・欽宗、上皇・徽宗ほか多数の皇族を北方に拉致して宋を滅ぼし、中国の北半を
征服した(靖康の変)。欽宗の弟である趙構は、南遷して杭州で皇帝を宣言し、金に奪われなかった淮河以南の地を確保して宋を再興した。
宋代は、靖康の変までを北宋(ほくそう、960年−1127年)、以後を南宋(なんそう、1127年−1279年)と呼び分けている。
53 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 01:09:23 0
徽宗は即位する前から芸術家で、
皇帝にはふさわしくないと周囲も分かっていただろうに
何で即位させるかね。
ただの皇族だったなら、偉大な画人のまま死ねたのに。
徽宗は、やる気はあったろう。
実際に文化事業はすごい。
即位前など、周りからは、馬鹿には見えなかったと思うけどな。
56 :
1:2005/08/12(金) 19:48:39 0
後期が始まったら、単位が取得できたかどうか報告しますね(●´ェ`●)
これを機会に宋に興味をもったんなら、何かネタ振りしてください。
宋関連の書籍でオススメなものありますか?
特に初心者向けのヤツ
宋限定じゃないけど、陳舜臣の中国の歴史
四巻(北宋)と五巻(南宋)がお勧め。
60 :
58:2005/08/12(金) 20:31:04 0
61 :
世界@名無史さん:2005/08/16(火) 12:59:23 0
徽宗の徽ってどういう意味なのでしょう?
62 :
漢和辞典によると:2005/08/16(火) 14:34:10 0
【徽】よい。美しい。よくする。善美にする。はたじるし。しるし。3本の縄。大綱。たばねる。むかばき。
書き替え字は【記】。
日常語の中での用例を引くと、「徽章」というものがあります。
議員バッチみたいなものの総称ですね。
64 :
世界@名無史さん:2005/08/16(火) 18:39:30 0
badgeの翻訳が徽章または記章なのだが。
65 :
世界@名無史さん:2005/08/16(火) 23:13:37 0
>>58 最新の講談社中国の歴史シリーズ(近藤さん担当巻)は、ちょっと初心者には
おすすめできないない。そこそこ知識つけてから読むといい。
66 :
58:2005/08/16(火) 23:54:05 0
>>65 今陳舜臣の中国の歴史全巻買ってきて1巻から読んでるところです。
講談社中国の歴史シリーズも前々から気になってたんですけど、
全体的に良書ですかね?
67 :
世界@名無史さん:2005/08/17(水) 00:10:15 0
>>66 読み物としてなら、旧シリーズはみなそこそこあたりだと思う。
最新の成果ならやはり刊行中の現シリーズだが、今のところ
私見ではオススメは三国時代・魏晋南北朝時代の2冊だけ。
>>67 唐や宋の巻はまだ読んでないんだが、ハズレなのか……。
69 :
世界@名無史さん:2005/08/17(水) 00:19:14 0
>>68 私見では、ね。
ただ、唐宋スレでもほとんど話題になっていないのはなぜだ。
(宋はスレ自体消えた?)
70 :
58:2005/08/17(水) 00:22:58 0
>>69 どこのスレでも見た限りそんなに話題になってなかったので
本屋に言っても買うか買わないか迷ってたんですよね。
71 :
世界@名無史さん:2005/08/17(水) 15:04:07 0
>>61-62 諡号は基本的に子が親に対してつけるのだから、余程のことがなければ、
悪いものはつけない。
周の幽王(幽は諡号で最低とされた)は子の平王と仲が悪かったし、
隋の煬帝は実質的に隋を滅ぼした唐によって付けられたもの。
逆に晋の献公のように、国を内乱状態に陥れても、子供からは「献」という
良い諡号を貰ってるのもいる。
72 :
世界@名無史さん:2005/08/17(水) 15:24:03 0
「煬帝」はあだ名。諡号は「明帝」。
73 :
世界@名無史さん:2005/08/17(水) 15:31:44 0
廟号で他の時代に見られないものに南宋の「度宗」「理宗」がある。
宋代は当時の政治(士太夫による)状況を反映した諡号がみられますね。
確か、理宗は理学(朱子学)を尊崇したためにつけられた諡号だったかと。
(度宗・たくそうは由来を知りません。済みません。)
年号でも、施政方針の表明と受け取れるものが見受けられます。
徽宗の「崇寧」(王安石新法時の年号、「熙寧」を尊ぶ意)とか、
理宗の「端平」(正しい法則=朱子学に従う)とか。
やはり、士太夫の発言力が高かったことが反映されているのでしょうか?
神宗があと10年生きれば新法が軌道に乗り、国力も回復して華北を失うこともなかったと考えて
いいですか?
>75
どうだろうね。
金の侵入を招いた一番の原因は、
童貫を中心にした外交政策の気がする。
蔡京が実権持ってたら、許さなかったと思う。
77 :
世界@名無史さん:2005/08/24(水) 21:10:27 0
78 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/08/24(水) 23:39:22 0
>>72 「煬帝」は渾名ではなく歴とした諡號です。「舊唐書」の「高祖本紀」の武徳元年
九月辛未の條に「隋の太上皇に追諡して煬帝と爲す」とあります。また「明帝」は
東都に留守していた諸臣が擁立した越王楊侗が上った諡號で、廟號は「世祖」です。
これは「隋書」の「元徳太子傳」に出ています。
79 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 20:24:09 0
田中芳樹って、あんまり読んだことないけど、
肌があわなそうな感じだった。
歴史を尊重するわけでもなく、
物語として面白いわけでもなく。
81 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 22:53:57 0
読んだことないから分からん。
82 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/08/27(土) 14:49:39 0
>>79 梁紅玉の実在性についてカキコしときましたよ。
83 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/08/29(月) 22:08:01 0
>>78 なお竇建コも王世充が越王楊侗を弑した後に、煬帝に「閔帝」と追諡しています。
84 :
世界@名無史さん:2005/08/30(火) 17:22:42 0
移転してるから、駄目じゃん
欽宗の日記が残存していたら是非読んで見たい物だ。
欽宗、かわいそうっす。
「なんでだよお」ってずっと思ってただろうな。
「大宋宣和遺事」を読んでください、どこまで史実か不明ですが拉致されてから崩御まで
詳しく書かれてて、すっごくカワイソですよ。
89 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/05(月) 13:04:31 0
>>78 今ちょっと想い出したんだけど、「煬」という諡號をもらった君主としては、金の
完顔亮がいます。世宗のときに「海陵郡王」に降封され「煬」と追諡されています。
更に後には王爵も追奪され「海陵庶人」とされてしまいました。
山東を拠点に暴れまわっていた山賊を中心にした軍隊を派遣してれば勝ってた
リアル水滸伝しても本物の遼や金には普通に刃がたたんだろ
山賊じゃないけど、岳飛や韓世忠の義勇軍の中には
いわゆるアウトロー階層が結構いたそうだ。
岳飛自体、入れ墨してなかったっけ。
それで思い出したが、五代史は無頼に対してあまりいいイメージで描いていないが、
なぜか宋史になると「あれくらい荒っぽい方がええぞ」(要約)と書かれてあったりする。
五代と宋代は戦乱と平和で対比されやすいですからねぇ
北宋もそれなりに戦争や紛争はあるのですが…
95 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/08(木) 00:57:03 0
>>93 秦檜が岳飛を捕らえて鞠問した際に岳飛は裳を破って問者に背を示したところ、
肌に食い込むように「盡忠報國」の四大字が刺されていたと「宋史」の本傳に見えます。
宋は、中国史の中では異例に、入墨がタブーではなくて、
岳飛と同じような入墨をしている武将は珍しくなかったとか。
97 :
世界@名無史さん:2005/09/08(木) 16:25:59 O
楊業は最強だよな!?
そのうち額に誓殺金賊と刺青して北朝鮮に行ってこようかと思う
尽忠報国って、日本の幕末にも流行った言葉ですよね?
なので、尊皇攘夷って言葉も、もしかして岳飛活躍の頃が語源なのかな?
とかも思ったんだけど、違いますよね?
>99
言葉の語源はどうなんだろうね。
思想的には、遼や金に圧迫されてた、北宋・南宋時代に
強く出てきた主張ではあると思うが。
で、明滅亡で明からの亡命者を通じて江戸期の日本に伝わって、
日本の尊王思想が生まれたと・・・。
日本は尊王思想が昔から強いように思われがちだが、
実は江戸期に深化したんだよね。
江戸以前に尊王で天皇に殉じた日本人は、
強いてあげれば楠正成くらいで、あんまりいない。
101 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 17:22:36 0
>>90 梁山泊のモデルのひとつが太行山あたりを拠点に金軍と戦ってたアウトロー集団だとか。
村上正二「モンゴル帝国史研究」に「附篇 宋・金抗争期における太行の義士」というのが載ってる。
宋代は一般的には侠客はあまり盛んとは言えない。
ただ、宋史によれば、王倫、李彦仙とかいうのが
開封陥落のおり、活躍したとか。
この王倫は水滸伝のとは違うんだけど。
史斌≒史進だったっけ
で、将軍宋江と賊徒宋江は同一人物なのか・・・
104 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 20:29:16 O
らしいね
105 :
世界@名無史さん:2005/09/13(火) 10:12:54 0
>>93 >>95 その入墨をしたのは岳飛のおっかさんだとか((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
106 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/13(火) 12:12:52 0
>>103 王倫と李彦仙はずいぶん行動が違いますね。前者は金との講和に尽力したのに対し
後者は金に対して徹底抗戦した人物です。ただ2人とも若いころは市井無頼の徒で
アウトローから出て国事に尽瘁した点は共通してますが、侠客とまで言えるかどうか?
なお宋代には王倫が3人います。講和派の王倫は秦檜の素地を準備したような形で
当時の士人のウケはあまりよくなく「奸人」と目されていました。その辺が「水滸傳」の
登場人物としての王倫のマイナスイメージに反映してるのかもしれません。今一人の
王倫は仁宗の時に軍卒から反乱を起こして山東から淮南に寇して暴れた末、范仲淹に
捉えられています。こっちも「水滸傳」に影響した可能性が大です。
107 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/13(火) 12:14:27 0
記憶してるところだと、宋史でも王倫はあまりいい風には描かれてなかったような。
でも登場シーンは鮮烈だった。たしか靖康の変で趙構の馬車が都から脱出できなくて
往生していたところ、王倫が人混みを排することで事なきを得た。その手柄として自推
した兵部待郎となって官界デビューしたんじゃなかったかな。
109 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/13(火) 21:25:52 0
高宗ではなく欽宗ですね。「宋史」の本傳に「汴京の守を失ふや欽宗は宣コ門に御す、
都人は喧呼して已まず、倫は勢に乘じ徑ちに御前に造(いた)りて曰く『臣は能く之を
彈壓せん』と、欽宗は佩ぶ所の夏國の寶劍を解きて以て賜ふ、倫は曰く、『臣は未だ
官を有せず、豈に能く彈壓せんや』と、遂に自ら其の才を薦む、欽宗は片紙を取りて
書して曰く、『王倫は兵部侍郎に除す可し』と、倫は樓を下り惡少數人を挾さみ、旨を
傳へて撫定す、都人は乃はち息む」とあります。
110 :
世界@名無史さん:2005/09/14(水) 00:56:46 0
>>101 古いバージョンでは実際に梁山泊じゃなくて太行山に集まるのもあるらしいね>水滸伝
112 :
世界@名無史さん:2005/09/16(金) 23:55:28 0
宋の地方官は、街に盗賊が襲ってくると宴会でもてなして
金品を与えて帰したりしてたらしい。
113 :
世界@名無史さん:2005/09/17(土) 00:01:27 0
刺青将軍といえば狄青!
兵卒は入墨されたんだよね、確か?
お〜い、
>>1さんよ〜。そろそろ、後期が始まるころだと思うが、単位は取れたのかい?
115 :
世界@名無史さん:2005/09/17(土) 12:35:59 0
116 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/20(火) 18:36:43 0
>>111 諡法には「煬」に「内を好み禮に遠ざかる」と「禮を去り衆を遠ざける」と二解を示しています。
宋の煬公はどちらに該当するのか?「史記」の「宋微子世家」によると彼は先代の湣公の弟ですが
兄を嗣いで宋公の位に就いたところ、湣公の庶子が自分こそ正統の相続者だと主張し、煬公を
弑して自立したとされています。兄が死亡した場合に弟に及ぶというのが殷家の禮ですが、周は
父子直系で継いでゆくのが基本ですので、煬公を弑した詞は自己に有利にこれを解し自立を
敢行したものでしょう。そして正当性を補強するため「禮を去った」者として煬公に諡したのかと
推定されます。
周初に「煬公」と諡された諸侯には魯の3代目がいます。この人について「魯周公世家」には僅かに
事跡として「築茅闕門」としか伝えていません。裴駰の「史記集解」には徐廣の説として「茅」の字は
「第」が正しいとしています。そうすると「邸を造ったが門を構えなかった」ということになって、
これが禮制に合しなかったとして煬公と諡されてしまったのでしょうか?どうも不明確です。
117 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/20(火) 18:39:41 0
春秋戦國時代には「煬」という諡例が見当たりませんが漢代に入ると大発生します。「史記」では
「高祖功臣侯者年表」と「建元以來侯者年表」、「漢書」で「諸侯王表」「王子侯表」「高惠高后文功臣表」
「景武昭宣元成功臣表」「外戚恩澤侯表」などを検すると、実に三十二人の王侯が「煬」という諡号を
贈られています。その理由については殆どの人が今一つ事跡がはっきりしないので不明ですが、
中で東平王の劉雲については「漢書」の「息夫躬傳」と「宣元六王傳」によると、彼は宣帝の孫ですが
瓠山という山の大岩が転がって起立するという奇現象があり、この石のレプリカを造って王后と
日夜祠祭していたのが、あたかも哀帝の病中で東平王が非望の呪詛を行っていたと讒言されて、
廃して房陵に徙す旨の詔書を受けて自殺しています。この行状のどの点が「煬」に該当するのかは
必ずしも明らかではありません。彼の先代の劉宇は元帝の喪中に拘らず飲酒食肉するのみならず
妻妾は側を離れずという有様で、しかも不敬不穏の言辞を憚らず「内を好み禮に遠ざかる」の要件に
恰当する人物ですが、「思王」と贈諡されています。彼は天子から不行跡を責められ反省したフリを
装い処分を免れているので、これが「外内思索し前過を追悔す」という「思」の諡解に対応するものと
認定されたものかと考えられます。
これ以外の事例については想像するに生計が満ち足りていて検束されることの無い日常を送り、
しかも取組むべき仕事も見当たらないとなると、ふしだらな生活に走ってしまい目に余る行状が
朝廷に聞こえてしまったのでしょう。
118 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/20(火) 22:25:12 0
後漢では光武帝の兄の齊王劉縯の孫の劉石が「煬王」と諡されてますが、「後漢書」の「宗室四王傳」は
全く彼の事跡を述べていませんので得諡の事情は不明です。これ以後では梁の武帝の弟の安成王の
蕭秀の子の蕭機は「梁書」の「太祖五王傳」によると頗る優れた資質を有した人物のように思われますが、
「士子を遠ざけ小人を近づけ、州(湘州刺史)を爲(おさ)むるや意を聚斂に專らにして治績無し」とあり、
葬るに当り有司に諡を請われた武帝は「王は內を好み政を怠たる、諡して煬と曰ふ可し」と詔したので
「煬王」に決まったそうです。梁では王侯ではない人で「煬」の諡を得た珍しい事例があります。王導の
六世の裔で宋・齊・梁の三朝に歴仕した王亮で、彼は武帝の天監中に左光祿大夫・侍中の要職に在る身で
元日の朝賀を仮病を構えて欠席しながら別の場所で宴会をしたことがバレて、大不敬に当るとされて
棄市に論ぜられ爵を削られ庶人に降されてしまいました。その後に尚書左丞の范縝が武帝に向かって
彼を弁護したところ武帝は頗る不機嫌で、璽書を范縝に与えて十條に亘ってこれを反駁しましたので
王亮は屏居謹慎していました。数年後には起復されて
中書監・散騎常侍に至ったところで薨去しました。
そして諡して「煬子」とされましたが彼は前に豫寧公に封ぜられていますので、公爵から子爵に降して
贈諡したものでしょう。上記の璽書に彼の生平を述べた中に「女樂は房に盈つ」とあって「好内」の例と
評価されたものでしょう。次に北朝では周の文帝の第五子で齊王に封ぜられた宇文の場合は、「周書」の
本傳によると、北齊の討滅に大功があり格別の失徳もなかったのですが、宣帝が即位して彼の威望が
忌憚されることとなり騙し討ちのように殺され、「煬王」と諡されていますが対応する事跡は恐らくは
適当に作為されたことでしょう。
119 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/20(火) 22:31:36 0
訂正
11行目と12行目は一連
齊王に封ぜられた宇文の > 齊王に封ぜられた宇文憲の
120 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/20(火) 22:38:34 0
また訂正
王は內を好み政を怠たる > 王は内を好み政を怠たる
121 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/27(火) 21:29:36 ID:0
北魏にも「煬帝」という君主が存在しました。「魏書」の「序紀」に拓跋族の初期君長の事跡が記述され
全て皇帝として諡号が載っていますが、かなり後代に追上されたものと思われます。歴代の事跡も
「古事記」みたいな感じで極めて曖昧です。拓跋猗盧が晉の愍帝から代王に封ぜられ強盛だったのが、
長子の六脩に殺されてから拓跋部は内紛が続き、四代目の代王を嗣いだ紇那は猗盧の兄の子ですが、
猗盧の弟の孫の翳槐と争い二度も他部に亡命しています。結局は慕容部(前燕)に身を寄せて消息を
絶っています。この紇那には「煬皇帝」と追諡されていますが、彼の事跡からは諡号に対応する点は
窺えません。
南朝では陳の後主の陳叔寶が隋に降って洛陽で薨じた後に長城縣公に追封され「煬」と諡されています。
彼の場合は酒色に耽って政務を怠り亡国に至ったもので、この諡号に最も相応した人物です。
122 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 01:24:50 0
読みはやはり同じ「ようだい」?
煬帝は悪帝だったから「ようてい」ではなく「ようだい」と読むというのはガセビア。
というのはここのスレ住人なら知っているか……。
124 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/10/14(金) 12:12:55 0
隋の「やうだい」は歴史的な慣用によって特化された読み方なので、他の方々は
普通にヨーテーと呼んで宜しいのでは。
125 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/10/14(金) 14:22:06 0
平安時代の物語文学では「先帝」を「せんだい」と読ませるのが通例でした。
「源氏物語」の「桐壺」の巻の藤壺の入内のところに「先帝の四の宮の御容貌(おほんかたち)
すぐれたまへる聞こえ高くおはします」
「大鏡」の左大臣師尹の事跡を述べる条に「延喜とは醍醐の先帝、天暦とは村上の先帝の
御ことなり」
「増鏡」の「春のわかれ」に「宮は先帝の御代はりにも、いかで心の限り仕かうまつらんと」
また「常の行啓のさまにて、先帝の御座(おは)しましし北白河殿へぞ入れ奉らせ給ひぬる」
「榮花物語」では「醍醐の先帝の御時は古今二十巻選りととのへさせ給ひて」
これらはいずれも先帝を「せんだい」と呉音で読ませています。
この延長に「やうだい」があるわけです。
126 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 15:04:09 0
あ や め 、 う ぜ え え え え え え え
127 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 15:13:03 0
128 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 15:40:03 0
>>124-125 煬帝だけ「だい」という呉音読みが残ったのは
聖徳太子のせいですかね。
「日出国の天子、日没する国の天子に白す。恙なきや」云々という
例の国書を読んでムカついたエピソードのためだけに
「やうだい(ようだい)」という古い読み方が慣習として残ったというのは
歴史の皮肉というか何というか……。
ずっと「ようだい」って読みに疑問だったけど、そういう事なんね。
130 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 23:32:12 0
宋学ってすごいの?
帝釈天
132 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 00:43:41 0
>>130 うん。凄い。
日本の古学派や清朝考証学派などからは
老荘や道鏡・仏教のパクリなどと言われる宋学(特に朱子学)だが、
古くは漢代からの経学や宇宙論、新しくは儒・仏・道といった
当時の中国のメジャーな思想の集大成であり、
その後の東アジアの文化や思想に対しても良くも悪くも絶大な影響を与えた。
133 :
ぬ:2005/10/15(土) 20:35:36 0
宋(特に文化史・社会史)についてレポートを書いていきたいんですが、
どういう事がオススメですか??できるだけ濃い内容にしたいので詳しく教えてください。
お願いしますm(_ _)m
134 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 21:32:18 0
水滸伝
135 :
ぬ:2005/10/15(土) 23:24:43 0
水滸伝のどういうことを書けばいいのでしょうか?
水滸伝は、明末の形成だから、文化史のレポートとして
内容を取り上げるのは難しいのでは。
参考文献はけっこうあるから図書館で読めば浮かぶでしょ。
清明上河図なんか、眺めてるだけで、「清明上河図を読む」以外の視点が
いっぱい浮かんでくると思う。
137 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/10/16(日) 00:49:16 0
どういうとこに提出するレポ?高校から大学院まで宋の歴史おしえてますしね。
人肉饅頭。
南画でも描いて提出したら? 塗料だけで一財産。
139 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 01:22:24 0
高校レベルで宋のレポートなんか書かせるかよ、アホかw
案外、一般社会の常識はないな、あやめはw
食いついたところを見ると、偉そうにアドバイスするつもりなんだろうがw
べつにあやめを擁護するつもりじゃないが、
普通にレポート書くぞ? 宋なんてかなりメジャーだし。
宋の社会史なら、個人的には宋代に需要が急増した茶や紙を主題に
してみたらどうだろう、と思う。
特に紙の方は、唐代は厚いものが好まれていたのが、宋代になると
薄くて白いものへと嗜好が極端に変化してたりする。
なぜそうなったかを調べるだけでも、かなりの枚数を稼げるのでは?
茶か、いいね。文献もあるしな。
紙か。出版なんかもどうだ?
印刷による出版が社会的に広まったのは世界史的にも意義あるのでは。
学校とか塾もおもしろい。
中華料理とかも。
宋は中華料理の大きな転換点。
石炭を熱源に使うことによって強い火力が確保できたとか、いろいろ書き出がある。
あと、床座(名前は忘れた。違うかも)から椅子座への変化とか。
庶民も椅子に座ることが普及した。
日本との絡みで「然や栄西とか。
145 :
ぬ:2005/10/16(日) 11:42:27 0
ありがとうございます。
一応、大学の東洋史概説のレポートです。
146 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 11:44:51 0
宋は当時、世界全体のGDPの5割を一国で占める超大国だった。
清も最盛期には世界GDPの3分の1を占めていたそうだ。
>>143 石炭燃料の普及で、薪としての森林資源の枯渇に
ブレーキをかけたことも大きいよね。
148 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 15:18:42 0
149 :
ぬ:2005/10/16(日) 16:15:39 0
>>148 あ、それも俺のレスですよ。
別の講義(中国社会論)でもレポートを出されてたので;
150 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 16:22:21 0
>>147 すでに宋代には、中原およびその周辺山地には
薪にするような森林はほぼ完全に枯渇していたんジャマイカ。
枯渇していたから石炭使用が広まったのであって
(そして石炭火力(火力は強いが長時間の調理には向かない)に適した
炒め物系の料理が発達した)
因果関係の順番が逆だよ。
「事故に遭ったのでブレーキを改良した」わけだ。
151 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 16:29:24 0
講談社中国の歴史の話が出ていたので・・・。素人目からすると秦・三国時代・唐・宋は歴史をなぞるだけで面白くないが、春秋戦国・明・清は面白い。現代は2冊に分けるべき!
152 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 17:18:30 0
153 :
ぬ:2005/10/16(日) 18:41:26 0
>>152 いや、一応読んだんですが、これだ!!っていう事柄がなかったので・・・orz
>これだ!!っていう事柄がなかったので・・・orz
中世から近世近代への曲がり角の時代なのに・・・ORZ
155 :
ぬ:2005/10/16(日) 22:49:13 0
>>154 すみません…
あ、でも
>>141さんの言ってる茶や紙については面白そうですね。
以前、日本の茶文化の講義で唐代と宋代の茶についても少しかじっていたので。
よかったら茶と紙について詳しく教えていただけませんか?
のびた君、のびた君。(AA略)
臨安は今でも水の質が悪い。
腐敗臭がする水を飲みやすくする香り付けの意味もあり
茶の飲用が庶民にまで広がったという説もある。
茶肆で飲ませていた当時のお茶は
抹茶タイプの蒸して挽いた粉状のものが主流。
宋代の初め頃は茶を匙でかき混ぜて供していたが、
北宋末期には竹製の茶筅が普及していた。
このように士大夫層以下の中流庶民レベルの文化が花開き始めてるあたり
154の指摘してる「中世から近世近代への曲がり角の時代」の一証左ともいえる。
158 :
世界@名無史さん:2005/10/17(月) 02:57:03 O
宋代の上は皇帝、下は賤民までの、生活や衣服などが詳しく載ってある本知りませんか?
杭州は確か太湖から水を引いてたんだっけか。
それでも水の需要がおっつかず、水売りが繁盛したそうだが。
内陸の洛陽なんかも多くの水売りがいたとのことだけど…。
>160
開封だって、金水河が整備されたってことは、
飲料水の状況がひどいものだったからこそだと思う。
金水河は、偉い人ようだったと思うから、庶民は悲惨だったのでは。
161 :
ぬ:2005/10/18(火) 01:24:17 0
茶や紙について詳しく書かれてる本やホームページを知ってる方いませんか??
探してみたんですが、なかなか見つからなくて…orz
>161
資料探しとか、資料の検討とか、一番楽しい作業なのに。OTZ
茶については、あまたあります。
入手しやすい入門書レベルでは、
NHKbooks「中国茶・五感の世界 その歴史と文化」
をまずどうぞ。
163 :
ぬ:2005/10/19(水) 02:53:35 0
>>162 ありがとうございます。時間があまりないものですみませんm(__)m
もしよかったら宋代の「紙」について本とかも教えていただけますか??
「宋版」も面白いとおもう
晋は腐っても一目置かれていたのに、宋は舐められまくりだな。
宋は、政治史としては、士大夫が論争ばかりやってたり、
宰相が専横をきわめたりで、
女帝が出たり、政権が転覆するような大反乱などの
派手な事件がほとんどないから。
軍事力が弱い、皇帝に無能なのはいるがDQNは
いないのも派手さがない印象を与えるのかも。
外交的に押されっぱなしな印象もあるし。
思想史、社会文化史ではものすごく重要なんだけど。
167 :
ぬ:2005/10/20(木) 16:56:26 0
茶についての本は色々回った結果、結構見つかりました☆
でも紙についての本が見つかりません…orz どなたか教えてください…(泣)
168 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/10/20(木) 17:43:08 0
紙については
潘吉星著・佐藤武敏訳「中国製紙技術史」(平凡社刊)
蒋玄怡著「中国絵画材料史」(上海書画出版社刊)
といった本を探してみられては・・・、20年以上前の出版ですが。
169 :
ぬ:2005/10/21(金) 03:02:25 0
>>168 ありがとうございます。
早速探してみます。
170 :
名無し:2005/10/22(土) 17:08:29 0
全然見つからないんですが…orz
171 :
ぬ:2005/10/22(土) 17:09:36 0
つーかお前他人に頼りすぎ
173 :
ぬ:2005/10/24(月) 02:40:00 0
・・・確かにorz
自分1人の力じゃ無理なんで協力していただきたいんですけども、
そのように感じられてしまったらすみません・・・
>>166 そういや明は宋よりはるかに徹底した独裁国家だったから皇帝もヒマなんてないはずなのに自分自身を総兵官に任命してどこか冒険してるうちに事故死したDQN皇帝がいたな。
士大夫層がもう一がんばりして宋代に立憲君主制みたいなのができてれば…
新法の揺り返しで旧法党の庇護下、
大地主や富裕商人層の力が増し市民革命→立憲君主制に
…あの国じゃならねえよなあ。
176 :
世界@名無史さん:2005/10/24(月) 17:58:00 0
大地主や富裕商人層の力が増し貧富の差が一層激しくなり
各地で暴動が頻発。
旧法党と新法党の派閥争いは病硬膏に至って
その結果、北宋は滅亡。
儒教と保守主義に凝り固まった士大夫の頭じゃ
立憲君主制など思いつかん。
せいぜい開明専制君主がいい所だ。
>>174 25年間も紫禁城から外出しなかった元祖ヒッキーもいるしな。
178 :
世界@名無史さん:2005/10/25(火) 22:40:22 0
朱子学についてわかりやすく説明している定評ある概説書ってありますか?
『朱子学と陽明学』小島毅かな。
島田先生のよりは読みやすい鴨
180 :
ニコル:2005/10/27(木) 20:21:51 0
質問なんですが、「社会史」って具体的にどういう歴史のことをいうのでしょうか??文字からしてなんとなくは分かるんですが…イマイチ分かりませんorz どなたか教えてください。
できれば、例を挙げて教えていただければ嬉しいです。
しょぼい質問ですみません;;
単に社会全般の歴史を扱うと捉えればいいと思うが
何故、宋スレでそれを質問する?
182 :
ニコル:2005/10/27(木) 20:31:44 0
>>181 いえ、その社会ってのがよく分からないんですよorz
経済史とか文化史とか政治史とかは分かるんですが・・・
宋が好きだからですw
185 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 22:32:10 0
>>179 ありがとうございます。
さっそくチェックしてみます。
186 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 22:43:52 0
Fランク大の教えて厨がコテ変えて再登場か
187 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 09:59:46 0
, -−. .''' "" ´´  ̄i
r′::i,:.:.: : : : : : : : : :_|____
l,:::::::i,::::; ィ: : ̄ ̄: : : : : : : : .\
l,:::::::Y!:::::i : : : : : : : : : : : : : : /
l,::::::ll::::::::i. : : : : : : : : : : : : /
l,:::::||:::::::::i. : : : : : :__ /
l,::::||::::__;:: -‐''"´ _ン、 ___
__ _ >‐viシ′  ̄`_`ヽ '´-‐! ̄ ̄ ___
 ̄ ̄ __ 」 !リ ヾ! ーtェz、` i ,zッォ ̄ ̄
 ̄ ̄ ヽ ミ ` " , ヽ'' ゛!
}、l! .イ_,、_ノノ !
∧,`|i、 ,ィシ''゙_゙'ミュ /
__ ∧ ヾ ミ:、 !'゙´ ̄_ ̄l}′
_,.、-''"´ ヽ ヽ ヾ、`ミ=、 _,ィ、,,_,,ィソ/7 ̄!`''ー- 、
, '´ i ヽ ヽ ヾ、 __ミミミ:ツソリ'/ / ヽ `ヽ、
i ! \ \\、 ミミミツツ ′/ ', i `ヽ、
l l \ ` ー`─ミミソ / i l , \
| | ` ー- __ヾ/‐´ | | i
あげ
宋は実在したか否か
190 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 20:35:35 0
191 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 22:17:02 0
徽宗・欽宗の幽囚時の残酷物語の詳細を教えてください
192 :
世界@名無史さん:2005/11/19(土) 19:33:30 0
保守
あやめはもう2ちゃんに復帰しないんじゃないか
山野krtあやめ・・・そのほか良コテはバカ名無しどもの跳梁に嫌気がさして
全て世界史板から退場してしまった
残ったのは荒涼とした風景と、朱やとてた等の低レベルこて・・・
194 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 22:38:51 0
ナポレオンがいるじゃないか
195 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 03:38:35 0
正直中国は宋までだな…
あとは没落するばかり
196 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 06:22:16 0
そうだね。
中国は、唐でDQNなことをやりつくして、宋でまともな方に動き出したと
思ったら、北方民族に蹂躙されて、どんどん変な方向にいってしまった。
198 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 11:55:37 0
というか、今の中共が曲りなりにも漢民族の政府になってるのがスゴス。
漢民族政権ってどれくらいだろう。
199 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 11:55:57 0
どれくらいぶりだろう。
でも、漢民族って、人口の90%くらいいるんじゃなかったっけ?
どんな自治区に行っても最大多数は漢民族。
ぼうふらのように増えて、中国という池を占拠してるわけだ。
他民族が漢化しただけだと思う。
このままいけばチベットの人もいずれ漢民族になるかもしれない。
まるでボーグだ。
202 :
世界@名無史さん:2005/11/24(木) 00:12:16 0
もうそろそろ「宋刑統」の鶏姦罪の規定について・・・・
というモーホー野郎が沸いてきそうだなw
203 :
世界@名無史さん:2005/11/27(日) 04:40:32 0
宋江は宮崎市定の言ってた通り2人存在したか否か
>>200 チベット自治区はチベット人90%以上。アムド(青海省)やカム(四川省西部)を
入れると漢族と半々に。
>>198,
>>199 宋→漢
南宋→漢・金→女真
元→モンゴル
明→漢
清→満州(女真)
中華民国→漢
中華人民共和国→漢
半分ぐらいは漢ですかね。
206 :
世界@名無史さん:2005/11/27(日) 21:09:15 0
「漢」とかいて「おとこ」と読むくらいだからな
>206
すまん。笑うところ?
208 :
世界@名無史さん:2005/11/29(火) 13:18:26 0
>>201 公羊伝の三世だな。
文化が中華王朝の系統であれば
どの民族であろうと中華民族・漢民族
>>206 >>207 「漢」が「タフな男」を意味するようになったのは、やっぱり遊侠が流行った時代だからなのかな?
もとの意味は天の川で全然関係ないけど。
大食漢、好漢などなど やっぱり男を意味するからなぁ
それに中国語で「漢子」は「男」と訳すし
213 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 12:30:23 0
単なる男子という意味ではなく、マッチョとかガイというニュアンスで用いられていた>漢
214 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 13:56:43 0
日本語だったら「野郎」という感じかな>漢
痴漢、悪漢、卑劣漢なんていう否定的な言葉もあるし。
>210
遊侠がいつ隆盛だった?
宋はそれほどでもないでしょ。
隋唐までじゃないかな。
216 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 15:13:40 0
age
>>215 まさに前漢の事を指して言ったつもりだったのですが…
>217
そうか。すまん。
宋スレだから、宋なのかと思うら。
219 :
世界@名無史さん:2006/01/03(火) 02:02:43 0
まあ普通はそう思うよな。
220 :
世界@名無史さん:2006/01/04(水) 15:44:24 0
221 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 14:01:46 0
すげえ!
222 :
世界@名無史さん:2006/01/21(土) 15:21:02 0
保守!!!
ぶっちゃけ岳飛が強いっても戦争を仕掛けたら負けてたんでしょう?
224 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 03:40:48 0
南宋末期で最も優秀だったのは賈似道だと思う。
ぶっちゃけ、文天祥ら南宋三傑は最後のおまけでしかない。
って、誰かが言っていたんですがまじすか?
ある意味まちがってない気もする
226 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 12:00:58 0
文天祥って今の中国では人気あんの?
そもそも岳飛って強いのかいな。
228 :
世界@名無史さん:2006/01/23(月) 01:27:06 0
>>227 三百斤の弓を引くことができたといわれている。
現代風にいうと180キログラムの張力。
>228
フィクションじゃなくて?
230 :
世界@名無史さん:2006/01/24(火) 02:21:54 0
岳飛は優秀で、金との防衛ラインの意地くらいは出来たかもしれないが、そんなことは
誰も望んでいなかった可能性が高い。
億が一にも岳飛軍を倒せなければ、
秦カイ辺りに「こいつをなんとかしないと前の皇帝を送り返すぞ」とか言えば岳飛は終わりです
そこまで優秀だったら四の五の言わずに黄河、長城ラインまで押し戻せっつーの
逮捕抑留死亡でも岳飛子飼の部下はろくに反乱すらやりやがらねぇ>さほど人徳ないねぇ
岳飛の魅力はDQNさである
柴栄があと20年長生きしてたら、歴史はどう変わったかな?
不確定要素が多すぎてよくわからんけど。
234 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 11:09:36 0
>>228 イギリスのロングボウやモンゴル弓でも100キロいかない。
実戦でそんな弓を使ってたかどうかは怪しい。
235 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 11:31:29 0
>>233 在位20年目。
柴栄の強引な政治・軍事に対してどこぞの節度使がキレて、
とある寺院に宿泊中の柴栄と皇太子の寝込みを襲って殺害する。
趙匡胤が弔いの挙兵をしてその節度使を倒し、
そのあと推されて皇帝に即位。
ってどこかで聞いた経緯・・・
236 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 14:07:01 0
その節度使の名前は明智で、管轄は日州かね
>>236 では、現代に蘇った趙匡胤はホテル経営で財を成し、神奈川11区から立候補?
なんとなく酒がうまそうだしちょっと寝坊しても
チェックアウト大目に見てくれそうなホテルだな
239 :
世界@名無史さん:2006/02/06(月) 07:59:21 0
とりあえず保守
240 :
世界@名無史さん:2006/02/06(月) 22:37:14 0
勝海舟のおやじの友人の平山行蔵は岳飛に影響を受けて
「罪人に赤心報国の焼印を押して蝦夷地に送るべし」
と主張していたそうだ。
赤新報国は、罪人にふさわしい言葉と考えてたのか。剣道馬鹿だな。
冗談だよ。
>>240 >「罪人に赤心報国の焼印を押して蝦夷地に送るべし」
ナチス並の凶悪な差別だな(w
再犯ごとにノ→人’→犬 に入墨されるのって何藩だっけ?
244 :
世界@名無史さん:2006/03/17(金) 22:33:56 0
そうか。
そうそう
246 :
世界@名無史さん:2006/03/29(水) 20:25:36 0
そうだったんだ
247 :
世界@名無史さん:2006/03/30(木) 10:35:47 0
-=-::.
/ \:\
.| 池田犬作 ミ:::|
ミ|_≡=、´ `, ≡=_、 |;/
||..● .| ̄|. ● |─/ヽ
|ヽ二/ \二/ ∂> / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/. ハ - −ハ |_/ <
>>244、呼んだか?
| ヽ/ヽ/\_ノ / | \________
. \、 ヽ二二/ヽ / /
. \i ___ /_/
石刻遺訓の士大夫の言論保障は、宋代通じて守らせたという点で画期的かもしれないけど、
個人レベルだと魏の明帝とかいるしそう珍しいわけでないのね
249 :
世界@名無史さん:2006/04/17(月) 23:53:03 0
そうなのか
250 :
世界@名無史さん:2006/05/04(木) 16:30:24 0
とりあえず保守
251 :
世界@名無史さん:2006/05/06(土) 02:10:00 0
結局スレ主は立て逃げか・・・・・
>>21の発言は嘘だったんだな
252 :
世界@名無史さん:2006/05/22(月) 15:20:04 0
宋も意外と人気ないんだな
歴代皇帝は概ねまとも過ぎて派手なエピソードも少ないし
とにかく地味な王朝だもん。明みたいにギャグの域に達した暗君だらけとかならともかく。
英宗が仁宗崩御の時「私には無理だ」と叫びながら
即位を迫る官僚たちから逃げ回った話とかは親近感持てるけどね。
官僚や宦官たちが英宗を捕まえて無理矢理皇帝の御衣を着せようとしたとか。
254 :
世界@名無史さん:2006/05/22(月) 17:57:26 0
対外的にも遼・西夏・金・モンゴルに圧迫され続けたし
中華歴代王朝の中でも不人気な時代だし>宋
それに皇帝も太祖と徽宗以外、逸話に彩られた人物も不在。
名将も尚文卑武の法則と、中央からの圧迫で大抵、不遇の内に終わる。
文化的には重要な時代なんだけどね。
255 :
世界@名無史さん:2006/05/22(月) 18:02:00 0
仁宗は皇帝の弟の子として育てられたとか、お忍びに街に出歩いたとかいう伝説がなかったか?
お忍びで開封を出歩いて遊んだのは徽宗じゃなかったけ?
読書好きの太宗が太平御覧千巻を一日三巻の割合で読み続けて
一年で読破したエピソードが読書マニアとして好感が持てる話だ。
仁宗は慶暦の名臣等々で、物語になってる人だね。
包拯と狄青が仁宗を支える二柱。
僖宗の話は水滸伝が主なんじゃないの。
包拯と狄青が仁宗などこの辺の本よんでみたいな
包拯は少女漫画であるらしいが、さすがにそれは買おうと思わないが読んでみたい。
259 :
世界@名無史さん:2006/05/22(月) 19:44:08 0
楊家将演義の存在は知ってるんだけど、中国語読めないんだよな。
井上由美子氏の作品で名前だけ知ってるんだけどな。北方のやつはおもしろいのかな。
北方は確か途中までだったと思う。
三侠五義か。
そういえば、かのコーエーが邦訳したとかなんとか。
ゲームにも丁月華と白玉堂が出てきてた。
「楊家将演義」でも後半(?)でしょ。
あれって基本的に真宗の代がメインだと思った。
北方はなんか中途半端なんだよな
水滸伝も三国志もifすぎてついていけない。
それでも人気あるんだよなぁ。
包拯は後小説になってなかったっけ?
大岡裁きみたいなやつ
「楊家将」は、たしか六郎が生き残って、さぁ今から楊家の再興だ、ってところで終わったように記憶する。
だから木をきりに行って穆桂英と電撃結婚する話はなし。
つまり、メインがないってこと。
でも、耶律休哥は結構いいように書いてたと思う。
二階堂氏のHPに16回まであるね。
あれで全部完結?
>>254 >それに皇帝も太祖と徽宗以外、逸話に彩られた人物も不在。
澶淵の盟と天書事件があった真宗朝を逸話が無いと申すか。
>266 そんなわけない。 後半は例によって魔法合戦になってたはず。
六郎の子が主になってるから、楊業の孫の代かな?うろ覚えだけど。
16回はさすがに短いだろw
でも日本語でちゃんとしたのってあれぐらい?
二階堂氏の本は結構好だから、楊家将本でだしてほしいな。
呼延家将伝 飛龍記とかも読んでみたい
>呼延家将伝
へぇ、こんなのもあったんだ。
「飛龍記」は読んでみたいですね。かなりキャラ変わってると思いますが…
楊家将でも水滸伝でも、柴栄の子孫は出て、しかもけっこういい役なんですが、飛龍記でのご本人さまは
「陰険」だそうで… とほほ。
272 :
世界@名無史さん:2006/06/04(日) 21:44:06 0
保守しときましゅ
神宗が長生きして新法を後押しすれば北宋も苦しまずに済んだのに
274 :
世界@名無史さん:2006/06/04(日) 22:57:44 0
開封が落ちた後、金に連行された皇女とか後宮美女とか、どうなったか知りてえ。
>>274 後宮美女は金の諸侯王に奴婢として分配されたか
開放して実家に帰らせたかのどちらか。
皇女らは和約後に南宋に返還している。
276 :
世界@名無史さん:2006/06/08(木) 20:33:48 0
そう言えば、皇女で思い当たったんだけど、
この時代、厳密な貴族が居ない(士大夫は居たけど)時代で、
皇女ってどんな人と結婚してたんですか?
やはり官僚かな?
上の方ででてた楊家将演義というのを二階堂さんのところのやつを始めて読んだんだけど、
PHP文庫の宋名臣言行録しか呼んだことなかった俺には、ものすごくおもしろかった。
太宗は趙普の権力が面白くなかったとかそんな話しかのってなかったから、太宗と趙普は仲が悪いと思ってたし
太宗がどんな人物かよく知らないけど、こんな軽はずみの行動で淵平達はしんだの?(演義ならではの話?)
後、井上氏の小説で狄青は優れた将軍になったみただけど、PHPで狄青の話は一つだけしか出てこなかったけど本当に優れた人だったの?
最後にamazonでぐぐったんだけど宋名臣言行録って今は入手不可なんですね。
今、宋の面白い本などあれば教えてもらえませんか?
全部絶版で入手困難では?>宋名臣言行録
>>277 小説でよければ田中芳樹の
「紅塵」と「海嘯」
前者は南宋対金
後者は南宋対モンゴル(元)
南宋と北宋は違うしなぁ。
北宋のはないものかね。
>>278 みたいですね。今日探しに言ったら何処にも売ってなかった。
変わりに范仲淹の本をかってきた。
>>279 書いてなかったけど、それは読みました。
後岳飛伝も。田中氏独自設定が多い見たいだけど、海嘯は国家の興隆の話だから感動しました。
280さんと同じで南宋は田中氏の小説とかで名前は結構覚えたけど、北宋は本が少ないですね。
井上氏の狄青という人物が魅力的だったから、この人の本を読んでみたい。ググルト狄青演義というのもあるみたいだし、
中国語が読めない。独学で少し勉強してるけど、全然よめるきがしないし。
太祖と太宗の話をきかせてください。
やはり太宗が暗殺をしかけたの?
>>282 そう思われてもいい状況。
太宗はかなりダークなお方だね。弟のこともあるし。
人物としては太祖のほうが好感がもてていい。
>>281 桃花源奇譚は北宋の雰囲気を感じるにはいいかも。
包拯もでてくるけど、やっぱ三侠五義の翻訳か、もはや吹替え版包青天を放映するしかないかも
三侠五義って包拯とかでてくるんだ。
知らなかった。amazonとかでは絶版だけど、前に書店でみかけたから、まだ残ってたらうれしいな。
范仲淹読んだけど、すごく面白かった。
前に読んだ本が銭弘佐が一騎打ちで楊業をやぶったけど、これって田中氏のオリジナル?
それとも史実?
>284 一騎討ちの記述はないけど(そういう記述はごく稀だし)、楊業および蔡遇を捕縛していると記述されているので、一騎討ちとはいかずとも顔をあわせるくらい至近には対峙したかもしれない。
呉越が南唐に対し輝かしい軍事勝利をおさめているのはこのときで、あとは衰えた南唐にも負けてたりします。
そのときの呉越王は弟の銭俶だけど。
銭弘佐が長生きしていれば、かなりおもしろいことになっていただろうと思います。
>>283 桃花源奇譚、最近読んだんですが、狂言回し役で重要な登場人物の
「文星」には、該当する実在人物は存在するんでしょうか?
他の登場人物は、私みたいな中国史素人でも知ってるような有名人
ばっかりなのにと、気になって夜も(ry状態なんです。
>286 たとえば誰? はるか昔に読んだから、登場人物覚えてないや。
ちなみに、白玉堂、その小説では仁宗から「白」の姓をもらった殷玉堂は、三侠五義のうちの「五義」のひとり。
金毛鼠という美男子で、色っぽい話が多いおかた。
三侠も五義も、開放府尹の包拯の懐刀という感じ。しかし、「暴れん坊将軍」や「大岡越前」とかと一緒で、とりまきの実在を語るような性格のものではないよね。
288 :
286:2006/06/14(水) 20:10:45 0
桃花源奇譚 井上祐美子 中公文庫
今風に言うと歴史小説に範を取ったライトノベル? のことについてです。
文星は私の書き間違いで、小説中「文曲星」、姓名は包拯、字を希仁。
貴方が
>>283で
>包拯もでてくるけど、
と、書かれていますので実在の人物かと思ったのです。
>>288 ああ、包拯サマは間違いなく実在の人物です。若くして進士に及第し、仁宗皇帝の信任を得て、開封府の知事となった人。
肖像画は閻魔さまみたいな恐いヤツで、名裁判とあいまって「包青天」と呼ばれます。
TVドラマにもなってますが、吹替えなりしないとわけがわからない…
包拯は文曲星として文から、狄青は武曲星として武の方面から、慶暦の名君である仁宗を助ける、というのが伝説、というか物語であるのです。
実際、包拯は首都の知事として公明正大、狄青は西夏などとの戦いで勝利しているから、クローズアップされたのでしょう。
狄青に関しては、多少皮肉を交えますが、当時宋の軍隊というのは「宋兵弱卒」と呼ばれるくらい、敵対国からは軽くみられていました。
その理由はいろいろありますが、一面として文官が統率していたことに、要因があるのではないかと思います。
五代十国を経て、開祖趙匡胤は、軍権をおおきく分散し、その軍を動かす権限と軍を率いる権限とにわけ、皇帝にすべての権限を集中させる君主独裁体制を作ったのです。
ただし、皇帝がすべての戦いに率先して親征しませんから、結局軍隊を統率する指揮系統が分散していたのが、仁宗期の現状だったのじゃないかと。
前線で軍を指揮するのは武官ですが、司令官となるのは文官だったのです。
で、戦況思わしくない前線で、局地とはいえ勝利しつづける部隊があって、それが兵卒あがりの狄青率いる部隊だったわけです。
で、それを大きく見せるという政治的作為があったのじゃないかと、勘ぐったりしています。
このあたりは確たる論拠はないので、知ってる人がいたらご教示ねがいたいものです。
291 :
286:2006/06/14(水) 21:36:13 0
>>289 >>290 御両所、ご教示ありがとうございました。
対西夏戦、一兵卒から身を起こし最前線で奮闘した狄青、陝西路永興軍督知事
として彼と関わりのあるらしい名臣、范仲淹については存じております。
くだんの小説については、オカルト風味の登場人物を除き、ほぼ実在の人物が
いたことも存じておりました。
小説中では范仲淹を凌ぐ才能を持つ人物として書かれているように思いました
が、開封知事ならあながちオーバーな描写ではなかったわけですね。
292 :
世界@名無史さん:2006/06/14(水) 23:55:35 O
北宋は、節度使の軍閥化にたいするアンチテーゼであり、ひさかたぶりの漢民族王朝(純粋中華思想)であった、という視点がなければ無意味よ
隋唐ともに鮮卑系の浸透?王朝だったわけだし
なにがどう無意味なのか言ってくれなきゃ、言わんとしてることの真意をつかみかねます。
そもそも太祖が着手したのは、禁軍からの改変であり、節度使のほうはたしかに唐末五代の一番の問題でありましたが、後周成立後の有力節度使の反乱と有力者の粛清によって、とりあえず大きな波がたたなくなっていましたので、結構沈静化したようにみえます。
そこへ、殿前・侍衛両禁軍の改変で、中央強化策がすすめられたわけですよね。
太祖は、その強化策の一翼を担い自身もまた禁軍の司令官となって、かの擁立劇だったわけだから、禁軍のほうが太祖や新王朝にとってみれば恐い存在だったと思います。
「軍閥化のアンチテーゼ」って、北宋はそういうふうに捉えられているものなののですか?
強幹弱枝政策は言い換えればそうなるかもしれないけど、アンチテーゼというほどでもないような…
後周も漢民族王朝ということになってますが…
294 :
286:2006/06/15(木) 13:22:10 0
>>293さん
この手の春秋の筆法気取りで、どっかで聞いてきたような「無意味」なこと
書き連ねる(まぁ、長文書く能力無いだろうから短いがw)輩を相手にしてもね。
ご自身のためにも、スレ参加者のためにも、ならないように思いますよ。
>>286さん
293の文は292さんへの返答とかいうより、自分の中での確認みたいな意味で書いたので、チラシの裏としてスルーしてください。
上のほうで、太祖太宗の話を、とあったのでネタ振りにでも使ってくれれば、ここに参加する楽しみも沸いてこようというものです。
了解しました。生意気申し上げてすみません。
太宗については、後世の人気はともかくw 我が国の東照大権現様同様、
名君であったと思います。因みに太祖が豊国大明神だったかどうかは、
簒奪の可能性ありとは言いながら同姓の政権後継者を得ている以上、
ちょっと違うように考えています。
とりあえず、名無しに戻って自分ももう少し勉強したいと思います。
信長、秀吉、家康に比較、というかなぞらえますが、信長はともかく秀吉、家康はいつも疑問ではあります。
それぞれの果たした歴史的な役割を、もっと掘り下げる必要は(自分に)ありますね。
なんといっても、自国の英雄の果した役割より、中華の英雄のほうを知っているのですからw
信長=柴栄に関しては、もう厨かヲタかってくらいですが、太宗サマに至ってはほとんど興味ない状態。
本来、趙匡胤の「宋」はとりあえず中華本土と思われる領土の統一もならず、最有力政権なだけであり、後梁からつづく河南軍閥のひとつと考えられています。
ただ、その役割は大きく、柴栄の頃から(本来の淵源は後唐明宗まで遡りはしますが)皇帝権力の強化=軍の中央集権化を、完成させたことが挙げられます。
この辺、秀吉などと比べてどうなのでしょうね。
>もう厨かヲタかってくらいで
こんな単語つかって煽らなくても294といい、過疎スレでこんな単語つかわなくても別にいいだろうに・・・
楊家将演義で狄青が悪役になったりしてるんだよね、確か。
楊家将演義も実際読んでないから、実はよく知らないのだけど、狄青悪役というのは
楊家サイドのことだったっけね。
不運続きの楊家にくらべ、とんとん拍子で出世する狄青を嫌なヤツと位置づけしているとかなんとか。
狄青演義というのもあるらしいけど、それでは今度は逆になったりするの?
「万花楼演義」のことかな?
あるサイトからの引用で申し訳ないけど
>(楊家将伝と)パラレルワールド的な小説に《万花楼演義》(楊家将では仇役の狄青と、楊家の三代目・楊宗保と、包公こと包拯がガッチリチームを組んで西夏・李元昊を打ち負かすというお話)がある
そうです。
田中芳樹著「中国武将列伝(下)」の中で、その万花楼演義にちょこっとだけ触れているところがあり、それによると、狄青はどこかの名家の子息で孤児だ、という話らしいです。
ま、なんにしても魔法合戦せずに話しを作ってもらいたかったですね、この時代の物語は。
ありがとう。ほぉそういう話ですか。
昔、知り合いに少し聞いたことがあって、どんな話かなと思ってたんだけど。
この手の本って必ず魔法合戦に落ち着くんだ。
日本でこの手の本書いてくれる人が田中芳樹以外以内というのもさみしい。
絶版とかになってたら、復刊あたりを利用して投票したりするんだけどなぁ〜
三国演義が特別すぎるから。 ああいう軍記モノは三国演義だけだったはず。
他はなんか女子高生が異次元で冒険するようなのと、そう大差ないように思える…
そういうのも面白いんだけど、やっぱり違うと感じてしまう。
説岳全伝と通俗宋元軍談がお薦め。
そこから正史の宋史に入るのが常道だろうけど
宋史は個人別の列伝の多さでは歴代正史中一、二を争うほどの内容なので
軽い気持ちで読むと後悔する。
>>285 遅くなったけどレスありがとう。一騎打ちはやっぱないですか。
小説から入って無知な人間だけど銭弘佐の年齢の若さでなくなったのはすごく残念な気がします。
一度は五代史を読んでみたいです。
>説岳全伝と通俗宋元軍談がお薦め。
最近興味を持って本を読んでるものですが、
ぐぐってみましたが、中々この2冊は一般の人が入手するには難しいみたいですね。
春秋時代とかすきなんですが、それよりも宋は人が多そうですね。
通俗宋元軍談は田中芳樹の「海嘯」の参考にされた本だけど
蒙古の残虐行為が過大に描かれているので
清の乾隆年間に禁書扱いされたそうだが。
>>305 後周に仕えていた人物の幾人かがわかればいいレベルです自分は。
しかし、膨大な列伝の量は、おっしゃるとおり立ちくらみしそうになりますね。
>>306 五代史は宋史に比べると巻数少ないし、結構読みやすい(ように思える)からいいと思うけど、新旧五代史はあくまでも五王朝主体で、呉越や南唐、後蜀といった十国は簡素です。
十国春秋などで補完する必要があるでしょうが… 自分はもってません。
趙匡胤に関しては、誰か小説書くとかなんとか。
今の所、日本で趙匡胤を小説化したのは陳舜臣の「小説十八史略」くらいしか
思い当たらないな。
功臣の粛清を行わずに平和裏に兵権を皇帝側に移行させた事を肯定的に
書いていたけど。
趙匡胤は功臣の粛清はしなかった。
といいますが、趙匡胤時代は中華領域のほとんどを支配下におさめたとはいえ、いまだ統一事業真っ最中でしたから、ほんとうのところ建国の功臣というには早いのかもしれないですね。
なら、形だけでも統一に成功した弟・光義はどうかというと、粛清はしなかったものの、不遇に扱っています。
これができたのも、趙匡胤の軍権委譲政策あってのことでしょうが…
で、事績が編纂されたのが、この太宗のときで、かなりな修正加筆があったとみられ、書は太祖ではなく太宗を美化したそうです。
それでも、太祖が諸将に不満を与えることなく軍権を回収したことを伝えているところをみると、これは肯定的に受け取ってもいいのじゃないか、とおもいますね。
もし不満や失敗があるなら、それを太祖の責任大にして、太宗が鎮めたとかなんとか書いていても、そう不思議でない気がします。
311 :
世界@名無史さん:2006/07/04(火) 03:49:25 0
とりあえずage保守
312 :
世界@名無史さん:2006/07/04(火) 08:26:58 0
宮崎市貞は、趙匡胤を豊臣秀吉に、趙光義を徳川家康に比定しているけど、
私は趙光義を秀吉の弟・秀長に否定するほうがあっていると思う。
秀吉より前に死去し、天下も取ることなく脇役で終始しているのが決定的に
難点ではあるのだが。
俺も否定だな
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
315 :
世界@名無史さん:2006/07/18(火) 18:21:13 0
初めて北方の楊家将を呼んだんだが結構面白い。
上巻を一気に読めた。
北方の三國志・水滸伝を読んだんだがイfすぎる場面がたくさんあったんだけど、楊家将もかなりオリジナル小説なの?
市定
317 :
世界@名無史さん:2006/07/22(土) 10:25:42 0
ネットでは唐や晋とかの翻訳サイトしてるのをみるけど、宋の翻訳サイトとかってある?
318 :
世界@名無史さん:2006/07/22(土) 14:30:39 0
>>310 この軍権の回収ってのは、本当に凄いことだと思う。
特に東アジア世界では、あまり例がないだろうな。
そのころの軍権を掌握していた幹部が、趙匡胤のいわば義兄弟みたいなひとたちだった、というのも影響はあるかもしれないけど、ほんと類をみないことだと思う。
符彦卿や王彦超などの有力藩鎮連中の場合は、ちょっと事情は違うけど。
王彦超は結構、太祖の意を汲んでいる明察の人のようだし、彼が言うなら… という雰囲気もあったのかもしれない。
ようやく飛龍全伝みつけた
日本語で書いてても検索ページに引っかからないのかあるよな。
楊家将も全訳されてるところもあるし
邦訳ならよんでみたいな。
>322
いや、中華書局の
久しぶりに東方書店行ったら売ってたから買ってきた。
いいなぁ、読める人は。
ぜひとも感想を聞かせて欲しい。
326 :
世界@名無史さん:2006/08/01(火) 23:34:45 0
つかこうへいは読んだことあるんだが、
違うんだろうな。
初めて楊家将演義全部読んだけど、楊宗保以降もうめちゃくちゃだなw
なんか封神演義にちかい妖術の戦いばっかだな。
狄青も完全な悪役だし、一度ちゃんとした宋史を読んでみたい。
>>327 漢文はすらすら読めるんですか? だったら…
HP作って、宋史全訳を志す、とか!(死ぬって)
自分は五代史がらみの宋代好きだから、五代史から仁宗期くらいが気になるところ。
いやいや読めないよ。そんな学ないよ。
読めれば素敵だけど。
330 :
世界@名無史さん:2006/08/07(月) 16:14:05 0
最近はネットで訳をしてる人おおいが、唐とか晋の時代は結構ある
でも宋にてをつけてるのはいまだにみたことないな。
331 :
世界@名無史さん:2006/08/08(火) 21:18:20 0
はっきり言って、『宋史』の完訳は個人の手では絶対に無理。
プロジェクトチーム作ってもン十年かかると思う。
食貨志や選挙志は東洋文庫から訳注が出ているけど、注釈だけで物凄い分量になるし、
そもそも偉いセンセイがたもわからないらしく「逃げている」ところが散見される。
(例えば原文で漢字2文字の熟語になっているところを、砕いて訓読みにもせず、注もつけていない…など)
確かにズルイとは感じるんだけど、学者の良心としてウソを書くわけにも行かんからね。
現時点では、あの両著作がやはり最高水準の業績なんだと思う。
あのレベルの訳注が全部に付いたら、世界中が泣いて喜ぶだろうが…遥か未来という気がするぞ。
そもそも語彙が全然わからないのが問題なんだよな。
それでも『宋会要』と対照すれば、読みやすい言葉に置き換えるよう配慮されてるのがよく分かるが。
332 :
世界@名無史さん:2006/08/09(水) 01:46:33 O
宋史ってなんでそんなに難しいの?
モンゴル人が書いたから難解な文章になっちゃったとか
333 :
世界@名無史さん:2006/08/09(水) 02:16:20 0
実際の執筆は漢民族系のの学者だろう。
334 :
世界@名無史さん:2006/08/09(水) 05:50:32 0
他の正史は原資料をわかりやすく要約して登載するるんだけど、
宋史は原資料を未整理のまま取り込んだらしい。
研究者が必要な個所を資料として使うのにはありがたいんだけれど、
中華書局版は40分冊、全体を読もうとするとたまったもんじゃない。
335 :
世界@名無史さん:2006/08/09(水) 06:17:44 0
もし翻訳に挑戦するなら続資治通鑑220巻かな。
宋・南宋・遼・金・元の時代の編年史。
紛らわしいけど続資治通鑑長編520巻は全く別物。
336 :
世界@名無史さん:2006/08/09(水) 21:53:58 0
>>335 史料的価値から言えば『長編』のほうが圧倒的に高いだろ?
むしろ『宋史』より高いとすら言える(というか宋史のオリジナルの一つだね)。
実質哲宗朝で終わってしまっているのが非常に残念だが。
337 :
335:2006/08/10(木) 06:55:38 0
それはそうだが、翻訳というのは機械作業ではなく
自身も内容を読み理解しながら行うもの。
素で日記そのものといえる長編の冗長さ・単調さにはつきあいきれない。
包拯の部分だけでも読みたい
無恥な質問ですけど
夏休み出し、これを機会に中国の勉強始めてみました。
白帝社の中国語文法・完成マニュアルとかいう本をかって独学で勉強してます。
発音とか会話が出来るようになれなのは分かってますし、別にいいんです。
ただ翻訳されてない中国書を読んで理解したいんですが、独学で読めるようになるものなんでしょうか?
漢文とかも勉強しないと読めない者なんでしょうか?中国語読める人がいれば参考に教えていただければなと思います。
独学では難しいな。
何年もかければ出来るかもしれないが、ちゃんと学校いって習った方がいい。
日本語はなせても古典が読めるのとはまた違うのと同じようなものだし
342 :
世界@名無史さん:2006/08/15(火) 13:49:23 0
>>200 ぼうふらって、その例えを使うのはエル・カンターレだけだと思った。
343 :
世界@名無史さん:2006/08/15(火) 22:21:18 0
>>340 四声は本だけで習得するのは不可能。中国語のネイティブスピーカーに聞いて直してもらう必要あり。
344 :
世界@名無史さん:2006/08/20(日) 22:08:13 0
ちょいと質問よろしいですか?
よく宋代の演義ものに出てくる八千歳(趙元儼)の次男坊の事が載ってる書物ってありますか?
346 :
世界@名無史さん:2006/08/22(火) 23:29:56 0
趙元儼ってよく「八大王」って呼ばれる人物だよな?
いちおう宋史の巻245・宗室伝2の「周王元儼」の条末尾に
「子十三人、允熙・允良・允迪・允初、餘皆早卒。
熙寧中、以允良子宗絳嗣封呉國公。徽宗改封呉王為周王。」ってあるけど、
允熙允良が実際に第何子だったのかはここからじゃよく分からんね。
「周王家」として残ったのは允良の系統のようだけど。
最近研究から遠ざかっているからよくわからないんだけど、
アメリカのChafee氏あたりが宋朝の宗室の研究をまとめたんじゃなかったっけ?
そうです、なんでも次男坊が夜中照明をガンガン炊いて昼夜逆転の生活をしてたというのをどっかの本で読んだ事があったんで
それを小説のネタにしようと思って資料を探したかったんですが・・
348 :
世界@名無史さん:2006/08/25(金) 10:34:42 0
>>347 それはやっぱり允良のエピソードだな。
>>346に挙げた周王元儼伝の末尾に彼の息子たちの略伝も附されてるんだが
允良の条には「好酣寢、以日為夜。由是一宮之人皆晝睡夕興。」
(酣寝を好み、日を以て夜と為す。是れ由り一宮の人、皆昼睡夕興す)とある。
「酣寢」が泥酔という意味なのか、単にねぼすけだったという意味なのかちょっとはっきりしないが、
要するに日中寝ていて夜活動する。そのせいでその家臣たちも昼夜逆転の生活をしていた、ってことかな。
正史にはこれだけしか記述がないっぽいので、他の史料をあたったほうが良いかもしれんね。
とりあえず「宋人伝記史料索引」(王徳毅ほか編)とかで「趙允良」を探してみれば?
この人の簡単な伝記と、彼に付いての記載がある史料が列挙されているはずだ。
349 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:35:38 0
楊家将とか、水滸伝とか、説岳全傳とか、
宋代を舞台にしたものは結構人気あるね。
武侠小説もこの時代多かったりするし。
350 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 19:31:48 0
徽宗の「墨彩写生珍禽図巻」って結局・本物だったんですか?
>348
ありがとうございます!
探してみます!
(*´∀`*)ムフーッ
北方謙三先生のおかげで、興味持つ人が増えたよね。宋代。
どう考えても北方のせいではなかろう…。
90〜2000年代に田中芳樹とその周辺が宋代を大プッシュしてたから
その辺の影響のほうが強いような気がするぞ。
武田泰淳の「十三妹」の文庫版なんてその流れで出てきたようなものだろう
自分は光栄から出た三侠五義で
それを受け入れる余裕があるかないかで世代がわかるな。
北方って「楊家将」? 読んでないや。文庫になればあるいは…
で、どんな勘違い?
楊家将短すぎ
そういや、9/30にNHKBS2で
上海京劇院の「楊門女将」放送してたんだな…。見逃してしまった。
池袋でライブで見たんだけど、もう1度見たかった…
361 :
世界@名無史さん:2006/10/08(日) 21:24:12 0
age
362 :
世界@名無史さん:2006/10/11(水) 08:51:03 0
363 :
世界@名無史さん:2006/10/16(月) 22:41:56 0
『宋史』の地理志などに出てくる「崇寧戸」ってどういう意味でしょうか。
詳しく知りたいのですが、適当な文献、東洋史専攻生以外のものでも分かるような
ものがあったら、教えてキボーヌ。
>>363 こんな初歩的なこと言いたかないが、基本的に区切り方が間違ってる…。
おまいが言ってるのは、例えば地理志一・京畿路・開封府の条の冒頭で
「開封府。崇寧戸二十六萬一千一百一十七、口四十四萬二千九百四十。」
ってあるところの「崇寧戸」だろ?これは「崇寧」と「戸〜〜、口〜〜」で区切るんだよ。
これは要するに都市要覧だから、
「開封府(の世帯数及び人口)は、崇寧年間の統計によれば26万1117世帯、人口44万2940人である」
と理解すべき。
言っとくがこの統計が正しいかどうかは別問題だぞ…。それは地志とかと付き合わせて自分で調べよ。
365 :
363:2006/10/18(水) 00:08:39 0
>>364 初歩的なことでスマソ。
でも親切に教えてくれてありがとうございます。
身近に東洋史をやっている人がいないもんで…。
そうですか
ここはクダラナイ質問スレでつね
>>363はとても良識的でまともな質問だと思うが。
369 :
世界@名無史さん:2006/11/23(木) 02:26:51 0
王小波・李順の乱について調べてるんだが
『中国農民戦争史研究』1968年
ってやつに佐藤和弘・中村健寿の二人の論文が
のってるはずなんだがこの本がどこ探してもない。
あっても似たような題名で中国で出版した奴なんだよ。
誰か知らない?
370 :
世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:20:31 0
>>369 さっきWebcatで調べてみたら、どうもこれ書籍じゃなくて定期刊行物(雑誌)みたいだぞ。
1号と2号があって出版年が1968ってなってるから、このどっちかじゃね?
ってことで、所蔵している大学に問い合わせるなりすればいいんじゃないか?
371 :
370:2006/11/23(木) 21:24:42 0
連投すまん
NDLでも「和雑誌」で検索したら1〜6まで所蔵しているみたいだぞ。
最寄の公共図書館や大学図書館を介せば、必要な部分(当該論文の部分だけとか)を
コピーして郵送してくれたはずだ。がんばれ、自ら動くしかないぞ。
372 :
世界@名無史さん:2006/11/26(日) 10:06:17 0
373 :
世界@名無史さん:2006/11/26(日) 10:08:07 0
374 :
世界@名無史さん:2006/12/02(土) 09:59:37 0
>>369 亀レスすまんがあり
あたってみるよ
あと宋代初期に四川が鉄銭行使地域になった理由って
宮崎氏・日野氏以外に誰か書いてる?
東洋文庫の食貨志の訳注見てたら四川の銭の政策のところに宮崎氏の論考
がそのままのってたんであれ以来誰も手をつけていないのかなと思ったんだが。
中国の論文でもいいんだが・・・。
宮澤氏のを除いて。
正直彼が言っていることは俺にはよく分からん。
375 :
世界@名無史さん:2006/12/25(月) 21:47:45 0
宋代の漫画とか小説で面白いのって何?
377 :
世界@名無史さん:2007/01/05(金) 23:10:26 0
それは宋代に作られた作品という意味なのか
宋代が舞台の作品という意味なのか どっちだ!?
ちなみに後者なら、某田中先生もあちこちで言ってるように、そりゃあ沢山ある。
379 :
世界@名無史さん:2007/01/07(日) 16:36:50 0
>>378 宋代が舞台。「宋代に出来た文学作品」となると「詞」しか浮かばない。
>377
三侠五義
381 :
世界@名無史さん:2007/01/30(火) 11:17:06 0
なんか宋までが一番いい時代だったんじゃないか
>614 狄青に関して数年前暇つぶしに伝を斜め読みしたことが…ちょっとうろ覚えですが
禁軍(直轄している軍)の指揮官というか司令官がクーデターするのが流行で
宋の太祖も同様でした。その歴史の流れを踏まえたうえで>293 となるわけです
中央アジア、モンゴル方面等と接しないため周辺国に対して、馬(の質と数)が
見劣りするわけです。後の王安石の保馬法なんてまさにそれかな
どこかのゲームに例えると機動力、突破力に乏しいたんなる歩兵主体のために
配置と移動、戦力の集中と拡散で全体的に宋は後手を引きやすいわけですね
騎射を得意とする狄青の適正はかなり珍しいタイプといえます
また>291 のように現場の文官とも知己を持ち書物を渡されて読破するといった
エピソードなど、官僚・知識人と良好な関係を結べる素養をも持ち合わせていたのは
芳しい戦況といえないなかでの現場・戦場の結果とともに
中央において高位につける要因のひとつなんではないかと思ったり
北宋では珍しく現場上がりの人が軍の実質的トップになったわけですが
洪水の被害を周りの人は受けているのに狄青の家は被害を受けないとか
狄青の家の犬に角が付いてる、といった歴代王朝創始者につきものの奇瑞吉祥
怪情報といった世評が生じたりもするほどに
歴史に倣ってクーデタを起こすのではないかと警戒されてしまう立場に陥りますが
事も無く平穏に大往生するあたり官界遊泳術もあったようです
沿海地が開ける
中国の都市は宋代に内陸から沿海地域に移った
中国の歴史は内陸部が栄えていた時代の方が面白い
386 :
世界@名無史さん:2007/04/14(土) 10:44:14 0
東南アジア交易が活発化したのは北宋代からでしょうか。
さらに早い五代ころからかな。
387 :
世界@名無史さん:2007/04/15(日) 19:53:54 O
中国が東南アジアと交渉を持った最古の記録はBC3Cに秦の始皇帝が番禺(現
広州付近)に進出し、桂林、南海、象の3郡を置きました
その内、象郡が現在の紅河デルタ付近といわれ、同世紀末に秦の将軍趙だが独立
し、南越王国建国、東南アジアのドンソン文化の遺物が王墓から大量に出土して
います
漢族以外の東南アジアの国との交渉の最古の記録もBC1Cの『漢書地理志』に現在の南ベトナムにあった
都元国や現在のカンボジア沿岸にあった邑盧没国、現在のマレー半島北部のたん
離国、夫甘都盧国と交渉を持ったことが記され、まだこの当時は物々交換交易で
したが、このころから商交渉は活発だったと思われます
ただ2〜6世紀にこの地域の文化はインド化していまうのですが
388 :
世界@名無史さん:2007/06/03(日) 04:52:40 0
宋は神
宋のルネッサンスは日本より凄いな
390 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 21:42:18 0
日本刀歌
北宋・歐陽脩
昆夷道遠不復通
世傳切玉誰能窮
寶刀近出日本國
越賈得之滄海東
魚皮裝貼香木鞘
黄白間雜鍮與銅
百金傳入好事手
佩服可以禳妖凶
391 :
ドン・ベムーゴ ◆eaYqa3SeLE :2007/07/09(月) 22:07:18 0
今の日本より宋代の方が言論の自由があるんじゃないか
392 :
世界@名無史さん:2007/07/10(火) 11:22:46 0
言論の自由があったら岳飛は殺されなかったと思うけど?
言論の自由と権力闘争はあんまり関係ないような・・・
亡国の危機が進行するほど、血道を上げる連中が却って
のさばりまくるのが中華のおもしろいところ w
宋ってあんまり人気ないね
そうか?
397 :
世界@名無史さん:2007/08/22(水) 02:54:06 0
あげ
398 :
世界@名無史さん:2007/09/11(火) 23:39:40 0
眠らない街、開封
食い物は開封より臨安のほうがうまそうだが、水が汚かったらしいね。
それが喫茶の普及にも一枚噛んだって説もあるみたいだけど。
400 :
世界@名無史さん:2007/10/15(月) 22:59:10 0
農業の発展は茶や果樹、養蚕を商品作物生産を可能にした、って訳ですね
401 :
世界@名無史さん:2007/10/21(日) 05:52:52 0
唐と宋は暮らしやすいイメージがあるから好き
それ以外は言論弾圧・重税・貧困ばかりで嫌い
402 :
世界@名無史さん:2007/10/21(日) 05:55:58 0
宋で自然破壊が進んで、
その後に後退期に入ったらしいが
>>401 唐は貴族じゃないと住みにくいby陳瞬臣
唐の後半は、塩税・茶税に両税と、税金ふんだくられ放題だからイヤ。
そのうえずっときな臭い事態が続いているし、住めたのは前半だけかな。
住み安さで言えば元代が一番住み易かったかと。
まあ、その次の明代からは大賄賂時代が始まるが。
406 :
世界@名無史さん:2007/11/03(土) 13:51:09 0
元代と言えばペスト
宋の頃は大理国とか別の国があったからよかったんだけど
407 :
世界@名無史さん:2007/11/03(土) 19:42:29 0
秦あたりから帝国と呼ばれるが
宋は帝国と呼ばれないね
408 :
世界@名無史さん:2007/11/03(土) 20:01:46 0
宋には大公国が似合うな
なにせ金の弟分だからな
410 :
世界@名無史さん:2007/11/04(日) 01:05:04 0
一応、兄じゃなかったかな
金を払う兄貴だけどw
近所のヤンキー遼くんにいじめられるひきこもりオタ気味の宋兄ちゃんと
私が守ってあげるといいつつお小遣いをせびる金髪DQN妹の真ちゃん…
VIPからパー速行った瞬間に過疎ってgdgdになりそうなノリだ
412 :
世界@名無史さん:2007/11/07(水) 20:20:37 0
>>405 元代といえば鬼のような重税が課せられてたような記憶があるが。
413 :
世界@名無史さん:2007/11/07(水) 20:31:35 0
人民にとってはお荷物だな
宋の料理店は銀食器を使用していた
415 :
世界@名無史さん:2007/12/08(土) 23:53:05 0
age
416 :
世界@名無史さん:2008/01/03(木) 11:14:10 0
長編の日本語訳ってある?
417 :
世界@名無史さん:2008/01/03(木) 15:35:29 0
宋は凄く住みやすそうな印象
そうか?
419 :
世界@名無史さん:2008/02/01(金) 17:37:55 0
そうだと思うよ
そうに違いない
so good!
422 :
世界@名無史さん:2008/02/20(水) 17:03:37 0
徽宗の芸術的才能ってどれくらいすごいの?
423 :
世界@名無史さん:2008/02/20(水) 17:47:19 0
皇帝などになるよりむしろそれを職業とすべきであった
424 :
世界@名無史さん:2008/02/20(水) 17:56:35 0
426 :
世界@名無史さん:2008/02/28(木) 18:44:00 0
宋は中国の歴史の中でも豊かな方だったと聞く
そうでもないよ
そうなのか
so good!
430 :
世界@名無史さん:2008/03/08(土) 13:08:14 0
童貫って宦官なのにムキムキマッチョで顎鬚まで生えてたんだよな?
どうやったらそうなるの? 停留睾丸にしたってどんなに遅くともおっさんに
なる頃までには体熱でタマが死ぬよな?
第二次成長がひとしきり終わった後で睾丸摘出すればあるいは。
もしくは賄賂でも握らせて…
432 :
世界@名無史さん:2008/04/28(月) 19:50:34 O
神宗こと趙ぎょくがどういう方だったのか教えてください。
433 :
世界@名無史さん:2008/04/28(月) 23:23:33 O
age
434 :
世界@名無史さん:2008/04/28(月) 23:25:50 0
435 :
世界@名無史さん:2008/04/29(火) 07:35:31 O
神宗が長寿だったらその後の北宋の歴史はどうなったと思いますか?
437 :
世界@名無史さん:2008/04/29(火) 18:41:17 O
>>436 結構変わるんじゃないんですか?新法とかが軌道に乗って。
>>437 新法といったって所詮、同じ体制の中での改革の方向性に過ぎないんだし、
例えそれが軌道に乗ってもシステムとして上手くいくとは思えない(つーか、上手く行ってなかったから
旧法派が盛り返した)
どう変わるかと言えば、より悪い方向に変わった可能性も高いといえる。
439 :
世界@名無史さん:2008/04/29(火) 19:39:53 O
>>438 具体的にどこが失敗したんですか?
後、神宗皇帝は宋の皇帝の中でも優れた方だと思うのですが、何故日本ではマイナーなのでしょうか?
>>439 新法のおかげで地方の農村は荒れに荒れたわけだが。
441 :
世界@名無史さん:2008/04/29(火) 19:56:07 O
>>440 農田水利法などで自然環境が破壊されたとかですか?
442 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 15:41:23 0
新法を運用する官吏が全員、
極めて有能でかつ不正を働かないという前提でないと成立しないシステムである気がする。
宋の官吏と言えば、モンゴルが南宋を接収した時、最初、宋の官吏をそのまま使ってみたら
あまりに汚職だらけなので、わざわざ中央アジアやイランから官吏つれてきて行政やらせてたなw
>>440 いや、十分成果は上がってた。農村が荒れた原因は旧法党との政争のせい。
>>443 その中央アジアやイランの官吏も南宋以上に汚職してたけどな。
445 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 16:44:52 0
旧法党との争いがなくても、新銀行東京と同じで、すぐに破綻するシステムだったと思う。
446 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 17:34:24 0
新法党vs旧法党の論争って、
現代の社会学者が所得分配の公平と民間経済の進歩とのどちらを優先すべきかの論争に似てる気がする。
社会主義が盛んな頃は王安石に人気が出るが、
公共部門の民間経済に対する干渉が及ぼす影響を否定的に評価する経済学が主流になると、
旧法党を再評価するようになっていくんじゃないかと。
447 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 20:28:12 O
そういえば、梅原先生は、王安石は好きだけど、神宗皇帝は嫌いですよね。論考や著作などから推察するに。
448 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 20:59:19 0
マルクス主義史観だと王安石が善玉で、旧法党が保守反動ということになるんだろうね。
でも所得の公平な分配を強く推し進めようとすると必ずしだいに経済力が低下する。
まして政府機関が経済分野に介入しようとするとますます非効率化していくというのが、歴史の教訓。
449 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 21:40:36 0
だからといってじゃああのままで良かった、とは言えない。
やはり、何らかの改革は必要だった。新法の改革は十分に意義があった。
あのままで良かった、とは言えないが
あれでよかった、とも言えない。
改革は、すればいいってもんじゃ無い。
新法改革は、結果的に宋に激しい派閥闘争をもたらし、その国力を著しく減退させた。
451 :
世界@名無史さん:2008/04/30(水) 23:55:08 O
>>450 派閥抗争って、神宗皇帝崩御後、司馬光がほとんどの新法を廃止し、その後旧法派がさい確を遠く南に流したりしたのが原因なのかな?
>>451 王安石が実態を無視した政策を、反対者を神宗の名の下に強引に排除し
推し進めた事が原因だよ。
根本的な原因を求めるなら、神宗が悪い。
453 :
世界@名無史さん:2008/05/01(木) 07:36:46 O
神宗新政期って、改革が後退したんですか?神宗新政期について詳しくないので教えてください。
後、神宗皇帝がどのような方かも教えてください。
454 :
世界@名無史さん:2008/05/01(木) 14:17:33 0
神宗親政でも、基本的に王安石の政策と同じ。
新法が全国で施行されていく。
王安石が執政した頃は、旧法党との争いはもちろんのこと、
新法党内部でも権力闘争がすさまじかったが、
神宗親政でまとまることができたそうな。
人柄は知らない。
455 :
世界@名無史さん:2008/05/02(金) 00:38:47 O
神宗は何故開封の城壁を華美な物に作り替えたんですか?
>>451 そう。更に酷い事に司馬光死後の旧法党で、洛党と蜀党の内部抗争が起きた。
この抗争により旧法党は、結局何の成果も挙げられないまま、新法党に勢力を盛り返され、
ますます派閥抗争が激化してしまった。
457 :
世界@名無史さん:2008/05/06(火) 02:00:23 0
水滸伝ではなぜ新法党が悪者?
>>457 実際に庶民から見れば悪党。中央の都合のみの硬直的な政策を押し付けられた庶民のことを
少しは想像してみ?
ある意味大躍進とか文化大革命と変わらん>新法
とはいえ、旧法では庶民の暮らしは真綿で首を絞められている状態だったのだろう?
(今の日本で、その一端は伺える)
既得権益者が潔くそれを手放して、自分の不利益を度外視して民のためになるように動けば
どんな時代でも、庶民はそう苦しまないけど、誰もが仏や仙人の心を持つことはできないしね。
>>459 先ずお前が自分の収入の道という「既得権」を手放してれを他の恵まれない人に「開放」してみ?
「既得権」は自分には関係ない特権階級だけが持つ悪である、って変なルサンチマンに縛られている限り
世の中の構造なんて一生理解出来ないよ。
>>460 個人的な話だが、恵まれない人への献金なら少しだけだがしている。
しかしそれで多くを助けることができるほどの財産を持ち合わせてはいない。
零細な庶民からそれをするのではなく、上の立場のものがまず手本をみせるのが
人間社会の筋というものだが、現実はしょせん口だけ。
だから合法的な盗賊集団とかいわれるんじゃないのか?
それで理解できないというなら、理解する必要はないとすら思う。太鼓もちめ。
>>461 > 零細な庶民からそれをするのではなく、上の立場のものがまず手本をみせるのが
> 人間社会の筋
いつそんな物が筋になったんだよw 既得権者を叩いておいて、いざ「君も自分の既得権を手放せ」と言われると
何かと言い訳をしまくる君の姿こそ、「既得権」というものの本質だよ。誰もが何らかの既得権を持っている。
君も、既得権者だ。
それと、「先ず隗より始めよ」って言葉、知ってるかい?
はいはい。
じゃあ君は既得権は手放さなくていいよ。庶民は権力を持ったものの奴隷でいいじゃないか。
じゃあ、我々権力を持たないものは、徒党という武力をもって、それらの権益を奪うしかない。
権力を背景にした既得権と、庶民に許されている既得権との大きさは、同じ土俵で語れるほど
公平に手に入れられる性格のものではないはずだ。
君のような太鼓持ちとは、これ以上話しても平行線だろう。
vipでやれ
465 :
世界@名無史さん:2008/05/07(水) 03:50:09 O
保甲法が致命的だったんだろ。
日本の血税一揆やフランスのウ゛ァンデ戦争と同じ。
466 :
世界@名無史さん:2008/05/07(水) 11:03:15 O
467 :
世界@名無史さん:2008/05/07(水) 16:09:19 O
尊号拒否したのって神宗だよな?
468 :
世界@名無史さん:2008/05/09(金) 09:28:48 O
Wikipediaの新法・旧法の争いの項目って、どのくらい正確なんですか?
>>468 自分できちんと複数の研究所を読んだ上で判断しろ。
470 :
世界@名無史さん:2008/05/09(金) 09:42:22 0
471 :
世界@名無史さん:2008/05/09(金) 09:52:16 O
>>470 確か保甲法は募役法で無くなった差役の代わりじゃなかったけ?
保甲法って検索したら民国時代まで一部でやってたのを知って驚いた
473 :
世界@名無史さん:2008/05/09(金) 10:31:24 O
梅原郁の評価てどうなの?
474 :
世界@名無史さん:2008/05/11(日) 08:18:49 O
神宗個人について論じた論文かなにかありませんか?
475 :
世界@名無史さん:2008/05/12(月) 17:31:30 O
神宗は西夏に何のために遠征したんですか?
476 :
世界@名無史さん:2008/05/13(火) 10:41:28 O
東一夫の今どういう評価されてるの?
477 :
世界@名無史さん:2008/05/14(水) 17:25:01 0
宋て弱いイメージあるけど太祖て結構名将だよね?
478 :
世界@名無史さん:2008/05/15(木) 13:45:50 O
凌遅が復活するのは神宗の時だけど、なんで復活したんですか?
479 :
世界@名無史さん:2008/05/16(金) 13:39:26 O
さい確ってどういう人だったんですか?教えてください。
480 :
世界@名無史さん:2008/05/17(土) 02:52:41 O
誰か上の質問群に答えてやれよ
全部自分で調べられる事
グ グ れ
終了
ぐぐっても当たらないような気が…
そういうのは、誰かに頼るんじゃなくて自分で調べないとね。
かくいう自分は、そんな細かいことまでは知らない。
>>477 中英板に行きやがれ。
483 :
世界@名無史さん:2008/05/28(水) 22:48:28 0
旧法党の時代には実質的には志願制だったのか世襲制だったのか。
どちらにせよ、宋は軍事には熱心ではなかった印象がある。
485 :
世界@名無史さん:2008/05/28(水) 23:34:20 0
建国したのは軍人だが、他の時代(唐を除く)と比べると穏健な方だろう。
でも、辺境にはりついていたのが、実戦部隊50万、補給部隊50万くらいだったわけだから
軍事力は大したもんがあると思うけど。
だが、数はあっても役に立たない軍隊も珍しくは無い
手頃な目前の問題意識があるせいか、宋代は兵書が盛ん。
その一方で
武功を挙げる=謀反・叛乱を起こすかもしれない危険人物、と叩かれる時代でもある
489 :
世界@名無史さん:2008/06/16(月) 00:02:04 0
金瓶梅を読んでみると、宋では他の時代に比べて晩婚が多かったようだ。
許婚ではなく、恋愛結婚が行われていたともされている。
ただ、これは金瓶梅の作者の時代考証ミスかもしれない。
それから一夫多妻は認められていたのか。
490 :
世界@名無史さん:2008/06/30(月) 21:57:53 0
age
南宋になると軍閥同士のいがみ合いばっかりだな。
492 :
世界@名無史さん:2008/08/10(日) 10:00:25 0
第二南北朝時代に突入
南明が続いていたら第三南北朝時代だった
遼-北宋も、大きな視点では南北朝だと思える。
昔、サイ京というコテハンが
新法及び神宗やサイ京を肯定的に評価していたけど
サイ京氏の見解は正しいんですか?
495 :
世界@名無史さん:2008/08/12(火) 05:09:34 0
>>489 金瓶梅が書かれたのは明代後期だし、
描かれているのも書かれた当時の風俗じゃないの?
>>495 江戸期の歌舞伎が、鎌倉でも室町でも戦国時代でも、江戸期の風俗で描かれるのと一緒だな。
恋姫+無双とかに現代日本の風習が出てきたりな。
498 :
世界@名無史さん:2008/08/16(土) 12:06:13 0
>>494 神宗が新法を行なっていた時代に蔡京が「取り立てられた」から評価するのは当然です。
ただ、神宗皇帝は役人の人事配置はかなり厳格な方針で臨んでいたから、神宗が長生きできたとしたら、
(彼が)元豊末期についていた開封知事以上に出世できなかったような気がします。
王安石も蔡確も章惇も(サラリーマン役人の蔡京より)政務能力のある弟の蔡卡を可愛がっていましたし。
神宗が長生きして新法改革があのまま中断なく続けられ、蔡京宰相がなかったら
いきなりの宋の突然死(国家破綻と金の侵攻)は、無いに等しかったわけですが世の中は難しい・・・
>>498 レスありがとう御座います。
確かに神宗が長命だったら
サイ京は宰執にはなれなかったかもしれませんね。
ただサイ京氏は、
サイ京は財政を回復し、
兵を精強たらしめ、
民間の負担を軽減し、
才あるショ吏を積極的に抜擢し、官への途を開く制度を整え、
塩税を抜本的に整備し、公正かつ安定した税源として確立した
という主張なのですがこれは正しいのでしょうか?
後、サイ京氏は北宋の滅亡はサイ京ではなく
息子のサイユウと童貫の責任で
開封陥落は童貫の戦略ミスで
普通に戦えば金には勝てていたと主張しています。
500 :
世界@名無史さん:2008/08/17(日) 17:30:10 0
>>499 >財政回復策
策としては、部分的に正しいと思います。宰相時代はなんだかんだで一応黒字出してましたし(殆ど王安石・神宗の政策の劣化版ですが)。
ただ、神宗が大幅に整理した官員数をまた大幅に増やし人件費膨大化・機構煩雑化させたうえに
無駄な公共事業を連発して最終的に国家財政を破産させたことは論外です。
>兵を精強
保甲法のことでしょうか。確かに「財政的」には成果が上がったみたいです。
ただ、保甲法の本来の趣旨は「町内の警備を持ち回りでやる」というものだったたので
無理に国の軍隊に組み込むなんてことはすべきじゃなかった。
「地域の警備員」が、明日から武器を持って軍隊で国境を守るなんて無理です。
↑神宗時代も副宰相・章惇が「保甲法の兵役部分はすぐやめにした方が良い」と発言して、実際元豊末期に取りやめになっています。
徽宗・蔡京時代は財政的な問題と兵の数か足りなくて、また軍に組み入れたみたいですが、
やはり実戦では「全く」役に立ちませんでした。この辺も蔡京が政治家として駄目なところ。
>開封陥落
確かにこれはすべて蔡京の全責任にするのは気の毒なところです。宰相にまでなっただけに、そのぐらいの外交認識はありました。
ただ、徽宗は蔡京と一心同体。外交させた無能宰相・王黼を抜擢したのは蔡京。
蔡攸は蔡京がコネ就職させた。童貫も蔡京が宮廷工作するのに利用してお礼にポストを与えた。
根本原因は蔡京にあります。普通に戦っていればといっても、もうそんな人材もお金残っていなかったといえますね。
これらをみると国賊と呼ばれても仕方ないのではと思います。
蔡京はサラリーマン役人で一生を終わっていたら「能書家」や国家のために「財」を稼いだ優秀な役人として
称えられたかもしれないのに、歴史のめぐり合わせは恐ろしいです。
ただ、1085年の神宗が死に新法が中断された時点でもう宋の崩壊は予想されたのかもしれません。
レスが思ったより長くなってすみませんでした。お詫びします。
501 :
世界@名無史さん:2008/09/24(水) 23:23:18 0
age
502 :
世界@名無史さん:2008/10/29(水) 23:31:02 0
岡田英弘氏が著書「皇帝たちの中国」で、
「北宋と南宋の趙氏は漢人かどうか疑問がある」って書いてるけど、
そこらへんはどうなんですか?
純粋な漢人なんて存在しないでしょ。
なんでマルチしてんの
505 :
プランス・ナポレオン:2008/11/12(水) 20:41:36 O
神宗(趙ギョク)が天寿を全うし、新法が続けられ
哲宗(趙傭)の早世した兄たちも天寿を全うし、
哲宗ではなくその兄たちの誰かが帝位を継ぎ、
神宗同等に有能であった場合、
北宋は現在まで存続できたでしょうか?
は?
仮定に仮定を重ねりゃどんな結論でも導き出せるわな
508 :
プランス・ナポレオン:2008/11/12(水) 21:39:20 O
>>505でああいう質問しましたが、
金の時に開封が黄河の氾濫で壊滅的な打撃を受けてるはずなので
北宋が存続してもこの氾濫で滅亡してしまうような気がします。
神宗の死因って何だったんだろうか?
父親も比較的早死にだから体が弱かったのかもしれないね。
>>508 そうとも限らん、開封は金一代はほとんど地方都市だし、首都になったのは滅亡間際の一時期だけだから。
あれ、また18で20万買い上がったヤツがいる
ご、誤爆
513 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 19:01:50 0
>>505 多少の長持ちはした「可能性」はあり。
@神宗が長生きすると「いきなりの政策変更」や、「新旧の激しい党争は行なわれない」ため、国家エネルギーの無駄遣いがなされない。
→元豊末では、旧法派ももう折り合いを付けて「転向」している人も大勢いた。
神宗も、そろそろみんな許してやろうという気になっていた。実際、蘇東披も都近くまでの帰還を許されている。
A一方の新法派、王珪→蔡確→章惇→蔡卞の新法実務部隊はかなり優秀。国家運営は任せて安心の状態だった。
新法をそのまま「間断なく」続けていればすぐに潰れる心配などなかった。
→新法実施で国庫が潤沢になっていたし、 治安面も改善していたので国内反乱の心配もなくなっていた。
→「国が安定」していて「金がある」国には、相手国も 勝てない喧嘩はしてこない。
いきなり首都を攻め込まれて国を奪われるということはないに等しい。負けたとしても神宗期の西夏戦程度。
ただし、現代までは生き残るのはムリ。時代が下っていくと蔡京のような人物が必ず現れて国を傾ける上に、
立派な新法もそのうち単なる「民から富を収奪しつくすだけの」方便になりさがっていくのは中国のいつもの流れ
実際に神宗がいなくなって新法が中断した途端に王安石の改革理念が崩壊した。遅かれ早かれ民衆反乱が起こって宋王朝自滅。
金侵攻撃退→モンゴルにより南遷→元崩壊も再び南北朝状態に
こんなとこかなぁ
515 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 13:20:33 0
宋の李覯が、中華が身体本体であり、夷狄を手足に譬えている一節がある
らしいのですが、なんという著作で述べているか、もしご存知の方
いらしたら教えてください。
516 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 14:08:13 0
池■田大■作の本名はソン・テチャク。小泉純一郎、小沢一朗は朝鮮人。
911では小型の水爆が使用されている。
http://ri■ch■ardkosh■im■izu.at.webry.info/
創価の保険金殺人事件。
オウム事件は、統一・創価.北朝鮮の共同犯行である。CIAが監修している。
http://www15.ocn.ne.jp/~oy■ako■don/kok_web■site/ir■iguc■hi.htm
与党も野党もメディアも全部朝鮮人だった。
http://jb■bs.li■vedo■or.jp/b■bs/read.cgi/news/20■92/115794■1306/
2チャン寝るは「■とう■■■一■教■■会■」が 運■■■営して「個人じョうホう」を収集してる。
駅前で「■手■■■相を見せてください」 と「カンユウ」してるのが「■とう■■■一■教■■会■」。(カ■■■ルト宗■教)
カ■■■ルト宗■教の下にいる人と、上にいる奴を分けて考えないといけない。
下にいる利用される人は上がどんなことをしてるか知らない。
ユダヤ権力の子分→2ちゃん運営=「とう★■■一■教★■★会」上層部=層化上層部=自■民党清■和会=野党の朝■鮮■人ハーフの政治家=
与党の朝■鮮■人ハーフの政治家=金■ 正■■日(キ■ム・ジ■ョンイル )=読売サンケイ=小沢十朗
ユダヤ人=ロックフェラー=ブッシュ=クリントン=ヒラリー=アドルフ・ヒトラー=オサマ・ビンラディン
毎■日■■■新聞スレを荒らしてる奴らも「■とう■■■一■教■■■会■」。
荒らしは洗脳するために「ネトウヨ」などのレッテル付けレスを何千回もする。
現実には「ネトウヨ」などは存在しない。
http://cha■ngi.2ch.net/test/read.cgi/ms/12303■63■385/
歴代王朝で宋が一番文化的な印象が強いです
518 :
世界@名無史さん:2009/01/27(火) 23:39:45 0
重複対策
519 :
世界@名無史さん:2009/01/29(木) 19:58:37 0
>>505 離島を除いては世界史的に千年以上存続した国は皆無。例外は古代のローマくらいか。
でも、結局はどこも滅びる。特に民族移動の激しい大陸では永続は不可能。
ゴータマ・シッダールタが説いた教えこそ世界における唯一の真実さ。諸行無常、諸行無常、諸行無常かな・・・
多分、現代世界すら諸行無常を免れぬだろうよ
>>519 デ、デンマークは駄目ですか?
宋は出来れば元末の宋で後宋とか成立してほしかったね!
>>520 王朝が変わったのはノーカウント?
まああの国も中世以降やたらめったらボコボコにされまくってた割には生き残ったな
似たような境遇のポーランドなんか百年位国すら存在しなかった時期もあるというのに
宋って今の日本と同じ気がするんだけど
>>522 宋全体より、司馬光、王安石の頃が一番似ている。
じゃあそろそろ宮内庁の役人が
108の魔星を封じた岩戸をノリで開けさせちゃったり
公務員試験落ちまくった奴が中心になって田舎に愛国結社を作るんですね
>>524 ニートウヨの出番じゃないか!
下地はあるぞw
526 :
世界@名無史さん:2009/03/07(土) 23:29:25 0
日本で梁山泊みたいな所って、茨城千葉の境あたりしか思い浮かばんなぁ
527 :
世界@名無史さん:2009/03/07(土) 23:36:26 0
>>524 で、最後、北朝鮮軍や韓国軍との戦いで消耗した国士軍は用済みとなって
宋江みたいに下賜された毒酒をのみながら素直に死んでくれるの?
今の日本政府は、はっきりいうと、派遣切になった連中は不平不満いわずに
さっさと自殺してほしいのが本音なんだけどね(笑)
派遣切りどころか、リストラもひきこもりもニートも、そして年金老人もだな。
足りない分は他から調達する気まんまんだから。
百数十万の軍隊持ちながら遼・西夏・金の数万から十数万の敵に敵わなかったんでしょ。
戦国無双やガンダムの雑魚並だわな
530 :
世界@名無史さん:2009/03/08(日) 05:38:57 0
漢民族の強みは昔から数だからなー
一人単位だとそりゃ蟻くらいの雑魚だよ
>>529 局地的には、数万規模のいくさとなっているから、総兵力は確かにすごいが
それは強さに還元する考えより、国力の充実(まぁ、破綻の一因となるが)と
考えたほうがよろしいよな。
指揮権の分散、文民統制は、君主独裁の政治体制を持つ宋であれば
皇帝が親征し直接指揮をとらないと、レスポンスが悪すぎる。
なにせ、誰かできるヤツ一人に功績が偏らないようなシステムだから。
英明果断な皇帝のもとであれば、きっと強さを発揮したろうが
北宋の君主、趙匡義(趙炅)系列はどうも文に比重が偏る印象が。
弱かったのは官軍で、唐が衰亡する原因ともなった節度使の権限縮小して現場の裁量権を低くしすぎたのが理由だろ?
今の自衛隊と同じく手足を縛られていてはまともな任務なんかできない それだけの話だ。
ただ、官軍の弱小振りとは裏腹に私家軍は強い所が多かった。岳飛なんか有名だろ MSの糞辞書でも珍しく一発変換
出来るぐらいにな。
問題は外交政策が絶望的に下手だと言うこと。 まるで今の日本みたいにな。
そんな訳で官軍は弱かったが、私家軍が強く モンゴル相手でも、かなり長期間「持った」 モンゴルにとって対宋戦はマルムーク朝並に苦戦したといっても良いだろう。
もっとも、マルムーク朝と違い、最終的に滅んでしまうがな。
>>532 って、そりゃ官軍の話だわw
宋は前代の反省から、指揮権が特定の個人に集中しないような制度にしている。
しかし、皇帝という絶対者が宋代の軍事力を行使すれば、それぞれの長官の同意は
いるだろうが、レスポンスは非常によくなり効率的な組織となる。
その最初の例は、後周殿前司で、太祖はその長官の出であり、またそれをもって
分裂の収束にのぞんだ…
太宗は、遼には負けたものの、相手が宋以上の大国で、すでに盛期を迎えている
となれば、それもいたしかたない(しかし国内を完全に掌握したのは、太宗)。
真宗のような、後代からは暗愚っぽくいわれる三代目も、いやいやながら親征し
とりあえず、遼との初戦には勝たせてもらっている。
しかし以降、独裁君主なはずの宋の皇帝たちは、外に目が向かなくなってくる。
前線では、同列の指揮官が幾人もおり、常に意見の調整に時間を食っていたのではないか?
権限分散型の組織だけに、責任のなすりつけあいなども、頻発していたのではないか?
それで、半分機能不全みたいになり、結果、効率よく運用することができなくなった。
しかも、決定権があるのは、実戦経験少ない文官が担ったとなれば…
それでも、誰か一人の突出した武勲者がでるよりマシ、だったのが宋という国。
岳家軍が強かった理由に、岳飛という最高指導者の意思が、全軍にロス少なく
伝達できるくらい、指揮権が彼に集中していたというのも、あるだろう。
これは、宋の軍事制度とは真逆をいく。
このとき、岳飛に与えられた節鉞は、往時の節度使くらい強靭だったろう。
地方行政権は与えられてはいなかったと思うけど。
>>問題は外交政策が絶望的に下手だと言うこと
日本はまだ同じにはならないよ。
なぜか。
日本はまだ、内政の失敗は外征によってごまかすことをしていない。
法制度を遵守する「建前」だけは、まだかろうじてあるようだから。
北宋末は、そこがないからこそ、あそこまであくどくあからさまな策を打ってしまう。
>>533 しかし以降、独裁君主のはずの宋の皇帝たちは、外に目が向かなくなってくる
たしか神宗の時は、夏や越に遠征したり、
高麗と外交関係を結んだり、日本と外交関係結ぼうとしたりしてなかったけ?
神宗は別格じゃまいか。
遠征してたっけかな?
なんにせよ、早世が惜しまれる皇帝ではある。
燕雲十六州問題なんかはどうみても宋が馬鹿すぎる 遼や金滅亡の経緯も次やられるのは宋だぞと言われているのに
目先の利だけ追う所もそうだが、あの辺の外交政策ってもう少しどうにかならなかったのだろうか。
「北方領土はわが国固有の領土です」てな事か。
燕代の地は、外交だけでどうこうというところではなかったろうね。
幽州および雲州には、遼の重要な拠点が、もう鎮座して幾年にもなり
すでに中国の有したかつての正当性というものは、ずいぶん薄れて
説得力を喪失していたのじゃないか。
とはいっても、遼に借りを作って返してもらう、というやり方をしてないし
また、金国の提案には、節度をもって臨んでもらうべきだった
という点で、北宋末の朝廷には、アホしかしなかったとしかいえない。
540 :
世界@名無史さん:2009/03/11(水) 21:36:00 0
契丹による燕雲十六州の経営はそこそこ上手くいってたの?
541 :
世界@名無史さん:2009/03/11(水) 21:51:04 0
戦えば内乱が起きて帰順するお!
とか希望的観測があったようだが一般市民からすれば
どうでもいい話だったようだ
唐末から五代初期、幽州の劉仁恭-劉守光で、そのあたりはいわゆる燕国の地
だったけど、その後の抗争では、契丹も交えて燕の削りあいがあり、
燕が滅んだあと、李存勗のとき、幽州が契丹に完全包囲された事態があって
そのとき、陰山、山後ってのがのきなみとられてしまったので、実際
残ったのは幽州だけ、くらいのひどいありさまだったのじゃないかな。
だから、幽州の東側も削られてしまっている、と。
歴史地図でみると、後唐のときで、渤海にかかるあたりが契丹の勢力圏となっている
から、契機としては、晋VS契丹の幽州(燕京)攻防あたりなんじゃないかと。
渤海国の領域は、都護府がある関係上、遼東にまでは及んでないけど
唐末のゴタゴタ時はわからんw
遼東は、唐の実効支配領域だったろうけど、その間に契丹勢力が
出てきていたから、実質上は分断?
どっちにしろ、五代の燕国では、遼東まで勢力圏を延ばしてはいない。
契丹のちからの方が強い感じかな。
契丹による南進、幽州包囲の経緯では、新州とか武州とかいう
燕雲十六州にかぶる地域が、かなり契丹に降っていた。
契丹が晋に敗れて、兵を退いたから、一応中国の領域とされているけど
実質的には空白に近かったのじゃないかな。
で、契丹との緩衝的地域となったそこは、石敬瑭が地域割譲するのに
いくらか、その心理的あるいは政治的抵抗を、なくす方向に作用したのではないか。
>>540 そこそこというか、結構うまく機能していたみたいだよ。
二元政治をとって、漢人の官僚を登用したってのがよかったんでしょうね。
幽州自体は、燕の時代と周徳威のときでは、かなりやせ細った感じだったけど
ほんとかどうか、10年鎮した趙徳鈞の治政で回復をみ、やがては燕雲の割譲
プラス趙徳鈞の帰順ということで、契丹には追い風状態。
その後、息子の趙延寿が幽州に鎮し、後晋を滅亡に追いやる。
546 :
世界@名無史さん:2009/03/21(土) 06:19:53 0
宋王朝滅亡の顛末って壇ノ浦の戦いに敗れた平家の最期に凄く似てるんだよね
547 :
世界@名無史さん:2009/03/22(日) 00:19:39 0
やっぱり南宋住民もモンゴル兵の殺戮・虐殺の仕打ち受けたのかな?
何しろモンゴルが最も苦戦したんが南宋だしな
文化的になりすぎると野蛮人にやられるって感じだろね
今の日本も注意せねばならんな
>>547 虐殺された都市がひとつある。
長江に出られたあとはそれほど苦労していない。
550 :
世界@名無史さん:2009/03/31(火) 01:52:51 0
なぜ北宋は帝国と呼ばれないんですか?
551 :
世界@名無史さん:2009/03/31(火) 05:38:32 0
その頃は「帝国」という言葉がなかったからです
三国志の漫画で曹操が「漢帝国の安寧は諸君らの働きにかかっている」
とか演説する場面を見たことがあるが、あれは時代考証のミスだったのですね
>>552 時代考証にリアルを求めるのもいいが、理解できないより、理解しやすいほうがいいでしょ。
普通は、大漢、とか大宋。
554 :
世界@名無史さん:2009/04/07(火) 21:16:22 0
宋、南宋とビザンツがなんとなくダブる
556 :
プラナポ ◆h176FY1dLs :2009/04/28(火) 01:31:07 O
保守
557 :
世界@名無史さん:2009/04/28(火) 02:33:55 0
宋といえば、文化的には大勝利なイメージだが、軍事的には負け戦のイメージがついて
回るな。
ただ、実際は金や遼やモンゴルどこも私家軍の強さには苦労していた。
モンゴルに征服され中勝ったら、漢民族の異民族に対する敵対観念も大きく変わって
いたのかもな。
558 :
世界@名無史さん:2009/04/28(火) 02:36:48 0
>>553 子供の頃によんだ水滸伝で大宋国と読んでいたなあ。
横山氏はわりとその辺の考証は当時としてはがんばっていた方だな。
できることなら、水滸伝のラストまで連載してほしかったな。
8巻でおわったのは惜しまれる。
だれか宋の軍隊を積極的に評価する人はいないの?
前半は遼や西夏みたいな連中を相手によく防いでいたわけだし、
指揮系統はそれなりに機能してたみたいだし、火器も使ってるし、
とにかく軍の規模がでかかったじゃない。戦争は数だよ、アニキ。
官軍は滓だが、私家軍は強い。 それで飯くっている連中だからある意味強いのは想定内かもしれないが。
文民化して軍事が弱くなった印象
遼や西夏が強すぎるだけかも
相手が耶律休哥や李元昊だしね
北宋随一の名将、曹彬も遼には完膚なきまでに大敗してるから
遼や西夏も単なる蛮族じゃなく文明化してるよね?
だから宋の軍隊機構には構造的な問題があったんだろうね。
俺も宋おもうよw
ここは南宋もアリ?
アリ 過去レスみれば一目瞭然
宋に関連する入門書的なものってないかな?
みんなはどんな本読んでる?
中世辺りだと文明化すると軍隊って弱くなるのかね
ウィキの宋の人物は100人程度か
結構少ない方かな
571 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 14:01:29 0
杭州市にあるテーマパークの宋城に行ってきた。
開場時間になると、宋兵たちが並んで、皇帝がお出ましになって、開門宣言する。
場内では雑技やカンフー劇、猿回し、軍団行進などいろいろなパフォーマンスやってた。
妻と娘に皇妃や公主の貸衣装を着せて写真を撮ったり、
ラクダに乗ったり、宋代風の建造物で麺類を食べたり、結構遊べた。
>>570 100人ってえらく多い気がするけどそうでもないのかな?
他を知らないからなんともいえないけど
>>572 春秋戦国190人
漢は500人ぐらい
唐で200人以上
確か宋の列伝はかなり多いので
もっと作れるんじゃないかな
>>573 こうしてみると少ないね
というか春秋戦国なんてもっともっと多くても良さそうなのに・・・
倍くらい
>>571 『夢粱録』を思い出した。楽しそうだなぁ
>>562 曹彬は、北宋随一の名将では、決してないよ。
つか、北宋は太祖即位後から、すでに特定の臣下に功績が
偏らないよう配慮しているようす。
荊南、南漢に潘美、蜀に王全斌、南唐に曹彬と、分けられているから。
その中で、南唐は後周時代に、太祖の手によって半死にさせられている。
たしかに一番従軍経験あって、信望のある人だけど、戦闘能力の高い
名将というよりは、素性のいい大将という感じかな。
>>579 後漢込みならもっと多くても良い様な気がする
南宋期って貴族社会という認識で良いですかね。
孝宗期の有力貴族って「史家」とか「韓家」のほかにどんなのがありますか?
南宋はあんまり皇帝の権力が強くなさそう
583 :
世界@名無史さん:2009/06/09(火) 14:06:43 0
一応、法政大学の通信教育学部用の教科書もみてみたんだけれども、
宋は新興階級である官僚、士人層、及び商人庶民も押さえたほうがいいよ。
何だかんだといって、「科挙」を重視しなければいけない時代だし。
そういやレストランがあったんだよね
宋って
宋関連の書籍とか良い小説とかあれば教えてください
水滸伝
587 :
世界@名無史さん:2009/06/18(木) 15:03:39 0
588 :
世界@名無史さん:2009/06/18(木) 15:26:11 0
飛龍全伝
>>577 >>579 >>580 >後漢末の人物で、後漢書に立伝されている。例:劉虞、劉表
>後漢末の人物で、独立(または半独立)した勢力(軍閥)の長である。例:馬超、張楊
>後漢末の人物で、後漢の朝廷の大臣(三公、九卿クラス)や州牧などの高官になり、かつ、『後漢書』の本伝に一定の詳細な記述がある。
ということで、後漢末で三国と被るところはメジャー格以外入ってない。
ちなみに後漢は新末後漢初&後漢末に偏りすぎで、趙匡(後漢初の群雄の一配下)郭勝(後漢末のマイナー宦官)等の項目が作られる一方で、
耿恭とかの初〜中期の対外政策で活躍した人の項目がないなど、詳しい人が多い年代にちょっと異常に偏ってる。
ただ、それにしても漢代はメジャー年代以外も意外に編集者が頑張ってるな。
後漢初なんぞ立伝されてない奴もかなり。
宋も増やすか。
>>590 もし増やせるんであれば是非そうしていただきたい
期待してます
>>585 「天龍八部」
「射G英雄伝」
「神G剣侠」
>>592 それって武侠小説だよね?
宋代が舞台なの?
>>593 金庸の武侠小説で宋代が舞台なのはその3作品。
天龍八部以外は徳間書店から文庫本が出てるよ。
天龍八部 全8巻
射G英雄伝 全5巻
神G剣侠 全5巻
図書館にも置いてあると思う。
>>594 最初に読んだのが碧血剣で次が笑傲江湖だったからてっきり金庸小説って明代ばっかりなんだと思ってた
ありがとう!
射G英雄伝は評判いいみたいだし前から気になってはいたんで早速借りてくる
596 :
世界@名無史さん:2009/06/26(金) 21:47:59 0
水滸伝は読んだことが無いんだけど
ジャンプで異聞水滸伝が始まったな
10週打ち切りは問題無さそう
>>596 問題なく打ち切られる?
それとも問題なく乗り越えれそう?
漫画でも何でもいいから宋代がちょっとは世間に知られるといいなぁ
598 :
世界@名無史さん:2009/06/27(土) 19:59:45 0
金庸がもっと昔に生まれてたら四大奇書に入ってただろうな
>>597 打ち切りになるかはまだ判断分かれるみたい。
他にも微妙なのが複数あるので。
それほど中国文化に詳しいわけではないが、
会話やキャラ・その他描写を見るとそんなに当時の文化や原作に忠実でもないみたい。
(ちょと笑ったのが人肉饅頭はアジトの酒屋に一般人が寄り付かないようにというデマ流し。
そのままだと流石に引くからかな。)
ただし、第1話ではっきり「宋の時代」といってたので、
名前が多少でも広まるのは確か。
ジャンプのは打ち切りあるかな?
絵はかなり上手いし話次第では看板にまで登りつめるかもしれない。
601 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 23:05:39 0
ちょっとは名前が知れてくれれば御の字
今週、ちらっと見てみたけど関勝が悪役っぽい感じで描かれてたね。
数少ない水滸伝漫画としては期待したいが、、、。
漫画一つででそんなに流行するもんなのかねぇ
なんで三国志はあんなに人気が出たんだろう
確か昭和の中ごろに吉川栄治と横光のコンビが老若問わず野郎どもの心を射止めたからだったような…
腐は最近の無双ブームこれは間違い無い
ちなみに曹操好きは基本的には日本だけ
あっちじゃ水滸伝で言う方蝋みたいな扱いだった気がする
なんかそのせいで「蒼天航路」がやたらと画期的に思われてるとか
一応、曹操再評価は中国から始まった流れなんだがな。
魯迅→毛沢東→批林批孔運動と、ずっと曹操は主流に評価される側の流れにある。
ただ日本は日本で、国交が無かったり疎遠だったりする中、
吉川英治が悪役は悪役でも魅力的悪役として描いたりという、独自の流れがあって、
向こうでも批林批孔運動の後も結構好評価は続いていて、その双方が国交正常化後の流れとして合致した形になって、
日本ではさらに横山光輝のイケメン曹操→蒼天航路という流れで趨勢が決定的になった感じ。
ただ、向こうは歴史好きや政治家以外の評価が高くなった訳じゃなくて、
歴史好きや政治を志す人間以外は伝統的な演義のような曹操観を保持しているようだから、
そこら辺で向こうの曹操観についての情報が錯綜しているのかも。
向こうはそれこそ宋代とかの方が人気が高いしね。
某赤壁の監督が言った、三国志は知らなくて、中国では作品も少ないから日本の漫画で勉強したっていうのは
流石にリップサービスだとは思うが。
曹操評価って、明王朝末期にやってた人いませんでしたっけ。
さておき。三国より宋になじみがないのは、
・やはり広まるには著名な二次作品が必要(小説でも漫画でもゲームでも、大衆向けなもの)
・水滸伝は著名ではあるが、三国志のようには日本向けにカスタマイズされておらず良くも悪くも中国風味
(北方はどうなのだろう?三国志は読んだけど水滸などは未読なので)
てのが大きいのでは。
滝沢馬琴はエッセンスだけ抽出して、元の時代の原型とどめてないですしね。
(で、いいのかな。あらすじ多少しっているだけなので)
宋代に孔明の評価で論争があったとか聞いたな
610 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 01:45:24 0
宋の時代に発明された
火薬、、羅針盤、 活版印刷術
この文明発展は凄いね
宋の中では余り活用されなかったけどな。
>>609 朱子学の朱熹が蜀漢正統論の中でベタほめしていたよ。
まあ、孔明贔屓なのは東晋時代からだけどね。
614 :
世界@名無史さん:2009/07/11(土) 00:58:53 0
北魏の崔浩はボロクソに貶してたな
どうして曹操厨って曹操批判に過敏に反応するんだろうなw
ジャンプの水滸伝やべえw
掲載順もケツに近い。
>>616 そんなのやってるんだw
ジャンプは中国史好きな人が多いのか
中国の話をやることがままあるな
>>617 ジャンプはあんまり中国史やってるイメージないな・・・
封神演義くらい?
青年誌だと一定の需要があるっぽい
一時期雨後のたけのこのように三国志物が始まった時期があったっけなぁ
ひとつくらい水滸伝にまわして欲しいと思ったもんだ
>>618 天地を食らう
赤龍王
ドラゴンボール(西遊記が元ねた)
珍遊記
俺の知る限りでは一通りいろいろやってる
>>619 あー
ドラゴンボールと珍遊記は一瞬思い浮かんだけど
どうも中国史というには抵抗があったから除外してたよ
天地を食らうがあったな
赤龍王ってのは知らんなぁ
赤龍王は項羽と劉邦
本宮で作者は天地と同じね
赤龍王は劉邦即位後の韓信らの粛清を書かなかったな。
まあ、少年誌であれは一種の冒険だったから仕方ないか。
>>622 というより項羽と劉邦系統の有名作品で韓信・彭越の処刑と
それに伴う英布の叛乱までえがかかれるのは稀じゃない?
よくてサイドストーリー扱いで基本項羽で打ち止めなイメージ
>>623 宿敵倒して皇帝即位で終わった方が物語的にも美しいしねぇ
残念ながらAKABOSHIは打ち切りっぽいぞ。
なぜか三国志がメジャーな歴史みたいになってるけど、
はっきりいえば三国志だってマイナーな部類なんだけど。
もし中世以降の中国史の事件なり人物なりを小説にするならば、
史記のような一種戯画的・神話的な人物像ではなく、
登場人物たちに人間味を持たせたほうがいいと思うね。
>>627 陳舜臣氏がその手法で「チンギスハーンの一族」書いたよ。
全四巻の長編だけどチンギす始め登場人物が人間味豊かで面白い。
>>628 読んだけどあんま覚えてないなぁ
結構面白かった記憶はあるけど
敦煌とか蒼き狼は結構覚えてるんだがなぁ
陳さんの本はなんと言うか淡白な気がする
>>627 正史なんか割合人間味あるんじゃないの
失敗談までご丁寧に載せてるから
夏休みも終わりだね・・・
そういや敦煌は宋代の話なのに、主人公も漢人なのに、宋の話は殆どない
敦煌の話だからでしょ。
634 :
632:2009/08/24(月) 23:02:51 0
いや、そうなんだけど
これが司馬なら、当時の宋の内政は云々西夏との外交は云々と、きそうなものなのだが
井上靖は主人公とその周囲を追っていると言うか
635 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 19:56:22 0
age
636 :
世界@名無史さん:2009/11/15(日) 09:19:04 0
637 :
世界@名無史さん:2009/11/18(水) 20:38:17 0
ここって北宋スレじゃ?
>>637 もしかして宋書と宋史ごっちゃになってね?
>>1から察するに北宋がメインっぽいけど、どうでもいいと思うw
640 :
世界@名無史さん:2009/11/22(日) 23:48:27 0
宋の人は自ら「南宋」とは名乗らないだろ。
「南宋」はあくまでも外部からの呼び方だ。
コンスタンティノポリスだけになってしまった末期のローマだって、
ローマ人自身は自分の国を「ローマ」と呼んでた。
台湾だけになってしまった中華民国もしかり。
641 :
世界@名無史さん:2009/11/23(月) 23:37:46 0
まあ、中国歴代王朝で一番安定した王朝は太祖趙匡胤が建てた北宋、南宋を含めた
宋王朝ですかね。
実際に宋は軍事では近隣諸国では劣ってましたが、総合面では遥かに超越してましたしね。
現に西夏も遼も金も宋からもらう金がないと国の経済が成り立たなかった様ですからね。
軍事とひとくくりにするけど、軍備の面では他国を圧倒していた。
成果が伴わなかったけど……。
その方がよっぽど問題があるけど、権限分散型だと、どうしてもレスポンスが
悪くなるからねぇ。
643 :
世界@名無史さん:2009/11/24(火) 15:51:23 0
まあ、北宋&南宋を合わせると宋王朝の300年は徹底的な君主独裁制と
重農主義で停滞的で淀んだ明朝より良い時代だった思いますね。
まあ、宋も100パーセント良いと言えませんがね。
でも、明王朝って最悪の時代だったんですかね?
明王朝は海禁制度が痛いな。
これのせいで民間貿易が禁止になって
その結果、密貿易商人や倭寇が横行した。
でもその密貿易商人の末裔の鄭成功が明末最大の忠臣なのが皮肉。
その反対に宋代は国営・民間貿易が活発で国際色豊か。
645 :
世界@名無史さん:2009/11/25(水) 15:32:07 0
その海禁制度も、16世紀半ばに緩和されるけど不徹底でしたからね。
まあ、貧農出身の光武帝に商業の利点なんて理解できないでしょうね。
張士誠が天下を取ってほしかったですね。
646 :
世界@名無史さん:2009/11/25(水) 15:37:33 0
洪武帝の母方の祖父は張世傑の近衛兵だと
呉ガンの朱元璋伝に書いてあった。
647 :
世界@名無史さん:2009/11/25(水) 19:19:28 0
それでも、両親の代では貧農に落ちぶれてましたがね。
宋は全体をみると馬鹿な皇帝はいないですね。
せいぜい徽宗や光宗以降の君主くらいしか思いつきませんがね。
まあ、ずば抜けた君主は太宗までですがね。
後は普通の皇帝かそこそこ有能な皇帝ですかね。
648 :
世界@名無史さん:2009/12/03(木) 23:33:11 0
文天祥と張世傑と陸秀夫とがかっこよすぎる。
昔は張世傑が一番好きだったけど最近陸秀夫が好きになってきた。
船の中で幼帝に大学を教えてたとかいうあたりが……。
649 :
世界@名無史さん:2009/12/04(金) 12:07:34 0
宋軍は質の悪さで有名だが、特に南宋末期の張世傑の軍が略奪とかひどかったそうだ。
イメージを壊すようで悪いが、一般民衆からすれば宋朝復興なんて迷惑しかない。
650 :
世界@名無史さん:2009/12/04(金) 13:14:40 O
宋代の中国人の識字率は0.03%
人間じゃねえょな劣等人種はw
官僚天国、経済大国、世界ではじめて総人口が1億を越えた巨大な国。
識字率0.03%?
11世紀あたり、他にどんな識字率の高い国があるよw
653 :
世界@名無史さん:2009/12/05(土) 02:13:17 0
でも、総人口一億を超えるって、それだけ国に活力があるから良しとしましょう。
納税人口と実人口の結構な乖離は、支配制度の不備なのか
宋の国土があまりに広く、また秘境(笑)も多いからなのか。
655 :
世界@名無史さん:2009/12/05(土) 20:40:31 0
広いと言えば広いですが、それ以前、以後でも結構デカイ王朝はありましたよ。
>>655 あったけど、把握人口と実人口との乖離という点ではどうなのかな。
そこがポイントだけど。
前漢末に戸籍が作られた時の人口は59,594,979人、戸数は12,233,062戸。
当時の農業技術、江南が未開拓だったことを考えると、実人口との乖離は
あまりないと思う。
658 :
世界@名無史さん:2009/12/09(水) 14:38:39 0
>>502 加藤徹明治大教授は著書「貝と羊の中国人 (新潮新書) 」で、
趙匡胤はトルコ国家の後唐の近衛兵の世襲軍人家系だからトルコ系の可能性はかなり高いって書いてる。
それ言い出したのは岡田英弘だよ。
660 :
世界@名無史さん:2009/12/10(木) 10:32:21 0
まあ、五胡一六国時代から純粋な漢民族はいなくなったな。
もし、中国が後漢以降も分裂時代が現代でも続いていたらどうなっていたかな。
661 :
世界@名無史さん:2009/12/10(木) 11:49:42 0
純粋な漢民族ってなんやねん
夏、商、周、周代の各国はそれぞれ別の民族だともいわれるし
それ、漢になる以前の話。
漢に属し、やがて派生したのが漢民族なんじゃない?
そう考えると、三国時代の呉の歴史的役割はものすごく大きいな。
後進地帯だった江南を現代にまで至る先進地帯に開発したし。
664 :
世界@名無史さん:2009/12/10(木) 22:16:16 0
孫権は三流君主ですがね。でも、五胡一六国時代から分裂状態だったら中国は
ヨーロッパみたいに小国乱立状態が今でも続いていたかもしれない。
趙匡胤は人種的にトルコかもしれないが
話している言葉は中国語だったでしょ。
李克用もテュルクだが、李姓を賜って中国語をはなしてたでしょうね
それでも沙陀と呼ばれてたのは、世代がまだ短かったからか。
趙匡胤の場合、地域的に突厥との交わりが強かったんじゃないか
ってな話だと思うけどね。
沙陀系親軍だからテュルクってのは理由としては弱い。
だってそもそもは幽州節度、鎮州節度の属官なわけだし。
667 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 19:42:23 0
もう、この頃になるとテゥルクも漢民族も大差はない。
そもそも、唐王朝も鮮卑族系だからね。
と、いうよりも出自はテュルクでも、在地に同化してしまえば
それは中国の民だから。
血統的にはもと突厥っていっても、厳密に考えれば考えるほど
あまり意味のないことじゃないかと思ってしまう。
沙陀の場合は唐朝に帰属した外人部隊という色合いが強いから
明確に分けられるけどね。
赫連氏、白氏の吐谷渾なんかも。
唐が鮮卑系とか言っても無意味だよな。
そういう民族意識ってものが当時はまだ無かったから。
漢字漢文の読み書きができて漢風の服装してりゃ当時はどこの出身でも問題なし。
そういう民族意識ができたのは宋以後だ。
670 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:18:05 0
唐王朝って実は前漢・後漢よりも支配力の弱い政権じゃない。
現に則天武后に国を乗っ取られ偉氏に国を乗っ取られかけて、安史の乱で都を
奪われる脆い王朝。
中央集権の欠点は、頂点を牛耳ることで全体を支配できてしまう点にある。
つまり頂点の支配力によって、意外と脆いものだと思う。
安禄山の場合、軍事の中央集権だったものを、地方に分権した結果
その均衡が崩れた好例といえる。
皇帝を始めとした朝廷が、揺らぐと国全体が揺らぐから、まともな統率力が
ないと、やっぱダメ。
宋の場合は、漁色家と無気力な皇帝がいなかった珍しい政権で
前時代の教訓と文官のちからが強かったからかしらんけど
軍閥の台頭を許さなかった点でも稀有だわな。
おかげで外圧で滅びたけど……(これも頂点の腐敗)
672 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:54:10 0
まあ、玄宗が楊貴妃と出会わず名君の状態を死ぬまで維持出来たら、唐の支配体制は弱くならなかったかも
でも、次代から問題が噴出して8世紀末には安史の乱みたいなのが起きるな。
武則天時代からすでに府兵制は破綻しつつあったから
早晩、節度使体制(か、それに類するもの)に移行したでしょうから
国境と辺境の意識の乖離が、大きな溝を作ったであろうことは
高い可能性をもって考えられるかな。
で、一回問題が表面化しないことには、憲宗とかの出番はないですからね。
どの道、玄宗は名君の時代に節度使を設置しましたがね。
まあ、玄宗が名君の状態を死ぬまで保っていたら、彼の代までは辛うじて節度使も
機能してたが、孫の代で問題は表面化したでしょうね。
唐は、周辺諸民族(日本人を含む)からどうしても過大評価されてしまう。
周辺諸民族が唐から文明を移入したからそうなる。
日朝越から見れば唐の存在感は大きい。
しかし、唐の内実はと言えば、漢ほど強勢ではないし、宋ほど繁栄もしてない。
所詮は貴族制時代の王朝。
宋は強勢を捨てて内的な安定と繁栄を追求した時代。
外征は振るわなかったが、国力は充実してたから専守防衛ならその武力だって大した物だった。
モンゴルの侵攻を50年も食い止めたのは宋だけ。
他のが強すぎたから過小評価ってのは何となく分かるがモンゴル軍を長年斥げたのは全く別理由
モンゴルは基本皆兵騎兵だから機動力や拠点制圧戦では凄まじい戦果を上げるが
…が反面水上戦や沼沢地などのゲリラ掃討戦など騎兵の運用に向かない地域では芳しくない
そのため南宋攻略は中々進まなかった
(事実あの高麗のゲリラに過ぎない三別抄すら完全制圧に数年かかってるし)
677 :
世界@名無史さん:2010/02/24(水) 11:55:13 0
旧法党と新法党の争いは、現代では新法党の方が好意的に描かれることが多いけど、
当時の庶民たちも新法党の政策に賛成していたの?
678 :
世界@名無史さん:2010/02/24(水) 13:19:30 0
概ねその通り
反対したのは形勢戸。
つまり中流以上の既得権益者。
国の官僚は、そういった層からの出自が多く、ために
激烈な反対を受けたわけ。
保甲法と保馬法は農民からの反対も凄まじかったと読んだことがあるが。
>>680 そのものずばり、農民の軍事への徴兵だから、反対もそりゃ大きい。
もともとその両方とも、根本的解決には結びつかないしね。
682 :
世界@名無史さん:2010/02/27(土) 00:14:11 0
>>374 >宋代初期に四川が鉄銭行使地域になった理由
超遅レスだけど
ウィキペディアに説明が載ってました。
銅資源流出阻止のためみたいです。現代の資源戦争にも通じるお話ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%8A%AD 四川地方は元々独自経済圏を形成していたとか、茶の産地であったというのも要因に挙げられてます。
つーか、宋銭の鋳造量ってものすごいですね。
あんまりたくさんあるんで骨董価値がないも同然らしいし。
年平均7億枚×300年として、2000億枚くらい!?
ピーク時には年60億枚!!!
(600年遅れて江戸幕府が鋳造した「寛永通宝」の総量は600億枚くらいだそう)
皇朝十二銭の流通に失敗した日本の需要は半端なかったみたいです。
平清盛は宋銭を輸入することによって、経済をコントロールしようと
今の日銀のような立場を目指してたのでしょうか。
中国元の影響力が拡大する現代を見るに
この時代の経済史を学ぶことは、なかなか教訓になるような気がする・・・
宋の時代までは福建地方あたりには野生の象がまだ生息していたらしい。
明清の頃にはいなくなってるみたいだけど。
やっぱり石炭エネルギー革命での好景気による急速な自然破壊が原因なのかな。
現代中国にも通じるお話ですね・・・。長江イルカはもう絶滅しちゃったんだっけ?
北宋は人口が増加した時代だけど
南宋の1210年頃から逆に急激に人口が減少したらしい。
当時はまだ北方の金が健在だし、戦乱による荒廃が理由でもなさそうなんだが
原因はなんだったのでしょうか?
現代の日本のように、少子化や晩婚化、2ちゃんねる、経済的な衰微、とかかしらん。
684 :
世界@名無史さん:2010/02/27(土) 00:50:27 0
全人口を把握できなくなったとか、政府側の理由に思える。
四川のとある市場にて
「よう、おやじ。絹一匹くれや」
「へい、鉄銭だと2万枚になりやす」
「どひー!」
「も、もってきたぜ・・・ハァハァ。これで全部だハァヒィ」
「じゃ、枚数を数えますんでちょっとまってておくんなし」
―3時間後―
「お客さん、一万九千九百九十八枚しかありませんや。これじゃ売れないね」
「どひー!」
銀は無いのかい
四川では後蜀で流通していた鉄銭を用い、本国とは経済的に切り離しされていた。
インフレもすごかったんだろうなぁ
688 :
683,685:2010/03/19(金) 21:12:32 0
中原にまだ象がいたのかと思えば、雲南の話しかw
東南アジアに分類した方がよさそうな地域だよな。
690 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 20:29:11 0
宋「遼ムカツクけどあいつら強い・・・金さんあいつら滅ぼすの手伝ってくれ!」
金「いいよ。俺らもぶっ潰したいと思ってたところだし。」
↓
宋「遼は滅びたけど燕雲十六州も全部欲しい・・・蛮族との約束なんて守る必要なし!こっちの物にするぞ!」
金「ふざけんなテメーもぶっ潰す!」
↓
北宋滅亡、亡命政権の南宋時代へ
↓
南宋「金ムカツクけどあいつら強い・・・モンゴルさんあいつら滅ぼすの手伝ってくれ!」
モンゴル「いいよ。金滅ぼしたら領土の西北の方は俺らがもらうぞ」
↓
南宋「金は滅びたけど開封や洛陽も取り戻したい・・・蛮族との約束なんて守る必要なし!こっちの物にするぞ!」
モンゴル「ふざけんなテメーもぶっ潰す!」
↓
南宋滅亡
691 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 21:51:38 0
世界大戦時の日本もそんな感じだな。
X遼ムカつく
○一度も支配したことが無い燕雲16州奪還を名目に侵攻したのは宋で、返り討ちにあった挙句、一州割譲して盟約結んで勘弁してもらったヘタレw
金が強制になると、遼を滅ぼして
>>690の流れになるが以下略
で、モンゴルとともに金に侵攻するときも次にやられるのはおまえらだぞ!わかってんのか!コラ!との国書が届くが、南宋は無視、滅ぼしてしまって、
案の定、自分たちが次のターゲットになったで御座るよw
もっと推敲しようか
お前ムカつく
698 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 01:52:58 0
ほしゅ
「然かー。
700 :
世界@名無史さん:2010/07/24(土) 12:09:53 O
質問です。蔡確はどのような人物でしょうか?
正直王安石の子分の出世頭で新法派の最右翼ってイメージしか無かったけれど
ググッた所
世渡り上手な上に政務家としては一流だったが
反面出世のためなら恩人すら売る変節漢で自己中
結局その性格が災いして失脚
こんなところか?
新法って大きな政府で社会主義なんですか?
703 :
世界@名無史さん:2010/08/11(水) 21:14:06 0
宋銭は日本の貨幣経済を支えたのですが
キタイやクメールなんかも宋銭が流通していたりしなかったのでしょうか?
704 :
世界@名無史さん:2010/08/11(水) 23:38:03 0
>>702 はい、宋王朝は朱子学を信奉していましたから、ナチズムです。
>>690 ぷっ 北中国なんか住民がもともと鮮卑とか匈奴だから、
宋よりも金や元に親近感を感じて宋がぶっつぶれるのあたりまえだろw
706 :
世界@名無史さん:2010/08/12(木) 09:33:30 0
>>702 旧法党は国家は民間に関与しない新自由主義。
707 :
世界@名無史さん:2010/08/17(火) 23:13:44 O
上げ
708 :
世界@名無史さん:2010/08/18(水) 12:00:57 O
>>702 逆じゃね?
災害用の貯蓄をリスクのある金融に回すって、
郵政民営化とよく似てるじゃん
どうせ備蓄しても、通気管理したり温度管理が大変だ。
毎年在庫の入れ替えが理想的だが、宋・元・明・清でそこまで執着していたケースは
清代の辺境地区ぐらいしかない。
どーせ宋代の災害用の貯蓄なんて、私的に官吏が融通して必要な時に存在しない。
私的に官吏が運用なんて平成日本でも年金基金でよくやっているじゃないか。
自分たち用の年金は別枠にしてさ。 いずれ金や元みたいな勢力に侵攻されるだろうな。
>>704 そういえば林語堂も『蘇東坡』の中で新法について否定的に評価してましたね。
712 :
世界@名無史さん:2010/08/21(土) 00:21:24 0
>>132 宋以後の文化を何でもかんでも宋学の功績にしてないか。
宋学の核心はただの空虚な宇宙論と儒教注釈だけじゃん。
713 :
世界@名無史さん:2010/08/21(土) 05:29:14 O
ボルジギン氏族
714 :
世界@名無史さん:2010/08/21(土) 20:00:48 0
耶律大石
715 :
世界@名無史さん:2010/08/21(土) 20:04:48 0
段正淳
716 :
世界@名無史さん:2010/08/21(土) 20:05:57 0
李元昊
717 :
baidu:2010/08/21(土) 22:23:06 0
耶律阿保机
718 :
世界@名無史さん:2010/08/21(土) 22:32:13 0
完顔阿骨打
∧∧ ∧∧
/ 李 \ こずかい / 金 \
( ´∀`) ちょうだい ( `ハ´ )
( 西夏 )っ / ̄ ̄ ̄ ̄ (完顔 )
| | | Λ_Λ / 本当に | | |
(__)_) ( ・∀・)< ウザい奴らだな (_(__)
_φ___⊂)__\____
/旦/三/ /|
∧∧ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | ∧∧
/ 段 \ | 趙氏宋朝 |/ / 遼 \
( `ハ´ ) (´∀` ) こずかい
( 大理 ) と(耶律 ) ちょうだい
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(__)_) (_(__)
| | |
Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (_(__)
( ・∀・)< ウザい王様たちがいなくなったな
_φ___⊂)__ \ 完顔氏はどうしてるんだろう
/旦/三/ /| \_____________
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| 趙氏宋朝 |/
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{!!! _ ヽ、
~ `、 \
∧元∧ , ‐'` ノ
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γ' −、_,-ュ ¥ ノ
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\ `ヽ / __ノ ァヮヮ
\ \  ̄(;:ノД`)ー'⌒Y
ノ _> ノ ノ _宋,, ノ
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遼に弾圧されていた女真と組んで遼を滅ぼして燕雲を回復しようとしたのはいいと思うんだけど、当時の政府がマトモじゃなかったからね。マトモなら金と友好関係保てたのにね。