1 :
世界@名無史さん :
2005/05/30(月) 01:19:32 0
2 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:20:05 0
邦語文献一覧 ・アンダルス史関連 W.M.ワット『イスラーム・スペイン史』岩波書店、1976(※絶版) 余部福三『アラブとしてのスペイン』第三書館、1992 D.W.ローマックス『レコンキスタ』刀水書房、1996 安達かおり『イスラム・スペインとモサラベ』彩流社、1997 Ch-E.デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』藤原書店、1997 R.フレッチャー『エル・シッド』 法政大学出版局、1997 K.B.ウルフ『コルドバの殉教者たち』刀水書房、1998 近藤仁之『スペイン・ユダヤ民族史』刀水書房、2004 ・通史 立石博高編『新版世界各国史 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000 立石・関・中川・中塚編『スペインの歴史』昭和堂、1998
3 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:20:34 0
180 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/04(水) 18:40:24 0 スペインの中世考古学で興味深い分野は農村部の灌漑システムの発掘だろう。 古代ローマ末期の都市の衰退から、イスラムの統治、レコンキスタを経て領主 支配の封建社会、と社会制度がかわるにしたがって灌漑システムの運用の仕方 も変遷し、それが雄弁にシステムのデザインにも変化をもたらす。 さらに各時代での新たな技術・東方からの目新しい作物の導入が加わり、小規模 エリア内でのエコ・システムの人工的な変革(もともと半砂漠気候の南スペインに 亜熱帯の極小気候帯を作り出す)を行い、地域経済・社会に大きな変化をもたらした。
4 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:21:17 0
258 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/25(水) 19:46:46 0 アル・アンダルスでは灌漑農耕が盛んであり、レコンキスタ後の史料を見る限りで も、元々灌漑地であった土地がどんどん乾地農耕である小麦畑へと姿を変えていっ ている。イスラム教国が北部キリスト教国から小麦をかなり輸入していたデータも ある。つまりアル・アンダルスでは相対的に小麦の耕作面積は小さかったのかな。 部族的なつながりのある農業共同体の社会であるアル・アンダルスでは、農民たち が政策的に、富の蓄えが出来ない灌漑耕作物(野菜とか果実とかね)を意図的に集約 して作り、余剰生産の多くは都市市場への売買を目的とし、封建領主の出現を防い でいた、という説もあるけど・・・。 じゃあ、アル・アンダルスの食生活はどうだったの?かなりバラエティに富んだ、 バランスの取れた食生活だったみたいだけど、主食は何?知ってる人、教えて。 ↑こういう情報って、本屋で買える本には出てこないよな? どこで入手するの?
灌漑といえば、バレンシア周辺の大耕地(ウェルタ)。今でも 稲作してるよね。パエーリャはもともとバレンシアが本場。 16〜17世紀初頭のモリスコ追放までは、イスラム教徒たちが 農業を支えていた。追放のせいでバレンシアでは人口が3割も 減ったらしい。
6 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:39:51 0
すごく局地的だが良スレにしてくれ
7 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:40:08 0
後ウマイヤ朝時代に、アル・アンダルスにサトウキビが持ち込まれた。
『狼王』イブン・マルダニーシュについて語れる漢はおらんのかあっ!! 『恐れ知らずの』ジラルド(キリスト教徒だけど)も!!
9 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:58:14 0
なぜピレネー以南を全部征服しておかなかったんだ...
10 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 02:15:11 0
>>9 一時的になら全部征服したよ。ただ、カンタブリア山脈以北のアストゥリアスや
カンタブリアはすぐ(722年のコバドンガの戦いで)離反したけどね。
カタルーニャはシャルルマーニュに取られたし。
11 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 03:02:53 0
カンタブリアなんて一時的にすら支配して無いだろ。。
12 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 03:14:06 0
>>3 >>4 日本では手に入らないかも。現地では盛んに研究されてるよ。
M.Barcelo、P.Guichard、A.Bazzana、A.Malpica、T.F.Glick、L.Bolens
あたりが詳しいかも。
大都市には政府高官や貴族のレクレーション・耕作地であるAlmuniaが点在し、
集約的な耕作方法で東方からイベリア半島に持ち込まれた目新しい作物の実験
的な栽培が行われ、その地の気候に順応させてから普及させた。
13 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 09:12:38 0
エルサレムなど東方において十字軍が暴れ回った時、エジプトではキリスト 教徒が血祭りにあげられたというのをどこかの本で読んだ憶えがあります (書名は失念しますた)。イベリア半島内のレコンキスタならいざ知らず、 東方における十字軍のとばっちりを受けて、イベリア半島のイスラム領内に 住むキリスト教徒が血祭りにあげられることは多かったのでしょうか。 厨な質問で大変申し訳ありません。
14 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 14:35:12 0
4 :世界@名無史さん :2005/03/22(火) 03:14:42 0 イスラム勢力とキリスト教勢力との関係も、敵対的な側面と共生的な 側面が時代によって様々な配分で現れることがわかってきている。 従来言われていたような「イスラム側=寛容、キリスト教側=偏狭・ 非妥協的」ってのも、いつもそうだったわけではない。 ムラービト朝やムワッヒド朝時代にはイスラム側もかなり非妥協的になり、 ユダヤ人がアンダルスからキリスト教圏に亡命したりしている。 かと思えば、武勲詩で有名なエル・シッドことロドリゴ・ディアス・デ・ ビバールがサラゴサのイスラム君主に傭兵隊長として仕えたり、 彼と仲の悪いカスティリャ王アルフォンソ6世は若い頃トレドのタイファ国家に 亡命していたりしている。
15 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 14:55:47 0
>>13 エジプトでのキリスト教徒虐殺というと、有名なのがファーティマ朝の
アル・ハーキムの治世ですが、これは十字軍よりも前の時代です。
また、イベリア半島に信仰したムラービト朝とムワッヒド朝は、
イスラームの純化と強烈な聖戦意識に支えられていて、キリスト教徒
だけではなくユダヤ教徒に対しても不寛容でした。
16 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 14:58:36 0
>>9-
>>11 やはり北のほうは、山がちで攻めにくいうえに、
経済的重要性も低かったので、
ムスリムがあんまりこだわらなかったのでは?
よく考えたら、初期のイスラム軍て、アラビアや地中海沿岸など、
平地(ていうかほとんど砂漠)ばっかりを転戦してきたんですよね。
ムラービト朝ってオスプレイの本によると歩兵密集陣をつくって戦ったらしいですね。
>>16 対サーサーン朝の戦いではザグロス山脈を越えてイラン高原に侵入してるし、
アルメニア・グルジアなどザカフカースを征服した時もクルディスタンの
山岳地帯を通過し、さらにカフカースの北のダゲスタンまで侵攻してるし、
マグリブの征服の時にもアトラス山脈に分け入ってますが。
19 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 21:28:16 0
>>13 宗教的に先鋭化する12世紀以前は、
ムスリムから見た異教徒の庇護民=人頭税・地租の金づる
ムスリムから見た異教徒の捕虜=身代金の金づる・奴隷として転売できる
金づる
だから、血祭りにあげるってのは多くないと思う。キリスト教徒側から
みたムスリムも同じようなもん。とにかく双方とも略奪遠征が多かったから、
殺すなんてもったいなくて。
12世紀以降でも、十字軍のような屠城行為はほとんど見られない。せいぜいが
全住民奴隷化・転売。
20 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 22:16:55 0
アル・アンダルスではユダヤ人の活躍も著しかった。 例をあげると、アブド・アッラフマーン3世とアル・ハカム2世の宮廷医を つとめたハスダイ・イブン・シャプルートと、 ジール朝グラナダ王国の宰相にまでのぼりつめたシュムエル・イブン・ナグレーラ など。
21 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 23:21:10 0
88 :世界@名無史さん :2005/05/30(月) 01:13:38 0
ムスリムとケコーンしてる日本女性は多いんだよね。
不幸度にもビックリ
>主人の知り合いの多くは、平気で嘘をつき、
約束は守らず、人の顧客は平気で奪い、
ミスがあったら人のせいにし、
オーバーステイだった人はビザ目的でさっさと愛の無い結婚をし、
外では浮気三昧といった感じです。
Yahoo!掲示板
ホーム > 地域 > 世界の地方 > 中東 > 自己愛の塊の夫と共に・・・
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1834682&tid=bcab8j0a6a4n2ta4niwa4h6a6a4ka1a6a1a6a1a6&sid=1834682&mid=1 やっぱイスラムとの結婚禁止にした方がいいかも
89 :世界@名無史さん :2005/05/30(月) 10:30:16 0
13 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/30(月) 09:12:38 0
エルサレムなど東方において十字軍が暴れ回った時、エジプトではキリスト
教徒が血祭りにあげられたというのをどこかの本で読んだ憶えがあります
(書名は失念しますた)。イベリア半島内のレコンキスタならいざ知らず、
東方における十字軍のとばっちりを受けて、イベリア半島のイスラム領内に
住むキリスト教徒が血祭りにあげられることは多かったのでしょうか。
厨な質問で大変申し訳ありません。
十字軍の喧伝には忙しい回厨はこういう事は決して言わない。
やつらはイスラムの宣伝広告マン
22 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 23:40:55 0
>>5 バレンシアの灌漑はその起源をイスラムに求めるのか、それともローマ時代にまで
遡るのか、いまだ論争しているんではなかったか?
確かローマ時代の灌漑のローテーションを記した板だったかが発掘されたはず。
ただし、起源を探るその論争自体、不毛なものだ、と揶揄する意見もあるのだが。
23 :
世界@名無史さん :2005/05/31(火) 10:25:17 0
トレドの伝統工芸ダマスキナードは、イスラーム圏から伝わったもの。
24 :
世界@名無史さん :2005/05/31(火) 13:03:12 0
イベリア半島がイスラムのままだったらイスラム教徒が最初にアメリカ大陸見つけてたんじゃないかな
後ウマイヤ朝末期に宰相のマンスールが絶大な権力を握っていた頃、 北の海ではレイフ・エリクソンがすでにアメリカ大陸に到達していた。
26 :
世界@名無史さん :2005/05/31(火) 13:28:41 0
アブドゥル・ラーマン3世の時代、アル・アンダルスから毎年の貢租 として金貨1204万5000ディナールを引き出した。 王都コルドバは600のモスク、900の浴場、20万の家屋を数え、 グアダルキビル川の流域には1万2000におよぶ村落があった。 (多少の誇張はあるかもしれないが)
27 :
世界@名無史さん :2005/05/31(火) 21:35:28 0
Qurtuba(コルドバ)の人口には諸説あって、史料によっては50万人なんてのも あるが、実際は最盛期の9〜10世紀で10〜15万ってとこじゃないか? まあ10万でも当時のローマやパリよりずっと多いわけだが。
28 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 00:15:30 0
アブドゥル・ラーマン3世は、ザフラー宮殿を造営するとき、 コンスタンティノープルから職人を呼び寄せた。 そのためここには今でもビザンティン風の装飾が見られる。 またコルドバのメスキータの馬蹄形アーチは、西ゴートの様式である。
30 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 08:22:49 0
31 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 11:26:53 0
32 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 17:20:09 0
タイルもムスリムがスペインに持ち込んだもの。 クエルダセカ技法によるアラベスク模様のタイルは有名。
33 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 18:34:22 0
陶芸の技術は常に東方からの影響があり、いかに東方(特に中国産の磁器)の技術 を模倣するか、ということで発展してきた歴史がある。その中から鉛製の上薬(な めらかな白い皮膜を作り出す)などが生まれた。コルドバ・カリフ時代に一世風靡 した様式は白地にマンガンの黒い輪郭線、銅の上薬による緑を使った文様をつけた もの。verde y manganesoとか、カリファート様式などと呼ばれ、メディナ・アッ サーラやカリフ時代のグラナダ、エルビラ遺跡などから多数出土している。 時代は下って、ナスル朝時代のグラナダや、後ムデハルを通じて伝わったバレンシ アのマニセスでは、reflejo metalicoと呼ばれる銅の光沢を帯び、優雅なアラベ スク模様で飾った絢爛な様式がはやった。アルハンブラ宮殿には同様式の代表作、 ガゼルの壷が残っている。 ちなみに、クエルダ・セカ(cuerda seca)の技法は、マンガンを含んだ陶土を細い ひも状にして陶器表面に輪郭線を描き、その紐を境界線として様々な色の出る上薬 をステンドガラスのように乗せていく方法。ある研究によると、この技術はアル・ アンダルスで独自に開発された技法ではないかと目されている。
34 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 20:10:08 0
>>23 ダマスキナード(damasquinado=彫金細工)は古くは古代エジプトでも行われて
おり、ギリシャ、ローマにも伝わっている。現在見られるような形に完成され
たのはビザンチン帝国、ともいわれている。よって、イベリア半島には、あくま
でイスラムの文化を媒体として、昔から地中海世界に存在していた技術が伝播し
た、とするのが正しいだろう。もちろん、名前が示すように、当時スペイン人が
ダマスカスから伝わった工芸、ととらえていたのだろうけど。
ちなみにスペインでは別名、ataujiaともいうらしい(アラビア語起源ね)。
35 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 23:13:29 0
なるほど。さすがは世界史板住人。 どうやら専門研究者がいるみたいで、俺みたいな単なる 歴史オタとは、カキコの次元がちがうわい。 ところで質問なんですが、イスラム時代というのは 現代スペイン史学の中では、どういう評価をされているんですか? スペインの黄金時代といえば、大航海時代をまず思い浮かべるが それ以外に、コルドバ時代も十分黄金時代と呼べる繁栄ぶり だったわけですね。 しかし、レコンキスタというどこか否定的なニュアンスの言葉が 使われたりして、どうもイスラム時代というものが、スペイン史の なかで、否定的な扱いを受けている気がするんですが。
36 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 23:43:25 0
コピペ。 というか、アル・アンダルスの語源はR.Dozyの言うように、ほんとにヴァンダルか ら来ているかどうかはまだ論争の中では。アンダルスという言葉が出てくる初期 のアラビア語文献を見る限り、Jazirat al-Andalus(アンダルスの島)という表現 が、グレコ・ローマンの伝統を継いだ大西洋(もしくはアトランティス)の島、という 表現の単なる翻訳とも取れる。つまりアンダルス=大西洋・アトランティスの訳、 という説。 またはゴート族の伝統で、占領した土地はくじ引きで分配するので、このイベリア の地は"くじ引きの地(Landahlauts)"と呼ばれ、それがアラビア語表記で(Al-) Andalusと呼ばれるようになった説、等など。 ローマ起源の都市の名前が、時代を経て現在まで残っている例はままある。 例えばサラゴザ。Caesar Augustaがイスラム統治下ではMedina Sarakustaと 呼ばれ、現在のZaragozaにつながる。時代が変遷し、統治者が変わっても案外 土地の名前というものはしぶとく受け継がれていくものだと納得。
>>35 現代のスペイン史学会のことは
>>12 さんに譲るとして・・・
長い間、スペイン・ポルトガルの研究者たちは、アル=アンダルスを
軽視してきた。というより、「イスラム勢力は、イベリアにおけるキリスト教
社会の発展を中断させた。イスラム勢力が来なかったら、今頃俺ら
フランス並に進歩してた」といった考え方が幅を利かせていた。
そういった研究者の代表が、西葡総合スレにも登場してたサンチェス=
アルボルノス(C.Sanchez Albornoz)。
これに対して、「キリスト教スペインは、ムスリム社会との相互作用によって
余儀なくされたものを自らの生き方に組入れ移植した時に、存在するに
至った」と言い切り、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教徒の共存から近代
スペインが生まれたと主張したのがアメリコ・カストロ(Americo Castro)。
1950年代はこの2人の論争が熱かった。
余談だが、ムスリム嫌いのアルボルノスの姓であるAlbornozの語源は、
「フードつきマント」を意味するアラビア語らしい。
ttp://homepage2.nifty.com/fuji-teivo/hyoron/jyunshin-jyosi/america-castoro.html
38 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 00:49:10 0
>>30 マディーナトゥッ・ザフラーは、1010年以来何度も破壊されたり建材供給地と
して利用されたりしてるので、自然の侵食以上に傷んでいる。
一応1910年以来発掘を含む調査は行われているし、閣議所とモスクが復元
途上にあるらしいので安心されたし。
ちなみに、1010年にはここにはベルベル人部隊が駐留していたんだが、
アル・マンスールが呼び寄せたこれらベルベル兵を嫌うコルドバの下層市民に
よって襲撃され、略奪された。後ウマイヤ朝を滅ぼした、アンダルス人対
ベルベル人・スラブ人の闘争の余波がこんなところにも現れている。
また、建材泥棒の一人にムラービト朝のアブー・ヤアクーブがいる。建材は
今セビーリャのヒラルダの塔の一部に化けているらしい。
40 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 05:14:23 0
>>37 さんが、サンチェス・アルボルノス、アメリコ・カストロの論争について
は詳しく説明されたので。。。
フランコ時代のファシズム思想が、スペインの歴史学会にネガティブな影響を
与えたことは否めません。専制的な政治体制が、純粋な学問である歴史学を、
結果的に人々の意見を操作するために使われてしまったのは悲しいことです。
ようするに、近現代スペインが、西ゴートのゲルマン文化の正当な継承者であ
るという、なんともあいまいな事実を強調したかったのですね。
また、マルクスの進化的社会論的な歴史観も、右翼思想とは対極をなすもので
すが、歴史を考察にあたって客観性を失わせていたのも事実でしょう。
フランコの死後、民主主義、地方自治体勢力の台頭により、地域研究が盛んに
なり、いままで余りスポットを当てられなかった分野・時代にも歴史学のメス
が入るようになり、イスラム統治下の時代の歴史も積極的に評価する姿勢が高
まってきました。さらに、技術の進展、メソッドの熟成により、中世考古学も
急速に発達し、地質学、植物学、化学分析など、学際的な研究がなされるよう
になったことにより、もとより残存している文献資料が格段に少なく、従来の
歴史文献学では限界のあったアル・アンダルス史にも、多大な知識をもたらす
ようになっています。
とはいえ、従来の歴史学メソッドに固執する研究者層も、スペイン歴史学界に
は今でも珍しくなく、これらの革新的な方法を懐疑的に見ている人も、中には
いるようです。
考古学を積極的に取り入れようとしている学者層でも、文献資料もおろそかに
してはいけない、寧ろ双方は互いに補完しあうものだ、と自己批判しています。
スペインの中世考古学は、都市や歴史的モニュメントの発掘よりも、中世社会
の事実上の推進力であった農村部に眼が向けられ、航空写真分析なども含む広
域的な発掘調査にこそ、活気があるように感じられます。
41 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 10:35:34 0
42 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 10:53:41 0
グラナダの国王の子孫が寺院の施しで暮らしていたという話を 聞いたことがあります。 これは、どこまで事実ですか。また、出典はどこですか。
43 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 13:31:12 0
「レオ・アフリカヌスの生涯」ではグラナダ王はチュニジア辺りに亡命したことになってたな。 亡命グラナダ人社会の中で白い目で見られてたみたいな描写があった。
44 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 17:02:04 0
45 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 17:08:56 0
46 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 17:24:07 0
アブドゥル・ラフマーンはアッバース朝の第二代カリフ、マンスール から「クライシュの鷹」と呼ばれた。 後ウマイヤ朝は、北アラブ(シリア人中心)・南アラブ(イエーメン人中心) ベルベル人・エジプト人・イスラームに改宗したイベリア半島原住民 (ムサーリム)・土着のムスリム(ムワッラド)・アラブ化したキリスト教徒 (モサラベ)・ユダヤ教徒など、多様な人種・民族・宗教集団を抱え込んで いたので、派閥抗争が絶えなかった。 777年、サラゴーサの総督だったスライマーン・イブン・ヤクザーン・ アルアラビーは、フランク王国のカール大帝を訪ね、 「王よ、もしアブドゥル・ラフマーンを攻めるおつもりなら、私は王と 同盟を結び、一緒に攻めましょう」 と申し出る。結局スライマーンは部下に殺されてこの企ては失敗に終わる。
47 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 19:06:40 0
48 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 19:43:44 0
やっぱりアラビア語を話してたの?
استعرب اهل الاندلس بخصوص لغتهم كاملا حتى القرن الثالث عشر܂
50 :
世界@名無史さん :2005/06/03(金) 06:28:40 0
↑を↓のサイトで英訳したら、
ttp://www.systran.fr/index.html [aaste'rb] family of Andalusia with regard to their language is complete until the century third ten.
ってなったけど、「13世紀までに完全にアラビア語化していた」ってことでいいの?
支配階層だけでなく庶民まで?
51 :
世界@名無史さん :2005/06/04(土) 00:09:45 0
ドン・ペラーヨがイスラム軍をコバドンガで制圧したのがレコンキスタの始まり、 なぁーんてのは後から勝手に理由付けたもの。その時分は対イスラムとか、宗教的 な聖戦とかの思想はなかっただろうね。
52 :
世界@名無史さん :2005/06/04(土) 00:14:34 0
後んマイや朝も2期にわかれるんだよね。あくまでバグダッドのカリフが 正統で、エミールを名乗っていた時代と、自らをカリフと名乗り始めた 時代(アブドゥル・ラフマーン3世からだっけか?)。
後ウマイヤ朝で、カリフとして自ら威厳を持って統治したのは アブドゥッラフマーン3世と次のハカム2世ぐらいしかおらん罠。
54 :
世界@名無史さん :2005/06/04(土) 03:55:02 0
コバドンガは地名じゃない!
55 :
世界@名無史さん :2005/06/04(土) 08:43:42 0
>>54 で、何を根拠に?ピコス・デ・エウロパのアストゥリアス州側入り口付近にあり。
さらに山上の氷河湖も有名。
56 :
世界@名無史さん :2005/06/05(日) 23:46:05 0
cova=洞窟、Donga=聖母。聖母の洞窟、という意味だから、固有の地名じゃ
ないよ。・・・と
>>54 は言いたいんじゃないの?
そこでゴート族の出番ですよ。
58 :
世界@名無史さん :2005/06/06(月) 11:14:49 0
274 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/06/04(土) 23:49:55 0
>>271 さん、
>>272 さん。
調べてきたよ。
ムーア人は従来マグリブ地方のネイティブをさしていた言葉だったけど、
イスラム化以降はイベリア半島のムスリムの総称へと変化したんだって。
だから、民族系統や語族は関係ないみたい。
トルコ系クルグリス人、ゲルマン系シャウィア人、黒人系のズメラ人に、
古代ヌミデイア王国末裔であるカビリア人にムザビト人も全部ムーア人。
60 :
世界@名無史さん :2005/06/06(月) 19:50:40 0
ムスリムのゲルマン人なんて集団がいたんか、すげえな。
61 :
世界@名無史さん :2005/06/06(月) 19:52:01 0
ヴァンダル族の子孫がイスラームに改宗したんだろうか?
イブン・ハフスーンのようなイスラームに改宗した西ゴート貴族しか知らんわ。
63 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 21:51:58 0
>>60-61 ベルベル人のサブグループであるシャウィアとゲルマン系種族との近縁性が
立証されたという話は聞いたことがないが?
>>62 ハフスーンの場合は、ムスリムとして生まれ育って、敗色濃厚になってから
キリスト教に改宗してるから、どっちかっていうと逆www
まあハフスーンがムワッラド(先祖がムスリムに改宗したスペイン土着系人)
だったのは確かだけどね。
というか、ハフスーンの話を伝えてる10世紀コルドバの歴史家、アル・
クーティーヤにしてからが、姓が「ゴート女の(子孫)」という意味だ・・・
64 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 22:34:35 0
朱由檢氏が調べたといっているんだから本人に聞けばいいだろ。 聞いたことが無い=事実ではないと思うのだが。
65 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 22:44:26 0
ムワッラドは何語を話してたの?
66 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 23:11:33 0
土着スペイン人がアラビア言語化されたのは割と早かったようだね。 もちろん農村部と都市部ではかなり違いがあるとは思うけど。 また、モサラベなんかは独自の共同体を維持していた訳だからまた 条件は違うしね。 西ゴート貴族がイスラムの統治者の恩恵を得るためにムスリムに改宗 するのはまれではなかったんじゃないかな。メディナセリ家とかの 地方の豪族は、元西ゴートの高貴な出だったと記憶する。
67 :
世界@名無史さん :2005/06/08(水) 00:16:29 0
>>64 いやすまんかった。
とりあえず59の引用元スレで質問してみました。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1113649036/323 >>66 ヴィシゴート貴族出身といえば、
・カスィー家(ラテン名:カシウス)
8〜10世紀に上部辺境区(エブロ川流域)で勢力を振るい、ナバーラ王家
から嫁をもらって「第3のスペイン王」と呼ばれたこともある。
・アムルース家
後ウマイヤ朝後期に上部辺境区で活躍した。
が目立つ。他にムワッラド貴族としては、この辺か。
・ジーリッキー家(マルワーン家)
ジーリッキーとは「ガリシアの」という意。9世紀、下部辺境区で2代に渡り
後ウマイヤ朝に抵抗し、バダホースの街を建設。
・バクル家
アルガルベ(現ポルトガル南部)で9世紀からタイファ時代まで勢力を維持
した。
68 :
世界@名無史さん :2005/06/08(水) 14:01:06 0
69 :
世界@名無史さん :2005/06/08(水) 18:31:40 0
>>29 >>38 6月5日発行のDiario de Cordobaより。
<<Ya'far住居跡の発掘調査により、メディナ・アッサーラがEuropa Nostra賞を受賞>>
メディナ・アッサーラ遺跡は昨日、ノルウェー・ベルゲンで、EUが文化遺産の保存を
推進する目的で主催する、Europa Nostra賞を受賞した。
賞はEuropa Nostraの主催者で、デンマークのMonpezat公Henrik Laborde王子により
譲与されたと、アンダルシア州政府広報部からの文書により報告された。
この賞は2002年に正式にEUにより制度化され、ヨーロッパの文化遺産の保存に
貢献する公的・私的な事業に対する認知、援助の目的で開催されており、同種の事業
の推進に一役買っている。
(アンダルシア州の)文化局は、メディナ・アッサーラにおける、Ya'far住居跡の修復・
調査目的の発掘で今回の賞を受け取った。この発掘で同局は、534,000ユーロを投資
している。
Ya'far住居跡はメディナ・アッサーラ王宮住居区画の上部に位置しており、1970年の発
掘より、王宮で教育を受けた奴隷、Ya'far ibn Abd al-Rahmanの住居跡とみなされて
いる。Ya'farは宮廷で数々の高位高官の職に就いた後、カリフ、ハカム2世の手により
後ウマイヤ朝で最高の政治権力である、ハジーブに任命された。修復作業の主だった
ものには、唐草模様の門の保存、大理石と紫色石灰岩の舗装の修復などが含まれる。
この発掘により訪問者は、住居の類まれなる舞台・装飾空間を満喫することができる。
70 :
朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/06/10(金) 21:33:10 0
ベルベル人(ムーア人)とは、 マグリブ地方に住むムスリム(イスラム教徒)をさすヨーロッパ側の呼称である。 形質的にはコーカソイド(白人)であるが、南部では黒人との混血も見られる。 オーレス山間部のベルベル人は古代ゲルマン族ヴァンダル人の系統であり、 自身を“シャウィア”と呼んでいる。 (参考文献:『LE COSTUME HISTORIQUE』/Auguste Racinet著)
>>70 ソースが服飾・装飾史家の著作からってのがとっても気になるが・・・
shawia, shawiya, chaouiaで一通りぐぐってもそれらしい説には当たらなかったが・・・
まあそういう説を唱えてる研究者がいるってことはわかったよ。疑って悪かったな。
72 :
世界@名無史さん :2005/06/11(土) 13:04:34 0
>>4 亀レスだが、デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』によると、主食は
「細かく刻んだ肉と豆類で適度に味付けされた、小麦粉かセモリナの濃い
スープと一種のポリッジ(麦粉を牛乳・水で煮詰めた粥)が基本的食べ物で
あったようだ。(中略)しかし下層の民はソラマメ、エンドウあるいはヒラマメの
スープを主食としている。また野菜と薬草の入ったバーミセリ(極細にした
スパゲティ様の麺類)入りポタージュも愛好された。
(中略)小麦か大麦のパンが常用されたが、アル・アンダルスではマグレブ
から小麦をかなり輸入していた」
とある。ただし、上記はシチリアとアンダルス双方のことを述べているし、
そもそもデュフルクは出典をめったに明らかにしない人なので、慎重に読む
必要があるが。
副食は肉(生・乾燥肉双方)、魚(塩漬けアンチョビー等)、野菜(生食も
盛んだった)、フルーツ(生食・ジャム・ドライフルーツ・ジュース等)など、
やっぱりヴァラエティに富んでいたらしい。貧乏人はマメ類と黍ばっかり
だったらしいが。
73 :
世界@名無史さん :2005/06/12(日) 08:45:09 0
ガスパチョ スペイン風冷たい野菜スープです。 ガスパチョとは、アラビア語で“びちゃびちゃになったパン”という意味です。 スペインの代表的な夏の料理で、言わば飲むサラダです。 各家庭によって材料も違い、それぞれの家庭の味があります。 以前はすり鉢ですりおろして作っていましたが、ミキサーが普及して便利になりました。 暑い夏、夏ばて防止にも効果があり、美容と健康に役立つでしょう。 ★ (材料) トマト・ピーマン・キュウリ・玉ねぎ・ニンニク・トマトペースト・生パン粉・サラダ油・ワインビネガー 水・塩・胡椒 ★ 冷たく冷たく冷やして頂きましょう。 ↑これってアンダルス時代からのレシピだよね?
74 :
世界@名無史さん :2005/06/12(日) 09:05:30 0
↑そのころはトマトがなかったでしょう
75 :
35ですが :2005/06/13(月) 21:12:36 0
しつもーぉん! これはおそらく結論が出ていない質問なのでしょうが、 アル・アンダルスの繁栄の原因について、どのような説が 唱えられているんでしょうか。 こういう歴史上の繁栄地域は、たいてい交通の要衝であったり パワフルな土地生産力を、後背地に持っていたりしますよね。 しかし、アル・アンダルスはイスラム世界からも、 ヨーロッパ世界からも辺境地域であることは否めないし、 この地域が強力な土地生産力を持っていたようでもない。 かといって、それに替わる鉱山などがあったとも聞かない。 アル・アンダルスの繁栄要因については、どのような説が 出されているんでしょうか?
76 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 16:34:10 0
集約的農法による余剰生産物、ビザンチン帝国など東方からの華奢品の交易など、 交通の要所であったことなど。北方のキリスト教国とも常に戦争していたわけで はなく、比較的平和な時期には盛んに交易が行われていた。あと、アル・アンダ ルスの経済にはスーダンで産出される黄金も重要な役割を果たしていた。 レコンキスタ時代の「国境」に関しては、そのテーマのみで学会とかも開催され るくらいだから、結構研究されているよ。
77 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 19:45:49 0
78 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 19:52:27 0
>>73 残念ながらガスパチョの語源は後期ラテン語のCaspo(小片、などの意味)から
だそうです。似たような料理はアル・アンダルス時代にあったかも知れませんが。
トマト以外に、ピーマンも新大陸起源ですね。
しかしこのレシピ、ちょっと変。
79 :
35ですが :2005/06/14(火) 21:22:50 0
>>75 レスサンクス。
ほぉ。そのスーダンの黄金というのは、初めて聞きましたね。
中世では、金銀の保有高がイコール通貨の流量のはずだから、
十分な金の供給があれば、繁栄を維持できていた
というわけですかね。
80 :
35ですが :2005/06/14(火) 21:23:52 0
81 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 21:54:30 0
187 :世界@名無史さん :2005/05/04(水) 21:24:07 0 ムラービト朝時代、セビーリャとグラナダでは大量の貨幣が鋳造された。 モーリタニア南部のティジクジャから80kmのアシャリム遺跡から、スペインの マラガ(1枚)とムルシア(3枚)で、1107年〜1116年に鋳造された金貨(4枚)が 発掘されている。 また、カスティーリャ王国では早くも1112年ごろにはたくさんのムラービト朝 金貨が流通し、西北辺境のアストゥリアスやレオン地方にもこの金貨が流通 していた。その影響力は1173年鋳造のカスティーリャ王国の金貨が、 「マラボティ・アルフォンシ」(アルフォンス・ムラービト)と名づけられていた ことに如実に示されている。
82 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 21:55:16 0
ベルベル人はアル=アンダルスで林業もおこなっていたらしい。
83 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 22:02:17 0
《サハラ交易の形態》 サハラの北からは岩塩、馬、装飾品(宝貝・セウタの珊瑚など)、スペインの アルメリア産の大理石、アル=アンダルスやマグリブで織られた衣類・ 布地、ヘンナの種、乾果、パンの原料となる穀物、釉薬をかけた陶磁器などが 運ばれた。 一方、サハラの南からは金、黒人奴隷、黒檀、ゴム、皮革、象牙、インディゴ、 木材などが運ばれた。
84 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 22:27:56 0
アル・アンダルスへのムスリムによる再入植は、その土地に移り住むグループの 出身ごとに固まっており、そのグループがアンダルスへ移住する前に住んでいた 土地・気候形態に似通った所へ好んで入植する傾向があり、以前と同様な生活様 式を続けることに努めた。たとえばシリアなどから来たアラビア人たちは好んで 平野部・都市部に移り住み、アトラス山脈で林業・放牧などを行っていたベルベル 人は同じくイベリア半島の山間部に移り住んだ。 もちろん、例外はあるが。たとえばレバンテ地方の平野部に多く残るBeniで始ま る地名(Benicassim, Benidorm, Benicarlo, etc.)は、ベルベル起源の地名で はないかと考えられている。
85 :
35ですが :2005/06/14(火) 23:07:34 0
>>81-84 ほぉ。ますます興味ぶかいですね。
それほどの貨幣が鋳造されていたということは、
十分な金銀の供給があったということになる。
また、地理的には辺境にあっても、交易ルートとしては、
センターであったと。また、ムスリムの移住によって
農業、産業も活性化していた。
このあたりが、アル・アンダルスの繁栄を支えた
要因であるということですね。
86 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 23:47:47 0
>>75 1 ダール・アル・イスラームの辺境だから繁栄しないってことはない。
辺境だから栄えるってこともある。トランスオクシアナを想起せよ。
奴隷貿易(from北西ヨーロッパ)と金貿易(fromサハラ以南)の取引により、
資産がアンダルスに蓄積した。
2 アンダルス南部(ローマ属州バエティカ)はローマ皇帝を何人も輩出してる
のみならず、西ゴート時代にも聖イシドルスなどを生み出してる。
冶金技術など、イスラーム時代に受け継がれた技術も多い。もともと
アンダルスは先進地だった。
3 後ウマイヤ朝の成立により、アッバース朝で迫害された人々の亡命先と
なり、ダマスカスやバグダードの先進文化が導入された。
ex.オシャレ泥棒ジルヤーブ
87 :
35ですが :2005/06/15(水) 00:21:28 0
>>86 トランスオクシ穴ってなんでつか?
ほほー。アル・アンダルスはもともと先進地域だったと。
西ゴートは、すぐ消えた(実際は百五十年も続いたが)
イメージがあるので、後進的な感じもありますが、
なるほど、繁栄の基盤はあったということですね。
88 :
世界@名無史さん :2005/06/15(水) 00:37:07 0
>>87 中央アジアのあたりですよ。
「オクサス河の向こう」という意味の地名。
>>87 トランスオクシアナはギリシア語での呼び名。古代のソグド人の地域。
イスラム時代でいうところの「マーワラーアンナフル」。
アムダリヤ河からシルダリヤ河の間の地域で、
今のウズベキスタンからキルギスタンの西側の地域。
90 :
世界@名無史さん :2005/06/15(水) 23:55:00 0
アル=アンダルスにはなんであんなにお家騒動が多かったんだろう。 コルドバ王国では1008年から23年間の間に10人の王が13回即位し、 グラナダ王国では1391年から101年間の間に13人の王が21回即位。
91 :
世界@名無史さん :2005/06/16(木) 00:14:01 0
だって部族社会だもんね。部族間闘争が絶えなかったと。。。
92 :
世界@名無史さん :2005/06/16(木) 20:26:20 0
>>90 後ウマイヤ朝末期の混乱に関していえば、部族紛争とはあまり関係ないよ。
1008年以降の混乱は、
侍従(ハージブ)兼各大臣職として専横を極めたアーミル家+彼らが呼んだ
新来のベルベル人傭兵+スラブ人官僚・傭兵(サカーリバ)
vs
「アンダルス人」(アラブ系+征服初期から土着したベルベル人+ムワッラド)
の闘争が原因。双方が勝手にウマイヤ家の一門の中からカリフを立てたり、
ベルベルの名族ハンムード家(モロッコのイドリース朝の王家の子孫)の人間を
カリフに擁立したりした結果、
>>90 みたいなことになった。
後ウマイヤ朝も末期になると、「新入り(アーミル家に呼ばれたアフリカ人・
スラブ人連中)ウザい」意識のおかげか、アラブ部族の対立はほとんど見られ
なくなっているようだよ。
8世紀に土着した古参のベルベル人やムワッラドも、その頃になると「自分は
アラブの名族の血筋です」てな捏造家系伝説を持ってるのが普通だった。
「俺らアラブ起源のアンダルス人。ナカーマ。新入りは死ねよ」なわけだ。
93 :
世界@名無史さん :2005/06/16(木) 20:41:46 0
イスラーム世界では長子相続制が確立していなかったこともその原因?
どこで読んだのかちと忘れたが、今でこそ アラブ料理とかトルコ料理でピーマンやトマトがメインの食材として随分使われてるけど 新大陸から入ってくる以前は、その部分は茄子がけっこう使われてたとかなんとか・・・ 今でも茄子はいろいろ使われてるけど。 某漫画&アニメで出てきたアサディジョ漬けってどんな味だろ。
95 :
世界@名無史さん :2005/06/18(土) 20:24:11 0
アブドゥル・ラフマーン3世がキリスト教徒の少年 ペラギウス(ペラヨ)を男色用の愛人にしようと欲したところ、 「男色」を悪徳視する宗教を本気で信じていた少年は この申し出を峻拒し、そのため「殉教」死を遂げてラテン教会 (いわゆるローマ・カトリック)の聖人に祀り上げられたという 基督教の宗教伝承は、かなり有名だと云ってよいでしょう。 がしかし、これを「史実譚・実話」と看做してもよいのでしょうか? もちろん、ムスリム男性の間で男色ないし少年愛が盛行した事実は 常識と成っているところではあります(近年の原理主義が蔓延するまでは)。 アブドゥル・ラフマーン3世とてその例外ではなかった筈だとは思われますが、 アラブ側に此の種の史料はどの程度、現今遺されているのでしょうか。 イブン・ハズムなどの邦訳ならびに英訳のあるテクストは、或る程度 読んではみましたけれど、イベリア半島のムスリムの記録は、 とりわけレコンキスタ以降、散逸したものが多いと聞いて居ります。 また、性愛関係の資料・文献の研究は、さほど進んでいないという話も 聞き及んで居ます。“Islamic Homosexualities”,"Queer Iberia", "Homoeroticism in Classical Literature",その他の研究書も繙いては 居ますものの、まだ全体像が把握し切れません。イスラーム世界の男性同士 の性愛に関する推薦図書がありましたならば、是非とも御教示下さい。 何卒よろしく。
96 :
世界@名無史さん :2005/06/18(土) 21:01:09 0
>>87 西ゴートって150年ですか?
はじめてイベリアに入った時から数えると300年くらい、本格的に
スペインの領有に入ってから250年くらい続いてるけど。
98 :
世界@名無史さん :2005/06/19(日) 10:11:13 0
95番の設問に誰も答えられぬのか? やはりド素人のスレだったんだナ。
99 :
世界@名無史さん :2005/06/19(日) 12:32:46 0
じゃあプロのレスをみせてくれよ院生くずれの屑め
100 :
世界@名無史さん :2005/06/19(日) 15:45:25 0
100ゲット
101 :
世界@名無史さん :2005/06/19(日) 17:09:39 0
低能児ばかり揃いおって、ここは やはりクズどもしか集まらぬと見える。 黄口児ズレが、せいぜい傷を舐め合って居れ!
102 :
世界@名無史さん :2005/06/19(日) 17:37:17 0
出来損ないのガキ供で恥をかき合っておるがヨイぞ! 無知無教養も若い間は目立たぬ故に。 したが、成人してからは通用せぬから とくと心得ておくように。 よいな。痴呆ドモ!
103 :
世界@名無史さん :2005/06/19(日) 21:19:07 0
出 無 し と よ
183 :
世界@名無史さん :2005/06/20(月) 21:51:11 0
アラビア語が読める人には宝の山なんだろうなあ >104-182
なんか悔しい
>>94 海外板でかつてこういうやり取りがありました
599 :異邦人さん :04/11/25 07:53:24 ID:+/bl+30R
映画「茄子 アンダルシアの夏」に出てきた茄子の???漬けというものが食べたいのですが?
正式名称は良くわかりませんが、ナスをオイルのようなものに漬けたものです。
どこで食べられますでしょうか?あとスペイン語では何と言うのか知っていたら教えてください。
601 :異邦人さん :04/11/25 11:36:58 ID:LCwPR9M4
asadilloはどこのバルでも出す赤ピーマンを焼いた料理。
ナスではない。
たぶん原作者の勘違いだと思う。
バルで茄子の酢漬けとasadilloの両方が出て混同したのでは?
602 :異邦人さん :04/11/25 12:31:25 ID:LCwPR9M4
その焼きピーマンの酢漬けを茄子にはさんで楊枝でとめたものならある。
アルマグロに行けば食べられる。缶詰にもなっている。
原作者の混同でしょうね。アルマグロはカスティリャの田舎町、茄子の名産地。
アンダルシアではありません。それからナスはベレンヘナといいます。
184 :
世界@名無史さん :2005/06/22(水) 23:45:05 0
後ウマイヤ朝のスライマーン・イブン・アル=ハカムは、キリスト教国に カイナ(歌姫)や踊り子を献上したりしている。 カイナはただ歌がうまいだけではなく、教養や機知にも富んでいた。
そして閨房の秘事にも...。
186 :
世界@名無史さん :2005/06/23(木) 23:46:35 0
>>184 ムスリマじゃないだろ。イスラム法で禁止されているから。こちらが異教徒の女とケコーンするのはムスリム人口を増やすので良いが、その逆は厳禁。
187 :
世界@名無史さん :2005/06/24(金) 00:08:32 0
188 :
世界@名無史さん :2005/06/24(金) 13:20:55 0
後ウマイヤ朝のハカム2世は、コルドバのモスク建設にあたってビザンツ皇帝に 書簡を送り、ダマスカスの大モスクに見られるようなモザイクをつくることの できる職人を求めた。 祖先であるウマイヤ朝のカリフがキリスト教徒を使ってモスクを造営したのを 父の代から再びカリフと称するようになった後ウマイヤ朝の君主が模倣し、 その権威を正当化しようとしたのである。
253 :
世界@名無史さん :2005/06/24(金) 23:56:29 0
254 :
世界@名無史さん :2005/06/27(月) 01:39:45 0
>>254 ムラービト朝時代には、アル・アンダルスの文化が北アフリカに輸出された
ようですね。
アルジェの大モスクには馬蹄型アーチが使用されているし、コルドバの木製
工芸品、アルメリアの絹織物も輸出されていたらしい。
256 :
世界@名無史さん :2005/06/27(月) 12:41:20 0
イスラムによるレコンキスタきぼん!
257 :
世界@名無史さん :2005/07/14(木) 00:53:36 0
保守あげ御免ネ。
258 :
世界@名無史さん :2005/07/14(木) 11:09:28 0
後ウマイヤ朝の海軍については、どのくらいのことがわかっているのでせうか? 10世紀ごろには西地中海の覇権国家になっていたはずですが。
259 :
世界@名無史さん :2005/07/14(木) 17:59:46 0
バレアレス諸島は後ウマイヤ朝の版図内?
260 :
世界@名無史さん :2005/07/16(土) 12:31:01 0
>>259 そうでつ。
アル・アンダルスの軍勢は、クレタ島にも攻め込んでいる。
844年には北アフリカのムスリムから学んで「ギリシアの火」も
使用するようになる。
261 :
世界@名無史さん :2005/07/16(土) 13:54:35 0
リンク張りまくってるやつ何なのかぐらい書けよ 荒らしにしか見えん
263 :
世界@名無史さん :2005/07/20(水) 20:32:59 0
アルハンブラ宮殿の壁や柱には、「アッラーの他に勝利者なし」と刻み込まれている。 グラナダ王国は、1238年にカスティーリャの朝貢国になったあと、不本意ながら おなじムスリム諸侯国の攻撃に手を貸し続けた。 例えば1248年にキリスト教徒軍がセビーリャを攻撃した際も、グラナダ王 ムハンマド1世は自らの軍を同盟国として出動させている。 キリスト教徒に与して同胞を裏切った国王は、「勝利者!」と歓呼する民衆に 対して、アルハンブラの壁に繰り返し「アッラーの他に勝利者なし」と書いて 答えた。 そのグラナダも、1492年に国王アブー・アブドゥッラー(ボアブディル)が カトリック両王にアルハンブラの鍵を渡して開城し、滅亡することになる。
264 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 19:35:03 0
グラナダではいまでも当時の開城を記念して、毎年1月2日にお祭りをしてるね。 「男として守りきれなかったものに、女のように泣きなさい」...って、ボアブディル の母ちゃん、きっつぅ〜。
265 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 23:37:50 0
266 :
世界@名無史さん :2005/07/22(金) 06:44:45 0
>>264 「女のように女々しく泣くな」じゃなかったっけ??
267 :
世界@名無史さん :2005/07/22(金) 23:32:31 0
原文(っつてもスペイン語だけど)はこれね つLLora como mujer, por lo que no supiste defender como hombre.
>>265 上のは現在、セビージャなんかで生産されてる(Trianaとかか?)最後に絵付けを
するタイプの陶器に似てるね。
下のはもろ、ナスル朝グラナダで生産されていた、銅釉の金属光沢と、青釉による
彩色陶器そのものだね。
ただ、中世の陶器の研究はもともと歴史学や考古学の分野からよりも、収集家や
好事家、美術史学の人々が始めた経緯があり、あまりシステマティックな研究方法
が確立されていないみたい。マジョルカ島のイスラム時代の陶器に関しては、
G.Rossello-Bordoyが初めて、時代に沿った分類を試みて、この分野の研究者の
マニュアルとなっている。
269 :
世界@名無史さん :2005/07/30(土) 09:46:45 0
マヨルカをはじめとするバレアレス諸島は、後ウマイヤ朝崩壊後すぐに サカーリバ勢力が割拠して以来、1115年までムラービト朝の支配を免れて いた。ムラービト朝による征服後も、総督のガーニヤ家がまもなく自立し、 本土でムラービト朝が滅んでも1202年まで諸島を支配した。 ムワッヒド朝の支配は27年で、1229年アラゴンのジャウマ(ハイメ)1世に よるレコンキスタにあう。 イベリア半島の動乱をよそに、政治的・軍事的に比較的安定していたのと、 交易に対する地理的な優位性が工芸品の販路確保を容易にしたことが、 高い技術力を培ったのかもね。
270 :
世界@名無史さん :2005/07/30(土) 11:19:14 0
クレタとシチリアを征服したムスリムの中には、 アル・アンダルス出身者も混じっていた。
J. Oliver Asinによると、Madrid(イスラム時代のMayrit)の名の由来は アラビア語で"水路(カナート)"を意味する"MAYRA"と、ロマンス語で"豊富にある" を意味する"it(ラテン語の"etum")"の複合形であると考えている。 事実、マドリッドには北方の山脈から横堀式の井戸が無数に引かれ、当時の アルカサバに水を供給していたようだ(J.Oliver Asin: "Historia del nombre Madrid")。 ところでマドリッドはイスラム以前は村らしいものもなく、一番近いところで 栄えていたのはローマ時代の都市、Complutum(現在のアルカラ・デ・エナーレス) くらいのものだった。
273 :
世界@名無史さん :2005/08/02(火) 16:55:53 0
>>270 腕力沙汰に長けていたかどうかは分かりませんが、アンダルスに限ってはイスラム
教徒による征服、さらにその後の現地イベロ・ロマノ系住民の改宗のプロセスは
そう単純なものではなかったようです。
第一、絶対的な数で圧倒的に劣るイスラムの一分隊(マグレブからの援助部隊も含む)
が、あんなにも短期間でイベリア半島のほぼ全域を制覇したというのは、武力による
征服というよりも、すでに政治的にほぼ崩壊状態であった西ゴート貴族たちが、自分
たちの地位を守るため、積極的にイスラム教徒たちと手を結んだと解釈する方が妥当
でしょう。現に例え最初の頃だけであれ、被征服民にたいしてはかなり寛容的な政策
が取られていたのは周知の事実ですから。
その後、現地住民のアラビア語化に関してはかなり早期から見られたようですが(コルドバ
の司教だったか、10世紀頃?「近頃の若者はラテン語離れが激しく、アラビア語ばかりを
学ぼうとする」みたいな不平をたらしてますね)、実際にイスラムに改宗するのは
最初の数世紀はかなり緩慢であり、後、イスラム教徒が全住民に対し、ある一定数に達する
と急激に改宗が進んだようです。
当時のイスラム教徒とキリスト教徒の社会を比べて、前者の方が社会的なダイナミズムで
勝っていた、とする考えについては、P. Guichardが面白い論を書いてますね。
それに関してはまた機会があれば書き込みたいと思います。
274 :
世界@名無史さん :2005/08/02(火) 22:48:46 0
ムワッヒド朝がアル・アンダルスに攻め込んだとき、当初現地のムスリムは これを歓迎したけど、彼らがアル・アンダルスの文化に無理解なので 失望したらしいね。
275 :
世界@名無史さん :2005/08/02(火) 23:34:21 0
>(コルドバの司教だったか、10世紀頃?「近頃の若者はラテン語離れが >激しく、アラビア語ばかりを 学ぼうとする」みたいな不平をたらしてますね)、 9世紀に『殉教者伝』を書いたコルドバの聖エウロギウス(エウロヒオ)が そう嘆いてますね。 彼の学友で俗人の文筆家だったアルヴァルス(アルバロ)も、「モサラベの うち、祖先の言葉で手紙が書けるのは千人に一人もいない・・・アラビア語で 詩を書く者は数知れず、アラブ人以上に優れたアラブ詩を書けるのを誇りと している」と『嘆き』に記してます。
276 :
世界@名無史さん :2005/08/02(火) 23:52:43 0
>>273 キリスト教徒の社会というと、モサラベ社会?それとも北方のキリスト教
諸王侯国の社会かな?
楽しみに待ってますノシ
278 :
世界@名無史さん :2005/08/04(木) 19:40:48 0
アル・アンダルスに限ったことではないけれど、アラブ世界の公衆浴場(ハンマーム) はヘレニズム時代の公衆浴場の構造そのままを受け継いでいる。 Frigidarium、Caldariumに続いて浴槽のある構造は、ロンダやグラナダに現存する イスラム時代の浴場にも適用されているね。
>>278 実はイスラーム文明こそローマ文明の後継者?
280 :
世界@名無史さん :2005/08/05(金) 23:11:43 0
だってイスラームが西欧ルネッサンスの揺籃を担ったんでしょ?古代ギリシャ・ローマ 文化の伝統を保持して、結果的に西欧に伝えたと。。。
281 :
世界@名無史さん :2005/08/06(土) 00:23:32 0
古典ギリシア・ローマと西欧との橋渡し役は、イスラームの学者達だけでは ないよ。古くはシャルルマーニュの頃のイングランド人学僧たち、北イタリア などに点在する修道院の蔵書、新しくはビザンツ滅亡後の亡命者や 奴隷として売られてきた人たちなどが皆で担ったこと。 でもまあ、クレモナのゲルハルドゥスをはじめとするトレドでのアラビア語文献 翻訳活動の意味が小さかったというつもりもないけどね。
282 :
世界@名無史さん :2005/08/06(土) 00:36:51 0
トレド翻訳学派ね。翻訳活動にはモサラベみたいな双方の言語・文化に精通した人々 が活躍したみたいね。12、3世紀頃はトレドは「黒魔術の街」って呼ばれてたんでしょ。 イスラム時代、タホ河には水をくみ上げる大水車が設置されていたって。
283 :
世界@名無史さん :2005/08/06(土) 01:20:09 0
あ
284 :
世界@名無史さん :2005/08/06(土) 01:35:42 0
イスラム支配下時代のアンダルス民謡の CD持ってるけど、イスラームと西欧音楽 が混じったようなカンジでいいよ。 お勧め
286 :
世界@名無史さん :2005/08/16(火) 23:10:45 0
287 :
世界@名無史さん :2005/08/17(水) 12:23:19 0
今更だけど、こっちのスレにコルドバの都市人口推定が載っている
*◆****世界都市****◆*
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044984645/ A.D.800 16万人 (6位、または8位)
A.D.900 20万人 (5位、または3位タイ)
A.D.925 25万人 (3位)
A.D.1000 45万人 (1位、または3位)
まあ
>>27 によると、これは多めの推定ということになるけど、
他との比較が面白い。
1000年頃の他の大都市は、
バグダード (12.5〜120万人)
コンスタンティノープル (30〜60万人)
開封 (40万人)
アンコール (20万人)
京都 (17.5万人)
カイロ (13.5〜20万人)
サマルカンド (7.5〜20万人)
西欧諸国最大の都市がヴェネチアの10万人かそれ以下
セヴィーリャが9〜10万人、ファーティマ朝支配下のパレルモが7.5万人
288 :
世界@名無史さん :2005/08/27(土) 16:02:53 0
アンダルスでは、イクター制は定着してなかったよな。
じゃあ大土地所有制は発達したのかな?あるいはイラクのように、官僚や
軍人にカティーア(小規模な分与地)やダイア(私領地)がどんどん設定
されたのか?
>>12 に出てくるAlmuniaが私領に当たるんだろうか?
あと、農村の暮らしはどうだったんだろう。マシュリクのように村長(シャイフ)、
ダイア所持者(ターニー)、自作農(ムザーリウーン)、小作農(ファッラーフーン)
みたいな構図?
289 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 09:43:42 0
今「新日曜日術館」がスペイン美術史特集。 アルハンブラ宮殿は何度見ても壮麗だなあ。 現役だった当時はもっと絢爛だったことだろうよ。 しかしレコンキスタ後もよく破壊されずに今日まで残されたもんだ。
290 :
世界@名無史さん :2005/09/14(水) 00:34:19 0
イベリアは西ゴート王国時代にワインのための葡萄園が多かったが イスラム教徒の征服者たちはワインから収入を得ると非難されると思って 放ったらかしにしといたとか。 で、レコンキスタまでは農民が領主もいないまま勝手にやってたと・・・
291 :
世界@名無史さん :2005/09/26(月) 19:27:14 0
>>274 下層民やウラマー層は、コーランにない税を撤廃してくれたりと
素朴で厳格なムラービトゥーンやムワッヒドゥーンを支持し続けた。
一方都市の有力家門や辺境領主たちにしてみれば、自分たちを
高く買ってくれない上にゴリゴリの原理主義者である彼らは、
かなり鬱陶しい存在だった。
>>8 のイブン・マルダニーシュなんて、死の直前まで徹底的に
ムワッヒド朝と戦い続けたしな。死に際しては息子たちにムワッヒド朝
への服従を遺言し、ムスリムとしての配慮?を見せたが。
ムデハルやモサラベが出てこないことについて。
293 :
世界@名無史さん :2005/09/27(火) 06:37:27 0
>292
みんなその単語の意味を知っているという前提で書き込んでるんじゃないの?
上の方で何度か出てきてるよ。
ttp://hikakukentiku.web.infoseek.co.jp/memo/memo01.htm ここから転載
モサラベ→(アラブ化した人々というアラビア語のスペイン語なまり)
キリスト教徒としての信仰を保持しつつも,言語・文化・風俗の点でアラブ化した者。
彼らは都市に住み,芸術家,建築家,文筆家,商人として活躍し,ムスリム社会と
非ムスリム社会の交流・融合を促進させた一方で、通商活動に通じて北方の
キリスト教諸国にイスラム文化を伝達した。
294 :
世界@名無史さん :2005/09/27(火) 06:37:42 0
ムデーハル→アラビア語のムダッジャンがスペイン語に転訛したもので,〈残留者〉の意。 すなわち,キリスト教徒に再征服された後のイベリア半島で,自分たちの信仰・ 法慣習を維持しながらその地に被支配者として残留を許可されたイスラム教徒をいう。 1085年のトレド陥落以後のレコンキスタ(国土回復戦争)の進展で,ムデーハルの数は しだいに増加した。 時とともに彼らはスペイン社会に同化してロマンス語を話すようになった。 彼らがイスラムの優れた文化・学問・技術を,中世スペイン,ひいてはヨーロッパ 諸国に伝達した役割は大きい。彼らの多くはコルドバ,セビリャ,トレド,バレンシア などの大都市に居住し,建築業,革細工,金属細工,彫刻業,織物業,文筆業などに 従事していた。彼らの活動によって,イスラム文化と中世スペイン・キリスト教文化との 融合がなされた。
295 :
世界@名無史さん :2005/09/27(火) 18:01:18 0
>>290 マラガでは葡萄の生産はかなり大規模に行われてて、特に干ブドウは内外に名を馳せていて、
遠く近東まで輸出されていた、ってきくよ。大部分は干ブドウ用だが、近隣の消費者用に
果物としてのブドウ、また一部にはワイン生産用にも耕作されてたらしいね。
ワインは建前としてはキリスト教諸国への輸出用とはいうものの、もちろんアル・アンダルス
でも消費されてたって。
296 :
世界@名無史さん :2005/09/28(水) 20:26:39 0
( ゚∋゚)今やらねば何時する、 ( ゚∋゚)おれがやらねば誰がする ムスリムが酒飲むとサウジ、リビア、マレーシアではどつかれる
297 :
世界@名無史さん :2005/09/28(水) 22:07:55 0
「ムハンマドが禁止したのはワインだけ」と無茶な解釈をする人もいる。
298 :
世界@名無史さん :2005/09/28(水) 22:34:26 0
イブン・ハズムも酒宴の席を詩ってるよね。
299 :
世界@名無史さん :2005/10/04(火) 15:43:21 0
>>269 サカーリバ勢力ってスラヴ人の傭兵か何かですか
300 :
世界@名無史さん :2005/10/10(月) 16:02:17 0
400get
301 :
世界@名無史さん :2005/10/19(水) 02:20:58 0
スラヴ人の宦官。 サカーリバ男奴隷は全部キン抜き。 バレンシアの町でキン抜き。
302 :
世界@名無史さん :2005/10/19(水) 10:55:28 0
サカーリバ全員が去勢奴隷というわけでもナイだろう。
303 :
世界@名無史さん :2005/10/20(木) 20:13:12 0
侍従マンスールについて詳しくキボン
304 :
世界@名無史さん :2005/10/21(金) 12:20:59 0
>>297 キリスト教徒との差別化を図るためワイン禁止。
砂漠気候のところでアルコール飲むと脱水症状がより悪化し死んでしまうから
というのが現実問題。
豚は寄生虫があるので、生焼けー昔は燃料そうそう使えなかったーのを食べれない。
305 :
世界@名無史さん :2005/10/25(火) 08:59:11 0
マンスールについては宦官・閹人・去勢者コーナーへ!
>>304 あと酒販売してるユダヤを儲けさせないために説もあるよね。
じつは初めは「控えめに」だったのが最後は禁止になる
307 :
世界@名無史さん :2005/10/29(土) 22:15:24 0
椰子酒は?
308 :
世界@名無史さん :2005/10/31(月) 03:11:02 0
Saqaliba
東欧の住人を指す中世アラビアの言葉。「奴隷」の意。
イスラムのスペインでサカーリバsaqaliba (「奴隷」)は、
戦争で捕えられていたヨーロッパ人(東の部分から
だけではなく)であった。彼らは軍奴あるいは宮廷の
奴隷として仕えていた、そしてその多くは高い地位に
就いた。「abid」として知られる黒人奴隷と混同しない
こと。
>>301 と
>>305 は多分ホモ吉だな。信ずべからず。
309 :
世界@名無史さん :2005/11/05(土) 11:58:31 0
310 :
世界@名無史さん :2005/11/05(土) 21:36:56 0
>アーミル・アル・マンスール カリフの寵妃と通じて権勢を握った男がなんで宦官なんだよ!w
311 :
世界@名無史さん :2005/11/13(日) 00:33:09 O
南スペイン人や北アフリカ人にはスラヴ人の血も混じっているかもね。
312 :
世界@名無史さん :2005/11/13(日) 07:53:44 0
アッバース朝のバグダードから流行り出して、たちまちイベリア半島の ムスリム国家にまで伝わり同じく流行した「男装の麗人」 "ghulamiyyat","gulamiyyat"ないし "ghulamiyat"は、 本によって、「グラーミーヤート」とか「グラーミヤート」と母音の長短が 異なっていますが、いずれが正しいのでしょうか? 識者の御示教を願い上げます。
原史料書いたやつの聞き取りの差異や!
314 :
世界@名無史さん :2005/11/13(日) 19:28:30 0
315 :
世界@名無史さん :2005/11/14(月) 07:11:27 0
アッバース朝のバグダードから流行り出して、たちまちイベリア半島の ムスリム国家にまで伝わり同じく流行した「男装の麗人」 "ghulamiyyat","gulamiyyat"ないし "ghulamiyat"は、 本によって、「グラーミーヤート」とか「グラーミヤート」と母音の長短が 異なっていますが、いずれが正しいのでしょうか? 識者の御示教を願い上げます。 314は返答になっていない!
>>315 いや、答えっつか、書名教えてもらえたんだから自分で調べればいいんじゃない?
317 :
世界@名無史さん :2005/12/07(水) 01:46:48 0
>>308 「サカーリバ」ということばは、奴隷というよりも「東欧の、主にスラブ系の、
主に非キリスト教徒の人々」ぐらいの意味に取った方がいいんじゃないかな。
「主に」をつけたのは、バルト系や一部テュルク系も場合によってはそう
呼ばれたから。イブン・ファドラーンは、ヴォルガ・ブルガール人たちを
サカーリバと呼んでる。
まあアンダルスでは、非キリスト教系東欧人はほぼ例外なく奴隷か奴隷の
末裔だろうから、サカーリバ=奴隷という解釈で問題ないかもしれないけどね。
318 :
世界@名無史さん :2005/12/07(水) 02:34:25 0
アンダルス出身者には、ファドラーンに負けない旅行記の執筆者がいる。 イブン・ジュバイル Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr 1145-1217。バランスィーヤ(バレンシア)生まれ。マッカ巡礼の帰りに シリアや十字軍統治下のパレスティナ、ノルマン朝シチリアを訪問、 美文調の旅行記を残している。 旅行記は、関西大学東西学術研究所が翻訳を出版している(が高い)。 アル・ガルナーティー Abu Hamid al-Andalusi al-Garnati 1080-1170。ガルナータ(グラナダ)生まれ。中東各地をはじめ、ルーシ・ ヴォルガブルガール・フワーリズムなどユーラシア内陸に足跡を残した。
>旅行記は、関西大学東西学術研究所が翻訳を出版している(が高い)。 たいして厚くもないのに6千円以上するし・・・
320 :
世界@名無史さん :2005/12/10(土) 09:44:16 0
ガルナティの旅行記は誰か訳してくれんかねえ ネットでちょっと検索したところ、ハンガリーでゲーザ2世配下の ムスリム兵にイスラム法学を講義したり、ロシアのリャザンで 毛皮交易の様子を見聞したりしてたらしい。面白そうなんだが
>>315 ホモ吉、同じレスをして荒らすなって言っただろう?
世界史板や日本史板のあっちゃっこっちゃのスレを荒らしやがって。
322 :
世界@名無史さん :2005/12/10(土) 10:35:07 0
321は、さっさと死に腐れーッ!!!
>>322 何だその口のききかたは?お里が知れるぞ。
324 :
世界@名無史さん :2005/12/15(木) 21:25:06 0
旅行記といえば、15世紀のドイツ(オーストリア?)人医師、Hieronymus Munzer (Jeronimo Munzer)のグラナダ王国征服直後(1494年)の描写が興味深いね。
326 :
Aamir1 :2005/12/15(木) 23:20:40 0
>>303 アル・マンスールことアブー・アーミル・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・
イブン・アビー・アーミルの伝記
938年アルヘシラスに生まれる。アラブの古い家柄の出身で、祖父は
イシュビリーヤ(セビーリャ)のカーディーを務めている。
コルドバで法学を学び、ワズィール(宰相)であるアル・ムスハフィーの推薦で
ハカム2世の后スブフの財産管理人に取り立てられる。以後スブフの寵愛を
受けて重職を歴任。973年にガーリブ将軍のモロッコ遠征に参加、将軍と
親交を結びつつ軍事を習得。
976年ハカム2世が死去すると、すぐさまスブフの子ヒシャームをカリフに擁立
(2世)、その功でワズィールに就任。まもなくガーリブの婿となって接近し、
ハージブ(侍従。アンダルスでは宰相より上位)に就いたアル・ムスハフィーを
失脚させ、978年自らハージブに就任。コルドバ郊外に宮殿アッ・マディーナトッ・
ザーヒラを建設、政府機能を全て移動させてカリフを政治から隔離。
981年にはガーリブを敗死させ、独裁体制を構築。このとき、al mansur bi-llah
(アッラーにより勝利を授けられた者)というラカブを名乗る。996年には、
反ムハンマドの動きを見せた母后スブフ一派を粛清。
327 :
Aamir2 :2005/12/15(木) 23:21:18 0
ムハンマドはガーリブとの対決の前からベルベル傭兵を呼び寄せており、また サカーリバやキリスト教徒傭兵を用いて陣容を充実させた。この兵力により、 981年にガーリブの援兵であるナバーラ及びカスティーリャ兵を破ったのを はじめ、985年バルセロナを劫掠、988年レオン・サモラ占領、1000年にも北部 キリスト教勢力の連合軍を破るなど、「生涯57の戦いに勝利した」と形容されて いる。 中でも997年のガリシアに向けて行われた遠征において、西欧最大のキリスト 教巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステラと聖ヤコブ教会を徹底的に破壊・ 略奪したことはカソリック世界に大きな衝撃を与えた。彼の代にイベリア北部の キリスト教徒は大きく消耗し、ナバーラ王サンチョなどは娘をムハンマドに 娶わせ、自らアッ・マディーナトッ・ザーヒラに出向いて臣礼を取るまでして 勢力の維持を願った。 1002年、カスティーリャ遠征の帰りに病を得、メディナセーリで死去。
328 :
Aamir3 :2005/12/15(木) 23:21:47 0
彼の統治は法の厳格な遵守と公正さに留意したものであり、独裁ではあったが カリフに取って代わる意志はなかったとされている。またコーランを筆写したり、 ハカム2世の図書館から非イスラーム的な書物を選び出して焼却するなど、 自らイスラームの守護者をもって任じた。 彼の死後、次子のアブドゥルマリクが1008年まで、三子のシャンジュール (サンチョの孫の意。母はナバーラ王女)が1009年までハージブとして君臨した。 しかし、子のないヒシャーム2世に対してシャンジュールが自分自身を後継者と して指名させたことから反アーミル家感情が爆発し、市民のベルベル傭兵への 反感とあいまって反乱が勃発。シャンジュールはベルベル傭兵にも見放され、 反乱軍に殺害される。以後、カリフがめまぐるしく変わる動乱を経て、1031年に は後ウマイヤ朝が滅び、アンダルスはターイファ諸国が乱立する混迷の時代に 突入する。
329 :
世界@名無史さん :2006/01/07(土) 16:50:41 0
まさかの時のスペイン宗教裁判
331 :
世界@名無史さん :2006/02/05(日) 14:22:13 0
202 :名無しさん@3周年:2006/01/15(日) 19:16:49 ID:GTiW2gwb >194 初めて書き込みますが、イスラームを賛美するようなことも、そこまで書くと限りなく嘘に近づきます。 イスラーム法が適用される社会では、他宗教の存在を認めるのは、相手が一神教で、かつ、イスラームの支配下での従属的立場を受け入れる場合のみ。 近代的な意味での宗教の自由は適用されません。 例えば、イスラーム法統治下では、キリスト教徒は信仰を許されますが、布教活動は禁止され、教会の新築は禁止(またはイスラーム支配権力の慈悲により許可されることがあるのみ)。仏教やヒンズー等は宗教活動を禁止されると言ってよいです。 これでも、イスラーム側の学者らは「イスラームは他宗教を認める」と主張しています。 現在でも中東イスラーム諸国の大半では、他宗教の扱いはこの原則によっています。 こうした事実があってもまだ、「イスラム教では他宗教を認めるように教えてる」と主張できますか?? 私は中東の某国に仕事で住んでおり、イスラームが人間の自由を奪っていく実態を毎日しっかり目撃してしまっています。 私の居る国は、政権は親米・世俗主義ですが、国民の大半(いくつかの調査で半数以上)が、「ビン・ラーディン」に共感を示し、「アルカーイダの米国同時テロは悪くない」と答えています。 それが、中東のムスリム庶民の実態。 もちろん、彼らも生活で付き合えば、親切で人間らしくて、愛すべき善良な面のほうが多い。ムスリムを悪魔視するのは全く間違い。 彼らがイスラーム原理主義テロに共感を示すのは、教育の問題、ムスリム世界の知的遅滞の問題で、要するに宗教ってのは人間の思考力を奪うので恐いってこと。 それから、イスラーム原理主義は存在しない、っていうのはイスラーム信者側の主張に過ぎません。 外部の我々が、狂信的イスラーム(もう少しマシに定義すれば、イスラームの教義を現代社会管理の基本に据えようとする考え)を原理主義と呼ぶのはまったく問題ない。 (そもそも原理主義が無いわけないだろ。数々のテロは誰の仕業?)
>>331 なんか、親米・世俗主義がいいもんだ、という前提にたっているような主張だな。
同時テロは悪くない、というのがを示すのがそんなに驚きか?そしてそれが
イスラム賛美にまったをかけるような論拠となるのか?
>>331 コピペにマジレスすまんが、デリー・スルタン朝期のインドではヒンドゥー
教徒も仏教徒もズィンミー扱いだったんだがな。というか現代ネタは板違い。
キリスト教の巡礼者の唱歌10曲が、1399年ごろに筆写され、カタルーニャの
モンセラート修道院に残されている。写本の表紙の色を取って『モンセラートの
朱い本』と呼ばれ、CDも沢山出されているが、その中にはアラブ風の
節回しを持っている曲がある。
モンセラート修道院はバルセロナの北西数十キロにあるが、その辺は
シャルルマーニュによって9世紀にキリスト教圏に奪回されていたし、
隣接するエブロ川流域も12世紀にはレコンキスタされている。それなのに
アラブ風の旋律を持つカタラン語の歌が14世紀末まで歌われていたのは、
巡礼による他地域からの影響もさることながら、やはりピレネー以南全体に
アラブ風の美意識が浸透し、残存していたということではないかと思うんだが。
>>331 おなじくコピペにマジレス。
>それから、イスラーム原理主義は存在しない、っていうのはイスラーム信者側の主張に過ぎません。
>外部の我々が、狂信的イスラーム(もう少しマシに定義すれば、イスラームの教義を現代社会管理の基本に据えようとする考え)を原理主義と呼ぶのはまったく問題ない。
>(そもそも原理主義が無いわけないだろ。数々のテロは誰の仕業?)
原理主義ってのは研究者やマスコミが(勝手に)使ってる分析概念であり、テロ組織が
本当にイスラムの「原理」に忠実なのか、については議論が分かれる=はっきりしないのである。
ちなみに分析概念としての原理主義に関しては、シカゴ大学の研究グループのそれが参考になる。
シカゴ大プロジェクトは、原理主義のイデオロギー的特徴として、以下の五点を挙げている。
○近代化による宗教危機に対する反応
○選択的な教義の構築
○善悪二元論的な世界観
○聖典の無謬性の主張
○終末観的世界認識と救世思想
また、組織的特徴として以下の四点を挙げる。
○選民思想
○組織のウチとソトとの明確な区別
○カリスマ的な指導者の存在
○厳格な規律、行動規範
小川忠(2003)『原理主義とは何か――アメリカ、中東から日本まで』、講談社現代新書、23-24ページ。
スペイン人はばか
338 :
世界@名無史さん :2006/02/28(火) 05:16:23 0
339 :
世界@名無史さん :2006/03/02(木) 16:24:10 0
age
340 :
世界@名無史さん :2006/03/14(火) 23:43:26 0
・アンダルスの農村にも、マルク共同体(死語?)や惣村みたいなまとまりがあったのか
・都市には、ギルドやツンフトや同郷会館のようなものはあったのか
・
>>288 にも誰か答えてくらさい
341 :
¥ :2006/03/15(水) 10:32:20 0
イベリア人って地中海人種のこと?
低身長で長頭の「地中海人種」という人種を設定する考え方からすると、 イベリア人は地中海人種に属するということになります。 なお、人種の分け方に関する考え方は、沢山あります。人種ネタは 人種スレや人類学板での方がレスが付きやすいと思いますよ。
344 :
世界@名無史さん :2006/03/19(日) 21:49:51 0
アブドルラフマーン最高!!
346 :
世界@名無史さん :2006/03/20(月) 07:41:12 0
スペイン半島のムスリム系君主のうちで最も男色好きだったのは誰?
347 :
世界@名無史さん :2006/03/21(火) 06:43:30 0
初代と3代目が、甲乙つけがたい。
348 :
世界@名無史さん :2006/03/21(火) 23:14:57 0
al sultan de al andalus abdullahmaan
349 :
世界@名無史さん :2006/03/22(水) 10:46:03 0
スペイン半島のムスリム系君主のうちで最も男色好きだったのは誰? 誰ひとり知らぬと申すのかゑ?
350 :
世界@名無史さん :2006/04/02(日) 11:33:32 0
やっぱり、単身、スペインに渡り、王朝を開いた初代はえらいのう
351 :
世界@名無史さん :2006/04/15(土) 06:52:26 0
マリア・ロサ・メノカル『寛容の文化〜ムスリム、ユダヤ人、キリスト
教徒の中世スペイン』が出た。人物伝に重点を置いた記述になって
いるので、
>>347 や
>>350 は読んでみるといいよ。ほかにも、ハスダイ・
イブン・シャプルートやイブン・ハズム、ペトルス・アルフォンシなど、
普段あまり紹介されない人達が取り上げられている。
ただ、トレス・クルトゥラス(3つの文化)の平和裡な共存という、アメリコ・
カストロの考え方にこだわり過ぎな感がある。あとがきを読むと、
スペイン史学会でもその点が指摘されたらしい。
353 :
世界@名無史さん :2006/04/15(土) 11:23:12 0
スペイン語 アラビア語 コルドバ = クルトゥバ セビーリャ = イシュビリーヤ サラゴーサ = サラクシュタ トレド = トゥライトゥーラ バレンシア = バランスィーヤ カルタヘナ = カルタージャンナ グラナダ = ガルナータ
354 :
世界@名無史さん :2006/04/20(木) 00:05:17 0
いくつかはローマ時代に遡るのもあるな。分かるだけでも、 セビーリャ = イシュビリーヤ = イスパリス(ラテン語) サラゴーサ = サラクシュタ = セサル・アウグスタ トレド = トゥライトゥーラ = トゥライトゥム カルタヘナ = カルタージャンナ = カルタゴ・ノバ
355 :
世界@名無史さん :2006/04/20(木) 00:13:14 0
>>352 かなり昔に読んだんで、詳細までは覚えてないけど、
グラナダ王国のモリスコ達の生活習慣、服装などが
細かく描写されてた。
356 :
世界@名無史さん :2006/05/04(木) 10:07:11 0
タイファ期の都市国家って、西欧の都市参事会のように 有力家系の寡占共和政なのでしょうかね?。中世北イタリアの ように、最有力家系が王朝を築いた?。それとも、アイヤール、 アフダースのような暴力集団が指導してたのだろうか? この時期って、一人の支配者が複数の都市を支配したり、 都市の民衆が支配者を追い出して自治したりと、同じ地区が 複数の時期に(←後ウマイヤ朝停滞期、後ウマイヤ崩壊期、 ムラービト崩壊期など)に独立してたりと、とにかく目まぐるしく 移り変わって、安定した「国」と言えないような状況なので、 誰か詳しく知っていたらなぁと思って書いてみた。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/05/04(木) 19:53:39 0
当時って普通にイベリア半島の人間と侵入してきたイスラム教徒との 混血ってあったの?
キリスト教徒がムスリマの嫁を貰うことはめったになかったろうが、ムスリムが キリスト教徒の嫁や妾を持つことは当たり前にあった。 また、イスラムに改宗したイベリア半島人がアラブ人やベルベル人と通婚する のも普通にあった。混血しまくりでしょ。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/05/05(金) 00:41:11 0
てことは今のスペイン、ポルトガルの人々にはかなりアラブ人、ベルベル人の 影響があるってこと?ポルトガル人の2,5%には黒人の影響があるらしいよ あと東欧の人々にも北アフリカ系の影響があるらしい。
>>358 ムスリマは夫が改宗しない限り結婚できない
ムスリムは異教徒が嫁でも結婚できるし、その子はムスリムとして
育てられるという風にきいたが、理解としてはこれであってる?
>>360 イスラム法学的にはそれでおk。
でもイベリアでは、キリスト教徒と結婚する女性が改宗して
キリスト教徒になってしまう例(ナバーラ王室に嫁いだカスィー家
出身女性など)もまれにあった。
362 :
世界@名無史さん :2006/05/05(金) 11:41:27 0
>>361 加えてレコンキスタ進展以降は普通の庶民もイスラムからキリスト教に
改宗したり、結婚の際相手をイスラムに改宗させるのではなく
自分達がキリスト教に改宗したりしている。
結局イスラム法学の建前はともかく、実際は両勢力のパワーバランスで決まった。
イスラムが弱ければ如何に法学者が喚こうと自主的および結婚に伴うクリスチャンへの
改宗は増加していった。
363 :
世界@名無史さん :2006/05/23(火) 20:16:44 0
あげます
さげます
365 :
世界@名無史さん :2006/06/24(土) 17:32:37 0
祝一周年!
366 :
世界@名無史さん :2006/07/16(日) 02:55:52 0
月例レコンキスタに上がりました。
367 :
世界@名無史さん :2006/07/16(日) 18:41:25 O
ナスル朝の最後の王 ボアブディルはアルハンブラを去った後、どうなったんだろう
368 :
たしか :2006/07/16(日) 21:01:56 0
中公新書「西ゴート王国の遺産」鈴木 康久 著 を読んでいます。 法律などがメインですが、ローマ・カルタゴの植民からレコンキスタまでの歴史も簡単に通して紹介されています。 私は割と分かりやすい記述だと思うのですが、このスレ的な評価はどんな感じでしょうか?
370 :
世界@名無史さん :2006/08/02(水) 19:15:44 O
自分で判断しな。 過疎ってるから意見をもらうのは無理と言うものだ。
371 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 18:51:10 O
晒しage
372 :
カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/08/18(金) 13:22:45 0
>>369 名前が全部スペイン語で統一されてるのが読みにくい……
ディオクレシアーノ帝って誰やねんっ!
久々に保守以外の書き込み見たw >スペイン語 だよなw 俺としては、オノリオ帝とかアンニバルとかにツボった。
アル・アンダルスには封建社会は存在したのか。 アラビア・ベルベルの部族社会はいつの時代まで存続したのか。都市社会でも 部族社会的な特徴はあったのか。
375 :
世界@名無史さん :2006/09/05(火) 02:54:31 0
アンニバル=ハンニバル、は分かったが、オノリオ帝は一体?
ホノリウス? とおもって読み返したらやっぱりホノリウスだった。 こーいう現地表記みたいな感じの本は面白いといえば面白いんだけどね…
377 :
世界@名無史さん :2006/09/05(火) 13:49:10 0
>>354 お書きになっている以下の地名を可能な限り
ローマナイズ表記で記して頂けませんでしょうか?
セビーリャ = イシュビリーヤ = イスパリス(ラテン語)
サラゴーサ = サラクシュタ = セサル・アウグスタ
トレド = トゥライトゥーラ = トゥライトゥム
カルタヘナ = カルタージャンナ = カルタゴ・ノバ
なにとぞ宜しく御願い申し上げます。
HISPALIS CAESAR AUGUSTA TOLETUM CARTAGO NOVA/CARTHAGO NOVA
379 :
世界@名無史さん :2006/10/09(月) 18:24:33 0
イスラム王朝下でも、古来の地名を音写しただけだったんだな。 征服王朝だから、アラビア語で全く新しく無関係な地名を付けることもありえたろうにね。
380 :
世界@名無史さん :2006/10/10(火) 01:18:29 0
10世紀に、ムスリム統治下のスペインから派遣されたイブラーヒーム・イブン・ ヤークーブという使節が、シュレースヴィヒで聞いた歌声について、 「犬の吠え声に似ているが、もっと獣じみた実に恐ろしい音声」 と形容している。 中東の人間にとっては、ヨーロッパの音楽は非常に異様な感じに聞こえたらすぃ。
>>379 そういえばファティマの奇跡で有名なポルトガルのファティマは
純然たるイスラム起源(ムハンマドの娘ファーティマに由来)ですな。
イスラム的な名前を持つ村に聖母マリアが現われて予言し、カトリックの聖地になったってのが面白いけど。
382 :
世界@名無史さん :2006/10/10(火) 11:05:02 0
>>381 ていうか、聖母マリア信仰も、エジプトの女神イシス信仰を、キリスト教に置き換えたものだが
ついでに言えばマリア(マルヤム)は、イスラームでも聖女の扱いをされているね。
分岐してから独自に発展し、大きな差異が生じているが、基本的に イスラム教⊃キリスト教⊃ユダヤ教 だろ?
むしろケルトの大地母神が変化したものでは>マリア信仰。 北西ヨーロッパだけじゃなくて、スペインでも北のほうはそれがあると思う。
386 :
世界@名無史さん :2006/11/04(土) 15:56:16 0
>>385 土着信仰を各地で吸収しているからな
迫害一辺倒じゃキリスト教の定着は無理だったろうから
387 :
世界@名無史さん :2006/11/06(月) 19:35:33 0
スペイン人は、白人ではなくて中東の人々との混血だよ。 8世紀から15世紀まで、実に800年もの永きに渡ってイスラム教徒に支配され、相当混血してるよ。 だから、スペイン人の容姿は、褐色の肌で、黒髪で、アラブ人と見分けが付かない人が多いよ。 ついでに言えば、スペイン人はジプシーとも混血してるよ。フラメンコなんて、ジプシーの踊りだしね。
↑↑↑ これコピペなんでレス無用。 なんか色んな板のスペイン関係スレ全部にこれを貼って回ってる 暇人がいるみたい。
387は、ゴート人支配時代に、スペイン人がみな、金髪碧眼だったと考えていると思われる。 当時イベリア半島に入ったゴート人など少数で、恐らく住民であるケルトーイベリアーローマ人と 比べると、1/10〜15程度だったと思われる。しかも、現地人と結婚できる法律ができたのは、 最後の100年程度。となると、住民の殆どが、ローマ時代の住民となる。 で、そのローマ時代の住民が金髪碧眼だったかというと、それもなんともいえない。 そもそもイタリア、ギリシャ、スペイン、ポルトガルの、いわゆる南欧の国々は、 長い歴史の間に混血しているが、殆ど、金髪碧眼は主流ではない。茶髪、黒髪、ブルネットなどが 多く、身長もあまり高くない。 また、アンダルス時代にアフリカから流入した人種は、アラブだけではなく、ベルベル人も多い。 また、ジプシーは、インドのラージプートあたりの出身で、アラブではない。しかも ジプシーは欧州でもどこでも閉鎖的・及び差別的扱いを受けたから、あまり混血していない。 ということで、387は、あまりにも無知をひけらかしているだけ、と思われる。 稚拙な内容から、多分背伸びしている厨房だと推測される。
だからマルチコピペにレスをしてどうしようと(ry
>>380 イスラム教では管楽器が好ましくないものとされてるらしいね。
ハディースの方に一箇所だけそういう記述があるそうで。
392 :
. :2006/11/08(水) 13:21:59 0
南欧っていってもイタリアはかなり金髪碧眼、肌の白い人達が多いと思う
393 :
世界@名無史さん :2006/11/08(水) 18:21:01 0
トルコの軍楽隊は?
394 :
世界@名無史さん :2006/11/15(水) 23:10:53 0
ゴヤの絵画が盗難 NYに輸送途中
ニューヨーク(CNN) スペインで18世紀に活躍した宮廷画家
フランシスコ・デ・ゴヤの絵画が先週、米オハイオ州のトレド美術館から
ニューヨーク市内マンハッタン地区にあるグッゲンハイム美術館に輸送途中、
何者かに盗まれた。両美術館が13日、共同で発表した。
美術館側は作品発見につながる有力情報に、最高5万ドルの報奨金を提供するとしている。
盗まれたのは1778年に描かれた子どもたちの絵で、トレド美術館の収蔵品。
100万ドル以上の保険金がかけられている。
今週グッゲンハイム美術館で開幕するスペイン美術展で展示するため、
ペンシルベニア州スクラントンを経由し、プロの美術品輸送会社によって
ニューヨークに運ばれる途中だった。
フィラデルフィアの米連邦捜査局(FBI)関係者は、あらゆる手がかりや
情報を検討していると述べたうえで、計画的な犯行との見方を示した。
2006.11.15
Web posted at: 12:28 JST
- CNN
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200611150005.html
395 :
世界@名無史さん :2006/12/03(日) 14:51:37 0
396 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 15:18:27 0
397 :
世界@名無史さん :2007/01/21(日) 04:50:34 0
Julio Caro BarojaのLos moriscos del reino de Granadaを読んでみた。 厳密にいうとモリスコなんで、アル-アンダルスではないんだけど、とにかく 明瞭に、厳密な分析がなされていると思う。民俗学的な考察もあって面白い。 古典だと思って(第一版は1957年発行)後回しにしていたけど、色々自分の中 で不明だった部分も明らかになったよ。
398 :
世界@名無史さん :2007/03/01(木) 00:40:59 0
月例保守に上がりました。
399 :
世界@名無史さん :2007/03/02(金) 14:41:02 0
イベリア半島の人間には黒人の血がかなり混ざってると聞くが スペイン人の場合金髪碧眼がかなり居る。南スペインでも。なんでかな?
400 :
世界@名無史さん :2007/03/03(土) 16:44:07 0
ケルト系の形質じゃなかろうか。
401 :
世界@名無史さん :2007/03/04(日) 19:05:28 0
へスス・ナバスっていうアンダルシア出身のサッカー選手は 顔の造りは典型的な浅黒い地中海系で眼は青だった。 案外、そういった人たちも多いんじゃない?
逆にマグレブでも金髪碧眼のベルベル系はさほど珍しくないぞよ。
スペインのモスク
イスラム建築
405 :
世界@名無史さん :2007/04/01(日) 08:19:34 0
ナバーラのトゥデラはムデハル建築で有名だが、 ムスリムが建てたことが明確な建物は 残っているかどうか・・・ エブロ川流域は随分後までムスリムが根付いていたよな
407 :
世界@名無史さん :
2007/04/06(金) 02:26:12 0 イスラーム支配下のアンダルスは洗練された華やかな文化が栄えた。 当然ながら男色や少年愛も盛行したが、どんな文学作品があるのだろうか? 「鳩の首飾り」などは有名過ぎるので除外して下さい。