1 :
世界@名無史さん :
2005/05/01(日) 22:11:52 0 語ってみよう。俺は詳しくない。
2 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 22:15:02 0
マイク・ホアーとかなら少しは。 でもそれは軍板だな。
3 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 22:18:24 0
一応、傭兵の二千年史読んだんだけど、売春婦の次くらいに長い歴史持つ。 というわけで、軍事板でなくて世界史板に立てたんだけど。 ランツクネヒトとか世界史板向きと思ったんだけどな・・・
スイス人のパイクがカコイイでつ。えへ。
5 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 22:37:09 0
>>3 アレクサンドロス大王やハンニバルの時代から傭兵は活躍していた
わけで。
6 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 22:40:20 0
>>5 ギリシャ人傭兵は有名だな。歩兵で優秀な民族は少ないような気ガス・・
7 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 22:53:16 0
日本は? シャムに渡った武士達は象兵相手に無敵だったらしい。 正確にいえば、象の足元を護衛する歩兵に対して圧倒的に強かった。 彼等も傭兵の部類に入るだろう。
8 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 22:55:49 0
山田長政は架空の人物!
9 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 23:01:32 0
山田はね。でも海を渡った侍はたくさんいる。
>>6 優秀な歩兵か…。
確かに歩兵はいて当然で、騎兵より目立たないからなぁ。
何をもって優秀な歩兵といえば良いかわからんけど、
例えば兵制が優れてると歩兵もぐんと強くなる。
体格的に劣るローマ側がゲルマン人と戦えたのもその点が大きいかと。
逆にゲルマン人なんかは個人の力が強いじゃない。
後代にも、スイス人傭兵やランツクネヒトになってヨーロッパで暴れてるし。
両方兼ね備えたのは…うーん、ワカランw
11 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 19:21:27 0
傭兵稼業は売春とともに古代オリエントから存在したといわれている。 古代オリエント諸国は、一部を除いて常備軍を持たずに有事の際には各地 からの強制徴募兵と傭兵で軍を編成していたという。 古代ギリシャのポリスの軍隊は、市民兵が中核ではあったが、補強のために 外部の傭兵を雇うのはごくふつうの習慣として行われており、アテネはクレタや バレアレス諸島から多数の傭兵を雇い入れたことが記録されている。 クセノフォンの有名な一万人のギリシャ人部隊も、ペルシャ帝国に雇われた 傭兵だった。
西ローマをあぼーんしたのも、ゲルマン人の傭兵だよね。
古代のギリシアも、中世以降のスイスも、 豊かとは言えない土地柄ですね。 産物は「人」ということなのかもしれませんね。
ネパールのグルカも有名ですが 山岳地帯と傭兵との関係はあるのでしょうか?
15 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 19:34:57 0
カルタゴ軍がガリア人、スペイン人、混血ギリシャ人、アフリカ人の 傭兵を雇っていたことは有名だし、ローマ軍にしても騎手や射手などの 専門職には、金で雇われた傭兵が含まれていた。 中世ヨーロッパの騎士たちの中には、封建正規軍に属するかたわらで 傭兵騎士としてアルバイトをする者も多かった。 ルネッサンス期のイタリア傭兵部隊、スイスの長槍傭兵部隊、ドイツの ランツクネヒトなどはこの流れの延長線上にある。
16 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 19:36:43 0
武士だって基本は傭兵だろ?それが土地を確保する事で権力者階級 になる。やがて実戦は悪党や足軽のような農民崩れが主力になり武士 階級は使われる側から使う側になる。しかし戦国期に家康の先祖や秀 吉みたいな人物が出て中世の大名は殆ど壊滅する。こう考えると歴史 って繰り返すな。
兵農分離が進められる戦国末期より前はそんな簡単な図式では説明できない。
18 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 19:43:56 0
オランダ東インド膾炙は3000隻の船を擁する大会社だったが、傭兵からなる 独自の民兵組織を持つことで、その莫大な利権を守っていた。 イギリス東インド会社はイギリス・ドイツ・スイスの傭兵を雇い、1782年の 時点で10万人の軍を擁し、それは当時のイギリス軍より巨大な軍隊だった。
19 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 19:57:27 0
第二次世界大戦で活躍した傭兵としては、ビルマ・インドシナ・タイ・ 中国の上空で圧倒的な日本軍航空部隊を相手にして戦い、初戦の敗戦で 意気消沈していた連合国国民に勇気を与えたクレア・リー・シェンノート 率いるアメリカ義勇軍、通称「フライング・タイガース」が有名である。 アメリカ義勇軍は陸軍・海軍・海兵隊などから応募者を募って組織 されたが、世紀の軍系統には属さずに直接蒋介石軍を助けて戦った いわゆる傭兵部隊だった。シェンノートは戦後、蒋介石を支援し続ける ため、国民党の管轄下に民間空輸会社(CAT)という名の会社を 立ち上げたが、これは現在のPMC(プライヴェート・ミリタリー・ カンパニー)のはしりともいえる。
20 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 20:34:15 0
傭兵主体の軍って金さえあれば(もちろん勝利も)うまく統制できたの?
21 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 20:37:22 0
アフリカ内戦の傭兵隊長は報酬を前金でもらっときながら 形勢不利と見るとトンズラとかよくあったようだ。
君主論とか読むといかにマキャヴェリが傭兵嫌いだったかわかる。
23 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 21:43:14 0
傭兵取締りに関する最初の国際的な動きは、1949年に国連のジュネーブ 協定が、傭兵を戦争捕虜の保護規定から除外したことである。1977年には 追加議定書が採択されている。 冷戦時代に突入すると、傭兵問題はソ連共産主義陣営による対西側批判の 一つとして利用されるようになり、イデオロギー色を帯びるようになる。 特に戦後、西欧の植民地から独立したアフリカ諸国の中には、ソ連の 影響を受けて共産化する国も出てきた。独立を許しても鉱物資源や石油 などの権益を確保したい欧米西側諸国や多国籍企業は、アフリカ諸国の 共産化を防ぐため、しばしば傭兵を投入した。 これに対してソ連側は傭兵を西欧植民地主義の残党として糾弾し、この 頃から傭兵が「帝国主義」や「植民地主義」と結びつき、ネガティヴな イメージで捉えられるようになっていった。
24 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 21:53:40 0
イスラーム世界の傭兵についても語ろう。 ベルベル人、スペイン人、スラヴ人、トルコ人、アフリカ人などの 傭兵が使われていた。
マムルークはそもそも傭兵と呼べるの?
>>24 マムルークのことですか?
奴隷として売られてきて、仲間とともに生活し武芸を学び団結を覚え
君主によって解放されることで忠誠を誓い、
俸給をもらって生活する。
簡単に言うとこんな感じですかね?
27 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 21:58:50 0
>>25 「奴隷軍人」だよな。
ところで、ビザンツ帝国のヴァリャーギ親衛隊は傭兵?
28 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 22:16:17 0
157 :世界@名無史さん :2005/04/30(土) 20:29:25 0 「アルモガバルス」と呼ばれたカタルーニャ傭兵軍団は、ギリシャではトルコ人 以上に評判が悪かった(略奪・暴行の限りを尽くしたという意味)。 彼らの中で最も有名なのはロジェール・ド・フロルで、フリードリヒ2世の 宮廷のドイツ人郷紳とブリンディシの一貴婦人の間に生まれた。 1304年にはビザンツ帝国のアンドロニクス2世に雇われてトルコ人と戦い、 これを撃破。 しかし彼らに払う報酬が負担になったアンドロニクス2世はハドリアノポリスの 離宮に彼らを招待し、アラン族近衛兵に虐殺させる。
29 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 22:16:51 0
158 :世界@名無史さん :2005/04/30(土) 21:58:35 0
アルモガバレス(almogavares) の語源は、アラビア語のal-mugawir(越境し
襲撃する者)かal-mugawar(叫ぶ者)とされているな。
カタルーニャとウマイヤ朝上辺境区(のちフード朝サラゴーサ)との絶えざる
小ぜりあいの中から生まれた、剽悍で粗衣粗食に耐える凶暴な傭兵たち。
>>157 1305年に起きたその虐殺の後、生き残りが暴れまわり、アテネとパトレー周辺
を征服して、1311年アテネ公国とネオパトリア公国を建設。
1380年に領土をアラゴン王国に献上。アラゴンは1388年まで領土を維持
した。
「アテネ及びネオパトリア公」という称号は、その後スペイン・ハプスブルク家
からオーストリア・ハプスブルク家に渡り、マリア・テレジアの名乗りの中にも
登場する。
المغاور>almogavar ?
31 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 23:37:26 0
アメリカ独立戦争では、建国の父ジョージ・ワシントンがドイツ傭兵を雇い、 彼の軍隊を訓練し、戦闘を指揮させていた。このドイツ傭兵たちは、イギリス軍 が雇った別のドイツ傭兵と戦う羽目になった。 1815年のワーテルローの戦いでも、ナポレオンの70万人の軍隊のうち、実に 50%以上が外国の傭兵で成り立っていた。対するウェリントン公の軍は、 6万人のうち4万人が外国人傭兵だった。
32 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 23:44:15 0
アナバシスの頃って言えば紀元前400年くらいだけど、そのころにはもう、ギリシャ人は他国に傭兵として 使われるまでに没落してたんだな。
34 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 09:50:33 0
>>33 ポリス同士の抗争で疲弊していたのが原因かな?
アレクサンドロス大王がペルシア軍と戦ったときも、ペルシア側には大勢の
ギリシア人傭兵がいた。
35 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 11:41:00 0
前のレスでもあったが、ギリシャ人傭兵は普通。 なにもない荒野に都市があるのは、目の前の海に出て、商人か海賊か傭兵になるため。
江の傭兵
37 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 13:29:46 0
スイス傭兵の稼ぎってどんなもん?
38 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 13:36:31 0
>>37 王侯貴族から支払われる給料の他に、略奪品(捕獲物)も収入の一部
だったのでは?
39 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 17:28:01 0
近世の軍隊には、規則的な俸給の支払いが出来なかった。兵士の俸給が決められた 給与日に支払われることはまずなく、数ヶ月程度の給与未払いはどの軍隊でも 常態化していた。中には、2年近くも支払われなかった事例も存在する。 あまりに長くこの状態が続くと、酒保商人が軍隊から姿を消した。極度の 貧窮に追い込まれた兵士たちは、生き延びるために集団暴動や脱走といった 挙に出た。 他方。君主の側も兵士の暴動を防いで軍紀を維持するために、あらゆる手立て を尽くした。しかし万策尽きたときには、兵士たちに掠奪を許可する以外に 手はなく、実際そうするのが普通であった。
40 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 17:54:09 0
ていうか、しょっちゅう不作や飢饉になる中世じゃ、領主とその家族とちょこっとの召使の飯を出すのがやっとだもんな。 中世の戦争なんて今の時代からみると愚かしいかぎりだ。
41 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 20:04:59 0
>>40 中世の戦争は、基本的にみなフェーデ(私戦)の性格を持っていますから。
ところで、『阿呆物語』で有名なグリンメルスハウゼンは、末端兵士の悲惨な
食生活を「葡萄酒やビールや肉にありつくことはほとんどなく、リンゴと
カビの生えた固いパンが最上のご馳走であった」と書いています。
フランス軍では、1635年から59年までの約25年間におよそ50万人の兵士が
病死したといわれています。近世の軍隊における主要な死亡原因は、戦闘に
よる死亡ではなく、その数倍の兵士が飢餓・栄養不足・寒さにより病死して
います。
42 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 21:19:57 0
>>41 農民やらせても連作で飢饉起こして死ぬだけだしねw
43 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 21:25:02 0
>>40 ルイ14世紀の時代でも不作&飢饉はいっぱい起きてますけど。
44 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 21:32:57 0
45 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 21:39:46 0
>>35 そもそも古代には「掠奪=悪」という考え方が存在しないし。
46 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 22:48:52 0
ヨーロッパ近世の傭兵について、彼らの出自はまっとうな職を持たない 「あぶれ者」「根無し草」だったというイメージがつきまとっているが、 実態はそれとはかなり異なっている。 傭兵を集める手段は、いうまでもなく募兵である。通常の募兵は、 募兵将校が村や町を渡り歩いて行われた。三十年戦争期の資料には、 「1200人の兵士を募兵すると告げれば、1500人の男たちが来ると考えて おかねばならない」とあり、この時代には兵士の供給が需要を上回って いたのである。 人々が募兵に殺到した原因は、15世紀後半から17世紀前半まで続いた、 ヨーロッパにおける急速な人口増加にあった。この結果、大量の貧しい 下層民が生み出され、都市では労働市場が絶望的なまでに飽和状態と なり、農村では出稼ぎなどの副業をしなければ生活できないほど貧しい 農民が大量に現れた。傭兵の供給源となったのは、これらの貧民層だった のである。
47 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 22:51:19 0
まあそういうのをあぶれものっていうんだけどなw
48 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 22:58:07 0
また、貨幣の悪鋳は固定収入を持つ人々の生活を苦しくした。村の学校教師 などが比較的募兵に応じたのも、そのためである。彼らには知識があるため、 例えば連隊書記官といった役職にすぐ抜擢された。必要な学費の給付が とだえた遍歴学生たちも、下士官や下級将校の地位を占めることが多かった。 彼らの多くは夏の間従軍し、冬に入ると中隊を離れた。この時代、冬には ふつうの戦闘がなかったので、彼らはこの期間、夏に得た戦利品を学費にして 勉学を続けたのである。
49 :
世界@名無史さん :2005/05/04(水) 23:13:47 0
なるほどね。初めて知った。 そういうのが後の常備兵や外国人部隊になっていくわけね。
50 :
ぢゅらさん :2005/05/04(水) 23:21:11 0
>>48 デカルトもオランダ軍の傭兵だったことがあるらしい。
暖炉で手をあぶっていた時に「Cogito ergo sum(我思う、故に我あり)」
という命題を思いついたのはあまりに有名だが、
夏の間は傭兵稼業で学費を稼いで、冬の間に勉学や思索に耽っていたのだな。
51 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 09:44:25 0
>>33 ギリシアでは、政治闘争や経済的没落のために多くの市民がポリスから離れて
いった。彼らは生計の手段を求めて傭兵になり、アテナイの将軍でさえ、
個人的な利得のために外国へ渡る者があらわれた。
スパルタに至っては、前371年にテーバイに敗れてギリシア世界の覇権争いから
脱落した後、国家の方針として自国の王と市民兵を海外に派遣し、傭兵の収入
で国家財政を補っていた。
当時のギリシア人は、東地中海方面では最強の歩兵であるとの評価を得ており、
彼らを雇いたがる支配者は各地にいた。
52 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 10:59:11 0
む、良スレだな
53 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 12:11:03 0
グラニコスの会戦では少なくとも5000、イッソスの会戦では1万数千もの ギリシア人傭兵がペルシア側にいた。
54 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 16:02:37 0
ペルシアのほうが金持ってるからな。マケドニアの猿につくよりはリスクが低いと考えたのかもしらん。
55 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 16:53:47 0
ttp://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/history/rivals2.html アレクサンドロスの東征序盤、彼に対抗したアケメネス朝ペルシア指揮官の
一人メムノンはロドス島出身のギリシア人で、傭兵隊長としてアケメネス朝の
貴族アルタバゾスに仕えていた人物である。彼がいつ頃からアルタバゾスに
仕えるようになったのかは定かではないが、前360年代にはアルタバゾスの
下で兄のメントルと共に傭兵隊長として働いていたと考えられる。
前366年から前360年まで続いた小アジアの太守達によるアルタクセルクセス
2世ムネモンに対する反乱(「太守反乱」)の間の出来事に、反乱鎮圧軍を
率いていたアルタバゾスがアウトプラダテスに捕らえられたが(前362年頃?)、
その事に関する記述にメントルとメムノンがアルタバゾスと姻戚関係にあった
ことが述べられている。また、後の史料で明らかになるが、メントル、
メムノン兄弟はトロアス地方(ペルガモンや有名なトロイ(イリオン)がある)
に所領を与えられていた。所領が彼らに与えられたいきさつについて、
一説には父親がヘレスポントス・フリュギア太守であったアルタバゾスは
成年に達した(前366年頃)あと、後見の叔父アリオバルザネスと世襲太守職
継承を巡る問題から対立し、それが内戦にまで発展したとき、義兄弟であった
メントル、メムノン兄弟がアルタバゾスを助けてヘレスポントス・フリュギア
太守の継承と領土保全を助けたためにトロアス地方を所領として与えられたという。
56 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 23:30:24 0
傭兵軍時代の軍隊は、基本的には、傭兵隊長という軍事企業家によってつくられた 企業であった。傭兵隊長は自己の才覚で軍隊を編成し、それを君主に供給した。 その動機は当然のことながら、中世騎士のような「主君のため」でもなければ、 近代国民軍におけるような「祖国のため」でもなかった。彼の目当てはあくまでも、 戦利品をはじめとする利益である。当時の戦争はビジネスだったのであり、 軍隊はこのビジネスを追求するための組織、つまり企業にほかならなかった のである。
57 :
世界@名無史さん :2005/05/05(木) 23:48:47 0
傭兵軍の創設は、まずは最高司令官である君主と傭兵隊長との契約から 始まる。契約が結ばれると、傭兵隊長は有能な連隊長に連隊編成の特許状を 与え、業務をいわば下請けさせた。続いて、今度は特許状を受けた 連隊長たちが中隊長を任命し、募兵や給養といった業務に当たった。 それゆえ、当時の軍隊の実質的な基本単位は、孫請けにあたるこの中隊 であったということができる。連隊はこのような中隊の集合体であり、 さらにその連隊が複数集まることで、当時の傭兵軍は成り立っていた のである。
58 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 16:41:36 0
戦争企業家として一番儲けた奴って誰だろう?
59 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 17:27:52 0
60 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 21:07:04 0
>>59 ヴァレンシュタインはどうやってあんなに兵力集めたの?
61 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 21:23:18 0
傭兵を集める手段については、
>>46 に書いてある。
ヴァレンシュタインの異常な兵力については『傭兵の二千年史』に簡潔にですが著述されています。
曰く、戦費に困った神聖ローマ皇帝から占領地の徴税権を授かり、それを担保にヴィッテ等の金融業者から巨額の融資を受け、後は
>>46 のとおり募兵をようです。
ところで『傭兵の二千年史』の史料の中で『裏切られて、売られて』というなんとも詩的な題のものがあり読みたいのですが、これはまだ邦訳されたものはないのですかね?
63 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 21:41:25 0
>>57 の続き
中退はしかも、単なる軍事組織上の単位ではなかった。というのも、
近世の軍隊において中隊は、中隊長による経営体という性格を濃厚に
持っていたからである。その維持に伴う損得は、すべて中隊長の懐に
はね返った。すなわち、維持費を節減すればそれは彼の儲けになり、
必要以上の費用を費やせば、その赤字分を彼自身が補填せねば
ならなかったのである。このような中隊の運営の仕方は、ふつう中隊
経営と呼ばれている。その一例としては、新兵の査閲に際しての、
中隊長による費用の水増し請求があげられるだろう。この時代の軍隊
では、募兵の後、君主の代理人による査閲が行われていたのだが、
その際に中隊長は兵員数を水増し報告して、幽霊人員の給料を自らの
懐に収めていたのである。最高司令官である君主が中隊経営に介入
することはなかった。中隊経営は、中隊が君主権力の直接及ばない
自立的な空間であることを示す典型的な事例なのである。
64 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 21:48:33 0
>>62 Hochheimer, Albert: Verraten und verkauft. Die Geschichte der europäischen
Söldner. Deutscher Bücherbund, Stuttgart/Hamburg ca. 1970
のことだと思いますが、まだ邦訳はされていないと思います。
65 :
世界@名無史さん :2005/05/06(金) 23:03:17 0
>>62 ありがとうございます。
そおかあ、読めないのかあ、残念だなあ・・・
>>65 ヴァレンシュタイン軍の強さの一因は、自前の工場を持ち軍需物資の補給を商人に頼らず、装備の統一を進めることもできた体とか
(『傭兵の二千年史』による)
>>63 Companyでつね。兵語と経済語で翻訳が分かれてるけど、あちらさんの脳内ではどうなってるんだろう。
68 :
世界@名無史さん :2005/05/07(土) 10:24:39 0
近世の軍隊には、 兵士の妻や子供たち、従軍商人、料理人、手工業者、御者、車力、家畜番、 占い師、護符売り、博徒、墓堀人夫などの大勢の非戦闘員がつき従っていた。 ドイツ語のtroßという単語は、日本では「輜重隊」と訳されていることが多いが、 実際には彼らの任務は軍需品の運搬だけではなく、傷病兵の手当てをはじめと して、将兵の生活を様々な局面で支えていたのである。
69 :
世界@名無史さん :2005/05/07(土) 15:44:52 0
>>65 のような輜重隊がぞろぞろ兵士の後をついていったとすれば、
遊牧民の移動のような感じだっただろうな。
70 :
世界@名無史さん :2005/05/07(土) 22:44:38 0
>>69 遊牧民の移動ってより隊商と難民の群れと言った方が近いと思う。
あるいは移動都市?
71 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 02:34:24 0
>>70 どっちもいい表現だなw
自己完結型じゃない組織w
難民ってのはいいところを突いてるな。しかも、超攻撃的な難民。 向かって来られる方はたまったもんじゃない。
73 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 04:26:42 0
テレンスリーって人の本はおもしろいよ
ひじょーに危険です
75 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 09:29:51 0
76 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 10:33:28 0
イラク戦争で米軍基地の運営を任されたKBR(ケロッグ・ブラウン・ アンド・ルート)社は、 建設・地雷排除・トイレ掘りなど軍隊のためにさまざまな仕事を 請け負う「何でも屋」。いわば現代の従軍商人。 水道・電気や下水システム完備はもちろんのこと、兵士のベッドメイク から暑い日のアイスクリームの調達までやる。
77 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 11:10:03 0
>>73 テレンスリー、日本に停泊中の北朝鮮の中古自転車運搬船に
怖がって近寄れず
78 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 13:21:00 0
79 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 13:57:19 0
一般に輜重隊の割合は、三十年戦争の始まったころには全兵力の20% 弱であったが、戦争が長期化し、拡大した結果、末期には50%を超えた といわれる。 1648年バイエルン軍のグロンスフェルト将軍が選帝侯マクシミリアン1世 に送った報告によれば、彼が率いた18万人の兵員のうち、将兵は4万人で、 残りの14万人は女性や子供に下僕であった。この場合、輜重隊の数は実に 全軍の7割以上を占め、戦闘員の3倍以上にもおよんだことになる。
80 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 14:43:58 0
輜重隊が運んだ数多くの荷車の中には、酒保商人と呼ばれる人々の荷車 があった。彼らは、食糧をはじめとした生活物資を兵士に供給する自営の 従軍商人で、実のところ近世の軍隊においては、その生命線とでもいうべき 兵站を、もっぱら彼らに依存していたのである。 彼らは自営の商人であるから、必ずしも一つの陣営にとどまる必要は なかったし、その義務も無かった。この点は、輜重隊のその他の者たちと 彼らとの間で大きく異なる点である。また彼らは民間商人なのだから、 業務上重視したのは物資の安定供給ではなく、自分たちの商売上の利益 であった。それゆえ酒保商人は、戦闘に勝利し、戦利品や掠奪品を 持ち帰った陣営に群がった。そこでは活発な売り買いが期待できるから である。逆に、商売にならないと判断され、彼らから見放された軍隊は、 飢えにさらされ、強盗や掠奪に頼らざるを得なくなった。このように、 傭兵軍時代の軍隊においては、兵站を酒保商人に依存したために、物資の 供給は極めて不安定にならざるをえなかったのである。この点は、近代 軍隊とは大きく異なった傭兵軍の構造的特質ということができる。 酒保商人 の存在意義はその後、薄まるとはいえ、こうした状況は基本的には19世紀 初頭まで続いた。
玄人ほど兵站を重視するというが、おんなこどもは兵站にもならんなw
82 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 14:57:01 0
兵士の妻たちもまた重要な役割を担っていた。 彼女たちは縫い物・洗濯・糸紡ぎ・呼び売り・行商・かっぱらい・夫が 負傷したときの救護・子供の養育・掠奪の補助などをした。 研究によれば、彼女たちの多くは傭兵の子供であり、僧でない場合でも 父親の職業は下層民のそれであった。輜重隊で育った傭兵の子供たちは、 多くの場合、少年なら兵士に、少女ならその妻になったということが できよう。ちなみに、兵士の妻子だけでなく、輜重隊のすべての人員は 連隊長の軍事裁判権に服していた。輜重隊は法的にもれっきとした軍隊 の一員だったのである。
戦争がないときは傭兵隊はどうしてたのですか?
84 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 15:29:50 0
いつの時代でもいいんだけど、時代ごとに比較してもらえるとおもしろいかも。
> 研究によれば、彼女たちの多くは傭兵の子供であり、僧でない場合でも > 父親の職業は下層民のそれであった。輜重隊で育った傭兵の子供たちは、 > 多くの場合、少年なら兵士に、少女ならその妻になったということが > できよう。 まさに動く都市、あるいは動く難民キャンプだな。
87 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 16:59:41 0
>>83 たいてい古今東西、泥棒・追い剥ぎ・山賊・海賊等の犯罪者かせいぜい
商店の用心棒、あるいは物乞いや吟遊詩人や手品師、不定期肉体労働者
のような最下層の職業しかない。あるいは治安を乱すとして国外追放や
殺害される場合もある。
志願制と傭兵の違いは自国一つに仕えるか金で転ぶかと軍歴が評価され
るか差別の原因になるかの違いだと思ったりする。
88 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 18:15:14 0
戦争と兵員補給の間には、一つの悪循環があった。戦禍によって生活 基盤と保護とを失った人々が軍隊に安全を求め、兵士になった彼らが 新たな戦禍を招くと、それによって居場所を失った人々がさらに新たな 兵士となる、という悲しい循環が、三十年戦争の時代には成立していた のである。 この時期の傭兵は「他人を殺すことによって生活をする」悪党ばかり ではない。戦争による悪循環によって、傭兵が繰り返し再生産されて いたのである。そのように考えると、三十年戦争の傭兵は、「戦争の 実行者であっただけではなく、犠牲者でもあった」といえるかもしれない。
民族大移動と同じにほひがします
「民族移動」って、現代風に言えば難民に他ならないよな。 武装難民集団が、行く先々で新たな難民を発生させ、一部は取り込みながらさまよい歩くわけだ。
傭兵って食い扶持が無い間は、乞食や強盗やるんだろ。ニート以下だな。
92 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 20:10:31 0
>>88 現代のアフリカ諸国の少年兵みたいだな。
戦災で孤児になった子供たちが少年兵になって残虐行為をはたらく。
社会復帰がうまくいかず、また少年兵として舞いもどってくる例が
多いらしい。
93 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 21:12:45 0
傭兵軍では、食糧供給にさいしては、中隊を経営する将校、軍事監察官、さらに 穀物商や運送業者といった者たちが結託し、利殖活動をした。彼らは、水路輸送 によってカビてしまった穀物を半値で買い集める一方で、君主に宛てた勘定書 では全額を請求した。給養に関する命令では、すべての国においてパンの分量と 成分が定められていたが、軍商たちはいたるところでパン屋を買収し、分量を 不正操作させた。小麦粉に藁くずや麦かすが混ぜられ、小麦とライ麦の配分規定 はいたる所で無視された。このように、特定の者たちが給養の問題にひそむ 弱点を利殖に利用したため、そのしわよせとして、兵士は極端に厳しい生活を 余儀なくされたのである。
見方をかえれば労働者を搾取するブルジョワジーってわけね。
95 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 22:52:03 0
1620年から1720年までのスウェーデン軍の統計によれば、戦闘中に死亡 した兵士が全体の約15%なのに対し、病死者は75%に達している。 給養の問題がこれほどまでに深刻化した背景には、軍隊の急増が考えられる。 中世末に3万人程度だった動員兵力は、一般に、16世紀以降激増したと いわれる。三十年戦争期には軍隊の規模はさらに増大し、最大時の兵力は、 両軍ともに10万人を大幅に超えた。短期間でこれほど巨大化した軍隊に 対して十分な俸給や食糧を供給することは、どの君主にも不可能で あったのである。そして、この前例のない大規模軍隊の出現が、「戦争が 戦争を養う」原則のもとでヴァレンシュタインによる軍税システムを 成立させる一方で、ただでさえ不十分な兵站の問題をいちじるしく先鋭化 させたのであった。
96 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 23:09:37 0
大軍の兵站システムの確立は鉄道が出来るまで不可能だったから 病死者がこんだけでるのも仕方ないな。しかし大軍の兵站システム の確立が高性能殺傷兵器の大量使用を実現させ昔では信じられない ほどの犠牲が当然のようにでるようになったのは皮肉だな。
97 :
世界@名無史さん :2005/05/08(日) 23:23:00 0
しかしこのすれの1の投げやりぶりは酷いなw ネタ提供者には感謝する。
99 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 12:47:06 0
現代世界では、傭兵(プライヴェート・ミリタリー・カンパニー)よりも、 正規軍(国連軍)のほうがあくどいことをやっている。 国連軍の兵士が買春を強要したり、タバコや麻薬の密貿易にかかわったり するというスキャンダルが絶えない。 しかも、こういう場合国連軍の兵士は責任を問われないケースのほうが 圧倒的に多い。
戦前の日本兵が意外と礼儀正しく国際法を遵守していたのとおなじこと
>>98 >1の投げやりぶりは酷いなw
「自分は傭兵について詳しくないが、関心あるのでネタ提供をお願いする」
という趣旨でスレ立てしたんでしょうが、せめてどういう点に関心を引かれたのか
とか、今まで自分なりに調べた結果を開陳して、疑問点を示してもらいたい者です。
他にもこうした「投げやりスレ」が結構ありまっすね。でも幸いなことにレスする
人の水準がマズマズだったのが救いです。
102 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 15:52:27 0
募兵に応じた「渡り人」たちは、入隊して新兵となったわけだが、彼ら新兵 と長年軍務を続けてきた古参兵とでは、同じ兵士であっても雲泥の差があった。 一般に戦争が手職と考えられていた近世においては、兵士としての価値はもっぱら 経験に求められた。それゆえ、新兵が軍事的に役に立つことはなきに等しかった のである。 これに対して、歴戦の古参兵は、どの軍隊でも渇望されるほど貴重な人材であり、 中隊長は彼らの確保に全力を尽くした。戦いの勝敗を左右するのは、彼らと 言っても過言でないほどであった。彼らは新兵と同じ兵士身分に属したが、 現実には上等兵として彼らをまとめる立場にあった。
103 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 15:57:12 0
古参兵の軍事的威力は絶大であった。例えば、1640年代のイギリスの 内戦では、モントロウズ侯の率いる3000人にも満たない古参兵部隊が、 スコットランド軍をあっけなく撃破している。スコットランド軍は、 兵力数と装備においてモントロウズ軍をはるかに凌駕していたものの、 6度の戦闘にことごとく敗れ、全軍が粉砕されている。
104 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 15:57:23 0
>>99 ランツクネヒトの悪行蛮行の数々も結構なもんですよ。
ブラバント騎士団とかもなかなか派手な手口ですよね。
106 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 17:04:51 0
>>102 どんな職場でもベテランが強いのはかわらないな。
108 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 17:31:25 0
古参兵はまた、部隊の維持に当たっても中核的な存在になった。彼らはしばしば 新兵の教練係になり、編入された捕虜を自軍に統合し、軍紀を守らせ、新兵と 将校とのパイプ役になった。戦闘に際しても、パニックや逃亡にほとんど 動じることなく、新兵の模範となって部隊の秩序を維持した。古参兵はまさしく、 部隊の求心力となり、軍事力の質を高める酵素のような役割を果たしたのである。
現代の一年とか二年の徴兵制度ってのは意味あんのかな?
110 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 17:37:17 0
なお、三十年戦争を経験した古参兵たちは、ウェストファリア条約の 締結された1648年以後になると、ヨーロッパのあらゆる大国で新たに 編成される常備軍の中核を形成することになる。一般に、この軍隊の 出現によって、あたかもまったく新しいタイプの兵士が出現したかの ように思われているが、それは必ずしも正しいとはいえない。 17世紀末のヨーロッパを驚かせたルイ14世の軍隊といえども、その中核は もっぱら、三十年戦争時代の古参兵によって構成されていたからである。 傭兵軍の時代と常備軍の時代とでは一見大きく違う印象があるが、連続 している部分も多々見出されるのであって、古参兵はそうした連続性の 重要な一つなのである。
111 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 18:48:13 0
フランスとスイスの血の同盟について語ってくれ。
>>109 武器の運用に高度な知識・技術が求められている現在、徴兵制はなくな
りつつあるな。国民の不満も大きいし、だが安価に大量の兵を獲得する
には有効な手だから敵国がある国や高価な装備なんて手が出ない治安
の乱れた発展途上国では今後も継続されると思う。
112 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 18:49:45 0
>>109 ヨーロッパ諸国は、ハイテク兵器が普及するにつれ、徴兵制度を
廃止する国が増えている。
113 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 18:55:52 0
>>111 フランスは、ルイ11世の時代からスイス傭兵を雇い始めた。
騎士たちは歩兵になるのを嫌がったため、スイス人の歩兵を雇うのが
手っ取り早い方法だった。
114 :
\(@▲@ーb ライヒスフューラー∬ :2005/05/09(月) 19:10:54 O
“…Und Morgen die ganze Welt!”(EMC098-099)\(・∀・;)イイ!! A: Es zittern die morschen Unsere Flattert uns voran Hakenkreuzfahnen NS Marsjen(March of the Nowegian NS) Her kommer Gutta i den Norske Legion(Battle Hymn of the Norwegian ∬) Loyalty Oath to Vidkun Quisling `Giovinezza'(Performed by Norwegian NS band) Giovani Fascisti Studenti Fascisti Imnul Tineretii Legionare(Battle Hymn of Romania's Iron Guard Youth) Imnul Biruintii Legionare(Iron Guard Victory Hymn) ∬卍≦予 ̄> G\(^■^ ラ Deutsche Kameraden! \ <!>+\
115 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 20:39:08 0
1663年、フランス王ルイ14世がスイス盟約者団と傭兵契約を結んだ。 その契約では、ルイ14世はスイスで6千から1万6千という多くの傭兵を 徴募する権利を認められていた。 その後、1723年にフランスとスイスとの間の傭兵契約は期限切れとなった。 これには、ルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノーを弾圧したことが 影響していた。しかし、スイスの中でもカトリック系のカントンは独自に フランスと傭兵契約を結んでいた。 ところが1777年には再びスイスとフランスとの間に傭兵契約が結ばれている。 スイスの潜在的な敵であるハプスブルク家がスイスに攻め込むのではないかと いう懸念が背景にあった。 新しい契約は1826年まで有効のはずだった。ところが、1792年には打ち切ら れている。フランス革命が勃発して人々がテュイルリー宮殿を襲った際に 約600人のスイス傭兵が全滅したのが原因だった。
116 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 22:33:11 0
ランツクネヒトが歴史から消えたのはいつごろからだろう。(ドイツ傭兵 の絶滅と言う訳でなく。)30年戦争まではいて、フリードリッヒ大王が 兵士狩りやってた頃にはいなくなってたらしいから1648〜1740年 の間に伝統が絶えたって事だろうか、ランツクネヒト最後の戦っていつだ ろう。誰か資料ください。
117 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 22:50:55 0
>>116 常備軍ができるとともに消滅したわけだから、1648年のプラハ攻囲戦
かなあ?
118 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 22:56:08 0
常備軍の時代になると、独立の軍事企業家であった傭兵隊長は姿を消し、 かわりに君主に直属する将校が登場した。将兵の衣食住は原則的に、 国庫によってまかなわれるようになり、兵士は一律に支給された軍服を まとうようになる。 17世紀後半以降には、退役兵士のための廃兵院が各国で建設され、大きな 社会問題だった失業兵の狼藉が沈静化した。18世紀半ばのフランスでは 兵舎が整備され、兵士に年金すら支給されるようになった。
119 :
世界@名無史さん :2005/05/09(月) 23:02:15 0
>>116 「ランツクネヒト」をどう定義するかにもよるのでは?
16世紀のランツクネヒト全盛期には、衣装はおろか武器や食糧もすべて
自弁することが当然だったし、兵士たちは集会を開いて自治を行い、
連隊の運営に対して共同決定権すら持っていた。これに比べると、
三十年戦争期の軍隊は往時の強固な兵士共同体とはもはやいえない。
しかし、傭兵の衣装や彼らの集団暴動といった領域では、依然として
前世紀の伝統が残っていた。
120 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 00:11:35 0
>>110 の続き
兵士たちの生活は常に死と隣り合わせであったため、近世の軍隊では俗信が
とりわけ広く流布していた。兵士たちの最大の関心は、やはりなんといっても
不死身になることであった。それゆえ彼らは、はるか昔から伝わる言い伝えを
守って、不死身の身体を手に入れようと努めていた。近世になり、鉄砲や
大砲といった新しい兵器が重用されるようになると、火薬にまつわる新たな
俗信がこれに加わる。その製造は、17世紀の兵士たちにとってみれば神秘の
ヴェールに包まれた技術であって、いわば魔法だったからである。それゆえ、
火薬を担当する下士官や砲術手は、百発百中するという魔弾の鋳造術に練達
していると信じられた。「弾丸を通さない」と噂された兵士や将校は、悪魔と
結託していると考えられた。将帥たちも同様で、スウェーデン王グスタフ・
アドルフは魔法の剣を持っていると噂され、ティリー将軍は「不死身」と
みなされていた。イタリア人占星術師を側近にしていたヴァレンシュタインは、
自身が魔術的世界を信じていた将軍としてきわめて有名である。
121 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 00:24:32 0
>>120 みんな戦死したか暗殺された人じゃん。w
まあそん位カリスマないと将軍や国王なんてやってられないだろう
けどな。科学や国民意識が生まれた近代と中世の端境期の兵士の意
識の中で将帥ってこういう風に視られてたんだな。良スレ
122 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 00:57:48 0
火薬なんてうんこちゃんからつくれるんだけどなw まあ忍者が超人化してるのと同じでは?
なんかイラクで日本人傭兵が武装勢力に拘束されたそうですね。
まじ?ていういかいつ?
http://www.sankei.co.jp/news/050510/kok006.htm イラクで日本人拘束か 武装勢力が犯行声明
イラクの武装勢力「アンサール・スンナ軍」を名乗るグループが9日、イラク西部ヒート近くで日本人を拘束したとする犯行声明をウェブサイト上で出した。
ウェブに掲載された旅券の映像によると、この日本人の名前は「齋藤昭彦」さん。キプロスの警備会社は齋藤さんとみられる日本人が同社で働いており、イラクで連絡が取れなくなっていることを確認。
米軍関連の民間警備関係者とみられ、重傷を負っているもようだ。
126 :
age :2005/05/10(火) 04:32:58 0
ageaから揚げ
127 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 06:41:05 0
>>120 錬金術とかが信じられていた時代だしな。
17世紀は天文学と占星術の区別がついてない時代だったとも聞いてる。 要はまだ経験則の時代だったんだろう。
129 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 10:52:56 0
現代の傭兵なんて会社勤めだからな。資本主義おそるべし!
130 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 11:07:44 0
俗信のなかでも特に興味深いのは、古参兵が魔術に精通していると みなされていたことである。それは、戦闘や飢餓、疫病などで多くの 者が死んでいくなかにあって、生き残っていること自体が古参兵を 神秘的な存在にさせ、彼らの魔法の信憑性を高めたからであった。 兵士たちは、悪魔よけのコインや魔法のパンをこぞって古参兵から 購入した。周囲の兵士たちは古参兵を、生き延びるための保証人と 思っていたのである。このように、心理的な次元においても古参兵が 兵士たちを統合する中心的な役割を果たしていたことは、注目に値する。
131 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 11:19:18 0
三十年戦争期には、「神の戦い、神の勝利」という宗教的戦争観が流布 したことについてもふれておく必要があるだろう。この考え方によれば、 「戦いの勝利は神によって、たった一人の敬虔な将帥だけに授けられる」 とされ、将帥たる君主たちに広く受容された。戦いに勝利するためには、 軍事力の増強だけではなく、熱心な信仰もまた不可欠だと信じられたの である。1630年にスウェーデン軍が北ドイツの海岸へ上陸した際、国王 グスタフ・アドルフが祈りを捧げたのは、この観念からなされたと 考えられている。 「より多く祈らば、より多く勝利す。懸命なる祈りは、これあらかた 敵に勝利することなり」 という彼の言葉も、同じ文脈のものである。君主たちはこの観念の解釈を さらに広げた。神の勝利を得るためには、自分自身の信仰の篤さだけで なく、戦争の道具たる軍隊も神の御心にかなっていなければならないと 考えたのである。こうして君主は、以前より積極的に軍隊の規律化を 試みるようになった。17世紀前半には、兵士の日常を紀律する規定、 例えば酒宴や賭博、呪いを禁止する規定がことさら強調されるように なるのである。ここには紀律化を図る君主の動向が反映されていると いえよう。
132 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 11:32:02 0
今回イラクで拘束された日本人は、もと仏軍外国人部隊だったらしい。 傭兵の直系の子孫がまだこの世に存続していいることに驚きだ。
134 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 17:18:54 0
>>133 売春婦がこの世から決してなくならないように、
傭兵もなくならないんじゃないのか?
135 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 21:07:56 0
当時の軍隊は、解雇兵や落伍兵に対してまったく関与しなかった。次の部隊に 雇われるまでの失業兵や、軍隊社会から離れた落伍兵は、自力で生き延びねば ならなかった。その結果、彼らの多くは無法者と化し、三十年戦争期には マロード団と呼ばれる強盗団を結成して、掠奪をはじめとする数々の狼藉に 手を染めたのである。
136 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 21:11:10 0
17世紀半ばまでの軍隊は、ふつう戦争が終わるとすべて解散された。 傭兵にとってそれは解雇であり、失業を意味したから、ときには彼らが 談合して戦争を継続させることすらあった。だが、部隊が解散されて 平和が訪れると、次の傭兵仕事を見つけるため、彼らはあちこちの 放浪を余儀なくされた。 失業兵たちは土木や収穫の補助作業員として臨時に働くことも多かったが、 他方で窃盗やゆすりを繰り返し、農家を掠奪するものも後を絶たなかった。
137 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 21:48:01 0
フリードリッヒ大王以降の傭兵奴隷・兵士狩りについて語れる 人います。募兵官の没義道ぶりや巨人狩りの実態ってどうだった んでしょう。
138 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:11:42 0
>>137 いわゆる「強制徴募」ですか?
物理的な暴力のみならず、恐喝や詐欺、姦計を用いた不法な募兵の
ことを指します。
プロイセンでは、募兵将校が乗合馬車を襲ったり、日曜日のミサの
最中に押し入って頑強な若者を拉致したりと、かなり激しい徴募が
行われました。募兵将校から逃れるために、村の若者全員が集団逃亡
したという話も伝えられています。
139 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:18:27 0
ttp://www.ff.iij4u.or.jp/~yeelen/system/prison/impress/impress.htm メルヴィルの遺稿『ビリー・バッド』で描かれる非道な海の人さらい、
民間の水夫を拉致して強制的に海軍に入隊させる強制徴募は、海軍の
増強が本格化した17世紀末以降激増し、対仏戦争に明け暮れた18世紀を
通じて猛威をふるった。
犯罪者が刑を免れるために敢えて入隊することもあり、時には有罪判決
を受けた被告人が裁判官に軍艦勤務を命じられることもあったが、一般
の民間水夫にとっては、それは不意に頭上に襲いかかる、まさに突然の
嵐にも似た理不尽な災厄であった(注1)。しかも、兵卒の給料は極めて
低廉で、あまつさえ満足に支払われないことも多かったため、働き手を
突然奪われた家族はたちまち窮乏の淵に立たされ、生きるためには
救貧院か犯罪かのどちらか――あるいは、その両方――を選ばねば
ならぬことも珍しくなかった。すなわち、強制徴募もまた、「死の家」
への有能な水先案内人にほかならなかったのである。
140 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:19:24 0
当時のイギリスの兵士供給は基本的に志願兵制度と強制徴募とから なっていたが、給与が1653年以来まったく改善されなかったことも あって兵卒としての軍隊勤務は極めて不評であり、志願兵の数はごく 限られていた(注3)。その一方、たとえば七年戦争期全体(1756〜63) で13万4千人の船員が逃亡ないし病死(うち逃亡が4万)するというように 水夫の不足は深刻で、結果として激しい反発を受けながらも強制徴募に 頼る以外に方法はなく、その依存度は全体の7割にも達し、海軍は 「浮かぶ強制収容所」と恐れられることになった。 ナポレオン率いるフランス海軍をトラファルガーに撃ち破ったイギリス 海軍が、このように国家による組織的な誘拐によって辛うじて維持されて いたということは、両国にとってこの上ない不名誉な事実といえよう。
141 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:20:07 0
強制徴募は、まず枢密院が強制徴募の指令を出し、これを受けた海軍省が 「徴募命令書(press warrant)」を地方当局に送達、後者が徴募人を 指名するという手順で実行された。徴募隊(press-gang)は、陸上の 場合は指揮者一人と副指揮者一人を含め20人ほどで構成され、船員の 集まる港町のパブなどを襲った。海上では、港の入り口で帰港船を 待ち伏せするという方法がとられた以外にも、全ての軍艦は機会が あれば徴募に当たることになっていた。しかし、徴募される側も、国家 のために従容と船員を差しだす従順な船ばかりとは限らず、頑強に抵抗 する商船との間で本格的な戦闘に発展し、双方に死傷者が出ることも 稀ではなかった。
142 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:21:30 0
18世紀末のフランス革命への干渉戦争の時代になるとますます船員不足 は深刻となり、強制徴募のターゲットは、『ビリー・バッド』の 「人権号」がそうであるように、公海上のアメリカ船にまで及ぶように なった。アメリカに帰化したイギリス出身者をふくむ大勢の船員を アメリカ船から拉致するという旧宗主国のこの度し難い横暴さが、 のちに首都ワシントンを火の海にした米英戦争の引き金の一つとなる しかし、フランスとの戦争が本格化するにつれ、志願兵と強制徴募に 頼る昔ながらのリクルートの方式では宿敵との戦いに必要な海軍力を 維持することがもはや不可能であることが誰の目にも明らかとなって いった。そこで1795年、全国の各州に一定数の水兵の徴募を義務づける 割当法(Quota Acts)が制定された。当初は州当局の反発もあって 実効性が危ぶまれたが、1797年の海軍大反乱を機に兵卒の処遇改善が 実現されたことで同法は徐々に定着し、悪名を馳せた強制徴募も1830年代 にようやく廃止された。
>>138 さん よろしければご教授ください。
「昨日まで他国の近衛兵だったものが今日はプロイセン軍に強制入隊させられていた」(『傭兵の二千年史』)そうですが、
外交問題にはならなかったのですか?
しかし大王様、
「国家第一の下僕」なお方は他国の民を拉致し、
自国の若者を外国に売り払う君主を「汚らしいエゴ」と罵る・・・と。
そりゃ理屈は間違っちゃいませんけどね(苦笑)
144 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:31:35 0
>>143 >外交問題にはならなかったのですか?
>>142 に書かれてあるように、イギリスとアメリカの間では外交問題に
なったようです。プロイセンの場合はよくわかりません。
ちなみに、強制徴募といっても、だれかれかまわず徴募したわけではなく、
貴族・官吏・家屋敷や農場を持つ者・マニファクチュアや鉱山の労働者
といった人々は、統治業務や租税の重要な担い手であったため、募兵の
対象からはずされていました。
145 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:36:59 0
146 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 22:47:23 0
>>46 で指摘されているように、三十年戦争までの時代には、兵士の供給が需要
を上回っていましたが、17世紀半ばからこの関係は逆転し、今度は需要が
供給を大幅に上回るようになりました。
これが強制徴募がしばしば生じた原因だったわけです。
17世紀後半におけるヨーロッパ諸国の軍事力の増大は、三十年戦争時代を凌ぐ
勢いで、例えばフランス軍の場合、三十年戦争期に20万人だった規定兵員数が、
アウグスブルク同盟戦争(1688〜97)時には42万人まで膨れ上がり、わずか
半世紀の間に倍増しています。
147 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 23:32:09 0
やはり傭兵といえば、コンゴ動乱は欠かせませんね。
148 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 00:49:47 0
20世紀の傭兵はアフリカに、21世紀の傭兵は中東に、って感じ だな。民主主義国家と言う建前と覇権国家としての実態の間でアメリ カが揺れてる間は傭兵稼業に手を出す奴は絶えんだろう。拉致された 斉藤氏の日給6万以上らしいから、これが世界中に配信されたらロシ アや中国軍あたりの退役兵が雪崩れをうってイラクに飛び込んでいく ような気がした。
149 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 08:34:30 0
150 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 08:43:34 0
1994年、アメリカのMPRI社は、ユーゴスラビア連邦からの独立を 宣言したばかりのクロアチアへ軍事アドバイザーとして赴いた。 表向きは「軍・民関係における訓練」ということだったが、実態は クロアチア軍を旧東側の“モスクワ・ベオグラード型軍隊”から “西側のアメリカをモデルとした軍隊”へ再編するのが目的だった。
152 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 09:24:37 0
MPRIがクロアチアに到着したころ、同国の領土の約30%がセルビア 軍の支配下にあったのだが、MPRIがクロアチア軍に協力し始めたのと ほとんど時を同じくして、クロアチアが領土の奪回に次々と成功し始める。 1995年5月にはザグレブの南西部を取り返し、続いて西スロヴェニアの 一部も奪回した。そして1995年8月にはクラジナ地方を奪回するため、 クロアチア軍は有名な「オペレーション・ストーム」を敢行した。 この作戦はそれまでになく洗練された攻撃で、わずか一週間でセルビアの 防衛を崩壊させ、クラジナ地方を取り返してしまった。
153 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 09:32:43 0
この作戦は典型的なNATO式の軍事作戦だといわれ、MPRIが背後で 糸を引いていたのではないかとの憶測を広めた。当時国連のオブザーヴァー ミッションでクラジナ地方を訪れていた英国の大佐は、 「これは教科書どおりの軍事作戦だ。もちろんユーゴ軍の教科書ではない。 誰がこの計画を書いたにせよ、その人物は北米か西欧のNATO関連の 軍事大学にいけばAのスコアを取るだろう」 とコメントした。
154 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 09:58:50 0
巨人狩りはフリードリヒ大王の父親の代に主に行われ、 彼自身は即位直後に「巨人連隊」を解散していたと思うが。 あとプロイセンには軍管区制度があったから、末端の横暴はともかく 全体的には当時としては割と効率的な募兵が可能だった。 (オーストリアでこれが導入されたのは七年戦争後) ちなみに当時において、外国軍に勤めることはほとんど問題にならなかった。 プリンツ・オイゲンなんてフランス人と言っていい血筋なのに、 オーストリア・ハプスブルクに仕えてたし。 確か大王時代のプロイセン軍にはスコットランド出身の将軍もいたはず。
あの人の事件で立ったスレかと思ったら、スレのほうが早かったんですねw あの人の所属しているハート・セキュリティーって会社が 浦沢直樹の「パイナップルアーミー」なんかに出てくる会社ですね。 ちょっと興味を持ったんでとりあえず「傭兵の2000年史」を読んでみますけど、 他にもいいものありますか。
158 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 14:19:09 0
斉藤さんて伝染るんですの人か
159 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 14:25:14 0
>>156 R・バウマン『ドイツ傭兵の文化史』(新評論社)
U・ブレーカー『スイス傭兵ブレーカーの自伝』(刀水書房)
H・プレティヒャ『中世への旅―農民戦争と傭兵』(白水社)
京都大学西洋史研究室『傭兵制度の歴史的研究』(比叡書房)
菊池良生『戦うハプスブルク家』(講談社新書)
160 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 14:28:21 0
>>155 フランスでは1688年に国王民兵制が、プロイセンでは1733年に
カントン制が定められた。
161 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 18:30:27 0
17世紀後半以降の常備軍を、近代的なイメージだけで見るのは一面的である。 これらの軍隊は19世紀以降のような国民的基盤に立った軍隊ではなく、主力を なしたのはこれまでと変わらず傭兵であるから、むしろこれは「常備傭兵軍」 と呼んだほうが適切である。外国人傭兵への依存率も近代軍隊に比べると はるかに高い。ルイ15世期のフランス軍は、平時には少なくとも8分の1、 戦時には4分の1が外国人傭兵であった。18世紀のプロイセンでは、フリードリヒ・ ヴィルヘルム1世の治世において、外国人傭兵の割合は最大時で軍全体の3分の2 であった。フリードリヒ大王期になっても、平時においては実兵力の半分程度を 外国人が占めていたといわれている。
162 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 18:34:53 0
フリードリヒ大王時代のプロイセン軍には、「非番兵」というものが あった。非番兵とは、ときとして強制的に休暇を与えられた外国人傭兵 のことで、中隊長は休暇中の彼らの俸給を自分の儲けにしていた。 非番兵の数が多いほど中隊長の収入は増加したため、非番兵の人数は 定められていたものの、定数以上の兵士が非番兵にされていた。 この例からもわかるように、常備軍時代においてもなお、中隊経営と いう傭兵軍時代の特質はいまだに存続していた。
163 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 18:57:34 0
マルタ国旗
>>156 現代の民間軍事企業についてなら、NHK出版の「戦争請負会社」が激おすすめ。
>>151-153 アフリカのアンゴラだと、南アフリカの傭兵企業がかつての仇敵だった
アンゴラ政府軍を1990年代に支援して反共ゲリラのUNITAを壊滅
の一歩手前まで追い込んだのが有名だな。
166 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 21:06:24 0
>>165 たった80名のチームで、アンゴラのソヨにある油田を選挙していた
UNITAのゲリラを追い出したとか。
167 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 21:08:47 0
7人の侍
168 :
156 :2005/05/11(水) 21:13:03 0
お返事どうもありがとうございました。 みんな面白そうですね。 早速読んでみます。
169 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 21:56:35 0
三十年戦争では、割当義務制度が存在したスウェーデン軍も含めて、 どの軍隊でも兵士の構成は、各地を転戦するうちに大幅に変わっていった。 というのも、この時代の戦争では、敗軍の捕虜が当たり前のように勝利 した軍隊に編入されていたからである。捕虜の編入は、部隊を率いる 将校たちにとって、消耗した兵力を迅速かつ安価に再生させるための 最良の方法であった。 また捕らえられた兵士にとっても、もし捕虜になることを拒めば、 それは武器や甲冑といった生活基盤をすべて失うことになったため、 敵軍への編入をためらわなかった。傭兵軍が出身地域に関して著しく 雑多な構成になったのは、こうした捕虜の編入が広く行われた結果 でもあったのである。
170 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 22:10:21 0
出身地域の違う傭兵たちの共存は、決して容易ではなかった。一例を あげると、シュマルカルデン戦争時の皇帝軍では、ドイツ傭兵とスペイン 傭兵との間で流血騒ぎが生じている。きっかけは、輜重隊のドイツ人少年 とスペイン人少年との些細な喧嘩であったが、それはやがて大人もまじえた 大乱闘に発展し、鉄砲の撃ち合いにさえなった。 結局この争いでは、18人のドイツ傭兵と70人ものスペイン傭兵が死亡し、 その調停には皇帝が乗り出さねばならないほどであった。この事件は 必ずしも例外的なものではない。「国籍」をめぐる傭兵たちの争いは、 皇帝軍に限らずどの軍隊でも数多く生じていたからである。しかもそれは、 ひとたびはじまると流血騒ぎになるのが常であった。
171 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 22:55:51 0
>>170 「国籍」と言うより、言葉とか文化や習慣が原因じゃないか。人類
皆平等が建前の現在でもこの種の差別なくなってないしな。
172 :
世界@名無史さん :2005/05/11(水) 23:00:02 0
フランス外人部隊では、出身国の違う用兵同士の関係というのは どうなっているのかな。
フランス語を必修にしてるから大丈夫なんじゃない?
174 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 02:43:34 0
ためしに出身国ごとに部隊を編成してみたらフランス語をおぼえようとしなくなったのでやめたとか。
175 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 08:33:52 0
宗教改革以降、ヨーロッパ全土で宗派対立が厳しさを増したなかで、軍隊は カトリックとプロテスタントの共存する数少ない空間であった。 例えば、同じ宗派の新兵と異なる宗派の古参兵とでは、必要とされたのは常に 後者であった。また捕虜として獲得した他宗派の兵士を解雇すれば、敵軍の 兵力をふたたび増大させかねなかった。さらにまた、宗派の違いを理由に 連隊長を解雇してしまうと、彼と強く結びついていた兵士たちが流出し、 連隊そのものを解隊させる恐れがあった。これらの現実を打開させるだけの 力を、17世紀前半の君主はまだ持っていなかったのである。
176 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 09:27:12 0
近世の軍隊社会は、ある意味で非常に異質な人々が寄り集まる共同体であった。 とくにそれは、出身地域と宗派において顕著に現れていたといえる。 傭兵たちの言葉はたがいに通じないこともしばしばであったし、彼らのなか にはカトリックとプロテスタントのどちらの信徒もいた。 近世の軍隊はこのような多様性を許す共同体であった。同時代の他の 社会集団や近代の軍隊の比較したとき、この多様性の共存こそ近世軍隊 の大きな特徴ということができる。
177 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 10:39:41 0
>>147 ttp://www.geocities.jp/shokatusei/Memorial/30000.html カタンガの味カタンガの味方は欧米諸国の右翼勢力である。カタンガ憲兵隊の指揮官は当初
ほとんどベルギー軍であったのが、61年4月以降にはフランス人が大量に
雪崩れ込んできた。この頃フランスの植民地アルジェリアでは独立戦争が激化
しており、植民地の独立を容認せざるを得ないド・ゴール大統領とアルジェリア
在住フランス人(コロン)の対立が鮮明化、コロンに味方したせいでド・ゴール
に解隊されたフランス軍第1外人落下傘連隊や、その他の指揮官の一部が、
再就職を求めてカタンガ憲兵隊に加わった(士官としてアフリカ人兵士を指揮
する)のである。フランス軍の指揮官としてインドシナ戦争やアルジェリア
独立戦争を戦った彼等の流入は、カタンガにとって実に励みになった。同じ頃
には南アフリカでも傭兵の募集が進み、イギリス人等、英語を話す白人のみで
編成された傭兵部隊「インターナショナル・カンパニー」が結成された。
さらには、やはり白人傭兵をパイロットに雇ったカタンガ空軍も整備されるに
至った(飛行機は練習機に機銃やミサイルを積み込んだ程度のものだが)。
白人傭兵は結構な給料をもらい、「自分達は共産主義(ルムンバ派や国連の
ことを勝手にそう決めつけていた)の魔の手からアフリカの白人を護るための
十字軍である」というカタンガ政府の宣伝を素直に信じた熱血漢から、単に
人殺しが好きな奴、フランスでド・ゴール大統領に刃向かったせいで軍をクビ
になった奴(クビになった後もド・ゴールに刃向かい続けた連中が「OAS」、
傭兵業に乗り換えた連中はもうド・ゴールに喧嘩を売ろうとはしなかった)、
等々様々なタイプの男達を擁していたが、とにかく彼等は間違いなく戦争の
プロである
178 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 15:58:24 0
>>37 傭兵でなく、スイス諸邦の支配層が、傭兵提供の見返りに受け取る「年金」
の金額ならわかっています。
スイスが1587年にスペインと結んだ傭兵契約同盟の年金は6000グルデンで、
ルツェルンでは次のように分配されていた。
年金全体の52%にあたる3120グルデンは小市参事会員36名に、2066グルデン
(34%)は拡大市参事会員64名に与えられた。さらに16名の役人・従僕に360
グルデン、その他の市民62名に400グルデンが与えられている。雑費として
使われた額は54グルデンであった。
当時の手工業者の親方の年収がおよそ100〜150グルデンであり、市参事会員
にとってはかなりの収入であったことがわかる。
179 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 16:10:27 0
>>178 傭兵自信に入る収入きいてるんじゃないの。
基本的に安い上に未払いが多発。そういう場合、傭兵隊長は略奪を許可した。
180 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 16:31:37 0
そもそもヨーロッパ世界では、古代ギリシア以来、戦争そのものが ある種の経済的行為であった。極端ないいかたをすれば、戦争は、 戦闘という労働によって戦利品という利益を獲得する経済活動 だったのである。 経済活動が武力とは無縁であり、生産を拡大して流通を促進することが 豊かさにつながると考えるのは、近代の発想である。それ以前の社会 ではそうではなかった。交通手段が未発達で、人や物の往来に大きな 困難が伴う時代にあっては、戦利品を奪うことは、富をもっとも確実に 増やす方法と考えられたのである。このような価値観を基礎にした社会 では、戦時の掠奪が不当な行為であるはずがない。
181 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 16:50:29 0
さらに、中・近世ヨーロッパで「敵」という場合には、一般住民も すべてこの言葉の中に含まれていたことに注意せねばならない。 周知のように、今日の戦争で「敵」となるのは相手の戦闘員だけで あって、武器を持たない一般住民はこれに含まれない。もし彼らを 攻撃すれば、それは国際法違反となる。ところが中・近世ヨーロッパ ではそうではなかった。なぜなら一般住民は保護者たる君主や領主の 所有物とみなされていたからである。中世における保護=支配関係は、 被保護者とその土地が保護者の財産となることであったから、財産的 被害を補うことを目的とするフェーデ(私戦)において、彼らは領主の 財産として敵になった。それゆえ、傭兵が一般住民に対してどれほど 残酷に見える行為をしたとしても、それがフェーデであるならば犯罪 ではなかった。
日本に生まれてよかったよ、ほんとに。 前世は大変だったかもしんないけど、もう覚えてないし。
183 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 17:02:32 0
>>180 >>181 中世・近世の日本も似たようなもんだよな。
そもそも、海賊と商人の区別が不明確な社会だったし。
狩人と山賊も似たようなもんだし、坊主と乞食も似たようなもんだ。
185 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 19:37:20 0
>>184 侍と山賊、海賊の区別もなかった時代もある。
悪党とか。
186 :
世界@名無史さん :2005/05/12(木) 20:40:38 0
>>146 に書かれているような軍隊の巨大化は、イギリスの歴史家ロバーツによれば、
16世紀におけるオランダの軍制改革によって考案された横隊戦術とその後の戦略の
革新が出発点であったとされる。
ちなみに横隊戦術は、スペインの密集方陣形「テルシオ」の弱点を研究して
改良された画期的戦闘隊形。機動力が格段に増すとともに、銃兵の反転行進
射撃によって銃の威力が最大限に引き出された。
187 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 00:24:44 0
中国やロシアの傭兵史ってどうなの?コサックなんて一種の傭兵なんじゃ ない?
188 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 01:50:51 0
>>187 ポーランドはウクライナ・コサックをよく利用していた。
189 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 01:59:54 0
ttp://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history11.html 618年に成立した最後の鮮卑王朝である唐(とう)のとき、定住民に
軸足をおく中国王朝への転換はほぼ完了した。唐の総兵力は100万に
達し、周辺諸国の弱体化に乗じて一時はバイカル湖やアラル海までに
およぶ勢力圏を築きあげることに成功した。
しかし、この制度には漢の時代から解決されていない欠陥があった。
税や強制労働にくわえて兵役まで課されるのは、農民にとってあきらか
に過重な負担だったのである。やがて、国の管理を逃れようと地主の
もとに逃げる者が続出し、税収が減るとともに徴兵も困難になってきた。
また、周辺の遊牧民が勢力をもりかえしてくると、農民をかき集めた
軍では太刀打ちできないことが明らかになった。
そこで存在感を増してきたのが、金で雇った職業軍人である。傭兵は
唐の成立時から多数存在していたのだが、辺境防備の必要にかられて
随時拡充されてきた。そして、8世紀前半に徴兵制が廃止されるに
いたり、国防を全面的に担うことになったのである。北方の遊牧民から
募集した騎馬兵が、その中核となった。
190 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 02:03:17 0
296 :名無し三等兵 :2005/05/12(木) 10:34:54 ID:??? グルカ兵の場合、ネパールでは、英軍の傭兵として勤務する若者たちの給料が、 ほとんど唯一の外貨収入だったそうで。 グルカ兵にインタビューをすると、 「グルカ兵になったからこそ、英語を学べ、故郷に送金もできる。 さもなければ、一生山の中で農作業なのさ」 と語ったとか。
191 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 02:18:35 0
中国だと、 辺境の防衛に異民族を傭兵として使う→そいつらが軍閥化する→中央の コントロールがきかなくなり、ついには王朝を倒す というパターンがありそうだな。 ヨーロッパの場合、上級将校職は貴族によって独占されていて、下級 将校の各階級は、財産のある都市民によって多く占められていたと いわれている。 貴族以外の者が上級将校になることは、ごくわずかの例外を除いて存在 しなかった。
それで高田屋嘉兵衛なんかが、ロシアの将校=日本の旗本、と対応付けてロシアの軍制を おぼろげながらも理解できたりするんだな。
193 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 08:52:10 0
194 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 09:24:31 0
ヴァレンシュタインはベーメン(ボヘミア)出身の貴族、 ティリーはブラバントの貴族、 ピッコローミニはトスカーナの貴族、 パッペンハイム伯爵ももちろん貴族。
オルシーニ家やコロンナ家は傭兵隊長と貴族とどっちが先なの? イメージとしては「土豪」が起源なのかな。
196 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 13:39:11 0
>>195 彼らの場合、本家は爵位を持っていないからな。
コロンナ家はローマ周辺のザガロラとコロンナという町を保有し続けて
いて、また隣のトゥスクルムの半分をも保有していたが、このことから
彼らはトゥスクルム伯の血を引いているのではないかという説もある。
ちなみにコロンナ家自身は、出自をライン河のほとりだと主張していた。
オルシーニ家はスポレトの出で、その家名は「熊」を意味する。
197 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 13:55:56 0
コロンナ家は、13世紀の終わり頃に一人はローマ元老院議員に、 また二人が教皇ニコラウス4世からそれぞれアンコーナ侯とロマーニャ 伯に叙された。 オルシーニ家も分家はブラッチャーノ公だのピティリアーノ伯だのに 叙されている。
198 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 14:21:19 0
ttp://home9.highway.ne.jp/nicolo/m-2/life2/link-majone/majone.html オルシーニ家は12世紀頃から頭角を現し、ラツィオ地方を中心に勢力
を拡大したローマの名門貴族。ローマから約50キロのブラッチャーノ
を拠点に、ローマ北部を事実上支配していた。法王庁との繋がりが強く、
多くの司祭、枢機卿を輩出。法王庁内では常に大きな力を握っていた。
しかし、スペイン出身の法王アレッサンドロ6世にとってオルシーニ家
は邪魔者でしかなく、1496年にオルシーニ討伐を行う。この討伐
作戦にオルシーニは勝利し、法王はオルシーニ討伐を指示した法王教書
を破棄するが、その後、両者は当然対立する。そして、1501年、
チェーザレはオルシーニと並ぶローマの豪族、コロンナ、サヴェッリ
両家を完全に討伐。オルシーニ家だけは多くの傭兵隊長がチェーザレの
配下にあったため、この討伐から除外されたが、オルシーニの方からは
「次は自分たちの番だ」という疑念は消えなかった。さらに、フランス
王ルイ12世のチェーザレへの援助がジャンバッティスタ・オルシーニ
枢機卿の法王への不満を増大させ、反法王、反チェーザレの気運が高まった。
199 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 16:46:31 0
>>137 強制徴募は、それ自体が常備軍時代に特有な現象であったが、同時にそれは、
別の構造的特質を軍隊に与えることになった。兵士の脱走がそれである。
三十年戦争期においても、たしかに兵士が脱走することはあった。俸給が
未払いで極度に貧窮したときには多くの兵士が脱走した。ただしその原因は、
軍隊が彼らに十分な報酬を与えず、まともな労働環境を整えないことにあった
から、脱走はいわば、それに対する兵士の抗議表明であったということが
できる。それゆえ、この時代の脱走兵は、脱走した後でも別の軍隊へ入って
軍務を続けるのがふつうだったのである。また軍の側から見ても、脱走の
問題は、兵士を極端な困窮に陥らせさえしなければ、特別憂慮するに値しない
問題であった。
200 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 18:05:38 0
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/europe/news/20050513k0000e030031000c.html イラクで英系民間軍事会社社員の斎藤昭彦さん(44)がイスラム武装組織に
拘束されたとみられる事件で、斎藤さんが昨年まで所属したフランス軍外国人
部隊の機甲部隊、吉水導応(みちお)軍曹(32)=岩手県出身=が12日、
当地で会見し、「一刻も早く自由になってほしい」と解放を願った。
仏外国人部隊は兵士約8000人で130の国籍にまたがる。日本人は約40人。
入隊には体力や心理、常識テストなど2週間続く試験に合格する必要があり、
毎年約8000人が応募、合格者は1割程度で、入隊者の平均年齢は23歳
だという。
吉水さんは高卒後、「自分を試してみるという軽い気持ち」で91年に志願。
他の日本人の志望動機も「自分を試す」「冒険したい」などが多いという。
機甲部隊に配属された吉水さんは、カンボジアや旧ユーゴの平和維持活動
などの任務についた。
↑昔は貧困から傭兵になる例が多かったが、今は冒険心か…
何か文章の端々に記事書いた記者のやっかみと無知が見える
202 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 18:25:25 0
EO(エグゼクティブ・アウトカムズ)の創設者は南アの旧アパルトヘイト 体制下で南ア軍の情報将校をつとめたエーベン・バーロウ。南アの 軍諜報機関CCB(民事協力局)のオフィサーとして南アの白人支配に 抵抗する敵を排除する秘密工作に従事した。バーロウは西欧に渡り、 ANCのネルソン・マンデラに関するネガティブな情報を流したり、 南ア製の武器を海外で販売する窓口として機能した。バーロウは ほとんどのEOのメンバーを、旧南ア国防軍でアパルトヘイト時代に 反乱鎮圧部隊として恐れられた第32大隊の出身者からリクルートした。
203 :
世界@名無史さん :2005/05/13(金) 20:00:22 0
>>187 ロシアでは、ナポレオン戦争のときにコサック連隊が編成され、さらに1837年に、
皇帝ニコライ1世は皇子を「全コサックの首長」と宣言した。
でもここまでくるともはや「傭兵」とはいえないかな…
コサックの場合、農奴とちがって納税や徴兵は免除されていたけどね。
>>201 戦争はムリヤリやらされるモノであるとして、「戦争が好きで戦争に行く人間」が
この世に存在することなど想像の範囲外なんだろうね。
>>204 >この世に存在することなど想像の範囲外なんだろうね。
世界には上のレスでもある様に貧困から金が欲しいから、
それしか仕事がないからの理由がごまんとある訳だが
そう言うのが分からないんだろうね。
そう言うのが言論の府の記者って言う所が恐ろしいね。
海外特派員や海外常駐の記者だって、実際現場まで行っちゃいない
全部現地の人間からの又聞き、ラテンアメリカでは外務省の役人すらそう言う体たらく。
そして、自分探しで傭兵に入るって言い回しが涙を誘うね。
フランス外人部隊はバカじゃ入れないぜ。
現代のフランス外人部隊における隊員の大半が 米英独伊加日か南アフリカ、ロシア、中国、韓国、オーストラリアといった 比較的豊かな国の人間で占められてる。身体も頭も優秀なんだし、 国に帰れば安全で高給な仕事に就けるのに、外人部隊の給料は仏軍兵士と 同額程度。だから「戦争が好きで戦争やってる」といわれても仕方がないわな。
207 :
世界@名無史さん :2005/05/14(土) 08:26:37 0
>>200 戦争が好きで戦争をやってる人がいるのは事実だが、
大国フランスの安全の一角をそういう人たちが担っていることを無視してるのか、気づかないのか。
警備会社にしたって民間人を守るために軍ではできないことをしている合法的な会社であって社会にとって必要なのだが。
208 :
世界@名無史さん :2005/05/14(土) 09:21:34 0
>>207 >社会にとって必要なのだが
PMCが雨後の筍のごとく増えた背景には、冷戦終結とともに超大国や先進国が
各地の紛争に介入したがらなくなった、という背景がある。
国連平和維持軍が派遣されるまでには時間がかかるため、いざ維持軍が
当事国に着いたときには紛争が再開されていたり、和平に反対するグループが
武装闘争をしている場合が少なくない。
つか、先進諸国が増大する一方の軍事費を抑制する為に、もっとも金がかかって なおかつ経済的に意味の薄い人件費をカットし始めたってのもあるわけで。 ようは人間をアウトソーシング。 兵器は壊れたら変えれば良いけど、人間は壊れたら治療費だの何だのいるからね。 それが値切れる外人部隊ってのはフランスにとっては有効なんだろう。
210 :
世界@名無史さん :2005/05/14(土) 20:42:46 0
冷戦の終結が世界中で軍隊の縮小化、ダウンサイジングを推し進め、1990年代 には世界中の軍隊で600万人もの職が失われた。 その結果、膨大な数の軍事的技能を身につけた個人が民間市場に流れ、民間の 軍事・安全保障企業に吸収されていった。
以上の事をマスコミを筆頭とする知識層とか有識者は全く知らない。
212 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 00:31:30 0
>>211 > 以上の事をマスコミを筆頭とする知識層とか有識者は全く知らない。
その通りなんだけど、マスゴミというのは、あらゆる分野について
勉強していない。勉強しなくても、ニュースの印象操作で
すべて乗り切れるというおごりがあるようだ。
213 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 01:03:28 0
核技術やミサイル技術、小火器やRPG・携帯対空ミサイルの流出 の方が問題だと思うぞ。この種の技術者の給料っていかばかりだろう か?中国あたりが集めまくってそうだけど。
このような警備会社社員はジュネーブ条約の想定外。 どんな残虐行為、虐待行為をしても、されても無問題。 米軍のグアンタナモ基地のタリバン、アルカイダ兵捕虜の管理に 重宝されているとか。
215 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 05:26:55 0
131 :名無し三等兵 :2005/05/05(木) 11:47:41 ID:???
>>37 ジュネーヴ協定による傭兵の定義
(1)武装戦闘で戦うという特定の目的のために、紛争地域または外国で
リクルートされた者であり、
(2)実際に直接敵対行動に参加した者であり、
(3)その敵対行動には本質的に個人の利益を動機として参加しており、実際、
紛争当事国(もしくは勢力)から、その軍隊に属する同等レベルの戦闘員が
約束されている報酬より法外に高い物質的報酬を約束されて参加しており、
(4)紛争当事国(もしくは勢力)と同じ国籍でもなければ、彼らの紛争地に住んで
いる者でもなく、
(5)紛争当事国(もしくは勢力)の軍隊のメンバーでもなく、
(6)紛争当事者ではない第三国の軍隊のメンバーでその公式な業務としてその
紛争地に派遣された者ではない、ものである
216 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 05:27:28 0
132 :名無し三等兵 :2005/05/05(木) 11:54:00 ID:??? これらの定義は、現代の傭兵であるPMCにはほとんど当てはまらない。 なぜならPMCは必ずしも「武装戦闘で戦うために」徴用されるわけでも なければ、近代的な企業組織をとっているため「本質的に個人の利益のため」 ではない。またほとんどのPMCは「実際の敵対行動に参加」しないからである。 「あなたたちは傭兵だ」と非難されると、PMCはジュネーブ協定を持ち出して 「我々は傭兵ではない」と主張する。この場合PMC側のほうが正しい。 現存の国際法ではPMCを取り締まる規定は存在しないし、多くの場合 国内法でも規制はほとんどされていない。
217 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 10:46:56 0
>>199 の続き
もとより、常備軍の兵士は、強制徴募の兵士ばかりで構成されていた
わけではない。
そもそも、軍のほとんどが不本意入隊者ばかりだとしたら、脱走ばかりで
話にならない。常備軍には強制徴募で入隊した兵士もいたが、それ以外の
兵士も多数いた。
兵士の社会的出自に関しては、18世紀フランスの研究が比較的くわしい
データを提供している。
それによれば、兵士の供給母体は主として、職人・農業従事者・奉公人
といった下層民であったことがわかる。入隊前の職業を見ると、1716年の
場合はこの三者で約85%、37年の場合には93%に達している。また兵士の
父親の職業についても統計からほぼ同じことがいえる。職人・農業従事者・
奉公人の三者は、ここでも18世紀を通じて約80%を占め、しかも時代が
下るにつれてその割合は増加している。兵士の社会的出自は低く、大多数が
下層民であった。この特徴は、傭兵軍時代との連続性を想起させる興味深い
事実といえよう。
218 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 10:54:39 0
北ドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ大公国に ついては、1696年における連隊(443名)の年齢構成がわかっている。 ここで注目されるのは、20歳以下ならびに40歳以上の兵士の割合である。 20歳以下の若者の募兵は、領邦条例や募兵特許状の中で禁止されていた のであるが、ゴットルプの連隊に関しては、全体の6.5%に相当する 29名が20歳以下の兵士である。また40歳以上の兵士については、 体力的な問題から、多くの軍事理論家たちがこれを新兵にすることに 反対していた。実際、40歳をこえた未経験者が傭兵として働くことには 相当な困難が伴ったため、新兵の最高年齢を30歳と定める領邦も多かった。
219 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 11:24:46 0
だがゴットルプの連隊を見ると、一割に相当する45名が40歳以上である。 もちろんこの中には、経験者の古参兵も含まれているであろうから、 未経験者の割合は正確には特定できない。しかしすべてが古参兵であった 可能性は低く、新兵も一定数はいたと考えられている。とすると、 このゴットルプの事例からは、少年兵と老兵のいずれに関しても、 募兵の規範とその現実との間にズレがあったということを指摘できる だろう。
兵隊は、それその物の存在に技術と経験いるんだが、 平時ではその予算の拠出に納得が得られにくいのが根本かなぁ。>傭兵
221 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 19:33:11 0
>>220 違う。市民兵の時代である今日、戦死されると金がかかる。遺族への補償とか。
そこで、日銭で稼ぐ傭兵が出てくる。もちろん死んでも自己責任。
222 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 19:43:06 0
>>220 古代ギリシア・ローマの場合、市民兵が存在していたが、足りない部分を
補うために傭兵を使っていた。
中世ヨーロッパでは、封建騎士を使う場合はいろいろ制約があるが、傭兵の
場合金さえ払えば手っ取り早く動いてくれる。国王だけが大量の傭兵を
雇う余裕を持っていたから、このことによって彼らは貴族に対して優位に
立ちえたし、また傭兵は民衆になんら共感を持たなかったから、反乱を
起こした民衆を抑圧するにも好都合だった。
223 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 19:48:48 0
151 :世界@名無史さん :2005/05/12(木) 00:50:32 0 WWUあたりまで上層階級も国家の義務にマジメに応じる風が 強かったようだけれど、戦後あたりからそうでもなくなった感じだね。 大ブッシュは上院のお坊ちゃまだが最前線の父島で日本機に撃墜の憂き目に あっているが、小ブッシュは州兵でベトナム行きを逃れている。 ブッシュ家だけでなく、全世界的、世代的にこんな感じ。 国家の権威、「神聖性」が全世界的に薄れていったのだろうか。
224 :
世界@名無史さん :2005/05/15(日) 22:15:47 0
ギベール伯(18世紀フランスの啓蒙軍事思想家) 傭兵軍はしょせん場当たり的に集めた兵力であり、兵士に十分な俸給を支払えも しない軍隊である。戦争をすれば、どちらの側も等しく疲弊し、国債は増し、 信用は低下し、金は流出する。講和の潮時は、もはや兵士を見つけられなく なったときであって、それでもしばしば紛争の原因は未解決のまま残り、 どちらの側も廃墟の中に坐し、借金を返すことと武器を研ぐことに忙殺される。
中国の魏晋南北朝辺りから兵隊は兵戸という身分になり、 その後唐末の頃には完全な賤民扱いになったという経緯がある。 兵隊以外にやる事が無いという族閥の流れかな? これをもう一回繰り返しているのかな
226 :
世界@名無史さん :2005/05/16(月) 03:40:39 0
>>220 国民世論も大きいと思う。国民国家が成立してからこの種の問題に悩まされ
ない国家なんてほとんど無い。旧ソ連ですらアフガン侵攻に対する国民の反
発は大きかった。日本のように戦前国民皆兵、戦後不戦なんて180度反転する
例の方が珍しい。
>>225 遊牧民が藩鎮なんかになって上から下まで遊牧民が大きくみれば軍閥・小さ
くみれば傭兵化したのが大きい。また治安が悪化すれば農民が難民化・傭兵
化するのも良くある話。要するに買い手市場って事。
>>226 日本だと逆の場合で、日清・日露の戦争なんて
国家は適当なところで手を打ちたかったのに、国民が無茶苦茶に煽ったと。
つか、日本も建前こそくるりと回ったが、実際はそれほど極端でもない。
建前と本音の使い分け、というもんだ。
228 :
世界@名無史さん :2005/05/16(月) 10:08:23 0
ギベール伯(18世紀フランスの啓蒙軍事思想家) しかし、次のような国民がヨーロッパに生まれることを仮定してみよ。その 特質も資源も政府も健全である国民。厳格な徳と国民的民兵によって決定 された膨張政策に向かう国民。その目的を見失わず……財政的必要から武器を 捨てることを余儀なくされない国民。そのような国民が……隣国を屈服させ、 その脆弱な構造をひっくり返すのを、われわれは見ることになるだろう。
229 :
世界@名無史さん :2005/05/16(月) 22:00:30 0
誰かワイルドギースについて語ってくれ。
ヘルシングのギースは参考にはなりませんがポリシーは参考になります つか思想信条、政治的駆け引き、愛国心 等々 そんなもん銃を取ってまでしてやる事か オレたちゃそう言う詰まらん銃を取らないで金で解決できそうなことを事に分け入って、 二束三文の金の為に命張って稼ぐのよ。 そう言う二束三文な商売やっているから、まぁ虐められてもしょうがないかな? しかしな、お前も何れ分かるよ、なんせほら?俺等の孫だもの。
そこで名作「戦争の犬たち」ですよ。
232 :
三頭 :2005/05/17(火) 13:56:16 0
>>232 実態見えぬ警備会社、
当たり前ですが何か?と言いたいね。
この分じゃマスコミさん喩え敵国司令部でも取材すれば
話が聞けると思っているらしい、おめでたいね。
>>202 特殊部隊の元祖もボーア戦争のコマンドだからな。
イギリス軍を散々苦しめるし、画期的な戦術を色々開発するし
凄いぞボーア人。これで人種差別さえ無けりゃな。
>>234 さすがオランダ人とイギリス人のハイブリッドだけはある。
>>233 まあその愛すべき能天気さがある意味ではうらやましい。
自分たちを守っているのが日本のマネー・パワーと資本主義社会の軍事力であることも知らず
知る権利によって守られていると思えるのだから。
たとえ、戦車や戦艦に乗っていても「警備会社社員」だから 国際法上、「軍人」ではなく「市民(シビリアン)」に分類されるという罠。 いやいや、こいつぁー、一本とられましたね。
238 :
世界@名無史さん :2005/05/18(水) 11:57:56 0
ビアフラ戦争では、ビアフラ軍、連邦軍ともに白人傭兵を雇っていた。 なかにはビアフラ側に対する思い入れから、義勇兵として活躍した C・G・V・ローゼン伯爵のような人物もいる。
なんつーのか、セルバンテスが書いたローゼン伯の伝記があったらマジで読みたいね。良くも悪しくも最後の騎士と称するに相応しい。
240 :
世界@名無史さん :2005/05/19(木) 03:36:56 0
ttp://funchun.hp.infoseek.co.jp/hanamiti/mercenary.html スウェーデン人、カルル・グスタフ・フォン・ローゼン伯爵。反共主義者の
飛行機キチガイ。趣味が高じてなのか世間的には 傭兵という稼業に憂き身を
やつすことになる。彼の親父エリックも やはり戦争好きの飛行機キチガイで
帝政ロシア(いや、もうソヴィエトかな)からのフィンランド独立戦争に
飛行機にのって義勇兵として参加。 フィンランド空軍の端緒をつくった男。
やはり血は争えないというところか。脇道にそれるがカルルの姉はナチス
ドイツのゲーリングの 嫁さんである。 ま、一族そろってそういうのに縁が
ある連中なのだ。
成人になって、スタント飛行やらをやるようになったカルルは、まず、1935年
に起こった イタリアのエチオピア侵攻に義憤を燃え立たせる。医療支援の
ためにアジスアベバあたりを飛び回る。 KLMに勤めはじめて まっとうな
コースを歩み始めたかと思いきや、 今度は先代からの得意先、フィンランドへ。
WW2初期に始まるソ連のフィンランド侵攻を阻止するべく先代同様 やはり
飛行機に乗って助太刀にいくのである。なんといっても昔からヨーロッパの
名家は馬に乗って戦場へいくのだ。飛行機でいってなにがおかしい? まぁ、
その通りなのだが持っていった飛行機が かなりおかしいのである。伯爵の
乗機はダグラス社のDC-2。純然たる旅客機なのだが、こいつの天井をぶち抜いて
旋回銃座をつけ、主翼の下に爆弾架をとりつけて、座席を全部取り払ってしまう
というのだ。そう、彼は、この飛行機でロシア人たちにちょいとした爆弾の雨を
サービスしてやろうというのである。
241 :
世界@名無史さん :2005/05/19(木) 03:40:15 0
冬の戦い後?、再びKLMに戻るが オランダはドイツにあえなく敗北。 その後何をしていたのかよくわからないが、戦後は、再びエチオピアに登場。 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの空軍の近代化の任務についたあと、 スウェーデンの航空会社「トランスエア」のパイロットになる。 トランスエアでは、伯爵は飢餓に苦しむビアフラへの食料と医薬品の 空輸作戦の責任者となる。 ビアフラを攻撃中のナイジェリア軍のレーダー網をすり抜けるべく、 自ら低高度でDC-7を飛ばしてビアフラへ向かう。 定年の60歳を目前にしても伯爵の血はなお熱い。 ナイジェリア連邦空軍 による爆撃の惨状を見た伯爵はナイジェリア連邦空軍のミグを片づける 決心をする。 今回はサーブ社のプロペラスポーツ機、MF1-9Bに目をつけた。 こいつを改造してミニコイン機にして地上襲撃に使うのだ。 今度の改造は わりとまっとうだったといえよう。スポーツ機といっても小国での軍事 利用を想定した機体で、翼下に300キロのパイロンだって 取り付けれる のである。タンザニア政府を隠れみのにしてビアフラ政府は5機のMF1-9B を購入。 機体はフランスでロケットポッドを取り付けられて梱包、 輸送される。パイロットは伯爵を含むスウェーデン人3人、ビアフラ人が2人。 MF1-9Bは密かにビアフラ空軍の秘密基地へ向かう。 1969年5月22日に 最初の襲撃を敢行。ミグやらイリューシンやらを ロケット弾で破壊して 気勢をあげる。あまりにうまくいったので同じ日にもう一度襲撃を行う という熱のいれよう。が、伯爵の参加はすぐにばれてしまった。 さすがにまずいのか5回ほど襲撃しただけで伯爵は帰国。 その後もこのミニコイン機たちは、まぁよく戦うが、 いかんせん数も 少ないし、秘密基地の発見とともに新生ビアフラ空軍は 再び泡と消えたのである。
242 :
世界@名無史さん :2005/05/19(木) 03:49:15 0
ドイツのトップエースの義弟がこんなのだったなんて 面白いもんだね。 パヤオあたりが映画にしたそうな人材だ。
244 :
世界@名無史さん :2005/05/19(木) 18:21:42 0
1997年に、ECOMOG(西アフリカ連合軍)がシェラレオネに介入したが、 このときもイギリスの大手PMCサンドライン社の支援がなかったら、ゲリラ に勝利することはできなかったのではないかといわれている。
アツいぜアツいぜアツくて死ぬる一家だ!>フォン・ローゼン伯爵家 感動した
246 :
世界@名無史さん :2005/05/21(土) 00:45:41 0
サーサーン朝滅亡後、ペルシア兵はアラブや中国の傭兵になって生き延びた。 彼らは一人が一時に5本の矢を射ることが出来たという。
それはトルコマン。
>>247 いや、同じ弓騎兵でも定位置から連射するのはイラン系の技らしい。
250 :
249 :2005/05/22(日) 10:41:45 0
知ってます? あと傭兵つながりで、パイナップルARMYの話題は板違いでしょうか?
251 :
世界@名無史さん :2005/05/22(日) 19:48:47 0
252 :
世界@名無史さん :2005/05/23(月) 21:40:49 0
>>218-219 の続き
兵士の勤務年数については、18世紀前半のハノーファー軍のことがくわしく
わかっている。この国にあるゲッティンゲンという都市に駐屯した二つの
連隊(2552名)の勤務年数を示した表によれば、勤務年数が1年に満たない兵士
は全体の15〜20%である。10年以上勤務する兵士は、ドゥルヒトレーベン連隊
で約2割となっている。ブロック連隊では調査機関が7年間しかないため正確な
数値はわからないが、他の勤務連隊の数値が似ていることから、ドゥルヒト
レーベン連隊と同じぐらいの割合であったと推測してもよいだろう。1年以上
4年未満の兵士の割合は、両連隊ともほぼ同じで、40%弱に達している。
数値を見る限り、どうやらこの兵士たちが全体の多数のようである。とすると、
常備軍の兵士の多数は一生涯勤務する職業軍人ではなかったということになる。
かりに10年以上勤務する兵士を生涯勤務の古参兵とすれば、その割合は全体の
2割程度で、残りの多くの兵士は、数年間の短期間労働として軍役に志願して
いたのである。実際、いくつかのドイツ諸領邦を検討した研究においても、
兵役期間は長くて6〜7年で、平均勤務年数は約3〜4年と見積もられている。
「職業軍人」とも呼ばれる常備軍の兵士は、やはりその多数が短期間勤務で
あったのである。
253 :
世界@名無史さん :2005/05/23(月) 21:59:47 0
この点をふまえたうえで、極めて図式的ないいかたをすれば、常備軍時代の 兵士は、戦力と組織の両面において部隊の中核をなした古参兵、数年間 というかぎられた年限の仕事として兵役を志願した兵士、そして危急時や 戦時に強制徴募で集められた不本意入隊者の三種類に分類されるのでは ないかと思われる。 とりわけ平時には、軍隊への志願者が一定数存在し、強制徴募はきわめて 稀だったという指摘もあることから、兵士はほぼ第一、第二類型の者たち で構成されていたと考えられる。しかしながら、短期間の大幅な兵員補充 が必要になった戦時には、やはり犯罪者や浮浪者が数多く編入され、 強制徴募兵も増加した。
しかし短期志願兵=傭兵じゃないだろう。
255 :
世界@名無史さん :2005/05/24(火) 00:26:46 0
256 :
世界@名無史さん :2005/05/24(火) 00:30:45 0
フランス外人部隊には、伝統的にドイツ人が多かったというのはホント?
257 :
世界@名無史さん :2005/05/24(火) 00:37:28 0
時代によるでしょ。 第二次大戦後に多かったのは確か。
258 :
世界@名無史さん :2005/05/24(火) 01:18:09 0
作家のエルンスト・ユンガーは、少年時代に北アフリカのフランス外人 部隊に参加したことがある。
>>256 外人部隊の結成前の傭兵隊にもドイツ人は多かったそうな。
しかし部名が高く、最後まで残ったのはスイス連隊だったように思う。
260 :
世界@名無史さん :2005/05/24(火) 11:46:07 0
フランス革命が勃発した1792年、パリのテュイルリー宮では、パリの国民衛兵と マルセイユなど各地の連盟兵が王宮を守るスイス人傭兵と激しい戦いを展開し、 スイス人傭兵は600名をこえる死者を出した。
261 :
世界@名無史さん :2005/05/25(水) 10:37:38 0
ランツクネヒトが一躍悪名をはせたのが、かの名高い「サッコ・ディ・ローマ」。 もともとランツクネヒトは、貧しい農村出身者で大半が占められていた。 彼らは日ごろから、聖職者の貪欲な搾取や目に余る腐敗や、教会に支払う 十分の一税の重さなどに憤懣を抱いていたが、それがイタリアに来て一気に あふれ出し、教会や僧院ときくと逆上した。故国でプロテスタントの反教皇庁 宣伝を聞きかじり、怒りを募らせていたランツクネヒトは、当然のことながら 悪の巣窟と見えたヴァティカーノ宮へも押しかけた。ヴァティカーノ宮の 「署名の間」の壁には、槍で“V.K.IMP.”(カール皇帝万歳)という略文字と、 マルティヌス・ルテルス(マルティン・ルター)というラテン名を刻み付けた。
262 :
世界@名無史さん :2005/05/25(水) 12:40:19 0
ttp://movie.goo.ne.jp/joanni/ 映画『ジョヴァンニ』公式サイト
16世紀初頭。ヨーロッパ全土に覇権を広げた神聖ローマ帝国(ゲルマン軍)は、
イタリア北部を制圧、ポー川を越え教皇庁のあるローマに一気に攻め込もうと
していた。その進軍を阻止する教皇軍の隊長は、28歳の若さで名将の誉れ高い
ジョヴァンニ・デ・メディチ。しかしそんな彼も、身内である貴族の裏切り、
厳寒の地で戦う兵士への賃金不足と、今回ばかりは窮地に立たされていた。
苦境の中、彼が思いだすのは故郷で待っている妻子と、熱い愛を交わした
ある貴婦人のことだった…。
263 :
世界@名無史さん :2005/05/28(土) 10:34:16 0
最近、フランス外人部隊は東欧人が減って、中国人が増えてるらしいね。 全体では約500人のアジア人がいるが、約300人が中国人。 連隊長いわく、「彼らの目的は国籍取得のようだ」とちょっと不満げに 打ち明けたそうな。 入隊して5年たつと希望者はフランス国籍が取得できる。
アメリカは、他国の軍隊に属したり、他国の利益のための軍事行動に 参加した場合は、アメリカの国籍(市民権)は喪失すると聞いたのですが、 フランス外人部隊に入隊するのも、これに当たりますか。 独立戦争の際のゴタゴタをひきずっている野蛮な法律として、 批判の対象にもなっているらしいけど。
やはり国内がアレだからじゃ……となると東アジアにまた大規模な混乱が? そうなったらどうしよう。
266 :
世界@名無史さん :2005/05/28(土) 11:03:02 0
>>265 パリの中国人街には滞在許可証も労働許可証もない不法滞在者がいる
そうでつ。フランス国籍を取れば社会保障もあり老後も安泰。
267 :
世界@名無史さん :2005/05/28(土) 11:05:29 0
268 :
世界@名無史さん :2005/05/28(土) 12:00:13 0
269 :
世界@名無史さん :2005/05/28(土) 12:01:02 0
武装組織の声明は、「アンサール・アルスンナ メディアセクション」 の名前で3分45秒のビデオ映像として出された。冒頭、アラビア語で 「アルアサド米軍基地で安全確保指揮官として働いていた日本人を示す ビデオ映像」だと説明。日本人が同基地を出た後、「聖戦士」との 激しい戦闘で負傷し、体に受けたいくつかの銃弾がもとで死亡した、 と述べている。 その上で、イスラム教の聖典コーランの朗読を流しながら、斎藤さんの 身分証やパスポートの映像を改めて映し出した。 続いて「米軍と契約し働きたいと望むすべての者に、この映像を見る ことを勧める」との警告文が出た後、東洋人風の男性が横たわる映像が 流れた。
270 :
世界@名無史さん :2005/05/28(土) 12:01:54 0
撮影者は「アラーは偉大なり」とつぶやきながら撮影を始めた。男性は 茶色い戦闘服風のジャケットとズボンに、黒のTシャツ姿。コンクリート の床の上に仰向けに大の字となり、周辺の床に広い範囲にわたって血痕 がみえるほか、首から顔にかけて出血の跡がある。建物は道路沿いに あるらしく、車の走る音が聞こえた。 撮影者は「彼は自らの罰を受けた。彼はイスラエルの(情報機関) モサド、ユダヤ人、背教者の犬だ。アラーは偉大なり」とつぶやき ながら、撮影を続けた。 最後に、「これは、我々の宗教、土地、名誉を強奪し、作物と子孫を 破壊するすべての者に対する、預言者ムハンマドの兵士からの答えだ」 などと述べている。
>>264 外人部隊はよく判らんが、第二次世界大戦で、二重国籍で日本兵として戦った日系米国人の場合は
・徴兵に応じ、銃を取って戦場に出て米軍と戦った←OK。君は国民として当然の義務を果たしたまでだ。米国籍を選択するかどうかもう一度決めてくれ。
・国政選挙に(棄権せず)参加した、あるいは志願して将校となった。←NG。君は行動により大統領より天皇への忠誠を選択した。一度決めた以上再考は認められない。 だったそうだ。
272 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 17:25:25 0
バチカンのスイス人衛兵に不細工はなれないと姉が言っていたが、本当か?
273 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 18:05:19 0
>>272 バチカンに限らず、王室の近衛兵など、目立つところに配備されるのは
眉目秀麗な人。
274 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 18:49:38 0
板門店の兵士も両韓ともに池面。
275 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 19:29:20 0
ttp://www.europe-z2.com/chusei/ad1377it_n.html 中世イタリアの戦争の主役といえば、悪名高い傭兵部隊だった。そんな
荒くれ兵たちを率いる傭兵隊長の中でも、当時最強と称賛されていた
のがジョン・ホークウッド(イタリアでは、ジョヴァンニ・アクートと
呼ばれていた)だった。
ジョン・ホークウッドは西暦1320年にイングランド(イギリス)で
生まれた。革なめし職人の息子だった。その革なめし職人だった父が
亡くなると、ジョン・ホークウッドは遺産を売り払って武具を買い、
イングランド軍の兵隊となった。
276 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 19:30:07 0
イングランド王エドワード3世指揮下のイングランド軍の一員として 海を渡ったジョン・ホークウッドは、イングランドとフランスとの間の 百年戦争に参加。やがて、ポワティエの戦いでの活躍により、騎士に 叙せられる。ところが、イングランドとフランスとの間に束の間の和平 が成立し、騎士ジョン・ホークウッドの活躍の場は無くなってしまった。 西暦1361年(あるいは1362年)、騎士ジョン・ホークウッドは100人 ほどの部下を従えて、都市国家同士が争っていたイタリアへ渡ってきた。 そこで彼はドイツ人傭兵隊長アルブレヒト・ステルツの傭兵部隊に参加 した。
277 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 19:31:04 0
やがて、有能な指揮官ぶりを発揮したジョン・ホークウッドは、 アルブレヒト・ステルツに次ぐ地位にのしあがる。それどころか、 部下たちの支持を得たジョン・ホークウッドはアルブレヒト・ステルツ を追い出し、自分が傭兵部隊の指揮官となったんだ。 それから、傭兵隊長ジョン・ホークウッドは中世イタリアを舞台に縦横 無尽の戦いを続ける。ピサに雇われてフィレンツェと戦ったかと思えば、 次にミラノに雇われてフィレンツェやピサと戦う。立場を換えてローマ 教皇に雇わたかと思えば、再びミラノ。
278 :
世界@名無史さん :2005/05/30(月) 19:32:04 0
百年戦争で練り上げられたイングランド軍の戦術を駆使する傭兵隊長 ジョン・ホークウッドには、いくつもの都市国家が誘いをかけていた。 そして西暦1377年、傭兵隊長ジョン・ホークウッドは軍司令官として イタリアの古都フィレンツェに迎えられたんだ。 フィレンツェ軍の司令官として各地で戦った傭兵隊長ジョン・ホークウッド なんだけど、西暦1390年には優勢を誇るミラノ軍に敗れた。既に70歳と なっていたジョン・ホークウッドも敗戦のショックが大きかったのか、 戦いの日々に疲れたのか、故郷のイングランドへ帰りたくなっちゃった んだそうな。 そして西暦1394年、帰国を目前にしたジョン・ホークウッドを襲ったのは 病魔だった。亡くなった傭兵隊長ジョン・ホークウッドの葬儀は、 フィレンツェの中心ともいえるドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)で 行われたんだそうな。
>>272-274 〃 i, ,. -‐
r' ィ=ゝー-、-、、r=‐ヮォ.〈 /
! :l ,リ|} |. } / .や
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レ-、{∠ニ'==ァ 、==ニゞ< | ら
!∩|.}. '"旬゙` ./''旬 ` f^| |
l(( ゙′` ̄'" f::` ̄ |l.| | な
. ヽ.ヽ {:. lリ |
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!| ヽ. ー===- / ⌒ヽ
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|ヽ ト、 ト、 ト、 、.`、
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:: ,.,. |ヽ 」9L.` K }.|
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レ′
r.二二.) /
≡≡ ,イ
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38度線はハッテン場か
281 :
世界@名無史さん :2005/05/31(火) 02:20:59 0
>>280 とくれば映画「JSA」みたいだな。
「女には踏み込めない男だけの世界がある」と言わんばかりの展開がw
282 :
世界@名無史さん :2005/05/31(火) 17:43:29 0
《三十年戦争時代の傭兵》 軍隊では魔女裁判も行われた。魔女にされることが多かったのは、輜重隊の 中で特別な治癒力があると噂された女たちである。彼女たちは傷病兵の看護や 動物の世話に失敗すると、すぐさま魔女の疑いをかけられた。 魔女裁判としては、1644年にシュヴェービッシュ・ハルで行われたシュポルク 連隊のものが比較的有名である。魔女と疑われた女たちは、全裸にされ、手足を 十字に縛られたうえ、綱で固定され湯の中へ放り込まれた。これは、魔女で あるかを確かめるための審判である。女が水の中に沈めば無実であり、水に 浮くと魔女の疑いが確認された。多くの野次馬が見物する中、審判は3回 繰り返され、結果的に魔女と断定された女は、その後拷問によって自白を 強要され、斬首され、燃やされたのであった。
魔女裁判は最後まで魔女と自白しなかった場合には、 「ここまで過酷な拷問に耐えれるのは魔女だからだ! 間違いない!」…って、殺されちゃうんだよね。 自白しても魔女、しなくても魔女なんだから、 嫌疑をかけられた時点で死刑と一緒でしょ(藁
傭兵輸出までして自国の中立と共和制を守ったスイス人が、 絶対王政の権化みたいなブルボン王朝を最後まで支え、 フランス革命を潰そうとしたんだよな… まぁ、とりあえず、HEVETIORUM FIDEI AC VIRTUTI!
285 :
世界@名無史さん :2005/06/04(土) 01:42:46 0
>>284 中立とは言っても山岳地で交通の便も悪く産業も無く周辺諸国が欲しがら
なかったから。共和制とは言っても実態は都市貴族が権力を独占し、平民は
産業も無いので傭兵出稼ぎ。現実は辛いな・・・。
> 共和制とは言っても実態は都市貴族が権力を独占し、平民は産業も無いので傭兵出稼ぎ。 歴史を通してみれば、そういう「共和政」のほうがむしろ普通だろう。 共和政と主権在民をセットにしたフランス革命は、まさに世界史の新しい時代の始まりだったんだね。
フランス革命って初め立憲君主制目指してませんでしたっけ?それをルイがアホやらかしてサヨ暴走、でナポレオンがそれを収拾したと
>>285 >中立とは言っても山岳地で交通の便も悪く産業も無く周辺諸国が欲しがらなかったから。
スイス南部のザンクト・ゴットハルト峠はドイツ〜イタリアへの交通路。
神聖ローマ帝国にとって、ローマとの交通路として重要な土地だったんでは?
実際、ハプスブルグ家が誓約同盟初期の頃に重騎兵隊編成して攻め込んでます。
289 :
世界@名無史さん :2005/06/06(月) 23:51:32 0
>絶対王政の権化みたいなブルボン王朝を最後まで支え、 フランス革命を潰そうとしたんだよな… 金の切れ目は縁の切れ目は、ノーマネー、ノースイスと言うらしいと 何かで読んだ。旗色が悪くなっても金さえ払えば寝返らないが、金を 払わないと旗色が良くても縁切れになると。 バチカンのガードが、スイス人衛兵なのもそうしたことに由来するらしい。 >平民は 産業も無いので傭兵出稼ぎ。現実は辛いな・・・。 ハイジのおじいさんも出稼ぎ傭兵だったしな。 しかし、スイスが平和的な中立国だという奴は最近はさすがにいなくなった。 国民皆兵、各家庭に自動小銃が置いてある世界有数の軍事武装国家。 対戦中はナチスの金庫と連合軍への武器供給で立ち回ったしたたかさ。 中立を維持するには、脳みそと筋肉を使わねばならないというよくも悪くも 現実的なサンプル。
290 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 12:38:06 0
>>289 バチカンの傭兵がスイス人なのは、サッコ・ディ・ローマのとき、
イタリア人傭兵はみんな逃げたのに、スイス人傭兵は最後まで戦ったからだ
ときいたけど。
291 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 16:04:36 0
292 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 16:05:02 O
「キャロル・ジュネの手記」に出て来たオヒューロルって傭兵だっけ?
293 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 16:06:02 0
295 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 16:06:16 0
いや衛兵とかですらなくて使用人だったろ
>>293 それははっきりしないんじゃなかったっけ?
297 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 16:08:15 0
>>292 それってミントル事件の全貌が書いてあるんだよね?
298 :
世界@名無史さん :2005/06/07(火) 16:08:51 0
オヒューロルとゾネスが恋仲(雄×雄) んで主人が当たり前だけどその二人を切る ジュネがゾネスに惚れてた あとはそんなよく把握してない
あぼーん
>>297 それはメンセル事件w
ミントル事件は(ry
オヒューロルの料理は美味いって、妹が言ってた。
303 :
世界@名無史さん :2005/06/09(木) 20:49:49 0
マルシェウモール!
304 :
世界@名無史さん :2005/06/12(日) 20:43:21 0
ttp://www2.asahi.com/special/iraq/TKY200505110182.html 自ら戦地に赴く理由は? イラク拘束で関係者の反応
神戸出身の38歳の男性は89年から6年間、仏外国人部隊の「第2外国人
落下傘部隊」に所属した。日本では陸上自衛隊の第1空挺団で、団長賞を取る
ほどのエリートだった。でも、なぜか「足りひん(足りない)」と思った。
所属部隊の日本人は10人前後。接した日本人の3分の1が自衛隊出身だった。
アフリカ・チャドでクーデターが起きた際、銃弾が飛び交う戦闘に遭遇した。
初めは恐ろしくて仕方がなかった。威嚇射撃をした。「2、3日たったら
慣れた」
除隊後、世界各地の大規模プラントなどで警備対策要員になる人もいる。
こうした仕事をあっせんする会社も英仏にはある。日本に帰る人は少ないと
いう。
305 :
世界@名無史さん :2005/06/12(日) 21:47:20 0
306 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 07:55:22 0
ミントル事件ってどういう事件?
307 :
世界@名無史さん :2005/06/20(月) 00:12:23 0
ビザンツ帝国では、テマ(軍管区)制が衰えるにつれて、外国人傭兵の割合が 増えていった。 皇帝の警護にあたるヴァリャーギ親衛隊は有名だが、そのほかにもペチェネグ人、 クマン人、セルジューク・トルコ人、ブルガリア人、アラン人、ノルマン系 イタリア人、ヴェネツィア人、ユダヤ人、アラブ人など、ありとあらゆる 民族出身者がいた。
ビザンツ帝国を防衛する立場なのに、ビザンツ帝国と対峙して封土を勝ち取る…。 オスマン帝国も本来はソユト軍管区を防衛していたビザンツ帝国臣民だったよね。
309 :
世界@名無史さん :2005/06/20(月) 01:00:26 0
>>308 傭兵たちは、給料が支払われない場合、敵側に寝返ってビザンツ領を
略奪する、なんてこともよくあったみたい。
トルコ系諸民族は軽騎兵、フランク人やノルマン人は重騎兵、
ロシア人やヴァイキングは歩兵、アングロ・サクソン人やデーン人は
ヴァリャーギ親衛隊になることが多かったようです。
一方、セルジューク朝やオスマン朝も、ギリシア人、グルジア人、
アルメニア人、フランク人、セルビア人などを傭兵として雇っていました。
310 :
世界@名無史さん :2005/06/20(月) 01:34:44 0
ノルウェーのハーラル苛烈王は、若いころヴァリャーギ親衛隊の一員だった。 オーラフ2世が1030年のスティクレスタズの海戦で戦死し、ノルウェーが クヌート大王の王国に帰属することになると、ハーラルは故郷を離れて キエフ公国へ亡命し、そこでヤロスラフの親衛隊の指揮を引き受けた。 その後彼はビザンツへ向かい、皇帝ミカエル5世の親衛隊の首領に出世した。 彼はこの間、ユーフラテス河畔とシチリア島でサラセン人と戦い、 1040年ごろにはアテネの反乱を鎮圧し、その後イェルサレムに巡礼する。 ビザンツに戻った彼は皇帝一家と不仲になり、ノルウェーへ帰って マグヌス善良王と権力を分割する。
逆に、ヘイスティングズで敗れたハロルド・ゴドウィンソンのハスカールの中には、 ウィリアム征服王に対して二度と武器を取らないことを誓約した後、 ビザンツに渡ってヴァリャーギ親衛隊に入ったものが多数いたらしい。 John Godfrey,"The Defeated Anglo-Saxons Take Service with the Eastern Empire", Proceedings of the Battle Conference on Anglo-Norman Studies 1(1978) 1066年の戦役は、中世の、しかも辺境の島国の話にしては、えらいスケールがでかい。
312 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 11:44:43 0
NHK総合 6月26日(日) 午後9:00〜 “戦争”請負人 〜イラク・民間軍事会社の実態〜
313 :
世界@名無史さん :2005/07/01(金) 22:22:29 0
314 :
世界@名無史さん :2005/07/03(日) 23:09:39 0
191 :世界@名無史さん :02/12/21 21:26 ブワイフ朝以前の10世紀前半のダイラム人・ギール人傭兵隊長の活動 柴山 滋 10世紀前半のイラン北部の地域はアッバース朝カリフの権力が 衰退し,様々な地域の利害関係者が互いに競いあった, イラン史上の「ダイラム人の幕間」と呼ばれる時期であった。 9世紀末にエルブルズ山脈西部の山岳民であるダイラム人と その麓のギーラーンの農耕民であるギール人の大部分は, アリー家のハサン・アル・ウトルーシュの宣教に応じて イスラームに改宗し,タバリスターンとグルガーン地方の アリー家国家の再建に協力し,917年のハサンの死後は宗教の 影響が薄まった国家を建設した。この地域は935年以降, ブワイフ朝によって統合されていくが,その前段階で 活躍するのが,リーリー・ブン・アル・ヌウマーン,アスファール・ブン・スィーラワイフ,マーカーン・ブン・カーキー,マルダーウィージ・ブン・ズィヤールの4名のダイラム人・ギール人の傭兵隊長である。 リーリー・ブン・アル・ヌウマーンについては,多くのことが 知られているわけではない。彼はハサン・アル・ウトルーシュ の息子達に仕えた指揮官の一人であった。彼はハサンの義理の 息子で,かつ後継者であるハサン・ブン・アル・カーシムに より,920年にグルガーンの代官に任命された。921年, ハサンはダイラム人・ギール人に略奪のはけ口を与えるために リーリー指揮の下,当時サーマーン朝の配下にあった ホラーサーンに派遣した。彼はダームガーンを占領し, さらにニーシャープールとメルブまで手中に入れたが, サーマーン朝の大軍によりトゥースに追い込まれ,敗死した。
「風魔の小次郎」の飛鳥武蔵と伊達総司は傭兵なんですよ。
戦争の犬たちの傭兵はいい傭兵だったな
317 :
世界@名無史さん :2005/08/14(日) 17:24:04 0
hosyuage
318 :
世界@名無史さん :2005/08/14(日) 23:43:31 o
ハイジのおじさんもスイス傭兵として派兵され頭がおかしくなってしまったという設定らしい
319 :
世界@名無史さん :2005/09/13(火) 00:58:25 0
中国史における傭兵なんてどうだろう。
321 :
世界@名無史さん :2005/09/13(火) 03:41:16 0
太平天国を鎮圧したのは傭兵だよね。
322 :
世界@名無史さん :2005/09/13(火) 19:30:00 0
>>320 ヨーロッパ史に出てくる傭兵のコンパニーのようなものは中国ではあまり聞かないね。
地方軍閥はみんな傭兵みたいなもんだろ つかむしろ正規軍と傭兵の境界があいまいだというべきか
日本の足軽の給料ってどんなもんだろう。
325 :
世界@名無史さん :2005/10/05(水) 19:41:09 0
326 :
世界@名無史さん :2005/10/14(金) 23:44:40 0
江戸時代の足軽の俸給は 幕府では、 与力(戦国時代なら足軽組頭クラス)で130俵〜200俵前後。 同心では十五表二人扶持〜30俵2人扶持。 これだけでは食っていけないので内職をしていた。 平時には幕府の仕事も少ないので、内職が本業となっていた。 諸藩の足軽は、幕府の与力同心より少なかったが物価などから考えるとそれほど差はなかった。 また組ごとに俸給が支払われ、そのなかで分配されるのはヨーロッパの傭兵とにてるかも。
327 :
朱由檢 :2005/10/14(金) 23:54:04 0
>>326 江戸時代の与力は給料の比較事例にもってきちゃダメだってば…。
328 :
世界@名無史さん :2005/10/15(土) 00:07:27 0
江戸時代の足軽は、戦国・安土桃山時代の規模をそのまま縮小したようなものらしい。 先手組(前線部隊)と御手組(本陣詰め)があって、御手組の方が俸給がいい。 幕府の親衛隊ともいうべき小十人組は、格が御目見え級であるのに俸給が100俵しかなく生活が最も苦しかったとか。 一方、町奉行所与力同心は付け届けや礼銀によって旗本よりリッチだった。しかし、卑しい身分とみられていた。
329 :
朱由檢 :2005/10/15(土) 00:14:07 0
傭兵の給料といえば、ハプスブルグ家はよく踏み倒してるよね(藁 傭兵への給料未払いはカルタゴが滅亡した理由にも数えられるほどタブーなのにね。
>>328 戦国・安土桃山時代には、1万石につき平均250〜300人
豊臣・明智にいたっては、500・600人の動員力があったのに、
江戸時代は、平均100人しか動員力がない。
331 :
世界@名無史さん :2005/10/15(土) 00:33:58 0
現在でも最強はグルカ兵だろ?
332 :
朱由檢 :2005/10/15(土) 00:49:06 0
戦争は戦争が養う〜と、30年戦争時で暗躍したユダヤ系財閥と中小傭兵団。 そして、ワレンシュタインとの黒い関係とかってまだ出てないのかな。
333 :
世界@名無史さん :2005/10/15(土) 02:55:13 0
334 :
世界@名無史さん :2005/10/15(土) 15:13:22 0
グルカ兵が最強ってどっから出てきた話なん? 帝国主義時代からいわれてた話か。
戦国期の足軽は当人が死ねばそこで雇用関係終了。家族が離散しようが しった話じゃないが、幕末期は当人が死んでもお家の為って事で家族は扶持 がもらえる。動員力に差がでるのはここいらの所為かな。