1 :
世界@名無史さん :
04/10/07 16:26:23 主にヨーロッパ中世の政治史、軍事史を語るスレです。 王朝史や経済史なんかも含みます。 初学者なので皆様と一緒に学んで行きたいです。 それではスタート↓
2 :
世界@名無史さん :04/10/07 16:29:45
「教皇は太陽、皇帝は月」
3 :
世界@名無史さん :04/10/07 16:34:31
中世は東欧に沢山の王国ができた時代でもある。 そのほとんどが皇帝に対抗したもの。
4 :
世界@名無史さん :04/10/07 16:48:45
5 :
世界@名無史さん :04/10/07 17:15:19
五島列島。
6 :
世界@名無史さん :04/10/07 17:56:10
この時代の教皇領を守るための兵はどうしていたのだろうか。 教皇直属の騎士なんかがいるのかな。
7 :
世界@名無史さん :04/10/07 18:11:06
インノケンティウス3世はすごすぎる。 教皇領は当然として、 封建臣属国家:イングランド王国、アラゴン王国、両シチリア王国 介入した諸国:ドイツ帝国、フランス王国、ノルウェー王国、ポルトガル王国 教皇の勢力範囲:ベーメン、ポーランド王国、ハンガリー王国、ラテン帝国 新たに関係を持った諸国:セルビア王国、ブルガリア王国 まさに世界支配。
ジョンのクソ野郎は破門されて泣き入れやがった。 ワシなら国教会設立するね。迷わず。
>>8 あなたのような罪深き者にも神の御恵みは
注がれるでしょう。
10 :
世界@名無史さん :04/10/07 19:03:27
>>6 こんな連中がいるよ。ファルネーゼ家
ラヌッチョ Ranuccio 生没年:1390-1450 父:ピエトロ 教皇軍司令官
アンジェロ Angelo 生没年:1432?-1463 父:ラヌッチョ 教皇軍司令官
11 :
ルイ10世 :04/10/07 19:04:48
俺のあだ名「強情王」なのだが、何故だ・・・・。
12 :
ルイ強情王 :04/10/07 19:09:15
>>10 ち、余計なことを。教皇共々、親父に言いつけて捕らえてやる。
13 :
世界@名無史さん :04/10/07 19:13:10
>>7 キリスト教は侵略的であったイスラムの足元にも及ばない
お前のような異教徒にはふさわしいレス番だなw
15 :
世界@名無史さん :04/10/07 19:21:22
田中芳樹曰く獅子王リチャードは身代金を取れないと人質を虐殺したが サラーフ・ディーンは解放した。両者の器の差が自ずと知れる。
16 :
世界@名無史さん :04/10/07 19:26:22
そうか。
「神曲」でもサラディンは扱いがいい。
>>15 それは現代人の感覚。当時のヨーロッパ人(=キリスト教徒)の
精神、感性を無視している。
例えば獅子心王は自分を討った狙撃手(その後捕まえた)の
堂々とした態度に感銘を受け
そいつを放免しようとした(結局王死後、臣下が殺すが)。
あくまで異教徒に厳しいだけ、当時のヨーロッパ人は。
同じキリスト教徒は捕らえても殺すより、身代金で解決する。
で、それは時代のせいでもある。
ちなみに狙撃手を許したのは臨終間際である。
20 :
世界@名無史さん :04/10/07 20:00:09
21 :
世界@名無史さん :04/10/07 20:10:00
22 :
世界@名無史さん :04/10/07 20:41:07
>>20 中国名将列伝で田中芳樹本人が書いているのは事実。
どう受け取るかは人それぞれだけど。
23 :
世界@名無史さん :04/10/07 20:42:41
関係ないが、ライオンハート リチャードと書くと格好いいが なんで死後ノルマンディー公にああもあっさりと国を取られたのか? そんなに当時のイングランド軍は無能だったのか?
24 :
世界@名無史さん :04/10/07 20:47:13
またスレから逸脱するが、ナポレオンはんが戴冠刷るときに 教皇でななく、自己の手で戴冠した事が驚異の目でみられたとあるが、 その意味を解説キボン ちなみにほぼ千年前にレオ8世だったと思うけど教皇がローマ帝国皇帝に はじめて戴冠させた事とよく比較されているけど、要するに どーいうことなのか 微妙にスレの目的にあっているとおもうしこの2つの史実を当時の 帝権および教権の関連から論述してくれ。
25 :
世界@名無史さん :04/10/07 21:42:55
26 :
世界@名無史さん :04/10/07 22:36:55
せっかくスレを盛り上げよう話題をふっているのに後は自分で かんがえろじゃあ盛り上がらないジャン。 もうちとナポレオンはどうだったとか話をひろげるように汁
このスレタイからするともちっと昔の ギベリンとかのスレなのではないか?
28 :
世界@名無史さん :04/10/07 22:52:12
ヨーロッパの中世って一般的にフランク王国の成立から コロンブスの新大陸発見までと解釈してよろしいか?
29 :
世界@名無史さん :04/10/07 23:24:58
>>28 経済的な観点では、2世紀から14世紀と考えられます。
2世紀ごろになると、ローマの拡張路線がとまって、しかも、
芸術などに変化が現れるとか。
中世の定着期は、8世紀ごろまでかかっているから、まさに、
フランク王国、シャルルマーニュのころとか。
12,13世紀は、中世の隆盛の時期で、古代にはない革命的
技術がつぎつぎ生まれた時代。
15世紀になると、中世的秩序が壊れた時代。
農業の労働生産性から調べると、麦100キロ生産のための労働
時間は、ローマ時代は300時間。18世紀、19世紀も300時間
現代は20時間ですが、中世として、11世紀ごろから14世紀ごろ
までは、50時間程度と非常によいわけです。中世的な落ち着いた秩序
があった時代が、だいたいこのころでしょうか。もちろん、8世紀ごろ
もローマほど悪くはありません。
30 :
世界@名無史さん :04/10/07 23:27:40
んでも俗にローマ帝国の解体からフランク帝国の成立まで 文化の断絶がみられると論じているよね。 ヨーロッパ古代世界の終焉が西ローマの滅亡で 独伊仏の元になったフランクが中世の母体というのは考えすぎ?
おはようございます。
>>27 欧州中世としたのは国民国家の視点からではなく、
国際封建社会とも言える、当時のダイナミズムを
表したかったからです。英仏史の様に区切りを付けることは
この時代の表現として適切ではないと思います。
また、西欧世界の内部のみならず、ビザンツ、東欧、イスラム世界
とそれらの係わり方なども重視して下さればありがたいです。
もう一つの政治史、軍事史としたのは中世というと近年、社会史や文化史
ばかりが注目され肝心の政治史がおざなりにされていると感じていたからです。
まあ、総花的になる恐れはありますが、「中世総合スレ」のような感覚で
やっていけたらなあと思います。
>>28 (
>>29 さんが書いているように)いろいろな観点があると
思いますが、通説では西ローマ帝国の滅亡(476年)もしくは
同帝国末期(フン帝国崩壊453年頃)から1453年コンスタンティノープルの陥落、
百年戦争終結までとされていたと思います。約1000年ですね。
大雑把にいって西ローマの滅亡から東ローマ帝国の滅亡 そしてオスマンの本格的な台頭寸前までの欧州世界という感覚か ゴミレスですまんw
34 :
世界@名無史さん :04/10/08 16:21:11
河出文庫の概説読み終わったんだけど、次は何にしようか思案中。 ドイツ帝国について書かれた良書教えれ。 あと、スペインの諸王朝にも興味がある。王朝が沢山あって 複雑過ぎる。
35 :
世界@名無史さん :04/10/08 18:03:10
>>25 ぼこぼこにしてるっても、それはリチャード個人の戦争の上手さで成り立ってる優勢であり
その得意な戦争にしたって結局は取るに足らない戦いで戦死するような戦い方をしてるんだから、
実はたいしたことないんじゃない?
この人両シチリアのタンクレードとの関係で皇帝との仲を悪化させてるし、
印璽を新調して借金帳消しにするとか、フランス王の臣下であることを認めるとか
ひたすら親父の遺産を食い潰して戦争ばっかりしてたロクでもない奴って感じするんだけど。
で、その兄の負の遺産を継いだのがジョン
36 :
世界@名無史さん :04/10/08 18:21:54
>>35 親父のヘンリー二世も馬鹿息子どもアンドフランス連合軍をボコボコにしているよ。
だいたい、このころのイングランドは大陸領も大きく
英仏の軍制に大きな違いがあったとは考えがたいし、
違いがあってもむしろイングランド側が優れている可能性が高い。
上にも出てるが国民国家の観念に縛られてないか?
別にリチャード1世を褒めたいのではなく、 ジョンが戦下手ということを言いたかっただけなんだけどね。 でもオレ、好きだよジョン・・・。
38 :
世界@名無史さん :04/10/08 18:28:40
>で、その兄の負の遺産を継いだのがジョン これ全然違う。ジョンは親父に溺愛されていたにも かかわらず裏切った。初めから仲が悪かった リチャードの方がまだマシ。
.。 。 。 。 .| ヽ / ヽ ./ ヽ / | |: V V V .| .|: .| |________.|. / \ / ヽ l:::::::::. | |:::::::::: (●) (●) | |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ ジョン王:言わずと知れたイングランドの「欠地王」。 王領は縮小する一方だが、持ち前の明るさ(能天気とも言う)と、 その輝く王冠で国の雰囲気を明るくしている(多分)。 そのキャラクターが皆から愛されてることは、各種AAが次々と 開発されていることからも明らかである。まれに(フランスに)勝つこともあり、その日は祭りとなる。 ____ . .. .... ..:|::::::: .|:: ::: :::::: :::::::::::: : ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: _|:::::::.._:|_ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: ::::::::::::::::::::::::::::: /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: ::::::::::::::::::::::::::::::::: / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::  ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ イングランド貴族:ジョン王への破門通告に絶望にくれながらも 王とアンジュー家を支持しつづける献身的な諸侯。 だが、王のくりだす天然的なボケに突っ込みを入れるのが日常化しているようだ。 「今日は負けないよ」→「軍資金ねぇだろ・・・」はお決まりの黄金パターン
40 :
世界@名無史さん :04/10/08 18:38:44
ジョンは最低の王。二度の裏切り、政治力のなさ、戦下手etc、 何より以後ジョンという名が忌避されたことでもわかる。
41 :
世界@名無史さん :04/10/08 18:40:27
>王とアンジュー家を支持しつづける献身的な諸侯。 まあ、最後に貴族達もブチ切れて反乱起こすがね。
. .. .... ..:|::::::: .|:: ::: :::::: :::::::::::: : ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: _|:::::::.._:|_ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: ::::::::::::::::::::::::::::: /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: ::::::::::::::::::::::::::::::::: / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::  ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ でもジョン王がいなければマグナ・カルタはもっと後世の史実になって いたと思うよ。 英邁な君主の黄金期よりも無能な王の失政が国家にとって重大な誤りと なるし大憲章はあの王があって始めて成立したと発言しても良いと思うよ
43 :
世界@名無史さん :04/10/08 19:00:24
44 :
世界@名無史さん :04/10/08 19:08:42
まあ、何にせよインノケンティウス3世は最強ってこった。
>>29 >農業の労働生産性から調べると、(以下ry
こういうデータ知りたいんだけど、どんな本で知ったの?
>>43 . .. .... ..:|::::::: .|:: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
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/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
なぜこのスレで対象外の地域の戦争賛美者だと煽られるのか
本気で謎
47 :
世界@名無史さん :04/10/08 19:44:33
君が結果論で言ってるからじゃない。 ジョンが無能でマグナカルタ。 大東亜戦争でアジアにおける帝国主義の終焉。
>>47 いやスレ内容から逸脱する方向に誘導するのはもう良いから。
そういうの嫌いなんです。
大ちゃんシリーズの伽羅は基本的にほのぼの路線。
変に絡んでくる人はちょっとちがうんじゃないのかと
. .. .... ..:|::::::: .|:: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
49 :
世界@名無史さん :04/10/08 20:51:46
お前の主観を押し付けてどーするw
51 :
sage :04/10/09 02:10:19
>>44 インノケンティウスが最強といっても
確かに諸王国に対してはそうだが、
お膝元のローマからは追い出されているぞ。
自分の足元すら固められない人物が最強といえるのかね。
なんだかスレ荒れさせようと必死な奴がいるな
>>29 実に、素朴な疑問で申し訳ないですけど、
ヨーロッパのどこの地域のことなのでしょう?
例えば、地中海沿岸とアルプス以北では、
大きく気候条件が違うと思うのですが。
地中海中心のローマ帝国と、
中世のアルプス以北とは単純比較できないでしょうから、
中世イタリアのデータなのでしょうか、やはり。
45氏同様、できればソースを希望します。
>>36-38 ,40
まあそこら辺はよくわかってる。
ジョンに決定的に足りなかったのは指揮力と自制心で、特に自制心の無さは諸侯の結束に致命的な亀裂を作ったし、
肝心なところで致命的なミスを犯してしまったりもした。
このどっちかがあればマグナ・カルタは避けれたんだろうけど、
やっぱり末っ子育ちでわがままになっちゃったのがいけないんだろうなあ。
あんまり大したこと言ってないんでsage
おはようございます。
>>34 ドイツの中世史は多くの諸家が入乱れて分かりづらいですね。
しかも手ごろな本があまりないですしね。とりあえず講談社新書の
『神聖ローマ帝国』『ハプスブルクをつくった男』ともに菊池 良生著が
いいのではないでしょうか。
スペインもレコンキスタ関係は結構充実しているのですが、通史で
良いものはちょっと思い浮かびません。中公新書の『西ゴート王国の遺産』
なんかいかがでしょうか。
>>36 影が薄い存在ですが、個人的にはヘンリー2世は
エドワード1世よりも名君だと思っています。
プランタジネット家の中では随一でないでしょうか。
>>51 それは初耳です。たしかグレゴリウス7世は晩年ローマから放逐されて
いたと思いますが、イノセントも同じような目にあっていたのでしょうか?
詳しい状況教えて下され。
上のイノセントとは3世です。念のため。
「西洋中世世界の崩壊」は名著
58 :
世界@名無史さん :04/10/09 11:53:08
でも絶版w
60 :
世界@名無史さん :04/10/09 12:20:58
>>59 お、これcool!だね。値段同じなら買ってみるよ、thx。
と思ったら、値段倍以上じゃねーかw
絶版なんだから仕方ない いやなら古書めぐりな
>>53 高校世界史で習う「三圃制」とかって、アルプス以北の話ですよね。
地中海沿岸では三圃制やってないはず。
>>55 『西ゴート王国の遺産』、人名がローマの皇帝なんかも含めて全部スペイン語の名前で揃えられているのが読みにくい……。
けど西ゴートを扱った本ってあんまりないですよね……。
64 :
世界@名無史さん :04/10/09 16:54:43
おや、唐自治さんがお見えになりましたな。 このスレでもその博識ぶりを存分に発揮してくだされ。 (*´д`*)カラジチサン、ハアハア・・・
65 :
世界@名無史さん :04/10/09 22:29:20
この時代の修道士は食事中でも交代で詩篇を朗詠していたそうだ。 毎日、数時間ごとに詩篇を朗読し賛美歌を歌う。開墾などの重労働を やりつう勉強。ストイックの極みだな。こんな体質だから教会改革運動の 急先鋒になったのだろうか。
>>55 遅くなったけど紹介あんがと、読んでみるよ。
>>63 レス感謝です。言われてみれば、
>>29 でのフランク王国などとの書き込みを普通に読めば、
おっしゃるとおりに読むべきですね。
とすれば、違う地域が比較されているのでしょうねぇ。
違う地域を対象として、
生産性を比較するのは適切なのか、
疑問が残るところです。
(当方、へたれな比較史を発表して、
大学時代、恩師に注意された苦い記憶あり。)
>>53 の書き込み後に、
別のスレで同様の書き込みを発見したので、
一般常識化しているのかもしれませんが、
そのような史料的根拠あるのでしょうか、ホントに。
何か、荒っぽい推計がもとになってるような気もします。
68 :
世界@名無史さん :04/10/10 15:15:15
中世盛期を基準にすると、アルプス以北の三圃制農業と 地中海式農業?は結局どっちが生産力高かったの?
69 :
世界@名無史さん :04/10/11 01:35:56
地中海式農業というと葡萄やオリーブの栽培と家畜育てる農業のことだろ普通
70 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/11 01:58:34
何となく、次のようなイメージを持っているのですが、 如何でしょう。(かなり大雑把ですが) 地中海(伊・西) アルプス以北(仏・独) ローマ期 好条件を活かし優勢 採集レヴェル →徐々に開墾進む 中世 好条件に甘え、 悪条件を克服するために、 相も変わらず 創意工夫がなされる(三圃制etc) 近世以後 お気楽ラテン人は ゲルマン的努力と根性で逆転 相変わらずの日々 (半ば、ジョークですが) 逆転時期は、中世におくべきかもしれませんが、 詳しくないので、一応こうしておきました。 微妙にスレ違いだったかも。
71 :
世界@名無史さん :04/10/11 09:42:34
カノッサの屈辱事件で有名なハインリヒ4世。 その後しっかり立場逆転してんじゃねーかYО! ただ単に、たまたま独諸侯に一時見捨てられただけだろ。 なんか、世界史習った時にはすげー哀れで教皇に比べて弱小な 印象だった。最近知った(私的)驚愕の事実。
>>69 葡萄やオリーブと放牧を組み合わせた、いわば「二圃制」ですね。
>>70 地中海沿岸は夏に雨が極端に少ないので、三圃制はやりようがないのでは。
>>71 教皇をローマから追い出して憤死させたんでしたっけ。
しかし一時的にとはいえ皇帝が教皇の風下に立たされたこと、
そして皇帝が諸侯の反対を押さえつけられなかったことは衝撃的かと。
帝権失墜の象徴にして大空位時代の前触れだったのは間違いないでしょう。
しかしながらカノッサの屈辱の後日談は本来はハインリヒW世側の最終的な勝利なのに なんだか捏造された感は否めないな。
確かにねえ(笑 「ハインリヒ4世側の勝利」なんて言っちゃうと、 その後の十字軍とかウォルムス協約とかが説明しにくくなっちゃうんでしょう。
75 :
世界@名無史さん :04/10/11 12:10:04
>帝権失墜の象徴 まだこの時点では国王の神への直属性と司教叙任権は 崩れていないので帝権失墜の端緒かと。 時系列で表すと 1077 カノッサ事件 1084 ハインリヒ4世皇帝戴冠 1122 ヴォルムス協約 国王は指輪と司教杖による司教叙任を放棄 結果、司教は帝国官吏から帝国封臣となり、独では諸侯、 北イタリアでは諸都市の勢力が強まった。
その後で重要なのは西方キリスト教世界の指導権をめぐる 争いのなかで独帝フリードリヒ1世は教皇アレクサンドル3世の 世界支配権要求を承認しなければならなかった。 フランスは元々司教領が少ないため独のような闘争は 起こらなかった。そのため教皇権はフランスの後ろ盾を得て 徐々に力を得ていったといえる。
と書いたがカラジチさんにはいらぬお世話でしたね(汗
78 :
フランク王シャルル三世 :04/10/11 12:41:15
100getされた野蛮人にはノルマンディー公領差し上げます。
79 :
ヴェネツィア商人 :04/10/11 17:05:59
ただ今十字軍に参加されますと、もれなくコンスタンティノープルの 財宝とびjy(略
80 :
世界@名無史さん :04/10/11 20:32:06
>そのため教皇権はフランスの後ろ盾を得て >徐々に力を得ていったといえる。 このあたりに端麗王による教皇のバビロン捕囚の原因が あるのかな。
81 :
世界@名無史さん :04/10/11 21:22:36
ウィリアム征服王の人生はまさに修羅の如き 戦国絵巻。庶子公良く頑張ったと褒めてやりたい。 ハプスブルクの開祖ルドルフ1世も家康的な人物で 良い感じ。何より後世の絵が男前。 モマエらの一押しの君主は誰よ?
ハインリヒ4世最終勝利者説には異議アリ。 息子のハインリヒ5世に謀反され、実質的な廃帝となって窮死している。 負け犬度では、グレゴリウス7世とほとんど同じ。 おまけに、パスカリス2世に破門くらったままだったから、 対教皇庁サイドでも、形式的には勝利者とは言えない。
83 :
世界@名無史さん :04/10/11 23:32:31
>>82 その前にモマエの一押し君主教えれ。君主萌えなんだよポックンは。
84 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/12 00:35:15
>>72 確かに夏期の降雨量を考えると、
三圃制は不可能だと思いますが、
そもそも、その必要もないくらい、
イタリアでは収穫量があったのでは?
と思ったのです。
気温高くて日射時間も長ければ植物はそれなりに育ちますからね。 もっとも、高すぎず長すぎずというか、それぞれのバランスは言うまでも無く。
86 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/12 00:41:41
>>84 は、一見、スレ違いですが、
アルプス以北の収穫率の低さと、
地中海地域の収穫率の高さとを踏まえると、
この点が、何か政治的、軍事的に影響しているのではないかと、
思いついたものですから。
収穫率:小麦を一粒植えて、
何粒収穫できるかを表した指標
(デュビーか何かで、読んだ記憶(うろ覚え))
87 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/12 00:54:22
書き込んだ後、 Krt氏が別スレで書いてるのを発見。 ブローデルでしたか...orz アナール派、真っ当に読んでないのがバレバレですね。
>>84 は、一見、スレ違いですが、
全然スレ違いじゃないぜ、クソが。
89 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:08:58
90 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/12 01:11:06
>>88 農業ですので、政治でも軍事でもないじゃないかと、
指摘しされる前に、言い訳しておこうとの自己レスですので。
ご勘弁を。
ひょっとして煽られてます?私。
91 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:18:07
>>90 いや、そうじゃなくてオススメ君主を・・・・
スルーで。
93 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:23:42
94 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/12 01:27:33
>>91 詳しくないのでDQNかもしれませんが...
エレアノールですかねぇ。
某赤ちゃんスレで、
乳母車押してるのを見て、
思い出したばかりというのもありますが。
95 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:28:16
>>81 のような君主厨が発生しているいようですが、
みなさんスルーで。
ちなみに私はエドワード三世が好きです。
答えてるじゃんw
>>96 だって私も君主厨のはしくれですもん。
ごめんなさい。
98 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:37:40
78 名前:フランク王シャルル三世 投稿日:04/10/11 12:41:15 100getされた野蛮人にはノルマンディー公領差し上げます。
進軍中
100 :
ディスティ・ノヴァ ◆rOibb29vBo :04/10/12 01:42:31
ノルマンディー公領ゲットォォォォォ!
101 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/10/12 01:45:30
生憎、婚姻政策で、 イギリス領とあいなりました。 残念
102 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:46:50
うおおおおおお、リチャード100getおおおおおおお。
アリエノール・ダキテーヌのことかしらね。
104 :
世界@名無史さん :04/10/12 01:48:50
ポックン負けマスタ・・・。
>>103 恐らく、そうでしょう。
娯楽本で読んだ知識で書きましたから。
107 :
世界@名無史さん :04/10/12 03:40:06
ニ圃式は西アジアにおける冬小麦と放牧の組み合わせ農業だったような。 これが西ヨーロッパにて三圃式に改良(適応)されたと。
〜〜〜〜1945 第二次大戦終了〜〜〜〜 1947 イギリス、インド独立を承認。 1949 中国、ウイグル侵攻。 1950 中国、ウイグルを併合。朝鮮戦争に参戦 1950 イギリス、エジプトからの要求(同盟条約破棄、軍隊の完全撤退、スーダン共同統治権廃棄)を拒否。 1951 中国、チベット侵攻。 1956 イギリス、ナセル内閣の圧力によりスエズ運河から一時撤退。しかしスエズ国有化にフランス・イスラエルと連合して再侵攻。 1956 ソ連、ハンガリー侵攻 1959 中国、インドと国境巡って衝突 1959 アメリカ、ハワイを第50番目の州に昇格させ、連邦に組み込む。 1965 中国、チベットを併合。 1965 アメリカ、ベトナム侵攻 1968 国連が尖閣諸島における油田資源の可能性発表。石油権益巡り中国が領有権の主張を始める。 1968 8月21日ソ連、チェコスロヴァキアに侵攻。「プラハの春」民主化路線を認めず、ワルシャワ条約機構の軍も動員。 1969 中国、珍宝島でソビエト軍と交戦 1971 アメリカ、ラオス侵攻。 1979 中国、南沙諸島、トンキン湾、ベトナム北部の領有権を主張し、ベトナムに侵攻。 1979 ソ連、12月にアフガニスタンに侵攻 1982 イギリス、フォークランド諸島の接収に対し領有権主張、アルゼンチン外洋に侵攻。 1983 12月、中英共同声明で香港の中国帰属が合意。 1984 ポルトガル本国でクーデタ、全ての海外植民地の放棄決定。中国政府は準備不足との理由からマカオ返還を延期させる。 1987 中葡共同声明に調印。マカオの1999の中国帰属決定。 1992 中国、南沙諸島と西沙諸島の領有を宣言 1995 中国、フィリピンが領有するミスチーフ環礁を占領。 1996 中国、台湾の総統直接選挙に対し軍事演習による威嚇。 1997 フィリピンが領有するスカーボロ環礁の領有権を主張。 2000 中国の軍艦が日本列島を一周。中国が尖閣諸島付近で日本の領海内の海底油田調査を敢行
109 :
世界@名無史さん :04/10/12 11:00:46
>>109 .。 。 。 。
.| ヽ / ヽ ./ ヽ / |
|: V V V .|
.|: .|
|________.|.
/ \ ドキ
/ ヽ ドキ
l:::::::::. |
|:::::::::: (●) (●) |
|::::::::::::::::: \___/ | <ボクのフィギュアはどれかな・・・・
ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
111 :
世界@名無史さん :04/10/13 02:07:13
>>110 ワロタw カッコイイ兄貴ならいるけど、ダメな弟君は
誰にも作って貰えません。
>>105 気になったので調べてみたら、
仏語と英語とでスペルも変わるらしい。
Eleanor of Aquitaine(英)、Alienor d’Aquitaine(仏)
また、研究社リーダーズによると、Helenの変形らしい。
トロイ戦争以来、傾城の名前なのかも。
113 :
世界@名無史さん :04/10/13 18:25:31
素朴な疑問なのだが、欧州中世史って学者や学生の間でどの位人気あるの? 政治史とかになるとハードカバーで結構高値の本が多いから、研究者 少ないのかな。
何故かファンタジーの影響でそこそこ需要はあるんだろうね。 ・・・ベルバラ流行った頃は、絶対王政とかフランス革命ものも需要があったらしいが。
>何故かファンタジーの影響でそこそこ需要はあるんだろうね。 えっ、史学部生ってそんなDQNなのか?
書いてから気付いた。本のことかw
>>81 なんといってもジョン欠地王!
>>111 そんな〜、だれか作ってよ〜
一説によるとおとうちゃんのヘンリー2世並みの名君なんだから〜
118 :
世界@名無史さん :04/10/14 16:11:28
封建制が衰退していく14世紀後半以降の中世史は 正直面白くない。国家主義の勃興や中央集権化の進行は なんか中世じゃないと勝手にイメージしているだけだが。 もう百年戦争以降の英仏はつまらん。 エドワード3世なんかが騎士道に夢中になったのも 騎士(ナイト層という意味ではなく)が没落していたからだしな。 やっぱ十字軍に行くか破門されるかそんな雰囲気がいいんじゃねーか? 王権弱体で地方分権、荘園中心の自給自足、僧侶・貴族・農民の身分 制度の固定。この三つが中世三種の神器だと思うがどーよ。
119 :
世界@名無史さん :04/10/14 19:10:24
>>117 以後の王はジョンの子孫達なのだから、
ジョンが最終勝利者確定。これ定説です。
そろそろシュタウフェン家VS教皇の頃か?
>>117 >一説によるとおとうちゃんのヘンリー2世並みの名君なんだから〜
その説とやらはアンタしか唱えてないんじゃないかw
122 :
世界@名無史さん :04/10/14 20:34:11
>>120 ふむ。地図だけ見るとシュタウフェン家の「勢力範囲」は広いな。
帝国(一部除く)・イタリア全土・コルシカ・サルディニアと。
123 :
世界@名無史さん :04/10/14 21:52:15
>>117 >一説によるとおとうちゃんのヘンリー2世並みの名君なんだから〜
初耳(もちろん読んだ事もない)だから、ソース教えてください。
>>121 >>123 1960年代にイギリスのジョン・マンセー学者のワーレンが言い出した評価で、当時イギリスの学会でも話題になったみたい。
その後、史料調査や解釈が甘いってつっこみが入りまくったけど、支持者もそれなりに現れてる。
森護氏も消極的な感じだけどワーレンの評価を支持してるみたいだよ。
warren, king john,yale,1981(org.1961),(特に前章のviii-xiv)
森護,英国王室史話,大修館書店,1986,pp.73-74
>>124 おー、そんな奇特な椰子がいるとはなあー。
勉強になりマスタ。
>>124 そう言えば、..貴方が創られた、
AAスレ>785「ジョン王出陣図」で、
兵士たちが答えていた合言葉「ももー」とは、
何でごじゃりまするか?
桃にあたって死んだんじゃなかった?
ふむ。桃食って赤痢になったのか。
129 :
世界@名無史さん :04/10/15 03:45:46
>>118 >もう百年戦争以降の英仏はつまらん。
まあ、確かに百年戦争はなんか寒々しい印象を受けるな。
薔薇戦争はもっとしょうもないが。
しかし、何故だか近年は人気があるようだ。ジャンヌの影響か?
そんなことより皇帝=イタリア政策のほうがよっぽど面黒いのだが、
日本では神聖ローマ帝国の中世史はマイナーだからなあ。
初代オットー大帝からしてろくに注目されてない。人気があるのは
バルバロッサ位だしな。
>>129 というかサトケンの功績でしょ。
幕末ブームにおけるるろ剣みたいなもん(相当レベルが違うが)。
アレがなかったら、今年の大河ドラマなんて存在してたかどうかも怪しい。
百年戦争も内容はともかく、NHKで取り上げたくらいだからなあ。
世界史的事件として公認されたってことでしょう。
132 :
世界@名無史さん :04/10/15 19:42:18
オットー大帝で思い出したのだが、「大帝」と呼ばれるための
要件はやはりキリスト教の普及に役立ったということなのだろうか。
コンス(ry、カール、オットーみんな絡んでるから気になっていたのだが。
>>131 るろ剣てそんな人気があったんだ。腐女子だけかと思ってたw
佐藤の小説は読んだことはないが売れてるらしいね。
百年戦争の小説なら、コナンドイルの『ナイジェル卿の冒険』
なんかもいいかも。
>>130 そう。だから、ジョン様スレではジョン様は桃が好きってのが決まり文句だから。
>>131 我が輩の周りだと、リックベッソンのジャンヌ・ダルクで百年戦争を知ったっていう人が一番多かった。
後、タイム・ラインでって人が少し。
134 :
世界@名無史さん :04/10/15 20:00:52
おい、おまいら、今日のNHKの世界美術館紀行みるべし! 時間は教育・後10・00〜10・25 >番組では、今回48年ぶりに公開された「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」を中心に、 >歴代の城主達によって彩られたシャンティイ城の魅力を伝える。 だそうだから中世好きにはたまらんぞ。
>>132 「大帝」って他に誰がいましたっけ。
ピョートルとスレイマンは除くとして……テオドシウス、ユスティニアヌス、ぐらいか?
なんか11世紀末のカスティリア・レオン王アルフォンソ7世が皇帝を称してたとか聞いたんですけど、
詳細知ってる人いませんか?
日本語だと別だけど、 あちらの言葉だと、 「大王」と「大帝」との区別はないですよねぇ。 でしたら、アレクサンドロス「大王」3世とか、 シリア王アンティオコス「大王」3世とか、 最早、王ですらないですが、 「偉大なる」ポンペイウスとか、 キリスト教以前からのパターンですよね。 中世ヨーロッパだと「偉大さ」を認められるには、 キリスト教圏の拡大に寄与することが、 不可欠なのかもしれないけど。 でも、キリスト教に貢献しても、 聖王になったり、称号貰えなかったり。 ケース・バイ・ケースな気もします。
137 :
世界@名無史さん :04/10/16 01:53:13
>>135 ふむ。イベリア半島のキリスト教諸国に対する宗主権を得るために
名乗ったようだ。結局は瓦解したが。より詳しい奴、解説汁。
>>136 ふむ。ルイは列聖されたから聖ルイなのだ。
「桃」ってのは、中世欧州じゃ「女の尻」とか「女の陰部」という隠語でもあったようだね。 曲解すると、ジョン王の死因は腹上死ってことになる。 ・・・そっちの方がジョン王らしくていいかも。
>>135 傘下のはずだったポルトガルが「王」を称したので、
むかついて「アストゥリアス皇帝」だったか?を名乗った
という話をどっかで読んだことあるけど。
戦史研究家陸軍少将伊藤政之助は、「(西洋)中世に追撃戦なし」と言って 批判している。逆に追劇戦の名手だったチンギス、ティムールなんかは評価高い。 黒太子と親父やゲクランなんかも一応褒めてはいるが、クレシー、ポワティエ戦の 勝利の後にイングランド軍が追撃しないことには怒っている。 また、ギリシャ・ローマよりも軍事戦略・思想などが後退しているとし、 「戦略、戦術において見るべきものなし、まさに軍事史上においても暗黒時代で あり、寂しき時代であった(大意)」といって中世軍事史を締め括っている。
141 :
世界@名無史さん :04/10/16 05:04:21
>>139 葡萄牙王出現よりも皇帝自称の方が先のようだが・・・。
142 :
世界@名無史さん :04/10/16 05:05:39
>>138 >曲解すると、ジョン王の死因は腹上死ってことになる。
いや、直接の死因は赤痢なのだが・・・。
>>138 >>142 実はジョン様の死因には、女子修道院の尼僧とHしようとして死んだって伝承もあったりします。
死因は尼僧を守ろうとした修道士の盛った毒ってことになっていますが。
>>140 その本はたしか1930年代に書かれた本でしたね。
1960年頃にバーブリュッゲンの本が出て以来、中世軍事史をめぐる学説は大きく変化してます。
特にここ10年ばかりの変化は大変なものだそうで。
今は中世を軍事における暗黒時代なんて見方はしないみたいです。
というより軍事だけで戦争を見るって事もしなくなってるんですが。
大久保圭子氏の論文にこの状況を現すいい言葉があった。
「戦争の歴史は重要すぎて軍事史家だけに任せておくわけにはいかない」
中世の戦いでは追撃はちょくちょく行われていますが、追撃すると逆襲を受けて負けることが多いんです。
優秀な指揮官はそれを承知してるから追撃をひかえる傾向があります。
逆に相手の追撃を誘って逆襲を仕掛けるなんて事もちょくちょくありました。
それと、戦争の被害とリスクを最低限に抑えようとする傾向が強いみたい。
騎士の従軍期間の制限とか、身代金制度なんかも戦争の被害を抑えるシステムの一つとして捉えることができます。
会戦もできる限り避ける傾向が強く、攻城戦だけとか、追いかけっこだけで終わった戦いが多かったみたいです。
追い掛けっこになった戦いを追撃戦と捉えることもできますが。
戦争を紛争解決の一手段と位置づけ、その影響をできる限り小さくしようとしてるって感じですし、
戦いに至るまでに様々な法的な手続きや交渉、教会の介入など、戦争開始を阻止するシステムも色々と用意されています。
その意味で古代より進んでいるように見えます。
クレシー、ポワティアの戦い辺りから状況は変化して、戦争のリスク回避システムが崩れていったって感じです。
>中世の戦いでは追撃はちょくちょく行われていますが、 >追撃すると逆襲を受けて負けることが多いんです。 よくわからないが・・・。モンゴル軍やオスマン軍に勝てる気がしないのは 気のせいだろうか・・・。 >優秀な指揮官はそれを承知してるから追撃をひかえる傾向があります。 >逆に相手の追撃を誘って逆襲を仕掛けるなんて事もちょくちょくありました。 これはどの時代にもあると思うのだが・・・。
>追い掛けっこになった戦いを追撃戦と捉えることもできますが。 それは違うと思うが・・・。百年もだらだらやることが、カエサルの 見事な軍事戦略に勝っているとは思えないが・・・。 民衆の被害も長引くと大きくなるのではないのか・・・。
>今は中世を軍事における暗黒時代なんて見方はしないみたいです。 私もそう思うが・・・。西洋中世で世界史的名将がいないのは気のせいだろうか・・・。
西洋七大兵家(うろおぼえ) 歴山大王、ハンニバル、カエサル、マウリッツ、グスタフ2世アドルフ、フリードリヒ大王、 ナポレオン。 皆、追撃戦の名手のようだが・・・。
歴山大王って誰
アレクサンドロスだろう。 しかし見事に中世が抜け落ちてるな。カエサルからマウリッツまで1600年だ。 武器が進化せず、戦術的な変化に乏しかったこともあるんだろうな。 あと「高名な兵法家には追撃戦の名手が多い」ことが逆に 「追撃戦の難しさ」を物語ってるような気がする。 追撃は目標を明確に定めて軍の規律を維持しないと、無秩序な略奪に走ったり 進軍しすぎたりで、敵の逆襲の餌食になりやすい。 逆に言うと、明確な戦略目標の設定と高いレベルでの軍の規律維持が出来れば、 それだけで敵より優位に立てる。 が、諸侯の寄せ集めで分権的な中世の軍事組織では、それが難しかったんでないかと思う。
スレ違いになりそうだが、 マウリッツとグスタフって追撃戦の名手だったけ?
>151 魔ウリッツではなくマールボロ公の可能性もあるが。 ややこしくなるので両人とも名手ということにしとけ。
マールボロ公ではなくオイゲン公かも。
まあ、何にせよ黒太子もゲクランも獅子心王も征服王etcも 誰であろうと大兵家の中には入れないだろうな。
155 :
世界@名無史さん :04/10/16 14:02:38
ふむ。各王家・諸侯はイクサのための家伝書のようなものを 持っていたのだろうか。作法なども重要だろう。 それとも、口伝と実践訓練のみだったのだろうか。
>>150 追撃戦についてはその通りだとおもいます。
中世の軍隊では追撃戦は困難ですが、うまくやる人もいます。
例えばリチャード1世なんかは成功例が多いです。
代表的なのはアスカロンの戦いで、追撃して再集結、追撃して再集結、
って感じで追撃を行っています。
フルトヴァルの戦いだと退却する敵を追って一晩分の行軍距離を一気に駆け抜けて、
相手を捕捉撃破するなんて芸当もやって見せています。
後、相手の軍隊を破壊したり占領地を増やすことの意味が中世、
特に11から13世紀の中世盛期とか呼ばれてる時期では古代や近代とは大きく異なるように見えます。
相手の軍隊を破壊することに余り意味がないのです。
どちらが勝ったかはっきりすればそれでいいのです。
会戦で勝った場合はそれをどう政治的に利用するかって事だけですから。
追撃などして負ける危険を冒すよりは勝ちを確実に確保した方がいいって感じです。
一番分かり易いのは相手の大将を捕まえることですが、
他にも戦いの後も戦場に留まり続けるって手もあります。
新たな領地を得るって事は地元の領主を自分の臣下に加えるってことが多いですから、
その領主達を自分の味方に引き込むことができればそれでいいし、
どんなに勝とうがそれができなければ意味がないです。
会戦で勝てば力強い君主と認めて貰えるので、
日和見な領主は容易になびいてくるし、臣下の裏切る可能性も小さくなります。
ヘンリー二世なんかはその辺りの駆け引きが上手だったようで、
軍を集めるだけとか、敵領地内や周辺を行軍しただけで戦わずして相手を屈服させてしまうことがままありました。
悪い例だとリンカンの戦いかな?
イギリス王位をめぐる戦いでマチルダ王妃はスティブン王を捕まえるほどの大勝利を収めておきながら、
その後の政治的な対応を間違えたせいで勝利から4ヶ月後には勝利で得たものを全て失っています。
簡単にいうと、会戦の勝利は政治的駆け引きの材料の一つ、けっこう威力のある材料って感じです。
戦術や武器の進歩が乏しいっていうのはどうかと。 この辺りはこれまでの軍事史家がどこに注目してきたかって問題な気がします。 中世を単純に暗黒時代って捉えて無視してきただけって感じです。 歴史家の方は軍事から目を背けてきたし。 最近、ようやく注目されるようになり、色々と分かってきたみたいです。 それから、 グスタフアドルフやフリードリヒ大王が出てくるのに、 カール大帝やエドワード一世、エドワード三世が出てこないというのはこれ如何に? 違いは何? 最近の軍事革命論論争なんかだとエドワード三世はナポレオンに匹敵するとかいう評価も飛び出してきているのに。
>>155 4世紀頃に作られたウェゲティウスの戦術書が中世の戦争の教本だって説が最近有力になってるみたいです。
基本は負けないことに徹するって事みたいです。例えば、負ける危険性がある会戦はできる限り避けるとか。
159 :
世界@名無史さん :04/10/16 14:20:10
>基本は負けないことに徹するって事みたいです。 >例えば、負ける危険性がある会戦はできる限り避けるとか。 ふむ。なかなかまともな内容のようだ。奴らもやたら滅法 突撃することだけが能ではないといことが分かるな。 読んでみたいぞよ。
160 :
世界@名無史さん :04/10/16 14:23:32
>カール大帝やエドワード一世、エドワード三世が出てこないというのはこれ如何に? ふむ。近代兵学に対する貢献度合いが少ないということではないだろうか。
ふむ。しかし同時代のチンギスやティムールには劣るかと。
常備軍の無い封建制だと騎士も契約に従って出て来ただけで、 傭兵も金のために戦争しに来てるだけだし、 真面目にやるのは馬鹿らしい見たいな事もあるかもしれないね。 安全第一みたいな感じで士気はかなり低かったんじゃないかな。
>>160 その通りだと思います。
というより研究者側で中世は暗黒時代だからってイメージで無視する傾向があったんじゃないかと思います。
戦争に限らず、他の分野でも似たような傾向があったと聞きますし。美術史なんかは特に。
近年に入ってようやく是正されてきたって感じですし。
>>161 逆に同時代にチンギスやティムール以上の人は他の地域にもいないって気もしますね。
>>162 その通りだと思います。
たいてい勝ったからといって特別美味しいことはないし、
適当に戦って戦利品を頂いた方がずっといいって感じでしょう。
例えば、ヘースティングスを記録したバイユーのタペストリーには戦いの最中に、
戦死者や負傷者から武具を剥いでる人々が描かれています。
1097年に行われたドリュラエウムの戦い直前には両陣営の騎士達が相手方の騎士に向かって、
「俺たちみんな明日には大金持ちだ。」
なんてことを互いに言い合って励まし合ったなんて話も残っています。
君主にしても戦いで命を落とすなんてばかばかしいって考えてたんじゃないかって思いたくなります。
その結果が戦争被害の低減を目的にしたように見える、様々なシステムなんだと思います。
それと中世西洋でなら「死を恐れる臆病者!」とかいう人には、
建前としてキリスト教の倫理観を振りかざして「命は大切にしなきゃ」、
とか反論できそうだし。
164 :
世界@名無史さん :04/10/16 17:36:56
>それと中世西洋でなら「死を恐れる臆病者!」とかいう人には、 テンプル騎士団は賞賛されると同時に畏怖されていた。 それが後々の災厄の一因となった可能性は否定できない。
>>156 やっぱ、リチャードは戦争バカで戦さの天才だ〜ね。
負けらしい負け戦さってしてないのかなぁ?
武器の進歩が無かったとは思えないよ。 騎兵だけなら、ローマ時代と比較すると、鐙が使用されるようになっただけでも個々の戦力は段違い。 西洋では、弩は11〜12世紀頃から使われ始めたんだけど、これだけでもかなり違うよ。
弩は連射が利かないので、会戦前に突撃してくる騎馬兵に向けて一回射撃するだけの代物。 威力は劣るが連射可能な長弓の登場の方が、与えた影響は大きいんじゃないかな?
>>165 リチャードはアキテーヌ統治においてすでに赫赫たる名声を博していた。
さらに文化人としても一流とは言えぬまでもなかなかの才覚を
持っていた。イングランドを留守にしている間も統治に支障がない程
機構も整備されていたし(父の遺産)、リチャードの留守番に関する人事も万全だった。
ただ、弟のアホさ加減だけは見抜けなかったw
昔は俺もリチャード=戦馬鹿だと思っていたが、政治、文化面においても
優れていたようだ。何より最高の騎士だった。
アキテーヌ統治は母君のお力だと思われます。
>逆に同時代にチンギスやティムール以上の人は >他の地域にもいないって気もしますね。 ふむ。このレトリックには苦笑を禁じえないが、同時代において 純軍事学的に見た場合、 モンゴル・オスマンの方が各段に優秀なために、 それらを優先して研究したのだろう。 西洋人としては、ギリシャ・ローマ(眉唾だが)以来、中世を 除いて世界最高の軍事思想、戦力を誇って来たと思っている のだから余計忌避するのだろう。
>>169 現に賞賛を受けていたのはリチャードだ。母の意見を
採用する能力もリチャードの政治力に含まれるのは当然だ。
そりゃアリエノールが統治を譲った後だから賞賛されるのはリチャードだろう。 だが、実際運営していたのはアリエノールだぞ。
173 :
世界@名無史さん :04/10/16 19:01:58
レジーヌ・ペルヌを悪い小説家というなら、悪い小説を読んだんだろうな。
>>174 あー、そりゃ悪い研究者だわ。金儲けのためなら
面白い小噺入れないと売れないのよw
じゃ、お前のソースはなんだよ?
177 :
聖ルイ :04/10/16 19:10:39
お二人とも争いごとはお止めなさい。 神の祝福あれ。
と、いうか
>>175 の発言は、出所どこなんですか?
歴史小説では実際にあったことを重視して書く、と評判だと思ったんですけど。
>>166 騎兵の鎧に関しては、マイナス部分も見ないと。
要は馬の負担。主に機動力と速度の問題だが、戦場でもここ一番で
機敏に動けなかったりと響いている可能性は高い。
モンゴルに負けたのもそれが一因だと思う。
かんじよみなおせ よろいじゃないぞあぶみだぞ
>>165 >>168-169 >>171-178 リチャードの戦争以外の能力云々はジョン様と同様にイギリスの研究者間でも意見の相違があって
一概には決められないみたいです。
一昔前はイギリスでも野蛮な戦争バカ、とかいう評価が一般的だったとか。
今は城を造る能力は意外に優れているし、詩も書くし、リチャードの治世に極端な財政難があったわけでもないし、
とかいって高い評価を与える研究者も現れてるみたいです。
当然反対者もいるみたいですが。
>>124 で出したジョン・マンセー学者のワーレンに
リチャードはジョン様以上に有能だって噛みついたリチャード・マンセー学者のギリングハムって研究者が
リチャード擁護派では一番みたいです。
>>167 クロスボウに関してはリチャードがらみで面白い話が。
リチャードはアスカロンの戦いでクロスボウ隊を二列に整列させて、
1列づつ順番に撃たせてクロスボウの連射を実現したとか。
その際、クロスボウの前の列に槍兵を並べてクロスボウ兵が直接攻撃を受けないように工夫してます。
最後尾に騎乗した騎士部隊を置いて敵が攻め疲れるのを待ったとか。
183 :
世界@名無史さん :04/10/17 02:14:35
クレシーの戦いにおいて、仏軍は弩(いしゆみ)を用いたので、 矢を込めるのに時間がかかった。それに比して英軍は長弓を 用い一分間に六回程度連射できたそうだ。長弓は単純計算で 10秒間に一発打てるということになる。
リチャードについては白水社の『プランタジネット家の人々』や
日本の学者が書いたイギリス中世史だったかにもおおむね
>>168 の意見が書いてあったが。特に、前者においてはヘンリー二世と
リチャードの評価は高いようだ。
(´-`).。oO(このスレは世界史板の良心ですね・・・) (´-`).。oO(健全な発展をとげますように・・・)
186 :
世界@名無史さん :04/10/17 21:10:00
>>6 中世初期(11世紀初め頃まで)はイタリア貴族(ローマ時代からの名門)が
役割を担っていたようだ。いわゆる軍事貴族。教皇なんかも出している。
盛期以降は調査中。
>>10 のような連中だろうとは思うが。
187 :
世界@名無史さん :04/10/18 19:16:19
すいません、質問ですよ。 神聖ローマ皇帝は選挙で決定されるとのことですが、 中世において、ドイツ以外で外国の領邦君主が指名された ことはあるのでしょうか?
188 :
世界@名無史さん :04/10/18 19:23:52
>>187 カスティリャ王アルフォンソ10世と、英国のコーンウォール伯爵リチャードが
同時に神聖ローマ皇帝に選出されたことがある。
(両方に投票した選帝侯がいたため)
189 :
187 :04/10/18 19:34:36
>>188 二人同時ということは戴冠式なんかどうしたのでしょうか。
確か教皇とか大司教から戴冠されると聞いた覚えがあるのですが。
200getされた方には、ローマ皇帝の帝冠を差し上げます。
>>189 =187
1257年の国王選挙の時ですね。なんかボヘミア王が両方に投票して、双方が過半数を主張したそうですが。
実際にはリチャードがアーヘンで戴冠式を行ったのに対し、
アルフォンソは国内貴族の反発やアラゴン伯ハイメ1世との争いがあって、カスティーリャを離れることはできませんでした。
しかも、リチャードの方は戴冠の翌年にはイギリスに帰り、その後1268-69年にドイツに来た他はイギリスを離れることはありませんでした。
この皇帝不在の状況から、諸侯が自領内での権力を拡大します。いわゆる「大空位時代」というやつです。
192 :
世界@名無史さん :04/10/19 02:52:39
私的西欧中世名場面ベスト3 1 800年 シャルルマーニュの戴冠 2 1066年 ノルマン=コンクェスト 3 1429年 オルレアン解放
193 :
世界@名無史さん :04/10/19 09:25:49
中世といえば破門です。一時は皇帝・国王といえども これを食らったらイチコロになったこともあったそうですね。 そこで、長年の疑問なのですが、生え抜きの聖職者が破門になったら 生活はどうなったのでしょうか?やはり野垂れ死にでしょうか。
194 :
世界@名無史さん :04/10/19 12:42:10
私的西欧中世名場面ベスト3 1 1016年 クヌート大王の北海帝国成立 2 1077年 カノッサ事件 3 1214年 ブーヴィーヌの戦い
195 :
187 :04/10/19 19:00:24
>>191 なるほど。何か政治的にドロドロしていたようですね。
お答えありがトン。
190 名前:教皇ヨハネス12世 投稿日:04/10/18 19:39:45 200getされた方には、ローマ皇帝の帝冠を差し上げます。
十字軍は名場面じゃないのか。戦ってるやつは西欧人だぞ。
198 :
世界@名無史さん :04/10/20 04:09:42
>>186 諸侯連合軍の場合、教皇特使が最高指揮官に
なる時もあるそうだ。
>>193 貴族などの生まれならなんとか食っていける。
貧民出身なら野垂れ死にの可能性が高いが
そういうケースは稀だろう。救済措置があるので
悔い改めれば無問題。ただし異端で破門されると
最悪火炙り逝き。
199 :
世界@名無史さん :04/10/20 10:20:02
進軍中。ローマは目前。
.。 。 。 。 .| ヽ / ヽ ./ ヽ / | |: V V V .| .|: .| |________.|. / \ / ヽ l:::::::::. | |:::::::::: (●) (●) | |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
お前ほんとオモロイやっちゃなーw
ブルゴーニュ「公」or「侯」 正しいのはどっち?
203 :
世界@名無史さん :04/10/20 17:26:16
ageて訊いてみる。
フランス語ではduché de Bourgogne。 ドイツ語ではHerzogtumみたいだし、「公」でいいと思うのだが……
>>204 公国で問題なし、と思う。(9世紀―1477年)
元々は、(534年まで)ブルグンド王国領ですから、
独立性の高い地方だったのではないでしょうか。
ブルゴーニュって王国もありますよね。 ブルグンド王国の一部がフランスの公領(のちのブルゴ−ニュ公国のもと)、 残りはイタリア在地部族の独立したブルゴーニュ王国、 のちに王国の王家断絶に乗じてコンラート二世がブルゴーニュ国王になってますな。
207 :
202 :04/10/21 00:14:40
ブルゴーニュ家―中世の秋の歴史 講談社現代新書 いやこれ書いた堀越孝一っていう先生が、なんか「侯」に こだわりがあるときいたのよ。「公」じゃなくて「侯」がいいんだとさ。
>>202 =207
そうなると「正しい」ではなくて、
日本語表記の好みの問題のような気がします。
ちなみに、堀越氏は、
侯を用いる根拠を、何だと言ってるのですか?
209 :
202 :04/10/21 00:31:11
>>209 読了しました。
個人的な意見ですが、
堀越先生の好みですかネェ。
dukeの語源は、dux(仮に、指導者としておきます)
comteのは、comes(原義は内侍、「供に侍る者」)だったと思うので、
語源的には、前者は軍事指揮官のイメージが強く、
後者は、文官的宮廷貴族のイメージがある。
でも、その後、comesが地方に派遣されると、...
詳しい人、後、プリーズ。
爵位については
☆ 公 侯 伯 子 男 2☆
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1051344526/l50 というスレがありますが、何をどう訳すのかでさんざもめた覚えがありますね。
duxはduco(導く)が語源なんで、「将軍」が原義じゃないかという気がします。
ドイツ語"Herzog"もherziehen(導く)が語源だし。
日本の爵位制がそのまま通用しないからとか、ヨーロッパの爵位の整備は16世紀以降ってことには納得できるけど、
「中世には公はなく、個しかないから」というのは……なんか違う気がする。
べつにおおやけだから公と訳すわけではないでしょう。
>>210 は無責任なので、
手持ちの辞書の項目より抜粋
>ローマ帝政期のcomesとフランク王国の「グラーフィオ」が融合してできた。
?グラーフィオって何よ?
ちなみに「侯」とされるマルキは、
「辺境伯」のことの筈。
>>212 グラーフィオ=グラーフ。
ゲルマン系の言葉で、ふつう「伯」と訳される語ですね。
もともとは国王に仕える高級官僚のことで、ギリシア語のgraphに由来するようです。
カロリング朝は各地にグラーフを派遣し、中央集権的な支配を目論んだそうです(山川新版フランス史のpp.078-079あたり参照)。
>>213 グラフなら辛うじて...
でもギリシア語起源とは知りませんでした。
215 :
世界@名無史さん :04/10/21 08:17:54
神聖ローマ皇帝兼イングランド王、ジョン大王の降臨キボンヌ。
216 :
世界@名無史さん :04/10/21 16:52:59
私的欧州中世三名君(パクリ) 1位 スコットランド王 ロバート1世 2位 イェルサレム王 ボードゥアン1世 3位 ブルゴーニュ公 フィリップ善良公 FOLLOW ME!!
ルイ八世よりもボードワンのほうが聖人として列聖されるべきだ。 やはりフランスに対する教会の媚びが感じられる。
218 :
216 :04/10/21 19:51:41
モマイらに熱い魂はないのか? さあ、己の魂の命ずるままに私的三名君を上げるのじゃ。 FOLLOW ME!!
>>218 ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
220 :
世界@名無史さん :04/10/22 02:48:22
また公・侯の話しに戻るんだが、「コンスタンチノーブル征服記」を 読んでたらブルゴーニュは「公」、モンフェラートは「侯」だった。 違いがマジ解らん。それから公(侯)伯領を「藩」と表記していた。 例)シャンパーニュ藩 訳者は伊藤敏樹先生でフランス文学が専門だが史学にも 相当通暁しているようで、今の研究の主題は皆歴史系。 もしや公(侯)・伯の二種類しか使わないのって最近の傾向? 吉川の地図帳には公も侯もあるし。
>>216 >>218 エレ母ちゃんは既出として、後二人ねぇ。
フリードリッヒ2世
まったり文化混交のシチリア生まれ
コンスタンディノス7世
マケドニア朝ルネサンスの推進者
軍事・政治的の実権なし
私の嗜好は、文化系マターリ君主ですね。
アツイ魂はないかも。
(´-`).。oO(FOLLOW ME!! も書いた方が・・・)
>>220 ブルゴーニュはduc、モンフェラートはmarquioなんで、「公」「侯」をあてたのではないかと。
「藩」ってのは聞いたことないですね。
吉川の地図帳は、duxを公、marquioを侯と訳している気がします。
この地図帳、
>>209 の堀越先生があげている理由の6つめ、
>・堀米庸三先生が使用していたから
堀米庸三が編者のひとりの筈なんですが……。
で、思いついたことをいくつか。
・duxを「侯」と訳せば、princips(これも「公」と訳されることがある)との識別が容易になる。
princips、英語prince、ドイツ語Fürstは、普通名詞として「君主」とか「諸侯」という意味でも用いるけど、
これが称号として用いられる例がある。
ただ、時期・地域によってduxよりも上である場合も下である場合もあるので、これをどう訳すのは難しい問題。
・duxは常に「公」と訳されているわけではない。
大空位時代以前のドイツとか、カロリング朝末期のduxは「大公」と訳す方が普通かも知れない。
>>223 >ブルゴーニュはduc、モンフェラートはmarquioなんで、
>「公」「侯」をあてたのではないかと。
えーと、この場合の称号の格としてはduc≧marquio位でいいの?
書かれた時代は古いもの(中世)で、かつ原本を直接訳した
ものだから当時からその違いはあったんじゃないかなあと。
あと原本直接訳ということから藩という意の言葉、
つまり王・帝室の藩屏という言葉が当時の社会では日常的に使われていた
可能性が高いのではと(欧州封建社会の実像からは程遠いけど)。
もし原本(仏語)がそういう意味の単語でないなら○○領家とかでもいいと思うんだよね。
でもそうだとすると、普通の西洋史家が使わないのは日本・中国の文字通りの
藩屏と誤解されるのを恐れて使わないのかな。解らん、わしには解らん。
あと地図帳の編者に堀米先生いましたw
>>211 >「中世には公はなく、個しかないから」というのは……なんか違う気がする。
同意。
そのい理論だと、「男」が一番適切じゃないか(w
227 :
世界@名無史さん :04/10/22 11:24:19
堀米って奇を衒うのが好きなんじゃないか? 普通は無畏公、無怖公、善良公とか使わないで、 「おそれしらずの」ジャンとか「おひとよしの」フィリップとか使うし。 ただ単に自己顕治欲が強い香具師なんじゃ・・・。
おっと堀米じゃなくて堀越だな。師弟そろって紛らわしいw ×普通は ○普通の
229 :
世界@名無史さん :04/10/22 20:06:37
一位 ナポリ王シャルル・ダンジュー 二位 共和国元首エンリコ・ダンドーロ 三位 皇帝ミカエル八世パラエオロゴス FOLLOW ME!!
>>223 など
ちょっと質問。サトケンの「ダルタニャンの生涯」という本に、
「十三世紀に王家と分かれたブルボン親王家〜」という下りがあるんだが、
この場合の親王って[duc]と[princip]のどっちだろう。
ひょっとして出自の差で使い分け? とか思ったんだが。
>>221 フリードリヒ二世と言えばNHKの文明の道でも高評価されていた。
最近、知名度も上がってきているみたい。だけど中世人の考えでは
とても名君とは呼べないよね。近代人の目から見た像とは違うから。
ルイ聖王が理想の君主とされていたことを史家はもっと重視すべきだと思う。
>>230 principでFA。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正解!。
233 :
世界@名無史さん :04/10/22 22:55:50
アナール派マンセーの風潮に反対せよ!
>>222 熱い魂は無いので、憑いてこられてもネェ。
>>231 基本的に当時の評判などを気にせずに、
エピキュリアン的な君主ばかり選んだので、
当然のご意見だと思われます。
文明の道も含めて、
NHKの世界史ネタのものは、
文化交流の促進→
発展といった図式を、
打ち出そうとしているのが目に付く。
(本職の史家の意見は、参考にしている、程度じゃないのかなぁ)
あ、後、言語厨としては、何語のなのか、 気になるところが少々有ります。 個人で持っているペラ辞書では、 探せないスペルが散見されます。 ミスなのか、中世固有のスペリングなのか、 気になって夜も眠れない。 叩き台として、仮に対応関係を挙げてみる。 lat. It. Fr. Eng. pronceps principe prince prince dux duca duc duke ? ? marquis marquis,marquess comes conte comte count 訂正、補完の程、よしなに。
>>224 >えーと、この場合の称号の格としてはduc≧marquio位でいいの?
多分そうだと思うのですが……こういうのの明確な格付けっていつ出来たんでしょうね。
発生時は、ducは大きな地域の軍事担当者、marquioは辺境の軍司令といったところで、
たんなる職能の違いだったはず。
>藩
違和感はありますね。でも日本での使われ方と違うという点では「公」や「侯」なんかもそうだし……。
>>226 ですよねえ。というか、
>>209 であげられている理由、先に「公」を否定するという目的があって
後付けで考え出したようにしか見えない。
しかも「諸侯だから」「堀米先生が使っていたから」以外に「侯」を採用する理由が挙げられていない。
>>232 ほんとに?ブルボン公の爵位はduxっすよ?(笑
でもprincepsが使われた可能性も否定できない。
この語はpri-(1)に由来して、「第一人者」ということ(アウグストゥスの肩書きにもあった)。
山川の新版フランス史によると、フランスではカロリング朝末の混乱期に、
地方での独立的な権力を持つようになったduxやcommesを総称してprincepsというようになったらしい。
字義通りに解釈すれば「君主」ってことになるんだろうけど、日本語ではこれを「諸侯」と訳す。
事情はドイツ語のFürstも一緒。
称号としてFürstを「侯」と訳す場合もあるけど、
公・侯・辺境伯・宮中伯・伯などの総称としてのFürstは「諸侯」と訳すわけです。
>>231 フリードリヒ2世の評価の上昇は高山博の陰謀ではないかと(笑
>>233 でも世界史板でアナールの話はあまり盛んじゃない。
>>235 私はラテン語であわせているつもりなんだけど……、
>pronceps
pr"i"nceps、ですよね?
以下懺悔。
>comes
commesと綴ってた。
「侯」のラテン語、marquioだと思ってたけどmar"ch"ioだったっぽい。
スマソ。
ついでなんでドイツ語のスペル挙げときます。左はラテン語で。
princeps=Prinz/Fürst
dux=Herzog
marchio=Markgraf
comes=Graf
>232どうもありがとう。
>>235 多分その辺の「諸侯」は、周の封建制における用語の流用かな、と思う。
「君主」だと上に王や皇帝がいる場合、色々おかしくなるからね。
>>237 訂正、感謝いたします。
矢張り疲れが...と言い訳。
どこで合わせるか、意思統一が図られてた方が、
意志疎通がスムースにいくと思ったのですが、
ミスってりゃ世話無いですね。
個人的には、
ラテン語のカタカナ表記が楽かな、
と思ってるのですが、少数意見かな。
>>238 探す手間を惜しんで、
打ち込む手間をかける私は、非効率的。
どうも、ネット環境が整う以前の癖が抜けません。
えーと、で、例外の事例をば、
アンジュー伯は、自称consulでした。
さーて、どないします?
とりあえず、執政官じゃ××
>>240 自分で提起しながら、
自分で守れてないし。
アンジューでは、コメスじゃなくコンスルでした。
うぅん。修正せずに、
まったりいった方が正解ですね。
>>236 ブルボン公はducだが親王(家)としてはPriなのではないか。
例えば、コンデ親王ブルボン公というように。
243 :
世界@名無史さん :04/10/23 02:20:16
>>217 だいぶ遅くなったけど一応ツッコミ入れます。
ルイ8世ではなくルイ9世ではないかと。
ボードゥアン1世は狡猾な人物のため評判悪いです。
ルイ9世は信心深く、人格的にも優れていました。
また平和の擁護という観点からイングランドとの和平も積極的にしました。
十字軍にも打算というよりは信仰心から本気で取り組みました。
聖者にはふさわしいかと思いますが。
いや釣られてみたいんですよ、私は。
>>243 ルイ9世が十字軍に凝った理由はマザコンから脱却する為だったとも
言われていたと思いますが。
>>244 そういう噺は面白いがレジーヌ・ペルヌあたりか?
まあ、ルイの内心がどうであろうと、どのみち教皇庁や世間は
彼を篤信深い立派な君主と思っていたことに変わりはないがね。
>実はジョン様の死因には、女子修道院の尼僧とHしようとして
>死んだって伝承もあったりします。
↑この手の噺と同じぐらい歴史的には意味がない。
247 :
187 :04/10/23 06:43:14
すいません、また質問ですよ。 キプチャク=ハン国はロシアや東欧の一部を支配しましたが、 これをを対蒙古十字軍のようなものを編制して 駆逐しようという動きはなかったのでしょうか?
248 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/23 15:37:46
>>247 モンゴルに占領された地域はほとんど正教圏だったので、
教皇は十字軍を起こしてモンゴルを追い払うよりは、手を組んでイスラム勢力を挟撃したほうがマシと考え、
カラコルムに使者を送ってモンゴルにキリスト教を布教しようとしています。
カトリック圏のポーランドやハンガリーが恒久的に占領されたら、また違っていたかもしれませんが。
連レスごめんなさい。ちなみに二度と西欧に侵攻しないで欲しいという平和条約を結ぼうともしましたが、 見事に蹴られています。
250 :
187 :04/10/23 17:32:48
>>248 >モンゴルに占領された地域はほとんど正教圏だったので、 (ry
あー、なるほど!正教圏だからか、こりゃ一本とられましたわ。
そういえばイル汗国とも手を結ぼうとしていたようなこともあったかと。
うーん、でもドイツ騎士団とかポーランド、ハンガリーは恐くなかったの?
確かカトリックだったよね。しばらくはガクブルしていたのかなあ。
251 :
世界@名無史さん :04/10/23 17:37:20
.。 。 。 。 .| ヽ / ヽ ./ ヽ / | |: V V V .| .|: .| |________.|. / \ / ヽ l:::::::::. | 次の賞品は何かな?ドキドキ。 |:::::::::: (●) (●) | |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
252 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/23 18:14:51
>>250 フレグ・ウルスは十字軍国家ともドンパチしてますけどね。
あと、ハンガリーはモンゴル最来襲に備えて城塞の増強に努めてますね。
>>240 カタカナ表記すると原語の綴りが分からなくて不便じゃないですか?
>consul
アンジュー伯がconsulも名乗ってたってことでしょうか。
しかしなんでいまさらconsulよ……(笑
254 :
242 :04/10/23 21:11:09
>>236 =カラジチ
俺の提言は無視かよ・・・・。さびしいぜ。
もうやけくそでFOLLOW ME!!
本物の永遠の青さんなのかな?
300GET した方には、漏れなく皇位をお譲り致します。
>>253 自分の出自を古くすることで、
権威を高めたかったと言うことではないかと。
昔、横文字系の系図サイトで、
アンジューの自称子孫だったかが公開していたが、
ガロ=ロマン期以来の元老院議員家系に繋げていた筈。
>>254 ちゃ、ちゃうねん。
フランス語で「親王」って意味でprinceps使うんかいのう、と思って、
山川のフランス史1調べてたんですよ。
結局載ってなかったわけですが。
訳したかが人によって違う語なんだから、概説書では丹念に原語を挙げて欲しいですねえ。
>>257 クローヴィスが東ローマの皇帝にconsul職貰ったことがあるみたいですが、それとは関係ないんですね?
>フランス語で「親王」って意味でprinceps使うんかいのう、と思って prince du sang
>>257 >>240 は『アンジュー伯年代記』の記述がソース。
何らかの根拠はあるのかもしれないけど、
ほとんど妄想レヴェルのものと思われます。
故に、他称がconsulであったのかは知りません。
多分、クローヴィスとは関係ないのではないかと思います。
261 :
世界@名無史さん :04/10/24 19:42:58
そういえばゲルマン諸国家の王はローマ帝国の役職もってたよね。 もしかしてアンジュー伯はこんなに由緒正しいんだぞーっていう アピールかも。
262 :
世界@名無史さん :04/10/25 02:04:26
西欧諸国の封建諸侯の領域図が分かるような本やサイト知ってたら 紹介して下さい。 日本史でいうと各大名の勢力範囲図みたいな椰子。
264 :
世界@名無史さん :04/10/25 16:57:59
265 :
世界@名無史さん :04/10/25 19:09:17
この時代のヴェネチアはとんでもなく富強だ。十字軍もヴェネチアの 海軍力がなければ成功も覚束ないぐらいだ。陸軍も侮れないが。 しかも、相当アコギ。商売のためにはなんでもやる。内陸の土地には あまり関心を持たず、島や海沿いの重要都市を手にいれ、商業特権を得る というやり方。第四回十字軍の時も、ラテン帝国のキングメーカーとなり、 その後も再興したビザンツとの貿易にもジェノバを追い出し独占し続ける。 しかし、大陸諸国が国家統合を推し進め、そのグランドパワーが高まる とともに徐々にその力を失っていく。ヴェネチアの繁栄は封建制の落とし子 といってよいだろう。中世的なものが実はヴェネチアの黄金時代を築く条件 になっていたのは、それを嫌っている塩婆には皮肉だろう。
266 :
世界@名無史さん :04/10/26 03:28:37
>>265 そうなんだよなー。あの人ローマ、ルネサンス大好きだから
中世には否定的なんだよな。キリスト教的共同体なんかも
嫌いでしょう。それから多神教>一神教という観念も痛い。
小説は面白いんだけどね。
267 :
世界@名無史さん :04/10/26 17:29:25
ところで「コンスタンティヌスの寄進状」書いた奴は誰なんだ? まあ今と違って偽書を作ることはそんなに悪いことではなかったらしいが。 こんなんで教皇庁に負けたドイツ帝は相当のヘタレだなw
>>267 そんなに簡単に分かっていたら、
偽書の意味がないのでは?
特に「コ寄進状」は、
政治的な目的を持った偽書ですから。
下手すれば、教皇の肝煎りで、
その後、出世していたりするかもしれないぐらいで...
精々、その後、誰が得をしたか、
と推理小説のような推測を立てるのが、
関の山ではないでしょうか。
オリジナルのテクストが残っていたら、
字体分析を行う余地があるかもしれないけど、
いずれにせよ、困難でしょうネェ。
269 :
世界@名無史さん :04/10/27 16:58:43
>>267 >8世紀半ばごろに当時の教皇庁によって捏造された偽文書だということが
>15世紀になって判明しています。
だそうだ。ピピンの寄進の頃のようで、まだ貰おうとしてたのだろうか?
しかし偽造した当時は、後にあんなに役に立つとは思わなかっただろうなあ。
>>269 当時は東ローマとの関係がギクシャクしていて
ローマ教皇は皇帝の支配下に置かれるかどうか、という問題が
かなり重要な位置を占めていました。
東の皇帝からの政策上のフリーハンドを得る為に捏造したわけですね。
イタリアは教皇の管轄下なんだから、コンスタンティノープルは口を出すな、という訳です。
>>271 >当時は東ローマとの関係がギクシャクしていて
ほほう、聖像崇拝論争のことかいな。聖ペトロの後継者として一応は
司教座bPは認められておったんだけど、ローマ皇帝が茶々入れて来た
ということか。そう言えばカールが戴冠した時も東に気を使っていたらしいぞよ。
贈り物もらって安心したようだが。格としてはやはり東が上だったのか。
古代ローマでは正統性では東が優れていたという事実はあるのかのう。
自己レスしても意味がない脳。
>>270 行きに訂正じゃ。
>>271 格というか、ローマ司教(あえて教皇と言うのではなく)は
東皇帝の指導権に服するか否か、という争いです。
後の皇帝教皇主義を認めるか否か、という風に言い換えても良いかも。
ローマ・ラヴェンナを中心とした属州イタリアが東ローマから事実上の分離を
したのはグレゴリウス二世の時期ですが、先任者は皇帝によって流刑になっています。
とは言っても、完全に皇帝を拒絶できたわけでなく、例えばピピンの寄進にしても
『ローマ教会ではなく、ローマ帝国への返還』という名目で行われていたりします。
正統性という定義が良く分かりませんが、この時代の教皇が
中世のように王侯(この場合は皇帝)と肩を並べる存在ではなかった事は確かです。
>正統性という定義が良く分かりませんが、この時代の教皇が 誤解させて申し訳ないのう。この場合はローマ皇帝のことじゃて。 つまり東帝と西帝の格のことじゃ。後のことはよく分かったぞいな。
275 :
転載君 :04/10/27 19:34:47
第1回十字軍 1096年〜1099年(○) エルサレム王国、エデッサ伯国、アンティオキア公国が建国された。 第2回十字軍 1147年〜1148年(×) 十字軍はハッティンでサラディンに敗北を喫し、エルサレムは陥落した。 第3回十字軍 1189年〜1192年(=) 独帝イコニウムで大勝後死、イングランドとフランスの十字軍が 1191年にアッコンを再奪フィリップ2世は帰国 休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗 第4回十字軍 1202年〜1204年(?) ハンガリー、ついでコンスタンティノポリスを征服してラテン帝国を建国。 第5回十字軍 1216年(×) エジプト攻略失敗 第6回十字軍 1228年〜1229年(○) 平和条約締結しエルサレムの統治権手に入れる 第7回十字軍 1248年〜1249年(×) フランスの聖王ルイ9世が捕虜に落ちる 第8回十字軍 1270年(?) フランスのルイ9世、遠征途上死
>>274 とっくに西ローマは滅亡しています。
そもそも長男が東ローマ、弟が西ローマを継承しているので
対等とはいえ、東優位は動かないと思います。
カールの戴冠によってプロパガンダ的に再興されたローマ帝国の事かも知れませんが
当時の西欧と東欧の発展度から考えて、実力的に対等なんてとてもいえないのでは無いでしょうか?
ユスティニアヌスの後、イタリア(ローマ市)は再び東ローマの宗主権に入るわけですけど
完全な支配下に置かれる(重税を課せられる)事には拒絶感があったようですね。
このあたりの時代のローマ教皇って、ローマ市の貴族が持ち回りでやっていたんじゃなかったっけ? 名義上は「聖ペテロの後継者」みたいな感じだけど、実態は東ローマ帝国の一地方の一都市の貴族の次男か三男と・・・。
聖界の裏帝王、大修道士聖ベルナルドゥス。第2回十字軍を指導。
ベルナルドゥスかっこいい。 弟子が教皇だったし。
280 :
世界@名無史さん :04/10/28 14:30:54
>279 教会のことよく分からんのだが、どんな人なの?
281 :
世界@名無史さん :04/10/28 15:09:01
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/soc/1098626879/ 度々失礼。社会板No1のクソスレでキチガイDQN大卒が暴れていますよ。
まるで大卒の代表のようなレスっぷりで語っていますよ。
高卒者を叩いて優越感に浸る下品な大卒が我が物顔。
大学のレベル低下が著しい昨今、一部キチガイのせいでさらに大卒全体の
品位が激しく疑われる事態に直面しています。あまりのキチガイっぷりに
スレストまでかかったのですが、管理人も続編は放置しちゃってます。
パート27は4日で1000まで達するキチガイの凄まじさ。大卒の癌細胞に
ひとつ説教をしてみてください。小学生顔負けの屁理屈をもってねじふせられるでしょう。
当然ですが夕方〜深夜にかけて毎日誹謗中傷罵倒が飛び交っています。
(途中、荒らしが入っているので飛ばし読みして下さいね。)
しばらく精神を病む危険性と人間不信に陥る可能性がございます。くれぐれもご注意を!
精神力&良識に自信の有る方、トライしてみてはいかがですか?( ̄ー ̄)ニヤリ
西欧中世の騎士による突撃戦術の原型はノルマン騎兵という 理解でOK?
283 :
教皇ウルバヌス2性 :04/10/28 17:41:14
300getした子羊の罪は、全て洗い清められるでしょう。
284 :
世界@名無史さん :04/10/29 07:51:34
>>280 聖ベルナルドゥス(1090-1153) 聖人、神秘思想家。貴族に生まれ
シトー会士となり、支院クレルヴォ―の院長を務め、
第2回十字軍の観説を行った。
中世の大半を通じて、教界史上ニ匹敵する人物を見出すことが
困難なほどの改革者、顧問、鼓舞者、説教者、霊的指導者、
神学者としての地位を三十余年にわたって占めた。
独力でフランスとドイツの両国民を十字軍に派遣した。
配下の修道士が大修道院長となり、司教となり、枢機卿となる
のを見、最後には教皇に勧告を与えたり叱責することもできた。
神殿騎士修道会(テンプル騎士団)に会則を与えた等々、その
業績は多大。
285 :
280 :04/10/29 18:39:27
>>284 遅くなったけど、ありがとさん。
何だかとってもVIPな御仁のようですな。
個人的には教会領と教皇庁の関係に興味があります。
中世ドイツの図をみたら、教会領の大きさが以外とあったんで
少し驚きました。
上の方にあった神聖ローマ皇帝とナポレオンの関係だが ナポは息子を「ローマ王」にしていることから、明確にローマ帝国の 後継者の意識があったと思うぞ。
287 :
世界@名無史さん :04/10/30 06:47:58
>>282 OKだね。ノルマン人による重装騎兵の運用は、その後の中世の
戦略・戦術に決定的影響を与えたと言って良いだろう。
288 :
世界@名無史さん :04/10/30 18:26:19
>中世ドイツの図をみたら、教会領の大きさが以外とあったんで 具体的にどのぐらいの割合があったのか知りたいところだ。 石高みたいのはないんかね、西洋には。
289 :
世界@名無史さん :04/10/30 22:51:24
.| ヽ / ヽ ./ ヽ / | |: V V V .| .|: .| |________.|. / \ / ヽ l:::::::::. | エヘン。僕は教皇さまの臣下だよ。 |:::::::::: (●) (●) | |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
>>289 貴殿は大司教選任問題で、
屈服させられたのでは...
威張られても...
ジョン様・・・当時のイングランドの慣習じゃあ大司教の任命権は国王にあったのに・・・ 悲しすぎます・・・
292 :
世界@名無史さん :04/10/31 10:36:24
11世紀前半 ザリエル朝 後半 ノルマン朝 12世紀前半 ザリエル朝・ホーエンシュタウフェン朝 後半 プランタジネット朝 13世紀前半 ホーエンシュタウフェン朝 後半 カペー朝 14世紀前半 プランタジネット朝 後半 ヴァロワ朝 15世紀前半 ランカスター朝 後半 ヴァロワ朝 16世紀前半 ハプスブルク朝 異議があれば受けつけよう。
>>292 何の意図の下に羅列されているのか、
分からないと、
異議があるも、何もないのですけど。
えっと、つまり、ザクセン朝(919-1024)が、
挙げられていない理由は、
このリストが何を表しているのか分からないと、
納得するも、しないも、
どうしようもありません、てことです。
294 :
世界@名無史さん :04/10/31 11:47:02
>>293 異議なしということだな。うむ、よいぞ、よいぞ!!
11世紀前半 ザリエル朝(独・ハインリヒ3世等) 後半 ノルマン朝(英・ウィリアム1世) 12世紀前半 コムネノス朝(東羅馬・アレクシオス1世) 後半 プランタジネット朝(英・ヘンリー2世等) 13世紀前半 ホーエンシュタウフェン朝(独・フリードリヒ2世) 後半 カペー朝(仏・ルイ9世等) 14世紀前半 プランタジネット朝(英・エドワード3世) 後半 ヴァロワ朝(仏・シャルル5世) 15世紀前半 ランカスター朝(英・ヘンリー5世) 後半 ヴァロワ朝(仏・ルイ11世等) 16世紀前半 ハプスブルク朝(独・マクシミリアン1世等) 異議があれば受けつけよう。
296 :
世界@名無史さん :04/10/31 16:56:19
異議アリ。12世紀後半はホーエンシュタウフェン家だと思う。 第3回十字軍でも最初はバルバロッサが最高司令官でした。
297 :
世界@名無史さん :04/10/31 17:05:55
あと10世紀後半を付け加えてザクセン朝を入れるとなお良いです。
なんだ下らねえ。ランキング厨か。
299 :
世界@名無史さん :04/10/31 17:48:51
エルサレムへ進軍中。
.。 。 。 。 .| ヽ / ヽ ./ ヽ / | |: V V V .| .|: .| |________.|. / \ ドキ / ヽ ドキ l:::::::::. | |:::::::::: (●) (●) | |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
301 :
世界@名無史さん :04/10/31 21:52:15
>>296 うーむ迷ったのだが、よろしい採用。
>>297 入れておこう。
10世紀後半 ザクセン朝(独・オットー大帝等)
11世紀前半 ザリエル朝(独・ハインリヒ3世等)
後半 ノルマン朝(英・ウィリアム1世)
12世紀前半 コムネノス朝(東羅馬・アレクシオス1世)
後半 ホーエンシュタウフェン朝(独・フリードリヒ1世等)
13世紀前半 ホーエンシュタウフェン朝(独・フリードリヒ2世)
後半 カペー朝(仏・ルイ9世等)
14世紀前半 プランタジネット朝(英・エドワード3世)
後半 ヴァロワ朝(仏・シャルル5世)
15世紀前半 ランカスター朝(英・ヘンリー5世)
後半 ヴァロワ朝(仏・ルイ11世等)
16世紀前半 ハプスブルク朝(独・マクシミリアン1世等)
異議があれば受けつけよう。
>>300 神聖ローマ帝国皇帝兼イングランド王兼イェルサレム王ですか?
ジョン君欲張り過ぎです。ゲイ下に叱られますよ。
>>300 貴方に、大金帝国皇帝の座を禅譲致します。
・・・北から蒙古、南から南宋が攻め寄せて来ておりますが・・・。
もう疲れました。
303 :
世界@名無史さん :04/11/01 02:39:51
参考に主な聖人君主を列挙してみます。 聖クロティルジス王后(450年ごろ-545年)クロヴィス王妃 聖エセルバート1世(550年ごろ-616年)ケント王 聖マチルダ王后(890年ごろ-968年)独王ハインリッヒ1世妃 聖ハインリッヒ2世(972年-1024年)独帝 聖クネグンダ皇后(?-1033年)独帝ハインリッヒ2世妃 聖ステファノ(970/975年〜1038年)ハンガリー王 聖エドワード王(1003年-1066年)イングランド王 聖カヌート4世殉教者(1043年ごろ-1086年)デンマーク王 聖マルガリタ王后(1045年ごろ-1093年)蘇王マルコム3世妃 エンゲルベルド1世(1185年ごろ-1225年)ケルン大司教 聖フェルナンド3世(1199年-1252年)カスティリア王 聖ルイ9世(1214年-1270年)仏王 聖エリザベト王后(1271年-1336年)ポルトガル王デニス妃
>聖ステファノ(970/975年〜1038年)ハンガリー王 聖イシュトバーンと書いてやってくれ。
ランキング厨は去ね!
>>305 おいおい、少しもちつけよ。ランキング厨など
どこにもいないぞ。熱くなるなら、よか話題で
熱くなりなさい。君の話したいことをカキコ汁。
少なくとも俺は乗るからさ。そうじゃないと
ただの荒らしとかわらんぞい。
>>303 聖ルイは死後27年で列聖されているんだよね。
ル・ゴフの本によると、これは例外的に早い手続きらしい。
(既に死の直後に列聖の調査が開始されたらしい。)
カペー朝フランスが当時最盛期だったことや、
フランスとカソリック教会の特殊な関係を考慮に入れても
ルイ9世が中世的基準でいかに非の打ち所のない人物だったかが伺える、という話しだった。
漏れの知っている範囲じゃ、
エドワード証聖王は死後およそ100年の列聖。
フェルナンド3世のそれは遙か後年の17世紀。
他の面々はどうだったのdろうか?
殉教者と証聖者、俗人と教会人とか(あと男と女とかで)で違ってくるようにも思うけど。
>>307 列聖には奇跡起こさないといけないという話だが、
そもそもそういう人たちに奇跡を起こすだけの機会があったのか?
という疑問が。国王とか皇后とか、民衆には縁がなさそうだし。
そういう身分の壁を乗り越えたから聖人なのか?
マザー・テレサ列聖の話題でちょっと読んだんだが、
普通は列聖まで数百年かかるらしいね。
まあ在野の宗教者が死後も語り継がれて聖人に、というパターンが多いだろうから
短期間で列聖されるには生前からよほど有名でなければ駄目だろうが。
>>308 西欧中世史の概説書読んでから出直してきてください。
十三世紀頃は、列聖までの期間が特に短い場合が少なくありません。
>>307 ルイ9世の列聖(1297)と聖ルイ・ド・トゥールーズ(アンジュー家出身、シャルル・ダンジューの孫)の列聖はアンジュー家がローマを支配していた時期とほぼ一致しますので、政治的なものと判断してもよろしいでしょう。
聖ルイ・ド・トゥールーズ (1275-1298)
ナポリ王・シャルル2世の子で、ナポリ王・ロベルトの兄。
本来ならば、ナポリ王・ルドヴィゴになるはずだったが、聖フランチェスコ托鉢修道士会に入会し王宮を去る。
王族という身分もあって、二十代前半でトゥールーズ司教に任命されるが六ヶ月後に死去。
死後、奇跡が起きたとの証言がトゥールーズから相次いで報告され、1317年に列聖された。(彼の弟、ロベルトがナポリ王の時代。)
まあ、王族の地位を捨てて乞食坊主になるなんてそうそう出来ませんから、純粋に信仰心によるものとしても間違いはありません。
しかし、列聖まで早すぎるんじゃないの?
310 :
世界@名無史さん :04/11/01 17:05:54
ネットで調べたところ イシュトヴァーン1世(と息子)は1083年、列聖 ハインリッヒ2世は1146年、列聖 エリザベト王后は1625年、列聖 だそうです。 ところで教皇のことを聖下、教皇庁を聖庁という訳語も あるみたいですな。 最近、許せないのは枢機「キョウ」という言い方。 私は枢機「ケイ」が好きなのです。 どちらも正しいようですが。
>教皇のことを聖下 といのは「ゲイ」下に対してです。
ルイ9世の列聖にはボニ8世と端麗王の政治的綱引の結果 早まったと言えるかもしれません。しかし、ルイ自体が聖人に ふさわしい人物だというのは誰もが一致した見解だったでしょう。
313 :
世界@名無史さん :04/11/01 17:24:46
騎士修道会で列聖された椰子は知らんのだが、いたのか? ある意味殉教しまくりなのになあ。日本の26人でさえ列聖 されたのに可愛そうだぞw
>>308 >列聖には奇跡起こさないといけないという話だが、
>そもそもそういう人たちに奇跡を起こすだけの機会があったのか?
これはなかなかGoodな視点だぞ。両剣論や王の奇跡(病人に対する
治癒力)などについて考察すると面白いかも。
ちなみに西洋では帝王には病気を癒す聖性があると民衆には信じられて
おり、病人達が王に触れてもらうという行事はあったぞ。
.。 。 。 。 .| ヽ / ヽ ./ ヽ / | |: V V V .| .|: .| |________.|. / \ / ヽ l:::::::::. | |:::::::::: (●) (●) | < ボクも奇跡で病人を何人も治したよ! |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ ↑ネタではありません
316 :
世界@名無史さん :04/11/01 21:07:15
>>314 『王の奇跡』って本がありますね。読んだことはないけど。
聖イシュトバーンとかの場合、自分の国をカトリック化したというのが列聖の原因ではないかと思うのですが。
318 :
世界@名無史さん :04/11/01 22:32:49
>>309 >純粋に信仰心によるものとしても間違いはありません。
>しかし、列聖まで早すぎるんじゃないの?
そいつが信仰心に厚いのは確かだろうが、
なにせバビロン捕囚中のことだからなあ。
やはり政治的な理由も無視できないだろうな。
319 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/11/01 23:25:09
>>314 両剣論とは何ですか?
諸刃の剣みたいなものですか?
あ、ひょっとして両権論のタイプミス... だったら、失礼しました。
>>320 タイプミスではないよ。キリスト(神)は精神的剣と物質的剣 という、二振りの剣を人類にお与えになったのだよ。 教権VS俗権の争いの中でも、これをめぐっての解釈は 主要なテーマだよ。
>>321 失礼しました。
無学を曝したようです。
両剣=両権と言うわけですか、成る程。
教権(教皇)vs俗権(皇帝、仏王、英王..)の対立は、
流石に知ってますが、
それを剣と比喩しているのは知りませんでした。
323 :
世界@名無史さん :04/11/02 00:52:38
>>313 聖ヨハネ騎士団の祖ジェラールは福者止まり。残念!!
今後の昇格に期待age
修道士なのに戦闘集団というのが矛盾してるから無理だろ。
>>309 確かにこれより前の時期にシャルル・ダンジューは
ローマの元老院議員にはなっているし、ルイ9世の列聖にシャルルが
一枚絡んでいたのは確かだが、
アンジュー家はローマは支配してないだろう?
>>312 がいってるように
ルイ9世の列聖はボニファティウス8世がおこなったんだぜ?
アンジュー家との関係よりフィリップ端麗王との関係の方が重要だろう。
ル・ゴフの『聖王ルイ』でも読み返すべし。
326 :
世界@名無史さん :04/11/02 17:10:47
>>312 >>325 ルイ九世の比較的早い列聖は、ご両人の推察どおりです。
まず、フィリップ4世が聖職者に対して十分の一税を課し(て)たことから、
これに反対する教皇回勅「クレリキス・ライコス」を
ボニファティウスは発布します(1296年)。
しかし、フィリップ4世の反撃(内容略)と
「クレリキス・ライコス」の大不評により、教皇はより譲歩した回勅
「エトシ・スタトゥ」をいち早く出し、続いてルイ九世の列聖を行った
のです(1297年)。
>>325 了解しました。
勉強しなおして出直して参ります。
聖トマス・ベケット 1170没 1173列聖 聖トマス・アクィナス 1274没 1323列聖 パドヴァの聖アントニウス 1231没 1232列聖 聖ドミニクス 1222没 1234列聖 アッシジの聖キアラ 1253没 1255列聖 アッシジの聖フランチェスコ 1226没 1228列聖 フランス王ルイIX 1270没 1298列聖 ハンガリー王妃エリザベート 1231没 1235列聖 列聖の早い人たちらしい。
329 :
世界@名無史さん :04/11/02 18:39:59
>>324 おい、カトリックをなめるな。電波受信機狂戦士乙女でさえ、
列聖されているんだぞw
まずはヨハネ騎士団あたりで、慈善病院もやっていた所を
評価して下さい。
友(強敵と書いてライバル)のテンプル騎士の名誉回復も
なされたことだし、ひとつよろしくお願いしますよ。
→列聖庁のみなさん。
×列聖庁 ○列聖省
オレはフィリップ美男王の所行を知れば知るほど、 奴が悪鬼羅刹に見えてしょうがない。聖ルイも草葉の陰で 泣いておられることでしょう。フランドル市民の皆さん、 遠慮なく殺っちゃって下さい。 注:私は教皇庁の回し者ではありません。
端麗王とか美男王とか訳されてるけど、やったことは確かに悪逆非道(と言われても仕方の無い)なフィリップ4世だけど、 だが、そこがいい。
と、レジストが逝っておりますが、放置という事で→ALL 今日も忠勤ご苦労様です。それから宰相就任オメ。 注:私は教皇庁の回し者ではありません。
みなさん、お久しぶりです。また(×3)質問ですよ。 とある文献で12世紀のヨーロッパ経済の中心は シャンパーニュ地方だと書いてありました。 そこで中世ヨーロッパの経済の中心地を時代別に 挙げてくだされば幸いです。
335 :
世界@名無史さん :04/11/03 02:32:21
シャンパーニュの「没落」は、 1.大西洋航路が開通して、地中海と北海が安定的に結ばれるようになり、 シャンパーニュ経由の内陸ルートはその意義を失った 2.100年戦争の惨禍 あたりが原因だと思うけど、 そもそもシャンパーニュて「経済の中心」だったのかなあ? つまり、「没落」のもう一つの理由として 3.北イタリアで為替手形等、遠隔地間向けの商取引・金融技術が開発されたため、 わざわざ相対で取引・決済する必要がなくなった というのが上げられると思うけど、 12世紀以前も以後も取引主体はイタリア商人やフランドル商人で、 シャンパーニュは場所貸してただけじゃないのかな?
シャンパーニュの大市は有名だけど、本とか読んだ限りじゃあ確かにイタリア商人とかが目立つよね。
337 :
187 :04/11/03 16:05:17
>>335 >>336 はあ、西欧経済の最重要点、「重心」と表現した方が良かったみたい
ですね。すんまそんです。シャンパーニュ商人が覇権を握っていたという
意味ではないです。各商業圏の結節点である商業圏という意味です。
それで、質問の本旨はその没落ではないです。
シャンパーニュ以外でも有名な商業地域がありますよね。
例えば北ドイツ(ハンザ)やフランドル、北イタリア諸都市などなど
は勃興期や最盛期等の時期に前後はあるが、並列的に発展していったと
捉えて良いのでしょうか?
338 :
世界@名無史さん :04/11/03 19:52:02
>>329 元々は聖ベルナール御墨付きの聖俗一致という
究極の理想像だったからな。
チャンスはきっとある・・・・・・・・・かな?
>>331-
>>333 ワロタw
最近気になってんのは、この時代の東欧世界。
大セルビア王国とかブルガリア王国なんだが短命な上に
良書が見つからん。何かイイのない?
……中世バルカンは良く分からないけど、 たしかビザンツ側の史料しか残ってないとかそんな話を聞いた覚えが。
340 :
世界@名無史さん :04/11/04 15:50:23
>>337 その理解でOK。シャンパーニュ大市は北方商業圏、地中海商業圏、
モンゴル(南ロシア)の物資終結地兼ハブ。
テンプル騎士団の金融業の決済なんかはこの大市の
期日に合わされたことが多かった。
>>338 ビザンツ帝国とブルガリア 東海大学出版会
ブルガリア―風土と歴史 恒文社
東欧を知る事典 平凡社
その他山川のバルカン史、ケンブリッジ版のブルガリアの歴史など。
中世だけなのは東海大のだけかもな。
>>328 の所にある、トマス・ベケットの墓参りをルイ七世が
行ったら、息子のフィリップの重病が治ったらしい。
後々、フィリップがジョンを締め上げることを思い返すと、
死後にプランタジネットに対する復讐を果たしたのかもな。
まあ、あくまでも面白い「ハナシ」つーことなんだがね。
聖人恐るべし。
342 :
世界@名無史さん :04/11/04 19:10:00
ジョンといえば、一般にはダメ君主と言われているが本当にそうか? オレは奴がミカエル8世ばりの、とは言えぬまでもシャルル・ダンジュー並の 野望と知性があると思うのだが・・・。怜悧なるマキャベリスト、早すぎた 英雄、自己実現の権化等々。天は何故彼を末子としたのか・・・。 いかん、いかん。きっと気のせいなんだ!そうだよ・・・・・ね?
優柔不断で戦に弱いんじゃ、中世欧州諸侯のハートはゲットできませんぜ、旦那。
>>343 だよな。ふー、あぶない、あぶない。いや、一瞬脳裏をよぎったのだが
気のせいだったようだ。病院にいかなくてすんだぜ、トンクス。
>>342 最近、我が輩もジョン様は名君じゃないかって気がするようになってきた。
ホゥルト,マグナ・カルタ,慶応大学出版会,2000,pp.229-281
読んだ感想だけど。
ちなみにホゥルトはジョン様マンセー学者じゃないよ。
ジョン様は天才とかじゃなくて凄くマメな人だったと思う。
ジョン様の治世に行政文書が飛躍的に増大して
今までの王達が無視してきたような少額の罰金とか税金まで細かく
徴収できるようになっている。
ブーヴィーヌの敗戦までは諸候の動向をコマメに掌握して一人一人に合わせて懐柔したり恫喝したり
彼らを巧みに操作していたみたいだし、
教皇すらもジョン様の手のうえで踊らされていたんじゃないかとか、
思えたりする。
その政治的な駆け引きが全てダメになった原因がブーヴィーヌの敗戦って感じに見える。
ジョン様は石田三成。
347 :
世界@名無史さん :04/11/05 19:29:47
リチャード様もジョン様も、基本的には本能だけで行動していたと思ってみていいのでは? リチャード様は、体育会系バカ。 ヒマがあれば体を動かす。動いてないと落ち着かない。不安に駆られる。 気がつくと筋トレしてる。無意識に。 ただし、彼独自の美学は持ってる。持ってなきゃできないようなことはやるだけやった。 それはそれで周囲にも少し受けた。 ジョン様は文系ヲタ。 理系にも文系にもこのパターンはいる。とにかくメモ魔。なんでも記録する。 しかし、有効に活用できるわけではない。記録はしても記憶はしない。 物事は計算しても、他人の心の動きは計算できない。だから他人の奥さんに手を出す。娘に手を出す。 謀反の種は自分で蒔いているのに、それに気がつかない。 ・・・というのは、ネタとしても、 >ジョン様は天才とかじゃなくて凄くマメな人だったと思う。 >ジョン様の治世に行政文書が飛躍的に増大して >今までの王達が無視してきたような少額の罰金とか税金まで細かく >徴収できるようになっている。 OK,OK. それは聖職者任命権がローマ教皇になったからでは? 実際、中世欧州の文書類はローマを中心としたイタリア近辺はページ数も行数も他の地域に比べて格段に多かったようです。 離れる毎に少しづつページ数や行数が減っていく・・・。 自治都市宣言文 イタリア 100頁(各頁20行) ドイツ北部 1頁(5行) とか、こんな感じで。
349 :
世界@名無史さん :04/11/06 18:09:43
西洋中世の終わりといえば、1453年がスタンダードだよな。 でも、1477年のナンシーの戦いによるブルゴーニュ家の実質的滅亡 の方が相応しいと思うのだが。ビザンツ滅亡より、よっぽど象徴的だ。 もう一つ上げるとすれば、1492年のグラナダ陥落、アメリカ大陸発見、 アレクサンドル6世教皇登位などもあるな。 学会の動向はどうなのだろう。もちろん、時代区分論が流行ではない といことはおいといて。モマエらは1453年で納得しとるんか? 自説・珍説なんでも聞かせてみいや。
>>349 忘れてはならないのは、1492は大ロレンツォ死去の年でもある。
国際政治の面では、1494年のイタリア戦争開幕。 軍事史的にも重要な画期やね。
じゃあ1492年のカスティーリャ語文法。 西欧で初めてラテン語以外が正式な「言語」になった。
353 :
世界@名無史さん :04/11/07 05:41:07
>>348 >それは聖職者任命権がローマ教皇になったからでは?(以下ry
勉強になりマスタ。それは民度(?)の差が表れているということか?。
>>349 まずは中世の定義付けが先だな。ちょっと調べてみるぜ。
ナンシーの戦いは欧米ではメジャーなようだ。それからシャルル突進公
は一般に中世的人物の典型と思われているようだ。
>>351 確かにチョーク戦争は中世の戦争観を一変させたな。
バルバロッサなんかが苦労したのとは大違いだ。
>>352 ふむふむ。それはキリスト教的共同体→国民国家という視点に
おいて象徴的だな。かなり有効だ。
>>353 いや、民度とかそういうのになるかは知らないけどw
識字率で考えるとですね、当時のイングランドを含む欧州圏内の識字率って惨憺たるものでしたよね。
これは貴族や僧侶なんかでも読み書きできない人が多かったのに、急に記録文書が増えたというその原因は何か? ということです。
急激に識字率がアップしたというよりも、読み書きできる僧侶などが増えた。
また、細かく記録を残しているということは、単に読み書きができるというレベルではなく、物事を記録するクセが身についてしまった人間が多数そういう立場に就いた、ということなのではないかと。
こういう高レベルの読み書きが可能な人間を多数抱えていた当時の組織、団体は何か? ということです。
>>348 ジョン様がローマ教皇の封臣になったのは1213年で、
ジョン様が即位した1199年に行政文書の増大が始まっているから
聖職者任命権がローマ教皇なったから行政文書が増大したというのは当てはまらないと思う。
あと、文書の形式がローマ教皇庁ともフランスとも異なるイギリス独自の物だったとか。
一番分かり易い例が文書の綴じ方で、
フランスや教皇庁は現在の本と同じような綴じ方をするのに対して、
イギリスは紙と紙の端を繋いでいって一枚の長いロール紙を作るやり方で文章をまとめている。
こんな感じかな。
┌──┐┌──┐┌──┐┌──┐┌──┐
│ ┼┼ ┼┼ ┼┼ ┼┼ │
│ ││ ││ ││ ││ │
│ ┼┼ ┼┼ ┼┼ ┼┼ │
└──┘└──┘└──┘└──┘└──┘
それと、イギリス中世史の研究者ジェンキンソンがジョン様の治世の行政をこうまとめてる。
「我々は単一の極めて強力な行政上の頭脳が活動しているのを見るような気がする。
その頭脳とは国王ジョンの頭脳だったと言うことになるのであろうか」
クライムズ,中世イングランド行政史概説,創文社,1985(orig.ed.1966),p.108
ただ、イングランドの行政能力が拡大した原因はジョン様よりヘンリー二世だって意見もあるみたい。
ヘンリー二世が作ったものがジョン様の治世に完成の域に達したってこと。
他に1199年から1205年の間、大法官の職にあったヒューバート・ウォルターに帰する意見もあるみたい。
すでにヘンリー2世の代に広大な大陸領の管理のために
イングランドの行政は高度になってたんだよ。
国王不在でもとどこおりなく統治できるほど。
リチャードが遠征に行ってても(大局では)無問題だったのはそういうこと。
リチャードやジョンがどうのこうのという話じゃない。
>>355 わざわざ、ジョン様とか言って何なんだ?ガキかお前は。
説をだらだらと並べてるだけで、お前の意見はどうなんだ?
>>356 一つだけ。
安易に自分の意見を固めてしまうのはどうかと。
もっときちんと調べてみる気はないの?
>>357 >安易に自分の意見を固めてしまうのはどうかと。
印象操作乙。
359 :
世界@名無史さん :04/11/07 12:47:56
>>349 中世の定義だが、最大公約数には封建社会ということになるだろうな。
そうすると封建社会が崩壊したことを表す象徴的出来事・事件が
中世の終わりということになるだろうか。
360 :
359 :04/11/07 13:03:09
>>356 まあ、ノルマン朝の性格からして、統治機構の整備は
フランス・ドイツなどよりはしやすかっただろうな。
そんで、それをプランタジネット朝のヘンリーが継承・発展させたと。
この二つの王朝の共通項はどちらも大陸に本貫地があったということだな。
ジョンの不幸はあれじゃないの? よりにもよってフィリップ尊厳王と同時代に生まれちゃったこと。 このスレ見ている限り、ブーヴィーヌで敗れるまでは、 統治もさほどの破綻を来しているわけでもないし。
中世の終わりだけど、フス戦争ってのはどうかなあ? 騎士はもはや無力であることを思いっきり証明しちゃったわけだし。 フス派の遠征で、すくなくともドイツの封建社会は致命的な打撃を蒙ったとも言えるし。
364 :
世界@名無史さん :04/11/07 18:36:42
>>361 アイルランド征討時代からすでに破綻しとるぞw
>>362 =
>>348 気にするでない。文書の件面白かったよ。
>>363 フス戦争はちょっとパンチが足りない。騎士破滅といえば、帝国騎士の乱という
のもあるぞ。
365 :
世界@名無史さん :04/11/07 18:42:31
ブルガリアは今でも中世ヨーロッパの田舎のようにのどかだ
武具スレは嫌なのでここで聞きたいのですが、中世において 武具・甲冑の先進地域というのはイタリアなのでしょうか? イラストを見ていると非常に洗練されているように思えます。
1453年が中世の終わりとされているのは、ビザンツ滅亡より百年戦争終了の影響だと思う。 封建的主従関係の錯綜(イングランド王がノルマンディーなりギエンヌなりの 諸侯としては、形式上フランス王の臣下であるとか)がほぼ解決されて、 一国の王としてのみ存在するようになったことが大きいんでは。 ドイツに関しては微妙だが、「領地相続の問題で、皇帝や諸侯が他国の臣下になる」 ことは少なかったかと。
>>367 古代の終焉は(西)ローマの滅亡であるから
古代ローマを引き摺っていた東ローマの滅亡をもってして
中世の終焉とするのは非常に適当。
というかフランス王国の封建下にあるブルゴーニュ候家が
ハプスブルク家の手に入ったのって、その後からなんですけれど・・・。
百年戦争の意義としては、英仏両国が決定的に分離したという事なわけで。
否定するだけではなんなのでで
>>349 のナンシーの戦いを支持してみたり。
これによってハプスブルク家対ヴァロア家の構図、すなわち近代を通じて
長らく続いたドイツとフランスの対決の構図が出来たわけですから。
あと、これで没落してたハプスブルク家がヨーロッパのキャスティングボード
を握るまで復権したというのも大きいんじゃないかと。
>>367 っつか、君、相変わらずコテの割に知識足りなすぎ。
もうちょっと考えて発言したまえよ。
>>368 ナンシーの戦い説には私も賛成ですな。
1492年のグラナダ陥落も捨てがたいですが。
(大航海時代の開幕から王権の強化、中央集権化へ進む端緒として)
中世と近世とを区分する指標を、何とみなすかによって、
どの時点を画期とするかも、当然、変わるわけだけど、
戦争ばかりが挙がっているのは、
政治と軍事のスレだけのことはあるということなのでしょうか。
>>349 氏が指摘している、
時代区分論自体が流行って無いという問題は、
アナール学派の「事件史」の軽視が影響しているのでしょうけど。
371 :
世界@名無史さん :04/11/08 05:16:58
アナール学派に反対せよ! 邦訳『ブーヴィーヌの戦い』を書いたアナール野郎は神。 アナール野郎の影響を受けた堀越孝一の酷い著書を見よ。 奴らは歴史からダイナミズムを奪い去り、小人・小事の集合体を描いた。 全体性だと!笑わせるな!!
そもそも
言い出しっぺの
>>349 自身が
>自説・珍説なんでも聞かせてみいや
と言っているわけで、
相対的な正しさを競ってもしょうがないやろ。
と予防線を張っておいて、1495年の永久ラント平和令を推す。
帝国の国制史の上でですが。
>>371 「全体性」とか言ってる頃は、
まだ良かったけど、
第3、第4世代のような些末な歴史は、
フランス人に勝手にやらせておけばいい、
とは思いますね、確かに。
「豚に歴史はありますか」とまでは、言わないけど。
(´-`).。oO(何か殺伐としてきますたね・・・)
(´-`).。oO(見事に
>>366 がスルーされ・・・)
(´-`).。oO(某研の登場に期待するしか・・・)
珍説でいいなら、シャルル8世のイタリア遠征。 最近は「○○の生活史」とか「××の文化史」とか、そんなタイトルの本が多いね。 まあ、そんなタイトルの本ばっかり買って読んでいると、肝心の全体の流れが見えなくなってきたりもするんだよw 高いところから全体を見渡したり、中に入って中から見たり、下から見たり、反対側の高いところから見たり、と色々な方法で見てみなくちゃね。
現時点での自説・珍説・通説 1419年 フス戦争 1453年 ビザンツ滅亡、百年戦争終結など 1477年 ナンシーの戦い 1492年 レコンキスタ完了、米大陸発見、カスティーリャ語文法など 1494年 イタリア戦争開幕 1495年 永久ラント平和令 1513年 マキャベリ『君主論』 1522年 帝国騎士の戦争 約100年の開きがありますな。他にもあったらどうぞ。
379 :
世界@名無史さん :04/11/08 21:46:45
>まあ、そんなタイトルの本ばっかり買って読んでいると、 >肝心の全体の流れが見えなくなってきたりもするんだよw 禿同。やはり、年表事項にそった歴史叙述は必要だ。 中世○○史というスタンダードな概説書なんかが少ないのは致命的。 研究者なんかは古い書物や外国書でも知ることができるが、一般人はムリ。 百年戦争なんかも最近、小説家の新書でやっと広く知られた感じだし。 日本の西洋中世史家は何やってんの?。だから人気ないんだよ。 人物伝や軍事史はほとんど在野の作家や研究者、翻訳ばかりじゃないか。 アマゾン検索で桐生操の『やんごとなき姫君たちのトイレ』とか見たくないよ、もう。
>>370 では、自分の説を出すのを失念していたので、
グーテンベルクによる活版印刷術の発明(1440年頃でしたか)
を挙げておきます。相も変わらず、文化系ですw
381 :
世界@名無史さん :04/11/09 17:58:28
フリードリヒ2世ってイタリア人には評価高いのか、この前とある本で 始めてフリードリヒ「大帝」表記を連発しているのを見た。
>>381 フリードリッヒ二世ってあれだよな?
プロイセンじゃなくてフェデリコのほうだよな?
383 :
世界@名無史さん :04/11/09 18:06:10
>>382 もち、ホーエンシュタウフェン家の方。イタ公って統一しようとした奴が好きなんかなあ。
ガリバルディもナポリ王ミュラのこと好きだったし。
386 :
世界@名無史さん :04/11/09 21:18:03
>>385 ホーエンシュタウフェン家の歴史を通してのフリードリヒ2世なら
『騎士の時代』も面白いですよ。コンラーディンが可哀想で仕方無くなります。
シチリア史を読んでもフェデリコ1世として希代の名君という記述で一杯です。
ヨーロッパの王家には珍しく壮絶な滅び方をしているのも大きいのかと思いますが。
>>386 カール・フォン・アンジューとか、イングランド王リヒャルト1世とかイングランド王ヨハンとか・・・
内容以外の記述が気になる一冊でしたね。
388 :
世界@名無史さん :04/11/09 23:35:59
フランス王ルートヴィヒ9世とか、シチリア王ヴィルヘルム1世とか…
389 :
世界@名無史さん :04/11/09 23:44:16
フリードリヒといえば、スイスの史家ブルクハルトの記述 「異端審問とナポリ大学での勉学拘束で思想統制を図り、 イスラム的な狡猾さで租税を取り立て、シチリア国家を 教皇と戦うための戦闘マシーンに改造した」により、 稀代の悪人、300年早いマキャヴェリストとしても有名。 他方、ドイツでは「洗練された地中海文化をドイツに持ち込み、 ドイツを真に開かれた世界帝国に導いた、アレクサンドロス大王に 匹敵する人物」と言う感じで、人気が高い人物とか。
390 :
世界@名無史さん :04/11/10 02:01:42
>>387-
>>388 ドイツ人が書いたから、訳す時ドイツ語風味に統一しただけでしょ。
勉強にもなるし、俺はそんなに気にならんけどな。
フリードリヒのことだが概してヨーロッパの近現代の学者はカトリック
嫌いというか宗教勢力嫌いというか、まあ左翼チックだから、
高く評価しがちなのでは?
実際はチェーザレの場合と違って、普通に挫折してるし。
こいつに大帝は持ち上げすぎ。こいつに「大」つけるぐらいなら
フィリップ四世が「大王」になった方がよっぽど似つかわしい。
391 :
エリザベス2世 :04/11/10 13:09:12
400getされた勇者には、黒太子のルビーを差し上げますわよ。
黒太子のルビーって何?
393 :
世界@名無史さん :04/11/11 13:05:12
スレの半分にも行かない内に早くも駄スレな展開になってきましたな
中世の終わりはやはり1453年。 教皇の権威は皇帝制度の終焉とともに決定的に低下する。
395 :
世界@名無史さん :04/11/11 15:05:10
>>392 英国王室冠のど真ん中についている赤くてデカイ宝石。
本当はルビーではなくスピネルという代物。
>>393 そうか?駄スレにはなってないぞ。
まあ、駄レスなら君のがあるがね。
396 :
世界@名無史さん :04/11/11 19:02:45
>>395 そういう君のレスは”欧州中世の軍事と政治”というスレの趣旨から外れた
駄レスなわけだが・・・まぁ、以下レスはもう少し高度に行きましょうw
397 :
世界@名無史さん :04/11/11 19:17:03
>>396 禿同。355あたりまでは良かったんだけどね。そこまで戻って
議論を続けましょうか。
煽りは華麗にスルーよろ。→約1名除いてALL
391−398はスルーということで。
>>390 それは原本でもドイツ語表記なの?
400&ルビーget!
401 :
世界@名無史さん :04/11/11 21:14:08
>>399 ドイツの本だからおそらくそうなんでしょう。 ちなみに英語の本では英語表記が普通です。 カノッサの屈辱もナントの勅令もヘンリー4世というわけです。
;/:;;;;;! ゙'''--、;丶.゙ヽ、 /;';';;;;;ツ i ー、 、`;;;j \ /i;;;;;;;;;| iヽ l,.ヽ,. `゙〈,,,,,,,,,,,...__ \ ./ ゙'''i;;;;! ゙';, ノ;,.;;l;ノ;,,ヾ,,,.ブ;;' ,,.r.:,==、-、. ヽ / j;;;! i;,,.;;;;;;;;;;人;;;;;:. l; ;: ,;l.:.:.{ * .} );, ヽ / l;;;;;! ,.;;-'ニニヾ;;、:;ヽ;; ヽ, ゙ヽ,:.:`--'.,..//゙ ゙、 .! ゙i;;;>'",..--、 ゙i;, l;;゙;::i:;) ヽ`'ヽ`゙"゙ヽ;::゙i, l, | / /.:.{ * } ,./,. l;; :;《;. ゙、 :;:;;;;,. ヾ;;;゙i,. ゙i, | i |::.:::.:`--'シノ,;'゙ :;l;;::,. ヽ ゙'';;;;;;,.. ゙i;;;:!. l | l ;;:゙`-==' ,ィ" '゙ :;゙、;;;:;:,., ゙;,`ヽ ゙';;;;;;, l;;:゙i, ゙! .! `゙゙''''i;;;;:::| :!;;:'゙;;:;,. ;: ,ゾ゙''';;;;;;,.じ'゙.;: | | ゙i;;;::| ,;ri;;:,,,;;;;;;;:;:;:;:;;;/;;゙ ,.-、;;;; :;:;:;:;: .! .!:,:,: ;;;;:;,.. i;;;::| .,/ ヾ:(⌒`-‐'" _,.-'",,._ ヽ,ヽ;:゙:. | l;';';';:;;;;;;:;:.. |;;:l,. ,. ,. ,:;/ _,,,..--‐''"´ _,..,へ ヾ-〉;!:,:,:.:.! ゙!;;;;::;;;;;;;;;:;:;::;;:;:l;;;:!;;:;:;:;:;/ / ,,;____,,...-''i" l_,.-‐! ||;:;:;:;,' ゙、;;;;;; ;;;;;;;;;;;;;;;;:l;;:!;;;:::;/ / ,,;/`i l ゙!,..-'゙'iY゙i, ゙!;;;;;/ ゙、;;;,. ゙'';;;;;;;;,. ゙、;;゙!;: l ,' ;ノ、_ノー‐'^`''" ,..ィ' l`'l .!;;/ ヽ:,:,:,:;;;;;;;;;,. l;;;゙i |i_/∠i゙i'"゙i‐┬‐┬'''i"_,ノ"/ .// ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;,,`'";ヽ`ヽ, `ヽlヽ〜-^ー'^,.-'" .// \;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ, ゙''ー-‐''" // ゙ヽ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ、__,...-‐'",./ ゙''-、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,...-'" `゙'''ー------‐‐'''"´
>>401 へぇ、そうなんだ。英語や独語の本なら何とか対処できそうだが、
ラテン語系の本などは読みにくそうだな・・・。
>>403 いちいち反応するなっつーの
インノケンティウスが英語だとイノセントになると知ったときは 面白かった。クレメンスやボニファティウスなんかは英語だと 何になるか興味深い。
クレメンスはふつーにクレメンスでいいだろ。 クレメンティウスを、Clementというのもアリだけどさ。 ボニファティウスは、Bonifaceかな。
>>406 トンクス。意味がある名前だと面白いっス。
408 :
世界@名無史さん :04/11/12 23:09:42
法王と教皇、正しいのはどっち?
409 :
世界@名無史さん :04/11/12 23:11:03
○「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい?
「新聞を見ると『ローマ法王』と書いてあり、教会の文書には『ローマ教皇』と書いてあります。どちらが正しい表記ですか?」 このような質問が多く寄せられます。簡単に説明します。
教会では「ローマ教皇」を使います。
以前はたしかに、日本のカトリック教会の中でも混用されていました。そこで日本の司教団は、1981年2月のヨハネ・パウロ2世の来日を機会に、「ローマ教皇」に統一することにしました。「教える」という字のほうが、教皇の職務をよく表わすからです。
その時以来、たびたびマスコミ各社に「ローマ教皇という名称を使ってください」とお願いしていますが、残念ながら実現していません。
○バチカン大使館は、「ローマ法王庁大使館」
ところが東京都千代田区三番町にある駐日バチカン大使館は「ローマ法王庁大使館」といいます。
なぜでしょうか?
日本とバチカン(ローマ法王庁、つまりローマ教皇庁)が外交関係を樹立した当時の定訳は「法王」だったため、ローマ教皇庁がその名称で日本政府に申請。そのまま「法王庁大使館」になりました。
日本政府に登録した国名は、実際に政変が起きて国名が変わるなどしない限り、変更できないのだそうです。
こうしていまでも「法王」と「教皇」が混用されているのです。
皆様には、「教皇」を使っていただくよう、お願いする次第です。
ttp://www.cbcj.catholic.jp/
>407 大抵の名前は意味があると思うが
>>410 マスコミもちゃんと教皇使えよと言いたい。
シナの時は過剰反応するくせに、こういうときは知らん振り。
マスゴミに謝罪と賠償を要ky(ry
「法王」だと仏教みたいだしな。 王より皇の方が上っぽいしな。
つーか >日本政府に登録した国名は、実際に政変が起きて国名が変わるなどしない限り、変更できないのだそうです。 政府も頭固いなと。 どうせマスコミは政府の右へ倣えなんだから、 政府が「教皇」って言えば次の日から教皇だろう。
415 :
世界@名無史さん :04/11/13 21:43:07
>政府が「教皇」って言えば次の日から教皇だろう。 君、解ってるね―。なんらかんら言ってマスコミは犬。 で、閑話休題、教皇庁の兵力は極少数の親衛隊と傭兵ということだが、 この親衛隊はスイス兵の前はどんな椰子だったんだろう。 教皇庁の軍事制度の書籍があればいいのだが、見当たらない。
416 :
世界@名無史さん :04/11/13 21:49:27
>>405 [英]Boniface(ボニファース)
[独]Bonifatius(ボニファティウス)
[仏]Boniface(ボニファス)
[伊]Bonifacio(ボニファーチョ)、Bonifazio(ボニファーツィオ)
[葡]Bonifacio(ブニファシオ)
[露]Bonifatzii(ボニファーツィ)
[羅]Bonifatius(ボニファティウス)
[英]Clemence(クレメンス)、Clemens(クレメンズ)、Clement(クレメント)
[独]Clemens、Klemens(クレメンス)
[仏]Clemence(クレマンス)、Clement(クレマン)
[伊]Clemente(クレメンテ)
[西]Clemente(クレメンテ)
[蘭]Clemens(クレメンス)
[露]Kliment(クリメント)
[羅]Clemens(クレメンス)
417 :
世界@名無史さん :04/11/14 00:05:18
>>415 馬鹿じゃねえの?自分で調べろよ中卒がw
中卒はクソwwwwwwwwwwwwwwwwww
418 :
世界@名無史さん :04/11/14 01:00:05
しかし、黒太子のルビーもわからないなんて、ショボすぎるなここの住人w
420 :
世界@名無史さん :04/11/14 12:02:04
と、ヲタが申しております
421 :
世界@名無史さん :04/11/14 12:03:20
進 築 自 ぼ カ 社 | | い だ 方 権 人 政 法 ぼ め く 分 く ラ 会 | | い っ 法 力 が 治 学 く て た た た ク の | | で た を を 人 学 部 た き め ち ち リ 権 / ヽ し と 学 つ を. を 政 ち た の の が を 力 〈 〉 ょ い ぶ か 支 学 治 が の 準 王 新 研 構 ヽ / う っ た む 配 ん 学 だ 備 国 し 究 造 | | ! て め た す だ 科 と を を い し の | | め る の で も 尽 | | の 仕 は 、 し / ヽ 組 `7'ー-----------------< \ み / /:::::::;-─‐-、:::::::::::::; -‐‐、ミミ:::l `''‐‐- 、________,..ィ´l/::::i |::::::::|  ̄ ̄ |:::::::::| |::::::::::::::/:::::/:::::::::::::::/∧ヾヽ ::::ミ |::::::::| |:::::::::| 彡::::::::::/:::/彡r-イ´'´ ヾミミ ::... ミ ,r:|:::::::|ヾ`ー、_ヽj{ r , -'ニゴi:::::::l‐、 |:::::::::::::;ィ─‐-、 { __/二ゝ ミミ:::ゞ:::| |rヘ:::::l ス=o=彡:i≧ィo‐、 }:::::レ! | |:::::r‐、:|シ^フo=ミ人,ィ'oフ }:::/`i..::| |`Y!::::|::.../ ̄彡:|`ヾ ̄、._ |::::|l ./ |::::{ n|::|  ̄/彡| ヾ ̄ |:::l) }:::| ヽゞ|::::|'´ .::| |:::レ'/ ゙!:::l 、」:l r'´ | |::7 /::/ ヽ.!:::| `,´ |:::|‐' 彳::ヽ_l::! ``,´ |`‐':::::ゝ l::! ,=‐=、 j:::! レ!::::::::::l _,----、 リ::::::::::}
中世前期、俗界における最高の権威である皇帝を教科書なんかに表記するときはたいていドイツ語だけど、 どうしてなのかな?初期は皇帝がドイツ人ばっかりだったから? ローマ帝国のの継承者を称するなら教皇庁と同じにラテン語で表記する方が都合がいいと思うんだけど、 単に日本の教科書作ってる人がそう表記してるだけ? あと、ロタール王国からイタリア王国ってのが出来てドイツ王国と一緒に神聖ローマ帝国を形成してたけど、 なんでここの王様はドイツ語で表記されてるの?そのときにはまだイタリア語がなかったとか? ってかこのイタリア王国っていつの間に消滅したんですか?フェデリコ二世(ってこれはイタリア語か)が失敗したあとぐらい? もう訳わかんないです
423 :
世界@名無史さん :04/11/15 00:46:30
>>422 そう云うときはageで聞いてみれ。俺も知りたいしage。
>なぜドイツ語なのか たぶん皇帝本人は正式にはラテン語で名乗ったでしょうね。 中世の帝国史研究がもともとドイツが本場だったこと、 そのころは帝国はドイツの国民史の中に位置付けられていたことが原因ではないかと。 で、一度ついた規則はなかなか正されない、といったところではないでしょうか。
425 :
世界@名無史さん :04/11/15 19:19:16
>422 >そのときにはまだイタリア語がなかったとか? 中世初期・盛期の公式言語はラテン語で、イタリア語は俗語で あったが低級・未完成だった。ダンテ等を経て、今のイタリア語は フィレンツェのメディチ時代に一応の完成を得たらしい。 大ロレンツォの詩なんかは普通に現代人でも読めるらしいよ。 塩婆曰く、イタリアには日本で言う古文がないのだそうだ。
塩野何言ってんだ? 日本の古文にあたるのがラテン語だろうが。
427 :
世界@名無史さん :04/11/17 13:03:05
>>426 イタリア人にとっては、ラテン語は日本で言う外国語かもしくは
漢文みたいなもんなんでねーの?
例え話だから厳密には表現できないが。
イタリア語としては昔に書かれたものでも現代イタリア人は読める。
日本で言うと戦前以前の小説読むような感じ。
日本語は古文だとスラスラとは読めないでしょ、結構勉強せんと。
つまり、言語としての断絶感の大きさは日本語>イタリア語なんでないのかい。
428 :
世界@名無史さん :04/11/17 14:18:02
韓国みたいなもんじゃないの。 漢文なら沢山あるが、自国語の国文学はそれに較べると 歴史が浅く、乏しい。 対して日本は早くから和文が発達し、漢文と並んで 日本語の文学も盛んだったから国文学も豊か。 んで古文との開きが大きい。
とある本で、中世イタリア貴族はフランス語(多分南仏系の言葉)を日常会話に使っていたとか言うのを読んだ事がある。 聖フランチェスコが戦争で捕虜になった時、彼がフランス語を話していたから貴族に間違えられたとか云々も、これに由来するのかな・・・。 (もっとも、富裕商人のボンボンだったから、それなりに身なりも整っていたからだという見方も可能だけれど。)
単語レヴェルでの親近性は、 ラテン語とイタリア語とは可成り高いです。 当方、イタリア滞在前に、ラテン語を囓っていたお陰で、 単語レヴェルでは大分助かった覚えがあります。 極端な話、○○,per favore.で、 ある程度、簡単な用事がこなせちゃうのですが、 そのレヴェルなら、ラテン語の語尾をイタリア語っぽくしたら、 シチュエーションが限られてれば、それなりに通じます。 イタリア語の方言は激しい差異があるので、 多少の訛りなら、聞き分けてくれるのかもしれませんがw
431 :
世界@名無史さん :04/11/18 04:46:49
単純な比較は難しいと思うけど、軍事力は イスラム>ビザンツ>西欧>東欧という理解で概ねオケ? 格付けというより、おおよそという位の意味で。
432 :
世界@名無史さん :04/11/19 06:19:08
>>431 11世紀前半 ビザンツ>イスラム>西欧>東欧
後半 ビザンツ>西欧>イスラム>東欧
12世紀前半 ビザンツ>西欧>イスラム>東欧
後半 イスラム>西欧>東欧>ビザンツ
13世紀前半 イスラム>西欧>東欧>ビザンツ
後半 イスラム>西欧>ビザンツ>東欧
14世紀前半 イスラム>西欧>東欧>ビザンツ
後半 イスラム>西欧>東欧>ビザンツ
15世紀前半 イスラム>西欧>東欧>ビザンツ
後半 イスラム>西欧>東欧>ビザンツ
異議があれば受けつけよう。
433 :
431 :04/11/20 05:09:51
つーことは全般的にみてイスラムが一応強いということでつな。 前期はビザンツが良い感じだが、12世紀後半に転落しているのは これまた如何に?
>>433 マヌエル1世時代の1176年にルームセルジューク朝に大敗、
ノルマン侵入、ブルガリア王国の台頭、その後の13世紀初頭の
コンスタンティノープル陥落→ラテン帝国の建設などではないか。
435 :
世界@名無史さん :04/11/20 22:16:48
まあ、
>>432 が何を意図しているのかは分からんが。
436 :
世界@名無史さん :04/11/21 11:53:55
塩婆ネタで申し訳ないが、カール大帝の帝国を神聖ローマ帝国と 連記していて激しく脱力。それともなんだ、外国では神聖ローマ帝国の 一種なのかのう。ただのローマ帝国なら違和感も少ないのだが、 神聖が付くと何か変じゃろ。
437 :
世界@名無史さん :04/11/21 19:52:16
>>436 マジで!?まぁ、「神聖ローマ」であろうとなかろうと実質的に大した変わりは
ないんだけどね。
ドイツ語だと「フランク王国」も「フランス王国」もスペルが同じだよね。 あ、今の「フランス共和国」も一緒か・・・。 HREでは時代が違うような気もするけど、こういうのと区別するためには必要なのかも。
439 :
世界@名無史さん :04/11/22 15:46:55
>>437 これがマジなんだな。『海の都の物語』の最初の方に出てくる。
女史は己の関心を持った箇所・分野以外は勉強しないようだ。
高校世界史もやったことなさそうな位、専門以外は時たま
頓珍漢なこと書いてる時がある。外国の文献マンセーで、
邦語文献でじっくり勉強をしていないから、基本が出来ていない。
だからといって女史の文学作品の価値が下がるわけではない。
「歴史」じゃないとかいって非難する、一般人や学者もいるようだが、
大人気ないよな。第一、学者の中でも「分かってる」人は
読んでいるようで参考文献のなかに女史の著作が入ってる場合もある。
インスピレーションを得たとはっきり言ってる学者もいる。
要は生暖かく見守ってヤレってこった。
440 :
世界@名無史さん :04/11/22 17:52:08
塩婆のシャルルマーニュの帝国の表記が気になって調べてみた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charlemagne >nominally King of the Lombards, and Holy Roman Emperor
>Imperator and Augustus.
なんと外国では神聖ローマ帝国表記なようだ!
でも紛らわしいので邦語出版の場合は西ローマ帝国とかにしてね。
うーむ、しかしそうなると「神聖ローマ帝国」表記で問題無いような・・・。
そもそも「神聖ローマ帝国」という名称自身、オットーよりもずっと後世に生まれるものですし。
444 :
世界@名無史さん :04/11/22 23:26:31
>>443 んだんだ。明らかに神聖はオカシイ。
日本で通常使われる『西ローマ帝国』が便宜上では最高。
外人だって無謬じゃねえべな。おそらく塩野が読んだ文献が
HREだっただけ。そんで考えなしに直輸入しただけの話。
それはさておき、教皇から戴冠されるとHOLYである、と考える外人が
いるのではないか、という仮説を立ててみる。
445 :
世界@名無史さん :04/11/27 15:15:06
>>444 でも教皇如きに戴冠される西ローマ皇帝ってのも変な話なんだよね。
既に西ローマ皇帝位は永久的な廃位を通告されて、東がそれを受諾しちゃってる
んだから、シャルルマーニュのローマ帝国・・・とでもすれば良いのだろうか?
447 :
世界@名無史さん :04/12/05 23:05:59
あげてください、もう少し。今夜は帰れない、帰りたくない。
448 :
世界@名無史さん :04/12/11 20:20:36
からあげ
449 :
世界@名無史さん :04/12/23 05:37:26
エル・シッドとレコンキスタ。
450 :
カルトフュラクス :04/12/24 01:29:34
西ローマ皇帝位は永久的な廃位を通告、って誰がそんな通告したんだ? 教皇の所轄出来る事項じゃないだろうし、ビザンツ政府がそんな宣言をしたと言うのは聞いた事がないが。
>>450 西の最終皇帝を廃位したオドアケルが東皇帝ゼノンに
西ローマ皇帝の追放と、西ローマにおける皇帝支配の最終的な
停止を通告したとギボンにはあるな。
結局中世西欧政治史はローマ皇帝位とキリスト教首長の正統の座を巡る 争いだったということですか?
453 :
世界@名無史さん :05/01/08 07:57:37
うん
454 :
世界@名無史さん :05/01/18 02:01:45 0
>>452 カノッサの屈辱によって、西洋では皇帝法王主義が否定されたわけだから
西洋中世をもって教皇権台頭〜凋落の時代と考えると
それ以前までを古代と区切ってもあながち間違いじゃないんじゃないかなと考える。
事実、ハインリヒ4世までの神聖ローマ皇帝って、コンスタンティヌスに代表される
ローマ皇帝的な要素(政教一致)がそれ以降に比べて段違いに強いからさ。
>>452 その定義で行くと、中世の終了は宗教的には1648年
(ルター派、カルヴァン派の公認による「キリスト教首長」の無意味化)、
政治的には19世紀初頭のナポレオンの皇帝即位〜神聖ローマ帝国の滅亡付近、
(ローマ皇帝位の無意味化及び消滅)となりそうだが。
十八世紀になっても、神聖ローマ帝国の皇帝位がそれなりの権威と意味を持っていたのは
オーストリア継承戦争などから間違いないし。
456 :
世界@名無史さん :05/01/18 17:33:20 0
>>455 神聖ローマ皇帝の権威とオーストリア継承戦争の関わりって?
あれは単にレーエンの女子相続を認めないとする従来の方針と
三十年戦争で新たに誕生した領邦国家という概念の激突に過ぎないと思ったんだが・・・。
ちなみに『近世』って時代区分知ってますか?
>456 フリードリヒは言うなれば「火事場泥棒」をやっただけで、 本来のきっかけは、バイエルン侯が神聖ローマ帝国の皇帝位と ハプスブルク家の領土獲得を主張したことだ。 ここで「領土だけではなく、皇帝位も欲している」ことに注意。 フリードリヒみたいに、領土さえもらえればいいという考えばかりではない。 しかも、バイエルン侯とその背後にいるフランスの行動を見ていると、 領土より帝位を優先していると見られる節がある。 まだ戦勝が固まったわけでもないのに、皇帝に即位したり。 皇帝位にそれなりの権威と意味があるからこそ、こういう行動に出たんだろう。
458 :
世界@名無史さん :
05/01/18 23:00:29 0 >>457 オーストリア継承戦争の意義を考える上で、帝位問題というのは然程に重要ではない。
勿論、バイエルン選帝侯が帝位を強烈に望んでいた事は事実だけど
皇帝位に権威が残存していたというよりは、彼が領邦君主としてではなく
帝国諸侯として判断したと考えるべきだと思う。(無形の権威はあるだろうが)
それはハプスブルクの縁者でもある彼を、反ハプスブルク同盟に引き込む餌に
過ぎないと考えた方が無難だよ。
というかハプスブルク家が帝位喪失をした事と、継承戦争の行方はあんまり関係がない。
バイエルンが反ハプスブルクの意思表明をした時点で、帝位は確約されたのだから。
ちなみにバイエルンが獲得する事になっていたのはハプスブルク家領ではない。
同家がドイツにおいて受けていたレーエンで、この両者は厳密に区別する必要がある。
中世封建制度の概説書と領邦国家についての本を読んで見る事をオススメする。