1 :
世界@名無史さん:
中世半ばにおける最強のキリスト教国家・ビザンツ帝国。
イスラム勢力との数百年にわたる死闘で鍛えられ
勇猛な軍人皇帝、将軍達が武勇を誇りました。
ユスティニアヌス時代、マケドニア朝、コムネノス朝など
ビザンツ軍の強さを語りましょう!
2 :
世界@名無史さん:03/05/12 16:06
2get
>>1 コムネノス朝か、シブイな(w
でもヨハネス2世とかマヌエル1世とか
十字軍利用してかなり成功してるな。
マヌエルはイタリア征服でこけたのが痛かった。
4 :
世界@名無史さん:03/05/12 16:20
ユスティニアヌス大帝の将軍、ベリサリウスがすごい。
ヴァンダル、東ゴートを滅ぼしたんだから大したもんだ。
6 :
世界@名無史さん:03/05/12 17:04
火炎放射機「ギリシアの火」は兵器の歴史の本には
よくできますね。木造船だとすぐ炎上したそうだ。
あれが無かったら8世紀に滅亡してたよ…
>>6 あれでロシアの艦隊やら地中海を征服した。
陸上での攻撃や防御にも使っていたらしい。
ビザンツは騎兵隊もすごかったらしいね。
マケドニア朝の時はニケフォロス2世、バシレイオス2世らが
騎兵部隊でブルガリア人を撃退した。
ラッパの音に敵は震え上がったという。
10 :
世界@名無史さん :03/05/13 09:08
世界史の図表とか見てると、ビザンツってひつこく
南イタリアに勢力持ってるね。首都が脅かされても
アマルフィとか確保してるからすごい。
自称ローマ帝国の意地かな。
11 :
世界@名無史さん:03/05/13 11:26
>10
自称も何も、連続性のあるローマ帝国ですが。
12 :
世界@名無史さん:03/05/13 11:45
イスラムやブルガリアと常に争ってたから相当鍛えられてたんだろうな
最盛期のマケドニア朝も
旧領を回復しようとはしなかった。
ユスティニアヌスの時で懲りたんだろうな。
8〜9世紀、スラブ人にはペロポネソス半島の先端まで侵略された
ようだが、マケドニア朝で何とドナウ川まで押し戻している。
現アルバニアのあたりからトリエステまで全域を制覇。
バシレイオス2世はバルカン半島を席巻し、その残忍さから
「ブルガリア人殺し」の異名をとってるからな。
最近の教科書はビザンツ・東ヨーロッパにページを
多く割いてるからうれしいよ。80年代までは
「ビザンツはユスティニアヌスで最盛期、以後ジリ貧」だったけど
今はマケドニア朝の第2次全盛期も触れてるもんな。
文化的にも成熟し、首都は西欧人が仰天した荘厳なイコンで
埋め尽くされてたらしい。勢力版図の地図も地中海全域を
制圧した図だけではなく、中興期の図も載せるべき。
何か今図表見てたら、ビザンツって黒海のクリミア半島先端に
勢力圏あるんですけど…なぜ?
艦隊を派遣してたのか、港を支配したのか。
ローマ時代はボスポロス王国とかあったが、スラブ人との交易かな。
17 :
世界@名無史さん:03/05/13 17:42
なんつーか2chねらー好みのしそうな国だな。
実際ビザンツ関係のスレが妙に多い・・・
18 :
世界@名無史さん:03/05/13 23:38
19 :
世界@名無史さん:03/05/14 00:12
たとえ滅亡すると分かっていても屈辱よりローマの誇りをえらんだコンスタンティヌス11世は偉大。
金正日もちょっとは見習え。
20 :
世界@名無史さん:03/05/14 00:12
>>11 だから国民のほとんどは東ローマ国民ともビザンティン国民とも思わず
「ローマ国民」だと思っていた。
つーか世界史板ってこのぐらいのスピードなのか?
極東板から流れ着いたから遅く感じる、、、、
21 :
世界@名無史さん:03/05/14 00:23
22 :
ウォルフォウッツ:03/05/14 01:43
>>17 【^▽^】ビザンティン太郎が好みそうなねただね。
ジョーカー降臨ギボンヌ
ユスティニアヌス帝の時は別として、第2次黄金時代の
10世紀末から1050年頃で西欧でまともな国って
イングランド、仏カペー朝、神聖ローマ(ザクセン朝)
あと北欧諸国ぐらいか?
陸軍・海軍力ともにビザンツの優位は確かだな。
貴族の内紛でセルジューク・トルコに敗れなければ
続いたのだが、惜しい…
そのトルコが信仰していたイスラム教はビザンチンの影響から
生まれたものだよ。コーランでも絶賛しているよ。
芸術等の文化的にも宗教等の精神的にもイスラム社会は
地中海文化の当時の頂点であったビザンチンの遺産をしっかり継承している。
古代ギリシャの科学もビザンチン経由だよ。
ムハンマドもギリシャ正教から政教一致と一神教を学んだのさ。
ローマ法を継承発展させたのもこの国だ。
25 :
世界@名無史さん:03/05/14 09:43
軍人皇帝ニケフォロス2世の率いた重装騎兵部隊は無敵だった。
504名が12列で楔形陣形を作り突撃する。
ニケフォロスの主な戦果
961年 クレタ島奪還
962年 シリアのアレッポ占領
965年 キプロス島占領
969年 アンティオキア占領
26 :
世界@名無史さん:03/05/14 10:15
>>25 よくわからないんだけれども、重装騎兵って突撃するのかな。
突撃したら騎兵の意味が薄れるんでないのかな。
少なくとも当時の西欧みたいに長い槍を持って突撃
みたいなことはしてなかったんだよね。
27 :
世界@名無史さん:03/05/14 17:13
28 :
世界@名無史さん:03/05/14 17:17
ビザンツが最強の地位を失ったのはいつ?
30 :
世界@名無史さん:03/05/14 17:31
31 :
世界@名無史さん:03/05/14 18:07
>>26 年代記の挿絵などに描かれている騎兵部隊は長い槍を
持って突撃しています。重装というのは甲冑を付けてるからで、
必要に応じて弓矢で武装する軽騎兵や歩兵も重要な戦力だったようです。
32 :
世界@名無史さん:03/05/14 18:23
33 :
世界@名無史さん:03/05/15 02:24
ビザンツほどしぶとい国はないだろう。
1204年、第4回十字軍に首都を占領されながら
ニケーア、エピルス、トレビゾンドなどに分かれ生き延び
ラテン帝国混乱の隙をついて首都奪還。また1453年の
帝国滅亡後も1460年頃まで黒海東南端のトレビゾンド帝国は
ビザンツ皇帝の子孫をいただき残っていた。
34 :
世界@名無史さん:03/05/15 06:39
>>16 俺の地図帳にはジェノヴァの勢力圏になってる。
ジェノヴァはビザンツ宗主下で、あなたの言う通り
ノルマン・スラヴ商人と交易していたから
その絡みだろうね。
>>33 古代ローマのゴキブリのようなしぶとさを受け継いでいたということだろう
36 :
世界@名無史さん:03/05/15 11:09
それにしても、マンツィケルトでセルジュークに負けてから
瞬く間に小アジア全域を奪われたのは不思議だ。ウマイヤ朝やアッバース朝
ですら撃退されたのに。やはり大土地所有の進展と中小自作農の没落、
貴族の腐敗、トルコ人傭兵の士気のなさが影響したのか。
それでも黒海沿岸とロードス、クレタ、キプロスは保ったからしぶとい。
コムネノス朝期にかなり奪還したが、アナトリア高原のイスラム化は
進んだ。ビザンツは人望無かったのか?
>>34 一応帝国の直轄領だったらしい。
クリミアのケルソネスを根拠地にしてたようだ。
10世紀にはキエフ大公が占領して紛争になってるな。
南イタリアといい、こういう辺境に兵力を割くから
本拠地の防衛にしわよせがくるんだ。
38 :
世界@名無史さん:03/05/15 12:50
いちおうクリミアはテマ一つ割り当たってますよ。
テマ−ケルソン。
39 :
世界@名無史さん:03/05/15 14:38
7世紀のヘラクレイオスって劇的な皇帝ですね。
ササン朝に東方領を奪われ混乱する中クーデターで即位して
小アジア、シリア、エジプトを奪還、敵の首都クテシフォン
まで迫り、大勝利を得た。でもまもなくアラブの大攻勢に
あい、水泡に帰す。悲劇の英雄ですな。
40 :
世界@名無史さん:03/05/15 16:01
41 :
世界@名無史さん:03/05/15 17:46
大韓の歴史書に夜と辺李沙吏鵜須は朝鮮武将。
42 :
世界@名無史さん:03/05/15 20:07
>>37 クリミア領がジェノヴァ植民地になったのはいつだっけ?
43 :
世界@名無史さん:03/05/15 23:39
ポーランド王国age
44 :
世界@名無史さん:03/05/16 05:25
すみません。ギリシアの火ってどんな武器だか教えてください。
松明を投げる感じということでよいのでしょうか。
火薬とかは使っていなかったのでしょうか。
45 :
世界@名無史さん:03/05/16 05:43
>>44 ギリシア火は水面に噴射する薬剤。
点火しなくても水面に乗ると燃える。
46 :
世界@名無史さん:03/05/16 09:26
>44
松明を投げるなんて、そんな原始的なもんじゃない。
今でいう火炎放射器に近いよ。
水で発火するのか!
…ナトリウムと油とか?
49 :
世界@名無史さん:03/05/16 11:14
>48
水と反応したのは、成分に生石灰を含むためと言われている。
50 :
世界@名無史さん:03/05/16 11:18
ギリシアの火
7世紀後半シリア出身のカリニコスによって発明された。
秘密兵器のため、製造方法はよく分からないが
生石灰、松脂、精製油、硫黄などを混ぜたらしい。
筒から発射されると火を噴きながら飛び、敵の艦船を
焼き払った。都市攻防戦にも使用された。
51 :
世界@名無史さん:03/05/16 11:25
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53 :
世界@名無史さん:03/05/16 13:16
ギリシアの火ほどヲタどもの劣情を掻き立てるものはそうはあるまい。
「滅亡した国」の「秘密兵器」で、かつて「何度もその危機を救い」、
あまつさえ「現在に製法が伝えられていない」というのだから、
ある意味最強。
54 :
世界@名無史さん:03/05/16 13:49
確かに。しかもあの時代に火炎放射器なんてまさにロマンだよ。
ヒッタイト帝国を滅ぼしてエジプトを襲った謎の集団「海の民」くらい心をくすぐられるね。
55 :
世界@名無史さん:03/05/16 14:12
十字軍の頃にはイスラム軍もふつうに使ってたと思ったけど>ギリシャ火
57 :
世界@名無史さん:03/05/16 15:50
なんでベリサリウスが出てないんだ!!?
58 :
世界@名無史さん:03/05/16 17:08
60 :
世界@名無史さん:03/05/16 17:37
62 :
世界@名無史さん:03/05/16 20:18
ビザンチン帝国と表記されると萎える
朕もそう思う
64 :
世界@名無史さん:03/05/17 01:06
ビザンツってなんか強国、って響きだよな
65 :
世界@名無史さん:03/05/17 03:05
教科書ではユスティニアヌスの大征服ばかりが強調されているが
実際莫大な戦費に国庫は空になり、占領地に重税を課して反発を
招くなど無茶な統治だった。7世紀に東方属州があっさりイスラム
勢力に入ったのも、ビザンツ統治への不満を大きかったようだ。
一方、一般にはマイナーなマケドニア朝の征服活動は余裕があり
バシレイオス2世の死亡時には金庫を拡張したほど財政が豊かだった
という。もっとも後の皇帝達が浪費してしまったが。
66 :
世界@名無史さん:03/05/17 05:47
>>57 ベリサリウスは中世初期で最も優秀な軍人ですな。
533年のヴァンダル遠征ではあっという間にカルタゴを
占領する。535年からのイタリア遠征ではシチリア島から
南イタリアに上陸、ナポリ、ローマを占領。しかし
さすがに東ゴート人の抵抗は激しく、20年も戦争が続く。
552年にようやくローマを確保、555年にイタリア全土を制圧。
ベリサリウスの手腕がなければ地中海帝国の再現は
なかったといえるでしょう。
67 :
世界@名無史さん:03/05/17 09:52
ベリサリウスはユスティニアヌスから嫌われてるらしく。
勝利をする度にしょっちゅうねたまれ隠居生活をさせられてる。
しかも毎回敵よりも少ない兵力しか与えられず、一敗しかしてないらしいから驚きだ。
おそらく歴史上最も優秀な将軍だったのではないか?
68 :
世界@名無史さん:03/05/17 10:13
歴史家の書き残しているテオドラ皇后の若いときの人に言えない職業
とはなんだったのでしょう。
また、サーカスでガチョウを使って強烈なアトラクションを
していたようなのですがそれはどのようなものなのでしょうか。
69 :
世界@名無史さん:03/05/17 12:35
ビザンツ最強の兵器は聖処女の衣。
70 :
世界@名無史さん:03/05/17 13:51
ヴァリャーグ親衛隊にいたノルウェーのハーラル苛烈王はすごいね
結局、1066年イングランドのスタンフォードブリッジの戦いで戦死するのだが
もしノルマンディー公ウィリアムが先に来ていたなら
イングランド王にもなれたのかも
71 :
世界@名無史さん:03/05/17 15:23
>>68 あんた、そこまで知ってるなら、全部知っててわざとボケて
るだろ?
まあ一応、知らないものとしてマジレスすると、テオドラは
サーカスの熊使いの娘で、女優兼ヌードダンサー兼売春婦。
というか、この時代の女優は、たいてい売春婦を兼ねていた。
舞台上で、奴隷が彼女の秘所にムギをまき、それをガチョウ
についばませる、というショウをしたという。
ただし、この記録は、テオドラのことが気にくわなかった同
時代人のプロコピオスによるものなので(おそらく売春婦出
身の皇妃に偏見も持っていたろう)、わざと大げさに、スキャ
ンダラスに書かれている可能性が大きい。割り引いて考えた
方がいい。
72 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/17 19:56
>71
最初の二行と同じことを考えたので放っておいたのですが・・・顔に第二の
性器があるとまで言われたそうですね。勿論「そう書かれていた」という事
でしかありませんが。
73 :
世界@名無史さん:03/05/17 23:30
>72
要するに咥え上手だったんですな。
74 :
世界@名無史さん:03/05/18 05:07
ユスティニアヌスに戦略家としての才能はあったのだろうか。
軍人皇帝ではないから疑問だが、考えが壮大だから好きだな。
北アフリカやイタリア半島のみならず、イベリア半島の南部
まで取るとは、すごい。
76 :
世界@名無史さん:03/05/18 11:27
>74
イベリア半島南部については、ユスティニアヌスの最初からの
構想というより、ヴァンダル王国を追撃して北アフリカを西進
したベリサリウスが「ついでに対岸も攻略できそうですぜ」と
気がついて、「そうか、ならばやれ」というノリのような気が
する。
77 :
世界@名無史さん:03/05/18 11:47
76
あ、でも今調べてみたら、東ローマ帝国(ユスティニアヌスの
時代は、なんかまだビザンティン帝国と呼ぶのは個人的に抵抗
があるので)が、イベリア半島攻略するのは、ヴァンダル攻略
時(535年)よりだいぶ後の554年だった。西ゴートの内紛に
つけこんで、退役してたベリサリウスをわざわざ引っ張り出し
て遠征させてる。
78 :
世界@名無史さん:03/05/18 13:14
そんなところを攻めている余裕があったら、小アジア周辺の確保をしっかりすべきだったのに、
ユスティニアヌス1世は本当に亡国の皇帝だな。
79 :
世界@名無史さん:03/05/18 13:43
東じゃホスロー聖王がいたってのにね。
80 :
世界@名無史さん:03/05/19 03:11
イベリアからは616年頃に撃退されてるね。
ユス帝死の直後にイタリア半島はロンバルド族に奪われたが
しばらく意地でラヴェンナからローマ市にいたる帯状の領土を
確保していた。ヴェネツィアも元はビザンツが建設した街だよな。
また南イタリアのビザンツ遺構は結構豊富だそうだ。一度行ってみたい。
例えば、今の日本が西半分をどっかに取られたりしたら、東北とか北海道が
おろそかになっても、京都や奈良を取り返そうとしたりはしないかな。
82 :
世界@名無史さん:03/05/19 08:13
京都や奈良を失ったばかりか、その足跡さえブルドーザーに
押しつぶされている、ハンガリーはかわいそう。
83 :
世界@名無史さん:03/05/19 10:48
10世紀のヨハネス1世はパレスティナに進撃し、
エルサレムに150kmの地点まで進軍したそうだ。
十字軍の100年前ですな。聖地奪還も考えたのか?
84 :
世界@名無史さん:03/05/19 12:17
>>79 ペルシアって、シャープールとかホスローみたいな
強力な軍人皇帝が出てくるな。いずれもローマや
ビザンツと激突してるが。
85 :
世界@名無史さん:03/05/19 19:22
ビザンツ海軍ってどうなの?
イスラムに敗れるまではもちろん最強だろうが
中世マケドニア朝でも強かったのかな。
主戦場がブルガリア、シリア、アナトリアだから
陸戦中心であまり海軍の出番はなかったと思うが。
86 :
世界@名無史さん:03/05/20 00:47
ホスローIにはユスティニアヌスがいたが
シャー・アッバースIの相手はいまいちだな。
ロシアもトルコも・・・
87 :
世界@名無史さん:03/05/20 09:01
まあ軍事力って多分に経済力に関係してくると思うが
少なくとも12世紀頃までならコンスタンティノープルは
キリスト教世界最大の経済力でしょう。
通貨ノミスマは全欧州の基軸通貨だったし、
ビザンツは軍事力の下地の経済力も強かった。
イタリア諸都市繁栄後は主役の座を奪われたが。
88 :
世界@名無史さん:03/05/20 09:44
マンジケルトの時のビザンツ軍の総兵力は30万って何かの本で書いてあったけど
それって本当だとしたらヨーロッパの国では桁外れの兵力じゃない?
16世紀くらいまでのフランスでも6,7万程度らしいからほとんど中国並みの
動員力だね。 小アジア・バルカン半島地域は金さえあればいくらでも兵の調達が
できる土地なの?
89 :
世界@名無史さん:03/05/20 09:51
ヘラクレイオスの相手のシャープール2世もなかなかのもんだ・・・
一時はアケメネス朝時代の版図を再現したシャーだし。
スマソ。シャープール2世じゃなくてホスロー2世の間違い
91 :
世界@名無史さん:03/05/20 14:16
>>88 当初ビザンツ軍はテマの農民兵士で構成されていましたが
農村危機により徴兵制はすたれ、11世紀以降は傭兵制に
なっていきました。外国人も多く、マンツィケルトでは
何とトルコ人の傭兵も参加していたようです。もっとも
敗因は貴族の裏切りによるものですが。
92 :
世界@名無史さん:03/05/20 23:32
小アジア対イラン高原でいくと
ケマルの相方はレザーか?へぼいが。
後ビザンツ復興を目論んだDQNもいたな。
93 :
世界@名無史さん:03/05/21 01:37
バシレイオス2世の対ブルガリア戦争の凄惨さは有名だ。
死闘の末1014年の会戦で決着をつけ、1万5000人のブルガリア兵を
捕虜とする。皇帝はブルガリア兵を100人ずつに分け、99人の両目を
くりぬき残りの一人は片目を残し、ブルガリア王の元へ帰らせた。
王は驚きの余りその場で倒れ、二日後に死んだと言う。
バシレイオスには「ブルガリア人殺し」の渾名が付けられた。
95 :
世界@名無史さん:03/05/21 17:01
8世紀頃でまともな国家では
イスラム帝国>唐>ビザンツ>>>>>フランク
ぐらいかな。
96 :
世界@名無史さん:03/05/21 17:08
マンジケルトのときのビザンツ皇帝ってだれ?
97 :
世界@名無史さん:03/05/21 17:15
>96
ロマノス何世かだと思ったが。
なまじ勇敢な皇帝だったんで、逃げようとせず戦場に踏みとどまって
捕虜になった。
98 :
世界@名無史さん:03/05/21 17:28
レスthanks!
>>99 「まともな」国家といえるのかちと疑問が。
101 :
世界@名無史さん:03/05/22 02:01
>>96 ロマノス4世(在位1068〜71)。
1071年8月19日、マンツィケルトで惨敗。
皇帝は捕虜となり、奴隷のしるしに耳輪を付けられ
スルタンの前に引き出された。811年にニケフォロス1世が
ブルガリア人に敗れ頭蓋骨を杯にされて以来の不祥事。
マンツィケルトの敗因は貴族アンドロニコス・ドゥーカスの裏切り。
彼はさっさと都に帰り一族の者を皇帝に立てた。
102 :
世界@名無史さん:03/05/22 10:22
世界史上最も堅固な都市はコンスタンティノープルでしょう。
20回以上包囲されて2回しか落ちなかった。テオドシウスの大城壁は
壮大で、今でもイスタンブルの市街に一部が残ってるな。
103 :
世界@名無史さん:03/05/22 16:37
常に異民族の来襲があったからな。
十字軍以降はノルマン人にも狙われてたし。
それだけ軍隊は鍛えられたのだろう。
104 :
世界@名無史さん:03/05/22 18:34
バシレイオス1世成り上がりage
105 :
世界@名無史さん:03/05/22 22:46
マヌエル2世の時代はどう評価されるんだろう。
やっぱり無駄に国力を消耗して衰退のきっかけを作ったということになるのかなぁ・・。
>105
イタリアなんか放っておいて、小アジアの回復に力を注いでおけば・・・
って感じじゃない?
107 :
世界@名無史さん:03/05/23 02:37
マヌエル1世の間違いでは?マヌエル2世は14世紀末〜15世紀初の末期の皇帝。
神聖ローマ帝国のフリードリヒと張り合って抗争を展開したが、
1176年、ミリオケファロンでトルコに敗れ、世界戦略は破綻した。
一説ではトルコのスルタンをそそのかしたのはフリードリヒという。
108 :
世界@名無史さん:03/05/23 16:18
10〜11世紀のビザンツ軍はイスラムに対しても優性だったが
相手が分裂してたからでは?セルジュークには惨敗してるし
統一された大帝国には勝てなかったようだ。
109 :
世界@名無史さん:03/05/23 18:33
ビザンチンって弱いんじゃないの?
だって、8世紀や9世紀でもフランクより弱かったブルガリアに
コロコロと負けまくってたじゃん。
それに1が言うように最強のビザンチン軍だったら、なんで
ロンバルドにやすやすとイタリア一気に奪われたり、進入したブルガリアの
アスパルフに領土割譲する羽目になるんだ?それにスラブにほとんどバルカン半島
全土奪われてるし
もし、これが古代ローマ帝国だったら、ロンバルドやブルガリアやスラブ
ふぜいの小勢力なんか一気に蹴散らしてただろうよ。
ビザンチン帝国っていうと1000年間、周辺異民族に圧迫されたり支配されながら
貢納や外交で細々と辛うじて千年生き残ってきた弱小国家じゃん。
おかしいじゃん。
110 :
レオン3世:03/05/23 19:22
>109
もし本当に弱かったら、民族のるつぼみたいな場所で千年持ちこたえるはずがない。
バックに強大な国力と軍事力があってこそ、巧妙な外交手段が功を奏するのだ。
領土だけで国が強い、弱いを判断するのは危険だ。
ちなみにバシレイオス2世の頃のわが国は、古代ローマの最盛期に匹敵する軍事力が実は
あったはず。
111 :
世界@名無史さん:03/05/23 20:51
マケドニア朝の繁栄を知らない人も多いな。
ブルガリアを服属させ、南イタリアも奪還して、
飛ぶ鳥を落とす勢いだったのだが。
昔の教科書には「ビザンツはユスティニアヌスで最盛期、
あとはジリ貧でした」というのも多かったからな…
112 :
世界@名無史さん:03/05/23 23:32
>>111 昔ではなく今もそうです。
てかベリサリウスもユスティニアヌスと一緒に載せろや!!
>>109 あの民族がしょっちゅう侵入してくる地形であそこまで持ちこたえたのはすごいと思うよ。
て言うか、統一を維持していたこと自体も神業。
114 :
世界@名無史さん:03/05/24 11:43
全てはかつての「世界の首都」ローマに匹敵する帝都・コンスタンティノポリスのおかげ
115 :
テオドシウス4世:03/05/24 19:40
皆さん、大変お久しぶりです。
先の「もしビザンチン帝国が滅びなかったら」スレでは大変お世話になりました。
ただ、最後の方は熱狂的なお方が一人走りなさって残念な終わり方をしたようですが。
ところでビザンチン帝国の軍隊というものは、6世紀を境に大きく性質が変わったと
聞きました。ユスティニアヌスの前後から敵のフン族やゲルマン(特にゴート)の装備や
戦法を多く取り入れて、古代ローマの頃の軍団とは一味違った強力な軍隊をもったということでしょうか?
もしそれが本当ならローマ帝国は蛮族だと蔑んでいたゲルマン・フン族の良い点は認めて
それを取り入れる柔軟性を持っていたことになりますよね。
ローマ世界帝国という建前に固執した反面、躊躇せずに新しいことを始める柔軟性を持ち合わせていたことが
ビザンチンの強さだと思いますがいかがなもんでしょうかね?
それでは。
116 :
世界@名無史さん:03/05/24 20:16
アドリアノープルの戦いでこっぴどくやられたから変えただけでは?
おれが攻めたときはそんなに強くなかったね。
忠告しておくが戸締りには気をつけておけよ。
メフムトって誰?
119 :
世界@名無史さん:03/05/25 14:25
現在サイプラスでは北部と南部に分かれ紛争中だ。
背景ではターキーとグリースが関係している。
まだ「延長戦」をやってるようだな(w
120 :
世界@名無史さん:03/05/25 15:50
>120
だよ。
122 :
世界@名無史さん:03/05/26 02:32
ビザンツ軍の主戦場はブルガリア、トラキアの森林、平野から
アナトリアの高原、シリアの砂漠まであらゆる風土におよぶ。
平原や攻城戦ばかりだった西欧の軍隊より戦闘力が上なのは当然だ。
123 :
世界@名無史さん:03/05/26 11:57
7〜8世紀、2度にわたってアラブ軍に数年間首都を包囲されるなど
滅亡寸前までおちいった帝国だが、718年レオン3世により撃退、
以後国境紛争にとどめた。しかしイタリア半島は南端部を除いて
ランゴバルドの手に落ち、バルカン半島もスラヴ人に奪われ、
エーゲ海沿岸のみの領土に極小化してしまった。ここから
よくマケドニア朝の大帝国まで再建したよ。
124 :
世界@名無史さん:03/05/27 00:42
日本でビザンツ研究で有名なのは井上浩一先生かな。
本も数冊読んだよ。なかなかセンスのある文章。
125 :
世界@名無史さん:03/05/27 12:20
>>109 ローマが強いとかいう以前に過去の帝国と
「中世」の軍隊を比べるのが酷ですね。
126 :
bloom:03/05/27 12:20
127 :
世界@名無史さん :03/05/27 14:22
ユスティニアヌス帝時代は、フン族が軍隊に加わっていたし、
後にはノルマン人も参加。
常に、異民族傭兵(あるいは、降伏・服属した異民族)がいたみたいですね。
やはり財力ですか??
128 :
世界@名無史さん:03/05/27 23:09
バシレイオス二世は有り余る帝国の力を無駄に発散させなかったのが偉いところだな。
>128
ウリもそうニダ。世界制覇できる実力であえて半島北部に限定しているニダ。
130 :
世界@名無史さん:03/05/28 01:38
初期のビザンツ軍はローマ兵の軍装にこだわっていたようだが
中世からは甲冑or鎖帷子と長槍、盾の武装になったようですね。
正統性主張するため、とことん古代ローマ兵の格好してれば良かったのに。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
age
133 :
世界@名無史さん:03/05/29 11:01
世界史の図表見てたんだが、8世紀頃にアラブに首都を
脅かされてるのに、シチリアやサルデーニャ、コルシカなど
地中海の島々を維持していたらしい。古代ローマの
幻影を追っていたのか、現実が見えてないな。
134 :
世界@名無史さん:03/05/29 11:05
>>133 地中海の制海権は首都防衛のためにも重要だろう。
135 :
世界@名無史さん:03/05/29 11:31
>>133 地中海の島々を守備していた軍事力なんて無いに等しい。
(地元の有力者が服属していただけ)
当然、服属を拒んだときには、えらい目に合わされるかも
というところはあったんだろうが。
136 :
世界@名無史さん:03/05/29 19:40
ロードス島戦記age
137 :
世界@名無史さん:03/05/30 09:49
10世紀頃まで、ダルマティア(アドリア海沿岸)から
ヴェネツィアまでを支配していたビザンツ。
まあサン・マルコ聖堂見ても分かるが、ヴェネツィアも
元々はビザンツ都市だからな。
138 :
世界@名無史さん:03/05/30 10:01
>>137 サンマルコ寺院ってビザンツ時代の建物なの?
139 :
世界@名無史さん:03/05/30 12:20
ビザンツオタならやっぱバシレイオスだよね。
ユスティニアヌスは厨房だよ。
140 :
世界@名無史さん:03/05/30 12:25
>>138 ビザンツ時代じゃなくて、十字軍がコンスタンチノープルを
攻め陥とした時の戦利品と十字軍を北アフリカに渡した船賃で
大儲けをして建てたんじゃなかったっけ?
寺院自体はそれ以前からあったんじゃなかったっけ?
確か、商人が、聖人マルコの骨だったか何かの聖遺物を
エジプトから持ち帰って、それを納めたんでしょ?
142 :
世界@名無史さん:03/05/30 15:54
>>141 寺院自体は知らないけど、あの聖堂はビザンツ時代じゃない。
144 :
世界@名無史さん:03/05/30 17:49
>>137 ベネチアはフン族のアッティラがイタリア遠征の時滅ぼした、アクレシア(だったかな?)の町の難民が湿地上に建てたのが起源だったと思う。
ローマ帝国が東西に分裂する前の話。
145 :
世界@名無史さん:03/05/30 17:58
>>142 ベネチアのサン・マルコ寺院はゴシック建築。
聖骸布ってコンスタンティノープルの教会から移したものじゃなかったっけ?
>>139 なにをいう
ラヴェンナのに残るあのヒゲずらがいいんだよ(w
147 :
世界@名無史さん:03/05/31 01:09
バシレイオス方式の出世街道を歩みたい。
149 :
世界@名無史さん:03/05/31 02:23
アッティラは東西分裂後だった。
アエティウスは西ローマの将軍だしな。
アエティウスがイタリアを防衛していたら、ベネチアは存在しなかったかもな。
152 :
世界@名無史さん:03/05/31 03:27
ギリシア十字平面はビザンツ様式の特徴。上部構造物も本来はビザンツ様式
だったが、改築・補修のたびにゴシック、ルネサンスなどの要素が加わり、
現在ではわけのわからんハイブリッドとなっている、はず。
それも又ビザンチンらしいな。
諸民族のごった煮みたいな国だしな。
それに諸様式を重層化か。古代ローマの宗教みたいだ。
初期の寺院は中東起源も多いね。
因みに修道院の起源もエジプト。
154 :
世界@名無史さん:03/05/31 08:58
ペンデンチィヴ(正方形平面にドームきれいに乗せる一手法)を用いてギリシャ十字平面上に
5つの半円ドームをかけたサンマルコ寺院の建築物本体は、コンスタンチノープルにあった
(オスマントルコにより破壊)聖使徒教会の写し。
金色地に聖人の像を描いたモザイク等装飾もビザンチン式。
祭壇什器等にも東ローマから購入したり第4回十字軍で持ってきたものが多い。
ただし正面廻りやあとで高くしたドームの等にゴシック的な装飾が付け加えられた。
さらに内外装のモザイクの一部はルネサンス期以降に改変されている。
建築史上では、ハギアソフィアと並ぶビザンチン式の典型として取り扱うのが一般的。
ベネチアはビザンツ帝国の街だった。
サン・マルコ寺院は数少ないビザンツ帝国のなごり
これでいいのか?
156 :
世界@名無史さん:03/05/31 11:46
ユスティニアヌス帝時代にいた、3人の将軍ってコンスタンティノープルで凱旋式をやっているから歴史に残っているけど、ムンド、ベリサリウス、ナルセス以外に将軍職についていた人いた?
157 :
世界@名無史さん:03/05/31 13:31
>>155 カール大帝時代(800年頃)の歴史地図を見たら、ダルマティアと
イストラ半島、ヴェネツィアのあたりもビザンツ領になってる。
アクィレイアの町もビザンツの影響が強い。
158 :
世界@名無史さん:03/06/01 23:00
じゃあ、後にビザンチン帝国を苦しめたベネチア共和国は蛮族西欧人由来じゃなくれっきとした
古代ローマ人由来だってわけだ。
ビザンチンの人間だって、スラヴ系混ざりまくりでしょ。
160 :
世界@名無史さん:03/06/01 23:09
>122
ビザンツが西欧よりつよいなら、なぜ1204年、ビザンツは西欧人に征服されたりしたのか?
ビザンチンは軍事力ではフランスやドイツよりは下だろう、どう考えても。
カール大帝やオットーやハインリヒ4世とかに圧迫されまくってたじゃん。最後はフランス人が
1204年あぼーんって起こるべくして起きたわけだ。
「ビザンツ=強い」って幻想だよ。
161 :
世界@名無史さん:03/06/01 23:12
神聖ローマ帝国>マケドニア朝のビザンチン帝国
162 :
シュレーディンガーの猫:03/06/01 23:49
マンツィケルト以降は確かに強いとは言いがたいかも。
しかし、バシレイオス2世時代は実際に強かった。
誰か「東ローマ帝国」って言ってくれw
10世紀頃までビザンティンが強力な軍事的影響力を備えていたのは確か
西欧でキリスト教会が強力な聖界軍事力として成立していたのに対し、
東欧で聖界軍事力のような独自の軍事力が発生しなかったのは
ビザンティンの強大な国家的軍事力が存在していたことによる
165 :
世界@名無史さん:03/06/02 01:43
1025年〜1050年の時点では明らかに神聖ローマより上。
ビザンツ軍は南イタリアで神聖ローマ帝国を圧倒していた。
また海軍力では大陸国家のドイツとは比較にならないほど強かった。
166 :
世界@名無史さん:03/06/02 10:35
ビザンツ帝国って場所的に不安定だよね。
よくあんな不安定な場所に1000年も存続したと思うよ。
167 :
シュレーディンガーの猫:03/06/02 11:55
シスマって1054年だっけ。
ローマはちょうど絶頂期から下りつつある時期のビザンティンに
絶縁状叩きつけたわけだ。
168 :
世界@名無史さん:03/06/02 16:25
>>167 シスマっていうと普通は例のバビロン捕囚)後の1378〜1417年にかけて
複数の教皇が並立して正統を争った事件が有名ですが。
東西教会分裂はおっしゃる通りです。
これにより戦略的にも南イタリアの維持が困難となり
まもなくノルマン人に奪われました。
169 :
世界@名無史さん:03/06/02 16:52
170 :
世界@名無史さん:03/06/02 22:16
>165
言い方を変えれば、1025年〜1050年以外では神聖ローマに負けていたと言うことになる。
確かに世界史地図みてもビザンツよりも神聖ローマ帝国のほうが広いし。
>>170 経済力や文化水準などで、終始ビザンツの方が圧倒的に上。
だいたい、君の情報源は世界史地図だけなのか?
無知まるだしだぞ。
172 :
世界@名無史さん:03/06/02 22:32
>>170 ロシアの方が広いから
ロシア>アメリカですか?(プ
173 :
109=160=161=170=171だ。:03/06/02 22:49
それだけじゃないと思う。
ユスティニアヌス以降の東ローマの軍事力についていろいろ考えてみた。
ユスティニアヌスの頃:イタリア征服といっても、東ゴートに辛うじて勝利しただけだし、辛うじて最強だと思う。
ユスティヌス2世〜ヘラクリウス:領土は大きいがロンバルドの攻撃になすすべなし。よって
ササン朝>アヴァール>ロンバルド>東ローマ帝国
ヘラクリウス王朝の頃:イスラム>フランク>東ローマじゃないかな?
イサウロス王朝:ブルガリアに圧迫されていたし末期にはカール大帝に屈服してるし・・・
イスラム>>フランク>ブルガリア>東ローマ
アモリア王朝:さらにブルガリアの脅威が深刻。西欧どころじゃない
イスラム>>フランク>ブルガリア>東ローマ
マケドニア王朝前半(バシレイオス2世まで):ブルガリア王シメオンに降伏した
ブルガリア=東西フランク>東ローマ
バシレイオス2世時代:辛うじてヨーロッパ最強かな、でもウラジミルの攻撃には譲歩して妹を差し出した(ロシア年代記より)。
マケドニア王朝後半〜アレクシオス即位まで:ノルマン人になすすべなかった
神聖ローマ帝国>両シチリア王国、ベネチア>フランス>東ローマ帝国
コムネノス王朝以後:さらに弱体化して西欧のどの国にも負けたんじゃないか?
コムネヌス王朝の頃に東ローマより強かったと思われるキリスト教国を挙げると、
神聖ローマ、両シチリア、ハンガリー、ベネチア、フランス、イングランド・・・
他にもあると思う。
174 :
109=160=161=170=171(続き):03/06/02 22:50
・・・・ほら、上のように考えると東ローマが西洋最強だったのはわずかに、西暦555〜568年と西暦1018〜1025年のみの合わせて、ほんの20年間しか
なかったんじゃないかな?395年から1453年までの1058年間のうちのわずか20年間。
悪口言ったりみんなの主張を故意に否定する気は毛頭ないけれど、どうひいき目に考えても東ローマ軍=中世最強、だなんてとんでもないと思う。
無論、中世ヨーロッパ最強じゃなくてヨーロッパで一番金持ちの国ってことなら大賛成。
俺的には、中世の東ローマ帝国は中国の文弱王朝、宋みたいなもんだと思うけどな・・・
だからこのトピ主のいうビザンツ=中世最強って主張は悪いがどうしても納得いかないんだ。
このスレの趣旨は正しくない(故意にクサすつもりはない、正直ごめんだが)とどう考えても思う。
175 :
世界@名無史さん:03/06/02 22:51
おっと書いている間に2レスはいっていたか。
109=160=161=170=171ではなく
正しくは109=160=161=173=174だ
追伸
170さん、経済文化じゃなく、ここは軍事の議論でしょ?
また、間違えたスマン
追伸
171さん、経済文化じゃなく、ここは軍事の議論でしょ?
でした。
178 :
シュレーディンガーの猫:03/06/02 23:23
言いたいことはわかる。
しかし、170において、神聖ローマ帝国が広いから強いみたいなこと
を言ったのは失敗だったね。
中世の神聖ローマ帝国は、いわば諸侯の連合体のようなもので、皇帝
の力は実に脆弱。この国に限っていえば、広い分だけまとまりがない。
フリードリヒ・バルバロッサのように強力な皇帝がこの国をまとめて
いる時は強いけど、たいていは、対外的にたいした軍事力は発揮する
ことなどできない。現に、第2回十字軍のコンラート3世はイスラム
にボロ負けしているよ。
179 :
世界@名無史さん:03/06/02 23:30
広けりゃ強いのならロシアが最強のはず。
180 :
世界@名無史さん:03/06/03 00:15
>>178 いつまでも人の上げ足とってないかい?
170の野郎の過小評価ぶりには個人的に腹は立つが、それだけじゃない、って173の
カキコでフォローしてるぞ。
181 :
ロベールギスカール:03/06/03 00:36
>>178 でもな〜、そのイスラムにボロ負けしたコンラート3世、ビザンチンのマヌエル1世
よりは強かったしな。
やっぱ、ビザンツは対外的には弱い時期のほうが多かったのか。
>>1
ビザンツ最強伝説はアナタの妄想だった?
182 :
ロベールギスカール:03/06/03 00:38
だとすれば、その分裂弱体ドイツよりもさらに弱かったのがビザンツということになるね。
中世最強の軍隊フス派の前には、ビザンチン軍など虫けらのようなものよ。
184 :
シュレーディンガーの猫:03/06/03 01:14
>>180 >いつまでも人の上げ足とってないか
いや、揚げ足とるつもりは毛頭ないのだが、比較対象の国の力を正しく
認識してないのはまずいでしょう。
>>181 >コンラート3世、ビザンチンのマヌエル1世よりは強かった
対立していたフリードリヒ1世バルバロッサならともかく、コンラート
とはマヌエルは戦ったことはないと思うが、根拠は?
マヌエル1世は一時的とはいえイタリア半島東岸を攻略したり、キプ
ロスを略奪したアンティオキア侯領へ報復に軍を進めたり、ハンガリー
と戦争したりしており、彼の時代のビザンティン帝国はヨーロッパの
国としてはけっして弱体なほうではないよ。まあ、イスラムにはかな
わないけど。
いくら弱いといっても、ビザンティンの方が神聖ローマ帝国の大半の
時代よりはまだマシでしょう。
185 :
世界@名無史さん:03/06/03 01:55
1018年にブルガリアを服属させたころは間違いなく
神聖ローマより強い。当時フランケン朝のもと
イタリア遠征やベーメン、ハンガリー征服など
派手に見えるが、ブルガリアやイスラム勢力よりは
弱い敵。また
>>178のいうように皇帝の権力が
脆弱。一方ビザンツ皇帝は皇帝教皇主義と貴族・教会を
抑えた強大な権力を持っていた。ビザンツの方が強いな。
東洋的な専制国家であったビザンティンと封建国家であった当時の西欧の軍制の差異が
最強か否かを決定する要素となるとはとても思えないが
187 :
世界@名無史さん:03/06/03 10:40
イスラム圏でも地方の一領主とエジプトやスペインとは軍事力が違うのは当然。
同様にキリスト圏でも動員力等が一領主程度の神聖ローマ帝国とビザンツでは違うのは当然と思うが。
188 :
世界@名無史さん:03/06/03 11:21
軍制の差異じゃなくて国内の支配力から来る動員力の差異だと思います。
いや当時の神聖ローマがどんな感じだったの俺は知らんのだけどね。
189 :
世界@名無史さん:03/06/03 16:49
ビザンツ軍は遠征能力がすごい!バルカンから
小アジア、シリアまで時には皇帝自ら遠征していた。
イタリア遠征がやっとの神聖ローマとは規模が違う。
基本的に当時のビザンティンと西欧の軍事制度の差異は両者の特徴の差異に過ぎず、
単純に優劣がつけられる問題ではない
軍事統帥権の強弱は軍制の優劣で決まるのではなく、王権の強弱によって決まる
西欧の封建制王権がビザンティンの東洋的専制王権に比して
常に軍事統帥権の行使において劣るわけではないし、その逆もまたあり得ない
ビザンティンのテマ制はディオクレチアヌス帝の創設した辺境駐留軍制度を継承する
一種の屯田兵制度であり、自作農への軍役奉仕義務の強制により安定的な兵力供給を保証していたが、
10世紀には形骸化し、兵力の不足を傭兵で補わざるを得なかった
また、戦費不足と反乱防止から軍団の新編と廃編を頻繁に繰り返したために
軍の質は低下する傾向にあった
一方、フランク王国の兵力動員システムはテマ制のような単純なものではなかった
召集令は時限立法的な性格が強く、無原則ではなかったが、状況により召集の規模も地域も違い、
召集原理さえ異なることがあった
これをその場しのぎの場当たり的な対応と見るか、柔軟な召集システムと見るかは
議論が分かれるところだが、9世紀以降のフランク軍はほぼ完全な封臣軍へと移行している
中世初期の西欧の封建制は質の高い兵力を供給できた反面、
本質的に永続性や安定性に問題を抱えた軍事システムであり、
カルル大帝の死後の帝国再分裂の際には封建制の原理は分裂の方向へと作用している
191 :
世界@名無史さん:03/06/03 23:36
難しく考えすぎ。アドリア海かイオニア海で
ビザンツ海軍と神聖ローマ海軍(あったのか?)が
対決すればビザンツの圧勝。来る前に沈没。
192 :
世界@名無史さん:03/06/04 13:44
>>190 神聖ローマ帝国との比較はまさにその王権の強弱を問題にしとるのよ。
誰もハナっから「当時のビザンティンと西欧の軍事制度の差異」
など話題の端にも上らせていない。
その点にはちゃんと気づいてね。
193 :
世界@名無史さん:03/06/04 13:59
コムネノス朝のビザンティンの海軍力はヴェネツィア海軍に頼っていたはず
マヌエル1世は卑劣なコンスタンティノープルの在留ヴェネツィア人一斉逮捕事件を起こして
ヴェネツィア人の恨みを買って後の第4次十字軍で報復されるんだと思ったんだが
カール大帝期のフランクのすごい回数の遠征してるけど、
交通・輸送手段のまともになかった時代になんであれだけできたのかな。
現地調達(=略奪)だけじゃ、大軍動員できないでしょ。
意外と、少規模の軍隊だったのかな。バスク人や、ブルトン人、ザクセン人に
苦戦しているしね。パンノニア遠征なんかはどうだったんだろ。
それに、周囲に弱い敵しかいなかったのか??
もっとも、ノルマン人も、略奪戦争で、数万の軍動員してるけど。
その点、遊牧民やイスラムの大きな脅威と常に対峙していた
ビザンツは大変だったね。よくいわれるけど、
西欧にとっての、防波堤的の役割も果たしたよね。
196 :
世界@名無史さん:03/06/04 17:57
経済力から考えてやっぱりビザンツは最強。通貨ノミスマは
バルト海まで機軸通貨とされ、東西物流の集積地であるとともに
ロシアからの物資も黒海を超えて集まった。コンスタンティノープルの
繁栄ぶりは西欧の使節も驚嘆し、くわしく書き残している。
ろくな都市もなく、海上貿易も小規模で、森や平原を騎士が駈け回っていた
当時の西欧人なら大宮殿とビザンツ商船隊に腰を抜かしただろうな。
経済力と軍事力は別じゃないの??
カロリング朝のフランク軍1個軍団の定数は騎兵1万〜1万3千程度であり、
800〜840年のフランク軍には推定で騎兵13万程度の兵力が存在していたと言われている
同時期のビザンティン軍のタグマとテマの総計は8万〜10万程度とされており、
史料の誤差も考慮すれば総兵力は僅かにフランクが上回るものの顕著な差はないと思われる
版図の大きさを考えればビザンティンの動員率のほうが高かったと推測できるが、
これはビザンティン軍の主力であるテマが本質的に戦略機動能力を有さないことが
大きな要因だったと考えられる
773年にランゴバルドへ遠征したフランク軍は3個梯団で編成され、
最後尾の梯団の主力は軍段列だった
現地調達が主であったことは疑問の余地はないが、GS方式の兵站組織が
存在しており、兵站業務の一翼を担っていたことはまず間違いない
806年にシュタースフルトに召集されたサン・カンタン修道院の小部隊は
3ヶ月分の糧食と6ヶ月分の消耗品を携え直線距離で650キロの道程を踏破して
国王集会に参加している
これらのことを考慮すれば、フランク野戦軍がかなりの戦略機動力を有していたと
考えて間違いあるまい
200 :
世界@名無史さん:03/06/04 19:40
>>197 なんで?
権力基盤が弱ければ対外政策に力を割く余裕がないという
ごく当たり前のことを言ってるだけじゃないの。
>>199 参考になりますね。
しかし、やっぱり、大遠征となると、動員可能なのは3万程度ですか。
ユスティニアヌスの遠征が2万5千ぐらいのこと、考えると、
当時は、帝国が目一杯動員しても、たかがしれていたということ??
まあ、フランクが実際にあちこち軍事活動してること、考えれば、
かなりの戦略機動力を有していたとは確かでしょう。
と、いっても、
>>199の議論が該当するのは、カール大帝時代くらい
では??
おっと
>>199の
>カロリング朝のフランク軍1個軍団の定数は騎兵1万〜1万3千程度であり、
>800〜840年のフランク軍には推定で騎兵13万程度の
は、
>カロリング朝のフランク軍1個軍団の定数は1万〜1万3千程度であり、
>800〜840年のフランク軍には推定で13万程度の
の間違いですた
203 :
世界@名無史さん:03/06/04 20:37
カール大帝時代のフランクは確かに強大だがその死後すぐに3つに分割、その後
二つに再編されたことを考えるとやはり最大時のフランクは存続を前提とする国家
としては無理があったとしか言えないわけでその強さは一時の嵐に過ぎないだろう。
その後のフランスは兵力的には類14世時代の軍事革命までは僅か6万に過ぎなかった
わけだから数百年に渡って恒常的に10万から数十万を動員できたビザンツの
比ではないんじゃないか。
カルル大帝死後の帝国分裂はゲルマン伝統の分割相続原理によるものなのだが(苦笑
これは クローヴィスやクロタール1世の逝去の際にも見られるフランクではお馴染みの伝統で
前にも書いたが、封建制はこのよな局面で分裂を助長する方向へと作用している
ただし、一方で封建制がフランクの版図拡大の原動力となった時期もあり、
単純な評価には同意しがたい
>恒常的に10万から数十万
10世紀末には常備兵力は数万程度とも言われているんだが
ビザンティンは10世紀頃まではいわばヨーロッパの軍事技術におけるパイオニアで
特に騎兵戦術で西欧に大きな影響を与えている
一方で、ビザンティンは9世紀頃には既に兵力の安定供給に支障をきたしており、
報酬の遅延や不履行による傭兵の信頼性の低下、量と質の劣化が著しいテマ兵等、
様々な問題も内在しており、封臣軍への移行によって比較的良質の兵員で野戦軍を
編成できた8世紀以降のフランク王国と対照的ではあるな
205 :
世界@名無史さん:03/06/05 10:45
>>204 じゃあなんでシリアやブルガリアに大遠征できたんだ?
ヨハネス1世は十字軍に先立つこと100年にシリア遠征、
エルサレムに150kmの地点まで進撃している。またバシレイオスは
ブルガリアだけでなく現在のボスニア、クロアティアなど
バルカン全域を制圧、これだけの征服事業をやるには
かなりの動員力と良質な兵士が必要だ。やっぱりビザンツは最強。
>比較的良質の兵員で野戦軍を
>編成できた8世紀以降のフランク王国
「8世紀以降」じゃなくて、「カール大帝期だけ」じゃないの??
207 :
世界@名無史さん:03/06/05 17:27
中世の神聖ローマ帝国で最強はフリードリヒ2世でしょうな
野戦では無敗だし、攻城戦では苦戦するときもあるが火砲がなく築城術が発達したこの時代に城を落とすのは難儀だからね
まあそのころはビザンティンはニカイア、エペイロス、トレビゾンドの亡命政権に分裂しているけど
次いでオットー1世か?
どっかのホームページ見てたらバシレイオス2世は確かに版図は拡大したが
戦術的にはあまりたいしたことないとか書いてあったような・・・
なんのHPか忘れたけど
208 :
世界@名無史さん:03/06/05 17:29
そういやビザンティンはロベール・ギスカールにも苦戦しているね
209 :
世界@名無史さん:03/06/05 18:54
>>204 領土の分割相続は民族的伝統とあるが現実にはやはり異なる民族を抱える
カール帝のフランクは余程の能力が無いと維持することができないというのが
本当のところだろう。 そうでなければ一国家にとって王家相続のために
国を分割するなどというのは軽率かつ危険極まりない、マイナスの制度としか
いいようがないだろう。
210 :
世界@名無史さん:03/06/05 18:54
>>206 カルル大帝死後もフランクの軍隊におけるミーレスとカサティの比率は上昇傾向にあった
そのような軍隊において兵員の質が低下していったという意見は非常に興味深い
詳細を教えて貰えないだろうか?
>>205 ビザンティン軍の軍事能力の絶頂は9世紀〜10世紀初頭にかけてで、
それ以降は内含する諸問題が顕在化して軍事的価値は低下傾向にあった
ヨハネス1世の軍事的業績のみを揚げてビザンティン軍が最強だと強弁する主張には
同意しかねる
>>209 広大な勢力圏を単一王権で維持する上でゲルマン伝統の分割相続原理が
不利に作用したことは確かだ
しかし、それとフランク軍の軍事能力には何の相関関係もない
213 :
世界@名無史さん:03/06/05 19:09
なんでそもそもフランク軍なんてものが出てきたの?
神聖ローマとの比較を話題にしていたはずなのに。
214 :
世界@名無史さん:03/06/05 19:58
>>212 軍隊というもの自体が国家を基盤に成立しているのだから常に分裂傾向にある
フランク軍の軍事能力に何の相関関係も無いわけが無いじゃん。
そんな国の軍隊は不安定極まりないよ。
>>206 >>206 >カルル大帝死後もフランクの軍隊におけるミーレスとカサティの比率は上昇傾向にあった
>そのような軍隊において兵員の質が低下していったという意見は非常に興味深い
>詳細を教えて貰えないだろうか?
兵員の質は関係ない。
実際に大軍を動員し、運用できなきゃ、兵員の質がよかろうが、
悪かろうが、無意味。
ノルマンの侵攻になすすべもなかったのが、いい証左である
>>212 王権が分裂すれば、必然的に、一つの権力が維持できる
軍隊も縮小するのはあたりまではないか。
分裂後も、それぞれの国が13万の動員力をもっていたというの??
>兵員の質は関係ない。
「フランク王国で比較的良質の兵員で野戦軍を編成できたのは
『カール大帝期だけ』」と主張する
>>206に対する意見なのだが
何か問題でも?
>王権が分裂すれば、必然的に、一つの権力が維持できる
>軍隊も縮小するのはあたりまではないか。
当たり前ですが何か?
カルル大帝の死後の帝国分裂がフランク軍の軍事能力が
原因ではないと言っているだけですが何か?
>分裂後も、それぞれの国が13万の動員力をもっていたというの??
誰がそんなことを言ったのかな??
217 :
世界@名無史さん:03/06/05 21:57
>>216 つまり言いたい事を要約するとカール大帝期のフランクに限って言えばビザンツより
軍事力は上であり、スレタイのビザンツが中世最強ということは間違ってるって事?
そうじゃないのなら何を主張したいのか細かく教えてくれまいか?
218 :
世界@名無史さん:03/06/05 22:10
とにかく西欧とは総合力が違いすぎる。
12世紀の中世盛期まで西欧はあらゆる分野で完全に遅れていた。
法学も、医学も、ほとんど十字軍が持ち帰った古典が始まり。
ビザンツは数百年前からギリシア文明の継承を続けており
当然、軍事的な戦術も高度なものであったのはうなずける。
>>216 おやおや。
>封臣軍への移行によって比較的良質の兵員で野戦軍を
>編成できた8世紀以降のフランク王国と対照的ではあるな
じゃあ、上記の議論は??どの程度の「良質の兵員からなる野戦軍」
を編成できたのかな??ロクに召集できない軍隊なんて、比較の
対照にならないよ。すくなくとも、ノルマン人に勝てるぐらいの
編成は無理だったみたいね。
>カルル大帝の死後の帝国分裂がフランク軍の軍事能力が
>原因ではないと言っているだけですが何か?
軍事能力が原因でフランクが分裂したなんて、誰がいってるの??
軍事技術や兵員の質がどうあれ、分裂すれば、「軍事力」が弱くなる。
あたりまえでしょう。
>ロクに召集できない軍隊なんて
果たしてロクに召集できなかったのだろうか?
9世紀後半以降のカロリング朝はレクナによる独立自衛を旨とする
軍事力再編の時代であり、ロクに軍隊を召集できなかったとは考えにくい
955年にオットーが編成した8個軍団は国王封臣と4個レクナから召集されている
>ノルマン人に勝てるぐらいの編成は無理だったみたいね。
ノルマン人の脅威はノルマンの軍事戦略の転換もあって9世紀末には
ほぼ沈静化しているのだが
>軍事能力が原因でフランクが分裂したなんて、誰がいってるの??
>軍事技術や兵員の質がどうあれ、分裂すれば、「軍事力」が弱くなる。
>あたりまえでしょう。
だから当たり前だと言ってるのだが(苦笑
「分裂しても軍事力の低下は見られなかった」とは一言も言ってはいない
「フランク軍の軍事能力が原因で帝国分裂が起こったのではない」と言っているのに、
「分裂すれば軍事力は低下する」などと主張されても「そうですね」と答えるしかないな
論点となっていたのは「フランク軍の軍事能力がカルル大帝死後の帝国分裂の要因になったか否か」
ではなかったのかな?
自分は分裂後もフランク軍は強かったなどとは一言も言っていない筈だが
>>バルタン
だから話がずれてるんだよ。論点になっているのは、常に軍事力の比較だ。
フランク>>ビザンツといえたのはせいぜいカール大帝期にすぎないというのは
バルタンも同意するんだよな?
222 :
世界@名無史さん:03/06/06 03:33
ビザンツは戦術面で言えば衰退の一途をたどってる気がする。
223 :
世界@名無史さん:03/06/06 03:56
>>222 マケドニア朝のビザンツ軍の戦術の巧みさはユスティニアヌス時代
以上。「ユス帝以後ジリ貧」説の教科書の影響で誤解が多い。
224 :
世界@名無史さん:03/06/06 03:59
225 :
世界@名無史さん:03/06/06 09:56
伝ニケフォロス2世著『戦術書』に詳しい。
重装歩兵の楔形陣形は504名が12列を作る。
最前列には20名、2列目24名、3列目28名…最後の12列目には64名が並び、
計504名で一軍団を構成する。
主な戦果
961年 クレタ島征服
962年 シリアのアレッポ占領
965年 キプロス島単独領
965年 アンティオキア奪還
975年 パレスティナ遠征、エルサレムに迫る
1014年 ブルガリア軍撃破
226 :
世界@名無史さん:03/06/06 10:51
バルタン氏は自説を披瀝する前に、人が何を言ってるのかを正しく理解するように努力をした方がよろしいです。
>>220 >論点となっていたのは「フランク軍の軍事能力がカルル大帝死後の帝国分裂の要因になったか否か」
>ではなかったのかな?
違う。カルル大帝死後に帝国が分裂したため以前のように強大な国ではなくなった
という話の流れ。
>自分は分裂後もフランク軍は強かったなどとは一言も言っていない筈だが
なら他の方との意見の相違はない筈ですよ。
>>221 マンツィケルトの戦い以前はが抜けているなぁ
228 :
世界@名無史さん:03/06/06 15:56
>>226 そりゃ自分に突っかかってる人に言ってくれ
230 :
世界@名無史さん:03/06/06 18:34
>>229 ハナからフランクとビザンツの軍事制度の違いを問題にしていた人はいない。
>>186でいきなり軍制とか言い出すから、意味が分からなくて突っかかってくる人が出てきて
話が横道に逸れる。
初期のビザンティン軍は帝政末期のローマ軍の伝統を概ね踏襲している
装甲歩兵による楯壁に掩護された弓や投槍を装備する投射兵科は、
従来の重歩兵支援のための散兵から独立的な戦闘兵科へとその地位を向上させている
戦列の側面を防護する騎兵は対騎兵よりも対歩兵を重視するようになっていく
これらの戦術教義の特徴は概ねフランク王国にも普及している
また、短期間で消滅してしまったとは言え、クリヴァノフォロスは西欧の騎兵戦術に
重大な影響を与えている
テマに重点を置いた編制は防勢を基本方針とする消耗戦略に基づいており、
正確に機能すれば非常に有効であったことは想像に難くない
また、恐らくアジアの影響を受けて軍予備に軽歩兵集団であるヴァリャーギ親衛隊を
充てている点は非常に興味深い
ただし、傭兵の比率の上昇に伴い確たる戦術教義に基づく戦闘編成は難しくなってきており、
特に11世紀以降、傭兵とテマ兵の比率が完全に逆転するようになると
ビザンティンの野戦軍は総花的な多国籍軍の様相を呈せざるを得なかった
>>230 はて?
軍事統帥権に関する意見が度々出てきているが、
軍事統帥権は軍制の範疇ではないのかな?
>>232 あくまで神聖ローマ帝国独自の事情について語っていたわけですから、
「軍制の差異が最強か否かを決定する要素となる」か否かという
一般論について議論していたわけではないです。
だから神聖ローマに対してフランクの例を反例として持ち出すのは、
例えば日本の戦国時代の室町幕府の「軍事統帥権」の強弱を語るのに、
家康時代の徳川幕府を例に持ち出して反論するようなものです。
234 :
世界@名無史さん:03/06/06 19:29
あくまで「神聖ローマ帝国に限って」ということなのね。
カルル大帝とかフランクとか関係ない。
まず神聖ローマ帝国って、皇帝自体世襲じゃないという面白い国だし。
ちなみに俺個人は、ビザンツが数百年に渡って強大でいつづけたというのは
違うと思うんだけどね。
実際にはテマ制の崩壊や傭兵の増加、さらには傭兵への給料の不払いによる士気の阻喪等々、
年を経るにしたがって内実はぼろぼろになっていったわけで。
>あくまで神聖ローマ帝国独自の事情について語っていたわけですから、
なるほど、このスレは「神聖ローマ帝国」とビザンティンを比べてどちらが「最強」か議論しているのか
それならタイトルの【中世最強】は不適切だと思うのだが
ま、いいか
10世紀以降の西欧では、西方教会の戦闘性の低下、独立性の高かったレクナの各軍団の
封主の軍事大権の下での一体化が見られるようになる
イスパニアのレコンキスタ、パレスチナへの十字軍運動は結果的に強力な王権の発生を
促すことになる
戦術面においてはドイツで重槍兵が登場、弩兵はフランク時代には既に存在していたが、
十字軍を契機にその戦術的重要性を増大させる
重騎兵は装甲槍騎兵へと発展しつつあり、
11世紀についに地方の有力者たちが石造要塞を中心とした領域支配圏を
確立させるようになり、十字軍の持ち帰ったイスラムの攻城戦技術を取り込んで
更に発展する
こうして神聖ローマ帝国の軍事技術はいまだ発展途上ながらビザンティンとは
一線を画した技術体系を確立しつつあり、13世紀にはついに西欧の軍事技術が
ビザンティンに多大な影響を与えるようになる
つーか、神聖ローマ帝国の頃のビザンティンの軍事能力は緩慢ながら下降しつつあったんだが
あくまで神聖ローマ帝国との比較に限っちゃっていいのかな?
237 :
世界@名無史さん:03/06/07 04:03
もし11世紀初頭の話なら、そのころ中国は北宋の頃ですよね。
経済力は強いが軍事力はそれほどでもない。インドも分裂状態だし、
ひょっとしてビザンツは一時的に世界最強?
>>237 その中国に経済力はそれほどでもないけど軍事力が強い金がおるやん。
中央アジアではホラズムが全盛期だし。
コンスタンチノープルの人口って12世紀には100万人までいったんだよな?
まあそのあと10万人ぐらいに激減するわけだが、セルジューク朝に攻め込まれて一気に弱体したのか?
ところで10世紀中ごろの世界は特別大きな国はなくさまざまな国があるな
ヨーロッパ:東ローマ(マケドニア朝)、フランス、イギリス、神聖ローマ
、後ウマイヤ、レオン、キエフ、マジャール、ポーランド
西アジア、北アフリカ:ファーティマ、アッバース、ハムダン、ブワイフ
サーマーン、カラハン
インド:プラティーハーラ、パーラ、ラシュトラクータ、カリンガ、東ラシュ
トラクータ
東アジア:遼、北漢、後周、荊南、楚、大理、南漢、南唐、高麗、呉越、日本
、(読めん、北ベトナムの国)、占城、真ろう(ろうが変換できん)シュリーヴィジャヤ、クディリ
しまった吐蕃(チベット)を忘れてた・・・・
東ローマや日本はこの中で強いほうなのだろうか・・・・・イギリスやフランスは弱いほうだろうな。
最強はどこか、面積だけなら遼、吐蕃、カラハン、サーマーン、ファーティマあたりがまだ大きいほうだがしかしロシア>>アメリカではない
主な国しか書いてない、アメリカ大陸の国などは省いてある
242 :
世界@名無史さん:03/06/08 03:22
>>238 金やホラズムは12世紀ですが?
11世紀(1000年代)初頭はアジアでは宋、遼、高麗、キルギス、カラハン朝、
アフリカではイドリース朝、ファーティマ朝、エチオピア、ガーナ、カネム、
中南米では中米トルテカ小王国、南米シカン文化ぐらい。
11世紀初頭ではビザンツ世界最強といっても過言ではない。
243 :
世界@名無史さん:03/06/08 03:45
遼には軍事力では負けてるっぽい
245 :
世界@名無史さん:03/06/08 08:38
ビザンツ最強って喚いてる香具師って後づけで設定を捻り出して
ウザいんですけど
246 :
世界@名無史さん:03/06/08 08:45
んだね、中期後期のビザンツは専らスラブ系の傭兵に
頼っていたからねえ。 雇われたブルガルの王が派遣した兵士が
強くても、ビザンツ人自体はカスでしょ
スラブ系のみならずラテン系やトルコ系も少なからぬ兵力を供給している
テマ制の破綻によるビザンティンの軍事的マンパワーの枯渇は目を覆わんばかりだった
>>246 軍隊を構成している人間について云々言うのはあまりにも的外れだろ。
じゃあ、オスマンは? とか、英国軍最強はグルカだし、WW2 太平洋戦線では
インド人主体だなとかいう話になる。
>オスマンは?
オスマントルコは14世紀以降は常備軍化している
戦時に兵員を大規模に徴集しなければならなかったビザンティン軍とは
事情が異なる
>英国最強はグルカ
ネ タ で す か ?
>WW2 太平洋戦線ではインド人主体
第2次世界大戦におけるイギリス陸軍の主戦場はヨーロッパ戦線
それに宗主国と同じ訓練と装備を備えたインド植民地部隊と
言語や装備、戦闘スタイルで統制されていないビザンティン軍の傭兵とは
本質的に異なる
オスマントルコや20世紀のイギリスよりも共和制ローマを例に引いたほうが
まだ説得力がある
つーか、オスマントルコや第2次大戦を引き合いに出すとまた怒り出す御仁が
出てくるんだろうな
>>249 話をずらすな、バカ。お前、自分の日本語読解力に問題があることを自覚しろ。
ちょっとでも自分に都合が悪くなると話をずらすのがバルタンの芸風だからな。
まあ、バカのやることだから放置しとけよ。
そして、都合が悪くなったので、だんまりを決めこんだバルタン。
必死だな
話をずらそうとしているのは
>>248だろう
実際、11世紀以降になると、ビザンツはダメでしょう。
マケドニア朝までか??コムネノス朝も、それなりの
存在感だったみたいだけど。
神聖ローマ帝国との比較は無意味じゃない??
もっとも、神聖ローマ自体、「国」というべきかどうか。
10世紀にはビザンツもまずまずであったというのが、穏当な
議論じゃない??「最強」かどうかはともかく。
一般論としていえば、「傭兵」だから弱いとはいえないと思うけど。
255 :
世界@名無史さん :03/06/09 02:18
256 :
無料動画直リン:03/06/09 02:20
257 :
世界@名無史さん:03/06/09 02:29
>>254 マケドニア朝は11世紀まで続きましたが?
バシレイオス2世が没したのが1025年で、それが絶頂期。
つまり11世紀初頭、ビザンツは最強だったのです。
栄光から没落まで、結構はやいね。
ササン朝とかも、絶頂期のすぐ後にあっけなく滅んだんだっけ。
259 :
世界@名無史さん:03/06/09 13:06
960年ごろから1050年ごろまでの征服活動は本当にすごい。
ビザンツ版「レコンキスタ」といってもいいぐらいの規模だ。
まあ90年程度盛期が続いたわけで、結構長いじゃないか。
260 :
世界@名無史さん:03/06/09 16:45
>>246 >>248 いや傭兵だろうと外国人部隊だろうと、それが正常に機能していれば問題ないでしょ。
ただことビザンツに限って言えば、傭兵に対する給料の未払いなどが頻発して
士気が低下していたのが実情ですから、ちょっと救いようがない。
マンツィケルトでもトルコ人傭兵部隊が敵に寝返ったりしているよね。
261 :
世界@名無史さん:03/06/10 03:14
10世紀後半から1025年まで50年間も帝位にあったバシレイオス2世は
大帝と呼んでもいい偉大な皇帝である。ブルガリアをはじめ
大規模な征服活動を行ったにもかかわらず、死亡時には宮殿の
金庫はうなるほど黄金が積み上げられ、入りきらずに拡張した
ほどだという。地中海帝国を再現したものの国庫を空にし
国土を疲弊させたユスティニアヌス帝とは大違いである。
262 :
世界@名無史さん:03/06/10 08:22
ビザンツって、結局ギリシャ人だろ。ということは彼等は二回も黄金期を築いたことになるな。
263 :
世界@名無史さん:03/06/10 10:56
コンスタンティのポリスでペストが大流行したのって何朝の
時代だったっけ?
264 :
世界@名無史さん:03/06/10 16:42
神聖ローマとの比較では、「ローマ帝国の正統の後継者」という点でも
圧倒的にビザンツが有利である。実際ローマは滅亡前にすでに首都は
コンスタンティノープルに移っており、同じ政体が維持されつづけた
ビザンツは自らもそう呼んでいたように「ローマ帝国」なのである。
一方神聖ローマは教皇からローマ皇帝の冠を受けただけであり、
しかもローマと縁の薄いドイツが本拠地である。彼らもそれを
気にしており、必死にイタリア征服を試みた(イタリア政策)。
しかし客観的にみてどちらが正統であるかは明白である。
>>264 その通り。古代ローマの統治術は全てビザンチンに収斂されている。
西側には影も形もないな。
軍事力の話だっつーのに。
268 :
世界@名無史さん:03/06/11 16:48
ビザンツが最強だった時代は贔屓目に見ても
ブルガリアが服属した1018年からマンツィケルトで敗北した1071年まで。
それでも53年はあるわけで、キリスト教国家の中では強い方だろう。
269 :
シュレーディンガーの猫:03/06/11 19:44
>>263 ヨーロッパ中に大流行した1348年(コンスタンティノープルは
その前年だっけ?)の流行なら、パライオロゴス朝期のはず。
270 :
世界@名無史さん:03/06/11 19:50
>>268 ニケフォロス1世〜バシレイオス2世のマケドニア朝が最強じゃないの?
ユスティニアヌスみたいな版図を拡大しすぎるような無謀なことしなかったし
ただ大土地所有制の急速な展開とともに国土を防衛するテマ制の農民兵の不足
タグマ(中央機動軍)を組織する重装騎兵になれる裕福な者が少なくなり
外国人傭兵に頼りつつあった
特に忠誠心の高く、勇敢なヴァリャーグ(ロシア人やノルマン征服後に逃れてきたアングロ・サクソンを含む)や重装騎兵を翻弄する軽弓騎兵を主体とするトルコ系(クマン人等を含む)が重宝がられたらしいが
しかもこれらの軍や海軍力を維持するため莫大な軍事費を調達すため住民に重税をかけ
(特に服属民族からの)反発、反乱が続発したのが実情でしょ
特に軍事費のかかる海軍はしだいにイタリア諸都市(特にヴェネツィアに)頼るようになった
ビザンツ、ビザンツっていうけど、
正式にはなんて名乗ってたの??
ローマ帝国??「東」ローマ帝国
特に正式な国号なんてのは、ないのかな??
272 :
世界@名無史さん:03/06/12 17:49
彼らは最後まで自分達の国をローマと呼んでいたよ。
実質はギリシャ人によって成り立ってたようなもんだけど。
273 :
世界@名無史さん:03/06/13 02:38
ルーム・セルジュークにしても、ローマの地のトルコ、
という意味だもんな。ビザンツはローマだったんだよ。
274 :
世界@名無史さん:03/06/13 03:36
ギリシャ人とドイツ人が、それぞれ自分の国をローマと
称していながら、どちらもイタリア中部を掌握していない。
なんか笑える。
275 :
世界@名無史さん:03/06/13 17:03
>>274 それでもビザンツは6〜7世紀はローマを支配していた。
一度も領土化してないドイツ人よりまし。
276 :
世界@名無史さん:03/06/14 00:00
>275
一応中世は領有していたのだが。
あと1522年と1943年もw
277 :
世界@名無史さん:03/06/14 03:08
ビザンツのイタリアに対するこだわりはすごかった。
6世紀中ごろから1071年まで約500年間、南イタリアに
勢力を維持した。12世紀にはコムネノス朝のマヌエル1世が
イタリア奪還を目指して派兵、一時はイタリア半島東岸を
占領したが、まもなく敗北した。イタリア支配はローマで
あることの証だったんだな。
278 :
世界@名無史さん:03/06/14 03:55
細長いイタリア半島の更に東岸だけを占領ってのもなんか切ないな。
海岸の砂浜辺りを占領したんだろうか。
279 :
世界@名無史さん:03/06/14 10:34
>278
イタリアが細長いといっても、
日本の東北地方ぐらいの幅はあるぞ。
280 :
世界@名無史さん:03/06/14 12:33
>>279 青森と岩手と宮城だけって感じ?十分切ない。
282 :
世界@名無史さん:03/06/14 12:46
名前のこだわりだけで戦争やってりゃそりゃ滅びて当然
283 :
世界@名無史さん:03/06/14 14:53
>>280 岩手の三陸沿いは占領したが盛岡までは届かなかったって程度だったと思うよ。
かなり切ない。
この調子だと、そのうち「ビザンツは南部氏以下」とか言い出すやつが
出てきたりして(w
286 :
世界@名無史さん:03/06/14 16:22
つーか故郷を追い出されてメンツもギリシア人がメインになったのに
それでも故郷を目指して頑張って頑張ってそれでもダメだったのがビザンツ?
何か野生動物の帰巣本能みたいで哀れを感じるな
287 :
世界@名無史さん:03/06/14 20:10
>286
マヌエル1世の領土回復戦争はビザンツ帝国が「ローマ帝国」を目指していた数少ない時期です。
むしろ「ローマ」の建前を目指していた時期は非常に少ないのです。マケドニア王朝期にはイタリ
アの支配権は縮小する一方でしたし。現実的な支配者は「ローマ」を建前としながら統治を行って
いたと思います。
マヌエル1世はイタリア征服のみならず「ヘラクレスの柱」まで遠征しようとしていた節がありか
なり背伸びをしていたと思われます。
288 :
名無し三等兵:03/06/15 05:16
>>288 面積から見ても神聖ローマとそれほど差はないのか?
支配してる海域ではだんぜんビザンツのほうが広いな。
何せ黒海まで勢力圏だから。
ユスティニアヌス朝とマケドニア朝の間の時期も
そんなにダメじゃないでしょう。
確かに、ノルマン・ブルガール・アヴァール・スラブ人・イスラムが
相次いで押し寄せ、ビザンツは守勢にたったけど(ヘラクレイオス期は攻勢?)
一応、小アジアから、バルカン、地中海に及ぶ大国だったわけでしょ。
まあ、軍事力最強とはいえなくてもさ。
地理的に、コンスタンティノープルが包囲・襲撃されやすいので、
守勢のイメージが強くなるのかな。
291 :
世界@名無史さん:03/06/15 18:07
アレクシオスってなんとなくユスティニアヌス的な頑張り方をしちゃったイメージが
あるんだけど一応、ビザンツ帝国最後の栄華みたいな感じもするじゃん。
具体的に彼とあの頃の帝国の状況ってどうだったの?
292 :
世界@名無史さん:03/06/15 18:18
>アレクシオスってなんとなくユスティニアヌス的な頑張り方をしちゃったイメージが
ちがうな。
ユスティニアヌス以後は帝国は極端に衰退したがアレクシオス以後は1180年までは
帝国の勢力は着実に進展した。もっとも孫のマヌエルがユスティニアヌスばりに外征しまくって
国力をつかいはたしたがな。
ユスティニアヌスっぽいというならアレクシオスではなくマヌエルだ。
アレクシオスは破綻しかけの帝国を立て直したのだから、むしろユスティニアヌス以前のアナスタシウス1世に似てる
173です。
やっぱビザンツ最強だなんて迷信なんだよ。ぶっちゃけ先日、俺が書いた下記が妥当なラインっしょ?事実、俺以外にもビザンツ最強説に異唱える声も少なくないし「
ユスティニアヌスの頃:イタリア征服といっても、東ゴートに辛うじて勝利しただけだし、辛うじて最強だと思う。
ユスティヌス2世〜ヘラクリウス:領土は大きいがロンバルドの攻撃になすすべなし。よって
ササン朝>アヴァール>ロンバルド>東ローマ帝国
ヘラクリウス王朝の頃:イスラム>フランク>東ローマじゃないかな?
イサウロス王朝:ブルガリアに圧迫されていたし末期にはカール大帝に屈服してるし・・・
イスラム>>フランク>ブルガリア>東ローマ
アモリア王朝:さらにブルガリアの脅威が深刻。西欧どころじゃない
イスラム>>フランク>ブルガリア>東ローマ
マケドニア王朝前半(バシレイオス2世まで):ブルガリア王シメオンに降伏した
ブルガリア=東西フランク>東ローマ
バシレイオス2世時代:辛うじてヨーロッパ最強かな、でもウラジミルの攻撃には譲歩して妹を差し出した(ロシア年代記より)。
マケドニア王朝後半〜アレクシオス即位まで:ノルマン人になすすべなかった
神聖ローマ帝国>両シチリア王国、ベネチア>フランス>東ローマ帝国
コムネノス王朝以後:さらに弱体化して西欧のどの国にも負けたんじゃないか?
コムネヌス王朝の頃に東ローマより強かったと思われるキリスト教国を挙げると、
神聖ローマ、両シチリア、ハンガリー、ベネチア、フランス、イングランド・・・
他にもあると思う。
俺はユスティニアヌス以後のビザンツ帝国って中国の宋王朝みたいな存在だったと思うよ。
簡単に例えれば、
古代ローマ帝国=唐王朝
ビザンチン帝国=宋王朝
フランクあるいはブルガリア=遼王朝
12世紀以降の西欧勢力=金王朝
296 :
世界@名無史さん:03/06/15 19:00
>>293 >ウラジミルの攻撃には譲歩して妹を差し出した
妹をとつがせたのは、当時、バシレイオス2世が国内の
大貴族の反乱に手を焼いていて、それを鎮圧する援軍を
得るためだよ。
297 :
シュレーディンガーの猫:03/06/15 19:06
>>294 私のイメージではむしろ、
古代ローマ帝国=漢帝国
ゲルマン諸民族=北朝
東ローマ帝国=南朝
オスマン・トルコ=隋・唐
298 :
世界@名無史さん:03/06/16 02:01
>>249 すでにこのスレで何十回も繰り返してるが、「ユス帝以後」でまとめるのは
やめてください。教科書の影響だと思うが、ユス帝が死んでから滅亡までの
約900年近くの間、「緩慢な衰退」を続けたという間違った解釈が横行している。
実際はかなりの紆余曲折があったわけで、滅亡寸前から立ち直って栄えたりを
繰り返している。この前EUの欧州共通歴史教科書を見たら、マケドニア朝の
繁栄をきちんと地図付きで解説してあって、さすが本場は違う、と思ったよ。
>>298 バルタンに何を言っても無駄。というか、すでに論破されて逃げ出してる。
300 :
世界@名無史さん:03/06/16 14:09
ビザンツが強いか弱いかはともかく、例えばブルガリアとの
戦闘でも、具体的な戦術、戦法の記述がなかなか出てこない。
海外の文献をあさればあるかもしれんが、陣形のことなど知りたいな。
301 :
世界@名無史さん:03/06/16 15:00
ビザンツは晩年の混乱期以前は常にイタリアと並んでブルガリア、セルビアを
攻めまくってるが、あの土地ってそんなに魅力があったの?
征服と反乱の繰り返しで傍目には徒労を重ねてるようにしか見えないが。
302 :
世界@名無史さん:03/06/16 16:29
>>301 あそこを制圧しないと帝国にとって脅威となるからです。
12世紀末にはブルガリアが復活して再び強大化したし
14世紀の中世セルビア王国はバルカン西部を席巻しました。
これらをおさえておかないと恐ろしいのです。まあ結局
両方ともオスマン・トルコにねじ伏せられましたが。
303 :
世界@名無史さん:03/06/16 18:16
304 :
世界@名無史さん:03/06/16 19:57
>>303 神聖ローマがピサ領のサルデーニャやコルシカを必死で確保
してるのが滑稽だな。ビザンツと違って古代ローマとは縁の
薄い(ていうか辺境)のドイツに成立したゲルマン民族の
国家だから、地中海に勢力を持ってかっこつけようとしたんだ。
そりゃ当時の海軍は茶色い海軍だから地中海の水線沿いに拠点を持つのは大事なことだし
307 :
世界@名無史さん:03/06/18 03:16
世界史上唯一の1000年帝国ビザンツ。
その栄光は永遠に不滅である。
308 :
世界@名無史さん:03/06/18 17:28
>>303 ほんまにクリミア半島まで取ってたんかいな。
309 :
世界@名無史さん:03/06/18 17:50
>307
唯一……なのか?
不滅……なのか?
310 :
世界@名無史さん:03/06/19 02:35
>>303 ファーティマ朝の方が強いんちゃうの(w
311 :
世界@名無史さん:03/06/19 12:11
>>308 11世紀にはどうだったかわからんけど
ハザールの侵入までクリミア・ゴート人はビザンティンの貴重な傭兵供給源だったらしよ
西ゴートも東ゴートも滅んだあともしばらくクリミア・ゴート人は存在したらしい
312 :
世界@名無史さん:03/06/19 12:45
やっぱりファーティマ朝は強かったのか?
っていうか中世の西洋って文化的には世界最低(いくらなんでも最低ではない?)だったわけだが決して弱いわけではなかったのでは?(アイユーブ朝と互角に戦ったリチャード一世。寧ろフランスの諸侯がセルジューク朝を侵略した(?)第一回十字軍は?)
あと教科書にはカール大帝のカロリングルネサンスにより「フランク王国はビザンツ帝国に並ぶ強国となった」と書いてあるのだが・・・・そのあとフランク王国は分裂したんだよな?800年の東ローマにカール大帝のころのフランクが並ぶ程度なら・・・
314 :
世界@名無史さん:03/06/19 17:41
>>313 >あと教科書にはカール大帝のカロリングルネサンスにより「フランク王国は
>ビザンツ帝国に並ぶ強国となった」と書いてあるのだが
どこの教科書だ?戯れ言もほどほどにして欲しいね。文化的からしても
当時のフランクに壮大なドーム型寺院、絢爛たる黄金モザイク、イコン、
きらびやかなギリシアの古典の写本があったのだろうか。ド田舎の
アーヘンの掘っ立て小屋みたいな宮廷に外国人の学者集めただけだろ。
それから300年後の12世紀にビザンツの使節がフランスを訪れているが
その時ですらヨーロッパ人はビザンツ人の優雅なふるまいや、
豪華な衣装に驚いたたそうだ。無知にもほどがあるね。
315 :
世界@名無史さん:03/06/19 18:37
なにを熱くなっているかわからんが
中世西欧も11世紀ぐらいになると農耕技術ではビザンツ、イスラムを凌駕してるよ
航海術や海軍力もイタリア諸都市やハンザ同盟諸都市が飛躍的に進歩したんだが・・・
316 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/06/19 22:36
>>314 つーか、”強国”の必要条件に文化は入るのかな?あんたは文化面にしか触れていないようだけど。
近代ロシアなんかは強国といえないとでも?
軍事力と言えば、フランク王国以降の中世ヨーロッパでは、築城・攻城技術がイスラームに比して優れていたそうだ。
317 :
世界@名無史さん:03/06/19 23:56
まああれだ。
西欧が劣っているイメージを妄想して悦に浸りたがる奴が
たくさんいるってことだ。
318 :
世界@名無史さん:03/06/20 01:26
結局は滅んだ国なのにね。
319 :
世界@名無史さん:03/06/20 01:35
日本では教科書の悪影響により西欧最強と思ってる人が異常に多い。
しかし実際にはユスティニアヌス法典やギリシア古典が伝わるまで
西欧には神学以外のまともな「学問」は存在せず、科学的知識ゼロの
軍事力はビザンツに劣っていた。12世紀の中世盛期を持ち出す人も多いが、
それも14世紀にはペストの影響で再び「暗黒の中世」に逆もどりしている。
結局、12世紀までは西欧は完全にビザンツやイスラムに遅れをとっており、
十字軍時代の東西交流でようやく追いついたというべきだろう。
>>320 十字軍「時代」と言ってるのに。第一回は1096年、
4〜5年で東西交流本格化するわけないやんか。
>>321 ありがとう。マンツィケルトの戦いの詳細もあったよ。
ttp://plaza4.mbn.or.jp/~tactic/mantikelt.html ビザンツ軍は兵力では優勢ながらそれに油断、奇襲を受けたり、皇帝軍が敵陣のど真ん中に
突っ込んだり、戦術がめちゃくちゃ。でも、これは裏切りや、皇帝がバカだったからで、
バシレイオス2世なら絶対こんな戦いはしなかっただろう。特に戦力についての記述では
>* 東ローマ(ビザンチン)帝国軍について
>3千台もの車両で構成された大規模な軍需品の輸送隊や、移動に1200名の人力が必要な
>巨大な投石機(マンジャニーク)などの立派な装備を用意していましたが、兵士の多くは種々
>雑多な民族(ブルガリア人、フランク人、ノルマン人、トルコ系遊牧民など)の傭兵たちでした。
>東ローマの正規軍は、装備も馬も満足に持たない実に貧相な状態で、往年の重装騎兵部隊
>(カタフラクト)は過去のものとなっていました。
とあり、逆に考えるとカタクラフトが隆盛を誇った往年(10世紀から11世紀前半まで)は
かなり強力な装備と騎兵がいたことが分かる。
324 :
世界@名無史さん:03/06/20 07:53
>>323 それにしても弱いな…
1071年ごろにはここまで腐ってたとは。
325 :
世界@名無史さん:03/06/20 14:14
ビザンツ軍の総兵力はいくらくらいかな?
326 :
世界@名無史さん:03/06/20 17:45
>>319 ねえ、知ってます?
12世紀南伊のノルマン王国やフェデリーコ(フリードリヒ)2世を
サレルノ大学では特に医学
パレルモでは幾何学や天文学がかなり発達したんだが
アルビジョア十字軍の影響で南仏から吟遊詩人も多数亡命し
ダンテにつながる文学も発展してるし
別に神学だけじゃないよ
フェデリーコ2世の立法に関しても現代の法学者に注目されているだけど
西欧の農業に関して言えば
三圃式農法はもちろん、大鎌の発明、牛耕から馬耕への変更、それに使用される鉄製鋤の改良
水車・風車による穀物加工技術の向上、灌漑技術の向上などにより生産量の増加、
貨幣の導入によりネットワーク都市が復活して人口が飛躍的に増加したんですよ
まあそれが十字軍発生の一因にもなるんだが
327 :
世界@名無史さん:03/06/20 18:04
なんか>319の方が「国民の教科書」かなんかの
西欧蔑視の影響受けてるんじゃないの
328 :
世界@名無史さん:03/06/20 18:50
明治以来の西欧賛美はもう秋田。
ビザンツやイスラムのほうが先進地域であることは
当時の西欧の人々も知っていた。だから東方を目指したんだよ。
いくらなんでも中世の西洋が文化的に遅れてたというのは常識だろ、軍事力は別として。
>>326 引き合いに出すのがイスラムフリークのフリードリヒ2世でつか?
331 :
世界@名無史さん:03/06/20 20:15
>>323 >3千台もの車両で構成された大規模な軍需品の輸送隊や、移動に1200名
>の人力が必要な 巨大な投石機(マンジャニーク)などの立派な装備を用意
>していましたが、
やぱーりビザンツ軍はすごい!豪華な装備も経済力の裏付けなんだろうな。
ヤル気ゼロの傭兵軍団じゃなければ最強だ。
332 :
世界@名無史さん:03/06/20 23:55
7〜8世紀にアラブ人を撃退した自由農民によるテマ軍団も農業危機、大土地所有の
進展による没落によって兵力にならなくなった。そこで皇帝は農民軍をあきらめ、
徴税によって傭兵部隊を編成、これが10〜11世紀の征服活動で大活躍し中世最強を
誇った。しかし郷土を愛し、士気の高い農民軍に比べ、傭兵部隊はしょせん
金のために戦う兵士だった。結局トルコ人に対する敗北も、士気の低い傭兵に
頼りすぎたことも大きいだろう。皇帝達もバカじゃないから大土地所有の抑制を
試みたが、貴族の激しい抵抗で頓挫した。自由農民によるテマ軍団がもっと維持
できれば、トルコ人にも勝てただろう。残念なことだ。
やっぱり、大砲の装備が遅れたってのが致命的だったんじゃ
ないかな?
それと城壁。コンスタンティノープルの城壁は、大砲を想定
してなかったんだって?
334 :
世界@名無史さん:03/06/21 02:21
>>333 してないでしょ〜! だって城壁絶対優位の中世攻城戦の時代に巨大都市化して
それを収容するために更に中世式城壁を拡大しておいて、衰退期の金が無くなった
時期に火力戦型の全く新式の軍備を作り直す力はさすがに無いんじゃないかな。
335 :
無料動画直リン:03/06/21 02:23
336 :
世界@名無史さん:03/06/21 04:26
昨日図書館でちょっと調べたんだけど、ビザンツ帝国が隆盛をきわめた
理由の 1 つには、ローマ、ギリシア、ゴート、中東での戦争経験から
学びとったノウハウを集めて運営していた、優れた軍隊の存在があったようだ。
軍隊の中核は、重装騎兵からなる突撃部隊であった。部隊は、軽装歩兵隊
(射手) と重装歩兵隊 (甲冑をつけた剣士) の支援を受けた。軍隊は
軍管区制 (テマ制) と呼ばれる複数のユニットに編成され、それぞれ戦術と
機動作戦の演習を行った。将校は軍事的な歴史と理論の教育を受けていた。
ビザンツ軍は、ほとんどの場合数のうえで劣っていたが、優れた戦術と
統制のとれた行動によって、訓練を受けていない敵側戦士の大群を圧倒した。
軍隊は、スパイと諜報員のネットワークを縦横に張り巡らし、軍事活動の
助けになったらしい。
スパイと諜報員は、敵の作戦に関する情報をもたらし、また攻撃者を賄賂で
手なずけたり、攻撃の矛先をそらしたりして貢献したそうだ。
単純に武力だけで勝負してないところが「狡猾」を絵に描いたような
ビザンツ人を象徴してるね。
337 :
世界@名無史さん:03/06/21 16:26
結局帝国に穀物と軍馬と供給してきた小アジアを失ったことが
致命的だったのか。イタリアなんかに兵をふりわけるからだよ。
339 :
世界@名無史さん:03/06/22 16:39
まあどうしても文化は他地域からの影響を受けて成立するのがほとんどだからな
イスラム文化も古代ギリシャやササン朝の文化がベースになっているし
340 :
世界@名無史さん:03/06/23 01:30
ビザンツ軍の強さはその経済力に裏打ちされていた。
中世の西欧にコンスタンティノープルのような巨大都市はなく、
イタリア諸都市を別として東西交流の一大中心地として
長安やバグダッドと並ぶ繁栄を謳歌した。この経済力は
軍事力に注がれ、首都の造船所では海軍の軍艦が建造され
ギリシアの火を装備した強力な攻撃力を誇った。
341 :
世界@名無史さん:03/06/23 15:24
西欧の文化が神学しかないとか
西欧偏重というのにひっかかりを感じるので書き込むけど
「ビザンツ 幻影の世界帝国」という本があるが
主人公はコムネノス朝第3代皇帝マヌエル1世
彼は非常なラテン人(西欧人)びいきだったそうだ
服装は勿論、西欧風騎士トーナメントを行い自らも参加した
また騎兵「戦術」も西欧から取り入れ
西欧風の主従関係も取り入れた(キリキア王国と主従関係を結んだ)
普通、「かなり」劣った文化の風俗や制度を先進国が取り入れるだろうか
確かにラテン人はアルメニア人やモスリム諸国よりビザンツ人の評価は下だが
貨幣経済がごく上層の一部しかなかったブルガリア人(第一次帝国)よりは上
それに劣った地域であるはずのイタリア商人が帝都を闊歩しているのはナゼか
しかも彼らはギリシャ語など外国語に堪能でビザンツの法にも通じていたらしいのだが
342 :
世界@名無史さん:03/06/23 15:40
アルメニア人と言えば
ビザンティンの絶頂期のマケドニア朝は
功績によりマケドニアに土地をもらったアルメニア人貴族の出なんだよね
343 :
世界@名無史さん :03/06/23 17:58
>>341 マヌエル1世というとビザンツ皇帝の中でも「西欧かぶれ」として有名で、
極めて特異な例。そんなのを持ち出してもほとんど意味はない。
実際マヌエルの西欧好きは国内でも反発を買っていた。当時の年代記にも
「西欧人は教養がない、粗暴で戦いを好む」とあるし(井上/栗生沢
『ビザンツとスラブ』中公新社)、有名な歴史家アンナ・コムネナ
(アレクシオス1世の皇女)も十字軍の際、「アドリア海からジブラルタル
までの野蛮人がこぞってやってきた」(同書)と記している。
ローマ帝国を自称してたビザンツがゲルマン民族に憧れるわけないだろ。
読み書きできず、風呂も入らない連中に。
344 :
シュレーディンガーの猫:03/06/23 18:14
>ビザンツ皇帝の中でも「西欧かぶれ」として有名
後漢の霊帝が「胡」を好んだようなものかな。
345 :
世界@名無史さん:03/06/23 18:54
東欧人はアジア系
346 :
世界@名無史さん:03/06/24 01:33
850年ごろのビザンツの国家財政
・歳入:3300ノミスマ
土地税 1125
世帯税 1250
付加税 475
商業税 150
その他 300
・歳出:2840
軍事費 2288
文官給与 452
その他 200
剰余金:460
>>346 近代国家の財政と比較しちゃいけないんだけど、いまの感覚からすると
とんでもなく軍事偏重だね…。軍事費の比率がWW2のときの日本なみやん。
348 :
世界@名無史さん:03/06/24 02:23
1ノミスマって凄く高額なんだろうな。
下級官吏の年収だと何人分くらいなんだろう。
思えば、ネットでビザンティン関連の情報を探しててたどり着いたのが世界史板なんだよなぁ。
350 :
世界@名無史さん:03/06/24 14:37
>>343 アレクシオス1世もヨハネス2世もヴェネツィアとは親しかったはず
アンナはロベルト・グィスカルトの嫡男ボエモンドを褒め称えているがね
ただそれを上回るのは父アレクシオス1世ただひとりと言っていなかったけ
ラテン人に教養がないのは事実だが
それはラテン語をはじめ知識を「教会」が独占した為でしょうが
だから「教会」に反発した
>>326が指摘する国々が
「教会」を介さない独自の官僚を育てる為、大学を設立したんじゃないの
>風呂も入らぬ連中
これは単なる偏見でしょう
日本だって十二単を着ている貴族が風呂に入っていたと思えんし
江戸時代でも農民クラスはよほど裕福な名主でないかぎり風呂なんか入れんと思うがね
ヨーロッパでもキリスト教に帰依していなかった時のノルマン人なんか沐浴とかよくしていたけどね
アングロサクソン人がデーン人を襲撃する時この沐浴時を狙ったいうしね
風呂に入らぬのは中世キリスト教の教義からだからやむを得んでしょう
351 :
世界@名無史さん:03/06/24 15:01
ビザンツでは軍の指揮官に
アルメニア人、トルコ人、ランゴバルト人など外国人を登用していたらしい
でもビザンツの最大の力は軍事力にあらず
外交こそビザンツが長命を保った秘訣
「夷を持って夷を制す」
ただし、たまに矛先がビザンツ自身に返ってくる事があるが
352 :
世界@名無史さん:03/06/25 03:44
>>348さん
スマソ。
>>346を訂正するよ。単位は1000ノミスマじゃった。
恥ずかし〜、逝ってきます。
353 :
世界@名無史さん:03/06/25 03:52
>>346 出典くらいageるように。
どうせ誰でも簡単に入手できる本なんだから。
355 :
世界@名無史さん:03/06/25 07:48
こないだバイトの塾講で
イスラムの成立くんだりで
ビザンツ帝国とササン朝ペルシアが六世紀から抗争を繰り返したのって
なんで?って質問受けたんですけど
んなことしらねーんでてきとうなこと言っちゃいましたよ。
皆さんならなんて教えますか?
何ででしょうね?
ローマとパルティアの時はアルメニア問題が大きな理由だったけど。
357 :
世界@名無史さん:03/06/25 14:20
ホスロー2世のときにシリア、パレスティナ、エジプトを一時占領てるから、
やっぱ当時としては豊かなこれらの地域が欲しかったんじゃない?
ヘラクレイオス帝が最終的にイスラムに敗れてシリアから敗退するとき、
「さらばシリア!なんと素晴らしい国を敵に渡すことか!」と叫んでるし
当時は先進地域だったんだろ。
358 :
世界@名無史さん:03/06/25 16:03
ビザンツ軍の装備は高い技術力によって支えられていた。
機動性に富む軍艦はギリシアの火を駆使して相手の艦船を
攻撃した。攻城用の兵器も大掛かりで、城壁を打ち破るのに使われた。
巨大な梯子状の構造物を城壁に付け、上から携帯型のギリシアの火で
火炎放射攻撃を行った。ビザンツといえば重装騎兵ばかりが注目されるが、
大規模な都市攻防戦も得意としていたようだ。
360 :
世界@名無史さん:03/06/25 16:10
シリア、パレスティナ、エジプトは大穀倉地帯だったらしいね。
井上教授の本にはそれらを失って以来、首都住民に対するパンの配給を
止めたって書いてあったから。
361 :
世界@名無史さん:03/06/26 09:00
>>358 それぐらい、十字軍も持っていったと思うが…
エルサレム攻囲戦で写本に描かれてるだろ。
362 :
世界@名無史さん:03/06/26 14:00
>>360 その通り
ただその後、ニカイア帝国時代には領域は小アジア西部に限定したにもかかわらず
農業は盛んでモンゴルの侵攻で痛手を蒙ったイスラム諸国に食糧を輸出して
大きな利益を得てラテン帝国やライバルのエペイロス専制国に対抗出来うる軍事力を得たらしい
363 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/06/26 23:14
>>358 中世西欧では、攻城戦に固執する傾向があったそうだ。
だから、西欧の攻城兵器は非常に優れていた。
規模では流石にビザンツに劣るだろうけど、その性能は優っていたはず。
>>359 ビザンツではどうか知らないけど、少なくとも西欧では、攻城兵器は現地で木ぃ切り出して建造したよん。
364 :
世界@名無史さん:03/06/27 02:46
小アジアはビザンツに自由農民の兵士と軍馬を提供していた。
同地域をセルジューク・トルコに奪われて衰退に歯止めがかからなくなった。
コムネノス朝ではある程度回復に成功したが、誇大妄想のマヌエル1世が
イタリア遠征したせいで兵力が疲弊、ミリオケファロンで歴史的惨敗を
喫し、永久にイニシアティブを取り戻すことなかった。
>>347 まぁ、税の使い道の最も原始的な使い方は生存圏の確保≒軍事力な訳だが。
19世紀くらいまで何処の国でも歳出の殆どは概ね軍事費だよ。
366 :
世界@名無史さん :03/06/27 10:18
既出のビザンツの財政表から軍事費の内訳を書いとくよ。(単位1000ノミスマ)
軍事費 2288
テマ軍給料 1130
中央軍給料 327
特別軍事職 70
不正規軍 15
海軍漕ぎ手 540
戦艦将校 31
遠征費 125
その他 50
367 :
世界@名無史さん:03/06/28 00:13
sage
368 :
世界@名無史さん:03/06/28 13:20
ビザンツは「劇場国家」といわれるほど儀式や慣習にこだわった国だからな。
さすがに戦闘の場面では鎌倉武士みたいなことはしてないだろうが、
ローマ帝国であることを示す何かはあったんだろうな。
369 :
世界@名無史さん:03/06/30 10:50
1025年にバシレイオス2世が没して
それまで貧農保護のためのアレレギュオン制度が廃止され
貴族が台頭し始めた
もともとこの制度は貧農が滞納している税を貴族たちに
力で強制的に支払わせる制度だから
バシレイオス2世のような強制力のある軍人皇帝でなければできないのだが
370 :
世界@名無史さん:03/06/30 11:09
1025年以降急激にビザンティンの力が衰えたわけでない
皇帝はどうしようもないが
有能な将軍がいた
「ビザンツ帝国史」や両シチリア・ノルマン王国の本によく出てくる
ゲオルギオス・マニアケス将軍
彼はヴァリャーグ軍団など指揮して南イタリアや小アジア・シリアで転戦勝利し
よく帝国を守った
南イタリアのランゴバルト人諸侯は彼に圧倒され
対抗するためノルマン人を誘致したともいわれる
マニアケスは不甲斐無い皇帝に反発して
1043年反乱を起こすが不慮の事故で死亡
その首を都で晒されてしまう
もし反乱が成功して即位したならば
バシレイオス2世のような強権政策をとりしばらくは安泰になったかもしれない
371 :
世界@名無史さん:03/06/30 11:29
>>364 マヌエル1世はもともと南イタリアのノルマン王国に
最初から自らの兵力で攻撃しようとしていたわけでないらしい
神聖ローマ帝国のコンラート3世とのテッサロニケ条約に基づき
神聖ローマ帝国の軍でノルマン王国を征服しようとしていた
ビザンティンに一方的に都合がいいこの協定に
コンラートの後を継いだフリードリヒ1世が乗るわけがなく
マヌエルは財政支援を申し入れたがやはり拒否され
やむなくノルマン人の反乱貴族と結託し
しぶしぶ兵力を小出しに出し
結局、ミカエル・パライオロゴスとヨハネス・ドゥーカスの2人の将軍を
捕虜にされ敗れた
372 :
世界@名無史さん:03/06/30 11:43
南イタリアと小アジアの二正面作戦を数百年も続けて
よく持ちこたえたよ。俺なら小アジアに集中させるけど、
「ローマ帝国」であることの証明のためにイタリア領は
必要だったんだろうな。
373 :
世界@名無史さん :03/07/01 16:20
最強っていってもニケフォロス2世、ヨハネス1世、バシレイオス2世の時代だけだろ。
コムネノス朝の頃はそこそこ強かったが海軍はヴェネツィア任せだし、自由農民は
とっくに没落して小作になり兵士は傭兵しかいない。貴族の力もましてるし、
繁栄の源はイタリア諸都市との貿易だけ。
374 :
世界@名無史さん:03/07/01 18:53
376 :
世界@名無史さん:03/07/03 07:40
a
383 :
世界@名無史さん:03/07/04 02:09
ビザンツって中世の西欧と比べて国家のレベルが違うな。
軍隊にしても戦術が高度だから、実勢以上の力が出せるんだ。
原野を駆け回っていた方々とは違う…
384 :
シュレーディンガーの猫:03/07/04 02:24
>383
原野を駆け回っていた、というより、同じカトリックの文化圏
の中世騎士同士の戦いって、どこかのんびりしているというか、
戦争してるというより、半分ゲーム感覚っていう印象がある。
負けて捕虜になっても身代金払えばいいんだろ、みたいな。
それに対して、ビザンティンは異教徒イスラムを相手に必死に
国を防衛しなきゃいけなかったからね。
385 :
世界@名無史さん :03/07/04 10:43
イスラムやブルガリアとの死闘で鍛えぬかれたビザンツ軍は最強だった。
800年ごろの版図と1025年の版図を比べてごらんよ。
200年ちょっとでここまで領土回復するのは尋常じゃない。
イベリア半島を上回る「再征服」といっていいだろう。
386 :
世界@名無史さん:03/07/04 15:59
>>384
でもマケドニア朝後、守っていたのは外人傭兵じゃん
>>385
折れはチムールに敗退後のオスマン・トルコの回復ぶりの方がスゴイと思う
387 :
世界@名無史さん:03/07/04 16:29
ビザンツなんてギリシャ・ローマの一部の文化を
継承したが発達も新発明もしていない
絵画なんか構図自体見ても退化してるし
自然科学なんか消滅してるじゃん
おっとそれとも「ギリシャの火」が自然科学の発明ですか
ププ
ビザンツ発祥の世界史的発明なんかなにもな〜し
388 :
世界@名無史さん :03/07/04 17:49
>>387 君の好きなフランクは何か生んだのか?
あ、100km先の風景も同じ大きさの写本挿絵があったか。
ルネサンスは十字軍を通じてビザンツから古代ギリシア・ローマの
文化が入り、刺激されておこったことは通説ですな。
西欧も放っておいたら写実性ゼロの挿絵を量産し続けただろうな。
389 :
世界@名無史さん:03/07/10 13:52
>>387 そうか?
建築ではヴェネツイアのサンマルコ大聖堂しかビザンティン方式はないな
バシリカ・ロマネスク・ゴシックいずれもビザンティンの影響はほとんどない
それに中世でも建築物に施された彫像は名もない石工が作ったのだが
ビザンティンより高度じゃないのか?
確かに
>>387は言い過ぎかもしれないが
13世紀のビザンティンのミストラ文化の絵画はかなり発達したが
それ以前の絵画は・・・
ヨーロッパの画法は逆に15世紀のオスマントルコに伝播しているよ
(メフメト2世の肖像画等)
橋梁の建築術なんかもね
それに12世紀ルネサンスはビザンティンにあった「ギリシャ・ローマ時代」の
文献の翻訳が盛んになり、近世ルネサンスに通じたのが通説で
アリストテレスなどの科学分野はイスラム圏からレヴァント貿易により伝播したはず
ビザンティン人自身がイタリアに来て何かしたのかと言われると
滅亡を阻止するため来た使者がフィレンツェあたりでギリシャ語教えていたぐらいだけだと思ったぞ
すまん
ミストラ文化は14世紀だったな
いかん、いかん
388でなく389だな
392 :
世界@名無史さん:03/07/11 03:44
AGE
393 :
世界@名無史さん:03/07/14 23:10
>389
>そうか?
>建築ではヴェネツイアのサンマルコ大聖堂しかビザンチィン方式はないな。
ヴェネツイアの ラベンナのサンビターレ寺院、サンタッポリナーレ・イン・クラッセ教会、
イスラム等の影響もみられるが、シチリアのマルトラーナ教会、サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会、
王宮内のパラ ティーナ礼拝堂はビザンチンの建築家・職人が参加したものと考えて間違いない。
>バシリカ・ロマネスク・ゴシックいすれもビザンティンの影響はほとんどない
まずバシリカは建築様式ではなく建築プランの形式、聖ソフィア寺院もバシリカ式教会のバリエーションである。
ロマネスクではペリグーのサンフロンはペンデンティヴドームを5つラテン十字に並べたサンマルコ大聖堂と同等の形式。
(コンスタンチーノープルの聖使途教会のコピー)
さらにアングレーム大聖堂等ここから影響を受けた寺院が派生している。
ルネッサンス期以降の集中式会堂については言わずもがな。
学問版なんだからちゃんと勉強してから発言しろ。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
コンスタンチノーポリスが落ちた・・・
397 :
世界@名無史さん:03/07/22 23:06
このスレは煽り厨にちょこちょこ突撃されてもしっかりと命脈を保ってる
東ローマ帝国みたいでちょっと感動したよ
398 :
世界@名無史さん:03/07/24 23:57
ビザンチン美術への旅
を読むと、行きたくなる。
399 :
世界@名無史さん:03/07/27 20:37
中世最強というのは確かに誇張かもしれないね
中期は中小農民層が没落して大部分が傭兵、海軍はほとんどいなくなりヴェネツィア任せだった
401 :
世界@名無史さん:03/07/28 00:57
402 :
世界@名無史さん:03/08/08 20:05
ビザンツの民間伝承に関する書籍ってないんでしょうかね
>>402 ディグニス・アクリタス Digenis Akritas
を調べればいい
404 :
DVDエクスプレス:03/08/12 19:26
405 :
世界@名無史さん:03/08/13 17:44
ビザンツはヨーロッパ的ではないな。
むしろイスラム的な度合いが強い。
ヨーロッパからみれば扱いはイスラムとおなじようなもんだし。
406 :
世界@名無史さん:03/08/13 22:56
ロシアもそうだけど正教世界はほんと異質だと思います
407 :
世界@名無史さん:03/08/13 23:03
>>405 このスレ的には「イスラムはローマ帝国的だ」といってほしいもの
アジア的と言え、アジア的と。
て言うか、東西融合なんだよね。欧州が寧ろ純粋培養すぎるのよ。
夏休み利用してビザンツについて調べようと思うんですが、
入門としてはどんな本が適当でしょう。日本語で。
まず講談社現代新書の「生き残った帝国」を
412 :
世界@名無史さん:03/08/14 21:00
ビザンツはなああ、本当に残念だなあ
もっと成長できる可能性はあったかもしれないがなあ。
各地で力をもった土地豪族をまとめることができればな
ラテン帝国を追い出したのも彼らだし
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
414 :
世界@名無史さん:03/08/26 04:02
あげ
hage
hige
417 :
世界@名無史さん:03/09/02 23:13
アンドロニコス1世と呂布と上杉謙信戦わせたら、誰が一番強いかな?
指レスリングで?
カタフラクトについて詳細を
>>411 ビザンツをギボンで読むのはやめよう。
最初にギボンから入ったらビザンツ嫌いを作るだけだ(w
ヘラクレイオスは好きになるだろうが
ビザンツが中世最強ってのはどうか分からないけど、
ヌール・アッディーンがマヌエル1世時代のビザンツ軍を相当恐れて、アンティオキア
には手を出さなかったのを見ると、アラブ側の水準からすれば強かったんだろうなあ、
と思う。
まあ、マヌエル1世時代のビザンツ軍の強さはラテン人騎士に学んだ故だが
422 :
他スレから転載:03/09/23 22:21
ビザンチン帝国の傭兵の大部分はセルジューク・トルコの兵士で、
帝国内では獰猛で残酷の「一級兵士」とされていたそうだ。
レイモンドだっけ、十字軍諸侯がビザンツ側のトルコ人傭兵を捕虜にして
ローマ法王庁に送ったんんだよね。
「ギリシア人たちはこのような異教徒にキリスト教徒を襲わせている」と。
424 :
世界@名無史さん:03/09/24 19:02
ビザンツって、ほんと四方八方から攻められてるね
425 :
世界@名無史さん:03/09/24 20:07
異教徒を採用した先駆はビザンチン帝国だったと
オスマントルコはビザンツの継承者の面があったわけだ
明やロシアに、モンゴル帝国の継承者の面があったように
426 :
世界@名無史さん:03/09/24 20:17
中、後期はほとんど傭兵頼みだったらしいね
ああ イスタンブールとミストラに旅行行きたいなあ
おい、沈むな・・・・・沈んではならない・・・・・・・斜陽の・・・・帝国よ!!
428 :
世界@名無史さん:03/09/27 12:36
ビザンツの服飾についての情報ってないんですかね。
海外のサイトをひととおり調べたけど、あまりなかった。
図画や、色彩なども詳述してある書籍を知ってる方いたら、教えてください。
429 :
世界@名無史さん:03/09/27 15:15
430 :
世界@名無史さん:03/09/30 21:00
↑
GS go home!!
ビザンツ最大領土期の地理を網羅したいのですが
やはり今現在の国々の資料を集めて結合するしかないんですかね。
431 :
世界@名無史さん:03/09/30 21:27
ワーグナーのリエンツィの舞台となった時代ですよね。
14世紀頃になればもうボロボロだったんじゃないでしょうか。
432 :
世界@名無史さん:03/09/30 21:37
ローマ市民の意識は残ってたのでしょうか
433 :
世界@名無史さん:03/10/01 00:24
>>432 ビザンツ国民は自分達をロミオイ、常にローマ人だと考えていた。
実際、当時は「ローマ帝国」で通ってた。
だから法王がカール大帝にローマ帝の冠位を授けて激怒した。
せめて、このスレだけは「東ローマ帝国」を使ってくれ(滂沱
435 :
世界@名無史さん:03/10/03 19:58
むしろ、「ローマ帝国コンスタンティノープル時代」でいいんじゃない。
そもそもこの国の歴史からしてローマ帝国とは切り離せない
436 :
世界@名無史さん:03/10/03 23:54
アヤソフィア寺院は圧巻だよ
トルコ旅行はお薦め。
親日的だし。
437 :
世界@名無史さん:03/10/04 17:45
俺も一度行ってみたい。
438 :
世界@名無史さん:03/10/04 18:19
メフメット2世もビザンツの文化すきだったのでしょうか
西洋の画家に肖像画描かせてますね
439 :
世界@名無史さん:03/10/04 20:22
トルコは比較的異文化に寛容だったからでは
ところでビザンツがギリシャ文化を保持しルネサンスに繋げたというのは
ロマンがありますね 実際、初期ルネッサンスの人物には、ビザンツから亡命した
人たちも含まれて居ますしね
軍事力といえばヴァリャーギ親衛隊が有名ですね
440 :
世界@名無史さん:03/10/05 20:24
441 :
世界@名無史さん:03/10/05 20:26
スペインの画家エル・グレコはベネチア領生まれのギリシャ人
彼の画風もビザンツのイコンの影響残してますね
コンスタンティノープルの市民は
自分がラテン語ではなくギリシア語を話すことをどう思ってたのだろう?
443 :
世界@名無史さん:03/10/05 21:54
>>440 凄い!どうやって見つけたんですか!!
とにかくどうもありがとうございます!!
>>441 何より「エル・グレコ」というペンネーム自体「ギリシャ人」という意味ですしね
ビザンツ美術特有の二次元の要素がうまく生かされてて私は大好きです。
444 :
世界@名無史さん:03/10/05 22:28
今日のTBSの世界遺産、ラヴェンナ?
ユスティニアヌスとテアドラのモザイクなんか出るの?
445 :
世界@名無史さん:03/10/05 22:30
でるっしょ。テレビ欄にモザイクって書いてあったし。
446 :
世界@名無史さん:03/10/05 22:38
テレビにモザイク ハァアァ
448 :
世界@名無史さん:03/10/06 09:39
>>443 ビザンティン皇妃の衣装は「トラキオン」という名称だそうです。
冠は「ディアデム」、顔の両側に下がる飾りは「ペンドゥリア」。
449 :
世界@名無史さん:03/10/06 20:19
サド読んでたらユスティニアヌス王妃テオドラへの言及があった。
あの鵞鳥を云々ってやつ、気持ちいいんだね・・・・・・
たまたま世界遺産見た。モザイクっていいね。
三次元を用いた現象界ではなく、神聖な世界を描写したってらしいけど、ほんと、神々しかった。
450 :
世界@名無史さん:03/10/16 11:35
軍管区制サイコー
451 :
世界@名無史さん:03/10/20 20:20
ビザンツもつおいけどロンゴバルド族も強かったよ。
452 :
世界@名無史さん:03/10/20 20:25
ビザンツの宦官はどうして必要だったの?
453 :
世界@名無史さん:03/10/20 22:47
いたっけ、汗顔
454 :
世界@名無史さん:03/10/20 22:51
ユスチアヌス大帝の肖像のモザイクで出てくる髭のない男
455 :
世界@名無史さん:03/10/21 01:23
ビザンツのモザイクってオスマン時代は塗り潰されてたんだろ?
>>452-455 まあ、ナルセスは異色の人材で、宦官の大半は
皇帝・皇后の幇間みたいなやからだったわけだが。
>>456 皮肉な話だが、だからこそ保存状態がよい。
モザイクの下は未知の世界
459 :
世界@名無史さん:03/10/21 17:57
ビザンツ皇帝はその人自身兵法家である人が多いよな
『戦術論』のマウリキウス、『軍事教本』の賢帝レオン6世とか。
ビザンツ軍の機構はとても機能的だ。
バンドン(大隊)は16人のロカギア(縦隊)四つでララギオン(小翼部隊)に統合されるそうだ
重装歩兵部隊はスクタト(槍兵)と弓兵からなる。カタフラクトは弓と槍を装備した騎兵で軍の主力。
他にいた兵隊はペルタスト(スクタトの軽装版)、プロシス(軽装の弓兵)、クリベノフォロス(超重装騎兵)
トラペツィトス(軽装騎兵)など
武器でおもしろいのはロムパイアといわれる幻の武器で形状などははっきりと判明していないという。
>>459 ロムパイアは同名の武器をトラキア人が使ってるけど、全く関係ないものなんだろうか
↑長巻(柄の長い刀)や中国の長刀みたいな形をした全金属製の武器
ビザンツの兵種はさすがにギリシャ語圏だけあって、アレクサンダー時代などに使われていた
名前がそのままあったりするので、気になってしまうのだが
461 :
世界@名無史さん:03/10/21 21:54
ビザンチンの軍隊については、リデル・ハートも『戦略論』の中で、
将軍ベリサリオスについて一章を割いている。
462 :
世界@名無史さん:03/10/21 22:35
兵隊に農地を与えて属州ごと軍政(ストラテごス)と民政(コンスル)に分ける
方法は結果的に地方豪族に力を分散させてしまったんじゃないかな。
だからこそ弱体化してたコンスタンティノープルの中央軍がラテンに陥落せられた後も
地方でこつこつ蓄えてた貴族が奪還したわけだしな
いずれにしろビザンツは四方八方からちょっかい出されて、踏んだり蹴ったりの状態で千年持ったのだから
弱い、とは言えないだろう。
463 :
世界@名無史さん:03/10/21 22:41
>>462 その意見はおもしろい。
北宋の軍事力が弱体化した原因と重なる。
464 :
メフムット2世:03/10/21 23:12
>458
はがしちゃいかん!
おのれ、モザイクを弄しおって!
466 :
世界@名無史さん:03/10/22 02:15
ビザンツってあれだけ教義論争が激しかったのに、
国が分裂しなかったというのがスゴイ。
467 :
世界@名無史さん:03/10/22 02:40
:世界@名無史さん :03/10/19 12:18
ビザンツ帝国の場合、同化策と献金を巧みに組み合わせて、西ゴート族を
利用するのに成功していたしなあ。
西ゴート族の支配者は司令官の地位を与えられて同化し、金を与えられて
ビザンツ帝国のために戦っていた。
468 :
世界@名無史さん:03/10/22 03:45
素人質問なんでなんだけど、ビザンツ帝国が滅びた後の国民たちはどうなったのかな?
大部分はトルコ人等と混血したんだと勝手に想像してたんだけど。
ビザンツ時代は小アジアも白人が多かったのかな?
今のトルコ人たちも白い人たちがたくさんいるのは知ってるけどね…
469 :
世界@名無史さん:03/10/22 04:32
>>468 「キリスト教系トルコ人」と名乗って生活していた。
470 :
世界@名無史さん:03/10/22 17:25
471 :
世界@名無史さん:03/10/22 21:35
トルコに征服された後は暗黒の時代らしい
472 :
世界@名無史さん:03/10/22 21:41
現代のギリシア人が勝手にそう言っている。
逆に、ユーゴのモスレム人や、アルバニア人にとって、オスマントルコ
崩壊後の歴史はどうだったのだろうか?
473 :
世界@名無史さん:03/10/22 22:49
ビザンツもトルコも異民族には比較的寛容だったんじゃない?
ただギリシャ独立のあたりから血なまぐさくなってったが
474 :
世界@名無史さん:03/10/22 23:41
>>473 ビザンツ帝国やオスマン帝国の時代にはまだ近代的な意味での「民族」
という概念が存在しなかった。
475 :
世界@名無史さん:03/10/23 18:14
【中世最強】ビザンツ帝国の外交力
「夷を持って夷を制す」
>>468 というかトルコ人とギリシア人はコーカソイドの中で人種的に近いはずだが。
ギリシア人=ヨーロッパ人=白人はただの思い込みだよ。
ギリシア人もトルコ人も白いのがいたらそいつはスラブ人が混じってるね。
ま、それはおいといて、つい100年前の1910年代まで小アジアじゃ
イスラム教徒にまじってギリシア正教徒が数百万人いたんだけどねえ。
477 :
世界@名無史さん:03/10/23 19:20
478 :
世界@名無史さん:03/10/23 20:18
どっかの国王の使者が、コンスタンティノープルに来訪し皇帝に謁見を請うも、
以前と打って変わって邪険に扱われて、帰るときに憎さのあまりに残した詩が傑作だった
479 :
世界@名無史さん:03/10/23 20:31
480 :
世界@名無史さん:03/10/23 22:58
>>
いや、最後はローマ教会もビザンツを助けようとしたよ
手に負えなくて結局トルコに滅ぼされちゃったけど
>470
ケマル1人でほぼ同等の領土回復しましたが何か?
482 :
世界@名無史さん:03/10/24 21:06
ロンゴバルドのほうが強かったよ ただ運が悪かっただけ
ああ、ちょこちょこちょっかい出してるイタリアの奴だっけ
>>468 トルコ、ギリシアをともに旅した印象だと、
「同じような顔をした人が多い」
という感想。
相当混ざり合っているんだな、と思った。
文化面でも、イスタンブールの街角で売っている、丸いドーナツみたいなゴマ
付きパンが、アテネでも同じように売られているのを見て、混ざっているなあ、
とさらに思った。
>>478 リュートプラントの「ギリシア人を信じるな」だね。
486 :
世界@名無史さん:03/11/16 08:31
>>485 リュートプラントって、ランゴバルドの王様?
487 :
世界@名無史さん:03/11/16 13:47
ちゃう。神聖ローマ帝国のオットー1世(ザクセン朝)に仕えて、
ビザンツに使節として派遣されたイタリアはクレモナーの司教。
488 :
世界@名無史さん:03/12/25 10:44
まだまだがんばるぞ〜
ビザンツの軍事力は中世一!
イスラム勢力を数百年跳ね返したんだから間違いない。
489 :
世界@名無史さん:
東方正教を基盤とした厳格な宗教国家で、また繰り返しクーデターに見舞われながらも国体を維持し
問答無用の蛮族に囲まれながら必死に外交を成り立たせて千年も残ったというのはやはり見事なんじゃないかな。
軍事力も、少なくとも弱いとは言えないだろう。
あと、最後ビザンツ総主教はローマに詫びいれて吸収されたんじゃなかったっけ?
教皇が援軍を送ったけど、トルコ勢が強すぎてもう手の施しようが無かった、という事だった気がする