325 :
世界@名無史さん :
04/05/26 23:18 むしろ、オーストリア継承戦争で、ハプスブルク家がドイツ側の領土を全て失い、神聖ローマ皇帝位もヴィテルスバハ家に永久に奪われるくらいに、もっとボロ負けしていたほうがドイツにとっては良かったのかも。 マリア・テレジアが中途半端に優秀(ウィーンを列強の圧力から維持できる程度の実力はあるが、ドイツを統一できるほどの天才的力量はない)というのが、長い目で見ると凶と出ていたのかも。
326 :
世界@名無史さん :04/05/26 23:28
> ヴィテルスバハ家に永久に奪われるくらいに、もっとボロ負けしていたほうがドイツにとっては良かったのかも。 それでもドイツの状況が好転したとは思えないです。
327 :
世界@名無史さん :04/05/26 23:35
ヨハン=サルバドールについて
328 :
世界@名無史さん :04/05/28 05:07
>>325-326 オーストリア継承戦争でハプスブルク家がボロ負けしていた場合をシュミレートしてみた。
まず、領土分配では、ハプスブルク家の帝冠とドイツ側の領土はすべて、列強で分割。
帝冠、シュタイアーマルク、オーストリア、スロヴェニア・・・バイエルンへ
ベーメン、メーレン・・・ザクセンへ
ルクセンブルク・・・ファルツへ
南ネーデルラント・・・フランスへ
シュレジエン・・・プロイセンへ(これは史実通り)
こんな感じでしょうか?
旧ハプスブルク家領の主要部分は、ヨーゼフ1世の娘婿であるバイエルンとザクセンが獲得し、その他を反ハプスブルク側の他の国が分け合う感じです。
マリア・テレジアには、一応ハンガリー王位くらいは残されると考えます。
この場合、バイエルンが南ドイツの大部分を領有することになり、さらに史実通りならこの戦争の30年後にはバイエルンとファルツが同君連合になるはずなので、ヴィッテルスバハ家の勢力が強大となり、19世紀におけるドイツ統一運動の主体となると予想されます。
もし宗教的にカトリックのヴィッテルスバハ家がドイツ統一の主体であったとしたら、ホーエンツォレルン家の場合よりは、教皇庁やフランスなどのドイツ統一問題への干渉が緩やかとなり、統一がスムーズに進んだかも知れないですね。
329 :
世界@名無史さん :04/05/28 06:13
妄想乙!
331 :
世界@名無史さん :04/05/30 15:51
私は薔薇の定めに
332 :
世界@名無史さん :04/05/30 16:16
333 :
世界@名無史さん :04/05/30 23:22
薔薇は薔薇は気高く咲いて〜♪
334 :
世界@名無史さん :04/05/30 23:33
>328 強大な力を持ってドイツを統一したバイエルンにルイ二世が即位・・・・ ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
ドイツが南北朝に分裂するだけだと思われ。
>>328 >さらに史実通りならこの戦争の30年後にはバイエルンとファルツが同君連合になるはずなので
プロイセンはじめ、他のドイツ諸侯の横槍が入って、例えば・・・
バイエルン継承戦争勃発→バイエルンの半分ほどと旧ハプスブルク領は他家へ
ただしハンガリー・ハプスブルク家へは渡らず
ウィーン体制下までこの枠組みが維持される→大ドイツ統一
>>328 実際にドイツにおけるハプスブルクの根絶を目的とした四国同盟が結ばれています。
大筋の合意内容を挙げてみると
・バイエルン公はベーメン王を兼ね、神聖ローマ皇帝に選出される事。
・プロイセンは緒戦で占領したシュレジレンを獲得する事。
・ザクセンはメーレンを獲得する事。
・フランスはオーストリア領ネーデルラントを獲得する事。
(・同盟に参加していないスペインにはロンバルディア地域を与える事)
・ハプスブルクにはハンガリー王位の保持を認める事。
しかしオーストリアはマリア・テレジアの諸改革によって始めて近代国家への
道程を歩み始めたといって過言では無いわけですから、バイエルンが強大化できるか
どうかは疑問が残りますね。
カール・アルベルトや、息子のマクシミリアン・ヨーゼフにそんな大々的な改革を
行うだけの実力があるとは思えないですし、断絶後のプファルツ系にしても
あの狂気の血統が続くわけで・・・。
むしろプロイセンによるドイツ統一が早まるような気もします。
338 :
世界@名無史さん :04/06/02 09:25
>335 バイエルン(南ドイツ)・プロイセン(北ドイツ)・ハンガリーで鼎立した方が パワーバランス的には均衡を保てたと思われ。
ハンガリー・ハプスブルク家のウィーン奪還というシナリオもありかも。 でもって、オーストリア東部のハンガリー化が進む。
でもそうなると、オーストリア残存部とシュタイアーマルクやケルンテン、 スロヴェニアやイタリア北東部との往来が難しくなるか。
341 :
世界@名無史さん :04/06/06 10:46
>>337 その場合、オーストリアやスロヴェニアは、どうなるという想定だったのですか?
ハプスブルク領のままですか?
ハンガリー女王の称号のみ認め、他の相続権は否定ということのようなので バイエルン侯かザクセン侯(前者か)に持っていかれるところだったのでは?
343 :
世界@名無史さん :04/06/07 00:28
バイエルン(バヴァリア)の首都ミュンヘンなら、1815年のドイツ連邦の領域全体の首都になっても、ほぼ真ん中くらいになるので、かなりGOODかも! 少なくとも、著しく端に寄っているウィーンよりは。
連邦の首都? 連邦議会の所在地に過ぎないのでは?
345 :
世界@名無史さん :04/06/08 16:12
>>344 あのドイツ連邦の領域で統一国家ができても、その首都として遜色ないっていいたいのです。
346 :
世界@名無史さん :04/06/08 16:14
このスレの流れをハプスブルク家ヲタ(例えばカウニッツとか)が見たら、どういう顔するかな?藁
>>341 確かオーストリア世襲領はバイエルンに併呑されるという事になっていた筈です。
スロヴェニアは元来神聖ローマ帝国内の領邦として捉えられていたので、これも
オーストリア大公領に付随して考えられていたと思います。
>>325 オーストリア継承戦争の勝利でマリア・テレジアはミュンヘンを中心としたバイエルン領の
主要部分を占拠していますが、皇帝選挙でフランツに票を投じる事などを条件にこれを返還しています。
当時の情勢ではフランスは大敗して意気消沈していたし、プロイセンも単独ではこれ以上進撃する事は不可能だったみたいです。
なので、しようと思えばバイエルン領を吸収する事も可能だったと思われます。
このある意味でバカ正直な位に大義名分に拘る所はハプスブルク家共通の特質みたいですね。
348 :
カウニッツ :04/06/09 00:22
>>347 さん、ごめんなさいね。反論です。
>しようと思えばバイエルン領を吸収する事も可能だったと思われます。
それはとても無理です。オーストリアの強大化はフランスの国益に反すると言うのが
外交革命以前のバランスオブパワー的な認識で、プロイセン国王すら自国の大臣に
そう言っている位ですので、ある意味フランスは国の総力を挙げてハプスブルクに
向って来ます。オーストリア継承戦争でフランスは全力ではオーストリアを攻撃していないのは
御存知とは思いますが。鋭い方なら「常にフランスの敵役にまわったイギリスの存在」を
挙げるでしょうが、イギリスの外交文章などでも、オーストリアとプロイセンの両国の
バランスオブパワーと言う点でむしろプロイセンへのシュレジエンの無償割譲をオーストリアに
勧めていたぐらいなので、シュレジエンの代わりにバイエルンと言うのはイギリスすら
認めないところとなるでしょう。そんなごり押しをオーストリアがするならば、ドイツは
三十年戦争の再来のような、いやむしろもっとハプスブルク家に不利な国際関係での
ドイツ・オーストリアの荒廃は目に見えているのではないでしょうか。プロイセンが単独ではと
書かれていますが、イギリスの重石のとれたフランスが本気で向かってくるならば、
そちらにオーストリアの戦力は消耗され、プロイセンにまわす余力は無いでしょう。
またプロイセンの占領政策は、徹底的に財を搾り取り、「戦争は戦争を賄う」ですから
補給線の心配も無いので、ウィーンは敵の手に落ちる可能性もあったと言えます。
>>348 イギリスの重石と仰いますが、あの当時のハノーヴァーがどれほどプロイセンに
圧力になっていたでしょう?むしろハノーヴァーの保全を考えて(プロイセンに恩を売ろうとして)
シュレジレン割譲を勧めていたわけで。完全に決裂してもイギリスが大陸に軍隊を派遣するとは考えにくいです。
オーストリア継承戦争の終結直前時は、プロイセンもシュレジレン戦で予想以上の打撃を蒙っていましたし
フランスに至っては指揮官が逃げ帰るのが精一杯で、すぐには身動きの取れない状況にありました。
ですから占領を続ける事自体は可能だったのではないでしょうか?
もっともバイエルンという非オーストリア国家を抱え込む事で、復讐戦の遂行を目的のひとつとしたオーストリアで行われた諸改革のスピードは
やはり相当な部分で遅れるでしょうし、強大化を恐れたフランスとの外交革命も成立するかどうかは分かりませんが。
私としてはバイエルンの併合をするべきと言う点を強調したいんでは無くて
返還への動きと後のポーランド分割やバイエルン継承戦争時での彼女の態度から見ると
国際情勢も勿論、視野にいれているでしょうけれど、それよりもむしろ
ハプスブルク家としての矜持が、大儀の無い領土拡大を嫌ったのではないか?
というような事を言いたかったのです。
あ、カウニッツさんの仰るイギリスの重石はフランスに向けてでしたね。 すいません、対プロイセンへの圧力と読んでました。 ただ英仏による新大陸の争奪戦が並行して行われていたわけですから 両国の共闘というのは考えにくいような気がします。(フランスが譲歩すれば話は別ですが) むしろフランスがドイツ問題に全力投球を決めた場合、ハプスブルクとブルボンのパワーバランス均衡の為に それまでの消極的な関係から、より好意的な態度になるのかもしれません。 (ただし、これもプロイセンとハノーヴァーの地理的関係から考えると疑わしいですね) もしもフランス軍がすぐさま再編されてドイツに再侵入した場合、オーストリア継承戦争時に地盤になった バイエルンが占領されているわけですから、その他の諸侯領からの略奪が主になると思います。 そうなると戦の帰趨、戦場となる地域が受ける被害は別として、ハプスブルク対ブルボンの構図が ドイツ(主に南)対フランスに強化されて、ハプスブルク主導による南ドイツの統一に向かうような気もします。 そうすると嫌でもハノーヴァーとプロイセン、ザクセンといった北の新教側諸侯も一層の連帯をせざるを得ないわけで このスレでも触れられているドイツの南北分裂が起こるのかも知れません。 ここまで来るとif話というか妄想の域かも知れませんが。
351 :
世界@名無史さん :04/06/09 10:24
カウニッツとヤーノシュが釣れた♪
352 :
世界@名無史さん :04/06/17 00:17
選帝侯がイギリスへ転出した後のハノーファーって、誰が治めていたんでしょう?
353 :
世界@名無史さん :04/06/17 02:51
>>352 選帝侯が転出
の意味するところが英国ハノーヴァー朝なら
英・ハノーファー同君連合だろ
354 :
世界@名無史さん :04/06/17 03:29
>>337 >>347 もう少し質問させて下さい。
・この当時のロンバルディアって、ハプスブルク領だったのですか?
・当時ハプスブルク領だったルクセンブルクは、どうなる予定だったのですか?(一応、南ネーデルラントとは区別されていますよね?)
・メーレンをザクセンが獲得した場合、ザクセン、メーレン、ポーランドが同君連合状態となり、プロイセン領を取り囲むような感じになってしまうと思うのですが、プロイセンはこのことに難色を示さなかったのですか?
以上3点、よろしくお願いします。
>>354 >ロンバルディア
ヴェネツィア領です。その後、ナポレオンによって滅ぼされるまで
ヴェネツィアが保持し続けていました。
トスカナ大公国はマリア・テレジアの夫であるフランツの所領でしたけど。
>ルクセンブルク
これについては分かりません。しかしハプスブルク家をドイツから追い落とすのが
四国同盟の主目的だったので、何らかの形で喪失したんではないでしょうか?
>ザクセンに関して
実際に実現していないので、これも何とも・・・なんですが
七年戦争でのプロイセンの動きから見ると、ザクセンも仮想敵国家として
見なしていたようですから、機会を伺ってザクセンも攻撃対象になったのではないでしょうか?
あくまでシュレジレンを奪う為の方便と考えていたと思います。
実際、オーストリアからの打診にいち早く応じていますし。
>>352 353さんの言われる通り、同君連合でしたけど、ヴィクトリア女王の即位と共に
同君連合は解消されました。(ハノーヴァーは女性の統治を認めなかった)
で、領主不在の間、ハノーファーはどうやって治められていたわけですか?
>356 国王の代理として総督が統治したそうです。 (王族か王妃の縁戚といった人間が総督に任命されていたようですね。)
>>355 ロンバルディアがどこを指すかによるが、ミラノ・マントヴァはハプスブルク領じゃない?
359 :
世界@名無史さん :04/06/18 02:39
ヴェネツィア領じゃないんだ。
>>359 確かにそうだけど、ウィーン会議でのオーストリア獲得領の主要部分が
ヴェネツィア領ロンバルディアの獲得である事も事実。
ヴェネツィアは地中海の制海権を失ってから、ロンバルディアの農業経営に
国の命運をかけていたから。
361 :
世界@名無史さん :04/06/18 12:59
>>352 >>353 確かイギリスでヴィクトリア女王が即位した時にドイツでは女性の継承を基本的に認めていなかったため、傍流から選帝侯が選ばれてドイツ革命まで存続した筈です。
(オーストリアではマリア=テレジア即位のために法律を改正してそれを認めないとしたプロイセンなどとの間に「オーストリア継承戦争」が起こった)
>>361 ヴィクトリア女王自身も傍系ですよ。ついでにいうと、ヴィクトリア女王の祖父
ジョージ3世の時代に(1814〜)ハノーファーは王国になっています。
ジョージ3世の後、息子のジョージ4世、その弟ウィリアム4世と続いて、
その後はウィリアムの弟ケント公エドワード(すでに死去)の娘ヴィクトリアが
イギリスの王位を継承し、ケント公の弟カンバーランド公アーネストが
カンバーランド公位を保持したまま(!)ハノーファー王位を継承しています。
で、ハノーファー王兼カンバーランド公エルンスト・アウグスト(アーネスト)の息子
ゲオルク5世の時、普墺戦争でオーストリア方についたのを理由にプロイセンは
ハノーファーを併合しています(1866)。
カンバーランド公位はその後もこの家系に継承されているようですが、
ハノーファー王位は名目的に残されたんでしょうか?
プロイセンはハノーヴァーを併合したあと 同国に含まれていた Lüneburg, Bremen(Herzog) Verden, Hildesheim(Fürst) の称号を得たけど Hannoverは得ていないみたい。 消滅?
第一次大戦の前年頃から、ゲオルク5世の直系が ハノーファー王やブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の称号を 名乗っていたようです。イギリスの爵位は継承されなかったようなので、 イギリス王室との縁を切った見返りか、懐柔策のようなものだったのでしょうか?
365 :
世界@名無史さん :04/06/19 22:41
ハノーファーとイギリスの同君連合は1837年まで続いていたんですね。 でももしその時、同君連合が解消されなかったら、ドイツ統一はどういう展開に なっていたんでしょう? いくらなんでも、ドイツ民族主義の高揚した時代に いつまでも同君連合を存続できたとも思えませんが。
366 :
世界@名無史さん :04/06/20 20:28
普と墺・英・仏間戦争でプロイセン没落だったりして…。
プロイセンを敵に回したらハノーファーを守りきれない、というのは 七年戦争の頃からのイギリスの認識だったと思うのですが。 何か大きな見返りと引き換えに譲渡したんじゃないですか?
368 :
世界@名無史さん :04/06/22 01:33
じゃあWWTではどうして敵に回したの?
370 :
世界@名無史さん :04/06/22 18:12
ちょっと時代変わるけど、スペイン継承戦争、 戦い時代はオーストリアの勝ちなんだから、なんとかする方法なかったの? ヨーゼフ1世が死ななければスペイン・オーストリア再合併できたの?
371 :
世界@名無史さん :04/06/22 18:13
× 戦い時代は ○ 戦い自体は
372 :
世界@名無史さん :04/06/22 18:42
クロアチアも綺麗な建物多い国だけどこの帝国の関係ですよね
373 :
世界@名無史さん :04/06/22 21:35
>>370 再合併ではない。カール5世のようにスペインとオーストリアの君主を兼ねるのではなく、
ハプスブルクの一門から(再び)スペイン王を出すことを考えていたのだから。
南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)とイタリアの旧スペイン領が得られたのだから、
戦果がなかったわけではない。
>>370 あの戦いはオーストリアの勝利ではありません。
むしろイギリス対フランスの戦争で、カール6世はあくまで錦の御旗的な存在でした。
戦後交渉で誰が一番得をしたかを考えれば自明の理でしょう。
イギリスはフランスがスペインを併合する事を恐れていたし、同時にハプスブルクが
スペインとオーストリアを同一君主の手によって支配する事も恐れていました。
それと、フランスが低地地方(広義のネーデルラント、現在のベネルクス3国)へ進出するのも イギリスは阻止したかった。
でも、実際戦いには勝ったわけじゃん。 なんでハプスブルグはスペイン継承放棄で納得したのかが分からないです。 どういう交渉があったの?イギリスが脅したの? さすがにイギリスとしてもフランスとハプスブルグ両方的にするのはつらいから そんなに強く出れるとも思えないんですが。 それとも場合によってはいきなり英仏同盟みたいな動きがあったの?
>>373 そうして獲得した南ネーデルラントを、バイエルンと引き換えにしようという皇帝が
2代後に現れるわけだが。
>>376 ヨーゼフ1世が急死して、当初、スペイン王になるはずだったカールが
オーストリア系ハプスブルク家の相続者になったので、イギリスが
カールの元でオーストリアとスペインを一手に握る事を恐れて、王位を捨てる様
通告しています。
その当時はフランスも青息吐息の状態だったし、オーストリアは単独でフランスと
戦う余力はなかったので、イギリスの提案を呑むしかなかった。
イギリスの大陸政策の基本戦略は
>>375 の通り、低地フランドル地方が地続きの勢力下に
入る事を防止する事が骨子だったので、そもそもハプスブルクがもたらした
ネーデルラントをオーストリアに割譲させたわけです。
ただ、広大な飛び地を加えた事で、オーストリアの軍事力は相対的に低下して
その後のオーストリア継承戦争を招いた、という見方もあるので
確固とした戦果というよりは、面子とイギリスの戦略で獲得した領土という方が
正しいのかも。
379 :
世界@名無史さん :04/06/24 00:03
もしカールがスペイン国王に即位した後でヨーゼフ1世が死んでいたら? マリア・テレジアにはハンガリーの代わりにスペインだけが残る、という事態に?
オスマントルコ
>>379 その場合、他の男系で傍系の相続者がオーストリア系を相続したと思われます。
国事勅令って、それを嫌って自子による相続を目的としたものだったわけですから。
しかし、これでは面白くないので、もしもカール6世の元でスペイン・オーストリアの
再統合が行われたと仮定して、マリア・テレジア時代に継承戦争が起きるとすると
三十年戦争でスペイン系が自国の存続が危うくなる位にオーストリア系に仕送りしていた
事から考えて、しかも今度は同一君主なわけですから、スペイン一国潰す位の勢いで
オーストリアに資金を継ぎ込みそうな気がします。
と、なると継承戦争の時点でプロイセンに勝っちゃうかも。まさに資金不足による兵力不足が
敗因の第一だったわけですから。
でブルボン支配下以上に荒廃しそうなスペインですが、ハプスブルクの王統は
スペインで保持されるのかも知れません。
382 :
世界@名無史さん :04/06/27 11:16
この時代のスペインって、すでに没落していません?
>>382 確かに衰退期に入ってはいましたが、決定的に没落するのはブルボン朝の
時期だと思います。
384 :
世界@名無史さん :04/06/28 01:06
>383 盛り返したのもブルボン朝
ナポレオン戦争、数次の革命と内戦、フランコ独裁を経て復活した 現在の国王もブルボン朝
386 :
世界@名無史さん :04/06/29 00:31
スペイン・ブルボン(ボルボン)家の王って、ナポレオンの時代あたりから、 何度も王位を追われたり、他家に横取りされたり、おまけに分裂まで しているのに、よくしぶとく存続しているものだ。
387 :
世界@名無史さん :04/06/29 11:26
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1030673447/597n スペイン・ブルボン家歴代(名前、在位期間、続柄)
Felipe V 位1700-1746 フランス王 Louis XIV の孫
Fernando VI 位1746-1759 子
Carlos III 位1759-1788 弟
Carlos IV 位1788-1808 子
(フランスによる占領)
Fernando VII 位1814-1833 子
Isabel II 位1833-1868 娘
(第一次革命)
Alfonso XII 位1874-1885 子
Alfonso VIII 位1886-1931 子
(第二次革命)
Juan Carlos I 位1975-現在 孫
388 :
世界@名無史さん :04/07/14 00:58
>>373 サルデーニャ島をサヴォイア家に与えたのは何故?
389 :
世界@名無史さん :04/07/14 01:27
シチリアとの交換
390 :
世界@名無史さん :04/08/03 23:15
>739 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 04/08/03 02:10
>
>>729 >バイエルン選帝侯から皇帝になったヴィッテルスバッハ家のカール7世は
>母親と妃がともにハプスブルク家の皇女で、マリア・テレジア、カール7世、
>カールの妃マリア・アマーリア・ヨーゼファ・アンナは、ともにいとこ同士になる。
>
>カール7世はこのようにハプスブルク家とはきわめて近い関係にあったわけで、
>そのために帝位を得られたのだから、ここでも世襲がまるっきり覆されたわけではない。
ヴィッテルスバッハ家に帝位が移ったのにも、それなりの正当性があったわけだ。
391 :
世界@名無史さん :04/08/06 02:41
考えようによっては、フランツ1世が帝位を継承する方が よっぽどゴリ押しだったのかも知れない。
>>391 いや。、ヴィッテルスバハ家は女系の繋がりがあっただけだから
世襲とは言い難いと思います。
女系相続を正式な相続として認めない原則に照らして、ハプスブルク家を
帝位相続候補から排除した結果、ヴィテルスバハ家が帝位の最有力候補になったと
いう感じでは?
(政治的な取引があった事はもちろんですが)
オーストリア世襲領をヴィッテルスバハ家が得るとした条約の要因は
血縁的な繋がりでしょうけど。
393 :
世界@名無史さん :04/08/06 21:58
で、スレタイに合った話題は? 18世紀知ったか合戦?
394 :
世界@名無史さん :04/08/06 22:07
>>393 流れとしては第一次大戦前後ではもう収拾不可能。
マリア・テレジアからフランツ2世までの停滞期に国家意識の形成が
出来ていたら?という話になっている。
その延長で南ドイツの分離の可能性とかも挙がってるみたいだけど。
395 :
世界@名無史さん :04/08/06 22:17
>>1 まEUの加盟国がかなりすくなくなってるのは間違いない 地域的にはそんなにかわらないだろうけど
396 :
世界@名無史さん :04/08/06 23:15
スペインブルボン朝って、ハプスブルク側の事情もあったけど 最後のスペインハプスブルクの王様が結構馬鹿で、ルイ14世 (ローマ法王含む)のカネにモノをいわせた宮廷工作で、 王位を乗っ取ったのが真実だろ。かなり巧妙にやったんで 遺言が開封されるまでバレなかった。 んでそれに気づいたイギリスが激怒し、継承戦争になって 合邦禁止条約をむすばされたうえ、戦時中のスペイン植民地は イギリスに占領されてしまった。結構高い代償だったわけね
397 :
世界@名無史さん :04/08/07 14:32
神聖ローマ帝国の域内(チェコやスロヴェニアを含む)と域外に分割して、 域内は徹底的なドイツ化を推し進め、域外はマジャール人中心で支配を固めれば それ以上バラバラにならなかったような気がするのだが。
398 :
世界@名無史さん :04/08/07 20:21
スロヴァキア人やクロアチア人はマジャール化されちまえってことかえ?
399 :
世界@名無史さん :04/08/07 20:43
>>397 それを目指したのがアウグスライヒ政体だと思うんですが・・・。
その結果、マジャール人以外の諸民族が大反発してエラい目に遭いましたが。
400 :
世界@名無史さん :04/08/07 21:18
_ ∩ _ ∩ にっぽん! ( ゚∀゚)彡 ( ゚∀゚)彡 にっぽん! ┌─┬⊂彡┌─┬⊂彡 |●| |●|
_ ∩ _ ∩ にっぽん! ( ゚∀゚)彡 ( ゚∀゚)彡 にっぽん! ┌─┬⊂彡┌─┬⊂彡 |●| |●|
>>399 アウスグライヒは文字通りハンガリー人への「妥協」で、
情勢さえ赦せば解消したかったと聞いていますが。
とはいえ、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアの諸民族の運動を見ると、
アウスグライヒのせいでかなり混乱させられたのは事実らしい。
クロアチアの場合、
1)狭義のクロアチア(ザグレブを中心とした地方)とスラヴォニアのハンガリーからの自立
2)ダルマチアのオーストリアからの自立
3)両者の統合
という3つの問題があって、ハンガリーは2)においては協力者にして先輩、1)においては敵、ということになるわけです。
スロヴァキアの場合は更にチェコとの関係が問題になるので、更にややこしいことになるようです。
403 :
世界@名無史さん :04/08/07 23:21
>>402 確かに妥協ですよね。
ただオーストリアによる一元支配が不可能なので、マジャール人を
支配層に加える事で、他の少数民族(ドイツ・マジャールに比べて)を
支配する事を目的としたわけですから間違っていないとは思いますが。
実際、ハンガリー側では強烈なマジャール至上主義による政治が行われてました。
オーストリア側はベーメンのチェック人が強力だったので不可能だったわけですが。
404 :
世界@名無史さん :04/08/14 00:56
やれやれ、ルクセンブルク家がとっととハプスブルク家をつぶせば、 あとホーエンツォレルン家にブランデンブルクをむざむざ渡さなければ、 こんなことにならなかったものを。
405 :
世界@名無史さん :04/08/17 17:53
二重帝国時代の地図を見ると、ハンガリー以外の地域ですが、 各地域に分かれていて領邦だそうです。 たとえば、ボヘミアとモラビアが分かれていて。 この時期、皇帝は、ボヘミア王位も名乗っているとは思うんですが、 ボヘミア王国というまとまり自体は、二重帝国への編成の中で、 なくなってしまったんでしょうか。シレジアも別ですし。 シレジア候や、モラビア候をも名乗っているのでしょうか。 二重帝国の前は、モラビアやシレジアはボヘミア王の宗主権下にあった と記憶しており、ボヘミア王国の版図に含まれていた(もち、名目の話でしょうが) と思っています。二重帝国になって、ボヘミアからは独立したような感じでしょうか。 (ガリチアとかのことはよくわかりません。もともと、ボヘミアの下であったかどうか) また、オーストリアという領邦があるのかと見ると、 オーバーオーストリア、ニーダーオーストリアがあり、それぞれ領邦議会もあった模様。 ほかに、シュタイアーマルク、やクライン、ケルンテンなどという領邦もある。 結局、オーストリアという領邦はない模様。 いわゆる、特許状で、オーストリア辺境伯領が成立した。 この領主が、オーストリア辺境伯。 そして、このオーストリアは、今のオーバーオーストリア、ニーダーオーストリアかなぁ。 ひとつであったけど、その後分割相続などあり、二つと認識されるようになった?。 その後、大特許状(偽書)を発端に、太公という概念が出てきて。。。 ただ、これはあくまで、まず、ハプスブルク家の人間のタイトルであって、 「まず、どこかに太公領なり、太公国がある。その領主を太公と呼ぶ。」 という順序ではない、その逆のような気がします。 結局、オーストリア太公国という領邦は、存在していないと思う。なんとなく、 そう思ってしまってましたけど。
406 :
世界@名無史さん :04/08/17 17:59
第一次大戦後、チェコスロバキアが成立しますね。 スロバキアが単独で独立しなかったのは、 この地がチェコと同一民族という意識が、第三者の目から見ても、あったんでしょうか。 また、ボヘミア人にとって、取り戻すべき地という感じ(マジャールに支配されている同胞) といかんじが主たる原因であったんでしょうか。 ま、スロバキア人の視点がないんですが、これはどうだったんでしょう。
407 :
世界@名無史さん :04/08/17 18:04
第一次大戦後、チェコスロバキアが成立しますね。 スロバキアが単独で独立しなかったのは、 この地がチェコと同一民族という意識が、第三者の目から見ても、あったんでしょうか。 また、ボヘミア人にとって、取り戻すべき地という感じ(マジャールに支配されている同胞) といかんじが主たる原因であったんでしょうか。 ま、スロバキア人の視点がないんですが、これはどうだったんでしょう。
408 :
世界@名無史さん :04/08/17 20:27
>>406-407 チェコとスロヴァキアを統合して1つの国家と国民=民族を形成するということが
公然と語られ出したのは、1918年(独立宣言の年)のはじめになってからに過ぎない。
ドイツ人やマジャール(ハンガリー)人への対抗上、手を組んだというのもあるし、
汎スラヴ主義の影響もあったのではないか。
地理的・言語的に近く、800年前までは1つだった、同じ西スラヴの2つの近縁民族
という意識であって、同一民族というのではなかろう。
409 :
世界@名無史さん :04/08/18 02:21
>>405 上オーストリアと下オーストリアを合わせてオーストリア太公国
太公国の下部に上下オーストリアがある。
(ドイツでは長男だけでなく子供全員が爵位を相続出来るので、事実上ハプスブルク家の人間はすべてオーストリア太公となる)
ボヘミア、モラヴィア、シュレジエンは聖ヴァーツラフの王冠諸邦と呼ばれ、1つの王冠(ボヘミア王)のもとにある。
モラヴィア辺境伯領もシュレジエン公国も元々ボヘミアとは別地域扱い。(但しボヘミア王国の一部でもある)
ハンガリー、クロアチア、トランシルバニアが聖イシュトヴァーンの王冠諸邦で、ハンガリー王冠に属する。(アウスグライヒでハンガリー王国)
ガリツィア王国はポーランド分割で得た地域。
410 :
世界@名無史さん :04/08/18 02:48
>>407 チェコスロバキア人なるものをWW1のころからチェコ人が言い出した。
(同時期、セルビアとクロアチアは一つの民族だとセルビア人が言っている。早い話が拡張主義)
第三者…例えばヴェルサイユの主役の一つアメリカは良く分かっていなかった。
(チェコ人とポーランド人にはウィルソンの知り合い(マサリク、パデレウスキ)がいて、スロバキア人にはいなかった)
スロバキアは上ハンガリーとも言われどちらかと言えばハンガリーの一部と見なされていた。
ボヘミア王国と違って独立国としてスロバキアは過去存在しないし、公領、伯領などとしてもスロバキアというのは無かった。
ルテニア人もそうだが大抵こういう場合独立は難しい。
二重帝国が崩壊するとすぐにハンガリーとチェコ、ルーマニアの間で武力衝突になり、
その結果を反映して国境が大体画定。(これを講和会議が追認する形になる)
つまり簡単に言えばスロバキア人はあまり相手にされてない。
というよりチェコ人ポーランド人セルビア人だけが相手にされた感がある。
(フィンランド人やラトビア人はどちらかと言えばドイツとロシア革命のおかげで独立したと言える)
勿論周辺国に対抗するには大きくなったほうがいいし、(WW1後の東欧は殆ど無法地帯)
敗戦国民になるのは嫌だというのもあった(新規独立国は戦勝国ではないが敗戦国でもない)
結局スロバキア人はこれに不満で、ナチスドイツに早々についてチェコスロバキア解体となる。
ついでにスロバキア南部はハンガリー人ばかりで解体のときにハンガリーに併合されたが戦後元に戻された。
ルーマニアのトランシルバニアと並んで今も相変わらず揉めているようだ
>>410 >(同時期、セルビアとクロアチアは一つの民族だとセルビア人が言っている。早い話が拡張主義)
逆。二民族の統合を宣伝したのはクロアチア人中心のユーゴスラヴ委員会。
セルビアは当初相手にしていなかったが、大戦で国土全域を占領された上に第一の同盟国ロシアがポシャったんで、
ユーゴスラヴ委員会に協力し、戦後の統一王国の王にセルビア王を推戴すること、
国名に「セルビア」を残すことを約束させた。
1795年から1919年において、オーストリア刑法の最高刑は何だったんでしょうか? やはりドイツ語圏だから斬首刑でしょうか?
なんでドイツ語圏だと斬首刑なんだ。
414 :
世界@名無史さん :04/08/21 22:07
>>343 遅レスだが、ミュンヘンでもドイツ連邦の中央というには
南に寄り過ぎている。ニュルンベルクかヴュルツブルクあたりでないと。
>>409 ありがとうございます。新たに、確認するようで恐縮ですが、
ちなみに、ケルンテンやクラインは、上下オーストリアと同じ扱いでしょうか。
ハンガリー王がクロアチア王を兼ねると
聞いたことがありますが(クロアチア王家が断絶した際からの伝統で)、
クロアチアは、ハンガリー王国とは別であるが、
イシュトバーン王冠のもとにはあるという意味ですか。
ハンガリー王位は、ハンガリー王国の君主という性格と、
ハンガリーのほか、クロアチア王国とトランシルバニア公国も統べるという性格
の二つを有するということでしょうか。
416 :
世界@名無史さん :04/08/25 00:58
>>415 クロアチアは当初、独自の王冠を持っていましたが、後にハンガリー王国に
編入されているので、王国の区分としてはハンガリーに属します。
ハンガリー王冠に付随する王位としてはボヘミア王位が挙げられるかと。
ハプスブルク家がオーストリアに加えて、ハンガリー・ボヘミアを手中に収めたのは
この慣習によってであるわけで。
ボヘミア王位(聖ヴァーツラフ王冠)とハンガリー王位(聖イシュトバーン王冠)は別物でしょ。 ハンガリー王位が1526年にハプスブルクに移ったのは、ラヨシュ2世の妹婿がフェルディナンド1世だったから。 ボヘミア王位は同じく1526年からハプスブルクが継承しているけど、こちらは選挙王制。 ボヘミアが選挙王制だったせいで、1618年にいきなりファルツ伯フリードリヒ5世がボヘミア王になる、なんて事態も起こりえたわけです。 但しその後、三十年戦争のさなかにボヘミアは世襲王国化されますが。
418 :
世界@名無史さん :04/08/25 01:58
>>415 上下オーストリアがArchduchyに対して
ケルンテン、シュタイアーマルク、クラインはDuchy
格で言うなら下で、形式としてはオーストリアと同君連合で、ハプスブルク家世襲領地。
かなり昔には別の人間が公爵をやってたこともある。
二重帝国ではArchduchyやボヘミアやガリツィアと同じ扱い(帝国議会に代表を送る諸領邦)だな
419 :
世界@名無史さん :04/08/25 19:22
>>417 違う。ボヘミア王位はハンガリー王が兼ねるという慣習が出来てた。
(ハンガリー王をボヘミア王に選出する)
フェルディナント1世がボヘミア王位を獲得したのは、ラヨシュ2世が
戦死して、ハンガリーの相続権を獲得したからに他ならない。
1618年にフェルディナント2世が廃されて、プファルツ宮中伯が選出されたのは
ルードルフ2世がプロテスタントのボヘミア貴族達に与えていた信仰の自由を
剥奪した事が原因。
420 :
世界@名無史さん :04/08/25 19:47
ハプスブルク共和国だけで金メダル5個くらいはとってたんじゃねーか? 多分。
>>419 うへ、そんな慣習があったんですか? たしかに1419年からボヘミアとハンガリーは同君連合ですが。
それでも選挙という手続きを経て、しかも等族たちが自主的にその慣習を破ったという実例もあるのに、
「付随した」は言いすぎだと思うのですが。
422 :
世界@名無史さん :04/08/26 14:55
>>421 フェルディナント1世がハンガリー王位を獲得した時、ハンガリー貴族の
大部分はこれに反発して、ハンガリーの実効支配はほとんど不可能だったわけで。
そんな形ばかりの王冠でも、それによってボヘミア王に選出され、こちらは実際に支配した訳
ですから、これは付随して獲得したと言っても過言では無いのでは?
まぁ、ニュアンスの問題かと思いますが。
ハンガリー王がボヘミア王を兼ねていたのであって、ボヘミア王がハンガリー王を
兼ねていたわけではないと言う事に注目するべきなのかも。
423 :
世界@名無史さん :04/08/27 23:41
>>418 >上下オーストリアがArchduchyに対して.....
(1)Archduchy of 上オーストリア
(2)Archduchy of 下オーストリア
この同君連合が、俗に Archduchy of オーストリア と呼ばれていた。
ということでしょうか。はじめに、上下オーストリアありき、といった感じ。
>>409 >オーストリア太公国。太公国の下部に上下オーストリアがある。
いや、先に、オーストリア太公国があって、ということでしょうか。
それを分割しても、双方とも、太公国であるということでしょうか。
*****
上オーストリア太公国、下オーストリア太公国、ケルンテン公国、
クライン公国、ボヘミア王国 、、が並列的に同君連合なんでしょうか。
それとも、上下オーストリア太公国の同君連合として、まず、オーストリア太公国があり、
次に、オーストリア太公国、ケルンテン公国、クライン公国、ボヘミア王国、、、
の同君連合があるのでしょうか。
424 :
世界@名無史さん :04/08/28 00:53
「太公」じゃなくて「大公」なのだが・・・・・・
>>424 オーストリアは「太公」でいいんじゃなかったっけ。
ふつうの「大公」Grossherzogと区別するために、Erzherzogを「太公」と訳す。
426 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:14
>>424 大公(Grand Duke)とは王と公の間の称号ですが、ハプスブルク家のそれは
これとは違い、Archdukeのスペルで表されます。で、普通の大公と区別するのが
大変なので日本語でも太公と表現する事があるわけです。
決まっているわけではないので混乱するのも仕方ないですけれど。
ちなみにこの太公はオーストリア公ルドルフ4世(建設公)が「捏造」し、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によって1453年に帝国法となった称号です。
『神に選ばれた一族』位に考えておくと良いかも知れません。
というか称号の構成要素はまったく違うよね。 太公:Erzherzog=高位の公爵 大公:Grossherzog=大きな公爵 もう変えようないけど、Erzherzogの「太公」という訳は混乱の元という気がする。 Erzbishof「大司教」の類推からだろうか。
428 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:29
「太公」は漢語で父親、祖父、老年者などの尊称なので、 あまり勝手な?使われ方されても困るのだが・・・・・・
太公望の「太公」か…… 変でも定着しちゃってるからなかなか変えられないんですよね、こういうのって。
430 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:41
むしろ忠実に訳して聖別公とか聖公とかしてもいいかも。 こうすると少し贔屓が過ぎるかも知れないけれど。
431 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:48
>>423 いつの時代の話かという事にもよりますが、ハプスブルク家が皇帝位を世襲
するようになってからは、オーストリア公領(太公領)、ボヘミア王国にその地域の下位爵位が
吸収されていった様ですね。
マリア・テレジアの称号を記したコインにはハンガリー、ボヘミアの女王
オーストリアの女公、ブルグント公、チロル伯とありますから。
チロルはオーストリア公領に吸収されてもおかしくない様にも思いますが
ハプスブルク家を財政上から強力にバックアップしていた事が考慮されたのでしょうか?
432 :
世界@名無史さん :04/08/28 02:20
>>423 ドイツスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1042532422/344 >>431 オーストリア太公領とチロル伯領やケルンテン公領その他はあくまで別。かつてはハプスブルク家の人間がバラバラに相続していたが、
次第に全部オーストリア太公が世襲するようになったので事実上一体化してるけど。
ナポレオン戦争ではチロルとザルツブルクはバイエルンに割譲されたな。
マリアテレジアの正式な称号は
神の恩寵によりローマ,ドイツ,ハンガリー,ボヘミア,ダルマティア,クロアティア,スラヴォニア等々の皇后にして女王,
オーストリア女大公,ブルグント,ブラバント,ミラノ,シュタイアーマルク,ケルンテン,クライン,マントヴァ,パルマ,ピアチェンツァ,
リンブルフ,ルクセンブルク,ヘルダーラント,ヴュルテンベルク,上下シュレジエン女公爵,
シュヴァーベンおよびトランシルヴァニア女侯爵,神聖ローマ帝国,ブルガウ,モラヴィア,上下ラウジッツの女侯爵,
ハプスブルク,フランドル,ティロル,フェレット,キュブルク,ゴリツィア,グラディスカ,アルトワの女伯爵,ナミュールの女伯爵,
スラヴォニア辺境,ポートナオン,サラン,メヘレン等々の女領主,ロレーヌおよびバール公妃,トスカナ大公妃等々
433 :
質問ばかりで済みません :04/08/28 23:13
@ローマ,ドイツ,ハンガリー,ボヘミア,ダルマティア,クロアティア,スラヴォニア等々の皇后にして女王 皇后にして女王ってどういうことでしょうか。 ローマ皇后にしてローマ女王、ドイツ皇后にしてドイツ女王、ハンガリー皇后にしてハンガリー女王、以下略。 でしょうか。 Aここでいうドイツって、なんなのかな、東フランク王国であって、 オーストリア、ブルグンド、ブラバンド、ミラノ、シュタイアーマルク、ケルンテン、クライン、等を、版図に 含む、ドイツ王国なのでしょうか。
434 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:16
@神聖ローマ帝国の皇后、ドイツの王妃、後の国々の女王ということでは?
>421 ハンガリー王はクロアチア王を兼ねるというのは慣習としてアールパード家 のカールマン王の時代からありますが、ボヘミア王を兼ねるという習慣って ありましたっけ? ラヨシュ2世の父親のウラースロー2世はボヘミア王に加えてハンガリー王 になった人ですが、この時はマーチャーシュ王の庶子コルヴィン・ヤーノシ ュ、ハプスブルク家のマクシミリアン1世、ポーランドのヤン・オルブラフ トが候補でいて、結局、サポヤイ・ヤーノシュを始めとする貴族連中が一番 扱いやすそうなウラースローをマーチャーシュの未亡人ベアトリクスと結婚 させるという形で王位につけたと聞いてます。
436 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:21
Aミラノやブルグントは神聖ローマ帝国の域内だった時代でもドイツには含まれず、 それぞれイタリア王国、ブルグント王国の領域として帝国に属していたのでは?
437 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:45
>シュヴァーベンおよびトランシルヴァニア女侯爵,神聖ローマ帝国,ブルガウ,モラヴィア,上下ラウジッツの女侯爵 神聖ローマ帝国の女侯爵とは、 帝国諸侯として、侯爵位を持っていたということでしょうか??
438 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:53
426どの ルードルフ4世の捏造時は、 プファルツエルフェルツォークで、 オーストリア公国が(もちろんケルンテン公国などもですが) オーストリア太公国になるという話ではなかったですね。 そしてそのときは、オーストリアは上下の二つの領邦ではなく、 ひとつだったような。
439 :
世界@名無史さん :04/08/31 21:16
>>53 誰もレスしていないようなので…。
オーストリアの社会民主党は当時の社会主義政党では比較的穏健な部類(特に指導者のカール・レンナーは国民の幸福に役立たないイデオロギーなんか不要と主張して自党左派とモスクワの顰蹙を買っていた)。
むしろ、旧帝国諸民族による緩やかな連邦国家への参加か革命で成立した社会民主党政権下のドイツへの吸収合併を願った。
しかし、フランスが猛反対して×。
現在でいうならオリックス=ドイツ、近鉄=オーストリアかも…。
>422 モハーチ戦の後の戴冠の順番はボヘミア→クロアチア→ ハンガリーのようです。 ハンガリーの場合はハプスブルク家側についた方が少ない ような有様だったようですが・・。
441 :
世界@名無史さん :04/09/11 15:47:30
>>438 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1042532422/ の341
に詳しい話が。。。
よって、ルドルフ4世建設公の時も、
別に、どこかが、Erzherzogtum (太公国)になったわけではなく、
以前として、オーストリア公国(Herzogtum)は、公国のまんまであった、
そのほかも同様、という訳で。
また、エルンスト鉄公のときにも、同様で、どこかが、Erzherzogtum (太公国)
になったわけではない(はず??)。
フリードリヒ3世が、例の偽書を正当と認めるとき、
@Pfaltzを外すと同時に(外したつもりはないかも??、どうだろ)
A本拠地オーストリアを、Erzherzogtumにしたのかもしれない(わかんないけど)。
442 :
世界@名無史さん :04/09/11 16:06:06
>432
>ハプスブルク,フランドル,ティロル,フェレット,キュブルク,
>ゴリツィア,グラディスカ,アルトワの女伯爵,ナミュールの女伯爵,
ハプスブルクなんて、とっくに失っているのに。
>>437 >神聖ローマ帝国の女侯爵とは、
>帝国諸侯として、侯爵位を持っていたということでしょうか
たしかに、何でしょうね。
>>442 まぁエルサレム王もとっくに…だし、英国王も結構あとまでフランス王なのってるからね。
444 :
世界@名無史さん :04/09/12 19:25:40
>>443 エルサレム王位は、だれが、ずっと名乗っていたんですか。いつまで名乗ってたんですか。 (素人質問スマン)
445 :
公候伯子男のスレッドで拾った :04/09/12 19:49:50
下のラテン帝国のプリンスというのは良心的なのかな。
皇帝とは名乗っていないわけで、「後継者」と言っているだけだからね。
ちなみに、この書き込みに対して、誰もレスしてはいないようだね。お気の毒。
342 :世界@名無史さん :04/01/13 20:28
爵位(タイトル)について、ここが一番よいでしょうか。
下記は、ラテン帝国の皇帝子孫(傍系だと思ふ)が、アンティオキア大主教により、
帝国の後継者に認定された(プリンスダグラス殿下:Principality of St.Michel de Clermont)
とのこと書かれているサイトです。
ttp://www.kcc.zaq.ne.jp/dfahy603/order1.html (参考:こちらはラテン帝国皇帝系図、プリンスダグラスの位置付けは良く分かりませんね。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/World/Hugues/Capet/capet-10.htm )
@このタイトル(爵位)を与える権限は、例えば、ダグラス氏をプリンスに任じる権限は、
西洋では、いまでも大司教(大主教)とか、司教(主教)とかにはあると一般的に認められているのでしょうか。
Aラテン帝国は、カトリック系だと思いますが、アンティオキア大主教が出てきてもいいのでしょうか。
ラテン帝国がカトリック国家としての位置づけに関わってくる由々しい問題ではないでしょうか。
一方、カトリック側は、今は俗界のことに関わるなとか、教皇勅令?みたいなものが出ていて、
ダグラス氏は、カトリックには頼めなかったと予測してはどうでしょうか。
Bなお、ラテン帝国は、「帝国」なのに、彼がプリンスに任じられたのは、
ラテン帝国皇帝でなく、皇帝継承権者にすぎないからでしょうか。言い換えると、
継承権者の称号は、プリンスなのかと(教皇なら皇帝授与できるが、
主教では軽すぎて、プリンスまでしか授与できないとか、かも知れませんが)。
マイナーな話題ですが、よろしくお願いします。
クレルモン大公てなんね? クレルモン伯ならわかるけど。
>>445 認められているわけがない。
ついでにアンティオキアはユスティニアヌス〜ヘラクリウスまでの神学論争で
カトリック、ギリシア正教の正統派(コンスタンティノープル)のどちらからも
離反しています。(確か細々と宗派が残っていたはず)
ラテン帝国の戴冠をする大主教は多分、エルサレム王国時にカトリックが任命した
アンティオキア大主教でしょう。
>445 なんか訳のわからないサイトですな。 以前、系図系のサイトとかで話題になっていた記憶があります。 ラテン帝国の帝位ですか・・・。
>>440 ボヘミアの戴冠を可能にしたのは、ハンガリー王位の継承権が発生したから
という事に注目すべき。
ハンガリー王位に就くのが遅れたのは、ハンガリー貴族の反発があったからであって
慣習とは別問題。
>450 不勉強で今ひとつ良くわかりません。 その慣習というのはいつごろ成立したものなのでしょうか。
>>451 慣習なので明確にいつ、という話は難しいと思うのですが
(私は450さんでは無いので、不勉強という事もあります)
ボヘミアとハンガリーの間の同君連合はベーメン王カレル1世(カール4世)
の次男でハンガリー王だったジギスムントが兄の死去に伴ってベーメン王を継承
した事が嚆矢になっているようです。
ルクセンブルク王権の断絶後の継承争いやフス戦争によって極度の混乱状態に陥った
ベーメンは当時、オスマン・トルコの支援の元で勢力を拡大していたハンガリー王の
マーチャーシュに王冠を委託しています。
ベーメン王位のハンガリー王位に対する従属という慣習は、ここに端を発するようですが
ポーランド、リトアニア、ハンガリーにまたがったヤケヴォ家の勢力拡大の波に飲み込まれた
だけという見方も出来るかと。
ただ一旦は王位から追い出したハプスブルク家の嫡流を再び、王位に呼び戻したのは
ハプスブルクが対トルコの最前線にいた事と並んで、ハンガリーの合法的王位継承権を保持
していたことが大きな原因となっているようですね。
>452 マーチャーシュ王はカトリック派の貴族に推戴されてオロモウツ司教によって 戴冠されていますね。 しかし、後のヤゲヴォ家のブワディスワフ王はフス派のボディエプラディの イジー王による後継者指名によるもので、マーチャーシュ王の戴冠とは無関係 だと思います。また、彼はマーチャシュ王の死後にハンガリー王に選ばれてお りこのあたりの時代に関してハンガリー王位にボヘミア王位が従属したいたと は思えないのですが。どんなものなのでしょうか・・・。 何か、わかりやすく解説したような書籍があれば是非読んでみたいと思うので すが、ご紹介いただければ幸いです。
454 :
世界@名無史さん :04/09/21 09:24:10
ハプスブルク連邦政府が見たかった。
455 :
世界@名無史さん :04/09/21 23:44:39
大カール時代の「帝国」が統一国家になってたら… スペイン・イタリア・オーストリア・ベネルクス・アメリカ植民地… これだけの大帝国がなんで1〜2世紀程度で崩壊したのかしらん。 ベネルクスでは叛乱が起きて大変だったけど、 イタリア・スペインはうまく治まってたんでしょ? 集めた税金でなにしてたんだ??
ネーデルラントの叛徒と戦い、地中海でオスマン海軍と戦い、 イギリスの私掠船と戦い、イタリアではフランスと戦い、 フランスのユグノー戦争に介入し、カタルーニャとポルトガルの分離主義者の動きを抑圧しました。
>>456 領土が広ければそれだけ統治するのも大変っつーことですな
458 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/09/23 01:02:56
>452 質問ばかりで申し訳ないのですが、 >オスマン・トルコの支援の元で勢力を拡大していたハンガリー王の というのは、江村先生の本以外で記述されている書籍はあるでしょうか? 非常に興味のある話なので、詳細がわかるような資料があれば読みたいと 思います。
459 :
質問の書き子が続いていますが。 :04/09/25 14:25:49
オーストリアの前史として、お教えくださればありがたく。。。 (1)オーストリアの始まりは、 オーストリア辺境伯の設置からということでよろしいのでありましょうや。 (2)バーベンンブルク家がオーストリア辺境伯となった経緯、 どなたがご存知ではありませんか。 (976年バーベンブルク家のレオポルドが就任し、レオポルド1世に) (3)オーストリア辺境伯位が、オースリア公位になった理由はなんでしょうか。 とくに領域が広がるとか、伴ったでしょうか。 たしか、1156年のバーベンブルク家のハインリヒ2世の時ですが。
460 :
質問の書き子が続いていますが。 :04/09/25 14:34:10
(4)バーベンブルク家は、1246年断絶して、 その後オーストリア公位は、1252年にプシュミスル家のオタカルが就きます。 この1246年から1252年までのブランクは、何を意味するのでしょう。 すぐに、オタカルが公位につかなかったのは、何か不都合があったのでしょうか。 (オタカル自身は、1246年から、オーストリア公も名乗っていたのかもしれませんが、どうでしょう) (5)オタカルは、皇帝ルドルフ(ハプスブルク家)に反抗し、それは1276年のオタカルの敗死を招きます。 1276年まで、オタカル自身はオーストリア公を名乗っていたと思われますが、 それは正しいでしょうか。 一方、皇帝側は、オタカルのオーストリア公の位は、1276年までは認めていたのでしょうか。
461 :
質問の書き子が続いていますが。 :04/09/25 14:37:31
なんか長くてすみません。 ちなみに手元の資料では、オーストリア歴代公位が、 ハプスブルクのルドルフ4世まで(1356年)となっています。 このあとは、オーストリア太公になるからなのでしょうか。 私の感じでは、宮中太公という位は位として、オーストリア公位はとりあえず そのままだとおもうんですけども。
>>459-460 (3)フリードリヒ1世バルバロッサは即位当初、ライバルであったザクセンの
ハインリヒ獅子公に譲歩せねばならない立場にあり、やむなく何の落ち度も
ないバーベンベルク家のハインリヒ2世から所領のバイエルンを取り上げて
獅子公に与えた。見返りにハインリヒ2世は辺境伯から公となり、様々な
特権も与えられた。
(5)マルヒフェルトの戦いとオタカル2世の死は1278年。オーストリア他の
公位はそれに先立って(名目上は)取り上げられていたのではないか。
スレ違いだが、ここが一番専門家が多いと思うので質問御免。
1.クリミア戦争で、オーストリアがロシアに対して中立(かなり英仏寄りだが)の姿勢をとるなど、
二月革命以降、オーストリアがロシアと距離を置くようになったのは何故?
>>285 のビスマルクの説得の部分など、具体的に。
2.オーストリアがバルカン半島方面に興味を示すようになるのは、具体的にはいつ?
1878年のベルリン会議の時は当然として、50年代、60年代頃から野心は抱いていたのだろうか。
普墺戦争でヴェネツィアを失い、アドリア海への玄関口をかなり塞がれたことと関連はあるのだろうか。
詳しい御仁がいたら、回答求む。
464 :
463 :04/10/01 01:19:00
おっと、目立つようにage
465 :
世界@名無史さん :04/10/02 15:24:25
age
466 :
世界@名無史さん :04/10/02 15:29:56
462さま お返事ありがとうございます。 1276年までオーストリア公となっていましたので、そこで死んだのかと早合点していました。 実際は、1276年に、皇帝から剥奪を宣され、 敗死は、1278年ですね。敗死までは、オーストリア公を名乗っていたとは思いますが。 お教えいただいたところで、また質問するようなんですが、 「見返りにハインリヒ2世は辺境伯から公となり、様々な特権も与えられた」 とは、どんな特権なんでしょうか。オーストリア公位に付随する特権でしょうか。
467 :
世界@名無史さん :04/10/04 11:49:47
初めまして、ハプスブルク家の政略結婚について詳しく教えて いただけますか?
468 :
世界@名無史さん :04/10/10 05:56:46
仮に第一次世界大戦で崩壊せず、第二次世界大戦も器用に生き延びたとして、 結局旧ソ連やユーゴスラビアみたいになったんだろうか。
469 :
世界@名無史さん :04/10/10 10:19:15
簡単に言えば自然崩壊
470 :
世界@名無史さん :04/10/12 03:24:15
462さんじゃないですが
>>466 オーストリア公国のみの特権として、子供達は性別に関係なくハインリヒが
受封した公領を相続し、継承できるという特権を与えられたのが特筆すべき事かと。
当時、女子はレーエン保持者として認められていなかったので、これは帝国史上画期的な
出来事だったと言えます。
471 :
世界@名無史さん :04/11/03 00:04:34
>1 日本に訪れたハプスブルグの人が日本の生活環境の利便性に驚き、鶴の一声で 吉野家のような形態の店やコンビニの誘致が行われる。 それにより伝統的なカフェの形態が変わり、コンビニや老舗のカフェの外で テーブルに座り、コーヒー飲みながら牛丼などを食べるようなる。
472 :
世界@名無史さん :04/11/07 19:51:03
>>462 様
「見返りにハインリヒ2世は辺境伯から公となり、様々な特権も」
これは、なんと呼ばれているんですか、
バツバツ年の特許状という風に特定すればよいんでしょうか。
たびたび恐れ入りますけど。
473 :
世界@名無史さん :04/11/07 19:52:27
とりあえず、まず、頭を整理したいんですが。。。。 オーストリアといった場合、二つで構成され、 上オーストリア(オーバーエーストライヒ)、(ニーダーエーストライヒ)ですよね。 ちなみに、ウンターエーストライヒ、ユーバーエーストライヒというものは存在しないですよね。 それでなんですが、 このオーストリアの 「オーバー・・・」、と「ニーダ・・・・」ですけど、 これはいつごろから分かれたんでしょう。 オーストリア辺境伯領の設置のときは、まだひとつであった、 ハプスブルク家が得た時点でも、まだひとつであった、というふうに愚考するんですが。 ハプスブルク家のお家の事情で分かれたんでしょうか、 線引きも当初、二転三転あったんでしょうか。 よろしくお願いします。
474 :
世界@名無史さん :04/11/07 20:17:00
470さんへ: >女子はレーエン保持者として認められていなかったので、これは帝国史上画期的な >出来事だったと言えます。 サリカ法云々どころではないんですね。 マリアテレジアのために、国事詔書だしたりしないで、 堂々と、知らん顔で、押し通せばよかったかも、 フランツを皇帝にしないで、彼女を皇帝(女帝)にすれば良かったんではないかと。 フランツは皇婿 ?で、いいと思うよ。 (注:私は、そのときのオーストリア公位と、当時のオーストリア公位を区別していませんが、 その後、明示的な変遷があったかもしれませんね。 また、さらに、オーストリア帝位も別にあるということを、これまた、無視していますが、 少しく、乱暴かもしれません。)
475 :
世界@名無史さん :04/11/07 20:43:21
>>474 >マリアテレジアのために、国事詔書だしたりしないで、
>堂々と、知らん顔で、押し通せばよかったかも、
> フランツを皇帝にしないで、彼女を皇帝(女帝)にすれば良かったんではないかと。
> フランツは皇婿 ?で、いいと思うよ。
オーストリア公位やハンガリー王位はそれで乗り切れたとしても、
神聖ローマ皇帝位は無理だったと思われ。
476 :
Richelieu :04/11/08 03:07:54
実質は、どちらでも変わらなかっただろう... それよりも、ヨーゼフ1世にカール6世以外の継承者がいた場合 現スペイン王家は、ボルボンではなく、カーサ・デ・アウストリア のままだった。そうであれば、シチリアもこパルマもハプスブルグ家 のままであったかも知れない。 となると、イタリアは、ほとんどハプスブルグのもので、ピエモンテの サボイア家がイタリアを統一余地はなかったのでは。
477 :
世界@名無史さん :04/11/08 10:02:20
俺のだビスタハプスブルク一族の名前がついてる
>>473 いまぱーっと『世界歴代王朝王名総覧』確認してみたんだけど、少なくとも1665年までは上下が別の人に統治されたことはないみたい。
>>472 「小特許状」と呼ぶようです。「太公」位捏造のほうを「大特許状」。
>>459-460 (1)(2)
オーストリアの始まりは976/978年にバーベンベルク家のレオポルド1世がオーストリア辺境伯になったことです。
これ以前、オーストリアはバイエルン大公領の一部だったのですが、
時のバイエルン大公ハインリヒ喧嘩公(在位955-76、オットー大帝の甥)が皇帝オットー2世に反乱を起こし、失敗して大公位を失いました。
で、バイエルン大公位はオットー2世の甥にあたるシュヴァーベン大公オットーに。
バイエルン東部はオーストリア辺境伯領として、バーベンベルク家のレオポルド1世に。
ケルンテンはザーリアー家のオットー(オットー2世の妹の息子)に。
と、分割されました。
なぜバーベンベルク家なのかとかは良く分かりませんが、947年までバイエルンの大公位にあったルイトポルト家の縁戚であったことと関係があるのかも。
長文カキコスマソ。続きます。
(4)オタカールはバーベンベルク家が小特許状で女子相続が認められることに目をつけ、
バーベンベルク家の公女と結婚し、公位を手に入れました。
1252年というのは結婚した年なのでは?
ちなみにこの公女、もと修道女だったことを理由にさっさと離縁されてます。
(5)山川の『ドイツ史1』pp.294-295あたりによると、
・1274年、ニュルンベルク帝国議会が招集され、「帝国改革」が話題になった。
・宮中伯ルートヴィヒはオタカールの世襲領であるボヘミアとモラヴィアのの臣従と、
エーガーラント、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの帝国への返還を期待していた。
・ボヘミア王オタカールはレーン宣誓、帝国レーン受領を果たさず、訴訟を拒んでこの召喚に応じなかった。
・結果、1年と1日後、自己のレーンを失い、また、1275年に平和喪失刑を受けた。
・オタカールは1276年、そして1278年と帝国軍と戦い、1278年に戦死した。
法的にオタカールがオーストリア公位を喪失するのは1275年ということになるはず。
また、オタカールが召喚に応じなかったことにより、彼のオーストリアその他の公位領有そのものが違法とされたので、
多分系図によっては1246-78年のオーストリア公位は空欄となっていると思う。
>>474 >>475 氏指摘の通り。問題は皇帝位だったので、小特許状関係ないです。
480 :
世界@名無史さん :04/11/18 16:05:30
突然すいません。 卒業論文でハプスブルク家の政略結婚についてやるのですがお勧めの本やサイトなど教えて頂けますでしょうか? 今探していて煮詰まっている状況です。涙
482 :
世界@名無史さん :04/11/18 19:28:10
終わったな・・・
483 :
世界@名無史さん :04/12/05 18:43:17
>ケルンテンはザーリアー家のオットー(オットー2世の妹の息子)に。と、分割されました。 ケルンテンも、大公領ですか(ヘルツオークツム)。 このころの大公とは、かつての部族大公の大公ではないんという風に見えます。 バイエルン族の大公がバイエルン大公だとすると、 バイエルン族自体が、ケルンテン大公領と、バイエルン大公領とオーストリア辺境伯領に 分かれたという感じでしょうか。 そうすると、 今の、バイエルン州(もと、バイエルン王国ですが)は、 もともとのバイエルン(3分割される前)の一部と(バイエルン)と、 それとフランケン族のフランケン州を引き継いでいるというわけなんでしょうか。 民族?的には、本来は、バイエルン州の南部に人たちは、オーストリアの人と 言語(方言)面や文化面も近い、 フランケンの人たちより、むしろオーストリア人と似ている、わけでしょうか。
484 :
世界@名無史さん :04/12/05 18:51:49
>オーストリアといった場合、二つで構成され、 >上オーストリア(オーバーエーストライヒ)、(ニーダーエーストライヒ)ですよね。 >ちなみに、ウンターエーストライヒ、ユーバーエーストライヒというものは存在しないですよね。 上記は、473より写したもの。 現在のバイエルン州には、オーバーバイエルン、ニーダーバイエルン がある。英語だと、アッパーババリアとローワーババリアだけど。 またフランケンに着目すると、オーバーフランケンと、ウンターフランケン。 英語では、アッパーフランコ二ア、ローワーフランコニアで。 (ウンターも、ニーダーも、ローワーになってしまう) ウンターと、ニーダーの使いわけというかニュアンスがわかる人いる?ドイツの地理に詳しい人?
>>483 ケルンテンは大公領ですね。
ただ、シュタウフェン朝のもとでは大公領の分割が何度か起こってるので、
部族大公というよりは、帝国の官職として扱われた面が大きいのかも。
>今の、バイエルン州(もと、バイエルン王国ですが)は、
>もともとのバイエルン(3分割される前)の一部と(バイエルン)と、
>それとフランケン族のフランケン州を引き継いでいるというわけなんでしょうか。
正確にはフランケンの一部ですね。フランケンはフランクフルトあたりまであったので。
出自から言えば、オーストリアとバイエルンは非常に近いと思います。
もちろん、976年からずっと別の歴史を歩んできたことも無視できませんが、
それを言ったらフランケン東部がバイエルン領になるのも1815年のことですし。
>>484 わかんね(笑
地名の一部になるときはニーダーが普通で、ウンターは形容詞として使うと思ってたけど、フランケンはウンターフランケンって言うんだ?
ニーダーライン・ヴェストファーレン州って言い方はするけど、「ライン川の下流域」って言うときはder untere Rhein。
486 :
世界@名無史さん :04/12/10 11:55:32
>>484 オランダはネーデルラント(ドイツ語読みだとニーダーラント)だけど、
確かニーダーフランケンと言ったら、オランダの方を指したような気がする。
多分両者を区別するためにウンターを使ったんじゃない?
あと、ニーダーに対応する言葉はホッホだけど、
地名でもホッホHochが使われている例はあるのかな...
487 :
世界@名無史さん :04/12/18 03:26:48
488 :
世界@名無史さん :04/12/27 19:15:16
ちょっとごめんなさい。 バイエルン州とは、英語でいうと、ステーツ・オブ・ババリアでしょうか。 ドイツ語では、ラント・フォン・バイエルンですか(ラントは、領邦だから、違うかも)。 さらに聞きますが、 たとえば、バイエルン州には、オーバーバイエルンがあるということですが、 オーバーバイエルン県なのですか。違うかなぁ。 そして、これ、プリフェクチュアー・オブ・オーバーババリアでしょうか。
489 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:15:45
>部族大公というよりは、帝国の官職として扱われた面が大きいのかも。 部族大公と、まさにいえるのは、どの時代の大公でしょう。 それぞれ、いつ作られて、いつまでのが、そういえるんでしょう。 。。。。。。。。。
490 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:26:55
491 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:32:34
492 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:39:07
>それを言ったらフランケン東部がバイエルン領になるのも1815年のことですし フランケンというのは、もともと、部族大公であったでしょうか。 そもそも、フランケン族というのは、なんでしょう。フランク王国の支配部族でしょうか。 しかし、サリ族なり、なんなりの合体・連合したものだと聞いています。 (バイエルンやその別れのオーストリアは、サリカ法とは関係ないことがわかりますよね) このフランケン族の中心ていうのは、パリやアーヘンのあたりではないんでしょうか。 あるいは、ここはラテン化したケルトが中心なのか、少なくとも人口面でみると。 ドイツのフランケンは、フランケン族が、フランク王国の拡大時に、意図的に入植したところではないか、 という記憶があります(もともと誰が住んでいたのかニャ)。 いずれにしても、このフランケン、由緒正しきフランケンが、今では、ばらばらになっているんですね。
493 :
世界@名無史さん :04/12/30 17:29:52
フランケンが、フランク人の場所か、 フランク王権に従い、入植した人(フランク人ばっか??、フランク人中心??) の場所か、わかりません。 教えてください。 @さて、フランケンは、東と西に別れ?たって、なんで。 A西フランケンは、ナッソー伯、ぷふぁるつ伯の領邦に編成された? B東フランケンは、ビュルツブルクを中心として統一を保った? Cその東フランケンが、現在のバイエルン州のウンターフランケン、ミッテルフランケン、上フランケンの3地域につながる? Dその東に、上プファルツがあるけど、これは、何でしょうか。プファルツ伯領の飛び地があったのでしょうか。 プファルツ伯領の本拠地は、下プファルツ(フランクフルト中心?)で、飛び地がこの上プファルツの地でしょうか。
494 :
バイエルン:ヴィッテルスバッハ家 :05/01/04 22:17:43
1777年、旧家系が断絶し、 同じヴィッテルスバッハ一族のライン・プファルツ選帝侯カール・テオドールが跡を継ぐと、 彼はバイエルンに執着せず、オーストリアがバイエルンに侵入するのを許し、 またバイエルンとスペイン領ネーデルラントを交換しようという皇帝ヨーゼフ2世の提議に応じた。 しかしこれは同じヴィッテルスバッハ家系のツヴァイブリュッケン侯の反対にあい、 プロイセン王フリードリヒ2世の干渉をうけ、バイエルン継承戦争(1778-79)となった。 結果、バイエルンは旧状のままとどまることとなったが。 ○オーストリアが、バイエルンに侵入したのは、何年のいつごろでしょうか。そのとき、そういう口実を使ったんでしょうか。 ○バイエルン継承戦争自体は、プロイセン等の参戦からスタートなんでしょうか。口実は、なんでしょうか。○ツヴァイブリュッケン侯って、ミニ領邦の殿様ですか。そんな人にも、発言権あるんですか。 ○ヨーゼフ2世の提議ですが、「スペイン領ネーデルランドを交換する」って、スペイン王の承諾はどうなるんでしょうか。詳しく説明がほしいです。
495 :
世界@名無史さん :05/01/04 22:22:24
>>488 バイエルン自由国 Freistaat Bayern
雪国から帰省して、帰省先でも雪に遭った。なんだかなあ……
一気に長文カキコします。
>>489 部族大公の成立は10世紀初め、東フランクのカロリング家の断絶と前後します。
東フランク王権が弱体化したので、各地の部族が独立の兆しを見せ始め、
それに対して王権は、部族の長に大公という位を与えることで王国内につなぎ止めました。
これが部族大公です。
部族大公の力は、オットー大帝の時にいったん弱まります。
オットーは部族大公の反乱を鎮圧して自らの親族を大公に送り込んだり、大公と婚姻関係を結んだりして、大公位を意のままにしました。
以後、部族大公は、世襲される部族の長という側面と、国王によって任命される王国の官職という側面を持つことになります。
特にフランケンやシュヴァーベンの大公位は、ドイツ王の親族や臣下にゆだねられることが多く、官職の性格の強いものでした。
それに対してザクセンやバイエルンは部族を束ねる長という性格が強いように思います。
ふつう、「部族大公」という言葉は大空位時代ぐらいまで使用されるようですが、
私は、1180年のザクセン公領の分割が部族大公の時代の終わりなんじゃないかと思っています。
これによって大公は部族を代表する存在ではなくなりました。
>>492-493 フランケンは、メロヴィング期の王たちがアレマン人とチューリンゲン人を追い出して作り上げた部族です。
オストフランケンとも言ったみたいですね。
部族大公としての成立はいつ頃なのかあまりよくわかっていないらしい。
>>493 フランケンは、東西に別れたわけではなく、バラバラになったあとその東部がバイエルンに併合されていきました。
(ただ、ヴュルツブルク司教が東フランケン公を称してはいたようです。ドイツ王権はこれを承認しませんでしたが。)
バイエルン領になったのは、
・ヴュルツブルク司教領……ナポレオン戦争の時、ファルツをフランス等に譲る代わりに併合が認められた。
・ニュルンベルク城伯領……1415年以降ブランデンブルク領。ウィーン会議でバイエルンに譲渡。
・アンスバハ辺境伯領、バイロイト辺境伯領、クルムバハ辺境伯領……1791年プロイセン領。ウィーン会議でバイエルンに譲渡。
などです。
上プファルツはプファルツ伯領の飛び地で、ウェストファリア条約でバイエルン領になりました。
>>494 なんかその説明話が前後してる気がする。
オーストリアがバイエルンに侵入したのって、
カール・テオドールがバイエルンとネーデルラントの交換に応じてからだと思うんですが。
>○ツヴァイブリュッケン侯って、ミニ領邦の殿様ですか。そんな人にも、発言権あるんですか。
バイエルン公家の断絶した1777年時点で、ヴィッテルスバハ家で存続していたのは、
プファルツ・ズルツバハ侯家(1742年以降プファルツ選帝侯)のカール・テオドールと、
プファルツ・ツヴァイブリュッケン侯家だけでした。
カール・テオドールには子供がなかったので、継承権第一位はツヴァイブリュッケン侯のカール・アウグスト・クリスティアンだったのです。
ちなみにカール・テオドールが1799年に死去すると、カール・アウグスト・クリスティアンの弟のマクシミリアン・ヨーゼフが継承しています。
>○ヨーゼフ2世の提議ですが、「スペイン領ネーデルランドを交換する」って、スペイン王の承諾はどうなるんでしょうか。詳しく説明がほしいです。
スペイン継承戦争の結果、ネーデルラントは1713年にオーストリア領となりました。
オランダではないということで「スペイン領」と書いたのでしょうけど、誤解を生む書き方ですね。
499 :
世界@名無史さん :05/01/05 22:47:26
もしヴィッテルスバハ家がネーデルラント王になってバイエルンがハプスブルク領になっていたら、 ドイツは南北に割れていただろうね。
500 :
世界@名無史さん :05/01/06 20:02:20
ネーデルランドとプファルツが纏まった方が、 バイエルンとオーストリアが纏まった方が、 まとまりがよかったと思うのは、僕だけか。 ドイツの人で、いまさらながら思う人もいるんじゃないかな。 バイエルン人は、プロシア人よりオーストリア人に親近感あるって聞いたことあるんだけど。
501 :
世界@名無史さん :05/01/06 20:09:13
502 :
世界@名無史さん :05/01/06 20:24:16
>私は、1180年のザクセン公領の分割が部族大公の時代の終わりなんじゃないかと思っています。 @ 分割の後、その地は、どうなったんでしょうか。 Aザクセン大公の地位自体は、別の領邦の君主に行ったのでしょうか。 今のザクセンの地域は、ザクセン部族とは無関係で、ただ、その地を治める 殿様が、ザクセン大公の位を持ったという訳なのか、そんな気がしているんですが。
503 :
世界@名無史さん :05/01/07 00:12:11
フランケンというと「フンガー」しか思い浮かばない
504 :
世界@名無史さん :05/01/07 22:51:18
弱小国
バイエルンと南ネーデルラントなら十分釣り合うんじゃないか?
507 :
世界@名無史さん :05/01/09 20:32:33
当時のバイエルンには、なにかたいした産業ってあったの。 広さと、ビールくらいでないのかと思う。 かたや、南ネーデルランドは狭いけど、羊毛工業の伝統とか港とか、あると思う。 よって、プファルツは海へ繋がることができて、それなり意味あると思うけど、どう。 ハプスブルクにとってのメリットは、まず、領土が広くなること、 飛び地より繋がっている方が良い、とか。海なら、イタリア経由があるからそれほどこだわらないとか。
508 :
世界@名無史さん :05/01/09 21:24:35
>>505 ザクセン公領は、ヴェストファーレン、ブラウンシュヴァイク、ザクセン
ですか。ありがとうございました。結局的には、ザクセン公というひとつの公位が、
3つの公位に分裂したんですね。
分裂後のザクセンは、今のザクセンとザクセンアンハルトのあたりですか、あるいは、もっと別?
3つの公領と、ザクセン発祥であるニーダーザクセンとの兼ね合いはどうなるんでしょうか。
509 :
世界@名無史さん :05/01/10 18:23:31
>>492-493 >フランケンは、メロヴィング期の王たちがアレマン人とチューリンゲン人を追い出して作り上げた部族です。
>オストフランケンとも言ったみたいですね。
約5つ訊いていいですか。
@ すると、本来のフランク王国の支配部族は、あえて言えば、ウエストフランケンともなる、のでしょうか。
Aフランク王国の支配部族はどのあたりに住んでいたんでしょうか。
Bこの支配部族(ウエストフランケン?といってはだめだと思うが)は、部族大公領を形成しなかったんですか。
Cあれまん人とちゅーりんげん人を追い出したとのことですが、この人たちはこの後、どこへ行ったんでしょうか。
D追い出した後、移住してきたのは、誰なんでしょうか。
510 :
世界@名無史さん :05/01/10 19:49:04
>>497 フランケンは、東西に別れたわけではなく..................
とのことですね。
現在のバイエルン州の中フランケン県、上フランケン県、下フランケン県は、
だいたい、昔昔のフランケンの東部分ということ、と理解しました。
上プファルツ県は、昔のフランケンなんでしょうか。知りたいです。
>>506-507 当時のヨーロッパの羊毛工業って、どれほどのものだったんでしょう?
盛んだったのはもう少し前だと思ってたんだすけど。
> よって、プファルツは海へ繋がることができて、それなり意味あると思うけど、どう。
そうですね。ルクセンブルクが当時はネーデルラント領内だったのを忘れてました。
>>508 新しいザクセン公領が現在のいわゆるザクセンです。
>3つの公領と、ザクセン発祥であるニーダーザクセンとの兼ね合いはどうなるんでしょうか。
兼ね合いとはどういう意味でしょう?
>>509 @〜B
西のフランク(ヴェストフランケン)についてですが、
西フランクが根拠地としたのはパリです。パリの真ん中にシテ島という川中島がありますが、
この島が「イル・ド・フランス」と呼ばれ、これがパリ周辺の地方名となりました。
西フランクでは部族大公領は周辺部にしか発生せず、
連続的に王に支配されたイル・ド・フランスが部族大公領になることはありませんでした。
Cアレマン人は別名シュヴァーベン人です。つまり、彼らは南に逃れてシュヴァーベン大公領を形成しました。
現在のバーデンからスイスにかけての地域です。
チューリンゲンの方は大公領にはならなかったようですが、北東に逃れました。
チューリンゲンはスラヴ人への防衛のため、ドイツ王から派遣された人に統治されるようになるのですが、
当初はこの派遣された人の称号は「大公」「伯」「侯」等々、一定していなかったようです。
のちに辺境伯に定着しますが。
Dフランク人が移住してきたから、フランケンというのです。
>>507 塩といえばザルツブルクが有名だけど、
現在でもバイエルン各地に岩塩の産地が点在している。
ミュンヘンも塩の交易で栄えた町。
余談だけど、現在のドイツは州によって教員や公務員の給料が異なるが、
その中で一番給料が高いのが、ダイムラーベンツや
ロベルトボッシュの本社があるバーデンヴュルテンベルク州、
確か二番目がBMWやアウディ、ジーメンス社のバイエルン州、
三番目が金融の中心のあるヘッセン州らしい。
牧歌的な風景ばかりが観光スポットで登場するけど、
ミュンヘン〜シュトゥットガルトを結ぶ高速道路はトラックの
往来が激しく、麦畑の中に化学工場の煙突がどかんとあったりして、
南ドイツは結構産業が栄えている。
ドイツの場合人口の多そうなイメージのある北部の方が今では貧しい。
石炭や造船は日本と同様斜陽の産業で、旧西ドイツでは
ニーダーザクセン州が一番貧しく、旧東ドイツの各州は更に貧しい。
513 :
世界@名無史さん :05/01/16 17:28:08
>新しいザクセン公領が現在のいわゆるザクセンです。 >>3つの公領と、ザクセン発祥であるニーダーザクセンとの兼ね合いはどうなるんでしょうか。 >兼ね合いとはどういう意味でしょう? 1180の分割以前のザクセン公領は、今のどこにあたるんでしょうか。 そこは、領域としてニーダーザクセンのほか、オーバーザクセンも含んでいたということでしょうか。 言い換えると、「新しいザクセン公領」というのは、 それまでのザクセン公領とは、領域的には重なっていたのでしょうか。
514 :
世界@名無史さん :05/01/16 17:34:07
>>501 オーバープファルツ(上プファルツ)が、“旧オストフランケン”に属するのか、
バイエルン部族居住地(バイエルン)に属するのか、
ここではっきりすると嬉しい。無論、境界がそれほどキチンとあるとは思ないが。。。。
もし、バイエルンなら、
1214年の“バイエルンのヴィッテルスバッハ家”にプファルツ宮中伯領(下プファルツ)が加わるわけだが、その前では、
ニーダーバイエルン地域の一部とみなされていたんではないか。どうか。
否、ニーダーバイエルンの一部ではなく、オストバイエルンと呼ばれていたのかも。
その後、1329年に、ヴィッテルスバッハ家から、プファルツ系が分家する時、
この地は、プファルツ系に加わって、そのときから、オーバープファルツという呼名が使われだした。のかな。
オーバープファルツの中心の古都?のレーゲンスブルクは、
フランケンアルプ(フランケンのアルプス)山地と
バイエルン森(バイエルンの森という山地のこと?、「山地」でいいのか、不安だが。)
の境にあるから、オストフランケンなのか、オストバイエルン(ニーダーバイエルン)か、
微妙と思う。
515 :
世界@名無史さん :05/01/17 03:09:14
>それを言ったらフランケン東部がバイエルン領になるのも1815年のことですし ウイーン会議の結果ですか。 一方、シュワーベンがバイエルン領になるのは、いつでしょうか。
シュヴァーベンがバイエルン領になったことはないでしょ。
517 :
世界@名無史さん :05/01/18 03:34:09 0
>>516 バイエルン州の南西にシュワーベンという地域ありますけど。
これは、
@第二次大戦後の連合国による占領の中でバイエルン州に組み入れられたにすぎないわけ?ですか。
A歴史的に「シュワーベン」っていわれる地域と、
今のバイエルン州のシュワーベンはどんな関係でしょうか、一部に過ぎないのですか。
シュヴァーベンの東のほうか。 あの辺がバイエルン領になったのは1803年・1805年だったかな。
歴史的にシュヴァーベンといわれるのはスイスからバーデン、ヴュルテンベルクにかけての地域だな アルザスのあたりはどうだっけか…
520 :
世界@名無史さん :05/01/19 22:10:19 0
メッテルニヒが失脚してから駄目になった
521 :
世界@名無史さん :05/01/22 19:21:38 0
518殿、 すると、ナポレオンへの協力姿勢の見返りとして、 バイエルンが獲得した訳ですな。あわせて、王国への昇格も得たわけだし。 バイエルンが獲得する前は、小国が分立していたわけですかな。 さて、どなたか、ご存知か。
522 :
世界@名無史さん :05/01/22 19:42:45 0
519氏がアルザスの名を挙げましたが、、、、、、 アルザス(エルザス)といえば、ロレーヌはどうなんですか。 シュワーベンではないですか。 前者はエルザス語というドイツ語方言だそうですけど、 ロレーヌの庶民語は、フランス系の言語だったんでしょうか。 フランスの大貴族でロレーヌ公なんていうのがチョクチョク出てきますが、 フランス王がロレーヌ公領(公位)に対し、主君に地位を持っているのは 確立されているみたいに見えますが。
523 :
ヴュルテンベルクについて :05/01/22 20:14:41 0
>歴史的にシュヴァーベンといわれるのはスイスからバーデン、ヴュルテンベルクにかけての地域だな p://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/etc/deutschland/wurtenberg.htm によると、1268年シュヴァーベン公断絶後、近代まで続いたシュヴァーベン地方の有力国。とのこと。 シュワーベン公国は断絶して、分裂しちゃったんでしょうか。 その一部がヴュルテンベルク公国として残ったのですか。 シュワーベン公位自体は、廃止になってしまい、 あらたに、ヴュルテンベルク公位を作ったのは、 シュワーベン公位はあまりに名跡ゆえ、皇帝に脅威だったんでしょうか。
524 :
515以下を読んで :05/01/22 21:40:51 0
すると、 シュワーベン県は、 バーデン・ヴュルテンベルク州に入れたほうが、 文化習慣的には、座りがよさそう。 バイエルンに吸収されたのも、たかだか200年前に過ぎないし。 そのときのいきさつって、シュワーベン民衆の感覚でどうだったんでしょ。 火事場泥棒のような、悪印象ではなかったのかなぁ。すごく疑問だよ。 シュワーベン民衆では(無知蒙昧ゆえ)、不適当ならば、 シュワーベンの知識層、地主・貴族層でも、いいけど。
525 :
世界@名無史さん :05/01/22 21:51:56 0
>>508 >>511 >>513 の話に加わらせてもらいます。
まず、今の「ザクセンアンハルト州」っていうのは、
ザクセン地域とアンハルト地域の二つからなっているんですか。
それでもって、
その昔、3分割されたうちのザクセンの一部をなしているのは、
このザクセン地域ですか、それともアンハルト地域も、ですか。
その3分割されたザクセンというのは、
今のザクセンアンハルト州のザクセン地域?と、
他には、今のザクセン州くらいですか。
それとも、もっと広かったのですか。
526 :
世界@名無史さん :05/01/22 22:52:00 0
>>523 ×:あらたに、ヴュルテンベルク公位を作ったのは、 ○:あらたに、ヴュルテンベルク伯位を作ったのは、 作ったっていうのは、皇帝がそれを認めたってことですかね。 グラーフなんですかね。(ラントグラーフ方伯ではなくて)
そういえばシュヴァーベン公の称号をオーストリアの皇帝が持ってたような…。
シュヴァーベン公国が無くなったのはずっと昔のことだし、
(革命前は帝国都市や教会領やハプスブルク家領やホーエンツォレルン家領が入り乱れて、
ドイツでも有数のごちゃごちゃした地域だった。)
ドイツ諸邦の領土は飛び地だらけだから
>>524 の観点から文句を言うやつは居ないと思う
>>525 アンハルトってのはザクセンの北西にあった小さな公国。今のルクセンブルクよりやや小さい位。
3分割されたザクセンのうちのザクセンは、のちに2分割され、東側が後にザクセン選帝侯領、
西側がザクセン諸公国(コーブルクとかヴァイマールとか…)になってる。
ザクセン諸公国は今のチューリンゲン州かな。
ザクセン選帝侯はナポレオン期に王国に昇格するけど、普墺戦争で負けて南半分だけになっちゃった。
それが今のザクセン州とほぼ同じ。
プロイセンがとった分はブランデンブルク州とザクセン・アンハルト州に入ってるね。
ちなみに、ザクセン・アンハルト州は旧ザクセンの一部と、旧アンハルトと、旧ブランデンブルク領のマグデブルクやアルトマルクからなってるようだ
つーかブランデンブルクの西半分にアンハルトとザクセンの一部くっつけただけじゃねーか…?
529 :
世界@名無史さん :05/01/23 21:54:51 0
部族大公としてのザクセン公位? ザクセン公:ザクセン家( −961) オットー(初代)、ハインリヒ(東フランク王)、オットー(東フランク王、皇帝) ザクセン公:ビルンガー家(961−1106) ヘルマン(初代)、・・・・マグヌス(5代) ザクセン公:××家ズップリング伯ロタール(皇帝) ザクセン公:ヴェルフェン家(1137) ハインリヒ傲慢公(バイエルン公) ザクセン公:アスカン家(1138−1142) アルプレヒト熊公 ザクセン公:ヴェルフェン家(1142−1180) ハインリヒ獅子公(バイエルン公) 最初のザクセン家だが、 ドイツ王家(皇帝家)としてのザクセン家・ザクセン朝なら、よいが、 ザクセン公家としての、ザクセン家というのは、ピンと来ないけどね。
530 :
世界@名無史さん :05/01/23 21:58:39 0
アスカン家や、ヴェルフェン家も、また、ズップリング伯ロタールも ザクセン部族出身の豪族でしょうか。
>>522 ドイツはもともと5つの公爵領の集合体として出発しました。
ロレーヌ(ロートリンゲン)はそのひとつ(あと4つはバイエルンとザクセンとフランケンとシュヴァーベン)。
10世紀半ばに公爵位を巡って争いが起きたらしく、上下に分裂。
上ロートリンゲン公がのちのロレーヌ公。
マリア・テレジアの夫の時にトスカナと交換でフランス領。
下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。
1430年からブルゴーニュ公、次いでハプスブルクと同君連合です。
起源をたどるとフランスとは関係ない、といいたいところですが、911-28年に西フランクに属したことがあるみたいで、
なんだかどっちつかずな印象を受けますね。
>>530 ヴェルフェンはバイエルン出身じゃなかったっけ。
532 :
世界@名無史さん :05/01/27 16:49:00 0
533 :
世界@名無史さん :05/01/30 23:14:09 0
>下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。 下ロートリンゲンのあたりをブラバント地方と呼んだことからくる別名ですか。 東フランク王から頂いた正式名称は、 つまり、爵位の特許状に載っているのは、「下ロートリンゲン公」という解釈でよいですか。
534 :
世界@名無史さん :05/01/31 00:23:03 0
IFスレッドということで書くと、 その1:マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、 ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、 ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。 その2:オーストリア系とスペイン系にハプスブルク家が分かれるとき、 ネーデルランドが、スペイン系に行かなければ、 多分、オランダもドイツから分かれることはなかったと思う。 第一、そもそも、ハプスブルクにスペイン王位が転がり込んでこなければ、 オーストリア系とスペイン系に別れることもなかった訳だから、そういう意味では、 二つの偶然?(ハプスブルク家のお家の事情)が重なったことで、 オランダが生まれたことになる。 言い方を変えると、つまり、低地ドイツ人が、オランダとドイツに分かれたことになる。
535 :
世界@名無史さん :05/01/31 00:34:36 0
もし、ハプスブルク帝国が崩壊しなかったら、ですが、第一次大戦の敗戦で、 ハプスブルク家が生き延びるのは大変そうな気がします。 バイエルンが、反プロシアの意識から、土壇場で、ドイツから離脱し、 協商側につけば、戦後は、オーストリアを併合して南ドイツの統一国家を作れたかもしれない。 ドイツ弱体化を狙い、プロシア憎しの、フランスにとっての利益にも適合するし、 ヨーロッパ事情に疎く、ひたすら民族自決に拘るウイルソン大統領に対しては、もともとのバイエルン部族という意味では、 バイエルン地方とオーストリアは、同族であるとして、誘導できそうな気もする。 チェコとスロバキアを一緒にしたくらいであるのだから、バイエルンとオーストリアは、 一体化が適当とも言える(ウイーンが地方都市に転落するけど、これは、オーストリア側に矜持のみが障害に過ぎないし)。 もっとも、当時のバイエルンは王が、無能とされ、それどころではなかったようだが、 万一、それなりに政府の混乱がなければ、イタリア王・政府のような芸当もできただろうに。
536 :
高地ドイツ人のこと。 :05/01/31 00:35:14 0
もし、ハプスブルク帝国が崩壊しなかったら、ですが、第一次大戦の敗戦で、 ハプスブルク家が生き延びるのは大変そうな気がします。 バイエルンが、反プロシアの意識から、土壇場で、ドイツから離脱し、 協商側につけば、戦後は、オーストリアを併合して南ドイツの統一国家を作れたかもしれない。 ドイツ弱体化を狙い、プロシア憎しの、フランスにとっての利益にも適合するし、 ヨーロッパ事情に疎く、ひたすら民族自決に拘るウイルソン大統領に対しては、もともとのバイエルン部族という意味では、 バイエルン地方とオーストリアは、同族であるとして、誘導できそうな気もする。 チェコとスロバキアを一緒にしたくらいであるのだから、バイエルンとオーストリアは、 一体化が適当とも言える(ウイーンが地方都市に転落するけど、これは、オーストリア側に矜持のみが障害に過ぎないし)。 もっとも、当時のバイエルンは王が、無能とされ、それどころではなかったようだが、 万一、それなりに政府の混乱がなければ、イタリア王・政府のような芸当もできただろうに。
537 :
世界@名無史さん :05/02/05 19:42:12 0
>>534 の「その2」ですが、
スペインのトラスタマ家が断絶しなければ、ネーデルランドは、オーストリアと
別々の君主に治められることはなかったのに、ですね。
フリードリヒ3世の後は、ハプスブルクは、分家を作らないで一体で継承する体制でしたから。
また、スペインを相続するとしても、弟のフェルディナンドが、スペインを継げば
やはり、オーストリアとネーデルランドは、一体としてカールが引き継いだでしょうに。
トラスタマ家の断絶は仕方がないとして、ハプスブルクがオーストリアとスペインに分かれるとき、
どうして、カールがスペイン王位を継いだんでしょうか。フェルディナンドこそ、
スペイン生まれで、スペイン王に相応しいと思うのですが。大変知りたいんですが。
>>537 だからこそです。
アラゴンで養育されたフェルディナントがスペイン王になると
ハプスブルク家ではなく、スペインの国益の為に動く恐れがあると
考えたマクシミリアンらが、アラゴン王を説得して引き離しました。
539 :
世界@名無史さん :05/02/05 23:57:01 0
帝国領の間を埋めればよかったんだよ。 バラバラであるための高コストが是正される
>>539 授封強制という制度がそれを許しませんでした。
もしもそれが無かったら、シュタウフェン朝の時点で
南ドイツの大半は皇帝領になっていたと思われます。
541 :
世界@名無史さん :05/02/06 00:31:47 0
>540 ハプスブルクには掟破りの親戚に授封という手があるのだから可能。
542 :
世界@名無史さん :05/02/06 19:00:56 0
授封強制という制度って?
543 :
世界@名無史さん :05/02/06 20:27:22 0
>>540-541 フリードリヒ1世がハインリヒ獅子公の封を没収しようとした際に
ハインリヒの帝国レーエン没収が皇帝の権力増大に結びつく事を懸念した
他の諸侯がこれに難色を示しました。
フリードリヒと諸侯の折衝の末、皇帝が何らかの理由によって封を没収した際は
短期間の内に他の臣下にこれを再授封するという制度が確立する事になりました。
これが『授封制度』と呼ばれるもので、この制度の成立はドイツの統一を著しく妨げました。
で、そもそも封の没収というものは、皇帝の独断で行いうるものではありませんでした。
常に問題となっている諸侯と同格の諸侯の賛同が必要でした。
よってハプスブルク家といえども、結婚政策によらない封の拡大はなかなか難しかったという
経緯があります。
ドイツ統一のチャンスはシュタウフェン朝で既に失われる決定打があったというのが
私の考えです。
(カール5世の勢威などを考えると異論もあると思いますが)
>>544 の
『授封制度』→『授封強制』に修正して下さい。
>>533 たぶん特許状では「下ロレーヌ」の方だと思いますが、私自身が見て確認したわけではないので何とも……。
>>543 ロレーヌ(ロートリンゲン)は部族名ではありません。
「ロタール王の」という意味で、これは中フランクの分割相続時にロタール2世に相続されたことによります。
つまりもともと中フランク王国領で、メルセン条約その他の結果ドイツに帰属した領域です。
住んでいるのは恐らくフランク人が多数ではないかと……フランクの故地ですし。
>>543 >>546 さんの説明に補足を。
ロートリンゲン(ロタリンギア)は特にロタール王国が消滅した際に
誕生した空白地の事を指す場合もあります。
ロタール王国の版図からイタリア王国と、ブルグント(ブルゴーニュ)地方
そしてアーヘンやケルンなどの若干の所領を除いたのが狭義な意味での
ロタリンギアだったかと思います。(細かい点はうろ覚えですが・・・)
中世初期はこのロタリンギア争奪戦が非常に熾烈で、独自の王権も成立したのですが
最終的には東西フランクに(主に東)分割吸収されたようですね。
部族的にはクローヴィス以前にはあのニーベルンゲンの歌に出てくる部族の
子孫が国家を形成していたかと思います。
>>547 ややこしい話ですが、
勇者トンヌラさんの言われてる「ロタール王国」はロタール1世の王国で、
私の言っている「ロタール王国」はロタール2世の王国です(笑
中フランク王ロタール1世(818-44)の死後、王国は分割され、
長男ルートヴィヒ2世(844-75)がイタリア王、次男ロタール2世(855-69)がロタリンギア王、
三男シャルル(855-63)がプロヴァンス王。
ここでロタール2世が相続した地域をロタリンギアというわけです。
で、ロタール2世の死を受けて、870年にメルセン条約が結ばれるという流れです。
>>548 これはお恥かしい。汗顔の至りです。
なので言い訳代わりに断絶後の同地方について少し。
ロタリンギア及びプロヴァンスはブルグント王国時代からの
勢いある貴族が多数いたのでドイツ王権による支配に頑強に抵抗しました。
890年には最有力者であったヴィエンヌ伯ルイ(盲目侯)がヴァランスで
戴冠しています。
>>547 で挙げた独自の王権はこれを指します。復興されたブルグント王国は
13世紀にはアルル王国と呼称されるようになります。
550 :
世界@名無史さん :05/02/09 14:14:02 0
>>542 受封強制はザクセンシュピーゲルで規定されている制度でドイツ国王に戻された帝国諸候領を1年と1日以内に誰かに受封しなけりゃならないって制度だよ。
しかし、これは机上の空論で受封強制は存在しなかったって説が有力だって話だったばずだがな。
ミッタイスとかブルンナーとか前世紀初め頃の研究者が実在を主張してゲッツとかの60年代の研究者が否定したとかなんとか。
違ったかな。
551 :
世界@名無史さん :05/02/19 20:11:27 0
>>534 下のマルガリータは、マリアの間違いかと。
>その1:マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、
> ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、
> ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。
@ブルゴーニュ公国から、アルトワなどが奪われたのは、
二人の婚約の後で、フランス側がマリアとの結婚を果たせないことが
確実になった時点はないかな。
親父の突進公亡き後の、公国の動揺状態を狙った事件のはず。
Aマリアの事故死後の、フランスの介入では、マックスの対応が良く(戦闘指揮を含め)、
どこも奪われなかったんでは。
552 :
世界@名無史さん :05/02/26 20:50:15 0
下ロレーヌやブルグンド(アルル)が、 後のブルゴーニュ公国につながるのでしょうか。 どのように編入されていくのでしょうか。
553 :
世界@名無史さん :05/03/05 19:45:07 0
505 :カラジチ ◆mWYugocC.c :05/01/08 11:56:45
>>502 >ザクセン公領は、ヴェストファーレン、ブラウンシュヴァイク、ザクセンに分裂しました。
>ヴェストファーレン公位はケルン大司教が兼任。
>ブラウンシュヴァイク公位はヴェルフ家が保持、のちのハノーファー選帝侯。
>「ザクセン公」位はヴェルフ家からアスカニエル家に移りました。
ザクセン公のタイトルが、
ザクセン族の本拠であるニーだーザクセンあたりを継承した者ではなくて、
ザクセン族の新開地を引きついた地域の方で引き継がれたのは、
どうしてだと思います。
アスカニエル家が、この名前に拘ったのでしょうか。
554 :
ザクセンとは、 :05/03/05 20:45:37 0
ゲルマン元祖9部族の一つというゲルマン諸侯の中では最も古い名前 だそうです。
555 :
ザクセン :05/03/05 20:54:24 0
556 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:12:45 0
ザクセン大公ハインリヒ獅子公―中世北ドイツの覇者 MINERVA西洋史ライブラリー カール ヨルダン (著), Karl Jordan (原著), 瀬原 義生 (翻訳) 価格: ¥5,250 (税込) ドイツ中世の代表的な貴族といえば、 皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサとザクセン大公ハインリヒ獅子公である。 2人は従兄弟で、仲が良く、南北ドイツでの支配拡張にあたっては、 ともに協力しあった仲であった。しかし、権力の絶頂期にさしかかると、 イタリア政策をめぐって対立し、ついには不倶載天の敵となる。 ハインリヒは皇帝と競い、戦いに敗れ、帝国追放の身となる。 ハインリヒの登場は、領邦国家体制へというドイツ中世国家の転換期を 意味し、彼はまた商業を育成し、都市建設を促進した。 ハンザ同盟の盟主リューベック、ハンブルク、そしてミュンヘン市の建設は 彼に負うている。本書は、そうした獅子公の時代と人間像を活写した、 王統派ドイツ中世史研究の傑作といえよう。 イメージを拡大 エディション: 単行本
557 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:57:16 0
英vs露 がハプスブルグvsトルコ になったのかな
558 :
世界@名無史さん :05/03/05 23:10:58 0
同じ民族なのにどうしてドイツとオーストリアは別れたままなの? これからも合併はありえないの?
559 :
世界@名無史さん :05/03/05 23:27:27 0
>>558 すでにEUの枠内で合邦の効果を果たしているから、その必要はない。
560 :
世界@名無史さん :05/03/06 02:11:23 0
>>555 ザクセン=ラウエンブルクはニーダーザクセンの外れのほうの公国で、
ウィーン会議の結果デンマーク領となり、
シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の結果プロイセン領となった。
>>558 同じ民族だからといって1つの国をつくらなきゃいけない理由は無いだろ
561 :
世界@名無史さん :05/03/06 02:29:20 0
>>560 >>555 こんなところで、ザクセン=ラウエンブルクのことを教えていただけるとは。
ちなみに、ザクセン=ヴィッテンベルクの方は、
オーバーザクセン、まさにその地と理解して大丈夫でしょうか。
また、ザクセン=ラウエンブルクのアスカン家(アスカニエル家?)は、いつごろまで
続いたかも、ご存知でしょうか。
>>561 非常にごちゃごちゃして分かりづらいのだが、
1689年までと思われる。
その後はブラウンシュヴァイク系諸邦(ヴェルフ家)を転々とした模様。
563 :
世界@名無史さん :05/03/07 03:22:18 0
ということは、1423年の時点では、 ラウエンブルク系のアスカン家は残っていたんですね。 >本家筋のザクセン=ヴィッテンベルクのアスカン家断絶の際、 継ぐのは、(素人的に考えると)、 分家ともいうべきザクセン=ラウエンブルクのアスカン家だと思うのですが、 何かあったんでしょうか。
564 :
世界@名無史さん :05/03/07 05:13:54 0
>>590 君さ・・・明日も明後日も、ずーっとこのまま
そんな書き込みばっか続けていくつもりだとおもうけどさ、
現実を見てごらんよ。まだまだ先が長い人生だろ?
その年で社会から落ちこぼれてさ、これからの生活は
どうするんだい?生活費は?老後は?家族は?
この先何年、何十年も毎日毎日こんな事ばっかり
やっていくのかい?今だけ今だけと思いながら
目をそらしても時間は間違いなく過ぎていってるんだよ?
もう取返しつかないところまで来ているね。
君・・・本当にどうするんだい(w?
565 :
世界@名無史さん :05/03/07 21:29:46 0
> > 564は590に言っているようですが、それは560の間違いですか? > >さて、他所からコピーしますけどね。 >Saxe-Coburg and Gotha公家は、ザクセン選帝侯の一族で、 >この一族は全員Duke/Duchess of Saxonyの爵位を帯びるようです。 >おっしゃる通り、ザクセン領の公爵位という意味だと私は理解しています。 >Saxe-Coburg and Gotha公家のメンバーは、 >Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gotha, Duke/Duchess of Saxony (Highness)を帯びます。 tp://pages.prodigy.net/ptheroff/gotha/saxony.html >>ヴェッテン家については、上記のようなわけなんですね。しかし、 アスカン家の一族も 「Duke/Duchess of Saxonyの爵位を帯び」ないのかなぁと思いますね。
567 :
世界@名無史さん :
05/03/16 20:42:07 0 ビクトリア女王の夫君のアルバート公ですが、 彼は、Saxe-Coburg and Gotha公家の出身で、 @Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gothaと呼ばれるわけですが、 同時に、ザクセン選帝侯の一族の一族なので、 ADuke/Duchess of Saxony (Highness)なわけです。 この場合の @Prince は、王子というか、王族出身というか、の意味であって、 Princepalityの首長の意味ではないのですが、 ではAは何かというと、ドイツでは、古くは?、子ども全員が、親の爵位を名乗る習慣があり、 それの流れなわけです。 古い「ザクセン領の公爵位」を名乗るのは、その分家全員にとって、既得権益なわけです。 その「既得権益」というものが、ヴェッテン家(ヴィッテナー家)にあるのなら、 アスカン家(アスカン家傍流のラウエンブルク系)にもあるはず、ということが言いたいわけですね。